2010年02月25日

親愛なる人へ

先日来おもってたことをぼけーっと

愛とか恋とか、オトナになるとか大人になるとか





大人はすぐに「オトナ」=社会的な当然やタダシサに逃げて目の前の、一見些細なコミュニケーションをないがしろにする。

「聞き分けがない」とかいうのは子供に対するオトナの逃げ口上で、そういった言葉に対する反発をもっていたはずがいつの間にか自分もそんな思考をするようになっていて。


あるいは、子供を育てたことがなくても「仕方ない」とかなんとかな逃げ口上が定着したり。


「それがオトナ=社会化することだ」ってのもあるだろうけど、ほんとに大人になるってのはちょっと違うんじゃなかろうか。


いくら言葉や外面的な思考では高尚なことを考えていたり、考えているように見せていても身近なひとたちとの関係に向き合えないようだったら裸の王様みたいなもので

オトナ語を繰り返す裸の王様(王子様)



そういったことに対する反感は、オトナの階段に置かれた果実を摂るうちに、いつの間にか忘れ去られて行く


セックスだの金だのステータスだの


あの頃に望んでいたものはもっと簡単でキラキラしたものだったはずなのに



安易な欲望に流されて惰性になる。社会的、外面的にはしっかりとした「大人」でも単に対峙すべき問題を先送りしているだけで日々のルーチンをこなす自堕落で惰性的なオトナに。


そういった自堕落さを見て「ほら見ろ。いくら高尚なこと言っていてもこれが奴らのほんとの姿なんだ。俺たちと同じさ」って弱い人達は自分を慰める


でも、

自堕落に目の前の安易な欲望に流されつつも、同時になにか考えてたりするのも真実なんだ

それがカタカナ(ドグマ)なオトナ語でもない限りは



そういったアンバランスでアンビバレンスなものは歳を重ねればそれ相応のところに着地できるのだろうか?

弱さに堕することなく、かといってギゼンやオトナぶったドグマにはまることなく着地する地点



そのための鍵はたぶん人への思いやりというか、目の前の人ときちんと向かい合うことなのかなぁ、って。

きちんと向い合って、「些細な」問題でも話しあって解決して行く。あるいは話さなくても寄り添えるようになる。


そうやって問題を解決して行くことを通じて段階的に鍛えられた精神の行き着くところとして、知性や理性のみに偏向することないものがあるのかな



恋愛の問題でもそうだけど、自分のしたいこと言いたいことだけいってちゃダメなんだろう

相手を思いやることに偽装したヤサシサのエゴなんかも

単に「ヤサシイ」だけならお互いにズブズブと腐(共依存)っていく。だから親愛の交換的なものが必要なんだろ




そういうのを抜けて、相手や世間からの見返りがなくてもぢわーっと続けていけるようになったら「愛」ってやつに近づいてるのかな

強いひとや弱い人にハッキリと対するのではなく、ぢわ〜っと陰から寄り添うような。相手に気兼ねさせずになにかのときに励みになるような




かつて制度の檻によって守られ自動化されていた親愛をもう一度自分たちで作り直す場合には相応のコストが必要で

真正面からぶつかってたら時間がかかったり壊れたり

だから、ほんのちょっとの心構えとしてお互いへの尊敬とか、お互いに「借りてる」意識が必要になるんだろう


もしくは信頼が信愛になるとかか


信頼は日常のちっぽけな「踏み出せない弱さ」を越えることの積み重ねとして貯まって行くものなのかもしれない




それがキミのいう「距離感」だったんだろ?






だから親愛なる人へ


ありがとう

さようなら



こんにちは




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関連:
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こやまけんいち個展「棘の部屋のお姫様。」 - All Tomorrow’s Girls
http://d.hatena.ne.jp/fumi_o/20100204/1265253085






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muse-A-muse 2nd: 羊でも狼でもなく「ふつーに生きる」ということ (reprise)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/43805201.html

muse-A-muse 2nd: 「正しさ」と「敢えて指摘しないこと」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/60655517.html

muse-A-muse 2nd: 続「小林秀雄の流儀」  「実生活と思想との間でバランスを保つ」ということ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/123045927.html




muse-A-muse 2nd: 「すべてはひとつであってひとつではない」ということ   (あるいは愛について
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/131485858.html



muse-A-muse 2nd: ひぐちアサ、2001、「ヤサシイワタシ」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/44136823.html


muse-A-muse 2nd: 信じるということ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/44278479.html




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おやすみプンプン 5 (ヤングサンデーコミックス)
浅野 いにお
小学館
おすすめ度の平均: 3.5
4 目を反らしたくなる程現状的
4 もうドロドロ
5 おやプン史上最高の巻
3 青年向けだからの展開かな
3 ありがち



おやすみプンプン 6 (ヤングサンデーコミックス)
浅野 いにお
小学館
おすすめ度の平均: 4.0
4 だいぶ減ったなぁ。。。
5 展開と、プンプンの気持ちの変化?
4 プンプンママがすごい
5 もうムムニャムヤ
3 え、何で何で




ソラニン 1 (ヤングサンデーコミックス)
浅野 いにお
小学館
おすすめ度の平均: 4.0
3 ソラニン
5 もがきたくなるときもある。
4 「大人」が読むのもアリです。
2 ストーリーに深みがない
3 いつ、それを終わらせるのか






少年少女 (1巻) (Beam comix)
福島 聡
エンターブレイン
おすすめ度の平均: 4.0
4 大人のための少年少女
2 45過ぎの私には面白さがわからなかった、残念
5 いずれも 読み飽きない名作の短編集
5 達者。
4 生と死のジュヴナイル





ヤサシイワタシ 1 (アフタヌーンKC)
ひぐち アサ
講談社
おすすめ度の平均: 3.5
1 作者の自己満足?
4 ヤサワタ
4 こういうのが大学のサークルなのかなぁ
5 いやぁ? まいったよ!
4 この舞台になっている




家族のそれから (アフタヌーンKC)
ひぐち アサ
講談社
おすすめ度の平均: 4.5
4 若さ故の冴えた感性と自他の温度感
5 良かったと思う
4 ホームドラマ/デビュー作
4 腐女子のひとへ
4 残された人って辛いですよね




おおきく振りかぶって (1)
ひぐち アサ
講談社
おすすめ度の平均: 4.5
5 でも、好き。
5 野球をしてる人達はこんなにも頭脳戦をするものなのか。
5 息づく青春!野球!夏!部活動!!
5 あなどっていました
3 ありきたりかな。




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2009年11月24日

Rebecca Horn    性と生の超越


Now my hair is a glorious black, black as the raven's wing

(ANNE OF GREEN GABLES) Lucy Maud Montgomery







居明かして 君をば待たむ ぬばたまの  我が黒髪に霜は降るとも
            
                            (磐姫皇后








としとしに  わが悲しみは深くして   いよよ華やぐ いのちなりけり
                       
                       (岡本かの子、「老妓抄」











東京現代美術館でやってるレベッカ・ホルン展にいってきて


「レベッカ・ホルン展−静かな叛乱 鴉と鯨の対話」 東京都現代美術館
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/107/


東京のアート情報を発信 立川直樹責任編集"TOKYO ART PATROL"〜東京アートパトロール〜 : 静けさに潜む暴力性 知的で優雅な官能。何度も通う価値のある「レベッカ・ホルン展」
http://blog.excite.co.jp/tap/12299550/




思ったよりよかったしなんかいろいろ思うところあったので感想日記。

概要とか略歴はいまあげたリンク先を見てもらうとして、以下は自分的に思ったことの羅列的に


この人の作品とかどういった人かということはぜんぜん知らなかったんだけど、なんとなくそろそろ現代美術見に行きたかったし紹介写真にあった鴉の羽の作品がよさげだったので観覧することに決めた。


そんで、外枠的テーマはマーティン・クリードと共通する


muse-A-muse 2nd: 意味以前へ  Martin Creed展にいってきたよ (reprise)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/122569128.html



社会的に作られた意味の相対化・解体という感じ。ただ、先取りして言うと、それに終始することなく解体と相対化からさらに一歩進んでるように思った。彼女なりに「世界」と向き合うためのコードを伴って。

そのキーコードが「鴉」。

ここでのコードは攻殻機動隊なんかで見られるプログラム突入の際に使われる特定コードをイメージしてもらうといい。



私見ではコード「鴉」は日常の時間を超越した「闇」の象徴であり、また彼女が相対化しようとした「女性性」もまとっている。女性性というほど具体的なものではないのかもだけど、ほかの記号とは違ったみずみずしさというかウェットさをもっている。

それはすぐに「性」にむすびつくわけではないだろうけど、「貝」みたいな感じであからさまに表現された生物的「性」や、女性性をまとった女性にヒゲをまとわらせて遊ぶことによって社会的女性性を挑発している作品で表現されたようなものとは違った形での「性」との向き合い方だと思った。


社会的「性」でもなく生物的「性」でもない、自分の中に自然と埋め込まれている「性」の許容。



それが鴉のぬばたまの羽



(ここでいう「性」は「生」のアンテナのようなもの。その意味では竹田せいじさんなんかがいう「エロス」的なものにも近いけどそれほど大きな指向性をもったものではなく、もうちょっと微細でおぼろげで生活の感覚的なもの)



そして、

そういう形で自らの中の女性性を許容、あるいは向き合うことで利用することを選んだ彼女が最後にみせたものが靴の中への託卵的なものだったのはなんか象徴的だった。

彼女にとって「靴」のコードが何を表すのかまだちょっと定かではないんだけど、社会性というか社会の規則かなぁ

あるいは、往々にしてその規則に従い家計を支えるのは男性であることが多い、ということから「そういったものに自らの卵を預ける」ことを是しとして選択した、ということなのかなぁ、と。


彼女の場合は一般的な大部分の女性と違ってひとりで食ってけるから社会制度の象徴ということかもだけど。「靴」という小さなものとして表現したのは自分が住んでいる行政区域や、映画作りの際の制度みたいなものかなぁ



早足だったけど全体の概略というか物語としてはそんな感じだったように思う。それは「大人の選択」のように思った


Martin Creedのときには「構築されたものはすべて相対化する」あるいは「宇宙人の目から見るとそれは不思議なだけ」という感じで作品が展開されていて、最後まで社会や言葉の解体に終始してたんだけどなんとなくRebecca Hornの場合はその先を表現していたようだった。それは「一般的にこうすべきだ!」的な大上段に構えたものではなく彼女なりの世界との向き合い方




さて、早足過ぎたのでもうちょっと詳細に個々の作品というか流れ的なものについて語っていこう。


展示会場に入ってすぐにはローテクなオートマトンによる小作品群がある。

「相互破壊の場」(全自動なピストルがお互いに狙いあっていてその後ろには無限に続く鏡がある)や「ジェイムズ・ジョイスのためのヌーグル・ドーム」、「ピーコック・ペンシル・モーニング」、「バタフライ・ムーン」など

あとから思ったけどこれらは大きな機械だと社会的「システム」チックになるのでだめで、ローテクな小さな機械であるからこそ良かったのだなぁ。

オートマトンは時間性を超越した永久機関のようなところがあるし、小さな機械たちには自らが生み出した子供たちのような愛着がわく。フランスの自動人形のような。そしてスチームパンク的なローテクへの滋味と愛着。

そういった子供たちが不器用ながらも「わたし」が対峙している問題や美しいと感じる瞬間を表現し、時を刻んでいく。

魔女が生み出した子供たち


貝殻の間では「性」の生物的機能が対象化され、大きな泉では時間が超越される

「ペソアのためのハート・シャドウシネマ・ヴェリテ」と「鯨の腑の光」では時間の描き方がちょっと違う、というか前者が流れる時間を表現していたのに対して後者は時間が止まった空間を表現していたように思ったけど。そしてその空間では言語(-社会)も超越される。


あとでキュレーターの人の解説本っぽいのみたら「鯨の腑の光」というのは旧約聖書のヨナ記なのだそうな


「大魚の腹の中にいたヨナ」 代々木上原教会:礼拝説教
http://www.yoyoue.jpn.org/worship/getPreach.htm#05_02_20



われらは鯨の腑というヨナの空間を通じて時間(世界と存在)や社会を解体し、社会に帰るイニシエーション(しるし)を得る。


「鴉の木」は漆黒の時間を黄金の軌跡で迎える



屋根の先端で
目を閉じたまま深遠をまさぐる
私の下、木々の中で鳴く鴉たち


昇る太陽の光線が
私の身体を貫く


音もなく鴉たちは木々より飛び立ち
太陽の金の光の周りを回り
朝日の町を曇らせる


空の青に刻まれた
束の間の黒い黴のめまい







夜の闇は束の間われらを日常の時間と生活から解放してくれる。

漆黒の中に永遠につづくかのような落ち着いた時間がある。


朝陽はそんな夜のとばりを溶かしていくけど、カラスは朝陽の中で溶けつつ飛び立つ

そのあとには黒と金の軌道が残される



それはまるで生命の螺旋のような軌跡

あるいは攻殻機動隊2で見せられたヤタガラスの導き(ヤタガラスは時間と生命の有限を超越した旅にわれらを誘う)




壁一面にちりばめられた鴉(黒)の徴

それは黴のようにわれらの社会を侵食していく


黒に染まることで、われらの生き得る場が広がっていく



音楽は時間芸術

ピアノや楽譜を破壊することで社会的時間を破壊・超越していく






各作品についてのアウトライン的にはだいたいこんな感じのことを思った。



映像作品のほうは(社会的意味が解体された後に相対化された)コミュニケーション/ディスコミュニケーションについて描かれていたようだけど、これは要約とかではなく作品ずーっとながしっぱということで遠慮させていただいた。各作品1時間半ぐらいあるし。。




あとは自分的に頭に浮かんだ作品リンク


鯨の腑の光ということではやはり「海獣の子供」が思い浮かんだ


海獣の子供 4 (IKKI COMIX)
五十嵐大介
小学館
おすすめ度の平均: 4.5
5 神秘と恐怖
5 感覚が広がります
5 海と宇宙が奏でる交響楽の調べに魅せられます
5 いままでこんな面白い漫画を知らなかったなんて!
3 つまらないからじゃないんです



おそらく海くんたちも鯨の腹の中で時間と(有限な)存在を超えていくのだろう。


そして本当の意味で自然とつながる


魔女 1 (IKKI COMICS)
魔女 1 (IKKI COMICS)
posted with amazlet at 09.11.24
五十嵐大介
小学館
おすすめ度の平均: 4.0
4 芸術的な作家
5 虜になりました
3 なんだか騙されたような。
1 あーあ
5 マンガの枠を超える作品


魔女 2 (IKKI COMICS)
魔女 2 (IKKI COMICS)
posted with amazlet at 09.11.24
五十嵐大介
小学館
おすすめ度の平均: 5.0
5 魔女とは何か
4 購入前の注意…か?
5 気がつけば涙を流していた「PETRA GENITALIX」の話に、星七つ
5 見るものとの体験を共有する
5 1より更にパワーアップした作者の世界



スピリチュアルとかそういうのではなく自分の中にある自然でもいいんだけど


託卵や社会化ということでは「鵺の砦」を思った


鵺の砦 (BEAM COMIX)
鵺の砦 (BEAM COMIX)
posted with amazlet at 09.11.24
福島 聡
エンターブレイン
おすすめ度の平均: 2.0
2 中間



サイレントなショートショートなので初見だとわけわかんないけど。女性が「卵を産む動物」という選択をし家庭にはいっていくことなんかが表されている。


あとは先ほどいったこれとか


攻殻機動隊 (2)    KCデラックス
士郎 正宗
講談社
おすすめ度の平均: 3.5
5 難しく考える為の本
3 前作「攻殻機動隊(1)」の続編
3 楽しめる部分と全くそうでない部分の2面性
2 難解と言うより・・・難読というような。
1 難解





