いちお感想も書いたので
muse-A-muse 2nd: 村上春樹、2009、「1Q84」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/127980291.html?1252876425答え合わせというか攻略サイト参考みたいな感じで皆さんの感想やら批評やら見て回ってみた。そんで感心したり共感したり言い足りなかったりでなんかウズウズしたので目に付いた範囲での1Q84感想+批評集+αみたいな感じでまとめとく。おもしろかったし
ちなみに「感想」と「批評」の使い分けについて。批評というのは当該作品の構造やメッセージをその作品にいたる文脈も含めてきちんと読み取った上でなんらかの自分なりの視角(おもしろい読み方)を加えるものだと思ってる。それ以外のものは個人の印象的な「感想」。
同様に単なる「小説」的作品と「文学」的作品の違いがあるように思う。小説を生み出す発端として「頭に浮かんだイメージをなんとなくそのまま時に起こした」ってのがあると思うんだけどこれだけだとストーリーテラーとしての能力はあるのだろうけど「学」とはいえないので。
「文学」の場合はたとえば書き上げた(あるいは書き上げる予定の)作品なりプロットなりを一端客観視し「自分がその作品を通じて何を語りたいか」「どういった作品構成にしたらそれをうまく語れるか」といったことについて再検討して作品を分解→再構成していく。一定のルールに基づいて。
「一定のテーマについて、小説という技法を通じたシミュレーションの場」というのが文学だと思ってる。
まぁそれはそれとして
最初にこれ読んで
2009-05-29 - 【海難記】 Wrecked on the Sea :Book2読了〜この本こそが『空気さなぎ』である
http://d.hatena.ne.jp/solar/20090529#p1『「天吾」は村上春樹自身』とか『個人史、個体史のことである』とかわりと自分の感想と似たような印象を受けた。「個人的な問題の超克 → α」的物語って読み。
次にこの辺で
2009-07-17 - 【海難記】 Wrecked on the Sea :『1Q84』をめぐるポッドキャスト2題
http://d.hatena.ne.jp/solar/20090717#p1そういやLifeのpodcastでなんかやってたのでまだ聞いてなかったなってことであとで聞こうと思いつつ空中キャンプの人の感想でも見てみるかと思うに
TBSラジオ「文化系トークラジオLife」の収録に参加しました! - 空中キャンプ
http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20090717/p12009-06-03 - 空中キャンプ :monkey business 2009 Spring vol. 5
http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20090603#p1ぐらいで特に直接的感想なり批評なりはなかった。
前者についてはLifeのpodcast聞いた後でみるべきものだろうなぁ、ってことでスルーするとして後者も直接的感想ではなかったんだけど「日本の文壇に疎外された村上春樹」な話がちょっと目に付いて。そんで大江健三郎とのこと思い出したり。まぁそれは後述するけど
んで次にこれ
[書評]1Q84 book1, book2 (村上春樹): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/06/1q84-book1-book.html『「1Q84」は、私たちの社会がその真実と善に疑念を持ち得ないような閉塞なカルトに近く変性したことに疑義を植えつつある。』、『しかし実際に向き合うことになる教祖は老婦人や青豆が想定したような悪の存在ではなく、ただリトル・ピープルのメディアに過ぎなかった。そのことで物語は老婦人や青豆が希求する、市民社会が超えがたい正義と悪の限界を暗示している』、と。 正直これが一番効いたなぁ。。
弁当さん日記でもちょこちょこ出てきてたソフトスターリニズム的な「正しさ」ファシズムの問題と近代資本主義社会(消費社会)的問題も想起しつつ。
オウム的カルトの問題を「あっち側にいってしまった人」の問題にしてしまうとタテマエ的な「正しさ」によって単になにかをつるし上げて疎外したり攻撃したりするだけどのファシズムになる。それ自体がすでにカルト的だっていう話。経済合理性のみを唯一の正しさとしたカルト
それを象徴するように青豆が殺害しようとしていた教祖は単なる悪の親玉ではなくこの世界では「正しさ」の象徴ともいえるような秘蹟(キリスト的秘蹟)を行う存在だった。ここで青豆はこの世界の正義の象徴ともいえる救世主たりうる存在を殺害してしまう。
それは既存の倫理観からすると許されざることだし結果的に世界の終わりを招くことかもしれないんだけど青豆個人にとっては必要性のある選択だった、と。
この辺の話はアーレントと公共性にも絡んできそう。
ただ、『同様に村上春樹の「1Q84」(book1参照・book2参照)の2巻までは、17歳の少女を29歳の男が和姦に見立たて姦通する、「犯罪」の物語である。また国家に収納されない暴力によって人々が強い絆で結ばれていく、極めて反社会的な物語でもある。それが、そう読めないなら、文学は成功している。』、って言い回しはずっこいなと思った。呪いみたいでw (まぁ口上みたいなものだろうけど
とりあえずここでこの作品が単なる「個人的な問題の超克」という話というだけではなく「それを通じての社会的コミット」的性格をもっているということがあきらかになってくる。
次にこの辺
2009-07-30 - 【海難記】 Wrecked on the Sea :愛郷塾、高踏塾、タカシマ塾〜『1Q84』とユートピア思想の系譜
http://d.hatena.ne.jp/solar/20090730#p1読後直後っぽかった最初のエントリのときよりももうちょっと作品の社会性について触れたエントリ(…てか極東ブログの受けたものなのかな
その中でも「カルトが襲撃派と穏健派に分かれても後者の中に内包されていく問題」について焦点を当てている。『反体制的なユートピア運動は、かりに社会主義やファシズムといったイデオロギーを抜きにした場合でも、不可避的にあるダイナミズムを孕んでしまう。』ってやつ。
というか、「襲撃派と穏健派に分かれるってモチーフが現実に起こった事件であった、ということを説明することによってこの作品の社会性、問題としようとしていた点を説明」、って感じ。
あとは「もうビッグ・ブラザーの出る幕はない」の解釈とか。
オラはこれは「国家による監視社会」からもそっと監視が分散化した形、あるいは忘れてたけどフーコー的な監視の内在化を想起してたわけだけど仲俣さん的読みだと「<帝国>」(ネグり / ハート)的に「国家から暴力性や監視性が分散」って感じだったのだろうか。マルチチュードじゃなくてテロリズムだけど
この辺の読みはいろいろだろうけどとりあえず極東ブログのエントリも含めて、『村上春樹が『1Q84』で描こうとしているのは、単線的な「正義」でもなければ「ユートピアへの幻滅」でもない。』、ってのは確定かなと思った。
(あとぢみに、『『1Q84』という小説の題が「イチキューハチヨン」と読まれるのは、「五・一五事件」を「ゴーイチゴ事件」、「二・二六事件」を「ニーニーロク事件」と呼ぶのと同じ理由による。』、とか説得力あるなぁ…)
次にこれ
2009-06-22 - 日記&ノート(転叫院):村上春樹『1Q84』CommentsAdd Star
http://d.hatena.ne.jp/tenkyoin/20090622#p1「これってセカイ系だよね」って感想は一緒(「これってエヴァっぽい」)でだいたい同じで、『984年というのは、連合赤軍の崩壊とオウム真理教事件との間の二等分点にあたるわけですが、左翼テロから霊性に向かう流れと、霊性から再びテロリズムに向かう流れが』、って指摘で「ほぅ…」って思ったぐらい。
やっぱ「暴力派と穏健派との分離問題」ってあるのねぇ。連合赤軍のモチーフは後述するかもだけど「ニューヨーク炭鉱の悲劇」(「ブルータス」1981年3月15日号)でもはや出てたそうで「この作品の特徴」って話でもなさそう。「これまでの作品の集大成だから」的なものだと思う
最後にこれ
「父」からの離脱の方位 (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/06/06_1907.php直前ぐらいにあったエルサレムスピーチを中心にした妄想というか個人的印象な感想って感じだった。
「お父さんの問題との問題」っていうんだったらこの作品以前にノモンハンを出したのだってそうだし「父親殺し」っていうんだったらむしろ「海辺のカフカ」だしなぁ。。
まぁ、「個人的な思い入れに従った読み」、ということだとオラも人のこといえないのだけど。。
そんで「父親殺し」って問題だとむしろこの辺が関連してくるように思う。さっきの空中キャンプでチラッと出た「春樹の文壇八分」的な話
2006-11-09 - 横浜逍遙亭 :村上春樹と大江健三郎
http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/200611091979年に「風の歌を聴け」が芥川賞の候補に挙がったときに大江健三郎がなんかイヤミ言ったっぽい。それも儀礼的無関心的なほのめかしで誰とは特定せずに。
そんでしばらくして春樹褒めてて「なんじゃそりゃあああ!!111」、と。
そういえば春樹の「1973年のピンボール」って「万延元年のフットボール」の本歌とりっていうかイヤミっていうか、「いまさら学生運動とかでもねーだろ」的な話だったと思うし。「ノンポリでピンボールしてぼけーっとしとくだけでいいじゃん」的な
1973年のピンボール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/1973%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB『タイトルは大江健三郎の『万延元年のフットボール』のパロディである。』
年代的にも芥川賞選考のあとだべな
純文学ファンのための小説ガイド 村上春樹
http://www.geocities.jp/hideki2230461/nippon-sakka-review/murakamiharuki.htmlこの辺では大江-村上の間でびみょーな確執というか因縁のようなものがあったように思う。それを受けて
【書評】加藤典洋:文学地図 大江と村上と二十年【ブックレビューサイト・ブックジャパン】
http://bookjapan.jp/search/review/200902/okazaki_takeshi_01/review.html大江は、社会性のなさで村上春樹を批判したが、加藤の見るところ村上は、「意外なほどの深度で、初期から社会への関心に裏打ちされた作品を書いてきた」という。村上の短編「ニューヨーク炭鉱の悲劇」を、タイトルを借りたビージーズの同名曲の歌詞と比較しながらの読み直しなど、なかなか芸が細かい。
asahi.com(朝日新聞社):大江氏・村上氏の近似性 文学地図再編の提案 - ひと・流行・話題 - BOOK
http://book.asahi.com/clip/TKY200902050106.html先立つ86年に、大江氏が村上氏の〈社会に対して……能動的な姿勢をとらぬ〉スタンスを批判した点がその後の評価の構図を生んだ、という。
「んでも、大江も最初のころは社会的コミットとかそういう関心でもなくむしろ社会的なことには懐疑的に文学少年してたじゃん。それが変わったのは『ヒロシマノート』からだし。村上の場合はそれが地下鉄サリン事件のことだったわけだし「ニューヨーク炭鉱の悲劇」に見られるようにそれ以前から社会への関心に裏打ちされた作品作りはしてたしねぇ。2人は似てるんだよ」、というのが加藤の意見っぽい。
もうちょっと見るに
チョムゲブログ: 文学地図 大江と村上と二十年
http://chomge.blogspot.com/2009/01/blog-post_17.htmlこのエントリからだとなんとなくの雰囲気だけしか伺えないんだけど類推するに「村上春樹にとって日本文壇における父的存在が大江健三郎であり、両者は子殺し的疎外と親殺し的報復(あるいは自我の確立)的関係にあった」的な読みができそう。
これだけだとわかんないだけどいずれにしてもなんかこの本おもろそうだし便利そうなので暇があったら読もう(というわけで貼っとく
加藤 典洋
朝日新聞出版
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そんなこんなで「父親殺し」って線をとるんだったら大江とか、それに象徴される日本の文壇(あるいはノーベル賞という場)のほうを見たほうがおもろいし現実的なように思う。
いささかゴシップ的ではあるけど
じっさいは相克的関係ではなく大江とかほかの日本文学者の問題を継ぐ形で村上のテーマもあるのだろうし
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追記:
ジョギングしつつLifeのpodcast聞いて来たので。正直最初は「たいして読めてないだろうなぁ。時期早かったし」とタカをくくっていたけど・・失礼しますた。
仲俣さんの読みはわりと最初のエントリ+αぐらいで「ハードボイルドワンダーランドから続く構造を踏襲しつつ今回は無事着陸できた」って感じだった。「またこの話かって繰り返しに思えた」的な意見もあったけど螺旋的な進歩ってヤツなのだろう。
個人的にはこの辺はハードボイルドワンダーランドのころはまだ「半身/影をつかむ」って話で自我の確立的問題がメインだったような印象。でも「クロニクル」、(ちょっと回り道して)「カフカ」と進むうちに集大成として「1Q84」があったように思う。「風の歌を聴け」をはじめとした三部作や短編も含めた。
てかやっぱ教祖との対面のシーンの意味がメインテーマ的な作品だったのねぇ。メッセージとしては「単線的な正義ではない」ってやつ。
「1984」的なころにはまだ「ファシズムの悪の親玉」って感じで見えたものが高度資本主義-消費社会-ポストモダンになってくるとそのシステム自体に自分たちがコミットしていることになる。消費=システムへの賛同的な投票という形で。そして、それ自体は「悪」とされるようなものでもない。
また、なにか正しい正義の看板を立てて悪者を仕立てあげそれを倒したとしても今度は新しいなにかがその座を占めるだけか、もしくは倒したもの自体がそのものになっていく。レシーヴァはレシーヴァに、王殺しは王に、熊(カムイ)殺しはカムイに、ダースベイダー殺しはダースベイダーに。
再帰性ってやつなのかの
そういう意味では「父親殺し」の味方もあながち間違ってはいないのだろうな、と反省…。ただ、それがメインというわけではないと思うけど。
あと、この線でいって続編があるとすると天吾くんは帝国(システム)的なものの親玉になるか、反システム的なものの親玉になって青豆さんと対立することになるのだろうな。青豆さんはドウタを取り戻さないといけないし…。そこで神の対項の聖母(あるいは巫女)的存在としてのふかえりさんが不確定要因になるんだろうけど。
んでもやっぱ天吾くん=青豆さん的なあの終わり方のほうが美しいように思うのであのままでいいように思う。
まぁそんな感じで振り返ってみると自分の最初の読みというのはけっこう個人的思い入れがあったのだなぁって感じ。父の問題とか過去の問題とか
でもやっぱ正しいのか間違ってるのか分からない得体の知れない複雑なものに立ち向かっていくには「自分」を見つめなおすことが最初の一歩のような。番組では「手をつなぐってとこが印象的だった(それがコミットに繋がる、と)」って言ってたけど自分たちの問題として考える第一歩は自分のことを掘り下げることだと改めて思ったのでした。
それが世間的に見て正しいとしても間違っていたとしても
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追追記:
村上自身から作品解とか「続編出すよ」インタビュー出てたので
村上春樹氏:「1Q84」を語る 「来夏めどに第3部」 - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/enta/art/news/20090917ddm014040122000c.html村上がこういった形でガイドライン的解説をするのって珍しいんじゃまいか。それだけ「ちゃんと呼んで欲しい」って思い入れが強いのかな。
あと、『最初は『1985』にするつもりでした』 とか 『浅田彰さんがやはり同じ題で音楽カセット付きの本を出されていると分かりました』 とかが特におもろかった。仲俣さんのエントリが効いてなぁ