2007年05月17日

生存をめぐる権利の衰退と労働市場の擬制の剥落

 先日のフラワーフェスティバルが例年になくアレな感じだったので、「イベントによる地域振興問題」繋がりで映画の「フラガール」みたくなってレンタルしてきたんだけど、その前にNHKの特集で夕張のことをやっていたので見てみました。



NHKスペシャル|夕張 破綻(たん)が住民を直撃する


 炭鉱の町として名をはせた夕張が国のエネルギー政策の転換によってジリ貧状態に追い込まれ、「炭鉱から観光へ」ということで炭鉱観光や遊園地など様々な観光誘致に取り組み「観光モデル地域」として国からも表彰されるほどだったというのは初耳でした。

 こっぱずかしいですが、夕張というと「夕張メロン」ぐらいの印象しかなかったもので・・。


 そして「観光モデル地域」として表彰されていた夕張が財政破綻ということでまたしても国から見離された。この辺にはなんかやりきれなさのようなものを感じました。

 「そんなの自己責任だし、借金は借金なんだから自力で返していかないといけないんだよ」

 ということなんだけど、北海道の奥地という痩せた土地で生き残っていくためには炭鉱に頼るしかなかったし、炭鉱をあきらめた後は観光に活路を見いだそうとした。そして観光に頼るためにはそれなりの設備投資が必要だったわけで・・借金というのはそのために膨らんでいったみたいなんですね。

 「なにもしなければここまで借金は膨らまなかっただろうが、なにもしなかったらこのまま食えなくなっていただけだっただろう」

 という元市長の言葉が印象的でした。


 で、膨らんだ借金を返済するために公共サービスのプラン変更をしないといけないわけだけど、その中で出てきた言葉の中で「国内でもっとも税金が高いわりに公共サービスは最低の地域」というのがあって。それに従って住民に負担が強いられるわけだけど、この影響をモロに受けるのが高齢者なんですね。

 具体的には医療福祉関係や交通(高齢者用の安価なバス)。この辺りが削られていっていました。バスは100円値上げという形でかろうじて残ったけど、地域の病院は税金によるバックアップを受けられなくなって病床を減らして「診療所」みたいな業態をとらざるを得なくなっていた。


 夕張という町を終の棲家と思っていた高齢者たち。外地に身寄りのある人、自分で動ける余力のある人たちはまだいいけど、ここを終の棲家にしようとしていた人たちにとって公共サービスに頼れなくなるというのはほんとに死活問題だと思います。


 印象として、真綿で首を絞めるようにじわじわといぶっていくつもりなんだなぁ、って頭に浮かびました。



 もちろんテクノクラートの人たちも仕事だから仕方がないんだけど、地域住民としては自分達の直接の責任ではないところで責任を取らされているわけだからやりきれない。


 なにか生存権に対する格差のような、そんな印象があります。



 関連で先日Nスペでやっていた中国特集のことが頭に浮かんだり。


NHKスペシャル|激流中国 青島 老人ホーム物語


 こちらでは中国に従来あった血縁を重んじる美徳が変わってきている状況を描いていました。所得が増え、共働きが当たり前になってくることによって従来のように年寄りを家に置いておくということに価値を見出さない家族が増えてきている、と。

 この辺の変化はかつての日本にもあったことなのかもしれないけど、特に血縁を重んじる中国での変化ということでなんか特別な思いを感じたり。

 彼の国は内乱が続いて「国家には頼れない」ということで血縁を重視してきたはずなのに、それを捨て去った後、関係性のよりどころはどこに向かうのだろうか、と。

 まぁ、「お金」ってことなんだろうけど・・どうなんだろ・・。

(そして彼らからしてみれば、「捨て去ったわけではなく一時的に預けているだけだ」、ということなのだろうけど)



 その反面、所得が増加した新世代の人たちは一人っ子政策に違反してまで子供を増やしているみたいなんですね


中国の「一人っ子政策」違反続出、罰金痛くない富裕層ら : 国際 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)


 タイトル通り、「罰金が痛くない」ので。


 これらの層と老人ホームに親を預ける層とはまた違って、こういった富裕層というのは「老人も子供も増えてもかまわないほど豊か」ということなのかもしれないけど、なんかびみょーな感じがします。


 命は金なのかなぁ、と


 
 まぁ、それ自体感傷に過ぎず、「金」による関係性(交換関係)が中心になっている現代社会では「命は金」という側面は確かにあるのでしょう。

 イコールではないけど必要条件ぐらいな感じで。

(その意味では「命は地球よりも重い」なんてのは偽善に過ぎませんね。 cf.ダルフール)

「中国はダルフール虐殺を支援」 米下院108人、五輪ボイコット警告|中国・台湾|国際|Sankei WEB



 実際、「低賃金 + 過酷労働」の日本の介護の現場からは人材が逃げ出しているみたいだし


天漢日乗: Nスペ 介護の人材が逃げていく@3/11 21:00-21:50 NHK総合



 「自己責任」的に様々なノルマを背負わされることによって労働市場そのものが溶けていっている現状がある。


小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:中野麻美『労働ダンピング』を読む


 エントリ後段のポランニを引いた解説にもあるように、それは「労働、土地、貨幣が本来商品」として一元化できないようなもの(市場ルールのみでは運用できないようなもの)だったのにそれらを市場ルールを通じて運用してきた擬制(フィクション)が崩れたことによる犠牲ということなのかもしれない。


 でも、その犠牲とされるのは直接決定を下したわけではない無辜の民ってやつなんですよね。



 そしてリンク先コメント欄から少子化と所得(あるいは福祉)の関連に戻っていくわけですが、子供だけの問題ではなく老人も含めた問題としてこんな意識があるみたいです。


"姥捨てポスト" - Google 検索("姥捨てポスト" の検索結果 29 件)


そろそろ姥捨てポストをつくるべきだと思うんだ


赤ちゃんポストは入らないから姥捨てポスト早く作れ





 フーコーの用語で生権力ってあって、あれはもうちょっと内部的な規律にかかわる感じだったと思うのでこの文脈とは違うのだろうけど、なんか頭に浮かびました。


 「内部規律」みたいなびみょーな部分以前にこの辺が際になってきてる現状があるのでしょうね。



 それにしても「フィクションとしてのナショナリズム」の次は「フィクションとしての労働市場」か・・。そしてその際の交換財やメディウムとしての労働・貨幣・土地・・。

 この辺って中国ではものすごい勢いで蕩尽されていってますね




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関連:
ぶらざーてぃのblog:車社会の転換期なのか〜ガソリン高騰と新車販売不振〜 - livedoor Blog(ブログ)

※所得格差によって高齢者だけでなく若年層も車をもてなくなっている(もたなくなっている)現状について。そしてガソリン高騰という形でエネルギー問題に還ってくる。(炭鉱町の怨念?)



muse-A-muse 2nd: 雇用流動におけるアイデンティティー不安と協調の可能性に関して





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追記:
そういやオチ書いてなかったのでいちお。


こんな感じで市場の暴力性(経済的権力)がむき出しで露出されないように国家による統制が必要なわけです。両者が両者を見張る役割を担っている。その辺が「グリゴリの捕縛」で描かれていたわけ。


そして、白田さん的には、「それらの暴力性に対抗するために市民レベルで各個に力を持つべきだ」、ってことになってその力というのは情報力なわけだけど、その部分も「金」と「物理的暴力」を担保とした権力によって統制されていっている、と。

(マスコミはマスコミでそういうこと分かってないので、「われわれぷろふぇっしょなるをさしおいてぐだぐだぬかしてんじゃねー」、みたいな態度とってるし・・)(参照


・・さて、どうしましょうかねぇ。

 












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2007年05月15日

例のよもぎ餅について

 極東ブログのエントリ経由でF.Nakajimaさんのエントリを見てなんかいろいろ納得。というかそれなりに思うところがあったのでメモっとこう。


極東ブログ: [書評]フューチャリスト宣言(梅田望夫、茂木健一郎)


F.Nakajimaさんのブログ-「フューチャリスト宣言」におけるマーケティング


 小飼さんの書評もあったけど、こちらは書評というよりも外面の印象にとどまっていて情報量がほとんどない。


404 Blog Not Found:書評 - フューチャリスト宣言


 「新刊ネタバレ」というのを気にされたのだろうか? これよりは極東ブログからリンクされているこちらのエントリのほうが参考になるな。


404 Blog Not Found:「偶有」整理法




 んで、まぁ、なんというか、ぼくはこの本自体にはなんの関心もない。茂木さんがアレなことについては多くの人が知ってることと思うし、某所で書いたことなので詳しくは語らない。

 いちおそれなりに匂わせるとこんな感じだが


ハコフグマン: 結論ありきの強引取材


ゴールデンタイムにオーラやら前世やら、本気ですか?



 いまさら殊更にいうことでもないのでリンクに留めておく。(表であんまり言い過ぎるのもアレだし)



 んで、本題に戻ると、なにやらこの本で茂木さんが使用した「偶有性」という言葉が問題になってるみたい。

 初めてみる言葉なのでナンジャラホイって感じだけど、finalventさんとかF.Nakajimaさんの解説によるとcontingencyのことらしい。

 単語の意味をそのままとれば「偶然性」「偶発性」「不慮の出来事」ってことになるけど、finalventさん評によるとどうも茂木さんはこの言葉になんらかの含みを持たそうとしているみたい。

 「偶然の中の必然、必然の中の偶然」とかそんな感じの。

 これってあれだ。東っくす言うところの「郵便的誤配」ってやつだ。


tidの日記 - たまには現代思想にふれてみる


it1127の日記 : 【気儘に】セレンディピティとか不確実性とか感情システムとか



 っつーか、そんなに難しげな用語をわざわざ濫造しなくても、この手の話題って技術思想関連ではよく出てくるのだが。


 文脈としては、<ITの受容においてはイノベーションを中心としたハコ型プロモーションよりも、ユーザー個々人の使用動態に注目するほうが重要>、ってやつ。

 けっこうなお金をかけて新しいイノベーション(ハイテク)を作り上げそれをプロモーションでばら撒くよりも、ローテクでもユーザー側が偶然に見つけて創意工夫、自分たちで盛り上げていったサービスのほうが根付く、って話。

 例としてはcaptainシステムよりも「ポケベル - ケータイ」のほうが根付いた、ってのがある。最近だと情報大航海プロジェクト(だっけ?)とかいう日の丸検索エンジンプロジェクトとか、「地デジ移行ってどうなの?」とかそんなの。




 これをもうちょっと大きな文脈で見ると、<「簡単・便利」的に最適化、商業化されていく中で人の生活は自動化され何も考えないで支配される人が増えてくるように思われてるけど、限定された環境の中で人々はそれなりの工夫(ブリコラージュ)をし、創造性を枯渇させていないんじゃないか? (創発の萌芽はあるのではないか?)>、って感じになる。


 つまり、こういうことだけど

muse-A-muse 2nd: スマート化する社会(可能性と課題について)



 ポイントは「創発の余地を残しておくこと」のように思う。企業側がやりたいこと(イノベーション)主体でいろんな使い方を固定されたサービスってのはそんなに伸びないんじゃないか?

 「消費者はなにをしたらいいのか分からないだろうからオレたちが需要(欲望)を作り出すんだよ」みたいな感じなのかもしれないけど、なんかユーザーなめすぎって感じがする。

 もちろんそんな感じで全部パッケージになってるサービスを望む人もいるのだろうけど、ローコストで自由度の高いサービスを望む人がけっこういるのも確かで、新しいサービスってのはむしろそこから生まれていくもののように思う。


(ところでこの辺の話って一つ前のエントリの「社会の木鐸」ってやつとも似てますね)



 で、


 技術思想、あるいはITマーケティングの根っこの部分な文脈では「偶有性」の議論ってのはそういう方向性が望ましいということになると思うんだけど、件の茂木・梅田本ではその辺のところはどのように扱っていたのだろうか?