だいたいそんな感じ


「魔女」ということについていえばRebeccaはもはや魔女のような精神性を持ってるだろうな、とか思った。

それはもはや精神的な意味では老いることのない永遠にたどり着いたということだろうけど、


「いよよ華やぐ いのちなりけり」、か


タグ:art
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2009年11月11日

そして巡りあう日々

先日ひできさんとこでお話させていただいて


時間の加速と人間圏 - HPO:機密日誌
http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20091105/1257438023#c1257542970



ちょっとコメント欄長くなってきたので自分とこでひきとってエントリにしたほうがええんかなぁとか思いつつも貯まってるエントリもあるのでってことで逡巡してたらやっぱ長くなっちゃったし自分的にもまだちょっと残尿感みたいなのがあるのでこちらでひきとっとこう。


最初の話は以前にもひできさんが気にされてた話だなぁって感じ。全体的には「技術の進歩によってわれわれはどこに向かうのか?」-「攻殻機動隊的な世界におけるリアリティ(実存)とは?」的なのかな。

なので以前と同じくメディア論における関連図書を紹介しつつあいかわらず自分も未読だなぁとか…


「場所」と「社会」 (book review)
http://www.tku.ac.jp/~juwat/blog/book_blog/2007/05/post_59.html


あとはヴィリリオのメディアと速度と時間、場所論。よくしらんけどハイデガーとも関係あるみたい


とりあえず一番最初の話のアウトラインとしては、「人は文明(技術)を用いて(自然(nature)を開拓し)自然にある動物とは違う動物、宇宙人みたいな存在になってしまった」、みたいな話。

この辺りは「自然 / 人」の二項対立によって作られてきた近代の合理性の賛美(いわゆる「進歩」のワナ(「自分たちは進歩しているのに対しておまへたちは野蛮」))に注意しつつ、技術であり文明の向かう先とはどういうものなのか?というところに思いをはせたり。

「われわれはどこからきてどこへ行くのか」


「どこに向かうのか?」ということでは封じ手的にちょっとついったでつぶやいてたりした。

http://twitter.com/m_um_u/status/5492458575

http://twitter.com/m_um_u/status/5492495444


てか、この話は少しご紹介(ムチャブリ)したこれを受けてのものつぶやきなんだけど



戦国時代は寒冷化による食料争奪サバイバル戦争だった:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090911/204592/


 人口学的には、男性の識字率が50%を超えると、その社会全体の不安定性が増して攻撃性を帯びる。さらに何十年か遅れて女性の識字率が50%を超えると、やがて出生率が2付近まで低下して、社会全体が落ち着きを取り戻し、攻撃性・好戦性は有意に低下してくる。そのメカニズムは、次の通りである。

 男性識字率が50%に達するということは、若者世代の大半は字が読めて、書物などから新たな知識体系の吸収が可能であり、自我に目覚めるのに対し、彼らの親の世代は大半が伝承による伝統的知識体系に頼っている状況である。





この「50%」って数字がなんかベキと関係するのかなぁとか思ったので。(オラの理解では)ベキ乗則というのはシステムがある段階を越えて変化する際のわりと蓋然性の高い一般法則って感じなので。いわゆる「キャズムを越える」とかそういう言われ方されてる際の指標。「キャズム越え」なんかはもろにネットワーク外部性関連だからこの辺なのだろうけど、あとはデファクトとれるかどうかの指標とか。ギブスンなんかが「蓋然性の壁を越えるんだ」って表現してたアレだと思う。


んで


その際、なんらかの壁を越える閾値的なものというか、ベキ乗則にしたがって指数関数的に膨らんだなんかの値によって壁が越えられるんだろうけど、そのベキが発生する際、システムはどの方向に向かってベキってるのかって問題がある。

新たな系の法則(価値観)が生まれるのかそれとも旧来の系の価値を辿るのか。ここでいう「系における価値」というのはルーマンが「貨幣」「愛」「権力」などで示していたものをイメージ。
http://www.nagaitosiya.com/b/exchange.html


細かいところで自分的認識とはちょっとずれてる気もするけどカテゴリのたて方としてはそんな感じ

そんで戻って、文明あるいは技術といったものが進もうとしている方向性というか、その基盤となっている価値、あるいは原則的なルールというのはどういったものなのか?


メディア論的に、というか人の情報処理機構的には「アナログ(全体)→デジタル(分節)」は鉄板のように思う。言語なんかにしてもそうだけど人は生のまま感応し認識していたものをメディアを使って分け、それを自分の中で組み立てなおして認識してきた。いわゆる「分析」という過程。

分析的過程-デジタル的な認識を外部に表出し、その表象を見直し反省する過程を通じて長期的展望を得てきた。

しかし、外部化したものに頼ることによって以前のような全体知的観能力(感性)が失われたように思う。

そういった知が失われてしまったのだとしたら、理論的には次代は2つの弁証法的なものが求められるわけだけど。。


あるいは分節(分析)と全体の弁証法的発達は一つの系だけでとどまるものではなく複数の系をまたがった螺旋状の繰り返しのものだったのかなぁとかも思ったりするけど。(システム → サブシステム → システム → ……)



とりあえずそんな感じで(一見透明にみえる)技術にもなんらかの発展の方向性のようなものがあるように思う。この辺の議論は技術決定論批判なんかでも言われてきたことのように思うがいわれてなかったかもしれないのでうろ覚え。


muse-A-muse 2nd: 中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話  (応用編)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129946855.html






というか、ゲシュテルの話にも通じて


ハイデガー「技術論」から考える新しいゲシュテル: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/12/post_19d2.html


人というのは自分の作り出した子供(技術-文明-システム)に飲み込まれそうになりつつ、それを超克していこうとすることを繰り返しているのかもしれない。ベヒーモスやリヴァイアサン、人形や「壁と卵」。


そういった「文明」による時間感覚がタテの歴史認識だとすると古来からあった時間認識やそれに基づく死生観(あるいは実存)というのは円環状のものだったのではないかと思う。

ここでいったような

muse-A-muse 2nd: 中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129773060.html


「文明」≠リテラシー(識字化)≠ゲゼルシャフト、という仮定に基づけば、「文化」≠オラリティ(口承)≠ゲマインシャフト、的な区分けもできる。

ただ、この区分けもけっこう曖昧なもので「文化」的なものも都市の中で発生しているし、文字が流入してきてもゲマインシャフト的な感覚の人々はいた(あるいは現在もいる)ということはあるのだけど、まぁとりあえずテンニースがしたぐらいに曖昧でちょっと分かりやすい区分けとして。


そんでゲゼルシャフト / ゲマインシャフトの時間感覚の違いで最大の特徴は「繰り返し」ということにあると思う。

それが生じるのは口承文化圏の歴史の語りに依るものではないかと思う。すなわち歌(抑揚)に載せて歴史を紡いでいくわけだけど、歌われる言葉は変わっても抑揚は変わらない。ラングとパロールみたいに。それで「同じ歴史が形を変えて繰り返されていく」って認識が身体に染み付いていくんじゃないかと思う。

ちゃんと調べたことないんだけど、いわゆる輪廻転生的な考え方の分布というのもこういった歴史認識の分布と対応するのではないか?

目の前の人は死んでもまたよみがえる。同じ名前を伴って (反対に言うと名づけられるまでは人の世に生を受けていない cf.ヤノマミ


そのようにして死は終わりではなく極端に恐れる対象ではなかった。


しかし、単線的歴史観によって時間と生命の有限性が再認識されてからはわれわれの生は常に死の恐怖におびえることとなった。それによって時計の針が進み始めたともいえるんだけど、それは本当に「文明」的で「進歩」的ですばらしいことだったのだろうか?


そしてゲゼルシャフトな現代のわれわれの生と性のあり方、人口は国家と産業によって基底されている





技術の進歩によって人口は増え、言語→文字による記述と反省の過程が再帰的な承認を促し、われわれを個別の「正義」に向かわせる。その結果として戦争があるわけだけど、それはより大きな視点からすると自然による人口統制的なものでもあるのかなとか思ったりもする。

最近の居場所の話も含めたlifeのコンセンサスとしては、「システムによって基底されたものだったとしてもそういったベタをわれわれが認識し、反省し、再選択することを通じてわれわれ独自の文化がつくりあげられていくのではないか?」、ってことだと思う。

ゲゼルシャフト的な都会の中にも文化ができ、それを基軸にしてわれわれの居場所ができていく



文化系トークラジオ Life: 2009/09/27「“居場所”の現在」 アーカイブ (特に後半の外山さんが出てきた辺りから)
http://www.tbsradio.jp/life/20090927/



そういった生身の、血の通ったつながりを通じて国家や産業によって過剰に加速された感覚に対することができるのではないか?いわゆる「地に足が着く」という感じで。



あるいは、それを通じて遺伝子によって決められた縛りへの恐怖にも向き合えるのかもしれない


心の中の暗い核 - finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070125/1169707298



単に「みんな仲良くヌクヌクしてたらこわくないよー」ってのとも違って、異なった感覚を持つ人たちがなんとなく繋がるというか、繋がらなくても似たような感覚持ってる人がいるってことに気づく安心感というか。


時間というのもおそらく個別のものなのだろうし


私の前に携帯電話が存在するということ、あるいは現成公案 - finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20040626/p2




なんか雑駁になってきたのでいちおまとめると、「われわれの時間や実存感覚というのは技術-文明によって過剰に煽られてブレてしまったところがあるかもしれないがその感覚というのは目の前のわたしとあなたのつながりを通じて修正できる」、ということ。

それとは別にわれわれの奥底には決して他者とは共有できない個別の部分もあるわけだけど…まぁこれは「そういったものをお互いがもってる」って認識しとくだけで良いようにも思う。たまには川原でひとりで穴掘ってる時間が必要というか…


さらに、そういった話とは別個にわれわれの技術/文明がどこまで行くのかって不安はあるわけだけど、この辺は昔ながらの不安というか、人はそんな感じで技術を通じて疑似生命を作り出して行くようなところがあるし、昔からやってきたことなのだからそれほど不安になることでもないかなぁ、とか。


着地点というか、帰るべき場所さえ見失わなければ大丈夫なんじゃまいか




プラネテス (4) (モーニングKC (937))
幸村 誠
講談社
おすすめ度の平均: 5.0
5 もうひとつのフィーの物語
5 ロックスミスには彼自身の葛藤があったんだろうな、と思う。
5 人がいる 愛がある
5 これくらいがちょうどいい
5 目を背けずに。




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2009年10月29日

「すべてはひとつであってひとつではない」ということ   (あるいは愛について

わたしは愛する、

没落して犠牲となるための何か或る根拠を、まずもろもろの星の背後に求めたりしないで、大地がいつか超人のものとなるように、



大地に身を捧げる者たちを 


                    (「ツァラトゥストラかく語りき」)







先日、いぬこの日記をぼけーっとみて


どこまでを自己と認識する社会なのか。 - はてブついでに覚書。
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20091018/1255887730



自分的には「ああ、愛が広がっていくねぇ」ってわりと素直に肯定できた。そういえばちゃんみつはpay forwardでありボトルメール的なものにも言及してたしな、って。それは贈与交換的なものなんだけど。

即時的な等価交換ではなくて、「帰ってきたらいいなぁ」的なものをかすかに期待する(帰ってこなくてもいい)ようなタイムラグのある交換。


んでも、ついったできんぐなんかが「ああいう愛の広がりはなんか却って怖い」っていってるのみてまぁその気持ちも分からんでもないな、とか思った。

女の愛は無限というか、女にも限らないんだけど、無限に甘受されることへの恐れというか相手の底が知れない慈愛に包まれていくことへの恐れ、みたいなのがあることは分かる。


その恐れというのは相手の大きさに対するものだったり、あるいは自分と他者の境界がなくなり自分というものがなくなるかもしれないということへの不安だったり、もしくは愛によって自分が遅くなってしまうのではないかという恐れ。(たぶんきんぐのは最初のほうだけだろうけど)


「愛によって遅くなる」という感覚はたぶんほかの人には分かりにくいのだろうけど、いろいろ端折って分かりやすく言えば「人間らしくなる」ということだったりする。

人としての感情や幸せのようなもの、そこへのぬくもりを捨てがたく思ってしまうがためにほかのものをあきらめていかざるを得ない状況が発生すること。

それがぼくにはこわい







対して、「それはトレードオフではなく愛によって可能性がなくなるのではなくよりいっそう新しい可能性が広がっていくのだよ」、というのもわかる。子供とか、そういう不確定要因から生まれる新規性とか。

「変わっていく自分自身を楽しむ」ということだろうなぁ、と。


それ自体はいまの生活でも分かっていて実践しているつもり。


でもやはりそれを言い訳とする部分はあると思う。なので、一般的な意見ではなく自分の個人的選択としては、まず自分の道を究めたいと思っている。そのためにはまず生活基盤を作ることであり思考するための環境を整えることだが。


ああ、最近のなじみの人には分かりにくいだろうけどぼくは人生の一義的目標を自分自身の知と理を究めることに置いているので。なのでくだらないプライドとか承認とか愛とかそういうのも必要とあれば捨てる。


まぁこの辺についても「誰かが側にいてもやれないことはないし、誰かが側にいるからこそ力がでるものだ」というのもあるとは思うんだけど、その辺はさっき言ったように循環論だ。


とりえあえず引越し後の卑近な課題としては稼ぐ基盤作り直すことだが




自分のふざけたペルソナとそれに反した冷たい態度というのはたぶんそういうところから生じているのだと思う。

ペルソナがふざけすぎてるのはそこまで自律的にコントロールしているわけではなくて地の部分もでているのだろうけど、ある程度のふるいにはなってると思う。そのペルソナ自体ではなく、その後ろにあるものが読み取れなければそれはそこまでの人なのだなぁという感じ。傲慢だが。

そんで特にわかって欲しいとも思わない。いや、そうでもないか。自分がある程度好意を持っている人に理解されなかったらチクりと痛いものではあるけど、それは弱さだなと思う。そういった弱さを見つめなおして痛さを我慢しないように自分の社会的行動を統制する、というのもあるのだろうけどまぁネットのは半ば戯言だから。


てか、まぁ、普段でもそんなに度を越えることはしてないと思うし双方の暗黙な共通理解的なものは認識していると思うんだけど、相手が変化してくると分からないことがある。それはたぶん恐れや親愛や、それによる他者への幻想の投影によるものだと思うけど。

そういう変化というのは相手を過大評価していたときには分からない。


ことりこなんかがオレには徳がないがないとかいうけど、たぶんそういうところなんだろう。つか、たぶんことりこも徳というものがどういうものか分からずにいっているところがあるだろうけど。


憐れみというか、体面を傷つけないようにするというかそういうところに疎くなるときはある。自分の中にない感情、自分的にはとるに足らないプライドなんかがその掛け金だったりするとわからない。


そしてたまにそういうプライドをくすぐってやりたくなる。自分のペルソナというのもそのための仕掛けみたいなところもあるのだろう。


あるいは知識や理性への自負による傲慢さのようなものを感じてしまうのだろうか。そしてそれが恐れのようなものを生むのかな。

といっても、そういうのは知識や理性を鼻にかけ他人を見下している(簡単な勝利を味わっている)、というつもりもないのだけど。単に自分のことをふつーだと思っていて、それに合う相手かより強い人と話したいだけ。そういう相手に出会ったり負かされたときには素直に尊敬ができる。


でもまぁ、他者の不安や恐れや近づきたい気持ち、あるいは「もっと違う評価をして欲しい」という気持ちは尊重すべきなんだろうなぁとは思う。あるいはそれに気づくことができなければ距離をとるべきなんだろう。




