2011年02月20日

「天道≠天皇」で「天道」の部分だけなんとなく大衆信仰されていっていたのではないか



網野善彦・鶴見俊輔、1994、「歴史の話」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/186739555.html


「道徳的に正しいとか、そういう話ではないんです。俗界における善悪の判断をこえた存在の脈動があって、それを感じて、これが善だ、これはいい、という感覚なんです。」


あたりの話と「戦国期は天道思想が信奉されていてそれがそのままキリスト教を受け入れていく土台となっていった」辺りから


「天道」VSキリスト教: 千種通信
http://triceratops.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-94e1.html



もしくは「翻訳成立事情」に出てきた「Free」の翻訳語として「自由」や「自在」が検討されていった経緯をみつつ




「バガボンド」で出ていた天の思想というのはキリスト教由来かと思ってたけど天道思想だったかな、と


「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121774176.html


いま見直すと井上雄彦が甲野善紀の「運命は決まっている。それがゆえに自由だ」って言葉に影響されて入れていったようだけど、資料なんかから天道思想とリンクさせていったのか?(わかんないけど)



剣の道を極めたとき、あるいはある程度ようやく満足持って動かせるようになったときに「我が剣は自在を得たり」って言うけどこのときの「自在」が「運命は決まっている。それがゆえに自由だ」という感覚。自然の理(ことわり)に繋がって、その意味では型の限界はあるんだけどその数の膨大さがゆえにつながってないときに比べて無限とも思える可能性が拓けるみたいな…もっと単純に言うと純粋にパフォーマンスの向上を感じて自分が自分と意識できないぐらいに行為の中に没入するようなあの感覚。。

そういった感覚の中だと「善悪の判断を超えた存在の脈動」が感じられた。



そういった純粋経験な感覚と武道(あるいはなんらかの道(技芸))における自在の感覚が通じていたとして、それがそのまま天道として普遍化していったとは思いにくい。


でも、「運命はきまっている。(天に預けている)それがゆえに自由だ」というのはそのまま神の愛を前提としたカトリック信者の感覚にも似てるのかなぁと思ったり。



そういった大衆信仰的な感覚としての天道というのは「お天道様が見ている(につつまれている)」的な感覚だったのかなぁ



それと天皇制との関係はどうだったか?



もともとは中国の天道思想(「天」の正統を継ぐものによる革命思想)からの影響で「天皇=天の代わり(ほかの大王とは別格)」という形で導入されていった思想から「天の名代としての天皇」という神聖王的な面と、森林や田畑の所有者という現世王的な面が分離していったのかなとなんとなく


自勉ブログ 第2章 神国思想と天道思想
http://houdai.blog61.fc2.com/blog-entry-380.html


前者の神聖王な部分は「お天道様」な太陽信仰となんとなく習合し、「天皇」はこの世に人の形を持って存在するという認識ではなく「かみさま」的な感覚で信奉されてたのかな、大部分の庶民にとっては



それであとから「あの天とは実は天皇(みかど)のことだったのだ」っていわれて国家神道的になっていったのではないか




まぁ、たしかめてないからヨタ。これから見てくガイドライン的なメモとして

posted by m_um_u at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年02月06日

「許す」というか「忘れる」、「消化する」ということかな

朝ぐらいにこれをみて



人を許すってどういうことですか?
http://anond.hatelabo.jp/20110203223019




なんかいろいろつぶやいていたんだけど、そうしてるうちにあれとかこれとかいろいろ思ったのでまとめて。



かつて自分をいじめていた相手が数年ぶりに「会いたい」っていってきて、会ったら相手が謝罪してきて…ってところで怒りが自然にわいてしまった、みたいな話。


「最初から会わなきゃいいじゃん」「謝ってるんだから許せばいいじゃん」ってのは一般論としてあるだろうけど、会いたくないとことわったが知人がしつこく勧めてきた + 「私自身も成長したから、会っても大丈夫かなという気持ちもありました」ということだったのかな、と。




自分も似たような経験があるのでなんかいろいろ思ってしまった。「なんであのとき自分は会いに行ったのか」「相手もなんで会いたいと言ってきたのか」「どういう言い方がよかったんだろ(のぞんでたんだろ)?」


自分の場合は会ったときはそれほどでもなかったんだけどあとで不快が込み上げてくるのを抑えられなかった。それに対して「なぜ許せなかったのか?」みたいな自責もちょっとあって、その辺の相反する気持ちが精算できないまま堆積していた。 氷みたいに




相手がまたいじめてくるなら最低の糞ヤローとして異化できる、自分の中の記憶として消化 → 忘れてしまえるだろうけど、

相手の謝罪というか認識が自分が思っているよりも軽かった場合、自分の中の記憶や事件の重みさえ書き換えられるような気持ちになるのではないか?


「(口では「謝って済むことではないと思うけど」といっても「許して」という言葉が出てしまうのは)あなたの中のどこかにこの場で謝って済ませられることだという認識があるからではないか?」という疑念


あるいは、

どこまでいっても自分の中の事件の重みと相手側の事件の重みは交わることはないだろうに、それを無理やり相手側の現実で塗り替えられてしまいそうな腹立たしさ



たしかにいまの自分はいじめられていないけど、過去の自分はそれによって殺されてしまう





「過去にこだわって憎しみ続けるのは不毛なこと」「それ自体が一種の依存であり憎しみに依って自分自身が存立していくことになる(ミイラ取りがミイラになる)」というのは一般論としてはわかる。

しかし、そんなに簡単に「許す」ことができるだろうか?



このことは以前も思った



その気持ちを救うのは....: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/49747050.html



傷が大きなときは憎んでいなければその後も立ち続けていられないこともあるだろう



それを通じて

時が経てば自分の中での「そのこと」に対する意味や認識が変わってくるような


「許すことはできない」けど「憎み続けることはない」ぐらいに

「許す」のではなくて「共通の痛みや配慮をもった別の人との付き合いを新しく始める」というような






自分があのとき「会ってみよう」と思ったのは「許して / 別の人との付き合いとして新しくはじめてみるのもいいかもしれない」「自分は深刻に思いすぎてるが相手の中では重みが違っていて、もしかしたらその認識を通じて自分の中の経験を相対化−消化できるかもしれない」という期待があったのかも


後付けになるけど



ただ、相手の認識があまりにも浅かったり軽かったりして気分が悪くなったのかも






(ほんとは↑から思い出して本の感想文書くつもりだったけどこのまま続けるとダラダラ長くなりそうだから別件にしよう)


posted by m_um_u at 17:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年01月30日

「仏もまた塵であり神は細部に宿る」な話

「金や銅の像の中に神はいないですよ」

「わかってます。しかし塵を払って仏を見る心持ちはどうでしょう?」

「(…塵を払って十字架を見上げる気持ちかな?)」

「仏もまた塵です」




「日本人とユダヤ人」読んでて出てきた言葉

文脈としては「日本人は契約や言葉のように明示なものとして宗教を入れるのではなく、そのウラにある言外にあるものを読み取ろうとする。そして時には以上のような禅問答になったり…」みたいなの。偶像崇拝の是非的な文脈から宣教師が問い、老人が応える。


これ自体はまぁそういうものかなぁと思ったんだけど先日からちょっと頭に残っててなんかいろいろとリンクしたのでボケーッと



自分的には上の問答の解釈は偶像崇拝うんぬん以上に「塵を払って仏や十字架を見上げるとき、凛と張り詰めた空気の中一条の光に照らされる像を見上げるとき、その空気自体がなにか荘厳なものを作り上げているのではないか? 神や仏といったものももともとはいないのだから、むしろそこに至る過程→それに裏付けられた気持ちこそが仏や神を心のなかに実在させるのではないか? 仏像に祈るのはたしかに誤りであろうが、祈るという行為を通じてその場に神が具現しているのだ。それは塵を払うことによって神聖化を演出するのにも同じ」みたいなことなのかなぁと思ったり



元に「一切は無」という無常感があって、仏像はそこに色付けされた暫時的な目標のようなもの。それへの信心が大きければ色は全体を覆うほどのリアリティをもつだろうが、もともとは塵に同じものなので対象としては常に移り変わる。


「色即是空、空即是色」

「地と図」

というのはそういうものかなぁと(フラクタルみたいな




そんなことをなんとなく思っていたせいか次のことも似たように思えてひっかかったり



「美は細部に宿る」という言葉


これ自体は建築系の名言みたいなので19C後期にミース・ファンデルローエって人がいったとされるんだけどもともとは「神は細部に宿る」なんだろう。

そんで「神は細部に宿る」は同時に「悪魔は細部に宿る」的意味も持つ、と。



ラテン語かギリシア語辺りにもともとの由来-出典ないかなと思ってぐぐるに特に見つからず。




自分的にはベンヤミンのところで出てきた新プラトン主義系の「神は世界のあらゆるところに痕跡を残している」みたいな話かとも思ったり


ナウシカ解読と正義の審級   ユートピアとベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/164690250.html


「神はその実在的本質のすべてを被造物のなかに流し込んでいる。(それを発見できないのは人の怠慢)」ってやつ




「細部に宿る」の意味的には、「全体の設計理念は細部のデザインからも明らかになる。逆に言えばすぐれたデザインとはそういったものだ」、的な話かと思うんだけどそういった理念が普遍的とも言える合理性(ことわり)を持っているとき「それは神の残したあしあとである」と言えるのではないか。

オーパーツのようにあらかじめそこにあったかのように浮かび上がる理。それが逆説的に神?の存在証明となる


「美しい」というのはそういうことかなと思ったり。




地の中に図が、図の中に地がフラクタルに連なっていく感覚



そういえば「バガボンド」の天の理と「うつくしい」あたりの話もこんなのだったかな






--
「神は細部に宿る」の出典しらべてたらこれにたどり着いた


図像解釈と図像学--prof.Fの西洋建築史講義--pallanoia.org
http://www.pallanoia.org/lecture/?chapter=1§ion=6&term=3



形式(演出)と内容(メッセージ)があるとして、「作品の内容を正確に掘り出さねばならぬ」とするならばその方法は厳密であるべき、とする → 図像学、と




「形式と内容」について、ぼくは形式とか演出、レトリック先行な内容のないものをうざく感じるほうだけど、今回の日記を見返すに人の世の「ほんと」というのは存外「形式」によってつくられているものかなぁ。。

ていうか、「形式」であれ「内容」であれしょせんは人の理解-解釈によって意味を持つモードであるのだから、最後に信じるに値すると思える判断基準というのはその背後にある本気度(祈り)の積層への直感のようなものなのかなぁと思ったりした。


祈りって言うか、形式化によってベタなテンプレにはめこまれる前のシニフィエの混沌、流動性と多義性


「形式か内容かどっちか」、って話でもなく

タグ:形式と内容
posted by m_um_u at 17:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年09月28日

観念と愛、システムと生活の弁証法の話

グスコーブドリと以前にあった良識の話の続き



グスコーブドリのように: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/163308380.html


「常識」と「良識」の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161638661.html




グスコーブドリの話は寓話的なもので、そこで言われる「人にはもともと正義に向かう志向がある」というのは理想論的なところがあるわけだけど「人はパンのみに生きるにあらず」というのはなんとなくわかる。

しかし、「正義」というのは時代や環境、属するコミュニティによって異なる価値観。ともすれば生活の現実から遊離して観念的理想論として実際のひとびとの生活を苦しめるという問題がある。「壁と卵」の問題。



人が集まると権力(政治)ができて、それが「場」をつくっていくわけだけど、場の暗黙のルールが合理的でない方向に行くのを防ぐために制度がいることになる。

制度というかそれ以前の公正なルール。しかし、その制度もエスタブリッシュ化するとモノのような存在感で人を疎外していく。


それはいちお「近代的」で「合理的」な制度なんだけど。ここで個々人がふたたび脳みそ使ってその制度の状況における妥当性を考えていく必要が出てくる。


その際のエンジンが「良識」ということになるのだと思う。



もう少し具体的に言うとモノのような存在感で人を疎外していくシステム、制度的なキツさに対して生活圏や親密圏における「ふつー」の感覚



「会社とか学校と家庭」「システムと生活世界」「壁と卵」「聖と俗」との間ぐらいの話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161255211.html


あるいは生活よりもう少し労働環境に近いボランタリーでアジール的な場における「ふつー」の感覚と蓋然的に共有されているルールのようなもの


ただ、ここで注意しておくべきなのはそれがただちに<「壁」(システム)の正しさに抗じるための力となる>というわけではなく、その細々とした営みが実際のところはシステムの協働の資源となっている、ということ。


つまり、システム(壁)と生活(卵)は単に対立するものではなく、お互いに必要とする回路があるということ


システムのほうはフレキシブルな運用のためには初期設定の制度・取り決め以外の部分での現場でのボランタリーな情報共有が必要とされるわけだし、生活圏や親密圏が野放図なのんべんだらりとした環境にならないためには一定の規律と制度が要る。



要は「システムが悪」という一方向的な話ではなく両者のバランスが必要、ということだろう。




成文法と近代合理性、慣習法と生活圏のルール


蛇足だがその辺の関係はヴィンランド・サガのテーマを想わせる



「ヴィンランド・サガ」の背景メモ (アングロサクソンの良心、キリスト教とゲルマンとか): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161667855.html



クヌートの瞳は近代的合理性(神や王の名によるわがままではなく、統治のための合理的判断=マキアヴェリズム)を表現してるわけだけど、トルフィンの場合は個々の実存から出てくる良識がどこまで制度と対峙できるか、ということにつながるな。クヌートが捨てた「愛」をトルフィンは別の形で掬い上げる




あるいは、成文法-法律的なものは時代・環境に依ってぶれがちなおーざっぱな倫理や価値観(真善美)が当代のシステムの大義となって人々の生活に襲いかかることを食い止めるための仕掛けとも言えるだろうが。





システムから見ればシステムの論理が正義で、生活圏からすれば生活圏の論理が正義となる。

あるいは、他国にとっては他国のシステム+生活自体が正義とはならず、自国のそれが正義となる。


そのように正義が多元的であるとき他者の正義への寛容は一見すると正しい。

しかしそれは単なる相対主義的なお行儀の良さともいえる。


「わたしもあなたのこと分からないけどわたしもあなたのことわからないでいいじゃないですか」


という不干渉主義。



それで済まさないようにもう一歩コミットする為には、絶対的な真理・正義があるとら仮定し、そのピースを自分も他者も握ってはいるが全体にはたどり着けてない(ので情報交換が必要)と信じることが必要となる。


これによって対話可能性への真摯さが生まれる。



その際、他者に対しては「自分とは絶対的に違う価値観を持っているもの」という認識が必要となる。

自分と他者との間の絶対的な相違を安易に自らの価値観に基づいて同調(スポイル)解釈するものではなく、あくまで他者の絶対的違いを自らには足りないものとして信じる心構え。





「制度(観念)と生活(愛)の間にもそういった心構えが必要ではないかと思うわけだけど、実際には制度側からの不寛容なプレッシャーが強い現状があるな


タグ:
posted by m_um_u at 23:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年09月21日

グスコーブドリのように



この不可思議な大きな心象宙宇のなかで

もしも正しいねがひに燃えて
  
じぶんとひとと万象といつしよに
  
至上福祉にいたらうとする
  
それをある宗教情操とするならば
  
そのねがひから砕けまたは疲れ
  
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
  
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
  
この変態を恋愛といふ


(宮沢賢治、「春と修羅」







はてブでこのエントリに「すごい」とか「人生」とかついてて


はてなブックマーク - 小沢一郎版夷陵之戦: 極東ブログ
http://b.hatena.ne.jp/entry/finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/09/post-d6c5.html


たしかに良いエントリだけどそんなに「絶文!」みたいにいうことかな?とか思ったりした


「(小沢のようにもはや財産もしっかりあって選挙なんか出る必要がない人が選挙に出たのは枝野からの党費つかわせないぞープレッシャーもあったのだろうけど、それ嫌だったらもういっそのこと引退しちゃってもいいんだけど金持ってんだし、って)ひとが一見すると非合理的な判断をするときそこには人の思いを背負った意志がある。盟友との約束。死霊に憑かれ、死霊がそれをさせているのである」

というのはわかるんだけどそういうのはほかにもあったなぁ、と


ある人はそれを「狂」といい


「狂」人伝    高杉晋作 - 歌餓鬼抄   
http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20070318#p1



ある人はそれを「意志」と呼ぶ


BigBang: アウン・サン・スーチーという意志-----第1章 「写真物語U」
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2008/01/post_9739.html


BigBang: アウン・サン・スーチーという意志-----第2章 「写真物語U」
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2008/01/post_8837.html



信じること  狂うほどにコミットすること   死者の魂を背負うことの是否



それは「観念や思想先行で生活・恋愛に根ざしてない」「観念に酔ってる」ってことなのかもしれないけど、しかし歴史はそういった狂人が駆動してきたところがあるか



それを自分がしようとは思わないけど




宮沢賢治 『学者アラムハラドの見た着物』]: クラブマネジメントの小幡万里子です
http://club-m.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-6860.html


アラムハラドは子供たちに問う、「ひとがどうしてもしないではいられないようなことはなんだろう?」


「人は歩いたり物を言ったりいたします。」


「私は饑饉でみんなが死ぬとき若し私の足が無くなることで饑饉がやむなら足を切っても口惜しくありません。」

「人が歩くことよりも言ふことよりももっとしないでゐられないのはいゝことです。」



(さうだ。私がさう言はうと思ってゐた。すべて人は善いこと、正しいことをこのむ。善と正義とのためならば命を棄てる人も多い。おまへたちはいままでさう云ふ人たちの話を沢山きいて来た。決してこれを忘れてはいけない。人の正義を愛することは丁度鳥のうたはないでゐられないと同じだ。)





