2015年12月11日

中井久夫、1979、「西欧精神医学背景史」




西欧精神医学背景史 (みすずライブラリー) -
西欧精神医学背景史 (みすずライブラリー) -





章立てとしては以下のようになる。





基本的には心理学、あるいは精神医学の発展過程についての概説という体を為してるのだけど、、



紅葉 / 赤富士 / ヨーロッパ・近代とはなにか?|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n2fe57aa00bf1


あとがきやアマゾンレビューにもあるように、もともと精神医学史概説として依頼されたものだったようだからよくあるその手の型に沿って教科書的に、心理学や精神医学、あるいは少し広げて医学との関連での時系列のみをまとめればよかったぐらいの仕事だったのだろうけど、中井の情熱や志向のようなものがそこに込められて却っておもしろいものになっていた。

著者自身も自嘲しつつ「未熟なものだから」と謙遜していたけど、この時点での中井のここまでの同分野における研鑽の集大成であり記念碑的なものだったのだろう。平たくいうとヨーロッパ愛、ヨーロッパの歴史愛が感じられる。その部分が従来の「教科書的」なのっぺりを越えた面白みを産んでるように思えた。

未熟ながら、自分はそれなりにヨーロッパの歴史や民俗学に通じてきたような自負があるのだけど、その自分でも知らなかったトリビアルなことが当然として語られている。極めて端的に。たとえばヴィトゲンシュタイン家の歴史とその力動精神医学(臨床心理学みたいなもの)への影響と貢献とか。ロシアとはなにか?を考える時にウクライナ←ヴァイキングを当然としつつルーシのことを考えていたり。たぶんこの時代に、あるいは、中井の目の届く範囲で「ルーシ」という概念がなかったので端的にそれを表すことができなかったのだろうけど。そして、それを大きく覆うのは「ヨーロッパとはなにか?」という問いだったりする。それはそのまま「近代とは何か?」という問いに通じる。



記述の質感とか綿密さは阿部謹也のそれを想わせる。阿部は70年代ぐらいまでには名を馳せていたかな?ともおもうのだけど、中世史や民俗学関連のものを中井が狩猟していた結果・集積というだけだったのかもしれない。

「及ばずながら、私は与えられた紙幅の中で、一行の裏に一つの論文、一冊の本をこめようとした」と書かれていたようにその記述濃くて、この分野にある程度通じてないと読むのがつらいかなあとかおもった。まあそれについての脚注もついてて長いのだけど(脚注はまだ読んでない)。


精神医学史として見た時、主題としては「分裂病とはどういうものだったか?」「いかにして精神疾患者への偏見が克服され、環境が改善されていったか?」というところになるだろう。らい病患者の例にもあるように、近代医療以前は精神病患者は隔離され見世物にされていた。見世物にされることは悪いことばかりでもなくてそれによって却って回復が促され退院していく患者も居たようだけど、基本的に8割ぐらいは隔離されたまま一生を終えたとかなんとか。それらが「治らないもの」「悪魔憑き的なもの」という偏見から腑分けされ名付けされることによって得体のしれないものから知れるものになり医療の対象となっていった。「分裂病」という名付けもその一環だったといえる。

精神医学史的な側面を端的に総括すれば、「近代化、合理主義化によって精神疾患者への魔術的迷妄は解け、近代的医療がなされるようになっていった」、といえるだろう。章立てにもあるピネルという現象、オランダという現象というのは近代合理性が立ち上がっていったことの例だったり背景の説明だったりする。


ただ、中井がそこで終わらないのはそういった精神医学的な、あるいは、教科書的な単純な割り切りに対する反省と批判精神を兼ね備えているからだろう。具体的には精神科医がその学識と権威をもって患者をモルモットのように扱ってしまう権威性への反省や批判。「セラピスト」にもあったけど、中井久夫のもっとも優れたところ、あるいは基本はこの点の不動にあるのだろう。


最相葉月、2014、「セラピスト」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/430223693.html



中井自身は精神科医として「必要があれば」その時代にもっともきつく強力とされた投薬もしていたようだけど、そういった反省や危険性への意識がありつつそれを行っていたのだろう。そして、「セラピスト」にもあるように中井はカウンセリングの基本を「クライエントの話を聴くこと」としている。医師による「正しい」診断の押し付けではなく。




そういった背景からこの本の奇妙なところ、精神医学の背景史としては「なんでこれ語ってるの?」みたいなところが語られていく。



それらは正統とされる精神医学、大学的学問の体系としての精神医学から削ぎ落とされていった臨床的な側面であり、「手の仕事」としての看護≠寄り添いを通じたもの。患者のこころの問題ということだったのだろう。患者、あるいはクライエントに接する臨床家自身のこころや倫理の問題。それらをひっくるめて精神と言ってもいいのかもしれない。


そういった観点からみるとこの書は西欧の精神の現象学ともいえる。


精神 ← こころ ← 倫理、が、どのように近代的に回収されていったか、についての精神医学史的な側面からの記述。近代的理知中心主義に回収されなかったそれらがどのようにマッピングされるか、ということ。



理知中心、あるいは、合理性というのは生活便利をもたらしたけどそこで回収されなかったマインドや倫理といった問題がストレスとなって残っていった。おそらくそれらが都市化 → 文明化 → 近代化が進むほどに精神病があらたに「発見」されていく(狩猟民やブッシュマンにはそういったものはあまり見られない)理由なのだろう。


けっきょくのところ近代人はそれらを克服できてないのだ。


紅葉 / 赤富士 / ヨーロッパ・近代とはなにか?|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n2fe57aa00bf1



それらの疑問や不満は文学、あるいは哲学によって補填されている。「近代精神医学が確立する以前は哲学的領域でもあった。哲学者に任せろとかいわれていた」とかもあるので昔ながらの手法といえるのだろうけど





そういった意味で、本書の白眉は魔女狩りについて論じた箇所のように思われる。


魔女狩りは中世の野蛮と思われがちだけど実際は近代化過程のもので、近代化過程で残されていた中世の野蛮が近代化の不安にともなって吹き出した、あるいは、為政者たちが民衆の不満を敢えて魔女狩りという形でガス抜きするように仕向けた側面がある。


それらは端的には仲間内の裏切りと私刑の光景であり文化大革命や学生運動などにも共通する。集団内の裏切りと私刑ということではsnsなどの現代でも共通するだろう。学校や職場のいじめとか。私刑であり供犠の光景。



中井は魔女狩りが生じた根本的背景をネオプラトニズム的な観念主義、想像世界への回帰の潮流と並行した現象として捉える。



魔女狩りと精神医学とブッシュマン〜名著再読・中井久夫 地球大に考える/ウェブリブログ
http://condominium.at.webry.info/201005/article_3.html

「しばしば、わが国ではなぜ魔女狩りがなかったのかという問題が提出されるが、その一部はおそらく、ネオプラトニズム的な幻想的問題解決の中心でありえたかもしれない比叡山を織田信長がことごとく焼き払い、僧侶たちを皆殺しにすることから始まって、一向一揆撃滅、キリシタン弾圧をへて十七世紀中葉の檀家制度確立(いっさいの宗教布教の禁止を含む)、あるいは医療からの神官・僧侶の追放という徹底的な世俗化のせいであろう。(中略)
 森の文化を根こぎにしたのは浄土真宗で、その支配地域は民話・民謡・伝説・怪異譚を欠くことで今日なお他と画然と区別される。世俗化への道をなだらかにした、プロテスタンティズムに類比的な現象である。」

この論文の骨子が第三章として収められた『分裂病と人類』(1982 東京大学出版会)の第一章では、さらに巨視的な視点から、分裂病親和者(S親和者)の気質について述べている。

「われわれが知る現在の狩猟採集民たとえばブッシュマンは、長年にわたり農耕牧畜民の圧迫をこうむり次第に沃野から駆逐され、さらに近代国家の「自然保護地区」―当然、狩猟獣に富む地域―からの実力による排除によって絶滅に瀕しており、かつて人類の主流であったおもかげは今はない。それでもなお、彼らが三日前に通ったカモシカの足跡を乾いた石の上に認知し、かすかな草の乱れや風のはこぶかすかな香りから、狩りの対象の存在を認知することに驚くべきである。(中略)過酷な条件下にもかかわらず、彼らの一日の労働時間はたかだか八時間で、多くの時間を木蔭の涼しいところで過ごしうる。持続的な権力者はなく、派閥的な闘争もない。獲物の配分は狩りに貢献した者本位にルールがあり、要するに複雑な権力組織を展開していない。
 これと対応して彼らの知識と技術はきわめて一身具現的であり、動植物、地理について具体的、詳細正確である。われわれはおそらく、もっとも古型の農耕社会(たとえばニューギニア高地民)においても片隅の見栄えのしない位置なら与えてもらえそうであり、また与えられれば生きられるだろう。しかしブッシュマンやピグミーの永続的な仲間となる能力は全くないであろう。(中略)
 狩猟採集民においては、強迫性格もヒステリー性格も循環気質も執着気質も粘着気質も、ほとんど出番がない。逆にS親和型の兆候性への優位(外界への微分〔回路〕的認識)が決定的な力をもつ。」


下の句的には、

「我が国においては科学的体系はついに自生せず、また体系的思想のすべてがあらためて輸入されなければならなかった。ただ現実原則に則った勤勉の倫理だけはヨーロッパよりもたやすく、ネオプラトニズムと魔女狩りという陣痛期を経ずに三都(京・大阪・江戸)においては17世紀中葉、関東平野においては19世紀の初頭に至る時代に、比較的抵抗なく確立されることができたのであるという考察も可能であろう」

となる。





中井久夫『西欧精神医学背景史』- はぐれ思想史学徒純情派
http://n-shikata.hatenablog.com/entries/2011/01/25


ルネサンスは一面においてはアラビアやユダヤを媒介としてきた古代文化に直接接続しようとする文芸復興の試みであるが、他面、魔術的、占星術的、錬金術的なものと結合した秘教的ネオプラトニズムの復興でもあった。ネオプラトニズムを一言にしていえば、世界を統合的な一全体として把握しようとする試みで、しかも実例の収集枚挙や論理的分析によるのではなく、直観と類比と照応とを手掛かりとして、小宇宙から大宇宙を、大宇宙から小宇宙を知ろうとする試みである。たとえば人体は大宇宙の照応物としての小宇宙であり、人体を知ることによって宇宙を知ることができるとする。逆に、星の運行によって小宇宙すなわち人間の運命が予知可能であるとするものである。今日ほとんど忘れられていることでもあるけれども、ルネサンスにおいてエジプトの伝説的占星術者ヘルメス・トリスメギストスは、プラトーンと並ぶ権威をもっていたのであり、かのロレンツォ・ディ・メディチが御用学者フィチーノに命じて古代古典を翻訳させたとき、彼はプラトーンよりもこの占星術者の名と結びついた書物を優先させた。(p26-p27)


魔女狩りを許容した第三のものは、ルネサンス宮廷層から一応離れたものであった。それは知識人の沈黙、あるいは加端であり、積極的支持すらあった。その根拠として、彼らが伝統的な文化から抜け切っていなかったというような説明はあまり有効なものではない。むしろここでヨーロッパの中世において次のような、魔女狩りに先駆し、それと連続的な現象があることを指摘する必要があるだろう。

すなわち、一二世紀からのおよそ四世紀間、ヨーロッパがヨーロッパを成立させたその文化的恩人たちを次々に消滅させていったという事実である。第一にユダヤ人である。ローマの末期から一〇世紀にかけて、回教文化をヨーロッパにもたらしたものはユダヤ人である。当時のヨーロッパの知的レベルからみて、アラビア語からラテン語への正確な翻訳はヨーロッパ人の能力を越えたものであった。ユダヤ人翻訳者の存在は不可欠なものであった。ユダヤ人翻訳者の存在は不可欠なものであった。そしてユダヤ人たちは翻訳だけでなく、おそらくその時代において文盲率が最も少なく(幼児期からタルムードによる)きわめて洗練された言語的・学問的訓練を行っていた民族は、ユダヤ人のみであったろう。このユダヤ人がまさにその使命を果し終えたときに、のちにいうポグロム、つまりユダヤ人虐殺が全ヨーロッパ的に開始されるのである。

次はアラビア人である。アラビア人の文化はしばしば単なる翻訳者あるいは伝達者の評価しか受けていない。しかしそれは事実に反する。アリストテレス哲学、あるいはガレノスの医学が、アヴィケンナやアヴェロエスによって継承、発展されたというだけではない。H・シッパーゲスの証明するごとく、ヨーロッパ中世の医学テキストは挿絵に至るまで、アラビア医学書の剽窃に近いものである。一方、啓示の真理と現世の真理との対立と緊張の関係は、アラビアの哲学者によってはじめて鋭く意識されたのであり、この問題設定は単にスコラ哲学に対するその影響だけでなく、まさにこれこそヨーロッパの近代化の一つの大きな思想的契機となっているのであるが、このアラビア人たちがその文化的役割を果たしたのちに十字軍と異端審問の対象となったのである。このような、いわば“育ての親殺し”の連続線上にあるものとして魔女狩りを理解することができる。(p33-p34)











かくて人々は今日も狭量な倫理と蒙昧な理知で祭りを催すのだ。









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2015年07月01日

現代アート聖地巡礼  - 「日本列島現代アートを旅する」


前のエントリの続きで

「芸術起業論」「芸術闘争論」「日本列島現代アートを旅する」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/421381762.html


と言うかこの本は作品についての簡単な解説本なので、それについてさらになにかいうこともなく「読んでください」ぐらいなのだけど、自分用の読書メモ的な意味合いと、「読んでください」とはいってもちょっとした(自分的)見どころをメモっとくのもいいかなと思って。



日本列島「現代アート」を旅する (小学館新書) -
日本列島「現代アート」を旅する (小学館新書) -



紹介されているのは順に

イサム・ノグチ『エナジー・ヴォイド
マーク・ロスコ『シーグラム壁画
アントニー・ゴームリー『ANOTHER TIME XX』
三島喜美代Newspaper08
ロン・ミュエクスタンディング・ウーマン
レアンドロ・エルリッヒ『スイミング・プール』
安田侃『アルテピアッツァ美唄』
ジェームズ・タレル『ブルー・プラネット・スカイ』
内藤礼『母型』
ウォルター・デ・マリア『タイム/タイムレス/ノー・タイム』

いちおわかりやすくハイパーリンクしといた(文字色が青色になってるとこ)


イサム・ノグチについてはちょっとぐぐれば出るだろうから特にいうこともなく、広島にいる頃からなんとなく橋のデザインなんかで意識してたけど、特にあらためて個展とか作品を見る気もなかった。でも、この本の解説を読んでいてそのうち見てみたくなった。「そのうち」というのは自分の石や彫刻についての理解や関心が深まってから。そういう思いのきっかけになったのが以下の文章


この作品が放つ圧倒的な存在感に、私は見るたびにいつも、打ちふるえるほどの感激を覚えます。高さ3.6メートルと、人間の背丈の2倍はあろうかという巨大な石の彫刻です。

しかし、作品に圧倒されるのは、それが大きいからではありません。管状に整えられた黒い石が、ゆるやかな台形を形づくっているのですが、そこで提示されている曲線が、おそろしいほどに見事なのです。石の表面は、外光を吸収しつつ、同時に内側から光を放っているようにも感じられます。

曲線と光の織りなす美の境地は、いつまでも見飽きるということがありません。「絶対的な美」という形容が、これほど似つかわしい作品はないと思います。
 
作品名の「エナジー」は「エネルギー」、「ヴォイド」は「空洞」や「虚空」を意味する言葉です。全体としては「エネルギーの洞」といった意味合いでしょうか。実際、この作品を前にすると私は、エネルギーがぐるぐるとものすごい勢いで流れているような感覚に襲われます。中心は空なのですが、周囲には猛烈なエネルギーの塊があり、それがとめどなく流れているのです。

素材は黒色花崗岩、石材としては、古くから「御影石」の名で利用されてきました。それにしても、ひとつの石として見ても見事なものを選んでいます。吸い込まれるような漆黒です。

花崗岩はかなり硬い石として知られており、それをノミで成形したりのち、ここまで磨き上げるには、並外れた労力と集中力が必要だったことでしょう。磨きの美しさは群を抜いています。その特徴が見事に表れているのは、勢い良く伸びた直線の形態です。美しいラインが下から上へ、そして横へと続き、無限のループをよどみなくつくっています。

また、磨きの加減が見事で、石は光を吸い込みつつも、微妙に反射しており、生命感をもったような独特の黒の光沢をたたえています。

 

本書に載ってる白黒写真を見ても、あるいはネットから写真を見てもちょっとピンとこない / 作品批評における煽り的な過剰褒めなのかな?というところもあるのだけど、ここに使わているキーワードが自分のゲージツ作品に対する基本的な価値観に合致するので見ときたくなった。すなわち「エネルギー」「虚空」。

もともと自分もアートだのゲージツだのは衒学的なものに過ぎないというスタンスで、特に現代アートなんかは半ば文脈で形成されてるソーカル問題的なところがあるので斜に構えつつ「それでもホンモノがあるとすると、あるいは自分が見たいものは圧倒的なエネルギーの奔流。人の価値観や意味から離れた圧倒的なエネルギーこそ美しい」というものだった。なのでとりあえず見てみたい。すくなくともかったい花崗岩をツルツルに磨き上げたというとこには職人技的なホンモノがあるのだろうから。

イサム・ノグチは海外・アメリカで評価を得ていたのだけど石の彫刻について突き詰めるうちに良い石を求めて牟礼に移り住んだ。そこでも最初は現地の職人たちに「ゲージツ家せんせーがなにができる」って想われてたみたいだけどその確かな技と石に対する造詣からだんだんと現地の職人に慕われるようになった、と。イサム・ノグチ庭園美術館はもともとイサム・ノグチの作業場も兼ねた住まいだったため生活と芸術が一体となったイサム・ノグチの美学を反映している。それもあって完全予約制で案内されるそうな。

エナジー・ヴォイドは差し込む陽の光や質感、季節の移り変わりに依る陽光の強弱なんかも意識されて作られ・設置されているらしく、まさに場と一体となったインスタレーションといえるのだろう。それを拝むことはたぶん仏像はなんらかの聖なるものを拝むのに近い体験になるとおもう。本当にその価値や美にシンクロできたとしたら。

そういう意味でこの作品やここで紹介されている他の作品を詣でることは日本の現代アートにおける聖地巡礼といえるだろう。



シーグラム壁画はもともとニューヨークのレストランの特別室に掲げられる予定でレストランから依頼された仕事だった。んでも完成したレストランのその部屋の様子を見てロスコが掲げるのを拒否して、もともと30点からなる連作だったものは3つに別れて保管されることとなった。そのうちの7点が奇跡的に日本で収蔵されることとなり、展示のためにロスコのこの作品のための部屋が設けられた。

ロスコの作品は自分はまだ現物を見たことがないのでその魅力がよくわからないのだけど、本書の解説を見ていてなんとなく腑に落ちるところがありさらに見たくなった。



抽象絵画の目的は何でしょうか。

それは「体験」です。

現代の抽象絵画の多くは、その作品が提示する空間を「体験」することを目的に制作されています。

それゆえ作品は、人間のもつ根源的な感覚に訴えかけてきます。というと難しくなりますが、要は、陽射しを浴びたり、そよ風を受けたりするのが気持ち良いと感じるように、その作品がもたらす空気感に身を委ねて欲しい、ということです。人が光や風を受けて快感を覚えるのに、理屈はありません。それと同様に、抽象絵画の鑑賞に「理解」は不要なのです。

とりわけマーク・ロスコは絵画によって心やすまる空間をつくることに努めました。

彼の活動は、今日のアートに大きな影響を与えています。本書で紹介するウォルター・デ・マリアや、ジェームズ・タレルといった、ロスコより一、二世代後のアーティストたちにとっても彼は大きな存在でした。戦後、世界の現代アートを牽引していったアーティストたちにとって、マーク・ロスコらアメリカの抽象絵画がもたらした芸術上の成果は、それまでの美術の歴史から大きな意味を分かつものだったのです。





それぞれの絵が連なってひとつの世界を構成する壁画なので、どの絵も似たような雰囲気をもっています。赤土のような色を基調に、黒やオレンジ色を組み合わせて、輪郭のあやふやな、大きな長方形が1つか2つ、浮かび上がるように描かれています。その長方形は、どこか別の場所に通じる窓か扉のように見えます。

それまでロスコの絵といえば窓を思わせる形が登場することで有名でしたが、この窓型は初めての試みになりました。



daily rothko
http://tumb.la/dailyrothko



ここで壁画の条件をかんがえると、一枚一枚の絵は横に連続して並べられていきます。できるだけ隙間を詰めていくとすると、ひたすら横に長い絵になります。そこで必要以上に横へと意識が向かないように、窓型の四角い形をあるリズムで入れ込んだのではないかと私は想像します。そうでないと壁画にしたときに絵にならないからです。結果、それが内部空間へと観客を誘う窓の役割を果たしていきます。

画面は大きいのですが、ぎらぎらしたところがまったくないので、絵の前に立つと、たいへん落ち着くのです。

それはおそらく、絵の表面が、つや消しのような、とてもやわらかな感じがするからでしょう。マチエール(絵肌)は、ベルベットの絨毯を思わせる独特のものです。

画材には、顔料に油やたまごや樹脂を混ぜた、かなり複雑なものを使用しています。ロスコはさまざまな画材を買い集め、それを自分でミックスしていました。キャンパスも市販のもの、手製のものと様々で、絵の具についても同様です。油絵の具がほとんどですが、ときおり化学樹脂も使っていますし、一方でテンペラ絵の具という油絵以前の古典的な材料も使用しています。





私は、この部屋にいると、凝り固まっていた精神が解きほぐされるような、深いリラクゼーションを覚えます。中央に鑑賞のための長椅子が置いてあるのですが、それに座って画面を眺めていると、時が経つのを忘れてしまうようです。ロスコの作品は、人を瞑想に力があるといわれますが、まさにその通りで、わたしもいつしか忘我の境地に誘われています。そこはまるで「アートが生んだパワースポット」のようです。



とにかく、ロスコの絵は、アメリカ人の心を引きつけてやみません。「最もアメリカな画家」の称号を誰かに与えるとすれば、ロスコこそがふさわしいでしょう。

ロスコの作品は、抽象絵画ではありますが、そこに現れる色彩は、どこかアメリカの風土を感じさせるのです。もぎたての柑橘類のようなオレンジ、澄み切った空のような青、大地に沈む太陽のような赤、ロスコの筆から生み出される色彩は、どこをとってもアメリカの自然を映しているように見えます。そうしてみると、「シーグラム壁画」の赤茶色も、南部の土のようではないでしょうか。





こういったロスコの、あるいはシーグラム壁画の魅力についての解説のほかにロスコに代表されるアメリカの抽象表現主義がどういった文脈から台頭していったかを伺わせる文章もある。あらためていうことでもないけどいわゆる現代アート的なものを一般にイメージすると抽象表現主義的な作品、つまり線が一本とか、なんかよくわからない幾何学模様がうんたらみたいな作品をイメージするだろうけどああいうのは第二次大戦後にアメリカ(MoMA)がアートの中心になってから「現代アート」となっていったもの。


特に第二次世界大戦後のアメリカは、世界一の大国となり、ビジネス面で成功した新興の大富豪が次々と誕生しました。彼らが自分たちの躍進を象徴するものを欲したときに、そこにアメリカ独自のアートである、抽象表現主義の絵画があったのです。

ルネサンスやバロック時代は、王侯貴族が美の庇護者であったので、広大な屋敷や教会の壁を埋める大画面の絵画が当たり前のようにつくられていました。しかし、19世紀以降の市民社会では、絵の大きさも家族が暮らす部屋に飾れる程度のこぶりなものに変わります。ところが再び、摩天楼や壮大な邸宅が続々と建てられた20世紀のアメリカ社会において、巨大な絵画が復活したのです。



ハロルド・ローゼンバーグとクレメント・グリーンバーグは、戦後のアメリカ美術を世界的な地位に押し上げた美術評論家です。いまだに現代アメリカ美術を学ぶ上ではこの二人の評論は必須です。

二人が推し進めたことは簡単にいえば2つ。美術の「純粋化」と「自立化」。

ちょっと難しくなってしまいましたが「純粋化」とは、つまりひとつの美しい様式、形式が貫かれていること、いろいろな価値観が混在していないこと。そして、もうひとつの「自立化」とは、美術は美術のためにあるということ。美術は「美」の主人であって、他の従属的な存在ではないということです。例えば皿の装飾は純粋な美ではなく皿の従属物であり、美を応用したもの。純粋な美は、それ自体を追求する絵画や彫刻の中だけにある。デザインや工芸は応用美術落ちう別のもの。なぜなら実用的な用途をもっていて、純粋な美のためにあるわけでないから、ということです。

この論理はより究極的に展開すると、具象的な描写の否定にまで進みます。

なぜなら、それは実際にあるものの単なる説明であって、絵の創造性に関わるものではない、ということになるからです。



荒野は壷にのみこまれた―大衆状況のなかの美術 (1972年) -
荒野は壷にのみこまれた―大衆状況のなかの美術 (1972年) -
行為と行為者 (1973年) (晶文選書) -
行為と行為者 (1973年) (晶文選書) -


グリーンバーグ批評選集 -
グリーンバーグ批評選集 -
近代芸術と文化 (1965年) (芸術論叢書) -
近代芸術と文化 (1965年) (芸術論叢書) -





この辺りはプラトニズムというかイデアというか、民芸運動とかアーツ・アンド・クラフツ運動とか思わせる。あるいは偶像崇拝。

んでもそういったものは、以前にも少し言ったように、「純粋に美や真理を追求するために極限にしぼりこみほかを捨象する」、というそのこと自体が形式化し、惰性となり、本来の純粋性の探求を失ってしまうこともあるので。たとえば「現代アートっぽい抽象さえしとけばそのように見えるだろ?(あとは口八丁手八丁の雰囲気で売り込む」みたいなのとか。

そういうこともあって現在は具象への揺り戻し、あるいはハイパー具象的な関心が出てきてるのかなあとか思うのだけど、それは自分の関心がそこにあるからなのかなあともおもったりする。そういったハイパー具象的なものもそれ以前の単なる具象-リアリズムとは異なりちょっと抽象や超現実的なところを取り込んでるようにも思えるけど。

あと、ヴォリンケルの抽象の必然性の議論とか。






ゴームリーの作品はリンク先のpinterestにもあるようにここでは人型の彫像が紹介されていた。等身大の人型の鉄の彫像。中は繰り抜かれてなくてそのまま鉄が流し込まれていて重さ600kgぐらいあるとのこと。それが山の山頂にインスタレーションしてる。

何も知らされず山を登り切った時にそれがあるとそこが特別な場のように感じるだろうし、なにかを想うのだろうなあとかおもう。あるいはこのようにそれがなんだか知っていたとしても「山を登る」という体験の後だとなにか感じるのだろう。山にずっと住む人、山と人との関係をその赤錆びた鉄の身体を通じて。鉄の芸術、とくにこれだけの重さ≠存在感をもつものにはそれだけの説得力がある。

んでもたぶんこれはわざわざ見に行かない、かなあ。。ほかの作品に比べて自分的には優先度が落ちる。場所柄もあるだろうけど(もうちょっと有名な山だったらいってたか(んでも修験道とかにまた興味関心が出たら行きたくなるか(これが設置されてるのはそういう「御山」なので)。




三島喜美代の作品は新聞で作られた迷路な作品。ゴミで捨てられるはずの新聞紙が積み上げられた迷路。「こんなに積み上げられていたら崩れてるのではないか?」と不安を誘う、けれどポリエステルで作られてるので安全なのだそうな。それは「ニセモノでゴミをわざわざつくった?」てことではあるのだけど、わざわざ作られた「ちり紙」たちにちゃんと文字が象られれ新聞としての質感も再現されているところ、あるいはそれらが積み重なって迷路を構成しているところからじっさいにこの空間にいって体験してみるとなんか想ったり想わなかったりするかなってかんじ。場所としても大田区ということでわりと行きやすいのでそのうち行ってみたい。


ロン・ミュエクの作品は4メートルに近いハイパーリアルな像とのこと。ミュエクはもともと児童向け映画やテレビ番組向けにパペットを作っていた人で「ラビリンス/魔王の迷宮」のそれもこの人の仕事て見ておおーっておもった。リンク先のNAVERのまとめでわかりやすいのだけど巨大赤ちゃんのそれなんかはちょこちょこtumblrなんかでも回覧されてくる。この人の作品も個展あったらみたいとおもうのだけど、スタンディング・ウーマン自体は青森の十和田常駐とのこと。



レアンドロ・エルリッヒのスイミングプールは金沢21世紀美術館の代名詞的なものになってるようでタレルの部屋同様、金沢21世紀美術館いったら体験できるようなのでそのうちいきたい。タレルのは直島にもある。



デ・マリアの「タイム/タイムレス/ノータイム」はパッと見「GANTZ」の黒い球のようで、なので時空を超える感じなのかなあとか思うんだけど、逆にGANTZのあれはこれが元ネタだったのかなあとも。とりあえずこれも見てみないことにはわからない。直島にあるようだし。

デ・マリアの作品はNAVERのまとめにもあるようにランドアート的な特徴が強く、場と分かちがたいインスタレーションというか、自然の体験そのものをアートとして捉えようとしてる/自然をアートとして捉えるためのちょっとした手助けをする、みたいな感じ。それは内藤礼の作品にも通じるぽい。表し方は内藤さんのほうは閑かだけど。

この本での内藤さんの作品の解説のところで「現代アートはその場の環境にヒモをたらす(→風を感じられる/見える)などちょっとだけ細工をして、場の体験そのものを誘発しそんなに作りこまない / なんだったらまったく作らずアーティストが感じた認識/視角自体を共有してもらおうとするものがあったりするが、そうなると『作らない / 認識自体がアート』ということにもなったりするのだろうか」みたいなのがあったけど、自分的にもそんなかんじで、けっきょくあのへんは手の仕事として表したもの/表されたものが優れたメッセージをもっている、あるいは、それを作ったアーティストが優れた認識・感性をもっているかというとそんなこともなくて、「それは器用さの表れであってアートといえるの?」みたいなのはけっこうある。

現代なんかは特に複製技術というか、機械の力を借りれば特に器用さを持たない人でもデジタルに作品をブリコラージュすることはできるわけだし。3Dプリンタなんかもあるし、PCから印刷した写真をブリコラージュして自らの作品として発表する『photograper』もいる。

そういったところからするとその感性や「見えている景色」を磨き共有する方法を提示していった人が現代アート的にはおもしろいのかなあとかおもったりする。「ふだんなんのことない景色だけど、これを見た後はこんなふうに見られる・感じられるようになった」みたいなの。

内藤さんの目黒庭園美術館での展示(よく見ると窓や部屋の隅に小さな人型があるもの)もそういうところあったのかなあとか今さらおもう。デ・マリアのランドアート的なもの、あるいは環境と一体となったもの、であり、ゴームリーのちっちゃい人形的な。







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2015年04月24日

美術手帖3月号から「現代アートの文脈」「現代アートは流通である」あたり




美術手帖 2015年 03月号
美術手帖 2015年 03月号
posted with amazlet at 15.04.24

美術出版社 (2015-02-17)










美術手帖3月号「世界の新世代アーティスト100人」なインデックス企画。あまり期待しないで見たし、作品実物で見てみないとやっぱピンと来ないだろうなあって感じだったんだけど東京都現代美術館と森美術館のチーフキュレーターの対談がおもったよりおもろかったのでメモ的に。自分的にはこれに関連する書籍(ラッセン本とか村上隆本、あるいはアートとビジネス・流通・プロモート本を[読むもの]として積ん読ぶくまする用のエントリ)。


対談の主題があきらかにされてないまま日本語でおk的なカタカナ語連発されていくのでなんとなくつかみにくいところはあるのだけど、半ば過ぎた辺りに主旨としてわかりやすく言及されていた箇所があったのでそこから引用する。


日本でも現代アートの愛好家やオーディエンスがこの10年ほどすごく増えたと思いますが、いまオーディエンスに投げかけようとしているコンテンツは、実はものすごく複雑で、様々な文脈から紐づけをしていかないと理解しきれないものです。私は従来、美術館の教育普及活動が担ってきた、アーティストの非常に深度のあるプラクティスを見る側に伝えていく作業、義務教育でシェアされていないここ100年以上の世界の美術の潮流を、いかに増加しつつあるオーディエンスに知識と体験を通して接続していくのか、といった課題は急務だと思っています。アメリカでは日本よりも多様な人種、宗教、経済的環境のなか、それぞれ異なるコミュニティーがあります。イギリスでも移民、人種問題は大きな課題です。そうしたなかでオーディエンス・エンゲージメントも発展してきました。日本でも、こうした観点を今後ますます強化していかないと、世界から届けられる現代アートの批評性とエンターテインメントに近いものとして現代アートを愉しみたいファンの間の溝は埋まらない。現代アートが単にエンタテインメントとして定着してしまうことによって、誰もが理解しうる人間の根源的な部分を扱っていることが伝わらないまま日々過ぎ去っていく。そこに大きな意識改革が必要だと考えています。




要約すれば、「現代アートの扱っている題材は生活のリアリティ的な問題として重要な部分なのにあまり関心を持たれてない、関心を持たれたとしてもスノビズムのなかで特に理解もされずに消費されている。そういうのがくやしい」、てことでサードウェーブうんたらとかロハスとか「これが上質な暮らし?」「m9(^Д^)」とか想わせる。そういった態度はちょっと啓蒙主義的傲慢を感じさせ警戒するとこでもあるわけだけど、そのあたりについては「上からの教育(Education)ではなく下からのLearningな動きとなってる。

例えばイギリス全体でも」とかいってて、まあcivic journalismと同じ文脈のように想う。つまり「教条的に一定の考え方を叩き込むのではなく、それらを解釈するための文脈を受講者と一緒になって学び、インストしていく」というあれ。新聞社でそれをやるのは「あらたな持続的購読者を自らの手で作り上げていく」てことでもあったんだけど、実際こういうのをやってるNewYorkTimesとかは時間とお金がかかるばっかでそれほど収益には貢献されないてことで半ば社会慈善事業的な趣きもあった。そういった文脈も背景にあるためか話の流れとして美術館だけが中心となるのではなくギャラリー、美術マーケットと連動してやっていく必要がある、みたいなことになっていたけど。地域コミュニティのボランタリーなアート活動との接続あたりにまでは話は流れてなかった。

この手の話は教育方面だとけっこうあって、もうちょっと広い文脈で言うと大学の経営とその内容の問題に属する。そこで問題になるのは就職予備機関としての大学の性格 ― 「優秀な人材を輩出する必要がある」という大学の生産性問題で、そうすると「就職に役に立つ知識」てことで大学教育の醍醐味(自由7芸につながるへん)がスポイルされて行ったり…。

美術館とアートの普及の話に具体すれば、「世界で起こっている美術モメント、それを反映した現代アートの作品メッセージを『正しく』読み解くための教育がかえって自由なアートの可能性を狭めていってしまうんど絵はないか?」という懸念が生じる。なので「だったら学芸員が『ただしい』作品の読み方を解説すればいいじゃん?(ガイドツアー的に)」て拙速出来ないのだろう。まあ「テクストの自由な読みを阻害するから」という以外に「ガイドツアーとかイチイチしてたら学芸員の仕事増えて人員・予算足りなくなるよ。。実際そんな金ない」てのがあるだろうけど(あと学芸員の読みが正しいかどうかびみょーだろうし、すべての作家がフレンドリーに作品メッセージを解説してくれるわけではない(現在MOTで開かれてる展覧会の作家さんはアプリインストするとそこで自ら解説してくれるようだけど)。


そういう問題があるとして、では「現代アートが扱っている題材」とはなんなのか?