そんなこんなで自分はまだ修羅にあり神には程遠いなと思っていたわけだけど、先日のひできさんとの話でその辺がちょっと救われた気がした。





この対話自体が素直に負けを認めるというか、お互いに勝ちも負けもないような、ケンカのような議論とは違ったものだったように思うんだけど。

キリスト教とローマとの兼ね合いの中からイデア(本質)と事物が分けられた、という話が面白かった。これは「私/他者」の分離とも似ている。



そして「私と他者」の問題、「イデアと事物」という二項対立な問題は名前を変え、そこでやり取りされる要素はより細かくなりつつもいまだに哲学の難問として残っている。

それらがずーっと解かれないのはたぶん私と他者はもともと分けられたものではないからだろうけど。言葉によって世界とのつながりがわけられると同時にセカイが認識されhack可能になったというのもあるんだけど、それによって以前にあったような世界と人との直接の結びつき(包まれているような感覚)は失われてしまった。


構築主義の問題意識や禅の公案によるマインドhackもこういった言葉の自明性というか、言葉によってしか考えられない状態を解いて自分なりに世界と接続しなおすための試みなのだろう。ヴィトゲンシュタインとかだったら言語ゲームっていうのだろうけど。


(※イデア論については神の存在を認めさせるためにイデアという概念が作られ、その代理である教会の権威がもちあげられた、という話。「ものに名前があるのは神様が存在していてモノに名前をつけたからだ」、というもの)



そして、ここでまた最初の話に戻ってくる。

私と他者の分離はおそらく「子供の発見」と同じように近代において明確に分けられたものなのだろう。中世の村落共同体の農民、あるいは遍歴商人にはそういう概念がなかったように思う。自他の差がことさらにつかなければ欲望や嫉妬は生まれない。





そもそも境界がない


とはいっても全てが溶け合っていたというほどではなくいまほどの明確なプライベートがなかったというだけなんだけど。たとえば職人なんかは親方の家にまとめて寝泊りしててプライベートもパブリックもなかったし。

でも、そういう感覚の中での他者との線引きというのはすごく曖昧だったように思う。それがそのまま愛に結びつくのかはびみょーだけど。




あるいは、村落共同体以前のもっと原始共同体的な生活においては人は自然と感応し、中世よりもさらに自他の区別が不明確だったのかもしれない。というか、「自然の中にあって自然に包まれ生かされている」感じ。「自分は自然の一部なんだ」という感覚が強く残っていたように思う。



友と敵の二項対立は彼我の分離と貯蓄→リソースが限られていることによって生じるものだけど、その元となる私と他の分離という前提から生じる微妙なゆらぎが不安や恐れ、過剰な愛、幻想の投影なんかを産むのかも。




「すべてはひとつであってひとつではない」




個人個人が一人のひと(肉体)として存りつつ自然というネットワーク(天)に繋がっているから。それらは人間的な知性や理性のほかにもさまざまな情報によって構成される。


そして、天が理に通じているから対話したあとにもあんなに素直な気持ちになれたのかもしれない。対話的理性というか、ネットワーク的結びつきによる縁の中から対話が生じ、対話を通じて世界にもともとあった「理」や「知」が掘り起こされた感じ。


こびとさんをたいせつに (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/10/03_1726.php


それはどちらのものでもなく天に還されるものなのだろう。だから競争(不安/恐れ/怒り)が生じない。





そういった出会いに感謝するし、たぶんこれからもそういった出会いが待ってるんだろう。






だからたぶん大丈夫







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あと、キリスト教とローマとの兼ね合いの中からイデア(本質)と事物が分けられた、という話の元ネタはたぶんこれ


現代思想としてのギリシア哲学 (ちくま学芸文庫)
古東 哲明
筑摩書房
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おすすめ度の平均: 4.5
5 次世代の啓蒙書
4 なかなかおもしろい
5 驚きの連続、それが本書
4 退屈なギリシア哲学を面白く読ませる本
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ということでよまねばねば




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関連:
muse-A-muse 2nd: 「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121774176.html

「決まっている」と「自由」っていう二律背反であり矛盾が並立し、それを納得できるというのが人間存在の実存性、みたいなの。あと、自分なりの生き方関連で。



muse-A-muse 2nd: 「小林秀雄の流儀」 - 現象学的還元?
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/122453130.html


muse-A-muse 2nd: 続「小林秀雄の流儀」  「実生活と思想との間でバランスを保つ」ということ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/123045927.html


「実生活と思想の間でバランスを保つ」、ということについて



muse-A-muse 2nd: 竹田さんの現象学入門がよくわかんなかったね、って話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/125770819.html


小林の話にも共通するんだけどそういった生き方に汎用的な型が存在するんじゃなくて、とりあえずの心構えとして「あらゆる事態に対処できるように構えずにおく」ということ。意拳みたいな中国拳法系の脱力


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2009年08月27日

黒沢清、2008、「トウキョウソナタ」

見たので感想。


トウキョウソナタ [DVD]
メディアファクトリー (2009-04-24)
売り上げランキング: 4986
おすすめ度の平均: 4.0
1 期待の割にはよくなかった
3 微妙だ  
3 かなり期待していただけに。。。
4 リアリティをあえて排した舞台劇のような映画
5 とてもクールなコメディ映画



先ほどの「サマーウォーズ」でもチラッと触れた「現代の都会の家族のすれ違いの問題(家族でありながらみんな違う方向を見ている)」という点ではこちらのほうがピンポイントだったように思う。

 
物語としては面倒だから概要は面倒だしこちらでまとまってたので借りちゃおう


黒沢清監督『トウキョウソナタ』 - LA TRISTESSE DURERA
http://d.hatena.ne.jp/The-Man-Who-From-Northland/20090416/1240139714


東京の小さな一軒家に暮らす4人家族。父親はリストラされたことを家族に言えず、スーツを着て会社に行くふりをしながら、毎日ホームレスの炊き出しに並ぶ。大学生の長男はアメリカ軍に入隊することを夢見て、小学生の次男は家族に告げずに給食費を使ってこっそりとピアノ教室に通う。母親だけが一見まともであるけれど、免許証を取ったばかりでオープンカーを買う日を夢見ている。

奇妙な不安定さの上でもかろうじて小泉今日子演じる母親の力によりこの家族は「家族」として成立しているが、長男が「アメリカ軍に日本人として入隊する」と告げる辺りから不穏な雰囲気が流れ出す。父親の猛反対の中にあって、長男は結局軍へ入隊し、イラクへと派兵されることになる。3人での生活になった後、次は次男がピアノを習っていることがついにばれてしまう。「素晴らしいピアノの才能があるから、ぜひ中学校は音楽学校へ」という葉書を目にした父親は怒り狂い、次男を階段から誤って突き落としてしまう。物語の一つのクライマックスがこの瞬間で、「俺の権威を保つために息子の好きなようにはさせない」と叫ぶ父に対し、ついに母はリストラされていることをずっと前から気づいていたことを口にしてしまう。そして「そんな権威なんか潰れてしまえばいい」と冷たく言い放つ。このシーンの小泉今日子からはぞくぞくするような冷気が迸っていた。

このまま崩壊に向かって走り出すかと思いきや、物語の異物として登場するのが役所広司演じる泥棒の存在である。母にナイフを突き出し、一緒に逃亡することを強制する。取ったばかりの免許で運転させられる車は、前々から目をつけていたオープンカー。この運転のシーンは映画中最もコミカルな場面で2人の掛け合いが素晴らしい。逃亡して行き着いた先は海岸の崩れかけた納屋。そこで朝を迎えた母は、オープンカーと車が消えていることに気づく。砂浜に残る車のタイヤ跡は海へと続いていた。

泥棒と奇妙な一夜を過ごした母と時間を同じくして、父親はこっそり勤めているショッピングモールの清掃作業から抜け出し街を彷徨い続ける。次男も同じく街を彷徨い続けて、一晩を留置場で過ごすことになる。それぞれ過ごして不思議な一晩の後、3人はそれぞれが自宅へ帰り朝御飯を共に食べる。各個人が経験した一晩により、この家族が何かを見つけたことが示される。それは決して強い繋がりではないかもしれないが、だからこそ逆にこの先の家族を安定的に結びつけていくようなものである。



リアルな状況においては役所広司演じる泥棒がでてくる前の段階で袋小路であり詰みのようなものだと思う。それだとお話が進行しないのでトリックスター的に役所を投入。「黒沢作品で毎度おなじみ」ってところも茶目っ気。

そこからの話の展開、因果関係というのはそれほどの必然性をもっていなくて、たんにそれぞれが走るシーンを撮りたかっただけのような。「袋小路に行き詰ってそれぞれが走る」って場面。なんだかわかんないけど人はそういった行動の中で固有の答えを見つけたり見つけなかったり、あるいは新たな転機に出会ったり出会わなかったりするし。


そして一度は崩壊した家族を結びつけるイニシエーションとして「ともに食卓を囲む」が実行される。




「都会生活の中ですれ違う家族」というテーマについて、この作品でも解答らしい解答は出せていなかったように思う。むしろそれについて安易な解答にはしらなかったところが誠実だなぁとは思うのだけれど。敢えていうと月の光がそれに当たるのかなぁとか思った。

泥棒と奇妙な一夜を過ごしているとき小泉今日子が夜の海の上に輝く月の光を見て嗚咽する場面。「自分はなにをしているのだろう?」「自分はなぜこんなところに来ているのだろう?」「私たちはこれからどうなってしまうのだろう?」…そういった不安が月の光の静謐な美しさに対称化されて浮かび上がった場面のように思った。

そして光はただ不安を映すだけではなく道のようなものも照らしてくれる。


最後は音楽学校の受験シーンで次男がドビュッシーの「月の光」を演奏していたのはそういう含みがあったのかなぁ、とか。崩壊した家族が地に足をつけて現実に向き合っていく中での一筋の光であり希望のようなものが「天才的」とまでいわれた次男のピアノの才能だったわけだし。

もちろんそこに依存してもあらたな家族の崩壊に繋がるのでその辺はおぼろげにしか描かれてなかったけど。


月の光のメタファーは「それぞれが自分なりの答えをみつけていく」ってことにあるのかなぁとかなんとか。



あと、件のリンク先をみっけたのは「抱擁家族」でぐぐったってのもある。

今作では長男がアメリカの軍隊に入隊する(ことで日本を守る)ってところから話が展開し始めるわけだけど、「家父長的庇護とアメリカ」というテーマだと「抱擁家族」があったなぁ、と。

「抱擁家族」ではアメリカの安全保障の元に経済的安定を手に入れた日本の姿に主人公である夫がなぞらえられていて結果として家父長的権威は崩壊→妻はアメリカの娼婦的な感じになっていったわけだけど、「トーキョーソナタ」ではそこからもうちょっと進んでアメリカというのがもはやデフォになってる世界のように感じた。

デフォというかリストラによって自らのアイデンティティを崩された夫は家父長的権威を守ろうとするのと並行するようにアメリカ軍に入隊することを許さないわけだけど、そこで言われてる論理「俺がおまえたちを守ってるんだ」という言葉に対しての「じゃあなにを守ってるって言うのさ」に対してなんの解答も出せなかったり…。

というか、権威的なもの、形式的なものにすがって出来合いの言葉で問題を先送りするのではなく本当の意味で家族のことを思い尽くしていたのならまた違っていたのだろうけど、彼がそういったことに気づくのはすべてを失い自らの命も危険にさらされた(あるいは一回死んだ)後だったっていう…。


そういった意味では「アメリカ軍への入隊」というのはギミックの一つに過ぎなくてメインテーマではなかったのかなぁ、とかなんとか。「家族の問題」ということで「抱擁家族」的な線を想起させるための記号のひとつだったのかも。


そういった線も含んで家族のそれぞれの事情なり物語(旋律)が輻輳していった結果としてソナタがあったのかなぁとかなんとか思ったりした。


ベタな音作りから不協和音に転じて、最後は月の光で収めた家族の物語。




タグ:家族
posted by m_um_u at 19:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

「サマーウォーズ」を見てきたよ (アルバムみたいな作品だったね)

見てきたので軽くメモ程度に感想。
 

映画「サマーウォーズ」公式サイト
http://s-wars.jp/index.html


最初に興味を持ったのは鈴木敏夫のジブリ汗まみれ経由で。

「今年の夏、家族関係の修復(あるいは世界へコミット)的話題についてエヴァとサマーウォーズという2つの作品があるのは対称的というか並行的というか」みたいな話を言っていたんだかpodcast聞きながらオラが勝手に思ったんだかしたので。

エヴァについてはセカイ系ということで、ああいう形で社会へのコミットが閉ざされてしまった社会、あるいは本来「ネタ(虚構)」であるはずの現実世界のルールが「ベタ」として定式化してしまった社会に生まれてしまった子供たちによるネタを前提としたシミュラークル的な社会(再帰的社会)における実存的問題(あるいは社会へのコミットの問題)をどう考えるかということについて、前回は投げっぱなしジャーマン的に終わらせてしまった庵野がケコーンなどを経てどのように変わったかってのが見所だなぁと思ったのだけど今回の「破」では演出強化って感じで特にそういった線での変化は見られなそうだったので見なくていいかなぁとか思った。

そういった線で変化せずとも、「アニメーターとして最後まで投げ出さずエンターテインメントを作り上げる」、という点ではオトナになったのかなぁとも思えるのだけどとりあえず作品も見てないのでこれについてはここまで。


サマーウォーズについてはそれ以外にNHKのインタビューで細田守監督が言っていたことが気になっていたので。よく知らないけど細田監督は最近結婚して親戚がたくさん増えたのだそうな。それで嫁さん方の田舎にいって、そこで親戚の人たちと触れ合って新鮮な驚きがあった、と。

「それまでずっと孤りだったぼくに家族ができた。そのおどろきを伝えたい」みたいなこといってはった。


たしかに映画の内容はそれに尽きる感じだった。

全体的な構成(ストーリー)としては「ひょんなことから田舎にいった少年と少女が世界を救う冒険に巻き込まれて親戚一同みんなで立ち向かう」ってことになってて画面上では仮想現実空間におけるたたかいがメインとなって展開されていたわけだけどその辺はエンタメ作品として仕上げるためのギミックに過ぎなかった印象。実際、インタビューでもそんな感じだったし。

メインは親戚一同揃った家族の食卓であり、入道雲に向かうまっすぐな道行きであり、田舎の旧家の陰に置かれたアサガオの鉢植えたちと夏の空の青のコントラストのように思った。ストーリーやテーマ的なものというよりは田舎のそういった色彩のひとつひとつについてのアルバムであり心象風景的な作品なのだなぁ、と。


もちろんテーマとしては「インターネッツな仮想現実な世界の中で並行する家族の関係の希薄化」的なものもあったように思うんだけどそれについての作品が提示していた回答のようなもの、「みんなとりあえずごはん食べましょ」、はそれほどの説得力を持っているようには思えなかった。(実際、仲の良くない家庭で「とりあえずご飯は一緒に食べる」だけは実践されてきた結果それほど意味がなかったことを実感しているので)


「家族の食卓」というテーマだと伊丹監督の「家族ゲーム」で「みんな真正面を向いて食べる食卓」が表されたときのほうが象徴的だったし、「食と人(あるいは関係)」ということだと「たんぽぽ」のほうがテーマ的には踏み込んでたし。


なのでやはりこの作品はアルバムでありこの時点での記念的なものなのだなぁ。


そういった記憶は論理的には説得力を持たなくてもふとした瞬間の動機づけになることはある。空気感とか暑さや寒さ、味や音などといった綜合的な記憶。それが人の思考や選択の動機になることはあるように思うんだけど、この作品ではそれは描かれてなかったな、と。


そんなことを思ったわけです。




いろいろいったけど誤解してほしくないのはこの作品はアルバム的なものとしてはとてもよいものだったなと思いました。家族の食卓とかアサガオとか入道雲




あと、法事の食事ということだと「歩いても歩いても」のとうもろこしの天ぷら思い出したり。

また見たくなったので明日辺りDVD借りてこようかな


posted by m_um_u at 18:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年08月08日

