2014年03月06日

ウクライナと「帝国以後」



ウクライナ問題についてまだTLでざわついてるんだけど、けっこうアメリカ寄りの厨めいた見方でなんか違和感だなあってことでメモ的に。「戦争になるー」とか「ロシアの帝国主義がー」とかひどいのだと「ナチス、全体主義の再来がー」みたいなの。


なんとなく国際関係理解していれば、現在のシステムというのは世界システム論的なもたれあいしてるわけだから少なくともG8入ってる国がそんな無茶するわけ無いじゃんつのはわかると思うんだけど、その辺の感覚が根本的に違うのだろう。バカ日本地図的な認識の違いというか。

歴史的にウィーン体制、第二次世界大戦後の国際法的な規定によってもう無茶な侵略はできなくなったし、だいたい帝国主義的に侵略してもそんなに得るものがない。レントとプロフィットなあれで、たとえば侵略して土地や機関経済を奪ったとしてもそれを金に替える段階で他の国がそっぽむいたら金にならないわけで…。「だったら奪った土地や機関経済を利用して当該帝国内の経済圏だけで暮らしをたてる」っていってもそういう貧しさに立ち戻れないぐらいにいまや世界はつながってる。


なので、WW2以降の戦争というのは「主権侵略」ではなく「当該国に依る要請があったので」「人道的に見過ごせないので」みたいな正統性が必要になってる。


今回の場合、クリミアへの実効支配の是非ということだけどロシア側の言い分としては「ウクライナの元首相から要請があった」ということ。及び「あれはロシア正規軍ではなく民兵だ」ってこと。


ウクライナ情勢、雑感: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/03/post-b4c8.html


その辺はけっきょくタテマエかなあって疑念はぬぐえないんだけど、全体の関係から考えても現在ロシアがゴリ押しでクリミアを実効支配する必要性というのはそんなにないように思われる。

黒海 → 中央アジアへの戦略的要地として必要ってのはあるだろうけど、ウクライナは天然ガスの値引きやめるって脅したからそのうち還ってくるだろうし(EUもアメリカも金くれないだろうしね)。


だいたい今回の件は軍事(あるいはIR)レイヤーで考えるようなはなしでもなく国際政治的な話のなかでのボヤとか外交カード的なものの一つにすぎない。


クリミア・ウクライナ問題を黒海周辺諸国とリンクして俯瞰するまとめ | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/6140


kousyouくんてきには黒海周辺の旧ソ連国とロシアとの関係、つまりロシアによる当該国併合に関するモデルケースになるかな?(特に実効支配ゴリ押しが結局通じるかどうかあたりで?)てのを見てて、そういう面もあるかなあとは思うけどそこまで大きな問題でもないような。

実効支配にはならない/する必要はないてことではあるけど結果的に何年かしてウクライナもクリミアもロシアに還ってくるだろうし、今回の件で東欧・中央アジアにおけるアメリカによるプレゼンス・影響力の低下、ロシアのプレゼンスの向上が見て取れた、ぐらいにおさまりそう。あと日本やEU(特にドイツ)の親露が進んじゃったねえ、ぐらいの。



トッドの「帝国以後」からだと何年か先にバルト三国やベラルーシ、ウクライナ(小ロシア)を再びロシアが吸収するぽい。それは国力的にロシアが資源保有国だから。輸出黒字だし。人口動態的には減ってきてるので安定期だからそんなにこわくない(現在のところ激しい動きはないだろう)とかなんとかだけど


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そういうところに冷戦の構図で入ってきてるのがアメリカなわけで、、EU、トルコ、ロシアていうエリアな問題からするとよそ者はアメリカなのよね。。まあそれで均衡がもたらされてる面もあるのだろうけど。あとトッド的には「実体経済のないアメリカが威信-信用を保つために小国相手の示威的戦闘を繰り返してる」みたいな見方。まあヤクザと同じだけど。


アメリカの釣餌はIMFによる資金提供ぐらいしかないけどこれは疑似餌だからウクライナがいつも損食ってるだけで、今回もしばらくしたらなんか結果出るのかもだけどってあれで。。 ウクライナだけの問題っていうか長期スパンで言えばバルト三国とベラルーシ、トルコなラインも含んだ問題になる。そして長期な問題だし、資源国であるロシアとしてはそんなに焦らなくても自分の経済体制が整えば自然と吸収できるだろう、って構えはありそう。

ウクライナとかグルジアは積年のソ連強行政策かなんかで反発してるところもあるけど、「家族型としては同じだから吸収しちゃうだろ−y( ´Д`)。oO○ロシアが経済的に安定すれば」、てのがトッドの見立て。バルト三国も。

EUはほぼ死に体でドイツが担ってるのだからEUとロシアについてはドイツとロシアの関係で、ヨーロッパとしては対アメリカも含めてロシア取り込めたほうがいいんだけどとりこまれてもなあってあたりがEU首脳の外交における腕の見せどころになるかんじ。


まあそこまで青写真どおり進んでくかは分かんないけどアメリカ中心な報道だけで一方的にロシア悪者+残虐後進国て見方してたら見えてこないものもあるようにおもう。


あと、トッドのこの本は主にフランシス・フクヤマ的なアメリカ自由民主主義ネオコンdis + ハンチントン的なアメリカ価値観中心に基づくイスラム野蛮扱いdisなんだけど、「アメリカの世界への紛争介入は弱小国を選んだ示威的戦争だ」とか「アメリカが工業生産-輸出的には赤字なのに基軸通貨と需要の中心となることで資本を集めて経済回してる」あたりはなんかゴリ押し偏見ぽいので当該IR(軍事)、金融本あたりで裏とりしてこうとおもう。




まあでもとりあえず、こういう視点からすると今回の件というのは単に「ロシアによる旧時代的な帝国主義的侵略」というわけではなくポスト冷戦・911の「帝国以後」な国際関係の中での政治的な事件のひとつだったと言えるようにおもう。

「冷戦時代に遡るのか?」というよりは「イラク戦争のときからのアメリカ・EU・ロシア・日本な政治関係事案が未だ続いてるんだよねえ」て感じ。


イラクのときは逆にアメリカがロシア的な横暴をして国際的にイカンを買い、EUとロシアの親交を強め、アフガニスタンへの経路を示すことでロシア-アメリカとの関係も作った。そういうことを世界は覚えてるだろうから今回の件というのはわりと穏便に済まされそうにおもう。というか、EUや中国的には穏便に済ませてくれないとはた迷惑なだけなので(まあアメリカもだろうけど)。


結果的にアメリカ以外の国の協調関係が強まったとしたらロシアの外交勝利になるのだろう。


パイプラインなアレ的にはEUはできればロシア回避で直接アゼルバイジャンから天然ガス仕入れたいところなのだろうけど、まあそれも無理っぽいし、やはりロシアとの現状維持できたほうがいいのだろうし(特にドイツなんかは)



正直、現状のウクライナをEUに加盟させてもそんなに意義あるのかなあってとこだし。。


ウクライナとはどういう国か?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/389973897.html



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ウクライナは単純には西は穀倉で東が鉄鋼。東の鉄鋼ほか近代産業はソ連時代にロシアたちの入植によって開拓されていった。


そういうのもあって近・現代のロシア → ウクライナの視線というのは「田舎のウクライナ」「進んだロシア」て感じ。

まあそのロシアの近代化もピョートル大帝のころにドイツ人を移入して外国人村作ってできあがっていったものなんだけど。もともとはキエフ・ルーシがロシア・ウクライナの原点だし。

んでも近代化の過程にはそういった逆転現象が起こり、その辺の蔑視の視線をもとにボリシェビキ下でゴリゴリになったソ連からウクライナでコルホーズが進められ、結果的に飢饉 → 大量の餓死者が生じた。それはある意味ジェノサイドとして記憶されてるみたい。

ウクライナの右派につづく怨恨、あるいは「ロシアは嫌」って気持ちはこのへんの記憶が強いのだろう。

右派を呼び込んだのはそのほかに現首相の腐敗体制に対するプロテスト的な面が強かったようで、そういった意味ではイデオロギーとかはどうでもよかったてのもあるのだろうけど。



ウクライナ東にロシア人たちが多いのはゲゼルシャフト化のときに入植したロシア人たちの名残り。


クリミアも同様だろうけど、クリミアの場合はキエフだかに親しみがあったフルシチョフがモスクワからウクライナのほうにクリミアを行政移管してしまったことが大きい。フルシチョフほか当時のソ連首脳部にとっては単に県の範囲を変えたぐらいのものだったので。

結果的にもともとロシアの土地だったクリミアがウクライナに移譲され独立してしまった。


なので住民投票かなんかすれば当然クリミア人達はロシアに帰りたがるのだろうなあとか思うけど、まあこれも何年後になるんだか(あるいはその前にウクライナがロシアとくっつこうとするんだか)よくわかんないけど。

とりあえず現状ではクリミアはロシア人達多いのだからそこにウクライナ全体から「嫌ロシア」プレッシャーくらってたら住民たちビビるよなあ、ぐらい。



まあいずれにしても今回の結果がバルト三国・中央アジアといった旧ソ連、黒海から連なる中東におけるロシア・アメリカの国際関係にとってどう着地するかってのは見極めとこう。






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関連:
【オピニオン】クリミア情勢の教訓―試される米国の事なかれ主義 - WSJ.com
http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702304085204579420314016320126.html

posted by m_um_u at 18:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年02月02日

仲正昌樹、2011、「いまこそハイエクに学べ」

いまこそハイエクに学べ: 〈戦略〉としての思想史
仲正 昌樹
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全体的に箇条書き的なメモで

印象として、

「自由とは」:

