2009年07月01日

意味以前へ  Martin Creed展にいってきたよ (reprise)

どうも一個前のメモ書きが不十分な気がするのとミクシの日記が検索できないみたいでアーカイブ不十分ということでこちらに置いておこうということでミクシで書いた日記にちょっと注釈(前書き)加えてこちらにも転載しておく。

最近の話、「世間的な文脈や言葉にとらわれないこと」ということにも関連することだし、むしろこれも前提の一つになってるので話的には連続するし。


その前に一個前のエントリだけど


muse-A-muse 2nd: 「小林秀雄の流儀」 - 現象学的還元?
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/122453130.html


オレ※:事実認定的でない内的実感(感動)を繋ぐため、あるいは繋ごうと足掻いた揺らぎの残照として芸術的言葉があるのであり、最初から修辞的にそれを用いたものはカッコヨクオモシロクあっても空疎な嘘。

「分かる」ということは言葉の牢獄から解き放たれ最初の感動にたち戻ること


本当の意味で「椅子を見る」とはいわば「疑いようのない椅子という実在」を見ること。これは凡人にはほとんど不可能に近い。ゴッホはできた。それならば、われわれはそれを見ればいい(102)



この辺り、けっこう重要だと思うんだけどサラッと流しちゃったので見てる人は気づかなかったかなぁとかなんとか。


この後の文章にも続く内容なんだけど、言葉や絵画、表現的なものは誰かに伝えるためには分かりやすい表現が必要でそれが折り重なっていって形式や様式ができていくものだとは思うんだけど、その文脈に従いしすぎるとそれ自体がゲームになってしまうって話。もしくは修辞や演出にこだわり過ぎて内容がないとか。なんか上手と思われる表現、かっこいいと思われる表現に表現者自身が囚われてしまって言葉遊びに終始し、ほんとの感動や実感に届かなくなってしまうっていうそういうこと。

山頭火が「言葉にとらわれるな」っていったのもそうだし、表現的なところじゃなくてもバカボンドで武蔵なんかが「ぜんぶ言葉でした」みたいなこといってたのもそういうことだし。


それで、

そういうのとは別に疑いようのない実感、感動を得たときになぜかしらそのモノや事象が「分かる」ときがある。自分はそのモノに連なる長い文脈を知らないのに、なぜかそれに感動しそれがその筋では有名なものだったりすること。

「小林秀雄の流儀」の中で山本七平が李朝の青磁に魅入られたというのもそういうことだと思う。


東浩紀的なアーカイブの山積的な問題(過去のアーカイブが巨大すぎて参照不可能性が生じている問題)を越えて、


muse-A-muse 2nd: オタク世代論と文化消費の変容 (「動物化するポストモダン」)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/81514857.html


人にはいきなりレベルが上がるというかそのモノと運命的な邂逅を果たすというようなことがあるのだと思う。





それはともかく、とりあえず以下は今回の本題の「意味(文脈)以前」についてある展示を見ながらなんとなく思ったこと




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広島現代美術館でやってたMartin Creedって作家の展示に行ってきたので軽くメモ程度に



マーティン・クリード展
http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/web/main/special_exhidition.html


マーティン・クリード - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89

本人のサイト
http://www.martincreed.com/


なんかよくわかんないインスタレーション系のひとということで少し躊躇したんだけど「アジア初」ってことで見に行ってみた。あとは「日常をアートにする」ってところに惹かれて。ウォーホルのキャンベル缶ぐらいの期待で。

結果的に予想以上の満足度だった。


入って最初に壁から乳房みたいな突起が出てたり、床の上audio technicaとかタバコの空き箱みたいな塚(?)があったり、なんか風船がぎっしりつめられた部屋があったり、カーテンが閉じたり開いたりしてたり…。

なんかよくわかんないので次の部屋に進んだら天井一面の照明が点いたり消えたりしてた。


ここにきてようやくなんか廃墟みたいだなぁとか2001年宇宙の旅の船内みたいだなぁとか思い至った。

あとは空間の使い方がみょーに緻密というか、なんかみょーにそれぞれの作品の角度計算してる?的な感じで。

各々の作品にはそれほど意味はないんだけどいくつかの作品が配置された空間全体でなんとなくの意味を持ってくるようなそういう感覚。そしてその空間も「明かりが点いたり消えたり」の部屋から見るとなんとなく趣きが違うようなそういう感覚。

そんでこの作家は光とか音とか空間の密度とか温度、空気そういったその場にあるものすべてを含んで自分の作品として提示したいのかな、とかなんとか。

そんなこと思いつつ進んでいくとサンドバッグみたいなのの前にブラウン管なテレビが積み上げられていて4人ぐらいの男女が絵の具みたいなの吐いてたり…。

自分的には宇宙人感覚でこの映像を見た。「この星の生物は身体の上のほうからなにか出すのだな」的な。


そんで、それぞれの作品の配置とか角度とかにけっこうな意味を感じ、その辺は独特なルールで表していこうとする作家なように感じたのでそこで座っていた学芸員の人(?)に「作品の配置は作家がやったのですか?(美術館のスタッフではなく」って聞いてみたらやはりそうだったみたい。

あとでもうひとつ気になったのでほかの学芸員のひとに「作家は美術館を視察に来たあとでどの作品をもってくるか決めたのですか?それとも最初にリスト化なんか提示されててもって来てから展示場所にあわせたのでしょうか?」ってきいたら「その辺は残念ながらよくわかりません…」とのことだった。んでも後でもらったポスターみたら展示されていたのとは大きさの異なる作品もあるのでこちらに来る前に送られてきた空間資料をみていろいろ調節していたのかもしれない。てか、まぁ来てからブリコラージュ的に現場にあわせちゃえばいいってのもあったのかもだけど。


そんでまぁ地下の展示へ


地下の最初はまたしてもブラウン管が積み上げられてて波止場に船が定着する2つの映像が流されていた。作家本人にそれなりの狙いがあったのだろうけど特にピンとこなかったのでこれはスルー。作家の表し方が絶対ってわけでもなく間違えてることもあるのでピンとこないものはさっさとスルーする。んで、次

次は最初のほうにテンポの違うメトロノームが複数配置されていてそれらの刻む音が空間を支配していた。壁際に異なった音、長さの異なる釘などが配列されてたりしたけど例によってそれらはひとつひとつはそれほど意味はなくこの空間全体を構成する要素のひとつにすぎない。

見上げると天井が丸い壁掛け時計のように婉曲したカーブを描いていて、その周りをメトロノームの音と夫々の作品が滑っていく。

時間と進化

あるいは単なる時間の表現。


それらの意味するところに訪れた人が困惑しだしたころを見計らってか作品の終着には「Don't Worry」の電光掲示。あるいは、それは時間とか存在とかに対する不安を払拭するための言葉だったのかもしれないけど。


そして暗室的な部屋に作家とわんこたちの戯れというか、作家の指示になかなかしたがってくれないわんこたちと作家の様子をそのまま録ることで作品とした映像が掲げられていて、その傍に例によってモノリスのような作品がたたずんでいた。

ありし日の作家、あるいは人類の遺影のように



最後に、「Martin Creedのことば」としていろんな場所での作家へのインタビューが抜書きされていた。その辺でなんとなくな答え合わせ。

やはり既存の意味の文脈にとらわれることに敏感な作家っぽい。そんで、「タイトルをNo数字であらわすのもなんらかの意味をつけたくないからなんだ。タイトルなんかすごく意味が過剰だよ」、と。この辺でLさんとか頭に浮かびつつまぁなんとなく納得。鑑賞者に余計な恣意性を与えたくない、と。そういえば展示観覧の順路も今回は示されてなくて、ヘタしたら作品をすっ飛ばしていくようなショートカットとかできてたんだけど「作家さんから回る順番も決めないように。見てくれる人が自由に見られるようにしておいてください、って指示があったんです」、とのことだった。


あとは、「音楽とか日常とか境なく、ぼくにとってすべてが作品」、だとか。これも一歩間違うと単なる勘違いになるところだけどなんとなくわかった。実際、勘違いした方向にいっているわけでもなく一定のルールのようなものを感じたし。


一定のルールというのは最初に帰るんだけど「宇宙人に説明すること」みたいなの。当人はそういうことは思ってないかもなんだけど、宇宙人に伝えるときには人間的常識は通用しない。なので既存の意味の体系とか文脈、人の世の意味の体系や文脈を崩しつつ「伝える」ためにある一定のルールが必要になる。

言葉は違っても伝わるような普遍的なメッセージ、あるいはコードみたいなの。


そういったルールが蓋然的にせよ鑑賞者と共有されるからこそいわゆるゲージツ作品は野放図な作家の独りよがりにならずに済む。

あるいはこれ系で優れたゲージツ作品ってのはそういった所与のジョーシキ的なものをできるだけはいでいったときに残るような共通理解というか新しい感覚というか…。剥ぎ取って残るもののギリギリのバランスを楽しむ、みたいなの。


なのでそういったものがない作品というのは単なる落書きとかガラクタになってしまうわけだけど、今回の展示はなんかおもろかったなぁ、と思った。見終わって館外に出たときにもなんかそれぞれのモノの配置に意味を感じようとしてたし。



そんなことを思ったわけだけどこちらのエントリ見るとあながち間違ってもなかったようですね(以下、一部引用 )



アーティストトーク「マーティン・クリード」 | 弐代目・青い日記帳 
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1372



謎とき村上春樹 (光文社新書) 石原 千秋


言語論的転回は「世界は言語である」というテーゼによって示される。言語論的転回においては、言葉の先にただモノとして存在しうるような世界は想定されていない。それどころか、僕たちはモノそのものに触れることさえできないと考える。言葉がすべてだからだ。妙な言い方をするなら、僕たちが生きている世界はすべて言葉で「汚染されている」。つまり、言葉で意味づけられてしまっている。言葉が意味するようにしか、世界は存在しない。だから、言葉の外に世界はない。僕たちはまるで言葉の世界に閉じ込められているようなものだ。


こちらの記事にあるマーティンの言葉がそれを証明しているかと。
BBC News | Creed lights up Turner prize
“I think people can make of it what they like. I don't think it is for me to explain it”

乱雑でごちゃごちゃしていて自分自身でもコントロール出来ない「mess」を形にして表に出すことが作品制作であるなら、形にした瞬間にある特定の「意味」を持ってしまうことになります。

言葉で説明することによって「言葉の牢獄」へ入ることになるなら、「変な人」とレッテルを貼られようともトークショーでもじもじしていた方がましだと考えたのではないでしょうか。

posted by m_um_u at 06:27 | Comment(1) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年06月29日

「小林秀雄の流儀」 - 現象学的還元?

この本読んでてまだ読了してるわけではないんだけど経過報告的にメモ



小林秀雄の流儀 (新潮文庫)
山本 七平
新潮社
売り上げランキング: 65134
おすすめ度の平均: 4.5
4 生活者の視点と経験と知識
5 一身一頭人間として生きた批評家



一つ前のエントリの課題に対するヒントでも掴めればなぁ、って


muse-A-muse 2nd: 「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121774176.html


自由を求めて却って不自由になったり、一見不自由なようで自由だったり…要はその中で当人が言葉に縛られないで自由に動けるかってことなのだろうけど。善とか悪とかそういったものもそういった言葉に過ぎなくて、それに縛られていると却って不自由になるのかなぁ、とかなんとか。かといって野放図なエゴを追求しても満足はなくその辺の匙加減かなぁ。。「生」に向けての匙加減みたいなの。


この辺りの匙加減について、この本はなんとなく良さそうに思えた。そんで実際辺りっぽかったんだけど、以下はそのメモみたいなもの。「オレ※」ってちてるところは自分の感想とかメモ、ほかは要約。メモのはじめとか終わりについてるカッコ閉じの数字はページ数を表す。


以下は一章:小林秀雄の生活、のメモ


小林秀雄のように※「自由」に生きるには? 
(※言いたいことだけ言って書きたいことだけ書いて生活するには?

「常識におぼれる」のではなく「常識を活用する」

(オレ※:世間の常識におぼれるのではなく自分なりのスタンダード(道)を持つ) 「常識という原石を磨く」


「私立」する


(世間の常識にとらわれて一身両頭人間にならない   一身一頭人間)


「私立」(自分の中にスタンダード)なく世の中にそれを依存する人は世に不平をいうようになりそれがとどまらなくなる(23)

そういうものにとらわれないで考えるには?↓


「考えるということは合理的に考えるということだ」(24)

一つあるいは若干の着手を先ず発見していて、それを実地において確かめる(人々は普通、読みという分析から着手という発見に至ると考えるがそんな不自然な心の動き方はありはしない)

見ることと生きることの中間に精神を保持する(26)


言葉は邪魔になる  (27)
(オレ※:予断を捨てる)


歴史は事実を知的に再構成するだけのものだけはない(29)

オレ※:現実は「事実」の強制力によって切り取られ矮小化されるが、人間は「事実」だけではなく自らのイメージ(内的感覚)によって生きている


本居宣長も内的感覚に基づいて記述をしていた (神の国日本)



生きたいように生きる、考え(書き)たいように考え(書い)ていくには、まず世間の常識にとらわれすぎないようなスタンダード、自分なりの指針のようなものを持つべきだ、と。

しかしそれがブレていないかどうかを計るにはどうしたらよいか?

「合理的に考えることだ」、と小林(山本)は言う。


ここでは合理的に考えるということと論理的に考えるということの違いが挙げられているように思った。論理的に考える場合は帰納的に各個の事象を素材に論理的推論によって結果を導くものだけど合理的に考える場合は違う、と。

「われわれが考えるとき、すべてを論理的に推論しているわけではなくあらかじめ出ている答えを後から論理によって納得させることが多い」って言ってるように思えた。

この辺の感覚は現象学的かなぁとか。「世間的な言葉や常識、文脈にとらわれないで自分の感覚(リアリティ)に基づく」ってところもそうだし。なので小林も、小林が探求した本居宣長も現象学的な考え方や生き方をしてたんだろうなぁ、と。



以下は2章:小林秀雄の「分かる」ということ、メモ。基本的にはいまいったこと(「現象学的な認識に立ち戻ること」)と変わらないみたい。



「分かる」のはじまり − 一つの見方(世界)にハマってそれを基本としてあらゆる事象を理解するようになる (「つきもの」)(64)


「科学的分析」はあらゆる事象を要素還元し「分析」するがそれが果たして「分かる」ということなのか?(70-71)


感動してないのに感動しているかのように振舞うこと(78-79)


オレ※:事実認定的でない内的実感(感動)を繋ぐため、あるいは繋ごうと足掻いた揺らぎの残照として芸術的言葉があるのであり、最初から修辞的にそれを用いたものはカッコヨクオモシロクあっても空疎な嘘。

「分かる」ということは言葉の牢獄から解き放たれ最初の感動にたち戻ること



本当の意味で「椅子を見る」とはいわば「疑いようのない椅子という実在」を見ること。これは凡人にはほとんど不可能に近い。ゴッホはできた。それならば、われわれはそれを見ればいい(102)


科学者は最初にあるがままの自然に対する素朴な疑問をもつ。その驚きを沈静させようとして分析して行くうちに対象はより複雑さと精妙微妙さをまして行く。それによって科学者は最初の驚きに立ち還るともいえる(104)

オレ※:知ることによって自然の中のキセキがより理解できるようになる


美というものがたち現われたとき一個の壷は「一個の壷にすぎない」ことを越えて「純粋な色と構造とを露に」する(110-111)





そんなこんなでいまは4章までいちお読んだ。3〜4章はドストエフスキー関連ということで、ドスト未読なので参考にならなくて読み飛ばしたけど。とりあえず残りの5、6章を読み進めてみる。


posted by m_um_u at 09:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年06月08日

日本におけるベヒーモスの芽生え   堺の場合

この辺関連の話で


muse-A-muse 2nd: 日本的空気の問題って江戸期の封建的閉鎖の問題だと思いますよ (+グリゴリな天皇な妄想


muse-A-muse 2nd: 「へうげもの」をめぐって武力と資本とアートな話


「堺の自治とか商人の権利ってヨーロッパみたいな感じで王様から認められたのが発端だったのかなぁ」ってのが気になったのでちょっとこれ読んでみた。



堺の歴史―都市自治の源流
朝尾 直弘 仁木 宏 栄原 永遠男 小路田 泰直
角川書店
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どうもびみょーな感じみたい。たしかに堺の位置は当時の陸のネットワークのターミナルとして機能していてそれゆえに栄えたってのもあるんだけど、「商人たちが独力で」ってわけでもなく「神人や供御人、供菜人などの身分を得ることによって諸国を自由に通行できる権利や商売のなわばり的なものについて神社や王家(天皇や院)からバックアップされていたから商売ができ販路を拡げていった」ってのもある。

このバックアップがやがて王権から将軍へと変わっていくわけだけどその頃には商業発展やそれに基づいた自治の萌芽はできていたみたい。そしてこの萌芽が自治権の買取みたいな形で達成されることになる。

将軍(武家であり幕府)の統治下では決められた金額の年貢をとりまとめて領主に支払う代わりにその所領の警察や裁判の権利(自治権)を買い取れるようになってたみたい。そこでの年貢は平均的な水準よりかなり高額だったみたいだけど、それによって事実上、領主としての支配は放棄されることになった(地下請)。

この自治を幕府が認めたのは経済力だけではなく堺の町に住人を取りまとめる一定の自治組織があったためみたい。あと幕府と神社の関係とか。

さっき少し言ったように堺の町は神社を後ろ盾にした緩衝地帯的なところがあったみたいなんだけど、もともとは住吉神社系な流れから堺の住人は自立したかったみたい。そんでそれを幕府が公式に認めることで住吉支配からは脱却できた、と。


この辺を見ると「経済力だけで独力で自立・自治」ってわけでもなかったようでそういうのを可能にした日常の政治力とか組織力とかがポイントだったのかなぁ、とか思う。


最後にこの辺の話のまとめを一部抜粋



(68) 中世の堺を都市として発展させたものは何であったのか。境の都市の自治を支える条件は何だろうか。
 一つ目は、神と王権と武家である。
 港としての堺の出発点は、国家の管理下にある「国際港」=榎津(えなつ)であり、住吉信仰に支えられて海上交通をになう海民たちの活動であった。その後、春日社の供菜人が堺と奈良との関係をとりもち、堺に生まれた最初の自治組織は開口神社の運営組織であった。堺という場、あるいはその住人の王権とのかかわりは、供御人の来往、王家領荘園の成立にはじまり、南朝との親密な関係へと展開してゆく。室町時代になると堺は事実上、将軍直轄都市となり、地下請によって達成された南荘の自治も幕府の認定を受けたものであった。
 戦国時代のポルトガル人宣教師の言葉から、堺はしばしばイタリアのベネチアと比較される。しかし、皇帝に直属することでさまざまな特権をえていた中世ドイツの帝国自由都市と堺をくらべてみることも可能ではないだろうか。




残りの条件としては、「堺を取り巻く環境が良かった。農業の高い生産力、ものづくりの高度な技術力」、とか、「住人たちが柔軟にさまざまなものを取り込んだり受け容れたりした。それを受けての文化の質の高さ」
などが挙げられていた。


posted by m_um_u at 11:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年05月30日

日本的空気の問題って江戸期の封建的閉鎖の問題だと思いますよ (+グリゴリな天皇な妄想

馬車馬さんのところのエントリ見て、勢いでちょっと長いコメントをしつつ少し尻切れトンボだったかなぁ、と思ったんだけどこれ以上ヒトサマのコメント欄に長ったらしくなんか書くのもなんだし、blogのネタってのもあるのでこちらにうpしてTBしておきます。


まず、こちらのエントリ


和魂と洋才と「会社」の仕組み: マーケットの馬車馬


主題としては、「日本人が働き過ぎるのはなぜか」 「なぜ日本ではどいつもこいつも長々と残業しているのか? なぜ日本の会社は中途採用に対してこれほど消極的なのか? 成果給はなぜいつまで経っても根付かないのか? 日本の労働組合はなぜ企業と戦おうとしないのか?」、ということ。

それに対しての推論としては、「日本の村八分型評判メカニズムが問題なのでは?」、というもの。端的に言うと、<「日本型の評判システムがジェノア型の明確な契約に基づく上下関係の採用を阻んだのではないか?」、という話。後者は世界中の会社組織運営のスタンダード的な決まりであり合理性といえるが日本の組織は必ずしもこのスタンダードを共有しているものとはいえない>、と。


そんで、こういうコメントしたわけだけど


エントリの主題は「バザール型(マグレブ型)と伽藍型の組織運営がある」ということでこのあたりについては特に異論はないのですが、日本の組織の成り立ちについて少し違和感があったもので。

日本全体が「村八分」的なものをしていたバザール的社会ととらえられているようですがそうでもなかったようです。西日本と東日本では組織の成り立ちや運営方法が違う

くわしくはこちらにメモっときましたが

muse-A-muse 2nd: 宮本常一、1984、「忘れられた日本人」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/114394025.html

西はバザール型、東は伽藍型ヒエラルキー(あるいはピラミッド構造)っぽいです。

ただ、中央集権的な組織運営までいっていたかというとちょっとびみょーなんですが。あと、大田植えなど強力な一元的なリーダーシップが必要とされる大行事は東ではなく西であったようなのでちょっと混乱してます。。(この辺うろ覚えなのでもう一度宮本常一の当該本みてみるといいかもですが)

で、
強力な中央集権的組織の成り立ちは江戸期とそれ以前では様相が異なるように思います。あるいは合理主義が導入され敷衍されていったのが江戸期、それ以前はわりと牧歌的な感じだったようで。もっともこれは江戸や大阪などの都市部に限ったもので農村部は依然として旧来の空気感があったのかもですが。

なので、いちお伽藍様式もあったようですが、ヨーロッパ的合理性を伴った組織運営とも異なるようです。それが導入されるのは明治期以降ということでこれもちょっと段階を踏みます。

まとめると、日本的な組織の独特さ(あるいはいわゆる日本的「空気」の問題)は村社会的なそれの影響は確かにあるだろうけど江戸期や明治期の合理性導入によってハイブリッド的に涵養されていった、と考えられます。

伽藍とバザールについてはよろしければこちらをごらんください。

The Cathedral and the Bazaar: Japanese
http://cruel.org/freeware/cathedral.html

ほかの方もいっておられましたが『ノウアスフィアの開墾』はその続編です。



江戸期についての記述が足りなかったかなぁ、と思ったので以下書き足し。

「明治期以降の合理的システムの基礎が江戸にあるっぽい」というのは変わりないんだけど、江戸の中でも都市部と農村部だと様相が違う。どっちかっていうとゲマインシャフト的な村八分なシステムというのは農村部のみで採用されていたようにイメージされがちかもだけど江戸でも五人組、町年寄のような相互監視システムがあった。これは役人の絶対数が足りなかったので町人たちに自警的に安全管理させたってことみたい。

五人組 (日本史) - Wikipedia

江戸時代の町年寄と町名主はどう役向きがちがうのですか? - Yahoo!知恵袋


「町衆はそれぞれの地域の自律や誇りをかけて町人の向上を相互に促した」みたいなことは「江戸の経済システム」にあった。


極東ブログ: [書評]江戸の経済システム 米と貨幣の覇権争い(鈴木浩三)



そんな感じで江戸の都市部にも評判システムはあったわけだけどいわゆる農村部の空気読め的陰湿さがあったかどうかはびみょーな感じがする。江戸っ子気質的な自律的モラルが内部規範としてのいわゆる「空気」となっていたのかもしれないけど、それが排他的な陰湿さをもっていたかはびみょー。もちろん規律をはずれたものには制裁というかそれなりの罰則はあっただろうけど。


そもそも評判システムが悪いかというとそうとも言い切れないように思う。「伽藍とバザール」なんかに出てきたオープンソースコミュニティのそれもフラットな相互評価システム(P2P)だったように思うし、たとえば堺の商人ネットワークなんかも相互評価的な面がありつつもネットワーク的開放性と自律性を備えていたように思う。

なのでそれ自体は間違ってないはず。

問題は、その場の成長を促す要因と思われる外部性の流入を阻害するようなシステムというか心性なのだろう。「その心性がシステム的に涵養されたのではないか?(そしてそのシステムは評判システムでは?)」ってことではあるのだろうけど、そういった心性に影響を与えるようなシステムはもっと大きな枠組みのように思う。

江戸のシステムというのは内国的には封建制による冨の一元化(あるいは諸国や個人に冨や力が分散しないように収奪)、外交的には鎖国という閉鎖性をもっていた。それは日本人の心性というよりは徳川を守るためのタコの足食い的な自虐性をもったものだったのだけど、そのホンネが隠蔽されいつしか「お家のため」的な“場”を保守するためのタテマエがベタに信じられるようになったときに日本人の合理性や開放性は腐っていったのではないか、と個人的には思う。

幕藩体制的な「お家」的な心性はそのまま現代の日本の会社組織のつながりと閉鎖性に繋がるのだろうし。それとは別に江戸期でも海外に対して独自の人脈や情報源をもっていた大名や商人の系譜はそういった「お家」性とは別の心性や情報、冨を蓄えているのかもだけど。(この辺関連↓)

muse-A-muse 2nd: 「へうげもの」をめぐって武力と資本とアートな話




いわゆる日本的空気の問題、内部的規範(合理性)による外部的スタンダード(合理性)の不採用の問題というのはこんな感じで、農村部的な空気の問題というより江戸期の封建的閉鎖体制のおしつけとそれへの従順(内部規範的取り込み)が問題ではないかと思った。それとは別に以下はちょっと妄想したのでメモ的に。



「日本では陸のネットワークは一部の権力によって支配され閉鎖的になったのに対して海のネットワークを維持していたものは独自の情報網と人脈(貿易チャネル)、そこから生まれた冨を持っていた」