グスコーブドリの伝記<あらすじ>
http://www.thr.mlit.go.jp/iwate/kodomo/kazan/kazan_ku-bo-/k6_032.html



プラネテス(4) (モーニングKC (937))
幸村 誠
講談社
おすすめ度の平均: 4.5
1 微妙だし ガッカリ
5 世界の全部がつまってる
5 なんかわかんねぇけど
5 もうひとつのフィーの物語
5 ロックスミスには彼自身の葛藤があったんだろうな、と思う。



ブドリは子供の頃 農業の大変さや生きることのつらさを身を持って学ぶんだ

勉強して農業をやめても彼はけっしてそのことを忘れないんだよ


研究者になって人間の幸せのためにたたかったんだ


火山ガスを利用して雲を作り天候を操り日照りや冷夏から人々を救った



オレもグスコーブドリのようにオレの作ったエンジンでみんなを幸せにしてやりたい




グスコーブドリのように








「君の愛した人はグスコーブドリだったんだよ    

君のその愛が彼の心をとらえた事などないのだよ」




「真理の探求は科学者が自らに課した使命です  

『本物』の神はこの広い宇宙のどこかに隠れ我々の苦しみを傍観している 

 
いつまでもそれを許しておけるほど私は寛容な人間ではない」


「神が愛だというのなら我々は神になるべきだ  

さもなくば     

我々人間はこれから先も永久に    


真の愛を知らないままだ」




かくてこのテーマは「ヴィンランド・サガ」につづき


「ヴィンランド・サガ」の背景メモ (アングロサクソンの良心、キリスト教とゲルマンとか): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161667855.html


クヌートはロックスミスを、トルフィンはハチマキを辿っていく


あるいはトルフィンはハチマキに到るまでにブドリを辿る



その道連れに愛のしるしを携えて


posted by m_um_u at 12:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年09月05日

「ヴィンランド・サガ」の背景メモ (アングロサクソンの良心、キリスト教とゲルマンとか)

ひとつ前のエントリの最後の方で「ヴィンランド・サガ」の背景メモしたくなったんだけど、なんか疲れたので稿を分けてこちらに


ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンKC)
幸村 誠
講談社
おすすめ度の平均: 4.5
5 お勧めです。
5 最高
4 テーマは同じ、だと思います。
5 人物描写の妙
4 どれだけでも待てる漫画家 幸村誠



ヴィンランド・サガ自体はデンマークのヴァイキングがイングランドを征していく話


ヴィンランド・サガ - Wikipedia
http://bit.ly/bw7jX2


てか、クヌーズ大王によるデンマーク・イングランド・ノルウェー統一を背景にした話なわけだけど


クヌーズ1世 (デンマーク王) - Wikipedia
http://bit.ly/aqomdn






「ヴィンランド・サガ」の中でアシェラッドが言っていたセリフ


「おまえたちサクソン人は俺たち(ヴァイキング)のことを略奪者だというがそういうおまえたちはイングランドになにをもたらしたんだ? おまえたちの前にはケルト人、その前にはローマ・カトリックがいた。ローマ・カトリックは文化を残してくれただけよかった。しかしおまえたちサクソン人は奪っただけだった。 そんなおまえたちと俺たちのどこが違うんだ?」


関連で以下の「コモン・センス」の話が気になった。


王と臣民を差別することは「自然」なことじゃない
http://tumblr.com/xauhne8wf



「王権の世襲はでっちあげだろう」という話
http://tumblr.com/xauhnesqk



イギリスの起源はギャングの親玉
http://tumblr.com/xauhngzoq



「イギリスの起源はギャングの親玉」というのはまんまアシェラッドがいっていたことだなぁ、って



こんなことを言っていたようにおもったので、ここで出てきた「アングロサクソン的自由主義」とか「良心」というのは違和感あったんだけど
http://tumblr.com/xauhnftvf



この件については「コモン・センス」を受けたアメリカの恩義と誇り、イギリスのマグナ・カルタの記憶が良心を呼び起こすのかなあ、とか。(それでアメリカは「民主主義」の国を放っておけない、か)




クヌートとカロリングルネッサンス


「ゲルマンと古代ギリシャ・ローマ、キリスト教文化の融合」ということだとカロリングルネサンスのことを思う。


カロリング朝ルネサンス - Wikipedia
http://bit.ly/cGTXmB



「教会が間に入ることによってゲルマンとローマをつないでいった」という話ではこの辺を思い浮かべる



哲学者、翻訳家・中山元の書評ブログ : 『中世の死 : 生と死の境界から死後の世界まで』ノルベルト・オーラー(法政大学出版局)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/nakayama/archives/2007/07/post_40.html


死後の財産分与に関して、ゲルマン法とローマ法では扱いが異なった。そこに教会が絡んできた。結果的に財産の1/2は教会が受け取ることに。こうして教会は財産を増やしていったわけだが、これは冥銭の慣習を通じて教会が金銭を集めていった過程を連想させる。


とりあえず、中世の信用のハブであった教会が金銭や法といった文化的表象の仲介役になっていった


カール大帝が「ゲルマン-ローマの文化統合にキリスト教を利用した。そのためにイングランドから僧侶を呼び寄せた」というのはこういう「信用」を利用するためだったのだろう。

もしくは知のハブとして分類法に卓越した僧の力を借りるためか。




それとは別に「ヴィンランド・サガ」の作品テーマとしての「本当の戦士」と「愛」の関係を思ったりする。



「孤独」と「虚無」とそれを通り抜けた「愛」の関係


クヌートもそういう瞳をするようになる。


『ヴィンランド・サガ 6』幸村誠 クヌート王子覚醒! 愛の本質とは死ぬことと見つけたり | Drupal.cre.jp
http://drupal.cre.jp/node/1957


ヴィンランド・サガ(6) (アフタヌーンKC)
幸村 誠
講談社
おすすめ度の平均: 4.5
5 急展開!
5 素晴らしすぎる
5 暴力を描きつつそれを超えるものを提示
5 愛と言う最果て、闘争と言う救済
5 上手く説明できないけど何度も読み返す面白さがある



「ヴィンランド・サガ」における「神の愛」のテーマ


「愛とは何か?」と問うたとき

「憎むことも殺すことも奪うこともないもの」

「誰かに何かを望むのではなく、ただ何かを与え続けるもの」

すなわち人においては「死」を通じて万物に肉体を献身することが愛だ、と僧は答える。


それに対して

「親が子を、夫婦が互いを、親しいものが親しいものを大切に思う気持ちは」

「差別です」


ほかの誰よりも大切な人のために自身の命さえ差し出すこと、それは差別である、と。



それでは、この地上には神の愛はないことになる。わけへだてのない完全な愛は


所有や、それに基づく嫉妬や不安、それを守るための差別、そういったものに縛られた不完全な愛しかこの地上には残されていないのか?


そのことに気づいた王子は追放された楽園を地上に取り戻すために戦いに赴く決意を固める。それは二度に渡って奪われた「父」を自らの内部で殺し、己が父となる決意とも思えて…



もはや王子の瞳にはかつての羊のような怯えはなく、「真の戦士が持っている」といわれたのと同じ寂しさ、諦観と憐憫が浮かんでいた。





この瞳と真の強さ、愛の描写は幸村誠の前作「プラネテス」で示されていた。


「神がこの地上を見放したのなら、人がそれを作り上げていくしかない。たとえ人の世に対しては部分的に非情となっても」という考え方はプラネテスのロックスミスにも共通するし、科学者や為政者の思考、あるいは計画経済的なアレにもながれているものだろう。

もしくは仏教の上座部系の考え方にも近いような。 「悟りを得るためには人の感情(煩悩)を捨て、すべてのものを同じように感じる/感じないようになること」。 若いときにはそれをロボットのようだと思った


それが「強さ」なのかといわれると疑問が残る。





そしてクヌートは「聖なる父の愛」という理想への反動のようにマキアヴェリズムを徹底していく。



「クヌートが敬虔なキリスト者であったか」「その反動として冷徹で合理的な君主となっていったか」というのは分からないんだけど、キリスト教への傾倒が「結果として」としてゲルマン・ローマ=キリストをつないでいった、というのはなんだかカロリングルネサンスを思った。



この辺の良心と理性の関係については西田の「善の研究」とか、自分的には「業の蓄積と思考の関係」というところで絡んでくるのだけど


http://tumblr.com/xauhnh6hy

http://tumblr.com/xauhnh84p


これはこれでテーマとして重いので仮止め。また考えていくことする。






デーン人(ヴァイキング)の王クヌート亡き後、イングランドの統一はフランスから派遣されたノルマンディ公ギョーム(ウイリアム1世)によって為された。統一の際は、大規模集約ではなく飛び地的に所領(荘園)が分散して与えられた。これによって諸公は反乱しにくくなったが、諸公同士は頼り合う必要が出来、これが後のイギリス議会、マグナカルタへ(王権の法的限定)とつながっていった
http://tumblr.com/xauhnf6xx



ノルマンディー公はフランス諸公でありながらイギリス統治も兼ねることになった。結果的にフランス王よりも強大になり、これが100年戦争のきっかけとなっていく
http://tumblr.com/xauhnfw6q


要するにイングランド原住民はこの時期フランス野郎に追いやられ、フランスの飛び地のような扱いをうけていたということ。イギリスとアメリカのような関係。

サクソン人も追いやられいじめられていたがリチャード1世(獅子王リチャード)の頃、フランスの奸計に騙されて即位したリチャードの弟ジョンの無能が祟りフランスに負け領土を奪われることになる。(失地王ジョン)

これによって諸侯は王の勝手を制限するようにコモンロー(慣習法)に従うことを要請した。(マグナ・カルタ)

このころのサクソン人側の義賊がロビン・フッド




しかし100年戦争はまだ続き、諸侯は疲弊、反面王権は拡大。封建制から絶対王政へ


さらに時は流れ、市民革命を経て鍛えられたサクソン人の良心は常緑の豊穣の地、ヴィンランドへと継がれていく。






posted by m_um_u at 23:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

「常識」と「良識」の話

善いことと悪いことがある。

善いことをすることもある、でも善いことをした人が「善い人」ではない、「善いことをした」というだけなんです。次の瞬間には悪いことをする、それが人間だと思わないと、あらゆる判断を間違える、自分自身についても。

宮崎駿 /出発点


http://morutan.tumblr.com/post/1040646663










ぶくま経由でこういうのをみて



「肉屋、鞄屋の人とは結婚して欲しくない」
http://anond.hatelabo.jp/20100904050444




「肉屋とか皮革業は被差別民の仕事だから…」ってアレで。

ある年代以上の関西以西の人たちはふつーに差別しててそれは特に他意がないわけだけど、こういうのは一般的な「正しさ」と親密圏の「正しさ」でモニョるなぁ、とか思った。オレもバイトでやり方わからずにトロトロしてたら「○△☓か?」ってよくわかんないけど差別語みたいなの言われたことあって、差別されたことよりもカジュアルに差別することにショック受けたことがあるなぁ、とか。


そんで、こういう「そういう一般的な正義感というのは分かるんだけど親密(生活)圏における話だとそういうのはふつーにスルーしてないと生活成り立たない場面があるしなぁ。お母さんはほんとに心配していってくれただけで、カジュアルに差別する文化で育ってきてるから悪意はないのじゃないかな?」とか思うわけだけど、それとは別に「どこまでをスルーしていいのか?」ってのがあるなぁ、と。


それで関連話題


システムが無くなった日
http://anond.hatelabo.jp/20100904122315


「コスト割れで受注切った工場がその影響で潰れた」って話。結果的に、『現場のスタッフの何人かは過労死、何人かは自殺、何人かは会社を辞めました』。


この仕事を断ったこと自体は「時間や金銭、人材コスト含めてコスト割れしちゃう(リスクが大きい割にメリットが少ない)」ということで経営における合理的判断だと思うんだけど、その影響で工場は潰れた。


この件については周囲から論評することもないし、「誰も悪くない」というか現場感覚だと

『何が悪かったのか?』というのは今となっては色々と問題があると思うのですけど、システムのコストを下げる際に、これ以上のコストダウンは操業が停止する可能性がある、という警告をお客側が無視したというのが大きいと思います。お客側と言っても、工場で働く作業員やスタッフではなく、たった一人、工場長(社長)の一言なのですが。



ということだと思うんだけど


でも、やはり「自殺者が出た」ことについて増田もしこりがあるから匿名日記を書いたのかな、と思った。



これを受けて



愚かさは罪なのか - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)
http://d.hatena.ne.jp/repon/20100905/p2


主旨としてはアイヒマン実験を例にとりつつ「ひとはある状況に巻き込まれたときに『仕方なかったんだ』ということで悪を行う」みたいなの


ルドフル=アイヒマンの行為が、また、アイヒマン実験がしめしているように、人は「誰かから命令されたから」「正しいことをするためだから」「私はその道具に過ぎず、むしろ苦痛を受けているのは私なのだ」と考えることで、残虐な行為を行うこともできます。



これは最近見た「宮崎駿における悪とはなにか?」の話を想い起こさせた。ここでもアイヒマンの話が出てくるわけだけど
http://livedoor.2.blogimg.jp/dqnplus/imgs/5/9/59c8f836.jpg


要約すれば、「なんの良心の呵責もなく、悪として露悪するわけでもなく、ふつーにひどいことをするひとたちは『悪』。そういうひとたちはシャレにならないので作品では描けない」、みたいな話。

この後に「すくなくともぼくは描かない。誰か他の人がやればいい」みたいな感じで押井守の作品におけるリアリティ追求の対照をちょっと思う。


れぽんも内藤さんのいじめの社会学ひいてるけど、自然に差別したりいじめしたりできる人たち、ってやつだ。




システムや特定の「場」の中でそれぞれの「正しさ」「常識」「空気」があるとき、それに逆らう是否の問題。「(助けなかったのは)要は勇気がなかったんでしょ?」という単純さでは済まされないような倫理問題。






それでさっきの「親密圏における差別」の問題に戻る。場の空気にながされそうなときに「正しい」行動をとれるのか?またそれは「正しい」と言えるのか? 

あれはカジュアルな会話の中だからスルーすればいいけど、下記の話なんかはある意味ポリティカルコレクトだかコンパスだかになっていくのだろうか




角栄の話


茂木健一郎 クオリア日記: 田中角栄氏に関しての連続ツイート
http://bit.ly/cp9D3F


「田中角栄って『なんか悪いもの?』みたいなイメージあるけどその社会的・政治的意義をもっかい冷静に考えてみようぜー マスコミの煽りとか除外して」、ってこれ自体はよくある話で「いまも政策関係なくわけわかんないスキャンダル → ヒステリーみたいなので政権交代ってやめてほしいよなー」とか「田中おろしについては当時の党内政治バランス知ってないとなんともだろうなー」とか思いつつ「ステークホルダーが暗黙に複雑に絡み合った談合政治」ということでウォルフレン思い浮かべたり


日本 権力構造の謎〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)
カレル・ヴァン ウォルフレン
早川書房
売り上げランキング: 93916
おすすめ度の平均: 4.5
5 もはやこれは推理小説である
4 外からなら見える日本の構造
1 なんで猪瀬直樹はあんなに褒めたのか 
5 日本人の目が生き生きしていない理由
5 受けてきた教育に対する疑問。





「ホシを継ぐもの」としての小沢さんのこれって海外だと政治のテキストになってたりするんだよなぁ、とか思ったりしたぐらいなんだけど


日本改造計画
日本改造計画
posted with amazlet at 10.09.05
小沢 一郎
講談社
売り上げランキング: 259
おすすめ度の平均: 4.0
5 政治家 小沢一郎先生をリクエスト!
3 17年前の小沢一郎
4 本の感想として
4 資本主義の現実から眼を離すな
5 小沢一郎を犯罪者にでっちあげるな!





以下の一文が気になった


成熟した英国流のカモン・センスから言えば、田中角栄氏の「犯罪」は、果たして、あれほどのヒステリックな断罪が行われるべきことだったのか、大いにあやしい。少なくとも、その功績とのバランスにおいて総合的に判断する、そのような知的態度は有り得たはずである。




??


英国流の家紋・扇子からすると角栄の贈収賄は断罪されないの?


まあ、「マスコミ煽動にあおられてヒステリックに騒ぎすぎ」ぐらいの意味だと思うんだけど、ここでの家紋・扇子ってどういう意味でつかわれてるんだろう?、と



「コモンセンス」を単純に「世間知」とか「常識」みたいな感じにしてるのかな?

