2007年07月10日

ネットは偶有性を設計できるか?

 ちょっと前にessaさんからお返事いただいてて、時機的にようやく落ち着いて考えられるようになったので自分なりの理解も兼ねてエントリをあげておきます。


アンカテ(Uncategorizable Blog) - 一般大衆と理想の落差を感じたらそれをネタにすればいい


 最初に結論から言うと、「これは偶有性(セレンディピティ)の話に似てるな」、と思いました。

muse-A-muse 2nd: 例のよもぎ餅について

(ちなみに上記エントリでは当該著作をけちょんけちょんにけなしてる感じがするので、その辺が気になる方はいちおこの辺も見てバランスとっておいてください)


 「予測可能性の中で出会える多様性(奇跡)」って感じのヤツですね(関連)。essaさんのエントリ的には、「ネットに関連する大体の事柄はフィードリーダーでチェックできる状態にしているけど、時折そういうものから漏れるものがある。そういうとき、むしろ面白味を感じる」、みたいな主旨のところに対応するように思います。

 で、「そういった偶有性の元に出会ったネタというのは出会った段階ではネタでしかなくて、その面白味を他の人にも伝えるためにはなんらかの工夫がいる」、と。この辺の話はオレンジ色の日記帳でも書いたことがあります。「遇有性って要するにおもろいこと発見能力みたいなものでしょ?」ってやつ。鶴瓶さんとかが得意とするやつですね。(鶴瓶アンテナ)

 んで、「芸人がネタを芸に昇華させるのと同じように、bloggerもいろいろ試行錯誤するよ」、と。それ以前に、「芸人マインドと同じく、ネタ見つけたときにはウキウキするよ」、ってことですね。

 この辺はよく分かります。(ぼくのとこでも最近だとUMA発見とかあったし)


 そんな感じで個人的には「奇妙なことを面白く感じる」ってやり方はわかるんですが、それが社会的にどうなっていくか(個人的にはネタとしておもしろい問題も社会的には問題なはず。それらは放置されたままになるのか?)ってところが気になってお返事をしばらく寝かせていました。

 essaさん的には、「自分以外にも、あるいは自分を越えるようなおもしろbloggerが登場して問題(ネタ)を芸化していけば、だんだんと関心も高まっていくのではないか」、ってことでそれだとちょっと楽観すぎるのではないかと思っていたのですが、その辺についてはご本人も但し書きされてましたね。

 そういった楽観視に対して、特定領域の関心の空白が生じている事態に対してはessaさんご自身も危機感(あるいは問題意識)を持たれているようですが、そういった事態に対応するためにアーキテクチャが偏向してしまう恐れもある、と。

 ってか、「事態の本質をよく見極めないままに未完全なアーキテクチャ先行で行くのはどうだろう?」、って感じでしょうか。この辺は同意します。

 で、理想としてはそういった事態の見極めが終わってからそれにあったシステム(アーキテクチャ)を設計していけばいいんだけど、それが完成するのを待つというのもびみょーな話で....。「それ以前になんらかのシステム的な落としどころはないか」、ということで偏向を正すためのより中立なシステムとして以下のようなものを想定されている、と


リンク関係や使用する用語の解析から、世の中で公表されている全てのブログ全体について、なんらかの偏りとか傾向を判別することは、半自動くらいでできるようになると予想しています。

そうなれば、もっと説得力のあるデータによって、上記の記事を書き直すことができるでしょう。

「やれば儲かるものだから、きっと誰かがやる」というのは、こういう社会の偏りを浮かびあがらせるようなシステムです。こういうシステムを作れば、多くのブロガーがこれを利用して解析することで、我々が住む社会の潜在的な問題点がどんどんネタにされていくでしょう。



 この辺がオープンソースっていうか共有知的に利用されていくということでしょうか。(ちょっと違うかもしれないけど)なんとなくこれが思い浮かびました。


これはひどい

はてなブックマークの中から「これはひどい」エントリーを取り上げて、Digg風に表示したサイトです。



 これも「偏向」をネタにしたサイトのひとつですよね。痛いニュースなんかもそんな感じか..。(って、あれはちょっと恣意性感じるけど)

 あるいはもうちょっと真面目(?)なものとしてはnewstrustなんかがあるか

muse-A-muse 2nd: blogとニュースサイトの有用情報に関して



 「これが理想」ってわけじゃないだろうけどこんな感じでメタ的に、もっと恣意性を減らした感じで偏向を制御・共有できるシステムができていくのかなぁ、とか思います。


 同時にスーパーノードというかスーパーハブ的な影響の活用ってのももうちょっと考えられていいかもしれませんね。渡辺千賀さんのところにも出てたけど


On Off and Beyond: 人間はアイドルを求めてしまうものらしい


 やはり、美人投票的な引っ張りの影響力(それによる偏向)ってのはあるみたいですしね。それを暗黙にしておくよりは明示化してシステムとして活用したほうがいいでしょうね。(できるのであれば)


 ただ、その設計というのは(おそらく)essaさんの想定されているように変更可能性を担保したもののほうがいいでしょうね。っつっても、ぼくはそれ系のアーキテクチャに関わるわけでもないのでblogなどを通じてもじゃもじゃと考えているよりほかはないのですが....。

 それが「bloggerの本分」というか、そういう中にも「bloggerの一分」のようなものがあるのかもしれませんね。芸人が芸にかける気持ちのように。



 まぁ、ぼちぼちと考えていってみます。



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関連:
muse-A-muse 2nd: 当て逃げ事件を巡る言論活動からraw journalismのあり方について再考してみた

※共有知(ネタ元)的な情報センターの可能性について。ネタの提供だけではなく関心を繋いだり、その他もろもろの情報コンシェルジェ的な役割をしてくれるのが理想だけど.....どうなるんでしょうねぇ..。



muse-A-muse 2nd: まれびと来たりて笛を吹く (多様性の可能性と限界)

※「システムにおける多様性の必要性」関連で。「運動」というかそれよりゆるいものでもいいんだけど、ボトルネックを解消するための鍵(きっかけ)というのはどこにあるんでしょうね?(やっぱ人? )



muse-A-muse 2nd: 「ネット時代だから地方から世界へ」は可能か? (広島の地域活性化について2)

※↑の「ボトルネック解消のためには?」関連で。ってか、こっちのエントリのほうが先。「門をあけるためにはなにが必要か?」ということで↑のエントリに続く。
 
 




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2007年07月06日

twitterの教育利用とネットワーク時代の教育法について

rajendraさんのぶくま経由で松本たろさんのtwitter話を見ておもしろいなぁ、と。


TAROSITE.NET: Twitterファシリテーション - 大学の授業での活用


TAROSITE.NET: Twitter授業でのつぶやきとうなずきのシェア - Smart Mobs的な何らかへ



 要約すると、「twitterを介して遠隔から授業に参加する」、って感じでしょうか。あと、「授業中の感想の共有化」って感じですかね。後者の機能は以前に話題にしたせみったーに似てるように思いました。


muse-A-muse 2nd: スモーとってもまわしはとるな! (SocialMedia時代のサイト最適化関連)(※後段)


 せみったーの場合は「セミナーの感想の共有」ということだったんだけど、twitterの講義試用というのもそれに近いように思います。んで、その効果ですけど.....(※以下、教育理論は専門外ですが教育効果に関する認知心理みたいなのをちったぁ見たことがあるのでもそもそと)


 教育の効果モデルというのもマスコミュニケーションの効果モデルと一緒で、「送り手から受け手にメッセージが伝わっているか」、というところが主眼になっていたように思います。つまり、「受け手(生徒)は送り手(先生)の言っていることをきちんと理解できているか」、ということ。当たり前といえば当たり前なんですが、このモデルの欠点としては「教師の言うことは絶対」っていうか「一方向的なコミュニケーション」をデフォルトで考えてしまうところにあるように思います。具体的に言えば「教師ばっか話して生徒が置いてけぼりになってしまう (ex.授業中に寝ちゃう)」みたいなことですね。

 っつっても、「講義ってヤツは教師がしゃべって生徒が聞くものだから仕方ないんじゃないの? 授業中に生徒が好きなようにしゃべっていいということにしたら講義がカオス状態になっちゃうじゃん?」ってことでもっともだと思うんですが、これもちょっとびみょーなんですよね。

 マスコミュニケーションの効果研究でもそうですが、「コミュニケーション」というモデルをとりつつ情報の流れが一方通行的なモデル設定をしていたらそれはコミュニケーション(対話)ではないですよね?

 で、

「だったらコミュニケーションモデルってしなきゃいいじゃん」ってことでもなくて、ここで「暗黙のコミュニケーション」というべきものが成り立っているように思うんですね。認知心理系の概念でスキーマってありますが、(ちょくせつ言葉には表れないような水面下で)あれのぶつけ合いみたいなのが起きているように思うんです。具体的に言うと、教師がなんらかの理路をもって説明を試みるとき、その説明には膨大な背景知識(スキーマ)が含まれてきますよね? んで、それを理解する受け手(生徒)というのは、理解の段階で自分たちのスキーマをフル稼働しないといけないんです。ここで教師のスキーマが生徒のスキーマを追い越しすぎてしまったり、生徒のスキーマとずれたことを言い過ぎるとschema hackのような状態が起こって、生徒の脳みそがhackされぼけーっと講義をききっぱなしの状態になるか、講義自体から関心を失ってしまうように思うんですね。

 そういうのに対抗するためには教師の側が説明方法を改善するだけではなく、生徒のほうの関心を高めるような工夫(スキーマを刺激するような工夫)をしなければならない。生徒のスキーマがうまいこと刺激されると教師のスキーマにも対抗できるようになるので容易にhackされなくなるように思います。

 イメージとしてはスキーマ(の総体)とスキーマ(の総体)がぶつかりあいをしているような感じですね。ぶつかり合いながら相手のスキーマの食い合いをしているような感じ。なので、こういった認知過程を個人的に「スキーマの投網理論」と呼んでいます。(投網で相手のスキーマをかっさらうイメージ。あるいは投網同士のぶつかり合い)


 で、twitterの講義利用の話に戻ると、そういった感じで受け手のほうの講義参加意識を刺激することができるように思うんですね。具体的にはまだいろいろな方法があるように思うけど、たろさんはまだその辺りの使用についてはイメージできてないのかなぁ...。(教育心理とか見たことあるんだろうか..)

 あ、たろさんたろさんと馴れ馴れしいですが面識はないので。なんか太郎さんってたろさんって言ったほうがかわいいな、と思って失礼ながら勝手にたろさんと呼ばせてもらってます。(そういうことで今回はTBやめとこう)


 んで、これ関連で思い浮かんだのが少し前に見たこの記事です。


PingMag - 東京発 「デザイン&ものづくり」 マガジン » Archive » 学びやすい環境へ:学校用の対話型デザインパターン


 要約すれば、<PCとネットワークを介して課題設定 - フィードバック - インタラクティブ的に指導・教育>、みたいなシステムの(ほぼ)完全版って感じです。課題を与えたらやらせっぱなしではなく、なにか疑問があったりしたら適時質問できたり、教員のほうから修正できたりするシステムっぽいです。ポイントはこの辺かな


この技術の今の使われ方−間違った使用法では、教師は自分のモニタを、生徒はスクリーンを見ることで、対面相互作用そのものを切断してしまっています。これは現代の学習理論とは相反するものです。昔の理論は、教師が生徒に知識を詰め込んで与えるものでした。今日の知識に対する考え方は、生徒がもっと自主的に参加することによってより積極的に構築されるものだという見解で一致しています。これは、生徒が自分で調べたり、独自の見解を述べたりすることですね。そうなると、教師の役目はむしろ議長のようなものになってきます



 こんな感じなので「課題を与える」ってタイプでもないのかもしれない。ってより、生徒同士が協力して分からない部分の知識を共有して行きどんどん知識を広げていく。教師はその手助けをする、って感じですかね。 操作性としては中段の説明のところが分かりやすいかも(※絵付き)


触覚伝達式ホワイトボードではPCのデスクトップのような使い方もできる。違いは画面に指で触れて操作すること。単にフィールドを作り、印をつけて、それを繋げて新しいノードとしてネットワーク上に出力するだけ。



 つまり、ホワイトボードがタッチパネル型になってて、そこに並んだ文字列をてきとーに丸で囲ったりするとグループ化できる。そんで、それを議題設定として生徒側に渡す、と。

 マインドマップ型思考法(あるいは教育法)と近いように思います。


マインドマップとは


フィンランドメソッドについて - るいネット


 PingMagの記事ではシステム面の説明に終始してたけど、教育法(理論・実践例)としてはこちらが基本になっているように思います。実際、フィンランドでは実践してて効果挙げてるみたいだし。その辺のところをちょっと掘ってみると面白いかも。


 んで、こういった教育理論やシステムがうまいこと連動して行くのに対して、twitter(あるいはそれに準ずるもの)はユビキタスな機体(ノード)を実現していく、って感じですかね。この辺の可能性はネットワーク論とか戦略論辺りから見ていくと面白そうだけど、残念ながら未だそこまでおべんきょーが進んでないもので今回はこれで打ち止め。

 んでも、おもしろそうなシステムですね。



 あと蛇足的に。最近になってようやくtwitterの使い方が分かってきたというか、自分がpostする内容が決まってきました。脳みそに浮かぶムダな決め台詞とかネタ、blogとかmixiでpostするまでもない(postするとまずいかなぁ)的なつぶやきとか用のロバの耳穴として利用しています。こんな感じで


Twitter / m_um_u


 あと、ぷちeco活動したときのecoったーとか使ったり。 ぼくのだいたいの使用はそんな感じなんですが、世間一般的には「きょうの飯」的な使い方をしてる人がけっこういるみたいですね。

 んじゃ、もう、「めしったー」とか作ればいいのに...。(ecoったーみたいな感じで)


 ほかには就寝 / 起床時間の記録をする人もけっこういるみたいだから「おきったー」とか、そんなので早起き日記みたいなのしたら受けるかも。

 あと、欲しいのは「とれったー」っすね。運動記録をつけるヤツ。


 twitterのevangelist田口元さんも運動記録つけておられますが、こういうプチ記録系ってtwitterほかミニブログに合うように思うんですね。それでnecoったーみたいな感じでなんか生育できるとちょっとうれしいかもしれないし...。

 いまだったらビリー教官ですかね。あの人を育成しても仕方ないので、ぶーときゃんぷ的な気分を味わえる設定にする、とか。


......だれかマッシュアップ作ってくれないかなぁ....ecoったーの人とか..。ってか、twitterってもしかしてマッシュアップの材料的なものなのかな?


 まぁ、とりあえず、しばらく自主的に「とれったー」しようかとおもいます。(あと、「(体重 / 体脂肪)へったー」とか)

 
 




タグ:教育 twitter
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2007年06月30日

当て逃げ事件を巡る言論活動からraw journalismのあり方について再考してみた

 ちょっと前のエントリ関連で、bewaadさんのところの話がリンクしたのでもうちょっと考えてみようかと思います。


muse-A-muse 2nd: ウェブ社会の民主主義:スケールフリーなネット社会に対応する設計とは?


Apemanさんの当て逃げ事件に関するご見解への疑問 | bewaad institute@kasumigaseki


続・Apemanさんの当て逃げ事件に関するご見解への疑問 | bewaad institute@kasumigaseki


 起点としてはこちらのエントリのほうが分かりやすいですね。(動画リンクもあるし)


雑種路線でいこう - Youtubeと地上波が逆転した日


 要約すれば、「ふつーに運転してた人がなんだかしらないけど嫌がらせされて車に当て逃げされた現場を偶然動画に撮っていたので、youtubeにアップしてネットの共感を得た」、みたいな話です。

 「ネットの共感」っていうか、「カスケード的支援を呼んだ」、ってことみたいです。


 で、bewaadさんとしては主にデュープロセス(法律の定める正統な手続きが行われたかどうか)に着目されていたようですが、ぼくとしては「正しさの過剰さ」のほうが気になりました。

 前者が手続き的な関心なのに対して後者は倫理的課題ってやつです。

 具体的には、「それってやりすぎなんじゃないの?」、ってこと。



 で、ネット的な正しさの具現であるカスケード的支援のことが気になったり...。(※カスケード的支援のびみょーさについてはこちら↓)
 

muse-A-muse 2nd: カスケード的支援と持続的運動 (情報普及における質的投入の可能性 (仮))




 上記エントリのところでも少し問題になってましたが、「正しい」からといってなにをやってもいいわけじゃないんですよね。

 でも、ネット的な支援というのはそういう傾向が強いように思います。端的に言えばメディアスクラムならぬネットスクラムってやつなのでしょうけど。


 で、


 その危うさってのはこのあたりに集約されるかなぁ、と。


秋月瑛二の「団塊」つぶやき日記−FC2版 | 原武史・滝山コミューン1974(講談社、2007)を読んで。


 「学級会的正しさ」ってやつです。

 「正しさ」ってのは時代環境や当人の生育環境、もっといえばそのときの気分なんかにも左右されるぐらい危ういものですよね? でも、「正しさ」のスクラムをする人たちはそれを疑わない...。

 疑っている人もいるのかもしれないけれど、「運動的なものの勢いのためには一時の疑念は胸にしまっておけ」、ということになっているのでしょうか?


 で、びみょーな「正しさ」ののっぺらぼうができあがるわけですが


ラディカル・デモクラシーと「ただの民主主義」



 外山恒一さんも言ってたけど、「正しい」という行動から参加する運動というのは卑しさをもつように思うんですね。そこに自分的なコミットメントの理由がないと。つまり「自分のため」という理由がないとどうもギゼン的なものになりやすいし、流されていても気づかないことがある。

 
 ある流れに参加する人はその辺に自覚的であるべきだと思うんですが、昨今というか日本的気質なのかもしれないけど、カスケード的支援にはそういうのが見えないんですよね。

 逆にカスケード的私怨(ネットイナゴ)のほうにしてもそうなんだけど。

 両方とも過剰なんですよね




 
 本来、「正しさ」というのは訳わかんないものから当事者のエゴの妥協点を探るために「法」というものが設定されているはずだけど、その部分も機能してなかった....(のかな?)


 ってか、「警察の対応が遅いのが悪い」って言葉に集約されそうですが。



 じゃあ、まぁ、手続きプロセスとしてはそっち方向で任せるとして、ネット的な民主主義のあり方についてもうちょっと考えてみたいと思います。


 ネット的な民主主義というか、youtube的ジャーナリズムのあり方について。


muse-A-muse 2nd: ネット時代のジャーナリズムの可能性 (raw journalismについて)



 上記エントリは武田さんのネタ記事「ウィニーこそ史上最強の「ジャーナリスト」? 」を受けてもそもそと考えたものですが、今回の一連の事例では上記エントリ後段で出てきたP2Pジャーナリズムという概念がもうちょっと進んだ形で現出したようですね。

 前のエントリではちょっと詰めが甘くて、「P2Pジャーナリズムの担い手は記者個々人(これによって検閲を超え、ジャーナリストの内部的自由が確立できる)」、みたいな結論を出してしまいましたが、P2Pやらオープンソースってことだと市井の人々も含まれると考えるほうが妥当ですよね。


 で、「それはジャーナリズムといえるのか?」ってことなんだけど...。



 今回の事件から考えると、youtubeに動画をアップした人の行動は「特に言評をつけず(no edit)、情報をそのままアップする」ということでraw journalismの一例といえると思います。


 no editとは言っても、客観報道を巡るギロンにもあるように完全に客観な情報発信なんかないわけで、人間が発する場合、そこになんらかの恣意性が含まれることになると思います。


 件の動画も「客観的な状況説明」という体裁を保ってテロップの構成をしているように見えますが、それによって「この動画は客観的だ(恣意性がない)。 → この人はなんの印象操作もしようとしていない」って好印象を持たせることはできるわけですよね。


 そして、情報を発表する場所、タイミング、情報を伝播する経路の選定などに関しても恣意性が働いてくると思います。(見えない形で)



 って、こういうとこの当事者の人を批判しているようで心苦しいのですが、いちお断っておくとぼく自身は当て逃げされた被害者の人に対して同情的というかある種の共感を持っています。

 その上で、「<動画=raw>って定式で信頼が集まったのかなぁ」とか思ってるわけです。



 今回の動画はedit的なことはなかった(と思うので)すが、これにほんのちょっとeditが加えられるようになるとどうなるのかなぁ、とか思ったり。


 たぶん、大部分の人は気づかないでしょうね。そして「善意の支援」をする。(mixiでウィルス警報日記が流行ったように)



 その辺のところどうなんだろうなぁ、とか思うわけです。





 もうひとつ思うのは従来のジャーナリズムと比べて、今回のそれは支援までを含んでひとつの言論活動といえるのかなぁ、と思ったり。ってか、この「支援」の部分こそがメインなんですよね。



 そういうのは民主主義とジャーナリズムとの関係を考え直すきっかけになるように思います。



 ハーバーマス的定式を借りれば、政治・経済システムの論理と生活圏の論理を繋ぐのがジャーナリズムの役割ってことになるのですが、raw journalismにおいてはそこにショートカットが生じるのかなぁ、と。

 今回の事例では「生活圏 vs. 生活圏」って感じになったので、上記のような定式は当てはまらないのですが、これが「政 vs. 生活圏」「経済 vs. 生活圏」という図式になったときにどうなるのか...?


 そんなことを少し思います。


 
 「界」と「界」がクッション(公共圏)もなく直接ぶつかり合うことになるわけですが、そうなると本来力を持たない生活圏の側のリスクが高くなりますよね?(Apemanさんが「もしも当事者責任がなかった場合にはどうするんだ?」とおっしゃっていたように)


 その責任を担保するために専門的職能集団というものが構成されているわけだけれど、その部分が機能していないのでネットの力が使われる、と。


 白田さん流に言えば、「リヴァイアサン(国家な力)やベヒーモス(市場的な力)に対してグリゴリ(情報、あるいはネットの力)が飛び立とうとしている」ってところなのでしょうけど...グリゴリってのはそこまでの力....というか、防御力を持つものなのでしょうか?
(※ぼくの脳内イメージではクリオネです)



 もしもraw journalismが本格化するのであればなんらかのクッションが必要になるかもしれません。


 市井の人々が言論的活動をした場合のリスクを補填するサービス(保険)を行う会社みたいなものとか。あるいは、raw journalism的な素材を集約、必要に応じて配布する情報センターのようなものとか..(イメージとしては通信社から新聞社にわたっている情報を市井の人々も使えるようになる感じ)。あと、関心が似ている人々やギロンのマッチングサービスとか..。

 そういうものを統合したサービスとしてのraw journalismセンターのようなものが必要なのかも。


 イメージとしては下記social mass-media ecosystemの中でもsocila mediaに近い位置にあってblogosphereを回転させるためのハブみたいな機能をするものです。


Social Media: Social media goes mainstream

(日本語解説はこちら


 
 センターの必要性についてはこの辺

muse-A-muse 2nd: blogの可能性とblogセンターの必要性について (reprise)



 つまり、「公共圏の再設定・再構築」って感じです。



 さて、そういう感じのものがうまく回りだしたとき、それはジャーナリズムっていえる....のかなぁ(あるいは、「それこそがジャーナリズム」、か?)






posted by m_um_u at 18:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

日本的コンテンツの可能性と限界について論じる際の論点とは?:製品開発環境・マーケティング・商品の質・リテラシー

 一部でコンテンツ関連のギロンが少し盛り上がってるようでほほえましい。

 で、TBでも送ろうかと思ったんだけど、この人たちは仲間内での雑駁な居酒屋談義を楽しみたいだけなのだろうからまぁほっとこうかなぁ、と。(ダンス@シリコンバレリーナ島)


 なまぬる〜く見守っとこう(ちゅーちゅー言ってはイカン!!) 