 極東ブログ的にはこの辺が関わるか


茂木の言う「偶有性」には、ネットワークを統制する機能とは別に恣意的ともいえる機能が隠されているという含みがあるだろう。その恣意性は、おそらく、表向きの統制と、見えない統制の二系に分かれ、その見えない部分は、見える部分からは偶然性となるのだろう。見えない統制が見える統制をどう乗り越えていくのかということに、茂木の「偶有性」の重点があるはずだ。


 
 「表向きの統制」とはイノベーションを中心とした商業的な意味付与(使用の提案)みたいなもの、「見えない統制」の部分がユーザーの自由な使用の開発(ブリコラージュ)に相当するか。(でも、finalventさん的にはそれ自体も「統制」ということで、「なんらかのプログラムに乗ったもの」、ということなのだろうけど、まぁ、置く)

 んで、そういった「見えない統制」(ブリコラージュへの志向)の可能性について茂木さんはどう言っているかというと、


 ・・serendipityがどうとか言ってるだけでよく分からんな。「セレンディピティは良いものをたまたま見いだす偶然性を指している」ってことなんだけど、これは創発可能性のことかな?

 だったらそういう風に言えばいいのに。(「脳科学者」なんだし)


 つーか、それだと個人の受容体の話にとどまって、創発(この文脈では技術やそれに付随するサービスに対するブリコラージュ)の社会的意義については全然かたられてない感じ、・・なのかな?



 読んでないからわかんないんだけど、誰か知ってたらこの辺について教えていただけるとありがたい(この本はあまり読む気がしないので)



 そういや、serendipity関連でJ.D.Lasicaのとこにもエントリあがってたな。twitterと絡めてなんか書くかも(・・・・かもかもかもかも)




 ってか、冒頭でも言った通りこの本の内容自体には興味ないんですよ。


 中身としてはこんな感じで、用語の翻訳さえしてしまえばありふれた議論なのだろうし、ある程度慣れてる人にとってはそれほどの意味があるものではないのでしょう。


 問題はこの本を読む層、おそらくはそれほど本を読むことに慣れていない人たちへの影響ということです。


 議論の方向性としては(なんとなくだけど)表層的なかっこいい言葉の羅列にとどまり、それほど突っ込んだ話はしてないのでしょう。


 読む人になんとなく、「ぐーゆーせいいいじゃん?」、って感じのアハ体験を起こさせたら御の字って感じではないでしょうか。


 んで、「内容自体に新規性はない」というのは梅田さんの一連の本にも言えるみたいです。


 でも、梅田さんの本というのはそういうのを分かっていてわざとやっている(パフォーマティブな)面があるみたい。


「文化系大新年会 朝まで生Life Part2」 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ) 


佐々木:最近梅田さんが平野啓一郎と『ウェブ人間論』って出したじゃないですか。あれを読んでると、一読者としては梅田さんの言説は、意図的に楽観的になってると思う。反発する人も賛成する人もいると思うけど。

津田:梅田本を解説書だと思って細かいところに突っ込みを入れる人もいるけど、思想書だと思えば、書き方の問題。

柳瀬:思想書というかオルグですよね。

津田:ネット時代の共産党宣言なんですよ。

鈴木:そこまで言い切るか。




 梅田本というのはほんとにITのことが分からない石頭親父の「だからあいてぃーなんかやってると非人間的な冷たい人間になるんだぁ。やっぱ仕事ははーとだぜ、はぁと(根性)」ってイデオロギーに対抗するためのちょっと強めのオルグ(イデオロギー)みたいなんですね。


 部下が何度論理的に説得しても通らなかった議案が、あの本のおかげで通るようになったとかなんとかいう話があったり(なかったり)。


 共産党宣言があの内容自体はそれほどの意味がなかったけど矛盾に苦しむ労働者たちの心の支えとなったのと同じように、梅田本というのは現代におけるIT従事者(あるいは合理的プロトコルをまとった若者たち)を応援するオルグのようなものみたいなんです。


 そして、リンク先にもあるように、梅田さん自身がそれを分かっていてそういう風に振舞っている側面があるみたい、と。



 そういう観点から見ると茂木さんの本とか言説にもそういう意義があるのかなぁとか思ったりするんだけど、阪大の菊池センセも言っておられたようにその辺はびみょーっぽいっすね。


 あと、小飼さんのエントリの中にあったprophetという言葉が印象的でした。「茂木さんはprophet(預言者)になりたがっている」、ってやつ。


 なんとなくSonyにおける茂木さんの位置なんかを想起しますね。象徴的ラスプーチンって感じの。茂木さん自身が技術開発とかこれからの企業戦略について提案をすることはないのだろうし、提案しても受け入れられないのだろうけど、なんとなく茂木さんを入れた時期とSonyの落日が重なるように思うのは気のせいだろうか・・・。




 っつーか、ラスプーチンっていうほどご大層なものではなくて、個人的には「脳科学」界における蛭子さんって感じでほのぼの見てますが。





 ・・そんな感じではないでしょうか?



 ところでクオリアって某海の妖精みたいで可愛いですよね(海の悪魔とも言うw)



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追記:
ちょうど切込隊長のとこにもエントリ上がってたのでトラバ送っとこう


切込隊長BLOG(ブログ): 或るアルファブロガー批判における実在と虚像


 翻って、フューチャリスト宣言@梅田氏の今回の著作は、いままでの梅田的世界観からすると風呂敷の右から左まで辻褄がぴっしりと合ってきていて、げっぷが出るほどポジティブで、輝いた眼をした若いころは私もきっと梅田万歳とか確かに言ってただろうなと思う点で、非常に考えさせられた本だった。


 それゆえ、birdwing氏が自力で書いちゃってるように、己の価値観が「ポジティブに未来を考えようとしているエヴァンジェリストやフューチャリストのような方たちの言葉が参考になる」のであれば、dankogai氏を含めポジティブかネガティブかよりも、実現可能な未来を実証的に語るかどうかで判断する人間の書評は相容れないだろうと思う。



って部分が「共産党宣言」ということに相当するのだと思う(読んじゃいないが)



posted by m_um_u at 07:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年04月14日

機構の公開性について(参加型の可能性とワナ)

 機構の公開性に関して、なんかいろいろ見てるものが重なったのでちょっとエントリ立てて考えてみる。スタートはまたしても宮台さんのpodcastアーカイブから(裁判への「被害者参加制度導入について」)。


 裁判制度うんぬんについてはそれほど参考にならなかったのだけれど、なぜいまの段階で裁判への市民参加が要請される(認められる)ようになったか、の説明が参考になった。


 裁判所のような機構(institute)はある専門性を期待されて成り立っている。でも、代わりに専門的過ぎて内部の動向が見えないって問題がある。


 マスメディアなんかも同じ。


 その部分に対して、不信感が持たれて公開化要請のギロンが起こってくるわけだけど、こういう問題意識が起こってくるのはなぜか?