理性・設計思想懐疑からの創発民主主義的


民主制と憲法の考え方:

「自由」と自由のもとに作られた慣習・場のざんじ的制度を尊重し適時変えられるような余裕(バッファ)を担保しておくべき

cf.「きっちりとした規定ではなく漠然とした「精神」を共有しておくことで革命などによって憲法を中心とする公法が解体することがあったとしても民法と刑法を中心とする正しい振る舞いのルールの体系は保持されるだろう」


正義とは:

ときどきにおいて変化するものであるからそれを踏まえた上で予め設計的に理性や正義を敷衍すべきではない。

プロセス(手続き)過程の公正性を担保するように務めるべき。

しかし、人は合理的にできてないのでその自生性も誤ることがある。のでCGMによらない理性が必要な場面もある。





▼真の自由主義は多数決を万能としない。平等主義ではない。


民主主義は多数派の意見に基づいてその国あるいは社会の共通の行動を決定するという慣習に基づいているが、そのことは、多数派の意見が不可避的に、一般的に受け容れられた意見にならねばならない、ということを意味するわけではない。明日には少数派の意見が多数派の意見になっているかもしれない。民主主義はそれを前提にした制度である。

したがって民主主義が十分に機能するには、多数派の意見が全員を拘束すべき領域と少数派が自らの意見を保持し多数をは説得することが許容される領域の間に境界線が引かれねばならない。

これは現代の自由主義系の政治理論で「公/私」二分法と呼ばれている問題である。

真の自由主義は集合体としての人民の自由意志に干渉するものではない。



真の個人主義は現代的な意味での平等主義ではない。人々に対して一般的な規則を平等に適用すべきだという見地に立ち、特定の人に特権を与えたり、保護したりすることには反対するが、それは、人々の(経済的・社会的)ステータスを同一にすることではない。

cf.社会保障→BIをめぐる話、負の所得税、新自由主義を巡る話、配分的正義(cf.ミル「功利主義」)

部族社会と違って複雑化した「大きな社会」では各人の目的・幸福・貧困が異なるので一義的に「平等な配分」を設定できない

cont.→ アリストテレス「ニコマス倫理学」、ロールズ「正義論」、社会主義-設計思想、福祉国家論、所得再配分


民主(平等)主義の肥大化と多数決:
平等=社会正義の名のもとに議会の立法が強くなり、多数派の特殊利益が一般的利益とすり替えられ優先されがちな利益誘導型政治になることへの警戒






▼設計思想とその元としての理性への懐疑

<人間の理性的な合意=社会契約に基づいて社会秩序が形成される>

のではなく

<長年に渡る人々の経験や慣習を基盤とする『習慣的黙諾』によって社会が成り立っている>(ヒューム)


人の叡智は理性に基づいた単線の進化によるものではなく淘汰と適応

予めゴールや全体を設定・設計しそれに辿り着いたものではない。


「大きな社会」(スミス)もしくは「開かれた社会」(ポパー)は各人の好意を規制する一般的ルールのみを採用し、その下で各人の自由の余地を拡大していく。それは最初から社会全体の目標を設定しその実現に向けて人々を具体的に指示するものではない。

ex.法における曖昧さの設定

曖昧(cf.冗長性)を担保する法はかっちりとした決まりでルールを受けた行動の結果・パターンまで規定するのではなく、単に方向づけをするためのビーコン程度のものとして機能する。その際、ルールを受けて思考・試行錯誤・競争される場が公正に保たれているべきなだけであって、その結果までは関与しない。


理性はそのようなルールの発達を受けて進化するものとする。ルール(振る舞いのルール)は慣習、理性、情況の妥当な落とし所を受けて進化していく。

cf.慣習の叡智としてのコモンロー




▼エコノミーは理性に期待する言葉の含意があるため、カタラクシーが採用された。


経済(economy)← oikonomia ← oikos(家):「家を運営する術(家政学または家計)」:
一定の目的の実現に向け手持ちの様々な手段を「計画的に」利用するニュアンスがある。


カタラクシー(catalaxy) ← katallattein(交換する、コミュニティに入る、敵から味方に変わる(和解する)):「共通の枠組みのなかで利益調整をする」:
人々が理性ではなく自分の知らない知識(ルール)を活用することによって自生的に形成される市場の秩序


カタラクシーは分業、交換だけではなく、それらを介して生まれる無意識の協調的関係や秩序を表す。


カタラクシーはコスモス-ノモスの自由な創発が期待される。

ノモス(法)→慣習法
cf.コモンロー

テシス→立法の法


ただ、場の自由な志向に任せるだけではなく一定の規定が必要な場合もある。たとえば道路の右側通行/左側通行など

その場合、行政などによるタクシスが期待される。

テーシス / ノモス は 公法(憲法、行政法、税法、財政法…) / 私法(民法、商法) ぐらいの区分けイメージで可


タクシス(taxis):軍隊の編成単位、戦場での秩序、順序、配列 → 人工的秩序、指令的社会秩序、組織

コスモス:自然に成長してきた秩序 → 自生的秩序



※ただ、タクシスの領域のはずのものがタクシスとして区分けされずにコスモス領域を侵犯し始めることをハイエクは警戒する。

cf.国・政府と社会は違うものなのに前者と後者がイコールとされる(cf.全体主義)。新自由主義と生政治



▼自由主義における正義とは?


正しい/正しくないは人間の行為においてだけ有意味であって、自然の状態においては意味を成さない。つまり人間の生物的属性に起因する能力の違いのようなことそれ自体については正しい/正しくないは発生しない。


ある行為が正しいか正しくないかは「その行為がもたらした帰結」ではなく「その行為が正しい振る舞いのルールに適合しているか(フェアかどうか)」によって決定される


「大きな社会」にとっての「一般的福祉」は、各人の目的追求の機会を改善するための諸条件の創出、であって、個々人の満足の合計を社会全体の利益として増大させることではない

cf.「帰結を問うのではなくルールの公正さを問う」、「機会平等」(セン)


このときの「正しい振る舞いのルール」≠「正義」は時代・環境・情況によって変化していく。明示的なルールがないところでも人々を「正しい振る舞いのルール」へと誘導する「正義感覚」はある。

この感覚は言語化されざるものに従い言語化する能力「言語感覚」同様、明文化することのできないルールに従う「正義の感覚」とされる。

それは、アプリオリに存在する「正義」を発見し正確に再構成する、ものではなく、進化の過程で人々の現実的な集団的な振る舞いや言語活動と相関しながら徐々に発達する感覚、である。したがって絶対的で不変なものではない。


それは消極的に普遍化可能なものであり絶対的な「社会的正義」ではない。

cf.タクシスーテーシスとしての正義や法、ケルゼン




ハイエクはまずもって手続きと機会平等の公正(フェア)を目指し、その帰結の平等・設計をすべきではないとする。

ロールズの正義論は配分的正義的だけど、よく読んでみるとプロセスの公正性を目指してるようでもあり、そうであれば賛成、との見解。


また、ハイエクが想定するコスモスにおける個人は合理的ではなく愚かで迷いやすい側面もある。それを誘導することも必要でありタクシス的制度、「制度・手続き的正義」(ロールズ)が必要な場合もある。


タグ:自由
posted by m_um_u at 18:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年03月26日

「分散は必然」ではなく状況に依るのではないでしょうか?

 essaさんのこのエントリはテレビ/ネット論っていうよりも情報をめぐる力、チベットについての権力の集中と拡散(あるいは伽藍とバザール)的なイメージなのでなんともってとこではあるんだけど、「純粋テレビ」という項を用いた場合どうなるのかなぁってちょっと思った。


テレビっ子をテレビ局が逃がしてしまうのは何故か - アンカテ(Uncategorizable Blog)


 つか、もそっと詳しく言うと

 essaさんの視点というのは一貫して「情報分権の可能性」というところを課題にしている(ように思われる)ので今回のエントリもその軸ということだと思う。なのでこの文脈における「テレビ的 / ネット的」という対項は(当該システムの意思決定をにぎる力≠権力の)「集中 / 拡散」ということをさしているのだろう。

 (そんで言外に)「分散型システムを択るほうが合理性があるようにあるように思われる状況下において集中型システムをとるのはなぜか?」という命題のもとに今回のエントリが出てきたのかなぁ、と勝手に推測する。

 その答えとして、「テレビ側が取られる理由」については

世の中が全体としてテレビからネットに移行しているとしても、テレビの傾向がそれに比例して、ネット的になっていくことはあり得ない。

なぜかと言えば、番組をネット的に作っても、それを喜ぶようなユーザ層がテレビを見るとは限らないからだ。想定されるような視聴者は、今では相当な時間をネットに費している。いくらかはテレビに戻ってきても、ネットの時間がゼロになることはあり得ない。その一方で、テレビ的な視聴者は離れてしまう。

一方、テレビ的な番組を作れば、テレビ的な視聴者層は確実に確保できる。

中間を取れば両方取れるかと言うと、そうはいかなくて、むしろ両方逃がしてしまう。

どちらか一つを取るしかないなら、ネット側の人間を捨ててテレビ側を取るしかない。


であり「中国の中でチベット強硬派と国際協調派が分かれているとして前者が択られる理由」については

つまり、政府がこの二派の対立関係の上で、危ういバランスを取っているとして、ここで多少人権尊重の姿勢を見せたとしたらどうなるか。

強硬派は離れるのは確実だが、穏健派の支持層となるべき西欧諸国から見たら、なまぬるい誤魔化しとしか思えないだろう。

両方取るのが難しいとして、どちらか一方を取るとしたら、強硬派にすり寄った方が、実があるということだ。


と。

それで、

これは、ネットによって世の中が変わっていく時に発生する事態における、一般的な法則と言えるのではないか。

つまり、ネットによる価値観の変革は、常に周辺から起こり中心へ向かう。

それはゆるやかで連続的な動きなのだが、それに応じて権力のシステムが段階的に移行していくことは難しい。


 ってされているわけだけど。これはシステムを進化論的にとらえているということなのかしら?

