2009年05月14日

「へうげもの」をめぐって武力と資本とアートな話

先日「へうげもの」を読んでおもしろかったのでご紹介がてらなんか書こうかと思ってたんだけど、ちょうどついったで@kimarxさんと話したことがそれ関連にもなるかなぁということでまとめて。

とりあえず「へうげもの」の紹介から。

へうげもの―TEA FOR UNIVERSE,TEA FOR LIFE (1服) (モーニングKC (1487))
山田 芳裕
講談社
おすすめ度の平均: 5.0
5 物に執着している人に
5 さすがとしか
5 新たに天才発見(遅)
5 物欲か?出世か?
5 キュ〜トな戦国時代



いまのところ8巻まで出てる。

へうげもの 8服 (8) (モーニングKC)
山田 芳裕
講談社
おすすめ度の平均: 5.0
5 いぶし銀の8服/策謀の胎動が見え隠れする
5 へうげもの8服、緊張感のたかまる金と黒
4 重い、しかし笑える
5 見つめて、、削いで、、最後に残ったものこそ
5 刻々と近づく利休の死、脈々と継がれる明智の遺産―



概要としては織田→豊臣時代の茶の湯な数奇な話。焼き物の「織部」で有名な古田織部が主人公だったりする。


織部流 - Wikipedia


物語としては織部が千利休に師事しつつ茶の湯(あるいは数奇)の体得と武功をあげての成功の二兎を追おうとするも…的な話。軸としては織部自身よりも利休と秀吉の対立への新解釈がポイントっぽい。

この時代の「数奇」というのは茶の湯関連の逸品を蒐集癖ってことなんだろうけど、ファッションとかアートとかいった意味合いも含むみたい。かぶき者まではいかないけどそれに近いような。

そんで、この数奇(あるいは数奇の前衛であり筆頭芸術としての茶の湯)を通じて利休が暗躍し、秀吉をもおびやかすほどの人脈を作り上げていった、みたいなところがおもしろかった。

歴史の覇権を握るには武力+政治力(リバイアサン)か、資本とそれを元にした武力や人的ネットワーク(ベヒーモス)かのどちらかが必要になると思われるわけだけど、「へうげもの」では「利休たち堺の商人ネットワークは資本という力以外に茶の湯によって独自の人のつながりをもっていてそれが力になっていた」、って描かれかたをしてた。

この辺の詳細はあながち「あれはマンガだから 笑」ってこともないか、と。

こんな感じで「へうげもの」の真骨頂は「武でも財でもなく芸(あるいは文化)で天下をとろうとした」ってところだと思う。んでもやっぱ「文化以前に武力や財力の基盤が固まっていたから」ってのもあるとは思うわけで…。その辺の話をきまるくすさんともそもそ


てか、最初にきまるくすさんがこんな感じでつぶやいてて
 

 

 

 

 

 

 

Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
Amino does not want to recognize that Behemoth always defeats Leviathan.
Murakami, a famous pirate clan in Japan, was defeated by Toyotomi. 
(2009-05-13 14:20:01)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
Toyotomi first controlled agri-culture entirely in Japan and he would be representative of Behemoth. 
(2009-05-13 14:24:31)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
Ariam lost their territory since they were converted to Christianity. But they made million by trading with Europeans. 
(2009-05-13 14:37:02)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
When Arima was converted to Christianity, they would be converted from
the territorial to the maritime. 
(2009-05-13 14:40:45)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
OUchi Yoshitaka is the lord of a maritime samurai clan and he permitted Christian missioners to do their missionary work. 
(2009-05-13 15:15:17)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
That is, the word 'Christianity' can be associated with Leviathan and the maritime in Japan. 
(2009-05-13 15:19:45)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
He might find conflicts between the territorial and the maritime as Carl Schmitt who describes history as those conflicts. 
(2009-05-13 16:55:54)
link

これみて別件で見てたエントリ思い出した。


スピリチュアル・ブーム(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」


全体的には「昨今のスピリチュアルブームと一昔前のニューエイジ系とかとはどう違うのか?(あるいは同じなのか?)」的な話なんだけど関連で出てきたニューアカデミズムの話がおもしろかった。最近、網野本とか中野本読んでたもので。

該当箇所はこの辺(まるっと引用)

ニューエイジ運動が、「部分的・選択的コミットメント」による小集団によって、既成の集団や共同体の垂直的な地位・役割関係(要するに「しがらみ」ですね)から離脱しようとしていたのと同じ時期に、既成の秩序の垂直的な地位・役割関係を断ち切るための手段として、より強力な方策が夢想されていました。夢想していたのは、ニューアカデミズムと呼ばれていた人々、すなわち、中沢新一さんや浅田彰さんや柄谷行人さんや蓮實重彦さんたちです。そして、その方策が、資本主義の力によって既成の共同体や集団の垂直的な地位・役割関係を断ち切っていくというものです。中沢新一さんの叔父さんである網野善彦さんも、1970年代に、「アジール」という概念やターナーのコミュニタスなどの概念をも取りこんだ「無縁」という概念を提示しましたが、80年代になると、中沢新一さんの影響で、「無縁」と資本主義の結びつきという議論を始めます。浅田さんも、マルクス主義者としてスタートしたのに、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の議論などを援用して、資本主義による解放というヴィジョンを提示します。バブルだったんですね*6。この「資本主義による解放」というヴィジョンもまた、「関係の複数性」ということを消去して、「無縁」(という関係の場)が実現するためには、すべての既成の垂直的な地位・役割関係を断ち切らなければならないという固定観念の現われといえるでしょう。


網野史観とかそれに基づいた中野新一さんのお話だと天皇制打倒ってのが第一に来るので「天皇を中心とした支配層の作り上げた歴史に物申す!」(そのための語りえぬ民たちの歴史)って感じになるように思うんだけど、そういう史観がマルキストドライブすぎるとちょっとブレが生じるのかなぁ、とか思ってたわけだけど。引用箇所的には、「既製の過去のしがらみを断ち切るための手段としてなにかを求めた」→「網野さん的には“無縁と資本主義のつながり”というのがそれに当たった」、ってことになるのか。

「無縁と資本主義」って具体的にどんなのか、網野本もまだ4冊ぐらいしか読んでないのでよくわかんないんだけど、強いて言うと「異形の王権」とか「無縁・公界・楽」で示されたような歴史の表舞台的なところにいない人々による独自の経済圏(あるいはネットワーク)辺りの描写だろうか。それと現代的な資本主義というのがどういったつながりがあるのかよくわかんないんだけど、柄谷さんなんかはNAMっちゃったしなぁ。。あんな感じで「メインじゃない経済圏でも集まれば大きな力になるよ」的な感じだったのかなぁ…(妄想)



まぁ、それはそれとして


リヴァイアサンとベヒーモスの相克の歴史としてはたとえば堺のような商人ネットワークがどのように発生し自律的な力をもっていったか、ってことが気になる。

あと他にも、メインの政府的なものとは別に冨や武力の集中していたとこがあったのか、とか。

前者についてはヒックスの「経済史の理論」辺りが参考になるっぽい(>ヒックスは商人資本が海洋的なものから、そして封建制が領土的なものから生じていると考えているようです。彼はシュミットに近い)

※ここでいわれている「海洋的」は海のネットワーク(経済圏)、「領土的」は陸のネットワーク(経済圏)


経済史の理論 (講談社学術文庫)
J.R. ヒックス
講談社
売り上げランキング: 100479
おすすめ度の平均: 4.0
4 この本は・・・



海の道ということではこの辺とかも


松岡正剛の千夜千冊『海上の道』柳田国男


海上の道 (岩波文庫 青 138-6)
柳田 國男
岩波書店
売り上げランキング: 64918



関連マンガとしてはこの辺(「陸を道を中心とした文化が海の道の文化を滅ぼしていった」「海は産み、陸は戮」)




南北朝辺りの海賊描写(沖縄と中国との貿易も感じさせるもの)としてはこの辺

カタリベ (SPコミックス)
石川 雅之
リイド社
おすすめ度の平均: 3.0
4 アクションマンガ
3 完結までもっていってくれてれば・・・。
2 かもしが足りない
4 海洋伝奇冒険活劇!




あとは同時代からそれ以前(南北朝辺りから)の海賊勢力を洗ったりとかか。

この辺りはもっかい網野本見たり、あるいは司馬遼太郎の「日本史探訪」も買ってみたので見てみようか、と。



とりあえず「へうげものおもしろかったよ」って話でした





--
追記:
シュミットのこれもいいらしい(メモメモ)


陸と海と―世界史的一考察
カール・シュミット
慈学社出版
売り上げランキング: 289562


posted by m_um_u at 22:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年05月07日

「都会の田舎的な話」とか「逃げても同じ」とか

出かけるまで時間余ってるのでぼけーっとした日記。この辺みながらちょっと思ったこと


切込隊長BLOG(ブログ) Lead‐off man's Blog: 最近のはてなの釣り堀はレベルが高いぜ…
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2009/05/post-cc27.html



田舎の人は循環する時間という「宗教」を信仰している - アンカテ
http://d.hatena.ne.jp/essa/20090506/p1


(日記なのでリンクの流れとか端折りつつ)両方とも「出て行くんかい?」話ということでは共通してて個人的には出て行きたい人は出て行けばいいし残る人は残ればいいんじゃないか程度なんだけどけっこう注目集めてるのは出て行けない人の怨念みたいなのに触れるところがあったのかなぁとかなんとか思いつつ。


essaさんのほうの話は循環暦の話ってことで学生のころに聞いたモクテスマとコルテスの話思い出した。


モクテスマ2世 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%9E2%E4%B8%96


アステカの人々がああもたやすくコルテスらコンキスタドールを迎え入れたのは循環暦とその伝承を元に彼らを神(ケツァルコアトル)としてしまったため、って話。


「田舎と都会」(あるいはゲゼル / ゲマイン、合理 / 人情(?))みたいなのでとらえると、仲間だと思って迎え入れた都会ものが大型スーパーなんか出しだして地域環境むちゃくちゃにしちゃった、みたいな話だろうか。あるいはホリエモンとかのITな人迎え入れてうんぬんみたいなの。


つっても、「ゲゼル / ゲマイン」とか「合理 / 非合理」なんてのもそんな単純なものじゃなく新興する領域にも損得よりも人とのつながりみたいなの大切にするところもあるように思うんだけど。それが長期的に利益になるってのもあるけど

同じように「都会」とされるところも無機質な合理性の元につくられているわけではなく都会の下町なんかもあるわけで


東京夜曲 [VHS]
東京夜曲 [VHS]
posted with amazlet at 09.05.07
松竹ホームビデオ (1998-03-25)
売り上げランキング: 6483



先日久々に見返しつつ市川準監督が遺したかったものはそういうったものだったのだろうなぁ、とかなんとか。「トキワ荘の青春」にしても「ざわざわ下北沢」にしても。


そして、そういったつながり、縁、人の営みのつらなりのようなものが「町」の生命となっていく。


そういった話はlifeなんかでもおなじみだった



文化系トークラジオ Life: 2007/02/03 「東京」 アーカイブ
http://www.tbsradio.jp/life/20070203/


文化系トークラジオ Life: 2008/03/03 「池袋とセゾン文化」(公開録音) アーカイブ
http://www.tbsradio.jp/life/cat190/


文化系トークラジオ Life: 2008/08/10「地方を考える」 アーカイブ
http://www.tbsradio.jp/life/2008810/



「安直な合理性に基づいた再開発によって“街”は作り上げられていくのだろうか?」って留保。



最近読んだ「アースダイバー」なんかもそういう話だった。


てか、「循環-円環」ってことだと東京なんてのはもともと皇居を中心としたメリーゴーランドみたいな構造をしてるみたい


「トウキョウはまるでメリーゴーランドのような都市だ」

(略)

「だってトウキョウでは行きたいところにたどり着くためには、いつもこのパレスのまわりをぐるっと一周しなくちゃならないだろう。内側と外側と、二つの方向に自動車が流れていく様子が、まるでメリーゴーランドみたいで素敵だなって思うんだ。だって資本主義の経済活動は、こんな風に環(わ)を描いちゃいけないものだろう。どこまでもまっすぐに、ぐんぐんとすすんでいかなくちゃいけない。ところが世界有数の経済大国の首都の構造は、まるで資本主義経済の原則をあざ笑うかのように、人々に環を描いて移動することを強いている。これはいったいなにを意味しているんだろう」

(「アースダイバー」、p18)



中野新一はそれを受けて「ドーナツ型の中心部に開いた穴には経済や流通のせわしない流れとは違った時間がゆっくりゆっくりと流れている」とする。遠い過去と現在とをひとつに結ぶ「神話」の時間。


「中心がどこか」って問題もあるしぼけーっとした夢想ではあるけど、そういった時間の感覚というのは市川準監督が描いてきた「東京」の下町の姿に似てるなぁ、と思ったり。



もっともそういった情とかつながりなんてのも形式化しちゃうとしがらみとして重くなるのだろうけど、まぁその辺は別の話。



てか、essaさんの話は日本的空気の問題からの派生的な思考だったのかな程度で。だとすると空気の問題ってのは田舎だけじゃなくて都会にも残存するものだろうし、そういったものから「逃げたい」という後ろ向きな姿勢だけで都会出ちゃうとがっかりするのかなぁ、とか思ったりする。

人生においてはうまく逃げおおせたつもりでもいつしか追いつかれて対峙しないといけなくなる。対峙してはじめて止まっていた時間が動き出すような



そういいつつもう少ししたらオラも東京行く予定でありうまくすればそのまま住んじゃうのだろうけど。


さてさてどうなることでしょうね






--
追記:
ついでにいうと日本的時間の問題としては宮本常一辺りの論考を思い浮かべたけど特にそういう時間感覚についての記述はなかったような。「日本といっても西と東で家的抑圧が違う」って話はあったかな。

関連で中根千枝「タテ社会の人間関係」なんかも思い浮かんだり。あれも「田舎」って場の問題ではなく「タテ社会的構造が偏在するよ」って話だったと思う(途中までしか読んでないけど


posted by m_um_u at 09:23 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年04月29日

まっすぐな道でさみしい?