 どうやらそれは情報の非対称性に関することっぽい。


 いちお説明しとくと「情報の非対称性」とは、専門家と素人では情報量に差が出る状態(情報量が非対称になる状態)のことを言う。その結果、<需要と供給の合理的判断に従えばユーザーは安くてもっとも機能が高いものを買うはず>という完全合理性を前提とした市場が成り立たないことになる。たとえば中古車(レモン)市場の例なんかが有名。

 ここではディーラーのほうが情報量が多いので購買者にてきとーな品をつかませてうまいこと儲けたり・・ちなみに、あまり質の高くない中古車がでこぼこしててレモンに似てるから「粗悪品の中古車」=「レモン」っていう(んだっけな?)

 
 あるものに対する問題意識というのは同様のものとの比較の上に成り立っていくわけだけど、従来だったら機構を利用する側(ex.市民)は情報量が不足していたため比較のしようがなかった。

 具体的に言うと、裁判所のような機構を比較検討する場合、検討の対象は諸外国の裁判所に求める必要があるんだけど、従来だったらそういう専門的な情報は市民の目には触れないものだった。


 でも、いまはネットやらなんやらの影響で市民が情報を得てきている。その情報量は機構側と同等か、限定された情報では機構側をしのぐこともあるかもしれない(情報の非対称性の解消)。

 そうすると経済学的には「ユーザーの合理的判断うんぬん」な話になってきて経済学者はちょっと嬉しい展開になって来るんだけど、機構関連ではちょっと違うみたい。(機構関連っていうか制度論か?)


 ここで、機構側が市民の要求を呑んだり、あるいは市民側を機構の中に組み入れて裁判なりなんなりに参加させるのは「責任の分散」が目的っぽい。機構側の意思決定が元でなにか問題が生じたとしても「市民側の要求でしましたー」とか「市民の人たちが意思決定してやったことですー」とか言って言い逃れできるので。



 そう考えると「参加型」っていうのびみょーだねってことになる。

 
 んで、以上を踏まえて考えたいのは以下のエントリ




アンカテ(Uncategorizable Blog) - 公開できる5W1Hの量が会社の価値を決める

アンカテ(Uncategorizable Blog) - 本音ベーション(本音+イノベーション)


 こちらでは先日のNHK「ためしてガッテン」の対応の早さを受けて、「アカウンタビリティ系って早いほうがよくね?っつーか、機構はどんどんopenにしていくことが求められるねー」って主張がされているわけだけど、上記のギロンを踏まえるとちょっとびみょー。

 要するにオープンソースってことなんだけど、この部分に参加型の要素が入ってくると責任逃れの材料に使われかねない。(っつーかessaさんは単にオープンソースのとこまでしか言ってなくて、参加型までは触れてないけど)



 んで、次


池田信夫 blog 市場を創る


 <制度設計には人々の利己的行動を考慮する必要がある>というエントリ。でも、ここでの問題設定的には「情報の非対称性」というよりも「人々が合理的判断をしない」というとこがポイントのように思う。

 たとえば正しい情報が行き渡ったとしてもなんかしらないけど行動を起こさない人(正しい選択をしない人)っていうのはけっこういるし、世間的にはけっこうな割合でそれがふつーだったり。

 こういうのは経済・機能合理性からするとはなはだ非効率・不可解で「衆愚?」とか思ったりするんだけど、文化人類学的にはそうでもない感じがする


 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:なぜ帰宅後にすぐ手を洗うのか


 「手を洗う」ということについて。日本社会では「外はばい菌がいっぱいだからお家に帰ったら手を洗いなさい」っていうことになってるんだけど、実は外も中もばい菌の数は変わらなかったり・・。ここでの「手を洗う」という行動の選択にはそれほどの合理的な理由がないことになる。「合理的でない」っていうか、機能的合理性がない感じ。ほかの意味での合理性はあるのだろう(「手を洗う」=「きれい」とか「お家に帰った徴」とか)。

 そう考えると経済・機能的な合理性(言い換えると明示的な分かりやすい合理性)ではない部分の合理性を持っていわゆる大衆(?)は(分かりやすい)合理的判断をしていないことになるのではないか?

 先日の石原都知事当選なんかもそんな感じだったのかなぁ・・(単なる惰性とか怠慢とかいう見方もあるだろうが)

 

 んで、まぁ、制度(あるいはシステム)論的にまとめると、「構成要員のエゴみたいな不確定要素(多様性)も考慮しないといけないだろうね」って感じになると思う


 そんで、次


The Cathedral and the Bazaar(伽藍とバザール): Japanese

 閉鎖と公開・・というか、ピラミッド型トップダウンな意思決定方式からバザール型の水平的な意志決定方式への変化についての有名なアレ。たぶん「どっちが優れてる」とかいうことではなくて環境に応じて変化していくものなんだと思う。その好例として


kawasakiのはてなダイアリー - iPodは何を変えたのか?


 iPod作りにおける意志決定過程について。

 「いろんなところからいろんな人を引き抜いてきてうんぬん」ってくだりはバザール的だけど、製品設計に関してはjobsのイメージによるトップダウン(カリスマトップダウン)っぽかったのでこの辺はモロにカテドラル(伽藍)っぽい。

 両方の間って感じもするけど、このエントリだけだと「伽藍」のほうが強いかな


 っつーか「伽藍」を選択した際の基準みたいなのが示されているとわかりやすかったんだけど・・渡辺さんのエントリ的には「リソースの問題」ってことになるのだろうか


 CNET Japan Blog - 渡辺聡・情報化社会の航海図:制度運用コストと制度メリットのバランス


 あとはリスクヘッジのバランスみたいな感じだろう(リターンとリスクの天秤みたいなの)。リスクは個々人のエゴ(色)と絡むのかな?

