2007年08月23日

森岡正博、2005、「感じない男」

感じない男 (ちくま新書)
森岡 正博
筑摩書房 (2005/02/08)
売り上げランキング: 23882



Dankogaiさんとこの書評を読んで気になっていたのでこれを読んでみました。きっかけになったDanさんのエントリはこれ↓


404 Blog Not Found:書評 - 感じない男


 見返してみたら思ったよりきっちりまとまった書評だったのでこれを元にして話を進めていこうと思うんですが、その前に。「感じない男」ことid:kanjinaiさんに敬意を表して、本エントリの脳内(テーマ)音楽として以下をリンクしておきます。(できれば鳴らしながら読んでね ♪)





 んで、Danさんの書評に移る前になぜ本書に興味を持ったかということについての個人的理由を記しておきます。それは前に書いたこちらのエントリにも関係してるんですが、


muse-A-muse 2nd: 教えて、エロ子さん!!:(1)女性はなにを思ってエロいものを見るんでしょうね?


 ワタクシどうも自分の中の性的欲求というものが統制しきれてないみたいで、それに危機感というか焦慮というか、なんかイヤだなぁ感があるんですね(だいぶ前から)。もうちょっと言うと、自分の中の性的欲求が女性に対する暗い欲動のようなものに繋がっているようでそれがイヤだし危機感があるんです。女性(あるいはそのアイコン)に対して性的関心を持つときに攻撃性が付随してるように思うんですね。

 そういうのを統制しないとと思いつつも統制できず、なにか犯罪者予備軍的な後ろめたさをずっと抱えてきたわけです。

 つっても、この欲動というのはぼくに特異のものではなく、おそらく世の男性一般が抱えているのと同じぐらいのレベルのものなのではないかと思います。その証拠にぼくは罪を犯したことはないし、そういう行動をしたことも、しようと思ったこともないです。(ex.たとえばパンツを撮るとか盗るとか、一般女性の尻を撫でるとかそういうの)

 むしろ、そういう犯罪行為的なことには嫌悪感が生じるんですが、それに反してポルノ的な画像を見るときには暗い欲動のようなものが立ち現れる....。そのアンビバレンツがどうもよく分かんなくて持て余していたんですね。っつーか、「めんどーだからコレさっさとなくならないかなぁ」、って感じで老化を望む気持ちが強かったです。

 んで、本書ではそれと同じような悩みが見られてちょっと嬉しかったです。っつーか正確に言えば、「女性のオーガズムに対して劣等感を持つ男(感じない男)の話」、ってことですね。めんどーだからDanさんのまとめから孫引用させてもらうと、


では、逆に考えてみて、不感症にかかっていない男の射精とはどういう体験なのだろうか。もし射精が「排泄の快感」以上のものであり、射精したあとには、満たされたような至福感が全身を包み込み、その余韻が長く残り、けっして空虚な感じが襲ってきたりしないのであれば、それは「男の不感症」ではないと言ってよいと思う。しかし、私の射精はそのようなものではない。


 そんな感じで「小便を出す」ぐらいの性的快楽しか得ることのできない男が圧倒的なオーガズムを感じることのできるといわれる女性に対して嫉妬し、その嫉妬が引き金となって性交渉の場面、ひいては社会生活において女性をいじめるのではないか、と。そんなことを言っておられたように思います。あと、妙にマッチョイズムを貫いて男性優位的な姿勢を打ち出したりね。

 この仮定はびみょーなところだとは思うんですが、個人的には共感するところがあります。ぼくも女性のオーガズムに対して、劣等まではいかなくても憧れというか「いいなぁ、それ」的な思いを持っているので。なのでそういう場面では女性のオーガズムのほうに同調(感情移入)しますね。そっちのほうが気持ちよさそうなんだもん。

 んで、関連で「少なくとも男性は涙を流すような性的快感を得ることはない」という記述があったように思うんですがこれはちょっとびみょーかな、と思いました。(こっぱずかしい話なんですが)初めての経験したときにはそういう感じ、「腰がガクガクしてどうにもならん」、みたいな感じがあったように思います。経験を重ねていくにつれて快感が薄れていったわけで、最初から「排泄と似た快感」ではなかったと思う。

 んで、主にそういった「はじめての快感」をとりもどすために「オナ禁」だのなんだのな話があるんでしょうけど、まぁ、これもびみょーな話だなぁ、と。

 つか、刺激物減らして運動と頭脳労働増やせばさっさと寝られるはずですけどね。刺激物ってのは食べ物と画像その他の両方っすね。あとムリしなければ別に・・。ニコチン中毒と同じようなものじゃないですかね?(「やりたきゃやればいいし」的な)

 森岡センセは「しばらくがんばってたら身体から変な臭いが出てきたのでがんばるのをやめた」って書いておられたけど、ぼくの場合はとくにそういうこともなかったです。・・冬だったからかな?
(※ちなみに臭いの元は脇、陰部、耳の穴なのだそうです(参照1参照2)。その辺をよく洗ったり掃除しろ、と)

 
 話がそれたので戻すとそんな感じで、「性的快感の上で男女差がある」、ということで、「その差が元になって男性が劣等意識を感じているのではないか?」、という話でしたね。

 んでこういう話に対しては、「ヨガその他で快感高めればいいんじゃね?」、って思ってたんですが本書ではその辺についても言及されてました。いわく、「それだと快感追及ゲームになって終わりなくなっちゃうからダメだ」、と(意訳)。「それでは根っこにある劣等意識(それを元にした攻撃性)はなくならない」ということですね。

 んじゃ、「愛で埋めればいいんじゃね? すぐ態度変えるんじゃなくて。いわゆる“その後に手を繋ぐ”とか“抱き合う”とか」って思ったわけですが、これもちょっとびみょーなのかな?

 「精神的には満たされるかもしれないけど、肉体的にはびみょー」ってことか? つか、なんかこの辺特に女性の視線が気になる感じがするので説明しておくと、男のオーガズム(≠射精)後の感覚ってのはなんか急に冷めちゃうようにプログラミングされてるんですよね。っつーか、それって動物として当然のあり方なんじゃないかと思うんです。だって行動とまっちゃうと殺されちゃいますからね。最中は仕方ないとしても、「その後」はできるだけ早く動けたほうがいい。だからこそ男性の余韻は薄いのではないか、と思います。

(「んじゃ、女は食われとけって話か?」って言われそうだけど・・・知らない。自然が決めたことだし...)


 そんなこんなで性的快感における男性の劣位を埋める方法は八方塞がりなんじゃないかって感じなんですが、Danさん的には「女性が抱きしめてやればいいんだよ!」ってことみたいですね。

 個人的にはその辺もびみょーな感じがします。つか、本書の結論的には「解決手段は見つからないけど、とりあえず性的快感における生得的な劣位を認めることによって、それが元となって現れていると思われる女性蔑視的なゆがみを是正していってはどうか?」ってことでしたね。そういう意味では、まぁ、男性的な快感ってのは二の次でよいのではないかと思います。別に死ぬような問題でもないしね。

 ぼくとしてはそういった「ゆがんだ意識」、「攻撃性」のようなものが男性という性にとって固有で逃れられない問題というわけではなく、後天的に身についたものなので後天的にhack可能だ、という道筋を示してくれただけでも良しとします。それが嫉妬かどうかはまだ分らないけど、とりあえずhackが可能だと分ったのでちょっと救われた気がする。


 あと、ちょっと思ったんですがDanさんの読みの

おそらく「感じない男」の一番悲しい誤解は、「自分が感じないのは自分が汚いからだ」というものだろう。「ヒゲだらけでイカくさいからキモい」というのは、確かに「感じない男」たちが惹かれてやまない少女たちの台詞ではある。


 というのは不十分なように思います。著者は「ヒゲだらけでイカくさい」ことから自分の身体(男性性)に劣等感を持つようになったのではなく、「夢精などによって下着や下腹部が汚れ、それを洗っている際に感じた恥辱が女性に対する劣等意識に繋がった」と言っていたように思います。(p.150)

(っつっても、ぼくはロリコンとかミニスカのところは飛ばして読んだのでその部分に書いてあったのかもしれませんが)


 
 そんなこんなで男性の性の意識、というかオーガズム関連について興味がある人にはおすすめできる本だと思います。あとはぼくと同じように性における男性性に違和感がある人とか、オナ禁うんぬんでその手の欲求をhackしたい人とか。

 つか、本エントリでも述べてきたのですが、この本自体まだ未完成って感じで、その知見というか問題設定を自分なりに引継ぎhackしていく必要があると思ってます。具体的に言うと、たとえばポルノなんかに対する視線とかね。

 
 本書でも述べられてましたが、日本のポルノは特に女性に対する攻撃性が強いように思います。「それは男性の劣等感を埋めるためだ」ってことなんですが、でも、そうすると女性AV愛好家の藩金蓮さんなんかはどうなるんでしょうね?

 kanjinaiさんの論理に従うと、「それは金蓮さんがオーガズムが無い河内のおっさん音頭のような人だからだよ」、ってことになるのかもしれないけどそれはちょっとびみょーっすよね。

 つか上記は冗談として流していただくとして、金蓮さんの中に内在する男性性がそうさせているの?、って気もするんですけど、そうするとその男性性っていうのは身体的機能とは関係が無いということになる...。

 まぁ、そのほうがますますhackの可能性が高くなるわけですけど。この辺は金蓮さんご自身にとっても課題ということだったように思うので、まぁ、ぼちぼち考えて抱くとして・・


藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - セックスとマゾとアダルトビデオ


 さて、ぼく自身どうやって考えていきましょうかね..。(まぁ、ぼちぼち) 

 
 とりあえず関連でこれと、

[mixi] んで、けっきょく「劣情」ってなんなの?

[mixi] 男と女の間には…


 以下、課題のようなものです


・<女性の欲望は男性の欲望の投影>と設定しているが、女性固有の欲望はあるのではないか?

・欲望は劣等感の裏返しのみによって表れるのか?



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関連:
男らしさの幻想 (勤労者Xの憂鬱)

※「男らしさ」の幻想を振りまいていた人のお話。マッチョイズムってやつですかね?
 


感じない男ブログ - 「感じない男」とはどんな本か?

感じない男ブログ - 感じない男 内容と批評(2)

感じない男ブログ - 感じない男 内容と批評(3)

感じない男ブログ - 感じない男 内容と批評(4)

感じない男ブログ - 感じない男 内容と批評(5)
 

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おまけ:






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追記(2007.8.28):
ちょっと書き忘れたのでいちお。

森岡センセも言っておられたけど、そういうたいしたオーガズムのない行為をしているとたまになんかすごい消耗してる感じがするんすね。なんというか、「なんでこんなことしてんだろ?」、的なね。

で、そういうときに思ったんだけどこれって自傷行為に似てるなぁ、と。

リスカなどの自傷行為ってやったことないけど、たいして気持ちよくないのに妙なカタルシスがあって依存してしまうようですね。そういうところが似てるなぁ、と。それで思うんだけど自傷行為をする人って自慰とかしないんじゃないですかね? 似たような感覚なんだろうし。っつか、両方やってたら体力もたないでしょうね。こちらのぶくまにも書いたけど


はてなブックマーク - 男の性欲には後悔がつきまとう

「男性の射精時のエネルギー消費量は100m全力疾走してから200cc献血するのと同じ」だそうだから。(@「彼女が死んじゃった。」)

んで、「自傷」だと分るとそういうのに興味なくなっちゃいますね。よく「自慰するぐらい元気があるなら献血しろ!」とか言うけどあれと同じというか、「気(※北京語読み)抜くよりは血を抜け!」って感じですかね。


ついでに言うとこのエントリ書いた人がほんとにこの問題について考えてるなら「感じない男」を一回読んでみるといいと思う。男性の性欲(女性への視線の問題)とか自慰がどうとかいう話も出てるので。


あと、男性の性欲への違和感(相対化)ということでこの辺とかも関連するかな

女性をSEXの対象にしか見られない男をどう思う? -OKWave

タグ: 男女
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2007年08月19日

速水健朗, 2007, 「タイアップの歌謡史」(feat.阿久悠)

 予告どおりコンテンツ関連でぼそぼそとシリーズエントリでも挙げていこうかと。つか、とりあえずもう1個ぐらいは書く予定です。

 第一弾としてはとりあえず阿久悠さんについて。ちょっと時機を逸した感もあるんですが、それはワタクシの元ネタまとめが滞ったからであります。(暑さ惚けのせい・・ということにしておこう)

 この本を参考にさせていただきました。


タイアップの歌謡史
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速水 健朗
洋泉社 (2007/01)
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 つか、これを読んでいるときに阿久さんが亡くなって、なんか「歌謡の一頁がまためくられたな」って思って、「どうせなら関連づけてまとめたいな」と思ってるうちに時間が経ってしまいました..。(あと、暑さのせいか眠くて..)

 
 言い訳はこの辺にしてんじゃ本論を。って、その前にこちらのエントリを参照されるとおもしろいか、と。


てれびのスキマ:阿久悠をも唸らせた半田健人の歌謡曲鑑賞術(阿久悠追悼に変えて)


 半田建人というと仮面ライダー555って感じなんですが自他ともに認める歌謡オタクでもあるんですね。それ辺の事情というか歌謡曲愛については本人が「いただきます」に出演したときにとくとくと語ってました。最後のほうで本人主催の歌謡曲リサイタルについて宣伝してましたね。

 そんな半田さんがタモリ倶楽部に出演。持ち前の歌謡知識を阿久悠さんの前で披露したようです。つっても、阿久さんは隣の部屋で待機してたみたいで半田さんは気づいてなかったみたいだけど。そんな状況の中、歌謡愛に裏付けられた歌謡知識を披露して阿久さんをうならせた、と。詳しくはリンク先のエントリに書いてありますが、はじめは「この若造になにが分かるか」的態度で臨んでいた阿久さんの様子が次第に変わっていく様子が伺えてほほえましいです。


 さて、そんなこんなな阿久悠さん。歌謡曲全体としてはどのような位置づけにいた人なんでしょうね?


 この辺について、「タイアップ・・」の著者である速水さんのところに関連エントリないかと思って検索してみたけどピンポイントなものはなかったですね。(とりあえずこれとか。おもしろかったけど)


【A面】犬にかぶらせろ!: ピンク・レディーとディスコ


 つかやっぱ、てれびのスキマさんとこで半田さんが示していたJ-POPと歌謡曲の歌詞の対比基準がおもしろかったのでそこをきっかけに話を進めていこうか、と。(以下、当該エントリより引用)


J−POPはこうなりたい(あの人に想いを届けたい、とか)という目的がある。それに向かっていろいろなアーティストが、その目的に向かったメッセージの歌詞を書いている場合が多い。

歌謡曲は真逆。

確固たる目的というのはなく、出発点がまずひとつ。で、その曲の結末を今度はリスナーに託す。

主人公なりその歌の使い道は自由ですよ、と。

今はその逆で、そこまでのプロセスを歌詞に埋め込んであるので聴き手側が促される。促すように作ってある。

そのアーティストにものすごく共感してたりとか、愛しているのであればグッとくるんですけども、逆に興味がない人からすれば、ちょっと印象が薄いかな、というのが現実ではないか」

阿久悠は、半田のその解説を聞きしきりに肯きながらこう補足する。

「J−POPと歌謡曲はブログと映画くらい違う。誰かが喜んでくれればいいな、誰かが興奮してくれればいいな、誰かが美しくなってくれるといいな、という願いを込めながらひとつの世界を作り上げていくっていうのが歌謡曲で、そうじゃなくて俺はこんな気持ちで悩んでるから、俺の気持ちを解れよっていうのがJ−POP」



 そういえば「タイアップ・・」の中に「カラオケは自己表現の発露」って話がありました。カラオケ時代全盛期のプロデューサーだった小室哲哉氏はカラオケの存在を強く意識して歌手を送り出していった、とのこと。その曲を聴きカラオケで歌う女の子が自分をプロデュースする際のきっかけになるような曲や歌い手を作り上げていった、とか。(p.190)

以下、当該箇所の小室氏インタビュー抜粋

「女の子がデビューすることは、それを聞く女の子のために役に立っているんだと思っていたんですよ。つまり自分が女の子をプロデュースする場合、なんとなく親近感があって、多少憧れをもてるような、ということ」(『SWITCH』 2000年5月号のインタビュー)


 このインタビューを見ると小室氏も、「誰かが喜んでくれればいいな、誰かが興奮してくれればいいな、誰かが美しくなってくれるといいな」、と思っていた感じがするのですが・・・まぁ、その辺は作り手なら誰でも思ってることでしょうからどうでもいいです。

 つか、歌謡曲的な歌詞とJ-POP的な歌詞の違いは等身大かどうかってことなんでしょうね。その辺は長くなりそうなので省くとして・・(小川博司センセ辺りの本に載ってるかも)


 歌謡曲全体の歴史において阿久さんはどのような位置にいた人なのか?


