2008年03月02日

「ギゼン」や「正義」的なものへの警戒によって互助の気持ちを疑うのってどうなんでしょうね?

善が過剰になって前景→デフォルメ化されて、それを見た人たちが違和感覚えてアレルギーってパターンを最近チョコチョコみる。「ギゼン」ってことへ警戒だと思うし、ぼくもそういう「正しさ」の過剰性みたいなのはびみょーな気がしてるんだけど同時にこのギゼン叩きというのが人間に元からある(あるいは社会的に備わった)善への意志も否定するものなんじゃないかとちょっと危惧、っつーか嫌な気持ちがしてる。


「過剰な善性への警戒」ってのは具体的に言うとこの辺だけど


「正義商品」としての「障害」 - 福耳コラム

「「正義商品」としての「障害」」への反応まとめ - 福耳コラム


一青 窈さんのPVがすごすぎる件について - 深町秋生の新人日記

先日の大反響について - 深町秋生の新人日記



この辺の反応も分からんでもないっつーか、これ系でいうと福耳さんなんかは小沢健二の灰色物語なんか想起されるのだろうけど、さっきもいったようにちょっとびみょーな感じがしてる。理由はさっきもいったように「過剰にドライブかかってんのはびみょーそうだけどそれによって元からある気持ちまで揶揄の対象にされるのはどうなんだろうね?」ってこと。この辺、「スイーツ(笑)」の話とも被る。

(よくわかんないけどてけとーにいうと)もともと甘味好きな人たちが普通にスイーツ(っていってたかどうかしらないけど)を楽しんでいたところにどっかの雑誌が「オシャレ女子はスイーツを食べるものです(スイーツ=オシャレ)」みたいな感じでスイーツをオシャレ目的の「スイーツ」化して、それを端からみた人たちが「スイーツでオサレって(笑)」的な感じでわらうようになったんだろうけど、その流れでもともとふつーに甘味楽しんでた人までバカにされてもなぁ、とか思う。

それ以前の問題として「スイーツ女子」(なるものが実在するのかどうか知らん)が「スイーツでオサレになるんだぁ」って思った心性をバカにするのもどうかってのもあるのだろうけど。ライフハックとかそんなんも似た様なもんじゃんね、と。


この辺は「自分探しが止まらない」にもあったな


自分探しが止まらない (ソフトバンク新書 64)
速水 健朗
ソフトバンククリエイティブ (2008/02/16)
売り上げランキング: 1233
おすすめ度の平均: 3.5
4 「自分探し」を否定しきれない人に
3 タイトルの印象よりはまともな本です。
3 「自分探しがとまらない」若者達のデータを集めた部分は秀逸



福耳さん的な問題意識、「“障害者の作ったものだから善”みたいな物語利用ってどうなの?」ってのもこの辺なのかなぁ、とか(深町さんも似たようなこといってはりましたね)。

「自分探しが止まらない」的には3章の「自分探しホイホイ」の事例がそういうのに当たるように思う。「良きことをして世界とつながりたい」って気持ちを利用したビジネスってやつ。具体例としては、「沖縄の豊かな自然の中でゴミ拾いしながら自分を取り戻す」みたいな環境系とかホワイトバンドとか路上詩人とか。高橋歩の「沖縄のきれいな環境で自分を取り戻すんだー!」的な若者の気持ちを利用して無料働きさせたりとかそういうやつ。無料働きの若者雇って自分探しの若者を客として迎え入れてたからやたら儲かったらしい。

そういう気持ちが沸き起こってくる背景として本書では、「エリートを作るための個性重視教育や個性重視にシフトした就職面接なんかが“やりがい”とか“自分(個性)探し”に過剰にドライブかけて価値観変化させちゃったんだけどその受け皿がなくて、やりがいがあふれちゃったんじゃないか」的なことが書かれてた。昔はまっさらでヤル気だけあるみたいな社員が求められてたんだけどいまは個性重視で面接時に「○○な仕事をしたいです!」みたいな具体的目標言わなきゃいけないんだけどいざ会社に入ってみたら貸家の歯車的ルーティンワークでゲンナリ → やりがいを求めてどっか行ったり自己啓発で自分をだましだましがんばったり、とか。

「良きことをして世界とつながりたい」とかいうのもそういった具体的なやりがい(人と触れ合って直接感謝の気持ちを感じたい。良いことをしたって実感を持ちたい)みたいなものを求める志向性の一部なんだろう。それが過剰になるとびみょーな感じもするけどそういう傾向があるならそれ自体は悪いことではないのだろうし、うまいことバックアックしてホイホイにつかまらないようにできないかなぁ、とか思う。そゆことはみっちゃんも書いてたな


「仕事を通じて、ダイレクトに社会貢献したい」は甘いか? - はてブついでに覚書。


寺子も似たような感じか?「見せ方が下手(過剰)過ぎるだけなんじゃね?そのキモチ自体はわらうことでもないのでは?」、と?


深町氏の言う「絶対善の押しつけ」はそんなに悪いことなのか? - 女教師ブログ




他方で、この辺の問題は思想とか価値観とかいろいろ絡んできてめんどそうなので「もう市場経済的価値判断一本でいいじゃん」って感覚があるのも分かるんだけどその辺もまたびみょーに感じている。

最初に書いたようにそういう気持ち(情緒)にドライブかかって「ワタシは正しいことやってるのに(キー!)」的な情況が生まれるのは好ましくないなぁとは思うんだけど人にはもともと誰かをいたわったり、助け合ったりしたい気持ちがあるはずでそういうのを胡散臭くならないように育てていけないのかなぁ、とか。


こういう気持ちはスピリチュアルとかそういうのじゃないものとしての宗教を求める気持ちと似たところにあったんだろうけど日本ではそういうのも根づいてなかったり分離してたりね。つか、宗教的なものも農業共同体的なものから生まれてたってことで互酬的なものの延長みたいなんだけど(柄谷、2006 → 後述)、そゆのが胡散臭くなんないようにうまいこと拡げていけないものかねぇ



ところでヒトトヨウというと、ヒトトヨウ - コバヤシタケシ - サクライカズトシ - サカモトリューイチ、ってラインが引けていろいろ思うけどびみょーだからやめとこ



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関連:
muse-A-muse 2nd: 自分探し(笑)ってスイーツ(笑)と似てるね


コラム≫IT戦略/ソリューション-【速水健朗氏インタビュー】拡散する自己啓発と自分探しムーブメントを読む:ソフトバンク ビジネス+IT



タグ:差別
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2008年01月27日

終わる(?)日本の占いズム

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)
北田 暁大
日本放送出版協会 (2005/02)
売り上げランキング: 84502
おすすめ度の平均: 3.5
1 前世紀の遺物
5 時代の主人公
5 思想なきアイロニーの暴走




 この本はけっこう言及することが多くなりそうなので自分なりのまとめエントリ書いとくと後々楽だなぁ、とか思いつつなかなか手がつけられなくて放ったらかしだったところこのエントリを見て当初の目的を思い出したり。


江原さんの落日 - 深町秋生の新人日記


ああ、そういや「なんでいまさら細木とか江原みたいなのが受けてるんだろ?」ってことで興味持ったんだよな。本書の主題は「相対的な判断が発達しているはずの2ちゃんねらーが嫌韓みたいなベタなナショナリズムにとらわれるのはなぜなんだぜ?」ってことだったんだけど、世間一般でもベタに物事が受け取られていてそれに違和感があったり。江原、細木ってのはその最たる例。

んで、この辺については社会学者の辻大介さんなんかもちょっと前(あるいは同時期?)にコメントしてはったように思うんだけど該当エントリが見つからないな。。似たようなのはあったけど


「過激」さ ウケる社会(@辻大介研究室)


『過激な物言いがウケる背後には、このようなゲーム的・ドラマ的な感覚があるのではないか』、『私たちの社会には、政治問題をもゲームやドラマのように処理する感覚が浸透しつつあることになる』ってことであらゆる物事が劇場的コンテンツ(ドラマツルギー)として消費される対象になってるのではないか、と。つまり、全てがネタとしてみられてるってことなんだろう。ネタとは作り事であり消費の対象ってこと。

 私見としては、であるがゆえに対象に対する際の上限が設定されてないというか、その場限りの「おもしろさ」を求める消費対象として「刺激」が価値判断における大きな指標になるのかなぁ、とか思う。簡単に言えばジャンクな舌しかもってないたちが味わかんないので(唯一分かる「味」としての)香辛料をやたらふりかけさらに舌をバカにしていく、って感じ。「意味から強度へ」みたいな文脈にも似たようなものを感じる。

 それとは別に辻さんが「大部分の人たちは細木のアレがネタだと分かりつつ消費してるんじゃないの?プロレスみたいに」って書いてはったような気がしたんだけどどっかいったな。。まぁ、ぢょうど似たようなエントリ見かけたので貼っとくけど


『オーラの泉』はコント番組と同じ様式だった - 麻生千晶ブログ


 たしかにアレは最初からネタとして構成されてる面もありそういう風に受け取って一つのショーとしてみている層もいたんだけどそれとは別にベタに受け取って感動してる層もいたように思う。「Always」をベタに受け取って感動してる層と「あんなの作り事だよ」っていいつつも楽しんでた層がいたように。

 細木や江原をベタに受け取っていた層ってのは具体的に言うとウチの親の世代。特にリテラシーや教養、世間知がなくてそれでも「正しいもの」みたいなのを簡単に吸収したい人たち。こういう人たちは「作り事」って認識はありつつも「細木さんがああいってたから」とか半ば本気で言ったりする。そんで細木本買ったりするのね。(実際、細木本の売り上げ伸びたらしいね)

 つか、江原とか細木のアレがテレビショーってのは分かりつつも関連だと津田さんのこのポストのほうが含蓄あったなぁ(以下そのまま引用)
http://twitter.com/tsuda/statuses/642789422
http://twitter.com/tsuda/statuses/642798022


いわゆる「オーラが見える」系の占い師の何人かに話を聞いたことがあるんだけど、彼らの江原啓之への評価というのは結構微妙だった。微妙というのは「あーあの人インチキよね」的な完全否定ではなく「間違いなくオーラ見る能力あるけど、テレビ向けにうまくカスタマイズしてるよね」という感じ。

完全否定したら自分たちの立ち位置も揺らぐからとかそういう理由でもなさそうだったんだよな。ただ、そっち系の業界では占い師としての能力以外の「ビジネス」の部分であんま良くない噂が聞こえてくる的な話も聞いた。オカルト的なものへの態度を決めかねている俺はこの話自体を評価しづらいのだけど。



 そんな感じなんだろう。昨今の江原落とし的な一連のスキャンダル(?)もビジネス的に見たほうがいいのかも。「細木もやめるって言ってるしそろそろ江原もキツクね?」って算段になったのかもしれないね。



 んで、今回のエントリの主題に戻るけどやっぱ深町さんのをきっかけにさせてもらうか


日本の巨大放送局が、27時間テレビという大プロジェクトにおいて、香取慎吾や江原さんといったスターを起用して、それで「ボランティアより自分の店が大事でしょ」というストーリーを構築するというのはなんなのだろう。日テレ24時間テレビへの返答だろうか。



 深町さんにしては意外な感じがしたけど27時間テレビというのはもともと24時間テレビみたいな「真面目テレビ」(感動テレビ)に対するアンチテーゼとしての「おもしろくなければテレビじゃない!」の実践なわけだから当然といえば当然だと思うのだけど。。なので江原を擁護するつもりはないけどこの辺の事情もなんとなくわかる。


江原啓之がフジを痛烈批判 「虚偽の提案でだまされた」(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース


  「テレビ局から虚偽の提案を受けた」「私自身が不覚また迂闊に騙された」



J-CASTは(無駄に)批判的に書いてるけどこの辺はほんとだろう。だって27時間テレビってネタ番組だし、そういうネタの一環としておもしろおかしく脅したんでしょ?(オレはそれを面白いとは思わないけど)

 てか、今回の問題での誤算があるとすれば「ネタがネタとして通用しなかった」ってとこにあるように思う。でも、上記してきたように江原/細木ファンにはネタ層とベタ層がいるのだろうから仕方ないかなぁとか。まぁフジが読みきれてなかったんだろう。


 「ネタがベタになってしまう」関連で本書では2ちゃんねらーが「電車男」に感動したり、クボヅカヨースケが超極右翼的ナショナリズムにはまっていったりするのを具体例としてだしているわけだけどそういったベタを求める理由として「シニシズムの空白に耐え切れなくなってしまったんじゃないか?」って言われてた。

 全てをフィクションとして相対的な視点から眺めるネタ的な楽しみ方というのは60s全共闘(具体的には赤軍)における異常な形式主義に対する反省としてとられてきた「反省としての無反省」という姿勢だったわけだけどいつしか「反省としての」という前提が失われ単なる「無反省」のみが残ってしまった。70sから80sにかけて広告とテレビ業界において作られていった「反省としての無反省」という情報消費の様式においては事象をネタ的に楽しむことで対象との距離を保つ形式主義が実践されていたわけだけど、前提(内容)を失った形式主義の繰り返しはいつしかシニシズムの真空を生みそれに耐え切れなくなった人々が内容(物語=ベタなロマン主義)を求めようになった、と。

 嫌韓厨のようなベタなナショナリズムへのジャンプもそれに当たるのだろう。てか、嫌韓厨にも二種類いて「本気で嫌韓しつつ右翼的ナショナリズムを信奉してるベタ層(ロマン主義的受容層)」と「嫌韓という様式美をおもしろがって踏襲してるだけのネタ層(形式主義的受容層)」に分かれるのかもしれないけど。この辺は細木や江原の受容層が二種類に分かれるのと似ている。どっちにしても少なからず対象(あるいは様式)から影響受けてるってことになるのだろうけど。



 こういった事態に対する解決策というか対処の姿勢のようなものは本書では特に記述されてなくて、巻末でコジェーブなどを引き合いに出した簡単なメモ書きをしていたに留まってるだけだったけど、コジェーブうんぬんよりもナンシー関について語ってるあたりが印象的だった。ナンシー関の位置づけというのは個人的によくわからなかったのだけど彼女がしていたのは形式主義的没入(あるいはそれを当然とさせるもの)に対するアンチテーゼの提示、ということだったらしい。

 テレビがテレビ的なお約束を所与の前提条件としてお約束を展開したり様式美(形式美)を当然のものとして振りまいたりしているところに対するアンチテーゼ。具体的に言えば、「中山秀征のようなバラエティ(?)タレントのなにが『芸』なのかわからない」と言ったりすることや「小倉智昭はどうしていろんなことに詳しいのだろう?特にオーディオに関しては秋葉原の顔らしいが、何故?」と問いつつも小倉による返答を期待しないということ。両者とも本来はフィクションであるはずのものがネタとして当然(所与)化されてしまっているところに亀裂を入れる。ベタになったネタ(スターさん)を再びネタにするために消しゴム版画って手法がちょうど良かったのかもしれない。(ベタっと押せるし)


 あと「純粋テレビ」って概念がおもしろかったな。形式主義的な没入を成り立たせる前提としてテレビの内部でテレビを楽しむってスタイル。ふつーならテレビはメディアとして事物(シニフィアン)を映し出すもの(シニフィエ)であるはずなのにいつの間にか映し出されるべき対象はなくなってテレビがテレビ事態をネタにしてしまっているっていう。たとえばスタジオ観覧型番組でタレントたちが視聴者と一緒にVTRを見るところをコンテンツとして放送するものなんかがそれに当たる。本来ならなんらかの「芸」を映すものがテレビであるはずなのに「芸」は存在せずテレビによる構築物であるタレントのみが残るっていう。なんだか記号の無限連鎖的なシミュラークル(あるいは差延)みたいだけど、これが「当然」とされることによってテレビの力(あるいは存在感)が無前提に許容されていく枠組みができる。そういった力をもっとも体現したものとして「天才テレビの元気が出るテレビ」なんかがあったのだろう。(突然街頭に現れて見ず知らずの人をカメラで追い回すことそのものをネタにする → 内容はなく「テレビの力」的なものを前提としそれに対する反応を笑う → 誰もテレビ的な力から逃げられない)

 ルーマンのメディア論的にいえば「メディア(シニフィエ)<実態(シニフィアン) ではなく メディアと実態は入れ替わるだけ(両者に優劣はない)」ってことなのだろうけど。


 「記号の差延による形式主義の完成 → メディアの完成」って流れ。この辺は東さんの「データベース的消費」ってのにも繋がるのだろう。あるいはニコニコ動画的なそれにも関わるのかも。





 そんなとこかな。細木・江原関連で最後にちょこっと言っとくと、今回のような形での江原への批判はさらにベタなものが求められることになるってことを意味しているのかもしれない。一度は芋っぽいということで否定されたような70s、80s以前のようなベタさ。そっからもう一回繰り返す、ってことになるのかもね。(一部の人は)




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関連:
「ウェブ炎上」と「嗤う日本の『ナショナリズム』」 - No Hedge!

荻上も北田も、2ちゃんねる的コミュニケーションがもはやネタ/ベタの区別の付かない次元にあるという点では一致している。しかし北田は、その困難な状況の中でもそれはアイロニーという「作法」に拠るコミュニケーションであると述べるのに対し、荻上はあくまで行為の連鎖による「力学」に基づいた分析をする。

 
※このエントリにあるように北田さんは2ちゃん的な態度(相対化な姿勢をとりつつもベタに「感動」を欲する)のをアイロニー(≠相対化)という作法の発展の帰結としていたみたいなんだけどその辺はちょっと違和感。オレ的感覚としては情報量多くなりすぎるのに対応できずにあきらめてしまった人々って感じがする。あとチキさんの力学うんぬんは行為者が意図的に形式を実践しつつもその影響を受けてしまう、とか言うことなのかなぁとか思った(該当本読んでないけど


細木数子テレビ番組降板 「真相」は「充電」?(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

※個人的には吉報です

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2008年01月02日

承認や理解を志向しないゆるいコミュニケーション


 ついったーで「承認や理解を志向しないゆるいコミュニケーション」についてつぶやいたらレスがあって意外だったのでもうちょっときちんとまとめておくことにする。


「相互承認」とか「相互理解」を特に志向しないゆるいコミュニケーションをどう名付けようかというのがちと課題。ゆるいネットワークってことだけどゆるすぎると「なんの意味があるんですか?」ってことになりげ

http://favotter.matope.com/status.php?id=542661102


 @marytan × @TERRAZIがコミュニケーションにおける理解可能性について話してるの見つつなんとなく思い出されたわけだけど、この話の元は先日の忘年会での社会学っことの話。

 「最近なにしてんの?」ってことで最近の関心なんかを話しつつ流れで研究話。「機能集団的なグループからは離れたコミュニティにおける承認を中心としたゆるいコミュニケーションについて関心があるんです」、と。機能集団ってのは学校とか会社とかある目的のために集められ統制された集団のこと。そういう集団は合目的的(合理的)な機能をもってるけど個人の実存は疎外されていく問題がある。そんでそういった集団の間に中間共同体的な逃げ場(アジール)が必要になる、と。

 「承認」っていうとはてなやらなんやら的には「承認欲求?」って感じで身構えちゃうな。承認欲求関連だとシロクマさんら辺で盛んだけど


承認欲求って、そんなに悪者なのかなぁ?? - シロクマの屑籠(汎適所属)


 ここでの話は、「過剰に他者承認求めるのはどうかと思うけど軽い承認ってのは誰でも少なからず必要としてるものですよ」って感じなんだろう。

 でも、ここでイメージされていたのはそんなに濃い「承認」ってわけでもなくもっとゆるいコミュニケーションだった印象。なんとなくのイメージとしては「人には自分の居場所的なものを求める志向があって、そのための場所が必要なんだ」って話っぽかった。「場所」っていうとちょっと固いか。暫定的なコミュニケーションっていったほうがいいかも。「理解」も「アイデンティファイ」も、場所としてのルールも特にないゆるくて暫定的なコミュニケーション。




・「コミュニケーションは相互理解を前提とする?」(「〜しなければいけない」コミュニケーション) 

 「コミュニケーションというのは相互理解を前提とする」というのはハーバーマス的な定式だけどそれ自体がコミュニケーションを固くしてる可能性があったり。てか、相互理解的なことを前提としなくても意味があるというか、パッと見意味のないやりとりでも当事者間にとっては意味のあるコミュニケーションってのがある。

 ルーマン的にいえば、「コミュニケーションというのは不合意(理解)や誤解を含むものだし、そういう結果に終わったコミュニケーションもコミュニケーションとしての意味がある」、って感じだろうか。「情報」「伝達」「理解」ってやつ。

 「情報」というのは記号の差異の中でモノを同定する過程っぽい(ex.「コップ」を「円筒形のガラスでできた物体」として認知)。「伝達」ってのはメッセージの裏に隠された他者の意図を読み取ること(ex.「雨だ」というのはただ「雨だ」といってるだけではなく「傘を持っていったほうがいいよ」という含意がある)。記号的差異の文脈と他者の意図という文脈、これら2つの文脈の統合されたものとして「理解」(コミュニケーション)がある。

 でも、この「理解」自体は従来の意味での意図の正確な把握とかそういうことではなく誤解や不合意を含むものとされてる。ぼくの個人的イメージとしてはコミュニケーションの過程というのは情報の交流であり認知の拡張っぽいので。その内容というかベクトル自体には価値はなく、それによって拡がった幅の広さによって価値判断されるべき、ってことなんだと思う。(ベクトルではなく情報量が重要)

 そんな感じでコミュニケーションは相互理解を志向しているわけではないので「相互理解すべき」ってのは価値判断であり恣意性が働く可能性があるのだろう。簡単に言えば「きちんと理解しろ」っていってる人が怒りっぽくなるというか、まぁそんな感じ。(つってもなにしてもいいわけでもないと思うけど、その辺はまた話がめんどくさそうなので置く)




・誤配としてのコミュニケーションの可能性

 そんなこんなでコミュニケーションにおいて「〜〜しなくちゃいけない」的なものはなくてどんどん情報交換というか記号と他者の文脈を読みとりつつ情報量を増やしていけばいいように思うわけだけど、「誤解も意味がある」ってアレだな。「郵便的誤配」とか「話言葉的遊覧」とかそんなのにも繋がるな。そんな感じで「正確な理解」がされてなくても話は進むし、むしろおもしろいものになっていく可能性もあったり。それは近代的な文語(論理)的コミュニケーションからみると甚だ不可解で非理性的なものかもしれないけどもともとのコミュニケーションっていうか、口語的なコミュニケーションってのはそういうものだったわけだし、そんな誤配の中からなんらかの価値が生まれることもあったり。

 twitterなんかも居酒屋談義っぽくいろんな文脈が絡まったり見えなかったりで誤解が生じたりして訳わかんないことになりがちだけど却ってそこに魅力があったりする。つっても完全な誤解や文脈が見えない状況だったらつまんないだろうけど。その部分で妙なバランスがあるんだろうな。


muse-A-muse 2nd: 居酒屋としてのついったー (文芸的公共圏から生活的公共圏へ)


 理解やメッセージ(意図)の真正面からのやりとりってのは漫才でいえば「芯」であり、文脈から逸れること(誤解し拡張させること)は「ボケ」といえるのかもしれない。アポロンとディオニュソスというか・・。’そういや@reponとこでそんな話したばっかだな)


「理系な人」と「文系な人」- reponの日記


 あと、「データベース消費における文脈切除」 → 自由解釈(キャラ依存解釈)としての「萌え」、ってのも絡みそうだけど獺祭すぎるのでメモ程度に。




・「〜しなくてもいい」コミュニケーション

 あと、「〜しなくてもいい」コミュニケーション(コミュニティ)関連だと前に@TsumuRiが言ってた精神系コミュのゆるいコミュニケーションが思い出される・・・けど、当該言及どっかいったな。。ウロ覚え的には「特にルールもなく言いたいこといってたし、去っていく人は去っていく人で勝手って感じだった」って主旨だったと思うのだが・・。まぁ、あとで見っけたらリンクしとこう。

 関連でいうとtwitterのゆるさってのもそんな感じだし、その辺の感じ(ふだんは好き勝手なこと話してるくせになにかの拍子にいっせいに同じこと話出したりする)ってのは精神病棟に似てるね、とかえいごくんがゆっとったね。




・機能集団と中間共同体

 ゆるいコミュニケーションの可能性は大体そんな感じ。いちおもっかい振り返ると、<コミュニケーションにおいては「〜〜しなくてはならない」ってのはないし、むしろ脱線したものからのほうがコミュニケーション的可能性(より多くの情報量)が得られる可能性がある>、って話だったわけだけど、エントリ上段でも出てきたようにそうはいってはなにやってもいいってわけでもないだろうし、「ボケってどのぐらい有効性あんのよ?」って話にもなる。

 たとえば、このエントリの最初のほうで出てきた「機能集団的なグループから離れたコミュニティ」。これはそういった個人の実存というかアイデンティティ回復にとってはある程度有効かもしれないけど社会政策的な視点から見るとどの程度の有効性があるかわかんない、とか。

(※この文脈での中間共同体のイメージは本サイト的にはこんな感じ↓ 「社会的関係資本」ってやつだな)


muse-A-muse 2nd: 関係性と経済合理性の協調可能性について (あるいは中間共同体の可能性)

muse-A-muse 2nd: 「<場>の歴史性」と関係性の代替可能性について


 社会学っこ的には「個人の満足(幸福)」と応えざるを得なかったわけだけど、まぁ、びみょーっていやびみょーだわなぁ。。この辺はムズげだけど本人の課題ということで知らんふりしとこうw




・課題(のようなもの?)

