2009年08月08日

プラハ宣言を受けた今年の8月6日についての雑感

今年の梅雨はなかなか終わらなくて今日になってやっと「中国地方の梅雨は4日前にあけました」って聞いたんだけどだとすると8月6日にはもう梅雨が明けてたんだなぁ。てか、それまではすごしやすかったのに4日の晩とか5日の晩ぐらいから急に蒸し暑くなったような…。
 
でも、それが広島の夏だし8月6日周りというのはそういうもの。んでも、今年の8月6日は小雨模様でわりかし過ごしやすかったように思った。それもあって偵察がてら朝のうちに平和公園までジョギングにいったり。んでも慰霊碑周りにロープはってあって入れなくなってた。「関係者のみ」って感じなんだろうけど前からこんなんだったっけなぁ。。人は昼間ぐらいいた。帰り道で自分たちの記念塔前で同窓会的に写真とってるじっちゃんばっちゃんたちがほほえましかった。
 
 
今年中に広島を離れるかもしれないのでその後の式典にもいこうかなぁとか思ってたんだけどちょっと偵察してきた様子もあってなんとなく行く気がなくなったり。式典自体は形式的なもので聞きなれた文言聞いたり広島市長の宣言聞いたりするだけだし。今年はオバマのプラハ宣言を全面的に受けた内容ということだったし実際そうだった。









該当箇所的には2つ目の動画がそれで全体の文脈としては「テロリストの核保有に対抗するためには世界が協力して核廃絶につとめないといけない」というもの。要旨的にはこの辺のほうがまとまってる


ほぼ日刊イトイ新聞 - ぼくは見ておこう 「核のない世界」
http://www.1101.com/watch/2009-08-06.html


それでそれを全面的に支持する広島市長の平和宣言、と


asahi.com(朝日新聞社):秋葉忠利・広島市長の平和宣言(全文) - 社会 http://www.asahi.com/national/update/0806/OSK200908060004.html


これ自体はパフォーマンスとしてはありだと思うんだけどなにかオバマのやることを全面的に聖化というか正当化している面もあるのには違和感がある。特に一部の被爆者から。

前のエントリにも関連するんだけど


muse-A-muse 2nd: 宮台真司、2009、「日本の難点」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/125069355.html


オバマのプラハ宣言は新たな世界軍事秩序の構築に向けての牽制的な意味合いもあると思う。

そこまで行かなくてもテロでもっとも標的にされるのはアメリカだし、それに対する警戒ということで本気になったってのもある。「冷戦後一番の脅威はテロ」ってことで。

なので国益を含んだ上での発言なのであって利害関係を含んだ上でないとこの結論は出なかったように思うんだけど一部の人は「オバマが正義の意志をもって核廃絶宣言をした」って感じでベタに受けてるみたいでなんかその辺に違和感があった。


もちろんオバマ自身にもそういう面がなかったとはいえず、そういう面も含んだ宣言だったのでノリノリでパフォーマンスできたというのもあると思うんだけど、やはりそれ以前に全体的な利害があって国家的あるいは超国家的決定というのはできていくものであって、核廃絶の願いを受け入れてほしいならその辺の事情も汲み取ってから意見しないとダメだろうなぁ、と。


逆に言うと、もしオバマが「正義の意志」とか「アメリカの道義的責任」を第一義的に考えて核廃絶を訴えているのであれば、冷戦という形で核兵器所有量を増やし核拡散を助長したロシア・アメリカの二大国が率先してペナルティを払って核廃絶を訴えていくべきだと思う。

核の問題も環境問題と同じで後発国にしてみれば「そんなこといっても先に使ってたやつらはそれでジャンプアップしたじゃーん」ってことであり、全体としては「あいつが刃をすてないからオレもすてない(あいつがもってるから俺も持ち続ける)」っていう囚人のジレンマ的なチキンレースだと思うんだけど、だったら経済的にプレイヤーの利害を調節することはできるはず。代価としてはなにもお金に限ったものではないように思うけど。

そんで、そういったゲームであるならば環境問題の政治経済学と同じく先発国が発展する代わりに空気を汚した代価を環境税という形で払っているのと同じく、核兵器開発を率先してひっぱってきた旧ソ連(ロシア)・アメリカの二大国はそれなりのペナルティを後発国に示すことによって核廃絶を牽引していくべきだろう。「道義的責任」というのならそれが筋道のように思う。

そこまで踏み込めないのならやはりプラハ宣言というのは政治的タテマエであり、「アメリカの国益」のためのものって感じ。つってタテマエとか国益否定してるわけじゃないけど。少なくともそう考えるとオバマのスピーチというのはそんなに聖化されるべきものでもない。



しかしパフォーマンスとしてはこれまで原爆投下正当化の論理がデフォだったアメリカの国家元首が核の誤りを示したようなものであり歴史的・共時的意義のあるものだったと思う。やはり「ヒバクシャの声」だけだとなかなか届かないので。



そんなことを思った今年の8月6日でした




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追記:
あと、今年は原爆症認定の基準が下げられた(「1審で勝訴した原告について控訴を取り下げて原爆症と認定するほか、1審敗訴の原告は議員立法で創設する基金で救済する」)。

オバマのことよりもむしろこっちのほうが地味に進展だったように思う。選挙前のびみょーな時期だし「国がいままでのことに謝罪しない」という不満もあるみたいだけど。



タグ:ヒロシマ
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2009年06月18日

「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話

甲野善紀さんのDVD見ていろいろ思ったので感想とか欲しいものリストも兼ねて。

甲野善紀身体操作術 [DVD]
アップリンク
(2007-05-25)
売り上げランキング: 1471
おすすめ度の平
均: 4.5
5 彼に興味がある人は買って損はない
4 価値あり



最初の興味はさいきんちょっと重いもの持つことがあって、そのときに自分が合理的な身体の動かし方に興味持ってたことを思い出してまた甲野さん関連のものを見たくなったということから。前にNHKブックスから出てる小冊子買ってたんだけど実家に置いてきててこないだ行ったときに探したらなくなってた。それで仕方なくもう一回注文。そんなに高くないし


甲野善紀の暮らしのなかの古武術活用法―2006年7月~9月 (NHKまる得マガジン)
甲野 善紀
日本放送出版協会
売り上げランキング: 5107
おすすめ度の平均: 5.0
5 介護する人、される人にむけた、優れた介護術がここにある。



近所のツタヤで甲野さんDVDレンタルしてるの見かけたし。なのでちょうどいいな、と。

NHKブックスのは図解だけでいまいちわかりづらかった。やはりこの人のは動きそのものを見ないと。ということでこれを再び注文し届いたころにツタヤのセールで借りに行ったり。

最初は全体に通呈するコツみたいなのが盗めれば自分的に応用できるかなってつもりで見出したんだけどやはり見てもよくわからんところはわからんかった。古武術手品みたいな感じで。それでも膂力による打撃に頼るのではなく重心移動の速度によって威力を生んでるのだということはわかったけど。「タメをつくらずノーモーションから打撃を行えるので相手に構えるスキを与えず、こちらも最速の攻撃ができる」、と。そんでその際の力は重心の高速移動によって生み出す。物理的に速いってよりも演算速度が早いって動き。てか、脳に考えるゆとりを与えないで考えるよりも先に身体が動く(動いたのは別の私)ってことだけど。反応→反射→音速→光速…

そんで生み出された早さと重さが武器になる。子泣きじじいのように自在に体重や速度を操るってイメージ


これ自体は書いてみると納得できるんだけど実際にやって会得するとなると大変そう。とりあえず効率的に力を発揮するときに身体をひとつにまとめることかなぁ、って自分的には理解した。身体が伸びてる状態で無理に力がかかるとテコの原理で反作用点が壊れちゃうのだろうし。


技についてはそんな感じで1回見ただけだとまだよくわかんなくて、「DVDが手元にあったら何回も見れるかなぁ」、とか思ったわけだけどやはり目の前で実演みたり投げられたりしたほうが体得するには速いのだろうな。そうはいってもなにやられたのかわけわかんないのだろうけど


動きはそんな感じでみつつもう一つ面白かったのがインタビューだけまとめた特典映像のほう。なんか意外だったがこの人武術プロパーかと思ってたけど最初は農大入ってそこで工場生産的に生物を生産するいわば機械主義的なアプローチに辟易していろいろ本読みあさって武道にたどり着いたらしい。

武道を志したのは道を変えるときに自分が得たインスピレーションを感情レベルで体感できるのは身体性があるものだと思ったからだ、とのこと。「運命は決まっている。それがゆえに自由だ」ってインスピレーション。これは「バガボンド」にも出てきて井上も影響受けてるみたい



バガボンド 29 (モーニングKC)
井上 雄彦吉川 英治
講談社 (2008-11-28)
おすすめ度の平
均: 4.5
5 武蔵の成長
4 成長しつつある武蔵
4 殺し合いの螺旋から逃れられるのか
5 深い
4 内面を描くということ




「バガボンド」のこの巻ではそのもののセリフが出てきたり(「おまえのこれまでもこれから先も天によって完璧に決められていて それが故に完全に自由だ」)。武蔵のセリフではなく沢庵和尚のセリフだけど。武蔵は「天と繋がってる感覚があるときは自由だって感じる」みたいなこと言ってた。


そんでやっぱり対談してたりする


「武」
「武」
posted
with amazlet at 09.06.17
甲野 善紀井上 雄彦
宝島社
売り上げラ
ンキング: 48458
おすすめ度の平
均: 4.5
5 スラムダンク、バガボンドと武術の接点はいかに?
3 死に方の美学
4 武士と現代
5 武術の奥義は、現代スポーツをも変える!
5 甲野氏は何を求めているのか






「決まっている」と「自由」っていう二律背反であり矛盾が並立し、それを納得できるというのが人間存在の実存性ということで。この辺、ハイデガーかなんか読んでたのかなぁとか思いつつオラも読んでないのでわからん。ただ、「決まってる」ってのは「死」ってことなんだけどこの辺が武士道とかネイティブアメリカンの感覚に通じるのだろうな。「武士道とは死ぬことと見つけたり」ってやつ。

「死が決められたものだと実感すればそこに行き着くまでは自由だ」ってアレ。そういうものとして受け容れればそこにたどり着くまではボーナスタイムになる。なので、不安やよけいな思索の必要がなくなりその分からだや心が速く動く。

「予断をなくす」ということでこの辺はまぁふつーに聞いたのだけど、おもしろいなと思ったのはふつーこれ系を語るときはもっともらしくというかもったいぶって語るものなんだけど甲野さんの場合なんかあっけらかんとしていてほんとに実感したんだなぁって感じだった。

そういう実感を得た喩えとしてもふつーこれ系では聞かないようなものだったし。「同じきっかけを与えられてそれが元でヤル気になって人生が変わる人と変わらない人の違いってなんなんでしょう…って悩んだときに“それは決まってるものなんだ”って思ったら楽になったんですよね」とか


いまヤル気にならなかったり機会が巡ってこなくても“決まってるものだ”ってことにしとけば楽なのかもなぁ。

運命論的に「決まってる」って自縛によって可能性をつぶすとしたらしょうのない話だけど、すくなくともムダに悩まなくてすむ。ということはその分自由に動ける。




「決まっているがゆえに自由」ということではなんとなく山頭火のことを思い浮かべたり。



muse-A-muse 2nd: まっすぐな道でさみしい?
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/118269736.html


山頭火の場合も先人の作った文脈や言葉による自縛、予断から逃れようとしてより自由な表現を追及して行ったようだった。そして最終的に「まっすぐな道」にたどり着いた。

自分的には「まっすぐな道」というのは世間によって決められた「まっとうな道」みたいなののことかと思ってて「そういう道を行くのはつまらない」って話かと思ってたんだけど、マンガ的にはその辺の解釈は違うみたいだった。山頭火自身が求めた自由(道)を究めるためにそぎ落としていったもの、家族との普通の生活を振り返って「寂しい」、と。

その孤独自体もひきうけるってことではあったのだろうけど


自由を求めて却って不自由になったり、一見不自由なようで自由だったり…要はその中で当人が言葉に縛られないで自由に動けるかってことなのだろうけど。善とか悪とかそういったものもそういった言葉に過ぎなくて、それに縛られていると却って不自由になるのかなぁ、とかなんとか。かといって野放図なエゴを追求しても満足はなくその辺の匙加減かなぁ。。「生」に向けての匙加減みたいなの。

甲野さんの場合は「それは体が教えてくれる」みたいなことなんだろうけど



身体性にいったってことだとオウムなんかも想起するけど彼らが身体を志しつつもけっきょくは機械論的アプローチになったのはなんか皮肉っていうかすれ違いだったのだなぁ、とか思う。「オウムに影響を与えた」という中沢新一の例の本はまだ積読だけど


チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)
中沢 新一
講談社
売り上げランキング:
15386
おすすめ度の平均: 4.0
5 今だからわかる
5 リアリティとマーヤ
1 体験的密教論
5 詩のような文です
4 中沢新一代表作の一冊!!