この辺関連で


本気でお金がなくなってきた - phaのニート日記


はてなブックマーク - 本気でお金がなくなってきた - phaのニート日記


ぶくまで

xevra ついにお金が無くなったのか。おめでとう。しかしこれで病院へも行けなくなった。若くて健康で居続けないと成り立たない暮らしは辛いね。/この世で一番楽しいことは仕事。仕事の楽しさが分からないのは不幸だよなぁ



ってのがあって。それ見てch1248とかが憤ってたりしたんだけど


ch1248 id:xebra ネパールではアパートの家主になって毎日ごろごろと暮らすのが理想とされる。幸せなんぞ人それぞれ。/あと、実際に会ってもいないのに、人の友人を病気扱いすんのは止めろ



そういえば仕事してないと病になるんじゃないかなぁとかなんとか。


鈴木敏夫さんのpodcastを聞いていたら「うつ病の起源は家庭に洗濯機やオーブンなど機械が導入されて主婦の仕事がなくなったことみたいです。やることがなくなると人は欝になる」みたいなこと言っててウラとってないんだけどぐぐっても出てこなかった。ほんとはこの言説のウラとりたいだけのエントリなので誰か知ってる人いたらコメントください。



鈴木敏夫のジブリ汗まみれ - TOKYO FM 80.0 - 鈴木敏夫


バックナンバー

鈴木敏夫のジブリ汗まみれ - TOKYO FM 80.0 - 鈴木敏夫

※パナソニックの柏木さんを招いた回かな。



まぁ、あとは思ったことをダラダラ書いてみる。



コトリコなんかも「このままの生活では誇りを保てるかどうかわからない」みたいなこと言ってたな(コトリコの場合は「オレは仕事してるだろがクソが」的なこと言うのだろうけど世間一般でいうような型にはまったサラリーマンしてるわけではないのでとりあえずそのまま続ける)


貧乏から学んだこと - コトリコ



そういう意味ではコトリコとかphaくんなんかは精神的に強いように思うんだけど


こういう生活をしたことがある人は分かると思うけど貧乏とか暇とかは精神的によくなくてそれが続くと自分の矜持とかプリンシプルのようなものも錆びついて失われていく。そんで安易な悪に染まっていったりする。


なのでオラなんかは「思想」とかうんぬん以前に心の平穏を保てるような生活状態を保つこと(余裕を持つこと)が第一目標だと思うようになったわけだけど、そういう中で仕事というのは生活をつなぐための糧(収入)としての意味もあるけど「現代の仕事の大部分は余暇ですよ」みたいなことは堀江さんも言ってたな


新聞やテレビが絶対に書かない「ホリエモン」こと「堀江貴文」の真実〜ロングインタビュー前編〜 - GIGAZINE


なのでイヤミっぽく「仕事の楽しさが分からないのは不幸だよなぁ」とか言うこともないと思うんだけど。しょせん余暇だし


てか、phaくんなんかが興味ない「仕事」というのはサラリーマン型…というとサラリーマンのひとに失礼か、えーとじゃあ便宜的に「仕事場から押し付けられる独創性のないルーチン型の労働」(ルーチン労働)であって、そういうのじゃない仕事はやりたいんじゃないかね。まぁ、「そういうのも甘えでありとりあえず働け」的な言説もあるだろうけどその辺は置いといて。


そんで、まぁ、そんな感じでルーチン型労働に対してなんらかの意味づけを行ってる人なんかがphaくんの生き方見てるとイラついたりするのかなぁとか思うけど、別にその辺本来どーでもいいことなんじゃないかなぁ。仕事なんか本来飯食うための狩猟・収穫であり、それしなかったらその人が飢えて死ぬだけのことだし、そういうことしなくてもなんらかの形で人から援助受けてる人がいるとしてもそれによって自分の収入が減るわけでもないしなぁ。



てか、個人的にはphaくんとかコトリコ、有村さんなんかの生き方には親和性をもつけど。ルーチン型な生き方のオルタナティブがインターネット時代には広がっていくのか、って実験的にはおもしろい(itkzなんかの例もあるし


てか、そういう言い方するとオラなんかがそういう生き方の突端にいるのかなぁとか思うけどまぁそれはそれとして



あと、労働観について。アポロン型とディオニュソス型があるのかなぁとか思ってたけど最近だと常時コツコツ働いてるタイプの収穫型と必要なときに一気に働いて特に用がないときは寝てたり遊んでたりする狩猟型があるのかなぁとか思ったりしている。あとイヌ科 / ネコ科とか。

自分は後者かなぁ。そういうタイプのひとにいつも働くルーチン型の生き方おしきせられてもたまらんかなぁ、とかなんとか。そこまでいくとやっぱ宗教なのかなぁとか思ってしまう


極東ブログ: [書評]プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー)




phaくんの今後については(会ったことないので単なる妄想だけど)山頭火みたいな感じで極限まで行って反転するとおもしろいのかなぁなどと妄想してたりする。


まっすぐな道でさみしい―種田山頭火外伝 (1) (モーニングKC (896))
いわしげ 孝
講談社
おすすめ度の平均: 3.0
3 とても丁寧に描かれています!




ルーチンなまっすぐな道だとつまらなくてさびしいことになるかもだけど、自分の道を貫きすぎるのもさびしいことになるかも。人生どう転ぶかわかんないね




posted by m_um_u at 08:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年02月25日

壁と卵の話(壁作りの是非について)

 
けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一點にも均しい明暗のうちに
   (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を變じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相當のちがった地質學が流用され
相當した證據もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません


宮沢賢治 「春と修羅・序」




村上春樹の<壁と卵>スピーチについて、


極東ブログ: 村上春樹、エルサレム賞受賞スピーチ試訳


ついったーのほうで軽くつぶやいたことで気になってたことがあったのでなるべく軽く書いとこう。ちょっとした違和感程度なもの


ついったのほうの契機としてはこんな感じ
 

 

 

 

 

 

raitu
@raitu
「魂が鈍ると形式が現れる by Charles Bukowski」形式とは何だろう?たとえば、言葉遣いが気になる僕は、日本語の「形式」にとらわれた結果なのだろうか?形式を重要視しているからこそ、いかに「言葉遣い」という形式をもって相手が接しているかを無意識に重んじてしまう。 
(2009-02-21 13:13:54)
link
raitu
@raitu
「魂が鈍ると形式が現れる by Charles Bukowski」ならば、「魂の牢獄」は「形式」。 
(2009-02-21 13:15:03)
link
raitu
@raitu
「魂が鈍れば形式があらわれる」さて、形式が魂の牢獄であり、一定方向を向いた魂の貨物船だとして、なるほど確かに集団を従わせるのは形式以外には存在し得ない。社会は形式によって運営される。村上春樹エルサレム賞式典でのスピーチを引用すれば、形式は壁であり、魂は卵。卵で壁に穴は開くか? 
(2009-02-21 13:53:06)
link
raitu
@raitu
村上春樹は、いかに壁が正しかろうと、卵の味方をする、と答えた。そもそも、「正しさ」を保有するのは壁=形式でしかないからこそのスピーチだと考える。では卵=魂は何を保有するのか、といえば、感情と欲望なのだろう。宗教も形式であり壁であり、卵を囲い魂の牢獄。村上春樹は多分そう考えてる。 
(2009-02-21 13:57:09)
link
raitu
@raitu
かつて形式=壁がそれほど高くなかった時代。魂の自由さにおびえ、不安を抱き、混沌とした世界があり、そこにユダヤ教やキリスト教、という「高い壁」が作られ、そこに魂=卵は閉じ込められ、人々は一応の心の安息を見た。卵を閉じ込める「壁」はそのうち「箱」になり、卵は自分を箱と勘違いする。 
(2009-02-21 14:03:17)
link
raitu
@raitu
閉じ込められた大量の卵を入れた「箱」の一つは、現代になり国を作り、そして「箱」どうしぶつかり合って中の卵割れまくり、と。 
(2009-02-21 14:03:47)
link

 

 

 

 

 

 

 

 

 

むーむー
@m_um_u
珍しく @raitu のいっていたことがあたまに残った。あとでほかで使うかもしれないけどついったでもらったことなので自分的まとめもかねて清書的に書いとこう 
(2009-02-22 06:00:52)
link
むーむー
@m_um_u
「魂が鈍ると形式が現れる」 というCharles Bukowski の言葉の「形式」と村上春樹の「壁と卵」をつなげた話。ブコウスキーのそれは作品における形式のドライブ、大衆的なものにおもねるあまりに演出ほか修飾や脚色的な部分が内容よりも先走ってしまうことについて触れている 
(2009-02-22 06:04:05)
link
むーむー
@m_um_u
ように思ったので壁と卵とは直接関係ないように思ったけどその後でそれなりに「壁=形式」としてつなげていっていたのが良かったなぁ、と。村上春樹の言っていた「システム=壁」が指していた主なものは国家幻想(あるいはそれを含む共同幻想)だとおもえるので当然といえば当然なのだけど 
(2009-02-22 06:06:09)
link
むーむー
@m_um_u
国家幻想ほか共同幻想のオーバードライブという話は @medtoolz さんが言ってた道徳のオーバードライブ的な話にも通じる。かつては「正しい」と思って作り上げられた決まり(制度)が形骸化し澱となって溜まっていき、それが人を閉じ込める檻となる 
(2009-02-22 06:08:33)
link
むーむー
@m_um_u
そういったオーバードライブに対するために憲法的なものがあったりするわけだけどその辺は番外だからいいとして… 
(2009-02-22 06:09:58)
link
むーむー
@m_um_u
ただ、「壁」がいつも悪いとは限らないわけで、「壁と卵」というのを単純な二項対立としてとらえると「システムと生活世界」ということでハーバーマスも言っているし、そういった区分けはわりとおなじみのもののように思う。 
(2009-02-22 06:12:25)
link
むーむー
@m_um_u
ここで沸き起こる課題は「壁」自身もわれわれが生み出したものであるということ(壁の中にも卵はいるということ)、「卵」も放っておくと悪を生じさせるということ。後者は大衆的な妄動なんかがそれにあたる。 
(2009-02-22 06:15:35)
link
むーむー
@m_um_u
村上の場合はそういった妄動も含めて「壁」と呼んでいるのかもしれないけど。「世間」や「空気」といったそれも形式の澱としてそこに含まれるのだろう 
(2009-02-22 06:16:56)
link
むーむー
@m_um_u
自分的には別に「村上甘いよ」とか「オレのほうが村上わかってるよ」とかそういうのしたいわけではなくて、単にここからの連想で最近思ってることをまとめとこうというだけだけど。まぁ、あとで、ほかのところでやろう 
(2009-02-22 06:18:19)
link


というか、村上春樹のあの場でのスピーチとしてはあれは立派だったと思うしなんの文句もないんだけど、「システム vs. 人」みたいな感じで二項対立的にとらえて「やっぱ人だよ」みたいに納得して人を説き伏せようとしてる人がいるとなんかイヤだな、というぐらいの話。ついったのほうでもちょっといったけど「じゃあシステムの内部にいる人、あるいはシステムを作ってる人はどうなるの?」ってことで

The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others (「大いなる制度」は私たちを守ろうと期待されている反面、時に独走して、私たちを殺害しはじめ、他国民を殺害するように仕向けます)


って言い方してるからシステム自体の効用についても認めてるのだろうけど、でもやはり

no matter how right the wall may be and how wrong the egg(壁が正しく、卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます)


なわけで…。


それはイスラエルによる暴虐を考えると当然の言葉と思えるし、小説家の役割としてもシステムよりは一人の人間の実存(代替不可能な生)について考えるのはもっともだと思うんだけど。でも、この言葉を単体で抜き出したときにやはり違和感がある(先ほど述べた理由で)。






村上春樹はスピーチの中でお父さんの中国出征についての個人的な思いについて語っている。それはおそらくぼくのヒロシマに対する感情と似たようなもののように思う

muse-A-muse 2nd: <ヒロシマ>ということ



であれば、ぼくがシステム側に立った理を説くのは矛盾しているのだけれど、そういうことではなく


頭では、あるいは理性ではシステム的なことは分かっていても感情というか、もう少し身体の芯の部分で譲れないものがあるのだ。内田せんせなんかは「その辺がsoulなんじゃないか?」って言ってるけど


壁と卵(つづき) (内田樹の研究室)




それでもなおシステム側の理由や理屈を省みずに「人間が大事」とかいうのはどうなんだろう?と思う。システム側というか、システム(壁)の内部にも人がいて、それをつくっている人々の葛藤があるということ。その現実を見ずに漫然と「人間(生活世界)が大事」とか言うとしたらどうなんだろう、と。




もちろん村上の言っていたことはそういうことではなく、かつてはたましいのこもっていた形式が形骸化し暴走することへの危惧ということだったのだろうけど、今回のスピーチが単純に「システムが悪い」って解釈され、さまざまな制度や仕組みづくりに従事してる人のモチベーションを減退させるとしたらたまったもんじゃないなぁ、と思ったのでした。

posted by m_um_u at 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年08月14日

保守/リベラル ウィンプ/マッチョ 体育会系/文化系、集団主義(≠日本教)/個人主義辺りのマッピング

らくがきしたのでてけとーにうp(※サムネイルだからクリックで大きくなるよ)

まっちょうぃんぷ.JPG

「エントル」って書いてる辺はそのうちエントリにする(予定(未定
posted by m_um_u at 22:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年08月05日

ビートたけし、フライデー襲撃事件とはなんだったか

1個前のエントリの軽い続きのようなもの
 
ギョーダイさんの「元気が出るテレビ」(純粋TV)論との関係でたけしのフライデー襲撃についてうにうに考えられるかと思ったんだけどアレって単に「時代の寵児として調子に乗ったたけしが酔っ払って突撃した」って話だったか。

ビートたけしとフライデー事件- てれびのスキマ


純粋TVとの絡みで言うと、アイロニカルに形式化するリアリティの中で暴力性を持って現実を繋ぎとめようとしたのかな、とか思ったんだけど。「不可能性の時代」でいうところの「極度の暴力性=現実への逃避」ってやつ。実体なき「わらい」の形式(シミュラークル)の氾濫を暴力という肉体性によって繋ぎとめようとしたのかな、とか。

んで、その感覚というのは三島が「約束を果たす」ために自決した感覚にも近いのかな、とかとか。

おしんこ本によると)三島の自決というのは天皇を「現人神」として崇拝し死んでいった兵士たちの魂の契りを守るためのものということだった。「兵士たちは天皇を神として死んで行ったのに戦争が終わったら『天皇は人間でした』ってことになりいつの間にかその第三者の審級にアメリカがすげかわっているのはおかしいじゃないか」、と。

そんな感じで、「形式を貫き、フィクションを拡散しようとするメディアがそれに従事するもののリアルを暴きだそうとするのって約束違反じゃないか?そこまでやるとプライベートとフィクションの区別がなくなり芸人の“芸”が守れなくなっていくのではないか?」、的なTV業界全体を背負うような公憤があったのかなとか思ったんだけど単なる私憤だったみたい。


でも北野武のその後の作品を見てるとそういうところ、「フィクションによってゆれる実存を過剰な暴力によって取り戻そう」という志向のようなものが感じられるんだけど、いま思うとそういった関心というのはこの事件後に起こったものだったのかもしれない。「あのときのオレは思いっきりフィクションにとらわれていたな(調子に乗ってたな)」、って感じで。

とはいっても調子に乗ってるからこそ生まれるおもしろさというものもあるわけで、そゆのがこの辺に詰まってるのかな?