 ぼくのイメージでは伽藍とバザール、あるいは集中型システムと分散型システムというのはそのときどきの必要性に応じて様態を変えているだけであって、集中的システムをとる必要がある社会においては集中的システムをとることが好ましいし必然のように思うけど。それは東南アジアなんかの政治システムをめぐってもこの手の議論はされてるように思う。

 んで、この集中と拡散(あるいはシステムの分化)を分ける要件はリソースとそれを司るハブの配分ということかなぁ、と。リソースが十分にあり、なおかつそれを司るハブも十分に分化したシステムにおいては意思決定権は分散される。

 しかし、ハブが十分に育ってないシステム(ネットワーク)でこれをやってしまうと状況が複雑化するだけのように思う


 今回の「中国 - チベット」のケースの場合、対外的にはアメリカぐらいしか主要ハブとみなしていないようだし、内国的にも強硬派のほうがハブ的な役割(というか政治的融通)が利くのだろう。


極東ブログ: チベット暴動で気になること


 あとは中国のイデオロギーっつーか「共産党」的考え方っつーか


中国とは株式会社中国共産党である(タケルンバの中国入門) - タケルンバ卿日記



 で、こっからが本題というか「テレビ的」関連で書きたいことだけどちと長くなったのでエントリ分けるか

 メモ的にいっとくとこの辺と

一般大衆と理想の落差を感じたらそれをネタにすればいい - アンカテ(Uncategorizable Blog)

 この辺が関連します

muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム



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関連:
The Cathedral and the Bazaar: Japanese
posted by m_um_u at 10:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年02月29日

日本の官僚・政治家とアメリカの閣僚の違い?

以下、元々ミクシでつぶやいてた内容なのでいつもにも増して見ずらいだろうけど次のエントリ用のネタフリということでこっちにも置いとく。


ついったーで欧米と日本の違いについてもぞもぞと話してたら


m_um_u @jack_all_right ところでこれってどうなの? ヨーロッパ人が忙しくない3つの理由 | WIRED VISION
http://wiredvision.jp/blog/fujii/200802/200802251000.html

jack_all_right @m_um_uリンク読みましたけど、バカンスっていうのはあるみたいですね。フランス人もスペイン人もそういうこと言ってました。ビジネスに関しては日本だと稟議システムみたいなのがあって社員同士、特に上司とのコンセンサスとかが必要になりますけど、欧米は下っ端でもかなり権限が強いというか

m_um_u @jack_all_right にゃるほど。家庭は家庭って感じか。そういやアメリカのファミリーパーティはそれ自体接待みたいな機能があるみたいな話きいた。名刺交換的なお仕事の延長みたいな。日本の飲みゅにけーしょんみたいなもんかな(死滅ぎみだが

jack_all_right @m_um_u仕事に関する態度みたいなのが違うのかもしれません。欧米のお金持ちに限って最高の娯楽は家族と家でゆっくり過ごすことだったりするらしいので。日本人はそれに比べて私的な時間の使い方が下手というのがあるんでしょうかね。パーティーは大使館とかのイメージなのかも…。


m_um_u Reading: 2008-02-26 アメリカの閣僚が優秀な本当の理由 - 赤の女王とお茶を
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20080226#p1


m_um_u @jack_all_right いまのsivadさんとこのエントリでもそうだけど「公私を分ける」みたいなのは感じるね。つか、その元になってる個人主義みたいなの。欧米人はオランダ人ぐらいしか付き合いないけど飲みいった後のカフェとかカラオケとかはスルっとスルーするもんね。


jack_all_right 日本の官僚が東大法卒エレベーターになったのはいつなのかな。政治家って実際には理系で博士を取ってる人とかがいてしかるべきだと思うんだけど。



VoQnがなんかぶくましてたので見てみたらけっこうおもろかったのでたんぶったものをこちらに編集しとく。



その前に流れを明示化しといたほうがいいか


jack_all_rightはノルウェー留学中なので上記のような質問してみた。


ヨーロッパ人が忙しくない3つの理由 | WIRED VISION

の記事では欧州官僚が忙しくない理由として考えられるものが3つほどあげられてる。要約すれば「バカンスとかしっかりとるぐらい公私が区別されてる」、「権利委譲をしっかりして仕事を抱え込まない」みたいなの。つっても、私生活に戻っても全て「私」時間になってるかどうかはびみょーかもしれんが (それでアメリカのパーティの例を出した)


sivadさんのこれについて

2008-02-26 アメリカの閣僚が優秀な本当の理由 - 赤の女王とお茶を

「アメリカは閣僚でも専門知が重視されるけどその理由は?」ってことで

結局、アメリカのリーダー層に多様な専門知が存在するのは、自ら組織的にそこに入り込んでいるからなのです。

そしてそれなりの多様性を保っているのは、その支持団体自体に多様性があるからでしょう。

冒頭の記事の前編で、官僚氏は「これからは国に頼ることはできないから、市場だ」のようなことを語ってますが、それはちょっと飛躍というか、大きな一段階が抜けています。

アメリカは「市場の国」である以前に、極端なまでの「自治の国」なのです。市場はそのための道具の一つだとすらいえます。


と。

ガバナンスってことだけどこれが生じる理由みたいなのはよくわかんない。「個人主義とプラグマティックな知識への信頼、知的機関がそれに応えられるだけ発達している(予算もあるし)」辺りが頭に浮かぶけど

イメージとしては「電話帳みたいな本丸暗記」って感じ。そういうガリガリとしたデータベースがアメリカ的知の形だと思う(「量」って感じの)


そんで関連でVoQnが挙げてたリンクだけど…(ってか、sivadさんはこれをネタ素にしてたんだな)


ハイエナログ 日曜の晩だから官僚の俺が独り言を書いてみる

ハイエナログ 明日は日曜だから官僚の俺が独り言を書いてみる


長いのでたんぶらったのにリンクしとくにとどめとく


官僚の年収やら待遇のひどさとアメリカと日本の社会環境の比較
http://morutan.tumblr.com/post/27370199



政治家って官僚が作ったペーパー読むだけだけど政治家の意義ってなによ?(選挙 / 得票数の意味は?)
http://morutan.tumblr.com/post/27371101





けっきょく行政は専門性をもった人が作ってるんだったら行政と立法分けたほうがよくね?
http://morutan.tumblr.com/post/27371275



「日本の政治は官僚が作ってて政治家はその台本読んでるだけ」ってのは周知のことなんだけど官僚制度の有効性(機能)についてなんか書いてあったの見た気がしたんだけど忘れた。。

官僚制や政治家、学術のうんぬんについてはマックス・ウェーバーみたほうがいいのか


あと、宮台さんなんかがさいきんちょこちょこ「テクノクラートの裁量権をもそっと拡げたほうがいいやん?」みたいな話してるのもこの辺かなぁ、と

出でよ、新しき知識人  「KY」が突きつける日本的課題 - MIYADAI.com Blog

acquo's B - 教養・いかにして知識人たり得るか

教養関連
http://morutan.tumblr.com/post/22206924




あと、おまけ的に

竹中平蔵の功績と思われるもの
http://morutan.tumblr.com/post/27369716


建築基準法の改正の是非
http://morutan.tumblr.com/post/27368961


福祉国家としての日本のあり方(福祉のわりに税収は低い)
http://morutan.tumblr.com/post/27368703




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そういや何年か前に調べ物しててアメリカの政・財・学混合型のワークショップっつーか研究機関みたいなのみかけてすげーなと思ったんだけどいまだに正体がよくわかんってない。ので、ぐぐってみるに日本にもあるのか

日本アスペン研究所

1949年、米国コロラド州アスペンで開催された「ゲーテ生誕200年祭」に、A.シュバイツアー博士、ホセ・オルテガ・イ・ガセットらとともに招かれた R.M.ハッチンス(シカゴ大学総長)は、「“対話の文明”を求めて」と題する講演を行いました。このなかで彼は「われわれの時代の特徴のうち最も予期せざるものは、あまねく瑣末化(trivialization)が行きわたっていることである」とし、「無教養な専門家による脅威こそ、われわれの文明にとっての最大の脅威」、「専門家というものは、専門的能力があるからといって無教養であったり、諸々の事柄に無知であったりしていいものだろうか」と問いかけ、“人格教育”の必要性と相互の理解・尊敬に基づく“対話の文明”を訴えて、聴衆に強い感銘を与えました。

こうした考えを受けて、1950年、アスペン・インスティテュートが設立され、翌年には「アスペン・エグゼクティブ・セミナー」がスタートしました。このユニークなセミナーを中核に、現在では政治・経済・外交などの分野における政策志向型の「ポリシー・プログラム」、カレントな課題をテーマとする「トピカル・セミナー」、海外のアスペン研究所との連携など諸活動等、その活動領域は大きく深く広がっております。

アスペンの活動内容とメソッドは、国際的にも極めて高い評価を得ており、ドイツ、イタリア、フランス、インドでも、それぞれ特徴をもった活動が推進されています。


面子見ると財界と学界のお偉方って感じなんだな。論文とかまったく外に出てこんけど (アメリカのは一般公開されてた)
http://www.aspeninstitute.jp/02/01.html



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追記:
アメリカのプラグマティズムの歴史とか日本の官僚制の有効性について調べる必要がありそうなところについてもけもけついったのでまとめといた
http://morutan.tumblr.com/post/27416907


posted by m_um_u at 08:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年02月11日

「欝苦しい国」からこんにちは! (三大義務関連が美徳とか国家と人権とかもろもろ)

 批判とかdisとかそゆのではないんだけどなんとなく気になったこととして。(※語調はキツめかもしれない
けどdisじゃないYO)


muse-A-muse 2nd: 「働いていない = 悪」なのか?