 それは「タイアップの歌謡史」のキモと思われる原盤権の移行の歴史に関わっているように思います。

 旧来原盤権はレコード会社が独占していたのですが、渡辺プロダクションに代表される音楽プロダクションの台頭、GS(グループサウンズ)・フォークミュージックなどの会社側からの仕掛けではない音楽の隆盛、ドラマタイアップによるTV局子会社による原盤権の保持などといった変化を受けて原盤権が散らばっていったみたいなんですね。阿久さんや筒美京平さん、橋本淳さん、鈴木邦彦さん、村井邦彦さんといった方々に代表されるフリーランスの職業作曲家、作詞家、編曲家の登場はGSブームによって旧来の音楽作家の専属制が揺らいだ時期だったようです。

 この辺は詳しく論じてないんだけど、やはり専属から解き放たれた自由感とともに第一人者的な気概というか責任のようなものもあったのかなぁ、とか思います。「俺たちが新しい歌謡曲を作っていくんだ」的なものがあったのかなぁ、と。

 
 この本における阿久さん関連の記述としてはこれぐらいしかないのですが、それ以外のところで個人的におもしろいなと思ったところについて、以下簡単にまとめておきます。


○ヒット曲の変遷はタイアップの歴史だった

「CM」(ex.資生堂、コカコーラ)、「TV」(ex.スーダラ節)、「映画」(ex.裕次郎)、「大イベント」(ex.オリンピック)、「パチンコ」などがヒット曲を生み出すメディウムだった。



○タイアップを徹底させタイアップ請負機構としての位置を築いた「ビーイング」

(177「歌謡曲・Jポップは娯楽であり、ビジネス」

(179)中間レコード会社やプロダクション、代理店を中抜きし、アーティストと広告主が直で繋がる産直システム



○タイアップの功罪

(230)小田和正:「タイアップじゃなければ見つけられないことがあった」

(231)山下達郎:「寡作の人間を助けるのがタイアップ」

※浜田省吾はタイアップに疑問を呈した



 あと、全体のまとめとして。タイアップの歴史というよりは原盤権を巡る歴史といったほうが良いように思いました。音楽を販促させるための様々な仕掛け・ブームが開発され、それに応じて原盤権も分散していったってことでしょうね。タイアップもその仕掛けの一つだった、と。



 甚だ簡単ですがこんな感じで。で、以上をもって新時代のタイアップ「動画共有サイトプロモーション」について考えていこうかと思います。

 
 あと、個人的に。マーケティングやサービス業などの役割について<モノ以外にも効用があるのではないか?>というように認識の転換をしてみたくてこの本を参照していたのですが、最後の小田和正さんとか山下達郎さんの言葉がカギっぽいな、と思いました。あと、大型TV番組企画を通じてメディアミックス的に小説や曲が生まれていった経緯とか・・(「南太平洋裸足の旅」という番組に関わったメンバーらにより、小説「エーゲ海に捧ぐ」が生まれ、「時間よ止まれ」(矢沢永吉)、「魅せられて」(ジュディ・オング)、「いい日旅立ち」(山口百恵)が生まれたらしい)

 こういった話を見ているとモノと流通、サービスというのは主従的な関係ではなく「地」と「図」のようなものなのかなぁ、と思ったり。


....まぁ、もうちょっと考えて見ます。

 
 
 じゃ、そんなこんなで.....



--
関連:
muse-A-muse 2nd: J-POP、J文学とはなんだったか?

 

 
posted by m_um_u at 09:23 | Comment(0) | TrackBack(1) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年08月12日

吉田修一、2007、「悪人」

悪人
悪人
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吉田 修一
朝日新聞社出版局 (2007/04)
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 けっこう太い本なので読み始めるまでは億劫な感じもしたけど読み始めたらいつも通りの吉田節で読みやすかった。ってか、4章ぐらいから加速して一気に読めた。んで、感想だけど.....やはりいつも通りの吉田文学って感じで、「誰も悪くないのになぁ」、って言葉が頭に浮かんだ。

 根っからの悪人なんかいなくて・・ってか、悪人と思われてる人こそ悪人ではなくてって感じだろうか。社会的に「悪」とされていることやそれほど推奨されないような行いでもその行動を選択するには各人の悩みや苦しみがあって・・そういうところを丁寧に追っていかなければ情況ってのは見えてこない。

 よくある新聞の三面記事とかワイドショーの紋切り型のレポートのようなものにおいては「個人のエゴ」として切り捨てられてしまうようなもの。そういったものに含まれる個々人の理由を救い上げ、言語を介して他者との妥協点を模索することこそ文学の真骨頂だと思うのだけれど、吉田作品ではそういうものがきちんと表されていて読後に「えぇもん読んだわぁ」的なカタルシスが味わえる。この本もそういう作品だった。


 んで、自分なりの感想に入る前にこの作品についての重松清さんの書評が気に入っていたのでそちらからご紹介しておく。


asahi.com:悪人 [著]吉田修一 - 書評 - BOOK


 要約すると、「吉田が今回の作品のような語りを採用したのは安易な「同情」のセンチメンタリズムに陥りかねない結構を持つ物語に一線を引くためだったのではないか」、ということ。そして、そういった形で押さえに抑えられた感情を感じさせられる叙述は物語の最後の段階で配されている。


物語の最終盤で、若い登場人物が言う。〈俺(おれ)、それまでは部屋にこもって映画ばっかり見とったけん(略)人の気持ちに匂(にお)いがしたのは、あのときが初めてでした〉



 この部分はぼくも気になって付箋を貼っていた。でも、少し違うなと思うのは吉田の作品というのはこの作品だけに限らず「匂い」とか「音」のような五感を刺激する表現が多いように思う。「Water」における水の匂いや太陽の熱さもそうだし、「東京湾景」における男と女の匂いのようなものもそう。というか、東京を舞台にした作品よりも長崎を舞台にしたときのほうがそういったものを感じさせるように思う。(「長崎乱楽坂」とかはまさにそう)

 これはやはり「匂い」というのが感情と関係が深いからなのかもしれない。地元を舞台にしたときのほうが感情に結びつくような表現になりやすい...のかなぁ。。(「敢えてそうしている」ということもあるのだろうけど)


 あと気になったところとして。「悪人」というテーマから個人的に光市母子殺害事件のことを思いながら読んた。こういった事件を扱う場合必ず容疑者の生い立ちという話になって、そういう話は本作でも出てきていた。 そして最近知ったのだけれど光市事件の件の少年にもそういう過去があったそうだ。


kojitakenの日記 - 光市母子殺人事件に関する週刊ポストの勇気ある記事


 で、まぁ、いつも通り「サヨクの過剰人権主義」とかなんとかめんどくさい話になるわけだけど、そういうのとこれはちょっと違うのかなぁと思った。

 (ネタバレになるので詳しく触れないけど)本作品の主人公には同情というか感情移入できて光市の加害者の少年には少しも同情する気になれなかったのはなぜなんだろう?

 そもそも小説と実際にあった事件を混同している時点で少しおかしいのだけれどそれを自覚しつつ話を進めると、「潔さというか他人を思う気持ちの違いなのかなぁ」、と思った。こちらの主人公の場合は最後に愛する人をかばうために敢えて一番つらい道を選択している。そして被害者の遺族にも敬意を払い刑に服することを覚悟している。対して件の少年の場合はそういうものが感じられず、ただ自己の保身のためだけに供述を変え、いたづらに遺族の心情をかき乱している。この違いかなぁ、と。

 件の少年が、「不幸な幼少期があったために人格が歪んでしまって、自分の行動を抑制できなかったんだ」、とするならばなぜ最初からそのような主張をしなかったのだろうか...? 主張が二転三転するのはどういうことなんだろうか? 別に責めるわけではないのだが素朴にその辺が不思議。そしてやはり件の少年が友人に送ったという手紙の文面が気になる。


 そういえば今回の作品にもそういう記述があったな..(以下、てきとーに引用)


(397)
「今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎったい。大切な人がおらん人間は、何でもできると思い込む。自分には失うものがなかっち、それで自分が強うなった気になっとる。失うものもなければ、欲しいものもない。だけんやろ、自分を余裕のある人間っち思い込んで、失ったり、欲しがったり一喜一憂する人間を、馬鹿にした目で眺めとる。そうじゃなかとよ。本当はそれじゃ駄目とよ」



(398-399)
「可笑しかね?」と、佳男は訊いた。
 本気で訊いてみたかった。増尾が一歩後ずさる。
「そうやって生きていかんね」
 ふとそんな言葉がこぼれた。
「……そうやってずっと、人のこと、笑って生きていけばよか」
 途方もなく悲しかった。憎さなど吹っ飛んでしまうほど悲しかった。




 この言葉は罪を犯したものだけにではなく、社会的には罪とはされていなくても人を哂ったり、哂うことで自分の優位(存在)を確認している人々にも当てはまるのかなぁ、とか思った。けっきょく彼らはそういう風にして生きていくのだろうけどなにが楽しいのだろう。(よくわからんが)


 この小説の最後の問いかけは、「犯罪を犯してしまった“悪人”と、犯罪は犯していないけれど人の心を傷つけてもなんとも思わない人とどちらが悪ですかね?」、ってことだったと思うんだけど......まぁ、その辺の判断はみなさんにお任せします。(拝)




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関連:
muse-A-muse 2nd: 吉田修一, 2003, 「東京湾景」
 




--
追記:
あと印象に残った言葉として、「でもさ、どっちも被害者にはなれんたい」、ってのがあった。

捨てられた母親に対して欲しくもない金をせびるのは辛いけど、片方が被害者なだけだと対等になれないから欲しくもない金をせびる、と。その真意について当人には告げずに。


もしも「男の愛」というものがあるとしたらこういうものではないかと思った。(男に限ったことではないのかもしれないが)
 
 
タグ:
posted by m_um_u at 22:52 | Comment(11) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年07月24日

細田守、2006、「時をかける少女」

時をかける少女 通常版
角川エンタテインメント (2007/04/20)
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 いまさらながら初見したので軽く感想を。その前に概要とかその他もろもろは以下に任せるとして

時をかける少女 (アニメ映画) - Wikipedia

東京の下町にある高校に通う女子高生・紺野真琴は、ある日踏切事故にあったのをきっかけに、時間を過去に遡ってやり直せるタイムリープ(時間跳躍)能力に目覚めてしまう。

最初は戸惑いつつも、遅刻を回避したり、テスト問題を事前に知って満点を取ったりと、奔放に自分の能力を使う真琴。そんなある日、仲の良い2人の男友達との関係に、微妙な変化が訪れ……



 感じたことだけごく簡単に記しておこうと思う。(※もちろんネタばれありだよ!

 まず最初に、冒頭の「電車に轢かれてタイムリープに目覚める」というところでこの物語というのは死者の回想というか、夢落ち的な話なのかな?、と思った。例の、「あの話は全部のび太くんの夢で、ほんとののび太くんは植物人間で夢から覚めない状態にあるんだ」、ってやつ。物語序盤では実際そういうことを思わせるぐらい楽天的にストーリーが展開していくのだけれど、中盤の転回部で少しスピードが変わる。

 「あなたが気楽にタイムリープしていることで不幸になっている人がいるかもね」、っていうおばさんの一言で。で、この言葉通り能力の責任を自覚させるように物語が展開していったわけだけど・・そういったテーマ(「責任の自覚」的なもの)以外に「時をかける少女」という物語に伝統的に受け継がれているテーマが重要なように感じた。

 「時をかける少女」というのは前作からジュブナイルという形式を踏襲しているわけで、であるからこそ物語の中ではこの年代独特の甘さや脆さ、青春の甘酸っぱさのようなものが描かれている。「甘い」「甘酸っぱい」というのはおそらくこの年代特有のアモルフな状態への滞留というか、もうちょっとキツくいえばモラトリアムのままでいることの甘さみたいなもの。そういったものからの成長の様子が暴力的にではなく、説得力のある形であがかれているように思った。以下、もうちょっと詳しく。

 まず「モラトリアム」ということについて。たとえば主人公は二人の友人(♂)から好意をもたれつつもその状態を保留していたり。主人公自身は気づいてなかったのかもしれないけど、二人の友人はそのことに薄っすらと気づいていて決断を保留していたりする(「付き合おう」っていうと友人でもいられなくなる可能性があるので)。っていうか、三人が三人ともそういうことに薄っすらと気づいていて、その中で曖昧な状態を保つことを選択していた。つまり「恋愛モラトリアム」ってこと。

 こういうのは酸いも甘いも噛み分けたおっさん・おねぇさんからすると「ケッ」と唾でも吐きたくなるような甘さかもしれないけど、まぁ、こういうのも青春の一ページってことで。(っつーか、「青春」って言葉自体が甘酸っぱい)
 
 同じようにこの時期に初めて本格的に将来について悩まなくちゃいけなくなったり。「理系か文系か」の進路選択ってのはこの年代の子ども達にとってけっこう重要かつ切実な悩みだったりする。中学、高校受験の段階でもそういうのはあったかもしれないけど、やはり多くの人たちが主体的に将来について悩み選択したのは「文理どっち?」な進路選択だったのではないか?


 そんな感じで時間は待ってはくれないけど、もう少しこの心地よい時間に留まっていたい気持ちがあったり..。それは「モラトリアム」ってキーワードからすればそれは「大人になれない(なろうとしない)」として断罪されることなのかもしれないけど、それともちょっと違うように感じた。


 これと並行するように「なかったことにする」という子ども特有な心性が作品の重要なテーマになっているように思った。主人公はタイムリープという特殊能力を身に着けたことでちょっとした失敗や挫折を「なかったことにする」ために細々とタイムリープを刻んで自分の思い通りに完璧な世界を作り上げていく。それは子どもの頃なら誰もが夢見たことのあるような時間旅行のベタな使い方といえるだろう。でも、それってどうなの?、って感じがある。

 「完璧」とか「主体的に全てを決定する」なんてのは人間にとってそんなに重要なことなのか? というよりも、人生の中でそんなに完全に自分の進む道をコントロールできたことなんてあったのだろうか? むしろ外部からの影響に応えることによって「自分」というものが鍛え上げられていったのではないか?

 ある程度年季の入った人ならばそんなことを思うかもしれない。「自分が流れを作る」のではなく「流れの中に飛び込む」ということが大事なのだろう。(そしてその流れを泳ぎきること)

 そのことを諭すように物語後半ではタイムリープという便利能力は失われていく。というよりも、「やり直せること」の大切さを気づかせるように物語が構成されていく。(cf.「若さってのは何度でもやり直せるってことなんだ」)

 そして一気にエンディングに収束していくわけだけど....最終的に、前段であげた「モラトリアム」というテーマと「なかったことにする(あるいはお子様的完璧主義)」というテーマはどのように結ばれたのだろうか?

 なんとなくだけど、エンディングでは主人公は時間の流れ(成長)を受け入れ、それに対する責任を決意したように思えた。「ワタシ、やること決まったんだ」という言葉にそれが表れていたように思う。

 それは「流れに身を任せてモラトリアムを諦める」(オトナになる)ということではなく、流れの中で自分ができることに積極的に向き合って、「できること」の範囲を増やすために努力していく(大人になる)ことの決意の表れのように思えた。その意味で流れの中で恋愛モラトリアムを終わらせるのとも違うし、すべてを諦めてモラトリアムに閉じこもっていく(セカイ系)というのとも違う。

 物語序盤で主人公が恋愛モラトリアムの終焉を嫌がっていたのは自分の意志が決まらないうちに外部から「こういう形であるべきよー」ってものを押しつけられるのがイヤだったのだろう。でも、後半で誰かを選択した(選択し責任を引き受ける意志をもった)というのは主人公の成長の表れであるように思った。


 そういうわけで優れたジュブナイルだなぁ、と思ったわけでした。



 んで、以下は個人的な感想。

 「子どもと完璧性」ということでは「王様とボク」(やまだないと)とか「ピンポン」(松本大洋)なんかを連想した。後者は「ヒーロー見参!」(恋愛を超えた信頼)ということで少し違うかもしれないけど、ジュブナイルということでは共通するし、松本大洋ということであれば「鉄コン筋クリート」のテーマのひとつ(「こどもの城」という合理性装置)も絡んでくる。

 あと、恋愛における純粋さ関連だと「少年少女」(福島聡)なんかが絡むか。でも、あれはジュブナイルではなく「恋愛や人を思うということにおいて一番純粋かつ強力なのは子どもの思いかもね!」ってことなのでちょっと違うか。
 

 あとchkiさんの感想を見ながらぼんやりと

荻上式BLOG - 輝く未来の必要性について―『時をかける少女』を再度観て。

 『クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲』の話は「20世紀少年」(浦沢直樹)みたいっすね。そういうわけでリアルではオウム事件に接続できるか。あと、「アカルイミライ」関連では徳力さんのこのエントリが思い浮かんだり


Did you know 2.0 私たちは子供達の未来の為に何ができるのか? : tokuriki.com


....とりあえず選挙行かないとね



 んで、そういうのとはまったく別に「昔、オレは王様だったんだゼ!」って言葉が頭に浮かんだ。小学3年生まで「自分は死なない」って思ってて、それが打ち砕かれたときに受けた衝撃とか失望感のようなもの。タイムリープってのはまたちょっと違うか。でも、あそこで描かれていたモラトリアムな世界(空気感)というのは懐かしいものだったな。

 特に千昭の、「還らなきゃいけないのについ長居しちまった。おまえらといるのが楽しすぎてさぁ」、って台詞にはなんかいろいろ込み上げて来るものがあって危なかったです。






♪ スガシカオ / タイムマシーン

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2007年07月05日

ジョナサン・デイトン、2006、「Little Miss Sunshine」

 最近ちょっと気になっているid:tomomoonさんのとこのエントリでこんなのがあって、

月がでたでた月がでた - どんなに綺麗事言ったって、女は結局「ガワありき」なんだろう。


「あ、これLittle Miss Sunshineじゃん」、と思ったのでTB差し上げようかなと思ってオレンジ色の日記帳の過去ログを検索してみました。

 
 あ、やっぱそうだ。


 そういうわけで話題的には時機はずれかもしれないけどTBです。


 その前に、tomomoonさんのエントリ主旨を要約すると、

「ミスコンにノーメイクな人が出て関心を集めていた」 → 「彼女自身はブサイクさんではなく女子力メイクをすればビジンさんになると思う(土台その他は良い)」 → 「問題は、<見た目にだまされるな>的なことではなく<そうは言っても世の中見た目ってのは現実的にある>、ってこと。その現実を捨象して、彼女に過度の応援を寄せる♂ってどうなの?」

 って感じでしょうか。


 この三段階目、「逆差別的な持ち上げ」ってところがポイントっぽいですね。

 それでぼくがこれから送るTBの内容はそれとは少しずれるかもしれませんが、過去ログということで勘弁してください。


 あと、ちょっと思うことですが、件の彼女、そんなに騒ぐほどのことですかね?(※下記リンク先の真ん中辺りにいる人です)

Miss of Miss ミスオブミス - Campus Queen Contest 2006 -出場者紹介

 プーマのジャージ着てるからサッカー部かなんかに所属してるのかな? (※←バレー部って書いてありましたね)。アップで見ると

Miss of Miss ミスオブミス- Campus Queen Contest 2006 -ミス九州女子大学


 あぁ、なるほど。たしかに目元ら辺りはちょっと怖いさびしいですね。でも、目元メイクって一番発達してるところだし、だましやすいポイントのはずだからなんとでもなるんじゃないですかね?(土台はいいし)

 こんな感じで


メイク前 → メイク後

 
 DOVE効果が期待できるんじゃないかと思います。



 


 個人的には化粧っ気の多い人は苦手ですがね。(匂いとか塗り物に弱いもので。整髪料とかも苦手)


 あと、件の彼女が「のだめカンタービレが好き」ってとことか、tomomoonさんのとこのコメント欄の応酬もおもしろかったです。

 どーでもいいことですが、ボディビルコンテスト(通称:ボディコン)は一回見に行ってみたいと思ってます。そして、「キレテル!キレテル!
(頭が)」、と無責任に叫びたい!

 ところでミスコンの場合はそういう掛け声ないんですかね? ((「(メイクが)キレテル!キレテル!」とか「(メイクが)ノッテル!ノッテル!」)とか)




 んじゃ、以下、TB内容です。



(ネタばれバキバキだから注意! 見たくない人は見ないように)





--

「Little Miss Sunshine」を借りてきてさっき見終わった。

思ったより良い映画で満足。アメリカ映画にしてはよくできていたなぁ、と。


ってか、ミニシアター系な雰囲気を残しつつきちんと娯楽映画っぽく仕上がっていて良かった。


(※以下、一部ネタばれ)









 この映画は「Little Miss Sunshine」という美少女コンテストに娘を参加させるために、家族全員がバンに乗ってカリフォルニア(かな?)に向かうロードムービーなわけだけど、家族それぞれが問題を抱えている中、(ありていにいえば)「家族の絆とはなにか?」みたいなのが問われる映画、になっていたように思う。

 
 家族の誰一人として「勝ち組」な人がいなくて、それぞれが一癖も二癖もあるような事情を持っていて、旅の途中にその癖が破裂したりする。(唯一お母さん(ユマ・サーマン?)のみが瑕がない感じがしたけど、なんか持ってたかもしれない)


 でも、そのたびに家族の絆でそれを回復......ってわけでもなく、まぁ、なんというか...ぐだぐだーと回復していく。


 「ぐだぐだー」って言い方もないな。はっきりとした言葉で「なぐさめる」のではなく、「なにも言わず寄り添う」感じ。


 この家族の中に「なぐさめ」られるような高見にいるような人は誰一人いなくて....だから誰かが誰かを「なぐさめる」なんてことはできない。

 
 だからただ寄り添って、肩を抱くくらいしかできない。 ..なにも言わずに


 
 「ただしさ」を浴びせるのではなく、ただそこにいること。


 問題は解決しないけど、一緒にいること。

(そして抱きしめること)





....本当に「痛い」とき、必要なのはそういうことなのだろうと思う



(※以下ものすごくネタばれ)




 

 物語の中で一番重要だと思ったシーンは後半。夢破れた甥っ子と、同じく恋破れた叔父が桟橋で話す場面。


 「高校だのめんどくさいからさっさと18歳になれればいいんだ」、という甥に対して叔父はこう答える


 「プルーストってのはほんとに負け組なやつで、ゲイで作家だったけど恋も実らなかったし、本もそれほど売れなかった。そんなプルーストが言ってたんだ。"人生でもっとも重要なときは悩んでいる時期だ”、ってね。

 君はいま人生の黄金期にいるんだ」





 ほんとにアメリカの映画か?、と思えるぐらいいいシーンだった。



 たぶん、このシーンのためにこの映画は作られたのだろう。



 世間的価値感から「勝ち」か「負け」かって言われれば、この家族は間違いなく負け組で、この旅の目的である美少女コンテストも負け戦だ。


 でも(甥が応えていっていたように)「ミスコンなんてクソ」だし、「似たような感じの高校受験や大学受験、就職試験もクソ」だ。




 そんなものとは別のところに人生の楽しさ(価値=勝ち)というものはあるのだろう。



 それはおじいちゃんの遺言、「踊りたいように踊ればいい (楽しいと思うことをすればいい)」、ってことにつながる。



 で、最後はそんな感じで大団円、と。






 良い映画だった。







 関連でちょっと思ったのは、改めて「美少女コンテスト」というのは気持ち悪いなぁ、と。

 ジョンベネちゃん(あるいはキタチョー)のようなコたちが「大人」な格好を無理やりさせられて踊っていて気持ち悪かった。


 おそらく「美少女コンテスト」を作品の中心にすえたのは人生全体を戯画化して表せるからだったのだろう。


 虚飾とタテマエ
(cf.「オトナ語の謎。」)



 んで、日本では美少女コンテストやってるのかなぁ、ってちょっと気になって調べてみた。


Yahoo! JAPAN - 第11回全日本国民的美少女コンテスト特集


 そういえば日本にはこれがあったな。。


 でも、いちお年齢制限があるらしい(12〜20歳まで)


 ロリコン王国な日本で年齢制限もないだろう、って感じなんだけど、コンテスト当初はそういうのを気にしたのかなぁ。。




 調べてるときに「昨今のロリ傾向はハロプロの影響では?」という記述を見かけた。やはりそうなのだろうか...。


 つか、あれってかなり精神衛生的に問題あるよなぁ。。


 それで「所持禁止」って感じで法令改正していってるみたいだけど

赤尾晃一の知的排泄物処理場(わかば日記) 単純所持の処罰化キタキタ

弁護士山口貴士大いに語る: 【児童ポルノ法】U-15グラビア過激化 9歳のTバックアイドル登場【提供罪の恐怖】【単純所持規制の恐怖】


 これはこれでけっこう問題げ。




 あまり関係ないけど、オレと同じ年代の♀が小っさいコの動画撮っててもほほえましくスルーされるのに、オレが撮ると「...問題ですよ?」とか言われるのは承服しかねる.....



(承服 - 笑福 - 笑福亭鶴瓶)




--
関連(ってか、「あわせて読みたい」):

藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 強い彼女

※「人生でもっとも重要なときは悩んでいる時期だ」関連で。


 
 
posted by m_um_u at 13:15 | Comment(2) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月07日

ひぐちアサ、2001、「ヤサシイワタシ」

 雨宮さんの影響でこれを読んでみた。


ヤサシイワタシ 1 (1)
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サブカル女(今なら『文化系女子』と言ったほうが通りがいいのかもしれませんが、それよりはもう少し俗っぽく、きちんと勉強や研究はしていなくて、うすっぺらで、野蛮な感じの若い女。のことです)の自意識過剰さや、根拠のない自身やプライドとその行方について、これでもかというほどぎりぎりの部分まで突っ込んで描かれていて、本気でこれは「ワタシ」の話だな、という感じがしました。



 という紹介にもあるように前半部はそんな感じ。ある種の人たちにとっては痛くて恥ずかしいマンガなのだろう。

 その辺の感覚について。ぼくは良く分からないので前半部はそれほど引き込まれるものはなかった。むしろ、「ウザイな」、と。

 いわゆる「めんど臭い女」ってやつだ。


 雨宮さんの紹介にもあるように、このタイプの人は自分は努力しないし努力しても空回り的なものが多いのに、それ以上のことを周りに求めたり、周りに対しては辛らつな意見や態度を示したりする。


 つまり、周りや社会に対する要求が大きいのだ。


 ある程度の距離をとっている分には、「エキセントリックな人だなぁ」、ということでよいのだけれど、仲良くなってそれなりに深い話をしだすとちょっとめんどくさい。

 「なんで?」とか「どーしてー?」とかは多いのに自分で調べようとしない。他人に意見を述べさせそれを否定するが、自分はたいしたことは言わない。(重複するが)人へは厳しいのに自分には甘い。心の中で「私はカワイイのでなんとかなる」、とか思っている。あるいは、「カワイイ」、の部分については表面上では謙虚な態度を示すがやはり社会をなめていて「わたしは将来○○で××な暮らしをするんだぁ」とか努力もしないのに言ってたりする。でも、他人はそんなに幸せになるとは思っていない。(あるいは他人の成功観についてはシビア)



 こういうのは傍から見てるとイラつく



 表題になぞらえれば、「(自分に対して)ヤサシイワタシ」なのだ。

 こういう人たちは「誰もワタシを分かってくれない」とは思っていても、他人の心の内を理解しようとはしない。



 で、それに対して、この人の相方を務めることになった芹生(1歳下の♂)はしごく正論な意見でツッコミを入れていく。

 けっしてキツイ口調ではなくやんわりと、「でも、それってどうなの? (他の人にもうちょっとやさしくできるんじゃないの?)」、「そういうことができるアンタが好きだよ」、って。


 芹生のほうにはかなり感情移入した。まぁ、いろいろと...(以下略)


 
 
 で、物語が動くのは後半(2巻)


 
 できるだけネタバレにならないように概説すると、「ヤサシイワタシ」に周りがヤサシクできなくて問題が生じる。それを受けて、芹生の中に大きな穴が開く。


 「オレはもう少しあの人にヤサシクできなかったのかな」

 「オレがあの人に厳しかったのは、がんばる自分に合わせてがんばってくれる人を側に置きたかったからだ」
  

....って。



 
 こういう意識がいまでもあるのでその辺りを指摘されたようで少しドキッとした。「がんばってない人を見るとモチベーションが下がる」ので....だから、がんばれる条件は整ってるのにがんばってない人を見るとイラつくのかもしれない。


muse-A-muse 2nd: 格差を巡るデフレスパイラルから抜け出すには・・・


 でも、がんばれない人もいるし、がんばっても空回りする人もいるのだろう。そして、そういう人たちは表面上は明るくつくろいながら、夜の闇の中で批判の煉獄に身をさらしているのかもしれない....。そして、なによりそういう意識をぼくが持っていたのは「自分のため」だったのだろう..。



 驚きだったのは後半の芹生といとこの澄緒ちゃん(♀、中三)との展開。


わたしが安心させるから

いっしょに帰ろう



 なんてセリフ、中学生に吐けるものなのか、とか思った。


 このセリフには文脈から2つの解釈があるように思うのだけれど、ぼくは母性のようなものを感じた。 ということは、けっきょく芹生が求めていたのは母性だったのだろうか...。あるいはがんばって生きる。とか、「正しく生きる」みたいな支えのようなものか





 そしてフィナーレ


(『「ヤサシイワタシ」を許容するぐらいに「私」や世界がもうちょっとやさしくなればいいのに』)






........なんかいろいろ考えさせられた。







 ひぐちアサというと、「ゆくところ」(@「家族のそれから」)もすごかった。



家族のそれから
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 「ゲイ」「障害者」「アル中」「家族離散」というマイノリティ4連コンボという難しい題材を扱いつつ、そういった人々(特にゲイ)のびみょーなリアリティをここまで直裁に描いている作品はほかにないのではないだろうか? (寡聞ながら)



 そして、ひぐち作品に共通する説明的セリフのようなものの排除。できるだけ生活言語に近い形でリアリティを表現している。


 その中で、ネーム的にもいくつかの解釈が分かれる場面が出てきたり..。


 (詳しくは語らないが)


おやこのかえるだよ



 の解釈には「プラスとして捉えるか / マイナスとして捉えるか」の2つがある(ということは「あとがき」で作者も触れてましたな)


 ぼくはプラスとして捉えたけど...(そして、それをマイナスとして捉えた親によって咎められたのだろう)





....ほんとに、びみょーな古傷を衝いてくる作家だ...。





 「おおきく振りかぶって」はそういった文脈から出てきたにしては世間受けしてるみたい。たしかに、見てみるとひぐち的な課題(「信じるということ」 ⇒ 「コミュニティ(関係性)の再構築」)が引き継がれつつもエンタメとして成立している。


 これは編集の力に因るものかと思っていたけれど、リンク先雨宮さんによるとどうも違うみたい。


 とりあえず、「おお振り」を読み返してみよう

 
 
posted by m_um_u at 21:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年05月10日

フランク・ゴーブル(著)、小口忠彦(監訳)、1972、「マズローの心理学」

 先日来、このblogでは人間の善性というか、関係性や公共性を志向する人間の心のようなものを課題とし、それがどこから来るのか、その契機のようなものを探り育むことは可能なのかどうかちょこちょこ考えているわけだけど、前回のエントリではちょっと失敗したように思う。


muse-A-muse 2nd: 「<場>の歴史性」と関係性の代替可能性について


 やはりartisticなものへの志向性はどちらかといえば個的なものというか、志向性としては自らの深奥を目指すものなので社会的関係性は二次的なもののように思う。なのでその部分との接続にはムリが生じたのだろう。

 でも、エントリの後段で出てきた課題、


「関係性への志向の分節にはどういった種類があるか」、「それはどのようにして根付いていくか」


 は有効であるように思うし、まだその線は生きていると思うのでこのラインで思考を続けてみることにした。んで、この本を読んだわけだけど。



マズローの心理学
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 結論から言うとびみょーだった。


 んで、感想とか書く前に簡単なおさらいから。


〜 マズローの欲求段階説 〜


 マズローの心理学で特に有名なのは、 

「人間の欲求は5段階に分かれてて、精神が成長するに従って提示のものから高次のものへ移っていく。すなわち、生理的欲求 ⇒ 安全の欲求 ⇒ 親和の欲求 ⇒ 自我の欲求 ⇒ 自己実現」、

 って流れで、それぞれの説明としては、

生理的欲求と安全の欲求は,人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求,親和の欲求とは,他人と関りたい,他者と同じようにしたいなどの集団帰属の欲求で,自我の欲求とは,自分が集団から価値ある存在と認められ,尊敬されることを求める認知欲求のこと,そして,自己実現の欲求とは,自分の能力,可能性を発揮し,創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求のことです


 って感じになる。

 それぞれの欲求の関係は「段階(レベル)」的なものとして設定されていて、「生理的な欲求」のような自己を中心とした低次の欲求がだんだんと欲求の幅を広げ、他人との関係を志向し、その関係との対照として自己の本当の幸せのようなものに目覚めていく」、って感じの物語が作られていた。

 それぞれの欲求は不可逆的な従属関係にある、と。より高次の欲求を身に着けるためにはその前段階として低次の欲求を身に着けていなければならないということになるらしい。つまり、「自己実現」のような高次の欲求の課題に取り組んでいる人は当然のようにその前段階の欲求課題は克服し、身に着けている、と・・。


 この辺ですでにびみょー感があるわけだけど、まぁ、1960〜70年代の考えだから仕方がない。これ自体は悪意ないし、分かり易いしね。そして、前回エントリでもなんとなく思ってた通り、やはりこの説は未完成な、とりあえずの視点(パースペクティブ)として捉えたほうがよさげ。「未完成だから使えない」ってわけじゃなくて「未完成だから考える余地がある」って感じ。




 では、以下、簡単なまとめ(というか読後の印象)



▽「良かった」と思う点


(a). 従来の心理学における「科学」的アプローチでは相手にしない「価値」の問題に正面から挑んでいること


(b). 「成功者」というか「自己実現して(自分の内部の可能性を従前に活かして)楽しく過ごしている人」を成功モデルとし、その人たちの共通点を探ることから「自己実現の契機」を探ろうとしていること





▽「悪かった」と思う点


(d). 成功モデルからの成功要素の抽出が中途半端。成功するまでの社会的通念と自己の信じる価値観との葛藤を描くことが重要だと思うのだけれど、その部分については抽出できていない。結果として、巷にあふれているビジネス書と同じような表層的な答えしか返ってきていないのではないか?