作家や作品によって異なるところはあるだろうけど、今回の対談だと主に「近代(モダニズム)による画一化と画一化の暴力から自由になるための方法の一つとしての現代アート」ということが当然にされているようだった。つまり少し前にエントリした李禹煥のいってた内容と同期なわけだけど。


李禹煥、2000、「余白の芸術」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/417115007.html


あるいは観察者の系譜とそれの前提としてのフーコー的な文脈。

ジョナサン・クレーリー、1999、「観察者の系譜」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/417357248.html


そういった文脈なので必然として現代思想や文化人類学におけるポストコロニアル、マルチカルチュラリズム的なテーマと同期してくる。なので、それらの文脈に親しんでいれば現代アートに親しんでなくてもイマキタしやすい。自分が仲良くお話してるアート界隈な人とのお話的には逆にアートな人たちが現代思想とか社会学とか文化人類学、表象文化、メディア論、生の哲学的な文脈に接続しにくい(接続したとしてもスノッブなものかどうか見分けがつきづらい)というのはあるみたいだけど、、まあ話がすごくそれるだろうから置く。白田さんなんかがムサビでそのへんの講義とかしてるみたいだけど。以下はそういうのはじめた当初のムサビ講義の様子が垣間見られる。いかに美大生が自分たちの作品の背景的一般常識・学問知識に疎いかということについてなどなど。

白田秀彰の「網言録」 - 2007年5月 | WIRED VISION
http://bit.ly/1DGC70F



この対談巻頭でオルターモダンがどうとかいっていたけど、そういう文脈な感じ。オルターモダンという言葉はあるキュレーターが最近作った造語だから浸透してないけど。


ニコラ・ブリオーが2009年に提示した「オルターモダン」という概念が面白かったのは、主体というのは常に移動していて、その移動する主体の地理主体(ジオカルチュラル)的な位置、地政学的な位置、生産のプロセスによって作品の生産(プロダクション)というのは示されるべきで、どこかの国に帰属するモダニズムではなくて、移動する主体におけるモダニズムという考え方そのものそのものに言及した、というところです。主体の移動やノマドの問題というのは1990年代からずっと言われてきたことで、旅する作家のなかで起こる様々な文化的混濁性(ハイブリディティー)、情報、記号や形式が、作家の解釈、翻訳によって横断的に変化し、生成される。それをオルターモダンという形で語ったのが新しい部分かなと思います。よく似た言葉にマルチ・モダニズムズという言葉があります。そこにはそれぞれの地域が独自の個性を持ってモダニズムを形成してきたので、それらを欧米的なモダニズムという同じ言葉でひとつにくくることができない、というモダニズム普遍主義への批評があったと思います。

そういったモダニズムズという複数のモダニズムに関心が向いたとき、それぞれの地域でこれまで十分に評価されてこなかった活動や個々のアーティストについて、今日的な視点から見直す「再読」の行為が大きく広がってきたと思います。ちょうどこの5年くらいでしょうか。具体的には、今回の特集で選んでいるような若い世代ではなくて、1930〜1940年代生まれの方たちの仕事をいまのグローバルな文脈にのせてみたときにどう見えてくるのか、という「再読」です。アートシーンがこれほどグローバルに拡大した今日、国際展や雑誌の特集などで、もっとも注目すべき100人の作家を選ぶという行為はあくまでも主観的にならざるを得ません。今回の企画を長谷川さんや私が選んだら、また全然違う100人になったと思います。そうした意味で、長谷川さんが東京都現代美術館(以下、MOT)で企画された「新たな系譜学をもとめて 跳躍/痕跡/身体」(2014)や、私が森美術館で企画した「リー・ミンウェイとその関係」展(2014〜2015)なども、それぞれにある文脈を見せようとしています。系譜や文脈を検証するために、まずは自分の立ち位置を決め、そこからおり広範な関係性を俯瞰してみる、評価の基軸を見出すという必要性が世界中のあらゆる場所で起きている気がします。



欧米によって帝国主義的に敷衍していった近代ー文明とはべつにそれぞれの地域にそれぞれのやり方で育ってきたモダニズムがあり、それらは近代的な文明の便利を享受しつつ、それとは別にローカルなリアリティも保っているため欧米とは異なったモダニティとして発露し、そこでのモダニズムなリアリティも異なってくる。それらと世界的に共通する「現代のアクチュアルな問題」の視点をどのように同期・接合させていくか?、ということ。


ニコラ・ブリオーというキュレーター(@テート・ブリテン・ロンドン)が提案したオルターモダンという視座や態度は端的に解釈すれば「ローカルって言ってもテレビやネットを通じて共通し、混ざり合ってる近代人(あるいは後期近代人)があって、でもそれは完全に混ざるというよりはそれぞれのポイントに配置されてるような感じ」ということなのだとおもう。そういう意味ではちょっと展示みてみたかったなあとおもうんだけど。

そういったリアリティに対して、ひとつの学問分野・視野からだと捉えきれないところがあるので分野・方法(ディシプリン)横断的な方法が必要となり、そこで「新たな系譜学をもとめて」や「リー・ミンウェイ」的な企画が提示されていく。一部で好評だった「うさぎスマッシュ」なんかもそういった流れのように想う(サブカル的なリアリティも混濁してくし)。これらも見そびれたのでこの対談みてて「見とけばよかったかなあ。。」とかちょっとおもった。



新たな系譜学を求めて |東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/seekingnewgenealogy.html



リー・ミンウェイとその関係展:参加するアート―見る、話す、贈る、書く、食べる、そして世界とつながる | 森美術館
http://www.mori.art.museum/contents/lee_mingwei/about/

リー・ミンウェイさんの、アートのかたち - ほぼ日刊イトイ新聞
http://www.1101.com/lee_mingwei/2014-11-13.html



うさぎスマッシュ展|東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/148.html

2013.10.13 うさぎスマッシュ展 - 東京都現代美術館 - always one step forward
http://masagrant55.hatenablog.com/entry/2013/10/20/235648



現代アートの系譜、あるいは世界共通のテーマの共有ということではドイツのドクメンタなんかが紹介されつつ


ドクメンタ - Wikipedia http://bit.ly/1bA884P

ドクメンタ | 現代美術用語辞典ver.2.0 http://bit.ly/1bA8ng0




現代アートの最前線がニューヨーク現代美術館(MoMA)とテート周辺だということを再認識させられる。あとドイツ(cf.グッゲンハイム)。このへんの「最前線」とか「中心」とかの意味合いは「二本の学術では東大がどうしても中心になるからねえ。。」程度。もちろんブランドで芸の良し悪しが決まるわけではないので地方や各私立にも鉄人はいる。けど、まあ平均的な意味での中心みたいなのはあるよね、ぐらいの。



「1930〜1940年代生まれの方たちの仕事をいまのグローバルな文脈にのせてみたときに」な話題だともの派とアルテ・ポーヴェラの関わり、「具体」の世界的認知なんかが語られている。「もの派を語るときにはアルテ・ポーヴェラと関連して、その違いについてから語るよね」みたいなの。具体とアンフォルメルの関わりとか。


世界が注目する日本発アート「具体」とは? 具体作家・松谷武判さんに聞く - Excite Bit
http://exci.to/1bA8iJf

アルテ・ポーヴェラ - Wikipedia http://bit.ly/1bA8oAE

アンフォルメル | 現代美術用語辞典ver.2.0 http://bit.ly/1bA8Sa3



グローバルとローカル(日本)をつなげるということでいうと現在よりも1970年代の日本のほうが「進んでた」みたい。そのへんは例えば1970年の東京ビエンナーレ、当時の美術手帖の様子から伺える。そういった文脈をMoMAやグッゲンハイムが現在紹介してるとか。
そういったマルチカルチュラル(トランスカルチャー)的な方法にたいして、それらを提示する方法、あるいはかんがえる方法としてアートをポリティクス-アクティビティ、ライフの一環として捉える向きがある。政治的な問題を生活・人生の一環としてアートで表したり、そのまま言葉にすると問題なことをアートを通じて表現したり。たとえば身体芸術を含んだそれなんかはトランスディシプリンな試みと言え、ドイツやイギリス(テートのタンクスとか)などはすでに美術館の中でダンスも介してアートのメッセージを伝える試みがされている(TL的にはパリなんかでもそうみたい)。MOTで少し前に行われた「新たな系譜学」の企画展はそういった文脈だったみたい。

ブラジルの例、あるいはNYやイギリスなどもそういったシーン、アクチュアルなものを表現するためにトランスディシプリンな方法を採用することに追随/同期してるようだけれど日本はどうしてもそこが遅れてしまっている。それはたとえばデュシャンの「泉」(例のレディメイド便器の展示)がどういった文脈でどういった意義をもっていたのが共通認識されていなかったり、会田誠の「あぜ道」が東山魁夷の「道」を引用しずら(差延)した作品であることが理解されずたんに「トリックアート」として教科書で紹介されてしまっているところにも表れている。ちなみにいうとこの「あぜ道」はHALCALIのアルバムジャケットに無断パクりされたらしく問題になっていたらしい(そんでTLのそれ系女史が「あの文脈がまったく理解されてないことが貧困。。」みたいに嘆いていた)。



「現代の世界のアートシーンに日本をつなげる」「もう少しレベルアップしたい」が問題意識であるとするとその具体的方法としての流通、キュレーションのあり方が本対談の中盤の見どころになる。

具体的には美術館だけでは骨が折れるので世界のアートマーケット/ギャラリーの動向ともっと連絡・リンクする形でこういった活動を拡げて行きたい、というもの。この辺もおもしろかったので引用しておく。



NYの美術史家、室井玲子さんが、もの派展の際にマーケットと美術館の活動とアカデミックな研究が三位一体であること重要性を指摘していました。もの派のアカデミックな研究や展覧会があっても、それにマーケットがともなわなければ、現在のような国際的な認知には至らなかったかもしれない。アルテ・ポーヴェラなどを収集しているコレクターが、もの派に接続点を見出しつつ、だんだん購入可能な作品も減り、価格も高騰してきたアルテ・ポーヴェラの作品に比べて、まったくアクセシブルなもの派に手をつけていくというような経緯でマーケットにも火がついた。昨年秋、ロンドンのフリーズ・マスターズではすでに韓国のギャラリーが、韓国モノクローム絵画世代の作家や、1960〜1970年代のパフォーマンス・アーティストも市場に強力に紹介していました。こうした方法論をいかに日本のアートシーンにも当てはめていくのか、もし日本のアート・コミュニティーに欠けていることがあるとすれば、戦略的な市場への介入と文脈的な裏付け、そして美術館の活動という3つの軸の連動を意識することなのかもしれません。


コンテンポラリー・アートがコンテンポラリーたりうる要素は、文脈や方法論だけではなく、それを支える流通のシステムですよね。コンテンポラリー・アートの存在やこれにかかわるアクティビティー ―アートフェア、ビエンナーレ、オークション、フォーラムなど― が、多様な文化や現れてくる表現をお互いに交流させたり、機能させたりすることの助けになっています。さらに、展覧会を開催することは、他者と作品体験を共有して、アートについて語り始めるということ。では、それをどうやって評価するのか?展示され、評された時点で議論の対象になっていくじゃないですか。私はそのシステムについてはいまアジアでかなりうまく機能していると思っています。


例えば、テートは2012年にアジア太平洋リサーチセンターを設立しましたし、MoMAは09年頃から内部のスタディーグループC-MAPをつくっています。世界の近現代美術館の代表格であるファーストクラスの美術館が、世界中の国や地域のインスティテューションとパートナーシップを組みながら、いかにグローバルに拡大した近現代美術の全貌を掌握しようとしてるか。若干、帝国主義的にみえなくもないですが、テートとMoMAという2大巨頭ではその方向性は明らかです。ただ、いくらテートやMoMAでも、座っていて情報や知識が集まるものではない。アーティストや作品が多様な文脈や系譜のなかにいるのと同じように、美術館というインスティテューションもパートナーシップによってしか成立し得ない時代だと思っています。単独で何かをするのではなく、自分たちが根ざしてる文脈が何で、相手が根ざしている文脈がどこにあって、それをつなぐことによって何が見えてくるのか。そういう意味で本当に「関係性」の時代で、そこに意識をシフトしていかないと全貌は見えないな、という気がしますね。


私もアジア太平洋リサーチセンターに、短期間ですけれどフェローとして在籍して、それがどのように機能しているのかというのを見てきました。スタッフの数は少ないですが、テートがやっているコレクションの取得委員会(委員会は、北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジアパシフィックなど、いくつかの地域に分かれていて、それぞれ地元のコレクターを中心にした人たちがメンバーを構成し、美術館に対して助言と寄付金を与える)というのがあります。そこを介して、世界中から情報も作品も集まってきます。そしてアカデミックなリサーチは自分たちが現地に赴いて行うという、すごくよく出来たシステムです。つまり、モダニムズムという新しい考え方の中で、いかに共通点と差異を議論し、また同時にそれらを展覧会や書籍、コレクションといった形でまとめていくのかということですね。






「現代アートがコンテンポラリーたりうる要素は、文脈や方法論だけではなく、それを支える流通のシステムである」「もの派が世界的に認識されたのも美術館の展覧会に加えてマーケットの動向が伴っていたから」「現代アートにおける世界の2大巨頭美術館はそのような背景で帝国主義的に各地に網羅的にリサーチを張り巡らせている」


示唆に富む箇所でいろいろと連想させる。「世界で認知されれば持続する」みたいなのは映画のシーンやシステムにも同じくするし、映画というのがけっきょくは内容ではなく流通システムをメインとしているということも(もちろん内容も重要だしインディーズ的な展開もあるけど)。帝国主義的なリサーチの網目、そこからの各地のアートの網羅的な狩猟のあたりは帝国主義時代の博物学的な狩猟・蒐集、そこから文化人類学という学問が立ち上がっていったこと、それらが実際的な機能としてはアメリカの安全保障のリサーチ(エリアスタディー)として予算を受けて育っていったことなんかが連想されここでも上記してきた啓蒙の暴力と同じ懸念がもたげる。


その辺りは人文社会科学の興味関心の持続が「金・ビジネスとの関わりないと―」「でも金金いってたらけっきょく金に染まって内容二の次になってくじゃん?」な話と同じくなって循環論するので置くとして。最後にこれらの話での注意点というかびみょーなところとしてもう一点だけ書き遺してこのエントリを閉じよう。


この対談は「意識の高い」エリートキュレーター同士の対談ということでどうしてもイヤミっぽいというか、なんかいけ好かないところがあり、それはたとえば「実際の作品やアーティストを差し置いて女衒・アート転がしがいばるんじゃねえm9(^Д^)」的なことに集約される。

んでもこの対談自体はその辺りを踏まえつつ、日本のアートシーン、あるいは普段の生活、一般的な認知とアートとの関わりがあまりにも貧困で文脈が理解されていないということに対する問題意識・提起・解決法の提示であったように思う。

なので「作品やアーティストを差し置いて」というほどでもなく、それらを紹介するプロとして、彼女たちキュレーターがこれから先どのような問題意識を持って努力していくべきか?という対談のように思えた。それはたとえば旧来の似非文化人的なひとたちがゲージツや「文化」をてけとーにスノッブしてごまかして偉そがるのとは異なるだろう。


もちろんそういった文脈とは関わりなく自らのそのとき想ったもの、感じた色やモティーフをそのまま表しただけって作家もいるだろうし、そういった作品もあるように思う。あるいは作家でさえ自身の作品がどういう意味を持っているのかということを精確には言語化できなかったりするので。

今回の話はそういうのとはまた別の、キュレーションというアート、プロの技の話のように思えおもしろかった。今後のMOTや森美術館、それらを受けた横浜美術館、原美術館ほか日本の現代アート系美術館の流れ、現在企画展示されているものがどういった文脈に属しているかもなんとなく推測されるし。




以下はそのようなキュレーターの意識から横浜トリエンナーレをくやしがった箇所としておもしろかったので最後に引用しておしまいとする。「アーティストやキュレーターにとっても網羅的なものだけではない深度が必要」「表層的な情報はいくらでもあるけれど深度がなければ凡庸な追随に終わる」という話から。




そういえば、2014年にはアーティストによるキュレーションが何件かありましたね。例えば「メディア・シティ・ソウル2014」のアーティスティック・ディレクター、パク・チャンギョンも映画出身で映画製作の仕事も高く評価されている人です。彼も数年来知っていますが、それこそ韓国のシャーマニズム、不可視のエネルギー、アニミズムなど、あの展覧会で扱われていることはずっと彼が探求してきたことです。森村泰昌さんがディレクターを務めた「横浜トリエンナーレ2014」でも同様に、彼らがある意味何十年かかけて掘り下げてきたリサーチをもとにあのような展覧会を開催されたら、何年も繰り返し展覧会を作り続ける職業上のキュレーターは太刀打ちできない。アーティストのヘギュ・ヤンは「アーティストはこれまで自分の興味のあるとkろおを掘り下げてきたから、それに関するアーティストを集めて展覧会をつくることは一回はできるけれども、それ以上はできないわよ」と慰めてくれましたけどね。ただそれは展覧会としては、彼らのアーティスティックな文脈やストーリーの構築が読み取れて、実に興味深い。深度の必要性はこうした事例からも感じられます。


















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「韓国や中国のほうがエッジに進んでる」みたいなことはなかよしのあーてすとのひとも言ってた(ので今度の横浜美術館の次の展覧会とか気になってる)

蔡國強展:帰去来 | 開催中の展覧会・予告 | 展覧会 | 横浜美術館
http://yokohama.art.museum/exhibition/index/20150711-449.html




東京に対する、緩やかでシリアスな危機感 羊屋白玉インタビュー - アート・デザインインタビュー : CINRA.NET
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2015年04月15日

ジョナサン・クレーリー、1999、「観察者の系譜」




われわれの眼は所与の刺激に対して、その印象のなかでそれまでとは異なる、新しいものを登記するかわりに、それまでに何回となく生み出してきたイメージをもういちど再生産することによって反応するほうが、はるかに楽だと思っているのである。

フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』







いかなる形態での魔術への逆戻りにもアレルギー反応を示すことで、芸術は、マックス・ウェーバーの術語を用いるならば「魔術からの解放」の重要部分を構成しているのである。芸術は合理化と分かちがたく絡まりあっている。芸術が揮うことのできる手段や製作方法は、すべてこの合理性との繋がりから由来している。

テオドール・アドルノ『美の理論』
















観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書) -
観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書) -


まとめるのがめんどくさい本なので以下は主に引用中心で。あとで見返すときにもそのほうが良いので。


フーコーとゲーテ、ショーペンハウアーとかを読んでると読みやすいだろうなあって感じの本だった。逆にそれらを読んでないとちょっとつらい。主張の構成がそれらを前提にした批評的な配列になってるので。これ単体だと読み終わった後にこの本単体での読了満足感はあまりない。それらのギロンにアクセスしてみようかという気は起こるけど。まあよくある難しげ人文的なあれといえばあれなんだけど。「玄人向け」とか「その方面詳しい人がさらに積むために必要な誤差の部分の修正」みたいなの。


「観察者の系譜」は予想通りすこし骨の折れる本だけど読み応え/読む価値は感じる。写真-見る/見られるの感覚の変容-それによる知覚や認識全体の変容などは最初から興味の対象だったのでそれについて語られることに驚きはないのだけれど、ざっとみたところ幻燈機やターナー(蒸気な絵画の)、ゲーテの色彩論、ショーペンハウアーなんかも関わってくるようで興味・関心の収斂、邂逅のようなものをおもう。

まださわりしか読んでないけれど、「観察者の系譜」ではそういった理性のドライブ - マトリクス化された認識-視角の地図とそこに絡め取られることを当然としていく現代人の在り方、すなわち近代の暴力的な認識が出来上がったのが19世紀前半であり、その表象的な足跡としてブリューゲル、フェルメール、ターナーなどが挙げられていく。


「観察者の系譜」をよみはじめた|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nf8fe97cead1f




クレーリーの問題意識はおーざっぱにいうと以下のようになると思う(要約大意)。

一般的には現代に至る視覚、あるいは視覚に紐付いた認識/リアリティは過去から地続きで「進歩的に発展」してきたように捉えられ、そこに「客観的」「科学的」「進歩的」とする罠があるのだが、現代に至る視覚は地続きの発展的なものではなく19c初頭に断絶がある。

19c初頭(1810-40)の変化とは

マネや印象主義、そして/あるいはポスト印象主義の到来とともに、視覚表象と視覚映像(イメージ)の知覚に対する新しいモデルが生まれ、それは数世紀におよぶ別の視覚モデル――すなわちルネサンス的/遠近法的/規範的モデルとして大まかに定義可能なもの――からの切断面を形成している、と。近代の視覚文化に関する理論のうち大部分のものが、この「切断」のあれやこれやの焼き直しにいまだに縛り付けられているのである。
にもかかわらず、遠近法的空間、ミメーシスのコード、外界の指示対象といったものの終焉をめぐるこの物語は、同様に廃棄される必要のある、ヨーロッパの視覚文化史のもう一つの全然違った時代区分と、通常は無批判に共存してきた。この二番目のモデルは、写真やそれに関連した十九世紀の「リアリズム」形式の発明と普及とに関するものである。こういった発展の歴史は、圧倒的に、ルネサンスを基礎とした視覚のモードの連続的な展開の一部をなすものとして提示されてきたのであって、そのモードの内部では、写真は――そして最終的には映画までもが――遠近法的空間や遠近法的知覚の止むことのない展開の、後代における事例にすぎないとされている。かくしてわれわれはしばしば、十九世紀の視覚に対する、混乱した二叉の理論を掴まされることになる。一方の水準には、根底的に新しいものの見方と意味づけとを生み出した。比較的少数の進んだ芸術家たちがおり、他方、より凡庸な水準では、十五世紀以来視覚を組織していたのと同一の普遍的な「リアリズム」の拘束の内部に、視覚は埋め込まれつづけている、ということになる。古典的な空間は一方では覆されたように見えるが、しかし他方ではそれは相も変わらず存続している、といった具合なのだ。この概念上の分裂は、「リアリズム」の名で呼ばれる何物かが大衆的な表象化の実践を支配しており、一方、たとえしばしば、かかる大衆的な実践領域へと浸透していくにしても、ともかくもそれからは截然と区切られたモダニスト的芸術制作の闘争の現場で、さまざまな実験や革新が生まれたのだ、という誤った観念に辿り着くことになる。



「見る主体を状況から除外した完全客観(中立的で不可視の相関項である身体)をリアリズムとする」モデルから「主体も状況の一部として影響を受けている」というモデルへ変化していく。


私の主張は、十九世紀において、写真の登場以前に、観察者の再編成が行われているというということである。1810年から1840年頃にかけて生じていることは、カメラ・オブスキュラという姿に具象化されている、安定し固定された関係性から、視覚を引き剥がすことである。かりにカメラ・オブスキュラが、概念=認識枠組み(コンセプト)としては、視覚的真理の客観的土台としてそれまで存続していたとするならば、19世紀の初頭に、さまざまな言説や実践 ― 哲学や科学における、そして社会的正常化=規範化(ノーマライゼーション)の数々の方策における ― が、その土台のおおもとを突き崩していったのだ。ある意味では、生じているのは視覚的経験に対する新しい評価の仕方である。そしてその評価は、いかなる土台となる場所や指示対象からも引き離され、抽象化された、それまでには見られなかった可動性と交換可能性というかたちで与えられている。
第三章で私は、ゲーテやショーペンハウアーの著作や、十九世紀初期の心理学、生理学におけるこういった再評価のいくつかの側面を記述している。そこでは感覚や知覚の本性それ自体が、後に写真を始めとした商品や記号のネットワークの特性を示すことになる等価性や中立性といったものを構成する特徴の多くを帯びているのである。主観的な視覚―つまりあらゆる外界の指示対象(リファレント)から切り離された自律的な知覚をも包含するような視覚―についての経験科学的研究の前線に存在するのは、かかる視覚的「ニヒリズム」なのである。だが強調しておかねばならないのは、このあらたなる視覚の自律性や抽象化は、ただ単に十九世紀後半のモダニズム絵画の前提条件であるにとどまらず、それよりはるかに早く登場する視覚の大衆文化の条件でもあるということだ。
第四章で私は、ステレオスコープやフェナキスティスコープのような大衆的な娯楽の形式となった視覚器具が、もともとは観察者及び視覚の生理学的な身分をめぐる経験科学的知から生じてきたさまを論ずる。かくして、通常は無批判に「リアリズム」のカテゴリーに分類されてきた視覚経験のある種の形式は、事実上現代世界を無化してしまうような事実符合性をもたない視覚に関する理論に、じつは結びついているわけである。
十九世紀の視覚経験は、それを真正なもの(オーセンティケイト)とし、自然化しようとするあらゆる試みにもかかわらず、自分は真理を確立しているのだというカメラ・オブスキュラの断固たる権利要求に少しでも似たものを、もはや所有してはいない。表層の水準では、リアリズムをめぐるさまざまの擬制(フィクション)は円滑に作動しているのだが、十九世紀の近代化の諸過程は、そうした「リアリズム」の幻想に依存してはいなかった。流通、コミュニケーション、生産、消費、そして合理化において生じた新しい様態は、いずれも新しい種類の観察者/消費者を必要とし、かつそれをかたち作っていったのである。



クレーリーが「観察者」という言葉に込める含意は以下の様なものになる。


 たいていの辞書は「観察者(observer)」と「観客(spectator)」とのあいだにはほとんど意味論上の違いを設けていないし、日常の用法ではこれら二つの語は実質的に同義語となっている。私が「観察者」という語を選択したのは、主にこの語の語源的なひびきのためである。spectator のラテン語の語根である spectare とは異なり、observe の語根は字義的には「見る(to look at)」ことを意味していない。「観客」はまた、ことに十九世紀の文脈では、私が避けることにしたある特定のコノテーションを含んでいる。それはすなわち、画廊や劇場のようなスペクタクル(spectacle)の現場での受動的な傍観者という含意である。ある意味では私の研究にとってふさわしいことに、[ラテン語の]observare は、―規則、コード、規制、慣例といったものを遵守する(observe)ときのように―「人の行動を何かに従わせること、応ずること」を意味している。観察者とは、たしかに明らかに見る者なのではあるが、さらに重要なことには、彼は予め定められた可能性の集合の枠内で見る者であり、さまざまな約束事や限界のシステムに埋め込まれた存在なのである。十九世紀に固有の―あるいはどんな時代に固有なものでもかまわないが―観察者が存在するということができるとすれば、それは言説、社会、技術、制度といったものの相関関係が織りなす、還元不能なほど異種混濁的なシステムの効果としてでしかありえないだろう。絶え間なく変化していくこの領域に先立って存在する観察主体などありはしないのである。
 私が視覚の歴史という考えを述べてきたとしても、それはあくまで一つの仮説的な可能性としてのことにすぎない。知覚や視覚が実際に変化するのかという問いにはあまり意味がない。なぜならそれらは自律した歴史をもってはいないからだ。変化するのは、知覚がそのなかで生起するような領域を構成している、複数的な力や規則の方なのである。そしていかなる時代においても、視覚を決定しているのは、何らかの深層構造や経済的基礎、あるいは世界観などではなくて、ある単一の社会の表層上に犇く様々な要素の集団的な配置=配列(アセンブレージ)の作用なのである。それどころか、観察者という存在自体を、多くの異なった場所に配置された多様な出来事の分布図のようなものとして考えてみる必要さえあるかもしれない。自存せる目撃者、その人にとって世界が透明な明証性をもったものとして立ち現れるような観察者など、今までいたためしもないし、これからも誕生しないだろう。そのかわりに存在しているのは、諸力の多かれ少なかれ強力な布置なのであり、そのような布置によって、観察者が有するさまざまな能力が可能となるのである。



SFがハードSFからソフトSF(内面)へという歴史をたどったのと同じく、観察-視覚の対象となる場も外界からインナーワールドへと変わっていった。


透明で客観的な視覚-認識という考え方が幻想であることを一部の先端なひとたちはなんとなく知った。そしてそういった感覚とは別のリアリティ、人の内部におけるほんとのリアリティをできるだけそのままに表現しようとしはじめた。ゲーテなんかはその代表例としてあげられる。あるいは象徴主義の詩人たち。


ボードレールにとって万華鏡は、近代そのものと暗合するものだった。「意識を備えた万華鏡」になることが、「普遍的(=万人の)生活を愛する者」の目標だった。彼のテクストのなかでは、万華鏡は、単一的な主観性を解体し、そしてまた―形象=像(イコニシティ)をあらゆる地点で断片化し、安定状態を撹乱することで―新しい、変移していく不安定な配列状態へと、欲望を散乱させるための機械であった。
けれでも、1840年代の時点でのマルクス・エンゲルスの著作においては、万華鏡は全く異なる機能を担っていた。ボードレールをかくも誘惑した万華鏡の複数性は、彼らにとってはニセモノであり、文字通り、鏡を使った詐術の謂であった。万華鏡は、新しいものを生み出すのではなく、ただ単にひとつのイメージを反復するにすぎないのだ。




だからといって全てが幻想・解釈によって覆われているというわけでもなく、そういった人々も現実の生活の中ではリアリズムのフィクションに従わざるを得なくて、生活としては客観―リアリズムのフィクションに並行しつつ、主観-幻想を保っていった。

cf.ボードレール、クールベ





視覚とそれをめぐる認識はメディアや社会的通念によって完全に規定されるというわけでもなくある程度の主観的リアリティー幻想を保ちつつも、基層としてはそのメディアや社会的通念、あるいは共同幻想も含めたものに個々の認識が配置されていった。配置されているだけなので完全に規定されてるわけではないのだけれど影響は受ける。そして、その制約が状況に影響を与えていく。

「規定ではなく配置である。そして配置されることに依って環境的な影響を受けていく」というようなことをクレーリーはいっている。


おそらく、カメラ・オブスキュラを―あるいは、他のどんな視覚装置(アパトゥス)であってもよいが―理解するうえでもっとも主要な障害となるのは、視覚器具と観察者とがそれぞれ別個の実体であり、観察者の自己同一性は、テクノロジーによって生み出された物理的な器械である当の視覚器具からは独立して存在しているのだ、という発想であろう。というのも、カメラ・オブスキュラを構成しているのは、この装置の複数的な身分(アイデンティティー)そのもの、つまり言説の秩序の内部においては認識論的な形象であり、同時に、文化的諸実践の布置の内部ではモノでもあるような、その「混合的」な地位だからである。カメラ・オブスキュラとは、ドゥルーズならば「配置=配列(アセンブレージ)」と呼ぶだろうもの、「器械の配置=配列(アセンブレージ)であると同時に、かつそれと不可分に、言表行為の配置=配列でもある」ようなものなのだ。要するにそれは、言表の対象であり、また使用されるモノでもある。それは言説の編成と物質的な諸実践とが交錯する場所なのである。そうだとするならば、カメラ・オブスキュラは技術が生み出したモノにも言説の対象にも還元することはできない。それは、テクスト的な形象としての存在が機械としての使用と全く不可分であるような、複合的で社会的な混合の様態(アマルガム)だったのである。
 このことが意味しているのは、カメラ・オブスキュラは、影響力を持って流通している歴史研究 ―そういった研究のなかでは、カメラ・オブスキュラは、写真の誕生へと至る系譜のなかで、写真の先行者またはその開始点に位置づけられているのだが― において中心を占めているような技術決定論の進化論的な論理から解放されるべきである、ということだ。再びドゥルーズを引用するならば、「機械は技術的存在である前に社会的存在である」。たしかに、写真には技術的、物質的な基盤があったわけだし、写真機とカメラ・オブスキュラという二つの装置の構造原理が関連性をもっていないわけではないのは明らかだ。だが、ここで私が論じたいのは、カメラ・オブスキュラと写真機(カメラ)とは、[諸勢力の]配置=配列(アセンブレージ)の形状として、実践として、あるいは社会的な事物として、二つの全く異なった編成に ―すなわち、表象や観察者の異なる編成様式、また同時に観察者と可視的なものとのあいだの関係の異なった組織化の様態に― 属している、ということなのである。19世紀の始めごろには、カメラ・オブスキュラはもはや、真理の産出や、忠実に世界を見るように位置づけられた観察者といった概念と同義ではなくなっている。そうしたことを語り続けてきた言表の規則性は突然に終焉しているのである。カメラ・オブスキュラが構成していた[言説と物質的実践の]配置=配列(アセンブレージ)の姿は溶解する。それから写真機が、カメラ・オブスキュラとは似ても似つかぬモノとして登場し、根本的に異なった言表や実践のネットワークのなかに埋め込まれるのである。




配置=配列(アセンブレージ)について。訳注的には以下のように解釈・解説していた。



原文 assemblage。これは『ミル・プラトー』の英訳版において agencement に当てられた訳語である。なお原文中においてクレーリーは arrangement という語をきわめてしばしば用いている。厳密に言えばそれは「配置=配列」であるところの assemblage とは少し含意が異なるのだろう ―おそらく「配置=配列」にフーコー的な「布置(configuration)」のイメージが加味されたようなものなのだろう― が、大体において「布置」というよりもドゥルーズ的な意味が強いと考え、訳では原則としてどちらも「配置=配列」として処理しておいた。








そこで生活していた人たちの、あるいは視覚とそれにもとづいたリアリティに敏感なひとたちの感覚として。表面的には「客観的視覚に基づいたリアリズム」という幻想に従いつつ、それらはあくまで「配置」というほどの制約/自由度をもってモードの変化に対応していった。


カメラ・オブスキュラは客観的視覚という幻想が成立していた時代の代表的視覚装置となった。カメラ・オブスキュラを通じて人々は外界から隔絶された純粋で客観な監視が可能となっていたので。


1500年代末期から、カメラ・オブスキュラの形象は、観察者と世界との関係を設定し、定義づけるうえで、群を抜いた重要性をもつようになっていく。数十年のうちに、カメラ・オブスキュラは数ある視覚器具や光学上の選択肢の一つであることをやめ、視覚を認識し、再現=表象するためになくてはならない場(サイト)となるのである。それは、何よりも、新しい主観性=主体性(サブジェクティヴィティ)のモデル、新たな主体効果のヘゲモニーの誕生を示している。まず第一に、カメラ・オブスキュラは固体化という働きを遂行する。つまり、カメラ・オブスキュラは観察者というものを、必然的に、その暗い閉域の内部にあって他者から切り離され、囲い込まれた、自律的な存在として定義=限定しているのである。この仕組みは、人間と[暗室のなかから見た場合]今や[外部にある]世界との関係を制御し純化するために、一種の禁欲を、すなわち世界からの退隠を、強制する。このようにして、カメラ・オブスキュラは、内部=内面性(インテリオリティ)に対するある種の形而上学と不可分となる。カメラ・オブスキュラは、名目上は「自由」で「自己決定権をもった」観察者を表すと同時に、公的な外部世界から切り離され、いわば擬似家庭的(ドメスティック)な空間に閉じ込められた、私秘化した主体をも表示しうるような形象となるのだ(バークリー僧正その他の人々が、視角表象のことを、あたかも私有財産であるかのように語っていることに、ジャック・ラカンは言及している)。それと同時に、この第一のことと関連して入るが同じくらい重要な暗室(カメラ)の機能は、見るという行為を観察者の肉体としての身体から切り離すこと、視覚を非肉体化することであった。あたかも単子(モナド)のごとき個人の視点は、カメラ・オブスキュラによって真正なものと認証され(オーセンティケイト)、正統性を付与されているのだが、観察者の肉体的、感覚的な経験は、機械的な装置と所与のものとして与えられている客観的真理の世界とのあいだに結ばれる諸関係によって代謝されているのである。ニーチェはこのような思考様式を以下のように要約している。「感覚は人間を欺き、理性が誤りを正す。したがって、とひとは結論を出す、理性こそが不変なるものへの直道なのだ、と。もっとも感覚的でない観念が『本当の世界』に一番近いのだ、と。―大部分の不幸は感覚から来ている―感覚は人間を欺くもの、惑わせるもの、破壊者なのである、と」。

 
カメラ・オブスキュラと、内面化され、非身体化したその主体とについてのイメージが表れている著名なテクストに、ニュートンの『光学』(1704)とロックの『人間悟性論』(1690)がある。彼らが一致して示しているのは、カメラ・オブスキュラが経験的現象の観察のためのモデルであったと同時に、反省的内観や自己省察のモデルであったさまである。ニュートンの全テキストを通じて、彼の帰納法的方法論が展開される中心的な場所はカメラ・オブスキュラである。それは彼の知が可能になるための土台なのである。『光学』の冒頭近くで彼はこのように述べている。
  非常に暗い部屋[=暗室(カメラ・オブスキュラ)]のなかで、窓板に作られた直径三分の一インチの丸い穴のところに、私はガラスのプリズムを置いた。そのプリズムによって、穴から入ってきた太陽光線が上方に反射され、部屋の反対側の壁に向かい、そこで太陽光線の色彩像を生じさせるために、私はそうしたのである。


 一人称代名詞「私」によってニュートンが記述している身体的活動は、彼自身の視覚の働きに言及しているのではなく、むしろ、透明な、屈折作用を利用した再現=表象化(リプレゼンテーション)の手段の使用に言及している。ニュートンは観察者であるというよりも場面全体を組織する者であり、彼自身の肉体はその具体的な働きからは切り離されているようなある装置を、舞台装置よろしくセッティングしているのである。ここで記述されている装置は厳密にはカメラ・オブスキュラとは言えないが(平レンズや針穴のかわりにプリズムが用いられている)、その構造は基本的に同一である。外界の現象の再現=表象化は、暗くされた一室 ―部屋(カメラ)、あるいはロックの言葉で言えば「空っぽな部屋(エンプティ・キャビネット)」― の直線で囲まれた閉域内で生じているのだ。外部の映像が姿を現す二次元平面は、その反対側の壁に開いた開口とある特定の距離をもって対峙しているという関係のもとでのみ存在している。だがこの二つの位置(一つの点と一つの平面)のあいだにあるのは、観察者が曖昧に位置づけられることになる、漠然と広がる空間なのである。遠近法的画面構成 ―こちらの方も、客観的な秩序を与えられた表象を描き出すことを大胆にも主張していた― とはちがって、イメージが己れの十全な凝集性と一貫性とを顕わにするような限定された場(あるいは領域)を、カメラ・オブスキュラは強制しはしなかった。観察者は、一方ではこの仕組みの働きそのものからは切り離され、機械的・超越的なかたちで世界の客観性を再-現した像に対する、非身体化された目撃者として存在している。しかし他方では、暗室のなかに彼または彼女が居るということは、人間の主観性=主体性(サブジェクティヴィティ)と客観的=客体的(オブジェクティヴ)な装置との時間的および学問的な同時存在性を意味してもいる。かくして[カメラ・オブスキュラのなかにいる]観客は、[遠近法絵画を眺めるときと比較すれば]再現=表象化の仕掛けからより独立した、周縁的で補足的な存在として、暗闇のなかにあって自由に浮遊する存在となるのである。フーコーがヴェラスケスの[侍女たち]の分析のなかで論証したように、それは、同時に主体でありかつ客体である者としては自己を表象することができないような主体の問題なのだ。カメラ・オブスキュラは観察者が自分の位置を表象の一部に繰り込まれたものとして見ることを、アプリオリに妨げる。そうだとすれば、身体は、理性の空間を打ち立てるために幻像めいた存在へと周縁化してしまわないことには、カメラ・オブスキュラにとっては解決不能な問題であったということになろう。ある意味では、カメラ・オブスキュラは、エドムント・フッサールが17世紀における哲学上の大問題として定義したものに対する危うげな解決策を形象化=比喩化したものなのである ―すなわち、「主観のなかに己れの究極的な基礎付けを模索した哲学的思考が……客観的に『真実』でありかつ形而上学的に超越論的な妥当性をいかにして主張しうるか」というジレンマ。




こういった客観的視覚-認識という幻想に対して、ゲーテは様々な経験-感覚、実践を通じて異を唱えていった。たとえば生理学的な変化、人間身体がもつ不安定な生理機能と時間性という新たな装置がそれに当たる。われわれの視覚は疲労とともに変化するということ。視覚は完全に客観で中立的で、いつでも同じというわけではないということ。


ゲーテが『色彩論』を刊行する七年前に、メーヌ・ド・ビランは、われわれの色彩の知覚が(時間の経過のなかで生じる生理的変調により)疲労へと向かう身体の傾性によってどれほど決定されているかということ、また、疲労してくる、というその過程自体が、じつは知覚に他ならないことを論じていた。

 眼をある単一の色のうえに一定時間固定するとき、眼が疲労してくるのに応じて、その色と他の何種類かの色とが混合した様態が生じてくる。そしてさらに時間がたつと、もとの色彩は、もはやこの新しい色彩には含まれなくなるだろう。

ゲーテ、メーヌ・ド・ビランの両者にとって、ニュートン理論が色彩に与えていた絶対的価値は、人間主体の内部で移りかわっていく色彩の展開過程に取って代わられるのである。




ヘルムホルツ「光学」では光の感覚を生み出すことのできる媒体列挙されている


1.眼に対する振る舞いから「光」と呼ばれている波動現象や放射現象(もっとも光の波動や放射の作用はこれ以外にも数多くある。例えばそれらは化学反応に影響をおよぼしたり、植物の生態過程を維持する手段であったりする)。