 のフィードバックに「何も生み出さないのは悪」とか「勤労は国民の三大義務のひとつだから(うんぬん)」みたいなのがあって違和感。関連で勝手にいろいろ妄想したので以下てけとーに。


まず「なに生み出さないのは悪」とか言う人だけど、こういう人は「ひとが生きること(生きることの価値)=なにかを生み出すこと」とでも思っているのだろうか?つか納税とか勤労が本当に人の義務とでも?

 そういう意識が社会的義務とか通念を元にして作られたものだとしたら興味深い。

 小・中学生レベルだと「三大義務だよー」ってことで丸暗記だろうけどちょっと立ち止まって考えてみるにこれが義務になってる理由がわかんないのよね。論理的根拠がない。なぜ人が生まれて死んでいくのに対して勤労とか納税とかを「しなければならない」の?

>「それは日本国に住んでるからだよー」

 まぁ、そういうことなんだろうけど。それ以前に国とかとっぱらった自然状態を想定した場合、なぜ勤労 - 納税が必要なのか説明できない。勤労のほうは「生きるためには食い物獲ってくる必要があるから」ということで説明がつくし、それは上から命令される「義務」的なことではなくて必要最低限のことだから当たり前だと思うんだけど...。やらなきゃ死ぬだけだしね。

 だから自然状態を想定した場合、働くことはデフォルトだと思うけどわざわざ社会的規制によって「義務」と明記しなければならないということはこれをしなくても生きていけるってことだべな? んで、「生きていけるんならそれでいいじゃん?」、とか思うわけだけどそこでほかの人からは「われわれが働いて稼いだ金で生きてる人もいてふざけんなとか思う」とかな話が出てきたり....。その意味ではこの辺なんかも気になる。


我慢という美徳 - まじめな中高年・おじさんが綴る日々の日記


 「人権利権ですか?」とか「フリーライダーですか?」的なこと言いたいのは分かるんだけどよく確かめもせずに「昔の日本人の美徳」とか「多分、ニュース記事に出てきた男性ははなから旅行をする目的だったのだと思います」とかいうのはどうなんだろう。ちょっと話が逸れるけど、生活保護の審査は最近特に厳しくなっていてなかなか認定されないし、認定された後も2ヶ月に一回ぐらいの割合で予告なしの自宅調査が行なわれるらしい。そんで、犯罪被害で全身火傷にあい生活保護を必要とする人が「発汗作用が充分ではないからクーラーが必要なんです」っていっても「ぜいたく品」ってことで認められなくて脱水症状で病院に駆けつけてからやっとクーラー買うのが認められた、って話もあるんだけど。そういうケースは考えられないのかなぁ。まぁ逆にこのエントリの人が言っている通り「ガマンできないナマケモノ」みたいな感じなのかもしれないけど。

 あと「日本人の美徳」ってそれ美徳ってわけではなく刷り込みの可能性があるからなぁ。こんな感じで

アリとキリギリス - uumin3の日記


 話戻すけど、勤労とかは自然状態だと当たり前なことだけどそれが当たり前ではなくなっているのはいまの社会でそれを阻害する要因があるからと考えられる。パッと思い浮かぶのは、(1)働かなくても周りがお金を持ってきてくれる環境がある、(2)労働がきつくて働きたくない、辺り。

 まず(2)から言うと、これは労働における疎外とか関わり問題のように思う。(間違ってるかもしれないけどてけとーにいうと)自然状態において個人が自らを生かすために働く場合、働く理由と働く内容はイコールで結ばれ労働の意味を知っているからその労働内容から疎外された気にはならないはず。それに対して、誰かに使役されどういう意味があるのかも分からない仕事をしていると仕事の意義そのものが分からなくなるし、その仕事の成果も自分に全部返ってくるのではなくナカヌキみたいな感じでぶんどられてるとヤル気なくなったり。あと、その手のストレスの結果かなんかで職場で理不尽ないじめとか発生たり。そういうものに対してただ「ガマンは美徳」とかいうのが通用するのかなぁ、とか。まぁ、そう思える人もいるのかもしれないけど少なくともぼくはムリです。(いじめ嫌いだし)

 次に(1)に関して言うと「お金を持ってきてくれる」ってのがその人の親類縁者であれば問題ないのだろう。遺産うんぬんとか。(多少のやっかみは入るだろうけど) だって迷惑かけてないもんね。 それに対して、「皆様が汗水たらして働いて稼ぎ支払った税金が働いてもいない人に供給されるのが許せない」、ってことなんだろうけど、そもそも「税金取られてる」ってことに疑問持ったりしないのだろうか? だってふつーに考えてなぜ自分の成果物(果実)をその労働(仕事内容)にかかわりのない他者に与えなければいけないのか分からない。ヤクザへの上納金と同じでしょ? ヤクザへの上納金とかには反応するのに国だったらおkってこと? そんで「上納金納めるのはいいけどあいつは上納金納めてないのが気に食わない」って言ってるのと変わらないような‥。こういうこと言うと
 
>おまへはなんてこと言うんだこの罰当たりの非国民め!国家さまは国民みんなのために集めたお金をうまいこと使って公共事業したり福祉事業をしてくださっているのだ

 ってことになるのかもしれない。でも逆に言うと国家さまが税金を安定的に収納させるために公共的・福祉的事業を展開してる、とも言えるよね?(われわれから集めたお金で)。で、そゆフローが円滑に行なわれるように三大義務を美徳とするようにすりこんだだけなんじゃないの?

 そゆこと考えると「働かないやつは悪だ」とか「納税しないヤツは悪だ」とか言ってる人って「ヤクザへの上納金を納めないやつは悪だ」っていってるのと変わらないと思うんだけど。


 もうちょっと簡潔にくり返すと、 税金は国家に預ける形で社会的福祉として再分配され公共性とか国家的理性っていう倫理的な側面と繋がるけどそれは擬制(フィクション)。別の見方をすれば「国家が自らを存続させるために構成員の福利を調整している」ともいえるので。そんで、そういうフローを成り立たせている根拠は暴力の独占機構としての国家の存在、ってこと。三大義務とかを美徳とか称するのはこの暴力的収奪機構としての国家の真の姿を隠蔽し、より安全・確実・継続的に税金を収納させるためなんじゃないの?

んで、そういう文脈だとぼくは国家なんかまったく信じていないし警察大嫌いだけどそれとBIとか生活保護は別かなぁ、とか。論理的一貫性を保つなら「そういうのも放棄しろ」って立場をとるのが誠実さというものだろうし個人的にはそうだけど、そゆのがないと生きていけない人は利用すればいいと思う


 って、こういう話書くと「アカでつか?」とか「こっかてんぷくでつか?」、「フリーライダー?」「ヤクザ称揚ですか?」とか言われそうだけど別にそれ系のオルグしたいわけではなくて「国家の本質」とか「三大義務の理由」とかの可能性の一つとしていってるだけです。単にこういうことについて論理的説得性のある話をほかに聞いたことがないので可能性の一つとして出してるだけ。なので、論理的に納得できるような反証がされれば嬉しいな、と。



 ちなみに以上の話のおおよそのネタ元はこの本です (主に第二部一章「共同体と国家」より)


世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)
柄谷 行人
岩波書店 (2006/04)
売り上げランキング: 19400
おすすめ度の平均: 4.0
5 表題がイマイチ
5 思考者の啓蒙書
5 思考のラディカリズムと平和への祈り




 もうちょっと言うとこの章のポイントは、「国家は共同体の内部から自然に立ち現れてくるものではなく、他の共同体からの暴力的収奪の場面で現れてくる」、というところ。共同体単体では国家的な機構(官僚+軍隊)を志向しないけどほかの国から略奪する際、あるいは略奪から身を守る際に国家へとクラスチェンジする、というところ。まぁ、この本についてはまた改めて感想まとめます。

 あと、人権と国家関連だとこの辺とか


人権と国家―世界の本質をめぐる考祭 (集英社新書)
スラヴォイ ジジェク Slavoj Zizek 岡崎 玲子
集英社 (2006/11)
売り上げランキング: 12963
おすすめ度の平均: 3.0
4 ジジェックの発言の真意
1 世界の本質を語る資格も能力もない
3 ポストモダンの思想、あるいは死相



 ここでも権利は力(暴力もしくは経済力)を持つものに集まり、残りの部分が配分されていたと書かれてました。それが現在の普遍的権利(基本的人権)にまで高まった過程についての記述はびみょーだったけど。ジジェク師匠は歴史学者とか法学者ではないので仕方ないかなぁ、とかな印象だった。

 ほかはkagamiさんとこでネタ化されてましたが

スラヴォイ・ジジェク、ブルセラ自販機に真の文明を見るの巻 - ロリコンファル

 これは後半のおまけ的インタビューなのでまぁいいかなぁ、とか。(萌え要素満載でしたね) 訳者あとがきでも書かれてたけど、この本は論文ってよりは講談ってノリみたいだったのでそういうノリで読んだほうがよかったのかも。



 ところで、こういう「国家は暴力的収奪機構であり国家が唱える理性とか公共性はまやかし」って話なんだけど、さっきもちょっと書いたように自分でもこの説に完全に同調してるわけではないです。「国家的理性(うんぬん)な話があるかなぁ」とか。