「中世的な社会的なイニシアティブの転換として軍事力とそれを統べる政治力(リヴァイアサン) から 財力(とそれに基づいた軍事力)のネットワークへの委譲がある(あるいは両者の拮抗)」


リヴァイアサンへの集中をベヒーモスが削ぎ、ベヒーモスが力を持ちすぎることをリヴァイアサンがけん制するという両者の拮抗の歴史は白田さんの以下に要約されていて分かりやすかった。


グリゴリの捕縛 あるいは 情報時代の憲法について


考えてみるとこれってシュミットの話からのものだろうか?(てか、シュミットのアレって一般常識なんかなぁ。。まぁそれはいいとして、ここでは国家的な力(リヴァイアサン)、経済的な力(ベヒーモス)に対抗するための手段としての情報力(そしてそれを守るための法的な縛り)が国家的に統合され情報やネットの広がりが監視と管理のシステムにされる危険性が「グリゴリの捕縛」という暗喩で表されていた。


それに対しておーざっぱに「政治」「経済」「文化」みたいな区分けができるとするとグリゴリっていうのは「文化」に当たるのかなぁ、と。中世日本の政治は侍とかそんなの、経済は商人とかだろうけど文化というとどの辺だろうと妄想するに天皇なのかなぁ、とかなんとか。もっとも天皇ももともとは武力をもっていて南北朝時代なんかにはもう一度武力をもって王権を奪還しようとしたみたいだけど(「異形の王権」)。

それとは別に天皇というのは日本版法皇とも思えるわけで、法皇的なアレは武を聖性によって逸らす」という擬制だと思うんだけど、日本の天皇の場合聖性を司る祭祀的な意味合いだけではなく元来は武力をもったものであり、またその権力の理由づけも「神さまから地上の代理者に定めてもらったよ」ではなく「ぼくが神様の直接の子孫だよ」ってものだったりする。なので、直接的な不満の矛先をそらすものとしては不十分なんだけど、リヴァイアサンが武家に握られるようになると責任の矛先をそらすためのダミー的なそれとして機能するようになる。

ここにおいて天皇の存在価値というのはダミー的なそれだけになったかに思えたんだけど、どうもそれだけではないのではないか。


天皇というシステムは聖性を司るお米司祭的なそれのみならず、聖性を含んだ一連の儀式もパッケージした日本文化における古風な形式の遺産っぽい。天皇家自体が人間国宝というかそんな感じ。


そこへの畏敬がどの程度日本的空気の涵養に影響を与えたのかなぁとか思うわけだけど、「責任を回避するためのダミー」的なしかけと封建的な制度が「お上というその場の規範に従っておけばいいのだ」的な気風を生んで合理的判断を自らする機会を逸しさせてきたのではないか。


そう思うと「グリゴリの捕縛」というのは天皇の捕縛であり、まだ荒ぶる大王的な性格をもっていた天皇の力が衰え自主的に武や決定をできなくなりつつもタテマエ的に「日本の王」として存在を容認されるようになったとき、日本社会全体の自律的な気風というのも薄れて行ったのではないかなぁ、とかなんとか。


まぁ、そゆのがあったとしても直接的影響っていうか時代的に相関してたって程度だろうけど。庶民とかその辺関係なさそうだし


そいや関連でこれ読まないとな


明治天皇を語る (新潮新書)
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明治天皇というのも天皇が再び歴史の表舞台に立ちイニシアティブを握る!的なアレであり、「異形の王権」なんか連想しながら読むと面白そう。




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あまり関係ないけどグリゴリっていうとなんかクリオネが連想されて「天皇≠グリゴリ≠クリオネ」で天皇がクリオネっぽくピヨピヨ泳いでるように妄想される



タグ:日本社会
posted by m_um_u at 08:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年11月29日

ハンマースホイ展に行ってきたよ

こないだ東京行ったときにハンマースホイ展行って来て、そんでついったにメモってたんだけどいちばん書きたかったこと(感じたこと)をかけてなかったなぁと思ってまとめておこうかと思って。

とりあえずハンマースホイ展はこちら


ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情  Vilhelm Hammershoi:The Poetry of Silence
http://www.shizukanaheya.com/


上野の西洋美術館でやってて12月8日までとのこと



以下、ついったのpostを中心に楽しちゃおう。最初のメモはこれ


メモ:肖像における印象派的実験@1890s(→プシュケー的輪郭?)→オランダの光的な光の取り入れ+遠近法実験@1990s→両者の総合としてイーダの肖像、ゲントフキ湖→光によるデフォルメを嫌ってか弱い光のモチーフ


メモ:光や正面からの画像だと表面にとらわれて実体が追えない。では光や輪郭をぼかしたところにある本質とは?



これだけだと個人的メモっていうか、人に会って話すときにこれを噛み砕いて話す場面を想像してたらなんかワキワキしてきて夜中につぶやいたのが以下



最初はおーざっぱな美術史的概説


絵画においてリアリティとはなにか?といったときにまず対象を忠実に再現するというのが頭に浮かぶ。それで写真みたいな表現(写実)が発達していったわけだけど

でも、それはあくまでも写真的なうまい「絵」であって、「うまい絵ですね」というとこが意識されてしまう。絵であって「あの人」じゃない 

翻ってあの人があの人として同定できるよすがとはなにか?あの人が歳を重ねて変化していってもなぜ我々は「あの人」を「あの人」として認識できているのか?


ただ写真のように切り取るのではなく「あの人」として認識(意味づけ)するためのよすがも含めて再現してこそリアルなのではないか?


アートの抽象への発展の動機の一つとしてそういうものがあった。ピカソとかジャコメッティとか



抽象画というのはそういったリアリティの本質的な部分(よすが)をつかみとり拡大したものだと思う。「よすが」の部分については哲学用語でなんかあったような気がしたけどいまちょっと忘れてる。。

あと、「写真のようにではなく」という部分は写真をやってる人からすると異論があるかも。写真でも撮り方によってはリアリティが写し撮れるし、撮る人によって写真に投影される意味が違ってくる。その意味では無色透明で客観的なものではない。

カメラや映画などといった新興メディアにおけるリアリティについてはベラ・バラージュあたりかな?
http://maromaro.com/archive/2003/10/12/19751924.php


んでもその辺はちょっと話がそれてくるのでこのまま進もう。抽象画はそんな感じで客観ではなく主観、単なる肉としての身体ではなく人間やモノを同定する際の本質的な部分を抽出し拡大したものといえるわけだけど…



でも抽象で表現していくと抽象(記号)にとらわれるというか、記号自体がオーバードライブしていく。記号をかけあわせた中に新しいリアルを創造していく遊び


そうやって築かれた世界はその文脈に慣れ親しんだ人にとっては先端的な「リアル」なのかもしれないけど、予備知識のない人にとってはガラクタとか宇宙人的な記号にすぎない


そういったものが普段我々が感じているモノや人、空気や触感、音や記憶と言えるのか?それは画家とそのサークルのルールに慣れ親しんだ人たちだけのリアルなのではないか?



本質的な部分を記号的に拡大し、「記号×記号」って感じで抽象な世界を拡げていくとその意味世界にとらわれるようになってしまう。サークル内用語というかジャーゴンというかそういう問題。

それはリアルを越えたリアル(ハイパーリアル)ともいえるけど、それでは当初の目的である「リアリティを描く」というところからは遠のいてしまうのではないか?


我々が見ている世界は具象でありながら意味によるテンプレートで認識されている。つまり具象と抽象の中間

ハンマースホイはその中間っぽい。抽象派よりは先だったので抽象的な手法に対抗してというわけではないのだけれど



われわれがモノや人を認識するときにはただ見ているだけではそのモノ(者)をそれとして認識することはできない。ストックしてある意味世界(スキーマ)にアクセスすることで世界は始めて色を持ち、そのもの(あるいは「あれ以外のもの」)として認識できるようになる。

この辺みると分かるのかな

分裂病の少女の手記【改訂版】:みすず書房
http://www.msz.co.jp/book/detail/02341.html


ハンマースホイはその中間、抽象表現を意識しつつもそこに逃げず(過度に抽象に遊ばず)に具象的な表現の中で抽象的なもの、事象の本質的なものを表そうとしている、と感じた。んでもそれはこのときの興奮も手伝ってということだったのかもしれない。

ちょっと好きになると過剰に相手を評価したくなる的なアレ。

なのでそこまでのものではなかったのかもしれないけど、そういう可能性もあるなぁというか、少なくともそのときにそこまで想像を膨らませる材料になってくれた。

で、以下は上記の線に沿った彼の作品の謎解き



彼の絵が顔を描かないようにしていた時期があったのは人を描写するときに見た目の義体にとらわれないようにするために思える。顔は表面的な情報の集積地だし


「義体」というのがわかりにくいかもだけどこれは攻殻機動隊用語で機械でできた代えの体ぐらいの意味合い。オレも体は物質的で表面的なものに過ぎないと思ってるので「体=義体」的感覚がある。

「顔は情報の集積地」というのは経験的に分かることだと思う。顔がすべてではないけど身体の中でもっともその人の人となり(あるいは生きられた経験)が分かるのが顔のように思う。

しかし「顔」というのは同時に美醜の価値観が投影されるところなので顔にとらわれすぎてるとそのひとの本質が分からないだろうなぁ、という話。

なので顔を消す



んでも足りなくて人を消した状態まで行き着く。人がいない状態で人の痕跡を表そうと(そこに人を同定するときのよすががあるので


そうこうしつつ自然やモノ自体の空気感、全体的なリアリティを表そうとしていく。んでそこで得たものを肖像というか人物画に応用していく


手法にとらわれそれが前景色化しすぎないように。画家の自己満足にならないように(依頼ものなのであまり遊ばず写実ってのもあったかもだけど



「前景色化」というのは「前のほうに来てそれのみがスポットライト浴びて目立つぐらい」の意味で。「顔を消している」とか「後姿」とかそういったものは本質をよりうまくとらえるための工夫でありデフォルメ(写実の解体+本質的特長のクローズアップ)であるわけだけど、デフォルメ的表現への評価が高まってそれに応えてるうちに自分がその表現に囚われてしまわないように(記号遊びに終わらないように)。



妻であるイーダの肖像はそうやって得た経験、手法の総合的なものだった。写実でありながら写真的な写実以外のもの(時間や記憶)を表現。酷薄なまでな写実にしつつもそれが露悪的にならないように


イーダの肖像というのはこんな感じ
http://nunocha.exblog.jp/9864260/

遠目でわかりにくいかもなんだけど年をとったほうのイーダの肖像は目の下のクマとか血管、首のしわ、特に梳かしていない髪の様子といった老衰や生活の疲れのようなものをそのまま写し撮っている。そういうのは女性にとって隠したい部分だと思うんだけどそのままに。

あと目の表情。すこし冷めた夫婦であるような印象を受けるんだけど、でもこれが日常というか、ほんとにふつーなんだろうなぁ。

出展用に愛とか美とかで演出するのではなくあくまでもふだんの生活の空気感であり温度のようなものを表現したのか、と思った。これを見てるとイーダとハンマースホイの会話のテンションなんかも想像できるし。


で、そういったリアリティを意図的に表現する場合、「疲れ」とか「経年」などをクローズアップしすぎて、場合によっては露悪的ともいえるぐらい過剰になってしまうこともあるように思うのだけど、この作品ではそういった欲が統制されていたように思った。

それまでの肖像のように実験的な要素もなく、それまでつかんだ手法で必要なものだけを最小限選択してつくられた表現。


それで肖像についてはこの作品で完成したように思ったんだけど


その後モノや光、環境全体の中でどのように人間存在は影響を受け調和していくか、ということを追って行ってたような…同じ構図だけど時間が違ったり、それ以外にも存在を構成すると思われる要素が変えられていた



暗がりの中での表現とか、遠近法とか光の加減とかをもうちょっときちんととらえて表現できないか、とか。そういうことを思っていたように感じた。


風景画についてはゲントフキ湖の天気雨を描けた時点で完成か、と。あの曇り空の中での光と影の質感、風の感じは出せないよなぁ。。あと、「われわれのリアリティというのは輝くような光でもなくかといって真摯なまでの闇というわけでもない。その中間」、的なことを感じさせた。



それで、こういった作品解釈とは別のところで個人的にちょっと感じるところがあってすこし涙が出た。「イーダの孤独」ということ。

「イーダの肖像」でこの夫妻の生活がなんとなく想像できたんだけど、冷め切った夫婦関係の中でその後もモデルとしてのみ利用されていく(それを許容する)イーダの気持ちってどんなだったんだろう?って思って。

というよりも普段の生活のなかでイーダはあの部屋から出ることがあったのだろうか?とても限定された自由だったんじゃないか?とかそういう…。

そんなのあの時代の女性の大部分がそうだったわけだしふつーのことなのだろうけど。そして「冷め切った」というわけでもなくことさらに不幸なわけでもない、ふつうの夫婦のあり方としてあるものだとも思うんだけど、一度そういう風に思ってしまったらなんだか勝手に想像が膨らんで泣けてきてしまった。




そんなことを思ったのでした

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2008年09月02日

ケータイ小説的無名空間の可能性について(メモ)

文化系トークラジオlifeの「地方」の回聞いてたら最近の関心にフィットするところがあったのでメモ的に。

「地方」絡みで地方のリアリティ−ケータイ小説的リアリティと来て速水さんな話


ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち
速水健朗
原書房
売り上げランキング: 3121
おすすめ度の平均: 4.5
1 著者の思いつきに過ぎないのでは
5 「コミュニケーションの檻」が生み出す「物語」
5 ケータイ小説の思想
5 久々にセンス・オブ・ワンダーを味わった
5 間違い無く楽しめる!



(読んでないけど)「地方のヤンキーのリアリティはケータイ小説の中に存する」って話だったみたいなので。

そこで共有される言葉やイメージは貧困なものだけど貧困であるがゆえに間口が広い、と。たとえば専門用語的なものが少ないほど共感は呼びやすいとか…(対話の両者が思ってるイメージは違っても会話の糸口としては機能する)。そして無名であり匿名であるということ。


「無名で匿名な言説の可能性」。2ch的空間の可能性でも語られることだけど、当人が無名な立ち位置にあることによってポジショントーク的なところに話が流れないで純粋に双方の意見交換ができる、って可能性。社会的立場から自分の所属してる組織を擁護する必要がないし、言い合いに負けて当人の沽券とか面子みたいなものが潰されてもプロパティ明かしてるわけでもないので(基本的には)その場限りのこととして済ませることができる。つってもしばしば口汚くはなるのだろうけど、その辺は川原の殴り合い的なアレというか…(>「全力で殴りあった後の友情」的な)

そんで、こういうのは公共性関連の理想論でいえば「社会的階級や性差などといったステータスの違いを障壁としない平等な対話空間(への参加可能性)」ってことになる。

そゆのが匿名的なものには期待されてるように思うのだけど、ケータイ小説的空間にもそういうものが生まれつつあるのだろうか?ケータイ小説の空間というのはギロンとかそういう空間ではないのだろうけど、びみょーなリアリティの共有とか共感とかそういう感じで。そしてそういう空間は現代のメジャー的な言説空間(既存のマスメディア的なそれ)からはこぼれてしまいがちなリアリティというか気持ちを救い上げていってくれているのだろうか…。

ただし、そういったケータイ空間も商業的にまとめられ拡大頒布(コモデティ化)されていく。


この辺の話。「リテラシーの足りない層にはそのためのコミュニケーション空間が必要」とか「んでもそれは商業的にステレオタイプ化されてるから(出版人はもうちょっと責任を感じるべき)」って話は「ベストセラーの構造」(中島梓)にも出てきていた。

詳しくは(たぶん)項を改めて書くとして、さわりだけいうと「ベストセラーの構造」の主題は「最近、活字離れと言われているがいわゆるベストセラー的なものは売れている。活字離れというのは一部の人が"読むべき”としている本が読まれていないだけのことではないか?ベストセラー的なものへの需要はもっと尊重されて良い(過大評価すべきではないが)」的な話。そんで、そういう「ベストセラー」を必要とする層というのは自分の言葉で自分の必要とするものがイメージできない層、上流層としての社会的責任を負うのは嫌うが下流層は見下している中間層的な人々である、と。

この辺は「公共性論」(稲葉)にも出てきた無責任な中流層って話ともリンクする。あとは仲俣さんとこで出てた「ベストセラー」→「書店の書棚が自己啓発とかな画一的なものに覆われていく」問題とか。

ただ、この手の視点だとリテラシーのない中間層=害悪みたいな感じになって心苦しかったんだけどそういうのに対して「無名の人々の言説空間にリアルな言葉の交流の可能性を見る」というのはなんか希望が持てるなぁ、と。

こういう話はケータイ小説だけではなくblogとか増田とかにも通じるか。

ただ、そこでもケータイ小説的な問題と同じようにベストセラーの構造のようなものがでてきているのだろうけど。「注目エントリをチラ見 → 内容は理解せずに自分の欲しいイメージだけ吸収(あるいは自分の狭いリアリティによって対象をスポイルする) → 自分の考えを後押ししてくれるような心地良いエントリを好みその言説を自分のものとして取り込む」みたいなの。もしくは特定人物をゲーノージンみたいにあがめて過大に期待とかね。


そういうのみてるとアホらしくなってくるけど、まぁ関わることなくのんびりとやっていこう



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2008年02月08日

ぼくらはもう一度物語を紡げるのだろうか?

以下もともとミクシに書くつもりだった感想というか映画見ながら思ったことなのでけっこうてけとーながら印象論とかメモってことでw


バベル スタンダードエディション
ギャガ・コミュニケーションズ (2007/11/02)
売り上げランキング: 2756
おすすめ度の平均: 3.5
3 磯臭い存在感
4 コスモポリタン映画
3 製作にも「バベル」がある




ちゃんとした感想はカトラーさんとこの見たほうがいいです


カトラー:katolerのマーケティング言論: 映画BABELと9.11をつなぐ世界共時視線



ちょっと前から、「一部の人はタテマエとかギゼンとかそういうの嫌って引っぺがすことが好きなんだろうけどそれってどうなんだろう」、みたいな関心があってその辺が再帰性うんぬんと絡んだり。


再帰性 - Wikipedia

社会学で、対象に対する言及がその対象自体に影響を与えることをいう。



再帰性とは - はてなダイアリー

選択肢自体が選択の前提となる自己準拠」のこと。

* 「AだったのでBになる、だったのでAになる」というような循環。
* 社会学者アンソニー・ギデンズの用語(reflexivity)。宮台真司もしばしば使用する。



なんらかの概念が自己準拠(言及)的に作られていく過程ということみたい。

たとえば、「Aldays〜三丁目の夕日」とか見た人の中に「昔はよかった」みたいな言い方する人がいるみたいだけど「昔」ってそんなに良いものだったか?、とか。


三丁目の夕日(が描かない昭和30年代) - 深町秋生の新人日記


「昔ってほんとはいまよりも汚れててタフだったはずなのにね」、と。んでここから「“よかった”とされる”昔”そのものが再帰的に作られているのではないか?」って話に繋がったり。

そんでともするとありもしない理想やら概念、幻想やらが膨らんでいっちゃったりする。(国家とかナショナリズム、自由、平等、権利とかそゆのに顕著。あと恋愛、家族、子どもとかもか)



近代とか国家とかそういうのも元々どこにもないもので再帰的に作られたものなのだろうけどこの辺はギデンズあたりに書かれてるのかな(未読(さっさと読め、と....


近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結
アンソニー ギデンズ Anthony Giddens 松尾 精文 小幡 正敏
而立書房 (1993/12)
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おすすめ度の平均: 4.0
5 いまや説明不要のギデンズのグローバル化論
3 なるほど!




ちなみに「近代」ってのはこんな感じ


第6回 近代(モダニティ)とは何か:社会メディア論

ポスト・モダンとは、近代の「後」という意味です。この言葉を流行らせたのは、フランスの哲学者リオタール(ジャン=フランソワ・リオタール)という人ですが、およそこんなことをいっています(『ポスト・モダンの条件』1979)。〈学問を通じて、人びとは唯一の真理と正義に向かって進歩していける、と信じていた時代、これが近代だった。いまでは、そんなことはもうだれも信じなくなっている。私たちはいま、ポスト・モダンの時代に生きているのである〉。

彼の考えでは、近代とは、「理性」と「進歩」と「真理」とを信じていた時代です。人間が理性でもってきちんと考えれば、正しい答えが得られる。その正しい答えである「真理と正義」のほうに向かって、人間も社会も進歩していけるはずだ、と皆が信じていた。リオタールは、こうした信念を「大きな歴史の物語」と呼んでいます。そして、現代を、「大きな物語」が壊れ失墜したことによって、特徴づけるのです。



つか、制度と規律(ディシプリン)の構造こそが近代ともいえる

近代社会とは何か



そゆのは「抑圧の構造」ってことでひっぺがしてきたのがポストモダン的風潮でタテマエとかギゼンとか気にする人もそういう風潮の影響を受けてるのかな、とか思う。「よくわかんない抑圧があるなら規律なんか要らない」、と。

つか、大きな物語を守ることによって得られるはずだったものが得られなくなってしまったのと相まって自由が暴走してるのかもしれない。(「自由」とか「平等」とかも近代の擬制なわけだけど)



でも、大きな物語がなくなっても人は小さな物語を欲するものだったりする

”我”の対照勘定 - はてブついでに覚書。

世界はこうなっている、という素朴な物語、

世界はこう統べられている、という信仰

世界はこうあるべきだ、という思想

そういったものたちが無根拠であるとか科学的でないとか、

論理的に矛盾しているとか、

そういうことに自覚的である、そういう批判が出来ることが現代的な知性である、

ということだけれども、

人間、そういうものをすべて取り去って

大量の不可知を、不可知のままで保留したまま

それが知に対して最も誠実な態度だかなんだかしらないけれど、

そうやって、

でも生きていけるものではない。




「動物化」ってのもそういう過程で出てきたものなのだろう


muse-A-muse 2nd: オタク世代論と文化消費の変容 (「動物化するポストモダン」)


人は物語の空白に耐えられない (がゆえにベタなロマン主義にジャンプしてしまう人もいる)


muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム




ポストモダン的風潮としては昔ながらの風習とか所作とか慣例、そゆのも「作り事じゃん」ってことで「ひっぺがせひっぺがせ」ってなったんだろうけど、それでも人は物語というか目標のようなものを求めるものだし、擬制としての概念もそれなりに機能していれば有効なものなのだろう。むしろそういう概念を擬制と自覚しつつ操作・活用していくほうに関心がある。

(その意味ではこの辺とかも絡むか)

斎藤英喜『読み替えられた日本神話』 - Sound and Fury.::メルの本棚。

いわゆる「国民国家」批判の類の論文にありがちなタイトルなので、あまり期待せずに読み始めたが、これがかなり面白い。本書は、バカでもできる「国民国家」批判*1の本ではない。むしろ、神話をそうした近代国家批判の中でしか捉えてこなかったことへの批判がある。

神話は各時代にいろいろな読まれ方をしてきた。そして、神話を読み替えたのは、何も近代に限ったことではない。神話を読み、そこから自分たちの手で新たな神話を生みだす。そうした人々の豊饒な想像力に驚かされる。著者は、あとがきのなかで触れているように、中世に生みだされた自由奔放な神話に注目している。しかも、中世の人々は単に荒唐無稽な神話を生みだしていたわけではないことにも注目している。神話の書き換えが、中世ヨーロッパに通じるような「神学」とも呼べる知的営為であったことを指摘しており、思想史的にも非常に興味深い。



Passion For The Future: 読み替えられた日本神話

だが、神話を創作の素材に用いるのは、千と千尋の神隠しやもののけ姫のような、現代のアニメ作品だって同じである。みんなが知っている話だからこそ、その続編を作ったり、同時代的要素を盛り込んだ別バージョンを作ったりすることが楽しいわけである。そうした楽しさに中世の人々は浸りながら、自由奔放にもうひとつの神話を作り続けた。そのクリエイティビティを、偽物だからなかったことにするというのでは、あまりにもったいないではないか、見なおそうというのがこの本の執筆の動機。

日本神話は日本人に本当はどう読まれてきたのか、実は今でいうCGMのネタとして親しまれてきたのじゃないか?という新しい視点を与えてくれる興味深い研究だった。



「やさしい嘘」っていうか「嘘も方便」っていうか





そんで「BABEL」の話に戻るけど、この映画をみつつなんとなく思ったのはこれも共通の言語・物語・理解がないところでのディスコミュニケーションの話だってこと。そういう中でも世界は繋がってるからお互い干渉していく。つか、覇権の影響で一部の人の影響力がやたら強かったり。アメリカ人が一人撃たれただけで国際問題的な大騒ぎになったりする。

「BABEL」ってのは、昔は言葉がひとつしかなくて人間みんながコミュニケーションできたんだけど、あるとき天まで届く塔を作ろうとしてその傲慢さに腹を立てた神様が人間の言葉をバラバラにしちゃった、っていう例の逸話に基づいてるわけだけど、この映画における「BABEL」は大きな物語なのかなぁ、とかなんとか。大きな物語っていうか希望の素っていうか、「公正」とか「進歩」とか「自由」とかそういうのが失われた世界の中でディスコミュニケーションとそれによる悲しみだけが膨らんでいってそれぞれの地でそれぞれの人々が傷ついていく。

ふつーこの手のバタフライ効果的な話はなんかいいことが連鎖してったりするものだと思うけどこの映画の場合は最後までぢみ〜に暗かったり。

んでもカトラーさんとかjack_all_rightのアメリカ人の友人とかはこの映画のラストに希望を持てたみたい。

んで、てけとーに見てた映画のラストをもっかい見てみた。そこでは家族の再生のきっかけの様なものを表されていたように思った。「世界がみんな理解しあって協力して(うんぬん)」みたいな大きな物語へ繋がることを期待しているのではなく、「とりあえず自分の足元の物語を作り直そうよ」って言ってるような。


とりあえずぢみに足元から共生の可能性を見出していくこと。「理想の家族」とか「理想の国家」とかそういうのに縛られるんじゃなくて、自分達が生きやすくなるように物語を作り上げていくことができるんじゃないか、とか。そういうことを思ったわけだけどそういうのは難しいのかなぁ。。



--
関連:
歴史の終わり - Wikipedia

※とりあえずいまの状態をもって「歴史の終わり」(資本主義の勝利 - 近代の完成)ってことはないのだろうな、とか思った
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2008年01月30日

オタク世代論と文化消費の変容 (「動物化するポストモダン」)

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
東 浩紀
講談社 (2001/11)
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おすすめ度の平均: 3.5
5 L'Arc~en~Ciel is the best japanese band in the world.
4 「面白い見方」をしていると思う
3 あまり心を打つものがないというか、、、



 「せっかく読んだしちょこちょこ言及することもあるかもしんないからいい加減これをまとめとかないとなぁ」とか思いつつうにうにしていたところたけくまさんのところに関連エントリが上がってたので端緒にしてしまおう。


たけくまメモ : オタクはいつから差別されていたのか?