   

 それとは別に、これ系のギロンは個人的に関心がある領域なので勝手に引き取らせてもらう。



 彼・彼女たちのギロンを見ているとどうも問題の位相を一点でしか捉えていないようなのでまずこの問題におけるレイヤを整理すると


 「送り手の送り方(マーケティングなど) - コンテンツの質(製品創造環境) - 「受け手のリテラシー」


 の三段階に分けて論じる必要があるように思う。


 
 マーケティングの問題については広告手法やそのタイミング、それにかけるコストとリターンの算定、広告を送るのに効果的なメディアチャネルの選定などがそれに当たると思う。

 この辺はまぁ、それ関連の本でも読めば載ってる話題なので特に触れない。(ゴロゴロ転がってるだろうし)


 
 コンテンツの質について。「アメリカでは日本のコンテンツは通用しない」みたいな言説があって少し気になった。

 まぁ、たしかにそうなんだけどその辺りの論点はけっこう既出だったりする。


ITmedia News:「日本のドラマは論外」 希薄なテレビ業界の意識


 ここでデーブ・スペクター氏も言ってるように、「ドラマなんかでも資金力の差が質の差にそのままつながってる」ってのはその通りだと思う。でも、それができる(できない)のは当該コンテンツ業界の歴史にもかかわる問題なので。

 簡単に説明すると、アメリカの場合はフィンシンルールの関係でドラマ制作に映画と同じぐらいの資金をかけられる土壌ができた。なので、アメリカドラマというのは少なくとも資金面ではアメリカの映画に見劣りするものではなくなっている。

(歴史を話し出すと長くなるんだけどちょっとだけ言うと)日本の同部門の経緯としては五社協定なんかで「アメリカ映画締め出し〜」なんてアホなことやってるうちに映画産業は競争力を失ったし、映画業界はTVのことをバカにして俳優貸し出し規制なんかも行っていたので、ドラマが育つ土壌もできなかった。

 そういうわけでこの部門に関してはアメリカと日本では構造的に開始地点が違うのだ。



 それとは別に、「金をかければよいコンテンツができるのか?」、という問題がある。ってか、「アメリカのコンテンツは金がかかってるからって良いコンテンツだといえるのか?」、って問題。


 正直、ぼくはアメコミとかアメドラマ、洋楽なんかは苦手で摂取しないのだけれど、その理由として考えられるのは彼らの作るものにバタ臭さを感じるからだと思う。「バタ臭い」っていうか過剰な大人性みたいなの。もうちょっと言うと、「大人」と「子供」の中間的なものがない気がする。

 こちらでも少し触れたが


muse-A-muse 2nd: 小さきもの、カワユスかな


 アメコミ的なキャラ設定してるSecond Lifeなんか、いままでの日本のコアなゲーマーに受けるわけがない。(実際、SLのユーザーの多くはゲーマーではなくそれまでゲームをしたことがないようなライトユーザーのはず)


 そういうのはもうちょっと言うと「子供文化と大人文化の違い」ともいえるかもしれない。


 どっちが「優れている」とかそういうことではなく、すくなくともマンガやゲームといった若者文化と親和性の高い領域においては、若者文化的なところを「お子様文化」としてバカにせずに商品の機微を研ぎ澄まさせていった日本的なコンテンツのほうが質が高いように感じる。

 それは自国びいきというかそういう面も少しはあるのかもしれないが、客観的に見て、欧米文化よりも日本の若者向けコンテンツのほうがかゆいところに手が届くような商品開発をしているのだから仕方がない。


(重複するが)欧米の人たちはそれを「お子様文化」として軽んじて作り上げていっているので、大人向けじゃないものを作るときにはどうやってもお子様的な価値観、形象から抜けきれないところがあるように思う。

 なので、物語的には「善悪二元論」がデフォルトで、キャラクター的にはいかにも「お子様向け」な商品しか開発できない。(っつっても、「善悪二元論」の部分はシンプソンズほかに見られるように少しは変わったのだろうが)


 形象(キャラクター)開発関連で言えば日本という国がどれだけキャラクターに囲まれた国か、日本人はあまり意識できないのだろけどガイジンなんかはよくびっくりするみたい。(あまりいい意味ではないのだろうけど)

 たとえばドラッグストアで売られてる大人向けの薬にもキャラクターが設定されていることに驚いたり。「そんなことしたら”お子様向け”ってことで欧米では売れない」、って感じだけど日本ではデフォルトだしなぁ。


 それだけ「キャラ」というものが生活に染み込んでいるということだし、生活の中にキャラがあふれているということは「キャラクター」(あるいは「かわいい」ということ)の多様性に関する開発が進んでいるということの証左ともいえるだろう。



 あと、バタ臭さ関連でこの辺とか



muse-A-muse 2nd: 「ここ10年でAV女優のレベルは上がった」のか? (+ エロコンテンツ周辺情報まとめ)



 洋ピン的なコンテンツと日本的なコンテンツでは明らかに機微が違う。この部分にも当該コンテンツに関する差別意識が絡んでいるのかもしれないけど、やっぱ全般的に「日本的ロリ意識」ってやつが絡んでくるのだろう。

 「ロリ」っていうと語弊があるか。「小さきもの〜」のとこでも扱ったような「バロック的なゆがみ」といったほうがいいかもしれない。


 バロック-ロココが絶対王政の豊穣を基盤にした「ゆがみ」であったように、オタク的なもの(あるいは各コンテンツ業界における既存商品の亜種)は「バブルの文化的豊穣(飽和)を受けた変化だった」といえるだろう。


 私見ではアメリカの当該コンテンツ(アニメ・ゲーム・AVなど)は「飽和」というほどの発達を遂げていないように思う。ポルノは別にしても、特に若者文化にかかわる部分は。再三言っているように、彼らはそれを「子供文化」として舐めているので、商品開発としては「子供用」の域を脱していないだろう。そしてその域でコモデティティ化し大量生産されて済まされる。

 こちらで関連の考察があったが


想像力はベッドルームと路上から - 「日本人のコンテンツ制作能力」が注目されるのは、単に特定のジャンルにおける「先行者利益」に過ぎないんじゃないかな。


 「一部の日本マニアがジャパニメーションを消費している」関連ではこの指摘に納得


これって、「オリコンチャートの商売臭さに馴染めず、でも日本のインディーバンドも安っぽくて好きになれないからUKロックを聞いている人(←俺)」とどう違うんだって話。



 こんな感じなのだろう。



 それと同じように、「商売臭い既成コンテンツに飽いた消費者がオタク(同人)マーケットに向かう」、ってことなのかも。


 あと先行者優位というかそれって比較優位ってことなんだけどまぁその部分の説明とか。

 面倒なのでジャーゴン使ってすっとばして説明すると、歴史的な必然性から生じた比較優位によって経路依存性やらロックイン効果が発生し、デファクトが決まってくってやつだろう。

 んで、この比較優位を成り立たせる歴史的経緯も大きく分けて2つの理由があるように思う。


 1つは風土と文化の関係。もうひとつは(本エントリ前段でも少し触れた)製作環境が作られる経緯。



 風土と文化の関係については、「小さきもの〜」のほうでも少し触れたので今回は特に触れない。(簡単に言うと「国土の小ささと借景的な技術、あるいは細やかな技術の開発力が関連してるのでは?」って話)

 製作環境と歴史の関係についてもう少し。


 inumashさんのとこで音楽の話が出てたので音楽関連でいうと、日本の若者文化の場合は「大戦による文化的リセット」ってのが大きいので。その後、アメリカからコンテンツそのものを輸入したり、その過程でフォーマットを真似たりしたんだけどなかなか自分のものにできなかった、って問題がある。


muse-A-muse 2nd: J-POP、J文学とはなんだったか?


 それに対して、アメリカはアメリカで「音楽的にすぐれている」っていうのはびみょーな感じがする。(inumashさんの場合はUKファンってことだけど)


 「Dream Girls」なんかでも少し触れていたように、彼の国の文化開発のけっこうな部分は黒人ほかマイノリティが担ってきたものだろう(cf.ユダヤ人と映画産業)。白人も初期には開発に貢献したかもしれないけど、エスタブった後には弱いものの文化をかっさらってコモデティティ化することに専念してたし。


(関連で言えば芸能の大部分は元々「賎業」として扱われていたもの。網野善彦本とか「出雲の阿国」なんかを想起してもらえば分かるだろうけど、道から外れた「公」的なところにすむ人々が生きるための術として編み出した川原乞食的な芸が芸能ってこと。なので、「芸」ってのは元々反骨の限界芸術って趣が強いのだと思う。その部分をなくした芸能は単なる複製劣化にすぎない。「反骨心とコンテンツ開発」については日本のアニメ・ゲーム業界にも共通するはず)

 

 なので、「アメリカのほうがコンテンツ的に優位」なんて胸を張っていえるのか?、って気持ちはぬぐえない。彼らの大部分は消費者のはず。


 そして、「大部分が(カウチポテトな)消費者」と仮定されるが故に受け手のリテラシーに対して懐疑が生じる。


 そう考えると「日本のコンテンツはアメリカでは受けない」ではなく「アメリカ人の頭では未だ理解できない」のほうが適切なのではないか?
 
 
 もっとはっきり言えば、「(アニメやゲームなどの商品の質については日本のほうが優れているが、アメリカ人がその質を理解できるリテラシーを持ち合わせていないので)アメリカでは受けない」、のほうが適切だ、ってこと。


 だって、彼らは旨味も理解できないような国民性だしなぁ..。いろんな部分に対してじゃがいも舌なんだよなぁ..。


 「ハリウッドがあるじゃないか!」っつっても、前述したようにユダヤ人が作ったものだし、音楽も黒人のパクリが大半だったり...。そんな人たちにコンテンツの優劣について語って欲しくないわなぁ。


 それでも差が出ているのは比較優位というか、コンテンツの質以外の面での資本のたくわえとhypeの問題だろう。つまり「潤沢な資本を利用したマーケティングの成果」ってやつ。あと、コンテンツなんか元々、内需産業的なものだからじゃがいも舌な人々にはちょうど良かったのかもしれないし。


 ここで疑問なのが、「ふつーだったら同じようなコンテンツ(お子様コンテンツ)ばかり受けていたら飽きるのではないか?」、ってことだけど.....じゃがいも舌だから飽きないのかなぁ...(じっさい、彼らはずーっとジャガイモと肉をメインに食べてるわけだし)



 この辺の話は「文化的商品開発」ってことで福耳さんに聞いてみるとおもしろそうだけど......まぁ、いいや。(もし見てて「ちょっと言っとくか」って思ったらコメントください)





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関連:
日本文化 続・妄想的日常

※日本文化の特殊性と優位性について


OLだった頃、会社で働いていた日本に超詳しいベルギー人が言ったことに納得してた。
日本文化は身内受けの凝り性文化だそう。
外国文化に負けまいとしているのではなく、
世に意図的にインパクトを与えようとしているのでもなく、
今ここにいる同じ価値観を共有する仲間からの喝采を浴びたいと考える。
その結果、同じものを志す者同士の「これすごいだろ、おもしろいだろ」合戦が始まり、
そこで生み出される物が自然と研ぎ澄まされていく。
でもその競争は、敵対的なものではなく、お互いを尊敬しあいながら、静かに深く進行していく。

そしてある日、偶然目撃した異文化出身の人間(外国人)から、
それがすごいものであることを知らされる。
ほとんどの日本人はその日が来るまで、自分たちが作り上げた物がすごいものとは知らない。



そういうわけで日本のある分野に関する商品開発力は「すごい」といえるのだと思う。問題はその「すごい」部分をつぶさず、パクらせず、どのようにユーザーのリテラシーを教化していくか、というところなのだろうけど。(そういや最近のガイジン@秋葉原トレンドはウォシュレットだそうですね)



かさぶた。 ゲーム業界は「パラダイス鎖国」ならぬ「パラダイス開国」

かさぶた。 今こそ本当の「戦略」を


※ゲーム分野における日本の比較優位は日本的開発環境に依るもので、それをグローバリゼーション(フラット化)仕様にあわせるのはどうなの?、ってエントリで同意。

ところで、フラット化の要件としてフォーマット統合を通じたモジュール化があるわけだけど、ウェブでは誰もきちんと説明してない..。(池田センセあたりがしてたっけな?)


cf.
フラット化するゲーム産業 デジタル家電&エンタメ-新清士のゲームスクランブル:IT-PLUS

任天堂は日本のゲームメーカーを滅ぼす



HPO:機密日誌 - なぜ日本に市場主義経済が根付かないか?

※日本の開発環境の特殊性、あるいは日本的なコンテンツ市場の性格を考える際には「日本的なもの」を考える必要がある。そうするとやっぱ「暗黙知」とか「山本七平」とか関連してくるのだろうけど.....まぁ、まだ課題です。とりあえずこのエントリ自体は別件で考える材料にさせてもらいます(拝)。
 
  

--
追記:
それで、特にゲームとアニメというコンテンツに絞って話をすると、ゲームの場合はDakiniさんとこで説明されていた製作環境の違い(特殊性)があるわけだし、それを成り立たせた歴史的経緯の話もしつつ日米の違いを浮き上がらせないとダメな感じがします。

日本の場合はいわずと知れた「任天堂帝国」によるコモデティティ化の成果が強く表れたわけだし、それが世界的に通用することになった。(いろいろ弊害はあったけど。3rdパーティ方向で)

アメリカの場合はよくわかんないのでパスします。ゲーム産業論系の人が知ってるかな?


 
アニメの場合は例の手塚治虫システムの確立がひとつのメルクマールだし、それによる弊害なんかもあったり。(誤解だったっていわれてるけど)

あと、「ジャパニメーション」ということに関して言えば押井守周辺とか、それが生まれるまでのGAINAXとかとの絡みとか、そんなのの経緯を踏まえることが必要っすよね。

んで、最終的にスタジオジブリのDisney提携、と。


あと、エントリ本論でも触れたけど、「アメリカで受けない」というよりは「アメリカ人が理解できていないのだろう」ということをもうちょっと考えてみる必要があるでしょうね。それもマーケティングといえばマーケティングなのかもしれないけど。
 

posted by m_um_u at 09:14 | Comment(0) | TrackBack(1) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月28日

ウェブ社会の民主主義:スケールフリーなネット社会に対応する設計とは?

 なんかぶくまに民主主義関連のエントリがたまったので記念書きコ..ならぬ、ちょっとまとめとこうかな、と。


はてなブックマーク - morutan@はて部 / 民主主義


 まずはこのエントリを見ながら


アンカテ(Uncategorizable Blog) - 洗脳ノウハウのオープンソース化


 macskaさんとこで出てきた凶悪なマーケティングの例に対抗するには、「洗脳ノウハウをネットで公開して共有すればなんとかなる」ってことなんだけど、やっぱちょっとびみょー感がある。


 ぼくも基本的な理想としてはessaさんと立場を同じくするんだけど、この違和感はなんなんだろう...。

 同じエントリに対して、ぼくの場合は


muse-A-muse 2nd: カスケード的支援と持続的運動 (情報普及における質的投入の可能性 (仮))


 って反応してて。専門家がビジネスの領域にとどまりながら、マーケティングの質を変えて行くことに期待をもったんだけど、essaさんの場合は「共有知でみんなで解体しちゃえばいいじゃん」って言っておられるわけで...。


 でも、そういうのに対して前々から言われてるけど、その場合の専門家のインセンティブってなんなんだろう?


 essaさんは「「やれば儲かるものだからきっと誰かがやる」って言っておられるけど、具体的にその線が見えないのでびみょーな感じがする。(まぁ、「楽観的」って断りを入れておられるけど)



 なので基本的にJoiさんのemergent democracy(創発民主制)とそれほど変わりがないように思う。


 あれが発表されたとき、荒削りだけど熱い内容に心躍らされたものだったけど、同時に「現実的なガバナンスとしてはびみょーかも」って感じはあった。「現実的にどのようにそれを実現していくか」という点もあるんだけど、けっきょくのところ「ネットによる直接民主制」というのとそれほど変わりがないわけで、だとすると直接民主主義の可能性と限界を考えないといけないな、と。


 で、4年たったいまでも、それ系の課題ってのは相変わらず宿題だったりする。



 あのころに比べてblogをはじめとした知識共有系のツールは普及したし、人口が多くなるにつれて専門知的なものをもった人も増えてきたように思うんだけど、日本の場合はたとえばラザーゲイト事件のようなメルクマールは起こってない。


 そんな派手なものを期待しなくても、地道なギロンや専門的な知識が共有される場が作られているならそれでいいんだけど、全体的なシステムとしてそういうものも見えてこない..。


muse-A-muse 2nd: blogの可能性とblogセンターの必要性について (reprise)



 そして、こういうのはあまり好きではないのだが、やはり全面的に民主主義を信じるのは無理があるだろう。情報そのものの価値から情報を精査できる人は少ないように思う。



muse-A-muse 2nd: 情報普及における2つの問題:情報の価値とはなにか?



 そして、それをあらわすようにネットの世界(blogの世界)ってのはスモールワールドならぬスケールフリーとして分化してる。


muse-A-muse 2nd: blogジレンマとゆるい繋がりの可能性



 つまり、「それぞれがそれぞれの関心領域に固まっている」、って感じで、そこから出ようとはしない。外部からの情報(多様性)も受けようとしない。大きな変化ではなく、マイナーチェンジ的な小粒な情報交換を求める。

 そういう傾向があるように思う。



 それそのものに対して批判してるわけではなくて、みんな忙しくて勉強する暇なんかないわけだから、そういった態度にもなんらかの合理性があるのだと思う。災害情報みたいな分かりやすく必要な情報の場合は、多少慣れてない内容でも精査しようとするだろうし。




 それが直接民主におけるノードの実態なわけで、そう考えるとネットにおける知識交換の世界ってのは自然発生的なヒエラルキーができてるのだろう。(essaさんの説明だとスーパーフラット的な平等性を前提にしているように思うけど)






 で、



 だとするとアーキテクチャを考える場合でもそれに合うようなものを考えたほうが良いのではないか?


 関連で、梶さんのとこ経由で鈴木さんが想定するウェブ民主主義を見た。


梶ピエールの備忘録。:鈴木謙介氏のウェブ民主主義論


 ここではネットアーキテクチャの設計の方向として2つが示されていた。すなわち


(1)ネットイナゴなどのネガティブフィードバックを前提とし、「中傷」などをシステム的に遮断する設計


(2)「みんなの意見は案外正しい」をデフォルトと考え、グーグルみたいな感じで「みんなの関心が高いもの」が上位に来るような設計



 「自由」に対する態度として、前者は「消極的自由」、後者は「積極的自由」として位置づけられる。


 もうちょっと言うと間接民主主義と直接民主主義の違いみたいなものかもしれない。


 でも、代議制民主主義自体の有効性にも懐疑が投げかけられているけど...


池田信夫 blog レッシグの「これからの10年」





 話を戻すと、ぼくが想定しているのは(1)(2)の中間的なものになるように思う。


 池田センセに代表される消極的モデルの場合は、CGMというかネットのフィードバック全体とかはてな全体を「イナゴ」として扱う風潮があるけれど、それも極端なように感じるので。

 確かに玉石混交的な側面はあるのだけれど、池田センセが攻撃(?)を受けたのはネット全体とかはては全体ではなくその一部からだし....なによりアレは池田センセが不注意だったからだろう。

 その意味では「悪貨は良貨を駆逐する」のではなく「悪貨が悪貨を招き寄せた」のだろう。ってか、その中にも「玉」的なフィードバックもあったわけだけど、池田センセの場合はそれも「イナゴ」認定してたしなぁ..。


 なので、そういった「消極的自由」モデル一辺倒で行くのには懐疑的。たしかに「有名税」みたいな感じのイナゴ的な側面もあるとは思うけど、それによってアーキテクチャ変えていって多様性が損なわれていくのは惜しいと思う。


 かと言って、「みんなの意見マンセー!」って感じで進めていくのも違うだろうなぁ、と。
 

 こちらでも出てたけど、暴論的にいうと日本人ってけっこうな割合でDQNなのではないか?

 それは「大衆やぁねぇ」的な上から目線というわけではなく、そういうものなのだから仕方ないかなって感じがする。

 なのでシステムを考える場合はその辺りの人々にも伝わるようなもの、利便性があるものを考えたほうが良いのでは、と思う。


 ってか、そもそもDQNな人たちの場合はギロンとかそういうのは行わないのか? イナゴ的に怒りはしても慎重で地道なギロンというのはできないのかもしれない。

 だとすると、最初からギロンの共有的なシステムからははじいて考えたほうが良いのだろうか?



 ってか、そういった人々にとっても必要な知識が分かりやすく伝わるようなシステムが理想なんだけど.....。



 あと、知識共有うんぬん以外にDQNがどうとか言ってると「不平等だ!」とか言われるかもしれないけど、実際に脳力差があるのだから仕方ないことなのではないか?

 それは「DQNは黙ってろ!」的な切捨てではなく、実際そういった人々というのは地味なギロンに参加するゆとりはないわけだし、脳力が発露される可能性も低い。


 脳力というところではなくて、「いま目の前で万引き見ました!」、的な状況報告とその共有なら可能だろうけど、その部分とギロンの共有的なものは分けたほうがいいかも。



 あと、過剰な「平等主義」のびみょーさについてはこの辺を参照いただけるとありがたい。


ラディカル・デモクラシーと「ただの民主主義」


秋月瑛二の「団塊」つぶやき日記−FC2版 | 原武史・滝山コミューン1974(講談社、2007)を読んで。





 ってか、エリート主義的言説になってきていて気持ちが悪いがそういうことではないんだけどなぁ....。



 言いたいのは、「スケールに応じたシステム作りを考えたほうが良いのでは」、ってことなんだけど.....具体的には..どんなのでしょうねぇ..(ワタシそっち方面のアーキテクトではないもので、拝)




--
関連:
Social Media: Social media goes mainstream

※mass-mediaとsocial mediaを繋いだ系としての「social media eco-system」の試案。日本語解説はこちら。今回のエントリはsocial mediaの部分での分化って感じかなぁ。



muse-A-muse 2nd: life「運動」から(2):持続的運動に必要なものと「自由」のための設計図 (国家・市場・情報)(仮)

※<自由を守るためには力が必要>って話。国家は物理的力を背景にして自由をhackするのに対して、在野の個々人は「市場」の力によって「自由」を守るべきでは?、と。そして社会的共通資本(cf.公共性)の重要性など。

 

yomoyomoの読書記録 - ドン・タプスコット、アンソニー・D・ウィリアムズ『ウィキノミクス マスコラボレーションによる開発・生産の世紀へ』(日経BP社)

※ネットの集合知とビジネスの関係、フィードバックの質を保つ方法を考える際に参考になるかも。
 
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2007年06月21日

スモーとってもまわしはとるな! (SocialMedia時代のサイト最適化関連)

 ちょっとコネタっぽいけどメモ的に。湯川さんのpodcastを聞いておもしろかったので


湯川鶴章のIT潮流 powered by ココログ: 小手先のSEOはすたれる−住太陽氏


湯川鶴章のIT潮流 powered by ココログ: SEOからSMOへ


 全体の主旨としては、

「一部の領域においてはマス広告的なものが効果を失ってきている現在、SEO(Search Engine Optimization = 検索エンジン最適化)の効果も薄れてきているように感じられる。そのような状況の中、SMO (SocialMedia Optimization)に期待がされているが、SMOとは具体的にどのようなものなのか?」

 って感じ。


 んで、もそもそとお話が展開していっていたわけだけど...

(以下、気になった点をてきとーに)


 まず、SMO関連で。SMOってことはblogも含むわけで、その最適化ってことは当然アクセスアップ関連の話になる。

 んで、「やっぱニュースサイトリンクが重要かなぁ」、と。


 特定ニュースサイトに取り上げてもらう、っていうか、広告貼らせてもらうってのあるよね、と。


 んでも、この「広告貼り」ってもうそんなに効果なくなってきてるんだそうな。少なくともアメリカでは。日本ではまだ有効だけど、今年あたりには廃れる見通しみたい。

 理由は、「topicとの関係がない」、から。


 要するにユーザーにとってtopicと関係のない誘導はスパム扱いされるのだろう。


 そういう意味ではSBMみたいなしょっぱいSocial Mediaを使ったアクセス誘導なんか特に意味のないものだと思うけど。(サンプル

 あとmixiなんかでたまにあるマルチポスト系のアクセス誘導。それ用のツールもあるみたいだけど、こんなもん意味あるのかねぇ。。(ピンキーモンキー系人工無脳とコンボか?)