プラハ宣言を受けた今年の8月6日についての雑感

今年の梅雨はなかなか終わらなくて今日になってやっと「中国地方の梅雨は4日前にあけました」って聞いたんだけどだとすると8月6日にはもう梅雨が明けてたんだなぁ。てか、それまではすごしやすかったのに4日の晩とか5日の晩ぐらいから急に蒸し暑くなったような…。
 
でも、それが広島の夏だし8月6日周りというのはそういうもの。んでも、今年の8月6日は小雨模様でわりかし過ごしやすかったように思った。それもあって偵察がてら朝のうちに平和公園までジョギングにいったり。んでも慰霊碑周りにロープはってあって入れなくなってた。「関係者のみ」って感じなんだろうけど前からこんなんだったっけなぁ。。人は昼間ぐらいいた。帰り道で自分たちの記念塔前で同窓会的に写真とってるじっちゃんばっちゃんたちがほほえましかった。
 
 
今年中に広島を離れるかもしれないのでその後の式典にもいこうかなぁとか思ってたんだけどちょっと偵察してきた様子もあってなんとなく行く気がなくなったり。式典自体は形式的なもので聞きなれた文言聞いたり広島市長の宣言聞いたりするだけだし。今年はオバマのプラハ宣言を全面的に受けた内容ということだったし実際そうだった。









該当箇所的には2つ目の動画がそれで全体の文脈としては「テロリストの核保有に対抗するためには世界が協力して核廃絶につとめないといけない」というもの。要旨的にはこの辺のほうがまとまってる


ほぼ日刊イトイ新聞 - ぼくは見ておこう 「核のない世界」
http://www.1101.com/watch/2009-08-06.html


それでそれを全面的に支持する広島市長の平和宣言、と


asahi.com(朝日新聞社):秋葉忠利・広島市長の平和宣言(全文) - 社会 http://www.asahi.com/national/update/0806/OSK200908060004.html


これ自体はパフォーマンスとしてはありだと思うんだけどなにかオバマのやることを全面的に聖化というか正当化している面もあるのには違和感がある。特に一部の被爆者から。

前のエントリにも関連するんだけど


muse-A-muse 2nd: 宮台真司、2009、「日本の難点」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/125069355.html


オバマのプラハ宣言は新たな世界軍事秩序の構築に向けての牽制的な意味合いもあると思う。

そこまで行かなくてもテロでもっとも標的にされるのはアメリカだし、それに対する警戒ということで本気になったってのもある。「冷戦後一番の脅威はテロ」ってことで。

なので国益を含んだ上での発言なのであって利害関係を含んだ上でないとこの結論は出なかったように思うんだけど一部の人は「オバマが正義の意志をもって核廃絶宣言をした」って感じでベタに受けてるみたいでなんかその辺に違和感があった。


もちろんオバマ自身にもそういう面がなかったとはいえず、そういう面も含んだ宣言だったのでノリノリでパフォーマンスできたというのもあると思うんだけど、やはりそれ以前に全体的な利害があって国家的あるいは超国家的決定というのはできていくものであって、核廃絶の願いを受け入れてほしいならその辺の事情も汲み取ってから意見しないとダメだろうなぁ、と。


逆に言うと、もしオバマが「正義の意志」とか「アメリカの道義的責任」を第一義的に考えて核廃絶を訴えているのであれば、冷戦という形で核兵器所有量を増やし核拡散を助長したロシア・アメリカの二大国が率先してペナルティを払って核廃絶を訴えていくべきだと思う。

核の問題も環境問題と同じで後発国にしてみれば「そんなこといっても先に使ってたやつらはそれでジャンプアップしたじゃーん」ってことであり、全体としては「あいつが刃をすてないからオレもすてない(あいつがもってるから俺も持ち続ける)」っていう囚人のジレンマ的なチキンレースだと思うんだけど、だったら経済的にプレイヤーの利害を調節することはできるはず。代価としてはなにもお金に限ったものではないように思うけど。

そんで、そういったゲームであるならば環境問題の政治経済学と同じく先発国が発展する代わりに空気を汚した代価を環境税という形で払っているのと同じく、核兵器開発を率先してひっぱってきた旧ソ連(ロシア)・アメリカの二大国はそれなりのペナルティを後発国に示すことによって核廃絶を牽引していくべきだろう。「道義的責任」というのならそれが筋道のように思う。

そこまで踏み込めないのならやはりプラハ宣言というのは政治的タテマエであり、「アメリカの国益」のためのものって感じ。つってタテマエとか国益否定してるわけじゃないけど。少なくともそう考えるとオバマのスピーチというのはそんなに聖化されるべきものでもない。



しかしパフォーマンスとしてはこれまで原爆投下正当化の論理がデフォだったアメリカの国家元首が核の誤りを示したようなものであり歴史的・共時的意義のあるものだったと思う。やはり「ヒバクシャの声」だけだとなかなか届かないので。



そんなことを思った今年の8月6日でした




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追記:
あと、今年は原爆症認定の基準が下げられた(「1審で勝訴した原告について控訴を取り下げて原爆症と認定するほか、1審敗訴の原告は議員立法で創設する基金で救済する」)。

オバマのことよりもむしろこっちのほうが地味に進展だったように思う。選挙前のびみょーな時期だし「国がいままでのことに謝罪しない」という不満もあるみたいだけど。



タグ:ヒロシマ
posted by m_um_u at 18:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年06月18日

「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話

甲野善紀さんのDVD見ていろいろ思ったので感想とか欲しいものリストも兼ねて。

甲野善紀身体操作術 [DVD]
アップリンク
(2007-05-25)
売り上げランキング: 1471
おすすめ度の平
均: 4.5
5 彼に興味がある人は買って損はない
4 価値あり



最初の興味はさいきんちょっと重いもの持つことがあって、そのときに自分が合理的な身体の動かし方に興味持ってたことを思い出してまた甲野さん関連のものを見たくなったということから。前にNHKブックスから出てる小冊子買ってたんだけど実家に置いてきててこないだ行ったときに探したらなくなってた。それで仕方なくもう一回注文。そんなに高くないし


甲野善紀の暮らしのなかの古武術活用法―2006年7月~9月 (NHKまる得マガジン)
甲野 善紀
日本放送出版協会
売り上げランキング: 5107
おすすめ度の平均: 5.0
5 介護する人、される人にむけた、優れた介護術がここにある。



近所のツタヤで甲野さんDVDレンタルしてるの見かけたし。なのでちょうどいいな、と。

NHKブックスのは図解だけでいまいちわかりづらかった。やはりこの人のは動きそのものを見ないと。ということでこれを再び注文し届いたころにツタヤのセールで借りに行ったり。

最初は全体に通呈するコツみたいなのが盗めれば自分的に応用できるかなってつもりで見出したんだけどやはり見てもよくわからんところはわからんかった。古武術手品みたいな感じで。それでも膂力による打撃に頼るのではなく重心移動の速度によって威力を生んでるのだということはわかったけど。「タメをつくらずノーモーションから打撃を行えるので相手に構えるスキを与えず、こちらも最速の攻撃ができる」、と。そんでその際の力は重心の高速移動によって生み出す。物理的に速いってよりも演算速度が早いって動き。てか、脳に考えるゆとりを与えないで考えるよりも先に身体が動く(動いたのは別の私)ってことだけど。反応→反射→音速→光速…

そんで生み出された早さと重さが武器になる。子泣きじじいのように自在に体重や速度を操るってイメージ


これ自体は書いてみると納得できるんだけど実際にやって会得するとなると大変そう。とりあえず効率的に力を発揮するときに身体をひとつにまとめることかなぁ、って自分的には理解した。身体が伸びてる状態で無理に力がかかるとテコの原理で反作用点が壊れちゃうのだろうし。


技についてはそんな感じで1回見ただけだとまだよくわかんなくて、「DVDが手元にあったら何回も見れるかなぁ」、とか思ったわけだけどやはり目の前で実演みたり投げられたりしたほうが体得するには速いのだろうな。そうはいってもなにやられたのかわけわかんないのだろうけど


動きはそんな感じでみつつもう一つ面白かったのがインタビューだけまとめた特典映像のほう。なんか意外だったがこの人武術プロパーかと思ってたけど最初は農大入ってそこで工場生産的に生物を生産するいわば機械主義的なアプローチに辟易していろいろ本読みあさって武道にたどり着いたらしい。

武道を志したのは道を変えるときに自分が得たインスピレーションを感情レベルで体感できるのは身体性があるものだと思ったからだ、とのこと。「運命は決まっている。それがゆえに自由だ」ってインスピレーション。これは「バガボンド」にも出てきて井上も影響受けてるみたい



バガボンド 29 (モーニングKC)
井上 雄彦吉川 英治
講談社 (2008-11-28)
おすすめ度の平
均: 4.5
5 武蔵の成長
4 成長しつつある武蔵
4 殺し合いの螺旋から逃れられるのか
5 深い
4 内面を描くということ




「バガボンド」のこの巻ではそのもののセリフが出てきたり(「おまえのこれまでもこれから先も天によって完璧に決められていて それが故に完全に自由だ」)。武蔵のセリフではなく沢庵和尚のセリフだけど。武蔵は「天と繋がってる感覚があるときは自由だって感じる」みたいなこと言ってた。


そんでやっぱり対談してたりする


「武」
「武」
posted
with amazlet at 09.06.17
甲野 善紀井上 雄彦
宝島社
売り上げラ
ンキング: 48458
おすすめ度の平
均: 4.5
5 スラムダンク、バガボンドと武術の接点はいかに?
3 死に方の美学
4 武士と現代
5 武術の奥義は、現代スポーツをも変える!
5 甲野氏は何を求めているのか






「決まっている」と「自由」っていう二律背反であり矛盾が並立し、それを納得できるというのが人間存在の実存性ということで。この辺、ハイデガーかなんか読んでたのかなぁとか思いつつオラも読んでないのでわからん。ただ、「決まってる」ってのは「死」ってことなんだけどこの辺が武士道とかネイティブアメリカンの感覚に通じるのだろうな。「武士道とは死ぬことと見つけたり」ってやつ。

「死が決められたものだと実感すればそこに行き着くまでは自由だ」ってアレ。そういうものとして受け容れればそこにたどり着くまではボーナスタイムになる。なので、不安やよけいな思索の必要がなくなりその分からだや心が速く動く。

「予断をなくす」ということでこの辺はまぁふつーに聞いたのだけど、おもしろいなと思ったのはふつーこれ系を語るときはもっともらしくというかもったいぶって語るものなんだけど甲野さんの場合なんかあっけらかんとしていてほんとに実感したんだなぁって感じだった。

そういう実感を得た喩えとしてもふつーこれ系では聞かないようなものだったし。「同じきっかけを与えられてそれが元でヤル気になって人生が変わる人と変わらない人の違いってなんなんでしょう…って悩んだときに“それは決まってるものなんだ”って思ったら楽になったんですよね」とか


いまヤル気にならなかったり機会が巡ってこなくても“決まってるものだ”ってことにしとけば楽なのかもなぁ。

運命論的に「決まってる」って自縛によって可能性をつぶすとしたらしょうのない話だけど、すくなくともムダに悩まなくてすむ。ということはその分自由に動ける。




「決まっているがゆえに自由」ということではなんとなく山頭火のことを思い浮かべたり。



muse-A-muse 2nd: まっすぐな道でさみしい?
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/118269736.html


山頭火の場合も先人の作った文脈や言葉による自縛、予断から逃れようとしてより自由な表現を追及して行ったようだった。そして最終的に「まっすぐな道」にたどり着いた。

自分的には「まっすぐな道」というのは世間によって決められた「まっとうな道」みたいなののことかと思ってて「そういう道を行くのはつまらない」って話かと思ってたんだけど、マンガ的にはその辺の解釈は違うみたいだった。山頭火自身が求めた自由(道)を究めるためにそぎ落としていったもの、家族との普通の生活を振り返って「寂しい」、と。

その孤独自体もひきうけるってことではあったのだろうけど


自由を求めて却って不自由になったり、一見不自由なようで自由だったり…要はその中で当人が言葉に縛られないで自由に動けるかってことなのだろうけど。善とか悪とかそういったものもそういった言葉に過ぎなくて、それに縛られていると却って不自由になるのかなぁ、とかなんとか。かといって野放図なエゴを追求しても満足はなくその辺の匙加減かなぁ。。「生」に向けての匙加減みたいなの。

甲野さんの場合は「それは体が教えてくれる」みたいなことなんだろうけど



身体性にいったってことだとオウムなんかも想起するけど彼らが身体を志しつつもけっきょくは機械論的アプローチになったのはなんか皮肉っていうかすれ違いだったのだなぁ、とか思う。「オウムに影響を与えた」という中沢新一の例の本はまだ積読だけど


チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)
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講談社
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5 今だからわかる
5 リアリティとマーヤ
1 体験的密教論
5 詩のような文です
4 中沢新一代表作の一冊!!






あと、○年代の身体論との違いとか関わりとか。メルロ=ポンティ経由だったか

プラトニック・ソフィエンスの創造:新叡知科学へ向けて:メルロ=ポンティの身体論について:連続的身体と超越的身体 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/renshi1900/archives/50869953.html


甲野さんの話って現象学的だなぁとか思いつつ「農大やめた時期にいろいろ乱読した」っていってはったので時期的にはメルロ=ポンティの身体論の影響もあったのかなとか思ったんだけど、農大やめた時期というのが1970年代中期だったみたいなのでその頃に現代思想系の身体論ってどうだったかなぁとか思ったんだけど思い出せないし甲野さん自身も特に語ってなかったので関係はないのだろうな。


てか、メルロ=ポンティの話的にも身体における二律背反みたいなのがあるのか


 近代合理主義は、元知中心主義であり、個体において、元身体を排除しているのである。この排除は、単に、元身体の排除だけでなく、元知・即非・元身体という超越的差異共振性(霊性)を排除しているのである。そして、近代主義が飽和状態になると、否定された元身体が反動して発動するが、それと同時に、超越的差異共振性も発動するようになると考えられるのである。

 この観点から見ると、メルロ=ポンティの身体論は、身体的連続的同一性と超越的差異共振性との混淆であるように思えるのである。そう、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と同質であると思えるのである。

 ここには、身体的連続的同一性と超越的即非性との未分化的混淆があると考えられるのである。身体的連続性は感覚的であり、超越的即非性は思想・観念的である。思うに、前者が文学的レトリックとなり、後者が理論的考察となり、混淆して、あのような文体を生んでいるように思えるのである。



なのでちょっと現象学系を絡めた話も聞いてみたいんだけど内田センセとのこの対談ではそういうのもなかったみたいですね


身体を通して時代を読む (木星叢書)
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1 参考程度
2 内田さんの話が多い
3 有益4割、たわごと6割



内田センセも合気やってて身体性と思想の関係、「言葉以前の身体」うんぬんってことだとベストマッチだと思うんだけど現象学の話が出なかったのは却って不思議だ。。





まぁ、とりあえず「読むもの」リストできたのでここまで




--
関連:
muse-A-muse 2nd: 九鬼周造、1930、「いき」の構造
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/40630844.html

※いきも諦観から発せられるわけだけど、「結婚してからのほうがモテる」、とかもそういうの含んでるのかもね。

タグ: 身体
posted by m_um_u at 23:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年06月04日

駄菓子もまた是し

Morality comes with the sad wisdom of age, when the sense of curiosity has withered.
-Greene, Graham







ちょっと前にこういうエントリ見て、


ネットで書いてるとなんで文章力落ちるんやろ - Hopeless Homeless
http://d.hatena.ne.jp/akio71/20090207/p1