 あと、興味があるのは「このパターンって一回決めると変えられないのか?」ってことだけど、どうなんだろ?(っつーか変えにくいよなぁ)



 あと、オープン型+参加型で思い浮かぶって言ったらやっぱりアレ。OhMyNewsの意志決定過程(記事の採用基準)とか


 これはまぁもはや「どっちらけー」って感じになってるんだけど、いちお。記事の採用基準についてはこの辺とか分かりやすい


オーマイニュース編集部に行ってきました。(上)-Parsleyの「添え物は添え物らしく」

オーマイニュース編集部に行ってきました。(下)-Parsleyの「添え物は添え物らしく」


 っつーか、佐々木さんの批判に採用基準の傾向が表れていたか


CNET Japan Blog - 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:オーマイニュースの記事への批判に答えて


ニュースの現場で考えること : オーマイニュースの佐々木氏に対して


AnotherB - オーマイニュース--ようやく平野日出木さんを釣り上げた佐々木俊尚さん。おめでとうございます。



 本サイトにおける先日のエントリ的には典型的「バカサヨク」なわけだが、こういう人たちは言ってもわかんないので「壁」はなくならないと思う。

 ってか、文化人類学的視点を用いれば「その人たちにはその人たち独特の合理性があるんですよ」ってことになるのかもしれない。


 でも、その合理性ってどんなのなんだろう?(「参加型」と銘打っているのに実質は「特殊閉鎖型」ということの合理性)




 ちょっと思うのは「バカサヨク」的言説を「参加型(特殊閉鎖型)」という形でいちお意見を集めることで、「自分達の意見ではないよ」と責任逃れする方向かなぁとか思うけど、それはあんまりにも子供だまし過ぎるしなぁ・・。




 っつーかおーまいにうすの体質っておーまいの星こと音羽さんに関するこのエントリに全てが表れているように思えた


お帰りなさいませご主人様 OhmyNews。音羽さんの削除記事1。音羽さんを理解しよう。


 やはりバカサヨクとバカウヨクは似たようなものなのだ(ウロボロスの蛇のように繋がっている)



 そしてコメント欄での音羽さんのこの一言

貴方はそう書いて、ネットで公開してどうしたいんでしょうか?読んでもらいたんですよね。
読んでもらってどうしたいんでしょうか?何らかの効果を発揮したいんですよね。それはぼくや鳥越さんが間違っていて、自分が正しいのだと、そう主張したいはずです。
それで人というのは間違っているものに向かっていって、正しい方向に背を向けるものでしょうか?違いますよね。

貴方は正しい方向に読み手を誘導したい。というか貴方は何にも考えてなくても文章を書いて公開するということはそういうことだ。



 これは相手の論旨を慮ってという形式をとってはいるけれど音羽さんの中の「記事を公開することの意義」を反映したコメントのように思える。つまり「自分は正しい」と主張したいがために記事を書いたりエントリを出したりしてるわけだ・・。



 ・・なるほどね(なにも言うまい)





 それにしても渡辺さん的な視点を用いるとおーまいにうすはリスク背負いまくりだな(「リスクもアクセス数のうち」、か)




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追記:
essaさんとこでこんなの見つけた

ised@glocom - ised議事録 - 9. 設計研第5回: 共同討議 第2部(2)

プロプライエタリ(商業的)とGPL(非商業)の間みたいな感じか

つまり、閉鎖と公開の間



個人的にはIBM4象限モデルに通じるな(動画市場の未来予測)



あと、誰かさんのところも「市場合理性」を重んじるなら特殊閉鎖型にしている意味がよく分からないけど、それはなにか特別な思いからの実践のようなものかもしれないのでそっと見守っておこう(社会主義的統制ってやつかな?計画経済?)





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2007年03月30日

戯画化する教育環境と教育に関する意思決定の分権化について

My education was dismal. I went to a series of schools for mentally disturbed teachers.
-- Woody Allen




Personally I'm always ready to learn, although I do not always like being taught.
-- Sir Winston Churchill




Everything is vague to a degree you do not realize till you have tried to make it precise.
-- Bertrand Russell




Education is what survives when what has been learned has been forgotten.
-- B. F. Skinner, New Scientist, May 21, 1964





 朝、「おはよん」を見ていたら例の「教育再生(?)会議」のことをニュースでやっていててきとーに聞き流してたけど、マジカルワードが登場して鼻が開いてしまった。


ヤンキー先生こと義家氏曰く、

「道徳が必要なんスよ。もう、徳育ってイメージで行けばいいかと」(要約)

関連記事:
道徳、「教科」に格上げ案 教育再生会議分科会が提言へ(朝日新聞) - goo ニュース



・・・うわぁあぁ・・「徳育」って


「徳育」だよ?(間違ってないよなぁ)



 んじゃ、ちょっとぐぐるべ



西田昌司 政論−第4章●「徳育」の精神を教育に


・・うわ、こわっ



 やばい・・こわい。予想以上に怖いもの見つけてしまった。各項目だけ抜き出すけどこんなの↓

 
●徳の頂点は、国のために尽くすこと

●占領政策によって失われた最高の「徳」

●「徳育」の言葉を取り戻す

●社会のルールを教えることが道徳になっている

●自分のちっぽけな人生を公のために生かす

●人生の中に生き生きとしたエピソードを持つ

●偉人の生き方を語って「徳育」を学ぶ

●だらしのない国になってしまった日本

●国とは、我々の歴史の集合体




・・すげー・・。ネタか?ネタじゃないのか?なんだこれ?


自由民主党 全国青年議員連盟会 会長 西田昌司


・・・深く関わらないほうがいいのかな(えーと、たいへんごりっぱなしそうしんじょうだとぞんじあげます m(_ _)m)


 なんか「西部 邁」とか書いてある(参照



 すげーな。個人的に「徳育話材100選」を原作にした吉田戦車の名作を思い出した。



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 吉田がこれを発表したのは1992〜93年なんだけど、すごいなぁ吉田。時代を先走ってたなぁ(さすが戦車だ)。いまだったら「きょーいくさいせーかいぎ」に呼んでもらえるかもしれないぞ?


 まぁ、そんなこんなで、どうやらヨシイエ童話はこういう思想背景があるのね。にゃるほど、それであんなに自信満々なんだ。それで、「戦前の教育全てを否定すべきではない」、とか言うわけだ。ふーん

 いや、やればいいですよ、そんな感じで。どっかの孤島とか戸塚ヨットスクールとかでさ。もしくはもう既に実際にやってるところもありますよ。内藤センセのトラウマのこれとか


いじめと現代社会BLOG - “熱中高校”って、なんだ


 でもね。こんなのぜったいムリじゃん?現代社会に合うわけないじゃん?現代っ子だったら逃げるだろ・・。それを「逃げんな根性なし」って捕まえてムリヤリ思想教育するのって「教育」なの?・・っつーかオレが親だったら絶対学校行かせないね。


 すげー、ありえねー。これ並みにありえねー






 極楽が「ありえねー教師による。ありえねー教育現場に取材した」って設定のドキュメンタリー。これは「フェイクドキュメンタリー」ってジャンルでネタなんだけど、こういうのがネタじゃなくなるのか?(ネタがベタでネドベドでガムベトベトか?)


 んで、「ニポンオワタノカ?」とか思ってたんだけど、そういうことでもなかったみたい。宮台さんのpodcastに救われました。


 「週刊宮台」(「教師の質は低下したか?」、「『教育基本法改正』の本当の目的は?」)によると、今回の「愛国心」教育ってのは煙幕らしい。正確に言うと、「表面上は案が通ったとしても現場レベルでの運用は不可能」、とのこと。以下、順を追って説明する。


 そもそもこういう言説がでてきた背景である「生きる力」やらなんやらの曖昧な概念は1980年の中曽根内閣直属の審議会?(中曽根臨教審)に由来するらしい。それは内閣直轄だったので中教審とかより上のレベルからの決定権をもってた。んで、「生きる力GO!」って感じで「ゆとり教育」の基本目標にすえられていったらしい。

 んで、まぁ、この「生きる力」ってやつで現場の教師達は困ったらしい。だって、「生きる力」ってのが具体的になんなのか指導もなければ、知ってる人もいないし・・。ほんとだったらそういう教育を行う場合、「生きる力」プログラムをインストールした教師に現場総入れ替えするか、現場の教師全員にそのプログラムをインストールしてもらうかしないといけないんだけど、そういうことができなかったらしい(「メディアリテラシー」教育のときと同じだね。あれも「ゆとり教育」の一環にされたんだろうけど)。ぼくは知らなかったけど、宮台さんは「ゆとり教育」懇談会かなんかに参加してたからこういう内情を知ってたんだ、って。

 
 んで、本来の「ゆとり教育」が目指していたものはどういったものだったか?これはよく言う「詰め込み学習(量的教育)」に対するアンチテーゼ的なものだったらしい。「知識偏重なシューサイくん育てても実社会じゃ役に立たないじゃん?」って危機感から「生きる力」(あるいは「良く(能く)生きる力」)を身につけさせるべく、質的教育への転換を図ったっぽい。

 で、「生きる力」で目指していたものが具体的にはどういうのかっていうと、宮台さんによると「生活(あるいは仕事)の中での基本的なコミュニケーション能力+問題解決能力」ということらしい。仕事とか生活のコミュニケーションの中で、交渉相手としぶとく渡り合う(手練手札と創意工夫でこちらの要求を通す)ような力。けっきょく最後っていうか基本はこれだろ、と。当blogの前回エントリ的には後段の(5)に当たるかな


muse-A-muse 2nd: 教養について ver.2.0



 んで、それに加えて、単なる知識偏重の「カンリョー(あるいは事務方)養成プログラム」だけではなく、各学校が所属するコミュニティに求められるような教育プログラムが必要だろう、と。

 例えば、農家とかいった自営業の人が多いところでは関連した経験知や、進んだ知識としての「農学」なんかの教科があっていいはずだし、漁師系のところでは水産系の知識とかあってもいい、と。「それだとギムナジウム(職業訓練校)になっちゃうよ?」って感じだけど、そういうことでもなくて、理想としては「職業訓練校 / ホワイトカラー的教育校」みたいな感じで分けるのではなく、「各校が要請に応じた学科編成をできるようにする(all in one packageではなくモジュール分化?)」って感じみたい。

 あと、各コミュニティが要請するような教員を各校が自由に採用できるようにしないと、いつまでたっても画一(文科省)的な教員しか採れない。この部分も改善しないと。


 んで、そういうことするためには現在の「文科省の一元的命令しか通さないよ(そんで各自治体には文科省の天下りご意見番が行くよ)」システムではダメで、教育システムの編成に関する決定権を分権化して各校に自治を認めなければならない、ということ。


 ちょっとでも教育機関に関わったことがある人(あるいはその内情に触れたことがある人)なら知ってるだろうけど、けっきょく「教育の敵は文科省」なんだよね。「敵」まで言うと語弊があるかもしれない・・・ボトルネックぐらいにしとくか。

 そういうのは前に紹介したこちらの特集でも出てましたね。

バックナンバー - 今、学校で何が起きているのか - nikkei BPnet

 
 そんで、ようやくエントリ上段の「今回の愛国心うんぬんは煙幕」話に戻るけど、こんな感じで現在の教育行政改革の主眼は「分権化」ということらしい。そういうのが分かってる「心ある」議員達は党派を超えてそれを実現しようとしている。それに対して、<「愛国心」教育なんて言っても「ゆとり教育」のときと同じで現場にそれを教えるシステムが整ってない(整える気ない?)からムリに決まってるじゃん>、ってことらしい。




 いや、これで安心しました。皆さん見えないところできちんと働いておられるのですね。



 んでも、ちょっと思うのは、「愛国心」プログラム用に教育システム全体が再編成される可能性ってないんスかね?それやられちゃうとけっこうきついんじゃ・・・・?




 ・・・ひみつ?(しらんけど)





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関連:
muse-A-muse 2nd: 大学教育について(上下分離の必要性など)



ゆとり教育で学力が向上した〜逆風を追い風に変えた京都の教育改革 (イノベーションで切り拓く新市場):NBonline(日経ビジネス オンライン)


※上記してきた感じで「ゆとり教育」自体には罪はなくて、「できるんならやれば?」的なものらしいです。なので、こちらの成功例(?)は成功例として喜ばしいものなのでしょう




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追記(2007.3.31):
あと、面白い話として。開成、灘などからの東大進学率が落ちてきてるそうな。代わりに地方の進学校の率が伸びてきている、と。でも、それは「灘、開成の学力が落ちてきた」からではなく「灘、開成の学生たちが東大進学ということにそれほどの意義を見出さなってきているみたい」ということらしい。いまの世の中見てるとそんな感じはするしね(それなりに一流なとこに入社してもいつリストラされるか分からない。くだらない労働に耐えても将来が約束されているわけではない)。「だったらきちんとした<力>をつけるために留学したほうがいいじゃん」、ということらしい。そして、そんなコたちがキャリアパスとして目指すのはたぶん企業という枠にとらわれないあたらしい仕事の形


essaさんのところで「ホリエモンの裁判みて東大生のモチベーション落ちるんじゃね?」危惧が出てたけど、分かってるコは既に他の方向を向いてるようです。(植木天使も「安心安心」かな?)










タグ:教育
posted by m_um_u at 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年03月28日

差別をめぐる審級について (あるいは「人権と国家」)

 センシティブな話題で当事者の気持ちもあるのでどうしようかなと様子見してたんだけど、そろそろいいかなっていうか、特定の事件とは結び付けない形の一般的(公共的)なギロンといった感じになってきたのではないかと思うので、某所にアップして保管していたエントリを一部修正して出してみることとする。

 始めに断っておくけど、これは別に一部の人を貶めようとか、誰かの主張に対して「それウソじゃん。オレのが正しいよ?」とかいうくだらない優越ゲームをするためのものではないので。ぼく自身の考えが正しいとは言い切れないし、あくまで「考えの一つとて参考になるかな?」ということ。もしくはオープンソースのようなものとして捉えてもらうとありがたい。

 「間違っている」あるいは「違和感を覚える」と思う箇所については各人で修正してもらえば良いし、論理的・建設的な批判であればその修正をフィードバックしてもらうとありがたく思う。



 では、以下、差別に関する試論



--------------------
(以下、2007.3.20アップ。一部修正)

 なんか、例の「差別」に対するごにょごにょがまだ続いてる・・。

 いちおエントリ立てて前提とか、前提とされていない部分とかはにおわせたつもりなんだけど・・


muse-A-muse 2nd: フーゾクという職業と差別意識について



 ポイントは(蓋然的に)社会に共有されていると思われる「正当性」ということで、差別うんぬんはその正当性に対する綱引きということなのだが・・。どうも「人権デフォルト」みたいな感じ。


 具体例としてはこちらであがってる


*minx* [macska dot org in exile] - 侮辱しても差別にはあたらない集団


 これだと事例に終始して一般理論にまではならない。(ノイズが多い)

 macskaさんはいちお正当性の線引きの基準として、「法的に正しいとされるかどうか」と「階層への意識」という軸を提示している。「法的に正しいかどうか」(国家的審級)のほかに「世間の一般ジョーシキ」(社会的審級)のようなものも加わるだろう

 んで、これらの要素を元に「ある特定の集団に対してもっても良い感情(意見)」というラインのようなものが設定される。

 差別というのはそのラインをはみ出すかどうか、(蓋然的な正当性に対して)はみ出しすぎかどうかという問題なのだろう。要するに過剰性の問題。

 そのラインに乗るか、ラインから少ししかはみ出してない場合は「区別」として世間的に認定(妥協)される。対してラインをはみ出しすぎる場合は過剰性ということで「やり過ぎ」「言い過ぎ」ってことになる。

 んで、「逆差別」のような特定集団への過剰同調なんてのも過剰性ということになる。


 これだけだとちょっと抽象的で分かりづらいかもしれないので、こちらのエントリの表現を借りることとする。「過剰性」についてのい数式的説明


文化は様々な二項対立的なペアの集積からなっている。例えば、男/女、健常者/障碍者etc。これらのペアは決して平等に対立しているのではない(8≠4+4)。二項のうちの何れかが優位に立っている(8=5+3)。だから、優位な側を「侮辱」するというのは不均衡な対立を4+4に近づけていく試みでもある。

Living, Loving, Thinking - 差別について形式的により引用】




 んで、これをもうちょっと詳細な数値で追えるのが「ヤバい経済学」2章中盤に載ってる「ウィーケストリンク」の例。これについてはmasckaさんがエントリまとめてくれてたので借りる。


macska dot org » Blog Archive » 「蔑視」と「偏見」/自衛的行為を装う「合理的な差別」に対抗するための倫理


 すげーおーざっぱに言うと、「生理的に受け付けない」系の差別と「なんかコイツ弱そう?」みたいな見下し差別があったとして、後者の差別は合理的な判断によって構成されている、ってこと(前者はなんかよくわからん嗜好)。んで、そういった「合理的判断」の元となっているのが社会構造(「ビジネスで使えるか使えないか」)だとすると、ビジネス的には「あり」な判断ってこと。だからビジネス的には正しい。でも、「差別」なので社会的にはどーなの?、ってことになる(※その辺については後述)

 で、なにが数値的に分かりやすいかっていうと、「ウィーケストリンク」において選考の基準がクイズの正解率という形で明示化されているから。この辺りで個人の能力値が客観的に判断できるわけ。んで、それがそのまま「客観的な基準」(「区別」と「差別」の基準点)に繋がる。でも、「差別」というのはその「客観的な基準」を越えちゃうので「差別」として客観的に認定される、ってこと。




 一部フェミの人のギロンを少し覗いたら、「差別との戦いは非対称性との戦いです(女性に対する不当な抑圧の回復を!)」みたいな言説があったけど(参照)、これなんかも要するに「過剰性をめぐる争い」ということから見ると分かりやすい。

 んで、そういう過剰性の審級というのは、最初に述べたように、法的・社会的な線引きから決まるわけだけど、それらの審級を決める要因がポイント。



 ぼくのエントリではそういうことを解説したつもりだけど、伝わってないのかなぁ・・・。(まぁいいけど)


 フーゾクの例だと、法的なラインというのはおそらくビジネスとセキュリティから決まる。

 「サービス従事者の安全、顧客の安全を守らないと客が寄りつかなくなって、結果的に市場狭くなっちゃいますよ」、ということ。

 んで、ビジネス的な理由で法が設定される。

 あとは人権的な意識がちょこっと。


 ビジネス的なもの(市場)を法的に守る必要性というのは国家にとってその市場が重要だから、ということ。なので統制を加えてつぶれないようにコントロールする。


 逆に、国家にとってそれほど重要でなければ放置するか、モラルハザード的な理由(リスクヘッジ)からつぶす。



 こんな感じで、法的なラインを決めているのは国家なわけだが、フェミの人のギロン(非対称性がどうとか)を見るとどうもその辺は念頭にあるのかなって不安になる・・。


 「人権回復〜!」っていうけど、その人権を設定しているのは国家であり、国家は上記してきた理由で主にビジネス面からセキュリティのリスクヘッジを行うわけだから、ビジネス面のインセンティブみたいなのをみない限り、法的なラインは動かないと思うのだが・・。(フーゾクの場合は)


 情状を汲んで、みたいな人権意識も少しはあるかもしれないけど、それはタテマエだと思う。


 んで、市場とは関わらないところでの人権回復の例もあるけど、これも「基本的人権を尊重したいから」という理由からではなく、「モラルハザードで社会統制がむずかしくなると困るから」という理由で人権への配慮が為される。
(※なので市場的に大きくない階層の人々の人権うんぬんは後回しにされる)



 あと、「女性の人権」関連では女性の社会進出とのかかわりが深いように思う。市場の構成員として、女性を無視するわけにはいかないし、あとは世間的な人権意識の高まりも鑑みないとモラルハザードになるな。
(※そういう意味で「(元からあった)人権の回復」ではなく「人権を獲得できるぐらいに女性がプロパティを獲得してきた」ということ)


 ・・・そういうのは頭にあるのかな・・(って、オレの考えも一つの解釈に過ぎないわけだが)





 そういや、桂(スラヴォイ)ジジェク師匠が「人権と国家」なんて対談集出してて、いま手元にあるな。そういうわけでジジェク師匠に聞いてみたよ(本で)


人権と国家―世界の本質をめぐる考祭
スラヴォイ ジジェク Slavoj Zizek 岡崎 玲子
集英社 (2006/11)
売り上げランキング: 52169



 以下、「人権と国家(p155-170) より確認。

 第一に権利は力(暴力もしくは経済力)を持つものに集まり、残りの部分が配分されていた。それが現在の普遍的権利(基本的人権)にまで高まった過程についての記述はびみょーだったけど、ジジェク師匠は歴史学者(あるいは法学者)ではないので仕方ないか。




 あと、個人的に国家の役割として、「市場(ベヒーモス)の暴力」に対抗するための「リヴァイアサン」って考えもあるだろうけど、ちょっと置く。国家の本質的暴力性についてはギデンズかな(「国家と暴力」)。


 リヴァイアサンとベヒーモスの争い(拮抗)についてはここに詳しい


 「グリゴリの捕縛」
http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/kenporon.htm


 著作権について、国家と市場の綱引きを描いた話だけど、法制度全体の成立過程を考える上でも参考になる。もっとも、厳密に言えば著作権とそれ以外の領域での法制度の成立過程は違うのだろうが・・・おーざっぱに。





 んで、こういうギロンってやっぱ公共性関連(※公共性は社会的なエゴの妥協点) なんだなぁ、って思ってたところで分裂君エントリ発見


分裂勘違い君劇場 - 新しい時代の道徳はどのようにして生まれるのか



 全体の論旨はぼくの書いてることをもっと具体的に語った感じ。んでも、分裂君の場合は<「道徳」的なものが「エゴ」に優位する>という視点をとっているけど。


 この辺りは経済学の古典的な視点(<「エゴ」と「道徳」どっちが優位?>)みたいなやつだろう。「ヤバい経済学」によるとアダム・スミス以来の課題らしい。

 ってか、政治学における「リアリスト(現実主義者) vs. アイデアリスト(理想主義者)」論争とも通じる。「システム vs. 主体」と見てもいい。



 ぼくは本来、理想論者であり主体(人間の意志)を信じるけど、最近ではシステム的な視点をとることが多いのでちょっとリアリスト的な見方になってしまうことが多い。それで誤解されてしまうかもしれない(ってか、このエントリも長文だからかなりの確率で誤解されてるな。別にいいけどw)。


 とりあえず、この辺り(「理想は現実に優位するか」「人間はシステムにに勝てるか」)は今後の課題。メモ的に思うのは二元論ではないのだろう。



 あと、社会的審級のもうちょっと下というか細かい群島のところでのルールの決まり方について、内藤さんのこれが分かりやすかった


いじめと現代社会BLOG - 秩序の生態学


 これはこれで突っ込みポイントというか改善点が感じられるけど、長くなりそうなのでやめときます。(ってか、実証を通じて要素を精緻化していけばいいかな、と)


posted by m_um_u at 22:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

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