あと、○年代の身体論との違いとか関わりとか。メルロ=ポンティ経由だったか

プラトニック・ソフィエンスの創造:新叡知科学へ向けて:メルロ=ポンティの身体論について:連続的身体と超越的身体 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/renshi1900/archives/50869953.html


甲野さんの話って現象学的だなぁとか思いつつ「農大やめた時期にいろいろ乱読した」っていってはったので時期的にはメルロ=ポンティの身体論の影響もあったのかなとか思ったんだけど、農大やめた時期というのが1970年代中期だったみたいなのでその頃に現代思想系の身体論ってどうだったかなぁとか思ったんだけど思い出せないし甲野さん自身も特に語ってなかったので関係はないのだろうな。


てか、メルロ=ポンティの話的にも身体における二律背反みたいなのがあるのか


 近代合理主義は、元知中心主義であり、個体において、元身体を排除しているのである。この排除は、単に、元身体の排除だけでなく、元知・即非・元身体という超越的差異共振性(霊性)を排除しているのである。そして、近代主義が飽和状態になると、否定された元身体が反動して発動するが、それと同時に、超越的差異共振性も発動するようになると考えられるのである。

 この観点から見ると、メルロ=ポンティの身体論は、身体的連続的同一性と超越的差異共振性との混淆であるように思えるのである。そう、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と同質であると思えるのである。

 ここには、身体的連続的同一性と超越的即非性との未分化的混淆があると考えられるのである。身体的連続性は感覚的であり、超越的即非性は思想・観念的である。思うに、前者が文学的レトリックとなり、後者が理論的考察となり、混淆して、あのような文体を生んでいるように思えるのである。



なのでちょっと現象学系を絡めた話も聞いてみたいんだけど内田センセとのこの対談ではそういうのもなかったみたいですね


身体を通して時代を読む (木星叢書)
甲野 善紀 内田 樹
バジリコ
売り上げランキング: 119709
おすすめ度の平均: 2.0
1 参考程度
2 内田さんの話が多い
3 有益4割、たわごと6割



内田センセも合気やってて身体性と思想の関係、「言葉以前の身体」うんぬんってことだとベストマッチだと思うんだけど現象学の話が出なかったのは却って不思議だ。。





まぁ、とりあえず「読むもの」リストできたのでここまで




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関連:
muse-A-muse 2nd: 九鬼周造、1930、「いき」の構造
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/40630844.html

※いきも諦観から発せられるわけだけど、「結婚してからのほうがモテる」、とかもそういうの含んでるのかもね。

タグ: 身体
posted by m_um_u at 23:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年06月04日

駄菓子もまた是し

Morality comes with the sad wisdom of age, when the sense of curiosity has withered.
-Greene, Graham







ちょっと前にこういうエントリ見て、


ネットで書いてるとなんで文章力落ちるんやろ - Hopeless Homeless
http://d.hatena.ne.jp/akio71/20090207/p1


ネットを足場にして、長期間文章を書いていると、文章力がみるみる落ちていく。

自分でも「ブログ書いてると文章の基礎体力落ちるなあ」と実感してますし、古くはニフティ時代に栗本薫さんが、会員制パティオで毎日毎日、全員に全レスしてくうちに、本業の小説の文体までグダグダのめためたになったのを目撃しました。何十人に全レス、それにレスあったら更に返信しかも長文っていう情熱は素晴らしかったんだけど、どんどん「……で、何が書いてあるんだろ?」とわかんなくなっていった。

仕事でも、ほぼ、仕様書以外は「台詞、ト書き、終了!」なので、台詞や物語の筋道は書けても、情景の描写だとか、動きを読みやすくわかりやすく伝える技術、が、みるみる落ちていきます。

語彙も減ります。




わりと気にしてたことではあったのでひっかかった。

たしかについったーやるようになってblog書く気が減ったなぁとは思う。

んでもこういうのって新しいメディアがでてきたときには必ず出てくる類の話で、その意味では「ワープロで書くようになると文章力落ちる」→「ネットで書くようになると文章力落ちる」「ケータイで書くようになると文章力落ちる」→「ブログやるようになると文章力落ちる」→「ついったで書くようになるとブログ書く気もなくなる」、的なことがいえるわけだし…。

まぁそれもないとはいいきれないけど


そういうのがもしあるとしたら、イノベーション→簡単・便利によって解決されたと思われていた不便や面倒さの中にこそ創造のエッセンスもバンドリングされていたのかな?とも思うわけだけどもうちょっと簡単に考えると、メッセージが発せられるその場において文脈を共有するようになるとはじめての人に説明するように詳述しなくても良くなって説明や表現がゾンザイになるとかそういうのかなぁ、とか。


てか、個人的にも心理とか情景の描写をゾンザイにして掘り下げてく集中力が続かなくなっているのは問題だなぁとか思ったりしてるのでやっぱポメラ買うか。まだ触ってないけどあれはなんか文章に集中できるツールが欲しい気もする。いまはメインPCから離れて寝床でEeePC使って書いてるけど、やはりちょっと書きづらいな。キーの幅が狭いので。支えは書見台みたいなの買ったので割と大丈夫なんだけど。

もうちょっと自然に、違和感なく思考が吐き出せるツールがあると思考のノリも失われずにリズムが出てきて創発しやすいのではないかとか期待してるんだけど。そういう意味ではワープロなど筆記ツールの変化による思考や文章の長さの変化というのはあるだろう。てか、「手書き時代に比べてワープロになると確実にレポートの文字数が増えた」、とかいう話もあるし。

ワープロの場合は手書きに比べて編集の可逆性が高いしなぁ。。



閑話休題



そんな感じでライティングメディアの技術発展によってむしろ思考というか文章は長くなった面もあるようにだけどコミュニケーションメディアの発達によって文章を他人に吸い取られるみたいなのはあるかもしれない。コミュニケーション論的には相手のスキーマにのっとられるってことだと思う。ついったとかほかのメディアでもそうだけど、それ見てるうちに自分が何やろうとしてたか忘れるみたいなあんなの。

ついったなんてのはたいした話題でもないことが多いので侮ってたりするんだけど意外と吸い取られたりする。文体→思考様式なんかも知らないうちに影響受けたり。


そういうのに対して自分の表現というか思考の幅を守るためにどういうことをすべきなのか?


やはりぢみに良い文章読んだ後でその高揚感を自分も文字で刻んでいく、みたいなことだろうか。習字みたいに文章とか文体の集中力もトレースするところがあるのでなんか読んだあとに読んでたテクストの集中力を再現させるような感じで書いていくとよさげなように思う。

んでもあまり修辞や形式に引きづられて、いつの間にか「オサレ文体はできてても自分のほんとに思ってたこととは違うんじゃ…?」
ってならないようにご用心。

けっきょく文章力というのは「人にわかりやすく伝える」ってのもあるけど「自分の中にあるぼやーっとしたものを表せる能力」ということで、そのための語彙であり文体だったりするわけだし。



あとは孤独というか、自分の内奥の声に耳を傾ける時間が必要だろうか。その声はとても微かで小さいので他人の声や雑踏の中ではかき消されてしまうかもしれない。だから静かにその声に耳を傾ける環境、集中力が必要なんだ。自家中毒にならない程度の孤独と集中力が


要は「ついったほかコミュニケーションメディアが悪い」ってことでもなくバランスなんだと思う。どんなに体に良いとされるものでもそればっか食べてたら不健康になるわけで、それと同じようにひとつの環境に依存しすぎるとつまらなくなるのだろう。

ついったやblogは駄菓子や軽食のようだけど、駄菓子もまた良いよ(食べ過ぎなければ




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関連:
ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール - 雑記帳
http://d.hatena.ne.jp/ced/20061001/1159774865

※書く気が筆力が減る理由関連で。てか、こちらのエントリのほうが「ライティングスペース」についてきちんとまとめてはるので参考になるかも。

「ライティングスペース」中古で安くなってるから自分で買う用にリンク

ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール
ジェイ・デイヴィッド ボルター
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関連で言うとキットラーなんか思い浮かぶけど

グラモフォン・フィルム・タイプライター〈上〉 (ちくま学芸文庫)
フリードリヒ キットラー
筑摩書房
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おすすめ度の平均: 2.5
3 過去からの現在
2 訳書も原書もいまひとつ、いやいまふたつ


グラモフォン・フィルム・タイプライター〈下〉 (ちくま学芸文庫)
フリードリヒ キットラー
筑摩書房
売り上げランキング: 235963
おすすめ度の平均: 2.0
2 いまふたつ




<新メディアの登場以前にメディア使用のモード(土壌)が少しずつ変化していっていたから新メディアが受け容れられた>って視点的には「書き込みシステム1800/1900」のほうが良いのだろう。

むーたん:キットラー概説メモ + 音読・黙読 ら辺
http://morutan.tumblr.com/post/20792167/m-um-u

m_um_u アンチョコ本によると、キットラーの視点はメディア変遷の歴史を「文字・文書」の時代と「技術メディア」の時代に分けるんだそうです。んで、前者が「手書き文字」と「印刷」、後者が「電話とアナログ技術」に分岐する。

m_um_u それ以前の時代は特に問題にしてないみたいだけど、文字移行にクローズアップしてる、といってもいい。で、日本で有名なのは「グラモフォン〜」だけどもう一個の主著に「書き込みシステム1800・1900」というのがあるのだそうです。ここで技術メディア以前のリテラシーの浸透を追っている

m_um_u んで、そういった形でモードが浸透することによって社会全体の認識が変わっていく(それと相関して社会システムも変わっていく)ってのがメディア論的視点ですね。

m_um_u つか、「グラモフォン」だけみるとメディア論(技術決定論)ってみられがちだけど「書き込みシステム」のことも考慮すると、表象の操作と認識の変容を地味に追っている、とみたほうがいいのかも。その意味でラカンやら絡んでくるんでしょうね(わたしあの辺わかんないですけど


書評空間:UMATフォーラム@書評空間: 『書き込みシステム1800/1900』(未邦訳)フリードリヒ・キットラー
Friedrich A. Kittler, 1985=1990, Discourse Networks 1800/1900, Stanford University Press
http://booklog.kinokuniya.co.jp/umatforum/archives/2007/04/discourse_networks_18001900fri_1.html


「書き込みシステム」については未邦訳ということで上記まとめのリンク先の本とか、たんぶらーでいったアンチョコ本なんか買っといたほうがいいのだろうか。


〈メディア〉の哲学 ルーマン社会システム論の射程と限界
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5 良かった!!



言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から (シリーズ 社会学のアクチュアリティ:批判と創造)

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おすすめ度の平均: 4.0
3 理論と事例の乖離が。。。
5 『言説分析の不可能性』では?



大黒さんのアンチョコ本、アマだと在庫切れだのう…




タグ:メディア論
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2009年05月26日

「異色昭和史」を読みつつ自分の根っこのことを思った

対論・異色昭和史 (PHP新書)
鶴見 俊輔 上坂 冬子
PHP研究所
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おすすめ度の平均: 4.5
5 異色の対談から醸し出される言葉
5 すばらしい
4 鶴見俊輔と上坂冬子の関係




東京行きの新幹線の中で読み始めてグイグイひきつけられていった。おもろかった。

全体としては鶴見の左翼的な見方に上坂が保守的に異論を投げて行くって感じなんだけど、別にギスギスした感じでもなく、気心がしれたもの同士の掛け合い漫才みたいな感じでおもろかった。鶴見を「先生」と慕いつつも「不良な坊ちゃん」的につっこみいれたりいぢったり、鶴見は鶴見でそれに対してパフォーマンス的に「ちがう!」とかいったり。

両者が異論をなげかけ、それについてケンカするわけでもなく両者が擦り寄っていく感じはなんかほのぼのよかった。

細かい事実関係的なもの、特に「太平洋戦争開始時の日本側のイニシアティブとか転換点はどのあたりにあったのか?」ということ、「日本国憲法を作る際の天皇の位置づけをめぐっての内実はどうだったか」などについての当事者的視点もおもろかったんだけど、その辺いちいちあげていくと長くなりそうなので今回は割愛。
(鶴見の祖父後藤新平は満州鉄道つくったひと、父鶴見祐輔は戦争反対派だったけど「二二六事件でビビった」(鶴見談)、と)


個人的に、本書のクライマックスは上坂が鶴見のジャワの慰安所時代について問い詰めて言ったところのように思った。「<民主>と<愛国>」に出てたけど


〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性
小熊 英二
新曜社
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おすすめ度の平均: 4.5
4 戦争体験が思想にどう影響したかを、ナショナリズムを中心に分析した本
5 自分であること
5 俺って愛国者だったんだ。
5 確かに『私たちは「戦後」を知らない』と言える
5 「心」と「言葉」から迫った戦後史



この部分の記憶は鶴見にとってはトラウマ的なそれというか、触れられて気持ちの良いものではないはずなので。

こういう質問を上坂があびせたけ言いは、鶴見が自分の父親のとった行動(あるいはとらなかった行動)に対して批判的すぎる嫌いを上坂が感じたからのようだったけど。上坂的には「あの当時としてはそういう態度をとっても仕方なかったところはあったのだろうし」ってのと「なにさ、自分ばっかきれいぶって」的なものがあったのかなぁ、と。

鶴見が親を意識するようになったのは後藤新平、そしてその入り婿である鶴見祐輔というエリート一家の中で母親から徹底してエリート教育を受けつつそこから落ちこぼれていったことへのコンプレックスがあったからみたい。

そういった中、鬼子のようにハーバードに追いやられてからは憑かれたように勉強に没頭して優秀な成績を残したわけだけど、その後しばらくして戦争がはじまって帰国、徴兵されジャワに行くことになった。

ジャワではドイツ語通訳が仕事ってことだったけど実際は慰安所でボーイのような役目をさせられた。このとき「なにもしていないけどなにもできなかった」的な無力感が鶴見の傷になった、と「<民主>と<愛国>」ではまとめられていたように思う。


いわば鶴見の爆弾部分なんだけどそこにくらいついていってはなさない上坂はすごいなぁ、と。ふつーの対談相手だったら鶴見が本気で怒って席を辞するかもしれないって畏れてこういうのはできないと思うんだけど…(鶴見が怒らないのもすごいけど)。   やはり気心が知れてるからだろうか。


そんで鶴見はこの記憶への悔恨もあってか、当時に自分の信念を曲げずに行動していた人、転向しなかった人たちをめっぽう評価するようになる。

東大出の勉強だけができてカタカタ言葉を振り回しているようなかつての自分のような人たちは信じずに、その人の幼少期からの体験や記憶が思想として根付いているひとたちに信頼を寄せるようになる。

たとえ一般的には多少間違ったところや型破りなところがあっても、その人固有の課題が思想的に結実しているような人。あるいは野生の勘のようにそこにたどり着く人。

 私は樹木のように成長する思想を信用するんだ。大学での知識人はだいたいケミカルコンビネーション。そういう人は人間力に支えられていないから駄目という考えです。私と接触がある人では、上坂さんにしても佐藤さんにしても、樹木のように成長しているものを感じるね。文章を見ればわかる。



この辺の話を見ながら自分が院をやめていった理由が思い出された。

本来自分が好きで始めた研究だったはずなのに)関心が流されていく、ということ。外との関係を気にしたり、「それはもう他の人がやってることだから」ということで自分の課題を変えていかければならないということ。

その中で「自分はほんとはなにをやりたかったんだろう?」って思うことはしばしばあった。



ってか、そこまで大層な理由があったわけではなく単純に怠惰だったから断念するような状況になっていったとも言えるのだけど



しかしある程度自由に自分の関心に沿っていろいろと学べるようになった現在、「どこを目指すべきか?」っていう漠然とした不安のようなものもある。

そういうときに標となるような人、あるいは刺激になるような人が側にいてくれるとありがたいのだろうけど。そんな感じで外に依っていてもダメなんだろうなぁ、と。


もう一度自分なりの課題、解決しなければならない問題を見つめなおしてそれと対峙し乗り越えていくべきなのだろう。

それがどんなに門外漢的なもので稚拙でも。人生の終わりに悔いを残さないためにはそこに立ち戻るのが一番の近道なのだ。




まぁ、とりあえず目下の課題は稼ぐことだけど



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2009年05月14日

「へうげもの」をめぐって武力と資本とアートな話

先日「へうげもの」を読んでおもしろかったのでご紹介がてらなんか書こうかと思ってたんだけど、ちょうどついったで@kimarxさんと話したことがそれ関連にもなるかなぁということでまとめて。

とりあえず「へうげもの」の紹介から。

へうげもの―TEA FOR UNIVERSE,TEA FOR LIFE (1服) (モーニングKC (1487))
山田 芳裕
講談社
おすすめ度の平均: 5.0
5 物に執着している人に
5 さすがとしか
5 新たに天才発見(遅)
5 物欲か?出世か?
5 キュ〜トな戦国時代



いまのところ8巻まで出てる。

へうげもの 8服 (8) (モーニングKC)
山田 芳裕
講談社
おすすめ度の平均: 5.0
5 いぶし銀の8服/策謀の胎動が見え隠れする
5 へうげもの8服、緊張感のたかまる金と黒
4 重い、しかし笑える
5 見つめて、、削いで、、最後に残ったものこそ
5 刻々と近づく利休の死、脈々と継がれる明智の遺産―



概要としては織田→豊臣時代の茶の湯な数奇な話。焼き物の「織部」で有名な古田織部が主人公だったりする。


織部流 - Wikipedia


物語としては織部が千利休に師事しつつ茶の湯(あるいは数奇)の体得と武功をあげての成功の二兎を追おうとするも…的な話。軸としては織部自身よりも利休と秀吉の対立への新解釈がポイントっぽい。

この時代の「数奇」というのは茶の湯関連の逸品を蒐集癖ってことなんだろうけど、ファッションとかアートとかいった意味合いも含むみたい。かぶき者まではいかないけどそれに近いような。

そんで、この数奇(あるいは数奇の前衛であり筆頭芸術としての茶の湯)を通じて利休が暗躍し、秀吉をもおびやかすほどの人脈を作り上げていった、みたいなところがおもしろかった。

歴史の覇権を握るには武力+政治力(リバイアサン)か、資本とそれを元にした武力や人的ネットワーク(ベヒーモス)かのどちらかが必要になると思われるわけだけど、「へうげもの」では「利休たち堺の商人ネットワークは資本という力以外に茶の湯によって独自の人のつながりをもっていてそれが力になっていた」、って描かれかたをしてた。

この辺の詳細はあながち「あれはマンガだから 笑」ってこともないか、と。

こんな感じで「へうげもの」の真骨頂は「武でも財でもなく芸(あるいは文化)で天下をとろうとした」ってところだと思う。んでもやっぱ「文化以前に武力や財力の基盤が固まっていたから」ってのもあるとは思うわけで…。その辺の話をきまるくすさんともそもそ


てか、最初にきまるくすさんがこんな感じでつぶやいてて
 

 

 

 

 

 

 

Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
Amino does not want to recognize that Behemoth always defeats Leviathan.
Murakami, a famous pirate clan in Japan, was defeated by Toyotomi. 
(2009-05-13 14:20:01)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
Toyotomi first controlled agri-culture entirely in Japan and he would be representative of Behemoth. 
(2009-05-13 14:24:31)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
Ariam lost their territory since they were converted to Christianity. But they made million by trading with Europeans. 
(2009-05-13 14:37:02)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
When Arima was converted to Christianity, they would be converted from
the territorial to the maritime. 
(2009-05-13 14:40:45)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
OUchi Yoshitaka is the lord of a maritime samurai clan and he permitted Christian missioners to do their missionary work. 
(2009-05-13 15:15:17)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
That is, the word 'Christianity' can be associated with Leviathan and the maritime in Japan. 
(2009-05-13 15:19:45)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
He might find conflicts between the territorial and the maritime as Carl Schmitt who describes history as those conflicts. 
(2009-05-13 16:55:54)
link

これみて別件で見てたエントリ思い出した。


スピリチュアル・ブーム(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」


全体的には「昨今のスピリチュアルブームと一昔前のニューエイジ系とかとはどう違うのか?(あるいは同じなのか?)」的な話なんだけど関連で出てきたニューアカデミズムの話がおもしろかった。最近、網野本とか中野本読んでたもので。

該当箇所はこの辺(まるっと引用)

ニューエイジ運動が、「部分的・選択的コミットメント」による小集団によって、既成の集団や共同体の垂直的な地位・役割関係(要するに「しがらみ」ですね)から離脱しようとしていたのと同じ時期に、既成の秩序の垂直的な地位・役割関係を断ち切るための手段として、より強力な方策が夢想されていました。夢想していたのは、ニューアカデミズムと呼ばれていた人々、すなわち、中沢新一さんや浅田彰さんや柄谷行人さんや蓮實重彦さんたちです。そして、その方策が、資本主義の力によって既成の共同体や集団の垂直的な地位・役割関係を断ち切っていくというものです。中沢新一さんの叔父さんである網野善彦さんも、1970年代に、「アジール」という概念やターナーのコミュニタスなどの概念をも取りこんだ「無縁」という概念を提示しましたが、80年代になると、中沢新一さんの影響で、「無縁」と資本主義の結びつきという議論を始めます。浅田さんも、マルクス主義者としてスタートしたのに、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の議論などを援用して、資本主義による解放というヴィジョンを提示します。バブルだったんですね*6。この「資本主義による解放」というヴィジョンもまた、「関係の複数性」ということを消去して、「無縁」(という関係の場)が実現するためには、すべての既成の垂直的な地位・役割関係を断ち切らなければならないという固定観念の現われといえるでしょう。


網野史観とかそれに基づいた中野新一さんのお話だと天皇制打倒ってのが第一に来るので「天皇を中心とした支配層の作り上げた歴史に物申す!」(そのための語りえぬ民たちの歴史)って感じになるように思うんだけど、そういう史観がマルキストドライブすぎるとちょっとブレが生じるのかなぁ、とか思ってたわけだけど。引用箇所的には、「既製の過去のしがらみを断ち切るための手段としてなにかを求めた」→「網野さん的には“無縁と資本主義のつながり”というのがそれに当たった」、ってことになるのか。

「無縁と資本主義」って具体的にどんなのか、網野本もまだ4冊ぐらいしか読んでないのでよくわかんないんだけど、強いて言うと「異形の王権」とか「無縁・公界・楽」で示されたような歴史の表舞台的なところにいない人々による独自の経済圏(あるいはネットワーク)辺りの描写だろうか。それと現代的な資本主義というのがどういったつながりがあるのかよくわかんないんだけど、柄谷さんなんかはNAMっちゃったしなぁ。。あんな感じで「メインじゃない経済圏でも集まれば大きな力になるよ」的な感じだったのかなぁ…(妄想)



まぁ、それはそれとして


リヴァイアサンとベヒーモスの相克の歴史としてはたとえば堺のような商人ネットワークがどのように発生し自律的な力をもっていったか、ってことが気になる。

あと他にも、メインの政府的なものとは別に冨や武力の集中していたとこがあったのか、とか。

前者についてはヒックスの「経済史の理論」辺りが参考になるっぽい(>ヒックスは商人資本が海洋的なものから、そして封建制が領土的なものから生じていると考えているようです。彼はシュミットに近い)

※ここでいわれている「海洋的」は海のネットワーク(経済圏)、「領土的」は陸のネットワーク(経済圏)


経済史の理論 (講談社学術文庫)
J.R. ヒックス
講談社
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おすすめ度の平均: 4.0
4 この本は・・・



海の道ということではこの辺とかも


松岡正剛の千夜千冊『海上の道』柳田国男


海上の道 (岩波文庫 青 138-6)
柳田 國男
岩波書店
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関連マンガとしてはこの辺(「陸を道を中心とした文化が海の道の文化を滅ぼしていった」「海は産み、陸は戮」)




南北朝辺りの海賊描写(沖縄と中国との貿易も感じさせるもの)としてはこの辺

カタリベ (SPコミックス)
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おすすめ度の平均: 3.0
4 アクションマンガ
3 完結までもっていってくれてれば・・・。
2 かもしが足りない
4 海洋伝奇冒険活劇!




あとは同時代からそれ以前(南北朝辺りから)の海賊勢力を洗ったりとかか。

この辺りはもっかい網野本見たり、あるいは司馬遼太郎の「日本史探訪」も買ってみたので見てみようか、と。



とりあえず「へうげものおもしろかったよ」って話でした





--
追記:
シュミットのこれもいいらしい(メモメモ)


陸と海と―世界史的一考察
カール・シュミット
慈学社出版
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2009年05月07日

「都会の田舎的な話」とか「逃げても同じ」とか

出かけるまで時間余ってるのでぼけーっとした日記。この辺みながらちょっと思ったこと


切込隊長BLOG(ブログ) Lead‐off man's Blog: 最近のはてなの釣り堀はレベルが高いぜ…
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2009/05/post-cc27.html



田舎の人は循環する時間という「宗教」を信仰している - アンカテ
http://d.hatena.ne.jp/essa/20090506/p1


(日記なのでリンクの流れとか端折りつつ)両方とも「出て行くんかい?」話ということでは共通してて個人的には出て行きたい人は出て行けばいいし残る人は残ればいいんじゃないか程度なんだけどけっこう注目集めてるのは出て行けない人の怨念みたいなのに触れるところがあったのかなぁとかなんとか思いつつ。


essaさんのほうの話は循環暦の話ってことで学生のころに聞いたモクテスマとコルテスの話思い出した。


モクテスマ2世 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%9E2%E4%B8%96


アステカの人々がああもたやすくコルテスらコンキスタドールを迎え入れたのは循環暦とその伝承を元に彼らを神(ケツァルコアトル)としてしまったため、って話。


「田舎と都会」(あるいはゲゼル / ゲマイン、合理 / 人情(?))みたいなのでとらえると、仲間だと思って迎え入れた都会ものが大型スーパーなんか出しだして地域環境むちゃくちゃにしちゃった、みたいな話だろうか。あるいはホリエモンとかのITな人迎え入れてうんぬんみたいなの。


つっても、「ゲゼル / ゲマイン」とか「合理 / 非合理」なんてのもそんな単純なものじゃなく新興する領域にも損得よりも人とのつながりみたいなの大切にするところもあるように思うんだけど。それが長期的に利益になるってのもあるけど

同じように「都会」とされるところも無機質な合理性の元につくられているわけではなく都会の下町なんかもあるわけで


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先日久々に見返しつつ市川準監督が遺したかったものはそういうったものだったのだろうなぁ、とかなんとか。「トキワ荘の青春」にしても「ざわざわ下北沢」にしても。


そして、そういったつながり、縁、人の営みのつらなりのようなものが「町」の生命となっていく。


そういった話はlifeなんかでもおなじみだった



文化系トークラジオ Life: 2007/02/03 「東京」 アーカイブ
http://www.tbsradio.jp/life/20070203/


文化系トークラジオ Life: 2008/03/03 「池袋とセゾン文化」(公開録音) アーカイブ
http://www.tbsradio.jp/life/cat190/


文化系トークラジオ Life: 2008/08/10「地方を考える」 アーカイブ
http://www.tbsradio.jp/life/2008810/



「安直な合理性に基づいた再開発によって“街”は作り上げられていくのだろうか?」って留保。



最近読んだ「アースダイバー」なんかもそういう話だった。


てか、「循環-円環」ってことだと東京なんてのはもともと皇居を中心としたメリーゴーランドみたいな構造をしてるみたい


「トウキョウはまるでメリーゴーランドのような都市だ」

(略)

「だってトウキョウでは行きたいところにたどり着くためには、いつもこのパレスのまわりをぐるっと一周しなくちゃならないだろう。内側と外側と、二つの方向に自動車が流れていく様子が、まるでメリーゴーランドみたいで素敵だなって思うんだ。だって資本主義の経済活動は、こんな風に環(わ)を描いちゃいけないものだろう。どこまでもまっすぐに、ぐんぐんとすすんでいかなくちゃいけない。ところが世界有数の経済大国の首都の構造は、まるで資本主義経済の原則をあざ笑うかのように、人々に環を描いて移動することを強いている。これはいったいなにを意味しているんだろう」

(「アースダイバー」、p18)



中野新一はそれを受けて「ドーナツ型の中心部に開いた穴には経済や流通のせわしない流れとは違った時間がゆっくりゆっくりと流れている」とする。遠い過去と現在とをひとつに結ぶ「神話」の時間。


「中心がどこか」って問題もあるしぼけーっとした夢想ではあるけど、そういった時間の感覚というのは市川準監督が描いてきた「東京」の下町の姿に似てるなぁ、と思ったり。



もっともそういった情とかつながりなんてのも形式化しちゃうとしがらみとして重くなるのだろうけど、まぁその辺は別の話。



てか、essaさんの話は日本的空気の問題からの派生的な思考だったのかな程度で。だとすると空気の問題ってのは田舎だけじゃなくて都会にも残存するものだろうし、そういったものから「逃げたい」という後ろ向きな姿勢だけで都会出ちゃうとがっかりするのかなぁ、とか思ったりする。

人生においてはうまく逃げおおせたつもりでもいつしか追いつかれて対峙しないといけなくなる。対峙してはじめて止まっていた時間が動き出すような



そういいつつもう少ししたらオラも東京行く予定でありうまくすればそのまま住んじゃうのだろうけど。


さてさてどうなることでしょうね






--
追記:
ついでにいうと日本的時間の問題としては宮本常一辺りの論考を思い浮かべたけど特にそういう時間感覚についての記述はなかったような。「日本といっても西と東で家的抑圧が違う」って話はあったかな。

関連で中根千枝「タテ社会の人間関係」なんかも思い浮かんだり。あれも「田舎」って場の問題ではなく「タテ社会的構造が偏在するよ」って話だったと思う(途中までしか読んでないけど


posted by m_um_u at 09:23 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年04月29日

まっすぐな道でさみしい?