 だいたい以上がついったーでいったことの詳細みたいなもの。んで、これについては反応期待しない独り言のつもりだったんだけど意外と反応あったり・・。たとえば@yzhどんから


時間ないのでキーワード羅列。ゆるいコミュニケーション: 交話的機能(ヤコブソン)、モジュラー性、カーニヴァル的共同体(バウマン)、会話と言説(ハイデガー)。このへんがヒントになるかもしれません



 ヤコブソン、バウマンは見たことないので分かんないけどルーマン絡みでコミュニケーション論として考えてよさそうに思う。ハイデガーのはまったく検討ついてない。いづれにしても課題ということであとでぐぐろう。



 いつもどおりだわーっと拡げただけのメモっぽくなっちゃったけど、とりあえずそんなこんなでした。


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2007年11月17日

空気を読むこと / 読まないこと

 池田センセのところで「空気嫁ってどーよ?(んで、結果としてのはてな界隈ってよ?)」的エントリが上がっててなんかびみょー感を覚えつつそういや空気嫁関連エントリあげるの忘れてたな、ってことでちょっと書いてみる。とりあえず発端はこの辺


池田信夫 blog 空気読め



 山本七平の「空気の研究」を短く要約されて援用されてる部分は良いのだけれど、途中でご自分の私怨に摩り替わってるのがいつもの池田節だなぁ、と。なんつーか、この辺の物語を完成させるために嘘とホントを混ぜるときの配分は映画版ドラえもんみたいだなぁとか個人的に思ったり・・。(その辺話すとわき道が長くなるのでやめとくとして)、「空気の研究」に要約部分については大体合意なんだけど自分用アーカイブも兼ねてほかの人の書評も参考にしとこう。


圏外からのひとこと(2005-04-06):「空気」の研究

HPO:個人的な意見 ココログ版: [書評]「空気の研究」 Japan as Network-One


 んで、当該文献はこちら


「空気」の研究 (山本七平ライブラリー)
山本 七平
文藝春秋 (1997/04)
売り上げランキング: 99880
おすすめ度の平均: 5.0
5 それって当たり前のことなんですか。ほんとうに



 本書のポイントとしては各氏がまとめておられるように「太平洋戦争時に日本軍はあんなムチャな命令をしたのか?(なぜそれが通ったのか?)」というところに集約されるように思う。で、「当時の”空気”って場の流れを支配していたのではないか?」ってことになってくる。んで、「この"空気”は日本的特徴として現代まで受け継がれているものではないか?」、って話になってくるわけだけどそもそもここでいう”空気”とはいかなるものだったか?


(10-11)
 大変に面白いと思ったのは、そのときその編集員が再三口にした「空気」という言葉であった。彼は、何やらわからぬ「空気」に、自らの意思決定を拘束されている。いわば彼を支配しているのは、今までの議論の結果出てきた結論ではなく、その「空気」なるものであって、人が空気から逃れられない如く、彼はそれから自由になれない。従って、彼が結論を採用する場合も、それは論理的結果としてではなく、「空気」に適合しているからである。採否は「空気」がきめる。従って「空気だ」と言われて拒否された場合、こちらにはもう反論の方法はない。人は、空気を相手に議論するわけにはいかないからである。「空気」これは確かに、ある状態を示すまことに的確な表現である。人は確かに、無色透明でその存在を意識的に確認できにくい空気に拘束されている。従って、何かわけのわからぬ絶対的拘束は「精神的な空気」であろう。


(16)
 一体、以上に記した「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗するものを異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力を持つ超能力であることは明らかである。以上の諸例は、われわれが「空気」に順応して判断し決断しているのであって、綜合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのでないことを示している。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。



 以上のように「ほぼ絶対的な支配力を持つ非論理的な判断基準」が"空気”ということになるみたい。そして日本人はしばしば論理的思考ではなくこの"空気”によって物事を判断していく、と。では、このような空気はいかにして作られていくのか?

(17)
 では一体この「空気」は、どのようにして醸成され、どのように作用し、作用が終わればどのようにして跡形もなく消えてしまうのであろう。これを探求する一つの手掛かりは、だれかが、何らかの意図のもとに、ある種の「空気」を意識的に醸成した場合である。言いかえれば、議論が、議論そのものよりも、明らかに、議論によるある種の「空気」の醸成を狙っている場合である。通常「空気」は、このような人工的操作によって作られるものではなく、言葉の交換によって、無意識のうちに、不作為に、いわば自然発生的に醸成されるから「空気」なのだが、それは、ある種の意図を秘めた作為的な「人工空気」の情勢が不可能だということではない。従って、この「人工空気醸成法」を調べていけば、「自然発生的空気」の成立過程も少しはわかるであろうと思われる。


 以上のように通常“空気”なるものは作為的に作られるものではなく自然発生的に現れてくるものとされるがここで著者は「作為的にも空気を作ることはできる」と述べている。では作為的に空気を作る場合に重要となるポイントとはいかなるものか?ポイントとしては2つ挙げられていたように思う。

 一つは「事物の後ろに存在しているなんだか知らない影響力を利用すること」、もう一つは「そうやって醸成されてきた空気を相互干渉させ容易には解きがたい複雑な糸を編むこと」にある、と。前者を把握する感応力をして著者は「臨在感的把握」という特殊な言い回しを用いている。


(24-25)
 物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態。この状態の指摘とそれへの抵抗は、『福爺自伝』にもでてくる。しかし彼は、否彼のみならず明示の啓蒙家たちは、「石ころは物質にすぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのため啓蒙的科学的教育をすべきだ、そしてそれで十分だ」と考えても、「日本人が、なぜ、物質の背後に何かが臨在すると考えるのか、またなぜ何か臨在すると感じて身体的影響を受けるほど強くその影響を受けるのか。まずそれを解明すべきだ」とは考えなかった。


(27)
「......カドミウムの金属棒は、握ろうとナメようと、もちろん何でもございませんよ。私はナメて見せましたよ。無知と言いますか、何といいますか……」
「アハハ……そりゃ面白い、だがそれは無知じゃない。典型的な臨在感的把握だ、それが空気だな」



 池田センセのエントリ的には「おそらく科学的解明も歯が立たない”何か”」の辺りに対応するか。そしてこの何らかのご威光を元に作られた判断基準が複雑に絡まりあって訳分かんなくなっていく。


(33)
 いままでのべた例は、簡単にいえば「空気の一方向支配」の例、言いかえれば、臨在感的把握が絶対化される対象を、仮に一つとし、しかも相互の感情移入による相互の臨在感的把握が起こりえない、最も単純化された場合である。だがわれわれの現実世界はそのように単純ではなく、人骨・カドミウム金属・棒・ヒヨコ・保育器の内部・車等々は、あらゆる方向に、臨在感的把握を絶対化する対象があり、従って各人はそれらの物神によりあらゆる方向から逆に支配され、その支配の網の目の中で、金縛り状態になっているといってよい。



 こういった事態を防ぐ(あるいは解決する)ためにはどうすれば良いのか?


(38)
 さて、ここで問題克服の要点は二つに要約されたと思われる。すなわち一つは、臨在感を歴史観的に把握しなおすこと、もう一つは、対立概念による対象把握の二つである。



 一つは空気を作りあげる判断基準の元になるような何かが作られてきた歴史的過程を見直すこと、もう一つは対立概念を用意すること。すなわち相対化することである、と。逆に言えば「空気を醸成するためには対立概念を受け入れなければ良い」ということになる。


(37)
 さてここで、空気支配のもう一つの原則が明らかになったはずである。それは「対立概念で対象を把握すること」を排除することである。対立概念で対象を把握すれば、たとえそれが臨在感的把握であっても、絶対化し得ないから、対象に支配されることはありえない。それを排除しなければ、空気で人びとを支配することは不可能だからである。



 注意して欲しいのはここで言われているのが「空気を廃して論理的になればよい」ということではないということ。「日本は西洋と違って論理的じゃないからやぁねぇ」という話ではないのだ。その辺についてはessa(圏外からのひとこと)さんもまとめておられた。


ただ、共通しているのは入口だけであって、山本氏の考察は深く、「日本=『空気』、西洋=『論理』(あるいは『個人』)」という割り切りで終わることない。西洋にも「空気」に相当するものはあるが、それが「神」として対象化されていて、それ以外のものは全て相対化するのが一神教の世界観である、というふうに、その根本を探り、本質的な構図を明かにしていく。

つまり、「『空気』をやめて『論理』に一本化せよ」という対策は、人間には不可能なのだ。過去の全否定はその方向に行きがちで、だから、「大和」と「みずほ」で我々は同じことを繰り返している。どうしても否定できない「空気」というものを、自分たちの中に見つけて行く為に、この「『空気』の研究」は読まれるべきだと思う。



 大切なのは目の前にある空気的決断の実態から眼をそむけたり、無理やりに排除しようとするのではなくそのメカニズムを観察・分析(あるいは全体として把握)しうまく付き合っていく、ということなのだろう。再び「空気の研究」に戻れば以下の箇所が該当する


(43)
 一方明治的啓蒙主義は、「霊の支配」があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとして、それを「ないこと」にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは、否定し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。ところが、「ないこと」にしても、「ある」ものは「ある」のだから、「ないこと」にすれば逆にあらゆる歯どめがなくなり、そのため傍若無人に猛威を振い出し、「茎の支配」を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで追い込んでしまった。戦艦大和の出撃などは“空気”決定のほんの一例にすぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて“空気”決定なのである。だが公害問題への対処、日中国交回復時の現象などを見ていくと、“空気”決定は、これからもわれわれを拘束しつづけ、全く同じ運命にわれわれを追い込むかもしれぬ。



 繰り返しになるが空気的な傾向が固定される原因は相対的な判断をしない、というところにある。言い換えればその界隈に対するフィードバックの排除ということ。そして大人はそんな判断はしないよね、と。


(47)
大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこうならない人間のことであり、ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことであろう。



 「空気読め」的圧力に対してスルー力(あるいは鈍感力)的なものが推奨されることがあるように思うが、以上の文脈を辿ればそれは少しびみょーな判断であることが分かるだろう。外部からのフィードバックを無視して自分の殻(あるいは自分を含むグループ(小さな世間))に固まるのではなく耳を傾け反省することが肝要なのだろう。もちろんすべてのフィードバックが有益なものとは限らないが、だからといって外部からの意見をすべて廃していたのでは固定した流れに囚われるだけだ。

 そういったフィードバックの中に「世間」的な判断(と思われるもの)も含まれるかもしれないが、ひとつ前のエントリでも言ったように、「世間」などというものは自己を中心とした相対的なものであり、そこから眼を背けて自分の信じる「正しさ」のみ主張していても詮無きことなのではないだろうか?


 とはいっても相対化のみ意識しては基準を失うだけなのだろうが。(そこで西洋では一神教の元で絶対的価値基準を定律、それ以外の価値は相対的に判断していた)



 まぁ、とりあえず言えるのは「ネットイナゴ」ってのも池田センセ的な視点(世間)からみた幻想だし、「KYイカン」ってよりは「フィードバック受け付けないほうがまずいんじゃないですか?」、ってことですよ。



--
おまけ:
socioarc | 空気読み力テスト αver.




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追記:
ついでに言うと、山本の著書には「メディアがKYを増幅させた」ではなく「相対的な概念を採用しないことがまずい」って書かれてましたね。この辺のご意見は池田センセ独自のものでしょうが、山本的な文脈からこの文を綴られたと言うおつもりならそれこそ「アサヒる」的な捏造っぽいですね
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2007年10月16日

沖縄の性産業についての覚書き

 ひとさまのついったーpostを基点に「ちょっとメモっとくか」って感じのエントリなのでtumblrに流そうかと思ってたんだけどtumblrだと後から参照するときに見にくいのでやっぱこっちで。以下、「リンクが中心のメモ」、って感じです。多分に個人的メモ。

 基点としてはこの辺

Twitter / finalvent

こういうニュースも内地には伝わりにくい(チージ)。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/071014/dst0710142315006-n1.htm

@mokutagawa ひとつには「辻」の語感がナイチャーにはないんですよ。いい悪い以前に琉球がやはり別の国の歴史を持っていてしかも戦後も解消されていないというか。あまりいうと大げさだけど。

明治時代の近代国家主義、大正時代のリベラリズムというのは結果的に日本国家志向に沖縄を転換させたかに見えたけどそのダイナミズムが極度に逆転してしまった。

さっきの事件で言えばたかがソープランドと言えないこともないんだけど。っていうか、そう言い得る余地は多くてバランスしていると沈黙に至る。

ナイチャーの沖縄幻想って結局はべたなポストコロニアリズムなんだけど、というか実は表層的な左翼イデオロギーですら日本国家の問題に焦点を当てているという点で同型なんだけどね。

@mokutagawa ええ、そしてそれが米軍統治下でどう機能したかを現在の歴史家はネグりまくってますよ。でも、ネグられたものは普通の空気でわかります。

本土幻想は戦前と戦後で二分したけど、沖縄は戦前、戦闘(べたな地上戦)、米軍統治(コロニアル)、日本統治(コロニアル)というむずかしい層がある。

困ったことか必然か難しいけど、小林よしのりは沖縄のパンドラを開いたか開こうとしている。でもそれを開くには沖縄で死ねよってことだけど彼はできっこない。

慰安婦問題も現状ではそれが戦争の構図で捉えられているけど、あれは国家と性の構図の問題で、実は高度成長期の日本の国家体制もまったく同構造なんだよ。ところがそこは議論されない。

ってなことを昔はブログに書く気でいたんだけどね。いつからかやめちゃった。

@mokutagawa ええ、その性に対する国家の制御性が、一種の動員体勢を作って、高度成長っていう戦争を継続していた。

@raitu うん、こんなところでトンチンカンに熱くなるからね。でも、俺は、沖縄で死ねなかったなという罪責につぶれて終わりかな。

はてなとかで「そんななやみはソープに行け」メソッドがあるけど、それによって性に介在する国家の内側に移り込むことになる。そんなに嫌悪というのはあるけど、でもみたいな。

カメさんは英雄ということで FA なんだけど(そこがわかりやすいから)、米軍統治下の沖縄を象徴していると思う。でもまついでだから
http://homepage3.nifty.com/katote/okitaiaso.html



 「こういうニュース」ってのはこれのこと↓

ソープランド全焼で9人搬送 女性1人死亡 那覇 - MSN産経ニュース

 「カメさん」ってのはこれ↓

非合法沖縄共産党

 軍政下の実情と合わない指令を無視する形で自立組織化していった沖縄共産党の歴史について。コレに加えてあと2層ぐらいある、と

 国家的縛り(権力とプロトコルとしての法)以外に共同体的な決まりや力の層があるって認識はあまり多くの人には共有されてないみたい。たとえばアフリカなんかの研究やってる人から聞いた話だとNGO的に紛争調停を考えるにしても「国」「共同体」「下層共同体」(さらにそこからのグループ派生)の三層について考える必要があって、「それぞれがそれぞれの利害や決まりによって動いてるので大上段に紛争解決ってのは難しい側面がある」、って話をしてた。今回の話もそれの亜流のようなものだと思う。

 (よくわかんないけど)沖縄の場合も国以外の決まりとか力や財の流通している共同体があったみたい。そゆのはアンダーグラウンドとも言って暴力団とか思い浮かんで悪いイメージあるかもしれないんだけど、国家が横暴な力を使っていて正面からそれに抗する術がないのなら地下にもぐるしかないわなぁ‥。あと、昔から暴力団的なものが「力」の部分を管理して共同体の運営を助けていたって歴史もあるしな。(cf.自民党と暴力団とか)..その辺は横道に流れるのでやめとこう

 んで、そんな感じで「国」とは別のコミュニティとしてアンダーグラウンドなものっていうかそれぞれの土地の自治コミュニティがあるわけだけど、そこで手っ取り早く金を作り出したり、もしくは金そのものの役割をするのが「性」ってことになるんだろう。「地場産業がないところでは性産業が活気付く」ってやつ。旧日本三大風俗街(中州、流川、すすきの)なんてのはそういう流れでできあがっていったんだろう。新宿とかは意外と後から栄えたものだったはず。あとは場のガス抜き的な効果もあるか。つまりカタルシスとしての性産業ってやつ。
 
 引用先の「性に対する国家の制御性が、一種の動員体勢を作って、高度成長っていう戦争を継続していた」ってのは「高度成長期の性産業利用」ってことだし、(ちょっと問題があるかもしれないけど)慰安と戦争ってことではここに繋がるんだろう。

極東ブログ: [書評]その夜の終りに(三枝和子)

 「盾としての慰安」ってやつ。これ自体史実かどうかわかんないのでびみょーなんだけど、もしそうだとすると悲しい話だし敬意を表すべきことだろうな、と思う。

 んで、「国家による性の管理」ってことはそのまま「生」の管理ってことで「生権力」の管理に繋がってくる。birth controlっつか人口管理にも繋がるか。あとはガス抜き的に配置することで統治の道具としても使える。まぁ、赤線やらなんやら思い浮かぶわけだけど。つっても、これはもともと現地の人たちが作り上げてきたものを国が奪い取った末に国が管理しやすいように一部の機能だけ抜き取り利用したものだと思うけど。「性産業をめぐる国家と現場の駆け引き」ってことでこの辺とか絡むかな


muse-A-muse 2nd: 差別をめぐる審級について (あるいは「人権と国家」)


 で、性産業というアンダーグラウンドをめぐる管理ではわざと管理基準をあいまいなものにすることで国家が良いように舵取りができるような仕組みができているんだと思う。暴力団系への規制と同じだな。どっちも完全に管理すると難しい側面があるのかもしれない。(cf.893ものの拾い場所としての暴力団の機能)

 性産業をめぐる最近の綱引きとしてはこの辺かな(見えた範囲)


2007-10-01 - 安田理央の恥ずかしいblog:AVオープン不正事件の真相

【法廷から】ひどすぎるAV撮影 - MSN産経ニュース


 前者はアダルトビデオメーカーのSODが製作したビデオ(DVD)を自社買いして売り上げを水増ししてた、って話。SODというとわりと健全で透明なビデオ製作会社という印象でアンダーグラウンドなルールが多い印象のあるAV業界に新しい気風を入れてくれたようで期待してたんだけど、こういう形でコケルと業界全体への影響が心配される。

 後者は悪名高いバッキー栗山事件について。女優に薬物を吸引させた状態で浣腸器を入れ内臓破裂させた、ってやつ。「女優は売春婦なんだから何してもいいんだよ」ってコメントは二重三重に間違っているように思う。ひとつは「女優は売春婦」ってところ(これは言うまでもないか)。つぎに「何してもいい」ってところ。正当な雇用契約を交わしているはずだからその範囲の仕事しかしなくて良いはず。あと「売春婦だからなにしても良い」わけない。(つかコイツ、「女は」って思ってんだろうな) 

 安田さんの本にあった「DVD化によって早送りで見せ場を見る習慣ができた → 見せ場中心主義的ソフトの乱造」の影響かと思う。SODをはじめとする団体はこういう過激趣味の流れを食い止める役割を担うものと期待してたんだけど...。


 しかし、まぁ、女優の人たちと風俗業界の人たちだとまたちょっと事情が違うか。風俗のほうは最近の規制の強化の影響でこんなの出てたけど

裏新宿(NEW): 歌舞伎町浄化作戦の規制外となる昼キャバ、朝キャバが急増


 沖縄の事情はよくしらないけど前に探偵ファイルにこんな記事載ってた


#探偵ファイル/スパイ日記/ 沖縄ダークサイド


ネタ元が「探偵ファイル」ってのはあるんだけど内地の相場より大分安い現状ってのは局所的なものでもないのではないかと思う。そして沖縄には地場産業がない。地場産業がないので性産業に頼ったり、国家的要求にしたがって軍の基点にならざるを得なかったというのは広島と同じ流れのように思う。


 
 そんな感じで見てくると冒頭の記事の重みみたいなのがなんとなく分かる気がするんだけど‥でも、そういう可哀想目線ってのもちょっと違うかな、とは思う。彼女たちには彼女たちの矜持っていうか、けっこう気楽な部分もあるのかなぁ、と。(よくわからんが)

 「気楽な」っていうのも語弊があるか。とりあえず可哀想目線の行き過ぎは勝手なロマンチシズム(妄想)って感じで違うかな、と。



 まぁ、よくまとまんないエントリだったけどそんなことを思ったのでした




--
追記:
あとから考えるとあそこまで相場よりも安いのは基地外のガス抜き的役割を果たしていた部分もあるのかなぁと思ったけどたんなる妄想かもしれないのでよくわかんないです。
 

posted by m_um_u at 00:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年10月05日

日本的「正しさ」と善的行動の選択基準

 昨日のついったーのログを見ながら気になったことがあったのでてきとーに抜粋してログつくってみた


むーたん:善悪の彼岸(家族編) - 道徳的「正しさ」と生活における正しさ(その典型としての介護をめぐって)


 お話、っつーか登場人物はmedtoolzどんとmarco11どんとTsumuRiどん。例によってついったーの話なのでギロンとかお話ってよりはてきとーに相手の話から連想したことをつぶやいてるって感じ。(※なのでこんな形で関連性を出すとご当人たちにとっては迷惑かもしれないけど、まぁ、てきとーってことで(別にまずい発言してる感じでもないし))


 話の流れとしてはmedtoolzどんとmarco11どんの仕事上の体験を通じて教科書で教えられるような道徳的な「正しさ」の是非についてつぶやいてる感じだった。要するに、「普段、倫理やら道徳やら言ってたって実際に家族のギリギリな現場に直面したらどうなのよ?」、問題。具体的には介護とかそういうの。

 道徳やら倫理、思想な人たちの言説や教科書が「正しく」ても硬直的で生活の場面では機能しないってことはしばしばある。いわゆる「サヨク的正義って役に立つんでつか?」ってやつ。(まぁ、ここでサヨクだのウヨクだのの文脈持ってきても仕方ないのでその辺は置く)

 面倒だから以下そのまま抜粋をコピペ


medtoolz 基本的にはもちろん、患者さんやら、そのご家族やらが望んだことを実行しているのだけれど。問題なのは、その人達が道徳に縛られたから望むと答えたのか、それとも本当に望んでいるのか


marco11 同年代や年下の介助は得意だけど、著しく年上の人の介助は苦手。数件やって向いてないと判断して以来まったく受けてない。彼らの生の向かう先、向かいたい方向をうまく理解できないから。若い鬱と年寄りの欝は根本的に違うしね

medtoolz 認知の違和感。合理的説明の要請。結局これは、医者に騙されたなんて潜在的な思いになって。こんなはずじゃなかったとか。馬鹿高い請求書回されて、3年ぐらい在宅介護がんばって、得られたのはオムツのにおいが染み付いた部屋1つとか

medtoolz 道徳の外しかた。道徳ありの思考と、無しの思考とをそれぞれ考える訓練。道徳の教科書を使うことに反対はしないけれど、それを鵜呑みにするんじゃなくて

medtoolz たとえば足尾銅山の住民被害を、命がけで天皇に直訴した田中正造の話を聞いて。「ぼくもそうなりたいです」なんて阿呆なコメント取るんじゃなくて、田中一人に命張らせた住民の戦術とか、同じアナウンス効果得るのに、もっとスマートなやりかたをみんなで考えるとか

marco11 強烈な道徳のベースがあると、例えばヨーロッパでキリスト教とか、アンチを不道徳、悪、としてすっきりわかった気になって悩まず生きていけたりしそう

medtoolz 道徳の教科書を使って、道徳をまなんで、道徳を笑うことをまなんで、道徳を置換するすべを学ばないと、道徳を学んだことにはならないと思う。少なくとも昔ながらの道徳授業というのは、要するにそれで得する人達を笑わせる以上の約には立っていない

TsumuRi 高齢者の介護は身近になるとへこむね。うちの爺様が身体が元気で頭だけぼけて、家の中で自覚なく暴れていて、父は鬱気味になったし母はノイローゼになった。爺様が薬で落ちついて、老人介護施設に入ってから家の中はやっとの事で平穏になったし、父は明るく爺様を見舞えるようになった。うちは平穏をお金で買った。

TsumuRi かくしゃくとしていた人が意思の疎通も取れぬ、身体の自由が利かぬ状態になったとき、身近でその人を愛して尊敬していた人ほどへこむと思いますよ。変わってしまったその人の中に、その人を感じることがなくなるんです。家族だけじゃ介護ができない最大の理由だと思う。正直見てられない。

TsumuRi 家庭内、あるいは親戚内で老いの残酷さを数件見た後、自分はかくしゃくと生きた後、致死性の高い疾患でぽっくり逝きたいと思うようになった。心臓麻痺とか脳出血とか。倒れてから一ヶ月以内に逝くのが理想。それ以上は周囲の人間の神経が保たない。それが原因で仲違いした人たちを何人も見ました。


marco11 太平洋戦争を冷静に振り返って分析するだけで全ての要素について教訓を得られたのに、 60 年以上放置ですよ

marco11 なんというか国民視点では利益になるかどうか微妙な戦争ってのに、「国家総動員体制のもと全員動員された」って手短にまとめられても納得できない。なんかねえ、そんな従順か人間?って思う

TsumuRi 俺は、理由はどうあれ他人の生は肯定されるべきと思うよ。理由ははっきりとは分からないけど漠然とそう思う。強いて言うなら、生まれてきた命は全て肯定されるべきと思っているから。そうでなかったらこの世のルール、狂うよ。その人の生を否定していいのは本人だけじゃないかなあ