 この辺の話はルソーとかヘーゲル辺りでも絡めて 「ヘーゲル」ゆうとった @repon辺りに絡んでみるとおもろげだけどどうしよっかな。 「ヘーゲル?そんなの関係ねぇ!」とか言いつつ絡もうかなw 


 つか、この辺の話ってもうすぐ起こるかもしれない経済困窮 → 福祉の不安定化 → 国家不信 → 「国家とは何か?」の問い直しの流れにも関連してるのか。

 そゆ意味ではこないだ東さんたちがやってたシンポジウムを聞いてみたほうがいいのかもなぁ(未聞)

シンポジウム「国家・暴力・ナショナリズム」(音声のみ) 1/4‐ニコニコ動画(RC2)

シンポジウム「国家・暴力・ナショナリズム」(音声のみ) 2/4‐ニコニコ動画(RC2)

シンポジウム「国家・暴力・ナショナリズム」(音声のみ) 3/4‐ニコニコ動画(RC2)

シンポジウム「国家・暴力・ナショナリズム」(音声のみ) 4/4‐ニコニコ動画(RC2)

思想地図シンポジウムのレポート - 学術会ブログ(仮題)

東浩紀の渦状言論: シンポに向けてのメモ

東浩紀の渦状言論: シンポに向けてのメモ2


 個人的には国家が信用できなくなったときにフィクションとしてのネーションが解き放たれるのかもう一度繋がれるのかとか、ネーションって中間共同体的なものと関係あるのか、とかなんとか気になる。


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関連:
muse-A-muse 2nd: 関係性と経済合理性の協調可能性について (あるいは中間共同体の可能性)

muse-A-muse 2nd: 「<場>の歴史性」と関係性の代替可能性について

※中間共同体関連。でもネーションとかとはちょっと違うか


僕はベーシック・インカムを応援します - reponの日記

※「労働はもはや義務ではない」関連で。その後2つぐらい続くけど未読だよー

ベーシック・インカムを導入したらどうなるか試算してみる - reponの日記

14歳ホームレス中学生。希望は、戦争 - reponの日記
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2008年01月27日

日本はまた「敗北を抱きしめ」ることになるのかねぇ。。

ついったーにメモったことをもそっと立体的に保管しとこう。この辺


メモ的に。極東ブログの米国バブル関連エントリとレポンのベーシックインカムエントリへのぶくま見ながら先日の東シンポへのつぶやきを思ったり。国家への信頼が損なわれる場面でアイデンティティがとわれるのか。あるいは市場への不安が国家へバックラッシュする

そこで現れるのはさらにベタなナショナリズムなのか(そういう意味でバックラッシュ)。まぁ、まだわかんないけど、市場の力の余波を受けボロボロになった国民感情の変化とか気になる。

短期的に中国に下る感じになるのかも。そのとき、プライドのようなものがくすぐられるのかな?アジア蔑視も絡めて


 最初に想定していたのはこの辺


はてなブックマーク - ベーシック・インカムを導入したらどうなるか試算してみる - reponの日記

okoppe8 実質BI導入が独身税導入と同じ意味を持つことがよくわかった。導入には制度だけでなく社会・文化面で大きな転換が必要になるだろうね。「恋愛<家族愛」「日本という社会への帰属意識」がキーワードか。



極東ブログ: 米国のインフレ懸念とか日本の団塊世代への歳出抑制が問題とかちょっと言いづらい

なんだかんだ言っても米国は人口が増大し、出生率も維持できている。そういうことが、ようするに経済的な意味での「信用」というものを支えている。とすれば、逆の日本にはそういう未来はないなと思う。
 というか、いかにも正義で語られている政治の話が、今の40代が日本で死ぬころ何をもたらしているだろう。


 reponのほうのエントリの数字とかはまだ追ってない。ぶくまコメ追ってると独身税ということで独身者にキツイことになるのかな?って印象なのでそのフレームで読んでみようとか思ってるけど。引用したぶくまコメントを見ながら、おひとりさまへの税金がひどくなると家族作りたくなるから家族とか税金(≠国家)とか改めて考えることになるだろうね、って感じなのかなとか思った。

 あと直接関係しないけど「金融不安 → バブルはじけて世界的な信用不安 → 不景気」な流れ関連で税金とか国家とか考え直す機会が生まれるんだろうなぁ、とか。そういう場面における「国家の正義」とか国家への帰属意識とかでいろいろ思うようになるのかもしれない。


 関連でちょっと前に東さんとか北田さんとか集まってシンポしたらしい。

思想地図シンポジウムのレポート - 学術会ブログ(仮題)

 でも、抽象的でよくわかんないなって印象があって参加した人についったーでいろいろ聞いてみたけどやっぱよくわかんなかった。東さんの目指すところがなにかわかんなかったり。宮台さんと同じように相対化し価値多様化社会の中で確たる信頼が欲しくてなにかを信奉しようと望む人をそれなりの指標を示して導くべき、的な話なのかもしれない。上記してきたことと絡めると「国家」とか「ナショナリズム」ってのはけっこう重要な課題になっていくのかもしれない。そういう意味では先見なのかもしれないけど東さんの話からは景気とか、実際に生活してる人のリアリティなんかが浮かんでこないんだよな (なのでよくわかんない


 日本のリアリティ、日本的行政システムがなぜ機能しないのか?、敗戦後のプライド関連だとこの辺とか思い出したり

日経 春秋(10/27) - finalventの日記

『抱擁家族』の30年後を描いた『うるわしき日々』。記憶を失っていく妻を家に残し外出した男は「これから10年をどう過ごすか」を思いかがみこんで泣く。手にしているのは大量消費社会を象徴する「コンビニの袋」。今の日本人にとって米国とは何なのか。小島さんの言葉を、もっと聞いてみたかった。

 つまり、戦後の日本の社会と民衆というのは、これなのだ。これを描き出すのが文学なのだ、と。

 米国という国に負けた民族としての日本人というものがコンビニ袋を捧げてしゃがんで泣く男そのものである。地べたに貼りついている日本人ですら敗戦の本当の屈辱を生きてきた。それをイデオロギー化すれば屈辱に反発したりそれを受け入れることを是とする倒錯になったりするだろう。しかし、その屈辱には平和と繁栄の奇妙な色合いもあった。

 

HPO:個人的な意見 ココログ版: [書評]敗北を抱きしめて Embracing Defeat

本書を読むまで、米軍の占領が戦後の日本に及ぼした影響の大きさがあまり自分で把握できていなかった。著者の指摘しているとおり、昭和20年の敗戦までの日本の軍国主義に続く米軍のあまりに圧倒的な支配によって、戦後の数年間に本来民主主義を学習し自分たちの間で「やればできるんだ!」という感覚を醸造できなかったという側面は確かにあるのだと思う。この想いは、自分自身を含む現代日本人を見るにつけ、あまりに深く腑に落ちていく。自分たちはなんと社会に対して無力であると自分を定義しているのか?社会や環境を変えること、人に働きかけることについて、いかに最初から諦めてしまっているか?ただただその無力感に打ちひしがれている。


著者が本書で展開し、私がここでこだわっているのは実は口承歴史(oral history)と公的歴史の差なのかもしれない。私がどうしてもこだわってしまい、そこで立ち止まってしまうのは歴史の時間で教えあれる歴史以外に、自分を取り囲む人たちから口で伝えられた歴史があるからかもしれない。それは、軍部の堕落であり、戦中のプロパガンダであり、闇市であり、共産主義の脅威であり、天皇制がいかに日本の歴史において機能してきたかということである。ここで、これらの要素を書き出すとそれはほぼそのまま本書で記述された日本の姿となるのだが、なにかが違う。ああ、いまでも祖母が「なにがあってもロシアだけは信じられない。」と語っていたのを思い出す。旧帝国陸軍が大陸でなにをやってきたかについても、自分の体験として私に教えてくれた人もいた。それでも、私に口承歴史を伝えてくれた人々は、悲惨な歴史の中でも生き延びるためにその人たちが発揮した知恵と、自分の国と国の歴史に誇りを持つことの大切さであった。



 なんつーか・・端的にいえばぢみな負け犬根性が染み付いているのだろう。そして二度と立ち上がれないようにシステムの中に内在されている。それは軍国主義的なものに対する機制になったのだろうけど・・なんかハンターハンターでのキルアへの呪縛みたいなの思い出した。


 戦争を見てきた世代、あるいは戦争を通り抜けてきた人たちを見てきた世代の人たちはそういったリアリティがあるのだと思う。対して東さんや北田さんのそれからはそういうのが感じられない(印象論だが)。その辺がなんともゆるく感じる印象の元なのだと思う。




 んで、そういった「誇りを取り戻せ!」「日本独自のアイデンティティを!」みたいな話にたいしてはまゆつばだねってのも分かるけど

はてなブックマーク - finalventの日記 コメント欄 - 日本文化・日本的価値とは、おそらくイデオロギー


なんかびみょーですね。



 最後の中国うんぬんら辺は安全保障うんぬんや市場全体で中国に下るというわけではなく中国人の観光客やらファンド、不動産などの買い手が一時的に多くなった時期に日本人の誇りみたいなのが揺さぶられるのかな?、とか思ったのです。まぁ、「誇り」っつっても大正も明治も江戸の輪郭も分かってない人たちが「日本人独自の誇り」とかゆっても説得力ない気がするけど・・(自分含めて

 その意味ではこの辺とか絡むかも(景気変動によって外国へ出稼ぎの可能性が出てくること。それによって生じる日本人のアイデンティティやナショナリズムの変化など)


Espresso Diary@信州松本:株安に続いて何が起きるのか? - livedoor Blog(ブログ)


日経平均は、13,000円を割ったまま。反発は弱い。東京の百貨店の売上げもマイナスで、富裕層の消費が弱くなりました。たとえ世界の株価が持ち直したとしても、日本の成長力と起業力の弱さは隠しようがないので、日本株が強く買われるようには思えません。不動産にも翳りが出ているし、不動産投信もダメですから、08年の春〜夏にかけては、景気の落ち込みが多くの人々の目に見える形になりそうです。すでに松本の街では、QQショップやドトールが店を閉める状態ですが、多くの地方都市でも似たような現象が起きるでしょう。


こうなると日本人は、ますます稼ぎを海外に求めざるを得なくなります。内需の企業も、外需を求めて社員を外に出すでしょう。働き盛りの現役世代が外に出てゆけば、国内には高齢者、女性、子供が多く残ることになる。人材の玉突き現象が進んで、賑わう場所は更に限られてゆく。私は、株安によって、これまで書いてきたような現象が強まると考えています。

おそらく愛国心は、より先鋭化するか?外向きに転換するか?の、2つの方向に分かれてゆくと思います。内需の厳しさが明らかになっているときに、経済的な豊かさを求めるのなら、日本はアジアとの繋がりを重視しないわけにゆきません。





 とりあえずいまは「抱擁家族」(小島信夫)読んでます
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2007年07月13日

久間とりっくす! (歴史認識におけるバックラッシュ?)

 歴史っていうかヒロシマ関連のことでuuminさんのまとめが分かりやすかったので、以下主に「自分用お勉強」って感じでまとめときます。ついでに歴史をめぐる最近のあれこれについても。

 まずはここから


uumin3の日記:歴史修正主義という言葉


 これは以前に痛いニュースで流れた資料館の展示内容変更関連の話題についてのエントリです。これ自体は以前にうちのサイトでもとりあげたのですが、


muse-A-muse 2nd: 平和資料館で「原爆投下=植民地解放」展 ?


 uuminさんが気になったのは「歴史修正主義という言葉の使われ方」とのこと。


 つまりこのHistorical Revisionismという語は、「原爆投下が正しかった」というアメリカの「(政治的に)正しい見方」から外れて原爆投下についての不正義を語ろうとする人に、歴史修正主義者め!(=正しい歴史を勝手に改竄する奴)みたいなラベリングをするのに使われていたということです。



 要約すれば、「歴史学において”絶対的に正しい歴史”などというものは存在せず、史料を元に適時改変、あるいは新解釈をめぐっての議論が起こるのは当然であるはずなのに、歴史修正主義という言葉を使う人々は"正しい歴史”があることを前提としつつそれに対する別角度からの意見を"修正”と呼ぶ。これはおかしい(傲慢)のではないか?」、ということですね。この辺、全面的に同意します。

 ちょっと思うのはこの言葉ってアメリカ的な考え方なんですかね?以前にアメリカ留学の経験がある方のblogを見ていたときにもこの言葉がふつーに使われていてなんか違和感をもったもので。まぁ、この辺は突き詰めていくとめんどそうだし、エントリの本意ではないので個人的にはどーでもいいです。


 で、次。uuminさんは歴史修正主義(revisionism)という言葉自体がアメリカの歴史学者の中でもびみょーな扱いを受けていることについて論じておられます。


uumin3の日記:歴史修正主義と Hiroshima


 こちらでは「原爆投下が多くの人の命を救った」とか「日本は降伏の準備があったのにそれを知りつつアメリカが爆弾を落とした」とかいった議論には深く立ち入らずに、<両方の言い分が荒唐無稽なのものではない>ということに主に焦点を当てて論じられています。(たぶん)

 それでも、一部の人々からは「ヒロシマに原爆を落とすべきだった」はデフォルトなんですよね......(ためいき)


 で、最近の一連の話に繋がっていくわけですが


雪斎の随想録: 「核」に関する備忘録


「原爆投下はソ連参戦阻止を目的としていた」という説がある。「日本に苛烈な無条件降伏を強いることで、日本の降伏決定を遅らせ、そのことによって、対日原爆投下を可能にして、以てソ連参戦をを制止しようとした」という説である。これは米国における「修正主義学派」の学説である。当時のバーンズ国務長官の言動に依拠している。
  / 多分、久間大臣は、この「修正主義」学説に影響されたかもしれない。だから、久間発言は、「暴論」ではないのである。ただし、政治家は、「こういう説がある」という言い方を通してもらう必要があるのであろう。
 もっとも、永井教授は、「修正主義」」学説には批判的である。。


 あれ?修正主義派ってのは「ヒロシマに原爆を落とす必要はなかった」という人に対する揶揄なんじゃないの??

(この辺uuminさんも「?」って感じになってますね(参照))

 「修正修正学説」みたいな感じなのかなぁ。。。まぁ、よくわかんないですが(今度覚えてたらその筋の人に聞いてみよう)


 んで、こっから一連の久間とりっくすって感じですね。


原爆投下の正当性、米核不拡散担当特使が強調 : 国際 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)


 それを受けてこんな自虐史観みたいなのも


アメリカの謝罪を拒み、献花を踏み躙った原爆被害者 : 週刊オブイェクト



 いや、自虐っていうか、こういったことがあったのは事実なんでしょうがね。でも、これをして


アメリカは、少なくとも当分の間は謝罪する事は無いでしょう。現状ではそのようなことが言い出せるような状況ではない、と認識しています。

何故なら、被爆者達がアメリカの謝罪を拒み、献花を踏み躙った過去があるからです。



 っていうのはどうかなぁと思います。理由として↓


(1) この謝罪はアメリカ全体の国意を代表するものでもないし、それに対する非礼というわけでもない

(2) このニュース自体アメリカに伝わっているとは思えない。一部の軍関係者に伝わっているかもしれないが、そもそもハーヴァード辺りのWASP思想で鍛え上げられたアジア蔑視観な人々がこの程度のことでショックを受けるとは思えない。外交オペレーションとその部分は別だと思う。

(3) このエントリを書いた人とこのエントリを賞賛する人々には「これだからサヨクのヒステリーは!」と揶揄するような空気があるように思えるが、そういう人々は現在も後遺症に苦しんでいる人々の感情というものを本当にリアルに想像したことがあるのだろうか? たとえが悪いかもしれないが、癌で入院して苦しんでいる人のところにその原因となったと思われる人が「謝罪」と称して訪れつつも事実関係についてはうやむやにしようとしている、といったことと同じだと思うのだけれど....。癌で苦しんでいる人の感情(あるいは先に亡くなった友人達を思う人の気持ち)をして「ヒステリー」の一言で片付けられるのか?


(4) もちろん「感情」のレベルと「外交」のレベルは別だが、それを言うならそもそも外交的にはそれほど意味がないと思われる瑣末な事例を挙げつつ、「ほら見たことか、被爆者は阿呆だなぁ」と揶揄する人々の態度こそが「感情的でつかえねー(ナンセンス)」といえるのではないか?



 だいたい以上ですね。

 そういうわけでこれ関連で「感情的」なところにとらわれない外交上のオペレーションというのはどうなっているかというと。(以下、すげーおーざっぱにまとめ)


カワセミの世界情勢ブログ: 歴史認識問題の難しさ

カワセミの世界情勢ブログ: 歴史認識問題の難しさ(補足)

カワセミの世界情勢ブログ: 歴史認識問題への補足

切込隊長BLOG(ブログ): 民主党なあ…



 まず、昨今の六カ国協議を表舞台としたアメリカの中国外交がある、と。慰安婦問題ってのはそれとは別のレイヤで「アメリカの人権外交にウラなし」(つまり、本気で「人権」について考えてる)って感じで進行してるみたいなんだけど、「賠償責任の多寡を巡って当事者間のすり合わせがうまくいかない」、と。

 平たく言えば「中国・韓国側がふっかけすぎ」ってことなんだけど、それをもって「双方の主張する惨劇がなかった」といえるものでもない。ただ、こちらのエントリにも表れているように、

G★RDIAS - 朴裕河(パク・ユハ)『和解のために』


 日本としては既に賠償をした歴史はあるし、それを韓国がインフラ整備のために使い込んじゃったってのも事実みたい。なので納得できない部分はあるんだけど、韓国の民間レベルでは日本に対する理解や関心は高まってるみたいで「敵国日本」的な意識は薄れてきている模様。

 中国に関してはいまちょっと良い例が出せないけど、ODAの関係なんかが頭に浮かぶ。例の「ODAで中国に橋立てたのに、中国国民からは"日本のおかげ”感がないんだよね」問題。(以下、勝手な妄想かもしれないけど)ODAの意義としては「国際経済的に踏み台にした発展途上国に対する賠償」みたいな考え方があるように思う。従属理論的な考えでびみょーなところはあるけれども。それに加えて「慰安」的な意味合いも含まれていたのではないか? ODAをもらった中国側としてはそんな感じで「当然」のものとして受け取り、うやむやにしてきたのかなぁ、と。それに対してけっこうなお金を払ってきた日本側としては「慰安」も含めた気持ちがあったのかもしれなくて、その部分での齟齬が生じているのかなぁ、とか少し思う。


 んで、最近の米中外交というかびみょーなやりとりとしては「レイプオブ南京」をアメリカ資本で作ったってのがあるわけだけど.....これもまたびみょーな感じで、内容としては上記したように「数字が過剰」ってのがあるみたい。なので反対派からはアレルギー反応が出てるし、元々の肯定派も「・・びみょー?」って反応を示しているのではなかったかな?(※ソース示せないけど)

 
 こんな感じでアメリカが中国に肩入れしているのは東アジア外交における優先順位を日本から中国にシフトしたからだと思うんだけど、上記のようなジャブレベルのやりとりと実質的な外交政策とがどう結びつくのか個人的にはよく分からない。「ジャブレベル」って言ってもカルスタ(あるは文化政治学)的には「文化の表象を巡る重要な争い」って感じなのかもしれないけどよくわからん。



 んで、そういう流れの中でのアメリカによる慰安婦問題のバックラッシュって感じ。つまり、「...それ既出じゃん?」みたいな話をアメリカ的ゴリ押しで蒸し返してる感じなんだけど......なんすかね、これは? ロビーイングとか六カ国協議だかなんだかの時機とかと重なったんですかね? (あるいは経済関係の)

 カワセミさん的には「アメリカに他意はなく純粋な人権意識だ」ってことなんだけど、なぜこの時機なのかがよくわかんないんですよね。(いやエントリに含ませてあったかもしれないけど....斜め読みしちゃったかな)


 んで、「ヒロシマ」をめぐる言説のゆり戻し(バックラッシュ)ってのもこの文脈にかかわるのかなぁ、と。なんか「保守還元(あるいは回帰)」って感じですよね。


 そんでやっぱ「なぜいまなのか?」ってのが気になるけど、全体的な流れで言うと、「議会の雰囲気としてバックラッシュ的なのが流行ってるから」ってことになるんですかね? いや、あの辺まったく疎くてチェックしてないので純粋な疑問なんですがね。


 とりあえず、もしそうだとするならそんなのに伝染することもないなぁ、と。(「初物買いなど江戸の町人のすることだ!」って感じですかね)




 それとも外交レベルでの緻密な計算とかあるのだろうか?(それこそ久間とりっくす?)




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関連:
萬晩報:原爆100万人米兵救済神話の起源

※「アメリカの作り上げた歴史はよくわかんないなぁ」関連で。<ヒロシマによって100万人の命が救われた>説があるけれども、負傷者も含めて多く見積もっても6万人、戦死者だけなら2万人ぐらいの推定なのになぜに25万とか100万という数字が出てきたか、についての検証記事。これも「絶対」というわけではなく考え方のひとつではあるけれども、少なくともこれを見た限りでは<ヒロシマ>肯定言説には納得できないものがあります。

 
 
J-CAST テレビウォッチ : 「ヒロシマ/ナガサキ」死んだ人はいい。生きてこんな苦しみを…

※アメリカのメジャーな映画チャネル(CATVだっけ?)のひとつHBOで製作されたドキュメンタリーについて。現地でどれぐらいの視聴率や反響があったのか気になるけど。とりあえず日本では2007年7月28日より公開、とのこと。

 
 
田口ランディ公式ブログ : 辞任してしまいました

※「しょうがない」として思考停止することについて。「もったいない」ともどもこの辺も国際公用語になるんですかね?
 
 

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追記:
なんか気になるのでいちお言っておくと、「瑣末な」といったのは「外交」というレイヤーで考えた場合のことであって、「被爆者の感情」あるいは人間の感情というレイヤーで考えた場合、瑣末なことではないと思っています。(だからこそエントリ立てた)

2つのレイヤーは直接に関わるものではないけれども、それぞれの価値はつぶしあうものではなく並列して存在し得るものだと思います。そしてそれぞれの価値は同様に尊重されるべきもののはず。なので「感情的なやつには外交的、あるいは国際政治的なレイヤーのことは考えられない」というのは間違いだと思うんですね。2つは違うレイヤーだけど感情的というか情熱をもった人が国際政治や外交に関われない、というのもどうかなと思って。(それじゃ「主体」というものを設定する意味がないですよね?)
 
まぁ、そんな感じです。

  

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2007年06月19日

萌え将軍とミニマリズム

 あと、蛇足的に。

 安倍さんが例の年金問題を受けてカメラ目線を意識し始めたらしいんだけど、


カトラー:katolerのマーケティング言論: 安部首相のカメラ目線と松岡農相の死

一国の宰相が、衒いもなくカメラ目線で画面に登場するというのはどういうつもりなのだろう。これは、面白いことを発見したと、得意になって周りの連中に教えてやったら、「安部首相のカメラ目線」のことは既に結構知られている話で、安部首相自身が、「力強く国民に向かって語りかける姿勢を示す」ために、意識的にカメラ目線でしゃべることにしたのだという。


 
 あまり好評じゃないみたいですね


痛いニュース(ノ∀`):【論説】 「安倍首相、カメラ見てしゃべるあれ。気色悪いからやめて」…東京新聞



 安倍さんというと、以前やってた「幹事長のブランチ」も不発だったし...


 なんか、その手の才能はないみたいですね。(人気取りを意識しすぎるのかなぁ)。まぁお坊ちゃんなんだろうけど


 同じお坊ちゃんでもこの方は違うみたいですね


Economics Lovers Live:ローゼン閣下


外相のネット上での愛称である“ローゼン閣下”とは、彼が愛読していると発言した『ローゼンメイデン』というかなりマニアなコミック(少女型人形がバトルを繰り広げる話)から採られたものである。外相のサブカルチャーへの理解は、ネットの「オタク」たちからも熱い視線を向けられている。



 人気取りっていうか、麻生さんは昔からマンガ読みだったみたいなんですが。空港で「ローゼンメイデン」読んでるところをたまたま発見されたらしいんですね。それで人気に火がついた、と。

 この「たまたま」ってところが狙ってない感じで良かったんだろうけど、armsに対する捉え方にも骨太なものを感じます。

 そういう「骨太」な基盤を下地に人気を得てるんでしょうね。


 そういうのはこの辺にも表れているように思う。


麻生外相は、『自由と繁栄の弧』で、独自の小国主義的な外交姿勢を展開している。それは、日本―東南アジア、南アジア、中東、欧州が外交上の連帯を強めることで、大国主義的なユーラシア大陸の諸国(中国、ロシアなど)を“弧”の形で取り囲むような国際主義の輪を作り出す、というものである。外相の真の意図は、対抗的なナショナリズムとは無縁なのだが、それでもネットでは間違ったシンパシーを生み出しているようである。



 
 一個前エントリの文脈に絡めて言えば、ミニマリズムというか、近場をきちんと見つめるというか、そんな感じがします。
 
 
 んで、趣味と志向から「かわいい」に通じるのかとも思うんだけど、なんかニクソンっぽいんですよね。(顔が)

 
 
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2007年04月12日

バカサヨク、バカウヨクについて

 ナショナリズム関連で複数の物件が重なったのでエントリしてみる(政治系は未だちょっと苦手なのだが、とりあえず伝聞ってことで)。

 まず最初にここから


想像力はベッドルームと路上から - 左翼問題の再調査が必要だ。


 これ自体は池田センセのアッチ方面の話題に対する「どーなの、それ?」的エントリで、ほぼ同意なのだけどちょっといろいろ補足というか、背景説明みたいな感じでつけたしとこうかなぁ、と(伝聞だけど)

 ってか、その前に、池田センセの当該エントリはこれ


池田信夫 blog 左翼の最後の砦


 あと、「ナショナリズム」(と池田センセが思っておられるの)関連でこれとか


池田信夫 blog なぜインターネットはナショナリズムを強化するのか


 後者のほうから軽くつっこむと、池田センセはどうやらカルスタというものをご存知ないようで、よく分からない発表を訊いてテキトーな印象論で済ませてしまったらしい。ちなみに池田センセのカルスタ印象論はこれ


滅びゆくサヨクと語学教師の失業対策


 とても面白いw


 吉見俊哉さんの概説書とマスコミ学会の発表者の印象だけでカルスタというものを決め付けてしまったみたい。

 ってか、この本オレもみたけど確かにびみょーだった。いや、この時期の吉見さんって忙しげだったし、てきとーなやっつけ仕事いろいろ〆切に終われて大変だったんだろう。

 これはそういう本だったように思います。

 カルスタというか、CSのメディア分析理論として一番援用されるS・ホールの「encoding / decodingモデル」についてはこちらでまとめておいたのでよろしければ参照ください(ついでにメディアリテラシーへの誤解も解いてくれるとありがたい)


muse-A-muse 2nd: 「<批評>そのものへ」?


 で、軽いジャブとしてはそんな感じで、ナショナリズムうんぬんについて。こちらのエントリを見ると、池田センセはsocial capitalを引き合いに出してきてるからいちおそっち方面の知識もおありのようなんですね。

 で、その部分にはいちお同意します。ただ、後段で説明しますがちょっとびみょーっぽいです。

 そんでそのほかの部分、特にサヨクに対する印象がアレですね。

 なんとなくですが、池田センセは田嶋陽子さんのTV用の顔を全面的に信じてしまっているのでしょうか?

 いや、それならそれでなんともファンタジーあふれる話しだなぁと思うんだけど・・ってか、アレかな?田嶋さんもアレはTV用とかじゃなくても本気ってことなのかな?「朝まで生テレビは本気じゃなくてポジショントークを演じてるロールプレイだよー。楽屋裏帰ると大体の人が良識人で、“さっきはああ言ったけど、私個人はびみょーだと思ってるんですよ”って言ってるよー」、って話を聞いたけど、田嶋さんはそういうわけでもないのか?