ビートたけしのオールナイトニッポン傑作選! (本人本 1)
兵庫慎司 オフィス北野 高田文夫事務所 太田プロダクション ニッポン放送
太田出版
売り上げランキング: 67885
おすすめ度の平均: 4.5
5 天才。
4 ギリギリの線で・・。
5 『ビートたけしのANN』入門書
5 一気に読んだ
4 もっと読みたい!




でも、あの事件って上記のような感じで描こうと思えば描けると思うんだよね。「Always 三丁目の夕日」みたいな感じで



--
関連:
毎日jogjob日誌 by東良美季 : 7月 27日(日)気分は80年代

今思うとたけしさんという人は、80年代が無理矢理装っていた明るさのツケを、ブラックホールのように一人背負っていた。

 
posted by m_um_u at 09:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年07月27日

ヤキニクヤケタカ?

一つ前のエントリで「コリアン世界の旅」について触れたのでついでに。焼肉の話がおもしろかったのでメモ。「焼肉は日本発」って話

正確に言うと「卓上焼肉が日本発祥」ということらしい。背景にあるのは「無煙ロースター」の開発。焼肉屋にいくと天井からぶら下げてある例のアレだ。

いまではいろんな形があると思うんだけどもともとは日本の「シンポ」という会社が開発したものらしい。以下、引用部は「コリアン世界の旅」より抜粋

 焼肉をすると、当然のことながら煙が出る。かつて焼肉屋といえば、煙がもうもうと充満し、壁はすすと油でべたつき、店を出ても服や髪の毛の臭いがこびりついて離れない。白いワイシャツを着て焼肉屋には行けないと言われたものだった。そうした難点を、いまから十五年余り前にこの人が解消した。煙の出ない「無煙ロースター」の開発である。


これによって内装に白をつかえるようになったり、女性客が増えたりして焼肉屋のイメージがガラっと変わったらしい。

そんで無煙ロースターが業界に広く流通するようになったのは「食道園」という店が取り入れた影響らしい。なんでも日本でもっとも古くから続いている焼肉店(since1948@大阪)とか。当初は「平壌冷麺」を名物としていて焼肉が人気が出たのは開店から二、三年してからなのだそうだ。

 林光植の長男で食道園・現社長の江崎政雄によれば、食卓の上で肉を焼いて食べるという調理法は、もともと朝鮮半島にはなかった。「かんてき」、つまり七輪に炭火をおこし、網を載せてその上で肉を焼く、このやり方はあった。
「だけど、テーブルの上にかんてきを置いてお客さんに食べさせたのは、まぁうちの親父が最初やろうねえ。こんなんいうたらおこがましいかもしらんけど、そういう意味で、ここが『焼肉文化』の発祥の地なんですわ」


 食道園はそれ以降も力道山とか美空ひばりなんかの御用達になったりして人気の店になっていったらしいんだけどここが1980年の秋に無煙ロースターを導入したらしい。そんでそれから三年もしないうちに新規店舗には必ずといっていいぐらい無煙ロースターがつくようになった、と。



こうやって見ていくと無煙ロースターと卓上焼肉は直接関係ないみたいだな。たしかに卓上焼肉自体は日本発っぽいんだけどそれは無煙ロースター以前からあった、と。関連でこの辺とか

 韓国で「焼肉」と言えば、普通は「プルコギ」を指す。ハングルで「火の肉」を意味するこの料理は、だが、日本の焼肉とは似て非なるものだ。韓国では、真ん中がこんもり盛り上がった鉄鍋に、タレをからませた肉をどさりと載せて焼く。この鍋は誇張するとスペインのソンブレロのようにな形で、流れ落ちてくる肉汁はソンブレロのつばのところで受け、肉を少しつけたり後でうどんを煮込んだりして食べる。日本の焼肉よりは、ジンギスカンに近い。
 いま日本にある焼肉のスタイルを作り上げたのは、私は断言してよいと思うが、在日韓国・朝鮮人と帰化者たちなのである。食道園の社長で全国焼肉経営者協会の会長も務める江崎政雄によれば、全国二万軒の焼肉店のおよそ九割が在日か帰化者とその子孫の経営ではないかという。
「焼肉文化」というものがあるなら、それはとりもなおさず朝鮮半島から日本に来て住み着いた人々の文化なのである。


関連で言えばタン塩、ユッケ、生センマイみたいな食べ方も日本発祥のことと言われている、と。

ただ、焼肉がここまで人気・普及した背景には無煙ロースターの開発があった、ということみたい。あと、家庭用焼肉のタレとか。


ついでに焼肉の戦後史を引用しとこう(途中まで)

 日本の敗戦前後に在日朝鮮人(第九章で述べるように当時は日本国民だった)のあいだで始まった焼肉は、1940年代・50年代と少しずつ日本人に受け入れられていったが、客層は肉体労働者や中年男性に偏っていた。第一次の焼肉ブームは高度経済成長が始まった1960年前後に起きている。焼肉店が全国に増え、調理師の引き抜き合戦によって共通の味やメニューが広まり、定着していった。
 当時のメニューが、食道園にたまたま残っていた。ロースとカルビがそれぞれ一皿250円、タンとミノとユッケが200円、レバー150円、センマイ100円。大卒の初任給が1万4千円の頃だから、これは決して安い値段ではない。牛肉はまだまだ贅沢品だったのである。
 第一次焼肉ブームよりやや遅れ、60年代後半から70年代にかけて、焼肉のタレを通じて焼肉は家庭にも浸透していく。こうした下地ができたところで、80年代に入ると無煙ロースターが登場し、家庭での焼肉に親しんでいた家族連れや女性客を街の焼肉店にいっせいに引き寄せた。かつての日陰者的なイメージは、いつのまにか薄れていった。




こんな感じで焼肉文化は広がっていったらしいんだけどその発端としては差別があったみたい。肉関連の仕事、屠殺→解体というのは洋の東西を問わず蔑まれるものというのは「カムイ伝」「肉食の思想」、「ドキュメント屠場」なんかでも出てきてたと思うんだけど今回もそれ系の記述があった。もともと朝鮮民族には飲食業や食肉業を不当にいやしむ考え方があるみたいなんだけど、そういった人々がいわばダーティーワークともいえる食肉業にたずさわっていった背景には「そういった仕事しかなかったから」という背景があったのではないか。

この辺りについてはぼくも気になったことがあって以前とある人に聞いてみたことがある。「菊貞(※広島市内の食肉解体場所)とキムチ専門店が多い地域が近いのはなにか関係あるんですか?」的に。いちおカムイ伝的背景も話して聞いてみたんだけどそのときの答えは「特に関係ないと思うよ」って感じだった。たんにこの人が特に興味がなかっただけなのかもしれないけど(※いちお市会議員だったが


お肉の歴史というのはこんな感じで在日差別とも関係するみたいなんだけどそれがびみょーに歪んで同和利権とか「触れてはいけない話題」的な感じになってるのはハンナン辺り。この辺については個人的には良く分かってない。もそっと調べていこうかな



野中広務 差別と権力 (講談社文庫)
魚住 昭
講談社
売り上げランキング: 61225
おすすめ度の平均: 5.0
5 同和利権と権力
5 日本政界における"野武士"、野中広務氏の人物像に迫る渾身のドキュメンタリー
5 野中広務がわかる
5 今の時期この本を読んで・・・
5 悪夢のように面白い

posted by m_um_u at 00:23 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年07月24日

筒井康隆がウケた背景みたいなの

一個前の「みんなの意見は案外正しくない」関連でいまこれ読んでて


ベストセラーの構造 (ちくま文庫)
中島 梓
筑摩書房
売り上げランキング: 83467
おすすめ度の平均: 4.5
5 マーケティングの良書
4 文学が消費される構造を描き出す好著
5 優れた分析



これについてはちょっと前のエントリでも少し触れたんだけど


muse-A-muse 2nd: ルサンチマンって新中流層辺りから出てるのかねぇ


中流層の教養ダダすべり問題っていうか動物化うんぬん問題とも絡むんだけど、読み進めてたら筒井康隆について言及してる箇所が出てきてそれがたんぶらーでたまたまみたエントリとリンクしたものでメモ的に。


むーたん - この小説は一日一話ずつ掲載という新聞連載の特性を利用し、その日の掲載分を読んだ読者からの、投書やASA...

(※以下、「朝のガスパール」についてのwikipediaの引用から孫引用)

この小説は一日一話ずつ掲載という新聞連載の特性を利用し、その日の掲載分を読んだ読者からの、投書や ASAHIネットのBBSへの投稿を作品世界に反映させ、虚構と現実の壁を破るという実験的手法がとられた。具体的には、投書や投稿により物語の展開に対して読者が作者に要望を出すことが出来るというものだが、単にそうした企画であるにとどまらず、物語中に作者を模した小説家が登場し、その投書や投稿を引用して批評(時には激しく罵倒)するなど、作者独特の世界が開陳され従来の新聞小説に慣れた読者を驚かせた。BBSでは、単に読者からの要望を物語の展開に採用するのみならず、書き込み内容やハンドルネームから醸成されるBBS住人のキャラクターを登場人物の造形に利用したりもした。また、当時はインターネット普及以前で(BBSもいわゆる「パソコン通信」のものであった)、当時はまだ一般に普及しておらず言葉すらなかったオンラインゲームやオンライントレードに近いものが登場し、非常に先進的な設定を取り入れた小説であった。BBSそのものも、連載中に現在で言うところの「荒らし」「アスキーアート」「炎上」「祭り」などに相当する事態が頻発し、ネット社会を先取りする形となった。



その後のotsuneさんによる愛蔵太さん情報なんかもおもろいんだけど筒井康隆という作家の属性とか意味について「ベストセラーの構造」(中島梓)的に解説があったので。

端的に言うとアイロニーでありシニカル。「全てのもの(既成の権威・構築物)をわらうものが筒井康隆である」、と。これってちょっと前に見たこの辺の話を髣髴とさせる


muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム


ギョーダイさんが指摘してた「アイロニーの形式部分ばかり踏襲してどこからのアイロニーなのかを見失ってしまった人々」というのと「筒井康隆がなぜわらうのか(なにをわらっているのか)わかってないのに筒井に追随する人々」というのは重なるのだろうな。年代的にも重なるし(80年代)

中島(栗本)は筒井康隆の作家的属性については説明できていたように思うけど、「ではなぜそれがウケたのか?」という点については説明できてないように思った。その辺の回答(のひとつ)が北田本だったのかな。

もっかい復習すると、全共闘的な異常な形式主義に対する反動として無反省(あるいはアイロニー)の姿勢は生まれていったんだけどいつしか「反動としての」というところが抜け落ちて「アイロニー」という形式だけが踏襲されていった、って話。


なんかこういう繋がりは日本史やってて世界史とつながったみたいな感じでおもろい
posted by m_um_u at 22:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年06月26日

世界にひとつだけのナベアツ

あまり興味ないって言ったら興味ないんだけどついったでklovかなんかがみょーに反応してたような気がしたので

「世界のナベアツ」というお笑い芸人のネタ、「○○でアホになる」が教育現場で問題になってるみたいで


学級崩壊!? ナベアツ人気で小学校教員が悲鳴(日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース


糾弾の理由づけとして「障害の人のことも考えろ!」、と


全ての人を笑わせる笑いってないけどさ・・・ - NC-15



まぁ、よくあるPTA的教条主義っていうか、過剰なフレーミングなんだろうなって程度なんだけど。ベタに斜め読みすると「お笑いはPTAで問題にされてこそナンボ!」でありダウンタウンやらタモリやらも通ってきた道だもんなぁ。。

つってもそういうの免罪符にしてことさらに差別表現をするってのは間違いだと思うけど、件のナベアツの人ってそういうの意識してやったんじゃないんじゃまいか?「アホ」の顔真似やってたら見てるの一部から「障害者に見える!」って言われただけかなぁ、とか。(まぁ、この人のこと知らんのんだけど

そんで、そんな感じでメッセージを発する人や受け手の大多数が「差別」とか特に思ってないのに一部の人がそのように騒ぐことによって却って差別が助長されるというか、被差別者が自分は差別される存在として気づくことによって傷つくということもあるかなぁ、とか思ったり。

あまり関係ないけど子供の頃に「女神転生」ってゲームやってて初めて捕まえた仲魔ヨモツシコメが嬉しくて、姉のことを「ヨモツシコメみたい」っていったら母が過剰反応してそれによって姉がオレに悪感情を持ったと思われるようなことがあった。こちらとしては好意で言っていたのだが…(まぁ、デリカシーがなかったといえばなかったんだけど


そんな感じでメッセージを送る人には悪意がなくても受け手によって曲解されるというか、受け手の一部がことさらに反応するってのもあるかなぁ、とか思う。中にはそういうの気づかないでふつーに面白がってるだけの人もいるのだけど、こういう人たちが「問題意識」とやらを出すことによってみょーに問題になったり、ってこと。

てか、この人たちが「差別表現だ!」っていう以前にこのネタを見た子供たちが障害を持った子供に対していじめをエスカレートしていた、ということがあるなら別だけど、「そうなったらやばいじゃん?」って話だもんな。まぁ、「○○される人のことも考えろ!」ってやつなんだけど。それ言うんだったらこれを指摘することによってヌルーされていた差別意識を刺激するかもしれないことも考えろ!とか思うんだけどどうなんだろう…。その後のケアとかできてるのかな?

たとえば「差別というのはどういうものか」とか「平等とはどういうものか」とかそういう意識を教条的な形ではなく教育していくだけの受け皿みたいなのを用意した上でそういう発言してるのかな?

なんかこの手の発言する人って「問題だ!」って言った後丸投げな気がするんだけど…(ウチの母はそうだったし



そんでうにうに考えてたらなんとなく以前にaozora21さんが「世界にひとつだけの花の表現が気になる ><」とか言ってたのを思い出した。この辺


uumin3の日記:社会的役割 ※コメント欄

ここでaozora21さんは「世界にひとつだけの花を過剰に嫌う理由ってなんなんでしょね?」みたいな話してて「メタメッセージを感じちゃったんですかね?「ナンバーワンにならなくてもいい」には「身の丈を知れ」的な」ってとこに落ち着いてる。

ふーん…って感じ。自分としてはあの歌はマキハラの復活劇うんぬんとダブるものなんだけど。なので歌のメッセージとしては、「ヒットチャートとか気にせず(あせってクスリなんかに手を出さずに)コツコツと自分の楽しいことをやっていこう!」的な感じで殊勝ですね、ぐらいのものなんだけどそれでもいろいろ感じてしまう人はいるんだなぁ、と。まぁ、SMAPが関わって売れすぎてその後みょーに持ち上げられていろんな文脈くっつけられたってのがあるからなぁ。。「千の風」と同じだべなぁ。。

自分的には「気持ち悪い」っていったらそっちの過剰な持ち上げのほうなんだけど、これって今回の事件にも似てるというか、最近の個人的な違和感に通じる。「送り手のメッセージは無視して受け手が既存のフレームからメッセージを誤解(あるいは曲解)、自分たちの語りたいことを語って事案を消費、結果的に問題とされた部分はなにも解決されずにみょーな疑心だけ残して揉め事が収束していく」って感じ。まぁ、受け手側によるマッチポンプなわけだけど。


繰り返しになるけど、今回のナベアツさんの件でもし「お笑いにおける差別表現によってなんらかの差別生じることが懸念される」っていうんだったら差別とかいじめのような衝動が生じるような環境があるということが問題なのだからそちらのほうを見つめなおし改善するほうが良いように思うけど。



あと、あまり関係ないけどお笑いにおける差別表現、ギリギリの表現というのは生活圏における悲惨への対処法(悲惨に対して深刻になりすぎて折れないように笑いによって自らの立ち位置を相対化するという方法)の結晶化したものである場合もあるので一概に悪いとは言えないでしょうね。モノにもよるけど、放送禁止歌的なナイーブさがあるように思う




--
関連:
muse-A-muse 2nd: 差別をめぐる審級について (あるいは「人権と国家」)

※「差別ってあるライン(常識)に対する過剰性の問題だよね?」って話



muse-A-muse 2nd: 差別をめぐる審級について (あるいは「人権と国家」)

※『今「ひょうきん族」と同じことすれば、手ひどく批判される』だろうねぇ。。

posted by m_um_u at 22:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年06月01日

ぜいたくな死

元某局女子アナの人の自殺についてなんかもやもやたまったのでいちお吐き出しとこう。最初に断っとくと自分の意見が正しいとは思ってないし主張ってわけでもなく単なる個人的感想程度。
 
この件の動機については「報道志望だったのにそれがかなえられなかったのでフリーになったのにそれからも報道っぽい仕事もらえずアイドル扱いで悩んでいた」とか「恋愛関係で悩んでいた」とかもろもろあるみたいだけど真相はよくわからないしその辺については特に関心がない。率直に言って個人的には「ぬるい」という言葉が頭に浮かんだ。というか、まずイラ立ちのようなものを感じて言語化してみたら「ぬるい」って感じだった。

なぜそう感じたか。あとから問い直してみるに「報道」の部分がひっかかっていたのだろうか。「ほんとに報道志望だったのならコロンビアとかハーヴァード、Poynterなりに留学すればいいじゃん。金も時間もあったんだろうし」って感じか。あと、「世の中にはいやな仕事どころかその日の生活もままならない人もいるのに」って気持ちもちょっとあった。この辺は八つ当たりってか、本論とそれるから理路としては通らないけど感情的にはそういうことを感じたように思う。

で、

個人の死としては別に知り合いというわけでもないし今回の件ではじめて知った人なので特に感じるものもないというかふつーに悼ましいなって程度なんだけど公的にはどうなんだろう。ニュースで取り上げるようなことなのかなぁ。まぁ、そういうこというと芸能人なんかがなんかある度にニュースで取り上げられてるのだから同じようなものなのだろうけど「社会的関心を集めるような社会的問題」ってわけでもないよなぁ。
 
故人は報道を希んでいたようだけどこういう風に祭り上げられていることに対してどういう感情を持つのだろう。少なくともこのニュースはジャーナリズムとか報道の範疇ではない。



(こういう書き方をすると貶めるみたいだ気持ち悪いのだが) てか、「報道」という言葉も「かっこいいニュースキャスター的ななにか」みたいな感じだったのかもしれない。「幸せな結婚をしてかっこいいニュースキャスターとしてのキャリアも持続させる」、と。彼女にとって「報道」という言葉はそういうものを指していたのかも、と邪推してしまう。

それならそれで良いのだろう。個人の生き方だし。自死の理由も人それぞれだから。「太陽がまぶしかったから」とか「今日は死ぬにはちょうど良い日」とかいって死ぬ人もいるのかもしれないし。端から見るといかにも「ぜいたく」な理由に見えても「死」は極個人的なものだから、その理由がどのようなものでも端からどうこういうものでもない。

ただ、ちょっとモチベーションというかモラルみたいなのが落ちるけど(自分的には)


今回の件を社会的な問題として扱うとしたら「報道希望の企業ジャーナリストがhigher journalismの道を求めてもそれがかなえられないという日本のマスメディア業界の構造的問題がある」って感じになるか。「バラエティ的仕事をしたくない」っていうんだったらセント・フォースみたいなフリーの女子アナ用の事務所に入ればよかったんじゃないかとか思うけど


セント・フォース - Wikipedia


その辺ではhigher journalismは目指せないしな。「企業内から留学への道をサポートしたり、帰っていた社員を遇するような体制を作るべき」って話になるか。


個人的な問題、自死の是非うんぬんについてはさっきも言ったように「死」はそれぞれの人の極個人的な問題であるから端から貶めるような問題でもないと思うけど過剰に持ち上げるのもどうかと思う。この辺のぶくまみても「欝スパイラルで仕方なかったんだ」とか「欝に入った人の問題は他人から見ると”その程度”って問題でも本人にとってはすごく重要で繊細な問題なんだ」みたいな意見があって


はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`):「そんな次元の悩みで自殺。川田アナは世間知らずで打たれ弱い」 電撃ネットワーク・南部のブログが炎上→記事削除


そういうのも経験済みだから分かるんだけどやっぱそういうのにもやっぱなんか違和感。一般論としてそういうのもあるし、コメントしている当人はそういうことで苦しんでいるのかもしれないけど今回の件に当てはまるかどうかなんか誰にも分からないし、問題を極度に聖化してるだけではないか、と


この問題に対する個人の実存レベルでの視点としてはこの辺の感覚が一番近いかも


日記的 - finalventの日記


(あくまで発表されたり憶測されたりしている断片からなのだけど)なぜ彼女があんなベタであの境界を越えられたのか分からない。(実際に「死」を強烈に意識した人なら分かるだろうけどなかなか死ねないものだし)

そういったものの境で超越的ななにかに出会うってのも同意。あるいは「彼女はそういったものに出会えなかったから」ってことになるのかもしれないけど…この辺はこれ以上詮索しても仕方なさそうなので





とりあえず自分がこの件に関して感じた苛立ちというか違和感は彼女個人の選択や生き方に対してではなく、今回の件に対する周囲の反応というか持ち上げ方みたいなのにあったということは確認できたのでそれで良しとする。
タグ:実存
posted by m_um_u at 10:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年05月29日

夢見るマロンちゃん人形

儀礼的無関心程度な感じにして特にリンクさせて発言する気もなかったんだけどやっぱリンク先記したほうが早いなと思うのでいちお


ケーキ - 福耳コラム


んで、まぁ、よくわかんないけどこれに批判が集中してその批判のまとめのようなのがこれ


トリアージ騒動まとめ - sjs7のブログ


よくわかんないし得るべきものなさそうのでサラっとしかみてないけど

個人的には経営学の授業で経営学的思考を理解できていなかった女学生(社会学系)が感想に書くことなかったんだけど自意識が残ってたので「かわいそう」って言葉使っちゃったんだな、って程度なんだけど。そんでそれ見て福耳さんが落胆したのかなぁぐらいで。

ついったーで誰かも言ってたけど経営学の授業なんだから経営学的メソッドを吸収するのは当たり前なんだよね。倫理的課題ってか「かわいそう」的思考が出てくるような文脈じゃないというか…。倫理的課題って言い方するとまずいか。「経営学は倫理を諦めるべき」みたいないい方しているように聞こえるもんな…。そゆこといってるんじゃなくて単に道具の使い方の説明受けてるときに「かわいそう」もなにもないなって話なんだけど

つか、そもそも「かわいそう」って視線が傲慢だなぁ、と。百貨店の戦略考える場面でおばちゃん市場に最適化な話して

「でもそうやって百貨店がおばちゃんくさくなって売れなくなったら、百貨店がかわいそうじゃないですか。」


って何様なんだろうとか思ったりした。まずもって「おばちゃんくさくなって」というところにある若いじょしっこの傲慢さ。そして「百貨店がかわいそう」って…オマエ何様だよって気がする。これって戦略考えてる現場にいる人に失礼じゃないのかな。少なくとも考えた末にそれを試して失敗したってんだったらそれで本望だし次の戦略考えるだけであって現場にかかわってない他人様から「かわいそう」がられるようなことでもないと思うけど…。

んで、この辺で「かわいそう」って言いたいがためだけのダシとして使ったのかなとか思った。なんでもかんでも「かわいい」とかいうじょしっこがそのもの自体はかわいいとは思ってなくて「"かわいい”って言うわたしってかわいいでしょ?」的に他人様の視線を気にするみたいなの。それと同じように「"かわいそう”っていうわたしってやさしい?」的な。その辺についてついったーでちょろっと言ったら「そういう自意識もあるかもだけどそれって男の子の自尊心とバーターな気がする」ってレスポンスが来てそんなもんかもなぁ、とも思ったり。どっちとも若気の至りっぽいなぁ、と。

んでも今回の場合は福耳さんへの個人的な感想文ということなのでそういった視線を気にしてって感じでもなく単に語彙がなかっただけなのかなぁとか思ったわけだけど。そういうわけでエントリ最初の「内容理解できてなかったんだけど自意識が残ってたので"かわいそう”的な言葉を使ってみたのでは?」に戻る。まぁ悪あがきっていうかイタチの最後っ屁というか…。

そこまで悪意を持ってみるのもアレなのでもそっと真摯に「かわいそう」って言葉の背後にそれなりの複雑性が潜んでいたと仮定してどういう文脈から発せられたのかと推察するに………わからん。まぁ、さっき言ったように傲慢としか思えないけどこの学生のこと知らんからなんとも。それまでの授業態度や感想から伺える理解度の問題とかもあるのだろうけどそういうのも見えんしねぇ。他人がみょーに持ち上げたり反対にみょーにけなしたりする問題でもないだろうな、と。(ちょっとけなしちゃったような書き方になってるところもあるが…



まぁ、その辺はいいとして関連で最近ちょっと気になってたことを思ったり。ある人とお喋りしててPTAの会議におけるグダグダ感を伺っててその様子が今回の件とちょっと似てるなぁ、と。

なんかそれほどタスクをこなしてないママさんとかが会議中に理想論語り始めて時間が長くなっちゃうわりに全然具体案出ずに責任も全部委譲されちゃうことがあるみたい。そゆのはしろーと的な甘さというか「お客様」的な感じなんだろうけど今回の学生もそういう「お客様」感で講義聞いてたのかなぁ、とか思った。「特に経営の場に携わることもないや」的他人事感というか…(ああまたうがってしまった…

そんで、そういうタイプの人がなんか意見求められるとできもしない理想論をグダグダと言い、実行段階は他人任せにすることが多々あるように思うんだけど今回の学生の場合は単に語彙がなかっただけでそこまで考えてたわけでもないのだろうな。


つか、そういう「お客様」感っていうか夢見る理想主義者的なところ、あるいは情緒的なところで思考停止する人たちをどのようにしたら「理」や「行動」に向かわせることができるのだろうか?