ネットを足場にして、長期間文章を書いていると、文章力がみるみる落ちていく。

自分でも「ブログ書いてると文章の基礎体力落ちるなあ」と実感してますし、古くはニフティ時代に栗本薫さんが、会員制パティオで毎日毎日、全員に全レスしてくうちに、本業の小説の文体までグダグダのめためたになったのを目撃しました。何十人に全レス、それにレスあったら更に返信しかも長文っていう情熱は素晴らしかったんだけど、どんどん「……で、何が書いてあるんだろ?」とわかんなくなっていった。

仕事でも、ほぼ、仕様書以外は「台詞、ト書き、終了!」なので、台詞や物語の筋道は書けても、情景の描写だとか、動きを読みやすくわかりやすく伝える技術、が、みるみる落ちていきます。

語彙も減ります。




わりと気にしてたことではあったのでひっかかった。

たしかについったーやるようになってblog書く気が減ったなぁとは思う。

んでもこういうのって新しいメディアがでてきたときには必ず出てくる類の話で、その意味では「ワープロで書くようになると文章力落ちる」→「ネットで書くようになると文章力落ちる」「ケータイで書くようになると文章力落ちる」→「ブログやるようになると文章力落ちる」→「ついったで書くようになるとブログ書く気もなくなる」、的なことがいえるわけだし…。

まぁそれもないとはいいきれないけど


そういうのがもしあるとしたら、イノベーション→簡単・便利によって解決されたと思われていた不便や面倒さの中にこそ創造のエッセンスもバンドリングされていたのかな?とも思うわけだけどもうちょっと簡単に考えると、メッセージが発せられるその場において文脈を共有するようになるとはじめての人に説明するように詳述しなくても良くなって説明や表現がゾンザイになるとかそういうのかなぁ、とか。


てか、個人的にも心理とか情景の描写をゾンザイにして掘り下げてく集中力が続かなくなっているのは問題だなぁとか思ったりしてるのでやっぱポメラ買うか。まだ触ってないけどあれはなんか文章に集中できるツールが欲しい気もする。いまはメインPCから離れて寝床でEeePC使って書いてるけど、やはりちょっと書きづらいな。キーの幅が狭いので。支えは書見台みたいなの買ったので割と大丈夫なんだけど。

もうちょっと自然に、違和感なく思考が吐き出せるツールがあると思考のノリも失われずにリズムが出てきて創発しやすいのではないかとか期待してるんだけど。そういう意味ではワープロなど筆記ツールの変化による思考や文章の長さの変化というのはあるだろう。てか、「手書き時代に比べてワープロになると確実にレポートの文字数が増えた」、とかいう話もあるし。

ワープロの場合は手書きに比べて編集の可逆性が高いしなぁ。。



閑話休題



そんな感じでライティングメディアの技術発展によってむしろ思考というか文章は長くなった面もあるようにだけどコミュニケーションメディアの発達によって文章を他人に吸い取られるみたいなのはあるかもしれない。コミュニケーション論的には相手のスキーマにのっとられるってことだと思う。ついったとかほかのメディアでもそうだけど、それ見てるうちに自分が何やろうとしてたか忘れるみたいなあんなの。

ついったなんてのはたいした話題でもないことが多いので侮ってたりするんだけど意外と吸い取られたりする。文体→思考様式なんかも知らないうちに影響受けたり。


そういうのに対して自分の表現というか思考の幅を守るためにどういうことをすべきなのか?


やはりぢみに良い文章読んだ後でその高揚感を自分も文字で刻んでいく、みたいなことだろうか。習字みたいに文章とか文体の集中力もトレースするところがあるのでなんか読んだあとに読んでたテクストの集中力を再現させるような感じで書いていくとよさげなように思う。

んでもあまり修辞や形式に引きづられて、いつの間にか「オサレ文体はできてても自分のほんとに思ってたこととは違うんじゃ…?」
ってならないようにご用心。

けっきょく文章力というのは「人にわかりやすく伝える」ってのもあるけど「自分の中にあるぼやーっとしたものを表せる能力」ということで、そのための語彙であり文体だったりするわけだし。



あとは孤独というか、自分の内奥の声に耳を傾ける時間が必要だろうか。その声はとても微かで小さいので他人の声や雑踏の中ではかき消されてしまうかもしれない。だから静かにその声に耳を傾ける環境、集中力が必要なんだ。自家中毒にならない程度の孤独と集中力が


要は「ついったほかコミュニケーションメディアが悪い」ってことでもなくバランスなんだと思う。どんなに体に良いとされるものでもそればっか食べてたら不健康になるわけで、それと同じようにひとつの環境に依存しすぎるとつまらなくなるのだろう。

ついったやblogは駄菓子や軽食のようだけど、駄菓子もまた良いよ(食べ過ぎなければ




--
関連:
ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール - 雑記帳
http://d.hatena.ne.jp/ced/20061001/1159774865

※書く気が筆力が減る理由関連で。てか、こちらのエントリのほうが「ライティングスペース」についてきちんとまとめてはるので参考になるかも。

「ライティングスペース」中古で安くなってるから自分で買う用にリンク

ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール
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関連で言うとキットラーなんか思い浮かぶけど

グラモフォン・フィルム・タイプライター〈上〉 (ちくま学芸文庫)
フリードリヒ キットラー
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3 過去からの現在
2 訳書も原書もいまひとつ、いやいまふたつ


グラモフォン・フィルム・タイプライター〈下〉 (ちくま学芸文庫)
フリードリヒ キットラー
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おすすめ度の平均: 2.0
2 いまふたつ




<新メディアの登場以前にメディア使用のモード(土壌)が少しずつ変化していっていたから新メディアが受け容れられた>って視点的には「書き込みシステム1800/1900」のほうが良いのだろう。

むーたん:キットラー概説メモ + 音読・黙読 ら辺
http://morutan.tumblr.com/post/20792167/m-um-u

m_um_u アンチョコ本によると、キットラーの視点はメディア変遷の歴史を「文字・文書」の時代と「技術メディア」の時代に分けるんだそうです。んで、前者が「手書き文字」と「印刷」、後者が「電話とアナログ技術」に分岐する。

m_um_u それ以前の時代は特に問題にしてないみたいだけど、文字移行にクローズアップしてる、といってもいい。で、日本で有名なのは「グラモフォン〜」だけどもう一個の主著に「書き込みシステム1800・1900」というのがあるのだそうです。ここで技術メディア以前のリテラシーの浸透を追っている

m_um_u んで、そういった形でモードが浸透することによって社会全体の認識が変わっていく(それと相関して社会システムも変わっていく)ってのがメディア論的視点ですね。

m_um_u つか、「グラモフォン」だけみるとメディア論(技術決定論)ってみられがちだけど「書き込みシステム」のことも考慮すると、表象の操作と認識の変容を地味に追っている、とみたほうがいいのかも。その意味でラカンやら絡んでくるんでしょうね(わたしあの辺わかんないですけど


書評空間:UMATフォーラム@書評空間: 『書き込みシステム1800/1900』(未邦訳)フリードリヒ・キットラー
Friedrich A. Kittler, 1985=1990, Discourse Networks 1800/1900, Stanford University Press
http://booklog.kinokuniya.co.jp/umatforum/archives/2007/04/discourse_networks_18001900fri_1.html


「書き込みシステム」については未邦訳ということで上記まとめのリンク先の本とか、たんぶらーでいったアンチョコ本なんか買っといたほうがいいのだろうか。


〈メディア〉の哲学 ルーマン社会システム論の射程と限界
大黒 岳彦
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5 良かった!!



言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から (シリーズ 社会学のアクチュアリティ:批判と創造)

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おすすめ度の平均: 4.0
3 理論と事例の乖離が。。。
5 『言説分析の不可能性』では?



大黒さんのアンチョコ本、アマだと在庫切れだのう…




タグ:メディア論
posted by m_um_u at 06:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年05月26日

「異色昭和史」を読みつつ自分の根っこのことを思った

対論・異色昭和史 (PHP新書)
鶴見 俊輔 上坂 冬子
PHP研究所
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おすすめ度の平均: 4.5
5 異色の対談から醸し出される言葉
5 すばらしい
4 鶴見俊輔と上坂冬子の関係




東京行きの新幹線の中で読み始めてグイグイひきつけられていった。おもろかった。

全体としては鶴見の左翼的な見方に上坂が保守的に異論を投げて行くって感じなんだけど、別にギスギスした感じでもなく、気心がしれたもの同士の掛け合い漫才みたいな感じでおもろかった。鶴見を「先生」と慕いつつも「不良な坊ちゃん」的につっこみいれたりいぢったり、鶴見は鶴見でそれに対してパフォーマンス的に「ちがう!」とかいったり。

両者が異論をなげかけ、それについてケンカするわけでもなく両者が擦り寄っていく感じはなんかほのぼのよかった。

細かい事実関係的なもの、特に「太平洋戦争開始時の日本側のイニシアティブとか転換点はどのあたりにあったのか?」ということ、「日本国憲法を作る際の天皇の位置づけをめぐっての内実はどうだったか」などについての当事者的視点もおもろかったんだけど、その辺いちいちあげていくと長くなりそうなので今回は割愛。
(鶴見の祖父後藤新平は満州鉄道つくったひと、父鶴見祐輔は戦争反対派だったけど「二二六事件でビビった」(鶴見談)、と)


個人的に、本書のクライマックスは上坂が鶴見のジャワの慰安所時代について問い詰めて言ったところのように思った。「<民主>と<愛国>」に出てたけど


〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性
小熊 英二
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おすすめ度の平均: 4.5
4 戦争体験が思想にどう影響したかを、ナショナリズムを中心に分析した本
5 自分であること
5 俺って愛国者だったんだ。
5 確かに『私たちは「戦後」を知らない』と言える
5 「心」と「言葉」から迫った戦後史



この部分の記憶は鶴見にとってはトラウマ的なそれというか、触れられて気持ちの良いものではないはずなので。

こういう質問を上坂があびせたけ言いは、鶴見が自分の父親のとった行動(あるいはとらなかった行動)に対して批判的すぎる嫌いを上坂が感じたからのようだったけど。上坂的には「あの当時としてはそういう態度をとっても仕方なかったところはあったのだろうし」ってのと「なにさ、自分ばっかきれいぶって」的なものがあったのかなぁ、と。

鶴見が親を意識するようになったのは後藤新平、そしてその入り婿である鶴見祐輔というエリート一家の中で母親から徹底してエリート教育を受けつつそこから落ちこぼれていったことへのコンプレックスがあったからみたい。

そういった中、鬼子のようにハーバードに追いやられてからは憑かれたように勉強に没頭して優秀な成績を残したわけだけど、その後しばらくして戦争がはじまって帰国、徴兵されジャワに行くことになった。

ジャワではドイツ語通訳が仕事ってことだったけど実際は慰安所でボーイのような役目をさせられた。このとき「なにもしていないけどなにもできなかった」的な無力感が鶴見の傷になった、と「<民主>と<愛国>」ではまとめられていたように思う。


いわば鶴見の爆弾部分なんだけどそこにくらいついていってはなさない上坂はすごいなぁ、と。ふつーの対談相手だったら鶴見が本気で怒って席を辞するかもしれないって畏れてこういうのはできないと思うんだけど…(鶴見が怒らないのもすごいけど)。   やはり気心が知れてるからだろうか。


そんで鶴見はこの記憶への悔恨もあってか、当時に自分の信念を曲げずに行動していた人、転向しなかった人たちをめっぽう評価するようになる。

東大出の勉強だけができてカタカタ言葉を振り回しているようなかつての自分のような人たちは信じずに、その人の幼少期からの体験や記憶が思想として根付いているひとたちに信頼を寄せるようになる。

たとえ一般的には多少間違ったところや型破りなところがあっても、その人固有の課題が思想的に結実しているような人。あるいは野生の勘のようにそこにたどり着く人。

 私は樹木のように成長する思想を信用するんだ。大学での知識人はだいたいケミカルコンビネーション。そういう人は人間力に支えられていないから駄目という考えです。私と接触がある人では、上坂さんにしても佐藤さんにしても、樹木のように成長しているものを感じるね。文章を見ればわかる。



この辺の話を見ながら自分が院をやめていった理由が思い出された。

本来自分が好きで始めた研究だったはずなのに)関心が流されていく、ということ。外との関係を気にしたり、「それはもう他の人がやってることだから」ということで自分の課題を変えていかければならないということ。

その中で「自分はほんとはなにをやりたかったんだろう?」って思うことはしばしばあった。



ってか、そこまで大層な理由があったわけではなく単純に怠惰だったから断念するような状況になっていったとも言えるのだけど



しかしある程度自由に自分の関心に沿っていろいろと学べるようになった現在、「どこを目指すべきか?」っていう漠然とした不安のようなものもある。

そういうときに標となるような人、あるいは刺激になるような人が側にいてくれるとありがたいのだろうけど。そんな感じで外に依っていてもダメなんだろうなぁ、と。


もう一度自分なりの課題、解決しなければならない問題を見つめなおしてそれと対峙し乗り越えていくべきなのだろう。

それがどんなに門外漢的なもので稚拙でも。人生の終わりに悔いを残さないためにはそこに立ち戻るのが一番の近道なのだ。




まぁ、とりあえず目下の課題は稼ぐことだけど



posted by m_um_u at 22:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年05月14日

「へうげもの」をめぐって武力と資本とアートな話

先日「へうげもの」を読んでおもしろかったのでご紹介がてらなんか書こうかと思ってたんだけど、ちょうどついったで@kimarxさんと話したことがそれ関連にもなるかなぁということでまとめて。

とりあえず「へうげもの」の紹介から。

へうげもの―TEA FOR UNIVERSE,TEA FOR LIFE (1服) (モーニングKC (1487))
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講談社
おすすめ度の平均: 5.0
5 物に執着している人に
5 さすがとしか
5 新たに天才発見(遅)
5 物欲か?出世か?
5 キュ〜トな戦国時代



いまのところ8巻まで出てる。

へうげもの 8服 (8) (モーニングKC)
山田 芳裕
講談社
おすすめ度の平均: 5.0
5 いぶし銀の8服/策謀の胎動が見え隠れする
5 へうげもの8服、緊張感のたかまる金と黒
4 重い、しかし笑える
5 見つめて、、削いで、、最後に残ったものこそ
5 刻々と近づく利休の死、脈々と継がれる明智の遺産―



概要としては織田→豊臣時代の茶の湯な数奇な話。焼き物の「織部」で有名な古田織部が主人公だったりする。


織部流 - Wikipedia


物語としては織部が千利休に師事しつつ茶の湯(あるいは数奇)の体得と武功をあげての成功の二兎を追おうとするも…的な話。軸としては織部自身よりも利休と秀吉の対立への新解釈がポイントっぽい。

この時代の「数奇」というのは茶の湯関連の逸品を蒐集癖ってことなんだろうけど、ファッションとかアートとかいった意味合いも含むみたい。かぶき者まではいかないけどそれに近いような。

そんで、この数奇(あるいは数奇の前衛であり筆頭芸術としての茶の湯)を通じて利休が暗躍し、秀吉をもおびやかすほどの人脈を作り上げていった、みたいなところがおもしろかった。

歴史の覇権を握るには武力+政治力(リバイアサン)か、資本とそれを元にした武力や人的ネットワーク(ベヒーモス)かのどちらかが必要になると思われるわけだけど、「へうげもの」では「利休たち堺の商人ネットワークは資本という力以外に茶の湯によって独自の人のつながりをもっていてそれが力になっていた」、って描かれかたをしてた。

この辺の詳細はあながち「あれはマンガだから 笑」ってこともないか、と。

こんな感じで「へうげもの」の真骨頂は「武でも財でもなく芸(あるいは文化)で天下をとろうとした」ってところだと思う。んでもやっぱ「文化以前に武力や財力の基盤が固まっていたから」ってのもあるとは思うわけで…。その辺の話をきまるくすさんともそもそ


