2011年04月15日

林香里、2011、「<オンナ・コドモ>のジャーナリズム」

〈オンナ・コドモ〉のジャーナリズム――ケアの倫理とともに
林 香里
岩波書店
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【レビュー・書評】<オンナ・コドモ>のジャーナリズム [著]林香里 - 書評 - BOOK:asahi.com(朝日新聞社)
http://bit.ly/fTPJU1

インターネットによって当事者の情報発信やつながりの場作りが容易になるにつれ、マスメディアへの信頼感は下がり続けている。筆者は元通信社記者の社会情報学者。「客観性」や「公平性」という倫理に縛られた結果、マスメディアは現状の社会のあり方の追認、再生産に加担してきたと指摘する。歴史や世界を見れば、「不偏不党」的立ち位置はジャーナリズムのモデルの一つに過ぎないと論証。弱者に寄り添い時に一体化する「ケアの倫理」にのっとったジャーナリズムを、マスメディア内外に見いだし再評価し、硬直化した従来型ジャーナリズムとの再接合を試みる。




基本は博論を元にした以前のこの書籍にもとづいたもの。それをもう少し分かりやすく噛み砕き、「シビックジャーナリズム」的視点を中心にオンナ・コドモにもわかるような、役に立つような、そして彼らや彼女たちの生活に寄り添うようなジャーナリズムの再生のための試案を説く。

マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心
林 香里
新曜社
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「シビックジャーナリズム」というのは、簡単にいえば「テレビや新聞で追っているニュースが文脈的に高次になりすぎて新しい読者はなかなか話題に入っていけない」「入っていけたとしても自分の生活に根ざした関心から遠ざけられていってしまう」というような問題があるとき、新規参入の読み手・生活者の視点からニュース・ジャーナリズムの言論空間へ接続できるように促すようなジャーナリズムの形。

5W1Hに始まる基本的なジャーナリズムの訓練・経験を積んだ現場の記者たちが「あらたな読者」を自分たちで育てていくようなものも含まれる (NYT辺りで講習会やってたかな?)

ただ、講習会までやるとコスパ的に悪いので、産業・企業としてのマスメディアの組織上層には受けが悪くなる。

時間かかるわりには売上そんなに上がらないので。


しかし、ジャーナリズムが本来担っていた社会的機能

「社会で起こっていることを分かりやすく人々に解説する」という社会批評的な機能に基づけば、それはジャーナリズムを担うマスメディアの出自に基づく責任であり義務であると言える。


(※「社会批評としてのジャーナリズムの出自」については脱線するので今回は割愛。イメージはカフェの批評的ジャーナリズム、文芸的公共圏におけるそれ → カポーティに代表される職人的ジャーナリズム(ニュージャーナリズム)。それは個人の裁量に依るところが大きいので、営利型マスメディア企業が大きくなっていくに連れて大量生産が可能な記事の「型」が作られていった。「5W1H」は記者のinput/outputの型のひとつだし、「ニュースになる、売れるような話題」というのもその型のひとつとなる)





▽生活圏と言論空間のゲゼルシャフト/ゲマインシャフト的な断絶 (商業的回収)の問題



そういった生活圏、あるいは親密圏とのジャーナリズム(言論)空間の乖離の原因を、林はゲゼルシャフト/ゲマインシャフト的視点から論ずる。

先程も言ったような「営利企業としてのマスメディアが生活圏から離れてしまった」という原因を、「営利」-「経済合理性の氾濫」という視点から読み解く。

都市社会における経済合理性へのドライブ、がその内部に含まれるマスメディア企業に反映されている、という問題意識。


これ自体は「アリ」だとは思うけど、個人的には林の親密圏への見立ては旧来のものように感じられた。


林からすると、旧来のテクストに基づいて、日本の親密圏・生活圏のトポスはズレず、公共圏を間にして政治・経済(あるいはいまなら文化)的空間に繋がっている・あるいは対するというハーバーマス型のモデル認識なのだと思う。

しかし、ネット空間に接続していてリアルに感じるのは、一部の親密圏がより公共圏から後退してしまっているのではないか?ということ

曖昧な言葉だが「セカイ」系と一部で呼ばれているもの、あるいは「ひきこもり」的な感覚と近い

Togetter - 「セカイ系というのはどういうことか?についての不親切な説明」
http://togetter.com/li/117069




「どこから」「どこへ」ひきこもっているかというと、政治・経済(・文化)的なリアリティ、現状認識から逃げてマスメディアが創り上げた仮想の現状認識→想像空間へ依り、そこから現実把握している。

さきほどもいったように現代日本のマスメディアの創り上げる言論、それに基づいた想像空間というのは「売れるため」という志向に基づき一定の型に沿ってつくられたものであることが往々にしてある。

具体的に言えば、科学の専門知につながってなかったり、経済の専門知につながってなかったり…ほかにも様々な専門知の領域があるがそれらにきちんとつながってない。専門家にインタビューしたとしても記者の「こういう発言が欲しい」というステレオタイプイメージに沿って発言の内容を矮小化してしまうことが往々にしてある。

(対照に各学問の「界」も同様に「自分たちの『タメ』の議論を行っている」という問題はあるが、これは別の話題として置く)



とりあえずこのように言論空間と生活者(受け手)の双方が涵養した空気(フーコー的には権力)によって現状の認識が歪んでしまっている、という問題があるように思われる。


現状ではそれを修正するのは各生活者の「仕事」を通じた社会との直な交わりを通してしかないところがある。





▽言論空間の修正のために  マスコミ(マスメディア企業の内部主体および組織)の組織改革の可能性



上記のような問題は「きちんとジャーナリズムしろやー」的な根性論では回収されないところがある。


なので必要なのは組織改革となる。組織を改革してきちんとした言論、生活に反映されるような虚飾・幻影ではない言論が保たれるような場を作る必要がある。


そのための視点も本書では少なからず挙げられていた。


生活者とマスメディア企業を前提としたプロフェッショナルジャーナリズムとの境界例として、オルタナティブではありつつ限りなくプロに近い射程としてフリーランス問題が挙げられその可能性・問題点が再考される。

フリーランスの問題というのは、

「大手のマスコミに勤めてる人たちはいい給料もらってのほほーんと既存の記事の型踏襲してりゃいいだろうけど、けっきょく地べた這いずって取材してくるのはオレたちじゃねーか。特に戦場とか、汚れた・危険な現場とか……そういうところは既存のニュースにはないセンセーショナルさを持ったりクリティカルな話題となるから期待されるんだけど、でも二束三文の薄給と引換だし…どっかの大企業のお偉い記者様と違って企業年金やら保証やらもないしなぁ。。いつ死ぬかもしれんのに (・ω・)」、

みたいな問題


あと、日本の場合は記者クラブ締め出しみたいな差別もある。

あれも結果的に自分たちの空気を観葉してることになってるのだが……「記者クラブ・番記者的なラポール(親交)結んでないと聞けない話題もある」というのもわからんことはない。


で、

こういったフリーランスの問題というのはけっきょくのところジャーナリズム、およびそれを担うマスメディア企業のジャーナリズムにおける労働環境改革論へと接続されていく


濱口桂一郎、2009、「新しい労働社会」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html


「日本の非正規労働問題や雇用における非合理的な固定性はなぜ生じるのか?」ということを論じた観点のひとつ


本書(オンナ・コドモ)では具体的な提案として自営型労働(専門能によるフレックスをあげていた。

「全体がフレックスになればフリーランスへの差別もなくなるのではないか?」という視点


しかし、やはりそれでは根本的な解決にはならないように思う。


これは労働組織論の議論にそのまま接続すべき問題

その一例として上記(濱口)の視点では「メンバーシップ型の雇用をなんとかしなければならない」とされていた。結論から言えば

「日本の会社における現状の評価(給与)体系は年功序列制度として実質的に時差式のベーシックインカム(生活給)みたいな性格を持つ。そこに成果給がちょっと付加される感じ」

「それが現代の日本においては若年層や非正規社員には機能してない」


という問題があるので。



語弊はあるだろうがベタに言えば、「一部のメンバーシップ社員のために(生産性に基づかない)保障を機能させるのはアリかもしれないが、それで結果的に(生産性をあげている)非正規社員たちが『搾取』されている現状があるのではないか?」、という視点が基層になるとおもう。


こういった企業体質をどのように変えていくか?というのはマスメディア企業だけの問題ではなく日本の企業・労働環境全体が抱える宿痾のようなものとなっている。


おそらく、大企業としてのマスメディア企業(首都圏の主要キー、および大手)は自ら改革することはなく、ほかの企業が改革していった流れに従うことになるだろう。

あるいは、

言論人としての良心がまだ残っているのなら、一縷の望みはあるのかもしれないが。





▽幸福な接続例としての上越タイムス。ボラとコスト削減


最後に、現状の一縷の望み、希望の原石のようなものとして、林は以下の例をあげる


上越タイムス - “上越地域のことが一番詳しく載っている”地域日刊紙
http://www.j-times.jp/


新潟県中越地震を受けて運営がままならなくなっていた上越タイムスと市民ボランティア(NPO?)との幸福な恊働


NPOとの協働については現状でも続いているようでこちらに少し載っている


上越タイムス - 会社概要
http://www.j-times.jp/outline.php




こういった協働がシビックジャーナリズムの芽となって、震災後の土地に芽吹いていくといい。




「震災後の想像力」というものがもしあるとしたら、そういうものであって欲しいと強く願う



posted by m_um_u at 06:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

2011年04月01日

ソーシャルメディアの感情消費・共有的側面とその限定的可能性

書き終わって自分でも読むのちょっとめんどうだなっていうぐらいなのでいちお全体の考察を通じたあとでのまとめ的な所感を最初に貼っとこう


・いちおまとめると、social mediaの使用動態はジャーナリスティックな情報共有的なものが期待されるというよりは、現状では情報消費(感情共有)的な毛づくろいなところが多いように思う。

・しかし、それもマスメディアなどを介して直列につなげば恊働の可能性を見い出せるし、情報の蕩尽的消費もそれはそれ自体で可能性があるようにも個人的には思う(→複雑系の思考)




で、以下が考察内容


--
今回の震災で「マスメディアの時代は終わった。というかソーシャルメディア時代への決定的な基点となった」というような言説が一部で見えて、

冷静な人は

「そんなこといってもやっぱマスメディアが信頼性の担保してるところはあるし、話題の出発点もマスメディア(というかテレビ)だったりするしなぁ。。民放なんかは繰り返しセンセーショナルな映像を流して情報価値がないところはあったけど、『こういうときにはやっぱりNHKだね』感は高かったし。『マスメディア』って一緒くたな問題じゃなくて個別の放送局だし、個別の新聞社、個別の記事(番組)内容やそれを構成するスタッフの問題だろうしなぁ。。」

って感じだったと思うんだけど、<災害時のマスメディア>というテーマについては稿を改めるとして。

主にtwitterにおけるデマの拡散なんかを見つつ災害時のデマ、陰謀論などの広がりなんかについていろいろ思ったりした。

デマというか、よほど悪意のある人でなければ最初からデマを広げようと思って広げてる人は少数派に思えて、みなさん「良い情報なので共有しよう」って善意からやってることだと思うんだけど、結果的にその情報が誤っていたり、誤っているまでは言えないんだけどびみょーな価値観の偏向をもたらしたり…。


そして、そういった誤りの連鎖というのはしばしばほんのちょっとの軽い恊働、軽い善意の気持ちから始まってる。


それでこの辺の話をふたたび思い出した。





直列・並列問題ふたたび ≪ Soul for Sale
http://blog.szk.cc/2009/11/21/serial-or-parallel-again/


「直列につなぐ」、ということ


<複雑な解釈操作などを必要とするジャーナリズム的志向 → 情報共有だと並列分岐だけど、「バルス!」祭りみたいな単純な目標が定まったものだと直列な威力を発揮するのではないか?>


並列的なものはジャーナリスティックな精査が必要な「情報」的なもの、とその共有

直列的なものはそういった精査の必要のない「感情」的なもの、とその共有


本エントリの最初に挙げた「軽い恊働、軽い善意」というのもこの「感情」的なものに当たるように思う


この可能性については以前考えた


「わたしたちメディア」とジャーナリスティックなものの間の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/163138334.html


感情共有的なものに可能性は見いだせるがジャーナリスティックなものも必要ってこと


しかし、そうはいっても現状では「ジャーナリスティック」とカテゴライズされているものでさえもけっこう感情(かどうかしらんけど)的に消費されていたりする。

新聞の記事なんかも特定のアジェンダや記事のステレオタイプに沿って、担当記者の感情の元に飛ばし記事書かれてることがちょこちょこある。

そして、

そういった記事は内容を吟味されるのではなく「感情」と「感情」で繋がるのだ。記者の感情と読者の感情。リテラシーにおけるコードの同期以前に感情面でtuneする。



そういった状況の中で、感情共有というか、我々の足元の生活上のリアリティから立ち上がってくるジャーナリズムが必要なはず。

被災地のそれを例に上げるなら、感情に訴えるように何度も同じ悲惨な映像を流すのではなく、被災地の人がその時点で本当に必要としていた情報

あるいは、東京圏の住民が原発や計画停電、電車の運休、食糧事情などの不安を解消するために本当に必要としていた情報


それは感情的なものとジャーナリスティックなものの間にあるものではないか?






▽情報共有ではなく感情共有であり、それは論の吟味というよりは消費なだけ?(なのだろうか)


Togetter - 「RTするだけで満足とかfavしても見返さない人ってtumblr的な情報消費-共感連鎖なんかな?」
http://togetter.com/li/117367



(コメント欄にtumblrのreblogを「アウトプット」と呼ぶことに関して、「tumblrのひとたちっておーざっぱにいわないでください」なひとがいてちょっとうざかったけど、まぁそれは忠言いただきましたね、ぐらいに置く)


reblogをアウトプットとして仮定して使ってる人たちがいるとして、そういう人たちのreblogの感覚というのは、たとえばSECIモデルでいうとどの辺の情報処理過程に当たるのだろうか?


SECIモデル − @IT情報マネジメント用語事典
http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/seci.html


tumblrのreblogの場合、形式知的なものを半ば暗黙知のinput(というか内部での情報処理過程)速度で回しているような印象がある。

文字としては明示されてるんだけど内容を深く吟味してなかったり、感情面ですでに同意してるものなので「外部情報」としてのそれを自らの内部の暗黙知に交換する機構やコストが抜けてそう。

reblogなりRTなりしたものを後に参照しつつ、自らの内部で消化 → 自分の言葉で注釈という過程を踏めば「暗黙知から形式知へ」ということで「表出化」過程だろうけど

それ以前の単に「暗黙知を獲得・伝達するプロセス」としての「共同化」過程に当たる印象がある。


当然これでは新しい知見、観点は得られない。

言論における複数性の話と同様に、形式知×形式知の過程を踏んでいないので新しい知見の広がりがない。



ところでtogetterのはじめのほうの

<ついったは短文メディアなのでpost内容がblogエントリより短くなるので特定の刺激的な言葉が目につきやすいのかも>

というのは一理あるように思う。


で、感情励起され、情報(あるいは論理)ではなくキーワードへの脊髄反射的感情の連鎖が連なっていく(どっかのソーシャルブックマークサービスみたいだが)


リアルと違ってある程度ひとを選択できるtwitterのTL上に置いては、われわれの半径〇〇mでは「不謹慎」とか「自重しろ」はないわけで、それを肴に話題にしてるってのもあるだろう。


「見えてないから『不謹慎』とかないんじゃないか?」って話ではなく、twitterのアーキテクチャに依る感情共感的な機構がその辺の話題涵養に向いてるのかなぁ、みたいなの。デマにせよ何にせよ。情報ではなく、感情の交換 。あるいは「オレがいえなかったことをうまいこといった」程度の情報量、ということ。

「人はみたいものを見る、聞きたいものを聞く。ほかからは目や耳を閉ざす」ということ


それでは議論の複数性、問題に対する多角的視点の獲得には寄与しない。


「有用」と思われて気軽に交換(RT)されるデマにせよ、デマではないんだけど情報の確度的にも新規性的にもびみょーなものとか…。「単に共感したかっただけなのね」ってのは分かるんだけど

先ほどでてきたように、TL的には空想上の産物的に「不謹慎」をことさらに言う人達、壁打ちというか、TL上の「不謹慎」ていわないひとにむかって「不謹慎・自重って変ですよね」っていってるのはなんだか毛づくろいコミュニケーションしてるみたいなところはある。


この辺りの話も同様の視点になるように思う

Togetter - 「「善意」のカジュアルRTのキケン性とその対価」
http://togetter.com/li/114218




「いくら鼓舞するためとはいえ、情報の正確性や新規性、信頼性に少し不安があるようなものをRTしてくのはこういうあぶないこともあるかもしれないよ?」程度のこといったら「不謹慎!」というか、なにかノルムに触れたみたいで反感買ったみたい。


この反応も脊髄ぽかった(デコった太字だけしか読んでなかったようなので)






▽感情消費を超えて情報の衒示的消費に向かってる面もあるのかも



Togetter - 「RTするだけで満足とかfavしても見返さない人ってtumblr的な情報消費-共感連鎖なんかな?」
http://togetter.com/li/117367



真ん中あたりの話


消費社会は消費が人々のアイデンティティを支えるとするバウマンのひそみに倣って、情報化社会では情報が人々のアイデンティティを支えるとすると、「エッジのきいた」情報を求めるあまり「真実」からどんどんずれていくというのはあり得るような気が。「あの話のほんとのほんとの真相知ってる」的な。


あともう一つはゾンバルトが「新しさが現代人を刺激する。それというのも、それがただ新しいからである」といったのと何かしら通じるかも。新しい、というのが他者との差異になり、アイデンティティを充足する。


ヴェブレンぽくもあるというか >衒示的消費




マスコミュニケーション研究・ジャーナリズム研究においてはまずもって「ジャーナリズム」を第一義としてとらえ、バラエティ(コメディ)番組なんかを気軽に情報消費していくスタイルが無意識か意識的にかわからないけど無視されてる。

背後の論理的には公共性論などを後付けにして「公共性に寄与する情報はジャーナリズム的なもので、そういったもの以外は特に研究的に扱わなくて良い」というところがありそうなんだけど、実際、われわれのメディア接触の大部分は娯楽的な情報消費だったりする。


もしくは、


ジャーナリズムとよばれるものも「読み取り」「議論の糧にする」のではなく内容は吟味されずにステレオタイプ的に消費されてたりする。

そして、その中途半端に理解された内容がほかのひととの話題のツマになる。


それは半ば衒示的情報消費といえるのではないか?

仲間内で「オレはきちんと新聞見てますよー」とか会社で「きちんと世情を追ってる大人な人間ですよー」とか見せ合うための


実存の話と絡めると社会化の過程といえると思う。


「個人−実存ー社会」と軸をとった場合、個人と社会のバランスとして「実存」があるわけだけど、それがみょーに社会方向にブレた人というのはいる。

会社人間みたいに人生の価値を会社に置いたり、お金人間みたいにお金に置いたり、教育人間みたいに……etc

自分の半径○○mの「社会」-「世間」の価値観に引きづられてそれ以外の「世間」(社会)への感覚が鈍感になっていく。


まぁ、そこまで過剰なところにはいかないだろうけど、広い意味でそういった過程の契機としての「社会化」の一部のように思う。もしくは議題設定仮説的に、そのpost単体の情報内容の是非は別として、似たような傾向のpostばっか集めるようになって全体としてのアジェンダを半ば無意識的に設定されてしまっている、というぢみな効果はありそう。




このような衒示的な情報消費の根はネット以前からあったものといえるだろうけど、ネットで特定コミュニティが組まれることによってその傾向が加速するところがあるように思う(cf.はてな村、もしくはtwitter上に暫時的に組まれた原発情報交換空間など)


で、

そこの衒示性(「オレのほうがエッジの効いた情報知ってるんだぜー」)に辟易した人たちが舞台を降りていったり。もしくはそこで交換されてるのが「情報」の体をした「感情」なところに感情を煽られて居心地の悪さを感じて舞台から降りる、というところはあるのかもしれない



そういった衒示的情報消費・交換とは別に「衒示的ではないけど情報消費だねそれ」ってのもありそう


たとえば、外部に見せびらかして誰かと競うでもなく、単に自分の内部にジャーナリスティックな情報をストックしていくんだけど、バラエティ・エンタメ情報と同じ次元でてけとーに消費ということもあるかも。それはまぁ情報の内部価値(位相)的には「フラット化」であり、そういったフラットになった情報がtwitterのような高速情報交換な場で感情共有的に精査なく結ばれれば「フロー」って印象は持つかもだけど、そういう造語で特に肯定するものでもないように思う。




利用と満足と同じように「ジャーナリスティックな情報志向だけではなくエンタメも求められてるねー」ぐらいの話


そして、

そういった情報への志向は「消費」的なのだということ


議論空間を考えたものではなく







▽「直列につなぐ」問題再びたび


クロ現で震災時のいくつかのソーシャルな恊働(ボラ)の紹介やってたの見つつ


Togetter - 「クローズアップ現代 Twitter連動企画『今、私たちにできること』 2011/03/29(火) 20:00〜」
http://togetter.com/li/117304




手話ニュース、被災地が必要としている物を企業などに支援を求めて提供しようという活動、ヤシマ作戦などが紹介されていた


こういうのは「直列につなげ」的なものかと思う。


単純な目標・作業内容の提示によって漠然とした善意の宛先に標をつけ、そこに志向性をもたらした(ように見えた)


そこで問題になるのは「漠然とした恊働(善意)の宛先がほんとに信頼せに足るものなのか?その善意は無駄にならないか?」ということだけど。そういった信頼性を担保するのは、現時点ではやはりマスメディアかなぁ、と思った。



「善意」でアルファに宣伝依頼飛ばしてもデマがデマを呼ぶだけだったりするので


デマは政府より信用がある - 今日も得る物なし
http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/20110329/1301404366


誰かが精査しないと



あるいは、信頼性の担保としての近くの人 に依るというのもありかもしれない


Togetter - 「心が黒い渦に巻き込まれないために」
http://togetter.com/li/114215




オピニオンリーダーを分散させるということ

あるいは

問題に当事者性をもち、ケツをまくらない人を探す、ということ





▽tumblr的なものの価値


ちょっと腐し気味になったけど、最後にtumblr的なものの価値として自分的に思うこと。


tumblrもフォローしてるひとに依るとは思うんだけど、そこで流れてくる情報、というか全体としては雑誌記事のようなそれは「世間知に通じてるな」って印象がある。

2ちゃん的な世間知、いままで伏せられていてジャーナリスティックな公共空間では「ないもの」とされていたようなホンネとか、そこまでいかないにしても生活上のちょっとした価値観みたいなの

弱者の不安や、「どうしてそういう人たちがそういう思考をしてしまうのか?」というようなことがなんとなく伺えたりする。


そういったオルタナ世間知な雑誌的な価値がひとつ


もうひとつは高速な情報処理なところ

処理というよりは消費に近いような高速情報クリップ、クリップすることそれ自体の快感的なもの

「クリップしたものをあとで確認する」ということもあるだろうけど、reblogした時点で満足ってことがけっこうありそう 


それは情報蕩尽ともいえるだろうけどまぁ消費だ。



本エントリ上段のSECIモデルを介した考察に繋がる。


情報としてinputという過程は「内部で暗黙知→形式知交換(cf.帰納)し、形式知同志をつないでいく(cf.演繹))」という情報処理が必要なわけだけど形式知にまとめる以前のアモルフ(ぐにゃぐにゃ)な状態


それは逆に言うと、形式化され可能性が定まって(縮減される)以前のもやもやとした情報の総体、といえる


「形式化されていない」ということは既存の価値に引きづられる以前の状態ということ。

あるいは

外部の既存の価値に引きづられるかもしれないけど、自分の内部では志向が凝り固まっていない、という状態


そこで言語以前のなんとなくなイメージの処理が飛び地的にできていったら、それはハイデガーが形式的指標の可能性として挙げていたものに近くなるのではないか?


「語りえぬもの」「語ると言語(社会)の慣性(常識)」に引きづられてアポリアに陥ってしまうもの

ハイデガーの課題としては「存在」がまずもってそれだったわけだけど


そこまでいかなくても、なんとなくな複雑系の思考を誘発するような高速な脳内処理が期待されるのではないか、とやや希望的に思ってみる。


神学の言葉遊び、ダジャレという神のパサージュ(足あと)





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関連:
Re:複製技術時代の芸術(reblog): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/55638157.html



たんぶらー自動ログによる無意識領域のhackの可能性: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/57043999.html



twitterに宿るアウラ? (体験知と情報知): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/47526497.html


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2010年09月19日

「わたしたちメディア」とジャーナリスティックなものの間の話

走りながら久々にpodcastのlifeきいてたらtwitterの話してて、まだ全部聞いてないんだけどどうも流れとしては「祭り」や「感情共有メディアとしてのtwitter」を肯定的にみていってもいいんじゃないか?(限定はあるにせよ)みたいな感じだったのでそういえばそういう話してたなぁ、と


直列・並列問題ふたたび ≪ Soul for Sale
http://blog.szk.cc/2009/11/21/serial-or-parallel-again/

実は日本語のウェブサービスのポテンシャルは、誰もがジャーナリストとして、独自の視点から情報を持ち寄る、つまり自律・分散・協調を特徴とする並列接続の集合知ではなくて、みんなで一斉に同じことをやったとき、つまりは直列に接続されたときにもっとも発揮されるんじゃないか、なんてことを思ったのだった。

そのポテンシャルが何に使えるのかは分からないし、それこそサービスのアルゴリズムがその何かを抽出したり創成したりすればいいのかもしれない。ただ、集合知って単にたくさんの人の情報が集まらないと意味がないわけで、そのときに「みんながやってるから自分もやる」という集団主義的な行動がもたらす快楽というのが、多くの情報を発信させる十分な動機になり得ているのは確かだ。

ジャーナリスティックな視点はあっていいし、少数の人がTwitterの発信力を活かして、直接Followerたちに独自取材の「ニュース」を配信することの可能性を、別に否定するつもりはない。ただそれはどこまでいっても「既存メディアのオルタナティブ・チャネル」であり、「正確に情報を伝える」とか「緊急時にいたずらに不安を煽らない」といった報道倫理の問題を含め、これまでマスメディアに課されていたテーマも引き継ぐことになるだろう。

直列接続の集合知は、そうしたメディアの可能性とは、性質を異にするものだ。



「twitterのようなCGMの可能性はジャーナリズム的な様式のオルタナティブ」ではなく「感情共有的な楽しみにも可能性があるのでは?」、と。

この辺は以前マスメディアの情報価値追ってたとき「利用と満足」研究辺りの可能性に感じたことと似てる。マスメディアにおける情報価値というとどうしても「ジャーナリズム的な情報」に偏り、その文脈から「blog・twitterはこんな意義があるんですよー(ジャーナリスティックに意義があるんですよー)」と言わざるを得なくなるんだけど、blogやtwitterあるいはそれ以前に2ちゃんやはてななどをやってて満足感じたところって実はそういうところでもなかったりする。

もちろんジャーナリスティックな価値、情報の新規性・正確性・速報性などをネットの活動から感じることもありそれはそれで価値があるんだけど、われわれが普段のネット活動を通じて得ている満足(これ面白かったねー)というのはたとえば自分と同じふつーの主婦のふつーの生活への共感であったり、「ほら見てごらん。月があんなにきれいだよ」ってことからつながる共有感だったりする。

それらはマスメディアなんかではあまり伝えられないような、ニュース性のないふつーの生活のリアリティ。実はそれこそが原義的に「ジャーナリスティック(日記的)」な情報であるはずで、近代に完成したマスメディアジャーナリズムというのは商業的でプロフェッショナルなフォーマットなのだけど(cf.林香里)。

マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心
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1 夢見がちのユートピア志向の書
3 東大の博士論文



なので、プロフェッショナルジャーナリズム再生の起点というのも実はこの辺りにあったりする。北海道新聞の高田さんが出会った老女の話のような


ニュースの現場で考えること : 「日本の現場 地方紙で読む」ができました(2) 「はじめに」から
http://newsnews.exblog.jp/15014521/


ジャーナリズムが単なる様式ではなくなんらかのココロザシや職業的プライドをはらんだものであるとき、その芯はこのような気持ちをもって再生していくもののように思う。


「事件は陰謀論的に起こってるんじゃない。現場は人が足りないだけなんだ」  ジャーナリズム不全の構造的問題について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/162762941.html



ところで「感情共有メディアとしてのtwitterをもう少し肯定的に見てもいいのではないか?」「平たく言うと祭り的なものの正のフィードバックを肯定的に見られないか?」というのは前作の「カーニバル化する社会」からの課題を昇華したものなのかなぁ、と思った。

「カーニバル化する社会」については未読だし、自分としては中世的な感覚、明示・律令的なゲゼルシャフトな感覚に合わせきれないゲマインシャフト的なものが溢れてきているのではないかと思うんだけど


日本における「都会と地方の話」は「中心と周縁」、「都市と村」、「文明と野蛮」みたいなのと似てるね、って話(+「若者不幸云々って世代格差ってよりは地域・階層格差なんじゃね?」みたいなの): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/158783815.html


「中世」と「CGM」関連で「メディアの発生」のことを思い出したり



メディアの発生―聖と俗をむすぶもの: 蔵前トラックU
http://kuramae-japan.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-c5a7.html

メディアの発生―聖と俗をむすぶもの
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5 碩学加藤秀俊教授によるメディア社会史の創成
5 メディア史の集大成
5 「聖」と「俗」の交歓



ここで語られていたのは中世(というか中世→近世)におけるコミュニケーションメディアとしての異人だった。もしくは非文字社会の歴史的な口語コミュニケーション(歴史の語り伝え)、そこでの女性の役割など。


ゲマイン−中世の人メディアのことを想うと「social mediaは中世的なメディアの再顯だぁ(ワーイ)」って打ち上げたくもなるけどそこは少し慎重に。


日本のsocial mediaの場合どうしても半径○mの現実的問題が出てくる。サンスティーン的なマイメディア問題

ネットは「興味を持っているものの詳しい情報」を得ようとする場所で、旧メディアの広告のような「興味ないものに興味を持たせる」ことは難しい。それをしようとすると、まず嫌われ、コンテンツブロックに放り込まれてしまう

http://twitter.com/TERRAZI/status/2594232749

「啓蒙」しようとしても自らのスキーマの範囲から出てきて情報処理コストがかかってしまうようなものだとスルーする。あるいは仲の良い人、信頼している人(「エライ人」)からの口コミであれば見る場合もあるがほとんどはスルー。それは有限のアテンション的には現実的な対応といえる。ひとはじぶんが聞きたい情報のみ聞く → 聞きたい情報が人気を呼ぶ(もしくは「人柄」的なあいまいなアレ


そういった状況に対して「だからこそマスメディアのような玉石混交が必要なんだよ。われわれが社会の木鐸になるのだ!」みたいな公共性論も旧来から言われていたこと。しかし、現状ではプロプライエタリなジャーナリズム・マスメディアの情報空間のリアリティは現実的な生活のそれとは乖離している。

お話的には「面白くない」のだけどそれを演出(形式)によって無理やり補強し、フォーマット的おもしろさを提供している。


そこでは単に既存の「おもしろい」の型、既存のニュース(話題)や「おもしろい話」「泣ける話」の型が踏襲・消費されているだけなのだ。




使い古されたフォーマットの組み合わせと演出面でのマイナーチェンジ、それが現在のマスメディア環境の現状であり、マンガ論的に言えばキャラクター消費の現状と似ている。そこではストーリー的におもしろいものは少なくなってくる。キャラクター消費を是とする感覚もわかるけど、それだけになると「背景資料だけ売ってればいいじゃん?それマンガなの?」ってことになる。新聞やテレビも同じ


この状況はマスメディアだけではなくいわゆる「キャズムを超えたメディア」にも繰り返されていく。2ちゃんやはてブにおける使い古された観点からの儀礼的情報交換、twitterなどでもそういう傾向は見られる。床屋談義的なステレオタイプの交換。


そして、一部のレトリック(演出)のうまいひとの儀礼交換が人気を集めていく。


しかしそれはレトリックであって情報的にはそれ程新しくないものが多数だったり。情報的にあたらしくないのであまり頭を使わず情報処理できるのだろうけど


あるいは「なんかエライ人」(オピニオンリーダー)の話のコピーだったり。




けっきょくはマスメディアにせよネットにせよ「自分が感情的に好きだから」その情報を見たり・信じたりしているのか、もしくは「情報的にクリティカルだから」見たり・信じたりしているのか、というところを自覚的にコントロールすべきなのだと思う。

「情報的に価値があるもの」というのは価値観的に自分は合わない(なんかイケすかない)人が発してるクリティカルな情報、「イケすかないけどこれは重要だな」という情報だったりすることが得てしてあったり。なので、ほんとに成長したいと思うならみょーなプライドにこだわらないこと。あるいは、そのプライドは然るべき時までとっておくこと。


要は「使い分け」ということ。「すべてがソーシャルメディアになる」でもなく「すべてがジャーナリスティックであるべき」でもなく、感情共有メディアを使っていても感情共有的シーンか情報交換的シーンかというのを意識化すること。

「マスゴミもういらねー。ネットでいいじゃん」でもなくマスメディアの再生を信じること。それと並行してソーシャルメディアの可能性を探っていくこと。


その可能性というのは制度的に物語(ニュース)化されていないふつーの感覚、日常的な生活の上でのちょっとした発見や疑問、制度(世間的タテマエ)的には「まずいだろそれ?」みたいに思われがちなことの表出とゆるい話し合いを通じた止揚、あるいは日常的な生活言語の中では回収されない実存的問題もこういう場で担保されていくのかもしれない。CS放送みたいに細々と
http://bit.ly/9henep





わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書)
鈴木 謙介 電通消費者研究センター
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4 現在的な「消費」をどう見るか
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3 わたしたち消費とわざわざ名づける必要はなかった。ただの口コミです。
2 よくわからない
5 知らないところで流行は起きています






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2008年07月24日

公開性と限定公開性の間ぐらいの話

読書メモとかblogメモ的に。


公共性あるいは公開性、オープンソース的参画とシステム合理性の問題について。めどさんえっささん辺りから。めどさんのはこれ


みんなの意見で社会が滅ぶ - レジデント初期研修用資料


めどさんが言うように「みんなの意見は案外正しい」だけじゃ社会は回らないように思う。その意味では前にも言ったようにえっささんのこれとかびみょーな感じ


公開できない「暗部」のある組織はもうもたない、でもそれだけのこと - アンカテ


新聞とは報道機関ではなく権力装置であると中の人は考えているらしい - アンカテ


↑への感想メモみたいなのはこの辺

むーたん - m_um_u:この手の「新聞は権威をかさにきている(自分達が権威であり中心だと思っている)」ってのはよ...


おーざっぱにいうと「システム合理性 / コミュニケーション合理性」な問題にも似てるな、と。コミュニケーション合理性な人は「オープンに、みんなで話し合えば解決するんだよ!」とかいうけどそんなこといってもみんな意見が集まったほうがややこしくなる(敵より味方が怖い)のがプロフェッショナルな領域ということでシステム合理的に考えなきゃいけないところはあるように思う。

んでも、「しろーと黙ってろ」的に押しのけとけばいいという問題でもなくオープンネスが有効なシステムもあれば統制的なものが有効なシステムもある、って感じ。ガバナンスにおいてはその辺の条件となる要素を抽出するのがポイントなように思うけど

あと、スモールネットワーク(てかスケールフリーネットワーク)のことを思った。けっきょくいくつかの階層に分かれてその中で限定されたオープンネス(討議性)を追求していくしかないのかなぁ、と。ネットもそんな感じになってきてるし…

そいや以前もそれ系でTBしたんでしたね

muse-A-muse 2nd: ウェブ社会の民主主義:スケールフリーなネット社会に対応する設計とは?

そんでお返事としてはこの辺


一般大衆と理想の落差を感じたらそれをネタにすればいい - アンカテ


それに対する自分なりの理解はこの辺


muse-A-muse 2nd: ネットは偶有性を設計できるか?



「ウェブ社会における公共性(公共的情報)のデザインはアーキテクチャ的に可能なのではないか?」というのがこのときのひとまずの結論だった。いま考えるとこれってLivedoorニュースとかGoogleNewsとかの発展系って感じですね。現行のGoogleNewsは違うけど、特定の要素に基づいてウェブをクロールしてテーマに沿ったニュースリストを自動構築→公開する統合型情報ポータル、という点ではEpic2015的な感じがする。


Ad Innovator: EPIC 2014日本語字幕版とEPIC2015


ただ、その場合も「公共的な(公益のある)情報とは何か?」という暗黙の了解がなければアーキテクチャのデザインはできないんでしょうね。この辺も最初から「社会的に有益な情報」とかいうのを決め打ちしてしまうことの危険性なんか感じるけど。なのでその部分は決めてなくても一定の式に基づいて必要とされるもの、有益な情報がバランスよく集約されていくシステムができるといいんだけど。。


とりあえず自分的には次の本にとりかかる際の問題意識として留めておきます



ウェブ社会の思想―〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス 1084)
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3 ウェブ社会論と宿命論
2 あまりに凡庸
1 著者の向上心を期待して「あえて」厳しく・・・
4 ネット時代の「民主主義」を構想する
4 迷走することで、瞑想するウェブ社会



カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)
鈴木 謙介
講談社
売り上げランキング: 10762
おすすめ度の平均: 3.0
3 批判に晒されていますが
2 難しい言葉で書かれているが・・・
4 日常的「祭り」化する深層
1 他の方も書いていましたが・・・
5 毎日をカーニバルにしたい。



ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)
梅田 望夫
筑摩書房
売り上げランキング: 581
おすすめ度の平均: 4.5
4 ウェブ進化についての語り口はオプティミズム(楽天主義)を貫いている。
4 ビジネスの将来の一片を示唆する
5 世の中が変わる
5 ウェブのライトユーザーが読みました
1 批判精神を欠いた大人



ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書 687)
梅田 望夫
筑摩書房
売り上げランキング: 1578
おすすめ度の平均: 4.5
4 前作と比べると。。。
5 けものみち
3 『ウェブ進化論』を理解してから読みましょう
5 福沢諭吉もビル・ゲイツも同じ「もうひとつの地球」を見ていた
4 いかに生きるべきか
















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2008年03月26日

「テレビ」化するネットの傾向と対策(仮)

 朝の続きとして

 最初にこちらのエントリを見たときは「テレビ的」という言葉のさしているものがなにかよくわからなかったんだけど


テレビっ子をテレビ局が逃がしてしまうのは何故か - アンカテ(Uncategorizable Blog)


 自分なりにまとめて解釈していくうちになんとなく分かったように思う


muse-A-muse 2nd: 「分散は必然」ではなく状況に依るのではないでしょうか?


 つまり、ここでの「テレビ的」というのは「テレビ(マスメディア)的なものに情報の(分配に関する意思決定)権力が集中している」ということを表したかったのかな、と。

 だとするとついったー辺りで当初予定していた「テレビ的」ということからの連想した内容とはちょっとずれるかもしれないけど「essaさんのエントリから勝手に連想した」ということでまぁひとつ。


 んで、予告どおり「テレビ的とはなにか」ってことではこのエントリでとりあげた「純粋テレビ」って概念が関わってくるように思う。


muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム


 「純粋テレビ」というのは北田ギョーダイさんのこの本に出てた概念で、簡単に言うと「テレビ的になっていく」ってこと。「内容はなくてもテレビ的な形式をとっていれば番組が成立する(人気が出る)」って話。

形式主義的な没入を成り立たせる前提としてテレビの内部でテレビを楽しむってスタイル。ふつーならテレビはメディアとして事物(シニフィアン)を映し出すもの(シニフィエ)であるはずなのにいつの間にか映し出されるべき対象はなくなってテレビがテレビ事態をネタにしてしまっているっていう。たとえばスタジオ観覧型番組でタレントたちが視聴者と一緒にVTRを見るところをコンテンツとして放送するものなんかがそれに当たる。本来ならなんらかの「芸」を映すものがテレビであるはずなのに「芸」は存在せずテレビによる構築物であるタレントのみが残るっていう。なんだか記号の無限連鎖的なシミュラークル(あるいは差延)みたいだけど、これが「当然」とされることによってテレビの力(あるいは存在感)が無前提に許容されていく枠組みができる。そういった力をもっとも体現したものとして「天才テレビの元気が出るテレビ」なんかがあったのだろう。(突然街頭に現れて見ず知らずの人をカメラで追い回すことそのものをネタにする → 内容はなく「テレビの力」的なものを前提としそれに対する反応を笑う → 誰もテレビ的な力から逃げられない)


 この視点からすると現在はその極にあるわけだけどそれははてぶのホッテントリにも共通するように思う。

そういう意味で「テレビ(分散)的 / ネット(分散)的」という二項対立ではなく「形式と内容」(形式主義のオーバードライブ)のほうが頭に浮かんだ。


 この手のホッテントリの衆愚(あるいはワイドショー)化話は以前、essaさんに応答いただいたな


一般大衆と理想の落差を感じたらそれをネタにすればいい - アンカテ(Uncategorizable Blog)


 「内容的におもしろいものが埋没してしまうなら自分がネタにするチャンスと思え。(おもしろいネタであれば)趣向をこらせば人は見るもの」、と。まぁ確かになんかのせいにするんだったら自分がコミットしつつ状況を改善していくほうが良いとは思う。



 個人的には「形式(あるいは趣向や演出)を保ちながらそれに堕することなく内容を持続していく方法というのはネット側から出てくるのだろうか?」というところに興味あるけど内輪ネタというのはコンテンツが成熟→飽和していくと必ず出てくることだしな。ついったーなんかでくねくねしてるオレがゆっても説得力ないが

あと、ネットの場合は双方向性問題(フィードバックへの向き合い方)というのがあるか。アクセス数が増えるとシグナルに出会うチャンスも拡がるかもしれないけどノイズも増える。



 そんで「その辺はネット的な儀礼を磨いていくことで解決するしかないのではないか?」ってことになって各blogのプロトコルをできるだけ具体的に表出、交換する。ってのがこの辺のいまのところろの流れだったっけな?ギロンしたいところはギロンモードってのをあらかじめ提示、くねくねなところはくねくね目的ってのをあらかじめ提示する。てか、そゆのは空気嫁的雰囲気もあるけどまぁ置く。

 んでも間に合わないので「アーキテクチャ的にノイズ減らすか」ってのがised辺りで上がってたんだっけな?「でもそれはちょっと狭量かつ拙速ではないか」、って感じだったか?つか、アーキテクチャとしては SNSや半SNSでいちお成立してるのか。ついったーの場合は文脈分散ってのがあるしな(その分ギロンは成立しにくいけど)。あと、blogでも仲良しコミュニティというかよくエントリの応酬をする人たち(クラスタ)ってのは暗黙に築かれてるか。


 テレビ(オールドメディア)の没落関連ではついったーで @akof がこの辺を連想したとか言ってた。


結晶化した趣味の雑誌のナゾ
http://tenjin.coara.or.jp/~tomoyaz/higa0005.html#000501


雑誌が趣味の雑誌からコモデティ化を経て黄昏に向かうって話。これを見ながら仲俣さんとこのこのエントリ思い出した。いまそこにある雑誌危機について

2008-03-04 - 【海難記】 Wrecked on the Sea:雑誌に未来はない?


 出版市場売り上げ5000億円ダウン。雑誌の縮小。リアリティのないライフスタイルの押しつけかメタ視点な雑誌の氾濫状況について


  以上は雑誌の衰退期関連についてだけど雑誌の黎明期関連だとこの辺が思い浮かんだ。同人から成長していったけど内容としては趣味をつらぬいていったロッキンオンのスタイル。その魅力と弊害みたいなの 


ぼくのWeblog : ロッキンオンはいつからだめになったのか


「ネットとテレビ(既存メディア)」との関係で考えると、「趣味」ということでオルタナ性を保っているネットのコンテンツがコモデティ化していくことで内容が変化していくのかもしれない、って筋が思い浮かぶ。

もちろんお金が絡んでないので趣味ってことには変わりないんだけど承認欲求 → アクセス貨幣ってのがある。アクセスを貨幣のような交換メディアの一つのように考える考え方としては以前に @hidekih さんがなんか書いとったな。最近だと @essa さんも似たようなエントリを


HPO:個人的な意見 ココログ版: [書評]貨幣の複雑性 ecology of blogs


無料経済=お金が買える経済 - アンカテ(Uncategorizable Blog)


 ちょっと今回のテーマからははずれるので長く扱えないけどネットにおける「信頼通貨」 - 「評判経済」ということで両エントリの視点は近いように思う。そういうわけでお二人への主なTB理由はこの辺のお報せということで



  んで、ホッテントリという場がアクセス貨幣を媒介(あるいはリソース)とする市場として成立していく。ここにリアル貨幣が入ってく流れがFPN系


muse-A-muse 2nd: ABAをめぐる批評を読んでの雑感


 だからといって、「アクセス厨ほげほげ ><」とか「嫌儲 ><」とかいうのもアレかな、とは思うけど。FPN的な狙いとしてはちょっとでも対価を与えることによってbloggerのモチベーションを維持することにあるし、お金が入ることによってコンテンツに責任が生まれるってのもある。

ただ、そうなるとやはりいまあるオルタナ性(いい意味でのしろーと性のようなゆるさ)は失われるのだろうな。この辺の趣味と儲け関連では個人的には本の雑誌血風録なんか頭に浮かぶ。あの辺はけっきょくどうしたんだっけな?



 そんなこんなでいつもどおり特に結論が出るような話でもないんだけどいちおまとめると、



(1)「形式と内容」→「形式と内容は対立するものではない。パッと見振り向かれないような内容でも趣向を凝らせば人の目に留まる」

(2)「しかし形式主義のオーバードライブにも注意が必要では?」 ← 形式主義のオーバードライブさせる要因としてのお金

(3)モチベーションを喚起するメディアとしてのリアル貨幣(ビジネス)とネット上の信頼通貨の問題 → 「リアル貨幣によって継続性は生まれるかもしれないが速度はあがりいままでネットがもっていたオルタナ性が失われるかもしれない」、「ネット上に新たに創造される信頼通貨 - 評判経済によって既存の貨幣の問題点(富(リソース)のボトルネック的問題)を超えられるかもしれない」

(4)フィードバックにおけるS/N比問題 → 「ネットの慣習を磨いていくことによって対処するか、それともアーキテクチャを整えてノイズを除去するか」



 大体以上の問題が浮かび上がったように思う。いずれも今回のエントリだけでは収まりきらないような課題。そゆわけでとりあえずのマッピングにとどめる。



 あとは極めて個人的関心として、こんな感じでコミュニケーションメディアについて論じるときってどうしても演出とかエンタメを悪としてとらえてしまう面があるなぁ、と自省。それは日本のマスコミュニケーション論的な視座の影響をそのまま受けてるってことなのだろう。言外にだけどあの界隈は「マスコミ論じるときは意味のある情報 - ジャーナリズム論優先な!」ってのがあるので。なのでインターネッツやエンタメを扱う視座が生まれない。利用と満足研究なんかはエンタメ研究にも応用される可能性があったけどおそらく上記の理由で潰えた。

 もしくは効果研究的視点なんかがあるわけだけど、これも元々はメディアの効果的影響力を開発していくために予算投入されたと思われるので研究の視座を変えにくいように思う。

 以前にちょこっと触れたメディアリテラシーうんぬんについても同様


muse-A-muse 2nd: 「<批評>そのものへ」?


 メディアリテラシーの思想(あるいはパースペクティブ)的背景はカルチュラルスタディーズにおけるマルクス主義的なメディア産業批判にある。なのでメディアリテラシー教育をするときには(言外に)「メディアはこんな感じであなた方をだましてます ><」みたいな言い方がされてしまうわけだけど、アメリカ経由で出来上がった方法のみ輸入した人たちはその辺の問題点については気づいていない。本来カルスタのメディア批評というのは単なる悪口的な批判にとどまらずに対象を積極的に評価していく(あるいは作っていく)ことだったのに…。

 そゆわけであの界隈はその限界から脱することができないのだと思う。つか、「メディアリテラシーキット」とやらでとりあえずな形式(専門用語)だけ整えておけばどしろーとな人たちは満足してしまうのだろう。



 自分としてもその辺のくびきから放たれないといけないとは思うんだけど(…いやはやなんとも


 てか、「批判ばっかせずに評価する。あるいは自分で作っていく」ってのは今回の自分の姿勢にも共通するな。・・二重に反省ですな





--
関連:
むーたん:はてな村について語るときに僕達の語ること( What We Talk About When We Talk About Hatena Village..)

※はてぶとかはてな村関連についてうじゃうじゃと



muse-A-muse 2nd: 「意味から強度」? (形式と内容について(序))

muse-A-muse 2nd: 論理的思考様式と詩的思考様式 (アナログ的思考の可能性、「魂の座」ら辺)

※形式と内容関連



本当に、ブログを書いているとロクなことがない - 花見川の日記

※そういや花見子も似たような関心もっとったなぁ、ということで。この辺は読んでみようかと思う ↓


ベストセラーの構造 - 花見川の日記


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2007年12月09日

見えるもの / 見えないもの (内容ではなく人物をインストールすること)

 さっきのエントリの「中の人」繋がりで思ったんだけど「中の人のことを慮る」っていうのはいろんなことに通じるのかなぁ、って。

 たとえばバイトや仕事なんかを通じてその業界の苦労を学んで「悪意でやってるんじゃないんだ」とか反対に「あの部分が手抜きだな」とか思ったりできるようになるとか。そういうのを通じて機構(システム)の中にも人がいることを実感していくのが大人になることの過程の一つのように思うわけだけどネット上での振舞いでも同様のことがいえるかな、と。

 この辺の「モニターの向こうに人がいることを実感する」関連は以前にべにぢょさんもなんか書いてはったな。


あなたは私の妄想じゃない - べにぢょのらぶこーる


 現在のネットでは誤解が生じて過剰なつぶしあいが生じることがしばしばあるように思うのだけれど、こういう事態もモニターの向こうに人がいること、もうちょっと言えば、ネットでの言表がその人の全てではなく氷山の一角に過ぎないことを察することによって対応が変わってくるのではないかと思う。

 これ関連のことはlife外伝(@「暴走するインターネット2.0」)で鈴木謙介さんも言ってはった。ネットではエントリの内容が部分的に解釈されて自分の意図しない文脈に繋げられることがあって、そういうことを気にしてたら気疲れが生じた。それがblogをやめた理由のひとつ、と。

 注目が多い人はそういうのが多いだろうな、と思う。なんかよくわかんないけどダラダラと絡まれたりな。

 で、そういった揉め事に対して、「ネットではケンカしてるけど一回一緒に酒飲めば分かりあえると思うのよ」、っていってはった。まぁ、そんな感じだろうなぁ。ネットっつーか、文章ではどうしても出せない部分(そぎ落とされてる部分)が分かるだろうしなぁ・・。暗黙知っていうか。

 んで、「いまはネットで祭りやってる連中もいずれ卒業するのかもしれない(暴走族が「卒業」していくように)。10年後、20年後・・自分の子供がネットをやるようになったら諭す立場になってたりするのかも(そうなったときこそネットが生活に溶け込んだといえるのかもね)」、と。

 この辺、分かるのだけどちょっとびみょーかなぁ。自分的には現段階でも可能なように思う。つまり時間の問題っていうかリテラシーの問題なのかなぁ、と(まぁ、「リテラシーが育つためには時間が必要」ってのもあるけど続けると)

 冒頭にちょこっと言ったように、「モニターに表示されている内容だけで判断するのではなくモニターの向こうの人物を想像する」ということは可能なのではないかと思う。たとえばある人物のblogを継続的にみることを通じてその人物の関心の幅、思考の深度(あるいはパターン)を理解、それを通じて文章ではなくその人物そのものをインストールするということ。そういうことが可能ではないか、と。

 もちろんネットにあげられているデータなんかごく一部(形式知的なもの)なのだろうからそれをもって「その人物の全てを理解した」とするのは傲慢ではないかと思うけど、でも「個別エントリだけからではなく全体から判断すること」ってのは可能なのではないかと思う。あるいは、いまだったらついったーなんかはblogの舞台裏って感じでいままでだったら暗黙知的だった部分が見て取れるようになってると思うし・・。(ライフログ的なものって暗黙知的 ex.「あの人は最近忙しそうだったのであんなエントリしちゃったんだろうなぁ」)

 
 つか、この辺はネットリテラシーとかではなく洞察力の問題なのかなぁ・・。オレはそういうのわりと得意なほうに思うけど不得手は人もいるだろうしね。(そういや以前にお師匠のとこに入門するときに「吸収させてもらいます」っていったらビビってはったなw)


 まぁとりあえず、「エントリ個別ではなくもうちょっと全体(書いてる人)を意識してはどうか?」、って話でした。


posted by m_um_u at 12:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

ABAをめぐる批評を読んでの雑感

 この辺のエントリを見て違和感+もろもろ連想したのでいちお


「アルファブロガー・アワード2007」という内輪のイベント - Student magazine


 ABAの集まりについて。要約すれば、「内輪って感じでしたよ」、ってことなんだけどそんなの当たり前だべな。ぶくまでも何人か言ってたけど


はてなブックマーク - 「アルファブロガー・アワード2007」という内輪のイベント - Student magazine


 つか、そんなのはその会に参加する前からわかってたことなんすよ。ぼくもその辺書いたし


muse-A-muse 2nd: 今年のあるふぁるふぁ大作戦についての雑感


 ポイントは「そういう内輪感以外にどのような内容があったか?」ってことなんだけど、paulさんは最初から「内輪話」って感じで聞き流していたようでその辺がぜんぜん伝わってこない。内容がないので誹謗中傷レベルにしかなってませんね。

 少し違うけどブログ限界論のイベントで語られていた内容を見るにpaulさんが言っている批判(?)は見当違いのように思いました。以下、parsleyさんとこにまとめられていたログ


『ブログ限界論』ログ(上) -Parsleyの「添え物は添え物らしく」

『ブログ限界論』ログ(下)-Parsleyの「添え物は添え物らしく」


 ぼくも最初は、「ABA系イベント(あるいは運営者の主旨)ってお金儲け系ですか?つか、書き手のインセンティブを高めるために広告を利用しようとしているのはわかるけどそれが逆にブログの可能性を狭めていっているのではないですか?」、って感じだったのですが上記のログを見て少し考えが変わりました。

 その辺についてはついったーで吐いたものをたんぶらって置いたのですが


むーたん:イベント「ブログ限界論」のログを見た感想


 以下、セルフ引用

ブログ限界論のログをざっとだけどとりあえず全部読んだ印象メモ。ブログ人口の増加→ライトユーザー層の増加によって質の高いブログが見えなくなってきている懸念。その状況を変えるためにしぶしぶブログアワードを続けている、と(今年はやめようと思ってた)

質の高いブログを見つけ出すにはその方面の知識を持った人が発信を続けてくれる必要がある。そのモチベーション喚起のためにはお金が有効が有効なのではないか?スパムブログも増えてることだし、そんなに汚されるぐらいならわれわれが広告-blog周りを管理していきたい

こんな感じか?専門知を通訳する人たちを養成することは必要だと思ってるので同意なんだけどblogと広告とお金の関連はびみょーな気がする(ほんとにそれによってモチベーションが喚起されるのか?)あと、それ以外の理由でアワードが必要な理由(あるいはブログが限界とされる理由)がわからん

徳力さんたちの設定した「社会的影響力をもったブログ」ってのからすると「限界」(あるいは未発達)ってことなんだろうけど。それがブログの意義かというとびみょーだわなぁ。。オレはヒトサマと知識交換(共有)できればそれでいいよ

それ以外に、たとえば「いまのままブログが舐められてて、その流れを受けて各企業が撤退しちゃったら無料ブログ消えちゃってブログ文化も潰えるよ?」ってならちょっとは分かるけど、そういう話も出てなかったしなぁ。。まぁ、よくわからん(徳力さんが真剣に考えてるのは分かったけど)

つか、この界隈の人たちはついったーほか新しいメディアとの連携は考えないのだろうか?ケータイがなんちゃらゆってはったが・・あの変は毛づくろい的な消費だからあまり意味ないよなぁ。。(徳力さんも似たようなこといってたけど



てか、改めて読み返すに、徳力さん的にも「ブログの目的は知識共有」って感じなんだけどその形を続けていくためにはなんらかのバックアップが必要で「知的ハブ」・「(そのモチベーションを支えるための)広告」・「(広告が受けられるだけのインパクトを示すための)メルクマール的な事件(ex.ライブドアなど)」などが候補として考えられる、ということか。



 最後の部分はメモ的なので改めて言うと、「徳力さんもぼくと同様<blogというツール(あるいはメディア)の目的は知識共有>と思っておられるようだがblogというメディアが続いていくためにはいくつかの仕掛けが必要なのではないか?、と考えているみたい。たとえば「くだらないblogばかり」という風評が立つと無料blog存続のインセンティブが失われていく危険性があるがそういった事態を避けるために優れたblogやblogを通じた活動(ex.メルクマール的事件)を世間に知らしめる必要がある。そのためにはblogの目利き的人たち(知的ハブ)の営為が必要となるわけだが、こういった人たちがやる気をなくさないためにもなんらかの形でのバックアップが必要なのではないか?その一つとしてお金が考えられる。広告はその候補の一つ」、ということなんじゃないかと思います。

 ただ、「メルクマール的事件(社会への影響力)を知らしめることがblogの価値を高めるかも」、というところについては異論がありますが。


 ぼくは「政治・経済的なところに直に影響力を与える(直に役に立つ)」ということだけが影響力とは思っていないので。地味な知識の蓄積・共有を通じて決断の基準が少しずつ変化することこそが肝要なのではないかと思うのです。そういう地味な蓄積というのはたかが半年1年のスパンでは見えてこないのではないでしょうか?(少しそれますが教養についても同様のことと思います)

 でも、この辺はいろいろな考えやアプローチがあると思うので批判とか否定とかはしません。たとえば、「そういった営みを続けるためには仕掛けが必要なんだよ」 → 「仕掛けによってblogの良いところが削れていっているように思うんだよ」 → 「blogのよいところを続けるために仕掛けが・・」的な循環論になるのでしょうしね


 ただ、やはり賞やアルファブロガー(笑)的な部分が前景化してるきらいはあるかなぁ、と。この辺は小林さんと同意です。


「アルファブロガー」への視線 :Heartlogic

 あと、この辺も同意

ブログのインセンティブというのは金だけではないし、エンパワーメントのしかたも経済的なものだけではないわけで、ブログで新しい思考法を手に入れたとか、人脈の作り方が変わってきたとかいうようなことなんかを、アルファブロガーやその周辺の人たちが一般に向けて語っていったり、手を動かせる部分があればやっていくことが大事なんだろうなと思っている。





 とりあえず言えるのは、「paulさんはもう少し中の人のことも考えて発言したほうがいいかなぁ」、ってことでしょうかね。(ぶくま見たら反省されてたようだけど)

 ついでに言えば以前のmixiの読み逃げエントリのときも感じたんですがpaulさんは事象の捉え方が薄いように思います。「読み逃げ」文化は確かにアレげなベタネタではあるけどベタをネタとして楽しんでる人たちもいたんですよね。今回のことにしても中の人や周辺の人たちの思い(あるいはblog文化全体)のことを考えれば「内輪話」程度の雑感(あるいは決め打ち)的エントリってのはどうなのかな?、と。

 基本的にやらせ厨と同じですね。フィクションを「やらせ」って言って糾弾して終わりの人たちと同じように感じました。

 「student blog」かつ「ウザい男」ということで「ごめんなさい」ってことなのかもしれませんが、いつまでもそれが免罪符になるものでもないと思いますよ。



(「中の人への配慮」関連でつづきです→ muse-A-muse 2nd: 見えるもの / 見えないもの (内容ではなく人物をインストールすること)



--
関連:
アルファブロガーという言葉とWikipedia : tokuriki.com

※運営者側の心情として


2007年|アルファブロガーリスト|Alpha Bloggers



--
追記:

そういえばまなめさんもブログ限界論関連エントリ書いてはったなということでお報せTB的に


304 Not Modified: それをゴミにしか見えない人、宝の山に見える人


ついでに、この辺から


304 Not Modified: まなめはわるいひと

だからさ、
 ぼくだけのアルファブロガーになってよ。



これを連想しました

Twitter / m_um_u: アルファブロガーに対抗してラルハブロガーとかどうか?小...




タグ:blog
posted by m_um_u at 11:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年12月07日

公共性と世間のプロトコル相違の問題(およびアーキテクチャ設計について)

 この辺を見つつ、「そういえば公共性と世間のプロトコル相違の問題(およびアーキテクチャ設計について)のエントリまとめてなかったなぁ」、と気づいたり。


「うわべだけ規則に従って、規則違反はコッソリやるべし」という規律は、「健全な社会」にとって極めて重要である。(炎上と、<他者>のメンツを立てること) - 草日記


2007-12-05:フラット化は局所ルールを破壊する - 赤の女王とお茶を



 自分的にはこの辺でちょっと書いたことです。


muse-A-muse 2nd: 「世間」と<世間>と「公共性」の間   (ネットはネガ・エントロピーを超える.....のか?)


 要約すれば「プロトコルの違い」ってことですね。あるいは問題のレイヤの違いに気づかずに押しつけが発生しているので無駄な衝突が起こるとか・・。

 「プロトコルの違い」は詳しく言えば知識や語彙、関心などの知的リソース、あるいはコミュニケーション様式なんかも関わってくるかと思います。ここで想定しているコミュニケーション様式とはたとえばギロンモードのひととネタモードの人、あるいはゆるい話をしたい系の人とは話がかみ合わないとかそういうことです。もしくは、結論(対話の落とし処)が蓋然的に共有されていないとダラダラとしたおしゃべりになってしまって不快感を与えてしまうこともあるようですね。(「優越感ゲームですか?」って感じで)

 この辺の感覚...「この人話が合うなぁ」って感覚はリアルだったら分かってるはずなんですけどね。相手が嫌そうにしてるのも空気で分かるし。ネットだとどうしても情報量が制限されるので見えにくく衝突が起きてしまうのかな。(あと、タイムラグとかレスポンススピードの速さの問題もあるだろうけど)



 んで、


 今回の話に絡めると公共性を軸としたプロトコルと世間を軸にしたプロトコルは違うだろうなぁってことです。この辺については先行してついったーでつぶやいたんですが..


むーたん:ネットにおけるプロトコルの衝突 (「公共性」と「世間」の間)


 「社会的な正しさ」(ルール)的な公共性の規範と世間知的なルールってのは違うものですね。たとえば、交通ルール的には60km/hで走るのは悪いことなんだけどそれやってるからってとがめる人はいませんよね(警察も基本的にはスルーだったり)。ホンネとタテマエっていうか暗黙知と形式知っていうか、そんな感じです。

 だからといってなにやってもいいってわけでもなくて、世間知的なものの中で暗黙のルールが作られ共有されてるわけです。慣習法的にね。つか、もともとルールなんてものよりもこちらのほうが重要で法ってやつはそれを元にした暫定的な基準(ビーコンのようなもの)に過ぎないわけですよね。

 なので、本来なら世間のほうがルール的なものよりも敬われるべきなんだけど昨今の「正しさ」ラッシュを見ているとその辺が逆転しているように思います。

 というか、ここで用いられている「正しさ」というのは単なる道具的な旗印に過ぎないのでしょうね。最初になにかもやもやとした感情があって、それを発散させたいがためにその辺にある教科書的(教条的)な「正しさ」を借りてくる。

 そんな感じだと思います。


 ほんとに重要なのは誰かを糾弾することではなく社会がうまく回っていくためのすり合わせをすること(落とし処をみんなで考えていくこと)なのにね。そしてそういうすり合わせ(妥協)こそがほんとの意味での公共性だったり。

 その意味では現在見えているこの状況も「公共性の構造転換」といえるのかもしれませんね(生活の中での妥協の産物としての「公共性」から教条的な規範としての<公共性>への依存への転換)



 で、


 この辺の炎上関連って界隈では「サイバーカスケード」って呼ばれててネット社会を考える上での課題とされているところなんですが、その辺について触れていないようなのでアーカイブやらご紹介とかの意味も兼ねて貼っておきます。


 草さんとこのエントリへのぶくまのkanoseさんのぶこめ見てこの辺思い出したり


倫理研第2回:議事録 - ised議事録 - ised@glocom

8. 倫理研第2回: 共同討議 第2部(1) - ised議事録 - ised@glocom

9. 倫理研第2回: 共同討議 第2部(2) - ised議事録 - ised@glocom


 この回では「情報社会の『法と正義』」、「環境管理型権力の理念」などがテーマになってました。(流し読みしつつすげーてけとーに)要約すれば「サイバーカスケードを情報アーキテクチャ的に設計(抑制-コントロール)できるか?」ってことですね。んで、「環境管理型権力」ってのは「設計的思想(管理型思想)が強くなると監視 - 管理の暴力性が強くなる危険性があるのではないか?」、ってことだったと思います。つまりオーウェルの「1984」型監視社会ってやつですね。


 で、


 その辺の課題(<ネット社会はカスケードをアーキテクチャ的に設計できるか?>)の取り組みの一つとしてこの辺がある。


荻上チキ「ウェブ炎上」 | bewaad institute@kasumigaseki

 チキさんがちょっと前に出したサイバーカスケードについての本(「ウェブ炎上」)についてのbewaadさんの感想。ぼくはこの本未読なのでbewaadさんの書評も含めた周辺情報に頼るしかないんだけど、「ちょっと左寄りなんじゃ?」ってのはびみょーかなと思った。というか、「世間的に見れば左寄りって見られてるだろうから、たとえばイラク人質事件の取扱いを一番大きくとりあげたこの構成だとびみょーなんじゃない?」、ってことか。まぁ、でも新書だしなぁ。。

 びみょーだと思った理由については以下


むーたん:life「暴走するインターネット2.0」の感想メモ

 ちょっと前に文化系トークラジオ Lifeで「暴走するインターネット2.0」と題してここら辺について鈴木謙介さんたちとお話していた。学会発表とかな固い感じではなくわりとざっくばらんに、具体例なんかも交えながら。んで、自分的にメモつつwikiのまとめを期待してたんだけど・・今回は上がってないな(残念


「暴走するインターネット2.0」ラジオ実況板まとめ - 荻上式BLOG


Theme - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


 仕方がないので断片メモ程度に。

 ネットで起こった事件に対して文脈を無視してとりあえず野次馬的に接続し自分の読みたりたいように文脈を読みとりいいたいことだけいって去っていくっていう「接続の快楽」みたいなものがネットにつなぐ人々の心性としてある。それは自分にも少なからずあるところで直近のエントリなんかでそれを感じました。

 んで、そういった心性が負の感情と接続し雪だるま式に積もってネガカスケードが生じるのだろうけどそういった心性は日本独自のもの(cf.ムラ社会)かといえばそういったことでもないみたい。

 たとえばネット上の負の感情の代表例としてしばしば2ちゃんねるがあげられるけどそれが日本にしかないかといえばそうでもなく韓国(あと中国?うろ覚え)でもその手の匿名掲示板はある、と。

 で、「2ちゃんねる的なものがあっても負の感情がおきないところもあるよね」って話からそういった感情がおきる要因ってのはネットのメディア的特性だけではなく社会要因(時代背景)にも関係しているのではないか、って話に繋がっていく。具体的に言えば不況の影響でお仕事が亡くなった人が増えてその不満と時間がサイバーカスケードを支えて行ったのではないか、と。

 
 ポイントとしては、「『ウェブ炎上』ではフレームつけずに現在のネット状況をできるだけ中立的に切りとることを目標として書きました」、ってとこ。でも、こんな感じの構成になってしまったのは編集側の意向も絡んでたのかなぁとか邪推する。(タイトルからしてキャッチーだし)

 「カウンターとして集合知の良い事例あげとけばよかったじゃん」ってのもあるけどそのほかに地味にネットで暮らしている人々の様子をルポルタージュした感じの本って出ないのかなぁと思う。「すごく良いこと」とか「すごく悪いこと」なんてのはキャッチーで題材にしやすいけど物語だからなぁ。。ある程度ネット経験のある人ならわかるだろうけど、生活の一部としてのネットはそんなに事件にあふれたものでもなかったり。そういうの求める人もいるだろうけど全員がそうというわけでもない。

 なんつーか、観光地に名物を求める人とそこで暮らしている人は違うっていうか、そこのほんとの良さ(リアリティ)は観光的な視点からだけでは伝わってこないっていうか・・そんな感じ。

 良質のジャーナリズムの例としてもあるけど、ほんとにその社会(事象)の内実について触れたかったら地味な事柄を記述することを通じてリアリティを浮き上がらせたほうがいいんだよなぁ。。(って「言うは易し」だけど

 でも、そういう記述が受け入れられるようになったときこそほんとの意味でネットが生活の一部になったっていうことなんじゃないか、と思います。



 あと、関連でこの辺とか


 「バックラッシュ」についてマスコミ学会で喋ったこと。 - 荻上式BLOG


 これはチキさんが以前に学会で発表した内容のまとめ。今回のエントリに絡めれば主に後半の「サイバースペースにおけるバックラッシュ」以降参照されたし。



 だいたいこんな感じかな。とりあえずメモということで。



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追記:
kanoseさんが気にされてたisedでの白田さんの発言内容はこの辺が当たるようです。


法の完全実行 - ised@glocom

自分なりに要約すると、「コンピュータやネットワークの影響で法律が実行されるまでのゆとりがなくなりつつあるということに危機意識を感じる」、という話だったようです。「なぜそうなったら危険なのか?」というところまでは話されてなかったようですね。というか、「ネットのようなアーキテクチャの発達によって拙速な意識が育つ危険性」という話か・・「ネットによって情報共有になれた人々がクレーマーになりがち」って話にも通じるかも









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2007年11月11日

「世間」と<世間>と「公共性」の間   (ネットはネガ・エントロピーを超える.....のか?)

 予告どおり、先日の件から日本のネットにおける「公共性」と「世間」について考えてみたいと思う。というか先にかかれちゃった感はあるんだけど、


声を上げ続けること、声を言葉に換えること - 地を這う難破船


 まぁ、これも言いたいことの部分に過ぎないのでいいかなぁ、と。(ぼくの説明が分かりにくい人はリンク先の人のところに飛んで確認してくれるといいです。今回は面倒なのですっ飛ばして抽象度高めて記そうと思うので)

 今回の件で個人的に思ったのは「世間」知と「公共性」的な正しさが相容れない情況があるのかなぁ、ということ。世間知というかこの世間も2つに分かれるように思うわけだけど。とりあえず「公共性」、<世間>、「世間」としておく。公共性は市民社会的な属性とリンク。

 リンク先の文章でとりあえげられていた世間は<世間>とする。つまり<世間>に対する一般的なイメージとしての「空気嫁」的な同調圧力的な世間。んでリンク先の文章では、彼の文章の周辺に「世間」的なものが発生しそれにたいして彼女がプレッシャーを感じたのでは?、ということが主題となっている。で、「<世間>的な圧力ってどうなの?」、って話になってるわけだけど逆に彼女の文章の周辺にも「世間」的なものが発生していてそれが彼女をバックアップしているところもあるだろう。あるいはそういったものが最初のエントリを書いた彼に対するプレッシャーとなったという面も否定できないのではないか?(おおよそは彼女の悲鳴に対して(彼なりに)誠実に対応したということなのだろうけど) ここで言う「世間」は<世間>とは違ってある集団(クラスタ)に暫時的(あるいは継時的)に発生する「空気嫁」感であり、そのルールを中心として形成される連帯関係みたいなのを指す。

 で、そういった「世間」というのはしばしば「社会的な正しさ」とか「公共的なルール」とは違った形でのリアリティというかエゴの表出を志向する。そういうものはリアルな社会においては「空気嫁」的に規制されているので地下にもぐり暗黙知的に共有されているがネットではそれが噴出してくる。この辺が「ネットは凶暴」などといわれる理由なのだろうけどそれ自体は否定されるものではないだろう。むしろ暗黙で見えていなかった「ホンネ」的な部分が表出されことで観察の対象にできるのはぼくとしてはありがたい。ただ、そこで表れた「ホンネ」的な部分が単なるグチの集まりに終始していては意味がないように思うが。それが個々人のリアリティならばそのリアリティ(エゴ)を実現するために知恵を分け合ったほうが健全だと思うし、ただのグチに終わってもどうなの?って気はする。(「それ自体がカタルシス」って見方もあるのだろうけど)

 対して件の彼の文章は(たんぶらにもまとめたように)最初から公共的なものを志向していた。で、公共的なルールになじみがある人には受け入れられていったのだろうけど「タテマエなんかなんのリアリティもないんだよ」っていうホンネマンセーな人たち(おそらく偽善も嫌い)からはイケ好かないものとして見られたのだろう。というより、言葉にならないザワザワとした苛立ちがまずあり、その気持ちがはっきりとつかめなかったので既存の議論の型を採用したのだと思う。もちろんそこでつづられていた心の痛みや経験は本当のことなのだろうけど、それを正当化するための論理に既存の議論の型(正しさの型)を採用しているためにドツボにはまっている。多くの人が言っているように「痛み」は本当のことなのだからそこに終始していればよかったのに。

 どちらが正しいというわけではなく単純にプロトコル(採用されている価値観)の相違の問題だったのだからその辺で納得していればよかったように思うのだが。要するに「住む世界が違う」って話だ。こういう言い方をすると語弊があるか。しかし、リアルな社会生活ではその辺のことを意識して振舞っているところはあるように思う。「住む世界の違い」というのは財産とかそういうものではなく生活環境や生育環境の違いから形成される思考やボキャブラリーの違い、要するにプロトコルの違いってことなんだけど。ネットの場合はそういった雰囲気が伝わりづらいからなぁ・・。

 そんで、そういった「違い」を架橋するために言葉というツール(インターフェース)があるわけだけど、この部分が共有されたとしても非明示的な価値観というか、リズムというかそういう違いがある。というよりそういう違いがあること、「分かり合えないだろうこと(他者性)」を前提としてコミュニケーションに望みある程度言いたいことが伝わるからこそ素晴らしいのだが・・。ネットにおける紛争の多くはその辺を自覚していないということだろうか。(って、自分も含むか)


 翻って、ネガコメ「世間」知は知的リソースがないために自分の意見を補強する「正しさ」に依存する、という部分から少し前のアルファへの依拠的課題が浮かび上がったり。


muse-A-muse 2nd: 「ネットはカスケードを超える」・・のか?


 ここでも「正しさ」への傾斜が危惧されていた。てか、ネットで見かける簡単な正しさ(アルファなもの)の言説の中で自分が理解できる部分を切りとって採用する問題。つまり対象を理解しているわけではなく自分の考えの後ろ盾を得るために切り貼りしているに過ぎないってこと。そして、しばしばアルファな場というのは専門領域とは違った話をしていることがあって、その辺の「正しいんですか、それ?」的な知識が共有されていくっていう問題。専門知ではないため一般の人も理解しやすいのだろうけど、居酒屋談義みたいなものだったりなぁ、と。

 というか、「自分の専門的なフィールドしか語るな」と言いたいわけではないし「専門知を学べ」ってわけでもない。ただ、もうちょっと自分で考えたほうがいいんじゃない?、とは思う。概念とか言葉的に足りない部分は他人から借りてもいいけど、自分の軸となる部分を設定してその部分を補強するために使うとか。そういう感じで。(.....なんかこの辺の記述びみょーだな。まぁ、簡単なコピペ主義には違和感ってことです)

 そんでまぁ、アルファなものに対してぼくも違和感出して


muse-A-muse 2nd: 今年のあるふぁるふぁ大作戦についての雑感


 「アルファブロガーアワードってDan=Rather的な検証能力をもった場としてblog育てるためのものじゃなかったの?」って思ったわけだけどどうやら違ってたようですね。


切込隊長BLOG(ブログ): 私は「アルファブロガー」という考え方は終わっていると思います


 「アルファブロガーっての元々なんでもできる百貨店的なものが想定されていて徳力産な商売くさいものだよ」、と。目標としてはこの辺ですかね。


メディア・パブ: 勢いづくブログ集団のFM,今年は5000万ドルの売上を目指す

メディア・パブ: 米国のブロガーって,かなり稼いでいるそうな


 対して隊長的には、「もう専門的なところに分派してきてるから百貨店目指しても意味ねぇべ?」、と。まぁ、確かに3年前よりはおもろくなった印象があります。その意味でこの辺とか意味わかんない。


『ブログ限界論』GIGAZINEx佐々木俊尚x徳力基彦 2007年11月23日(金)14:00-16:30@UDXカンファレンス


 つか、彼らの目指す「お金ブログ」の限界ってことだと思うけど一番の見所は「どう考えても現行のアルファブロガー基準を満たしている戯画の人 vs. 徳力産」のデスマッチなところですかね。戯画の人が、「FM目指すなら英語っすよ!これからは英語(翻訳)ブログの時代」って発言。対してたぶちくん佐々木さんが「ブログはジャーナリズム的なものとか専門知(あるいは増田的リアリティ)を目指すものだからして......(戯画の人はダメだよ)」的空気読めてない発言をして徳力産がそれに乗っかっていく、と。

 まぁ、ある意味おもしろそうだなぁと思います。


 つか、専門知やジャーナリスティックなblogはいいとしてリアリティが表出されているblogってあるのかなぁ・・。ネガコメな人たちはある意味そうなのかもしれないけど、リアリティ(エゴ)が表出されているだけではジャーナリズム的なものとはいえないので。ジャーナリズム的なものは「世間」知を「公共性」に変換して政治」経済的なシステムに繋ぐものとして想定しています。(あるいはその逆)

 いや、公共っていうと変かな。本エントリ前半で出てきた「タテマエ」的な公共性ではなくて、「世間」的なリアリティを出発点としつつそれを社会全体にも共有できるような言葉に置き換える。あるいは社会との妥協点を模索するもの。そういうものがジャーナリズムだと思っています。

 そういう意味では...........どうなんだろ? (アクセスを指標としたものではない)アルファな人たちが専門知的な知識(あるいは言葉や概念、思考の型)を元に一般社会について触れるのなんかはジャーナリスティックといえるのかもしれませんね。でも、それはしばしば間違っていることもあるのでフィードバックを受け入れて適時修正していってほしいと思うけど。



 そんなことをぼけーっと思いました



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追記:
なんか書き忘れた感があったのでいちお。ここの設定で問題なのは当事者の周りに「世間」的な外野ができ、その人たちが無責任にはやし立てるという問題です。

エントリ中でも触れたようにそういう人たちの中には問題の恣意的誘導に容易に引っかかってしまう人がしばしば居て、その人たちによって問題がデフォルメ、あるいは矮小化されていきます。彼らの消費しやすいようにスポイルされるんですね。結果として既存の物語(あるいは言説の型)が付与される。

当事者の中にはこの設定に乗ってしまう人もいるでしょう。そして本当の自分の問題(訴えたかったこと)を見失っていく。あるいは、そのようにして外野から与えられた武器を使うことによってその場限りの勝ちのようなものを得ることはできるかもしれません。しかし長期的に見てそれが本当に自身にとって利益となることなのか....? (そして、「他人への影響」ということをいうのならばそうやって無責任に他人の人生を斜め読み消費することの道義性はどうなのか?)


そういうことを思うわけです。(コミットしてしまった自分も含めてね)


もっともこの文章も消費されているのでしょうから彼らには届かないでしょうが・・。とりあえずひとつ前のエントリでぼくが怒っているように見えた人がいるとしたらその理由はこういうことであり、対象とされるのはそういった形で無責任に人の人生を消費する外野の人たちです。

posted by m_um_u at 16:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年10月24日

初音ミクってなんであんなに人気になったんでしょうね?(メディア論 + 経営学的考察(仮)

 初音ミクについて。ついったーしててもよく話題に出てくるので自分的にはデータ溜まってないしやったことないのでなんともって思ってたのですが、「blogだから人に聞いちゃえばいいや」、って感じでエントリあげてみます。なので以下は論考というよりは「オレの見たい初音ミク論」のための依頼エントリのようなものです。(※いつもながら長いので、各氏への依頼(質問)内容については後ろのほうで要約してありますのでお急ぎの場合はそちらからお読みください)

 んで、依頼に当たって、いちお初音ミクというものがどういうものかということについて簡単に(これも人様のエントリからパクらせていただきます)


「初音ミク」(合成人声ソフト)のルーツを訪ねて - POP2*0(ポップにーてんぜろ)

 「初音ミク」をご存じない方に説明しておくと、テキストを入力してメロディーを指定すると、あらかじめインプットされた人間の発声フォルマントに基づき合成人声が歌を歌う、プラグインというかシーケンスソフトのこと。


 んで、使用というか視聴に当たっての感想(どのようなところが受けているかについて)はnogaminさんのこの辺の説明がわかりやすいなぁ、と。(「おすすめ初音ミク動画リスト」もついてるし)


断片部 - nogaminの断片 - 初音ミクに期待すること

 まず通常の音楽好きが気になるのは、この萌え声なんじゃないだろうか。これが、好みのジャンルや楽曲とは合わない場合、楽しみようがない(例えばjazzとこの声質は合わない気がする)。また、技術が優れているといえ、人間の声に比べれば不完全な部分が目立つ。現在のユーザーで初音ミクを楽しんでいる人は、萌え声はとりあえず受け入れていて、さらにその不完全さ(伸びしろに対する期待)も含めて楽しんでいる人びとだろう。また、未熟なところがなおかわいいという態度もありうる(全体を通して育成というエッセンスがあることだし)。

 そうした、<(完成度を問わず?)コンテンツから自分なりの楽しみを引き出す>という積極的な消費の姿勢が求められることがいくらかの人にとってハードルとなっている可能性はありそうだし、その姿勢が自然に備わっている消費者という条件と、萌え文化というかオタク文脈というのはやはり関連がありそうだと感じる。



 不完全性(欠如)という点では以前に人形考で考察したことにも関係しますね。


muse-A-muse 2nd: 人形考 (欠落と神聖)


 長いので要約すると、人形は人間にはなりきれないもの、あるいは「不完全な人間」という欠落を抱えたメディアなわけですが「欠落」を抱えているからこそ魅力が生じ、それに惹きつけられて人形で遊んでいるうちにそこに不思議な力が宿る、って話です。

 通常の使用においては穢れを吸収する道具として人形は使用されるようです。「穢れ」っていうか無意識的なところに溜まっているストレスといってもいいかも。あるいはシステムからはみでる多様性のようなもの。そういうものを人形に託して身体から外に放り出す。

 もうちょっと進んだ段階としては「欠落×欠落」な段階に入って人形メディアを通じて変換した「穢れ」(多様性)を再吸収するみたいですね。この辺の認知過程についてもうちょっと詳しく調べていくと面白そうなんだけど参照先のテクストの抽象度が高くてよくわかりませんね。(我ながらw)


 さておき、人形というのはこんな感じで「自分の中にある多様性(システムとして統合できないもやもやしたもの)」を吐き出たり、あるいは再変換して吸収するためのメディアのようです。翻って初音ミクはどうなのか、と。

 初音ミクにおける「萌え声」というのはリアル声(完全)からは程遠い未完全なものでしょうね。すなわち「欠如」ということになる。では、初音ミクの一般使用が上述したような「穢れ(多様性)」排出メディアとしての機構をもっているかというと.....なんかびみょーっすね。一般に初音ミク使ってる人たちってそういうつもりで使っているわけでもないでしょうしね。ここにおける欠落の魅力というのは「なんかコケティッシュな魅力」って感じの魅力でしょうね。

 とはいっても、初音ミクにどっぷりハマッた人の中にはそこに何らかの神聖性を見出しているのかもしれませんが。


 ところで、ここで「リアル」って単語が出てきたんですけどそもそも「リアル」ってなんなんでしょうね? これはゲーマーな人なら必ず一度は考えたことがあることだと思うけどゲーム雑誌なんかでちりばめられていた「リアル」って表現。あれってなんだったんでしょうね?

 端的に言えば、あの頃使われていた「リアル」って表現は「高精細度」とイコールだったように思うんですが、では高精細でいろんな色が使えるようになればそれがすなわち対象の本質をあらわしていることになるのか、と。この辺の話は絵画(あるいはゲージツ)の歴史なんかでも出てくる話ですね。「写実であればリアルなのか?」「われわれが見ている本質とはなんなのか?」って話。

 んで、「われわれが見ている(感じている)色や音はもっとこんな感じでこーんな感じなんじゃないかぁ?」ってことで印象派とか抽象画、キュビズムみたいな世界が拓けていったわけですよね。この辺の話はちょっと前の濱野さんのこのエントリにも共通するものと思います。


WIRED VISION / 濱野智史の「情報環境研究ノート」 / 第17回 「マリオカート」と「ニコニコ動画」の共通点

 マリオカートの開発において「よりリアルな感覚(主観的な感覚)を再現するためにあえてドリフト中にスピードが出るようにした」という話から外挿して

「情報環境=アーキテクチャ」の可能性の一つは、こうした「客観的には×××だが、主観的に見れば×××」といった《錯覚》を実現する点に認められます。


 と論を展開しておられる。そしてニコニコ動画の擬似同期性(リアルタイムの書き込みではないのに、書き込みに対して共時性のようなものを感じさせる性質)もその一環なのではないか、と。そして他のソーシャルウェアもこのような「錯覚」のおもしろみを再現することによって発展していくのではないか、と結んでおられる。

 この考察に共感します。というのも上述してきたようにゲームというのはartの一種的なところがあるんですね。interactive artってやつです。そしてネットを始めとする生活者レベルでのUIというのはそういう感覚を取り入れたほうが発展しやすい。この辺の歴史はappleのハイパーカードがうんぬんとかで話が長くなるのでしょうから置くとしてw そんな感じでsocial mediaのUIというかメディア体験においてはこういう感覚の再現が肝要になってくるように思うわけです。

 で、ここで濱野さんに質問なんですが、上記のような視点から見て今回の初音ミク現象というのはどのように見えるかお聞きしたいなと思いまして。できればそれでエントリ書いて欲しいんですけど、特になければスルーでもけっこうです。


 んで、次の疑問として「初音ミクなんでこんなに受けちゃったんだろね?」ってのがあります。こちらは福耳さんに尋いてみたいです。

 というのも、こちらのエントリにもあるように

「初音ミク」(合成人声ソフト)のルーツを訪ねて - POP2*0(ポップにーてんぜろ)

タレントの初音ミクさんが失踪─「キモオタに疲れた」とこぼす : bogusnews


 VOCALOIDの歴史というのはけっこう古いもののようなんですね。でも、初音ミクは最近になって受けた。この辺の理由が知りたいな、と。

 勝手に推察するに、「プロモーション(広告展開)」、「キャラクターや萌え声などデザイン面での特徴」、「操作の簡易性」、などなのかなぁ、と。つっても広告展開とか操作内容については知らないのでなんとも言えないんですけどね(何も調べずに勝手に想像するに操作性は着メロ作るようなものなのかなぁ、とか思ってます)

 ...って、考察素材が少ないので質問にも答えにくいかもしれませんがその場合はできる範囲でお願いできたら幸いです。



 あと、これとは別に初音ミク動画職人のクリエイティビティについてアイマス動画職人のクリエイティビティと絡めて花見川さんに聞いてみたいけどちょっと長くなったのでこの辺で。

 ....つか、言っちゃったついでだからいちおちょこっとだけ書いとくと、一部の人からするとアイマス職人って「職人」ってはやして立てるほどのものか?、って感覚があるみたいなんですね。たぶんそういうのは「アイマス動画で使われている曲製作におけるクリエイティビティに比べれば動画職人のクリエイティビティなんてしょせんアマチュアレベル」ってことなんだろうけど、個人的にはそういうことでもないように思うんです。

 ぼくはアイマス動画の製作過程について知らないのでどういう制限のもとにどういう努力をしたかというのはほんとに部外者の類推の域を出ないんですがいちお推察するに、「アイドルマスター」というゲームの中で動きのパターンは制限されていて、曲かなんか指定しても欲しい動き(角度)が出るかどうかはランダムなんじゃないかと思います。そういう制限の中で、動画職人があらかじめ設定した絵コンテみたいなのにしたがって欲しい画(場面)を採集していきそれをつなぎ合わせていく。その上で自らの職人魂に基づいてさまざまなエフェクトをかけ、より自分の理想に近い形で動画を完成させていく..こういう過程があるのではないかと思うわけです。

 つまり、一部の人からすると「ゲームに曲入力して動画キャプってチョロっとエフェクトかけてアップしてるだけじゃね?」って認識があるかもしれないけど実際のところは切り絵みたいな感じで動画を仕上げていっているのがアイマス動画ってジャンルではないかと思うんですが......どうなんでしょうね? (そういうわけで花見川さんにもTB送っとこう)

最近の初音ミク批判について思うこと - 花見川の日記



 では、そんなこんなで (関係諸氏、よろしくお願いします m(_ _)m)



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関連:
元気系からバラードまで初音ミクオリジナル新作6曲 :にゅーあきばどっとこむ

初音ミクオリジナル曲「あなたの歌姫」が大人気! :にゅーあきばどっとこむ

※初音ミクのサンプル曲として



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追記:
花見川さんから反応いただいたので追記です。

初音ミクが流行った理由などあれこれ - 花見川の日記

全体の論旨としては、この辺に尽きるかなぁ、と

いきなり結論付けてしまうと、初音ミク以前の歌を歌うツール、例えば”くまうた”とか"PC-6601"とかはあくまで”ツール”であってそれ以上のモノではない。「じゃあ初音ミクは何なのか?」と問われると、一代前のVOCALOIDであるMEIKOが「シンガー(歌い手)」とすれば、VOCALOID2である初音ミクは「アイドル」とか「アーティスト」と言える存在なんですよ。”専門的”というよりも”総合的”な存在なんです。*1

一連の初音ミク論を見ていると、「初音ミクは音楽ツールとして有効であるかどうか?」という部分ばかりが焦点になっていて、それだと一昔前に「アイドル」や「アーティスト」が「歌い手(シンガー)としてはどうなのか?」という部分にのみ焦点が当てられて批判されてたのとあまり変わらなくて、アイドルの個々のファンが持つ「異性としての理想(≒偶像)」としての意味合いとか、アーティストが行うパフォーマンスやファッションなどの「歌」以外の部分の意味合いが注目されていない所がある。


「歌手ではなくアイドル」という喩えは分かりやすいですね。速水さんところにあった「中島美嘉はアーティストではなくアイドル」なエントリを思い出しました。

【A面】犬にかぶらせろ!: ZARDこと坂井泉水こと蒲池幸子さんのこと


あと、「欠落」関連でこの辺とか

【A面】犬にかぶらせろ!: 浜崎あゆみとレタッチされるアイドルの時代

いまどき、顔がきれいで歌がうまいなんていう単純なキャラ付けではCDは売れないのだろう。どちらもデジタル補正で作れてしまうということが証明されたから(前者はあゆが、後者は誰が代表だろう?)。一方、アンバランス歌やファニーな顔こそ真のオリジナリティになり得る。その辺が、倖田來未、大塚あい、木村カエラといった正直顔は$#fいr*hふぁ%ぃpな歌い手が受ける土壌になっている気がする。



そういえば花見川さんの言う「専門性よりも総合性」というのはいろんなところでみられる現象(需要)のように思います。たとえばぼくはラーメンズのよさがいまだによくわかんないんですが、あの人たちの受け入れられ方もちょっと似たところがあるのかもしれない。(「メディアミックス的な売り方ができる(いろんな角度から楽しめるところに初音ミクの魅力がある)」ということとは少し違うだろうけど)

ぼんやりと「速度」ってことなのかなぁとか思ってます。(あるいは文脈の違い)


あと個人的に、やはりアイドル論と共通するところがあるのかなぁということでこの辺を読まねば..

女性アイドル論で、文化的、社会的、歴史的にするどく考察してあるページもしくは、論文、書籍を探しています。基本的には、書籍でいいのを探していますので、できるだけ書.. - 人力検索はてな

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2007年10月20日

「ネットはカスケードを超える」・・のか?

けっこうめんどくさい問題(かつ専門領域)なのでスルーしようかと思ってたんだけどtwitterで書いちゃったのでいちお補足的に。
きっかけはこの辺


切込隊長BLOG(ブログ): 日本社会はフルボッコ先を求めている

切込隊長BLOG(ブログ): 続・日本社会はフルボッコ先を求めている


それについての感想ログはtumblrにまとめときました。(他人様の関連感想も合わせて)


むーたん:Twitter / m_um_u:ユーザーは自由から逃走する?(メディア利用における意思決定の従属化に関して) (仮)

むーたん:Twitter:フルボッコ先を求める日本社会とマスメディアの影響力(ネットはリテラシーを強化するのか?) (仮)


順を追って説明すると、まず最初に切込隊長のとこで、「最近、のマスコミを中心としたフルボッコ衝動はどうなの?」、ってエントリが上がったんですね。ポイントとしてはこの辺だけど


一番大事だった安倍首相の政権放り投げ→テロ特措法延長問題とか完全に国民の目から逸らされて、国民生活の改善には何ら寄与しない亀田一家叩きとかに国民総出で熱中するというのもなんか凄いな。本当に叩くなら、公共の電波に現役の暴力団幹部の皆さんがバッチリ映ってたときにやらないと。


 情報を消費する対象としての悪役、ヒールなんだとするならば、何か問題が起きるたびに不信感をうまく湧き起こさせて、結局誰が悪いのか決め打ちしてくプロセスが働きすぎてる気がする。柏崎原発のときの東京電力がいかにマスコミ攻勢に晒されて無用な原発批判を呼び起こしてしまったかとかの特集が組まれるほどに。



 もそっと詳しく勝手に内容を読み取るマンして言うと、内容について詳しく吟味されることなくその時点で沸き起こっていた"叩きたい”という欲動にしたがって叩く構図ができあがっている。んで、結果として重要案件からは目をそらされることになる、ということ。でも、それが与党や一部の権力者による誘導とするのは陰謀論すぎるでしょうね(隊長はそこまで言ってないけど陰謀論系の人はそういう路線で思考を組み立てたがる)

 ぼくのその後の感想、批判理論@(アドルノ+ホルクハイマー辺り)、もしくは批判理論A(ハーバーマス辺り)の影響を受けたメディアリテラシー第一期の流れがこういう路線をとることはよくあるなぁ、と。彼らの思考様式というのは、「これは権力をもったビッグブラザーによる陰謀だ!」って感じなんだけど社会人してる人なら分かるだろうけど世の中そんなに単純なものでもないからなぁ。。ここで言う「陰謀」ってのがもしあった場合、誰かの依頼を受けて世論誘導しているマスコミ(マスメディアに勤める人、あるいはその活動)も敵ってことになるんだろうけど、よしんばなんらかの誘導的報道になることがあったとしてもそれは彼らの能力や技術、知識が未熟であり業務内容に怠慢があるため結果として未熟な成果物を出しているに過ぎない。ステロタイプ的な話に乗ったほうがコンテンツ作りやすいので、「大衆が求めるもの」を作ってるに過ぎない、ってやつ。

 んで次のエントリについて。こっちはちょっと長いので要約だけで済ますと、alternative mediaとして期待されたネットの自浄作用が機能せず、opinion leader的な一部のハブの言説が無批判に信じられている情況がある、と。んで、そんな感じで積み上がっていった既成概念やストレスがある時点で決壊する。(それがサイバーカスケード) ・・サンスティーンかな


サイバーカスケード - Wikipedia

インターネットには、同じ考えや感想を持つ者同士を結びつけることをきわめて簡易にする特徴がある。つまり人々は、インターネット上の記事や掲示板等を通じて、特定のニュースや論点に関する考えや、特定の人物・作品等に関する反発や賛美等の感想を同じくする者を発見することができるようになる。加えて、インターネットは不特定多数の人々が同時的にコミュニケートすることを可能にする媒体でもあるので、きわめて短期間かつ大規模に、同様の意見・感想を持つ者同士が結びつけられることになる。その一方で、同種の人々ばかり集結する場所においては、異質な者を排除する傾向を持ちやすく、それぞれの場所は排他的な傾向を持つようになる。

そうした環境の下では、議論はしばしばもともとの主義主張から極端に純化・先鋭化した方向に流れ、偏向した方向に意見が集約される。そして、斯様な場所では、自分たちと反対側の立場を無視・排除する傾向が強化され、極端な意見が幅を効かせるようになりやすい。そして、小さな流れも集まれば石橋をも押し流す暴流となる道理で、ささやかな悪意や偏向の集結がえてして看過し得ぬ事態を招来してしまうことになってしまう。こうしてインターネットは、極端化し閉鎖化してしまったグループ(「エンクレーブ enclave(「飛び地」の意)」と呼ばれる)が無数に散らばり、相互に不干渉あるいは誹謗中傷を繰り返す、きわめて流動的で不安定な状態となってしまう可能性がある。サイバーカスケードとは、こうした一連の現象に与えられた比喩的な呼称である。


 要約すれば、massなものを避けタコツボ的にpersonalized mediaの使用だけに頼るようになることによって偏狭な精神・認知が涵養されていく、ってこと。こうやってまとめると従来の効果論にある涵養理論の亜流ともいえる。

 んで、まぁ、この辺の感想をもったわけだけど


むーたん:Twitter / m_um_u:ユーザーは自由から逃走する?(メディア利用における意思決定の従属化に関して) (仮)

むーたん:Twitter:フルボッコ先を求める日本社会とマスメディアの影響力(ネットはリテラシーを強化するのか?) (仮)


 この辺けっこうむずいのでおーざっぱに言っちゃうけど、最初の感想はマスコミュニケーションの(蓋然的)送り手も受け手も議題設定に巻き込まれてるね、って話。議題設定仮説についてはあとで説明リンクしとくけどおーざっぱに言えば「議題の回答については個々人の選択の余地があっても、その議題に関心をもってしまっている時点でなんらかの影響を受けてる(認識を囚われてる(hacked))」って話。マスコミも視聴者も亀田事件の是非についてはいろいろな意見があるだろうけど、その話題に関心をもってしまってる時点で囚われだね、と。

 んで、次の感想的には隊長のエントリの「ネットの情報ってそれほどリテラシーに寄与してないね(内田センセの専門領域じゃない話とか信じてる人いるし)」な話を受けて、情報(コミュニケーション)の二段階効果説的に、人は「正しい情報」ってよりもオピニオンリーダーの言うことの影響を受けやすいからなぁ、ってのを思い出した。クチコミなんか思い浮かべてもらえば分かるだろうけど、情報処理能力や情報へのアクセスが低い人というのはけっきょく身近な人の意見を聞いて納得するのよね。それは商品の購入においてもそうだし投票などの政治的選択にしてもそう。つか、情報の処理能力うんぬんに関わらずわれわれにはそういう傾向がある。そのほうが情報処理速くなるしね。特に現在のようにたくさんの情報に囲まれていたらひとつひとつの情報を精査してる暇なんかないもの。それはそれで仕方ないことなのかなぁ、とも思う。

 でも、それって認識を他人に預けてるってことでけっこうキケンなことなんだけど‥まぁ、「実生活でキケンのない範囲の判断を預けてるだけ」ってことなんだろうなぁ。それでそういう領域の情報については文脈も確かめずにフルボッコ(消費)する、と。

 で、その後のお話の流れ的には、「リテラシーの低い層と高い層で違いがあるのではないか?」とか「最近は文脈読まないで"正しさ”フルボッコする人たちが増えてるね」って話が出てきた。

 前者についてはS.ホールの「encoding / decoding」モデルを借りて階層分け、その際に選択されるコードやメディアの種類を分け分析することが可能ではないかと思う。その際、ハブ的な影響力を持つ人なんかはひとつのメディア的影響力を持つだろうなぁ、とかちょっと思う。

 後者についてはむずいな。これはマスコミュニケーション論の話ではなく社会学系の話になるので。従来のマスコミュニケーション論なら、<そういう「正しさによるいぢめ」傾向が生まれたのもマスメディアの扇動の影響だ!>、みたいな論調になるかもしれないけど、メディアの影響ってのは社会的に見ればそんなに大きなものではないからな。つか、inputのひとつであることには間違いないんだけど、メディアがすべてを決めてるみたいな決定論に陥るのはまずいように思う。

 すげーおーざっぱな印象だけどこのような現象に対する分析視角としての有効性はマスコミュニケーション論(3〜4割)、社会学その他(6割)って感じじゃないか? 後者には日本独特な「空気」問題も絡むだろうしな。


・・そういうわけでこういう問題は複雑なんすよ。一部の人からは「簡単に説明しなきゃバカぁ」とか言われるんだろうけどね







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関連:
マス・メディアの影響

※マスコミュニケーション効果研究における代表的な理論(仮説)の紹介。わかりやすくまとまっている


「バックラッシュ」についてマスコミ学会で喋ったこと。 - 荻上式BLOG

※チキどんはその辺のカスケード問題に対してネットリテラシー(+ コミュニケーション)の向上の可能性を見てるみたいだけど....むずいよなぁ。。(つってもコミュニケーション系の方向性としてはそれが妥当なんだろうけど)

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2007年09月25日

居酒屋としてのついったー (文芸的公共圏から生活的公共圏へ)

 もいっこついでに。こちらから


居酒屋としてのついったー(仮)


 ↑もついったーでへにょへにょーとつぶやいたことのログです。内容としては、「ブログは文芸的公共圏(public sphere)の復活としてとらえられ、その期待からblogosphereなんて名称がコミュニティに対してつけられたりもしたけど、ついったーの場合はカフェの文芸・社会批評談義ってよりは居酒屋的だよね」、って話っす。

 どういうことかというと、ブログ的なコミュニケーションのやり取りというのはコメント欄やTB、あるいはSBMを通じて当該エントリ的を絞った賛否が飛んでくるけど、ついったーの場合はそういうのとは違って他人様の会話がpostに影響を与えるね、ってことです。

 イメージとしてはカフェ的blogosphreなやりとりが一つのテーブルを囲んでギロンしている感じなのに対して、居酒屋の話は隣のテーブルの話が聞えてきたので(その会話には直接参加しないんだけど)それ系テーマで好きなことくっちゃべる、って感じ。

 twitterの場合は登録したfriendのpostが自分のタイムラインに勝手に表示されてくるので、なんか書いてるうちになんとなく影響受けるんですね。たとえそのpostを無視するにしてもその「無視する」という選択自体が一つの意思表明になるし、あるいは「他人様のpostを見て次に自分がpostしようと思っていた内容を控えるということ」もあったり。

 あと、喧騒が多いのも居酒屋っぽいですね。ごちゃごちゃといろんなテーブルからいろんな会話が聞えてくる。あと、ブログよりも気楽なのかすげーてきとーなpostが飛び交ってたりね(それこそ「酔っ払いか?」って感じの)。そういうのも居酒屋って雰囲気ですね。

 その関連のことはこちらにも書いてありました。

finalventの日記 - つまり速度の問題か

ちょっと考えると、普通の会話って言うのは、速度がマシンより上がるかのように見えるけど、リアル会話っていうのは、基本的に、A氏くっちゃべる、B氏聞く、でないと成立しないわけで、A氏くっちゃべるがB氏もくっちゃべるというのは、ありというか大蟻食いだけど(オヤジかまし)、聞くがない部分でスレショルドで流れているわけで、余計なビタミンB取っても、シッコに出るだけ的になる。

 で、コミュ速度っていうのは、いわゆるリアル速度じゃなくて、クロスレファレンス的なものかも。

 つうところで、書籍というか、エクリチュールっていうのもデリダ的なパズルはさておき、実際には、時間と記憶を交差したクロスリファレンスにはなっている。


 一個前のエントリでも出てきた「速度によって蓋然性を越える」ってやつですね。この辺は「ニューロマンサー」(W.ギブスン)でも言ってた課題ですな。

 あと、そういう一見ポルノグラフィックとも思えるような簡易なpostの応酬ってのは「動物か!」とか言われるのかもしれないけどそれもちょっと違うだろう、と。

 その辺のところについては小野(lalha)さんが参加されたパネルディスカッションでも問題になったみたいなんだけど、予想通り件の人は「動物か!」ってツッコミだけで特に変わりなかったみたいです。


Twitter / lalha:パネルディスカッション「仮想世界はIT時代閉塞の現状を打破できるか?」(つか、ついったー交信ディスカッション参加)


 つか、上記ログ的にはマラ(bulkneets)さんが小野さんに吹っかけていった話題のほうがよっぽどおもしろかったわけだけど、その辺のところは特に討議されなかったようですね。


「数が増やせるから、今まで表に出れなかった人とコミュニケーション取れるようになる」

 ってことですよね。これはブログの意義でもあるし、twitterの場合はもうちょっと薄い感じかな。一個前で言ったような感じで一つ一つのpostはblogよりも薄くなりがちなんだけど、その薄さっていうか無意識さの中に真実が見える、って側面もあるように思います。あるいはそこから垣間見える生活の呼吸のリアリティのようなものにこそ真実があるというか、あるテーマに対して「言明しない」ってこと自体が一つのメッセージになってたりするんですよね。

 「語られざる部分」が見えてくることこそ(あるいは見えてくるものを通じて語られざるものを想起できることこそ)ついったー的な新しいメディアチャネルの意義と言えるように思います。


 とりあえずいまのとこはね。



 あと、自分的効用としてはやっぱデバッグって感じかなぁ・・。下書きとかToDoって感じで使ってる人もけっこういるように思います。


 とりあえずこの手の新しいメディアへの対応としては、そこに乗っかってるコンテンツをしてそのメディアの特徴を計る(ケチつける)ってよりも、てきとーに自分で使ってみて可能性を拡げていくってほうが建設的でしょうね。

 「習うより慣れろ」っていうか「とりあえず乗ってけ」って感じかな。


 まぁ、そんな感じで、ついったーのほうもぼちぼち続けていこうかと思ってます。
 



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追記:
あ、書き忘れたけどtwitterにしてもtumblrにしても基本add返し文化っぽいです。つまり自分を登録してくれた人にはadd返しをするってこと。これによって普段なら絡むことのない人の世界観が覗けたりするわけです。それはアメリカでも共通するみたい

サースティーンの「Republic 2.0」かなんかにマイニュース的な関心狭窄への不安が語られていたと思うんですが、こういう文化を受けてむしろ関心領域が広がっているように思うんですね。少なくとも新聞やTVのような一部の「業界人」の作る「ジョーシキ」に犯された人々の視野よりはよっぽど広いものを持っているように思います。

「動物か!」認定はその辺確かめた後でも遅くないのではないでしょうか?
 

タグ:twitter
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2007年09月24日

たんぶらー自動ログによる無意識領域のhackの可能性

 またしても大分間があいたけど書くことたまってるのでこの辺でoutputしときます。まずはtumblr(たんぶらー)の話から。本エントリについてのついったーのログは以下です。


文化と思考(たんぶらー自動ログによる無意識領域のhackの可能性) (仮)


 要約すれば、「たんぶらーってreblog-reblogのコピー文化ってことで頭使わないアホの子用ツールみたいに思われてる面もあるように思うけど、むしろ頭働かせてないってとこに可能性があるんじゃね?」、って話です。

 通常、われわれがなんらかの思考をし、それをほかの人にもわかるようにoutputする段階でなんらかの「型」のようなものにとらわれてしまう危険性があります。

 当人的にはオリジナリティにあふれたギロンをしているつもりでも先人のギロンを組み合わせただけのコピー言説だったり、TVのワイドショーで評論家かなんかが言って体験の焼き直しだったり。あるいは、専門的な分野の話をする場合はどうしても当該分野のギロンの文脈を追わなければならず、いつの間にかそれらのギロンの「型」のようなものに誘導されて自分がほんとに表現したかったことが表現しきれなかったり・・。そういうことはけっこうあるように思います。

 つまり、たんぶらーのみならず我々の表現というのはすべからくコピー(あるいはコピーの総和)である可能性があるんですね。ってか、言語や文化の習得そのものがコピーを前提としているのだから当たり前って言ったら当たり前なのだろうけど。

 問題はそんな感じで「何らかの偏向(バイアス)を受けて自分がほんとに語りたかったこと(表現したかったこと)を見失ってしまうこと」です。

 それに対してたんぶらーの場合はというと・・・上述したようにたんぶらーこそ「コピーの場」って感じなんですが、ちょっとおもしろいのは皆さんがたんぶらーに対してもっている意識ですね。(まぁ、たんぶらー初めて日が浅いのでなんともいえないとこもあるけど)ちょっと見た感じ、たんぶらーってのは「コピー上等」であり「コピられ上等」なんすよね。そんで、皆さんたんぶらーを「自分の表現の場」ってよりは「コピー保管庫(共有倉庫)」みたいな感じで使ってるようなんすね。なかには「たんぶらーもわたしの自己表現的に重要な場の一つよ!」って言う人もいるかもしれないけど、すくなくとも一つずつのエントリの重みはブログほどのものはないということでは皆さん同意されるところではないでしょうか?「reblog-reblog」って感じでバトンリレーしてるモノは自分のエントリって感じでもないでしょうしねぇ。

 それに対してブログのエントリってのはある程度はオリジナル意識があるはず。でも、上述したようにオリジナルなつもりでもオリジナルじゃなかったり・・。


 まぁ、そんな感じでどっちがオリジナルでオリジナルじゃないかなんてのはびみょーな問題なんですよね。てか、むしろオリジナルを放棄しているたんぶらーのほうが自分のほんとに表現したいもの、あるいは自分の深奥に眠っている言葉にならないような意識、欲望のようなものを再確認できる機会があったり・・。(ブログでも「書いてるうちに気づいた」ってのはあるのかもしれないけど、ちょっと置きます)


 ここでちょっと飛びますが、おそらくたんぶらーで展開されているものというのはdebugみたいなものなんすね。なので、たんぶらーの各サイトで表現されているもの自体はジャンクというか、とりあえずフローを前提とした表現となっている。(表現っていうのともちょっと違うかな) たんぶらーに検索窓がついてないってのも象徴的ですね。いちおgoogleのサイト内検索とか、google mailにフィード飛ばしてそこから検索すれば検索可能ってことにはなるんだろうけど、基本はフローっすよね。なにせ情報量が多すぎるので忘れるの前提になってる。その中でなんとなく引っかかったものだけ後で検索するか、もしくはたんぶらーという活動全体を通じて自分の嗜好-思考-志向の傾向に気づくということのほうが重要になってたり。

 仮にブログ的なもの(あるいは文章的なもの)を明示的思考(形式知)とするならば、たんぶらー上で展開されているのは非明示的思考(暗黙知)ともいえる。そんで、先ほどから言っているようにその上で展開されているもの個別にはそれほそ意味が無いんですね。総体としてなら、総体として見えてくるものから探られる背後のようなものになら意味がある。

 ブログとたんぶらーの関係はいわば「地」と「図」のようなものなのかなぁ、とか思うわけです。


 つっても、ブログも元々はそういう使い方(webで気になったもののlog的な使い方)がメインで、なんかの考察とかそういう論理的展開のものばっかでもないんですけどね。とりあえず、たんぶらーよりはブログのほうが考察系は多いだろうってことで便宜的にこういうわけ方をさせてもらいました。



 んで、ポイントは「できるだけ無意識・自動的にログとっていって無意識的なもにのにかかっている偏向を確認 → hackする」ってとこなんだけど、これがなかなか難しいですよね。

 なにせ「ログとる」って過程自体がなんらかの意識をはらんでいるわけだし、その時点で考えてるってことは無意識ではないわけです。そして(ぼくなんかもそうだけど)たんぶらーとは言え、人の目は気になるので全ての嗜好や思考を反映させているわけではない。

 そうすると「無意識デバッグの意味が無いじゃん?」ってことになるかもしれないけど、いままでこういうツールがなかったわけだし、そういう体験もなかったわけだから「意味がない」ってことはないでしょうね。

 とりあえず「コピーばっかで意味ないじゃん」ってほどには意味なくはないと思うんですよ。


(♪ 意味なくないないじゃん コピれ〜メモれ〜、ってね)


 twitterにも似たようなことが言えるように思います。あれもライフログってことで「それなんて白痴?(監視社会でつか?)」って話もある・・つかぼくがその危惧もってたわけだけど、使い慣れて思考メモ的なものも流しだすと違った可能性も現れてくるんですね。それこそ上記してきたような可能性がね。

 問題はついったーにせよ、たんぶらーにせよもっと早いレスポンスっつーかインターフェースがあればいいのになぁってことです。思考ってのはリンケージのスピードによって決まってくるところが多分にあるので、そういった勢いが失われないうちに、アモルフな形の思考をそのまま出せるようなツール、メディアチャネル、表現形式(文法)なんかがあるといいんすよね。そういうのは別に文法とか絵画とか定まったものでなくてもいい。できるだけごちゃっと速いスピードで頭の中のもやもやを表出でき、表出した先で遅延(ストレス)を感じないでぐりぐりとブレストできてくものがいい。

 そういうのが創発につながるんだと思います。



 たんぶらーもその一助になるのかな? とりあえず、もうしばらく様子見です




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関連
なつみかん@はてな - Tumblr はじめてガイド

※いまさらながら、たんぶらーについてはこの辺を参照ください


タグ:tumblr 創発
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2007年09月16日

Re:複製技術時代の芸術(reblog)

 medtoolzさんがついったーしてた内容(帯域制限と脳力拡張の話)がおもしろかったので勝手にたんぶらーでアーカイブさせてもらったんだけどblogだと大分削ってしまわれたのだな。


レジデント初期研修用資料: 帯域制限のこと


 ついったーのつぶやき見ても編集段階で大分いろんなことを削ぎ落としてるみたいなので大変だなぁっていうか真面目だなぁって感じなんだけど、ぼくは不真面目なので思ったことをそのままごちゃっとブログらせてもらう。

 その前に元エントリのキモはこの辺かな

おそらくは、落書きが行っているのは情報量の削減で、芸術家が行ったのは、情報量の「圧縮」。それは可逆的に展開可能なものだから、鑑賞する人の視覚を通じて脳に達した圧縮ファイルは、そこで展開され、鑑賞者の脳を「ハック」して、そこに感動を呼ぶ。同じ構図のデジカメ写真は、情報量としては圧倒的に多いのだけれど、今度は鑑賞者自身の感覚で帯域制限がかけられてしまうから、脳に達する情報量は少ないのかも。


人間を作るいろんなモジュールのどこかには、たぶん「帯域が狭いことで利益がある」何かがあって、それがこうも執拗に、身体に帯域制限を迫っているんだと思うのだけれど、それが今一つ、何なのかわかならい。


 そんな感じで、「帯域制限のリミッターがあるからこそオーバーヒート起こさなくなってるんじゃないか?」、ってのと同時に、「そのリミッターを解除してオーバーヒート起こさずに人間の脳力の限界を引き上げるにはどうしたらいいか?」、って話(かな?) そうだとしたらそれはぼくの個人的課題の一つでもあるので興味が惹かれるところ。なので、先にたんぶらーのほうでエントリまとめた。


むーたん:Re:複製技術時代の芸術(reblog)


 要約すれば、「tumblrのreblogって”コピーのコピー“って感じで“白痴?”って思われたりする面もあるけど可能性あるんじゃねぇの? たとえば、情報処理(編集)におけるコストを減少させることによって、別のところに資源を集中させ創発が起こりやすくしてるとか」、みたいなエントリ。

 んで、「そんな感じで創発を起こりやすくする方法の一つとしてハイパーリンク的な思考様式があるのではないか?」、と。人類の思考のけっこうな部分は連想なのだろうしね。言葉とかそんなのも連想だし、情報のアーカイブの様式もディレクトリとリンクって感じになってるんだと思う(ほかにもあるかもしれないけど)。

 で、「ハイパーリンクな思考を可能にするにはアーカイブする情報の量を単純で一つのまとまり(パケット)にする必要があって、ハイパーリンク的な思考様式をしているうちにそのような処理が行われているのではないか?」、ってのが言いたかったこと。なのでtumblr的な「メモれ〜コピれ〜」的な文化ってのもあながちバカにできないんじゃないかと思うわけさ。

 実際、人類の文明レベルってのは複製技術によって飛躍的に高まったわけだし。その際、「複製で拡がった可能性は流通系だけなんじゃねぇの?」ってのは基本だしぼくもそう思うけど、それ以外に複製的思考様式のようなものもできていったんじゃないかと思う。「複製的思考様式」ってのもなんか変だな。要はさっきから言ってるような情報パケットを極小にしてinputの際の編集コストを減らしていくことによってoutput(あるいはそれ以前の内部リンクのスピード)を高めて行ったんじゃないか、と。

 で、翻ってmedtoolzさんとこの話に戻ると、帯域の幅の違いってのはアーティストとふつーの人の違いかなぁ、と。いわゆるアーティストだけじゃなく(ほんものの)霊能者な人なんかもそれ系のアンテナ広いんだろうな。でも、そういう人たちは勝手に感知して困るらしいけど。見たくもないものとか聞きたくもないものとか聞えちゃうらしいし。(知り合いの人もそうだったみたいだけど、小さい頃からの付き合いなのでやり過ごし方を身に着けていたらしい)

 んで、それ系のひとってのはそういう(一定の帯域の)情報キャッチアンテナがふつーの人よりも発達してるのでinput段階では問題ないんだけど、入ってきた情報を編集する段階でいろいろ困るんだよな。「編集」っつーか、この場合は「自分なりに解釈」ってことだけど。で、そこでつぶされないために自分なりのスピリチュアルなものとの付き合い方みたいなのつくってくんだろうけど、一部の人がそれを取り違えちゃって宗教にされていくんだよな。(中には自分から率先して宗教にしたがる人もいるのだろうけど)

 同様にいわゆるゲージツ家って言われる人もoutputしていかないと入ってくる情報につぶされちゃうのでoutputするんだろう。んで、最終的に自分にあったoutput方式を選ぶ、と。

 この辺の話は前に書いたな。


muse-A-muse 2nd: 「クリエイティブ」とはなにか?(「センス」、「想像力」、「創造力」について)


 なのでポイントは「入ってきた情報の編集方式」ってとこにあるのだろう。PC的なアナロジーでいえばフィードリーダーとかぶくまその他の情報管理ツールやtumblrみたいな情報編集ツールをうまいこと使いこなすことが必要なのだろう。あと、メモリとHDDの量も必要だな。

 HDDのほうは長期記憶って感じなので後天的には鍛えられない(か?)。でも、短期記憶のほうはなんとかなるのかなぁ? まぁ、よくわかんないけど、とりあえず情報編集様式ってのを意識して身に着けていく必要があるんだろうなぁ。特にこんな情報過多な世の中ではね。

 
 その他の論点として、「帯域の狭い人が帯域を広くするにはどうしたらいいか?」、ってのがあるだろうけど・・この辺はもって生まれた能力に依存するのだろうしなぁ。。「酒をたくさん飲むことによって酒に強くなる」みたいな感じで少しは鍛えられるかもしれないけど、先天的に決まってるところが大きいだろうなぁ(酒の場合はアルコール分解酵素関連で「鍛えられても1.5倍ぐらい」でしたっけ?)



 あと、本エントリのタイトルへの個人的返信として。ベンヤミンは複製技術は痴呆の極みたいに言って「アウラ(体験の一回性)がなくなるじゃん!」嫌った(?)みたいなんだけど、複製技術の時代、複製をデフォルトとしコピーによるコピーで情報量を急激に増大させている環境においては独自の思考様式や思考の文法があるのではないか? なにせ「複製」なんてことにこだわったら厳密な意味で複製されないものなんてこの世にあるのかって話だしね。人類が言葉を使うようになったときから現実は細切れに編集(degitize)され、伝聞段階で複製されてるんだろう。


 そんなこんなでメディア者としては電脳時代の文法やら思考様式に期待するわけさ。それ自体が「羊の夢」って言われるのかもしれないけどね。



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関連:
muse-A-muse 2nd: pre-contents / hyper-contents (コンテンツを越えたメディア体験について)

※こっちは逆に、「twitterによってリアルなコミュニケーションの一回性が再生されていくのではないか?」、ってエントリ。上記エントリと合わせれば、「新しい時代には新しいものだけではなくて温故知新もあるのかも?」、って感じかな

 
タグ:tumblr 創発
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2007年08月22日

「TVがおもしろくなければニコ動を見ればいいじゃない!」

 なんか中島さんとこのこのエントリが注目を集めてる。


Life is beautiful: テレビ番組の低俗化に関する一考察


 これ自体は「電波の有限希少性をタテに寡占化、アホな番組が蔓延している」って感じの一般論で別にどうということもいんだけど関連でいろいろ思ったり。 このエントリに真面目に向き合うなら電波開放論に向かうのだろうけど、今回は前回までの流れを引きずってこう言ってみたい



「TVがおもしろくなければニコ動を見ればいいじゃない!」


 
 そういう問題でもないけどいちお釣りっぽく。つかほんと「ニコ動かYoutubeで十分じゃん?」って話は中島さんご自身も書かれていたような気がする。(「最近テレビはおもしろくてみないんだけど、友達からおしえてもらったYoutube映像を通じておもしろい番組を知ることが多くなった」、みたいなの)

 これに対して、おもしろいTV番組やTV番組を楽しむ周辺知識を伝えれるスタイルをとっていてぼくも重宝しているのがてれびのスキマさんなわけだけど、そんなてれびのスキマさんのところにもこんなエントリがあったり...


てれびのスキマ何故それをテレビでやらないのかと小一時間(略)


 PRIDEの煽り映像職人で知られる佐藤大輔の面白さを伝えるエントリ。残念なことに動画リンク先は見れなくなってるけど、この主張はもっともだなぁ、と。

すでに、サッカーファンの間では話題になっている「A3 CHAMPIONS CUP 2007」のPR映像。間違いなく佐藤大輔チームが手がけたと思われる煽りVTRで、ほとんど興味のなかったこの大会の視聴意欲を掻き立ててくれる。

しかし、何故かテレビ東京独占放送の番組内でこの映像が使われていない。非常にもったいない。


 ちなみにその他の佐藤大輔作品はこの辺から見られる。
 


 んで、「もうニコ動かYoutube、ステ6辺りをrimoってればいいじゃん?」、って感じもするのだけれどやっぱそういうわけにもいかないわなぁ。現行放送に比べれば圧倒的にコンテンツが少ないわけだし、いわずもがなだけどエンタメ系に集中して災害時なんかには役に立たないしなぁ...。

 でも、「現行放送と代替」ってところまで行かなくてももうちょっとニコ動(あるいはそれ系動画共有サイト)に視聴層がシフトしていく、ってことはないのだろうか? それに伴って動画共有サイトで扱うコンテンツが増えるということは考えられないか? つまり「payして回るか?」って話。

 この辺の話は最近だとニコニコ市場のアフィリエイト話なんかがある。


404 Blog Not Found:究極のアフィリエイト、ニコニコ市場


 この、「動画コンテンツからリンクする商品をその場でポチっと購入」って仕組み自体は放送と通信(ネット)の融合周りでは以前から言われていたことでさしたる驚きはない。民放なんかがデジタル化する際の目玉な仕掛けの一つのように思う。その是非についてはここではギロンしないけど、モタモタしてるうちにニコニコに優位性とられちゃってじゃね?、って話。民放側としては1コンテンツからDVDが200本ぐらい売れたからって屁ともないのでは?、って思ってたらやっぱりそんな感じなようで...


ニセモノの良心 : ニコニコ動画で自前のアニメを流す試算


 つか、Danさんの想定としては、「これ人口比的に考えれば2万本売れたのと同じくね?」、ってことなのか。そんでそこから皮算用って感じだったみたいだけどsoulwardenさんによると、「民放の権利商品使ってる時点でおかしいし」、と。(そりゃそうだ)
 
 じゃあオリジナルコンテンツ作って売ったとしてpayすんのかね?、ってことで以下の試算を出されてた。


まずプレス代。1枚250円換算で、20000本で500万。
流通は考えなくていいので(全部アマゾン)無料でいいや。すでに5000円で卸してる計算だし。
宣伝も・・・ニコニコがやってくれるので無料でいい。きっとここが強みになるはず。
あと版権処理だけど、どのくらい他人の権利を使うかにもよるけど、300万円くらい見とこうか。
ただこの金額で原著作権処理もできるかな?そのあたりちょっと不明。
75分収録ということは・・・25分×3なので、3話分。
1話3000万円で作って×3で9000万円。


ということは、200万円の利潤となる。ま、こんなもんか。スポンサードの全国ネットを考えると、テレビだってこんなもんだし。(そこでスポットと比べちゃいけない。)
ただし、かなりざっくりな計算なので、この通りには絶対行かないだろうけど。



 あと、これに売れなかった場合のリスク管理(含み損益みたいなの?)も絡むね、と。それ計算してその分単価高くしとかないとキツイわなぁ。

 それに対してコストを低く設定するってのもある。たとえばアニメでやる場合は蛙男商会さんみたいな手法で作ってけば安く抑えられるだろうし、ドキュメンタリーとかドキュテイメントなら物財的なコストは抑えられそう。(時間コスト=滞在費みたいなのかかりそうだけど)

 その辺については前にチラッと書いた。

muse-A-muse 2nd: ドキュメンタリーブームと昨今の動画(映画)市場について



 んでも、こんな感じで動画共有サイトのコンテンツがコスト抑え系になってくと「動画共有 = 貧乏コンテンツ」って印象がづいちゃうかな? 対して、商業放送(あるいはサイト)は豪華なハイデフって感じ?

・・ふむ。それもちょっと困るだろうな。


 んじゃ、スポーツなんかどうかな? アレもいちおドキュメンタリーだし、ESPNなんかもなんかいろいろやろうとしてたしね。

muse-A-muse 2nd: 活況化するモバイルコンテンツ市場?

 っつっても、「スポーツビジネス」って感じの昨今、この手のプロスポーツが一番取材コストかかるんだよなぁ。取材コストっつーか放映権。じゃあ、アマチュアスポーツとかどうかな? あるいはマイナースポーツ。 その辺の面白さをブログとかニコニコ的な解説で増幅させるってのは?

・・まぁ、「机上の空想なのでなんとも」って感じだろうけど、なんとかならんもんかねぇ。

 てか、3S的にはスポーツのほかに「Stock(株式=お金情報)」と「Sex(エロ)」ってことになって、「StockはムリだからSexね!」って感じになるか。でも、それってちょっとベタだべなぁ。。


 つか、リンク先の「モバイルコンテンツ市場」のとこでも出てたようにそろそろ本格的にモバイル動画コンテンツの覇権争いな時代に入りそうなんだけど、その辺で勝負してみようというところはないのだろうか? っつっても、あまり早く勝負かけちゃうとコケちゃうのがこの業界の慣例って感じなんだろうけど。


 あと、ニコニコアフィリエイト関連で。それってアフィリエイトってよりはタイアップとして活用できないのかな?、って思った。つっても、数字が全然追いつかないのだろうけど、量より質って感じでSNS的なマーケ(口コミ系)と絡めて考えていけないのかねぇ。





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関連:
muse-A-muse 2nd: 速水健朗, 2007, 「タイアップの歌謡史」(feat.阿久悠)



muse-A-muse 2nd: 海外コンテンツホルダーのビジネスモデル (IBMの4象限モデルから)

※動画共有サイトについてアレルギー反応を起こす人用に。IBM4象限モデル的には「CGM・オープン」ってのも動画サイトの戦略の一つに過ぎないよ、ってことみたいです。
 
 

TechCrunch Japanese アーカイブ » 新世代のアダルトサイト概観

※「エロからメイン」ではなく「メインからエロ」な昨今の流れについて、といくつかのサンプル

 
TechCrunch Japanese アーカイブ » インターネットポルノの統計

ここ数年はユーザー生成コンテンツ、ビデオ共有などウェブで生まれた新しいアイディアは、まずメインストリームで普及し、それからポルノサイトに波及しつつあるようだ。


※ほか市場規模など
 
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2007年08月19日

pre-contents / hyper-contents (コンテンツを越えたメディア体験について)

 最近「コンテンツ」についてぼけーっと考えることがある。「コンテンツ」ってなんなんだろうな?、と。

 字義的な意味では「媒体に乗っける中身」って感じで、「番組」とか「記事」だとマルチメディア・マルチモード時代の状況を正確には表せないので「コンテンツ」という言葉が使われるようになった、と解釈している。つまり、「番組」「記事」「ソフトウェア」などといった情報財の中身の部分が「コンテンツ」ということになると思う。ちょっとウィキペディア見てみよう

コンテンツ - Wikipedia

コンテンツ(contents、単数形content(コンテント))とは、あるものの「内容」(≒情報そのもの)のこと。

特に、メディアによって提供される、ニュースなどの情報や音楽・映画・漫画・アニメ・ゲームなど各種の創作物を指す。書籍、ウェブページにおいても同様である



 ちょっと意外だったのがこの記述。こんなのあったっけ?

コンテンツは、マーシャル・マックルーハンが「メディア論」の中で提唱している、メディアの中のメディアに当たるものである。そのため、コンテンツはメディアでもある。また、マックルーハンはメディアはメッセージであるとしているため、コンテンツ=メディア=メッセージとなる。

 

 まぁ、マクルーハンの本はアレげなので流し読みしたってのもあるのだろうけど「コンテンツ=メディア=メッセージ」ってなんだろ?(批判ではなく)

 ふつーに考えると「メディアはメッセージ」という例の印象深い文言は「ハードはソフトを規定する」ってことでたとえば新聞みたいなハード自体に情報量が少ないメディアはソフト面で情報量を補っていかなければいけないので、コンテンツ(記事)の内容・形式は自然と説明的情報が多くなる、みたいな意味合いを含むものだったと思う。逆に当時の先端メディアであったTVなんかはハード自体がデフォルトで情報量高かったので、ソフトも生み出された段階で情報量が高くて、「説明的な技術を持たなくてもコンテンツを創れる」、みたいな流れがあったような・・。

 要するに「ホットメディア / クールメディア」の話なわけだけど。つまり、メディアには最初から情報量が多い「ホット」なメディアと情報量が少ない「クール」なメディアな違いがある、ってやつ。

 ちょっとぶれるがそういや濱野さんも似たようなエントリ書いてたな。


WIRED VISION / 濱野智史の「情報環境研究ノート」 / 第9回《Twitter/ニコニコ動画編》 まとめと結論


 ここの「非同期 / 同期」の分類は「クール / ホットメディア」を連想するけどちょっと違うか。(非同期メディアは不確実性を前提としているのでそれを縮減しないといけない、同期メディアはその逆って話だったと思うけど)

 んで、とりあえずついったは非同期において多義性が生まれるという弱点を縮減する、と(でも擬似同期)。


 「ついったに置いて生み出されているものは何か」みたいなこの辺のギロンはおもしろいのであとでまた考えてみるとして、「ハードはソフトを規定する」関連で、そういやこんなエントリもあったな。


踊る新聞屋−。: [media]コンテンツは技術に規定される。ではこの先は?


 最初のほう読んでて「また、TVによる一億総白痴化論ですかぁ?」って身構えたけどよくよんでみたらそれとは逆の話だったみたい。エントリ全体の主旨としては、「ハードによってコンテンツの表現形式は規定される面は否めないのだからその辺りを積極的に見つめなおし、hackする必要があるね (「たかがケータイ小説」とか馬鹿にせずに)」って感じ。これは素直に同意。んで、「形式」という言葉から自分的にちょっと思うこととしてはやっぱルーマン系メディア論かなぁ、と。....っつってもまだきちんと編集してないので使いこなせてないけど、まぁ、そのうち。


 で、

 「ハードの変化に応じてコンテンツも変わる」ってことでそれに応じて表現形式なんかも発達していくのだろうけど、でも「根本の表したいもの」みたいなのは変わらないんじゃないかなぁ、とか思う。表現者ってのは自分の中のなんかどろどろしたものを表出・hackすることによって自らの均衡を保つはずなので。ある表現形式、媒体を選ぶのはそれが世間的に認められている優れた媒体だからではなく自分の中のどろどろを表現するのに適している媒体だから、ということだと思う。で、あるならばコンテンツの形式とかメディアの形式によってコンテンツの優劣は決まらないはず。

 前にもちょっと出てきたが、ケータイ小説はケータイ小説というジャンルであって文学ではないのだろう。


muse-A-muse 2nd: ケータイ小説の市場規模やら可能性について (「小説ではなくライブ」ということらしい)

 ここでも出てきた「ライブ的なもの」というのがついったやニコニコ動画のギロンにも当てはまるように思う。濱野さん的には「いま・ここ性」という感じだろうか。


WIRED VISION / 濱野智史の「情報環境研究ノート」 / 第12回 セカンドライフ考察編(7) :「いま・ここ性」の複製技術としてのニコニコ動画

 このエントリと合わせておーざっぱにまとめると

WIRED VISION / 濱野智史の「情報環境研究ノート」 / 第11回 セカンドライフ考察編(6) :ニコニコ動画が「活況を呈している」のはなぜか?


 濱野さんのニコ動考察っていうのは、「ニコニコ動画は素材となる動画(コンテンツ)に独自性というか人をひきつける魅力があるのではなく、動画に入れられたツッコミあるいはツッコミを入れるという体験そのものに魅力があるのではないか?」、って話だと思うんだけどそういうのはやっぱ「コンテンツより○○」って話なのかなぁ、と。


 んで、「コンテンツより○○」っていうか「コンテンツ以前の○○」って話としてはちょっと話がそれるけどこの辺に通じるかなぁ、と。


ある編集者の気になるノート : いま編集者に求められているのは、「ダウンロードできないもの」を作ることなのかもしれない。

 エントリの主旨としては「複製技術時代だからこそ複製できないものが重要なのではないか?」ってこと。で、「複製できないものとしてのLiveを重視せよ」、と。これと同じことをほぼ日でイトイさんが言ってたように思う。(これからはライブが重要) だからこそ、「Beautiful Songs」という発想が出たはず。

 ライブ関連で言えばこの辺のギロンにも通じる。


音楽配信メモ プリンスはなぜ新作CDを「新聞のおまけ」として配布したのか

音楽配信メモ A Nation of Thieves? - 盗人国民?

On Off and Beyond: 著作権保護よりライブで稼ぐ、というビジネスモデル


 「CD(コンテンツ)の売り上げに頼るのはやめてライブで稼ごう」って発想。CDはライブのための宣材としての役割を終えればpayしなくてもいい、と。んで、実際ライブで元取れてるみたい。

 っていっても、こんなのプリンスぐらい知名度がないと無理かなとも思うんだけど、でも中間団体通さなければなんとかなるって話でもあるのかもしれない。



 こういうのを見てると「コンテンツってなんなの?」って思う。表現者にとっては売れることよりも伝わることのほうが重要で、そのためにコンテンツっていうのはより多くの人に声を届けるために表現を冷凍保存したものってことだと思うんだけど、産直ができるようになればそれはいらなくなるのかなぁ..?

 以上が「コンテンツ以前」への志向をもった話だとすると、濱野さんのギロンは「コンテンツ以後」というか「ハイパーコンテンツ」な話なのかな、と思う。

 いづれも「コンテンツより○○」って感じなんだけど、後者の場合はコンテンツを足場にしてそこに創発が生まれていく、と。まぁ、CGMってやつだけど。

 そしてそういう話というのは(けっこう言い尽くされた感もあるけど)「blog時代の記者は記事作成能力ではなくコミュニケーション能力も必要」みたいな話にも通じてくる。「blogはcontentsではなくconversationだ」(Dan.Gilmor?)ってやつ。

 そういう話はニコニコ動画にもついったにも通じるのだろう。


 特に最近ついったにどっぷりつかっているぼくとしては「ついったというのは会話がそのままfeatされたメディアだな」、って印象がある。blogよりも会話とかコミュニケーションがダイレクトで早い感じがする。blogの場合はエントリ立てるまでに時間かかるけどついったにはそれがないし、レスも早いし、mixiと違ってなければないでいい(つかオレのmixiはレスなし基本だがw)。

 なので、最近だとblogやぶくま以前のアモルフ(流動的)な志向をそのまま出しておく場として使っている。つか、ぶくまやblogでとりあげるほどでもないけど見ちゃって頭に浮かんだことがあるのでいちお吐いとくか、みたいなの。

 これはついったのメディア特性というよりは、ぼくがもともとそういうコミュニケーション様式が好きなんだろう。絶えず思考が分散してるからな。(いまもこれ書きながらついったで「ビッグサイトって伝染るんですの斉藤さんみたいだよね」みたいな話してたし)


 
 話を戻そう。ハイパーコンテンツとしてのニコニコ動画とついった、っていうか、ついったやニコニコ動画で現出しているアモルフなものとはなにか?

 こういう話はメディア論ってよりは認識哲学みたいな話になるように思うのだけれど.....どうだったっけな? (ロードデキマセン...アツサデロードデキマセン)


 ....うーん.....保坂和志なんかが季節の記憶って読んでた思考が固まってしまう以前の思考(あるいは志向)だと思うんだけど..。現象学系かな?


 まぁ、とりあえずその効用というかおもしろさというのは「固まってないこと」「ステレオタイプ的じゃないこと」にあるように思う。

 「思考」や「志向」、「嗜好」ってのは語彙獲得と同じ時期にくっついてくるイメージなんかのせいで固定化され、そのために自分の中のリアリティを表出できず、現実というものがたいしておもしろくない(なんの変わりばえもない現実)って感じになる。でも、語彙を増やし、内省を繰り返していくことによってその部分のhackは可能だし、それによって自分の中のリアリティ、それに対応するような「本当に自分がおもしろいと感じるもの」に向き合えるようになってくる。「コンテンツ」って感じで提供されたものではなく。

 そういう視点を持つようになると既存のコンテンツというのはhackの対象でしかないし、没入するということはなくなってくるように思う。少なくともぼくはそうだし。「そうするとコンテンツそのものの楽しみは失われるのではないか」、って感じになるのだろうけどhackの可能性は無限なのでそこからコンテンツの楽しみが出てくるというか、いろんなコンテンツ、文脈と繋げて遊べるようになる。っつーか、本来の意味でのコンテンツ(作品)と向き合う姿勢というのはこういうものだと思うんだけど...まぁ、いいや。

 でも、こういうことを言っているとコンテンツ屋の人から、「そういうシニカルな姿勢を突破し、没入させるものこそ真のコンテンツっすよ!」、って言われるのかもしれない。....っつっても、そんなものもはや皆無だしなぁ....。(自分的には)


 話を戻すと、ニコニコ動画の場合はこんな感じの「コンテンツと向き合いhackする」って楽しみがfeatureされたものなのかなぁ、とか思う。トフラーあたりに言わせるとプロシューマー的態度ってやつか? ついったの場合はどうか?

 ぼくとしてはblogやぶくまのメタ次元としてついったを使っているんだけど、blog的なものってのは言ってみれば二次創作的なものといえるのかもしれない。それへのメタってことだからついったは三次的なものといえる(....のかなぁ?)

 まぁ、使い方は人それぞれなのでよく分かんないけど。とりあえずいまのついったの仕様だとリファラ付きづらいのでこういう風な使い方もアリなんじゃないかと思う。


 んで、そこで現れてくる新しい体験とはなにか(従来のコンテンツ的なものを越える、あるいはalternativeとなるようなものなのか?)ってことだけど........わからんなぁ。そういう体験したことないし。followもfollowerも中途半端ってのもあるんだろうけどまだよくわかんない。


 とりあえず言えるのは、「ニコニコ動画にしてもついったにしても従来のメディアでは拾ってくれなかった部分を拾うべく分節化したメディア(あるいはこのような細かいメディアが出てきたので従来のメディアでは満足できなかった表現ができるようになる可能性がある)」、って感じだろうか。

 ちょっと違うだろうけど、こないだの手書き祭りはちょっと面白かったな。

twitterで手書き文字共有が流行中 - F's Garage typeC

北の大地から送る物欲日記 - 手書きTwitterブーム到来


 ちょっと前のケーカホウコクにも書いたけど、新しいメディアによってアナログ的なものが見直される(埋められる)っていうのは面白いかも。




 そんなこんなでいつもながらまとまりのない話だけどまとまらないなりにまとめると、


○ twitterやニコニコ動画における体験というのはなんなのだろうか?


○ それはコンテンツ消費型体験というよりはコンテンツを越えたところにある体験といえるのではないか?


○ コンテンツを越えたところにあるメディア体験の一つとしてのライブ感  ≠ コンテンツ以前のアモルフなもの / コンテンツ以後のアモルフなもの


○ そういった流れの一つとしてアナログなものへの回帰(あるいはアナログなものをデジタル的に修飾することよって復権)があるのかも



 って感じでした。(未完)

 
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2007年07月26日

朝日新聞の今後の方針とblogと新聞の現状について

 昨日の朝日新聞一面にちょっと前に主筆に就任された船橋洋一さんのコラム(?)が載っていて目を惹かれました。「朝日新聞宣言」って感じで、今後の朝日新聞の方向性について述べられていたみたいです。んで、まぁいろいろと思うところあったのでアーカイブの意味も兼ねてとりあえずメモ。

 全体的な内容としては旧来の日本の新聞って感じで「保守おつかれ様です」としか言いようがないです。つまり「ジャーナリズムの役割とはぁ、権力を見張るウォッチドッグでありぃ、社会を導くために木鐸を鳴らすものなのでアルことよ」、って感じですね。

 んで、コレへの反論というのはすぐに思い浮かびます。反論というか、上記で述べられていることは旧来型の教科書的なジャーナリズム観(タテマエ)としては正しいのですが、ウォッッチドッグ機能だけを強調しているところがアレだな、と。批評というのは物事をけなすだけではなく正しい活動(もしくは作品)に対しては正当な評価をしなければ成立しないんですね。その意味で、ウォッチドッグだけではジャーナリズムとしては成立しないと思います。(※「ジャーナリズムは批評活動の延長である」については以下を参照ください)


muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2):批評としてのジャーナリズム


 ネットと新聞の関係については「ネットが検索的知であるのに対して、新聞は“社会の木鐸”的な誘導的知として言論を発信していく」って姿勢をとるみたいです。ここで想定されているネットというのは「検索」ってことでGoogleが頭にあるみたいなんですが、これはEPICでも見られたのでしょうか?(もしくはそれを紹介するセミナーに参加したとか)


EPIC2015


 でも、たぶんこのメッセージを正確に理解されてないようなのですが、これの言っていることは<検索エンジンが「検索」という機能を担ったまま新聞を取り込む>ということではなく<これからの時代は検索も新聞、TVのような従来のコンテンツ産業も垣根はなくなるよ>ってことだったんですがね。

 まぁ、いいです。宅配制度、再販制度、価格談合(特殊指定)、押し紙などといったモロモロの仕組みに守られて日本の大新聞様は安泰だぁ、ってことなんでしょうしね。河内氏の論考も他山の石というか、「おめぇら貧乏人はその辺でめそめそ考えてやがれ(ゲハハハ)」って感じなんでしょうしね。

「さすがアカヒだ。オレたちにできないことを平然とやってのける。そこにシビレル、アコガレルゥゥゥ」って感じですかね。あるいは大学教授と中堅社員(あるいはならず者)の違いというか....。


天漢日乗: 新聞社志望学生の抱く新聞社のイメージジョーク集



 あと、朝日って言ったら例の戦時期の失態とか、現時点での中国との関係とか気になりましたがその辺についてもほのめかして書いてあったのでじゃあ、以下気になったところ抜粋で。(朝日新聞, 2007年7月25日、一面 より)

 
 朝日新聞のジャーナリズム精神とは何か。
 私はそれを「権力監視」にあくまで食らいつく記者根性であると思っている。権力を握るのが誰だろうが、どの政党だろうが、暴力装置を持つ権力が、国民の権利を守るのか、侵すのか、国家が人々の心の奥や財布の中にまで手を突っ込んでくることはないか。政府の外交、防衛政策が、日本と世界の平和と安全を高めているか、損なってはいないか。しっかりと見張り、正確に報道していく。戦前、アジア太平洋戦争に対しては誤った報道をし、読者を裏切った。朝日新聞は、戦後、その反省から出発した。「権力監視」と正確な報道というジャーナリズムの原点にいま一度、立ち返る。おっして、それを踏まえて、時代の要請により鋭敏に応えるべく、紙面と報道の質を不断に向上させる。それによって「紙面、報道の声価を高める」責任を果たしたい。



(中略)

 
 世界と日本を同時代的に共感を持って関連づけることのできる新聞。
 今後、アジアは興隆し、世界は多極化していくだろう。紙面にこうした視角をもっと織り込んでいくことが大切だ。日本が世界の中でよりよく生きていくためには、他者の多様な視点に敏感でありたいし、日本の多様な視点を世界にもっと伝えていきたい。



 ちょっとたまらず突っ込みです。「世界の多極化」と、その中での「アジアの興隆」というのは分かるんですよ。フラット化ってやつですね。でも、なんか中国だけ意識してる? フラット化ってことだとBRIICSってことでブラジルとかインド、ロシアなんかについてもほのめかしてもいいものだと思うんだけど。。。

 それはいいとして、「日本の視点を世界に伝えていきたい」もなにも朝日自体がインド、中国進出なんかも乗り遅れてるじゃないですか? じゃあ、もう世界発信も何もないじゃん。(「ネットで英語サイト作ってるよ」、っつってもそんなのそれほど意味あるのか、って感じがしますね。わざわざ見に来るか?)


 閑話休題。続きです


 朝日新聞は、130年近い長い歴史と800万部以上の厚みのある読者層に支えられている。一部の層やどこかの利害の代表ではない。それだけに、国民の共通項を分断しかねない格差拡大、弱者切り捨て、少数派無視には赤信号を点す必要を感じている。



 ネットの挑戦に対しては、新聞ジャーナリズムを再興することを中核に、柔軟に対応していく。
 読者の「知りたいこと」を伝えるのは新聞の仕事だが、読者のそれほど「知りたくないこと」も時に書かなければならない。それがジャーナリズムであると私は思っている。新聞は検索ではない。ちょっと隣にも道草していただきたい。



 んで、この後「ネットの慣例同様、朝日新聞の読者のパートナーになりたい」みたいな文言が続いていくのですが......いや、なんか、びみょー.....。

 まず、冒頭でも言ったように舟橋さんの想定している「ネット」っていうのは「検索」って感じなんですね。んで、「ネット」と「新聞」って言ったらblog(ほかその手の簡易publish toolあるいはコミュニティ)とジャーナリズムの関係がモロにかぶって来るところなはずなのにその辺りについての言及はない....。たぶん知らないんだと思いますが、まぁ、不勉強だなぁ、と。


 この辺についてはちょうど渡辺千賀さんのところにエントリ出てたので引かせてもらいます。


On Off and Beyond: インターネット時代に新聞はどう生き残るのか


 「San Jose Mercuryみたいな一部の新聞の情報がblogにかなわなくなってきてる」って話ですね。これについては別ルートでも話題になってました。


Tech blogs go from hobbies to businesses - USATODAY.com

Blogs may be transforming the newspaper business model - Editors Weblog



 ポイントは千賀さんみたいな現場な人も実感としてそういうのを感じているってとこだなぁ、と。 もちろん新聞一般の話とは言いがたく、tech系という情報更新スピードの速い分野の話、ってのもあるんですが、「専門知の発信・共有において現場からの発信のほうが新聞その他のメディアよりも重視され始めた」というのは覚えておいて良いことなのではないかと思います。

 これをもってすぐに「blog > 新聞・TV」となるわけではなく住み分けの問題だとは思うけど。でも、船橋さんみたいな認識だとちょっと不安ですね。


 あと付け加えると、千賀さんとこのエントリの上段にあったように新聞の目指す方向性として二極化があるように思います。すなわち「(blogなんかよりも)深い考察系」と「超ローカルで地域密着系」。この2つの方向を同時に体現しようとしているのがWashington Post(WP)です。


In Push for Local Readers, Post Unleashes LoudounExtra.com - washingtonpost.com


 あと、ローカル化ということに関してEditors blogによればChicago Tribuneもローカル化を目指してるみたいですね。


 まぁ、そんな感じで。「質的に深める気がないならコミュニティマーケティングみたいな感じで固定客確保したほうがいいのでは?」ってのは前から言ってることなんですが、まぁ、誰も見ちゃいないだろうしなぁ。。

 新聞におけるコミュニティマーケティングの方向性としてはCivic Journalismみたいな感じで、「講座などを通じてローカルな関心をパブリックなものに繋げる → まとまった情報を紙面に繁栄する」、ってフローが考えられるけど、これはいろいろコストかかってめんどいみたいですね。(記者にとっては特に何度も同じことを説明しないといけないのがつらいらしい)



 まぁ、その辺も含めてぼちぼち.....(朝日とかは考える必要ないか)



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関連:
muse-A-muse 2nd: 当世新聞業界事情 (国内・海外概略)


muse-A-muse 2nd: 新聞業界来し方行く末


muse-A-muse 2nd: 「新聞は、全世界で見ると成長している」..というよりも「インド・中国では」ということではないでしょうか?


muse-A-muse 2nd: 人事を尽くして天命を待つ、とか? (NewsCorp躍進の理由みたいなの)


※国内・国外の新聞業界の現状について。あるいは現状打破の方策など。



muse-A-muse 2nd: 「日本の記者はいろんなことを知っている」ということに対する反論

※現行ジャーナリズムは「ウォッチドッグ」というタテマエ的なところ意外でプロフェッショナルジャーナリズムしか知りえないであろうインサイダー情報の有利性を説くけど、そのインサイダー情報ってなんぼのもんじゃい、って感じのエントリ。




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追記:
ところでSan Joseって言ったらDan Gilmoreのとこですね。...大丈夫なのかなぁ。


メディア・パブ: Dan Gillmore, San Jose Mercury Newsを辞め,市民ジャーリズム・プロジェクトに


あ、もう辞めてる(先見の明?)
 
 




タグ:新聞 blog
posted by m_um_u at 09:38 | Comment(2) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年07月23日

twittervisionでガイジンfollow強化中

 またアホみたいに泳いできて(3km)ちょっとボケーっとなりつつ今日ももけもけtwitter。

 mova twitterがウィルコムでも使えることが判明したので俄然やる気に。(ウィルコムのネット接続は使い放題プランにしてるので)


 流れでちょっとfollow対象を増やしてみることにする。twitterみたいなミニブログだと濃いい考察や書き物系の話題はムリっぽいので情報系、嗜好(あるいは思考や志向)のおもしろい人にしぼってみることにする。

 情報系のほうはtech系の人が良さげ。嗜好・思考・志向はどーもオタ系(あるいは腐女子系)が多くなる...。特に腐女子系の自虐系というかかなぐり捨てた感じは好き。

 あと後者系ではガイジンのtwittなんかがよさげ。

 blogを始めた頃もそうだったけど、世界の人の情報発信を見るのが好きなので。日本人というか日本にいる人だとどうしても似たり寄ったりの情報を出していることが多いのに対して、外国にいる人、もしくはガイジンというのはなんかおもろい。ガイジンじゃなくても外国にいる日本人とかは日本人的感性で現地の様子を伝えてくれるのでおもろい。日本に住んでるガイジンはその逆でおもろい。

 もしくはちょっと知ってる外人bloggerなんかを登録してるとそれなりに楽しめる。英語の勉強にもなるし。

 「英語の勉強」ということに関して言うと、blogやHPと違って一言つぶやきなので情報処理的にも間に合う感じでちょうどいい。会話独特の言い回しとか参考になるし。



 そんな感じで「おもしろガイジン」もしくは「外国に住む日本人」を探しているのだけど、こういときに役立つのが以下のサービス。


twittervision


 これで世界中のつぶやきが見れる。なんか、Google本社にある「いま検索されたキーワード」掲示板みたいだ。

 そんな感じで現在はfollow対象を強化中。

 あと、これの動画版というか、簡易動画投稿サービスとしてUStreamというのが始まった(?)みたい。「webカメラひとつで簡単に動画をアップできる」ということでライブ映像的な使い方をしてる人が多いみたい。(家族のおもしろ動画とか)


メディア・パブ: ギークがはまるサービス,“Twitter”の次は“Ustream”か

devlog.holy-grail.jp - Ustream.tvが非常におもしろい件

UStream.tvとtwitterでニコニコ動画ってみた、あとJavaScript→ActionScriptブリッジの更新:TKMR.blog.show


 これが受けてるってことはJoostやYoutubeよりも簡単にpostできるってことなんだろうなぁ。。(っつーか、「動画ファイルを作る用に必要な動画機器に対してwebカメラが格段に安い」、ってのがポイントなのか?)

 まぁとりあえず、「簡単・軽い・速い」って感じなんだろう。1回やってみようかなぁ。。(たぶんネコ動画だらけになるけど)

 って、ノートPCからじゃきついな。W-ZERO3[es]からじゃダメなんだろうか? ってか、ケータイとかから直でできないのかな?


...まぁ、ぼちぼちってことかな
 
 
posted by m_um_u at 21:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

2007年07月21日

ケータイ小説の市場規模やら可能性について (「小説ではなくライブ」ということらしい)

 なんか、ケータイ小説のことが気になったのでいま把握してる範囲の情報をザラっとまとめておこうかと思います。

 市場っつーか売り上げ的にはこの辺かなぁ


ある編集者の気になるノート : もはや、「文芸=ケータイ小説」の時代なんだろうか?


 TOHAN発表の上半期売り上げベストテンから。ある編さんによるとこの内6つがケータイ小説なんだそうです(1、2位含む)。「市場ができたのではないか?」についてはkanoseさんもエントリあげておられましたね。

ARTIFACT@ハテナ系 - ケータイ小説が最近になってなぜ分析対象として注目されたのか?

Yoshi氏の『DEEP LOVE』がすでにヒットしているのに今更…みたいな意見を見かけるが、なぜ今になって分析対象になっているかといえば、Yoshi氏の存在はあくまでイレギュラーとして認識されていたが、ケータイ小説をベースにした他のヒット作が登場したことによって、イレギュラーではなく市場があるときちんと認識されたために変わったのではないだろうか。


 んで、角川辺りは文庫化も狙っている、と。

平和の温故知新@はてな - ライトノベルとケータイ小説と角川グループの戦略


 あと、モバゲーなんかも狙ってるみたいですね。

モバゲータウンが携帯小説に進出--ユーザーからの投稿を受け付け:モバイルチャンネル - CNET Japan

 mixiも似たようン企画(ミクドラ)出してたけどあれは「物語の筋をユーザー投票で変えられるよ」とのことだったのでちょっと違うのでしょうね。


 で、内容についてですが各所で疑問がもたれているように思います(ぼくも含めて)。単なる印象ですが内容とか文体なんかは稚拙なものが多い感じがする。その辺の主張としてはこんな感じでしょうか


肉欲企画。: ケータイ小説

神霊K・B・Y・Sが一体出た! Yoshi【ケータイ小説】のガイドライン

 「テンプレ化して遊べる程度だよ」、と(後者は半ばネタですが)。テンプレ化っていったら村上春樹的ジェネレーター(+スレ)とか思い出しますが、それともちょっと違う感じ。語彙が少ないんでしょうね。語彙が少ないのでの感情表現とかテーマが少ない(反復が多くなる)。物語のテーマとしては同じところ(恋愛)的なところにとどまってそれほど進展がない。そんな感じになるんだと思います。ハーレクインと同じかなぁ、と。

 でも、それが一部で受けているのはケータイ小説というのがその層にとってのリアリティを体現しているからなんでしょうね。こんな感じで


活字中毒R。:10代の女の子たちが「ケータイ小説」にハマる理由

中島:私らにいわせると普通の小説家の人って、「今、起こっていること」が描けてないような気がするんだよね。『Deep Love』の場合は、友だちから拡がっていった感じだったし、最初からものすごく身近に感じられた。


 ただこちらのまとめにもあるように有名な「Deep Love」は「いま流行っているケータイ小説ではない」ということのようです。

松本:Yoshiの『Deep Love』は中学校のときに読んだよ。今流行ってるケータイ小説とはちょっと違うけど、あれは横書きだったからスラスラ読めた。横書きのケータイ小説なら一つの話を一晩で読んじゃうこともあるし。


木村:私も『Deep Love』は読んだんですけど、あれは『セカチュー』と違って「今、起こっていること」って感じがしたし、自分が知らないことをいっぱい知って勉強になったから好き。



 っつーか、「Deep Loveで勉強」ってどんだけ......いや、まぁ、誰しも入り口ってのはそんなもんなんでしょうね。そこから拡げたり掘っていけるかどうかなんでしょうし。

 
 一方こちらはケータイ小説の可能性をもうちょっとポジティブにとらえてみようとしておられるようです。

【B面】犬にかぶらせろ! - ケータイ小説ノススメ

どちらもケータイというツールを、うまく使っていることに感心した。恋愛の機微だったり、アイデンティティの萌芽といった小説の軸を、ケータイという道具だけで描いている。稚拙な部分は確かに多いが、そこに関してはまったく稚拙じゃない。

そして、上二作の共通点としてあげられるのは速度。通常の恋愛小説であれば中盤以降に設定されそうな恋愛の成就のタイミングが上の2作品では、冒頭に来ている。物語中の時間だと出会った翌日には二人の愛は最高潮に達する。後者ではもう結婚の約束までいってしまう。すれ違いというのも、メールの返事がすぐに来なかったとかいうレベルのもので、おそらく半日も返さなければその恋愛は、すでに失恋であるといえるくらいのスピード感を持っている。


 やはり恋愛特化型コンテンツなのだろうか..? なんとなくですがAVの濡れ場的なものとそこにいたるまでの稚拙な演技の対比を思い浮かべてしまったのですが.....(そこまでいうといいすぎなのか?)


 んでそういうのに対して、「内容うんぬんではなく仕掛けによって拡がったのでは?」という見方もある、と。


分かる人にしか分からないとても高飛車なケータイ小説マーケティング概論(入門編) - アート資本主義

そのなかでごく一部の作品が世の中に出て書籍商品として流通するのは、その作品がネットコミュニティで評価をされたというゲートウェイを通過しているからであって、作品に対する純粋な文芸的評価が最初にあった訳ではない。


 ってことはコミュニティマーケティング的な手法ってことになるのかな? セカチューの場合は書店によるポップ戦略(PR)が幸いしたみたいなんだけど(cf.「タイアップの歌謡史」)、ケータイ小説の場合はそれ以前のオーディションシステムのようなところでの盛り上げがポイントだった、と?

 なんか、おにゃン子クラブとかモーニング娘方式っぽいですね。でも、最初からデビュー狙って小説書いてるわけでもないかもしれないのでちょっと違うのかな?

 その後も上記リンクの方の考察は続いてます。(いちおクリップ)

分かる人にしか分からないとても高飛車なケータイ小説マーケティング概論(中級編) - アート資本主義

分かる人にしか分からないとても高飛車なケータイ小説マーケティング概論(上級編) - アート資本主義


 っつーか、「餅は餅屋」ということで中の人による解説が分かり易かったです。

かさぶた。 日本最大のユーザークリエイションコミュニティ魔法のiらんどの秘密とは 『ケータイ小説家になる魔法の方法』

 「魔法のiらんど」のプロデューサー、伊東おんせん氏が書いたケータイ小説の今が一番わかる本の書評です。

 まず、「ケータイ小説とはなにか」ということについて

* もともと携帯電話向けに書かれてない小説を携帯サイトに掲載したもの。
* プロの作家が専用に書いたもの。月額会費など、コンテンツに料金が発生しているタイプや、サイトのアクセス数向上が主目的で無料で読めるタイプがある。
* ユーザーが投稿したもの。その中で人気の高いものは書籍化されることがある。

このうち最も注目を集めているのが3番。今やケータイ小説=魔法のiらんどと言っても、決して過言ではない勢いがある。


 『魔法のiらんどで書籍化された小説の累計部数は今年1月の時点で300万部』、と。


 次に「ケータイ小説の特徴」(文法形式)とは

* 改行が非常に多い。空行のスペースによって間を作っている。
* 主人公が話す時は『』、それ以外の人物が話す時は「」。
* セリフの後に”↓”のような下向きの矢印を入れることで、主人公の気持ちの落ち込みを表現。


 ケータイで読みやすいようにするために上記のようなフォーマットが固まっているようです。んで、こういった文体が独特のスピード感(ライブ感)をもたらしている、と。

 そこから外挿されたdakiniさんのこの言葉は象徴的だなぁ、と思いました。

Webでも紙媒体とは異なる文法が生まれてきたが、さらに極端な形で現れている。実話ベースの小説が多いのも特徴的で、「小説」を書くというより、自分の体験を何らかの形で表現しようとしたら、それがたまたま「小説」と言われるものに似ていただけ。そんな生っぽさがある。



 「小説(文学)ではなくケータイ小説なのだ」ということですね。「スタジオ収録ではなくライブなのだ」って感じに近いのかも。これ関連ではこのエントリが思い出されます。

パンダのため息 Yoshiという人 その1

パンダのため息 Yoshiという人 その2

パンダのため息 Yoshiという人 その3

Yoshiさんは、
作品の文学的評価なんて、
完成度なんて、
作家の存在意義なんて、
全然考えてない。
そもそも「作家」になるつもりはない、という。
たしかに、
『Deep Love』はじめ彼の小説は、
いわゆる小説としてはヒドイし、
文芸ヅラしている編集者はケチョンケチョに言うか、読んでないふりをするし、
文学賞からも文壇からも無視、というか見ちゃいけないもの扱いされている。
でも、彼はそれらをすべてわかったうえで、
「いいんです、それで! 読者さえいてくれれば」
と、力強く断言されてました。
そんな彼と会って、あたしはブン殴られたような衝撃を受けた。
それだけ。仕事にならず。_| ̄|○
とにかく、彼に見切られてますよ、文壇の諸君(=作家&編集者)。



 これを見た感じYoshiさんもご自分のことを「小説家」などとは考えていないのでしょうね。「とりあえずみんながよろこぶおもろいものを提供できたらいい」。そんな感じなんだと思います。



 大体以上が概観。見知ってる範囲での現状のまとめなので特に考察や結論もなしです。(拝)

 ちょっとだけ言うと「小説ではなくライブ」というところが「コンテンツではなくコミュニケーション」というところと似てるなと思いました。そういう時代なのかなぁ。。(ってか日本だけか)



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関連:
ARTIFACT@ハテナ系 - ケータイ小説って著作権関連は大丈夫だろうか

※アマチュア(CGM)ゆえのセキュリティのゆるさについての懸念。市場が拡大していくとありげですね(モバゲーコミュとかゆるそう)

 
 
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2007年07月11日

twitterに宿るアウラ? (体験知と情報知)

 またしてもLivedoorReader不調...。LRっていうかFirefox側の変更かなんかかなぁ。。仕方ないのでLunascape Liteに避難してるのだけれど、なんかうまくいかない。はてぶのブックマークレットの設定ができない....。LunascapeはIEの被せ系ブラウザっていうことで特殊な性格はあるのかもしれないけど、以前はできてたのにな...。新規ぶくま作ってプロパティのURLにはてぶのブックマークレットのそれを設定すればいいはずなのに....うまくいかない。......以前はできたはずなのに(ワケワカメ)
 

 そんなこんなでストレスが溜まってしまった。ってか、最近はFireFoxで生活が最適化されすぎてほかのブラウザを使うととたんに不便感が出てくる。最近ではtwitter関連のアドオン入れてから特にFirefox様様な感じになってる。twitter foxtwitty tunesがやたら強力。前者はtwitterの更新を一時的なポップアップで報せてくれつつ、ctrl+Pで任意のポップアップが可能。ctrl+Lで見てるサイトアドレスをすぐに貼り付けられる。iTunesで聴いてる曲をそのままtwitterにポストできる。ポストの内容はテンプレで決められてていくつか選べるようになってる。聴いてる曲を自動的にtwitすることもできるようだけど、それだとウザイので任意設定にしてる。

 まぁ、そんなこんなでちょっとtwitterがおもしろくなってきてるわけだけど、もうちょっと登録人数増やしてみようかなぁ、と。 というのもどうもこのサービスというのは「体験の共有」というのがメインのサービスのような気がするので。「情報」ではなく「体験」。「情報」の場合はひとつ前のエントリでessaさんが言ってたようなネタ的な面白味が必要になるわけだけど、「体験」の場合はそういった面白みとは別のところに効用があるみたい。

 具体的に言えばtwitterで見られるコミュニケーションでは「似たような情報」とか「情報そのものにはそれほど価値のないつぶやき」が吐き出されてる感じがする。mixiやblogだと「迷惑」ってされるような地味なつぶやき。chat的なつぶやきっていうか、若い子がケータイメールなんかでやるアレに近いように思う。情報の内容そのものには価値はなくて、コミュニケーションすることに価値があるってやつ。(cf.コンテンツからコミュニケーション)

 その乱造感は増田や2chのそれに近い感じもするけど、半匿名ということもあってかもうちょっと大人し目な感じ。ってか、増田とかだとネタ的な組み立てのエントリも見られるけど、twitterなんかだとそれ以前のきわめてゆるい思いつきや情動がそのままアップされてる感じがする。blogだったら通らないようなきわまてゆるくて隙だらけの発言もそのまま横行するっていうか....。

 それは未だこのサービスがアーリーアダプター的なところで愉しまれていてそれほど荒らされていないからかもしれないけど、人が多くなってくると変わってくるか?


 そういうゆるゆるで冗長な情報がメインのように感じるわけだけど、もうちょっと具体的に言うと「晴れた」とか「起きた」とか「ワールドカップ見た」とかそんな感じの一定の範囲内での共通体験の確認(共感)みたいなのがメインなのかなぁ、とか思う。なので、より愉しむためには共通な基盤を持った人をお気に入り(フレンド)に入れておいたほうがいいのかな、と思ったり。具体的には「住んでる地域」とか。時間とロケーションが共通ってことでなんかわくわく感が募るし..。

 blogやmixiなどのSNSでもそういうことは可能だったはずなんだけどtwitterみたいなミニブログのほうがわくわく感が強い気がするのはなぜか? やっぱチャットに似てるから? もしくはケータイメールとか(PCのメールじゃなくてケータイメール)。なんか、距離感が近いメディアチャネルなんだと思う。でも、そこで発信されている情報については基本的に反応しなくていいっていうゆるさがあってその辺がちょっとおもしろい。mixiみたいな同調圧力がないって感じか(cf.読み逃げ禁止)。んで、そういうった中で会話が成立する奇跡感を楽しむ、と。(基本非同期 → 選択的同期ってやつだな)

 2chなんかでスレが成立していく奇跡感のプチ版って感じだろうか。



 んで、まぁ、ぼく的にはちょっと前のエントリでも言ったように主に「妄想処理所」として使ってきたわけだけど、ちょっと「体験の共有」的なところも感じてみようかと思っていま人数増やしてるんだけど....なかなか。やっぱ地元(広島)な人を増やさないとおもしろくないかも。断片的とはいえ、「今日○○へ行ったらうまかった」とか「○○が混んでた」とか「××の店はサービスがうんぬん」、「工事中で・・」、「暑くて川が・・」.......などといったつぶやきを見るとなんかわくわくする。そういう情報というのは「ネタ」化する以前の「タネ」部分のようなものといえるのかも。

 神田さんか誰かが「twitterはみんなによる一次情報の共有体験だ!」って言ってたように思うんだけど、それはジャーナリズムってところまでいかなくてこんな感じの「タネ」っぽいやつなんだと思う。

 ってことはraw journalism的なものとか、essaさんが言ってた「タネ的な共有知」ってやつにも通じるか。でも、このままだとゴチャゴチャして使えないから活用するにはなんらかの仕組みが必要かもしれないけど。それによって「奇跡」感がなくなってしまうかもしれなくて、そういうのは危険だなぁ...。


 そういや「同期 / 非同期」関連でカラオケもそういやそんな感じだわな


痛いニュース(ノ∀`):“1人でカラオケ”を楽しむ人が増えている


 仲間内のざっくばらんなカラオケコミュニケーションでは人が歌ってるのはあまり聞いてなくて自分の曲探しに注心するのがデフォルトなように思うんだけど、たまぁ〜にひとつの歌をきちんと聞いて繋がったり...。(単に、「中だるみで疲れてたから」、ってのもあるのだろうが) そういう共有の感覚はtwitter的なものに似ているように思う。


 ってことはだ。カラオケってのは元からtwitter的なものに親和性があるのかもしれない。カラオケというメディアを通じて期待される効用というのは「コミュニケーションを期待するもの」と「コンサマトリーなもの(≠自足型なもの)」の2つがあって、普段は後者がメインなわけだから「ひとりカラオケ(ヒトカラ)」的な状況が生じる、と。

 「ヒトカラ」ってのはR.パットナムの「孤独なボウリング」を想起させて、なにか関係性の構造転換的な意味合いもあるのかもしれないけど、ぼくはそこまで深刻なものなのではないのではないか、と思う。 むしろ相互承認的な視線を気にせずに「おヒトリサマ」って選択をとれるようになった自主性のほうを評価したいけど。


 んで、そういった人たちがたまに同期を楽しむためのシステムもあっていいのでは、と思う。この辺のSNSってのはむしろそんな感じで展開されたほうが良いのではないだろうか?


あなたの歌のうまさは全国何位?--エクシングのカラオケSNS「うたスキ」:モバイルチャンネル - CNET Japan



 ってか、twitterと同じで「仲間なネットワークで楽しんでもよし(同期がちょっとデフォ)」、「知らない人同士で楽しんでもよし(非同期がデフォ)」って感じだろうか。とりあえず「知らない人同士をくっつける方向」というのも探ってもいいかも。



 ってか、これらの内容って以前に書いたエントリで既出か。


muse-A-muse 2nd: 情報共有時代のコンテンツ (補遺)



 要するに暗黙知的なコミュニケーションって感じなのかもしれない。体験を前提とするコミュニケーションはよりアウラ(≠アナログ)に近くなる、か。(逆説的に)


 
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追記:
「twitterは暗黙知(ex.体験)を交換するのに適した場なのではないか?」関連で、思い浮かぶのはtwitterの話題のひとつとして「twitterオフ」みたいなのが盛り上がってるな、ってこと。
 
ぼくはやったことないけど、なんだか知らないけどtwitterはオフ流れになりやすいみたい。一部の人かもしれないけど。でも、その一部の人でも従来のメディアチャネルに比べてオフへの流れが早い(閾値低い)と感じている人がいるように思う。・・なんでだろう?

twitterというチャネルがケータイメールとチャットの中間みたいな感じだから? つまり「blogやmixiとかよりも気軽」? 「オフ」っつっても絶対集まらなきゃいけないってわけでもなく、twitter的に非同期を前提として、「なんとなく集合」とか「なんだった現地見てみれば?」的な乗りっぽいし。後者はたとえばどっかで事故やハプニングがあって、そのtwitをみて非同期的に現場に人が集まるって感じだろう。(非同期的オフ?)

とすると、「場の復権」ということがひとついえるのかもしれない。メディアチャネルの拡大に人の認識(あるいは実存)が追いつかずに疎外が生まれるってのが危惧がある(参照)。それに対してtwitter的な新しいメディアチャネルにおけるコミュニケーションが「<場>の体験」というアナログ情報を通じて関係性を補填していくってのは面白い。

っつっても、オフ盛り上がりってのはいまがアーリーアダプター的状況にあるから生まれている一時的な現象なのかもしれないけど。でも、「twitterによる現場中継」 → 「非同期的集まり」ってのは面白そうだけどなぁ。(んで、その場所についてのtwittが溜まっていって後で参照できるとおもしろい。「ニコニコ現実」って感じで、現実がテクスチャー化される)


あとちょっと思うのは、twitter / mixi(sns)あるいはサブブログ / blog、によって書く長さや内容が異なってくるだろうなぁ、ってこと。これは前にもちょっと出てきた「長文 / 短文」問題にも繋がる。

「短文メディアで不用意なこと書いたら誤解を生みやすいかも」ってのがあって中文、あるいは長文メディアを好む人がいる反面、最近では短文デフォルトなblogを書く人も増えていたり..。特に日本でそういう傾向が強いみたい。(この前のネット調査でもblogのエントリ数のトップは日本だったらしい。あまり考えずにポンポンとエントリする、と。)

そう考えるとtwitter的なミニブログというのは現代日本人の性質に合ったものなのかもしれない。mixiなんかもtwitter的な内容な人ってちらほらみかけるし。(「それ、1行で済むじゃん?」って感じの)


んで、そういう「短文 = 誤解が生じやすい」ということを意識している人はあらかじめフレンド数を限定して非公開にしてるのかも。


そういや「短文コメント = 誤解が生じやすい」問題ははて部なんかでもあったな。sbmのネガティブコメントの問題。メモる当人としては自分用メモのつもりなんだけど、相手先に見られてて誤解されたり、不安を与えたり。もしくは最初から悪意でネガティブコメント出す人もいるみたいだけど。


っつか、twitter的なミニブログってsbmの一言コメント文化の延長なのか。sbmがウェブの現実とそれに対する自分の気持ち(感想)を記録するメディアチャネルなのに対して、twitter的なものは現実(とそれに対する感想)をぶくまする。特にケータイと連動させてるとその傾向は顕著なように思う。(※ちなみに、twitteの場合、以下をかませばメールから投稿できます)

tmitter


・・「現実2.0」ってやつなのかねぇ。。




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posted by m_um_u at 23:03 | Comment(2) | TrackBack(1) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク

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