なんかイメージが違うんだけど


そういうわけで「コモンセンス」についてダラーっとぐぐったり



アメリカでのふつーの生活では「常識」と「コモンセンス」って違うよ、って話
http://tumblr.com/xauhnd5ur


「さっきから常識、常識って言っているけど、僕には何の事だかさっぱりわからないよ」

「常識って日本語も知らないの?英語で、『コモンセンス』って言うでしょ。日本でも、コモンセンスって、もう誰でも知っている『常識語』よ。常識ないわねぇ」

と言うと、夫は、

「英語のコモンセンスって、そんな意味ではないけどなあ……。常識ねぇ」

と首をかしげる。

「コモンセンスという言葉は、例えば、火のついたストーブの上には手を置かないとか、割れたガラスの上を裸足で歩かない、車が来ているときには道路に飛びださないというような身の危険を察知した判断ができるかどうかに使われると思う。コモン(common)つまり普通の、共通の、センス(sense)感覚、判断力という意味だよ。これって日本人のいう常識と違うような気がするけど……」

私曰く、

「それも常識だけど、もっと危険なことという意味でしょう。誰も好んでそんなことをしないのは当たり前じゃないの。それじゃ、犬の散歩をしているとき、飼い犬がした糞の始末をしていかないのは何?タバコの吸殻や飲物の空き缶をポイ捨てする、そんなことをする人は常識がないってことじゃないの」

「それはコモンセンスとは違うよ。そのようなことはコモン・コーテスィー(courtesy 言動が礼儀正しい)っていうんだよ」

「え? コモン・コーテスィー?」

「お隣のケヴンやリサたちのように、境がわかっているのに我が家の敷地内に木を植えたりするのはどう? 落ち葉をブロアー(強風で落ち葉や庭のごみを集める機械)我家の方に吹き飛ばしてしまうのはどう? 非・常識でしょ」

「それも、コーテスィだなあ」

何だか常識・コモンセンスという言葉の意味が、私が思っていたのとは違う気がする。誰にでも「危険だ」とわかることをしないというのが、コモンセンス。しかし、このコモンセンスには、「自分で危険な状況を作り出さない」と言う意味も含まれている。例えば、人に向かって、大声でその人の悪口を言う。また銃やナイフを手に持って、誰かの家の呼び鈴を押すと家主はどうするだろう。このように、危険な状況を自分で作りださないという「常識」にも、「コモンセンス」を使う。そして、日常生活の中でおきる問題や、揉めごと、つまり、それが原因で他人が嫌な気分にならないようにする「常識」を、「コモン・コーテスィー」といい、言葉を区別して使う。

しかし、コモン・コーテスィーだと判断されるようなこと。落ち葉や庭のごみをいつも隣の庭に吹き飛ばしてくる隣人に、堪忍袋の緒が切れたご主人が、怒って拳銃で撃ち殺すようなことだってこのアメリカにはありうる。この場合は、何気ない行動が明らかに危険を作り出している。このような状況は、コモン・コーテスィーとコモンセンスが区別できず、入り混じっているのではないだろうか。複雑だ!

日本人が「こんなの常識じゃない?」というのは、コモン・コーテスィーの範疇に入ることが多いようだ。

「それ、エチケットともいうよ」

息子が付け加える。





コモンセンスは価値判断を含まない(価値判断以前の)「ゲームにおけるルール」のようなもの(「1+1は2にしとこうよー」みたいな)。および、それを「ルール」として対象化し、価値コミットしない態度みたいなの
http://tumblr.com/xauhnhwe6

あるいは、『他人への配慮を前提とした公共の場所での秩序維持の感覚であり、主に親のしつけによって身についていくものである。いわばモラルの土台となる感性が“コモンセンス”』、とか
http://tumblr.com/xauhnd8d3






それとは別にイギリス(アングロサクソン)の政治的文脈における「コモンセンス」というものがある。


民主主義制度における「良心」のようなものとしてトマス・ペインの「コモンセンス」が設定されるのだと思う。


common sense
http://www.asahi-net.or.jp/~EB6J-SZOK/commonsense.html


コモン・センス - Wikipedia
http://bit.ly/cpXw5Y


知られざるアメリカ独立への記念碑
http://members.at.infoseek.co.jp/hiroyatan/dokuritu.htm


おーざっぱにいうと、「コモン・センス」自体はアメリカのイギリスからの独立に際してその後ろ盾みたいになった本。

アメリカは当時はまだ二等国みたいな感じで、「独立ってなにいってんだ。おまえは生まれながらにして二等国なのだ」、ぐらいに差別されてた。それに対して「コモン・センス」では

「イギリスだって昔は王様に好き勝手されてた。王は自らの王権の神聖性を盾に それを民衆の規則(コモンロー=王権以前の慣習法)に従わせることにしたんじゃなかったっけ? だいたい、あいつらなんかそもそもギャングの親玉のようなものだし出自も卑しいものだった。なのでイギリスの起源っていってもそんなに上等なものじゃない。 そんな感じで王側が主張する「生まれながらに差があること」を否定したことによって現在のイギリスがあるのにそれを否定するのかね?」

って説いた。



そして、それまでアメリカでも「イギリスを支持する本国派」と「独立を支持する愛国派」にわかれていた世論を一気に独立の方向に持っていき
http://tumblr.com/xauhngtiq


独立宣言へとつながっていった
http://tumblr.com/xauhnh12o

我々は、以下の真理が自明であると信じる。すべての人間は平等に創られ、我々は創造主によって、生命、自由、そして幸福の追求を含む、譲れない権利を与えられていることを。 これらの権利を保障するために、人々のあいだに政府が設置され、その権力基盤は、被支配者の同意から引き出されるものであることを。もし、どんな形の政府であっても、これらの目的を破壊する場合にはいつでも、政府を改革あるいは廃止し、最も人々に安全と幸福をもたらしそうだという原理に基づき、新しい政府を設置する権利があることを。




アメリカが「支配されて当然の二等国」扱いされていた背景としてはキリスト教の普遍史観からの流れもあるのだろう。普遍史観的世界地図「TO図」では世界は「ヨーロッパ・アジア・アフリカ」の三つに分けられ、ヨーロッパ以外の二つの国は支配されて当然の劣等国とみなされていた。新大陸アメリカも最初はインドと勘違いされていたので「支配されて当然」の流れを受けたり。

この辺りは中華思想と同じく、長い間武力的には中東・中国に劣っていたヨーロッパが創り上げたコンプレックスの裏返しのように思う。



この辺ちょっと細かく見たいところもあるんだけど話がそれるので後述するとして



そんな感じでアングロサクソンの政治的文脈からの「コモン・センス」というのは「人は、王権や一等国などによる無法な支配・搾取から生まれながらにして平等である」という文脈を内包する。また、「その平等性を保障する」、という良心と誇り。これがアメリカの独立宣言の記憶、イギリスのマグナ・カルタの記憶とともに思い出されるのだと思う。


翻って、『英国流のカモン・センスから言えば、田中角栄氏の「犯罪」は、果たして、あれほどのヒステリックな断罪が行われるべきことだったのか』



この設定はなんかとてもびみょーな感じがする。


見てきたように日常言語で使われる「コモンセンス」は価値判断以前の共通感覚、授業の内容を理解できるか以前に講義を受ける前に当然知っておくべきルールみたいなものに思う。(ex.授業中は勝手に立ち歩かない。私語を慎む。消しゴムを投げない。机の上に登らない。ケータイ電話の電源を切る。テストで(許可されてなければ)カンニングしない)


それとは別に、そういったアングロサクソンの政治的文脈における「コモン・センス」というのは「王権や一等国などの無法な振る舞いに対して、民衆は『法』をもって対抗できる」ということを含意する。


「中央政府による一方的な横暴とそれに対する民衆(地方)」という構図で見た場合、田中角栄も家紋・扇子的に評価されるのかなあ、とか思うんだけど、それは印象的評価であってその際の方法を問わないことになる。


「角栄の宿題」というのは、ステークホルダー民主主義的に「地方に利益配分が行われてない」という背景を含みつつ、そこに「話し合い」や「法的・制度的正当性」といったフェアな手続きをふくまなかった、ということになる。


ウォルフレンが指摘したような人脈重視の人治国家の内々の取り決めによって利益配分がされてしまうということ。


そこから政策などを重視した法治国家になれるか、というのが課題というところ。



そして、その問題を継いで「政策」や「法治」を目指していたのが小沢一郎だったように思うんだけど




小沢首相後の変化予想: 極東ブログ
http://htn.to/RovCQa


現状では地方へのひも付き補助金をひも付きじゃなくすることによって「各自治体の自由に使えるお小遣い」がバラマき、ポピュリズムを狙う、と。



「田舎は政府からの補助金で回ってる」ってのはあって


日本の田舎の問題はきちんと資本主義が定着していないことだ。 | makilog
http://daisukemaki.jugem.jp/?eid=1


その補助金を「地方の自由に使わせてやる」っていいつつも内実は一部の労組や公務員用の専用餅になる、と。



この辺はモロに人治国家への先祖帰りなのかなとか思うんだけど、どっかの誰かみたいに「分かっていてやってるんだ。体制が整ったらきちんとしたアート(仕事)を仕上げるさ!」ってことなのかもしれない。







そんな感じで、民主主義的政治下における政治的「良識」というのは民主主義的法制度にしたがう、あるいはその公正性を担保するように透明性を守るということだと思う。



国家と同じように工場も「システム」としてとらえたとき、その中で「システムの論理」とは違ったところで自らの納得を得るよすがとなるのもこの辺りの「良識」だろう。


限られた場(「世間」)の常識やそれによって作られる無言の圧力(空気)は抗しがたいものだけれど、「場の正しさ」ではなく自分の中の行動規範として良識がインストールされていれば後悔するにしても最小限にダメージが抑えられるのではないか?

http://tumblr.com/xauhnh6hy

http://tumblr.com/xauhnh84p






--
関連:

「会社とか学校と家庭」「システムと生活世界」「壁と卵」「聖と俗」との間ぐらいの話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161255211.html

会社や学校といった「システム」と家庭のような「生活世界」(親密圏)の間で育っていくコモンズな感覚について( ≠ コモンセンス)



「世間」関連だとこのへん


空気を読むこと / 読まないこと: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/67143091.html


「世間」と<世間>と「公共性」の間   (ネットはネガ・エントロピーを超える.....のか?): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/65888412.html

公共性と世間のプロトコル相違の問題(およびアーキテクチャ設計について): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/71341707.html


「合理の中に非合理が、近代の中に前近代が入ってるんだね」って話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/128448698.html








--
「コモン・センス」の流れの辺り





王と臣民を差別することは「自然」なことじゃない
http://tumblr.com/xauhne8wf



「王権の世襲はでっちあげだろう」という話
http://tumblr.com/xauhnesqk



イギリスの起源はギャングの親玉
http://tumblr.com/xauhngzoq



→ cf.ヴィンランド・サガ



デーン人(ヴァイキング)の王クヌート亡きあとイングランドの統一はノルマンディ公ギョームによって為された。統一の際は、大規模集約ではなく飛び地的に所領(荘園)が分散して与えられた。これによって諸公は反乱しにくくなったが、諸公同士は頼り合う必要が出来、これが後のイギリス議会、マグナカルタへ(王権の法的限定)とつながっていった
http://tumblr.com/xauhnf6xx



ノルマンディー公はフランス諸公でありながらイギリス統治も兼ねることになった。結果的にフランス王よりも強大になり、これが100年戦争の背景となっていく
http://tumblr.com/xauhnfw6q



posted by m_um_u at 17:04 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年09月03日

中世の意味的コスモロジー   教会を通じたパラダイムシフトの話

これ見て、ああちょうど聖と俗関心持ってたら似たようにリンクしてる、って思ったので



流転する浄と不浄、信仰世界への回帰現象と科学の立ち位置 | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2520




自分的には「現在の都市の消費的祝祭空間 = ハレ」というところから「ハレ・ケ・ケガレ」を「聖・俗・穢」とし「市場によってドライブかけられたハレの過剰性にバランスとるためにケガレ的なものがいるのではないか?においとか痛み、肉の感覚」って無痛文明論的なこととか、「聖と穢は本来おなじ異界のもの、俗(秩序)に対する混沌」ってとこから「無縁=公だもんな」とは思ったんだけど


無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))
網野 善彦
平凡社
売り上げランキング: 131389
おすすめ度の平均: 5.0
5 東西の個人と社会そして「自由・平等・平和」の成り立ち
4 「日本の歴史をよみなおす」のほうが上かな?
5 網野史学の出発点
5 民俗の歴史学は本書で始まった
4 日本中世の自由とは何か





この聖なる混沌の領域も、俗なる秩序の世界が発展し階層・分業社会化するに従って「善き聖」=浄と「悪しき聖」=不浄(穢)とに分離していくことになる。

つまり、社会の階層分化にともなって、シャーマン・呪術師・司祭などの専門職が登場し、それまでタブーとされてきた聖と俗の二つの領域をつなぐ儀式を独占することによって、彼らは支配階層として社会の上位に位置していくようになる。彼ら支配階級の登場は聖なるものを排除された外部から、日常生活を規定する価値基準へと変えていき、さらに、それら聖なるもののうち「善き聖」の独占者としての祭司王の登場によって、秩序世界と相補的な聖の分極化が始まることになる


この不浄を浄に変える儀礼はかつては聖職者の独占物であったが、時代が下るに従って聖職者の手を離れていき、各々が聖なるものへと近づく試みがなされてきた。




ってなったのはちょっと意外だった。金や知だけではなく、聖とケガレにおいても教会や寺がハブとして意味的転換装置の役割も担ったのだろうか?

知についてはこの辺で触れられてるが

「聖なるもの」はどこに宿るか。まず原始的な社会から近代国家にいたるまで共同体そのもの、自身が所属し、生活の基盤を与えてくれる社会にこそ聖性が宿ると考えられた。一方で、人間が生み出した文化もまた聖の領域があると考えられた。この世にかかわる世俗的な領域としての学問、道徳、芸術は、超世俗的な領域、学問における真、道徳における善、芸術における美という価値の実在的な体験に聖なるものを感じるようになっていく。そして儀式という宗教体験が個人の手に移ったとき、神と直接つながる個々の人格にこそ聖なるものが宿ると考えられるようになっていく。



「失われた聖性」とそのレコンキスタの背景は「科学による聖性の収奪」と考える、と


近代は科学と個人に対する万能感に包まれていた。しかし二つの世界大戦の悲劇と60年代以降に世界中で問題となる貧困と環境問題は科学に対する万能感を反感に変えた。人々にとって科学は聖なるものにつつまれた大いなる生を約束するはずだった。そして、科学が高度に専門化し、科学者を介してしか「真実」に辿り着けないと人々が感じ始めたとき、人々は再び、自身の体験に意味を与えてくれる何かを模索し始めた。それが世界的な宗教保守化の運動とスピリチュアルブームの勃興へと繋がっていった。





対照としてオラが前に考えたやつ。「システムによって聖性が代替擬制された。人々はその空白を埋めたがる」という視点は共通する。ただ、「システムの中の聖性(象徴)代替作用は科学が担った」としているようだけど、オラの場合は貨幣と市場の呪術性がもたらしたものと考えてる。



「今年の夏俺全身ジャスコ〜♪」、と彼女は言った: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161061791.html

祝祭はもともとハレの日で、それは日常の生活とは異なる異界でありだからこそ過剰な演出・スペクタクル・情報量も腑に落ちるわけだけど、それがいつも続いてると居心地が悪くなる。


現代の消費的な欲望は宗教的性格を持っていたハレを市場的に再生してみせたもの、あるいは現世の法と聖性との境界領域に属する「市場」の性格を商業的な部分だけデフォルメして再現したものといえると思う。

しかしそれは商業的なところだけクローズアップしたデフォルメであるがゆえに失われたバランス、居心地の悪さというのがあるのだろう。現代人の場合、普段の生活が異常に忙しく、その忙しさのストレスを金―消費であがなうようにできてるので気づきにくいだろうけど。

でも、普段の生活でそういったスピード感、それを支える情報量に耐えきれなくなって違和感が生じる。自分のいる空間と実存に対して欲望がオーバードライブしてるので。(端的に言うと「ちっぽけな自分の部屋に比して広告やテレビでみる都会生活のきらびやさから疎外が生まれる」)



そういった欲望、付加価値、情報の実生活に対するオーバードライブに対して、「特別な場所での特別な体験」というのは空間と情報量的に整合性をもたらすのだろうなぁ、となんとなく。



聖性と市場のあいだ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161162630.html?1283266712

「昔の市場は都市の外縁、無縁領域との境界部分にあり、やがてそこに境界的なものも築かれていっていたようだ」って網野さんなんかも言ってた話。

そこに、「マスメディアや興業が発達していなかった中世・近世では宗教美術がエンタメとして機能していたのではないか?また、知のハブとしてのマスメディア的機能、教育的機能、法制度的機能も同時にもっていたのでは?」、という仮説も加味したところから上記の話が出てきた。


「マスメディアが発達していなかった頃は稀人的旅人が都市と都市、人と人との間の情報伝達の役割を担っていた」ってのもあるわけだけど、とりあえず都市と祝祭の契機として。


祝祭というのはもともと宗教的なもの、あるいは収穫の喜びを祝うものだったはず。暦は農暦だか占星術だかによるのかマチマチだろうけど。


とりあえずそういったハレの場として祝祭は機能してたはずだけど、エンタメのきらびやかな部分のみを分節化し金で代替交換するようになってなんか歪みが生じたのかなぁ。文脈切除して楽しいところだけ味わうことになるので。「金で交換する」ことにはなるんだけどタイムラグほかのズレがあるし。

そこでは生の体験や実存が失われる。もっと具体的に言えば「祭りに参加してる・一緒に作り上げてる」感が「金で買ったもの」という消費対象になる。




もしくは武力や聖性の権威性は「知」(≠科学)によって継がれていった。間に資本の論理を介して


「古代」と「中世」を分けるもの?  「武」・「聖」・「知」と法制度なんかについてぼけーっと: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160425677.html



資本の論理ー産業化ー分業化によって個々人の役割が各労働の場的に限定特価されることを通じて個人の自由・可能性が狭められて実存感覚が喪失されていった経緯についてはこの辺



「会社とか学校と家庭」「システムと生活世界」「壁と卵」「聖と俗」との間ぐらいの話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161255211.html


参照エントリではそういった自由、金に還元されない個々人のボランタリーなつながりが生まれる共有地(親密圏における協働の場)を「コモンズ」と呼んでいる。





そんなこんなで、自分的には「似たような関心持ってて違うリソース取り込んでる人がいてうれしいな」って感じだった。


(繰り返しになるけど)金や知だけではなく、聖とケガレにおいても教会や寺がハブとして意味的転換装置の役割も担ったのだろうか?ってとこで

この辺はおすすめいただいた「異人論序説」で「都市と異界の境としての教会が市場につながっていった」みたいな話もあるはずなので見ていこうかと思う。


異人論序説 (ちくま学芸文庫)
赤坂 憲雄
筑摩書房
売り上げランキング: 155310
おすすめ度の平均: 4.0
4 オーソドックスな序説




あと、本来なら「武」だけでいいはずの権威性の後ろ盾的なリソースが「聖」や「大義」―「(天からの)正統(な王権受託)」という流れになっていった経緯、そこからの派生として「聖性」のハブであった教会が「知」と「金」の象徴交換(意味的転換)的役割を果たした経緯について歴史的に見つめ直していこうかと。


<「武の時代」が過ぎて「経済」の時代が来て、その次に「情報の時代」が…>、とか一口にいったりするけど貨幣が認められるまではけっこうな意味的交換作業が必要だった。中世ヨーロッパの場合、その際に贈与交換と貨幣交換の信用代替をしていたのが教会だったわけだけど、そういった地味な意味的変化を見ていきたい。


そういう作業というのは知識社会学だかシンボリック相互作用論だかなんに当てはまるんだかよくわかんないんだけど、まあぼちぼち



posted by m_um_u at 21:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年09月02日

サンデルから「ナウシカ解読」まで読む読むメモ

ゴリっとメモ的に。ナウシカ本読む用


ナウシカ解読―ユートピアの臨界
稲葉 振一郎
窓社
売り上げランキング: 207612
おすすめ度の平均: 3.0
1 難解…
2 社会学っていったい
1 学者のうんちく垂れ流し本
5 ユートピア論
4 人間精神の中の「腐海」に



これ自体はだいぶ前に買って積ん読だったんだけど「ノージックの最小国家論が元になってる」ってことで、そっち読んでからかなあと思ってたたら卻ってハードルが高くなって積ん読に…。

そんで世間は「サンデル読んでる?」的な感じになりつつも「サンデル以前にそこに至る思想史おさえてねーと意味ねーべ。つか、オレはノージックもナウシカも…」的なデータベース問題みたいになってたり。


そんなわけでそのうちアメリカの思想史あんちょこ読むつもりだったんだけど


哲学者、翻訳家・中山元の書評ブログ : 『新版 現代政治理論』キムリッカ,W.(日本経済評論社)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/nakayama/archives/2010/06/post_92.html

新版 現代政治理論
新版 現代政治理論
posted with amazlet at 10.09.02
W. キムリッカ
日本経済評論社
売り上げランキング: 115542
おすすめ度の平均: 4.0
4 政治理論概括書の白眉
5 現代政治理論のグローバルスタンダード
1 政治思想界での新たな共産主義の形
5 非中立的記述の効用
5 「ポスト・ロールズ」への最良の道案内




第二章で功利主義、第三章でロールズとドゥオーキンの「リベラルな平等」理論、第四章でノージックなどのリバタリアニズム、第五章でマルクス主義、第六章でサンデル

あと、宮台さんがリベラれリズム関連でなんかつぶやいてたり


MIYADAI.com Blog 米国におけるリベラリズムとリバタリアニズムのルーツ
http://www.miyadai.com/index.php?blogid=1&archive=2010-4-7




これ見つつぢみに理解するかあと思ってたんだけど、kousyouくんとこ読んだらだいぶまどまってたので重宝した、という話



マイケル・サンデル講演動画「失われた民主的議論の技術」 | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2525

リバタリアンの9分類表とリバタリアニズム関連本・入門書まとめ | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2522


上のエントリがサンデルに至るアメリカ思想史の概説。下のエントリはその中でのリバタリアンの分類。


おーざっぱに、リベラリズムが「制限なき自由」+「再分配などの互助」って感じ、か。(語弊あるだろうけど)中高生の純粋な正義感みたいなの。「それも制限とか多元的正義の問題がなければできるんだけどね」って気づく前の。


リバタリアンも自由を追求するところは同じなんだけどもっとラディカルに。「再分配イラネ 下手に国家とか介入せず市場原理で自由つらぬけ」ってとこだろうか。まあはてななんかで言う「モヒカン」ぽいけど(稲葉さんとかもモヒカン族ぽいし


モヒカン族とは - はてなキーワード
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%D2%A5%AB%A5%F3%C2%B2

実際リバタリアンを自認・他認してるっぽい日本人のひとってなんか好戦的に見える。



そんでコミュ二タリアンがその間、リベラリズムを基本としつつも共同体的制約や多層な「界」によるアイデンティティ(多層的に状況付けられた自己)やそこから派生する制約(しがらみ)みたいなものを考慮に入れる。


こういうのを日本社会に当てはめた場合どうなるんだろ? 「日本の公共圏は会社組織の中(コモンズ的な場)にある」みたいなこと言われるけど、その辺との関係で考えるとどうなるんだろとか思ったり。

まあサンデルも読むとして

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル Michael J. Sandel
早川書房
売り上げランキング: 1
おすすめ度の平均: 4.5
5 考えることから始まり、それは一生続く
5 いいと思います。
5 ハーバードの教養の高さが分かる
3 論の弱さが目立つ
5 正解のない問題にどう立ち向かっていくのか



そんでナウシカだけど


いまにして思うと「ナウシカ解読 - ユートピアの臨界」ってちょっと共産主義 → コミュ二タリアンっぽい宮崎駿にモヒカンな稲葉さん(リバタリアン?)がガンガン突っ込んでく本だったのかも


ナウシカ解読 - ユートピアの臨界 - 雑記帳
http://d.hatena.ne.jp/ced/20060730/1154236048



てか、

ナウシカは無邪気なリベラルなんだけど物語が進んでいくうちに作品世界の事実性・制約性がその無邪気さを鍛えていく。

 近代的な意味での「正義」の立場は典型的には従来の「勧善懲悪」の子供向けファンタジーやマンガ、アニメが図式的に描いてきたような、ある特定の立場の正当性を絶対化することではなく、様々な立場の固有性を尊重することであると同時に、だからといって価値相対主義化でもなく、そうした立場の多元性を可能な限り実現していくために、そうした諸々の立場が共有する一つの足場としての現実世界の客観的な事実性の構造に立ち向かう姿勢である。マンガ『ナウシカ』における主人公ナウシカの立場は、そのようなものである。これがナウシカにおける「政治」の前提なのだ。



この辺なんかは幼いリベラリズム批判というだけでもなくご自身のモヒカン性に対する皮肉にもなってる気がするんだけど

 ハーバーマスの見解は傾聴に値するものであるが、彼の「コミュニケーション的合理性」は人間同士の合意の可能性を焦点に置いている。しかし、私の観点からするならば、先に状況意味論を参考にしつつ長々と論じたごとく、コミュニケーションにおいて重要なのは合意よりもむしろ人々の間の立場と見解の相違であり、にもかかわらず人々の間に共有されている客観的な事実、現実の存在である。事実はいかなる合意された錯誤をも押し流す力を持つ、仮に合意された錯誤を人間が強引に現実化してしまうことができなければ。そして仮に合意された錯誤を現実化することに人間が固執するならば、そのような形で「啓蒙」が行われるならば、問題はまたホルクハイマーとアドルノが論じた、「啓蒙」の暴力性というレベルにまで押し戻されてしまう。重要なのは合意の可能性よりもむしろ、多様な立場からの一つの世界についての知識のどれかが、少しでも真実を探り当てる可能性を開いていくことである。



ともかく

そういう個別の制約からの「自由」観の反省はリベラリズムとコミュニタリアニズムの対決とも思えるんだけど

最後のほうはコミュニタリアニズム基本にしつつリバタリアニズム(ノージック)のほうから宮崎駿の結論に対決していこうって構図だろうか



 彼女がこの真実を欺瞞をもって覆い隠したのは、「青き清浄の地」の審問に大多数の人間は耐えられない、との実践的判断ゆえである。「青き清浄の地」は人間一人一人を断罪しはしない。しかし、総体としての、種としての人類には死刑宣告を下している。この種としての人類への死刑宣告は、逆説的にも、「生まれ ひびきあい 消えていく」一人一人の人間にとっては解放を意味するものに他ならないのだが、なお一人一人の人間とはナウシカや「森の人」とは異なり、種としての人類への自己同一化なくしては正気を保つことができないであろう、と。

 つまりこの真実は「政治」の場へと引き出されることなく、「倫理」の内にとどまっているのである。ここに我々は「政治」と「正義」、そして「倫理」の間のずれを見てとることができる。



「作品にも描かれていたように、ナウシカの立ち位置はあまりに達観な自己献身すぎてて余人はついてこれない」ってこの辺は同意。「それは作者も分かっていて作品における読者へのメッセージにはしにくかったのではないか?」ってのも



そんで、作品の結論としては「達観的ユートピア(青木清浄の地)を捨て現実の血みどろの戦争、対決、その中での話し合いの場にもどるべきだ」ってことにはなるんだけど、稲葉さんとしては「その論自体がまずユートピアがあることを担保としているのではないか?」って疑いをかけるみたい。


……私のいうユートピアとは、「倫理」が「政治」を超えるその限界にほの見える理想とでもいうべきものである。それは人間が自らの構想力において作り上げる(実現不可能とは限らない)虚像である場合もある。と言うより、従来言われてきたほとんどのユートピアとは、そのような虚像であった。しかし、私の立場からすれば、例えばマンガ『ナウシカ』における「青き清浄の地」がそうであるように、人間の手が触れない外部に現実に存在している他者の場所もまた、「政治」を超える「倫理」の立場によってはじめてかいま見ることが可能であるという点においてまさにユートピアなのであり、逆に人間が虚像としてのユートピアを構想しうるのもまたそのような外部がある(らしい)ことによって支えられているのである。(p175)


 かくして問いは再びくり返される。ユートピアを窒息させるものとしての戦争状態に抗する方途についての問いは、メタ・ユートピア論の問題提起に回帰する。人間が望もうと望むまいと、人間の世界にとっての他の可能性は存在する(らしい)。しかし、それがもっともはっきりと示されるのは、人間の世界の外側、人間とは関係のないものたちとの出会いにおいてである。その出会いは人間にとって、果して本当に救いなのだろうか?論理的には、救いでも災厄でもありうるし、何事もないこともありうる。もはや、それ以上のことは言えない。具体的なひとつひとつの「他者」との出会いを通じて、そのたびごとに我々自身が取り組んでいくしかない問題である。(p185)



この辺はなんとも…。たすかにラストはちょっと性急に詰め込みすぎて「血みどろの話し合い」の具体性に欠けた感はあったように思うけど。

そんで、ナウシカの後継としてはその辺の課題が残ってるようには思うけど、最近はそゆのも捨てて「達観でいーじゃーん」ってなってるところもあるのかな



posted by m_um_u at 22:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年09月01日

「会社とか学校と家庭」「システムと生活世界」「壁と卵」「聖と俗」との間ぐらいの話

昨日のエントリで「商業化・物象化などによって日常生活のなかから実存が搾取されていくことの是否」みたいなのを考えて


聖性と市場のあいだ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161162630.html?1283266712



いちおぼんやりとした着地点は得られたのだけど、似たようなことを違う言葉で語ってるエントリみかけたのでメモ的に


コモンズと能力 - heuristic ways
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20100818/p1


オレのにしてもそうだけど「システム / 生活世界」≠「壁と卵」ってマルクス主義的産業社会論からの批判理論みたいな基軸があるように思う。


そんで、「生活世界を持ち上げるあまりシステム毛嫌いするのはどうなの?そういうシステムも我々が創り上げたものなのだよ?なので内部から変えていこうよ」ってのがこの辺の目標設定になるかなあと思うわけだが




近代産業の中でモノのように人々が資源や商品とされていく中で、「芸術・道徳・宗教・政治的信念・科学などの上部構造は幻想というよりはモノのような存在感をもつ。その存在感はともすれば人々を追い詰めていく」
http://tumblr.com/xauh9mq60


この辺りの「がっちりとした壁」のような存在感をもった制度(あるいは文化慣習)の記述は自殺や就職氷河期問題思い起こさせる。絶望に追い込まれる際に厳然と屹立する「社会」という壁



資本主義による分業・専門化によって個人の多様な能力はその「界」に合うように限定特化(アジャスト+スポイル)され他の世界への回路を奪い、狭い世界にひとびとを閉じ込める
http://tumblr.com/xauh9mu03


女性の場合、「主婦だからできるのは当然」「主婦として」みたいな感じに追い込まれ、シャドーワークを当然化されたり
http://tumblr.com/xauh9muvu



そして「ほかの世界」との回路を失って孤立化、疎外感を高まらせて欝になっていったりするわけだけど


「社会」が要請するモノ(あるいは資源)として利用価値のなくなった人々は排除されていく。




しかしこのような「社会が要請する労働力」も資本主義そのものから再生産されるのではなく、コモンズの場によって再生産される。
http://tumblr.com/xauhbv288


ここでいう「コモンズ」とは「家族や会社での協働という資本の外部」。たとえば会社内部で「そのスパナとってくれ」といっても「代わりになにしてくれる?」というように対価をもとめたりはしない(≠資本主義的関係ではない)。そういう関係は共産主義的とも言える。
(※ここは共産主義というかボランタリーな協働的ということだと思うが


そういった業務が流れやすくなるような常識的なものを身につけた労働力は市場(会社)の外部で再生産されていく、と


この辺りは教育現場としての学校と家庭が思い浮かぶ。学校で工場・軍隊のための規律訓練が行われていた名残りがそのまま企業戦士生成に受け継がれている。


なので、ここでいわれる「協働」の場の可能性、「分業化に限定特化された能力ではなく多様な能力としての協働的なもの」というのは家庭における非偏差値教育みたいなものかなと思う。


 渋谷氏は、「親密圏でのケアや社会的ネットワークのサポートの有無により、個人の「できること」がじっさいに増えたり減ったりする」という事例を示して、「能力の共同性」という考え方は、「個人の行為が、じつは協働という行為であり、その意味で個人の「能力」は個人のもの(所有物)ではないということ、そして能力は共同体(コモンズ)からの借り物であるというある種の実践感覚に通じている」という。


http://tumblr.com/xauh9mzft




「職業意義のある教育」の話とか思い起こさせるけど。


濱口桂一郎、2009、「新しい労働社会」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html


国家や産業社会のための教育と生活を豊かにするための教育みたいなのの間





この辺の話はあらためて 「ポストモダンの共産主義」とあわせて読むとおもろそう。デュルケムも読むだろうし

posted by m_um_u at 23:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年08月31日

聖性と市場のあいだ

さっきのエントリはなんか前説みたいになって消化しきれなかったのでもう一回。

ほんとはこの辺考えたかったわけだけど



「今年の夏俺全身ジャスコ〜♪」、と彼女は言った: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161061791.html

祝祭はもともとハレの日で、それは日常の生活とは異なる異界でありだからこそ過剰な演出・スペクタクル・情報量も腑に落ちるわけだけど、それがいつも続いてると居心地が悪くなる。


現代の消費的な欲望は宗教的性格を持っていたハレを市場的に再生してみせたもの、あるいは現世の法と聖性との境界領域に属する「市場」の性格を商業的な部分だけデフォルメして再現したものといえると思う。

しかしそれは商業的なところだけクローズアップしたデフォルメであるがゆえに失われたバランス、居心地の悪さというのがあるのだろう。現代人の場合、普段の生活が異常に忙しく、その忙しさのストレスを金―消費であがなうようにできてるので気づきにくいだろうけど。

でも、普段の生活でそういったスピード感、それを支える情報量に耐えきれなくなって違和感が生じる。自分のいる空間と実存に対して欲望がオーバードライブしてるので。(端的に言うと「ちっぽけな自分の部屋に比して広告やテレビでみる都会生活のきらびやさから疎外が生まれる」)



そういった欲望、付加価値、情報の実生活に対するオーバードライブに対して、「特別な場所での特別な体験」というのは空間と情報量的に整合性をもたらすのだろうなぁ、となんとなく。




市場と聖性の問題

「昔の市場は都市の外縁、無縁領域との境界部分にあり、やがてそこに境界的なものも築かれていっていたようだ」って網野さんなんかも言ってた話。

そこに、「マスメディアや興業が発達していなかった中世・近世では宗教美術がエンタメとして機能していたのではないか?また、知のハブとしてのマスメディア的機能、教育的機能、法制度的機能も同時にもっていたのでは?」、という仮説も加味したところから上記の話が出てきた。


「マスメディアが発達していなかった頃は稀人的旅人が都市と都市、人と人との間の情報伝達の役割を担っていた」ってのもあるわけだけど、とりあえず都市と祝祭の契機として。


祝祭というのはもともと宗教的なもの、あるいは収穫の喜びを祝うものだったはず。暦は農暦だか占星術だかによるのかマチマチだろうけど。


とりあえずそういったハレの場として祝祭は機能してたはずだけど、エンタメのきらびやかな部分のみを分節化し金で代替交換するようになってなんか歪みが生じたのかなぁ。文脈切除して楽しいところだけ味わうことになるので。「金で交換する」ことにはなるんだけどタイムラグほかのズレがあるし。

そこでは生の体験や実存が失われる。もっと具体的に言えば「祭りに参加してる・一緒に作り上げてる」感が「金で買ったもの」という消費対象になる。



そんなこといってたら「消費社会やだわー」「お金きたないわー」な産業社会論批判に陥りそうだけど



咀嚼中 - うたかたの日々@はてな
http://d.hatena.ne.jp/soneakira/20100827



「現代の資本主義では、客観的な市場の「物と物との関係」は偽りの

人格化をほどこされた「人と人との関係」という形で現れがちである、と。

そしてハートとネグリはこの罠に陥ったように見える。

彼らが直接の「生の生産」と称揚するものはこの種の構造的な幻想なのである」



「しかし「人と人との関係」が「物と物との関係」に置き換わることの

「疎外化」作用をむやみに嘆く前に、そこに解放化という逆の効果も

あることを明記したい。「物と物との関係」へのフェティシズム的置換に

よって、フェティシズムの対象ではなくなった「人と人との関係は、

「形式的」自由と自律を得られるのだ」



マルクスの「物象化」の重要性についてのジジェクの言葉だそうな(「ポストモダンの共産主義」)


ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として (ちくま新書)
スラヴォイ・ジジェク
筑摩書房
売り上げランキング: 4642
おすすめ度の平均: 3.0
4 ジジェク節炸裂
3 第1部だけならなかなか
2 左派の行き詰まりを体現した著
4 熱めのジジェク
3 逆説的政治主義





文脈は全然違うんだろうけどちょうどこういうの考えてたのもあってなんか印象に残った。


金へのフェティシズムと物象化、金依存な交換関係で人疎外、と。人ってか「人と人との關係」ってやつ。

マルクス主義的な思考ってのはそういうのになりがちで、自分もそういう話の流れになってたわけだけど「なんか違うな」ってところで。


まあ、たすかにゲマインシャフトのときよりはゲゼルシャフトになったほうが流動性は高まるもんな


そんで「現代人たる我々の場合、金と金との關係の中にわれわれの実存がある」ってことになる。それはすれっ枯らしのドライな關係だけじゃなくて、ゲゼル的社会のなかでの親和というのもあるし。



(ところで「ポストモダンの共産主義」はBI論の基本になるようで飯田さんがなんか書いてくれるかも、とのこと)
http://twitter.com/synodos/status/22499479338



だいぶ横道いったけど最初のほうの郊外化(一億総ジャスコ)の話に戻れば、「ジャスコは着てても心は錦」ってのは消費の完全否定でも、欲望による洗脳というわけでもなくその間ぐらいという話になるのだろうな。


現代のふつーの生活の中でモノに流されすぎずにそのありがたみを謳歌するみたいなの。

これまでマスメディアが流してきた幻想・物語が飽いてしまったのなら、もっと以前にさかのぼって人同士がメディアになったり、聖性なりなんなりの媒介としていくのもアリだろうし。

スピリチュアルすぎるのもアレだろうけど、<宗教>的に構築される以前の聖性(アウラ)と畏敬みたいなの。

あるいはハレ・ケ・ケガレをなぞるなら「欲望という擬似的なハレによりすぎたバランスをケガレを通じてケ(日常)に戻す」って作業が必要ということになるんだろうけどいまはジャスコっていう普段着(ケ)を通じてケガレにいこうとしてるのだろうか?

本来、聖(ハレ)もケガレも日常からすると「無縁」ということになるのだろうけど、ハレがあまりにも日常になってる社会の中で、汚れたモノ(霊柩車や臭い)が隠されていってることなんか思うけど。まぁこの辺もあまりナイーブになっても仕方ないか。





アウラと体験といえば瀬戸内国際美術祭どうしようか…。


「びみょー」って聞いて「びみょーかぁ。。」ってテンションさがっちゃったんだけど。あと、行き帰りの面倒さもあるし。


「その場のプレミア感+物語+アウラ」ってのが引きになるとおもうんだけど、「物語」としてはそんなに感じるものがない…。


たぶん初秋の夕暮れなんかに「変な島にきちゃったなー」って思いながらぼけーっと迷うのが一番にあってる感じがする。


そういうのは物語なのかなぁ?、とか。


もしくは聖性にも似たようなその場独特のアウラが発生したりするのかなあ、とかとか



・・まあ、もうちょっと悩むか






昨日もまた大きな入道雲見た

http://movapic.com/morutan/pic/2557156


マグリットとかダリみたいなクッキリとした輪郭線の大きな雲


その広がりをみてるとこちらでは空が大きく感じる。



それ自体がひとつのアートみたいで、それでおなかいっぱいってのもあるのかもしれない








--
関連:

ハレ・ケ・ケガレ―共同討議 (1984年)
桜井 徳太郎
青土社
売り上げランキング: 1003767



宗教生活の原初形態〈上〉 (岩波文庫)
エミル デュルケム
岩波書店
売り上げランキング: 372313
おすすめ度の平均: 5.0
5 宗教社会学にとどまらない深さを持つ一冊
5 なぜデュルケムを読まないの?



宗教生活の原初形態〈下〉 (岩波文庫)
エミル デュルケム
岩波書店
売り上げランキング: 195783
おすすめ度の平均: 5.0
5 宗教が諸制度の起源であるという洞察



「教会は法制度的機能も仲介していたのでは?」関連ではこのへんも


哲学者、翻訳家・中山元の書評ブログ : 『古代から中世へ』ピーター・ブラウン(山川出版社)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/nakayama/archives/2007/05/post_29.html



貨幣の仲介きのうについてはこの辺


哲学者、翻訳家・中山元の書評ブログ : 『中世の死 : 生と死の境界から死後の世界まで』ノルベルト・オーラー(法政大学出版局)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/nakayama/archives/2007/07/post_40.html


死後の財産分与に関して、ゲルマン法とローマ法での違い。そこに教会が絡んできた。結果的に財産の1/2は教会が受け取ることに(cf.冥銭の慣習と教会) 王の死と「死後もその身体によって豊穣をもたらす」という通念

posted by m_um_u at 23:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年08月07日

祭祀(再帰)的な彼ノ所

「せっかく広島帰ってきたから8月6日イベント行こう」って気持ち。てか、帰る前からいくつもりだったし、行くとしても暑いから朝はいかないで夜ぐらいかなーって感じだったんだけど


狙いとしては暗闇のなか海へと流れていく灯籠たちをtwitcastingで追えるときれいかな、と。


集った人たちは暗闇を背景に静かに祈っていて、その闇に色を付すように灯籠が点々と浮かび流れていく。色とりどりの灯籠が沈黙の被爆者たちの感情を代弁するように、暗闇の過去・現実に対する未来への希望のように、暗闇の中たましいを載せて海へと還っていく。

そんな場面を想像してたんだけど裏切られた。


実際の灯篭流しはなんか音楽と喧騒と過剰な光で騒がしく、花火大会みたいだなぁって。あるいは靖国神社のみたままつりの対称のような、そういう騒がしげな光。

両方とも右翼だか左翼だかのひとたちが「英霊の」とか「平和の」とかがんばっていうんだけど一般人はそういうの無視というか、カタカナ的に「英霊大事」とか「平和大事」とか刻むんだけど深く考えることもなく実質はお祭りとしてのそれらを楽しんでる、みたいなの。

「英霊祭り」とか「平和祭り」



みたままつりについては行く前と行った後にちょっと調べて、けっきょくは「七夕祭りの延長」ってことみたいだった。

靖国自体は戊辰戦争の慰霊系の延長でできたものなんだけどそれが軍国時代にゆがめられて延長され、「戦争−国家のためにはたらいて死んだ者たちを国の柱として祀る」みたいな感じになったようなんだけど、みたままつりというのはそういった靖国の由緒的なものとは特別な関わりはない。

もともとは戦後に「長野の遺族会の有志が盆踊りを奉納したのがはじまり」、と
http://isuzujinja.blog103.fc2.com/blog-entry-565.html

盆踊り自体ももともと各地でバラバラの型があったものなんだけど戦後にメディアイベント的に広まってテンプレートが普及していったもので特定のオリジンとか由緒があるわけでもない
http://www.onitoge.org/bonodori/02keifu.htm

なんとなく昔ながらの「祖霊崇拝」的なものはあってそこに重ねていった感じ。

なので靖国のみたままつりというのはそんなに「由緒正しい昔ながらのもの」ってことでもなく、盆踊りというあやふやなところが出自だったり。

時期としては7月13日から4日間ということで祇園祭と同期だったり、七夕の少し後だったりする。だいたい「先祖の霊を迎える」ということだったらお盆があるのになぜこの時期にやるのか?



これは「なんかわかんないけど各月ごとに祭りあるとよくね?」ってのはもちろんあるだろうけど、全体的に七夕の延長なのかなぁと思う。

七夕というのは中国出自、陰陽五行関連の天文とカレンダーの関係から出てきた「裁縫上達祈願(乞巧奠  きこうでん)」が、日本の祖霊崇拝(お盆)と習合したみたい。
http://bit.ly/bC3B4e

http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/tn00a3.htm


お盆も七夕ももともとは旧暦の7月7日と7月15日にやっていたものだけど、それが明治期の改暦によって新暦7月と8月にやる地域とでわかれていったみたい。

それで現在でも8月7日(旧暦では7月7日)に七夕をやる地域もあるんだけどなぜかお盆のほうは8月って統一されてる。まあ出稼ぎとかにいっていて「お盆休み」ってするのが一律都合よかったからかなぁと思ったりするけど。夏休みも兼ねるし。


特に農暦と関係の無い七夕が広がっていったのは貴族経由とか五行カレンダー経由かと思うんだけど、「一年に一回帰ってくる(めぐり合う)」というところでお盆的なものと習合したのかなぁ、とか思う。


日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代である


http://bit.ly/bC3B4e


なので、七夕も含めて8月15日まではなんとなく「お盆」的な性格がある。みたままつりの「英霊を迎える」というのはこういった七夕からのお盆的性格を汲んだものもあるのかなぁ




そう考えると8月6日とか、8月9日とかもそういうものなのだろう。それは「昔ながらのもの」というわけでもないんだけど、さきほどから言ってきたように「みたままつり」にしても「盆踊り」にしても「創られた伝統」的なものなのだから「昔ながらのもの」的な由緒にそんなにこだわることもないように思う。

けっきょくは7月から8月の半ばまでのなんとなくの「還る」って感覚の延長なのかなぁ、と。



なので「平和祭り」-「灯篭流し」にしてもそういった「祖霊を迎える/送る」といった習慣が基本にあるのではないかと思うんだけど、そういった「お盆」的感覚、お墓参りみたいな感覚とは別のところで「祭り」は進行していく。

それは街宣車で大声でアピールするのと同じように大きな声と光でカーニバルのようにたましいが食い荒らされて行くようで、個人的には違和感だしなんかイヤ(たんじゅんにうるさいのでイヤ)


そういった大きな声に反応するように「平和祭り」自体が大きな出来上がったものになっていって、それを彩る左翼的言説が8月6日のフレームを構成するように外部に受け取られていく。

そして大きすぎる声に反応するように対抗言説が奉られたり


asahi.com(朝日新聞社):エノラ・ゲイ機長の息子、米大使の広島訪問批判 - 国際
http://www.asahi.com/international/update/0806/TKY201008060092.html


その気持もわからないでもないんだけど、こういうのを見たり、その周りの反ヒロシマ言説みたいなのを見ると寂しくなったりする。それほど「ヒロシマ」にコミットした憤りではなく、(特に信じてもない)墓参りを馬鹿にされたり否定されたりするそういう寂しさ。




「ヒロシマ」というとき、やさしいこたえがかえってくるようにするためには、わたしたちはよごれた手を清めなければならない




とかつて少女は言った。


でも、汚れというのはどういうことなのか? 完全に汚濁を除去して清浄なものを創り上げることが「平和」ということなのか?(そしてそれは可能なのか?


muse-A-muse 2nd: 被爆のマリア
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/36290326.html



「核兵器は絶対悪。それがわからない人たちはまだまだ悪」みたいな思考がそういった思考に追随しないひとたちを排除するような潔癖さを表しているのではないか?

そして、その潔癖さ、「正しさ」による排除の傲慢さに抗するように刺のある言葉が投げかけられる。(あるいはバカモノに空を汚される
http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/2008-11-03





そういった大文字の「ヒロシマ」「平和」とは関係の無いところで、祭りと化した式典にも灯篭流しにも参加しないで静かにその日をやり過ごす人達がいる。

あの日の毒の影響で授業中にいきなり病院に連れていかれて検査され補習もされずにその部分は損なわれたり、「ゲンバクのひとだから結婚できるかどうか…」みたいな不安を背負わされたり、そういった記憶はなるべく遠ざけて暮らしたいと思ってるのに式典に呼ばれたり…。


そういった人たちの静かな祈りも大文字の「ヒロシマ」「平和」に与するものとして否定され汚されていくということ


それを寂しく思う。





そんなことを思いながら祭りの喧騒に違和感を持ち疎外されつつ家路に着こうとしてたら帰りにわりとヒッソリと灯篭流しをやっているスポットをみつけた。

そこでぼんやりと灯籠を眺めていたらなんか気分よくなった。けっきょくたんじゅんに「花火みたいなのを静かにぼんやり近くで見たい」ってだけだったのだろう。



そこではビルの灯りが川面に映えて、その光のさざ波を背景に人の影が踊っていて、それらを静かに灯篭たちが横切って…

遠くで少しセミの声。芝生の片隅にビール置いて寝転んでるひと


夕凪の原でぼんやりと平和を感じつつ帰路についた。





祭祀のように教条的に、あるいは「創られた伝統」のように再帰的に大文字化した「平和」の祭典をあとに

彼岸に寺町を見つつ「リリィ・シュシュ」のオープニングのように暗闇を自転車で





--
関連:

8月6日当日のついっと
http://twilog.org/m_um_u/date-100806


当サイトのいままでの「ヒロシマ」関連の日記
http://bit.ly/aCbpM1

http://bit.ly/9zJrU7



タグ:ヒロシマ
posted by m_um_u at 12:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年07月17日

幻想・過去・未来 (迷い道くねくね〜♪)

こっちに移り住んで半年とちょっと、生活のルーチン的にはようやく慣れたけどまだ「その土地独特の当たり前の感覚・常識」みたいなものがわからなくて戸惑うことがしばしばある。

東京は広島に比べてみょーに家が密集しててどこを歩いてるかわからなくなったり、いきなり突き当たりで迷路から脱出できなくなったり。

そういうのも最近ようやくiPhone手に入れたから少しずつ解消されていくのだろうけど


でも、やはりその土地の性格、それを支える歴史のようなものを知っておきたいと思って住んでるところ周辺に関するムック買ったり。


そんなこんなでこちらにもゆっくりと馴染みつつ広島のことなんかも思ったりする。来月には広島にしばらく帰るし



そういうことを思っていたときに電車でこのエントリを見た。



東京と私 (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2010/07/01_1227.php



「ヨソと比べて文化と呼べるようなものがなにもないところで生まれ育ったわたしたち」

そういう自己規定はこの年代からすでにあったわけで、以前にちょっと思った「東京と郊外」とか、「郊外にもなりきれない地方」のことをぼんやりと思い出したり。


muse-A-muse 2nd: (地方と)「東京」から考える
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/37783115.html



このときはまだ「東京ナニサマ?」的ヒガミとあこがれが入り交じったコンプレックスのようなものがあったように思うけど、いまは東京周辺の感覚に慣れてそれが「当たり前」になっていくことがちょっと気になったりする。

ここで書いていたように「東京というのはみょーに過剰な消費幻想のテンプレートの上に成り立っている」という感覚は変わらないんだけど。


そんで最近のこのエントリなんか思い浮かんだ。



郊外とイエとナショナリズム « Soul for Sale
http://blog.szk.cc/2010/07/04/suburb-home-and-nationalism/



ここでは上述してきた論点、

「郊外化によって無機質でフラットな土地になること」
「そこでのアイデンティティの問題」

などに加えて

「画一化に対して個別的な幻想をまとい地方ごとの独自性を出していくこと」
「でもその独自性は東京発の消費幻想を基盤としていること」
「そういった経済的に還元される独自性とは違った各地方独自の特殊性を『守りたい』意識がオラが町的ナショナリズムをつくりあげていくこと」
「しかし、そういったナショナリズム的なものに還元されないマイノリティが地方から弾きだされて東京に吸収されていくこと」

などがあげられている。


というか、「幻想−希望の行き着く先は問題や不安をはらんだ不安定なものだけど、彼ら/彼女らの物語をヨソ者が笑えるのか?」ということ。「恋空は外から見るとアレゲな話だけど、ああいったリアリティを実際に生きている子たちがいる」みたいなの。



そういえば少し前にまた放送されていた「耳をすませば」なんかも東京の団地的郊外(多摩以西、聖蹟桜ヶ丘)における希望の話とも言えたと思う。「俺たち/私たちはこのままここでサラリーマンとして一生を終えていくのか?」的なものに対する「違う未来もあるかもよ?」的希望。

そういったメッセージが暗に込められているところがあるのでそれをお仕着せに感じる人達は「サラリーマンでもいいじゃない!そこに誇りを持てば」とか「中学生のうちに恋愛なくてもいいじゃない!」とか過剰に反応してしまうのだろうけど、自分的には単に「そういった未来もある」という選択肢程度に感じられた。その意味で希望−将来に対する幻想なのだろうし、あの幻想を必要とするような地味なリアリティが基盤としてあるのだろうなぁ、と。



話それたな、少し戻すか。「東京の消費幻想が溢れ出すことによってそれが幻想の基本ラインとなり『ふつうのひと』になるための経済的な敷居をあげてしまう」こと。「それに対するために経済的に還元されない地域固有の幻想(おはなし)を喚起させていこうとするけどそれにも馴染めなくてあぶれていく人たちが出てくる」こと。

基盤となってるのは「消費幻想(東京)が地方に溢れていってそれに見合う可処分所得がないので疎外感じちゃって(うんぬん)」ってとこなのだろうから、経済的には「景気良くして所得回るようになれば解決するんじゃね?」ってとこかなとか思うんだけど(その方法は別の問題として)。あとは「大企業ってほんとにいまのまま東京集約してる必要があるのか?」とか。

そゆのとは別に「オラが町」とか「自分の生まれ育ったところ」に対する記憶とか愛着というのはもうちょっと違った形で未来に結びつけていけないものかなぁ…。ナショナリズム的に違ったところがいろいろ削られてひとまとめにされていくのではなくて、「違ったものは違ったもののままゆるくつながったり離れたり、ほかのものとくっついたり離れたり、なんだったらそれだけで大きくなったり・・いろいろ」みたいなの。


地方とか、それなりの大きさの共同体の幻想とアイデンティティの関係を考えるとよくわかんないけど、少なくとも自分の問題としてはそんなにひとつのものにしばられているほどのものなのか?とか思ったりする。環境が変わるごとに歴史は受け継いだりリンクしたりしていくけど、その色だけに染められるのも違うって感じの。



コミュニティがまさに壊れるときに、アイデンティティが生まれる | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2159


「個人を追求していくと、歴史に行くしかないんじゃないか」 | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=1841



こうしょうくんなんかも似たようなこと思ってるのかね。




あと、あまり関係ないけど日本という国ができていった過程とも似てるな、とか。(以下、「日本史の誕生」から軽く)

「中国の植民地経営的なものが出自の日本やアジア圏の地域共同体は中国が乱れたときにその政治・経済的統治から離れて国家として独立していった」といわれるわけだけど独立を支えたのは経済的自立性はもとより幻想だったかなぁ、とか。「その国家の歴史」という幻想。日本の場合、それは中国からの独自性を主張するために作られた歴史(日本書紀)だったようだけど、そういった歴史ー過去が同時に未来に対する希望にもなったのかなぁ、とかちょっと思う。









タグ:東京 地方
posted by m_um_u at 23:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年05月16日

東京キャットガーディアンに行ってきたよ

もう一ヶ月ぐらい前になるけど、東京キャットガーディアンにいったので感想的日記を


東京キャットガーディアン〜子猫の里親募集〜
http://www.tokyocatguardian.org/


ここはNPOだかなんだかのネコシェルター的なところ。いわゆる保健所で「処分」されそうになってるネコをかくまって誰かちゃんと安心して世話をしてくれそうな人に提供するところっぽい。

まあ、いま言ったようによくわかんないでいったんだけどよくわかんないで行っても楽しめるぐらい敷居低かった。ネコシェルターとかいうとちょっと敷居高そうだけど


目当てはニュースでやってたネコカフェ

開放型シェルターのご案内 - 東京キャットガーディアン〜子猫の里親募集〜
http://www.tokyocatguardian.org/open_shelter.html


ここがシェルターを開放してて、かくまったネコとカフェ客が触れ合いながらカフェれる、っていっていたように思ったので興味持っていってみた。

でも行ってみると想像してたのとはちょっとちがって、カフェメインと言うか「なんだったらお茶も飲めますよ(セルフで)」って感じだったけど。 まあ当たり前といえば当たり前か


メインはやっぱり「里親探し」ってこと。なので土日なんかはそれが目的のひとたちで賑わってて「ちょっと和みに」ってことだとあまりゆっくりはできないかもしれない。・・いや、そうでもないか。オレずっとネコと遊んでたし。んでもガーディアンの人にいろいろ聞こうかと思ってたんだけどそんなこんなで忙しそうだったので気が引けてやめといた。「とりあえず自分がいまできることはネコの遊び欲を満足させることぐらいだなー」って(「自分が遊びたかった」、というのはもちろんあるが


遊んだネコたちについて。

最初にいたのはペルシャかなんかの長毛種なコとけっこう活発な細身のコだった。活発な方のコが主に食いついてきてたんだけど、それをみてるウチにウズウズしたみたいで長毛種のコもちょこちょこ猫じゃらしにじゃれてきて、最後は活発なコが遊びで興奮した勢い余ってかそのコとケンカしちゃって「はいはい、おじーちゃんこっちですよー」って感じでケージに戻されてた。

次に出てきたコも細身でよく遊ぶコでずっと猫じゃらしにじゃれてた。やけに転ぶコで「すごいいきおいではしるコだなー。まだ幼いから力セーブしないのかな?」と思ってたら前足が片方なかった。でも、それに気づかないぐらい元気で。

それに気づいてほかのコの説明書きみたらやっぱりなにがしかケガがあったり手術を受けたり、もしくは遺棄されてて人間不信的なところがあるようだった。でもそういうのも感じさせないぐらい元気だったけど。


そうそう、遊ぶのは誰でも自由なんだけどやはり遊び巧者と下手な人だと差が出るっぽかった。ネコが遊びの美味い人の方にばかり集まったり。このときはオレの方にばかり集まっててちょっと気になったけど・・まあ仕方ない


寄付なんかは自由にできるんだけど商品を買って、というか物品と交換的にも寄付できるようだった。物品は寄付から集まったものっぽい。この日はネコのペン立てをもらった。

あとはキャットガーディアンが懇意にしてるっぽいハーブティーかなんかが買えるっぽかった。それはネコカフェのほうでポットに入れられてるので試してから買ってみてもいいかも。


場所はけっこうあっさり分かった。

JR大塚駅の南口から5〜10分ぐらいのところ。
http://www.tokyocatguardian.org/open_shelter/accesmap.html



ネコは一回につき2匹な感じだった。それでお外で遊べるコが交代する感じ。感染症とかがまだ気になるコは「ケージの中に入れたままにしておきますから気をつけてくださいね」って感じ



繰り返しになるけど敷居はほんと低くて,誰でもすぐに遊べるし少なくともネコなでるぐらいはヨユーなのでちょっと興味持った人はいってみるといいかも


posted by m_um_u at 23:41 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2010年02月25日

親愛なる人へ

先日来おもってたことをぼけーっと

愛とか恋とか、オトナになるとか大人になるとか





大人はすぐに「オトナ」=社会的な当然やタダシサに逃げて目の前の、一見些細なコミュニケーションをないがしろにする。

「聞き分けがない」とかいうのは子供に対するオトナの逃げ口上で、そういった言葉に対する反発をもっていたはずがいつの間にか自分もそんな思考をするようになっていて。


あるいは、子供を育てたことがなくても「仕方ない」とかなんとかな逃げ口上が定着したり。


「それがオトナ=社会化することだ」ってのもあるだろうけど、ほんとに大人になるってのはちょっと違うんじゃなかろうか。


いくら言葉や外面的な思考では高尚なことを考えていたり、考えているように見せていても身近なひとたちとの関係に向き合えないようだったら裸の王様みたいなもので

オトナ語を繰り返す裸の王様(王子様)



そういったことに対する反感は、オトナの階段に置かれた果実を摂るうちに、いつの間にか忘れ去られて行く


セックスだの金だのステータスだの


あの頃に望んでいたものはもっと簡単でキラキラしたものだったはずなのに



安易な欲望に流されて惰性になる。社会的、外面的にはしっかりとした「大人」でも単に対峙すべき問題を先送りしているだけで日々のルーチンをこなす自堕落で惰性的なオトナに。


そういった自堕落さを見て「ほら見ろ。いくら高尚なこと言っていてもこれが奴らのほんとの姿なんだ。俺たちと同じさ」って弱い人達は自分を慰める


でも、

自堕落に目の前の安易な欲望に流されつつも、同時になにか考えてたりするのも真実なんだ

それがカタカナ(ドグマ)なオトナ語でもない限りは



そういったアンバランスでアンビバレンスなものは歳を重ねればそれ相応のところに着地できるのだろうか?

弱さに堕することなく、かといってギゼンやオトナぶったドグマにはまることなく着地する地点



そのための鍵はたぶん人への思いやりというか、目の前の人ときちんと向かい合うことなのかなぁ、って。

きちんと向い合って、「些細な」問題でも話しあって解決して行く。あるいは話さなくても寄り添えるようになる。


そうやって問題を解決して行くことを通じて段階的に鍛えられた精神の行き着くところとして、知性や理性のみに偏向することないものがあるのかな



恋愛の問題でもそうだけど、自分のしたいこと言いたいことだけいってちゃダメなんだろう

相手を思いやることに偽装したヤサシサのエゴなんかも

単に「ヤサシイ」だけならお互いにズブズブと腐(共依存)っていく。だから親愛の交換的なものが必要なんだろ




そういうのを抜けて、相手や世間からの見返りがなくてもぢわーっと続けていけるようになったら「愛」ってやつに近づいてるのかな

強いひとや弱い人にハッキリと対するのではなく、ぢわ〜っと陰から寄り添うような。相手に気兼ねさせずになにかのときに励みになるような




かつて制度の檻によって守られ自動化されていた親愛をもう一度自分たちで作り直す場合には相応のコストが必要で

真正面からぶつかってたら時間がかかったり壊れたり

だから、ほんのちょっとの心構えとしてお互いへの尊敬とか、お互いに「借りてる」意識が必要になるんだろう


もしくは信頼が信愛になるとかか


信頼は日常のちっぽけな「踏み出せない弱さ」を越えることの積み重ねとして貯まって行くものなのかもしれない




それがキミのいう「距離感」だったんだろ?






だから親愛なる人へ


ありがとう

さようなら



こんにちは




--
関連:
大根と椎茸の梅にんにくタジン:「おもひでぽろぽろ」-愛は花、君はその種: godmotherの料理レシピ日記
http://godmothers.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-d616.html






「愛は花、君はその種子」と「The Rose」: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/01/the-rose-43a3.html



大根と手羽中と凍み豆腐の出汁煮:決め手は出汁が下味な煮物:おもひでぽろぽろ「The Rose」: godmotherの料理レシピ日記
http://godmothers.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/the-rose-9f3a.html








[書評]おもひでぽろぽろ(岡本螢・刀根夕子): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/02/post-8932.html


[書評]タエ子ちゃんといっしょ おもひでぽろぽろ読本(岡本螢): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/02/post-243d.html



キャベツのスパニッシュオムレツ風またの名をお好み焼き:野菜炒めのリメイク:私のもう一つの「ケリ」タエ子ちゃんといっしょに: godmotherの料理レシピ日記
http://godmothers.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-52a0.html






こやまけんいち個展「棘の部屋のお姫様。」 - All Tomorrow’s Girls
http://d.hatena.ne.jp/fumi_o/20100204/1265253085






--
muse-A-muse 2nd: 羊でも狼でもなく「ふつーに生きる」ということ (reprise)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/43805201.html

muse-A-muse 2nd: 「正しさ」と「敢えて指摘しないこと」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/60655517.html

muse-A-muse 2nd: 続「小林秀雄の流儀」  「実生活と思想との間でバランスを保つ」ということ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/123045927.html




muse-A-muse 2nd: 「すべてはひとつであってひとつではない」ということ   (あるいは愛について
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/131485858.html



muse-A-muse 2nd: ひぐちアサ、2001、「ヤサシイワタシ」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/44136823.html


muse-A-muse 2nd: 信じるということ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/44278479.html




--
おやすみプンプン 5 (ヤングサンデーコミックス)
浅野 いにお
小学館
おすすめ度の平均: 3.5
4 目を反らしたくなる程現状的
4 もうドロドロ
5 おやプン史上最高の巻
3 青年向けだからの展開かな
3 ありがち



おやすみプンプン 6 (ヤングサンデーコミックス)
浅野 いにお
小学館
おすすめ度の平均: 4.0
4 だいぶ減ったなぁ。。。
5 展開と、プンプンの気持ちの変化?
4 プンプンママがすごい
5 もうムムニャムヤ
3 え、何で何で




ソラニン 1 (ヤングサンデーコミックス)
浅野 いにお
小学館
おすすめ度の平均: 4.0
3 ソラニン
5 もがきたくなるときもある。
4 「大人」が読むのもアリです。
2 ストーリーに深みがない
3 いつ、それを終わらせるのか






少年少女 (1巻) (Beam comix)
福島 聡
エンターブレイン
おすすめ度の平均: 4.0
4 大人のための少年少女
2 45過ぎの私には面白さがわからなかった、残念
5 いずれも 読み飽きない名作の短編集
5 達者。
4 生と死のジュヴナイル





ヤサシイワタシ 1 (アフタヌーンKC)
ひぐち アサ
講談社
おすすめ度の平均: 3.5
1 作者の自己満足?
4 ヤサワタ
4 こういうのが大学のサークルなのかなぁ
5 いやぁ? まいったよ!
4 この舞台になっている




家族のそれから (アフタヌーンKC)
ひぐち アサ
講談社
おすすめ度の平均: 4.5
4 若さ故の冴えた感性と自他の温度感
5 良かったと思う
4 ホームドラマ/デビュー作
4 腐女子のひとへ
4 残された人って辛いですよね




おおきく振りかぶって (1)
ひぐち アサ
講談社
おすすめ度の平均: 4.5
5 でも、好き。
5 野球をしてる人達はこんなにも頭脳戦をするものなのか。
5 息づく青春!野球!夏!部活動!!
5 あなどっていました
3 ありきたりかな。




posted by m_um_u at 08:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年11月24日

Rebecca Horn    性と生の超越


Now my hair is a glorious black, black as the raven's wing

(ANNE OF GREEN GABLES) Lucy Maud Montgomery







居明かして 君をば待たむ ぬばたまの  我が黒髪に霜は降るとも
            
                            (磐姫皇后








としとしに  わが悲しみは深くして   いよよ華やぐ いのちなりけり
                       
                       (岡本かの子、「老妓抄」











東京現代美術館でやってるレベッカ・ホルン展にいってきて


「レベッカ・ホルン展−静かな叛乱 鴉と鯨の対話」 東京都現代美術館
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/107/


東京のアート情報を発信 立川直樹責任編集"TOKYO ART PATROL"〜東京アートパトロール〜 : 静けさに潜む暴力性 知的で優雅な官能。何度も通う価値のある「レベッカ・ホルン展」
http://blog.excite.co.jp/tap/12299550/




思ったよりよかったしなんかいろいろ思うところあったので感想日記。

概要とか略歴はいまあげたリンク先を見てもらうとして、以下は自分的に思ったことの羅列的に


この人の作品とかどういった人かということはぜんぜん知らなかったんだけど、なんとなくそろそろ現代美術見に行きたかったし紹介写真にあった鴉の羽の作品がよさげだったので観覧することに決めた。


そんで、外枠的テーマはマーティン・クリードと共通する


muse-A-muse 2nd: 意味以前へ  Martin Creed展にいってきたよ (reprise)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/122569128.html



社会的に作られた意味の相対化・解体という感じ。ただ、先取りして言うと、それに終始することなく解体と相対化からさらに一歩進んでるように思った。彼女なりに「世界」と向き合うためのコードを伴って。

そのキーコードが「鴉」。

ここでのコードは攻殻機動隊なんかで見られるプログラム突入の際に使われる特定コードをイメージしてもらうといい。



私見ではコード「鴉」は日常の時間を超越した「闇」の象徴であり、また彼女が相対化しようとした「女性性」もまとっている。女性性というほど具体的なものではないのかもだけど、ほかの記号とは違ったみずみずしさというかウェットさをもっている。

それはすぐに「性」にむすびつくわけではないだろうけど、「貝」みたいな感じであからさまに表現された生物的「性」や、女性性をまとった女性にヒゲをまとわらせて遊ぶことによって社会的女性性を挑発している作品で表現されたようなものとは違った形での「性」との向き合い方だと思った。


社会的「性」でもなく生物的「性」でもない、自分の中に自然と埋め込まれている「性」の許容。



それが鴉のぬばたまの羽



(ここでいう「性」は「生」のアンテナのようなもの。その意味では竹田せいじさんなんかがいう「エロス」的なものにも近いけどそれほど大きな指向性をもったものではなく、もうちょっと微細でおぼろげで生活の感覚的なもの)



そして、

そういう形で自らの中の女性性を許容、あるいは向き合うことで利用することを選んだ彼女が最後にみせたものが靴の中への託卵的なものだったのはなんか象徴的だった。

彼女にとって「靴」のコードが何を表すのかまだちょっと定かではないんだけど、社会性というか社会の規則かなぁ

あるいは、往々にしてその規則に従い家計を支えるのは男性であることが多い、ということから「そういったものに自らの卵を預ける」ことを是しとして選択した、ということなのかなぁ、と。


彼女の場合は一般的な大部分の女性と違ってひとりで食ってけるから社会制度の象徴ということかもだけど。「靴」という小さなものとして表現したのは自分が住んでいる行政区域や、映画作りの際の制度みたいなものかなぁ



早足だったけど全体の概略というか物語としてはそんな感じだったように思う。それは「大人の選択」のように思った


Martin Creedのときには「構築されたものはすべて相対化する」あるいは「宇宙人の目から見るとそれは不思議なだけ」という感じで作品が展開されていて、最後まで社会や言葉の解体に終始してたんだけどなんとなくRebecca Hornの場合はその先を表現していたようだった。それは「一般的にこうすべきだ!」的な大上段に構えたものではなく彼女なりの世界との向き合い方




さて、早足過ぎたのでもうちょっと詳細に個々の作品というか流れ的なものについて語っていこう。


展示会場に入ってすぐにはローテクなオートマトンによる小作品群がある。

「相互破壊の場」(全自動なピストルがお互いに狙いあっていてその後ろには無限に続く鏡がある)や「ジェイムズ・ジョイスのためのヌーグル・ドーム」、「ピーコック・ペンシル・モーニング」、「バタフライ・ムーン」など

あとから思ったけどこれらは大きな機械だと社会的「システム」チックになるのでだめで、ローテクな小さな機械であるからこそ良かったのだなぁ。

オートマトンは時間性を超越した永久機関のようなところがあるし、小さな機械たちには自らが生み出した子供たちのような愛着がわく。フランスの自動人形のような。そしてスチームパンク的なローテクへの滋味と愛着。

そういった子供たちが不器用ながらも「わたし」が対峙している問題や美しいと感じる瞬間を表現し、時を刻んでいく。

魔女が生み出した子供たち


貝殻の間では「性」の生物的機能が対象化され、大きな泉では時間が超越される

「ペソアのためのハート・シャドウシネマ・ヴェリテ」と「鯨の腑の光」では時間の描き方がちょっと違う、というか前者が流れる時間を表現していたのに対して後者は時間が止まった空間を表現していたように思ったけど。そしてその空間では言語(-社会)も超越される。


あとでキュレーターの人の解説本っぽいのみたら「鯨の腑の光」というのは旧約聖書のヨナ記なのだそうな


「大魚の腹の中にいたヨナ」 代々木上原教会:礼拝説教
http://www.yoyoue.jpn.org/worship/getPreach.htm#05_02_20



われらは鯨の腑というヨナの空間を通じて時間(世界と存在)や社会を解体し、社会に帰るイニシエーション(しるし)を得る。


「鴉の木」は漆黒の時間を黄金の軌跡で迎える



屋根の先端で
目を閉じたまま深遠をまさぐる
私の下、木々の中で鳴く鴉たち


昇る太陽の光線が
私の身体を貫く


音もなく鴉たちは木々より飛び立ち
太陽の金の光の周りを回り
朝日の町を曇らせる


空の青に刻まれた
束の間の黒い黴のめまい







夜の闇は束の間われらを日常の時間と生活から解放してくれる。

漆黒の中に永遠につづくかのような落ち着いた時間がある。


朝陽はそんな夜のとばりを溶かしていくけど、カラスは朝陽の中で溶けつつ飛び立つ

そのあとには黒と金の軌道が残される



それはまるで生命の螺旋のような軌跡

あるいは攻殻機動隊2で見せられたヤタガラスの導き(ヤタガラスは時間と生命の有限を超越した旅にわれらを誘う)




壁一面にちりばめられた鴉(黒)の徴

それは黴のようにわれらの社会を侵食していく


黒に染まることで、われらの生き得る場が広がっていく



音楽は時間芸術

ピアノや楽譜を破壊することで社会的時間を破壊・超越していく






各作品についてのアウトライン的にはだいたいこんな感じのことを思った。



映像作品のほうは(社会的意味が解体された後に相対化された)コミュニケーション/ディスコミュニケーションについて描かれていたようだけど、これは要約とかではなく作品ずーっとながしっぱということで遠慮させていただいた。各作品1時間半ぐらいあるし。。




あとは自分的に頭に浮かんだ作品リンク


鯨の腑の光ということではやはり「海獣の子供」が思い浮かんだ


海獣の子供 4 (IKKI COMIX)
五十嵐大介
小学館
おすすめ度の平均: 4.5
5 神秘と恐怖
5 感覚が広がります
5 海と宇宙が奏でる交響楽の調べに魅せられます
5 いままでこんな面白い漫画を知らなかったなんて!
3 つまらないからじゃないんです



おそらく海くんたちも鯨の腹の中で時間と(有限な)存在を超えていくのだろう。


そして本当の意味で自然とつながる


魔女 1 (IKKI COMICS)
魔女 1 (IKKI COMICS)
posted with amazlet at 09.11.24
五十嵐大介
小学館
おすすめ度の平均: 4.0
4 芸術的な作家
5 虜になりました
3 なんだか騙されたような。
1 あーあ
5 マンガの枠を超える作品


魔女 2 (IKKI COMICS)
魔女 2 (IKKI COMICS)
posted with amazlet at 09.11.24
五十嵐大介
小学館
おすすめ度の平均: 5.0
5 魔女とは何か
4 購入前の注意…か?
5 気がつけば涙を流していた「PETRA GENITALIX」の話に、星七つ
5 見るものとの体験を共有する
5 1より更にパワーアップした作者の世界



スピリチュアルとかそういうのではなく自分の中にある自然でもいいんだけど


託卵や社会化ということでは「鵺の砦」を思った


鵺の砦 (BEAM COMIX)
鵺の砦 (BEAM COMIX)
posted with amazlet at 09.11.24
福島 聡
エンターブレイン
おすすめ度の平均: 2.0
2 中間



サイレントなショートショートなので初見だとわけわかんないけど。女性が「卵を産む動物」という選択をし家庭にはいっていくことなんかが表されている。


あとは先ほどいったこれとか


攻殻機動隊 (2)    KCデラックス
士郎 正宗
講談社
おすすめ度の平均: 3.5
5 難しく考える為の本
3 前作「攻殻機動隊(1)」の続編
3 楽しめる部分と全くそうでない部分の2面性
2 難解と言うより・・・難読というような。
1 難解





だいたいそんな感じ


「魔女」ということについていえばRebeccaはもはや魔女のような精神性を持ってるだろうな、とか思った。

それはもはや精神的な意味では老いることのない永遠にたどり着いたということだろうけど、


「いよよ華やぐ いのちなりけり」、か


タグ:art
posted by m_um_u at 22:22 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年11月11日

そして巡りあう日々

先日ひできさんとこでお話させていただいて


時間の加速と人間圏 - HPO:機密日誌
http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20091105/1257438023#c1257542970



ちょっとコメント欄長くなってきたので自分とこでひきとってエントリにしたほうがええんかなぁとか思いつつも貯まってるエントリもあるのでってことで逡巡してたらやっぱ長くなっちゃったし自分的にもまだちょっと残尿感みたいなのがあるのでこちらでひきとっとこう。


最初の話は以前にもひできさんが気にされてた話だなぁって感じ。全体的には「技術の進歩によってわれわれはどこに向かうのか?」-「攻殻機動隊的な世界におけるリアリティ(実存)とは?」的なのかな。

なので以前と同じくメディア論における関連図書を紹介しつつあいかわらず自分も未読だなぁとか…


「場所」と「社会」 (book review)
http://www.tku.ac.jp/~juwat/blog/book_blog/2007/05/post_59.html


あとはヴィリリオのメディアと速度と時間、場所論。よくしらんけどハイデガーとも関係あるみたい


とりあえず一番最初の話のアウトラインとしては、「人は文明(技術)を用いて(自然(nature)を開拓し)自然にある動物とは違う動物、宇宙人みたいな存在になってしまった」、みたいな話。

この辺りは「自然 / 人」の二項対立によって作られてきた近代の合理性の賛美(いわゆる「進歩」のワナ(「自分たちは進歩しているのに対しておまへたちは野蛮」))に注意しつつ、技術であり文明の向かう先とはどういうものなのか?というところに思いをはせたり。

「われわれはどこからきてどこへ行くのか」


「どこに向かうのか?」ということでは封じ手的にちょっとついったでつぶやいてたりした。

http://twitter.com/m_um_u/status/5492458575

http://twitter.com/m_um_u/status/5492495444


てか、この話は少しご紹介(ムチャブリ)したこれを受けてのものつぶやきなんだけど



戦国時代は寒冷化による食料争奪サバイバル戦争だった:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090911/204592/


 人口学的には、男性の識字率が50%を超えると、その社会全体の不安定性が増して攻撃性を帯びる。さらに何十年か遅れて女性の識字率が50%を超えると、やがて出生率が2付近まで低下して、社会全体が落ち着きを取り戻し、攻撃性・好戦性は有意に低下してくる。そのメカニズムは、次の通りである。

 男性識字率が50%に達するということは、若者世代の大半は字が読めて、書物などから新たな知識体系の吸収が可能であり、自我に目覚めるのに対し、彼らの親の世代は大半が伝承による伝統的知識体系に頼っている状況である。





この「50%」って数字がなんかベキと関係するのかなぁとか思ったので。(オラの理解では)ベキ乗則というのはシステムがある段階を越えて変化する際のわりと蓋然性の高い一般法則って感じなので。いわゆる「キャズムを越える」とかそういう言われ方されてる際の指標。「キャズム越え」なんかはもろにネットワーク外部性関連だからこの辺なのだろうけど、あとはデファクトとれるかどうかの指標とか。ギブスンなんかが「蓋然性の壁を越えるんだ」って表現してたアレだと思う。


んで


その際、なんらかの壁を越える閾値的なものというか、ベキ乗則にしたがって指数関数的に膨らんだなんかの値によって壁が越えられるんだろうけど、そのベキが発生する際、システムはどの方向に向かってベキってるのかって問題がある。

新たな系の法則(価値観)が生まれるのかそれとも旧来の系の価値を辿るのか。ここでいう「系における価値」というのはルーマンが「貨幣」「愛」「権力」などで示していたものをイメージ。
http://www.nagaitosiya.com/b/exchange.html


細かいところで自分的認識とはちょっとずれてる気もするけどカテゴリのたて方としてはそんな感じ

そんで戻って、文明あるいは技術といったものが進もうとしている方向性というか、その基盤となっている価値、あるいは原則的なルールというのはどういったものなのか?


メディア論的に、というか人の情報処理機構的には「アナログ(全体)→デジタル(分節)」は鉄板のように思う。言語なんかにしてもそうだけど人は生のまま感応し認識していたものをメディアを使って分け、それを自分の中で組み立てなおして認識してきた。いわゆる「分析」という過程。

分析的過程-デジタル的な認識を外部に表出し、その表象を見直し反省する過程を通じて長期的展望を得てきた。

しかし、外部化したものに頼ることによって以前のような全体知的観能力(感性)が失われたように思う。

そういった知が失われてしまったのだとしたら、理論的には次代は2つの弁証法的なものが求められるわけだけど。。


あるいは分節(分析)と全体の弁証法的発達は一つの系だけでとどまるものではなく複数の系をまたがった螺旋状の繰り返しのものだったのかなぁとかも思ったりするけど。(システム → サブシステム → システム → ……)



とりあえずそんな感じで(一見透明にみえる)技術にもなんらかの発展の方向性のようなものがあるように思う。この辺の議論は技術決定論批判なんかでも言われてきたことのように思うがいわれてなかったかもしれないのでうろ覚え。


muse-A-muse 2nd: 中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話  (応用編)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129946855.html






というか、ゲシュテルの話にも通じて


ハイデガー「技術論」から考える新しいゲシュテル: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/12/post_19d2.html


人というのは自分の作り出した子供(技術-文明-システム)に飲み込まれそうになりつつ、それを超克していこうとすることを繰り返しているのかもしれない。ベヒーモスやリヴァイアサン、人形や「壁と卵」。


そういった「文明」による時間感覚がタテの歴史認識だとすると古来からあった時間認識やそれに基づく死生観(あるいは実存)というのは円環状のものだったのではないかと思う。

ここでいったような

muse-A-muse 2nd: 中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129773060.html


「文明」≠リテラシー(識字化)≠ゲゼルシャフト、という仮定に基づけば、「文化」≠オラリティ(口承)≠ゲマインシャフト、的な区分けもできる。

ただ、この区分けもけっこう曖昧なもので「文化」的なものも都市の中で発生しているし、文字が流入してきてもゲマインシャフト的な感覚の人々はいた(あるいは現在もいる)ということはあるのだけど、まぁとりあえずテンニースがしたぐらいに曖昧でちょっと分かりやすい区分けとして。


そんでゲゼルシャフト / ゲマインシャフトの時間感覚の違いで最大の特徴は「繰り返し」ということにあると思う。

それが生じるのは口承文化圏の歴史の語りに依るものではないかと思う。すなわち歌(抑揚)に載せて歴史を紡いでいくわけだけど、歌われる言葉は変わっても抑揚は変わらない。ラングとパロールみたいに。それで「同じ歴史が形を変えて繰り返されていく」って認識が身体に染み付いていくんじゃないかと思う。

ちゃんと調べたことないんだけど、いわゆる輪廻転生的な考え方の分布というのもこういった歴史認識の分布と対応するのではないか?

目の前の人は死んでもまたよみがえる。同じ名前を伴って (反対に言うと名づけられるまでは人の世に生を受けていない cf.ヤノマミ


そのようにして死は終わりではなく極端に恐れる対象ではなかった。


しかし、単線的歴史観によって時間と生命の有限性が再認識されてからはわれわれの生は常に死の恐怖におびえることとなった。それによって時計の針が進み始めたともいえるんだけど、それは本当に「文明」的で「進歩」的ですばらしいことだったのだろうか?


そしてゲゼルシャフトな現代のわれわれの生と性のあり方、人口は国家と産業によって基底されている





技術の進歩によって人口は増え、言語→文字による記述と反省の過程が再帰的な承認を促し、われわれを個別の「正義」に向かわせる。その結果として戦争があるわけだけど、それはより大きな視点からすると自然による人口統制的なものでもあるのかなとか思ったりもする。

最近の居場所の話も含めたlifeのコンセンサスとしては、「システムによって基底されたものだったとしてもそういったベタをわれわれが認識し、反省し、再選択することを通じてわれわれ独自の文化がつくりあげられていくのではないか?」、ってことだと思う。

ゲゼルシャフト的な都会の中にも文化ができ、それを基軸にしてわれわれの居場所ができていく



文化系トークラジオ Life: 2009/09/27「“居場所”の現在」 アーカイブ (特に後半の外山さんが出てきた辺りから)
http://www.tbsradio.jp/life/20090927/



そういった生身の、血の通ったつながりを通じて国家や産業によって過剰に加速された感覚に対することができるのではないか?いわゆる「地に足が着く」という感じで。



あるいは、それを通じて遺伝子によって決められた縛りへの恐怖にも向き合えるのかもしれない


心の中の暗い核 - finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070125/1169707298



単に「みんな仲良くヌクヌクしてたらこわくないよー」ってのとも違って、異なった感覚を持つ人たちがなんとなく繋がるというか、繋がらなくても似たような感覚持ってる人がいるってことに気づく安心感というか。


時間というのもおそらく個別のものなのだろうし


私の前に携帯電話が存在するということ、あるいは現成公案 - finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20040626/p2




なんか雑駁になってきたのでいちおまとめると、「われわれの時間や実存感覚というのは技術-文明によって過剰に煽られてブレてしまったところがあるかもしれないがその感覚というのは目の前のわたしとあなたのつながりを通じて修正できる」、ということ。

それとは別にわれわれの奥底には決して他者とは共有できない個別の部分もあるわけだけど…まぁこれは「そういったものをお互いがもってる」って認識しとくだけで良いようにも思う。たまには川原でひとりで穴掘ってる時間が必要というか…


さらに、そういった話とは別個にわれわれの技術/文明がどこまで行くのかって不安はあるわけだけど、この辺は昔ながらの不安というか、人はそんな感じで技術を通じて疑似生命を作り出して行くようなところがあるし、昔からやってきたことなのだからそれほど不安になることでもないかなぁ、とか。


着地点というか、帰るべき場所さえ見失わなければ大丈夫なんじゃまいか




プラネテス (4) (モーニングKC (937))
幸村 誠
講談社
おすすめ度の平均: 5.0
5 もうひとつのフィーの物語
5 ロックスミスには彼自身の葛藤があったんだろうな、と思う。
5 人がいる 愛がある
5 これくらいがちょうどいい
5 目を背けずに。




posted by m_um_u at 17:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年10月29日

「すべてはひとつであってひとつではない」ということ   (あるいは愛について

わたしは愛する、

没落して犠牲となるための何か或る根拠を、まずもろもろの星の背後に求めたりしないで、大地がいつか超人のものとなるように、



大地に身を捧げる者たちを 


                    (「ツァラトゥストラかく語りき」)







先日、いぬこの日記をぼけーっとみて


どこまでを自己と認識する社会なのか。 - はてブついでに覚書。
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20091018/1255887730



自分的には「ああ、愛が広がっていくねぇ」ってわりと素直に肯定できた。そういえばちゃんみつはpay forwardでありボトルメール的なものにも言及してたしな、って。それは贈与交換的なものなんだけど。

即時的な等価交換ではなくて、「帰ってきたらいいなぁ」的なものをかすかに期待する(帰ってこなくてもいい)ようなタイムラグのある交換。


んでも、ついったできんぐなんかが「ああいう愛の広がりはなんか却って怖い」っていってるのみてまぁその気持ちも分からんでもないな、とか思った。

女の愛は無限というか、女にも限らないんだけど、無限に甘受されることへの恐れというか相手の底が知れない慈愛に包まれていくことへの恐れ、みたいなのがあることは分かる。


その恐れというのは相手の大きさに対するものだったり、あるいは自分と他者の境界がなくなり自分というものがなくなるかもしれないということへの不安だったり、もしくは愛によって自分が遅くなってしまうのではないかという恐れ。(たぶんきんぐのは最初のほうだけだろうけど)


「愛によって遅くなる」という感覚はたぶんほかの人には分かりにくいのだろうけど、いろいろ端折って分かりやすく言えば「人間らしくなる」ということだったりする。

人としての感情や幸せのようなもの、そこへのぬくもりを捨てがたく思ってしまうがためにほかのものをあきらめていかざるを得ない状況が発生すること。

それがぼくにはこわい







対して、「それはトレードオフではなく愛によって可能性がなくなるのではなくよりいっそう新しい可能性が広がっていくのだよ」、というのもわかる。子供とか、そういう不確定要因から生まれる新規性とか。

「変わっていく自分自身を楽しむ」ということだろうなぁ、と。


それ自体はいまの生活でも分かっていて実践しているつもり。


でもやはりそれを言い訳とする部分はあると思う。なので、一般的な意見ではなく自分の個人的選択としては、まず自分の道を究めたいと思っている。そのためにはまず生活基盤を作ることであり思考するための環境を整えることだが。


ああ、最近のなじみの人には分かりにくいだろうけどぼくは人生の一義的目標を自分自身の知と理を究めることに置いているので。なのでくだらないプライドとか承認とか愛とかそういうのも必要とあれば捨てる。


まぁこの辺についても「誰かが側にいてもやれないことはないし、誰かが側にいるからこそ力がでるものだ」というのもあるとは思うんだけど、その辺はさっき言ったように循環論だ。


とりえあえず引越し後の卑近な課題としては稼ぐ基盤作り直すことだが




自分のふざけたペルソナとそれに反した冷たい態度というのはたぶんそういうところから生じているのだと思う。

ペルソナがふざけすぎてるのはそこまで自律的にコントロールしているわけではなくて地の部分もでているのだろうけど、ある程度のふるいにはなってると思う。そのペルソナ自体ではなく、その後ろにあるものが読み取れなければそれはそこまでの人なのだなぁという感じ。傲慢だが。

そんで特にわかって欲しいとも思わない。いや、そうでもないか。自分がある程度好意を持っている人に理解されなかったらチクりと痛いものではあるけど、それは弱さだなと思う。そういった弱さを見つめなおして痛さを我慢しないように自分の社会的行動を統制する、というのもあるのだろうけどまぁネットのは半ば戯言だから。


てか、まぁ、普段でもそんなに度を越えることはしてないと思うし双方の暗黙な共通理解的なものは認識していると思うんだけど、相手が変化してくると分からないことがある。それはたぶん恐れや親愛や、それによる他者への幻想の投影によるものだと思うけど。

そういう変化というのは相手を過大評価していたときには分からない。


ことりこなんかがオレには徳がないがないとかいうけど、たぶんそういうところなんだろう。つか、たぶんことりこも徳というものがどういうものか分からずにいっているところがあるだろうけど。


憐れみというか、体面を傷つけないようにするというかそういうところに疎くなるときはある。自分の中にない感情、自分的にはとるに足らないプライドなんかがその掛け金だったりするとわからない。


そしてたまにそういうプライドをくすぐってやりたくなる。自分のペルソナというのもそのための仕掛けみたいなところもあるのだろう。


あるいは知識や理性への自負による傲慢さのようなものを感じてしまうのだろうか。そしてそれが恐れのようなものを生むのかな。

といっても、そういうのは知識や理性を鼻にかけ他人を見下している(簡単な勝利を味わっている)、というつもりもないのだけど。単に自分のことをふつーだと思っていて、それに合う相手かより強い人と話したいだけ。そういう相手に出会ったり負かされたときには素直に尊敬ができる。


でもまぁ、他者の不安や恐れや近づきたい気持ち、あるいは「もっと違う評価をして欲しい」という気持ちは尊重すべきなんだろうなぁとは思う。あるいはそれに気づくことができなければ距離をとるべきなんだろう。




そんなこんなで自分はまだ修羅にあり神には程遠いなと思っていたわけだけど、先日のひできさんとの話でその辺がちょっと救われた気がした。





この対話自体が素直に負けを認めるというか、お互いに勝ちも負けもないような、ケンカのような議論とは違ったものだったように思うんだけど。

キリスト教とローマとの兼ね合いの中からイデア(本質)と事物が分けられた、という話が面白かった。これは「私/他者」の分離とも似ている。



そして「私と他者」の問題、「イデアと事物」という二項対立な問題は名前を変え、そこでやり取りされる要素はより細かくなりつつもいまだに哲学の難問として残っている。

それらがずーっと解かれないのはたぶん私と他者はもともと分けられたものではないからだろうけど。言葉によって世界とのつながりがわけられると同時にセカイが認識されhack可能になったというのもあるんだけど、それによって以前にあったような世界と人との直接の結びつき(包まれているような感覚)は失われてしまった。


構築主義の問題意識や禅の公案によるマインドhackもこういった言葉の自明性というか、言葉によってしか考えられない状態を解いて自分なりに世界と接続しなおすための試みなのだろう。ヴィトゲンシュタインとかだったら言語ゲームっていうのだろうけど。


(※イデア論については神の存在を認めさせるためにイデアという概念が作られ、その代理である教会の権威がもちあげられた、という話。「ものに名前があるのは神様が存在していてモノに名前をつけたからだ」、というもの)



そして、ここでまた最初の話に戻ってくる。

私と他者の分離はおそらく「子供の発見」と同じように近代において明確に分けられたものなのだろう。中世の村落共同体の農民、あるいは遍歴商人にはそういう概念がなかったように思う。自他の差がことさらにつかなければ欲望や嫉妬は生まれない。





そもそも境界がない


とはいっても全てが溶け合っていたというほどではなくいまほどの明確なプライベートがなかったというだけなんだけど。たとえば職人なんかは親方の家にまとめて寝泊りしててプライベートもパブリックもなかったし。

でも、そういう感覚の中での他者との線引きというのはすごく曖昧だったように思う。それがそのまま愛に結びつくのかはびみょーだけど。




あるいは、村落共同体以前のもっと原始共同体的な生活においては人は自然と感応し、中世よりもさらに自他の区別が不明確だったのかもしれない。というか、「自然の中にあって自然に包まれ生かされている」感じ。「自分は自然の一部なんだ」という感覚が強く残っていたように思う。



友と敵の二項対立は彼我の分離と貯蓄→リソースが限られていることによって生じるものだけど、その元となる私と他の分離という前提から生じる微妙なゆらぎが不安や恐れ、過剰な愛、幻想の投影なんかを産むのかも。




「すべてはひとつであってひとつではない」




個人個人が一人のひと(肉体)として存りつつ自然というネットワーク(天)に繋がっているから。それらは人間的な知性や理性のほかにもさまざまな情報によって構成される。


そして、天が理に通じているから対話したあとにもあんなに素直な気持ちになれたのかもしれない。対話的理性というか、ネットワーク的結びつきによる縁の中から対話が生じ、対話を通じて世界にもともとあった「理」や「知」が掘り起こされた感じ。


こびとさんをたいせつに (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/10/03_1726.php


それはどちらのものでもなく天に還されるものなのだろう。だから競争(不安/恐れ/怒り)が生じない。





そういった出会いに感謝するし、たぶんこれからもそういった出会いが待ってるんだろう。






だからたぶん大丈夫







--
あと、キリスト教とローマとの兼ね合いの中からイデア(本質)と事物が分けられた、という話の元ネタはたぶんこれ


現代思想としてのギリシア哲学 (ちくま学芸文庫)
古東 哲明
筑摩書房
売り上げランキング: 161343
おすすめ度の平均: 4.5
5 次世代の啓蒙書
4 なかなかおもしろい
5 驚きの連続、それが本書
4 退屈なギリシア哲学を面白く読ませる本
4 退屈なギリシア哲学を面白く読ませる本



ということでよまねばねば




--
関連:
muse-A-muse 2nd: 「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121774176.html

「決まっている」と「自由」っていう二律背反であり矛盾が並立し、それを納得できるというのが人間存在の実存性、みたいなの。あと、自分なりの生き方関連で。



muse-A-muse 2nd: 「小林秀雄の流儀」 - 現象学的還元?
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/122453130.html


muse-A-muse 2nd: 続「小林秀雄の流儀」  「実生活と思想との間でバランスを保つ」ということ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/123045927.html


「実生活と思想の間でバランスを保つ」、ということについて



muse-A-muse 2nd: 竹田さんの現象学入門がよくわかんなかったね、って話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/125770819.html


小林の話にも共通するんだけどそういった生き方に汎用的な型が存在するんじゃなくて、とりあえずの心構えとして「あらゆる事態に対処できるように構えずにおく」ということ。意拳みたいな中国拳法系の脱力


posted by m_um_u at 12:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年08月27日

黒沢清、2008、「トウキョウソナタ」

見たので感想。


トウキョウソナタ [DVD]
メディアファクトリー (2009-04-24)
売り上げランキング: 4986
おすすめ度の平均: 4.0
1 期待の割にはよくなかった
3 微妙だ  
3 かなり期待していただけに。。。
4 リアリティをあえて排した舞台劇のような映画
5 とてもクールなコメディ映画



先ほどの「サマーウォーズ」でもチラッと触れた「現代の都会の家族のすれ違いの問題(家族でありながらみんな違う方向を見ている)」という点ではこちらのほうがピンポイントだったように思う。

 
物語としては面倒だから概要は面倒だしこちらでまとまってたので借りちゃおう


黒沢清監督『トウキョウソナタ』 - LA TRISTESSE DURERA
http://d.hatena.ne.jp/The-Man-Who-From-Northland/20090416/1240139714


東京の小さな一軒家に暮らす4人家族。父親はリストラされたことを家族に言えず、スーツを着て会社に行くふりをしながら、毎日ホームレスの炊き出しに並ぶ。大学生の長男はアメリカ軍に入隊することを夢見て、小学生の次男は家族に告げずに給食費を使ってこっそりとピアノ教室に通う。母親だけが一見まともであるけれど、免許証を取ったばかりでオープンカーを買う日を夢見ている。

奇妙な不安定さの上でもかろうじて小泉今日子演じる母親の力によりこの家族は「家族」として成立しているが、長男が「アメリカ軍に日本人として入隊する」と告げる辺りから不穏な雰囲気が流れ出す。父親の猛反対の中にあって、長男は結局軍へ入隊し、イラクへと派兵されることになる。3人での生活になった後、次は次男がピアノを習っていることがついにばれてしまう。「素晴らしいピアノの才能があるから、ぜひ中学校は音楽学校へ」という葉書を目にした父親は怒り狂い、次男を階段から誤って突き落としてしまう。物語の一つのクライマックスがこの瞬間で、「俺の権威を保つために息子の好きなようにはさせない」と叫ぶ父に対し、ついに母はリストラされていることをずっと前から気づいていたことを口にしてしまう。そして「そんな権威なんか潰れてしまえばいい」と冷たく言い放つ。このシーンの小泉今日子からはぞくぞくするような冷気が迸っていた。

このまま崩壊に向かって走り出すかと思いきや、物語の異物として登場するのが役所広司演じる泥棒の存在である。母にナイフを突き出し、一緒に逃亡することを強制する。取ったばかりの免許で運転させられる車は、前々から目をつけていたオープンカー。この運転のシーンは映画中最もコミカルな場面で2人の掛け合いが素晴らしい。逃亡して行き着いた先は海岸の崩れかけた納屋。そこで朝を迎えた母は、オープンカーと車が消えていることに気づく。砂浜に残る車のタイヤ跡は海へと続いていた。

泥棒と奇妙な一夜を過ごした母と時間を同じくして、父親はこっそり勤めているショッピングモールの清掃作業から抜け出し街を彷徨い続ける。次男も同じく街を彷徨い続けて、一晩を留置場で過ごすことになる。それぞれ過ごして不思議な一晩の後、3人はそれぞれが自宅へ帰り朝御飯を共に食べる。各個人が経験した一晩により、この家族が何かを見つけたことが示される。それは決して強い繋がりではないかもしれないが、だからこそ逆にこの先の家族を安定的に結びつけていくようなものである。



リアルな状況においては役所広司演じる泥棒がでてくる前の段階で袋小路であり詰みのようなものだと思う。それだとお話が進行しないのでトリックスター的に役所を投入。「黒沢作品で毎度おなじみ」ってところも茶目っ気。

そこからの話の展開、因果関係というのはそれほどの必然性をもっていなくて、たんにそれぞれが走るシーンを撮りたかっただけのような。「袋小路に行き詰ってそれぞれが走る」って場面。なんだかわかんないけど人はそういった行動の中で固有の答えを見つけたり見つけなかったり、あるいは新たな転機に出会ったり出会わなかったりするし。


そして一度は崩壊した家族を結びつけるイニシエーションとして「ともに食卓を囲む」が実行される。




「都会生活の中ですれ違う家族」というテーマについて、この作品でも解答らしい解答は出せていなかったように思う。むしろそれについて安易な解答にはしらなかったところが誠実だなぁとは思うのだけれど。敢えていうと月の光がそれに当たるのかなぁとか思った。

泥棒と奇妙な一夜を過ごしているとき小泉今日子が夜の海の上に輝く月の光を見て嗚咽する場面。「自分はなにをしているのだろう?」「自分はなぜこんなところに来ているのだろう?」「私たちはこれからどうなってしまうのだろう?」…そういった不安が月の光の静謐な美しさに対称化されて浮かび上がった場面のように思った。

そして光はただ不安を映すだけではなく道のようなものも照らしてくれる。


最後は音楽学校の受験シーンで次男がドビュッシーの「月の光」を演奏していたのはそういう含みがあったのかなぁ、とか。崩壊した家族が地に足をつけて現実に向き合っていく中での一筋の光であり希望のようなものが「天才的」とまでいわれた次男のピアノの才能だったわけだし。

もちろんそこに依存してもあらたな家族の崩壊に繋がるのでその辺はおぼろげにしか描かれてなかったけど。


月の光のメタファーは「それぞれが自分なりの答えをみつけていく」ってことにあるのかなぁとかなんとか。



あと、件のリンク先をみっけたのは「抱擁家族」でぐぐったってのもある。

今作では長男がアメリカの軍隊に入隊する(ことで日本を守る)ってところから話が展開し始めるわけだけど、「家父長的庇護とアメリカ」というテーマだと「抱擁家族」があったなぁ、と。

「抱擁家族」ではアメリカの安全保障の元に経済的安定を手に入れた日本の姿に主人公である夫がなぞらえられていて結果として家父長的権威は崩壊→妻はアメリカの娼婦的な感じになっていったわけだけど、「トーキョーソナタ」ではそこからもうちょっと進んでアメリカというのがもはやデフォになってる世界のように感じた。

デフォというかリストラによって自らのアイデンティティを崩された夫は家父長的権威を守ろうとするのと並行するようにアメリカ軍に入隊することを許さないわけだけど、そこで言われてる論理「俺がおまえたちを守ってるんだ」という言葉に対しての「じゃあなにを守ってるって言うのさ」に対してなんの解答も出せなかったり…。

というか、権威的なもの、形式的なものにすがって出来合いの言葉で問題を先送りするのではなく本当の意味で家族のことを思い尽くしていたのならまた違っていたのだろうけど、彼がそういったことに気づくのはすべてを失い自らの命も危険にさらされた(あるいは一回死んだ)後だったっていう…。


そういった意味では「アメリカ軍への入隊」というのはギミックの一つに過ぎなくてメインテーマではなかったのかなぁ、とかなんとか。「家族の問題」ということで「抱擁家族」的な線を想起させるための記号のひとつだったのかも。


そういった線も含んで家族のそれぞれの事情なり物語(旋律)が輻輳していった結果としてソナタがあったのかなぁとかなんとか思ったりした。


ベタな音作りから不協和音に転じて、最後は月の光で収めた家族の物語。




タグ:家族
posted by m_um_u at 19:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

「サマーウォーズ」を見てきたよ (アルバムみたいな作品だったね)

見てきたので軽くメモ程度に感想。
 

映画「サマーウォーズ」公式サイト
http://s-wars.jp/index.html


最初に興味を持ったのは鈴木敏夫のジブリ汗まみれ経由で。

「今年の夏、家族関係の修復(あるいは世界へコミット)的話題についてエヴァとサマーウォーズという2つの作品があるのは対称的というか並行的というか」みたいな話を言っていたんだかpodcast聞きながらオラが勝手に思ったんだかしたので。

エヴァについてはセカイ系ということで、ああいう形で社会へのコミットが閉ざされてしまった社会、あるいは本来「ネタ(虚構)」であるはずの現実世界のルールが「ベタ」として定式化してしまった社会に生まれてしまった子供たちによるネタを前提としたシミュラークル的な社会(再帰的社会)における実存的問題(あるいは社会へのコミットの問題)をどう考えるかということについて、前回は投げっぱなしジャーマン的に終わらせてしまった庵野がケコーンなどを経てどのように変わったかってのが見所だなぁと思ったのだけど今回の「破」では演出強化って感じで特にそういった線での変化は見られなそうだったので見なくていいかなぁとか思った。

そういった線で変化せずとも、「アニメーターとして最後まで投げ出さずエンターテインメントを作り上げる」、という点ではオトナになったのかなぁとも思えるのだけどとりあえず作品も見てないのでこれについてはここまで。


サマーウォーズについてはそれ以外にNHKのインタビューで細田守監督が言っていたことが気になっていたので。よく知らないけど細田監督は最近結婚して親戚がたくさん増えたのだそうな。それで嫁さん方の田舎にいって、そこで親戚の人たちと触れ合って新鮮な驚きがあった、と。

「それまでずっと孤りだったぼくに家族ができた。そのおどろきを伝えたい」みたいなこといってはった。


たしかに映画の内容はそれに尽きる感じだった。

全体的な構成(ストーリー)としては「ひょんなことから田舎にいった少年と少女が世界を救う冒険に巻き込まれて親戚一同みんなで立ち向かう」ってことになってて画面上では仮想現実空間におけるたたかいがメインとなって展開されていたわけだけどその辺はエンタメ作品として仕上げるためのギミックに過ぎなかった印象。実際、インタビューでもそんな感じだったし。

メインは親戚一同揃った家族の食卓であり、入道雲に向かうまっすぐな道行きであり、田舎の旧家の陰に置かれたアサガオの鉢植えたちと夏の空の青のコントラストのように思った。ストーリーやテーマ的なものというよりは田舎のそういった色彩のひとつひとつについてのアルバムであり心象風景的な作品なのだなぁ、と。


もちろんテーマとしては「インターネッツな仮想現実な世界の中で並行する家族の関係の希薄化」的なものもあったように思うんだけどそれについての作品が提示していた回答のようなもの、「みんなとりあえずごはん食べましょ」、はそれほどの説得力を持っているようには思えなかった。(実際、仲の良くない家庭で「とりあえずご飯は一緒に食べる」だけは実践されてきた結果それほど意味がなかったことを実感しているので)


「家族の食卓」というテーマだと伊丹監督の「家族ゲーム」で「みんな真正面を向いて食べる食卓」が表されたときのほうが象徴的だったし、「食と人(あるいは関係)」ということだと「たんぽぽ」のほうがテーマ的には踏み込んでたし。


なのでやはりこの作品はアルバムでありこの時点での記念的なものなのだなぁ。


そういった記憶は論理的には説得力を持たなくてもふとした瞬間の動機づけになることはある。空気感とか暑さや寒さ、味や音などといった綜合的な記憶。それが人の思考や選択の動機になることはあるように思うんだけど、この作品ではそれは描かれてなかったな、と。


そんなことを思ったわけです。




いろいろいったけど誤解してほしくないのはこの作品はアルバム的なものとしてはとてもよいものだったなと思いました。家族の食卓とかアサガオとか入道雲




あと、法事の食事ということだと「歩いても歩いても」のとうもろこしの天ぷら思い出したり。

また見たくなったので明日辺りDVD借りてこようかな


posted by m_um_u at 18:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク