2015年08月22日

阿古真理、2013、「昭和の洋食、平成のカフェ飯」



最近はこれを読んでいて



昭和の洋食 平成のカフェ飯―家庭料理の80年 -
昭和の洋食 平成のカフェ飯―家庭料理の80年 -


直近の話題に反応してうだうだゆったりしたんだけど


メシマズやら孤食やら|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nbaa25a4e201a



うだうだでやめといてもいいんだけどここで紹介されていたレシピに関する各コンテンツの解説がわかりやすかったのでそのメモも兼ねてエントリしとく。



本の内容としてはまえがきにまとめられてるものをそのまま引用する。


 なぜ、昭和に洋食が広まり、平成にカフェ飯が支持されるのか。和食は再発見されなければならないのか。その理由は、経済や政治その他の社会的背景から裏付けることがデキる。最大の要因は、長く台所仕事を担ってきた女性の変化である。変わり続ける女性と周囲とのギャップが、食卓に何をもたらしてきたのかが、次第に明らかになってくる。
 
 時代の区切りは五つ、昭和元年〜20年を昭和前期、昭和21年〜50年を昭和中期、昭和51年〜昭和64年と平成元年までを昭和後期として分類し、平成は2年から11年までの1990年代と2000年以降で分けた。

 昭和前期は、かまどで炊くご飯を中心にした食文化の中に、新奇なものとして外国料理が広まった時代である。昭和中期は、敗戦によって過去の文化に自信を失った人々が、外国文化を積極的に取り入れた時代である。昭和後期は、家庭料理がより手の込んだものへ向かうと同時に、外食化が進んだ時期である。1990年代は、戦後築き上げた昭和の価値観が崩れていくと同時に新しい文化が芽吹きはじめる。2000年代以降がさらに進んで新しい現象が起こり、昔の食文化が再発見される。並行して起こる食文化の変化の、何が勝者となるのか。

 歴史をたどって見えてきた現在の食卓へご案内する。




この短い文章の中に本書のエッセンス、というか背景となる流れは詰まっているように思うのだけど未だ読んでない人用にもうちょっと膨らませて説明しとこう。

昭和前期、昭和元年から20年、朝の連続テレビ小説「おひさま」の時代はまだかまど炊きがふつーな時代で庶民としてはだいたい毎日同じものを食べていた。鰯の煮付けとかそういうのと御飯と味噌汁と漬物とか。キッチンの仕様から作れるもの・作りやすいものも限定されていたし、それもあって洋食なんかは庶民が普段の食卓で食べるものではなかった。オーブンなんかもないわけだし。洋食はいちぶのお金持ちが食べに行ったり供されたり、あるいは料理教室的なもので習い社交の一部として使うものだった。


昭和中期(昭和21年から50年)、いわゆる戦後は未だ食糧難の時代ということもあったけどアメリカ主導で外国の食文化も入ってきていた → 知識の民主化に応じて食文化も民主化されたのか、あるいは外国文化への憧れからか洋食「文化」が積極的に取り入れられていった。とはいえ未だこの時代には洋食の知識も一般化したものではなかったので外国料理は未だありがたく高級なものだったし、料理研究家とか料理を教える人なんかもそれに準じ「きちんとした料理をきちんと教える」ということでホテルの料理長とかお金持ち貴族の奥様なんかが教えるものだった。


昭和後期(昭和51年から平成元年)は洋食がもっと庶民化していった。冷蔵庫の普及、キッチンの構成やレンジほか調理器具の普及によって家庭でも洋食をつくり日々の献立とするのが当たり前となり、それもあって和食や「きちんと出汁をとる」ということも忘れられていった。女性の生活としても1984年に男女雇用機会均等法が施行された周辺で家事だけが女性の仕事ということではなくなり、むしろ仕事と家事の両立の忙しさから家事は後景化していった。




いわゆるメシマズな問題というのは昭和後期以降の生まれの世代の問題であり、背景としてはその親に当たる世代(昭和中期世代)から料理知識が継承されなかったことが要因となる。そのためメシマズ個人を笑って済まされるものでもないのだけど。

では、なぜメシマズの親からメシマズへ料理知識が継承されなかったか?

それはメシマズの親世代もその親世代からきちんとした料理知識が継承されなかったから、ということになる。


メシマズの親世代が子どもの時というのはちょうど戦後のドタバタの頃で満足な食料もそれを料理として整えるための環境も時間もなかった時代で、それ以前の「夕飯周辺の時間になると女の子はお母さんと一緒に台所で過ごし自然と料理を覚えていった」ような余裕や時間、場所はなかった。


加えてこの世代は「女性も仕事を得て社会に出ていく」第一世代にあたり忙しかった+そういう女性をサポートするような簡単調味料やレシピが提供されていったためますます基本から遠ざかっていった。


家族構成としても都市部への人口移動、家族形態の変化(核家族化)、ライフスタイルや文化の変化がすすみ、祖父母が同じ世帯にいる環境は稀となっていった。つまり、前世代からの普段の知識の継承の機会が減じていった。



日本人の食生活はそういった背景から変わっていった。



洋食が若い世代に支持されて一気に家庭に入っていった昭和半ば、本格的な外国料理に取り組んだ主婦たちの時代、エスニックの要素が入り込んだ平成のカフェ飯。その間、繰り返し再発見される和食。料理の紹介の仕方によって、その時代に何が新しく、何が危機的とおもわれてきたのか映し出される。食卓を描いた人気の小説やドラマ、マンガは、当時何が人気の料理だったのか、懐かしい場面とともに伝えている。






「和食」って何? (ちくまプリマー新書) -
「和食」って何? (ちくまプリマー新書) -







小林カツ代は昭和後期の女性のライフスタイルの激動期を代表する料理研究家だったといえる。


それまでの料理教室的なコンテンツが格式張った内容だったのに対して、小林は肉じゃがをはじめとしたもっと庶民的な和食を再発見し、簡単に作れる術を伝えていった。



メシマズやら孤食やら|m_um_u|note
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彼女が主婦ではなく料理研究家を名乗り、料理の内容としても「簡単だけどきちんとつくっているもの」を旨としたのは前時代の権威に対するものだったみたい。また、核家族時代で失われた「家庭の和食的なアジの作り方」を簡単に教えるためでもあった。

そこには女性の社会進出第一世代の矢面に立った女性たちの「主婦≠女性を馬鹿にするな」的な側面もあった。

それに対して栗原はるみはもはやそういう時代も過ぎた頃、敢えて「自分はひとりの主婦です」と名のれる頃にでてきた料理研究家だった。

これらの話は続編の「小林カツ代と栗原はるみ」にもっと詳しくあるようなのでそのうち読もう。小林カツ代な話も。




小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代 (新潮新書) -
小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代 (新潮新書) -






以下はこの本で紹介されていた各時代を代表する料理系コンテンツ。


自分的に名前はしっててもどういう内容のものか知らないものがけっこうあったので、今後の参考のために。






Hanako(ハナコ) 2015年 9/10 号 [雑誌] -
Hanako(ハナコ) 2015年 9/10 号 [雑誌] -


80年代、働き始めて自分のお金を得るようになった女性ちの消費よくを盛り上げるべく1988年に相関された首都圏情報誌。その影響力の大きさはハナコ族、ハナコ世代という流行語を生んだ。若い女性が男性のエスコートなしに高級レストランや通な店に行けるようになった。


オレンジページ 2015年 7/2 号 [雑誌] -
オレンジページ 2015年 7/2 号 [雑誌] -

オレンジページ 2015年 7/2号 [雑誌] -
オレンジページ 2015年 7/2号 [雑誌] -

1985年創刊。当時のトップスーパーダイエーが出した雑誌はスーパーで手に入る食材を使った料理をたくさん紹介し、買い物ついでに手に取れるレジ横に置かれた。一つの食材や定番人気料理のジャンルを特集の切り口としてさまざまな味付けのバリエーションを提案。コツが必要なプロセスについては写真と文章でていねいに説明する。主婦の鏡をめざす精神論より実用に徹する料理を中心とした生活情報誌という分野を広げて定着させた。



Mart(マート) 2015年 09 月号 [雑誌] -
Mart(マート) 2015年 09 月号 [雑誌] -

Mart(マート) 2015年 09月号 [雑誌] -
Mart(マート) 2015年 09月号 [雑誌] -


食べるラー油の火付け役ににもなった主婦向け情報誌。「もっと生活遊んじゃおう!」をキャッチフレーズとしあたらしい消費を紹介する。たとえばカルフールやコストコ、カルディコーヒーファームなど。「マート」読者はこういった店でほかのスーパーでは売っていない珍しい調味料や食材を買い、目先の変わった珍しい味をたのしむ。ル・クルーゼの鍋も「マート」で繰り返し推されている(人気に火がついたきっかけは2003年に出版されたレシピ本『「ル・クルーゼ」だから、おいしい料理』から)。「マート」の読者はあまり料理が得意ではないらしいがブランドの味は好き。


作ってあげたい彼ごはん (e-MOOK) -
作ってあげたい彼ごはん (e-MOOK) -

作ってあげたい彼ごはん6 (e-MOOK) -
作ってあげたい彼ごはん6 (e-MOOK) -

レシピブログ全盛期を代表する本(ブログ)。基本的にはカフェ飯を中心としつつ「女のコがはじめて料理をつくろうとした時に自分でも食べたことのある/つくったときに正解かどうかわかるような定番メニューを簡単においしく作れるように。その積み重ねで料理が好きになるように」を基本とする。



NHK きょうの料理ビギナーズ 2015年 09 月号 [雑誌] -
NHK きょうの料理ビギナーズ 2015年 09 月号 [雑誌] -

「きょうの料理」の放送に5分プラスする形で、男性もターゲットに含めた初心者向けの料理解説につとめる。切り方や野菜の選び方、茹で方、使い切りレシピなども紹介する(Eテレ、21時25〜)。

「きょうの料理」は長い間、研究熱心な主婦によって支えられ、基礎も教えつつ手の込んだ応用編も多かった。ビギナーズでは幅広い層を視野に入れた教科書のような作りで大胆にハードルを下げた。




太一×ケンタロウ 男子ごはんの本 -
太一×ケンタロウ 男子ごはんの本 -

男子ごはんの本 その5 -
男子ごはんの本 その5 -

2008年からテレビ東京系で始まり人気となったレシピ番組。国分太一と(小林)ケンタロウによる日常的な雰囲気・生活のなかでの料理を愉しむというコンセプトな内容で人気を博した。それまでの料理コンテンツにあった堅苦しい雰囲気、教科書的、「教える」というスタンスからもっとゆるく料理を愉しむことを提案し間口を広げた。その前身として城島茂が出演していた「愛のエプロン」がある、と。




ku:nel (クウネル) 2015年 09月号 [雑誌] -
ku:nel (クウネル) 2015年 09月号 [雑誌] -


天然生活 2015年 09 月号 [雑誌] -
天然生活 2015年 09 月号 [雑誌] -



2003年創刊。食品偽装や孤食、食の貧困→健康状態への憂慮といった背景からスローフード・スローライフな生活が提案・発見されていき、その流れを受けて創刊された。スローフードブームに火をつけたのは2000年にベストセラーとなったノンフィクション「スローフードな人生!」であり、雑誌「ソトコト」によって全面バックアップされていった。


スローフードな人生!―イタリアの食卓から始まる (新潮文庫) -
スローフードな人生!―イタリアの食卓から始まる (新潮文庫) -

スローフードな人生! −イタリアの食卓から始まる− (新潮文庫) -
スローフードな人生! −イタリアの食卓から始まる− (新潮文庫) -


SOTOKOTO(ソトコト) 2015年 09 月号 -
SOTOKOTO(ソトコト) 2015年 09 月号 -





おべんとうの時間 -
おべんとうの時間 -

おべんとうの時間 3 (翼の王国books) -
おべんとうの時間 3 (翼の王国books) -

ソトコトの出版社から2010年に発売されたビジュアル本。写真家の安倍涼が立ち上げた、全国各地の働く人々が食べるお弁当を撮る企画は、2007年に全日空の機内誌「翼の王国」に連載されて人気を得、「いつかは写真集に」という夢が実現した。たぶんNHKの同様番組「サラメシ」の元ネタ。






ほかにも「すいか」→「かもめ食堂」や「きのう何食べた?」、「美味しんぼ」「クッキングパパ」などの解説(内容とどういう文脈や背景から受け入れられていったか)もあるけど割愛。ほんとはこの本の魅力はそういった料理にまつわるコンテンツの解説を通じてその時代を回顧することにあるのだろうけど。そのへんは興味持ったら各自で読んでみるとよいと思う。



最後に著者はスローフードの文脈から「クウネル」や「おべんとうの時間」の紹介してこのように締める。


 
スローフードという切り口から、食の風景を見てみると、21世紀の食卓は、さほど悪くない。昔ながらの食文化が完全に廃れたわけではない。

 蒸した料理もお米の料理も、日本人が昔から好んできた料理だ。私たちが取り戻したかったのは、当たり前の暮らしだ。そしてそれは、遠い外国や過去に求めなくても、すでに手にしている人はちゃんといる。当たり前すぎるから気づかなかっただけなのだ。
 
 問題ばかりを見ていれば、絶望したり将来を悲観したくもなる。壊れたものや、失ったものを見て嘆いていても、立ちすくむばかりだ。今、手にしているもの、生まれてきた可能性に目を向けることも必要ではないだろうか。一人ひとりが、食べること、つくることを大切にし、自分や家族の心と体をいたわることで、変えていけることはたくさんある。




「基本となる出汁のとり方とかきちんとした料理が失われたみたいな危機感が出たときもあったけど、スローフードな流れを見てると案外だいじょうぶな感じもする。簡単調味料を活用する現代版家庭料理なんかも含めて」というところだろうか。

自分なんかもメシマズ世代で簡単調味料な時代に育ってるので手抜きできるところは手抜きして、たまにちゃんとつくるときにはつくろうかなあとか。そんな感じ。







--


南直人、1998、「ヨーロッパの舌はどう変わったか」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384995687.html




最近の料理本2つ:「強火をやめると、誰でも料理がうまくなる!」「築地市場のさかなかな?」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/416382880.html




石毛直道、2006、「麺の文化史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384598908.html




おさらいキッチン
http://www.osarai-kitchen.com/


テレビ番組のレシピ横断サイトぽい




昭和の洋食、平成のカフェ飯|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n795bbbc7b0c9


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2013年12月26日

竹内洋、2011、「革新幻想の戦後史」


革新幻想の戦後史
革新幻想の戦後史
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竹内 洋
中央公論新社
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全体の印象とまとめから。

「教養主義の没落」でもちらっと出てた「戦後の思想・教育は論理・内容イカンではなく経済 → ライフスタイルの変化、ハビトゥスや雰囲気によって浸透していった」「岩波文化とは?」という部分をより詳細に語ったもの。つまり市民宗教としての革新幻想の歴史。全体の分量としては「<民主>と<愛国>」のオルタナとして読んでいくといい感じ。(以下、関連リンク読まなくてもいいけど文脈としてはこんな感じ)


竹内洋、2003、「教養主義の没落」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382681253.html


「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ」→「<民主>と<愛国>」→「革新幻想の戦後史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382686567.html


赤い狐とこぐまのマーチ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383177504.html



「諸君!」への雑誌連載ということで定年教授が居酒屋で語ってるといった風情の思い出話がちらほら、たとえば当時の教育学部の権力うんたらについての内部事情とか、当時話題だった論文の内実とか。なので「革新幻想の歴史」という主題から少しそれるところもあったけど、それが単にテキストを切り貼りしたものではなく実際にその時代を生きてきたひとの実感的な思い出話という感じで面白かった。そのぶん主観もあるだろうけど。



最後のまとめ的感想から、竹内は

「日本の伝統社会(世間)的な圧や陰鬱さ、全体主義的戦争への悔恨と嫌悪から近代的都市民のあり方(モダニズムとそのハビトゥス)がモデルとされ、その要素として個人主義 = 主体の確立が模索された」、が、「それは圧がある時代の対抗言説としての有効性であって、その圧が失われた現在、ミーイズム的側面を吹き出した」

としていたけどこの部分は首肯しかねた。

全共闘世代、というか作る会→カウンターとしての小熊まとめの一連のキーワードとなるのが「個人主義」「公共性」「ミーイズム」「主体の確立」その上での「民主主義」辺りだろうけど、<「みんな都会化して圧が外れたのでエゴイスティックになった」=「お客様至上的になんでもかんでもクレーマー」するようになった>とするのはびみょーに思った。それだとよくいる急進的ウヨクぽい人の「最近は何でもかんでも『権利』『権利』と叫んで甘い!自己責任をしれ!」的な論理につながるだろうから。まあういう心性な人もいるとはおもうけど。



んじゃ以下詳細。








敗戦を巡る複数の感情とそこから生じた共同体の類型



           (戦前日本の否定)


      悔恨(革命)共同体 /  罪悪(自虐)共同体     

(対自性)                       (即自性)

      復興(皇国再建)共同体 / 無念(遺恨)共同体



           (戦前日本の肯定)




この簡易図は丸山真男「近代日本の知識人」の悔恨共同体 / 無念共同体辺りから。サヨク的なものが悔恨と罪悪、ウヨク的なものが復興と無念。

サヨクの中でも「二度とこの過ちをおかさない」としつつも行動する平和志向的なそれは革新幻想の中核をなしていった。自虐は行動力低め。

ウヨクの中でも無念共同体は東京裁判などへの割り切れなさや遺恨を出発点とする。復興(皇国再建)はそれからもう少し進んだ新人類的なバックラッシュ、日本人のアイデンティティの再構築を目指すもので実務家や保守政治家に見られる。


丸山的には「戦前の知識人は狂熱的な行動イデオロギーにはコミットしていなかった」としていたが、竹内が調べたところによると昭和10年代のキャンパス文化では国家主義団体がけっこうあった。丸山がよしとする「本来のインテリ」が多かった帝大や官立高校のほうにむしろ多かった。


これは丸山の<残虐志向・行為をしたのは百姓たち><そういった大衆をはじめとした内面性の弱体、主体の無さが全体主義を生んだ>という大衆蔑視 → <大衆の主体性(近代)の確立によって全体主義的問題が超えられる>を説く話の根幹に係る問題であり、小熊の<吉本隆明は大衆を代表するものとして保守的であったが、吉本はひとりよがりであった>というような言説にも影響を与えているものと思われる。戦前からの西欧教養主義データベースシバキズムの係累といえる。


岩波の雑誌「世界」はそういった悔恨共同体、革新幻想の共同体の牙城となっていった。


それまでは特にそういう傾向もない総合雑誌であったが岩波茂雄逝去後、編集長吉野源三郎を組織者とした平和問題談話会が創立され、丸山真男、清水幾太郎、久野収、都留重人などが集い平和思想の牙城となっていった。


「世界」は農村部の若者にも支持され読まれたがそういった若者は「クチばっか達者になって手が動かない」と敬遠されがちだった。


1957年頃、社会主義国や共産党神話の崩壊を目に革新幻想は陰りを見せていった。丸山真男を中心としたそれはマルクス主義-社会主義、共産主義や天皇精神構造的なものを乗り越えるべき批判対象としていたが、消費社会の到来も相まって勢いを落としていくマルクス主義を前に「なにかがっかりして気が抜けちゃった」状態になっていった。革新幻想の陰りと行き詰まりの時期だった。


同時期(1960ごろ)「中央公論」は現実主義路線をとり左派からは「右旋回」「ニューライト」といわれたが中根千枝の論文を掲載するなど中立を保っていた。



安保反対運動は最初世論とは関係のないものだった。「直接に台所(家計)とどう関係するのかわからない」という世間の空気の中、「暴力的な反対行為による阻止はしない」という立場は1960年の春頃まで世論には受け容れられやすかった。それもあって総合雑誌「自由」などはそういう立場をとった。安保反対運動に一般学生の他に一般市民が参加するようになったのは1959年11月27日の全学連の国会構内内乱のあとからであった。市民運動としてのうねりが急激にたかまったのは1960年5月19日の強行採決の日、デモのピークが東大生の樺美智子の死(6月15日)を招いたことからだった。

安保反対運動の高まりはその内容への危惧というよりも、岸首相のなりふりかまわない強権的な手法への反発からだった。

こういった流れを受けて盛り下がり気味だった革新幻想、その牙城である「世界」族の気運が高まっていった。


しかし「世界」は吉野源三郎を中心に平和問題に力を入れは始めた時から読者の数は大いに減らしていた。ではなぜ「世界」あるいは岩波文化のプレゼンスは高く感じられたのか?



岩波は「世界」を中心に「思想」「岩波講座」「岩波全書」「岩波新書」をはじめとする刊行物にメディアミックスならぬ刊行物ミックス的な「進歩的文化」感をまとわせていた。

たとえば岩波新書などには「平和にして自律的な民主主義日本の建設」「世界の民主主義的文化の伝統を継承し、科学的にしてかつ批判的な精神を鍛えあげること」「封建的文化のくびきを投げ捨てるとともに、日本の進歩的文化遺産を蘇せ」るなどの言明が付されていた。

こういったブランディングの成果か世界の読者の半数は30歳未満の学生だった。戦後の東大生の愛読雑誌調査をみると「世界」はほとんど一位だった。その傾向は京大でも同じだった。


こういった傾向の背景には「左翼キャンパスの解体が軍国主義の昂進を招いた」とする通念があった。

上記した丸山真男の誤謬でも明らかなように学生キャンパスの雰囲気は国粋主義なものがありそもそも「左傾キャンパスが解体した」というのはおかしい。あるいは左傾キャンパス文化と軍国主義の昂進には直接の因果関係はなく同時期の共変関係であったがそういった通念が蔓延した。このように内容自体の真偽はともかく明確に言語化できないような漠然としたムードや・感情といった通念を「背後仮説」という。竹内によると左傾理論はそういった内容以前の雰囲気に左右されやすく、保守理論はそうした雰囲気・背後仮説と不協和を起こしたため論理以前に拒絶されやすかった。





「世界」を中心とした岩波文化は共産党と距離をとるゆるい立ち位置にいたこそ輝けた。共産党神話の崩壊とともに政党と無関係な市民派サヨクの居場所となっていったのである。


岩波の平和思想は東大教育学部を通じて世間に浸透していった。その尖兵となったのが日教組-教師たちだった。進歩的教育学者は岩波知識人にお墨付きをもらった。


このころは未だジャーナリズムで活躍する評論家の論壇界と大学を中心とした学者界の拮抗のようなものがあり、マルクス主義を巡って知のヘゲモニーの振り子現象が生じていた。

「専門分化した学問と官僚主義的な大学教員は楽で独善的だ」とする風潮もあった。そういった大学の知に対する後ろ盾が知を統べる総合科学理論としてのマルクス主義だった。

このように「官僚主義/官僚独善」として大学人を批判する向きは東大全共闘議長だった山本義隆の言明にも表れている(cf.「知性の叛乱」)



知性の叛乱―東大解体まで (1969年)
山本 義隆
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アマゾンのレビューや以下のリンク先の様子みるとけっきょくは当時の山本さん個人の教授会に対する私怨が元になってたような印象あるけど

ひまわり博士のウンチク: 山本義隆『知性の叛乱』
http://himawari823.no-blog.jp/unchiku/2010/04/post_bc58.html

Sightsong: 山本義隆『知性の叛乱』
http://pub.ne.jp/Sightsong/?entry_id=2963376




福田恆存は「平和論の進め方についての疑問」において平和論者や文化人的な思考様式を批判した。文化人たちは何事にも一家言ある人種で「自分にとってももっとも切実なことにだけ口を出すという習慣を身につけてはどうでしょうか」と福田は叱る。これなどは今日のコメンテーターがその裔といえる。


その上で日本の平和論は正月などに使う屠蘇の杯だという。屠蘇の杯は小さな杯は順次により大きな杯の上に乗っかっている。平和問題論者は基地における教育問題を日本の植民地化に、さらに安保条約に、そして、資本主義対共産主義という根本問題にまでさかのぼらせる。小さな杯を問題にするためにはどんどん大きな杯を問題にしなければおさまらなくなる。

最後に福田は「日本のような小国は強大な国家と協力しなければやっていけないはず」と進歩的文化人の現実離れした平和論を批判している。




野田宣雄「『二つの戦後』から何を学んだか」によると日本の第二次大戦後の雰囲気は同時代のヨーロッパよりもむしろ一世代前の一次大戦後のヨーロッパと共通するところが多かった。

第一次大戦後、ヨーロッパは史上空前の悲惨な経験から平和主義と軍縮の教訓を引き出した。民族自決や議会制民主主義、社会主義革命などの崇高な理想主義に走った。リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーによる「汎ヨーロッパ主義」もそのような理念に棹さす運動だった。


ヨーロッパは平和と統合を目指しフランス社会党は「安全保障は軍備ではなく軍備縮小によってヒトラーを国際世論のなかで孤立させることによって得られる」とした。

イギリスもチェンバレンの1930年代までは対独宥和政策に付随した。チャーチルになってから対独挙国一致の戦争内閣を組閣した。1940年のこととなる。

第二次大戦は第一次大戦よりも大規模なものとなり、こレを経験したヨーロッパ各国は今度は打って変わって大きな理念や理想主義に不信感を持つようになり、極度に現実主義的な政策がとられるようになった。第一次大戦後を教訓として


第二次大戦後のヨーロッパ各国と日本の雰囲気の違い、現実主義と理想主義の違いはソ連の外交政策に対する誤解として悲劇された。
1950年、日本の知識人は平和主義、理想主義の範としてソ連を捉えていた。悲劇はここから生まれた。

1950年1月コミンフォルムから発せられた「日本はアメリカ政策主義の植民地政策のもとにある」というメッセージを日本共産党のシンパたちは国際橋主義の進展というタテマエ通りに受け取った。

日本共産党は中核自衛隊などの武装組織を作り火炎瓶投擲などの武装闘争方針をとりはじめた。共産党主流派にヘゲモニーを握られていた学生運動も武装闘争路線に従い山村を軍事拠点にすべく工作隊になったり農民オルグ活動にたずさわった。

共産党の1956年のスターリン批判からはソ連崇拝の陰りが見えたが、60年安保闘争の敗北後も論壇を中心とした知識人界と大学キャンパスでは平和主義と理想主義、社会主義そのものへの幻滅はなかった。





理想論的平和主義とマルクス主義によって全体を覆われた日本の知識空間の変化は全共闘への失望を基点とするように思われるところもあるかもだが、全共闘以前に知の編成は変化していた。

1960から1970にかけての高度成長 → 後期近代への以降により消費社会的傾向が強まっていき、「目の前の生活がだんだんと豊かになりいろいろ消費できるようになってるのになにに対して運動するの?」といった雰囲気が高まってきていた。

そういった雰囲気の中でマルクス主義は時代遅れなものになっていき、それに依存する形で作られていた岩波-日教組的な革新幻想も陰りを見せ始めた。

このような風潮の中、会社空間から期待されたのが実務的な知識だった。従来の教養・インテリは「観念インテリ、思想インテリ」とされ「実務インテリ、政策インテリ」という対抗コンセプトが掲げられ相対化されていった。

松下圭一(1965)「知的生産性の現代的課題」を嚆矢とし、堺屋太一、日下公人、長谷川慶太郎、大前研一などがあらたなテクノクラート型オピニオンリーダーとして期待されだした。司馬遼太郎もこういった流れを受けて人気を博した。それまでの明治観はマルクス主義的な階級史観による暗いものだったが司馬の描くそれでは日本人がハツラツとして輝いていた新鮮なもうひとつの近代日本死として話題になっていった。



また、1965年ぐらいまでは企業の採用方法は学部(専門)指定制が主だったが、指定校(偏差値)制へと変化していった。つまり「大学の専門的知識を職種に活かす」ではなく「とりあえず採用して、偏差値=地頭に期待してトレーニングし直す」という方式に移っていった。




革新と保守、岩波-日教組 と 文部省、モダニズム(近代主義)と伝統(日本)主義をめぐる軸の実質は「戦争」と「世代」、「主体」、「西欧」などであった。

戦後の思想は特に「戦争で負けたこと」「戦争へと突入したこと」を軸に回っていたが、この反省を「前世代の考え方が悪い」として責任を押し付け欧米思想を中心に近代的なものを是しとする姿勢が罪悪・悔恨共同体を基本としたマルクス主義や革新幻想的思潮であった。


そこでは旧来の日本の考え方は全て「悪いもの」とされそれに代わる形で「民主主義」などが志向されたが、それは内容イカンではなく市民宗教的な信奉に依った。
http://twitter.com/m_um_u/status/415693879115927552


たとえば戦前にマルクス主義が若者を中心に広がった背景はそれが欧米の先端思想であり、都市のインテリの思想だったからだった。理論などの内容ではなく「都市の垢抜けた若者が洋書や翻訳書を持ち歩き、クラシックレコードを聞き、カフェで談話する」という「モダンなスタイル」が憧れられ若者を吸い寄せていった。それは田舎の若者の都市(モダン)なハビトゥスへのあこがれだった。モダンに対して封建は旧世代のものとしてわけもなく嫌われた。


モダニズムを人口に膾炙したのは学生に対しては総合雑誌などであったが大衆においては小説や映画だった。石坂洋次郎はその代表的ないひとりとされる。

石坂作品では「青い山脈」などが有名だがこの作品は現代で言えば「金八先生」「鈴木先生」のような感じ。あるいはそういった一連の熱血教師者の原型だったのだろう。それまでの「授業とは教師が書いた板書を必死にノートするもの」というスタイルではなく生徒と問題を話し合って解決していくスタイルは民主主義の実践であった。そういった形で大衆の道徳的な部分や内省部分が涵養されていった。このへんはフランス革命時のルソーの影響を思わせる。




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1960年代前半までの日本社会論は欧米を極度に理想化し、美化し、日本を蔑むものだった。しかし高度成長を境に日本人論の論調は変わり「日本人の特性が急速な近代化に大きな貢献をなした」とするような日本人論が書かれ始めた。


消費社会の到来を背景にマルクス主義も流行遅れとなり、時代の先を行っていた石坂作品のモダニズムも流行らなくなっていった。


学生運動はそういった時代の流れに逆行するように起こっていった。








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関連:
ロバート・ダーントン、1984(1990)、「猫の大虐殺」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382911771.html



『グロテスクな教養』 - leeswijzer: boeken annex van dagboek
http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20050619/1119108573

日本の大学教育以降の実学偏重 / 反面としての教養の冷遇。結果として教養主義界隈の閉じたコミュニティができそこで特権的友情共同体ができていった。これはドイツ教養市民層の排他性 / 隔離性とその明治教養層への影響を想わせる。ニューアカはここで涵養された「教養」のバロックを受けた奇形だった

野田宣雄、1997、「ドイツ教養市民層の歴史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382529159.html


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2013年12月14日

「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ」→「<民主>と<愛国>」→「革新幻想の戦後史」


ライトサヨクまで通じる日本の学校教育のサヨクな感じってどう形成されていったんだろ?ってことで「教養主義の没落」に続く形で「革新幻想の戦後史」読んでるんだけど、やはり同時並行で「<民主>と<愛国>」読みなおしといたほうがいいだろうなあってことで両方読んでる。

・・まあ両方共太い本なのでなんかめんどくさいんだけど、「民主と愛国」のほうは一回読んでたし、あのときに比べてアウトラインがわかってるので小熊さんのまとめの中でも要らない部分は読み飛ばす感じ(最近脳みそのよむよむ筋も戻ってきたみたいだから「要らないとこ」とか「ここからここまではこれについて論じてるだけ」ってのはなんとなくわかるし。



竹内洋、2003、「教養主義の没落」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382681253.html?1387010065



〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性
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「民主と愛国」は「世界」編集者界隈だった小熊さんの出自もあってどうしても岩波な視点ぽく感じる。というかウィキペディアの小熊さんの項でもまとめられてるように鶴見俊輔びいきってのは初読のときから感じた。あと「作る会の言説に対するカウンター」って程度なのだろう。


■「つくる会」に対抗したかった

――小熊さんにこれだけの大著を書かせた動機はなんだったのですか。

★前著の『<日本人>の境界』で戦後沖縄の復帰運動を書いたこととか、いろいろありますけれど、一つには90年代に「新しい歴史教科書をつくる会」が出てきたり、加藤典洋さんの『敗戦後論』をめぐる論争が盛り上がったりしたことです。私にいわせれば、あれは「戦争の歴史認識を論じる」というかたちをとって、「戦後という時代をどう考えるか」を論じていたといってよいと思う。「戦争」は「戦後」のネガであるわけですから、「あの戦争をどう位置付けるか」は、「戦後日本をどう位置付けるか」とイコールであるわけです。

 しかし当時の私の知っている範囲から見ても、議論の前提になっている「戦後」の認識が間違いだらけだということが、はっきり分かった。例えば小林よしのりさんの『戦争論』は、戦争に対する無知ばかりでなく、戦後史に対する無知に基づいて書かれています。

 ところが小林さんや「つくる会」を批判するにあたって、戦争の歴史認識が誤っているという話は多かったけれど、戦後の認識が誤っているという意見は非常に少なかった。つまり、小林さんや「つくる会」を批判する側も、戦後認識があやふやだということです。そこで戦後について、きちんと押さえておかなければいけないなと思った。

 それからもう一つ、私は小林よしのりの『戦争論』を読んで、共感はしなかったけれど、「これは売れるだろうな」と思った。記述は間違いだらけだけど、今の時代の気分というか、現代社会に対する漠然とした不満をつかまえていると思ったからです。

 たとえば『戦争論』の冒頭は、渋谷の街頭でサラリーマンがぼんやりした顔で歩き、女子高生が座りこんでいる絵が書かれて、「平和だ…。あちこちがただれてくるような平和さだ」「家族はバラバラ、離婚率は急上昇、援助交際という名でごまかす少女売春、中学生はキレる流行に乗ってナイフで刺しまくり」などと書かれている。そして「戦後の日本」は、アメリカに影響された「戦後民主主義」のもとでミーイズムと利己主義が蔓延し、モラルが崩壊してしまった時代であるとされ、それに対照させて「人びとが公に尽くしていた時代」としての戦争や特攻隊が美化されているわけです。

 つまりあの本は、正確にいえば「戦争論」ではなくて、「戦後批判論」なんです。もちろんこうした戦争認識、戦後認識は大間違いなのですが、ミーイズムにうんざりし、「公」と呼ばれるものを求めたり、何らかの形で政治や社会に関心を持ちたいという今の若者の気分はとらえている。だから『戦争論』は売れるだろうなと思った。

 それからほぼ同時期に、ある映画館で黒澤明特集をやっていて、見に行ったら初回が『七人の侍』だった。そして映画館は満員で、上映が終わった途端に満場の拍手になった。私はそのとき、「なるほど。こういうのが受けるのが、今の時代の気分なんだ」と思った。『<民主>と<愛国>』でも引用したように、『七人の侍』のハイライトの一つは、侍の主将が戦闘から逃れようとする農民に向かって、「他人を守ってこそ自分も守れる。おのれのことばかり考えている奴は、おのれをも亡ぼす奴だ」と一喝する場面ですからね。

 もっともこういう風潮というのは、あながち悪いことばかりでもない。最近、イラク反戦デモに多くの人々が集まったことが注目されましたが、それと小林よしのりの『戦争論』が売れるというのは、ある種共通の土壌から出ていると思う。つまり、「今の社会には不満だ。何か社会に関心を持ちたい」というエネルギーが、潜在的に鬱積している。そもそも小林よしのりさんも、薬害エイズ運動を経てきた人です。

 しかしそういう潜在的なエネルギーを、侵略戦争の賛美とか、「戦後民主主義はミーイズムを蔓延させたから憲法改正だ」とかいう方向にもっていかれてはたまらない。ここで戦後認識をきちんとしておけば、そういう潜在的エネルギーをよりよい方向にもっていけるのではないかと考えたのが、『〈民主〉と〈愛国〉』を書いた動機の一つです。

 まああとは、「つくる会」への単純な対抗意識ですね。「つくる会」の設立趣意書は、彼らが作る教科書の理想として、「私たちの祖先の活躍に心躍らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です。教室で使われるだけでなく、親子で読んで歴史を語りあえる教科書です」と述べている。

 誤解を恐れずに言えば、それを読んで、そういうものがいまの風潮として求められているなら、私が彼らよりもっとましなものを書いてやろうじゃないかと思った。「日本人の物語」という部分はともかく、「祖先の活躍に心躍らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる」という本を書いてやろうと。実際に『〈民主〉と〈愛国〉』を読んだ学生たちが、「戦争ってこんな感じだったんだ」「日本にも60安保闘争みたいなすごい社会運動があったんだ」とか言っているのを見て、あるていど成功したかなと思っています。


 書いていたときに考えていたのは、いまの20歳前後の何も知らない若い人たちが読んで、希望が持てるような本にしたいということでした。まかり間違ってこの本が戦後史の基本文献になったりする可能性を考えると、いくらかでも日本の社会運動に対して、希望があるような終わらせ方をしたかった。


小熊英二さん『<民主>と<愛国>』を語る
http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/book/Democracy_vol1

http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/book/Democracy_vol2


小熊英二『1968』「著者のことば」に対してコメントをと思ったら - 外付脳内メモ
http://d.hatena.ne.jp/ashibumi68/20090716


まあ自分も鶴見さんは好きだし特に問題も感じないのでいいのだけど、やはりそういうところからのまとめって感じで竹内さんの話と付き合わせると(´ε`;)ウーン…てなるところがある。


竹内さんの「革新幻想の戦後史」も「諸君!」とか「正論」で連載されてたのをまとめたらしいので偏りはあるのだろうけど小熊さんのはなしの良いカウンターというか、まあ両方付きあわせてより立体的に見えてきた感じ。


それに「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ」加えて



小熊さんが「世界」-岩波、「思想の科学」-中央公論的な位置から


竹内さんは当時も「世界」より「中央公論」読んでたってのもあるし、同時代のサラリーマン-アカデミズム界隈の視点から


加納さんは学生運動側の立場から


それぞれ見えた風景を語ってくれてる感じ。


一番俯瞰してるのが加納さんなのでそこから始めて、竹内さんでおーざっぱな解説聞きつつ、小熊さんで教科書的なまとめとするのがいいのかもしれない。




未だ「革新」と「民主」の読み返しは途中段階で学生運動のとこまで来てないんだけど「お前」を読み返したら学生運動に突入した流れというのは単に「同時期の学生のうさ晴らし(上の教養層からの象徴的暴力に対して)」というだけでもなく彼らなりの真摯な目的意識があったようにも感じられた。


「教養主義の没落」のエントリの終わりにも少し書いたけど、それはエスタブリッシュ化してシステムとどうかしてしまった共産党に対するNO!ってことだった。

当時の共産主義全盛の圧力については竹内さんも語っていた。特に「二流の学問」である教育学部では二流があるがゆえに寄りかかる思想が必要ということでマルクス主義が当てにされたっぽい。なので当時の教育学の論文は価値判断(すべき論)と事実判断(である論)の峻別がはっきりせず、すべき論だけで論文が書かれてたとか何とか(「革新」p169)。つまり分析ではなく根性論だったらしい。

そして教育学界や大学人事は3Mと呼ばれるマルクスな老人たちが支配していた。



そのような教条化して役に立たないくせに偉そうな教育者・大学人もひっくるめたシステムに対してのプロテストが学生運動であったということなんだけど、その手本はフランス革命というよりはロシア革命だったとか。


そして近場の問題意識としてはアメリカのベトナム戦争だった、と。


「アメリカ帝国主義」=「システムに依る支配」という構図だったのかなと思うんだけど、、まあこのへんの内実検証はそのうち別件で国際政治史でも掘っていこう。



「民主と愛国」にもあるけど当時の若者達、あるいは岩波-「世界」系を中心とした思想界隈の主要な論点は「近代の完成のための主体の確立」だった。


それは戦前にもあった進歩的知識としてのマルクス主義のテーゼ「近代は完成したのでつぎはブルジョワ革命だ!」に対して、実際に戦争に動員された若手知識人が感じた現実からの反省を基点としていた。


丸山真男にしてもそうだったけど戦争の現場では「近代の完成」どころか野卑な農民兵が知識層をいじめ、野蛮な精神で残虐行為を繰り返していただけだったので。それはとても「近代はもう完成している」などといえないものだった。

その反省をもって丸山は戦後に「超国家主義の論理と心理」を著した。すなわち「野卑な農民-大衆が全体主義な戦争を起こした。これをなんとかせんことにはまた戦争になるぞ」ってはなし。まあ天皇制とかも関わるけど。


そういった丸山を中心とした主体性論は大衆の主体性の教化・啓蒙というベクトルと同時に、丸山より上の教養保守世代に対するアンチテーゼとして機能していた。

丸山より上の世代はマルクス主義に流れるところもあったが小林秀雄や福田恆存などの保守があった。



そういったところに対してヨーロッパ的な近代を確立させるために個人-主体の確立が叫ばれた。しかしそこで「エゴイズムすぎるのもなあ…」ってのが主体性論の悩みになったみたいだけど。まああのへんの下地はキリスト教的エートスと教養にあったのだけどそれをフォーカスできなかったのが丸山を中心とした主体性論のぼんやりしたところであり弱点だったのだろう。




そんな感じで丸山を中心とした「世界」系は「世代」と「主体」をキーワードに思考を進めていた。


ただ、その「主体」というのもぼんやりとした感じだったし、「エリートから大衆へ」「卒業してもサラリーマン」という大学生の性格変化もあって、丸山を吊るしあげた学生たちにとっては丸山も教養エリートの旧世代として見えたのだろう。


それも学生全体というわけでもなく大衆とははなれたものだっただろうけど。教育学部の事情と同じく、大学や学部によってはその思潮に染まらなければ「ノンポリ」「保守」扱いで軽蔑される現状があった。





思想の内容以前の学生運動の背景やそれぞれの事情はそんな感じだったのだろうけど、学生運動に至る過程というのは経済のボリュームや人口比 → 生活形態の変化から必然といってもよかったのだろう。


フランス革命と比較すればニューエリートを狙う新興ブルジョワ・教養市民層にとって旧来型の既得権益層がボトルネックになっていたのと似ている。



フランス革命の背景とか要因について(暫定) 公共圏論を中心に: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381322488.html




あれも革命思想以前に経済や人口比の変化で階層が流動し、既存の枠組みに収まりがつかなくなっていたことが背景要因だったみたいだけど、そんな感じで「大学生-エリートをめざすもの」という目に見えない鋳型が全共闘世代の彼らを圧迫していたのだろう。直接的には旧世代の教養層における象徴的暴力が。


そういったストレスと世界的なベトナム戦争・システム反対運動の流れに乗っかってストレスを発散+システム変革を目指したのが学生運動だったのだろうけど、フランス革命と違って高度経済成長期の日本の民衆生活とは関係のないものだったのでそことつながらず瓦解していった。




まあ、ロシア革命がなぜ革命として成功したのか?についても別件でそのうち見ていこう



ロシア革命 - Wikipedia
http://bit.ly/1b4FobX





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関連:
ジョン・ダワー、2004(1999)、「敗北を抱きしめて(上)」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/109044299.html




「異色昭和史」を読みつつ自分の根っこのことを思った: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/120266212.html





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戦後史は圧倒的に丸山眞男の影響下にあった。論壇では戦争への悔恨が知識人を支配していたものの、世論調査を丹念に見ると違う。意表を突く結果がいっぱいわかる。当初は敗戦に無念の声も多く、再軍備に賛成の答えも少なくない。それをこの本では、知識人を代表する丸山的な戦後の迎え方と、草の根庶民の敗戦感情を代表する北レイ吉(元衆議院議員、北一輝の弟)の迎え方で対比させた。総合雑誌のバックナンバーだけで戦後日本史を見るのは最も危険なことだ。
戦中戦前でも、丸山の書くようにインテリ皆が変な戦争だと思ったことは絶対にありえない。東大生の読書調査などを見たらはっきりする。それに戦争でインテリの就職状況も現実によくなっている。調査結果からは、東大生にしてもある時期までは戦争を後押ししていたことがわかる。しかも戦前戦後は断絶せず、通低の思想ではつながっている。戦前の知識人は、また活動する。戦後史を知る際には戦前史もきちんと見ないと実像はわからない。

とかく、国民の皆さんとか視聴者の皆さんと言うが、人々はマイクを向けられると、自分が考えていることを言うのではなくて、こういう場合はこう言うべきではないかと考え、答えている。大衆は本当は特徴がなく、その意見も幻想ではないか。実態としては、こういうことは言ったらいけないといった「大衆目線」がものすごく強い。「上から目線がいけない」というのはまさにそれを表した表現なのではないか。

──日本人は一つの方向に流されがちですか。

個人主義だったら、ほかの人と同じではいけないとなる。欧米に行っていつも思うが、レストランで注文するとき、彼らは「私も」とは言わない。個人主義の病理かと思うほど、違うことを言う。これに対して日本人は「ミーツー社会」。

──でも、一方で、欧米の人は連帯も求めます。

個人主義でも、キリスト教などの共通項があるから利己主義ではない。日本人は個人主義マイナスキリスト教だからエゴイズムになる。日本の個人主義者は自己中(心的)であって、博愛がない。他者への感受性という意味で空気を読むのはいいが、危険性も大いにある。

──福田恆存を評価していますね。

キャンパスでは言えなかったが、愛読した。彼の言説でいちばん印象に残っているのは、保守は主義ではないということ。伝統を尊ぶとか知恵を尊ぶと声高に言うのは保守ではない。生き方として保守があると。それが今でも頭にある。正統保守ではないが、戦後の論壇のつきものがついたような状況に、冷や水をかけた。

──小田実については。

最初の頃、当時の左の基準が高かったせいもあるが、右の比較的話のわかる人と理解されていた。初期の頃に書いているものはしなやかで、左右に距離を取って、自分の世代のよさを書く。どんどんかたくなな人になったが。偉人ばかりの知識人論ばかりだったときに、それよりインテリのほうが問題とした『日本の知識人』に、当時大いに共鳴した。

──終章に石坂洋次郎が出てきます。

石坂に代表される大衆モダニズムが革新幻想と連動、むしろ後押しした。戦後、彼ほど読まれた小説家はいない。映画化作品は50本を超える。石坂はハイカラな都会生活を舞台にした。特徴的なのは主張する女性。丸山は読まなくても石坂の本は読んだ人も多い。「草の根の丸山眞男」だった。



大衆幻想によって日本は動かされている--『革新幻想の戦後史』を書いた竹内洋氏(関西大学教授、京都大学名誉教授)に聞く | オリジナル | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト
http://toyokeizai.net/articles/-/8399
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竹内洋、2003、「教養主義の没落」




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要約すれば戦後の岩波(特に雑誌「世界」)→ 日教組を土台としたライトサヨクな教養知がどのように形成されていったか?について論じた本。「日本の教養は東大文学部を中心とし、他の学部に比べて農民出身者を中心とした文学部青年たちのコンプレックスを土台にした箔付け知識だった」というのはこの本からよく引用されるものになってるように思う。

自分的には明治期からのドイツ観念論(のガワだけ)移入な教養がどのように形を替えて現在の日本のサヨク的教養となっていったのかという歴史過程をたどれて面白かった。あと石原慎太郎の位置づけとか。


「エリートやプチブル知識人のアイドルと違って大衆の原像は小説や映画に宿る」という話は研究職ストレートでもなく、一度会社勤めをした著者の肌感だったのか、「革新幻想の戦後史」にも引き継がれている。



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「革新」では石坂洋次郎の話が例として出てくるけど、こういったモチーフやヒントは吉本隆明から受け継いだものだったのかもしれない。


竹内:私より少し上の世代の大学教師で、社会学者を定年までやった後、「もういっさい社会学の本はいらない」と言って売ってしまった人がいます。そして最近は、時代小説ばかりを読んでいるそうです。私からすると、「今まで勉強してきた社会学というのは、その人にとって何だったのかな」と感じるわけですが、日本回帰の大衆インテリ版ですね。

山折:そういう問題に敏感に気がついて、批判し続けたのが、吉本隆明です。彼は、伝統的なリズムというか、短歌的な抒情の問題まで含めた詩の世界をつまみ出して、「大衆の原像」という概念に到達し、それを提唱しました。

竹内:吉本は、動員戦略にたけています。昭和30年代以降は、インテリと大衆の境がはっきりしなくなって、成り上がりインテリみたいな人が多くなった時代です。当時のインテリは、親が大学を出ていない世代だったので、大衆コンプレックスがあった。そういう逃亡奴隷的上昇インテリのコンプレックスを払拭させる「大衆の原像」を呈示しました。
私も「大衆の原像」を読んだ世代ですが、あれは非常に訴求力があるというか、心にストンと落ちるものであったことは確かです。

山折:吉本は「自立、自立」と言っています。「人間が自立する、思想が自立するということは、教養の根底をしっかり自覚し、そこを出発点にするということだ」と彼は呼びかけたわけです。
ある日本の国際賞がありまして、私は一時期、人文社会系の審査委員をしていました。この賞は、全世界から候補者を募るわけですが、その中に、毎回、吉本隆明の名前が出ていました


日本の知識人は、なぜ「日本回帰」するのか | 日本人としての教養 | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト
http://toyokeizai.net/articles/-/24883?page=3


自分的にはルソーとか思ったりもするけど。



では、以下詳細。






エリート文化には大衆との向き合い方の性格の違いで融和型と対立型があった。イギリスは融和型、ドイツは対立型。

イギリスのオックスブリッジなどのエリート学校は貴族的な身分的慣習や生活様式を伝達したが、他方では学校によって出世する中産階級の志向を取り込み、伝統的身分文化との妥協ももたらした。

対してドイツにおいては伝統的な上流階級文化である宮廷貴族層と中流階級の文化的障壁が強固だった。貴族はフランス風作法で振る舞い、フランス語を話し、ドイツ語を話す中流階級との間には文化的断絶があった。

19c前半のドイツ新興層にとって教養 Bildungは旧来の教養層である貴族層に対する挑戦的な武器であった。彼らは裁判官や高級官吏、大学教授などで卓越した業績を上げることを目指した。


日本はドイツ型を移入した。





大正時代、旧制高校を発祥地として1970年ころまでの日本の大学キャンパスでは教養と教養主義の輝きが見られた。大半のプチ教養主義者はニーチェのいう教養俗物のようなものだった。

教養知は友人に差をつけるファッションだった。なんといっても学のあるほうが女子大生にもてた。また女子学生も教養があるほうが魅力的とされた(岩波ボーイ、岩波ガール)。

教養崇拝は学歴エリートという「成り上がり」(ヴェーバー)が「教養」というメッキによってインテリや知識人という身分文化を獲得するための手段であった。


ここでヴェーバーがいう「成り上がり」はドイツ官僚における貴族的教養と生活的実践とは切断された教養であったように思われるけど本書ではそのへんは指摘してない。



東京帝大文学部は理学部に比べて相対的に農村出身者の学部だった。特徴としては「農村的」で「貧困」で「スポーツ嫌い」で「不健康」。


そんな彼らにとって近代教養主義は泥臭い故郷や辛気臭い父母や縁者を後背地とし、そこからの距離によって芳香を放った。


学生運動では機動隊に対して「犬」とか「百姓」という口汚い罵声が浴びせられるものもあった(京都の円山公園前や四条河原町交差点あたりでの渦巻きデモ)



「学力優秀で身体機能にも秀でた高卒者から成る機動隊員」と「学生という有閑身分で「人民のため」という大義のもとに実のところは青春を謳歌している学生デモ側」という構図、本書ではそんな感じだったけど「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ」ではそこに民青(共産党青年団)が加えられていた。


エリート学生がハイ、機動隊員がミドル、民青がロー。


新左翼を中心とした学生運動は旧来の共産党的マルクス主義のエスタブリッシュ化 → 停滞にNOを唱える実践という目標を持っていた。



当時の学生たちにとって総合雑誌は社会科学系論文から小説、映画、音楽まで扱う教養を満足させる場だった。戦前は「改造」や「中央公論」など、戦後はそこに「世界」が加わった。



明治以来の旧制高校的教養主義はマルクス主義や実践と無縁でなかったどころか、しばしば双生児だった。





19世紀末から20世紀はじめ、旧制高校のキャンパス文化は古武士タイプな教師から新しいタイプの教師に変わっていった。


ex.
土井晩翠、高山樗牛(ちょぎゅう)、西田幾多郎、厨川白村、桑木厳翼、夏目漱石

東京帝大講師ラファエル・ケーベルの影響を受けた漱石門下の阿部次郎、和辻哲郎など



第一高等学校の校長に新渡戸稲造が赴任した。



社会主義はそれまで壮士あがりのならず者やゴロツキ仲間の思想のごとく見られていたが1919年、森戸事件を境に知的青年の社会思想や社会運動に格上げされた。


東京帝大経済学部助教授森戸辰男は「クロポトキンの社会思想の研究」を「経済学研究」に発表、当局は雑誌を回収し森戸は実刑に伏し、大学休職ののち復職かなわなかった。


マルクス主義がゴロツキ的なものから知識人のものに格上げされていった過程は当時「野卑」「淫猥」とまでされた小説に東京帝大講師であった夏目漱石が手を染め専業小説家となることで小説が知識人の嗜みに格上げされていった過程と似ていた。




関東大震災の頃には「教養」という言葉は古臭いものとなっておりその古臭さに代わるものとしてマルクス主義が最新の科学として期待された。


ちなみにこの頃、岩波書店はようやく出版を始めた。


岩波文化は純粋文化界とマス文化界の中間領域にポジショニングすることで人口に膾炙した。

純粋文化界は従来のハイブロウな教養を主とし、マス文化界は大衆的なものを対象とした。岩波はその中間だった。

古書店からスタートした岩波書店は最初に当時売れっ子作家となっていた漱石の「こころ」を自費出版してもらうことで軌道に乗った。

漱石や西田幾多郎、和辻哲郎、阿部次郎らと知己を得たのは岩波茂雄の一校生としての人脈、社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)によるものだった。




マルクス主義が人気となったのは明治以来、日本の知識人がドイツの学問を崇拝していたから。加えて、マルクス主義はドイツの哲学にフランスの政治思想、イギリスの経済学を統合した社会科学だと言われた。合理主義と実証主義を止揚した最新科学。


マルクス主義はそれまでのドイツ観念論的教養主義にコミットした高校生に「教養主義の上級版」として受容されていった。マルクス主義の中核をなしていたのは倫理的ストイシズムであり、それは教養主義の核をなしている人格主義と連続してた。