この辺関連で


本気でお金がなくなってきた - phaのニート日記


はてなブックマーク - 本気でお金がなくなってきた - phaのニート日記


ぶくまで

xevra ついにお金が無くなったのか。おめでとう。しかしこれで病院へも行けなくなった。若くて健康で居続けないと成り立たない暮らしは辛いね。/この世で一番楽しいことは仕事。仕事の楽しさが分からないのは不幸だよなぁ



ってのがあって。それ見てch1248とかが憤ってたりしたんだけど


ch1248 id:xebra ネパールではアパートの家主になって毎日ごろごろと暮らすのが理想とされる。幸せなんぞ人それぞれ。/あと、実際に会ってもいないのに、人の友人を病気扱いすんのは止めろ



そういえば仕事してないと病になるんじゃないかなぁとかなんとか。


鈴木敏夫さんのpodcastを聞いていたら「うつ病の起源は家庭に洗濯機やオーブンなど機械が導入されて主婦の仕事がなくなったことみたいです。やることがなくなると人は欝になる」みたいなこと言っててウラとってないんだけどぐぐっても出てこなかった。ほんとはこの言説のウラとりたいだけのエントリなので誰か知ってる人いたらコメントください。



鈴木敏夫のジブリ汗まみれ - TOKYO FM 80.0 - 鈴木敏夫


バックナンバー

鈴木敏夫のジブリ汗まみれ - TOKYO FM 80.0 - 鈴木敏夫

※パナソニックの柏木さんを招いた回かな。



まぁ、あとは思ったことをダラダラ書いてみる。



コトリコなんかも「このままの生活では誇りを保てるかどうかわからない」みたいなこと言ってたな(コトリコの場合は「オレは仕事してるだろがクソが」的なこと言うのだろうけど世間一般でいうような型にはまったサラリーマンしてるわけではないのでとりあえずそのまま続ける)


貧乏から学んだこと - コトリコ



そういう意味ではコトリコとかphaくんなんかは精神的に強いように思うんだけど


こういう生活をしたことがある人は分かると思うけど貧乏とか暇とかは精神的によくなくてそれが続くと自分の矜持とかプリンシプルのようなものも錆びついて失われていく。そんで安易な悪に染まっていったりする。


なのでオラなんかは「思想」とかうんぬん以前に心の平穏を保てるような生活状態を保つこと(余裕を持つこと)が第一目標だと思うようになったわけだけど、そういう中で仕事というのは生活をつなぐための糧(収入)としての意味もあるけど「現代の仕事の大部分は余暇ですよ」みたいなことは堀江さんも言ってたな


新聞やテレビが絶対に書かない「ホリエモン」こと「堀江貴文」の真実〜ロングインタビュー前編〜 - GIGAZINE


なのでイヤミっぽく「仕事の楽しさが分からないのは不幸だよなぁ」とか言うこともないと思うんだけど。しょせん余暇だし


てか、phaくんなんかが興味ない「仕事」というのはサラリーマン型…というとサラリーマンのひとに失礼か、えーとじゃあ便宜的に「仕事場から押し付けられる独創性のないルーチン型の労働」(ルーチン労働)であって、そういうのじゃない仕事はやりたいんじゃないかね。まぁ、「そういうのも甘えでありとりあえず働け」的な言説もあるだろうけどその辺は置いといて。


そんで、まぁ、そんな感じでルーチン型労働に対してなんらかの意味づけを行ってる人なんかがphaくんの生き方見てるとイラついたりするのかなぁとか思うけど、別にその辺本来どーでもいいことなんじゃないかなぁ。仕事なんか本来飯食うための狩猟・収穫であり、それしなかったらその人が飢えて死ぬだけのことだし、そういうことしなくてもなんらかの形で人から援助受けてる人がいるとしてもそれによって自分の収入が減るわけでもないしなぁ。



てか、個人的にはphaくんとかコトリコ、有村さんなんかの生き方には親和性をもつけど。ルーチン型な生き方のオルタナティブがインターネット時代には広がっていくのか、って実験的にはおもしろい(itkzなんかの例もあるし


てか、そういう言い方するとオラなんかがそういう生き方の突端にいるのかなぁとか思うけどまぁそれはそれとして



あと、労働観について。アポロン型とディオニュソス型があるのかなぁとか思ってたけど最近だと常時コツコツ働いてるタイプの収穫型と必要なときに一気に働いて特に用がないときは寝てたり遊んでたりする狩猟型があるのかなぁとか思ったりしている。あとイヌ科 / ネコ科とか。

自分は後者かなぁ。そういうタイプのひとにいつも働くルーチン型の生き方おしきせられてもたまらんかなぁ、とかなんとか。そこまでいくとやっぱ宗教なのかなぁとか思ってしまう


極東ブログ: [書評]プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー)




phaくんの今後については(会ったことないので単なる妄想だけど)山頭火みたいな感じで極限まで行って反転するとおもしろいのかなぁなどと妄想してたりする。


まっすぐな道でさみしい―種田山頭火外伝 (1) (モーニングKC (896))
いわしげ 孝
講談社
おすすめ度の平均: 3.0
3 とても丁寧に描かれています!




ルーチンなまっすぐな道だとつまらなくてさびしいことになるかもだけど、自分の道を貫きすぎるのもさびしいことになるかも。人生どう転ぶかわかんないね




posted by m_um_u at 08:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年02月25日

壁と卵の話(壁作りの是非について)

 
けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一點にも均しい明暗のうちに
   (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を變じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相當のちがった地質學が流用され
相當した證據もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません


宮沢賢治 「春と修羅・序」




村上春樹の<壁と卵>スピーチについて、


極東ブログ: 村上春樹、エルサレム賞受賞スピーチ試訳


ついったーのほうで軽くつぶやいたことで気になってたことがあったのでなるべく軽く書いとこう。ちょっとした違和感程度なもの


ついったのほうの契機としてはこんな感じ
 

 

 

 

 

 

raitu
@raitu
「魂が鈍ると形式が現れる by Charles Bukowski」形式とは何だろう?たとえば、言葉遣いが気になる僕は、日本語の「形式」にとらわれた結果なのだろうか?形式を重要視しているからこそ、いかに「言葉遣い」という形式をもって相手が接しているかを無意識に重んじてしまう。 
(2009-02-21 13:13:54)
link
raitu
@raitu
「魂が鈍ると形式が現れる by Charles Bukowski」ならば、「魂の牢獄」は「形式」。 
(2009-02-21 13:15:03)
link
raitu
@raitu
「魂が鈍れば形式があらわれる」さて、形式が魂の牢獄であり、一定方向を向いた魂の貨物船だとして、なるほど確かに集団を従わせるのは形式以外には存在し得ない。社会は形式によって運営される。村上春樹エルサレム賞式典でのスピーチを引用すれば、形式は壁であり、魂は卵。卵で壁に穴は開くか? 
(2009-02-21 13:53:06)
link
raitu
@raitu
村上春樹は、いかに壁が正しかろうと、卵の味方をする、と答えた。そもそも、「正しさ」を保有するのは壁=形式でしかないからこそのスピーチだと考える。では卵=魂は何を保有するのか、といえば、感情と欲望なのだろう。宗教も形式であり壁であり、卵を囲い魂の牢獄。村上春樹は多分そう考えてる。 
(2009-02-21 13:57:09)
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raitu
@raitu
かつて形式=壁がそれほど高くなかった時代。魂の自由さにおびえ、不安を抱き、混沌とした世界があり、そこにユダヤ教やキリスト教、という「高い壁」が作られ、そこに魂=卵は閉じ込められ、人々は一応の心の安息を見た。卵を閉じ込める「壁」はそのうち「箱」になり、卵は自分を箱と勘違いする。 
(2009-02-21 14:03:17)
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raitu
@raitu
閉じ込められた大量の卵を入れた「箱」の一つは、現代になり国を作り、そして「箱」どうしぶつかり合って中の卵割れまくり、と。 
(2009-02-21 14:03:47)
link

 

 

 

 

 

 

 

 

 

むーむー
@m_um_u
珍しく @raitu のいっていたことがあたまに残った。あとでほかで使うかもしれないけどついったでもらったことなので自分的まとめもかねて清書的に書いとこう 
(2009-02-22 06:00:52)
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むーむー
@m_um_u
「魂が鈍ると形式が現れる」 というCharles Bukowski の言葉の「形式」と村上春樹の「壁と卵」をつなげた話。ブコウスキーのそれは作品における形式のドライブ、大衆的なものにおもねるあまりに演出ほか修飾や脚色的な部分が内容よりも先走ってしまうことについて触れている 
(2009-02-22 06:04:05)
link
むーむー
@m_um_u
ように思ったので壁と卵とは直接関係ないように思ったけどその後でそれなりに「壁=形式」としてつなげていっていたのが良かったなぁ、と。村上春樹の言っていた「システム=壁」が指していた主なものは国家幻想(あるいはそれを含む共同幻想)だとおもえるので当然といえば当然なのだけど 
(2009-02-22 06:06:09)
link
むーむー
@m_um_u
国家幻想ほか共同幻想のオーバードライブという話は @medtoolz さんが言ってた道徳のオーバードライブ的な話にも通じる。かつては「正しい」と思って作り上げられた決まり(制度)が形骸化し澱となって溜まっていき、それが人を閉じ込める檻となる 
(2009-02-22 06:08:33)
link
むーむー
@m_um_u
そういったオーバードライブに対するために憲法的なものがあったりするわけだけどその辺は番外だからいいとして… 
(2009-02-22 06:09:58)
link
むーむー
@m_um_u
ただ、「壁」がいつも悪いとは限らないわけで、「壁と卵」というのを単純な二項対立としてとらえると「システムと生活世界」ということでハーバーマスも言っているし、そういった区分けはわりとおなじみのもののように思う。 
(2009-02-22 06:12:25)
link
むーむー
@m_um_u
ここで沸き起こる課題は「壁」自身もわれわれが生み出したものであるということ(壁の中にも卵はいるということ)、「卵」も放っておくと悪を生じさせるということ。後者は大衆的な妄動なんかがそれにあたる。 
(2009-02-22 06:15:35)
link
むーむー
@m_um_u
村上の場合はそういった妄動も含めて「壁」と呼んでいるのかもしれないけど。「世間」や「空気」といったそれも形式の澱としてそこに含まれるのだろう 
(2009-02-22 06:16:56)
link
むーむー
@m_um_u
自分的には別に「村上甘いよ」とか「オレのほうが村上わかってるよ」とかそういうのしたいわけではなくて、単にここからの連想で最近思ってることをまとめとこうというだけだけど。まぁ、あとで、ほかのところでやろう 
(2009-02-22 06:18:19)
link


というか、村上春樹のあの場でのスピーチとしてはあれは立派だったと思うしなんの文句もないんだけど、「システム vs. 人」みたいな感じで二項対立的にとらえて「やっぱ人だよ」みたいに納得して人を説き伏せようとしてる人がいるとなんかイヤだな、というぐらいの話。ついったのほうでもちょっといったけど「じゃあシステムの内部にいる人、あるいはシステムを作ってる人はどうなるの?」ってことで

The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others (「大いなる制度」は私たちを守ろうと期待されている反面、時に独走して、私たちを殺害しはじめ、他国民を殺害するように仕向けます)


って言い方してるからシステム自体の効用についても認めてるのだろうけど、でもやはり

no matter how right the wall may be and how wrong the egg(壁が正しく、卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます)


なわけで…。


それはイスラエルによる暴虐を考えると当然の言葉と思えるし、小説家の役割としてもシステムよりは一人の人間の実存(代替不可能な生)について考えるのはもっともだと思うんだけど。でも、この言葉を単体で抜き出したときにやはり違和感がある(先ほど述べた理由で)。






村上春樹はスピーチの中でお父さんの中国出征についての個人的な思いについて語っている。それはおそらくぼくのヒロシマに対する感情と似たようなもののように思う

muse-A-muse 2nd: <ヒロシマ>ということ



であれば、ぼくがシステム側に立った理を説くのは矛盾しているのだけれど、そういうことではなく


頭では、あるいは理性ではシステム的なことは分かっていても感情というか、もう少し身体の芯の部分で譲れないものがあるのだ。内田せんせなんかは「その辺がsoulなんじゃないか?」って言ってるけど


壁と卵(つづき) (内田樹の研究室)




それでもなおシステム側の理由や理屈を省みずに「人間が大事」とかいうのはどうなんだろう?と思う。システム側というか、システム(壁)の内部にも人がいて、それをつくっている人々の葛藤があるということ。その現実を見ずに漫然と「人間(生活世界)が大事」とか言うとしたらどうなんだろう、と。




もちろん村上の言っていたことはそういうことではなく、かつてはたましいのこもっていた形式が形骸化し暴走することへの危惧ということだったのだろうけど、今回のスピーチが単純に「システムが悪い」って解釈され、さまざまな制度や仕組みづくりに従事してる人のモチベーションを減退させるとしたらたまったもんじゃないなぁ、と思ったのでした。

posted by m_um_u at 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年08月14日

保守/リベラル ウィンプ/マッチョ 体育会系/文化系、集団主義(≠日本教)/個人主義辺りのマッピング

らくがきしたのでてけとーにうp(※サムネイルだからクリックで大きくなるよ)

まっちょうぃんぷ.JPG

「エントル」って書いてる辺はそのうちエントリにする(予定(未定
posted by m_um_u at 22:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年08月05日

ビートたけし、フライデー襲撃事件とはなんだったか

1個前のエントリの軽い続きのようなもの
 
ギョーダイさんの「元気が出るテレビ」(純粋TV)論との関係でたけしのフライデー襲撃についてうにうに考えられるかと思ったんだけどアレって単に「時代の寵児として調子に乗ったたけしが酔っ払って突撃した」って話だったか。

ビートたけしとフライデー事件- てれびのスキマ


純粋TVとの絡みで言うと、アイロニカルに形式化するリアリティの中で暴力性を持って現実を繋ぎとめようとしたのかな、とか思ったんだけど。「不可能性の時代」でいうところの「極度の暴力性=現実への逃避」ってやつ。実体なき「わらい」の形式(シミュラークル)の氾濫を暴力という肉体性によって繋ぎとめようとしたのかな、とか。

んで、その感覚というのは三島が「約束を果たす」ために自決した感覚にも近いのかな、とかとか。

おしんこ本によると)三島の自決というのは天皇を「現人神」として崇拝し死んでいった兵士たちの魂の契りを守るためのものということだった。「兵士たちは天皇を神として死んで行ったのに戦争が終わったら『天皇は人間でした』ってことになりいつの間にかその第三者の審級にアメリカがすげかわっているのはおかしいじゃないか」、と。

そんな感じで、「形式を貫き、フィクションを拡散しようとするメディアがそれに従事するもののリアルを暴きだそうとするのって約束違反じゃないか?そこまでやるとプライベートとフィクションの区別がなくなり芸人の“芸”が守れなくなっていくのではないか?」、的なTV業界全体を背負うような公憤があったのかなとか思ったんだけど単なる私憤だったみたい。


でも北野武のその後の作品を見てるとそういうところ、「フィクションによってゆれる実存を過剰な暴力によって取り戻そう」という志向のようなものが感じられるんだけど、いま思うとそういった関心というのはこの事件後に起こったものだったのかもしれない。「あのときのオレは思いっきりフィクションにとらわれていたな(調子に乗ってたな)」、って感じで。

とはいっても調子に乗ってるからこそ生まれるおもしろさというものもあるわけで、そゆのがこの辺に詰まってるのかな?


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でも、あの事件って上記のような感じで描こうと思えば描けると思うんだよね。「Always 三丁目の夕日」みたいな感じで



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関連:
毎日jogjob日誌 by東良美季 : 7月 27日(日)気分は80年代

今思うとたけしさんという人は、80年代が無理矢理装っていた明るさのツケを、ブラックホールのように一人背負っていた。

 
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2008年07月27日

ヤキニクヤケタカ?

一つ前のエントリで「コリアン世界の旅」について触れたのでついでに。焼肉の話がおもしろかったのでメモ。「焼肉は日本発」って話

正確に言うと「卓上焼肉が日本発祥」ということらしい。背景にあるのは「無煙ロースター」の開発。焼肉屋にいくと天井からぶら下げてある例のアレだ。

いまではいろんな形があると思うんだけどもともとは日本の「シンポ」という会社が開発したものらしい。以下、引用部は「コリアン世界の旅」より抜粋

 焼肉をすると、当然のことながら煙が出る。かつて焼肉屋といえば、煙がもうもうと充満し、壁はすすと油でべたつき、店を出ても服や髪の毛の臭いがこびりついて離れない。白いワイシャツを着て焼肉屋には行けないと言われたものだった。そうした難点を、いまから十五年余り前にこの人が解消した。煙の出ない「無煙ロースター」の開発である。


これによって内装に白をつかえるようになったり、女性客が増えたりして焼肉屋のイメージがガラっと変わったらしい。

そんで無煙ロースターが業界に広く流通するようになったのは「食道園」という店が取り入れた影響らしい。なんでも日本でもっとも古くから続いている焼肉店(since1948@大阪)とか。当初は「平壌冷麺」を名物としていて焼肉が人気が出たのは開店から二、三年してからなのだそうだ。

 林光植の長男で食道園・現社長の江崎政雄によれば、食卓の上で肉を焼いて食べるという調理法は、もともと朝鮮半島にはなかった。「かんてき」、つまり七輪に炭火をおこし、網を載せてその上で肉を焼く、このやり方はあった。
「だけど、テーブルの上にかんてきを置いてお客さんに食べさせたのは、まぁうちの親父が最初やろうねえ。こんなんいうたらおこがましいかもしらんけど、そういう意味で、ここが『焼肉文化』の発祥の地なんですわ」


 食道園はそれ以降も力道山とか美空ひばりなんかの御用達になったりして人気の店になっていったらしいんだけどここが1980年の秋に無煙ロースターを導入したらしい。そんでそれから三年もしないうちに新規店舗には必ずといっていいぐらい無煙ロースターがつくようになった、と。



こうやって見ていくと無煙ロースターと卓上焼肉は直接関係ないみたいだな。たしかに卓上焼肉自体は日本発っぽいんだけどそれは無煙ロースター以前からあった、と。関連でこの辺とか

 韓国で「焼肉」と言えば、普通は「プルコギ」を指す。ハングルで「火の肉」を意味するこの料理は、だが、日本の焼肉とは似て非なるものだ。韓国では、真ん中がこんもり盛り上がった鉄鍋に、タレをからませた肉をどさりと載せて焼く。この鍋は誇張するとスペインのソンブレロのようにな形で、流れ落ちてくる肉汁はソンブレロのつばのところで受け、肉を少しつけたり後でうどんを煮込んだりして食べる。日本の焼肉よりは、ジンギスカンに近い。
 いま日本にある焼肉のスタイルを作り上げたのは、私は断言してよいと思うが、在日韓国・朝鮮人と帰化者たちなのである。食道園の社長で全国焼肉経営者協会の会長も務める江崎政雄によれば、全国二万軒の焼肉店のおよそ九割が在日か帰化者とその子孫の経営ではないかという。
「焼肉文化」というものがあるなら、それはとりもなおさず朝鮮半島から日本に来て住み着いた人々の文化なのである。


関連で言えばタン塩、ユッケ、生センマイみたいな食べ方も日本発祥のことと言われている、と。

ただ、焼肉がここまで人気・普及した背景には無煙ロースターの開発があった、ということみたい。あと、家庭用焼肉のタレとか。


ついでに焼肉の戦後史を引用しとこう(途中まで)

 日本の敗戦前後に在日朝鮮人(第九章で述べるように当時は日本国民だった)のあいだで始まった焼肉は、1940年代・50年代と少しずつ日本人に受け入れられていったが、客層は肉体労働者や中年男性に偏っていた。第一次の焼肉ブームは高度経済成長が始まった1960年前後に起きている。焼肉店が全国に増え、調理師の引き抜き合戦によって共通の味やメニューが広まり、定着していった。
 当時のメニューが、食道園にたまたま残っていた。ロースとカルビがそれぞれ一皿250円、タンとミノとユッケが200円、レバー150円、センマイ100円。大卒の初任給が1万4千円の頃だから、これは決して安い値段ではない。牛肉はまだまだ贅沢品だったのである。
 第一次焼肉ブームよりやや遅れ、60年代後半から70年代にかけて、焼肉のタレを通じて焼肉は家庭にも浸透していく。こうした下地ができたところで、80年代に入ると無煙ロースターが登場し、家庭での焼肉に親しんでいた家族連れや女性客を街の焼肉店にいっせいに引き寄せた。かつての日陰者的なイメージは、いつのまにか薄れていった。




こんな感じで焼肉文化は広がっていったらしいんだけどその発端としては差別があったみたい。肉関連の仕事、屠殺→解体というのは洋の東西を問わず蔑まれるものというのは「カムイ伝」「肉食の思想」、「ドキュメント屠場」なんかでも出てきてたと思うんだけど今回もそれ系の記述があった。もともと朝鮮民族には飲食業や食肉業を不当にいやしむ考え方があるみたいなんだけど、そういった人々がいわばダーティーワークともいえる食肉業にたずさわっていった背景には「そういった仕事しかなかったから」という背景があったのではないか。

この辺りについてはぼくも気になったことがあって以前とある人に聞いてみたことがある。「菊貞(※広島市内の食肉解体場所)とキムチ専門店が多い地域が近いのはなにか関係あるんですか?」的に。いちおカムイ伝的背景も話して聞いてみたんだけどそのときの答えは「特に関係ないと思うよ」って感じだった。たんにこの人が特に興味がなかっただけなのかもしれないけど(※いちお市会議員だったが


お肉の歴史というのはこんな感じで在日差別とも関係するみたいなんだけどそれがびみょーに歪んで同和利権とか「触れてはいけない話題」的な感じになってるのはハンナン辺り。この辺については個人的には良く分かってない。もそっと調べていこうかな



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2008年07月24日

筒井康隆がウケた背景みたいなの

一個前の「みんなの意見は案外正しくない」関連でいまこれ読んでて


ベストセラーの構造 (ちくま文庫)
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これについてはちょっと前のエントリでも少し触れたんだけど


muse-A-muse 2nd: ルサンチマンって新中流層辺りから出てるのかねぇ


中流層の教養ダダすべり問題っていうか動物化うんぬん問題とも絡むんだけど、読み進めてたら筒井康隆について言及してる箇所が出てきてそれがたんぶらーでたまたまみたエントリとリンクしたものでメモ的に。


むーたん - この小説は一日一話ずつ掲載という新聞連載の特性を利用し、その日の掲載分を読んだ読者からの、投書やASA...

(※以下、「朝のガスパール」についてのwikipediaの引用から孫引用)

この小説は一日一話ずつ掲載という新聞連載の特性を利用し、その日の掲載分を読んだ読者からの、投書や ASAHIネットのBBSへの投稿を作品世界に反映させ、虚構と現実の壁を破るという実験的手法がとられた。具体的には、投書や投稿により物語の展開に対して読者が作者に要望を出すことが出来るというものだが、単にそうした企画であるにとどまらず、物語中に作者を模した小説家が登場し、その投書や投稿を引用して批評(時には激しく罵倒)するなど、作者独特の世界が開陳され従来の新聞小説に慣れた読者を驚かせた。BBSでは、単に読者からの要望を物語の展開に採用するのみならず、書き込み内容やハンドルネームから醸成されるBBS住人のキャラクターを登場人物の造形に利用したりもした。また、当時はインターネット普及以前で(BBSもいわゆる「パソコン通信」のものであった)、当時はまだ一般に普及しておらず言葉すらなかったオンラインゲームやオンライントレードに近いものが登場し、非常に先進的な設定を取り入れた小説であった。BBSそのものも、連載中に現在で言うところの「荒らし」「アスキーアート」「炎上」「祭り」などに相当する事態が頻発し、ネット社会を先取りする形となった。



その後のotsuneさんによる愛蔵太さん情報なんかもおもろいんだけど筒井康隆という作家の属性とか意味について「ベストセラーの構造」(中島梓)的に解説があったので。

端的に言うとアイロニーでありシニカル。「全てのもの(既成の権威・構築物)をわらうものが筒井康隆である」、と。これってちょっと前に見たこの辺の話を髣髴とさせる


muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム


ギョーダイさんが指摘してた「アイロニーの形式部分ばかり踏襲してどこからのアイロニーなのかを見失ってしまった人々」というのと「筒井康隆がなぜわらうのか(なにをわらっているのか)わかってないのに筒井に追随する人々」というのは重なるのだろうな。年代的にも重なるし(80年代)

中島(栗本)は筒井康隆の作家的属性については説明できていたように思うけど、「ではなぜそれがウケたのか?」という点については説明できてないように思った。その辺の回答(のひとつ)が北田本だったのかな。

もっかい復習すると、全共闘的な異常な形式主義に対する反動として無反省(あるいはアイロニー)の姿勢は生まれていったんだけどいつしか「反動としての」というところが抜け落ちて「アイロニー」という形式だけが踏襲されていった、って話。


なんかこういう繋がりは日本史やってて世界史とつながったみたいな感じでおもろい
posted by m_um_u at 22:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年06月26日

世界にひとつだけのナベアツ

あまり興味ないって言ったら興味ないんだけどついったでklovかなんかがみょーに反応してたような気がしたので

「世界のナベアツ」というお笑い芸人のネタ、「○○でアホになる」が教育現場で問題になってるみたいで


学級崩壊!? ナベアツ人気で小学校教員が悲鳴(日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース


糾弾の理由づけとして「障害の人のことも考えろ!」、と


全ての人を笑わせる笑いってないけどさ・・・ - NC-15



まぁ、よくあるPTA的教条主義っていうか、過剰なフレーミングなんだろうなって程度なんだけど。ベタに斜め読みすると「お笑いはPTAで問題にされてこそナンボ!」でありダウンタウンやらタモリやらも通ってきた道だもんなぁ。。

つってもそういうの免罪符にしてことさらに差別表現をするってのは間違いだと思うけど、件のナベアツの人ってそういうの意識してやったんじゃないんじゃまいか?「アホ」の顔真似やってたら見てるの一部から「障害者に見える!」って言われただけかなぁ、とか。(まぁ、この人のこと知らんのんだけど

そんで、そんな感じでメッセージを発する人や受け手の大多数が「差別」とか特に思ってないのに一部の人がそのように騒ぐことによって却って差別が助長されるというか、被差別者が自分は差別される存在として気づくことによって傷つくということもあるかなぁ、とか思ったり。

あまり関係ないけど子供の頃に「女神転生」ってゲームやってて初めて捕まえた仲魔ヨモツシコメが嬉しくて、姉のことを「ヨモツシコメみたい」っていったら母が過剰反応してそれによって姉がオレに悪感情を持ったと思われるようなことがあった。こちらとしては好意で言っていたのだが…(まぁ、デリカシーがなかったといえばなかったんだけど


そんな感じでメッセージを送る人には悪意がなくても受け手によって曲解されるというか、受け手の一部がことさらに反応するってのもあるかなぁ、とか思う。中にはそういうの気づかないでふつーに面白がってるだけの人もいるのだけど、こういう人たちが「問題意識」とやらを出すことによってみょーに問題になったり、ってこと。

てか、この人たちが「差別表現だ!」っていう以前にこのネタを見た子供たちが障害を持った子供に対していじめをエスカレートしていた、ということがあるなら別だけど、「そうなったらやばいじゃん?」って話だもんな。まぁ、「○○される人のことも考えろ!」ってやつなんだけど。それ言うんだったらこれを指摘することによってヌルーされていた差別意識を刺激するかもしれないことも考えろ!とか思うんだけどどうなんだろう…。その後のケアとかできてるのかな?

たとえば「差別というのはどういうものか」とか「平等とはどういうものか」とかそういう意識を教条的な形ではなく教育していくだけの受け皿みたいなのを用意した上でそういう発言してるのかな?

なんかこの手の発言する人って「問題だ!」って言った後丸投げな気がするんだけど…(ウチの母はそうだったし



そんでうにうに考えてたらなんとなく以前にaozora21さんが「世界にひとつだけの花の表現が気になる ><」とか言ってたのを思い出した。この辺


uumin3の日記:社会的役割 ※コメント欄

ここでaozora21さんは「世界にひとつだけの花を過剰に嫌う理由ってなんなんでしょね?」みたいな話してて「メタメッセージを感じちゃったんですかね?「ナンバーワンにならなくてもいい」には「身の丈を知れ」的な」ってとこに落ち着いてる。

ふーん…って感じ。自分としてはあの歌はマキハラの復活劇うんぬんとダブるものなんだけど。なので歌のメッセージとしては、「ヒットチャートとか気にせず(あせってクスリなんかに手を出さずに)コツコツと自分の楽しいことをやっていこう!」的な感じで殊勝ですね、ぐらいのものなんだけどそれでもいろいろ感じてしまう人はいるんだなぁ、と。まぁ、SMAPが関わって売れすぎてその後みょーに持ち上げられていろんな文脈くっつけられたってのがあるからなぁ。。「千の風」と同じだべなぁ。。

自分的には「気持ち悪い」っていったらそっちの過剰な持ち上げのほうなんだけど、これって今回の事件にも似てるというか、最近の個人的な違和感に通じる。「送り手のメッセージは無視して受け手が既存のフレームからメッセージを誤解(あるいは曲解)、自分たちの語りたいことを語って事案を消費、結果的に問題とされた部分はなにも解決されずにみょーな疑心だけ残して揉め事が収束していく」って感じ。まぁ、受け手側によるマッチポンプなわけだけど。


繰り返しになるけど、今回のナベアツさんの件でもし「お笑いにおける差別表現によってなんらかの差別生じることが懸念される」っていうんだったら差別とかいじめのような衝動が生じるような環境があるということが問題なのだからそちらのほうを見つめなおし改善するほうが良いように思うけど。



あと、あまり関係ないけどお笑いにおける差別表現、ギリギリの表現というのは生活圏における悲惨への対処法(悲惨に対して深刻になりすぎて折れないように笑いによって自らの立ち位置を相対化するという方法)の結晶化したものである場合もあるので一概に悪いとは言えないでしょうね。モノにもよるけど、放送禁止歌的なナイーブさがあるように思う




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関連:
muse-A-muse 2nd: 差別をめぐる審級について (あるいは「人権と国家」)

※「差別ってあるライン(常識)に対する過剰性の問題だよね?」って話



muse-A-muse 2nd: 差別をめぐる審級について (あるいは「人権と国家」)

※『今「ひょうきん族」と同じことすれば、手ひどく批判される』だろうねぇ。。

posted by m_um_u at 22:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年06月01日

ぜいたくな死

元某局女子アナの人の自殺についてなんかもやもやたまったのでいちお吐き出しとこう。最初に断っとくと自分の意見が正しいとは思ってないし主張ってわけでもなく単なる個人的感想程度。
 
この件の動機については「報道志望だったのにそれがかなえられなかったのでフリーになったのにそれからも報道っぽい仕事もらえずアイドル扱いで悩んでいた」とか「恋愛関係で悩んでいた」とかもろもろあるみたいだけど真相はよくわからないしその辺については特に関心がない。率直に言って個人的には「ぬるい」という言葉が頭に浮かんだ。というか、まずイラ立ちのようなものを感じて言語化してみたら「ぬるい」って感じだった。

なぜそう感じたか。あとから問い直してみるに「報道」の部分がひっかかっていたのだろうか。「ほんとに報道志望だったのならコロンビアとかハーヴァード、Poynterなりに留学すればいいじゃん。金も時間もあったんだろうし」って感じか。あと、「世の中にはいやな仕事どころかその日の生活もままならない人もいるのに」って気持ちもちょっとあった。この辺は八つ当たりってか、本論とそれるから理路としては通らないけど感情的にはそういうことを感じたように思う。

で、

個人の死としては別に知り合いというわけでもないし今回の件ではじめて知った人なので特に感じるものもないというかふつーに悼ましいなって程度なんだけど公的にはどうなんだろう。ニュースで取り上げるようなことなのかなぁ。まぁ、そういうこというと芸能人なんかがなんかある度にニュースで取り上げられてるのだから同じようなものなのだろうけど「社会的関心を集めるような社会的問題」ってわけでもないよなぁ。
 
故人は報道を希んでいたようだけどこういう風に祭り上げられていることに対してどういう感情を持つのだろう。少なくともこのニュースはジャーナリズムとか報道の範疇ではない。



(こういう書き方をすると貶めるみたいだ気持ち悪いのだが) てか、「報道」という言葉も「かっこいいニュースキャスター的ななにか」みたいな感じだったのかもしれない。「幸せな結婚をしてかっこいいニュースキャスターとしてのキャリアも持続させる」、と。彼女にとって「報道」という言葉はそういうものを指していたのかも、と邪推してしまう。

それならそれで良いのだろう。個人の生き方だし。自死の理由も人それぞれだから。「太陽がまぶしかったから」とか「今日は死ぬにはちょうど良い日」とかいって死ぬ人もいるのかもしれないし。端から見るといかにも「ぜいたく」な理由に見えても「死」は極個人的なものだから、その理由がどのようなものでも端からどうこういうものでもない。

ただ、ちょっとモチベーションというかモラルみたいなのが落ちるけど(自分的には)


今回の件を社会的な問題として扱うとしたら「報道希望の企業ジャーナリストがhigher journalismの道を求めてもそれがかなえられないという日本のマスメディア業界の構造的問題がある」って感じになるか。「バラエティ的仕事をしたくない」っていうんだったらセント・フォースみたいなフリーの女子アナ用の事務所に入ればよかったんじゃないかとか思うけど


セント・フォース - Wikipedia


その辺ではhigher journalismは目指せないしな。「企業内から留学への道をサポートしたり、帰っていた社員を遇するような体制を作るべき」って話になるか。


個人的な問題、自死の是非うんぬんについてはさっきも言ったように「死」はそれぞれの人の極個人的な問題であるから端から貶めるような問題でもないと思うけど過剰に持ち上げるのもどうかと思う。この辺のぶくまみても「欝スパイラルで仕方なかったんだ」とか「欝に入った人の問題は他人から見ると”その程度”って問題でも本人にとってはすごく重要で繊細な問題なんだ」みたいな意見があって


はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`):「そんな次元の悩みで自殺。川田アナは世間知らずで打たれ弱い」 電撃ネットワーク・南部のブログが炎上→記事削除


そういうのも経験済みだから分かるんだけどやっぱそういうのにもやっぱなんか違和感。一般論としてそういうのもあるし、コメントしている当人はそういうことで苦しんでいるのかもしれないけど今回の件に当てはまるかどうかなんか誰にも分からないし、問題を極度に聖化してるだけではないか、と


この問題に対する個人の実存レベルでの視点としてはこの辺の感覚が一番近いかも


日記的 - finalventの日記


(あくまで発表されたり憶測されたりしている断片からなのだけど)なぜ彼女があんなベタであの境界を越えられたのか分からない。(実際に「死」を強烈に意識した人なら分かるだろうけどなかなか死ねないものだし)

そういったものの境で超越的ななにかに出会うってのも同意。あるいは「彼女はそういったものに出会えなかったから」ってことになるのかもしれないけど…この辺はこれ以上詮索しても仕方なさそうなので





とりあえず自分がこの件に関して感じた苛立ちというか違和感は彼女個人の選択や生き方に対してではなく、今回の件に対する周囲の反応というか持ち上げ方みたいなのにあったということは確認できたのでそれで良しとする。
タグ:実存
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2008年05月29日

夢見るマロンちゃん人形

儀礼的無関心程度な感じにして特にリンクさせて発言する気もなかったんだけどやっぱリンク先記したほうが早いなと思うのでいちお


ケーキ - 福耳コラム


んで、まぁ、よくわかんないけどこれに批判が集中してその批判のまとめのようなのがこれ


トリアージ騒動まとめ - sjs7のブログ


よくわかんないし得るべきものなさそうのでサラっとしかみてないけど

個人的には経営学の授業で経営学的思考を理解できていなかった女学生(社会学系)が感想に書くことなかったんだけど自意識が残ってたので「かわいそう」って言葉使っちゃったんだな、って程度なんだけど。そんでそれ見て福耳さんが落胆したのかなぁぐらいで。

ついったーで誰かも言ってたけど経営学の授業なんだから経営学的メソッドを吸収するのは当たり前なんだよね。倫理的課題ってか「かわいそう」的思考が出てくるような文脈じゃないというか…。倫理的課題って言い方するとまずいか。「経営学は倫理を諦めるべき」みたいないい方しているように聞こえるもんな…。そゆこといってるんじゃなくて単に道具の使い方の説明受けてるときに「かわいそう」もなにもないなって話なんだけど

つか、そもそも「かわいそう」って視線が傲慢だなぁ、と。百貨店の戦略考える場面でおばちゃん市場に最適化な話して

「でもそうやって百貨店がおばちゃんくさくなって売れなくなったら、百貨店がかわいそうじゃないですか。」


って何様なんだろうとか思ったりした。まずもって「おばちゃんくさくなって」というところにある若いじょしっこの傲慢さ。そして「百貨店がかわいそう」って…オマエ何様だよって気がする。これって戦略考えてる現場にいる人に失礼じゃないのかな。少なくとも考えた末にそれを試して失敗したってんだったらそれで本望だし次の戦略考えるだけであって現場にかかわってない他人様から「かわいそう」がられるようなことでもないと思うけど…。

んで、この辺で「かわいそう」って言いたいがためだけのダシとして使ったのかなとか思った。なんでもかんでも「かわいい」とかいうじょしっこがそのもの自体はかわいいとは思ってなくて「"かわいい”って言うわたしってかわいいでしょ?」的に他人様の視線を気にするみたいなの。それと同じように「"かわいそう”っていうわたしってやさしい?」的な。その辺についてついったーでちょろっと言ったら「そういう自意識もあるかもだけどそれって男の子の自尊心とバーターな気がする」ってレスポンスが来てそんなもんかもなぁ、とも思ったり。どっちとも若気の至りっぽいなぁ、と。

んでも今回の場合は福耳さんへの個人的な感想文ということなのでそういった視線を気にしてって感じでもなく単に語彙がなかっただけなのかなぁとか思ったわけだけど。そういうわけでエントリ最初の「内容理解できてなかったんだけど自意識が残ってたので"かわいそう”的な言葉を使ってみたのでは?」に戻る。まぁ悪あがきっていうかイタチの最後っ屁というか…。

そこまで悪意を持ってみるのもアレなのでもそっと真摯に「かわいそう」って言葉の背後にそれなりの複雑性が潜んでいたと仮定してどういう文脈から発せられたのかと推察するに………わからん。まぁ、さっき言ったように傲慢としか思えないけどこの学生のこと知らんからなんとも。それまでの授業態度や感想から伺える理解度の問題とかもあるのだろうけどそういうのも見えんしねぇ。他人がみょーに持ち上げたり反対にみょーにけなしたりする問題でもないだろうな、と。(ちょっとけなしちゃったような書き方になってるところもあるが…



まぁ、その辺はいいとして関連で最近ちょっと気になってたことを思ったり。ある人とお喋りしててPTAの会議におけるグダグダ感を伺っててその様子が今回の件とちょっと似てるなぁ、と。

なんかそれほどタスクをこなしてないママさんとかが会議中に理想論語り始めて時間が長くなっちゃうわりに全然具体案出ずに責任も全部委譲されちゃうことがあるみたい。そゆのはしろーと的な甘さというか「お客様」的な感じなんだろうけど今回の学生もそういう「お客様」感で講義聞いてたのかなぁ、とか思った。「特に経営の場に携わることもないや」的他人事感というか…(ああまたうがってしまった…

そんで、そういうタイプの人がなんか意見求められるとできもしない理想論をグダグダと言い、実行段階は他人任せにすることが多々あるように思うんだけど今回の学生の場合は単に語彙がなかっただけでそこまで考えてたわけでもないのだろうな。


つか、そういう「お客様」感っていうか夢見る理想主義者的なところ、あるいは情緒的なところで思考停止する人たちをどのようにしたら「理」や「行動」に向かわせることができるのだろうか?

個人的に今回の件でなにか考えるとしたらそういうことのほうが重要なように思えた。答え出てないけど


♪ フランス・ギャル / 夢見るシャンソン人形

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関連:
2008-05-27 マネジメント、トリアージとドラッカー - 赤の女王とお茶を

※福耳さんが「トリアージ」という喩えを持ち出した理由についてのsivadさんなりの推論と経営学の本分みたいなの(経営学は社会福祉のマネジメント)についての連想。でもそれはこの授業の課題ではないわなぁ(コメント欄で福耳さんも言ってるけど


分配と経営 - レジデント初期研修用資料

※『行うべきは「トリアージ」なんかではなくて、やはり「経営」なのだと思う』、と。 「足りてない」で思考停止する(あるいは「足りてない」プロセスに入る)のではなく「足りる」ように工夫すべきって話。これも「戦術以前の戦略」ってことではsivadさんに通じるかな



id:fuku33が何を消し去ろうとしたか - NWatch ver.X

※エントリ修正前のログ的なもの。このエントリ書いた人の意見はどうでもいいけど福耳さんのエントリの魚拓程度に

posted by m_um_u at 23:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年03月03日

「それはほんとに正しいことなのか」って見極めは難しい

 一個前のエントリ関連で簡単に追記というか覚書きみたいなもの。

muse-A-muse 2nd: 「ギゼン」や「正義」的なものへの警戒によって互助の気持ちを疑うのってどうなんでしょうね?


 過剰な「正しさ」(暴力的正義)とゆるい互助や連帯の違いについてぼけーっと考えてる。後者は親近者への愛を中心とし「正義」によって他者の領域を侵犯したりしないことかなぁ、とか。でも、そういうのが発展して似非慈善団体みたいになってく例もあったりしてびみょー。その辺ぶくまでお米ちゃんとかも心配しとったね

はてなブックマーク - muse-A-muse 2nd: 「ギゼン」や「正義」的なものへの警戒によって互助の気持ちを疑うのってどうなんでしょうね?


okome_chan ここらへんスゲーむつかしいな。複雑で限定的な概念が、共有されていくうちに拡大解釈&単純化&誤解されて別のものになってしまう、ってよくある。



 運動とかなんらかの団体に参加したり運営したり場合、ちょっとした違いに目をつぶんなきゃって思ってるうちにそれが積み重なって流されていったり…法には触れてなくても道義的にどうなんだろ?みたいなこともあったりする。あと、法のギリギリのところ狙ってボランティアで集まった労力やお金を巻き上げるの狙う人たちもいるし…(←オレも前にワンコボラ行ったときひっかかった(グレーゾーンだからまだ係争中かなんかだったけど


kokorosha 実際に行動しているかどうかの問題かなと思う



 この辺はホワイトバンドなんか想起しつつ「そうだよなぁ」と思う反面やっぱ上記した理由でけっこうムズかったり。「実際に行動している」という場合でもその中身の見極めが難しい。


「なにをもって善的なものとするか」「それはほんとに正しいことなのか」って見極めは難しい。「正義なんて時代や環境によって変わるものだし」って一般論もあるしそれは分かってるつもりだったけど実際に関わってみると流されるところが多かったり。「これはヤヴァイ活動だから手を引いたほうがいい」って理性では分かっててもそこで手を引いちゃうと被害にあってる人とか動物とかにコミットできなくなっちゃうし



  正義とか悪とかなくてあるのは近親者への愛(いたわりと友愛)ってことなのかなぁ。「自由・平等・友愛(フラタニティ)」の「友愛」ってことで「正しさとかはなくて自分の近くにいる人々を最小限守ることができ得る精一杯のこと」ってことなのかな。

 そしてそういった愛は社会的には「罪(悪)」とされることや人生の空虚さも洗い流してくれる、と。 その場合、自分と関わりのない人たちに関心を持つことは「悪」といえるのだろうか…

 それは自分が閉じこもっていくこと(世界への関心を失うこと)の言い訳になってないか?



そういう小難しいとこまで考えなくても「あ、あの人自分の正しさに酔って目がぐるぐるしてる」って人はなんとなく分かるようにも思うけど。イメージとしてはねこぢるの描くぐるぐる目みたいなの。


 まぁ、もうちょっとぢもーっと考えていこう


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2008年02月24日

Changing Same (reprise)

「anti agingっつーか歳とっていいんじゃね?」ってこの話


muse-A-muse 2nd: Changing Same


ほんとなら引用の編集のみしてミクシに置いとくつもりだったんだけど思ったより長くなったのとそれなりに滋味が出たのでblogエントリにしてみた。つっても、詰めゆるくしておいたので全体にぼわーっとしたエントリになってるけどまぁ味わいカルピスって言うか全体の色を愉しむというかそういうエントリ (「いい色でましたね」っていうか)

きちんと書く場合は「変わっていく中で変わらないもの」について書いておくべきだっただろうけどそれは恣意的に誘導しないで読む人それぞれに考えて欲しい(ってえらそうだな) つか、まぁ、よくわかんないとこあるのでほのめかしたわけだが(笑)


エントリの主旨としては、「けっこう若い段階でその人のその人たる性向(志向)の根幹は形作られそれが続いていく。歳をとって肉体が変化したり、環境の中でサイショノキモチのようなものは変化するだろうけどそれは表層的な変化に過ぎなくて、根っこの部分が変わらなかったらそういった変化も楽しめるのではないか?あるいはそういうのを成長と呼ぶのかもしれない」、って感じ

この辺はびみょーで、女性のアンチエイジング問題とはまた別個なのかもしれないけど…(オレなんかも運動してるわけだし、「それはそれ」ってのはあるしなぁ)


んでもまぁ、成長とかそゆのがあるとしたらなにかを基準にしてなにかを目指すわけでその際のスタート地点とゴールってのはなにか?、みたいなこと


最終弁当爺がちょこちょこ「中学か二十歳ぐらいの頃から精神なんて変わらんよ。肉体は変わってくけど」みたいなこといってて引用でもこの辺が対応するわけだけど


The great secret that all old people share is that you really haven't changed in 70 or 80 years. Your body changes, but you don't change at all.
-- Doris Lessing, O Magazine, October 2003



「んじゃ変わらないものってなんなんだろね?」、と



エントリ後段にほのめかし的にヘーゲル関連の本配置してるわけだけど、それ系で言うと「精神」ってことになる。でも、「精神の現象学」ってそういう本だったっけ?「関係本質」うんぬんで社会性がどうとかいう話(そして精神が大きくなっていったら国家の問題を志向するようになる)みたいな話だったように思うんだけど


当時なんとなく思ったことをうろ覚え的に言うと、「けっきょく社会性(他者を志向しろ)って話ですか?そんなこといって“自分”はどうなるんですか?」って反発したように思う。この“自分”って感覚ははてな界隈でよくみる「他者承認」とか「同調圧力」とかそういうものへの反発心。「周りに合わせすぎたら自分がなくなって不安になるじゃん?」って感じだった


そういう気持ちが消えていったのはいつごろだったっけな? 周りに人が増えて、そういう中でも焦燥感もなくそれなりに自分の居場所のようなものを築けてからかな?けっきょく「居場所」の問題なのか?

んでも、そういう付き合いに流されることもなく自分たちのやるべきことをやって、それなりに成長していって……成長…したのかな? とりあえず「付き合っていて欲しいから周りに合わせる」みたいなことはなかったしな。


そんで、それなりに食い扶持見つけて、自分のスペックとか方向性なんかに目算つけてから焦りもなくなったような…てか、もうちょっと焦ったほうがいいのか?(いいんじゃないのか?(汗


けっきょくそんな感じで、「精神とかそういうのも環境によって作られるものだ(まずは稼がにゃなぁ)」、ってのが一番学んだことだったように思う

稼ぐだけが全てじゃないけどライフラインとしてそれを確保することがスタート地点で、精神とか倫理とかそういうのはそこからの問題なんだよなぁ。。つっても、そういうのもったからって「哲学いらない」とか言ってる人って精神的に貧しいように思うわけだけど

考えてみれば哲学とか思想なんてのは自分よりもよほど年季入った人たちが晩年になって考えてたものであって、そゆのを字面だけ吸収してても分かんないものがあるように思う。「ことばではわかっても理解してない」っていうかそんな感じ

マルクスでもヘーゲルでもロックでもなんでもいいけど、そのテクストはその時代環境に即して書かれたものなのでその時代や環境における問題意識が如実に反映されているわけで。あとは著者のリアルな生活における問題とか変化。バイオリズムなんかも関係するだろう

そういう意味では年寄りが書いたものはそれなりの年齢になってからじゃないと理解できないところがあるんじゃないか?…っていうか、歳とともに味わいが変わるのかなぁ、とかなんとか。

思想や文学系で特定人物研究やってる人はそういう問題意識もあるのだろうけど



てか、なんの話だったっけ?


ああ、「変わらないものがあるとしてそれが“精神”であると仮定したとき、精神ってのはどういうものか?それは外部環境や肉体などの変化によって変わっていくものではないか?そもそも、精神の問題を学ぶにしてもそれが記してあるテクストそのものへの理解が精神年齢的に追いつかないのではないか?」、って話か


・・どうなんだろうねぇ。。


けっきょく「自分の経験に照らして考えろや!」ってことなのかもしれないけど




なんだろね

よくわかんないけど、歳とってくにつれていろいろ面倒な意識が枯れていってほんとに必要なものだけ残っていくみたいな感覚はある。やること多くなって面倒なこと悩んでる暇がなくなるっていうか、逆に言うと「感受性が鈍る」ってことなのかもしれないけど。

でも、そういう中で残った意識が自分ってことなのかなぁ。「意識」ってのもおーざっぱ過ぎるな。周りから提供される問題ではなく自分自身の問題っていうかそういうの。人生のテーマ?・・っていうほど大げさなものでもないか


しかしやっぱ「ほんとの自分」がどうとか「アイデンティティ」がどうとかいうより目下の問題としてどうやって稼ぐか(あるいは自分の生存ラインを確保するか)だよなぁ

「汚れちまった大人」ってことかもしれないけどやっぱそんな感じでしょ。もろもろの問題意識はそっからだべ



つか、この話もミクシの別の話の枕程度にするつもりだったんだけど長くなったな。。ついでだからこっちに置いとくか



--
追記:
このぐらい突き抜けると強力w


Twitter / fim: 姉と「私も今年で28歳なのよね…」「私なんか30歳よー...

姉と「私も今年で28歳なのよね…」「私なんか30歳よー…」としみじみと話していたら、母が「お母さんは今年まだ54歳よ!」と自慢げに話に割り込んできた。数字という絶対的な力にも負けないあの自信がうらやましいです。



タグ:人生
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Changing Same

You don't stop laughing because you grow old. You grow old because you stop laughing.
-- Michael Pritchard



The dead might as well try to speak to the living as the old to the young.
-- Willa Cather



Happiness is an imaginary condition, formerly attributed by the living to the dead, now usually attributed by adults to children, and by children to adults.
-- Thomas Szasz, The Second Sin (1973) "Emotions"




Nothing can be so amusingly arrogant as a young man who has just discovered an old idea and thinks it is his own.
-- Sidney J. Harris



I never dared to be radical when young
For fear it would make me conservative when old.
-- Robert Frost, 'Ten Mills,' A Further Range, 1936





The young have aspirations that never come to pass, the old have reminiscences of what never happened.
-- Saki




Youth cannot know how age thinks and feels. But old men are guilty if they forget what it was to be young.
-- J. K. Rowling, Harry Potter and the Order of the Phoenix, 2003






The great secret that all old people share is that you really haven't changed in 70 or 80 years. Your body changes, but you don't change at all.
-- Doris Lessing, O Magazine, October 2003





A child becomes an adult when he realizes that he has a right not only to be right but also to be wrong.
-- Thomas Szasz, The Second Sin (1973) "Childhood"









「歳をとるのは怖い」みたいな話を見かけたのでなんとなく、以前の「おことば」集の中から歳をとること(若さと成熟みたいなの)をてけとーに編集してみた。いつもどおり呪文みたいなもんだから流し見ていただくとして

個人的には歳をとることについて焦りはない。中学ぐらいの頃から「早くじじぃになれないかな」とか思ってたのでそんなに。焦りがあるとすれば目標に対して達していないからということになるのかな、とか思うけど女性の場合はまた違うのかもしれない。

それは肉体(的衰え)と精神の関係ということで理性的に割り切れるものでもないのだろうけど。個人的にはこの歳になってからのほうが体力とか筋力とかついてるからなぁ。。(年齢はヒミツだよ ><)



生や死と同様、歳をとることは自然の摂理でそれについてもうちょっと語られてもいいものなのかもしれない。消費の中心は若い人向けのものだから畢竟マーケットの言説は若者向けなものに傾くのだろうけど。つか、いまは老人向け市場とかあるのか。でも「老人向け」って感じだとなんか萎えるので。年とって身体は衰えるかもしれないけど精神的には変わんないし

消費市場は「老人向けマーケット」みたいなのも生み出してるのかもしれないけどネットではそういうのはあまり見ない。ネットってかミクシとかついったーなんかの言説の中心は若者って感じ。若者って言うか10代から40代ぐらいまでか。blogでかろうじて歳を重ねた人の言説を見ることもあるけどけっこうな割合でオレオレ中年って感じで萎えることがある。たぶん会社で管理職かなんかでがんばってきて、周りにYesマンばっか集まって世間の実態というものを知らない人たち。大人の子ども

そういう人たちとは違った経験を重ねた人たちの語りを聞いてみたい。しかし、プロトコルが合わないのかもね


「若いうちはそういうこと考えずにブイブイ(死語)いっちゃったほうがいいよ? 若いとき跳ねれない人が晩年に保守的になるんだよ」ってのもあるかもしれないけど…つか、「精神的には変わらない」っていいつつも歳をとると昔の気持ちは忘れてしまうものなのかもしれない


いじめについて。 - kuboke GO HOME(帰りんさい)

むしろ、敵とか問題とか心配とかは

じぶんの心の中にも、ある種潜んでるものと

30歳を超えたあたりから痛感するようになりました。





仕事とか人間関係とか、そういう環境の中で自分の責任でもないものをやむなく背負わなきゃいけないときってのがあって、そういうのを続けていくうちに枯れたり擦り切れていくものもあるのだろう。「それが悪い」っていうわけでもなくかといって居直るわけでもなく「それが人間」っていうか…



「秒速5センチメートル」とかrepon日記を見ながらそんなことを思った



秒速5センチメートル 通常版
コミックス・ウェーブ・フィルム (2007/07/19)
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おすすめ度の平均: 4.0
4 批判している人へ
5 2話と3話の断絶にある真理
5 話題作





2007-12-07:自己肯定感と成熟 - reponの日記




承認欲求うんぬんについての答えにはならないだろうけどメモ的に。

「親の愛を充分に受けられなかった子供は不幸になる」というのは確かに疑問なんだけど肯定感(他者承認)うんぬんというのもあるかもしれないが愛のトレースってことなんじゃないかと思ってる。後段は「成熟する = 大人になる」の定義に関わるだろうけど「愛」ということについて言外に知っているなら他人への友愛を元としたコミュニケーションをするように思う。「愛」がなにかは分からないけど他者へ親切にしたり、他人の意見に耳を貸してコミュニケーションをはかっていくことを通じてそれが気持ちよい(エロス)ということを実感する。なので、よくわかんないけどとりあえず真似(トレース)する

それは強制的規範とか同調ということとも違う



「大人になる」ということがどういうことなのか、変わっていくものの中で変わらないものというのがどういうものなのかまだよく分かんないけど、そんなことを思った



そういや他者との関係性と「大人」みたいなことだと前にこんなの読んだな



ヘーゲル・大人のなりかた (NHKブックス)
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4 好著だが、ここでは不満を・・・
4 個が共同体と関わるとき
5 新しい哲学者の出現




・・内容忘れたが






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関連:
muse-A-muse 2nd: 時の重み、時の薬

※「歳を重ねること」関連で


タグ:人生
posted by m_um_u at 11:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年02月22日

自分探し(笑)ってスイーツ(笑)と似てるね

この辺とくにいうこともないというか、主張的には「“自分探し”ってマーケ的に涵養されたんじゃね?(だからほんとの自分なんてないよ)」とか「自分探しは飽食の時代のガキの幻想。おぢさんたちなんてすぐに働かなきゃいけなかったからそんなの探してる暇なんてなかったぞい」って感じの俗流若者論的なひげもじゃ言説でFAって感じなんだけどreponとこの日記で刺激うけてちょっとついったらそれなりに反応(?)あったので朝のメモ的に。


自分探しって言うな! - reponの日記

「自分探し」→「フリーター」→「パラサイト」→「ひきこもり」→「ニート」と繰り広げられた、マスコミの扇動商品なのです



うん、まぁ、たぶんそうなんだけどさ。そんでreponとしては「そんなのリクルートが“フリーター”って言葉作って扇動した(わりには責任とらない)のと一緒だよ!pgr」的なかんじなんだろうけどさ。てか、reponとしてもひげもじゃ言説にはなにか思うところがあったみたいなのでpgrってわけでもないか


「自分探し」と「自分を決めること」は位相の異なる話 - reponの日記


タイトル見ただけでいいたいこと大体わかるように思うのでよまずにてけとーにいっちゃうと、「自分探し」ってのは新語として作られたもので扇動されてった挙句になんにもないみたいな事態があるかもしんないけど「自分を決めること」というか人生の分岐点でなんか悩んだ末に進むべき道を決めるなんてのは昔からあることなんじゃねぇか? そんで、それ自体は批判されるようなもんでもないよね? ってことかな、とか

つか、もそっというとマーケかなんかで扇動されていった感情だとしてもそういうものを無碍に批判したり揶揄したりするのってどうなんだろ?って思う。ハチクロの竹本くんなんか見てても思ったんだけどそういう感情が生まれる情況ってのはあるし、「自分探し」に乗っかった末になにか見つかるかもしれないしね (北の果てにて「ほんとの自分なんかないんだ」みたいなのだったけな?)


そんで思うのは、昔といまでは「自分探し」的なものをする人の数が違うとしたら情況の変化は環境変化と関わっていることなのかなぁ、とか。端的に言うと、昔はすぐに職業決まってたから仕事やら遊び漬けの中で内省する必要もなく空っぽな自分の時間の重みに押しつぶされそうになるようなこともなかったのかもしれないんだけど、いまはすぐに就職できないからその辺で焦りとかあるのかなぁ、とか (cf.竹本くんと冷蔵庫の音@ハチクロ)

そゆのもあるけど、そういう情況を察知して「自分探し」って旗頭で感情を扇動、「よくわかんないけど人生の中で自分探しの旅も必要じゃん?」ってことであいのりやらワーホリやら行かすようになってるのかなぁ、とか。あと、「天職」って言葉つくって転職系刺激したり

もちろんあいのりやらワーホリやらを本気で取り組んでる人もいるのだろうけどそれをモラトリアムにしてる人もいるよね。んで、その部分に対してひげもじゃとかがなんか言ってくるのかなぁとか思うわけさ。


そゆわけでその辺の若者の内在的な志向としてのアイデンティティの確立欲求みたいなのと「自分探し」的なものの違いら辺について、「昔は自分探ししてたの?」的なのが確かめられる本とかないかなと思っててけとーについったーでつぶやいてたらよさげな信号が


やさしさのゆくえ―現代青年論
栗原 彬
筑摩書房 (1994/04)
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やさしさの存在証明―若者と制度のインターフェイス
栗原 彬
新曜社 (1996/10)
売り上げランキング: 404028



この辺はあまり関係ないのか?↓


ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書 74)
森 真一
筑摩書房 (2008/01)
売り上げランキング: 5634



“やさしい”から、席を譲れないんです〜『ほんとはこわい「やさしさ社会」』森真一著(評:朝山実) (毎日1冊!日刊新書レビュー):NBonline(日経ビジネス オンライン)



まぁ、時間あって読む気になってれば


自分的には前に読んで手元にある「言葉を失った若者たち」でもチラ見しようかと思ったり

ことばを失った若者たち
桜井 哲夫
講談社 (1985/09)
売り上げランキング: 249829
おすすめ度の平均: 4.0
4 日本社会の問題の原点のひとつがここにあります。
4 今にも通じるテーマ




あと、前に小田センセが書いてはったのをもっかい見直してみようかな、とか

戦略的本質主義を乗り越えるには(?) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

戦略的本質主義を乗り越えるには(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

「本当の自分」と本質主義 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

戦略的本質主義を乗り越えるには(3) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

「真正性の水準」について - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」


スピリチュアル・ブーム(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」


空白からのスピリチュアル志向でこの辺とも絡むのだろうね


muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム


ところでこの辺の話って「スイーツ(笑)」と似てんな。スイーツ(笑)っていう人たちの視線とひげもじゃの視線が似てるんだろうな。そんで本気でスイーツ的なものに悩んでる人やハマってるひと、スイーツ的に成功した人なんかがいる(?)ところなんかも  (まぁ、自覚的に「スイーツ」っていって遊んでる人たちもいるわけだが)

あと、「格差社会」をめぐる言説の型とも似てる (「そんなの昔からあったんだよ(でもおっさんたちはがんばって昨今の若者たちは甘いうんぬん」、「むかしとは違うんだよ」、「違いなんてどうでもよくてとりあえず目の前の苦しんでる人を見ろよ」)



そいや、天職みたいなのつながりでゲド戦記みた。「二度とゴローのようなコを作らないために」(リンク)と言わしめた作品ということでどんなものかなと思ってみたんだけどそれほどひどいということもなく凡庸な作品だなぁという程度だった。最後のほういい感じで眠らされてたし。ちなみに原作は読んでません

そんで「本当の名前」とか「影を奪った」とかいうところが今回の話題に似てるなぁ、と。「千と千尋」なんかにもそういうモチーフあったな


あと、ついでに

Twitter / 空飛ぶ鍋奉行 勇者ニョチュチュ: 自分探しの前にズボン探しをしないと家から出られません[mb]

Twitter / m_um_u: @jt_noSke オマエのジブンはオレが預かった(嫁ともども


もう少し言えばのすけのほんとの名前も没収済みだ ( ̄ー ̄)



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関連:
「やさしさ」から《やさしさ》へ - たいしゅううんどう

なんか栗原さん関連で似非ログにあったので (どーでもいいことかもしれんがオレはこっちの似非原アイコンのが好きだなぁ)



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追記:
そういや前に「自分の中の才能に気づくこと」うんぬんなエントリあげたときに「自分探しですか?ほんとの自分なんてないんです!」みたいにいわれたことあったなぁ。。そゆこと言ってたわけではないんだが…(まぁ、「ほんと」ってのがキケンとか言うのは分かるけど)
posted by m_um_u at 09:15 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年02月09日

「働いていない = 悪」なのか?

ここのぶくま見てたら「ニート」って言葉が出てて直近でメモっときたいことがあったので軽く


「働かざる者食うべからず」 - 忘れ去られるべき日々について

はてなブックマーク - 「働かざる者食うべからず」 - 忘れ去られるべき日々について


以下、ビッグイシューvol84の雨宮×宮本対談から宮本みち子さんの発言 (p16-17) (※太字は引用者によるもの)


(オレ的にまとめると、「NEETという言葉は単に若者の不安定就労をさす言葉だったのに、日本に入ってくる段階でナマケモノ的イメージがつけられてしまった」、という話)


ニートという言葉は01年にイギリスでつくられた用語で、コネクションズという若者支援サービスが対象者を、13歳から19歳の「学校にも雇用にも職業訓練にも従事していない若者」と定め、それを「ニート」と呼んだのですが、その際対象としたのは、「不安定で、自活の困難な、社会から排除される可能性を持っている若者」でした。「失業者、無業者、不安定就労者、障害者、病弱など複雑な問題をかかえていて働くことのできない人」すべてが含まれています。
 ところが04年に日本に入ってきた時には、ニートという言葉が流行するきっかけとなった『ニート − フリーターでもなく、失業者でもなく』という本の題名が表しているように、ニートから失業者と不安定就労者を除いてしまった。そうなると残った人は、「働いていない状態」にある若者となります。ではいったい働いていない若者とはどんな若者なのだろうか?
 それで人々の憶測が広がりました。当時、日本で非常に大きな問題だったひきこもり問題に対して、国がきちんとした対応をしていなかったために、ひきこもりとニートの問題がかなりくっついて論じられるようになりました。「働く意欲のない若者=ニート」というイメージが広く浸透してしまいました。ともかく、日本における「ニート」の流行で一番の罪はなんであったかというと、失業問題とか不安定就労という問題がそらされてしまったことだと思います。




ネットなんかだとたまに罵倒語として「ニート」って使ってる人がいるのを見るけどそういう人たちはこういう文脈に自覚的なのかなぁ、とか思う。単にマッチングの問題であって倫理的な問題ではないのだけど罵倒で使われるときには両方くっつけて論じられることが多いような・・。自覚的なのかねぇ


「働くこととか家を持っていること = 善なのか?」関連で、こんな言葉があったのでメモ (ビッグイシューVol85, p7)

以下、イギリスでビッグイシュー売ってるおっちゃん(グレアム・ウォーカーさん)の話

「私の考えだけど、ホームレスというのは心のありかた。家に住んでいても私よりもずっと苦しい思いをしている人にもたくさん会うよ。ひとりぼっちだったり、精神的な問題をかかえている場合だってある。私が出会うたくさんの人に比べたら、私のほうが心はホームレスじゃないと感じるね」



グレアムさんは現役の販売者なんだそうだけどビッグイシュー売るときにおまけとして作っていた小冊子が評判を呼びそれをまとめた自伝を自費出版したんだそうな(2500ポンドのツケで)。

家庭は貧しく親からはあまりかまわれることなく育てられ12歳で学校を退学、一家離散後に児童施設に入所。結婚して子供をもうけ平凡な暮らしを奥路つ押したが20代半ばまでに23もの職を転々。そうこうしてるうちにだんだんと酒におぼれ公園のベンチで寝るようになった。ビッグイシューを販売するようになってようやく水道や電気などのライフラインを手に入れることができた、と。

すごいなと思ったのはこの状態でホームレス支援団体とホスピスへの寄付金集めをしていること。『募金活動のためにシルクハットと燕尾服で路上に立ち、現金で1500ポンド集め、3000個のプレゼントを贈り、その年のバーンスタプル市民賞に選ばれた』んだそうな。



こういうの見てると家とか仕事とかは部分に過ぎないのかなぁとか思う。仕事によって人生が充実することはあるけどそれはその人の人格の全てではないしね。お金とか社会的ステータスも

そこから仕事と労働の違い、あるいは仕事=「天職とはなにか?」みたいな話もあるけどこの辺は長くなるしちょこちょこでる話題だからいいや。(自分的にも前に書いたし)


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関連:
アリとキリギリス - uumin3の日記

※「働かざるものくうべからず」なアリの倫理の元となった寓話は日本に入ってくる段階で変質してしまったみたい、って話。五常について見たときにも「ここまで苦役礼賛型にしなくていいんじゃない?(マゾですか?)」とか感じたけど儒教というか支配思想の影響みたいなのがあるのかな?(どっちにしても再帰的概念っぽいけど)

muse-A-muse 2nd: 「違った人」との付き合い方

muse-A-muse 2nd: 「かしこさ」よりも「五常」がほしい


 
タグ:仕事
posted by m_um_u at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク