最近の話、「世間的な文脈や言葉にとらわれないこと」ということにも関連することだし、むしろこれも前提の一つになってるので話的には連続するし。
その前に一個前のエントリだけど
muse-A-muse 2nd: 「小林秀雄の流儀」 - 現象学的還元?
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/122453130.html
オレ※:事実認定的でない内的実感(感動)を繋ぐため、あるいは繋ごうと足掻いた揺らぎの残照として芸術的言葉があるのであり、最初から修辞的にそれを用いたものはカッコヨクオモシロクあっても空疎な嘘。
「分かる」ということは言葉の牢獄から解き放たれ最初の感動にたち戻ること
本当の意味で「椅子を見る」とはいわば「疑いようのない椅子という実在」を見ること。これは凡人にはほとんど不可能に近い。ゴッホはできた。それならば、われわれはそれを見ればいい(102)
この辺り、けっこう重要だと思うんだけどサラッと流しちゃったので見てる人は気づかなかったかなぁとかなんとか。
この後の文章にも続く内容なんだけど、言葉や絵画、表現的なものは誰かに伝えるためには分かりやすい表現が必要でそれが折り重なっていって形式や様式ができていくものだとは思うんだけど、その文脈に従いしすぎるとそれ自体がゲームになってしまうって話。もしくは修辞や演出にこだわり過ぎて内容がないとか。なんか上手と思われる表現、かっこいいと思われる表現に表現者自身が囚われてしまって言葉遊びに終始し、ほんとの感動や実感に届かなくなってしまうっていうそういうこと。
山頭火が「言葉にとらわれるな」っていったのもそうだし、表現的なところじゃなくてもバカボンドで武蔵なんかが「ぜんぶ言葉でした」みたいなこといってたのもそういうことだし。
それで、
そういうのとは別に疑いようのない実感、感動を得たときになぜかしらそのモノや事象が「分かる」ときがある。自分はそのモノに連なる長い文脈を知らないのに、なぜかそれに感動しそれがその筋では有名なものだったりすること。
「小林秀雄の流儀」の中で山本七平が李朝の青磁に魅入られたというのもそういうことだと思う。
東浩紀的なアーカイブの山積的な問題(過去のアーカイブが巨大すぎて参照不可能性が生じている問題)を越えて、
muse-A-muse 2nd: オタク世代論と文化消費の変容 (「動物化するポストモダン」)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/81514857.html
人にはいきなりレベルが上がるというかそのモノと運命的な邂逅を果たすというようなことがあるのだと思う。
それはともかく、とりあえず以下は今回の本題の「意味(文脈)以前」についてある展示を見ながらなんとなく思ったこと
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広島現代美術館でやってたMartin Creedって作家の展示に行ってきたので軽くメモ程度に
マーティン・クリード展
http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/web/main/special_exhidition.html
マーティン・クリード - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89
本人のサイト
http://www.martincreed.com/
なんかよくわかんないインスタレーション系のひとということで少し躊躇したんだけど「アジア初」ってことで見に行ってみた。あとは「日常をアートにする」ってところに惹かれて。ウォーホルのキャンベル缶ぐらいの期待で。
結果的に予想以上の満足度だった。
入って最初に壁から乳房みたいな突起が出てたり、床の上audio technicaとかタバコの空き箱みたいな塚(?)があったり、なんか風船がぎっしりつめられた部屋があったり、カーテンが閉じたり開いたりしてたり…。
なんかよくわかんないので次の部屋に進んだら天井一面の照明が点いたり消えたりしてた。
ここにきてようやくなんか廃墟みたいだなぁとか2001年宇宙の旅の船内みたいだなぁとか思い至った。
あとは空間の使い方がみょーに緻密というか、なんかみょーにそれぞれの作品の角度計算してる?的な感じで。
各々の作品にはそれほど意味はないんだけどいくつかの作品が配置された空間全体でなんとなくの意味を持ってくるようなそういう感覚。そしてその空間も「明かりが点いたり消えたり」の部屋から見るとなんとなく趣きが違うようなそういう感覚。
そんでこの作家は光とか音とか空間の密度とか温度、空気そういったその場にあるものすべてを含んで自分の作品として提示したいのかな、とかなんとか。
そんなこと思いつつ進んでいくとサンドバッグみたいなのの前にブラウン管なテレビが積み上げられていて4人ぐらいの男女が絵の具みたいなの吐いてたり…。
自分的には宇宙人感覚でこの映像を見た。「この星の生物は身体の上のほうからなにか出すのだな」的な。
そんで、それぞれの作品の配置とか角度とかにけっこうな意味を感じ、その辺は独特なルールで表していこうとする作家なように感じたのでそこで座っていた学芸員の人(?)に「作品の配置は作家がやったのですか?(美術館のスタッフではなく」って聞いてみたらやはりそうだったみたい。
あとでもうひとつ気になったのでほかの学芸員のひとに「作家は美術館を視察に来たあとでどの作品をもってくるか決めたのですか?それとも最初にリスト化なんか提示されててもって来てから展示場所にあわせたのでしょうか?」ってきいたら「その辺は残念ながらよくわかりません…」とのことだった。んでも後でもらったポスターみたら展示されていたのとは大きさの異なる作品もあるのでこちらに来る前に送られてきた空間資料をみていろいろ調節していたのかもしれない。てか、まぁ来てからブリコラージュ的に現場にあわせちゃえばいいってのもあったのかもだけど。
そんでまぁ地下の展示へ
地下の最初はまたしてもブラウン管が積み上げられてて波止場に船が定着する2つの映像が流されていた。作家本人にそれなりの狙いがあったのだろうけど特にピンとこなかったのでこれはスルー。作家の表し方が絶対ってわけでもなく間違えてることもあるのでピンとこないものはさっさとスルーする。んで、次
次は最初のほうにテンポの違うメトロノームが複数配置されていてそれらの刻む音が空間を支配していた。壁際に異なった音、長さの異なる釘などが配列されてたりしたけど例によってそれらはひとつひとつはそれほど意味はなくこの空間全体を構成する要素のひとつにすぎない。
見上げると天井が丸い壁掛け時計のように婉曲したカーブを描いていて、その周りをメトロノームの音と夫々の作品が滑っていく。
時間と進化
あるいは単なる時間の表現。
それらの意味するところに訪れた人が困惑しだしたころを見計らってか作品の終着には「Don't Worry」の電光掲示。あるいは、それは時間とか存在とかに対する不安を払拭するための言葉だったのかもしれないけど。
そして暗室的な部屋に作家とわんこたちの戯れというか、作家の指示になかなかしたがってくれないわんこたちと作家の様子をそのまま録ることで作品とした映像が掲げられていて、その傍に例によってモノリスのような作品がたたずんでいた。
ありし日の作家、あるいは人類の遺影のように
最後に、「Martin Creedのことば」としていろんな場所での作家へのインタビューが抜書きされていた。その辺でなんとなくな答え合わせ。
やはり既存の意味の文脈にとらわれることに敏感な作家っぽい。そんで、「タイトルをNo数字であらわすのもなんらかの意味をつけたくないからなんだ。タイトルなんかすごく意味が過剰だよ」、と。この辺でLさんとか頭に浮かびつつまぁなんとなく納得。鑑賞者に余計な恣意性を与えたくない、と。そういえば展示観覧の順路も今回は示されてなくて、ヘタしたら作品をすっ飛ばしていくようなショートカットとかできてたんだけど「作家さんから回る順番も決めないように。見てくれる人が自由に見られるようにしておいてください、って指示があったんです」、とのことだった。
あとは、「音楽とか日常とか境なく、ぼくにとってすべてが作品」、だとか。これも一歩間違うと単なる勘違いになるところだけどなんとなくわかった。実際、勘違いした方向にいっているわけでもなく一定のルールのようなものを感じたし。
一定のルールというのは最初に帰るんだけど「宇宙人に説明すること」みたいなの。当人はそういうことは思ってないかもなんだけど、宇宙人に伝えるときには人間的常識は通用しない。なので既存の意味の体系とか文脈、人の世の意味の体系や文脈を崩しつつ「伝える」ためにある一定のルールが必要になる。
言葉は違っても伝わるような普遍的なメッセージ、あるいはコードみたいなの。
そういったルールが蓋然的にせよ鑑賞者と共有されるからこそいわゆるゲージツ作品は野放図な作家の独りよがりにならずに済む。
あるいはこれ系で優れたゲージツ作品ってのはそういった所与のジョーシキ的なものをできるだけはいでいったときに残るような共通理解というか新しい感覚というか…。剥ぎ取って残るもののギリギリのバランスを楽しむ、みたいなの。
なのでそういったものがない作品というのは単なる落書きとかガラクタになってしまうわけだけど、今回の展示はなんかおもろかったなぁ、と思った。見終わって館外に出たときにもなんかそれぞれのモノの配置に意味を感じようとしてたし。
そんなことを思ったわけだけどこちらのエントリ見るとあながち間違ってもなかったようですね(以下、一部引用 )
アーティストトーク「マーティン・クリード」 | 弐代目・青い日記帳
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1372
謎とき村上春樹 (光文社新書) 石原 千秋
言語論的転回は「世界は言語である」というテーゼによって示される。言語論的転回においては、言葉の先にただモノとして存在しうるような世界は想定されていない。それどころか、僕たちはモノそのものに触れることさえできないと考える。言葉がすべてだからだ。妙な言い方をするなら、僕たちが生きている世界はすべて言葉で「汚染されている」。つまり、言葉で意味づけられてしまっている。言葉が意味するようにしか、世界は存在しない。だから、言葉の外に世界はない。僕たちはまるで言葉の世界に閉じ込められているようなものだ。
こちらの記事にあるマーティンの言葉がそれを証明しているかと。
BBC News | Creed lights up Turner prize
“I think people can make of it what they like. I don't think it is for me to explain it”
乱雑でごちゃごちゃしていて自分自身でもコントロール出来ない「mess」を形にして表に出すことが作品制作であるなら、形にした瞬間にある特定の「意味」を持ってしまうことになります。
言葉で説明することによって「言葉の牢獄」へ入ることになるなら、「変な人」とレッテルを貼られようともトークショーでもじもじしていた方がましだと考えたのではないでしょうか。


生活者の視点と経験と知識
一身一頭人間として生きた批評家

なるほど
著者の思いつきに過ぎないのでは




サイエンス・アイのカテゴリーでは、工学?