従来型のドイツ観念論に日本的な人格主義を足した教養主義は初学者に劣位感や未達成感をもたらす象徴的暴力が内包されていた。データベース主義を基本とする教養主義ではより学識を積んだものから「創意や能動的(アクティブ)など必要ない」「小さな誇りを捨て給え」「君に必要なのは目の前に広がる100度読み返しても足らないほどの傑作だ。そういうももの前にひざまづくことを覚え給え」とされる。

(cf.これは今の時代もヲタクにおけるデータベース消費、「ヴェーバー100回嫁」として伝わる)


そういった象徴的暴力からの逃避、ボイコットがマルクス主義への傾倒であった。


わけのわからない知識の詰め込みよりもマルクス主義では実践が重んじられた。それは「自分たちで作っていける」という自由を若者に与えるものだった。



主体性論はこういった教養にもとづく人格形成をモデルにしていた(のでなんかわけわからないところがあった)。




<高等教育がエリート段階を保つのは該当年齢人口の15%までの進学率のとき、それを越えるとマス段階に成る>(マーチン・トロウ、『高学歴社会の大学』)

団塊の世代の頃、大学進学率は30%を超えた。これで知識エリートではなくなった彼らはサラリーマン的な未来が一般的となった。サラリーマン予備軍となった彼らにとって大学の専門知や教養知は必要となくなりその幻想は崩れていった。


旧来の教養主義の象徴的暴力にさらされていた団塊の世代はそこから逃げるために肉体を使ったサボタージュを行い、それを「実践的科学」と称した。

「民衆のため」と称したその口で機動隊員を「百姓め!」と嘲け知的優越を誇る彼らは大学を乗っ取り、大学教授を吊るし上げることで日頃さらされてる象徴的暴力の仕返しとした。


丸山真男を「ベートーベンなんか聞きながら勉強しやがって!」と吊るしあげた話などは思想うんぬんではなく単に知的エリートとしての教養層に自分たちがなれないことへの怨嗟が運動の動機だったことのもっとも象徴的場面と言えるだろう。


くわえていうなら丸山は彼らの憎んだ中身の無い教養主義、ドイツ型のそれよりは民衆との融和を旨としたイギリス保守主義における知的空間に可能性を見出そうとしていたようにも思える。その丸山を特に内容のない思想で糾弾し、あらたに自分たちの教養(学生運動的なマルクス主義)をエスタブリッシュしようとしたのは彼らの憎んだ教養主義をそのまま彼らがなぞったのと同じことだったのだろう。


…まあ当時の丸山の学の方向性についてはまだ掘ってないのでびみょーではあるか



全共闘の学生たちは形骸化した教養主義に対抗するアイドルとして吉本隆明を崇めるようになった。しかし、これも吉本の思想を理解していたわけではなく単に「旧来の教養主義を糾弾した」という上辺だけ取り上げたにすぎなかった。


その意味でかれらはホンモノの教養もかといって大衆の味方にもなれないどっちつかずの位置にいたのだろう。



ただ、「彼ら」と十把一絡げにするものでもなく全共闘世代にも急進的な人たちと自らを批判的に思考する人たちの違いがあった。その辺りの反省や回顧はこちらに詳しい



お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!
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関連:
野田宣雄、1997、「ドイツ教養市民層の歴史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382529159.html


ロイ・ポーター、2001、「啓蒙主義」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382444000.html



加納明弘、加納建太、2010,「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/215103969.html





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おまけ:「ハビトゥス」について(「教養主義の没落」から)

(82)
ここでいうハビトゥスとは、態度や姿勢を意味するアリストテレスの概念「ヘクシス」(hexis)をスコラ哲学者がラテン語に翻訳したものである。マルセル・モースやエミール・デュルケームによって、社会的に形成された習慣の意味ですでに使われていたが、社会学者ピエール・ブルデューによって、主観主義(主体の哲学)と客観主義(構造主義)を統合した社会分析(ポスト構造主義)のための方法概念として洗練された。ブルデューはハビトゥスについてつぎのように定義している。

「生存のための諸条件のうちで或る特殊な集合(クラス)に結びついた様々な条件づけがハビトゥスを生産する。ハビトゥスとは、持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステムであり、構造化する構造(structures structurantes)として、つまり実践と表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造(structures structurees)である」

ハビトゥスとは、様々の行為や言説を生成し、組織する心的システムを指示している。社会的出自や教育などの客観的構造に規定された<構造化された構造>実践感覚であり、実践をみちびく<構造化する構造>持続する性向の体系である。


※我々が「あの人は品がない」とか「田舎者だ」とかいうとき、それは個々の行為について言っているわけではなく、その人の行為のバックボーンの原則を指している(ex.「お里が知れる」)。


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2013年11月29日

鈴木謙介、2013、「ウェブ社会のゆくえ」






最初に、

この本は当初「拡張現実の技術動向」を調べる企画だったそうだ。でも東日本大震災を通じて、そして著者の関西-神戸圏の居住による影響なんかで内容が変わっていったみたい。


「拡張現実の未来、というか、多孔化する現実の中で蝕まれている若い子たちや切り刻まれていく公共性や社会性、そして薄れていく震災の記憶を目の前にもっとやれることはないか?」

そういった問いと祈り、あるいは、「娘たちのためにいまできることを懸命に考えていた記憶」として本書は編まれた、とのこと。

なので本書の結論部分は「手堅い分析」や「まとめ」というよりは意志のようなものを感じた。


以下「おわりに」から。

 本書は、震災と、それに続く多くの営みに対するそうした距離感の中で書かれた。現実の多孔化と、それによる共同性の継承の困難という本書のモチーフは、そのまま現在の神戸で起きていることでもある。そして20年近い時間がたてば、かつての選択がどういう意味を持っていたのかも明らかになってくる。
 現在、新長田の商店街では事業採算のとれない再開発を進めた神戸市に対する訴訟も始まり、震災ではなく、震災復興の負債を誰がどう払うのかが争点になろうとしている。しかし、記録を見ると商店主たちが、決して甘い見通しの中で再開発ビルに入居したのではないことは明らかだ。2000年の時点で、店舗経営者たちの四割が「ビルの中での営業がうまくいくとは思えない」と答えていたというデータがある。その人たちはおそらく、状況を冷静に見据えた上で、それでも前向きに、希望の選択として現在の道を選んだのだろう。そうした経緯を知ってなお「復興」を、いま行われている明るい取り組みだけを根拠に「かつてよりもよくなるはず」の選択だと信じられるほど、20年後の被災地の姿は明るくはない。
 だからこそ本書では、現在だけでなく、娘たちの世代が大人になる20年後に読み返されることを意識の根底に置いて執筆した。単純にあたっているか外れているかという、未来予測の問題ではない。20年たったときに、そのときの若い世代が自分たちのために書かれた本があったと思えることが大事だと考えたからだ。
 人が人に遺せるものがあるとすれば、それは物理空間の環境と情報、つまり「場所」と「智恵」だ。場所の復興が進んでも、智恵が継承されないのなら、私たちは次世代に対して半分の責任しか果たさないことになる。そして遺すべき智恵とは、失敗の記録や、そこからの学習だけではないはずだ。現在の時点から20年後に向けてゆっくりと遺されていく、未来の人のための智恵を生み出すこともまた、現在の人々の責任ではないか。








以上を念頭に、改めて本書の内容を振り返っていこう。



以下は本書の射程や問題意識、内容を簡単に。


インターネットを基盤としたコミュニケーション、特にLINEやついったーなどのCMC(Computer Mediated Communication)の発達によって時間や場所を選ばない情報のやりとりが手軽に行えるようになったが、それを複数の人からやられると「送信者は複数」なのに対して「受信者は一人」なので実存が孔だらけになってしまう、ということ。

スマホなんかを介して現実にサイバーな視点をインポーズしていく技術は拡張現実(AR = Augmented Reality)として最初期待されたし、いまも期待されてるのかもしれない。具体的には「攻殻機動隊」で素子なんかが行っているコンピュータにネットワークして検索した情報が脳内 → 視覚に直に反映されるもの。あるいは「ターミネーター」でもいいけど、それを「ニューロマンサー」介してサイバネしてネットワーク化したもの。「電脳コイル」なんかがより日常的な馴染みがある。










スマホなんかだとLayerやセカイカメラなんかが有名で自分もワクワクしたものだった。知らない場所にいっても勝手にウィキペディア連動みたいにしてそこの情報を検索できる、とか。あるいは誰かが書き残したその場所の情報を見られる、とか。「アースダイバー」のネット版だし、実際アースダイバーのそれ系プロジェクトはつづいてたな。
http://e.mapping.jp/


……話戻すと


拡張現実はそうやって「現実2.0」な未来に接続すべく期待されたギミックだったわけだけど、「ある意味拡張現実」ともいえるSNSにネットした現実は却ってそれぞれの生活の時間や余裕、実存を脅かすものになってしまった。具体的には若年層にある「LINEなんかでつながってないとハブられる(´・ω・`)(……って焦り)」「でもつながってればつながってるほど寂しくなる(´・ω・`)(……のはなぜ?)」って現実。ついったなんかでもいいけど。

「自分がTLとかグループチャットにいない間に楽しいことが進んでるかもしれない」「でも、みんなが楽しいことをつぶやいてると自分はそこから疎外されてる気になる」

http://diamond.jp/articles/-/44733
http://diamond.jp/articles/-/43992

ちょっと本書からはそれるけど、おそらくそれはそこで交わされてるのがグループ内でのKYに基づいた言表の交換で、「場の空気に合う話題」に基いて選定された限定された話題カードの中から自分の言うことを選ばなければならない権力ゲームだから。貴族ほかブルジョワのパーティなんかでやっていた衒示的コミュニケーションのコモデティティ化したもの。「わたしこんなにお金持ってるのよ?」「きれいなのよ?」≠「たのしいしキラキラしてるのよ?」を見せびらかし合う。

なので、そういった話題に楽しさを感じなくても、そこではその話題をしなければならないことで実存が削られていくのではないかと思う。あるいは、若いと「自分が楽しくない」「なぜ楽しくないか?」ということまで詰めて考えられず「楽しくないのは自分がキラキラしてないからだ!」って繰り返しになっていくのかもだけど。


あしたの私のつくり方 [DVD]
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もちろんキラキラした方向、明るいほうへ自らを敢えて投企することでテンションを上げていくってことが功を奏すこともあるだろうけど、キラキラをあまりにも主軸にしすぎてしまうとそのキラキラに自分が食われてしまう。そのキラキラは資本主義的市場原理で設定された価値観に基づいたアイテムや余暇なことがほとんどなので。それをあまりに主軸にすると市場原理のランキング、マトリックスに基づいた価値観を無意識にインストールし、気づかないうちにそういった価値観で他人を査定することを当然と思うようになる。そのマトリックスには自分も無自覚なうちに投入されているので、内側に取り込んだその規範が自らを蝕むことになる。

「わたしこんなにデブだからダメだわ」「わたしこんなにブスだからダメだわ」「もっとキラキラしなきゃ」






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そういった基準は知性面では「他人評価や自己評価を他人、世間の視点に借りてる」ってことで、「他人に地図を借りるのではなく自分で地図を作りなさい」って話になる。ライトを自分で灯して。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380874839.html



…閑話休題

てか、まあ関心が隣接してるのでどうしてもまとめつつ自分の関心がつながるし、流れとしてはソッチのほうが楽なのでこのまま「ウェブ社会のゆくえ」の主題をまとめつつそこで連想したことをリンクさせてくか。んじゃ、つづき。


SNSは現実にいろいろな情報を付け加えて付加価値を与えてくれるもの、という意味では拡張現実といえたけど、そこでの使用の現実、利用と満足は「使えば使うほど寂しくなる。。でも使わざるを得ない」という依存を招くものだった。「害だとわかってるのに使ってしまう(使いたいという欲求が現れそれを抑えがたくなる)」というのは依存。

そういった依存によって自分の心や時間を削られていく。複数の場所から発せられるメッセージをして実存的身体-精神を孔だらけにされる現状をして著者は「多孔化」と名づけた。「拡張現実」に寄せられたポジティブなイメージに対してのネガティブな現実、使用者の現実としての「多孔化」。フォルダ的には「拡張現実¥多孔化」ということになるのだろう。

そういった情況は少し抽象化すれば「価値や意味を複数の他所から一方的に送りつけられている」ということになる。

他人が決めた価値、それに基づいたシンボル、内容をとりあえずは受けなければならないという現状。

「SNSとかは一方向コミュニケーションではなく双方向なんだから返せばよいのでは?」といっても複数に対してそれをやっていると疲れるし時間を食う。特に本心でもなくKY的に気遣いしなければならない話題の場合。「返さない、メッセージをpostしないでTLを見ているだけ」でも「みんなあんなに楽しそうなのにあたしは…」ということで心を削られる。


また、そういった個人的な実存の危機だけの問題ではなく、「現実 < ネット」になることで現実の意味的比重が低くなっていく。

たとえば顔を突き合わせているのに目の前でスマホを使っているパートナーに対して「失礼だな」と思ったり言ったりするとき、「現実の、目の前の自分のほうが優先されるべき」という価値規範が無意識に前提となっているわけだけど、その前提としてあった「現実にそばにいる人のほうが親近感は強い」という論理が崩れていっている現状がある。「顔を合わせていても心の距離ではネットの人のほうが近い」というのは現代家族やリア友な現場でよくある話なので。それは「現実よりネットを優先する、ヴァーチャルを優先するネット中毒…こわいですね…」って単純な話でもない。

ネットの特定の場はコミュニティの一つにすぎないし、ネット登場以前にも「家族」や「友人」とは違ったコミュニティの場はあったし、「家族よりクラブの友人のほうが近く感じる」あるいは「家族より友人のほうが近く感じる」ってことはあった。それがネットに広がっただけ。だいぶ前からネットは現実と地続きだし、単純に分けられるものでもないので。「複数のコミュニティに同時に繋がれる」などの特性から使い方に注意すべきなだけで。

加えて言うと「ヴァーチャルなコミュニティ」ということだとテレビを介した擬似的なコミュニティと参加意識のつながり、「これが日本国民として当たり前の姿」や「これが一般的な日本語」という意識の共有なんかが以前からあった。さらにいうとこういうのは「想像の共同体」ってことでテレビだけでもなく印刷なんかのマス媒体を通じて一気に広がっていった。


そういった場を通じて蓋然的な公共圏がなんとなくつくられていた。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381322488.html


親密性も旧来の基準からは変化した。

かつては「家族だから親密」とか「友人だから親密」「恋人だから親密」ということで、制度的な属性、あるいは属性が当然化する距離感(近接性)が親密性を担保するよすがになっていた。それはたとえばセックスをするかどうか悩むとき「恋人だからここまでしても当然」ということだった。

現実のコミュニケーションでは距離や場の選択に制限があったため近接性、すなわち「同じ家族の食卓に付いているのだから」「いっしょに暮らしているのだから」などは親密性と不等号で結ばれていた。しかしウェブになるとその距離のくびきがなくなり関係や場も自分が好きな様に選択できるようになった。これにより近接性という身体的な感覚によるなんとなくの納得は失われ、親密性の判断基準が「愛しているかどうか?」に変わった。

制度的な近接性の区分けという他者によって与えられた規範、から、自身の中での実質的な内容、「本当にそれをするべき親密な相手(関係)なのか?」を問うことになった。

流動性の高いネットのコミュニケーションにおいては関係の切断や切り替え、ペルソナの張替え、黒歴史などの消去が簡単にできる、ということ。


既存の制度的な役割による安心を放棄したこと、あるいは、「放棄する」というはっきりとした選択ではなく、「なんとなく家族だからって仲良くしなきゃいけないってのも変だな…」って居心地の悪さが現れるようになったこと。その背景には産業構造や人口移動、労働や生活環境の変化があるのかなと思うけど、そういった話はとりおえずここでは主題とならない。

「家族なのに半ば他人」的な具体的なイメージは「家族ゲーム」の時代の前後から表れていたようにおもう。それがより先鋭し、新たに意味を組み直そうという試みが「トウキョウソナタ」や「そして父になる」といった作品群に表れている。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/376322940.html

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「そして父になる」ではウェブの影響は描かれてなかったけれど、個室・個テレビ・個PC(スマホ)が当たり前な現代、現実にシェアハウスのように家族している人たちも当然のように存在する。そういった関係-距離感がウェブによって加速された、のだろうか。

親密性の内容を外部からの意味、場の制約によって規定されるのではなく自身で場を選択し「親密な関係」をより自由に選択できるようになった、あるいはゆるやかに「家族だから」「恋人だから」的な規範からの当然をズラすようになったのと同期するように、ペルソナも複数に分かれている子どもたちも出てきているのかもしれない。

そして「家族」「クラス」「学習塾」「テレビ(アニメ)」「ネット」などといった複数の世界の使い分けの中でペルソナを分けるが、特にネットにおいて複数の場や価値を環境的には選べるようになっても、当人の精神や理知が発達していないためにけっきょくは「自分」と似たような強度と情報の質をもったものを何枚も重ね、複数の価値の中で実存を分断されていく。自分のマイナーチェンジな理知からでは自分を取り囲む重力から脱出できるだけの跳躍力が得られないから。



複数の場で複数のペルソナを要請されるようになったためにそれに合わせて親密性も分岐していったのか、親密性の分岐が複数の場に合わせたペルソナを用意したのか、その因果関係はとりあえず置くとして、

これにより「われわれの」というときに意識するものが複数になった。つまり公共性が分岐した。

それは親密圏での出来事ということで従来の意味での公共圏のイメージとは異なるかもだけど、「われわれ」全体を包んでいた公共性と公共圏が複数に割れた。




そういった公共圏がネットを介して複数つくられるようになり、それぞれが分断され「うちらの世界」の論理に閉じこもっている現状がある。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380332335.html




そうやって「意味が一方的に押し寄せてきて現実や実存が潰されそうになってる」「かつての公共性-現実は解体されようとしている」という情況に対して、「じゃあ、逆に現実に『われわれの』意味を貼っていけばよいのでは?」と著者は言う。


「現実の意味を新たに自分たちでhackしていこう」という基本方針は自分も同じなんだけど
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380740959.html


(既存の制度や規範、市場の論理によって押し付けられた「意味」「空気」「役割」ではなく、自分たちで新たに意味付けしていくこと。世界を意味的にhackしていくこと)


「その意味を共同性 → 社会性(公共性)へと繋げ持続していくために忘却の危険性のある歴史や記憶をシンボル(メモリアル)や儀礼的形式として残し反復していくことが大事なのだ」とする結びは少し留保したくおもった。


具体的には震災の記憶なのだけど、その参考として長崎の慰霊碑の記憶の変化、記憶を風化させないための儀礼の変化と対象となる公共性の範囲の変化が挙げられていた。

長崎の慰霊は最初、遺族たちによるもので、そのとき儀礼の挨拶は遺族や死者に向けてのものだった。それが式典の公共性の範囲、対象とされる「われわれ」の範囲が広がるのに加え、式典が実行委員会方式で行われるようになってから挨拶の方向が変わっていった。挨拶は死者から生者(客席)に向けて行われるように変化した。


それは公定ナショナリズムに近い制度的な儀礼の形であり、かつての遺族たちの「われわれ」意識や記憶はその儀礼が前景化するのと反比例して薄れていった。2つの間に直接の関係はなく、被爆者や遺族の高年齢化によって記憶が薄れていった、ということではあるのだろうけど。

遺族の記憶や儀礼への意味付けが薄れていくのは儀礼の内容変化とは直接の関係はないのかもしれない。その意味で「どちらにしても遺族の記憶が消えていくのなら、まずわかりやすい儀礼やシンボルを残し、そこにわかりやすい話を残していくことで最低限『ここでなにがあったか』を忘れられないで済む」という話であれば、それはそれで了解できる。

しかし、、やはりそれは妥協であり、遺族やその周りの「ほんとの記憶」「気持ち」が取り残されていくように思うのだ。特にヒロシマに住んでいた身としては…。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/39864267.html




「そうではない。公定ナショナリズムのように上からの統合でどれかひとつのやり方を押し付け、代わりに何かを後景化するのではなく、それぞれの記憶や思いはバラバラに保っていながら必要とされた時にまとめ上げるような仕組みやシンボルを設定するのだ。

そうやって遺族たちの記憶、死についての思いや記憶、そこに新しい世代の意味を結びつけ現実をhackし、忘れ去られないようにする。震災も、被爆も……あるいはそういった悲しい歴史だけではなく、かつての『われわれ』が生きた喜びや生の躍動、『ふつー』の人々の生活の息づかいを」


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もしそうだとすると、そういったことを期待して良いのだろうか?


あるいは、期待というよりも「われわれ」でそれをやっていく、ということか。



うまくいくかどうかわからないけどとりあえず次の世代につなげるために、われわれがそれをやっていく…。


記憶や<私>、公共性がずっと持続するものではなくそのつど生み出され構築されるものだとしたら、自分たちでそれを意識的に良いほうに誘導することも可能なのかもしれない。



ネットと学校の狭い「世間」の中で自分を削って自殺していく子

歴史修正されるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ウィキペディア界隈の様子

あるいは、「ダークツーリズムってロマンぶち上げるのは勝手だけど持続するには金の問題なんだよけっきょく(どこから金もってくるの?)」って話をTLやぶくまで見つつ、そのことの可能性をぼんやりと思った。




















(「わたしたちであらたに意味を付与して現実をhackしていくこと」の例として観光-聖地巡礼が挙げられていたけど、その元となる日常系アニメとセカイ系のリアリティ、それとウェブの接続について、そのあたりの共同性―公共圏の可能性についてモニョモニョしたくもあるけど項を改めることとする)



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関連:

自殺配信した女子中学生「ろろちゃん」が残した2chやツイッターへの書き込み  彼女はなぜ自殺配信へ至ったのか | ニュース2ちゃんねる
http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-3111.html

「クラス」「塾」「親」「ネット(ニュー速)」「アニメ」ぐらいの狭い世界の中で、親と学校の規範へのオルタナをアニメぐらいでしか築けなくて、自分の価値を「そこで認められること(目立つこと)」で置き換えてしまったことに、どうしようもないやりきれなさみたいなのを感じた

「アウシュビッツで生きのびた人は、愛を実践した人々、美を意識できた人々」というわかりやすく切り取られた「過去」と善意の伝言ゲームの - Google 検索
http://twitter.com/m_um_u/status/405826264134467584
http://twitter.com/m_um_u/status/405826628397178880


木曽崇氏(国際カジノ研究所・所長)の福島第一原発観光地化計画の採算性に対する疑問 〜東浩紀氏は返答できず逆ギレ→津田大介氏がとりなして終了〜 - Togetter
http://togetter.com/li/595181

この話自体は「しろーとが口出しすんな」的なお金事情を出してきてて、そういう話は記憶の持続や実際にそこで住む人の生活→持続のために必要だよなあ、とは思うも、だからといって金の問題さえ解決すれば地元民の大切な思い出や気持ちは救われるのか?(満足に至るのか?)ということをヒロシマに住んでた時のヤキモキを思い出しつつ想った。<持続>が金と気持ち的な満足でうまくいってる例としては二子玉川ショッピングモールと地元商店街の関係なんかをちょっとおもったりする。

ガルパン聖地、大洗が成功した理由 - Togetter
http://togetter.com/li/593303

パネルなどのフラグに「ガルパンで訪れてきた人」「話しかけられそう」を判断し話しかけていったことが効いたみたい。



デジタルネイティブを取り巻くコミュニケーションの姿とは?――ネット時代の文化人類学
http://synodos.jp/intro/6299/3

「安心社会から信頼社会へ」でもあったけど別件から「不確実性回避傾向が高い」がでてる。「ネット利用の不安感」「4次ぐらいのところへの薄い紐帯へのアクセスが弱い」も。



近代的理性の立ち上がりと国家幻想、そこから疎外されていったものたち、のはなし: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381011164.html


教養市民層が理性・科学を身につけていってハード的なところでは豊かになったけど、宗教・実存につながる精神的なところは回収できなかったために現代でもしばしばその部分の浮遊が問題になる。




笑いの名前: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381152482.html

分人化されたそれぞれの場面で便利に使われていく口語のテンプレとしてのテレビ的「お笑い」の形式。会話の符丁など。
テレビ公共圏で育まれるそれはその形式のみならず価値観や倫理観のようなものまで若年層に影響していく。
あるいは、世間の価値や倫理を取り込み、それを市場向けに「ウケる」用に編集しなおし強調するためにデフォルメしたものがテレビ的「お笑い」の形式。

その形式や価値観はテレビ用に強調、演出されたものだから現実とは違うのだけれど、若年層を中心として再帰的に現実に取り込まれ反映されていく。

その代表例がキャラ問題 → いじめと境界の判然としないゆるやかないじめのように思う


テレビ公共圏と震災について(パペポテレビ)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7931422







フランス革命の背景とか要因について(暫定)   公共圏論を中心に: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381322488.html?1385552172

公共性(共同性)は持続的にあるものではなくそのときどきに創発されるもの





「赦す」のでもなく「忘れる」のでもなく「そういうもの」として流れていく、ということ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/221532065.html


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2013年11月22日

山岸俊男、1999、「安心社会から信頼社会へ」


安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)
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世間的なものへの関心から読んでみた。あとなにか不安が生じたらすぐにガタガタビクビクする世間の心理構造というのはどういうものか?の解説として
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/379707101.html

詳細な解説はこちらの方がしてくれてるので任せるとして
http://ameblo.jp/dhrnj522/entry-10629182108.html
http://ameblo.jp/dhrnj522/entry-10645964157.html

自分的には本書の中心は5章の「社会的知性と社会的適応」であるようにおもった。


社会的知性というのは簡単に言ってしまうとIQテスト的なところで測られる以外の知性、いわゆる「お勉強以外のえらさ」と現在いわれてるところに関係するもの。「人間力」「コミュ力」とか曖昧な言葉で対象にされてる範囲にも重なる。

その中でも社会性動物としての人間集団のなかでうまくやっていくために必要な知性が「社会的知性」ということになる。

山岸はサーストン、ガードナーから人間の知性は大きく7つに区分けできることを示す。

サーストン的には「言語理解能力、言語流暢性能力、数能力、空間視覚化脳能力、記憶能力、推論能力、知覚速度能力」。ガードナー的には「言語的知能、論理/数学的知能、音楽的知能、空間的知能、身体運動的知能、そして二種類のパーソナルな知能」。二種類のパーソナルな知能は自分の心を理解する能力(自省的知能)、他人の心を理解する能力(対人的知能)。

<頭のえらさ> ― <他人や自分はえらいかどうか?>みたいな話題になると理知の判定を基準とした差別が関わってくるので感情的な紛糾があるんだけど、そういうのは一旦置いておいて、<えらさとはなにか?>と問うたとき、とりあえずのアナロジーとしてPCが思い浮かぶ。「CPUが発達していれば処理能力が高くて、メモリが多ければ単記憶ストックが強い。HDDが多ければ長期記憶に強い」的なの。CPUだけ発達しててもメモリがなければ作業効率悪くなるし、HDDが多くなければ長期的な作業には向かない。ひとの「えらさ」も似た基準で測れる。

先ほど記した知性に関わる7つの能力はそれぞれ独立して測るのは難しかった。それがゆえに「人とコンピュータは違う」ということにはなっていたけど、近年その分野の心理学と関わりある脳神経科学の発達で「わりと独立して測れるみたい」ってことになってきたらしい。なのでさっきの7区分でのけっこう有効になる。

ただ、PCの場合はひとつのCPUですべての情報処理を行う、のに対して、人の脳は並列分散処理型ぽい。おーざっぱにはさっきの7区分を司る機構が同時に働き、並列分散処理してる。

「でも、人とコンピュータは違う」ということに加えて言えば人の場合は感情が合理的行動選択の邪魔をしたりする。それはもともと「本能」ともいえるような適応選択が脳の古い部分にプログラムとして残っており、その「適応」プログラムが特定場面で自動的に呼び出されてしまうかららしい。たとえば狩猟と採集を中心にしていた昔の原始な食生活環境では目の前の食料をすぐにゲットできなければ次にいつ採れるかわからない。そういう場面で理性的に検討していたのでは目の前の機会が失われてしまう。なので、感情的に行動するほうが有効ということになり、そのような感情→拙速な機構が残った、のではないか、ということ。

まあそのへんの真偽は保留として、とりあえず人の心には感情があるので、それが邪魔をして合理的、論理的、長期理性的な判断ができなくなることがしばしばある。短期では論理を紡げ、そのスコープ内では自身や他者に論理的・合理的な説明をできるんだけど、それも大局で見ると誤っていたり。まあ部分合理性と全体合理性の違い、合成の誤謬と言ってもいいだろうけど。そんな感じで、我々の脳内はおもったより感情的な偏向があり、それに駆動された論理・理性は我々自身を騙す。それはいちおう心に留めておいたほうがいいのだろう。


再び社会的知性の話に戻ろう。


「世間」との関連性でいえば、社会的知性とは「人付き合いの知性」ということになる。ただその知性も二種類ある。「人の人間性を見抜く能力」と「場の関係性を見抜く能力」の2つ。前者はだいたいわかるだろうから省略。後者は「誰と誰が仲が良いか見抜いて、その場の関係にうまく合わせていく能力」といえる。まあ「世間づきあいの能力」。

日本はとくにこのような世間づきあいの知性が要請される。それは理知的な見地からは拙速には「フェアではない」と遺憾されるところだろうけど、そういった知性を要請したのは日本の社会構造、というとこがある。その辺りについて山岸は経営学的視点と用語から説明する。

情報の不確実性が高い社会、つまり人が信じられない-安全性が低い社会において、人はその不確実性を埋めるために人と人とのコミットメントを強める。ルート営業みたいな感じで「おなじみさん」しておけばその「おなじみ」を裏切らないような行動をお互いにするから。それによって「相手が信頼できるかどうか?」を探る探索コスト(取引費用)を抑えることができる。なので世間づきあいというのはそのような閉鎖社会、「おなじみ」社会においては「信頼を測る」「信頼に足る人を探す」という取引費用を抑えるための合理的選択の結果、といえる。

ただ、そうやって「おなじみ」が固定化してしまうとより取引のコスパが良い相手が現れたときになかなか「おなじみ」の取引を切ることができなくて相対的に損をすることになる。このような状況を「機会費用の発生」「機会費用の損失」という。


そんな感じで、日本の「世間」づきあいでは一度内部に入って馴染んでしまえば居心地よく暮らせるけれど、そこでトラブルが生じるなどして別の界(世間)に行こうとするとなかなか離れがたいような構造になっている。あるいはそういった「おなじみ」構造を前提とした社会構造をしているため、たとえば転職・就職の際にも個人の情報処理能力よりも「それまでの世間の中でどう振る舞ってきたか?」的な点が評価基準になる。あるいは就職における男女差別もそういった構造が絡む。個人の能力としては一般的な男性に優る女性でも「女は子供産んですぐに辞めるから」的な理由で差別される。あるいは「結婚すればいいから、で逃げるから」とか「身体的に男よりも弱いから」などの理由がそういった論理を補強するように後付けされる。それ自体は論拠を示しつつ論理的に示していけば不合理な考え方となる。
http://morutan.tumblr.com/post/67691557008
http://morutan.tumblr.com/post/67691788636/3-2


ただ、さきほどもいったようにそれは個々人の偏見やーねー、ってはなしでもなく、日本社会の構造に要因があるみたい。


労働環境も含めた日本の社会構造が不確実性に対して個々の審査基準・能力を高めることによって対処していないので、審査の基準はより世間的な基準、「それまでの女性はだいたい30歳まえにはやめっていったからー」的なあいまいな統計に依ることになる。

そして「メンバーシップ型雇用」という集団性重視の制度が全体をゆるやかに包み「無能社員」でも男性で正社員であればそのステータスに合わせた俸給が出るようになっている。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161854839.html


けっきょくこの辺は外圧によって相対的に人件費-労働パフォーマンスのコスパが高まり、機会費用が失われていかなければ構造転換されることもないのかなあとおもうわけだけど、、


現状としてはそんな感じでゆるやかに「和を持って尊しと為す」なうつくしい日本が大体の人にインストールされている。論理的にただしくても場を乱す人は感情的なところで嫌われるし、「感情的ではない」と思ってる人も思ったよりそういうエートスだかハビトゥスだかの影響は受けてるわけだし。そうやって個人の内容・本質ではなく、場の関係性やステータスという「ガワ」を半ば無意識に重視していることの戯画的な表象がミスコンなのだろうから、そんなにとり立てて批判することもないんじゃないかと思うんだけど。。(根本的な構造問題のほうが重要だしね。) まあそれはいいとして、、


本書の内容に戻れば、<集団主義的組織原理に基づいた地図作成型の社会的知性(仲良しくねくね測り能力)よりもヘッドライト型の社会知性(個別の人格を見抜く能力)を磨くべき、集団主義的な組織原理に基づいた日本社会を変革スべきだ>、が主旨になる。集団組織原理は個々人の人格判断能力、ではなく、集団のアーキテクチャに依存した規律訓練の結果といえる。コミットメント、契約には制約・リスクが伴う。そのコミットメントをやぶったときには罰が科せられる。人はそういった状況で、自らの意志ではなく、罰を怖れて機械的にその場の律に従うことになる。


「ヘッドライト型知性に基づいた組織原理をもった社会を目指そう」という主張には大いに賛同する、のだけれど、筆者もいっていたように、「日本の「仲良しKY」は日本の社会構造に起因しているものであり、それは日本社会で不確実性が低減していないから、環境的な対処として集団的組織原理が適応されている」、という不安がある。つまり不確実性が低減されなければいきなり「ヘッドライト型知性にすべき」っていっても誰もとびつかないだろ?って話。

このへんは「卵(不確実性の低減)が先か、にわとり(不確実性を低減させるためのヘッドライト知性)が先か」ということであり循環論になりそうだけど、「(誰かが損しそうな不確実なサバイバル環境があるとして)誰が先にやるか?」ということだと囚人のジレンマ(社会的ジレンマ)の状況になる。「全体が協力すれば良い方向に向かうのがわかっている状況で、個々人が猜疑するので、けっきょくは全体的にパフォーマンスが下がって個々人も損をする」というアレ。ネットにおけるゴミみたいな情報や無駄にネガティブな感情の氾濫もそういったものだろう。


ゲーム理論的にはそこで「なんらかのインセンティブを外部から設定すれば、良い方向に向かう(均衡がみえる、かも)」ってのはあるのだろうけど、そのインセンティブの設定が難しいのだろう。あるいは人為的にインセンティブを設定することは難しくてもなんらかの「均衡」が発生する兆しをつかむことも。



まあとりあえず自分としてはいままでどおり「人間性検知(ヘッドライト型知性)」中心でやっていこうかとおもう。

こうやって「地図作成型社会知性も知性のひとつではあるんだよ?」って示されたことで「いいかげんおっさんなんやからもそっと『世間さま』配慮してうまいことやってくべきだよなあ。社会≠労働≠お金なわけだし」とは思うようになったけど、それとは別に世間教というかお仲間クネクネ中心のひとたちというのはやはり苦手だし有効でもなさそうなので。

その辺をなんとなくふまえてるひとたちとだったら「自由」に「たのしさ」中心でやっていけそう。あまりくっつきすぎない距離感で

エンタメ、オタクコンテンツにおける自由の可能性と「ぼくらの。」世界、の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380740959.html


若い子たちが、ミクシ → LINE世間無限地獄≠ネット時代の穴だらけにされる自我・プライベート / 承認欲求・KY・「いい人」規範のひっぱり愛情況のなかで、他人の内心や人格を測る能力に欠けるためビクビクと怯え、その怯えや不安を補填するために関係性のなかにアイデンティファイしようと承認をもとめ、結果的に限定された「世間」規範を無意識に内面化し、「世間」の同調圧と実存的「孤」の部分とのコンプレックスで人に過剰にくっついたり、逆に過剰に冷たくしたりって中で自らの心を凍てつかせたり、うまく人格形成できなかったり、あるいはみょーに反省して傷ついたりしてるのを傍目にそんなことを思いました


(あるいは精神年齢的にうまく成長できてなければ年齢関係なくサブカル・ヲタ・ママカーストでも同じこといえそうだけど)











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関連:
病みツイートで救われながら承認も得られる ソーシャルメディアとの正しい距離感 ソーシャルメディアと承認【後編】|認められたい私、認めてくれない社会〜「承認不安時代」の生き方〜|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/44733

「バカッター」「LINE既読」問題はなぜ起こる?ソーシャルメディア時代の同調圧力 ソーシャルメディアと承認【前編】|認められたい私、認めてくれない社会〜「承認不安時代」の生き方〜|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/43992

http://morutan.tumblr.com/post/67604873456

http://morutan.tumblr.com/post/67604985428

http://morutan.tumblr.com/post/67603235275

http://morutan.tumblr.com/post/67604054854/9

http://morutan.tumblr.com/post/67606414931

http://morutan.tumblr.com/post/67608019022



信じるということ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/44278479.html

<『人を見たら泥棒と思え』というひとは現実主義と自認してることがしばしばだけれど、実際は信頼をポートフォリオしていけるひとのほうが現実主義かつ社会的知性も高い>関連で



EQ こころの知能指数 (講談社プラスアルファ文庫)
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感情的知能指数(感情などの内省と他者の心への共感力)について


--
追記:
<心理学はもはや進化生物学と経営学的な視点の中間にある>みたいな本書のあり方を見て、「そういや社会学なんかも進化生物学と歴史学の間みたいなものなのかもなあ。文化人類学とか」思いつつこれ読んでたり

文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
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ある意味、構造主義的アプローチなのかなこういうのは
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2011年02月20日

「無縁社会」という空体語と「社会」や「自由」という翻訳語について

このエントリの最後のほうで無縁社会に触れたのでついでに


網野善彦・鶴見俊輔、1994、「歴史の話」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/186739555.html



「無縁社会」の話はけっこうめんどいわりに自分的には得るもの少なそうなのでエントリの形できちんとまとめるのはやめとこうと思ってたんだけど「無縁」とか「社会」の語用変化、そこに含まれる物を考えるのにはいいかと思ったので。


先のエントリでも言ったように「無縁」自体はもともと悪い意味でもなく、網野さんの本とかそれを受けた隆慶一郎の「吉原御免状」読んだことある人なんかは違和感のある話。


もともとは「(新しい縁を組むために)無縁(まっさら)にしたもの」程度のことだと思う。なので意味的には「フリーソフト」の文脈でストールマンが言っていた「Free」の意味に近いように思った。

このときの「Free」の意味は「無料」ってより「まっさら」って感じだし、そういった自由の中で「責任」が含意されてくる。無縁も同じ


なので民主主義、市民社会における「個人」と「社会」の関係が絡んでくる。



「市民社会は自由な個人を前提として成立するけど、その自由は責任を伴う」なアレ。


後述するけどここでいう「自由」と「無縁」の意味するところがけっこう近い。





簡単に言うとNHKでいってる「無縁社会」というキャッチフレーズは実体がおぼろげな空体語であってその単語そのものには意味がない。

実体と提起されている問題はこちらで指摘されてるように「社会的排除、社会ネットワーク(の誤解)、少子高齢化問題、青年期の疎外感」であってそれは「無縁」とは直接関係ない。



桜井政成研究室  無縁社会への処方箋
http://sakunary.blog134.fc2.com/blog-entry-45.html




空体語というのはこんな感じ


河合孝彦のBLOG ≫ Blog Archive ≫ 実体語と空体語について
http://www.kawaitakahiko.jp/archives/533


日本でよくある「なんか格好よさげなカタカナ語(の割りには実体とらえてないもの)」とか想起すればいいと思う。

カタカナ語でなくても「文化包丁」「文化鍋」「万能文化猫娘」な「文化」とか。

そういう「わぁ、なんか洗練されて進歩的なのねぇ」と思わせる割には中身問われると「?」ってなるような言葉

「無縁社会」の場合はその逆でネガティブイメージを与えられた空体語なだけ


この辺の話は「日本人とユダヤ人」でも出てて


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「日本語は意味の重層性がないから新しい意味をつけ放題だ」みたいなこと言ってた。これはそのまま先のエントリにおける鶴見俊輔の問題意識にも通じる。彼の世代の場合は「それまでシロと言わされていたものをクロといわされるようになった」終戦時の実体験だったのだろうけど。



先のエントリ絡みで言うともともと日本には「世間」って言葉があり、(網野さんによると)「世間」にはすくなくとも江戸時代からの伝統があるのになぜ使われなくなったか?


この辺の事情は「翻訳成立事情」にもちょっこし載ってた。


翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)
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「世間」の代わりに society の訳としての「社会」が使われだしたから、ということになるんだけど翻訳された当初の「社会」には society がもっていたような重層性がなかった。

すなわち、「市民『社会』は自由な個人を前提として成立するけど、その自由は責任を伴う」、なアレ。

society という言葉には「(特定の身分・仕事などにとらわれない)自由で平等な個人」同士の交際、集まり・集合体などの意味があるわけだけど、その翻訳語として造語された「社会」には当初そのような意味は含まれてなかった。



「社会」とは「社」と「会」であり、「社」には「同じ目的を持った人による集り」の意味がある。明治初年、この「社」ということばが流行語のひとつとなった。「○○社」といった表記のもとでの団体結成、集まりなどが流行りとなっていた。ちなみに「新聞社」という名称もこの頃使われだした。

こういった「社」の流行の中で、「社会」はたとえば「乃チ民間士気ノ振フナリ、社会ノ立ツナリ極メテ可ナリ。」のような語用をされていた。ここでの「社会」は「会社」のそれと極めて近い使われかたであり、「○○社のように目的意識を持って集まった人々の集合」= company 的なそれに近い。

西周、福沢諭吉などが所属していた明六社ではこのような「社会」の語用がされており、したがって「社会」の意味するところは最初きわめて狭い範囲の結社(会社的なもの)を意味していた。



このようにまだ「世間」のほうが広い射程を捉え、射程の広域ということでは翻訳当初の「社会」よりも society に近い意味をはらんでいたはずなのになぜ society の訳語として「世間」は採用されず「社会」が採用されていったか?



「(なんとなく)肯定的な価値をもっており、かつ意味内容は抽象的」であったから、ということになる。


「長い間の私たちの伝統で、むずかしそうな漢字にはよくは分からないが、なにか重要な意味があるのだ、と読者の側で受け取ってくれるのである」


「翻訳成立事情」ではこういう現象を「カセット効果」と呼んでいるけど「空体語」と共通する。こういうことは漢字→カタカナ語となってそのままいまの人文界隈、もしくはマスコミなんかでのキャッチフレーズ的演出に残っているように思う。



これに対して「日本語の昔ながらの意味の重層性(cf.ことだま)を大事にしつつ、それを新しい現実と接合すればいいではないか?」という考えもある。それがまともだと思うし福沢諭吉なんかはそういう考えだったみたい(cf.「文明論之概略」)。でも「以前の文脈(意味の重層性)をひきずっていることばの組み合わせだけではその社会に現れていない現実をうまく構築できない(インパクトがない)」みたいなことになるみたい。それで「とりあえず」新しい言葉を作るわけだけど、その「とりあえず」がいつの間にか忘れられ現実から遊離していく、と。


たしかに「無縁社会」の実体的課題を考えるとき、「日本にも昔ながらの縁はあった」という例として「講」や「惣」が思い浮かぶが、上述してきたように「無縁」+「社会」の「(市民)社会」的問題を考える際には「講」「惣」的な特定集団の利害のための暫時的契約関係というだけでは薄いように思える。

たとえば「無縁」の実体的問題として「社会的排除、社会ネットワーク(の誤解)、少子高齢化問題、青年期の疎外感」などは国家-政府を前提とした社会保障が必要な問題にも思えるが、それらは不況を背景にした後期近代化といった状況の中で国家から分離されそうになっている。そのとき市民社会がこれらの問題をどのようにうけとめるか?という未だ見ぬ現実が立ち上がってくる。


ふつーに「貧乏人同士肩寄せ合って互助すればいいじゃん。昔の長屋みたいに」というのが単純な解として思いつくわけだけど、それと国家を介した互助としての社会保障を諦めないということ。両者の中間項を理想論ではなく現実的な課題として考えていくというのは未曾有な「現実」ともいえるだろう。


「社会的弱者のためになぜわれわれが金を出さなければならない?(こっちも不況で余裕ないのに)」


そういった場面で改めて市民としての自分と社会との関係、あるいは市民社会を通じた国家との関係が問われはじめるのかもしれない。






最後に、網野さんのいっていた「無縁」は「Free」と似ているように思う、な連想から。


ミルが「自由論」で「個人(indivisual)」に対するものとして設定していた「社会(society)」と現在の日本の「世間」の意味するところが似ているように思った。すなわち「しがらみ」的に個人に対峙する「世間」。

「世間」のように構築されたものに自由(free)を奪われ、そこからの解放を目指す自由(liberty)かなと思うに、デフォルトな自由状態としての Free と 拘束からの解放としての libertyとではどっちが「無縁」に近いのかな(やはりFreeのほうだろうか)。


自由 Freedom Liberty: ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
http://mb101bold.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/freedomliberty_345d.html



同様の文脈で「自由」が翻訳当初「わがまま」「やりたい放題」の意味をまとっていたことと現在の「無縁」に対するネガティブなイメージの有り様はなんか似てる。

自分の家の門口に転がり込んできた博徒が「自由」という言葉を「やりたい放題」として捉えて権利を主張したことに柳田国男は違和感を持ち腹を立てたわけだけど


 『若い博徒と柳田とは、この開明派と保守派のように対立しあっている。賛成する者も反対する者も、ともにその意味についてはよく分っていない。しかし両者ともに真剣に、熱中して「自由」に賛成し、あるいは「自由」に反対しているのである。』


「自由」を「無縁社会」に置き換えて見なおしてみると「無縁社会」という訳の分からない言葉をめぐる状況そのままっぽい。










--
書き残し的課題:
「世間」の意味変化 (江戸時代あるいは1000年前には肯定的な語感だったのか?それとも否定的だったのか? cf.五人組)調べる。

(「世間」のしがらみ的な実体は江戸の因習と関係していたのではないか?(それ以前の「世間」はそんなに悪い意味あったのか?)



※自分で調べるよりも知ってそうなひとに聞いたほうが早いかなと思ってtwitterで聞いてみた





cf.阿部謹也さんの世間論(≠イザヤ・ベンダサン「日本では博士や弁護士もまとめて『先生』(偉い人)扱いするが「○○さん」として平等にコミュニケーションしない」)


阿部謹也の死で思った: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/09/post_b05e.html





アーレント → ルソー・ロック 辺りの市民社会→民主主義見なおし




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いちお関連:





公共性と世間のプロトコル相違の問題(およびアーキテクチャ設計について): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/71341707.html

タグ:公共性 世間
posted by m_um_u at 10:09 | Comment(0) | TrackBack(1) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年09月15日

「事件は陰謀論的に起こってるんじゃない。現場は人が足りないだけなんだ」  ジャーナリズム不全の構造的問題について

昨今の検察・警察制度への疑問とか、それを伝えるジャーナリズム体制の不備関連のweblogがたまったので関連で政治とカネスキャンダルの是否 → 小沢に到るまで流れみたいなのを簡単におさらいしとこうかと思ったんだけどそうこう思ってるうちに結果出ちゃったので政治とか政策とかのほうは簡単なメモ程度に。


【雑談】菅さんかあ: 切込隊長BLOG(ブログ) Lead‐off man's Blog
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/09/post-f55d.html


菅首相、続投: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/09/post-2f45.html


隊長のほうは「雑談」らしくとくにまとまりもない世間話程度で「ネットとか雑誌だと『小沢有利』ってことだったし雑誌の得票予想でもそんな感じだったのにねー」みたいなエントリ。むしろその後のついった上でのやりとりのほうがおもろかった。

津田さんが「雑誌もネットも信用できなくて、ネットも雑誌も似たような感じ(世論の融解)になってきてるんじゃないかなぁ」みたいなこと言ったのに対して、「いや、雑誌のほうが信用できるけど今回は票読み間違えたってこと。ネタ元が特定幹部に偏ってたんでしょうなぁ」みたいなの


Twitter / やまもといちろう: たぶん、独自で票読みをする予算やノウハウはないので、 ...
http://twitter.com/kirik/status/24458560358


この辺は後述する記者クラブへのリソース編成問題とも絡む。あと、これ以前から「日本のマスメディアに政策的眺望からの視点がなかったためになんかグチャグチャな報道になってたね」って話とも
http://morutan.tumblr.com/post/1072603165

「なんか北朝鮮みたいだ」、と



極東ブログのほうは「事前の読みでは国会議員票を小沢が集めてると思ってたんだけど思ったより伸びなくて、サポーター票は現状維持を期待する民意の表れなんだね(まあ、仕方ないねー それはそれで平和だし)」みたいな感じ。「後付け」「後付け」と自省的かつよろしく哀愁な引きで大阪串カツベイブルースみたいだった。


エントリ全体の主旨とは関係ないところで、個人的にはこの辺の「現代政治の内実は工学のようながっちりとしたものになった。なので専門分化に対応できなければ動かしようがないオペレーションになってる」辺りが参考になった。
http://tumblr.com/xauiitxs4


これは某所の民主主義2.0な話にも当てはまるなぁ、と思って。あれは民意の入り口の話なので政策に反映される前段階だし、政策反映レイヤーだと高度に専門分化した網の目が絡まりあった鉄の蜘蛛の巣みたいなのがあるので、剛腕なカブトムシが一匹入り込んでもそれを独力で覆すことはできない、と。

この辺はウォルフレンが指摘していたような暗黙のゴルディアスの結び目的な複雑性ではなく、


Yahoo!みんなの政治 - 政治記事・ニュース - 政治記事読みくらべ - 中央公論 - 日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その1)=カレル・ヴァン・ウォルフレン
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100319-01-0501.html



明示的な鉄の鎖になっているのだろう(cf.財務省と
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/06/post-ed70.html

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/10/post-eb12.html

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2008/03/post_b799.html


かつての「政官財の暗黙的な鉄の三角形」ではなく、格ゲーのコンボのようなオペレーションにおける決まった型とポートフォリオみたいなのかな。
そして外部との「調整」
http://tumblr.com/xauilf1ua





なので、それを改善するとしたら「民意の収集段階でのシステムの変更(工夫)」という入り口的変更ではなく、「意思決定 → 実行段階で権力が偏らないようにアウトソース的に専門分化に対向、透明性を保つ」という方向が考えられる。





さておき、


こんな感じで今回の党内選挙は終わったわけだけど今回も政策論議云々以前の印象論で世論が形成されていったところがあったのではないか?いわゆる「政治とカネ」な見方。

「賄賂と談合でからめ手から物事が決まっていくアンフェアさ」って問題は確かに重要だけど日本の政治ジャーナリズムがそれ一色で染まって政策の長期的展望もなくなってしまうというのは「政治とカネ」の話題自体が煙幕のようなものではないか?という問題意識


池田信夫 blog : 「政治とカネ」というバイアス - ライブドアブログ
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51477310.html


日本を殺すスキャンダル狂い | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2010/09/post-1585.php?page=1


この国の「政治文化」をどう変えるか (田中良紹の「国会探検」)
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2010/09/post_231.html



ここの小泉政権からの日本の政策関連ではこの本も読もうかなぁと思ってたり

現代日本の転機―「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス)
高原 基彰
日本放送出版協会
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おすすめ度の平均: 4.5
5 戦後日本の来し方を一望するパノラマ
3 73年で何が変わったか
5 冷静に現実をみつめるために必要な、社会学者が整理したこの30数年間の日本現代史
5 日本の政治・経済構造をわかりやすく説明
5 「平等」置いてけぼりを、浮きぼり。



現代日本の転機 - 池田信夫 blog(旧館)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/c04449900fe06b86908a9c8b46061796

高原基彰『現代日本の転機』: EU労働法政策雑記帳
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-185f.html

2009-09-03 高原基彰『現代日本の転機』を読む。- 【海難記】 Wrecked on the Sea
http://d.hatena.ne.jp/solar/20090903#p1


1973オイルショックが転機となってそれまでの安定型高度成長社会(福祉国家+大企業体制)なハメ技も通じなくなった。それまでの日本型福祉社会を「前期近代」とするならこれ以降は「後期近代」となる。後期近代では前期で自転車操業されていたツケが回ってくることになり、特にバブルがはじけた90年代以降は「成長」と「分配」の二つのバランスがテーマとなっていく。


小泉以降、麻生(未満)の金融+財政政策についてはこの辺
http://tumblr.com/xauilb4il

http://tumblr.com/xauilcfkq

http://tumblr.com/xauildb4p




もどって「政治とカネ」一色で政治ジャーナリズムがまともに機能していないこと」について

北海道新聞の高田さんのほうでも問題提起がなされていた




都道府県庁、警察(検察・裁判所)、市役所、経済の4分野からの発表用に記者クラブにリソースが割かれ過ぎな反面、その発表に対して考察する視角がないという問題


ニュースの現場で考えること : 事件報道自体の量的抑制が必要だ
http://newsnews.exblog.jp/13576849

http://tumblr.com/xauibxgzx



この問題は司法(検察)ジャーナリズムにも当てはまる


対して、

捜査段階での発表用にそんなに人員は必要ではなく、出口だけ抑えて考察をすればよいだけ、な話もある
http://tumblr.com/xauibxjt6



この話はそのままtogetterの検察問題にあてはまったり


Togetter - 「村木局長事件無罪+弁護人と報道について+記者さん達のジレンマ」
http://togetter.com/li/49520



「特オチの恐れから拙速な垂れ流し情報を出してしまう」のに対して「もう少し一方向からではない取材をしてはどうか?弁護士サイドとか。読者は何も速さを求めているわけではない」という意見が出される。


「多角的な情報を」「拙速にではなく」「考察すべき」というところから調査報道の必要性の議論に接続する



ニュースの現場で考えること : 「調査報道とは何か」  日本ジャーナリスト会議の勉強会から
http://newsnews.exblog.jp/15014282/


「調査報道とは何か?」とははっきりと定義されていないが、現在日本の新聞紙面の7割以上を占める発表垂れ流しものに対して「裏をとり」「独自の考察をしていく」ことが求められる。
http://tumblr.com/xauife735
http://tumblr.com/xauife8v8

プロの仕事として
http://tumblr.com/xauifeahl


そのためには現行のいわゆる記者クラブ体制、サツ(官庁・経済)回り中心の記者リソース配分を見なおさなければならない
http://tumblr.com/xauifem5q

ただでさえ少ない記者がサツ回りに集中、しかも内容といえば発表ものになってしまっていること。この辺の人的リソースを量的にも質的にも増やし司法をはじめとした多様な分野についての専門記者を育てていく必要がある。

そしてその取材 → 報道は「記者の転勤」などといった外的事情で断ち切られることのないように、継続的な報道姿勢が求められる。




この辺りを見ているとけっきょく政策の意思決定段階のオペレーションにしても、ジャーナリズムの分析 → 考察過程にしても「人員(リソース)がきちんと行き渡ってない」という共通の問題が浮かび上がってくる。

これはそのまま当該労働環境における人的リソースの流動性の問題にも通じるだろう。


濱口桂一郎、2009、「新しい労働社会」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html




けっきょく事件は陰謀論的に起こってるんじゃない。現場は人が足りないだけなんだ

posted by m_um_u at 22:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年09月07日

ジョブ型正社員(評価基準)と学校教育の職業的意義、辺りの話

tumblrで印象づけ的にquoteしてはてブでいちおストックしといたんだけどあとで見にくいのでこっちに移しとく程度のメモ。


これ関連で


濱口桂一郎、2009、「新しい労働社会」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html


結論から言えば全体の議論の前提としての「新しい労働社会」の内容とか、そこからの議論の流れに短くまとまってる。雇用流動性高めて新卒だけではなく中途採用も非正規も差別なく、ってのがそのまた前提。

要約すれば、「ジョブ型正社員のギロンは専門職以外では正社員全体で検討しにくい。なのでターゲットとされているのは現在結果的にジョブ型とされている非正規雇用社員の正社員化 + その社会(企業)保障 + 雇用の間口の拡大のためのジョブ型正社員枠の検討」、など

非専門職、ジェネラル型の正社員(中堅・エリート層)は対象としてない



社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳 職業的レリバンス論とジョブ型正社員はセットで考えるべし
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-179.html

もし、そういう「ジョブ型」の世界にしたいと考えるならば、日本の雇用慣行を全部ひっくり返す必要がある。労働市場を大きく変えなきゃいけない。私が以前に書いたのは、ジョブ型のクラフト労働市場を確立させないで、職業的レリバンスなどというのは詐欺に等しい、ということでした。逆に言うと、エスタブリッシュされた専門職が成立する世界(教職、弁護士など)ではこの理屈は成立するんですね。でも、一般の企業全体をこういう風に変えろというのは現実的かどうか。基本的に職務(給)を確立すれば、物事がうまくいくと考えているような方々はいやぜひそうすべきだという立場だと理解してよいでしょう。これに対して、私は「変えるべき必要はない」という意見と「変わるわけはない」という意見を二つ持っています。たぶん、濱口先生も同じでしょう。

ん?同じ?