TsumuRi 俺個人でどうこうより社会システムが全肯定して欲しい。今はそれできてないでしょ。やむを得ず生きるのを諦める人がいるでしょ。どこまでを肯定するかという問題があるけど、少なくとも生物として自律的に人間やれる力のある人はまず全員肯定されるべきだ<餓死が気にくわない


 
 後段のmarco11どんの「太平洋戦争の反省ができてなかったから」話は少し飛躍があるけど、日本的道徳観や正しさ、公共性の問題ということだろう。太平洋戦争における現場レベルでの意思決定のうやむやさやそれを取り囲む人々のうやむやな空気感など...。marcoさんが言ってるようにすべての人が右向け左的に従ったわけではないだろうけど、そのときはみょーな空気が発生して抗えなかったってのもあるだろう。んで、そういった曖昧(うやむや)さが日本的な「正しさ」を醸成していく。

 それは「全体主義」ってほどはっきりとしたものではなくてなんとなく「その場の空気」には抗っちゃいけないし抗えないのだろう。「その場における暫定的な正しさ」って感じなので。論理とか合理、情緒っていうのとも少し違うかもしれない。

 んで、そういうのが日本的公共性(日本教)となって意思決定を左右していくわけだけど....その辺は後述。


 それとは別にTsumuRiさんが「理由はどうあれ他人の生は肯定されるべきだと思うよ」というのは同意。その後の「社会システム的に保証されるべき」ってのも。んでもいろいろ限定条件があるように思うけど。

 んで、まぁ、触発されてべらべらとつぶやいたのが長くなったのでこっちもアーカイブしといた


むーたん:「留保なき生の肯定を!」における限定条件としての利害衝突、他者への喜捨基準としての「創発可能性」


 詳しくはリンク先見てもらえばいいんだけど、端的に言えば、「そんなこと言ったってがんばってる人とがんばってない人が同じってされたらがんばってる人はヤル気なくなるしなぁ」、って感じだと思う。そうすると、「けっきょく能力主義にもとづいた排除の思想ですか?」、とか某a氏から言われそうだけど、だってそうだもんなぁ。。別に「排除」ってほどには行かなくてなんとかしたいと思うし、目についた範囲で自分にできる援助はしたいと思うけど、「女性がキャリアアップの面で劣位なのは男性を養わないからです」(反語:おまへらキャリアおんなはおれたちを養って給料アップを目指すべき(義務))、とか言われたらどうよ?って思う。(オレ♂だからあまり関係ないけど)

 ぼくは金とかその他のもの(物理的力とか駐車スペースとか)もリソースの一種に過ぎないと思ってるので、その時点でリソースが必要なところに余っているところのリソースを供出すればいいと思うわけだけどa氏の主張はあんまりにもアレなのでどうかなぁ、と。つまりアレだべ?ミュージシャンとかでよくあるヒモってやつだべ? そういうのは「投資」って感じで、その人の才能に賭けるんだろうけどそういうのもびみょーな場合があるしなぁ...。

 んで、「ヒモに賭ける」ってのは新興ベンチャーにエンジェルが投資するのと同じようなもので、「自分達にはない創発可能性をもっている人が自分達のもっているリソースをもっていなくて動けなくなってる人に対してリソースを一時的に貸し出す(移動する)」、って感覚だと思う(もちろん「儲け」も含むだろうけど、基本的に見返りってほどでもないかなぁ、と)。
 
 たとえば、「わたしたちを養え!」、という人たちにもそういう芽があれば分かるんだけど...なんかびみょーなんだよね。

 
 いや、「それ以前の問題として国家がなんとかしてって話」、ってのも分かるんだけど「国家がなんとかする」ってことは税金が投入されるわけだから間接的には自分達のお金ってことだしね。



 まぁ、とりあえず。ぼくが他人になんらかの援助をする場合はそういったもの(この人は芽がありそうなのにほんのちょっとお金とかモノが足りないだけで困ってるんだ)を基準にして行動選択するようにしてる。そうすれば「空気」とか「正しさ」とかも関係ないかなぁ、って。そうすることの個人的なインセンティブはそうしたほうが世の中おもしろくなりそうだし、そうなったら自分もおもしろいと思うから。そうすれば既存の「正しい」とか「倫理」とかにとらわれることもない。

 そんなこと思ってたらessaさんのとこにも関連なエントリが上がっててシンクロ


アンカテ(Uncategorizable Blog) - 世界観について自己責任でセーフティネットがない国


 西欧的な公共性と個人との関係とは違って日本では社会と個人の間に「世間」がある、と。それが宗教のように機能している。「世間」にはバッファとしての意義もあるが「世間」にとらわれ過ぎる旧弊は払拭すべきではないか、と。

 「世間」ってのは「空気」に似てるように思う。あるいは「空気」というのがその場その場のアドホックな雰囲気(同調圧力)なのに対して、「世間」ってのはそれがもうちょっと堆積したもの(ストック)ともいえるのかもしれない。

 この辺はまだちょっと分かってないので「日本教の構造」(山本七平)でも読もうかなぁ、と。


 そういや、最近のはてな村も怪しい空気が漂ってようですね (換気換気!)






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関連:
muse-A-muse 2nd: 「赤木が来たりて笛を吹」・・いて帰った

muse-A-muse 2nd: 運動における協調可能性について (想像力・他者・寛容・弱さの強さ)

※文中リンク先の「Akagi襲来」の顛末。格差社会関連はこの辺↓

muse-A-muse 2nd: 少し前の格差社会論まとめ



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追記:
以上のような、善的行動の選択基準としての創発可能性とそれによるネットワークの安定、ってのはぼく個人の指針なのでほかの人から見るとへんてこな感じかもしれないけど、言いたかったのは既存の「正しさ」とか「倫理」(道徳)とは別の基準を自分の中に持つべきではないか、ってこと。

「システム」とか「ネットワーク」で考えるのはそれが倫理的な偏向を受けていない中立の概念のように思えたからなんだけど、ほかに楽に考えられる枠組みがあったらそっちを採用したらいいんじゃないかと思います。


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2007年09月02日

少し前の格差社会論まとめ

 少し前(・・つか改めて見るとけっこう前だな)に格差社会論がちょっと盛り上がって、ちょっとまとめとかないとなぁと思ってるうちにこんなに時間が経ってしまった....。んで、その後もこれが引っかかってかなかなかエントリが挙げられなかったり...。いや単に暑くてめんどくなって不精になってただけなんだけど。とりあえず、以下、主に自分の理解のためのノート。
 
 最初はこちらから、siroutoさんが主要エントリをまとめてくれていたので。


萌え理論Blog - 格差社会は個人の努力では解消しない


 siroutoさん的なまとめのキモとしては以下な感じか。


・格差で苦しむ人たちは努力を否定しているわけではない (ナマケモノではない)

・個人の努力だけではなんとかできない領域なので政府による再分配機能(支援)を期待する必要がある



 これはいままでのギロンにもでてきたことだし特に新しい論点でもないんだけど、新しくこの問題に触れる人もいるということで基本的な論点ということになるのかもしれない。

 ついでにいえば「そんなこといってもわしらも格差なり貧乏なりはあったし、そこから這い上がったんじゃ」的なご老人の意見に対して、「プラザ合意もろもろを境にゲームのルールが変わったんです」、ってのがあると思う。その辺は以前まとめたのでエントリへのリンクだけ↓
 

muse-A-muse 2nd: 資源最適化としての格差社会と社会保障に関して

(その前段階としてのバブル崩壊に関して↓)

muse-A-muse 2nd: バブルについての覚書き


 関連で格差世代とそれ以前の世代のコミュニケーションギャップというか不寛容の問題があるように思う。格差世代の苦しみを想像できない問題。その辺については以前まとめた。


muse-A-muse 2nd: 最近の格差社会論をめぐる諸々 - 「ロストジェネレーション」から

(「失われた10年」の影響を受けた世代への不寛容と、「失われた」とラベリングし忘れ去ることの無神経さについて)


 この問題に対するessaさんの一連のエントリはそういった不寛容を埋めるための思考実験のように見える。


アンカテ(Uncategorizable Blog) - ずっと高齢者のターン

 「昔は無自覚に成長を信じられた」、と。投資に失敗してもなんとかなる社会。プラザ合意以後は・・って感じ(なのかなぁ)


アンカテ(Uncategorizable Blog) - 再提言:世代別二院制


 「世代間格差」を埋めるための思考実験として。未来がない老人と未来がない(現在の)若者



 以上が「昔」と「いま」の意識の違いだとすると「いま」と「いま」の間の意識の違いというか、同じように(あるいはそれ以上に)苦労した人の視点からみてこの問題というのはどのように映るか、というのが以下のエントリ。



NC-15 - 頑張りでなんとかならないところまで行っちまったのが問題だと思うが

 佐川急便な労働からたたき上げていったmuffdivingさんが言うと説得力あるな、って感じのエントリ。もうちょっと突き放して言うかと思ったけど、事情を考慮して法的サーポートが必要な部分についても言及されてる。(でも「やっぱ甘い (ぜんぶ格差のせいってわけではないよね)」って感じだけど)




 つか、対策としてどういったものが考えられるか? たとえば政府の保障ってやつは機能するのか? 馬車馬さんのエントリはその辺をきわめてロジカルに考察されてる。


マーケットの馬車馬: 救われない「不運」について

 間すっとばして結論としては以下な感じか


・マクロ政策を打ってもフリーター層だけ特別扱いできないので職業面で救済できない


・ではフリーター層向け保険のようなもので補償できるかというとそれも無理そう。(特殊事例なので参加人が少ない)



 コメント欄みると馬車馬さん的には「世の中にはヘッジされる不運とそうでないものがあるよね」という部分をクローズアップしたエントリにしたかったらしい。(ちょっとグダった?)

 で、ヘッジされる不運関連でこのコメントに続くか

不運のヘッジとは保険料を払うだけではありません。「将来どうなるか分からないから勉強しておこう」というのは立派なヘッジであり、勉強に費やした時間は保険料です(勉強すれば必ず不運を回避できるとはいえないので、不完全ヘッジではありますが)。もし赤木氏が代表するグループがこの保険料を払っていないのならば、補償を受けられないのは当然、という見方もあり得ると思います。結局のところ、自分のリスクをヘッジ出来るのは自分だけなのですから。

Posted by: 馬車馬 | August 26, 2007 at 06:24 PM




 「やはり抜け出すためには教育だよね」、と。で、以下につながっていく。


odz buffer - 裕福でないと大学にいけないという幻想

 「抜け出すための環境としてお金がなくても教育は受けられる制度(奨学金)は整っているじゃないか」、と。

 ぼくもエントリ主とほぼ同じ(つかオレのほうがry)環境だったので言ってることは分るんだけど、ワーキングプアとそれは根本的に違うと思う。その辺についてわかりやすいのが以下のエントリ


努力すれば格差を乗り越えられる、なんて思いつかなかった(@増田)

 「格差は意識面から規定されている」(「この情況から抜け出すには教育が必要」っていうけどそういったものに対する選択肢自体が思い浮かばない環境があるんだよ)って話でおおむね同意。文化資本の格差ってやつだな。

 そういった情況を救うのはそれぞれの場にいる人々の働きかけ(骨折り)、と...。(「夜回り先生」みたいだ)


 そしてけっきょく最後は自分の意志と努力ということになるのだと思う


格差と想像力(@増田)

 「卒業してから海外留学を決め、そのときになって過去の成績が審査基準に絡んでくることを知った」、ってエントリ。で、主要なメッセージとしては以下に尽きると思う

今の自分に満足できないからって「格差社会が悪い」と大上段の議論をするより、自分の手持ちの駒の使い方を考えたほうがいい。


 たしかに格差的な情況が現出してゲームのルールが変わった影響はあるのだろうけど、それ以前に成績も含めたさまざまな選択肢について学んでいなかったのは自分の怠惰さの問題もあるだろう。(つか、貧困環境と裕福層だと人的ネットワークの違いがあるので、それによってもたらされるであろう情報量にも差が生じる、ってこともあるだろうけど置く)


 とりあえず地味に成績とれるところはとっとけって話だと思う。あとはルーチンな勉強はルーチンに切り上げて選択肢を拡げる眼を養い、それに備えた努力設定をするって感じか。

 


 以上が今回の格差社会論で出てきた論点で気になったもの。まとめなので特にオチなし。





--
関連:
アンカテ(Uncategorizable Blog) - 赤木智弘にひっぱたかれたくない!

 このエントリ自体は世代間格差を埋めようとしてるのだなということで共感なのだけど、たぶんそういう問題でもないような気がする。「赤木さん」という個人の性格の問題もあると思うので。「この性格も格差のせいなんですよ!」って言われるかもしれないけど...。

(っつか、オレは是非、終戦記念日に九段にて例の発言をしてほしかった。そこまでの覚悟ry)


muse-A-muse 2nd: ♪ しゅふになりたぁい (?)

muse-A-muse 2nd: 蹴りたい赤木

muse-A-muse 2nd: 「赤木が来たりて笛を吹」・・いて帰った

muse-A-muse 2nd: 運動における協調可能性について (想像力・他者・寛容・弱さの強さ)
 



Economics Lovers Live - 2007-07-25:まさにいぶし銀の名著、藤井良広『金融NPO』

 「貧困層救済補償」関連で。非営利金融組織の活動の可能性について

 




タグ:格差社会
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2007年07月18日

運動における協調可能性について (想像力・他者・寛容・弱さの強さ)

 一連のAKAGI襲来について。なんとなく思ったことをボケーっと。結論から言うと運動と他者の共感の問題なわけだけど、なんか栗山さんのところにも関連エントリが上がってたのでいちおクリップ。

葉っぱの「歩行と記憶」 - 自由と生存の分裂

 んで、経由で森岡センセのエントリを見る


G★RDIAS - ウェブに現われる「他者」の具体的検討


 人文系で「他者」って言葉が出たら、そりゃまぁ「自分と異なる意見をもった人との協調(対話)を模索する」みたいな文脈になるわけでその辺のところはぼくも重々承知しているわけだが。

 今回のケースは対話の相手である人が最初から対話の姿勢を見せなかったことに問題があるように思う。ひとつ前のエントリにも書いたように、プライドを気にして勝ち負けに固執し、相手と共通理解を得ようとしない態度を貫いていたのは先方のほうで誠実さのかけらも見えなかったなぁ、と。

 あるいはあれが彼の誠実さの目一杯のところだったのだろうか。。だとすると、そういったものしか身につけられなかった不幸を嘆くべきか..?

 まぁ、どちらにせよ不毛だなぁ、と。

 
 ちょっと前のエントリでは「共通理解をもたない他者との話し合いにおいてはインターフェースを統一するために“礼儀”というプロトコルの統一が必要」と書いたわけだけど、ほかにも必要なものがあるわけだな。対話に臨む姿勢というか、相手に対する想像力というか...。ぼくは彼のプロフィールをある程度知っているのでそれなりの態度をとっていたけど、彼は最初ものすごく礼儀知らずだったな。そして、こちらのレスポンスに応じて(彼なりに)態度を改めていったようだったけど最後まで自分の優位を疑わなかったみたい。その自信がどこから来ているのか不思議だが、コンプレックスの裏返しのようなものなのかもしれない。

 あるいは、彼が曲がりなりにも職業文筆家の末席を汚す位置にいることがプライドに繋がっているのだろうか? 「お金もらって書いてるプロのほうがアマチュアより偉いぜ」、と? だとするとプロフェッショナルジャーナリズムが出来上がるまでの歴史、出来上がった後の問題点やアマチュアジャーナリズムの可能性について武田塾で習わなかったのか?

......まぁ、習っていたとしても「おべんきょー」って感じか....。


 あと「責任」という言葉を軽々しく使っていたけれど、それは責任を負ったことがないからこそ言えるのだろうな.....。5年後の彼に期待だ(もしくは1、2年で片がつくかもしれない)。彼なりの「責任」を見せてくれることだろう。

 もしくはぼくの主張が間違っていて彼が「ほら、見たことか!(バーカバーカ)」と思うことになるのかもしれない。そうなればなったでこちらとしては万々歳なわけだが..。ぼくはくだらないプライドに固執しないタイプなので、彼の主張が通って女性の生活が向上するのならそれに越したことはないと思うし、それによってぼくが恥をかく程度なら万々歳って感じ。


 彼とのやりとりについてはその程度の感想しかないけど、森岡センセの言う「他者」についてちょっと考えたり。 森岡センセもよくわかんない人との対話にならないやりとりはけっこう早い段階でシャットアウトする人だと思うんだけど、リンク先のエントリではその理由についていろいろ考察されてる。要約すれば「私は未だ他者には会っていない」とのこと。森岡センセの認める「他者」のような存在には会っていない、ってことらしい。

 では「森岡センセの認める他者」とはどのような存在として想定されるかというと、どうも「私の予想の範囲を超えない存在は他者ではない」ということみたい。
 
 ここは部分的に賛成しつつもちょっと違和感がある。コメント欄でも人文系っぽい繊細な考察が展開されているけれど、ここもなんか違和感があるのでスルーする。

 ぼくにとって他者は「自分と共通点がありつつも違うもの」なので。自分と並び立つもの(会話が成立するもの)でありつつも、自分の鏡のような存在ではなく、対話を通して世界や自らの可能性を拓いてくれるものこそが「他者」だと思う。

 ほかはRPGの中に登場してくる同じ台詞を繰り返す人々と似たような存在に過ぎない。(それはそれで「ご近所づきあい」って感じでほのぼのだが)

 では「他者」が「他者」として表れるための条件とはなにか? ぼくはやはり「自己の確立」が関わるように思う。それは雑誌などで喧伝されている安っぽい自己確立(ホントノジブン探し)ではなく、自分の内奥に向き合いその可能性を開花させることで自信を持つ、ということと深く関わっているように思う。この辺については以前少し考えた


 赤木さんについて言えばその辺りで自信がついてなくてコンプレックスが払拭できていなかったのかなぁ、と少し思う。



 で、本題に入ると、「運動においては自分たちの主張に関心のない<他者>を引き入れることが必要だと思うのだけれど、その際、必要な要件およびその限界とはなにか?」、ということ。

 結論から言えば「他者」のエゴ(利益)に対する想像力であり、それを想定した上での自らのエゴとのすり合わせということが必要なことだと思う。そういう形でなくただ自らのエゴをわめき散らすだけでは関心を持っていない「その他大勢」を引き入れることはできないだろう。運動に関わる人の中には「それでもいい。当事者である自分たちさえわかっていればいい」という人もいるのかもしれないが、それではなんのための運動なのかよくわからない。自己満足かなんかなのだろうか?

 あるいは現在は虐げられてきた彼らが尊厳を回復するために敢えてパフォーマティブな宣言をしているだけかと思っていたけれどそれもちょっと違うっぽい。どうも赤木さんに限って言えば本気で「オレ様を救うのは貴様らの義務!」ということを信じているみたいなので...。そこまで自らの心を操作しなければ尊厳を回復できないほどに自信を失っていた情況があっただろうことを想像すると同情を禁じえないが、それを現状認識にしているとやはり危険だろう。そして、その現状認識をもって自分の主張を構成し、その主張と合わない人々を「当事者性がない」ということで排除していく...。それってどうなんだろう?

 もちろん「当事者性」ということは運動を継続するためのモチベーションの面で重要だと思うけどそれをもって「部外者は出て行け」というのは違うだろうな、と。自分の考えと少しでも違う意見を言われると「しょせんあなた方にはわからないのですよ!当事者性のないあなた方には他人事なんです」ってヒステリックに叫ぶ人がいるけれど、それってどうなの?、と思う。では、当事者でなければそれについて考えたり発言する資格はないのか?、と。まぁ、この辺が関わってくるわけだけど


Sound and Fury.::メルの本棚。 - 「恵まれた」人間は、社会批判をする資格がないのだろうか



 「ブルジョアに対する批判があるけれど、それじゃブルってる人は貧困なんかについて考えちゃいけないの?」ってエントリ。で、「ことさらに対立を煽るのはどうなの?」、と。

 これは端的に「想像力」の問題だと思う。「ブルジョア」が悪いのではなく「想像力がない人が無神経にセンシティブな問題に踏み込んでくるのが悪い」ということなのだろう。


 「フリーターとブルジョア(っていうか知識層?)との対立」ということではこの辺のエントリなんかがモロに絡む。


フリーターが語る渡り奉公人事情 勉強よりも生存

フリーターが語る渡り奉公人事情 大学TV局からの取材お断り

フリーターが語る渡り奉公人事情 正社員にも話をきけば……


 妙な大学関係者に関わってしまったために大学や研究関連職に不審を抱くようになり、彼らからの言葉は全て敵の言葉とみなすようになった、という悲しいエントリ。そして「わたしはわたしなりのやり方でこの問題を調べていく」、と。

 揶揄でも皮肉でもなく悲しいことだな、と思う。それは学に関わっているものの中でも一部の人の話だし、彼女自身がしている「調べる」という行為自体が「研究」なわけだけど......。彼女からすればその辺はまたちょっと違うのかもしれない。(「研究のための研究の材料にされるのはイヤ」ってことか?)

 あるいはここでも「当事者性」ということが絡んでくるのだろう。


 では、その「当事者性」とは一体如何ほどのものなのか? それをもって他者を排除することによって得られる効用とはなんなのだろうか? っていうか、それ言っちゃうとヒロシマのことなんか誰も語れなくなると思うんだけど.....この言葉はけっこういろんな文脈で使われるし、ヒロシマの人々はそれを許容しているように思う。「ある程度は」という限定はつくけれど。で、このエントリが絡む。


Karpos. - ヒロシマ−相対化


 ヒロシマの歴史は「他者」を受け入れていく歴史で、最大の敵(「他者」)であるアメリカを受け入れつつ復興を遂げてきたものだった、と。

 そうは言ってもそれは経済面でのことであり、一部の急進的(?)なヒロシマ運動家たちは「アメリカ絶対許すまじ!」な姿勢を崩さず、かたくなな態度を貫いていたように思うけど。(でも、その実、運動内部では2つぐらいに団体が割れて協調もなにもあったもんじゃなかった)

 この前のエントリの長崎の平和団体の例でもそういった急進的な人々が行動を起こしたのかもしれない。

 このような行動は徒に対立を煽るもののように思うし、できれば協調すべきところは強調すべきだと思うのでいただけないものだけれど、彼らの行いは心情的には分かるところがあるし、それをもってヒバクシャや平和活動全体を否定すべきものではないだろう。


 「ヒバクシャは他者に対してもうちょっと寛容であるべき」といえるかもしれないけど、それを押し付ける権利は誰にもない。そういった想像力を部外者(他者)である人々は持つべきだと思う。

 反対に当事者である人々も部外者への想像力(寛容の心)を通じて得るものがあるのではないか? 何回も言っているように、「その声は誰に対して発しているのか?」、ということだし、「その声を届かせるためには他者(の利害)への想像力が必要」ということなのだろう。



 その中で「ではヒバクシャ(当事者)はどこまで譲歩すればいいの?」って問題もあるだろう。譲歩し寛容になるとはいっても限界がある。不用意に逆鱗に触れられれば怒りが生じるだろう。その限界はどこにあるのか..?

 これはケースバイケースだろうけど、少なくともヒバクシャということを盾にとって強硬な姿勢に出過ぎるのはいただけない。あるいは「被差別者は尊重されるべき弱者です」という立場を政治・経済的利用していくこと。それを通じて政治・経済的な強者に上り詰めること。これはまずいだろう。


 数々の運動の欺瞞が暴かれていった現在、そういったものが一番嫌われるわけだけど、「弱さ」を盾にとる人々はそういった視線に気づいているのだろうか?

 あるいは自らの中にある「弱さ」を利用した力への意志の存在に気づけるのだろうか?



 これからの運動の基本線はその辺りにあるように思う。
  
  

--
追記:
また読解力のない人から「よくわからん」とか言われてもアレなのでいちお補足。全体の主旨(結論)としては、<「当事者 / 非当事者」「被差別者 / 差別者」の双方に「やり過ぎ」が生じる危険性があるので、双方ともその過剰性を意識し統制する必要があるだろうな>、ということ。んで、「過剰か過剰でないか」の線引きをどの辺りにするかがポイントだと思うけど、それは当該運動それぞれの場においてケースバイケースだろうからよくわからない。

あと、蛇足的に

赤木さん個人の性質と彼が属している「弱者男性」運動(?)とは分けるべきなんだと思う。彼の主張がアレげなのは彼の固有の性質によるものだ、と。それをもって弱者男性問題全体をアレな視線でみるのも拙速なのだろう。(ほかの弱者男性も迷惑だろうし)

その上で、それとは別に赤木さん個人とかそれに類する性質を持つ人々に対する視線の問題がある。「ヤサシイワタシを許容する」ってことだけど・・・この辺は実際やってみるとむずかしいものだな。。(少なくとも彼らは「他者」ではないし)。......子どもでもできればまた違うのだろうか..

 
 









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2007年07月09日

上野女史曰く、「一杯飲み屋の女将になりたかったなぁ」

 社会学者話繋がりで。

 ビッグイシュー(vol.75 = 現在の最新号)に上野千鶴子せんせ(以下:上野女史もしくはちーちゃん)のインタビューが載ってました。インタビューのメインの内容としては、「若いころは私も将来の不安なんてレベルじゃないくらいせっぱ詰まってた」、ってことで上野女史らしい自由度の高い若気の至りについて語られてます。

 知ってる人は知ってると思うけど、上野せんせといえば有名なすごいフェミニストで若き日はフリーセックスで名を馳せた方なわけだけど、その辺については特に触れず..。ってか、「将来が不安で先行き見えなかった。でも、なんとかなるもんだよ」って話はこの雑誌の主旨にあわせたところもあったんだろうけど、上野せんせが語られていると、「それ、ちーちゃんだからできたんじゃん?」、って気になります。だって、「スカートの下の劇場」に載ってる写真の逞しいこと..。「逞しい」って言ったら失礼か ?.......えーと....野性味あふれる魅力をお持ちの方ですね...