2.物理的影響。[脳]震盪や殴打を被った場合など。

3.電気。

4.麻酔薬、ジギタリスのような化学薬品。こういった薬品は血液に吸収されると、外的原因がまったくないのに閃光等々を眼前に生じさせる。

5.鬱血状態にある血液を刺激した場合。

(『人間生理学教本』、英訳1064頁)






ゲーテの「色彩論」では錯覚-生理学的視覚変化について網膜残像が扱われたが、それらをより詳細に記録していったのがプルキニェの残像研究だった。

http://twitter.com/m_um_u/status/583634668131524609



目にうつる外界の色は一定不変ではなく時間とともに目に残った残像の色は変わっていく。



ゲーテが『色彩論』のなかで記述している現象の大部分は、時間の経過とともに展開するという要素を内包している。「周縁部は青くなりはじめ……その青が次第に内側に侵食していく……そしてイメージは次第に薄くなっていく」。視覚[情報の]伝達(それが[身体の]内側への伝達であれ、外に向かうそれであれ)の事実上の即時性は、アリストテレスからロックに至る古典的光学や知覚理論の、疑われたことのない基礎だった。そしてカメラ・オブスキュラが生み出す映像とその外部対象との同時性もまた、疑問に付されたことはなかった。けれども19世紀の初頭に、観察行為がますます身体に結びつけられるようになると、時間性と視覚とは不可分になるのである。時間のなかで経験される観察者自身の主観性の変容過程は、「見る」という行為と同義になり、対象に完全に集中する観察者というデカルト的理想を解体していく。




残像現象、その中でも運動錯覚を利用した視覚器具は大衆的娯楽道具となっていった。ソーマトロープやフェナキスティスコープなどなど。


200年前のアニメーション(フェナキストスコープ)の世界へようこそ。 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2142002622726878901


あらたな視覚装置は大衆の娯楽として消費されていったがそのことが時代のモードを決定していったとするような技術決定論は拙速となる。このような視覚装置は大衆の娯楽であるのと平行して観察者が、視覚という現象を捉えるための装置としての側面も持っていた。たとえばフェナキスティスコープが観察者に要求した物理的ポジション自体が3つのモードの混濁を物語っている。


すなわち観客であり、経験科学的な探求と観察の主題(サブジェクト)であり、かつまた[身体-機械接合系をかたちづくる]機械生産の一要素であるような個人身体である。この地点において、フーコーによる見世物(スペクタクル)と監視の二項対立は維持できなくなる。彼が立てた、独立した二つの[視線の]モデルはここでお互いに重なり合ってしまうのである。19世紀における観察者の産出は、規律と制御の新たなる方策の成立と一致していた。右で述べた三つのモードのそれぞれにおいて、それは、回転し、規則正しく動く歯車や車輪からなる機械の配置=配列(アセンブレージ)と組み合わされる。またそうした機械を動かすような身体の問題であったのだ。生産の場での時間と運動の合理的組織化を生み出した社会的要請が、同時にまた、社会活動の多様な領域へと浸透していった。かかる領域の多くを支配していたのが、眼の能力に関する知への欲求、そうした体の組織編成の必要性だったのである。






少し前にあるドレスが青に見えるか茶色に見えるかといったことが話題になったけど、これもゲーテの色彩論、生理的色彩に関連するものといえるだろう。

とりとめもなく/とりとめなくもなく|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/neffc0f67ec12

人の思いは色々と|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n75e129e08834


ステレオスコープよりもメガネのほうが|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ncb434743ecd8



大衆にとっては錯覚などといった現象は珍奇なものとして娯楽の対象となっていったが、科学者にとってそれは探求・追求し、理論-実験-実証すべき対象となっていった。様々の視覚装置、そのうちのひとつとしてのステレオスコープもこのような背景から誕生した。

 ステレオスコープはまた、空間知覚をめぐる19世紀の論争 ―この論争は延々と、解決を見ることなく続くことになるのだが― からも切り離せない。空間は先天的形式なのか、それとも生まれてから、さまざまな手がかりを学ぶことで認識されていくものなのだろうか?18世紀におけるあのモリヌー問題は、19世紀になると、全く異なった解決策を求めて転位するのである。だが、19世紀を悩ませた問題は、それ以前には実質的には全く中心的な難問とはされていなかったものだ。両眼の不同位(ディスバリティー)、すなわち各々の眼が少しづつ異なる映像(イメージ)を見ているという自明の事実は、はるか古代からよく知られた現象だった。しかし、1830年代に入って初めて、ものを見る身体を両眼(ピノキュラー)的存在として定義すること、左右の眼の視軸の角度の微小な差異を測定し、不同性の生理学的基礎を特定することが、科学者にとて決定的重要性をもつものとなったのである。研究たちの頭を占めていたこのは以下の問題だった。観察者が各々の眼で異なった映像を知覚しているとするならば、二つの映像はいかにして一つの映像、あるいは統一像として経験されているのだろうか?1800年以前には、この問題が口にされたとしても、どちらかといえば興味半分にであり、中心的な大問題では全くなかった。何世紀ものあいだ、二つの説明の選択肢が与えられてきた。一つの説明は、我々はひと時に一つの眼でしかものを見ていないのだ、という答え方をした。もう一つの説明はケプラーが編み出した投影(プロジェクション)理論に基づくものであり、これは1750年代という遅い年代に提出されている。この理論は、各々の眼は自分が見ている対象[の映像]を、それが置かれている実際の場所に投影しているのだ、と主張した。だが19世紀になると、視覚野の統一の問題はそれほど簡単には確定できなくなっていった。
 1820年代の末期までには、生理学者たちは視神経交叉構造 ―網膜から脳へと伸びていく神経束が両眼の背後でお互いに交差し、左右それぞれの網膜から出ていく神経のそれぞれ半分を、左右の脳につなげていく点 ―にその解剖学的な証拠を求めるようになっていた。けれども、その当時は、かかる生理学的証拠は、未だ決定的な結論を導くものではなかった。1833年にホィートストーンが出した一連の結論は、両眼視差(パララックス) ―左右の眼が同一点に焦点を合わせたとき、視軸のずれが作る角度― の測定に成功したことから得られたものだ。人間の有機組織は、大部分の状況下で、網膜の不同性を単一の統一的映像へと綜合する能力を有している、と彼は主張した。現在のわれわれの観点からすれば、これは当り前の主張のように見えるが、ホィートストーンの著作は、両眼をそなえた身体に関するそれ以前の説明(あるいはしばしば、問題そのものの無視)からの、決定的な切断を徴づけるものなのだ。
 ステレオスコープの形態は、ホィートストーンが初めに発見したいくつかの事例と関連している。彼の研究は眼に比較的近い距離に置かれた物体を見る経験に関するものだった。


  ある物体を両眼で見るとき、両方の眼の視軸がほぼ平行になるほど遠い距離にそれが置かれている場合、各々の眼に映るその物体の遠近法的投影像も、二つの眼を用いて見たときに見える姿も、一方だけの眼で見える物体と同じである。
  
 その代わりにホィートストーンが熱中していたのは、左右の視軸が異なった角度を形成するほど、観察者の近くにある物体である。
  視軸が重ならなければ見ることができないほどその物体が眼の近くに置かれているときには……左右それぞれの眼には違った遠近法的投影像が見えている。そして左右の眼に映る遠近法的眺望は、視軸の重なりの角度が大きくなればなるほど、お互いに相違したものとなる
 
 かくして、物理的な距離の近接性によって両眼視は、不同性を調整し、二つの独立した眺めを一つのものに見えるようにする操作として働くことになる。このことこそ、ステレオスコープと、フェナキストスコープのごとき1830年代のその他の視覚器具とを結びつけるつけるものなのだ。




ホィートストーンがステレオスコープで表そうとしたのは物体が近くにある時の錯覚を確認し理論化しようとしたためだった。

 
ステレオスコープを制作するに際してホィートストーンが目指したのは、物理的な対象や場面の具体的な現前を模倣することであって、版画や絵画のための新手の展示方法を発見することではなかった。絵画は遠い距離にある物体のイメージを描くことのみに適した表象形式だった、と彼は論じる。風景画が鑑賞者に提示されるとき、「[現実と表象とのあいだの]錯視をさまたげるような状況がとり除かれているならば」、われわれは風景の表象を現実ととりちがえることもありうるだろう。それにひきかえ、近傍にある対象に関しては、どんな芸術家も、一つとして忠実に再現=表象(リプレゼント)することができないでいる、と彼は断言する。
 
  絵画と物体とを両目で見るとき、絵画の場合は二つの似たような対象像が網膜上に映し出されるが、具体的な形を有した物体の場合には左右の目に映る像は異なっている。それゆえこの二つの場合において、感覚器官が受ける印象には本質的な差異があり、したがって精神の中で形成される知覚像にも違いがある。そのために絵画は具体的な物体と混同されることはありえない。
 
 つまり彼が追求しているのはステレオスコープが生み出す映像と物体との完全な等価性である、ということになる。ステレオスコープの発明は絵画の血管を克服するだけではない。それは ―ホィートストーンはわざわざ特に名指しているのだが― ジオラマの欠陥をも乗り越えるだろう。



ステレオスコープの世界では従来の決まりは失われ立体が平面になる(ステレオスコープ映像の本質的組織構造は多層平面的なところにある。そういうのは逆遠近法的視角、古来の日本画の手法、あるいはそれらを意識した現代画家の手法を想わせる(cf.cf.束芋、山口晃)。




視覚はそれ自体中立で客観不動なものではなく外部や内部のさまざまの与件の影響を受ける。内部の影響としては物理的刺激によって目に映る像や色は異なってくるし、電気刺激に依っても異なってくる。それらを科学的に措定すれば、たとえば「異常」とされる色覚の人たちも「正常」な色覚をもつことができるようになる。


色覚異常を改善するメガネが誕生!生まれて初めて“色”を見た人々の反応が感動的 - IRORIO(イロリオ)
http://irorio.jp/daikohkai/20150327/216702/



電極で刺激して視覚が変化するならば、同様に電極によって脳内に外部の像を現象させることはできないのだろうか。これならばたとえば先天的・後天的に目が見えなくても「見る」ことができるのではないか…。そういったことも想わせる。






ゲージツ家はそういった従来の通念-視覚に違和感を感じてエッジにはみ出し、それを表現できることの出来る人々でもある。その意味で「観察者」であり実践者とも言える。


ターナーの晩年の作品ほどカメラ・オブスキュラの視角モデルの決定的失効をあらわしているものはない。いかなる継承の線分をももたず、突然変異的に生まれてきたようにみえる。1830年代後期から1840年代にかけての彼の絵画は、固定光源や光円錐がもはや後戻りのきかないかたちで失われ、消失してしまっていること、そしてまた観察者を視覚経験の現場(サイト)から分かつ距離が崩壊したことを告知しているのである。


ターナーは太陽を描こうとしていたようだった。あるいは見えることのすべてとしての光を。


 ターナーによって告知されている観察者の新しい位置は、おそらくターナーと太陽の有名な関係によって、もっともうまく論じることができよう。古典力学によって記述された太陽の像が、熱、時間、死やエントロピーといった新しい概念に取って代わられたのと同様に、カメラ・オブスキュラが前提としていた太陽(すなわち人間の眼に対して間接的にしか再現=表象(リプレゼント)されえないような太陽である)は、19世紀に誕生した芸術家=観察者の形象が占める位置によって変容をこうむるのである。かつて観察者を太陽の危険な光輝から遠ざけ、保護していたあらゆる媒介物を、ターナーはかなぐり捨ててしまう。ケプラーやニュートンといった[古典主義の]偉人たちは、太陽や太陽光線に関する知を獲得しようとするさいに太陽を直接見ることを避けるというまさにその目的のために、カメラ・オブスキュラを用いた。すでに論じたように、デカルトの『屈折光学』のなかでは、カメラ・オブスキュラという形態は[太陽を直視することで生じる]幻惑の狂気と非理性から身を守るためのものだったのだ。
 ところが、太陽に直面し、それを直視するというターナーの振る舞いは、カメラ・オブスキュラが保証しようとしていた表象の可能性そのものを溶解させてしまうのである。網膜上で生じる視覚課程を作品の中心に据えたことによって、太陽[光線]に対するターナーの熱中は[幻視者(ヴィジョナリー)]のそれとなっている。そして、カメラ・オブスキュラがまさに否認し抑圧していたのは、視覚を具体的身体へとこのようなかたちで受肉させることなのである。後期の偉大な作品の一つである、1843年の『光と色彩(ゲーテの理論) ―洪水のあとの朝』では、かつての表象モデルの崩壊が完全なかたちで成し遂げられている。それ以前のターナーの絵画イメージのあれほど多くを支配していた太陽の光景は、この絵において今や眼と太陽との融合像となる。一方でそれは、ただただ眼を潰さんばかりの、それまで人間が目にしたことのないような発光体の、ありえないイメージとして現出しいるが、他方でまた、全てを飲み込んでしまうその光輝の[網膜]残像に似てもいるのである。この絵や同時期の他の作品における円形構造が太陽の形を模しているのだとしても、それは同時に、残像の時間的体験がそのうえで展開する眼の瞳孔や網膜野にも符合している。残像を通じて太陽[光線]は身体に帰属させられる。そして事実上、身体こそが、そうした効果を算出する源泉として、太陽を引き継ぐのである。ターナーの太陽が自画像であるといいうるのは、おそらくこの意味においてである。

 

アートまとめんblog : 『光と色彩(ゲーテの理論)−洪水の後の朝』 ターナー
http://blog.livedoor.jp/art_matomen/archives/1023343238.html



なぜ観察者たちはそんなにも太陽を注視したのか?太陽に飛び込むイカロスのように



本書のなかですでに言及の対象となった三人の科学者たち、デヴィッド・ブルースター卿、ジョセフ・プラトー、グスタフ・フェヒナーは、いずれも網膜残像の研究の過程で太陽を直視しすぎることにより、視力をひどく損ねている。フェナキスティスコープの発明者であるプラトーなどは、永久に視力を失ったほどである。科学者としての彼らの直接的な目的はターナーのそれとは明らかに異なっていたが、より深い水準においては、彼らのなしたこともまた、身体の「幻視的(ヴィジョナリー)」諸能力の発見という共通の主題であり、これらの科学研究にともなっていた異様な強度と興奮に留意しなければ、こうした研究の意義を見逃すことになってしまう。[身体の[幻視的]諸能力をめぐる]こうした科学研究にしばしば随伴していたのは、太陽を直視する体験、あるいは太陽光線によって身体に焼き印を押され、身体[作用]の壊乱のただなかで白熱色の光の洪水を触知させられるという体験だったのである。明らかにこれらの科学者たちは、視覚の身体性を痛切に認識するに至っていた。




視覚-感覚の完全な定量化。そのために科学者たちは偏執的に光の変化を測定しようとした。



ターナー:太陽のなかに立つ天使
http://bit.ly/1Gl9Wts

http://bit.ly/1Gl9XgN


フェヒナーの宣言

かくしてわれわれは、われわれ自身の眼を、地上における太陽の被造物とみなすことができるかもしれない ―太陽光線のなかに住まい、それによって滋養を与えられている存在、それゆえ太陽に住むその同胞と構造的に似通った存在として……だが太陽に住むその存在とは―私が天使と呼ぶ、より高度な存在だが―自律した眼である、つまり、内的に最高度に発達しながら、にもかかわらず眼としての理想的構造を保っているような眼なのである。光が彼らの生息する領分なのだ―ちょうどわれわれにとって、空気がそうであるように。







けっきょく本書の主張、ポイントとはどのようなものだったか?



 
本書でわたしが試みてきたのは、1840年代までに生じた視覚の布置の変動が、どれほど根底的なものであったかを示唆することであった。視覚と近代との相関関係を問題にするのであれば、1870年代や80年代のモダニズム絵画などではなく、なによりもまず、こうしたより以前の時代を調べてみなければならない。あらたなる観察者はこの時期に誕生したのであり、しかもこの観察者は絵画や版画に描かれた人物形象とはちがった存在なのである。われわれは、観察者というものはつねに可視的な痕跡を残す、つまり画像(イメージ)との関係において認定可能である、という前提をとるような思考の訓練を受けている。しかし本書で問題としたのは、そうしたものとはちがう、実践と言説のより曖昧な境界領域(グレイ・ゾーン)のなかに立ち現れてくる同種の観察者なのであって、20世紀のイメージ産業とスペクタクルの総体こそが、この観察者が残した莫大な遺産なのである。視覚においてかつては中立的で不可視の相関項にすぎなかった身体は、今やそこから観察者に関する知が得られるような、ある厚みとなる。視覚のこの触知可能な不透明性、この身体的濃度はあまりにも突然に視界に浮かび上がってきたのであり、それがもたらす帰結や効果の総体をただちに見通すことはできない。ただしかし、ひとたび視覚が観察者の主体性=主観性(サブジェクティヴィティー)のなかに位置づけ直されるやいなや、相互に絡み合った二つの道筋が開かれたのである。一つの道は、モダニズムその他の領域において見出されるものであり、新たに力を与えられた(エンパワード)身体から引き出されてくる視覚の至高性(サブレンティー)と自律性とを、さまざまなやり方で肯定するという営みへと至ることになる。もう一つの道の方は、観察者を規格化(スタンダイゼーション)し制御していく過程(それはもともとは視覚的=幻視的身体をめぐる知をもとにして生まれてきたものだ)、すなわち視覚の抽象化と形式化とに依拠した権力の諸形態の、さらなる進行へと通ずるものだった。われわれにとって重要なのは、同じ一つの社会の領野の平面上にあって、多様な具体的視覚行為が生起する数限りない局所的実践のただなかを、この二つの道が、いまだに交錯し、ときには重なり合いながら現在をも貫いている、その様態なのである。

 
 

布置を解釈なしに描写すること。結果としてよりリアリズムを重んじる方向(フェヒナー)とそれがゆえの幻想を重んじる方向(ターナー)が生まれた。こういった二叉の理論のあり方はそのまま象徴主義の時代へと通じて行ったように想う。あるいは視覚、表象芸術においても。リアリズムの追求を守りつつ、それと並行してロマンティシズム、幻想を載せていく・表現していくという方向へ。













--

ところで絵を描く時、本当に眼差が対象に迫るのだろうか。おそらく嘘だろう。もし心眼で対象に迫ろうとする画家がいるとしたら、彼は分裂病者に違いない。少なくとも画家や彫刻家においては、見ることはもっと違った出来事と言わなければならない。通常の見ることの中に起こる自己分裂は、制作を契機に、見事に二つに分離される。対象を見る眼と絵画を見る眼とに。画家は、ただ見ているのではなく、描きながら、つまり描かれる絵画を見る一方、また対象をも見るのだ。この時対象と出会う眼差は、ほとんどイマジネーションなしの、いわば生理的なそれに近い。そしてこの実眼が見たものが媒介的な喚起力となって、イマジネーションの心眼を刺激する。

(李禹煥、「余白の芸術」)






見る/見られる/見る/見られる/見る/見られる/見る/見られる/見る……|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n50de8b10e49b


body(視る/視られる/削る)- camera-camera|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/naf1fbc40d0ba


フロム・ザ・バレル|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n87bbf28f367c







ターナー展へ行ってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/377110397.html

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2015年04月11日

李禹煥、2000、「余白の芸術」



余白の芸術 -
余白の芸術 -



どういう経緯だったかわすれたけどついった経由で李禹煥ともの派について教えられてウィキペディアを見たら自分の趣味・嗜好と似てる方向性だったので興味を持って、いちお読んでみたら思ったより良かった。


李禹煥 - Wikipedia http://bit.ly/1HcCl5F

もの派 - Wikipedia http://bit.ly/1HcCplV


といっても400頁あるなかで自分が「良い」と思えた文は150頁ぐらいだし、それぞれの頁はけっこうな余白で構成されてるあーてすとエッセイ本的な趣きは否めないのだけど。その辺のことについてはあとがきで著者も「展覧会のカタログ用などに書いていた文章などを集めたものだから」とエクスキューズ?していた。

それでもアートについて、特に抽象作品について思考するときの見方/スコープ/視角(パース)として参考になった。特に体系的でもないのだけど現代アートにおける抽象作品の文脈、有名ドコロのリスト、各作品の見どころみたいなものが参考になる。


全体は「余白の芸術」「さまざまな作家」「芸術の領分」「新しい表現の場のために」「ものと言葉について」という章立てて区切られていて、「余白の芸術」「芸術の領分」が読み応えがあった。「余白の芸術」は李禹煥自身の作品に対する考え方、どういったことを気にして作品を構成しているかについて。「芸術の領分」は抽象作品の文脈から絵画や彫刻、いけばななどについて。「ものと言葉について」ではもの派について触れているけどここはそんなにボリュームなかった(芸術の領分で触れていることの繰り返し的な感じもあった)。「新しい表現の場のために」では日米韓の現代アートについて触れ「なんか、いまの現代アートは停滞してるなあ。。」て感じ。「(近代という同一性の圧のなかで既成のものができあがってしまった環境にある)哲学・現代アートは基本的に繰り返し、ずらし(差延)、組み換えで構成されてるけど、そういうのもマンネリになるのでたまには青空でも眺めたらどうか?(そのほうがより既成の価値観から離れたものが見えてくるかもだし)」てとこ。こういうのはデリダとかドゥルーズとかも読み漁ってきた(あるいはそれらを受けたニューアカ的芸術批評の)影響ぽい。


「さまざまな作家」で紹介されていたリストはネットにも載ってたので参照



八木山人「木蓮の図」

セザンヌ「サントビィクトワール」

マチス「ダンス」※絵を時用に見る事の難しさ

モンドリアン「一本の木を見る試み」「ニューヨークシリーズ」 (1)外界との素朴なかかわり(2)外界の一部を対象として捉える(3)その対象物を構成概念とダブらせながら整理(4)そして構成概念だけの展開図となる絵画

ゲルハルト・リヒター 一度写真を媒介とさせ再び描く→外界との対話?

ダニエル・ビュレン ストライプの作家 覆う:全体主義 部分に限定:外部性の活性化を呼び起こす非同一性

ペノーネ

アニシ・カプア

F・ステラ ××

若林奮

高松次郎

ウルリヒ・リュックリエム

白南準ナム・ジュン・パイク

ヨーゼフ・ボイス

谷川雁

古井由吉

中上健次
http://yamamotoman.tumblr.com/post/14339774452


自分的にはリヒターが特にピンポイントでそのうち展覧会あったら行きたいし、iPhoneつかってリヒターごっことかできないものかと思う。


ゲルハルト・リヒター - Wikipedia http://bit.ly/1HcCbv8


ペノーネと高松次郎も。




リヒターのそれは「観察者の系譜」で表されていた近代的視覚の擬制とそれを超える感覚-認識-問題意識を写真-絵画としてアートしたものといえる。このへんは書くと長くなるし、そのうち観察者の系譜のエントリで説明するだろうからいまはしない。たんぶらーなんかでもこういう作風はちょこちょこクリップしていたように思う。知らないうちにリヒターを通っていたのか。

近代的な視覚、あるいは認識の超越はそのまま李禹煥ともの派の課題であり、それについて書かれていたエッセイ周辺がおもしろかった。まあこれもそのうちエントリする。


李禹煥が語る作家リスト/リヒター/Coccoのこと|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n201430d197cb


ニューロマンサー - 攻殻機動隊 / 松浦寿輝 - リバーズエッジ - 松本次郎て感じ。


Gerhard Richter / ゲルハルト・リヒター 作品まとめ - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2134890993549241601

richter / niji-mu gen-jitsu|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nb087e4cd040b





李禹煥語るところの抽象アートの文脈とは


 二十世紀中盤まで猛威を振るった植民地主義帝国主義のように、そこでは特定概念の拡大と増殖が価値であり、従って世界と自我との同一性が真理だった。これがヴァルター・ベンヤミンが言う再現性の秘密であり、複製技術時代の芸術の原理である。ここではアウラ(唯一性)的本質が存在しない。同一性通念が再生産されるためだ。六十年代、リヒテンシュタインの漫画拡大やウォホールの増殖されたモナリザ絵が抽象的に見える理由もそこにある。近来の絵画の多くが具象的様相を帯びたものであっても、底に近代主義による抽象性の作用を見抜かなければならない。
 概念の拡大性と増殖を、もっとしっかり様式化する方向を主張した批評家がゲリンバーグである。彼はマルクス主義から遠ざかりながらカントを自己流に導入して、物語性やイデオロギーを排撃し、絵画を透明性、明証性の形式として、言い換えれば純粋な平面条件として成立させようとした。バーネット・ニューマンの分割された画面とか、フランク・ステラの同一パターンの反復のように、偶然性や不透明性を排除して、徹底的に概念の形式化を全面化すべきとのことである。
 これらの傾向の作品をミニマル・アートと呼ぶ。ドナルド・ジャッドの言い方を借りれば、それ以外のなにものでもない。極限的にして最低限のものが作品なのだ。こうしてフォマリストになった芸術家は、自我形式の極北にまで進んだ。
 ところで、ここで面白いパラドックス現象を見ることになった。従来の世界が同一性の幻想に覆われていたように、作品においても意味と支持体が一体となっていたが、フォマリズムの極地において、意味と支持体が分離する状態があらわれたのである。画家が表明する意味は宙に浮き、かつてそれによって覆われていたものは、ジャッドの指摘のように、物体でも概念でもない。名づけ難い何かとしてそこに在ることになったのだ。支持体が材料性から抜け出した。
 明確な存在であり極限的な形態にありながら、しかも何も意味することが出来ない、無名性と非概念性の貧しくニュートラルな裸の対象―。ミラン・クンデラの小説題目に似た「存在の耐え難い軽さ」で、そこに在るということ。そうしてみると、作品を作品たらしめる要因が、暗黙のうちに展覧会の制度性とか一定の場所性に拠りかかっていることが解る。ラウシェンバーグの何も描いていないカンバスの展示、エスワズ・ケリーの単純な彩色パネルと周辺空間など、それらに視線を向けられるのも、そのためと言っていい。
 アドルノの言うように、世界の同一性幻想は壊れた。ジョセフ・コスズは、「一つと三つのChair」という作品で、辞典にあるその意味の解釈を複写したパネルとChairの写真とChairの実物を一緒に陳列することによって、それらの差異性を見せている。また別な多くの作家たちは、彫刻や絵画として凝り固まっていたものを、世界からまたは壁から引き降ろしながら解きほぐし、画廊とか美術館に撒き散らす解体作業―意味のメッキを剥ぎ取るインスタレーションを繰り広げたのである。
 地球が狭くなり、複合性による、複雑で多様な社会になるほどに、人間の表現方法は単純で相互的な行為性と、メカニックで客観的な記号性によって抽象化様式化、コード化されてゆく。もはやこれは日常的なリアリズムと言っていい。抽象概念は、対象のデフォルメから離れて久しく、カンディンスキーが提示した自我原理的な「点・線・画」からも遠くなり、すでにそれは現実そのものであり、思考と行動の社会的規範なのだ。抽象の到達点であるミニマルアートに見られたように、物質でも観念でもないものが材料性を越えて、極限的な単位のままで、作品の構成員として一般性を帯びることになった。
 現代美術において、近代的な材料と現代的な要素は同居しがちである。今や材料ではなく構成員としてのように、同じ対象であってもそれに接する画家の態度と方法によってまるで違う次元のものになり得る。フォマリズムやコンセプチュアリズムで読み取れた物質と概念の分離、差異性からくる空白、最低限のパターン、匿名的なニュートラルな構造などは、自己限定と外部喚起のための活性的要素として甦った。
 ピエト・モンドリアンの都市と画面との照応、モリス・ルイスの色彩と空白、マルタン・バーレの色面とフィルド、アントニオ・タピエスの記号と物質、ルチオ・フォンタナの行為と空間、サイ・トゥオンブリの落書きと空白、ゲルハルト・リヒターの外界と内部の対話によるブレとズレ、ダニエル・ビュレンのニュートラルなパターンの設置と外界との接合、榎倉康二の支持体と浸透、伊享根の設定と放置、そして私の絵における描いたものと描かざる部分との相互作用による余白などは、表現の限界と外界の連携を試みる新しい抽象画と捉えることが出来る。ここでは表現と非表現の同居、あるいは外部性の受容と対応が重要イッシュである。それゆえ画面がミニマル・アートとは違い、簡潔でありながら非確定的であり、関係項としての未知性が息づいていると思われる。画面が、端的な自立性よりは横的な連帯性と、規定されざる無規定性を抱えるだけあって、これによる超越性の議論も可能である。


いきなり植民地的帝国主義とか言われてもわかりにくいだろうけど、こういった視点は近代における「まなざし」とそれをめぐる権力という文脈を背景とする。すなわちフーコー的な「近代国家が成立するにあたって『正しい』『当然の』ものが規定・確立されていき、それに合わないものが『その他』として除外・排除・異常されるようになった。そして、そういった規律・規格は排除されてない近代人にも内面化され当然のものとなっていった」という問題意識。「まなざし」は隠喩にとどまらずそのまま視覚にも影響していく。代表的には遠近法の擬制の問題。

 ルネッサンス以後の遠近法の発達で解るように、意志的な視覚主義は、客観性と科学性を標榜した脳中心思想から来たものである。それを合理的に図式化した人がデカルトであり、彼において、見るということは、エゴーによる視覚の規定力を指している。
 ところで実は、広い世界を前にしたごく限られた眼は、逆遠近法的に開いている。自分の目の前のものより遠いところをもっと広く思い、そのように見るということは誰でも知っており経験していることだ。もちろん具体的な対象世界において、近くのものが大きく見え、ずっと遠いものは小さく見えるということが科学的であることは明らかだが、眼の限定性から来る感じ(思い)が、その反対であることもまた否定できない。最近では、古代社会の絵画や中世のイコン、または東洋の山水画などの分析から、逆遠近法の考え方が再照明されていることも注目に値する。むしろ近代の遠近法というものが、人類文化史の中では特異な時代の産物であるという者さえいる。
 今日、視覚と言う時、こちらからあちらを一方的に捉え定めることを言う。対象物自体とか世界が重要なのではなく、見る主体の意識と知識による規定力が決定的であるということだ。ここでは見ることが、設定された素材やデータで組み立てたテクストと向き合う態度である。
 これに対し逆遠近法では、反対に、向こうからこちらを見ている形であるため、世界の側が圧倒的に大きく扱われる。それゆえ見る者の対象物に対する限定力は、曖昧で弱くなるしかない。このような視覚は、受動性が強く、偶然性や非規定的な要素の作用が著しくなりがちだろう。
 ここで私は、受動性と能動性を兼ね合わせた身体的な視覚を重要視したい。人間は意識的な存在であると同時に、身体的な存在でもある点を再確認すれば、どちらにしても見るということが一方的であってはなるまい。身体は私に属していると同時に、外界とも連なっている両義的な媒介項である。だから身体を通してみるということは、見ると同時に見られることであり、見られると同時に見ることなのだ。対象物や世界は私の理性の反映ではなしに、それは外界性を持った未知的なものであるという立場と言っていい、見ることは、データ化されたテクストを読むことではなく、他社との出会いによる相互作用であるということになろう。
 美術は視覚と不可分の領域である。
 ところで身体的な視覚の軽視や無視による近代自我中心の視覚主義は、必然的に作品の同一性と概念化を招く。そしてついに作品は、世界との関係的な存在性が否定されて、言語学や哲学の説明体に成り下がり、アイディアや概念の確認以外、なんら視覚の力を呼び起こさないものとなる。従ってそこでは、作品が感性的であったり曖昧で不透明である時、それは軽蔑の対象であるしかない。
 もはや作品が理性と世界の同一性を表す対象である時代は過ぎた。外部性を否定する、排除と差別下の、自己の内面の再現化で世界を覆い被す帝国主義的な視覚は、解体されなければならない。私と外界が相互関係によって世界する、という立場からすれば、作品もまた差異性と非同一性の一種の関係項である。



こういった視角は「李禹煥も観察者の系譜読んだのかな?」と思わせる。けど、たぶん美術史的にけっこうふつう・共通な視角なのだろう。

加えて言えばこういった客観性・客観的にも絶対的にうつくしいもの・絶景などといった視角は対象との対話を不在とした一種のナルシシズムを帯びる。

一種のナルシシズムだ。自分のなかに描いたものを際限なく眼前に引き写してみたいという。これが欲望の正体であり、再生産の意味であろう。そういう点で、近代資本主義の表現方法は、自閉的なナルシシズムの過剰なメカニズムなのかもしれない



彼らのリアリティは「事件性」のマトリックスに回収される|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n679b4b119068

なのでこの時期の桜写真の、あるいはおいしいもの写真やかわいいもの写真の氾濫などは見ていて一種ナルシスティックなものとなる。mixiやfbにおけるヨカッタ自慢のように。それは他者への欲望の表出であると同時に自身に向けられる欲望を別の形で対象化したものとも言える。


李禹煥の、あるいは同じ位相にいるアーティストにとって創作物はそういったナルシシズム、主意/恣意性を排し、世界や見る者に対して開かれたテクストとして成される。


内藤礼「恩寵」を見て|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n49de4d1fbcf1


それは(ナルシスティックなポエムとは異なる)詩となって社会的既成に凝り固まった視角/認識/感性を開放する。


鉄や石、あるいは花といった素材はそういった視点から選ばれ、最小限の導きによって閉じられたイデアを開放する。



枯れるということ /石-鉄-刀|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n7266fe44406e






全体的に、自分としてはエポック的なものでもなく、自分のなかにある数寄とか趣味・嗜好の先行きを具体(リスト)してくれた、あるいは別の方向で見せてくれた本となり有りがたかった。

ただ、ヽ(´ー`)ノマンセーてわけでもないのはどうも李禹煥の現代思想に対する理解がびみょーな感じがするから。たとえばベンヤミンのアウラ/複製技術に対する理解は既成のものに囚われていていまいちだったりする。

それを差し引いても読んで刺激されるものであったし、全体としてゲージツに対する詩として見ればすこぶるチアアップされるものではないかと思う(絵画についての考えとか)。



最後に李禹煥の作品に対する思考が端的に詰まった巻頭文「余白の芸術」を引用しエントリしよう。


 アートは、詩であり批評でありそして超越的なものである。
 そのためには二つの道がある。一つ目は、自分の内面的なイメージを現実化する道である。二つ目は、自分の内面的な考えと外部の現実とを組み合わせる道である。三つ目は、日常の現実をそのまま再生産する道だが、そこには暗示も飛躍もないので、私はそれをアートとはみない。
 私の選んだのは二つ目の、内部と外部が出会う道である。そこでは私の作る部分を限定し、作らない部分を受け入れて、お互いに浸透したり拒絶したりするダイナミックな関係を作ることが重要なのだ。この関係作用によって、詩的で批評的でそして超越的な空間が開かれることを望む。

 私はこれを余白と呼ぶ。

 ところで私は、いろいろな画家の絵面の中に見られるような、ただ空いている空間を余白とは感じない。そこには何かのリアリティが欠けているからだ。例えば、太鼓を打てば、周りの空間に響きわたる。太鼓を含めてこのバイブレーションの空間を余白と言う。
 この原理と同じく、高度なテクニックによる部分的な筆のタッチで、白いカンバスの空間がバイブレーションを起こす時、人はそこにリアリティのある絵画性を見るのだ。そしてさらにフレームのないタブローは、壁とも関係を保ち、絵画性の余韻は周りの空間に広がる。
 この傾向は、彫刻において、一層鮮明である。例えば、自然石やニュートラルな鉄板を組み合わせて空間に強いアクセントを与えると、作品自体というより、辺りまで空気が密度を持ち、そこの場所が開かれた世界として鮮やかに見えてくる。
 だから描いた部分と描かない部分、作るものと作らないもの、内部と外部が、刺激的な関係で作用し合い響きわたる時、その空間に詩か批評か超越性を感じることが出来る。
 芸術作品における余白とは、自己と他者との出会いによって開く出来事の空間を指すのである。

















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抽象と感情移入、あるいは「美とはなにか?」について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414340379.html


「石田尚志 渦巻く光」展へ行ってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/416776457.html


ベンヤミンめも (「近代化に対して」「政治/美学」「アウラ」「アレゴリー」あたり): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/387970616.html


「明るい部屋」とベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/389569036.html


861夜『枯山水』重森三玲|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0861.html




ナンバーファイブ 普及版 コミック 全4巻完結セット (IKKI COMICS) -
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2015年01月17日

今村純子、「シモーヌ・ヴェイユの詩学」

シモーヌ・ヴェイユの詩学 -
シモーヌ・ヴェイユの詩学 -





この本自体はおそらく失敗で、ヴェイユいうところの「感傷をはさまず落ち着いて観照しましょう。それこそが哲学の方法なのですから」というところから逸れてしまっている。有り体にいえば最初からヴェイユの人生に同情しすぎて「神や愛にめざめるには不幸の極点における美的転回(実存転調)が必要」ということの汎用性について論理的な突き詰めができていない。

そのあたりについてはうだうだと別に綴った。

ヴェイユ→人生の意義(美的転回)→表現の自由→ルソー|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nacd6d65c0f98


ただ、

それが一般的なことではなく、シモーヌ・ヴェイユというひと個人の人生哲学としてならはなしは別だろう。そこにある信念と強度は外野からなにか言えるものではないし、むしろ彼女の言葉の強度と重力がわれわれを惹き寄せてしまう。

それだけ魅力的なのはまずもって彼女の人生自体が作品だからだろう。


自分が彼女に興味をもったのはtwitterでbotとして流れてくる言葉があまりに自虐的というか、自分に厳しいものでそれに度々共感し教えられていたから。

この解説本を借りたのはたんに勘違いして彼女の著作の詰め合わせかと想ったからなのだけど、却って解説を通じてから彼女のテキストに当たる機会をもてたのは良かったように想う。


noteの駄文ではまだ彼女に対して穿った目をもっていたけれど、「重力と恩寵」(シモーヌ・ヴェイユ著作集3)の序文におけるG・ティポンの紹介を通じて、彼女のテキストの大部分は発表を意図したものではなかったこと、「重力と恩寵」もそういったものであったことを知った。というよりも、彼女の人生の高潔さと真摯な姿勢を。