 まぁ、それはいいとして


 池田センセのサヨクイメージってたぶん田嶋さん(TV用?)みたいなステレオタイプ的なアレなんだろうなぁ、と。


 そういうのでサヨク全体を捉えられてもたまらんなぁと思うわけです。(これも後段で説明します)


 そんでinumashさんのエントリに移りますが、『「左翼の最後の砦」が「歴史認識と地球環境」なわけないよね』、は同意。っつーか、池田センセは旧来のステレオタイプ的サヨクを想定しているので、「サヨクは歴史認識でうじゃうじゃウゼェことをいう輩だ」、ってことになるんだと思う。

 inumashさんが想定してるのはニューサヨクっていうか、旧来の反動サヨクとは別のものなので意見が食い違うんだろう。


 んじゃ、そろそろ本題。以下、宮台さんのpodcastから。


 まずは「今年のキーワード『ナショナリズム』を考える」と題した回から。


 まず最初にナショナリズムとパトリオティズムの違いってのがある。

 ナショナリズムの場合、通常イメージされるような「国家への忠誠」って感じになって対象は国家ってことになる。

 これに対してパトリオティズムの場合、「パトリ(同胞)」を中心とし、それを守るということを第一義的に考えるので、国家によって「パトリ」が弾圧された場合は抵抗する。例としてはK.イーストウッドの「硫黄島」シリーズが挙げられてた。あれは「『国家のため』じゃなくて『同胞のため』に闘うことを描いた映画」なんだそうだ。

 個人的には「国家は信じない(同胞は信じる)」という中国人のメンタリティとか、最近話題になった藤沢周平の「武士の一分」とか思い浮かぶ。後者は見てないけど、藤沢周平のシリーズだったら「国ではなくて家のために闘う」ということを描いているはずだし・・(武士道とはそういうものだったはず)。一部の阿呆は恥ずかしげもなく「国家への忠誠心を根付かせるには良い映画だ」とか言うのかもしれないけど、アレはそういう映画じゃない(はず)。

 ちなみに本来の意味でのウヨクとはパトリ的なものを大事にする人々のことを指すそうです。



 そんで、日本のナショナリズムも本来はそういうパトリオティズム的なものを含んだものだった。でも、なんか知らんけど「国への忠誠第一主義(国粋主義)」的なものに塗り替えられていったんだそうな。 例えば天皇制導入のときにもその萌芽は見えた、と。

 天皇制ってのは元々、近代化(殖産興業)を図るための御輿で、導入の最初の段階では、「とりあえずよくわかってない民衆をひっぱるためのシンボルとしてはちょうどいいから担いどけ。しばらくして民衆がものごとを判断できるようになったら(市民社会が成熟したら)御輿の役目はなしにすればいいべ」、って感じで導入したらしんだけど、なんか勘違いした一部の人たちが天皇制そのものの意義とか謳いだしちゃって収集がつかなくなってしまった。「ネタとしての天皇制がベタになっちゃった」、と。

 で、

 一部の人は天皇担いで「全体性ワッショイ(右向け右だよー)♪」ってやりたかったんだけど、そのときに邪魔だったのが例のパトリ的団結心。(個人的に)もうちょっと別の言葉で言い換えるとsocial capital的な連携と言ってもいいと思う。この部分が邪魔だったので空洞化していく必要があった。そこで使われたのが「想像の共同体」マジック。

 某朝○新聞とか?神話とかそれを受けた教科書とか?使って「天皇様は現人神じゃー」神話とか「日本は神の国だから負けるはずないんじゃー」伝説とか作って目くらまししつつ、国家への忠誠心以外のものは「脆弱な心」みたいな感じで削っていった、と。

 あと、元々関係資本的な繋がりが薄い人たちが全体性的な「この人に従っていけば大丈夫だわ」的な思想に染まりやすかったらしい。そういうのは昨今のあるある神話(エセ科学)信仰とか、エセ宗教番組信仰とかを髣髴とさせますね。

(※そういうの信じる人って当該コミュニティでの関係性が薄い人たちなんだろうか?一回調べてみたい。でも、江原トトロが好きな人たちってそんなに不幸なオーラだしてないんだよなぁ・・)


 
 で、これが第一段階。ポイントは「ウヨクは元々、国粋主義的なものではなかった」ということと「ナショナリズムとパトリオティズムは違う」ってとこ。後者はsocial capitalにも繋がるし。


 んで、第二段階。旧来型反動サヨクとニューサヨク(?)の違いについて。これも宮台さんのpodcast(「日本はいつまでも対米追従でいいの?」)から。日米安保関係の変化とそれに付随するサヨクの言説の変化の必要性について。



 まず、第一段階として


 冷戦期の2極構造の中、(おーざっぱにいえば)「共産主義圏」から守ってもらうために安保ってのは存在した。

 その際、共産主義に対して怯えていたのは日本だけではなかったのでアメリカは「世界の警察」的位置づけで見られていた。

 なので、安保の傘に入ることもいまほどの抵抗感はなかった。


 一部サヨクによる極端な嫌米言説はあったが、宮台さんによるとそれは煙幕だったらしい。

 たとえば「武器は持たないが、安保にも入らない」なんていうのは安全保障上ムチャクチャな論理だけど、これが通用したのは「対米けん制用の煙幕として有効だったから」、とのこと。

 この時代の日本の安保は主にアメリカだけを考えていればよかったんだけど、安保(核)の傘に入りすぎるということはアメリカによる覇権を許すということになる。

 その辺をけん制するためにはアメリカと同等の相手を引き合いに出して、「あまりアタシのこといぢめるとあっちの人のところに行っちゃうぞ!」、とか言えばいいわけだけどこの時代の日本にはそういう相手がいなかった。

 それで、そういう相手(アメリカにとっての仮想敵国)を日本内部にこしらえた。これが極左

 55年体制下では実際にそんな感じの依頼がサヨクに行っていたらしい(吉田茂から社会党へデモの要求)。



 でも、そんな極左も時代が変わると必要なくなる。それが第二段階(現在)


 第一段階のとこでもちょっと言ったけど、現在はアメリカの仮想敵国として中国が設定できるので、極左に頼る必要がない。

 そんで、「あまりいぢめると中国にすり寄るで〜」、が使える。

 実際、アメリカもアジア地域におけるプライオリティは日本よりも中国のほうを上に位置づけているぐらいだから、こういうことするとバシバシ意識するのだろう。


 そんな感じで両国を天秤にとりながら、自分達の都合の良いような外交的条件を引き出す、ってこと。


 背水の陣メソッドというか・・
(この辺はフィンランドの外交術と似てる)




 んで、そういう時代なので旧来のベタなサヨク的主張(武装放棄+安保放棄)なんかムチャなんだけど、上記してきたような枠組みが分かってないので旧来の左翼の亡霊がうろついている、と。


 っつーか、ぼくはけっこうサヨクなので、非戦的なところにはこだわりたいけど、武装と非戦ってのはまた違うもんな。(「非戦」ということにこだわりたかったら外交手腕を磨くべきだし)



 アジア諸国と連帯・・・しても火力足りないよなぁ・・(発言の影響力とかも)




・・・ロシア?

(それするなら中国を考えるのも同じか)




・・・・たいへんだねぇ、これからの外交筋の人は(そういえばカワセミさんもそんなこと言ってたな)


カワセミの世界情勢ブログ: 歴史認識問題の難しさ


カワセミの世界情勢ブログ: 歴史認識問題の難しさ(補足)



 歴史問題については「あった/なかった」ではなく「量的問題」ってことで、その辺についての「事実の項目の選択」に関して外交交渉が発生する、と。(おそらく分かってる人は「事実関係」についてはある程度のコンセンサスに達してるんだろうけど駆け引きがあるってことかな)
 
 事実の項目について、具体的には「選択の自由が当事者にあったか」「民間人である以上、保護して然るべき安全な場所まで送り届ける義務があるが、その義務を全うしていたか」、など。

 


 宮台さんの話については両方とも伝聞だし、政治学系じゃないし、確度としてはびみょーに思うんだけど(6〜7割ぐらいかなぁ)、とりあえず頭の隅に置いといたほうが良いように思う。




 そんで話を元に戻すと

 そんなこんなで極左(反動サヨク)的なものはもともと煙幕ってこと。その煙幕(ネタ)をベタに信じてる極左の人もいるのかもしれないけど、サヨク全体をそのように扱われても困るな、って感じ。あと、逆にウヨクの全体主義的国粋派の人たちもアレだよねぇ、と。(宮台さん的には両者をしてバカサヨク、バカウヨクと命名していた)



 っつーか、オレっていまサヨクなんだろうか?(・・よくわからんな)




--
追記:
賠償責任関連については小熊さん本の記述にこんなのがあった


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(123)講和条約で多額の賠償金を各国からもとめられたら、日本の経済的再建は大きく遅れるだろう。またアメリカが日本に再軍備を要請したところ、まだ戦争の経済的痛手から立ち直っていなかった日本政府側は、財政難の問題があるとうったえた。そういった状勢を考えたアメリカは、各国に賠償請求権を放棄してもらうことを、講和条約第14条に盛りこむこととしたわけだ。

 もともと、第一次大戦のあとに、ドイツに多額の賠償金を課した結果、ドイツがひどい経済状態におちいり、それに不満をもったドイツ国民の支持をえてナチスが台頭してしまったという歴史への反省も、西洋諸国にはあった。だから、あまり過酷な賠償を敗戦国に課すのはよくないという意見は、アメリカ以外にも存在した。

 しかし戦争でひどい被害をうけたアジア諸国では、当然ながら、この講和条件は評判がよくなかった。日本を再軍備させて、経済的にも復興させるというアメリカの方針も、かつて日本軍に侵入された諸国にとっては心配の種だった。





ちょうど曽根さんとこともリンクしたのでたまにはTBで




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追記(2007.4.20):
「中国人とパトリ」について。「中国人は国への忠誠意識が低いから、パトリの意識があるのかも」って書いちゃったんだけど、「パトリ」っていうか「血縁」ってことらしいです。

「パトリ」というのは場所的な関係性を重視した愛郷心のようなもので、中国人の場合はそういったものよりも血縁を重視する、と。

たとえば華僑みたいなネットワークを成り立たせているのはそういった血縁ということみたいです。


















posted by m_um_u at 20:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治このエントリーを含むはてなブックマーク

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