 個人的には若いときの松山千春に似たオーラを感じます。(← 性的な意味で!)


 さて、そんなセクシャルライフの果てにいまのちーちゃんの歯に衣着せぬ毒舌というか、毒など通り越して「鉈の重さに剃刀の切れ味」ってところでしょうか? ......いや、斧かな。斧槍とか似合うかもしれない。

 知らない人用に言うと、上野せんせの毒舌というのは松任谷由美さんのそれに近いように思います。「毒」っていうかお二人ともはっきりした性格ということなのだろうけど。(お仕事できますしね)


 んで、まぁ、以下が肝心の箇所


研究者になってなかったら?

 一杯飲み屋の女将になりたかったなぁ。疲れた男たちに「グチ聞いてあげるよ」ってコップ酒を出すの。今からでもやりたいけど、体力いるから無理でしょうね。まぁ今も同じようなことやってますよ。居酒屋で愚痴っぽい男友達の話聞いて、飲ませて食べさせてサイフはこっち持ち、お金払ってホステスやって、便利な女だよね、ホントに(笑)

 

.....えぇ話や..って感じではあるのですが、面識もないわりにもっている勝手なイメージだと「...その居酒屋って寛げるんですか?」って感じがします。「寛ぎ」メインっていうか「ママの気さくなお喋り(毒風味)」というところで人気になるのではないでしょうか? あと、過去の武勇伝とか..。

 個人的にはマライアにも勝てるんじゃないかと思うんですよ。


「私が出るしかないようだな」 多摩のマライア・まとめ - 下載共有日報


 だって、ちーちゃん、目からビーム出そうだもの...。


 ってか、まぁ、やはりこの辺がポイントかな、と。

70年代後半、20代終わりにさしかかったころ、日本にも女性学という学問が登場しました。女性学を一言で説明するなら、それは女性の経験を言語化、理論化する学問ということができるでしょう。「私はなぜ結婚に希望を見出せないのか」、「母親はなぜ不幸なのか」とか、これまで生きてきた自分自身を研究対象にできるなんて目からウロコでしたよ。そして私は生まれて初めて本気でやりたいと思うことを見つけたんです。
 しかし、当時の日本の学界には、女性学を受け入れる余地はなかった。自分そのものを研究対象にする女性学は、客観性や中立性に欠け、学問とはいえないという扱いを受けたんです。それなら自分たちで"舞台”をつくるしかないってことで、女性学を学び始めた女性たちと一緒に研究誌をつくりました。それを10年続けたら学会専門誌がそこから引用を始めたんですよ。「ざまみろ!(笑)」って思いましたね。



 どこの業界でも「パイオニア(もしくは第一人者)は偉大」といえるかも知れないけど、上野センセの場合はそれに付け加えて並外れたバイタリティのようなものがあったように思います。こういう人はマライアの武力をもっても御せないのではないだろうか..? なにせ、「男社会」という大きな壁に対して立ち向かってきた人ですからね。覚悟の差のようなものがあるように思います。(それこそ死狂い的な)

 んで、ちょっと思うに。上野センセのやっておられるのはフェミニズムっていうよりは上野イズムってことなんじゃないですかね? いや、「オレオレ学」ってことではなく、上野センセが抜けた後って日本のフェミニズムって成立していくんですかね?....(門外漢の素朴で田舎者な疑問として)


 なんとなくですが、以前に話題に出てきた「男女間の経済格差の問題」、あるいはそれをベースにした主導権の違いの問題なんかについて、フェミニズム的アプローチで大丈夫なのかな、って気がします。(っていうほどフェミニズムのこと詳しくないのだけれど話を続けます)



 でも、やっぱ、「主導権格差の解消のためには女性も力を持つことが必要」ってことだとここで言う「力」として具体的に考えられるものというのは「金」か「物理的力」ってことですよね。んで、通常なら「物理的力」のほうは身につけにくいので「金」のほうに行くわけだけど、女性の場合は「金」のほうの開始条件が違う、と。

 この辺は問題だな、と思ってます。



(※いちお断り書きしとくと、ぼくは女性の権利について考える立場をとりつつも現在のフェミニズムの研究動向には疑問(批判的視点)をもってるんですね。もっとがんばってほしいので。っつーか、ぼくが勉強不足なだけかもしれないけど )



 フェミの人たちは、「社会(主に男性)の意識改革を!」、と叫ぶけど、じっさい、職場で働いてる女史の方々からすると「そんなこと言ってもなぁ」って現状があるのではないでしょうか? だって、アレげな考えなおっさん達が「正しい意見」をさらに正しくしても聞くとは思えないしなぁ..。

 んじゃフェミの人って具体的にどういう戦略考えてるんだろう、って感じがします。


Ohno blog(2007-07-09):結婚と経済


 こちらでは「ジェンダー規範の変化を!」と言っておられるわけだけど、それでおっさんの意識は改革されていくのでしょうか? それともおっさんは関係なくて、「ダンナの意識さえ変わればいい」ということなのか? でも、それだとけっきょく結婚を前提条件に生きないといけない、もしくは男性に比べて「結婚」が「生存(人生)」に占める割合が高い、という現状は変わらないですよね?

 「結婚をそれほどしたくない女性」がこれから先も充実した人生を送るためにはやはり独立でお金を稼げる状態が必要だと思うんです。

 リンク先にもあるように「出産による育児休暇」あるいはそれを勘定に入れた女性の雇用枠のびみょーさの問題も重要だと思うけど。(あと、長期離職後の職場復帰の問題とかもありますね)


 こういうのを男性が理解する場合には極論すれば「男に子どもを生んで育ててもらうしか」ってことになるのかもしれないけど、それ以前に主夫の問題もありますね。

葉っぱの「歩行と記憶」 - 身も蓋もあるお話


【第2回】語られざる男性差別 (数字で見る男と女の働き方):NBonline(日経ビジネス オンライン)


痛いニュース(ノ∀`):インリン・オブ・ジョイトイ 「日本人の男尊女卑的な考えがキライ」


(インリン話をちょっとだけ補足すると、台湾では男女ともに料理を作るのが普通なのでインリンは料理ベタらしい。でも男性優位社会らしいけど)



 っつーことはやっぱ「男性学(≠非モテ男史問題)というのはフェミニズムと似ている」ということになる...(のか?) ちなみにぼくは家政的なことは苦手なので主夫は無理ですが。(不器用なのでやらせないほうがいいと思う。手伝える範囲はするけど)

 
 そういえば戸田誠二さんのマンガに「男が子どもを産めるとしたら?」って作品がありました。(「クバード・シンドローム」@「説得ゲーム」)


 そこでは男性は数々の不安や恐怖、生理的な変化による身体の異常(不快)に耐えながら出産のときを迎えるわけですが、その段になってやはり「....死ぬんじゃないのか」という恐怖に襲われます。で、ブラックアウトして気づいたら赤ちゃんが側にいるわけですが。

 出産まで(あるいは出産時)の葛藤とか、仕事人間だった男性が出産後に変化した様子(あるいは男性の父親の変化)はなんかいろいろ参考になりました。




 まぁ、そんなこんなで後半いつも通りぐだぐだ〜っとした話になってしまいましたが、やはり必要なのは相互理解ってことなんですかね..。

 でも、やっぱ金銭的保障というか制度的保障って必要だと思うんですよね。「ジェンダー規範の変革」でそれが可能....なのか..?


 でも、上野センセもおっしゃっていたように、コツコツと積み上げていったからこそ確立されるものがある、ってことなのかもしれない。「焦りは禁物」ってことですかね。




 ちなみに、ビッグイシューの次回のゲストは同じく社会学者の阿部真大さんだそうです。一個前の号では姜尚中さんが出られててやはり「若いころは先行き見えんかったなぁ」と言っておられました。



--
関連:
コンプレックス・プール

※戸田誠二さんの作品はこちらで立ち読み(?)できます。
 
 
J-CAST ニュース : 男性の年収400万円で結婚OK おカネよりは「手を取り合う」時代

※低空ダブルインカム狙い増えてるみたいですね。どこまでホントか分かんないけど。



【第1回】建前論では難しい、日本の女性活用 (数字で見る男と女の働き方):NBonline(日経ビジネス オンライン)
 
※「米国に比べて日本ってけっこう恵まれてるのか?(うんぬん)」
 
 
posted by m_um_u at 22:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年07月04日

クローズアップ現代を見て、「大学の知と企業を繋ぐために必要なもの」について考えてみた

 五号館(stochinai)さんのところに昨日のクローズアップ現代関連のエントリが上がってて、ぼくも見たので関連で思うこと述べつつTB差し上げとこうかと思う。まずはこちらから


5号館のつぶやき : クローズアップ現代「にっぽんの“頭脳”はいかせるか〜苦悩する博士たち〜」


 やはりstochinaiさんも放送内容に対して違和感を覚えたらしくて、その辺のところについていろいろやんわりと諭されている。stochinaiさんの場合は若者の研究離れを気にされているのでその辺の配慮を中心に、「あの番組内容ではまた若者離れが進むだろうな」という心配がメインみたい。

 まぁ、こういうことだけど


クローズアップ現代でも、ポスドク残酷物語を放送していました。内容は、例によって例のごとしで、博士号を取得しても大学の研究者になれずに不安定なポスドクを続けているとか、子供が生まれたのでポスドク生活をやめて企業の営業職に就職したとか、いう話です



 「これ見て若者引くだろうな」、と。ほかに論点として気になったところとしてはこの辺


 私は、国も民間も含めて博士がどのくらい必要なのか、ポスドクを経験した研究者がどれくらい必要なのか、そうしたことをはっきりと把握した上で、大学院および博士研究員をどうしていくべきなのかという議論が必要だと思っていますが、そういう議論は中央教育審議会や「教育再生会議(笑)」で行われているでしょうか。


 
 「とりあえず博士乱造しといて受け皿用意しないのってどうなの?」、と。ってか、「<とりあえず作る>のではなく<必要だから作る>の視点がないんじゃないの?」ってことか。

 同意です。


 この辺は大学入学のインセンティブ関連で以前に福耳さんとのお話でも出てきたけど、


福耳コラム - 高等教育の構造的問題を解決するには


 やっぱ就職先が決まってないと大学(もしくは院)の魅力が薄まり入学者数が減っていくって問題はあるでしょうね。


 あと、ほかの論点として、「大学院の専門知の事情」についてstochinaiさんのエントリコメント欄で議論が展開されていますが、こちらはちょっとパスします。(※この議論も重要そうだけど長くなりそうなので)


 
 それでまぁ、以下は個人的に思うこと


 まず番組の感想から言うと、印象としては3〜40点ぐらいの出来でしょうね。五号館さんのコメント欄でも少し書きましたが企業の論理が中心になって「大学院生は頭でっかちで使えない」「大学院に行くようなやつは頭でっかちになる素養がある」みたいな通念を涵養しているかのような印象を受けました。


 というか、そういう社会的通念を元に番組が構成されたのでしょうが、番組の本来の目的はおそらく「学術の現場(研究)とビジネスを繋ぎ、活かされていないリソースを活かすということ」、だったはずですよね?

 ぼくが見た限りではその目的は達せられていなかったように思います。

 stochinaiさんもおっしゃっていたように徒に博士(あるいは以降)の研究環境の悪さ、閉塞性などを見せるだけで「その情況をどうすれば改善できるか」、「どうすればビジネスに活かせるか」という視点がすくないように思いました。

 ってか、すこしだけあったか。ジェネラリスト系のポスドク、スペシャリスト系のポスドクの資質をうまく活かした企業の例があがってましたね。でも、これひとつだけで番組の大部分の論調としては、「大学側が専門知に固まりすぎてつかえねーのが悪い」、みたいな言い方でがっくりきました。(ため息)


......えーとですね。専門的な研究やってるんだから専門知になるのは当たり前ですよね? で、「研究者系はコミュニケーション能力がなくて使えねぇんだよ」みたいなこと言いたかったみたいですが、番組中のいくつかの例でも見られたように、ジェネラリストとしてコミュニケーション能力を発揮するタイプもいたし、自分とはまったく畑違いの分野の仕事に就いてる人もいたわけですね。なので、「やってやれないことはない」、ってことなんだけど....。

 そういう文脈で、「大学院にもコミュニケーショントレーニングを」みたいなのもなんだかびみょーな感じがするんですよね。


 要は「それってなんぼのものなの?」ってことです。


 ビジネスな人たちは大学や学校に対するご自分たちの優位性を保ちたいのでしょうからことさらに「コミュニケーション能力がぁぁぁ」とか「人間力がぁぁぁ」みたいな意味の分からない単語を並べてこられるわけですが、それってほんとに「力」って呼べるものなんですかね?


 ぼくからすると、「くだらない会議を寝過ごすための能力ですか?(いわゆるスルー力、鈍感力というやつ?)」、ってほどでしかないんですがそれほどにビジネスマンな方々の能力は優れているとおっしゃる?



......まぁ、そう思いたければそう思えばいいでしょうけど、いちお言っておくとそれって単なるルサンチマンっていうか、「能力がないので人の能力を測れないんだな」って程度のことでしかないですから。

 卑近な例を出すと大学時代にスーパーのレジ打ちのバイトをしたことがあるんですが、まだ慣れてないころに少しミスをすると「大学に行ってるのにそんなこともできないの?」などと言われたのを思い出しました。

.....いや、大学はレジ打ちのための専門学校ではないからね。



 それと同じことをあの番組全体から感じました。(暴論ですが、一部企業関係者から大学機関への蔑視を感じるのでそれとバランスをとるための対抗言説ととっていただけるとありがたいです)



 で、本来ならそういった事情(専門性を身に着けるためにどのような環境が必要か、もしくはどのような環境が強いられているのか?その問題点はなにか?)について、ゲストで呼ばれた方が解説すべきだったんですが、その辺ぜんぜんスルーって感じだったんですよね。(これがスルー力ってやつなのかぁぁぁ!?)


 えっと....東大の先技の方でしたね......... あぁ、この人だ


研究者リスト スタッフ | 東京大学 先端科学技術研究センター:澤昭裕教授

 えーっと、通産省上がりの方でしたか.......んで、省のお金でちょっとだけ留学、と。じゃあ、ビジネスも大学も通じてないじゃん(なんか納得)



 なんでこんな人ゲストで呼んだんですかね?


 なんかもう......ほかにも著作とかなんやらプロファイルする気だったのにやる気が失せました。



(・・・・ダメダメじゃん)




 この人、理系の研究室でよくある丁稚制についても理解してないし、院生の不安や学術の喜びなんかも全然分かってないのでしょうね。そして、ビジネス側の人たちがどのような人材を欲しているかということについてもインタビュー程度の表層的なところでなら知っているかもしれないけど、実際、どのような人材が使えるかなどについても全然分かってなさげ。




.......はぁぁ......




 まぁ、いいや話を続けます。



 よく「企業が求める人材」としてジェネラリスト(あるいは「多能工」)が上げられるわけですが、それ関連のこちらのエントリでも少し考えたように、ジェネラリストやスペシャリストを発掘するためにジェネラリスト(もしくはジャーナリスト、あるいはそれ系の情報ポータル)が必要になるわけですよね。


muse-A-muse 2nd: レッスルするアカデミズム? (学問とジャーナリズムの間)


 そういうものがまったく見えない....。


 ぼくが見えてないだけで、NII辺りでなんかやってるんですかね?


 ってか、見えてないからこそ五号館さんのところやARGの岡本さんのところに企業の目が集まってるんだと思うんですがね。



 そんな感じで企業側から大学研究を気にする目というのはあるように思います。それが多いか少ないかは別にしますがアテンションはある。でも、それを活かせてないんですよね。

 企業の側からするとそれは「大学関係者が金に興味がなさ過ぎるからだ」ってことになるかもしれないんだけど、そう単純なことでもないように思います。


 「金」に興味がある人もいるし、「金」というか自分の研究が広く世に知れ渡り世の中の役に立つことに対して関心がある人は多いように思います。そして、それだけの力を持った研究(金になる研究)というのはけっこうあるはずです。(じっさいぼくも一件知ってますし)

 でも、それが企業側に届かない。それはなぜかといえば、研究者というのは主に研究をする人々であり広報をする人たちではないですからね。オファーがくれば考えてもいいかもしれないけど、研究を発掘したり世に知らしめるのは研究者ではなくその周辺関係者、もしくは学術ジャーナリズム的なものであるべきはずなんです。

 
 でも、機能してない。


 「周辺関係者」とは具体的に大学の事務方、広報や窓口などを勤めるところですね。ここがインタラクションコストを引き受けるべきなのに、全然そういうことはしようとしない...。してるところもあるのかもしれないけど、ぼくが見知ってる範囲では「大学の学費運営で手一杯だからぁー><」とかなんとか言い逃れ窮状を嘆くにとどまってます。

 「んじゃ、いいよ。オレが直接交渉に当たるよ」って研究者の方もおられるように思うんですが、そうすると煩雑な手続きが待ってるんですね...。(「一部税金で運営されている大学が営利目的で動いていいのかぁ〜?」とかなんとか)


 ボトルネックっていったらその辺なんじゃないでしょうか?


 人間の能力....っていうか、ジェネラリストだなんだとかいうのはそれこそ少し時が経てば解決される問題なはずですし、想定される当該プロジェクトに対して当人の資質が見込まれるのなら、「企業教育」にかけた時間(コスト)はすぐに回収できるはずなんですよね。

 やはり、「採用担当者に見る目がない」、の一言につきるのではないでしょうか? ジェネラリストだなんだいうのはそれを隠すための言い訳にしか聞こえません。


(※誤解しないで欲しい..ってか、勘違いされてもどっちでもいいんですが、ワタシ、企業とかなんの魅力も感じていないので。ルサンチマンでこんなこと言っているのではありません。単に知的リソースがダブついているのはもったいないな、と思ってるだけです)



 で

 そういったリソースを活用するために、そういったいわばセミプロの人々がジャーナリズム的に専門知とビジネスを繋ぐ橋渡しになればいいと思うんですが、その際のビジネス的なインセンティブもあるとなお良いように思います。


 んで、こちらの後段で出てきた情報センターの話に繋がる


muse-A-muse 2nd: 当て逃げ事件を巡る言論活動からraw journalismのあり方について再考してみた



 問題は、「そういったセミプロ的な人が専門知を解説するノードとして機能するとして、その金銭的インセンティブを保証するために企業側が金を出すか」、ってことなんですが......。この辺正直分かりません。


 essaさん辺りなら「出すよ!」と楽観されるかもしれませんが、ぼくはそこまで楽観論者ではないので。




 でも、やってみる価値はありそうですね



--
関連:
muse-A-muse 2nd: 大学教育について(上下分離の必要性など)

※大学運営関連で、<「教育」的機能と「専門研究」的な機能を分ければよいのでは?>、という試案。本エントリに絡めれば、「教育」的な機能のところが大学広報というかジェネラリスト的な機能を担っても良いかもしれない。(と、後先考えずいってみるw)

 

muse-A-muse 2nd: インセンティブと教育の質について

※「日本の研究って通用するよなぁ?」関連。この後段でも「余っている知的リソースの有効活用はないかいなぁ」とぼけーっと考えたり..。



muse-A-muse 2nd: 教養について ver.2.0

※「学ぶこと」と「お金を稼ぐこと」ってそんなに離れたものなのか_、について。ムダに長く考えてみたエントリ。後で見直してみよう。



インタラクティヴ読書ノート・別館:真剣中年しゃべり場

※今回のクロ現では理系の研究職の話が中心だったけど、「文系はどうか?」って話。「企業の求める人材とは?」「(有名)大学の知は通用するのか?」「通用する知を育てるにはどうしたらよいか?」など論点多数。

 
 


ハコフグマンさんのところにも感想あったのでついでに(失礼)TBです


ハコフグマン: クローズアップ現代「にっぽんの“頭脳”はいかせるか〜苦悩する博士〜」


 
--
追記:
丁稚制(徒弟制度) についてお話してなかったのでいちお。理系や、一部のお堅い古風な文系研究室では学生はボスの指示する研究課題以外取り組めない、ってやつです。なので、そこに「自由な研究課題を模索するうんぬん」なんて情況はないんですよね。だって、それ断ったら「研究室来なくていいよ」になるわけだし。
 
ついでにいうと、そんな感じの古風なところはボスの仕事の手伝いは必須だったりしますね(もちろん無給)。んで、自分のやってた研究も名前差し替えられてせしめられたりすることもあるし...。

全部が全部そういうわけじゃないけど、そういった因習があるところもあるし、基本的に特に理系は研究課題の選択の自由度が低いのではないでしょうか?

なので、「自由な課題設定能力が必要」とかなんとか言われてもなぁ、って感じはします。

変えるべきなのは学生(もしくはポスドク)ではなく、そういった制度のほうだと思いますが?
 
 
タグ:大学 学術
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2007年07月02日

モテない系日本 (男女間の非対称性を巡る攻防について)

 なんか、どっかのSEOらーの方がタイトル先行なSMOとったみたいなんだけど廻しが外れかけてるみたいで大変ですね。blogだからっていい加減なこと言ってると化粧廻しとられちゃうかもしれませんよ?w
 

 さておき、

 中身のないエントリかつどーでもいい内容なのでスルーしようかと思ってたんですが、 これへの対抗言説やら反応やらでちょっと見知った人とかけっこう親しい人とかが反応してて、それ読んでるうちに内田センセばりのアイデアが浮かんだのでちょっと吐き出とこうかな、と。

 
月がでたでた月がでた - 火曜サスペンス劇場 [精神的ブラクラ注意]


NC-15 - 一部のバカを取り上げて、その属性全体の罵倒に使う真似は不毛なのだが


HPO:機密日誌 - 男性学確立の必要性を訴える あるいは 「話を聞かない男、地図が読めない女」


 id:tomomoonさんのエントリは件のネタエントリに対する対抗言説(カウンターネタ)なのでちょっと偏向あるかもしれませんが、言ってることはごもっともだなぁ、と。個人的にはこちらのほうにむしろ共感します(理由は後述)。

 でも、これって各家庭で個別に解決すべき問題であって、これをして「男性一般」とか「女性一般」の問題にはできませんよね?具体的に言えば、「男はみんな女を奴隷と思ってる」とか「女はみんな鬼嫁化する」とはいえない。元ネタとなったエントリではその辺の処があいまいにSEOられているようで気になっていたのですが、そのあたりについてはid:muffdivingさんが代弁してくれてたのでいいです。

 件のエントリはいわゆるダメな議論ってやつの典型なのかもしれませんね。



 んで、最後にid:hihi01さんですが.....


 おっしゃることは分かるんですが、これもちょっと急進的というか偏ってるなぁ、と。


 「非モテ」系男性学というと某「非モテっていいつつケッコンかよ。しかもネゲットって、なんだその軽さは? "饅頭怖い”ってやつか? てめぇ、調子のいいこといってんじゃねぇぞ、この○○○○野郎がっぁt!!」な人の得意分野なのでしょうが、彼はケッコンという安息(?)を得たことにより牙を抜かれてしまうのでしょうか? (反意語)それともこれこそが彼の新たな戦いの序曲となるのか!? とりあえず、けっこんおめでとーございます (←棒読み)


 
 
 閑話休題


 
 んじゃ、ここらでぼく自身の思うところ..というかネタエントリでも投入しときます。


 まず、この問題というのは「男女における収入の格差」というのがベースにあるはずですよね? 「女性の進出著しい」とは言っても、男女の収入差、高収入な職業に就ける割合というのはまだ差がある。

 いちおこんな感じで


図録▽女性比率の推移


 減ってはいないけど横ばいって感じです。

 ってか、「国の審議会委員」の伸びがやたらすごいですね。あとは「参議院議員当選者」とか。「研究者」も地味に上がってますか。


 でも、社会全体で見たときに女性が能力に見合った責任あるポスト(それに見合った収入)を得ていると言えるのか...? この辺り、疑問があります。

 そういった高収入・高ステータス系な職業(あるいはポスト)以外の部分でも、もっと基礎的なところで男女の収入差が埋められるようになっているのか? そういう疑問があります。


 んで、収入や地位の差がそのまま「自立」というか「個人が自由に発言できるかどうか」、もしくは「発言したとしてその発言が聞き入れられるかどうか」というところにつながってくるように思います。(※細かい例外は捨象します)


 対して、「働く女性率が増えれば女性の発言権は増えるのか?」、って問題もありますね。中国なんか思い浮かびますが。


図録▽女性の年齢別労働力率(各国比較)


 こちらのグラフでは中国は一番高い位置にいますけど、中国(内陸部)の女性蔑視ってのはすごいですもんね。「嫁は市場で買ってきた」を地で行ってるところなので...。(で、奴隷のようにこき使う)

 まぁ、主に農村部の話なんだけどう日本の農村部(ほか田舎)で女性の権利が確立しないのともなんらかの関係があるのかもしれません。(暴論だけど)端的に言えば、<単純労働を中心とした地域では女性蔑視が根強く残っているのでは?>、問題。肉体労働を中心とした単純労働では男女差がモロに表れるので女性蔑視につながりやすい、ということなのかな? (cf.「そんなものも持ちあげられないのか、この役立たずが!」)



 ってか、話がそれたので戻すと



 とりあえず「男女」を巡る議論では基本として以上のような、<社会構造的に埋めがたい収入差がそのまま男女の権利差につながっているのでは?>、ということがあるように思います。つまり権利における非対称性の問題。


 タテマエとして「男女同権」とは言っても蓋然的な男女差別というのは存在しているので(cf.「女は刷る機械」)。そして、社会進出がままならない女性の保障が切られていっている現状がある。


 それに対して、行き過ぎた女性の権利礼賛、アファーマティブアクション型の男性差別の問題というのも実際にあるのでしょう。シングルマザーに対して「シングルファザーは養育費なんて望めないんだ」問題とかも。(参照


 ですが、これはいわば例外の例外のようなものでして、これをして「女性はこわい」だの「鬼嫁ばっかだ」などというのは如何なものかと...。分かりやすく言えば、黒人ほかマイノリティへの一部の優遇政策をして、「黒人こわい」だの「黒人は犯罪者ばっかだ」などといっているのと同じですよね?