すこしそれるけど、彼女の人生を垣間見たとき想ったのはどこかで聞いた道端に倒れている聖人の話。誰かが助けようと寄ったところ、「良いのです、、わたしの人生はようやくこれで解決しようとしているのにここであなたに助けられてしまっては台無しになってしまう」、といったもの。現実にもそういった人生を歩む人々がいることをなんとなく識っているし、それはもう正しい正しくないを超えて畏敬を持って接するべきものなのだと思う。


ただ、それと彼や彼女たちの哲学が万人に通じるものか、ということとは別だろうけど。



「重力と恩寵」という不思議な言葉、テーマは端的には「人は放っておくとそこに発生する不思議な重力のようなものにお互いが支配されて低きに落ちる」というもの。そこから救われるには神≠恩寵≠奇跡が必要となり、そのための回路が愛ということになる。



その神秘主義的な純粋性はプラトンに通じるわけだけど。新プラトン主義とかそういうことでもなく、デカルトやカントといった地味な方法・基軸も通りつつ、そこに彼女の人生哲学な強度を足したものであったみたい。

おそらくその鍵はユダヤの教えと生活的実践だったのではないかと思う。ベンヤミン同様(ベンヤミンの場合は彼の友人のユダヤ人に感化されたところが大きかったようだけど)。

そしてその強度をもった表れとしては象徴主義の位相に近いように思えた。その意味で、彼女が愛読したヴァレリーの強度と真摯さに通じたのだろう(ヴァレリーからは「真面目すぎる」というようなこともいわれたようだけど)






そういった経緯から「シモーヌ・ヴェイユの詩学」はシモーヌ・ヴェイユの哲学そのものの解説としては失敗だっただろう。でも、彼女の人生哲学の方向性、背景がわかりやすかったし、なによりそれらは「ヴェイユの思想に通じるもの」として挙げられていた映画の解説において魅力的だった。すなわち「ライフ・イズ・ビューティフル」「千と千尋の神隠し」「アメリ」「女と男のいる舗道」「ガイサンシーとその姉妹たち」。映画や文学、あるいは芸術はこういったときに語られなかった人生の余白のようなものにたいして説得力を持つ。そういった意味で「ヴェイユの詩学」とあらかじめ焦点を絞ったところもあったのかもしれない。


以下は主に本書からポイントだと想ったところの引用で構成しメモ的に留める。

引用文中にもあるように本書で主な対象とした著作は「前キリスト教的直観」で、数あるヴェイユの著作の中でも訳され一般に出版されてないようだから、価値が在ったのだろうなあとか想った。












「哲学本来の方法は、解決不可能な問題を、その解決不可能性において明晰に把握し、次に何も加えず、たゆまず、何年もの間、希望を懐かずに、待機のうちに、それらを観照することである」


「哲学本来の方法は、解決不可能な問題をその解決不可能性において明晰に把握し、次に何年もの間、いかなる希望も持たず、待機のうちに、それらに何も加えずに、じっと、たゆまず観照することである。……超越への道行きは、知性、意志、人間的な愛といった人間の能力が限界に突き当たり、そしてその境に留まり、それを超えて一歩も進めず、そして方向転換をせず、自分が何を望んでいるかのも知らず、緊張のうちにただ待ち望んでいるときにひらかれる」。ヴェイユは、こうした状態を「極度の恥辱の状態」と言い、この状態に留まることによってのみ、真理に至る可能性を見出していく。




「世界の秩序」すなわち「物」を美しいと感じられる心をもつということは、自分以外の対象に愛を傾けられるということである。自己が自己において自己と距離を保てること、それこそが自らの生を愛するということである。芸術家は才能に先立って対象への愛、すなわち、自分以外の「世界秩序」へと欲望が向かうが故に、作品を創造することができる。ヴェイユにおいて「自覚」をあらわす用語である「脱創造(decreation)」は、芸術創造に立ち返って観照されるとき、はじめてその実在性をもつ。
(ヴェイユ「前キリスト教的直観」より「ティオマイオス」の解釈として)


「十字架上のキリスト」の状態になければ、私たちは、世界を、他者を、「自我の投影された世界」、「自我の投影された他者」として、「遠近法の錯覚」のもとでしか見ていないのである。



「遠近法」とはたとえば作品の中でいささかでも効果を狙う誇張、演出的表現もそれに当たるだろう。自分的には「形式と内容」としてテーマするものでありソンタグでは「反解釈」で問われてるものぽい。そういった魅力的な言葉に群れ-権力が宿り重力が発生するように思う。


ヴェイユの独自性は、知覚が「神への愛の働き」と結び合わされる点にある。そして、「歓びと苦しみ」が「愛」という媒介を経て、等価に「美的感情」として、主観の感性にあらわれるところに、彼女の「神秘」の位相が見出される。さらにこの美的感情は、「純粋数学においてもまた、必然性は美によって光り輝いている」(p 158,「ピタゴラス派の学説について」)というように、「数学的必然性」にまで拡張されている。つまり、純粋数学ですらも愛の対象となるのであり、愛を媒介にして、幾何学がなにより「関係」の科学であるように、「関係」の橋がかけられ、それが美として表象されるのである。


ヴェイユによれば、私たちが今見ているもの、私たちに今聞こえているものは、真の実在(リアリティ)ではなく、その背後に私たちを超えた真の実在(リアリティ)があるにちがいないと人類は感じてきた。そうした普遍妥当的な「予感」を代弁してきたのは、司祭や王といった人々であった。



「絶対的な美は、感覚的な対象と同様、具体的なもの、目に見えるものである。だが、それが見えるのは、超自然的な視力があるからだ。長い霊性的な準備期間を経て、ある種の啓示、すなわち引き裂かれることによって人はこの美に近づく」





カントにおいて、美的判断は趣味判断であり、その基礎は概念ではなく主観の感情に置かれている。しかし、あるものが「おいしい」といった快・不快の感情は、個人の判断により、千差万別であるのと異なり、あるものが「美しい」といった美的感情は、それが主観の感情であるにもかかわらず、あたかも対象の属性であるがごとく万人に普遍妥当的にその感情を要求できる。カントが美を「目的なき合目的性」、「関心なき適意」と定義するのは、判断する人の目的や関心を超えた彼方に、美が感性における超感性のあらわれ、経験における先験性のあらわれ、あるいは感性において一切の感性的質料を排した形式としてあるからであり、それは私たちが超感性的基体をもつことによる。また、認識能力としては悟性があくまで構想力に仕えるというかたちで、「悟性と構想力の自由な遊びにおける一致」としてある。

カントがここに「自由」を見ていたとすれば、美的判断が趣味判断であるにもかかわらず普遍妥当性を有するとという超越性のみならず、判断するその人が、自己の利害・関心を離れ、対象に向き合い、その人の自律において判断することに自由があるのであり、ヴェイユと西田の眼差しはまさしくここに定められる。

しかし、こうした両者の自律に貫かれた自由のひらけへの着目と同時に、自律を離れた垂直方向への眼差しが、すでに両者の初期の論考にも見られる。そして、それはカントが悟性でも理性でもない判断力の批判書を、第一、第二の批判の間ではなく、最後に持ってきたこと、また第一批判の冒頭が、超越論的感性論から始められることとも根の深いところで共通性をもつのである。哲学と宗教の統合の意図が見られるヴェイユと西田とは対照的に、カントの場合、哲学と宗教を明確に区別する自らの立場をけっして崩すことはない。だが、何より人間の自由を探求していたカントが、エステーティッシュな力、つまり、純粋直観に基づく「判断力による趣味」こそもっとも重きをなすものとみなしていたと考えることができよう。

しかし、ヴェイユと西田の場合、「判断力と趣味」以前、あるいはそれを超えたとも言える立場に至るわけであるが、そうした道行きを可能にさせるものはいったい何であろうか。それは、主観が客観から離れる、あるいは主観を客観化するということによって認識が成立するという把握である。すなわち、美しい対象は何らかの距離を要求するのである。ヴェイユの場合、ごく初期の段階で美しい対象の「目的なき合目的性」「関心なき適意」を模倣することにより、私たちもまた自己のうちなる客観、すなわち自らの情念・感情・思惟を切り離し、「目的なき合目的性」、「関心なき適意」の二重の意味――主観と客観の距離、主観と主観のうちなる客観の距離――を見出し、ここに至って私たちは神の象徴となり、カトリック――普遍的――の立場に立つことができるとしている。このように、フランス・スピリチュアリズムの伝統に則り、あくまで生活世界における知覚・判断から宗教性を導き出し、「私」というものの放棄には段階を要するヴェイユ


ここの「西田」は西田幾多郎のこと。カントのこともあるのだろうけどヴェイユとの対比に西田を選んだのは著者の恣意的な選択ぽい。


天才と愛とは


まったき自己否定、すなわち、身体の死よりもっと恐ろしく、私たちの自然性はあたうかぎり抵抗する「自我の死」への同意が、意志ではなく欲望によってなされるのであれば、「植物のエネルギー」が湧出する。


ホメーロスは、まさしく「不幸の可能性」に同意したからこそ、自己と他者を分離せず、「嘔吐を催す醜悪」である対象のうちに美を見出す注意をもちえ、恥辱にまみれた不幸な他者の「沈黙の声」を聞き分けることができ、他者を自分のように愛することができたのである。だが、私たちはホメーロスのような表現の能力には恵まれていないかもしれない。しかし、真理を愛し、沈黙である真理に耳を傾けることはできる。真理と不幸はともに不幸における叫びである。そして、この不幸であり、真理であるものに耳を傾け、愛を傾けるには、「恥辱」を受け入れるという意味での「自己を低くすること・謙遜」が不可欠である。そして、このとき、万人が普遍妥当的に「天才」でありうるのだ。


彼女にあって、天才とはアリストテレスがそうであった意味における「才能を有すること」ではない。そうではなく、自己ではない他者が自己の生の根源となる、自然的にはありえない「超自然的な愛の働きを有すること」である。


つまりこの文脈におけるまったき「天才」とは内部の才能のドライブをなによりも重んじ、その発動(インスピレーション←愛-キセキ-神)においては保身をまったく顧みないもののことを言う。ちょうどゴッホやジャンヌ・ダルク、ナイチンゲールのような。それは一般的には狂気といえる。一般的な文脈で言う「天才」はアリストテレス的なもの。



ヴェイユはあくまでフランス・スピリチュアリズムの伝統に則り、「知覚の理論」を駆使して「逆対応」つまり「脱創造」の過程を示す。もっともしばしば用いる例は、いま目の前にある「正立方体」の辺の長さは等しく見えないし、角度は直角には見えないが、この触知不可能な質料の背後にある形相を私たちは一瞬にして把握することができる。すなわち、これが「正立方体」であると判断できるという「ラニョーの正立方体の考察」である。ヴェイユは、この「知覚の理論」を徹底することで、実在すべてを通して神を愛することが見習い修行のように訓練によってなされうることを説いており、それを支える確かな徴として「美的感情」が導き出されるのである。



一般の法による罪人として死んでいったキリストの兄弟として私たちは創造されたのだ、と考えないかぎり、「不幸」な人に「救い」はありえない。つまり、「不幸」における「逆対応」によってのみ「永遠の今」に接する可能性があるのだ。



ヴェイユは、およそ美が見い出せない「不幸」において、どのようにして美を見出してゆくのであろうか。


「二つのものだけが魂に強いる力をもっている。不幸、あるいは美の感情から生じる純粋な歓びがそれである。美こそが、いかなる個別の合目的性ももたず、ただちに合目的性のあらわれを感じさせるがゆえに、この力を有するのだ。不幸とこの上もない純粋な歓び――ただ二つの道であり、等価な道である。だが、不幸がキリストの道となる」



ヴェイユが「不幸」を「目的なき合目的性」とみなすもう一つの大きな理由は、「不幸」において、「奴隷の刻印」を受けることによって、自らの感性的質料が徹底的に打ち砕かれ、否応なく、自らが形相そのものにならざるをえないからである。自らの利害・関心が、否応なく消滅せざるを得ないからである。この状態にあって、純粋直観による「美的感情」が溢れ出るのである。




私の<今、ここ>を震撼させ、覚醒させ、深め、未来へとつなげてゆく、このダイナミズム



以下は不幸や日常の惰性・沈滞をも溶かすきっかけとなるものとしてプルーストの一文。



「マドレーヌの一きれをやわらかく溶かしておいた紅茶を、唇にもっていった。しかし、お菓子のかけらのまじった一口の紅茶が、口蓋に触れた瞬間に、私は身震いした、私のなかに起こっている異常なことに気がついて。すばらしい快感が私を襲ったのであった。孤立した、要因のわからない快感である。その快感は、たちまち私に人生の転変を無縁なものにし、人生の災厄を無害だと思わせ、人生の短さを錯覚だと感じさせたのであった。あたかも恋のはたらきと同じように、そしてなにか貴重な本質で私を満たしながら、というよりも、その本質は私のなかにあるのではなくて、私そのものであった。私は自分をつまらないもの、偶発的なもの、死すべきものと感じることをすでにやめていた。一体どこから私にやってくることができたのか、この力強いよろこびは? それは紅茶とお菓子との味につながっている」



それはたとえば他者であり、他者への愛、自分を放棄しても構わないほどの他者への愛であったりする。



私たちが「自我の死」に同意し得るのは、愛によって、自己にかわって、自己の奥底に他者が生きるときにかぎられる。必然性への同意とは、愛によって、愛を通してのみなしうるのだ。


以下はドストエフスキーから

「するとふいに、何かしら奇妙で思いがけない、ソーニャに対するはげしい憎しみに似た感覚が心のなかを走りぬけた。その感覚に自分でもはっとし、怯えたようにふと顔をあげ、ソーニャの顔をじっとにらんだ。だがそのまなざしを受けとめたのは、痛々しいほどの心づかいにみちた、不安そうなまなざしだった。そこには、愛があった。憎しみは、幻のように消えさった」


「ふたりはなにか言おうとしたが、言えなかった。ふたりの目には涙がにじんでいた。ふたりとも青白く、やせこけていた。しかしそのやつれはてた青白い顔にも、新しい未来の、新しい生活への完全な蘇りの光がきらめいていた。ふたりを蘇らせたのは、愛だった。おたがいの心のなかに、相手の心に生命を与える、つきることのない泉が湧き出ていた。

 彼らは辛抱づよく待つことを決めた。彼らにはまだ七年が残されていた。それまでには、どれほどのたえがたい苦しみと、はかりしれない幸せがあることだろう! しかし彼は甦ったのだ、そして、それが彼にはわかっていた。生まれかわった存在のすべてで、いっぱいにそれを感じとっていた。では、彼女は―彼女はただひたすら、彼の生だけを生きていた!」




「殺人」という究極の悪のあらわれのうちにあっても、真の意味における「二人称の他者」の殺人は、「自己」の殺人にほかならないために、すなわち、自己が他者の苦しみを引き受け、自己が自己から離れることのうちにあるために、あらわれとしては究極の悪にほかならない殺人においても、善へと転回が見られるのである。そして自然的には理解しえないこの事実は、芸術作品が開示する無の時間・空間において、美として輝き出るがゆえに、真理として感得されるのである。


たとえ、その人の行為が、暴力に抵抗する「非暴力」の様相を呈していたとしても、そして、その行為に自らの生命が賭けられていたとしても、その行為が、神や教祖という宗教的「偶像」によるにせよ、党派、主義、あるいは非主義という政治的「偶像」であるにせよ、その人が、自らが想定した自らよりも強い「力」の存在ゆえに行動するのであれば、それは「暴力」にほかならない。自分が想定したものは自分よりもけっして低くも高くもないのである。しかし、私たちの認識能力の最大の敵は、けっして認識しえないものを認識したいと望み、そして、認識不可能性に直面したとき、認識しているかのような架空の実在を想像力によって構築してしまうことにある。そしてまた、「非暴力」であるかのような行為は、「なにわ節」に比せられる「感傷性」という陥罪を有し、ヒューマニズムのナルシシズム的有り様を構築する根源となりうるのである。


















--
「自由と社会的抑圧」シモーヌ・ヴェイユ 著 | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/4635



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2014年02月21日

マイケル・サンデル、2010、「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」



あ、文庫になってら


これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
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遅まきながらサンデルの正義本を読んでみた。ハイエクアンチョコ本で自由 → 公正 → 正義が気になったので。



結論から言うとサンデルの提示する正義や正義の分類には違和感があった。んでもたぶん日本で「リベラル」と名乗る人たちにはフィットしそうな価値観だし、以前の自分だったらサンデルの影響受けてただろうなあと。

途中からだいたい分かってたけどコミュニタリアニズム(美徳、道徳)から功利主義、自由主義に対する誤解が激しいなあ、みたいな。功利主義の方は未だチェックしてないからサンデル的な功利主義=目的主義=設計主義でビミョー感あるけど。

たぶんサンデルの自由主義の理解がフリードマンかなんか(あるいは新自由主義的な単純なあれ)を基本としててそれに対する反動としての道徳-美徳-慣習を持ち出してるように思った。なのでいってることはたぶんハイエクやロックが指摘してた内容と変わらない、というか、より制度、慣習、形式面に退行してるように感じられた。

サンデルが強調する美徳とか人格とかそういう話は前近代的な共同体の価値観で、曖昧な価値観を中心としたそれは日本だと「世間」とかな同調圧として嫌がられるもののはずなんだけど、、そういう批判や違和感を感じる人はいなかったのだろうかこの本がでた当初。。まあそういうのも良い面がでれば美徳として残っていくものがあるのだろうし。。前近代だからといって即座に否定されるものでもないのだろうしな。家族系からの傾向と同じく、そういう価値観も相対的なものだろうから有効な場面もあるだろうし。(なんとなく複数世代同居→年上を重んじ父権の強い権威主義的な家族系だと合いそう(cf.直系家族(日本、ドイツ)、共同体家族(ロシア、中国、アフリカ、インド)

なのでアリストテレスなんかの価値観-美徳の哲学も神の時代の認識に対しては恣意性を低めた自由度の高いものだったのだろうけど、現代にそれをそのまま持ち込むのはどうなのかな?って感じた。もちろんその価値観がフィットする人もいるだろうし、その言説の全体ではなく部分的には共感するところもあるだろうけど。



自分の印象的な認識地図としては

ナチ・全体主義 >>> ウツクシイ国ほかのコミュニタリアン美徳 >>> サンデル・アリストテレス・マッキンタイア > ロールズ > ハイエク >フリードマン >>>新自由主義

ぐらい


自分感覚ではあるけどベンヤミンなんかも課題にしていたと思われる「形式」と「内容」はそのまま「文化・慣習・美徳・制度・法」(タクシス)と「自由・自生的秩序」(コスモス・カタラクシー)と対応で、後者の論理的で自由なhackから前者が不断にアップデートされていかないといけないし後者も前者を参照しつつってのがある。




んじゃ以下、本書のメモ




サンデルによると正義の根本的価値観は大きく

幸福
自由
美徳

の3つに分類されそれぞれ

功利主義
リバタリアニズム(自由主義)
コミュニタリアニズム


が対応する。

ここでサンデルとしては「美徳を基本とするけれど自分はコミュニタリアニズムではなくふつーの感覚だ」みたいな話し方してる。


自由主義やリバタリアンについての解釈に違和感あり、全体の主旨からは特に得るものもなかったので印象的な箇所だけメモ的に。


いわゆる<他人に迷惑をかけなければ何をしてもよい>は

ステュアート・ミル「自由論」の代表的な言説として


自由論 (光文社古典新訳文庫)
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功利主義(ベンサム) - 最大多数の最大幸福 、は設計主義的なものとして説明されていた。それがほんとに功利主義の内実としてあってるのかどうかは別とて少なくともこの本ではそういう解釈だった。


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「それは欲望から道徳原理を導き出そうとしているので間違ってる」(カント)


カントはある時点での利害、必要性、欲望、選好といった経験的理由を道徳の基準にすべきではないという。こうした要因は変わりやすく偶然に左右されるため、普遍的な道徳的原理(普遍的人権など)の基準にはとうていなりえない。

なので設計主義的なものも批判される。


カントは条件に左右されない理性-道徳の思考形式として定言命法を提出する。定言的とは無条件ということ。どのような条件も状況も関係なく、抜け道、例外なく実行される。


このときに基本となる思考形式、行動の理由となる規則や原理を「格律」という。


カントは道徳と自由の両立のために以上を提出するが、しかし規則や原理に従うことが自由といえるだろうか?


:<自分で作った法則なので自律している>


しかし、自分で作ったとはいえその法則に縛られすぎれば自由とはいえないのでは?そもそも条件なき自由は無菌室の思考では?

この辺りの思考のあり方は上座部仏教のそれと似てるように感じられた。まあサンデル解釈なのでこのへんも自分であたっていくべき


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<無条件・エゴ・アイデンティファイがなければどのように思考するか?エゴなどから自由になればどう思考するか?>




ロールズ「無知のベール」


→ <無知のベールに包まれれば自分の最悪の状態 → リスクヘッジを想像して社会保障を要請する>

→ 底辺層にも利益をもたらす方法を模索する→格差原理(バスの運転士より医師のほうがある程度高給 / 最底辺でもゼロにはならない)
(cf.BI、負の所得税)


⇔ 逆に攻め的思考する人もいるのでは?(どんなに厳しい社会でも頂点に立つ可能性が少しでもあるなら彼らは喜んで賭けをするかもしれない)

⇔ <人間は自分の運命を左右する原理を選ぶときにそのような賭けはしない>


※格差原理は基本的に平等主義原理に根ざす



※アメリカの「リベラル」が自由主義ではなく平等主義になったのは「自由を守るために個人の権利を守るべき」という発想。1935年、フランクリン・ローズヴェルトが社会保障制度を開始した時「困窮した人間は自由な人間ではない」(自由のために最低限の平等が必要)というレトリックをとった。



ロールズのこれもカント的な実験室的ゼロ状態の設定のように思い、その意味では現実にはそのまま当てはめにくいように思ったけど、これもサンデルの解釈があるのだろうから地味に追っていこう。





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2014年01月17日

スーザン・ソンタグ、1977(1979)、「写真論」



写真はある一瞬を分離させ、永続させるものだ。それは重要で意味のある瞬間のこともあれば、まったく逆のこともある。すべては写真家が対象を理解し、プロセスを把握しているかどうかにかかっている。

エドワード・ウェストン







よい写真とは優秀な猟犬のようなものです。やたらと吠えないが、雄弁なのです。

ウジェーヌ・アッジェ










私の仕事のなかの引用文は、道に現われる盗賊のようなものだ。武装した姿でいきなり飛び出してきて、のんびり歩いている者から、確信というものを奪ってしまう。

W.B.ベンヤミン、『一方通行路』








俺たちは蟻だ  蟻の軍隊だ

生きて死んで ただ繰り返し


繰り返し
繰り返す

何も

変わらない

何も

変えられない



空には太陽 地には屍

焼けた鉄


この世の本当の姿は混沌だ

それが唯一の掟


何か すばらしい夢を見ていた気がするが

どんなものか 

もう忘れた


煙にかすんで

先にあるものなど

見えはしない


だから

俺はもう

人間ではいたくない



飢えた一個のレンズ眼だ!

今を食いつぶす死の眼だ!!







かつて私は夢を見ました。

ウェディングケーキのように真っ白で、絢爛としたキューピット模様で飾りたてられたロココ調の船に、私はのっているのです。
室内には煙がたちこめ、船客はお酒を飲みギャンブルをしていました。

船は火事でゆっくり沈んでいるのを私は知っていた。
人々もそれを知っている、がしかし陽気に踊り歌いキッスしてうかれていました。
希望はありませんでした。

でも私はおそろしく興奮していました。
撮りたいものがなんでも撮れるのです。





この世界には私が撮らなければ誰も見たことがないものがあるのだと信じています。

ダイアン・アーバス















「フーコー的なものでもうちょっと軽いものないかなあ」+「最近Tumblrがおもろくなってきた(Tumblrのこの感覚はどういう感じなんだろう?)」ってことでソンタグを読み始めて読み終わった。




たったひとつの冴えたやりかた: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384420579.html

トること / トられること  「承認欲求」以前のお話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384572249.html




写真論
写真論
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スーザン・ソンタグ
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積ん読たまってるのでそんなに時間かけたくもないなということ「写真論」はちょこちょこ感想をつぶやいてて、







それで終わらそうかと思ってたんだけど、やはり分からないところがあったのでそれを調べるついで。わかんないことがわかったほうが楽しいし(そのために読んだり書いたりしてるわけだし)



だいたいの流れを言うと、ソンタグの特徴というのは「固定観念に縛られないこと」ということで、Wikipediaでそれをよんだときにもフーコーと似てるなということで読み始めたように思うんだけど読んでみてやはりそんな感じだった。

ていうか、ブログ、twitterほかネットを通じて一億総表現時代な昨今、ジャーナリズムの倫理的な課題、あるいはそれを含んだ自意識/自我の変化の問題が万人のものになってきていて、そこでの他人を見つめるまなざしの内面化について先行して考えてた人の記したものと対話的に思考を進めてみたいと思ったので。

「まなざしの内面化」というのはサイードのオリエンタリズム的課題もはらむ。


ただ、ソンタグの文体というのは人文にありがちな曖昧/難解な感じで何いってんだかよくわかんないところがあって、まあそれはあとがきに訳者の人も記してたんだけど、その辺で苦労したり「だいたいこんなかんじのこと言ってるんだなこの範囲は」って読み飛ばししつつ読み進めた。

SFなんかで最初の方なにいってんだかわかんなくてあとになるにつれて段々と上がってくる感じに似てた。「ニューロマンサー」はじめて読んだ時のそれとか。

そういう意味では人文にありがちな煙に巻いたような文体でなにいってんだかわかんないこといって衒学し、偉い人の名前借りて中身の無い自分の話を箔付けするというのとも違ったようだった。


それはさっきウェブでわかんなかったところを調べて確信したんだけど。



このエッセイ集は「写真論」てタイトルが付いてるけどそんなに一般的に写真することを定義するものではなくて、ソンタグによるアーバス論が主軸になってる感じだった。



ウェストン - アッジェ - アーバス



少なくともこの3人について基礎知識があって、それぞれの写真を見てないとわかりにくい内容。というか、それがなくてもあとでウェブでさらっと調べられるような時代になってるので、その部分の「わかんない」はメモリとしてタメておいて後でさらっと調べてもいいのだけど。まあとりあえずすぐに調べられるようにこのへんリンクしつつ



アジェ・フォト |世界の有名白黒写真家 | カメラマンの名言集 |フォトグラファー写真集
http://www.atgetphotography.com/Japan/index.html


アーティスト(フォトグラファー)ガイド
http://www.artphoto-site.com/artist.html



上記三人について一般的な文脈を理解してからこのエントリに帰ってきてもいいかも。


「写真論」もそんな感じで玄人向けの「それを踏まえた上で、さらにこんな視点があるんですよ」って感じの話だったのだろう。ピザ屋の店員が店の味に慣れすぎて変わり種のピザを作るように。そしてそういったピザはハイコンテクスト過ぎて普段ピザを食べてない客には合わなかったり。


というかこの時代、まだ写真というものの地位がそんなに高くなくて、特に日本なんかだと「写真について論じる」という回路そのものがなかったみたい。そういう情況のなかでの本格的な写真論ということでこのエッセイは注目された。



「ウェストン - アッジェ - アーバス」はそれぞれ至高芸術 / 日常性 / 限界芸術の代表的なものになるのだろう。

鶴見俊輔はかつて「限界芸術論」で芸術/技芸/なにかをつくるという活動とその結果としての創作物を「至高芸術 / 大衆芸術 / 限界芸術」の3つに分けた。至高芸術はわれわれがよく知る「芸術」、大衆芸術はポップカルチャー的で消費的なもの、限界芸術は童謡のようなわれわれが日常の中で営み残していく創作活動。


絵画の歴史と同じで写真にも撮るべき被写体 / 撮るべき様式のような時代があって、そこから脱していったのがウエストンだったのだろう。パトロンの肖像画や教会依頼の聖書の場面が主だった絵画が市井の人や風景を描くようになったように、写真も自己満足的な美しいポートレートから離れていった。


ウエストンの特徴は写真というメディアの特性を活かして事物を切り取り、その本質や文脈切除から表れる別の側面を提出するところにあった。そこでは女の身体から性的なにおいが消え、代わりに便器や胡椒の部分的なクローズアップから独特のエロスが湧き出てきた。
http://morutan.tumblr.com/post/73603895455
http://morutan.tumblr.com/post/73603807161/1922-1923


そういった意味でそれはフェティシズム的なものだった。


しかし、そこで提出される非日常的な感覚は「芸術」的なものではあっても人々の日々の生活に寄り添うようなものではなかった。

対してアッジェのまなざしは日常的な詩性をたたえていく。あるいはベンヤミンと同様のパサージュ的なものへの慈しみ。
http://morutan.tumblr.com/post/73604048552


アーバスはそういった文脈を継ぎつつ、さらに日常からも疎外されたもの、限界領域にあるものを見つめそこに同化していくことで自らの限界と境界を超えてしまった。
http://morutan.tumblr.com/post/73604322268
http://morutan.tumblr.com/post/73604368911/3
http://morutan.tumblr.com/post/73604451383



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ソンタグはそのことを当然の前提として話を始める。なのでそれらについては大体において直接的には触れずに婉曲的で遠回しな言い回しで自分の感じている感覚を外側からゆっくりと削りだしていく。



けっきょくその試みが成功したのかわからなかったけど、すくなくとも写真論としての続編があるということは取りこぼしてしまった部分を回収したということなのだろう。写真の倫理的な側面



他者の苦痛へのまなざし
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本書の全体的なテーマは写真/カメラを通じたまなざし、それらが内包し当然とする「フォトジェニックなもの/美的なもの/写真的に売れるもの/ネタになるもの」といったまなざし・審級の内面化・当然化が60-70sのアメリカを通じて浸透し完成していくことの是非だった。是非というか、その視点も含みつつ記録すること、ただ収集し記録していくこと。

それはアメリカの後期近代への過渡期であり、消費社会としての完成へと向かう時期であった。すべてのものが消費と市場のマトリクスに配置されコピーされ再生産される(ボードリヤール)。価値や味が単一の色にまとめられ、よく出来たモノトーンのコピーが行進していく。ウォーホルは変化した先の不気味さをキャンベル缶を用いて先鋭的に表しアーバスは変化する前の光景を記憶にとどめようとした。

その過程を通じて、アーバスが見つめ収集した周縁・マイノリティの問題は中心へと統合され、アッジェが慈しんだ日常は姿を変えていった。

そこでは黒人はもはやバスから降ろされず、ゲイやマイノリティの権利も表面的には「正しく」認められ平等化されていく。しかしその平等の中で、差別は飼い慣らされ「たいしたことない」ものとして後景化していく。そしてネイティブアメリカンは居住区で酒浸しに、黒人たちはスラムで貧困の連鎖を続ける。

しかしその光景はもはや日常となり特別にネタにするようなものでもない。殺人事件でも起こらない限りは(そしてまた川のほとりで死体が見つかる)





では、もはや写真/カメラを通じて探求すべき課題は出尽くしてしまったのだろうか?


かつてウェストンが開拓した現実をモノ的に切り取り新たな側面を見せる手法。アッジェが開拓した日常の情感を写しとるというテーマ。アーバスがこだわったマイノリティへの取材/収集。これらは現在も写真のテーマとして続いている。


しかしそれらはすでに後期近代のフレームの中でありきたりなクリシェとなりその反復に落ち着いてしまった感もある。





だがそれも絵画や文学と同じく「出尽くしてはいてもそれぞれのその時代環境での情況・実存を写しとる」「実存、固有の生はそれぞれに違うのだから」「より自由なほうへ」ということなのかもしれない。





そして、おそらくその限界がアーバスだったのだろう。



倫理的な課題以外の写真の問題、体験的変化の問題は現象学的課題に通じてくる。

主観/客観的な是非を問い「より囚われない方へ」「主観や恣意性で濁らないように」と意識すること。それは現象学ほか分析哲学や実存哲学、哲学全般に通じてきた主客の問題にも通じてくる。しかしそれを突き詰めていけ、そこに囚われすぎてしまうと究極においては自我を解体せざるを得なくなるだろう。


その問いに真摯であればあるほど、あるいはそのときの自分が置かれた情況も手伝って、離人的なところに到達する。




それが芸術的なものの極点のようにも思えるけれど、そこまでしなくてもコツコツと変化によって生じる体験や感覚の違和を積み上げ、その意味を問うていくことで到達できるところもあるのかもしれない。




たとえば絵画や文学に比べて引用的なものとしての写真の本質とその特性を理解し活かしていく方法。「それは文字の引用と本質的に何が違うのか?」ということだし、その意味で本書でもベンヤミンの引用についての所感が触れられ、最後に本書で触れてきた写真家や文学に関係する引用を集めた小編が付いていた。


引用はそれ自体だと現実(文脈)を時空間的に切り取っただけのものだけれど、それらをつなげることでモンタージュとなり別の意味を帯びる。

それが画像を動かすということだし映画ということなのだろうけど、ではその「前段階としての静止画・写真」ということにどのような意味や方向性が見いだせるか…。


そして切り取り、引用(quote/コピー)し、収集(リブログ)していくこと。


それらはソンタグやアーバスが見つめていた「壁一面のたくさんの写真で飾られた部屋」「大量の写真のコラージュによって現実を変えていく」のような再帰的な機能を果たすのだろうか。



そういった元の現実・リアリティから切断され、それ自体が独立した新しい意味を持つようになるようなフェティッシュな感覚、そこでのリアリティの疎外やあらたなリアリティへの接続、それを通じた対象となるものへの鈍感さの加速 / 苦痛への予感、そういった課題を残しつつソンタグの次の本に向かおう。






--
関連:
スーザン・ソンタグと蓮實重彦の微妙な対話 - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
http://www.seiryupub.co.jp/cinema/2012/10/post-55.html

エッセイ読めばソンタグが既存の価値・固定観念に縛られること、その中でも男女的なそれ、美的・女性の審級みたいなものから判断されるのを嫌うのすぐに分かるだろうに、そのあたりをまったく理解していなかったらしい蓮實重彦ぶりがよくわかる対談だったみたい。
http://morutan.tumblr.com/post/72625041284

蓮實はクリシェについて論じることを得意としたようだけど、それは一般的大衆的な決まり文句への侮蔑であって、自分自身がクリシェを先鋭化させハイパーリアルなものにしたことについては顧みたりはしなかったのだろうか



Nude monochrome
http://www.mono-photo.jp/japanese.html

ウエストンやアーバスについて参考にさせてもらったところ。ほかの写真史についてもわかりやすい





Terminal Arts of Sein und Zeit: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199659522.html


Teminal Arts of Sein und Zeit (補遺): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200173685.html

タグ:写真 art
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2013年10月10日

ターナー展へ行ってきたよ



上野でやってるターナー展いってきたのでいちお感想。

てか、いってから気づいたんだけどコンスタブルではなかったのだな。。


ジョン・コンスタブル - Wikipedia
http://bit.ly/GPxpYq

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー-主要作品の解説と画像・壁紙-
http://bit.ly/GPxsDy


ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー - Wikipedia
http://bit.ly/GPxN9n


確認的には両者とも18c後半から19c前から中半ぐらいの画家。特に調べもせず勉強不足だったけど「ターナーは印象派への影響」って感じなのな(絵を見つつ逆に印象派から影響を受けたのかと思ってた)。初期は御用画家的に写実中心だったけど、



ターナーにとって転機となったのは1819年、44歳の時のイタリア旅行であった。ルネサンス期以来、長らく西洋美術の中心地であったイタリアへ行くことはイギリスのような北方の国の画家たちにとってのあこがれであり、ターナーもその例外ではなかった。イタリアの明るい陽光と色彩に魅せられたターナーは特にヴェネツィアの街をこよなく愛し、その後も何度もこの街を訪れ多くのスケッチを残している。イタリア旅行後の作品は画面における大気と光の効果を追求することに主眼がおかれ、そのためにしばしば描かれている事物の形態はあいまいになりほとんど抽象に近づいている作品もある[要出典]


http://bit.ly/GPxN9n



この辺りについて、たぶんターナー研究かなんかのひとがいろいろ書いたり史料となるような物証出してるのだろうけど、自分的にはイタリア旅行以前からそういう傾向はあったように感じた。

絵のタイトル忘れたけどどこかの寺院の廊下で窓から差し込む光線を中心に描いていたもの、とか。あるいは早朝の浜辺での空気感とか。

そういうものがイタリア旅行を通じてさらにめざめたのかもしれない。


「オランダの光」でもあったけど、「光」と光を屈曲する水蒸気というのはその場所の全体の雰囲気をつくりだすし、そういったものそのものが存在の基板として感じられるような瞬間がある。

草の上で朝食してる時とかに、そこでおしゃべりしてる内容とか一緒にいる人の姿はぼんやりとしか聞こえなかったり、輪郭としてしか見えなかったとしても、その全体の雰囲気を通じて、自分がそこに在るということを実感できるような瞬間。

ターナーの初期のなんでもないような風景の切り取りはそういった情感を留めておこうとしたもののように思えた。


そして、そういったものをより強く感じられたのがイタリア旅行とそこで感じた光の違いだったのだろう。

光は水面という鏡の照り返しによってより強烈に事物を照らし、それが色彩そのものを変える。それはそのまま存在の実感を変え、生活のリズムや感じ方も変えていくものなのかもしれない。どこかの画家がタヒチに惹かれたように、オランダの画家たちもイタリアの光に憧れた。ダム建設によって湖面ができるまでは。



ターナーのイタリア旅行は年代的にも内容的にもモロにマッキアイオーリとの交流を想像させるし、実際にあったのだろう。


マッキアイオーリ展にいってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/140611092.html


ターナー展ではそれについての言及はなかったけど、以前のエントリで少し書いた方に、単なる光や色彩の違いということだけではなく、当時のマッキアイオーリたちの政治的気運や思想に感化され、互いに影響しあったところもあったのかもしれない。もちろんそれ以前のフェルメールほかのオランダの画家や、あるいはハンマースホイなんかも。



そういったものを継ぎつつ、ターナー自身が自分の中から最後に削りだしてきたものはなんだったか?



「きいろ」



ターナーはきいろを好んだという。

緑色よりも黄色を使いたがり、黄色がないような場面でも黄色で表現していった。


そういった逸話はゴッホを思わせる。


「ゴッホは色盲だった(がゆえにああいった突飛な色彩感覚を表した)」という話は確定してないビミョーなアレゲではあるけれど、黄色にこだわった理由は「太陽の光をより純粋に近い形で表せる色」ということではなかっただろうか?あるいは、色を通じてその場の光や雰囲気全体を表せるのが黄色だった、ということだったのではないか?