っていうか


(e). 善悪二元論を与件として設定(つまり「善」的な価値が成功への近道という結論を最初から設定)していることによって研究が薄っぺらなものになってしまっている。
 おそらく、上記の成功モデルの抽出時にもこのような与件を設定しつつインタビューに当たったため、自己実現にかかわる多様な要素を聞き取れなかったのだと思う。

(モデル先行型研究の悪例)





 だいたいそんな感じ。


 本書を読むにあたっての課題である「関係性への志向性の契機」との関連で一番気になったポイントとしては、(d)で少し指摘した「成功するまでの社会的通念と自己の信じる価値観との葛藤」の部分の描写(あるいはサンプルからのデータの抽出)が重要だったんだけど、その辺についてはなんか、「・・失敗しちゃった(テヘ)」、みたいな感じだった。

 もっと具体的に言えば、自己実現するタイプの人というのはどうも社会善的な思考と親和性が高く、結果的にそっちのほうを志向する傾向があるみたいなんだけど、その過程でいわゆる世間知的なものと対立することがある。公共善的(パブリック)な考えとしては正しくても学校や家庭など狭いコミュニティのルールには適さないものははじかれてしまう。

 それで往々にして「おまえだけ皆と違う考えするのかよー?(合わせろよ)」みたいな同調圧力がかかり、「みんなから嫌われたくないな」という相互承認欲求からこの圧力に屈するわけだけど。そういう場面に遭遇しても公共善的な志向性が折れなかったとしたらその理由はどのようなものだったか?

 あるいは、その志向性が公共善のような「社会(あるいは世界)的正しさ」につながっている必要もなくて、とりあえず自分の中に「世間体」みたいなものとは別のある「正しさ」の基準があるとして、そういったものを世間体(世間知)的な圧力に屈せずに残していけた経緯(自信の根拠)みたいなものに興味があったわけだけど、その部分については触れられていなかった。



 どうも、「成功した経営者にインタビューしたけど照れて答えてくれなかったんだよねー」、って感じで。「照れて」かどうかは分かんないけど経営者からその部分のインタビューが取れなかったというのは確か。理由としては(e)でも少し書いたように、「結論先行型のインタビューを試みたために答えを誘導したのかな」、ってのがひとつあるんだけど、ほかに、「経営者自身がその辺の葛藤を忘れてしまったのかな」、というのもある。

 人間誰しもあることだろうけど、ペルソナだかなんだかの関係で昔の自分とは考えが違ったりするので、昔の思いを忘れることもあるのかなぁ、って。(っつってもよっぽど悔しいこととかは覚えてるものだが)





 あとは、おそらく善悪二元論を設定したことによる与件の問題を強く感じた。

 「エゴ」と「社会的通念」の関係を考えると、通常、特定コミュニティを守るための蓋然的なルールである社会的通念(cf.世間体)のほうがエゴイスティックな欲求よりも上位に置かれ、特定コミュニティにとっては前者は善のルール、後者は悪のルールとして設定される。


 しかし、「人間の自由」ということを考える場合、「エゴ」に向き合い、その部分の可能性を開放させることこそが自己実現(自己の可能性の開放)につながるのではないか?


 もちろんただエゴを開放すれば言い訳ではなくて、社会との接点を探すことが重要だと思うけど・・

(そのために社会とのコミュニケーションのメディウムとして「言葉」「論理」がある)



 そう考えると「自己実現」の研究で注目すべきなのは社会的に「悪(エゴ)」と思われていることがいかなる契機を伴って「善」的なもの、あるいは社会との関係性を志向するものに変化していくか、その過程を検証することだと思うのだけれど、その部分についての記述が見当たらなかった・・。




 最近の課題として、個人的にはこの辺りに「善 / 悪」とか「勤勉 / 怠惰」「論理 / 非論理」とかいった軸のほかにもっと多様な要素が絡むような気がしている。

 

 たとえば大きなコミュニティのとっては悪とされるものでもそれより下位のコミュニティにとっては善だったり、一般にエゴ(わがまま)とされ糾弾されるような反社会的行動でも人間の本来の欲求の開放(自由)というところでは意味のあるものだったり・・
(「少なくとも自分は裏切っていない」という意味で)。

 そして、そこにその日の気温とかなにかの匂い、音や手触り、もしくはごく個人的な悲しさや悔しさ、うれしさや怒りのような感情が関わってくる。(cf.「異邦人」)


 そういったものの総体として人間の思考や決定があるのだろう。


 
 その中でなんらかの形で善性が育まれる・・あるいは再帰的に善性を選択していく。そのようにして選ばれた善性こそ押し付けられたものとは違った芯のある本当の強さを持ったものだと思うのだけれど・・・それが生まれていく契機が分からない。



 なんとなく思うのは「・・やっぱ余裕かな」ってことだけど、これもいまひとつはっきりしない。

(おそらく金銭的あるいは十分な信頼によって生まれる余裕 = 幸福感)




 「そういった余裕のないところでも善性は生まれるのか?」「それは自らのエゴを殺したものではないのか?」


 この辺がいまのところの課題、か




 そういうわけでこのシリーズはもうちょっと続きます(たぶん)




--
関連:
田口ランディ公式ブログ : 罪悪感


※原爆を作るのも人間、「原爆から生き延びてしまった」と嘆くのも人間。人は普遍的に他人への優しさをもっているものなのだろうか




痛いニュース(ノ∀`):匿名男性、荒れ地を時価総額20億円の植物園に変えて寄付


※「金ではなく花を」 (これも人間)




トランスパーソナル心理学 - Wikipedia






--
追記(2007.5.11):

あと、「自己実現」の段階にいる人は物事に対して高いモチベーションを保てるらしいんだけど、そのことと善性への志向(あるいはなんらかの社会関係への志向)とがどのように関係しているのかという部分の記述がびみょーだった。

<自己実現できる人間というのはより大きな規範(公益や善性に通じる規範)に通じることによって、自らの行動選択に対して良心の呵責を負わなくなる>

という主張はなんとなく分かって、それが「モチベーション ⇒ 脳資源の発動」という回路におけるボトルネックを除いているんだろうなぁ、となんとなく推察された。でも、このときの内部規律の部分である「良心」というものがどのように形成されるのか、という部分の記述がびみょー、っつーかなかった。

「善への志向はデフォルトだよ」って感じ


「自己実現系の人は元々、感受性や想像力などのアンテナ部分が発達している」ということなのでそこから勝手に推測すると、アンテナによって公的な規範(善性)を勝手にキャッチして、そこから類推して自分なりに公益的規範というものを組み立てる、ということなのだろう。んで、結果的にそれが最上位の社会的規範に通じる、と。

最上位の社会的規範に通じているわけだから、日々の行動に対して逡巡がなくなる。っつーか、この手の人たちは自分の行動規範に沿った職業を選択し、成功していくわけだから自分の考えを通せるポジションに居ることが多い。なので、その手の逡巡がないのだろう。

でも、そういう人もそのポジションをつかむまでにはそれなりの苦労というか、社会的通念(小さなコミュニティの規範・偏見)との戦いのようなものがあったはずで、実はその部分の葛藤をどのようにして克服していったか、というところがこの手のサクセスストーリー系話のポイントだと思うのだけれど、その部分の記述はいまのところ見つかっていない。




ここでひっかかってるのは、善的な志向(ボランティアな精神)とは逆にエゴイスティックな内部規律が発達してもよさそうなのに、ということ。最終的に世間知とはとは異なる規範を身に着けていくわけだから周りのルールに合わせる必要はなく、最も自己の生存にとって適した規範を身に着けていくことこそ合理的なはず。

でも、そのやり方だと十分な社会的地位のようなものをつかむまでは周りからの圧力が強くなる、か。(そして、それを気にしてモチベーションが下がる?)


じゃあ、やはり善的な志向は周囲の期待に応えるために発達していく、ということになるのか・・。


でも、ある段階で自律的な志向性に変わるように思うんだけど、そのとき自己のエゴと公的な規範(道徳?)とのバランスをどうとるか・・。その辺りが課題っぽい


 
 
あるいは、至高体験となんらかの関係があるのかもしれない。自己実現な人は少なからず至高体験があるみたいなので。至高体験というのは(ちょっとニューエイジっぽくなるが)世の中の全てに対して「是」といえる時間というか、認識速度が極度に高まっているときというか、そんなの。「真・善・美をダイレクトに実感できる瞬間」といってもいい。(「認識」を通り越して「実感」)


たしかに至高体験の快(エロス)が誘因となって善的な方向に向かうというのはあるように思う。だとすると善への志向というのは生得的なプログラムということになるのだろうか。


はてなの説明では、「生まれながらに持っている自己実現の達成欲求が実現している瞬間の興奮」、ってことになってるけど、やはり達成欲求が「生まれながら」になのかどうかはびみょーな感じがする。(マズロー的にはそうなのもかもしれないけど)


だとすると、「エゴ(個)は遺伝子とか群淘汰的なプログラムから自由ではない」、ということになりそうなので。


といっても、自由でなくても快(エロス)があればよい、ということなのかもしれないけど。



そして、至高体験の汎用性(万人にあるものなのか?)というところがびみょー







・・もうちょっと考えてみよう

 
 
 

posted by m_um_u at 21:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年05月02日

九鬼周造、1930、「いき」の構造

「いき」の構造 他二篇
九鬼 周造
岩波書店 (1979/01)
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 さっき読み終わった。んで、結論というかおーざっぱな感想として。

 これっていま話題の非モテとか非コミュとかそういうの全部ぶった切れる考え方なんじゃないの? なんか相互承認圧力とか同調圧力みたいなののかわし方みたいなのも書いてあった気がしたし・・。あと、非モテの中でも「モテたいけどモテない」系の人たちの悩みの「甘え方」というか「隙の見せ方」みたいなのにも触れてたし・・(いわゆる「モテ仕草」)。で、そういったモテ仕草をしてもわざとらしくないようにするためにはどうすればいいか?、ってのが粋の極意っていうか美学。

 こういうのが生まれたのって日本は昔から(というか昔のほうが)異性間コミュニケーションの盛んな国だったからかなぁ・・それで色恋の些細な部分まで分節化して概念(名前)が付いてるんだよなぁ。まぁ、「なんで色恋が盛んになったか」、はまた別の話なんだろうけど。


 っつーか、個人的には「御家人斬九郎」に全てが詰め込まれていたように思うんだけど・・とりあえず、以下だらっと書評のようなものです。


青空文庫:九鬼周造 「いき」の構造



 まず、はじめのほうで<「いき」とはなにか?>ということについて。これは結局、差異とか類似の中で決めてくしかないので、「粋じゃないもの」とか「この場面のこの行動は“粋”って言われてるよね?」みたいな感じで扱ってくしかないわけで、その辺のところは九鬼も最初のほうでお断りしてる。

我々は「いき」の理解に際して universalia の問題を唯名論の方向に解決する異端者たるの覚悟を要する。すなわち、「いき」を単に種(しゅ)概念として取扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直観」を索(もと)めてはならない。意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得(えとく)」でなくてはならない。我々は「いき」の essentia を問う前に、まず「いき」の existentia を問うべきである。一言にしていえば「いき」の研究は「形相的」であってはならない。「解釈的」であるべきはずである



 で、そんな「粋」なわけだけど、これは日本語圏(特に江戸?)の特殊概念みたいで、フランス語の「esprit」に当たる言葉がほかの文化圏ではないように「粋」という概念に当たる言葉が他の文化圏にはない。「sickとかけっこういい線いってる感じがするけどなんかびみょーに違うよねぇ」、と。

 その違いがどの部分から出てくるかというとどうも武士道とか無常観に繋がるみたい。うたかた的無常観と武士道的諦観があるので「粋」ってものが光り輝いてくる、みたいなの。

 まぁ、なんのこっちゃ?、って感じなんだけど、ぼちぼちみていこう。


 その前段階として、粋の構成要素として「媚態」ってやつがある。異性との関係(いろごと、いきごと)において、双方が甘えというかアプローチがかけられやすいように隙を見せる例のアレだ。

 まず内包的見地にあって、「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である。異性との関係が「いき」の原本的存在を形成していることは、「いきごと」が「いろごと」を意味するのでもわかる。「いきな話」といえば、異性との交渉に関する話を意味している。なお「いきな話」とか「いきな事」とかいううちには、その異性との交渉が尋常の交渉でないことを含んでいる。


 現代風に言うとモテ仕草とかモテのためのサービスというか意識というかそんなのが当たるように思う。

媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定(そてい)し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。いわゆる「上品」はこの二元性の欠乏を示している。


 相手が自分に求めているであろう「異性らしさ」みたいなのを演出するのが「媚態」と。「上品」過ぎるとこの甘え(隙)の部分がなくなってしまう。

 で、そんな媚態(モテ仕草 / 意識的「甘え」の表出)は、粋な関係の終了とともに消えていく

そうしてこの二元的可能性は媚態の原本的存在規定であって、異性が完全なる合同を遂(と)げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである。


 そういった関係の(一応の)最終的な目的である「合同」が遂げられてしまうと異性間の緊張関係は消えていってしまう、と。要するに寸止めの美学な訳だが、もうちょっと言うと中庸の美学といってもいいように思う。過剰と過不足の2つの極点があるとして、その間の位置でバランスをとってゴールにたどり着かない緊張感を愉しむ(終わらないゲームを愉しむ)という要素が、「粋」の性格としてまず挙げられる。

媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。


 それで、このゴールにたどり着かない間隔については、たどり着きそうなのにたどり着かないぐらいのバランスがちょうどいい、と。(斬九郎的には蔦吉と斬九の関係とかがモロにそれ)



 んで、次に「粋」の構成要素として挙げられるのが「意気地」。「粋」は「意気」である、と。具体的には江戸っ子気質的な気風のよさとか、武士道的な潔さがそれに当たる。

意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている。江戸児(えどっこ)の気概が契機として含まれている。野暮と化物とは箱根より東に住まぬことを「生粋(きっすい)」の江戸児は誇りとした。「江戸の花」には、命をも惜しまない町火消(まちびけし)、鳶者(とびのもの)は寒中でも白足袋(しろたび)はだし、法被(はっぴ)一枚の「男伊達(おとこだて)」を尚(とうと)んだ。「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳(たつみ)の侠骨(きょうこつ)」がなければならない。


「いき」のうちには溌剌(はつらつ)として武士道の理想が生きている。「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」の心が、やがて江戸者の「宵越(よいごし)の銭(ぜに)を持たぬ」誇りとなり、更にまた「蹴(け)ころ」「不見転(みずてん)」を卑(いや)しむ凛乎(りんこ)たる意気となったのである。


 それだけだと「男のマロンか?」ってことになって甘々な感じなんだけど、江戸の遊女的な客選び(「武佐(野暮)お断り」)みたいなのもここから来た

「傾城(けいせい)は金でかふものにあらず、意気地にかゆるものとこころへべし」とは廓(くるわ)の掟(おきて)であった。「金銀は卑しきものとて手にも触れず、仮初(かりそめ)にも物の直段(ねだん)を知らず、泣言(なきごと)を言はず、まことに公家大名(くげだいみょう)の息女(そくじょ)の如し」とは江戸の太夫(たゆう)の讃美であった。


 これによって、金銭によって春を売るという傾城な世界がひとつの格のようなものを獲得した、と。


 ポイントは以下だろう。

「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。


 甘々な媚態交換だけだと「相互依存的な関係と何が変わらないの?」って感じだけど、そこに上記したような潔さ(自立心)が加わることによって一種の格のようなものを醸し、それが粋のコミュニケーションの緊張感の元となる。

 で、ここに第三の要素「諦め」が絡んでくる。

 これは主に傾城のその身をやつした苦界の女たちの心情として語られていく。


「このような身の上で人に恋焦がれることができるだけでも幸せ」

「男の心が移り気なのも浮世の定め」


 そういった心情というのは現代における自己評価の低い女史の方々の心情と重なるところがあるけど、そこからの諦観へのジャンプというのは苦界の女たち独特のものではないのか?