 

 っつっても、無脳とか見破られてきてるしあまり意味ないと思うけど。



 
 そういうわけで単にアクセスのあるところにスパムTB・コメント送ったりとかそれほど関係のない広告貼っても意味なくて、記事との関連性が重視される時代になってきてるみたい。


 当たり前といえば当たり前だけど、ようやくネット慣れして合理性が発揮されるようになってきたということなのだろうか。


 で、たとえばニュースサイトからのアクセス誘導としては本文中のembedリンクが必要になるわけだけど、これが取り上げられたサイトの継続的なアクセス(関心)につながるかといえばそれもちょっとびみょーって感じ。


萌え理論Blog - はてなブックマークとアクセスの関係を徹底的に分析する


 こんな感じではてぶなどのsbmはそれほどのアクセス数は期待できないし、一過性のものだけど


| ^^ |Byozine: 爆発的なアクセスを稼げるサイト一覧


 「特定ニュースサイト(ハブサイト)に取り上げられたからって関心が継続するわけでもないね」、と。


 「関心」っていうか、blog主が望むような同じ関心・話ができるようなユーザーが集まるかどうかってのはびみょーっぽい。


 んで、あまり関連性のないニュースサイトに取り上げられてもイナゴアクセスwって感じで一過性で過ぎてくわけ。


 ウチのblogもこないだゴルゴ31さんとこで取り上げてもらって、その流れでニュースサイト伝播が発生 → 5000PVぐらいいってたけど、まぁ、一過性のものだったな。


 アクセスが集まったからといって「玉」が集まるわけじゃないんだよな..。

 とりあげてもらっといてこんなこというのもあれだけど、だいたいあのエントリ自体さほど脳力つかってない内容だったし...


muse-A-muse 2nd: ドラえもんとスターウォーズに見る日米著作権意識の温度差 (ネット時代のコンテンツパブリシティ+流通について)


 なので最初mixiにポストしようとしてたんだよね。でも、海部さんに日本の事情をお伝えするのもいいかなと思ってこっちに書いただけ。なのでたいしたエントリじゃない。

(※っつっても、ぼくの場合mixiのほうが優れたエントリのことも多々あるわけだけど...まぁ、その辺は置く)



 で、


 こんな感じでアクセス(関心)とエントリの質ってのはそれほど関連がないみたい。それは湯川さんも感じていたらしく、「自分ががんばって書いた快心のエントリにはコメントやTBも集まらないのに、どーでもいいクソエントリそれほど力を注いでないエントリは注目されるってのはよくあるよね」、って言ってた。


 ある程度blogやってる人ならおなじみの現象


 やはり、blogのアクセスとかアルファブロガーなんか美人投票と一緒なのだろう。


 
 で、そういうのに対して

 「完成されたエントリだと突っ込みどころがないから却ってクリップとかコメントがされなくてPVが稼げないのかも。逆に不完全なエントリだと突っ込みしたいので人が集まってPVは溜まるのかもね」

 って言われてた。


 まぁ、某サイトとか某サイトとか某サイトとか思い浮かぶわけだけど......リンクは貼りません (くわばらくわばら)



 んで、そういった中でもSocial Media広告ってのは展開して行くべき課題で..「そのへんどうしようかねー」って悩んだり。

 これに対しては、「マスみたいに絨毯爆撃しても仕方ないので、ニッチというか限られたセグメント狙うといいかも」、って感じだった。

 具体的には、「マスで流してもそれほど意味のない一部の層の関心しか獲得的ないような情報(ex.プラベートジェットのCMとか)をSocialでやってくべきかも」、と。


 より具体的に言うと、「たとえば特定領域に関心があるようなSocial Mediaコミュニティ(非明示的な仲良しグループ)を見つけて、そこのコメント欄なんかで活躍してたら自然にオーそりティとまでは行かないかもしれないけどハブぐらいにはなれるので、それで関心を集めていくといいかも」、と。


 それは個人でやる分にはいいかもしれないけど、会社単位でやるとなると.....(人海戦術?)


 まぁ、単純に言えばこんな感じだけどほかにもいろいろあるんだろう。例のWOMMAとかも絡めて。




 あと面白いなと思ったのは「パラダイムがデータベースから遊びにシフトしてるんですよ」ってところ。


 いままでの最適化関連のパラダイムだと「SEO」って感じで、「GoogleとかYahooみたいなポータル絡めてアクセス獲得」ってのが主流だったけど、いまのパラダイムはもうちょっとアレなんじゃないか、と。

 「アレ」っつーか.....たとえばGoogleなんかだとデータベースを中心に考えるので、対象とされるサイトはデータベース的な作りっていうか、完成されたコンテンツ(閉じられたコンテンツ)ってのが当然とされるけど、

 いまSocial MediaでPVが生まれているのは、上述したようにコミュニケーション(親しい人同士の遊び)を中心としたものなので、その辺のところを意識したほうがいいんじゃないか、って感じだった。


 ぼく的にはそれってだいぶ前から言ってたことなんだけど(<コンテンツからコミュニケーション>)、ようやくそういう時代になってきたのかなぁ..。(4年ぐらいかかったか)


 っつっても、湯川さんの実感ってことなので、これから普及していくのは未だ時間がかかるのだろうけど。


 たぶん、それを利用した新しい遊びのモードがセットにならないとそういう認識にはならないだろうな。





 あと、別件で


湯川鶴章のIT潮流 powered by ココログ: モバツイッター−paperboy藤川真一氏


 が面白かった。

 モバツイッターっていうか、せみったーの話が。


 せみったー(semiったー?)はセミナーの参加者のtwitt(つぶやき)がセミナー参加者に共有されるサービスらしい。

 具体的には、講演者が発言中、それへの突っ込み(感想)が壇上のプロジェクターかなんかに反映され講演者と聴講者にフィードバックされる、と。


 同様のサービスをNIIも実装したらしい



ITmedia News:学会でメモをネット共有 参加者向けシステム、NIIら開発



 個人的には「さっさと統合しちゃえ」って感じなんだけど、またお役所仕事みたいな煩雑が発生するのかな? 島国根性で争う領域でもないだろうに。


 
 あと思ったのは、これってBGM、BGVならぬBGTって感じだな、と。


 ニコニコ動画ならぬニコニコ講演(あるいはライブ)って感じでBackGround Textが世界を染めていく。



 もうちょっと進めば巷でtwittする対象すべてが同期・非同期的に共有されて、望めばいろいろな対象物への書き込みが見られる世界になるのかもしれない。

(ex.どっかの墓についての突っ込みとか感想とか説明が「twitt説明」ボタンを押すと見られる)


 たぶんウェアラブルコンピュータ(メガネ型)とセットで。あるいはこんな感じか







 「よくできた科学は魔法と同じ」...っていうか「いまの科学は魔法なんだよ」ってのはハリポタで象徴的に示されてたわけだけど、そういう時代がリアルに近づいてるのかも。




--
<質の高い情報・ケーゾク的なギロンを追う仕組みはどうやったら作られるか>関連:


muse-A-muse 2nd: blogとニュースサイトの有用情報に関して


muse-A-muse 2nd: blogの可能性とblogセンターの必要性について (reprise)



muse-A-muse 2nd: 情報普及における2つの問題:情報の価値とはなにか?
 
 



 そういや、そろそろSocial Mediaについて語っておかないとな ((C)dankogai)


 あと補足的に、このblogはアクセスあまり狙わないサイトなのでSMOとは逆方向行ってます。blog再開した動機は主にTB送りたかったからなので。エントリが長くて話が飛ぶのは自分がそういうものを書きたいからだし、それを自分で見てあとから参照したいからです。タイトルのへたれさも同様。なのでSMOや文章術関連ではまったく役に立たないblogですw


(エントリの話題がぶれるのは多様性を確保してるから。書きながらいろんな回路を開くためです)


 んで、ぶくまでセルクマはじめたのはどうも最近ケーゾク的な事案を忘れがちなので、タグ作ってそれように管理しといたほうがいいかもなぁ、って思ったからです。....dankogaiメソッドっぽいがw


 ついでに、ほぼ無関連のこれでも貼っとこう


muse-A-muse 2nd: もってけ! 化粧廻し( + 猫神 + ギロンの前提条件とは..? の三本立てだよ!)
 
 




タグ:social media blog
posted by m_um_u at 20:13 | Comment(1) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月20日

活況化するモバイルコンテンツ市場?

 主に伝言的なエントリです。TB先はこちら


ハコフグマン: 画質とライフスタイル


 エントリ主旨としては、「高精細系のコンテンツじゃなくても、小さな画面で見る分には十分なんじゃない?」、というもの。んで、アーカイブをモバイルコンテンツに利用できるかなぁ、ってとこなんですが..


 関連でこんな記事を見かけまして


Yes, the Screen Is Tiny, but the Plans Are Big - New York Times


 ESPNが中心となって、CBS、MTVなんかがモバイル(ケータイ)向けにオリジナルコンテンツを配信するサービスをするらしいです。

 以下、要約
 
ESPN, CBS, MTV, Hearst and other media companies are exploring the production of original content for mobile phones. Cellphones rank higher than television in the 18-to-26 age group, and media execs hope that the demographic will have a large appetite for mobile video content.



 上記の要約でも触れてあるように、18〜26歳のグループではけっこうケータイからコンテンツを見るみたいなので(6割ぐらい?)


When Cyriac Roeding joined the CBS television network as its head of mobile content two years ago, the first thing he did was to conduct a survey among viewers to find out how many tuned in with their cellphones at hand. He found that about 64 percent of 18- to 24-year-olds watch television with their cellphone almost always nearby.



 んで、「まぁ、いけるかなぁ」、と。


 日本とは違ってアメリカのモバイル使用っていうとちょっと前までは「通話のみ」って感じだったみたいなんですが、近年の3Gとかスマートフォンの流行なんかで使用動態が変わってきてるみたいですね。あと、もうすぐiPhoneも出るし。これはけっこうでかいのではないか、と。


Apple Inc., meanwhile, is just weeks away from introducing the iPhone, a product that some analysts speculate may reshape how people use their cellphones and increase demand for content on mobile devices. “It may start driving people’s mind-set to think, ‘Oh, I can do this mobilely,” Mr. Zehr says.

 


 問題は「画面の大きさ」ってことなんだけど、この辺については「映画のスクリーンからテレビの画面に移っても不自由しなかったしなぁ」みたいなことがかかれてたけど、ケータイのスクリーンとではまた違いますしね。。

 でも、iPhoneが出ると使用動態が変わる可能性もある(...のかなぁ。伝送路のコモデティ化にもよるのだろうけど)

 

 ポイントだと思うのは「ESPNが中心になってる」ってところです。スポーツ系のコンテンツというのは特に「生」が優先されるのでモバイルでやると強そうですね。あとMTVもフローでみるのに良さげ。


 あと、周辺状況として


 ESPNというとDisneyだし、ABCネットワークって感じなんだけど、ABC自体は「どんどんやれ!」って感じみたいです。


Yet executives at broadcast networks like ABC say that this assumption is worth challenging, and they are betting that consumers will also watch longer-form content on their phones. Last month, ABC began showing full-hour episodes of shows like “Lost” and “Grey’s Anatomy” on Sprint’s network.



 コンテンツや資本の提供については特に書いてなかったけど、成功したら乗っかるのかな?

 Disneyというと現在はゲーム系プラットフォームに力を入れてるみたいなのでこちらは遊撃的な様子見って感じなんでしょうね。


 コングロマリット関連でついでに言うと、CBSとMTVってことでViacomを中心としつつJoost, SlingMediaとの連携も考えられます。

 Joostについては皆さんご存知でしょうから割愛させていただいて、SlingMediaについて、簡単に復習。

 
TV局公認!ロケフリ+YouTube的な番組共有サービスの衝撃 デジタル家電&エンタメ-最新ニュース:IT-PLUS


 表題どおり、ロケフリ+Youtubeって感じなんですが、ポイントはsbm(はてなとかdigg)みたいな感じで動画をクリッピングできるところです。



 このサービスってけっこうモバイル向きだと思うんですね。移動中にコンテンツ見つつ目的地に到着したら「クリップして後で見る」ってできるし。あと、「クリップしといたものを移動中にちょこちょこ見る」、とか。(便利げ)


 ちなみにSlingMediaはiPhoneとの連携を既に打診してるみたいです。


Sling Media、「iPhone」へのストリーミング配信でアップルと話し合い:ニュース - CNET Japan


 
 で、Joostですが


 ご存知の通りCBSとViacomからファンドされてるわけです


 んでSkype系ってことで、「さっさとSkypeなケータイでJoostできるようにすればいいのに」、って感じなんですが、それは奥の手ってことなのかな?

 とりあえず、リビングにも進出する気みたいです。


Joostもリビング進出を計画中 - Engadget Japanese



 対NewsCorp的な動画サービスとしてはこの辺が最右翼かなぁ、と。



 Joostについてはいろいろあるので別稿でまたなんか書くかもしれません。

 
 


posted by m_um_u at 15:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月14日

情報共有時代のコンテンツ (補遺)

 一個前のエントリがダラダラっと長くなってしまった割には踏み込みが甘かったように感じたので補足的に。

 まず、「情報共有」ということに関する基本事項の確認をしていなかったのでその辺りから。

 youtubeなどに代表される共有サービスというのは複製や海賊の温床として嫌われるわけですが、高度情報化時代の「共有」には別の側面もあるわけですね。
 
 そう、例の「共有知」とかいうやつです。「みんなの知恵を出し合って云々 (cf.CGM)」とかいうのはこういう共有ものの良い面として考えられています。代表例としてオープンソースなんかがありますね。そして、それを受ける形でオープンソース方の知識共有(共有知的なコンテンツ開発)=CGMが発展してきているのが現状です。

 で、

 その前段階として、そもそも「共有」というのはどういうところから生まれてくる現象なのかというと、デジタル化が絡んできますね。

 デジタル化によって情報を一元的に管理 → 複製コストゼロで再生産可能な状態にすることによっていくらでも複製が可能になります。いまサラっと言っちゃいましたが、この「複製コストゼロ」ってところがポイントです。情報財は再生産の際のコストが(原理的には)ゼロになります。
そして、これを受けて環境さえ整っていれば(ほぼ)ゼロコストでの情報財のやりとりが可能になる。そこから「共有」という流れが出てくるわけです。

 なので「デジタル化 → 情報財化」というのは原理的に共有の可能性を含んでいるものと思われます。そこを否定するのは情報財の特性を殺すにも等しい。

 そして、こんな感じでイノベーションも阻害する

池田信夫 blog 著作権がイノベーションを阻害する




 これに対して、一部の既得権益系の企業は「共有的なものは海賊行為につながる」として否定し、proprietaryな財を提供することによって「情報財はお金を払わないとダメなんだよ」というふうにユーザーを教化しようとしていますが、proprietaryが成り立つのはその情報がなんらかの付加価値を帯びているからですね。

 ふつーの、その辺に転がっていていつでも摂取できるような情報に対してはお金は支払われないので、なんらかの付加価値をつけることによってお金を払ってもいいと思われるような財に仕立て上げる。


 で、ゴテゴテとムダな付加価値がつけられていくわけです。


 ハイエンドなハードにしてもそうだし、広告によって彩られた消費財にしてもそう。ほとんどはムダによって形成されています。

 ほんとに必要な機能にそれに見合うだけの対価を払うのならもっと安い価格での取引が可能でしょう。


 福耳さんなんかはそれをして「文化」であり「幻想」であると考えてその積極的可能性を探ろうとしておられるようだけど.....地味で無骨に考えるならばほとんどの品に付け加えられている情報はムダですね。

 価格を吊り上げるための(あるいは「お金を払って当然」と思わせるための)ムダということです。 (※まぁ、ムダこそ文化なのだろうけど)



 で、


 情報財の場合は特にその当たりのことがはっきりと分かりやすいように思います。情報に対して情報で付加価値をつけるわけだから比較対照しやすくなる(...のかな?)。

 あと、情報財の場合は「複製コストゼロ」ということがあるので、「それyoutube(Napster, Winny)だったらタダだったよ」的な比較がしやすいのでしょうね。これを受けてお金をとるコンテンツはコモデティ化していくように思います。



...ちょっと雲行きが怪しくなってきたので急いで但し書きすると、なにも「すべての情報は無料で交換されるべき」みたいなことを言いたいわけではないです。

 お金を払うべきコンテンツにはそれに見合うだけの理由がある、ということです。もしくは、「見合うだけの理由(付加価値)があると思われるもの以外にはお金を払う必要がないのではないか」、ということ。

 この「見合うだけの付加価値」の部分に一個前のエントリの「アウラ」な話が絡んできます。


 それはコンテンツそのものの内容以外の部分(ex.live感)だったり、コンテンツに対するアフタフォローだったり、social(リアル/ネットご近所づきあい)な結びつきを強めることだったりします。

 もしくはコンテンツの対象が形式化できるような情報であるのに対して、アウラの対象は暗黙知的な部分といってもいいかもしれない。デジタルに対するアナログの部分ですね。(cf.言語に対する身体)



 こういった「情報財でお金を取るための理由付け(情報財の付加価値)」についてはエスター・ダイソンがいくつかの区分けを出していたように思うのですが、今回は割愛します。(長くなるし)


 代わりに情報共有時代のコンテンツ戦略について、以前にまとめたものをご紹介しておきます。


muse-A-muse 2nd: 海外コンテンツホルダーのビジネスモデル (IBMの4象限モデルから)


 IBMの4象限モデルでは「共有」と「proprietary (≠独占)」、「アマチュア」と「プロ」の要素によって情報共有時代のコンテンツ産業のとるべき戦略がいくつかに区分されて提示してあります。


 で、

 これを地にして具体的なメディア(コンテンツ)企業を分布させたのが以下のエントリです。


muse-A-muse 2nd: YouTubeの跡地争いにNews Corpも参入!


 見ていただいたら分かるように「共有」も「独占」もそれぞれが戦略として独立して分布してるわけですね。


 なのでどっちが悪いってものでもない。「大きくなったもの勝ち」なわけです。あと、規制してばっかだとinvisible networkが出来上がって海賊版が横行することになるので却って不経済なんですよね。なので、その辺も含めて「市場」として明示化したほうがいい。


 このエントリ自体は3月時点ということでちょっと古いですが、現時点でも大枠においては変わってません。少なくとも目に見える範囲では。
 

 というのも、広告ネットワークみたいな骨組みの再編のほうが地味に重要っぽいのですが、その辺はあまり表には浮かんでこないので。

 あとはコンテンツやsocial mediaのマネタイズの導線なんだけど、これも同様ですね。(いまのところ広告が最右翼って感じなので)

 手数料系でやればけっこう行くと思うんだけど、その辺の動きが見えないんすね。



 まぁ、Amazonって感じなんだろけど (あるいはGoogleの例のクレジットサービスみたいなのが地味に効いてくるのだろうか..)







 そんなこんなで、補遺として一番言いたかったのは「アウラ的な付加価値も付加価値サービスのひとつだよ」ってことでした。 (おしまひ)

  
 
 
posted by m_um_u at 15:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

情報共有時代のコンテンツ

 あさ「おはよん」を見ていたら「ニューヨークで新しい形のカラオケショーを提供するbarが人気になってる」ってのをやってて目を引かれました。

 
NYで大人気のカラオケ店 その仕掛けとは: 日テレNEWS24

 ニューヨークのタイムズスクエアにある「スポットライト・ライブ」は、今年4月にオープンした。客は、個室で歌うスタイルとは違い、バックダンサーと一緒にステージに上がって、歌声やダンスを披露する。

 しかし、仕掛けはこれだけではない。実は、このステージの様子が外の大型スクリーンでタイムズスクエアに向かって映し出されるのだ。これは、ニューヨークでは初めての取り組み。タイムズスクエアは、ニューヨークでも最もにぎわう場所で、スクリーンの大きさは、長さ12メートル以上。さらに、この映像は、店のホームページにも配信され、アイドル気分を味わうことができる。

 目の前にいる大勢の客が投票するランキングも人気につながっていて、熱演した多くの人が、自分の姿が映ったDVDを買って帰る。


 とのこと。


 これのことみたいですね。


Reality Dining To Take on NYC's Times Square with Spotlight Live :: Best of the Buzz :: Zagat

Comcast Brings Times Square Karaoke To The Web/VOD - 4/5/2007 4:17:00 PM - Broadcasting & Cable


SpotLightLive: Home (公式HP)


 様子は公式サイトの動画から確認していただけると思うんですが、YouTube探したらあったのでこちらも貼っておきます。




 
 こんな感じで「バックダンサーと生バンドの前で歌える」、と。なので「カラオケ」っていうよりは「オケアリ」っていったほうがいいかもしれない。


 ただこのサービスはオプションって感じみたいです。英語記事にもありますが、cuisineなので。食事がメインで「食事料金を払った人は無料でステージで歌えるよ」ってことらしい。

 それで、最後にほかのお客がこっそり人気投票するらしいんですね。これが燃える、と。


 映像はタイムズスクエアだけじゃなくて引用先のYouTubeとかcomcastにも配信されてるみたいです。


 それで思い浮かべたのが先日「サラリーマンNEO」でやっていた東京にあるロックバー。「往年のロック中年達が集まってステージパフォーマンスを楽しむ」ってコンセプトとのこと。

 あらかじめ配られた曲メニューに自分ができるパートを書き込んでおいて、順番が回ってきたらステージに上がる、と。単独参加とか面子が足りない人は店側の演奏者が各パートを担当してくれるので安心、って言ってました。


 ....残念ながら店の名前は失念してしまいましたが (ってか、言ってなかったかもしれない)。



 古きよき歌声喫茶っていうか、「こういう時代だからこそ返ってこういうものが求められてるのかなぁ」、みたいなことを思いつつこのエントリを思い出したり


ある編集者の気になるノート : いま編集者に求められているのは、「ダウンロードできないもの」を作ることなのかもしれない。


 「デジタルコピーが横行する時代だからこそダウンロードできないもの(コピーできないもの)が重要になる」ということで、これは確かイトイさんもほぼ日で同じことを言っていたように思います。(「liveの重要性」みたいなの)

 それでメディアものとしてはやはりアレが思い浮かぶんですね。



複製技術時代の芸術
複製技術時代の芸術
posted with amazlet on 07.06.14
ヴァルター ベンヤミン 佐々木 基一 Walter Benjamin
晶文社 (1999/11)
売り上げランキング: 80459



「複製技術の時代におけるアート作品」 (全文@minfish.jp




 ざっくり言ってしまうと、カメラとかレコードみたいな複製技術が横行し始めた当時、「芸術の一回性が失われていく〜」って悩んだベンヤミン氏がもぞもぞといろんなことを考えた論考です。

 んで、この「一回性」というライブ感の中でもたらされる芸術的体験のことを「アウラ」っていうキーワードで表したわけですがね。


ここで、消え去っていく要素を「アウラ」という言葉でひっくるめると、機械的な複製の時代に色あせるのは、アート作品の「アウラ」だと言えるだろう。このプロセスは、アートだけの話よりもっと先の重要なポイントを示している。一般的な言い方をすると、複製技術は伝統的に複製されたものを大きく引き離すということかもしれない。多くの複製を作ることによって、ただひとつしかない存在は複数のコピーにとってかわるだろう。そして、複製を認めることによって、観るものや聴くものに特別な状況に近づけることで、それは複製を再び活発なものにする。これらの2つのプロセスは、人類の危機と同時に革新を一緒にし、伝統の激しい破壊を引き起こすのだ。両方のプロセスは、現代の大衆運動とも密接に関係している。そしてそのもっとも端的な例は映画だ。映画の社会的な重要性は、最も肯定的な形での特異性はそれを破壊やカタルシスをまねくことなく、想像もできないもので、文化の遺産の伝統的な価値を一掃してしまうものだ。その現象は歴史的な映画において、もっとも明らかだ。かつてない新しいポジションへ拡大するものだ。1927年にアベル・ガンスは熱意的にこう語った。


(※太字強調はblog主によるもの)


 で、この「一回性」(アウラ)ってのは具体的にどういうことかというと、後段で出てくるように「ただ一回しか味わえないことに対する緊張感から生まれる感性」ということのようです。


そして、もし現代の知覚の変化が「アウラ」の衰えによって理解されるのなら、それには社会的な原因があげられるだろう。
歴史的な対象としてあげられた「アウラ」のコンセプトは、自然における「アウラ」を引き合いに出すことで分かりやすくなる。後者の「アウラ」は非常に近い距離であっても、独自の現象としてとらえることできる。夏の午後にちょっと一息ついている間、あなたは、水平に広がる山や、あなたに影を投げかけている木の枝を眺めているとすると、あなたは、山の「アウラ」や木の枝の「アウラ」を体験しているということが言える。この例えは、簡単に現代の「アウラ」が衰えている社会にも、あてはめることができるだろう。



 要するに「感覚鈍っちゃうじゃん?」って話(..かな?)



 そんで、文脈切り取っちゃうと、「コピー劣化なコンテンツっておもしろくないよねー」、って話に誤解されがちだけど、後半でベンヤミンが長ったらしく語っていることはどうやらそういうことでもないみたいなんですね。

 「"コピー vs. オリジナル”ってのは写真黎明期と絵画の役割論争のときにもあったけどなんかうまくやってきたしー、人間ってなんだかんだいって変わってくものだからねぇ。ポイントは量的なものに流されずに質的なものにシフトすることだと思うけど....」


 みたいなことが書いてあるように思います。(※すごくおーざっぱな意訳)


 んで、この「量的なものから質的なものへの変化」ってのがポイントだと思うんですね。


 技術の黎明期はイノベーションのジレンマって感じで技術偏重(技術中心主義)でメディア体験を引っ張っていく傾向があるように思います。

 たとえば最近で言えばPS3の失敗とかね。


 ユーザーはそこまでのもの(ハイエンドなもの)は求めていないのに、技術屋のほうが「もっと技術を詰め込んだら売れるんじゃないか?」ってことで技術詰め込みまくりで高額な製品を作り上げていく。

 んで、「はいでぃふぃにしょん」やら「でじたる」なんやらで売り出していくんですが、ユーザー側からしてみればアナログでも事足りるわけですよね。


池田信夫 blog デジタル家電の足を引っ張るデジタル放送


ハコフグマン: 画質とライフスタイル


 かといって安易に技術アンチに走ってしまうのもびみょーって感じで。ハコフグマンさんところにあるように、「ユーザーのほうに気に入られたメディアが主導権を握って代表的メディアが選ばれていく」、ってのが歴史的な流れだったように思います。

 その際のポイントは「安い」「使いやすい」ってこと。

(あと「かっこいい」とか「なんか気に入った」とか「あの人も使ってるから使ってみよう」とか...)


 そういうユーザー側の嗜好ってのをなめちゃいけないように思うんだけど........マーケティングってやつは極悪なのかな?


ロリコンファル - 残酷な企業が支配する −バイラルマーケティング−




 閑話休題




 そんな感じで代表的なメディア(デバイス系)はユーザーの利便性によって選ばれていくことがあるように思います。あるいはコストを負担しても良いと思わせるようなパフォーマンスがあるかどうかということ。

 そのパフォーマンスというのは技術偏重的に作り出された、そのデバイス一個によって作り出されるメディア体験とは違うもののように思います。

 「ユーザーがそれを使って楽しむシーン」というか「シーン」そのものが商品になると思うんですね。



 そういう「あたらしい暮らしの提案」系みたいなのは各マーケの人たちも分かっていて、商品企画の段階、広告段階でその辺りを意識した売出しをしているようには思うんですが、そこで提案されているのはやはりそのメディア(デバイス)だけを中心にした広告って感じなんですね。


 (またSonyで悪いですが)たとえばSonyなんかはかなり早い段階から「ゲーム機はずっと居間に置いてあるんだから、家庭のプラットフォームの中心(ホームサーバー)として機能できるはず」ってことで「Play Station」という端末を売り出しの中心にすえたように思うんです。

(※それ以外にも音楽部門の売り上げの衰退、それに比べてゲーム部門の隆盛という流れがあったと思うんだけどちょっと置きます)

 
 んで、プレステだけじゃなくて「その他のデバイス(コクーンやらPCやら)をホームサーバーを使って連結させるよ」企画を練ってきたと思うんだけど......これってけっきょく成功したんですかね?


 Sony(vaio)ブランドはなんかみょーに高いように感じるんですが、統一して使ってる人ってどれだけいるんでしょう。


 んで、PS3の失敗、と。



 この辺なんかはモロに「イノベーションのジレンマ」であり「マーケティングに依存しすぎたのぉ〜?」って感じなんだけど、まぁ、その辺はいいです。


 で、話を戻すと


 そういうのに対してもっとリアルなユーザー体験(「ユーザーがそれを使って楽しむシーン」)というのはどういうものかというと、なんというか「なにげにそれを使う」って感じだと思うんですよね。

 なにげに使いつつ「なんかこれあると便利だな」とか、「これで生活スタイルがちょっと変わったな」、とか。


....ちょっと伝わりにくいかな


 要は広告の人が提案してくるような「そのデバイスが生活の中心になって劇的な変化が起こる」って感じではなくて、「なんか楽しくなる」程度のものだと思うんです。


 この「程度」ってのもまたびみょーで、最初はその「程度」だったものでも使ってるうちに楽しくなるというか、使ってるシーンが楽しかったから楽しくなっていった、って感じだと思うんですね。


 んで、この使ってるシーンで楽しくなるためにはなにがいるかというとコミュニケーションだと思うんです。


 「人」というか「近しい人々」というか..。


 そういう人々がいなくても楽しめるものもあると思うんだけど、やはり人と一緒のほうが楽しいんですよね。

 
 メディア(デバイス)とかコンテンツというのはそれ単体での消費が注目され、そのメディアを使って体験されているのはそのメディアやコンテンツ固有の機能のように錯覚されがちだけど、実はユーザーが体験したがっている(消費の対象としている)ものはそれを使ってもたらされるコミュニケーションのほうではないかと思うわけです。

 簡単に言うと「コンテンツよりコミュニケーション」って感じで。



 それがベンヤミンの言葉で言う「量より質」の「質」の部分に当たると思います。


 ってか、「コミュニケーション」というのもメディア体験(あるいは体験から拡がるもの)のひとつなのであって、「アウラ」としてはもっといろいろなものがあるのかもしれないけど、なんかいまはうまく言葉にできません....。


 でも、本エントリの文脈に絡めれば、冒頭で出てきたライブ的なものはアウラの「一回性」とかかわり、中段で出てきたYAZAWA的な「コピーできないもの」というのもそれに当たるように思います。


 なにせ繋がりってのは一回性を持つだから。(一期一会)


 その人とのコミュニケーション、会話というのは何遍もあるかもしれないけど、そのときの会話というのはそのとき一回きりなんですよね。


 けっきょく人間が一番面白いというか....。



 そして、冒頭のライブバーとの文脈を絡めて考えると、そこで重要なのはコミュニケーション....っていうか、「Socialな繋がり」ってことではないでしょうか?


 「Socialな繋がり」ってのはなんか胡散臭い感じがするんですが、こういう繋がりを容易にしていく仕組みのひとつということではないかと思います。



 福耳さん的には「そんなの昔からあるじゃん?」って感じなんだけど、それはまったくその通りで、おそらくweb culture (technology)がようやくある程度の落ち着きをもったところで「量から質へ」パラダイムが変化していっているのかなぁ、って感じです。ようやく地に足がついてきた、というか..。

(※パラダイムなんておおげさな言葉使うとちょっとアレなんですが...まぁ、ニュアンスを汲み取ってください)



 そういう意味では、「これからはSocial MediaでWeb2.0祭りだ (ワーイ)」、って感じで浮かれるのではなく、地味にリアルな生活との接合を考えていく必要があるように思います。


 「新しいメディアで新しい体験」ということではなく「新しいメディアで古い体験をエンパワーする」って感じです。



 先日出てきた喫茶店の会員制とかもその辺につながるといいなぁ、と思ったり


muse-A-muse 2nd: ある喫茶店の経営からSocial Shoppingについてダラダラと考えてみた 



 そういや昔は歌声喫茶なんてのもありましたね。(あれはどうなったのかな..)





--
関連:
「場所」と「社会」 (book review)(@Blog ; One more cup of coffee

※メディアの体験のオーバードライブ(過速化)によって実存が希薄化(ゆらぎ)していくについて。情報過多についても同様。メディアのスピード(すごさ)ばかりに頼ってると足場を見失ってしまいがちですね。



TOKYOMANGO: New Karaoke Machines Double as Dating Service

※当世カラオケ事情(@日本)。売り上げ低下への対策として、(1)登録制コミュニティでカラオケの得点を競い合わせる、(2)自費出版みたいに自分の歌った歌のCDを作れる(1枚3000円)、など



あなたの歌のうまさは全国何位?--エクシングのカラオケSNS「うたスキ」 - CNET Japan

※SNSによってカラオケ店をつなぐという試み。

うたスキではユーザーが個人ページを開設し、自分の好きな楽曲を登録できる。また、過去に歌った楽曲の履歴が保存され、好みのエコーなどマイクの設定をしておくこともできる。カラオケ店にある操作端末「キョクNAVI」のほかPCや携帯電話からもアクセス可能なため、あらかじめ歌いたい楽曲を登録しておいてカラオケ店ですぐに歌うことが可能だ。


 
 

つづき ..


muse-A-muse 2nd: 情報共有時代のコンテンツ (補遺)


..というか、要約的結論(考察)みたいなの


posted by m_um_u at 11:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月07日

「新聞は、全世界で見ると成長している」..というよりも「インド・中国では」ということではないでしょうか?

 以下のエントリにTBです。


メディア・パブ: 新聞産業,全世界で見ると成長している


 「<新聞産業は斜陽>といわれているが、WAN調べによると世界全体の売り上げとしては増加している」、とのこと。

 で、WANのリンクも示されているんですが、


Welcome to the World Association of Newspapers


 どの辺の情報なのかが良く分かりませんでした。

 あ、ってか、こっちか

The Peninsula On-line: Newspapers flourish in Internet age




 まぁ、その辺については別ルートで情報つかんでたので良いのですが、


Global newspaper circulation up-Intl Business-Business-The Times of India


 インドタイムズによるWANのデータについての記事です。


 要約としてはメディア・パブさんの主張とほぼ同じなのですが、記事前段の部分が重要なように思います。

Internet and TV channels may be getting an increasing number of eyeballs, but newspapers are holding out to the competition as their circulation rose last year across the world on booming demand in India and China, World Association of Newspapers (WAN) said.

 

「テレビとネットに圧されていたかのように見えた新聞の売り上げたインドと中国のブームを受けて増えた(WAN調べ)」、ってこと。


 あとのデータはだいたいメディア・パブさんの伝えておられることと同じなのですが、フリーペーパーの記述なんかもあります。

Free daily newspaper circulation more than doubled over the five years to 40.8 million copies a day.


 「ここ5年で2倍に増えた」、と。


 んで、フリーペーパーの部数増加も受けて、「世界の新聞の売り上げは年間4.3%、5年で14.2%増えた」、とのことです。


 ここでフリーペーパーの発行部数が全体に占める割合が気になるのですが、めんどーなので数字は出しません。おそらくインド・中国の影響のほうが大きいのでしょうから。

 
 それ以外の概況については以前にこちらでまとめました


muse-A-muse 2nd: 当世新聞業界事情 (国内・海外概略)


 インド・中国関連について言えば、発行部数減少の危機感があるアメリカの新聞社がインド・中国市場を狙ってるって話は後段のほうで触れています。


 ただし、既にNewsCorpとViacomの殖民が始まってますがね。


Young Murdoch goes hunting for the big one - Business - Business - smh.com.au


Viacom, India's TV18 Group in JV for entertainment | Technology, Media & Telecom | Reuters


 Viacomのほうについては新聞メディアということではないので少し話しがぶれますが、NewsCorpのほうはロイター関連でインド殖民の流れはかなり強力です。


 「フラット化する世界」にも出ていていましたが、インドの振興に合わせてロイターは早くから現地入り+現地スタッフを雇っています。そして、簡単な記事については現地スタッフに担当させている。

 つまり現地との関係性が深いわけです。(現地事情に詳しい先行者優位がある)


 それを含めてNewsCorpはロイターと交渉しているわけです。そして、それはけっこう良い流れになってきている、と。


ダウ・ジョーンズ創業者一族、ニューズコープの買収提案を検討へ - CNET Japan


 この流れはやはりMySpaceを機軸としたNewsCorpの躍進によるところが大きいでしょうね。


muse-A-muse 2nd: 人事を尽くして天命を待つ、とか? (NewsCorp躍進の理由みたいなの)


 そういうわけでインド市場でもNewsCorpは一歩リードするでしょう。




 以上を考慮に入れると、「世界全体で新聞の売り上げが伸びている」というよりは「BRIICSな新興国の一部(ex.インド・中国)の中流層向けの新聞の売り上げが伸びている」ということです。そして、インドはNewsCorp色に塗りつぶされようとしている....。

 そういうわけでWANのデータをして、「だから新聞業界は大丈夫」、などということはいえないでしょうね。


 競争力的にNewsCorpほかコングロマリットにはかなわないでしょうし、現地メディアとの競争もある。(NewsCorpの場合、それを見越してのロイター取り込みですが)


 中国のほうについては長くなると飽きるでしょうから詳しく述べません。興味をもたれたかたはこちらのぶくまをチェックしてみてください。


はてなブックマーク - morutan@はて部/ 海外メディア/ 中国


(って、1個しかクリップしてないや...orz)



 そんなこんなでアメリカほか各地の新聞産業は自助努力的にがんばっていかないとダメって感じです。やはり斜陽っぽいので。解決策として中国・インドがあるだろうけど、そこはふさがれてますからね。



 あと、メディア・パブさんは「新聞業界は大丈夫」ということではなく、「こういう視点もあるよ」という提示をされただけなのかもしれないけれど、少し疑問に思いました。(「アウト」ではないですね。失敬)


 なんか嫌味っぽいTBになってしまいましたが、メディア・パブさんのblogスタイル自体は応援してるし重宝してますので、がんばってください。

 
 
--
追記:
ロイターはトムソン(カナダ)と合併であって、NewsCorpが狙ってるのはWSJ(ダウ・ジョーンズ)でしたね..。・・・失礼....(こっぱずかしい)



posted by m_um_u at 19:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

情報普及における2つの問題:情報の価値とはなにか?

 一つ前のエントリで「重要情報の普及」の問題についてちょっと考えましたが、関連で、情報の受け手側の問題についてつらつらと考えたり..。

 別件だけど、福耳さんのところで、「ゲートキーパー(あるいはファシリテーター?)を活かすも殺すも受け手側の柔軟さの問題」、って話が出てて、「けっきょく外部からの情報を聞き入れるかどうかは危機意識の問題なんですよ(人間追い詰められないと人の言葉は聞きません)」、ってコメントされてたんだけど、そうするとやはり受けて側に危機意識がないということなのかなぁ、とか。

 ってか、問題として2つあって


 1つは、「その情報自体にcriticalな意義があるかどうか (重要な案件かどうか)」、ってこと。

 「お金」とか「命」とか、あるいはその人のその時点での価値観に関連する情報でなければ人は重要とは思わないもんなぁ..。

 で、記事フォーマットにしやすい情報コンテンツの中で、ある程度普遍性があるのが以前にも出てきた3S(「Stock(お金)」, 「Sex(セックス)」, 「Sports(スポーツ)」)って感じなんですよね。

 最後の「Sports」のところは「娯楽」に置き換えてもいいけど。娯楽の中で一番「真実味がある」とされ消費の対象とされやすいのが「Sports」ということなので。

 そういう情報はblogに落とし込んでもアクセスあるわなぁ..。




 2つ目は情報の受け手の問題。

 「受け手側はその情報の真贋や重要度などを参照しようとしているのではなく、情報の発信元のプロパティ自体を消費の対象にしようとしているのではないか」、ということ。

 もうちょっと平たく言うと、「けっきょく情報ではなく肩書きを見てるんですか?」、って問題。

 この問題は福耳さんもちょっと気にされてた

非常勤ながら講師をはじめて「先生」などと呼ばれるようになって、院生時代より僕は急になにか発言に耳を貸されるようになった。むかしから親密だった人々はともかく、その他に少なくない企業人たちが、手のひらを返したように愛想が良くなり、「ミヤケセンセー」などといっては僕の主張を取り敢えずメモに書き留める人たちの率は上がった。しかしそれは、僕がむかしからずっと言っていたことで、ただ学生時代はちっとも興味をもたれなかった指摘を同じく講師になっても繰り返しているだけなのである。僕は唖然とする。むしろ理論的切れ味としては、変な社会的配慮などちっともしなかったむかしのほうが、よっぽど本質だけをついた話をして、変に留保をつけなかったからわかりやすかったろうに、あの頃は「まあ学生はわかっとらんな」とよく言われた。いや、いまと同じことを言ってたんですよ。

それではいま僕の言葉がメモされるようになったのも、やっぱり言葉の内容ではなく、僕がちょっと名刺に「講師(非常勤)」と刷れるようになったからであるだけではないのか。それならもう、名刺一枚何万円かで売って上げるから、勝手になんでも書いておけばいいよ。



 傍から見ているとそういうことを気にする福耳さんの繊細さに感じ入る....というか、「けっきょく私のことなんてみてないじゃない! 体が目当てなだけなのねっ!」。って言ってるじょしっこのようでちょっと萌え。

(※萌え変換的には「福耳さん」改め「ふくみちゃん」って感じ。特徴として:「耳がでかい(福耳!)」、「額の第三の目の位置にほくろがある」、「ちょっと天然パーマ」、「尊敬する人:安藤百福 (でもカップ麺はそんなに好きではない)」、イメージ画像


 さておき、相手が「先生」として相手してくれるというならそれでいいんじゃないでしょうか? まるで聞く耳もたないってよりはいいわけだし。 っつーかその辺のところは福耳さんが一番分かっていてその上でおっしゃってるんだろうけど。

 
で、


 そんな感じで世間ってやつは「肩書き(プロパティ)」を消費してるわけだけど情報の中身についてはそれほど検討してないように感じられるんですね。

 それは新聞のコンテンツについても言えて。消費者は新聞の記事を読んでいるのではなくて、新聞というメディアを消費しているのでしょう。あるいは「新聞を読む」という行為自体を消費しているといってもいいかもしれない。「行為自体の消費」はステータスとの関連で「見栄」ということにも通じます。

 「朝、朝食をとりながら新聞を読むお父さん」みたいなのを演じてるわけですね。そしてご近所的には「新聞をとっているまともな家庭」ってのを見せている。なので新聞の中身自体はそれほど重要ではない。(ここで宅配制度の重要性が絡んでくるわけですが、論点ずれるので置きます)



 例外は災害情報などの緊急性を要する情報ですね。これは情報自体をきちんと参照しようとする。


 これが悪いかといえばまたびみょーな問題で。読む人の時間(あるいは関心資源)は無限にあるわけではないのだから、「自分に有益な情報を出してくれそうに思われるところ」に関心を最適化するのは当たり前のように思います。

 具体的に言えばフィードリーダーなどに好きなサイトを登録してそこしか見ないとか、テレビの一定の番組を毎週見るとか。これは「その回の情報が満足に足るかどうか」ということ以前に、「前回面白かったから今回もおもしろいかもしれない」という期待が発生するからですね。(先有傾向) つまり経路依存性的なロックイン効果が発生する。

 それに対して、それ以外のチャネル(情報経路)を新たに開発する場合には不慣れな情報に脳みそを慣れさせなければならない(脳力を使わなければならない)のであって、これはけっこうめんどくさいです。つまりスイッチングコストってやつが発生するんですね。

 で、このコストに対してリターンが多いかどうかというところで乗り換えの意思決定がされる....ということになるわけだけれど、それ以外に「なんか今日は気分がいいからがんばってケータイ換えちゃおう」とかそんな感じのてきとーな要因(情動要因など)も関連してきます。



 なので一概に、「一つのとこしか読まない」、「セカイ系にとどまる」ってのを責めれない面もあるんですが、やはりヨユーのある人は多様性を吸収したほうが良いように思います。




 まぁ、そんな感じで



 「読んじゃいねぇ」ってことなんですが、こういうの見ていくとなんかぼくもプロパティでも出したくなりますね。ってか、ぼくのプロパティなんかたいしたことないしなぁ..。金蓮さんのご友人話じゃないけれど、看板にドンと「はーばーどめでぃあれびゅー」とか「ころんびあじゃーなりずむけんきゅー」とかつけてみたくなりますね。ディプロマ・ミルって感じで!

(「ミル」にかけて言えばそういう情報を見る人は「ディプロマ」とも呼べる...のか?)




 まぁ、そんなこんなで情報の受け手的問題はあると思うんです。




 っつーか、それ以前に、「てめぇの情報がどれほどのものなんだよ?」、的な疑念はあるかもしれませんね。


 右上自己紹介にも掲げているように、メディア系の得意な人って感じで(それ以外はともかく)メディア系の話題はそれなりの自信はあるんですがね。


....ふむ。 論より証拠というか、ちょっと簡単な実験をしてみましょうか。


 ちょうど良いサンプルがあったもので。


メディア・パブ: 新聞産業,全世界で見ると成長している


 日本のブロゴスフィアでそれなりのアクセス数を誇り、「海外メディア情報」では一目置かれている(と思われる)メディアパブさんです。


 この記事については梅田望夫さんもぶくまされてますね。


# 2007年06月06日 umedamochio umedamochio Media



 で、この記事ですが、


 びみょーというかアウトっぽいです。



 海外メディア情報をチェックしてる人なら分かると思うけど、WANというのはけっこうこういうデマ飛ばすんですね。

 そして後で詳しく述べますが、この発表に対する批判、問題点を挙げている記事も出ている。(「それってインドと中国だけの話でしょ?」ってやつ)

 メディアパブさんについて、最近ではあともう一個ぐらいびみょーなことがあったかな



 って、もちろんメディアパブさんご自身も「これが絶対に正しい」ということでこの情報を出しているのではなく、「こういう情報もあったよ」程度なのでしょうけど。(そして梅田さんも「こういう見方もあるかも」程度ですべて信じてるわけではないのでしょうが)


 

 でも、やっぱびみょーです。




 んで、これについて、あとでまとめてTB打ってみます。




 情報の質、というか多角的な視点に関して言えば、おそらくぼくのエントリのほうが優れたものになるでしょう。


 それでも読者の関心はこちらには向かないでしょうね。(時機を逸したというのもあるのだろうけど)




 言論の意味、情報の信頼性について言えば、本来ならプロパティではなく情報の質や量、あるいは思考の論理性から検討されるべきなのに、その部分はショートカットされてしまっている現状が如実に表れることでしょう。


 情報の信頼性については「blogと既存メディアの情報のどちらが信頼に足るか」みたいなギロンにも接続できます。



 まぁ、とりあえず、あとで実験してみますね (はぁと) 



 では、再見!




--
あと、追記的に


そんな感じで日本の新聞は「中身がないものを売っている」わけだから、一番苦労されてるのは営業の人でしょうね。(Amazon.レビューにもあったように)


んで、「中身がないものを売る」技術こそマーケティングであり、文化的装飾ってやつではないでしょうか?


(それ以外にも「モノの機能性の自体のすばらしさを伝える」ってのもあるだろうけど)
 
 

あと、補足的に。


「けっきょく情報を見てるんじゃなくて、経歴やブランドなどを消費している」、ということについて。

これをして「だからblogでがんばってもムダ」的なシニシズムを気取りたいわけではなくむしろ逆です。


こういった現状があるということを念頭に置いた上で、一つ前のエントリでも考えたように「玉」的情報が継続的に提示・参照される場(仕組み)を作るにはどうしたらよいのか、ということを考える必要がある、ということです。








posted by m_um_u at 07:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月06日

blogの可能性とblogセンターの必要性について (reprise)

 5号館さんからコメントいただいて、お答え書いてるうちに思いのほか長くなって見にくくなったのでこちらに移しておきます。


「それで飯を食っている人間でないと重要な情報が出せないのではないか」

「重要な内部情報を持っていてもプロパティがかかっている場面ではお金のバックアップのないしろーとは引いてしまうのではないか」

ということについて以前に小倉センセともお話させていただきました。


muse-A-muse 2nd: 市民社会と制度について(ジャーナリズム論承前)


muse-A-muse 2nd: まん延する「匿名ネットこわいね」論について



 彼の答えは「やはり名前も出していない匿名のしろーとでは話にならない」ということでしたが、五号館さんもおっしゃるように、ぼくは集合知的な可能性を信じます。

と、同時に、玉石混交的な問題があることも認識しています。



 以前にうにさんが「重要な問題についてもっと関心を集められるような場所がほしい」というようなことをおっしゃっていましたが、同感です。

 これ系の話では、以前に湯川さんとblogを通じてちょっと話して、「重要な話を継続的にギロンしていくトラックバックセンターみたいなのがあったらいいね」、「新聞の記事にTBが付いて、そういう機能を担うようになればいいのにね」って感じのことを言っていたのですが・・・・いまの産経(iza!)の現状を見るとちょっとびみょーな感じもします。


 izaにもJcastにもTBを送ったことはあるのですが、そこからのアクセスは驚くほど少ないです。それはぼくのエントリのタイトルにも問題があったのかもしれないけど、やはり同じぐらい(あるいはそれ以下)のアクセス数を誇るblogに比べて「TBをたどる」傾向が弱い感じがします。

 
 なので「新聞メディアがTBセンターになる」というのはびみょーな感じもしています。やはり記事内リンクのほうが良いのでしょうね。あるいは記事のみを紹介するニュースサイトのようなもの。現在もっともアクセスの力を持っているのは有名ニュースサイトのようです。


 同様の問題意識(かどうか分からないけど)で、成城トランスカレッジのchikiさんがニュースサイト的なものにサイトデザインを変えるつもりのようです。

 成城トランスカレッジ! ―人文系NEWS & COLUMN― - 運営者からのお知らせ



 自動的に人文ニュースを収集して提示する、人文特化型ニュースサイトをつくるつもり、と。そして、とりあえず「1万PV / 1日を目指す」とのこと。(つまりアルファ的なものですね)


 chikiさんの場合は「人文特化」ということでちょっと事情が違うかもしれませんが、同様な感じで学術とかその他各業界の重要な議題が継続してギロンされていく空間のようなものができたらいいのに、と思います。


(そういえば以前、R30さんもそんなこと言ってたなぁ)

[R30]: ネット上の論争を整理するツールが登場

[R30]: 【ヲチ中】ブログ整理ツール



 ARGなんかも良いとは思うのですが、どうしても岡本さん一人だと大変そうですし...それほどのアクセスはないように思えます。(公開されたことないけど)


・・共同blogとかですかねぇ。。

 


 あと、「criticalな問題を話すリスクとお金のインセンティブ」の問題がありますが、ぼくはこの辺はびみょーな感じがします。


finalventの日記 - ネットの言論はクズ


 たしかに、「新聞記者の国内政治関連でのインサイダー情報には勝てない」、ということはあるでしょう。


 でも、finalventさんも暗に触れているように、それはインサイダー情報であって知見(insight)や情報と知見の綜合としてのintelligenceではありません。


 しょせんはinformationです。



 それは確かにcriticalなinformationで話題を呼びお金にはなるのでしょうけれど、そこから先の論評にはinsightが必要になってくるように思います。


 そういった論評を出せる記者が、国内のマスメディア機関の常駐としてどのぐらいいるのか.....?



 これはびみょーな問題なのではないでしょうか?



 いや、言い方が悪いな




 新聞社(その他メディア機関)の中にもinsightを備えた方はおられるように思います。でも、それが発揮される場が少ないというか...けっきょく彼らが全力を出すものは「お金にならない」んですよね。

 もしくは、それは勝手な理想の投影というもので、そういった人たちは「売れる情報」と「自分の出したい情報」というものがイコールになるようにトレーニングされているのかもしれない。



 しかし、そういった情報がどれほどまでに意味があるものなのかということについて、疑問が残ります。


 finalventさんのいうように「リスクとお金」の問題で出されない記事がたくさんあるのなら、社会にとっては最初からないのと同じですよね?

 なんか、サンクコストとかのギロンに通じるのかな? (知らんけど)



 で、


 それに対して、blogのギロンというのは上記したように玉石混交なもので、多くの人は有効なギロンに辿りつけていないように思います。

(※ここで、<「重要な情報」、「有効なギロン」の感じ方は人それぞれ>、という反論が想定されますが....めんどーだからてきとーに考えてください。「くだらないギロン」は「くだらない」です)

 

 その中で、稀に「玉」のようなギロン(情報)というものにめぐりあうことがある。「玉」とまでは行かないかもしれないけれど、少なくとも既存のマスコミが流すようなステレオタイプ的な穴埋め記事なんかよりははるかにマシな情報に出会うことがあるように思います。


 一番多いのは生活者のリアリティが反映された情報ですね。既存のマスメディアで「ニュース的に要らない」とされてきたものです。


 そういったリアリティはセンセーショナルな議題からすると価値のないようなものに見えるけれど、リアリティの積み重ね、地ベタの思考の積み重ねにこそホンモノの思考があるように思います。
(まぁ、この辺はリンク先のfinalventさんの受け売りですが)
 

 そして、思考以前の情報にしても、表出されなかったリアリティ(情報)をしかるべき見地(insight)から考察すれば、おもしろいことが起きるかもしれません。


 情報それ自体は論文などに載せる正規のものとして紹介できないとしても、うまく利用すれば世の中のリアリティを知る際の外枠のようなものが出来上がる。
 
 そういう可能性があるように思います。



 勘違いしないでほしいですが、「blogのほうが新聞より優れている」とか「新聞のほうがblogよりも重要」とかそういうギロンではないです。

 それまでは見えなかった(見えなくされていた)情報が出てきたことの可能性についての話です。




 話の元となった切込隊長のところに出てきた記者さんたちはおそらく政治部の中心で新聞社の花形って感じなので、そういった情報の持つ意味合いは感じ取れないでしょう。彼らにとってそれは「社会部(あるいは文芸部)の追うようなネタだねぇ」って感じなのでしょうから。


 
 まぁ、そんなもんだと思います。




 でも、文化や社会は政治にも世界にも通じてるんですよ

(文化の場合は地味に思考をコントロールするんです)

 
 
  
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追記:
成城トランスカレッジ! ―人文系NEWS & COLUMN― - 「トラカレ!」開設のお知らせ

新しいサイトでは、chiki はニュースの紹介に専念し、出来る限り多くの記事を紹介したいと考えております。「トラカレ!」では、「人文系ニュースの紹介と共有」というテーマに特化させ、「人文」に関する多くのニュースを紹介していきます。また、書籍情報や雑誌情報なども積極的に紹介していく予定となっております(ただ、雑誌は毎号購入できないので、出版関係者の方、もしよろしければご協力くださいまし。メールをいただければ、郵送先をお知らせしますので)。


とのこと。


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2007年06月05日

♪ たけだ がとー たかぎー (← 例のCM調で)

 たいした内容じゃないんですけど、「武田さん、釣りでしょ?」、に関して補足です。

 ガ島さんとか高木さんは釣られてしまった人なので仕方ないのだけれど、ほかにも「釣りって限らねぇだろ?」、って思ってる人がいるかもしれないので、まぁ、確定的なソースではないけどいちお。

 武田さんと愉快な仲間達でやっているpodcastでJCcastっていうのがありまして。


--- journalism.jp ---JCcast


 まぁ、低予算でやっているので宅録って感じの雰囲気が楽しかったり・・。スタジオでもやったりはするんですが、なんかアマチュア感がほほえましかったりするpodcastなんですね(特に赤木さんの)。

  
 で、

 その第五回放送で赤木さんの「釣り」説について触れてます。


 よく知らない人用に説明すると、赤木さんというのは「丸山真男をひっぱたきたい」の人です


深夜のシマネコBlog: 論座のプロフィールを読んで来た方へ


いちヘルパーの小規模な日常 - 赤木智弘「「丸山真男」をひっぱたきたい――31歳フリーター。希望は、戦争。」を読んだ。



深夜のシマネコBlog: 凄いというか なんというか



 で、武田塾の人(という言い方でいいのかな?)なわけですが。


 ここで用いられている「戦争」という言葉が一部で話題になったんですね。で、赤木さんのエントリにもあるように論座で有名人な人たちが反応して話題になった、と。

 これに対してはまぁ賛否両論あるとして、JCcast第五回放送で武田さんたちはこれについて、「あれって釣りだよねー?」、って問うてるわけです。んで、赤木さんも「そうですー」みたいな感じで答えてる。

 もうちょっと詳しく言うと、あれは「戦争も辞さないほどに追い詰められている」もしくは「いまの構造的癒着の情況は戦争ほどのカタストロフが起こらない限り解体できないのではないか? (それほどに日本社会の既得権益層の参入障壁を厚い)」ということの比喩的表現なわけです。(んで、それを武田さんは、「赤木くんが論壇デビューをしたのは、存在すらしなかった存在が、殺される前に少なくとも一度は可視の領域に出たという意味で価値がある」といって擁護してるわけですが  参照

 その辺について、あいかわらず赤木さんは舌足らずな答えかたしてたけど(笑)


 で、そういう会話を楽しみながら武田さんは、「いいなー。オレも釣りやりてーなー」、な雰囲気を匂わせていたわけ。(はっきりとは言ってないけど)


 そういうわけで今回のは赤木さんの釣りにあこがれて釣りをしたかった武田青年の遊びである可能性が高いように思います。


 


 あと、補足的に




 あらためて見るとガ島さんに対してちょっとキツイ言い方をしてますね。ガ島さんのエントリ自体は、「武田徹はジャーナリストとblogの可能性を見くびりすぎではないか? 」、という義憤(?)に駆られてのものだったみたいなので本人からすると何で批判されたのか分からないでしょうね。


 それでなんで批判したのか自分なりに考えてみたんですが、やはりガ島さんの甘さでしょうね。


 WOMMAの件にしても、なんか脇が甘いんですよね


 「blogとジャーナリズムをつなぐ」とか「お金によってインセンティブを与えることでblogの言論に責任や継続性を持たせる」みたいな意識があるように見受けられて、それ自体には賛同するんです。

 でも、たとえばblogが商業的にバックアップされて普及することによってblogが本来的に持っている可能性(自由な言論の可能性)を潰すことにならないか、ということは考えないのでしょうか?

 もちろん、WOMMA的なものに想定されるのはbloggerと企業(対象商品)との暫時的な自由契約なわけだからそこに「拘束」というほどキツイものはない、ともいえるでしょう。



 でもね


 一回、マーケ(金)ってなったものは加速度的にその方向で埋まって行っちゃうものなんじゃないでしょうか? たぶんもうちょっとすると本格化する、「TVで芸能人が着ている服(アクセサリー)をワンクリックで買えちゃうサービス」、なんかもそんな感じで「簡単・便利」な「魅惑の消費」に消費者をロックインしていく。


 一回その楽しさを知った消費者(ユーザー)はそれがそのメディアのデフォルトの状態だと思うでしょうね。

 で、

 blogやデジタル放送というものは「そういうメディア」として認知されていくでしょう。



 上述したように、それ自体は「簡単・便利」でユーザーにとってみればあたらしいチャネルが開けて喜ばしいことです。でも、新しいメディアが本来もっていた可能性(萌芽)は潰れていくでしょうね。(「消費」に吸収されていく)

 具体的にはCMblogだらけになって、そのプレゼンスによって広告にくっついてない「地味なblog」は見えなくなっていく危険性があるのではないか、ということです。



 もちろんそうならない可能性もあるかもしれない(「ユーザーはそれほど愚かではない」ということですね)。



 未来がどうなるかは誰にも分かりません。



 ただ、そういった可能性や危険性というものを考慮したうえで「WOMMA」とか「blogの普及」とかを考えているのか。その辺りが疑問なんですよ。


 ガ島さんは理想論的にblogの可能性を説くけれど、それを包み込む全体の文脈(思想的背景)が見えてこないんです。(「お金」が普及の鍵ってのも分かるんですけどね)






 (失礼を承知で言えば、)ガ島さんにそういうものを要求するのは酷なのかもしれないけれど....





 あるいは、今回の件について平たく言えば、「お前が言うな」、ってことです。 



 別エントリでも触れましたが(参照1参照2参照3)、武田さんのジャーナリズム観というのは理想論ともいえるメディア倫理やジャーナリズム史論を基本にしていて、それはガ島さんの問題意識とかなり近いもののように思います。


 なので、傍から見てると「お前が言うな」って感じがするんですね。





 なんだか罵詈雑言な感じになってしまって恐縮ですがが、率直に言ってそういうことです。 (お目汚し m(_ _)m)
 
 


 あと、なんの脈絡もなく、高木さん@bogusがアップされていたので貼っときます


IPA、セキュリティ専門家の擬人化に成功 : bogusnews


 萌えインキュベーターかぁ.....。

 
(ところで例の高木さんの文言「〜馬鹿は死ねと言いたい」まで)は強力な呪力を持った力強い文章で引用人気も高いようですね。そういうわけでテンプレ化できないんですかね?
 
 
 
 
posted by m_um_u at 19:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

「日本の記者はいろんなことを知っている」ということに対する反論

ほかに書きたいこともあるのでできるだけ簡単に済ませたいのだけれどまた長くなるかもしれなくて.......まぁその辺は鋭意努力します。

 えーっと、まずはこの辺から


切込隊長BLOG(ブログ): 新聞社OBに「ネットの言論はクズだ」とボコられる


 例の河内さんの本関連で、「ネットの言論は薄いね」ってのと絡んで「例の河内本もたいしたことないよね(踏み込みが足りないよね)」ってことで関係者っぽい人のAmazonレビューが話題になってるみたいです。(孫引用)


Amazon.co.jp: 新聞社―破綻したビジネスモデル: 本: 河内 孝


1 人中、1人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。

新聞記者は社長になるべからず, 2007/6/4
レビュアー: 佐藤雄司 (北海道札幌市) - レビューをすべて見る
北海道の某新聞社の営業に20年以上勤務し、その経営のいい加減さに呆れて退職した私とってみれば本書も「エリート新聞記者の戯言」としか思えぬ販売店と新聞社の爛れた関係、クライアントと広告代理店と新聞社の常人では理解できないあり方について告発するつもりはないがとどのつまりは理想論を振りかざして見てみぬふりをする新聞記者上がりの幹部連中に問題がある。金と経営について無知な著者のような人間が経営幹部である以上、新聞などというアナクロマスコミュニケーションに未来などある筈がない。あくまで架空の数字(部数や売り上げ)を計上することに腐心している新聞社の現状は架空の視聴率に踊らされているTV業界や出鱈目な部数に振り回されている出版業界と五十歩百歩だ。「新聞に未来はあるのか」ある、と少しでも思っていたら20年以上勤めた会社を辞めたりはしない。重要なことは本書の終わりで著者が語っているとおり、「記者上がりを社長にしないこと」それに尽きる。

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次作は生の事実を, 2007/6/3
レビュアー: あまカラ - レビューをすべて見る
 毎日、産経、中日の三社連携案など、面白く読んだ。他の読者が挙げていない点を指摘しておきたい。

 著者が毎日新聞社の常務取締役を退任した理由があとがきに書かれているのだが、奥歯に物が挟まったような書きかたでよくわからないのだ。毎日新聞社内で販売に関する新たな改革案を提示し、激しい抵抗に逢い挫折したようだが、詳細は不明だ。著者は冒頭で本書は暴露本でも内部告発でもない、としているのだが、やはり著者が直面した事実こそが、一般論よりもはるかに面白い部分ではなかったか、との思いはぬぐえないのだ。いわばマグロのトロだけ食い逃したような気持ち。

 関係者に迷惑をかけたくない、という気持ちはわかるが、それでは結局あたりさわりのないことしか書けないマスメディアと同じではないか。本書で著者は新聞社の販売局は伏魔殿といわれていると書いている。時期を置いて、今度は伏魔殿とぶつかった生の事実を語って欲しい。



 あぁ、たしかに踏みこんどるなぁ。上がった人間(もしくは「上がり」しか狙ってない人間)の考えってある時期からアッチ方向に行くらしいもんなぁ(そんであんな感じの社説を書くようになる)。

 そんなことを思いつつ、「内部的な視点が足りないってことかなぁ」、とかなんとか思って読み進めるに.....どうも....ちょっと違う?


 確かに、ネットで流通している、ネット上で読める議論と、彼らの目線はレベルが違う。新聞記者も二十年選手になってくると吸収する力も衰えてくるし、新しいモノの見方も合点がいかなくなる、でも、ネットでいくら良質だとされる議論でもバラして構造を見るとまだその程度のレベルなのか、ということになってくる。



 この書き方だと当該の本に関する問題(新聞業界内部構造批判)だけではなく、「社会全般に関する目線が違うのだ」、ってことみたいだけど....そうなのかなぁ。。


 そんなことを思っていたところに別件からクロスフィード


ガ島通信 - 『ウィニーこそ史上最強の「ジャーナリスト」?』という記事について


 ガ島さんのエントリの主旨は分かるんですよ。「ジャーナリズムってのはツールとかデータ以前にそれ(information)を読み解くinsightが必要でそれらの綜合によってintelligenceが完成する」、って話ですよね?

 それは基本です。


 で、気になったところなんですけど、


ウィニーとは情報を集める手段であり、重要なことは目的です。武田氏自身も少し書いていますが、データが意味を持つのではなく、そのデータにある意味を見出すのがジャーナリストの仕事であり、真贋を見破るリテラシーこそジャーナリストに必要な資質なのです。そうであれば、『ライバルはウィニー』ではなく、ネット上にある情報を集め、分析しているブロガーであり、掲示板のユーザーでしょう。



 ってことなんですが、当blogで散々問題にしているようにその視点自体が疑われているのですが?(まぁ、別にガ島さんはこちらを覗いたことないのだろうから「そんなのしらねぇよ」ってことだろうけど)

muse-A-muse 2nd: (いまさらながら)OhmyNewsの「あるある」問題検証記事を見たよ


 こちらでも出てきたように国内メディアの取材方法って「○○ありき」って感じじゃないですか? まず記者が対象に対するステレオタイプ的なシナリオを作り上げ、それに合うようなソースを集めてくる。こんな感じですね


H-Yamaguchi.net: 新聞記者はえらい、という話


 ↑は特殊例であり、ぼくのところで出てきたのもTVメディアかつ「一部の特殊な制作会社」ということかもしれないけれど、ぼくは業界全体の構造的問題として捉えています。

 失礼ながらガ島さんはステレオタイプの意味をきちんと理解できていますか? 同様にメディアリテラシーというものについて誤解されているように思います。メディアリテラシーについて、よろしければこちらをご覧ください。(「<本来のMLは相手をこき下ろすためのネタ>ではなく<効果的に批評するための視点>」という話です)


muse-A-muse 2nd: 「<批評>そのものへ」?


 この問題はそのままジャーナリズムとアカデミズムの間のキャズム(笑)にも関連してくるように思います。


muse-A-muse 2nd: レッスルするアカデミズム? (学問とジャーナリズムの間)


 アカデミズムにも問題があるように思うのですが、あなた方ジャーナリスト(というかガ島さんは現役ではないけれど)はアカデミックな視点、もしくはより高度な分析手法・視点を学ぼうとしたことはあるのですか?

 対象を取材する際にその周辺情報を洗う、おそろしく膨大な情報を一息に吸収する努力というのはなんとなくうかがい知れます。あるいは、学究的な視点をもたなくても優れたジャーナリズムを完成させたり、それ以前の優れた視点を持つことは可能なように思います。

 たとえば北海道新聞の高田さんの視点には敬服し、ちょこちょこ拝見しているのですが....


ニュースの現場で考えること


(そういえば高木さんのエントリの後段で北海道新聞がどうとか言ってましたね)


 佐々木さんがちょこちょこ批判されてたように、現在の国内ジャーナリズムの一部が「相対性に欠けた視点」を持ち、突っ込んだ取材・論評ができていないのではないか、という疑念は常につきまとってます。

 「相対性」ということに関して言えば、「ジャーナリズムに対して批判が集中するばかりで優れたジャーナリズムに対する評価がない」というのはフェアじゃないように思うのですが、メディアリテラシーの話題と重複するので長くは語りません。

 ただ以前にも書いたように、ジャーナリズムという活動そのものも原初的には批評活動と言えるのです。


muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2):批評としてのジャーナリズム


 そして、そこでは「批評家」が文芸と社会に関わらず論評をしていて、(プロフェッショナル)ジャーナリズムの場合はその中で「社会」に特化したところが商業的に囲い込まれていっただけのことです。

(だから、武田さんの記事では「プロのジャーナリストたち」(商業ジャーナリズム)というような表現が使われているわけです)


 

 ガ島さんについては(まだなにか言い足りない気がするけど)だいたいこんな感じで。切込隊長のほうで気になったところから

 「内部問題の告発」という視点に関して。そういえば五号館さんのところでも似たような問題が出ていたなぁ、と


5号館のつぶやき : シンポジウム: 科学研究における「不正」の構造

5号館のつぶやき : すべてが「特殊例」であるハラスメント対応の難しさ



 エントリ全体の主旨としては、<「不正」と言って各研究室を追い詰めてることは是としても、それによって一番被害を受けるのは大学院生だということはあまり知られていない>、ということから大学院生への各種ハラスメントの実情と対策について検討されています。


 特にこの辺の記述は力強かった

40年近くも前のことになる大学での「闘争」の中で、私が得たもっとも重要な教訓のひとつは、「闘うからには勝たなければならない」ということです。「勝つ」ということの中にjは、すべての現世的利益を放棄してもプライドを守り抜くという勝ち方もあると思うのですが、若いうちの闘いにおいて勝つということは、その後のキャリアあるいは生活が保障されるような解決を勝ち取るということが重要だと思っています。





 で、ちょっと思ったんですが、


 まぁ、ここでぼくも切込隊長のところの記者さんのような視点を持ってしまうわけですね。

 「あぁ、たしかにそれは一義的な問題だけど、もうちょっと深いところまで切り込んでないなぁ」、と


 ほのめかさずにいうと、セクハラ・パワハラで糾弾される教員って、その教員の資質だけの問題ではなく学内の権力闘争が関わってくることもあるんですよね。

 大学ってけっこう伏魔殿的なところなので。教授会なんかあまり意味ないのは院生レベル以上を経験した人なら知ってるだろうし、教員のレベルというのもある程度その道を究めていくと分かってしまうものです。

 で、レベルがアレな感じな人たちが生き延びえるために学内闘争もとい学内権力争いに加担するんですね。こんな感じで


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 んで、そういう人たちはけっこう誰でもスネに傷を持つもの(なのかな?)で、学長選のときなんかは子どもだましのデマが飛び交いますね

 それらはデマでもありホントでもある。あるいはお金をかけて作られたホントでもある。

 「セクハラ」「パワハラ」というのは実際にあることではあるのですが、「ハラスメント」まで行かない物件でも学長選などの重要案件が近いときにはそういうものとして仕立て上げられたりするんです。(あるいはその後始末用にね)


 そして、そういうのの影響をもっとも受けるのは院生たちなのであって、その意味ではきちんとした調査が必要なのですが、「大学の自治」を理由に外部からの調査は拒絶する。

 
 本来「大学の自治」というのは「学問の自由」を担保するためのものだと思うのですが、彼らにとっての「大学」とは自分達「教授会」なわけですから学生の権利なんか塵芥に等しい。



 それが「界」としての大学の現状ですが、そういった構造について、ジャーナリズムな人たちはどれほど知っているのでしょうか?




 それを言えばどんなギョーカイにもそれなりのギョーカイ話があるもので、「その部分についてはヤバくて触れられない(出せない)」、ってことなんだろうけど、国内メディアというのはその部分に触れられない(出せない)までもそういった背景があることに配慮して記事を出すべきですよね?


 でも、その辺の配慮はなされていないように思う。これは各ギョーカイの人たちの思いにも共通すると思います。




 それが国内メディアの現状だと思うのですが、どうなんですかね?(ガ島さん)





 あと、別件で


極東ブログ: キンタマウイルスのお仕事はジャーナリズムじゃーない?


 なエントリがあがっていて、「ぼくと違ってきちんと高木さんの言説の内容自体について検討されてるな」、って感じで反省の至りなんですが、「主体の不在」(あるいは偏在)関連で


池田信夫 blog サーバは複製の「主体」か




極東ブログ: ハイデガー「技術論」から考える新しいゲシュテル


 とGoogleNewsあたりを絡ませてなんか書こうかなぁとか思ってるんですが、こちらはけっこう脳力使いそうなのでいまはやめときます(朝だし)


 っつーか、書かないかもしれないし書くかもしれないし........よく分かりません



 まぁ、そんなこんなでいつもどおりぐだぐだーって感じで(再見!)



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関連:
muse-A-muse 2nd: ネット時代のジャーナリズムの可能性 (raw journalismについて)

※武田さんの論旨を補足。っていうか同じテーマでぼくが書いたらどうなったかということのシミュレート。raw journalismについては「編集不在」ってことで問題あると思うけど、いいたかったのは「内部監査を受けない」ということの可能性です。それだけだと記者にしかメリットはないわけだけど、RMAと関連させて考えると・・・・(未完)




















posted by m_um_u at 06:37 | Comment(1) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月02日

ネット時代のジャーナリズムの可能性 (raw journalismについて)

 日経BPに武田徹さんが以下の記事をアップしていてどうしようかなって感じになってる。。


ウィニーこそ史上最強の「ジャーナリスト」? (タケダジャーナル):NBonline(日経ビジネス オンライン)


 いや、武田さんを知ってる人は「釣りだな」って分かると思うんですよ。んで、釣り頃釣られ頃っていうか、こんな感じでじゃれたり


finalventの日記 - 豪快に釣られる


(「匿名 / 顕名」のギロンに続いているみたい)


 んで、「どーせ釣りだし、連載続けてるうちになんか言うだろうからほっとけ」、って感じなんだけど・・・けっこうでっかい魚が釣れてしまってますね


高木浩光@自宅の日記 - キンタマウイルス頒布にマスコミ関係者が関与している可能性


 高木さんといえばbogus newsで大人気なわけですが


bogusnews における高木浩光氏の進化 - いろいろ


 今回も伝説の一頁を飾ることになるのでしょうか?




 前置きはこの辺で、本題に入りますと


 
 「正論を吐いて愛される高木さん」ということで、高木さんが展開されている反論は正しいように思います


「僅かな楔を打ち込むだけで」――すなわち、小さなプログラム*2をトロイの木馬(ウイルス)として送り込むだけで、誰の秘密でも引き出せる。それが、「千金の価値を帯びる」と、このジャーナリストは言っている。しかも、ターゲットは一般人の「私的な内容」だという。

何が本題か知らないが、このジャーナリストは、「僅かな楔を打ち込むだけで一般人の私的な内容を千金の価値にできる」という手法について、否定していない。否定する表現が一切書かれていない*3。これが倫理に反する行為であることをこのジャーナリストは素で知らないのではないか。もし、「キンタマウイルスを作成し頒布しているのはあなたでしょう?」と問いかければ、憤慨するどころか、褒められたと勘違いして「いえいえ私にそんなプログラム力はありません」とニコニコするのではないか。

馬鹿は死ねと言いたい。



 で、そういうのに対して武田さんはなんか言ってないかなと思って見に行ったんだけど、


武田徹 オンライン日記(※以下、一番新しい記述)


タケダジャーナルスタート! 投稿者:武田徹 投稿日:2007年 6月 1日(金)10時20分30秒
こんな連載を始めました。
斜めから、遠くから見ることでジャーナリズムを立体的に見てゆこう、ということでしょうか。http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070522/125376/?P=2
みなさん無料会員登録してぜひ全文お読みくださいませ(なかなか全文読まれないようなので・・・・)
次は何を書こうかなと。



 特に何もないんですね(「よきにはからえ」、と)



 いちお知らない人用に言っておくと、武田さんというとこんな感じで、「ジャーナリスト」ってよりは現在は学究系なんですね。っつーか、東大先端科技研ジャーナリスト養成コースの特任な訳ですが



ジャーナリストコース



・・まぁ、そんなこと言うと火に油を注ぐようなものかもしれないけど。


 プロパティを出して言いたかったのは、「けっこうジャーナリズムのことは知ってる人だよ」、ってことです。

 っつーか、彼の立ち位置というのは、ジャーナリズム研究においては歴史学的手法と「公共性」関連で社会思想をとり入れつつ現行の国内ジャーナリズムに批判的な態度をとっています。まぁ、つまり、「ジャーナリズムの理念系」については熟知してる人なんですね。

 なので、高木さんの反論は正論だけど、たぶん想定の範囲内だと思います。(釣りなので)


 
 その上で、ITとジャーナリズムの関わりについての彼の言説を追うとこんなのがあります。

オンラインジャーナリズム最前線

 「あめぞう」とか「河上イチロー」とか懐かしキーワードが出てきてノスタルジックな雰囲気に浸ってしまいますが、今回の記事と関係していると思われる箇所としては以下のようなものがあります

(朝日新聞のオンライン部門、asahi.com担当者へのインタビューを通じて)

「紙の新聞ではたとえば、これがトップの記事でこれはベタだと判断するに当たって、僕たちは朝日新聞社の価値観に従ってきた」。電子電波メディア局企画開発セクション部門長の井上実宇が取材に応じて語る。「紙面構成をする上で新聞社が自分の価値観を示すことには意味があると僕は思う。しかし、それに満足しない人がいるのもまた確かで、自分の知りたい情報がないというフラストレーションを溜めていた側面は否定できない」。それが新聞離れに繋がっているのではないか――。そんな問題意識がオンライン配信を始めた理由の1つだったという。



 この部分は「編集権とジャーナリストの内部的自由」の問題ですね。面倒なので借りると、


Socius_社会学感覚12ジャーナリズム論


ジャーナリストの内部的自由

 大学におけるアカデミズムと同様、ジャーナリズムの世界も、ひとりひとりのジャーナリストが自律的に活動できる自由がなければ、その躍動的な働きは期待できない。というのは、ジャーナリズムはすぐれて主体的な活動だからである。しばしば誤解されていることだが、そもそもジャーナリズムは装置によって稼働する「情報産業」ではない。ジャーナリストの主体的な現実把握・解釈・表現行為があってはじめてなりたつ主体的な活動である。したがって、ジャーナリストに主体的な活動の自由がなければ本来のジャーナリズムは実現できない



 ってことです。平たく言えば「内部検閲」ってことなんですが。「スポンサーもしくは政治的意向の関係で上からストップがかかる」、って問題。もしくはもっと細かいところだと、「紙面が限られているので書きたいことを十分に書けない。読者の関心を引くには短くまとめなければならない ⇒ どうしてもステレオタイプ的な記事になってしまう」、って問題です。

 で、オンラインジャーナリズムとしては基本的に紙面は無限なわけだから「紙面の有限性」の問題は解消されるわけです。でも、「読者の関心(アテンション)の有限性」って問題はあるんですけどね。なのであいかわらず短文(要約)でまとめなければならない。


 そういう問題はあるわけですが、いちおアーキテクチャ的には有限性が解消されて、記者の自由な記事が書けるようになる(内部的自由が確保される)、って感じなんです。


 で、武田さんの記事の引用に戻ります

 「マスメディアはインターネットのことを全く分かっていない」。河上イチローが言う。「最初はいかに素晴らしいものかと誉めたたえてばかりいた。しかし毒物の事件とかが発生すると、今度は危険きわまりないと非難するようになる。両極端しかなく、実質的な議論を全くしない」


 極端(≠ステレオタイプ)でalternativeがないってことですよね。「それは発表であってコミュニケーションではない」、と。で、ネット時代の言論の場合は反論(対話)を原則とするのでその辺りの問題が解消されていくのではないか、ってことなんだけど
 

 ただ、このように対立の構図でジャーナリズム問題を考えてゆくところにある種の限界も感じる。
 確かにインターネット側からの批判が、マスメディアの姿勢をただす上で役 立っている事情はある。例えば、しばしば指摘されるマスメディアのインターネット無知は明らかに問題であり、デジタル・リテラシーの高い記者を養成しなければならないという声はよく聞かれるようになった。
 逆にマスメディア側からのインターネットへの批判――、例えば匿名的だから無責任な発言が横行するとかいうもの――が、建設的な効果を生み出す場合もある。
前出〈あめぞう〉がこんなことを言っていたのを思い出す。「確かにネット情報は匿名での投稿が多いし、情報の出所も明記されない。だから本当かどうかわからない。正直なところ酔っぱらいのヨタ話と区別できないものもある。でも最近はすぐにニュースソースを示せと言うレスがつくことが多い。情報が信頼できるか確かめようとする姿勢は以前より強まっている。あまりに無責任な発言をすると、そんなことだからインターネットはダメだと言われるんだというレスがつくこともある。無責任で不確かな情報が氾濫している状態を自浄しようとする傾向が現れ始めているのではないか」。これは明らかに外部の声を意識して、身の振り方を正そうとしている動きだ。



 ここで言われているように「信頼性の問題」がある、と。んで、「匿名」うんぬん・・。これが今回の記事の後段(「匿名 / 顕名」のギロン)に通じてくると思うんですが、引用箇所でも取り上げてあるようにCGM的な自浄作用の可能性についても触れてるんですよね。なので、次の回はその辺で修正してくるかな。



 で、P2P関連ですがこの辺ですかね


 だが、対立の構図では語り得ない問題もある。たとえば――。インターネットはプロバイダと通信事業者の力を借りずには接続できない電機メーカー製のコンピュータにソフト会社製のブラウザを組み合わさずには情報が開示できない。ネット上のジャーナリスト達はマスメディアがスポンサーや政府の影響下にあることを問題視するが、自分たちも実は他人の掌の上に乗って踊っているのだ。実際、ソフト流通会社系列の掲示板ではパソコンを批判的に語る発言が御法度になるなど、様々な制約が既に生まれつつある。



 つまり、「技術的に自由とは言ってもサーバ管理企業やデファクトを握る一部の企業による検閲を受ける」という問題。これに対してP2Pだったら検閲受けないんじゃないか、と。この問題意識が今回の記事(Winnyの可能性)に繋がったんだと思います。



 
 あまり知られてないことだと思うけどblogの創成期(1〜2年ぐらいかな)にも似たようなギロンがアメリカのほうでありました。blogの可能性をジャーナリズム的にとらえ、そこでの自由な言論の交換の様子をして「P2P journalism」と称した時期。武田さんのギロンはむしろその辺に接続すべきでしたね。



 んで、P2P journalismの意義としては「内部検閲を受けない」ってことでraw journalism (生のジャーナリズム)的な特性があるんですね。「検閲を受けない」って言ってもいろんな部分で自主規制はあるし、編集という段階で完全客観はなくてなんらかの主観が入ってるわけだけど。とりあえず原理的な可能性としては「生」なものがあります。

 「ジャーナリズムのIT化」のギロンに絡めると、「生放送的なジャーナリズムの可能性」と言ってもいいかもしれない。

 こういうのの例として思い浮かぶのが、「記者をウェアラブルコンピューティングして現場から生で実況中継させる」、ってやつです。モバイルジャーナリズムと言ってもいいかもしれない。


(ちょっと逸れるけど、この話って「ノードを強化して自由度を高める」ってことで軍事戦略におけるRMAの話にも通じますね。「各ノードを強め意思決定を分散することの有効性と限界」みたいな感じのギロンがあると面白いんだけど。)




 オンラインジャーナリズム関連のギロンのかなり早い段階でそれ系の可能性が論じられ期待されていたはずなんだけど・・・現在はどうなってるのかなぁ・・。


 まぁ、「生放送」って言ってもタッチタイプのスピードは口述にかなわないわけで、ヨコで実況中継してる放送局の人々のスピードに追いつかないって問題があるんすよね。で、「新聞記者のモバイルコンピュータにもカメラつければいいじゃん」、ってことになるんだけど、そうなると「それって新聞なの?放送なの?」みたいな問題が出てくる。

 まぁ、ユーザーからすればどっちでもいいんですけどね(情報の信頼性とか速度、重要性などが確保されれば)。

 で、それを受ける土台としてオンラインジャーナリズムの紙面であるwebのほうとしては動画対応しなければならない。Washington Postが動画に力を入れていた(あるいは現在も未だ入れてるかな?)のはこういう問題意識からだと思います。


 あと、IT化関連だと電子ペーパーの問題もありますね。近い将来、新聞が少しは逆転できるかもしれない可能性として電子ペーパーの利便性があります。つまり、「曲げたり、折ったり、寝転んで読んだりできる」という紙媒体の有効性を残しつつ、速報性などの電子的な特性も盛り込む、と。

 オンラインジャーナリズムの受け皿としてこれが整えば、動画配信的なraw journalismってのもあながち夢じゃなくなるかもしれません。



(まぁ、その辺の意義を日本の新聞社がどう考えているのかはびみょーなんですが)



 そういや宮台さんとこにも似たようなエントリが上がってたな


今のような新聞は、朝日新聞であれ産経新聞であれ、なくなっていいでしょう - MIYADAI.com Blog


 前段としては、「ジャーナリズムが本当に重要な問題(利権 - 権力構造)を追えていない」、ってことでessaさんのエントリ思い浮かべたり、「緑の森からお肉の国へ」のことかなぁとか思ったりするわけですが、それとは別に新聞以外の情報メディアの使用動態として

 地球環境問題のこうした微妙さ一つ取っても、新聞やテレビが役目を果たしません。だから僕は新聞を読みません。インターネットでヘッドラインを収集するソフトや、携帯メールにヘッドラインを飛ばすサービスを使い、気になるニュースがあったらグーグルで検索して専門家の議論を読みます。新聞には必要な情報が載らない以上、読む意味がない。あるとすれば世間話のネタですが、最近の若い人は新聞を読まないので必要なくなりました。



 PCほか各種デバイスを通してネットに繋がっている現代人の情報摂取の典型って感じですね。なので、新聞コンテンツを電子ペーパーに出す場合はこの辺を意識したほうがいいと思います。


 ほかにはこの辺とか


 新聞についても、有機EL(自発光の有機素子を用いた薄型液晶)が実用化されつつあります。巻紙状の物を持ち歩いてそこに情報が配信されるようになるでしょう。その際、今の新聞社のコンテンツをダウンロードするかどうかは僕たちが選びます。新聞社には頭の良い方が集まっているのだから、そこで自分たちのコンテンツが選ばれるように勝負すればいいのですよ。







 まぁ、だいたいこんな感じですかね。(おーざっぱですが)




 新聞のIT化の現状については調べたほうがいいなと思いつつも放ったらかしだったりします。国内は期待してもムダだと思うのでJapan Media Reviewの記事を見るぐらいでまぁいいとして

Japanese Online Media(@JMR)


 海外についてはこの辺を検索しとこうかなぁ、と


Online Journalism Review


Poynter Online - E-Media Tidbits


Poynter Online


 そうは言いつつまたほかのことに気をとられて忘れてしまうかもしれないので、誰か他の人がやってくれるんならありがたかったりします。(その際にはついでにご連絡いただければ幸甚)




 では、そんなこんなで (再見!)



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関連:
muse-A-muse 2nd: まん延する「匿名ネットこわいね」論について


※「匿名 / 顕名」ギロンについて。小倉センセとやりとりしました


muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(1):世論と世論を形成するもの

※ジャーナリストは世論に応えるもの(世論を生み出すもの)ってことだけどでは世論とはなにか?ステレオタイプとはなにか?そして、ジャーナリズムの理念系とは?、みたいな話です。ここでも後段で内部的自由関連のギロンに触れてますね。



muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2):批評としてのジャーナリズム


※「ジャーナリズムも一種の批評活動だよね」ってことで、「きちんと批評しないと批評される人もやる気なくすだろうな」、みたいなお話。「きちんと批評」の部分に本エントリにおける「権力 - 利権構造への気づき」みたいなのが絡んできます。(あと限界芸術論とかついててお得)



muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2.1): Sound and Fury

※ハルバースタム追悼。「感情を起点に冷静な記事を書く」ということについて。客観報道と主観報道の間。



muse-A-muse 2nd: FOXによるテレ朝再買収の問題点について (あと、相互所有問題とか)


※「日本のジャーナリズムは権力構造のことが分かってないね」関連で。松岡さんによるウォルフレン評の引用など。


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2007年05月31日

ドラえもんとスターウォーズに見る日米著作権意識の温度差 (ネット時代のコンテンツパブリシティ+流通について)

朝のニュース(おはよん)で「ドラえもんの最終話の作者が小学館に謝罪入れた」っていっていた。

スラドにも上がってるな


スラッシュドット ジャパン | ドラえもん最終話(偽)を描いた男が謝罪


スラドの説明をそのままもらうと


NIKKEI NETの記事によると、偽の「ドラえもん」最終話を勝手に漫画化して販売していた男性が、ドラえもん発行元の小学館と藤子プロから警告を受け、謝罪して売上金の一部を藤子プロに支払ったという。

この男性は、古くから口コミやインターネットで知られる「のび太が未来で動かなくなったドラえもんを治す。」というストーリー(Wikipediaにも掲載されている)をもとに、過去のドラえもんの漫画本から絵をコピーして作り、500円で販売、1万3000部を売り上げたという。その後、産経新聞の記事やコラムなどで「小学館が厳しく対応せざるえないと言っている。」などのコメントが載り、訴訟等の前に謝罪・売上金の一部支払いに至ったらしい。



ってこと


朝のニュースでは小学館の知財担当の人が出て、「小学生の先生から“最終話を教材で使っていいか?”という問い合わせがきた。われわれとしては、“最終話はつくられていない(ひとつではない)、読む人それぞれの心の中にあるもの。”、ということで今回の対応をとった」、みたいな見解が述べられていた。



・・思いっきりウソくさい・・。



「読む人それぞれのの心の中にあるもの」ならば今回の最終話もその一つとしてとらえて楽しめばいいだけのことなのではないか?

そして、問い合わせしてきた小学校の教諭も苦情という形ではなく「教材」という形で使おうとしていたわけだから、むしろこの解釈は好意的に受け取られているわけだし、小学校の教諭をして「教育効果がある」と思わしめるほど優れた解釈だった、ということなのだが?



解釈というか、「それぞれの人の解釈」の中でも共通理解の高いものということで共同幻想的なものと言ってもいいかもしれない。



それは「みんなの解釈」ということで、小学館側の返答からするとなんの問題もないはずなのだが?




百歩譲って作家的なプライドが許さなかったとしても、それはそれで偏狭な態度だなぁ、と思う。


つまり、「オレの作品をオレ以外のヤツが勝手に解釈して、勝手な最終話作るんじゃねぇ!」、ってことでしょ?


それって読者による解釈の多様性を否定して、「作者によるメッセージだけを信じろ」って言ってるのと同じことじゃん。





だとすると、フジコイズムも落ちたものだな







・・・はっきり「金の問題です」と言えばいいのに




それでも「コピー」ではなく独創性が認められるレベルのようだが(以下、スラドコメントより)

同人誌の現物を持っていますが、あれはどう見ても田嶋安恵が「描いた」ものですよ。タレコミにある「コピー」って一体どこから出てきたんですか?





っつーか、これに乗じてふじこのほうも最終話出したら祭りっぽくて面白かったのに。


でも、もうしばらくドラで儲けるつもりなのだろうからそれはできないのか。

っつっても、最終話出したからといってドラを終えなければならないという法もないだろうに。


いちおSFなのだから「並行世界の最終話だよ」とかなんとか言えばいいのではないか?


あと、この感覚ってネタばれを気にする / 気にしないにも似てるな。ストーリーの結論が出たからといって楽しみ方はいくらでもあるわけだが。







・・・とか言いつつ「ここまで頒布されてしまうとねぇ(非営利じゃないし)」という小学館の気持ち(面子)というのも分からんでもないけど、もうちょっと粋な計らいは見せれないものかねぇ。こんな感じで



Tech Mom from Silicon Valley - ジョージ・ルーカスの英断ブランド戦略 - 「スターウォーズ」公式マッシュアップ


スターウォーズのイメージや音楽を使ったパロディをルーカス本人が認めた、とのこと。


(ただし「非営利のもの」という限定はあるけど)


んで、

今年は「スターウォーズ誕生30周年」を記念して、記念切手発行とか、いろいろ行事をやっているが、その一環として、ホンモノの映画クリップ(60秒程度)を何本か、ウェブサイトにアップロードして、ファンが好きなようにマッシュアップできるようにするという。




こういう形で自分達が確認(統制)できる範囲内でファンの二次創作を許容すれば、それ自体がパブリシティになる、と


記事によると、これは「スターウォーズ」という一大ブランド・キャラクター群を、新作映画なしで維持する努力の一環、ということだ。ルーカスはすでに、「スターウォーズ」の劇場用映画はもう作らないと宣言している。(新作テレビ番組は来年あたり出る、との話も聞いたが)にもかかわらず、世代を超えて根強い人気を誇るこのブランドを、末永く(記事によると「この先30年」)維持してシツコク金づるにしようという魂胆だという。




いかにもネット時代の発想っぽくてすばらしい

(情報は減らないからね)




問題は「お金」というよりも「流通」ということなのだろう。


ドラの最終話を作った人もそれで儲けようという気も少しはあったかもしれないけど、それなりに売れて元が取れた後は頒布というか「好きな人同士の交換」という気持ちが強かったのではないか?

この人職業マンガ家みたいだし、権利者の気持ちも分かるだろうしな(だからこそ今回すぐに謝罪したんだろうけど)



いまの時代だったら同人誌ってネットを通じて流通できないのだろうか?たとえばscribdみたいなの使って。


「そういう話題はよくでるけど、リアルな出展会場としてコミケの意味があるんだよ」、とか言う話だったっけ?



っていっても、こちらの考察にもあるように「創作・流通など面倒なことは切り捨ててネットで転がし商売だけする人も存在するよ」ってことなんだろうけど


ネット時代の漫画ビジネス - FIFTH EDITION

あまり知られてはいないのですが、
同人市場では、1億円作家というのが結構いたりします。
製本や流通において、極めて安価に本を作り、売れる時代に
なった為、そういった人達が多数出現したのです。

彼らは、漫画創造において非効率だった部分を
かなりの部分で省くことによって利益をあげました。
なかには商業誌では人気がでなかったが
同人に移行することで大変な人気、つまり金を
得たプレーヤーも存在します。
頭がいいというべきでしょうか。

ですが、IT技術の真髄はそこじゃない。

究極的に、効率化を進めるならば、
漫画という情報そのものを扱うのが究極形となります。
発掘、創造、流通、販売という四つの分野を
全て切り捨てた形です。

それが、今、いくつか現れています。

つまり、同人誌を大量にネットに集めて
それを公開している人達が現れているんです。

彼らは、何も創造はしていません。
ただ、集めて公開しているだけです。
そして、一番金になる部分である情報だけを
売っているわけです。




オーグロマキ流に言うなら「やっぱカネか〜、カネなのか〜!!」みたいな

(1億円プレーヤーが実在するかどうかについては、この辺見てもらうといいです)



それなりに稼げるということはそれなりの需要があるということで、この部分が隠れているのが問題なわけだからオープンにして果実を分けあえばいいだけのことだと思う。



「同人コンテンツのネット流通」っていうこの手の話題はkanoseさんが強そうだけど、ちょっと探しても見つからなかったな


ARTIFACT ―人工事実― | オタク Archives




とか思ってたら増田に似たようなエントリが上がってた


[暴論]コミケをネットに移行せよ!

ぶくま的には「単に商品を手に入れるというだけの問題じゃなくて参加することにこそ意義がある。祭りの雰囲気がいいんだよ(売る楽しみとか)」って感じか。でも、流通システムそのものについての反論はないので行けそうなのかな?


批判的意見としては「いかにもお客さん的な発想だなぁ」ということだけど、お客さん的発想のどこがいけないのだろう?


たしかにぼくなんかはコミケに一回も行ったことはないのだけれど、たとえば地方に住んでいてそれ系のものへのアクセスが大変な人なんかにもうちょっと流通面で便宜を図ってもよいのではないか?


それとは別に「売り」とか「祭り」の楽しみがあってもよいとは思うけど


あとは、「版元が許さないかも」、と


コミケはネットに移行しないよ (へっぽこさんメモ)

同人ゲームじゃなくて、同人誌ならネット上での無償配布でもいいかというと、それもまた別の問題がある。版元によっては、同人誌即売会での有償頒布は黙認してるけど、ネット上での無償公開は潰すという方針を取ってるところがあったりするんだ。だから、同人に対する批判のひとつとして「二次創作同人誌で金を取るなんてけしからん。全部ネットに移行して無償配布しろ」なんてのがあるけど、それはジャンルによっては全く逆効果なんだよ。ネットでの配布は、全世界の不特定(無制限)多数への配布であって、いつでもどこでも誰でもアクセス可能だからね。版元の企業としては、即売会よりもネットのほうを嫌がってもおかしくはない。




これなんかはスターウォーズの例に鑑みれば、意識改革の話だと思うけど。


・・なかなか、か







個人的にはスターウォーズみたいな感じでマッシュアップ公認って形でドラの最終話コンテストとかやったら面白いように思う。そのほうが現在の訳の分からない視聴率誘導作戦よりもよっぽど効果があるように思うが?






--
関連:
ドラえもん最終回シリーズ総合メニュー

※「小学館からの要請」で一部見れなくなってるけど、内容自体はこちらから確認できます(※FLASH版)

ドラえもん最終話 『のび太くん、宿題は済んだかい?』(FLASH版)



ねがすぱ:ドラえもんの最終回、サザエさんの最終回について

※ドラの最終回のバリエーションに加えて、そういや例の海の一家にも似たような話があったなということで。iPodサザエさんは好き







たけくまメモ : 【著作権】とんでもない法案が審議されている


※現行の権利者による苦情申し立てシステムから、一般人による「著作権侵害してるよ!」システムに変わるのかなぁ、と(あるいは警察機構による情報権抑圧装置として機能するか?)。各最終話も申告されちゃうのだろうか?でも、切込隊長のいうように「権利者の権利もあるからなぁ」ってことでもうちょっとゆるい感じもする



muse-A-muse 2nd: ミクシコミュのビジネス利用ってどうなってるんだろう?

※コンテンツのピアな流通に関して。





--
追記:
 マッシュアップを受ける(多い)って言うのはそれだけその作品が愛されていることの証左のように思う。視聴率を上げるためにドラえもんをみょーな感じでいじくりまわすことに対してファンが反感をもったのは、ドラえもんという作品がすでにパブリックドメインとも言うべき影響力を持っているからではないか?
 
 ファンの思い入れというか、「こうあって欲しい」という共有の幻想(解釈)というか・・。(スターウォーズにも同じことが言えると思うが)偉大な作品にはお金だけではない何かが宿るということなのだろう。そういった気持ちを裏切ってきたのはむしろ最近のドラえもん製作者側(特にアニメ)のほうではなかったか?

 そんなことを思った。


 
 




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2007年05月29日

「ここ10年でAV女優のレベルは上がった」のか? (+ エロコンテンツ周辺情報まとめ)

 たまにはゆるいエントリもいいかなっていうか、「mixiでエロエントリ書いてるとマイミクの人(♀)が引いてく様子が分かるんだよぉぉぉおお」とか、「エロいものもコンテンツ産業的には重要ですから」などとマスメディア論的な言い訳もはさみつつ、けっきょくは自分が書きたいから書くわけで・・(←純@「北の国から」)


 ってか、きっかけはこれだったわけだけど


金融日記:この10年で日本社会で最も変わったこと


 要約すれば、<ここ10年で一番変わったことと言えばAV女優のレベルが高くなったこと。それによって若い♂が(レベルの低い)一般女性との結婚を拒むようになって結婚率が下がった>、って言っておられるわけだけど、これはネタなのだろうか?

 ネタだとしたら「ネタにマジレスかこわるい」って感じだけど、かこわるくてもかまわないのでマジレスしとこう。

(とりあえず「レベルがあがった=外面的にきれいになった」としてとらえると)

 まず、第一に「ここ10年でAV女優のレベルがあがった」についてだけど、これって「ここ10年」ってわけでもないからね。

 ぶくまでも指摘されてたけど

kokorosha 飯島愛の頃からあった言説。人は何回同じことを言えば満足するのだろう。

(中略)

lakehill ネタ っていうか20年前のAVに於いてもきれいな人やかわいい人はいっぱいとはいわないかもしれないがそれなりにいたぞ。そりゃあ、30年ぐらい前のエロ本はひどかったけど、10年前と30年前を勘違いしてないか?

(中略)

kanimaster ネタ むしろこの10年は停滞している気がする。

lsty 文化, 歴史 たしかにここ10年では停滞してます。「20年」だったら分かる。



 ここで指摘されているようにターニングポイント(メルクマール)はだいたい20年前。ってか、1984年の宇宙企画の躍進によるところが大きかったみたい。(以下、「エロの敵」、雨宮さん担当箇所の一部(p.93-94)より引用)


エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること
安田 理央 雨宮 まみ
翔泳社 (2006/09/28)
売り上げランキング: 28350



アダルトビデオの始まり

 「AV」というものが登場したのは、1981年5月に発売された「ビニ本の女 / 秘奥覗き」「OLワレメ白書 / 熟れた秘園」(日本ビデオ映像)の2作品が最初だと言われている。それ以前にもAVと呼ばれるようなものはあったが、それはにっかつロマンポルノのビデオ版であったり、ラブホテル用のビデオだったりしたため、販売用のビデオということを意識して制作された最初の「AV」はこの2本と言える。
 同年に代々木忠監督・愛染恭子主演の「淫獣のうずき」がリリースされる。その後、代々木監督の「ザ・オナニー」シリーズの大ヒットにより、ポルノ映画とは違うビデオならではの生々しいエロを描き出すメディアとしての、後のAVの一つの方向性が見えてくる。
 当時はまだレンタルビデオ店というものがなく、初期は、裏ビデオなのかAVなのか定かではないが「ビデオデッキを買ってくれたら、これつけますから」と電器屋さんがお父さん向けのオマケとしてつけてくれていたという話も聞く。それでも当時からビデ倫は存在しており、VIPや宇宙企画、KUKIなどビニ本会社から転進したメーカーを含む多くのビデオメーカーが加盟していた。
 しかし、まだその存在はマイナーなもので、「AV = 裏ビデオ」のことだと思っている人も多かった。「洗濯屋ケンちゃん」などの裏ビデオの方が有名で、ビデ倫のAVは逆に「表ビデオ」と呼ばれていたくらいだったのだ。当時のビデ倫はカラミが3分以上続いてはいけないなど、非常に規制が厳しかったため、ポルノ映画の延長のようにしか見られない向きもあったのではないだろうか。


 
美少女AVアイドルブーム

 その後、家庭用ビデオデッキが普及し、1982年末にレンタルビデオ店が登場する。これによりビデオの主流が裏ビデオからビデ倫加盟のAVへと一気に流れが変わり始める。その中で、大きなターニングポイントとなったのが1984年の「ミス本番・田中裕美子 19歳」(宇宙企画)の爆発的なヒットだった。
 これにより、AVの流れは一気に「美少女本番路線」へと切り替わる。若くてカワイイ女のコの普通の本番ビデオというこの路線は、今でこそ普通すぎて一体何が新しいのかよくわからないが、それ以前のAVはSMや痴漢、盗撮など暗い雰囲気の作品が多く、美少女の明るい本番ビデオは珍しかったのである。




 だいたいこんな感じ。

 ついてにいうと、それ以前の裏本(ビニ本)文化が開いていった背景には安保闘争の影響があるとかなんとか。安保の学校辞め組(主に哲学系サブカル?)がアングラな仕事に就くようになって、それがエロなほうに繋がっていったと。たとえばKUKIと天井桟敷、そしてKUKIからYELLOW CABへの流れなんかある。(参照

(そういうわけで例のエロ用語「ザー○ン」なんてのも哲学系ジャーゴンの影響を受けてるわけ。ドイツ語で「種」の意味。哲学系知識の名残だな)

 80年代中期から90年代中期のAVコンテンツ(実際の消費動態)についてはこの辺りに詳しい。


NC-15:日本AV史(1)、(2)

NC-15:日本AV史(3)(4)(5)


 ここ10年はぶくま指摘にもあったように低迷というか安定というか、「似たようなコばっかり出てきて入れ替わりしてるだけ」(女性AV監督談)、みたいなのをなんかでみたけどソース忘れた。思うに一般女性の外面的きれいさの底上げが影響しているのではないか?んで「ふつーのコ」とか「ふつーよりちょっとかわいいコ」とかがふつーにAVに入るようになってきてる、と。でも「このコはすごいオーラを放ってる」って人は現れない。

 あとそんな感じで素材の変化はないので内容が過激な方向に向かっている問題がある。ネットなんかに無修正なものがアップされるので、それに対抗するためにセル系は過激な内容に走るんだけど、そのために女優さんがひどいめにあわされたり・・(ex.バッキー栗山事件)。そしてひどい目にあわされても「AV女優だから」ということでなかなか訴えできなかったり、訴えても真面目に相手されなかったり・・。ここ10年としてはむしろこちらのほうが重要なように思う。


 で、流れとしてはそんな感じなんだけど、「最近の女優さんのレベル」というのは実際のところどのようなものなのか?


 ちょうどニューアキバドットコムにこんなエントリがあがってた


AV女優の名前を当てましょうクイズは意外と難しいぞ! :にゅーあきばどっとこむ


(※乳とか局部出てないのでよい子でも安心して見れるはずだよ!)


 だいたいそんな感じ


 で、こういうのに対してガイジンさんはびっくりするわけ


TOKYOMANGO: Canadian Japanese Porn Star Maria Ozawa


 「・・ふつーにモデルやれるじゃん」、と。
(たしかにこの小澤さんはやけに写真映りいいな)


 んで、欧米圏では日本産エロビデオのことを「HENTAI」って略称してて、けっこうな人気を誇っている。中国でも人気は強くて、勢いあまって政府の広告塔に使用されるくらいだ。

 まぁ、それは冗談としても。外国における日本エロ文化の浸透度ってけっこうなものみたい。直接ガイジンに聞いたことないけど、日本に来るガイジンの頭の中に少なからずそういう意識(「ニポンジョセイハAVジョユーミタイナノバッカダ!」)があるのかもしれない。

(そういやこないだ歌舞伎町で見た中国旅団の行進はすごかったな。すごい目的意識を感じた)


 
 で、それとは別にぶくまコメントで気になったこと

gotanda6 違うね。この10年で最も変わったのは、アイドルが不細工になったこと。AVの方がレベルが断然高い。

(中略)

KGV むしろ、AVの擬似ドキュメンタリー化、バラエティー化といったテレビ化が「女優」であることのハードルをなくしているということがある。


 これは一般タレントの質が下がっているのと同時にAV女優の質が高くなっている(底上げしてる)、ということだろう。いわゆる「フラット化」ってやつ。((C)東っくす)

 こちらでも少し考察したように「フラット化」ということがプロの仕事の質を落とす際の言い訳に使われるとしたらキケンだけど、「境界のあいまい化」というか「多様性に対する閾値の変化」的な現象がそこかしこに見られるのは気になる。

 それはシステムの飽和ということであり、新たなシステムができる可能性を示唆しているのかもしれないけど、多様性うんぬんについてもリンクがたまってるので別項で。


 参入障壁の変化っていうか女性側の心理の変化というのがあるのかも。

 「昔と違って、現在のコはAVやることに対して心理的葛藤がないみたいだねー」、とか


エロ本編集者の憂鬱と希望:大坪ケムタ編『世界が100人のAV女優だったら』(扶桑社)を読む

実際、僕も有名無名にかかわらずAV女優と仕事をしたり話したりする機会が、ほかの人より多い仕事についているのだが、感じることは「普通のコ」ということだ。こうざっくりと書くと、「人前でセックスをして、それで金をもらう職業」をしている人が普通な訳がない、というふうに思われるかもしれない。確かに、親や恋人、友人などにバレるリスクがあり、そういた部分を秘密にしている、というのはある。しかし、それ以外は、ぶっちゃけ、別に普通だ。壊れているとか、精神的に病んでいるとか、家庭環境がやばいとか、極度の貧乏とか、もちろんそういった人もいる。だが、それはAV女優以外でもそういう人はいるのと同じくらいでしかない。借金をしているわけでもなく、精神的におかしくもない、家庭環境も普通で、大学に行きながら、とかOLをしながら、とかでAV女優をしている人は腐るほどいる。僕なんか、フェリスの女子大生を初めてナマで見たのは、パンチラ撮影のときに会った企画のAV女優だった。



 この部分について、社会的な変化と連動させて考えるなら女性の社会進出との関係があるのかな、とかちょっと思う。

 いわゆる「テイシュクなツマ」を要請するイデオロギーに対して、女性が仕事について、その仕事を全うすることによって発言権を持つようになったことによってエゴの部分を表出できるようになり出したのかなぁ、とか。

 働いてお金を稼ぐことによって女性の可処分所得が多くなり、それに伴って女性のエゴ(需要)が肥大/細分化、それ用の市場が増えた、と。

 「エロいもの」というのはタブー的な意識があったので最後の砦的な領域ではあったんだけど、最近になってこの辺が拓けてきてるみたい。

[R30]: 冗談じゃなく、結構ありと思うよ


 女性週刊誌のそれ系特集もそうだし、雨宮さんの「リビドーガールズ」なんてのもその流れだろう。


 これに対して、男性の弱小化問題ってのがある。いわゆる「非モテ」ってやつ。

(「非モテ」の分類としては「モテない」というのと「モテを狙わない」というのがあるけど、このエントリでは「非モテ」を「モテないのであえてモテを狙わない(すっぱいぶどう)」として話を進める。赤木さんのところでたまに出てくる「弱者男性」というキータームでもいい。もしくはこの辺

 「弱者男性」論って正直よくわかんないのであまり突っつきたくないだけど、どうもいじいじして嫌だなぁって感じがある。

 「女性の苦労が分かってんのか?」、と。


 たとえば、まだまだ男社会ってことで「それなりのスキルを身につけなきゃ」と思って学歴なりそれ系のスキル習得にはげんだ女性が周囲の男性から「高学歴女は近寄りがたいね(女のくせに)」扱いされる問題。あと、月のもののしんどさとか・・。そういうのがデフォルトな状況にいる彼女達ががんばってるのに対して、「弱者男性を敬え」とかってよく言えるなぁ、と思う。

 そりゃ「主夫」っていう選択肢もあると思うけど、それを押し付けるのはどうかなぁ、と。(共働きでいいじゃん)

 

 結婚率が下がってるのはこんな感じのマッチングのズレというか、「豊かな社会」の実現による欲望の細分化があるからなのではないか? もっと端的に言ってしまえば、結婚しなくても食ってけるわけだしむしろ楽だ。
(いまはパラサイトとか許容されてるしね)

 「やりたいことたくさんあるので結婚して縛り付けられたくない。人生50年ってわけでもないので結婚したくなったらそのときすればいい」

 そんな感じではないか?
 

 あと、最近の不景気ってのも関係してるかもしれない。「不景気で結婚しない」ってのは「豊かな社会」というのとは矛盾しているのかもしれないけど、欲望(エゴ)の部分だけ豊かになったということかなぁ・・。


(日本は結婚しても特に税制免除とかなさそうだしなぁ・・。家賃その他の基礎生活費は浮くだろうけど ※←不勉強かも)




 
 だいたい以上が主題に対する突っ込み。


 その上で自分的にまとめときたいなと思ったことをこの機会に記しておく。


 雨宮さんの引用箇所にも出てきた「ハード購入の誘因としてのエロコンテンツ」というテーマに関して。

 これはコンテンツ / ハード系では昔からの課題で、「ハード購入の裏の誘因(キラーコンテンツ)というのはエロ」というのはけっこう共通理解だったように思う

「裏本の死」の宣告 息の根を止めたのはネット?|文化|カルチャー|Sankei WEB

 新しいメディアが出るときには、取り締まりの社会的整備ができていないため、そういったものに使われることが多い。新しいメディアにまっさきにのるものは3Aであるといわれている。つまり、ローマ字にすると頭文字にAがつく、「新しい」、「危ない」、「怪しい」内容、つまり性表現や宗教がいかなる時代にも新しいメディアを真っ先に使う。これを新しいメディアの「3Aの原則」というが、「新しい」、「危ない」、「怪しい」に「アダルト」を加えて「4Aの法則」ということもある。宗教も大半は成人が夢中になるからだ。



(加えて言うなら、もっとも「売れる」メディアコンテンツは「Stock」,「Sports」,「Sex」の3Sといわれるらしい(C)桂敬一)


 で、ネット的にはこんな感じ


TechCrunch Japanese アーカイブ » EroShare、ユーザー発信型ポルノ

ポルノはインターネットにおいて依然として収益を上げる産業であり、PornoTubeの成長ぶりから考えると、ユーザー生成タイプのポルノはその中でも健全な成長分野となっているようだ。



TechCrunch Japanese アーカイブ » インターネットポルノの統計


* 89%のポルノは米国製
* $2.84B(28億4千万ドル)の売り上げが2006年に米国ポルノサイトにもたらされた
* 毎秒$89がポルノに費やされている
* ポルノ視聴者の72%は男性
* 260の新たなポルノサイトが毎日生まれている




 でも、最近ではちょっと変わってきてるみたい。「エロの敵」でもちょっと触れてたけど共有メディアによるエロコンテンツの非合法な交換の問題とか、ネットへのアップとかがあるので。それ以外にもこういう流れがある、と

TechCrunch Japanese アーカイブ » インターネットポルノの統計


従来、ポルノ産業が真っ先に新しいことを始め、やがてメインストリームメディアに波及していくのが普通だった。しかしここ数年はユーザー生成コンテンツ、ビデオ共有などウェブで生まれた新しいアイディアは、まずメインストリームで普及し、それからポルノサイトに波及しつつあるようだ。


 「昔はエロが牽引してたけど、いまはエロが付いていっている」という状況らしい。そしてCGMとか共有の流れが思いのほか速いということか。

 どっかの外国記事で、そういう状況があるのでコンテンツ産業に期待するのはムダ、みたいな論説があったけどちょっとタイトル失念した(あとでリンクするかも)。



 市場関連で数字が出たのでついで


2ちゃんねる実況中継 AV女優のギャラ


 いわゆる単体女優な人は1本あたり40〜200万ぐらいか。でも、もろもろ引かれて手取りは1/3、と。あと、ギャラが高くなるほどピンハネ率も高くなるらしい。






 あと、ちょっと思うこととして。


 この分野って日本のコンテンツの中でも数少ない「世界に通用するもの」だと思うんだけど、この部分の開発ってどうなってるんだろうか? 中国辺りにいいように海賊されて黙ってる感じかなぁ。。

 いちおダウンロード販売とかしてるみたいだけど、中国には手を出せないんだよなぁ。

 やっぱ「エロ」ってことで引け目を感じたり、行政側に何か言っても受け付けてくれないんだろうか?


 あと芸能と同じく、っていうか芸能よりもアンダーグラウンドなギョーカイなので経営動向が見えない・・。





--
関連:
学校では教えてくれないエロ 番外 エロサイトの傾向編(@増田)

※海外のエロサイト動向について。『どうも特定のエロ会社が提供するサービスではなく、横断的にエロ画像/動画をまとめているサイトが伸びている感じがします。NapsterやWinMXで、エロ画像の探し方も変わったのかもしれません。』、とのこと


J-CAST ニュース : 「料理の鉄人」「風雲!たけし城」 日本の番組が海外で大ヒット

※「料理の鉄人」はだいぶ前からフォーマット売りをしてたように思うけど、オリジナルが受けてるらしい。食通なニューヨーカーの間で受けてるのかなぁ、とか思うけどその辺りは不明。「たけし城」はたけし映画の影響もあるのだろうけど、ああいう分かりやすいコンテンツ(ガイジン受けしそうな視聴者参加型競技)は受けるだろうなぁ、とか思う。(cf.SASUKE)



ITmedia News:「日本のドラマは論外」 希薄なテレビ業界の意識

※デーブ・スペクター氏の指摘がポイントかなぁ、と思う。「ストーリーに工夫がない」とか「演技もよくない」とかいうのは文化差感じてびみょーだけど、「資金をかけてない(かけれない)」というのはそのとおりだなぁ、と。それに比べてアメリカのドラマがお金かけれるのはフィンシンルールなんかとの関係があるからなぁ。。(惰性というか)
後段で吉本興業の話が出てきてるけど、吉本よりは落語のほうがウケがいいような気がする。。(地味に汎用性がある笑いなので)















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2007年05月19日

ミクシコミュのビジネス利用ってどうなってるんだろう?

なんか、エントリするネタがたまっててちょっと食傷気味だけど、軽いのから出してこう。(できるだけ軽く)



ビッグイシュー(vol.71, p28)に「ミクシで宣伝してお仕事増えた」って記事があった。

写真家松原正武という人について


[mixi] マツバラ/art+photoさん


ビッグには「新進気鋭の写真家」としか紹介されてなかったけどフリーでやっておられる方なのかな?(まぁ、大体の写真家の人はそうだろうけど)

ミクシで人脈を増やしてそこから仕事の幅が増えた、と。


具体的には、

「自分が撮った作品を、写真好きが集まっているコミュニティにアップしたり書き込みをしたり。興味を持ってくれた人からのメッセージやマイミク追加申請がだんだん増え始めた。もちろんそのためには毎日の更新は必須だし、写真以外の濃い情報もアップしてる。知らない人には俺が700人、一人ひとりに声をかけたと思われてるかもしれないけど」



そんな感じで主にコミュ活動などを通じて地道に人脈を拡げるにつれて、仕事の話も舞い込みだしたらしい。具体的にはデザイン会社や劇団公演のチラシに写真が採用されたり。


いまはご自身が「暗黒写真」と名づけた「ワケのわからない黒い写真」をコミュニティで発表している、と。




「snsの人脈をビジネスに活かそう」って話はよく聞くし、ベタに王道な路線なわけだけど


ITmediaニュース:「mixi依存症なんです」――ソーシャルネットで人生が変わった26歳女性



ちょっと違うなと思うのは、この人の場合は「バイラルマーケティング」って感じの「それ自動ロボット(人工無脳)でもできるんじゃね?」的無差別爆撃ってわけではない点。


cf.mixiの笠原社長が賢過ぎるのでFPNの人には本当のことが判らなかったようだ。 - 好むと好まざるとにかかわらず - 楽天ブログ(Blog)


「mixiは情報収集と宣伝の場、2つの役割を兼ねる」って感じでそんなにガツガツしてない感じがする。
(情報収集のついで、と)


あと、ビッグイシューという特殊な媒体でmixi(ほかSNS)の力が認識されつつあるということが興味深い。
(cf.非営利でボランタリー)

最近ではmixiで日記を書かれている現役ホームレスの方についての紹介があった





もちろんmixiを過大評価するのはアレだし、時機を逸したかもって感じもあるのだけれど、「コミュニティをビジネスに活用する」というスタイルは地味に定着しているのかなぁ、とかちょっと思う。


調べるの面倒くさいのでいちどITmediaとかでまとめてくれないかな、とか思うけど(・・岡田有花女史とかやってくれないだろうか。。)


まぁ、「いまさら感」もある企画なんだけど、先ほども言ったように「いまだからこそ」って感じもある。


現状としては、いわゆるアーリーアダプターはmixiに飽きたり、その相互承認(同調圧力)的な距離の近さにちょっと違和感を感じてtwitterみたいな新しいサービスに移動してきてるわけだけど、そのお報せの場自体がmixiコミュだったり・・。


[mixi] Twitter “今、何してる?”


まぁ、twitterはウェブ全体で見ればマイナーなサービスだし(参加してるのは日本のウェブ使用者の10%いかないぐらい? もっと低いかな)、twitter情報のポータルはほかにもあるのかもしれないけど。



あと、モバゲーへの移行

アイデアノート モバゲータウンが脅威では無いと言っているmixiに先は無い


「モバゲーをやる層というのはmixiよりも年齢層が下」というのはあるんだけど、数字的には伸びてきてる。


今、モバゲータウンは驚くべきスピードで会員数を増やしてきています。
「モバゲータウン」会員数が500万人突破、1日のPVは4億超に

2月1日  会員数 300万人
3月10日 会員数 400万人
4月10日 会員数 500万人

1ヶ月に100万人ずつユーザーを増やしています。




モバゲー通貨っていう独特なシステムもあるし(要するにポイント制)


ポイント制による独自通貨(ミニ市場(経済圏)の構築)というのはSecond Lifeに見られるように強力なビジネスモデルなわけで、電通なんかも手をつけようとしているらしいけど


グーグルに対抗する為、電通は貨幣を量産する


これはこれで話が長くなるので別件で・・(まぁたネタがたまるぅうぅぅぅ)。


んで、ここにマイスペースが絡む。実質、Second Lifeよりもマイスペースのほうが基地になってるんだろうってのはあっちの記事で言っててメディアパブの人が取り上げてたな


メディア・パブ: MSの手ごわい敵、GoogleではなくてMySpaceである


mixiなんか見てるとSNSなんかたいしたことないと思うかもしれないけど、あっちのSNSの中心であるマイスペースの威力ってのはかなりすごいことになってるみたい


 ところが,Microsoftが実際に手ごわい敵と見ているのは,GoogleではなくてMySpaceである。こう主張する人が現れてきた。 Slide社CEOでPayPal共同設立者のMax Levchin氏が,先週開かれたSoftware 2007 Conferenceのパネル討論会の場で,Microsohtを最も脅かす存在は,SNSトップであるMySpaceであると言い張ったのである(InformationWeekより)。

 彼の主張によると,SNSはパソコンOSと似ており,ユーザーをロックインする傾向が強いという。80年代から90年代にかけて,Microsoftがパソコンの世界を制覇できたのは,パソコンOSを事実上独占し続けてこれたからである。同じように,SNSを事実上独占しているMySpaceがインターネットの世界で主導権を握るかもしれないと,Microsoftが恐れているというのだ。




「ロックイン」というのは経路依存性のこと。

(デファクトの経済学のとこでも説明したように、ユーザーがスイッチングコスト(操作を新たに覚える面倒くささ)を支払うのが嫌で、一つのサービスに固定する傾向のことをいう。この言葉からもネットワークに関するマーケティング戦略は貿易経済学の知見からの援用が可能だと思うけど、それはまた別の機会に)





んで、そんなマイスペースなわけだけど最近の動きとしては、


・独自の著作権管理システムの構築(参照


同時に、

・プレミアサイトの構築(参照)。通常のマイスペースコンテンツが「若者向け」なエンタメ中心なのに対して、こちらではNews, Lifestyle Video Channelsなどを中心としたコンテンツを配信して中高年層の期待にも応える、と

(※そういや、マイスペースユーザーは若者よりも中高年層のほうが多い、って話もあったな。そっちのほうが金落ちやすいわけだし、セキュリティ関係も安心でマイスペースとしては楽)



日本の動きとしてはこんなのがあった



J-CAST ニュース : マイスペース登録音楽家、2万組突破


小室哲哉や東京スカパラダイスオーケストラなどの有名アーティストや、B-DASHやHYなどのインディーズ系ミュージシャンが登録して、ファンとの交流やプロモーション活動の場として活用している。登録後4ヶ月で1万人以上の新たなファンを獲得し、CDの売上やライブの動員数を飛躍的に伸ばした「たむらぱん」のような成功事例も出ている。




元々、マイスペースの利用ってそんな感じだったみたいだし、「これからもそっち方面で力を入れていく」みたいなことはマイスペースジャパンの代表の方がインタビューで言ってたな(参照)。



でも、より具体的に

コミュニティの活用とかがどんな感じなのかが見えてこない。


期待するのは、「フリーのカメラマンなり物書きなりな人がSNSを活用して人脈と仕事を拡げていっている」、状況なわけだけど。


マイスペースは入ってないからなぁ・・(めんどくさそうなんだよなぁ)



アカウントだけでもとって入ろうかなぁ(・・・また見るものが増える)



んで、こういう流れがミドルテール的なものにつながる、と


muse-A-muse 2nd: Middle Tailについての覚え書き(+「海猿」妄想)


(つまり、自主制作型な動画の交換市場の構築、ってやつ)


動画だけではなくテキストや音声、そのほか様々なニッチコンテンツの交換が可能になるかもしれない、・・ということではすごく重要なわけだけど、まぁ、いろいろと限定条件はあるわなぁ。。

(その辺はめんどーだから別件で考えよう)



んで、こういうのの流れとして期待するのがこことの接合


誰でも大規模ライブ配信ができる「Channel.is」、ウタゴエが公開:ITpro


P2Pで音楽ライブを配信するサービスとのこと。

利用料金は「1年当たり数十ドル(日本円で数千円)になる」(園田智也社長)予定だ



似たサービスが同時期にアメリカでも


news : 世界中の「在宅ミュージシャン」とリアルタイムで共演


米eJamming社は2007年3月、オンライン音楽スタジオ『eJamming AUDiiO』をリリースする予定だ[訳注:原文記事執筆は1月。eJamming AUDiiOのベータ版サービスは3月28日(米国時間)に提供開始]。これは、ピアツーピア(P2P)接続を利用して、離れた場所で生演奏している複数ミュージシャンの間のタイムラグをなくしてくれるサービスだ。



こちらはライブ映像ってことではなく、在宅でjamれるらしい。んで、それがそのままライブとして配信される。

すごいのは、遠距離によるタイムラグを調整するプログラムを組んでること。


これと日本のサービスが連動してくれると面白そうなのに。


さらに言えば、これとmixiのコミュなんかで地味に宣伝活動をしているインディーズ系の音楽家の人たちが連動するとよさげ

(それ専用のSNSコーナーを設け、「この曲が好きならあなたはこの曲も好きかも」サービスもつけるとさらに良い)



P2Pというと実際にmixiの今年の採用人員はそれ系で力を入れていたように思う。こっちへの展開も考えてるのかなぁ。。(それだといいけど)




やりようによっては爆発的な力を持つような気がするんだけどなぁ、これは。


(P2P用ソフトウェアをユーザーにダウンロードしてもらう際に心理的負担(閾)が発生するかもしれないけど)









--
関連:
muse-A-muse 2nd: ミクシと2ちゃんとblogと少しおカネの話





--
追記:
ちょうど渡辺千賀さんところで似たような話題出てた

On Off and Beyond: デジタル時代ミュージシャンの収益構造

 
※実際に食っていけてるっぽいミュージシャンの話(月3〜5000ドルぐらいとのこと)。こういうののポイントはどうやってアテンション集めるかっていうのと、決済・倉庫・発送などのフローなんだけど(特に決済が重要)、その辺はCD babyというところに委託できるらしい。それにしても「保管・発送」まで頼めるというのがすごいな。

サイトに来る人の数は一日辺り平均3000(ユニークユーザー)とのこと。それで回るか・・。


そういや曽我部さんとこもインディーズって感じだけど順調なのかな


sokabekeiichi.com


posted by m_um_u at 18:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年05月14日

FOXによるテレ朝再買収の問題点について (あと、相互所有問題とか)

そういや、もうすぐ三角合併解禁ですね。

 詳しくは知らないけど、これでキャッシュじゃなくて株で企業買収できるようになるので外国企業がより簡単に日本の企業を買収できるようになる、とか。
(※一度、日本に子会社を作ってそこから買収する、という形をとるため「被買収企業」「ダミーの子会社」「買収企業」の三社の関係性が三角)

 んで、ぼけーっとFOXのことを思ったり。


 なんとなくですけど、FOXによる日本のメディア企業買収ってそんなに夢物語でもないのかなぁ、って。

 知っての通り、ソフトバンクの孫さんとNewsCorpのマードックは旧知の仲で、未完に終わった1996年のテレ朝買収のときにもタッグを組んだし、現在もマイスペースジャパン絡みで協力関係にあったり。(参照


 そういうわけでやるとしたら孫さん介してやるのかなぁって感じですね。資金十分あるのであとは信頼というか、メディア企業関連の独特なルール対策のみ、と。

 「独特なルール」ってのはあれです。「放送の公共性」みたいなのに関係した「公正中立な放送を」みたいなやつ。

 でも、日本のメディア企業で公共性について理解できてると子なんかないわけだからこれに関する概念規定というのは有名無実になってるわけですけどね(ジャーナリズムも然り)。

 具体的に言えば、マスコミ従事者の権利を守るときだけ「報道の自由」という概念を持ち出し、その反面、われわれの知る権利やアクセス権には応えようとしない。われわれ一般人が表現の自由や「プレスの自由」(≠報道の自由)を唱えると、「なにさまですか?」、みたいな態度をとる。(参照

 「そういうあなた様が何様ですか?」って感じなんですが、「われわれは社会の木鐸をならすジャーナリスト様である」、ということなのでしょう。

 んで、ぜんぜん木鐸なってないわけですが、それは木鐸が湿気てるからなのかなぁ(・・年中梅雨とか)。


 「ジャーナリズムにおける社会の木鐸的機能」とは、簡単に言えば、われわれ一般人が見落としがちな事件や事態を掬い上げ、その重要性をあまねく報せる、って機能です。(中国の故事に倣って、「危険情報を報せる = 木鐸をならす」、って感じだったっけ?)

 まぁ、確かにそういう機能も重要だと思いますよ。・・機能してればね。


 そういう機能に従事する人にはそれなりの情報収集能力とか情報同士の連結能力(想像力)が必要なんだけど、そういうものは現在の日本のジャーナリズムには見当たりませんね。

 松岡さんのウォルフレン書評読んでたら、ちょうどその理由に関連すると思われる記述があったので以下、引用です。


 松岡正剛の千夜千冊『日本/権力構造の謎』 カレル・ヴァン・ウォルフレン

 またウォルフレンは本書をふくめて、何度も日本のマスコミのはたしている問題を指摘した。日本のジャーナリズムは社会秩序の維持が仕事だという勘違いをしていて、社会が変革される方向のために努力をしていない。ジャーナリストの責任を問わないで他人の責任ばかりを問うている。とくに権力の構造についての説明をしていない。まだしも週刊誌がその役割をはたしているようなのだが、ウォルフレンにはその週刊誌がなぜヘアヌードとそれを一緒に取り扱うのかが解せないという(それを説明できる日本人も少ないが)。



「社会秩序の維持が仕事だと勘違い」、「社会が変革される方向のために努力していない」、「ジャーナリストの責任を問わないで他人の責任ばかりを問うている」


 この辺ですかね。


 あと、そのような態度になる根本的な原因として、「権力の構造について説明していない」、という部分があたるように思います。

 つーか、「説明をしていない」のではなく「説明できない」のでしょう。権力の何たるかを知らないから


(※権力についての説明はしてもいいけど長くなって面倒だからこの辺見てください↓ 特に物理的暴力と経済的暴力について理解してもらうといいです。んで、それらを背景にした他者の操作(cf.ヘゲモニー)って感じになっていきます)

グリゴリの捕縛 あるいは 情報時代の憲法について



 で、そんな感じで力の実態を学び、その責任のなんたるかをおぼろげながらつかんだとしても、日本の権力構造というのは特殊なためその全容が把握できない。。。



 それでお手上げって感じなのかなぁ、と。


 つーか、たぶん明後日の方向に勘違いしていて、「われわれエリートが社会を引っ張るのだ」、とか思ってるんでしょう。ジャーナリズムなんてのは元々ヤクザな商売で、世間の感覚と共感し、世間知と政治・経済圏的な感覚(プロトコル)を繋ぐものでなくてはならないのに。。その部分からは乖離してエリート様になってしまっている。そんな感じかなぁ



 

 まぁ、そんな感じで現状の日本のジャーナリズムってのはジャーナリズムとして機能してないわけなんですが、それでも「報道の自由」とか「公共性」なんかを盾にしてメディアの集中排除原則(相互所有規制)を唱えたりするんですね。


 この方面をちょこっとでもかじった人なら分かると思うけど、日本のメディア企業の相互所有規制なんかだいぶ前から有名無実化してます。銀行・新聞・テレビの株式が持ちつ持たれつしてね。この辺については美ノ谷先生の労作に詳しい






放送メディアの送り手研究
美ノ谷 和成
学文社 (1998/11)
売り上げランキング: 1054718



 つーか、この分野については高木教典先生からのラインとして、「相互所有は遺憾ね」、というのは重々承知してるんです。


 つまり、「数社に独占されることによって多様性がなくなる危険性がある。ましてやマスメディア(言論)が独占されることの影響たるや甚大なものになろう」、ということ。この部分の危険性は十分に分かっているつもりです。(※プロパガンダとも絡むし)


 
 でもね


 さきほどもちょっと言ったけど、事実上、日本のマスメディアというのは腐りきってるわけですよ。「金融腐食列島」ってわけでもないんですが、いろいろくっついて、根回しして、なんかあきらめたりしてるうちに糸がこんがらがっちゃって解けなくなってるわけです。で、気づかないうちに仲良しグループの影響を受けて、仲良しグループのための報道って感じになってる。そこまでベタじゃなくても潜在意識下でそういった影響は受けてるでしょう(なにせ学生時代からのお仲間同士だし)。


 んで、そういう「お仲間グループ」に入っていない週刊誌の人とか地方紙の人なんかが期待されるわけだけど、ここもちょっとびみょー、と。(基本的な視点ができていないし、世間知との共感がうまくいってないから)




・・そんな感じだと思います。




 なので、「黒船には日本のメディアは渡さないぞ!(にほんのじゃーなりずむをまもるんだぁー)」、とか言われても空々しく感じるわけです。「なに言ってんだろ、この人たちは?」って。



 それだったら黒船に入っていただいたほうが国内メディアの方々も緊張感とか責任意識やらをもって仕事に当たっていただけるのかなぁ、とか。そんなことを思うわけです。




 まぁ、そんなこと言っても、「相手はあのFOXだよ?」、ってことですよね。


 こんな感じなわけですが


FOXニュース - Wikipedia


 簡単に言えば、産経をもっとベタに右派にしたような感じみたいなんすね(イラク戦争賛美だし)。「右派」っていうか、保守。「自分たちの利益を守るためなら喜んで政府の要求に従いますゼ!」、って感じの。(実際、アメリカ以外でも中国へのアプローチもそんな感じだし)

 反対に言えば、与党勢力が変わればその色に染まる、ってことなのかなぁ。。マードックは今回の大統領選で特定の候補をバックアップしようとしてるけど(ブッシュじゃないです



 で、


 FOXってのはアメリカのリベラル層からの受けがかなり悪くて、「リベラル」ってわけでもないWPでもこんな記事が出ててちょっと話題になってたぐらい


E. J. Dionne Jr. - Saying No to Fox News - washingtonpost.com


FOX NewsのchairmanのRoger Ailesへのインタビューを通じて。Ailes自身は「メディア企業としてfairだぜ」とか言うわけだけど、執筆子からすると「ぜんぜんfairじゃねぇよ」、と。

 面倒なので訳さず引用だけすると、


The Fox debate saga is amusing, but it's more than that. It marks a transformation on the left driven by the rise of Internet voices and the frustration of liberals at the success of conservatives in using a combination of talk radio, Fox and the Web to propagate anti-liberal, anti-Democratic messages.

From the late 1960s until the past few years, media criticism was dominated by conservatives railing against a supposedly "liberal media." Hearing mostly from this one side, editors, publishers and producers looked constantly over their right shoulders, rarely imagining they could be biased against the left or too accommodating to Republican presidents. This was a great conservative victory.

The Bush years have changed that. Aggressive media criticism is now the rule across the liberal blogs, and new monitoring organizations such as Media Matters for America police news reports for signs of Republican bias, often debunking charges against Democrats. When you combine liberal and conservative media criticism you get a result that is more or less fair and balanced. Score a net gain for liberals.



 じゃん?、と


 あと気になったポイントとして、


Ailes has been brilliant at having it both ways, insisting that his network is "fair and balanced" even as its right-tilting programming built a devoted conservative following that helped it bury CNN and MSNBC in the ratings.



 ってのがあった。CNNやMSNBCはFOXの偏向報道に対してバランスになってるってことなんだけど、これって機能してるんだろうか?

 
 2000年のだけど内山センセの論文が分かりやすかったので引きます


ニュース報道事業 産業組織(PDF)

(※HTML版はこちら


目に付いたポイントとして、


「CNNやFOXに対抗するためにMSNBCが立ち上げられた」

「FOXの海外ソースは主にロイターに頼っていた」

「米国外支局数:CNN(23)、FOX(5)」(ABC,NBC,CBSもFOXと似たような感じだった)





 FOXニュースの問題点として、右派っぽい偏りもそうなんですが、「国内の分かりきったニュースをトリビアルに切ってくるだけで、全然面白くない(新しくない)」、ってのがあるみたいです(参照)。

 つまり、海外ニュースがない。


 海外のニュースというのは独自のソースを収集するためのネットワークを構築するためにはけっこうな維持費がかかるんです。その割には視聴率稼げない。なので、どんどん切られていったらしいんですね。

 それで、海外ニュースがわかんなくなってたところで9.11が起きた。


 情報感度の高くない一般の人からしてみたらほんとに一方的に何の理由もなくテロられた感じだったんだと思います。


 で、その教訓としてちょっとでも世界や「自分たちの狭いコミュニティ以外のことにも関心を向けよう」ってことになったはずなんだけど・・・やっぱそんなに変化してないみたいなんですね。


 「みたい」って、この辺は一般的なアメリカ人のメディアの使用動態について詳しくないので実感としてよくわかんないんですが、なんかそんな感じです。(実際、海外ニュース増えてないみたいだし)


 んで、「情報感度の高い人」とか「(FOXが嫌いな)リベラルな人」とかはネットのニュースを頼りにしてるみたいです。



 で、話を戻すと



 そんな感じでFOXって海外ニュースのソースをロイターに頼ってたみたいなんだけど、ロイターってカナダのトムソンに買収(統合)されちゃいましたね(参照)。つーことは、ますますFOXニュースから海外要素がなくなるわけだ・・。


 実際、FOXは「その穴を埋めるためにどこかの通信社を買収」って感じで動くつもりはないみたいだし。






 

 なんかまとまりなくなってしまったけど、以上がFOXをめぐる大体の概観です。



 んで、主題に戻って、「こんなFOXだけど日本のメディア企業買収してもいいかなー?」、って聞かれると・・・どうなんでしょうね(一言では答えにくい)


「Heroesとか24、シンプソンズ見放題だぜ?」とか言われてもびみょーだしなぁ。。


 それだったらライバルのViacom(MTV見放題)のほうがいいかなぁ。。




 ってか、Newsにしてみればいまのところ日本よりも中国のほうがうまみがありそうだし、あとインドも旨そう。






 FOXとは全然関係ないんですけど、内山センセのまとめ見ながらニュースのソース系のところは全部統合してオープンアーキテクチャみたいな感じで利用できないのかなぁ、とか思ったり。

 んで、ソース企業から一般人にも小売するとか



 そのほうが効率よさそうだし稼げそうなのになぁ。。。(でもITとか疎い業界だからできない。っつーか、やろうとしないw)





posted by m_um_u at 22:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年05月07日

(いまさらながら)OhmyNewsの「あるある」問題検証記事を見たよ

 ハコフグマンさんところ経由でみたOhmyNewsの記事が読み応えあったのでなんか言及しとこう(いまさらながら)


ハコフグマン: テレビのどこが問題か



テレビのどこが問題か──「あるある」外部調査委員に聞いた(上) - OhmyNews:オーマイニュース “市民みんなが記者だ”



テレビのどこが問題か──「あるある」外部調査委員に聞いた(下) - OhmyNews:オーマイニュース “市民みんなが記者だ”


 まずはおーまい記事の(上)のほうから。


 一番ポイントだなぁと思ったのは、「ワイドショーも情報番組も政策局が作るので報道局ほど責任意識がない」、って言及されていたとこ。


 報道の人たちは、時には名誉毀損で訴えられたりするので、事実性に対してものすごく執着する。ところが、「生活情報バラエティー」は制作局が作る番組です

 制作局というのは、バラエティーやドラマを作るところで、どうしても事実を軽く扱う。いまはほとんどそうです。それが、いまの日本のテレビの作り方です。ワイドショーも制作局が作る。報道局は作りません。報道局は小さくて、制作局は巨大です。ドラマ、バラエティー、ワイドショー、クイズ番組と全部ありますから。



 まぁ「いまさらながら」って感じではあるんだけど、こういう責任意識なので、「外注 ⇒ あとはなにも知りません」、構造ができあがっている、と。なので「あるある」問題もTBS問題(みの不二家舌禍事件+SASUKEなどバラエティでの自己隠匿)も構造としては同じだ。

 そんな感じでTBSも外注した後は丸投げなので責任感じてるはずがない(社長の会見のアレぶりはそういう意識)。「あの部門に関してはウチの責任じゃないですから(が業界の慣例ですから)」、なのだろう。

(っつっても、元受けで甘い汁すってる放送局が責任取らなきゃ誰がどるんだ、って話だが)


 あとは「学者がいいなり」「リサーチャーがいない」などの問題。

 別の問題、アカデミズムの問題もあります。これがまたひどい。取材テープを見ればわかりますが。ディレクターが用意した紙を読むだけの学者がいる。

 産学協働路線のなかで、学者は自分の研究を事業化させないといけない。テレビに出て人気教授になれば、メーカーと組んで、自分の研究を何らかの新製品として発売して、実績にできる――。そういう思惑がテレビの場合、より強く働く。そういう下心が見え見えの学者が存在して、生活情報バラエティー番組にしばしば登場する。





──リサーチャーを外注していると。

 外注して、しかもアジトにいるのは1人か、2人です。1番肝心なところのリサーチが薄いわけです。普通はあり得ないですよ、我々が何か調べるときに。リサーチによる事実発掘こそが1番のキモであって、それを土台に、どうやって展開していくかを考える。そこが確実になった段階で初めて、インタビューに行くかどうかだとか、テーマをどう設定するだとかが成立する。

 なのに、その部分はほとんど紙ペラ1枚ぐらいしかない。それで1時間番組のテーマをつくってしまうわけですから、これはもう真面目にやっているとは思えない。



 これらも「責任感がない」につながる。要するにプロ意識が希薄なのだろう。(あるいは「プロ=お金儲けができる人」という認識かw。それだとさんざん非難してたライブドアと何が違うんだって思うけど)


 前者の「学者の責任感」問題については5号館(stochinai)さんが以前エントられてた。


5号館のつぶやき : 平成の納豆あるある大事件と科学者の責任


 今回のような事件に対する科学者の責任について。たとえ影響力がなくても声を上げ続けていく必要性、を訴えておられる。付け加えるならば、その声がきちんと世間に届くような場が構築されるべきだと思うけど・・・難しいっすね。

(世間は「簡単」「便利」なものを求めるから)



 次に、「リサーチャー不足」問題についてはインタビューレポートの(下)にも続いていた。


── テーマ決定から、アジトへの伝達に1カ月。遅かったですね。

 だから、そのぶん調査に時間をかけられなかった。それで、アジトのディレクターがリサーチャーに電話して、リサーチャーが納豆を調べたところ、ある成分(βコングリシニン)があって、それがやせる効果を持つとの研究が存在することがわかった。企画会議でその報告があって、「よし、それでいこう」ということになった。

 ところが、それが急にダメになってしまうわけです。それでだんだんスケジュールが変わっていく。ところが番組収録日というのは1年前に決定していて動かせない。スタジオをその日に押さえていて、2回分撮らないといけない。それに合わせてビデオを作らなければならないし、実験もしなければならない。2週間の実験をするということになっていると、実験をする人を探して、決めることもリサーチャーがやるわけですし、実験に入る前の状態、血液などもいろいろ調べなければならない。そして、実験の結果どうなったのか。「納豆」の場合は、そうしたことを、やっていなかったというのがわかるわけですが……。

 ですから、「情報番組」と言われている番組で、金、時間、ヒトを最も投下すべきリサーチとテーマ設定を、「あるある」は2人が決めて、リサーチは1人の体制だった。

 ちなみに、「ふしぎ発見」では15人ぐらい常駐し、それプラス、海外の各地に合計で10人以上いますから、少なくとも30人規模のリサーチャーが常時動いて、「これならどうだ」といろいろ調べている。そして「これが面白そうだ」というものが出れば、ディレクターが現地に行って調べて、やっと企画として会議に出す。それでもボツになるものがたくさんあるわけです。それぐらい、ここが番組の核ですから、普通は手間ヒマをかけているわけです。




 締めのところでテレビマンユニオンの看板「世界不思議発見」が優等生としてあげられてて、そのあともユニオンべた褒めなところがちょっとびみょーだけどこの辺は置こう(あとで)。



 あと、「検証する側の新聞も同じように"結論ありき”な取材姿勢をとっていた」、みたいな話が気になった。


「あるある」に関しては、9社(2次制作会社)のうち、2社はちゃんと保管していました。ですから、2社で作ったものは、新聞で叩かれたりしていますが、そのうち1社はしっかりしていました。翻訳台本はきちんとある。意訳も許せる範囲内。デタラメなことはやっていない。専門の科学者に意見を聞いた証拠も残っています。それを、ある新聞が「捏造だ」とデタラメを書き、そこのプロダクションは仕事が止まってしまった。

── ほう。そのプロダクションはほかの数社と比べて、質がいい方なんですね。

 そうです。驚くべきことは、それを「捏造だ」と報道した東京新聞が、そのプロダクションを取材していないことです。だから私は「なんだ、おまえのところは」と東京新聞に言ってやりました。プロダクションが損害賠償で訴えたら、たぶん東京新聞は負けると思います。証拠がないので。



 つまり、「結論ありき」的作りをしていた関西テレビ(アジト)の姿勢を検証する側の新聞社も同じように「結論ありき」の取材をしていた、と。



 まぁ、毎度のことと言えば毎度のことなんだけど・・なんとかならんのかなぁ・・。


(そういやハコブグマンさんとこにもそんなエントリあったのでついでに貼っとこう)


ハコフグマン: 結論ありきの強引取材




 あと、その他気になった点を細々と


 「ちゃんと」という意味は、オンエアテープを見て、取材テープを提出してもらって見て、台本などの資料を出してもらって……という作業をした、という意味です。取材テープは放送1回分につき、少ないものでも10本、多いものは70本ぐらいありました。



 「オレたちはちゃんと検証したぞ」、と(お疲れ様です)



 その過程で印象的だったのは、全体的に、聞いた人に当事者意識がないということです。つまり、みんな被害者のように語る。



 責任意識ないから。ジャーナリズムとかじゃないし。(だって実際忙しいんだもん。お金もそんなにもらえないし)




番組の作り方の何が問題だったか。大きく言えば3つあります。1つは、情報に対する接し方、科学情報に接するときの姿勢です。最初の「あるある」では難し過ぎるぐらい説明がいろいろありましたが、「あるあるII」になったとき、大きくコンセプトが変わっています。科学的な説明の多さが視聴率の上がらない原因ではないか、もっとわかりやすく、面白くしなければダメだ、というのが大きな軸としてあり、要するにバラエティーの作り方に近づけたわけです。レギュラーで志村けんが入ったのはIIになってからです。



 だって簡単にしないと視聴率あがらないんだもん・・。



 インターネット言論の信ぴょう性という問題はあるにせよ、少なくとも1年ぐらい前から、「あるある」は捏造の疑いが濃い、とネット上では言われていた。そこから本もまとめられていた。

 そういうことに対して、誰かが「おまえ、大丈夫か。随分書かれているぞ」と言う人が1人もいなかったというのが、やはり不思議です。

 ところが、これに対してプロデューサーは「立場が違うよね、という話をした」と語っています。私はこれをプロデューサーから直接聞いて、非常に印象的でした。つまり、「批判する人と、実際に番組を作る人とでは立場が違うよね」と思っていた。要するに、一種の有名税だと思っていたわけです。番組が好調でうまくいっているから、やっかみも出るだろう、ある程度は悪口を言われてもしようがない、そう思っていたというわけです。


(※黒字強調しました)

 お前ら「消費者」とオレたち「くりえいたー」では立場が違うんだもん(そういや元ディレクターが「これからの食文化はオレたちが作る」みたいなこと言ってたなぁ)




 んで、結論として


 今回の日本テレワークの最大の問題点は、放送局と自分たち(=テレワーク)との間にある問題点を、自分たちより力の弱い小さなプロダクションに、そのまま転嫁してしまった点です。テレビ局から受注する自分たちが、今度は発注主になって命令する立場に立ってしまった。この部分は、日本テレワークという会社の経営哲学の問題になるわけです。どういう考え方で制作会社の経営をやっているか。それがテレワークとテレビマンユニオンの大きな違い、裏表ぐらいある違いだと思います。



 そういや、ほかにもユニオン褒めてたな


 例えば、別番組ですが、テレビマンユニオンの手がける「ふしぎ発見」は歴史がテーマで、制作費は「あるある」より安い。けれども調査にかける時間も、金も、人手も、比較にならないぐらい多い。100倍はかけていると思います。なぜなら、それが番組の核だからです。




 まぁ、たしかにテレビマンユニオンは力入れて作ってると思うよ。コンテンツ自体は問題ないと思う。でも、こんな問題も指摘されてたり・・


「全社員経営」 テレビマンユニオンの憂鬱



 「自立した制作者によるユニオン」という理念は立派だけど、そのためのメンバーシップ制度が負担になっている、と。

 んでも是枝監督を生み出した実績は立派だと思うけど(伊丹監督も関わってる)




 だいたいそんな感じだろうか。





 個人的な印象としては、構造的改革の必要性もそうなんだけど、個人個人の責任意識が希薄化してるんだろうなぁ、ってのがある。

 この辺は現行の体制でも是正可能なのではないか?


 っつーか、毎度毎度の「メディア倫理教育」ってやつで右から左に抜けてくのかもしれないけど・・。(なにせ彼らはそんな「タテマエ」聞いてるほど暇じゃないので)


 んじゃ、やっぱ構造改革が必要か。現場に入る金増やさないとなぁ・・。(人員も機材も増やせないしね。+ 諸経費)





posted by m_um_u at 21:40 | Comment(2) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

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