光(きいろ)で視界が 埋まっていく

(ああ… ひかりが… あふれ…)




そこでは人の肉体も時間もひかりの中に溶ける。


ターナーの後期の作品はそういったものを表そうとしていたように感じられた。








--
補遺的に

最近、シュタイナーの本を読んだ。


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ルドルフ シュタイナー
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教育に関するセミナー的な内容でそんなに難しくもなくスラーっと読める感じの。

全体に通じる趣旨としては、「9歳までの幼年期は感性を中心に、絵画や立体造形、音楽、運動、そういったものを中心に教えなさい。文字は絵を描けるようになってから。まず文字の絵画的成り立ちを認識させ、その上で活字を読ませなさい。概念の習得も具象(身近)から抽象の順で」、というもの。

「文字は図像からできている」というこの辺りはワタリムでやっていたレッジョ・エミリア展を思わせたし、「素描や文字に関する線はフィクションで、実際は色彩から出来上がっている」というような内容は今回のターナー展とリンクするように思われた。

それを後により前面に押し出していったのが印象派と呼ばれるモネほかの作品群であったし、それらは現象学的な認識の話にも通じる。


線や文字も、あるいは遠近法などといった認識も、近代人はいつの間にか認識のベースに入れてしまっていて、それ以前の世界の見え方みたいなのがあるのかなあ、とぼんやりと妄想した。


虫や鳥の目のような、そういった世界の見え方


世界や事象そのものにつながっているような






ワタリウム 「驚くべき学びの世界」展 メモ - Togetter
http://togetter.com/li/140716
タグ:art
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2012年04月22日

(続)「西欧資本主義が特殊化し近代型国家ができていった背景とは?」: オランダにおける流通・金融システムの洗練とイギリスにおける近代型財政の構築





読み進めてたら以下のエントリで勘違いあったようなので修正


近世から近代初頭のなんとなくのポイントとして「西欧資本主義が特殊化し近代型国家ができていった背景とは?」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/265961953.html




エントリ的には「分裂国家でも商売的合理性あれば中央集権に勝つ効率性があるよ」とし「国家の近代化にとって啓蒙主義は関係ない(それが関係あるとされたのは後付けの進歩史観的イデオロギーではないか?)」としたのだけれど、この辺りの捉え方がビミョーぽい。


17cオランダのヘゲモニーが破れていったのは国家財政的な強さを構築できなかったから。それは国家の戦争の借金処理として80年戦争周辺のオランダが(税金ではなく)公債を利用していたのに対してイギリスが国債を利用していたことなどに表れてくる。早熟の商人経済(近代経済)ではあったが近代的経済国家ではなかった。

よく理解してないけど、オランダのような商人連合の短期的収益への合理性(功利主義)が結果的に総和していったものよりも、長期的視点から国家を財政として整え、国家経営・運営を考える方が国家としては強くなる、ということか。そういった統一的国家運営のためには中央集権が必要になる。


中央集権をしつつも前時代の恣意的な王権のようなおーざっぱな国家運営をさせないためには中央集権だけではなく議会制民主主義を認めさせるような言説が必要だっただろうけど、そういったものは啓蒙主義的思考の系譜の中ででてきたのだろうか?


あてずっぽうでいうとロック、ルソーなんかその辺になるのかなと思うけど。ちなみにロックやデカルト、スピノザなどといった思想家は黄金時代のアムステルダムに住んでいたようで、「近代国家とは議会制民主主義と中央集権」+「そのような考えは啓蒙主義(の中でも新しい政体-国家を創りだそうという思考潮流)によって培われた」とするならばロックがオランダの国の組織づくりに影響をあたえなかったことには疑問が残る。

あと、社会契約論とかで国家のまっとうな運営については具体的に論じられていたのかなぁ、とか


いちおまとめると

<近代型経済は流通・金融に関わる商業システムが洗練・共通化されていくことによってオランダで形成されたが、近代型国家の基盤としての財政制度などはイギリスで構築されていった>




ほかに前のエントリではヨーロッパの資本主義のそれまでのものとの違いとは<プランテーションや工場労働などのモノカルチャー的富の無限増殖による>としたんだけど、そうではなくてもっとぢみに、<「商業活動にシステムが洗練され、統一フォーマットになって行くことで取引コストが減って行ったから>、とかなんとか

・・?それはヨーロッパ国内における経費のリストラクションであって中国との貿易とは直接関係ないのでは?・・って貿易差額的あたまだとどうもピンとこないんだけど、中国とかから富を吸い出せたのは中国とも世界経済として一体化してたから…かなぁ?




あとは本のメモ的に箇条書き


--

(17)銀はヨーロッパからアジアに流出していたが1750年ごろからそれが逆転した。

※この頃からヨーロッパ経済がアジア経済に勝っていった数字的証拠?



(20)この頃にヨーロッパが発展した3つの要因と思われるもの


(1)経済成長に対する国家の介入:

国家が保護によってすることによって商人の取引費用減る → そのぶん交易が盛んになり関税収入が国庫に入る

イギリスのような保護貿易の後の繁栄を説明するには好都合だが…



(2)商人ネットワークの拡大:

商業帳簿・通信文・契約書類などといった同質性を持った商業作法・商業システムがヨーロッパ内で共通化することで取引コストが減った。




(3)中立国・中立都市の役割

戦争が生じても中立国の端を掲げれば入港でき取引が続けられた


※(1)(2)(3)の理由からだと<商売を円滑・持続的に進められる仕組みをつくったのでアジアよりもヨーロッパのほうが富が集積していった>と読める。




※オランダ発展スタートダッシュの条件的なものとして


最初に16ー17cの人口増加(1500年8100万人 → 1600年1億400万人)に対応する様にポーランドからの穀物(小麦)、バルト海(スウェーデン)からの船舶用資材輸送で流通利鞘稼ぎ

それがピークに達するのと交代する様にスウェーデンに鉱山開発技術をプロデュースしてドイツ・スペインに代わる武器材料国を確保

武器製造産業を発達させ80年戦争そのものを食い物にした(戦費用に借金しつつも公債などの金融システム、武器製造産業の発達、中心的ゲートウェイ港として中継貿易の手数料を稼いだ  (貿易差額ではなく流通業の取引コスト収益で稼いだ)

そこで蓄えた富を投資アイテムをいくつかつくって回し膨らます(デリバティブが生まれたのも当時のオランダ)



※当時のオランダは商業資本主義(貿易差額による利ざや)、対してイギリスは産業資本主義であり、<単純な貿易利ざやに終始し産業資本主義を興せなかったオランダが後塵を拝した>、とされがちだがオランダは商業取引ではなくハブ港としての手数料収入を中心として稼いでいたみたい。あとハブとして情報や金融の仲介業を行ったり。武器貿易の中心としてあつまった軍事情報をうまく戦争に利用してすくない資源(兵員)で効果的に戦争に勝っていった。



--
なぜ、オランダは17cになって急にイタリア都市国家に代るようになったのか? - Togetter
http://togetter.com/li/289478


※ヴェネツィアからアントワープ、アムステルダムに商業中心地が移る経緯を複数から。フランドル・ブルゴーニュ公が絡んでブリュージュが開発されていったことからの流れぽい。


posted by m_um_u at 18:03 | Comment(0) | TrackBack(1) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2012年04月21日

近世から近代初頭のなんとなくのポイントとして「西欧資本主義が特殊化し近代型国家ができていった背景とは?」



▽土地(戦争)から貨幣(商業)・金融へ


こないだからちょっとモニョモニョしてて、それは近代初頭がなんとも捉えにくく、自分的になんか引っかかってるからなんだと思うんだけど。いちおちょっと前までで近世の終わりまでの自分なりの見方はメモっといた


(自分的に)古代から近世終わりまでの見所復習: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/264513531.html



ここまでは「国」(あるいは皇帝、王、諸侯)、「軍隊」、「土地」という関係が中心でそれらを覆うようにキリスト教的大義があるというだけでけっこう分かりやすい。

「王や諸侯のもとにある領域国家的なものは他国に対して戦争しかけて勝って土地や報奨金を貰うのが一番の政策」みたいな流れ。この時代はお金や金融というのは軍事-戦争の周辺の「手段」である感じだった。

金が出てくるのも「王が教皇などに対抗するために傭兵を集めようと借金する」って場面程度で、国家の商業-経済的関心は低かったように思う。


戦争の形態としても技術よりも人口に頼ったものだったし、それを養うための食糧生産力(備蓄力)がそのまま国力に直結していたような社会。食料生産力はそのまま保有する土地(領域)の広さと等しくなる。つまり保有する土地(荘園)の広さが経済力、武力に直結するような。「力を持っている」というのは土地を所有しているということだったのだろう。土地は第二身分までしか持てないものだったので「力を持つもの」も限られていた。



そういった食料自給に基づいた社会構造に対して徐々に「交換」-「商業」の存在感が大きくなっていった。その過程で交換材としての貨幣の重要性も増して行った。


「力」の指標が土地保有率から貨幣保有率に代わって行くにつれて、土地にバンドリングされていたモノやヒトが土地からアンバンドルされていった。兵も食糧も衣服も土地を離れて交換されるように。そこでは土地をたいしてもってなくてもカネをもっていれば多くのモノ(豊かさ)を所有できるようになっていった。


中世-近世を通じた宗主たちにとっては土地を中心としたヒトと食糧の生産、略取を通じた土地や貨幣の交換が国力という認識であり、それは農本主義的なものといってよかったのだろう。そういった華々しい国際舞台、戦争ゲームの裏で貨幣や為替などを通じて豊かさが擬似的に交換されていっていた。




・・というか、商業は13cからあったか。ヴェネツィアを中心とした地中海貿易とか。そこまで大々的なものじゃなくても貨幣を仲介とした商業はそれ以前にも形成されてきていただろうし。


ただ、地中海貿易を中心としていた時代と大航海時代を通じて東インド洋、大西洋、バルト海などが交換先として加わってきた時代とではヨーロッパ全体の豊かさや国力も違う。それは交換されるモノとカネの総量の違いだろう。





・・なかなか言語化しにくいけど、印象としては1500年ぐらいまでのヴェネツィアを中心とした商業の時代というのは、商業的な物流・それを内部循環させる金融経済はあったにせよ、それはオスマン以西の地中海に鎖国された限定された規模に限界されたものであったように思う。まだ貨幣・金融の自由度が発揮されてなく、ヒトやモノといった生産物が土地の大きさに依存(バンドル)した社会構造。 

新航路・新大陸発見以降は交換されるモノやカネ、それを受ける人口の総量が増えていった。それまでヨーロッパという限定されたものー土壌とそこを基本として生産されるモノ・ヒトの総量に依存していた経済が、アジアのより多くのモノ、富を吸収しふくれあがっていった。

土地の大きさに依存した経済圏という意味では大航海時代、インド航路発見以前は一部の大商人を除けば土地所有者の権勢のほうがまだ強い時代だったといえるだろう


▽工場型タコ詰め労働、ゲゼルシャフト的な分業・規律に基づいた近代資本主義。ヴェネツィア中心のときにもすでに南ドイツ鉱山労働やロードスなどの砂糖プランテーションにみられたが、それが大航海時代を経てよりあからさまに拡大し一部の資本家に富を与えていった(ヨーロッパ近代資本主義の特殊性記述試み)




『要はヨーロッパでだけ土地所有者や王の力が弱くて商人や会議の力が強かったのはなぜか、ということではないか。それがなければジェノヴァやヴェネツィアに始まる資本主義システムもなくオランダ・イギリスに始まるヘゲモニーもなかった。』
http://d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20120407#1333779588



そうではなくて徐々に商人の力が増していったというグラデーションはあるにせよ、ヨーロッパでも土地所有者や王の力が強かったのだけれど、1500年ぐらいを境にそれが実質的に変わっていった、ということ。タテマエ上はブルジョワ革命ぐらいまでは王権のほうが強い、ということにはなっていたか。


1500年ぐらいまでは「商人の力が次第に強くなり、実質的には王権や教皇権にプレッシャーをかけるほどになっていた」といってもメディチやフッガー、ウェルザーなどといった大商人・銀行家ぐらいしかそこまでの力はもてなかったのだろう。為替を使った富の自家増殖・時間操作も一部の商人にしか縁のないものであったように思う。


対して、インドや新大陸への新航路開発 → 航海のリスクをヘッジするために生まれた株式会社という形態は資本投下先を新たにふやすことで投資家の間口を増やした。新大陸の銀鉱発掘などを通じて貨幣鋳造量を増やし、仮想的にせよ先行されたヨーロッパの富はバルト海周辺の食糧や衣服、武器、インド航路によって開かれたアジア圏のモノを吸い込んでいきヨーロッパの経済圏全体の富を増やしていくことになる。
http://t.co/7dUojzwt


そして貨幣鋳造や貨幣の素となる地金の発掘、投資で膨らんだマネー(富)の先行入力に対応するようにプランテーションや工場労働が自家増殖的な富の開発が進められていったのではないか?スーパーマリオの無限増殖のような富の自家増殖。バルト海やインド航路貿易だけでは贖い切れないほど膨れ上がった富の先行入力を埋め合わせるように。

あるいは計画的で単一の目的合理性に基づいた自家増殖的富の生産体制、プランテーション的なものや工場労働的なものが前時代に比べて展開され根付いていったのは金融と投資というシステムが洗練され先行投資的に膨らまされた富を埋め合わせるためだったのではないか?

の前時代のゲマインシャフト的労働体制に比べたら計画的で型にハマった(≠つまらない)分業体制。フッガー家などが仕切っていた鉱山労働にもその原型が見られる。また、そこから展開される鉱山労働者への日用品販売の経済圏は資本主義的経済システムの萌芽というかビオトープのような役割を担っていたようにも思われる。



ゲマインシャフト / ゲゼルシャフトということだと、後者の目的合理性と工場・軍隊労働に関わる規律、一見つまらない規律を当然のこととして内面化していく精神を涵養する全体的な構造にウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の話が関わってくるのだろう。


フッガー家はもともとは東方に綿と麻をブレンドした織物を売って一財産儲け、そこから鉱山商売に手を出した。ハプスブルクの鉱山、銀行取引を一手に率い、ハプスブルクの没落とともに消えていった(贖宥状を教皇に薦めた、絡み
http://t.co/TccGsGH2


Weber, Max『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
http://www.arsvi.com/b1900/0400wm.htm



ウェーバーの議論において「資本主義的成功者の精神は形式的には複式簿記やそれに基づいた共通取引フォーマット(ex.帳簿、通信文、契約書類)にもとづいた合理主義と、その派生としての啓蒙主義とに基づいている。しかし、その源泉には非合理的合理主義がある」
http://bit.ly/HToIXf
http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/ootsuka-koen/se-koen4.htm


カトリックにおいては「金で金を生むような商売はダメ(金貸しはダメ)」といわれ、それらをごまかすためにメディチに代表される商人たちは美へのフィランソロピーをしていた。「煉獄」という概念はこのような商人たちに向けて生み出された。にもかかわらず、フッガー家のような商人はそこからの救済的タテマエとして「贖宥状」という擬制を自ら編み出した。商人の業というか、商いの合目的性のためには自らの首を締めることも辞さないということで、この辺りも非合理的合理主義とやらにつながってくるのかと思う。


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http://www.rui.jp/ruinet.html?c=400&i=200&m=212134


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まぁ宗教改革を含めてあの辺というのは叙任権闘争を中心に「商人」「王(あるいは諸侯)」「皇帝」「教皇」が固定的な派閥というわけでもなく、仲悪くなったり裏切ったりと政治的に振舞っていたようだから「商人が商人の首しめた」っていうのも変だろけど(しかけたフッガーは贖宥状なんか方便だったのだろうし)



「宗教改革の下地として人文主義があり、その系譜に啓蒙主義がある」ということで言うと人文主義 ← ヘレニズム的に東方からギリシャ哲学的思考が還流してきたということで1453年のコンスタンティノープルの陥落はここでも意味を持ってくる。

コンスタンティノープルの陥落の文化的影響としてはかつて東ローマに流出していたギリシャ・ローマ的思考や美、建築などといったものが再びヨーロッパに還ってきたことにあるだろう。それとは別に経済的影響としてはそれまでヴェネツィアが中心として築いていたオスマンを介したアジア貿易が衰退していったことにある、とされる。これと入れ替わりにスペイン・ポルトガル東インド新航路・新大陸発見のインパクト → 貿易主要港(都市)の変化(リスボンやブリュージュ→アントワープへ)があげられる。

ただ、経済的変化も文化的、あるいはイデオロギー的変化と同じく1453年を境にいきなり「近世」的な先進性をもつようになったわけではない。

経済、商業面でいえば1453年以降もヴェネツィアを中心とした地中海貿易と、リスボン(ポルトガル)・アントワープ(オランダ)を中心とした大西洋・東インド貿易のヨーロッパ貿易全体に占める割合はそんなに変わらなかったようだし。「新大陸発見によって見つかった新たな銀鉱の発掘がヨーロッパ貿易の中心をヴェネツィアからスペイン→アントワープへと代えていった」といっても南アメリカの新鉱山発掘からしばらく10年ぐらいはヴェネツィア-南ドイツ(フッガー家など)を中心とした銀鉱→銀の採掘量とそんなに同じぐらいの割合だったり。


中世末期・近世初頭のドイツ鉱山業と領邦国家(瀬原義生)PDF ※1
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/585pdf/sehara.pdf





こういう流れが数字的に変わるのはおーざっぱには16〜17cのヨーロッパの急激な人口爆発のころ。人口が増加した理由はよくわかってないらしいんだけど、急激な人口増加で食糧と木材が不足にな。このときヴェネツィアの従来の貿易ルートからでは十分な食糧と造船などに使う木材を確保→供給できなかった。それに対してアントワープではバルト海貿易の権益を抑えることでまず食糧(ポーランド産穀物 + ニシン、タラなど)をそしてスウェーデン経由で木材、武器貿易用の武器の材料を集められた。ここで貿易の中心地が移ったと言われる。

このとき相関するように新大陸の銀鉱の採掘総量がヨーロッパの総量に比べて4倍以上になっているので一概に「オランダにヘゲモニーが移ったのは、スペイン・ハプスブルクによる新大陸銀鉱の影響(価格革命)に依るのではなく、食糧危機が起こった際に食糧を集められたからだ」ともいえないかと思うけど、とりあえずここで交換に必要な要素である貨幣(のもとの地金)とモノ(食糧など)の両方の中心がヴェネツィアからアントワープに移った。




このようにして経済の中心地が移行していくのに従って、ヨーロッパはそれまでの資本主義とは異なった規模と性格の資本主義(プランテーションや工場労働、それらを支える投資・金融)、自家増殖・無限増殖型の資本主義を作り上げていった。また経済の中心地の以降にともなって思想の中心地も移行していった



▽啓蒙主義、革命、国民国家をめぐる誤謬  〜資本主義は帝国主義を当然としない?


後期人文主義(1490) → メディチ(フィレンツェ)、ボルジア(スペイン・ローマ)の時代


北方ルネサンス・人文主義:エラスムス、トマス・モア15-16c(1478〜1530)
http://bit.ly/JetYuB
http://bit.ly/Jeu0m2

宗教改革 1517〜28〜
http://bit.ly/nRMpOS

↓ ブルジョワ化

啓蒙主義(17後〜18cイギリスから)1680〜1780
http://bit.ly/JetRiE



これらの啓蒙主義に至る歴史は従来、「旧来のローマ・カトリックとそれを包み込む政治空間の中からできあがっていったイデオロギー(蒙)を啓くべく昔の自由主義が参照されていった」、とされるものだと思うんだけど、実質的に王権や教皇権などといったアンシャンレジームに対して商人が思考し対抗していく際の道具立てとしてどれぐらい有効だったのだろう?

実際に金融や商業などによって権力の中心にいたメディチやフッガー、あるいはボルジアなどにとって「ローマ・カトリックを中心とした教えは汚れている」などということは当たり前のことで、「そういった空間を利用してどれだけ自分たちが権勢を高めていけるか?」ということが彼らの主目的だったのだろう。だから「理性主義によって蒙を啓く」というのは、部外者に向けてのアジテーションやプロパガンダの表象としては便利だったかもしれないけど、当事者であるメディチやボルジアにとってはほとんど意味を持たなかったのではないか?むしろ「それを言ってしまうとKY的に権力中枢から外されるので黙っておこう」ぐらいの言わずもがな。


フランス革命なんかのベタな説明見てると「特権的第二身分までに代わってブルジョワが政治空間で発言力を持つようになっていった」+「第三身分が発言力を持つようになった背景には啓蒙主義による理論武装があった」みたいなのがあるように思うけど実際は逆の順序で、人文・啓蒙主義以前に商人たちが経済力を身につけていく過程で必要な東方伝来の実践的な知や思考を身につけていき、アンシャンレジーム的な主義や思考が結果的に相対化されていったのだろう。

それらは16世紀文化革命の流れにあり、商人や学者のほか職人など非ブルジョワな実際家の仕事の用として広がっていったわけだけど、ブルジョワ的な思想史では人文主義や啓蒙主義が目立つのみでそういったものが取り上げられないように思われる。神学やキリスト教的思考や知識を相対化するために編み出されていった人文主義や啓蒙主義とは別の思考、一部のブルジョワ向け人文哲学思考とは別の実践知とそこから編み出されていった思考や精神の体系


山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html?1318389838


産業技術や商業・金融技術、あるいは軍事・科学技術が生まれていった背景としては俗語革命を基盤とした数式や形式的合理主義的思考の運用があった。それらに基づき近代ヨーロッパはより複雑で大きな数、金、エネルギーを扱えるようになっていった。


そういった実践的リアリズムに基づいた思考と実践からすると、啓蒙主義というのは結果的に一部プチブルの利益誘導のためのイデオロギー的側面があったのではないか。なにせ革命が終わった後に利益を得ていたのはプチブルだけで、プロレタアートな平民は依然として貧乏だったわけだし。フランス革命もその背景としてはオランダに叶わなかった英仏国内で不況→不満が生じ、そのストレスのガス抜きとして生じた一過性の暴力革命のように思える。農民などの平民は不満のターゲットを設定されてうまいこと乗せられただけだったのかもしれない。もっともネタがベタになってその後のブルジョワ革命まで持続的な大義・中心言説として機能し、そこから「平等」的思考が展開され、より民主的な方向へと政体が変化することへ影響した面もあっただろうけど。

ともかくも英仏の2つの市民革命が絶対王政的中央集権と交差し国民国家という半全体主義への道に通じていく。

従来の政治学だと「このように北方ドイツ、イタリアでは王権が弱く都市国家が多かったので中央集権できなかった」みたいな言い方がされる。しかしフランス革命や国民国家の帰結を思うと「できなかった」というよりは「ならずに済んだ」ともいえるかもしれない。英仏に重商主義や農本主義があったことが当時のオランダのヘゲモニーに対して英仏が焦っていたことの証左ともなるだろう。オランダという経済中心主義の国家連合に対してなんかしらないけど「?あれ?なんかうまくいかないぞ? こっちも(軍事だけではなく)商売も重んじてみるか」って保護貿易に走ったのが重商主義であり、農本主義もその亜流といえる。彼らが勘違いしていたのは自由経済・貿易を選択するのではなく、経済を理解しないまま国が経済を保護・操作しようとし、その決断の失敗を補填するように戦争を選択していったことだろう。重商主義といいつつもけっきょくは戦争が基点となっていたという点。それは前時代の領土略取的思考の延長にあるといえる。

しかしこの時代はまだ戦争という選択肢に対して現在ほど縛りがなく、かつ有効性をもった政策であったため戦争に注力するようなシステムに国家組織を集中することでヘゲモニーの転換がはかれたのだろう。絶対王政に基づいた指令のピラミッド化、中央集権、国民国家、税制の強化、徴兵制(銃後の兵も皆兵に)、帝国主義という半総力戦の流れは、前近代的な土地=略取モデルの最後の徒花だったのではなかろうか。


そういった軍国主義的なものに対して、17cのオランダ都市国家同盟は経済的なヘゲモニーがはたらいていたため自由な貿易と経済を展開でき、それに基づいて商業的自治権が固まっていたので中央集権する必要がなかった。もしくは高度に複雑化した商業組織・制度運営が複数に自律していたために、いまさら一つの組織体として中央集権しても効率が悪かったため、ピラミッド構造として中央集権するのではなく、権力をネットワーク化し指令のミスというリスクを分散していたのではないか?


ここで啓蒙主義の掲げる「自由」ということに関して、特に啓蒙主義を掲げていなかった商人を中心とした都市国家同盟のことを思うと中央集権型の国家に比べてよほどローマ・カトリックの教えを相対化し、自らの頭で考え行動し、自由な貿易・商売ができていたのではなからろうかと思う。身分制・階級制などといった自由度の低い組織制の印象も特になく、領域を統べる首長のプライドや人間関係、恣意性などに左右されるところも従来の領域国家に比べれば少なかったように思えるし。

中央集権になれば一定の方針がその時代に適している場合、たとえば「税金を奪取して軍備につぎ込み戦争に勝つ」という方針がその時代にマッチしていれば有利だろうけど、そもそも「戦争をする」ということがひどく不経済なわけだし…。

それに対しては<資本主義は戦争とともに発達してきた>(ゾンバルト)とする見方もあるかもだけど、これは戦争が経済のオプションとして、「昔は戦争という経営選択をとることが他国からも当然とされていたため」、資本主義を牽引する主要アクター(商人)も戦争を前提とし、国家が戦争を選択しても利益をとらるように行動選択をしてきた結果的なもの、といえるか。要するに「まだ世界経済的にも国家経営的にも未完成な時代だったので、戦争という短絡がとられていた」時代があり、そういった時代には中央集権は便利だったのだろう、と考えられる。


イギリスのヘゲモニーとオランダのヘゲモニーの違いは、あるいは「かつてのオランダの状態はヘゲモニーと呼べるのか?」という議論もあるが、そういった議論も含めて両者のヘゲモニーの質的な違いにあるように思われる。

「イギリス型のものが代表的なヘゲモニー状態であるとすると、たとえば英仏植民地戦争-1763パリ条約に代表されるように、ヘゲモニーは、<生産・商業・金融>という勝ちパターンを握る初期段階で戦争を前提に生産面でのアドバンテージをとらなければ成り立たないような、世界経済としては未成熟段階的なものではないか?」という疑問がもたげる。対して、オランダ型のものは生産面でのアドバンテージにおいても戦争を特に条件としない。このことから同じヘゲモニーという言葉でくくられつつも両者の間に質的な違いが浮かび上がる。あるいはヘゲモニー=(軍事的威力による強制を伴わない間接的)覇権にもいくつかの種類があるのではないか?もしくは、そもそもヘゲモニーという未完成な概念でくくる必要があるのか?

その辺りの違いに軍事・経済といったパワーポリティクス的要素だけでは測りきれない文化的要素としてグラムシが従来つかっていた意味でのヘゲモニーという言葉が指す領域が絡んでくるのかもしれない。グラムシ的にはヘゲモニー、ウォーラースティン風にいえばジオカルチュア、ウェーバー的にはエートスといわれる領域。政治体制のいしずえとなるような政治的インセンティブ(大義)を構成する精神と、それらにもとづいてつくられた政治制度や政治制度の素となるような思想・教育(ex.文化教育、市民社会、民主主義)。

そういったジオカルチュアの構成の変化が政治的大義の変化としてあらわれ政治的決断の最終決定のよすがとなっていたのだろう。具体的にはキリスト教的大義から近代国家的大義への変化、近代国家的大義のなかでも「国家的大義の初期としての神授された王権の霊威を受け継ぐ国家の大義」と「商人的自由主義という大義」の相違。そういった違いがそれぞれの国家幻想のいしずえとなり、それをもとに国家体制がつくられ、時として戦争という選択肢もとられても大義のもとに賛同を得ていった。


以上から絶対王政や中央集権、国民国家やそれらの部分条件としての啓蒙主義も「合理主義」や「近代」に向かって絶対に必要だったものではなかったように思われる。それらは戦争がまだ優位な選択であった時代に適した選択肢であっただけで、一定の偶然が絡みつつそれが成功し、相対的に勝ちパターンに達したというだけだったのだろう。

そこからすると啓蒙主義や中央集権、国民国家を歴史の必然とする考え方は、パクス・ブリタニカ時代のイギリスの覇権を<進歩>として後付け的に正統化するためのアングロサクソンを中心とした進歩史観だった、ともいえるかも。





▽ウェストファリア条約を政治史側面からというよりは経済史側面からの近代化の記念碑としてみる



そういった視点から見ると80年戦争、ウェストファリア条約の意義もまた違ったものに見える。

ウェストファリア条約はおーざっぱにはハプスブルク神聖ローマ帝国と教皇権からの他の国の独立(主権確立)であり、それまで父なるキリスト教の家に同居していた兄弟が巣立っていった記念碑と思えるけど、そもそもあの戦争が生じた大きな流れとしてはあらたな都市国家と商人同盟勢力(ネーデルラント→ユトレヒト)がそれまでの皇帝権やその御用同盟(ハンザ)からより自由になることを目指したことにある。

皇帝や王、あるいは教皇といったカトリックの宗主たちがプロテスタント系商人資本にきつく当たったのは、宗旨が違うということもあるだろうが、自分たちが商人に莫大な借金を負っていたことからの引け目もあったのではないか?そこからすると80年戦争は「領邦国家による主権独立の記念碑」のみならず「商人(資本、ブルジョワ)が王や教皇、皇帝といったところからより自由になれた記念碑」ともいえる。それは単にオランダによるスペインからの独立戦争というだけではなく…。

背景として、大航海時代の到来から株式会社が設立され投資先が増え、同時期に新大陸からの銀鉱増加、人口増加に対応してヒト・モノ・カネ(商業)の規模が増え、複雑化し商人のプレゼンスが増したことなども考えられる。

英仏の重商主義はネーデルラント→ユトレヒトに代表されるこのような商人力の台頭についていけなかったことからの対抗策、国家を上げての対商人主義であった、のでは?


商業や金融をもとにどのようにして商人が力をつけ宗主(皇帝、王、教皇、領邦諸侯)の首根っこを握るようになったか。



ここに至るまで「近世→近代化は商業化」みたいな見方、中世のヨーロッパ経済についてはレーリヒの「中世の世界経済」辺りがスタンダードのようだからぼけーっと復習していこう








(借りにくいけど。。)


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※1:「中世末期・近世初頭のドイツ鉱山業と領邦国家」(瀬原義生)PDF

太陽の没せぬ国の頃のスペイン・ハプスブルク、カール5世は南ドイツの大商人フッガー家などに対する独占非難の勅令を出す。鉱山独占非難についての勅令。

当時のヨーロッパの鉱山はケルン周辺・エルベ川流域(プラハ北)・イン川南に広がっていた。具体的な地名としてはマンツフェルト・南ザクセン・ボヘミア・ドイツ(シュヴァルツシルト、ティロル)・ハンガリー辺り。

国は貨幣鋳造用の地金を廉価で購入→地金と造幣金額の差が大きな国庫収入になっていた。ほかに鉱山保有権(税)が鉱山保有者から支払われ後の十分の一税につながる。

商人の方の利益としては鉱物の先買権を利用した利ざや商売、プランテーション的な鉱山労働周辺の日用品販売の経済圏の構築などがあった。

先買権は金融とほぼ近い形でたとえば5グルデンで買った銀の先買権は最終的に10グルデンの価値→2グルデンの儲けに

これらであがった利益でフッガー家などが戦争材用の銅を買い付けたりしていた。

鉱山労働はほぼ工場労働やプランテーションに近く労働者不満が溜まっていった

フッガー家のほぼ排他的ともいえる独占状態に対して南ドイツとヴェネツィア商人は連携して対フッガーラインを築く

フッガー家はヴェネツィアへの銅輸出を禁じられアントウェルペンへ拠点を移すも、ハプスブルクの没落とともに衰退していった








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近世における世界の一体化 - Wikipedia
http://bit.ly/HTnIBZ

この時代の国際関係史、出来事表としては分かりやすいけど、新大陸銀鉱発見からの価格革命中心な感じ。「新大陸の銀発掘が地中海からバルト海沿岸にヨーロッパの貿易拠点を移させた要因となった」とする価格革命は現在あまり信ぴょう性がないみたい。オランダのスタートダッシュに関わるバルト海貿易への記述もない




80年戦争、あるいはオランダヘゲモニーへの経済史的背景として(仮) - Togetter
http://togetter.com/li/290952

※ヴェネツィア+南ドイツからブリュージュ、アントワープ、アムステルダムに移っていった流れに関するちょっとしたメモ。銀鉱の中心地、基軸通貨の中心の変動、フッガー、




「ヨーロッパ中世の手工業と商業(瀬原義生)」
http://t.co/f3Xe4O3G
http://t.co/IDQjPG6H
http://t.co/gZS1yaqg

※フッガー、ウェルザーなど



基軸通貨(商業中心地)の流れ
http://www.onyx.dti.ne.jp/sissi/erz-143.htm

グルデン(フィレンツェ、1252〜)→ターラー(チロル、1486〜)→ターラー(ボヘミア、1520) 以後、当時のオーストリア系銀貨は「ターラー」




なぜ、オランダは17cになって急にイタリア都市国家に代るようになったのか? - Togetter
http://togetter.com/li/289478


※ヴェネツィアからアントワープ、アムステルダムに商業中心地が移る経緯を複数から。フランドル・ブルゴーニュ公が絡んでブリュージュが開発されていったことからの流れぽい。まだ途中なので以下でバルト海貿易との関係とか確認しつつ









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2012年04月14日

(自分的に)古代から近世終わりまでの見所復習


たまには久々にお習字的に



休んでる間も相変わらず世界史には興味持ってて流れで歴史小説とかハプスブルクとか100年戦争あたり見てたんだけど、流れで歴史物に興味持ってるので「?あれ?そもそもどういう関心だったっけ?」と思い、新しい鉱脈読み進める前にいちおブックマーク的にまとめとこう。



(現在はどうか分かんないけど)学校の世界史の授業、重大事件とか重要人物、年号の羅列と暗記的なものだと分かりにくいような、「ナニがドウなってこういう結果になった」って歴史的事柄の意味、関係性を物語ってくれるようなもの。最近の関心はそういうものだったのだなぁ、ってあらためて。

その中でも代表的なものとして、<なぜ、科学や資本主義を基本とした市場経済で西ヨーロッパは覇権をとっていったのか?>、というのがある。

ヨーロッパなんかは世界史的に見れば弱小なところで、古代でもローマが興隆するまでは東方騎馬民族や北方のゲルマン、海賊やらに脅かされていたし、中世に入っても北方からの海賊、東のオスマントルコなんかにやられてきた。オスマンに関していえば近世ぐらいまではずーっとやられてきたわけだし。。

なので、「中央アジアや中東に遅れをとってきたヨーロッパがいつの間に?」、ってなる。

そういうのに対しては「火薬と羅針盤ゲットして大航海時代、植民地とってきてなんか産業革命してるうちに科学で先行して(∩´∀`)∩ワーイ ヨーロッパは神に祝福された土地だからハッテンして当然だったもんねー」みたいなのがなんとなくの理解なんだけど、、それだと「なんで植民地とれたんや?」とか「なんで産業革命できたんや?」「なんで科学根付いたんや?」とかの疑問は説明されてない。

なので、その辺も含めて「ナニがドウなってこういう結果になった」って説明が欲しくて世界史見直してる、というか、歴史を見直す中で普遍的パターンを見出して現代に適応できないかなぁ、って思ってるわけだけど。まぁ社会システムの歴史的考察みたいなの。そのあたりの関心で世界システム論とかぶるんだろけど、世界システム論だと世界経済システムが中心で軍事史のほうの理由は弱いように思い不満だったり。なので最近見つけたW.H.マクニールというのは鉱脈だったなぁ、と。マクニールだと「ナニがドウなってこういう結果になった」って説明がありそうなので(ヨーロッパ中心でもなく、中国やらオセアニア、インドも含めた世界の関係性の連関から)。ただ、ウォーラスティンやその元ネタのブローデルも「ナニがドウなってこういう結果になった」って説明を他の角度からしてくれてるみたいなので地味に見ていきたいなぁ


まぁ、なので未読段階でぐちゃぐちゃいうよりもそれらを読んでいって「覚えきれないところ」「書き出さないと自分の中でうまく整理できないな」ってところだけblogにでもしてけばいいのだろうけど。とりあえずおーざっぱなヨーロッパ史(つか、世界史からんだヨーロッパ史)の流れみたいなのでできるだけ資料見ないで書いてみよう。


以前にいちおまとめたのがこの辺


ヨーロッパ中世から近世の終わりまでのおーざっぱな流れ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223715899.html


「古代」だとペルシャがまず強くて、それに対してギリシャとかスパルタがバルカン半島ら辺りでワタワタしてて… そこからしばらくしてほかの民族からは見捨てられてたマイナーな土地からローマが興隆していく。ローマなんかも最初は弱小だったけど、エトルリアとかギリシャとかほかの国の良いところを取り入れてなんとなく強くなっていった(@塩野七生)



(ローマはあまり見てないので飛ばすとして)そんな感じで共和制から帝政経て経済・人口・行政・軍事のバランスがうまく保てなくなったローマが瓦解、西と東の2つに分かれる。そのうち東はそのまま独立してて東ローマとかビザンツ帝国とかになってったんだけど、西ローマは事実上瓦解、後ろ盾を失ったローマ教皇庁が困る。デーン人とか来るし…。ここで北のほうでけっこうな版図を誇っていたフランク王国に頼ることになる。フランク王国も相続問題で国が分かれて西・真ん中・東の3つになる。ネウストリア(セーヌ流域)、ブルグント、アウストラシア(イン側流域)、それぞれ、フランス、イタリア、ドイツの基礎となる。ブルグントはブルゴーニュだけど、アウストラシアなんかもそのまんまオーストリアなんだろか?…まぁそれはいいとして、この内、東フランクのカール大帝がローマ教皇庁の求めに応じてローマに上洛、西ローマ帝国皇帝として戴冠する。と言っても、この頃にはまだ東ローマがあったわけだし、その意味ではほんとのローマ正統は東ローマだったのでローマ皇帝とはいっても偽ものだったのだけど…。ともあれ、「ローマ」の継承が成されて「中世」がはじまる。800年ぐらい。

(神聖)ローマ帝国と並行するように、セルジューク朝(トルコ)をいつの間にかすっ飛ばしてオスマン帝国が興隆、ぢみに力をつけていく。(神聖)ローマ帝国(というか連邦)はそれと競うように発展していく。

東のほうはそんな感じで(神聖)ローマ帝国の皇帝を中心とした連邦国家 vs. オスマン帝国て感じだった。ちなみに「神聖ローマ」の「神聖」は「教皇にご免状もらってなくても最初から神聖なる霊性を備えた皇帝が統べる帝国」の意味らしく王権神授ぽい。教皇 vs 皇帝な叙任権闘争の流れから出てきたもの。「帝国」のほうも後世から見るとそこにつらなる国家(領邦)は特に絶対的忠誠誓ってたわけでもなく、封建領主として皇帝の意にそわないことも多々あったようなので「緩やかな連合」みたいなイメージぽい。オスマン帝国と同じ(か、オスマンのほうが中央集権できてたか)。

中世から近世終わりまでのこの時代の政体は、



神聖ローマ-皇帝      ローマ教皇庁-教皇


選帝侯           枢機卿





伯(公爵>伯爵>男爵)   司教


              司祭(司祭>助祭)



みたいな感じだった


最初に教皇庁がカール大帝に頼ったとき、諸侯から大王→皇帝という権威付けと引換にその要請を受けた。

中世というのは諸侯による下克上上等な暴力世界なので。封建しているからといって単なる土地と軍事出動の双務的契約関係なので裏切るし、二君に仕えたりもするし。なので、王や皇帝というのは常に諸侯による背反に手を焼いていた。そういった背反に対する権威付けとして皇帝の位は必要だった。

また、もう少し時代が下ってからは領邦を守り行政するための監督官として「伯」(日本の守護大名みたいなの?)を置いたのだけど、これらが相続のうちに自分たちの土地を拡大していって王権の対抗勢力になるのを恐れて、「一代限りの監督官」として司教を当てることとした。カトリック司教は妻帯できないので。

こうして皇帝側は司教を地方行政官として自由に叙任したくなったのだけどそれを教皇庁側は許さず、また「皇帝の戴冠も教皇が司る(=皇帝より教皇のほうが上)」としたため「世界のほんとうの王」の座をめぐって皇帝-教皇間の叙任権闘争がつづいていくこととなる(cf.カノッサの屈辱、アヴィニヨン捕囚、薔薇の名前)。この叙任権を基本としつつ実質は荘園や王権などの相続権をめぐった駆け引きが王や諸侯も巻き込んで続いていく。ちなみに司教など坊さんも荘園持つことできて、大司教なんかは実質的には大公みたいなものだから大貴族の次男なんかがなってた。なので「神学を修めて司教になる」は単に「坊さんになる」というよりは政治的な意味があった(cf.「チェーザレ」)


「主権」というのはこういった叙任権やらをめぐって「一定の領邦(cf.国)」に対して皇帝やら教皇やらに文句言わさない、って権利。「オレの縄張りについては他の国から文句言わさない」っていってもいいけど。


しばらく時代が下ると「俗界の王としての皇帝は教皇の叙任を待たず」みたいな感じで皇帝は8人の大貴族や司教による選帝侯から選ばれるようになった(cf.金印勅書)。同様に教皇は枢機卿によるコンクラーヴェによって選ばれる。枢機卿は教皇庁の実質的な行政の最高長官、大臣、外交官みたいなものか。後にリシュリューやらマザランやらがフランスに輸出される。



その他、社会保障-弱者救済のNGOとか、知識・文化の中心として教会が機能してたところもあったのだろうけど



そんな感じでゆるやかに「キリスト教連邦」みたいなのが外枠を包み、その下に「神聖ローマ(元東フランク)帝国領」「西フランク王国領」「ブルゴーニュ-フランドルライン」みたいなのがあり、それらを皇帝や王が封建的に統べ、公爵や伯爵が下克上を狙う。皇帝や王はそれらに対抗するために「特権」を付与する代わりに有力商人や他の貴族、坊主の協力を仰いだ。


そういったヨーロッパ政体システムの相転移みたいな形でオスマン帝国の政体があった。あるいはその逆にオスマンの相転移がヨーロッパのシステムだったか。



なので教科書的に有名な中世の大きな事件というのは「夷狄」「異端」「相続」「新しい領土」なんかに絡む。たぶん、この時代は農業が産業の中心だったから「土地(荘園)」と「人口」=「財産」て感じでほかに財産的なものがなかったので、そのあたりをめぐっての争いが中心になったのだろう。


「夷狄」であり「異端」だったのがオスマン帝国との戦い。十字軍は基本的にオスマンとの争いだったが、東ローマの都コンスタンティノープルの陥落をもって一旦「中世」は閉じる。

「異端」という名のもとに十字軍を派遣しヨーロッパ内の新たな領土統合になっていったのがカタリ(アルビジョア)派討伐とフス戦争だったかな。カタリ派にしてもフス派にしても特に悪魔信仰というわけでもなく、当時、俗に腐敗しきっていたローマ・カトリックに対して原理主義的清貧を説いただけのようだったので後のルター派やカルヴァン派の宗教改革とそんなに違いがなかったように思うんだけど、あの時代では「異端」とされて潰された。多分この辺はそこで語られていた内容の是非ではなく、当時の政治経済的背景から「異端」ということで周りが合意し、戦争を起こして分捕ることで領土を増やそうとしたのだと思う。実際、アルビジョア十字軍の意義は、異端討伐というよりはそれまで手つかずだった南フランス(オクシタニア)地方をフランスが統合できたところにあるようだし、フス派のボスニア(チェコ西)は当時のヨーロッパの銀鉱山の中心だったし。

「相続」に絡んだイチャモンとして有名なのはいわゆる「英仏100年戦争」。100年戦争というのは後世に付けられた便宜的な呼び方で、当時戦ってる人たちにはそういう意識もなかったのだろうけど。発端としてはフランスの西海岸、ブルターニュ・アキテーヌ辺りの相続権問題。当時は政略結婚で近親相姦上等だったんだけど、本来禁じられていたそれを金の力で教皇庁にゴリ押ししつつ、「なんかイケそう」ってときになると外側から「オレのほうがそこを相続する正統な権利がある」といってみたり…。100年戦争ももともとはフランス西海岸の相続権問題だったり、あるいはもっと古い「ノルマンディー公の領土としてのイングランド」絡みな話が掘り起こされたり。イングランド側が「あそこの嫁と結婚してるからアキテーヌの相続権はオレのもの」といえばフランス側が「っつーか、そもそもイングランドはノルマンディ公領だからフランスの領土だろ?」みたいなこといって、逆にイングランドとしても血筋的にフランスの王としての権利みたいなのを主張してぐちゃぐちゃになってたんじゃないかな。。(うろ覚えだけど) なにせ近親相姦上等だから主要王族は兄弟的な感じだったし。 そんでまぁぐちゃぐちゃ長々と継承権戦争、つかなんのために戦争してるのかも忘れた頃にようやくフランスが最後の戦争に勝ってアキテーヌもブルターニュもフランスのものにした。あと、この戦争で騎馬戦術に対する長弓戦術が確立されて行ったり。

なので、俯瞰で見るとハプスブルク神聖ローマ帝国を中心とした連邦がオスマンと戦っていたのに対して、フランスはイングランドほかと戦う中でうまいこと自分の領土を西と南に拡大していった時期だったといえるかも。まぁ、その後ハプスブルクはスペインと婚姻し、うまいこと新大陸の銀鉱やフランドル地方の毛織物技術をゲットしたのだけど…(ブルゴーニュ以外かな)



教科書的にはその辺が中世の重大事件なのだろけど、そういった政体絡みの事件よりも重要だったように思えるのが農業や軍事技術上の革新。

中世はペストなんかで大幅に人口削られたけど、レンズ豆の開発で一旦落ち込んだ人口が回復、さらに倍みたいになったり。あと、麦なんかもあるのかな?まぁ、この辺はマクニールの読むけど

軍事的には馬の鐙(アブミ)が開発されたことで両手を離して馬に乗れるようになり、馬に乗ったまま槍で突っ込むランスチャージ戦法が戦争の中心になった。もそっと正確には「両手を離して馬に乗れるようになり」というよりは「ランスチャージ後の反発衝撃を鐙で受け止められる様になったので、振り落とされず全力突撃できるようになった」。



そんで、コンスタンティノープルの陥落で「近世」になっていくのだろうけど、この時代は政体的には宗教改革が中心事件となっていく。というか、宗教改革を発端とした「ローマ教皇庁-神聖ローマ帝国」の旧体制(アンシャンレジーム)からの脱却。なので「ハプスブルク=神聖ローマ帝国の黄昏」と「絶対王政の確立」辺りが近世の終わり。その意味で30年戦争の決着(ウェストファーレン(ウェストファリア)条約)が「近世の終わり」的なメルクマールになるかと思うんだけど、ウェストファリア条約が結ばれたからといって即神聖ローマ帝国が瓦解したわけではないし、教皇庁の影響力もある程度健在だった。ウェストファリア以降の様子は「ハプスブルクの宝剣」でも描かれれていてハプスブルク-神聖ローマは健在だったし。 

これはあくまで従来の「近世」などの区切りが政体を中心とした話であって、経済や技術などの区切りに依ってないからのように思う。なので、実質的に時代の変化(エポック)としてインパクトがあったことと、いちお教科書的大事件として扱われることに差が出てしまうのかも。なので経済史(世界システム論の歴史観とか)、農業史、軍事史など、なにを中心として見るかによって時代区分は異なってくる。


「近世にあったこと」でふたたびつづけていくと、農業的には三ぽ制とかこの辺だったかな?(うろ覚えで余り覚えてない。レンズ豆の時期だったかも。まぁマクニールのみつつ復習するし) まぁとりあえず農業技術が上がると人口増える。


経済的にはスペインの新大陸-銀鉱発見による貨幣鋳造量の増加が資本主義経済の礎になったみたい。それまではオスマンのほうが商業的にも優れていたようなんだけど、銀が足りなかったので貨幣を多く作れずにデフレかなんかでモノがうまく回らず。対して貨幣を多く作れるようになったヨーロッパでは、人口増加にあわせてモノをどんどんつくっても経済的に勘定が回るようになった。(この辺の事情はヴェネツィア辺りの話に詳しいのだろうか。。) これで貨幣経済や資本主義、市場経済が回るように。


軍事的には長弓と長槍と軽量歩兵の混合運用がランスチャージを破っていった。

これらは独立運用ではなく軽量歩兵と合わせて、騎士の攻撃をそらしふせぎ(軽量歩兵)組織的近接防衛で槍で絡めたり叩き落としたりして足止め(パイク兵)長弓で狙い撃つ、という運用だった。長槍はローマのファランクス(密集)戦術の改良(ex.スイス・パイク兵、スペイン・テルシオ、マウリッツ方式、グスタフ・アドルフ方式)、長弓・長槍ともに農民兵から生まれていった。このように騎兵のランスチャージへの対抗戦術が増え、戦場における騎兵-騎士のプレゼンスが下がっていった。

この時代、騎士は従者などを含めて6人の戦闘員が必要で、騎士=最低5人の戦闘員をオプションする封建領主って感じだったんだけど、ランスチャージ戦術のプレゼンスが下がっていったということはそのまま封建領主の権勢が下がっていったことと相関する。対して、王は特権と引換に商人から借り入れた金で傭兵を雇い諸侯に差をつけていった。


また、王は常備軍を養うことで、あるいは養うために税制を確立させていった。それまで封建領主への年貢みたいなのはあったのだろうけど、定期的な税が当然ではなかった領民に、「王による税は当然」としたのがシャルル5世。これは「イングランドとの戦争のために非常時ゆえにやむなく」というのが最初だったのだろうけど、税によって王が常備軍を組織することが可能となっていった。ちなみに常備軍と傭兵では士気や戦術理解的にも格段の差がある。シャルル5世のときのベルトラン・デュ・ゲクランなんかは2000の常備兵(+封建領主の協力隊)で万の軍勢相手にできたようだし、オスマン帝国はヨーロッパに先んじてそれを取り入れていたのでヨーロッパに先行していたようだった(cf.イェニチェリと税制と中央集権)。常備軍によって戦力的に差を付けた王は中央集権を可能にし、封建諸侯に対して絶対王政として機能するはずだったけど。。フランス的にはちょっとコケる。近親相姦で阿呆のコが生まれていたので。けっきょくフランスの絶対王政は(戦争大好き)ルイ14世 と 官僚宰相コルベールによって達せられる。シャルル8世のときにも惜しかったように思うけど、税制を整えてなかったのかその後に続かなかった。

税制を中心とした「きちんと計画的に経済する」みたいな考えが「国家」て意識にも関係していったか。法制度と経理意識、それを基盤とした官僚制が行政にしっかり取り込まれていった(cf.コルベール辺り)


絶対王政(absolute monarchism)というのはなんか誤解しやすい言葉で、パッと聞くと「国内において王に逆らうことのないほどの強権的な中央集権」のように思えるけど、実質は社団国家だったらしい


絶対王政 - Wikipedia
http://bit.ly/IHQIhy



つまり、中世の公式「皇帝と教皇の勢力争い」+「諸侯の下克上」→「そこから抜け出るために皇帝や王は商人を利用する」なアレと同じく、「絶対王政」とはいいつつ封建的契約内容の対象を「騎士や諸侯に封土を与えることによって戦争時に騎士を派遣することを契約させる」ことから「商人ほか新興勢力に特権を付す(あるいは権利を許可する)ことによって金を出させる(それによって王は傭兵を雇ったり、常備軍を養ったりする)」ということに変えたみたい。いわば封建制度の「封土」の部分「権利」に変え、代価としての「武力」の部分を「金銭」やそれを持続的にもたらす「統治への協力」に変えたもの。背景としては資本主義と市場経済の発展や大航海時代の富によって商人ほかの一部の第三身分勢力が強くなっていたことが考えられる。

なので「絶対(absolute)王政」ってのはなんか変な感じがする。「土地封建からお金・統治協力封建へ(王はちょっと中央集権進んだ)」みたいな感じ。・・端的に「社団国家」でいいか。



あと、近世後期に入って行くと銃や砲などの火器が戦闘に使われるようになっていった。両方とも火薬を移入した結果だけど、この派生として弾道計算が必要となり関連する科学的知識(重力関連)が発達していく。



山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html


重力・引力関連というと火薬のほかに有名な羅針盤なんかも絡む。その中心の磁石-磁力というのはこの時代にはありえない力だった。「触れずに物体が動く」というのが考えられなかったから。なのでそのあたりのことはなるべく考えないように、あるいは神の存在に絡んで説明がつくようにされていたわけだけど(cf.「薔薇の名前」)、実践的な場で方位磁石を使う船乗りが磁石が一定の方角を指すときに常に少し斜めに傾くことに気づいた。これをもとに「地球ってもしかしたらまっすぐ平面なんじゃないんじゃないか?」って考え方が演繹されるようになった。


これらは神学的な考え方に対する科学的な考え方ってことだけど、そういった考え方が可能になっていったのは、アラビア圏から伝わった抽象言語「数字-数学」の影響があったか。恣意性の低い数字を用いることでより多くの数(より多くのエネルギー、資本の流れ)を扱えるようになった。

科学的知識、合理的考え方、あるいは理性に基づき自分で考える思考の下地となったものとして、数字と数学の他に俗語革命の影響も強かったのかもしれない。

それまでは知識というのはラテン語を中心に教会から聖書を通じてしか学べないものとされていたけれど、俗語の文字使用によって自分たちの経験知を反省し、相互共有し、演繹して思考を深め、実践的に確かめ記録していけるようになったこと。それらは宗教改革へと至る検証意識の礎を築いたし、啓蒙主義と呼ばれる理性主義へのきっかけともなっていったのだろう。


ただ、ルネサンスと呼ばれる文芸復興はよくわからないところがあるけど。あれは復興・再生ということだと「(中世の暗黒からの)ローマ(のような文化的豊かさへの)回帰」ということになるのだろうけど、たぶん俗語革命的な時代性も絡んでアラビア圏の知識の応用とヨーロッパ的知識の融合みたいなところがありそうな。透視図法関連の話はちょっと忘れたけどそんな感じじゃなかったかな。。まぁ「ヘレニズムはルネサンスに多大な影響を与えた」とかいうし。あと、やっぱ経済的に豊かになったからそういうのできたのだろうな、と(cf.メディチ銀行とか




この時代で一番重要だったのは「スペインの新大陸-銀鉱発見 → 資本主義経済の礎に」ということだったように思う。



この辺、ふつーは貨幣量上がるとインフレになるだけのように思うけど、


価格革命 - Wikipedia
http://bit.ly/InhWdF


価格革命(かかくかくめい、price revolution)とは、大航海時代以降の世界の一体化にともなって、16世紀半ば以降、メキシコ、ペルー、ボリビアなどアメリカ大陸(「新大陸」)から大量の貴金属(おもに銀)が流入したことや、かつては緩やかな結びつきであったヨーロッパ等各地の商業圏が結びついたこと(商業革命)で需要が大幅に拡大されたことで、全ヨーロッパの銀価が下落し、大幅な物価上昇(インフレーション)がみられた現象をさす。なお、川北稔は、価格革命の要因を16世紀西欧における人口急増に求めている[1]。

これにより、16世紀の西ヨーロッパは資本家的な企業経営にとってはきわめて有利な状況がうまれて、好況に沸き、商工業のいっそうの発展がもたらされたが、反面、固定した地代収入に依存し、何世代にもおよぶ長期契約で土地を貸し出す伝統を有していた諸侯・騎士などの封建領主層にはまったく不利な状況となって、領主のいっそうの没落を加速した。それに対し、東ヨーロッパでは、西欧の拡大する穀物需要に応えるために、かえって農奴制が強化され農場領主制と呼ばれる経営形態が進展した。

また、それまでの銀の主産地だった南ドイツの銀山を独占していた大富豪フッガー家や北イタリアの大商業資本の没落をもたらした。




結果的に落ち着き、その後のヨーロッパのジャンプアップにつながったということはマネーに見合う農業技術の革新、生産増加とかあったのだろうか?(東欧が西欧の食物庫になった、みたいに書いてあるけど)

あるいは、商業革命つか喜望峰ルート確立でオスマン帝国飛ばして商売できるようになったことでマネーに見合うモノを輸入できるようになったのか?


大航海時代 その9 商業革命と価格革命 - 今を知る為の歴史探求
http://blog.goo.ne.jp/abc88abc/e/d899f812e848ecca935642185c710f2f


それでも「人口養うだけの食料は?」って疑問は残るけど…プランテーション作物なんかが食料需要満たしていったのかのぅ。。





16世紀価格革命についての疑問(飯田泰之「歴史が教えるマネーの理論」) - 玄文講
http://d.hatena.ne.jp/under5/20070920/119098733


ここ的には「貨幣量の増加は南米の影響以前に中欧の銀採掘量が増えていたこともある。あと、貨幣の改鋳も増えた」ってある






とりあえずこれで「固定した地代収入に依存し、何世代にもおよぶ長期契約で土地を貸し出す伝統を有していた諸侯・騎士などの封建領主層にはまったく不利な状況とな」り、「資本家的な企業経営にとってはきわめて有利な状況がうまれて、好況に沸き、商工業のいっそうの発展がもたらされた」ってことなので、この時代の宗教改革が「異端」で片付けられずに影響力をもっていったのはこういった新興勢力の経済的台頭が背景にあったからではないかの。




ウォーラースティンの世界システム、世界経済の一体化論の見方は「経済基盤が地代収入から資本家的な企業経営に変わっていった」ということなんだけど、これによって「封建騎士的な『土地の地代収入のために戦争する』という考えから、企業経営に有利なリソースを獲得するために戦争も一手段として考える」という風に国家政策のパラダイムが変化したのだと思う。<戦争(暴力)から経済へ>っていうか<直接戦争して略取しなくても稼げることを意識して、戦争オプションを含んだ外交戦略を根本的に変える>というように。





アブミの時代から槍や飛び道具の時代へ変わることで騎士の時代が終わったように、土地とレント(地代)というモノを主な収入源とした時代から権利と資本という概念的なものに基づいた時代へ変わることで貴族から有力商人へと権力のイニシアティブが移っていったか





世界の一体化 - Wikipedia
http://bit.ly/HTnTNr




近世における世界の一体化 - Wikipedia
http://bit.ly/HTnIBZ











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タグ:歴史 世界史
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2011年10月10日

山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」



<ヨーロッパ近代の覇権の礎となったものとはなにか?>と問われたとき、「科学」は間違いなくその答えの一つとなるだろう。「科学」というか「科学技術」。

ただ、「科学技術」といっても単に知識体系が変わっただけでは構造的には宗教と変わらない。では、科学と宗教を分けるもの、とはなにか?


山本は応える、「それは単なる理論部分の挿げ替えではなく…


「科学」と「技術」ではなく、客観的法則として表される科学理論の生産実践への意識的適応としての技術



こそがこの時代のパラダイムシフトであった」、と。



こちらの言い方をなぞればエピステーメーとしての理論(体系)とテクネー(技術)としての実践知



一六世紀文化革命 - 池田信夫 blog(旧館)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/88ea8eb285d35a891527985519ab84fd

16世紀というと、ルネサンスなどの芸術や人文学についてはよく知られているが、近代科学はまだない時代だと思われている。著者は一次資料を使ってこうした通説をくつがえし、16世紀に起こった文化革命が科学革命の基礎になったとする。その最初のきっかけはグーテンベルクによる印刷革命であり、それによって起こった宗教改革、そしてラテン語から日常語による出版という言語革命である。


それまで職人の勘と経験で継承されてきた技術的知識(ギリシャ語でいうテクネー)が、日常語で出版されることによって学問的知識(エピステーメー)と融合したのが16世紀の特徴である。特に経験を実験という科学的方法に高めることで、それまでの演繹的推論だけで構築されてきたアリストテレス自然学を帰納的に反証する方法論が確立した





ちなみに「エピステーメー」という語彙を使用した時点でこの捉え方は間違ってるわけだけど



エピステーメーというのはこちらにもあるように


ミシェル・フーコーの「エピステーメー」について誰か分かりやすく説明していただ... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1218534207

http://bit.ly/qyjjOT


メタ認知領域での一定の知の枠組みがあるとして「それが時代ごとに変わる」という問題認識を含む語彙。だから、この語彙をつかった時点で「科学」も「宗教」(キリスト教)も構造的には同じという相対主義的感覚がでてこないとおかしい



実際、西洋の知というのはそういうふうにできあがってきたようで、理論-論証知の領域としてはキリスト教-神学の文化圏が担ってきた知の表出された部分が科学的な語彙に変わったにすぎないところがあるように思う。おーざっぱな理解だとラング/パロールのパロールの部分の語彙が変わっただけ。知のディレクトリ構造としてはそんなに変わってない。

また、神学の内部でも近代哲学や科学に通じる形而上学と経験主義間の論争(闘争)が行われていた。


坂部恵『ヨーロッパ精神史入門――カロリング・ルネサンスの残光』、坂口ふみ『〈個〉の誕生――キリスト教教理をつくった人びと』 - 旅する読書日記
http://d.hatena.ne.jp/katos/20111007/1317981119


「薔薇の名前」と普遍論争
http://bit.ly/qpyBvi

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本書の問題意識というのは「エピステーメー」の説明リンク先にあるような単純な進化論的視点、知の単線的進化論的視点への相対主義も含み、同時にエピステーメーとしての「科学」がいかに偶然的に時代を代表する知の体系となっていったか、ということを改めて素描しなおしているところにある。


大事なのでもう一度言うけど「進化ではなくて適応」であり「必然ではなくて偶然」なのだ、現在我々の居る科学文明とは。



科学とは科学的なエピステーメー(理論)と、その樹形図的知識を掘り下げていく技術的な知の実践といえる。前者は数学(抽象言語)や自然言語によって論証過程を経た後「科学理論」として体系づけられ、後者は実験やそれぞれの専門職でしかるべき過程を経た後に実証されていく。後者の「しかるべき」過程が複雑なため専門的な知識、すなわち技術的な知識が必要となる。


一部の理系は「科学=実験的実証」としての認識しかないため後者の過程ぐらいしか頭にない。実際は物理学でもおーざっぱに理論と実験に分かれるようだけど


大学の物理学科について急に語りたくなったので語る。
http://anond.hatelabo.jp/20110929232831






さきほど「科学と宗教は構造的にはそんなに変わらない」「時代を代表する知の代名詞がすげ変わっただけ」みたいな言い方をしたけど、「現場・実証的知識が理論にフィードバックされるようになった」というところでは違いがある。それまでは形而上に造られた神の法としての自然の摂理、完全なる「第一原理」を読み解くことのみが「学ぶ」ということで「それを修正する」という発想はなかったので。あとは物語的恣意性のもとに限界が定められていた抽象的思考の領域(ディレクトリ)が拡げられた、ということ。この辺りが前時代の知識体系との違い、といえるのかもしれない。



そういう意味で言えば16世紀周辺におこった宗教改革的ラディカリズムもそういった「実践知の理論への反映」という機運を受けたものであったと言え、「宗教の時代から科学の時代へ」とトレードオフしたのではなく、宗教も含めて知の体系全体に変化があったのだといえる。だから「科学/宗教」っておーざっぱな区分けもおかしくて、知識体系の変化、として考えたほうがスマートなように思う。おそらくウェーバーが射程に入れていたと思われる知の体系の根本的変化と社会構造の変化の相関。あるいはマンハイムの知識社会学 / 構築主義的な「社会のその時点での知のパラダイムは一見定式的で固定的、必然的なものに思えるが幻想である」という認識


社会構築主義 - Wikipedia
http://bit.ly/hwhkko


知識社会学 - Wikipedia
http://bit.ly/qg1Sp7

カール・マンハイムはシェーラーの非歴史的な人間論に批判を加え、歴史的に拘束される知識を分析しようと試みる。またマルクス主義のイデオロギー論を発展させて知識社会学の柱とした。マルクス主義のイデオロギー論では、自身の立場に敵対する思想が存在の拘束を受けたイデオロギーとして暴露される。マンハイムはそのような党派的な論難の道具としてイデオロギーを捉えるのではなく、自身の立場をも含んだあらゆる思想的立場をイデオロギーとして把握する。意識の存在拘束性という観点を党派的な立場から解放し、研究方法として用いようというのである。すなわち、自己の立場にも存在拘束性を認める勇気をもつことで、イデオロギー論は一党派を超越した一般的な社会史・思想史の研究法としての知識社会学に変化するというわけである。

こうして、マンハイムの場合、イデオロギーは思想的武器としての意味合いを払拭され、存在に拘束された一般的な「視座構造」を意味するようになる。マンハイムはこうした知識の存在拘束性の理論としての知識社会学の担い手を、階級的帰属による束縛から免れていると彼が考えた〈自由に浮動するインテリゲンツィア〉に求めた。組織化されたインテリゲンツィア(マンハイムが念頭に置いていたのは修道士)は権力を有する特権的な知識人の学説に追随することしかできないが、組織から解放された自由なインテリゲンツィアは、特権による知識の改竄の呪縛から逃れて自由に発言できるというのである。




形而上的な思弁的知識、論証知(理論)は本来「イデオロギー」のように「権力の一定の座から一方的なベクトルで発せられる恣意的なもの」ではなく、もっと中立的で構造的な運動性を持つ。それが一定の座に固定されてしまうのは知の希少性と権力-組織的理由に依る、ということ。現在だと被曝や原発に対する不安を契機とした専門知に対する希求と、知の権力の関係から知識共有がうまくいかない現状があるけど


民主主義と学者・専門家の役割 - Togetter
http://togetter.com/li/195281




おーざっぱにはゲマインシャフト(農村的社会における思考および価値の体系)からゲゼルシャフト(都市型社会における思考および価値の体系)への変化。そして、あるいはその先の知の枠組みの大々的な変化(弁証法的発展)があるのか?と予感させるもの




それが某人に「何がいいたいのかさっぱりわからず」「大して斬新な話ではなく」といわれた山本の問題射程のように思うけど、これも個人的な関心が挟まってるので勝手な読み込みと言えるか。




とりあえず以下は上記してきた大風呂敷の各論に移る。











▽形而上学から形而下学、ギリシア的「頭」の理論から手の技術の再評価へ



中世の知や行政組織などの体系はローマのそれに依る、ということで。行政組織はローマに倣っただろうけど学問的な体系の基本はギリシアに依る。人文知の基本はギリシア的な「神-自然の法則を読み解くこと」であり、そのための術理として自由七科が設定された。「文法・論理・修辞(レトリック)」という自然言語を使って思考するための基本「3学」と「音楽・数学・天文学・幾何学」という自然を知るための「4科」。前者は内面からアウトプットするための学、後者は環境からインプットするための学問(術理)といえる。


リベラル・アーツ - Wikipedia
http://bit.ly/o7RJ6X


いわゆる「教養」はこれらを処源とするわけだけど、以前に見たようにもともとギリシアのストア学派から収斂していった弁論術ほかの思考の技術は実践的な知を目指していた


古東哲明、2005,「現代思想としてのギリシア哲学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218962376.html


中世のそれはソフィストの精神を忘れ、ギリシアのものが表面的に受け取られ教条化し固定化してしまったために当初の目的の実践知から外れて行ってしまった。「中世の暗黒」のままヨーロッパ内部は混乱したまま、ヨーロッパの外界からの知識は「蛮族のもの」としてなかなか受け入れられず知識・文明的に周辺地域に対して劣位にあったのが中世→近世までのヨーロッパ。ギリシアの知はイスラム的マイナーチェンジを受けつつスコラ学に受け継がれ「大学の知」として継承されていった。つまり、ギリシアの知を形式的にのみ踏襲し、学としての内容を深めないまま教条化していたのが中世→近世の形而上学。そこでは医学も絵画も数学も製鉄理論も実践的な感覚から遠のいていた。



「神が作りたもうたものは完璧」「技術はそれを模倣するのみ」(人は自分では作れない) → 「神の理論(考え)、第一原理を理解することこそが本質的に意義をもつ」 → すなわち「手技は模倣に過ぎず、神の付された法則を読み解く頭脳の技こそ尊いものだ」

そういった考えに従って職人的な知識や外科医の技、商人的な実践数学も軽蔑の対象となっていた。絵画においても大部分は教会からの一定テーマの依頼であり、絵師はそれらのテーマを象るだけの「職人」であり、現在のような「芸術家」的な認知のされた方ではなかった。

絵師が芸術家として認知され始めたきっかけとして、当時の南イタリアが貿易的に栄え始めていた、ということもあるだろうけど「絵師が独自の専門知と専門技術を身につけ、模倣とは言わせないだけのオリジナリティを発揮しだしたから」といえる。その基本となったのが透視図法(遠近法)という絵画技術の開発であった。


二次元平面に3次元空間の情景を射影する技術、遠近法(透視図法)の発見はブルネレスキに始まる。最初は絵師ギルドの秘伝的技であった透視図法に幾何学的な基礎を与え、絵画を学問たらしめていったのはアルベルティ。職人と言うより人文主義的学者であった。


遠近法 - Wikipedia
http://bit.ly/q0iRfK

レオン・バッティスタ・アルベルティ - Wikipedia
http://bit.ly/n039V0


後にサミュエル・エドガートン・ジュニアをして「16世紀知覚革命」といわしめた遠近法の発見と理論化により、透視図法は分解組み立て図法、断面図砲、透明図法、画法幾何学などに応用され工学や機械学、建築設計の基礎を作っていった。

数学としての幾何学的な空間把握 → 2次元上での3次元把握はルネサンス当時ですでに現在のコンピュータグラフィックに通じる表現を可能にしていた。デューラーによる直行三平面への平行射影や図像の回転変換は、現在のコンピュータグラフィックにおいて一度ひとつの物体を措定すれば数値変換によって様々な角度からそれを投影できる技術に通じる。


アルブレヒト・デューラー - Wikipedia
http://bit.ly/oF0Day


アルブレヒト・デューラー-主要作品の解説と画像・壁紙-
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/durer.html


ルネサンスの代表的偉人はレオナルド・ダ・ヴィンチのように思われがちで、レオナルドの代表的な仕事は絵画や彫刻などといった芸術作品にあると思われがちだけどこれは二重に間違っている。

たしかにレオナルドはある意味天才であったが、それは分析的な探究心を中心にした野放図なものであり、それらを通じて蒐集していった知識は体系だてられず、ほとんどは彼のみが判読可能なメモのようなものたちだった。レオナルドは芸術家というより職人であり技術者であった。その上に博識がくっついたわけの分からない香具師。なので、いっときイタリアの傭兵成り上がりスフォルツァに仕えていた時のセールスポイントはすべて技術者としての能力や発明の才能であった。絵画や彫刻は末尾の付け足しのように書かれているに過ぎない。そのときの様子は「チェーザレ」にも少し表されている。





レオナルドの知が解剖学的探究心に通じていたことから芸術的なものの骨格は解剖学と捉えられる向きもあるのかもしれないが、それはレオナルド個人の科学的・技術的興味・探究心に終始し、そこからの発展は望めなかったものといえる。


大事なところなのでもう一度きちんと言えば、絵画が「学」としてきちんと体系付けられ、定式化した基礎は解剖学ではなく数学(幾何学)にある。


レオナルドの解剖学的関心は解剖学そのものとしては意義があったともいえるけれど、3次元投影技術の透視図法の理論的発展にはあまり意味を持っていない。解剖図においてレオナルドが編み出した前面、背面、側面の三方向からの視点をならべて表すレイアウトや、骨格図にたいして、射線で陰影をつけることで立体感を表現する手法は解剖図の描写にとってエポックであったといえるが、その段階ではこの方法はまだ彼独自の職人的な技であり、知識として敷衍していなかった。透視図法の理論的発展と敷衍に役立ったのはデューラーの書物であり、それは従来秘密にされていた絵画ギルドの専門知、直行三平面への三次元物体の投影法をオープンソースとした。レオナルドはどちらかというと印刷や「他人に伝えること」をバカにしており理論の発展には寄与しなかった。



透視図法の工学や機械学、建築設計、解剖学への応用は当時まだ字が読めなかったり、あるいは文字だけでは伝わりにくい技術を絵画表現によって伝えることに役立ち職人の知識共有を助けていった。これらは後の外科医や建築家の専門家的地位向上に寄与したといえる。




もうひとつそれぞれの職人(ギルド)の知識が専門知として認められるようになった基礎となったのは知としては数学がある。

当時を代表する数学は神の意志を反映すると思われた恣意的な形而上学であった。そういったいわば衒学的な数学と商人たちが実践的な計算手法として必要とした数学は異なったものであり、後者は軽蔑の対象となっていた。

商人の数学を代表するものがインド・アラビア数字を中心とし数字それぞれに記号としての中立性をもたらした単なる計算のための道具としての数学。それに対して当時の形而上学的な数学は自然をひとつの生き物(神の生んだそれぞれに意味的連関をもった物語)として見、物の本質と原因を問う定性的なものであった。そういった世界観においては例えば「3は三位一体の数」、「6は完全数であって神が天地創造に要した日数」、「10は十戒の数」などとそれぞれの数字に恣意的な意味が付され、それに基づいて抽象的思考や計算の自由が奪われていた。

しかし、おそらく王権と豪族との関係から商人の権益が高まったり、戦争などを通じた中東世界との接触を通じて貿易の富と商人的知としての算術計算が広まっていった。


学校「世界史」のわかりにくさと「歴史の見方」みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223226126.html


ヨーロッパ中世から近世の終わりまでのおーざっぱな流れ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223715899.html



そこで必要とされた実用的な数学は代数学だった。貿易を通じてより大きな富、数字を扱う必要が出てきたために代数学が発展していったのか、それとも代数学が発展いったからより大きな貿易ができるようになったのか定かではないが、ここで編み出された2次方程式、3次方程式を通じてヨーロッパはより大きな数を扱えるようになっていった。









▽パラダイムシフト、あるいはエピステーメーの変化はいかにして起こったか?