てか、最初にきまるくすさんがこんな感じでつぶやいてて
 

 

 

 

 

 

 

Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
Amino does not want to recognize that Behemoth always defeats Leviathan.
Murakami, a famous pirate clan in Japan, was defeated by Toyotomi. 
(2009-05-13 14:20:01)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
Toyotomi first controlled agri-culture entirely in Japan and he would be representative of Behemoth. 
(2009-05-13 14:24:31)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
Ariam lost their territory since they were converted to Christianity. But they made million by trading with Europeans. 
(2009-05-13 14:37:02)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
When Arima was converted to Christianity, they would be converted from
the territorial to the maritime. 
(2009-05-13 14:40:45)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
OUchi Yoshitaka is the lord of a maritime samurai clan and he permitted Christian missioners to do their missionary work. 
(2009-05-13 15:15:17)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
That is, the word 'Christianity' can be associated with Leviathan and the maritime in Japan. 
(2009-05-13 15:19:45)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
He might find conflicts between the territorial and the maritime as Carl Schmitt who describes history as those conflicts. 
(2009-05-13 16:55:54)
link

これみて別件で見てたエントリ思い出した。


スピリチュアル・ブーム(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」


全体的には「昨今のスピリチュアルブームと一昔前のニューエイジ系とかとはどう違うのか?(あるいは同じなのか?)」的な話なんだけど関連で出てきたニューアカデミズムの話がおもしろかった。最近、網野本とか中野本読んでたもので。

該当箇所はこの辺(まるっと引用)

ニューエイジ運動が、「部分的・選択的コミットメント」による小集団によって、既成の集団や共同体の垂直的な地位・役割関係(要するに「しがらみ」ですね)から離脱しようとしていたのと同じ時期に、既成の秩序の垂直的な地位・役割関係を断ち切るための手段として、より強力な方策が夢想されていました。夢想していたのは、ニューアカデミズムと呼ばれていた人々、すなわち、中沢新一さんや浅田彰さんや柄谷行人さんや蓮實重彦さんたちです。そして、その方策が、資本主義の力によって既成の共同体や集団の垂直的な地位・役割関係を断ち切っていくというものです。中沢新一さんの叔父さんである網野善彦さんも、1970年代に、「アジール」という概念やターナーのコミュニタスなどの概念をも取りこんだ「無縁」という概念を提示しましたが、80年代になると、中沢新一さんの影響で、「無縁」と資本主義の結びつきという議論を始めます。浅田さんも、マルクス主義者としてスタートしたのに、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の議論などを援用して、資本主義による解放というヴィジョンを提示します。バブルだったんですね*6。この「資本主義による解放」というヴィジョンもまた、「関係の複数性」ということを消去して、「無縁」(という関係の場)が実現するためには、すべての既成の垂直的な地位・役割関係を断ち切らなければならないという固定観念の現われといえるでしょう。


網野史観とかそれに基づいた中野新一さんのお話だと天皇制打倒ってのが第一に来るので「天皇を中心とした支配層の作り上げた歴史に物申す!」(そのための語りえぬ民たちの歴史)って感じになるように思うんだけど、そういう史観がマルキストドライブすぎるとちょっとブレが生じるのかなぁ、とか思ってたわけだけど。引用箇所的には、「既製の過去のしがらみを断ち切るための手段としてなにかを求めた」→「網野さん的には“無縁と資本主義のつながり”というのがそれに当たった」、ってことになるのか。

「無縁と資本主義」って具体的にどんなのか、網野本もまだ4冊ぐらいしか読んでないのでよくわかんないんだけど、強いて言うと「異形の王権」とか「無縁・公界・楽」で示されたような歴史の表舞台的なところにいない人々による独自の経済圏(あるいはネットワーク)辺りの描写だろうか。それと現代的な資本主義というのがどういったつながりがあるのかよくわかんないんだけど、柄谷さんなんかはNAMっちゃったしなぁ。。あんな感じで「メインじゃない経済圏でも集まれば大きな力になるよ」的な感じだったのかなぁ…(妄想)



まぁ、それはそれとして


リヴァイアサンとベヒーモスの相克の歴史としてはたとえば堺のような商人ネットワークがどのように発生し自律的な力をもっていったか、ってことが気になる。

あと他にも、メインの政府的なものとは別に冨や武力の集中していたとこがあったのか、とか。

前者についてはヒックスの「経済史の理論」辺りが参考になるっぽい(>ヒックスは商人資本が海洋的なものから、そして封建制が領土的なものから生じていると考えているようです。彼はシュミットに近い)

※ここでいわれている「海洋的」は海のネットワーク(経済圏)、「領土的」は陸のネットワーク(経済圏)


経済史の理論 (講談社学術文庫)
J.R. ヒックス
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おすすめ度の平均: 4.0
4 この本は・・・



海の道ということではこの辺とかも


松岡正剛の千夜千冊『海上の道』柳田国男


海上の道 (岩波文庫 青 138-6)
柳田 國男
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関連マンガとしてはこの辺(「陸を道を中心とした文化が海の道の文化を滅ぼしていった」「海は産み、陸は戮」)




南北朝辺りの海賊描写(沖縄と中国との貿易も感じさせるもの)としてはこの辺

カタリベ (SPコミックス)
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おすすめ度の平均: 3.0
4 アクションマンガ
3 完結までもっていってくれてれば・・・。
2 かもしが足りない
4 海洋伝奇冒険活劇!




あとは同時代からそれ以前(南北朝辺りから)の海賊勢力を洗ったりとかか。

この辺りはもっかい網野本見たり、あるいは司馬遼太郎の「日本史探訪」も買ってみたので見てみようか、と。



とりあえず「へうげものおもしろかったよ」って話でした





--
追記:
シュミットのこれもいいらしい(メモメモ)


陸と海と―世界史的一考察
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posted by m_um_u at 22:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年05月07日

「都会の田舎的な話」とか「逃げても同じ」とか

出かけるまで時間余ってるのでぼけーっとした日記。この辺みながらちょっと思ったこと


切込隊長BLOG(ブログ) Lead‐off man's Blog: 最近のはてなの釣り堀はレベルが高いぜ…
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2009/05/post-cc27.html



田舎の人は循環する時間という「宗教」を信仰している - アンカテ
http://d.hatena.ne.jp/essa/20090506/p1


(日記なのでリンクの流れとか端折りつつ)両方とも「出て行くんかい?」話ということでは共通してて個人的には出て行きたい人は出て行けばいいし残る人は残ればいいんじゃないか程度なんだけどけっこう注目集めてるのは出て行けない人の怨念みたいなのに触れるところがあったのかなぁとかなんとか思いつつ。


essaさんのほうの話は循環暦の話ってことで学生のころに聞いたモクテスマとコルテスの話思い出した。


モクテスマ2世 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%9E2%E4%B8%96


アステカの人々がああもたやすくコルテスらコンキスタドールを迎え入れたのは循環暦とその伝承を元に彼らを神(ケツァルコアトル)としてしまったため、って話。


「田舎と都会」(あるいはゲゼル / ゲマイン、合理 / 人情(?))みたいなのでとらえると、仲間だと思って迎え入れた都会ものが大型スーパーなんか出しだして地域環境むちゃくちゃにしちゃった、みたいな話だろうか。あるいはホリエモンとかのITな人迎え入れてうんぬんみたいなの。


つっても、「ゲゼル / ゲマイン」とか「合理 / 非合理」なんてのもそんな単純なものじゃなく新興する領域にも損得よりも人とのつながりみたいなの大切にするところもあるように思うんだけど。それが長期的に利益になるってのもあるけど

同じように「都会」とされるところも無機質な合理性の元につくられているわけではなく都会の下町なんかもあるわけで


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先日久々に見返しつつ市川準監督が遺したかったものはそういうったものだったのだろうなぁ、とかなんとか。「トキワ荘の青春」にしても「ざわざわ下北沢」にしても。


そして、そういったつながり、縁、人の営みのつらなりのようなものが「町」の生命となっていく。


そういった話はlifeなんかでもおなじみだった



文化系トークラジオ Life: 2007/02/03 「東京」 アーカイブ
http://www.tbsradio.jp/life/20070203/


文化系トークラジオ Life: 2008/03/03 「池袋とセゾン文化」(公開録音) アーカイブ
http://www.tbsradio.jp/life/cat190/


文化系トークラジオ Life: 2008/08/10「地方を考える」 アーカイブ
http://www.tbsradio.jp/life/2008810/



「安直な合理性に基づいた再開発によって“街”は作り上げられていくのだろうか?」って留保。



最近読んだ「アースダイバー」なんかもそういう話だった。


てか、「循環-円環」ってことだと東京なんてのはもともと皇居を中心としたメリーゴーランドみたいな構造をしてるみたい


「トウキョウはまるでメリーゴーランドのような都市だ」

(略)

「だってトウキョウでは行きたいところにたどり着くためには、いつもこのパレスのまわりをぐるっと一周しなくちゃならないだろう。内側と外側と、二つの方向に自動車が流れていく様子が、まるでメリーゴーランドみたいで素敵だなって思うんだ。だって資本主義の経済活動は、こんな風に環(わ)を描いちゃいけないものだろう。どこまでもまっすぐに、ぐんぐんとすすんでいかなくちゃいけない。ところが世界有数の経済大国の首都の構造は、まるで資本主義経済の原則をあざ笑うかのように、人々に環を描いて移動することを強いている。これはいったいなにを意味しているんだろう」

(「アースダイバー」、p18)



中野新一はそれを受けて「ドーナツ型の中心部に開いた穴には経済や流通のせわしない流れとは違った時間がゆっくりゆっくりと流れている」とする。遠い過去と現在とをひとつに結ぶ「神話」の時間。


「中心がどこか」って問題もあるしぼけーっとした夢想ではあるけど、そういった時間の感覚というのは市川準監督が描いてきた「東京」の下町の姿に似てるなぁ、と思ったり。



もっともそういった情とかつながりなんてのも形式化しちゃうとしがらみとして重くなるのだろうけど、まぁその辺は別の話。



てか、essaさんの話は日本的空気の問題からの派生的な思考だったのかな程度で。だとすると空気の問題ってのは田舎だけじゃなくて都会にも残存するものだろうし、そういったものから「逃げたい」という後ろ向きな姿勢だけで都会出ちゃうとがっかりするのかなぁ、とか思ったりする。

人生においてはうまく逃げおおせたつもりでもいつしか追いつかれて対峙しないといけなくなる。対峙してはじめて止まっていた時間が動き出すような



そういいつつもう少ししたらオラも東京行く予定でありうまくすればそのまま住んじゃうのだろうけど。


さてさてどうなることでしょうね






--
追記:
ついでにいうと日本的時間の問題としては宮本常一辺りの論考を思い浮かべたけど特にそういう時間感覚についての記述はなかったような。「日本といっても西と東で家的抑圧が違う」って話はあったかな。

関連で中根千枝「タテ社会の人間関係」なんかも思い浮かんだり。あれも「田舎」って場の問題ではなく「タテ社会的構造が偏在するよ」って話だったと思う(途中までしか読んでないけど


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2009年04月29日

まっすぐな道でさみしい?

この辺関連で


本気でお金がなくなってきた - phaのニート日記


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ぶくまで

xevra ついにお金が無くなったのか。おめでとう。しかしこれで病院へも行けなくなった。若くて健康で居続けないと成り立たない暮らしは辛いね。/この世で一番楽しいことは仕事。仕事の楽しさが分からないのは不幸だよなぁ



ってのがあって。それ見てch1248とかが憤ってたりしたんだけど


ch1248 id:xebra ネパールではアパートの家主になって毎日ごろごろと暮らすのが理想とされる。幸せなんぞ人それぞれ。/あと、実際に会ってもいないのに、人の友人を病気扱いすんのは止めろ



そういえば仕事してないと病になるんじゃないかなぁとかなんとか。


鈴木敏夫さんのpodcastを聞いていたら「うつ病の起源は家庭に洗濯機やオーブンなど機械が導入されて主婦の仕事がなくなったことみたいです。やることがなくなると人は欝になる」みたいなこと言っててウラとってないんだけどぐぐっても出てこなかった。ほんとはこの言説のウラとりたいだけのエントリなので誰か知ってる人いたらコメントください。



鈴木敏夫のジブリ汗まみれ - TOKYO FM 80.0 - 鈴木敏夫


バックナンバー

鈴木敏夫のジブリ汗まみれ - TOKYO FM 80.0 - 鈴木敏夫

※パナソニックの柏木さんを招いた回かな。



まぁ、あとは思ったことをダラダラ書いてみる。



コトリコなんかも「このままの生活では誇りを保てるかどうかわからない」みたいなこと言ってたな(コトリコの場合は「オレは仕事してるだろがクソが」的なこと言うのだろうけど世間一般でいうような型にはまったサラリーマンしてるわけではないのでとりあえずそのまま続ける)


貧乏から学んだこと - コトリコ



そういう意味ではコトリコとかphaくんなんかは精神的に強いように思うんだけど


こういう生活をしたことがある人は分かると思うけど貧乏とか暇とかは精神的によくなくてそれが続くと自分の矜持とかプリンシプルのようなものも錆びついて失われていく。そんで安易な悪に染まっていったりする。


なのでオラなんかは「思想」とかうんぬん以前に心の平穏を保てるような生活状態を保つこと(余裕を持つこと)が第一目標だと思うようになったわけだけど、そういう中で仕事というのは生活をつなぐための糧(収入)としての意味もあるけど「現代の仕事の大部分は余暇ですよ」みたいなことは堀江さんも言ってたな


新聞やテレビが絶対に書かない「ホリエモン」こと「堀江貴文」の真実〜ロングインタビュー前編〜 - GIGAZINE


なのでイヤミっぽく「仕事の楽しさが分からないのは不幸だよなぁ」とか言うこともないと思うんだけど。しょせん余暇だし


てか、phaくんなんかが興味ない「仕事」というのはサラリーマン型…というとサラリーマンのひとに失礼か、えーとじゃあ便宜的に「仕事場から押し付けられる独創性のないルーチン型の労働」(ルーチン労働)であって、そういうのじゃない仕事はやりたいんじゃないかね。まぁ、「そういうのも甘えでありとりあえず働け」的な言説もあるだろうけどその辺は置いといて。


そんで、まぁ、そんな感じでルーチン型労働に対してなんらかの意味づけを行ってる人なんかがphaくんの生き方見てるとイラついたりするのかなぁとか思うけど、別にその辺本来どーでもいいことなんじゃないかなぁ。仕事なんか本来飯食うための狩猟・収穫であり、それしなかったらその人が飢えて死ぬだけのことだし、そういうことしなくてもなんらかの形で人から援助受けてる人がいるとしてもそれによって自分の収入が減るわけでもないしなぁ。



てか、個人的にはphaくんとかコトリコ、有村さんなんかの生き方には親和性をもつけど。ルーチン型な生き方のオルタナティブがインターネット時代には広がっていくのか、って実験的にはおもしろい(itkzなんかの例もあるし


てか、そういう言い方するとオラなんかがそういう生き方の突端にいるのかなぁとか思うけどまぁそれはそれとして



あと、労働観について。アポロン型とディオニュソス型があるのかなぁとか思ってたけど最近だと常時コツコツ働いてるタイプの収穫型と必要なときに一気に働いて特に用がないときは寝てたり遊んでたりする狩猟型があるのかなぁとか思ったりしている。あとイヌ科 / ネコ科とか。

自分は後者かなぁ。そういうタイプのひとにいつも働くルーチン型の生き方おしきせられてもたまらんかなぁ、とかなんとか。そこまでいくとやっぱ宗教なのかなぁとか思ってしまう


極東ブログ: [書評]プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー)




phaくんの今後については(会ったことないので単なる妄想だけど)山頭火みたいな感じで極限まで行って反転するとおもしろいのかなぁなどと妄想してたりする。


まっすぐな道でさみしい―種田山頭火外伝 (1) (モーニングKC (896))
いわしげ 孝
講談社
おすすめ度の平均: 3.0
3 とても丁寧に描かれています!




ルーチンなまっすぐな道だとつまらなくてさびしいことになるかもだけど、自分の道を貫きすぎるのもさびしいことになるかも。人生どう転ぶかわかんないね




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2009年02月25日

壁と卵の話(壁作りの是非について)

 
けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一點にも均しい明暗のうちに
   (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を變じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相當のちがった地質學が流用され
相當した證據もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません


宮沢賢治 「春と修羅・序」




村上春樹の<壁と卵>スピーチについて、


極東ブログ: 村上春樹、エルサレム賞受賞スピーチ試訳


ついったーのほうで軽くつぶやいたことで気になってたことがあったのでなるべく軽く書いとこう。ちょっとした違和感程度なもの


ついったのほうの契機としてはこんな感じ
 

 

 

 

 

 

raitu
@raitu
「魂が鈍ると形式が現れる by Charles Bukowski」形式とは何だろう?たとえば、言葉遣いが気になる僕は、日本語の「形式」にとらわれた結果なのだろうか?形式を重要視しているからこそ、いかに「言葉遣い」という形式をもって相手が接しているかを無意識に重んじてしまう。 
(2009-02-21 13:13:54)
link
raitu
@raitu
「魂が鈍ると形式が現れる by Charles Bukowski」ならば、「魂の牢獄」は「形式」。 
(2009-02-21 13:15:03)
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raitu
@raitu
「魂が鈍れば形式があらわれる」さて、形式が魂の牢獄であり、一定方向を向いた魂の貨物船だとして、なるほど確かに集団を従わせるのは形式以外には存在し得ない。社会は形式によって運営される。村上春樹エルサレム賞式典でのスピーチを引用すれば、形式は壁であり、魂は卵。卵で壁に穴は開くか? 
(2009-02-21 13:53:06)
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raitu
@raitu
村上春樹は、いかに壁が正しかろうと、卵の味方をする、と答えた。そもそも、「正しさ」を保有するのは壁=形式でしかないからこそのスピーチだと考える。では卵=魂は何を保有するのか、といえば、感情と欲望なのだろう。宗教も形式であり壁であり、卵を囲い魂の牢獄。村上春樹は多分そう考えてる。 
(2009-02-21 13:57:09)
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raitu
@raitu
かつて形式=壁がそれほど高くなかった時代。魂の自由さにおびえ、不安を抱き、混沌とした世界があり、そこにユダヤ教やキリスト教、という「高い壁」が作られ、そこに魂=卵は閉じ込められ、人々は一応の心の安息を見た。卵を閉じ込める「壁」はそのうち「箱」になり、卵は自分を箱と勘違いする。 
(2009-02-21 14:03:17)
link
raitu
@raitu
閉じ込められた大量の卵を入れた「箱」の一つは、現代になり国を作り、そして「箱」どうしぶつかり合って中の卵割れまくり、と。 
(2009-02-21 14:03:47)
link

 

 

 

 

 

 

 

 

 

むーむー
@m_um_u
珍しく @raitu のいっていたことがあたまに残った。あとでほかで使うかもしれないけどついったでもらったことなので自分的まとめもかねて清書的に書いとこう 
(2009-02-22 06:00:52)
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むーむー
@m_um_u
「魂が鈍ると形式が現れる」 というCharles Bukowski の言葉の「形式」と村上春樹の「壁と卵」をつなげた話。ブコウスキーのそれは作品における形式のドライブ、大衆的なものにおもねるあまりに演出ほか修飾や脚色的な部分が内容よりも先走ってしまうことについて触れている 
(2009-02-22 06:04:05)
link
むーむー
@m_um_u
ように思ったので壁と卵とは直接関係ないように思ったけどその後でそれなりに「壁=形式」としてつなげていっていたのが良かったなぁ、と。村上春樹の言っていた「システム=壁」が指していた主なものは国家幻想(あるいはそれを含む共同幻想)だとおもえるので当然といえば当然なのだけど 
(2009-02-22 06:06:09)
link
むーむー
@m_um_u
国家幻想ほか共同幻想のオーバードライブという話は @medtoolz さんが言ってた道徳のオーバードライブ的な話にも通じる。かつては「正しい」と思って作り上げられた決まり(制度)が形骸化し澱となって溜まっていき、それが人を閉じ込める檻となる 
(2009-02-22 06:08:33)
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むーむー
@m_um_u
そういったオーバードライブに対するために憲法的なものがあったりするわけだけどその辺は番外だからいいとして… 
(2009-02-22 06:09:58)
link
むーむー
@m_um_u
ただ、「壁」がいつも悪いとは限らないわけで、「壁と卵」というのを単純な二項対立としてとらえると「システムと生活世界」ということでハーバーマスも言っているし、そういった区分けはわりとおなじみのもののように思う。 
(2009-02-22 06:12:25)
link
むーむー
@m_um_u
ここで沸き起こる課題は「壁」自身もわれわれが生み出したものであるということ(壁の中にも卵はいるということ)、「卵」も放っておくと悪を生じさせるということ。後者は大衆的な妄動なんかがそれにあたる。 
(2009-02-22 06:15:35)
link
むーむー
@m_um_u
村上の場合はそういった妄動も含めて「壁」と呼んでいるのかもしれないけど。「世間」や「空気」といったそれも形式の澱としてそこに含まれるのだろう 
(2009-02-22 06:16:56)
link
むーむー
@m_um_u
自分的には別に「村上甘いよ」とか「オレのほうが村上わかってるよ」とかそういうのしたいわけではなくて、単にここからの連想で最近思ってることをまとめとこうというだけだけど。まぁ、あとで、ほかのところでやろう 
(2009-02-22 06:18:19)
link


というか、村上春樹のあの場でのスピーチとしてはあれは立派だったと思うしなんの文句もないんだけど、「システム vs. 人」みたいな感じで二項対立的にとらえて「やっぱ人だよ」みたいに納得して人を説き伏せようとしてる人がいるとなんかイヤだな、というぐらいの話。ついったのほうでもちょっといったけど「じゃあシステムの内部にいる人、あるいはシステムを作ってる人はどうなるの?」ってことで

The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others (「大いなる制度」は私たちを守ろうと期待されている反面、時に独走して、私たちを殺害しはじめ、他国民を殺害するように仕向けます)


って言い方してるからシステム自体の効用についても認めてるのだろうけど、でもやはり

no matter how right the wall may be and how wrong the egg(壁が正しく、卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます)


なわけで…。


それはイスラエルによる暴虐を考えると当然の言葉と思えるし、小説家の役割としてもシステムよりは一人の人間の実存(代替不可能な生)について考えるのはもっともだと思うんだけど。でも、この言葉を単体で抜き出したときにやはり違和感がある(先ほど述べた理由で)。






村上春樹はスピーチの中でお父さんの中国出征についての個人的な思いについて語っている。それはおそらくぼくのヒロシマに対する感情と似たようなもののように思う

muse-A-muse 2nd: <ヒロシマ>ということ



であれば、ぼくがシステム側に立った理を説くのは矛盾しているのだけれど、そういうことではなく


頭では、あるいは理性ではシステム的なことは分かっていても感情というか、もう少し身体の芯の部分で譲れないものがあるのだ。内田せんせなんかは「その辺がsoulなんじゃないか?」って言ってるけど


壁と卵(つづき) (内田樹の研究室)




それでもなおシステム側の理由や理屈を省みずに「人間が大事」とかいうのはどうなんだろう?と思う。システム側というか、システム(壁)の内部にも人がいて、それをつくっている人々の葛藤があるということ。その現実を見ずに漫然と「人間(生活世界)が大事」とか言うとしたらどうなんだろう、と。




もちろん村上の言っていたことはそういうことではなく、かつてはたましいのこもっていた形式が形骸化し暴走することへの危惧ということだったのだろうけど、今回のスピーチが単純に「システムが悪い」って解釈され、さまざまな制度や仕組みづくりに従事してる人のモチベーションを減退させるとしたらたまったもんじゃないなぁ、と思ったのでした。

posted by m_um_u at 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年08月14日

保守/リベラル ウィンプ/マッチョ 体育会系/文化系、集団主義(≠日本教)/個人主義辺りのマッピング

らくがきしたのでてけとーにうp(※サムネイルだからクリックで大きくなるよ)

まっちょうぃんぷ.JPG

「エントル」って書いてる辺はそのうちエントリにする(予定(未定
posted by m_um_u at 22:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年08月05日

ビートたけし、フライデー襲撃事件とはなんだったか

1個前のエントリの軽い続きのようなもの
 
ギョーダイさんの「元気が出るテレビ」(純粋TV)論との関係でたけしのフライデー襲撃についてうにうに考えられるかと思ったんだけどアレって単に「時代の寵児として調子に乗ったたけしが酔っ払って突撃した」って話だったか。

ビートたけしとフライデー事件- てれびのスキマ


純粋TVとの絡みで言うと、アイロニカルに形式化するリアリティの中で暴力性を持って現実を繋ぎとめようとしたのかな、とか思ったんだけど。「不可能性の時代」でいうところの「極度の暴力性=現実への逃避」ってやつ。実体なき「わらい」の形式(シミュラークル)の氾濫を暴力という肉体性によって繋ぎとめようとしたのかな、とか。

んで、その感覚というのは三島が「約束を果たす」ために自決した感覚にも近いのかな、とかとか。

おしんこ本によると)三島の自決というのは天皇を「現人神」として崇拝し死んでいった兵士たちの魂の契りを守るためのものということだった。「兵士たちは天皇を神として死んで行ったのに戦争が終わったら『天皇は人間でした』ってことになりいつの間にかその第三者の審級にアメリカがすげかわっているのはおかしいじゃないか」、と。

そんな感じで、「形式を貫き、フィクションを拡散しようとするメディアがそれに従事するもののリアルを暴きだそうとするのって約束違反じゃないか?そこまでやるとプライベートとフィクションの区別がなくなり芸人の“芸”が守れなくなっていくのではないか?」、的なTV業界全体を背負うような公憤があったのかなとか思ったんだけど単なる私憤だったみたい。


でも北野武のその後の作品を見てるとそういうところ、「フィクションによってゆれる実存を過剰な暴力によって取り戻そう」という志向のようなものが感じられるんだけど、いま思うとそういった関心というのはこの事件後に起こったものだったのかもしれない。「あのときのオレは思いっきりフィクションにとらわれていたな(調子に乗ってたな)」、って感じで。

とはいっても調子に乗ってるからこそ生まれるおもしろさというものもあるわけで、そゆのがこの辺に詰まってるのかな?


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4 ギリギリの線で・・。
5 『ビートたけしのANN』入門書
5 一気に読んだ
4 もっと読みたい!




でも、あの事件って上記のような感じで描こうと思えば描けると思うんだよね。「Always 三丁目の夕日」みたいな感じで



--
関連:
毎日jogjob日誌 by東良美季 : 7月 27日(日)気分は80年代

今思うとたけしさんという人は、80年代が無理矢理装っていた明るさのツケを、ブラックホールのように一人背負っていた。

 
posted by m_um_u at 09:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年07月27日

ヤキニクヤケタカ?

一つ前のエントリで「コリアン世界の旅」について触れたのでついでに。焼肉の話がおもしろかったのでメモ。「焼肉は日本発」って話

正確に言うと「卓上焼肉が日本発祥」ということらしい。背景にあるのは「無煙ロースター」の開発。焼肉屋にいくと天井からぶら下げてある例のアレだ。

いまではいろんな形があると思うんだけどもともとは日本の「シンポ」という会社が開発したものらしい。以下、引用部は「コリアン世界の旅」より抜粋

 焼肉をすると、当然のことながら煙が出る。かつて焼肉屋といえば、煙がもうもうと充満し、壁はすすと油でべたつき、店を出ても服や髪の毛の臭いがこびりついて離れない。白いワイシャツを着て焼肉屋には行けないと言われたものだった。そうした難点を、いまから十五年余り前にこの人が解消した。煙の出ない「無煙ロースター」の開発である。


これによって内装に白をつかえるようになったり、女性客が増えたりして焼肉屋のイメージがガラっと変わったらしい。

そんで無煙ロースターが業界に広く流通するようになったのは「食道園」という店が取り入れた影響らしい。なんでも日本でもっとも古くから続いている焼肉店(since1948@大阪)とか。当初は「平壌冷麺」を名物としていて焼肉が人気が出たのは開店から二、三年してからなのだそうだ。

 林光植の長男で食道園・現社長の江崎政雄によれば、食卓の上で肉を焼いて食べるという調理法は、もともと朝鮮半島にはなかった。「かんてき」、つまり七輪に炭火をおこし、網を載せてその上で肉を焼く、このやり方はあった。
「だけど、テーブルの上にかんてきを置いてお客さんに食べさせたのは、まぁうちの親父が最初やろうねえ。こんなんいうたらおこがましいかもしらんけど、そういう意味で、ここが『焼肉文化』の発祥の地なんですわ」


 食道園はそれ以降も力道山とか美空ひばりなんかの御用達になったりして人気の店になっていったらしいんだけどここが1980年の秋に無煙ロースターを導入したらしい。そんでそれから三年もしないうちに新規店舗には必ずといっていいぐらい無煙ロースターがつくようになった、と。



こうやって見ていくと無煙ロースターと卓上焼肉は直接関係ないみたいだな。たしかに卓上焼肉自体は日本発っぽいんだけどそれは無煙ロースター以前からあった、と。関連でこの辺とか

 韓国で「焼肉」と言えば、普通は「プルコギ」を指す。ハングルで「火の肉」を意味するこの料理は、だが、日本の焼肉とは似て非なるものだ。韓国では、真ん中がこんもり盛り上がった鉄鍋に、タレをからませた肉をどさりと載せて焼く。この鍋は誇張するとスペインのソンブレロのようにな形で、流れ落ちてくる肉汁はソンブレロのつばのところで受け、肉を少しつけたり後でうどんを煮込んだりして食べる。日本の焼肉よりは、ジンギスカンに近い。
 いま日本にある焼肉のスタイルを作り上げたのは、私は断言してよいと思うが、在日韓国・朝鮮人と帰化者たちなのである。食道園の社長で全国焼肉経営者協会の会長も務める江崎政雄によれば、全国二万軒の焼肉店のおよそ九割が在日か帰化者とその子孫の経営ではないかという。
「焼肉文化」というものがあるなら、それはとりもなおさず朝鮮半島から日本に来て住み着いた人々の文化なのである。


関連で言えばタン塩、ユッケ、生センマイみたいな食べ方も日本発祥のことと言われている、と。

ただ、焼肉がここまで人気・普及した背景には無煙ロースターの開発があった、ということみたい。あと、家庭用焼肉のタレとか。


ついでに焼肉の戦後史を引用しとこう(途中まで)

 日本の敗戦前後に在日朝鮮人(第九章で述べるように当時は日本国民だった)のあいだで始まった焼肉は、1940年代・50年代と少しずつ日本人に受け入れられていったが、客層は肉体労働者や中年男性に偏っていた。第一次の焼肉ブームは高度経済成長が始まった1960年前後に起きている。焼肉店が全国に増え、調理師の引き抜き合戦によって共通の味やメニューが広まり、定着していった。
 当時のメニューが、食道園にたまたま残っていた。ロースとカルビがそれぞれ一皿250円、タンとミノとユッケが200円、レバー150円、センマイ100円。大卒の初任給が1万4千円の頃だから、これは決して安い値段ではない。牛肉はまだまだ贅沢品だったのである。
 第一次焼肉ブームよりやや遅れ、60年代後半から70年代にかけて、焼肉のタレを通じて焼肉は家庭にも浸透していく。こうした下地ができたところで、80年代に入ると無煙ロースターが登場し、家庭での焼肉に親しんでいた家族連れや女性客を街の焼肉店にいっせいに引き寄せた。かつての日陰者的なイメージは、いつのまにか薄れていった。




こんな感じで焼肉文化は広がっていったらしいんだけどその発端としては差別があったみたい。肉関連の仕事、屠殺→解体というのは洋の東西を問わず蔑まれるものというのは「カムイ伝」「肉食の思想」、「ドキュメント屠場」なんかでも出てきてたと思うんだけど今回もそれ系の記述があった。もともと朝鮮民族には飲食業や食肉業を不当にいやしむ考え方があるみたいなんだけど、そういった人々がいわばダーティーワークともいえる食肉業にたずさわっていった背景には「そういった仕事しかなかったから」という背景があったのではないか。

この辺りについてはぼくも気になったことがあって以前とある人に聞いてみたことがある。「菊貞(※広島市内の食肉解体場所)とキムチ専門店が多い地域が近いのはなにか関係あるんですか?」的に。いちおカムイ伝的背景も話して聞いてみたんだけどそのときの答えは「特に関係ないと思うよ」って感じだった。たんにこの人が特に興味がなかっただけなのかもしれないけど(※いちお市会議員だったが


お肉の歴史というのはこんな感じで在日差別とも関係するみたいなんだけどそれがびみょーに歪んで同和利権とか「触れてはいけない話題」的な感じになってるのはハンナン辺り。この辺については個人的には良く分かってない。もそっと調べていこうかな



野中広務 差別と権力 (講談社文庫)
魚住 昭
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5 同和利権と権力
5 日本政界における"野武士"、野中広務氏の人物像に迫る渾身のドキュメンタリー
5 野中広務がわかる
5 今の時期この本を読んで・・・
5 悪夢のように面白い

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2008年07月24日

筒井康隆がウケた背景みたいなの

一個前の「みんなの意見は案外正しくない」関連でいまこれ読んでて


ベストセラーの構造 (ちくま文庫)
中島 梓
筑摩書房
売り上げランキング: 83467
おすすめ度の平均: 4.5
5 マーケティングの良書
4 文学が消費される構造を描き出す好著
5 優れた分析



これについてはちょっと前のエントリでも少し触れたんだけど


muse-A-muse 2nd: ルサンチマンって新中流層辺りから出てるのかねぇ


中流層の教養ダダすべり問題っていうか動物化うんぬん問題とも絡むんだけど、読み進めてたら筒井康隆について言及してる箇所が出てきてそれがたんぶらーでたまたまみたエントリとリンクしたものでメモ的に。


むーたん - この小説は一日一話ずつ掲載という新聞連載の特性を利用し、その日の掲載分を読んだ読者からの、投書やASA...

(※以下、「朝のガスパール」についてのwikipediaの引用から孫引用)

この小説は一日一話ずつ掲載という新聞連載の特性を利用し、その日の掲載分を読んだ読者からの、投書や ASAHIネットのBBSへの投稿を作品世界に反映させ、虚構と現実の壁を破るという実験的手法がとられた。具体的には、投書や投稿により物語の展開に対して読者が作者に要望を出すことが出来るというものだが、単にそうした企画であるにとどまらず、物語中に作者を模した小説家が登場し、その投書や投稿を引用して批評(時には激しく罵倒)するなど、作者独特の世界が開陳され従来の新聞小説に慣れた読者を驚かせた。BBSでは、単に読者からの要望を物語の展開に採用するのみならず、書き込み内容やハンドルネームから醸成されるBBS住人のキャラクターを登場人物の造形に利用したりもした。また、当時はインターネット普及以前で(BBSもいわゆる「パソコン通信」のものであった)、当時はまだ一般に普及しておらず言葉すらなかったオンラインゲームやオンライントレードに近いものが登場し、非常に先進的な設定を取り入れた小説であった。BBSそのものも、連載中に現在で言うところの「荒らし」「アスキーアート」「炎上」「祭り」などに相当する事態が頻発し、ネット社会を先取りする形となった。



その後のotsuneさんによる愛蔵太さん情報なんかもおもろいんだけど筒井康隆という作家の属性とか意味について「ベストセラーの構造」(中島梓)的に解説があったので。

端的に言うとアイロニーでありシニカル。「全てのもの(既成の権威・構築物)をわらうものが筒井康隆である」、と。これってちょっと前に見たこの辺の話を髣髴とさせる


muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム


ギョーダイさんが指摘してた「アイロニーの形式部分ばかり踏襲してどこからのアイロニーなのかを見失ってしまった人々」というのと「筒井康隆がなぜわらうのか(なにをわらっているのか)わかってないのに筒井に追随する人々」というのは重なるのだろうな。年代的にも重なるし(80年代)

中島(栗本)は筒井康隆の作家的属性については説明できていたように思うけど、「ではなぜそれがウケたのか?」という点については説明できてないように思った。その辺の回答(のひとつ)が北田本だったのかな。

もっかい復習すると、全共闘的な異常な形式主義に対する反動として無反省(あるいはアイロニー)の姿勢は生まれていったんだけどいつしか「反動としての」というところが抜け落ちて「アイロニー」という形式だけが踏襲されていった、って話。


なんかこういう繋がりは日本史やってて世界史とつながったみたいな感じでおもろい
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2008年06月26日

世界にひとつだけのナベアツ

あまり興味ないって言ったら興味ないんだけどついったでklovかなんかがみょーに反応してたような気がしたので

「世界のナベアツ」というお笑い芸人のネタ、「○○でアホになる」が教育現場で問題になってるみたいで


学級崩壊!? ナベアツ人気で小学校教員が悲鳴(日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース


糾弾の理由づけとして「障害の人のことも考えろ!」、と


全ての人を笑わせる笑いってないけどさ・・・ - NC-15



まぁ、よくあるPTA的教条主義っていうか、過剰なフレーミングなんだろうなって程度なんだけど。ベタに斜め読みすると「お笑いはPTAで問題にされてこそナンボ!」でありダウンタウンやらタモリやらも通ってきた道だもんなぁ。。

つってもそういうの免罪符にしてことさらに差別表現をするってのは間違いだと思うけど、件のナベアツの人ってそういうの意識してやったんじゃないんじゃまいか?「アホ」の顔真似やってたら見てるの一部から「障害者に見える!」って言われただけかなぁ、とか。(まぁ、この人のこと知らんのんだけど

そんで、そんな感じでメッセージを発する人や受け手の大多数が「差別」とか特に思ってないのに一部の人がそのように騒ぐことによって却って差別が助長されるというか、被差別者が自分は差別される存在として気づくことによって傷つくということもあるかなぁ、とか思ったり。

あまり関係ないけど子供の頃に「女神転生」ってゲームやってて初めて捕まえた仲魔ヨモツシコメが嬉しくて、姉のことを「ヨモツシコメみたい」っていったら母が過剰反応してそれによって姉がオレに悪感情を持ったと思われるようなことがあった。こちらとしては好意で言っていたのだが…(まぁ、デリカシーがなかったといえばなかったんだけど


そんな感じでメッセージを送る人には悪意がなくても受け手によって曲解されるというか、受け手の一部がことさらに反応するってのもあるかなぁ、とか思う。中にはそういうの気づかないでふつーに面白がってるだけの人もいるのだけど、こういう人たちが「問題意識」とやらを出すことによってみょーに問題になったり、ってこと。

てか、この人たちが「差別表現だ!」っていう以前にこのネタを見た子供たちが障害を持った子供に対していじめをエスカレートしていた、ということがあるなら別だけど、「そうなったらやばいじゃん?」って話だもんな。まぁ、「○○される人のことも考えろ!」ってやつなんだけど。それ言うんだったらこれを指摘することによってヌルーされていた差別意識を刺激するかもしれないことも考えろ!とか思うんだけどどうなんだろう…。その後のケアとかできてるのかな?

たとえば「差別というのはどういうものか」とか「平等とはどういうものか」とかそういう意識を教条的な形ではなく教育していくだけの受け皿みたいなのを用意した上でそういう発言してるのかな?

なんかこの手の発言する人って「問題だ!」って言った後丸投げな気がするんだけど…(ウチの母はそうだったし



そんでうにうに考えてたらなんとなく以前にaozora21さんが「世界にひとつだけの花の表現が気になる ><」とか言ってたのを思い出した。この辺


uumin3の日記:社会的役割 ※コメント欄

ここでaozora21さんは「世界にひとつだけの花を過剰に嫌う理由ってなんなんでしょね?」みたいな話してて「メタメッセージを感じちゃったんですかね?「ナンバーワンにならなくてもいい」には「身の丈を知れ」的な」ってとこに落ち着いてる。

ふーん…って感じ。自分としてはあの歌はマキハラの復活劇うんぬんとダブるものなんだけど。なので歌のメッセージとしては、「ヒットチャートとか気にせず(あせってクスリなんかに手を出さずに)コツコツと自分の楽しいことをやっていこう!」的な感じで殊勝ですね、ぐらいのものなんだけどそれでもいろいろ感じてしまう人はいるんだなぁ、と。まぁ、SMAPが関わって売れすぎてその後みょーに持ち上げられていろんな文脈くっつけられたってのがあるからなぁ。。「千の風」と同じだべなぁ。。

自分的には「気持ち悪い」っていったらそっちの過剰な持ち上げのほうなんだけど、これって今回の事件にも似てるというか、最近の個人的な違和感に通じる。「送り手のメッセージは無視して受け手が既存のフレームからメッセージを誤解(あるいは曲解)、自分たちの語りたいことを語って事案を消費、結果的に問題とされた部分はなにも解決されずにみょーな疑心だけ残して揉め事が収束していく」って感じ。まぁ、受け手側によるマッチポンプなわけだけど。


繰り返しになるけど、今回のナベアツさんの件でもし「お笑いにおける差別表現によってなんらかの差別生じることが懸念される」っていうんだったら差別とかいじめのような衝動が生じるような環境があるということが問題なのだからそちらのほうを見つめなおし改善するほうが良いように思うけど。



あと、あまり関係ないけどお笑いにおける差別表現、ギリギリの表現というのは生活圏における悲惨への対処法(悲惨に対して深刻になりすぎて折れないように笑いによって自らの立ち位置を相対化するという方法)の結晶化したものである場合もあるので一概に悪いとは言えないでしょうね。モノにもよるけど、放送禁止歌的なナイーブさがあるように思う




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関連:
muse-A-muse 2nd: 差別をめぐる審級について (あるいは「人権と国家」)

※「差別ってあるライン(常識)に対する過剰性の問題だよね?」って話



muse-A-muse 2nd: 差別をめぐる審級について (あるいは「人権と国家」)

※『今「ひょうきん族」と同じことすれば、手ひどく批判される』だろうねぇ。。

posted by m_um_u at 22:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年06月01日

ぜいたくな死

元某局女子アナの人の自殺についてなんかもやもやたまったのでいちお吐き出しとこう。最初に断っとくと自分の意見が正しいとは思ってないし主張ってわけでもなく単なる個人的感想程度。
 
この件の動機については「報道志望だったのにそれがかなえられなかったのでフリーになったのにそれからも報道っぽい仕事もらえずアイドル扱いで悩んでいた」とか「恋愛関係で悩んでいた」とかもろもろあるみたいだけど真相はよくわからないしその辺については特に関心がない。率直に言って個人的には「ぬるい」という言葉が頭に浮かんだ。というか、まずイラ立ちのようなものを感じて言語化してみたら「ぬるい」って感じだった。

なぜそう感じたか。あとから問い直してみるに「報道」の部分がひっかかっていたのだろうか。「ほんとに報道志望だったのならコロンビアとかハーヴァード、Poynterなりに留学すればいいじゃん。金も時間もあったんだろうし」って感じか。あと、「世の中にはいやな仕事どころかその日の生活もままならない人もいるのに」って気持ちもちょっとあった。この辺は八つ当たりってか、本論とそれるから理路としては通らないけど感情的にはそういうことを感じたように思う。

で、

個人の死としては別に知り合いというわけでもないし今回の件ではじめて知った人なので特に感じるものもないというかふつーに悼ましいなって程度なんだけど公的にはどうなんだろう。ニュースで取り上げるようなことなのかなぁ。まぁ、そういうこというと芸能人なんかがなんかある度にニュースで取り上げられてるのだから同じようなものなのだろうけど「社会的関心を集めるような社会的問題」ってわけでもないよなぁ。
 
故人は報道を希んでいたようだけどこういう風に祭り上げられていることに対してどういう感情を持つのだろう。少なくともこのニュースはジャーナリズムとか報道の範疇ではない。



(こういう書き方をすると貶めるみたいだ気持ち悪いのだが) てか、「報道」という言葉も「かっこいいニュースキャスター的ななにか」みたいな感じだったのかもしれない。「幸せな結婚をしてかっこいいニュースキャスターとしてのキャリアも持続させる」、と。彼女にとって「報道」という言葉はそういうものを指していたのかも、と邪推してしまう。

それならそれで良いのだろう。個人の生き方だし。自死の理由も人それぞれだから。「太陽がまぶしかったから」とか「今日は死ぬにはちょうど良い日」とかいって死ぬ人もいるのかもしれないし。端から見るといかにも「ぜいたく」な理由に見えても「死」は極個人的なものだから、その理由がどのようなものでも端からどうこういうものでもない。

ただ、ちょっとモチベーションというかモラルみたいなのが落ちるけど(自分的には)


今回の件を社会的な問題として扱うとしたら「報道希望の企業ジャーナリストがhigher journalismの道を求めてもそれがかなえられないという日本のマスメディア業界の構造的問題がある」って感じになるか。「バラエティ的仕事をしたくない」っていうんだったらセント・フォースみたいなフリーの女子アナ用の事務所に入ればよかったんじゃないかとか思うけど


セント・フォース - Wikipedia


その辺ではhigher journalismは目指せないしな。「企業内から留学への道をサポートしたり、帰っていた社員を遇するような体制を作るべき」って話になるか。


個人的な問題、自死の是非うんぬんについてはさっきも言ったように「死」はそれぞれの人の極個人的な問題であるから端から貶めるような問題でもないと思うけど過剰に持ち上げるのもどうかと思う。この辺のぶくまみても「欝スパイラルで仕方なかったんだ」とか「欝に入った人の問題は他人から見ると”その程度”って問題でも本人にとってはすごく重要で繊細な問題なんだ」みたいな意見があって


はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`):「そんな次元の悩みで自殺。川田アナは世間知らずで打たれ弱い」 電撃ネットワーク・南部のブログが炎上→記事削除


そういうのも経験済みだから分かるんだけどやっぱそういうのにもやっぱなんか違和感。一般論としてそういうのもあるし、コメントしている当人はそういうことで苦しんでいるのかもしれないけど今回の件に当てはまるかどうかなんか誰にも分からないし、問題を極度に聖化してるだけではないか、と


この問題に対する個人の実存レベルでの視点としてはこの辺の感覚が一番近いかも


日記的 - finalventの日記


(あくまで発表されたり憶測されたりしている断片からなのだけど)なぜ彼女があんなベタであの境界を越えられたのか分からない。(実際に「死」を強烈に意識した人なら分かるだろうけどなかなか死ねないものだし)

そういったものの境で超越的ななにかに出会うってのも同意。あるいは「彼女はそういったものに出会えなかったから」ってことになるのかもしれないけど…この辺はこれ以上詮索しても仕方なさそうなので





とりあえず自分がこの件に関して感じた苛立ちというか違和感は彼女個人の選択や生き方に対してではなく、今回の件に対する周囲の反応というか持ち上げ方みたいなのにあったということは確認できたのでそれで良しとする。
タグ:実存
posted by m_um_u at 10:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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