 たけくまさんとこの話は「オタクって言葉ができる以前にオタク的な趣味を持つ人々は差別されていたか?(「オタク」って言葉が差別を助長したように思うけど)」みたいな内容。つか引用しとこう

俺がもともと考えていた仮説としては、

「おたく(オタク)という言葉は、1983年に中森明夫によって“差別用語”として作られた経緯があるが、当初それを使っていたのはもっぱらオタクたち自身であり、長らく“自嘲語”として使われていた。これは現在の“腐女子”という語の流通過程に似ている。世間一般は、オタクという言葉を長らく知らず、従って“こいつはオタクだ”という理由で差別されることはなかった。

事情が変わったのは89年に逮捕された宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件からである。事件そのものと数千本のビデオに囲まれた犯人の自室の異様さを、どう形容すべきか困っていたマスコミが“オタク”という言葉を発見し、これを差別用語の意味合いでさかんに使い始めた。ここから、本当のオタク・バッシングが始まった」

というものでした。つまり、「性格が暗い」とか「運動が苦手」といった性格がもとでいじめられることはあったのかもしれないが、少なくとも「オタク」というカテゴリーのもとで差別されることは90年代以降(宮崎事件以降)の現象だろう、と考えていたのです。


 この辺オレも似たような印象だったので納得。そんで結論としては「オタクって言葉以前はそういう趣味持っててもそれほど迫害されてなかったみたいよ」って感じだった


たけくまメモ : オタク第一世代の証言から


 この辺はfinalventさんなんかもびみょーに反応してはったな(同意っぽい(「わたしはオタクではない」ってゆうてはるが)


オタクとか - finalventの日記



 オタク世代論みたいのが出てたので本書で得た知識をまとめとくとオタクには大きく分けて三つの世代があるそうな。すなわち

(1)60年代前後生まれを中心。「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」を10代で見たオタク第一世代

(2)70年代前後生まれ中心。先行世代が作り上げた爛熟し細分化したオタク系文化を10代で享受した第二世代

(3)80年代前後生まれ中心。「エヴァンゲリオン」ブームのときに中高生だった第三世代

 この分類に従うとたけくまさんが想定してるのは「オタク以前」ってことになるのだろうな。つっても「オタクって言葉以前にオタク的趣味をもっていた人に対する差別・蔑視的なものがあったかどうか」ってのが主旨なわけでたけくまさんのエントリに対してはこの辺の分類はあまり意味がないとも言えるけど読書メモってことで。

 関連でちょっと思うのはアメリカのgeekとかnerdとか。オレはよく知らないけどポール・グレアムって人ががちょこちょこなんか書いてはるね。


オタクが人気者になれない理由 by Paul Graham

 あっちは昔からマッチョが好まれるみたいでヒョロっとした青ひょうたんタイプはそれだけで疎まれる、みたいな印象があるけど最近だとそこに日本のオタクカルチャーが融合してなんかなってたりするのかな?「nerd」から「otaku」へと指標が変化してるっていうか・・だからといって視線の内容が変化してなければ意味はないわけだけど。。
 
 この辺は日本とアメリカ、諸外国の違い・・っていうか、「いじめ」や「疎外」「差別」をめぐる違いにも関わってきそうなのでびみょーかな。友人のらくだオランダ人はモロにオタだけどそれ関連でいじめの話って聞いたことない。(つか、いじめ自体がない、みたいな話だったけど)


むーたん:いじめの国際比較的お話 (日本とオランダ)



 たけくまさんのエントリと関連して思うことはだいたいそのぐらい。ほかに「オタクの世代論」関連だとついったーで「オタクというのは新しいもの好きを意味するものになっているのかな」みたいなつぶやきがあったのが気になった。

 オレの認識だとオタクというのはある文化領域に対してムダともいえるぐらい偏執的な理解をもっていることが前提なはずで単なる「新しいもの好き」ということにはならないはずなんだけど。もしこの「新しいもの好き」というのが過去の文脈(それぞれの作品をつなぐ文脈・歴史)を捨象した「新しいもの好き」ということだとそれはオタクなのかなぁ、とか。そういう話は本書の課題でもあったな。(ウロ覚えだが)「第二世代までは第一世代の遺産を引き継いでいたけど第三世代(あるいは第四世代)からは過去の歴史の相続とか無視して自分達の好きなように作品を解釈・消費してる」みたいな話。そんでこの「文脈を無視して好きなように消費」してるって話が本書の中心概念である「データベース消費」って話に繋がってくる。

 簡単に言うと「(製作者の想定した)作品メッセージを無視した自由解釈(消費)」ってことなんだけどその際の消費の基準(指標)となっている部分がパッケージ(物語)ではなくモジュール分化しているって話。

 その前に「大きな物語」的消費の例として本書にも出てきた大塚英志さんの「物語消費」って話から説明する。だいたい以下のようなのが「物語消費」

 コミックにしろ玩具にしろそれ自体が消費されるのではなく、それらの商品をその部分として持つ<大きな物語>あるいは秩序が商品の背後に存在することで、個別の商品は初めて価値を持ち消費される。このような消費行動をくり返すことで初めて自分たちは<大きな物語>の全体像に近づけるのだ、と消費者に信じ込ませること


 んでビックリマンシールのような商品のコンプリートが目指されるらしい。そんでコンプリートして<大きな物語>(プログラム全体)を手に入れちゃうとそれに即して各自が<小さな物語>を作り出せるようになる、と。ビックリマンで言えばコンプリートは772枚だけどその先の773枚目を作ったりドラえもんの最終話を作ったりとかもそんなんか。

 こんな感じで物語の「設定」とか「世界観」を消費する消費形態が「物語消費」って呼ばれているものみたいなんだけどこういった消費形態では説明できないような消費形態が出てきた。「萌え」とかそんなん。この辺が「データベース消費」って話に繋がってくる。

 80年代のオタクが作品の内容やその背景である「大きな物語」を重視したのに対して、90年代のオタクは作品の内容や設定などは重視されない。その代わり「猫耳」とか「尻尾」、「メイド服」「巫女服」などといった「萌え」の対象となるようなパーツが重視する。極論すればそういったパーツの総合としてのキャラクターが提示されていれば作品の内容などどうでもよくて自分達で妄想するので「萌え」パーツをセンスよく組み合わせたキャラを提示してくれ、ってことになるみたい。そんでそういった「萌え」の対象となるパーツがデータベース的に記号化・網羅されそういったデータベースの中から自由に組み合わせてキャラを妄想していくところからこのような消費形態は「データベース消費」といわれる、と。


 ポイントは「文脈・内容(メッセージ)ではなく萌え(自由解釈)」ってとこ。批評理論からすると作品(テクスト)をめぐる審級が製作者側からユーザーに移ったということで真によろしいことではないか、って気もするけど先行エントリの「意味から強度ですか?」って話とも絡めるとびみょーな感じがする。

 作品の内容についてもなんとなくの了解がある上で萌え的解釈をしているんだったら豊かな消費ということで真によろしいですねとか思うんだけど、内容がわかんないからてけとーに萌えてるってだけだともったいないなぁ、というか記号空間(文化)が貧困になるだろうなぁ、とか。自由解釈といいつつそれってhackっていえるのかなぁとかなんとか思ってしまう。(まぁ、どっちにしても消費は消費なわけではあるが)


 本書の結論的なものとしてはコジェーブなんか引きつつ、「所与の環境(自然)を否定・開発できないのは人間ではなくて動物だね」みたいな話になってた。意味よりも欲求を重視しその欲求に留まるというところで動物だね、と。(cf.世界の中心でアイを叫んだケモノ)


 でも、そこまで人間の実存的にヤバイって問題でもなくて単に記号空間、文化が貧困になってくことが不安だったり。あと、反省しないしね。反省せずぼけーっとそれを消費するに留まる。そういうことを危惧するのは東的な視点と同じか。


 あと、この手のキャラ萌え、「物語ではなく配役ほか部分的なところを重視する」みたいなのって人気俳優やアイドルが出るドラマや曲、あるいはアダルトコンテンツへの嗜好なんかでも同じですね。後者は「エロの敵において問題視されてたけど。(「DVD化によってシーンごとの飛ばし視聴ができるようになって作品全体の内容(物語)よりもそれぞれのシーンごとの見せ場が重視されるようになり、それがためにコンテンツの過激化が進んでいる →」 タレントの体が心配)


 関連で、前についったーで「(データベース消費では物語は関係ないっていうけど)初音ミクで暗黙に共有されている物語ってなんなんでしょうね?(どっから来たんでしょうね?)」って話したけど、振り返って考えるに初音ミクはツインテールとかネギとかな萌えパーツ(小さな物語)の組み合わせでできたキャラであり、キャラ(大きな非物語)先行で設定(大きな物語)が駆動して行ってる訳だから典型的なデータベース消費の落とし子だよな。。この辺はまだ本書をきちんと読んでなかったので仕方ないか。
 
 あとは本書後半を読んでいたときのつぶやき(つか愚痴)

 ちょっと荒いのでアレだけど、「データベース消費的な組み合わせ的な独自な物語解釈の仕方はデータベース消費という言葉が現れる以前にほかの場でもあったのでは?(そしてそれはモジュール論と接合できる)」というのはいまでも問題意識としてあるし、本書における「シミュラークル」という用語の曖昧さへの苛立ち、全体をラング / パロールなんかも含めた記号体系とし表したほうが分かりやすかったんじゃ?って意識は変わってない。

 この辺は「文化の発展によって分節化が進んでいくんだよ」ってことであり「システムが飽和することによってサブシステムが生まれていく」ってことだからルーマン辺りと接合できるように思うけどちょっといっぱいいっぱいなので今回はこの辺で。



--
追記:
有村さんがついったーのつぶやきからエントリ起こしてたみたいだからTB送っとこう

アップトゥデートなものを追い求めるばかりがオタクではない - HINAGIKU 『らめぇ』

主旨としてはほとんど同感。ただタイトル「アップトゥデートなものを追い求めるばかりがオタクではない」ってところにちょっと違和感。繰り返しになるけどむしろ文脈(や歴史)重視こそオタクというものだと思うので

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2008年01月27日

「意味から強度」? (形式と内容について(序))

1つ前のエントリ(内容から形式へ)関連で。最近見たものでちょっと思ったことがあったのでメモ程度に。まずはこれ


退廃芸術を世界から追放するのだ - Discommunicative

恋空が本当に面白い、冗談ではなく - Discommunicative


「ガキがてけとーなこといってるだけなので捨て置け」的な内容ではあるし別に怒っても意識してもないのでどーでもいいっちゃどーでもいいのだがこういう界隈の人々のリアリティというのについてちょっと興味がある。おそらく「意味から強度へ」であり「内容から強度(面白さでありインパクト)」ってことでその元になってるのは「個人の嗜好・価値観は自由じゃないですか!(解釈は自由じゃないですか)」 → 「全てがフラットなんですよ」的な考えだと思うんだけどまぁゆとりって感じかなぁ、とか。

 eigokunにしてもそうだけどこういう界隈の人々のおそろしくゆるい認識(+自分のゆるい考えが個性的だと思ってる甘さ)は見ていて眩暈がするけどそういった眩暈そのものが売りだと思っているのかもしれない。もの珍しさ的に見ている人も多いのかな。よく分からない。

 あるいは、分かりやすい言葉、自分達にも分かるような断片的な言葉で一足飛びに真理のようなものを語ってくれるところに共感するのかも。まぁ、サブカルって感じだけど。

 大部分はネタ的にやっているということなのだろうけどそこにも面白さを感じない。極めてお子様的な瞬間芸(芸というかギャグ?)みたいな印象しかない。それはそれでおもろいけど・・まぁ、その辺はいいか。


 おそらく「恋空」にしても村上隆的アート(?)にしても、それを擁護する際に言いたいのは「それぞれのリアリティがある(ゲージツに貴賎はない)」的なことなのだろう。それ自体は合ってると思う。極めて断片的だと思うけど。この辺みても「恋空」が一部の人たちにとってはリアルなものだってのは納得だしね。


女子高生のリアリティ


 てか、そういった「それぞれのリアルなんだよ」的な話も分かっていたんだけど。ハマサキアユミやコーダクミが好きな人の中にもその歌詞のリアリティに共感してる人がいるわけだしね。それ自体はそういうものだろうなぁというぐらいの感想しかない。スイーツ(笑)な人たちも実在するみたいだし。

 村上隆的なジャンクを好みそれに高い金を払う成金たちもそういったリアリティの元に生きていて、自分達のリアリティを社会的に価値付けたいから高い金払うのだろう。彼らにとっては払える金額なわけだし。「自分達の好きなもの(素晴らしいもの)」なわけだからその額払っても良いと思えるわけだし。


 ただ、そういったものをもって「文学」だの「おゲージツ」だの言われるのは違和感。何も「高尚なアートさまが穢れるじゃないか!」とか言うつもりもないんだけど真面目に芸(arts)を積んだ人々の技芸の結晶として成り立っているArt(作品)というものが存在する。いろいろな知識や技、物語の集積としてのArt。そういうものといままであげてきたようなものは明確に違うのではないか?だって情報量が違うもの。それにかけたコストも違うし。そういう技を見るリテラシーがないのに、「全ての創作はフラットだ」、とかいうのは失礼なように思うが、まぁ別に表現者さまの代表になろうとかそういうつもりもないのでこの辺で。


 思うのは再び「意味から強度」って辺り。

 「内容ではなく面白さ(インパクト)」は60sの形式主義への反省から始まった「反省としての無反省」だったということなんだけど形式主義への反省として始まったはずなのに結果的に形式主義を招いてしまった皮肉。で、ゆとりが「面白ければいいんですよ(強度があればいいんですよ)」とかいい出す始末。そういう流れを見ると「反省としての無反省」ってのは北田さん独特の歴史解釈に過ぎないのかな、って。みなさん消費的記号の流れに身をゆだねていただけなのではないか?より良い商品を求める過程でコンテンツはどんどんスモールパッケージ(分節化)していき結果として「物語」的な重いもの(時間を食うもの)がはずされていっただけなのではないか、という気もしてくる。

 「より多くの文脈を必要とするようなおゲージツは重すぎて時代に合わない」、ということなのかも。そゆのはおゲージツの分野だけではなくオタクコンテンツにも見られるみたいだしね。お金はあってもリテラシーや時間が足りない。

 対抗先のないサブカル(≠カウンターカルチャー)は規範なきスノビズムとなって記号の海を遊覧する。あるとき大海の中の木っ葉であることへ不安を覚えて安易な物語にすがろうとする、か。とですけなんかはそういうのに縋りそうもないけど味音痴で刺激たっぷりなものが好きっぽい。激辛カレー好きのOL舌( >岡崎京子好きだしな




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追記:
 「歴史的に新しい技芸が認められるときはそれまでの文脈なんかないわけだから一目で人を惹きつけるに足るインパクト(強度あるいはアウラ)が必要」って話も分かるんだけど文脈が構築されたものと強度系で測るしかないものをまぜこぜにして語るのはどうかと思うよ



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関連:
松岡正剛の千夜千冊 『反解釈』スーザン・ソンタグ

※「形式と内容」関連で。まだ読んでないしソンタグってびみょーなところもあるみたいだけど [あとで読む]

スーザン・ソンタグ著者 「反解釈」

憂愁書架: スーザン・ソンタグ『反解釈』


Twitter / m_um_u: この辺四度いたほうがよほどためになると思うけど・・観測...

※Artとお金、あるいはArtをArtたらしめるシステムについて。未読

タグ:art 文学
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2008年01月13日

論理的思考様式と詩的思考様式 (アナログ的思考の可能性、「魂の座」ら辺)

 mixiで書いた内容をもそっとブラッシュアップして自分用の課題リストでもくっつけたエントリを仕上げとこうと思ったんだけどいざやるとなるといろいろめんどくさくなってきたのでついったーでてけとーにつぶやいた次第。

 んで、めんどーで無精なのでそれをそのまま貼り付けちゃうよ♪


 その前にミクシで書いたのもいちおリンクしとかないとフェアじゃないか・・(つか、あまり晒したくもないのでついったーでもリンクしなかったけどまぁいちお)

[mixi] 自動筆記(全体)的思考と論理(分析)的思考、文字的記憶と図像的記憶、意識と無意識 ら辺 (仮)


 んじゃ、以下ついったーの内容。(※書籍部分の説明など一部追加)


ミクシで書いた内容をさらに短く要約すると「論理的思考法あるいは記憶術、情報処理技術というものができることによってそれ以前の全体知のようなものが失われてしまったのではないか?」って問題意識。全体知って言い方だと少し語弊があるか。分析(要素還元/デジタル)的思考に対するアナログな思考

思考様式、記憶、認識の経路、意識のあり方、情報処理の方法、情報の流れ、情報編集術、・・大体以上のような領域が絡むか。きちんとやる場合それぞれの領域について最低5冊は必要かな

おーざっぱに全体を見る場合はシステム論的に情報編成のあり方を見ることができるように思う。コンピュータのアナロジーとシステム論を対照化させることである程度それが可能なように。端的に言えば、コンピュータ的に再現できるようなものでなければシステム論(ネットワーク論)の完成形とは言えない

しかし、論理的思考によって現せない部分があるっていいつつ論理によって系を刻んでいくというのは自己矛盾っぽいものがありそうな。そういう系をつくることによってこぼれていくものがあるだろうことがちょっとした懸案。システムはゆらぎ(全体性)をデザインできるか、ってのにも通じるかも


とりあえず、現時点での課題図書としてはコンピュータアナロジーとして「心はプログラムできるか」

心はプログラムできるか 人工生命で探る人類最後の謎 (サイエンス・アイ新書 31) (サイエンス・アイ新書 31)
有田 隆也
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おすすめ度の平均: 3.5
5 遠い先に何かが見えてくるようなわくわく感がある
2 サイエンス・アイのカテゴリーでは、工学?



lifeで鈴木謙介さんがおすすめしてたもの。人工生命関連らしい。「再帰性」などの社会学用語なんかを理系(あるいは情報工学)的観点から説明したらどうなるか、とかやってるらしい。



ブルーバックスの「脳科学の最前線」シリーズ
http://q.hatena.ne.jp/1182091564

「脳科学」って言葉がびみょーそうだけど概説として。


てか、こっちか

脳研究の最前線(上巻) (ブル-バックス)
理化学研究所脳科学総合研究センター
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脳研究の最前線(下巻) (ブル-バックス)
理化学研究所脳科学総合研究センター
講談社 (2007/10/19)
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 これもlifeでおすすめってたもの。脳と記憶(あるいは認識、意識)の関係で。




意識(サイクロン)の中心―内的空間の自叙伝 (mind books)
ジョン・C. リリー 菅 靖彦
平河出版社 (1991/01)
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人工生命―デジタル生物の創造者たち
スティーブン レビー Steven Levy 服部 桂
朝日新聞社 (1996/03)
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おすすめ度の平均: 4.5
4 人工生命に挑む先人たちの足跡
5 おもしろい!!





 渡辺センセのところでおすすめだったので


ディジタルとアナログ (book review)


 「意識の中心」はデジタル的思考(分析知 。それを組み立てるための方法としての論理(ロジック))とアナログ的思考、意識の在り様などを考える際に役に立ちそう。コンピュータのアナロジーについては「人工生命」のほうがよさげ。(以下、リンク先エントりより気になる部分引用)

スティーブン・レヴィには『ハッカー』(工学社)という、パソコン誕生前からコンピュータに夢中になった連中についてのルポがあって、以降もコンピュータに関連する労作を何冊も書いている。その中の1冊、『人工生命』(朝日新聞社)も、この夏あらためて読んでみた。
・コンピュータ開発の初期段階、あるいはそもそもの発想段階からあった目的の一つに、「人の手で命を創り出せないか」という野望があった。命あるものは何より物体として存在する。コンピュータによって産み出されるものはディジタル情報だから、物質化させることはできない。しかし、命あるものはかならず物体として存在しなければいけないのか。そんな疑問は、種の保存を司るのがDNAといった遺伝子情報であることに注目することによって乗り越えられる。コンピュータ内に生命が誕生し、進化するための環境を作れば、やがて単細胞の命が生まれ、それが勝手に進化を遂げていく。レヴィーの『人工生命』は、そんな野心に夢中になった人たちの物語である。


 ここから前述した「心はプログラムできるか」の課題に繋がる。


・人は何より身体として存在する。そして身体を制御する司令室は脳にあって、ここには「私」というじぶん自身を意識する働きもある。ジョン・C.リリーは『意識の中心』(平河出版社)で、その脳をコンピュータとして理解している。そのバイオコンピュータにはプログラムが組みこまれ、プログラムを管理するメタ・プログラムが置かれている。リリーによれば「心はプログラムとメタプログラムの総体、すなわち人間コンピュータのソフトウエアなのである。」
・たとえば、新しい環境に馴染む、新しい仕事や技術を覚え、習熟する。それを一つのプログラムの生成と精密化として考えれば、この発想には合点がいくことが多い。そのプログラムを自覚的に管理するのは「意識」というメタプログラム(プログラムのためのプログラム)で、それらの総体が「心」になる。

(略)

ディジタル化とは実体あるものを01の数字に置きかえて代替することだ。しかし、実体ととして存在する生命が、ディジタル情報によって生成され管理されているのだとすれば、生命の本質にあるのはアナログではなくてディジタルだということになる。そんな発想を理解したら、ノーバート・ウィナーのサイバネティックスが気になり始めた。彼の『人間機械論』(みすず書房)には、サイバネティックスは「有機体(organism)を通信文 (message)とみなす比喩」として発想された研究視点だという説明がある。有機体の根源にあるのはメッセージ。だから実体には形や質量がなくてもいい。


 強調部の「メタ」うんぬん「プログラム」うんぬんな辺りは個人的にはルーマンのシステム論における「形式」や「プログラム」の辺りに対応するように思う。

 あと関連で言語認識とヤコブソンら辺も


言語を共有するということ

 ことりこ(@増田)の関心もちょっと似たような感じで「コンピュータだと完全に世界を構築しないと動かないのに人間だと動くってすごいね(その間の部分になにがあるんだろうね)」ってことみたい。先ほど引用して強要した部分に対応すると思う。


 あるいは分析哲学系だとこの辺

 まず「コミュニケーション(プロトコル)が通じているか?」の確認がある。交話的コミュニケーションってやつ。具体的に言えば「もしもし」みたいな確認

接続的コミュニケーションの陥穽 (内田樹の研究室)

コミュニケーションには接続・伝達・理解の三段階がある。
接続コミュニケーションは「これはコミュニケーションですよ」という合図のことである。
「交話的コミュニケーション」とロマン・ヤコブソンが名付けたものである。
「もしもし」とか「後ろの方、話、聞こえてますか?」というようなものがそれである。
コミュニケーションが成立していることを確認するためのコミュニケーションで、「メタ・コミュニケーション」とか「コミュニケーションのコミュニケーション」とか「解錠するコミュニケーション」とか、いろいろな言われ方をする。


 
簡単な用語集より「言語機能(げんごきのう)」(@ヤコブソン)

言語の基本的な機能のこと。ヤコブソンによれば、伝達の場面を構成する基本的な要因は〈発信者 addresser 〉〈受信者 adressee 〉〈メッセージ message 〉〈コード code 〉〈コンテクスト context 〉〈接触 contact 〉であり、これらに対応した6つの言語機能がある。

1.

心情的emotiveまたは表現的(表出的)expressive機能
〈発信者 addresser 〉に焦点を合わせた機能で、話の内容に関する話し手の態度を直接的に表現しようとするもの。間投詞などで明らか。

2.

動能的(能動的)conative機能
〈受信者 adressee 〉へ向けられた機能で、命令文などに典型的に現れる受信者への働きかけ。

3.

詩的poetic機能
〈メッセージ message 〉そのものに焦点を合わせたもので、表現の拍子や音韻などへの美的感覚を喚起する。詩のなかで韻を踏んだり、類音語(似た音の語)を反復したりするときに明らか。

4.

メタ言語的metalingual機能
〈コード code 〉に焦点を合わせたもので、発話を注解する機能を発揮する。たとえば、「マウスをダブルクリックしてください。」「えっ、『ダブルクリック』って何ですか?」「ダブルクリックとは、ボタンを二度続けて素早く押すことです。」のような会話では、メタ言語的機能が発揮されている。

5.

関説的referentialまたは告示的(叙述的)denotative機能
〈コンテクスト context 〉に焦点を合わせるもので、現実の状況や場面について語るもの。大部分の発話では、この機能が主要な役割を果たす。

6.

交話的phatic機能
〈接触 contact 〉に向けられたもので、儀礼化した挨拶などに典型的に現れる。

ヤコブソンによれば、発話は伝達の場面において複数の機能を同時に果たすのが普通である。たとえば、詩のことばは詩的機能を発揮することが期待されるが、関説的機能がないということはできない。詩のことばであっても、少なくとも何かについて語っている(関説的機能)ということができる。表現そのものの美しさなどへ意識が向けられる(詩的機能)結果、事務的な文書などに比べて関説的機能が相対的に弱くなっているだけである。



 ヤコブソン的なのの分かりやすい説明としては「『猫たち』の分析」ってのがいいってもなどんがいってたな

詩の記号学のために―シャルル・ボードレールの詩篇「猫たち」を巡って
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(これも同じやつなのかな?)

詩の記号学のために
詩の記号学のために
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あと、この辺はネットワーク論(創発関連)と関係あるから自分的にさっさと接続したほうがいいと思う


『創発―蟻・脳・都市・ソフトウェアの自己組織化ネットワーク』 スティーブン・ジョンソン著、山形浩生訳 ソフトバンクパブリッシング 2004 by まろまろ記

創発―蟻・脳・都市・ソフトウェアの自己組織化ネットワーク
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4 創発現象を概念的に理解するのに適した本
4 「創発」って何?がわかります
4 創発という言葉を知らなければぜひ






あと、同じくもなどんがいってた「記憶の部屋」


「記憶の部屋」「フィクションとディクション」 - モナドの方へ


 一章のタイトルが「記憶術と印刷術の関係」とかそそる・・。


 関連でキットラー、オング辺りを読む


声の文化と文字の文化
桜井 直文 林 正寛 糟谷 啓介 ウォルター・J. オング Walter J. Ong
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おすすめ度の平均: 5.0
5 文字ってすげえな
5 是非大学生に読んで欲しい



松岡正剛の千夜千冊『声の文化と文字の文化』ウォルター・オング



グラモフォン・フィルム・タイプライター〈上〉 (ちくま学芸文庫)
フリードリヒ キットラー Friedrich Kittler 石光 泰夫 石光 輝子
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2 訳書も原書もいまひとつ、いやいまふたつ


グラモフォン・フィルム・タイプライター〈下〉 (ちくま学芸文庫)
フリードリヒ キットラー Friedrich Kittler 石光 泰夫 石光 輝子
筑摩書房 (2006/12)
売り上げランキング: 207927
おすすめ度の平均: 2.0
2 いまふたつ


松岡正剛の千夜千冊『グラモフォン・フィルム・タイプライター』フリードリヒ・キットラー

むーたん:キットラー概説メモ + 音読・黙読 ら辺

むーたん:システムのリソース変化について (あるいは新しいシステム(+パフォーマティブメディア))が生まれる前段階

(「システムが変わったからといって内容も語彙(リソース)もいきなり変わるわけじゃない」から「システムの変化に先んじて起こる基層的な変化が語彙や伝播(パフォーマティブ)メディアに与える影響」、みたいな内容)




システム論についてはもそっときちんとマトゥラーナ辺りとかも参照すべきかと思うんだけど関連文献とかもたぐると長そう・・。あと、情報工学関係でオートポイエーシスのとらえ方ってどうなってるのかちょっと知りたい(「心はプログラムできるか」で出てるのか?)

あと、オートポイエーシス関連でプリコジンも読んどいたほうがいいのかとか思うんだけどなんかめんどい・・。プリコジンやマトゥルーナから行くよりも情報工学的な概念や認識をマスターしてそれと現在のオレのシステム論認識を接続させてからシステム論全体を見ていったほうが速そう





以下、いただいた反応。見やすいように発言の順番はてけとーに編集してるよ。


shalom_rajendra @m_um_u 理性は必然的に何かを取りこぼすが、取りこぼすことそのものは理性によって認識できる、みたいな話?

m_um_u @shalom_rajendra いや、逆に理性を研げば研ぐほどそれに頼ってとりこぼすものを認識できなくなるのではないか、って話

shalom_rajendra @m_um_u 理性を研ぐことと、それに頼ることって別の話じゃないですか?個人の理性には限界性があるけれど、そいつをサポートするのが衆知だと思ってるので。

m_um_u @shalom_rajendra ちょっと語弊がありましたかね。理性というか論理的思考の型のようなものに頼っていくことの危険性うんぬんです。要素還元主義や分析知に頼ることによって見えなくなるものがあるとかそんなの

m_um_u @shalom_rajendra てか、書き方の様式を意識して良い文章、型に沿った文章を書こうとするとほんとに書きたいところからずれて様式によって思考がドライブされていくんじゃないか、という問題です。美しい文章きれいな作文ではあるかもしれないけど自分の思考なのか、っていう

shalom_rajendra @m_um_u それは解決法あるんですかね?結局いつまでも漸近線でしかなくって、行き着くところは必ずズレている。しかし僕らは、おそらく論理によってしか思索できないのだろうし。

m_um_u あと、ついでついでにいうと「論理(あるいは物語)的な表出様式とそれ以外の様式」関連でいうと後者の例としては詩とか考えられる。前者が線的で定式化されているのに対して、後者はもそっとランダムネスをもっているというか・・。ミクシに書いとけばよかったな。。

m_um_u @shalom_rajendra postしたところなんですけど詩なんかは論理とは違う表出様式なのではと思います。断片的に論理性を含み定式をもっているのかもしれないけど、論文とかのような論理とは違う。もう少し言えば詩のような自由なアウトプットは会話的な思考様式だったように思います

m_um_u いちおいっておくと論理とそれ以外の思考様式が排他的な関係にあるのではなくて後者の見直しによってもそっと創造性を喚起できるようになるのではないか、ということ。現在は論理的様式に偏重しているように思う。それは反省を促す知の様式としては有効だと思うけど後者をもそっと見直してもいいような


shalom_rajendra ああ、詩は理性ではなく感性がドライブして発露した表現だな。脳髄よりも身体感覚、というか皮膚感覚を大事にしてる。

shalom_rajendra とはいえ、現代詩は現代芸術の流れと同様にバックボーンとして相当の思索を経てアウトプットされているし、特定の相手を想定しないコミュニケーションではあるような。



acquo 様式によって思考がドライブされていくっていうのはけっこう感じる。それはついったの文字数みたいな小さなこともそうだけど、書く場所の大きさ、使っていい(あるいは使うべき)言葉使い、とかでも規定されて、思考の組み立て方も変わってくるのを感じる。

acquo 相手がいればまた言いたいこと、考えたいことからずれていくし、それはいいこともあるけど、問題から離れていってぐだぐだに巻き込まれるっていうこともあるかなあ。もしかしたらこれは訓練かもしれないけど。

acquo 文章だとやっぱり長さって大きい感じ。800字と4000字、どちらもその字数での訓練が必要だった。自分の場合は、だけど。あと顧客向けプレゼンと自社内プレゼンでも使える言葉が違ってくる。まあ、これは目的が違うっていうのも関係していると思うけど

acquo 論理的に話すべき場合っていうのはあとから確認されるもののときに必要になる感じ。整合性を考えるとかけないこととか言えないことが出てくる。相手の感情を引っぱりながらの対話とかだと、自分の中での言葉の組み立て方も脱線が許される感じ。その分、整合性は怪しかったりするはず。

acquo 思考することと、記憶を組み立てることは、つねにフィードバックの関係にあるような気もする。論理的、という判断が、前に_8さんが言ってたけど、直感に裏付けられているっていうこととも関係してる感じ。





 大体そんな感じ。最後に詩の話が出てきて思い出したんだけどLさんには詩学っていうか、文学的視点から「形式による束縛とそこからの自由」みたいなのについて聞いてみたかったのです。形式は形式的になっていることによって「(反省 → 修正可能な)きちんとしたものを作れる」って可能性があるかもしれないんだけどそれによって自由な創造性が制限されるのではないか?っていう・・。

 そんで創造性としては詩的な形式に可能性があるように思うんだけど、ちょっと勝手な憧れ入ってるかなぁとか思ってるのです(この辺ぼんやりとした説明で申し訳ないが)。あと「文書として使えない」ってのは前提としてありますね。


 あと付け加えるなら意識や心の話が出てきたのは、<「理解」の過程において言語的、論理的に完全に意識(統御)できているところは少なくて、むしろ無意識的な部分(非論理的な部分)にこそ理解あるいは情報処理の中枢はあるのではないか?>、って思ったからです。あるいは「心(魂?)の座」のようなものが意識と無意識を総和、駆動させているのかなぁ、と。


 まぁそんなこんなで、いつもどおり結論ありませんが「自分用の課題リスト」って感じでした。
posted by m_um_u at 21:50 | Comment(0) | TrackBack(1) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年11月29日

芸術的なものについて − 与件の超克とハイパーリアリティ

 なんか、ついったーでartな話が出てしまって、柄にもないというかちょっとこっぱずかしいなと思いつつも習字というか修辞というか「思ってること吐き出し練習」ってつもりでのっかっていったわけですがちょっと気になるところがあったのでそれなりにまとめとこうかなぁ、と。とりあえずこの前の「ゲージツ」関連談義のログはこちら


むーたん:おゲージツの話


 ヒトサマの発言も混ざるのでなんなんだけど「デジタル化された絵は現実世界の絵とどう違うのか?」という話に始まり「やっぱ2次元じゃ質感は表せないでしょ」的なところに落ち着きそうだったんだけど自分的にそれだと「アウラの優位ですか?」って感じでおもしろくなかったので「デジタルアートのほうが絵のイデアに近づけるかも」的な話に接続した。

 ここで意図していたのは「絵画表現における理想(イデア)ってなんなんでしょうね?」ってこと。絵画表現のみならず創作においては先行事例におけるマンネリを超えること(新規性の発見)が必要なわけだけど、そのときに邪魔になってくるのが当該分野で使い古された表現(技法)やテーマ、あるいは思考の形式だったりする。マチエール(質感)というのは描きたいテーマに対して偶発的に表れてくるもの(偶有性)ともいえるわけでその意味では純粋な意味で「自分が描きたい」とイメージしたものとは離れてしまうこともあったり・・。もちろん創作においてはそういった偶発性を統制し奇跡とも言える結果を出すのも創作者の能力であるといえるのだけれど、やはりそれは始めに頭の中で思い描いていた完全とは違うだろう。

 そういった「頭の中で思い描いていた描きたいものの理想像(イデア)」とは別に創作物に付されてくるものを「与件」としたとき、デジタル技術を活用することで与件を廃していくことが可能なのではないか、と思ったわけ。ここでの与件は例えば道具の不完全性による思考速度への影響や画材に直接触れることによる思考のブレなど。そういった与件を廃しできるだけ高速にアウトプットをしていけばイデアにたどり着けるのではないか、と。

 もちろん創作物の面白みは偶有性を内在させているところにもあるわけでそういった絵が面白みをもっているとは限らない。むしろ面白くない可能性が高いかも。でも、高速の思考がアイデアの連結を生みさらなる創発を引き起こす可能性もある。(つか、それはそれで「最初のイデア」とは違ってくるわけだが)

 つか、バイオリズムなんかも与件として関わってくるわけで、そういう意味では身体の機械化なんてのもこの文脈に入ってくる。そうなると、「電極つなげてイメージを直接投影」、とか。・・なんか、そうすると却って面白くなさそうだな。。



 で、


 その後「なんか難しげなこと考えて固まる人よりも目の前のものをコツコツ地味に作っていってる人のが強いよね(職人サイキョー)」的な話に繋がっていったわけだけどこの辺の流れは民芸運動(柳宗悦)でありArt & Craft (W.モリス)であり、限界芸術論(鶴見俊輔)に繋がってくる。


muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2):批評としてのジャーナリズム


 あとは「テーマや技法的な文脈からの開放」とか

2005-04-12 - 赤の女王とお茶を:アートと認知/遺伝子について



 んで、そういった「絵画するということ」(行為としての絵画あるいは芸術表現)の文明史的あるいは生物的な意味はどこにあるのかということについてもそもそと考えたり。

 システム的に考えれば硬直化しがちなシステムに対して多様性を導入するためなんだろうけどゲージツ家個々人がそういうの意識してそこに寄与してるわけでもないしなぁ。。

 というか、自然を理解し解体(→操作)するために道具であり文明というものがあるのであって、昔の絵画なんかは文字が発達していなかった段階で自然をhackするための数少ないモードってことだったのかもしれない。つまり目的合理性のようなものをもっていた、と。でも、文字進化あるいはメディア技術の進歩に伴うモード分岐にしたがって絵画の機能的側面が薄れていったのではないか。

 それに伴いゲージツもどんどん記号的に洗練され、反面呪術的(シャーマニックな)側面を失っていった。結果としてゲージツ的なものが接続できていた神聖性のようなもの(アウラのようなもの?)へのチャネルが薄れていったのではないか。

 あるいはゲージツ的表現や記号のアウトプットに関する技法や媒体がコモデティ化するにつれてありがたみがなくなり、神聖性が薄まっていった(つか、複製技術の発達によって「一回で記憶しないといけない」って緊張感がなくなっていった)

 
 そんなことをぼへーっと思ったわけです。


 反面、モードの進化にしたがってより細かい対象や心情を表現できるようになっていったわけだけど・・この辺の深度はサブディレクトリが入れ子式に拡がっていったのかな、と理解しています。



 「職人とゲージツ家の違い」については、後者がパトロンの子飼い→独立という経緯を辿ってテーマの自由性を獲得したにもかかわらず記号や文脈に囚われていった、ということでしょうね。

 そんで、ジャコメッティなんか見るとそういう文脈から逃れて自分の見たまま(現象学的な)を表現しようとしたんだろうって思うんだけど、個人的にはあの人の作品はそういう背景しってないと訳わかんないのでやっぱ「文脈の中の逸脱」って感じでギリギリのところを狙ったのかなぁとか思うんだけど・・まぁ、よく分かりません。


 あと、「ゲージツとはなにか?」って感じで全体をみた場合、ゲージツ家個々人の意識とは離れたところ
にきてしまった感があってその辺ちょっと違和感ですね。つまり、<システムや技術によって主体のふり幅が決定されているのか>、と。そんなことを思うわけだけど、やはり「決定」ってよりも「規定」程度なんでしょうね。そんで、大部分のゲージツ家はその規定を脱することはできないけどたまに突然変異の撹乱因子のようなものが出てきてそれに引きずられるようにパラダイムシフトが起きていく。

 突然変異が発生する過程についてはよくわかんないですが周りの環境(時代精神)と無関係なものではないように思います。複雑系的な感じで情報が集積していってある臨界を越えたときに創発がおきるのではないか、と。(この辺単なる空想だからよくわかんないけど)


 個々人の創発発動過程については前に考察した感じではないかと思います

muse-A-muse 2nd: 「クリエイティブ」とはなにか?(「センス」、「想像力」、「創造力」について)



 あと、関連で「商業的なものとゲージツ家個人の責任(プロフェッショナリティ)」「ルールと美」みたいな話も前に書きましたね


muse-A-muse 2nd: 芸術的なものへの参加資格について (関係性の再構築 承前)



 ・・だいたいそんな感じかなぁ。。


 なんか冗長になったので見返してみると本エントリの主旨は「アートの方向性として現実の与件を超えるものを表現することは可能なのか?」というところに集約されそうですね。おそらくそれこそがハイパーリアルってことなんだろうけど......まぁ、よくわかんないや(再検討(予定
 
タグ:art 創発
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2007年10月21日

「えらさ」と「センス」と「面的思考(認識)」について

 ishさんとこにおもしろそうな話があったので文脈たいして読めてないかもしれないけど以下てきとーに反応です。元エントリはこちら


ish☆サイボーグだから電気羊を数えます:「わかる」ことと作者の転生


 元々エントリはこちら


2007-10-18 - しあわせのかたち:「頭のいい人が書く文章」問題について考えている


 最初のエントリについてすげーおーざっぱに解釈すると、「作品の後ろに『なんかすげぇなコイツ』的雰囲気があるかどうか(その雰囲気に惚れる)」、って話だと思うんだけど、ちょっと思うのはなんか雰囲気ありそげ(頭よさげ)に演出する人とほんとに偉い人の違いって見分けるのめんどくさいだろうな、ということ。

 っていってもそんな感じで演出された偉さ(中身は空っぽ)的なものってしばらく接していればメッキがはげるものだしなぁ。ってか、けっこう一瞬で見分けられるものかもしれない。というか、一瞬で見分けられないときっつい世界にぼくらは生きてきたわけで、そういう話はishさんとこの話にも通じるかなぁ、と。

 話は戻るけど「言ってることは正確には理解できてないけどなんか惹かれる」とか「何を言わんとしているのかは分かる気がする」って経験はぼくもしてきた。そういやちょっと前に鈴木謙介さんも似たような話してた(@文化系トークラジオlife)。

 鈴木さんの場合はお師匠が宮台さんなわけだけど、大学1年のころに宮台さんに惚れていろんな本読んだり大学3年ぐらいから講義を聞きに行ってたんだけどその頃は宮台さんが言ってることは正確には分かってなかったんだそうな。「でも、この人が何を言おうとしているのか。何に怒っているのかは分かった」、と。そういう言葉以前というかなんか勘みたいな部分って大きいのだろうな、と思う。勘っていうかセンスって言ったほうがいいか。その分野に対するセンス。筋であり根っこのようなもの。各枝に知識の実はぶら下がってなくてもセンスの根っこなり枝の予定地なりがあると吸収力はぜんぜん違う。
 
 ぼくはそういうのを勝手にスキーマとスキーマの根っこって呼んでる。

 スキーマってのは知っての通りこんなのだけど

スキーマ とは

心理学用語で、ある対象や出来事に関して、まとまって記憶されている情報や知識ということを意味する。広告の1つの目的は、商品(ブランド)に関するまとまりを持った知識を伝達することで、その記憶内容がブランドスキーマである。同じように消費者自身についての理想の自分像(自己スキーマ)や、ニーズと購買行動との関係についての知識(問題解決スキーマ)なども、広告で伝達すべき目標となりうる。


 記憶や認識を形作ってる小袋の群れみたいなのをイメージしてもらえばいいか。あるいは中身が空っぽの葡萄というか…。そゆののコラージュで認識の総体が出来上がってる。

 んで、ぶどうの各房に知識がつまって完成していくわけだけど、知識が詰まる以前でもディレクトリ自体は拡がってて受け入れ可能状態が出来上がってたり。あと、ある程度スキーマが出来上がってる人は大きなスキーマ持ってる人に出会ったときに二言三言で相手の力量を判断できるようになったりね。人に対してもそうだし、文献なんかに対してもそんなのがあるように思う。試行錯誤で経験値が貯まって勘(複雑系の思考)が磨かれていくのだろうけど、そんな感じで勘が磨かれていって本の善し悪しなんかも目次見て判断できるようになったり。

 つまり、「あたまえらい」ってのは判断する人もある程度の力量持ってないと評価されないものなんだろうなぁ、と。人は自分の見たいものを見るので、自分が思う「あたまがえらい」像に当てはめてスポイルしちゃうんだろう。



 あと気になる点として線的レベルアップと面的レベルアップの違いみたいなのについて書かれてたな。(※線と面って例えもびみょーだけどとりあえず。「線」のほうがコツコツと一個ずつつなげていく感じ。「面」はある時期がきたらグワッっと拡がる感じ)


 まずsho_taさんの方から引くと

●「事象の見え方、捉え方」が変わる、つまり「度量衡が変わる」というのであれば、「変わる(バージョンアップする)前の価値判断」と「変わったあとの価値判断」はまったく別なものである。


 通常は知識の集積によって認識が拡がっていく(線的レベルアップ)ように考えられているように思うしそういう側面もあるように思うけど、体験的には認識が拓けていくというのは実はまったく違った側面がるのではないか思う。

 いままで繋がっていなかった事柄が勝手に繋がる。いろんな事柄が自動リンクしてひとつの筋道ができる。で、「たぶん分かるはず」って感覚が先に来て後からそれぞれのテクストに当たると分かるようになってる。「分かる」っていうか、それまでまったく歯が立たなかったテクストも自分なりの解釈ができるようになっている。そういうのはよくわからない自信とも言えるのだけれど、実際そんな感じで認識のレベルがアップしていっているように思う。

 これが面的レベルアップ。ぼくの場合はみょーな興奮状態が起こってから急激にレベルアップすることが多い。そゆのは勝手に認識のoverdriveって呼んでるけど。

 次に線的レベルアップについて。これはishさんとこの別のエントリに載ってた感じかな。

ish☆サイボーグだから電気羊を数えます:岩明均『ヘウレーカ』 科学のディスクールと<真理>の鏡

 線的レベルアップってより線的レベルアップの結果現れる違和感みたいなのについて書かれていたか。

「世界のありよう」を理解しようと(「世界を映す鏡」を作り出そうと)すればするほど、その世界を見ている<わたし>だけが取りこぼされていきます。科学のディスクールは、<わたし>も人間の一個体で、人間は自然=世界の一部である、としますが、そう語っている<わたし >だけは、必ず語りの網の目から零れ落ちていきます。これが対象aの下に生産物=排泄物として置かれている主体S/です。


 線的に論理的思考を積み重ねていって認識を拡張させて行くと却ってその論理(ディスクール)の暴走によって認識をhackされちゃうって問題。文章なんか書いてて思考の型にはまっちゃってありきたりなものしか書けないのとか、ありきたりの道徳知識に囚われてどっかの誰かが行ってたような結論しか導き出せないのとかもこの問題に属するように思う。

 っていっても、科学的知識の場合はそんな感じの「ありきたり」を分解して自分なりに組み立て直したものなんだろうけど、そゆのでも論理ってのはoverdriveしちゃうものだから。あまり頼りすぎるのも危険かなぁ、と。(つか、論理に頼らないと見えないとこも多々あるんだけど)


 って、この過程って「線的(論理的)思考の足りない部分を面的思考が保管する」って考えるよりも「SECIモデル」的な感じで線的思考にも段階的消化吸収の過程があると考えたほうが理解しやすいのかもしれない。

 すなわち、input → 自分なりの形にする(対象化する) → 形にしたものを反省しつつ外部知識(多様性)と連結 → 連結したものを再び取り込み内部のサブシステムの中でしばらく寝かせる → しばらく寝かせたものを次のサブシステムと繋げる、って感じ。ishさんとこのテクスト的には後段のこの辺りが該当するように思う。

ここでは、「主としての言葉」S1が知S2に命じて業績を生産します。命じる「主」は「人類」であるとか「科学の一層の発展」であるとか、あるいは「家族」「名声」かもしれません。ここでは「科学のディスクール」の残余であったS/が、生産物たる対象aによって補完され、全体性を回復します。このS/とaの関係が、「S/◇a」幻想と呼ばれるものです。



・・ぜんぜん的外れかもしれないけど.....(-_-;




 なんかこんがらがってきたので今回のお話はこの辺で。いちおまとめると前半部は「なんかすげぇな」感を感じるには偉い人の偉さ(やプレゼンテーション)のみならずそれを偉いと感じるセンスも必要って話、後半は「そういったセンスの系はどのようにして作られていくか」って話で「"線的に積み上げられていく”ってのと"面的に一気に拡張する”っていう2つの方向性があるんじゃないか」、って話でした。(んで、おそらく「センス」ってのは面的なものに属するのだと思う)




--
追記:
あと、「世界を記述しようとすると記述しようとするわたしだけが世界から取り残されていく」(世界との間に違和感が発生する)、って話関連で。

これは観測問題のようなものかと思うんだけどいわゆる「言葉以前」問題ってやつなのかなぁ、と思います。(まぁ、わたしあの辺ちゃんと理解してないんですけどね...(^^;))

それとは別に一般的な感覚として「知れば知るほど分からなくなる」って話ともリンクするかなぁ、と。

ishさんの説明だと「時間」の概念が出てきていてぼくとしてはちょっと理解しづらかったけど、「知れば知るほどなんらかの違和が発生し、それを埋めるためにより知ろうとする」、って感覚だったらわかる。でも認識のoverdriveのときにはそれがなかったんですよね。まぁ、アレも興奮状態による過信と言ってもいいのかもしれないけど。

そんなことをなんとなく思いました

 
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2007年10月11日

「かしこさ」よりも「五常」がほしい

 別所でいろいろあって、ぼけーっとかしこさとかその他いろいろについて考えてるうちに5常のことを思い出した。「仁・義・礼・智・信」というやつ


五倫五常の『五常』「仁」「義」「礼」「智」「信」の正しい意味を詳しく教えて下... - Yahoo!知恵袋

五つの恒常不変の真理の意味ですが、儒教においては、孔子の教えの根本をなしています。

「仁」・・・仁義・真実・まこと・誠意
「義」・・・正しいすじみち・義理・すじ
「礼」・・・礼儀
「智」・・・知恵・ちえ・認識
「信」・・・信義・誠・確信・信ずる



 「かしこさ」というのはいろんな誤解があるようだけど「智」や「知」と言った原義的な意味に立ち戻れば情報処理能力ということになるだろう。その辺のところは別所でまとめたので深くは触れない。付け加えるとすれば創造力と想像力の話ぐらいか。これも以前にこちらのblogで書いた


muse-A-muse 2nd: 「クリエイティブ」とはなにか?(「センス」、「想像力」、「創造力」について)


 情報取得(input)のためのアンテナ能力(情報感度)、(情報を理解し自分の理解しやすい最小単位(ノード)に置き換える能力(理解力))、(取得した情報をデータベース化する能力)、データベースを横断的に参照する能力(想像力 = retrieve )、参照した知を元になんらかの成果物を吐き出す能力(創造力 = output)

 この過程はknowledge mananagement的な情報処理過程をイメージしてぼくが勝手に考えたオリジナルなものだけど、だいたいこんな感じなんじゃないかと思う。その際、重要なのは各情報をリンケージさせる速度になる。各情報のホップが遠ければ遠いほどより斬新なアイデアが生まれる。それが創発という過程。

 以前、どっかでmedtoolzさんとかfinalventさんも言ってたけど、大部分の人(つか、我々がてきとーに日常生活を送ってるとき)はデータベースに詰まってる思考の型や行動様式マクロをそのまま起動させているだけなんだろう。言い方は悪いが型の奴隷と言ってもいい。そういう「型」というのはルーチン的な仕事をこなす分には便利だがそこからはオリジナルなアイデアや状況打開型のものは生まれない。

 おそらく一部の人が「仕事ができる人」「頭のいい人」と思ってるのはこのマクロを同時励起させてるタイプの人なのだと思う。それはそれで「お仕事速いですね」って感じだがマシンと一緒だからなぁ。。いや、便利だしすごいなとは思うけど、ぼくがほしいのはそれではないので羨ましくは思わない。そして「かしこい」というのとも違うと思う。「器用だなぁ」って感じ。


 ....って話がそれたので元に戻すと、「かしこさ」=「情報処理能力」として仮定した場合、その要素やメカニズムというのは大体以上のようなものになると思うんだけどそれ以外の点で、「あの人はかしこい」とか「あの人は尊敬できる」ってのがあると思う。具体的にはコミュニケーション能力やプレゼンテーション能力とか、あと「面倒見がいい」とかそんなのか。

 いままでの論述に基づけばそれは「かしこさ」とは別のものということになるだろう。そこで冒頭に上げた「五常」が出てくる。

 コミュニケーション能力は「礼」、「面倒見がいい」は「仁」かな。プレゼンテーション能力は「智」の過程のoutput系のディレクトリに収まると思う

 
 ぼく自身が自分に足りない(強化していくべき)ように思うのは「礼」、「信」といったところだろうか。あとはプレゼンも苦手かもね。


 「信」についてはこの前ishさんにいただいたTBが参考になった。

あなたの読解がわたしの真意、神のネタには全力マジレス


 「相対化もいいけどなんかを信じて前のめりに生きたほうがおもろいゼ!」ってのはいい女っぷりだなぁと思う。たぶんまたなにかの折に参照させていただく。


 「礼」については儀礼におけるいくつかの型と対人折衝を通じて磨いていかざるを得ないかな。というより、(なんとなくだが)、格のレベルアップによって全体のパフォーマンスが自動的に上がっているように思う。ぼくは礼儀とかそういうものについてきちんと教わった経験がないのだけれど、「...最近、格があがったかな?」、って感じた直近で「礼」のスキルもアップしていた実感があるので。....余裕ということなんだろうか?


 あと実地以外でもこの辺を参照していこうかなぁ、と

Amazon.co.jp: 学問と「世間」 (岩波新書): 本: 阿部 謹也

 レビューみたら「五常」にも触れてるみたいだったので。つか、「五常」に関して分かりやすい新書(あるいは概説書)があったら教えていただきたいんだけど....たとえばこんな感じのやつで

Amazon.co.jp: 現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615)): 本: 玄侑 宗久


 そんな感じで「徳」に関するレセプターみたいなのをまず作ってから意識的に磨いていこうかなぁ、と。とりあえずそんな感じです(拝)



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追記:
そういえばぼくが「善」というカテゴリで探していたものはこういうものだったのかもしれない。「善」を探っていたのは「自分の中にある「善」的欲求をコントロールしてより高いパフォーマンスを出すため」って感じだったので。

「五常」的には「仁」がそれにあたるか。残りの徳目を修養したらもっとパフォーマンスが上がって行くのかも
 


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追記2:
「かしこさの指標は智以外にありえない」としつつも後からかんがえてみるにどーもそれはムリがあるんじゃないか、と。ぼくもふつーに人間関係なんかに配慮する人をして「かしこい」って言ってるし。

「かしこさの指標の上位ディレクトリとして五つの徳がある」と考えたほうが自然だな






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2007年06月19日

小さきもの、カワユスかな

 カワイイもの好きなおっさんはコモノが好きで
 カワイクないおっさんはハコモノが好き




 そういう傾向があるように感じられるのはワタシだけでしょうか?(まぁ、そうでしょうね)


 で、ぼくとしては前者に当たるわけですが、その辺のところはこの辺見ていただければ分かります。



はてなブックマーク - morutan@はて部 / これはかわいい


 おっさんはかわいいものが好きです。

 ってか、

 かわいいものがすきなおっさんもけっこういます。



 その「かわいさ」というのは渋谷発なギャルどもが発する「こぉれかぁ〜わぁ〜いぃ〜いぃいぃ〜」的なかわいさおしつけ型のかわいさとは一線を画すように思います。

 やつらの発するそれに違和感を覚えるのは、対象のかわいさではなく「それをかわいいと思う私ってかわいい?」的な押し付けがあるからなんでしょう。


 そういう意味では前段エントリともちょっと関連するように思います。


muse-A-muse 2nd: 「テイシュクナツマ」から「カワイイワタシ」へ (「女性」意識の構造転換?)


 ただ、前段エントリで対象とされている「カワイイワタシ」とこの渋谷系かわいさゴリ押しな人たちとはまた違うのでしょうが。

 かわいさゴリ押し系の人たちのイメージとしては、例の変異体少女文字とか、「あいうえお」+「わ」などを小文字化することによって無理やりかわいさを演出している人々って感じがします。



.....かわいくない、かわいくないぞそれは

(ってか、むしろ文がみにくい)



 そういった例は極端かもしれないけど、それとは別に女性の使う「かわいい」と自分の思う「かわいい」ものとの間にちょっと隔たりを感じていて....今回はその辺のところをまとめてみようかと思った次第です。


 ちょうどネタもたまっていたもので。


 んじゃ、まずここから始めましょう


Read the Runes:「かわいい」論: 本: 四方田 犬彦


 ちょっと前にでた四方田さんのほんのちょっとした感想エントリです。この本の狙いとして、やはり特定女史の発する「かわいい」への違和感の表明というものがあるようです。そして、その違和感とはなんなのか?、ということを突き詰めていく。

 エントリ主的にも違和感はあったようです


女子の発言する「かわいい」と自分の感じる「かわいい」に乖離を感じたのがきっかけ。

特にキャラクターグッズ。ディズニー、キティちゃん、ドラえもん、etc.

どこもかわいくない!

でも「かわいいよね〜」とか適当に相槌を打つおれは大人(というよりエロいだけか)。



 以下、ポイントだと思ったところをてきとーに抜粋


★「かわいいと呼ばれたことありますか」に対する男子の回答

「高校生のとき、英会話教室の会話練習でペアを組んだ年上の女性に。その人が着ていた上着について聞こうと思っていたときに、それがジャンパーなのかコートなのかよくわからなくて、思わず聞くと、なぜか『かわいい』と言われ…」



 「年上→年下」、「知識→知識のなさ」という非対称性の上に成り立つ「かわいい」って感じですかね。(あと、異性ということもあるだろうけど)
 

 「かわいいと呼ばれたことがない人」について

四方田氏が同年齢の知人友人にこの事実を話すと、男女区別なく一瞬だが驚き、暗い表情を見せ、女性のなかには「若いときに『かわいい』と呼ばれなかったら、中年になってどうやって生きてゆけるのでしょう」と真面目に同情する者もいた。男女ともこの一割を不幸で同情すべき女性だと暗黙のうちにみなすことでも共通していた、そうだ。


 びみょーな話だけど、そういう人ってほんとにいるのだろうか..?

 今言っても誰も信じないけど、ぼくも子供のときは「かわいい」と呼ばれたものだった。そんな感じで、少なくとも子供の時には親戚・近所から「かわいい」扱いを受けるものではないのだろうか...?


.....びみょーだ (深くつっこむまい)
 

 それに対して、いま現在「かわいい」と呼ばれたくないということについて

女子の「呼ばれたくない」回答

「もう大学生です。かわいいよりきれいとかかっこいいと呼ばれたいから」「自分をかわいいと思ってないから」「もうかわいいと呼ばれる年ではないから」

否定的な面に自覚的な回答(少数派だが本質と向き合っている)

「自分が下に見られているような気がするから」「ほめられているから、バカにされているのか、わからないから」「なんとなくバカというイメージがあるから」「自分の世話を必要とするモノ(ヒト)をかわいいと呼んでいるだけだと思うから」「かわいいがあまりに連発されすぎて無意味な挨拶になってしまっているから」



 逆にここから「かわいい」に対するイメージがうかがい知れますね。つまり、「幼児性」、「非成長性」(あるいは力関係における劣位)、「保護の必要性」、「特定の人が使っているよくわからない言葉」、などなど。


 最後の「定義がよくわかんない」は「かわいいのインフレ」という言葉にもつながっています。


 んで最後に、「かわいいについてどう思いますか?自由に書いてください」、に対して

「かわいとは少しバカにして手玉にとってやったという感じ。このヒトは手の平で扱えると思っている傲慢があると思います」「かわいいと呼ばれたいヒトは基本的にM」「かわいいの語をヒトに対して使いたくなったときは、やはりその人を支配したいとき」



 で、「その言葉が発っせられることによって政治性、権力性が生まれる」、と
(文化政治学の領域かな?)



 これだけだと良くわかんないのでこちらも参考にしてみました。


かわいいとクール (book review)


 渡辺センセの書評なので分かりやすかった。(以下、例のごとく気になったところをてきとーに抜粋)


はやりことばはその都度気になる。けれども消えていくスピードが速いから、なぜと考える機会を逃すことも少なくない。そんな中で「かわいい」は、例外的に長生きしていることばである。ただし、ぼくは「かわいい」におもしろさは感じなかった。使われ方に「なぜ」と疑問を持つものがない気がしたし、ことば以前に「かわいいもの」自体が氾濫していて、ことば以上にうんざりしていたからだ。



 やはり、「過剰性を帯びた"かわいい”がインフレを起こしている」、と。

「キレイをふりまけ!」ならぬ「カワイイをふりまけ!」ですかね?

 でも、四方田センセの分析を見て「ほほぅ」と思ったり


四方田犬彦の『かわいい論』には大学生にしたアンケートの分析がある。「かわいいの反対語は何ですか?」という質問に対する回答には、1)同義反復(かわいくない)、2)肯定的形容詞(美しい、など)、3)否定的形容詞(醜い、など)、4)希薄さの形容詞(ふつう、など)があって、「かわいい」もなかなか含蓄のある使い方をされているのだ、ということに気づかされた。



 具体的には、


「かわいい」は単に不細工なものや醜いものの反対というだけでなく、「美しい」や「きれい」、あるいは「賢い」といった肯定的な意味をもつはずのことばとも対照される。さらには、それは良くも悪くもない「普通」の状態とも区別されている




 「ギャル言葉、若者言葉なんかが意外な合理性を持っている」っていう例のアレですね。関連で、「若者が語彙を少なくしているのは語彙が多くなることによって生まれる複雑性のミスリード(ディスコミュニケーション)を避けるため」、みたいなのが思い浮かびます。言葉を少なくして、その代わりに間とかでコミュニケーションをとるってやつ。


 閑話休題


 けっきょく「かわいい」とはどういうことなのか?


「かわいい」と感じる対象は「保護を必要とする、無防備で無力な存在」であり、そこには「対象を自分より下の劣等な存在と見なして支配したい欲求」が認められる。さらには、支配できないものを無力化させることで「かわいい」ものに変形させてしまうといった工夫もある。それは、著者によれば、「ノスタルジア」と「ミニュアチュール」で、それを仲立ちするのは「スーヴニール」だということになる。



 やっぱ「保護を必要とする」、「対象が自分よりも劣位」なんかが出てきますね。つまり「支配 / 被支配」の関係。

 この辺は先日の「萌え」の指向性にも関連するように思います。(これに対して、腐女子の対象はかわいさを必要としないんですね)



 んで、「ミニチュアール」だの「スーヴニール」だのとは何なのか?(以下、孫引き)

われわれの消費社会を形成しているのは、ノスタルジア、スーヴニール、ミニアチュールという三位一体である。「かわいさ」とは、こうした三点を連結させ、その地政学に入りきれない美学的雑音を排除するために、社会が戦略的に用いることになる美学である。p.120



 これに対する渡辺センセの解説


「かわいい」は「ノスタルジア」として「歴史」を隠蔽し、「ミニュアチュール」として「実物」を歪曲させる。それは現代の消費文化のエネルギー源であり、また日本人の感覚に古くから根づいてきたものでもある。それはきわめて日本的なものでありながら、同時に「文化的無臭性」を特徴とする新しい文化商品としてグローバルに輸出されている。



 「歴史を隠蔽し」ってのは文脈切除ってことでしょうか? とりあえず、その言葉が発せられた瞬間、発話者の主観的な価値観(「かわいい」)によって対象の価値が措定されてしまう、と。

 それは逆に言うと、対象の価値は発話者の認めるかわいさの中でしか認められなくなる、ということなんだけど、上述してきたように「かわいさ」なんてのはあいまいな主観的権力のもとに築かれているわけだから、いつ「かわいくない」って切られてもおかしくないんですよね。

 「ミニチュアール」というのも「対象の過小化」って感じで似たようなもののように思うんですが、ここで別の文脈が加わってくるように思います。


 日本人伝統のコモノ嗜好ってやつ。


『「縮み」志向の日本人』李御寧(イー・オリョン) 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇


 日本人ってのはコモノ細工がやたら好きだし、枯山水に代表されるような「縮景」でいろんなものをコモノ化するのが好きなんですよね。なんか万葉集のころから好きらしいです。


 それは国土の大きさとの関連もあるのかもしれないけど、なんか知らないけど好き、と。

 んで、その辺について松岡さんとこの本の著者が探っていってるわけだけど.....導入としてはこんな感じで


 極小主義。日本にはこれがあるのではないか。ミニアチュアリズム。日本人はこれが好きなのだ。日本には極端ともいうほどの「縮み志向」があるようなのである。本書はこんな推理をものしたのである。



 とりあえずの理由としてはこんなのがあるかな、と


 理由を考えてみた。イー・オリョンは、とりあえず6つにおよぶ「縮み志向」の型を分類した。入籠(いれこ)型、扇型、姉さま人形型、折詰弁当型、能面型、紋章型である。必ずしもぴったりこないものもあるが、何を言いたいのか、わかるだろうか。



 「入籠」というのは「入れ子」ということで例のマトリョーシカな感じなんだけど、なんか「いろんなものをそこに込めれるから」どうとかって説明がされてます。

 「込めれる」ってとこがポイントなんだろうけど..まぁ、よくわかんないので割愛。

 以下、それぞれの説明部だけてきとーに引用

次の【扇型】とは、扇子のように折りたためるものを日本人が好むことをさしている。


【折詰弁当型】については説明はいらないだろう。日本には王朝期に貴族たちが野遊びをしていたころからからずっと、また農民が野良仕事をしていたころからずっと、行器(ほかい)、曲げわっぱ、破籠(わりご)、提げ重、重箱などの弁当型の纏め方が目立ってきた。

かつて栄久庵憲司が「幕の内弁当の美学」とよんだのもこのことだ。



ここで能面型というのは、日本には「動きを止める美意識」が徹底しているというのだ。いいかえれば「動きを縮めている」と言いたいのである。




【紋章型】とは「凝る」ということだ。日本人は凝り性なのだ。それをなぜ紋章型というのかというと、イー・オリョンには家紋や旗印や馬印がおもしろいらしい。日本酒のラベルもヨーロッパのワインにくらべてずっと多様で豊饒に見えるのだという。とくに韓国の社会文化とくらべると、日本の紋章には特徴があるらしい。





 これだけ見てもいまひとつピンと来るものがないのですが、その辺については松岡さんもごにょごにょと


ともかくも以上が日本の縮み志向6型なのである。さまざまな特徴を総合的に並べたて、それを系統に分けて文化人類学的に分類したとは思えないが、かといって気まぐれな思いつきでもなく、日本を知る外国人研究者独特の勘のようなものがはたらいている。



 ピンとこないのは「ミニチュアリズム」についての説明がないからかな、ってことで以降はその辺についてフィーチャーしてます。(『本書の後半では日本の側から「縮み」の検証をするようになっていく。』)



 松岡さん的には、「引き寄せ」と縮景における「見立て」なんかがポイントではないか、と。

万葉古今このかた雪月花を愛でるにあたって日本人は、花は手折り、雪は少量を盆に活け、月も外で眺めるよりも蔀戸(しとみど)や御簾(みす)ごしに見ることを好んだ。
 自然と全面的に対峙して観照するのではなくて、その美の一部をスクリーニングして引き寄せた。イー・オリョンは書いていないけれど、これを「いけどり」とも「寄物陳思」ともいう。日本に借景の慣習があるのも「引き寄せ」や「いけどり」による。



このことはさらに次のことを生んだとも説明できるだろう。それが枯山水の石立てなどに象徴される石庭の美につながっていく。いくつもの石を持ってきて(引き寄せて)、それを巧みに配置して、それをもって庭とする。しかもそれらを巨山や大海とみなしてしまう。小さくしながら、大きなイメージを思い浮かばせる。
 このことを日本文化に詳しいイー・オリョンが「見立て」という言葉で説明しなかったのは意外だが、これはまさに「見立て」という方法なのである。




 んで、まぁ、「縮み」とか「見立て」なんてのは「限られた資源の中で想像力を駆使して美を楽しむための工夫」って感じなんだけど、そういう嗜好性(志向性)を持った日本人がなぜ極大主義というか...経済大国みたいな大きなものを目指すようになったのか、って指摘がされてます。

これほどに「縮み」を愛した日本人が、いったいなぜ「軍事大国」や「経済大国」をめざしたのかということだ。多くのジャパノロジストが疑問をもつのは、この点なのである。



それをいまは暗示的に言っておけば、日本がおかしくなるときは、結局「取り合わせ」の方法や「数寄の方法」を見失ったときなのである。ひたすら海外のサイズをそのまま呑みこもうとしているときなのだ。そのままにロールとルールとツールをまるごと鵜呑みしようとしているときなのだ。



 この辺の指摘は先日の内田センセのエントリにも通じますね。


辺境で何か問題でも? (内田樹の研究室)

日本人がバカになり、世界に侮られるようになったのは、80年代のバブル以降であるが、それは日本人が「オレたちはもう辺境人じゃない。オレたちがトレンディで、オレたちが中心なんだ」という夜郎自大な思い上がりにのぼせあがった時期と同期している。
学力低下もモラルの低下も、みんな日本人が「辺境人」根性(「いつかみてろよ、おいらだって」)を失ったことにリンクしている。
だから私が申し上げているのは、属国でいいじゃないか、辺境でいいじゃないか、ということである。

 

 まぁ、たぶんもうちょっとしたら資源最適化しないといけないので嫌でも縮小傾向にならざるを得ないのだろうけど....それには夜郎自大(オレサマハコモノ)なお年寄りに納得してもらうというか、席を譲ってもらうことも必要かなぁ、と。


muse-A-muse 2nd: 夜を越えて


切込隊長BLOG(ブログ): 酔っ払って帰社したので書きたいことを書く


白田先生、なんで国会議員に話をしないのですか? | bewaad institute@kasumigaseki




 ってか、話を戻すと、「かわいげを失ってから日本はおかしくなったのでは..?」、という指摘はカトラーさんのところでも上がってましたね。


カトラー:katolerのマーケティング言論: 「美しい」国より「おとな。but カワイイ。」国

「美しい国」に対して「カワイイ国」あるいは「おとな。but カワイイ国」という国家イメージを対立軸として設定したら、この国の行く末に、ひょっとすると別の姿が見えてくるかもしれない。「美しい国」だとか「国家の品格」というインチキな言葉に素直に反応する人々にとっては、自分の国を「カワイイ」と表現することは耐えられないことかもしれないが、「美しい」とか「品格」という言葉に耽って、酷い現実を隠蔽するよりも、余程カワイゲがあるというものだ。




 「そのためにはかわいい政治家が必要」....ってことにはならないか。


 とりあえず、これは間違ってると思うよ


痛いニュース(ノ∀`):【民主党】 新キャラ「民主くん」


 なんだかピングーに似てるけど、ピングーってのは....(自主規制




 で、そういった間違った方向の「かわいさ」とは別に、「かわいい」という価値観は日本独自のものとして注目されてたり...。

 諸外国にはそれに当てはまる概念がないので、該当する言葉もなくて、「かわいい」が「kawaii」として公用語となっている、というのは以前お伝えした通りなんですが


 再びカトラーさんのエントリを見ながら、 この「かわいさ」というのはどういうものなのかなぁ、っとちょっと考えたり。


カトラー:katolerのマーケティング言論: 美しい国の日本文化礼賛とカワイイ革命


このように文化的な辺境(フロンティア)を設定し、常に見知らぬモノ、異国の情報を取り込み、それを洗練させて、世界商品としてアウトプットするというのが、文化装置としてのフランスの真骨頂であり、ソフト・パワー戦略の要諦であった。
ところが、アニメに代表されるオタク文化やカワイイ価値観は、鳥インフルエンザのように一方的に感染するが、宿主と折り合う(フランス化)ことをしない。日本のゴスロリ少女のファッションを、そのままコピーすることで嬉々としているようなフランスの若者たちの姿を見て、旧世代は、苛立ちや危機感を抱いている。



 こんな感じで、「かわいさ」は取り込めないみたいなんだけど。それは上述してきた文脈から言えば、<「かわいい」に通呈する日本文化的なミニマリズムというものが分かってないから>、ってことになると思います。 でも、一部のフランス人に受けてる「kawaii」ってそういう「かわいい」ともちょっと違うみたいなんですよね。


 フランスというのは諸外国の中でも日本のオタク文化への関心が強い国みたいなんだけど、


フランス人少女2人の日本旅行、あえなく御用

当方ロンドン在住で、個人的な趣味で英国および欧州の日本オタクカルチャの調査をしているけど、フランスの日本の好きは抜きに出ている模様。(時点はイタリアかな)



 そこでのオタク文化への憧れっていうの、なんというか...日本的なオタクをそのまま着てしまうところに楽しみを見出しているみたいなんですね。フランス風にアレンジするんじゃなくて。


 知っての通り、ロリータなんてのは元々フランス系な概念なわけで、ロリコン系の嗜好って言ったらあっちのほうが元祖なはずなんです。


 でも、敢えて日本的なものを面白く感じてそれを逆輸入している。例のゴスロリとかそんな感じですね。

 んで、そういうファッションをガイジンがするとそのまんまというかシャレにならなくなっちゃうわけですよね。元々あっち用の文化(装束)なわけだし

 具体的にはこんな感じです。


[ エロイ外人レイヤーの画像を貼るスレ4 ] by PINKなちゃんねる


 一部2チャンネルの人たちが喜ぶようなエロさはあるのかもしれないけど、かわいくはないな、と。(個人的に)


 日本的なゴスロリのかわいさというか特徴というのは、その不揃いさというかいびつさというか....七五三的に借りてきた衣装を着ているところにあるように思うんですね。

 なんつーか、「なんちゃって感」みたいなのがある。


 福耳さんは「ロココの復権では?」と言ってたけど、そういう意味ではむしろ「バロック」(いびつ / 「ゆがんだ貝」? → 「ゆがんだ真珠」でした)ではないかと思うんです。


福耳コラム - 工業力過剰世界の未来



 いびつなものに宿る淫靡さのようなものですね。んで、本人たち的には「なんちゃって」な「かわいさ」をまとっているのでガイジンレイヤーのような過剰なエロさはない、と。

 要するにチビっこが七五三的に衣装を着ている、ってところがポイントだと思うんです。それで、そこがミニチュアリズムにもつながるのかなぁ、とかちょっと思ったり...。



 まぁ、そんなこと言いながらも自分的にもあまりピンと来てないのでよくわかんないんですが(ロリ系わかんないので)。やっぱバロックかなぁ、って感じはあります。(下妻的にはロココだったけど)




 あと、蛇足的に



 例の「Second Lifeのアバターかわいくねぇよ」問題もこれに通じるように思います。


 渡辺千賀さんのエントリにもあったけど、あれは元々アメリカのgeekなおっさん用のものみたいです


On Off and Beyond: Second Life分析シリーズ2:割と年季の入った世界のオタクのコミュニティ


 geekなおっさん達が仮想世界でヘンタイ行為をするためのもの、と。なのでキャラもgeekなおっさん達の好みのものに仕立て上げられてます。その好みとは、こんな感じです


Passion For The Future: オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史



 リンク先カバーイラストに象徴されるように、バタ臭いエロ本の表紙みたいなのがあっちの好みなんすね。(まぁ、アメコミってやつですが)


 そういう世界観には、ニポンジンはついてけないでしょうねぇ...。(すくなくともぼくは無理)

 
 
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蛇足:
ちなみに、最近購入したかわいいものはこれです


【楽天市場】せちがらい世の中だねぇ・・・よっぱらいおやじストラップ(吐くおやじ):携帯グッズ専門店のストラップヤ!


「おっさんがおっさん買ってどうすんだ」って言われそうだけどw
 
 







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2007年06月03日

人形考 (欠落と神聖)

 日曜ということでちょっとメディア論(メディアアート論)っぽいものを書いてみたくなったので以下つらつらと。きっかけはこの辺


WIRED VISION / 白田秀彰の「網言録」 / 第三回 美と規範 I


マクルーハンの記した芸術家とは|萌えぼえ。


 白田さんのほうのエントリ主旨は情報デザイン科の性格と純粋芸術的な抽象絵画系の作品の性格の違いを述べつつ、「純粋美術系の作品は自分の中のなにかを表出すべきなのに、模倣ばっかりになってるね」、って感じ。


純粋美術系の学生達の作品は、ほとんどが現代的作品によって占められる。日本画の学生作品においていくらか古典的な花鳥風月をテーマにしたものも見られたりするが、ほとんどの作品は、普遍的客観的自然がテーマではなく、学生ならではの個性を探求しそれを(たぶん)全力で表現したものとなっている。もちろん、彼らの個性と感性に驚かされ感動させられるところもあるのだが、私が数年間そうした卒業制作展をみていると、「画一化した写実表現あるいはアカデミックな作品」を否定し、個性を探求したはずのそれら諸作品が、ある種のパターンなり時代性なりに見事に囚われていることにも、私は気がつくのだ。



 で、これにmoenoさんのところの「人間拡張の原理」(マクルーハン)の芸術家の役割の話が繋がるわけです。

 つまり、「現代人は各種デバイス(メディア)によって過速(overdrive)され立ち位置を見失いがちだが、希薄化する現実感覚の中で、芸術家はリアリティの向かう先を見つける水先案内人(アンテナ)的役割を担う」、ということ



新しい技術に打ちのめされた犠牲者たちは、芸術家というものは非実際的で、空想的な趣味しかもたないと、異口同音にきまり文句をつぶやいてきた。しかし、ウィンダム・ルイスが次に指摘したことは、すでに前世紀において一般的に認識されていたことである。

「芸術家だけが、現在というものの本質を認識しているので、いつでも未来についての詳細な歴史が書けるのだ」。

この単純な事実を知ることが、人類の生存のために必要なのである。芸術家は昔から、いかなる時代にあっても新しいテクノロジーの強打から身をかわし、十分に意識してこれを受け流すことができたのである。それとは逆に古い連中は昔から新しい力の強打から身をかわすことができず、自分たちに必要なのは芸術家だということも分からないのである。そして、芸術家たちを報償したり、有名人にしたてたりすることなどは、彼らの一種の予言者的な仕事を無視することであり、人間存続のためにまさに必要なときに彼らを利用するのを妨げることにもなるのである。

芸術家は、科学の分野であれ人文の分野であれ、どの分野においても、自分の行為とその時代の新しい知識のもつ意味をつかむ人間である。芸術家はものごとを全体的に把握する人間である。



(※デバイスによる「過速化 ⇒ 実存のゆらぎ」についてはこの辺に詳しい)

「場所」と「社会」 (book review)



 あるいは高度にシステム化された労働環境そのものが感情などといった人間固有の感覚を奪い、ロボトミー化させる危険性を孕む。

小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:「感情労働」と「キレる」客

小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:「感情マネジメント」についての再論


【溶けゆく日本人】乱れる性行動 「間が持たぬ」と相手変え|生活|生活・健康|Sankei WEB



 産経の記事は「ケータイとかが悪い(メディアが悪い)」っていう安易な言説に陥りそうでちょっとアレげですが、「コミュニケーションの希薄化 ⇒ 実存の希薄化」という流れはあるように思います。

 そういう流れに対して、身体を機械化することによって現実感を取り戻す人たちもいる。


WIRED VISION / 人間と機械の融合、その最前線(1)


WIRED VISION / 人間と機械の融合、その最前線(2)



 「それは特殊事例だよ」ということではあるんだけど、安易に「メディアがリアリティを希薄化させる」とは言えないのではないか、と思います。


 ってか、テクノロジーはますますわれわれの生活を「簡単・便利」にしていって、その過程でなにかが忘れ去られたりするのかもしれないけど、なにか得るものもあるのではないか。

 それは現在のリアリティとは違った意味でのリアリティ、現在のリアリティを越えるものとしてのリアリティとして「ハイパーリアリティ」とも言えるものなのではないか........


muse-A-muse 2nd: スマート化する社会(可能性と課題について)



 「テクノロジーと美(エロス)」を結ぶメディアアート的にはこういう考えが基本になるでしょうね。それは未来派的な危険性も孕むけど、同時に可能性もあるはず。過去をキチンと振り返りながら、足元を見ながらメディアと付き合っていけば。



 で、


 人形ってのは人間との付き合いの長いメディアの一つなわけです。


 「攻殻機動隊」の主題になっているのからも分かるように、人は人形(ロボット)という自分の写し身を通して自らのあり方を確認する。人形を通して人とは違う部分(欠けている部分)を見つけるからこそ、「人間とは何か」ということが見えてくるわけです。

 その意味では人形とはその人の現在を写す鏡(もしくはアンテナの一つ)ともいえる。

(とはいっても、人形メディアは純粋芸術というよりは限界芸術の領域に属するという限定はあるのですが、まぁ、とりあえず話を続けます)


 で、ここにリンクするわけですが


子供の日といえば人形劇 - MIYADAI.com Blog


 宮台さんは「祭りで見た人形劇はなぜあんなに特別な感じがしたのだろう」という思いを起点にして、「子供時代に見た人形劇は祭りという特殊な場の中である神聖性(アウラ)を帯びていたのだ」という結論に漂着しています。

 「子供のころの祭りは山一つ越えて見に行く必要があって、山越えという過程でなんだか雰囲気が高まっていって、その雰囲気が人形劇という空間を作っていたのではないか」、と。

 「山を越えて異界へ旅立つ」というところからは折口を連想させますが、じっさい折口には「人形の話」というそのものズバリなテクストがあったり。


折口信夫 人形の話(@青空文庫)



 そしてお二人の考えはよく似ている。(あるいは宮台さんはこれを下敷きに書いたのかな?)


 一番似ていると思ったのは、「欠落こそが人形メディアの意義」という部分です。


(以下は人形における欠落とそこに宿る力について、宮台さんのエントリからの引用)

ジョルジュ・バタイユの影響を受けたエドモンド・リーチは、奇形や不具などのシニフィアンの隙間を未規定性の噴出口と見做し、「境界の状態」と呼んだ。社会関係と直交する「縦の力」が人形を媒体に選ぶのは、人形が「境界の状態」を呼び込み易いからである。


大道具や特撮の実写を陵ぐリアルさと対照的な「人形の不自由さ」を、『サンダーバード』を見ていた小学生の私は幾度も不審しく思ったものだが、今では理由は明白だ。人形が精密になるほどシニフィアンの隙間が閉ざされ、単なる下手糞な俳優に近づくのである。


ところがどっこい。不自由な人形たちに、不自由ゆえにこそ力が降りる。気がつくと我々は、どんな俳優劇にも劣らぬ微細な表情を読み取り、肉体を貫く躍動を感じている。CGを一切使わず、優れた傀儡と傀儡師のコンビネーションだけが、力の源泉だと宣告する。


人形劇は、規定されたシンボルに抗って未規定なアレゴリーを示すかわりに、規定されたシンボルに抗ってシンボルの隙間を未規定性の噴出口とすることでミメーシス(感染的摸倣)をもたらす。〈世界〉の根源的未規定性に接触するための、機能的に等価な方法だ。




(以下は折口、「人形の話」からの引用)


普通の学者は形代(人間の身体の替りのもの)と考えている。この形式が、いろんなものに分化していく。盆暮に社から人間の形に切った紙を出す。それに米など添えて社に持って行く。これも形代である。このように種々に分れている。ところが江戸になって非常に盛んに行なわれる語、書物に出はじめたのは鎌倉であるから、武士から出はじめた語であろうが、それに「お伽」という語がある。


「ひひな」は普通は人間の形代であり、人間の雛型だから、それがけがれを吸収する。だからそれを棄てればよいのだと考えている。ところが「ひひな」は古くから日本の家庭では玩具になっている。われわれは何ともなく思うが、「ひひな」はけがれを吸収したものだから、身辺にあるが恐しいものである。これが玩具となるのは飛躍しているわけである。日本では何か事情があって、これに親しみを感じてきたのだと思われる。


 通常、人形は「人間の代わりのもの」としてとらえられ「けがれを吸収する道具」として使用されますが、たとえば「いたこ」と「おしらさま」のような「欠落 × 欠落」な関係においてはそこに不思議な力が宿る。


「いたこ」は条件的に目が悪い。つまり盲目が感じるのである。そのときに語るものは祭文というものである。祭文というても江戸、上方のとは異なり、つまり一種の叙事詩である。いまでは叙事詩を語ると、「おしらさま」が昔を思い出して踊りだすと考えているが、「おしらさま」自身が語るのである。「いたこ」はやっているうちに放心状態にはいる。「いたこ」はほとんど、託宣をしない。神がつくのではない。「いたこ」が神をつかっていると、「おしらさま」自身が踊りだす、そんなのをみると、「おしらさま」が家の生活と近くなる。家の中の納戸の隅などに祀ってあって、家のけがれをしじゅう吸収している。そのしるしに、年ごとに一枚ずつ着物を着せてもらい、「いたこ」が廻ってくると遊ばれる。してみると、この「おしらさま」というものは非常に怖れられていることがわかる。「おしらさま」の祀ってある家は旧家だというが、ちょっとのことでも祟りがあるので、非常に迷惑をする。



 「おしらさま」は蚕のこと。通常、2体つくられ頭だけを象られます。(白馬の頭の部分とか?)。2対であるのは家庭を作るため。そして「おしらさま」=「お雛さま」、と。

 
奥州の「おしらさま」は、一体、二体、ときには三体のこともある。近代では主に蚕の守り神になっている。ということは、農村でいちばん大切な守り神ということになる。蚕を飼うほど、蚕の守り神の考えがおし及ぼしてきて、かきものを守り神とするようにさえなってきた。古ぼけるとまた新しく作るので、古い家になると二体も三体も祀っていることがある。
 桑の木の二股の枝をとってこしらえる。だから先のほうを頭にして、頭だけの人形である。この「おしらさま」に毎年一枚ずつ着物を着せてやる。着物を着せるというのは、「おしらさま」がお雛さまだからだ。つまりもとの意味は、「おしらさま」がその家のけがれを背負っている、ということになる。だから古い「おしらさま」は、布の中に埋もれている。奥州では、「いたこ」が「おしらさま」を使いにくる。これをおしらさまをあそばせる、といい、「おしらあそび」という。



 あるいは「頭だけで身体がない」という欠損部分に神が宿るのかもしれません。

 そう感じさせるのはこのあとに続くテクストが淡島のことに触れているからです。

 以下は、「ひな祭りとは本来はいたこがおしらさまを遊ばせる祭りであったが現在(※当時)ではそのような風習は淡島の「淡島願人」に見られる」、という文脈から。


淡島は諾冊二尊の間に生まれた二番目の子で、性がわからない。これを流したということから形代の起源と考えているのだろうが、そんなに古いところでなくとも、摂津の住吉明神、紀州加太の淡島神社から出ていると思う。住吉と加太とが淡島願人の中心地である。そこから出て、諸国に淡島信仰を流布し、下の病で苦しむ女を救うて歩いた。住吉明神の妻が白帯下(しらながち)にかかったのを嫌って、扉に乗せて流すと、紀州の加太に流れつき、そこに鎮座したという。だから年に一度加太から住吉に戻る式をやる。ちょうど摂津の堺が真中にあたり、ここにきて、来よう、来させまいと争う式がある。
 近代の信仰では淡島はけがれて流された神である。だから二体でなく、一体でもよいのだが、それでも二体と信ぜられている。また淡島願人のもって歩くのは、雛ではない。淡島さまはどこでも、「すくなひこなの神」だというている。ともかく淡島さまは海の中の島にいる神である。


 「淡島」は淡路島のことで、「二尊」とはイザナギとイザナミのこと。つまり、蛭子(ヒルコ)神のことです。

 知っての通り、蛭子神は形を成さずに生まれた神で、生まれてすぐに流されてしまった。でも、漂着先で「幸せを呼ぶもの」としてあがめられたんですね。それはヒルコが形をなさなかったため魚の栄養物となって漁村に収穫をもたらしたことに関係していると思うんだけど、漁村というのはそういうこととは別に外から流れ来るものというものを大切にするところがあった。つまり多様性に対して開放的だったわけなんだけど。

 で、「ヒルコ = 蛭子 = 胡 = 恵比寿」なわけです。恵比寿さんが釣竿をもっているのはそういうことだし、「胡」という言葉が外来者を指すのもそういうことです。
(この辺は折口の「稀人」話に通じていくのかな)




 本来の意味でのひな祭りが淡路に残り、淡路が奇形神であるヒルコの島だったというのは不思議な符号ですが、宮台さんのいう「闇の力」というのはもしかしたらその辺りに関係するのかもしれませんね。






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関連:
muse-A-muse 2nd: 明日はゆかいなひな祭り♪




折口信夫 三郷巷談(@青空文庫)

※淡島話はこちらに続きます
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2007年04月30日

「<場>の歴史性」と関係性の代替可能性について

 予告通り「関係性の再構築」に関して、<再帰的近代の課題を越えて関係性をもう一度構築することは可能か?(関係性の脱構築 / 構築)>、<その際模索する関係性はなんらかの歴史的な繋がりを前提としないと成り立たないのか>という課題について考えてみた。ってか、いくつか情報が集まってないところがあってはなはだ未正確な感じなんだけど、いつもながら「おーざっぱ」が本サイトの持ち味なのでおーざっぱに進めようと思う。

 
 で、最初の議題設定に戻って、具体的に「歴史的繋がり」として想定しているものとはどういったものか? まぁ、この辺なわけだが


福耳コラム - 街の自己模倣と矜持


 都合よく要約すると、「地元で生活する人々にとって町というのは工学的思考から行政区画的に割り振られた利便性だけではなく、そこで生活する人たちの利便性に基づいた使い勝手のようなものがある」、と。んで、そういった「使い勝手」のようなものが「生きられた経験」と合わさって歴史的に積み重なっていって「町」というものを構成していく、と。そういった感じだろうか。

 前者は「ハードウェアとしての機能を中心とした表面的な町」、それに対して後者はソフトウェア的な質感や歴史性を中心とした「生きられた町」といえるかもしれない。


 で、後者のような町の場合、前にちょっと考えた「関係性の技術的移入」ってできないんじゃないかって思うわけだけど・・


muse-A-muse 2nd: 関係性と経済合理性の協調可能性について (あるいは中間共同体の可能性)


 この辺りについてもうちょっと考えてみようかな、と。


 っつーか、場の歴史性を中心とした関係性って着脱不可能(大体不可能)な感じなんだけど、そもそも関係性とはどういうものなのだろうか? ってか、関係性への志向というのはどういった経路から出てくるものなのだろうか?

 そういったいわば関係性の源流的な部分を探ることによって、上記で設定した問題というのはhack可能なのではないか?

 これが今回のエントリの目的であり方向性となる。


 で、先日のエントリだけど


muse-A-muse 2nd: 芸術的なものへの参加資格について (関係性の再構築 承前)


 一見、しごく人文的問題なこれといわば社会的な問題である今回のエントリがどう絡むかというと、(先見的な結論を出すやり方で社会科学的な思考としては邪道極まりないやり方だけどおーざっぱに言えば)、ここで考えたような「ホントノジブン」っていうか、短絡的なエゴとは違う方向性をもった欲求というのはある意味「善的」というかなんらかの社会的な貢献に寄与するものではないか、と思う。つまり関係性を志向したものではないか、と。

 「pure artはエゴの表出と蓋然的なルールの緊張関係の下に成立する」ってちょっと書いたんだけど、ここで設定したようにpure artというのはなにも自分の好き勝手に欲望を吐き出せばよい、というものではなくてなんらかのルールとの緊張関係の元に生まれていく。ってか、そういった蓋然的なルールを受け手(鑑賞者)のほうが感じ取り、ルールを読み取り、作品を解釈する場においてpure artというのは成立していく。


 で、一見すると最も個人的で、エゴイスティックな場であるはずのゲージツ表現において設定されるルールというのは、自律的に発生してくるルールの限界的なものとして設定できるのではないか、と思う。

 平たく言えば、あんなワガママなゲージツ家でさえなんらかの関係性(ルール)を志向するのだから、ほかの人たちも関係性を志向して然るべきなのでは?、と。


 で、そういったルールの成立過程に関係性への志向の成立がかかわってくるのかなぁ、とかぼんやり思うわけだけど、ここでルール以前に、そういったルールを設定せざるを得ない「あーてぃすと」にならざるを得なかったジブンという問題がある。

 この人たちはなぜ「あーてぃすと」にならざるを得なかったか?

 前回の設定的には、「ホントノジブンなんかなくて、<私>ってのはいろんな他者が行き交う場なんですよ」、ってのがまずあると思うけど、そこでのホントノジブンというのは雑誌とかテレビみたいなメディアで設定されていた「リソウノブン」ってやつで、そういうのと理想像としての「あーてぃすと」ってのとはちょっと違うように思う。

 前回エントリ後段でもちょこっと言ったけど、「ならざるを得ないから仕方なくあーてぃすとになる」のであって「理想だからなる」とかいうのはちょっと違うんじゃないかと思うので。なかにはそういう人もいるかもしれないけど、モチベーションというか才能足りるのかなぁ、とか思ったり。(まぁ、元々、「あーてぃすと」になるのは「ならざるを得ない」からであり目標ではないのだから吐き出すものがなくなればやめればいいだけだろうけど)



 そんな感じで、ホントノジブン(あるいは自分に還る)的な志向というのはあると思うし、そこから派生してなんらかの自律的ルール(関係性)を模索しようとする志向というのはあるように思う。個人的見解ではこのルールというのが公的なルールの原初的なところに繋がるように思う。


 んで、こういう風に書いていくと、「それって一部の人だけじゃん?公のルールってむしろ多くの人の妥協の下に決まるのでは?」、って感じになると思う。では、多くの人の志向とはどういったものか?


 その前に、関係性への志向とかナリタイジブンへの志向以前になんらかのおぼろげな欲望への志向のようなものがあるように思う。欲望への志向というか、模倣。「あの人なんとなく好きだからあの人のようになりたい」みたいな感じのおぼろげな欲望がまず初めにあって、身近な人の模倣とその反復のようなものを繰り返すところから自己と他者というものは形作られていく。(cf.ラカン、ジェイコブセン)

 んで、模倣を通じてそういった記号操作に慣れて、自分自身で習得した語彙とかコミュニケーション作法が増えることで、自分なりの行為の分節化が行われ、内部システムがいくつかに分かれていく発展していくんだと思う。(ゲシュタルト?)



 で、本筋に戻って、関係性への志向というのはどの段階で目覚めるのか?



 いちお模倣という形での関係性への志向というのは自覚的じゃない状態でもありえるように思う。いわゆるご近所づきあいとか。

 こういうのは日常ルールの模倣だしルーチンって感じなので自律的なものではなく、関係性やそれに関連すると思われる善性への志向というものとはそれほど関係ないように思う。


 ってところでちょっと行き詰るわけだけど、ちょうど池田センセが関連エントリ出しておられたので見てみよう


池田信夫 blog なぜ人は感情をもっているのか


 刑罰を求める社会的な心情について、「合理的に考えれば刑罰を科しても死者は生き返らないはずなのに人々が刑罰を求めるのはなぜか?」、ということについて。


これはゲーム理論で、コミットメントの問題としてよく知られている。一般に刑罰は、処罰する側にとっても受ける側にとってもコストがかかるので、事後的には許すことが合理的だ。しかし処罰する側が合理的に行動することが事前に予見されると犯罪が横行するので、たとえ不合理でも処罰しなければならない。つまり秩序を維持するためには、不合理な行動へのコミットメントが必要なのだ。

このようなコミットメントを作り出すメカニズムとしていろいろな方法が知られているが、代表的なのは法律だ。どのような情状があろうと、犯罪者は同じ法律によって一律に処罰され、個別に交渉して(たとえば金をとって)釈放することはありえない。そういうことは「正義にもとる」として許されないからだ。したがって究極の問題は、人々はなぜ正義を求め、筋を通す感情をもつのかということだ。



 「秩序を守るためには必要」、と。では、「秩序>個人」「社会>個人」的な感じで関係性への志向がプログラミング(内部規律化)されているのか? エントリ後段でもちょっと出てきた「感情」の捉え方がポイントらしい。

 続きのエントリではアダム・スミス問題、あるいはシステムにおける多様性(文化)の問題に触れておられる。んで、公共善への志向は後天的な環境要因によるもの、と。


池田信夫 blog Moral Sentiments And Material Interests


当ブログでもみてきたように、愛国心や分配の公平、あるいは因果応報などの一見、論理的に説明しにくい心理も、遺伝的・文化的な進化のプロセスを想定すると論理的に説明できる。人間の場合には、社会的昆虫と同様、個体が孤立して生きることができないので、エゴイズムを制御して集団を維持することが生存競争においてきわめて重要だったと考えられる。


 サバイバル状態の中で集団を維持する際のルール設定を想定すると分かり易いように思う。資源が限られている状態では優先順位が「共同体>個人」となる。近代以前、「自然」ってやつは暴力的に強大だったのでそれに立ち向かう人類社会は一定の規律が必要だった。

 んで、そういった社会を維持するために規範が設定され、それを守らせるために強力な「アメとムチ」が設定される、と。

 で、ポイントとしては以下


こうした集団的な行動は、どこまで遺伝的に決まり、どこからが環境によるものだろうか。これについては、異なる文化的条件で同じ実験を行なった結果、社会生物学の主張するような遺伝的決定論は誤りであり、文化的な要因の影響のほうが大きいというのが本書の主張だ。基本的な欲望や感情は遺伝的に決まるが、それがどう行動に現れるかは文化や習慣によって決まるのである。



 <集団的行動、関係性への志向は遺伝子のような先天的要因というよりは社会的・家庭的な学習といった後天的要因によって決まるところが大きい>、と。(基本的なもの以外は)


 ってか、「関係性への志向の分節にはどういった種類があるか」とか「それがどのようにして根付いていくか」とかが重要なわけだけど、特に触れられていないな・・。



 仕方がないので自前で考えるとして、ここで思い浮かぶのが「マズローの欲求段階説」、いわゆる「自己実現の心理学」っていわれる例のアレだ。


〜 マズローの欲求段階説 〜


 「人間の欲求は5段階に分かれてて、精神が成長するに従って提示のものから高次のものへ移っていく。すなわち、生理的欲求 ⇒ 安全の欲求 ⇒ 親和の欲求 ⇒ 自我の欲求 ⇒ 自己実現、って感じで」

 ってやつ。それぞれの説明としてはこんな感じ


生理的欲求と安全の欲求は,人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求,親和の欲求とは,他人と関りたい,他者と同じようにしたいなどの集団帰属の欲求で,自我の欲求とは,自分が集団から価値ある存在と認められ,尊敬されることを求める認知欲求のこと,そして,自己実現の欲求とは,自分の能力,可能性を発揮し,創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求のことです



 ここで「自我」とか「自己実現」とか不用意に入ってるのでいまからみるとちょっとアレな感じなんだけど言いたいことは分かる。本エントリ的には「親和の欲求」「自我の欲求」「自己実現の欲求」あたりが絡むか。


 っつーか、「親和の欲求」における「他人と同じにしたい」って思いは同調性を、「自我の欲求」における「集団から価値のあるものとして認められたい」というのは相互承認欲求を想起させてちょっとびみょーな感じがするんだけど、いいたいことはなんとなく分かる。


 てか、いま「マズローの心理学」(フランク・ゴーブル)ってのを緊急的に読んでてなんとなくな大略をつかんでるんだけど、どうもマズローってのはフロイト、行動心理学的なものを押さえた上で、「でも人間無意識とかリビドーとか、システマティックな合理性だけじゃ動いてないしなぁ」ってとこから「善的モチベーション」に関心を持ち、「そういったモチベーションがほかの欲求に比べて低いものだとしても開発していくことは可能なんじゃないか?」、って視点から5段階の欲求説を作っていったっぽい。なので、この説自体は終着点というよりは未完成なパフォーマティブアクションとしてみたほうがいいように思う。

 まだ全体を見たわけじゃないけど、どうもそんな感じ。


 「社会や学校・家庭教育といった後天的な要因がどのように関係性の志向に絡んでいくのか?」ということについては未だチェックしてないけど、以上のような問題設定の仕方をみるとどうもその辺のチェックもゆるいような気がする。

 やっぱ「再帰的近代」とかの問題以前だからかなぁ・・。


 まぁ、とりあえず再チェック、と。




 で、こういった「感情」みたいな曖昧な議論が出てくると警戒されるのはむしろネガティヴな感情のほうのように思う。


 「ねたみ」「そのみ」「ひがみ」「うらみ」みたいな他人貶め型ネガティブ4姉妹に加えて、「怒り」「不安」「怠惰」みたいなのもある。


 こういう「感情」は関係性(あるいは善性)の志向とどう絡むのか?



 マズローが言うように、「自己実現的段階に至った人(あるいはそれを志向することに目覚めた人)にとってはそんなのアホくさくてやってらんないよ」、って感じでまず自己実現的なものを目指せばいいのか?


 でも、さっきも言ったように誰しも自己実現的なものを目指せるわけではないし、いまの世の中はそういった志向がなくてもある程度は関係性を志向できているように思う。


 加えて言うなら、マズローの提示した欲求の関係というのはレベルではなくレイヤーで捉えたほうが良いように思う。





 まぁ、こんな感じで関係性の源流と思われる部分である関係性への志向への考察みたいなのはおーざっぱに修了されるわけだけど、しっくり来たのって言ったら、「欲望は模倣を通じて形成されていく」ってことぐらいかなぁ・・。

 自律的じゃない関係性への志向というのもそんな感じで模倣・複製されていくんだろうなぁ



 では、最初に戻って、


 そんな感じで関係性(への欲望)が模倣を通じて構築されていくとすると、場の歴史性に依存するのか?しないのか?



 模倣の場合は自律的だったり自覚的だったりしないのだろうから場の雰囲気ってけっこう大事な気がする。でも、それとは別に町を自覚的に生きている人ってのは単なる模倣ではなくてなんらかの形で自らの生活をhack(ブリコラージュ)しているように思う。その部分のマインドと合わされば、外部からの移入というのは接続可能なように思うんだけど・・その辺のマインドってのがつかみにくいんだろうな。


 そういや内田センセのとこにもそんなエントリ上がってた


「株式会社という病」を読む (内田樹の研究室)


 「零細企業の工場労働者のエートス」、それを受け入れ「あちら」と「こちら」は違うとする労働者への親和性と「あちら」側にいることの心の疼き。そして、仕事を通じて親和性が消えていく侘しさについて。


 ここでは「労働者」は機械的になにも考えず働いているのではなく、ある自律性をもって経済合理性以外のエートス(関係性、親和性)にコミットして行っている。


 そして、日々の生活(労働)を楽しむことも。



 こういうのはなんかいいなぁ、と思う





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追記(2007.5.1):
っつーか、技術の享受の器って認知系からhack可能なの?
(行動主義心理学から認知心理って感じでアプローチ?)


天才アーキテクト神成淳司氏との共著本『計算不可能性を設計する』まもなく上梓! - MIYADAI.com Blog

技術の享受「を」可能にするのは潜在的行動連関だが、技術の享受「が」新たな潜在的行動連関を開示する。社会的全体性が技術を方向づけると同時に、技術が社会的全体性を方向づける。それに無自覚であれば技術は意図せざる帰結をもたらす



って、この「潜在的行動連関」って具体的になんなのかよくわかんないんだけど、いわゆる慣習とか生活(労働)上の無意識的なルールってやつだろうか?(暗黙知であるがゆえにhackしにくい部分みたいなの)



そして、あほーだんすでダンスを踊れ、と?(「同じアホなら」?)

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2007年04月27日

芸術的なものへの参加資格について (関係性の再構築 承前)

The artist is a receptacle for emotions that come from all over the place: from the sky, from the earth, from a scrap of paper, from a passing shape...
-- Pablo Picasso



The significant problems we have cannot be solved at the same level of thinking with which we created them.
-- Albert Einstein, (attributed)



In heaven all the interesting people are missing.
-- Friedrich Nietzsche



I'm tired of all this nonsense about beauty being only skin-deep. That's deep enough. What do you want, an adorable pancreas?
-- Jean Kerr



All animals are equal but some animals are more equal than others.
-- George Orwell, "Animal Farm"



There are two kinds of light--the glow that illuminates, and the glare that obscures.
-- James Thurber



Derive happiness in oneself from a good day's work, from illuminating the fog that surrounds us.
-- Henri Matisse




A gentleman is a man who can play the accordion but doesn't.
-- Unknown






 関係性の再構築に関して。<再帰的近代の課題を越えて関係性をもう一度構築することは可能か?(関係性の脱構築 / 構築)>、<その際模索する関係性はなんらかの歴史的なつながりを前提としないと成り立たないのか>という課題についていくつかの線から考えてみようと思っていた前段階として小田センセにちょっと質問してみた。

 んで、お答えいただいて、その答えがなんか別ルートにつながったなぁということで、今回のエントリは<関係性の再構築>の前段階として、「関係における相互理解の前提条件とは?」みたいなことについて。

 あるいは関連として、相互理解を可能にする<器>についてちょっと考えてみたいと思う。



 んじゃ、まずここから

小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:オリエンタリズムと対話的自己について


ぼくは「メタな位置をとることによって対話の可能性を排除してしまうことの損失は情報力が少なくなることにある」ように思うのですが、……「対話(あるいはそれを通じた対話的自己)を排除することによって自己の代替不可能性を否定する」というのはどういうことでしょうか?『対話的関係からしか生まれない』とされているのですが、これは「自己の代替不可能性は他者との関係性によってのみ浮き上がってくる」ということでしょうか?

ぼくはそのあたりは少し慎重な態度をとります。前提として、自己の確立(あるいは情報収集)のために他者との対話が有効なことは分かるのですが、その際、ただ「おしゃべりしとけばいいやー(ともだちいっぱいのほうがいいよー)」というのもどうかなぁ、と。、と。他人との関係を重視しすぎてそちらに流されてしまうんじゃないか、と思ったりします。んで、ある程度自己が確立したもの同士でないと対話は成り立たないように思うのですが・・・どないでしょう?



 そんで、お答えの内容を要約すると、

「“自己の確立”って言ったってその“自己”自体がひどく曖昧なもの。質問の前提としては“自己が確立してないと他者に引きずられてキケンでは?”というものがあるように思うけど、むしろ自己を定めてしまうことによって比較の対象ができてしまうからいろんなコンプレックスが出てきてしまうのではないか? <私>っていうのはそんな確立したものではなく、他者との関係の中で浮き立つもの(交差する場としての<私>)ぐらいの認識のほうがいろいろ楽なのでは?」

 とのこと。


 まとめながら気づいたけど、これって蟲師に出てたナガレ橋のことだ


蟲師 (2)  アフタヌーンKC (284)
漆原 友紀
講談社 (2002/02)
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 川が増水するたびにいつも壊れてしまう橋があって難儀してたんだけど、「水流にも負けない強い橋を作らなきゃ」というところから発想を変えて、『増水してくれば渡し板の片方を外し 水の流れるままに泳がせ 水が退いたら元に戻す』ことによって壊れない橋を作った、っていう話。


 この話自体も兄の才能に自分比較して悩む男の話だった(それでナガレ橋を作ったことによって開放された(?))。



 ポイントとしては2点あるように思う


 1点目は「ナガレ橋のようになにかに対して定まった自己を作るのではなく、ナガレの強さを受け流すことが必要」ということ

 2点目は「主人公がなにかを作ったことによって開放された」ということ


 “なにか”というのは兄の才能に勝ったということではなく、なにか、自分で納得できるものを作れた、ということなんだと思う。



 もしくはちょっと違うかもしれないけど、サイバラさんの上京ものがたりなんか思い出したり



上京ものがたり
上京ものがたり
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西原 理恵子
小学館 (2004/11)
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 東京に踏んづけられ蹴飛ばされるだけだった「私」、他人にコンプレックスをもっていつも周りに悪口ばっか言ってた「私」が、自分の好きなことで仕事をもらうようになって自信をつけ「東京にありがとう」っていえるようになった、って話。

 その仕事はエロ本のちいさなカットっていう仕事で、自分の絵がうまいわけじゃないっていうのもよくわかってるんだけど、そこから出発していろんな仕事が入ってくるようになってちょっとだけ自分に自信を持てるようになって、読者の中には「しんどい気持ちが救われる」って言ってくれる人もいて・・・そういう中で<私>ができあがっていったというか、<私>の場所というものができていった。

 
 なにかを発信することによって人と繋がり(business)、「世の中から必要とされている」(役に立ってるのかも)ということの目に見える形の対価としてお金とかファンレターとかをもらうっていう。これが自信につながっていったのだろうなぁ。


 ってか、やっぱお金って大事だ。


 「お金が全て」ってわけじゃないんだけど、現代日本である程度心に余裕を持つためにはやっぱりお金が必要なわけで、その部分を「自分の力」でなんとかしたってところが自信に繋がったんだと思う。





 で、最初の話に戻るけど、


 では、関係性(あるいはコミュニケーション)の前提条件としては「自信」というものが必要になるのか? その前段階として、お金とかファンレターみたいなメディウムを通じて「信頼」を実感する必要がある、と?


 そこまでいかなくても日常生活レベルでも「信頼」を媒介するなんらかのコミュニケーションがあるように思うけど、ちょっとその辺は保留で。


 「創作と自信」、「創作と相互理解(コミュニケーション)」関連でこんなエントリが目に留まったのでちょっと繋げてみよう。



日日ノ日キ - いい子ちゃんわるい子ちゃん

 

 全体の主旨としては、

「今の時代。この最適化された世の中で生きにくいと足掻いている人たちに向けた何かが圧倒的に足らない」



 ってこと。

 連想するのは「スーパーフラット」な話とそれに対するサンボマスター的なもの。


 ぼくの理解的にはスーパーフラットさんは、「世の中、元々サブカルチャーってよばれてた下のほうからせりあがってきて、上も下もないような価値基準になってきてるよ」、って言って、自分のお仕事(というか交渉)を正統化しようとしているように思われるんだけど、「それってどうなの?」って思う。 

 「下からせりあがってきてる」のも確かにあるかもしれないけど、君達が属する「上」(?)の部分が落ちてきてるんじゃないの・・?


 「下からせりあがってフラットになってきてるからもー“楽しければいいじゃん”なんスヨ。“楽しく”て“かわいい”。これッス! 実際売れてるわけだし」、とかいうのは単なる言い訳にしか聞こえない。

 たしかに「売れる」ということは重要だし、それはそれとして努力が必要なこともわかる。でも、それは「売れる技術」(交渉術)であって、「なにかを作る技術」ではない。


(※こういう言説を弄すると売れない人間のルサンチマンのように見えるかもしれないけど、別にオレこの分野で金稼ぐ気ないから勘違いはやめてね)




 っつーか、スーパーなフラット氏がなぜこういうことを言っているのかよく分からないのだけれど、


反『芸術起業論』 村上隆のビジネスコンセプトを反転してみる。 - アート資本主義


 それはぼくの勘違いということか? フラットさんも最初から「売れればいいじゃん?」なんて言ってない、と?


・・彼の言説とその活動内容(あるいは周囲の声)をずっと追ってきたわけではないのでよくわかんないけど、まぁ、とりあえず「評価基準は“金”以外もあるゼ?」、と


 ・・ふーん


 個人的には売れてる人が若手(あるいは売れてないけどなんか持ってる人)を応援するシステムに還元すべきだと思うけど、まぁ置く。




 んで、そういう「売れるもの」(人気のあるもの)以外で創作活動っていうか人の営為(Art)を評価する基準とはなにか?

(※いちお註。Artってのは元々「お芸術」だけじゃなくて人の営為によって出来上がった作品・あるいは術理全般をさす言葉なので。うちのサイトではArtという言葉は、「 営為活動、あるいはそれによってできあがった成果物全般」、として用います)


 この辺は前にここで検討した限界芸術的なものなんかが当てはまるように思う。


muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2):批評としてのジャーナリズム


 別にmarginalなところになくてもいいんだけど、なんらかの想像性や創造性の痕跡がみられるようなもの。そういうものがArtとしての新規性に当たるように思う。

(※想像性と創造性についてはこちらを参照ください)


muse-A-muse 2nd: 「クリエイティブ」とはなにか?(「センス」、「想像力」、「創造力」について)



 そんで、そこにビジネス的なものが関わり、世間の評価というか要求仕様というか、そういうものに対するプロとしての責任意識が重要なように思う。
 
 ケツをまくらず修羅場や土壇場をいくつ越えてきたか、というところで真価が決まる。それによって創作者自身にも実力がついていき、それが自信に繋がっていくわけだし。



 創作物がある特定の人々を対象としていてなんらかの配慮が必要な場合、そういうことができる(配慮と創作(発信)のエゴを調節する)ということが発信する側の責任であり、なんらかの創作物というメディウムを通じてギロンの場に参加する際の最低限のマナー(資格)であるのだろう。

(※創作者の資格についてはこちら)

muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2.1): Sound and Fury




 で、


 そういういわば「プロフェッショナリズム」のようなものとは別に、吉田アミさんが言うような「悪い子ちゃん欲求」っていうのがあって、これはこれで重要だなぁ、と。


 それはなにも責任放棄とかそういうことではなくて、なんらかのpure artみたいな創作物の場合は特にそうなんだけど、創作者のエゴをなんらかの形でアウトプットするということがオリジナリティに繋がるところがあるように思う。

 元々、創作業界なんてのは社会全体からすればヤクザな商売で、publicな圧力(ステレオタイプ的な世間知)に対して、自分の中の欲望(エゴ)をどう叫ぶか(表出するか)というところに主眼があるわけで、そういったエゴの部分というか魂の声のようなものが聞こえない創作なんてのは単なる模倣に過ぎない。


 その際、エゴをそのままむき出しの形で出してると単なる○キチ扱いされてしまうので、自分が定めたなんらかのルールに則って表出することが必要になる。ここで見られる蓋然的なルールとエゴの緊張関係のようなものこそがこの領域での評価ポイントとなるように思う。



 そういや宮台さんもちょうど似たようなエントリ出してたな


「悲劇の共有」と「叙事への意志=叙情否定の意志」の関係について記しました - MIYADAI.com Blog



 「劣化コピーが多くなってきたね」、と。んで、「やっぱ他者性(エゴ)がないとね」って感じか。でも、映画市場全体は「上げ上げ」らしい。


 宮台さんとしては郵便的偶発性みたいなものをもったものが他者性(≠独創性)に繋がるって感じだけど・・さて、どうでしょうねぇ

(あと、art的なものが増えるためにはきちんとした評価が必要、と)




--
関連:
インタラクティヴ読書ノート別館の別館 - ハンス・アビング『金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか』(grambooks)


※っつーかpure artを含めてart活動全体にはお金がいるわけで、その辺は考えないとね、と









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追記:
それで吉田アミさんもちょこっと言ってたけど、「お芸術」とか高尚なものではなく、けっきょく「そうせざるを得ないもの」というのがあるように思う。


別にやりたくないけどそうしないと狂ってしまう、っていうか、なんか苦しいのでそういうものを固まりにして吐き出さずにはいられない人々、ってのがいる。(雑誌なんかに載ってる「ホントノジブン」みたいなのを目指して自己を確立するというよりは、自己に向き合い、そこに還って来る人々)


草間弥生なんかもそんな人みたいで、「生きる歓び」(保坂和志)にそんな話が出てたな。



なので、こういう人々は「えらい人」ってよりはマイノリティって感じで、そういう人々が生きやすいような環境、そういう人々が共感できるような創作物が交換されるような環境を構築・維持することが必要なのだろう



あと、スーパーフラットだけど、「全てがフラットになる」というよりは「でこぼこになる」ということだと思う(グローバリゼーション  ⇒ フラット化みたいに)

タグ:関係性 art 責任
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2007年04月22日

「クリエイティブ」とはなにか?(「センス」、「想像力」、「創造力」について)

 何年か前に関心空間で「田口ランディ」のキーワード画像に使ったartistの絵が気になってgoogleでイメージ検索してるんだけど見つからない。


 ちょっと前までは「cocoon」でイメージ検索すれば出てきたのに・・。時の流れ


・・・困った。けっこう気に入ってたのに(名前控えとけばよかった)。イングランドかブリティッシュ系の画家ということは分かってるんだけど


 彼女の作風は「人肌の上にmappingを施す」って感じで、P.グリーナウェイの「枕草子」みたいに人をテクストとして見立ててその中からあふれてくる歴史性みたいなのを伝える(あるいは<テクストや記号の集合体としての人>)ってのをイメージさせてよかったんだけど・・。どっかいっちゃったな。

 仕方ないので関心空間で勝手に使わせてもらった画像だけ貼っとこう。


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(※もしかしたらこの「勝手に」ってところで気に障ったのかな・・? でも、こんな極東の、しかもコミュニティサイトの一つなんかチェックしてないよな・・? ・・・・・)



 「田口ランディ」の関空キーワード関連でちょっと思ったことをもぞもぞと書き綴っとこう。「センス」、「想像力」、「創造力」について。


 これらを分別なく使っている人をたまに見かけるけど、そういう人たちはたぶんこういうのを自覚的にコントロールできてない。あるいは、可能性の限界を悟って自分の中で強い部分に特化する、というような戦略の転換ができない。

 能書きはいいのでさっさと思うところを説明すると、


 「センス」というのはアンテナ、レセプター(受容体)のようなもの。なんらかの体系的な知識の教授以前(いわば先天的)にもっている知識の受け皿のようなもの。

 スキーマの前段階、根っこというか茎の部分といったほうがいいか。ここに知識がくっついて行くことによってスキーマの花が開いていく。

 「スキーマ」とは、簡単に言うと知識ノードのクラスターということになるんだけど、それだと分かりにくいか・・。んじゃ、こちらで

スキーマ とは (schema)

心理学用語で、ある対象や出来事に関して、まとまって記憶されている情報や知識ということを意味する。広告の1つの目的は、商品(ブランド)に関するまとまりを持った知識を伝達することで、その記憶内容がブランドスキーマである。同じように消費者自身についての理想の自分像(自己スキーマ)や、ニーズと購買行動との関係についての知識(問題解決スキーマ)なども、広告で伝達すべき目標となりうる。


 
 オブジェクト指向的にはクラスの集合体ということになるのかな?ディレクトリの先のほうについている溜まり。知識の集合。


 で、話を戻すと


 「想像力」というのはセンスというレセプター同士、あるいは溜め込んでいる知識同士をリンクさせるための能力、リンケージスピードのことを指す。もしくはリンケージの幅、リンクホップの能力。ホップが遠いほど(関連性が低いように思えるリンクができればできるほど)「リンク能力(想像性)が高い」、ということになる。総合すると、「想像力」というのは「リンクスピード」、「リンクの幅」の2つに関わる能力を合わせたもの。

 おそらく脳力というのはスピードに依るところが多くて、記憶のinputにしても、想像力による知識の連動にしてもそのスピードが速ければ速いほど創発が生まれやすい。

 「創発」とは、簡単に言えば知識の連動によって「1+1=2」以上の効果を生み出すようなイマジネーションの爆発のこと。ネットワーク系の用語だともうちょっと広範囲に「いろんな場面での限界突破」みたいに使われる。

 「創発」の痕跡として、想像力のリンケージスピードを上げるための物質の量が増える。この辺は最近実証されたらしい


Biological Journal | 適応や学習でシナプスが増える!


 いわゆる「脳のシワが増える」のではなく、「情報伝達のための物質が増える」、ということ。アルコールを飲み続けることによってアルコール分解酵素が増え、少しは酒に強くなるように(1.25倍ぐらいまで鍛えられるんだっけな?)。



 で、こういった形で情報の「input」(センス)、「内部参照・検索」(想像力)の回路が推測されるわけだけど、最後にこのようにして統合された情報をなんらかの形で吐き出さなければならない。この過程に関わるのが「創造力」。


 つまり、「創造力」とは情報のoutput過程における表出能力のことを指す。その表出の形態というのはもろもろの生産過程によって求められる情報の形式によって異なる(ex.ビジネス文書、プラグラミング能力、小説、絵画、イラスト、マンガ、曲、詩・・・etc)。それらの表出形態には優劣はない。求められる分野に応じて出口がいくつかに分かれているだけ。

 おそらくはinput過程(「センス」)と同じような樹形図が描かれ、該当する根っこの部分を特定することによって集中的に特定分野の表出能力を鍛えることができるのだろうけど、「向き / 不向き」ってやつがある。センス(input)同様、発達過程で鍛えられたスキーマの受け皿によって表出形態の発達には個人差が生じる。

 なので、不得意なものをムリヤリ詰め込もうとしてもムダ、というか、労力がかかるだけのように思う。おそらく、そういった場合、ほかの表出形態が発達しているはずだし、表出形態というかoutputという過程そのものが苦手だとしても受容(input)過程には強みを発揮する人、想像力がすばらしい人など個人によって素養が異なる。


 教育というのは、この中でどの部分が優れているのかを見極めるためのシミュレーションというか実地訓練のような側面もある。



・・っつーか、こんなん実証されてないから大部分の人はてきとーにやってるだろうけど。なので、それぞれの素養があるコには個別でsurviveしてもらうとして、ぼくはこういった一連の過程に関わる能力を指して「creativity」という。

 なので、output(創造力)だけでもダメだし、input(センス)だけでもダメ、それらと知識を連動させる能力としての想像力(imagination)もないとダメ。



 少し思うのは、いまの世の中なんかは特にそうだけど、「クリエイティブ」というとまず「なにか作品のようなものを出さないとダメ」という風潮がある、ということ。

 たしかに「クリエイティブ」というと「クリエーター」が連想されて「outputする能力」って感じになるのだけれど、「create + ative (創造を可能にするもの)」という原義的な意味に立ち返れば、そこに至るまでの脳資源の統合過程ももう少し反省・評価すべきなように思う。

 創造する能力のみ特化されもてはやされ、「outputできてればなんでもいい」、ということになっているのでオリジナリティというかcriticalなところがなにもないようなイメージ(あるいは記号)の反復が繰り返されているのではないだろうか?(芸術学部系の人とか某筋の「くりえいてぃぶ」な人々には耳に痛い話かな?)





 あと、上段で説明した「ホップ」の記述が分かりにくかったかもしれないのでもう一度説明すると・・ってか、簡単に言うとこういうこと


ふき出しのレトリック 〜マンガの修辞学〜



 ここで説明されている文学技法にあるように「比喩」というのは関連性が分かりやすいリンケージ。隣同士ぐらいのものをつなぐので距離としては「1ホップ」。「暗喩」というのはもうちょっと離れてるので「2ホップ」。「換喩」が3ホップで、「提喩」が4〜それ以上、って感じ。

(※フィーリングで書いてるので正確な距離は分かりません。てきとー)




 んで、そういったcreativity関連で、たとえばぼくの場合はどういった部分に素養があるかというと、まぁ、想像力(linkageの幅とスピード)が優れてるかな、ということになる。

 あとはセンスがあるかな。でも、これはある程度先天的に決まってたものなのであまり実感がない。もちろん努力の結果によってスキーマが蓄積してセンスの部分も広がっていくんだけど、体系的教育以前のいわばプリミティブなセンスというのをどう磨いていくか(あるいは素養をどのように見抜き、発達させていくか)というのはちょっと課題。

 
 んで、センスと想像力が勝手に使われていろんなものに対する解釈能力(過程)が自動化されているように思う。反対に苦手なのはoutput過程。


 っつっても、これは大部分の人が苦手か。



 んじゃ、もうちょっと微細に。ぼくの場合は絵画、詩的言語、論文関連の文語系のoutputが弱い・・っていうかもうちょっと鍛えられたらな、って思う。(作曲能力も欲しい。歌唱能力に対して弱いというか全然ないもので)

 同分野に関するinput - 参照・検索過程に比べてoutput過程が貧弱なのでちょっとやきもきするっていうか、なんか満足しない。


 得意なoutput方式はこんな感じの口語体の文書。できればこういう形で「全部O.K」ってなってくれるとありがたいのだが・・。



 あと、そういうのさえめんどくさい場合はiEditみたいなマインドマップを使用する。言語野以前のイメージで処理できるためinputの際の負荷が少なくなって想像力だけに特化したoutputが可能になりリンクスピードが上がる、ように思う。(⇒ 創発が生じやすい)




 まぁ、そんな感じですな



 んで、いままでの話を総合すると、「んじゃクリエイティブってのは“3つの能力の連動がうまくいってる状態”ってこと?」、ってことになると思うんだけどそれもちょっとびみょーな感じがする。

 それらの統制を超えたところにあるもの(降りてきた系)とか、3つの能力をうまく連動させて「1+1=2」以上のパフォーマンスを引き出したもの(シナジー効果)みたいなのの成果がクリエイティブということかな、と思う。


 つまり「魂の声」みたいなの


 「魂の声」関連だと感情移入も深く関わるのだろう。対象への深い共感から生じる本気の声のようなもの。そういうときには「感情的だから良い記事(文章、なんらかの作品)」というよりも、「感情によってcreativityの過程が刺激され、通常期待されるよりも多くのパフォーマンスを発揮したので良い作品になった」と解釈したほうが正確なように思う。



 「降りてきた系」みたいなのはクリエーターの人にはよくあることだと思うけど、モーツァルトみたいな天賦の才系の人(まぁ、平たく天才)とベートーベンみたいな努力型っていうか理論型(?)に分かれるように思う。後者の例としてはあとゴッホとか・・ユング、天理教の教祖もそうなのかな?

 天才系の人は「input - 情報の検索・参照・リンク過程 - output」までの過程が自動化されているのでそういうので苦痛を感じることがないっぽい。必要なのは降りてきたイメージをぐわっと捕まえる集中力だけ、ということになる。(「だけ」って言ってもすごい集中力なのかもしれないけど)

 対して、努力 - 理論系の人はそういう過程が自動化されてないのでけっこうスランプに陥ったり、スランプに陥ったときにフン詰まりみたな状態になって苦労したりする。イメージというか、「イメージ以前の型のようなものは分かってるんだけどなんかそこに届かない」、って感覚。これは想像力(内部情報の検索・参照・リンク過程)がうまく機能していないのだろう。

 (ぼくも含めて)大部分の人はこの辺りの克服がポイントかな、と思うのだけれど2つの回路(key)があるように思う


 一つは「感情」、もう一つは「身体」



 前者についてはちょっと書いたけど、感情というモチベーション(あるいはインセンティブ)によって想像力が喚起され創作のパフォーマンスが上がる、というようなことがあるように思う。この辺の回路については前にまとめた


「アオイショウメイの連鎖」モデル (アオイショウメイ) - 関心空間
http://www.kanshin.com/keyword/398509



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 <「感情」という照明を灯すことによってシナプスが刺激(増幅・生起)され想像力が喚起されるかも>仮説


 「喜怒哀楽」がシナプスの増減に関わるのかもしれない。例えば、刺激的な内容の文章を読んで(嬉しくなって)想像力が喚起されるとか、反対に日常生活で悩んでヘコんだためにモチベーション下がって想像力が落ちたりとか・・。そんなの


 個人差があるかもしれないし、証明してないけど(理系じゃないし)



 まぁ、とりあえずそれが想像力喚起のkeyとして考えられる方法の一つ目(平たく言えば「心の栄養をとれ」ってやつですな((C)美輪明弘))


 2つ目は「身体」に関すること。なんか身体動かしてるうちに悩みが解消されたりとか、いろんなアイデアとか浮かんだりとかってことは誰しも経験があることのように思う。脳というのは身体の一部なので身体の各機関の影響を受けるのだろう。(っつーか、機関から送られる刺激が情報として流れ込むことによってcreatevity過程に影響を与える)


 ってことで、身体的なものも重要だと思うのだけれど、この辺は未だhackしてない。内田センセとか得意そうだけど・・。





 そういうわけで皆さんもそれぞれに得手・不得手分野があるでしょうから胸(もしくは頭)に手を当てて考えてみられると宜しいか、と


 その際、inputとoutputの系は対照関係というか類似関係ではないかもしれないので注意。


 「同じ系に属するものに対して強くなる」と考えるよりも、inputあるいはデータ検索過程(=想像力)とoutputの関係は補填的関係にあると考えたほうがいいかも。

 たとえばぼくなんかは普段の口語(おしゃべり)のときに突然わけのわからない単語を言って周りを引かせたりする傾向があるだけれど、これなんかは「詩」なのかなぁ、と・・(いや、ちょっと違うかもしれない。でも続けよう)

 んで、普段そんな感じで「詩的言語」を口語で使ってるので、書き言葉のときは反対に硬い言葉(叙述的言葉=コンスタティブ)中心になるのかなぁ、とか思う。

 普段のブレを意識的なoutput過程で修正・まとめるような感じでなのかな。それを通じて自己反省(検証、確認)する。


 んで、そんな感じでinputというかセンス(素養)として明示的に分かりやすい部分と、output過程というのはけっこう世間的イメージからは真逆なものになってしまうのかもしれない。


 手塚治虫さんがお医者的なお勉強と思考を持っていたのにマンガというoutput手法をとったのと同じように。あるいはユングがあんな固い表現技法をとったわりには・・とか、アインシュタインが普段の生活はあんなんだったのに・・とか。


 そんな感じかも

(cf.「ほんとにクリエイティブな人は作品と普段の生活がかけ離れている」)



 あと、記憶と創造過程の関連についてちょこ、っと。


 本文でもちょっと書いたが、リンクのスピードが速くなればなるほど創発(cf.アハ体験)のヒット率が高まるように思う。

 んで、この過程を早くするためにはできるだけ外部リソースへの参照過程を減らし、内部の暗黙知に頼ったほうが速い

(暗黙知と形式知の関係はアナログとデジタルに似ているように思う。というか、イメージと言語と言ったほうがいいか。イメージ(パターン)認識のほうがスピードとしては速い)



 そんな感じで内部データベース(記憶)が蓄積している人は創発に関わるスピードが上がり、高いパフォーマンスを維持できるように思う。

 いわゆる「知の巨人」系の人とか、昔ながらの研究者の人とか。Google時代でもこういう人たちの価値が衰えないのはこういうところに理由があるように思う。


 ぼくは記憶力はそれほど自信がないほうなのでうらやましい限りだけど、その代わり想像力で対抗しようかなぁ、と思ったり・・。



 まぁ、そんな感じで、皆さん、得意分野に「選択と集中」ってことでどないでしょ?







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あと、特殊例として、input能力だけ異常に発達してる人とかいたり。


イタコとかきちんとした占い師の人なんかそんな感じ



inputっていうか、inputから想像力過程までを含んだ無意識的な発達(コントロール不能な発達)という感じだと思う。

(いわゆる「神の声」というのは「センス」によって無意識的に集められた知識の集合が、「想像力」によって無意識的に束ねられたもの、のように思う)



なので、当人によって統制できなくて、output過程も既存のものではなかなかないのでこういう能力をもった人はフン詰まりみたいな状態になって苦労するみたい。



クリエーターの人にもそういう人が多いように思う(「イメージが降りてくる」系のひと)。


そういう人たちの場合はフン詰まり解消のために自分に合ったoutput形式を模索(あるいは開発)するか、input - 情報参照・探索を自覚的に統制すべきなんだと思う。



ってか、そういう能力を持った人のセンスに関わるスキーマってのはバカでかいのだろうからなかなか難しいのだろうけど





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関連:
「悲劇の共有」と「叙事への意志=叙情否定の意志」の関係について記しました - MIYADAI.com Blog

※日本映画市場について。いちおプチバブルらしい。でもきちんとした作品がないので批評が必要、と。んで、「きちんとしてない作品」はセカイ系的閉じこもりの中で劣化コピーが反復している、ということらしい(つまりシミュラークル)。中には郵便的偶然性もあるらしいけど、稀、と


muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2):批評としてのジャーナリズム









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2007年04月16日

ジョナサン・カラー (著), 荒木 映子 (翻訳), 富山 太佳夫 (翻訳) 、2003、「文学理論」  (前編)

文学理論
文学理論
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ジョナサン・カラー 荒木 映子 富山 太佳夫
岩波書店 (2003/09/06)
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 をちょっと前からもさもさと読んでいる。

 が、なかなか読み進まない。異分野だからかなぁ・・ってか、平易な文体で書かれているのに読み進まない・・。

 気合が足りないのかなぁ。中だるみというか


 そういうわけでちょっと気合を入れなおすためにまとめてみることにした。まだ途中(p122まで)だけど、とりあえずこれまでのまとめってことで。


 本サイトの関連エントリとしては以下


muse-A-muse 2nd: 「<批評>そのものへ」?



 まず、この本・・というか「批評理論のようなものがあったら習得したいな」と思った理由としては、どうもぼくの批評というのは間テクスト性に頼るところが多いように思ったので。

 なにかを批評するとき、「その作品を精読する」というやり方よりも「その作品の周辺情報から作品を読み解く」というやり方をすることが多いように思う。この本を見ていくとそういったやり方も一つの方法として「有り」っぽいんだけど、やっぱどうも「逃げ」っていうか、なんかしっくり来ない。

 んでまぁ「直球ストレート」というか、テクストそのものから批評していくやり方ってないかなぁ、と。

 その際期待したのは、前のエントリにもちょっと書いたように、「方法論のみによって批評は確立するか」、ということ。


 こういう考えについて本書ではきちんと名前がつけられていた。精読によってテクストそのものから意味を見出すような読み方(あるいはそれに基づく批評)のことを「詩学」、間テクスト性やテクスト以前の視角などといったテクスト周辺の情報を中心とするような読み方のことを「解釈学」というそうだ。(p.91)

 「詩学」においてはテクストを読み込むことによって見えてきた「テクストの意味」に基づいて、「なぜそのような意味が頭に浮かんできたのか」という視点からテクスト内部の表現方法を検証していく。つまり蓋然的なゴール地点から表現方法の有効性を検証していく、というやり方。
 「解釈学」においては反対に「それぞれの表現方法からどのような意味が構成されるか」という視点をとる。あるいは表現方法のみならず、テクスト周辺の情報(コンテクスト)も加味して、「どのような意味が成されるのか?」ということを問うていく。その際に重視されるのは、社会的コンテクスト(あるいはそれ以前のテクスト)との関係から「そのテクストは何について語っているか」、ということ。テーマ的には「実存」とか「ジェンダー」とか「ポストコロニアル」とか、そういった「大きな物語」が絡んでくる。

 対して「詩学」的解釈ではテクストが「何を」述べているかについて検証していく。もうちょっと言い換えれば、「大きな物語」とか関係なく、テクストそのものの面白さとはなにか、ということを問うていくのが「詩学」的アプローチのように思う。
(cf.ストーリーわかんなくても面白かったからいいや)
 

 これはどっちが正解ということでもなく「どちらとも有り」ということなのだろう。


 個人的にはもうちょっと「詩学」的な見方を取り入れたいと思う。ぼくは作品というかドラマとかその他のお話を見ても「面白い」と思うことが少なくて、どちらかというとその周辺情報のほうが気になるし、「その周辺情報からその作品がどのような意味を持つのか」というところに興味を持つ傾向がある。そういう見方をすると「作品自体の面白さ」とかいうのはどっちかというとどーでも良いのでネタバレとかどーでも良い派なのだが(ってか、大体のストーリーは見る以前に周辺情報から結末が分かる)。そういうのは解釈的な見方だったんだなぁ、って。

 それに対して詩学的な見方というのはテクストに誠実に向き合うことで、作品自体の面白さへ没入し、作品の価値を認めるということなのかなぁ、と。


 この解説をまとめながらそんなことを思った。


 
 あと、「詩学 / 解釈学」ってもうちょっと言葉変えると「意味論 / 記号論」の違いみたいなもんだろうか? この辺はあとで調べとこう



 んで、こういう「解釈学 / 詩学」的アプローチの違いギロンの延長としてカルスタと文学理論におけるテクスト分析の違いがあるように思う。


 カルスタの場合はテクストそのものの意味というよりもテクストの背景にあるコードと、テクストを読み取る際に用いられるコードを重視するので。んで、そのコードが接続していると思われる階級関係とか。あるいは妥当な階級が思い当たらない場合は、新たに発生している階級とか矛盾(葛藤)のようなものをそこから読み取っていく手法がとられるように思う。
 
 そのやり方は社会科学との接続としては有効なんだけど、注意点として「コードへの接続」ということ自体が合目的化することがあるように思う。具体的に言えば、「背景にはマルクス主義的矛盾があるんだー」とか「明示的に語られてないけどフェミニズム的問題が含まれてるんだー」とかいうのが与件として組み込まれていて、その結論に向かうためにカルスタの方法論みたいなのが使われる、というケース。これは某センセも指摘していた問題ですな。

 っつっても、いままでの説明を見てくれていれば分かるように、本来のカルスタアプローチというのは解釈学的なものに近いように思う。なので、先験的「意味」を設定するのではなく、方法論的視点を重視してコードを読み解いていくやり方をとるのが妥当な方法なはず。


 でも、それはカルスタアプローチの狙いの一つに過ぎないみたい。そういう視点(テクストの従来的意味の背後に隠されたコードを探る)とは別に、「テクストそのものの中になんらかの新しい価値があることに期待する」みたいな視点がある、と。

 分かりにくいのでちょっと引用


(68) カルチュラル・スタディーズは、文化を、それまでの興味から人々を引き離し、新たに持つにいたる欲望を創造するコードと実践の集まりとして分析したいという分析者の欲望と、もう一方ではポピュラー・カルチャーの中に価値の本当の表現を見いだしたいという分析者の願いとの緊張関係から生まれてくる。ひとつの解決法は、資本主義とそのメディア産業によって押しつけられた文化的素材を、人々が自分の文化を作るために使うことができることを示すことである。ポピュラー・カルチャーはマス・カルチャーから作られる。ポピュラー・カルチャーはそれに対抗する文化的資源から作られているので、闘争の文化であり、その創造性はマス・カルチャーの産物を使いこなすことにある。



 別の言葉で言えばブリコラージュということなのだろう。現代風に訳せばCGMと言ってもいい(あるいはもうちょっと進んでハッキング)。「民衆の創造力の可能性」に関するこの辺りの議論として、日本では「限界芸術論」(鶴見俊輔)がある。水越さんの「メディア遊び」というのもこの系統に属するものだと思う。


 

 ほか、気になったところとして。「言語はなにかを表す道具(影)として機能するだけではない」というような話があった(89)。つまり、「言語の戯れ自体があらたなリアル(あるいは言語と言語の接続)を作り出す」ということ。詩の目的(詩の前景化)とはそういったものなのだろう。もうちょっと言えばアバンギャルド(前衛)ということ。

 言語や理論がそのものによって硬直(構築、ステレオタイプ)化されてくる自体に対して、詩は言葉遊びのような形で構築を迂回し新たなリアルを築く(脱構築)。それは合目的的な機能論から見ればはなはだ実践性に欠けた理解しがたいものかもしれないけれど、そこで展開されている接続(意味)の豊かさそのものが構築された世界観のそれと比べても遜色のないものならば、その2つの世界が並存するによってとても豊かな世界が実現するように思う。

 反対に「機能的文学」というものが重視された時代もあった、と。


 「想像の共同体」的な感じで国民国家というフィクションを成り立たせるための物語として使われた文学(あるいは国歌)みたいなのもそうだし、「アンクル・トムの小屋」のようにあるコードを前に押し出すことによって当該コミュニティ(階級)に属する人々の意識を駆り立て、戦争のきっかけとなったようなものもあった(59)。


 そういった「機能的文学」というのは社会科学的に見ても理由が分かりやすく便利なものだけれど、やはり「道具的」という感じがする。すくなくともそこには文学やそれに準ずる作品そのものの自由はない。(そしてそれに関わる人々の自由度もひどく狭められてしまう)


 んで、「文学的な自由とか言語や文学にとっての美のようなものはそういった抑圧とは反対の方向にあるもの(テクストと解釈に自由を!)」、とするのが現在の流行なのかもしれない。


 でも、こういうのってやっぱちょっとびみょー。


 それはやっぱりネタというか、ベタ(シン)の部分があってこそ機能するもののように思えるので。脱構築だけに傾いて構築物(規範)がなくなっても脱構築し続けてたら何にも残んないし、シロアリだけじゃお家は建てられない。やっぱ両方のバランスだと思う。

 詩学に傾倒する人はその辺のこと分かってんのかな、とか思う(おせっかいながら)



 あとはそうだな。生成文法との関連みたいなのが頭に浮かんだ。


 生成文法ってのはチョムが左回転する前に成し遂げた仕事で、言語学系の人はいまでもその方針に従って「言語以前の言語認識能力を開発するためにー」ってがんばってコーパスってるんだと思うんだけど、この「言語以前」の「言語を認知する型」みたいなのって哲学だと「イデア」、心理学だと「型」(ユング)とかいうやつだっけ?


 んで、そういうのって詩学における「方法論以前の蓋然的な意味」というところに通じると思うんだけど、そういうのを認識するための「型」というか「器」についての分析手法とかって文学的には確立してるんだろうか?


 やっぱ他分野に任せる感じか?(スキーマとか)




 それならそれでいいけど、だとすると文学研究の目指す方向ってなんなんだろう。詩学(表出系)などにおける自由と規範のバランスみたいなのかな?




 まぁ、もうちょっと読み進めてみよう
タグ:文学 CGM
posted by m_um_u at 23:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年04月11日

J-POP、J文学とはなんだったか?

 lifeの「Jの時代」の回を聞き終わったのでメモ。

「Jの時代」Part1 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


「Jの時代」Part2 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)



 「JPOPだとかJ文学ってなんじゃ〜?」ということで、結論から言うとやはりマーケティングによって作り上げられたというところが大きかったみたい。

 「若者の文学離れ」とか既存の歌謡的なものとは違った消費層を囲い込むための「J-POP」って言葉。J-POPの場合はカラオケの時期と重なったのが大きかった、と(「歌うための曲」)。

 ってか、歴史的な経緯としては、「J」という言葉が使われ始めたのは87年の「JR」が最初らしい。んで、その次の年に「J-wave」ができて、それが「J-POP」という言葉に繋がっていった、と(@烏賀陽弘道『Jポップとは何か』)。なので「J-waveで流れてたような曲」とかなんとか。「J-waveで流れてたみたいな洋楽っぽい邦楽」、と。

 んで、まぁ、「J」っていうからには対義語として外国(てかアメリカ)があるわけだけど、この辺がけっこう複雑。

 まず、「英語ダッセー」問題がある。


 アジア圏のPOPにありがちな「現地語の中でいきなり英語が出てきたぞ?」問題。ガイジン歌手がミュージックステーションなんかに来て首をかしげている例のアレだ。

 んで、そういうのは日本の歌唄いも感じていて、「曲中にいきなり英語入れんのだっさいよね?」、的な雰囲気があったり・・。

 これって遡ればはっぴいえんどの頃からの問題。(以下、小川博司さん本の受け売りだが)


音楽する社会
音楽する社会
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小川 博司
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 アメリカの真似っことして伝わってきたポップミュージックのコード進行に日本語を当てはめるとき、どうしても間延びが生まれてしまう問題というのがあるんだそうな。んで、その部分を埋めるために「I LOVE YOU (ぅぅぅ)」だの「べいべー」だの「うぉうぉう」といった無意味なシャウトを入れざるを得なかった。

 その辺を問題に思ったはっぴいえんど(細野+大滝+・・ほかいろいろ)が「俺達は純粋日本語のみでぽっぷ作ってやるけんね」ってがんばったわけだけど、これって当時はどれほど評価されてたんだろうか?

 まぁ、ともかく、そんな意識が現在のにゅーJ-POPみたいな層に受け入れられてはっぴいえんど再評価みたいになってる(んだっけな?)

 それとは別にカラオケ的需要を満たす音楽も必要なわけで、その辺で某ビーズとか某コーダががんばってるって感じか?(ってか、オリコンのチャートってカラオケ的だべなぁ)この辺とか


CDTubeβ - カウントダウンチューブ


 関連で、竹田青嗣さんの井上陽水論(陽水の快楽)なんかも面白いので機会があれば読んでみるといいと思う。



 んでんで、そんな感じで「英語だっせー」問題があったんだけど、そういうのに対して、現状としては「敢えて地雷を踏む」的スタンスの人が増えてるみたい。ミスチルがビートルズっぽいことをするのは「敢えて」ってことで、コードは同じでもメロディーはオリジナルなもので彼ら独自の世界観を作り上げてる、と(・・反省)。あと、シーナリンゴなんかも「敢えて」系ですわな。(英語でもなんでもおもしろければいいじゃん?)。っつーか、サニーデイとか中村一義とかイエモン、スガ、サンボマスター、ハイスタ・・・・こういうのは「ロッキンオン」とかその他それ系雑誌に取り上げられる人々ってことかな?


 その流れを勢いづけるのが国内歌手の英語力のアップ。ボニピンさんとかデリコとか、古くはトミーフェブラリーが前にいたバンドとか、全部英語でそれほどカタカナって感じでもなく、彼(彼女)らの曲を聴いてると邦楽だか洋楽だかわかんなくなってる。(Charaなんかもそんなんか?)

 「英語だか日本語だか分かんない」ってことでは古くはサザンなんかが思い浮かぶけど、これはちょっと特殊で、桑田さんは曲作りの時に「でたらめ英語で唄って曲を作っていく」みたいな話をしてた。小川さんの話にあわせると、英語メロディーのところに日本語を埋め込むときに生まれる齟齬をてきとーな感覚で乗り越えてきた、ってこと。・・たぶん野生で。

 この辺がサザンが大御所はれる所以なんだろう(村上龍に言わせると「日本最初のポップミュージシャン」)



 んで、まぁ、そんな感じで、現在では「敢えて英語も使うよ」派とか「日本語の価値で盛り上げていくよ」派とかいろいろあるわけだけど、やっぱりある程度わかって作ってる人たちにとっては「借り物メロディーに英語歌詞?」みたいな問題は乗り越えていかなきゃいけない課題っぽい。これが文学の場合ではどうか?


 「J-POPの英語詞問題」に対応する形での「J文学の問題」というのはまずもって外国翻訳小説(あるいはフォーマットやテーマのパクリ)の問題がある。

 その辺は「life」の前のテーマの「教養」とも被って、「昔の東大教養学部はオシャレ教養って感じで外国文学を身に付け箔をつけていっていた」って感じになるんだろう。文学だけじゃなく哲学方面(あるいは学術全体?)でも同じ。(cf.マルクス主義)

 それに対して、同時期に日本の文学、日本の哲学という形で自分達固有の問題を考えていた人たちもいたわけで、文学のほうはよくわかんないけど(川端康成とか?)、哲学のほうは西田幾多郎なんかが当たるように思う。

 んでも、そういう人たちの考えって当時でもありがたがられたりしてはいたみたいだけどその方向性について理解されていなかったみたい。当時っていうか、わりと最近、いまの団塊世代の教養として西田幾多郎が摂取されたみたいなんだけど、どうも彼らの理解はびみょーっぽい(ex.西田の善をそのまま道徳ととらえたり・・)。

 そういうの見ると創作者のマインドと受け手のマインドが乖離してたんだなぁ、って感じ。
(ほかにも吉本隆明とか植谷雄高・・はびみょーか?)


 それはなにも昔だけの問題だけでなくて、現代でもあることなんだけど。


 そういう中で大衆的な嗜好にあわせつつ、自らの道を貫いた人もいて、美空ひばりなんかは一度きちんと評価しようと思ってるんだけど、けっこうムズイ
(cf.美空ひばりは歌謡以外のところでの歌唱をみたほうが実力が測りやすいかもしれない。jazzとか世界音楽系)


 現代だと宇多田ヒカルがこのポジションにいるのかもしれない



 んで、まぁ、そういうのを捨象する形で「J文学」とかいうオシャレ用語が何年ぐらいか前(90年ぐらい?)から出てきた。藤沢周とか赤坂真理なんかがその代表らしい。いまだったら綿矢りさとか平野啓一郎なんかもこの辺に当てはめられるのだろうか?


 こういうのが生まれた背景としては、冒頭にもあったマーケティング的狙い(若年層の呼び戻し)ってことで、そのためにそれまでの「純文学」的なイメージを払拭した、若者の共感を得るような作品が求められた。この辺の関係はJ-POPと歌謡曲の関係にも似ている。


 んでも、「共感」メインで増刷されてったJ文学ってテーマがないのよね。って、オレは藤沢周ぐらいしか読んだことないけど(しかも全ては読んでない)。彼の作品を見ていくと、「実存」ということに焦点を合わせてたっぽいんだけど、そのための枠組みの作り方が無骨というか下手というか・・んで、よくわかんない暴力表現とかが多くなって沈下していったり・・(沈下してないのかな?よくわからん)


 いまだったら阿部和重とか当てはまるんだろうか?って、彼の場合はなんか狙いがあるっぽいのでよくわかんないんだけど(未だ「インディビジュアル・プロジェクション」しか読んでない)。印象としては黒沢清さん辺りの方向性と近かったように思う。


 んで、番組中の指摘として重要に感じられたのは、そういう「J」って言葉が使われるときって「外国」に対しての「J」ってこと。たとえば世界標準で勝負できるようなものにわざわざ「J」なんて冠つけない。つまり、「J」って冠が付いた時点で国内勝負(ドメスティックにはけるもの)って性質がつけられてることになる。もうちょっと言うと、国内のポップに「日本でしか通用しないよ」的なネガティブイメージじゃない形で箔をつけるような。


で、


 「ドメスティック」というところに絡んで、「それは新たな保守性を涵養する場として機能するのか?」って危惧がすこしされてたけど、(番組中でもいってたように)それはちょっと違うっぽい。

 保守性というところに拘泥した場合、閉じこもった内向きのマインドになってしまって、同じ記号・同じ表現の繰り返しになり、結果的に悪しき循環が生まれることが懸念されるけど、現在のドメスティックという意識はそういうものではなく、自分達の表現したいもの(しなければならないもの)を理解して、それにあわせた記号(あるいはモード)を選び取っていっていっているように見えるので。


 中段のJ-POPの「英語問題敢えて踏んでくぜ!」に戻るけど、そんな感じで「敢えて踏んでく」連中としてみれば外国との比較とかそういうのはどうでもよくて、どのような表現手段を使ったとしても、「それによって自分達の表現したいものが表現できてればいいじゃん?」、って感じっぽいので。そういうとき彼らはドメスティックということに誇りを持ってる。(cf.Mステで外タレの前で実兄と嬉しそうに英語歌詞を歌い上げる林檎嬢とか)



 J文学にも同じような萌芽は見られるのだろうか?



 なんとなく綿矢りさとか思い浮かぶけど、どうなのかなぁ・・下のエントリを見るともはや表現うんぬんの問題ではないような気もする



finalventの日記 - 物を書くということと、書いて食うということについては



 なんつーか、「マーケットの計画によって始まりも終わりも決定されちゃってるよ」、って感じなのだろうか・・?


 それとは別に表現者が自由に作品を発表して評価されるような回路があってしかるべきだと思うんだけど・・むずいよなぁ(マジックミドルの回路にその辺の可能性を見てるんだけど)


 マーケットってやつは極悪だから、意識的にせよ無意識的にせよその影響力によって小さいところを潰しちゃうので・・。本来はこういうところがロングテールになるべきなんだろうけど、それはそれでちょっと違うしなぁ(たぶん、でっかいハブに繋がってないと意味がない)




 話は変わるけど、そんな感じで、J文学に期待されるパフォーマンスが従来の文学に期待されていたものから変わった様に、ケータイ小説に期待されるものも変わってきてるんだろうか・・?


 前にどっかで「登場人物になりたいみたい」ってのをみた気がするけど、そんな感じか・・。


 メディア環境全体との関係を考えると、かつては紙メディア(文学)に投影することでしかあがなえなかった「共感」の部分がケータイとかメールとかで埋めれるようになったので、「小説」みたいなフォーマットに期待されるのはそれ以外の部分、ってことになってきてるのだろうか?

 んで、そこでの物語というのはテーマパークのアトラクションのように進んでいく、と(「事件」とか「恋愛」とか分かりやすい目立った現象に終始する)。「TVドラマのような」小説。



 こういうので涵養される感性とか精神ってどういうものかと思うんだけど、前にどっかで見た記述によると「ケータイ小説利用者はけっこう冷めてるみたいです」ってことだった。「ケータイ小説」は「ケータイ小説」として「文学」と同じだとは思ってないらしい。あたらしい遊びの一種、って感じ、と。


 ってか、ケータイ小説家当人が「作家ってつもりじゃないです」って言ってるんだからそうなんだろうなぁ


パンダのため息 Yoshiという人 その1

パンダのため息 Yoshiという人 その2


パンダのため息 Yoshiという人 その3




ケータイといえば使用動態としてはこんな感じらしい


Earth::japan::usukey - love, move, enjoy, imagine for innovation - 2007/3/17 梅田望夫 Lingrイベントまとめ



 それにしても「ケータイでレポート提出」ってすごいな・・(両手打ちにしても)





タグ:音楽 J-POP 文学
posted by m_um_u at 20:41 | Comment(0) | TrackBack(2) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

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