上記で駆け足で説明してきたように絵画にせよ商業にせよ、その界の知が学として体系化していった礎は数学と実践知、実証過程にあった。あるいはギリシア、ラテン語といった「高尚な言葉」からドイツ語、フランス語といった俗語への知識ツールの変化、もしくは詳細な絵画を介した伝達手法の研鑽、あるいは印刷技術+出版取次の発達…などなど。「知の枠組みが変化する礎となったもの」と思われる要因としてはおーざっぱにこれだけある。

そして、こちらのエントリにも記したように


bunkamura「ブリューゲル 版画の世界」展へ行ってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/158036122.html


明示的なモードやリテラシーの変化に対応するためには、社会的認識の変化のような受け皿側の変化のようなものが必要だったりする。おーざっぱに「時代精神」とでも言えるような。あるいは、キットラーだったらより細かく「新しいモードが浸透するためには、その前のモードを介した何回かの反復が必要 (ex.文字メディアの下地の音読による浸透)」というところか



むーたん:キットラー概説メモ + 音読・黙読 ら辺
http://morutan.tumblr.com/post/20792167/m-um-u

メモ2:たんぶらーのキットラー関連のつぶやき再考
http://tinyurl.com/3oj5v4c

ルーマン周り
http://morutan.tumblr.com/post/21158375
http://morutan.tumblr.com/post/21160877


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ただ、それらはある程度規定要因になったかもしれないけれど決定要因ではなかった、ということに留意したい。本エントリ冒頭述べたように、活版印刷や俗語への変化といった明示的なわかりやすい要因だけでは歴史は必然的に変化したとは言えない。明示的リテラシーの受け皿としての下地のモードの変化などといったいくつかの要因が偶然的に絡まって、すべてのメーターがちょうどいい具合に高まった所で現在の文明(システム)からすると「進化」ともいえる変化が起きた。


具体的に言えば外科的知識や職人知が共有されるためには印刷技術の発展、ラテン語から俗語へのシフトのみならず「ペスト、80年、30年戦争などの影響により実践的な医術(外科医)が見直され、社会的評価が高まっていった」ことや、その前段階として「火砲が主力武器となっていったことにより高度な計算式がいるように成った → 16世紀軍事革命 → 近代力学の形成へとつながる数学的な力学と機械学 → 戦争の拡大」などがあった。知識は「知識の系内部で自律的に発展していった」というよりも偶然性の高い外部要因によって医術や数学が発展、再評価されていった所がある。そういった機運を受けて専門知の需要が高まっていき、需要に応じてより多くの職人が必要になった。そのため元来ギルドの閉鎖的知識とされていた職人知の印刷→出版というオープンソース化が許された。単にハードとしての印刷技術ができあがったからといってトントン拍子に知が普及し発展していったわけではない。

加えて言えば活版印刷の主要技術である鋳造活字のための父型製作には金属の取り扱いに習熟した甲冑職人の技術が応用された。戦争と鉱山の街(ex.ニュルンベルク)が活版印刷を産み、この街で印刷と職人的気風に幼少期から慣れ親しんでいたためにデューラーは知識を職人に敷衍することに抵抗がなかった。




そういったいくつかの偶然のめぐり合わせで職人・商人・医者の実践知の基礎として数学や透視図法が発展していった。それらが礎となってやがてくる大きな波、後世に「科学」(science)として伝わっていく知の体系や考え方の大元を構成していったのだ。












--
実践(プラクシス)について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199514356.html


ギリシア的なイデアを目指す知と実践知の関係。学問が知の権力に流されてしまわないために




中世ヨーロッパの都市世界 - Togetter
http://togetter.com/li/170441


流通・知識職人としての商人とその知識伝承のために要請された大学(ユニバーシティ)の成り立ちなど



スティーブ・ジョブズはどこにでもいる
http://research.ascii.jp/elem/000/000/066/66264/

直近だと「ジョブズってレオナルドみたいだったな」ということで。パッケージャー+ディストリビューターということだとヒエロニムス・コックのほうが近いか




数量化革命
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「16世紀文化革命」とほぼ同じテーマ。数量化と視覚化を特にフィーチャーして
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2011年09月02日

ヨーロッパ中世から近世の終わりまでのおーざっぱな流れ


最近のエントリ絡みでボヘミアの歴史が気になってtumblrでちょこちょこ収集したり、関連でポーランドとドイツ騎士団の歴史をちょこちょこみてたりした



ボヘミアのほうは30年戦争のときのヴァレンシュタイン絡みだったり、それ以前にクーデルカの話でボヘミアと放浪人(ボヘミアン-ロマ)の関係から



屈せざるものたち: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212059486.html



Invasion 68
http://bit.ly/iZ4ttw


はもともと「ソ連(ロシア)によるポーランド侵攻(粛清)」ということだったんだけど、なぜ同じ軸と思われるクーデルカの関心にロマが関わってくるのかよくわからなかったから



それはユリシーズの瞳で見た「ライン川を登る」「スラブ民族の問題」といった指標が理解できなかったこととも絡む



テオ・アンゲロプロス、1995、「ユリシーズの瞳」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/213903209.html




いまだったらわかるけど、あれは「地中海における東西(中東とローマの文明)の折衝点であり同時に火薬庫」でもあったギリシアから、チェコ-スロヴァキアという大戦期の火薬庫を遡りつつ同時にライン川を「東西」の線引きとして遡り、来し方行く末を見る旅だったのだな



「東西」の線引きは「トルコ / ギリシア-ローマ」のほかに「マジャール(ハンガリー)・モンゴル・ルーシ(ロシア) / ローマ」なんかもあった。ローマを中心にアルプスを超えて蛮族が入ってくるのを防ぐイメージ。北からはゲルマンたちが入ってきた



というか、「ヨーロッパ」というのはもともとはローマ圏域しかなかったのだけれど、アルプスを中心として3つのエリアに分かれていた地域が統合した形


ローマだけのころは「ローマ」でよかったのだろうけど、外交によってほかの地域が蛮族(バルバロイ)じゃなくなってきたので「ヨーロッパ」って呼称が必要になったのだろう



ローマのころにはアルプスより西に「ガリア」(フランスを中心に以西)、北に「ゲルマニア」ぐらいの感覚だったのだろうけど

ガリアはケルト人、ゲルマニアはゲルマン人が住んでいた


もうちょっとするとガリアの中でもセーヌ流域を「ネウストリア」、アルプス以北イン川方面を「アウストラシア」(東の国?)、南を「ブルグント」と呼ぶようになった


ブルグントは後のブルゴーニュ地方になる


アルプスを中心にそこから流れ出る4つの川の流域にエリアができていた


アルプスの大・分水嶺(ポー/ドナウ/ライン/ローヌ)を中心とした地図
http://www.eu-alps.com/i-site/border/index.htm

http://tinyurl.com/3ogelra

(アルプスと河川と人口動態を基本にしたもうちょっとおーざっぱな簡略図ほしかったけど)


ローマはアルプスを防御線に使っていた。なので長城なんかも作ったりしてたし、後にはその防備費が国家財政を圧迫することとなる





おーざっぱにいうとアルプスを中心として北をゲルマン人、南をローマ人、東西を「それ以外」が治めていた、という感じ


ゲルマンは武の民、ローマは文の民



だからその後の歴史も「ローマ / ゲルマン / それ以外」という区分けで進んでいった。

強いゲルマンが改宗することでローマに認められ用心棒にされていったけど。フランクの王、オドアケルなんかは嫁さんがカトリックだったので改宗した。後になるけどフランスとノルマンなんかの関係でもそういうのはある



ヨーロッパ史的にはローマを中心とした時代が「古代」、フランク王国が隆盛しフランスと神聖ローマ帝国に別れ諸地域が統一されてなかった紛争時代を「中世」、地域がある程度統一されたフランスと神聖ローマの対決の時代を「近世」という




年号的にはローマが東西に別れる476年を「古代」の終わり


十字軍のタコの足食い的な流れでビザンツ(東ローマ)帝国が食われちゃった1453年を「中世」の終わり


30年戦争の終結とともに諸国が神聖ローマ・カトリックのゆりかごから巣立った1648年を「近世」の終わり、とする



「中世」はいわゆる「騎士の時代」「傭兵の時代」といってもいいので1000年間も乱世なゴロツキ時代やってたわけだ





それぞれの時代を「歴史の意味(流れ)を読み解く」風に追ってみると、「中世」というのは傭兵・騎士=いくさの時代なんだけど、そうなっていたのは農業技術がまだ発達してなかったためともいえる。「土地を一回食いつくしちゃうと次に移動 → その土地を略奪する」ってオプションしかなかったようなので。


だから基本的にずっと「移動 → 略奪」しててなかなか領域が安定しなかった


十字軍なんかは国内のゴロツキ共に外の土地を目当てさせて追い出す的な機能もあったようだし。それで最終的に「トルコ」っていうか元々ローマなビザンツが食われた


それに飽きるとある程度国力が安定してきていたフランス vs. イギリスで百年戦争したり。あれは政略結婚な血縁関係だったので実質的には王侯の兄弟げんかだった



その前段階でノルマン人の南征→フランス領にノルマン領を認められる(ノルマンディー) → 勢いに乗ってブリテン島も食っちゃう、って流れがあったようだけど


その余波でノルマン・コンクエストが起こりブリテン島は王権の下に統一、以後ヨーロッパの他地域に比べて王権が伝統的に強い地域となった(そのカウンターとして王権を警戒してマグナ・カルタ起こったり)




フランスはそういった流れの中で一時期イギリスに劣勢だったりもしたけれど、最終的に中央集権的体制を他の国に先んじて作り出し王権のもとに国家領域を安定させていった。


そういった改革はまず軍事方面で為され、それを支える形で官僚制や法制度、税制も整い、それらを有効に機能させるための前提条件として貨幣や言語が統一されユーティリティが高まっていった。




その結実がシャルル8世の光り輝くような軍団、騎兵・歩兵・砲兵の三兵が揃った軍隊だった



これと時を同じくしていまやアルプス以東の「ドイツ」的地域を中心とするようになっていた神聖ローマ帝国も同地域の統一を果たすことで国力を安定し、マキシミリアン1世の御代に強力な軍隊を備えることとなった




ここで一端「アルプス以西」「アルプス以東」の統一が為され、紛争(小競り合い)の時代が落ち着いた


というか、


地域ごとの小さな紛争というよりも統一した領域の大きな戦争の時代に入っていった。王侯の私事的なゲームとしての戦争ではなく、より国家的政策としての戦争の時代に




そういった知識と組織編成の改革を経て「近世」へと時代は移る






「近世」は中世最後の名残からフランス(ブルボン王朝)とハプスブルクの覇権争いを始まりとする



ハプスブルク家ももともとは北方から植民してきたゲルマン人の一派だった


フランク的なものが東西にわかれたとき、東欧も4つぐらいのバウンダリーに分かれたが最終的に政略結婚を駆使してハプスブルクが抜きん出ていった。流れでスペインとも政略結婚しフランスを挟み込む形で牽制するようになったり



両者はイタリア上洛をめぐる紛争で一時国力を落としたが地味に回復していった


フランスはハプスブルクに対抗するために一時期トルコと結びもしたが、大胆な軍制・政治改革を行うことで国力を上げていった。軍制改革としてはオランダのマウリッツ、スウェーデンのグスタフ・アドルフに倣ったものをルイ14世が、政治的にはコルベールの重商主義(スペイン略奪主義)


ハプスブルクはスペインの大航海時代でのホームラン、南アメリカにおける銀鉱山の発見によって調子づきカトリックを中心とした一信教、一民族主義的なものを提唱し領民に圧政を敷いていったがこれが却って裏目に出た


非神聖ローマ=カトリック圏の貴族や農民たちにとってそれらは単なる圧政であり、実質的な利益は商人との関係にあったというところで宗教改革の気運が高まっていった。

ただ、宗教改革と言ってもルターの流れでは貴族のみが利益にあずかるのみで農民は救われなかったため農民革命はつづいていった(cf.フス革命、ランツクネヒトの農民革命参戦



後のオランダを中心としたゲルマニア地域ネーデルラント(平らな土地)のユトレヒト同盟(北部7州)もスペイン-カトリックの重税・圧政に抵抗していった


この抵抗の中で南州(後のベルギーやルクセンブルク)は離反し、代表的商港の地位はアントワープからアムステルダムへ移っていった

http://tinyurl.com/3gtduea



ここで都市国家にわかれ国力が集中しにくかったオランダなどが凝集し、商人の町として栄えると共に「対ハプスブルク・カトリック」として海上略取を主戦略として力をつけていった

イギリスもこの海上略取の流れに乗っかり次の時代のスタートアップとなる



そういう意味で「近世」とは「ハプスブルク・カトリックとほかの地域」のたたかいの時代であり、ウェストファリア条約は神聖ローマとカトリック教会に対する諸地域の勝利であると同時に、商人たちの勝利であったとも言える






ハプスブルクがアウストラシア地域を統合する以前、東欧のなかでボヘミアは鉱山をもち国力を持っていた


なので本来なら他の国に遅れをとる地域ではなかったのだけれど、目立ったがゆえにつぶされていったようなところがあったか




また、ポーランドも強力で広い領土を持っていた


http://morutan.tumblr.com/post/9104420152/237-2011-08-13-23-54-46-91

http://morutan.tumblr.com/post/9104068377/5-2011-08-13-18-10-49-31

http://morutan.tumblr.com/post/9161413465/14


というか、ポーランドが東欧の中では抜きん出ていた。自由主義のもとに人々を集めていたから



プロイセンもポーランドの領土であったし
http://morutan.tumblr.com/post/8590192716/1440


ドイツ騎士団の悪行(プルーセン人虐殺など)もポーランドに粛清された
http://morutan.tumblr.com/post/8590092145/20

http://morutan.tumblr.com/post/9661300120/13

http://morutan.tumblr.com/post/9661289384




なので感覚的には「アルプス以東(アウストラシア)」の土着的盟主はポーランドであり、「民衆」を意味する「ドイツ」的なものはポーランドだったといえる
http://morutan.tumblr.com/post/9661310796

http://morutan.tumblr.com/post/9661420030

http://morutan.tumblr.com/post/9661464493


後の「ドイツ」の中核となるプロイセンは、地域的にはプルーセン人の地域をドイツ騎士団が略奪し、一旦粛清されつつ原プルーセン人とは違うエリートや商人層が入植し人口国家プロイセンを為し、いわゆる「小ドイツ」的に「ドイツ的なもの」を統合していった


「ドイツ的なもの」とは、教会(ローマ、アヴィニヨン)やフランス、神聖ローマ以外のもの

スラヴやボヘミア、マジャール(ハンガリー)を含んだ東欧の土着の人々、貴族や農民たちだったのだろう



そういう意味では「ドイツ連邦」とは本来ならソ連のようなものだったのかもしれない




おーざっぱに振り返ると「ヨーロッパ近世」とはハプスブルク家(オーストリア・スペイン)とフランス(ブルボン家)の覇権争いの時代だった

その周辺に商人や農民が配され、王権を強め敵国を弱めるために商人(財)が利用されのし上がっていった


オーストリア以北、ネーデルラント(平たい低地ドイツ)は湾に接し港をもっていたため商人の街として栄えていった


オーストリア以東は相変わらず貧農な地域な印象。そのため貧乏貴族の次男坊たちは旗本奴的に腕力を売り込んでいった(ランツクネヒト)


オーストリアから東北部はそんな感じのイメージ。十字軍破れのドイツ騎士団も駐留してたし


スイスも似た感じで傭兵(スイス槍兵)での外貨獲得を主産業とした。というか、スイス槍兵を真似てランツクネヒトが作られていった。

スイス槍兵は主にフランス専従、ランツクネヒトはハプスブルクお抱えとなった




なので、単純化すれば「ハプスブルク vs. フランス」のオプションとして「ランツクネヒト vs. スイス槍兵」があり、ネーデルラントやフランドルなどの豊かな地域がトリックスターだった感じ。いちおヒエラルキーの頂点には依然としてローマがあり社会規範の中心を担っていた




ヨーロッパ1600年の地図
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/e/e6/Europa_1600_en_kairyou.JPG



(ポーランドほか東欧の歴史読み直したらまたちょっと認識改まるかもしれないけど)







カール4世は14世紀初頭ボヘミアに生まれ、ドイツ王として選ばれた後に神聖ローマ皇帝の冠を受けた(ハプスブルクの強権以前には諸侯から「ドイツ王」として認定された後に神聖ローマ皇帝に選ばれるという過程が慣例だった)


カール4世 (神聖ローマ皇帝) - Wikipedia
http://tinyurl.com/3emqu5f



かれはボヘミアでドイツの帝国勢力を強化しようとしただけではなく、「1つの首都、1つの制度、固定的な帝国諸官庁、1つの官房用語」を設定した


これは地味だけれど同時代にローマ・カトリックがまだ十字軍を編成し南征していたことを思うと画期的だったことが実感できる



いま思うと「不思議な少年」の4巻にボヘミアとポーランドにまたがる地域と思われるロマ出身の王の話があったけど






あれはカール4世をモデルにしていたところもあったのかもしれない








--
課題:


・「移動」-「略取」と農業技術の発展の反比例的関係 (cf.黒死病後、三圃制とレンズ豆の開発によってヨーロッパの人口は倍増した)



・「ドイツ」的地域のカトリック・プロテスタント観 (プロテスタントの信教内容の実際(商業との結びつき)



・「小ドイツ」的なものが出来上がっていく流れ



・「東欧の歴史」みることで「スラヴ」「ドイツ」などの感覚を確認




--
学校「世界史」のわかりにくさと「歴史の見方」みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223226126.html




中世ヨーロッパの主な出来事
http://homepage2.nifty.com/murasaki-miyako/18.html



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2011年08月30日

学校「世界史」のわかりにくさと「歴史の見方」みたいな話

読み終わったのでいちお



傭兵の二千年史 (講談社現代新書)
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※同書に関するついったーでの関連ツイート
http://bit.ly/pvmdTR



ヨーロッパ史における戦争 (中公文庫)
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※同書に関するついったーでの関連ツイート
http://bit.ly/qSXWri


ハッシュタグのメモツイートを仕上げてから一応のまとめエントリをしようかと思っていたけれど、思ったよりしんどそうで、写経してるうちにエントリする気も失せそうなのでヤル気があるうちにザラッとエントリのほうを先に仕上げておいて写経的メモのほうは「なんだったら」ぐらいでいいや



前回はこれ


「近代」と軍隊の官僚制: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/219164793.html?1314674394




改めて見直すと全体を要約しづらいのだけれど、敢えて要約すれば今回これらの軍事史ものを読んでみようと思ったきっかけは「正史に刻まれていない歴史への視角のひとつとして」みたいなかんじだった


アナール学派的なアレで、「歴史は戦勝国や覇権国が創り上げていくもので、成文化され教科書などになっている歴史は本当の生きられた歴史/経験からすると一定のパースペクティブにしたがって都合よく編集されてしまっている」、というような問題意識



たとえばこういった世界史の教科書的な見方というのは編年体の体裁はしているけれど実質は王侯を中心とした事件を中心に並べた紀伝体であり、意味が追いにくくわかりにくい


http://www.geocities.jp/timeway/



結果として現在の中高の歴史教育はトリビアルなクイズみたいな感じになってしまっている



歴史の「意味」が追えない





「一定の偏向がかかっている」という問題は聖書的な発展史観・神の秩序にしたがった第三帝国への進化論的見方なんかにも共通する



聖書VS.世界史 (講談社現代新書)
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そこからするといわゆる「歴史」のみならずヨーロッパ的な時間意識、直線的時計時間というのもひとつのトリックにすぎないので(ハイデガーや道元なんかにもあるように本当は「いま」しかない)




「差別」とか「偏向」とか気にしてても一定のパースから見ていれば初期設定的に偏りが生じてしまう



だから、それとは別の価値観に基づいた「歴史」を見ていくことで対照化し、事実関係を洗っていく



そういう視点は歴史学に対しての民俗学や文化人類学な問題提起だったように思う



「歴史と構造、特殊性と普遍性の問題」といってもいいかもだけど



歴史学が文献学を基本とするならばそれは成文とディスクールの問題ともいえるかもしれない


明文化することで「書かれたもの」が当然化し、同時に「書かれなかったもの」がないものとされたり権威的に落ちてしまうというようなこと



文献学がはらむそういった問題に自覚的であることが(そういったものがあるとするならば)歴史学における科学的態度かなぁと思うわけだけど



Togetter - 「「歴史性」と経路依存性、歴史理論は必要?」
http://togetter.com/li/8502



「歴史性」という言葉がはらむ問題意識も似たようなものなのだろうか







閑話休題








今回の歴史の見方は「傭兵」と「軍事」からだった



従来なら王侯の華やかな活躍の中で忘れられがちな傭兵の活躍、「ヨーロッパの戦場は傭兵が創り上げてきた」



そこから見れば騎士道をはじめとしたなんらかの「イズム」によって覆われがちな歴史の実際により肉薄できるかなぁ、と思って




「ヨーロッパの」という限定は入るけど、、まぁ中央アジアや中東は今後の課題でもある






2つの書を通して学べたことはおーざっぱにいえば知のリソースの編成過程のようなものだった



おそらくウェーバーの課題的なアレ



「近代とはなにか?」ということとも共通するように思う




合理的な思考やそのための知の枠組みの設定過程がそのまま軍隊の強さに比例していた




騎士を中心として単なる力任せであった戦術とは名ばかりの「イズム」の時代から、リソースを最適運用するための合理的な枠組みの編成へ


武器と人力を維持するために兵站が、それを維持するために金が要る


強い軍隊→金を維持するために「税金」という概念が生まれ、税金を基盤した王権が「商」の波及にともなって強大化していく


そのバックボーンとして「貨幣」という抽象的概念への信頼と計算能力の涵養があった



それらと並行するように「兵器技術」が開発されていき、そこから波及するようにソフトな技術(リテラシー)も涵養されていった


過去に比べて圧倒的に数量が増し、複雑化した「人力(マンパワー)」と「兵器技術(ハードパワー)」を多岐に同時展開し統制するために軍の命令系統・階級は複雑に分岐していった(→組織論



知的財産権的なハードな技術と「アイデア」などにあたるソフトな技術の両輪が開発され、戦場に登用されていくことで力任せな軍隊の戦術←戦略←外交←政治は変化していった




そういった知の枠組みは後代からみるとオーパーツとも思えるような「その時代にあるはずがない」先進的な考えだった



「近代(モダニティ)」とされるものはそういった合理的な知の枠組み(理性)が突発的に現れては消え、また現れて進化を繰り返していった螺旋的な過程と想われる


(だからソフト面だけでいえばギリシアのころにはできていたのだろう)



古東哲明、2005,「現代思想としてのギリシア哲学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218962376.html




「科学」といわれるものも同様



その考え方の基本となる部分、ソフト面は昔も今もそんなに変わりなく、ハードな技術につながる部分での発展過程が後代と現在の地味な違いといえる






「近代」同様「グローバリゼーション」とおーざっぱな言葉でまとめられるもろもろの事象にも似たようなことが言えるように思う



グローバリゼーション - Wikipedia
http://tinyurl.com/owvoc


「世界史的に見ればグローバリゼーションは大航海時代に発する」とされているが、世界システム論的にみればモンゴル帝国なんかの影響もある



世界の一体化 - Wikipedia
http://tinyurl.com/3el2pgz


近代における世界の一体化 - Wikipedia
http://tinyurl.com/6bz7br



覇権はおーざっぱに「モンゴル → イスラム → オランダ・イギリス・フランス → イギリス・フランス・ドイツ → アメリカ+西欧+日本(G7)」と動いていった


それらは単純に「覇権国がつおい・えらい」という構造ではなく、それぞれの構造の中でそれぞれの地域が役割分担をして有機的につながっているものだった


世界の一体化 - Wikipedia
彼は、それまでの歴史学は世界史を国家や民族の「リレー競争」のようなものとして描いていると批判した。つまりそれは、どの国や民族も同じ段階をたどることを暗黙の前提としており、それゆえ、それぞれの国や民族にとって、いまどの段階にあるかを知ることが肝要となる。しかし、ウォーラーステインは、実際には世界、とくに16世紀以降の近代世界は一国史の寄せ集めではなく、一つの大きなシステム(「世界経済」)であり、個々の国や民族はこのシステムを構成する要素であって、それぞれの国の歴史は世界史の部分にほかならないとした。こうした立場に立つと、重要なことはむしろ、このシステムの内部においてどのような役割を果たしているかということになる[10]。



そういった見方からすれば世界史の教科書的に「それぞれの時代の覇権国を中心とした事件のみ教えればいい」という見方ではその時代の世界情勢は見えてこない




物流の有機的な繋がりが「経済」であるとき、それが現在ほどではないが有機的に繋がっていたことが世界史の実際であり、歴史が動いていったのは「一国の突発的アイデア」というよりは、世界システムのユーティリティを背景にした合理化の過程だったのだろう



そういった見方からすると「戦争の時代」「経済の時代」「情報の時代」という区分けもナンセンスと思われる
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/135386246.html




人類史的にはずーーーーっと経済の時代であり、その内実が貨幣というメディアや通信、それにまつわる経済システムの複雑化によって高速化していっただけなのだろう



「戦争」も国家政策的には「略取」というリソース奪取のためのオプションだったわけだし、それは経済政策の延長といえるわけだし




グローバリゼーションやモダニティといわれている過程は、技術や知の編成の発展や共有化に伴い合理的なコミュニケーション過程が高速化、複雑(マルチプル)化していった過程だろう




その意味で言えば各eraの転換過程に「戦争」や「商取引」といった領域における知の枠組みの大々的転換(パラダイムシフト)や、その表裏としてのコミュニケーションメディア、各領域の基幹技術の画期的開発があるかと思われるけれど、それもトリックスター的な要素であり決定要因とは言えないのだろうな





とりあえずそろそろウォーラステイン読んでこう







タグ:歴史
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2011年08月08日

「近代」と軍隊の官僚制


こないだのエントリのつづきっぽく


中世ヨーロッパの戦争と正戦論: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218676600.html



読んでる本の中間セーブ的理解まとめ



傭兵の二千年史 (講談社現代新書)
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※同書に関するついったーでの関連ツイート
http://bit.ly/pvmdTR



ヨーロッパ史における戦争 (中公文庫)
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※同書に関するついったーでの関連ツイート
http://bit.ly/qSXWri






前エントリでも書いたように中世→近世から近代に至るヨーロッパの「主権」の歴史というのは、中軸に教皇・皇帝(神聖ローマ)を据えた王権と諸侯の勢力争争いだった


世界史の授業だと封建制度ということでまとめられるけど、あれだと封土を元にした忠誠と主従の関係が絶対的な印象があるのでちょっと違う。


傭兵たちは基本的に金で動いて金払いがよく命のキケンがない主と戦場を選んだし、半ば傭兵化していた騎士も同じだった



封土は金の代わりであり、税金的特権のようなもの


でも、封建時代の最初の頃は税金システムもうまく運用されてなかったので騎士もアルバイト的なものを掛け持ちしていたようだけど




技術的進歩が決定的ではなかったこの時代の金はそのまま武力だった



金で武具を買い揃え、傭兵を集めた、



ヒト、モノ、金が力だった




だから単純なパワーゲームとしたら「人口の多い国が有利」ということだったけど、金が機転となってそれぞれの力関係が変わっていった


最初はもっとも現場(戦場)に近い傭兵団長-騎士が有利だった

王は形式としては彼らの上にいたが、現場での兵の管理権は傭兵団長たちにあった。常備軍がない/少ないことが当たり前だったこの時代、それぞれの戦争が終わったら傭兵は食いっぱぐれざるを得ないが、それを次の戦場までつないでマネージメントしていったのが傭兵団だった


傭兵は王の軍隊ではなく傭兵団長の軍隊だった




その権利もけっきょくは「俸禄をきちんと与えられるかどうか」「ちゃんと食わせられるかどうか」というところで決まっていった。つまり金



なので王が商人の特権を免除していくのと引き換えに金(税金)をえていったことはそのまま王権の強大化を意味した



金を元にして常備軍への契機がつかめ、軍の力をより王に近いところで管理できる機会が生まれた






それでも完全な管理には程遠くて、それが30年戦争における最後とも言える傭兵の時代の徒花、ヴァレンタインの伝説につながっていった

http://houzankai.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/30-b5a1.html



ヴァレンタインは当時12万の軍隊を抱えボヘミアの地を統治し半ば一国の元首にして神聖ローマ帝国の軍隊の中心だった


しかし、あまりに強大すぎ、またその略奪横行の徹底ぶりが非道であったため皇帝から警戒され一時的に解任された



戦争の流れとしても神聖ローマ帝国のほうが有利だったし



それがスウェーデンのグスタフ・アドルフの活躍で呼び戻された



しかし、呼び戻されたときには軍の統制とシステムはヴァレンタインの手を離れていたためかつてのような勝手はできなくなっていた




そういった意味では30年戦争は「プロテスタント(都市国家(諸侯)・商人連合) vs. カトリック(神聖ローマ帝国)」の結果プロテスタントが勝利し、「王が神から主権を取り戻した戦争」ともいえるけれど


もっと細かく見れば、合理的な官僚システムが旧代の暴力のパワーゲームを凌駕した画期といえる


いってみれば「理性が力に勝った」というような





それはグスタフ・アドルフ個人をもって完成したわけではなく、その前進としては80年戦争のオランダ(プロテスタント)のマウリッツの軍略が、それ以前にはスペインの槍兵密集陣形が、そのモデルとしてはスイスのパイク傭兵があった


テルシオ - Wikipedia
http://bit.ly/nKBO6V


それらも元をたどればローマのファランクス(密集隊形)が源流ということになる


ファランクス - Wikipedia
http://bit.ly/f3o4Jp



ローマのシステムが優れていたのは表象化されたそれぞれの技術的営為や軍略というわけではなく、それらに共通する合理的・実務的思考、方法論ということだったのだろう



ローマ法にしても然り、ファランクスにしても然り



それらはただの力のぶつかり合いではなくペンと知恵を使って力(自然)に対して行く工夫であった





たとえば「騎兵による突貫」は中世→近世を通じたヨーロッパの戦場の中心、野球で言えばストレートのようなものだったように思われるが、これが「力」だとすると、長らくそれに対する方法はなかった



そこでローマの戦術を紐解き、試案されたのがスイスの槍歩兵密集隊形であったし、それらが有効であったのでドイツの貧乏騎士傭兵ども(ランツクネヒト)やスペインの軍団に真似られていった




そして、最終的にスペイン・ハプスブルク神聖ローマの敵であったオランダのマウリッツによって銃兵を加えてより実戦向きに精度が高められた


日本だと織田信長の長篠の合戦のような戦術が取られ、槍兵は銃兵を守るために必要最低限配されることで、スペインテルシオ(要塞)の鈍重さを補っていった



そしてマウリッツが作った兵学校出身者の薫陶を受けたスウェーデン王グスタフ・アドルフがより銃兵を効果的につかえるように陣形を改良していった



マウリッツとグスタフ・アドルフに共通したのは単に陣形や戦術における機微というだけではなく、それの下準備としての全軍団の規律訓練であった


当時まだ傭兵や騎士的な勝手気ままさがまかり通っていた戦場で、騎兵・歩兵・砲兵、三兵すべてのユニットを平等に扱うように、また戦場において複雑な陣形変化に対応し、命令が通るように無駄な私語がないよう軍紀を統率していったのはマウリッツとグスタフ・アドルフの功績だった



それを可能にしたのは兵たちにきちんと俸給と食べ物が与えられるという保証、安心感だった




当時はまだ下級士官によって兵たちの取り分がちょろまかされるのが当たり前な世の中だったので。そういった心配がないことは兵たちに安心感とモラルを与えた。




これによって当時兵たちが嫌っていたぢみな仕事、「塹壕堀り」や「訓練」といった命令への馴化を成功せしめた






一口に「規律訓練」といってもそういった背景がある






これらをより完成させていったのがルイ14世であり、ナポレオン・ボナパルトだった




ルイ14世はコルベールを通じた重商主義(というか、まぁ私掠船主義)によって財力を集め、それを常備軍へ還元していった



そして、当時は未だ将軍や傭兵団長のものだった軍の統制権をしっかりと王権のもとに統合していった。



方法としては王自らが隊長を選び、自ら軍隊教育を施すことによって「王の子供たち」という意識を軍の中枢部に染み渡らせていった



そして、途中で金や装備の横領が起こらないように管理・査察のお目付け役をつけていった。







「豊富な財力」「規律訓練」「内部監査」







この3つをもって王権→絶対王政が確立していった。それらは「財(リソース)の経理」という意味では官僚制の萌芽だった。


その意味で「プロテスタント=勤勉=資本主義の精神であった」というよりも「マウリッツが支援したプロテスタントたちは神聖ローマ帝国に虐げられた存在であり、商人・経理・財の管理という合理性に通じていたから近代的な金融システム(数学)を駆動できたのだ」といったほうが近いように思う


そして、それはゾンバルトが見ていたような資本主義の需要側の側面、欲望の側面とはまた違う




財の管理システムとしての官僚制はウェーバーが「職業としての政治」で見出した選挙マシーンのようなリソース管理のハブであり人的機関だった


それらは方法としての知的枠組み(経理・法・文章・説得)の機関であったといえる



それらが知の技術(ソフトテクノロジー)であったとき、火薬や地図、羅針盤、農具、鞍や鐙・蹄鉄、銃器といった武器はハードテクノロジーであった



ハードに対してソフトはしばしば「リテラシー」ともよばれるけど




道具のサブカテゴリ(あるいは同一カテゴリ)としての「メディウム」も同様に、ソフトテクノロジー(リテラシー)とハードテクノロジーを擁して発展していった



紙やペンといったハードテクノロジーに対して、新聞やテレビといった知の共有メディアは知の編成の発展過程の痕跡ともいえる


マクルーハン流にいえば「代表的メディアがある特定の姿をとるということは、その時代の知の編成を表象しているということだ(メディアはメッセージである)」ということ



知の編成はリテラシーであり、社会情報学的に言えば( ^ω^)・・・(わすれた)



そういった意味では新聞社やテレビ局はそういった知の編成・編集の機関であり、「政治」という界における選挙マシーンのような機関なのだろう









すこし抽象的に脱線したけど



そういう形で王は王権を「領域内において他の国家級共同体からの意思決定を排除する」権利―「主権」として確定していった


主権は「主の権利」というよりも「領域内における(排他的)最高権(sovereignty)」を意味する



30年戦争→ウェストファリア条約当時だと王の想定する「他者」は神聖ローマであり傭兵団長だったのでそれらからの王権の独立と絶対的優位ということ



ただ、これを「最高権」という曖昧な形でのこしたのは自然法への配慮だったかな?とも思うけど



そこに「主権在民」のイデオロギーの契機が生まれたか…(そして、それは nation-state という幻想につながっていく)



nation-stateは「朕は国家なり」のカウンターイデオロギーとも思えるけど



とりあえずそういう形で18世紀後半から19世紀にかけて「国民」という強力な概念と、それに基づいた擬制ー共同幻想が生まれていった



王権確立の流れを見ればそれは常備軍=国民全体という含みをもって完成したものと思われるが…




この辺りの検証は革命の時代の確認をもってするとしよう
タグ:歴史 戦争
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2011年08月05日

中世ヨーロッパの戦争と正戦論



War is merely the continuation of `policy'−or of `politics'−by other means

            Carl von Clausewitz
















どこかでなにかあったのか、TLにオバマにおける正戦論の話題が流れてきて、関連でぶくまにこれあがってたので



日本国憲法の平和主義とオバマ米大統領の平和思想: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/12/post-92ff.html




いま読んでる本のセーブポイントも兼ねて



傭兵の二千年史 (講談社現代新書)
菊池 良生
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http://bit.ly/qSXWri



ヨーロッパ史における戦争 (中公文庫)
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正戦論との関連で言うと、正戦論というのはふつーの説明だと<カソリックとの関係で教会法とローマ法がミックスされて最終的に「グロティウス → 国際法の原型」となったもの>と見る感じだと思うんだけど、もともとはヨーロッパ史における戦争の蓋然的ルールとして「教会法+ローマ法」に戦場の慣習法的なルールが加わって成立していったものに思えるので。


慣習法の部分に紋章官が関わり、教会法+ローマ法を加味した上で「やりすぎ」ではないかをチェックしていく(同時に騎士の働きも得点していく)

そして戦争の「分け前」をきちんと振り分けていった



簡単に言うと戦争というのは外交と経済的選択の一形式(オプションの一つ)であり、おそらく平和主義的な現代日本人の多くの人が思っているような「戦争になったら終わり」というものではない。


平和主義の人たちは「戦争になると絶対的破壊が起こり全てが終わる」というような考え方をするように思われるけれど、軍事と歴史の感覚をみていくと<平和はむしろ戦争によってつくられる>といえる。


そういう言い方をすると少し語弊と誤解があるか…



水面下の外交での折衝や経済的な交渉、ゲームも含めて緩やかな戦争状態でありそれらがのっぴきならない状態になったとき、あるいは相手に隙ができたときに一発逆転的に「相手の領土を奪う」という選択が「戦争」。

その際にもきちんと「大義」がなくてはならない


「大義」がなければ他の国から糾弾され連合を組まれて食い物にされるかもだし、よしんばそのまま相手国を打ち負かし領土を占領したとしてもその後の統治がうまくいかない。


戦争はそのあとの統治 → 収入がうまくいくかどうかがキモなので



ハワードの本にもあったけど「ただ戦争して勝てばいいというものではなく、その後の統治(平和状態)デザインまで含んで戦争を行うのが理想」みたいな話。あるいは覇権国の責務のようなもの



だから、平和状態というのは平和状態になる1つ前のdecadeにおける戦争デザイン、戦争の終わり方によって決定されていく。




オバマ氏が語る「正しい戦争と正しい平和」 大量破壊兵器を作った男の平和賞を受賞して(gooニュース・ニュースな英語) - goo ニュース
http://news.goo.ne.jp/article/newsengm/world/newsengm-20091211-01.html




オバマの正戦論というのはそういった観点からのものだと思う



ここでの大義は「自衛」となるわけだけど、ではヒロシマを例とした場合なにに対する「自衛」だったのか?




加納明弘、加納建太、2010,「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/215103969.html





「ソ連の脅威」ということになる




あのとき、ソ連が実質的に第二次世界大戦の主導権を握り、そのままだとソ連によって世界は支配されていた。


だから、まだソ連が開発していなかった新型爆弾に落とすことによって示威行為とした


それによってそれから先、失われるかもしれないかった多くの命が救われた



そういったことに対する「自衛」であった





そういう論理だろう






それは一理あるわけだけど、「過剰性」という点ではどうなのだろう?と思う



以前にも言ったけど、


ヒロシマに原爆を落とすべきだったか?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/39732094.html



日本はポツダム宣言の大分以前に2月か3月段階で降伏の打診をしていた可能性もあるし


なにより「原爆がダーティボムだった」ということ





「非戦闘員」をその後長らく続く死の恐怖、あるいは「ただの死」よりも苦しい現実に無理やりたたき落としたこと





その選択は just war といえるのか?





だからこそオバマはヒロシマに敬意を払ってくれてるのかと思うけど(まぁそれも政治的な駆け引きの一部かもしれないしよくわからないが)







あるいは





アメリカはあの選択を「正戦」と呼び、ベトナム戦争も「正戦」と呼ぶことと引き換えに世界の警察という役割を担っているところもあるのかもしれない


そういったセンチメンタリズムだけで国家の政策が動くわけではないだろうけど、どこかに降りられないレールみたいなのがあるのかも



そして、「アングロサクソンの良心」に基づき、然るべき時が来れば然るべき部分については誤りを認め修正する、か







ちなみにハワードによると現在のような形での「正しい戦争」の枠組みがグロティウスによって作られていった背景は中世法律家による「私戦」と「完全な国家による戦争」の腑分けにある。




中世は「教皇・神聖ローマ皇帝」を頂点に、「王」>「諸侯」>「都市」>「傭兵」>「農民」、というようなヒエラルキーになっていた


都市=商人および法律家を頂点としたギルド(その下に手工業者のギルドが続く)


身分制的には「祈る人・戦う人・耕す人」(フライダンク)であり、商人はキリスト教的価値観から「存在しないもの」扱いだったのだろうけど、実質的には中世の覇権をめぐる主要アクターだった



常備軍は長らく騎士を中心とした軍隊であったが、フル装備の騎士を一人雇う場合、盾持ち従者、探索、露払い的なものも含めて最低6人の従者が必要になる。


つまり、騎士は6人組のパーティのようなもので、これを基本単位として騎士一人常備するというだけで一説によると150ヘクタールの土地が必要とされたと言われる。



なので雇用側の王としても常に騎士を雇っておくよりも傭兵を雇ったほうが得策だった。また、騎士も己を養うためにアルバイトに励み、雇用を掛け持ちした。



諸侯は騎士の発展形だから諸侯=騎士たちがそのまま傭兵団長でもあった。



つまり 武力≠傭兵 であり 「傭兵を雇うためには金がいる」ということで 武力≠傭兵≠金 であった



金は商人が支配していた


そして、商人がより多くの金を稼ぐための許認可権をもっていたのが王であった。



常備軍を持てない中世の王は、諸侯≠豪族の扱いに常に困っていた。しかし、許認可権を操り商人=都市国家と連携することで財を増やしていった。





ギリシア―ローマの時代から「志願兵を中心とした常備軍を持たない国家は弱い」とされるけれど、中世もまさにそのような状態で、各国家は長らく安定した強さを保てなかった。


それが諸侯やその最小単位である傭兵の規律のゆるさを招き、私戦ともいうべき混乱となっていた。そこではしばしば、非戦闘員に対する略奪が行われた。



王は王で、フランクに由来する名門貴族たちの近親姦的な血族による国や帝位の分け合い、あるいはぶんどり合戦のような「私事」的な理由が戦争のホンネとなっていた。教皇も皇帝も同じ。



そういった中、傭兵は騎兵から槍兵、砲兵とモードを変えつつも常に雇用主たちの理不尽な難題に付き合わされ、時には同族同士の戦いも要求された(cf.スイス・槍(パイク)兵たちの同族争い、ドイツ・農民出身のランツクネヒトによる農民制圧指令)


なので、基本的に傭兵たちは「商売」としての戦争では命を落とさないように、できるだけ戦争を長引かせるように申し合わせて適当に働いていた。


しかし、やはり同士討ち的な流れや、確たる理由もなく長引く戦乱の中で傭兵も平民も、あるいは王も、戦争に疲れきっていた





そういった流れの中で王は許認可をちらつかせ、そこから賄われる税により着々と財をため兵を集めていった



シャルル8世が騎兵・槍兵・砲兵…当時考えられる限りのすべての兵種を、しかも士気も練度も高い兵たちによって軍を構成しイタリアに乗り込んだことは、中世から近世までの封建時代と近代を分ける画期とされた


それが「強い王権」のひな形となって絶対王政による中央集権、国民国家(nation-state)につづく流れを作っていった。






中世の法律家たちによって理論化されていった「正戦」の概念はこういった流れを後押ししたと思われる。


すなわち「略奪や私的理由からの私戦を廃し、国家によって必要な限りにおいて戦争を行う」という流れ



国家の主権は王に属し、領土内において自分より上位の権威から独立し領土全体に命令を施行する能力を持つように


イタリアで長らく行われていた主権君主の政治原則をヨーロッパ中に行き渡らせていった



マキァヴェッリを中心として描き出されたこれらの政治原則は「戦争は必要な限り正しい」「国家より上位のどんな権威も戦争の必要性を判断できないこと」を主張した



「君主の安全は至高の法」とするこの見解はボーダンやジェンティーリ、ヴィクトリアなど当時のすべての法律家に認められていった。



彼らの見解は、「戦争には正戦と不正戦があり、敵対行為には十分な理由と不十分な理由があるけれども、究極的には君主が唯一の裁定者であり、ふつう双方の側とも自分が正しいと信じる」、という点で一致した。




グロティウス「戦争と平和の法」(1625)も同様に主権国家を認めた。


同時に主権国家はなにか共通の優越者への忠誠によってではなくて、社会的存在に必要な条件によって、すなわち強制する法定はもたないがそれでも拘束力を有する自然法に由来する国際法によって拘束されているものとした。




自然法 = 神の法ということだろうけど、(腐敗していた)教会法よりもそれに近かったのだろう。




「神」というよりは「最低限の倫理」であり「調和」ともいえるかもしれない







グロティウスは1625に次のように書いた



「私は、キリスト教世界を通じて、野蛮な民族でも恥じるような戦争をする過度の自由がはびこっているのを見た。ささいな理由で、あるいは理由もなしに、武器に訴えた。そして、一度武器が取られると、神の法と人間の法に対するすべての畏敬の念は、投げ捨てられた。まさに、人はその時から制約なしに、すべての罪を犯すことが認められたかのように」










(正戦論の系譜になったとおもわれるキケロ-ローマ法の流れ。そういった実務的な法の考え方と対照としての自然法←倫理学←ストア学派辺りについてはまた次回)






--
Togetter - 「「原爆投下」をめぐって――米調査報道、AJEドキュメンタリー、日本人ジャーナリストの回想」
http://togetter.com/li/170598

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2011年06月07日

「森と芸術」展から  『コレクション』 〜 モノとまなざしと光の記憶








「一生に一度のことだよ」
















先日、目黒庭園美術館でやってる「森と芸術」展へいってきた


「森と芸術」 | 弐代目・青い日記帳 
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=2496


そこで表されてる展示は大航海時代の貴族のコレクションを想わせた。


博覧会の原型としてのそれであり、美術館や博物館、あるいはそれらの商業的小型化としてのデパートの原型の原型のようなもの


そういったコレクション

大陸の珍しい植物やエキゾチックな小物のコレクションは、自分がまるでその地に行ったかのような幻想と錯覚を促してくれる。

当時はまだ旅行も自由ではなかったし、なによりキリスト教的世界というのは長年の間、ヨーロッパ以外を「世界の果て」としてきていたから(cf.ヨーロッパの外には龍や一つ目の巨人など恐ろしい化け物がいる世界が拡がっている)。

そういった時代の記憶、昔ながらの想像も手伝って陳列された「小さきものたち」からは無限の世界が溢れ出す。


無限であり夢幻の世界


(いわゆる「鉄ヲタ」の人なんかにもそういうのは共通するところがあるのだろうか)




そして、博覧会の歴史に想いを寄せる


博覧会の政治学―まなざしの近代 (中公新書)
吉見 俊哉
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先ほど言ったように、博覧会は「ヨーロッパ以外のもの」「自分たち以外のもの」への一定の期待に基づいた「まなざし」の歴史であった


端的に言えばそれはオリエンタリズム的なそれ。アファームドアクションよろしく「異なるもの」に過剰な期待を寄せ、自分たちの幻想に基づいてそのものの実体を必要以上に歪めて解釈し、それに基づいて現実を矮小化したり過大化してしまう、というもの。


文化人類学の初期において問題とされてきたエキゾチズムに依る「現実」の搾取のような、そういったもの


ベタに言えば人類館事件なんかがその象徴的なものと言える



人類館事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6



かつての「博覧会」という場では「人」でさえも展示とまなざしの対象だった




博覧会というメディアと場を通して、そういった視線は次第に内面化され、ヨーロッパ人同志でさえもそのような視線のマトリックスの上において判別されるようになる。


履歴書とスペックなそれよろしく、人を身体から生じるその人全体の生きられた歴史から判断するのではなくステータスという社会的な記号によってとりあえず判別するような。


そういった「客観的視線」が内面化され、「当然」となり、「権力」的構造の素地となっていく(フーコー)


それらは「近代以前には『私』と『公』の違いがはっきりしなかった」「公だけだった」という「公と私」あるいは「他者と私」的問題に通じるか、とも思われるがそれはまた別の話で




それが「コレクション的なもの」からの「博覧会的なもの」の外縁だとすると、その内部の記憶、実際にその時代に生きていた人たちの記憶や感情のようなものへの手がかりとして「エマ」の「水晶宮」の話が思い出される




ビームコミックス エマ 8巻(通常版)
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私には「夢の水晶宮」がとくによかった。人は、昔の思い出、それも失われた美しい思い出に依って、その後の長い人生を生きていくことができるものだ。他にかけがえのない、濃密な時間を味わったことのある者にとって、その時間は短くとも永遠である。



圧巻なのが、ケリーの新婚当時のお話。
賢者の贈り物風の前編とくらべ、後編のダグの視線の描かれかたがすごい。
これは誰でも経験があると思うけれど、好きな人とデート中、例えば展覧会で相手が展示物を見て喜んでいるのをみるのがなにより嬉しかった、そんな記憶ないですか?
そういう時の視線の動きが、リアルに表現されているんです。




ケリーとダグは当時まだ若い自分の新婚貧乏時代で、貧乏ながらもお互いを愛し尊敬していたがために「自分のため」よりも「相手のため」にまずなにかしてあげたいという心情があった

そんな中、新聞を通じて水晶宮の話がgiftされる



「一生に一度、もう見ることができないかもしれないほどの大スペクタクル」



当時の技術の粋を結晶化したガラスの都


光の場としてのそれは若い夫婦に祝福と感動の記憶を遺してくれるものと期待された


あるいは単に、その時点で相手の笑顔のようなものが見たかったがためか


二人はお互いにへそくりしたりやりくりしたりしてお金を工面し、クリスタルパレスへ向かう



そこで表されていたのは期待通りの、あるいは期待以上の絢爛だった



光も、あるいはそれを簡易に反照してくれる物質としてのガラスも当時はまだ珍しいもので、

電灯的な技術のない時代に宝石が「光を集めるもの」として珍重され、夢と願いを託されたように、ガラスの宮クリスタルパレスは当時の人々の夢と希望、限りない祝福に満たされた「人類の進歩」への期待が託されていたのだろう



それを「時代の記憶(zeitgeist)」とすると、ダグ・ケリー若夫婦の個人的な記憶としてはやはり二人の祝福のそれのような、(おそらくは行われてなかった)披露宴や新婚旅行に準ずるようなそれだっただろう



そういった記憶を伴うことで、人は生きていける


(記憶の残照として、小さな指ぬきに思いを寄せて)






マンガ随想 「美しい感じ――森薫『エマ』」(後編) - Blog-Umschau - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/umschau/51441963.html



 番外編の冒頭を飾る「夢の水晶宮」はあまりにも素晴らしい.若きケリーがハイド・パークの万博を訪れた一日を描くこの物語は、精神的にもほとんど芸術の域に達しているし、なにより「マンガでしか正しく表現し得ない」という点で他に求め難い卓越性を具えている.
 「丁寧に描き込まれたヴィクトリア朝時代のイギリス風俗」は確かに『エマ』の特徴だ.作品の根幹と言ってもいい.だが、それが仮に途方もない予算でもって実写化されても『エマ』の価値は保持されるだろうか.イギリス風俗の描写に拠って立つことが出来るだろうか.否、『エマ』のアイデンティティは粉々に砕け散ってしまうに違いない.ジャン・ルノワールの『大いなる遺産』を目を凝らして観てみれば、『エマ』の綱渡りが了解できるはずだ.ルノワールのような映画監督を前にすれば、丁寧なだけの描き込みなど意義を失ってしまう.
 ところが、その危うさが「夢の水晶宮」には存在しない.なる程、ハイド・パークの万博は魅力的な舞台ではある.描き込みが執拗を極めるほどにその魅力は増すだろう.




「エマ」で描かれている当時のヴィクトリア朝の風俗、あるいはそのひとつとしての水晶宮の描写は史実描写としてもすばらしいものがある(新聞やバーをめぐる風景としても)

しかしその描写-感動というのは単に「きれい」でながせてしまうものではないだろうか? 本当に当時の人が感じたような、あるいは当時に一生の思い出とした人が感じたようなそれを感じられ得るのだろうか?




しかし、そこまでだ.万博は結局のところ同時代的な感動を窓の外から眺めさせるに過ぎない.描き込みは再現性への称賛を高めるに留まる.そこには、たとえばプルーストの『失われた時を求めて』で、作家ベルゴットがフェルメールの『デルフト眺望』を見て眩暈を覚えるような感覚、普遍的感動が存在しない.ベルゴットは言う.


――こんなふうに書くべきだった。おれの最近の本はあまりにも無味乾燥すぎた。この小さな黄色い壁のように、絵具を何度も塗りかさねて、文章そのものに価値をあたえなければいけなかったんだ。(プルースト『失われた時を求めて』)

 このくだりを理解するにあたって、我々は『デルフト眺望』を予め鑑賞しておかねばならないだろうか.あるいは、理解するためにいそいそと名画を観に出かけなければならないだろうか.そうではない.読者は表現そのものに芸術的価値が与えられている作品を想起するだけで事足りる.フェルメールの別の作品でも、ヴェラスケスの肖像画でも理解の段取りに支障はない.我々はベルゴットの感動を理解し得る――窓の外からではなく、彼の精神的な深部から




ウィリアムとエマの水晶宮体験

それは現代の我々がディズニーランドや海外旅行に行くのと同じく「再現性」「反復性」が期待される


しかし、ケリーとダグの夫妻のそれはまさしく「一生に一度」のこととして、ともすれば読者の想像から閉じられた体験となっている


 ハイド・パークの水晶宮では同様の感動を創り出せない.突き詰めれば突き詰めるほど、水晶宮の美は「人それぞれ」の感動に転化されてしまう.『エマ』はしかし、その転化を開放的に受け流してきた.
 本編のウィリアムとエマは、万博の後にシドナムへと移された水晶宮を見て、心から感動する.彼らの感動を読者は容易に理解する.だがその感動は、おそらく水晶宮である必然性を持たない.『デルフト眺望』とはまったく別の意味で、感動の対象は水晶宮でなくともよい.多くの読者は、そう、初めて恋人とデートした思い出の場所でも思い出すことだろう.水晶宮は恋物語の背景になる.それを丁寧に描き込む作者は、天才的なアシスタントの趣を見せる.趣味的な職人芸……
 しかし、番外編では水晶宮が必然性を持つ.ケリーの夫、ダグの言葉が全てを語ってくれる.

――「一生に一度のことだよ」(森薫『エマ』 第8巻)

 この台詞は、『エマ』本編における水晶宮の場面をほとんど無意味化してしまうという意味で、おそろしく挑戦的である.ウィリアムとエマにとっての水晶宮は、「一生に一度」のものではない.「一生に一度」だったのは水晶宮そのものではなく、二人の初の逢瀬という「思い出」なのだ.それは誰もが持ち得るものであって、読者の主観で代用のきく感動と言える.すなわち、開放性だ.
 ケリーとダグの水晶宮はまったく開放的ではない.彼らにとっての「思い出」は他のものに代用がきかない.絶対に万博の水晶宮でなければならず、しかもそれはシドナムに移転された水晶宮であってはならないのである.彼らの青春、新婚生活と密着した歴史的な出来事.まさしく「一生に一度」――「夢の水晶宮」だ.




それはベンヤミンいうところの「アウラ」的な一回性ともいえるかもしれない


それがゆえに同様の強度をともなった体験をしたことがある人、あるいはそういった心情の揺れを体験したことがある人には響くものとなるのではないか?


おそらくウイリアムとエマの体験、再現性が期待される体験は博覧会の政治学を通してもたらされた近代的な視線と、それによって配置される社会・産業的マトリックス(脳内地図)の中に配置され得る


だからこそ、似たような環境に生きる我々は、その表面的な描写だけで心情まで感情移入し得る。


うがった言い方をすればそれは「泣ける映画」「笑える映画」的な表層的感情消費の対象ともいえる



しかし、ダグとケリーの心情は代替不可能なものであり、その心情は似たような経験をしたものによっておもんばかるにとどまる程度のものとなっている


それはイベントや事物の派手さによって強引に誘引されるものではなく、それぞれの人が場や事物を通じて一緒にいる相手に対して「一回性」を感じられれば、その体験そのものが取替えの効かない大事な宝物のように記憶の引き出しにコレクションされていくのだろう。

余人にとってはつまらない、ごくありふれた事物やイベントでも、当人たちにとってはかけがえのない宝石となり得る






「一生に一度のことだよ」






そういった体験を演出していくのが業界に関わるもの醍醐味ともいえるのだろうけど、とりあえずそれは置く







水晶宮は19世紀中盤、帝国主義的時代のイギリスの威信をかけて作られた




水晶宮の建設とその後 | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場
http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1851-1.html



第1回ロンドン万博の会場については、開催1年前にコンペを行い、245もの案が出たにもかかわらず、決定的なものが出なかった。そこで王立の博覧会委員会は独自に建設プランを作り、巨大なレンガ造りの建物を発表したのだが、巨大で重苦しい建物は不評であった。

そんな折、第六代デヴォンシャー公爵邸の庭園技師で、数々の温室を設計したパクストン(J. Paxton)の会場建築案が王立委員会に持ち込まれた。パクストンが1850年7月6日のIllustrated London Newsにその設計図を公開したところ、世論の大きな賛同を得た。そこで彼の設計が採用されることとなった。当時の最新技術である鉄とガラスを駆使し、工場で製造された部品を現地で組み立てるプレハブ工法を用いた長さ約563m、幅約124mの建物で、たったの10カ月という短期間で完成させた。使われたガラスの数は30万枚、内部は赤、青、白、黄色で塗り分けられ、建物外部は白またはストーンカラー(灰色または青灰色)で、縁は青で飾られた。この美しい建物に水晶宮というニックネームを与えたのは、 1850年11月2日のパンチ誌(Punch)であるという。

水晶宮は、博覧会終了後も取り壊しを惜しむ声が多かったため、1854年にロンドン郊外のシデナムに移設された。新水晶宮は、面積を拡大し、植物園、博物館、コンサートホールなどを持つ巨大な施設として生まれ変わり、市民の憩いの場、娯楽の場として親しまれた。ヴィクトリア女王とアルバート公夫妻もしばしばここを訪問し、福澤諭吉も日本の文久使節団の一員として1862年に訪れている。しかし、この水晶宮は1936年に火災によって焼け落ちてしまい、現在では跡地は公園となっている。






水晶宮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%99%B6%E5%AE%AE


水晶宮(すいしょうきゅう、英語:The Crystal Palace)は、1851年にロンドンのハイドパークで開かれた第1回万国博覧会の会場として建てられた建造物。ジョセフ・パクストン設計。鉄骨とガラスで作られた巨大な建物であり、プレハブ建築物の先駆ともいわれる


万博終了後は一度解体されたものの、1854年にはロンドン南郊シドナムに、より大きなスケールで再建され、ウィンター・ガーデン、コンサート・ホール、植物園、博物館、美術館、催事場などが入居した複合施設となり、多くの来客を集めていた。

1870年代頃から人気に陰りが見え始め、1909年に破産した。その後は政府に買い取られ、第一次世界大戦中に軍隊の施設として利用され、戦後一般公開が再開されたが、1936年11月30日に火事で全焼してしまった。

焼失後、水晶宮は再建されることはなく、現在ではロンドン南郊の地名、水晶宮がかつて存在した地にある公園とスポーツセンター、そしてロンドンに本拠地を置くサッカークラブチーム、クリスタル・パレスFC(Crystal Palace F.C.)にその名をとどめるのみとなっている。






それは後のアメリカ/ソ連の宇宙開発よろしく、技術の祭典を通じた互いの軍事(-技術)力の誇示という政治的な振る舞いだったのだろう




しかしそういった思惑とは別に水晶宮や太陽の塔といったものがつくられ、あるいは幸福な記憶として受け継がれていった



太陽の塔は日本では大阪万博のそれ、岡本太郎制作のそれが有名だと思われるがもともとはエッフェル塔の前段階にプレゼンにかけられ却下されたものだった



エッフェル塔 | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場
http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1889-1.html


エッフェル塔(La Tour Eiffel)は1889年第4回パリ万博の最大のモニュメントとなった建築物である。

高い塔を建てるという計画は、1833年のトレヴィシック(R. Trevithick)の計画に始まり、様々に試みられていた。ロクロワ(E. Lockroy)商工大臣が、フランス革命100周年記念のモニュメントとして良い案がないか、トロカデロ宮を建築した建築家ジュール・ブールデ(J. Bourdais)に訊いたところ、ブールデはかねてから構想していた366メートルの石の塔、「太陽の塔」を提案した。これは石造りで、頂上に特殊な反射鏡を設置して、地上から送る電光を反射させ、夜でも昼のような照明でパリ全市を明るく照らすというものであった。しかし、ノートルダム寺院の5倍もの高さを石で建造することは現実離れしていたし、アーク灯でパリ中を照らすのはまぶしすぎるのではないかと懸念された。



文字通り「光を集める塔」として計画されていたのが太陽の塔だった



クリスタルパレスにしてもそうだけど、当時の人々にとって「光を集める」ということがどれだけ象徴的なことだったかを想わせる




岡本太郎がその記憶を受け継いだのか、あるいは名前だけでも聞いたことがあったのかはわからない



しかし、「万博」の系譜で奇しくも「太陽の塔」という同じ名前を冠して2つの塔がつくられたというのは、なにかの縁のようなものが感じられる




それは「時代の記憶の子供たち」ともいえるのかもしれない




「わたしの小さなコレクション」としての


あるいは


「あなたの小さなコレクション」としての




ときには「不恰好で健気なわたしの小さな子どもたち」



是枝裕和, 2009, 「空気人形」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/134634431.html


オルゴールの小さな博物館 解説 − 19世紀のロボット (オートマタ)
http://www.musemuse.jp/Musemuse_Comment/comment_automata.html


前世紀的情緒を残したフランスの機械人形。オートマタを経由してパリに至る意味空間の通奏低音は不恰好で前近代的な哀愁をたたえたアコーディオン

その情緒ゆえに最新式ではないということ=「欠けている」ということが愛されていたり。Rebecca Hornだったら「不恰好で健気なわたしの小さな子どもたち」というかもしれない。




人形は欠けているがゆえに神聖性というか魅力をもつところがある。

そして人も欠けているがゆえに補い合う。関係しようとする。

それがこの映画の一番大切なメッセージっぽかった。




「心を持った人形はひととどこが違うのか分からない」というのは「心を持ってしまえば人間と同じ」→「人形もこころをもてばいいのに」という願望を含むもので、押井守の「イノセンス」もこのテーマに基づいて作られたものだったらしい。


松岡正剛の千夜千冊『未来のイヴ』ヴィリエ・ド・リラダン
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0953.html
 

この映画にはすでにご覧になった諸君は感づいたかもしれないが、全篇が『攻殻機動隊』で姿を消した草薙素子のイメージの行方をめぐる物語になっていて(したがって草薙素子のパートナーだったバトーが主人公)、しかも『未来のイヴ』数百年後の物語にもなっている。
 とくに押井監督のリラダンへの敬意は本物で、ロクス・ソルス社のガイノイド2052「ハダリ」がその名のままにずらりと登場する。冒頭にも、リラダンの次の言葉がエピグラフとして掲げられた。

 「われわれの神々もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか」




ここではエワルドは「理想の女性」たるアンドロイド・ハダリーと蜜月の旅に出で添い遂げることになる。それはそれである意味ハッピーエンドだったのだけれど「空気人形」ではその後の「未来のイヴ」とも言えるものが描かれる。





不恰好だからこそ、でこぼこで不整列だからこそ愛しく可愛い




すべてが、神と<神>の御手によって備わってないからこそ、そこに神聖性というか、人の心情のヨスガのようなものが宿っていくというようなことがあるのかもしれない


タグ:art アウラ
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2011年05月27日

「ただ、そこに在る」という本質  ポイエーシス-エロース / イデア



「モノは、その本質を開示(ポイエーシス)して生の歓び(エロース)へと向かう」


「そして、それは自然(ピュシス)とのバランスの上に成り立っていく」





そういった¥意味¥美の機構がポイエーシス周辺にはあると思われる


それは古代ギリシアから連綿と目指されてきた人の歓びのあり方、ということではあると思うんだけど




先日、ジャコメッティの彫像をみたとき「この女性(ひと)はテーブルと一体になることで至福に達したんだ」「この姿こそ、彼女の生きられた経験の中での本質的なものなんだ」と直観的に感じた



シュルレアリスム展にいってきたYO!: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200983102.html





全体としてはテーブルと一体になってマガマガしい印象を一部の人は受けるかもしれないんだけど


表情が



その表情が、自分にはなにか「特に濁りのない境地みたいなのに達して、そこにそのまま在ることの仕合せ」を当然としている姿に思えて



幸せ、でもなく仕合せ


歓びという感情も、悲しみという感情もない



怒りも楽しみもない




ただ、「そこに在る」という感じ





「それは作家の理想を託した姿でありそこから湧き出るメッセージである」ともいえるだろうけど、ジャコメッティほど誠実であれば、そんな小細工はしないだろう




そういったものをケイさんと彼女の作品にも感じた




菅野ケイ写真展 「FIXED BODIES」@ヴァニラ画廊 -Vanilla Gallery -
http://www.vanilla-gallery.com/archives/2007/20070129.html




そこで展示されていたいくつかの写真をみせてもらいつつ、「ああ、なるほど  これはほんとに見事に『縄』が主役になっているな」、と思った


なので、機械的に焦点を合わせるようにしたのか?聞いてみたんだけど「そういうことはしていない」とのことだった


画面構成 ということもあるだろうが    


でも、



なにか、人という「地」の上に縄(ロープ)という「図」が浮き出て前景化しているように感じられた



特に真ん中に配されていない縄でも





そしていくつかの線に接続され身体を解体されていく女たち


蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のように



あるいは、彼女たち自身が蜘蛛の糸を発しているように





そこから社会的・生物的な幻想としての「女性」は剥ぎ取られ、なかから本質的な「女」  彼女たちの知らない「女」、あるいはナニモノカが現れる



時にはそれは蜘蛛のような形の



もしくは、「形」をとる以前の漠然とした志向性のような






そう




ジャコメッティと一緒だ







ケイさんに会うことがあったら聞いてみたいことの一つがその点、「ジャコメッティの作品をどこかで見て踏襲しているのか?」、ということ





・・・なんとなくだけど「( ^ω^)・・・いや、しらん。名前は知ってるけど」とかいいそうな気もする





もしくは踏襲していたとして、やはりそのエッセンスをきっちりつかんで自分の回路で表現されている、ということでパクりとかそういう次元とはまったく異なるだろう。ふつーに「オリジナル」でありエッジな感じ






「ジャコメッティ的な表現だとソリッドすぎてわからない」ということだと船越桂さんとかいいかもしれない

http://www.show-p.com/funakoshi/


あるいは石田徹也さんとか。その目の「なにも考えてない」虚無な感じ

http://www.tetsuyaishida.jp/





そういった在り方



ポイエーシスの発動やピュシスとの連結、それによるエロースの煌きのようないわば聖性をともなったような至高感に基づいた創作とは違った「本質」の在り方、描かれ方がある、のではないか?



本質としてモノに溶け込むことで「人」としての在り方から離れていく

それ以前にモノを価値たらしめている消費市場や、「人の価値」をつくりだしている労働市場、その外縁としての全体としての資本の流れ(あるいは資本という形をとらない富の流れ)


それに過剰にとらわれ人間性が失われていくことをマルクスは「(資本・金銭への)物象化」といい、それを引き継いだルカーチがよりエロースとの関連を記述することでエロース(開放)と物象化(囚われ)の過程を描いていったのだと思うが



上記してきたような作品をみていると


「物象化とは言いつつ幸福なものがあるのではないか?」


という疑問がもたげる


それは先ほどもいったように作品全体に漂う諦念のような穏やかさ、静寂とした詩情のようなものに因るものと思われるが、その背景として「人が物象化せざるをえない現状がある」ということがあるように思う


現代日本の現実をみつめると「( ゚Д゚)<己の才能にポイエーシスしろや」とはいってもその才能云々の前に働かなきゃいけないし、それが殺人的なスケジュールだとポイエーシスだとか、美だとか言ってる余裕がなくなりがちになる


そういった場で、決して美辞麗句ではない形で


厳然と高みから見下ろす形ではなく、自分も同じ立場から寄り添うような形で、それぞれの場における人々の本質、あるいは自分自身の本質を見つめ直す作業が必要となってくる




そういった参与観察者の「活動」への動機と並行するように個々の作品の登場人物たちも自らの「天職(Beruf)」を全うしようとする。あるいは「観想」を通じた「天職」の認識と「仕事(ザッへ)」の遂行






「天職」というか、その責任義務の認識を端緒とするたんたんとした「仕事」の遂行

そしてその場面を表した作品は「仕事」が為されている「場(トポス)」におけるその人の「本質」の切り取ったものである、と言えるだろう






以前、単純労働における二面性、退屈な物象化のほかに「機械的作業に同化することに快楽(ラクチン)のようなものがあるよね」といったときに友人はベタな物象化の観点から(゚Д゚)ハァ?って反応してたけど


「機械になりきる事で心のうちの雑念を消していく」


ということがあるとしたら、それは余人をして「禅」といわしむるものなのかもしれない


自分的にはそんなに大したものなのか?って気もするが







ポイエーシス-エロースではなくても至高はあリ得る


人は神に至らなくても「神」となり得る



それはベンヤミンがいっていた「神話的暴力」の話を少し思わせる


ナウシカ解読と正義の審級   ユートピアとベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/164690250.html



すなわち、神の顕現としての自然の暴力性に対するために人が「文明」を作り上げ、そうやって創り上げられた人造の「神」の暴力性、法や経済といったシステムの根幹となる規律の過剰性によって人のエロース(生の開放の結果としての歓びの享受)が蹂躙されていく過程への危惧を



しかしこういった形での物象化、あるいは「敢えて」物象と化すことであらゆる価値を消し去るという人の技によって「神的」でも「神話的」でもないなにものかを創り上げられるのではないか?



それはイデアをわれわれの手に取り戻す閑かなる闘争といえるのかもしれない


   私の代では成し得ぬかもしれぬ



(造られた)外界の「神」によって奪われていた「本質(イデア)」の幻想を、われわれの内なる神の手に取り戻すための




   それでも最初の一歩を私が踏み出すのだ








これがたたかいの第一歩だ











--
「仏もまた塵であり神は細部に宿る」な話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/183208298.html


コイトゥス再考 飯沢耕太郎
http://vobo.jp/koutarou_iizawa.html



Terminal Arts of Sein und Zeit: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199659522.html


Teminal Arts of Sein und Zeit (補遺): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200173685.html


Togetter - 「「わたしたちの自戒の歌」  / 「ゆえいの季節における手記」」
http://togetter.com/li/127626







4月の狂騒 と 6月の憂愁
http://bit.ly/iey3dN




posted by m_um_u at 06:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年05月22日

本覚ドライブ  通過儀礼としての「翁」

noumen.jpgnoumen.jpg

翁のあらすじ
http://www.k2.dion.ne.jp/~t7d7/okinaarasuzi.html




能は「翁」にはじまり「翁」に終わる






そういう言葉があったのは「精霊の王」だったか?


精霊の王
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その言葉に従えば、「翁」を理解すれば能は全体的に理解できることになる。「春と修羅」の「序」を完全理解すれば宮沢賢治が理解できるようになるように(あるいは、部分の綜合からその理解に至る、ということもあり得る、かもだが)



結論から言えば「翁」は実存転調時の通過儀礼的な儀式のように思えた。


シュタイナーなら「7歳ごとにある」とされる転調過程。「大人」へと剥けて行く過程

その過程を通じておそらく認識の幅が飛躍的に高まっていく


ピアジェかなんかだったら「シェマを一気に食らう」みたいなこというように


Togetter - 「シュタイナーって発達心理的にどうなの?( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` ) (仮)」
http://togetter.com/li/136391




「大人」というか肉以外の部分での人の構成要素は「理性」「知性」「感性」(精神)によって成り立っているように思う


理性は論理を整理の法として、ロゴスによって一つのロジックを組み立てていく能力およびそれによってできあがって行く認識マップ

同様に知性は知識をリソースとしてそれを整理していく能力およびインデックスな脳内マップ


感性も同様になる。それはしばしば「センス」という言葉で片付けられがちだが、理性や知性では感じ取れないようなデータへの予感、先験的直感のような知覚。およびそこから出来上がる認識地図


それが精神の系に属するのかはびみょーなんだけど、マズローの五段階説≠精神の現象学のように精神の位階を登っていくのと相関して認識の幅も拡がっていくように思う


「認識の幅」というのは理性や知性以前になんとなく拡がっている「識っている」感覚、およびその系。毛細血管のように「世界」や「セカイ」について「なんとなく(先験的に)識って」いて、そこにまだ理性や知性の肉付けができてない段階


哲学的なものというのは本来ここに属するように思う。詩でもいいけど、まぁArtとよばれる創作芸術一般



で、


この「認識の幅」が急激に伸びる時期や季節がある、と仮定される



時期としてはシュタイナーがいった7年期がなんとなく、季節としてはケルトの4季祭に対応するように思う




(自分的には冬と春が一番あったけど・・・(夏はないな)


Togetter - 「フィリップ・ヴァルテール、「中世の祝祭」 からのちょっとおもろい話メモ」
http://togetter.com/li/117258






それらが外因となって<私>という現象のブレに作用していく、と仮定される


Togetter - 「いわゆる分裂病関連の現象(もしくは反動としてのポイエーシス発動)に対する脳機能局在論からの類推 (仮)」
http://togetter.com/li/131740






「翁」は


人が存在と時間のギリギリのところに立ったとき、本覚が作用したときにそれを統制し、障害なく認識の幅を拡げる(位階を上げる)ための通過儀礼的なものなのではないか?


Terminal Arts of Sein und Zeit: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199659522.html


夜を愛し、余すところなく死んで、三位を統べる: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200174686.html





野生の思考に基づいて



父と聖霊と子



翁と平面と荒神


過去と現在と未来


超自我と自我とイド




の三位を統べる




震脚をダンダンと踏み鳴らすことで武と舞を悦ぶ猿神あるいは摩陀羅神に拍手をうち、あるいは自らの内部のコアを呼び覚ます?

自己暗示的に瞑想状態に入りつつ時間と空間を歪め、そこにご見物も巻き込んでいく


最後にエイヤッと大きくジャンプすることで現在の自分から未来の自分へと跳躍する



その成功を祝うかのように鈴が鳴り響く





それが「翁」






理や知によってなかなか統制されない荒ぶる感性(若気)を未来と過去の先達がやさしく包み導いていく



「やさしく」というかそこには死と隣接した緊張感があるのだろうけど


だからこそ同時に「生」もあるのだろう






追記:
m_um_u / むーむー
ああ、そっか。基本的に能とか狂言のゆるい動きは遅く見えるんだけど太極拳と同じでそこに達人的練りが仕込まれてる、っていわないとわかんないか。。 本覚ドライブ  通過儀礼としての「翁」: muse-A-muse 2nd http://bit.ly/l7gJHt at 05/22 17:56


m_um_u / むーむー
まぁあとで追加するけど、達人というのはスピード的には遅くても機をつかんでるので、力が弱くて遅いご老人でもマッチョな剛力の膂力とか、スピード自慢の若者を制せたりする。つまり、止まっていながらにして動いている、のが達人。それが基本の話 at 05/22 17:58




(※以下は「精霊の王」より)


--
第六章 後戸に立つ食人王 本覚論と魔多羅神
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seire07b.html


Togetter - 「「翁」をめぐる存在と時間(≠「本覚」ドライブ)とそこからの認識配置変換素描(仮)」
http://togetter.com/li/133056







翁は宿神にして荒神、と(cf.マダラ) >金春禅竹の『明宿集』は、猿楽の翁を芸能神・宿神(しゆくじん)と説くが、摩多羅神と目されるこの翁は、また大荒神であると語っている。

http://tumblr.com/xau2fmlwzx




ああ、マダラがイドなのな >摩多羅神は「三毒」と「無明」を自分の内部に抱え込んだ神である

http://tumblr.com/xau2fmmx8q




そんで、それが様相というか、内部からの変化要素か。イスラームの「アッラーはいろんな表情をもってあらわれます」だな



音で世界、というか時間≠動きをマーカーする > 摩多羅神のもつこのような転換力を象徴しているのが、おそらくはその神が手にしている鼓なのである。ポン、ポン、ポン。鼓の革から発せられるその打撃音は、音が発せられるたびごとに、世界の様相をつくりかえていく

http://tumblr.com/xau2fmn542




てか、「胞衣」であり、オトナ化してない即自みたいなのだの。 >もうここまでくれば、宿神=シャグジまではあと一歩ではないか。胞衣であり荒神であり、境界性(サ行音+ク音が象徴するもの)の神であり、ポン、ポンと飛び跳ねる音とともに蹴鞠の庭に瞬間瞬間の転換をもたらしていく転換の神であり

http://tumblr.com/xau2fmnes7



はい、あった。トレースであり舞踊の憑き物 >被差別部落民は、「障礙」する神・宿神を奉じて、猿まわしや門付芸などを行なうことにより神の祟りを鎮める役割を担ってきた http://amzn.to/mkFMGL

http://tumblr.com/xau2fmo6g3




胞衣、と >またその膜は、荒々しい霊性をひめた自然力に直接に触れているものであるから、胎児を守る機能が失われれば、この世にあって恐るべき荒神と化すのである。
http://tumblr.com/xau2fmocri





自我と超自我かな?言語機制とかもあるかと思うんだけど >猿楽芸そのものが、「存在の胞衣」ともいうべき宿神に守られた潜在空間の構造を、身体と音曲の表現として、顕在化させようという芸能なのである
http://tumblr.com/xau2fmpa61





翁のあらすじ http://www.k2.dion.ne.jp/~t7d7/okinaarasuzi.html


※通過儀礼:ジャンプ → 祝福の鈴 cf.ペルト
http://tumblr.com/xau2fmplgo





面の画像
http://tumblr.com/xau2fmq01f






三位一体:ロゴスが父
http://morutan.tumblr.com/post/5298908400


m_um_u / むーむー
ああ、そっか。基本的に能とか狂言のゆるい動きは遅く見えるんだけど太極拳と同じでそこに達人的練りが仕込まれてる、っていわないとわかんないか。。 本覚ドライブ  通過儀礼としての「翁」: muse-A-muse 2nd http://bit.ly/l7gJHt at 05/22 17:56




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追記:
全体の基層にある(隠されてゴドーとかデュシャンされてる)情報強度はこんな感じだと思われる





八極拳にも通じる中国武術における中間距離の基本型のひとつ

前足はちょっと猫足立ちにして地面にいつかないように(なので回転がなめらか)、上半身はそれほど引き絞らずそれでいてナンバの動きで、いつでも絞れるような予備動作になってる

それは音的には競うメロディとしてのそれで、ここに様々な音(リズム=鼓動とメロディ)が掛かってくるのを前提としている

たとえば、これなんか同時に鳴らしても合う




sky highのビートはふつうの人の鼓動を表してて、それはこれからの予感への動悸って感じ

「翁」演舞の周りの鼓のリズムは身体の多分節を呼び起こすためのビートの分節になってる


それらを「翁」の演者が綜合し、ご見物の気を引き上げていく


ギエムの「ボレロ」のように、時間と存在を停止させ引き上げる





このとき、ギエムは歴史という時計盤における長針であり、周りを複数の秒針が刻む


様相と主体(実存者)のように


そして本質としての「時」と「存在」が現出していく

タグ:art TASZ
posted by m_um_u at 12:39 | Comment(1) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク