2007年03月08日

「<批評>そのものへ」?

 いま「うたばん」に宇多田ヒカルが出てる。・・なんか健気。というか、そういえばこの子はずっとこんな感じだったな。

 周りにやたら評価する人がいて、「女の子のせつない気持ちよねぇ〜」、みたいなことを言いつつたいした内容のことも言わないので、その影響もあってかウタダにはあまりよい印象がなかったのだけれど、finalventさんとか武田徹さんの評を見てちょっと考えが変わった。


Flavor Of Life 2(@finalventの日記)
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070301/1172710096
 
Flavor Of Life 3(@finalventの日記)
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070301/1172747306

Flavor Of Life 宇多田ヒカル 歌詞情報 - goo 音楽


誰かの願いが叶うころ(@武田徹オンライン日記)
http://162.teacup.com/sinopy/bbs?M=ORM&CID=602&BD=2&CH=5

誰かの願いが叶うころ 宇多田ヒカル 歌詞情報 - goo 音楽



 家庭環境、というか美空ひばり的事情なわけだけど、あの空元気というのはそういうのもあって、ということだったのだろうか・・。

 tokyo mangoに高校時代の彼女についてのエピソードがチラッと出ていた。

In my brother's high school yearbook, she wrote: "Your sister is so pretty!" I will never forget that.


 普通にいい奴っぽい。ってか、いろんなところに気を使う子なんだろう。そういうのが見抜けなかったのは・・・・オレの批評能力不足・・?



 言い訳をさせてもらうと、冒頭にも書いたように見る気がないので見ていなかったわけだが・・まぁ、いい訳だわなぁ・・。

 関連でちょっと思うのはこういうのって批評と言えるのかなぁ、ってこと。某所で書いたメディアリテラシーの話でもちょこっと言ったんだけど、テクストを取り巻く環境からテクストの価値を取り上げる以外に批評の方法ってないのかなぁ、と。

 ちょっと分かりにくいのでもうちょっと説明すると、批評が学術的な方法論として確立したものであるとすると、その方法そのもので対象を分析できないと方法論としてびみょーな感じがする。だって、ともすると重要なのはテクストそのものではなく周辺情報ということにも成りかねないので。でも、およそ多くの批評行為というのはテクストそのものではなくテクストを取り巻く環境あるいはそれに関連したテクストとの関係(間テクスト性)を加味して批評というものを完成させているように思う。

 メディアリテラシーの話に戻ると、メディアリテラシーという方法そのものでは対象へのアプローチはひどく貧弱なものになってしまっている。具体的に言うと、「メディアのテクスト(番組・新聞記事)などはある偏向(コマーシャリズムみたいなの)にそって作られたものだから信じちゃダメだぞ〜?」ってフレームを最初に設定して、そのフレームに沿って論を展開していくんだけど、これがひどく幼稚なテクスト批判としてしか成立しないことがしばしばあるように思う。

 で、一般の人からは「メディアリテラシー=メディアに文句を言う視点」みたいに誤解され、その言葉が誤用されているようなのだが・・。

 理論的に言うと、カナダ(オンタリオ)-アメリカから移入したメディアリテラシー教育セットのバックボーンとしてはマルクス主義の影響を受けた批判理論1〜2期(アドルノ〜ハーバーマスぐらい)を軸にしたメディア産業批判が当たると思うんだけど、これって端的に言うとステレオタイプ的なPTA的視点なんだよね。なのでガミガミ言うだけでそれほど有効性がないというか、あまり満足感がないと思う。

 日本に移入した流れとしては立命館(鈴木みどりさん)と東大(水越伸さん)の二つの流れがあったと思うんだけど、一般的なメディアリテラシーイメージはこの本によって決したように思う。



メディア・リテラシー―世界の現場から
菅谷 明子
岩波書店 (2000/08)
売り上げランキング: 70980



 安いし分かりやすいので。



 んで、さっき言ったようなステレオタイプ的イメージが広がったように思うんだけど・・・これってどうなのかなぁ・・。(蔓延するエセメディアリテラシー)

 それでいいならいいけど、あれってほんとのメディアリテラシーではないしなぁ・・。


 カナダ・アメリカのメディアリテラシー教育セットがスポイルされてその本来の可能性を失ったのに対して、同時期にイギリスのほうで起こっていたメディアリテラシーというのは元々、cultural studies(通称:カルスタ)の効果研究の分野(ex.S.ホールのエンコーディング/ディコーディングモデル)を分かりやすくデフォルメ化したものだったように思う。エンコーディング/ディコーディングモデルの従来の効果論に対しての新規性として。従来の効果論(@アメリカ)が送り手悪者論みたいな感じでメッセージを送るものだけを悪者にして「受け手は無邪気にそれを受け取っちゃダメだよ!」みたいな話の展開をしていたのに対して、エンコーディング/ディコーディングモデルでは送り手/受け手ともに偏向の可能性があることを認め、その偏向はいくつかのコードの組み合わせによって構成されている、としたところだったっけな。で、そのコードというのはそれぞれの人の生きられた環境に依存する、と。



マス・コミュニケーション効果研究の展開
田崎 篤郎 児島 和人
北樹出版 (2003/04)
売り上げランキング: 326668



(103-104)
  マス・コミュニケーションの効果に関する研究において、受け手が属する社会的階級やサブ・カルチャーといった社会的特性の観点からメディア受容過程での解釈の多様性を考えたのは、英国の研究者スチュワート・ホール(Stuart Hall)である。まずホールはマス・コミュニケーション過程でのエンコーディング(記号への変換)とディコーディング(記号の解読)の重要性を指摘する。
 エンコーディングとは、マス・メディアが何らかの事件を報じる際の「意味づけ」過程である。先の例でいえば、デモ隊と警察との衝突を1つの社会的事件として人々に意味あるものとして伝達することである。次にディコーディングとは、そのように「意味あるもの」としてエンコーディングされた情報を、受け手が「解読」する過程である。
 このようなエンコーディング過程とそれに対するディコーディング過程を経て、マス・メディアによって伝達される事件は「意味あるもの」となる。ここで注目すべきことは、テレビという映像メディアの特性として、そこでは報じられるニュースの意味は一義的に決定されるわけではないこと、つまりエンコーディングが一義的でないことに加え、より重要なことは、受け手によるニュースの意味の解釈過程であるディコーディング過程が、それに対応して多様であり、さらにその多様性が階級やサブ・カルチャーといった社会的属性との関係において考えられている点である。

(阿部潔 「批判的「受け手研究」−エンコーディング/ディコーディング・モデルを中心として−」児島和人、田崎篤郎編著 1992 「マス・コミュニケーション効果研究の展開」 北樹出版、pp.101-113)


 図とかはこの辺にある(参照)。


 要するにスキーマとスキーマのぶつかり合いなわけだけど、日本の効果研究においてスキーマという言葉には一定の意味が与えられてしまってるのでびみょーだなぁ・・。(「情報処理アプローチ」)


 まぁ、いいや深入りしないどこう。



 で、本題に帰ると、そんな感じで本来のメディアリテラシーってもうちょっと含蓄のあるもので、一般的に思われているような「ケチつけるだけのお題目」みたいな感じではなく、さらにそこに文学の批評理論におけるテクスト分析の手法からの影響を受けていた((C)吉見俊哉)ということだったと思うんだけど、これってどうなったんだろう?


 テクスト分析の手法を取り入れていたとするとテクストを効果的にほめることもできるような方法だったはずなんだけど、それ系の成果って全然聞かないし。いや単に最近の成果に疎いだけかもしれないんだけど、なんかカルスタって一時期から遊び要素が強くなった感じがするので、あまり研究進んでないのかなぁ、と思って。

 
 んで、さらに今回の冒頭のテーマに帰ると、カルスタの理論が進んでサブカルのテクスト分析とかできるようになってるんだろうか?なってるとすると、その際依拠している文学(批評)理論とかあるのだろうか?

 やっぱイーグルトンとかなのかなぁ・・。日本だと蓮見重彦さんとか思い浮かぶけど、めんどくさそうなんだよなぁ・・。


 前にmeruさんにも聞いたことあるんだけど、びみょーな感じで、絡みすぎて嫌われちゃったしなぁ・・。


 Lさんに聞いてもいいんだけど(Lさん見てる〜?)


 というわけで、毎回すばらしい評論を書いてなんか知ってそうなchikiさんに丸投げTB!



 トラカレで個人的に最近良かったなと思った批評↓


黒沢清監督作品『叫』と継承の限界。
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20070227/p2

「珈琲時光」と歴史性について。
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20040925/p1


 そういや両方とも歴史性ですね



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関連:
MCSのテクスト分析などのリンク
http://www.aber.ac.uk/media/sections/index.php?cat=Textual+Analysis

具体的にはフィルム理論みたいなのとかあったり(参照)。サイト説明↓

The MCS (pronounced 'mix') site is an award-winning portal or 'meta-index' to internet-based resources useful in the academic study of media and communication. It was originally established by Daniel Chandler in Spring 1995 and is hosted by the University of Wales, Aberystwyth. It is British-based and is intended to give priority to issues of interest to both British scholars in the field and to others who are interested in media in the UK.



綿矢りさ『夢を与える』(@Sound and Fury 2.0)
http://d.hatena.ne.jp/merubook/20070304/p1

※ここでも「歴史の断絶」がテーマになってる




--
追記:
ちょっと分かりにくかったかもしれないのでもう一回論点を確認すると、

(1)(間テクスト性とか使わずに)テクストそのものからテクストのメッセージを読み取る技法はあるか?

(2)それはメディア分析の分野においてあるのか?

(3)メディア分析の分野でないとすると、文学批評などの分野ではあるか?


です。(宜しくお願いします m(_ _)m)




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追々記(3/9 05:55):

考えてみると間テクスト性でもいいかも。

問題は、批評という行為を通じてテクストの背後にある関係を浮かび上がらせることで、メディアリテラシー(encoding/decoding)的には隠されたコード(もしくはイデオロギーのようなもの)を浮かび上がらせればいいわけだから。んで、「なんか変だな」、と思ったところを別の分析視角(産業論、経営論、政治経済的力関係、マイノリティ的事情)などを用いつつ明らかにしていく。

で、最後に実証でとどめ、と。


つまり批評とかメディアリテラシーというのは「隠された抑圧」を探るダウジングの杖のような役割を果たすと思うんだけど、そういう研究成果は見たことないなぁ・・。



--
追記(2007.3.10.8:15):

アメリカのメディアリテラシーの理論的バックボーンとして批判理論があったかどうかはびみょーでしたね。せいぜいメディア産業論程度だったかもしれない。ってか、アメリカ型の研究は効果研究が主体でこういう理論とか弱いのでテキトーって感じなんですよね。なので理論の背景がはっきりしない(・・って、言い訳ですが)。


あと、おまけ

メディアリテラシーの意味と系譜(@国立教育会館社会教育研修所『情報化に関する学習とネットワーク』)
http://www.nier.go.jp/homepage/syakai/book/tebiki-series/11-jouhouka/11-jouhouka_1-2.htm

ここでもちょっと書かれてるけど、「立命館-FCT」、「東大-メルプロジェクト」な感じで進んでいったけど、最終的に水越派(東大)の勝ち、と。

水越さんの人脈とか出版的事情もあったのかもしれないけど、プロモーションかなぁ、と。

あと、立命館は言っちゃなんだけど、鈴木さんの理解が足らなかったんでしょう(encoding / decodingモデルの)。

流入経路としては、カナダはトロント学派(マクルーハンセンター)、アメリカはオレゴン、イギリスは・・どこかな?中心がよくわかんないけど、MCSには関連リンクあるな(参照)。んで、カナダのテキスト(レン・マスターマンの)を鈴木みどりさんが中心になって取り入れていったんだけど、後から入ってきた水越さんに抜かれちゃったんだよねぇ・・。


イギリス系は見事に捨象されましたとさ(チャンチャン♪)




posted by m_um_u at 21:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年03月03日

思想家カードゲーム

 巡回先でアイデンティティ関連のエントリが重なってて、この機会にちょっとまとめようかと思って小田センセのblogの関連エントリ見てるうちに人文熱がムズムズして来て例のやつを思い出してしまった・・。


Theory Trading Cards
http://www.theorycards.org.uk/

 有名思想家のトレーディングカード。前に購入しようかと思ったんだけど、Amazon.ukかusからしか買えない感じだったので逡巡して放ったらかしにしていた。んで、さっき日本のアマ確かめたら買えるんでやんの。

 買えるって言ってもアマゾンに直接置いてあるわけではなく、マーケットプレイスの輸入業者からという感じだけど(しかも信頼度が80%台)、背に腹はかえられないというか、「まぁ、いいや」、感じで購入してみました。「国内業者からの購入」ということになるので送料は340円です。順調に行けば1週間後かな。遊び方についてはこの辺にまとめてあります。


How to play the Theory.org.uk Trading Card Game
http://www.theorycards.org.uk/cardgame.htm


  ってか、前にまとめたのを読んでいただいたほうが早いかもしれない(サイトの説明も書いておいたし)


Media theory site(@muse-A-muse はてな別館)
http://d.hatena.ne.jp/morutan/20031027#p1


 「それぞれの思想家の特性が端的にまとめられてて、それぞれ「強い点」と「弱点」が設定されているので、そこを参考にしつつ遊ぶ感じ」、と。 
(そういや別館放ったらかしだなぁ・・海外学術サイト堀り、再開したほうがいいのかなぁ・・でも疲れる)


 スクリーンセイバーはこちら
http://www.theory.org.uk/screensaver.htm


 アクションフィギュアもできてる(前に見たときはレゴだった)。
http://www.theory.org.uk/action.htm

 

 こういうので思い出すのは「微生物カードゲーム」だけど、あれはもう発売とかしたのかなぁ。


 MtGファンなら一度はやりたい 「微生物対戦カードゲーム」を山口県岩国市立ミクロ生物館が作成→2ちゃんねらーの皆さんが「より魅力的なデッキ構築」を考える(@天漢日乗)
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2006/11/mtg_7824.html


 関連で、成城トランスカレッジで思想家動画特集やってたのでTB


動く思想家たち(海外編@youtube)
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20070224/p1


 
 でも、こんなので遊んでるとゲーム脳になっちゃうかもしれないから注意!w





タグ:ゲーム
posted by m_um_u at 17:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年02月24日

イデオロギー×イデオロギー

 一個前のエントリ関連で、

 でも、そういう社会政策的なところって結局のところ我々個々人で関与できるところって少ない感じがする。で、閉塞的状況に空虚感抱えた人とか、大学・社会人デビューって感じでいきなりそれまでとは違う環境で自分の知らない情報にアクセスした人が反動なところ(ex.ベタなウヨク、ベタなサヨク、スピリチュアル、オカルト・・)にジャンプしたりする(参照)。そういうことに対する心構えというか。我々、個々人でとれる姿勢いうか気を付けるべき態度とは何か。

 
「啓蒙のイロニーからイロニーの啓蒙へ」さんへのお返事を枕に、最近考えていることをつらつらと。(@成城トランスカレッジ!)
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20070223/p2

 ここでは八木さんのとった教育基本法改正のギロンが最初から改正ありきですすめられていた「為の議論」だった、って文脈からお話が展開されてるんだけど、その中で「シニカルへの耽落」って言葉が出てきてchikiさんはそこに引っかかったみたい。

 「シニカルへの耽落」という言葉で思い浮かべるのは、TVドラマ「野ブタをプロデュース。」で出てきたという学校教育に対するシニカルな態度のこと。

 「どーせ高校なんか3年で終わるし、その後は大学、会社って続いてくなんだからとりあえず楽しんじゃえばいいじゃん?」、っていう。いじめという現状に対して、それを変えるにはコストがかかり過ぎるだろうし、コストをかけたわりには報われないことが多いのだろうからとりあえず嵐が過ぎ去るまでじーっとしとくとか、うまく立ち回って楽しんじゃえばいいじゃん?、っていうどこか冷めた態度。

 金八先生世代としては少しショッキングな態度だけどしごく現実的で冷静な態度だし、いまの高校生はけっこうこんな感じらしい(参照

 ポイントはシニシズムではあってもアノミーではないってこと。彼らには彼らなりの価値がある。そういう価値の中ではDQN的保守を着ることも一時的なファッションということなのかもしれない。



 「情報量の増大 ⇒ 各コミュニティの専門分化(コミュニティの中だけで使われる言葉) ⇒ 分散協働(cf.タコツボ化、モジュール化)」、って流れは工場的オートメーションの社会化を想起させる。でも、「モジュール」ということは完全な断絶を意味するわけではなくて、自由な連携が可能ということなはずだけど・・。経営システム論における「モジュール化」の話と同様、いくつかの限定要因があるのだろう。


 で、


 そういったコミュニティは「世代」ではなく「教養」なんかで分化していくわけだけど、マーケティング系の人たちもそろそろその辺に気づいてしかけてくるのかなぁ、って感じがちょっと前のエントリ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/34429617.html


 っつーか、もう仕掛けてきてるのだろう(きみちゃんはあからさま過ぎたけど)



 反動へのジャンプ関連で、ちょうどこれがリンクした


「失われた10年〜Lost Generation Part2」
(@「文化系トークラジオ Life」まとめWiki )


 ここでも閉塞状況(宿命)を前にして、反動へ一足飛びすることが問題視されてるみたい。バックラッシュというのは右傾化ということだけではなく、ベタな左傾化、ベタなオカルトへの傾倒も含まれる。「なにかをベタに信じること(ベタかネタかも判断できないけどとりあえず盲信すること)」。「信じること」とかなにかの価値に対してコミットしたいと思うこと自体はまずい態度ではないけど、やっぱびみょーだね、と。

 現在の情況として、一時はそういったぶっ飛び系(?)、セカイ系(「君とぼくとでセカイを救う」)へ一足飛びすることで世界と向き合うことから逃避(あるいは自己閉塞)した人々が再び情況と主体的に関わっていこうとしているらしい。

 「わにとかげぎす」(古谷実)とか涼宮ハルヒシリーズみたいな一部ラノベにもその傾向が見られるらしい。(※両方未読)
 
 エヴァンゲリオンが今年リバイバルされるのもそういう情況への応答ということなのかもしれない。



 「現状や歴史と断絶して希望へ一気にジャンプ」みたいなこういう流れというのはおーざっぱにいえばイデオロギー(共同幻想)ということなのだろう。
(情況の隠蔽 ⇒ シンボルによる誘導)


 んで、「イデオロギーだったら悪い」かってことなんだけど、それはそれでびみょー、と。



稲葉振一郎『「資本」論』(@生きてみた感想)
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070222#p1

 ここではイデオロギーとしての労働価値説の虚構とその価値について論じられている(てか稲葉さんのほんのまとめ)。「イデオロギーを批判するマルクスの言説自体がイデオロギーだったね」、って話なんだけどここで「マルクスダメじゃん」に行くのもどうか、と。「資本論」は現状分析の本として読むとびみょーだけど、権利主張の地盤として利用する(あるいはその際のモデルケースとしてみてみる)と有効なのではないか、ってことみたい。


 けっきょく、人間はシンボルを操り操られていく動物なんだから自覚的にシンボルを利用してもいいんじゃねぇか?、って感じだろうか。っつっても、シンボルに操られることもあるのだろうけど。その辺は自覚というかバランスって感じなのだろう。



 そういや「共同幻想論」読みかけだなぁ・・(読まねば)



 あと、アレント読まないと

仕事と労働と公共性(@海難記)
http://d.hatena.ne.jp/solar/20070130#p1

 アレントの「人間の条件」について(労働と仕事の違い)

 アレントのこれもいってみれば「ヨイトマケの唄」のようなものなのだろうけど、これでやる気になるんだったらいいじゃん、って思う。




 ってか、あまりキツキツでやるのも苦手なので個人的には江戸期の格差社会的な感じでいこうかと思ってるんだけど、それはそれで「お気楽」とか「江戸がお気楽だと思ったら大間違いだ」とか思われるのだろう・・。




--
関連:

多元的・複合的な「自己」を求めて(@heuristic ways)
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20070130

 日本の新卒(男性)信仰に対して。

戦後の日本社会において「新卒・男性・正社員・日本人」が企業の、ひいては日本社会の中核的な「正規メンバー」とされてきたのは、「人種的偏見・性的偏見・階級的偏見」以外のなにものでもない。それは歴史的に形成されてきた社会的・イデオロギー的な「装置」であり*2、「自己」の純粋性に拘泥するこの装置が今やさまざまなところで綻びを見せ始めている。


 効率性 / 生産性の価値から考えても理由がつけにくいのでやっぱイデオロギーなんだろう。

 あと、武田鉄矢というと金八で「ひとというじはぁ〜」って感じだけど、あれ自体も虚像というか誤解なのだろう(ってかいまはあんな感じか)


『プレイボーイの人生相談』を読む。 (@エロ本編集者の憂鬱と希望)
http://d.hatena.ne.jp/erohen/20070216




posted by m_um_u at 23:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

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