なんということだ……
世界が
神の御技がこんなにも美しいというのに
人間の心には愛がないのか
私達がこのような生き物になってしまったのは
遠い祖先が神に背き罪を犯したせいだといわれています
私達は楽園から追放されたのです
神はこうしている今も我々のことを見ていらっしゃるだろうな
友を失い親と子が殺し合う
そんな様の全てを天空の高みから見下ろしておられるのだろう
許せぬ
私はこの地上に楽土を作るぞ
平和で豊かな生き苦しむ者たちのための理想郷を
私の代では成し得ぬかもしれぬ それでも最初の一歩を私が踏み出すのだ
神はきっと私を愛で御許へ召そうとするだろう その時私は神にこう言うのだ
『もはや天の国も試練も要らぬ 我々の楽園は地上にある』 とな
▽ナウシカ解読と正義の審級こないだからの制度と生活、イデオロギー(cf.正義、宗教、特定思想)と生活の間ぐらいの話のつづきで
観念と愛、システムと生活の弁証法の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/164070442.htmlナウシカ解読も読み終わったので軽い感想も絡めて
稲葉 振一郎
窓社
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難解…

社会学っていったい

学者のうんちく垂れ流し本

ユートピア論

人間精神の中の「腐海」に
ナウシカ解読自体はマンガ「ナウシカ」というテクストを通して正義論(ロールズ)とかリバタリアニズム(ノージック)といった政治思想とか公共哲学(アレント)、王権論、エクリチュールなんかの概略が学べて自分的にはお得だった。
ただ、そこで展開されているおはなしはナウシカというテクストからの連想といったところで、正直後半のクシャナの戦場における放心と変化についての解釈なんかはちょっとズレてるんじゃないかと思ったけど。
なので巻末の宮崎駿とのインタビューでその解釈を試してるのは本来の意味でのテクスト解読と答え合わせという意味でわかりやすかった。
お話の中心はマンガ「ナウシカ」がアニメ「ナウシカ」と違ってユートピアを予定調和とした終わり方をしていない点にあるように思った。
アニメでは「青き衣の者」がそのまま腐海と人ととの調停者となり「青き清浄の地」へ人々を誘う救世主的な描かれ方をされ幕を閉じる。そこでは先の大戦とその結果としての現在は単純なディストピアであり、「科学 vs. 自然(エコ)」的な二項対立のもとに人の科学への志向は断罪され「王蟲(≠地球)が一番」 → 「自然へ還れ」みたいなメッセージが出される。救世主としての青き衣の者が人々をケガレのないユートピアに導く。
しかし、マンガ版ナウシカはそのような単純な構造を択らない。伝説のユートピア「青き清浄の地」に踏みとどまらず、より「根源」的な問いを発していく。そして迷った末に漠とした未来を選択していく。青き清浄の地のような「予定調和な計画経済的なもの」、「人を人としては生かせないがケガレのないもの」とは異なった不安定だが人として生きる可能性のある未来を。
(大意↓要約)
(194)「宮崎さんの中にはそういった計画的なもの、過去のプログラムによって未来が規定されてしまうことに対する徹底した嫌悪感のように感じたのですが…」
「生きるということはプログラムされてるから生きるとか、結末を知らなければ生きられるという類のものではないんじゃないか。生きるということと、理解するということは違うことなんじゃないか。ナウシカは、理解をしよう、問題をつきつめていこう、見届けようという意志を強く持っていたにしても、彼女を支えているのは、その意志だけではなくて、なにかを感じとる能力だろう。実にささやかなきざしのなかに、生きることの意味を直感する力というのか、その能力を彼女が失わなければ、気が狂わないだろうと思ったんです」
計画とか制度とか以前にまず「生きる」ということ。生きることの意味を直感し、その直感にしたがって生きていくこと。
ちゃんと生きられれば結果的にそれが生き方の規範になる、ということだろうか。
この辺りは良識の元(軸)の話にも通じるところだけど
常識」と「良識」の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161638661.htmlいまはまだ曖昧。話を進めよう
予定調和的なユートピア、あるいは救世主幻想を嫌って物語はどこに着地するのか?
それはイデオロギー的なものから生活者的なものへの回帰なのか? 「『生活者』といえば自己正当化できるところにただ戻ってしまうような」全共闘世代の終着点としての日常(家族)回帰?
宮崎は言う
(201) ただ、僕は「正しいこと」はあるんだと思っているんですよ。でも、「正しい人」はいないと思っています。「正しいこと」をやっている瞬間、その人は「正しい人」だけれど、じゃあ、その人がずっと「正しい 」かというとなんの保証もない。愚かなことも、間違ったこともする。「正しいこと」をやった人が、そのあとくだらないことをやったからと言って、その「正しいこと」までくだらないというのをやめよう。「正しいこと」は一人の人間のなかに何度も現れたりするし、その人がくだらないことをやったりもするんだと。「正しい国」があったり、「正しい党派」があるとか、「正しい人」がいるというのは言うのはやめよう。
イデオロギー、倫理あるいは制度といったものを固定的に捉えるのではなくアドホックに運用、評価していくということ?
その際の審級が「きちんと生きる」ということなのだろうけど、もう少し具体的にいうと「現実主義的に生きる」ということみたい。
現実主義と言ってもたちまちドライに愛情を切り捨てるわけではなく、たとえばナウシカの愛のように、たくさんの愛を背負いつつも身体はひとつなので現実主義的に腑分けしていく、というような。
あるいは、政治や経済、愛といった異なったレイヤーの合理性に対して、観念や慣習に流されるのではなく、自分の頭できちんと合理的・現実主義的に考え理性的な判断を下していくということ。戦争なんかでもただ「悪いこと」で流すのではなくどの過程のどの部分が悪かったのか?ということを理性的に検証すること。
観念や立ち位置、なんらかの縁(あるいは業)によって最初から判断を決め打ちにするのではなく、上記のような態度で状況に応じて理性的に判断するということ。
そうすれば状況に応じた「正しさ」はでてくるし、その「正しさ」がイデオロギーとして固定し、後に反転して人を苦しめることもない。
宮崎駿の話を綜合するとそういうことを言っているように思えた。
それは近代的理性を兼ね備えた理想的な個人の姿であり、「歴史の終わり」とは対極的な意味での「最後の人間」だろう。
そこまで大げさなものでもないかもだけど、単に「国家や宗教、マスメディアから流される観念に依りすぎず自分の頭で考え判断できる人」というだけかも
▽日本人は法以前の良心とか倫理とかもつんやろか?法や制度以前の自律的な判断基準としての良心や倫理といったものが日本には根付くのだろうか?、ということについてついったーでメモ+断片的につぶやいてたんだけど
関連? というかちょうど気になってたタイミングでこんな会話が流れてたので自分的メモとして
日本人論に持ち込むとすぐに自虐史観的に「日本人は島国だからダメぇ」「空気嫁だからダメぇ」とか言う人がいて、特に他国との比較による相同性も相違性も検証していないので胡散臭いしうっとうしいな、ってところ
そういのは「これでも嫁」ってことだしオラもそのうち読もうかと思うけど
日本文化論のインチキ - 情報考学 Passion For The Future
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/06/post-1227.html小谷野敦「日本文化論のインチキ」(1) - 日々平安録
http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20100612/1276279034それとは別に他国との違う日本の特殊性として、なんとなくの蓋然性をもった議論もある。
山本七平さんの空気話もその一つだけど、その際の「日本人は!」って感覚は彼が内村鑑三系のクリスチャンだったからかなぁとぼんやり。
クリスチャンの勤勉さ、一次資料への精通なんかがシャドーワーク的に機能することによって日本の近代の知が紡がれていった、ってところもあるようだし(未確認)
ところで、そういう「勤勉さ」とか「良心」というのは「教えを真面目に吸収していった」というのもあるのだろうけど、毎日のルーチンの励行によってぢみに染み付いていった感覚なのではないか?まあエートスということだけど。
なので、そういう感覚というのは「単に教え、観念を真面目に吸収」というよりは励行とエートスによって培われた現実主義的なセンスの幅なのかなぁ、と。
そういう意味では例えば企業の中での協働の場、コモンズにおいて相互に救けあうようにして培われてきた常識的なものはKY的な圧迫を持たないユーティリティなコードとして機能し得る。
「会社とか学校と家庭」「システムと生活世界」「壁と卵」「聖と俗」との間ぐらいの話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161255211.htmlある人はそれを単純に「信頼」というもの。信頼の前提として企業社会の中での常識とプロトコルがある。
それらは現代日本の会社公共圏におけるエートスとなり常識的判断基準のよすが(リソース)になり得るのではないか?
でも、日本の場合は会社はなれちゃうと「世間」とかマスメディアなどから生じるKYに巻き込まれて個人的理性が発揮される場が少なくなるのだろうけど
▽救済 - ユートピアとベンヤミンユートピアと救済について考えてたらついったのTLに「救済」関連の話が流れてきたのでたまたま見に行ったらなんか関係あるっぽいことだったので
ベンヤミンについては「複製技術時代の芸術」ぐらいしか読んだことなくてなんか断片的な知識だったけどこちらの解説を見て彼がなにを目指していたのかがなんとなく分かった気がした
ベンヤミンのメッセージ ―― 希望の倫理へ − ちきゅう座
http://chikyuza.net/n/archives/1570ベンヤミン解釈をオラがまた解釈してるということでびみょーだけど
端折ると、ベンヤミンの思想はユダヤ思想系救世主論を基本とした理想としての神の断片(根源)をさがすものである、ということらしい
http://morutan.tumblr.com/post/1239459414(おーざっぱな解釈だが)「全能にして愛に満ちた神はなぜ我々を救ってくださらぬのか?」という問いに対して、「神はその実在的本質のすべてを被造物のなかに流し込んでいる。(それを発見できないのは人の怠慢)」(新プラトン主義)ということになる。
イデア(根源)論的な「モノや言葉があることが神の存在証明だ」っていうあの論理の流れっぽい。
ユダヤ思想ではさらに「選ばれたイスラエルの民にのみ神の本質が開示される」とする。
つまり「この世の不幸をなくすためには神によって隠されたメッセージを解読する必要がある(そのとき革命と救済は成就する)」とする志向。それがベンヤミンの思想にも通じていく。
http://tumblr.com/xaukhzzxm具体的に目指すのは「階級なき社会」。目の当たりにしてきた軍人を頂点としたプロイセン帝国とは異なった、亡命先だったパリのパサージュ(アーケードの小径)のような自由な社会。そういったふつーの人々の歴史が忘却の彼方に消え去り、記憶-歴史の中から死滅されないようなそういう社会。(cf.「人は二度死ぬ。一度は生物的な死。二度目は忘れ去られた時だ」)
http://tumblr.com/xaukhzldqhttp://tumblr.com/xaukhzg2phttp://tumblr.com/xaukhz2crベンヤミンの生い立ち、あるいはドイツ農民運動への心情的傾倒を考慮するとこういった考えに至るのも当然と思われるが、ここでも救済(ユートピア)へのジャンプがある。
パサージュ論はそういった飛躍を埋めるための、身の回りの生活環境の中で自らが現実的に美しいと思えるもの、守りたいと思われるものを一つずつ集めていくための断片集だったのかも知れない。
不定形な名もなき人々のささやかな営み。大文字の歴史から見捨てられたものに新たに名前を付け、忘却の彼方という存在論的死から救済すること。やがて来る飛躍のときのための一歩一歩の地歩。
もしくは、「神的暴力」というときの暴力とは突然の神の不在そのものが有する暴力性も指していたのかも知れない。それまで依ってきた人々を置き去りにて突然消えるという行い自体の暴力性
通常「神話的暴力」とは、おーざっぱに言えば国家や法・制度といったシステムが物象化して人々を疎外、幸福の場から暴力的に排除する過程を表すように思われる。
対して「神的暴力」とはそういった制度(システム)が作られる以前の自然の猛威を指す
http://tumblr.com/xauki3ep6しかし、これまで見てきたように完全なシステム、完全なるユートピアなるものは存在しない。
それを求めれば却って固定化し、状況に対して機転が効かなくなり、結果的にその状況に対してユートピア=正義は悪に反転する。
http://tumblr.com/xauki4vdsだからこそ、神話的な暴力=制度に対して神的暴力=自然によって革命を起こす必要がある、ということになるのか。そこでは人は動物(自然)に、最後の人間に戻る(至る)。
http://tumblr.com/xauki56wfしかし、それはあくまでも一気の革命 → ユートピアを夢見た場合であろう。
ベンヤミンの言う「救済」が生のきらめきを一歩一歩確かめるものであるならば、その道行きはナウシカが択ったものと交わっていくのだろう。
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関連:
▽観念と日常の間の生き方について
羊でも狼でもなく「ふつーに生きる」ということ (reprise): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/43805201.html続「小林秀雄の流儀」 「実生活と思想との間でバランスを保つ」ということ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/123045927.html▽神の不在に関して
「ヴィンランド・サガ」の背景メモ (アングロサクソンの良心、キリスト教とゲルマンとか): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161667855.htmlグスコーブドリのように: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/163308380.html
「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それには一人の天使が描かれており、天使は、彼が凝視している何者かから今にも遠ざかろうとしているところのように見える。彼の目は大きく見開かれて、口は開き、翼は広げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。彼は顔を過去に向けている。僕らであれば、事件の連鎖を眺めるところに、彼はただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは休みなく廃虚の上に廃虚を積み重ねて、それを彼の鼻先へ突き付けてくるのだ。多分彼はそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組み立てたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風が彼の翼にはらまれているばかりか、その風の勢いが激しいので、彼はもう翼を閉じることができない。強風は天使を彼が背中を向けている未来の方へ不可抗的に運んでいく。その一方で、彼の眼前の廃虚の山が天に届くばかりに高くなる。僕らが進歩と呼ぶものは、(この)強風なのだ