 それで、それ系の発言を見るたびに「なに言ってんだろ、この人たちは?」って気になるんですが、そういう発言をする人々がいるということは実際になんらかの苦痛やプレッシャーを感じている場が存在するというのも事実なわけで、その辺も考慮しないといけないなぁ、とは思います。



 で、具体的に考えると良く分からないので、抽象度を高めアナロジってみようかな、と。 内田樹メソッドですw


 めちゃモテ日本 (内田樹の研究室)


 こちらのエントリ自体はタイトルとちょっとした思いつきだけのどーでもいいエントリで、「CanCam × 樹 × 外交 ってとこが受けたのか?でも内田センセは前からCanCamってるしなぁ」みたいなこと思ってスルーしてたのですが、そのことについては後日の日記で内田センセ自身も言っておられたので良いです。

 それとは別に、ここで出てきたアナロジー(外交力と女子力)はそのまま軍事関係のアナロジーで使えるな、と思いまして。


 以下、ネタですが、投入前におさらい。女子力とは

ARTIFACT@ハテナ系 - 脱臭セレブとしてのエビちゃん
 
化粧とかファッションへの力の入れ方で構成されるパラメータ



 んで、これで武装した人々が高出力ビジン兵器に変貌していく。


muse-A-muse 2nd: ビジン / ワセジョの事情



 イメージとしてはモビルアーマーっすね(美具寒)。その周辺に座句やら事務やら元旦句やらがいるわけです(具負とか土無も)。天然美人はガンダムかなぁ...。(赤い彗星とか)


 で、女子力に対する男側のパラメータとしては攻性防壁的な閾値が設定されると思うんですね。つまり、「ときめくな、オレの心!」((C)覚悟のススメ)的な踏ん張りのようなもの。そのタガを巡って女子力と男性防壁の攻めぎ合いが生じる。

(※脳内イメージでは「男子防壁 = だんご防壁」なのでだんごでできてます。その甘み防壁を女子的腹ペコ衝動が食い破るといったイメージも可)

 

 てか、現代のARMS状況においてモビルスーツ(以下、MS)なんてのが投入されると軍事バランス崩れまくりになるんすよね。それこそF22もボコボコにされるぐらいの差があるんじゃないでしょうか?



 あるいは軍事アナロジーをもうちょっと進めると有名なMADの論理がありますね。例の「相手を殲滅するぐらいの兵器をもっているもの同士は争わない」ってやつ。

 そう考えると「やはり争うもの同士が同等の力を持てばよいのか?」ってことになるんだけど、そうすると冷戦が生じることになるんですかね?


 夫婦間の関係において冷戦の時期として思い浮かぶのは倦怠期に差し掛かったころ、って感じかな。でも、大部分の主婦はダンナと同等のリソース(収入源)を持っていないはずなんですよね。

 男性学的な視点をとる人からすれば「それでも女が強くなってるのは事実だから」ってことなんだけど、リソースのない状態で権利を主張できるってすごいですよね。高度な外交術だと思います。その際のリソース(人質)というのはやっぱ子供なのかな? 「子供ができると女は強くなる」? (よくわかんないけど)


 どっちにしても高度な外交術だなぁ、と。


 再び軍事、あるいは外交アナロジーに戻ると、この関係というのはアメリカと日本の関係にも似てるように思います。アメリカへの蓋然的従属関係をとらざるを得ない日本というのは主婦的な位置に近いかな、と。

 実際、軍事においても「おまえは出しゃばってこなくていいから後方支援してろ!」って感じでしっかり後方支援は命じられてるわけですし、その割には市場開放とかいろいろな難題は突きつけられるんですよね。でも、アメリカがいないとやってけないのも事実。



(※「家計と国家外交を同等に扱うな」と言われそうですが、今回は「家計」から「外交」を見るのではなく、「外交」から「家計」を見るので別にいいかな、と。そういうわけで続けます)
 


 そういった事態に対して、内田センセは「めちゃモテで行こう!」とおっしゃるわけですが、「めちゃモテ」まではムリなような気がします。せいぜい「敵を作らない外交」って程度ではないでしょうか?(実際、女性誌の方向性もそっち方面に変わってきてるみたいだし)


 んで、「敵を作らない」のを優先しつつじわじわっと共感を集めていく、ってところではないでしょうか?あんまり「めちゃモテ」ビームを出しすぎると周りに人たちも引きますしね。(狙うとしたらモテない系ってやつかな?)



 まぁそんなこんなで、やっぱ「当事者同士だけで衝突せずに周りの意見も聞く(周りを味方につける)」ってのが肝要なのではないでしょうか?


 あるいは「連邦の白いヤツは化け物か!?」ぐらいの実力がつけれたら別かもしれないけど。ニュータイプってのは疎んじられますよね。(カミーユの悲劇)



--
関連:
もしくは萌え萌え日本とかね


muse-A-muse 2nd: 萌え将軍とミニマリズム


muse-A-muse 2nd: 縮小国家用メモ:内需は守るべき


ここからのアナロジーで言えば、「無駄遣いはせずに家庭を第一に考えましょう」、って感じですかね。(ベタだけど)
 
 





タグ:外交 男女 ネタ
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2007年06月25日

life「運動」から(2):持続的運動に必要なものと「自由」のための設計図 (国家・市場・情報)(仮)

 こんな時間に更新したくないのだけれど、ちょっとメモ的に。できるだけ簡単に。

(※ほんとは書き留めたメモの字が汚すぎて、後から見返しても何かいてたか分からなくなる危険性があるのでw)



 ↓を再び聞いた


「運動」 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


「運動」Part2 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)



 で、自分的にポイントの整理。


 まず、運動的なものの目的として


 外山さんと松本さんは「管理に対する反発」というようなことを行っていたように思う。

 その部分への違和感とか、その違和感を前提として楽しむことが第一義的な目的だ、と。



 で、



 そういった運動が一度きりのお祭り的なもので終わらず持続し、体制側に対してなんらかの効果を持つためには「お勉強が必要」、と。


 この「お勉強」に関して、各人の意見が分かれていたように思った。


 外山さん的には「ファシスト的な哲人政治(オピニオンリーダーによる一元管理)」のために「ファシストとなるためのお勉強が必要」、と。


 松本さんの場合は、「お勉強じゃなくてノリでいいじゃん」、って感じ。


 鈴木さん的には、「<運動>って感じで花火あげなくていいから、日ごろの小さいけれど重要な選択の中で間違わないためにもお勉強が必要」 と。


 だいたいこんな感じだろうか。



 鈴木さんの「小さな選択」について、具体例としては選挙の投票とか、森山さんの話(※podcast:「ラジオ版 学問ノススメ」)の中に出てきた「日々の消費行動における投票」みたいなのが考えられると思う。

 後者はたとえば「この企業は環境問題に対してイカンな態度を示しているので不買しよう」とか「この企業は軍需に加担したから不買しよう」とかそういうの。


 狭義の投票が「政治的投票」だとすると、後者は「経済的投票」といえるかもしれない。

 <そういう形で小さな運動(意思表明)はできる>、と。


 そういうのはぼくが「小さな革命」と呼んでいるもので共感できるものがあった。そういう意味で鈴木さん的な立ち位置(<ムリに運動的なものに参加しなくても、生活の場で意思表明や運動的なものを実践し、問題意識を持ち続けることはできる>?)に共感。

 そして、その意思決定の有効性を保つために「勉強が必要だ」、ということも。


 「運動」みたいなのに団体で参加すると自分の意見と違う意見にも流れ的に従わなくちゃいけなくなったりすることが多々あるけど、生活における個人的な選択であればそういうのからは自由だったりする。



 
 でも、lifeのギロンとしては「お勉強」(教養)というところを境に立場が分かれてくる。



 「お勉強できる人は少数だし、お勉強できる人の言葉を理解できる人は少数だ」、って問題。


 平たく言えば、<少数rエリートによる大衆支配ですか?>、と。

 んで、そういう「エリート」ってやつはしばしば観念的な教条主義に陥ったりする危険性があるということだろう。(かつてのサヨクのように)


sjs7のブログ - 21世紀における政治活動の困難さと展望

本当は増田に書くようなことじゃないのかもしれないけれど

大学の自治会を偽装していた極左暴力セクトの実態




 そして、世間は「大衆」によって作られているものだし、そういう人々のリアリティというのは「偉い人たち」からすると動物的なものに見えるのかもしれないけど、リアルな生活の意識だったりする。


 「そういう人々の声が反映されない意見形成というのはなんなのですか?」、と。


 この辺のところは番組後半に森山さんが訴えていたように思う。(「おっぱいパブのにーちゃんも理解できるのか?その声も反映されるのか?」)


 この意識というのはもうちょっと進めるとこの辺に当たるだろう。


外山恒一さんと三度接触、匿名的権力と管理なき管理(@ish)

わたしはヤンキーおよび広義の「元ヤン」こそが無名の群れとして日本を作っており(東京人の多くも所詮はヤンキー的地方人が気取っているだけ)、ヤンキー的精神への訴求力と覇権には深い関係がある、と考えている


 
 要するに日本社会というのはけっこうな割合でDQNなのだろう。


 って、この辺ちょっと語幣があるかもしれないけど、いまはメモということでとりあえずすっ飛ばす。

(※ishさんのエントリ主旨もきちんと要約したほうがいいのだけれど、そこも省略)


 で、


 そういった大衆(DQN)の身体性(肌で感じる生活の実感)にこそ本来の人間的な要求というか実感というものがあり、「そこから生まれる要求・思考こそがホンモノ」としたのが吉本隆明って感じだったのだろうけど、あの人の言説は未チェックなのでその辺も保留。


 ただ、感覚的に、「やっぱノリが重要」ってのと「身体に訴えるものが必要」みたいなのが近いように思う。


 要するに「共感」の問題。



 「どんなに正しいと思われることを言っていても聞いてくれる人(共感してくれる人)がいなければ言ってないも同じ」、だし、「正しいことなんてその時代情況や気分によってコロコロ変わるもの」だったりする危険性もある。



 で、


 そういった問題に対して外山さんは、「正義を理由に運動に参加するのは下品だと思うんですよ」、みたいなことを言い、「自分のための訴え、あるいは自分の同胞のための訴えにとどまる運動こそ本来の運動」、みたいなことを言う。

 つまりパトリであり愛郷心ってことで、ファッショってやつなのだろうけど。


 それに対して、「それって自分たちだけがよければよいってことですか? だったら結局椅子とりゲームの椅子主がすげ変わっただけじゃないですか?」、って鈴木さんが批判してまったくその通りだな、って思ったり。


 外山さん的には「正義」と「同情」を振りかざす偽善的なものよりも「少なくとも自分の問題」に終始する運動のほうが潔いということで、その気持ちも分からんでもないのだけれど...


 やはり、鈴木さん的な意見のほうに共感する。


 未だその理由についてうまくいえないが、「(直接的に)自分の問題ではない」ことにもコミットすることは必要だし、コミットするための理由づけとして「善(正義)」あるいは「他者への共感」が設定されるように思うから。社会というのはそういうものを必要とするように思う。(cf.関係性



 問題は「正義」や「大義」が教条化するかどうか、というところなのだろう。


 あるいは


 「正義的な意識から発する呼びかけが共感を呼ぶかどうか」、というところ。



 それは決して偽善的で欺瞞的な上から目線の同情心というわけではないのだけれど......そういった気持ちが伝わるためにはどうしたらよいのか..?


 そして、そういった意識が観念的な固定化に陥らずに社会全体にとって便益を維持する視点と接合するためにはどうしたらよいか...?




 ここで合理性と自由の問題が絡んでくる。あるいは、「教条的になりがちな"正義”を多数決で裁いてもらう」、ということ。その意味では「投票と自由」ともいえるか。(投票による「自由」の評価)




 個人による自由の拡張に対して、多様性の暴走を統制するために国家は物理的暴力を後ろ盾に行き過ぎた自由を統制する。

 もしくは行き過ぎてなくても「目障りなハエ」はたたき落とす。(あるいは「蝿の王」の象徴をたたく)


私が手を染めた恐るべき犯罪の全容 (前衛政治家・外山恒一 ブログ)


外山陣営はすべてがトロすぎる


 

 そういった暴力性というものは国家(リヴァイアサン)が持つ先天的な性格なのだろうけど、それを抑制するために政治的投票権だけでは間に合わない。


 ここで登場するのが市場(ベヒーモス)。


グリゴリの捕縛 あるいは 情報時代の憲法について


 鈴木さんはsteve jobsの例を挙げて説明していたけど、あんな感じで、「行き過ぎた自由(ワガママ)」でも「市場的な力」を背景にすれば通るようになる。


 ベヒーモスを召還してリヴァイアサンと争わせる、ってことなのだろう。



 
 そして、ベヒーモスを統制するためのちくちくとした攻撃が経済的投票権ということになる。


 「グリゴリの捕縛」的にはグリゴリ(情報の力)が第三の力として絡んでくるということだったけど、ぼく的には「情報」というのは前二者のような具現的な力というよりは、両者を繋ぐ(増幅させる)間接材的な役割を果たすように思う。

 
 つまり、<メディウムとはinputを増大させたoutputに変えるもの>、ってことなのだろう。



 「ネットの力」なんていわれるのも「直接的な力」というよりはそんな感じの間接的なもの(繋ぐ役割)の性格が強いように思う。


 バックアップとかロジスティクスって感じ。



 その意味ではこちらのエントリ


荻上式BLOG - 「バックラッシュ」についてマスコミ学会で喋ったこと。


 の後段(ウェブ上で建設的な議論は可能か」について)で出てくる、設計思想というのはすこしエリート主義的な感じがする。(単なる印象だけど)


 って、ぼくも似たような考えを持ってしまうだろうけど....もうちょっと「共感」というところをうまくつなげないだろうか..。


 あるいはマーケティング的には「共感も設計できる」ってことなのかもしれないけど


muse-A-muse 2nd: カスケード的支援と持続的運動 (情報普及における質的投入の可能性 (仮))





 ってか、「共感」という意味ではやはり「人」か..


muse-A-muse 2nd: まれびと来たりて笛を吹く (多様性の可能性と限界)

 
 

--
メモ:
この辺、「アナーキー・国家・ユートピア」も絡むか..。
 
 


タグ:運動
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2007年06月22日

カスケード的支援と持続的運動 (情報普及における質的投入の可能性 (仮))

 以下メモ的に。

 例の光市母子殺害事件を巡って、ネットから電凸スクラムが生じ問題になったみたいです。


Baatarismの溜息通信 - ネットからの弁護士懲戒請求は違法か?


 要約すれば、<あまりにもアレげな弁護士団に対して「アホ弁護士は解任しろ!」的な電話要求が殺到して難儀した>、とのこと。

 
 んで、司法の独立性みたいなのを巡って云々ってなってる(...のかな?)
 このような電話スクラム(あるいはサイバーカスケード)として、最近あったものとしてはこれが思い出されます。


muse-A-muse 2nd: 平和資料館で「原爆投下=植民地解放」展 ?
 


 たしかに、こういう形で「ガッ!!」とたたかなければならない面もあるのだろうけど、「やり過ぎ」ということですよね。

 やりすぎると担当者も聞く耳持たないし、下手すると以降は窓口を閉じてしまうかもしれない。


 よく言われるように、「そういうスクラムをする人はお祭りに乗りたいだけであって、本当に情況を変えようとしているかどうかはびみょー」、って感じがあります。

 もちろん中には本気で情況を憂えて、勇気を振り絞って電話とかメールしたりする人もいるのでしょうが、祭りが佳境にさしかかってくれば来るほど単なる「お祭り(流行)だから乗っとけ!」感が強くなっていく面もあるのではないでしょうか?


 まぁ、「おぼれてる犬に石をぶつける」、ってやつなのでしょうけど...。


 あるいは、古くは死刑囚への礫投げみたいなのかな。「悪い」というレッテルを貼られている相手になら心置きなくストレスを発散できるので「とりあえず石投げとけ」、と。



 大衆心理って感じですね。


 関連でこんなエントリを見ました。


macska dot org » Blog Archive » 社会運動におけるネット利用と「運動マニュアル」


 北海道の自衛官(女性)へのセクハラに対して、有志がネットを通じて支援活動をしようとしているようです。その際、「要求をじっくりと相手に届けるにはどうしたらよいのか?」という視点からエントリが進めてあります。

 ポイントとしてはこの辺かな


そりゃ原告の立場に立てば、憎き被告のことなんて悪く言いたいだろうけど、その愚痴を聞いてなだめて落ち着かせてあげるのが支援者の役割でしょ。なのに、支援者が一緒になって言いたい放題被告側の悪口だとか自分たちの主張だけ書き連ねている。「誰に何と思われようと構わない、自分たちの怒りをぶちまけたいのだ」という運動があっても悪くはないけど、支持者を集めて裁判に勝とうという運動としてはとっても疑問。てゆーかそもそも、「非正規職員の雇用と生活を守れ」と主張するんじゃなくて「バックラッシュ裁判」をはじめてしまった時点で、戦略的にはもう負けてるんだけどさ。



 「バックラッシュ裁判」がなにを意味するのか良く分かりませんが、「教条的で固定的な旧来型の要求」って感じでしょうか?

 
 で、


 macskaさんとしては「そういった運動の進め方のまずさはあるのだけど」としつつも、kalliklesさんが進めようとしている運動のマニュアル化について疑問を呈しています。


 「マニュアルって言ったら一番有効なのはコンサル雇ってマーケって感じでっ展開することだと思うけど、それってびみょーだよ?」


 その理由として、コンサル的な視点では短期的な勝利を最優先するのでそれ用に戦術を練ることはできるし、有効なtipsは使えるのだけれど、そういった勝利が果たして運動にとって長期的な利益をもたらすのか、と。


 具体的には、同性愛者の権利を守るための運動の際の住民投票において、コンサルがとった手法というのは「この法案が通ったら教育にとって不利益だよ?」って感じで、「同性愛」から焦点をずらすことだったみたいです。

 でも、それで成功した。

 
 「勝ったんだからいいじゃないか」ってなりそうだけど、騙して勝ったようなものなので、同性愛について住民の意識は変わってなかったらしいんですね。


 で、「それって勝利なの?」、と。



 エントリ後段でも触れてありますが、マーケ的な手法(論理ではなく欲望や恐怖心を刺激する手法)というのは「それってホントに民主主義なの?」って感じがしますね。

 「inputを決めてブラックボックスに入れれば定まったoutputが期待される」って感じなのだろうけど..

 具体的にはこんな感じですが


ロリコンファル - 残酷な企業が支配する −バイラルマーケティング−



 で、先日のエントリ(SEOからSMOへ)にもつながってくるわけです。


muse-A-muse 2nd: スモーとってもまわしはとるな! (SocialMedia時代のサイト最適化関連)


 本エントリと絡めて考えると、

<旧来のマーケ的な手法が「量的な情報投入」を中心とし「伝える」というよりは「だます」(あるいはスイッチを押させる)というところを中心としていたのに対して、これからのマーケは「質的な情報」への転換が可能(...かも)>

って感じになると思います。



 っつっても、「それは理想論であって」みたいに言われるかもしれないけど、マーケ自体が量ではなく質に転換してきてるみたいなんですよね。

 それには例の情報の非対称性の解消が絡むのだろうけど。(要するに賢い消費者(ユーザー)ってやつ)


muse-A-muse 2nd: システムにおける多様性の必要性 (あるいは不完全なシステムの意義)


 情報が過多になると肩こりも生じる...。(ってか、処理しきれないほど膨大な情報の渦の中に実存が埋もれてしまう




 ということで、この手の問題というのは「送り手 / 受け手双方のさらなる技術開発が必要」、って感じになると思います。

 技術開発っていうか意識変革みたいなのかな。



 一部で「情報の非対称性の解消による完全合理性の実現は失敗した」なんていわれてますが、おそらくこんな感じで双方が歩み寄っていくことによってだんだんと見えてくるものなのではないでしょうか..?

 あとは合理性にかかわる要素を増やしていくとか


 そうでなければ経済学の意味なんてないですよね?





  以上、とりあえずメモってことで。本サイトの関連エントリはこちら



muse-A-muse 2nd: まれびと来たりて笛を吹く (多様性の可能性と限界)


muse-A-muse 2nd: 情報共有時代のコンテンツ


muse-A-muse 2nd: システムにおける多様性の必要性 (あるいは不完全なシステムの意義)


 「まれびと〜」は「情報化時代の運動のあり方」について、lifeの放送内容をもう一度確認した後に再エントリを試みようかと思っています。


 「情報共有時代のコンテンツ」は「マーケにおける質的なものの復権」関連って感じで。

 「システムにおける多様性の必要性」は「ノードを高度情報化しつつシステムのガバナンスを保つには (あるいはガバナンスを保ちつつ多様性を導入するには)」ということについて。



 いづれもケイゾク中です。

 
 
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2007年06月16日

システムにおける多様性の必要性 (あるいは不完全なシステムの意義)

 例のはてな村大運動会の余波かなんかか知らないけど、池田センセや小倉さんがまたしてももそもそと何かいいはじめていて、それを受けてはてなのほうが本格的に会議してアーキテクチャまで変えようか、って感じになってるみたい。

 
池田信夫 blog はてなの逆淘汰

naoyaのはてなダイアリー - はてなブックマークのコミュニティについて


 ギロン自体は論理の妥当性から測る姿勢が必要なんだけど、どうしても「お前が言うな!」感が付きまとう。だって池田センセってこういう人でしょ?


池田信夫氏のブログの問題点 LAW and SANCTION/ウェブリブログ



 要約すれば、「論理的に妥当なことを言っても相手にしない人」、って感じなのだ。そして、「自分に都合の良い意見しか取り入れない」、ってタイプ。もしくはそのときの気分でしょ?



 そういう人がなにをいってもムダなような気がするが....ご本人は一生気がつかないのだろうから仕方ないかなぁ、とは思う。(その鈍さも才能のひとつなのだろうし)


で、

「また言ってますねぇ。それってあなたの大っ嫌いなisedで既出な議論じゃないんですかぁ? そういやisedは参照してませんよねぇ。やっぱGlocom絡みだから?」、

とかなんとか思ってなまぬる〜く見守っていたのだけれどBaatarismさんが真摯に受け止めておられたのでちょっと考えてみることにした。


(※また長くなったので論点はエントリ最後にまとめてあります。分かりにくいだろうからそちらから参照してください)



Baatarismの溜息通信 - はてなブックマークは逆選択か?


 ポイントはご多分に漏れずここなわけだが

作者によっては、自説に都合の良い事実だけをブログで取り上げて、都合の悪い事実は隠そうとする人もいるでしょう



 Baatarismさんのスパイスがどの程度効くか....見ものですな(TB送ったのかなぁ)



 んで、お話の中身としては



 「情報の非対称性」の話を恣意的に捻じ曲げた池田センセの論旨に対して、「それって違うんじゃない?(ふつーに考えて)」って感じのエントリ。


 ふつー「情報の非対称性」というキーワードが出てくるのは、

「ネットなどによってユーザーが情報面でエンパワーされ、それまでクライアント(もしくはディーラー)にだけ集まっていた情報特権が分散化したので、ユーザーはより合理的な判断をできるようになった(あるいは「できるようになる」)」

 という文脈のはず。


 それがスタンダードな中古車市場(レモン市場)の例を引いた説明だと思うけど.............池田センセとぼくとでは見ている風景が違うのだろう。


 そういや、うちのblogでもそれ関連のエントリあったな。ちょっと振り返ってみよう

muse-A-muse 2nd: 機構の公開性について(参加型の可能性とワナ)


 いちお説明しとくと「情報の非対称性」とは、専門家と素人では情報量に差が出る状態(情報量が非対称になる状態)のことを言う。その結果、<需要と供給の合理的判断に従えばユーザーは安くてもっとも機能が高いものを買うはず>という完全合理性を前提とした市場が成り立たないことになる。たとえば中古車(レモン)市場の例なんかが有名。

 ここではディーラーのほうが情報量が多いので購買者にてきとーな品をつかませてうまいこと儲けたり・・ちなみに、あまり質の高くない中古車がでこぼこしててレモンに似てるから「粗悪品の中古車」=「レモン」っていう(んだっけな?)



 んで、このエントリでは、<情報の非対称性が解消されたからといってシステムを開放系に移すのは拙速なんじゃないの?>、って問題提起をしていたわけだけど、そういやこのギロンは進めてなかったな (ワスレテマシタ)



 まぁ、とりあえず後で考えるとして、Baatarismさんのエントリに戻ると、


 全体の論旨としては、<「論理性を保った有効な批判」と「単なる誹謗中傷的なゴミコメント」は分けるべきでは?>、という感じ。

 理由としては特に書いてないけど、システムの恒常性との関係だと思う。


 「水の入れ替えをしない池は濁りやすい」って感じで、外部からの批判意見をとりいれない王様は裸になって風邪を引きやすい。


TRiCK FiSH blog. - だれか裸の王様を止めてやれ


 でも、それはblog主だけじゃなくてネガコメの人も同じだね、と


finalventの日記 - ある種のネガコメっていうのもなんというのか親近感の歪んだ幻想なんだろうな


 「なにそれ? わたしと仲良くなりたいの?」(ファックコミュニケーションってやつなの、ぼうや?)って感じ

Ohno blog(2007-05-27):一日一回ファック


 そんなの「芸」でもなんでもなく単なるスカートめくりって感じの幼児性の表れに過ぎないのだが...「ああいうのは構えば構うだけつけあがるだけだから。無視したほうがいいよ」とかなんとか言われないと分からないのだろうか..。(砂場の原体験がない、ってことなのかな)


通りがかった幼稚園で見た光景


 あるいはエクリチュールとネットという2つのメディア増幅によって過速化した自我に自制が追いつかない、ということなのだろう...(たぶんこういうタイプは自省しないので)


田口ランディ公式ブログ : 自我肥大


「場所」と「社会」 (book review)



 こういうタイプは「車が速い」ということを「自分が優れている」と勘違いしてわがままな運転をする..。


 
 んで、そういうのは過剰な情報量(input)に耐え切れずに内部システムが飽和状態を起こしているということなのだろうから、システムを分散するか、自省し、再帰的に自己を確認 → 再構築するようにプログラム変更すればいいと思うのだけれど.....それは池田センセも分かっておられるようなんですよねぇ....。



....いや、ちょっと待てよ



池田信夫 blog Moral Sentiments And Material Interests

 
 ここではアダム・スミス問題が挙げられて、<経済合理性的なシステムからはムダ(余剰・多様性)とされる公共善への志向性がなぜうまれるのか?>、ということが問題にされていた。

 で、

 結論としては、「文化的要因(後天的要因)では?」、って感じだったんだけど....。



 ここで前提とされている「善」の設定が硬直性を帯びているのか。



 <なにが「善」でなにが「悪」かを決めるのはオレ様だ>、と。


 まぁ、この辺の善設定はこの人と近い牧歌的なものなのでしょう。


muse-A-muse 2nd: フランク・ゴーブル(著)、小口忠彦(監訳)、1972、「マズローの心理学」


 まぁ、それでも、表層的な成功はつかめるのでしょうしね。


 いいんじゃないでしょうか (ただし正しくはないけど)



 んで、「多様性をシステムに取り入れることの必要性 (意義)」についてですが.....めんどうなので人のかりちゃおうw


finalventの日記 - とても簡単な構造主義入門


 上記のような感じでシステムの基本構造が措定され、そこからもれるものを「多様性」として設定します。


finalventの日記 - ソーシュールが近代言語学の父である理由


 で、システムとして記述できないものは「多様性」ということで外部化、外側に仮置き。超越的意味とかはゴミとして扱う。

 それによってとりあえず数学的に記述可能な記号の関係性(システムの体系)はできあがります。


 それは厳密な意味での「input - output」の系なわけで、そこには恣意性は介在しません。


 これを基本構造として、それぞれの「界」ごとに要素を置き換えてシステムズを組み立てていく。

 で、「完全に予測可能なシステムが出来上がる」、って感じなんだけど...



 finalventさんもちょこっと書いてたけど、これって静態としてのシステムを見ているわけであって、動態としてのシステムには対応してないんですよね。
 

 なんつーか....



 そういう系(歯車)が組みあがっていてもそれを超えた変化が生じるのが人間界、って感じなので。


 あるいは、「そういった系ができあがればできあがるほど壊したくなるのが人間」、って感じなんですね。


 んで、この「壊す」ってのはシステム内部にいるもの(システムの統制者)側からすると「ゴミ」であり「ノイズ」であるわけだけど、システム全体でみれば新たな生まれ変わりのために必要な情報でもあるわけです。



 っつーか、この説明だとそういった多様性自体がシステムにとっての予定調和って感じなんだけど、それを通り越した部分での変化ってのもあるでしょうね。


 で、

 そういった変化というのは常に外部からやってくる。あるいは、システムと同程度のシステムを内部に抱えるもの(主体)によってもたらされる。



 そんな感じだと思います。





 んで、まぁ、宮台さんなんかも「ゴミは減らして有効な多様性だけ抽出できないかねぇ」って問題提起してるわけだけど..


天才アーキテクト神成淳司氏との共著本『計算不可能性を設計する』まもなく上梓! - MIYADAI.com Blog


...どうなんですかねぇ


 さっきも言ったように、システムが固まれば固まるほどそれに対する主体の業みたいなのも増えてく感じがするので。

(まぁ、この辺はセンチメンタリズムかもしれないけど)


 
 とりあえず、研究者や設計者としては「ゴミは減らして多様性だけ抽出する方法はないかなぁ」って思わざるを得ないでしょうね。



 でも、こちらのエントリでも触れたように、その際の鍵はやはり人だと思うんですね。


muse-A-muse 2nd: まれびと来たりて笛を吹く (多様性の可能性と限界)


 つまり「主体」であり、「インフルエンサー」というか「人的ハブ」というかそういうもの。

 それがフレキシブルな多様性抽出マシーンとなって起動する(....のかなぁ)


 まぁ、この辺は厳密に証明したことないので良く分かりません。



 ただ、言えるのは、


 「恣意的に構成されたシステムってのは可能性の限界は見えてる」ってことだし、「システムが完璧でもけっきょく使うのは人だよ」ってことです。こんな感じで


スラッシュドット ジャパン | 戦争の帰趨を統計で判断


 その時点でどんなに完璧と思われるシステムでも穴はあるし、完璧な結論(あるいは妥当性をもった結論)を出しても採用する人間の側がアレげでは汲み取ってもらえないですよね。



 池田センセのとこの話はその一言に尽きると思います。



 で、それとは別に、「そもそも系を組んでいく意味とは何か?」、という問題があります。


 「完全な予測性を実現するため」ってのが一義的に挙げられるだろうけど、上記してきたように「完全な予測可能性」なんてのはあやふやなものなんですね。

 観測者自身のコンディションとか時代状況とか外部要因とかもろもろの影響も受けるし...



 そういうわけで、システムというか学術的な成果というのは「完全な予測」ではなく、常にその時点での暫時的な蓋然性の域を出ないものだと思います。


 それを考慮したうえで、それ自体を大きな投網として使えばいい。


 こんな感じで


『街場の中国論』を読む。 - カフェ・ヒラカワ店主軽薄 - 楽天ブログ(Blog)



 投網が破れているなら、そこから漏れるものを計算して利用すればいい (むしろ追い込み漁のために投網を使用する)、ということではないでしょうか?



 



 なんだかずいぶん遠くまでお話が離れてしまった感があるので、今回の論点をいちおまとめときましょう。



(1) ゴミコメント関連の「S/N比」な話で「情報の非対称性」というキーワードが挙げられているが、「情報の非対称性」の文脈はもともと完全合理性の文脈で使われるものではないか?


(2)「S/N」比以前に、N(ノイズ)は「単なるゴミ」と「有効な批判」とで性格が分かれるのではないか? (後者を「多様性」として設定する)


(3) システムにおいて多様性を受け入れる必要性とはなにか? また、 完全なシステムなどというものは完成するのか?


(4) 完全なシステムが可能ではないとして、不完全なシステムで得られるものとは何か?





..こんな感じですかね。






 流れを書いただけなので特に新しい知見もないんだけど、(あと数字とか学説とか引いてないので某筋から「お粗末」だの「とど松」だの言われるのでしょうが)、今回は素描って感じで。 (十四松)


 
 
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関連:
muse-A-muse 2nd: blogの可能性とblogセンターの必要性について (reprise)


※「玉石混交」の「玉」のみ抽出する、関連で。「有意義なギロン」を継続的に見ていくシステムの必要性について。この辺も関連↓
 
踊る新聞屋−。: [SBS]はてブを「Memeorandum化」する

読むべき記事を推薦してくれるRSSリーダー「SocialFeed」、リアルコムがグローバルで公開 - CNET Japan


はて部の「S/N」比関連は・・べたにNGワードとかですかねぇ...。(でもそれはそれで硬直的だよなぁ)。あとCGM的な人気投票(申告システム)とか。多数決的危険性も孕むか...(「せんせぇー、やまだくんがエロいんですー!」)

じゃあ、やっぱベタにIP bangとか ID bangとかじゃないですかねぇ。各ユーザー側にその裁量を持たせるとか。でもそうすると、「..あら、あの人あんなことでID bangしましたよ。意外と沸点低いんですね (あらヤダ)」って言われたらどうしようぅぅぅ...、的な乙女心問題があるので、その辺は是非ともシステムが自動的にはじいた設定にして欲しい....(のかな?)

オレはよゆーではじくが
 

(※特定ID非表示は既に実装とのこと。ってか、「語尾変換」ってちょっといいかもしれない(にゃー))  
 
 

  














posted by m_um_u at 19:09 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月11日

捕鯨問題の知られざる歴史でガイジンにwhale面かかせてやればいいです

 前々から「ほえ面」の「ほえ」ってのが「吠える」から転じたものなのか「アホ顔」みたいな感じで「ほえ顔」ってのがあるのか気になってて、ちょっと調べてみました。


weblio:ほいずる とは


 高松の方言で、


ほいずる − 泣き顔・泣く。「ほえづら」のなまり。

 
ほえづら 0 【▼吠え面】 - goo 辞書

大声をあげて吠えるように泣く顔。
――をか・く
悔しがって大声をあげて泣く。

三省堂提供「大辞林 第二版」より



 ということのようですね。


 わたしゃてっきり「whale面」って感じで、「人様がアホなことを考えたときに魂が抜けてシロナガス鯨のようなアホ顔をさらす」、などといった意味かと思っていたのに.......。(あと、凶暴なヅラがなにか吠え立てながら襲い掛かってくる、とか)


 まぁ、ぼくの中ではこれからも「whale面」=「シロナガスクジラのようなアホ面」ってことですがね。


 と申しますのは以下のことに絡んでます。


痛いニュース(ノ∀`):【捕鯨問題】「日本の対応は子どもじみたかんしゃく。母親は子供のかんしゃくを認識するものだ」…オーストラリア環境相



 オーストラリアでの反捕鯨運動が流行ってるみたいですね。

 それで、こんなエントリもでてちょっと関心を集めたり


Meine Sache 〜マイネ・ザッヘ〜: 鯨と奴隷


 <オーストラリア人ほか一部欧米人が、「クジラは人間と同じよ! (食べるなんて野蛮!!)」、などという心情を理解してみよう>、なエントリ。

 <「人=クジラ」とした場合、反捕鯨運動の歴史ってのは奴隷制度衰退の歴史にも似てるね>、と。


 んで、ポイントはエントリ冒頭でも言われてるように

19世紀の奴隷制撲滅運動も同じです。18世紀までは、新大陸の経営に奴隷は不可欠なものでした。だからヨーロッパ諸国は、空前の規模でアフリカ人奴隷を新大陸に運びました。しかし19世紀に入ると、産業構造の変化で奴隷は採算に合わなくなってしまったのです。


 ってとこで、「なんか納得」って感じでそういうのもありかなぁって思うんですが、奴隷制度の歴史について詳しくないのでこの辺についてはあまり語りません。


 ついでに言うと、反捕鯨運動と環境問題の関係というのは合理的ではないはずですよね。

 <一部の大きくて偉大なおクジラ様以外のクジラ様を野放しにしていると漁業のための魚(サンマとかタラとか? ※←てきとー)をたくさん食べちゃったり、ほかいろいろ食べちゃうから生態系にとってはよくなんだよね>

 ってのは知っての通りだと思います。


 もちろん、これ自体も確定的ってわけでもなくて、反捕鯨団体からは「恣意的なデータ集めてんじゃねぇよ」とか言われてるわけだけど、論理としては間違ってないですよね。



 んで、まぁ、捕鯨問題については「なんだかなぁ」って感じでほげーっと見てたわけですが、



 先日、宮台さんのpodcastを聞きまして、「反捕鯨運動ってのはもともと環境問題を隠すための煙幕だった」、って話を聞いたんですね。

 詳しい内容は忘れたけど、「環境保護関連の運動がうるさくなってきた時期に関心をそらすために仕立てあげられた運動が反捕鯨運動。んで、一部のゲーノージンなどの煽動がその辺に乗っかっていった」、と。


 その辺について、ちょっとぐぐってみたらありました。

CEC みだれ観照記:クジラと日本人


 「クジラと日本人」ってタイトルで岩波新書から出てるみたいですね。(もちろん読んじゃいませんが)


 こちらのサイトで概要示されてるので孫引かせてもらいます。



著者は、冒頭で、「クジラは巨大であり、(中略)神秘的で、人の興味を引きやすく、いろいろな意味でのシンボルになりやすい動物である」、それゆえに、「米国政府と環境保護団体は、この特徴を利用して、鯨を環境保護のシンボルに仕立て上げた」と述べています。それが1972年のことで、「商業捕鯨の10 年間のモラトリアム」が提唱され、1982年の「商業捕鯨無期限のモラトリアム」が宣言され今日に至っているのです。その意味では、現在の日本の青少年は、日本の有史以来初めてクジラ肉を日常生活で食することなく育ってきた稀有な存在となってしまいました。



 例の、「クジラは大きいし、哺乳類だし、歌うんだぞー (ほかの哺乳類とは違うんだ!)」、言説ですね。歌うっていった牛だって歌みたいなことはたまにやってるし、それなりにでかいですよね。「でかければ食わない」、っていうのはなんか論理的にびみょーな感じがする...。

 たぶん、「人間と似てる生物を食べるなんて!」、ってことで情動に訴えたいんだろうけど、それだったら「人間の何倍もの大きさを誇る」ってのは理由づけにならないですよね。

 そういうわけでわけわかりません。
 

 次に


もともとクジラ資源の管理を目的に1948年に設立されたIWCは、ニクソン・アメリカ政府が突如環境保護のシンボルにクジラを祭り上げる(1972年)以前に、大型のザトウクジラとシロナガスクジラの捕獲は全面禁止措置をとっていました。1972年以降、IWCの対立は、本質的にはアメリカと日本との対立であり、その力関係が如実に、捕鯨賛成国と反対国の比率になって現れてきたように見えます。


 一部の大きくて偉大、かつ希少なクジラ様は早い段階で保護が発動してますね。そういうわけで問題はそれほど大きくないクジラ様です。上述したように、そのクジラ様(マッコウクジラとか?)はいっぱいいて、たくさん食べすぎちゃうんです。

 これに対して、反捕鯨派からは以下のような反論があるみたいですね。


捕鯨問題 - Wikipedia

鯨食害論

日本鯨類研究所は世界中の鯨が食す魚の消費量は2.8から5億トンと推定し、これは世界中の人間による漁獲量9千万トンの3倍〜6倍であるとした上で、鯨のみを保護する事によって海洋生態系に悪影響を与えると主張している。これがいわゆる「鯨食害論」である。

対して、捕鯨反対派は「北太平洋のミンククジラ個体群がオキアミよりも、サンマやイワシなど群居性の中小型魚を多く捕食していたことは専門家にとっては古くからの常識であり一般向けの動物学啓蒙書籍にも広く記されていた事実であったにもかかわらず最近になって調査捕鯨の成果として人間の食料になる魚類の大量捕食が判明したかのような広報がなされた」と指摘、また「鯨類の総バイオマス量が激減している以上、鯨類が消費する水産資源も激減しているはず」などと反論している。



 なので「びみょー」って感じだけど..まぁ、とりあえず話を進めましょう。

 ってか岩波新書のほうのリンク先に戻って、ポイントはここ


ニクソン政府が1971年に「海洋哺乳動物保護法」を制定し、1972年に「商業捕鯨10年間のモラトリアム」を提出した背景には、当時激化していたベトナム戦争での、無差別絨毯爆撃(北爆)や、森林への猛毒ダイオキシンを有した枯葉剤の散布(日本では、ベトちゃん・ドクちゃんの治療報道で一躍人々の知るところとなりました)に対する世界的な批判と、1972年の大統領選挙への民主党候補マクガバンの「反戦」キャンペーンの高まりがありました。人類と生態系の破壊にこれ以上過酷なことはない戦争遂行の実態を、海洋哺乳動物の保護という煙幕で覆い隠そうとしたとしか考えられない状況だったのです。絶対的環境保護論者がその実行部隊となったことは、なんともやりきれない思いです。この筆者はそこまで筆を進めていませんが、少なくともその当初の不順な動機からして、クジラを環境保護の旗頭にすることだけは止めるべきではなかったでしょうか。


(※太字強調はエントリ主によるもの)



 そんな感じの煙幕っぽいです。


 でも、「アレ、煙幕だよ」、っていまさら言うわけにも行かず、なんとなく続いてるみたいです (あまり関係のないオーストラリアで!)。




 そういうわけでほげーな話って感じです。

 でも、まぁ、いかにもオージーって感じなので笑って済ませる (のかな?)




 とりあえず、これでガイジンとクジラ話になったときにはwhale面かかせてやれますね。


posted by m_um_u at 22:09 | Comment(1) | TrackBack(1) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

上層中流の地盤沈下と下層中流の固定

 以下、たいしたことないことなのかもしれないけど、今後のギロンにとって結構重要っぽいので線引きって感じで。


 このエントリを見て

キングフラダンスの恍惚と快楽。 - 「中流」という幻想。

 「格差社会論であつかう対象の腑分けが必要なんだな」って分かった。


 リンク先エントリの主旨としては、<中流の中にもロウワーミドル(下層中流)とアッパーミドル(上層中流)があって、現在問題となっているのはロウワーミドルに属する若年層がアッパーミドルに行けないことではないか? (ロウワーに固定されることではないか)>、ということ


 この視点は赤木さんの「若年フリーターの階層固定」の視点とも重なる。


 もうちょっと付け加えるならば、そこに「アッパーミドルの地盤沈下」という問題が加わってくるように思う。


 そして、そういったアッパーミドルとはキングフラダンスさんの言葉を借りれば、

かつて日本の企業で年功序列制度が維持されていたときには、中流の(会社に勤めている)人間は若いときから定年を迎えるまでロウワーミドルからアッパーミドルまでゆっくりとその階段を上っていくのが常と思います


 な人ということ。


 だいぶ前のエントリでも問題にしたけど、若年ロウワーの親な人びとがそれに当たると思う。


 つまり、赤木さんたちの攻撃対象は自分たちの親というか、「似たような弱者(元弱者)」という感じになる。 



 鈴木謙介さんなんかが、「赤木さんの主張はネオリベ的な危険性をはらむ」、と言っているのはこの辺だろう。


 赤木さんの主張は、「たいして努力もしないのに権益を享受している保守層を打倒せよ!」、って感じなんだけどこの「努力」って部分にネオリベ的なトラップが仕掛けられている。

 (詳しくは忘れたけど)かつてのネオコン的な視点がまともな努力主義だったのにいつしかアレげなものに変質したのと同じように、赤木さんの主張もアレげなものに変質する危険性をはらむ、と。


 
 まぁ、モロにエディプスコンプレックスっぽいんだけど、そんな感じはあるのではないか。



 対して、赤木さんとか雨宮カリンさんなんかは、「私たちの敵は上層中流ではなく上流層だ。その辺は間違ってない」、というかもしれないけれど、おそらく上流層は地盤沈下しないだろう。


 こんな感じで

MSN-Mainichi INTERACTIVE:特集 東大生が敬遠する「霞が関」

 上流内での流動化はあるかもしれないし、上層中流までぐらいなら生活レベルを落とすこともあるかもしれないけど、彼らの檻は鉄壁....というか、彼らは単体ではないので。

 「上流」って感じのとこに行けば行くほど金持ちネットワーク的なもので補填しあい富を還流させている。たとえば「政官財の鉄の三角形」とかそれに加えてマスコミも相互所有・銀行資本の流入って感じで持ちつ持たれつだし広告の問題もある。

 マスコミを握るということは、地味に情報が操作されるということだ。

 「検閲」とか「プロパガンダ」というレベルまではいかないけど、ある問題に対してダミー的報道はするけど、すぐに「たいしたことない問題」って感じで消費させ、問題を風化させる、なんてことは朝飯前って感じ。例の朝日のロストジェネレーション特集なんかそんな感じだろう。

 っつーか、マスコミの人たちには悪気はなくて、彼らのマインドが既に上流的なものに含まれているので、自然に問題を矮小化してしまうのだろう。「しょせんは他人事」なので。



 そんな感じで認識レベルから構築されているその壁はそう簡単に崩れるものではないと思う。


 情報操作というか、マインド八苦の例としてはフラダンスさんのとこに挙げられている三浦展の例なんかもそれだろう。


 フラダンスさんの言うように、

この本に書かれている「下流」の人々というのは、実はロウワーミドルであったりします。(本当に「下流」に分類されるような、定職を持たずジャージでどこでも歩き回り、消費者金融でお金を借りてパチンコ・パチスロに明け暮れるような層というのは、何故かこの本では全く無視されています。)


 って感じだし、彼と愉快な仲間の東っくすの言説というのは「ファスト風土」やら「マック難民」やらを嫌うわりには「そこに属する人々がどうしたらより豊かな生活を送れるか」という視点が皆無なように感じる。

 「自分たちの問題」だけなのだ。


 そこでは徹底的に上から目線で弱者の生態が観察されているように思う。(観察されているだけで救済の意思はないのだ)


 それは悪意ではなく、お坊ちゃんとして育った彼らの限界なのだろうけど。





 とりあえずまとめると、


・中流層にも下層中流と上層中流の違いがある

・現在の問題は下層中流への固定化と上層中流の地盤沈下の2つ

・上流層は鉄の檻を築いてるので打倒しにくい (認識レベルからhackされてるし、人をhackしようとする)


 こんな感じか



 
 最後に、別件だけどいわゆる上流層というか、それに準ずる保守系サヨクのマインドとして典型的なものを見つけたので上げとこう


メディア・新聞は死滅するのか (※コメント欄注目)



 彼らは憐れみはするがなにもくれない (有効な意見も実質的な利益も何もない)


 世間的に間違ってなくても「なにもしない」 (もしくはする姿勢をみせようともしない)





 こういった事態に対して。車(奢)を捨てた新中流層に活路はあるのかってところだけど

muse-A-muse 2nd: 車を捨ててケモノ道に入ろう!


.....びみょーだ


っつーか、新中流層って「下層中流 / 上層中流」のどの辺に属するんだろう?




........課題持ち越しということで (再見!)



--
関連:
muse-A-muse 2nd: 文化と教育とお金の話 (lifeから抜書き)


※「壁を打破するためには教育を!」ってのもあるんだろうけど、その辺もまたびみょーだったりする..

 
  


 
 



タグ:格差社会
posted by m_um_u at 10:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月09日

アメリカは格差社会じゃないの? (日米研究・教育・医療問題)

Baataismさんのとこ経由で海部さんのエントリを見た。


Baatarismの溜息通信 - 専門性の敗北?


Tech Mom from Silicon Valley - 豊かな時代の教育とは:「こいつらにはやっぱかなわねー」と思うこと


essaさんのこのエントリからの流れか


アンカテ(Uncategorizable Blog) - 談合社会の崩壊の中で「お母さん」たちが担っているもの



 essaさんのエントリの主旨としては、「不登校児のお母さんが責任を背負わされすぎている構造がある」、というもの。「いちお行政などからのケアはあるが、なんらかの決断の場面ではお母さんはたった一人で物事を判断しなくてはならない」、と。

 その結果、擦り切れていく現状というのがあるのだろうなぁ、とか思う。


 海部さんのほうはご自身の体験から、「アメリカは障害児へのケアが行き届いている」、という話。具体的に言えば、「学習障害があるお子さんに対して専門家がきちんとしたセラピーをしてくれて安心した」、とのこと。

一方、もし私たちが日本にいたら、と思うとぞっとする。日本の学校も、私の子供の頃からはずいぶん変わっていると思うが、それでも夏の体験学習や補習校の感じを見ていると、とてもここまで、体系的にテストして分析することも、それに基づいて専門家が指導してくれることも、きっとないだろうと思う。


..という文が印象的。


 んで、Baatarismさんはそこのコメント欄の言葉を受けてエントリを立てたみたい。



専門性の勝利『のんびりしていて、大雑把そうで要所要所では素人の思いつきではなく、専門的知見を活用するのがアメリカの強みですね。日本の教育現場では、「自尊心?なにバカなこと言ってんの?ダメならダメって引導下してやるのも教師の役割でしょ」みたいな、教育心理学の研究成果全否定(というか知らない)教師が普通にいますからね。素人国家の弊害は大きいと思います。

学校教育の中で心理学的知見に基づいたコミュニケーション・スキルを教えれば最近問題になっている「社内のコミュニケーション不足」もかなり改善されると思うのですが。

心理学をやった者からすると、個人の経験に依存しすぎていて、心理学的に「人間関係を悪化させるとしか思えない」コミュニケーション方法を取っている人が日本人には非常に多いのです。「知らない」ことの恐ろしさを感じます。』



Baataismさん、これを受けて曰く

確かにこのコメントの方が言うとおり、要所要所では専門的知見が活用されるのがアメリカの強みなのでしょう。そして専門的知見を無視した結果、日本では数多くの問題が発生していると思います。このことは教育やコミュニケーションだけではなく、政治や経済の分野でも言えると思います。




 海部さんとBaatarismさんのお二人のおっしゃることは分かるのだけれど、なんか違和を感じた。


 アメリカというと下・中流層と上流層の間の差がかなり開いている格差社会、という印象があって、中流層へのケアも少なくなってきているのかなぁ、と思っていたので。

 具体的に言うとこの辺(クロ現「ワーキングプア アメリカの現状」)

muse-A-muse 2nd: 格差を巡るデフレスパイラルから抜け出すには・・・


 ここでは、それまでだったら報われていたはずのマジメな中流層労働者が報われない現状がある、ということをルポしていた。

 具体的には、特に才能はないけれど自動車整備工場などに長いこと勤めることによってそれなりの暮らしを得ていた人々、のこと。(収入5〜600万ぐらいの)


 こういった人々に加えて、大学を出ても報われない状況がある、ということなのではないか..?


壊れる前に…: 格差社会アメリカ

つまり、(1) レーガン以降の新自由主義的な経済政策のもとでは、格差が著しく拡大し、(2) それ以前は経済格差の是正には社会全体の教育レベルを上げるという方策がある程度有効であったが、新自由主義のもとでは、大学を卒業したという学歴だけでは経済全体の成長による利益を十分に享受できない、ということだと思います。



 この問題は確か、渡辺千賀さんのところでも話題になっていたな


On Off and Beyond: ミドルクラスの地盤沈下

 
 中途半端なスキルとか学歴なのが一番やばく高卒にも負ける、と。(日本の未来?)

 アメリカ型格差社会ってのは

アメリカでは、「貧富の格差拡大」じゃなくって、真ん中層が1人負け、という話。超リッチな層がさらにリッチになるなか、今までずるずると下がってきた社会の底辺の方の人たちの収入は底をうち、一方それと比較すると、真ん中あたりの収入が伸びていない、と。


 ってことらしい。

実際、シリコンバレーの生活実感としては「4大卒の落ち込み」は結構そうかな、という感じ。



 んで、「上狙う場合は大学院レベルまで狙わないとね」、ってことになるんだけど、ここでBaatarismさんの話に戻る。


 日本では専門性とか大学院レベル以上の高等教育に対する評価が低いので、「大学院とか言ってもなぁ」、って現状がある。

 よく知らない人用にひちお言っておくと、現在大学院に入る人というのは「修士を終わったら就職」組ってのがけっこう多い(っつーか基本ではないか?)

 だって、博士までいったら却って危ないんだもん。

 ポスドク(博士単位取得後)の配慮なんかしてくれないし、歳いっちゃってるから企業から敬遠されるし、「大学の知識なんか企業じゃ役にたたねぇ」とか思われてるんだもん。


 なので、アメリカみたいに「上目指すならもっと学歴積まなきゃ」、って単純にいえない環境があるように思う。

 で、大学院とか大学人気が下がっていってるわけだけど


 その辺については以前に福耳さんともお話して、「やっぱ大学とか大学院終わったあとに企業に入れる、って回路(インセンティブ)作っとかないとやる気でないよねぇ」、って感じで落ち着いた。

 でも、それ以前に、企業側に大学の教育とか研究を知ってもらう必要があって、その辺で学術ファシリテーター(ジャーナリスト)が必要だねぇ、みたいな話も出てきたんだけどこの辺はどうなってるんだか分からない。


 ぼくはいっそのこと研究特化型と教育型に大学の役割を分割して、研究系教員は研究に特化して研究の意義を世の中に認めさせたほうがいいと思っているけど。

muse-A-muse 2nd: 大学教育について(上下分離の必要性など)


 具体的な数字出してないせいか「お粗末」とか言われたな(とど松w)



 っつか、分離案にしても試案であって、教育を通して自らの研究を見直す、ってこともあるように思うのだけれど、そういうのが不得手な人もいるんだよねぇ..。(大学教員って教員免許制ってわけでもないしねぇ)

 


 まぁ、そんなこんなで、「日本の大学 - 企業関係において、専門性を認めさせるためには大学側も努力しないとね」、とか思うわけだけど「企業と大学」関連だと実学な問題も出てきてめんどくさかったり...。


 「世の中に役に立ちそうな研究への奨励資金」みたいなのがあるけど、アレによって応用研究系のものばっか際立って基礎研究には資金下りてこなかったり、文系研究室にはほぼ皆無だったりする。

 研究においてなにが役に立つかなんてのはかなり長いスパンでみないとわかんないことが多いのに。とりあえずかっこよさげな名前をつけた研究がまかり通っていったり。もしくは有名大学に科研費が集中したり。


...まぁ、そんなこんなな大学渡世ですわなぁ



 んで、「子どもへのケア」関連で言うと、例の「ゆとり」教育の影響でゆるーいお子さん達が入学されている現状で....「なぜ大学で高校のお勉強を教えないといけないんだ...?」、って感じになってる。

 構造的にはこの辺だけど


muse-A-muse 2nd: 戯画化する教育環境と教育に関する意思決定の分権化について


(本来「ゆとり教育」で目指されていたプログラムを実施するには教育プログラムの変更に伴った人員整備が必要だったんだけど、その部分がおざなりだったのですごく中途半端になって却って弊害がでた、って話)


 こんなのがあるので、「大学っぽい高等教育」なんてのを身につけさせる時間がますます削られていっているわけだけど、そういうことお構いなしに世間は大学出の学生を評価する。

 で、「やっぱ大学は役にたたねぇな」、と。



 そんなこと言われても「..なんだかなぁ」って感じなのだけれど..世間からすれば「教育機関の責任」ってことになるのだろう。



...なんつーか、責任の押し付け合いっていうか...どっかで誰かが引き取らなきゃいけないことが宙に浮いてる感じがする。


 essaさんと海部さんのエントリは「教育機関のケアが必要(もしくは整っていて安心した)」って話だけど、以上のような構造を見るとちょっとムリな感じはする。

 (リンク先参照してもらえば分かるんだけど)要約して言うと、そういう風に教育に関わるシステムの変更をするには各自治体の教育機関に裁量権を持たす必要があるんだけど、現行システムではそれを認めていないのでムリなのだそうだ。


 なので、狙いをつける(なにかを要求する)としたらその辺なのではないか..?



 

 あと、アメリカというと医療格差って感じがする


マイケル・ムーア監督次回作「Sicko」を米政府は必死で押収したいらしい - GIGAZINE

On Off and Beyond: トンデモない米国医療システムからイノベーションが生まれるのか


 この前段階のギロンとしては、「アメリカの医療は全部あり型パッケージでやっているので高い。高いと貧乏人は受けられない(あるいはガマンして酷いことになる)。なので、利用者が必要なものを選べるカスタマイズ型サービスに転換する必要がある」、ってのがあった。(山形浩生、P.クルーグマン、「クルーグマン教授の経済入門」)


 んで、そういうのを受けてカスタマイズ化されていったはず。


 渡辺さんのところのエントリはそういう流れを受けて、

ウォルマート、ターゲットといった大手小売チェーンや、ウォルグリーンなどのドラッグストアチェーンが、次々に店内に簡易クリニックを設置するトライアルを始めているのである。


 ってやつ。


 これで従来のほぼ半額で予防診断を受けられる。(難しい病気は大きな病院に行くように指示される)


 この辺、日本はどうなっているのか?


痴呆(地方)でいいもん - その通り!!


医療保険のような情報の非対称性のきつい商品は市場にまかせると、金持ちしか、十分な医療をうけられなくなるという話をして、その問題を日本は国民皆保険制度で市場のカバーしている



..と。



 とりあえずそれなりに安心っていうか、その部分切られないように注意しとかないとね、って感じなんだけどそれとは別に現在の日本の医療(看護)現場では過剰労働の問題があったり


asahi.com:「看護師やめたい」44% 国立大病院職員組合が調査 - 暮らし



 「日本の医療現場にはフィリピン人も来たがらない」ってやつだ。(※フィリピン人看護士は世界の医療市場でとても重宝されている)

 Espresso@松本の斉藤さんなんかは、「オーストラリアのほうが賃金高いからオーストラリア行っちゃえばいいんだよ」、って言ってたな。


 んで、まぁ、リンク先の大阪センセ的には、「賃金上げて、人員増やして労働負担を分散すれば?」、って感じみたい。財源としては「お医者さんの診療報酬を高くしたら?」、と。



...高くなるのか...(イヤだなぁ)


 小市民的にはそう思うわけだけど、仕方ないといえば仕方ないのかなぁ..。


 っつーか、フィリピン人を雇うとかで何とかならないのだろうか..(←「そのためにはお金が必要」という同道巡り)



....山形さん的にきちくモードに入って、「どっかの低開発国からクーリー連れて来い!」、って言いたくなるけどその辺はグゥとこらえます。




 

 そういやこの問題は天漢さんとこでも扱ってたなぁ


天漢日乗: Nスペ 介護の人材が逃げていく@3/11 21:00-21:50 NHK総合


 介護の現場以前に専門学校系が青少年の夢を食いつぶしている現状がある、と。


 もともと介護士資格が「やらずぶったくり」で「人の役に立ちたい」という青少年、とくに女性の純粋な動機を踏みにじり、高い学費で資格を取らせる介護教育ビジネスを肥え太らせ、資格を取った後は介護労働市場が安く買い叩く構造的な「若者潰し」政策で運営されている



 で、介護現場においては低賃金・過剰労働なわけで、その辺では医療への志(モチベーション)を天秤にかけさせているのだろう。



 医療の現場の問題について、日本のマスコミがきちんと取材できないのはこういう背景があるっぽい。



天漢日乗: medicine



 詳しくは見てないけど、
 
 「医療機関の構造的問題に対して、日本のマスコミは医療不信を煽るだけで根本的な解決を考えようとしない。そのため医療現場から嫌われ、いわゆる『マスコミたらいまわし』という事態(いやがらせ)が生じている」

 ということらしい。

 文字通り、マスコミ関係者は医療現場をたらい回しされるのだ 。



 んで、こういった「医療 vs. マスコミ」な影響で正しい情報が生活者に伝わってきていない現状がある、と。




 教育や研究の現場についても同じことが言えそう。



 本来、ジャーナリズムは「界」をつなぐものなのになぁ...。





 ちょっと思うのは、そういう報道というのは速報とかスクープ狙いの体質から生まれるのかなぁ、ってこと。


 タテマエ的にどんなにキレイゴト言ってても、彼らの一義的な関心はトクダネをめぐる抜きつ抜かれつなわけだし、そのことを入社したときから叩き込まれているので、各新聞社・TV局の記者は sex machine ならぬ writing machine って感じでシャカリキに働いているのだろう。


 まぁ、実際速報とかトクダネだけ狙ってたら忙しさにはキリがないわなぁ...。



 そういった現状に対して、じっくりと対象に取り組む調査報道の復権が叫ばれてるわけだけど......伝わってないだろうなぁ。。



 けっきょく「購読者が欲しいのはスクープ」ってことなんだろう。




 でも、ほんとにスクープが欲しいのかなぁ...。(しかもどこもかしこも似たような横一列のスクープが..)






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関連:
暗いニュースリンク: 米国の教育問題 バックナンバー


暗いニュースリンク: 医療問題 バックナンバー


暗いニュースリンク: 貧困・飢餓大国アメリカ バックナンバー



※アメリカの教育・医療・その他もろもろの問題について。「暗いニュースリンク」ということで少し偏向あるかもしれないけどいちお。

 
 


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追記:
あと、Baatarismさんのところで「アメリカでは要所要所で研究と社会が繋がっている」って感じの言及がされていたんだけど、なんかちょっと違和感。

いや、ほとんどおっしゃる通りだと思うんですが、エントリでも述べてきたように日本の場合は研究が社会に繋がらない構造的問題ってのがあるように思うんですね。社会的評価がアレなので研究費も下りないし。研究費下りないので研究へのインセンティブが薄れて学生逃げていきますしね。

それに対して、アメリカの研究ってのはきちんと社会的に認められてて、高等教育はそれなりの評価を受けるんですよね。なので専門的知識を学ぼうとするし、それがまた社会に還元されていく。

ジャーナリズムの例にしてもそうだけど、日本のジャーナリズム系の学科って専門的なスキルの研修はなくて、ただ「メディア倫理」とか「マスコミの歴史」とかやってるんですね。もちろん外部から「上がった」人を招くこともあるわけだけど、元々、日本式JOT(「現場で覚えろ!」)で鍛えられてきた人々なのできちんとしたジャーナリズム教育は受けたことがない。なのでそこでもスキルってよりは根性論みたいになっちゃうようですね。


それに対して、アメリカの場合、コロンビアとかPoynterとかではきちんとしたスキルトレーニングを施す。


この違いは何なんだろうなぁ、と。



やっぱ、あっちの学術がプラグマティズムを基本としているからなのかなぁ..。(実践的知識って感じで認められるのかなぁ)



「んじゃ、プラグマティズムにしちゃえばいいじゃん」、って感じになりそうだけど、それはそれでちょっとイヤなんだよなぁ..。



つか、学部レベルだとアメリカ的なアホみたいに本を読ませる教育ってちょっとあこがれます。日本の大学って「学生の自由」とか言って放任主義気取りながら実質は責任逃れしてるように見えますからね。(演習にしても)

 
学部レベルとかだと教科書的な詰め込みも必要なのではないか、と。 



でも、それに偏重しすぎて独創性なんかが削られるかもしれないのにはちょっと危機感あるんすよね。




......まぁ、よくわかんないな、と



渡辺さんのエントリに絡めて言えば、「フーゾクの店長にでもなれ!」、ってとこだろうか


On Off and Beyond: シリコンバレーのスーパーエンジニアとソープ店長の給料は一緒


(これはこれで大変そうだけど)



posted by m_um_u at 19:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月08日

まれびと来たりて笛を吹く (多様性の可能性と限界)

 以下、まだよくわかんないけどいろんなことがリンクしてきたのでつれづれに。結論は出てないんだけど書きながら確認(思考)って感じで。


Lifeの「運動」の回の前半部(podcastの1, 2回)を聞いた


「運動」 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


 今回は例の外山恒一さんと高円寺三人デモで警官に「もっと真面目にやれ」と怒られた松本さんがゲスト。で、ゆるい運動(動員)について話されてた。

 「ゆるい運動」ってのは例のサウンドデモとか「オレのチャリンコ持ってくな」デモとかそんな感じのヤツ。


 コミットはするけどそんなに拘束しない感じの「ノリ」を重視するタイプのライトな運動(デモ)のこと。


 そういった運動の可能性と限界についての話だった。


 まず可能性について。質問を受けて外山さんが答えてて、(以下概略)

「従来のスタンダードな運動だとなんか重くなってしまってやってる本人が消耗してしまう問題がある。それに型にはめられているので“デモ”って言っても見てる人に伝わらなかったり..。なんか、“いまをガマンして将来楽しむ”タイプの運動は重い。それよりは“いま”を楽しんじゃおうほうがモチベーションも持続するのではないか」


..って感じだった。


 「型にはめられた運動」の例としては、リスナーの人からの投稿が分かりやすかった。「デモに参加しても警官隊の檻の中でなんだか囚人みたいにしてあるかされてるみたいだった」、と。これは外山さんも同意していて、「あちら側に声が伝わってるのかどうか分からない」、って言っておられた。


<既成の運動に見ている人になにかを感じさせるほどの力(動員力)はあるのか?>、という問題だろう。


 これに対して、「デモ自体を参加者自身が楽しむ」タイプの運動はそこで醸成されている楽しさ(ノリ)が観衆になにかを訴える可能性があるのではないか、ってことみたい。

 イメージとして、こんな感じだろうか..





(ちょっと違うと思うけど、縁起ものということで)



 以上がノリを重視した運動の可能性。そういうのは津田さんも同意してた。同時に、「そういった運動に有効性があるのか?(真摯に受け取られるのか? ネタとして受け取られて一過性のものとして終わるのではないか?)」という問題がある。

 端的に言えば、<なんらかのシステムを「潰せ!」と叫んだとして、alternativeな代案はあるのか?>、という問題。骨太な部分はあるのか?、と。


 この辺について、外山さんはやはり代案はないみたい。「代替システムはわからないけれど、とりあえずNOと言う」、って感じだった。




 まぁ、びみょーなところなわけだけれど


(そういえばishさんのところの「〜囲む会」でも似たようなことを言っておられたか..?)


外山恒一さんと会う




 この、「とりあえずやってみる」というのはびみょーな感じではあるんだけど、関連でちょうど内田センセのところにこんなエントリが上がっていた。


国語教育について (内田樹の研究室)


 エントリの主旨としては、<昨今の「国語教育」に置いて、ある一定の意味を想定させて作文をさせるケースが多いが、それが却って作文をするものの自由な独創性や意欲を削いでいるのではないか? そもそも文章を書くという行為は「なにか特定の意味(書きたいこと)を文にする」という行為ではなく、「なんらかの型を使って書きながら意味を見出していくもの」ではないのか>、って感じ。

 つまり「エクリチュールの自由」ってやつだ。


 われわれの思考などというものは自由な発想という風に思われているものでも限界があって実は似たり寄ったりの思考をしていたりする。それでステレオタイプ的な発想の限界が出てくるわけだが、そういった限界を突破できるのは言語というツールに身を任せて思考をドライブさせたときだけなのではないか、という考え方。

 文学系、詩の意義なんかの文脈で語られる考え方だな。

 叙述的(コンスタティブ)ではなくパフォーマティブに意味を作り上げていく、って感じ。

muse-A-muse 2nd: ジョナサン・カラー (著), 荒木 映子 (翻訳), 富山 太佳夫 (翻訳) 、2003、「文学理論」  (前編)


 つまり、なにかを固める以前に対象に対して自らを投げ出す、と。



 ぼくはエクリを理由に思考を分散させすぎてわけのわかんないもの書かれるのはびみょーな感じがするけど...(「ポストモダン万歳!」って感じがするので)


 自由といってもどこかにルールは必要だろう。それがないと「美」など表れないのではないか?

 まぁ、白田さんと同じ考えなわけだけど

WIRED VISION / 白田秀彰の「網言録」 / 第三回 美と規範 I

WIRED VISION / 白田秀彰の「網言録」 / 第四回 美と規範 II


 この文脈での白田さんの主張としては、「古典的なものによって組み立てられたルールを基軸とすることによって美が生まれる」、って感じで同感。ここで注意してほしいのは「ルールを踏襲する」のではなく「基軸とする」としているところ。つまり、そのルールを意識しつつアレンジして新しい作風を作り上げる可能性はあるのだ。

 
 自由が濫立するポストモダン的なものに対するモダンの復権、って感じだろうか。



 以上を綜合しつつ外山さんのギロンに戻ると、「パフォーマティブに自らをその場に投げ出しつつもそこに美(快)を生じさせるには、一定の線引きが必要」、ってことになる。


 たとえば、いくら自分が楽しいからといって辺り一面破壊して回るデモとか、公衆の面前でデモ参加者同士が殴りあいのパフォーマンスを始めるデモなんかが観衆受けするとは思えない。(ってか、その前に警官隊に止められるだろうが..)


 なんらかの節度、それを守った上での新しい感覚の提示によって観衆をひきつけるような「なんかアレおもしろそうだからやってみたいなぁ」感が生まれる。


 その辺りについて、外山さん的にはどうなのかというと..


さておかれない冗談、外山恒一


..やはり、びみょーかな..


 このエントリ自体はishさんが外山さんに会う以前にネットで見られる彼の考えの片鱗を集めて、そこからプロファイルを行ったもの。なので、外山さん自身の考えとはまたちょっと違うかもしれないけど、ここで挙げられている考察を参考にすると、どうもやっぱびみょーな感じがする。


 「ルール(線引き)」の部分で弱さを感じるのだろうか..。



 しかし、外山さんも言うように、彼の役割は既存のシステムの破壊者であって創るものでないのかもしれない。それはシステムを分散させるものであり、収斂させるものではない。もしくは「まれびと」的に人をいざなうもの..か。(cf.ハーメルンの笛吹き)


福耳コラム - 文化英雄と地域


 「笛の音色にごたくはいらぬ」って感じだろうか。


 でも、福耳さんのところの文脈に従えば、やはり言葉であり論理は必要なわけだけど.

(って、文脈全然違う話なのでびみょーなのは分かってるけど、話を続けます)




 内田センセは「言葉より型によるパフォーマンス」と言い、白田さんは「やはりルール」という。そして、「まれびとにも言葉は必要」....?



 そういえば仲俣さんのところにもlifeの感想が上がってたな


【海難記】 Wrecked on the Sea:プロトコル的な「運動」は可能か〜昨日の「Life」に思う


 で、仲俣さん的にも「びみょー」って感じなんだけど


 その理由として、<外山さんのほうの思想的背景はステレオタイプ的(プログラム(綱領)型)に思う。それに対して松本さんのほうが型にはまってなくて可能性があるのではないか>、と。


 仲俣さんの場合はとりあえず既成システムの破壊に可能性を見るという感じか。(cf.「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか)



 既成システム(既得権益)の硬さに対する違和感、問題意識としては先日出てきた赤木さんのそれに通じるかもしれない。つまり、「比喩として“戦争”という言葉を用いて破局(カタストロフ)を望まざるを得ないほど追い込まれた情況にいる」、という認識。

 これは赤木さんだけではなくてこの辺りにも通じるみたい


切込隊長BLOG(ブログ): 平和の帰着点としての戦争



 かなりリアリストで保守っぽく見られる隊長でさえ、「破局が起こらないと変わらないかもねー」、と言っている。そして対話の相手のサヨクな人も。



 それほどまでに追い詰められた認識というのはどこから来るのかといえばまぁこういうことだけど、


muse-A-muse 2nd: 資源最適化としての格差社会と社会保障に関して



 資源が決定的に不足して、この先も増す見込みがない(減っていく可能性はある)状況に対して。そういった事態を実感をもって感じている人たちはなんとかして資源を最適化せざるを得ない、という問題意識があるのだろう。

 リストラの対象としては「弱者」がよく挙げられてこの辺のギロンはびみょーなんだけど、それと同時に現在の旧態依然とした談合システムもムダって感じで、むしろこの辺はサヨクもウヨクも「なんとかしなきゃねー」ってことでコンセンサスを得ているように思う。


 談合はときとして合理的なこともあるけれど、明らかにムダなボトルネックが生じていることが多いので。

 その部分は解決しないと、ますます資源が少なくなっていく....。





 以上のようなシビアな現実がある程度蓋然性をもった「決定された未来」であるのに対して

 「決定された未来」関連で斉藤佐々木敦さんがこんなことを言っていた(@life番外編)



 「ぼくは型にはまったものには可能性を感じない」(←ものすごく意訳)

 
 それで斉藤佐々木さんの活動の話とか、宮台さんと神成さんのこの本とかに話が繋がっていってた。


天才アーキテクト神成淳司氏との共著本『計算不可能性を設計する』まもなく上梓! - MIYADAI.com Blog


 この本自体はタイトル通りというか、タイトルに論理矛盾が生じているように見えるところが面白いのか。

 (まだ見てないが)おそらく、「システムに外部からの多様性を導入する際、バグも一緒に取り込んでしまう(玉石混交)ことに対して。玉の部分だけ取り込む方法はないか模索する」、という本(対談)だと思う。


 それをITのアーキテクチャ設計から考える、と。



 本エントリのここまでの流れに絡ませれば、「パフォーマティブな運動の中にルールを設定し美のみを抽出する」、という感じだろう。


 多様性の導入という問題意識に対して、斉藤佐々木さんは評価しつつもびみょーな感じだったけど。


 それは宮台さんのギロンが最近とみにエリート主義的になってきているように感じられることに因るらしい。

 つまり、「ついてこれるものだけついて来い」というか「官僚的なレイヤのギロンを狙う」、というか..。

 その辺で弱者が切り落とされていくのではないか、という不安があるみたい。


 弱者というか、旧来の人文・社会科学の対象である多様性(自由)が切り落とされていくのではないか、という問題意識だろう。



 これは確かに問題といえば問題なのだけれど、上述したように情況をある程度肌で感じている人からすると「現在はもうギリギリの状態にある」という切迫感があるからではないか..?


 そして、宮台さん自身の変化(政治的なるものへの積極性)にはこのエントリが関わるように思う。


単行本版から文庫版へのマホの成長:田口ランディ『オクターヴ』解説   - MIYADAI.com Blog


 どうやら宮台さんも社会規範(世間知)的なものと自分の世界観の齟齬に悩んでいた時期があったみたい。

 そんで、敢えて「どーでもいい対象」である性関連のフィールドに身を投じることによって、その裏にあるリアルなもの(ステレオタイプ的規範やルーティンを超えたもの)を見つけられることに期待した、と。


 んでも、それもあまりうまくいかなかったみたいで、鬱状態がしばらく続いてたんだそうな。


 そういう中、タイに行って、「自分なんかここではいつ死んでもおかしくないんだ」(自分はここでは名もなきクズみたいな存在だな)みたいなのを感じて逆に楽になったみたい。


 それはキケンといえばキケンなんだけどリアルな世界観だし、少なくともそこには欺瞞という形で隠された緩やかな死はないわけだから。そこに誠実さのようなものを感じたのだろうか?



 んで、そういう過程を通じて<覚醒>と

(「社会」(セカイ系的な狭い世界の倫理観)から「世界」へ)


 それを通じて一気に楽になったらしい




 で、現在は「世界」的なものへ積極的に発言されている。


 それは、なにか背負うものができたという責任(+自信)に関わるのかな、とかなんとか思いつつ、「発言(対象)の変化」に関して言うと、むしろこちらのほうがデフォルトって感じなのだろう。

 それはネオリベ的な切捨てとはまた違って、「より現実へのコミットを深めた結果」としてみたほうがいいように思う。


 それだけの切迫感があるのだろう。(資源の限界に対する切迫感)




 そういった社会批評の態度に関して、斉藤佐々木さんは「だったらもう自分が政治家になっちゃえばいいじゃん(なんて思う部分もあるんですね)」って言ってたけど、そういうこともあるのかなぁ、とかちょっと思ったり。


 でも、宮台さんが政治家って似合いそうにないな。やはり社会批評家は社会批評家ということでよいのではないだろうか..。


 




 だいたい以上が「多様性の導入」関連で気になること。



 まぁ、まとまりはないわけだけれど、





 社会における「鍵のかかった部屋」を開けるための鍵ってのはどこにあるのだろうな





 あるいは笛吹きがそこに誘ってくれるのだろうか..?

(ぼけっとしてると異人さんに連れて行かれるかも)
 
 
posted by m_um_u at 20:58 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年05月26日

文化と教育とお金の話 (lifeから抜書き)

 「文化系トークラジオ Life」のpodcastを聞いていたら一個前のエントリで出てきた話題とリンクするところが多かったように思うのでちょっと表出してみる。ちなみに一個前のエントリはこちら


muse-A-muse 2nd: 格差を巡るデフレスパイラルから抜け出すには・・・


 ここでは、「格差社会批判をする人がよく持ち出す論理として<怠けてるヤツがびんぼーになってくだけなのでそれは自己責任だよ>ってやつがあるように思うけどそれってどうなの? たとえば努力以前の意欲の貧困とか、意欲を作り上げる生育環境の面での格差ってのがあるんじゃないの?」、ってことを論じた。でも、最終的にはやはり個人の努力がないとそういった環境からは抜け出せないわけで、その部分を開発していく(ちょっとでもやる気を出すため)にはどうしたらいいんだろうね、みたいなことについて愚考してみた。(・・けっきょくきちんとした結論出なかったけど。。)

 あと、努力のほかに「運」っていう要素もあるだろうけど、運がきたときにつかめるために努力して能力を磨いておく必要がある、というのは共通理解だと思う。


 んで、lifeだけど今回のテーマは「文化とお金」ということで格差社会とかには直接かかわらない感じなんだけど、後半でぐわっと掛かって来たり。結論から言うと、「才能や能力はそれほど問題ではなくて、重要なのはやる気になったときにサポートしてくれる環境が整ってるかどうかってこと」、って辺りがビシビシとリンクしてきた。具体的には奨学金(あるいはそれを可能にする財団)などなわけだが。

 まぁ、とりあえずぼちぼち見ていこう。


「文化とお金」 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


 番組前半はいつもどおりゆるくはじまって、メインテーマではない感じの雑談で和やかにって感じで過ぎていった。でも、「金がないとき文化的なものを摂取するためにどんな工夫してた?」、なんて話題は面白かったけど。結論としてはやはり中古とかレンタル、図書館なんかが多かった。いまだったらブックオフみたいな新中古なところか。(佐々木さんの「ブックオフ大好き!全店行きたい!!」発言に笑ってしまった。自由が丘店がすごいらしいですよ)

 あとは目利き(セレクトショップ)とブックオフなどに代表されるようなランダム配置の問題なんかがあったけどこの辺はよくあるので割愛。


 んで、流れで文化資本の話とか


「文化とお金」Part2 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


解説すると、文化資本というのは、ブルデューという社会学者がいて、もともと家に本があるとか、音楽を聴いてたとかいうことが、努力して勉強していい大学に入る、なんてのとは埋めがたい差として現れてくるという話。



 これを受けて「親から子への文化の相伝」的な話がしばらくの間つづいて、関連で「家の環境が勉強にまで影響してくる」って話も出てきつつ、「そういうのってあるよねー」、と。

最近、教育の分野で、この種の「直接仕事とかに役立つこと」とは別に、家の環境が勉強にまで影響してくるって話がありましたけど、もう少し説明してもらえますか?

斉藤:階層別に統計を取ってみると、勉強時間、生活習慣、勉強への意欲っていうのが、如実にデータとしてあらわれている。ゆとり教育とか言われてて、あれは単に知識を詰め込むことへのアンチテーゼというか、どうやって考えればいいか、どうやって勉強すればいいかってことをこれから延ばしていこうという話。でもそっちはモロに階層とリンクしちゃう。文科省がやろうとしているのは、格差、学習資本みたいなものを、どんどん広げていく方向に向かうんじゃないかという。



 で、そんな感じでゆるく話してたんだけど、後半急展開。


「日本に文化資本の引継ぎ的問題はない」((C)柳瀬)


 とちゃぶ台返し。



 いや、その前段階としてこんな話があったか


佐々木:文化資本の話で、それを日本に当てはめるときにいまいち分からないのは、ブルデューがフランスのことについて言うのは、貴族とかがまだ社会構造の中に生きているっていうのと関係ある。いま、中俣君と僕が、親が文化系でって話しましたけど、こんなものは文化資本でも何でもないから。たまたま資本家の子どもに生まれたら資本家、職人だったら、っていうのがたまたま文化的なものであったに過ぎない。教育云々っていうのは、大学に入って学ぶ中身について言うより、その結果として、ある会社に入れて、豊かな人生が持続できるみたいなことがあるとして、そういう目的思考でやってる気がする。文化とかあまり関係ないんじゃないか。俺が得たような文化資本なんて、人生の成功とかには何の役にも立ってないわけですよ。



 「おフランスの文化格差を舐めるなよ。おフランスの文化格差と日本のそれじゃぜんぜん違うんだよ」、と。まぁ、こういうことだけど


フランスでは誰が日本の漫画を消費しているか? - ボンズ〜ル・ブログ|Le Spleen de Tokyo

日本語を学びつつランボーを研究しているフランス人の友人に、日本ではマンガもある種の教養となっていて、文学作品と同等のステータスがあるという印象を伝えたところ、大変驚かれました。この人はマンガを全く読んだことがないとのことでした。「サブカルチャー」はフランスでは本当に「サブ」カルチャーであって、「サブカルチャー」の受容は逆説的に「メインカルチャー」の強固さを証し立てているのかなと感じました。日本では「サブカルチャー」に対する「メインカルチャー」はもはやないように思えます。しかしフランスでは両者は決して交わらない。交わらない故にある視点から見ればそれは相互依存的なものであるように思えるのです。


 なんとなくアレとか思い出す。「フランスの一流バレーカンパニーの審査では祖父母の代まで肥満があるかどうか調べる」問題(@曽田正人、「昴」)。あとピアノとか絵画とかそんなの。

 んで、そういったハイソなカルチャーに対して、サブカルチャーはカウンターカルチャーとして存在する、と。カウンターはずっとカウンターであって両者が交わることはない、ってやつ。

 個人的にはそういう状況のなかでたとえばR.バルトなんかがレッスルする世界に関心をもって研究を進めたのとかは面白いな、と思う。彼が存命なら日本のマンガカルチャーとかプロレス状況を面白く感じ擁護していたかもしれない。(オタク的なものとかも)


アルクトゥルスの25度下: バルトは多分全日のファンになっただろう(表徴の<帝国>・1)



・・話がそれたので戻すと、そういった日本的な「文化」的なものと教育的なものとではまた問題が違うだろう、と。教育には目的思考(合目的性)みたいなものがあるし、そういう意味では「文化」とは違う、と。


 まぁたしかに、システムのルールとして分かりやすい政治・経済的合理性に対して文化的なものというのはその余剰的なもの(多様性)だからなぁ。なので文化単体で見ても文化なんてものは分からない。


 
 んで、こんな感じで「文化資本って言ったって日本とフランスでは違うし、教育といわゆるサブカル的なものは違うしね」って話が出てきたんだけどここで鈴木謙介氏によるちょっと補足(+ 論点整理)


鈴木:今の話、ふたつ補足しておかないといけなくて、ひとつは、ブルデュー的な文化資本って、日本に当てはまらないってのは確かにそう。せいぜい言うなら、能・歌舞伎・狂言とか子どもの頃から見てました的な話ですよ。なので、某一流私大とかに入ったら、みんなそういうのがあって凹む、とかいうもの。ただ何でこの話を出したかというと、ポップカルチャーなんて、文化資本って言えるほどの歴史がないじゃん、って言ってられたのもちょっと前までの話で、今はポップカルチャーが大きな市場になっていることも含め、やっぱり継承性みたいなものが大きく作用するものになってるんじゃないかっていうのがひとつ。それから、もうひとつ「遺伝」って話ですけど、それで言うと、なんで継承の話を出したかというと、これが「あのやろう、いい家に生まれやがって悔しいなあ」とかじゃなくて、「僕はこういう家に生まれたから、もともと家にレコードがたくさんあるような家じゃなかった僕だから、文化系みたいなセンスなくても仕方ないんだ」、みたいな理解をするためのリソースにされてる感じがするんですよ。で、この二つの話がくっついてくるのが、ミュージシャンや作家の「二世問題」って奴で。つまり、宇多田ヒカルが出てきたときに最初言われたのは、帰国子女だから仕方ない、親もミュージシャンなんでしょ、みたいな。そういうあきらめるためにものの見方を使う感じにもやもやしてる感じがあって。そんなことないじゃん、ってことを言うためにこの話を出してるわけですけど。



 「ポップカルチャーっていっても継承性の問題はあるかも。でも、それがあきらめの理由として利用されてるとなるとまずいね」、と。


 あと、教育との関連として「合理性と多様性の二者択一ってどうだろう」って感じの話に繋がっていく。(っつーか、持ってないものを手に入れようとするときに、実利的な目的志向から行くか、「わたしこれが好きだからこれで食ってく」的な志向から行くか、びみょーだよね、って感じの話)

 んで、そこから「文化系と実業」という話に展開してセゾングループ(堤清二) ⇒ 「文化とパトロン」的な話へ接続されていく。


 で、その前段階として柳瀬さんの「文化的継承はない」発言


柳瀬:さっきの話をまとめるんですけど、ひとつは斉藤さんが言ってた、教育と文化の問題は切り離した方がいい。作家や学者の子ども、親を見てますけど、親と子の教養体系は全然リンクしてない。それは個別の問題だと考えた方がいい。


 そんな感じで問題を分けつつその上で必要なのは

その上で、ただし、必要なのは、まったくそういう素養がなかったけど、たまたま街で聞いたギターのリフ一本で、ギタリストを目指す奴とか、たまたまチラシに載ってた活字一行で本を書きたくなる奴というのがいる。これが文化に対する人間のムーブメント。そういうのに対する環境設定をやってあげるっていうのが、文化資本であり、公共政策の役割。



 つまり、鈴木さんがさっきも上げていたように、「環境を理由にしてやる気をなくすな」、ってこと。むしろ必要なのはそんな感じで後ろを振り返ることではなく、ちょっとしたやる気が生じたときにサポートできる体制が整ってるかどうか、だと。

 お金は全てではないけど、手段としてのお金は大事だ。


 んで、この辺が本題だったらしく、皆さん考えてきたネタを投下していく。っつーか奨学金とかの話。


お金があるということと文化的であることが、ある程度合致するのが西洋の国。長い時代を経て、文化格差と経済格差が合致してしまう。そうじゃない人も出てこれるマーケットを作ったのがアメリカ。これに関して言うと、明治維新、終戦を経て、何度か社会が分断している日本の場合、文化資本のある家というのと、経済的な資本のある家が、必ずしもイコールしないという風になったと思ってる。たとえば作家になりたかったり、勉強したかったりっていう人にチャンスを与えるシステムは、アメリカなんかはきわめて優れたシステムを持ってる。
それで企業の話。向こうの企業ってのは、王様のいた時代からパトロンってのがあって、ミュージシャン、ベートーベン、モーツアルト、アーティストで言えばミケランジェロやダ=ヴィンチってのも、貴族のパトロネージュから出てくる。その延長にあるのが、いわゆるファウンデーションを行う財団ですね。能力のある人間で言うと、世界中から勉強したい、お金がないっていうと、ファウンデーションしてくれる。

鈴木:奨学金も出ますしね。



 んで、例のゲイツ、バフェットの財団の話とかに繋がってくわけだけど、日本はやっぱセゾンだね、と。


(流れで民間からの文化振興問題として日本のメディア、コンテンツ業界って過保護でぬるいね(世界的に通用しないね。非英語圏だし)。ってのが出てきててまったく同感だったんだけど、これは別件で上げようかな)


 で、セゾンの「ど真ん中にいた」佐々木さんがその辺のところを聞かれていろいろ答えてた。

 要約すれば、「欧米圏にはパトロン、メセナって意識が自然にあってそれが文化振興の核になってきたけど、日本にはそれはないよね。でも、西武はそこに絡んできた。それはなにも文化振興とかそういうことではなく、 

たまたまそういうインフラができたから、そのときそれがなかったら、もっと食うに困ったであろう人たちがそこに吸収されただけ。だからみんなセゾンって印が付いているように見える。それに過ぎないんじゃないかな


と。


 なので、経済合理性的なところから離れた特殊圏というわけではないんだ、と。(関連で村上隆の話なんか出てきたり)

 あと、日本におけるテクノとかハウスの分野もそんな感じで、「儲かってるからとりあえずこの部分も抱えときましょ」って感じでソニーがやったってのは意外だった。


 セゾンっていったら「80年代地下文化論」読まなきゃなぁ。。


エロ本編集者の憂鬱と希望:宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』(白夜書房)を読む。


うたかたの日々:かっこいいって



うたかたの日々 - 「東京大学「80年代地下文化論」講義」宮沢章夫の読書メモ兼インスパイアされた事柄 その2。




 っつーか、セゾン関連だとBigBangさんの「セゾンの中の人」的なエントリが面白そうなんだけど、ちょっと今回のエントリが思った以上に長くなってしまってもう眠いのでとりあえずリンクだけしてご紹介にとどめます。


BigBang: 邯鄲の夢(1)-- 闇に逃げた猫

BigBang: 邯鄲の夢(2)-- 蟻の棲むところ

BigBang: 邯鄲の夢(3)-- 腐敗

BigBang: 邯鄲の夢(4)-----消えた痕跡





 で、眠いのでまとめもなく今日は終わり。




・・・・またこんど (再見!)




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関連:
muse-A-muse 2nd: 芸術的なものへの参加資格について (関係性の再構築 承前)


muse-A-muse 2nd: 「クリエイティブ」とはなにか?(「センス」、「想像力」、「創造力」について)



posted by m_um_u at 23:37 | Comment(2) | TrackBack(1) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年05月25日

格差を巡るデフレスパイラルから抜け出すには・・・

 クローズアップ現代「ワーキングプア  アメリカからの警告」を見終わってなんか感想書こうかと思ってたところでこのエントリを見て、なんかいろいろ繋がったので表出してみる。


Arisanのノート - 『若者の生活と労働世界』から、湯浅・仁平論考に関して


 その前にクローズアップ現代の放送内容を簡単にまとめておく。この回はアメリカの格差社会論で有名なジャーナリストらしいデイビッド シプラーさんを招いていろいろ聞いていた。で、「格差社会とはどういうものか?」という話で、ワーキングプアの実情が描写されていた。

 具体的には、「平均所得の1/3も稼げない人のことをワーキングプアという」、と。そして、「働いても豊かになれない人のことである」、と。

 後者の例としてはたとえば税金の問題がある。所得が少ないので働いても税金や家賃、その他の生活する上で最低限必要なお金が払えないあるいはそれらを支払ったらお金がなくなってしまう現状がある。そして貯金ができないのでステップアップできない。

 「こういった事態が生じたのはなぜか?(アメリカは努力すれば報われる国(=American Dream)ではなかったか?)」という問いに対して、シプラーさんは「間がなくなったからだ」と答えていた。

「昔は能力がない人でも経験を積めば一定のポジションにつけて相応の給料をもらうことができた。製造業なんかはその最たる例だ。しかし、現在は労働生産性の中心が製造業からサービス業、そしてその上の一定のスキルを必要とする仕事(ex.医者、教員)にシフトしてきているので製造業ではお金を得ることができなくなってきている」

 大雑把にいうとこういうことらしい。

 

 そういえば「サービス業へのシフト」という話はこちらでもやっておられたな。


[R30]: 拝啓FT様 サービス業の生産性について


 こちらの場合はサービス業の中でもさらに効率性というか生産性のようなものが高いものにリソースを集中すべき、ってギロンだけど。うちのサイトではこの辺りが該当するか


muse-A-muse 2nd: 資源最適化としての格差社会と社会保障に関して



 んで、話を戻すと、そんな感じである程度スキルが必要になってきてて、それを得るためにはある程度のお金とか能力(脳力)が必要なんだけどワーキングプアの人たちはその両方とも危機的情況にあるということみたい。お金のほうはそのままなんだけど、文化資本っていうことでブルデューのギロンに通じるか。脳力のほうは、「2〜3歳までに十分な栄養を与えられていないとその後の脳力に影響する」、ということがあるみたい。なので「教育」によって貧困からの脱出を試みようとしても前提条件が失われている事態に陥る。(たとえば奨学金みたいな制度があっても活用することができない)

 で、番組では特に語られていなかったけど、この脳力の部分にモチベーション的なものも関わるのではないか、と思った。

 具体的に言えば、「目の前に機会が転がってるのにやろうとしない」、問題。


 要するにこういうことだが

muse-A-muse 2nd: フランク・ゴーブル(著)、小口忠彦(監訳)、1972、「マズローの心理学」


 もしくは、

偽装部 - コアラ・ミーツ・パンダ - 以前から古谷実に対して考えていたことを書いてみるテスツ


「人生最大にして最強の敵は“めんどくさい”だ」


 ってやつ。


 古谷が「ヒミズ」で象徴的に描いていた怪物のようなものが心理的な呪いとなって成功への道を塞ぐ。


 それで冒頭のArisanさんのエントリに戻るわけだけど


Arisanのノート - 『若者の生活と労働世界』から、湯浅・仁平論考に関して


 ここでは、「ホームレスの人なんかが働く気をなくしていくのは成功体験の溜めがないため、剥き出しの現実に堪えられないのではないか」、という問題提起がされている。

 ホームレス、フリーターなどの弱者労働者に対して、よく「ぐーたらして働く気がなくてそういう状態になったのだから本人が悪い」などの自己責任論が展開されるけど、その前提条件として働く意欲(モチベーション)の部分で格差があるのではないか、と。(「意欲の貧困」の問題)

 通常そういった意欲はなんらかの成功体験というか、「失敗しても大丈夫」といったバックアップがあって発達していくものだが、そういったものがない環境の中で育ってきたのではないか、と。(以下、Arisanさんのところの引用(本田由紀、「若者の労働と生活世界」)からの孫引き)


そしてその「意欲の貧困」は、心理主義的なまなざしではとらえられない構造的な諸条件によって産出されていた。通常、働くということは、実は「根拠のない自信」という意欲・意志の外部によって支えられており、その「根拠のない自信」は、失敗が存在の危機へとつながらないさまざまな“溜め”――つまり親密な社会関係や社会保障(家族・企業福祉・公的福祉)に支えられている。それを担保していた家族、企業、公的社会保障が脆弱化していくなかで、“溜め”が剥奪される状態が生じうる。ここが、「意欲の貧困」が生起する場所である。(p355)



 つまり関係性のバックアップがない、ということになる。


 そして、こういった「溜め」がないために剥き出しの現実(たとえば未経験で関係性の乏しい職場)に堪えられないのではないか、と。


 
 しかしこれは逆に言えば可能性のある話かもしれない。というのも意欲を「先天的な個人の能力」として設定した場合、それはケア不可能な領域ともいえるのだけれど、このような形で後天的に意欲が定まるものならば、外部環境的になんらかの対策をこうじることができるかもしれないので。(安易かもしれないけど)



 しかし、この深淵というのはもっと奥深いものである可能性もある


田原さんのような事例は、誰にも潜在していて「溜め」がなくなればいつ露呈してもおかしくないその深淵が、何かの理由で露呈しやすい条件で生きることを余儀なくされてきた人たちの問題であるともいえる。そして、そういう人たちは、精神的な意味でも、経済的・社会的な意味でも、今日たしかに決して「少数ではない」。



 おそらくここで言われているように「誰にでもある」がゆえに「誰もが隠している」(無意識に見ないようにしている)ものなのかもしれない。


 鬱系の話と似てるけど、「その深淵に真正面からぶつかると絶対に勝てないので、黙って過ぎ去るのを待つしかない」、みたいな感じなのかも。そんなこと言って黙って待ってても飯が食えるわけではないので、なんらかのコツが必要なのだろうけど、敢えて深刻に考えずに「めんどくさい」を乗り越えていくコツとしてはこの辺だろうか。


finalventの日記 - 実現化する能力

高校生には、だから、まず夢想させ、それを現実化させるための知識を与える、そしてそれを本当に実現するための意志の動かしかたを見つめつつ、努力の技術を学ばせる。


 あるいはこの辺とか


finalventの日記 - そりゃそうだけど


(なんか「よかった探し」にも似ている((C)ポリアンナ))


 
 あるいは前回のエントリでも触れたように、「変なプライド(奢)を捨ててそこに自分を投げ出してみる」、ということが必要なのかもしれない。


muse-A-muse 2nd: 車を捨ててケモノ道に入ろう!



 「ビッグイシュー」にも書いてあったけど、ホームレスになった人というのは「プライドが捨てきれなくていろんな仕事につけなかった」というのもあるみたいなので。なんか男はそういう傾向が強いらしい(なので女のホームレスは少ないのだとか)。


 でも、そこにエイヤッと身を投げ出していくためには意欲の核のようなものが必要なわけで、それはある程度成長した段階から身に着けることは可能なのだろうか・・?



 ・・なんか難しいい問題だが、考えていくべきことなんだろう。(とりあえず自己実現系でもうちょっと掘ってみよう)



 あと、共感の問題


Arisanのノート - 共感する力は「能力」か?


 Arisanさん的には共感力(感受力、想像力)にまで「力」という言葉をつけてしまうことで能力主義的な視点(cf.ハイパーメリトクラシー)に陥ってしまうのではないか、ということを危惧されているみたいだけど、それとこれとは違うように思う。

 ぼくはやはり想像力というのはそのまま個人の能力に繋がるように思う。それによって他者への共感が生まれるわけだし、能力的には様々な情報を連結させ体系的(俯瞰的)に事象を見る能力というところに繋がるように思う(実際マズローもそんなこと言ってたし)。たとえば「ネットカフェ難民の人がお金の使い方知らないんじゃないか」問題とか。


 でも、「そういった共感力を養わなきゃね」みたいなギロンは危険な気がするけど。(たぶん分かってない人が愛国教育に使うだけなので。「空気読め」的な話にも通じるな)


 こういった他者への共感的な想像力というのは善性とも通じるもので、それはたとえばこういうものだと思うのだけれど


田口ランディ公式ブログ : 罪悪感


以前に広島に落とされた原爆の小説を書いていたとき、「死のなかの生命」という本を読んで、原爆の炎のなか九死に一生を得た人たちに共通する「生き残ったことへの罪悪感」があることを知った。自分も生きるか死ぬかの瀬戸際だというのに、被爆者は自分だけが生き延びてしまったことへの、言い知れぬ罪悪感をもって苦しむのだと言う。

それを読んだ時、なんと人間は優しく残酷で不思議な生き物だろうと思った。原爆を作ったのも、落としたのも人間、それを浴びるのも人間、そして生き残って悔やむのも人間。

人の心は複雑でわからない。私は私の心すらよくわからない。でも、学ばなければならない。私たちは自分だけが救われていくことに罪悪感をもつ存在だということを。そのような心を人間はもっていることを。あるいはだから人間であることを。




 これを「想像力のような認知的な能力と通じるもの」として設定した場合、「アホは善性がないのか」みたいなギロンに通じる感じでちょっと危険ではあるのだけれど・・・まぁ、その辺はぼちぼち。。。





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関連:
下層の暮らしをルポする手法 (book review)

うたかたの日々@はてな - 働けど

※アメリカの格差社会の現状についての体験ルポ(「ニッケル・アンド・ダイムド」)について。



フリーターが語る渡り奉公人事情 日雇い派遣ワールドと一般社会

※単純労働系をしているうちに語彙が減ったり文法を忘れて思考できなくなる問題。これは似たような体験があるのでなんとなく分かる。(それでも勉強を続けているワタリさんにはほんとに敬服する)



福耳コラム - 絶望しないふりはたやすいが

福耳コラム - 素質論に逃げまい

福耳コラム - 学力の問題以前の自己承認の問題

※モチベーションの低い学生でも拾い上げていこうという福耳さんの不屈の戦い記録。このコ達は恵まれてないわけでもないのに機会を活かそうとしていないので傍から見ているイライラしてくるわけだけど、Arisanさんの言うように構造的な問題があるのかもしれない。(意欲の貧困 = 関係性の貧困 = 心の貧困 ?) それにしても、このときにがんばっとかないと将来的にキツイことになるわけだけど、その辺の想像力というか、分かっていても分かっていないのだろう。(あるいはやはり意欲の問題)



5号館のつぶやき : 若者の悲鳴に耳傾けよう

※「強い人から見ると当たり前のことができない人は圧倒的に多いのではないか」。そしてそれを自己責任的に切り捨てるのはどうか、と。



愛・蔵太の少し調べて書く日記 - ネットカフェ難民なんてただの報道の演出です

※「ネットカフェ難民ってびみょーかも」、と?(未だよく読んでません)





posted by m_um_u at 18:01 | Comment(2) | TrackBack(1) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

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