個人的に今回の件でなにか考えるとしたらそういうことのほうが重要なように思えた。答え出てないけど


♪ フランス・ギャル / 夢見るシャンソン人形

--
関連:
2008-05-27 マネジメント、トリアージとドラッカー - 赤の女王とお茶を

※福耳さんが「トリアージ」という喩えを持ち出した理由についてのsivadさんなりの推論と経営学の本分みたいなの(経営学は社会福祉のマネジメント)についての連想。でもそれはこの授業の課題ではないわなぁ(コメント欄で福耳さんも言ってるけど


分配と経営 - レジデント初期研修用資料

※『行うべきは「トリアージ」なんかではなくて、やはり「経営」なのだと思う』、と。 「足りてない」で思考停止する(あるいは「足りてない」プロセスに入る)のではなく「足りる」ように工夫すべきって話。これも「戦術以前の戦略」ってことではsivadさんに通じるかな



id:fuku33が何を消し去ろうとしたか - NWatch ver.X

※エントリ修正前のログ的なもの。このエントリ書いた人の意見はどうでもいいけど福耳さんのエントリの魚拓程度に

posted by m_um_u at 23:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年03月03日

「それはほんとに正しいことなのか」って見極めは難しい

 一個前のエントリ関連で簡単に追記というか覚書きみたいなもの。

muse-A-muse 2nd: 「ギゼン」や「正義」的なものへの警戒によって互助の気持ちを疑うのってどうなんでしょうね?


 過剰な「正しさ」(暴力的正義)とゆるい互助や連帯の違いについてぼけーっと考えてる。後者は親近者への愛を中心とし「正義」によって他者の領域を侵犯したりしないことかなぁ、とか。でも、そういうのが発展して似非慈善団体みたいになってく例もあったりしてびみょー。その辺ぶくまでお米ちゃんとかも心配しとったね

はてなブックマーク - muse-A-muse 2nd: 「ギゼン」や「正義」的なものへの警戒によって互助の気持ちを疑うのってどうなんでしょうね?


okome_chan ここらへんスゲーむつかしいな。複雑で限定的な概念が、共有されていくうちに拡大解釈&単純化&誤解されて別のものになってしまう、ってよくある。



 運動とかなんらかの団体に参加したり運営したり場合、ちょっとした違いに目をつぶんなきゃって思ってるうちにそれが積み重なって流されていったり…法には触れてなくても道義的にどうなんだろ?みたいなこともあったりする。あと、法のギリギリのところ狙ってボランティアで集まった労力やお金を巻き上げるの狙う人たちもいるし…(←オレも前にワンコボラ行ったときひっかかった(グレーゾーンだからまだ係争中かなんかだったけど


kokorosha 実際に行動しているかどうかの問題かなと思う



 この辺はホワイトバンドなんか想起しつつ「そうだよなぁ」と思う反面やっぱ上記した理由でけっこうムズかったり。「実際に行動している」という場合でもその中身の見極めが難しい。


「なにをもって善的なものとするか」「それはほんとに正しいことなのか」って見極めは難しい。「正義なんて時代や環境によって変わるものだし」って一般論もあるしそれは分かってるつもりだったけど実際に関わってみると流されるところが多かったり。「これはヤヴァイ活動だから手を引いたほうがいい」って理性では分かっててもそこで手を引いちゃうと被害にあってる人とか動物とかにコミットできなくなっちゃうし



  正義とか悪とかなくてあるのは近親者への愛(いたわりと友愛)ってことなのかなぁ。「自由・平等・友愛(フラタニティ)」の「友愛」ってことで「正しさとかはなくて自分の近くにいる人々を最小限守ることができ得る精一杯のこと」ってことなのかな。

 そしてそういった愛は社会的には「罪(悪)」とされることや人生の空虚さも洗い流してくれる、と。 その場合、自分と関わりのない人たちに関心を持つことは「悪」といえるのだろうか…

 それは自分が閉じこもっていくこと(世界への関心を失うこと)の言い訳になってないか?



そういう小難しいとこまで考えなくても「あ、あの人自分の正しさに酔って目がぐるぐるしてる」って人はなんとなく分かるようにも思うけど。イメージとしてはねこぢるの描くぐるぐる目みたいなの。


 まぁ、もうちょっとぢもーっと考えていこう


タグ:
posted by m_um_u at 23:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年02月24日

Changing Same (reprise)

「anti agingっつーか歳とっていいんじゃね?」ってこの話


muse-A-muse 2nd: Changing Same


ほんとなら引用の編集のみしてミクシに置いとくつもりだったんだけど思ったより長くなったのとそれなりに滋味が出たのでblogエントリにしてみた。つっても、詰めゆるくしておいたので全体にぼわーっとしたエントリになってるけどまぁ味わいカルピスって言うか全体の色を愉しむというかそういうエントリ (「いい色でましたね」っていうか)

きちんと書く場合は「変わっていく中で変わらないもの」について書いておくべきだっただろうけどそれは恣意的に誘導しないで読む人それぞれに考えて欲しい(ってえらそうだな) つか、まぁ、よくわかんないとこあるのでほのめかしたわけだが(笑)


エントリの主旨としては、「けっこう若い段階でその人のその人たる性向(志向)の根幹は形作られそれが続いていく。歳をとって肉体が変化したり、環境の中でサイショノキモチのようなものは変化するだろうけどそれは表層的な変化に過ぎなくて、根っこの部分が変わらなかったらそういった変化も楽しめるのではないか?あるいはそういうのを成長と呼ぶのかもしれない」、って感じ

この辺はびみょーで、女性のアンチエイジング問題とはまた別個なのかもしれないけど…(オレなんかも運動してるわけだし、「それはそれ」ってのはあるしなぁ)


んでもまぁ、成長とかそゆのがあるとしたらなにかを基準にしてなにかを目指すわけでその際のスタート地点とゴールってのはなにか?、みたいなこと


最終弁当爺がちょこちょこ「中学か二十歳ぐらいの頃から精神なんて変わらんよ。肉体は変わってくけど」みたいなこといってて引用でもこの辺が対応するわけだけど


The great secret that all old people share is that you really haven't changed in 70 or 80 years. Your body changes, but you don't change at all.
-- Doris Lessing, O Magazine, October 2003



「んじゃ変わらないものってなんなんだろね?」、と



エントリ後段にほのめかし的にヘーゲル関連の本配置してるわけだけど、それ系で言うと「精神」ってことになる。でも、「精神の現象学」ってそういう本だったっけ?「関係本質」うんぬんで社会性がどうとかいう話(そして精神が大きくなっていったら国家の問題を志向するようになる)みたいな話だったように思うんだけど


当時なんとなく思ったことをうろ覚え的に言うと、「けっきょく社会性(他者を志向しろ)って話ですか?そんなこといって“自分”はどうなるんですか?」って反発したように思う。この“自分”って感覚ははてな界隈でよくみる「他者承認」とか「同調圧力」とかそういうものへの反発心。「周りに合わせすぎたら自分がなくなって不安になるじゃん?」って感じだった


そういう気持ちが消えていったのはいつごろだったっけな? 周りに人が増えて、そういう中でも焦燥感もなくそれなりに自分の居場所のようなものを築けてからかな?けっきょく「居場所」の問題なのか?

んでも、そういう付き合いに流されることもなく自分たちのやるべきことをやって、それなりに成長していって……成長…したのかな? とりあえず「付き合っていて欲しいから周りに合わせる」みたいなことはなかったしな。


そんで、それなりに食い扶持見つけて、自分のスペックとか方向性なんかに目算つけてから焦りもなくなったような…てか、もうちょっと焦ったほうがいいのか?(いいんじゃないのか?(汗


けっきょくそんな感じで、「精神とかそういうのも環境によって作られるものだ(まずは稼がにゃなぁ)」、ってのが一番学んだことだったように思う

稼ぐだけが全てじゃないけどライフラインとしてそれを確保することがスタート地点で、精神とか倫理とかそういうのはそこからの問題なんだよなぁ。。つっても、そういうのもったからって「哲学いらない」とか言ってる人って精神的に貧しいように思うわけだけど

考えてみれば哲学とか思想なんてのは自分よりもよほど年季入った人たちが晩年になって考えてたものであって、そゆのを字面だけ吸収してても分かんないものがあるように思う。「ことばではわかっても理解してない」っていうかそんな感じ

マルクスでもヘーゲルでもロックでもなんでもいいけど、そのテクストはその時代環境に即して書かれたものなのでその時代や環境における問題意識が如実に反映されているわけで。あとは著者のリアルな生活における問題とか変化。バイオリズムなんかも関係するだろう

そういう意味では年寄りが書いたものはそれなりの年齢になってからじゃないと理解できないところがあるんじゃないか?…っていうか、歳とともに味わいが変わるのかなぁ、とかなんとか。

思想や文学系で特定人物研究やってる人はそういう問題意識もあるのだろうけど



てか、なんの話だったっけ?


ああ、「変わらないものがあるとしてそれが“精神”であると仮定したとき、精神ってのはどういうものか?それは外部環境や肉体などの変化によって変わっていくものではないか?そもそも、精神の問題を学ぶにしてもそれが記してあるテクストそのものへの理解が精神年齢的に追いつかないのではないか?」、って話か


・・どうなんだろうねぇ。。


けっきょく「自分の経験に照らして考えろや!」ってことなのかもしれないけど




なんだろね

よくわかんないけど、歳とってくにつれていろいろ面倒な意識が枯れていってほんとに必要なものだけ残っていくみたいな感覚はある。やること多くなって面倒なこと悩んでる暇がなくなるっていうか、逆に言うと「感受性が鈍る」ってことなのかもしれないけど。

でも、そういう中で残った意識が自分ってことなのかなぁ。「意識」ってのもおーざっぱ過ぎるな。周りから提供される問題ではなく自分自身の問題っていうかそういうの。人生のテーマ?・・っていうほど大げさなものでもないか


しかしやっぱ「ほんとの自分」がどうとか「アイデンティティ」がどうとかいうより目下の問題としてどうやって稼ぐか(あるいは自分の生存ラインを確保するか)だよなぁ

「汚れちまった大人」ってことかもしれないけどやっぱそんな感じでしょ。もろもろの問題意識はそっからだべ



つか、この話もミクシの別の話の枕程度にするつもりだったんだけど長くなったな。。ついでだからこっちに置いとくか



--
追記:
このぐらい突き抜けると強力w


Twitter / fim: 姉と「私も今年で28歳なのよね…」「私なんか30歳よー...

姉と「私も今年で28歳なのよね…」「私なんか30歳よー…」としみじみと話していたら、母が「お母さんは今年まだ54歳よ!」と自慢げに話に割り込んできた。数字という絶対的な力にも負けないあの自信がうらやましいです。



タグ:人生
posted by m_um_u at 20:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

Changing Same

You don't stop laughing because you grow old. You grow old because you stop laughing.
-- Michael Pritchard



The dead might as well try to speak to the living as the old to the young.
-- Willa Cather



Happiness is an imaginary condition, formerly attributed by the living to the dead, now usually attributed by adults to children, and by children to adults.
-- Thomas Szasz, The Second Sin (1973) "Emotions"




Nothing can be so amusingly arrogant as a young man who has just discovered an old idea and thinks it is his own.
-- Sidney J. Harris



I never dared to be radical when young
For fear it would make me conservative when old.
-- Robert Frost, 'Ten Mills,' A Further Range, 1936





The young have aspirations that never come to pass, the old have reminiscences of what never happened.
-- Saki




Youth cannot know how age thinks and feels. But old men are guilty if they forget what it was to be young.
-- J. K. Rowling, Harry Potter and the Order of the Phoenix, 2003






The great secret that all old people share is that you really haven't changed in 70 or 80 years. Your body changes, but you don't change at all.
-- Doris Lessing, O Magazine, October 2003





A child becomes an adult when he realizes that he has a right not only to be right but also to be wrong.
-- Thomas Szasz, The Second Sin (1973) "Childhood"









「歳をとるのは怖い」みたいな話を見かけたのでなんとなく、以前の「おことば」集の中から歳をとること(若さと成熟みたいなの)をてけとーに編集してみた。いつもどおり呪文みたいなもんだから流し見ていただくとして

個人的には歳をとることについて焦りはない。中学ぐらいの頃から「早くじじぃになれないかな」とか思ってたのでそんなに。焦りがあるとすれば目標に対して達していないからということになるのかな、とか思うけど女性の場合はまた違うのかもしれない。

それは肉体(的衰え)と精神の関係ということで理性的に割り切れるものでもないのだろうけど。個人的にはこの歳になってからのほうが体力とか筋力とかついてるからなぁ。。(年齢はヒミツだよ ><)



生や死と同様、歳をとることは自然の摂理でそれについてもうちょっと語られてもいいものなのかもしれない。消費の中心は若い人向けのものだから畢竟マーケットの言説は若者向けなものに傾くのだろうけど。つか、いまは老人向け市場とかあるのか。でも「老人向け」って感じだとなんか萎えるので。年とって身体は衰えるかもしれないけど精神的には変わんないし

消費市場は「老人向けマーケット」みたいなのも生み出してるのかもしれないけどネットではそういうのはあまり見ない。ネットってかミクシとかついったーなんかの言説の中心は若者って感じ。若者って言うか10代から40代ぐらいまでか。blogでかろうじて歳を重ねた人の言説を見ることもあるけどけっこうな割合でオレオレ中年って感じで萎えることがある。たぶん会社で管理職かなんかでがんばってきて、周りにYesマンばっか集まって世間の実態というものを知らない人たち。大人の子ども

そういう人たちとは違った経験を重ねた人たちの語りを聞いてみたい。しかし、プロトコルが合わないのかもね


「若いうちはそういうこと考えずにブイブイ(死語)いっちゃったほうがいいよ? 若いとき跳ねれない人が晩年に保守的になるんだよ」ってのもあるかもしれないけど…つか、「精神的には変わらない」っていいつつも歳をとると昔の気持ちは忘れてしまうものなのかもしれない


いじめについて。 - kuboke GO HOME(帰りんさい)

むしろ、敵とか問題とか心配とかは

じぶんの心の中にも、ある種潜んでるものと

30歳を超えたあたりから痛感するようになりました。





仕事とか人間関係とか、そういう環境の中で自分の責任でもないものをやむなく背負わなきゃいけないときってのがあって、そういうのを続けていくうちに枯れたり擦り切れていくものもあるのだろう。「それが悪い」っていうわけでもなくかといって居直るわけでもなく「それが人間」っていうか…



「秒速5センチメートル」とかrepon日記を見ながらそんなことを思った



秒速5センチメートル 通常版
コミックス・ウェーブ・フィルム (2007/07/19)
売り上げランキング: 654
おすすめ度の平均: 4.0
4 批判している人へ
5 2話と3話の断絶にある真理
5 話題作





2007-12-07:自己肯定感と成熟 - reponの日記




承認欲求うんぬんについての答えにはならないだろうけどメモ的に。

「親の愛を充分に受けられなかった子供は不幸になる」というのは確かに疑問なんだけど肯定感(他者承認)うんぬんというのもあるかもしれないが愛のトレースってことなんじゃないかと思ってる。後段は「成熟する = 大人になる」の定義に関わるだろうけど「愛」ということについて言外に知っているなら他人への友愛を元としたコミュニケーションをするように思う。「愛」がなにかは分からないけど他者へ親切にしたり、他人の意見に耳を貸してコミュニケーションをはかっていくことを通じてそれが気持ちよい(エロス)ということを実感する。なので、よくわかんないけどとりあえず真似(トレース)する

それは強制的規範とか同調ということとも違う



「大人になる」ということがどういうことなのか、変わっていくものの中で変わらないものというのがどういうものなのかまだよく分かんないけど、そんなことを思った



そういや他者との関係性と「大人」みたいなことだと前にこんなの読んだな



ヘーゲル・大人のなりかた (NHKブックス)
西 研
日本放送出版協会 (1995/01)
売り上げランキング: 40181
おすすめ度の平均: 4.5
4 好著だが、ここでは不満を・・・
4 個が共同体と関わるとき
5 新しい哲学者の出現




・・内容忘れたが






--
関連:
muse-A-muse 2nd: 時の重み、時の薬

※「歳を重ねること」関連で


タグ:人生
posted by m_um_u at 11:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年02月22日

自分探し(笑)ってスイーツ(笑)と似てるね

この辺とくにいうこともないというか、主張的には「“自分探し”ってマーケ的に涵養されたんじゃね?(だからほんとの自分なんてないよ)」とか「自分探しは飽食の時代のガキの幻想。おぢさんたちなんてすぐに働かなきゃいけなかったからそんなの探してる暇なんてなかったぞい」って感じの俗流若者論的なひげもじゃ言説でFAって感じなんだけどreponとこの日記で刺激うけてちょっとついったらそれなりに反応(?)あったので朝のメモ的に。


自分探しって言うな! - reponの日記

「自分探し」→「フリーター」→「パラサイト」→「ひきこもり」→「ニート」と繰り広げられた、マスコミの扇動商品なのです



うん、まぁ、たぶんそうなんだけどさ。そんでreponとしては「そんなのリクルートが“フリーター”って言葉作って扇動した(わりには責任とらない)のと一緒だよ!pgr」的なかんじなんだろうけどさ。てか、reponとしてもひげもじゃ言説にはなにか思うところがあったみたいなのでpgrってわけでもないか


「自分探し」と「自分を決めること」は位相の異なる話 - reponの日記


タイトル見ただけでいいたいこと大体わかるように思うのでよまずにてけとーにいっちゃうと、「自分探し」ってのは新語として作られたもので扇動されてった挙句になんにもないみたいな事態があるかもしんないけど「自分を決めること」というか人生の分岐点でなんか悩んだ末に進むべき道を決めるなんてのは昔からあることなんじゃねぇか? そんで、それ自体は批判されるようなもんでもないよね? ってことかな、とか

つか、もそっというとマーケかなんかで扇動されていった感情だとしてもそういうものを無碍に批判したり揶揄したりするのってどうなんだろ?って思う。ハチクロの竹本くんなんか見てても思ったんだけどそういう感情が生まれる情況ってのはあるし、「自分探し」に乗っかった末になにか見つかるかもしれないしね (北の果てにて「ほんとの自分なんかないんだ」みたいなのだったけな?)


そんで思うのは、昔といまでは「自分探し」的なものをする人の数が違うとしたら情況の変化は環境変化と関わっていることなのかなぁ、とか。端的に言うと、昔はすぐに職業決まってたから仕事やら遊び漬けの中で内省する必要もなく空っぽな自分の時間の重みに押しつぶされそうになるようなこともなかったのかもしれないんだけど、いまはすぐに就職できないからその辺で焦りとかあるのかなぁ、とか (cf.竹本くんと冷蔵庫の音@ハチクロ)

そゆのもあるけど、そういう情況を察知して「自分探し」って旗頭で感情を扇動、「よくわかんないけど人生の中で自分探しの旅も必要じゃん?」ってことであいのりやらワーホリやら行かすようになってるのかなぁ、とか。あと、「天職」って言葉つくって転職系刺激したり

もちろんあいのりやらワーホリやらを本気で取り組んでる人もいるのだろうけどそれをモラトリアムにしてる人もいるよね。んで、その部分に対してひげもじゃとかがなんか言ってくるのかなぁとか思うわけさ。


そゆわけでその辺の若者の内在的な志向としてのアイデンティティの確立欲求みたいなのと「自分探し」的なものの違いら辺について、「昔は自分探ししてたの?」的なのが確かめられる本とかないかなと思っててけとーについったーでつぶやいてたらよさげな信号が


やさしさのゆくえ―現代青年論
栗原 彬
筑摩書房 (1994/04)
売り上げランキング: 430377



やさしさの存在証明―若者と制度のインターフェイス
栗原 彬
新曜社 (1996/10)
売り上げランキング: 404028



この辺はあまり関係ないのか?↓


ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書 74)
森 真一
筑摩書房 (2008/01)
売り上げランキング: 5634



“やさしい”から、席を譲れないんです〜『ほんとはこわい「やさしさ社会」』森真一著(評:朝山実) (毎日1冊!日刊新書レビュー):NBonline(日経ビジネス オンライン)



まぁ、時間あって読む気になってれば


自分的には前に読んで手元にある「言葉を失った若者たち」でもチラ見しようかと思ったり

ことばを失った若者たち
桜井 哲夫
講談社 (1985/09)
売り上げランキング: 249829
おすすめ度の平均: 4.0
4 日本社会の問題の原点のひとつがここにあります。
4 今にも通じるテーマ




あと、前に小田センセが書いてはったのをもっかい見直してみようかな、とか

戦略的本質主義を乗り越えるには(?) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

戦略的本質主義を乗り越えるには(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

「本当の自分」と本質主義 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

戦略的本質主義を乗り越えるには(3) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

「真正性の水準」について - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」


スピリチュアル・ブーム(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」


空白からのスピリチュアル志向でこの辺とも絡むのだろうね


muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム


ところでこの辺の話って「スイーツ(笑)」と似てんな。スイーツ(笑)っていう人たちの視線とひげもじゃの視線が似てるんだろうな。そんで本気でスイーツ的なものに悩んでる人やハマってるひと、スイーツ的に成功した人なんかがいる(?)ところなんかも  (まぁ、自覚的に「スイーツ」っていって遊んでる人たちもいるわけだが)

あと、「格差社会」をめぐる言説の型とも似てる (「そんなの昔からあったんだよ(でもおっさんたちはがんばって昨今の若者たちは甘いうんぬん」、「むかしとは違うんだよ」、「違いなんてどうでもよくてとりあえず目の前の苦しんでる人を見ろよ」)



そいや、天職みたいなのつながりでゲド戦記みた。「二度とゴローのようなコを作らないために」(リンク)と言わしめた作品ということでどんなものかなと思ってみたんだけどそれほどひどいということもなく凡庸な作品だなぁという程度だった。最後のほういい感じで眠らされてたし。ちなみに原作は読んでません

そんで「本当の名前」とか「影を奪った」とかいうところが今回の話題に似てるなぁ、と。「千と千尋」なんかにもそういうモチーフあったな


あと、ついでに

Twitter / 空飛ぶ鍋奉行 勇者ニョチュチュ: 自分探しの前にズボン探しをしないと家から出られません[mb]

Twitter / m_um_u: @jt_noSke オマエのジブンはオレが預かった(嫁ともども


もう少し言えばのすけのほんとの名前も没収済みだ ( ̄ー ̄)



--
関連:
「やさしさ」から《やさしさ》へ - たいしゅううんどう

なんか栗原さん関連で似非ログにあったので (どーでもいいことかもしれんがオレはこっちの似非原アイコンのが好きだなぁ)



--
追記:
そういや前に「自分の中の才能に気づくこと」うんぬんなエントリあげたときに「自分探しですか?ほんとの自分なんてないんです!」みたいにいわれたことあったなぁ。。そゆこと言ってたわけではないんだが…(まぁ、「ほんと」ってのがキケンとか言うのは分かるけど)
posted by m_um_u at 09:15 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年02月09日

「働いていない = 悪」なのか?

ここのぶくま見てたら「ニート」って言葉が出てて直近でメモっときたいことがあったので軽く


「働かざる者食うべからず」 - 忘れ去られるべき日々について

はてなブックマーク - 「働かざる者食うべからず」 - 忘れ去られるべき日々について


以下、ビッグイシューvol84の雨宮×宮本対談から宮本みち子さんの発言 (p16-17) (※太字は引用者によるもの)


(オレ的にまとめると、「NEETという言葉は単に若者の不安定就労をさす言葉だったのに、日本に入ってくる段階でナマケモノ的イメージがつけられてしまった」、という話)


ニートという言葉は01年にイギリスでつくられた用語で、コネクションズという若者支援サービスが対象者を、13歳から19歳の「学校にも雇用にも職業訓練にも従事していない若者」と定め、それを「ニート」と呼んだのですが、その際対象としたのは、「不安定で、自活の困難な、社会から排除される可能性を持っている若者」でした。「失業者、無業者、不安定就労者、障害者、病弱など複雑な問題をかかえていて働くことのできない人」すべてが含まれています。
 ところが04年に日本に入ってきた時には、ニートという言葉が流行するきっかけとなった『ニート − フリーターでもなく、失業者でもなく』という本の題名が表しているように、ニートから失業者と不安定就労者を除いてしまった。そうなると残った人は、「働いていない状態」にある若者となります。ではいったい働いていない若者とはどんな若者なのだろうか?
 それで人々の憶測が広がりました。当時、日本で非常に大きな問題だったひきこもり問題に対して、国がきちんとした対応をしていなかったために、ひきこもりとニートの問題がかなりくっついて論じられるようになりました。「働く意欲のない若者=ニート」というイメージが広く浸透してしまいました。ともかく、日本における「ニート」の流行で一番の罪はなんであったかというと、失業問題とか不安定就労という問題がそらされてしまったことだと思います。




ネットなんかだとたまに罵倒語として「ニート」って使ってる人がいるのを見るけどそういう人たちはこういう文脈に自覚的なのかなぁ、とか思う。単にマッチングの問題であって倫理的な問題ではないのだけど罵倒で使われるときには両方くっつけて論じられることが多いような・・。自覚的なのかねぇ


「働くこととか家を持っていること = 善なのか?」関連で、こんな言葉があったのでメモ (ビッグイシューVol85, p7)

以下、イギリスでビッグイシュー売ってるおっちゃん(グレアム・ウォーカーさん)の話

「私の考えだけど、ホームレスというのは心のありかた。家に住んでいても私よりもずっと苦しい思いをしている人にもたくさん会うよ。ひとりぼっちだったり、精神的な問題をかかえている場合だってある。私が出会うたくさんの人に比べたら、私のほうが心はホームレスじゃないと感じるね」



グレアムさんは現役の販売者なんだそうだけどビッグイシュー売るときにおまけとして作っていた小冊子が評判を呼びそれをまとめた自伝を自費出版したんだそうな(2500ポンドのツケで)。

家庭は貧しく親からはあまりかまわれることなく育てられ12歳で学校を退学、一家離散後に児童施設に入所。結婚して子供をもうけ平凡な暮らしを奥路つ押したが20代半ばまでに23もの職を転々。そうこうしてるうちにだんだんと酒におぼれ公園のベンチで寝るようになった。ビッグイシューを販売するようになってようやく水道や電気などのライフラインを手に入れることができた、と。

すごいなと思ったのはこの状態でホームレス支援団体とホスピスへの寄付金集めをしていること。『募金活動のためにシルクハットと燕尾服で路上に立ち、現金で1500ポンド集め、3000個のプレゼントを贈り、その年のバーンスタプル市民賞に選ばれた』んだそうな。



こういうの見てると家とか仕事とかは部分に過ぎないのかなぁとか思う。仕事によって人生が充実することはあるけどそれはその人の人格の全てではないしね。お金とか社会的ステータスも

そこから仕事と労働の違い、あるいは仕事=「天職とはなにか?」みたいな話もあるけどこの辺は長くなるしちょこちょこでる話題だからいいや。(自分的にも前に書いたし)


--
関連:
アリとキリギリス - uumin3の日記

※「働かざるものくうべからず」なアリの倫理の元となった寓話は日本に入ってくる段階で変質してしまったみたい、って話。五常について見たときにも「ここまで苦役礼賛型にしなくていいんじゃない?(マゾですか?)」とか感じたけど儒教というか支配思想の影響みたいなのがあるのかな?(どっちにしても再帰的概念っぽいけど)

muse-A-muse 2nd: 「違った人」との付き合い方

muse-A-muse 2nd: 「かしこさ」よりも「五常」がほしい


 
タグ:仕事
posted by m_um_u at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年12月14日

ほほえみの糧

 本来、こういった内容はミクシのほうに書いてくようにしてるのですが先日のエントリにも絡むのでいちおこちらのほうに書いておきます。つっても単なる日記のようなもので主張とかそういうのでもないんですけどね。

 先日のエントリでは承認欲求やらなんならいろいろ細かいこと気にしたり、いろんなことに無関心なことを気にしたり、そういう類の人がいる話が出てきたのですが世の中にはそういうのと縁遠い人もいるもので・・。

 まぁ、要約すれば「リア充」ってやつなんですが。なんでしょうかね。いってみればリア充ってのは「惹かぬ、媚びぬ、省みぬ」なんですよね。誰かの気持ち(承認)を惹くために反省したり媚びたりっていうことがない。いや、多少はあるのですが「誰か」とか対人関係の悩みとかが中心にないので。その辺は放っておいても充実していくものなので特にそういうの考えないんですよね。ってか、考えないないからこそ重たくない。重たくないからこそ人が集まってくるっていうインフレスパイラルみたいなのが発生してるようで。・・まぁ、なんともうらやましい限りなんですが。

 で、本日はそういうリア充(笑)と会って来たわけです。ぶっちゃけミクシのほうではわりとおなじみのヤギ娘のことなんですがね。


 この娘がもう、なにも考えてないというかお気楽だなぁ、っていうか・・具体的には「ホッカイロを素肌にはって寝たので起きたらミミズ腫れみたいになっててお母さんに“アンタ、バカァ?”っていわれながら薬塗ってもらったぁ」って話から始まっていつもどおり「あぁ、コイツなにも考えてねぇ....」ってのを楽しんできたわけです。

 なんつーか、まぁ、いろいろとお気楽極楽に暮らしてる割には生活に窮するわけでもなく、対人関係で悩むこともなく、ほんとに楽〜に生きてるわけですね。流行の「透明感のある(うんぬん)」とかそういう感じでもなく、ほんとに「なにも考えずに生きてたら楽しいこと舞い込んで来てるよ」的な。

 そういうのは彼女の家の環境とか外見といったスペック的なものが絡むのかもしれないけど、とりあえずそうやって形成された性格やら話し方なんかが人とか運を惹き付ける要因になってるのかなぁ、とぼけーっと思ったりしつつもやっぱコイツのこのお気楽さはなんなんだろうなぁ、と。

 だからといって[イケメンに限る]とかそういうわけでもない・・のかなぁ。少なからず外見も絡むかもしれないけどそれを武器にしたりひけらかしたりしてないですからねぇ。。むしろ自分のチビッコさは(いちお)コンプレックスにしてるし。

 つか、いろんな要因があったからコンプレックス感じにすんだのかなぁとか思うわけだけどまぁその辺の話はどうでもいいです。



 問題はコイツのこの生き方は汎用性があるものなのかということなんですね。承認欲求その他うんぬんなことを気にしてる人からするとほんとにもう目の前に置いただけで鼻血噴出しちゃうぐらいの衝撃を与えるんじゃないかと思うんだけど、上述したようにそれは狙ってやってるわけではないんですよね。

 んで、「ぶっちゃけ天然なの?(不思議ちゃん?)」って聞いたら「天然は嫌い」とか返すし...まぁ、確かに「天然」でも「不思議ちゃん」でも「もうきん」でもないわけですが世の非モテ(あるいは非コミュ)女史からすると「それこそがもうきんなのですよ!」ってことになるのでしょうね。いや、やつもそれなりに失恋なりなんなりしてきてるわけだけど(でも、どう考えてもオレの精神的痛みや葛藤に比べたら小学生低学年並にしか考えてない..)


 んで、まぁ、思ったのが



「天然」 → 「不思議ちゃん」 → 「もうきん」 → 「アルパカ」



 なのかなぁってことです。


 (偽装系)「天然」の進化(あるいは派生)形態として「不思議ちゃん」があり、それらからさらに計算性を取り除いた(あるいは身体的に染み込ませて外には見えない形にした)ものとして「もうきん」があるわけですが彼女の場合は「もうきん」にも当てはまらないように思うんですね。

 「もうきん」(@「江古田ちゃん」)というのは普段は「ふわゆる☆愛されガール」な癒し系雰囲気をまといつつも肝心の場面がきたら隠していた爪をむき出しにして獲物に襲い掛かる(このとき殺気は感じさせない)というものだと思うのですが彼女の場合はそういう計算性がない。 まぁ、なにも考えてないわけです。なので失敗することもあるのですがそれについて特にくよくよしないっていうか引きずらないのですね。まぁ、この辺は「女は男よりも立ち直り早いから」ってのもあるだろうけどそういうのでもなく・・・ぶっちゃけて言えばセクシャリティがないんすね。

 この辺の話はびみょーで一回ケンカになりかけたんだけど、ぼくからすると彼女は小学生みたいな精神性と恋愛観を基本にしているがゆえか大人的なセクシャリティを感じることがない・・。で、その辺のところを言ったところ、「女のしての魅力とかそんなの好きな人にしか見せないようにしてるもん!」とのことだったんだけどやっぱぼくからすると疑わしいですね。まぁ、外見ちびっこってのもあるだろうけど、どう考えてもあの精神性から(ぼくが思うところの)セクシャリティが発生してくるとは思えない・・。

 んで、セクシャリティとか色気とかそういうのは「もうきん」で言うところの爪に当たると思うんだけど、そういうのがないのにどうやって獲物を捕らえるんだろうなぁというのが不思議なところで。まぁ、なににセクシャリティを感じるかは人それぞれってことだと思うんだけど。あるいは「人はセクシャリティのみによって付き合うにあらず」とかそういうことですかね。


 それはまぁいいとして、まぁ、とりあえずそんな感じで彼女には「もうきん」的な爪がないように思うわけです。つまり「もうきん」ではない。んで、思ったのがアルパカなのかなぁ、ということで。

 なにも考えてない。爪がない。できればお気楽になにも考えず暮らして生きたい。揉め事とか悩みとか無縁なところでぼけーっと暮らしていきたい。

 こういった一連の特徴がアルパカさんというにピッタリなのではと思って言ってみたところ彼女もけっこう納得してました。



 そんなこんなですかね。

 彼女を見てるとこういうのはあまり考えても仕方なくててけとーでいいんじゃないかと改めて思えたわけです。人生なんて深く考えてもあまり考えなくても残されるものなんてないのだから、だったら大笑いして暮らしたほうがなんぼか楽なんだろうなぁ、と。さしづめ「馬鹿になれ」(「好きを貫け」)ならぬ「パカになれ」ですかね。

 つか、会う度にそのパカっぷりに大笑いさせられるわけで。だったらその様子をblog通信しろといっているわけだけど本人狙ってパカやってるわけでもないしどの部分がおもしろいかわかんないということなのでムリ、と。・・ひじょーに残念だけど。


 「ぼくだけのアルパカブロガーになってよ」ってlovecallも届かずじまいってことで 







♪ Bonnie Pink / ほほえみの糧

posted by m_um_u at 23:14 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年12月13日

愛はさだめ、さだめは…

昨日の夜ぐらいについったーで「自分らしさをもちながら人との関係性を保つこと」うんぬんな話をしていて今朝方なんとなく気になったのでメモ的に。

 「社会という場ではほかの人のことも気にしないといけないよ」ってのは分かるけどほかの人のことを気にしすぎてアイデンティティが承認欲求を元にするようになるとしんどいだろうなぁ、とか。「人が迷惑するから」とか「あの人はぼくのことを気遣ってくれて」とかいうのも大切だし、それをどのくらい気にするかというのもその人の歩んできた人生とか現在いる環境によって違うものだと思うけどやっぱそればっか気にしすぎていると気疲れしてしまうんじゃないかと思う。

 というより、(いぢわるな言い方をすれば)「ほかの人のことを気にしてこういう行動をしたんだ」的な言い訳になるというか.......



 で、傷ついたり傷つけたりな泥は避けるのね。



 それは優しさともいえるのかもしれないけど少し逃げ過ぎではないかなぁ、とも思う。


 どんなことやってても嫌って来る人はいるし、その理由はこちら側にあるのではなくあちら側にある場合もあるのでその辺気にして固まって動けなくなるのもどうなのかなぁ、と。(田中芳樹の小説で「敵よりも臆病な味方のほうがやっかいだ」とかいう話があったな)

 どっちにしても敵ができたり疎まれたりするんだったらやりたいことやったほうがいいように思うんだけどな。まぁ、できるだけ嫌われないようにしたほうがいいだろうけど「嫌われる」のを言い訳にしてなにもしないというのもどうかと思う。あるいはなにもしない免罪符としてそれを用いるのか



 「なにもしない」「なにもない」というのはほとんどの人にデフォルトなことで、きちんとした人生の目標というか「死ぬまでに最低でもこれがしたい」とかいったようなことは大部分の人はもっていないように思う。「お金」とか「ステータス」というのもけっきょくは手段であり通過点に過ぎない。なので「死」を思い、それを実感して目標を立てることが必要なように思うけど、そういうのは重いしほとんどの人は身につけていないもののように思う。(たとえば「死を実感する」ということ一つをとってもほとんどの人はほんとの意味でそれを実感したことはないだろう。知識として理解していても)


 だからといってほとんどの人の人生が満ちたりないものかといえばそういうことでもない。むしろ上記のようなことを考えないで済む人のほうが満ち足りた人生を送れているのかもしれない。

 その人たちを包んでいるのは家族のぬくもりや抱擁、無前提の許容。ありていに言えば「愛」ということなのだろう。


Twitter / Say0: なんかほわわんとしたふんいきのひといいなうらやましいなぼくもそうなりたい



 (ややこっぱずかしいが)「愛」は言葉や論理ではなく身体的なぬくもりというか実感のようなものだと思うので。そういう意味では挨拶の無意味さ(内容としては無意味でありながらも形式としては意味がある)感じにも似てるかもしれない


Twitter / 雨野迷狗屋(絶望機会): 前にも言ったかもしれないけど、言葉として「お帰り」の言葉はなんか、何かの温かみを感じる。 @m_um_u さんの書き込みを見て、再び想う。

Twitter / 雨野迷狗屋(絶望機会): @m_um_u なにか、自分の存在しても良い場所の捕獲というか、間接的に”生きててもいいよ”と言って貰ってるみたいで、私は好きな言葉です


 他人を愛するとか恋愛とかいう領域もけっきょくは個人間の対幻想的な領域なので一般化しにくいだろう。(cf.セックスは人それぞれ違う)

 なのでこの部分について頭でっかちに考えていても仕方なくて、とりあえず目前のものにぶち当たっていけば良いように思うわけだけど。相手に対する誠実さというのはその関係を通じて発揮されるものであって関係以前にいろいろ悩んでいても仕方ないのではないだろうか。(相手が自分の「誠実さ」にたいして不真面目すぎる場合もあるし・・それでも相手と一緒にいるということが愛なのかもしれないけど)


 それ以前に出会いの問題があるか。これもよくわからない。始めから「理想のタイプ」とか「理想の恋愛」みたいなの決めててもそういうのとはぜんぜん違う相手を好きになったり付き合ったりね。まぁ、事故みたいなものなんじゃないかと思う。そんでその中でどのように相手と向き合うかってことではないだろうか。




 ほとんどのひとはそういう「愛」のあたたかみで満足するしぼくもそれで充分だと思うけど、中にはそれだけでは満足できない人もいてそういう人が自分なりの生き方のようなものを模索するのだろう。そして「自分なりの」ということは少なからず他人と異なっているわけで、その部分で他人と衝突したり、譲らなかったりで孤独が生じていく。たぶん家族や恋人であっても理解されない領域があって、そういうことに対して寂しさのようなものを感じるけど仕方ないかなと思ったり。

 それは「理解されない」という諦めとは少し違って、理解されないということ(人はそれぞれ「他者」なのだということ)を前提にしているからこそ誠意をもってコミュニケートしようとするのだろうし、通じたときには喜びが生まれるのではないだろうか。


 そして、他者からの承認を待たない「自信」というものもそういう風にして形成されるものだと思うけど、この部分はまた少し違うのかもしれない。(自分を見つめる以前に「お金」や「ステータス」などによって足りる人もいるのだろうし)



 個人的には愛っていうか他者からの承認だけに頼ったり、反対に愛がないので「金」や「ステータス」(あるいは「知識」)などに逃げるってのもどっちともいびつなように思うけど。この辺はバランスだろうなぁ





 とりあえず、もうちょっとゆるく自分を信じて生きてみるのもいいのではないだろうか?(もういい歳なんだからちょっとのことじゃ折れやしねぇよ)


id:hebomegane彼女募集の件について - ヘボメガネ一進一退



--
関連:
アドバイスをするときに多分大切なこと - finalventの日記

人の心のテンプレというか - finalventの日記




--
追記:
余談ですがhebomeganeのひとはほとんどのエントリをケータイから仕上げているようです。げに恐ろしきはへぼめがね....

posted by m_um_u at 10:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年11月29日

「違った人」との付き合い方

 特に主張とか結論がある話になりそうでもないんだけどついったー経由で見た話題でちょっと違和感ってか、自分なりのメモ。

 自分より弱い立場の人に対して過剰に思い入れをしてしまって対等に扱えなくなってしまう問題について。接触してもうまくコミュニケートできなかったり、あるいはそれとなく接触そのものをしなかったりとか。

 差別に対する逆差別って感じで必要以上の持ち上げ(過剰性)が発生しているのだろう。それで自分と対等の人として扱えなくなるというか、コミュニケーションがなんかギクシャクしたりとか・・。そういうのは頭では分かっていてもなかなかうまく振舞えなかったりする。

 (非対称性を利用して差別するってのは論外として)「対等」ってことで殴ったりdisり愛みたいなことをすればいいのかなとか思うわけだけどそれにも限度というか、なにか線引きのようなものがあるような気がする。なんというか....まぁ、びみょーなんだけど.....なんとなく頭に浮かぶのがこの辺とか

 当人たち同士の了解があるので良いのだろうけど、なにか特殊な感じがする(これがファイトクラブってヤツなのだろうか)。それがネットによってドライブされた人格なのか、もともとセケンにはそういう感覚で生きている人たちがいるってことなのか分からないけど。なにか好事家的な雰囲気があって下品だなぁ、と。(まぁ、当人たちはそういうの自覚的に楽しんでるのだろうけど)

 ついったーで自分がつぶやいた言葉、「本当に対等な個人(大人)として扱うなら失敗の選択も本人の自由」、ということを反芻しつつ傍観するしかないのかなぁとか思う。って、成功するかもしれないけどよくわかんない。あと気持ちがザワザワするのであまり見ないかもしれないけど。こういう話は比較の問題ではないと思うけど、でも、不幸な人は彼女だけではないし、それを意識しすぎるのってなんか変な感じがする。(「関わってしまった」というのもあるのかもしれないけど)

 つか、「対等な個人」としてみた場合、正直ぼくは彼女に特に興味ないしなぁ。。(友達になりたいとも思わない)

 
 だから関心としては「可哀想がりたいんでしょ?」的なものが考えられるんだけど、そゆのとはまた違ってたまたま痛んでる様子な人がいたので気にかけただけだったんだけど、最近の彼女の様子を見ていると特に心配するほどでもないかなぁとか思ってしまう。(詳しく書くと批判的になるのでいわないけど)


 

 んで本題に戻ると、こういうときの距離感ってどういうのが適切なのかなぁ、と。「ふつーに個性の一部として受け入れればいい」とか「個人同士の人間的付き合いがまずあって、その中の条件の一つとしてそれがあるだけなんだよ」ってことなんだろうけど.......なんかびみょーだ

 たぶん、ほかの部分の魅力がそういうマイナス評価になり勝ちな部分を補ってあり余るほどだったら問題ないのだろう。


 そういやこの問題ってマイノリティ系だけでもなく「美人かどうか」とかにも適用されるな。「相手の顔で判断するのってどうなの?」的なものって「ブ顔ブ性格でも優遇すべき!(いや、むしろそうであるからこそ優遇すべき!)」的逆差別な感じだもんな。

 その辺の事情も分かるけどやっぱオレきれいなもの好きだし、それは仕方ないかなとか思う。まぁ、「きれい」の基準は差があるのだろうけど「面食い」とかいわれたことあるな(ちょっとdis気味に)

 つか、この辺もフェティシズムの一種のような気がするけど。顔だけよくて性格とか態度がアレな人ってのは流石に冷めてくるし。



 なんかグダグダと書いてきたけどよくわからんな。(課題)



--
追記:
五常的には「仁」に当たるような気がするのでこれでも貼っておこう。(古い徳目なので修正加えて見る必要はあるだろうけど)


仁とは次のようなことである。殿様に対して私心なしに年貢や夫役などの義務を果たし、奉行衆へ従順につかえ、武士であれば、どのような人であってもこれをうやまい、自分より年下の者を軽くあつかうことなく、貧しい老女や婦人を憐れんで情けをかけ、村中に災難が起これば何をおいても救いの手をさしのべ、両親に日夜孝行をし、兄をうやまい、弟をわが子のように愛し、妻子とは仲良くして両親、兄弟によくつかえるように教え、子には幼いころから素直であるようにいいきかせ、身分に応じて手習いやそろばんの稽古をさせ、耕作にはげませることである。さらにまた、村の若い者が家業を放りだして遊んで世を渡るのは、高札の趣旨にすむく悪事だから、これを見逃すのは心得ちがいで、仁愛の薄い者というべきである。したがって、よくいいきかせて善人に引きもどさなければならない。一族に対して仲よく何事もわが身のようにし、親切にあつかい、奉公人であっても身内の者のようにかわいがり、衣食ともに気を配って、寒さ暑さの苦労がないように情けをほどこす。見ず知らずの他国の人でも、自分の村のあたりに来て病気にかかるか、路上で嘆き悲しんでいる姿を見かけたら助ける。このように、利己的なふるまいやいじわるなことをせずに、他人に思いやりや愛情をかける人を仁ある者という。仁なき者というのは、殿様に対する役務をしっかり務めず、御奉行所のお役人たちになにかとさからい、眼力のにぶい幕府のお役人が村に来ればあなどり、庄屋や五人組との中もしっくりゆかず、親兄弟に孝行をつくさず、一族とは不和で、妻子ともむつまじくせず、荒子や家の子たち(「「荒子」「家の子」ともに、江戸時代の農村下人の具体的形態、前者は主人と同居している労働力で血縁関係のない者。後者は血縁関係はあるが分家しないで主人と同居している労働力)の待遇をいいかげんにして、ひどくこき使う百姓をいう。そういう者は必ず家督を失い、先祖代々の住みなれたところを去らねばならなくなり、乞食、否、非人となって、飢えて死ぬことは間違いない。

(阿部謹也、2001、「学問と『世間』」より「百姓伝記」の孫引き)
posted by m_um_u at 23:50 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年11月10日

「偽善」を疑う人たちはどれだけご立派な方たちなんでしょうね?

 個々人についてのエントリは(不完全ながら)先にあげたものでおしまいにしようと思っていたのですがまだきちんと伝わっていなかったようなので補足します。


はてなブックマーク - muse-A-muse 2nd: 「さらに弱いもの」がやさぐれ「弱いもの」を叩き「正しさ」の荒野が量産されていく


 これを見ると感受性が高く繊細でいろんなものごとに配慮し他人を傷つけないように生活できている人がチラホラいらっしゃるようで立派なことですねと思うわけですが、この人たちは文脈というものが読めているのだろうか?、と。

 まずid:kaeru-no-tsuraさんですが、「「…とは嫁さんの俺評。」…うーん、こういうのをスルッと書けちゃうところがねぇ。無意識が悪いとは言えないけど、とため息をついてしまう」、とのこと。これはどういう意味なのか説明していただきたいですね。「スルッと書けちゃう」もなにもtwitterでのつぶやきですからスルッと書いて当たり前だと思うのですが・・。特に彼のついったーはそれほど多くの人に見られることを想定していないわけですしね(followerも少ない)。それをぼくが勝手に編集して表に出しただけのことであってもし「その言葉によってまた傷つく人がいるじゃないか!」という言説で責められるべき人がいるとしたらぼくだと思うんですがその辺はどのようにお考えでしょうか? それともそういう問題ではなく私生活においても常にさまざまな環境の人を配慮した物言いをしていなければいけない、ということでしょうか? そして、おそらくid:kaeru-no-tsuraさんはそれができる人だ、ということでしょうか?

 次にid:rAdioさん。「id:idiotapeの人はまさに天然の「素晴らしい人」だということか。「いいの、悪いのはワタシなの…」という "か弱きヒロイン" を素で出来るんだから恐れ入る。だが、身内に害が及べばそうも言えまい。それがテロリズムだ」、とのことのなのですがぼくのエントリのどの部分から「id:idiotapeさんはすばらしい人」という主旨を読み取ったのか説明いただけるとありがたいです。ぼくのエントリの主旨は(何度も書いたように)、<誰も悪くないが誤解が生じたため不幸な結果になったのでは?>、というものなので。それともあなたの素晴らしい感受性ではそれは感知されなかった、ということでしょうか?(読解力の問題ということもあるかもしれませんが)


 なんというかため息をついてしまうのですが、何度もいうように単なるすれ違いだと思うのですが?その辺りについてもう少し詳しく書いておいたほうがいいかもしれませんね。(ついったーには記したのですが再編集しておきます)


 まず始めに、繰り返しのようになりますが一番最初の該当エントリに「けまらしさ」のようなものが発生したのはわかります。ハレの場以外のところでの過剰の祝祭感(場違いの演出過剰)ということですね。その部分に疎外を感じる人が出た、と。ではどうすればいいかといえば「もう少し配慮せよ」ということなのですが、その辺については誰も具体的に語ってないんですよね。結果としてblog閉鎖ということになったのですが、それは望まれていたことなんですかね?

 「当人が悲劇のヒーローぶりたくてやったんじゃねぇの?」とのことですが以前のエントリやついったーでのつぶやき、今回の再度閉鎖に至るまでの態度を見る限りそれはないように思います。悲劇のヒーローになってアクセスなどをとりたいんだったらblogをそのまま続けていればいいわけですよね? 「偽善者の仮面がバレそうになったから再度閉鎖したんじゃねぇの?」という穿った見方もあるかと思うんですが、それでもけっこう多くの人は彼のことを好く思っているわけだからblogを再開したら付いていくはずです。でも、彼はそれをしなかった。この時点で「アクセスが欲しい」とか「人気者になりたい」とかそういう視点は無意味ということにならないでしょうか?

 そもそも、最初の閉鎖にしても彼は閉鎖する責任も義務もなかったわけですよね? でも閉鎖した。素直に解釈すれば(彼のメッセージ通り)hashigotanのことを慮ってのことだと思いますが、結果的に判官贔屓のようなものが発生してしまった。そしてその結果を以って、「最初から狙ってたんだろ?」、といわれるわけですが、ついったーの書き込みを見ても分かるように彼にそこまでの戦略性があるとは思えません。heiminさんやfinalventさん、kanoseさんのようなバランスが身につけられない不器用な人、というだけです。というか、この三者を並べているのもびみょーなんですがそれが彼がバランスを身につけられない証左なのかなぁ、と思います。

 というより、「ついったーに書いてることも演出だよ(バカだな)」、という人も出てくるのかもしれませんね。つか、ついったーの場合はリアルな知人っぽい人との会話も入ってるのでそれはないと思うんですけどね。(その部分まで演出っててもねぇ) って、「この人の場合はリアルそのものが演出なんだよ」、といわれるのかもしれませんがそれほど器用な人だったら最初からこのようなやり方はしません。

 だいたいぶくまのサブアカなんかもフル活用するでしょうしね。



 そういうわけで陰謀論的な穿った見方しても意味がないと思うんですね。というか、「偽善」というフィルターで判断するのがよほど好きな人たちなのでしょうけど。なんか中二病っぽいですね。



 で、次に「幸福な者は不幸なものに配慮して幸福を制限する必要がある」という言説について。この辺はたとえば黒柳徹子さんなんか思い浮かびます。あの人もある方面から見れば「偽善者」と見られるのかもしれませんが、とりあえず彼女が貧しい国の人々のことを気にかけながらも美味しいものを食べたりきれいな服を着たり、感動的な芝居や芸術に触れる理由としてこんなことを語っていました。「彼らにはそういうものを経験することはできないかもしれないけれど、わたしがそういうものを経験したことの素晴らしさを彼らに語ることによって眼を輝かせてくれる子供たちがいる。だから私は素晴らしい経験をたくさんしようと思うしそれを語ることを怖れない」。

 ここで彼女が「おまえには味わえないだろう?」というもったいつけた語り方をしていれば問題でしょうが、彼女の語りというのはそういうものではないですよね。そこには一定の慎みがあるように思います。もちろんすべての子供がその話によって眼を輝かせるわけではないでしょうが、それと同時に絶望的な環境の中で希望を見出す子供たちもいる。だから経験することや語ることをやめないのだ、と。


 「慎み」という言葉が出てきたのでheiminさんの話に移らさせてもらうと、彼の文章なんかもよく [名文] などのタグが付き多くのぶっくまーくを集めているように思うのですが、彼の場合はこのようなけまらしさは生じていないですね。それはどうしてなのか?

 思うに彼の文章というのは、「世間的には正しいことではない(あるいは声を大にして言うほどのことではない)かもしれないけれど個人的には胸の痛みとして残ったので書き記しておく」、というスタンスのように思います。「小っぽけなぼくの心の中に生じたリアル」という感じですね。で、そういうものは誰に対して主張しているというものでもないのでけまらしさも発生せずすんなり受け入れられているのか、と思います。

 ただ、演出というか「狙ってやってるのか?」という話になると平民さんのものだって「狙ってやってない」とは言い切れないわけですよね。だって、そういうエントリを書く、と決めてエントリ起こしてるわけだからそこには何らかの作為があるわけです。(ホッテントリは付加的なものなのだろうけど) でもここには「演出過剰」だとか「悲劇のヒーローぶりたいのか?」だのといったネガコメが発生しない。この辺は不思議に思います。

 まぁ、「声を大にした主張ではない」、ということなのでしょうがそれをいうならid:idiotopeさんのエントリも誰に対して正当性を発しているというわけでもなく単なる身内の日記の延長なんですよね。そして彼自身「演出過剰」ということは認めているわけですから半ば恥ずかしい日記なわけです。その恥ずかしい日記を不妊治療でつらい思いをした妻への労いの気持ちを込めてウェブ上で公開しているという羞恥プレイ(あるいはネタ的な檄文)なわけなんですが、その辺は理解されなかったのでしょうか?


 というより、もはや感情的な問題になっていて論理的に説明しても聞き入れてもらえないのだろうと思うのでこの辺でやめにしておきましょうか。個人の痛みの問題なので小利口に上から目線で言っても聞き入れてもらえないだろう、ということは体験的に知っています。(というよりぼくが聞きたくなかったほうなので)


 最後に感情が交錯していることについて。これは価値観の相違が元にあるように思います。簡単に言えば両者のプロトコル設定が違ったためディスコミュニケーションが起こったのだろうなぁ、と。その価値観(コード)は生活圏やそれまでの人生の経験に依存するように思いますが、その辺りの超克ができないのか?、ということが次のエントリの課題です。

 もう少し大きく設定すれば、id:idiotopeさんは「公共性」を気にした情報発信を行なっていたのに対して、おそらくはそれが「公共的」過ぎたがためにディスコミュニケーションが生じたのだろうなぁ、ということです。「世間」的なプロトコルからは受け入れられなかったのかなぁ、と。


 この辺は長くなるので次のエントリで


タグ: 偽善
posted by m_um_u at 15:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。