2016年12月17日

「ドッグヴィル」/「マンダレイ」



『ドッグヴィル』×『マンダレイ』 ラース・フォン・トリアー ツインパック [DVD] -
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ドッグヴィル - Wikipedia

舞台は大恐慌時代のロッキー山脈の廃れた鉱山町ドッグヴィル(犬の町)。医者の息子トム(ベタニー)は偉大な作家となって人々に彼のすばらしい道徳を伝えることを夢見ていた。
そこにギャングに追われたグレース(キッドマン)が逃げ込んでくる。トムは追われている理由をかたくなに口にしないグレースを受け入れ、かくまうことこそが道徳の実践だと確信し、町の人々にグレースの奉仕と引き換えに彼女をかくまうことを提案する。
グレースは受け入れてもらうために必死で努力し、いつの日か町の人と心が通うようになる。しかし、住人の態度は次第に身勝手なエゴへと変貌していく。


作品の内容自体は鶴の恩返しとかその他の教訓的昔話にも似てる。

「平凡で刺激のない村にある日うつくしい娘があらわれた。村人たちは最初、娘を受け入れがたくしていたが次第にココロを開いていく。娘を受け容れるなかで平凡な生活の中で気づかなかった楽しみにも気付かされていく。そこで終わっておけばよかったのに村人たちは次第に娘に甘えエゴや欲望を押し付けていく。そのエゴと欲望の罪から目を背けるため罪を娘になすりつけ己の罪を見ないようにする(『あの女が誘惑したんだ!』『あの女が悪いんだからひどい目にあって当然だ』『ひどい目ではなくこの女には当然のことなのだ』)。娘はそんな村人のひどい仕打ちにも耐え忍んでいたが、娘を陥れようと村人たちが仕組んだ罠が却って村人たちに最後の裁きを下すことになる。村人たちは自ら最悪の裁きを招き入れる。娘は赦すつもりでいたのに」

村人目線で見るとこういった昔話的な教訓話になる。でもこの物語は主人公グレースの、あるいはトリアーの描いてきた聖女たちの物語となる。汚れ、寡黙に耐え忍ぶだけの聖女たちの。

以前にダンサー・イン・ザ・ダークの感想で「彼女はある意味独善的だ」「自分に酔っているだけだ」というようなことをいったようにおもう。


それと同じようなことがこのドッグヴィルの最後の対話でも指摘される。

グレースは強力なギャングのボスの娘で、彼女は父の汚い仕事を継ぐのを拒否してそこから逃げてきたのだった。ギャングのボスはグレースと車の中で話し、他人が自分と同等の道徳的水準にないと考える (さらに、本来人は自分行為について説明責任がある (accountable) が、グレースが住人に説明の機会も与えず許そうとしていることについて) グレースを傲慢だとした。グレースは最初父親の言うことを聞こうとしなかったが、いったん車を離れ町や住人の様子を見ながら熟考した末、父の考えに同意して「もし住人達が自分自身と同じくらい道徳的だったならば住人達を非難して重い罰を与えなければならないだろう、そうしないのは独善的で偽善的である」と考えた。グレースが町を破壊するこの決断に至ったのは最後にトムと交わした会話による。トムはギャングが町に対して行うことそのものについては恐れているが、自分のやったことに自責の念や後悔はないと言い、トムがグレースを裏切ったことで互いに人間の性質について多くのことを学べたと発言した。グレースは父の娘としての役割を受け入れ、町を消し去るよう命令する。



彼女たちの行い、全ての罪を自らが被り贖うという行為はたしかに尊いし立派ではあるのだけどそれを誰にも説明せず行ってるうちは単なる自己陶酔にすぎない、し、誰も彼女たちと対等のものとして認めてないということになる。

グレースの選択は住民たちを彼女たちと対等のものと認めることを通じて、「であるならば」対等に同じ罪を贖わせなければならない、という苦渋の決断だった。ギャングたちによって殺され火を点けられた村は彼女の幼い正義の象徴だったといえる。それに火をつけ決別したことで彼女はヒキコモリ的正義から正しさを世に試し、それによって傷つくことを受け入れていく。傷つき成長していくことを。

ただ、最後の決断に対して、その正義の判定が甚だ一方的であるという点で疑問は残るのだけど。まあそのことについても続編を通じて自省と自己批判の材料となっていくのだろう。




マンダレイ - Wikipedia
舞台は1933年のアラバマ州、南北戦争と奴隷解放宣言からおよそ70年。縄張りを失って旅をしていたグレース(ハワード)たちギャング団は大農場マンダレイの前で黒人の女に呼び止められる。そこでは依然として奴隷制度同様の搾取が横行し、今まさに「使用人」の一人ティモシー(バンコレ)がむち打たれようとしていた。グレースが銃の力で割り込むと農場の女主人(バコール)は息絶えてしまう。命令するものを失って途方にくれる黒人の使用人たちをみてグレースは、マンダレイを民主的で自由な共同体につくりかえる決心をする。



前作で父の権力(暴力による己の正しさの行使)と同じものを自身も実行してしまったグレースはその後、ふたたび父への反発をつのらせていたところで南部のしみったれた街マンダレイにたどり着いた。
そこでグレースは未だに奴隷制度がつづいている街の様子を見て止めに入る。ギャングの暴力≒父の権力によって。

その後、かつての女主人を失った奴隷たちが奴隷としては開放されつつも極めて不利な条件で労働契約をさせられそうなのを見て間に入る。「このままだと実質的には奴隷と同じだ」。グレースは逆にギャングの法律顧問を使うことで契約書を作り直し街の白人たちと黒人たちの立場を同じようなものとする。
そこで黒人たちはいちおう自由とはなったものの自由を継続するための仕事≒収入が安定しない。その安定が確立するまでグレースはとどまりともに働きつつ彼らを支えていこうとする。彼らに共同体の民主的運営、民主主義を教えつつ。

これがうまくいっていたらヴェイユの工場日記みたいな感じだったのだろう。「理想をいうだけではなく下層労働者とともに働き、リアルを実感しつつともに戦い、なんだったら改善策を練っていく」。
とはいっても結果的にそうはならなかったのだけど。工場日記もそういう内容でもなかった。

ネタバレしてもよいだろうからネタバレしちゃうけど、収穫が終わり換金したところで悲劇が起こる。

グレースはだんだんと街の暮らしにも慣れていっていたが長い共同生活の中で自身の女の疼きを持て余すようになっていた。そんな中で共同体の中でも「誇り高い黒人」として種別され、一匹狼的な側面とともにある種の知性と誇りをにおわせていたティモシーを気にするように。
収穫の後、女主人の役割を解かれたグレースをティモシーは誘い、グレースもそれを受け容れる。「女は裸にされて横たわらされ目隠しをされ男が一方的につらぬくのに身を任せなければならない」という交わりは伝統に則った直接的なもので情を交えるというものでもなかったのだけど、むしろそれはグレースが望んだものだった。否定していた父の権力観、主と奴隷的な生活のなかで黒人の異性にかしずかれ性的な愛撫もサービスされることを妄想してしまっていたグレース。ティモシーによる一方的なセックスはそういったものとは真逆といえるけれど、「奴隷に襲われた女主人」的な妄想と欲望を満足させるものとなったのだろう。とりあえずその交わりはグレースの満足の行くものだった。
その後、悲劇が起こる。

目覚めてみると村人の一部が殺され収穫金が奪われていた。「ギャングが戻ってきて襲って盗んだんだ」と残っていた黒人はいう。しかし目撃したわけではないらしい。
呆然としていたグレースに白人の男が近寄ってくる。かつてグレースに唾棄すべき取引を持ちかけた男だ。「解放奴隷は解放した体でパンと娯楽を与え、娯楽≒ギャンブルを通じて有り金を巻き上げてしまえばいい。そうすれば実質は奴隷と変わらない。わたしだったらうまくやれる。わたしは二割でいい。八割の儲けをあなたに渡そう」。そのとき嫌悪をしめして突っぱねた男が戻ってきて言う。「これはあなたの分だ。約束していた8割だ」。訝るグレースに男は続ける。「ティモシーとかいう黒人から巻き上げたのだよ」
ここでグレースの世界が歪む。

ある程度信頼し身体を預けた相手が、共同体の中で一目置いていた相手が、、よりによって、、


ティモシーは「誇り高い黒人」ではなかったのか?


グレースは室へ戻って前の女主人が残していた秘密のノート、黒人の等級・区分けに示されていた内容を調べる。

誇り高い黒人、おどける黒人、暴力的な黒人、臆病な黒人、、

いくつかの性格付けごとに属性され7つのグループに分類されたそれ。



ティモシーは1の「誇り高い黒人」ではなかったか?



1だと思っていた数字はよくよくみてみると7で「ずる賢い黒人」だった。


「人をこのように属性分けしそれに従って管理するなんて(政治的に正しくない)」

そのように思っていた忌まわしい書の内容の通りになったのだ。

後の会合でこの書は前の主人がつくったものではなく主人に仕えていた老黒人が作ったものとわかる。

彼らは、無理やり奴隷制度に従わされていた、のではなく、彼らのうちの数人が自らこのような管理体制を望み象徴として女主人をたてていた、のだ。女主人がそのような制度の憎しみを一手に引き受けおさめることで共同体の平衡を保っていた。

グレースはそのような女主人の代わりと勤めるように要請される。真実を知ったグレースは北へと逃れる。




今作でははっきりと「政治的ただしさ(ポリティカル・コレクトネス)」という用語が出てきてこのシリーズがそれをめぐる作品であることがわかる。
正義やPCを尊ぶ純真な乙女が現実に直面しだんだんと薄汚れていく物語。あるいはそのなかで鍛えられナニモノかになっていく、のか。

ふつーの道徳おとぎ話だったら「解放奴隷とともに手を携えることで彼らの自立をたすけましたとさ(チャンチャン♪)」で終わって良いところを皮肉で露悪な内容に仕上げている。
作品の最後の「アメリカに対して黒人たちは不平を言うがこんなにも自由を与えてるんだぜ?」(そこからEDの「young america」という脳天気な曲に合わせKKKが最初に出てくる)というのはそういった皮肉だろう。

「マンダレイ」を含め「ドッグヴィル」もトランプ当選後のアメリカに合わせてみると感慨がある。「マンダレイ」は黒人も含めた非白人層一般、「ドッグヴィル」のほうはアメリカの田舎の中・下流を想わせる。
「政治的正しさは彼らも平等にというがじっさいの彼らは怠惰で卑怯で村ごと消し炭にしてやりたいような存在だ。きみたちはその現実を見ていないからそのようなキレイゴトを言えるのではないか?現実を見、実際に体験してそれを言えるのか?」
それがこの一連の作品のじっさいの問いだろう。

そして、聖女が汚れたたきのめされつつもそれらを引き受けていけるかどうか。




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「メランコリア」 → 「土星の徴の下に」




少しまえにトリアーの「メランコリア」をみて感想なんかをnoteしてたのだけどそのリライト的にまとめてエントリしとこう。

メランコリア [Blu-ray] -
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メランコリア (映画) - Wikipedia

コピーライターであるジャスティンは、心の病を抱えていた。その鬱症状が引かないうちに僚友マイケルとの披露宴を迎えた彼女は、母であるギャビーとともに奇矯な行動に出、祝宴の雰囲気をぶち壊すのみならず上司ジャックや、他ならぬ新郎マイケルとの関係決裂を招いてしまう。そんなジャスティンをなじる姉クレアだったが、仕方なく夫のジョンや息子とともに彼女との生活を続ける。だが、ジャスティンの病状が穏やかになるとともに、地球に奇妙な周回軌道をとる惑星が接近する。彼女は周りの狼狽を意に介さず惑星の到来を朗らかに出迎えるのだった。


◆ 僕を哲学的に考えさせる映画:ラース・フォン・トリアーの〈メランコリア〉 - LIFE WITHOUT "THINKING" ・・・ IS BORING!
http://mythink.hatenablog.com/entry/2016/07/24/150418



巷で言われてるほどショッキングなものでもなくむしろ耽美的で落ち着いた感じだった。まあうつ病のひと的にはリアルに感じてなまじっかのショッキングな映像よりクるものがあるのかもだけど。

この映画の感想をざっと見たところやはり裸とかセックスシーンとかに目を引かれそのことについて言及せざるを得ない人たちがちらほら見当たるのだけどアレ自体はこの作品においてはそんなにショックな事でもないのだとおもう。あるいはトリアーのほかの作品においても。

「メランコリア」においては主演のキルスティン・ダンストが惑星の明かりの元で全裸になったり、披露宴当日に特に知らない冴えない男とセックスする(新郎やパーティを放ったらかして)。
これらはそれ単独だとショッキングなことだけどキルスティン・ダンストが演じるヒロインの心境を思うとそんなにたいしたことでもない。単に裸になったりセックス(粘膜接触・体液交換)したりってだけなので。
こういった行動に及ぶ背景にはヒロインの心がそれをせざるを得ない / してちょうどよいぐらいに壊れていて、その逃げ道として裸になったりセックスしたりするのがちょうどよかったのだろう。クソみたいな披露宴をなんとか( ^ω^ )ニコニコとこなしつつ、だんだんと「世間」が自分たちの都合を押し付けてくることに(#^ω^ )しつつもやりすごしていたのに身体とか自分の心の奥のほうが拒否反応を示しだして、最終的に「初夜の契」的なもので(表面的には紳士を装いつつも)性欲を押し付けてくる新郎に嫌気がさして身体がくそくらえな反応をする。その結果としての見ず知らずの冴えない男とのセックスで、そこに心は通ってない/単なるストレス解消の体液放出なので道具を使った自慰的になる。そこには理性的な判断とか理由とかは特になさそう。放尿と同じぐらいで。

そして、彼女の鬱的な心境は惑星の衝突 ≠ セカイノオワリによって救われていく。

それが鬱になった彼女の心の中の常態であったのでとくにアタフタもない。自分の心が死ぬ≠世界も終わっている=オワレバイイノニ、ぐらいだったので。かといって喜ぶでもない。ベストな選択でもないし。

問題はこういった心境、鬱的な心境が披露宴によってつくられたのか?ということだけど、どうも披露宴以前からこういう心境がつくられていたぽい。「彼女は仕事中毒だ」の言葉と広告業界という場。父親と母親の不仲とその影響としての愛の無い家庭環境の片鱗。そのへんでなんとなく慮れるけど、物語的な合理性からこの作品を説明・理解したい人にとってはそのあたりの細かい描写があったほうが分かりやすかったのだろう。物語的合理性から理解したい人たち ≠ たとえばセックスシーンとかにとらわれるような人たち。単に鬱の心象を描きたかったぽいトリアーとかにとっては蛇足で冗長的にはなるのだろうけど。

「冗長」ということでいえばこの映画全体が冗長ともいえる。本来ならオープニングの8分ぐらいの断片的な映像のコラージュによって終わっていて然るべきともいえる作品で、それを映画的な作品に仕上げるため≠ほかのひとにもある程度わかりやすく表現するために物語的なつなぎと因果関係が必要になった、程度だったのではないか。

鬱状態だったトリアーの見た、あるいは想像しアンシンした美しい画(夢)が冒頭8分の断片であとからそこに物語をつけて説明していっただけのような…。

あとは細々としたこと。

キルスティン・ダンストの鬱になったときの表情がそれっぽかったのだけど…?とおもっていたらユリイカの特集号で「自身も鬱を患った経験から」とあった。



ユリイカ 2014年10月号 特集=ラース・フォン・トリアー  『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から『ドッグヴィル』、そして『ニンフォマニアック』へ -
ユリイカ 2014年10月号 特集=ラース・フォン・トリアー 『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から『ドッグヴィル』、そして『ニンフォマニアック』へ -


たぶんタルコフスキーの「惑星ソラリス」の影響とかオマージュとかあるのだろうけどタルコフスキー作品は相変わらずわかりにくくよくわかってない。まあ「ソラリス」はこの機会に見てもいいかなと思うし、自分的にはトリアーから見たほうがわかりやすい(トリアーの関連作品が補助台になってる)ともいえるのかもだけど。そういえば惑星がいよいよ衝突寸前で瀟洒なお屋敷からお庭を眺めたときに馬が草を食んでいてという場面のシュールな静謐がなんとなくタルコフスキーの作品を想わせた。


メランコリア (映画) - Wikipedia

カンヌ国際映画祭における記者会見でラース・フォン・トリアーは本作におけるドイツのロマン主義芸術からの影響を話した後、「ヒトラーに共鳴する」などと発言したために反ユダヤとされた。カンヌ映画祭事務局側は事態を重く受け止め、「好ましからぬ人物」としてトリアーを追放した。出品された「メランコリア」は審査の対象から外されなかったものの、仮に授賞してもトリアー監督は出席できなくなった



この部分についてはユリイカの特集号にインタビューについての詳細が載っていた。

(ユリイカ、ラース・フォン・トリアー回より2011年のカンヌ映画祭での「メランコリア」上映後のトリアーへのインタビュー)
― 本作はドイツロマン主義に触発されたそうですが、あなたの中に流れるドイツ人の血とゴシック芸術との関連性について説明してもらえますか。デンマーク映画協会の資料によると、本作を作るにあたりナチスの美術論についても関心が生まれたそうですが、それについて説明してください


自分はずっとユダヤ人と思っていたし、それも下層階級のユダヤ人と思っていて、それに満足していた。ユダヤ人になりたかったんだ。ところが自分はナチスだと分かり(他界した母が、ジップはドイツ人だったと遺言した)、それもまた同様にうれしかった。ヒトラーを理解できると思ったんだ。たしかに彼は残虐なことをした。地下壕に座ってヒトラーが……(ここで、隣に座っていたキルスティンが、ラースに腕を回し発言を控えるように態度で合図する。戸惑うラース)……それで、彼を理解できる気持ちになった。彼は善人とはとても言えないが、少しだけシンパシーを感じるんだ。でも第二次大戦でやったことについてではないよ。それに僕はユダヤ人に反感はないし、スサンネ・ビアに対してだって……これも同様に冗談だけれど、ユダヤ人にはシンパシーを感じている。ただしイスラエルがやっていることについては同意しないけど。どうやったら僕はこの話題から抜け出ることができるんだろうか……。

話題を転換させようとしたが、あまりにも当惑し、最後「わかった、僕はナチスだ」と自爆した。会見の会場はリラックスした雰囲気で、笑いさえ漏れた。ところが――。

翌日の朝刊、特に本国デンマークの新聞やゴシップ誌から、辛辣な批判を受けることになった。19日の朝はその話で持ち切り。そんな状況のなかでこの囲み取材は行われた。内容的にも、一件について訊きたいデンマークの記者や、キリスト教の側面について訊きたい記者が他者に発言権を渡そうとせず、どうにも焦点が定まらない取材となった。さて、ラースの発言は更に波紋を呼び、結局カンヌ映画祭側は、周囲からの圧力もあったのだろうか、彼を「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからぬ人物)」として映画祭永久追放という手段に出るに至った。ただ、主演キルスティン・ダンストが主演女優賞を獲得したのがせめてもの計らいか。この事件は以後のラースに暗雲のようについてまわり、2014年現在、彼はマスコミの取材を一切受けていない状況だ。







メランコリー+ロマン主義ということでベンヤミンとかソンタグとかをトリアーも参照して影響されたりしたのかな?とちょっとぐぐったけどそういうのはないみたいだった。まあこの機会だからついでにちょっとこれ読んどいてもいいかもしれない、とこの辺を読む。

土星の徴しの下に -
土星の徴しの下に -


自身もうつ病だったベンヤミンは生まれつきうつ病傾向のひとを「土星の徴をもつもの」といった。それはガレノスの四体液説に依る。

メランコリー - Wikipedia

現代の精神医学の用法では、「メランコリーの特徴を有する」うつ病という、うつ病の細分類であり、重症のものという意味合いが強い。それとも別に、近現代の精神医学では、主にドイツや日本にて、うつ病が起こりやすい性格としての、几帳面で良心的といった特徴を持つメランコリー親和型が関心を集め、テレンバッハがその著書『メランコリー』にて提起したが、1977年の日本の報告以来、うつ病像がそういった特徴を持たないものへと変化しており、日本の現代のうつ病論へとつながっている。

医学では古くはギリシャのヒポクラテスまでさかのぼるが、メランコリーは抑うつを示す状態でも特に重症のものを指してきた。四体液説における黒胆汁質のことを指し、「黒胆汁」という体液の多い人は憂鬱な気質になるとされた。



占星術にも絡んでいて黒胆汁のひと≠土星のひと、だったか。

昔の医療ではこの理論に基づき身体の不具合は「悪い血がたまってる」と考えられ瀉血(しゃけつ)を主としていた。いわゆる血抜き。血抜きでだいたい治るとされていた。外傷以外の病は。


四体液説 - Wikipedia

ギリシャ・ローマの医学では自然治癒を重視し、悪い体液を排出し自然治癒を促すために、刃物やヒルを使って悪い体液を排出する瀉血(刺絡とも)や、下剤、浄化剤、緩下剤、誘導剤を用いた。また、体液のバランスのために、食事療法や運動、入浴も重視された。「医術について」では、すべての人に当てはまる最高のバランスがあるわけではなく、人によってその体にふさわしいバランスがあり、また健康にいいものは状況・年齢などによって変わってくると説明される。例えば、体が運動を求めている時の休息、休むべき時の運動は健康的でははなく、同じことが飲食物や薬物に関しても言われた。


そういやメランコリアでも入浴シーンがなんどか出てきたけど、まああれは四体液説というよりは単に疲れたときに風呂入ってるぐらいがちょうどよいということだったのだろう。




タイトルにもなってるエッセイ「土星の徴のもとに」を読んでちょっと「メランコリア」の感想に付け加えたくなった。「土星の徴のもとに」はベンヤミンをはじめとした鬱傾向の人、土星の徴のもとに生まれた人たちについてのエッセイ。


映画の中で姉のクレアが鬱の妹に対して「あなたってほんとに忌々しくなることがあるわ」みたいなこといっていたけどあれはこういった先天性・器質的鬱人間が鬱モードにはいったときの離人・非コミュ感に対する一般感覚なのだろうなあというかんじ。
土星の徴をもつ人間はなんとなく内向的になりがち+非人間的なものを蒐集するし編成・分類する傾向がある。そしてそれらがしばしば「仕事」に通じるとワーカホリック的な偏執性を帯びることがあるのだけど、それはその作業に逃避することで人間的コミュニケーションから逃避できるという裏返しにも思える。

「メランコリア」だと主人公がそんな感じで、壊れるまえまでワーカホリックになっていたのはそれによってわずらわしくわかりにくい人間的コミュニケーションから逃避できたからだろう。ふだんの仕事的な付き合いだと仮面(ペルソナ)をかぶってやり過ごせば良いわけだし。その意味だと「仕事が忙しすぎて壊れた」というのも一面的な見方だったといえる。ただしそういった表面的な付き合いもある程度すすむと深いものにならざるを得ず、その究極ともいえるものが結婚であり、結婚披露宴、そしてその日での破局というのは鬱的な土星人間が頑張って耐えて築いてきたものが一気に崩れ去る最高で最悪の舞台だったといえる。「土星的人間がもっとも衝撃を感じる場面」の表象という意味で「披露宴での破局」という場面が選ばれた、のかもしれない。

土星の徴をもって生まれた人間にとっては時間感覚が単なる束縛となっていくらしい。逆に空間に可能性を見出しそこに無限の寓意性と解釈の可能性を見いだす。近代的時間は現在から未来に向かっての単線という束縛を帯びるが空間は恣意的に無限の配置の可能性・自由度を残す。そのため他人からみて緩慢とも思える反応をし他人を苛立たせる(cf.「あなたってほんとに忌々しくなることがあるわ」、披露宴で人をまたしておきながら風呂に入ってるというシンジラレナイ行為)。

それらは現代の一般的常識人からすればシンジラレナイ行為・行動なのだろうけど知的に先鋭化した土星人間たちが真実に対して誠実になってるだけとも言える。単線の時間概念は近代のフィクションにすぎないし、三次元を超えた時間と存在の感覚からすれば空間への配置の可能性は無限にある。そして彼らは「人に対しては不誠実」と思われてもモノやコト(あるいは超自然的法則)に対しては誠実に振る舞う。

ベンヤミンは現在の自分を見つめること、そこから語ることを不得意とし自身を語るときはむしろ少年期の自身の様々な徴候を現在に至る必然として語ることを好んだ(そこから「自身」を語った)らしい。近代的単線時間というフィクションに対して、記憶もフィクションの一部なわけだから「現在から未来」について考えるよりもすくなくとも「過去から現在」について語ったほうが誠実、ということだったのかもしれない。

ベンヤミンのテキストはちょっとした読んだことないけどこういった推理からするとたぶん彼のテキストというのは因果関係、論理がバラバラに配置された脈絡のないものになっていて、それぞれの単元ごとに論理が完結してはいるけれどそれを連続して読み解こうとすると読み解きにくいものになっているのだろう。たとえば「パサージュ論」のように。
なので、それらを通読してすぐに読める・理解できるものと思うのではなく、とりあえず全部読んでおいてしばらくしてなんとなく全体がつながるのを待つのが適当なのかもしれない。まあそれで理解できるのかもしれないし理解できないのかもしれないというところなのだけど。

(学位論文にしようとした「ドイツ悲劇の根源」だったか?は学位論文にしようとしたぐらいだからまともな単線論理で書かれてることを期待するのだけど。内容的にもロマン主義と悲劇のうんたらについて書かれているようで重要なので)










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2016年11月30日

片渕須直、2016、「この世界の片隅に」



時間があったのでようやく見てきた。



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原作は読み込んでいたし映画館でみることにそんなに意義を感じない(むしろ不快に思う)性質なので最初はどうしようかなあ時間が合ったら行こうかなあ自分的にはタスクとなるのだろうしというお参り的な行事感覚だったのだけどついったのTLほかで評判が良いのを傍目にしてると行ったほうがいいな/行きたいなが強くなっていき本日時間も合ったので行ってきた。

結論からいうと素晴らしい出来で大変満足だったし映画館で見る意義も感じた。

ストーリーとしては知っていたのでその部分では特にいまからどうこういうこともないのだけど映画版と原作では編集や解釈の仕方によって意味合いが変わっていた部分もあったので後でなんか言ったり言わなかったりするかもしれない。まあそこは枝葉なので特にいう気分でもなければ書き留めないだろうけど。

あらすじ的にWikipediaを引用しようかと思って覗いたらおもったよりネタバレしていたのでいちおやめとこう。自分的にはネタバレはそれほど気にしないのだけど、この作品の場合はかなりネタバレしないほうがよいように思う。だいたいの宣伝や紹介のところでも「あの場面」については伏せてるし。ただおおまかな流れとして、

1944年(昭和19年)、絵が得意な少女浦野すずは広島市江波から呉の北條周作のもとに嫁ぐ。戦争で物資が不足する中、すずは不器用ながらも懸命にささやかな暮らしを守るが、軍港の呉はたびたび空襲を受けるようになり、1945年(昭和20年)6月、すずも爆風で負傷する。見舞いにきた妹のすみからお祭りの日に帰ってくるよう誘われるが、その当日8月6日、呉では閃光と轟音が響き、広島方面からあがる巨大な雲を見る。8月15日、ラジオで終戦の詔勅を聞いたすずは、今まで信じていた日常を裏切られたくやしさで泣き崩れる。翌年1月、すずはようやく広島市内に入り、祖母の家に身を寄せていたすみと再会。両親は亡くなり、すみには原爆症の症状が出ていた。廃墟となった市内で、すずはこの世界の片隅で自分を見つけてくれた周作に感謝しながら、戦災孤児の少女を連れて呉の北條家に戻るのだった。


(一部改変)



物語の全体の雰囲気は牧歌的で凡庸な日常的な風景で進んでいく。こうの史代作品に親しんでる人ならおなじみのぼんやりとほのぼのとした風景と空気感。アニメで表されたそれはホーホケキョとなりの山田くんの空気感に近いように思う。

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作品の大部分を覆うぼんやりとした雰囲気的には佳作的な作品のように思う。まあこの日常性の表現が「あの日」「あの場面」との対比として効いてくるわけだけど。




すっ飛ばしてアニメ版ならではと感じたところについて語ろう。

冒頭からだとやはり海の風景が良かった。現在だと残されてないような「海が引けると江波から草津まで歩いていけた」という場面。広島に生まれた現代っ子はこういう光景は見ていないので知識として知ってはいてもあらためて映像として再現されているとおおっと思うものがあったし分かりやすかった。ちなみに江波から草津というのはこういう感じで


eba.jpg


東京周辺の感覚だと横浜からみなとみらいとか中華街ぐらいまでの片道2〜3km(往復4〜6km)の距離と思ってくれて良いと思う。あのへんの湾が引けてショートカットで歩いていってる感じ。

あるいは少しまえにやっていたブラタモリ広島の回なんか見てるとわかりやすい。広島はもともと川が海に当たる三角州、干潟的なところが大部分だった土地でそこを埋め立てて拡張していった。なのですずたちの住んでいた江波のあたりも海に突き出た場所になる。埋め立ててあるので周りは川で囲まれていて「海」って感じでもないけど。地図からの俯瞰的には軍艦のようにも見える。

ブラタモリ広島回の流れ的にはこのあとに再現されていた「川を舟で交通し雁木から上陸する」あたりもおおっとなる。舟から見上げる橋の大きさと影。ちなみに雁木はいまでも広島にあってふだんは川付近まで降りて眺める階段的なものとして利用してる。最近は雁木タクシー的なものがふたたび出てきて船着き場としての役割を取り戻しだしたようだけど。


原作と比較してのアニメーション作品としての特徴として、最初に気になるのは色味と音楽の雰囲気、全体の構成、構図となる。

全体の構図やキャラクターの表し方は大部分が原作通りで違和感がなかった。そこに水彩的?な色味が付されていた。となりの山田くん的な、ぼんやりとした色味。物語としてもぼんやりと平和に進んでいく。上・中・下の3巻構成の原作的には上巻、中巻まではそのように進んでいく。ほかの作品と比べた場合の見どころとしては「戦争中の広島のふつうの人々の暮らしぶりがわかる」ぐらいの。あるいはそこにこうの史代作品的な情緒・情感的なエピソードが加わっていく。直接的ではない恋慕の念とその表現とか。淡い恋心とすれ違いとか。この作品の具体的にはすずさんと幼馴染の水原さん、夫になった周作さん、夫が心を通わせていた?疑惑のりんさん辺りをめぐる関係性。このあたりはこうの史代作品だなあという感じなのだけど映画的にはだいたい割愛されていた。その分エンディングのクラウドファンディングに協力してくれた人紹介のおまけアニメーションとして再現されていたけど。あの部分は「わかっている人」「原作を愛していた人」たち向けのおまけアニメーションとして秀逸だなあとおもった。貝殻の紅から描かれるところもいかにもリンさん的なものを表すのに相応しくて。



音楽的には全体の雰囲気をコトリンゴの声が彩っていく。




劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック - コトリンゴ
劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック - コトリンゴ


コトリンゴって名前はしっていても意識して聴いたことがなかったので今回Wikipediaを見て「ああ、キリンジ系の」て変な納得をしてしまった。TVアニメ「幸腹グラフィティ」の曲も担当してたようなので今回のものにも合ったのかなあとか思う。

コトリンゴによる「悲しくてやりきれない」が主題歌として使われてるらしいと見たときに「ああ、そういう手もあるかもなあ」と思った。EDとしてあの歌を使うのはありだなあ、と。でも実際に見てみたらそれはEDとしてではなく序盤からだった。EDはこの作品用の書き下ろしぽい「たんぽぽ」となる。




EDというか、この作品の主題歌は「みぎてのうた」になるのだろう。主題歌であり原作も含めたこの作品のカーネル的な部分。原作的には最終回である「しあはせの手紙」まで含んだ内容が「みぎてのうた」の歌詞となる。


「みぎてのうた」(作詞:こうの史代・片渕須直、作曲:コトリンゴ)

元の詞「しあはせの手紙」は以下となる。

元の詞から「不幸の手紙ではありません」あたりを省いた「真冬というのになまあたたかい風が吹いている」からはじまっている。



突然失礼致します

此れは不幸の手紙ではありません

だつてほら眞冬と云ふのになまあたゝかい風が吹いてゐる
時をり海の匂ひも運んで来る

道では何かの破片がきらきら笑ふ
貴方の背を撫づる太陽のてのひら
貴方を抱く海苔の宵闇
留まつては飛び去る正義
どこにでも宿る愛
そして いつでも用意さるる貴方の居場所



ごめんなさい

いま此れを讀んだ貴方は死にます




すゞめのおしゃべりを聞きそびれ
たんぽぽの綿毛を浴びそびれ
雲間のつくる日だまりに入りそびれ
隣りに眠る人の夢の中すら知りそびれ
家の前の道すらすべては踏みそびれ乍ら

ものすごい速さで次々に記憶になってゆくきらめく日々を
貴方はどうする事も出来ないで
少しづつ 少しづつ小さくなり
だんだんに動かなくなり
歯は欠け 目はうすく 耳は遠く
なのに其れをしあはせだと微笑まれ乍ら

皆が云ふのだからさうなのかも知れない
或ひは單にヒト事だからかも知れないな
貴方などこの世界のほんの切れつ端にすぎないのだから
しかもその貴方すら
懐しい切れ切れの誰かや何かの寄せ集めにすぎないのだから



どこにでも宿る愛

変はりゆくこの世界の あちこちに宿る切れ切れのわたしの愛

ほらご覧 いま其れも貴方の一部になる



例へばこんな風に





今わたしに出来るのはこのくらゐだ

もう こんな時 爪を立てて 誰の背中も掻いてやれないが

時々はかうして思ひ出してお呉れ



早々




アニメにおける終戦の日の場面と同じくわかりづらい言葉は偏向されて解釈されそうなので省いたのだろう。たとえば「留まつては飛び去る正義」、「此れは不幸の手紙ではありません」→「いま此れを讀んだ貴方は死にます」。

終戦の日、原作版ではあった「この国から正義が飛び去っていく」「暴力で従えとったということか。じゃけえ、暴力には屈するということかね。それがこの国の正体かね」というセリフも現在だと右翼的に解釈されかねないので割愛したように思える。あの時代のふつうの人々、特に「お国のために」というわけでもない人々も日本の正義を信じ、あるいはそれを最後のよすがとしてすべてを奪われたことに耐えていたのだろうけど。あの場面でのすずさんの涙もそういったもの、「すべてを奪われたのなら全身全霊をかけてたたかいに臨む。この身や命などどうなってもかまわないから最後までたたかう」というつもりだったのにあんなにも簡単に戦争の終わりを告げられその思いを裏切られたということへの涙となる。

アニメではこの部分、「この国から正義が飛び去っていく」が「アメリカからのパンなんかでデキた身体で」というふうに換えられ「それでも生きていく」「人々は食べて寝て生活して生きていく(それがかつての敵国であるアメリカからの物資でも)」という風に意味合いを変えられていく。それはその後につづいく戦後のすずたちの生活や気概、日々の暮らしを笑いを交えてしぶとく送っていく様子にもつながるものだったので特に原作からの改悪とかそういうのでもないのだけど(だいいちこうのさんとよく話し合って納得の上でつくってるだろうからそういうこともないだろうが)。





原作である「しあはせの手紙」の意味合いは多義的で難しくてそこで「死にます」と不幸を暗示されている「貴方」がわかりづらい。でも、たぶんそれは読者であり日常に戻ったすずさんでもあるのだろう。戦災という不幸と対比されるすべての人々。あるいは戦災にあった人々も含めたすべての人々。

不幸せの極地と思える戦災にあった人々に比して、ふつーの生活を送る人々はしあわせといえるだろうけどそういった人々にも死は訪れる。あまねく、平等に。あるいは死に比する不幸。死に至るまでの不幸。自分だけではなく身内を含めた死や貧困、疾病その他の不幸。我々はこういった「戦争もの」と呼ばれるような作品を読んだり見たりするとそのときには悲しんだり涙を流したりするけれどそのかなしみをすぐに忘れていく。ポップコーンや甘いジュースと一緒に「泣ける映画」として飲み下す。あるいは最初から「戦争もの」として興味を持たず劇場にも足を運ばず作品も手に取らない。それはヒト事だからかもしれないけれどそういった人々にもあまねく死は訪れる。死あるいはそれに比する不幸が。

その悲しみから想像した時、われわれはようやくにして戦災で不幸にあった人々の悲しみを理解できるのではないか?「理解できる」というところまで行かないかもしれないけれど、すこしでも自分に寄せて想像できるようになるのではないか?そういった我々の暮らしは日常の些細なしあわせのうえに成り立っているのだけれどささやかなしあわせを重ねているうちに死が訪れてくる。「歯は欠け、耳はうすく、耳は遠くなって」。周りのヒトはそれを「寿命だね。大往生だね。しあわせだね」と一般化する。

たしかにそうかもしれない。大変な不幸にあった人々と比べれば。まあそういうものかなあとわたしたちも一般化しつつも一般化しきれない悲しみがある。


でも、そういったわれわれのふつーの不幸も、戦時中の人々の大変な不幸も平等に不幸は不幸なのだろう。身内の、愛するものの死や不幸に際してわれわれは平等にかなしみ、喪失を抱える。

それと同じように、しあわせも平等に訪れる。現在から見ると幸福と呼べるのか?と思えるほどのささやかなことも、彼らと我らの生活のなかでしあわせの糧となっていく。


(晴れた日の縁側ですずめの声を聞きながらのおしゃべりや、たんぽぽの綿毛の舞う春の陽の午後のうららかさや、初秋の雲間のひだまりのぬくもりや、初冬の朝に寝坊した隣の人の横顔や…)

それらはこの世界の片隅に咲いたかけがえのないしあわせのカケラで、そういったものの積み重ねでわれわれの愛とぬくもりがつながれていく。

元の詞や「みぎてのうた」の歌詞ではそれらのささやかなしあわせは味わいそびれるものとされているけれど、それはそういったものが体験しそびれても良いほどのささいなものなのか?という反語的な表現なのだろう。同時に「貴方などこの世界のほんの切れっ端」も「いいや、そうではない」「いや、それでもね」という反語を呼び込む。

漫画的にはこの詞「貴方などこの世界のほんの切れっ端」という部分は戦災孤児がさまよっている場面に当てられ直接にはこの子が「世界のほんの切れっ端」ように表される。この子が拾い集めていた残飯の切れっ端のように。空腹と疲労と睡眠不足のなかでこの子がこの子であった記憶や過去や思考も切れ切れとなりもはや自分を保てるギリギリとなっている。そのような限界の情況のなかで「懐かしい切れ切れの誰か」の面影をこの子は発見する。おかあさんと同じ右手に。

「しあはせの手紙」ではこのあとには右手の言葉は途絶え漫画的な描写のみで展開されていく。すずと周作が広島に所帯をもつかどうかを相談している場面。そこにいつの間にか孤児がくっついてきて二人はこの子を連れ帰ることを自然と決める。「あんた、よう生きとってくれんさったね」と。

「みぎてのうた」的にはここを「だから、いつでも用意さるる貴方の場所」というあたらしい詞で受けて以下を順接につなげていく。

「わたし(あなた)という存在はそれぞれの人の切れ端の記憶、過去で構成されているものなの『だから』同じようにあたらしくそれぞれの人の記憶や過去から再構成されていくはずだ」という風に。つまり血のつながりにこだわらず愛とぬくもりをもってあたらしく家族を作れることを暗示していく。

漫画の場面では失った子供の代わりにあたらしい子を引き取ることへの罪悪感のようなものもすこしあったかもしれない。「どこにでも宿る愛」「あちこちに宿る切れ切れのわたしの愛」という右手の言葉がこの子を引き受ける場面に重ねられその慈善?を自己批判的に見つめる。あるいは、それはそんなに素晴らしい慈善活動とかいうわけでもなく人間の営みとしてふつーのことなんだよ?、というぐらいにフラットにしていく。


「貴方は死にます」といった右手の言葉は直接にすずさんにも向けられていて、それは「わたしなんかが生き残らなければよかったのに」(わたしが代わりに死ねばよかったのに)という思いを残したものだといえるだろう。右手はすずさんの想像力と同時にもうひとりのすずさん、明るく朗らかほのぼのしたすずさんとは別の現実的でシビアなすずさんの内面を表す。あるいは修羅としてのすずさん。無声慟哭を通じて開かれた修羅への扉。戦後、生きることを決めたすずさんの中にも未だ修羅の影やことばは残っていたのだろう。

その思いをあらたな愛が覆っていく。

道すがら偶然に知り合った戦災孤児を引き取ることを通じて、すずさんのその思いは覆われていく。すずさんだけではなくおそらくは家族の中にもあったその思いは。それらは消えることはないのだろうけどあたらしいぬくもり、色に覆われることでとりあえずはやりすごせる。

それらが最後の場面、呉の「わしらの家」にたどり着いて見上げた山と街の灯の場面に表されていた。そこに宿る街の灯は人のぬくもり ≒ 愛の象徴となる。



そういった生活を彩るのはすずめのおしゃべりやたんぽぽの歌となる。


「たんぽぽ」(作詞:コトリンゴ、作曲:コトリンゴ)


鷺(鳥)は水原さんを、たんぽぽの綿毛ははるみちゃんを想わせる。




いまあらためて原作を見返すと最後に見上げた呉の山と町並みの様子はゴッホの絵「星月夜」(starry night)にも似ている。元の詞の「例へばこんな風に」の後には右手によって描かれた星月夜風の呉の山並みが広がる。その後の言葉は孤児を家に連れて行った場面に重なっていく。

ゴッホの絵に似てるというのは映画の各場面を見ていても思ったことだったのだけど、おそらく原作のこの最後の場面から想像力を膨らませ演出されたのだろう。加えていうと「あの場面」は現代アート的にあの場面の心象を表していて共感できた。ゲルニカではなくアルヴィン・ペンクとキースヘリングの中間的な、傷ついた子供や身体障害者の心理をあらわしたような。というか、全体的に水彩とゴッホな感じで、そういった意味でこの作品はアート的にも見ていて気持ちのよいものに仕上がってるように思う。


現代アート的といえば「戦争中の暮らしの記録」の冒頭でもそんなことが書いてあった。


戦争中の暮しの記録―保存版 -
戦争中の暮しの記録―保存版 -


空から降ってくる大量の焼夷弾の白黒写真をして「(不謹慎だが)まるでアート作品のように見える」みたいなの。そういうのはこの映画のほかの場面でもあったように思う。「不謹慎だが○○だね」とか「空から爆撃されてるこんなときだけどわれわれの日頃の工場仕事の技術研究の成果がここに、、」みたいなの。ほんとの戦争中の暮らしというのはそういうもので現在から見てみょーにヘイワヘイワしたりセンソーセンソーしてた?と解釈するのの中間ぐらいにあったのだろう。




空から爆撃といえば戦闘シーンなんかは映画ならではの臨場感があった。ウーファーがビリビリ来てたりほかの構図にくらべてここはみょーに臨場感のある構図になってたり。そういった意味でも映画館で見る意義はあるのだろう。




あとは方言的なところのふつーさがよかった。広島のふつーの人の話す広島弁の感じ。すずさんなんかは一人称を「ウチ」というようなおとなしい、ぼんやりとした広島の女の子の様子がよく出ていた。ほかはふつーの広島の人な感じ。あとお義姉さんの方言の様子がよくでていたように思った。すずさんのほのぼのとした広島弁の女の子と対照的に、田舎の陰険なコミュニティの雰囲気を代表するような方言の感じ。稲葉菜月さんというかたが演じられたのだな。











こうの史代先生『この世界の片隅に』インタビュー  ネタバレ御免! 読者を震撼させた連載第33回「20年6月」の創作秘話に迫る!http://konomanga.jp/interview/32698-2














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2016年10月26日

河P直美、2007、「殯の森」



先日なんとなく再見してみたら以前に見たのと印象が変わっていた + わかりにくい映画なのでいちおこちらにもエントリとして感じたことを残しておこうとおもった。




殯の森 [DVD] -
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殯の森 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%AF%E3%81%AE%E6%A3%AE

殯(もがり)は日本の古代に行なわれていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでの期間、棺に遺体を仮に納めて安置し、別れを惜しむこと、またその棺を安置する場所を指す。「喪(も)上がり」から生まれたことばだとされ、類義語に荒城(あらき)がある。河瀬監督は物心がついたころ、亡くなった知り合いが動かなくなったことを不思議に思い、その後の経験を通して本作を構想し、生き残った者と死者との「結び目のようなあわい(間・関係)を描く物語」を目指したという






ふつーのあらすじの解説は他サイトからの引用に任せる。


映画『殯の森(もがりのもり)』ネタバレあらすじ結末【映画ウォッチ】
http://eiga-watch.com/mogarinomori/

山間の田畑の広がる風景の真ん中を通り過ぎる葬列。誰のものかは不明。老人ホームで働き始めた真千子とホームの老人たち。共に畑仕事などをしている時はもっぱらホームに入所している老人が介護師に指南している。帰宅するとお線香をあげる真千子。子供の写真が飾ってある。ホームに話をしに来た僧侶に、しげきが「私は生きているんですか。」と尋ねると、寝る食べるなどの肉体に生きているということと、生きている実感の有無による精神的に生きているということについて話す。習字の時間それぞれ名前を書く。真子と半紙に書き続けるしげきは隣で自分の名前を書いていた真千子の半紙の上から書きなぐり台無しにしてしまう。真子というのはしげきの妻で33年前に他界していた。僧侶は三十三回忌についてしげきに亡くなった真子さんはあの世に行ってもう帰ってこないと言うことを話す。他の入所者は生まれてくる前はどこにいたのだろう、など、それぞれに話をしている。


喫茶店で、真千子は元夫になんで(息子の)手を離したのか責められる。彼女が謝るものの、花瓶の花を投げつけられ、なぜ俺が生きていて息子が死んだのかと自分を責め、真千子を責めた。おやつの時間にしげきの誕生日を祝う面々、介護師の一人が彼に誕生日プレゼントは何がいいか聞くと、彼は真子と繰り返す。他の入所者は、真子が既に亡くなっている事やしげきに子供がいないことをそれぞれ話し始める。その夜しげきは自室でピアノを弾く彼の左側には在りし日の真子が座っており、生前二人で弾いていたであろう曲を、しげきは右手、真子は左手で弾く。しげきが躓く所を教え、彼が一人で弾き始めると、真子は去る。そこへ真千子がゴミ箱のゴミを集めにやってくる。しげきは近くに置かれたリュックサックに触れられたと思い、怒りのまま真千子をはたく。結果、真千子は手首を傷め、同僚が来るまで送ることに。車中、気落ちしている真千子に、こうしないといけないことはないのだと、彼女を慰めた。翌日ホームに出勤すると、しげきが庭の木に登って枝を取ろうとしてた。しかし、転落した彼は茶畑の方へ逃げていってしまう。それを追う真千子としげきは茶畑でしばしかくれんぼじみた事をする。昨日の事などなかったようにしげきは真千子に笑顔を見せた。


真千子の運転する車でしげきは山へ出かける事に。しかし道中の畦道で車が動かなくなってしまう。真千子はしげきに絶対に車から出ないように一人で待っているようにと言い含めて近くの民家に助けを求めに行くが、サイドミラーに映る真千子が遠ざかる姿を見ていたしげきは車から降りてしまう。車に帰ってきた真千子はしげきがいないことに焦り、無人の畑を探し回る。すると、しげきはスイカ畑の案山子の後ろに隠れていた。しげきは真千子に追いかけられるまま逃げた畑の脇道で転びスイカを割った。それを二人で食べた後、しげきは山の森の中へと入っていく。道なき道を行くので道が間違っていないか、大丈夫かと真千子は何回もしげきに問うもののどんどんと森の中へと行ってしまうしげきに、どこへいくのと問えば真子の所と答えるのみ。やがて携帯電波の通じない所まで来てしまい不安になる真千子は、同じ場所をまわっていないかと苛立ち始める。すると、森のぬかるみでしげきが転んでしまう。彼を起こしながらちょっとでいいから休もうと提案するが聞こうしないしげきに、自分より大事なの?と、背負われた重たいリュックを掴むが、そんな真千子の心配は露知らず雲行きが怪しい中、しげきは森の奥へと進んでゆく。そして雨が降り出し森の中に小川が出来る。真千子は渡ったらいけないと止めるがしげきは渡ってしまう。するとごく小さな鉄砲水が起きる(おそらく水難で息子を亡くしたと思われる)真千子は「いかんといて!」と泣き叫んだ。真千子の声にしげきはやっと振り返り小川を渡りうずくまった彼女のもとに戻る。


森の中で焚き火をし夜明かしをする二人。しげきは、よかったな、さむかったな、あったかいなと繰り返し、やがて火のそばで横になる。心配になった真千子はしげきに声をかけお茶を飲ませる。寒さに震えるしげきを抱きしめてさすりながら、生きてるんだなといいながら夜が更けていった。翌朝、目をさましたしげきは森の中に真子のすがたを見つけ、二人で踊る。そんなしげきを起きた真千子が見つめる(真千子に真子は見えていない)。再び歩き始めた二人は森の中で縄の巻かれたご神木らしく樹齢のいった木を通り越しさらに奥へ進むと、墓標のように突き刺さった棒に行き当たる。しげきはそこでリュックからオルゴールと妻の死後記していた日記をリュックからとりだし、棒のそばに穴を掘り始める。真千子は手渡されたオルゴールを回していたが、しげきが地面を掘るのを手伝う。そして、掘った穴の中に自ら入り蹲るしげきを真千子は撫で再びオルゴールを鳴らし始める。「殯」についての数行の辞書的説明の後、エンドロールへ





先立たれた妻への思い?で精神を壊しそれでもなお生き続けているしげきさん、と、息子を死なせたことに罪悪感を持ちしっかりと別れ/かなしみ/悼みを果たせないまま抜け殻のように生きる真千子。あるいは硬い殻をかぶって心を閉ざして。


「やらなくちゃいけないことなんてないのよ?」


どこか生きづらそうな真千子に先輩職員がいう。

それは同時に「やっちゃいけないことなんてないのよ?」を含み、段々と真千子を解放していく。しげきの逸脱した行動に導かれて。

森のなかでの遭難、大雨の中での鉄砲水を通じて真千子は自らのトラウマとなった場面を追体験し感情を吐き出す。それは真千子の心への鉄砲水となって殻を壊していく。あの日からきちんと泣けなかったこと、泣くことさえ許されなかったこと。

あるいは目の前で精神を壊してもなお変わらぬ妻への愛と悼みを示すしげきの様子を見て、そしてそれを手伝えることに自らの存在意義を見出していく(しげきへの「ありがとう」という言葉にはその気持が込められている)。

泣いてかなしみを吐き出せたことが真千子のもがりの契機となっていく。



しげきのほうに感情移入しにくかったのだけど、それは「精神を壊して空虚に生きる」「情緒と認知が断続的になっている」ということがリアルに表現されていたからかもしれない。

そんなしげきが最後の場面、妻と、妻への思い出という自らの心の最後のよすがを埋めるための掘る場面ですこしだけこの人物の内面がわかったような気がした。進撃の巨人の巨人たちのようにあらぬ目線で笑っているような表情をしつつ一心不乱に土を掘るしげき。妻への思い出だけで生きている男が妻への思い出のよすがを「埋める」というとてもつらいはずの場面。しかし、しげきはもはやかなしみや怒りさえ一般的な形式として表現できなくなっている。だから笑っているような表情にも見える。それでも妻への思いだけは残っていて、それだけで生きている/かろうじて生かされている男の様(「わたしは、生きているんでしょうか?」)。そしてそれさえも土に埋めてもがりを完結させようとする。もがりが完結すれば、妻との思い出を閉じればもはや自らが地上にとどまる必要もなくなる。自ら掘った穴に入りうずくまるという行動はその気持の表れと言える(「これでもう、いいよなぁ?」)。


そういった内面が垣間見えたように思えた。







そうはいっても全体的に説明不足な映画なので一般には理解しがたい / この解釈もあってるかどうかわからないだろうけど、少なくとも似たような体験をしたひとには伝わるような質量を持った映画だったといえるように今回再見しておもった。


まあとりあえず茶の畑でのおいかけっこが天国の光景のようで印象には残ると思う。




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2016年09月28日

「習得への情熱―チェスから武術へ」


なんでこれを読もうと思ったのか、honzのレビューで気になって「( ^ω^)・・・非体育会系でまったくスポーツ経験なくてもやり方によっては年取ってからでも武術を極められるものなのかあ。。」というところに希望と目標・参考を感じたからかさだかではないのだけど予想外におもしろかったのでエントリに残しときたいと思いつつなかなかエントリできずにいた。



習得への情熱―チェスから武術へ―:上達するための、僕の意識的学習法 -
習得への情熱―チェスから武術へ―:上達するための、僕の意識的学習法 -


honzのレビューでは『「一つを極めることで、他の物事も理解できるようになる」習熟の過程を綴った本だ』とまとめられておりそれも間違いではないのだけど自分的にはちょっと違うかなと想った。


一つを極めれば、他は自ずと理解できる『習得への情熱―チェスから武術へ―:上達するための、僕の意識的学習法』 - HONZ
http://honz.jp/articles/-/41738


全体的には発達過程における教育学、あるいはコーチング的なものへの関心を綴ったものであり、チェスのマスターになってからはパフォーマンス心理学など行動心理的なところでのパフォーマンスの反映についての関心から綴られている。それは「天才だからできた」という話でもなく一般的にも通じる習熟と持続的なパフォーマンスの発揮の話のように思えた。そういったものの中でも具体的な関心としてエキサイティングだったのがゾーンのコントロールの部分だった。ゾーンというのはプロスポーツなんかで注目されるようになったあの「ゾーン」で一定の分野に通じた人、多くはプロスポーツ選手なんかがある特定の場面で集中力が異様に高まり時間が止まったように感じられる状態、あるいは対戦相手が止まったように感じられる状態のことを指す。その状態に入れば高次のパフォーマンスを発揮できるわけだけどその多くは偶発的に生じるもので自らそれを発動しようと思って発動できるものではない。ジョシュはチェスの大会のときに何度かこの状態を経験しこれを意識的に発動できるように試みることにした。結果的に統制し発動できるようになったそれを彼はソフトゾーンと呼んでいたけど、それはいわゆるゾーンともまた違った高度のパフォーマンス発揮状態なのかなあ、とか。でも、パフォーマンスを高いレベルで発揮できるようになる / それをコントロールできる、ということでは参考になるように思う。


具体的な方法としては複雑な操作過程を半ば無意識に行えるようになるほど繰り返し習熟することで意識リソースが必要な範囲を狭くしていく、というもの。彼はそれを「円を小さくしていく」「より小さな円を描く」として表現している。

これは自分も似たような状態を体験したときに経験したことだなあと納得できる。その上で普段よりもより高い緊張を強いられるような情況に投げ込まれ脳がフル回転することによってゾーンが発生するのだろう。火事場の馬鹿力的に。




なんかさらっと書いてしまったけどこの本自体は表紙も含めて美しく、気持ちの良い読後感がある。才能が目覚める過程への環境 / 周りの人の支え / コーチングなどの部分だと「グッド・ウィル・ハンティング」のうまくいった版なんかを想わせて。

あるいは黙々と巧夫を積み、習熟していくことの探求と喜びに。しずかに透き通っていく感じに







ボビー・フィッシャーを探して [DVD] -
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2016年08月03日

庵野秀明・樋口真嗣、2016、「シンゴジラ」



昨日「シンゴジラ」を見てきた。シネマ会員カードでちょっと安い日だったしついったのTLでみょーに評判で、RTとか連弾でされてきてうざいなあという感じだったので、「見ずにうざいっていってるのもなんだし」「まあこれも縁起物」ということで。

シン・ゴジラ - Wikipedia

このウィキペディア、ついったに流れてきたtwからすると「ネタバレを過分に含む」ということでページ上部にも「このページは荒らしや編集合戦などのため、方針に基づき編集保護されています。現在の記述内容が正しいとは限りません」「現在、削除の方針に従って、この項目の一部の版または全体を削除することが審議されています」な但し書きな異様感があるのだけど、そんなにネタバレかあ?これって感じがするし、だいたいあの映画ってそんなにネタがバレて興ざめするようなものだったのかな?とかおもったり。

ここでのネタというのがどの部分を指すのかわからないのだけど、ストーリーということだと自分的にはそんなに新鮮でも斬新でもなかった。好きな型のストーリーではあるのでおもしろかったけど。知ってる型なのでお約束的な物語の流れを楽しんだ、ぐらい。

まあ言ってしまえば、「日本という国の病理は組織病であり、そっちのほうが怪獣とかよりも問題だ」「その病は緊急時に危機感が持たれることに寄って初めて解かれ、皆が利害関係を廃して協力するようになる。共通の敵に対して」、というもの。後者は「インディペンデンス・デイ」なんかでもおなじみの。

前者は先日来noteの日記でも言ってるもの。「政策-選挙っていったってけっきょく官僚は変わらないのだし、そういった組織の部分の空気や意思決定機構を換えないかぎりどうともならないだろう」。ここから「じゃあ一度全部壊してそこから立て直したほうがいい」とすると「オールドテロリスト」と同期する。その意味で、ストーリーラインやそこで描かれる政治経済的なディテールというのは村上龍の一連の関心に属してるものに思えた。「五分後の世界」とか「ヒュウガ・ウイルス」とか。あるいは、そういった村上の政治経済ものの端緒としての「愛と幻想のファシズム」。

愛と幻想のファシズム(上) -
愛と幻想のファシズム(上) -
愛と幻想のファシズム(下) (講談社文庫) -
愛と幻想のファシズム(下) (講談社文庫) -
五分後の世界 (幻冬舎文庫) -
五分後の世界 (幻冬舎文庫) -
ヒュウガ・ウイルス―五分後の世界 2 (幻冬舎文庫) -
ヒュウガ・ウイルス―五分後の世界 2 (幻冬舎文庫) -
希望の国のエクソダス (文春文庫) -
希望の国のエクソダス (文春文庫) -
オールド・テロリスト -
オールド・テロリスト -

「新世紀エヴァンゲリオン」が「愛と幻想のファシズム」のパクリというわけではなく、同作品が庵野の血肉となってるとこからの派生であり結果なのと同様に「シンゴジラ」と「オールドテロリスト」の位相が同期したのだろう。「シンゴジラ」制作進行中に「オールドテロリスト」を参照していたわけではないだろうけど結果的に問題意識や視点として同期した。

ただ「日本という国(腐った組織)を根本から壊してつくりなおす(スクラップアンドビルド)」としたとき、その手段としてテロを選ぶか怪獣を選ぶかで違っていた。というか、ゴジラというギミック、SF的舞台が選ばれたのはたまたまで、ゴジラという要素がなければこの映画のストーリーラインとしては「腐った国を立て直す」→「だったらテロもしくは革命だ」といったものだったのだろう。そこから逆説的にこの映画におけるゴジラは革命やテロ的なものの象徴として機能しているともいえる。
なのでこの映画はゴジラが主体の怪獣映画、ではなく、日本の組織や空気、その改革をメインとした群像劇といえる。その意味で「踊る大捜査線」の雰囲気にきわめて近い。単にゴジラの舞台の大部分がウォーターフロントで、「室井さんの怒り顔がゴジラに見える。。」というのもあるのかもだけど。

また、全体的に3.11 → 原発事故における政府対応がイメージされた。特にゴジラ≒核の恐怖から疎開する住民の姿が。直接に3.11や原発のことを描こうという意図があった作品ではなかったのだろうけど、日本という国で直近でもっとも政治的に分かりやすかった事案がそれだったのでモデルとなったところはあったのかもしれない。核つながりでもあるし。

物語的にはそういった政治的、あるいは密室の組織的なとこでの群像劇なのでこの映画のストーリーをもって賞賛してる人の大部分はそういった部分に惹かれたのだと思う。なので、なにか感想なりを述べるときにも素直にその部分について賞賛しとけば良いと思うのだけどこの映画の裏の部分、ヲタ的なギミックの部分への賞賛と混ざってなんかよくわからない合理化がされたりしてる(「庵野はアニメーター的な職人気質でミリ単位のカメラワークを要求した」とかそういう)。

そうはいいつつも自分も物語的な部分で上がるとこはあったし、最後の怒涛の意思決定と協力な部分で「よっしゃ╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ 」と心のなかで叫んでたりもしたのだけど、あそこでの感動やカタルシスの大部分は長谷川博己の演技の説得力に依るのではないかと思える。特に最後の方の演説の部分。なのでこの機会に「鈴木先生」見てみようかなあと。ちょうどアマゾンプライム動画で無料で出ててウォッチリスト入れてるし。

映画 鈴木先生 -
映画 鈴木先生 -
「この映画は群像劇であり怪獣劇ではない」とはいったもののこの映画のB面的な部分はきちんとそこがメインとなっている。特撮系のヲタ知識に乏しいのでこの辺の知識はわからないのだけど、ゴジラを初めとした一連の怪獣SF、あるいはウルトラマン的な特撮のお約束を踏襲してるような雰囲気はカメラワークやカメラに映し出される色味からも感じられた。怪獣な場面になるとみょーに昭和的?とおもえるような撮り方がされてるとこがちょこちょこあったので。たぶんああいうのはお約束なのだろう。
あとは戦車や飛行機などメカニカルなとこや、鉄ヲタや地下建物ヲタもうならせるようななんかがごっそり入ってた予感。なにせ「あの」庵野の作品なので。むしろこの部分を撮りたかったがゆえにゴジラ案件を受けたのかもしれない。その意味では群像劇的なストーリーはこれを載っけるための理由や型に過ぎない、ともいえる。


監督不行届 (Feelコミックス) -
監督不行届 (Feelコミックス) -

そういう意味ではこの映画は怪獣映画としても機能していたのだろうし、むしろこれをディスクで買って手元に置く人というのはそういうところで価値を見出して何度も楽しんでいくのだろう。スルメのように。


印象としてはシンエヴァ制作で救急としたなかで「巨神兵東京に現わる」を受けて東宝から持ちかけられた話をゴジラアナザーストーリー的に表したぐらいのものだったのだろう。巨神兵にゴジラをテンプレした感じの。なので「巨神兵」≒「使徒のプロトタイプ」のアナザー的なものがゴジラとして描かれて終劇する。

ストーリーとしてもそんな感じで、巨神兵的なもの、あるいは自衛隊などのヲタギミックを大量に投入するテンプレとして適したものがストーリーが選ばれた程度だったように印象するのだけど、まあこんな感じであまり練らないほうが却って大衆受けしやすいというのはあるのかもしれない(サザンオールスターズのいとしのエリーとかTSUNAMIみたいに



あと石原さとみがエロ、というか知的セクシー格好いい感じでよかったです(ヽ´ω`)ああいうのもできるんだねえ。。(そして庵野作品はああいうのがちょこちょこ出るのだけどなんかあるのかねえ。。リツ子さんとかミサトとか知的にデキるけど性にも奔放みたいなの)











「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html

「進撃の巨人」を7から17まで一気読みしてみてうんたらかんたら: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/430031910.html


ネコ、じょじょに回復 /  サガミハラ|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/n0e9b6854a42a

暑中一休 / いのちの値段|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/n450c07d20e22




村上龍最良の後継者であり震災後文学の最高傑作としての『シン・ゴジラ』(飯田一史) - 個人 - Yahoo!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/iidaichishi/20160803-00060706/









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2016年02月10日

吉田秋生、「海街diary」







痛々しくも惨めな柳の木の下にいる


恋する人よ、もう仏頂面はよしなさい
思いの後には行いが直ちに続くはずなのだから。


思い悩むのは何の役に立つ?

君の唯一無二の、君を意気消沈させる場所が
結局君を冷たくしてしまうのなら
立ち上がって
君の寂寥の地図をたたみなさい。



陰鬱な塔から
野を越えて届く鐘の音は
愛が必要としない
この近辺に広がる愛のない夕闇のために鳴らされているのだ。

生きとし生けるものは愛することができるのに
なぜぐずぐずと手をこまねいて
敗北に屈しているのか?
立ち向かえ、そうすれば君が勝者になるのだ。


頭上を飛ぶ雁の群れは
行くべき方角を知っている、
足下の凍った小川も
目標の海へと流れていく。


暗く鈍重なのは君の苦悩なのだから、
さあ、一歩を踏み出し、
無気力を後に行きなさい


君の思いを叶えに。































先日「海街diary」の6巻セットを購入して、それから折を見てちんたら読んでいた。一気に読まなかったのは「拙速にこの作品を消化するのは作品やこの作品を愛した人たちに失礼」というのもあるのだけどたんに「ちんたらした話でたるいな」というのもあった。正直なところ。それが4巻以降はドライブがかかって一気に読めた。4巻を読んだタイミングでちょうど余暇時間が余ってたからというのもあったのだろうけど。「4巻がそれまでの巻と違うところがあるのかな?」と読みなおしてみたらなんとなく納得した。まあなので自分のこの作品に対する批評というか感想はそれが中心となる。


そのまえにいちお振り返ると、この作品については自分は知らなくて是枝監督の映画から知った。なのでこのマンガ作品に対する感想というか、これを原作とした是枝作品への印象や感想が主となっていた。そういう意味でこの作品に対しては偏向があった。


是枝裕和、2015、「海街diary」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/421781424.html


この映画は是枝監督のそれまでの作品の文脈と吉田秋生の同作の文脈でうまく重なる部分、表したい部分をフィーチャーしたものといえる。その意味で、この映像作品のテーマの軸は「家族」「死」「生」となっていた。その結節点としてもっとも中心的な存在になるのが4女すずの物語であり、その意味で映画「海街diary」ではすずが作品の主人公となりすずを中心とした物語が語られていた。すずの喪失、不在、死と生への閉塞、家族、再生、光…。

マンガ「海街diary」も基本的にはすずを中心とした物語になっているように印象される。家族を失ったすずがあたらしい家族とともに鎌倉の生活に馴染み、多感な中学生の時期を仲間とともに成長していく物語。その成長のきっかけとなるような日々の出来事を日記的な視点で追っていく。日々の出来事自体はなんでもないようなことで、なのでこの作品にはちんたらした印象がついてくる。「これはなんだか、段々と鎌倉の身辺雑記みたいになりつつあるのではないか?」というのはまさにそうで、なので「diary」というタイトルになってる。ただ、ちんたらした日誌的な語りの中で登場人物に気づきを与えるような会話がなされる場面があり、そこに鎌倉の情景が付いてくる。姉と登った「陽のあたる坂道」であったり、ふだんは気づかない「真昼の月」であったり。その気付きを元に若いすずは成長していき、ある程度大人になった姉たちも変化を促されていく。それらの気付きがちんたらとやってくる。ちんたらとした描写をなぜ続けているか?といえばそれがわれわれの日常のリアルな時間や出来事、思考の流れだからだろう。われわれはふだん、そんなに考えるようなこともなく日々をルーティンに過ごしているのだけれど、ふとした場面で立ち止まり、自分なりに考えることでなにかに気づいたり情感を留めたりする。それらが逗まり合わさって「私」を構成していく。そういった場面やそれにまつわる内省的な声は往々にして世間の喧騒に流されていきがちだけれど、そのかそけき声を拾うのが文学的なものの役割であり、あるいは詩なのだろう。マンガ「海街diary」が表す情景はそういった意味で詩性をもつ。詩の言葉として直接に表されていないけれど、物語の核となるような場面の情景に言語化されていない詩の歌が聞こえる。

この作品を読みつつそんなことを想っていたのだけれど、6巻に部分的に引用されていたオーデンの詩の全容を見てそれが確信に変わった。冒頭の詩はオーデンのもの。


海街diary(うみまちダイアリー)6 四月になれば彼女は (フラワーコミックス) -
海街diary(うみまちダイアリー)6 四月になれば彼女は (フラワーコミックス) -


ページ上までスクロールするのもめんどくさいかもだから冗長ながらもう一度引用。エピグラフでもないので読みやすさ重視で斜体にするのはやめとく。




痛々しくも惨めな柳の木の下にいる
恋する人よ、もう仏頂面はよしなさい
思いの後には行いが直ちに続くはずなのだから。


思い悩むのは何の役に立つ?

君の唯一無二の、君を意気消沈させる場所が
結局君を冷たくしてしまうのなら
立ち上がって
君の寂寥の地図をたたみなさい。



陰鬱な塔から
野を越えて届く鐘の音は
愛が必要としない
この近辺に広がる愛のない夕闇のために鳴らされているのだ。

生きとし生けるものは愛することができるのに
なぜぐずぐずと手をこまねいて
敗北に屈しているのか?
立ち向かえ、そうすれば君が勝者になるのだ。


頭上を飛ぶ雁の群れは
行くべき方角を知っている、
足下の凍った小川も
目標の海へと流れていく。


暗く鈍重なのは君の苦悩なのだから、
さあ、一歩を踏み出し、
無気力を後に行きなさい
君の思いを叶えに。






あまり解説するのも野暮かなと思うのだけど、この詩は、この詩が出てきたお話「地図にない場所」だけに当てはまる詩、ではなく、「海街diary」という作品全体を表す詩なのだと想った。


上述したように「海街diary」という作品は主人公をすずとして見た時、その回復と成長譚として印象していたのだけど、主人公すずだけではなくすずの姉やすずの周りの人たちの物語やその変化も丁寧に描かれている。


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いろいろなお話が交錯しますが「海街diary」は大まかに分けると3つのテーマが並行している作品だと思います。

1、 四姉妹の絆
2、 すずを中心とするオクトパスのメンバーの成長
3、 姉たちの恋愛の進展

それぞれのテーマの骨格をなす話が、

1)「蝉時雨のやむ頃」第1巻第1話
2) 「二階堂の鬼」第1巻第3話
3) 「誰かと見上げる花火」第3巻第2話

以前からそうではないかと思っていましたが第6巻でそれぞれが回想シーンとして使われていたので確信しました。もう一話補足的に挙げるとしたら第4巻第2話の「ヒマラヤの鶴」でしょうか。1が物語全体を支える縦糸、2と3が横糸で両者を組み合わせることで着物の美しい絵柄が描かれるような構成です。

本作品が描かれている舞台の空気を実感したくて鎌倉を訪れ、鎌倉が鎌倉であると感じさせる隠し味三つに気付きました。江ノ電、トンビ、サーファーの存在です。何気にこの街に溶け込んでいますがほかの街では見当たりません。本作品を読み返してみると、どれも作中にきちんと描き込まれているのです。そして本巻の最後に描かれている場所、あそこも鎌倉に実在する場所ですね。まさに「海街diary」は鎌倉以外を舞台にしては成り立たない作品、流石に作者はこの街をよく理解していると思いました、幼い頃育った街ですものね。



サブキャラにいたるまで人物の背景設定が深くなされていて、誰を主人公にしてもちゃんとひとつの短編が出来上がるのではないかと思いました。本巻のサブタイトルになっている第3話では山猫亭のマスターや坂下課長にここまで深い過去や背景があったとは、これで完結した一話が描けるではないかと唸ってしまいました。しかもそれぞれが同じお題(タイトル)で括られていて不自然さが全くない。いやはや恐れ入るばかりです。作中人物それぞれに意味があるタイトルというマルチミーニングはこの作品を通して使われる手法ですが、ここまで洗練された描き手というのは作者以外にはちょっと見当たりません。





この作品はなにかを失い諦めたものがしばらくは失意に沈み凹んでいるもののやがて新しいなにかに気づき、それを受け入れることで変化あるいは成長をしていくそのために必要な時間とそのきっかけになるような場面を描いたものといえる。

自分が4巻以降特に読む速度が上がったのはそういうところも関係していたのかなとおもった。それまではすずの成長譚と情景日誌だったものが4巻を境にサブキャラも含めた物語としての意味合いをより強くしていく。すずの物語が主旋律であることには変わりないのだけれど、サブキャラたちの物語の色合いが濃くなっていく。あるいは、縦糸であるすずの物語への横糸の太さや色味が変わっていく。そういった意味で4巻のアフロ店長の話「ヒマラヤの鶴」が変奏のポイントとなったのだろうし、それにつづく「群青」は喫茶店のマスターの過去も予感させた。その過去と人生の重みに見合うだけの質量を持っているからマスターは坂下に共鳴し、互いに語らずとも語っていたところがあったのだろう。

縦糸横糸、いくつかの物語がからみ合って輻輳している、ということでいうとこの作品は「ラヴァーズ・キス」とのつながりもあるらしい。



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『海街diary』 〜 吉田秋生のマンガと是枝裕和監督の映画: 趣味的偏屈アート雑誌風同人誌
http://winterdream.seesaa.net/article/420964815.html

吉田秋生が二十年も前に書いたマンガで、確かに素晴らしく完成された傑作だった。
高校三年生の里伽子は、嫌いなタイプだった素行不良の朋章に次第に惹かれていく。真剣な恋をするようになる二人だが、朋章は高校を中退して小笠原の島へ旅立つ。
これが基本プロットで、同じ話をあと二回繰り返すマンガだ。繰り返すと言っても視点は別のところから。後輩男子生徒二人からと里伽子の妹と親友からのふたつの視点。すると、同じ話がまったく違った物語になり、同時に登場人物たちが多面的に彫り込まれて見えてくる。朋章と里伽子が別れる駅のシーンは、鷺沢と緒方が見送るシーンでもあり、完成されたと言ったのは、『藪の中』を思わせるようなマンガ作りのスタイルのこと。
舞台は、北鎌倉高校。朋章のアルバイト先は稲村ヶ崎にあるサーフショップ。──『ラヴァーズ・キス』は鎌倉を舞台にしたマンガなのであった。

それから十年ほどの時間をおいて『海街diary』の連載が始まった。不定期に書かれていて、まだ連載は続いている。その冒頭から出てくるのが、なんと朋章。サーフショップでバイトし、やがて小笠原に行ってしまう。朋章だけではない。里伽子の親友の弟。その実家である尾崎酒店。緒方の弟と母親。朋章のおば。そして、舞台は同じく、鎌倉の海と街。
『ラヴァーズ・キス』は、同じマンガの中のプロットの繰り返し。『海街diary』は、『ラヴァーズ・キス』の基本設計を別のマンガにした変奏曲。鎌倉を舞台に同じ時間軸で地元の人たちが錯綜して登場する、また別の作品。
吉田秋生おそるべし、である。



動き出した物語 波乱の予感  海街diary 7 あの日の青空 (flowers コミックス) Amazon.co.jp

作画上のテクニックにも感心させられるものがあります。ここぞという場面では敢えて大胆にコマの枠をはずして重ね合わせることでストーリーの盛り上がりに効果的なインパクトを与えています。また、コマとコマを作中人物のセリフでつなぐようにして読者を次のコマに誘導していく描き方など作者独特でなかなか他では見られない手法だと思います。場面の切替えのタイミングの絶妙さ、キャラの使い方もすごい、ここでこの人出してくるか〜だけどこれは既話のデジャヴなんだと今回は完全に脱帽です。複数の人物の視点で多面的にお話を進めるのもこの作品ならでは、そして時としてその視点や思いを交錯させたりシンクロさせたりする絶妙さ。第1話の風太のタンカにグッときました、すごいなと感じたのは第4話ですずが雨に打たれる場面、彼女の頬を伝っていたのは雨粒だけではなかったはず、そんな彼女を見つめる風太、すべてを絵だけで語らせる作画の繊細さに唸ってしまいました。伏線の張り方も絶妙、既話のあのエピソードがここに繋がってくるのかとその手際の鮮やかさは脱帽もの、手練れの作者ならではのなせる技です。








「ラヴァーズ・キス」との関連でいうと4巻までチンタラな感じがしたのも「朋章(ラヴァーズ・キス)の余韻が未だそこにあったから」ともいえるかもしれない。少なくとも1、2巻まではそれがあって、2巻、3巻ぐらいで空白・喪失し次の物語に続く。よっちゃんの視線とおなじになる。それでこのものがたりがよっちゃんの場面から始まるのも納得される。

自分は未だ7巻読んでないけど7巻では存在感を出してきた坂下課長と喫茶店マスターの過去の話が展開されてるようで楽しみ。


海街diary 7 あの日の青空 (flowers コミックス) -
海街diary 7 あの日の青空 (flowers コミックス) -




この機会にオーデンの詩も読もう。























--

田村隆一「命令形」について:命令と祈り: 趣味的偏屈アート雑誌風同人誌
http://winterdream.seesaa.net/article/411270277.html



吉田秋生『海街diary』、6巻までの感想 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は
http://nijuusannmiri.hatenablog.com/entry/2015/06/28/231217



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2015年11月26日

中村佑子、2015、「あえかなる部屋   内藤礼と、光たち」







そして死は、わたしの目から光を奪い去り、この目がけがしていた日の光に、澄んだ清らかさをとりもどさせることでしょう……




どうか、わたしは消えて行けますように




今 わたしに見られているものが

もはやわたしに見られるものではなくなることによって


完全に美しくなれますように























シアター・イメージフォーラムでやっていたのを見逃してしまって諦めていたのだけどuplinkで再上映されていたので今回見に行ってきた。


『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』 - 上映 | UPLINK
http://www.uplink.co.jp/movie/2015/41162




uplinkでは12月4日まで。


最初の期待とか想定的には「母型ほか内藤礼さんの作品内容やその意図をダイジェスト的に知ることができる」「母型を見に四国まで詣でなくてもそういうのがつかめるとお得」程度だったのだけど、結果的にそういう映画でもなかった。


体験した者に静かな驚きと歓びをもたらす作品を発表してきた美術家・内藤礼。代表作である《母型》(豊島美術館)は、そこにいるひと 全ての存在を受け入れる、大きな生命体のような空間である。《母型》に出会い、その場の持つ力に強く惹かれた監督・中村佑子は、内藤に取材を依頼し、2年にわたって撮影を続けた。しかし、「撮られると、つくることが失われてしまう」取材の半ば、内藤は撮影を拒否する。一度は撮ることを諦めかけた監督だった。

しかし、時をおいて、中村は内藤のアートの本質である「生きていることは、それ自体、祝福であるのか」という問いに、内藤にはキャメラを向けずに迫ることを決意する。そして内藤の「不在」を埋めるかのように、5人の女性たちと出会う。《母型》に集まり、そこで交わされる女性たちの傷みの感覚や、生と死に対する言葉。《母型》を撮らねばならなかった監督自身の内的 必然性と、女性たちの感受性はやがて呼応し、祈りのような大きな〈存在の問い〉へ、解き放たれていく。



リンク先の映画の紹介にもあるように、内藤はこの作品のわりと早い段階で取材されることを拒否する。

そうするとこういった映画に期待される要素、「神秘的な作家、内藤礼の内面を密着取材とインタビューを通して明らかにしていく」、という構図は早い段階から失われてしまったわけで、それはこの作品の失敗を予感させた。

でも、そこで終わらなかったのがこの作品の凄みというか、監督自身の思い入れやコミットメントが表れていたように思う。あるいは、内藤礼への畏敬を別の形で表したものというか。


この作品を通じて表されていったのは内藤礼の作品や彼女の作品に向き合う姿勢、内面というか、中村監督自身の作品に向き合う態度、あるいは、作品制作を通じて得られるもの、得たいものの追求のように思えた。そこでは撮るもの / 撮られるもの、見るもの / 見られるものという一方的な関係性は解体されていく。


「わたしは、深く息をしたいときに内藤さんの作品を見るんです。」

「わたしも、、、わたしもよ。だからこういうものをつくってるの」


この会話を中心として、その周辺には内藤の言語化出来ない思い / 安易に言葉にすると失われてしまうものへの恐れが断片的に散りばめられていて、彼女が何を思って作品に臨んでいるか、どういった感覚、イメージが言語化以前、作品以前の兆しのようなものとして追われているかがなんとなく伺えた。

いくつかの内藤の作品に共通する空中を揺蕩う糸のようなもの

それはへその緒のようなものをイメージしたものかと思っていたけど、内藤がおぼろげに見ている / 感じているこういった兆しのようなもの、ということでもあったのかもしれない。

「へその緒」という明確な象徴ー意味、ではなく、単に、彼女が作品と真摯に向き合うときにイメージされるもの、微かに感じとれるものをそのまま、構成・配置していった結果、というか…。なのでその部分で似非心理学的な象徴と解釈を為してもたいして意味が無い / 作者の不快を誘うように思われる。



内藤がおぼろげにつかんでいるもの、つかもうとしているもの、そのイメージをもっとも伝える / 伺い知れる場面が内藤が作品を作っている部屋を映したときの様子だった。

白を中心に構成された生活感のあまりない部屋にネコとネコがくつろぐための猫カゴが日の当たる場所に在ることで、そこに生活がある / 暮らしているんだ、ということがようやく納得される。

ネコが居なかったらそれほどに生活感のない緊張感のある部屋だったのかもしれない。


壁の日の当たる場所には内藤の敬愛するシモーヌ・ヴェイユの写真が飾られていて、日の当たり具合によって彼女の肖像が光の中に溶け、あえかなる存在 / 視線となって部屋全体に溶けていく。



以前、自分が「恩寵」と題された作品を見たとき、直感的にヴェイユのそれからイメージしたものなのかな?と思ったのだけど、むしろあの題名はヴェイユへと続く連想を当然に導くためのヒントだったのだろう。


内藤礼「恩寵」を見て|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n49de4d1fbcf1



あのときは、あの作品単体、もしくは、空から糸が垂れている一連の作品だけヴェイユのそれからインスパイアされたものなのかと思っていたけれど、この映画を見て、むしろ彼女の作品全体がヴェイユのそれを目指すもの、あるいは、ヴェイユの生を悼むものなのだなと思えた。ヴェイユや、殉教した修道士たちの生を。


「Beginning」と題された真っ白なキャンバスの作品


これを見たとき、自分的にはなにも感じられず、「この一面の白は基調に過ぎなくて、この白を装置とし、『白にナニカを見ている』ということ自体を作品としたものなのかな」、と思ったのだけど、この映画を通じて白そのものに意味を込めたものだったのだと気付かされた。

この作品に向き合うとき、内藤は朝から晩まで部屋にこもり、白のアクリル絵の具を薄く伸ばしたものをキャンバスに塗っては乾くのを待ち、塗っては乾くのを待つという作業をしていたらしい。部屋から出るのは3日に1日程度。その間、幾層にも塗り重ねられていった微かな白の積層が「Beginning」という作品だった。


いま思うとそこに何が込められていたかなんとなくわかるように思う。ヴェイユへの思い、あるいは「言葉にすると失われてしまうもの」という言葉から伺える思いから。



彼女の作品は「行」の結果のようなものなのだろう。


あるいは祈り-行の結果、痕跡のようなもの。


自分的な解釈だと「地上にひとつの場所を」といった初期の内藤の作品は祈りや聖に通じる場所、祭壇のようなものだった。言語化され象徴と意味が固定される以前の、もっと原初/原始的な。そういう意味で異星人がつくった祭壇のような。ちょうどイギリスのストーンヘンジやウッドヘンジのような。


そういうものを個人が、確たる抽象理論、式もなく作り上げていくということ。それはてきとーにアートらしく見せればできるものではあるのだろうけど、そのことに、ほんとに真摯に取り組んでいるとすると個人でそれに関わるルールを作り上げ実践していくというのは相当の緊張やエネルギーが強いられるのではないかと推察される。


それらがまだ内藤個人のための祭壇だったとして、「Beginning」や小さな人形たちはもっと社会に開かれた、祈りのようなものとなっていったのだろう。


内藤の人形の意図はいまだによくわからないのだけど


「あの震災の後から内藤さんは人形をつくりはじめた」

「ひとを、ひとをつくらないといけないとおもったんです。 もっとひとを」


という言葉からこれも単なる投影装置でもないのだということが理解された。真っ白に積層されていったキャンバスと同じく。






おそらく彼女の作品を理解していくには、彼女自身の作品を通じてというよりも、ヴェイユの思想に通じて行ったほうが早道なのだろう。


あるいは、

ヴェイユの思想もはっきりとは理解できない / 理解できないながらもしばらく後に見たときに感じること / 連想することが変わっていくように、内藤さんの作品を見た時の感触も変わっていくのかもしれない。




この映画を通じて理解、あるいは、連想した内藤さんの作品についてはここまで


以下はこの映画自体の感想。




内藤さんから取材を断られた後に中村監督がとった方法は「内藤さんの作品を見て彼女たちの中になにが起こるか / 変化するか」「どのような思いが浮かぶか / それらが交差するか」ということをドキュメントしていくことだった。


内藤さんの作品は忠実に解釈 / 理解できない / (安易な)理解を拒むものだとしても、その作品を見た人が作品を通じてなにを思ったか、どう変化していったかというのは真実となる。

女性として、あるいは人として、いくつかの問題を抱えた彼女たち、生きづらさや来るべき死への予感 / 向き合い、漠とした未来への不安と期待。

それらが、内藤さんの作品を通じてどのように交わり変わっていくか。あるいは、変わらないか。


その最たるものは、カメラには直接映ることのなかった、監督自身の物語のように思えた。


「言葉を発することも体を動かすことも出来ない母を、これから数十年介護していくということが決まったとき」


内藤さんの作品を見ることで彼女は深く息をすることを思い出せた。



それは事故にあった友人や、からっぽな自分 / 周囲に漠然とした不安を感じる女性も一緒だったのかもしれない。


なぜ彼女たちがその後のこの作品の登場人物として選ばれたのか、その理由は判然とせず、一見すると単に偶然集めたのかな?と思わせるところもあったのだけど、彼女たちの中に、彼女たちのそれぞれの人生(ストーリー)に監督が自らの断片を感じていたとしたら、その人選は必然ということだったのかも。


あるいは、そういった個人的なことを超えて、彼女たちを通じて現代の女性たちが抱える物語が一般化されて伺い知れるというところもあったのかもしれない。




いずれにしても彼女たちは最後に「母型」に集い、そこで各々になにかを感じ、人生を交差していった。



そこで感じたことは各々に異なり、一般的な解釈やより強度のある解釈、あるいは製作者の意図などからすると「違う」といったものなのかもだけど、でも、作品を体験した後に彼女たちがそれまで見ていたのとは違った考え、景色が見えたのは確かだったのだろう。


それは自分にも共通して、この映画を見終わった帰り道、いつもより周りをじっくりと感じたり味わえたりしてるのに気づいた。街灯の光とか人の表情とか、あるいは風の音や肌への感触とか。

最寄り駅の駅舎からのいつもの景色に銀河鉄道の夜を想いつつ、いつもなら街灯などの明かりの方に視線が行きがちなのに、暗闇の川にわずかに映える光、おぼろげに見える川の様子に目を凝らしているのに気づいた。

おぼろげでかすかで頼りなく、そのものの色や形もはっきりしないのだけど、そこにそれがあるという外郭―かたちはなんとなく見える / 想像できるというようなもの。


「見終わった後にそれ以前と感触や感じ方が変わる、というのがよい作品体験だ」みたいな言葉がどこかにあったように思うけど、そういった意味ではこの映画は良い作品だったのだとおもった。












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今村純子、「シモーヌ・ヴェイユの詩学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/412506991.html





「愛と心理療法」-「重力と恩寵」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/428386592.html




「明るい部屋」とベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/389569036.html


ジョナサン・クレーリー、1999、「観察者の系譜」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/417357248.html


あえかなる部屋 → すっぱい葡萄|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n162228671e1d



「目の見えない人は世界をどう見ているのか」「ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由」|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ned2dda6dbb29



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2015年11月12日

「マレフィセント」と「八日目の蝉」




ついったーで人に勧められて見たらおもったより良かった。



マレフィセント (吹替版) -
マレフィセント (吹替版) -

マレフィセント MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray] -
マレフィセント MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray] - マレフィセント [レンタル落ち] -
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ストーリーや映画の構成、演出自体は最近よくある「あの童話のこの本当の物語」「ここが詳しく語られてなかったので詳細に見てみたらこんな愛の物語が」という昔の人の心性を現代人のロマンティシズムや規範で再解釈しようというものに思える、し、この映画が絶賛されたのはむしろ衣装や SFX などであったかとはおもうのだけど。

そうは思いつつもストーリーな部分でちょっと気になることがあり自分的に掘ってみたく思ったのでエントリに起こしてみる。


以下いつもどおり、あるいはいつもにも増してネタバレだろうし、たぶんこの映画は特にネタバレを嫌う層が見るものだろうからなんだったらここまででこのページは閉じてしまってくださいm(_ _)m






いちお基本ストーリーのおさらい


マレフィセント (映画) - Wikipedia http://bit.ly/1llrL5h


いわゆる「眠りの森の美女」のお話でこの映画ではお姫様に眠りの呪いをかけた魔女はなぜそんな呪いをかけたのか?というところにフィーチャーして物語が空想されていっている。そこから「本当の物語」「愛の物語」が紡がれるわけだけど。

おそらく民俗学的な「ほんとう」のお話だともっと残酷というか、シンプルな理由、因果関係が設定されてたのではないかと想ったりもする。ひところ流行ったような「本当は怖いグリム童話」的な。現代人が子どものそれにたいしてたまにドキッとするような無邪気?な残酷さ。フランス革命時でも見られたような理知のない大衆の残酷で即物的な心性。


ロバート・ダーントン、1984(1990)、「猫の大虐殺」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382911771.html


彼らは猫を殺しておもしろがる。


そういった心性は現代だとサイコパスとか、すこし異常が疑われる少年心理に共通するものに思われるけれど、むしろ近代的な理知・教育がなければそれがふつーだったしふつーなところもあったのだろう。野卑で残酷で即物的で動物的な。


眠り姫の物語ももともとはそういったものだったのかもしれない。

民俗学でたどれば、現在のようなディズニー的な定本「眠りの森の美女」といった感じでもなく、複数の文化圏の眠り姫民話の共通する物語素が見いだされるかも。そして、そこではおそらく「魔女がなぜそんな呪いをかけたのか?」ということはそんなに重要ではない。重要なの、あるいは共通するのは「眠り姫は王子のくちづけで目を覚ます」というところなのではないかと思う。でも、そこも案外、近代的な物語の因果律的に後付構成されていったもので、もっと地味で、物語を愉しむ上ではそんなに重要ではないと思われるようなことが共通する物語素だったりする、のかも。赤ずきんの物語が実は胞衣(えな)をめぐる物語だったように。



そういった予防線を張りつつ、自分的にこの映画で関心したところ、すこし考えてみたく思ったところは「血のつながっていない母親の愛こそが真の愛」というテーマが「女であること、女になることの悩み」を抱えている女性たちの物語の中でなぜ突然配されてくるのか?ということだった。


たとえば角田光代にも共通するテーマ、「そんなに不自由ない生活を送っていつつも夫との関係、あるいは日々の暮らしのなかでなんとも言えない満ち足りなさ、実存の希薄を感じた女性たち」。この不安を抱えた女性たちは女性性の受け容れでこじれが生じてるように想うのだけど、ではなぜ女性性の受け容れでこじれが生じている女性たちの物語が「八日目の蝉」に帰着するのか?


園子温、2011、「恋の罪」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/429245999.html

角田光代 - Wikipedia http://bit.ly/1llvpvM


あるいは女性性の受け容れに生きにくさを感じる彼女たちの物語。


「マレフィセントで気になったのは…」というか「角田光代が空中庭園的なものからなぜ八日目の蝉へと進んだのか?」というところが気になっていて、それが「マレフィセント」←「アナと雪の女王」にも共通したのかもしれない。



「アナと雪の女王」も女性性の受け容れをめぐった物語であり、そこではステレオタイプな、あるいはパターナリスティックな男性性が、あるいはそれを受けたステレオタイプな女性像・規範が彼女たちを苦しめる。そこからの解放へと向かう物語(「ステレオタイプな女性像を辿らなくてもわたしたちはこんなに自由に羽ばたける」)がカタルシスとなっていくわけだけど。その際、彼女たちの困難に寄り添うのは理解のある男性であるというよりはむしろ女性となる。その辺りでこういった物語が同性愛的なものとして解釈されることもあるのだけど。たとえば「思い出のマーニー」とかも。


「思い出のマーニー」|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nf6b051d07826


彼女たちに寄り添うのが女性であるのは彼女たちが自らの女性性、あるいは、パターナリスティックな規範としての女性性と男性性に対して恐れを持っているからだろう。なのでこういった物語ではそういったところからは自由な、性愛とまでもいかないような友情を介した愛情、同性同士の連帯が主人公を支える存在として配されていく。

「マレフィセント」の場合は魔女(マレフィセント)と眠り姫の関係がそれに当たる。


彼女たちの関係はフラットな友情ではなくむしろ「呪いをかけた/かけられた」という敵同士ともいえるものだけれどそれは中盤から後半の話で、それまではフラットな友情、あるいは母の居ない眠り姫を見守る擬似母とその娘的な関係として物語は展開していく。母親的な、あるいは畏友的な存在。

物語の後半に「私に呪いをかけたもの」としてその関係は崩れる。信じていた相手に裏切られたという気持ちがあったのでなおさらに。

しかし、この亀裂は「わたしを陰からずっと見守ってきてくれたのね!」ということで納得され修復されていく。これで「呪いをかけた」ということが帳消しにされるのはオーロラの性格の良さというか、物語の都合もあるのかなとかは思うのだけど。


マレフィセントがオーロラに呪いをかけたのはオーロラ以前の物語、オーロラの父親とマレフィセントの過去に因果するものとこの作品では解釈され物語られていく。


自由を謳歌する翼をもった妖精王的な存在であったマレフィセントとその男は恋に落ちた。しかしマレフィセントは人間の王から疎んじられ討伐令が出されていた。男はマレフィセントの翼を奪い王に捧げることで次代の王の権利を得た。この裏切りをマレフィセントは許さず黒い魔女となっていった。その恨みが王となった男の娘、オーロラに呪いとなってかけられていった。




マレフィセントの翼は自由な女性の生き方を象徴するものであり人間の王の規範、それを担保する武装や暴力は従来のパターナリスティックな男性規範を象徴するものだった。


物語の終盤、王となった男がマレフィセントに襲いかかる場面はまさにそれを象徴するものだったろう。ガチガチの鎧に身を固めて残虐かつ無慈悲にマレフィセントに襲いかかる男。かつての恋人という情けもなしに。


しかし、ここでオーロラの助けによって翼を取り戻したマレフィセントは空に舞い上がり男を圧倒していく。


そして森へと還っていく。オーロラを伴って。




この作品のテーマはおそらく「眠り姫は真実の愛のくちづけで眠りを醒ます、というときの真実の愛とはなにか?」ということでその周りにゆるく女性の自立のモティーフが張られている。


「真実の愛なんてありっこないのだから」

この言葉が繰り返されるたびにこの映画のテーマがそれであること、そして、それがアガペー的なものなのだろうなということが見るものに予感される。


「関係的には呪いをかけた敵である/あったのに愛情をかけて見守っていった / 自らを犠牲にして愛を注いでいった」

「そこに真実の愛があった」とこの映画では結論する。見返りを求めない愛 = 真実の愛。


真実の愛によって姫は眠りから覚めた。



それ自体には特に異論はないし、おそらくこれがエレクトラコンプレックス的なもの - 女性性の不安を抱える女性たちの物語に「八日目の蝉」的なものが配置される理由なのだろうとは思うのだけど。

つまり、「旧来の窮屈な関係性がパターナリスティックな愛情を強制した結果、彼女たちの関係が窮屈なものになっていった、母娘←母性/父性の窮屈な型の踏襲が彼女たちを窮屈にし、その緩やかな暴力が旧来の男性性や女性性に対して恐れを抱く背景と成っていった」、とするとき、彼女たちにとって血縁などの旧来の関係性とそのセットとしてのパターナリスティックな規範も恐れの対象となっていく。それに対して、血縁ではない関係、血縁ではないのに愛情をそそぐ(見返りを求めない愛情を注ぐ)ということは希望となる。


ここでこの映画で提示される「真実の愛」についてすこし引っかかった。あるいは「真実の愛」を設定する際の配慮というか。





男がかつてマレフィセントから翼を盗んだのは、単に男が自らの利益のため、王になりたいという権力欲のためにマレフィセントを裏切った、ということだったのだろうか?そして、それがゆえに男のそれまでの愛は偽りのものだったといえるのだろうか?


討伐令が出ていたのだからそのときあやろうと思えばマレフィセントを殺すことも出来たはずだけど男はそれをしなかった。翼を盗むにとどめて。

それは、その時点では男に未だマレフィセントへの恋慕があったためにその躊躇から、といえるかもしれない。その躊躇や呵責は男が王となること、時が経つことで忘れられていった(男もかつての王のようにパターナリスティックな男性性に埋もれていった)、と。男がマレフィセントに襲いかかる場面はそう想わせた。


しかし、王となった男はなぜマレフィセントの翼を飾ったままにしていたのか?


「それはかつての王に献上したものであったため、その名残として飾られていただけだ。狩りの成果の剥製のように」


そうも言えるかもしれない。あるいは物語の都合上、後にマレフィセントがその翼を取り戻す場面がカタルシス的に必要だったから、とも。


でも、敢えてそれを男の無意識に依るものだったのではないか?と妄想してみる。


「命までは奪わないとはいっても翼を奪うことは彼女の社会的な価値、それに基づいた自己規定や誇りを奪うものだった。そのことに対して、男はあまりにも鈍感で無配慮だったのではないか?」


男は、本当はマレフィセントに翼を取り戻して欲しかったのかもしれない。あるいは、そこまでいかなくても、かつての恋人の最も大事なものを処分するには忍びなかったのかも。世間の都合上、彼女から翼を奪ってしまったけれど、男も翼をもって自由に飛び回る彼女を愛していたのかも。彼女のうつくしさもさることながら翼をもって自由に飛び回る様を。その思い出の縁としてそれを捨てられなかった。彼女との復縁を望むというわけでもないだろうけれど。そういった気持を隠す反動が男がマレフィセントに対して極端な残酷に出た背景としてあったのかもしれない。




「一般的な物語-解釈的には悪役と想われているものにもヤサシイココロが」「そこに真実の愛が」として「眠り姫」の悪役を救う時、「マレフィセント」の悪役にも同様のヤサシイ視線があればよかったのでないかと、少し思った。



























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クリス・パック/ジェニファー・リー、2013、「アナと雪の女王」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/407796083.html




ラース・フォン・トリアー、2013、「ニンフォマニアック」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425284729.html

「ニンフォマニアック」の最後に出てくる擬似母娘の関係と「かつての男」をめぐるそれは「マレフィセント」にも共通するけれど、義理の娘が男(セックス)を選んで義理の母に小便をかける様は女版のエディプス・コンプレックスなのかなとも。「それがエレクトラ・コンプレックスというものだ」ともいえるけど、もっとエディプスコンプレックスを女性が演じて戯画化したような。あるいは、そこでの義理の母は(この娘にとっての)神だったのかもしれない。規範的で、パターナリスティックな「神」の面に小便を



園子温、2011、「恋の罪」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/429245999.html





映画系女子がゆく! | 青弓社
http://www.seikyusha.co.jp/wp/category/rennsai/eigakeijyoshi

サブカル、メンヘラ女子の「女性としての生きがたさ」「女性性の受け容れ」なテーマの映画の解説として



映画系女子がゆく! -
映画系女子がゆく! -




不思議な少年(7) (モーニング KC) -
不思議な少年(7) (モーニング KC) -

ソフトバンクのCMもこういったノリ程度のものだったのではないか?と思うのだけど「有名な『あの物語』の主人公たちが集うbarでかわされる本当はこわいうんたら話」。「いわゆる死体マニアだった王子」や「足フェチ王子」について語られるなかで「何億ものひとに嫌われるなんて酷すぎる…」と『平凡』な男は涙する。

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2015年11月07日

園子温、2011、「恋の罪」





近頃これを見てよかった+個人的な思い出琴線に触れることがあったので











物語の構造的には「そんなに不自由ない生活を送っていつつも夫との関係、あるいは日々の暮らしのなかでなんとも言えない満ち足りなさ、実存の希薄さを感じた女性たち」ということで、村上春樹の小説にもチラホラでてきたり、山本文緒的なものだったり、あるいはこないだ見た「空中庭園」も同様のテーマだった。





「空中庭園」|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n3bfc95e30ec1



「空中庭園」にしても「恋の罪」にしても(あるいは「ゴーン・ガール」にしても)、バイオレンスとかサスペンス、事件的なもので進行していく部分はファンタジーで、本当の、あるいはこういう問題に共通する女性の心理の根っこの部分は「実存の希薄」というところなのだろう。「恋の罪」のモデルとなった東電OL事件はそういうもので、世間的には十分に満たされている、勝ち組のはずの東電OLがなぜあんな事件を?というとところで関心を集め、けっきょくその理由は明らかにされていない。そこに現代の都会の女性、あるいは現代人に共通の心の課題が仮託される。


「ゴーン・ガール」にしても「紙の月」にしても、現実では女性たちは事件を起こさずに日々を送っていたのかもしれない。モノやお金的にはそれなりに満ち足りてはいるけれど、どこかで欠けたそれに空虚さを持つような。はっきりと「これ」とは確定できないけれど、なぜか自分が満ち足りてないような、そういう不安や疎外感のようなものを抱えていたのかもしれない。その不安や空虚さのなかで、彼女たちの精神世界のなかで生まれた修羅やファンタジーが「ゴーン・ガール」や「紙の月」だった。彼女たちの日々の空虚さからすれば、銀行の金を着服することや、サイコさんよろしく夫をあやつるために完全犯罪的な暴力をふるうことはむしろ爽快だった。爽快という言葉は語弊があって止むに止まれぬ流れでそうなっていったところはあっただろうけど、そういう形のファンタジーを通じて彼女たちは自身の空虚をカタルシスしていった。あるいはドラマ「すいか」の小泉今日子とか。









彼女たちに欠けていたもの、あるいは奪われたものはなんだったか?


本作ではそれを「恋である」と仮定する。

恋といっても LOVE ではなく ROMANCE のほうの。

恋愛というかロマンティックな幻想でありファンタジーのほうの。

彼女たちをわくわくどきどきさせるような、あるいは、灰色の日々に彩りを与えるような。そういった色味。




結論から言えば、本作の題名からも彼女たちが恋(ロマンス)を求めたことは罪悪であるとされる。それは悪であり罪であり、罰が与えられるものだと。


或る女はその空虚を肉の刺激で埋めることに出口を求め

或る女はその空虚に仕事を通じて他者に必要とされることに出口を求め

或る女はその空虚でつくられた穢れに自らを堕とすことで城を見つけようとした









彼女たちは城という名の永遠を求めて恋という名の言葉の迷宮をさまよい、ロマンスを夢見た罪を贖わされていった。

では、彼女たちがそれを夢見たのは罪だったのか?

ただロマンスを求めただけのことがそんなに悪いことだったのか?

彼女たちの求めたものは愛だったのか?



この作品の主人公といえるのはミツコという女性で、彼女は助教授という職を持ちながら渋谷円山町というラブホテル街で立ちん坊をしている。

彼女のポリシーは「愛の無いセックスからは金を取れ」ということ。それをいずみが実践すると男たちは逃げていく。「変な女」と言い残して。

「お金が介在することで、却って男たちの態度がはっきりする。中には金を対価として要求されること、売春だということで却ってさっぱりと応じていく男たちもいるけれど、大部分の男たちは金を要求すると態度を急変する。彼らは単にセックスを『無償でサービスしてあげる』ということにしたかっただけらしい」

主婦という立場ではあるけれど半ば夫のメイドとして買われたいずみの生活は無機質なルーティンで、きれいで漂白された規則正しい快適のなかでセックスも抜け落ちている。小説家の夫を崇拝するいずみはそのことに直接的な不満を言わないものの日々の生活の中で空虚さを抱えていく。

外で働くことを通じてその空虚さを埋めようとするなかで、なし崩し的に性の罠にからめとられていき、いずみのセックスは騙し取られる。

ミツコとの出会い、あるいはそれを通じた「愛の無いセックスからは金を取れ」という言葉と実践は騙し取られたいずみのセックスを回復していくリハビリテーションだった。

彼らが事後に手に押し込んできた金や、甘い言葉と引き換えに奪った空虚なセックスを、いずみは「自らを売る」ということを通じて取り戻していった。「愛の無いセックスからは金を取る」という意志と行動を通じて。それはいずみの主体性の回復でもあった。

そういった流れの中で夫との出会いは必然で、夫とのセックスを通じた恨みの吐露とカタルシスは逆説的にいずみが彼によって奪われていたことを明らかにした。十分に与えられてはいるけれど与えられてはいない。あるいは、与えられてはいるけれど与えることはできない。傷つけられはしないけれど傷つけることもできない。そういった関係に追い込まれ奪われていたこと。

しかし、夫とのこういった出会い、風俗嬢という立場からの出会いは夫との関係の終焉を意味し、いずみは流れ流れて片田舎のうらびれた風俗街で1000円でカラダを売るようなクソ女となって物語は幕を閉じる。最後にしょぼくれた風俗街のクソ男に歯向かった罪と罰を腹に食らいながら。

それでもなおいずみが最後まで手放さなかったもの

うらびれた風俗街の1000円の女に落ちぶれても手放さなかったものがこの言葉となる。




言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで掃ってくる







それはかつてミツコが壇上で語っていた言葉で、詩それ自体の内容というよりミツコの勇姿と思い出を代表したものだったのだろう。

あんなにボロボロに裏切られても、かつての自分を救い導いてくれたミツコとの思い出。



この詩で謳われるのは言葉を覚えることで余計なことを考えてしまう人の世の、あるいは自分というにんげんの心の弱さだけれど、ミツコといずみとの関係でいえば「言葉」は「ロマンス」に置き換えられる。

では、女たちがロマンス、あるいは真の愛情を夢見たのは罪だったのか?

彼女たちの惨めな最後は罪の必然/罰とされるのか?



物語の最後にこの事件を追っていた刑事の和子もいずみやミツコを追うように旅立つことが示唆される。

「ある主婦がゴミ収集車をおっかけているうちにふだんはいかない街にいったんだって。そして、そこで自分はなにやってんだろってそのままどこかにいってしまったんだって」

夫から聞かされていたこの話をなぞるように。



それは、ミツコやいずみと同じような不幸な結末を暗示するものだったのか?


あるいは、和子なら別の道筋を見いだせると暗示するものなのか?


その解釈は見るものに託されたものだったけれど、自分的には後者なのではないかと思った。





案外と、和子はゴミ袋を置いて家路についたのかもしれない。


そして、お腹減ったあ、とかいっておでんを囲むのだ。









--
「日本型近代家族」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/429041084.html


ラース・フォン・トリアー、2013、「ニンフォマニアック」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425284729.html


「ニンフォマニアック」補遺: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425456769.html


美術手帖「かぐや姫の物語の衝撃」から|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nfc1747c692dc






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2015年10月17日

高浜寛、2015、「蝶のみちゆき」(ほかいくつかの作品)



はてなの一部界隈でおすすめマンガを紹介するのが少しはやってるようなのをTwitterで(´・ω`・)しつつ、そういえば自分も高浜寛についてもうすこし感の入ったものを書いてみたいと思ったことを思い出した。noteにはいちお書いたのだけどもう少し感の入ったもの。

とはいえ、高浜寛の作品の魅力はなかなかに言語化しにくいもののように思う。

簡単には「大人向けマンガ」ということになるだろうし「現実臭い」「アダルティ」などの感想が散見され、それ自体は合ってる。

「大人向け」というとセックス描写とか難解さとかが思い浮かぶかもだけど、セックス描写を過激さという観点から見た時にはそういうものを目的にしてる作品には劣る。むしろあっさりとしているのだけど、そのあっさりさというのは現実のセックス、特に女性の視点から見た時のそれに近いのかなあとか思わせる。ヤサ男のすね毛とかうなだれたペニスとか。

マンガの表現というのはどうしてもマンガの型に沿って描かれる。そういうもののなかで演出、デフォルメされることで想像力を刺激されるのだけど。それはマンガ的なもの、あるいはそれによって喚起された想像のものであって現実とは異なる。

高浜寛のマンガ、特にセックスシーンを中心とした性愛の情感はそういったものと一線を画する。


そういう意味で言うと単館映画のようだし、バンドデシネということなのだろう。なので谷口ジローが強烈に推す。


深町秋生のコミックストリート :日本的な情緒とたおやかな感性、徹底した再現力。さらなる高みへと到達した愛の物語「蝶のみちゆき」
http://www.sakuranbo.co.jp/livres/cs/2015/03/post-115.html



「今、最も読まれるべき漫画がここにある。知っているようで知らない時代、美しき遊女のお話。なんとも気負いのない絵と語りのうまさが際立つ/心が揺れる――。高浜寛の物語表現は描く度に高まってゆく。」(谷口ジロー)


「本作『蝶のみちゆき』の少なからぬ魅力はヒロイン・几帳が湛える穏やかな悲しみにあり、読む者を幕末・明治の遊女の世界へと導く官能と情緒にある。私たちは初期作品からずっと高浜寛の繊細な仕事に注目してきたが、彼女はこの作品により世界的コミック作家の最高峰へ至る新境地を切り拓いたようだ。」(ブノワ・ペータース フランソワ・スクイテン)



加えていうとこの話は吉原の話ではなく長崎の遊女の話で、あまり知られてない題材をしっかりとした取材に基づいて描かれている。特に書かれてないけど高浜寛のほかの作品にも共通することなのだろう。

とはいえ、やはり一般的な日本の漫画読みの視線からすると地味な画風だしストーリーとしても地味なものになってるように思う。なので煽りに期待して読むとそんなに…てこともあるかも。


自分は最初からそのつもりで読んだのでそんなにがっかりということもなく、むしろ日本のよくあるマンガの型から外れたとこにある魅力のようなものに魅了されていったけど。スルメのように(あるいは煮物)。


「蝶のみちゆき」が最新作にして最高傑作という評価なのでそこに至るまでの作品を読むことから始めた。




蝶のみちゆき (SPコミックス) -
蝶のみちゆき (SPコミックス) -

蝶のみちゆき -
蝶のみちゆき -

四谷区花園町 -
四谷区花園町 -

四谷区花園町 バンブーコミックス -
四谷区花園町 バンブーコミックス -

トゥー・エスプレッソ -
トゥー・エスプレッソ -

イエローバックス -
イエローバックス -

イエローバックス―高浜寛短編集 -
イエローバックス―高浜寛短編集 -

凪渡り ― 及びその他の短篇 (九竜コミックス) -
凪渡り ― 及びその他の短篇 (九竜コミックス) -

泡日 -
泡日 -

まり子パラード (Ohta comics) -
まり子パラード (Ohta comics) -



物語的には男女の恋愛を中心とするのだけれど単に惚れた腫れたで別れて嫉妬でくっついてとかな話でもなく、たとえば年齢を超越しても、あるいは別れても好きであり続けること、愛しているがゆえに別れることを当然としたような、そういった愛情のあり方が描かれている。


初心者的には素直に初期短編集の「イエローバックス」から読むのが良いだろう。

その中でも自分が好きなのは「最後の女たち」という作品。

かつては恋人だった男女が仕事のみの関係になって老齢を迎えつつ、そこで新たなはじまりを模索する。

「この歳になってこんなことでドキドキするなんてね」「ていうか、まだドキドキするなんてことがあったんだね」

そんなセリフが欄外から聞こえてくるようなラストシーン。

キャピキャピした若気の恋愛ではない、一時の昂まりを超えた落ち着いた愛情の行方というモティーフは「トゥー・エスプレッソ」にも通じてくる。

2つのエスプレッソであり「too Espressos」。苦すぎるぐらいがちょうどいい、若い恋の幕引き。



特に短編に顕著な大人のおしゃれな?恋愛の様子はエロを抜いたやまだないと的なものを想わせる。


西荻夫婦 (フィールコミックスGOLD) -
西荻夫婦 (フィールコミックスGOLD) -








「四谷区花園町」以降、「蝶のみちゆき」あたりの高浜寛の絵柄はたんぱくで、ともするとそんなにうまくない印象を受ける。

でも、「イエローバックス」で収められてる初期短編からはバンドデシネ的なものを感じさせられ、本来こういう感じだったのを変えていったのだろう。そういうもの、バンドデシネ的なものがより表れていたのが「まりこバラード」だったけど。


「まり子バラード」はフレデリック・ボワレとの共作で、これも単一のストーリーマンガというよりは実験的な映画のような印象を受ける。なのでそのコードで読めない人にはおもしろくない作品だろう。物語としてもなんだか曖昧でたんぱくなものだし。




高浜寛の作品に共通した印象はストーリーではなく現実感、リアリティということではないかと思った。


ストーリーではないというと語弊があるかもだけど、型によって構築・構成された物語、ではなく、もっと身近な経験に沿ったストーリー、あるいはリアリティ。


全体としてはぼんやりとした物語なのだけどある場面が強烈に印象して、そこから自身のなかでの物語(ナラティブ)として記憶が定着していくような。その感覚を描写しているような印象がある。


自分にとって「蝶のみちゆき」という作品の印象もそういったもので、作品全体というよりもある場面に焦点した印象が作品の全体の記憶となって残った。

それは例えばふたりの最後の逢瀬の接吻だったり、その運命を暗示する蝶のみちゆきの様子だったり。一頁まるごと使った、陽炎のように立ち昇る蝶のみちゆき。



余計なことかもだけど、そういった表現から受ける印象として、この作品はこういった表現よりももっとふさわしいやり方のほうが伝わりやすいのではないか?とか思ったりもする。たとえば映画とか、あるいは浮世絵的なものとか。


もともとはカラーで描かれてたみたいな話もちら見した気もするので、それだとまた印象が違ったのかもしれない。






















蝶の道行|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n2104568ec2dc

posted by m_um_u at 21:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2015年09月06日

「ニンフォマニアック」補遺


ラース・フォン・トリアー、2013、「ニンフォマニアック」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425284729.html




読み返しつつちょっと書きそびれたなあってとこをnoteにしたりもしたんだけどほかにもちょっと書きそびれたとこがあったので簡単に。


湘南行き、ほか|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nb2baf4d33815

父親が主人公の幼い時に樹の名前について教える場面、そして、性依存症を断つためにすべての「性欲を喚起させるかもしれないもの」を部屋から捨て去っても樹木の押し葉ノートは捨てられなかったこと。

おそらく主人公は父親との関係 - 父親への(直接的な性欲ではない / むしろ肉体的性欲ではないところでの繋がりや依存、心の拠り所、みたいなのがあって、その象徴や集約が押し葉のノートになっていたところがあった、、のかもしれない。

「のかもしれない」という歯切れの悪い言い方をするのは、そういった見方がファザコンな解釈に偏るから。そういったところもあったのかもだけど、セクシャリティは複雑な要素の関係から成り立つものだろうし、その内容も複雑なものとなるから。
樹の話に象徴されるもの、あるいは樹の押し花をみているうちに性欲が喚起されたのは、父親へのファザコンだけではなく、植物の性の官能性そのものが彼女のセクシャリティの一部となっていたところがあったからかも。




主人公の性欲というのは「生まれつきセックスが好きで好きで仕方がなくて」みたいなことでもなくて植物への感性みたいなのが向かった方向にたまたまセックスがあっただけだったのかなあとかおもった。

もちろん、性的な素質というか、そういうのに対する感性とか好奇心とかはほかの子どもよりはあったのかもだけど。それを手挽きしたのは友人Hだったし。友人Hというのはませた子どもなだけで特にニンフォマニアになるわけでもなくセックスのループから卒業していったし。

実際、主人公の初体験はそんなに良いものでもなかったし、そこでの快感みたいなのもなかった。

その後のセックスも、セックスにおける快感に虜になっていった、というよりは、単に男との関係があることに充足していた(それでなにかを満たしていた)ぐらいな感じだった。「男をセックスで釣って、その間はひまつぶしできる」、みたいなの。

なので、セックス自体の快楽に依存していた、というよりは、そういった関係性を埋めれれば落ち着いたのかなあとか。



まあそういうのも「孤独を埋めるためにセックスとか異性に頼っていた」とかいうとかわいそうな女な印象になるけどそういうことでもなく、単にひまつぶしだったのだろうけど。あるいは手慰みというか。多くの男性がもってるマスターベーションなアディクションがセックスで発露してただけで、ただ、セックスは人間関係が生じるから面倒なことになっていた、ってだけだったような。


あとはやってるうちに快が増していって、そして習慣化もしていって、なのでそれが癖になっていったのかなあ、ぐらい。

たばこの依存症でもそうだろうけど、やってるときも、あるいはやめたときには「そんなにうまくないのになんでやるんだろ?」みたいなのがあるだろうけど、それがたまたまセックスだっただけみたいなの。あるいはポテトチップスとかジャンクフードの習慣とか。




人の欲求なんかおぼろげなものだから最初からはっきりとした欲求はなくて、やってるうちに習慣化してくところもあるのだろう。








posted by m_um_u at 22:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2015年09月03日

ラース・フォン・トリアー、2013、「ニンフォマニアック」






















                        おまえは神には遠すぎる


















ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2 2枚組(Vol.1&Vol.2) [DVD] -
ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2 2枚組(Vol.1&Vol.2) [DVD] -

ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2 2枚組(Vol.1&Vol.2) [Blu-ray] -
ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2 2枚組(Vol.1&Vol.2) [Blu-ray] -


Nymphomaniac Vol. I & II -
Nymphomaniac Vol. I & II -

Nymphomaniac Vol. 1&2 -
Nymphomaniac Vol. 1&2 -





TSUTAYAで准新作になってるの見かけて(´・ω`・)エッ?レンタルで出てたんだ?(しかも準新作になってる)てことで借りてみてみた。TSUTAYAに魂を売ってるのでセールの日(おもに週末)だと准新作まで一枚108円で見られるので。


二枚組ということもあるし同じような時期に似たような?反響もあった「ゴーンガール」が自分的には(´・ω・`)だったのでそんなに期待してなかったのだけど、すこし予想を裏切られる形だったしちょっと感想を書いてみたい気になった。「裏切られ」たのはもちろんよい方向に。


物語概略は他人様のところに任せるとして

『ニンフォマニアック』は、“女性のセクシュアリティの物語”ではない。 - (チェコ好き)の日記
http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2014/10/13/110908

結論:『ニンフォマニアック』は「救済とその不可能」の物語。 - (チェコ好き)の日記
http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2014/11/17/105052





最初に言ってしまえばやはりこの作品も「ダンサー・イン・ザ・ダーク」同様ある意味での聖人のそれを描いたもののように思えた。あるいはキリストの誕生的なもの。


そう思わせる箇所と説明的セリフは映画の端々に付られていた。


たとえば神父を思わせる読書家の男との対話の中で、主人公(色情狂(ニンフォマニア)が歩んできた人生を語っていくのだけど、その端々に聖書の主題をなぞるような箇所がでてくる。ただし、キリストの誕生を性欲の救世主の誕生として戯画するような。それが戯画となり「おまえはキリストを冒涜するのか?」と言われるのは性欲が現在の社会においてもなお悪しきものとされるからだけど。特に女のソレが。その意味では神父のような読書家との対話は悪魔(ニンフ)と神父≠読書家≠研究者の対話といえ「ファウスト」なんかも想わせる。悪魔はところどころに誘惑をちらつかせ男の欲望=堕落を誘う。



最後に、彼女の人生を振り返り結論を与えるような場面で彼女の人生=映画の主題もある意味そこに落ち着きそうになる。



「女の性欲は悪しきものなのか?」

「これが男であればことさらに問題にされることでもなく、凡庸なドンファンな話として終わっていただろう」

「なぜ、女であるというだけでここまでおまえは苦しみ、貶められてきたのか?」

「おまえがそのように過激で、攻撃ともいえる異常な性欲をもったのはおまえの生まれに歪さとなんとも座りの悪いところがあったからだ。おまえの性欲の異常はそれに対する反抗だったのだ」




「罪」に対して、そういった救いの手を差し出されながら、彼女は敢えてそれを拒否する。ちょうどカウンセリングで「セックス依存症」の烙印と救済を拒否し「わたしはいやらしいニンフォマニアだ!セックスが好きなんだ!」と宣言したように。安易な救済と、それと引き換えに与えられるしょぼっくれたラベリングを彼女は敢然と拒否する。他人による安易なパターン(物語)を受け取る代わりに彼女は自分の欲望を生きることを選択する。自身の欲望を肯定し高らかに笑う。それが世間的には「異常」な性欲だったとしても。「異常」な性欲はなんらかの欠落や歪みに対する結果だったと言われても。「わたしの性欲は単に欲望としてそこにあって、それをただ埋めていただけなのだ」、と。ちょうど食欲を満たすように。それは悪でもなければ罪でもない。なので罰(ラベリング)という救いも要らない。


「わたしはただ食欲を満たすように性欲を満たしていただけだ」「そこになんのエクスキューズも、なんらかの『哀しい理由』のようなものもない」



そうはいっても世間的にその行動が異常だったり、それによって自身の正常な生活が脅かされていたらそれはどこかでバランスを崩してるということであり、結果としての逸脱だったり依存だったりということだと思うのだけど。特にこの主人公の場合は幼少期の母親の不在と、対照的な父親の理想化、愛する父親の無残な死に様が平衡を崩すことに関連してるようだった。といってもそれ以前から性的なものへの目覚めが早かった / 感性が優れていたようだけど。

とまれ、それによってできあがる「異常な性欲を抱えるひとは幼少期に両親の関係や愛情になんらかの不和や不足があって」みたいなパターンがある程度の蓋然性を持つとしても、それで全てが説明できるわけでもなく、それのみによる安易な解釈を主人公は迂回していく。


こういった俗流フロイト心理分析的な解釈、あるいはそれに代わるフェミニズム的に凡庸な視点から生まれるヤサシイ解釈が「異常」な性欲や行動、選択になんらかの理由を付けてくれても、それによっていま、現在その欲望の中にあるもの、あるいはそれによってある選択や決断をしたものが救われるでもないので。そういった解釈を受け入れることで「正常」な生活に戻れるきっかけは得られるかもだけど、それによって彼女たちが立たされるスタート地点は「正常」なそれからすると極端に低いところになる。そのラベルと現実を受け入れて小さく生きていくことを彼女は拒否する。ちょうど行者や求道者が安易な救済を拒否するように。

こういった俗な解釈がけっきょくは風俗嬢やAV女優に「かわいそう」しつつもやることはやる説教おやじと変わらねーじゃねーか?(おまえらは肉体的にはレイプしなくても精神的にレイプしてるだけだ)ということを映画のラストは戯画的に表す。

それは世のヤサシイ男性一般に対する視点としてはすこし意地悪にすぎるようにも思えるけど、「ヤサシク親切なだけな救済ですべてうまくいくってわけでもないだろ?w」って監督なりのリアリズムだったり照れ隠しだったりしたのかもしれない。






映画全体をもう一度振り返ると、「性に奔放な女性の一代記」ということだと構造的には「エマニエル夫人」と変わらないように思う。なので人によっては単なる過激なポルノの一種として受け取られたかもしれない。


ただ、「エマニエル夫人」が性の探求のモチベーションや内容そのものに特に暗い背景を設定していなかったのに対して「ニンフォマニアック」ではもっと依存的で破滅的な切実さをはらんでいたように思えたけど。

ちなみにいうと「エマニエル夫人」自体も原作は単なるポルノというか性の探求=自身の実存の開放ということで、性は単にきっかけであり、むしろ主題は同時代の閉塞感と、それを破る新たな可能性の探求ということだった。




性の問題は簡単にポルノ的な興味で終わらすこともできるのだけど、きちんと向き合っていくと案外と奥深く、人として存在する限り付きまとってくるものなのだろう。


たとえばオーガズムひとつとっても、単にイク=射精するもしくは精液が出るというだけだと肉体のボタンとスイッチ的な機構だろうけど、その質や個々人の満足を突き詰めていくとそんなに単純なものでもなくなる。


「ニンフォマニアック」ではSM的なシーンが出てきて、それは巷の通俗的でポルノグラフィックなものと違って「通らざるをえない儀式」的なものとして描かれていて同筋の人たちてきには満足だったり憧憬-モデルの対象になったかなとかおもったのだけど、そこで「屈辱的に縛られて叩かれてるのになぜだか濡れてしまう」「足繁く通わざるを得なくなる」「閉じてしまっていたオーガズムが開くきっかけとなっていった(なっていくかもしれないとおもった)」というのはオーガズムにおける不思議と実際を表す一場面のように思った。

それが単に肉体の快楽と正の関係にあるボタンとスイッチ的な機構であれば、叩かれたり屈辱的な格好や命令をされることで性的に興奮したり刺激されたりすることはないはずなので。

そして、苦行 / 痛みを伴う儀式、ということだとそれは宗教的な儀式にも通じていく。たとえば「Passion」で描かれる歩みが見る側に痛みとともにある種の性的な視線をもたらすような。


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熱狂的殉教者が神の使徒としてあることの恍惚と悦楽は性的な快楽に近い、あるいはそれを超えるものだろう(cf.宮沢賢治「この変態を恋愛と呼ぶ」)。



ほかにもこの映画に断片的に描かれていた「主人公が丘の上で寝転んで空を見ていたらなんとなく空に浮かんでいく感じがして、、快楽もともなって、、おもえばそれがはじめてのオーガズムだった」みたいなの。


これらも一般的な視聴だと「あ、ヘンタイだからそういう体験したんだ?」って見送られるとこなのかもだけど、いわゆる神秘体験とオーガズム的なものが近似にあるのかなとか思ったりする。



「性に奔放な女性の一代記」というところに「性の殉教者」≠「人の業を行ずるもの」的な視点から味付けしていったのはトリアーの独特だったのだろうけど、伏線として回収されがたいこれらのディテールのリアルさはいわゆる変態性欲的な人たちにインタビューした結果なのかなあとかおもった。



















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関連:

【A面】犬にかぶらせろ!: 「エマニエル夫人」は乗りもの映画である〜もちろん二重の意味において【前編】
http://www.hayamiz.jp/2012/10/emannuel01.html

【A面】犬にかぶらせろ!: 「エマニエル夫人」は乗りもの映画である〜もちろん二重の意味において【後編】
http://www.hayamiz.jp/2012/10/emannuel02.html




性的満足におけるココロとカラダについてのぼんやりとした話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/392098324.html



そして、むきだしの羊は閑かに暮らす夢を見る: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/408674184.html



「痴漢の心理」から  人の性幻想とヘテロセクシャルの形成について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/411213903.html



やはりジンメルかあ。。: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414033954.html




意味―性―愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414101268.html





「栄養が行き届いていれば花は必要ないのです」 → 性 / 生 / 死 とそれらを共同体的に包摂すること: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/418302309.html






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2015年07月04日

是枝裕和、2015、「海街diary」


1日に時間が合ったので「海街diary」を見てきた。



感想は特にエントリする気もなく簡単につぶやいて終わりにしようかと思っていたのだけれど、cakesほかでこの映画がどういう意図で作られていったかを読んでるうちにメモしたくなったのでエントリしておく。特に批評的な創意というわけでもなくメモ。




人は、もう居ない誰かとつながりあって生きている。|是枝裕和×菅野よう子「四姉妹物語だけではなく、寄せては返す波のように」|是枝裕和/菅野よう子|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/9825


「ここにいていい」ということを歌えるよう|是枝裕和×菅野よう子「四姉妹物語だけではなく、寄せては返す波のように」|是枝裕和/菅野よう子|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/9827



是枝裕和×菅野よう子『海街diary』インタビュー | NeoL
http://bit.ly/1FZIAow



cakesのほうは有料購読が必要なので読まない人がいるかもだけどNeoLに載ってる内容とも重なっていて、そこにあるようにこの映画は是枝監督が中心でグイグイ進めていった作品というわけではなく、むしろ菅野よう子さんとのセッションを通じて出来上がっていった作品ということがわかる。あるいは菅野さんだけではなく俳優やスタッフとのやりとりを通じてその場その場で変化させていった結果(アルバム)のようなもの。菅野さんが「こんなにゆるくて意見が通って行く現場ははじめてだったかも」というようなことを言っていたけれど、そういえば是枝監督はそういう創り方をしていたなあとかおもった。ちらっとTLで見た程度だけど、広瀬すずさんの演技なんかは特にセリフも決めずに状況だけ説明してアドリブでやってもらったところもあったようだけど、そういうやり方は「ディスタンス」なんかを想わせたし。




「過去が書き替えられていくことが、そのひとの成長になっていく」―『海街diary』是枝裕和監督インタビュー [T-SITE]
http://top.tsite.jp/news/i/24272142/

「これ、誰か撮るよな。撮られたくない、と思いました」
吉田秋生の漫画「海街diary」を読み、ある場面に遭遇したとき、是枝裕和監督はまずそう思った。そして、映像が浮かんだのだという。
「漫画なんだけど、ここ、カメラ、確実にクレーンアップだよなと。すごく映像的に出来上がってる。音も含めて。あれは絶対、映像にしてほしいという画になってる。映画になるために描かれてある、と思った。絶対、誰か『やる』と言うはずだと思い、その前に手をあげました」



「想いのたけをぶつけてみようと思いました。吉田さんは何を考えて、こういうシーンにしたんだろうか。ひとつひとつ読み解いていく。こんなに他人(ひと)の作品を繰り返し読んだことはなかった。吉田さんのなかに“潜っていく”ことからスタートしていますよ。それがわからないと映画にできない。わかりたい、と思いました」


「漫画、読んでいたときも感じていたんだけど、吉田さんとお会いして話して、この原作は、登場してこない人間がすごく重要な役割を果たす物語なんだなと、あらためて思って。読み直してみると、キーになるひとが姿を現していない。結局、そのひとたちを意識しながら、みんなは生きている。出てこない人間を回想で出さずに、どう生きている人間に重ね合わせながら描いていくか。すごくアクロバティックなことを要求されているんだなと。動作を、誰かから誰かに受け継いでいくとか、反復するとか、そういうことの積み重ねで、どう“いない”ひとを感じるか。それをやれるだけやろう。その覚悟は決めていましたね」



「原作のキャラクターを踏まえた上で、この4人を頭のなかで動かせるようになったので、そこからはオリジナルなのか、原作(通り)なのか、自分ではわからないまま動かせているんです。違和感なく描けていて、原作ファンに怒られるかもしれないけど、いま映画を観て、あれ?ここ、原作にあったかな? なかったかな?という感じだから、たぶん“移植”はうまくいっているんだと思います」
静の綾瀬はるか。動の長澤まさみ。「このふたりに影響されずに自分の時間を生きている」夏帆。大竹しのぶ相手に、当日いきなりふたり芝居をすることになっても「緊張しない」広瀬すず。絶妙なバランスのキャスティングも、「その先」を捉える映画の力になった。
「この原作は、少女漫画という枠を超えて、すごく大きなものを描こうとしている。それは、人間よりも、街だったり、時間だったり。だから『海街diary』なんだと思う、『鎌倉四姉妹物語』ではなくて。その大きさ。人に(向かって作品が)閉じていかない話にするにはどうしたらいいか。これは叙事詩的な作品だと思うから、そこはちゃんとやりたかったんですよね。読み込んだから、この作品が大きなものに辿り着こうとしている話なんだとわかったんです」





「吉田さんの『櫻の園』(1990年に映画化もされている)は、過ぎ去った時間は二度と戻ってこないという素晴らしくも残酷な漫画だった。でも『海街diary』は、過ぎ去った時間が、ときとともに自分のなかで、かたちを変えていく話だと思う。過去が書き替えられていくことが、そのひとの成長になっていく。その時間が彼女のなかでどう変化するかは見えない。そこが、この原作のいちばんの豊かさ。そこをなんとか描きたかった。僕自身父親が亡くなって15年ぐらい経ちますが、父親になったことで、自分の父親のことを思い返している自分がいる。いまの自分の年齢のとき、父親はああだったよな、とか。父親とは疎遠だったんだけど、その父親が自分のなかで、ちょっとかたちを変えてるわけ。自分も似ているところあるなとか。自分が父親として子供に接しているなかで、同じようなことが自分に起きている。この物語にはシンパシーを感じていました」





監督が「他の人に撮られたくない」とおもった印象的なシーンは原作一巻で四姉妹がはじめてあったとき、すずのお気に入りの場所に3姉妹が案内されて、「ここって鎌倉と似てるねー」といった後に四人の気持ちがはじめて少し触れ合って、そこに蝉しぐれが重なる場面。

自分的にはマンガでみたときにはそれほど印象的に想わなかったのだけど、監督に言われて見てみると「そういえばクレーンアップから4姉妹の輪を俯瞰するような場面だな」と気づいた。そういう画面構成になってるのはいまは亡き父親の視点を反映しているからだろうけど。

先に言ってしまったけど、原作の漫画は自分的にはそれほど印象的なものではなく地味なものに感じた。

それは先に映画を見て、それから「原作も当たってみないとなあ。。」ということでチラ見した程度だからかもだし、ストーリーに対する新鮮味がすでに失われていた+音楽や映像で演出が強化されたものを先に見ていたからかもだけど。そういった意味では「自分が吉田秋生のこの作品に映画よりも先に出会っていたらどういう印象をしただろう…?」とはおもう。



「先にあたっていたらどうだったかなあ」つながりでいうと是枝監督と菅野よう子さんの対談もそんな感じで、この対談を先に読んでいたらそういった見方に感性や感想が誘導されていたかもしれない。後出しジャンケン的に対談で語られていた内容を自分の感想のように述べる、みたいなの。映画を見た直後に、特にこの映画に対する感想や解説のようなものに当たる前に自分なりの印象をつぶやいたのはそういうことで、なにかに影響される前に自分の印象を封じ手的に遺しておいた。で、翌日cakesほかで監督のインタビューを読んでいったら思ったより自分の感性、読みが正しかったのだなあて思った。というよりは、自分固有の感想かな?とおもっていたのだけど映画や原作自体のメッセージだったのだなあてとこで答え合わせ → 正解、的な。

この映画の最初の印象は、「なんか、、物語らしい物語、というか映画や小説らしいドラマティックな物語性がない、全体的にPVみたいな内容なのでわかんないひとにはわからない『ぼんやりした』映画にも想われるだろうなあ。。」、というもの。

じっさい自分が見終わったときにもエンドロールで早々に席を立っている人たちが散見された。あるいは映画の途中にトイレかなんかで出てく人たちとか。

まあそういうのは映画のおもしろさに関係なく何割かはいるものだろうからあまり関係ないのかもだけど、カンヌでも特に賞をとらなかったのはそういうことかなあ。


この映画は全体的に海と波音、海に映える光、あるいは海の側の街に映える光や風によって構成されている。


人の言葉や論理、理性以前に光や音やにおい、あるいはそれらの積み重なった時間によって了解されていくものがあって、あるいはそれらを総称して時間というのかもしれない。


この映画で描かれているのはそういうもので、そういったものに対する慈しみをもった視線はこれまでの是枝作品の系譜に属する。たとえば「奇跡」とか。


人は不幸にあって、それを論理的-理性的に受け止めて正面から向かっていくことも大事だろうけど、食べたり歌ったり笑ったりすることも含めて人の生というもので、不幸の中でもそういうものから少しずつ影響されて、納得とはいかないまでも強烈に反発することがなくなってとどまったり方向を変えていったりする。許す、というわけではないのだけど、赦すというか…。忘れるわけでもないのだけど、怒ったりわだかまりをもつような意識をするのではなく、なんとなく方向をずらして行く。そういう考えもあるのか、というように。


人の生を生きるというのはそういうもので特に正解があるものでもなくて、いろいろな雑音に流され吸収し影響されていくことも含めて生きるということになる。人は理性だけでは生きていけないので。なので食事もすれば排泄もするし性行為もする。菅野よう子さんとの対談にも出ていたように是枝監督が「食べる」「料理する」ことをフィーチャーするのもたぶんそういうことなのだろう。

映画冒頭で天ぷらをあげる場面は「歩いても歩いても」のとうもろこしの天ぷらを想わせた。



自分がこの映画の初見で「物語としては出オチで終わっているので一般にはわかりにくそう」といったのは、「ふつーの作品なら父親の不倫相手の子どもを赦すということが大きなドラマになり、途中にいじめやらなんやらはさみつつ和解(あるいはそれに向かう一歩)をクライマックスとして物語が構成されていくはずなのに冒頭であっさりと『一緒に暮らさない?』と言ってしまっている」、ということ。なのでこの物語はそういった物語的な物語の構成をその時点で解体-迂回してしまっている。そういうやり方を選んだのは是枝監督らしいなあとおもったのだけどインタビューを見てみるとこれは原作の吉田秋生さんに依るものでそこに是枝監督も感心していた。

この作品はそういったクライマックス、ふつーの物語の最後の場面から始まっているエピローグのようなもので、それがずっと続いていく。「あの四姉妹のその後」的に。

インタビューの中で「この作品は誰かの不在がキーワードになっている。語られて入るけれどずっと画面に現れてこない人々」というようなことが語られていたけれど、そういった意味では描かれなかったこのクライマックス自体も『不在』なものということになる。あるいは並行世界の物語。

本当なら修羅場で終わっていたのが当然だったはずの世界-物語からするとこの物語の四姉妹の在り方はファンタジーであり奇跡のようなもので、そこに是枝監督的なひとつひとつの生の軌跡を切り取ったカメラ視点が重なっていく。そして、原作の物語の日常の中でいつの間にかふつーに実現してしまってる幸運を宝物のような幸運-奇跡として観るものに伝わりやすいように演出する。


映画の中盤から後半では父親の不在、家庭の崩壊という不幸がすでに生活の一部として慣れられて、父親の忘れ形見の妹との仲がある程度深まり、姉妹らしくなってきたところで近所のおばちゃんの死があらたな不幸として近づいてくる。

そこで映画全体に漂う「奇跡のような時間」を見つめる視点にあらたな意味、現実的な意味合いが付される。あるいは、その視点が「父親の死」「不在」をめぐるものだったのか、と気付かされる。死(不在や不幸)と生(の奇跡)というこの視点はこの作品の通奏低音となっていく。


自分的に意外だったのは「死や不在というこの視点は後景的なメッセージであって、一般的な観客にはそれほど伝わらない程度に設定されたものだったのではないか」とおもっていたのだけれど監督的にはそれを作品メッセージとして押し出していたということだった。もっと意外だったのは最初それをあまり出さずに、単に鎌倉四姉妹物語として描こうとしていたところを菅野よう子さんに映像の印象や意味を読み解かれて「むしろこっちではないか?」と誘導されていったというところ。

監督が最初に菅野さんに曲発注した時には四姉妹ということで弦楽四重奏的なものをということだったようなのだけど、それは理性先行の「頭で考えたもの」で、菅野さんとの何度かのやりとりを通じてそれが修正されていったらしい。修正というか、セッションを通じてアレンジされていったというか。四姉妹の長女のテーマとして考えられていたのはjazz的なものだったらしいけど、そういうのももうちょっとゆるやかに、全体的にクラシックな感じに変更されていった。


弦楽四重奏的なもの、という依頼は「そして父になる」同様にセリフ的な物語だけでは語られない部分を音楽によって印象していくためかなあとおもったのだけど、そこでイメージされていたのはたぶん原作のほうの四姉妹の様子で、映像として出来上がってきたものを菅野さんが見て違和感を感じたのだと想う。映像作品としては綾瀬はるかさんを始めとした俳優たちの演技や存在感そのものが意味を付加しているので。

蛇足で言えば原作の長女はもっとキリッとした行き遅れな感じだけど、綾瀬さんの場合は基本に癒し系というか、しっとりとしたたおやかさみたいなものが印象される。次女も長澤まさみさんの場合は「モテキ」「世界の中心で、愛をさけぶ」的なそれが、夏帆さんの場合もそれに準ずる。そういった意味だと夏帆さんは今回よく化けたなあとかおもった(逆にものすごく存在感を消してるという意味で存在感を感じたのが大竹しのぶさんとか樹木希林さんだったけど)。



もしかしたら菅野さんに依頼しなかったらこの作品は弦楽四重奏的なものを基本に鎌倉四姉妹的なものを描いた物語になっていたのかもしれない。グリコポッキー四姉妹物語的な。長女と次女の対決や仕事上での成長なんか、あるいは母親との葛藤や和解がドラマのメインとして付されていくような。特に母親、あるいはそれを通じた父親との和解は「そして父になる」にも通じる親子の葛藤と和解の女性版のようにおもう。


それはそれで良かったのかもしれないけど、原作も含めたこの作品の通奏低音的なテーマ、死や不在を片隅に意識させつつ、それに対するぢんわりとした了解を出せたのは地味な成功だったのだろう。


家族、あるいは機能不全家族の快復、自らが大人になることを通じてそれを何らかの形で了解し引き受けていくということについては「そして父になる」でひとつの完成に到達していたように思っていたけれど、菅野よう子という触媒が加わることでそこに新たなステージが拓けたのかなあとおもった。






死や不幸、それらの赦しと生きること、生活すること、時間





















SWITCH Vol.33 No.6  是枝裕和の20年 ”海街”へー ある家族の物語 -
SWITCH Vol.33 No.6 是枝裕和の20年 ”海街”へー ある家族の物語 -


海街diary オリジナルサウンドトラック - 音楽:菅野よう子
海街diary オリジナルサウンドトラック - 音楽:菅野よう子


海街diary -
海街diary -








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是枝裕和、2013、「そして父になる」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/376322940.html


見た映画についてちょっと(「奇跡」、「恋に落ちたシェイクスピア」)|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n628a6a9ebd87







人は、もう居ない誰かとつながりあって生きている。|是枝裕和×菅野よう子「四姉妹物語だけではなく、寄せては返す波のように」|是枝裕和/菅野よう子|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/9825


−− 菅野さんは、映画もドラマもその作品のテーマや魅力を深くくみ取りながらも、ドラマティックな音楽をつけられますが、本作の音楽はどのようにアプローチしていったんですか?

菅野 是枝さんの脚本と映像のみでイメージをふくらませていきました。映画は監督の作品だから、まずは敢えて原作を読まずに、まっさらな状態で挑みたいなと。打ち合せで監督とたくさんお話もしたんですけど、監督の「言葉」は聞いていなかったです(笑)。

−− 聞いていなかったといいますと?(笑)

菅野 脚本もそうですけど、言葉が意味する内容と、その奥にある感情って別物ですよね。「元気です」と言いながらも、実は悲しいとか。その感情の下には、さらに過去からの突き上げや無意識の世界があると思うから。そこまで深掘りして、深みから吸い上げたものを音楽にしたいと思うんです。

−− なるほど。

菅野 たとえば、今回、是枝監督の最初のオーダーは、「弦楽四重奏にしたい」だったんです。四姉妹をヴァイオリン、チェロ、ビオラにみたててね。意図はよく分かるんですけど、それは頭で考えた世界なんです。耳でとらえる言葉の下には、ざわざわしていて嫌だなぁとか、でも好きだなぁっていう不協和音のような心の動きがある。でも、それも氷山の一角で。さらにその下には、それらの感情さえ動かす無意識の大きな世界がある。死とか暗闇とか、人類、動物に共通するもの。

−− とても根っこの感覚ですね。

菅野 そう。「ひとりになると安心するけれど、なぜかさびしい」みたいなものとかね。そちらもくみ取った音楽を作りたかったというか……、これ言葉で説明するのはすごく難しいです!(笑)

是枝 わかります(笑)。僕も未完成の映画のことを「こういうことがやりたいから、こういう音楽を」って説明できないんですよ。だから、結局は、言葉ではない部分でキャッチボールしていましたよね。菅野さんが「こういう感じですか?」と上げてくれたものを映像に当てて、「良いです!」とか「少し違いますね」とか。

−− 具体的には、どんなキャッチボールがあったんですか?

是枝 最初、菅野さんは長女の幸に寄せて、もっと大人っぽいジャズみたいな音楽を書いてくださった。でも、編集中の映像を見せたら菅野さんのほうから「先日のdemoはちょっと違いました。クラシカルな雰囲気に振ったほうがこの世界に合うと思う」って。それで新たに書かれた曲をあててみたら、「こういうことだったんだ!」と。

菅野 映像を観た時に「これは答えがわかる類いの話じゃないんだな」と思ったんです。最初は人間の感情とか、四姉妹に寄り添った音楽を作っていたけれど、そうじゃない。この世界には、流れゆく大きな時間やめぐる季節があって、4人は“私”という日々を野良猫のように生きている存在、と映った。
 だから、音楽もその世界にあるひとつの要素。たとえば、寄せては返す海の波のように、お日様や星の光のようにいつもそこにあるけれど、問答無用に刻一刻と変化していくものとして、存在したいなと思ったんです。

−− すごく伝わりました。姉妹が生きている世界のどこかで流れているような美しい音だなと。それと、自然の四季のうねりや変化する風景のように、とても豊かな音楽であり、映画だなと感じました。

菅野 制作しながら私も「豊かでありたい」とは思っていたんです。豊かさって、わかりやすく言うと、メロディも楽器の編成もミュージシャンの演奏も、情報をすごく入れてあるんです。音響にも、深みとか広さとか複雑なレイヤーがある。でも、ぱっと聴いた時には、さらっと耳心地が良くて気付かないもの。隠し味のスパイスのようなものがたくさん入っているほうが合う映画だなと思ったから。

是枝 そうですよね。僕も菅野さんにこの音楽をいただいた時、「これは鎌倉四姉妹物語ではない」っていうことを改めて自覚して。時間とか街とか人や命の営みとか、大きなものにつながって行く話なんですよね。音楽と同様に、どう重層的にレイヤーを見せるかを考えました。姉妹のことを描きながらも、その背後には離れていた人やもう居ない人の気配も感じさせたいなと。
 たとえば、すず(四女、広瀬すず)はずっと離れていたのに幸(長女、綾瀬はるか)に似ていたり、千佳(三女、夏帆)は父親の記憶はなくとも会話から感じ取ったり。原作もそうですが、人は自分だけじゃない、他者とつながりあっているし、今だけじゃない、もうここに居ない人ともつながって生きている。そこを描けたら、表層的な物語じゃなくなるなと。話していると改めて、音楽とすごくリンクしているし、影響を受けているんだなと思いました。


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2015年04月18日

河P直美、2014、「2つ目の窓」



いきゆんにゃかなー わきゃくとうわすれて いきゅんにゃかなー 
うったちや うったちゃが いきぐるしゃ 
スーラいきぐるしゃー

あなたは逝ってしまうのね。私を忘れて。逝ってしまうのね。
あなたが 逝ってしまったら私はどうすればいいの。
逝ってしまう方も辛いのよ



























2つ目の窓 -
2つ目の窓 -

2つ目の窓 [DVD] -
2つ目の窓 [DVD] -











ようやくにして本作品を見れた。それでいまこの文章をエントリしようとしつつもういちどDVDを見てるわけだけど。







とりあえず概要はいつもどおり人様のを借りよう。


 舞台は、奄美大島。主役は男女の高校生。界人(かいと)と杏子(きょうこ)。マングローブ、ガジュマル、アダンが生い茂り、周りはサンゴ礁の海。冒頭のシーンは、大波が逆巻く台風の海。旧暦の8月、中秋の名月にあわせて満月の晩に島を挙げて踊り(ハチグアチウドウイ。昔は女性司祭だけの神事だったという。今は、老若男女、住民参加の祭り)が繰り広げられる。

 その最中、海に浮かぶ男の溺死体が見つかる。翌朝、刺青を背負った男の遺体を見た界人は、それが母親の付き合っている男だと知り衝撃を受け、逃げ去る。界人の不審な行動を見ていた杏子は、界人を問い質すが答えがない。界人には何かわだかまりがあるようだ。

 ユタ(託宣、卜占、祈願、治療などをする民間信仰の巫女役)が祭祀を司り、島民たちは自然との一体感、神への畏敬の念を抱きながら、暮らしている。神々は草木や石にも、水にも宿るという奄美大島。穢れなき神の島。

 若い高校生の楽しみは、仲間の男女交際。界人と杏子は、放課後、ふたりで自転車に乗り、走り回ることが楽しみだ。杏子の母親イサはユタとして尊敬されているが、不治の病にかかり、終末期を過ごすために病院から自宅へ戻ってきた。
映画批評〜河瀬直美監督作品「2つ目の窓」Still the water - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ」 http://bit.ly/1InUFHj




見終わった最初の感想として「きわめて河P直美的な作品だなあ」と想った。そしてこれ単体でもある程度つたわるような気持ちよさも持ちつつ。そういうのは洗練なのかなあとか。


「少し不思議な感性を持つ女の子と海」というモティーフは五十嵐大介「魔女」を想わせ、それを映像化したようなものとして見ていた。そこにボーイ・ミーツ・ガールする男の子の物語が加わっていく。


魔女 第1集 (IKKI COMICS) -
魔女 第1集 (IKKI COMICS) -
魔女 第2集 (IKKI COMICS) -
魔女 第2集 (IKKI COMICS) -


「あの世とこの世の境(ニライカナイ)、あるいは入り口としての海」としても五十嵐大介作品でtuneするとわかりやすい。世界/宇宙という生き物の体液もしくは死体の溶けたものとしての海、人はそこに散りばめられた内蔵。


海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX) -
海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX) -





全体は生と死ということが基本的なテーマになっているわけだけど、そこでの問や答えは既存の形式や世間的なそれでは納得されない。河瀬監督個人の問いと実感的な答えとして、きちんと納得できるところまで辿り着くために何度も何度もリテイクされていく。誠実に、自身の問い/納得に向き合って。


生と死を海がつなぎ、海は性を、ひとは海を体に宿すというのは自分も含めてこういうところだと共通の認識なのかなと思う。この作品が特殊だったのはそのあたりのことを納得させる別の経路での説得力にあったことだろう。既存の語り、ロハスがどうとかなロマンチシズムではなく、河瀬監督自身の納得をかけたものとして。


河瀬作品に共通することだろうけどこの作品も監督が抱えている問題、あるいは追っている人生のテーマが如実に表れてるところがあり、それがそのまま監督自身の納得に対する賭け金になってるように思えた。「自分の人生を反映しているのだから生半可なものはつくれない」という。映画というプロジェクトなのだから毎回生半可ではないのだろうけど。そして、今回の話は特に息子さんの未来に対しての手紙のようなものに思えた。

そういう手法で撮られているので既存の映画の解釈で当たると外れるようにおもう。つまり最初からテーマや答え(オチ)が明確でそれを監督が完全に統制して作品として完パケしていく → 映画を解釈するとはそれを読み取ることだ」として解釈していくようなの。この作品には明確なテーマ、というか答えは最初からない。演じた俳優のインタビューからもわかるようにだいたいの設定や流れが決められていて、それに沿って撮影がすすんでいても途中で監督が納得しなければ、あるいは「これはなんか違う、、」「こっちのほうがいいかも」ということになるとそっちのほうに振られる。そのときも監督が明確に演技の内容やセリフを決めるのではなく俳優にそれが丸投げされたりする。設定自体はしっかりしてるのであとは俳優の演技力でということで。この手法は映画というかライブの演劇、アドリブの演劇といって良いようにおもう。あるいはドキュメンタリー。丸投げというと言い方が悪いけど、俳優も含めて現場のすべてのひとが対等に協働して作品を作っていくということなのだとおもう。

それを理解してもういちど河瀬作品を見ると俳優のどの演技がアドリブだったのか?という視点になりそのライブ感にドキドキするようになるとおもう(その表情、空気感、セリフの説得力、セリフ自体が発せられたことがその瞬間だけのキセキといえるので)。



生きることと死ぬこと、あるいは、肉親と離れて暮らすということ。

幼い時から心のなかに残っていたテーマはそのまま監督自身の離婚を通じてお子さんの物語としても継がれていく。生と死、あるいは別れ、そこからの回復というテーマは「もがりの森」でも表されひとつの終局を迎えていたように思えたけど、今回はそれをより深めつつビジュアルを介して、あるいは音楽を介してわかりやすく観客に訴える説得力をもった作品として仕上がっていたように感じられた。こういうテーマなのもあって暗いシーンが多いしそこでの語りには説得力や臨場感があるけどどうしても見てる側としてはなにが行われているかわかりにくい。そのあたりのわかりにくさが沖縄の光と海の青さのなかで解消されていた。三線の謡いや踊り。八月踊り。






海はいろんな色や表情を見せる。






「どうして別れて暮らさないといけないの?」「別れて暮らしてるからってお父さんがいるのになんで他の男とセックスするの?」「セックスなんか不潔なんじゃないの?」「生きるとか死ぬとかどういうことなの?」

将来、そういった問いを監督の息子さんが発した時に、この映画が言葉以上のメッセージとして伝わるように。そういう思いが込められているように感じられた。





生きることと死ぬこと、あるいはこの世に産まれるということ、それを性がつなぐこと。それを体現したのが海で,、杏子(きょうこ)はそこに潜ることを常態とし界人(かいと)は海を嫌がる。「だってベタベタしてるから」。

界人が海を嫌う理由はそのまま思春期のセックスに対する嫌悪、潔癖にも通じていく。この作品もそうだけど河瀬作品のなかで描かれる男性、男の子は女性よりもこういった繊細さをもつ。

杏子は動物としての女、あるいは霊的なものに通じる女の強さと生命力をそのままにそんな界人にセックスをうながしていく。

杏子がセックスを興味したり、それを通じて界人を、あるいは界人を通じたセックスに興味をもっていくのは、思春期の身体的変化→性欲のもたげというのもあるのかもだけど、田舎の閉塞した日常、目の前の死への不安から飛躍・突破しようというところもあるのかもしれない。あるいはそれも含めた子どもの自分から。



そこではセックスはステロタイプな男性視点的な快楽の表象ではなく動物が肌を重ねる営みとして描かれる。肌を重ね、抱く-抱かれるということがまずあって、それに生殖行為が付随しているだけのような。生殖というか生/死、海や波といったエネルギーや存在全体に身体を介してつながるというような。そういった儀式。


杏子という海を通じてそれを言外に納得したことによって界人の母親の性への潔癖も和らいでいく。あるいは性やおとなになること、死や生を受け容れるということへの潔癖。

界人の母親はおそらく父親の友人的な男に通じていて、だから男にも刺青があったのだろうけど、界人の父親はそれには触れず、ただ距離を置くにとどめた。


そのことを界人も納得したのかわからないけど最後のシーンで杏子と界人がガジュマルの下で微笑みながら肌を重ねること、裸で海を泳ぐことのうつくしさはそれらを含めた生きること全体の肯定であるように感じられた。


見上げると光り輝く2つ目の窓がのぞいていた。

























この世界は           
                                






                               うつくしい













--

人は海、性器はその残照: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/410389426.html


是枝裕和、2013、「そして父になる」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/376322940.html



河瀬直美インタビュー - フランス生活情報 フランスニュースダイジェスト
http://www.newsdigest.fr/newsfr/features/6675-naomi-kawase.html



いのちのつながり心に深く 映画『2つ目の窓』河瀬監督 - インタビュー - 朝日新聞デジタル&w
http://bit.ly/1InUV9e



ありのままで、そのままで 映画監督・河瀬直美(3) - シネマな女たち - Asahi Shimbun Digital[and]
http://bit.ly/1InURX2








「親子の対話だよ」|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/nf4647ca1f7de
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2015年01月03日

ホドラー展へ行ってきたよ





魂が先行して最小限の肉体がついていく。そういう踊りをやんなくちゃならない。



フリースタイル。何か表現しようというんじゃなくて、いま、トレーニングしたことは全部忘れてね。ただ立っているだけでもいい。


いくらテクニックでやったって、自分の内部にないものはいくらやったって、響いてくることはないですよ。



花が美しいから、ああきれいだな、っと踊ることはないわけですよ。あなたが見ているその目が、魂が、見てるその姿がさ、いままで稽古したこと全部のエネルギーが燃焼しているならば、花ができるわけですよ。できるでしょう。延々と極限にまで、永久にずうっと花を咲かせる。


死者の眠りのなかへ、死者の夢のなかへ私が入っていく。そういうなかで成長する。


宇宙全域とのかかわりのなかで、あなたは石蹴り遊びをしているんだ。


花が開いて、開いた花がやがて散っていく。私はみんなが幽霊と話し合っている姿を見ていたら、花が咲いているような感じがした。



























ホドラーには最初興味がなくて、それはパッと見「セザンヌみたいだな」と思ったからなんだけど行ってみたらよかった。



「セザンヌみたいだな」≠「興味が無い」というのは自分にとってセザンヌの絵は単なる静物画でつまらなく思えていたから。その印象が変わったのは小林秀雄の解説による。



近代絵画 (新潮文庫 こ 6-5) -
近代絵画 (新潮文庫 こ 6-5) -




彼の語るところ、自然の研究とか感覚の実現 realisation という言葉が、しきりに現れるが、それは、当時の常識的な意味とはよほど異なったものだと考えられるので、彼が自然の研究という時に、彼が信じていたものは、画家の仕事は、人間の生と自然との間の、言葉では言えない、いや言葉によって弱められ、はばまれている、直かな親近性の回復にある、そして、それは決して新しい事ではない、そういう事だったと言えるだろう。
 印象主義は、画家の視覚を言葉から解放したが、それが一種の感覚主義に堕する理由は何処にもないのである。セザンヌが、印象主義の分析的な手法に飽き足らなかったのは、感覚の実現の為の手法として不足であるという様な事ではなかったと思われる。もっと根底的な理由が、セザンヌにはあったので、これははっきり言い難いのだが、言ってみれば、印象主義の、印象は分析の可能な対象であるという考え方が、もうセザンヌには不満だったのであり、彼が言う感覺とは、画家にとって運命的な体験を指すのである。彼はヴォラールに語る。「不幸にして自分には、感覺の実現という事は、非常に辛い仕事だ。感官に広がって行く強度というものについて行けないのだ。自然を生かしているあの途轍もない彩色を、私は持っていない……。あの雲を見給え。あれが物にしたいのだ。モネには出来る。彼には腕力がある」。彼の言うモネは、印象派のモネではない。寧ろ彼自身を語っている。画家とは、言わば視覚という急所を自然の強い手でおさえられている人間なのだ。自然を見るとは、自然に捉えられる事であり、雲も海も、目から侵入して、画家の生存を、烈しい態度で、充たすのである。セザンヌは客観主義の画家と言われるが、大事なのは、そういう言葉の意味であって、当時の芸術に非常に大きく影響した科学的客観主義の意味を、彼ほどはっきり見抜いていた画家はない様に思われる。




ついでに印象派について。同書によるとモネが表そうとしていたのは光であったということ。というか印象派が表そうとしていたものはそういうことになる。

被写体や構図は同じでも光の加減は変わる。それによって存在の印象は変わってくる。

モネが同じ場所でずーっと睡蓮を描いていたのはそういうことだったらしい。彼が描いていたのは睡蓮に映る光だったから。光であれば無理に場所を移さなくても千変万化していく。(そして、この段階の画家にとって世の中にはすでにそのもの自体が被写体としての意味をもつものなどいなかったのだろう。すべてがフラットで平等だったから)


そういうわけで最初に印象したホドラー≠セザンヌということならホドラーを見に行っても良いかと思った。モティーフ的に得るものがなくてもその色の使い方だけでもなにかを感じられるかもしれないと思って。結果的にその予想は良い方に裏切られたわけだけど。それも大きく。



いつもどおりアウトラインは人に頼ってしまおう。



ホドラーは、1853年にスイスの首都ベルンで貧しい家庭の長男として生まれた。父親は大工であった。[1]8歳になるまでに父親と弟二人を結核などの病気で相次いで失う。母親は装飾美術を手掛ける職人と再婚するが、しかし1867年にやはり結核で死去する。[2]最終的には他の兄弟もすべて結核で亡くなってしまう。貧困を極めていた幼少のホドラー自身が兄弟と母親の死体を荷車で貧窮院から運んだと回想録で語っている。これら幼少期の体験が、彼の感性に「死」という存在を深く植えつけた。[3]

義理の父親から手ほどきを受けた後、トゥーンの画家の下に弟子入りする(1867-70年)。18歳の時にジュネーヴに戻る。トゥーン滞在以来、看板職人をしたり観光客相手に絵を売って生計をたてていたが、画家のバルトロメ・メインの徒弟となり(1871-76年)、師の影響のもとコローやバルビゾン派の影響を受ける。やがてその才能を見出されジュネーヴの美術学校に入り基礎を学ぶ。その後スペインに渡り、マドリード周辺の風景やスペインの女性を描き、明るい色彩と力強い画風を身に付ける。

代表作となる『夜』(1889年)が1891年にパリのシャン−ドゥ−マルスのサロンに出品され注目を集める。これによりホドラーは象徴主義の画家として脚光を浴びる。『夜』の構図では、横たわる女性の平行性が強調されている。いっぽうで中央に描かれる男は何か黒い物体を押しのけようとしている。これは若き日のホドラー自身を描いた自画像といわれている。

ホドラーはフランス芸術家協会の会員となり、1892年にはゴーギャン、モロー、ナビ派などの世紀末画家たちの作品が集う「薔薇十字サロン」にも出品した。様式的には徐々にモニュメンタルな人物をモチーフに描く回帰的傾向を強め(『生の疲れ』、『落胆した魂』)、『ウィリアムテル』(1903年)のような歴史的・国民的主題も手掛けている。

G. ノーマン『19世紀画家・絵画辞典』(カリフォルニア、1977年)で行われている分析によれば[4]、初期の作品はコローやクールベの影響がみられ、後期の作品では印象派に特徴的な色調の幅を継承している。ホドラーが得意とした風景画、寓意画、物語画は自然主義的な一面と、象徴主義的な特徴をあわせもっている。様式上の特徴としては画面の構築的性格、相称性、平行性とリズム感が挙げられる。この画家の作品に特徴的な、明確な輪郭線を持つ形態的構造は、神話的で感傷的な印象を鑑賞者に与える効果をあげている。

19世紀末の時代を象徴した画家の一人で、苦難に満ちた人生を生きたホドラーの作品には「死」や「夜」をテーマとしたものが多い。 その一方で、女性を描いた肖像画やスイスの風景画などの写実的な作品も多数残している。
フェルディナント・ホドラー - Wikipedia
http://bit.ly/1vTziXl



ホドラーが手がけた多数のモニュメントから、壁画そのものではないが、スイス建国史の一場面「マリニャーノからの退却」と「ムルテンの戦い」、ナポレオン戦争の際のイエーナの学徒出陣、同じくドイツはハノーファーがプロテスタントへと改宗した「全員一致」などの習作が紹介される。これらの大画面は、博物館や市庁舎など公的な場所に置かれ、正史の一部をなした。それは唯一の、正統の、公認された歴史であり、それを描き、語る目的は人々を一つにまとめあげるためだった。ある出来事の一つの解釈が定まるとき、その記憶を共有する人々の間には同胞意識が生まれる。正史の制定とその視覚化としてのモニュメンタルな絵画は、想像の共同体としての国民国家の土台となる共通認識だった。

国民の誕生を描くホドラーの絵は、外敵、蜂起、連帯、自己犠牲などのモチーフを持つ。そうした大きな物語はある範囲の人々を一体化する一方で、それ以外を切り捨てる。想像の共同体とは境界の策定であり、内と外ははっきりと断絶される。内においては一体感があり、会場の壁に書かれていた彼のことばを借りれば、「同じ感情・・・ただひとつの想念・・・モニュメンタルな合奏」からなる調和したリズムがある。しかし、それは非調和的なもの、リズムに反するもの、不協和音を外に追放することと不可分だ。だから共同体内部の画一性は恐ろしいものでもある。というのも、20世紀後半以降にいる我々は、国民はただ統合されただけでなく、異物を徹底的に排除したのであり、人々がただ一つのアイデンティティへと導かれた先に全体主義が待っていることを知っているからだ。
ホドラー展 - detoured http://bit.ly/1vTzAgW


年代順に作品が並べられているので入ってしばらくは職人時代のもの、そこから古典主義的な作品に続いていく。その辺りの作品には特に面白みはないけれど、画のそこかしこに以降につづく色彩の多様が感じられたりもする。印象派的な。

転機はやはり貧しく暮らし始めた頃で、そのあたりから段々と題材そのものが変わっていく。

それまではなんでもない風景か聖書的な題材というところだったものが自らが身をおく貧しい環境にいる人達の苦悩、日常をそのまま描き始める。

そのような転機、心境の変化を表す作品として日曜美術館ではこちらが紹介されていた。







聖書の善きサマリア人の題材から、最初描かれていた男性が塗りつぶされ、単に道端に怪我をした若者が倒れている、ということにされる。つまり「聖書的題材・影響からの離脱」でありアーティスト的な関心の目覚めという風に従来なら解釈されるところ。

ただ、自分はこの変化の前にこうなった心境のようなものが或る作品に表されているように思った。


Googleではみつからなかったので文章で説明するけれど、教会で男性がなにかを嘆き祈っている横で女性がその男性とは直接目を合わさず祈り、彼らの前の牧師はあらぬ方向を見上げている。痴呆のように。背後には同じように暗く祈る人々の姿。

この画にホドラーがどういった意味を込めたのか精確にはわからないけれど、自分にはこれが「神はわれらを見捨てた」「しかしわれわれは祈るのだ」と言っているように見えた。

貧しい生活の中で救いを求めて祈っても救いは訪れない。それでも彼らは教会に集まり祈る。習慣として。

あるいはホドラーは「なぜキミたちは祈るのか?救われないのに」と尋ねたのかもしれない。

「祈りとはそういうものだからです」

彼らはそう答える。



「救いは訪れない」、「神は居ない」、「神はいるのかもしれないが少なくとも我々の生活にはいない。救いは訪れない」



それでも祈ることで、彼らは満足を得ていく。

それと並行するように日用の糧を積んでいく。



その姿そのものにホドラーは光を見出した(一切衆生悉有仏性)。




そこではもはや神≠聖書を示す徴は必要無くなり、サマリア人からあの男性は消えた。



そこにただ苦難に遭う人がいて、誰かが見守っていたり、あるいはこれから救いの手が訪れるのかもしれないし訪れないのかもしれない。そういった彼らのリアリティ。




そういった絶望とも言える現状を受け入れたところから新たな光が見出され始める。




その画期がもっともわかりやすく表れた作品がこれだろう。







この作品はネットの画像とかポストカードだとその色味の多彩さがわかりづらいので実際に見たほうが良いもののひとつ。


実際には男性たちの肌やその周りに印象派的な多様な色、光が置かれている。


タイトルはオイリュトミーであり「リズム」ということ。光≠色彩が多様なリズムを表し、彼らの巡礼が単なる苦難ではないこと、それそのものに光があるということを示す。そして、その歩みそのものが祈りでありリズムを作る。


オイリュトミー(Eurythmy)とは、リズムを意味するギリシア語のリュトミスにドイツ語の接頭語のオイをつけてできた造語で、よきリズムという意味である。1895年に制作した5人の老人を描いた作品にホドラー自身が名付けている。

オイリュトミーといえばルドルフ・シュタイナーという連想が浮かぶが、ホドラーはシュタイナーとは直接関係なく、しかも先行してオイリュトミーをテーマとする絵画の制作に取り組んでいた。スイス人の音楽家エミール・ジャック=ダルクローズ(1865〜1950)からインスパイアされたのだという。

オイリュトミー=シュタイナーという固定観念をいったんはずして、虚心坦懐にホドラーを味わってみると、近代舞踊(モダンダンス)というパフォーミングアーツと絵画との関係が見えてくる。ダンスが生み出すリズムを絵画で表現したのがホドラーである

「アタマの引き出し」は生きるチカラだ!: 「フェルディナント・ホドラー展」(国立西洋美術館)にいってきた(2014年11月11日)−知られざる「スイスの国民画家」と「近代舞踊」の関係について知る
http://e-satoken.blogspot.jp/2014/11/20141111.html




古代ギリシアの壺絵に描かれた舞踊する女性を思わせる近代舞踊は、西洋における唯一の芸術舞踊であった、「型」を重視したバレエを否定するところから始まったものである。19世紀半ばから始まり、20世紀になってから文化現象として社会的に認知されるようになった。近代舞踊は、心身一元論の哲学に基づく。

ホドラーがオイリュトミー関連の作品を制作するようになったのも20世紀前後からで、その意味では近代舞踊運動とパラレルな関係にあったことがわかる。ジャンル横断型の芸術運動と理解すべきなのかもしれない。



感情-emotionの女性たちの足の運びはオイリュトミーの基礎的なものに重なる。





あるいは「オイリュトミー」の男性たちの歩みそのものも。



歩みでリズムを、身体と空間の位置で意味を刻む。







これらはそういった動きを背景・前提にしたものといえる。








画としては静止しているけれど、そこには動きが前提として含まれている。止まっていながらにして動いている。



すこしホドラーそのものからは離れるけど、最小限の動きで、あるいは空間における身体の位置によって意味を刻むこと。聖書などといったクラシックな題材や方法に頼るのではなく、その環境に合った方法-表現を逐次作り出し提示していくこと。そして、そこに「リズム」「調和」「死」「生」を意識すること。これは自分的には大野一雄を想わせた。

暗黒舞踏 - Wikipedia
http://bit.ly/lBHS0s

舞踏そのものはハイコンテクストだし各世代ごと各演者・作品ごとに表現と意味付けが異なるというところもあってなかなか理解し難いのだけれど、彼らのやろうとした/していることはなんとなくにはバタイユのそれに通じるのだろう。つまりクラシックなものに囚われて見えない生の充溢の解放。エロースのエス的な部分の解放。

なのでなんかおどろおどろしい印象になってしまうのだろうけど、ホドラーと共通すると自分が感じた部分としてはたとえば大野と死を諏訪敦が表したものがある。






大野一雄という存在と死を諏訪は表現・止めようと刻銘に描いた。

大野という存在において身体は物理的意味を失い、物理法則を超えたものを内包するようになる。

ちょうどホドラーの静止画が止まって居ながらにして動いていたように。

そこでは死は単なる静止、無ではなくあらたな意味を予感させる。




無 - 絶望ではなく、すくなくとも遺されたものたちになんらかの救い、光 - 色彩を遺す。





舞踏と共通する要素として、たとえば労働そのものも踊り - リズムをもったものとして表現される。




そういった課題は田中泯さんなんかが追っていた。



人の日常の生活の中に色彩やリズムがあるということ、そこに日常における救いがあるということ。作家としてのホドラーがそれを十分に表現した頃、彼に大作家としての役割が付される。


ナポレオン戦争の影響、あるいはアンシャンレジームの崩壊と旧来の社会構造の変化によって労働者たちには「自由」が与えられた反面、「自由」な責任も負わされた。

田舎の土地を離れ都会に出てきた労働者たち、無産労働者たちの生活に保障はなく都市にそういった自由な労働者たち、弱者としての労働者たちがあふれた。

バルビゾン派にも描かれていた路上の寡婦の風景もそれに当たる。


そこではあらたにかっちりと信じられるもの、引っ張っていってもらえるものが求められた。


ホドラーが接していた日常、労働者たちの日常において国 - ナショナリズムはそういった背景から求められた。

それもあってホドラーがこういったナショナリズム的なものに協力した、といえるかも。はっきりとしたことはわからないけれど。あるいは単なる生活の糧のためだったのかもしれない。



そういった季節を経て、まるで俗世に飽いて隠遁するかのように風景画の時代が始まる。


スイスを縦横に旅して湖面に映る光や風、空気を表していきながら画家の胸中にあったのはどういった思いだったのか?



「見ろ。光は、風は、音は、踊りは、こんなにも豊かに溢れてるじゃないか。人の世界に留まらなくても」




そこにはかつて自分がハンマースホイに感じたような静謐と光があった。































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関連:
マッキアイオーリ展にいってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/140611092.html



Terminal Arts of Sein und Zeit: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199659522.html



Teminal Arts of Sein und Zeit (補遺): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200173685.html





大津幸四郎 第一回監督作品 大野一雄 ひとりごとのように [DVD] -
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どうせなにもみえない―諏訪敦絵画作品集 -
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2014年10月26日

クリス・パック/ジェニファー・リー、2013、「アナと雪の女王」


「石の花」を読んでいて

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ついったで「石の花」紹介がてらなんとなく「石の花」の由来について調べてたら穴雪フラグが自分の中で立ったのでこの機会に見てみた。


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簡単にピコーンのきっかけになった石の花の伝承を以下



ロマン派のメルヘンのテーマとして、、

鉱物の女王という普遍のテーゼがある。


ドイツロマン派の重鎮ティークには「ルーネンベルク」

そしてドイツロマン派のカルト的な?伝道者?のホフマンの「ファルンの鉱山」

ロシアの童話作家のバジョーフの「石の花」

などすべてが「鉱物の女王」テーマのmarchenである。


まず、、ティークの「ルーネンベルク」であるが、、、

主人公の青年クリスチャンはある日、、父母を捨てて森へさまよいこんでいく。

そこでたどり着いた洞窟の割れ目から、ルーネンベルクの世界を垣間見てとりこになってしまう。

ルーネンベルクの世界とは、、金属や鉱物や石の楽園であり、まばゆい万華鏡の無機質のユートピアだ。

しかし、われに返った、クリスチャンは村へと舞い戻り、やがて、、

そこで出会った村娘のエリザベートと所帯を持って平凡に暮らす。

だが、どうしてもルーネンベルクの至高の世界が忘れられないクリスチャンは妻を捨てて再び山へと入っていってしまう。

「いいかい。山にはね。素晴らしい宝石や水晶がいっぱいあるんだ。僕はそれを取ってきて

愛の証としてエリザベートよ、、、君にあげたいんだよ」

しかし、、、

それっきり彼は何年たっても戻ってこない。

そして時は流れ誰もがクリスチャンのことを忘れ去ってしまったころ、

髪を茫々に生やした奇怪な男じつはクリスチャンが村に現れる。

そして妻のエリザベートの元へ立ち寄り、「これはすばらしい宝石だ」、といって妻に、

どう見てもただの石にしか見えない小石を渡して再び、妻を振り切って、、狂気の様で山へと去っていく。

そしてそれ以来、今度こそは、、2度とクリスチャンは村には戻ってはこなかったのだった。

「鉱物の女王」metal queen の呪縛  「ルーネンベルク」「石の花」「ファルンの鉱山」
http://ncode.syosetu.com/n9649bx/



いくつかヴァリアントはあるみたいだけどエッセンスとしては「ふつうの世界から異界を垣間見た主人公がそちらに惹かれていく」というもの。これはアンデルセン「雪の女王」の伝承にもそのまま継がれる。


ある所にカイという少年とゲルダという少女がいた。二人はとても仲良しだった。しかしある日、悪魔の作った鏡の欠片がカイの眼と心臓に刺さり、彼の性格は一変してしまう。その後のある雪の日、カイがひとりでソリ遊びをしていたところ、どこからか雪の女王が現れた。そして、魅入るようにして彼をその場から連れ去ってしまった。

春になると、カイを探しに出かけるゲルダの姿があった。太陽や花、動物の声に耳を傾け、少女は旅を続ける。途中、王子と王女の助けによって馬車を得るものの、それが元で山賊に襲われる。あわや殺されようとするところを山賊の娘に救われたゲルダは、娘が可愛がっていた鳩に、カイは北の方に行ったと教えられる。山賊の娘が用立ててくれたトナカイの背に乗って、ゲルダはとうとう雪の女王の宮殿にたどり着く。

カイを見つけたゲルダは涙を流して喜び、その涙はカイの心に突き刺さった鏡の欠片を溶かす。少年カイは元の優しさを取り戻し、二人は手を取り合って故郷に帰った。


雪の女王 - Wikipedia
http://bit.ly/1wsWLAT


雪の女王というとき、世間的にはゲルダとカイのこの物語がまずピンと来るものなようだし、おそらくディズニーもそれを踏まえて「アナと雪の女王」を作ったのだろう。

ここでも主要エッセンスとしては「雪の異界に惹かれる主人公」があるが、主人公の幼なじみがそれを引き止め抱擁していく。


「雪の女王」という物語類型で入れられてなかった仏-情けを近代的なヒューマニズムが補っていったのだろう。

もちろんアンデルセンが蒐集-編纂した時点で民俗的な「雪の女王」からは崩れた「お話」になっていた部分はあるだろうけど。




さらにこの雪の女王の物語は創作者たちによって接がれていく。


1957年にソ連のソユーズムリトフィルムによって長編アニメーション作品『Снежная королева / Snezhnaya koroleva』となった。監督はレフ・アタマーノフ。

キャラクターの動きはよく練り込まれており、ゲルダは仕草・表情が実在の生きている少女を思わせるほど精巧である。運命に流されるディズニーアニメのヒロインと異なり、積極的に行動するヒロインのゲルダ、カイや山賊の娘の性格演技、女王の造形センスなど、ディズニーとは異なる独自の流れとして世界のアニメーション史にその名を刻んでいる。

日本では、1960年1月1日にNHKで放送され、かつてはしばしば日本語吹き替え版が休日などに地上波で放送された。カイは太田淑子、ゲルダは岡本茉利が演じたバージョンが親しまれた[4]。

東映動画『太陽の王子 ホルスの大冒険』など草創期の日本アニメーション界に大きな影響を残した。とりわけ、ゲルダの少女像は東映動画労働組合主催の上映会で見た宮崎駿にショックを与えたとされる[5]。

2007年12月から三鷹の森ジブリ美術館の配給により、オリジナルのロシア語音声でリバイバル公開され、日本語字幕が改められたことから新訳版と銘打たれた[6]。

オリジナルシーンとして、ゲルダがカイの名を呼び、だんだんその声を変えていくことでゲルダと女王が同じ声優であることを演出として示すシーンがあり、吹き替え版でも踏襲している。互いに正反対の行動を見せる女王とゲルダが、実は同じ動機のもとに行動していたとする解釈である。

雪の女王 - Wikipedia
http://bit.ly/1wsWLAT

ソ連アニメ『Снежная королева / Snezhnaya koroleva』の『積極的に行動するヒロインのゲルダ、カイや山賊の娘の性格演技、女王の造形センス』は今回のディズニー・アニメ「アナと雪の女王」にもいくぶんかの影響を与えたものと思われる。たぶんトリビュートやオマージュといった形で。

また、宮ア駿的な女性キャラ(自分の身を顧みずに足蹴にされても親しい人を救うために献身していく、当時の女性像としては珍しいそれ)はここにルーツが在ったのかなと思った。


てか、この「雪の女王」も「ホルスの大冒険」も見てないんだけど(*ノω・*) 見てたらもうちょっと濃い乾燥ができたかなと思いつつ、論文とか批評とかでもないのでこのまま「感想」として続ける。




「凍てつく雪の世界で、少年は女性型の雪の魔物に出会い惹かれていく」という話の型としては日本の雪女もこの類型に入るのだろう。

ここで「世界の人々に共通する深層-集合心理」、ユングかなんかの元型とか想うけどよくわかんないから割愛。


とりあえずある一定レベルの「大衆」が構築されるとこういう話が求められていく、ぽい。



そして、そういった話で救われなかった部分、時代のコードとしてはずれた部分をその時代の大衆メディアが救っていく。



「アナと雪の女王」もそういった「救い」のために作られた作品であったように自分には感じられた。


「雪の女王」ではカイはゲルダによって救われたが雪の女王自身はどうなったの?(´・ω・`)救われないの?」


つまりディズニーが過去につくった「雪の女王」、あるいは、ソ連アニメ『Снежная королева / Snezhnaya koroleva』で回収されていなかった雪の女王自身の救いについて、雪の女王が雪の女王として心を凍らせる前のepisode oneを描いたものが「アナと雪の女王」だったように思われる。



そこにディズニーのこのチャネルの昨今のテーマ、「塔の上のラプンツェル」から引き継がれる「女性の幸福とは?」「自立とは?」「愛とは?」が継がれた。


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ラプンツェルで踏み込みが足りなかった「女性の自立」の部分を雪の女王(エルザ)部分で表していたのが本作だった。


ただ、進行上、アナの恋愛-「本当の愛とは?」の部分がイニシアティブを握って前景化していたため、エルザのテーマは後景化-踏み込みが甘かったように思えた。


エルザの話は田舎の因襲から飛び出て現代の都市社会で働く独身女性の象徴に感じられた。

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「let it go」は「どうにでもなれー」的な自暴自棄、というか、それを含んだ自由を表していたようにおもう。


アナのパートはそこまで都会-キャリアウーマンはできない田舎、あるいは、実家暮らしの昔ながらの女性。恋愛-結婚に幸福を見出す女性像だったのだろう。

現代の働く女性にとって「独立して働くことで自立する」ということと「恋愛して家庭に入る」ということはしばしば衝突する課題となってしまう。

「ラプンツェル」では「毒親の愛情の籠から出る」→「自立」から恋愛までが即つながっていたけれど、そうでもない女性もいる。特にアメリカの都市だとそういう女性も多そうだし。

そういった女性たちの軟着陸をどう描くか?

心を凍らせて魔女にならないようにするためには?自立していながらも恋愛も真の愛情も手に入れて充実した「自分」に成るためには?



「雪の女王」という舞台設定で主人公を二人に分けたのは、ゲルダからカイへと向かうだけだった愛を雪の女王にも注ぐ救いを入れるため、でもあれば、「恋愛(アナ)」パートと「自立(エルザ)」パートを分け、後者の着陸についてより説得力をもたらすためだったのではないか?





・・まあ「エルザは女性の自立の象徴」というのは自分の勝手な読みだからそれをもって今作の踏み込みが甘いとするのは勝手な思い込み-不満ともいえるだろうけど(ディズニー製作者側としては旧作で埋もれていた雪の女王の救いを掘り出そうとしただけかもしれないし)



でも、やっぱ最後の大団円へと向かう流れは予定調和的な説得力のなさは感じた。




もちろんハッピーエンドであること自体はカタルシスなんだけど(大作RPGのそれがそうであるぐらいの)。




雪ん娘つながりで「スネグラチカ」の話も思い浮かべたけど、ここからそれにつなげるのは少々飽和気味なので別エントリでするかもしれないかもしつつ本エントリはこのへんで閉じよう。



















anayuki.jpg




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関連:

魔法の髪の処女 - 『塔の上のラプンツェル』 - Ohnoblog 2
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20110325/1301048059

『アナと雪の女王』にかかったジェンダー観の砂糖衣 - Ohnoblog 2
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20140413/p1


finalvent 「アナと雪の女王」:むーたん
http://morutan.tumblr.com/post/100904084411/tailofcat


劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/407321777.html


マレフィセント MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray] -
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銃夢(Gunnm)Last Order (1) (ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ) -
銃夢(Gunnm)Last Order (1) (ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ) -














「春風のスネグラチカ」|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n766d1842c8b3





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2014年09月25日

女のいない男たち



「奥さんはその人に、心なんて惹かれていなかったんじゃないですか」とみさきはとても簡潔に言った。

「だから寝たんです」



「女の人にはそういうところがあるんです」








女のいない男たち -
女のいない男たち -


「木野を読んだかっぱさんの感想が聞きたい」といわれたので「木野」から読み始めて、その時点での感想としては「小説の最初の方はリアルだけどあとはシュール-マジックリアリズムで、後半の不思議体験は女に逃げられた男がそのショックから回復できないためにつくりだした防衛機制的な逃避妄想なのではないか?そしてその不思議さ、結論のない不気味さはつげ義春的なものを想わせる」というものだった。

すくなくともこの作品単独だとその印象は変わらない。しかし全体を通して読んだ現在、そしてこちらの解説を通してある程度の補助線をもらったいまとしてはちょっと違う。「木野」は単独で読む作品ではなく他の作品群との関係、すくなくとも「ドライブ・マイ・カー」→「独立器官」との関係においてああいった形をとったものだったのだな。



村上春樹の読み方『女のいない男たち』前編|新しい「古典」を読む|finalvent|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/5661


村上春樹の読み方『女のいない男たち』後編|新しい「古典」を読む|finalvent|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/5716



あるいは村上春樹自身が最初に解説していたようにコンセプト・アルバムのなかの作品の一つ。



コンセプトは「女の(が)いない男」ということで、それは実際に女に去られてしまった、あるいは、女と付き合っていつつも精神的なところでは女に去られている(互いに理解していない/裏切られている)男たちということのようにおもった。男たちだけというよりはその対称として女たちも。

ただ、女の場合は女独特の感覚のようなものがあるようで、それはこの作品では独立器官と呼ばれていた。

自分は男性/女性というはっきりと区分けには懐疑的で、男性/女性として現れていて特にセクマイ的な指向がない人たちでもそれぞれが異性的な部分を持っていて、その割合は個人ごと、事象ごとに異なると思っているので「女独特の」という言い方はナンセンスなように思うんだけど、でも、女性と付き合っているとそういうものは想像してしまう。「この人たちのこの辺りの突然の心変わり/それを気にしない様子はやはり女性として独特のものなのだろうか?」的なの。


端的には「女は子宮で考える」とかいうあれだけど、あれだと性欲に引きづられる的なニュアンスが強いのでまたちょっと違うかな。性欲的なものもすこしは絡むのかもだけど。



ああ、そう、「性欲」。この短篇集ってここがまず前提/暗黙としてあって、それが枯れたりある程度落ち着いた地点からの男女の内面語りになっているように思う。「男女」ていうかもっぱら男性視点で女性はいないわけだけど、とりあえず中年に差し掛かった時にもたげる「セックスとか付き合いとかもある程度足りてるんだけど、、なんかなあ」的な感覚なところで、なんとなく言語化しづらかったところを男性側からの語り先行で表してる。

そういった語りというのはたぶん世間的には「女々しい」「男のくせに」とされるようなところで、それを内面化して男性自身もふだんの生活の中でスルーしてしまってるようなそういうところ。

男性学、、のもそっと文学的内面語りというか…。


そんでこのへんは女性の方の語りとしてはそれなりにあったように思うんだけど男性側のはなかった。あるいは見つけにくかった。

そこには「男として」「女として」的な役割分担も絡むのかなあ的な感じ。

男が「女とは…」とか語る場合、どうしても金持ってるおっさんが高そうな酒で−y( ´Д`)。oO○しながらうんちくダンディズムって感じだから。


そういうのでもなく、衣食住足りるぐらいの感じでわりとふつーに生活してきた男性が人生落ち着いちゃって中年枯れしてきたところで「( ^ω^)そういや、女・・・なあ。。」とか思うような。


女としてここに代表されるものは「人生の目的」といってもいいのかも。ある人は信仰に生き、ある人は仕事に生きる。あるいは欲望としての金とかセックスとか、知的好奇心とか。んでもやっぱ気のあった伴侶があると人生に意味と充実を与えられた気になる。でも「気のあった」というとこには個人差があるから、そういうひとに一生出会えない人もいる。

そういうとき「女」は「永遠」で一生届かない対象になる。蜃気楼のようにおぼろげに見えていても。


不滅 (集英社文庫) -
不滅 (集英社文庫) -

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫) -
存在の耐えられない軽さ (集英社文庫) -


テオ・アンゲロプロス、1995、「ユリシーズの瞳」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/213903209.html



あるいは、異性にそういったことを仮託し期待することがリアリズムを離れた妄想といえるのかもしれない。「−y( ´Д`)。oO○おっさんがウイスキー片手にバーでナルシスしてる村上小説きめえm9(^Д^)」「#女とは マスキュリズムm9(^Д^)男女不平等セクシスト乙乙ですぅ 」的な。

しかし、そういった妄想-思考も一定の積み重ねを超えれば強度を伴った磁力を帯びるようになる。



「妄想乙」「市民社会の建前的にはm9(^Д^)」ついでにいうとこの短篇集が全体として不倫な男女をモティーフしてるところもそれに関わるのだろう。不倫あるいは単婚的な付き合いから離れたもの。


ただ「不倫の刺激をテーマにしてる」というよりは「結果的に不倫だった」ぐらいの。なので不倫的なものの是非やそれを通じての心の揺れなどは焦点されない。


ではなぜ不倫やポリセク的なものが装置として要請されたのか?


それは市民社会的なタテマエ-定型では満足しきれない、違和感がのこる男女がそこから「異世界」にずれる必要があったから。もう少し言えば、そういった定型の中でタテマエ的には「あら、しあわせねえ」とされていて、当人たちもそれを演じていてもどこかにのこる不満-不自由から逃れるために別のチャネルを試してみたかったから、かもしれない。

しかし、不倫的なものが常態になってしまえばそれ自体がマンネリとなりノルマ的になってしまうようだけど。


以下ちょっと小説からはずれるけど




上戸彩『昼顔』より過激!「妻も夫も公認で不倫」を実験してみた結果…|LITERA/リテラ 本と雑誌の知を再発見
http://lite-ra.com/2014/09/post-492.html


「わたしたちは、しるべのない深い森にふたりで足を踏み入れました」


既婚女性たちが大いに共感したのは、男遊びを繰り返すことで高圧的な夫から自分を守ってきた裕福な主婦を演じる吉瀬美智子の本音すぎる台詞にもあるだろう。

「結婚は平穏と引き換えに情熱を失うものだから」
「恋愛すれば、夫のパンツだって気前よく洗えるわ」
「どうして穏やかに笑っていられたかわかる? 不倫してたからよ」



もちろん、オープン・マリッジがアメリカで市民権を得ることがなかったから日本に根付くこともなく、いまも昼顔妻のようなものが話題になっているわけだが、失敗の要因は意外なものだった。オープン・マリッジがうまくいかなかったのは、夫婦で“浮気数の競争”になったからなのだ。

 社会学者ランドル・コリンズの『脱常識の社会学』(岩波現代文庫)によると、一般的とされる夫婦の場合、その収入差が関係に力を及ぼすように、オープン・マリッジを行った夫婦の場合は「他に何人の性的パートナーをもっているか」に依存するという。すなわち、「どちらが性的により好ましいかという競争」になってしまうのだ。こうした競争になったとき、いまも昔も社会では女のほうが勝つ。結果、男性は「分が悪く」なり、相手のほうが「得をしている」と思うようになる。「最初にオープン・マリッジをいいだすのはどちからといえば男性であるのに、それを終わらせたいと思うのも男性の方なのである」というから、皮肉な話である。




もともとは現時点での生活-ノルマで感じている不満-疎外のようものからズレるためにすこしずつ踏み出していった異世界で、それ自体がノルマとなり不自由を生じさせてしまうということ。

そこでは不倫や性欲、あるいは、「なん人と関係を持っているか」といったところに無意識なうちに縛られて「自由」の意識から遠ざかっていたからかなあ。。


なので、不倫なんかにずれなくても生活満足する人たちは多数いるし、反対に不倫にずれてくうちにそれが第二の家庭、ノルマみたいになってなんだか落ち着いてしまう人達もいる。






なんか論点が拡散してダラダラした感じになっちゃったけどいちお振り返れば、「とりあえず自分の中の自由を意識して、それがうまくいってないときはその原因を潰すようにする」「タテマエ社会の中で衣食住足りてても不自由な場合がある」「そういったタテマエ-強者の定律からズレることは女々しい・弱者の言い訳とかいわれることもあるかもだけど、その部分を考えていくのが文学」「生活的実践としてはそういった場面で不倫なら不倫に走るのもいいけど、そのとき却ってそれに縛られて不自由にならないように(理想としての女や男を失わないように」








フォースと共にあらんことを(フォッフォッフォッ










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2014年08月23日

トラン・アン・ユン、2010、「ノルウェイの森」


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少し前の日記で「村上春樹のテーマの中には『女の中には自分でも制御できないものがあってどんなに親密になってもそこは制御できないし分かり合えない』があり、ノルウェイの森もそういう話だったかもしれない」と思って借りてきたわけだけど、結果的にそういうことでもなく、むしろ「めくらやなぎと踊る女」に近かったのかなあと思った。


幼なじみ的に育った3人の男女、男女男の組み合わせの中で一方でカップルが出来て、死と性が近くて、喪失を通じて…。

そういうモティーフは他の作家にもあるけれど、村上春樹がそこにこだわるのは実体験的な何かがあるからなのか、それとも、このモティーフを借りると死-性-生-自分などのテーマが掘り下げやすいからなのか…。


そのへんはよくわからないのだけれど、「女の中のわけのわからなさ」というのも少し描かれていたようにも思った。



というか、「ノルウェイの森ってこんな話だったっけ?」とあらためて。


だいぶ前に読んだのだけれど「奔放な性を前面化したバブル的な通俗小説」なイメージもあったのか、なんか印象に残らなかった。「たしかにみょーにセックスシーン多いな(ストーリー的にセックスに至るための必然性があまり感じられなくいきなりセックスになる)」という印象があったようにおもう。

それで特に印象に残らずに「読んだ」的な物語だった。


なので、ほんとにこの物語を詳察するならば原作を読み直してから本作と比較して読むのが良い読者というものなのだろうけど、そういうのもめんどくさいので「トラン・アン・ユン監督の作った作品」として消化した。

そういうわけで以下の感想も映像作品としての「ノルウェイの森」に対するものとなる。



全体を満たしているのは最初の喪失、幼なじみの男の子の喪失で、その子と恋人関係になっていた直子に憑いた死の影を巡っての話。


早い話が「わけのわからない形で大切な人を失ってしまってメンヘラになってしまった女の子を巡っての物語」。


でも「メンヘラ女」として異化−その大変さをクローズアップするのではなく、主人公の青春期の性-自我の成長の揺れに合わせてそういった問題も重大事としてあった、という形で物語は展開していく。


全体を通じてセックスが多いように感じるのはその喪失を埋めるための方法がそれ以外になかったから、言葉だけでは埋めきれなかったから、というように解釈された。



たしかに、論理や正しさだけでは伝わらないものを肌の温度やそれを通じた自己肯定のようなものが埋めてくれることもあるので。




なので主人公と直子は必然的にセックスすることになる。

性描写もそういった背景を伴った緊張感や距離感をもったものに感じられた。

簡単に言うとAVなんかでよくある喘ぎすぎみたいなものではなく押し殺した吐息になるようなの。


そういったセックスを通じて、何回も肌を合わせて直子が回復していく、あるいはギリギリ保たれていく、というのがこういった物語の常道かなあと思えたのだけれど、主人公には新たな恋人の可能性も示唆される。

こちらの女の子は村上作品ぽい洒脱さをもった子なんだけど、この子も家庭の愛情に飢えていて、恋愛-性というのはその自己肯定感の喪失を埋め合わせるためのものとはっきりと言う(cf.「わたしが付き合いたいのはわたしがどんなにわがままを言ってもニコニコとそれを叶えてくれるような人」)。

それは自己肯定感の低いこじらせ女子のお試し行動として現在では知られてるものだけれど、小説を読んでいた当時はそういうのはわからなかった、かな。あるいはそういう描かれ方をされていなかったかもしれない。


ともかく、ふつーの健康な男子の性-自我の成長過程の物語における「ふつーの恋愛」的可能性としてそういった女の子が設定される。ふつーの女子っていうかちょっとこじらせは感じられたけど。



主人公の物語中間での迷いのようなものはその辺りにあったのだろう。


「直子を放っておけない」「でも気になる」「直子の精神状態だけではなく性的関係としても」「幼なじみとしても」「でも、自分の『ふつー』の性、恋愛も担保すべきなのではないか?」


主人公が慕っていた先輩、理知的に明晰で時にものすごく高尚なことをいうのにどうしようもない俗なところも併せ持つ、はそういった可能性の回路(モデル)としても設定されていたのだろう。


人間は理知だけではどうしようもないところがあって、それを一段高いところから俯瞰・相対化しているような視点を持ったもの。



しかし俗な部分、性的だらしなさがドライブしていくことのどうしようもなさについて陰で含羞を抱えているような。


その含羞さえ不要な自意識、ナルシシズムとして切り捨てようとするマッチョイズムみたいなの。


彼の恋人が彼に尽くしつつも裏切られていたことを留保していたのはその含羞の部分に期待していたからかなと思うのだけれど、だとしたら別れの理由はそのことについて問うたとき「そんなものはない」とはっきりと言われたからかもしれない。それも彼の美意識のやせ我慢だったのかもだけれど。




閑話休題




主人公はそのようにして性を通じて「女」と出会っていく。


あるいは、女を通じて性と自分を発見していく。




その道程で直子は結果的に死に引き寄せられていく。


「彼が死んだ理由が最後まで分からないの」「彼のことは本当に好きだったの。でも…濡れなかったの。彼とは何度も試したんだけどダメだったのよ。だからわたし口や手でしてあげてた」「キミとも最初の一回以降は濡れないの。痛いの…」


心では繋がりたいと思うのに肉体が開いてくれないというのは、人によっては運命によって自分が閉じられていくように感じられるのかもしれない。あるいは本当のワタシのようなものが自分の好きや進もうとしてる道を否定しているように。


逆にそういった情況で肉体が反応することで思ったよりも自信につながることもある。

そういうのは女性だけではなく男性もあることだけれど(老いも交えて)。



直子をとどまらせることができなかったのは俗には「濡れなかった」「セックスが出来なかった」からなのかなあと思える。


その部分で若い主人公としては悔恨のようなのを抱えていくのかなと思うけど。


喪失を埋めるべく一人旅でボロボロになって海際で叫び声をあげることで、そこもそれなりに区切りがついたのかもしれない。


あるいは直子を失ったもの同士がセックスという儀式を通じてそれを埋めることで。




もし直子が「濡れ」ていて身体の関係を中心にとどまらせていたとしたらどうだっただろうか?



そこでもかつての死んでいった恋人への義理のような申し訳無さが発生してけっきょくはダメになっていたかもしれない(彼には濡れなかったのにこの人には濡れてる)。


あるいは、そういう逡巡も割り切り、肉体的快(エロース)を踏み台に自らの生を獲得していっていたかも。主人公が慕っていた先輩のような俗(現実-肉体)と高尚(精神)の割り切り的なタフさを持つことで。




遺された主人公に最後にセックスや恋愛が提示されたのはそういう俗な部分からリズムを作って「生きろ」-「生きていこう」とする表れだったのかも。


彼がこの先、この問題をどのように消化していくにしても、とりあえず現在を生きていくために。






物語の構成としてはだいたいそんなことを思った。



それとは別に全体の色調、音楽、シーンの構成などから死と性と生のダンスが閑かに感じられて、自分としては心地よかった。






posted by m_um_u at 18:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2013年12月23日

細田守、2012、「おおかみこどもの雨と雪」



…冬それを眺めた時の異様な印象はただその通りに見るに堪えないということだけですむのではないかという気がして来た。

そういうものは我々の周囲に幾らでもある。それは見るに堪えないのであるよりも見るべきでないので人が裸になった時には目を背けなければならない。その池が裸の時に見たのだった。


そこに深淵が覗いていると思ったりするものは精神に異常を呈しているので誰も死ぬ時が来るまでは死にたくないならば気違いになることも望みはしない。


                            吉田健一、「東京の昔」








去年ぐらいからついったーのTLを賑わせていてようやくTVでやってたの見たので感想


おおかみこどもの雨と雪 - Wikipedia
http://bit.ly/1cfKGWF



おおかみこどもの雨と雪(本編1枚+特典ディスクDVD1枚)
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TL的には否定的な意見がちらちら見えたようで
https://twitter.com/kmm7/status/414013805736128512

TLやぶくまでも否定的なものが大勢を占めるのかと思っていたけど


おおかみこどもの気持ち悪さについて
http://anond.hatelabo.jp/20131221145625

映画『おおかみこどもの雨と雪』の母性信仰/子育ては1人では出来ません - デマこいてんじゃねえ!
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120723/1343052351

雷句誠の今日このごろ。 : おおかみこどもの雨と雪
http://raikumakoto.com/archives/7383462.html



そうでもなかったみたい

あれの監督の細田っていう男が
福井のド田舎から出てきて以後40過ぎまで
ずっと東京に一人暮らしでアニメの仕事だけしてきたんだよ。
で、母親を1度も戻らなかったド田舎に一人で死なせたの。
だからああいう映画を撮ってるの。

http://anond.hatelabo.jp/20131221171532


「おおかみこどもの雨と雪」を観たあとのもやもやをどうにかしたい人のためのインタビュー・感想まとめ - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2134486594697959101?&page=1


しばらく監督インタビューとかエントリのうちの一部を見入ってしまったんだけど自分の感想と同じ事言ってる人はいないようなので先にエントリすませてしまおう。北沢さんのはちょっと似てたけど。


母の不在 - 北沢かえるの働けば自由になる日記
http://d.hatena.ne.jp/kaerudayo/20120810#p1




まずこの物語に対する批判とかアレルギーみたいなのについてぼんやりと


あのへんのアレルギーの言説の大きなものは「母性をあまりに過大評価するな」とか「あんな完璧な母親像押し付けんな(リアルな子育てわかってんのか?)」って感じのものだったようだけど、それはたぶんこの映画の主題ではない。

母性を強調してると感じたのはたぶん見てる人の中にその辺に対するコンプレックスがあるからで、そういうのを問題にしてない人からすると「なんでそんなに怒ってるのん?(´・ω・`)」てかんじになる。あるいは「普通に家庭を営んでることへの攻撃だ」とか言うのもたぶんその人やその人を巡る環境の中にそういった問題があるから、かなあ。

あるいは「シングルマザー」や「子育て」といったキーワード、マイノリティの隠喩とも思えるようなキャラクター設定からそれらにサバルタン的にアイデンティファイしてる人たちが「わたしたちの縄張りを犯すな!入ってくるなら話のツマにするのではなくもっと慎重に詳しく描け!」とでもいうことだろうか。「わたしたちと同じスティグマを持たない人はそういう領域を描いてはいけない」「作品の周辺を彩る舞台装置として使ってはいけない」とでも?(マイノリティとして「ふつー」に扱ってほしいと言ってる人たちが自分たちの「ふつー」(規範、同調圧)によって別の「ふつー」を遠ざける問題)。そういうのは作品が特に悪質な偏見の助長でもしてない限り不毛な縄張り意識にすぎないと思うけど。彼らがマイノリティ的な差別を嫌がるのなら、特にタブー意識を持たずにそういった問題を扱う事こそが彼らの望みであるはずだし、この物語がマイノリティ的な情況全体を背負うことで彼らの困難が楽観視され後景化されるといったこともないように思うが。却って彼ら自身が強烈なアイデンティファイで自身の言説強度や繊細センサーを上げ、エスタブリッシュとして規範化し狭量な排他性を生んでるわけだし。


こういうのはテクストをめぐるコードのズレのようなものが背景にあって、「シングルマザー」とか「子育て」とかのクリティカルワードが配された時点でそのコードを受け取る側に一定の期待(コード)が設定されて、そのコードに合わなければディスコミュニケーション的な感じになるのだろう。具体的には「シングルマザーというリアルな問題を出した時点でもっと丁寧に寡婦家庭の物語を描くべきだった(ファンタジーなのかリアルなのかよくわからない)」というような。

ただ、そういうのもおそらくは後付の理由で、一番のポイントは物語の冒頭で父親であるおおかみが無残に殺されてしまうところにあるのだろう。

「自分の夫が無残に殺されごみ収集車で回収されていくという最悪の悲惨を前にして主人公である花の悲しみがあまりにも人間味を欠いていた。あそこで花がもっと泣きじゃくり世の中を恨むような描写があれば納得できたのに」


父親おおかみが無残に殺されること、そこで受けた心理的なショック、「なぜおおかみは殺されなければならなかったのか?(死んでしまったのか?)」の疑問が回収されないまま浮いてしまい、それが「作者のご都合主義」という形で合理的に解釈され作品全体への怨嗟や批判となっていく。母性批判やシングルマザーのリアリティ批判、田舎暮らしに関するリアリティの批判というのはそういう合理化を後付けマウントをとり返すためのトリビアにすぎない。そういったコードにドライブされれば見方としてもそのコードを中心にした自分語りとなる。それは作品との対話とはいえない。


なのでこの作品を読み解くためにはまずこの「なぜ父親おおかみは殺されなければならなかったのか?」「そういった展開の作品における必要性は?」というところに還らなければならない。その悲惨描写はいたずらなセンセーショナリズムによる露悪だったのだろうか?


この疑問をとくためには逆に父親おおかみが生きていた場合を想像してみるのが良いだろう。

そうするとこの物語は「亜人間という特性をもつ父親と家族の都会暮らし」ということになっていく。簡単に言うと細田版パンダコパンダ


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そこではおおかみおとなとおおかみこどもは都会の人間社会にふつーに溶け込んでいく。少し変わったところはあるけどそういうのはアニメのファンタジー的お約束の中で回収される(「目の前でほうきに乗って空を飛んだキキを見ても、オソノさんが「ワァーオ!」と言って、それで終わりである」ように)

たまに変身してしまうこともあるだろうけど「わたしは元気です」って感じで、ちょっとした失敗として受け取られ冗談の元に回収されていく。(「動物病院に行けばいいのか人の病院にいけばいいのかわからなかった ><」「わははは」というように)


それはおおかみ人間として生きてきた父親の経験があるから。あるいはオタク/アニメーターというマージナルを生きてきた宮ア駿や細田守の経験。「パンダコパンダ」がそうであったように「おおかみこども」も細田個人の子育てメッセージの隠喩的表象である可能性があるから。




逆にそういったなにも事件の起こらない平穏な生活の中ではそれが「ふつー」になってしまって父親という存在の意義や蓋然的な役割やモデルのようなものはなかなか意識されないものかもしれない。


自分も母が離婚して寡婦家庭で育ったのでこの辺は意識するのだけど「こういうとき父親がいたら違ったのだろうか?」というのは自分の悩みでもあり、おそらくは母の悩みでもあった。

結果的にはそれは父性に対する過剰な期待であり言い訳的な意識の持ち方に過ぎなかったと思うけど、そういった形で父親の意義とか必要性みたいなのは「ないこと」によって意識されるところがあるように思う。物事の本質が差異と比較によってしかわからないように。「ふつー」になんの問題もなく子育てをしている間はそういった問題意識は生じにくいものだろう。あるいは、リアルな生活ではどんな「ふつー」の家庭でも地味にそういった問題を考える場面はあるかもだけど、その辺の地味なドラマを描いてもこの作品の舞台では目立たないものになってしまう(cf.「最も難しいのは『なにも事件が起こらない』物語を描くことだ」)。




つまりこの物語は「父性の不在」あるいは「母親が父親も兼ねる」ということを通じて「父親であることとは?」を逆照射、「親になる、子育てをするとはどういうことなのか?」ということについての話ということになる。


それもたぶん大々的に「これが正しい子育て像だ」と喧伝するものではなく細田監督の個人的なメッセージ、これから育てていく命に対してのタイムカプセルのようなものだったのではないか?


こどもが大きくなったときに作品を見ながら「おまえがまだ小さい時にはお父さんはこんなことを考えていたんだ」といえるような。あるいは、はっきりとそう言わなくても作品を通じて子供たちに何かを感じてもらえるような。




「おおかみこどもであること」というのはマイノリティとしてなにかを背負っている人の隠喩的でこの作品の主要なテーマとして受け取られがちであるけれど、おそらくは上記のような理由で主要なテーマというわけではない。そして「差別」についても。


― そんな場所で、花のふたりの子供、姉の「雪」と弟の「雨」は、人間とオオカミの中間のような“おおかみこども”であることに悩みながら成長していきます。これは、ゲイや特殊な趣味を持つ、「マイノリティ」の物語とも受け取れますが……。

細田 う〜ん。僕はマイノリティを描いたつもりはないですね。だいたい、マイノリティ、マジョリティっていう区別をする人自体が僕は信用ならない。自分はマジョリティ側に立っているって思っているからこそ、大津のいじめ事件のようなひどいことができるんでしょう? でも本当は、誰しもがちょっとずつ違った資質や趣味を持つマイノリティ。そのことを自覚し、「自分は人と違う。おかしいんじゃないか?」と悩みながら生きる人のほうが描きがいがあるというのかな。そのいじらしさこそ、人間らしいと思います。

http://wpb.shueisha.co.jp/2012/07/28/12951/2/


監督の言うとおり、主要テーマは「親子」であり「子育て」なのだろう。
http://www.oricon.co.jp/news/2004667/


そしておそらくは「健全な愛情」と「精神的自立」ということ。あるいは「ふつー」や「ただしさ」、偏見を巡ったバランス感覚のようなもの。



親子関係というのは不思議なものでこどもがある程度の年齢になって経済的に自立し、家計を分けて独立しても親は一生こどものことを「子供」として扱いたがる人もいる。


しかし本来「子供」という概念はそんなに当然なものでもなくアリエスなんかもいうように近代に入って出来上がった特殊な概念なのだろう。


〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活
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中世ではふつーに子供を「小さい労働力」として使役していた。義務教育とかもなかったし。単に「未熟な労働力」というだけで家計を支えるための労働力の一つとして考えられていた。


それは自然-動物の世界でもふつーのことでおおかみなんかも立って走れるようになればまず狩りを覚えていく。自分の食い扶持は自分で稼ぐために。動物の遊びはそのための訓練ともいえる。


母性というのは曖昧な概念だけれど蓋然的には「子供の生育期間、母親がほかの個体への親近や愛情よりも過剰な愛情を子供に持つこと」といえるだろう。つまり依存のひとつであり遺伝子のプログラムのようなものなのかもしれない。あるいは「<子供>の誕生」と同じく、近代以降に社会的に「ふつー」とされていった規範。その背景には性別役割分業の成立との関係があるのかもしれない。


本来子育て段階の異常であったものが母親全般の「ふつー」となったとき、その規範に後押しされる形で「母親は母性を持つべきもの」「親にとっては子供はずっと子供」とされていった。なのでそういった母性のようなものを持たず、周りからの同調圧で「自分は異常なのではないか?」と悩む人もいる。


「おおかみこども」を母性の物語と見る人もいるようだけれど自分にはむしろ逆のように思えた。母性や父性というフィクションに対してただ「親である」ということとその限界を示す物語。あるいは母性をはじめとした様々の「ふつー」の規範に対して「本来『ふつー』などはなくて人はどのような形でも生きることができる」ということを示すための物語。それが「おおかみこどもの雨と雪」という話だった。



物語の中盤でおおかみこどもの雨は狩りと山の世界に目覚め、そこに同調していく。


生まれつき繊細でそれがゆえにかなかなか人間社会の「ふつー」に合わせられなかったせいもあってか内向的になりいじめられ、段々と不登校になっていった雨は山の世界で先生に出会い山の掟、動物の理に目覚めていく。

対して雪はもともと生命力に溢れ活発で好奇心旺盛、人の社会の「ふつー」と自分がおおかみこどもであるという「異常」との間でコンプレックスすることもあったけど、ゆるやかに人間社会にシンクロしていく。


物語はその2つの選択、「自然の中で生きること」「人の社会で生きること」のどちらも押し付けず、その2つのあリ方を同時に是しとして行く。


ただ母である花と雨との別れの場面では大きな葛藤が生じたけど、亡くなった父親おおかみのビジョンを通して花も子離れに同意していく。



「あなたは動物の年齢で言えば十分に大人かもしれないけれど、人間としてはまだ子供なのよ!」



それは母性が言わせたものなのか、あるいは単に身近なものが離れていくことの痛みを嫌がってのものだったのか定かではないけれど、父おおかみの死に際して省略された花の葛藤、慟哭、人間的な感情がここで強調される。つまりこの物語が「親離れ/子離れ」をもって完結されること、それを巡る物語であったことがはっきりと示される。




花という人は不思議なキャラクター設定で「どんなに悲しいことがあっても微笑んで受け流していこう(道端の花のように咲いていよう)」ということなのだけれどその超人的前向きさが見ている人を置き去りにするところもある。


この辺りも含めて自分も「リアルだったらそれはないなー」とか思ったのだけれど、まあそういう感じの人がいることもある。それも「ふつー」から考えればイレギュラーなことで、世の中のほんとに「ふつー」なんかないので。



もともと花は東京の郊外の国立大学に通っていた苦学生で「奨学金とアルバイトで学費と生活費をまかなっていた」という設定になっていたのだけれどそこには最後まで親の影が見えなかった。

それはたとえば寡婦になった段階で「親の援助は?」という疑問としても表れる。うちもそうだったけど、シングルマザーというのは現代日本の社会構造的に親の援助がないとなかなかやっていけないものだから。

その部分が捨象されているのは物語的にそこを描いてしまうと花を主人公とした「シングルマザーの物語」のほうに流れてしまうからだったのかもしれない。あるいは「父性の喪失」という展開の意義と同様、花の母親が登場してくると既存の型をなぞるだけになるのであらためて自分の頭や体験を通して「親になるとはどういうことか?」で悩む場面がなくなってくる。

なので「互助の必要性」+「しかし親のモデルは不在である必要」という課題は物語中盤で「田舎暮らし」を通じて回収されていく。「都会で寡婦が現代日本を『ふつー』に生きるためには親族の互助が必要」+「父親のモデルがいない」 → 「田舎でゆるやかな互助」+ 「自然や学校が親の代替となり社会や自然のルールを教えていく」


ここで田舎暮らしの互助や自然に対してのロマンティシズムのようなものに傾く向きもあったのかもしれないが、細田監督はそれを慎重に回避しているように思えた。それは例えば「都会から自然とか田舎暮らしにあこがれて来る人はいるんだけど直ぐに音を上げて出て行ってしまう。あんたもそのクチだろう?」というような田舎の人達の視線と警戒。それもあって最初、花は住人から警戒され、仲間とは認めてもらえない。しかし花には「おおかみこどもは都会では育てにくい」という理由があったため田舎にとどまり続ける。その様子を見て韮崎の爺さんは試すように智慧を与え、その試練に合格した時、村人たちは花を共同体の仲間として迎え入れていった。


韮崎のじいさんの指導のお陰で実りすぎるほど実ったじゃがいもは近所の人たちにおすそ分けされる。それに対して過剰な「お返し」が為され、ここで金銭を中心とした高度資本主義社会という「ふつー」に対するオルタナティブが示される。「自給自足」や「物々交換」。


そこに焦点するならNAMとかヤマギシズム的な原始共産制への幻想となるところだろうけどここでも細田はそれを慎重に回避する。


自給自足や物々交換だけではどうしても現代社会的な生活は送り難いので花は職を探し、森林レンジャー見習いに就く。見習いなのでそこでもらえる金銭は高校生のアルバイトよりも低いものだったが、そこに飼育されているおおかみとの出会いや森林を通じた「勉強」が雨に「学校≠人間社会以外の世界」を示す回路となっていく。


郊外とはいえ東京の国立大学に通っていた花の人生はパートナーである父おおかみが死ななければわりとふつーのキャリアウーマン的なものだったのかもしれない。ダブルインカムで働いて「ふつー」に子育てして、都会生活を送って、彼と本の話やいろんな話をして…。国立大学に入るまでも苦学があっただろうしいろんな事情もあったかもだけど、そういったものに対して「わたしは本当はこんな貧乏ではなかったんだ」的な不安と怨嗟に陥ることもなく軽やかに低収入の田舎生活を選んでいった。学歴エリート的な自負があるとそういった切り替えはなかなかできないものだろうけど花の一番の強さはそういうところにあったのだろう。なにかを偏見したり差別することもなく目の前にあるものの本質を見て、それを選んでいく。愚直なほどまっすぐに。





この物語の主人公は花ひとりではなくおそらく3人で、雪も雨も主人公だった。

そしてそれぞれの選択が否定でも肯定でもなくそのまま示され是しとされていった。


物語の中盤で「人として生きる」ことを選んだ雪と「おおかみ(自然)として生きる」ことを選んだ雨との間で直接な衝突があったけど、最終的にはそれぞれがそれぞれの選択を是しとしてひとつの人格として認め、その人生の祝福を祈るように終わっていった。社会や自然の中に隠されている「ふつー」によって誰かを抑圧するのでもなく、自分は自分の道を歩み、それぞれの生き方を尊重するように(「森でいのししやうさぎにあっても威張って脅かしてはいけないよ?」)。


おそらくはおおかみとして生きることを選んだ雨よりも人として社会の中で生きることを選んだ雪のほうが心理的葛藤においてはこれからの道のりは困難で、同級生の男の子のようにそれをフォローしてくれるのではなく差別されてしまうこともあるのかもしれない。それでも、雪ならその差別自体も「ふつー」のこととして受け流していけるのかも。子供の頃はその率直さと「正しさ」でいのししたちを脅かすこともありもしかしたらそのこと自体を楽しんでいたのかもしれないけど、そういった「正しさ」の履き違えのようなものを雨やその他の人たちとの衝突から学び反省していった。


花の朗らかな笑顔、そのたくましさとやさしさ、無駄に偏見や差別をしないこと、屈託のなさ。

それをほぼそのまま受け継いでいくのが雪なのだろうし、それに対して父親の影のような屈託と繊細さを受け継いだのが雨だった。


父おおかみももっていたそれは差別されてきた過去によるものだったのかもで、それがゆえに他人に心を開かないように生きてきたのだろうけど、花の偏見のなさがその心を溶かしていった。



雪のこれからは花と同じように自分に足りない影のようなものを持った人と歩むものになるのかもしれない。あるいは小学校の最後に淡い初恋のようなものを予感させた草平のようなひとと。



いずれにしても雪の親離れも「寮に入る」という形でこの時期に完了していた。同時に花の子離れも。



それは世間一般からすれば早すぎる感もあるけれど、それも「ふつー」ということに対する細田監督のメッセージといえるのかも。




「これから先、きみは世の中のいろいろな差別や困難に出会い、それを巡って『ふつー』『人と違う』ということを考え立ち止まるかもしれない。病や死、別離も突然にやってくる。それを巡って悩むことがあるかもしれない。でも、その時には思い出してほしい。世の中には『ふつー』や『当然』なんてものはないんだ。あるかもしれないけど人を抑圧する『ふつー』なんてものはない。そして確実に約束された未来もない。だから、逆に言えばきみの前に広がる道は自由だし何を選択してもいいんだ。威張って人を怖がらせない限りは。ぼくは親というものが分かるとはいえないし、仕事が忙しくておかあさんにばかりきみを任せるようなところがあるダメ親かもしれない。でも、少なくともきみが自分の道を選択し歩めるようになるまでは応援していこうと思う」



それがこの作品を通しての細田監督のメッセージのように思えた。









(あと、そもそも音楽とCGを通じた疾走感、子供が喜んでる様子がなによりも印象的な作品だった。田舎に引っ越してきたばかりで子供がはしゃいでるシーンは「トトロ」を、「自然」と「人」との協調や葛藤は「もののけ姫」や「蟲師」を、シングルマザーの問題は「WOMAN」を想わせた)



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是枝裕和、2013、「そして父になる」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/376322940.html



エンタメ、オタクコンテンツにおける自由の可能性と「ぼくらの。」世界、の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380740959.html

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タグ:家族
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