ここはとても重要なポイントなので、しっかりついてきてくださいよ。なんなら、前のリンク先をもう一回読んでください。なぜ、そうなるか書いてありますから。濱口先生は「メンバーシップ型正社員」(という不正確な表現は私は使いたくないのですが)をそのまま維持しながら、「ジョブ型正社員」を最下層に作れと二枚腰で考えられているんですね。ここが現実的なところなんです。

実は、私がクラフト云々といったところは、上層部分でメンバーシップ型をジョブ型にしたいならば、クラフト市場を確立すべきだという話なんですね。ところが、濱口先生はここは変えないでいい、下を変えるべきだといっている。ここで、私がこのエントリの序盤にあえて「ジョブ型」と書いて、「ジョブ型正社員」と書かなかったことに注意してほしいと思います。実は、下層部分は『新しい労働社会』風にいえば、「ジョブ型」社会(一応、欧米)であろうが「メンバーシップ型」社会であろうが「ジョブ型」なんです。だから、そういう意味では最初から日本は単純な「メンバーシップ型」社会ではなく、「メンバーシップ型」+「ジョブ型」社会と理解した方がよいのです。ここまで理解できると『新しい労働社会』よりもうちょっとアドバンスクラスに進級です。この下層「ジョブ型」クラスでは、賃金は時間給であれ、出来高給であれ、仕事に対して払われると考えられています。

この(「メンバーシップ型」+「ジョブ型」社会)という基本枠組みを理解した上で、下層「ジョブ型」に注目しましょう。濱口先生のポイントは、現在、非正規であるところの下層「ジョブ型」を新しいカテゴリとして「ジョブ型正社員」にしようというのです。この制度を当世風のワークライフバランスで薔薇色に化粧することもできますが、本質的には雇用による社会保障ですよ。事実、濱口先生は「ジョブ型正社員」に対して企業の生活保障を期待していない。その代わり、国家による社会保障の枠組みを考えなきゃなりませんね、と提言している。リンク先の(4)はそういう意味です。

こうした提案の背景には、戦後日本の福祉国家が「メンバーシップ型正社員」を標準として作られてきたという歴史認識があって、これではもたないということなのでしょう。ちなみに、「メンバーシップ型正社員」を「ジョブ型」に変えるということは、社会保障の基本的枠組みを全部組み替えざるを得ないことを意味します。基本給はテクニカルにはいろんな保険の基準に使われてますしね。変えたい人は本来、ここまでパッケージで考えてくれないと話にならないんです。とはいうものの、もちろん「メンバーシップ型正社員」と「ジョブ型正社員」の相乗りという形にしておけば、社内トーナメントで「ジョブ型正社員」から「メンバーシップ型正社員」に転換するチャンスはあるかもしれません。放っておいても企業は優秀な人材を遊ばせておくわけありませんから、必ずそうするでしょう。しかし、あえて自然によくなることは濱口先生にとっては口出す必要ないんですね。でも、相乗りということで決して閉じていない。

この「ジョブ型正社員」への入り口として、職業的レリバンス論が意味を持ってくるわけです。私は何度か職業訓練あるいは職業教育といったって、エントリ・レベルしか出来ないと強調してきました。でも、濱口先生の職業的レリバンス論はそれで十分なんですね。エントリ・レベルだけは最低限満たしている、と。マージナル大学でしっかり学位を取得することはその最低限のシグナリングになるべきだという論理になってくるわけです。ようやく繋がりました。そういう意味では一流大学や中堅大学でさえ、正面切っては仰いませんが、最初から濱口先生のターゲットになってないんです。




前提とか(暫定的)結論とかはこんな感じ。流れを最初から追っていく



「マージナル大学」の社会的意義: EU労働法政策雑記帳
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-a5af.html

いわゆる学級崩壊型DQN大学では「教育の職業的意義」以前に基礎的職業訓練を受けるようなリテラシー(コモンセンス)もない、って問題。

そんで面接1回のブラック企業に吸収されていく、とか


読んで一番ショッキングだったのが(といいながら、実はこれはかなりの程度紹介用の修辞ですが)、居神浩さんの「ノンエリート大学生に伝えるべきこと−「マージナル大学」の社会的意義」という論文です。

居神さんは本田由紀流の「レリバンス」論に対して、

>現在「マージナル大学」の教育現場を覆っているのは、教育内容のレリバンス性を根本的に無意味化する構造的圧力である。・・・「マージナル大学」におけるそれは想像の範囲をはるかに超えるものがある。

と述べ、続く「ノンエリート大学生の実態の本質」というところでは、それは「学力低下」論とも「ゆとり教育の弊害」とも関わりなく、

>同一年齢集団の半分を高等教育が吸収するということは、必然的にその内部に従来では考えられなかったような多様性を生じさせるという点が重要である。

と述べ、その多様性を「認識と関係の発達の「おくれ」」と捉えて、

>もう少し具体的にいうと。認識の遅れは例えば公共的な職業訓練を受けるのに最低限必要な学力水準に到達していないレベルにある。・・・学校を卒業しても改めて何か具体的な技能を身につけようとしても、公共の職業訓練さえも受けられなければ、それは社会生活上の自立にとって大きなハードルになるだろう。




社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳 「マージナル大学」ではない、大学がマージナルを抱えている
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-177.html


大学のマージナル化で底辺とエリートの境界が崩れてる。エリート的なところでもけっこうてけとーに入れたり、反対にDQN大学でもちゃんと勉強してこなかっただけで「できる子」はいる。

この辺は先日の早大カンニング問題を想起させる。


ツイッターでカンニングを告白する大学生とそれをツイッター上で指摘する教授 - さまざまなめりっと
http://blog.livedoor.jp/manamerit/archives/65402727.html


以下の引用は「マージナル大学」の議論から

ここ数回の研究会に参加して考えていることがある。それはおそらく関係者はみんな(たぶん、何十年も前から)感じていることだと思うが、大学を一枚岩に捉えてはいけないということである。その含意は二つある。一つは90年代のゆとり教育よりはるか前から学習時間が減って、全力で受験勉強をせず、適当な努力で適当な大学に入っているという学生がいるため、大学内で学生の能力の分散が激しくなっていることだ(天野先生の『試験と学歴』を参照)。偏差値50以下(というのが、どういう基準でいわれるかわからないが)の学校にもとても優秀な学生がおり、二極化している。もうひとつは、二極化のもう一つの極、すなわち出来ない学生である。そういう子たちの中には、単に相対的に計算能力が低いとか論理能力が低いとかいうレベルを超えて、学習障害をもっている者もいる。そういう子たちに居場所を提供しているという意味では、学校は既に教義の意味で福祉施設としての機能を果たしているのである。だが、残念ながら一時的なシェルター以上の役割はほとんど果たしていない(学位を与える場合も多いが、それ以上のことではない)。

たぶん、本音ではみんな分かっているだろう。だが、同時に多くの人はそれを認めたがらないだろう。まず、学校では自分の学校の質に関わるので、体面上認めがたい。第二に、親はしばしば自分の子どもの学習障害を認めたがらない。これは親本人も含めて社会的な偏見があるからである。結局、大学がそういう問題を認めて、それに対応する主体であろうとするならば、それはスティグマを引き受けることになる。その覚悟があるかどうか迫るなどというのは青臭い議論である。そういう制約条件を前提にして、その中で何をやるかである。刑務所、学校、工場、病院というのはよくセットで取り上げられるが、工場はともかく、刑務所や病院だけでなく、学校も実に福祉機能を担っているということになる。刑務所については浜井浩一先生の本に詳しい。病院についてはどの本がよいか分からないが、高齢者のたまり場としての病院はもう完全に福祉機能を果たしているといえるだろう。工場も昔は福祉機能を担っていたが(そして、それこそが私の博論のテーマの一つ!)、いまや完全にそれは機能しなくなっている。




その辺で「底辺大学とかいってもやればできるコはいるし、底辺じゃなくても雇用ってやればできるってとこみるんじゃないか?」ってチラつくわけだけど

雇用における「やればできるコ」の「できるコ」判定って「人間力」みたいで難しい。なので、とりあえず具体的な職務能力に通じる職業教育の数値で判断される回路をつくったほうがいいのではないか?


「大学がマージナルを抱えている」のが「マージナル大学」となる理由: EU労働法政策雑記帳
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-9581.html

だからそういう(「マージナル大学」というような入れ物で判断するのではなく)本人をきちんと見てくれ、というときの、その見るべき「本人」の能力の判断基準が、「人間力」ということになると、具体的な職務能力といったものに比べて大変深みを要求する手間のかかるものとなり、それゆえに丁寧に選抜するためには、それに値しない者が多く含まれると考えられる集団をあらかじめ足切りすることが統計的に合理的であり得てしまうようなものとなってしまうために、本人は決してここでいわれるような意味での「マージナル」ではない学生たちが、人間力をじっくり判定してもらうところにまで行き着けないという意味において、彼らにとって非常に過酷なものになってしまうというのが、(金子さんが口を極めて批判する)本田由紀説の、わたくしが理解するところの一つのコアであるように思われます。



全職種・全学校ってわけでもなく「とりあえず」って感じだけど


金子良事さんの理解と誤解: EU労働法政策雑記帳
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-587d.html

本ブログでずっと昔に指摘したように、本田先生には(自分自身が所属する東京大学教育学部のような高度な研究者養成を主たる目的とする組織も含め)一般的な形における職業レリバンス論を適用できないあるいは適用すべきでない領域にまであまり深く考えずに適用してしまおうとする傾向があります。そこは、それが弊害をもたらしかねなくなった時点で指摘すればよいと、(プラグマティックに)わたしは考えています。





んでも、

職業的意義論にひもづけられる「職務給」とかジョブ評価だけってのは専門職だからできることでしょ?ほかはジョブとジェネラルが対立するってこともないし


社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳 大卒の就職が厳しいのは景気と労働市場の需給で説明できるんじゃないか
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-178.html

さて、瑣末な話ですが、一応説明しておきましょう。私が本田由紀さんをきつく批判しているのは、職務給と職能資格給を対立的に捉えて議論している点です。職能資格給は本給と連動して成立しているんだから、彼女の論旨を展開するためには賃金の決め方において査定で決まる基本給こそ批判しなきゃならない。この査定方式を周知の通り、小池和男先生は高く評価されていますし、同じような認識の方も少なくない。ですが、当然、昔から制度自体の批判者はいて、少なくともかつて小池先生の論敵だった左翼系の賃金研究者はきちんとこの点を指摘してきたわけです。それは最低限、踏まえるべきではないかということなのです。労働問題の専門家でないのだから仕方ない、と当初は思っていましたが、本田さんが頻繁に引いている乾先生の著書ではこの点が正確に指摘されていますから、それも通用しませんね。基本給がクリティカルだということが分からない人に「日本的雇用システム」論について理解も正当な意味での批判もできるわけないじゃないですか。

たとえば、彼女が主張している「柔軟な専門性」というのは、正に日本的雇用システムの中でこそ実現してきた仕組みです。要するに、メインの仕事があって、ある程度、それが出来るようになった時点で、関連する隣接業務を経験させると、そのメインの仕事(の理解)にもよい影響があるという話でしょう。1980年代に日本の製造業のパフォーマンスを見て、それはいいと海外でも認識されるようになって、Job Broadeningがいいんだということがアメリカの人事労務管理系の論文なんかでも指摘されるようになったと思いますが、あえて分かりやすくいえば、彼らは職務給で処遇する世界が障害になっていて、それをどう乗り越えようかと工夫しているわけです。柔軟な専門性というのは、全然逆の文脈で出てくるべき話なんですよ。

こういう細かい話とは別に、私は「職業的意義」論はエスタブリッシュされた専門職以外では幻想だと考えているので、深いレベルで濱口先生が主張したい方向(?)と対立があるのは間違いありません。そのことは認めておいた方が旗色鮮明になって便利なのかな。ただ、私の理解では濱口先生は現実がそんなに劇的に変わらないことを織り込み済みで、それでも多少ベクトルを変えるために極端なことを主張する必要があるという極めてブラグマティックな立場なのだと思っています。

とはいえ、基本的には学説としてはどちらの立場でもいいわけですよ。ただ、本田由紀さんに限って言えば、まず前提的な認識レベルのところが怪しいから、上で指摘したようなベクトルの正反対な話を同時に主張していて、何を言ってるんだかわけが分からないことになっている。




あと、教育と雇用について『日本の教育と企業社会』嫁とか


日本の教育と企業社会―一元的能力主義と現代の教育=社会構造
乾 彰夫
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それに対して

学校教育の職業的意義(レリバンス)論における「就職に通じる教育内容」は雇用の際にちょっとでも「ウリ」になるような統一基準として通用するのではないか?、と。

資格みたいなのを想起する。



金子良事さんの理解と誤解: EU労働法政策雑記帳
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-587d.html

問題のある「マージナル」大学とは、むしろ高校レベルにおける「普通科底辺校」に相当するところです。勉強したことになっている範囲は開成や日比谷と正確に同じであるような普通科底辺校の卒業生が、その同じであるはずの学習内容をAO入試で「ウリ」にできるのか、というはなしです。勉強したことになっている範囲は東大や慶応の経済学部と正確に同じであるような偏差値底辺級のマージナル大学の学生が、その同じであるはずの学習内容を「ウリ」にできるのでしょうか、と翻訳すればわかりやすいでしょう。そう、大変むくつけなはなしであり、大学人は露骨に言いたくないでしょうね。しかし、その労働市場の入口における「ウリ」という観点から、せめてなにがしかとっかかりになるレリバンスを、という点において、わたしは本田先生の議論を評価しているのであってみれば、彼女の議論が今までの社会政策や人事労務管理論をきちんと踏まえていないというのは(それが正しいとしても)戦略的には顧慮すべき必要は感じません。






そんで最終的に一番最初の話に戻る


社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳 職業的レリバンス論とジョブ型正社員はセットで考えるべし
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-179.html


posted by m_um_u at 23:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年08月31日

郊外化の未来について (広島の流れとか)

昨日のエントリでなんかちょっと残尿感があるのでもうちょっと



「今年の夏俺全身ジャスコ〜♪」、と彼女は言った: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161061791.html



結論としては、「東京にせよ地方にせよ目先の欲望に振り回されてるんじゃなくて自分の頭で考えて行動して生の体験していけばいいんじゃないの?(それだったらなに着たって格好いいだろうし)」、ってところ

これ自体はわりとありふれたところに落ち着いたなぁと思ってなんかモニョった。



そんなこと言いたかったっけ?



「地方都市の消費の郊外SC偏重化(郊外化)は地方だけの問題だけではなく東京みたいな都会の問題でもあるのだよ」ってこのテーマをもうちょっときちんとギロンする場合、コンパクトシティの話なんかが出てくるだろう。



コンパクトシティ - Wikipedia
http://bit.ly/9shMhb



「SCは地代の安い郊外に集まる。それがゆえに都市の中心部が空洞化していく」という問題。それに対して

都市郊外化・スプロール化を抑制し、市街地のスケールを小さく保ち、歩いてゆける範囲を生活圏と捉え、コミュニティの再生や住みやすいまちづくりを目指そうとするのがコンパクトシティの発想である。1970年代にも同様の提案があり、都市への人口集中を招くとして批判されていたが、近年になって再び脚光を浴びるようになった。再開発や再生などの事業を通し、ヒューマンスケールな職住近接型まちづくりを目指すものである。



消費者としてはどういった効用があるのかいまいちつかめないんだけど続けると


自治体がコンパクトシティを進めるのには、地方税増収の意図もある。例えば、地価の高い中心部に新築マンションなどが増えれば固定資産税の増収が見込まれ、また、都市計画区域内の人口が増えれば都市計画税の増収も見込まれる。すなわち、同じ自治体内の郊外から中心部に市民が住み替えるだけで地方税の増収に繋がることになり、経済停滞や人口減少が予想される自治体にとってコンパクトシティ化は有効な財源確保策と見られている。



「都市部にマンション建てさせて固定資産税狙う」、と。つまり「周りのSCはそのまま買い物どころとして機能させ真ん中に人を集める」って感じか。デパートみたいな大型店舗ではなく個人営業の店なんか集めて質的な商品提供を狙うってとこなのかのぅ…。



自分としてはいまのところの郊外化の問題は「ニッチな商品が買えない」「(ファミリーの車移動を想定しているSCは)高齢者が移動的に困難」ってとこかと思ってるんだけど、そういうのも改善されていくのだろうか? 広島の場合、後者は近隣駅から送迎バスで対応してたりするけど。



高齢者関連で言うとコンパクトシティ構想のほうでも問題があって


1. 公共交通網がある程度充実していること
2. 中心市街地である程度文化活動が盛んであること
3. コミュニティが存在していること
4. 観光地としても成立しうる資源を持ち人々が流入する要素があること



がその要件ってことだけど、公共交通機関が発達していない都市ではどうすべきか?

その場合は既存のSCを質的に向上させる、というものが考えられる。


その場合の「質的向上」というのは「消費アイテムの選択肢を広げる」ということのほかに「地元にとけこむ」って流れも考えられたり。


ライフスタイルセンターの未来 ≪ Soul for Sale
http://blog.szk.cc/2010/08/13/the-future-and-past-of-lifestyle-centers/


サンストリート亀戸、たつかしん、ダイシン百貨店みたいに地元密着型のコミュニティ機能を内包したSC、あるいはデパートとして機能しているところがありモデルケースになり得る。





最後に現在帰省してる広島の様子と照らし合わせてみよう。



久々に帰省したらあらためて「現在の広島はもともとの繁華街(紙屋町)を中心に東西南北にSCが展開してるなぁ」と思った。あと、それぞれのSCへのアクセスを良くするための道路開発とか。


そんでこれからの広島の都市開発はだいたいこんな感じみたい(元ページ見にくいので抜粋)


ぶらぶら広島ウォッチング 広島都市圏の年表 No.2
http://hiroshimagogo.blog8.fc2.com/blog-entry-254.html



Cブロック 2007年度末 着工
矢野中央線道路整備事業 2008年 完成
都市計画道路西原山本線(2工区) 2008年前半 完成
Garden*GardenT24階 2008年6月 完成
宇品アーバンプロジェクト25階 2008年8月 完成
西広島バイパス廿日市高架  〜2008年頃 完成
新球場周辺の道路整備 2008年度 完成
広島市新球場 2008年度 完成
西部臨海ポンプ場 2008年度 完成
広島空港CATVa 2008年度 運用開始
Garden*GardenU32階 2009年6月 完成
広島駅前Bブロック 2009年頃? 完成
◎広島駅前Cブロック 2010年度末 完成目標
畑口寺田線外1路線 〜2009年頃 完成
現球場跡地利用 2009年度 事業着手
若草町地区市街地再開発事業 2009年度 完成
広島高速2号線 2009年度 完成目標
広島高速3号線(宇品〜吉島間) 2009年度 完成目標
宮島水族館建て替え 2010年4月 完成
駅前線(五日市) 〜2010年頃 完成
古野バイパス 〜2010年頃 完成
向洋駅周辺地区土地区画整理事業 2011年 完成
広島市東部地区連続立体交差事業 ?年 完成
広島高速5号線 2012年度 完成目標
段原再開発・東部地区 2013年度 事業完了
広島高速3号線(吉島〜観音間) 2013年度 完成目標
可部バイパス 〜2013年頃? 全線供用(暫定)
新交通西風新都線 〜2015年頃? 完成
西広島駅北口地区再開発 〜2015年頃? 完成
東広島バイパス 〜2017年 全線供用(暫定)
安芸バイパス 〜2017年 全線供用(暫定)
広島南道路 〜2017年頃? 部分供用(暫定)
東広島呉道路 〜2017年頃? 全線供用(暫定)
岩国・大竹道路 〜2017年頃? 全線供用(暫定)
都市計画道路長束八木線(3工区) 〜2018年頃? 完成



やはり「とりあえず道路開発」って感じみたい。感覚的には「いままでの中心部の外縁に置かれていたところからのアクセスの利便性をあげる」って目標に見える。いままでの文脈から言うと「周辺SCへの郊外からのアクセスを上げる」って感じだろうか。

空洞化現象への対策としては駅前(Cブロック)開発なんかが挙げられる。


ぶらぶら広島ウォッチング 駅前Cブロック発表前に
http://hiroshimagogo.blog8.fc2.com/blog-entry-253.html

Cブロックってのは広島駅の新幹線口


「中心部へのアクセス」ということでは「新交通西風新都線 〜2015年頃? 完成」がそれに当たり「アストラムラインの環状線化のことかなぁ」とか思うんだけどこれも財政具合によってどうなるかわからないということなのだろう。




この辺が郊外化の未来に関する背景的な流れだろうけど、これについて考えたいわけでもないのでこの辺で。


次のエントリに稿を移そう



タグ:地方 広島
posted by m_um_u at 18:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年08月30日

「今年の夏俺全身ジャスコ〜♪」、と彼女は言った

先日「東京ってのは付加価値のテンプレートだよねー」って話と「昨今ではCDとかモノ買うときにネットの評判とか見て買うけどそれやってる内にお腹いっぱいになっちゃうよねー」、って話見ててなんかモニョったところでそれらをまとめてつなぐような話があったのでちょっと考えてみたいなぁと思った。



最初の話


付加価値の坩堝「東京」 - G.A.W.
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20100826/1282754609



これは別文脈だと「消費主義的な欲望のテンプレート」ってことであまりポジティブに語られるものでもないように思うんだけど、マーケティング的には「付加価値」って用語で語られてそういう視点から見直したほうが偏向うすれて中立に見える場合もあるなぁとか思ったりした。

とりあえず東京というのは物理的なリソースに対して情報的なリソースが過剰な街だなぁという印象は同意。

もちろん1000万都市の人口を満たすための物理的なリソースを基盤としつつ、ってのは前提だけど。


特に都心なんかでは地方に比べて圧倒的に空間が足りない。都心もそうだけどそこに至る電車が。人多杉。ありえない。いつも祭りみたい。


そんで物理的には過密になった空間に必要とされる祝祭性を補うために情報がテンプレートされていく。あるいはより多くの欲望を喚起させるためのテンプレート。

「買いたいものはわれわれがつくりあげるのだ」的なあれ


そういった欲望のテンプレートに彩られた都市のあり方に対して、「祝祭都市」って言葉が頭に浮かぶしそれはそのまま「スペクタクルとしての都市」であり「メディアとしての都市」って文脈にも接続できるだろうけど今回考えてみたいことからは逸れそうだから置く。


バブル周辺を境に東京の都市としての性格もよりハイパーリアルな方向に、欲望が多層的に積み重なって展開される方向に変わったんじゃないか?とか思うんだけどこっち方面に住んでまだ間もないのでそういう肌感覚的な実感は足りないかな、とは思う。なのでこれはこの辺で。




次の話、



HMV渋谷店閉店をきっかけに、ラーメンについて考えた - くらやみのスキャナー
http://d.hatena.ne.jp/kataru2000/20100826/p1



「昨今は商品の評判聞いて買えるようになったから便利だけど買う前にお腹いっぱいだよねー」ってのはデータベース問題にも通じるかな。

「データベース問題」ってのは東浩紀さんのオタク論で「もはやオタクはモノそのものではなくその背後にある物語、その背景知識の構成要素(モジュール)の集積としてのデータベースを消費してるのだ」って話、いわゆる「データベース消費論」関連で出てきたもの。「だけどオタク第一、第二世代が残していったデータベースが大きすぎてオタクニューカマーはついてけなくなるよねー。ガンダムなんかいまさら見れねー」みたいな話

http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/60487717.html


「データベース消費」って文脈でオレが勝手に「データベース問題」って呼んでるだけだけど


それに倣えば音楽の方でも新しい消費世代というのはそういった批評とか気にせずにてけとーに自分たちの気に入ったものを消費してるのかもしれない。ライトユーザー的に。

もしくはデータベースとアテンションの関係を考えると「最近はいろいろほかに楽しいもの増えちゃったから時間足りない。そんなに吟味しないでてけとーに買って消費しちゃえばいいじゃん」ってのもあるのかも。コミュニケーションツールとして音楽を使用する場合は自分の属するコミュニティに合った現在人気の曲をチェックできてたらいいわけだし。


そういったものを便宜的に「量的なもの」とすればそれとは別に自分にジャストで合った「質的なもの」も必要となる。そういうの探す場合は掘る労力が必要だろうけど好きなものに対してだったらそれは厭わないのではないだろうか?(それでも「めんどくせー」「音楽じゃなくてももっと楽におもしろそうなものあるし」ってのもあるだろうけど)



こんな感じで東京の都市空間というのは欲望を喚起させるための付加価値的情報が広がっている、ということになる。空間を欲望のテンプレートが覆った祝祭空間。広告やテレビディスプレイなんか分かりやすいけどそれ以外にもファッションとか人が持ってるものなんかも。

それらが「欲望」とされるのはふつーの生活における必需品(消耗品)的なものとは分けられるものだから。機能的合理性に対して付加される「余分なもの」なので。

まあ、そういったものを広範な意味で「文化」と呼んだりもするのだろうけど。


そういった欲望を喚起させるための付加価値の氾濫はときには情報過多で怪訝に感じられることもあるだろう。「批評うぜー」「他人との優越ゲームうぜー」「データベースうぜー」って感じで。


しかし、そういった情報に付随するウザさがストンと腑に落ちる瞬間がある。



空間の商品化 ≪ Soul for Sale
http://blog.szk.cc/2010/07/29/commercializing-real-space/



高品質で満足感のあるサービスはそれなりの額の金を対価としたプレミア性に基づいてることについて。「それってけっきょく金でほかの人間排除してるから成り立ってるんじゃね?それってけっきょくKY的な落ち着かなさつくるし」って懐疑が入ったりするわけだけど体験してみるとなんか納得したとか。

「ほかでは見れない絶景が拝めるような空間のプレミア感(稀少性)」と「その場所の特別性(プレミア)を高めるための物語付与(意味付け・ナラティブ化)」って2点を通じて高められた空間の価値を実体験することで納得が得られた、と。



この話は端的に言うとハレの話かなと思った。


祝祭はもともとハレの日で、それは日常の生活とは異なる異界でありだからこそ過剰な演出・スペクタクル・情報量も腑に落ちるわけだけど、それがいつも続いてると居心地が悪くなる。


現代の消費的な欲望は宗教的性格を持っていたハレを市場的に再生してみせたもの、あるいは現世の法と聖性との境界領域に属する「市場」の性格を商業的な部分だけデフォルメして再現したものといえると思う。

しかしそれは商業的なところだけクローズアップしたデフォルメであるがゆえに失われたバランス、居心地の悪さというのがあるのだろう。現代人の場合、普段の生活が異常に忙しく、その忙しさのストレスを金―消費であがなうようにできてるので気づきにくいだろうけど。

でも、普段の生活でそういったスピード感、それを支える情報量に耐えきれなくなって違和感が生じる。自分のいる空間と実存に対して欲望がオーバードライブしてるので。(端的に言うと「ちっぽけな自分の部屋に比して広告やテレビでみる都会生活のきらびやさから疎外が生まれる」)



そういった欲望、付加価値、情報の実生活に対するオーバードライブに対して、「特別な場所での特別な体験」というのは空間と情報量的に整合性をもたらすのだろうなぁ、となんとなく。




そんなことを漠然と思ってたらなんかこんな話題が



Togetter - 「田舎のジャスコは「擬似東京」!渋谷=三重のジャスコ。レベル的に。」
http://togetter.com/li/18345


何でもある田舎のジャスコと、東京を知る人と知らない人との格差 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月
http://d.hatena.ne.jp/katamachi/20100830/p1



これ自体は「ジャスコ化とジャスコ化の東京への還流の是否」みたいなので見てきたので別にいまさらって感じ。「三重のジャスコはほかとちげーんだぜ」ってのはあるだろうけど


(地方と)「東京」から考える: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/37783115.html


幻想・過去・未来 (迷い道くねくね〜♪): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/156671991.html


日本における「都会と地方の話」は「中心と周縁」、「都市と村」、「文明と野蛮」みたいなのと似てるね、って話(+「若者不幸云々って世代格差ってよりは地域・階層格差なんじゃね?」みたいなの): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/158783815.html


オレも最初の方は「地方 vs. 東京」みたいな感じで考えてたけどいまさら地方も東京もなく両方とも消費的に覆われることの是否みたいなところで仮止めしてた。


(ちょっと語弊はあるだろうけど)「ジャスコ(あるいは郊外型SC)的な消費形式というのは特にとんがったファッションというわけではなく現代消費社会の中の最低限の生活必需品(家族向け商品+ファッション)」的なものだけど、そういった最低限の必需品への参加券さえ手に入れられない人たちがいる、という問題。

あるいは、

そんな感じで「消費」を参加券とするのではなく「神楽」とか「ねぶた」みたいな地方アイデンティティから地方愛みたいなのを膨らませていく人々もいるわけだけど、そこにも馴染めない人々がいる。


そういった人々の疎外感をどう埋めるのか?



自分的には「身体への回帰」みたいな感じでDQNというか、非PC圏の人々の元気さに希望を見出してそれと同じように野放図にやっちゃってもいいんじゃないかなー、って思った。

具体的には過剰に「批評」や「欲望」といった周辺情報に囚われずにもっと広い世界見てく、みたいなの。物理的世界でもそうだけど世代や人種超えたそれ。そうやって創られた情報環境に左右されずにリアルに世界を体験し自分なりに納得していくこと。それが良い方向に転ぶか悪い方向に転ぶかわかんないけど。


そうやって自分の目と耳で「何でも見ていく」ってこと


歴史とか経済観大切にしつつ



その際にまとっていく衣はジャスコでもしまむらでもなんでもいいように思う。


posted by m_um_u at 22:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年08月29日

濱口桂一郎、2009、「新しい労働社会」

簡単に感想済ませるつもりなのでmixiの日記でもいいかと思ったんだけどあとあと使うかもだからやっぱこっちへ。「新しい労働社会」読んだ



新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)
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2 最重要点が抜けている上に、ステークホルダー民主主義とEUへの幻想が強い。
4 同一労働同一賃金
4 いのちと健康を守る労働時間規制
4 リアリストなのだろうか
4 非正規雇用の増加に対応した社会の構築



労働法関連の本ということもあってかなんか読みにくくてけっこう気絶させられたけど、話題になってたとおりこの領域の構造的問題が分かりやすく見取り図になってるなあ、と思った。

今回は詳細に感想書く気もないのでそういう書評みたい場合はこの辺で
http://homepage3.nifty.com/hamachan/bookreviewlist.html


「日本ではなぜ年功序列で職能が評価されないのか?(あのおっさん働いてないようにみえるけどなんであんなに給料もらえるの?)」とか「残業させまくり働かせ杉なんじゃないの?」、「非正規雇用ってなんでこんな差別うけてんの?」とかに興味ある人はおすすめできそう。ポイントは<日本の労務・雇用評価はメンバーシップ制であって職能制ではない>というところ。


メンバーシップ制というのは「とりあえず雇い入れた社員、会社のメンバーになった社員の家族を含めた優遇を第一に考え、『職務と給料』の双務関係は棚上げする」みたいな感じのもの。武士の扶持と似たような感じで「(仕事に対して人が必要だから雇うのではなく)とりあえずメンバーを食わすために役職を与える」(生活給)って感じ。

労働者の評価は職務の生産性(職能)ではなく会社のメンバーシップの中から「その会社への年功(何年務めたか)」という形で派生していくことになるので別の会社組織からは客観的に職能を判断しにくいことになる。結果として雇用の流動性(転職の機会)が発生しにくい。



こういった体質がなぜできたのか?というと1970年代のオイルショックの影響があるみたい。

オイルショック以前にも「年功ではなく職能で評価していこう」という流れはあったみたいなんだけど、オイルショックのゴタゴタでその声も消えてしまった、と。

「オイルショック → 雇用もあぶなそう → せめていまの食い扶持だけでも守らないと → 流動性を高めるのではなく現在の既得を逃がさないように確保すべき」って流れ

この前段階として共産主義の脅威を感じた労働・教育現場が対共産主義的に平等主義を採用したことも影響したみたい。「共産主義が平等主義を売りにするならこちらも平等主義で行きましょう」みたいなのかな。(cf.日教組の影響)

そんで結果的に職能評価なんかで生まれるようなひどい評価が生まれない代わりに突出した評価(給与)なんかも生まれにくくなったわけだけど 「それって果たして『平等』なのか?」って問題が残った。

加えていうと企業における職能主義の見直しと学校教育における職業訓練教育の再検討の問題は連動していたようだけど、前者の機運が消えるのと並行して後者も自然消滅していったっぽい。

そんで結果的に現在の教育はタテマエ的なものとなってしまい企業側からは「大学教育なんか役に立たんよ」といわれるようになってしまった。

学ぶほうの学生も職業的意義(レリバンス)が感じられなくてモチベ(モラル)が上がらない、って問題がある。


この辺はびみょーで、基礎研究と応用研究の意義みたいな感じで「学校というのは基礎研究的な真理みたいなのを究める時期。一生のうちでそういう時期ってあまりないのだからこの時期に集中してやってみるのは良いこと」って見方もある。

しかし、青田買い的に就職活動の時期が前倒しになり、結果として学生が勉強に集中できないというのが現状なわけだけど。


なので「真理」とか純粋な興味みたいなのを担保しつつ、並行して職業(社会)に通じるような知識の伝播の過程が必要だな、とは思ったり。本田さんのギロンはその辺のようだけど


大阪市立大学大学院・早瀬晋三の書評ブログ : 『教育の職業的意義−若者、学校、社会をつなぐ』本田由紀(ちくま新書)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2010/01/post_162.html

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5 高等教育で獲得すべき能力
4 社会制度も含めた改革が必要
4 普通教育・一般教養重視を問い直す!!
3 ガラガラポンしたい気持ちは分かるが…
5 「キャリア教育」への反論として




労務評価(職務・職能と給与の関係)の話に戻ろう。


日本の企業では年功序列制度に加えて「若いうちは薄給、年をとって(家族が増えて)から若いうちの給与を返していく」って積立みたいな時差式俸給の慣習がある。「これもあって若いうちに薄給だった人たちがなかなか年功制度から離れられないのではないか?」って見方もあった。

この辺はいつかやらないといけないことだろうし、いきなり全部切り替えるってわけでもなく段階的にすればいいんじゃないかという話。


とりあえずそんな感じで

日本の会社組織における給与(評価)の仕方というのはなんだか「従業員(の家族)に対する社会保障」(生活給)みたいに機能してるみたい。「年金と同じで積み立てて」「若いうちはもらえないで再分配するようにして」「職能とは関係なくもらえる」、って感じで。ライフステージに応じた企業内における時差式のベーシックインカムみたいな感じで。

ただし、それは「正社員に限る」ってことで非正規社員(パートタイマー)はそこから除外される。非正規社員の場合は職能-時給で評価されるので。(ここの評価も正社員の若年時のそれにあわせてあるトリックがあるだろうけど置く)

ただ、年功序列と時差式俸給の話でもあったように「職務-給与での評価になってない」というのは非正規雇用だけの問題でもないので。「あのおっさん働いてないのになんでオレより給料高いの?」ってとこで正社員もこの問題に関係してくる。


そういうシステムは会社が半永久的に続く場合は有効だろうけど「いつ潰れるかわかんない」もしくは「もっと良い待遇(自分にあった)ところがあるから転職したい」ってご時世に合わない。

本来なら積立給与である退職金も払わないような企業も現れているようだし
http://otsune.tumblr.com/post/1024839352


なのでゆくゆくは生活給から職務給へと変えていったほうがいい、ということだけどそれも段階がいる。


その際、「お上からのお達し」みたいにどっかのお偉いさんが決めたやり方に従うだけではなく各現場の利害関係者がきちんと集って話し合いをして妥協点を見つけていけるといいな、と。

そのためには現状では有名無実とかしている組合とは別の組合組織がいるだろう。もしくは現状の労働環境で不利益を被っている社員(フルタイム・パートタイム問わず)にとっての駆け込み寺みたいなところ。


そういうところとしてコミュニティユニオンが紹介されていた。


コミュニティ・ユニオン全国ネットワーク
https://sites.google.com/site/cunnet/


全国コミュニティ・ユニオン連合会 - Wikipedia
http://bit.ly/bl3L2R


ひとりでも訴えはできるけどやはり団結して訴えたほうが強いようなので。




ちょっと複雑になってきたのでまとめると、


「日本の会社における現状の評価(給与)体系は年功序列制度として実質的に時差式のベーシックインカム(生活給)みたいな性格を持つ。そこに成果給がちょっと付加される感じ」

「それが現代の日本においては若年層や非正規社員には機能してない」




というところがポイントになる。


そんで、<「時差」で再配分される給与というのはもともとは社員が生産したものなのだから必要なときに対価として要求できるはず>、というのが交渉のポイントになりそう。


・・ただ「生産性」≠「職能」ってのは漠然としてるし日本では慣例として若年層の給与は低く設定されるわけだけど




あとはメンバーシップ制(生活給)から徐々に職能給的なシステムに移行したとして、労働者がそういた制度に耐えられるようなスキルをどのように身につけるか?という問題


この辺は「学校において職業訓練教育を取り入れる」というのと並行して現在の労働者のための職業訓練教育をもっと充実・実践的なものにすることが求められる。

その際、休職中の労働者が教育を受け、スキルを身につけやすいようなバックアップ体制として雇用保険と生活保護の間をつなぐ給付金制度が必要、と。現状の生活保護審査はあまりにも厳しいので


ただ、これは現状の日本の金蔵からではムリだろうから企業内社会保障との兼ね合いということになるのかだけど…難しそうだな。




--
関連:
天下りが無くならない理由 - Joe's Labo
http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/ff5171fc5c0a1f8e3625fae442386eb7?fm=rss


「年功序列廃止を考えるならまずは官庁の天下り見直しからはじめてはどうですか?」、という話



↓はこういった年功序列制度がなぜ日本に根づいたのか?ということについての妄想



「ゲゼル / ゲマイン」のところは「法治主義ではなく人治主義」とも絡みそう


「古代」と「中世」を分けるもの?  「武」・「聖」・「知」と法制度なんかについてぼけーっと: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160425677.html


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2010年08月08日

日本における「都会と地方の話」は「中心と周縁」、「都市と村」、「文明と野蛮」みたいなのと似てるね、って話(+「若者不幸云々って世代格差ってよりは地域・階層格差なんじゃね?」みたいなの)

muse-A-muse 2nd: 幻想・過去・未来 (迷い道くねくね〜♪)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/156671991.html


人はなぜ「貧しくても幸福な生」の物語に憧れるのか | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2511



kousyouくんとこの見田せんせラインの話をまとめると「貨幣経済なゲゼルシャフト的なものに対して疎外感をもった人々はゲマインシャフト的なものに回帰したいと思うようになる。関係性への欲求、あるいは『昔は人と人の関係にあたたかみがあった』という幻想はそういったものから生まれる」ってことなのかな。

それ自体はアリだなぁと思うんだけど鈴木さんとこの話は、「東京に疎外された地方の人たちが独自性を出すときにもやはり東京発の消費幻想を基盤としている」ということ、あるいは「そういった経済的に還元されるものを嫌った人々が創り上げる消費に乗っ取らない「地方の独自性(物語)」的なものは同質化に向けてみょーな求心性をもっていて、やはりそこからも疎外される人々が生まれる」、ってことだったように思う。

つまり、

「通常は都会に対して地方の強みとか独自性というのは人間のあたたかみ(そのつながり)といったソフト面やそれを載せる『山、川のような都会にはない自然』みたいなハード面のように思われるが、『どこの地方に行っても似たような駅前の光景、女子高生や若者は似たようなファッション』といった消費的均質性(画一化)を基盤としつつ、『そこからの独自性』を追求するような地方の現実においてはある一定の経済的基盤がなければアイデンティティをもつことからも疎外されていくという現実がある (もはや地方のアイデンティティの出発点は経済的に還元される)」

ということ。

あるいは、そういった郊外(ジャスコ)化を基盤とした独自性の追求から疎外された人々がつくるプレーンな「地方の独自性」幻想はみょーな同質性をもっていてそれにはついていけない(疎外される)人々がでてくる、ということ。


そんな感じでゲゼルとゲマインのハイブリッド的なことが起こってるのが地方の現実である、ということ。それが郊外化という形で逆輸(流)入されてる現実が東京のベッドタウンなんかにもあるわけだけどそれは別項ということで触れない。


単純に「金じゃなくて人のつながりだよぉ」的なゲマイン回帰でもない、あるいは回帰しようとしても「ちょっとそれ突っ込み過ぎじゃね?・・ついてけねー」的に疎外される人々が出てくるということ。そういうのはなんだか文化人類学者のフィールドが段々と文明化されてくのを寂しがる際の様子にもなんか似てる。


そう、こういった日本の現実というのは東京のような「進んだ都会」が「遅れた(未開発)の田舎」に影響を与えていく過程、先進国が「発展途上」国(低開発国)に影響を与えていく過程にも似てる。


それをして一部の文化人類学者なんかは「フィールドがなくなっていく」って哀しむのかもしれないけど、そういった変化は現地の人々の生活にとっては基盤となるような必然だし、その意味で変化も含めて経過を観察していこうというのが文化人類学者の態度かなぁとか思うけど。


中心と周縁、ゲゼルとゲマインということに関していえば中世のヨーロッパ、あるいは日本の都市と周辺(村社会)との違い、村社会への都市の影響なんかを想う。それは「自然」に対する「文明」側からの「進歩」や「理性」を盾にしたアプローチとも言えて…。

いまはそれが「消費」になってるのだろうけど、そういった「遅れた周縁」「野蛮な未開」に対する文明(中心)側からの視線というのがそのまま「都会」と「地方」に当てはまるように思う。


なので速水さんの「ケータイ小説的」なアプローチというのは洗練された都市民と野蛮な周縁の民、あるいは文明と未開といった話の現代版とも思える。


文芸評論家・加藤弘一の書評ブログ : 『ケータイ小説的。』 速水健朗 (原書房)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/07/post_204.html


かつて「文明」側から無文字社会に向けられた差別の視線、それが現代の日本ではPCと非PC(ケータイ)を境に表れているように思う。差別というか棲み分けといってもいいかもしれないけど。

PCに比べて長い文字列に適していないケータイでは短い文字によるコミュニケーションが重視されるように思う。そういったコミュニケーションでは得てしてあらかじめ決められた符号の中に多くの情報が圧縮される。もしくは「江戸っこ的しゃべり」のような符丁のようなもの。ケータイ小説的では「そのテンプレの一部として浜崎あゆみの歌詞がある」ということが表されていたようだ。



かつて文字社会、文明国からは「文字のないところでは歴史はつづられない」≠「情緒がない野蛮人」とされていたのと同じように「PCができなければホワイトカラーにはアクセスできない」という蓋然性があるように思う。

それがそのまま「情緒がない」という偏見にまでつながるのかはびみょーなところだけど、少なくとも「恋空」に対する視線というのはそういったものをふくんでいたように思う(自分も含めて)。


でも、そういった人々…大文字の歴史では語られない歴史を生きる人々こそがむしろ現代日本のマジョリティを形成するのではないか?ネットみたいな文字社会≠理性的な社会を中心にしてると分かりづらいかもだけど。(※「一部スクツはゴミ溜めじゃないのか?」はひとまず置く。あれも広い意味での理性遍重のコンプレックスのように思うので)


ひらたくいうとmixiやモバゲーなんかでたまに見られるDQNやヤンキー的メンタリティ、あるいはゆるふわリア充。あれがけっこう日本のマジョリティなんじゃないかって勘覚。それは一昔前だと「大衆」という言葉でまとめられていたような人々のように思う。


そしてそういった人々、たとえばどっかの建築現場に務めるヤンキーのにーちゃんなんかがふつーに結婚して家庭もって日本を支えていく。昔はヤンチャだったぶん、その反動として保守になるみたいな感じで。


現代の「大衆」というのはそういうものではないかと思うんだけど、それはちょっと「大衆」や「ヤンキー」期待の逆差別的ロマンティシズムともいえるかもしれない。









いまさらながら、「朝まで生テレビ〜若者不幸社会〜」東浩紀 ”退席” に思う
- What is value ?価値って・・「ナンシー関のいない世界で」
http://blog.goo.ne.jp/ebisu67/e/5b1fa8dfa68a447b59dbb12c488a438a



こないだまでそれなりに話題になってた東浩紀朝生退席話。この話は直で見てなくてネット経由の伝聞程度だけど

「若者不幸社会というけど、(年金、社会保障関連でケンカの構図を作り出し)世代間抗争をあおって番組を面白くしようとしても意味がない。堂々巡りになるだけ。なのでそういった世代間抗争を煽るような構図はやめにして、いまある資源を有効活用するような話、いまある資源と技術に誇りを持てるような話をしよう」

ってのは部分的に正論で分かるんだけどそんなこといってもけっきょく経済的なところを基盤にするというのは地味に必要であり、若者が働いてガリガリ消費しやすいような税金・社会制度にしないと話にならないなぁと思った。

そうしないと根性論的なことになるだけでそっちのほうがキツイなぁ、と。もっとも東さんは文化面の話のほうがしやすいしそっちのほうがおもしろいのだろうから我田引水するのはアリだろうけど。


それとは別件で「最近の若者は元気がない」というときに想定される「若者」というのはどの辺の話なんだろう?、と

たまに成人式なんかでハメをはずしているガキンチョどもなんかは「元気ない」ってことなのか?とか


「そういうのは短期的にハメを外してるだけで長期的に見て元気がある=将来に希望を持っているというのとは違う話」というのもあるかもしれない。しかし、それとは別に「社会の大多数の若者」として認定されないようなDQNとかヤンキーが自分たちの半径○○mのスモールワールドの中でヤンチャにポジティブに生きて通過儀礼を経験し社会の成員に編成されていく / あるいは自らそれを選び取るというようなハマータウンの野郎どもチックなことがあるんじゃまいかなー、って。

「過去にヤンチャしてた分だけ社会に組み入れやれやすい」とかそういうの。


そんで、そういった人々は発散してなかった人々よりも強固で保守的な「社会」の構成員になっていくように思う。



その昔は祭りというのは相当にやばいものだったらしいが - Living, Loving, Thinking
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070605/1181012495



「かつての若者はやばい存在、あぶない存在であるのが当たり前で、そういった『危なさ』も彼らの労働力への期待と引き換えに大目に見られ、『祭り』のようなストレス発散イベントを通じて社会的に編成されていっていた」

というような話。


集団の社会心理的なものはよくわかんないんだけど、若者特有のストレスや好奇心のようなもの、刺激を求める気持ちや荒ぶるエネルギーが「祭り」のような文化装置を通じて社会的に「正しいこと」として濾過なり変換なりされ、それを通じて「荒人」たる若者が社会に認容され社会的に編成されていく、ということはあるように思う。つまり若者のDQNな衝動や行為が一定の場を通じて「ただしい」と認容されることで若者たちが安心し、自分の居場所としてその社会を同定していくというようなこと。

それは「DQNの許容」であり、「もともと若者はDQNなものである」とすれば「若者の許容」ということにもなる。

ヤンキーとかにはそういったDQN性の発散時期というのはあるように想像されるが、「文明化された若者たち」にはそういったものがあるのだろうか?



<最近の(文明≠PC圏の)若者の祭りはネット(2ちゃん)の祭り>、あるいは<ネットの「祭り」は旧来型社会の若者の「祭り」衝動が吹き出したものでありカーニバルのようなものだ>とするムキもあるのかもしれない。

しかし、個人的にはそこには肉体からほとばしるようなDQN性はなく理性的にスポイルされているように思える。「おとなしく皮肉を言ってるだけ」って感じ。自分たちの環境がどんなに悪くても直接的な運動や団体交渉、あるいは暴力的な対抗に訴えるのではなくネットで皮肉をいってカタルシスを得る程度の。


だとするとそういったネット的な「祭り」というのは、元来の荒ぶるエネルギーの放出場としての祭り、肉体(身体)的なエネルギーの放出の場としての「祭り」とは異なった性格を有するように思う。


それは北田暁大が指摘したような「アイロニカルな型の踏襲」的なものといえるのではないか?


muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/80796779.html






そういった「スポイルされた若者」というのはどう作り上げられていくのかといえば「これはやっちゃダメ」と早いうちから失敗の予防線的に禁止の呪縛に囚われ、その代替として消費的幻想を当てられてきたことによるのではないか?


「若者は不幸である」という命題が当てはまるような現実がもしあるとしたら、「不幸」の直接的な要因というのはまずもって経済的な基盤であるとは思うのだけれど、そもそもの「不幸」≠「元気がない」ことの原因というのは理性の方向に禁止・矯正されその代替として消費的にスポイルされた現実があるのでは?



単純に言えば、「DQN、ヤンキーはなにも考えず身体の声にしたがってリア充謳歌してるからたのしいのだろうねー」って感じになり、どちらかといえばそういったものとは対局にある自分からすると「無邪気なヤンキー礼賛ってのもどうだろう?やっぱ情緒ないのヤだし。あったとしても自分の情緒とは違うだろうし…」って感じになるんだけど



なんとなく「下妻物語」を思い出す


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5 予告編にダマされた
4 キャスティング



超映画批評『下妻物語』85点(100点満点中)
http://movie.maeda-y.com/movie/00329.htm


あれはオタクとヤンキーってわけではなくロリとヤンキーの話だったわけだけど、ゲゼル的な理性の突端での裏返り的なバロックやロココへ傾倒していく女の子とゲマイン的な肉体への忠実さで「ジャスコナメんな!」と自分のいまを肯定していく女の子の出会い。

そういった形でゲゼルとゲマイン、理性と非理性、文字と非文字、PCとケータイが出会ってお互いの文化的キャズムを越え相互理解をしていくこと‥それを通じて「自分たち」の足元をみつめて自分たちの物語をつくっていくことは可能なのだろうか?

過剰に理性にとらわれその代償として消費に依存して自分の居場所(実存)を見失うのでもなく、肉体や感情に野放図に従うのでもない、そういったものの中間的なものとして自分を自制し現在の自分のあり方を「是」とすること。


両者の出会いによってそういったことが可能なのだろうか?



そんなことを思ったりする






なんか長くなってこんがらがったのでスケルトン箇条書き ↓




地方のアイデンティティ

消費的にアイデンティファイの基盤を立てていく →経済的に疎外な人が現れる

村社会ロマンティシズム的な同質性が「オラが村」幻想を作っていく →「ロマンティシズム同質性ついてけねー」なひとが現れる



若者不幸

エネルギーがスポイルされてるから?(不幸=元気が無い、としてとらえたとき


ヤンキーはスポイルされてないよね?


無自覚に現実を謳歌≠たとえば消費にいくのもどうか?

無自覚に行くのと理性・内省・情緒に入る、のとの間ぐらい



「下妻物語」


アイロニカルな裏返りとしてのロリとジャスコ(基層的消費幻想)化のヤンキーとの出会い


そういった形で理性(スポイルされた野生としての野菜≠草食系)と野生の間みたいに「自分たち」の足元をみつめて自分たちの物語をつくっていくことは可能なのだろうか?





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関連:
Togetter - 「速水「ケータイ小説と郊外」から 「ポスコロと都市と周縁」」
http://togetter.com/li/1162



Togetter - 「ヤンキーとアメリカの大衆の類似性、および保守の関連性」
http://togetter.com/li/352



muse-A-muse 2nd: bunkamura「ブリューゲル 版画の世界」展へ行ってきたよ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/158036122.html


※都市から疎外された「大衆」関連




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関連課題図書:

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5 古くて新しいテーマがここに!



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http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-951.html



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2009年06月07日

ネットの公共性をめぐっての古くて新しい話  現実に即したパワーゲームか原義的公共性か

lifeの「現代思想」の回聞いてたらいろいろ興味深かったのと、あとで自分で買うものリストにしたいなと思ったので軽くメモ


文化系トークラジオ Life: 2009/05/24「現代の現代思想」 アーカイブ


ここで「現代思想とは?」とか「現代思想・批評家の役割とは?」、「なぜ東浩紀は政治的にコミットしないのか?」みたいなことがリスナーから問われててそれに対する受け答えが面白かったので。

ザラっとなんだけど、

・政治を語らない理由:「既存のイデオロギーに巻き込まれるから(中立ではない」


「“政治的”といっても既存の文脈、マルクス主義ならマルクス主義、サヨクならサヨクの文脈に沿った話をしているだけであってそれは真の意味で政治的といえるのだろうか?」

アレントの公共性定義っぽい


・真の意味で政治的であること−公共的であること

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4 舞台上でactionし、時に観客になること
4 「わかりやすさ」を疑う


[書評]今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹): 極東ブログ

著者仲正が指摘するように、現代日本で説かれる政治思想は、装いは複雑に見えても、実際には単純な倫理命題に帰するものが多く、その意味でわかりやすく説かれすぎている。「何をなすべきか」に具体的な当為を描き出してしまう。そのわかりやすさそのものに、アーレントの危惧する全体主義につながる傾向がある。


仲正が取り上げている、現代日本の政治思想のわかりやすい一例には「格差社会論」がある。現実の人間には、社会的地位、学歴、技能、コミュニケーション能力など多面性があり、格差の形成も多様な形態を取っているにもかかわらず、ひとたび思想として「人間らしい平等な生活」といった枠組みが提示されると、それだけから「格差社会と戦わなければならない」という至上命題が現れる。数年おきに起きる通り魔殺人事件が、さも現代の格差社会の結果のように真顔で論じられたりもする。こうなれば政治思想といっても、もはやその主張の党派に入るか否かだけが問われているにすぎない。党派的な「善」や「説明」が希求されれば、「格差とはどのようなものか、なぜ格差が問題なのか」と多様性を志向する議論自体、排除されるべき対象とされ、対立する集団の利権の争いのような政治性に帰着してしまう。あるいは、政治性が先行して思想が類別されるようになる。
 アーレントの思想が起立するのは、こうした「政治性」こそ政治ではないのだする指摘においてだ。アーレントによれば、政治とは、人が公を存在の部分を負って公の場に現れ、多様な議論を形成することにある。複数の主張が公において息づくことが政治だとするのだ





・東と宮台の立ち位置について(の東的見解)


宮台:ルール下でのパワーポリティクス(マッチョな勝ち狙い、cf「日本の難点」)

東:公共性、中立性へのラディカルな回帰(Google的なデータベース cf.mixi的なエゴの集まり)


宮台さんはそういった環境、政治的中立性が確保されていない公共圏な環境においても「それならそのルールの下でとりあえず“われわれ”のエゴを通すために勝てる戦略を見つけようぜ!」って感じらしい。近刊にはその辺がまとまってる、と。「ブルセラ社会学者」のレッテルを脱しているとか何とか(ちなみに宮台が「ブルセラ社会学者」にならざるをえなかったのは当時「批評空間」がそっち系の言説を扱わなかったので宮台がすくい上げたとか)

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4 一読の価値あり。
1 サバティカルだって(笑)
5 純粋まっすぐミヤダイ君
4 ざっくり分かるところがいい
5 いつも兄貴はとても頼りになるのである


 
たいして東さんのほうはやはり公共的ギロンにおける中立性にこだわるところがあり、「それが達せられてなければ参加しても無意味」、って感じらしい。そんで、「そういった中立性は技術的に実現可能だ」、と。簡単に言うとネットを介した直接民主主義(意見集約)でありそれはGoogle的な多数決によってでき得る、ということみたい。もちろん意見集約といっても「国民→国」みたいな一元的なそれではなく「州」とか「県」とか「市町村」みたいないくつかの階層に分かれてそれぞれの中で集約していくことから、ってことみたいだけど。

この辺の話は前に堀江さんがLivedoor Newsについて、「メディアの公共性っていってもなんだかわかんないでしょ?アクセス集めるものがおもしろくて関心がある=公共性がある、でいいじゃない」、って言っていたのを思い出した。


「なるほろ」、と納得しはしたものの個人的にはそれでも東がコミットしないための言い訳のようにも聞こえたわけだどl、その辺の印象は外伝のほうで改まったりした(後述)。



・「御託はいいので結果を出せ」

それでも東的には「批評家としての社会的責任」とか「社会学者として〜」「公共空間における言説の〜」とかいろいろ投げかけられ本人もそれを気にしてるみたいだけど、「そういった言葉を発する連中が実際のところどういう行動を示しているのか?」、というのが実感ぽい。

当人としては自分の好きな空間を守るためにゼロアカ道場みたいな編集も書き手も含めた若手育成とかしてる。それは内容的にはびみょーなところもあるかもしれないが少なくともその後それ系のモノを読んだり考えたりしたい人の場を守り残して行くということでは意味があることではないか。それがライターとしての自分の限界であるし精一杯できることである、と。

この辺りの職業人としての線引きは共感できるなぁと思った。ぐちゃぐちゃ考えて難癖つけても難癖つけたいだけって連中もいるわけだし、けっきょく自分の身の回りとか自分に関わりのあることを行動によって自分が「良い」と思える方向に変えていけてないと意味ないな、とは思うので。そして、そういった行動が拡がっていくことは十分に(あるいは原義的に)政治的だなぁ、とか。


そんでそれ系ではてサ(あるいは「はてな」とだけ?」)な名前もあがったわけだけど、そういえば最近それ界隈で梅田さんとかなんか言ってたなぁ、ということで記念リンク


梅田氏と「アテネの学堂」 - Tech Mom from Silicon Valley


内容としては特に新しいこともなく表面的には理解できるし分かるところもある。たしかに公共的な場である程度ルールに則って意見交換されてないと不毛だとは思うので。その辺はアレントもふまえたハーバーマスな話で出てたし。

なのでこの辺の話は特に新しいことでもなく古くて新しいというか、ネットが始まって以来期待されていたことがまだくすぶっているんだなぁ、程度なことなように思う。わりと近いところではisedで総括されつつ「今後の課題」ともされてたし


ised@glocom : 情報社会の倫理と設計についての学際的研究

「行動がなされてない」、と。

そんでおーざっぱに分けると、ネットにおけるこの辺りの話は「当事者間でルールを作ってそれに則って意見交換する」か「アーキテクチャ的に悪貨を規制する」的な話になる。

個人的には前者が好ましいわけだけど「それもなされないようだしやっぱアーキテクチャ的にできるんだったらアーキテクチャ的にやってみようかね」ってのがこの辺の話の流れだったようにも。

そんでまぁ(Glocomでいさかい起こしてisedによばれなかった)池田センセのエントリに通じるわけだけど


梅田望夫氏の開き直り - 池田信夫 blog

はてなブックマークの「書き捨て」に適したアーキテクチャが、結果的にはこういう卑怯者が reputationのコストを負わないで他人を罵倒するのに最適のツールになっている。こういう状態を改善することは、技術的には可能だ。せめて DiggやSlashdotのように、発言を互いに(正にも負にも)評価して低ランクのコメントを隠すようにできないのか、と近藤淳也氏や伊藤直也氏にも言った


ってのがひとつの落としどころではあったなぁ、と。(実名匿名論は相変わらずわけわかんないけど


ただ、「アーキテクチャ的に規制する」というのはオーウェル的な管理も危険性も孕む、ってのがこの辺りでの不安点で。んでも、われわれはもうそういったものにどっぷり浸かっていてそういった中で特に支障なく生きているし、新しい楽しみや創造性を発揮したりしているってのもある。


muse-A-muse 2nd: スマート化する社会(可能性と課題について)



とりあえずこの辺りのギロンの現在を確かめる意味でもこの辺見とこうかな


思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ (NHKブックス別巻)

日本放送出版協会
売り上げランキング: 312



あと、6号が「政治」らしいのでそれも。




--
関連:
muse-A-muse 2nd: システムにおける多様性の必要性 (あるいは不完全なシステムの意義)

※池田センセがはてなに「アーキテクチャ変えろ」っていってその辺をはても検討してた辺りの話



muse-A-muse 2nd: 公開性と限定公開性の間ぐらいの話


※ネットの公共性は「みんなの意見は案外正しい」で決められるのか?、について。「いくつかの階層に分かれてその中で限定されたオープンネス(討議性)を追求していくしかないのかなぁ」、とか言ってるな自分。




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追記:
ネットにおけるパワーポリティクスというのはたいして内容なくてもCEOだかセンセーショナリズムだかなんだかで関心集めちゃったもの勝ち的なアレかなぁ、と。まぁそれはそれでありかなって気もする。とりあえず関心集めた後で内容を膨らませてイクってのもあるだろうし。

ところでそういうのをパワーポリティクスとすると東さんがやってるのも「とりあえず関心あつめる」ってことで似てるのかなぁとか思ってその辺でラディカルな公共性の話はうそっぽい気がするんだけど。「パワーポリティクス」のとらえかたが違うのかもだからよくわからん


パワーポリティクスとは - はてなキーワード

1. 強制力としての権力の行使や追求によって特徴づけられる政治的活動。
2. 軍事的もしくは経済的な力の使用もしくは脅迫的使用に基づく国家間の外交。



国際政治学的にはリアリスト的なアレってことみたいですな。ソフトパワーに対するリアリズム的な
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2008年08月02日

リアリティ・トランジット (サバイブ時代のリアリティって?)

 子供の頃、太陽は、今よりカッと黄色くデカかった。家の前には、親父の作った朽ちたバギー。家のまわりは、林を造成した荒地が延々と広がり、巨大な木の根っこが、ゴロッと転がる。足元には、無数の蟻が慌しく走り回る。 陽炎。 焼けてヒビ割れたアスファルトの匂い。虫やカエルやヘビ達が、そこかしこにこびりつき、身を焦がす。 日曜の炎天下、大人達の監視も法も無く、ただ、太陽と無秩序と死があった。 僕は、そこが好きだった。

(木城ゆきと、「銃夢 6巻」)






「不可能性の時代」を読んでて


不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))
大沢 真幸
岩波書店
売り上げランキング: 3001
おすすめ度の平均: 3.5
5 偶有性の隠蔽としての第三者の審級
3 頬張りすぎた肉片?
5 まさしく天才だ。
3 細部にこだわらず
4 「不可能性の時代」の表徴都市はアキバ



それ関連でログとりエントリってか、思ったことをつらつらとつぶやいたのをもうちょっと明確にして反省しとこうかなぁ、と


むーたん - 不可能性の時代 あるいはネタベタ時代のサバイブ論(仮)



klovのエントリにもあるんだけど


我々は何を隠してきたのか、あるいは「不可能性」の変遷 - No Hedge!


「不可能性の時代」という本はかつて見田宗介が示した時代区分に沿って戦後日本を「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」と分けたもの。「現実はその反現実により構成される」ということで「現実」の対義語になりそうな言葉(「理想」「夢」「虚構」)を挙げ、それぞれを戦後の代表的な時代変化に対応させている。

ほんとは「理想の時代(1945-60) - 夢の時代(1960-75) - 虚構の時代(1975-90)」って区分だったけど大澤的に「夢と虚構って虚構一本でいいじゃん」ってことでまとめられてる。

それぞれの時代の特徴をすげーおーざっぱにいうと、「理想の時代」というのは敗戦直後、超越論的進級が「天皇」から「ブツヨク(その果てとしてのアメリカ型生活)」へとシフトしていった時代。「虚構の時代」というのはモノ的なものが定着してその上に物語(フィクション)的テンプレートが張られていった時代。まぁバブル期までの日本的ケーザイ成長とリアリティの変化って感じ。「不可能性の時代」というのはブツヨクも虚構も極まっちゃったんだけど極まって複雑化したがゆえに満たされない実存が行き場を失ってパンクする(不可能性にブチ当たる)っていう時代。


東浩紀や木原善彦が、大澤の(元は見田宗介の)命名法を援用して「理想の時代」「虚構の時代」に続く現代を「動物の時代」「現実の時代」と名づけていた。だがそもそもこの見田―大澤の「〜の時代」という命名法は「現実」の対義語としてどのような言葉が参照されているか、という考察に基づいているものであり、その考察を省略した命名法はオリジナルの意図には反するものである。(東については大澤との対談で直接指摘されていたようだ。)

大澤は、隠された「現実」を捜し求める「現実への逃避」と、ジジェクのいう「カフェイン抜きのコーヒー」のような徹底した形式への没入という「極端な虚構化」に現代社会が引き裂かれている、と指摘する。

生々しく、時に暴力的な「現実」への欲望と、コーティングされ、美しく安全な「虚構」への耽溺。これら二つの相反するベクトルが同居する現代社会は、つまるところそのどちらの視座にも捉えられない、<現実>を隠蔽しているのではないか、と彼は述べる。現実にも虚構にも捉えられぬ<現実>は、その名のとおり名状しがたい「不可能なもの」である。大澤はここから「虚構の時代」に続く現代を「不可能性の時代」と名づける。



「不可能性の時代」ではふだんは虚構で覆われている心地よい虚構があるときむき出しの現実となって襲い掛かってくるそのときのギャップっていうか、むき出しならまだいいんだけどなんか複雑に意味が絡まっているがゆえに対抗できなくなって立ちすくむというような状況が生まれる。

まだ読んでる途中なので具体的な例が出てたかわかんないんだけど、このギャップってのは映画「マトリックス」における現実の裂け目(「あ、デジャヴュだ」)的なものを彷彿とさせたり、あるいはこの辺とか


極東ブログ: 過去のメディアが今のメディアと競合する時代


 小林信彦がテレビの戦争ドラマのリアリティがおかしくなっているということを以前時折触れていたが、もう触れるのもイヤになってしまったみたいだが、映像や物語で語られる戦争のリアリティの質感がどっかで根本的に違ってしまって、ちょっと偽悪的にいうと、そこで提出されるイデオロギーのリアルな希求がリアリティに置き換わってしまった。たとえば、戦争の悲惨を理解することがリアルな映像なのだというか。でも、本当の映像というのは、たえず各種のイデオロギーというかそういう理解を裏切る雑音的な要素があるものだった。リアルなものというのは物語を否定しちゃう矛盾を持っているもので、ある微妙な「おかしみ」というのか変な日本語だけど、いや別にナショナリストでも戦争賛美でも否定でもないけど、春風宇亭柳昇のラッパの話は面白いなあみたいな部分があるものだった。


 しいていうと、古い建物のすえた臭いのなかに、本当の歴史の感覚がすると感じることはある。自分が生体として生きて来た時間の、もっとも原初的なリアリティのなかでしか戻らないものなんだろうか。



こういうのは「Always 三丁目の夕日」で描かれていた超現実(虚構としての過去)への違和感と似てる。「あのころの現実ってのはもっとサツバツとしてたよね」的な(あるいは「匂いがあったよね」って感じの



そんでそれぞれの時代というかその限界を代表するようにショッキングな事件が起こっているわけで具体的には永山則夫事件、宮崎勤事件、サカキバラ事件なんかが挙げられていた。それぞれ「理想(ブツヨク)」「虚構」「不可能性」の時代に対応する。

永山則夫の事件はブツヨクとそれに対する窮乏(モノ的窮乏)から生じたってのは分かる。宮崎勤ら辺りもおーざっぱにいえば家庭環境+虚構のねじれみたいな感じ。サカキバラ事件でちょっと立ち止まる。「なにひとつ不自由ないはずだったのになぜこんな事件起こしたの?」、と。これに対して前述した「不可能性」という言葉が響いてくる。

(まだ読んでる途中なのでおーざっぱにいうと)ブツヨク(リアル)にも虚構(フィクション)にも完全な形で構築された現実の中で「他者性」が失われていく感覚、失われた「他者性」を取り戻すために構築された現実を過剰な力によって引き裂こうとする衝動。 (cf.「蓋然性を突破するんだ!」 W.ギブスン

サカキバラ事件というのはそういったものとして扱われている。


この辺の「ぬるい現実による檻」、「飽食の時代のサバイブ」って話では「平坦な戦場で生き残ること」っていう例のアレを思い出す


リバーズ・エッジ (Wonderland comics)
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5 買いです。
5 平坦な戦場―その場所、その敵と何か?
5 乾いた世界
5 I really hope your come-back!
5 90年代のリアリティ



ここで引用されている「平坦な戦場で生き残ること」って言葉もW.ギブスンなわけだけど、ではそういった流れ、「ブツヨク的憧憬」→「虚構への(自覚的)耽溺」→「その2つを否定することで薄い蓋然性を取り払おうとする欲求」という流れがあるとしてアキバ事件というのはどのように位置づけられるのか。

某所では「永山則夫事件を髣髴とさせる」とか「格差社会の象徴だ」的な言われ方がしたわけだけどそれだけでもないように思う。アキバという場も絡んでたわけだし。

ここであの事件の内実について上記のフレームから触れていくことは本意ではないので控えるけど、ブツヨク的な問題と虚構的な問題の狭間って感じがする。てか、承認うんぬん的に他者を意識して視野狭窄してたようなのでサカキバラ事件からの流れとも違うような。(サカキバラ事件は周りに「他者」を感じられなかったために過剰な暴力性によって現実に風穴を開けようとした事件としてとらえられる)

そういう意味ではアキバ事件というのは先祖返り的な感じがしてるんだけどこれを単なる時代逆行としてとらえて良いのか、という感じもする。ここで「時代逆行」という言葉を使うのは語弊があるしなんか嫌な気持ちなのでもうちょっと慎重にしたいんだけど、反現実的なもののティッピングポイントとして各事件をとらえたときアキバ事件を動機を構成する要素というのはちょっとの虚構とブツヨク(その元としての他者を意識した欲望)ってことで「不可能性の時代」の事件としては先祖返り的な感じ。だってそれはまだ「不可能」な膜で覆われてなくて目の前にある現実だもの。リアルに触れてhackできる現実ってことで「不可能」って感じはしない。

「折り返し地点を過ぎてちょっと戻った地点が同じに見える」って話なのかなぁ。。




          ← 「虚構」

「折り返し」


          「現実+虚構2.0」→



で進んでる方向は違うんだけど傍から見ると同じに見えるというような。あるいは(こういう言い方もなんなんだけど)かつてなら事件をおこさなかったような凡庸な人間にも事件を起こすだけの契機ができてしまったようなそういう時代に突入してしまったのか。データベースは完成されていてそこからやり方を踏襲すればいいわけだし。(「無反省な形式の踏襲」

そこまで深刻な感じもしないんだけど、あの事件をいままでの時代の流れ(事件の系譜)にのっけて考えるとそんなことを思ってしまう。

つか、それ以前に不景気って要素も大きいのだろうけど



ベタがネタになってネタがメタになりそれらの総体がベタになっていく過程…

すなわち現実の対照としての反現実のモードがモノ的な理想から虚構へ、虚構から虚構の虚構へと相対化 → 形式化していきそういったことがベタ(基層的なリアリティ)

それをベクトルが変わっただけの反転ととるか、それとも折り返し地点を行き過ぎたところで生じた新たなモードとして捉えるか…。




「反省なき無反省」「表層化した形式の踏襲」ということではこの辺を絡めつつたけしのフライデー襲撃についてうにうにしたく思ったけど


muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム


なんか長くなって疲れたのでそれは次のエントリで
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2008年07月26日

「在日」を問題とすることについて

この辺見てたら積読にしてた「コリアン世界の旅」見たくなったのでちょっと読んでみた。


パチンコで現金を得るのは違法賭博だと思うのですが、検察が摘発しないのはなぜですか? 警察が摘発しないのは、利権関係だと分かるのですが.. - 人力検索はてな


パチンコと在日、警察、ヤクザ【『コリアン 世界の旅』  野村進 著】 匿名取締役


おそまつな選択肢(在日か、日本人か)。 - hituziのブログじゃがー


コリアン世界の旅
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野村 進
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おすすめ度の平均: 4.5
2 「差別」と「区別」
4 とっかかりとして
3 手垢のついたテーマを新鮮に
5 著者の成熟した視点を感じさせる
5 在日


(※文庫もある)


それぞれ簡単な要約とか感想とか


パチンコの話は「在日の食い扶持であり北朝鮮への主要な送金源だから圧力とか賄賂とかしてるんじゃねえの?」って思ってたら事情はもうちょっと複雑だった。「コリアン世界の旅」からの抜粋・要約にもあるように在日の人たち自身もこの仕事を好きでやっているわけではないらしい。それは戦後間もない頃にパチンコに染み付いた悪いイメージによるものでもあるし、現在のイメージそして警察との関係がある、と。

最初のリンク先の質問でもあったようにパチンコというのは明らかに射幸性の高いギャンブルなわけだけどそれをギャンブルとして扱っていないのは警察とパチンコ業界との関係があるみたい。癒着とか天下り先とか。

なので「在日の人たちが摘発をしないように率先して検察、警察に働きかけている」というよりは「警察のほうが癒着を薦めるような構造を作った」といったほうがいいみたい。

その上でhituzinosanpo(あべやすし)さんのエントリだけど(※コメント欄も)


おそまつな選択肢(在日か、日本人か)。 - hituziのブログじゃがー


率直に言うと最初にこのエントリを見たときには気にしすぎなんじゃないのかなぁ、と思った。「GO」「セキ★ララ」見てても在日3世というのはそれほど自分の出自を気にしていないんじゃないか、って。

「出自を気にしていない」という言い方もちょっと違うか。「そんなの関係ねーよ」「国境なんかオレが消してやる!」的に言える積極性というか、1世、2世の頃とは違ったポジティブさがあるのかなぁみたいな感じ。こういうのは被爆3世的なものにも通じそう。1世や2世的な時代には社会からの偏見や差別が辛かったのでひとつひとつの問題を掘り起こしてつぶしていく必要があったけどいまはそんなに問題もないので却ってそういうことをいうことによって奇異な目が集まるのってどうなんだろうというか…なんか複雑な感じがする。

てか、hituszinoさんとこのエントリはそういうのとは違って「在日」という言葉に含まれる権力性、見えざる権力性を問題にしたものなのだろう。たしかに「なぜ韓国系日本人ではなく在日と呼ぶの?」っていうのはある。それ関連の話は「コリアン世界の旅」にも出てた。日本と韓国が戦争するようなことになったとしたら「自分は韓国人や日本人に銃を向けられるか」ということについて、にしきのあきらさんがインタビューに応じた箇所


「戦争中、日系アメリカ人はほとんどヨーロッパ戦線に送られて、日本の同盟国と戦った。俺も同じように志願するだろう。韓国人に銃を向けないですむ、ほかの戦線で戦わせてくれ、と」
 この話をきいたとき、私はそれまで脳裏でうまく整理することができずにいたにしきのの考え方を、ひとつのアナロジーに収斂させることができるのではないかと思った。つまり、彼のものの見方は日系人的なのである。それは、現在の国際社会の中でより一般的な価値観ではあるけれど、日本への貴下者のあいだでは少数派の意見となる。日本では、韓国・朝鮮から帰化した人の多くが、同胞からは裏切り者視され、日本人からも異分子扱いを受けるなかで、帰化した事実に対しても日本という国家に対しても屈折した感情を内向させてきた。そうならざるをえなかったのである。
 こうした流れの中ににしきのを置いてみると、私はある感慨を禁じえない。やはり時代は変わりつつあるのではないか。誤解を恐れずに言えば、にしきのはそのような時代の「新しいタイプの韓国系日本人」と言えるのではないか。



帰化の問題については在日1世や2世は複雑な感情を抱えてきたらしい。自分達を差別し不当な扱いをしてきた人々の国に帰化するということ、自らすりよって「同化」するということは屈辱以外のなにものでもなかった、と。しかしにしきののような世代の人々にはそれがないのかもしれない。それがないがゆえに危うい面もあるのかもしれないけど。たとえば自分たちの歴史を忘れていく問題のようなもの。歴史を忘れ自分の民族性ばかりか親やそふぼの民族性をも否定していくかもしれない危険。

そういう危険もあるのだろうけど差別と戦うために特化したがゆえに硬直化した思想とか不用な争いやコンプレックスを抱えるのもどうかと思う。


そういった中でこの辺りを見つつやはり時代は変わりつつあるのかなぁ、とか


J-CASTニュース : 中村ゆり、南果歩「カミングアウト」 「在日」隠す芸能界に異変


南果歩さんのコメントが印象深い。

「事務所の考え方はそれぞれで、業界に特別何かがあったというわけではないですが、そんな時代になってきた、ということではないかと思います」 

「何か状況が変わったか、というと、本当に何も変わっていないんですよ」

 

ただ、それは芸能界という特殊な環境だからいえることなのかもしれない。「コリアン世界の旅」にもあったようにそれまではふつーに暮らしてきたのに就職や結婚などに際して民族差別にさらされる恐れがあるらしい。具体的に言えば在日は地方公務員になれなかったり、民間の大企業に就職することさえ難しいということ。

「そんな時代になってきた」とは言ってもこの辺の状況は変わってなかったりするのだろうか。



であるならば、やはりコツコツと声を上げていくことは意義あることなのだろう。それ自体が目的化して祭りのようになってしまうのはどうかと思うけど




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関連:
muse-A-muse 2nd: 8・6祭りへ行ってきたよ

運動としての「ヒロシマ」へのびみょーな違和感について。こういうのは在日三世と呼ばれる人々にも共通するのかもしれない。しかし「そんなたいした問題でもないんだからカリカリすんなや」的なことを部外者が言う暴力性というのは自分的にも心得ているつもりで…


muse-A-muse 2nd: <ヒロシマ>ということ


そういう意味では自分の保守的変化のようなもの、あるいは他人事感みたいなものがあるのかなと反省してたりする



タグ:差別
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2008年07月18日

ルサンチマンって新中流層辺りから出てるのかねぇ

しばらくblog書いてないので最近の近況もかねてざらっとした雑感のようなものを。元はたんぶらにまとめたついったーのつぶやき


むーたん - ベストセラーの構造 - 中間層の増加の関連性についてのメモ


いま中島梓の「ベストセラーの構造」と稲葉振一郎の「公共性」論を読んでて


ベストセラーの構造 (ちくま文庫)
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5 マーケティングの良書
4 文学が消費される構造を描き出す好著
5 優れた分析




「公共性」論
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稲葉 振一郎
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そこで展開されている問題意識というか、対象が似てるなぁ、と。


「公共性」論のほうはロールズやらノージック、アレント、アガンベン辺りの公共性関連の話が簡易にまとめられてるということで重宝しそうだなと思って読み始めたんだけどけっこうめんどくさい文体でなかなか読み進まず最近の糞詰まり的フラストレーションの原因になってたように思うんだけどそんなこといってても仕方ないのでちょこちょこ読み進めるようにしてる。…かたつむりの歩み

んで、まだ途中なんだけどそこで出てきた「他律的リベラリズム」という概念が最近の関心にフィットしてるな、と。東浩紀が「動物化」として指摘してる層とほぼ同じということなんだけど。曰く、「他律的リベラリズム(ひ弱なリベラリズム)は自らを支えるリベラルな法と秩序を構築、維持して自己統治することはできず、統治を他者にゆだねる」、と。社会的枠組みを超えることには興味を示さない。たとえばsocial hackのようなことには関心をもたない。たとえば、簡単・便利なシステムの中でちょっとでも快適にすごすこと、そのシステムを利用したお得tipsには関心をもつがその枠組みの原理・変更可能性については考えようとしない。

ここで出てくる簡単・便利システムというのが環境管理型権力ってやつでありweb2.0もその対象とされている、と。コンビニなんかもその代表例でしょうね。


この辺はびみょーで、「そんなこといってもみんな働いてて忙しいし、専業でぼけーっと考えていられる人たちとは違うのだよ。だいたい簡単・便利・安全を追求してなにが悪いんですか?」ってのはある。これについては稲葉も指摘していていまのところは「まぁ悪くはないよねぇ(良いともいえないけど)」って感じだった。



んで「ベストセラーの構造」のほうなんだけど、これははてなのホッテントリへの違和感(ポピュリズム的なアレ)とか出版に偏りの問題なんかが頭に残ってたのでちょっと読んでみた。出版の問題ってのは例の「文芸書が売れない」ってやつ


2008-06-29 いま文芸書とは〜「一般文芸」の謎 - 【海難記】 Wrecked on the Sea


端的に言うとビジネス書とか自己啓蒙書、安易なtips系書籍ばかりが売れるのを受けて書店にもランキング上位の本しか並ばなくなってきているって問題。この辺の「(まともな)本が売れない」あるいは「活字離れ」」系の話は「ベストセラーの構造」のころからあった。そんで、「売れていないのは純文学とかそういった類の"まとも”とされる本、難しい本であって難しくない本は売れている(活字は読まれている)」、と指摘されていた。難しくない本の典型例が五木寛之であり野坂昭如である、と。彼らの小説(中間小説)や生き方は「知的になる」ためではなく「知的にふるまう」ためのサンプルとして提出された。

そういった層は話題に追いつくために本を買うのであり中身は読んでいない。中身は読まずに形式だけ消費し、著作者の話も本の内容ではなく著作者自身のキャラクター的なものを消費するのを好しとする。「この人たちも自分達と違わないんだ」という安心感を得るために。関連としてはこの辺か


もう専業ライターという職業は成り立たなくなる、もしくは「石田衣良化」について - 【B面】犬にかぶらせろ!



そんで、そういったものを求める心性が増えた原因として中島は「中流層の増加」を上げている。上流にも下流にも行きたくない中流層…。その社会的コミットメントの薄さは稲葉が「他律的リベラリズム」として、東が「動物化」として指摘している層と重なる。


そう考えると教養の消失とか活字離れといった話題も円環的にマッチポンプしてるだけなのかとも思うんだけど、昔と現在との違いは書店にむずかしげな本のスペースがなくなってきていることなのかな。あと、中流的なもののよすがとしてニセ科学的なデータに依拠するようになっているということ。苦情の文化のための論拠として


2008-06-29:「苦情の文化」に対する、割り切れない違和感- 日記&ノート(転叫院)


この辺りの学級会的正義意識というのは最近けっこう気になるとこではある。タコの足食いみたいなものかと思うのだけど、全共闘的粛清なんかも想起されたり…。そういった意味では全体主義の足音が聞こえてくる感じもするけどこの辺もまたびみょーなんだろうな(稲葉が指摘しているように「よき全体主義」なる可能性もあるのだろうし…)




てか、学級会的正義意識つながりでいうと最近のreponへの攻撃なんか思い出される。攻撃っていうか違和感程度なのかもしれないけど


サバイブSNSが駄目だと思うたった一つの理由 - 煩悩是道場


別所でも書いたがサバイブSNSなんてのはもともとゆるい繋がりによって現状をちょっとでも良くしていこうみたいなの模索してつくったもので「マッチョ vs. ウィンプ」って設定で「ブルジョア打倒!」なものでもないのになぜマッチョの話を聞いてはいけないことになるのだろうか?あと原理的にすべての貧困を解決できるわけもなく、それだったら最初からアフリカ辺りにでも関心もってるように思うんだけど…。

こういうのも学級会的正義意識であり「よき全体主義」なのかなぁとかぼけーっと思う


「ウィンプの癖にマッチョと仲良し」といえば赤木智弘さんだけどこの人の問題意識、敵認定を見ていると問題の層が明らかになるというか、ズレのようなものが明らかになるように思う。旧来の「ブルジョア vs, プロレタリア」的図式では「マッチョ vs. ウィンプ」って感じだったけどいまの日本だとブルジョアは固定でウィンプの敵というのはプチブル的な中流層ということなので。(※ここ10年かそのぐらいで1000万以上の所得層は固定なのに対して4〜500万以下の所得層に変化があるらしい。ミドルの地盤沈下的に500万層が300万層になってきている)


「中流」という幻想。 - キングフラダンスの思考の軌跡。


朝日社説 来年度予算―歳出削減を緩めるな - finalventの日記




この層、不安定なストレスに揺れるこの層が攻撃的になっているのか?それだったらちょっとでも稼ぐ努力しろよ(あるいは金使わないで満足得る方法とか模索しろよ)とか思うわけだけど中島梓も指摘しているように


『中流階級は自己を排斥し、批判し、客観視し、止揚してゆくことを望まない。なぜならかれらの望んでいることはその正反対のこと、自己に満足し、ちょっとしたものだと考え、甘やかなゆるしと導きのなかで互いを容認しあうことにほかならないからだ。』


ということなのでみょーな他人攻撃をしたり、そのための簡易なtips的知識を消費して満足するのが関の山ということなのかもしれない



…つか、↑の嫌味な書き方で気持ち悪いな。。そうはいってもつつましくひけらかしや他人攻撃なんかをせずに日々の生活を送っている人たちもいると思うし、そういう人たちの生活は卑下されるものでもないと思うんだけど、その辺りは自分的に未消化





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関連:
「不安型ナショナリズム」の疑問点 - No Hedge!

※「昨今の若者の右傾化の背景は前期近代的な高度成長型ナショナリズムとは違い経済不安などが引き起こしているもの」、と。不安型ナショナリズムとはなにか?どうしてバックラッシュするのか?については荒いらしい


muse-A-muse 2nd: アメリカは格差社会じゃないの? (日米研究・教育・医療問題)

※ミドルの地盤沈下について。アメリカの例


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2008年04月04日

Life「自分探し」外伝から:雇用の流動性の必要性とそれをめぐる環境について

 だいぶ遅れたけど文化系トークラジオlifeの「自分探し」の回の外伝2が労働環境のボトルネック問題と繋がっておもろかったのでメモ。

文化系トークラジオ Life: 2008/03/09 「自分探し」 アーカイブ


アウトラインとしてはこちらにもまとめてあるんだけど


「自分探し」 - 雑種路線でいこう


 「自分探しに失敗人たちへのセイフティネット作りを考える必要があるんじゃないか?あるいは自分探しを早いうちにあきらめられるように説いてくれるような場の設定」とか「もともと不満が生じやすいような労働環境があったから自分探しに向かうようになったのではないか?」って感じだったように思う。全体的には、「自分探しというものが日本社会のある世代にとっての構造的問題であり道楽とかそういうのじゃないんだよ」、って話。この辺は速水さんの本のラインに沿って進んでいた。


muse-A-muse 2nd: 速水健朗、2008、「自分探しが止まらない」


 で、外伝ではそういった事態が生じる構造的な理由についてもそっと詳しく話されてた。一言で言うと「労働市場に流動性がない」ってことになる。前提として、キャリアアップに繋がるキャリアラダーが見えないので不満がたまってきて転職、離職(あるいはそこから自分探し)したりするみたいなんだけど、その際身につけたスキルに応じて新しい場に行けるような環境が整ってない、と。アメリカなんかだとユニオンがあって雇用者同士の横のネットワークがあり、そういうのを元として新しい職場に出会える機会が生まれるけどそういうのもないし…

 個人的にはcraigslistみたいな感じでサクサクっと適材適所出来ちゃえばいいと思うんだけど日本にはそういうのがない。「オンラインで買い物するような感じで雇用者と被雇用者がつながっていくといいねー」みたいなことはことりこもゆっとったな。


 んで「雇用環境の流動性がないねぇ」って話繋がりで日本的な流動性のなさの具体例として新卒一括採用が挙げられていた。「これがあるので中途採用に障壁ができるのだろう」、と。日本社会における新卒神話、「スキルよりも新卒を!」みたいなのって非合理的でたしかに問題なように思うんだけど外伝2のおもしろさはここから始まる。「そういった採用障壁がなぜ生じているのか?」ということについての構造的な概説みたいなの。(※確定的事実ではなく「〜ではないだろうか?」って保留はあるだろうけど)

 柳瀬さん的には「役所の問題だ」って一刀両断してはった。「雇用の参入障壁の代表例みたいなのが役所。生産性関係ない非合理的な仕事で人材を飼い殺しにしてるのも役所だし……んで、くだらない仕事ばっかさせられるから不正するようになる」、と。

 「頭脳を青田買いして飼い殺す(ほかに渡さないようにして仮想的の戦力をそぎ、相対的優位を保つ)」って考え方は大企業の採用基準にも合ったな。まぁ、余裕があるところがやるようなことなんだろうけどそれによって人材のボトルネックが生じているってのはあると思う。そういうのは結果的に社会全体の生産性をそぐことになってるのだけど自分の会社さえよければいいってエゴがあるわけだから仕方ないないのだろう。囚人のジレンマっていうか…。つか、大部分の会社は慣例にしたがって新卒-学歴(あるいはSPI優等生)採用してるだけなのだろうけど

 こんな感じで日本ではつぶしあい戦略だか慣習だかに従って雇用における非合理的判断がされている(ことがままある)ようなんだけどアメリカの場合はどうか?GoogleみたいなITベンチャーにその国のもっとも優れた頭脳が集まり成果をあげ生産性を高めていく環境があるのは雇用の流動性に関するインフラが違うのではないか?

 この辺の問題意識は梅田さんにも共通するみたい。具体的に言うとIT起業に出資するエンジェルの存在とかベンチャー立ち上げるときの手続き的な問題。日本の場合特に後者が煩雑らしくてITを始め学術系でも辟易してる人がけっこういるみたい。


京大の山中伸弥教授かっこよす - おこじょの日記

2007-11-21科学・技術は日本の生命線…のはずだけど - 赤の女王とお茶を


 
 梅田さんもその辺に辟易して言論活動を行なってる(のではないか)とか


 IT業界の問題についてもそっと言うと日本も含めた東アジアの場合、IT業界の人材って言うのは不景気→就職氷河期に行くところがなくてIT業界に流れた人材が中心となってるみたいなんだけどそういう人たちが中心なので劣悪な雇用環境というのがデフォってことになってしまったみたい。こういうのは日本のアニメ制作現場の労働環境にも通じる。

 ただ、日本と東アジア、具体的には韓国などのIT企業との違いは後者の場合は「劣悪な環境からはじめても世界に通じるネットゲーを作れる」みたいな夢が見られることだけど日本の場合にはそういった人材が影響力をもてない、というところにあるらしい。この辺はitkzもなんかゆっとったな

amachang(天野)のような人間から殺される - ぼく最速戦記君劇場@自宅の日記 Not Found - 技術日記



 で、どうするか?


 「やっぱ競争じゃん?(適正な競争をさせて国際競争力高めていくしかないじゃん?)」って話になるわけだけど、この辺でまた既得権益な話が絡んでくる。リソースが潤沢にあって競争するべき時期に競争をサボった人々(具体的にはインフラ屋 ex.NTT)がボトルネックなんじゃね?ってことに


 これに対しては鈴木さんが、「たしかに競争サボったのはアレげだったけど競争環境が整ってないうちに競争しても潰れてただけだっただろうからある程度バッファの期間ってのは必要だった。でも、日本の場合はそのバッファの期間をなにもせずに食いつぶしちゃったわけだけど」、ってゆってはった。

 具体的になにをすればよかったか?

 「競争に立ち向かえるだけの人材を育てるために教育環境を整えればよかったってことなんだけどそういったグランドデザイン(全体最適)のようなものもなく、たとえば産業分野なら産業分野だけの最適化に走ったがために失敗してしまったのだろう」、と


 教育のボトルネックについては以前にエントリしたように「各学校に編成の自由が与えられていない」(文科省が関与しすぎ)ってことでここでも行政がボトルネックって話で繋がってくる。宮台さんが(若い官僚が活きるように)行政から変える必要がある、みたいなこといってるのもこの辺りの話なのだろう。



 いちお「自分探し - 雇用のセイフティネット」の問題に戻ると、こんな感じで競争環境整ってないうちに社会に放り出された層が労働環境に不満を持ったからって「自己責任」とか言われてもなぁ、ってのはあるだろう。もっとも環境やら他人のせいにして依存するって問題もあるので「どこからが自己責任か」みたいなことも気にしたほうが良いのだろうけど。



 今回は番組内容のメモって感じだけどこれ系の話で個人的な課題としては「雇用の流動性」とか「ユニオンの可能性」、ちょっと拡げてボトルネック独占とエゴの関係から公共性うんぬんのギロンの再確認とかかな。ちょうどこんな本も出たみたいだし


「公共性」論
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↑の感想みたいなの

ツイッターダイジェスト - 公共性論・経済学


 あと、この話で梅田さんの本に興味持ったので見てみようかな


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2008年03月09日

現代社会で働くということにおける問題と対策について (もうやめて!reponのlifeはもうゼロよ! ><)

  life本で「働くということ」読み返してたら思いのほかくだんの件にピンポイントだった。一回聞いたはずなのに忘れてるんだな。。やっぱ一回書き出さないと記憶に残らないのかもしれない。自分用にまとめとこう

 これ関連で

2008-03-06 自己責任と主体の形成、教育、教えること - reponの日記


 別所でダラダラ書いたわけだけど

 今回の内容にあわせて要約すれば、「(好むと好まざるとに関わらず)誰もが戦場にいるわけで、そういった意味では勝ち負けなんかなくてそんな両者が争うのはおかしいよね」「弾さんは将軍っていうか軍曹って感じで戦術レベルでは見れても戦略レベルでは見れないのかなぁ」って感じだったんだけど似たようなことをこちらの方が書いてていろいろ納得


モラルハラスメントの分類と対処法とSHOGUN - wHite_caKe


 つか、オレ的なところからもうちょっと進めて「これが生産的な話になるにはどうしたらいいか?」ってことを考えてはった。具体的には、「今回のケースの場合モラハラであって、その中でもストレス習慣型モラハラだから上司もストレスたまってたんだろうねぇ。だったら職場環境の改善が必要だよね」って話。なんか、まちかさんとこを髣髴とさせるな


セクシュアルハラスメントの動機は性的興味ではない、という話 - *minx* [macska dot org in exile]


 今回の関連だと「(助言における)コミットメントとはなにか」ってこのエントリも考えさせられる


macska dot org ? Blog Archive ? コミットメントを欠く「フェミニズムへの助言」への懐疑


macska dot org ? Blog Archive ? 反売買春系フェミニスト団体を見学して感心したこと


 「同じ立場でなければ何も言えない」とはいわないけど上から目線とか中途半端なおせっかい的な気持ちで「助言」はナシだろうなぁ。そゆのはコミットメントを欠いているのだろう。「助言」ってことで「あなたのことを思って良かれと思っていったのに!」的な言い訳もつけれるしな。(「千と千尋」にも「手伝うなら最後までやれ!」っセリフあったな)


 あと、職場におけるコミュニケーションということだと結城さんのこのエントリを思い出した


不完全な情報から一歩を踏み出す(コミュニケーションのヒント) - 結城浩のYahoo!日記 - Yahoo!ブログ


 問題解決型上司と問題を一緒に悩んじゃうか部下に丸投げしちゃう上司の話。問題解決型上司は情報が不完全な状態からできるだけ情報を集め(フィードバック)て問題の解決に努めようとする。対話してるところがポイントげ。弾さんの場合は自分で片付けちゃうタイプだろうけど



 パワハラとかいじめ関連だと松谷さんのこのエントリも


イジメと島宇宙のパワーゲーム - TRiCK FiSH blog.


 いじめをやっていた当人の心情というのはなかなか語られない。というか、語られる場合でもタテマエ的な話になるか、妙に露悪的な自己肯定的な話(「あいつはKYできてなかったからいじめられたんだよ」)になりがち。たしかにいじめられるほうにも問題がある場合はあるけどほとんどのいじめは構造的な問題だしな。個人レベルでKY的な能力なりなんなりで改善していく必要があることもあるように思うけど、それをもって自らのいじめやそれを看過してきたことの言い訳にするのはどうかと思う。

 それで松谷さんのエントリだけど、要約すると(タイトルどおりなんだけど)「島宇宙的なパワーゲームがいじめを引き起こす」って話。「窮屈さがストレスになる」みたいな話だと「コミュニケーション不全症候群」とか思い出す。
 
 「後から考えてみるとしょーもないローカルルールだったのになんであんな些細なことにこだわってたんだろ?」、みたいな感じでいじめの流れに乗ってしまう、そういういじめの力学があるよね、って話。


 これだけが理由じゃないだろうけどいじめが発生する要因の一つとしてそういうのもあるかなぁ、とか思う



 そんでいよいよ本題っていうか今回のメインなんだけど今回の話はこの辺で話されてたことと似てるように思った


文化系トークラジオ Life: 2007/01/27 「『働く』ということ」 アーカイブ

「『働く』ということ」 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)

「『働く』ということ Part2」 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


 リンク先を要約すると、最初のほうは「働くのがこわくてなかなか職に就けない」って問題について。そこで飛び出す「とりあえず働け」ってのは今回の弾発言にも似てる。たしかに、「でも一歩踏み出してみないと、恐れてばっかで自縄自縛になってちゃ始まらないよ?」ってのも分かるんだけど…ただ、ここでは「そういった決断主義的なものも個人レベルの決断としてはありだと思うけど、構造的に労働環境の問題があるならそちらも考えないといけないよね」ということで留保が入れられている。

 そこから話を進めて「けっきょく仕事はその場での人間関係」ってとこに落ち着くんだけど「人間関係は選べないことが多いからいざとなったら離脱できるように専門性が必要なんですよ」ってのも分かりつつ。。「じゃあ専門性ってなんでしょね?」、と

  「どこからでもお声がかかるようなスペシャルスキル」ってのもあるけど小っさい個人経営ってのもありだし・・(津田さんとか仲俣さんなんかはそんな感じか)

 あるいは「やりがいのある仕事(自己実現のためにやること)」と「生活のためにイヤでもやること」、ライフワークとライスワークの中間項みたいなのが見つかるといいね、ってことだったけど



 そういえば曽根さんの以前のエントリにも似たようなことが書かれてたな


プライド - うたかたの日々@はてな


 以下、今一生「プライドワーク―自分をつくる働き方」より孫引用


「だいたいフリーターやニートの支援運動を先導する文化人の多くは、作家のような

自営業者か、大学の研究者などの安定雇用にいる人なのだから。

−略−

あなたを研究や取材の対象として見ることはあっても、どうやったら自営業者や

安定雇用の立場で食えるようになるのかについては教えない。おかしいと思わないか」




 でも、ふつーの人がいきなり商売とか難しいもんな。リスクを分散できるようにいくつかの選択肢が用意されててそれに習熟できてるといいんだけど‥投資とかもその一つ‥なのかな。

 あるいはネットなどを介してあたらしい仕事の形が出てきている(出てくるかも)って話。この辺はぶくまでちょこちょこ収集するようにしてるけどなかなか出てこないな。


はてなブックマーク - morutan@はて部 / あたらしい仕事の形


 まぁ、継続して見ていこう


 あと、上山和樹さんのメールの内容が今回のことにピッタリ当てはまりそうなのでちと長いが一部引用しとこう

「『働く』ということ Part2」 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


 働く上でもっとも必要とされているのは、精神論とは別の形での「大切なトラブル」だと思います。どんな仕事をしてもトラブルは必ず起こるので、「仕事を選ぶ」というのは、じつはトラブルを選ぶということ。だから、「どんな仕事にやり甲斐があるだろうか」と悩むより、「どんなトラブルだったら耐えられそうだろうか」と悩むほうが、機能的だと思う。よく人間関係が大事といわれますが、人間関係は、それ自体がトラブルの温床です。だとすれば、「なぜこのお付き合いを続けるのか」は、「なぜこの人ともめ続けるのか?」に等しい。そこで多くの人が意味不明の決断主義や精神論を持ち出すのですが、私は、「このトラブルに大切なものが賭けられている、だから言われるまでもなく自分は戦うんだ」という、口にできないような要因が、どうしても必要だと思うのです。




 働くということについての自己責任論関連では仲俣さんのこのエントリも参考になった


2007-01-28 消費としての労働 - 【海難記】 Wrecked on the Sea

人が生きるということは、長期負債とともに生きるということで、そのような長期負債を許さず、即時決済でつねに人は借金を完済していなければならない、という理屈が「自己責任論」の本質だと私は思う。1980年代後半以後に失われたのはたぶん、人間には「心(心理)」のほかに「魂」や「精神」というものがある、という考え方で、それは内田樹がいうような「宗教」的感覚とはちがうと私は思う。魂の生き残りの種火を絶やさないことが、たぶん、これからの時代を生きていくうえで、いちばん大事なことなんじゃないか。




 「即時負債」「長期負債」の概念から自己責任論の論理的誤謬を修正できるけど今回はやめとく。でも、蜂っこに質問されたからいちお考えてみるかな(ワシ、専門じゃないからてけとーだけど




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関連:

多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで  日本の〈現代〉13
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4 ハイパー・メリトクラシーという造語の意義
2 実証科学としての価値は低いが・・・
4 『若者と仕事』よりは良い。



※・・読んでないけど関連するのだそうです


文化系トークラジオLife
津田大介 斎藤哲也 柳瀬博一 佐々木敦 仲俣暁生 森山裕之 鈴木謙介
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※肝心のこちらを紹介するのを忘れていた。上山和樹さんのメールなんかはここからの引用。要約も


posted by m_um_u at 23:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年03月02日

「ギゼン」や「正義」的なものへの警戒によって互助の気持ちを疑うのってどうなんでしょうね?

善が過剰になって前景→デフォルメ化されて、それを見た人たちが違和感覚えてアレルギーってパターンを最近チョコチョコみる。「ギゼン」ってことへ警戒だと思うし、ぼくもそういう「正しさ」の過剰性みたいなのはびみょーな気がしてるんだけど同時にこのギゼン叩きというのが人間に元からある(あるいは社会的に備わった)善への意志も否定するものなんじゃないかとちょっと危惧、っつーか嫌な気持ちがしてる。


「過剰な善性への警戒」ってのは具体的に言うとこの辺だけど


「正義商品」としての「障害」 - 福耳コラム

「「正義商品」としての「障害」」への反応まとめ - 福耳コラム


一青 窈さんのPVがすごすぎる件について - 深町秋生の新人日記

先日の大反響について - 深町秋生の新人日記



この辺の反応も分からんでもないっつーか、これ系でいうと福耳さんなんかは小沢健二の灰色物語なんか想起されるのだろうけど、さっきもいったようにちょっとびみょーな感じがしてる。理由はさっきもいったように「過剰にドライブかかってんのはびみょーそうだけどそれによって元からある気持ちまで揶揄の対象にされるのはどうなんだろうね?」ってこと。この辺、「スイーツ(笑)」の話とも被る。

(よくわかんないけどてけとーにいうと)もともと甘味好きな人たちが普通にスイーツ(っていってたかどうかしらないけど)を楽しんでいたところにどっかの雑誌が「オシャレ女子はスイーツを食べるものです(スイーツ=オシャレ)」みたいな感じでスイーツをオシャレ目的の「スイーツ」化して、それを端からみた人たちが「スイーツでオサレって(笑)」的な感じでわらうようになったんだろうけど、その流れでもともとふつーに甘味楽しんでた人までバカにされてもなぁ、とか思う。

それ以前の問題として「スイーツ女子」(なるものが実在するのかどうか知らん)が「スイーツでオサレになるんだぁ」って思った心性をバカにするのもどうかってのもあるのだろうけど。ライフハックとかそんなんも似た様なもんじゃんね、と。


この辺は「自分探しが止まらない」にもあったな


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4 「自分探し」を否定しきれない人に
3 タイトルの印象よりはまともな本です。
3 「自分探しがとまらない」若者達のデータを集めた部分は秀逸



福耳さん的な問題意識、「“障害者の作ったものだから善”みたいな物語利用ってどうなの?」ってのもこの辺なのかなぁ、とか(深町さんも似たようなこといってはりましたね)。

「自分探しが止まらない」的には3章の「自分探しホイホイ」の事例がそういうのに当たるように思う。「良きことをして世界とつながりたい」って気持ちを利用したビジネスってやつ。具体例としては、「沖縄の豊かな自然の中でゴミ拾いしながら自分を取り戻す」みたいな環境系とかホワイトバンドとか路上詩人とか。高橋歩の「沖縄のきれいな環境で自分を取り戻すんだー!」的な若者の気持ちを利用して無料働きさせたりとかそういうやつ。無料働きの若者雇って自分探しの若者を客として迎え入れてたからやたら儲かったらしい。

そういう気持ちが沸き起こってくる背景として本書では、「エリートを作るための個性重視教育や個性重視にシフトした就職面接なんかが“やりがい”とか“自分(個性)探し”に過剰にドライブかけて価値観変化させちゃったんだけどその受け皿がなくて、やりがいがあふれちゃったんじゃないか」的なことが書かれてた。昔はまっさらでヤル気だけあるみたいな社員が求められてたんだけどいまは個性重視で面接時に「○○な仕事をしたいです!」みたいな具体的目標言わなきゃいけないんだけどいざ会社に入ってみたら貸家の歯車的ルーティンワークでゲンナリ → やりがいを求めてどっか行ったり自己啓発で自分をだましだましがんばったり、とか。

「良きことをして世界とつながりたい」とかいうのもそういった具体的なやりがい(人と触れ合って直接感謝の気持ちを感じたい。良いことをしたって実感を持ちたい)みたいなものを求める志向性の一部なんだろう。それが過剰になるとびみょーな感じもするけどそういう傾向があるならそれ自体は悪いことではないのだろうし、うまいことバックアックしてホイホイにつかまらないようにできないかなぁ、とか思う。そゆことはみっちゃんも書いてたな


「仕事を通じて、ダイレクトに社会貢献したい」は甘いか? - はてブついでに覚書。


寺子も似たような感じか?「見せ方が下手(過剰)過ぎるだけなんじゃね?そのキモチ自体はわらうことでもないのでは?」、と?


深町氏の言う「絶対善の押しつけ」はそんなに悪いことなのか? - 女教師ブログ




他方で、この辺の問題は思想とか価値観とかいろいろ絡んできてめんどそうなので「もう市場経済的価値判断一本でいいじゃん」って感覚があるのも分かるんだけどその辺もまたびみょーに感じている。

最初に書いたようにそういう気持ち(情緒)にドライブかかって「ワタシは正しいことやってるのに(キー!)」的な情況が生まれるのは好ましくないなぁとは思うんだけど人にはもともと誰かをいたわったり、助け合ったりしたい気持ちがあるはずでそういうのを胡散臭くならないように育てていけないのかなぁ、とか。


こういう気持ちはスピリチュアルとかそういうのじゃないものとしての宗教を求める気持ちと似たところにあったんだろうけど日本ではそういうのも根づいてなかったり分離してたりね。つか、宗教的なものも農業共同体的なものから生まれてたってことで互酬的なものの延長みたいなんだけど(柄谷、2006 → 後述)、そゆのが胡散臭くなんないようにうまいこと拡げていけないものかねぇ



ところでヒトトヨウというと、ヒトトヨウ - コバヤシタケシ - サクライカズトシ - サカモトリューイチ、ってラインが引けていろいろ思うけどびみょーだからやめとこ



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関連:
muse-A-muse 2nd: 自分探し(笑)ってスイーツ(笑)と似てるね


コラム≫IT戦略/ソリューション-【速水健朗氏インタビュー】拡散する自己啓発と自分探しムーブメントを読む:ソフトバンク ビジネス+IT

タグ:差別
posted by m_um_u at 22:53 | Comment(6) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

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