「いき」の「諦め」は爛熟頽廃(らんじゅくたいはい)の生んだ気分であるかもしれない。またその蔵する体験と批判的知見とは、個人的に獲得したものであるよりは社会的に継承したものである場合が多いかもしれない。それはいずれであってもよい。ともかくも「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが否(いな)み得ない事実性を示している。


 ともかくも「粋な女たちは諦観をもっている」、と。

そうしてまた、流転(るてん)、無常を差別相の形式と見、空無(くうむ)、涅槃(ねはん)を平等相の原理とする仏教の世界観、悪縁にむかって諦めを説き、運命に対して静観を教える宗教的人生観が背景をなして、「いき」のうちのこの契機を強調しかつ純化していることは疑いない



 そういえば落語なんかに出てくる遊女達も仏教的世界観もってたな(「三千世界の烏」とか)。そこに救いと諦観(平穏)を求めたのかなぁ。


 で、ここまでの概括

以上を概括すれば、「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。この第二および第三の徴表は、第一の徴表たる「媚態」と一見相容(あいい)れないようであるが、はたして真に相容れないであろうか。さきに述べたように、媚態の原本的存在規定は二元的可能性にある。しかるに第二の徴表たる「意気地」は理想主義の齎(もたら)した心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供(ていきょう)し、可能性を可能性として終始せしめようとする。すなわち「意気地」は媚態の存在性を強調し、その光沢を増し、その角度を鋭くする。媚態の二元的可能性を「意気地」によって限定することは、畢竟(ひっきょう)、自由の擁護を高唱するにほかならない。第三の徴表たる「諦め」も決して媚態と相容れないものではない。媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、かえって媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。媚態と「諦め」との結合は、自由への帰依(きえ)が運命によって強要され、可能性の措定(そてい)が必然性によって規定されたことを意味している。すなわち、そこには否定による肯定が見られる。要するに、「いき」という存在様態において、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」とによって、存在完成にまで限定されるのである


 まず「媚態」があるわけだけど、これに対して「意気」とか「諦め」ってのはベクトル違うんじゃねぇの?、と。

 「媚態」の場合は甘々で相手の方向に矢印が向いたコミュニケーションになるけど、「意気」とか「諦め」ってのは一見すると相手とは逆方向の(相手を跳ねのけるような)矢印に見える。それってどうなの?、ってことなんだけど・・

 「媚態」と「意気」の関係についてはさっきもちょっと書いたように、「意気」があるからこそ「媚態」が単なる甘々な依存関係に陥らずにある程度の緊張関係が保たれる。「意気」は自立の気持ちの表れってことだろう。これによって共依存とか相互承認みたいなウザったい圧力から免れ自由になることができる、と。

 では「諦め」の場合はどうか?

媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、かえって媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである


 「媚態」を「意気」によって統制することによって緊張関係が保たれるわけだけど、そういった関係ってのは緊張関係であるがゆえに壊れることもある。その損失に固執しないために諦観が必要である、ということか。

 あるいは、そういった「粋」というフィクションを蓋然的なゲームのルールとして利用することによって、「惚れたお前が悪いのよ」って気取る場合もあるわけだけど

「粋な浮世を恋ゆえに野暮にくらすも心から」というときも、恋の現実的必然性と、「いき」の超越的可能性との対峙(たいじ)が明示されている。「粋と云(い)はれて浮いた同士(どし)」が「つひ岡惚(おかぼれ)の浮気から」いつしか恬淡洒脱(てんたんしゃだつ)の心を失って行った場合には「またいとしさが弥増(いやま)して、深く鳴子の野暮らしい」ことを託(かこ)たねばならない。「蓮(はす)の浮気は一寸(ちょいと)惚(ぼ)れ」という時は未だ「いき」の領域にいた。「野暮な事ぢやが比翼紋(ひよくもん)、離れぬ中(なか)」となった時には既に「いき」の境地を遠く去っている。そうして「意気なお方につり合ぬ、野暮なやの字の屋敷者」という皮肉な嘲笑を甘んじて受けなければならぬ。およそ「胸の煙は瓦焼く竈(かまど)にまさる」のは「粋な小梅(こうめ)の名にも似ぬ」のである。


 そこで泣かないのが「意気」なプライドだし、忘れっちまうのが仏教的諦観(うたかた)ってやつか。それはそれで立派で強く「粋だね」って言うしかないだろうけど、なんか悲しいな。



 以上の3つ(「媚態」「意気」「諦観」)が粋を構成する要素だとすると、粋と似たようなところにあって違うものとはなにか? それらとの対比を通じて粋の性質を浮かび上がらせることができるのではないか?

 で、用意された要素が「意気 / 野暮」、「甘味 / 渋味」、「地味/ 派手」、「下品 / 上品」。


 結論を言ってしまうとこれらの要素の中庸どころを抑えている「粋人」として文句なしってことになるんだろうけど・・そううまくもいかないのが世の常っていうか(ごにょごにょ)


 まぁ、とりあえず、以下それぞれと粋の関係について、ポイントと思ったところの抜粋から。まず上品と下品の関係があるわけだけど

上品、下品の対立は、人事関係に基づいて更に人間の趣味そのものの性質を表明するようになり、上品とは高雅なこと、下品とは下卑(げび)たことを意味するようになる


 まぁ、これはそのまんま。

 これに対して、冒頭でもちょっと出たように、上品と媚態の関係ってのがある。「上品過ぎる(隙がなさ過ぎる)と異性が寄って来ないよ」、ってやつ。この辺について

「いき」と上品との関係は、一方に趣味の卓越という意味で有価値的であるという共通点を有し、他方に媚態の有無(うむ)という差異点を有するものと考えられる。また、下品はそれ自身媚態と何ら関係ないことは上品と同様であるが、ただ媚態と一定の関係に置かれやすい性質をもっている。それ故に、「いき」と下品との関係を考える場合には、共通点としては媚態の存在、差異点としては趣味の上下優劣を理解するのが普通である。「いき」が有価値的であるに対して下品は反価値的である。そうしてその場合、しばしば、両者に共通の媚態そのものが趣味の上下によって異なった様態を取るものとして思惟(しい)される。たとえば「意気にして賤(いや)しからず」とか、または「意気で人柄がよくて、下卑た事と云(い)つたら是計(これっぱかり)もない」などといっている場合、「いき」と下品との関係が言表(いいあら)わされている。


 どうも「上品 / 下品」の中間地点に位置するのが「粋(媚態)」ということらしい。あと、「上品も度が過ぎると下品になることがある」、とか。この辺はハイソな慇懃コミュニケーションのことをさしてるのかな?


 次に「派手 / 地味」について

派手、地味の対立はそれ自身においては何ら価値判断を含んでいない非価値的のものである。対立の意味は積極的と消極的との差別に存している。


 これ自体は「善い/悪い」はないが・・むしろ派手は媚態を示しやすいので粋と親和性を持っているともいえるのだが・・

派手の特色たるきらびやかな衒(てら)いは「いき」のもつ「諦め」と相容れない。江戸褄(えどづま)の下から加茂川染の襦袢(じゅばん)を見せるというので「派手娘江戸の下より京を見せ」という句があるが、調和も統一も考えないで単に華美濃艶(かびのうえん)を衒う「派手娘」の心事と、「つやなし結城(ゆうき)の五ほんて縞(じま)、花色裏のふきさへも、たんとはださぬ」粋者(すいしゃ)の意中とには著しい隔(へだた)りがある。それ故に派手は品質の検校(けんこう)が行われる場合には、往々趣味の下劣が暴露されて下品の極印(ごくいん)を押されることがある


 媚態を過剰に演出しすぎて下品になることがあるので注意、と。反対に地味は「上品」と同じ感じで、消極的過ぎて他を寄せ付けない嫌いがあるので注意が必要、と。


 次に「意気 / 野暮」について。前者2つの区別と違って、異性間コミュニケーション(粋の領域)において「意気 / 野暮」はどちらがよいのかということについては明白。具体的には

「いき」はさきにもいったように字通りの「意気」である。「気象」である。そうして「気象の精粋」の意味とともに、「世態人情に通暁すること」「異性的特殊社会のことに明るいこと」「垢抜(あかぬけ)していること」を意味してきている。


 男女の機微を知れ、と。

 でも、敢えて野暮を自称する場合もあるらしい。

 もとより、「私は野暮です」というときには、多くの場合に野暮であることに対する自負が裏面に言表されている。異性的特殊性の公共圏内の洗練を経ていないことに関する誇りが主張されている。そこには自負に価(あたい)する何らかのものが存している。「いき」を好むか、野暮を択(えら)ぶかは趣味の相違である。絶対的な価値判断は客観的には与えられていない。


 いわゆる「非モテ」ってやつだが。本書では「そういうのもありだよねー」としつつも「粋人の世界では通じないけどね」的な言明で終わりにしてる。たぶん江戸にも非モテはいたのだろう(っつーか春画みりゃ分かるわな)


 対して「渋味 / 甘味」の場合。これは「非コミュ / コミュ」な関係なわけだけど、これについては価値判断はないんだそうだ。

渋味―甘味は対他性から見た区別で、かつまた、それ自身には何らの価値判断を含んでいない。すなわち、対他性が積極的であるか、消極的であるかの区別が言表されているだけである。


対他性上の区別である渋味と甘味とは、それ自身には何ら一定の価値判断を担(にな)っていない。価値的意味はその場合その場合の背景によって生じて来るのである。



 ただ、これが異性間コミュニケーションの軸に載ってくると話が違ってくる。異性間(粋の)コミュニケーションでは「甘味」がデフォルトなので。

さて、渋味と甘味とが対他性上の消極的または積極的の存在様態として理解される場合には、両者は勝義において異性的特殊性の公共圏に属するものとして考えられる。この公共圏内の対他的関係の常態は甘味である。「甘えてすねて」とか「甘えるすがた色ふかし」などいう言葉に表われている。そうして、渋味は甘味の否定である。


 「甘味」っていうか「媚態」がデフォルトってことだろう。そういうのがないとゲームが進まないということか。

 で、ここでポイントなのが「渋味」と「地味」の違いについて。「地味」は「派手」の対概念として「質素でけっこうだけど上品だから人を寄せ付けないかもね(媚態がないよね)」って欠点を持ってたんだけど、それと「渋味」の違いはどこにあるのか

渋味と地味とは共に消極的対他性を表わす点に共通点をもっているが、重要なる相違点は、地味が人性的一般性を公共圏として甘味とは始めより何ら関係なく成立しているに反して、渋味は異性的特殊性を公共圏として甘味の否定によって生じたものであるという事実である。したがって、渋味は地味よりも豊富な過去および現在をもっている。渋味は甘味の否定には相違ないが、その否定は忘却とともに回想を可能とする否定である。逆説のようであるが、渋味には艶(つや)がある。


 あれ?さっき渋味とかは非コミュって感じで「異性的コミュニケーションの軸に属してない限りは別にいいんじゃない?」って言ってなかったっけ?・・オレの読み違いか・・・?

・・まぁいいか(うたかた)。とりあえず異性とのコミュニケーションにおいては渋味のほうが地味よりも経験値積んでるってことらしい。それで甘味を通り越した渋味には艶が出てくる、と。

荷風の「渋いつくりの女」は、甘味から「いき」を経て渋味に行ったに相違ない。歌沢(うたざわ)の或るもののうちに味わわれる渋味も畢竟(ひっきょう)、清元(きよもと)などのうちに存する「いき」の様態化であろう。辞書『言海』の「しぶし」の条下に「くすみていきなり」と説明してあるが、渋味が「いき」の様態化であることを認めているわけである。そうしてまた、この直線的関係において「いき」が甘味へ逆戻りをする場合も考え得る。すなわち「いき」のうちの「意気地」や「諦め」が存在を失って、砂糖のような甘ったるい甘味のみが「甘口」な人間の特徴として残るのである。国貞(くにさだ)の女が清長(きよなが)や歌麿(うたまろ)から生れたのはこういう径路(けいろ)を取っている。


 甘々な恋愛関係を卒業してそれなりに経験値を積み、恋愛あるいは人生に対して独特の観方ができるようになった人には艶が出てくるということらしい。(甘栗のような艶が?)


 以上が大体の「粋」の構成要素ということになる。


 で、ここまででちょっと不安なのはこの要素全部満たさないと「粋」じゃないの?、ってこと。特に後半。


 前半の3要素(「媚態」「意気」「諦観」)はなんとかなるとして、後半の要素ってなんかびみょーな感じがする。九鬼自身も「価値的判断じゃないから個人個人の価値って感じでいいよ」みたいなこと言ってたし・・。

 てか、個人的には内包的要素としては「媚態」のとこに自信ないし、「渋」いし「地味」だしどうなんだ?、って感じなんだけどどうなんだ?


 ここで出てくるのが有名な『「いき」の構造』図(こんなの↓ ※クリックで拡大)



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 これを見ながら「渋い?」とか「野暮?」とかてきとーに脳内演算しつつ、自分がどの位置にいるかを図で確認、それぞれの位置の性質を以下を参照することによって自分の「粋人度」が分かるらしいぞ!(さぁ、みんなもやってみよー)

「さび」とは、O、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角※(さんかくちゅう)[#「※」は「つちへん+壽」、46-2]の名称である。わが大和民族の趣味上の特色は、この三角※[#「※」は「つちへん+壽」、読みは「ちゅう」、46-2]が三角※[#「※」は「つちへん+壽」、読みは「ちゅう」、46-2]の形で現勢的に存在する点にある。


 「雅」は、上品と地味と渋味との作る三角形を底面とし、Oを頂点とする四面体のうちに求むべきものである。


 「味」とは、甘味と意気と渋味とのつくる三角形を指していう。甘味、意気、渋味が異性的特殊存在の様態化として直線的関係をもつごとく考え得る可能性は、この直角三角形の斜辺ならざる二辺上において、甘味より意気を経て渋味に至る運動を考えることに存している。


 「乙」とは、この同じ三角形を底面とし、下品を頂点とする四面体のうちに位置を占めているものであろう。


 「きざ」は、派手と下品とを結び付ける直線上に位している。


 「いろっぽさ」すなわち coquet は、上面の正方形内に成立するものであるが、底面上に射影を投ずることがある。上面の正方形においては、甘味と意気とを結び付けている直線に平行してPを通る直線が正方形の二辺と交わる二点がある。この二つの交点と甘味と意気とのつくる矩形全体がいろっぽさである。底面上に射影を投ずる場合には、派手と下品とを結び付ける直線に平行してOを通る直線が正方形の二辺と交わる二つの交点と、派手と、下品とがつくる矩形がいろっぽさを表わしている。上品と意気と下品とを直線的に考えるのは、いろっぽさの射影を底面上に仮定した後、上品と意気と下品の三点を結んで一の三角形を作り、上品から出発して意気を経て下品へ行く運動を考えることを意味しているはずである。影は往々実物よりも暗いものである。


 chic とは、上品と意気との二頂点を結び付ける直線全体を漠然(ばくぜん)と指している。


 raffin※(アキュートアクセント付きE小文字)とは、意気と渋味とを結び付ける直線が六面体の底面に向って垂直に運動し、間もなく静止した時に、その運動が描いた矩形の名称である。





 あとは「粋(モテ)」仕草についての説明が載ってるな。(「いき」の自然的表現)

 この辺はまぁ、そのまんまなんで各自確かめてもらうとして。現代でも通じるかどうか分からないけど、シェイクスピアと演劇の関係みたいに基本構造は同じなのだろうし現代風にアレンジすればなんとでもなるのではないだろうか? っつーか和装のときはまだまだ通用するかもしれない。(「姿勢を軽く崩す」のがポイントですって、奥さん!)


 あともう一個、「芸術的表現と粋」とか言ってるけど、これはいいや。なんとなく夢二とか頭に浮かぶけど、それぞれの趣味もあるしなぁ。個人的にはJazzをもうちょっと究めないと・・。
(ってか、冒頭でも言ったように「御家人斬九郎」でFAだぁ)




 んで、最後に「結論」としてまとめが載ってる。

 最初の注意点として、これはあくまでも基本的なまとめに過ぎないからこれだけ参考にしてても仕方ないよ、と。

「いき」を分析して得られた抽象的概念契機は、具体的な「いき」の或る幾つかの方面を指示するに過ぎない。「いき」は個々の概念契機に分析することはできるが、逆に、分析された個々の概念契機をもって「いき」の存在を構成することはできない。「媚態(びたい)」といい、「意気地(いきじ)」といい、「諦(あきら)め」といい、これらの概念は「いき」の部分ではなくて契機に過ぎない。


「きっかけにすぎないんだから後は各自実地で」、ってことなんだろう。あとはガイジンに説明するときに便利、とか

 意味体験としての「いき」と、その概念的分析との間にかような乖離的(かいりてき)関係が存するとすれば、「いき」の概念的分析は、意味体験としての「いき」の構造を外部より了得(りょうとく)せしむる場合に、「いき」の存在の把握に適切なる位地と機会とを提供する以外の実際的価値をもち得ないであろう。



 っつーか、やっぱ「粋」なんてものは個人の生きられた経験によるものなんだからそれに勝るものはないよ、と

 しかし、さきにもいったように、「いき」の構造の理解をその客観的表現に基礎附けようとすることは大なる誤謬(ごびゅう)である。「いき」はその客観的表現にあっては必ずしも常に自己の有する一切のニュアンスを表わしているとは限らない。客観化は種々の制約の拘束の下(もと)に成立する。したがって、客観化された「いき」は意識現象としての「いき」の全体をその広さと深さにおいて具現していることは稀(まれ)である。客観的表現は「いき」の象徴に過ぎない。



 まぁ、そんな感じだろう



 最後にこんな言葉で締めている。


「いき」は武士道の理想主義と仏教の非現実性とに対して不離の内的関係に立っている。運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である。人間の運命に対して曇らざる眼をもち、魂の自由に向って悩ましい憧憬(しょうけい)を懐く民族ならずしては媚態をして「いき」の様態を取らしむることはできない。「いき」の核心的意味は、その構造がわが民族存在の自己開示として把握されたときに、十全なる会得と理解とを得たのである。


 諦観というリアリティをバネにして人生を愉しむこと。自立を通じて自信をもってできるだけの自由を獲得すること。「粋」は「生き」である。






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関連(2007.5.3):
松岡正剛の千夜千冊『「いき」の構造』九鬼周造

※九鬼の来歴。「いき」を目指したきっかけについて。人間は既に何かを失った状態(被投性)でこの世に生を受けるわけだけど、その失われたものを埋めるためになにかを求める志向性、たとえば「恋愛」がある。

でも、その恋愛さえもいずれはお互いを縛ってしまって、失われてしまったもの(自由?)にはたどり着けなくなってしまう。

「いき」は恋愛に代表されるような衝動の過剰性を統制するための美学である、と(そして統制の中で出会う偶然に美がある)


以下、九鬼の『偶然性の問題』からの引用(の孫引き)

 松茸の季節は来たかと思ふと過ぎてしまふ。その崩落性がまたよいのである。(中略)人間は偶然に地球の表面の何処か一点へ投げ出されたものである。如何にして投げ出されたか、何処に投げ出されたかは知る由もない。ただ生まれ出でて死んで行くのである。人生の味も美しさもそこにある。



松岡さんのまとめのほうが分かりやすかったな。





posted by m_um_u at 23:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年04月03日

吉田修一, 2003, 「東京湾景」

東京湾景
東京湾景
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吉田 修一
新潮社 (2006/06)
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 少し前に横浜に行って、ついでに東京に行った。それで東京で最初に降り立ったのがこの小説の舞台である品川 (- お台場)。

 ちょうどこの小説を読んでいるときだったのでなんだか運命のようなものを感じて埠頭まで歩いてみた。思ったよりも距離はあったのだが歩きやすい道で特に問題もなく目的地に到着。それで埠頭から対岸のお台場を見ながらいろんなことを思ったり思わなかったり・・。


(※以下、ネタバレばきばきだよ♪)


 巻末にある陣野氏の解説ではこの小説ではまず「持てる者と持たざる者」という対立軸が設定されているということが明らかにされる。対岸の「お台場」はきらびやかなエンタメワンダーランド。対する品川埠頭は港湾労働を中心とした地味な土地。

 ここで「格差」という言葉が頭に浮かぶが評者はその辺りを慎重に迂回する。「当事者間にギャップがあって、それを乗り越えなければならない」なんてのは恋愛系小説の常道であって、近くは「電車男」、古くは「ロミオとジュリエット」辺りなんかに代表されるベタな設定。吉田が表現したものはそのように単純な二元論で割り切れるものではない。物語中のメタ小説は読者にそのことを気づかせるための装置(ベタな恋愛小説という反面教師)として機能することを期待されていたはずなのだが、気づかなかった人もけっこういたみたいだ。

 では、なにが作品のテーマだったか?。ざっくり言ってしまうと「恋愛において<身体>よりも<心>よりも確かなものはあるのか?」ということだったのだろう。(すこし恥ずかしくなってきたが以下、順を追って)


 美緒はウワベの「恋愛」を侮蔑する一方で潜在意識的にプラトニック(心)な恋愛を希求する。それはたとえば高校時代に「失恋したー」と泣き叫び悲劇のヒロインとなることで周囲の同情を惹こうとする友人に放った言葉に表れている。(「いい加減にしてよ!」「そういうとこ見せられると、ほんと、自分が女だってことが恨めしく思えてくるのよね!」)

 しかし、そんな美緒が「カラダ」を基点とするところから亮介との関係を始めようとしているところにアンビバレンス(両義性)が発生する。あるいはダブルスタンダードといってもいい。読者にしてみると少し不条理を感じるところではあるが、その選択が結果的に不条理ではないということが作品後半に向かうにつれ明らかにされていく。


 亮介は高校時代の先生との関係によるトラウマから、カラダだけの関係に対して潔癖性のような感情をもっていた。象徴的なシーンとして、年上の先生との関係を「カラダ(セックス)だけの関係」として先生の親族から揶揄されたことに対して、亮介は自らの体に灯油をかけて火をつける。(「先生はカラダなんかなくたって愛してくれるんだよ!」)しかし、亮介は成長するにつれてそのような感情を「子供の論理」として捨てていく。

 そんな二人の関係も先生が亮介を置いて出て行くことで終わりを告げる。生活の中で2人の心が離れていったということ。あの事件が直接的な原因ではなかったことを亮介自身理解していたが、このことがトラウマとなって亮介の心の中に残っていく。(左胸の傷はそれを象徴するスティグマのようなもの)

 そういったトラウマへの反動・・もしくはトラウマを越えるために、亮介もカラダの関係を優先させる。もしくはそれに付随するオトナの論理を積極的に受け入れる。物語前半の「カラダ」の描写に気を取られてしまうとこういった文脈を理解できないだろう。(村上春樹、「ノルウェイの森」への評価と同じ)

 性的描写(あるいはセックスへの意識)に対して「不条理な快楽主義者」のような通念にとらわれ、まるで汚いもののようにそれを忌避する人には物語の本質は見えてこない。
 
 
 作品を通じて描かれていた、もしくは考えられていたものは「恋愛において<身体>よりも<心>よりも確かなものはあるのか?」、ということ。前者はセックス(性欲 - 快楽)、後者は「相手へのプラトニックな思い」のようなものに代表される。

 こういう書き方をすると<身体>の関係が汚いもののように感じられるかもしれないがそういうことではない。その辺のところをよく表しているのが解説のこの箇所(p329)
 

象徴的な一つのシーンがある。それは、青山ほたるの小説に導かれるようにして、美緒が亮介のアパートのほうへふらふらと歩いていってしまう場面。ゆりかもめの終点、新橋から山手線に乗った美緒は、品川で降りて、港南口から亮介の住んでいるアパートのほうへと、歩き出す。そこへ偶然、スクーターに乗った亮介が通りかかる。そう、あの印象的な場面だ。そして、二人で入り込んだ倉庫の暗がりで、美緒は震える。自分が目を閉じているのかどうかさえ定かではない。「次の瞬間、ふっと潮の香りが鼻先を流れて、いきなり唇が重ねられた。 / 『びっくりした?』 / 亮介の声が、自分の口の中に差し込まれてくる。美緒はゆっくりと口を開いた。亮介の熱い舌がそこにある。まるで広い倉庫の闇の中に、亮介の熱い舌だけが存在しているようだった」



 評者はこれをして「恋人との関係の本質的部分」とし、その後、これに続く形でアルフォンソ・リンギスの散文を提示して、恋愛における表層的な関係(cf.美緒が嫌うような)に対する「本質的な愛」の例証であるとしている。しかし、これは少しプッシュが足りないように感じた。

 もうちょっと言うとすれば「重なって融け合う」ということなのだろう。

 そこでは相手が動いているのか自分が動いているのかなんてどうでもいいし、「<プラトニック>か<カラダ>の関係か」、なんてのもどうでもいい。彼我を越えてただ融け合う


 偏見や通念を嫌う二人が<身体>にたどり着いたのは、そういったコンプレックス自体が一つの通念として自らを縛ることに気づいたからだったのだろう。「プラトニックなものは綺麗」だとか「カラダは汚い」と思うこと自体が一つの通念に過ぎない。<カラダ(セックス)>はそれを破るための入り口として機能していた。(cf.個人的にこの辺りは身体論にも通じる)

 

 と、いうことなのだろうけど、ぼくとしてはここで少し止まる。「<通念や偏見を越えて融け合う>ということが恋愛という対他関係において一義的な価値(最終的な目標)であるとするならば、<カラダ>にこだわる必要はない」、ということか?

 例えば、志を同じくする友人間の魂の交流のようなものでは性交を伴わなくとも交感によって快(エロス)が生じる。そこでのメディアは、「共通した感性」「共通した知」「共通した志」のようなものだろう。

 小説本編でも少し触れられていたが、肉体(あるいはセックス)というメディア(フィルター)を介して融け合う場合、ダウナー系なリスクが伴うことがあるように思う。またノイズやタイムラグによる齟齬も生じやすい。というか、交感に付随したいろいろな自意識(の齟齬)がめんど臭い。ならば、<精神のみの交感は可能か?>、ということになるが、現段階ではムリだよなぁ・・。(宇宙人のセックス?)

 例えば、電脳による直接交流(相互ハック)なんかが思い浮かぶが、それはそれでなんか飛び道具使ってるみたいでヒキョーな感じがする。(<安全で確実な本当の愛>?)


 やはり、現段階では互いのリスクやそれに付随するものも交感要素の一つなのだろう。「キズの共有」と言ったほうがいいか。




 っていうか、そもそもなぜ、<彼我を越え融け合う>、必要があるのかか疑問。


 しかし、それはやはり人間存在の本能というか、生得的(あるいは社会的)プログラムだからなのだろう。簡単に言えば、「それ自体が生きる歓び(エロス)」ということか。


 といっても、いつもそんなパフォーマンスが期待されるわけではないので、こういった考え自体が一つの幻想ではあるのだが、これも「あれか / これか(ある / ない)」的な話ではなく、生活の中での一部というか、一つの価値ということなのだろう。選択肢の一つということ。



 そういったわけで物語は単純な二元論を基にした「ギャップロマンス」のような視点では割り切れないものなのだが、なぜこの話がこんなドラマになってしまったのか疑問



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 単純に「お台場を舞台とした恋愛ドラマ欲しいな。DVDも売れるし、お台場グッズも売れて万々歳だ。目指せ韓国市場!」的な考えだったのだろうが、「在日韓国人と日本人女性」みたいなベタなギャップとかすごくびみょー。まだ韓流が流行ってた時期というのもあったのか?見ていないので分からないけど、ある編さんとこに出てたこのパターンに当てはまっているのだろうか?


ある編集者の気になるノート : ファンならとっくに気づいてる? 「韓国ドラマの7つの掟」。



 まぁ、いいけど




 「(カラダだけじゃない)カラダから始まる恋愛」については木尾士目のこれも面白かったです


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 もうすっかり「げんしけん」作家にされてしまったのだろうけど、あれのヒットは単に「大学オタクマンガ」というジャンルが珍しかったからというだけではなく、木尾がこの辺の繊細な心理描写ができるがためだったからだったのではないか、とちょっと思う。もっともこのマンガは私小説みたいで作家自身は「未熟な作品」として否定しているが。







タグ:恋愛 実存
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2007年03月20日

G戦場経由、蒼い月行き (赤い戦車風味)

 中学生の頃だったか高校生の頃だったか忘れてしまったけど、周囲との齟齬からディスコミュニケーションのようなものを抱えていた時期があった。軽いいじめのようなものもあったか。

 ぼくは体育会系ではないため、それを克服するために学力で周りを見返そう(黙らせよう)と思った。「スポーツのできる奴と成績のいい奴は一目置かれる」ってやつ。いま思うとほんとの頭の良さなんてのはガッコの成績からでは測れないわけだが、そのときはそれに縋るしかなかった。

 その夜、鏡の前で知力を渇望しながら悪魔の問いかけを妄想した、


 「力が欲しいか・・?では、望み通り力をやろう。ただし、その代わりにおまえから大事なものを貰っていく。それでも力が欲しいか・・?」


 もしも悪魔が現れてこう問いかけてきたのならぼくはその取引に応じよう。それで世界が失われるとしても、元々ぼくの周りに世界なんか存在しなかったんだから、それはそれで構わない。

 そのとき、そう思って悪魔との契約を願った。


 いま思うとその契約というのは遂行されていたのかもしれない。ぼくは望みどおり(いくらかの)学力を得、その後に続く知力を得た。知力の向上に比例するようにぼくの周りからいろいろな人たちが離れていった。

 それは知力のせいだけとは言い切れないだろう。たとえば「空気嫁」的なことがうまくできていれば、そういうことにはならなかったのかもしれない。しかし、どうしても譲れない場面、それを譲ってしまうと二度と戻って来れないような魂の契約に関わる内容については譲ることができなかったし、言わなければ言わないでノイズのようなものが頭に溜まっていく。オブラートにくるんで言えばいいのかもしれないけど、鈍感な人たちはその真意を理解しない。そして大局的にはその先に待ち構える穴のようなものに落ちていく。

 それを見過ごせばよいのだろうけど、なんか良心のようなものが疼く。しかし彼ら(彼女ら)はそれを望んでいたのだろう。


 「オレが本当のことを言えば、セカイが凍る」


 ぼくの周りのセカイは凍り、その関係は断たれていった。ぼくが抜けても彼女たちの関係はまだ続いているのかもしれないけど。そういう風にしてぼくは本当のことを言うのを控えるようになった。


 本当のことというのは本質的なこと。辛くても見なければいけない現実のようなもの。でも、彼女たちにとってはそのセカイのほうが大事だったのだろう。小さくて居心地のよいセカイ



 そうやって関係を犠牲にして手に入れたはずの力だけれど統制を離れて再現が効かなくなることが多々ある。その力が現れているときと現れていないときの違いは覚醒期と冬眠期のそれに似ている。覚醒期には能く見え、能く聴こえる。「可聴領域が広がる」とかそういうことではなく、少し見たり聴いたりするだけでそのものの概要を理解できるというか、文脈のようなものが理解できる。「あれ?オレなんでこんなこと知ってるんだろう?」って感じで、知覚が梵(ネット)に繋がる。

 その感覚が消えてから久しかったけど、最近ようやく復調した。3年ぐらいかかったか。周期的には5年、3年とブレがあるな。多分に外部の環境要因にも依るのだろう。


 そして知覚(input)に応じる形で言葉(output)の回路も覚醒する。なんか語彙が増える。あるいは眠っていた語彙が起きてくるのかもしれない。outputの連鎖の中でリズムが作り上げられていくのか・・。


 覚醒していないとき(冬眠期)はけっこうしんどい。

 自分の言葉が奪われて自分じゃないみたい。思い切り出せない。表現して確認できないのでいろんなものがこんがらがる。そして自信を失っていく。デフレスパイラルみたいに。


 あるいは悪魔がそんな感じで人の人生を操って楽しんでいるのかもしれない。ひどい悪魔だ(悪魔だから仕方ないのだろうけど)


 覚醒期の知覚を駆使して到る地点のすばらしさは月の輝きにも似ている。程よい緊張感の夜に浮かぶ蒼い月のような、そういう美しさ。

 

 スガシカオにそんな内容の歌がある。(「黄金の月」)。情熱を捨て生活を選んだ男の話。しかし、最後には未来への希望や月への回路も断たれてしまう。あるいはそれが断たれたとしてもいまの生活を選択するという意志なのかもしれないが、逆説的にスガシカオの原点なのかなぁ、って作品。(月への意志と覚悟)

 そういえばサンボマスターにも月への思いを歌った歌があった(「月に咲く花のようになるの」)。この作品にはむしろこの曲のほうがふさわしいか



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 町蔵と鉄男。マンガ嫌いとマンガバカ。正反対の2人が歩むマンガ道の話。

 類型というか先行作品としてはこの辺があるか、


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 このジャンルは「編集王」で終わったと思ってたけど、ここまで熱いものが描けるとは、正直驚いた(ってか泣いた)。


(※以下、思いっきりネタバレで) 


 鉄男はマンガの天才。しかし、その作品を見た母がショックで倒れたことからしばらくの間ペンを封じていた。自分のマンガを凶器と思って。

 町蔵は有名漫画家の父の生き方、家庭を顧みない生き方に反目してマンガを毛嫌いしていた。

 そんな2人が出会い、互いの才能に惹かれあうところから物語は始まる。


 語られるはマンガ道な主要テーマ、すなわち、「プロとはなにか」、「エンタメ性 / 作家性 」、「想像力そして創造力とはなにか」、「想像力の悪魔」、「作品の'読者"とはなにか」、「表現活動とは何のためにあるのか」、「テクニックを越えて伝えるもの(伝わるもの)とはなにか」・・・。そして本エントリ上段でつらつらと書いてきたようなことも絡む。


 ここに日本橋的なテーマ(「自分の中の悪魔に向き合うこと(そうしないと自分に殺される)」、「輝けないもの、輝きを失ったものはどうしたらいいの?」)が絡む。

 
 それぞれについて詳しく触れることは避けるが、通常、多くとも共同作業をしている相方との対他関係で語られることが多いマンガ道のテーマに親子間の愛憎が絡んでくるのは新鮮だった。

 町蔵の父も鉄男の父も家庭を顧みずマンガに全てを費やしたために息子達の恨みを買っていたが、そういうのも大きな愛の中に包まれたことだったんだな、ってこと。(※いちお伏字するか)


 阿久田(鉄男の父)はかつて悪魔に魅入られ体調を壊し心身のバランスを狂わせたために息子には同じ道に入って欲しくなかったということ。母もそれを避けるために鉄男にマンガを描かせたくなかった。

 坂井(町蔵の父)の愛はペンを折った鉄男と、周りとの疎外に悩む息子に向けられていたこと。


 そういう伏線が本編のテーマと絡み合って、物語の厚みを増していた。


 作品の主要テーマとしてはやはりもっとも強いこのネームに集約されるのだろう。



 もしお前がもう一度、オレを震えさせてくれるのなら、この世界で、一緒に汚れてやる。





 「エンタメと作家性」のところに掛かってくるのだけれど、それ以外にもいろいろとリンクしているのかもしれない。宮澤賢治の「告別」にもリンクするな。


もしもおまへが

よくきいてくれ

ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき

おまへに無数の影と光の像があらはれる

おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮らしたり

一日あそんでゐるときに

おまへはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏の

それらを噛んで歌ふのだ

もしも楽器がなかったら

いゝかおまへはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり

そらいっぱいの

光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

告別より引用】




 そして「編集王」と繋がる。(魂の契り)



 
 最後に戦士たちはG戦場に集いてアリアを歌う。線形の輻輳に応えて天国への扉が開く。「悪魔は仲間を奪うだけではない」というメッセージ。


 ラストシーンへ到るシークエンスは「ピンポン」(松本大洋)のそれを髣髴とさせた(「お帰り、ヒーロー」)。ピンポンとの関係で考えると鉄男がスマイルで町蔵がペコなのだろうけど、そう単純なものでもないのかもしれない。父親たちの代からの受け継がれた友情と契約のようなもの。そうするとやはり「編集王(14)」のテーマに還ってくる。



 全体的にサンボマスターのこのalbとも被る(cf.「本当のこと」)。


サンボマスターは君に語りかける
サンボマスター
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 そういうわけで脳内音楽はサンボマスターだったんだけど、著者の脳内音楽は戸川純「赤い戦車」だったらしい。

辛酸はだいだいの
It's Not More Red Than My Hard Will

突き上げるあつい想いが描きなぐった血の色の
ペインティングス まるでキューブな自己実現
生きるために生まれたんだと確信する色

重ねて同じ色を塗り続け幾たびになろう
しかして立体化した形状の絵すなわち成就




 もしくはG線上のアリアの上に赤い戦車を奔らせたか。




 「赤い戦車」は見つからなかったんだけど、とりあえず









--
関連;
G線上のアリア(※MIDI 音出ます)
http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Bach_air_Gstring.htm




タグ:実存
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2007年03月15日

そして、セカイは世界へ還る

 セカイ系について、最近読んだものからなんかまとめようかと思っていたところにそれっぽい絡みがあったのでちょうど良かったなぁ、って感じになった。(参照参照2)。

 ぼくは礼に対しては礼で、無礼に対しては無礼で返す主義なので最初から無礼で返したわけだけどその辺りのことも理解できなかったようだ。(そして思ったとおりinformationもinsightもなかった)

 あと、元エントリの人もなんか書いてたみたい(参照)。

 こちらの人はまだ「よくわかんないで書いて済まなかった」的雰囲気があるのでマシなんだけど、やはり基本的なことがわかってないようだ。仕方ないけど・・。


 あと、なんかずーっと誤解があるようだが(ってか、本サイトを継続的に見てる人なら分かると思うが)、オレ、ニートとかではないんだけどな・・。モチベーションとかスキーマの差で分かるよな、ふつー。・・・まぁいいや

 
 結論というか、最初から分かっていたことだが、彼らは「悪くはない」のだ。ただ、想像力がないだけだし、配慮の気持ちがないというだけ。そして日々、正しく、つつましく(かどうか知らんが)、彼らなりの生活を送っている。彼らが彼らなりの努力で勝ち取ったものを享受している。おそらく平凡だがふつうの一生を送るのだろうと思う。(あるいは一定層の人から見れば「勝ち組」と見られるぐらいの)

 それは世間的に見て「正しい」。彼らの言うことも「正しい(間違っていない)」。件のエントリもたとえば酒の席なんかで後輩かなんかに「おまえ、いつまでもニートじゃいかんぞー。オレ見てみろ、てきとーなとこでてきとーに力入れればちゃんときゅーりょー貰えるんだよ。だから、働け、な?」っていうつもりだったのかもしれない。(そして一部の人から見ればそれは共感を呼ぶ)


 彼らは間違っていない。、で、あるからこそタチが悪い



 彼らが無神経に使う「ニート」だの、「格差ってなに?」だのの言葉(認識)が一部の人をいかに苦しめているか。あるいはこれから苦しめることになるか。彼らは想像できない。道端のアリンコを踏み潰すのと同じように、点字ブロックの上に自転車を止めるように、彼らの<正しさ>は無神経に一部の人の気持ちを害し、生活圏を奪っていく。

 「学ばないことは悪だ」とまでは言わない(彼らは忙しいのだから)。しかし、その鈍感さに少しは気づけるようになって欲しい。「彼らの努力」といったものが本当に努力したくてもできない人やギリギリの生活の中で研鑽を積んでいる人の努力に比べたらなんでもないということ。そして、そういった軽い努力に裏打ちされた無神経が一部の人の気持ちを害し、生活圏を奪う可能性があるということ、そういうことに気づいて欲しい。(ex.無神経によって社会保障是正案が通らなかったり、「ニートって言うな」な問題がある)


 重ねて言うが、ぼく自身、ここのエントリで書いてあるぐらいの状況は苦労とも思えないような環境で育ってきた





 ・・前置きが長くなった。以下、セカイ系について。



 セカイ系とは、

世界は主人公とヒロインを中心とした主人公周辺しか存在しない設定が基本となる。主人公とヒロインの人間関係・内面的葛藤等が社会を経ずに世界の命運を左右していく。場合によっては主人公とヒロインの関係が世界より上位にある。

セカイ系の作品では、主人公が非常に強いもしくは特殊な能力を持った10代の少年少女であることが多い。そしてその力は世界の命運を左右するほどの力である。作中ではなんらかの事情により全世界規模の危機的状況にあり世界の運命は主人公に握られている。

精神世界や感情と世界とが直結している設定を特徴とするため、登場人物のトラウマが強く全面に押し出される事が多い。個人がそのトラウマを克服出来るかどうかがそのまま世界を救えるかどうかに繋がる。

主人公の認識している範囲が世界の全てとして投影されるためセカイ系と呼ばれる。

1990年代の時代背景の中、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のブームとともにジャンルとして形成される。「エヴァ系」と呼ばれることもある。

セカイ系 とは 「エヴァ系, ポストエヴァンゲリオン症候群, 世界系」より引用】



 端的に言えば、個人幻想・対幻想領域から「社会」をジャンプして「世界」へ一足飛びって感じ。共同幻想からの影響は受けない。もしくはこの辺


セカイ系とは何か
http://iwatam-server.dyndns.org/kokoro/sekai.html


 ポイントとして、「身近なこととセカイが直結する」「セカイより自分」「恋愛と相性がいい」、「自己が侵食される」など。

 エヴァがその代表例として挙げられるが、「ぼく地球(たま)」なんかもこの辺に入るのではないか?(てか、あっちはニューエイジの影響か)

 んで、エヴァだけど。そこでは個々人の葛藤がそのまま世界の命運に繋がるっていう・・なんか「命の格差」みたいなのを感じる設定になっている。てか、ほかの世界が見えていないというだけか。こういう世界観はそのまま視聴者の世界観の投影だったりする。アンノはそれを「物語は主人公の内的世界の投影(閉じられた世界)」という形で表現し、「その殻を破って外に出ろ!」というメッセージを作品に乗せたわけだけど、そのメッセージはうまく伝わらなかった(というか戯画化した)。

 それはメッセージの表現方法というか、作品の主題をアンノが消化しきれていなかったのではないか、とも思うのだけれど、今秋の作品ではその辺はクリアしているのだろうか?


 『見知った世界における「狭い共感」のみを信じる』という点ではドラマにも通じるようだ。


 1億総ヤンキー化 (いちおくそうやんきーか) (@Yahoo Japan)
http://dic.yahoo.co.jp/newword?ref=1&index=2007000144


 ここでは『華麗なる一族』や『拝啓、父上様』が例として挙げられててびみょー感漂うけど、「見知った世界の共感のみを信じる」という点では共通するだろう。そういうのは本エントリの前置き部分とも関連してくる。


 アニメやマンガへの閉じこもりとテレビドラマに対するそれではユーザー層とかメディア利用の仕方が違う(cf.利用と満足)があるかもしれないが、おーざっぱに言えば同じ感じ。


 キータームは「狭い共感」(ぼくらのセカイ)。位相としてはバックラッシュの前線といったところだろうか。(あるいはそういった心性や認識が涵養される場)



 で、秋エヴァはそのセカイを超克できるか、というところなのだけれど、その前段階として、個人的にセカイ系と関わっているように思われる作品を3つほど読んだ。まずはこれ


少女ファイト 1 (1)
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 「セカイ系と関わっている」っていうか一部では「セカイ系そのもの」ってことなんだけど


セカイ系の技法と日本橋ヨヲコ後編(承前)
http://chiba.cool.ne.jp/masaakihamada/nihonbashi.htm


 大部分は上記リンク先に書いてあるので深く言及しないけど、印象として、「ネームがやたら熱い」「中高生なのにやたら大人びている」「クラブ活動がセカイの全てだと思っている」、といったことを感じた。体育会系はそうなのかもしれない(クラブ中心で学生生活が短い=就職が早い=大人な世界観になるのが早い?)。そういうのはなんか「ヤンキーは現在を過去としてとらえているから写真をとるのが好きなんです」とか「ハマータウンの野郎ども」とか思い出すけど、まぁ、置く。

 それにしても高校を出てそれほど経ってないと思われる20代女史が鬼龍院花子みたいな格好で墓参りに現れるか・・・。そこがセカイ系たる所以なのだろうけど。


 まぁ、とりあえず、 ここでは「クラブ」という閉じられたセカイの中で全ての価値観や認識が充足(循環)している。


 んで、次


機動旅団八福神 (1巻)
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福島 聡
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 これはセカイ系というよりもポストエヴァとして。

 設定としては、「特殊能力を持った若者が集められて特殊ロボに乗って敵と戦う」、ということでエヴァっぽいんだけど、ハードSF的要素も強くて、背景設定がけっこうリアル。中国によって併合(日中安保)された日本が舞台で、国家の威信をかけて最新技術(ロボ)によって模擬線を行っているという設定っぽい(この辺りの背景は説明されていない)。国家の意志に翻弄される沖縄の悲劇にも少し触れているし、全体のノリは自衛隊とか軍事マニアっぽい。

 ポイントは「社会とのコミットメント」だけど、「リアルなSF軍事マンガ」という路線を貫徹することでその辺りには触れないという感じだろうか。福島の一連の作品は未だ途中までしか読んでいないのだが、たとえば以下の作品からはこの作家の人間存在(あるいは対他関係)に対する描写力の確かさが伺える



少年少女 (1巻)
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 そういった意味では「福神」も社会との関係というより「戦争」と「個人」(あるいは「個人の抱えている葛藤(ドラマ)」)ということが主なテーマとなっていくのかもしれない。だとするとセカイ系的には「トラウマ」との絡みになっちゃうわけだけど、そういうところで落とされてもつまらない・・。いまのところそういった兆候はないようだけど(中国人パイロットに少し見られたけどトラウマとは違う感じ)、さて、どうやってオチをつけるか・・。


 んで、最後にこれ


ぼくらの 6 (6)
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 「選ばれた子供が特殊ロボに乗って正体不明の敵と戦い、地球を救う」という設定はモロにエヴァと被るんだけど、あえてこういったスタイルをとることによってエヴァ越えというかエヴァの果たせなかった責任を全うしようという意志が感じられる作品。

 「セカイ系の超克」ということで社会へのコミットメントが必要になってくるわけだけど、それぞれのパイロットの大切なものを接点としてエピソードを構成し、社会との関わりを表現することに成功している。「それぞれのパイロットに大切なもの」=「家族(あるいは友人など)」ということで家族(社会)を守るために子供たちは闘う。

 ただ、これだけだと非対称的な暴力ゲームに過ぎないのだけれど、「各パイロットは一度、ロボを運転すると死ぬ」という設定を持ってくることによって自分も社会の一部であること(観客席にいるわけではない)いうことを表現すること(読み手に想像させること)に成功している。

 また、「ロボが闘うことによって破壊される街への影響」、「敵のロボにも命がある」というテーマの中で、主人公達は社会への想像力(責任)を意識し、葛藤する。(「振り上げたこぶしの、それがどんな影響をもたらすのか」)


 「想像力」、「責任」、「自分で背負って自分で処理すること(責任と自信)」、「他者(生命)に対する業と責任(原罪)」、「それを引き受けて生きていくこと」・・・。


 これらのテーマが輻輳する中で主題である「ぼくらの(世界)」を考える土台が作り上げられていく。この辺の力量はすごいな、と思った。力量というか鬼頭の誠実さなのかもしれないけど(あとは対他関係への細かい配慮)

 鬼頭の対他意識(コミュニケーションへの繊細な配慮)はこの作品からも伺えた


残暑―鬼頭莫宏短編集
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 はてな界隈のくねくねは大体詰まっているように思う。




 以上がセカイ系について今回見てきたテクスト。いまのところの印象では鬼頭が一番踏み込んでいたように思えた。


 で、


 こういった作品を受けてアンノはどのようにポストエヴァを描いていくか、ということなんだけど・・やはり嫁さんの影響とかあるのだろうか


監督不行届 特別版
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 アンノ嫁というと現在絶好調の


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 で、あり


さくらん
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 なわけだが、これ以前の作品(「花とみつばち」、「脂肪と言う名の服を着て」など)では、どちらかというと女子のホンネの部分(そのせつなさとか責任とか)に終始していたように思う。それが今作「働きマン」では「社会(労働)」という要素をかなり意識したつくりになっているわけだけど、この辺りの心境の変化というのは(年齢などもあるのかもしれないが)結婚の影響があったのだろうか。「変わる」ということを受け入れるというか、共に歩むというか・・。そしてその先にあるものへの想像とか。

 だとすると、ファン心理としてはこの結婚が両者の作品にとってよい影響を与えていることが期待されるわけだけど・・・どーなってるのかなぁ・・。(嫁さん巨大化とかはやめてね)




 最後に、「監督不行届」(p143)より

 嫁さんは巷ではすごく気丈な女性というイメージが大きいと思いますが、本当のウチの嫁さんは、ものすごく繊細で脆く弱い女性なんですよ。つらい過去の呪縛と常に向き合わなきゃいけないし、家族を養わなきゃいけない現実から逃げ出すことも出来なかった。ゆえに「強さ」という鎧を心の表層にまとわなければならなかっただけなんです。心の中心では、孤独感や疎外感と戦いながら、毎日ギリギリのところで精神のバランスを取ってると感じます。だからこそ、自分の持てる仕事以外の時間は全て嫁さんに費やしたい。そのために結婚もしたし、全力で守りたいですね、この先もずっとです。












posted by m_um_u at 22:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年03月10日

西川 美和、2006、「ゆれる」

ゆれる
ゆれる
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 レビューではなく単なる感想(※注意。もちろんネタバレありだよ!)。

 いやぁ、すごかった。
 デスノート並みというかそれを上回る心理戦。

 弟の裏切りへの布石、兄がそれに気づいているのかどうか。兄が気づいているかもしれないことに疑いつつ偶然を利用して罠をしかける弟。罠にはまりつつ兄はそれが弟の罠だと気づいていたのかどうか。弟が罠を張ったと知りつつ、すべてを信じている演技を続ける兄。その裏にある本心に怯えつつ、弟はホンネをぶちまけ・・・。


 『偽善やエゴ、うそ』ってことだけど、そういうのを最小限の映画技法で伝えてくる。それと役者の演技で。すごい演技だった(一回しかできない感じ)。


 そして、すべてを知りつつ弟のコンプレックスや罪、断罪の気持ちもまるっと受け入れる兄(断罪させるためにわざと誘導して)。


 「・・なんだこれ?」って感じだ。


 善性(あるいは偽善)への苛立ちとそれを貶めようという気持ちはちょうど藩金蓮さんのところに出ていたけど、金蓮さんのいうように「単なるいい子ちゃん」というのはふつうこういった悪意の罠で折れるだろう。

 悪意の罠をはるほうはそれでもなお揺るがない善意のようなものを見ることで救われるのかと思っていたが、そういうことではないみたい。


 一度、同じ地点まで降り、同じように雨に打たれ、それでもなお笑って包み込むような大らかさというか。

 そういうのは(陳腐だが)愛なのかなと思った。



 揺れうごく中で揺るがないもの
 



 「大きな愛」と言えば、作田センセのとこに森進一関連エントリが出てた。
http://gekko.air-nifty.com/bc/2007/03/post_d185.html


 詳しくは知らなかったのだけれど、とんでもなく改編して歌っていたらしい。原曲のメッセージは「普遍の愛」だったのに、単に森が「おふくろさんに癒されたい」という歌に変えていた、と。


 これはさすがに大きな愛では包めないわなぁ・・。


 でも、いざとなったら、「ワシのタマでよければとってけや!」、とか言うのだろうか?




♪スガシカオ / 斜陽

--
関連:
西川美和インタビュー(@CyberCREA)
http://www.cybercrea.net/culture/note_060627_01.htm


心の奥底、流れに映す 「ゆれる」の西川美和監督(@asahi.com)
http://www.asahi.com/culture/movie/TKY200607050532.html


森進一はどうするべきか(@たけくまメモ)
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_11a2.html

「語り」を加えることは悪なのか(@benli)
http://benli.cocolog-nifty.com/benli/2007/03/post_1723.html

※これもひとつの「ゆれる」ということなのかも




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2007年02月25日

真鍋昌平、2004〜、「闇金ウシジマくん」、小学館

 2つ前のエントリでNスペの「ワーキングプアII」の感想を発掘。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/workingpoor3.html

 「ウシジマくん」関連のレビューを書こうとしてたときに探してたのに見つからなくて歯がゆく思っていたのでちょっと嬉しい。

 良い機会なので某所に書いたレビューを転載しておく。


(以下、「ウシジマくん」レビュー)



---------




 先日来気になっていた「闇金ウシジマくん」をようやく読んだので感想書いとく。

 ちょっと前に「下流喰い」関連のエントリが流行ったときにこのマンガの名前が出てて気になっていたのだけれど、先日現物を手にとってみたら真鍋昌平が描いてるということで俄然興味が沸いて一気に6巻まで見てみた。

 いやぁ、おもしろい。ってか、ためになる。

 おーざっぱに言えば現代版「ナニワ金融道」で、そこにヤンキーマンガなテイスト(暴力+性な裏社会的要素、「Tokyo Tribe」的倫理観、「ヒミズ」的リアリティ)が絡んでる感じなんだけど、性描写は必要最小限に抑えてそれを売りにはしていない。

 作者が描きたいものは限界情況における人間の地力というか、そこで見えてくる人間の本質というものなのだろう。消費的幻想と離れたところにある人間の実存って感じ。それはデビュー作の「スマグラー」のときから一貫してるわけだけど、その次の作品でちょっと行き詰まりを感じていた。そこまでは資料もなく脳内にある「描きたいもの」をアウトプットしていたのだろうけど、ちょっとネタ切れ感というか、オチなし感があった。なので、「資料があったらのびるだろうになぁ」、とは思っていたのだけれどまさかこういう方向に行くとは・・。

 でも、消費者金融のような限界情況では人間ドラマが吹き荒れるってよく聞くので、良いところに目をつけたなぁ、と(編集勝ち?)。特に消費者金融よりもアレなところ(消費者金融への負債が多くなって借りられなくなった人(ブラック)が行くところ)である闇金を題材にしてるわけだからドラマいっぱいだよなぁ・・。資料大変だろうけど。

 「カネを借りる人=お金のない人=社会的弱者≠マイノリティ」ってことで、闇金の現場には知られざる世界な人々が集う(ex.OL,フリーター、ヤンキー、ゲイ、フーゾク、ギャル男(イベサー運営)・・。「知られざる世界」っていうか「身近ではあるけど内実を知らない世界」と言ったほうが良いか。そういった世界のルール、価値のようなものに対する描写もこのマンガの醍醐味と言えるだろう。

 で、それぞれの人々がそれぞれの理由で金を借りに来るわけだけど、個人的にはその理由の多くが「見栄」のためのように感じられた。「コミュニティでいいカッコをするための見栄」、「付き合いのための見栄」。そのために自分が必要とする以上のものを買い、買い続けるためにカネをムリに工面する。

 この辺りは阿呆と言えばそれまでなのだけど、リアルに切実な問題かもしれない。人間は純粋な効用だけを求めて生きられる動物ではないということなのだろう(cf.「肉を食わなくても必要な栄養分を摂取できるのに肉を食べる」)。

 欲望や幻想を喰らうと言うことなのだろうけど、その多くの場面で一部のコミュニティ内における幻想が個人の幻想に優位する。だからと言ってそれ自体を厳しく断罪し、節制するというのもなんかPTAっぽくて違和感があるけど。

 あと、個人的理由で消費をコントロールできなくなる場合でも「ストレスに対するガス抜き」という効用があるのだろうから一概に否定できない。っつっても、程度の問題なのだろうけど。
 
 ってか、人脈を重視する場合はハブられると情報が入ってこなくなるので「コミュニティで仲良くする」ということは死活問題なのかもしれない。


 で、


 ウシジマくんはそれらの人々を「奴隷くん」と呼ぶ。ウシジマくんに「10日五割」で貢ぐ奴隷くん。こう書くといかにも悪徳高利貸しのウシジマくんだけがこの世界の王のように君臨しているかのように思われるかもしれないけど、ウシジマくんはウシジマくんでリスクを背負っている。

 闇金という職業柄、人並みの社会的保護は受けられないので責任はすべて自己責任。ケーサツに相談できないので、債務者に飛ばれても泣き寝入りするしかない(探すけど)。その辺のところは債務者もよく分かってるので3人に2人が飛ぶらしい。金貸しババァやヤクザにも頭を下げなければならない(必要以上に低身にはならないけど)。つまりウシジマくんも弱肉強食のルールの中で生きている。


  「喰われたくなかったら喰らえ」


 それがウシジマくんの人生哲学みたい。イベサー・ジュンのセリフで「金も力もねぇ、地方出身のオレがのし上がっていくには人脈しかねぇんだよ!」みたいなのがあったけど、ウシジマくんの場合は暴力がそれに当たるのだろう。もしくは暴力を基本としつつ金・人脈を拡げて行ったか(その場合、知力もいる)。そういったサバイバルゲームの中で弱肉強食の人生観(リアリズム)が染み付いていったのだろう。

 でもこのエートスに則ってるヒーローって往々にして最後には破綻するんだよなぁ。。それは人間的な良心の限界ということなんだけど。もしくはそこで良心という弱点を持たないところがウシジマくんの強さの原動力になってるのかもしれないけど、それは弱さの裏返しだったり(そこをウサギで補完? cf.クロとシロ)。この辺り、作者はどう折り合いをつけていくのだろうか。いままで通りの結末だと「オチなし」って感じになるだろうけど。



 まぁ、とりあえずそんなこんなで(どんなこんなだけど)、ウシジマくん自体は下流喰い的な内容が分かりやすくまとめられているマンガなので一読をお勧めする。ただ、家に置くのはちょっと嫌かもしれないのでレンタルとかマンガ喫茶なんかがあればそこで読んだほうがいいかも。



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追記:
そういやユヌスのグラミン銀行も広い意味での高利貸しだったっけ?

マイクロファイナンスと、高利貸しのポジティブな役割(@山形浩生の『ケイザイ2.0』 第21回 、HotWired Japan_Altbiz)
http://hotwired.goo.ne.jp/altbiz/yamagata/010227/textonly.html


マイクロファイナンスあれこれ:来世を借金のかたに取る(@山形浩生 の「経済のトリセツ」)
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20061018/p1


日本の高利貸しも貸し倒れのないように仕事の斡旋をするって話は見たことがある。たとえば坪ビジネスなタコ焼き屋とか。「ウシジマくん」でこの辺の話もやってくれないかなぁ。。


タグ:マンガ
posted by m_um_u at 09:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年02月19日

「不都合な真実」を見てきたヨ

 映画「不都合な真実」を見てきたのでご報告がてら感想を。

 見る前から少し予備知識があったので斜に構えてみた感はあったのですが、けっこう楽しめました。なにせゴア好きなもんで(スーパーマンみたいだし)。

 予備知識っていうのは例のアレ。増田に載ってたロンボルグの感想(批判)ってやつです


 「天候問題は待ってくれるが、健康問題は待ってくれない」
http://anond.hatelabo.jp/20070124161750

 「アル・ゴアに不都合な真実」
http://anond.hatelabo.jp/20070125145018


 で、上記の論点となっていたところ、「温暖化が進行中というのは認めるけど煽り過ぎなんじゃない?(数値データ偏向あるし)」、というところに焦点をしぼってみてみました。

 上記エントリで指摘してあった数値データについては、「海面が20フィート上昇するっていってるけど1-2フィートぐらいしか増えないでしょ?」、ぐらいしか覚えてなかったんですが、以下はそれなりに疑問とか感心した点について


(1)温暖化によって氷・水が蒸発・減少するって言ってるけど、物質(原子)って完全消滅するっけ?(循環してるだけなんじゃないの?)

 これについては「それが温暖化を引き起こす膜になって地球を覆うんだ」ってことを言っていたのかもしれない(でも「CO2が膜になる」ぐらいしか聞いてないけど)。

 もしくは水がそのまま残って循環するとしても、

(2)「一部の地域に大雨が降っているときに一部の地域は旱魃になってしまう」、というような急激な変化が現れてしまうことが問題

 みたいなことを言っていて、この辺りは問題だなぁと思いました。ハリケーンとかもその影響なのかなぁ(ほかの言説だと「ハリケーンの要因はよくわかんない」ということだったように思うけど)


 んで、ダラダラっと温暖化の影響による変化みたいな事例が挙げられていって、同じことの繰り返しなので眠くなって寝ちゃったんですが、「んで、結局どうすりゃいいのよ?」って思ってたら最後のクレジットのところで解決法みたいなのを示唆してました。

曰く、
「車をなるべく使わない」、「公共交通機関を使う」、「冷暖房をならべく使わず断熱材を導入する」・・・

 そういやこれ系のマッキンゼーレポートがNYTで掲載されて注目集めてました。


 Energy Use Can Be Cut by Efficiency, Survey Says (@New York Times)
http://www.nytimes.com/2006/11/29/business/29energy.html?_r=3&oref=slogin&oref=slogin&oref=slogin

 って、もうアーカイブになってるのでアカウントないと見れないけど、いちお要約すると、『蛍光灯使ったり、断熱材使ったり、standby電力減らしたり、solar water heaters使ったりしたら15年で半分ぐらいのエネルギーが節約できるかも』、って感じでした。


 これって個人的には普段からやってることなので驚きもなかったんですけど、問題はやっぱ車社会ですわな。それに対しては最後のほうでなんかグラフ出してきて説明してたんですけど、あのグラフで日本が一位でアメリカが最下位だったのってなんだったんだろう・・?「環境問題への取り組み先進国」ということではなかったように思うんだけど(環境問題に対する車対策みたいなやつだった気が)

・・すみません、この辺寝起きでぼけーっとしてたんでよく憶えてません。



 ゴア本チェックしたほうがいいのかな・・(高いし大型本だ)


 そういやロンボルグの本も高いんですよね。なんなんすかね?関心はけっこう高い分野だと思うんだけど。


 話が逸れたので戻すと、車社会とか工業排気ガスみたいなのが一番の問題だと思うんだけど、その部分って実際問題どうしようもないですよね?

 車のほうはいちおハイブリッドってあるけど、あまり効果なさそうだし・・。「ヨーロッパみたいに公共交通機関使えばいいじゃん」って言ってもアメリカみたいに広いところにいまさら公共交通機関なんか作れないだろうし・・。「せめて都会での通勤は公共交通機関 or 人力で」という感じなのだろうか。

 やっぱ環境問題とエネルギー問題(開発問題)がトレードオフなのかなぁ。でも、こんな記事もあるし


 CO2の7割削減、成長維持しても「可能」(@asahi.com)
http://www.asahi.com/life/update/0215/007.html?2007

(※消えるかもしれないので一部引用させてもらいます。問題がある場合は消します)

都市機能集約や自動車から公共交通機関への利用転換、省エネ技術普及などでエネルギー使用量を40〜45%削減。石油や石炭からバイオ燃料、天然ガスへの転換、風力や太陽光発電導入を加速することでCO2の70%減は可能と結論づけた。必要な費用は国内総生産(GDP)の1%程度、年6兆7000億〜9兆8000億円と見積もっている。

 実現には社会構造転換やインフラ整備などの長期戦略が必要なため、同研究所の甲斐沼美紀子・温暖化対策評価研究室長は「いま日本の進むべき方向を決断しなくてはならない」としている。


 映画にしてもそうなんだけど、この辺の数字ってしろーとでは判断できないんですよねぇ・・。mixiのメディアリテラシー関連エントリにもちょこっと書いたけど、物事の真贋を確かめる方法がない状態で数字を出されたり、その分野の専門的な言葉を使われたりすると権威的なものに平伏してしまいがちな傾向があるように思う(自分)。この辺り、どうバランスとってくか、って感じで(「勉強しろ」、ってことなのだろうけどふつーに働いてる人はそんなに時間ないですよねぇ)。

 「ダメな議論」とか読んでパターン化したほうがいいのかな

 

 まぁ、それはそれとして話を戻すと「環境と開発のトレードオフ」の問題。こういう問題に対してよく当てられる言葉としては「持続可能な○○」っていうのがあるように思うんですけど、なんかあれも胡散臭いっすね(根拠なし)。


 「んじゃどうすべー?」ってことなんだけどとりあえず、「反動的に一気に物事を解決しようとしてやりすぎるっていうのはよくない」、って感じなんですかね。「京都議定書はやりすぎ」、と(「費用対効果考えやがれ」)


 その辺りが落としどころかなぁ、とは思うんだけど、なんか寂しいっすね(文句ばっかですが)

 「京都議定書やり過ぎ!」とか「環境問題を煽るのはどうかと思う」、「そんなことにお金をかけるぐらいならHIV、下痢、マラリアといった病気を予防するほうが優先」というのが正論なのは分かるんだけど、ゴアがちょっと急進的に思えるほどの言説を用いざるを得ない状況があるのではないかと思ったり。つまり、「極端に言わないと通じないような現状があって、環境問題をあおるぐらいでバランスがとれるようになる(少しは環境問題を意識するようになる)」、ということではないかと思ったりするわけですが、これは単にぼくがゴアびいきだからかもしれない。なにせ「情報スーパーハイウェイ」でしびれたクチなので。

 そういや大統領候補の一人のオバマ氏はアフリカ系とのことだけど、アフリカの紛争・貧困問題への対策とか、環境問題意識とかどうなってるんだろうか。



・・ってまた、話逸れちゃいましたね
(「ですます」調使うと話が長くなるのかな)


 個人的にはバイオでなんとかできないかなぁ、とか思うんだけど


「納豆で砂漠を緑化」の壮大ロマン(@日経BP)
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/d/39/


 しろーと臭いかな。もちろん上記記事のような方法だけで全部解決できるとは思ってないけど



 って、この領域は良くわかんないので次はこれ系で気になったことでもエントリしてみます。






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関連:
環境問題のウソ(@404 not found)
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50705887.html


池田清彦「環境問題のウソ」を読む(@環境を読み解くhechikoのブログ)
http://hechiko.cocolog-nifty.com/blog/cat2053441/index.html


京都議定書よりも賢明な政策(@池田信夫blog)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/8481b87705a247b4932fd8b52db13b46


地球温暖化対策は待ったなしか?(@スラッシュドット ジャパン)
http://slashdot.jp/science/article.pl?sid=07/02/04/008234&from=rss


Big factory pig farms are some of America's worst polluters(@BoingBoing)
http://www.boingboing.net/2007/01/20/big_factory_pig_farm.html


汚れた都市(@壊れる前に...)
http://eunheui.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_79a8.html


グレート・バリア・リーフ、20年以内に絶滅の危機(@シドニーの達人)
http://hirano.stay.jp/archives/article/5768.html


このところの穀物高騰など(@極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/01/post_07e1.html



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追記:
書いたあと気づいたんだけど工業排気については炭素税と排出権取引市場ができあがってますね。
んで、先進国が低開発国から排出権買い漁ってて、それ専用の会社もある、と。


これでいちお全体の排出量はセーブできてるのかもしれないけど、減ってはいない。そしてここでも先行者利益のようなものが発現している。・・こういうのは「持続可能な社会」っていうのかなぁ。


(でも、「やらないよりはやったほうがマシ」、なのだろうけど)
タグ:環境問題
posted by m_um_u at 17:04 | Comment(2) | TrackBack(1) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク