2013年11月01日

日用の糧


雑駁だけどなんとなく最近見たもので心に残ったものを日記しときたかったのでそういうものとして。そうはいいつつもそれぞれの関連性や、それをつなぐ物語のようなものを無理から考えてたりもするけど。



私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

私たちの負い目をお赦しください。

私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』

〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。


マタイ6章11−15節





コレに対する解釈はいろいろ分かれるのだろうけど
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20130217/p1

自分的にはそれは「肩肘張らない普段の食事」であり「コツコツと普段からやっていくこと」のように思えた。それはこの言葉を知った「放浪の家政婦さん」所収の話にも通じる



なんとなくこのへんの「イズム」みたいなのも思い出したり




料理の話や食事の話がなんとなく好きなのはたぶんそういったことに通じるからかもしれない。それは大げさに言えばウェーバーの言っていたベルーフ(天職)ということ。

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とはいってもプロテスタントの考え方はどうも真面目すぎたようで、いま言ってきた文脈とはいささかちがうようだけど


宗教改革者マルチン・ルターは、「日用の糧」の意味を問われ、次のように答えました。

「私たちのからだを養い、必要を満たしてくれるすべてのもの。例えば、食べ物、飲み物、着る物、靴、家、庭、土地、家畜、金銭、所有物、献身的な配偶者、献身的な子供たち、献身的な雇い人、献身的で信仰深い施政者、よい政府、よい天気、平和、健康、学問、名誉、よい友人、信仰深い隣人、そしてこれに類する他の全てのもの。」

私たちは、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈る時に、キリスト信仰の最も重要で基本的な態度である「謙遜」ということを学ぶのです。「謙遜」とは、自らを卑下することではなく、自分の存在が神様に100%、全く依存していることを神様に告白しながら生きていくことです。ルターが言った全てのことを含め、自分に必要なものの全てが、神様から与えられるものだということを告白し、神様にこれを求めながら生きることです。

http://bit.ly/19i41Fb


キリスト教の人には不敬かもだけど、自分的にはそれは「神様に感謝」「神様に求めながら」ってのともちょっと違うんじゃないかなあとおもった。

「神に頼る」ってだけだと現世利益をお願いする感じだし、「地獄に落ちたくないからまじめにやる」ってのともちょっと違うだろうし…

単に「日々、コツコツとやっていくとなんだかリズムが良くなるからやる」ってだけのように思ったり。労働とか建築とか作ること、その達成感みたいなのが日々のリズムを作ってくのかなあ、って。そういうのもあって今回コツコツとエントリしたくなってるのかも。



「コツコツとやっていく」「なにかをつくる」「生み出していく」 そうすると 「謙虚になる」って回路はよくわからないけどあるようで、それがそのまま「ヴィンランド・サガ」や「バガボンド」に表れてるのを面白く思ったり。



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両方とも「戦いで最強になったとしてもそれは本当に最強なのか?」「たとえば自然に対して人は無力ではないか?」「では、本当のつよさ、とはどういうことか?」という問いの末に農業に辿り着いた。


バガボンド36巻のテーマ全体はおそらく「勇気」だった。

武蔵自身はすでに本来の自分を取り戻して、身体的には自分の聲も聴けるようになったように思えるけれど、最後の最後、それでもまだ残ってる我執というかエゴのような部分があった。

それがゆえにか、その強さ自体が周りの人間の弱さを、コンプレックスをかきたてたり、無駄な争いを招いたり


強くなろうとあがくものが一人でもいると
何もしない自分がみじめだもんな

みんな同じなら見えないのに
異質なものがいると浮かび上がってしまう

自分のみじめさが

だから追いだそうとして


それが出来ないと分かると嘲笑い下に見て線引きをして隔てる


それでまた  じぶんを見ずにすむ



そんな武蔵も自然の前には無力でなんども叩きのめされるけど逃げない。その弱さの中の強さを見て村人たちは徐々に武蔵に希望を託すようになる。救世主や英雄にそれを期待するように。

しかし、そんな情に応える予定調和はなしに自然は人の希望を叩き潰していく。


そこでようやくをもって武蔵は重い腰を上げる。自分の剣、誰かや「認められたい」欲のためではなく自分自身のために振るうと決めた刀の道、命やほかのなにもかもを失ったとしてもそれだけは譲れないと最後に決めていた「自分の生き方」を曲げても村の人々のことを助けるために、「助けてくれ」、と言いに行く。

それは「死をも怖れぬ」と誇り高く生きる道には背くものかもだけれど、逆にその場面で土下座のような形で救いを求めること。自分だけのためではなく誰かのために頭を垂れること。自分が悪くないことでも救いを求め謝ること。それこそが最後の勇気であり我執を越えた場面だったのかなあ。


「謙虚」というのはそんな風に昨日の自分を殺して今日の自分をさらに強くしていくことなのではないかとぼーっとおもったりする。


そのための日々の糧、コツコツと自身を反省するための材料がひとにはいるのかなあ。。

世間の承認とか雑音関係なくただ黙々と日々の日課として素振りをしたり、正拳突きをしたり、四股を踏んだり、套路をこなしたり。

武術家やアーティストなら日々の稽古を範や鏡として、そこから反省することがそれに当たるのだろうし、武術とかアートとかでなくてもレッスンはあるだろうし、料理とか仕事とかもそういうものなのかもしれない。





「ただ戦いを極めるよりも農耕などのほうが意義があった」という視点は歴史学や人類史のほうでもあって、W.H.マクニールの歴史観やダイアモンドなんかはそれに当たるみたい。


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(自分的に)古代から近世終わりまでの見所復習: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/264513531.html

『銃・病原菌・鉄  1万3000年にわたる人類史の謎』(ジャレド・ダイアモンド著・倉骨彰訳)|新しい「古典」を読む
https://cakes.mu/posts/225


マクニールの本は地味だから、教科書的ではあるけど教科書的であるがゆえの物足りなさがあるし、視点としては「西欧の勃興は西欧自身のちからではない」+「戦争を中心とした歴史より農耕や家畜のほうが重要」って感じでダイアモンドに共通する。未読だけど「疫病と世界史」としてスピンアウトしてるものはモロにダイアモンドの本と対照(あるいは元ネタ?)されてるだろうし、農耕と家畜の部分だけのスピンアウトもほしいんだけど「戦争と技術」についてはあったり。

そういう視点は民俗史的ということだと網野史学とか、文化人類学的ということでE.トッドとか、ユーラシア大陸の世界史における重要性ということで岡田史観なんかにも通じるのだろう。

そして、世界史における宗教の意味、ということ。


民俗学的史観における宗教的意味論の重要性。


そういうのは最近だとこの本を地味に再読してる。

中世の祝祭―伝説・神話・起源
フィリップ ヴァルテール
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前回エントリでも少し触れたように

石川雅之、2013、「純潔のマリア(3)」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/378787952.html


昨日から今日ぐらいがだいたいサウィンの時期で、これからしばらくはヨーロッパ圏だと「おとなしく過ごす(荒猟が来るから)」という期間になる。

ただ、前回エントリで書き損じていたことが本書を読み進める内にでてきたのでついでに。


前回も少し触れたかもだけど、キリスト教における聖人は本来、土俗的な神や妖精、キセキのお話に属するものをキリスト教が習合したものらしい。

それもあって頭の硬いプロテスタントだと聖人伝を省くようなんだけど、、

本書によるとマリアもどうもそういった聖人の類ぽい。

May - Maria というつづりの中に含まれる共通音素の関係もそうなんだけど、聖母マリア巡礼をする一般的な時期である5月というのはもともとは5月の女王の時期に当たる。

5月の女王は生命力あふれる春の象徴であり妖精ともされる。それは性と生殖、繁栄にも関わりこの時期、北欧-中欧では昔から5月の柱を立て、街でもっとも美しい若い娘たちがそこに立ち、その周りを若い男の子たちが踊り回る習慣がある。


http://bit.ly/HiXIH0

イエスが復活し再び昇天する。春が来て太陽が再生また死を迎えるように(夏至)。そして、その年の豊穣を祈念するように5月の女王マリアは人々の心のなかに生まれあらたなる希望を生む。

5月の柱と女王を祀り踊る熱狂は魔女狩りのそれと対照にして同位ともいえる。ワルプルギスの夜からつづくサバトもこの時期のイメージだし。魔女狩りの熱狂ももしかしたらこういった習俗が別の形で表れただけだったのかもしれない。都市化などに伴う人の生活の変化を受けて。



熱狂や語気のある言葉は勇気やモチベにつながるのでたまには必要だけれど「日々の糧」とはまた別のものなのだろう。熱狂が聖のうちはよいのだろうけど、それも行き過ぎると魔女狩りのようになるのだろうし。コツコツとした日々を送っていくためにはもっと別の、普段でゆるゆるとしたそれがいるのかなあ。俗というか普段の。


ほほえみの糧となってくれるような日用の糧


ベルーフに関する以前のエントリや、このエントリをしている隣でトドのように寝てるネコを見つつそんなことをおもった。


「ただ、そこに在る」という本質  ポイエーシス-エロース / イデア: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/204824809.html

ほほえみの糧: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/72864397.html





♪ Bonnie Pink / ほほえみの糧
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2013年10月23日

<在る>ことの実感と了解、の話


何でこの体

何でこのかたち



そうか



俺は今はこのかたちをもらってる

この体と刀をもらって生まれてきた



体を使え、と


もらったこの体を使って知れ、と




何を?





その前のもともとの俺を




体が

そういうものだとしたら



体だけじゃなくて

この世のもんすべてがそれを知るためにあって



いや

ものだけじゃなくて


人も  出会う人も

父も母も


すべてそのために出会うのなら





ほんとは誰も恨まなくていい





――そういうことなのか……?
















人がこの世に生まれてきた意味、あるいは自分の在処、居場所や位置のようなものを求めて彷徨うとき、その最初の地点は生まれた場所やルーツということになるのかもしれない。


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熊楠においてはそれは自らの名にトーテミズム的に刻み込まれたものだった。南方(南紀)のある地方の神社から分けられる神木の霊力と連なった名前。「楠の木」と「熊」。

中沢新一によると、そのことに気づいたとき熊楠の中で湧き上がるものがあったらしい。

あるいはその感動は中沢自身の期待と幻想、意味論的な想像空間を熊楠に託した物語であったのかもしれないけれど、本書を通して描かれる「科学的に正しくはないけれど」な意味の空間、自然や世界と自分の実存を結びつける物語のあり方は「生きる意味」という論理的には解けない難問に対するとき、それぞれのひとの跳躍を助けてくれる道具立てのひとつになってくれるのではないか。

文学がそういったものであるように、文学的なリアリティをそのまま自らを囲む自然や世界にテンプレートしたとき、人の生きている空間は無限に拡がっていく。

そこでは年齢や美醜、貧富といった社会的に設定されたマトリックスから脱することができ、永遠を得ることができるのかもしれない。



永劫回帰あるいは輪廻転生という幻想も科学的には正しくないものだけれど人類の共同幻想として伝わってきたもののひとつとしてある。

それを事実(fact)や科学的認識のレイヤーとは別のところにスイッチして考えた時、太古から続く人の営みもその糸の中に織り込まれる。


生老病死愛別離苦、そういった多様な色も、それぞれの人の人生の「意味」として了解されていく。


私たちは影響の受けかたや、ほかに影響を受けることのできる他者や、新しい環境を、自分の力や他人の助力でもって切り開いていく。あるいは切り開けずに倒れる。けれどもそのなかには何かがある、その人の人生にしかない美しいものが、誰にも知られなかったとしても、絶対にあるんだ。


彼らに見えない物語 - 傘をひらいて、空を
http://d.hatena.ne.jp/kasawo/20131022



そのとき「わたしはなぜこんなつらい目にあっているのだろうか?」「(神というものがもしいるのなら)目の前のこの苦しみはなぜあるのだろうか?」という問いに対して少しだけ向き合える回路が開くのかもしれない。

あるいは、そういった辛い体験が輪廻転生のような物語を作り上げたのか。



「自分の現在のあり方は遥かな昔から連なる流れがひとときに現象したものに過ぎなくて、自分は、この名前と体を与えられた身-心は、もっと大きなもののひとつであり、それら(心と体)の現象(事)が私なのだ」、という直観

そこでは生も死も、あるいは「生物が生きている」というそれも、より本質的な現象の二次的な射影に過ぎないのではないだろうか。

癌細胞やアポトーシスへの向かい合い方と同じように



癩病患者の生を見つめるとき、著者にもそんな感慨があったのかもしれない


【第47回】『生きがいについて』(神谷美恵子)後編 |新しい「古典」を読む
https://cakes.mu/posts/4005


傍から見ると痛みのみの生の中で「まだ痛みを感じられる」ということが「生きている」という実感につながっていくような、そういう生のあり方に対して



精神と肉体としての私たちひとりひとりの存在を支える生命の可能性と意味を、その本人の人生のなかで感受することのなかにしか、「生きがい」はない。そしてそれは、「生かされていることへの責務感」として現れる。あるいは人生は、ただ肉体を与えられ受動的に生きるところから、絶望を経て精神に目覚め、その責務の自覚に至るようにできているのかもしれない。そこに達しそうに見えるときに求められるのは、すでに達した人の声援である。

https://cakes.mu/posts/4005


それらはそれぞれの個人的な実感であり、それぞれの人ごとに形を変えて了解されるものであるから言葉では語りにくいものなのかもしれない。




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 そのときである。彼の中になにかの決定的な変化がおこるのだ。観察の行為が、彼の中で意味を変化させていく。彼は森を内側から生き、呼吸するようになる。彼は周囲にひろがる生命の世界を、自分から分離してしまうことができないことを、知るようになる。ほの暗い森の奥にどんな世界が秘められているのか、彼には知ることもできないが、その闇の中に隠されてあるものもまた森であり、彼自身もまた森の一部なのだから、それはもはや分離された外部などではなく、森の奥に隠されたものと彼の生命は、いまやひとつながりになっていることが、深く自覚されるようになる。このとき、森は自分の本質を、観察者の立場を放棄した彼の前に、おもむろに開くのだ。


 秘密儀の宗教は、表象を立てない。なにか本質的なものが、自分の前に開かれてくることを、全身で体験するとき、人々は「何事のおはしますかを知らねども有り難さにぞ涙こぼるる」ような、不思議な感覚につつまれるのだ。それは、言語による表現や解説によるのではなく、神社と神林のトポスがつくりだす、ナチュラルな神秘感だ。



永遠回帰は、選択的欲望の、すなわち力への意志の、対象とはなりえない。それは意志も欲望もなしに、ただ肯定され、ただ是認されるべきものなのだ。意志や欲望の対象となってしまえば、それは再びどこまでもルサンチマン的なものとなるだろう。『これが』

https://twitter.com/N1951_bot/status/392767640575279104



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幸村誠、2013、「ヴィンランド・サガ 13」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/377651584.html


「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121774176.html


映画系女子がゆく! | 青弓社
http://www.seikyusha.co.jp/wp/category/rennsai/eigakeijyoshi
タグ:実存
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2012年04月23日

<啓蒙主義 → 社会契約説にもとづいた国家の民主(議会)化がただちに国家の近代化を意味するということではない>

ぼんやりとここ最近の「西欧の近代周りの特殊性」「近代資本主義」「啓蒙主義」「国民国家」周りを黙想する。

なんかの本でも読めば正しい事実踏まえた理路は記してあって、それをインストールしたほうが早いのかもだけど。間違っててもいいので自分で考えたからそういうのに当たったほうが染み込みやすいように思うので。なので以下も後から修正の対象になるかもしれない



近代ヨーロッパの特殊性、あるいは近代の特殊性というのは一言でいって「機械化」というようなことに集約されるのではないかと思う。

数式的、あるいは論理性をもった形式的合理主義に沿うように…有効なところに無駄を省いて、画一的に、規則正しく、反復的に攻撃を行うような。軍事の場合は攻撃、経済の場合はプランテーションや鉱山労働のような画一・規律・反復的生産活動とそれへの資本の投下。

産業革命以前に商業革命というか、金融革命みたいなのが起こって経済全体の機械化、極端な合理化が進み、お金を稼ぐのに効率的なところに機械的投資がなされる様になった。

ゲマインシャフト的ないい加減さをなくした規則的活動、とそれら全体を覆うエートス

それは人間の機械化といえる。


産業革命というか蒸気機関に代表される産業機械はその理路を具現化しただけ、と思える。


<メディア(蒸気機関、工場)はメッセージである>というような



そこでお金と商人、というか第三身分の一部ブルジョワの存在感が増したのは分かるんだけど、それを背景としつつ社会契約説 → 主権在民的な考えが出てきた経緯がよくわからん。。



当時、というかその少し前の時代の政体を包み込む幻想の全体的な流れとしては「神聖ローマ帝国=キリスト教的な神に依存した主権の正統性、という旧世代の体質を啓蒙しつつ、王権・公権あたりで主権の正統性を止まらせる」はずだった。

王権の正統性を主張する政体のあり方は後の世からすると「絶対王政」ともいわれるが、実質的には諸侯に対する王の権威を確立するために、社会的プレゼンスを増してきていた第三身分のブルジョワを後ろ盾とした社団国家体制だった。

したがって絶対王政の根拠とされる王権神授は、タテマエ的には奉じられていたかもしれないが、実質的には意味をもたないものだったはず。


いわば「金融革命の流れの中で力を付けたブルジョワが実質的には首根っこを掴んでいた」社会体制の中で、なぜ後の世には国民国家と言う名の全体主義として利用されていくことになったと思われる「国民主権」という考えがブルジョワ側から賛同を集めていったのか?

(※ここでは当時の「国民国家」とは、「国民」という幻想を創りだすことで領域内の異なった人種・民族を統一的帰属意識をもたせ、「国民(nation)=国家(state)」とすることで従来なら銃後であった領民を皆兵員とし、あるいはその代わりに税を納め易くした方便(擬制)として捉えている。戦争もしくは財政(主に税収)への領民による全体主義的協力を自主的にさせるためのイデオロギー)


ここでブルジョワ側が「主権在民」ていう必要なかったように思うんだけど、、マグナカルタ辺りの記憶と目の前の王の目に余る暴政とかあったのだろうか… 特に財政




社会契約説が「国民主権」つーか「国家財政の自分勝手な運用から商人的な合理性を備えた官僚的運用への移行」を唱えたものだったとしたなら、当時の趨勢的になんとなくわかる感じだけど・・・まぁこのへんは「社会契約説」を読み進めていく際のポイントにしとくべきか


社会契約説
http://note.masm.jp/%BC%D2%B2%F1%B7%C0%CC%F3%C0%E2/


社会契約 - Wikipedia
http://bit.ly/JzEtWK



啓蒙主義からの社会契約説の流れはそのまま民主主義につながってるように思われがちだけど、啓蒙君主なんかが「啓蒙主義」を表層的に利用しつつ「国民=主権」を「では主権をもった国民が国を守れ」という風に利用して行った様な…

啓蒙専制君主 - Wikipedia
http://bit.ly/JzENEN

たとえばプロイセンのフリードリヒ2世(大王)


このとき、人文主義-ギリシャ哲学的な人間の「自由」をイメージしていた啓蒙主義の「啓蒙」は、「(国家のため、軍事、工場労働に就くための)最低限のリテラシー教育が国民には必要」という風にスポイルされていた。



それと本来の社会契約説が含意していたもの、との違いかのぅ。。

それも社会契約説が目指していたものが「国民皆民主主義」つか「一部のブルジョワ、官僚に依るもの」だったかで思想的帰結が異なってきそうだけど(ルソーとロックの違いもあるの




そんで、そんな感じで展開されていた政体を包む幻想(ジオカルチャー)と、下部構造的な経済の構造変化との関連


<「土地」「土地所有者」を中心とした経済構造とそれを奪い合うための手段としての「戦争」> という社会構造が <生産・貿易・流通・金融を通じてお金(先行生産)をふくらませることを中心とする経済構造とそれをサポートする手段としてあるいは「戦争」が用いられる>という社会構造へ変化していったこと


それがどのように社会契約説のような思潮に反映されているか


予想では、<(当時の経済合理性を中心とした社会環境への変化の風潮から)国家財政への恣意性をなくし、官僚制と財政の透明性、それに対する国民審査を徹底させるように社会契約説みたいな考えがでてきた>、ということだけど、おそらくはそれが前時代的な「国家とは君主を中心とし、君主とは臣民を守り戦争によって奪うことを基本とする」というような思潮と折衷だか化学反応する中で<国民国家>という幻想ができあがっていったはず。


具体的には18〜20cのイギリスとプロイセン、ロシア辺りの国民国家、主権在民、国家財政のあり方比較になるのかな…? フランス革命も反動ぼいけど


フランス革命 → ナポレオン革命は派手だから、一見するとそれが近代型国家や民主主義の基本になったように思われるけれど、分析的に眺めていくと、まだこの段階では近代型国家として立ち上がるための腱をもっていない暴力革命だったのでは?革命後の国家運営・財政に対する具体的な考えや組織体制がなかったため、平民を後ろ盾にブルジョワが政権を奪取しても持続性がなく王政復古(ウィーン体制)の流れになっていった。ナポレオンの遠征なんか見てるともろに「国家とは君主を中心とし、君主とは臣民を守り戦争によって奪うことを基本とする」って感じだし。


というか、同じように啓蒙思想・社会契約説・市民革命を経験してもイギリスとフランスで差が出たのは、社会契約・民主主義などの思潮とは関係のないところでイギリスがヘゲモニーをとり、その過程で国家運営に財政的思考が固まってきていたから。そこから考えると当時の社会契約説→議会制民主主義というのは国家運営的には必ずしもプラスではなかったといえる。

民主主義を標榜しつつも時代に即した国家財政のあり方が根本的にはイメージできていなかったフランスは革命後、前時代的な国家運営→帝国主義を模索していったが持続性がなく、結果的に衰退していったわけだし。


では社会契約説とは国家にとっては具体的利益のない話を国家にとって有益だとすり替えたものなのだろうか?「国家主権が或る首長にあることの根拠」であり「大義」の話ということにはなるだろうけど。「王権神授」ではなく「国民主権神授」「なので国家の首長は国民の信託を受ける必要があり議会が必要」みたいな論説になるのかのぅ。。



ロックの社会契約説までの流れを見ると名誉革命が関わってるみたい


ピューリタン革命と名誉革命
http://members.jcom.home.ne.jp/spu/032.htm


ここで「コモンロー(慣習法?)やそれにもとづく議会が王に対して優位する」((王は)君臨すれども統治せず)と確認されたのはあたらしい王がオランダ由来だったからだろうけど、それがそのまま社会契約説としてフランスなどの他の国にも普遍化していったのはどうしてか?


ブルジョワが強くなってきていてブルジョワの意見がより通りやすい政体への改革が志向される、という当時の趨勢があったからか

フランス革命も大元をたどれば、オランダを中心としたヘゲモニー、それをめぐったイギリスとの競争によってできあがった負債が不況の根源となっていたのだけれど、表面的にはルイ14世からの王室の散財・よくわからない政策の失敗が<この失敗の全ては絶対王政の責任>という形で認識され議会制民主主義が求められたから


だとすると、この時代の君主の自分勝手さは国家運営にとっては問題であっただろうから一般的で明示的な法と議会の力でそれをしばろうとする流れはよかっただろうけど、縛ろうとする議会のほうに当時の国家運営の失敗の原因、国際経済→国家運営の変化に対しての具体的なイメージがなかったことがフランスの失敗だったか



そう考えると社会契約説のもとに議会制民主主義が認められていったことは国家運営の透明化―健全化ということでは意味のあることで、それを直ちに、<社会契約から主権在民が派生し、そこから国民国家 → 半全体主義が派生していった>、とするのは拙速な流れといえる。


「国民主権」から「国民国家」の擬制が生まれた可能性があるのだとしたら、そこはまた別の回路から検証の必要があるのだろう



ここではとりあえず<啓蒙主義 → 社会契約説にもとづいた国家の民主(議会)化がただちに国家の近代化を意味するということではない>、というに留めておこう


社会契約説とかがアジテーション的なものだとすると、実態としては国家と元首を縛る法の体系、それに基づいた国家機構であり、政体における「近代化」という場合はそれらがどのように細密化していっていたかを見たほうがいいような気がする。比較しないとその辺わかんないだろうから前代までと比較かのぅ


そしてそれらを背景に金融化の時代状況を鑑みた国家による財政意識への本格的な目覚め(cf.重商主義)や機構の構築もできていくか





--
なんとなくぐぐってたらこの辺も似たような話になってるのな


民主主義の過剰 - 『一般意志2.0』(池田信夫) - BLOGOS(ブロゴス)
http://blogos.com/article/25576/


「民主主義が悪い」っていうか「国家運営のあり方を認識してる人の意見が国政に反映されなければ意味が無い」であり、その意味ではブルジョワによる寡頭政の是非みたいなことにもなるのだろうけど。あと、<正しい意見が反映されやすい装置のあり方とは?>みたいなの(すくなくとも機械的多数決だけだとオピニオンリーダーであるブルジョワの意見をなぞるだけになりそう


あと、社会契約説というのは「囚人のジレンマ状態における暫定的合意をどのようにとりつけるか?(→<国>という機構ができていった)」みたいな話のようで

社会契約 - Wikipedia
http://bit.ly/JzEtWK

全体的には神授されたとされていた皇帝権や教皇権、王権を一度相対化し、原始状態を仮定する中であらたに王権と契約を結ぶか?それとも王権以前に「国」としての契約があって王がすえられたもの、として王権を否定しつつもCEOとして頼るか?辺りを議論するための考えみたい


結果的に<囚人のジレンマを超えるための暫定的協調の装置として「国」≠「法」ができていった>というところでは一致するような


「法」→国家の機械化というところでは官僚制と関わってくるか(官僚制のためには法を設計図にした透明な運営が必要?)



リバタリアニズム - Wikipedia
http://bit.ly/I4L2SK


考えてみれば17cのオランダはリバタリアンの理想郷ぽい。当時のオランダ的政体からすると社会契約という考え自体が言わずもがなな感じ。経済原理主義的な国家規模の共同体運営だから。でも保護貿易と国家財政政策固めていったイギリスに後塵を拝した

イギリスのは福祉国家的でもなかったのでリベラリズムとも言いがたいのだろうけど。


一般意志2.0あたりの話というのは不況の中での財政リストラをリバタリアニズム的な観点から進めようという人々をリベラリズム的な公正・福祉を基本に批判しつつ、具体的な財政についてはノータッチという話のような印象がある




Amazon.co.jp: 中世君主制から近代国家理性ヘ (愛媛大学法学会叢書 12): 南 充彦: 本
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4792304253?tag=museamuse-22


「キリストを中心とする王権」→「法を中心とする王権」→「政体を中心とする王権」 王の身体が人格化するにつれて強制力をともなわない国民化が。立憲以前の王と国の理性的統治
http://bit.ly/Jryx3H

書評 (PDF)
http://bit.ly/JryiWv




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(続)「西欧資本主義が特殊化し近代型国家ができていった背景とは?」: オランダにおける流通・金融システムの洗練とイギリスにおける近代型財政の構築: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/266137238.html


現代において革命が生じる条件とは?(仮): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/265583904.html

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2012年04月19日

現代において革命が生じる条件とは?(仮)

なんかもぞもぞ溜まってるのがとれないのでメモ。本来ならエントリ前のメモ丁度なのでいつもにも増して粗い


革命発生の3つの条件〜フランス革命の背景まとめ | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2598


既存体制の衰退

暴動(民衆蜂起)

新しい政治集団になりうるものが存在すること




ここであげられてる3つの要因がそれぞれの項のタイトルとしてあげられていることに対してなぜ腑に落ちないのか?と自問したところ、「これはフランス革命という事例における現象面をみたものであって、革命一般の構造的要因を見た見解ではないから」と結論。
より具体的には<啓蒙主義(上部構造)の意識浸透の結果>というところが暗に示されているように感じられた、のに対して自分的に経済的理由(下部構造)を推す。

以下、「革命一般の構造的要因」について、現在の手持ち札から自分なりに考える



構造面では?:

不況(cf.世界経済との関係)

新しい政治集団になりうるものが不況の原因を旧体制に求める

新しい政治集団が暴動に参加、もしくは支持。新しい政治集団が生まれる経済的土壌の変化

経済的土壌変化が生じる経済ルールの変化(cf.「土地(レント - 第二身分まで)から産業資本へ(貨幣・金融 - ブルジョワ)」)

イデオロギー(ジオカルチュア)面での変化




※主に世界経済との関係からの不況説明

「フランス革命の背景と第三身分(平民)の興隆」あたりについてのよもやま噺 - Togetter
http://togetter.com/li/288664







フランス革命:
<啓蒙主義(イデオロギーの変化)が牽引したのか、経済的不満が牽引したのか?> → 両方だけどどっちがより強い要因か


<(プチ)ブルが牽引したのか?農民など基本的に資本をもたない平民が牽引したのか?> → 両方だけどどっちがより強い要因か

※農民など資本をもたない平民、プチブル文化資本とつながる啓蒙主義のようなものと関係なければ現代でも革命の兆しがあるかも、だが







(世界システム内での位置変化:次代のヘゲモニーの基点となる資源争い(←金融資本の取り込み ※1)に敗れる)



不況 → <既存の政体とイデオロギーでは豊かさを維持できない>と判断される

※判断された背景としては、既存のイデオロギーに対してあたらしいイデオロギーの台頭していたから。(ジオカルチャー(世界経済を支えるイデオロギー)、エートス?の変化 )

ex.啓蒙主義 ←ルネサンス・ヘレニズム・東方からの影響、俗語革命の影響で啓蒙主義がでてきた流れもあるか? →調 16世紀文化革命あたり?)






既存の政体とそのサブシステム内での階級固定 ← 不満(具体的なターゲットとしては「第二身分までの税制免除」が挙げられる)  → 階級変化の兆し




※政体的な階級差と違う面、経済的な面で階級変化の兆しがでてきていた。経済的な階級変化が意思決定面での変化につながっていく
(←経済体制の変化を受けた経済構造の変化、近代型資本主義の台頭)







経済ルール(構造)の変化    

はじめに暴力革命があるにせよないにせよ、革命が持続するにはその時代の新興成金を取り込んだ階級変化が必要
(cf.チュニジア「革命」は持続しない)

→ 経済的身分差の変化が政治的発言力の変化に反映



平民による政治革命が生じなくても、中核あるいは準中核国における新興ブルジョワ・プチブルを基点とした経済革命が生じ、そこからの国際的流れとしてヘゲモニーが変わる可能性はあるか





※1

日本の場合はバブル期に金融資本の取り込みはできていたはずだけどなぜかヘゲモニーをとれなかった。有効投資先をみつけられなかったからか、それともインフレを御せれなかったからかよくわからないけど、そのあたりの説明がここら辺で成されてるかどうか cf.山下範久

世界システム論で読む日本 (講談社選書メチエ)
山下 範久
講談社
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もしくは、ヘゲモニーシフトの際の金融資本の移転はインフレの御し方となにか関係があるのか?歴史的にどうか? cf.飯田靖俊

歴史が教えるマネーの理論
飯田 泰之
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スペイン銀鉱発掘→価格革命については載ってる。あと第一次世界大戦後のハイパーインフレ(cf.アメリカとの関係)







--
途中で革命の要因考えてるのかヘゲモニーシフトの要因考えてるのか混ざってきてるけど、


ヘゲモニーシフトの要因¥戦争

             ¥革命

             ¥インフレなど


がある感じか


posted by m_um_u at 18:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年10月15日

意味と社会のあいだ  〜 理解社会学ら辺

ここしばらくの興味関心がなんか統合された感じなのでメモ的に



直近だとこの辺でうなうな言ってて


ゲゼルシャフトと母性  (あるいは日本的市民社会と母性の話) - Togetter
http://togetter.com/li/195808


「実存は本質に先立つ」 されど、秘蹟の価値は…? - Togetter
http://togetter.com/li/199311


独我論と言語と自意識と存在への予感(ネコ) - Togetter
http://togetter.com/li/199794



基本命題としては、「自他の境界がないとき、他も自もないのだから自己犠牲的利他行動をとってしまうのではないか?(そこからすると自己保全的利他意識というのは偽善であり欺瞞では?)」、ということだったんだけどすっ飛ばし過ぎなのでちょっと噛み砕いとこう。


まず最初に「ポストモダン的な野放図なエゴの氾濫というのは子供のワガママではないか?彼らは近代はすでに終わったというけど未だ近代は完成していない」ということからゲゼルシャフト的な価値と知識体系、およびそれのテクネーとしての反映を受けて生活が向上することを期待するということが基本線となる。科学+技術の発展と生活の関係、あるいは法制度やその収斂として?の国家の発展と生活の関係。

それに対して「システムと生活世界」的な視点から「政治経済システムの合理性によって生活世界の価値観および個人の実存-価値観が侵食されて行ってしまう」的な問題意識が生じるのだけれど、ではそういった「社会」と個々人の価値観との摺り合わせというか落とし所のようなものはなにか?

たとえば、家族や恋愛といった生活(親密圏)の問題も「社会」的規範がモデルとして援用されていくことがしばしばあるわけだけど、結果として個々人の自由が窮屈になって妨げられてるとあまり意味がないような。。だったら野放図にそれぞれのエゴを追求すればいいか?というとそれではどうも生活の満足が高まらない感じ。なので囚人のジレンマ的摺り合わせがいるのか?というところなんだけど…


そういう自動化された最大公約数的な流れに対して、人は個々人の価値に基づいた行動選択を主体的にしていくのではないか?その相互作用(コミュニケーション)を介してそれぞれの社会(「社会」の素)が作られていくのではないか?



<人の行動選択は既製の社会のコピーやゲーム的な自動化された機構ではない。主体としての意志が関わる>


という問題意識がこの辺



M.ウェーバー、1919、「職業としての政治」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/211827975.html


屈せざるものたち: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212059486.html



大国 対 小国のような国家間のリアリスティックな物量差や、「神は死んだ」という圧倒的なアパシーを前にしても人は自らの意志で立ち運命を変えていく。


「システム」やそのサブディレクトリとしての規範や明示化された法は制度として屹立して当然化し、まるでハードなモノのように人に規範を強いる(物象化)こともあるのだろうけど、物象化しルーチンとして固まる以前のおぼろげな意味の交換が主体としての人のあり方であり、その資源としての意志と根っことなるような価値(エートス)があるということ。個々人間の意味の交換の集積が(制度以前の)社会を作っていく。




独我論的に言えば私を中心としたセカイと世界の関係(妥協?)は「同じ世界にいる」という幻想のもとに成り立っているように思う。論理的に突き詰めていけばどこまでいっても人は「この世が夢ではない」ということから確信を得られないし「目の前にあるモノや他人とされているものが、痛みや喜怒哀楽といった感触や感情でさえなんらかの刺激によって誘発された夢のようなもの」という認識から出られない。「夢と何となく違う」というのは蓋然的な感覚の違いだろうけど、「現実」として認識されている物自体が高次の自分からすると夢のようなものなのかもしれない。

だから<他者>というのもどこまでいってもフィクションなのだろう。存在と時間の関係と同じく。人はその瞬間瞬間に生成されまた消えていく。それでもなお変わらないもの(アイデンティティ)があり、それを中心にたましい(実存)が構成されていく。金剛界の「現実存在」として自らがアイデンティファイした「己」としての肉体と精神の構成。その認識を基本とし、外部からの刺激によってたましい(実存)が構成-了解されていく。「存在」としての「己」はもっと奥のほう、自他の境界のないところで人の基底になってる(のかな。


そして、おそらくそれが存在論的には正しい  (>そこからすると自己保全的利他意識というのは偽善であり欺瞞では?)しかし、「人」としては正しくないのだろう。あるいはエートスとしてはそこに甘んじない。


なぜこんな複雑な「自/他」の形式をとってるのかよくわからないんだけどそれは置くとして、とりあえずの認識としては「基本的に突き詰めれば独我なのだろうけど、それらがまた同じような円として交わるためにコミュニケーションがある」って感じ。言葉は不自由なものだからいろいろノイズがくっついたり、精確に自分の思いを表せなくて話がそれたり、相手の理解度もあって伝言ゲーム的に意味がズレて行ってしまうものだけど。とりあえず、そういう不自由なツールを介してとはいえ、意味の領域で理解が近づいていけば、独我の円はやがて重なっていく。


んでも、システムが複雑化し、システムとして安定すると言葉や制度が物象化され人の理解に慣性を作る。制度が再帰的に参照され「目の前の個人を理解する」ということが軽んじられていく。繰り返しになるけど人の生活というのはそういった制度と個々人の実存の間に作られていくものだと思う。近代的「市民」というのはそういうものなのだろう。たとえ科学(エピステーメー)的に正しくなくても、個々人の生きられた経験から了解されている価値観と哲学がある。それが文学作品なんかで反映されているところなのだろうけど




 米国的には方向性としては、パーソンズみたいな変なのもあるけど(しいて言えばだけどね)、数値で実証的にみたいな方向が好まれるし、ネットなんかでも、数値で統計というのが社会学と思われている。

 まあ、ネットレベルの議論だと物事熟考しない人が多いので、白黒わかりやすいくらいでないとしかたないんだろうと思う。

 が、実は、社会学というのを作ったのは、マックス・ヴェーバーなんですよ、というあたり、まあ、それもドグマでしょみたく言われるけど、なのでもうちょっと限定的にいうと、理解社会学ということね。

 極論すると、理解社会学とはなにかがわかるということが社会学ということなのな。


 いやもちろん、理解社会学なんか無視しても数値だけで社会学はできますよ。しかし、これはちょっとめんどくさい議論になるけど、出てきた数値とやらは、ようするに常識に合致、あるいは驚きの数字であっても常識判断に合致するということが前提になって、ようするにその常識なる社会理解に循環的に包含されてしまう。

 つまり、それは、社会学的な常識が前提になるんだけど、それ自体が近代の特異な現象であることはガチ。じゃあ、そういう近代の特異な合理的常識、つまり社会的定見みたいなものが歴史のなかでどうして出現したのかと問わないと、実は、その合理的常識のなかに潜む社会的な問題に気がつくことができない。

 これに、ヴェーバーが気がついちゃったというのが、彼の天才でもあるし、病理でもあったということで。で、それは何かというと、呪術からの解放ということ。die Entzauberung der Weltというやつね。

 なぜかしらないけど、近代西洋が脱呪術化を行った(かのように見える)ということを内省的に了解していくということが、つまり、世界の文明の総体的な理解になるんだよということ。そしてそこに人類意識に課せられた課題があるんだよということが、ヴェーバー先生わかってしまったということ。


http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20100623/1277252206



Togetter - 「M.ウェーバー、1919、「職業としての学問」」
http://togetter.com/li/131779


実践(プラクシス)について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199514356.html


山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html?1318389838




 もちろん、そんなの比較文化論でもわかるし、オリエンタリズムみたいな視点とかカルチャラルアホーズみたいな視点からでもわからないでもない、みたいなフラットなことも言えるけど、その手のポストモダンな阿呆どもは、その内在に潜む倫理性の魔みたいなものを前提に無視したから、むしろ世界の側の力に圧倒されるか、「知性」というかいうお商売に隔離されてしまい、学が学たらんとする世界に起立する意志を失ってしまったのな。

 で、ヴェーバーは、ほいじゃ、このEntzauberungに前段として、理解社会学とはどういうものかというのを示すためにプロ倫を書いたわけですよ。

 で、理解社会学が恐ろしいのは、これをよく主観とか阿呆な理解されがちなんだけど、数値客観とかすると実はそのインタプリテーションは主観的云々というループになる。で、ヴェーバーのいう理解というのは、英語でも、understandingとかinterpretationとかに誤解されるけど、そうじゃなくて、エートスというのが一種の社会意識という特殊な実在性の問題だということ。というか、およそ、存在の意味性の根拠性は、この社会性の意識のなかにある。このあたりは、言葉というものの命名の不思議を考えると、愕然としてくるものがある。

 ということで、基本的に現象学的な構図を持っているんだけど、べたにその方向で進めたシュッツとかは、まあ、ダメ。また、反対にパーソンズとかも一種の神学にしてしまった。

 どっちもそうなるのはわからないでもないというあたりに、ヴェーバー学の深淵みたいなものがある。ようするに、では理解というのは何かというのは、理念型の議論になる。エートスを構造化するということ。そのあたり、実は、構造主義というのとヴェーバー学は近いところにあるはずなんだけど、日本とかおフランスな構造主義はそのあたりわかってないのでうまくかみ合っていない。



http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20100623/1277252206



(この辺の話ぶつけてくりゃよかったんじゃねーの?と思うにまぁあの時点で先験的理解に基づく感情 → メタなところでの知識系の選択のズレみたいなのがあったのだろうから仕方ないと思うに)





Socius_社会学感覚03行為の意味を理解する
http://www.socius.jp/lec/03.html


「社会的存在の客観性を人間の主観性との関係において把える」こと。制度と意味の弁証法としての人の実存を各々の「意味」から捉え直す、ということ。

「めんどくさい」というのは近代の都会人の最大の障壁だし、怠惰とか欲望への流れからの不合理な行動選択なんてのも人類のボトルネックのように思うんだけど、それを突破するためにそれぞれのエピステーメーに沿ったエートスがある、ということなのかな。

だから、エートスというのは一見、現行システムへのフィードバックを促す合目的行動の基本ルールとして捉えられがちだけど、それ以前の個々人の実存を介した内部規律のようなものではないか?それを通じて人は内省し、己の行動に恥や誇りを思い律する。そしてエートスはエピステーメーとの相関かなんかで夫々の時代環境で異なっていく。



 すでにふれてきたように、さまざまな社会的事実を人間の行為にまで還元してその主観的意味[動機]を探るべきだと提唱した代表的な社会学者がマックス・ウェーバーだった。「理解社会学」(verstehende Soziologie)と呼ばれるウェーバーの社会学構想については省略するとして、ここではかれの壮大な具体的事例研究を紹介してそれにかえよう。第二章で紹介した『宗教社会学論集』(全三巻)におさめられている「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」――通称「プロ倫」という――がそれである▼1。

 (1)問題提起――ウェーバーが「プロ倫」を書きはじめた一九〇四年あたりの初発的な問題関心は、近代資本主義の根源の探究にあった。これはのちの一九一九年に『宗教社会学論集』のために改訂されるが、そのときウェーバーの問題関心は、近代資本主義だけでなくそれをふくむ西欧の壮大な合理化過程に拡大され、その人間的な起動力の解明を構想するものとなっていた。いずれにしても「プロ倫」であつかうテーマは明確である。すなわち「インド・中国・イスラムなど高い文明をもっていた文化圏がいくつもあったのに、なぜ西欧世界にのみ近代資本主義が成立したか?」である。

 (2)資本主義と近代資本主義――ウェーバーによると資本主義は中国にもインドにもバビロンにも古典古代にも中世にも存在した。高利貸し・軍需品調達業者・徴税請負業者・大商人・大金融業者たちの「資本主義」である。しかし、これらと西ヨーロッパおよびアメリカの「近代資本主義」――より正確には「近代の合理的・経営的資本主義」――とは決定的に異なっていた。後者は簿記を土台として営まれる合理的な産業経営の上になりたつ利潤追求の営みであり、これは大量現象としては西欧近代にのみ発生したものだったのである。



世俗内禁欲にもとづく積極的かつ合理的な職業活動は、皮肉にも小商品生産者を結果的にもうけさせることになった。なぜなら、かれらは利益の少ない一定の低価格で良い商品を規則正しく販売し正直な取引をしたからだ。これがおなじみの顧客をつかむことになったのだ。こうしてえられた富は天職の結果なのだから神の恩恵として認められた。しかし、かれらは貴族的消費を嫌悪していたから、この富は必然的に投資に向けられることになる。こうして期せずして資本が形成され、合理的産業経営の機構組織がつくりあげられた。このあたりのメンタリティが「資本主義の精神」にほかならない。資本主義の離陸もここからはじまる。




宝くじのように儲けられた富は「ふつう」なら怠惰に過ごされて浪費されても良いものだけれど、それを投資へと誘因したのがその時代の「エートス」となる。当時のシステム的な合目的性では現れていなかったはずの誘因→行動。それが人々の意味の系から現れた、ということか?生物の利他行動における協働関係が1/20で現れたように。(囚人のジレンマ的状況で)各個体が自分と関わりを持つ相手を自由に選ぶことができ[=移動]、彼らの成功を模倣するだけの賢明さを持つ場合、協調行動が発現し、全体に広まっていく。


利己主義と裏切りが支配する世界に「協力」が生まれる条件は:シミュレーション実験 ≪ WIRED.jp Archives
http://bit.ly/ouvcVB


利他的行動 - Wikipedia
http://bit.ly/pfFnil


「利他的行動は戦闘で進化」:コンピューターモデルで分析 ≪ WIRED.jp Archives
http://bit.ly/qPKJ0t



そこからするとここでの「利他」という価値は制度的規範以前の集団的な価値と個人の意味との間のおぼろげな収斂といえるのか。完全に個人の価値的なものでもなく、かと言って社会的なものの単純なインプリンティングでもなく。(もちろんゲーム理論的「適応」というだけでは理解しがたい主体性もある)





Socius_社会学感覚03行為の意味を理解する
http://www.socius.jp/lec/03.html

社会形成のプロセスにとって「意図せざる結果」はつきものだ。なぜなら、そこにはかならず「軸の転回」(Achsendrehung)と呼ばれる現象が生じるからである。「軸の転回」とは、もともとの目的や意図などの内容をふくんだ生の全体から、しだいに形式が分離し、やがて自律性をもつようになることだ。これ自体は社会形成の必然的なプロセスである▼2。

 たとえば、「生きるため」という実践的目的の知識から自己目的的な学問=科学が生じるように、生活全体に融合していた美的要素や遊びから芸術やゲームといった活動が自立するように、また諸個人の活動を相互に規制しあう調整から法が自立するように、そして経済の純粋な手段としての貨幣が今度は絶対目的としての貨幣に転換するように、もともと目的を達成するために生じた媒介手段が、自己目的をもった自律的世界へと転回してしまうことである。

 問題なのは、この「軸の転回」が「文化の悲劇」と呼ばれる事態と表裏一体だということだ。



 ウェーバーがジンメルの「文化の悲劇」概念をうけつぐなかでつけくわえた強調点のひとつに「意味喪失問題」がある。ウェーバーはいう。「『文化』なるものはすべて、自然的生活の有機的循環から人間が抜け出ていくことであって、そしてまさしくそうであるがゆえに、一歩一歩とますます破滅的な意味喪失へと導かれていく▼7」と。

 その典型的事例がほかならぬ近代科学である。科学は「われわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか」というトルストイ的問いに対してなにも答えない。これらは問題外とされる。これについてウェーバーは近代医学を例にあげている。医学は著しい発達をとげた。しかし、その前提には生命の保持という単純な前提があるのみで、生きる意味も死ぬ意味も問題外である。



ここは「物象化」として問題になる部分


ジンメルによると、社会とは本質的には「諸個人間の心的相互作用」だという。これが反復的になされ、さらに緊密化して恒久的な枠組や組織――これを「社会形象」という――へと結晶化するのである。肉体にたとえると、社会形象は心臓・肺・肝臓.胃などにあたる。資本や国家や宗教のような制度とか社会的事実のことである。ところが、ひとたび結晶化した社会形象においても、この心的相互作用は脈拍のようにたえず運動しつづけており、それによってそれぞれの社会形象に統一性と弾力性をあたえている。それは臓器だけでは生命にならず血がかよっていなければ生きられないのと同じである。

 したがって、社会にはふたつの相があるといえる。第一に社会形象に結晶化する相。第二に社会形象をいきづかせている働きの相。ジンメルは後者の側面を「生起としての社会」と呼んで重要視した最初の社会学者である。



ここはメディア論(¥社会情報学)における「コミュニケーションメディア(ハード)の基礎(cf.社会的認識の変化のような受け皿)」に近い(cf.キットラー)


山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html?1318389838



とりあえずそういう形で「システムと生活世界の知の循環、パラダイムの循環作用」という長年のモデルと、「イノベーションや社会運動、あるいは意思決定への誘因とはなにか?」あたりの話が一気にまとめられてるようなのでこの辺中心に見ていこうかと思う。





橋本努講義レジュメ ウェーバー「理解社会学のカテゴリー」
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http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/faq/faqg6.html


あとはシステム論的に理解社会学を組み直して、コンピュータシステム論の理解とか意味論との相対化→統合みたいなのだなー


プログラム意味論 ≪ Cruel to be kind
http://www.funclang.net/cruel/?p=218

志向性―心の哲学
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あと、python本とか

posted by m_um_u at 19:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年09月29日

共依存とブラック企業   〜 適切な関係と「異常」な関係、適切な介入について


「自分の一番好きな人が」「自分の事を一番好きになってくれる」 たったそれっぽっちの条件なのに どうしてなの 永遠に揃わない気がする このままずっと ずっと (山田あゆみ/chapter.11)


どうしてこの世は「持つ者」と 「持たざる者」に分かれるのか どうして「愛される者」と 「愛されない者」が在るのか 誰が それを分けたのか どこが分かれ道だったのか (根岸達夫/chapter.55)


なぁ山田 何でオレなんかスキになっちまったんだよ オレは お前が可愛いんだ だからいつかお前に好きって言われたら ちゃんと断らなきゃって思ってた でも断ったらお前は どっか行っちまうんだって思って―――― だからずっと お前から逃げ回ってさ… (真山巧/chapter.13)


恋がこんなに つらいなら 二度としたくないと 本気で思った ―――なのに どうしたらいいの ぜんぜん もう わからないよ   この人が帰って来てくれて とても嬉しい ――そして とても苦しい (山田あゆみ/chapter.53)





ボクはこの人が苦手だ ボクはいつもコトバを選んで 選んでは 口をつぐんでしまうのに この人はこんなに たどたどしくても カッコ悪くても 一生けんめいコトバを尽くして キモチを伝えて あっという間に 母をさらって行ってしまった (竹本祐太/chapter.10)


オレは かしを作りたいんでも恩を売りたいんでもない 縁あって一緒になったんだ――だから ちゃんとあんたらの人生にかかわらせて欲しいだけなんだ そしてそゆことを 迷惑とは言わねんだぞ? (カズさん/chapter.32)



俺は はぐのこと精一杯大事にしようって そう決めてきた ――でも本当はどこかで不安だった こんな東京にひっぱり出してきて… 本当に良かったんだろうかって 本当にはぐの為になるのかって ただのオレのエゴなんじゃないかって… (花本修司/chapter.14)


何も返したりしなくていいんじゃないかな ………それは 先生が自分で見つけるべきものであって ――はぐちゃんがあげるものではないんじゃないかな そして先生は それを ちゃんと見つけられる人だと オレは思う (竹本祐太/chapter.64)





山田さん どうしようもなくなったら オレを呼びな (野宮匠/chapter.50)


バレちゃってる片想いって不毛だけどラクだもんね 罪悪感で相手は優しいし もうこれ以上ヒドイ事は起きないし 新しくキズつくこともない (野宮匠/chapter.35)


何が「ムリしちゃダメですよ」だ するっつの あっかるい声出しやがって ………信じらんねえっ 9時間かかんだぞ!? (野宮匠/chapter.48)


君の願いが どうか 粉々に 砕けますように きれいな思い出になんてすると 空にのぼって いつまでも 星みたいに輝くから (野宮匠/chapter.50)




他人から見たらどんなに情けなくても みっともなくても 真山を想う この気持ち たったひとつが 冷たくて明るい 私の宝物だった (山田あゆみ/chapter.53)


修ちゃんの人生を私にください ごめんね返せるかもわかんないのに こんな事言って でも でも… 私 描きたいのずっと だから 一緒にいて 最後の最後まで(花本はぐみ/chapter.61)


ただ あの時オレは 胸いっぱいに 幸せだと思ったんだ ありがとうって思った ――――でも あげられるものなんて 心くらいしかないから 君にわたそうと思った  (竹本祐太/chapter.47)





―――そうして 私は話しかけたのだ その光に 「もしも私が描く事を手放す日が来たら」「その場で この命をお返しします。」―――と……… あの時 私は「約束」をかわしたのだ ――たしかに 目には見えない 私の神さまと (花本はぐみ/chapter.60)


治らなくても 何も残せなかったとしても いいの わかったの 描きたいの これ以外の人生は 私には ないの ゆうべ言ってくれた事 ほんとに嬉しかった 忘れないね 私もずっと あなたの事見てる (花本はぐみ/chapter.61)


「努力する」か「諦める」か どっちかしかないよ 人間に選べる道なんて いつだってたいていこの 2つしかないんだよ (花本修司/chapter.30)








しっかり食べて ちゃんと寝て キチンと起きて せいいっぱい仕事して あなたが ほかの人をどれだけ大事にしていても それを見せつけられても ポキリと折れずに 生きて行けるように (山田あゆみ/chapter.47)





















▽「愛と依存ってどう違うんですか?」




恋愛というのは幻想で、病気みたいなもので、社会的に「これ!」って正しい形とか「ふつー」の形のものはなくて、人によってその目指すところや満足は違うわけだけど一般的に見て明らかに不具合が生じてることもある。


不具合というのはその関係の不健全さみたいなのから双方が一般的に健康な最低限の生活や満足を送れなくなってしまうような状態。



共依存……カウンセリングを受けたい - メンタルヘルス - 教えて!goo
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3172894.html

「恋愛も共依存みたいなもので、それが過度で将来性にとって不健全な場合は問題。実際に生じている不具合をお互いに認識させ、それをお互いの話し合いの中で自立的に解決させていくことが肝要」、と



おそらく、恋愛という感情に基づいたバンドリングな関係が経済合理性なんかを中心としたエゴイスティックなシステムを考えた場合ちょっと異常なものなのだろう。

たとえば性や金や子供を財としたとき、そのリソースに対してそれぞれがエゴイスティックにセルフュッシュに利益を追求していき、それを神の手が調停することによって需要と供給のバランスが自然にできていくのが恋愛や家庭を単純なシステムとしてみた場合の理想的な形だろうけど。でも、人は「愛情」という非合理な情緒を持つ。愛情に基づき、人はときに自身や種の保存といった観点における単純な利益からするとマイナスになるような行動選択をしてしまう。ロマン主義者ならば「その燃えるような愛の不条理さこそが人間だ!」というところだろうけど



そんな感じで恋愛は経済合理性だけでは割り切れない不条理を含む。だから依存も恋愛も果実と言えるだろうけど、それが過度になって明らかに不具合が出てくると困る。恋愛にaddict/abuseしてるウチはそういう不具合も気にならないのかもだし、それは個々人の自由な意思決定の領域ということで他人がどうこう言うのは大きなお世話(内政不干渉)ともいえるだろうけど




共依存が生じてしまうのは片方の「愛してほしい」って意識が「ふつー」より強い場合みたい。

「自己愛・自尊心が低いため、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、共依存関係を形成し続けることが多いと言われる」
http://bit.ly/niYXxi

「愛してほしい」という渇望と「自分は愛されない存在なんだ」という不安が「ふつー」より強いために「愛されてる?」という不安を絶えず持ち続け、より安定的で本質的な「愛」を求める


共依存という言葉は、学術的用語でなく、明確な定義はない。当初の定義としては、アルコール依存症患者を世話・介護する家族が、患者自身に依存し、また患者も介護する家族に依存しているような状態が見受けられることから見出された。これはアルコール依存症だけではなく、ドメスティックバイオレンス(DV)や虐待などにも見られる現象であると言われている。

この状況では、アルコール依存症患者が家族に依存し、また介護する家族も患者に依存するために、その環境が持続すると言われている。典型例としては、アルコール依存の夫は妻に多くの迷惑をかけるが、同時に妻は夫の介護などに自分の価値を見出しているような状態である。この共依存は、患者の自立する機会を阻害し、家族もまたアルコール依存症患者を回復させるような活動を拒んだりする。

現在では、単にアルコール依存症患者との関係だけでなく、「ある人間関係に囚われ、逃れられない状態にある者」としての定義が受け入れられている。例えば、暴力を振るう夫とそれに耐える妻の関係、支配的な親と愛情を受けたい子供の関係、相手から愛されることが目的となっている恋愛関係などがある。この観点からDVや虐待、自立できない子供や人格障害、それに恋愛における自己愛的な障害にまで共依存の概念が検討され、使用されるようになっている。


共依存の二人は、自己愛の未熟な人間が多いと言われたり、パーソナリティ障害であるケースが多いと言われているが、これはアルコール依存症やアダルトチルドレン、それにパーソナリティ障害の精神病理から導かれたところが多い。それは何故かと言えば、共依存者も被共依存者も、他者の価値に依存する傾向が多いからと言われている。

例えばアルコール依存症の家族では患者のアルコール依存を認めるような家族の傾向が認められる。それが患者のアルコール飲酒をさらに深める。またアダルトチルドレンにおいては、両親が自分の評価のために子供を利用したりする。そのため子供は大人になっても両親からの自立に困難が生じるようになる。自分自身の力のみで自立が出来ないのである。またパーソナリティ障害においては、そもそもの親が子供に依存的なケースであることが多い。アダルトチルドレンと同様、大人になると子供は他者に依存して、その他者に自分の要望を過度に期待するケースが見られる。

共依存の問題点は、被共依存者が回復する機会を失うことだけでなく、共依存に巻き込まれた者が、ストレスを抱え込み、精神的な異常を訴えたり、さらには関係性に悩み自殺する場合がある。よって、共依存を引き起こさないためには、医療関係者、専門家、援助者が、共依存を引き起こす者と接する場合には、一定の距離を取り、個人的な関係にならないことが必要である。



ぼへーっと自分とメンヘラのひととの付き合いを思い出す。


彼女もどこまでいっても根源的不安を抱えてるようで、いくら言葉を尽くしても、あるいは言葉を尽くそうと持ちかけても彼女自身が自分の根源的不安の理由をうまく捉え切れないようで、けっきょく二人の問題として解決できなかった。それを埋めるために体のつながりによる言外の説得力に頼ろうと思ったけど、それも自身の肉欲的エゴと半々な理由だったのかもしれない。


そして彼女はいまも無限の愛(甘え)を乞うているのだろうか……



そういった不健全な甘えに巻き込まれると付き合ってる人はバランスを崩してしまうのかもしれない。見えない不安が根底にあるからそれを解決するまで目の前の愛に納得することはないんだけど、往々にして愛を乞うひとは自身がなにを不安に思ってるのか?(どういった形でそれが根本的に解決されるのか?)ということに向きあうことができない。だから目の前の愛では足りなくて、常に不安をもたれてしまったパートナーや家族はバランスを崩してしまうのかも。その時点で依存者が求めている甘い愛はアルコールのようなもので建設的ではないのだろうし。


だから本当にきちんと付き合う場合は、問題解決のために一緒に不安に挑む決意のようなものが必要なのだろう。

そういった傷に向きあうのは依存者からすると勇気がいることだろうから、パートナーや家族が寄り添って支え勇気の手助けをしていく。



あるいは、第三者として援助する場合には過度に密接になり相手のペースに巻き込まれないように注意しつつ依存者当人の自立を促す。


共依存の原因となる被共依存者への対応としては、一定の距離を置きながら援助される。被共依存者は、援助が少ないことに見捨てられた気持ちを抱く可能性もあるが、「自分の人生は自分で切り開いていくしかない」と気づかせることが、結果として被共依存者の回復に繋がる。被共依存者は、支援を受けることに感謝し、関係者を操作することなく、自分自身の置かれている境遇を受け入れることが、回復の第一歩である。




共依存のめんどくさい問題としては、「共依存」と診断されることで依存者が「共依存だからいけないんだ」と過度の自責を感じること、あるいは関係者を操作することで自分に居心地のいい依存関係を構築してしまうことらしい。

後者は依存者当人も半ば無意識のウチにやっていることもあるのだろうからやはりパートナーや家族、もしくは距離的に余裕のある第三者的支援者が一定の律をもって「甘え」を抑制し自立を促すように接しなければダメなのだろう。

ただ、そうはいっても過剰な依存が生じてしまうのは、その背景として常軌を逸した過去を背負っているからであって、その重みについてきちんと理解することが肝要で、拙速に自立を促すような対応は誤りに思われる。ともに当人の問題の重みを見つめ、その克服に要するエネルギーを負担しあっていくような、、、単なる頭ごなしのラベリングではなく、当人の実存的な問題として共に考えていく(共有する)姿勢。それが依存者との信頼関係の醸成につながる。



「自立」の目安のひとつとして、『「愛してほしい」から「愛して満足」に自然に移行できれば』、があるみたい

http://www.counselingservice.jp/lecture/lec402.html

「他にも問題を起こす人と問題を代わりに解決しようとしてあげる関係性も、共依存と言えます。」

「対等に慈しみ合っていける関係になるにはお互いに自立することとお互いが与えそして受け取ることができる状態になったときに手に入るのです。」



ただ、これも「愛して満足」という感覚が当人の想像力や感受性に起因した個性的なものかもしれないので、いちがいに「愛して満足になれば自立」とも言えないと思う。なので「これがふつー」って押し付けるようなものでもない



「共依存関係は、機能不全家族などで育った人々が陥りやすい」らしい



機能不全家族 - Wikipedia
http://bit.ly/kLVBOs

機能不全家族とは、「子育て」、「団欒」、「地域との関わり」といった本来家庭に存在すべき機能が、健全に機能していない家庭の問題を指す。そしてこの機能不全家族で指摘される問題は、家庭内の不健全な事実が存在する問題よりも、むしろその機能不全家族の中で育った子供への悪影響が指摘されることが多い。つまり、機能不全家族内で育った子供は、機能不全な環境や考え方が一般的であると認識し成長しやすく、また幼少期の重要な人格形成において愛情を得る機会が非常に乏しくなり、自己愛・自尊心、他者への共感、他者の苦しみに対する理解等に欠けた人間にもなりやすい。この結果、機能不全家族により、社会と健全な関係を築くことができない大人が輩出される。

機能不全家族となる要因としては、代表的なものとして、家族構成員のアルコール依存、虐待、共依存などが挙げられる。また、このような機能不全的な家庭となっている場合は、その家庭を構成する親、または祖父母などが、機能不全家族で育った経歴がある可能性も高い。


そして、ともすればそういった負の業が連鎖していく

このような家庭問題(家族崩壊)の中で育った子供が、育った環境の不健全さに気づいた場合、過去に学んだ不健全な生活習慣からの脱却に向けて、莫大なエネルギーを費やして、回復の努力をしなければならないことが多い。しかしながら、機能不全家族の一番の問題点としては、機能不全家族の中で育った子供が、育った環境の不健全さに気づかない場合に、自己の配偶者としても同様の歪んだ価値観をもったパートナーを選ぶ場合が多く、成人してからも同様に不遇な人生を選んでしまう場合が多々あることである。また、機能不全的なパートナーを選ばずとも、自らの機能不全家族の経験や、健全家族の経験の欠如から、世代間連鎖によって、新たな機能不全家族を生み出す場合も多く、自己の人生においても、不遇な、または破滅的な人生となる場合が多い。無差別大量殺人を始めとする凶悪事件などで犯人の精神鑑定を行ったり、生い立ちを探っている際に犯人の家庭や親の思考、家庭教育が非常に歪んだものであることが発覚するケースが多いが、個人情報やプライバシーの保護の観点からこうした側面はほとんど報道されないことが多い。


知らず知らずのうちにパートナーにもそういった素養の人を選び、あるいは子供にその業を背負わせていく


機能不全家族で育った子供には以下の特徴がある、とのこと

* 自己愛が発達していない。子供の頃に健全な発達ができなかったため、他者と擬似的親子関係を形成する。

* 他者を信じることができない。他者の苦しみに対する理解ができない。

* 自尊心が低く、ポジティブな自己イメージを持てない。

* 人間関係に常に問題が発生する。

* 怒り、不安、絶望の感情になりやすい。

* 他者と孤立しやすい。

* 無慈悲。

* 常に真面目で、子供らしさを持ち合わせない。年齢以上に早熟する。

* 機能不全な関係を他者と築く。

* 機能不全家族の行動を自分の子供に実行し、機能不全家族の世代間連鎖を引き起こす。



幼年期に子供らしさを享受できずに一定の役割を演じさせられ、健全な親の愛を受けられなかったため、ということのようだけど。



これらも過剰に「逃れられない業」「わたしの人生お先真っ暗」のように意識するのもどうかなぁ、と思う。


人は誰しも異常であり千の貌をもつものであって、こういった凸凹も特徴といえば特徴なのだろう。


自分の中にも双極性障害(躁鬱)的傾向はある。ただ、それはなんとなく5段階とか10段階ぐらいにメモリが分かれてて普段はレベル1とか2ぐらいなのだろう。トップギアで欝の方になったときはけっこう大変だったし何回か死にそうになったけど、いまはそれも「そういう傾向がある身体(スペック)に生まれたのだから注意しなくちゃなぁ」程度にとらえてる。躁に入った時のエネルギーを利用すればいいだけだし、欝は最近はないように思う。まぁ、ずっとローギアだから他人からすると欝の状態が平常なのかもだけど。けっきょくあの部分で「自分は異常なのかも。。(ふつーにならなきゃ(しあわせになれない)」みたいに自己抑圧するのってどこかにまだナルシシズム、「わたし(´・ω・)カワイソス」な自己憐憫な物語を紡いでるところがあるのであって、「そんなこといってもこのスペックで配牌されててレース始まってるんだから仕方ないじゃん」って決めたら「そういう性能のもの」として許容できる。

身体的な特徴の違いなんかは単に操作する車の車体性能的な問題であって、それもうまく生かせばレースに勝てるのだろうし



「他人と比べて」ってレースでもなく、自分の中の目標に達するレースみたいなのに



最終的には意志の問題なのだろう



自分(´・ω・)カワイソスしてるのではなく、(´・ω・)カワイソスでもなんでもそのレースに勝つ(あるいはその車体の性能をいかんなく発揮する)という意志の問題。







▽<恋愛と仕事は似てる>  → ドツボにハマった恋愛はブラック企業みたい


「依存も恋愛も果実」、(外野から見てある程度、異常に思われても)「個々人の自由な意思決定の領域ということで他人がどうこう言うのは大きなお世話(内政不干渉であるべき)」というところからブラック企業や「やりがいの搾取」をめぐる話を思い出したり


「恋愛、もしくは生計を共にして継続的なパートナーシップを築いていくことはビジネスのようだ」とこちらでもいったけど


愛とはどういうものかしら? 〜 恋はおわるが愛情は続く: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/227459492.html?1317282159


共依存とかDVとかで不健全状態になってる恋愛関係というのはブラック企業に喩えられるかもしれない。


「やりがいの搾取」とは「社会の一定水準から算定すると、そこで与えられている対価や保証は明らかに平均より低いのに、『( ゚Д゚)<自分が楽しいと思って選んだ道だろ?いまは辛いかもしれないけど楽しいことできてるなら本望だろうし、将来的には食えるようになるかもだからいまは耐えろ!』」とするような話。「やりがいのある仕事」を「自分で選んだ」のだから「耐えろ」っていう自己責任論。


自己責任論は通常、抑圧されている個人に対して外部の既得権益から発せられるものだけれど、恋愛あるいは継続的パートナーシップにおいて同様の心理構造にある人は自己責任を内面化しているところもあるだろうか。

共依存をやりがい搾取なブラック企業とした場合、そこでの「やりがい」は何になるのだろう?

関係当初に持った「好き」という気持ちとかそれに付随する幻想とか?


「現在を耐えれば将来的にはなにか良いことがあるかも」って期待とか?


過去の「好き」や未来の「希望的満足」を支えに現在を犠牲にする。建設的な「投資」ではなく、対価の回収の望めない「犠牲」。


あるいは、現在に至るまでに結び付けられた「情」的なつながりや、そこまでにかけられた掛金(サンクコスト)と将来的期待値を思って現在の損を切れない状態


そうやって生まれた損益による「悲惨な自分」に向きあうのを回避するために「でも、彼(社長)ったらいいところもあるのよ」って物語(イデオロギー)を紡ぐ。そこで直下の心理的ストレスを誤魔化す。


その損益はしばしば生活的なぢわぢわとした小粒なもので、当人からしてみると「耐えられないものでもない」なので一つ一つの損については鈍感になっていくのだろう。そしてそれがいつの間にか積み重なっていき、あるとき積み上がったストレスに耐え切れなくなって心のダムが決壊する。




それらの改善点として、損をしている当人の意識改革のようなものが必要ということがまずあるだろうが、損をしている当人が『それでいい』と言っている場合は道義的に外部からの干渉が必要になる。しかし「外部からの干渉はどこまで正当性をもつのか?」ということになる。


子供のように意思決定や客観的認識が乏しく主体形成ができていない存在であれば外部からの介入は妥当とされるかもだけど、大人の場合はそれはしばしば難しいことになるか。



それでも、一定の客観的水準に照らして当人が損を被り続けている、ということが外部にも当人にも納得させられたら介入の妥当性はあるだろうけど




そこでもやはり介入する第三者は過剰な熱意に燃えて過干渉するのではなく、一定の律と距離感をもって臨むべきなのだろう。









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騎士と愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/226697368.html





タグ:恋愛 家族
posted by m_um_u at 20:15 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年09月25日

愛とはどういうものかしら? 〜 恋はおわるが愛情は続く


性的行動とその決定因、またそこから発生する効果・作用の分析が生物学と経済学の臨界で生まれる。と同時に、道徳的・宗教的勧告や徴税といった伝統的手段を超えて、夫婦の性的行動を、経済的かつ政治的に協議された一つの行為に仕立てようとする組織的な作戦が現れる。

−知への意志−




権力は下から来るということ。即ち、生産の機関、家族、極限された集団、諸制度の中で形成され作動する多様な力関係は、社会体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっている。このような効果が、そこで、局地的対決を貫き、それを結びつける全般的な力線を形作る。

−知への意志−





精神は、身体の周りで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出される。その権力こそは、罰せられる人々−より一般的には監視され訓練され矯正される人々、狂人・幼児・小学生・被植民者、ある生産装置に縛り付けられて生存中ずっと監督される人々に行使されるものだ。

−監視と処罰−





主体を問い直すということは、その現実的な破壊、その解体、その破壊、全く別なものへのその転換、こうしたものへと到るような何かを経験することを意味している。

−M・フーコーとの対話−














▽「めし」の話 → 言葉以前の了解の交換




昔、「別れる気がないならめしは作り続けろ」と母親に言われた。さらに、子供については「何があっても手作りのお弁当だけは欠かしてはならん」と先輩のお母さんに言われた。家族のことでアドバイスもらおうとすると、めしに行き着く。。。。


http://twitter.com/que_sera/status/99427422713294848



これ自体はよくある話で、ふつーに「( ^ω^)まぁ日本の家庭生活の伝統的智慧だよねぇ。そういうものだ」って感じだったんだけどめんどくせー連中が「ああ、それは旧世代的な古い考えだよねー。非合理的だし、近代的生活にとっては因習だしー」みたいな感じでちょっと絡んでるの見つつ「いや、これはこれで合理性あるんだろうけどね。。合理性ってのはそれぞれの文化圏によって異なるものだし…」ってモニョったり

きちんと記述されてないだけでたぶんこういうのは「おばあちゃんの知恵袋」な民俗学的合理性があって、それが現代的な都会の経済合理性と合わないだけなんだと思う。



なんとなくのおーざっぱな妄想だと<言葉-理性でのコミュニケーション以前に「めし」が効く>というのはノンバーバルコミュニケーションということでブルデューのハビトゥスみたいな地味な効果があるのではないか?言葉以前に、身体を通じて実践していることが地味に規律というか、発想の発端部分まで影響していく、みたいなの。ロジック以前の議題(関心)設定の部分や、そこから生まれる感情や思考を規定するような。ヤコブソンの言語(あいさつ)の交話的機能な話のように「言葉でのコミュニケーションは本来ディスコミュニケーションを孕み」+「内容以前に発話を交わすことにぢみな意味があったりする」というような



承認や理解を志向しないゆるいコミュニケーション: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/76094661.html


論理的思考様式と詩的思考様式 (アナログ的思考の可能性、「魂の座」ら辺): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/78303131.html



「内容理解」以前に存在を認めるということ。


他人の考えてることなんか完全に理解るわけなくて、そういうことが理解できてるひとは慎重に言葉を紡いでお互いの意志を確認する。でも、「自分は理解されて当然」「意図を読み取られて当然」とする人は意志を伝える努力を怠る。(おーざっぱだけど)日本的な同質性の高い文化、摺り合わせ的な基盤のマッチング前提なアーキテクチャ。そこではモジュールとして細かく言葉が往来する必要はなくなり「おい」とか「あれ」とかで言葉が通じるように最適化し極めて全体性の高い「群れ」的文化圏ができるように思う。いわゆる「空気」なんかはそういったものの結果生まれた日本的な権力のあり方の呼び名だろうし。

ただ、そういった文化様式も「一定のコードの共有」という前提があって成り立つものであって、そういうものがない場面で「( ゚Д゚)<オレの言ってることを慮れや!このうすら鈍感が!」とかいうのは暴力的・非理性的言辞だろうけど。

そういった「日本的」あるいは「前近代的」合理性を孕んだ文化に対して、「なぜ西洋などでは言語(ロゴス)にそれほど重きをおくようになったか?」というのはまた面倒な問題で横道に逸れそうなのでてけとーに省くと、ギリシアのソフィスト以前にはロジックやレトリックをそれほど信じてなくてなんか「神様のおかげさまだぁ」とかギリシア神話的人間中心主義でマンセーで無反省に我が世の春を謳歌していたように思う。つまり、均衡状態で変化の期待されないシステムでは反省要因は疎外されるのだろう。分析→反省ツールとしての言語→ロジック・論法あたりもその辺なのかなぁ。。それらは「なんとなく」に共有されていた「当然」な流れ=権力を反省し、解体していくので、均衡状態を望む勢力にとっては望ましくないのだろう。


しかし、そういった言語中心、近代的な「言葉による意思確認」を志向する文化圏でも「めしを共にすること」「あいさつを交わすこと」はけっこう重要だったり。電話の最初の挨拶「もしもし」と同じく存在確認でありチューニング的に。あるいは「食う」ということ、「外来から異物を摂取するということ」の呪術的・象徴的意味合いをその場の人々が共有する、という意義。文化人類学のフィールドワークなんかで他所の文化圏におじゃましたときに「出された飯はちゃんと(゚∀゚)ウマウマ食う」が鉄則なように。敢えて自分にとっては得体のしれない異文化のものを無警戒に摂取することで、相手に全幅の信頼を置いていることをアピールしたり。

まぁそれは家庭における普段の食卓では交わされてないメッセージ交換だろうけど。ともあれ「飯を一緒に食う」は思いのほか意味があることなんだろう。挨拶したり、微笑んだり、寝所を共にしたり、セックスしたりとも似たような。行為の内容そのものの意味というか外延的意義、構造的合理性みたいなの。個別の機能合理性では割り切れないような


そういう意味で言うとセックスというのは単なる物理的快感だけというよりは存在の交換とか気持ちの交換的なところがあるのかな。まぁ部分的な機能合理性からすると甚だ「非合理」なのだろうけど。。機能合理性がゲゼル的な「狭くて部分的。分解→反省→再構築可能なモジュール的発想」であるとき、構造的合理性は「広くて全体(ゲマイン)的。すり合わせ的な合致でできてるのでユニットを細かく切れない(再構成が難しい)」ものといえる。すごくおーざっぱな対比だと、「ゲゼル」には「理性」、「ゲマイン」には「感情」的な腑分けが当てはまるか。さらにおーざっぱに、心身二元論的な腑分けだと「理性」には「思考」が、「感情」には「体」が当てはまる。それらを統合してつなぐのが「身体」といえる。



実践(プラクシス)について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199514356.html



(※細かく言うと理性的思考も感情的な思考も脳を中心にデバイスされてるので両方ともオツム介してるんだけど話の流れ的に割愛)



「めし」ほかの効果、機能性というのは身体に響くもののように思う。理性と感情の中間。独我論的には言葉や論理ではどうしても突き詰め切れない他者や自己の存在に対する漠然とした安心感や肯定感のようなもの。




それらの身体的な効果はナンパなんかにおける言語以前の距離の詰め方みたいなテクニックにも似てるのだろうけど、こういうのは一定の財と権力を介した政治ゲームであり外交関係にも似てる。軍事力ほかの政治経済的資源が少ない小国が大国と渡り合うときの飛び道具的なやり方みたいなの。真正面から衝突すると負けてしまうので搦手として使われるもの。


そういった小さなところで創りだされた慣性を積み重ねることによって、既存の大きな権力に抗していく。家庭の場合は前近代的因習と空気が「大きな権力」で、「あいさつ」や「めしをくう」などといったノンバーバルな絆によって生じた慣性(情)を根拠としてそういった権力に抗していく。規律訓練のように対幻想領域におけるエートスのようなものが生まれていく。



「日常の政治学(文化政治学)」みたいなのがあるとして、コミュニケーション(外交)部分では「めし」「セクース」「デート」「会話」などといった行動を直接的なオプションとして親交を高めたりタスクをおしつけたり引き受けたりつつ力関係を形成、性や金、子供などといった「財」を駆け引きする。


カップル間のそれでは言外に男性側の身体的優位が圧力となる場面がけっこうあって、それがなんとなくの力関係の基底になってるところもある。そういう場面では直接衝突すれば間違い無く踏みつぶされるだけなので、直接衝突は迂回しつつ、外交カードをいくつか切るといい。兵站を切ったり、第三国との関係を利用して相手国を追い込むなどして戦場における直接戦闘以前に「場」の勝敗を根回ししたり。








▽言葉以前の了解の交換 → セックスも → 性愛とはどういうものかしら?



性欲の話というのは食欲の話にも似てるように個人的には思う。(男性なんかの場合は特に)人の場合、他の動物と違って性欲はふだんからざわざわしてるもので、いつエロいものをみてもそれはそれで扇情的だなぁってかんじだったんだけど、最近たまにそういうものを見ると「( ^ω^)・・・いまいらんなぁ」って感じになる。某人いわく「それはお腹いっぱいってことではないかね?('A`)y-~」、と

http://twitter.com/#!/harumachidori/status/111889586506039296


アダルトの現場で監督の熱いこだわりを見聞きするのは面白いし、エロに麻痺しやすい中で情熱失ってないことに感心したりするけど、その熱心なエロシーンを引いた目で「絵」として眺めると有り体に言ってやはりグロテスクだし、それでいいもんだと思う。美化するもんでもないし、キモい時はキモい


http://twitter.com/#!/harumachidori/status/111892721421127680


肉屋で肉の塊がだらーんとぶら下がってるような感じだろうか


エロにつながるようなわかりやすい性欲というのはそういったざわざわしたもの、食欲における肉欲と同じように「ガッツリ食べる」みたいな感覚に近いのではないか?それに対して「愛」につながるものはもうちょっとぢわっとしてるというか…



男性女性における性の非対称について - Togetter
http://togetter.com/li/191437


ヤコブソンの発話交換のような、セックスそのものには意味(快)はなくて交換することそのことに快がある、みたいなの。「セックスより自慰のほうが気持ちいい。自分でポイント分かってるし」なんていうことあるけど、たしかに物理的刺激だけだとそういうことは思う。二人でするのはめんどくさいし、ちゃんと相手に気を使う人だと気疲れ的にめんどくさい。。

ただ、自慰と違ってセックスの場合は相手に感情移入して満足を得るところがあるかなぁ。。すくなくとも自分の場合は。人が喜んでると嬉しい性質だからだろうか(あとは感受性とか想像力とかそういうのかなぁ。。

そういった体の物理的な快や想像力的な満足(快)のほかに、ぢわっとした愛情のようなものがセックスの中にあるのではないか?愛の交換のようなもの

「愛」というのはいまだによくわからないところがあるんだけど、なんらかのエネルギーであると仮定したとき、セックスというのはそれの交換なのかなぁ、とも思う。物理的体液交換 → 脳内物質発射 → 快感刺激だけではなく。


物理的快楽は遺伝子のプログラムで生物的・本能的機制といえるだろう。だから、それは妊娠という種の保存的役割を終えると萎えて行ってしまうものらしい。男性の性欲減退なんかはその辺も絡むみたいだけど、対して女性は妊娠を機に良くなったり。それは「カラダ的、生物的機制、プログラムに抗う実存的な欲求ということで高尚( ^ω^)・・・なのか?」と拙速に考えそうになるけどたぶんその辺は関係ない。単に予備的なプログラムなのかなぁ。。生物的機制としては。


そういったものとは別にノンバーバルなコミュニケーションとしての存在確認、お互いの気持ちの言語以前の交換のようなものとしてセックスがあるのかなぁ。。


端的にいうと「相手を労りたい」「もっと愛を交わしたい」という場面で相手の気持に報いることができないときになにが身体の反応を促す要因になるのか?ということを考えてるわけだけど

年齢を重ねたり体力的な問題、精神の機能失調などで男性のほうが衰えていき、女性のほうが逆に上がっていく。

あるいは、年をとっても愛する人と愛を重ねていくということ



「オレは変わらずに キミを愛していけるのか?」



そういった問への審判が体側から勝手に出されるようで、、なんとなくの焦りや不甲斐なさを感じてしまう場面が想像される。


生物的な機制(当然)や文化・社会的機制(規範-当然)に抗って自分達の実存としての満足を高めていくこと。目の前の人が歳をとったりなんらかの事故でかつての美しさを失っていても。そこに変わらぬ魅力を投影できるのだろうか…?


単なる独りよがりな欲の解消ではなく魂の交換のような形で。二人で満足をつくっていく








▽恋愛はおわるが愛情は続く



恋愛は仕事にもちょっと似ている。告白の場面は就職面接のようだし、合コンもプレゼンみたい。継続的な関係を考えた場合は「生計を共にする」ということでビジネスパートナー的な感覚も必要だろうし。

というか、恋愛や結婚ほかの継続的なパートナーシップを結ぶ場合は前近代的仕事、家内制手工業のようなものに感覚が近くなるかも。単なる「好き好き」の甘々表明としての恋愛ではなくビジネスにも似たものに


家内制手工業としての家庭は「自分達の満足」-「しあわせ」を生み出すことを目的として営まれる。


しばしばそれは「子供の養育」であったり、「パートナーと共同生活を送る中でお互いに支え合い、高めあっていく」ということであったり、「女性は家事、男は仕事」ではなく、それぞれがそのときできることを分けあって家庭を協働していく。お互いに思いやって、そのときできること、したら喜ぶだろうなということを交換していく。


家内制手工業としての家庭全体を生産関係と見た場合、セックスは子作りのための生産手段に当たるか。「手段」という語彙のニュアンスから即断すれば「生む機械」だけど、生産「手段」というか生産「方法」のひとつといったほうがいいかもしれない。家庭という対幻想領域における満足・効用の最大を目指す際の方法のひとつ。


だからセックスはどちらかというと下部構造に当たるだろうけど、愛はそういったセックスを覆う幻想(イデオロギー)であり上部構造でありソフトウェアなのだろう。そして「愛」のイメージも人それぞれ異なる。共同幻想としていくつか提示された愛の形。ロマンティック・ラブとか純愛とかもっと性的なものとかオトナのうんぬんとか。あるいは個々のセクシュアリティの違いからいくつかの愛の共同幻想がコラージュされたり。そういったものはセックスも含んだ普段の愛情交換(コミュニケーション)の際に参照されるコードであり、愛というシステムにおけるOSのようなものなのだろう。

愛に関する既存の幻想ではどうしても満足できない際立ったセクシュアリティを持った人は世間からすると「アブノーマル」とされるところにいくのだろうけど、最初からなんとなくのおしゃれ的に既存の愛や性欲の型をインストールしたものは、どんなに「特殊」ぶってても、オリジンでも実存でもないように思う。



そして、なんとなくだけどそれらの幻想の選択、実存的な自分のリアリティへの気づきというのは精神の発達練度と関係してるように思う。


社会生活を通じて、精神はみょーなコンプレックスからいくつかの既存の幻想をインストールしてそれをアイデンティファイすることでいつの間にか余計な鎧を重ね、「ほんとに自分が求めるもの=満足」から離れて行ってしまうのだろう。性的嗜好なんかもその辺が関わるように思う。既存の「アブノーマル」を重ねても自分の満足とずれていたらいつまでたってもほんとの満足にはたどり着けない。


だから、精神に張り付いた余計な鎧、自らをも騙すような理論武装を解いて行く必要があるのだろうけど、それには一度「自分」と思われるものを捨てる勇気がいるし、その勇気が必要とされる場面というのは多くの人の人生の中では訪れないままオトナになってしまう。


それらを溶かすのが愛の力か、と思うこともあるけど。。凍てついた氷塊はある程度のショック療法でないと崩せない、ということもあるかもしれない。








▽愛と精神の構造とは? - flower of life



<愛のイメージは人それぞれ違う><それは精神の練度に依る><精神は自分(エゴ)を捨てリミッターを外さないと深まっていかない>


ではそのようにして深められた「愛」にまつわる感情の機微はどのようなものがありどういった構造をしているのだろうか?


なんとなくだけど「理趣会」がそれに当たるのではないかと思った


両界曼荼羅のうち金剛界曼荼羅に当たるもの



両界曼荼羅 - Wikipedia
http://tinyurl.com/422c2cp



ぼんやりな理解だけど、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の2つで、前者はプラトン的イデアな世界、後者はそれに物的重石がついた世界を表しているように思える。物的重石がついてなければ胎蔵界曼荼羅のようなストレートな配置でだいたいのことに対応できるのだろうけど、物的重石や「人」の精神が関わると複雑性が増し、それに対応するようにシステムの構成をシフトしなければならないのではないか?

金剛界曼荼羅で描かれた幾つかの配列は、それぞれの系における暫定的な最適パターン、将棋の型のようなものではなかろうか。

そして、そこで配置される「仏」には「慈愛」ほか特定の意味が付与されている。


たとえばなんらかの煩悩的な場面に遭遇したとき、それらの要素を思いだして意識的に要素にそった思考経路をたどれば悩みから抜け出しやすいのでは?



理趣会はその中でも恋愛や性に関わる愛憎に最適化した型なのではないだろうか。



理趣経
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/rishunaiyou.htm


http://www9.plala.or.jp/mandara10/k-risyu.htm




意味としては未だ゙読み解けてないけど、それぞれの要素を理解し、自分なりに状況を想定した物語を編んでおけばいざというときに心強いのかも




それらを通じて人として生きているうちに相対するアンチノミー(二律背反)的ストレスに抗していく。一部の小乗であれば「そういった悩みも煩悩であるから捨ててしまえ」というところかもだけど、その悩み自体を一定の系を拓くためのストレスとして利用し精神の系を広げていく。アンチノミーを通じて弁証法的に昇華したそれぞれの系-円が交差し、蓮の華のように波紋状に拡がっていく。



そういう形で人は少しずつ生物的機制や文化・社会的機制から解かれ、主体(大人)として立てるようになっていくのだろう


そうやって成長した大人(主体)がパートナーを組めば、あるいは既存の権力(機制)に抗して自分達の自由を広げていくことできるかもしれない。言葉と身体で魂を響き合わせて










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家事と育児と高齢者介護(双方の両親)を誰かが完璧にやってくれたら、社会的に十分な働きをする既婚女性はたくさん居ると思うよ。個人の問題ではなく、仕組みの問題として考えないと、解決しない。批判するより問題解決に向けた意見の積み重ねをしないとだたの愚痴になる。


http://twitter.com/que_sera/status/77163616448692224



公には言いにくいけど、私は大きな社会より目の前の命を大事にする。両立がならないなら誰かが弱いものの側に立たなくてはならない。私は弱いものの側から目の前の命を守るのが仕事だと思ってる。


http://twitter.com/que_sera/status/83369725261914112



白衣は私にとっては戦闘服。人格変わるもん。営業スマイルと、徹底したロジックが現れるQT @marubashi: @que_sera @4n0 白衣に着替えた〜


http://twitter.com/que_sera/status/116267836825022464






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知恵と智慧 - Togetter
http://togetter.com/li/190861

※実践(プラクシス)=智慧、ということで







◆ NHKドキュメンタリー「二本の木・夫婦で癌に侵された、最後の記録」 を観て
http://blog.goo.ne.jp/fukiya-kurabu/e/ee8deb31635f20a3dfc72cb4949d2248

http://ryuma681.blog47.fc2.com/blog-entry-150.html




「明るいほうに進んでゆきなさい
                  輝く光の方に行くんだよ」












http://www.uta-net.com/song/43209/




恋とはどういうものかしら? (Mag comics)
岡崎 京子
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タグ: 精神 実存
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2011年09月19日

騎士と愛



聖なる天の御父

我は心ねじけたる者の邪を懲らしめ

我は無垢たる者の善を守らんがため

剣を振るうを許し給うたなれば

民草を庇い守らんがため

騎士道の掟を剣の下に定め

ここなる汝の僕をして常に善を志さしめ

檻に人を傷つくるに剣を振るうことをなからしめ

正義と法とを守らんがため

これを振るわせしめんことを



また彼の婦人を身命をとして守らん












「けっきょく男は不幸な女に弱いのよね ( `,_・・´)フンッ」って言われたことがあって、「男は」っていうか自分はそういうものかと思うわけだけど


「不幸な女」ってところに特別なこだわりなくて、単に同情というか護りたい欲のようなものが刺激されるんだと思う。動物的遺伝子だか文化遺伝子だかしらんけどまぁ仮に「守護本能」とする。


守護本能自体は悪くなくて、同情からけっこう踏み込んでしまって、そこに下心(好奇心?)だか恋心だかも混ざって、いちお契約内容みたいなのを確認しつつもわけわからんうちに関係結んでしまって、なし崩し的に責任とったほうがいいなぁ( ^ω^)みたいになる


そんで、「そんなことしてたらキミの身がもたないよ?自分の好みなんかに忠実でいいわけだし、それが人というものだよ −y( ´Д`)。oO○」、とかいわれるわけだけど


たしかにそうで、そういう関係から付き合い始めてしまうと最終的に相手に対して失礼なことになるなぁ、と。そこで覚悟決めて自分なりの道義的責任とって寄り添っていこうかと思ったりもしたけど



親愛なる人へ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/142089498.html



やはりそういうのだとダメなんだろう





反対に好きな人に対して「ともだち以上」意識や守護本能がドライブしつつ恋愛感情に結びついて上がっていってる時に、「( ^ω^)・・・そういうのと恋愛を勘違いしてはいけないよ?」、って一般論的に予防線はられたこともあるけど



まぁ、たしかに。「護る / 護られたい」欲を恋愛の理由とするのは心理的トリックのようなものがあるのだろう。だから冷静に判断すれば「護った / 護られた」ということは吊り橋効果みたいなもので、きっかけにはなっても十分条件にはならない


たとえ守護本能から好意が深まっていても、純粋に「相手を護りたい」ということであれば、相手に何かを期待しないのが邪念のない厚意なのではないか?





頭の中で聲がした




「おまえがあのときに捧げた誓いが本物であると証明して見せろ。自分の思いに溺れてふたたびあの子たちのココロを裏切らないように。踏みとどまってきちんと考えろ」


「『事なかれ主義』とか安いオトナの理屈ではなく、本当に人を護るということを考えろ。それが人の魂を救い、それを通じて自分が救われるということだ」






転んで泣いてる子がいたら助け起こして「大丈夫?」って言ったり、女の子が怖がって泣いてたら見過ごすのではなく代わりに矢面に立って壁になる。

そういうイベント的なことでなくても、日常生活の些細な場面で気持ちを裏切らずに尊敬しつつ護る、というような


ヒーローというかその子の騎士になるというだけ。それが男の子としての単純なあり方だと思う。パートナーという女王(あるいは尊敬する女性)に忠誠を誓い護る。


それをオトナな理屈につなげるのではなく、特に対価も要求せずに護り、それが完了したらマジシャンのように去るということ



献身の在り処
http://bit.ly/id8gp4



そうすることで自分の中の痛みも救われるような気がする。万人に共通することではないのだろうけど。自分が自分に救われている感じ(ヒーローは自分の中にいる)


ヒーローをみつけた日 - 傘をひらいて、空を
http://d.hatena.ne.jp/kasawo/20110118/p1




オトナの理屈とか生活の惰性の中で自分の純粋な気持ちが歪められていく、自分の内部で自分が自分に嘘をつきそれに誤魔化される、その結果として甘い果実を貪ってしまう…。それが結果的に相手を傷つけてしまう。  そういうことを恐れているのだなオレは


欲が絡んで利害関係が生じて単純な親愛が歪んでしまうこと。あるいは自分がそれをごまかしてしまうということ。



そうなるぐらいだったらなにも要求せずに厚意を捧げばいい。少しチクチクするだろうけど、空腹で死ぬわけでもないし、なにより相手を傷つけないで済む。










守護本能のようなものがくすぐられるというのは「母性本能をくすぐられる」みたいなのとも似てるかと思うんだけど、自分だけかと思ったら「ナイト力(りょく)」とかいってけっこう男性にはあるものなのか



哲雄&AKIの不純愛講座  男の「騎士(ナイト)力」を引き出すのは、どんな女?
http://fujunaikouza.blog23.fc2.com/blog-entry-724.html



「女性側がそれを引き出すにはぶりっこしないこと」みたいな軽い駆引きテクみたいなのは置いておくとして「( ^ω^)ナイトかぁ。。」とか思ってぼへーっとググる



騎士物語
http://www004.upp.so-net.ne.jp/thor/FD/knightstale.htm

http://morutan.tumblr.com/post/10382737955


婦人奉仕の精神について
http://www.moonover.jp/2goukan/parzival/ritter3.htm


Hitotsubashi University Repository Title ミンネザングの「愛」 : 中世南仏・北仏抒情詩人との対 比において Author(s) 清水, 朗 Citation 言語文化, 38: 35-48 Issue Date 2001-12-25 Type Departmental Bulletin Paper Text Version(PDF)
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/8851/1/gengo0003800350.pdf



ざらっというと、「騎士というのは各言語の『馬に乗る人』を意味する言葉、あるいは『従僕』を意味するcnihtに由来する」「傭兵との違いははっきりしない」、「婦人奉仕の精神は騎士道に由来する」、「騎士と婦人奉仕、そこから派生する恋愛ロマンスは恋愛詩(ミンネサング)として当時好まれた」、「騎士道ミンネサングのさきがけであるトルバドールの歌は当時の文学・哲学・神学において主流であった道具としての女性像を覆し、男性と対等にわたり合う女性の姿を描いた点で特筆すべきものであった」、と


付け加えれば騎士道は十字軍との関連で高まっていったものなのであり、騎士団はもともと教会直属のものであった(ex.テンプル騎士団)。だから、騎士道精神の弱者保護とはカトリックの弱者保護に由来するものと思われる。そこから派生して婦人保護→奉仕となっていったのだろうか?「南イタリアの性におおらかな気風がそのような精神を育んだ」とされるが「北フランス、ドイツへ渡っていくにつれて各地のもともとの騎士的性格と混ざり、騎士道やミンネサングの内容も変わっていった」とのこと。「イタリアでは恋愛におおらかであったミンネサングも、ドイツに渡ると『秘めた恋』のような形になっていった」


しかし騎士道の中心はまずもって「神への奉仕」→「教会の意向の代行者」→「弱者保護」というところにあり、それに付随する女性奉仕、そのための各種の研鑽をもって貴婦人たちの心をつかんでいったみたい。それまで男性の道具であった女性の周りで男性が男を競う鳥類の求婚のような世界が展開していたのか。そして、そこでは既婚女性との「許されぬ恋」のようなものも称揚されていた。


ロマンスという言葉は「ロマンス語で書かれた中世騎士道物語」を意味する。当時、高尚な言語であったギリシャ語やラテン語に対して、日常言語であるロマンス語は俗なものとされていた。なので、そこで描かれた恋愛譚はいまだったらハーレクインのような感じだったのだろうか。

そして「ロマンス」というだけで中世騎士道物語に含まれた守護と礼節、許されぬ恋へと飛躍する情熱全体を含意するようになったか。そして純愛


なのでロマンチック・ラブというとき「純愛」のほかに「1:1の関係性」の要素を含むことで混乱するわけだけど、ロマンスにしてもロマン主義にしても「純愛」をデフォにするのでわざわざ「ロマンチック」と冠するようになったのは「1:1の関係性」が先にあり、特異なロマンス的純愛が後付け的に付けられたのかなぁ。。かつてのロマン主義的情熱回帰のように







「守護本能」ということだと父性と母性の話をまたちょっと思う。


蜜蜂を弄ぶ : 父性と母性
http://liyehuku.exblog.jp/16867432/


河合隼雄さんによると父性や母性という性質は性別にバンドルされたものではなく、性別に関係なく男女ともにあるものらしい。父性の特徴は「切ること」、母性の特徴は「包むこと」とか。


とすると、この騎士道的守護欲のようなものも母性ということになるのだろうか?


同時に騎士は敵を「切る」属性があるはずだけど




よくわからないけど自分の中の2つの属性をぼんやり思う。「切る」は単に闘争本能というわけでもないのだろうな。






父性と母性、無条件の守護本能のようなことについてまた思う


無条件の守護 = 愛なのかなぁ、と


愛=無条件、無前提で与えるものなのか?




「与えたら返されるもの」「特に親しくもない誰かから一方的に厚意を贈られるのはあり得ないこと(贈る方も謹んだほうがいい)」というような共通認識があるように思うけど、そういった親子やかなり親しい友人、恋人などといった特定関係における等価交換はそんなに当然なことなのだろうか? 「子は親に、親は子に報い『なければならない』?」


おそらく「即時的等価交換であるべき」ということ、あるいは「親は子を愛を持って育てなければならない」「子は親に愛を感じなければならない」ということ自体があとづけの物語なのだろう

単なる推測だけど、親は自然状態において困窮すれば子を捨てるし、理性的に理想とされる「愛」?のような形で慈愛をもって子を抱擁する存在でもないのではないか?自然界でも本能の機構で出産まもなくは母性によるバインドが生じるみたいだけどあれは理性ではなく自動機構といってもいいだろうし。

出産からしばらくたって自分に対する生意気な存在として目の前に現れてくる「子」を庇護する義務というのは本来ならどこにもないわけだし(完全に社会が壊滅して最後の家族になった状態を想定すればない)。そこでも道義的責任感は発生するだろうけど、それは社会的規範の内面化による後付けに思う。


中世などの生産力があまり整ってない時代環境を想定すれば「子を売る」というのはふつーにあった。そこで親がどのような心理にあったか?「出来れば売りたくない」というキモチが踏みにじられ自らそれを踏襲することからの尊厳の敗北感のようなものはあっただろうけど、もっと単純な、現代と比べると情緒のない選択だったとも思える。良心の呵責をひきづらないような。

自然界において一定期間が過ぎるとまだ身体的に未成熟な個体も独り立ちさせ生計を分ける。それと同じように、人は本来「子供」な期間なんかなかったわけだし、で、あれば子供的なものへの護る義務感も希薄だったと考えられる。一部の金持ちの間で家督のために子供は作られて保護されただろうけど


しかし、「親は子を守る必要はない」「子が親に愛を感じる必要もない」 そういった殺伐とも思える関係性が本来の親子関係であると仮定すると、そこで人間存在の「わたしはなぜ生まれてきたのか?」という根源的な問いが浮いてしまうのではないか?  そしてそこに答えはない



「わたしはなぜ生まれてきたのか?」「わたしはなぜこのような困難な状況にありそれを生きているのか?」


その問いにはなんらかの希望への希求が最初から内在する。その根源的不安を落ち着かせるために設定されたのが「無前提、無条件、等価交換を期待しない絶対的愛情」としての神だったのではないか。あるいは共同体にとって弱者保護が有効であったため「弱者を守ることは自然=神の意に沿うことだ」とされていったのではないか?


そして、そこから割れるように「父」や「母」といったものが当然化されていったのではないか?(生産力の高まり→生産関係の変化→生活が豊かになり余裕ができることによって父、母、子が「愛」を交換できるようになった)




強烈なしつけをされるとき、「自分という存在は親からすると『しつけ=おきて=社会』よりも下なのではないか?いざとなると親は自分を捨てるのではないか?」という不安が立ち上がってくる


[書評]タエ子ちゃんといっしょ おもひでぽろぽろ読本(岡本螢): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/02/post-243d.html



その問いが家族関係の偽善への疑い、無条件の愛のようなものへの疑念が心の傷となって成人しても残る。そして、そういった偽善(オトナ)への嗅覚をいずれ忘れて自分達もオトナ(偽善)になってしまう。踏み絵のように甘い果実を貪って



人は自然状態で放っておけば殺伐と子供を放逐してしまう。だからこそ家族の囲いと家族愛の物語が必要で、資源の乏しい一定の時代ではそうやって寄り添って生きて行くことが最優先だったのだろうけど、資源が増え、自由選択の機会が増えれば家族という物語の幻想も溶けてしまうのだろう。


だから、家族関係がこじれていたら自らの意志で家族関係を再契約することもアリではないかと個人的には思うけど、「この条件が飲めなければ縁を切る」というのは多くの人にとって直面したくない修羅場なのだろうな。(そういうのを嫌がって何年も親に会わず実質的な縁切りになってるひとはたくさんいるだろうけど


しかし「家族」が無条件に尊いものでないとき、自ら選択していない家族にそれほどの意義や根拠としての強さがあるのだろうか?



それに比べれば特に社会的契約書類に表れていない心の家族のような人達のほうがよほど尊いように自分としては思うけど


「そういった人達はほんとにキツイ場面では逃げてくだけだよ」ということなのだろうか?(自分も含めて、そういう場面では逃げてしまうのだろうか?



愛情はモノではなくエネルギーのようなもので、理想的には固定的関係性にしばられずにネットワークを流れていくものではないかと思う。特に家族や恋人といった特定の関係性にしばられずに。


それが一定の関係のもとに縛られざるをえない、愛のフェティシズムとその結果としての嫉妬を呼ぶのは、そこにその関係以外に代替する愛の回路がないからか。


でも、自分としては自分が受けた慈愛(キセキ)を愛が足りない人に分けるのはアリなんじゃないかと思う。それは贈与交換的なもので、即物的・即時的な等価交換は期待されない



そうやって足らないところをなんとなくケアしてけば、凸凹をちょっとずつ出来る範囲で埋めていければ…





ズラズラと「シビアを見つめるリアリストでござい」みたいな感じで推測を重ねてきたけど、そういう形でなかば地獄絵のような露悪を好むのは、自分が「それでもなお無条件の愛が少なくとも親子の間にはあるはずだ」と信じたい気持ちがあるからか。その気持ちを裏切られて絶望するよりは、最初から「そういうものだ」と思っておいたほうがいいから防衛的に物語を作っているところもあるのかも。

だから、「不安な心を安定させるために神(大いなる愛)が造られ、それを模倣するように家族愛ができていった」、と、「家族や近親の愛が自然にあり、その究極系として大いなる愛-神が設定されていった」とする可能性が半々ぐらいに思ってたりもする。




このあたりはなんとなくの思考実験なだけだから保留するとして






とりあえず眼の前の人の騎士になろう







knhight.jpg



http://morutan.tumblr.com/post/10385579945








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The Lady of Shallot 〜 ピアノレッスン  (七夕と供犠と女の「自由」の話): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/214043580.html


こころ
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425397494
タグ: 家族
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2011年09月17日

こころ



この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしょに
至上福祉にいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしょに行かうとする
この変態を恋愛といふ


そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ




(一九二二、五、二一 「小岩井牧場」 『宮沢賢治全集 T』ちくま文庫1992年版より)













「異性への要求水準を下げる」よりも大切なこと - シロクマの屑籠
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110914/p1



「社会通念的な幻想に迷わされて無意識に設定していた要求水準を下げるのではなく、要求水準を多様化したらいい」みたいな話


ちょっと前だと「3高」とかいってたアレとかか。理想とする相手や恋愛関係を「金、ルックス、身長、性格、性的魅力、、etc」なんかに分けて、それらをバンドリングして「そこからまからん」とするもの


そういうことではなくてもっと多様な要素にわけて、自分の満足のために要素のプライオリティを編成しなおしては?みたいなの




結婚を含めた長い付き合いでよくある「一定期間が過ぎたら覚めてしまう」ということ。あるいは一定の距離が置かれると覚めていくというのは「スペック中心で見てたから」というのはあるかなぁと思いつつ、スペックはスペックでぢみに重要だったりもするなぁ。。


まぁベタに言うと「やっぱ性格ですよね」も「やっぱ好みのタイプじゃないと」みたいなのも両方含めてバランスよければいいねって話で


んでも、実際問題としてはその前提として人との出会いというのは完全に自由な環境の中で選ばれるものではないので、理想というのは指標に過ぎないということになる。アイドルにいつまでも憧れててもなぁ、みたいなの。



そこで「配られたカードで勝負するしかないのさ」ということになり、そこでの関係性の構築を通して恋愛関係を創り上げていく(むしろこうやって創り上げられたものこそ真実)というところかと思うけど



だからといってあまりにも合わない相手と無理して関係作ってくってのもなぁ( ^ω^)・・・ってことだし、理想スペックフルセットでなければ「自分が最低限欲しいもの」を持っている相手はいる。出会えるかどうかは確率の問題はあるだろうけど



最終的にそこで求められるのは「なんとなく相手がいると自分はいい感じに生活ができる」「こいつじゃないとダメなんだ」的なものだろう。それは関係を通して培われるというのもあるけど、そもそもそのもととなるリズムの協和のようなものもあったり。。


それをプライオリティの上位としつつ、加えて配牌されたスペックの自由編成を自分達なりに行うのが落としどころだと自分的には思うけど






「男ってなんで浮気するんでしょうね?」というところから、一緒にやっていく際の根拠のような話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/224412034.html



では長く付き合っていく際に必要な根拠のようなものとはなんだろうか?








▽「好き」という感情は幻想 → 長い付き合いにおいて「好き」以上に必要なものとは?




人の意志や、その元となる判断、理性-ロジックは思ったよりも感情によって影響を受ける。感情もそうだけど、理性の外部要因となる部分に理性的思考過程がメタで規定される。思考過程内部でのロジックの組み立ては合理的でも、そもそもその議題に強い関心を惹かれたこと、あるいはいくつかの思考の型のポートフォリオの中からそれを選択したことは一定の恣意性に基づくのではないか? 「あれ?オレ、こないだこういったこと(物語)に出くわしたときにこんなこと思ったっけ?こんなに興味を持ったっけ?」的に


どんなに理性的に振舞っていても性欲や好奇心はもたげるし、そのときの環境に影響されて喜怒哀楽も変わり、それによって思考のリズムも変わる。理知的と自認したり、そうありたいと思う人は性欲や喜怒哀楽的な理性以外の外部要因によって自らが「理性的に」選択した規範やポリシー、そのときの思考が影響を受けてしまうのを嫌う。


その規範が「○○べき」ものとなったとき、個々人に固有のセクシャリティについて、ともすれば罪悪感のようなものを抱えることもあるかもしれない




森岡正博、2005、「感じない男」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52482268.html



健全な性欲 - 雨宮まみの「弟よ!」
http://d.hatena.ne.jp/mamiamamiya/20110907





感情はそのときの状況に依存する。そのとき置かれている人間関係的なゴタゴタ、騒音や湿度ほかの不快感、楽しいことがあった時のワクワク感、肉体のバイオリズム、音楽や絵や物語なんかの影響 etc...


恋愛も含めたあらゆる感情は行動心理学的な機構で、一定の条件がinputされれば脳内物質が流れでて特定感情がoutputされるということなのではないか?

シャノン=ウィーバーの通信機モデルのように

http://awareness.secret.jp/sub06/sub0600.html




で、あれば、すべからく恋愛的なもの、あるいは感情的なものは吊り橋効果的な心理的まやかしではないかと思う


特定の人物が好きだというキモチ、あるいは、その逆にキライだというキモチも




だから、関係として「ずっと続いていくもの」を模索するのであれば単なる「好き」とか「気に入ってる」、それらを彩る甘い言葉ではなくもうちょっとじっくりとした意志に関わるような要素が必要になる。「好き」とか「気に入ってる」だけだと自分の欲求(オフェンス)を中心にしているので、相手との関係において自分の不利益になるようなことが生じた場合、自分のエゴを優先するように相手との恋愛ゲームを操作する/されるようになる。対して「ほんとに好き」なのであればまずもって相手の満足を優先すべきであり好意だけではなく具体的な厚意を重ねようとするだろう。

まず嫌な部分・場面を想定して、「それでも相手と付き合っていけるかどうか?」、と問うのがディフェンス重視でいいかと思う。そこで重視されるのが前提としての「なんか合う」とかだろうけど。この部分は人それぞれのプライオリティがあるか


そうやって選択したら厚意の献身を互いに細かくポトラッチすることによって単なる「好き」以上の対幻想を共に育てていく。




「嫌な場面を想定して、それでも相手と付き合っていけるかどうか?」「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすこと」


後者は婚姻の社会的契約の際に半ば謳わされる言葉だけど、じっくりと考える際にもある程度有効なのかも。


ただ、それは戦略的な場面で相手との長い付き合いを考える際に行うべき思考であり、戦術的場面で固定的に運用されるべきものではない。戦況が変わったと思えばどんどん撤退したほうがいいわけだし、戦力配分も変えるべきだし。



そういったことを踏まえつつも個人的にはわりと問題のない選択が済んだ後には、献身的な愛の形を理想とするけど。


自分を押し殺して相手に尽くすこと、たとえ相手に気づかれなくて自分のキモチが報われなくても、相手の満足が向上するように努めること。


そういった形でお互いが自然に相手のことを思いやって、お互いの深い愛、思いやりにあるとき気づくようなこと


それが愛の形ではないかと思う


しかし、それは単に自己犠牲することなのだろうか?







▽愛とは一方的な献身だろうか?その是非は?



デュ・ゲクランに恋人と友人の二人から捧げられた父性や母性のような愛のように



佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html



あるいは病床のDV夫の黒太子エドワードに捧げられたジョーン・オブ・ケントの献身のように


「おまえがこの先なにをしても自分だけは味方でいる。世間がなんと言おうが自分だけは見捨てない」というような好意の持ち方


それは「子に注がれる無条件の愛」として父性や母性に期待されるものに似ている。







『うさぎドロップ』 宇仁田ゆみ著 もっとも純粋で安定した愛の形とはどんなものですか? - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110903/p3



「家庭環境に恵まれなかった人は恋愛、というよりもその先の『家庭』を目標とする。しかしそこへの自己分析と欲求表現が不器用なものになっている。愛を乞う人は愛の乞い方も、そもそも自分がどういったものを求めているのかもわからなくなる。「愛とはどういうものかしら? そういった低い自己評価やコンプレックスを父性がやさしく包み導く。それはいつか恋愛的なものに転換して行って…」


父性がどのようにして恋愛的なものに転換したか?その契機についてはこのエントリでは語られてないのだけれど。こういう形で父の役割を担うというのは「自分が本当に欲しかった役割をロールプレイ的に演じ直すことで再構築し自分自身を再生していく」というような心理機構があるのではないか?親が子供を育てつつなにかを教えられていくように


そういう形で失われた凸凹を互いに補い、「家族」を作っていく。


だからこの作品では最初の段階では年齢的、関係性的に「父と子」であったけど、その過程で女の子の方に母性的意識が生まれていったのではないか、と。母性や父性という固定的なものというか・・その構成要素としてのアニマやアニムスほかの元型が回転しつつ精神と性の発達を促していったのでは?



アニマ - Wikipedia
http://bit.ly/mQYFZ9

元型 - Wikipedia
http://bit.ly/nJl0na



そこでの関係は近親相姦の閉鎖性や一方的な暴力性ではなく、社会性に開かれたあり方だったのだろう。年齢=経験=知性ということで知識の面では子供と大人だった関係が、厚意の交換、それによる精神の結びつきの面では個人と個人の関係のように成長していった。


年齢差がなくても男女の関係性において一方が結果的に母や父の役割を担っているというようなこともある。男性の精神が幼いため父親不在のようなことがしばしばある。そういう場面で女性がパートーナーと子供の母親役を担わされてきたのだろう




「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html




見かけや常識にとらわれず「精神」面だけいえば子供と大人の付き合い、子供×子供な付き合いなんてザラにある。



そして、片方により荷重がかかり依存してしまう、というようなことも






そこではしばしば「無条件の愛」が前提とされる。あるいは、生活を共にすることで「相手はこれをして当然」と慣れてしまう。






▽汎愛や父性や母性であればよいのか?なにが理想とされる「愛の形」なのか?




母性や父性の絶対的赦しと包容のような志向性、それはかつてキリスト教の神に期待された汎愛のようなものだろうか。絶対的な善性のよすがとして、還るべき場所としてつくられた超自我のようなの内部にあるもの。壁の中の卵のような。おそらくは共同体の生産関係の合理性から生み出された掟の集合化したイメージとしての「父=神」




「愛する」ということ  「汎愛」/「他者」/「差別」/ 「聲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/210130222.html



目の前の辛く苦しい現実に対する希望としてつくられた「神はいずれわれわれをこの困窮から救ってくださる」「神は我々を分け隔てなく愛してくださる」という大きな物語


それを「父」なる規範とすることで、かくあるべき父性や母性、あるいは家族の形が設定されていった




「セックスは元来卑しいもので、子をつくるためにのみ許される。それ以外のセックスのあり方はキリスト教としては認められない」という考え方もまずもって農業のような前近代的生産様式にとってもっとも重要とされる人口を増やすための規範であったのだろうし、そこでは「愛着」もそのためのソフトウェアとして利用されたのだろう。



ロマンチック・ラブ
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/031009roman.html


ロバート・マートンは、北アメリカにおけるロマンチック・ラブが、人間の社会における恋愛様式の中で必ずしも一般的なものではないことを強調して次のように言う。

「どの社会も「激しい情緒的愛着」を認めているが、現代アメリカ社会は、ロマンチックな愛着を基本として、少なくとも一般の人々の考えでは、これをもって婚姻の相手を選択する基礎としている数少ない社会の一つである。この特徴のある選択の型式は、両親またはもっと広汎な親族集団による配偶者の選定を最低限ならしめるか、または排除するものである」(マートン 1961:52)[邦訳『社会理論と社会構造』みすず書房]。

北アメリカ社会では、婚姻選択のみならず婚姻の継続においても、相手とのロマンチックな愛着を維持しようとするために、愛着が無くなったと当事者たちが自覚する時、彼らは容易にカップルを解消する傾向がある。他方、結婚生活が破綻しても、ロマンチックな愛着を求める執着は、離婚後の再婚率の高さにも反映される。つまり、彼らは離婚しても、結婚生活全般への失望を抱かず、結婚相手との愛情が無くなったと感じ、次の婚姻相手を求めるようになる。このことが、北アメリカにおける(他の先進国に対して)高い離婚率と再婚率の説明を可能にする。





特に資源の乏しい社会では人々の自由な選択以前に共同体のパフォーマンスを上げることが重視され、婚姻形態やそのためのソフトウェア(幻想)としての「愛のあり方」のような通念も共同体維持のために変化する。



近代的な自由恋愛の前提からすると前近代の許嫁的なやりとりは女性や男性の自由を奪うものと考えられがちだが、人は案外そういった環境でも満足を得られたり(cf.「乙嫁語り」)



最近読んだマンガから  現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212974583.html





共同体の人々を効率良く番わせるために集合化した規範がその時代ごとの「愛着」の通念で、番わせた後、子を成して後は「父性」や「母性」のような幻想によって子供の健やかな成長を促す。あるいは、子供を十分にケアできないような環境、子供の衛生・健康を気にするより新たに子を成したほうが効率的な環境では「父性」や「母性」はより都合よく通念化されるか。



だから「愛の形」というのはその時代環境に沿った通念で、ほんとに個人の志向を問えばその時代環境、状況によって変わるのだろう。あるいは自分や相手の精神や性の回路の発達具合によって適した愛の形が変わる(cf.「元型」と「アニマ、アニムス」)


セックスのための雰囲気作りのために共有されるソフトウェア、ステロタイプが「愛着」であるとするなら、そのテンプレートとしてのロマンチック・ラブにおける「純愛」も、それとは形式的には対照で社会通念的には非道徳的とされる「不倫」も、原始共同体的なものにありがちな「フリーセックス」も、SMみたいないわゆる「倒錯的」恋愛関係も等しく変態といえる。

正常位と呼ばれる体面性交が自然界においては特異なのと同じぐらいに、汎愛的な宗教的情操からすれば人の恋愛の形は裸のサルっぽく等しく変態的だろう。それが共同幻想としての恋愛イデオロギー


対して、おそらく個々人の精神や身体の回路・発達と密接に関連した性の指向性がある。いわゆるセクシャリティというやつ


対幻想としての恋愛関係は元来この部分、個々人に固有のセクシャリティのもっとも満足されるあり方、あるいは直接的な性的志向以前の精神の凸凹の相性のようなもの、そこから生み出される「なんかよくわからないけどぴったりと落ち着く」「昔から知っているような気がする」「ここが居場所のような気がする」というような満足感を模索するものだろう。



ただ、その器の形はわかりにくいので、器を構成していく感覚や感情のより実感的な根拠として、身体的実践としての性的交換が模索される。 あるいは、性的交換の実感を満足感を根拠とすることで器の本質的な違いをごまかす。





「ここが居場所のような気がする」という思いもおそらくはまやかしでありそのときどきの心理作用の結果なのだろうが、少なくともそのとき自分は心の満足を感じているということは紛れもない事実だと言える


お腹がすけばパンを食べ、パンを食べれば満足するというほどに事実


体が肉やパン、ぶどう酒などといった栄養を求め、傷ついたときにはリペアが必要なように、心にも心の栄養がいるし傷ついたときにはリペアがいる。


セックスもそういった栄養のひとつといえるだろう。あるいは身体を通じた協働であり、言葉では語り得ぬものの確認や交換のようなもの







▽人は完全な分節化にもとづいた選択合理性を発揮できるのだろうか?



「人はより恣意性や感情を排したシステムに近づいていけるのだろうか」とぼんやり: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/225799105.html





心や体が傷ついたときには修理のほか交換できないものか?


人の心はもう少し感情やバイオリズムからアンバンドルして冷静に合理的選択ができないものか?



好みにまつわるスペックにしてもそうだけど





事実婚とロマンチックラブイデオロギー - 腐フェミニスト記-801 Feminist Diary-
http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20090424/1240534331



<全てが前代に構築された物語であり、本当に理性的に自分達の『自由』を志向するのであれば「恋愛、性、家族」といった要素をバンドリングすべきではない。同様に、それよりもっと細かい要素を自分達の価値やそのときの生活の満足にあわせて再構築していけるはずだ>


理性的にはそれが「自由」として理想とされるのだろうけど、人はそんなにシステマティックに意思決定できない


だからロマンティック・ラブに付随する純愛幻想なんかもそれは個々人の満足の一つとして選択され、実際にそれで満足して生活しているところもある。


問題はそれが個々人のセクシャリティや精神-性-恋愛的対他関係に基づいた志向性を「こうあるべき」と抑えつける場合


一方が純愛とロマンティック・ラブを志向して満足していても、他方はそれを窮屈に思う場合もある。



セクシャリティにしても同様だけど、「こうあるべき」ではなく自分の満足に向きあって、それと相手の妥協点を探ってより効用の高い形を共同して創り上げていくべきなのだろう。



個々人で恋愛の形を自由編成しづらいのならばとりあえず既存の型を借りればいい。ロマンティック・ラブでもなんでもいいけど、そういったセットパックをとりあえず試してみて、あわなければ合うように二人で話しあって少しずつ自分達に合う形を模索していく。


その模索の過程自体が恋愛関係といえるわけだし




ただ、そういった過程というのはしばしば対幻想領域の権力関係によって規定され、第三者的に見て正しいと思われる意見も「( ゚Д゚)<氏ね!屁理屈」みたいな感じで暴力的に封じられたり

好意の力関係(惚れた弱み)、金銭的力関係、あるいは物理的暴力を背景にした圧力などで対幻想における権力関係は規定されてしまいがちになる。




それらはきちんと立ち止まって分節化し再編成できるのだろうか?




そういった交渉がうまくいかないとき、ともすれば二人の関係性を裏切るような決定的な事件が生じる。



「男ってなんで浮気するんでしょうね?」というところから、一緒にやっていく際の根拠のような話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/224412034.html



浮気や物理的暴力など


それらがあまりにも一方的に不利益をもたらしているとき、法制度的な仲裁が準備されるのだろう。



ただ、それも「浮気(・A・)イクナイ!!」的な社会規範に則った理由で(・A・)イクナイ!!のではなく、ほんとのところをいえばそれが相手に対する裏切りであるから(・A・)イクナイ!!ということ。


浮気がなぜカップルの問題として悪いのかというと「なんだかよくわかんないけど、それが相手に知れると精神的苦痛になるのをわかっていてする暴力行為」だから


大部分の人は(・A・)イクナイ!! のあとは思考停止になって「なんか怒られる(ゴタゴタ修羅場になってめんどい」を本心では理由にするだろうけど、それはただ「面倒だから」って理由だけでほんとに相手の気持ちをわかってない(あるいは理解しようとしていない)



もし、相手のことが自分の身体と同様、あるいはそれ以上に大事な存在だったら、「相手以外の異性と性交渉以上の関係を結んだことが知れた場合、理由はなんにせよその人は精神的苦痛や心動揺を御しきれないだろう」、ということがリアルに想像できたとしたら、社会的に(・A・)イクナイ!! 以前に自分の問題として「できないしあり得ない」ことになるのかもしれない


「相手が嫌がること、苦痛を受けることを『分かっていて』やる」場合、相手が防いだりなんらかの手段で心理的に回避することができないのが分かっていて実行するのであれば、それは非対称的力の行使としてフェアではないし紛れもない暴力だから



反対に、完全なフリーセックスの考えで「相手が特定パートナー以外と結んでも(本心から)構わないし動揺しない」という人であれば「相手の気持ちを想像できない」ということで情状酌量の余地はある。


また、「(できれば嫌だけど)浮気してもいいけどわたしには知れないようにしてね?」というのも、浮気的なものを生理現象として理性的には片付け自分の心身にダメージを受けないための妥協策といえる。



そういった文脈で言えば、「オレは浮気してもいいけど妻のは不倫だから論外」とかいうこと自体が論外だけど…







繰り返しになるけどけっきょくはそこでパートナーとの「なんかよくわからないけどぴったりと落ち着く」という感覚が思い出されるかどうかなのではないだろうか


浮気をする方にしてもされた方にしても関係の修復が可能なのだとしたら、それが「その人じゃなきゃダメ」という満足感が根拠になるのだろうから。





そこが確認されたら続けられるのかもしれない

























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親愛なる人へ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/142089498.html



「かえるのこはかえる」 / 「おやこのかえるだよ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52701763.html




タグ:恋愛 倫理
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2011年09月13日

「人はより恣意性や感情を排したシステムに近づいていけるのだろうか」とぼんやり


結婚とか長い付き合いみたいなのについてこないだからぼーっと考えてる。けっきょく答えはでないのだろうけど



「男ってなんで浮気するんでしょうね?」というところから、一緒にやっていく際の根拠のような話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/224412034.html



結論としては「それを当然と思わず、その時々において、(世間や法制度的常識とは関係のない)自分達なりの根拠を厚意の交換と蓄積によって重ねていく」ということだった



「親密性の変容」は未だ読了してないんだけど



資源の有限性と共同体 ≪ Soul for Sale
http://blog.szk.cc/2010/07/28/finite-nature-of-resources-and-community/


近代以前の共同体の規範は生産関係に依存し、限られた資源を効率的に運用するために共同体の長の元にピラミッド構造となり、その成員たちには「自由」という観念自体がなかった


それに対して近代的な家族共同体では一見『自由』が称揚される


しかし、そこでは資源が無限にあるという状態が前提にされてるだけで、実際は一部の人にとってしか資源は無限ではないので、ともすれば資源無限を前提とした『自由』はセレブたちによる抑圧的観念となる。



「最初は保守-バンドルを抜けるために編み出された概念が、いつのまにか保守的な枷となる」というのは「女子力」の話と一緒



モード・アングレ(長弓戦術)としての「女子力」の運用、その出自と変遷   〜安野モヨコ上級士官の場合: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/225495332.html




なので、「そういった世間的規範にとらわれず自分達なりの厚意の交換を積み重ねていくべきだ」、としたわけだけど



対幻想的な領域で自分達の認識をあらためても、それを囲む親族たちの考え方が前時代的因習を孕んでいたら、それが地味に積み重なって重石になっていくのだろう



私の結婚を喜ばない家族たち|杉本彩オフィシャルブログ 杉本彩のBeauty ブログ Powered by Ameba
http://ameblo.jp/sugimoto-aya/entry-11009882898.html



いくら社会的、第三者的にみて合理的なことを言っていても、家族という間柄ではその合理性は無化される


「難しいことはわからんけど、わたしたち仲良くしたいだけなのになんであんたいつもこじらせるの?」「はぁ?あんたの言ってることは屁理屈でよくわからんよ」といった感じで


そこでは言葉の合理性以外の普段の力関係が話し合いの妥当性をメタで支配し、最終的に単純に「いい人」かどうかだけが問題になる

で、うやむやにしてるうちに資源が減っていき骨肉の争いになるのだろう




そういったむき出しの前近代的暴力に対して距離をとって自分の大事な部分はさらさないようにする、というのが「ふつー」の理性的な人のあり方だろうか



[書評]明暗(夏目漱石): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/03/post_dc03.html


[書評]続明暗(水村美苗): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2011/06/post-afef.html



それでもなお下品な暴力性は追いかけてきたり、あるいは自分自身の中から湧き上がる本能のような感情を抑え切れない時もあろうが


性や金、子供、それに絡んだ嫉妬、愛憎というやつ







人類が補完されるというのなら、こういった理性からすると無駄におもえるような煩悩を廃して欲しいと思う



「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html




近代が理性と知性を託した機構の総体が国家であり、前近代的には教皇-教会や王が現世的代行者としてその役割を兼ねたのだろうけど


現世の人々の父にして掟、超自我として人を律し守るもの




あるいは、前近代では生まれていなかった私(自我)が近代に入って人々の中に分散していったために、それをさらに統べる樹として要請されたのが「国家」ということだったか


前近代の王や教皇といった属人的で恣意的なブレのある審級ではなく、人格的ブレを排した制度の連結としての無機質でブレのない審級。魂の入ってない父として。その姿はエヴァのリリスに重なる



そこにブレが生じてしまうのはメタに入り組んだ制度の複雑さを統制する頭脳とネットワークが未完成だからだろうし、その運用に極めてブレのある「人」という要素が絡んでるから



スーパーコンピュータとしての国家が完成してしまえば、そしてそれらがきちんとネットワークして帝国的つながりを持ち人の恣意性を排すれば、人類の生活は向上されるだろう



そういった完全な計画性が「共産主義」や「<帝国>」といったSF的なおそれを孕むのは、そこに人という要素が絡んできたから



その意味ではこの文脈でのリトルピープルというのは単なるマルチチュード的賑やかしと言える


[書評]リトル・ピープルの時代(宇野常寛): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2011/09/post-335e.html




「システムにとってはゆらぎが必要」「新陳代謝が必要」「そのためには人というゆらぎが必要」みたいな話はきちんとシステムの骨格が固まってからの話だろう


そういった形でなら牛河から生まれたリトルピープルにも可能性があるのかなぁ、とぼんやり






子が自らが創りだした父を支えていくという過程


父の張り子に見守られることで、子は自らを律することができるのだろうか




あるいは、そういった形で厳格で常に正しい父を作りつつ「正しい」部分は父に預けて子はそのとんがったベタ具合をメタで自嘲し哂うか(ユーモア?)



超自我と文化=文明化の問題 - 柄谷行人
http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/sakabe.html




性や金を基本とした世間ずれから一線引くように






そういった余裕も資源が半ば無限になれば可能か、と新たなゴールドラッシュに期待するけど…




国家-<帝国>の完成にしても、新たな資源の採掘にしてもそれを決めるのは人の意志ということで、やはり人というソフトステートが深化していくべきなのだろうな





まず目の前にある対幻想と、そこから拡がる家族-親族の問題



ほとんどの場合、現実的には親族の暴力性に対して亀のように首をひっこめてやり過ごすのが堅実なのだろうけど、せめて対幻想領域では互いの権力性や感情的固執を相対化し、厚意を重ねていけたらと思う



離婚して1年して思うこと
http://anond.hatelabo.jp/20080422130401










--

国家-経済システムの違いと家族的規定で、再びトッドについてちょっとメモ(家族共同体において規範は生産関係に依存し、それが経済システムやエートスと関係するか?など)










































m_um_uトッドのギロンだと、「(ともすれば、いわゆる「文明の衝突」としておーざっぱに理解される)米国とイスラム圏の対立の構図は、資本主義 vs イスラム圏域のエートスの争いと理解されているであろうが、その経済エートスの規定となるのはそれぞれの文化圏の家族制度の違いだ」、ということからかな2011/09/12
02:38:19
link
m_um_uなので @liyehuku が肌で感じたそれぞれの国の家族の感覚の違いの実感なんかはほんとに興味あるのねわたし http://t.co/7tAoBto http://t.co/5EWMZjY http://t.co/S8yL2y22011/09/12
02:40:10
link
m_um_uまぁ家族的親密圏におけるリソースの交換関係および権力関係、と、政治・経済圏あるいは両者の中間領域としての公共圏におけるリソースの交換関係や権力関係のあり方は違う、だろけど。後者のほうがより明示化され制度的になるわけだし2011/09/12
02:42:11
link
m_um_uその中間項としてメディウムがくるのだよね。だから識字とか出版とか貨幣といったものがここで変数(トリックスター)として絡む。その部分の中世ヨーロッパの主要アクターは商人だったし2011/09/12
02:43:35
link
m_um_u日本の家族制度とその周辺のリソースの関係は特殊とされるけど、これもそういった体系の亜型として一般化して考えてみたいのよね。民俗学周りのモデルとして一般化されてないお話みつつ。吉野裕子さんなんかは課題図書だけど2011/09/12
02:45:41
link




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以前の「トッドよむよむメモ」


「性的禁忌」「家族」「国家」「文明」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/215314247.html?1310898475



「資本主義は巨大なくじら」というお話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/135386246.html?1260565305

タグ:国家 家族 恋愛
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2011年09月11日

モード・アングレ(長弓戦術)としての「女子力」の運用、その出自と変遷   〜安野モヨコ上級士官の場合

komokoさんが女子力関連でなんかかいてはるなぁ、とか


No Border : これから求められるのはこんな女子!
http://blog.livedoor.jp/noborder12/archives/5808218.html

第6回お題:「女子力」
http://blog.livedoor.jp/noborder12/archives/cat_189357.html


うぅぅんのひとがついったでなんかゆってたなぁ、ということで




「女子力」とはなにか?(仮(雑) - Togetter
http://togetter.com/li/186665





上記でも雑駁にまとめたとおり、「女子力」という言葉は安野モヨコの「美人画報」初出らしい



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女子力とは - はてなキーワード
http://t.co/ueoc2Cx


概要が意外だった


女性の、メイク、ファッション、センスに対するモチベーション、レベルなどを指す言葉。

主にJJ、cancamなどを購読する層がよく使う。【要出典】

2005年-2011年までの雑誌・書籍に於ける「女子力」の掲載状況を独自に調査した結果*1からはJJ、Can-camより購読想定年齢層が上とされるWithやMOREなどに掲載されているように見受けられるが、Scawaii やminaなど、若年層をターゲットとした雑誌や「日経WOMAN」などにも取り上げられるなど、明確な年齢層があるように見えてそうでもないようにも思われる。

amazon.co.jpで検索可能な範囲で調査の結果からはJJ、cancamでは2006-2011年の間「女子力」に関する記事を表紙および書誌データ上で確認する事は出来なかった。

Anecan2011年6月号で「女子力って何だ」という特集が組まれたのみである。




安野モヨコの初出定義から各雑誌に伝播していく流れの中で意味が変化していってると思ってたけど


とりあえず蓋然的な意味としては「女の子が(男に)甘えるために身につけておくべき作法および服装ほかの形式」ということになると思う。もともとの意味としては「女」になることに対するモラトリアム的な感じだったようなのでそこからするとズレがあるか


で、現時点ではcancamやananなんかを購読しているゆるふわ女子が普段にしている外装および行動様式全般まで広い意味では含むものになってるような(あくまでイメージとしては)。そこでは「甘えるため」もしくは「男を釣るため(モテるため)」みたいなのに強調が入ってるように思う


それに対して安野モヨコの最初の「女子力」の使用では既存の型にはまった女性の生き方、セックス、恋愛→結婚→育児まで含めた因習ともいえるステレオタイプに対するオルタナでありモラトリアムというところに強調があったような。。まぁ、美人画報自体は「女子」的服装や化粧への執着を半ば自虐的にパロっていた作品だったように思うので、その部分での自虐が「女」に「子」をつける流れになったのかなぁと思うんだけど。少なくともあの作品の中の「女子」には少し自嘲のようなものがあったように思う。それと同時に「女子」であることの権利のようなものの主張が




安野モヨコと吉澤夏子 - 続・自我闘病日記
http://d.hatena.ne.jp/miyata1/20080822/1221007490

漫画家安野モヨコは「女子力」評論家として名高いらしい。書籍のゴミ箱「ブック・オフ」に積まれていた彼女の『美人画報 ハイパー』(2001年)で知った。ちなみに、安野を一応、復習すると、現在好んで使われる「女子」「男子」は彼女の言語センスより生まれた。(参考資料:『アエラ』02/06/02号)

もとをたどれば、「男子」「女子」は学校でしか使われていなかった言葉。それを校外に持ち出してみたら見事に成功したのが安野である。見た目は男や女であっても、建前上、個人として教育するのが学校であり、その教育方針を示すのが、そして個人として扱われているという(疑心暗鬼でも)気持ちを表現するのが、社会では使われない「男子」「女子」であった。(スポーツ界でも使われているが、使用方法はほぼ同じと私は見る。)

そういう意味があるものだから、社会で使われている「男」「女」、「男性」「女性」というセットが持ち込む、さまざまなニュアンスを回避できる。「女性」と言えば、なにか「女性」を意識しているようで、その意識している「女性」は片意地張っているようなイメージを与えるかも。もしかして、その「男性」を性の対象として意識しているというメッセージが伝わっている可能性も。「女」と言えば、男女平等が達成されてないのにそうであるかのように装っている違和感がせりだすような気も。なにやかやと悩みがつきないところに、ピタッ、とはまる言葉があった、というようなことだと思う。



「女子」を使う理由はそれだけではない。実はもうひとつ「利点」がある。「女子」と呼ばれていた小・中・高校時代は、(建前上)個人として尊重されていたので、洋服も好きなのを比較的自由に着られていた。でも、社会でひらひらフリルは、どちらかと言えば、社会人としての自覚に「欠ける」。ところが、「女子」で個人主義を強調すれば、ひらひらフリルも可能となる。男女という見た目が違うなら見る目も違うし、そうだったら、私は私で好きな洋服を着たい、「女子」のままでいることを認めて、という気持ちがあるのだろう、と私は推測する。



「男子」「女子」という言葉は、多くを語らせるほどの可能性を今のところ保持している。その発信者、安野モヨコ兼「女子力」評論家に戻ると、「女子力」とは、男子にいかに気に入られるか、サポートしてもらえるかを基準として自己演出できる力を意味するそうだ。その「女子力」獲得のためには、外(=見かけ)も内(=心)も「キレイになりたい」と彼女は力説する。さらに続けて「他人のキレイを許せない限りは、ブスのままである」、とまで言っている。スゴイことになっているが、「私は美人になりたい」という個人の意志は当然尊重されるべきもの、という理路ができあがっているのが分かる。そして「美は個人的なもの」を学術にまで押し上げたのが、日本女子大学教員のフェミニスト吉澤夏子(京都大学教員大澤真幸の妻)である。フェミニズムは「個人的なものは政治的である」をモットーにしているが、美は個人的なものとして留めておいた方がよい、と主張し、就職まで得た女である。ついでに言っておけば、この主張のためだけにある(と私は思っている)『フェミニズムの困難』(1993年)は、おおいに「オヤジ」ウケし、フェミニズム本を取り上げるのにいささか乗り気でない新聞からも好意的に迎えられた。私の周りの女性研究者たちは、おおいに憤慨していた。




いわば既存の価値の型にとらわれないためのネタであり半ば洒落として「女子」という言葉を使い始めたはずなのに、それが一部でベタになり「女子がうつくしくあるためにはサポートしてくれて当然」のところが前景化してしまったので、それに対して「女子力って( ^ω^)・・・」とか「30歳(40歳)女子って( ^ω^)・・・」ってアレゲ感がでてるのかなぁ、と


そこでは「女子のファッションは男の気を引くためのものではなく、ファッションそれ自体を楽しむことを自己目的化すること」を防御柵として展開しつつ、不用意に突っ込んできた騎馬(男)のハートを柵の内側や丘の上から長弓で狙い撃ちする。その部分の二枚舌ぶりがともすれば「ズルイ」印象を与えるのだろう。イングランドのモードアングレ(長弓戦術)に対して猪突猛進するフランス軍の謂のようだが


佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html






そういった「女子力」だが、本来は既存の型からの自由(オルタナ)を目指した防御柵や回避行動であったはずなのに、いつの間にか「モテ」や「恋愛しなきゃいけない。。」「きれいにならなければいけない。。」という攻撃のための型に注目があつまり「女子力」という言葉自体がともすれば不自由を強制する枷となって舞い戻ってきている(バックラッシュ)、ということ



それはこちらでも少し触れたわけだけど


最近読んだマンガから  現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212974583.html




「きれいじゃなければきれいなセックスはできないんだ」「かわいくなきゃ人前でわらっちゃいけないんだ」的な圧迫


健全な性欲 - 雨宮まみの「弟よ!」
http://d.hatena.ne.jp/mamiamamiya/20110907



安野モヨコの師匠ともいえる岡崎京子の作品の主人公たちは、それを相対化するように、性のにおいのしない無臭の身体を身につけ、ときに自らに刻印された女性性を嘔吐していった


自らの肉体を悪魔に捧げることで頂点まで登り詰め、登り切った階段を滑り落ちていくこと、それさえ絵になるキュートでポップな女の子たち





「Helter Skelter」(対訳)
http://beatlesbeatles.blog39.fc2.com/blog-entry-152.html



そういった「女の子」たちが半ば自覚的に「にく」の臭いを排除し、お人形さんのような無機質さをまとっていったのに対して、安野モヨコの描く女性像はズルさとえぐさをともなった性の臭いのするものだった。若い女性特有の傲慢なエゴと自信、愚かさも伴った歪な身体





そして、歪な身体もまとえなかった「女子」は周囲の「女子力」の圧力に対するコンプレックスから潰れて行きそうになっていた




最終的にはそのコンプレックス(脂肪)そのものを「ワタシ」として立ち上がっていき



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「仕事」を通じてエゴを陶冶することで人として成長していった




そして、自分たちの足りないものを埋め合うように結婚に至った


「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html





一連の流れを振り返れば、すくなくとも一部で思われてるような甘えを含んだ「女子」の概念に依存し、あるいは振り回されてしまうところから対極に安野モヨコはいるように思う



なので「女子力」って言葉に振り回されるよりは安野モヨコの生き方を見たほうがいいと思うけど、「産み落とした『女子力』の面倒は最後まで見ろ」って窯爺的なこというならそれもアリかも( ^ω^)






--
「女性は結婚し育児に務めるべきだ」というところから女性の生き方の自由、実存を縛るような考えと、少女漫画におけるその表れ、そこからの逃走としての「女の子」をめぐる表現の展開、「腐女子的なものへの着地」、「こんどは腐女子的な形式そのものが不自由な型になっていってる傾向がある」というような話はこちらに載っていておもしろいんだけど

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり
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今回は割愛



タグ:女性
posted by m_um_u at 20:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年09月10日

「テレビがバカなのか、大衆がバカなのか」 〜「インターネッツ時代になっても本質的な所が変わらなければ歴史は繰り返す」、みたいな話


昨今のテレビ、というかテレビの芸能をめぐる事柄で、ちょっと気になってぶくましてたことで共通するキーワードはやはり「バカ」なのかなぁ




なぜいまどきの大学生はバカなのか - bluelines
http://d.hatena.ne.jp/gorotaku/20110906/1315295815



これ自体はタイトルが釣りで、内容としては「いや、自分はそうは思ってないんだけどね ^ ^」から展開する「バカっていうやつがバカ」「んじゃ、その『バカ』の認識地図はどうやってつくられていったか?」 → 「テレビの影響かなー」って程度のなんとなくの印象な話


もともとブログだし、日記ってことで「ちょっと思った」程度の雑記だと思うんだけど、どっかで釣られた人たちの動線に火をつけたようで、「( ^ω^)・・・(いや、そういう態度とりつつもあなたの内心に学生を馬鹿にする気持ちが見え隠れするんですよ)」的な攻防がコメント欄で繰り広げられてた。これ自体はまぁ難癖程度だからどうでもいいんだけど(叩かれたのも「釣り」の結果だから自業自得だし


「学生たちが元気がない」「小さくまとまってるのはテレビの影響かもねー」ってのはちょっとあるかもなーと思ったので


「学生」とか「小さくまとまってる」に限定されずに一部のテレビ番組の影響で「常識」的なものが狭められて小さくまとまっていってるようなことが一部の視聴者層であるようなぼーっとした印象



そういった流れがあるとすればそれはテレビ側からだけのoutputの結果というよりも、視聴者層がもっている世間的認識を受け取って、そういうひとたちがみてくれるように増幅させて還流させたものだと思うんだけど。




「フジテレビ文化」の「終焉」? - Living, Loving, Thinking
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110906/1315336631


「純粋テレビ的にマッチポンプしてきたテレビ的面白さと幻想が薄れてきているのでは?」というような話


純粋テレビについては以前に少し記した


終わる(?)日本の占いズム: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/80796779.html



日本のテレビの芸能の内容が、なにか芸を持ったものではなく、テレビであること自体をおもしろがるようになっていく現象の総体


「ため」のテレビだし自己言及的ということ


具体的にいえば「元気が出るテレビ」なんかで出演者がテレビをみて笑ってること自体をコンテンツにしていたような。そこで映されていた内容はしろうとドッキリ的なものだった



そうやってテレビの「お笑い」や芸能はある時点からマッチポンプ的に幻想をつくってきた


それはサイマル放送としてのテレビの本質である広告の原理が「ユーザーの欲望は創りだすものだ。『必要だから買う』のではなくわれわれが欲望を創りだすのだ」というところに由来するか。欲望のシミュラークル


ただ昨今、「そうやって作られた80年代的な消費幻想に生活者は飽きてきたのではないか?不景気ということもあるけど、ピクニックなどのアウトドアを楽しみ車を買わない層、モノに魅力をみいださない層が増えてきているのはそういう認識の変化の表れではないか?」、ということも言われる



「おもしろくなければテレビじゃない」を標榜し、ジャーナリズム的な公共性を後景としたフジテレビなんかはそういった幻想の中心だったのだろうけど



上記エントリに従えばネット的な勢いを持ったフジテレビデモはそのメルクマールであったかも、といえる



ただ、「株式比率をきちんと調べてない」「銀行も介した株の持ち合いの現状についても理解していない」「集中排除原則もおそらく理解してない」「突っ込んだ取材をしていない」という内容の素朴さはテレビの幼稚な転写にも思えるが







「純粋テレビ」や<テレビ番組の影響で常識的なものが狭められていった>ということに効果論的に名前をつけるのであれば培養効果説と議題設定効果説辺りの中間だろうか


意思決定における「Yes / No」の最後の選択部分については各人の裁量に任せられるので当人たちは自分の思考は自由だと思いがちだけれど、それ以前に「Yes / No」の命題を選択してしまっていること自体が影響を受けているということ、というような


具体的に言えば「韓流うんぬん」の是非は置いておいて、その話題にとらわれている事自体がすでに影響を受けているということ


認識のマトリックスが小さなマトリックスの中に狭められていってるような感じ



就職試験との絡みでいえば「まなざし / まなざされるものとして他者や自分も含めて当然とする」というような



「森と芸術」展から  『コレクション』 〜 モノとまなざしと光の記憶: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/207856393.html




そこではよくわからない人事や自称「事情通」たちの就職ノウハウネットワークの中で再帰し増幅された幻想が「当然」のものとなっていく。本来、雇用・評価は職能制であって然るべきなのに、それがメンバーシップ制になってることから生じる曖昧さが歪みとなっているのだろう。そこに曖昧な就職ノウハウ的幻想がつけ入る



濱口桂一郎、2009、「新しい労働社会」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html




そういう形でなんとなくの小さな枠組みに実存や「自分で考えること」が回収されていってしまっている





島田紳助が作り出していた世界もそういった印象だった



「ヘキサゴン」や「行列のできる法律相談所」などに代表される彼を首領とした小さな世界での常識、それを元にして「バカをバカにする」という構図。彼が時代を代表するテレビ人であったというのであれば、彼が展開していたエンターテインメントはテレビ的芸能の背景としてある価値観を縮図としたものだったとも言える。基本的にあそこで問われている内容など瑣末なことで、ちょっとしたクイズ的知識→お座敷芸的な余興程度の有効性しかもたないものだったのだが








「テレビはバカと貧乏人のもの」「バカに見つかる」と誰かが言った。あるいは「テレビ番組はもっともバカな視聴者層を想定し、そういった人達にも分かるように構成する」というような話



もともとは映画や寄席などといった既存エンタメのオルタナティブとして、原理的にはそれらをなんでも詰め込める魔法の箱として「テレビ」は誕生した。しかし、初期はまだ新興メディアとしてわいざつな「おポンチ絵」としてバカにされていた。「映画に比べたらあんなものは遊びだ」というように。それで五社協定なんかも組まれて、結果的にこれは映画業界に不利に働いたわけだけど(アメリカのフィンシンルールの経緯と違って


少なくとも初期にはまだそういったほかの演芸から芸をもった人たちが自分の芸をきちんと表現するような場であった。テレビ人自身も生放送という緊張感の中でテレビ独特の芸を磨いていったり(cf.永六輔、黒柳徹子



そういったテレビの中にあったはずの芸や芸人はどこにいってしまったのか?なぜ失われたのか?




上岡龍太郎 第5回 芸人論 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=xJx5tnRgXBo&playnext=1&list=PL75C35CE8EAD45240







1960(上岡龍太郎デビューの頃)。寄席(劇場)だけでは食べられないのがふつーの時代、寄席の楽屋でじっとしてる(寄席だけで食える)大師匠は権威があった。それがテレビの出現によって変わった。


テレビ局からテレビ局に移動する芸人のほうが人気や稼ぎも上になっていった


そしてテレビ番組の内容も変わっていった


寄席のコピーであったテレビから独自の「芸」が生まれていく


寄席の空気、空気の一体感を動かす芸よりもしろーと芸のほうがおもしろいことを世間も芸人も気づいてしまった。



寄席の話術がテレビの前では無力である、ということ



「しろーとのほうがおもしろいならしろーと芸をやろう」


しろーと芸の代表:明石家さんま、鶴瓶

しろーと芸を逆手にとったのが:萩本欽一、タモリ




「話術で簡潔に流れるように話すとテレビ的リアリティがない」


しかし


「鶴瓶がしゃべるとたどたどしいがリアルでインパクトがある」



持続力のある芸よりも、下品だけどインパクトがあるものが残っていく


懇切丁寧な説明ではなく、話術的には拙くてもインパクトで伝わる



「テレビの芸はつくりものではなくドキュメントが一番面白い」







パペポTVでの鶴瓶との絡みを懐かしく思い出しつつ、ところどころで漫才ブーム以降の一発ギャグなどの隆盛と泡のような忘却を思う(cf.エンタの神様)


「テレビ独自の芸」として「テレビの前でしろーとなところを見せる」という話から「ひな壇芸人」みたいな話を思った。あるいは「すべらない話」のような元来は居酒屋話のようなものの公開、ダウンタウンが出てきた初期には「おまえらのは漫才やない。チンピラのダベリじゃ」といわれたことなど


「ひな壇芸人」「リアクション芸人」などというのはコンパにおける役割分担なんかに相当するように思う。コンパというのはああいったテレビ的笑い(バラエティ番組)の空間を自然とコピーしたものなのだろう。逆にいえば、現在の「お笑い」番組の内容というのは酒の席でのダベリや一発芸のようなもので古い時代の「芸」ではないのだな。あるいは教室における「キャラ」属性の悪しき展開としてのいじめの問題なんかも




「テレビはしろーとを要請する」という背景はテレビの情報量が詳しい説明をショートカットできるからといえるか。マクルーハンいうところの「クールメディアとしてのテレビ」というやつ。もうひとつはテレビというメディアがその特性としてかどうかはよくわからないが親近性(インティマシー)を要求する、ということ。「有名性の文化装置」(未読)という言葉で表されたりもしたけれど、有名性はマッチポンプ的に作られ、なぜか「視聴者にとなりのおにーちゃん/おねーちゃん」的な親近感を与える。あるいは親近感をあたえるために芸を捨て、番組内で子供のような馴れ合いやいじめの一歩手前?とも見えるような悪乗りを見せる。それは物理的にハードとしてのテレビがある程度のリアリティを体現しつつユーザーとの距離が近いということを日常とすることから生じる錯覚のようなものか。都市に住む近代人は、ともすれば物理的距離が近い隣人よりもテレビの中の人に親近感を抱く。そして、場合によってはそれぞれのアイデンティティ形成のための幻想の材料としていく







ただ、こういった属性は「ハードや流通システムとしてのテレビの基底的なものであり宿痾である」というよりは「大衆的なもの」といったほうが近いだろう


その証拠にインターネットを介したデモ、それ以前のブログの内容や新規ネットコンテンツの方向性にも「テレビ的なもの」の影は見え隠れする



そこで問題になってるのは「テレビ」というよりも「一部の番組に代表される大衆的なもの」といったほうがいいかもしれない


そして、テレビ局はそういったものに応えているだけ (悪乗りもあるだろうけど)。島田紳助もそういった権力に要請されたハブのひとつに過ぎなかった。




その構図は太平洋戦争における民意と新聞、軍部との関係とそんなに変わらない





ただ、「大衆的なもの」を蔑視する視点というのはアドルノ・ベンヤミンなんかに代表される批判理論1stの解釈、あるいは一億総白痴論的なものからの伝統的なものと言えてびみょーなところがあるように思うけど(鶴見俊輔なんかにみられる「大衆的なものの別の側面の可能性」などを想起)





そのあたりの評価基準も結局はきっちりとした経験主義、芸や根拠ということになるかなとなんとなく思う


あるいは「情緒に訴えかける瞬間的なもの」が映像や音の特性であるとする時、それは非文字文化的なメディア特性ともいえるかもしれない。その意味では「文字の文化と声の文化」と漠然と言われていたものの表れでもあるのだろう。

「文字か非文字か」というところが問題ではなく、「分析(モジュール)し反省し再構成するためのツールが用意されているか?」「それを使いこなす知の技法(リテラシー)が編まれているか?」ということ



そういう文脈で言えば、大衆を中心としたテレビにおいて何回も同じ主題が繰り返されるのは口承文化圏において同じ物語(サーガ)が繰り返し語られる様を思わせる。そこでは、時間は無反省に過ぎ去り、またくり返して円環的に循環していく。




上岡龍太郎 第6回 忠臣蔵 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=PjsNiMbhYbg





「忠臣蔵の魅力は見るものに分かりやすく登場人物の行動選択を考える回路を用意していること」


「テレビは視聴者(しろーと)参加を要請する」


自分達であーだこーだ言える回路がある  → しろーと評論家の出番




そういえば「忠臣蔵」の話なんかもきちんとたどれば単に逆恨みの集団テロみたいなことなんだけど、今回のインターネッツ時代のデモもフジテレビというお年寄りを悪者に仕立て上げようとして失敗した所があるか。


上岡龍太郎の話に乗れば「もうちょっと討ち入りまでに時間かければよかったんですよ」ということなのかもだが、「インターネッツ時代になっても本質的な所が変わらなければ歴史は繰り返す」ということなのかなあ、とぼんやりと思う






--
フジテレビデモ・島田紳助氏の黒い噂に関して 〜 二十年近く前に上岡龍太郎氏が言っていたことが面白い - じゃがめブログ
http://d.hatena.ne.jp/Asmodeus-DB/20110903/p1





PAPEPO 1995-01-27 阪神・淡路大震災
http://video.google.com/videoplay?docid=-1485836654772041014



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2011年09月05日

「男ってなんで浮気するんでしょうね?」というところから、一緒にやっていく際の根拠のような話


最近、姉が浮気されて離婚するとかいうのでぼんやりと「結婚とかパートナーシップにおける根拠」のようなものについて考えてる




「男はけっきょく『飲む、打つ、買う』っていうでしょ?あそこから抜けられないのよ」と母は言って、自分としてはそういうのとも違う人も知っているので「そうでもないよ」って答えた



「大部分の男はそういうところはあるかもだけどそれは子どもっぽいからで、そういうものよりもなにか大きな、単純な目標持ってる人というのはそんなところでは躓かないよ」と言いつつ



それは自分が尊敬してる人たちに重ねた「こうありたい」という姿なのだろうけど




そういうのは理性的規範といえる









「キスとか体に触るのはいいけど挿れるのはダメなの。おくさんに悪いから」というのは西荻夫婦だったか








このマンガだけでもなくちょこちょこ聞くような話だけど




実際にそういった状況になったときそこで引き返せるのは至難の業で。それができるのは「これはダメ」って倫理的なものではなく、なんとなくチラッとパートナーの姿が思い浮かぶからか



「据え膳食わぬは男の恥」ってことでもないけど、目の前に肉の欲求が触ってきていて、「そのままなし崩し的に」というところで留まれるのは意志の力や理性的なそれではないのではなのだろうか、とふと思う



実際に自分がそういう状況で断れるかどうか自信はないし、そういう勢いとか欲求の志向というのは酒の酔いのようなものとも似てるのだろう






「パートナーの姿が浮かんでくるから」ということで断れるのは倫理以前に萎えるからではないだろうか



体のほうは反応してるかもしれないけどそれをやっても虚しいなぁ、って感じになるというか



自慰から遠のくときの感覚に似てるか






自慰行為というのは性欲と結び付けられて納得されるけどけっこうな場面で「さびしさ」というか「手持ち無沙汰」的空虚のようなところから来る志向のように思う



しばらく人との談笑から遠のいていたり、たのしいことから遠のいているときのちょっとした埋め合わせのような





翻って、セックスに至る理由というのもしばしばそういうものだったり(特に女の子の場合)





別にセックスしたいというわけではなくて「やさしくしてもらい」たかったり、なんとなく心が通じる相手が欲しいだけで、その結果としてセックスがあるだけ、みたいなの

だから女の子のほうのセックスの理由は男の子のほうのやさしさへの報酬みたいな所があったり(話とかにつき合ってくれてありがとう的な




以前に誰かが「わたしはヤレそうな女の子わかるよ」と言っていたのもそういうことなのかなぁ。「自分と同じようなさびしそうな顔の子を探せばいい」、ということだったのだろう








そういうとき「セックス」というのは結果的なものであり、目的ということではないのだろうけどそこでしばしば非対称が起きる


男のほうがどうしてもセックスの刺激の肉体的快感のほうを目的にしてしまう、ということ


あるいは、それ以前になんかざわざわする流れみたいなのの埋め合わせとしてそれを目的とする




それはまぁ「性」という本能的なものにプログラミングされたものだから仕方ないのかなぁとは思うけど、女からするとしばしば「シンジラレナイ」ってなるのはこの辺なのかなぁ




「シンジラレナイ」理由は目の前の自分ではなく欲求がメインであって、相手は自分じゃなくてもいいのではないか?と思ってしまうから。自分とのセックスもそういうものだったのかなぁ、って




でも、それだったら女が「寂しい」って理由で「誰か」を求めるとき、それは目の前の人でなくてもいいかもとも言えるわけだからお互い様とも言えるだろうけど





まぁ一概に「女はセックスに対して非消極的で男は積極的(「やれればいい」的になにも考えず猪突猛進)」とも言えないか


そういった欲求のはけ口的な代償行為的理由とは別に、排卵前後なんかは女のほうで性欲がもたげてたりするし、冒頭で示したように男のほうが「なんか悪い…」って据え膳くわないこともあるだろうから





ナンパ師とか毒婦みたいなのはその辺の「一概に言えない」びみょーなところのロジカルエラーみたいなのにつけ込むのだろう


言葉で「しない理由」を少しずつ壊していきつつ、肉体的には接触の度合いを少しずつ高めつつ


正面から否定せずに、相手の信じるものを述べさせそれに対していくつか例外を出して談笑のうちに相手自身に信じるものを懐疑させる。ソクラテスのエレンコス的なやり方

http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218962376.html



そうやって「なんかよくわかんない」ってぼけーっとなったところで目の前に体の温度があるわけだからそちらに「もうちょっと」「ここまで来たら同じ」って誘導していく





言葉とか理性というのはそれだけに依存していたらそういう形で揺るがされる






逆に、「結婚」とか「恋人関係」みたいなのを形式化して契約-当然の拠り所にしていても、実際が伴わなければそれに裏切られてしまうのだろう








姉は「あなたのため」とか「誰かのため」とかいいつつ「自分のため」を隠すような人で、ともすればそれが却って相手のプレッシャーになる所があったのかなぁと少し思う。

もちろん相手の浮気性的なところや、そういった人格ができる背景のようなものがあるだろうけど。男の場合そういうのはだいたいにおいて慢心とか驕りのようなものか



そういうのとは別に姉の都合の良い「( ノ゚Д゚)<女性だからといって差別するな!」「( ノ゚Д゚)<か弱い女のわたしには手を上げれまい」「( ノ゚Д゚)<わたしは女だから守れ!」「( ノ゚Д゚)<わたしは女性ですから!(そのゴキブリとって)」「( ノ゚Д゚)<わたしは女だから修羅場はごめん」みたいな使い分けは辟易だった




姉の場合、そういった頭ごなしの固定的な考えというのは母の転写のようなものがあったかなぁと少し思う



ギャンブル好きの父がどうしようもない人だったので居を分かつまで、姉なんかも矢面だったのだろうし


母の呪いともいうような父へのネガティブイメージが根付いたのかなぁ




「ふつう」の「仲のよい」家庭だと女の子にとって「父」は理想の男像となって、そこから相手を吟味できる基準となるのかもだけど


そういう「基準としての男」の像のようなものがなかったのかなぁ、と







恋愛とか異性間のパートナーシップにおいて無意識的に相手に喪われた父性の代替を頼む所があるのではないか?





だから「自分を守らなければならない」や「結婚したのだから○○であらなければならない」といった規範が先に来て相手のことは見ない面があるのかなぁ、とか





彼女は過去、「つまらない女だな」といって別れられたことがあるといっていたようだけど、それもなんとなく分かる気がする







翻って自分も喪われた父性がなんらかの形で考え方や行動選択に影響しているところがあるのだろうけど









そういった事情もあってか、あるいはそれ以前の母への家庭環境の影響からか


うちの家はけっこう性的情報に対する禁忌があるほうだった




テレビ見ているときに性的なシーンになるとびみょーな空気が流れたり、ふだんからオレに対して「○○はこんなのに興味ないよね?」と念を押すような


タマラ・ド・レンピッカが娘キゼットの無垢に救いを求めた心情と似ていたのかもしれない






吉本隆明的にいえばそういった家庭内の性的話題の禁忌は「社会へと性の関心を向けて行かないということで不健全。近親相姦を内在する」ということになるのだろう
http://morutan.tumblr.com/post/7661771880


吉本隆明、性を語る。 −コイトゥス再考−
http://vobo.jp/takaaki_yoshimoto.html



話を社会全体に広げれば、「そういった形で性の問題を相対化できてないことが社会全体の内向き性(近親相姦のような既得権益への内向性)につながっているのではないか?」ということになるか


「性的禁忌」「家族」「国家」「文明」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/215314247.html




それもまぁものぐさ精神分析的な話としておもしろいけど、ここでは少し置いておくとして






遺伝子的には「異なったもの」「異なっていつつも、生き残っていくのにより適したものを選んでいくのが合理的」ということだと、父親的なものとは違うもの(それに「勝てる」もの)を選んでいくのが合理的ということになるか



そういった「本能」における優秀さの選考は「におい」のようななんとなくの生理的な合う合わないで決められていくのかもしれない




それに対してだいたいのひとがパートナーを選ぶときには「価値観が合う」「趣味や嗜好が合う」「経済観念が似ている」などといったところを基本とする


それは本能的選考に対して文化的選考といえるだろうけど、それも選ぶ際のきっかけのようなもので、最終的には「なんか落ち着く」というところや「この先に一緒にいてどのような未来が描けるのか」というところから相手を決めていくのだろう



後者は対話的理性の結果であり、それを遵守していくのは意志だろう



「恋」とか「恋愛」というのが「価値が合う」「趣味が合う」「なんかいい感じ」「キラキラした幻想(かっこいい・かわいい・きれい)」的なもの、好み的なワクワク感の最初の段階を資源にするのに対して、後者は持続的なパートナーシップとしての契約であり意志なのかなぁ、と




ではそういった契約関係が「(恋ではなく)愛」なのだろうか?





「愛する」ということ  「汎愛」/「他者」/「差別」/ 「聲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/210130222.html




「愛とは見返りを求めない献身である」とするとき、「愛」と名付けられるような関係性の中で排他的に相手を独占するというのはどういうことだろうか



「結婚やそれに準ずるパートナーシップは恋愛関係に比べてより高次の愛の関係なのだよ」といいつつも排他的独占をしているとき、愛というものが自分を捨てて相手を思いやることであればそれは本当に相手のことを思っていると言えるのだろうか?




あるいは「相手にはそれを求めている」ということか?(「自分が差し出すもの」ではなく)




「双方が双方を思いやる」という関係が本当に質量共に同等に返されるのならば、愛情の等価交換は成立するだろうけど



それがしばしば成立しないのは「相手に期待している愛情の質や量」と「自分がしていると思っている愛情の質や量」の間に認識のズレがあるからだろう




紛争が生じるのは「自分のほうが多く出してるのに」というときだろうけど






そういった条件付きの愛情交換に対して、父性や母性といったものは「無尽蔵に相手のことを思いやるもの」ということが期待される



佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html



聖人が神の奴隷となるように、親は子の愛情の奴隷となる




そういったことを思えば父性や母性というのは一概に称揚されるべくものでもないのだろう









では父性や母性は利用されるだけのものなのか?




「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html





産む性としての母性はそれを是しとする、かもしれない



そして、それを是とするのは端的には遺伝子のプログラムなのだろう


赤ん坊の笑顔には逆らえないし、「育てる」ということにおいて母性の満足があるように心理的誘導があるか




父性の場合はそういったものから距離をおいてきた



「妊娠」→「出産」という身体的な経験と実感というところからもそうだし


社会的に「労働」と「家庭」を分離させてきたので、「育児」というところから遠ざかっていた



なによりも働き盛りの男というのは「ふつー」子供との接触時間が少ないものだし



「一緒に過ごす時間」の関係で子供への思い入れも違ってくるのだろう




父親が父親として家庭の中で存在感を発揮してくるのは子供が社会のことを考えだした頃だろうし









性をめぐる感覚にも似たような非対称、ズレのようなものがあるように思う






一般的に、「女性は性に対して男性に比べて消極的なのに対して、男性は性に対して積極的」とされる



それは女性が受ける性であるのに対して男性が発する性だからかなぁ




理性的に考えれば、避妊のリスクさえしっかりとセーブできれば女性も性に対して積極的であってもいいはずなのにそれを許さないのはそれまでに構築されてきた社会規範的なことがあるか




ただ、そういった世間体や世間的規範のようなものを相対化してなお、女性のほうが男性に対して性についてなんらかの規範をもっているということがあるように思う




その理由は性的場面において女性が受ける性であるから、リスク的なものがあって心理的に消極的になるかなぁ、と



それはオツムで考えた場合だけど、


パートナーがほかの異性と性的関係を持つことに対して、なんだかわからないけどどうしてもイライラしてしまうから、というのが本当のところか





そういった感情は男性のほうにもあるもので、ではなぜ一般的に男性のほうが浮気なんかに走りやすいかというと性的機会へのアクセス率が女性よりも高いからか(専業主婦モデルで考えた場合)





では、互いに同じように外で働いていて、異性と接する機会や条件が同じであったとき、男性は女性よりも積極的、女性は男性よりも消極的であるといえるだろうか? あるいは排他的独占な感情の表れ方は同じだろうか?





一般論ですべて語れることでもなく「生育環境から育まれた価値観に依る」という条件の違いはありつつも、相手のほうをけまらしく思わない限り、相手が不特定多数と付き合うのは認められて然るべき、というのが理性的なあり方ではないかと思う




理性だけで考えれば






ただ、だいたいにおいて相手との長い付き合いの中で「情け」のような感情的な経路依存が発生していて



それが「愛」-「情」という独占的感情の理由となるのだろう




友-情なんかと同じくそれは無前提の契約のようなもので、言外の信頼というところにつながる





そういった「愛」「情」の色や質感のようなものを思い出したとき、浮気的場面で萎えるのかもしれない







<「性」と「生殖」は本来は異なるもの>だという





「性 は個体が生き残るためのシステム」なので生殖とは違う(分けて考えられる)、が多細胞生物や人では性と生殖がセットに成ってしまっている
http://morutan.tumblr.com/post/9399799213


真木悠介とドゥルーズ、性と生殖の差異|Philosophy Sells...But Who's Buying?
http://ameblo.jp/philosophysells/entry-10622671281.html





人になぞらえれば、「性」は「生殖」(妊娠-出産)とセットになってしまっている



そしてその先には「結婚」「家庭」がある






しかし「生殖」(妊娠)以外のところでも、「性」が「愛」や「情」とセットになっていることが多々ある。


「恋」と「愛」が違うように、「情」も「性」も違うものなのに。一方にとってはバンドリングされてるという認識のものが一方にとってはモジュールとして分岐したものと認識されているので齟齬が起きる





そして相手にハマっ(惚れ)てしまったほうからするとそれはしばしば当然のセットだと思われるのだけれど、一方がその部分で相手よりも「情け」のコミットが少ない時、性を中心にした無前提の暗黙が覆されてしまう







木尾士目の「五年生」の場面を思い出す









*うわのそらブログ* 陽炎日記、四年生、五年生(木尾士目)…読んだ-_-川
http://chibilog.blog16.fc2.com/blog-entry-109.html



「五年生」を読み解く - 農大現代視覚文化研究会
http://blog.goo.ne.jp/moyasiken/e/5a77697071357f4d28fdb0b5e9ccb62e





佳乃が先に心を揺るがせてしまって、そこに距離や生活環境の違いといったものが重なってだんだんとすれ違っていくわけだけど


そういった直接的な場面以前にぢみーなズレのようなものがあって、そこが佳乃の心の揺れとなって表れたのだろうか



主導権的には佳乃のほうが握ってたわけだし



それでアキオは一度別れたあとに吉村さんと関係をもつわけだけど、吉村さんは好意からその関係をもったのではなく単純に鞘当て的にセックスを利用した、というだけだった



で、なんとなく「お互い様」になったところで振り出しに戻ったわけだけど



吉村さんが発していたエレンコス的な問いかけ



「島くんはなに信じてる?  言葉?  体?  ドラマ?」


というのは「理性」「本能」「感情(に通じるような運命的出会いや場面の思い出)」ということに言い換えられると思う



けっきょくこの場面ではアキオはその全てに不十分で「わからない(特別コミットするものがない)」ということを納得させられた上でじりじりと身体的距離を詰められていったわけだけど





そういった問いに対して、佳乃が別の場面で発した言葉がこの作品の暫定的答えとなっていく







「本能に委ねるのも理性に頼るのも違うんじゃないのかなあ   


 わたしたちはそれを両方やんなきゃいけないんだよ

 


 運命の出会いなんてものはなくいつの間にか知りあって何気なくつき合ってて あっけなく別れたりする



 だから自分達をよく見て 周りをよく見て  じっくり考えたり直感で感じたりしてさ


 少しずつやってかないと


 私たちはダメなんじゃないかなあ」








その際「この先ずっと一緒にやっていける」指標のようなものとはなにか?




なんとなくだけど「同じような器で」「いたら落ち着く」というところに戻るか





同じぐらいの器同士で



目指すものが一緒の共同戦線で




どちらかが過剰にハンドリングして主導権を取り過ぎずに 


理性や知性に偏らずに

かといって本能や感情的なものに依存して居つかずに


それらのバランスを保ちつつ自分達の「自由」を模索する




その場のその場の自由を積み重ねていく中で互いに成長していくように



暗黙の「好意」の「出し過ぎ」が紛争につながらないように



じっくりと相手を思いやる気持ち、「厚意」を相手の喜ぶこととして明示化しお互いの気持ちの痕跡を積み重ねていく


欝の心理療法にしてもそうだけど、人はどんなに理性的にしていてもけっこう単純な刺激や反応でできてる動物なので。好意もただ思ってるだけで暗黙にしておくだけではなく、形にして表して行かないとリズムが上がらないのだろうし、そういった行為の流れそのものが「家族」とか「家庭」という状態なのだろう


社会的に定められた規範、「こうあるべき」静態として定まった形式ではなく、動態の結果としてそれぞれの「家庭」や「家族」の形がある



「一緒にやっていく根拠」なんてものは絶えずおぼろげなものだから、だからこそ一緒に作って行かなきゃいけないものなのだろう




確定的な答えはないけどそういう形で常に「とりあえず」な感じで、「とりあえず」をなんとか重ねて人生をサバイブしていくというつもりならばやっていけるのかも、と一旦思っておく









--
黒田清輝「智・感・情」
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/k_work/oil/oil065.html

http://www.flickr.com/photos/22081105@N03/2827721730/




【ことばをめぐる】(32)智に働けば,夏目漱石,草枕
http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/ktb032.htm


タグ: 恋愛 倫理
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2011年08月30日

「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話


エヴァの「破」をいまごろみて、関連で最近読んだものとかでうにうに言いたくなったので





ハード面の設定なんかはこの辺でだいたい解説されていて


新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧 - Wikipedia
http://tinyurl.com/krlxrm


新劇場版で期待されるのはそこからのトリビアルな違いぐらいなのかなぁと思ったりするんだけど、個人的には直近のエントリもあって男の愛情とか女の愛情みたいなものの行方、それを受けた人間ドラマ→成長をどのように表していっているのかなぁというところをぼんやり想ったりした



それらの原型は「式日」に集約されると思っていて


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エヴァ同様、「式日」も結論が出されていなかった



それは同作品がメンヘラな少女との関係を題材としたものであり、そういったコミュニケーションというのはなにかひとつの正しい答えがあるというものではなく、単に寄り添い、あるいは一緒に破滅の道を歩んでいくのもひとつの答えであることがままあるから

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「新世紀エヴァンゲリオン」で有名な庵野監督の実写映画です。庵野監督の故郷である山口県宇部市でロケを行っており、「さびれた工業都市」という雰囲気がこの映画のどこか虚無的なところに非常にマッチしています。原作は藤谷文子さんの「逃避夢」という小説ですが、その原作者自らがヒロインの「彼女」役を演じており、また、ヒロインの相手役の映画監督の「カントク」役も実際の映画監督である岩井俊二氏が演じているなど、かなり現実とオーバーラップしたようなキャスティングをしているところも特徴的です。



物語は、一言で言ってしまえば「現実逃避を続ける少女の再生の物語」で、庵野監督が「エヴァ」や「彼氏彼女の事情」などで追求してきたテーマを実写版でよりディープに真正面から捉えた作品といった感じでしょうか。「エヴァ」のような複雑なストーリーも複線もない、わりとシンプルな物語なのですが、そこはさすがに庵野監督ですので、赤を基調としたその幻想的な映像の美しさや、心に響く台詞やシーンの数々、そして「彼女」から伝わってくる心の「痛み」が、この映画を素晴らしい作品へと昇華させています。かなり重い作品ではありますが、最後のシーンの「彼女」の台詞と笑顔、そしてエンディングのCoccoの歌を聴きながら、私は涙があふれるのを止められませんでした。



この映画は、ヒロインの「彼女」と同じように、孤独や心の痛みを抱えた人、人生を「生きづらい」と感じている人、現在を生きることができず過去に縛られている人、家族の愛情を十分受けられなかった人、そういった人たちには非常に「痛い」作品で、同時に、大きな癒しを与えてくれる作品でもあると思います。しかし、そうでない人にはさっぱり意味不明の映画かも知れません(苦笑)。



フィクションではあったけど庵野の心象を表していたように想えた作品



ここで傷ついた少女は「エヴァ」のアスカであったか(紅の色もそれを想起させた)




エヴァのオモテ面、ハードな設定としては「使徒」と呼ばれる人類以前の生命体と人類(リリン)が地球の覇権を掛けて争う物語

同時に、それらの戦いを通じて生じる未知との遭遇的な出会い(インパクト)によって人類が肉体を超えた高位の存在へと昇華するための計画をかけた争い、ということになっている


勢力としては父なる「アダム」と「使徒」、それらに対する「人類」(リリン)とその中枢組織としての秘密結社「ゼーレ」と日本における実行機関としての「ネルフ」


「人類補完計画」は人類を高位の存在に「進化」させるための計画とされる


しかし「ゼーレ」と「ネルフ」とでは思惑が異なり、ゼーレは単に現行の人類をより情報的なものとしての高位の存在に高めようと画策するだけだが、ネルフを指揮する碇ゲンドウと冬月コウゾウは最愛の人、碇ユイの再生を計画の重点とする


そのための計画のすれ違いと確執が最終話近くでの「ゼーレ vs. ネルフ」の形で表れた、という設定



こういった基軸にいくつかの作品へのオマージュが散りばめられる



新世紀エヴァンゲリオン - Wikipedia
監督の庵野は学生時代に『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』のアニメブームを体験している。『宇宙戦艦ヤマト』に関しては庵野作品全般に、オマージュととれるシーンが存在する。『機動戦士ガンダム』に関しては庵野自身『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のメカニックデザインを担当していた。また、『逆襲のシャア』に関してはスタッフにインタビューした同人誌を出版している。1993年放送の『機動戦士Vガンダム』を庵野は高く評価しており、VガンダムのDVDブックレットに、この作品にハマらなかったら僕は「新世紀エヴァンゲリオン」を作る前にアニメを辞めてたかもしれない、あるいは「エヴァ」みたいなものを作る気にはならなかったと思うと語っている。実際にこの2作品の主人公の名前が嘘と真実をもじったウッソとシンジであったり、父との確執や人類を強制睡眠状態にして滅亡させる計画、一部キャラクターデザインや設定の類似など、いくつかの影響もみられる。本作の第1話は『機動戦士ガンダム』の第1話を強く意識しており、庵野はガンダムの1話を全て時系列またはチャートにまとめ、それをホワイトボードに書き出し、「これには敵わない、完璧だ」と発言している。第1話で主人公が巨大ロボットに乗り込むことや、主人公の父が科学者であることなど『マジンガーZ』から続くロボットアニメのお約束も意識している。



庵野は学生時代に設立したダイコンフィルム時代に、自主制作作品の中で『ウルトラマン』を演じたり、愛国戦隊大日本のメカニックデザインを担当するなど、特撮マニアであり、エヴァには特撮作品からの影響もみられる。特に影響が大きいのは『ウルトラマン』からであり、EVAの活動限界設定や身長設定などに影響がみられる。また、EVAのデザインに関しても「ウルトラマンが鎧着たやつ」という発言を企画当初よりしていた。



庵野は一時期同人誌を集めるほどに『美少女戦士セーラームーン』にハマっていた。そのため『美少女戦士セーラームーン』の登場人物・月野うさぎの声優を務めた三石琴乃を葛城ミサトの声優に起用したり、綾波レイの名前が火野レイより採られている。また、緒方恵美が『美少女戦士セーラームーン』の劇場版第1作目に地場衛の少年時代の役で出演しており、その演技を見て、本作の主人公・碇シンジ役に決定したと語っている。その他、プライベートでも親交のある『美少女戦士セーラームーン』の主要スタッフの一人である幾原邦彦を渚カヲルのモデルとしている。



また、庵野は永井豪作品からの影響も認めている[103]。劇場版制作の際に「エヴァのラストはデビルマンになるしかないんです」と発言している。また、EVAの本来の力が拘束具で抑えられているという設定は、『バイオレンスジャック』のスラムキングを意識してのものである[104]。



ネルフとゼーレの設定は『謎の円盤UFO』の地球防衛組織SHADOと宇宙局委員会から来ている[105]。この他にも海外SF作品からTVシリーズ各話のタイトルがとられた。



また、庵野は本作の制作前に村上龍の作品を読んでいたようで、トウジやケンスケの名前は村上龍の小説『愛と幻想のファシズム』の登場人物からとられている。後に庵野はエヴァ後の監督第1作目として、村上龍の小説『ラブ&ポップ』を監督した。



あるいはナウシカの巨神兵とナウシカ全体のテーマなどの影響も



そういった作品なんだけど、個人的にはハード面よりもソフト面が気になっていたし、それがこの作品の主軸だと思っていたので



基本ラインとしてはガンダムを軸にした父子の葛藤で、それはそのまま高度成長期の父親と子供の関係を隠喩しているように思う


あるいは、


「父はいるが母はいない」というのは「母はいるが父はいない」ということの鏡像的な隠喩というか、ロボットアニメの「お約束」を踏襲、いい感じにコラージュしているうちに「結果的に」そうなったということだろう



Togetter - 「家族制度、母親、専業主婦…と、放射線」
http://togetter.com/li/180955



高度成長期の「亭主元気で留守がイイ」は子育てを一身に任された母親たちの自虐ともいうべきコピーで、「24時間戦えますか?」と合わせ鏡だったように思うんだけど


「男は仕事のことだけ思っておけばいい」「女は仕事に口出しするな」という高度成長期の暗黙は戦場の話にも通じていたか




佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html



「オトコタチの華やかで格好いい戦場」


しかし、そういった戦場-オトコタチを支えていったのは家庭であり、生活をもとにした生育環境だったわけで




SF的にはハードSFからソフトSFへの反省みたいな話(外宇宙から内宇宙へ)



「ハードな設定だけではなく人の心理面を見ていくことこそがこれからのSFにとっては豊かになるのではないか?」といわれた70年代の反省




ガンダムにおいてもそういった問題は回収されてなくて、父子の関係(父の実質的不在)に基づいた青年の未成熟(モラトリアム)の問題は日本の子供向けメジャー作品においてずっと回収されていないテーマだった




とりあえず目の前の「敵」を倒せば大団円できるわけだし(敵を倒すための必殺技や兵器を作ればおもちゃも売れる)


そして、そういった隠喩の元となった現実においても男は既存のサラリーマン的レールに則って家庭生活的葛藤は丸投げしておけば「父」という役は演じられる。その辺りの事情を背景とした女子向き作品と男子向き作品の違いはこちらの対談集でも語られていた

(「男は就職して結婚してってところでなにも悩まず一直線でいいけれど、女は就職してから『結婚するかしないか』、『子供を産むか産まないか』、『産んだあと仕事を続けるか否か』、『子育ての際には義母や実家を頼るか』、などいくつも分岐点がある」)


よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり
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そういった背景に基づいた父子の葛藤・対決をはっきりと主要テーマとして前景化した作品が「エヴァンゲリオン」だったといえる



しかし、そのテーマはけっきょく回収されなかったし、今回の新装版においても直接的には回収されないのだろうけど




少年は「父との葛藤」、「母親の不在」というところから生まれた「自信のなさ」-「居場所のなさ」という問題をボーイ・ミーツ・ガールの形式に則って自助努力的に回復していく


同じように「居場所のない」少女との出会いを通じて


あるいは、


エヴァとレイという母親の代替との交流を通じて(その意味で初号機やレイとの交流は近親姦的な意味合いが多少含まれる)




そのままシンジがレイを父親から奪い取る、ということになればエディプス・コンプレックスということになるのだろうけど、シンジはアスカを選んでいく




もしくは、失われた母との関係の代替を通じて成長した青年が、その成長過程を通ることによってはじめて自分と似たような傷を少女の中に発見し、支えられるようなり、互いが互いの「居場所」となっていったか



そういう形で本作は少年少女が手をとりあってエヴァという子宮の隠喩-モラトリアムから旅立っていく話として構成されているわけで、それがそのまま説得力のある形で終着点を迎えられたらハッピーエンドだと言える





それがハード面とソフト面における本作品の筋であるし、少年が青年へと成長していく物語が説得力をもって描けているかどうかが本作の主眼だと思われるわけだけど


それとは別のところで、今回ゲンドウの愛のようなものが気になってる自分を発見した




シンジ―アスカの新世代の子供たちの問題は、あるいは間にレイ-ユイの魂が介在することで超えられていくのだろうけど、そのときゲンドウの愛はどうなるのかなぁ、と




ゲンドウの愛というのは人類の未来や子供を省みない身勝手で、ある意味子どもっぽい「博士の狂気」的なものといえるけれど、そういった「世間の規範は関係なくただこの女のことを一途に愛する」という姿勢というのは愛される側の冥利に尽きるところだろうなぁとも思えて




それでもユイは母性をもって、あるいは我が身を顧みずシンジを後押しするのだろうけど




「彼女(ユイ)の思い出」に一生を捧げたゲンドウの姿や心理、最愛の人の似姿としてのレイとの依存的な日々の色合いは鈍色の味わいを持っていたように思った



エヴァの世界の終わらない夏休みの、夕暮れ時のヒグラシの声のような






「式日」の色合いと空気感にも似て、「父性の問題」「親子の問題」というのは父になりきれなかった男たちに残された「終わらない宿題」のようなものなのかもしれない










最後に「エヴァンゲリオン」にも通じると思われる夫婦マンガあとがきから引用してこのエントリを閉めることにしよう


監督不行届 (Feelコミックス)
安野 モヨコ
祥伝社




登場人物のカントクくんはオタクですね。まあモデルの僕がオタクなので、そりゃ必然なんですけど。

いわゆるオタクの内包的特徴を挙げると、内向的でコミュニケーション不全、つまり他者との距離感が適切につかめないとか、自己の情報量や知識量がアイデンティティを支えてるとか、執着心がすごいとか、独善的で自己保全のため排他的だとか、会話が一方的で自分の話しかできないとか、自意識過剰で自分の尺度でしか物事をはかれないとか、ナルシスト好きだとか、肥大化した自己からなりきり好きであこがれの対象と同一化したがるとか、攻撃されると脆い等々、とかくネガティブイメージの羅列になってしまうのですが、そこらを有りのままに描いているのがいいですね。幻想としてのオタク像ではなく、真実の姿を分相応に描いて世間に示しているとこが好きです。

今の日本はオタクの増長や跳梁を許せる程、経済的に飽和状態だし、情報過多で物質文明は溢れみちみちている反面、精神は貧しく、想像力は乏しく、社会基盤はぜい弱化していると思います。そんな世相だからこそ、嫁さんのマンガは必要だと感じますね。いや、身内びいきではなく。



嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの避難場所にしていないとこなんですよ。今のマンガは、読者を現実から逃避させて、そこで満足させちゃう装置でしかないものが大半なんです。マニアな人ほど、そっちに入り込みすぎて一体化してしまい、それ以外のものを認めなくなってしまう。嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いて出て来るマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。嫁さん本人がそういう生き方をしてるから描けるんでしょうね。『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃的でした。


流行りのものをすぐに取り入れる安直なマンガが多い中で、自分のスタイルやオリジナルにこだわって、一人頑張って描き続けている。そんな奥さんはすごいと思います。自分よりも才能があると思うし、物書きとしても尊敬できるからこうして一緒にいられるんだと思います。


『エヴァ』以降の一時期、脱オタクを意識したことがあります。アニメマンガファンや業界のあまりの閉塞感に嫌気が差していた時です。当時はものすごい自己嫌悪にも包まれましたね。自暴自棄的でした。

結婚してもそんな自分は変わらないだろうと思っていました。けど、最近は少し変化していると感じます。脱オタクとしてそのコアな部分が薄れていくのではなく、非オタク的な要素がプラスされていった感じです。オタクであってオタクではない。今までの自分にはなかった新たな感覚ですね。いや、面白い世界です。これはもう、全て嫁さんのおかげですね。ありがたいです。




嫁さんは巷ではすごく気丈な女性というイメージが大きいと思いますが、本当のウチの嫁さんは、ものすごく繊細で脆く弱い女性なんですよ。つらい過去の呪縛と常に向き合わなきゃいけないし、家族を養わなきゃいけない現実から逃げ出すことも出来なかった。ゆえに「強さ」という鎧を心の表層にまとわなければならなかっただけなんです。心の中心では、孤独感や疎外感と戦いながら、毎日ギリギリのところで精神のバランスを取ってると感じます。だからこそ、自分の持てる仕事以外の時間は全て嫁さんに費やしたい。そのために結婚もしたし、全力で守りたいですね、この先もずっとです。





タグ:オタク 家族
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2011年08月21日

「赦す」のでもなく「忘れる」のでもなく「そういうもの」として流れていく、ということ   〜 あまやどり盆踊りにいってきたよ





死が決まっていることは不思議だった あと何時間かでこの燃えているものがどういう風にかストップする、その兆しから逃げながら探している 

死は大きな空洞みたいにただいろんなものをひっぱりこんでどんどん落としていった 悪意はなくてただそういう性質のものだった












お台場ガンダム見に行こうかと思いつつ、「ガンダムだけのためにお台場いくのめんどくせーなー」、ということでなかなか腰が持ち上がらなくなってたところにあまやどり音頭の話





「お経×スライド×ダンス」は21日中山駅南口集合です | アマヤドリ
http://chloe.petit.cc/banana/20110820193022.html




いつもは降りない(かもしれない)駅に降りて、商店街を歩いて、ありがたいお経をに身をつつみ、自分の町ではない(かもしれない)町の写真を見て、夕方の光のなかわけのわからん踊りを見る。

ちょっと夏のお祭りの名残のような時間。



に釣られて行ってみた



あと、今年の夏の終わりの蝉の声というのを自分の中でもうちょっとぢみに印象づけたかったので




少し前まで広島の実家に帰省していて、そこで印象にのこったものは空間の広さと蝉の声だった



道路でもパーソナルスペースでも、東京方面よりもちょっとだけ空間が広くて

そのせいか音や時間も余裕をもってるような感じ




それは単に自分や母や周辺の人々がお気楽に暮らしてるから、ともいえるけど(あくせくキツキツしてたら時間や音の感じ方も違うだろうし)



けっきょくは「それを感じ取れる心の余裕」ってところになるのだろう


それは東京とか広島とかの場の影響っていうか、場の影響もあるかもあるかもだけど「人の余裕」-「生き方」みたいなもののような





そういう環境の中で聞く蝉の声はいつもよりもなんか染みる感じで、夕暮れと聞こえてくるヒグラシの声を原風景として胸に刻んで行きたかったんだけど、風呂ってるときに聞こえてくる隣の家のテレビの音が大きすぎてうまくいかなかった。。


「彼らにとっては日常のつまらない音で、それよりはテレビのちょっとした刺激のほうが良いのだ」というのは田舎のばあさまが「やっぱ味の素だなっす、ほれ、もっと入れろ」みたいなこといって都会人間が閉口するのと似てるのだろう



んでも「当たり前」と思ってる風景の当たり前じゃなさに気づいた時に、それこそがその場の本質として記憶の中に残っていくものなのかなぁって想ったり




今回のイベントでの写真の展示でもそんなことを思った



「横浜の未来」


「開発され変わっていく横浜」


「過去から現在にかけて既にして『未来』を内包していた横浜」


「そういった中で紡がれてきた自分たちの中のヨコハマの本質というか原風景のようなもの」


「『ヨコハマ』といわれて走馬灯のように頭の中に蘇るもの」





それは、寺という場にも通じるもので



通い慣れている地元の人からすると一見「地味でどうということのない空間」と思われてるのかもしれないけど


今回のイベントも合わせて外国人はおもしろがるだろうなぁ、と思った



(お焼香とか(意味を理解してないけど)読経に神妙になる、という形式はオラトリオ → ラップみたいなものか)




そういった流れで見るとあまやどりの踊りというのはごく自然な流れだったかなぁ、といまさら思ったり



最初は「( ゚Д゚)<お天気大丈夫だったら浴衣で迎えに行きます!」っていってて、ほんとに浴衣でお迎えきてたので盆踊りみたいなのやるのかな?と思ってたんだけど、、、箱を開けてみたらいつものあまやどり踊りだった




Terminal Arts of Sein und Zeit: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199659522.html





以前の時ほどはげしくなかったけど動きとか、上半身の浴衣はだけて背中でちゃってるのとか見てドキッとしつつ、「写真スライドのこの流れでかぁ( ^ω^)・・・」、ってちょっと思ったり








今回は前回の時よりも自分も体うごかすようになってるので重心がどの辺なのかなぁってのを主に見てた




そんで、「あ、そこからそれ釣り上げたままそう動けるのね」、みたいなのを自分の中で感情移入(トレース)しつつ


内容としてはよくわかんなかったんだけど、彼女がたまについったでつぶやいてる夢のなかの風景に似てるな、となんとなく



はっきりと聞こえなくて声が出なくて



でも、遠くから(祝福のような)鈴の音がずっと聞こえてて



それを頼りに空間を泳ぎながら身体言語を刻み、言葉以前の感情の起こりからその空間と自分との関係を確かめていく、みたいな感じ




なので、腰を中心に糸に操られたマリオネットみたいな感じで、あまやどりの中の人が腕や足といった枝葉を十全に使って空間(世界)をつかもう(認識しよう→伝えよう)ともがいているように見えた




ろうそくの灯りは和尚の話もあって震災周辺の人々の魂のようにも想えたけど、もうちょっと別の意味があったのかもしれない





あとは、蝉の声がよく聞こえたな、と





開け放たれた社殿の正面扉から夕方の光と木々の緑、蝉の声が入ってきて



そういった開放感もあってか重苦しい雰囲気や緊張もなく、蝉の声に重なるようにこどもの声が「和やかな空間」「生活の中の一場面」を演出していた





そういった「生活のなかにふつーにある」「地域の人々に馴染んだ」という感じは「不思議な少年」で出てきた「田舎の無名ではあるが素晴らしく周りの環境に溶け込んだ神社」みたいなのを想わせたり






あるいは







「震災」と「たましい」ということを絡めると、彼女の体を通じて還ってきたたましいが再び出ていく過程のようなものを勝手に想ったりした。最後の退場の仕草なんかで特に







そうするとやはり一人盆踊りのようなものだったのかなぁ。。







広島で祖母にあってきた




祖母はもう原爆の記憶も、その後の細腕繁盛記のような人生も、じいさんが死んだこともはっきりと覚えてなくて


かといって認知機能が落ちてるわけではなく、単に「余計な記憶」と想われるものを身体がリセットして、目の前のものに必要なだけのメモリを用意した最適最小の認知環境にいるのだろうけど


そういう環境の中ではおそらく「いま」しかなくて



そして、それはたぶんただしい




古東哲明、2005,「現代思想としてのギリシア哲学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218962376.html






では、それは本当に達観のようなものなのか?と思って「死ぬのは怖くないの?」と訊いてみた




祖母は否定するでもなく肯定するでもないように「そうねぇ……」っていってるだけだったけど





たぶん、痛くなかったり煩わしくなかったらそれでいい、ということなのだろう





心残りも特にないようだったし


(なんだったらそれを継ぐつもりで今回会いにいったんだけど)








「ゆるせばいいのに」というのは余人にいわれるととても簡単な言葉のように聞こえて



当人は赦そうとしてもスティグマやトラウマがそれをゆるさない、というのはあるだろう




その気持ちを救うのは....: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/49747050.html






「それもまた『自分』とは離れた部分の善悪という観念であり、その呵責だ」といえばそうだろうけど



では、人は観念を離れて人たり得るのか?、ということになる



プラトンがいうような「観念動物としての人」という文脈で






ただ、



「それは人が人の作った言葉の檻の中から創りだしたもので、ピュシスとは違うもの」ということではあるか




では「自然とともにある」というのは祖母のような状態のことを言うのだろうか?











わからないけど、母によると祖母は「よく笑うようになった」のだそうな


少し前は腰を痛めて悲観的になっていたのもあっただろうけど



叔母にいじめられることもなく、祖父に煩わされることもない





「はぁ、ここが自分の部屋になってしもうたよ」



介護施設の部屋で、嫌味でもなんでもなくそう言う彼女は来るべき死を「そういうもの」として受け容れているようだった













--
屈せざるものたち: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212059486.html



中世ヨーロッパの戦争と正戦論: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218676600.html



<ヒロシマ>ということ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/39864267.html


posted by m_um_u at 23:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年07月17日

「性的禁忌」「家族」「国家」「文明」




Women want mediocre men, and men are working hard to become as mediocre as possible.

-- Margaret Mead




Illusions mistaken for truth are the pavement under our feet. They are what we call civilization.

Barbara Kingsolver, The Poisonwood Bible







性的行動とその決定因、またそこから発生する効果・作用の分析が生物学と経済学の臨界で生まれる。と同時に、道徳的・宗教的勧告や徴税といった伝統的手段を超えて、夫婦の性的行動を、経済的かつ政治的に協議された一つの行為に仕立てようとする組織的な作戦が現れる。

−知への意志−






個々の道徳的行為は、必ず特定の道徳的振る舞いに依拠し、道徳的振る舞いは必ず道徳的主体としての自己自身の編成を要請する。更にまた、この道徳的主体の編成は、〈主体化の様式〉なしに、またそれを支える〈修練〉と〈自己の営為〉なしにはありえない。

−快楽の活用−






19・20世紀の人種差別は、そこにいくつかの手がかりを見出すだろう。国家は、市民の性と市民の性の用い方の現状を知らねばならないが、市民の方も各人が、性の用い方を自分でコントロールできなければならない。国家と個人の間で、性は一つの賭金=目的になった。

−知への意志−




















コレ読んでなんかまたいろいろ繋がった、というかぼんやりとしたデッサン程度にマッピングできそうなので


吉本隆明、性を語る。 −コイトゥス再考−
http://htn.to/2Bjpk8




「性的禁忌は親密圏と社会との関連性で現れる」って話


吉本の共同幻想論をもうちょっとゆるく解説した感じだろうか(あれは正直わけわからんかったけど


日本の場合、「家族」の禁忌が強すぎてお茶の間では性的な話題がタブーになることが多々あるように思う


「それは近親相姦的な志向に依る(あるいはつながる)」という話

http://morutan.tumblr.com/post/7661771880


まぁいわれてみれば「なぜ日本ではフリーセックス(セックスについておおっぴらに語ること)がいけないの? 隠すほうが却っていやらしくなるじゃない?」という疑問はずっとある



「それはおまえを食べちゃうためさ」ってことで母や父の潜在的な近親姦への欲望が内包されている、ともいえるか

いわゆるマザコンやファザコン


それは母や父からの一方的な関係ではなく、息子や娘から照射されていくこともあるわけだけど







「性的禁忌と家族」という問題はたとえば売春と社会的禁忌の関係にも反映される。



買売春や自慰行為は社会的に「悪いこと」とされるけど、なぜ「悪い」のか突き詰めていくとわからない
http://morutan.tumblr.com/post/7661465906/1

そして、

「悪い」って認識の中でも自慰や買売春の志向があるということは、その欲望の指向性において「自由」を求めた結果が自慰や買売春であった、ということになる



それが「善い / 悪い」「異端」とか決めるのはその時代の価値観なので



それ以前に、既存の欲望のカタログに依らないなんらかの本源的志向性があった場合、そしてそれが特に他人を傷つけるものでもない場合、誰がそれを「変態」となじれようか?(cf.フーコーであり、トランスジェンダーであり、セクシャルマイノリティな話)






「自慰はわるいことなのだろうか?」的な潜在的恐れ。その短期的な欲求に屈してしまうことにより積み重なっていく敗北と自分への嫌悪感のようなもの


特に男性の場合それは多くの人にあって、ともすればそこから自らの性のあり方を「異常」と烙印し精神的不能の刻印をふしてしまうこともある


abuseではあるだろうけど「善悪」の価値観から「悪い」というものではないだろうに



森岡正博、2005、「感じない男」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52482268.html



あるいは、既存のエロスの形式(いわゆるオカズ)の幻想にドライブされて、自らの本源的志向と形式にドライブされた過激な性のあり方との断層がなんとも収まりがつかなくなり、自らの性を「攻撃的なもの」として呪い怖れる、というようなこと


それはわりとナイーヴな男性ならば経験のあることかと思う



対して吉本は、「むしろ自慰を通じて社会的性を取り込んでいって、家族的な性から解放されていったように思う」、という
http://morutan.tumblr.com/post/7661328912


赤ん坊が性器をいぢったときに感じる「なんとなく気持よかったな」って意識、価値観のない意識を元にして



「社会と家族の性は違う」


http://morutan.tumblr.com/post/7661771880


恋愛と結婚(家庭)は違うが如くに





西洋では全開で語られる性(ex.バタイユ)が日本ではなぜかとじたものになってしまうということ
http://morutan.tumblr.com/post/7661613695

自分的にはそれは医療と刑罰の関係にも通じるのではないかと思うんだけど(cf.フーコー)


吉本としては「家族制の縛りのせいで性の話を外に出しにくくなっているのではないか?」という





「家族」から脱し「社会化」していくときに関わる「性」の問題


あるいは


「近代化」と「性」の問題といえるだろうか



「文明」と「性」といってもいいだろうけど




生産関係と性の語られ方の関係



母権論はいってみれば「( ゚Д゚)<女はセックスしか頭ないから戦争とかもせずに平和やでー」みたいな話だったように思うんだけど



結果的に「性の家庭内部での統御」≠「母権制」ということになってくるのだろうか。(そして、その対照として「文明」のオーバードライブとしての戦争への志向がくる)



花咲く国、平和成るかな: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/46507959.html


(↑は若い論だけど)生産様式に着目してそれと母権制のニックス、と


「狩猟 / 農耕」という区分けをしていたけれど現時点だと「狩猟」(フロー) / 「文明」(ストック)と言ってもいいように思う



狩猟社会というのは「ストックができないので生産に計画性がない」というところがポイント


農耕社会は「ストック → (短期サイクルでの)計画経済が可能」ということ



そして「ストックが生まれるので略取も生まれていく」ともいえるわけだけど、フロー段階でも獲得物をめぐっての小規模な争いはあっただろうから「争い」のオプション自体は狩猟でも農耕でも変わらずあるものなのだと思う



ただ、ストックできるようになると規模が違ってくるので


広い意味で「文明」も「ストック」に加えたのはそういうこと



文に明るくなることで反省し次に繋げる。経験のストックができていく。技術というのはそれをもって格段に進歩していく


だから「書く技術 / それを伝達する方法」(メディア)がそのまま文明の発達段階と相関する


そして、


そもそも狩猟社会にせよ農耕社会にせよ、どちらの社会でも「経済/流通/交易」はあったし、それが文明をドライブさせていったのだろう


モンゴル帝国なんか定住型農耕社会ではなかったけど当時の世界帝国だった理由は交易と戦闘に関わるシステムがシンプルに優れていたからだし


(なので生産関係つか、交易・流通とその手段としてのメディアの発展段階で文明度を測るほうが分かりやすいように思う)


civilization ということについていえば「都市化」であり「文明化」ということだと「教会化」ということで、かつてのヨーロッパでは教会を中心に知が編まれ、戸籍ほかの生権力も統御され、同時に法でもあった。

モンゴルでは戦闘と交易、家庭もシンプルな法とシステムで統御されていたのだろうけど、ヨーロッパでは国内的な秩序は教会にアウトソースされていた。




母権社会というのはゲマインシャフトと同じぐらいの曖昧さだと思うけど、ゲマインシャフトが文明(cf.ゲゼル)と対照であるのと同じように、文明と対置される位置づけにあるようには思う。


ただ、それをもって「女がトップにいる社会は下等」というわけではないんだけど…


文明化されてない社会で母権的なものはその段階にとどまり循環しやすいかなぁ、という印象


文明化された社会での母権、あるいは性による政治のドライブということだと本居宣長なんかがからむのだろうか(源氏物語とか





古本夜話115 バハオーフェンと白揚社版『母権論』 - 出版・読書メモランダム
http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/20110715/1310655690


古本夜話114 ローゼンベルク『二十世紀の神話』と高田里惠子『文学部をめぐる病い』 - 出版・読書メモランダム
http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/20110713/1310482877



ナチスの勘違いはこういった歴史を完全に捨象してゲルマン民族優位をプロパガンダしたことだろう


ただ、ナチスがもし男性的ホモソーシャルな性のあり方、性に似た志向性が戦争や革命への志向であると直感した上でそれを作為的にドライブさせていたのだったら話は少し変わってくるだろうけど


また高田はサブタイトルに示された「教養主義・ナチス・旧制学校」をめぐる共通するイメージ、さらにそれらと協調して「文学」と「仕事」を支える構造の中に、近代日本の教養主義に表出している男性性とその間の関係、特権的男性たちの高等教育の場としての学校を検証する意図をこめ、それらの総体を「男性同盟(メナーブメント)的な美しい結末」と見ようとしている。

この高田の指摘を受け、本連載のひとつのテーマでもある、近代におけるホモソーシャルにしてホモセクシャルな世界の形成、男女間ジェンダー闘争の台頭、ナショナリズムとナチズムの関係、ユダヤ人と女性を同一視する倒錯やミソジニーなどが逆照射されるような感慨を抱かされた。






La mort du jeune Barra: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2011/06/la-mort-du-jeun.html


 習作のほうがダヴィッドが意図的に描きだしたという点で本来のダヴィッドの意思を表したものであろうし、この対比からバラの死が読み取れるとするなら、バラの死の映像こそ、ダヴィッドが見た共和国の精神性というものだろう。
 そこまで言っていいものだろうかと長く迷っていたが、「[書評]絶頂美術館(西岡文彦): 極東ブログ」(参照)の同書にも同じ理路で解説されていて、我が意を得たりというところだった。が、詰めの解釈は異なる。西岡氏はこう言う。


 人としてもっとも大きな幸福のひとつである「性」の歓びを享受することなく、若くして革命に殉じたバラへの、これ以上に悲痛な哀悼の意の表明はないかもしれない。



 「絶たれた生」への抗議として描かれたはずのこの作品が、強烈な同性愛的な官能性をただよわせ、むしろ見る者の「いまだ絶たざる性」を物語ってしまうのは、そのためであるのかも知れない。


 逆であろう。
 ダヴィッドの描出こそが共和制への愛を貫徹した至福の姿なのである。
 鳩山由紀夫元首相が語る友愛(参照)、すなわちフラタニティ(fraternity)というものの、「強烈な同性愛的な官能性」とは、このような形象を有するものであり、むしろ武士道の至高に近い。
 三島由紀夫ならそんなことは自明ことであったに違いないが、奇妙なのは彼にとっては、本来は共和制のエロスであるものが戦後日本の文脈では王制のエロスに偽装されていたことだ。
 むしろ共和国・共和制と限らず国家への愛を誘う政治的イデオロギーには、その表層の差違や論争的な対立の背後に、すべてこの情念の起源を隠し持っているのではないだろうか。






確定ではないけど、どうも戦争や革命への狂ったような志向性にはホモソーシャルな興奮が内包されているみたい


Togetter - 「淫グロリアス・バスターズ」
http://togetter.com/li/127006




近代の歴史、理性の冒険を考えるとき、結局は性というか家庭と社会との関係に落ち着くのだと思う



テオ・アンゲロプロス、1995、「ユリシーズの瞳」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/213903209.html



加納明弘、加納建太、2010,「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/215103969.html




近代化によってそれまではくっついていた家庭と労働(社会)は「分業」という形で分離されていった(家内制手工業な親方職人制から近代的分業制への移行)


それに伴い、「公 / 私」という意識も敷衍していったのだろうけど、根本のところで性の問題や家庭の問題は統御されていないのだろう。


なので、特にゆるい国(日本のようなところ)ではゲゼルシャフトであるはずの政治に家庭的なゆるさがでてしまう




「性」というのは一般化、抽象化していえば「生命のダイナミクスの表れのひとつ」といえるだろうけど


白河夜船: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/213045538.html



女性のあり方と男性のあり方とでは違う


それは「女性」の基底的な要因に依るものもあるのだろうけど、どちらかというと社会的にふされた役割分担から生じた性の志向性のように思う





たとえば男性の性が闘争性と結びつき称揚されていた時代

それと対照するように、おそらく古典的な「女」の性のあり方というのはなにか食虫花のようなドM性があったような


むーたん - 食われて幸せ
http://morutan.tumblr.com/post/31176547


「受けといて食っちまう」みたいなの。上品に言うと、「家庭内部では男性を優位に立てつつ実際面ではコントロールしてる」、というような




そのような因襲のような感覚、封建制のにおいをともなった「食われて(犠牲になって / 受け容れて)しあわせ」な感覚がここにも表れていたか



The Lady of Shallot 〜 ピアノレッスン  (七夕と供犠と女の「自由」の話): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/214043580.html






とりあえず「性」「家庭」「文明」「社会」関連

家族からみた歴史→政治・経済。公共性の構造転換の下部構造としての家族、の可能性ということだと、やはりトッドを読むべきなのだろうな



エマニュエル・トッド - Wikipedia
http://bit.ly/m9xO9a




Togetter - 「E.トッド読む読むφ(..)メモ : 「家庭と親密圏 → 公共圏 → 政治経済空間」の構造変化 (仮)」
http://togetter.com/li/130095





--
Togetter - 「| ゜Θ゜)<ニーチャン、えっちだなー ワーイヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノワーイ」
http://togetter.com/li/134480


「家族の性」にバインドされスポイルされているおにーちゃんたちの性の在り方について


タグ: 家族 文明
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2011年07月09日

The Lady of Shallot 〜 ピアノレッスン  (七夕と供犠と女の「自由」の話)




テオ・アンゲロプロス、1995、「ユリシーズの瞳」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/213903209.html

の牛の話の続きで



そういえば牛の話を書いて気づいたけど、「牛は文明の象徴」であり具体的にはトラクターだったのだよねアレ。なので彦星(牽牛)と織姫の話もおそらくそういったもの。 まあ、気が向いたらあとで書くか

そこにlady of shalottが絡む。あれがポストヴィクトリア朝でなんとなく耽美とされて、各芸術家の想像力を喚起させるものだったのはたぶんそういった背景。「(産業革命を始めとした理性ー文明のゴリゴリとした縦線の流れに対して)昔の人々のあり方に想いを寄せる」みたいなの

それは近代主義に対するローマ回顧(ロマンティシズム)だったり、いまだったら「エマ」とか「乙嫁語り」にも共通するのだろうけど。後者なんかは特に機織り―絨毯織りが絡む。 女性の代表的内職だったからの。つまり「家」の象徴でもあるしほかにも象徴性がある感じ

だからフェミニズムの一部を切り取った単純な視線からlady of shallotを非難できないんだよ。。そこに「( ゚Д゚)<閉じ込められた女性の自由を!」を仮託するのはいいけど「自由」も近代の概念だし、、なによりフェミの重層はジェンダーとなって「性」の克服につながる(おそらく

なのでフェミを単なる女性学とみて信奉する方も、非難する方も間違ってるように思うんだけど。。目立って見えてくるのがそれだし、じっさいにそういうひといるのだから仕方ないなぁとかおもうますよ(田嶋陽子のテレビでの展開に対する賛否両論いろいろを思いつつ

で、もしも七夕のグランドテーマに「性」「家」が絡むとすれば、それはやはり大きく回って「お盆」-「祖霊」ということにも通じるのかなぁとぼんやり思う




the Visit; THE LADY OF SHALOTTthe Visit;
http://www.mitene.or.jp/~t-square/kaleidoscope/McKennitt/McK_3.htm

lady.jpg


シャーロット姫(シャーロットの乙女)
http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/Subjects/shallot/shalott.htm

lady2.jpg



エマの話というのはココの


最近読んだマンガから  現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212974583.html?130962230


( ゚Д゚)<それぞれの時代環境によって「自由」は違うんやから近代的理性から女性開放(自由)押し付けんなや( ゚Д゚)ヴォケ!!


みたいな話




シャロット姫の話はフェミで有名みたいなんだけど自分としてはなんとなくそれ以前に葛生千夏のアルバムで親しんでた


THE LADY OF SHALOTT
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葛生千夏
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THE LADY OF SHALOTT/葛生千夏 (クズウチナツ) - 関心空間
http://www.kanshin.com/keyword/370724


紹介先にもあるように「少年のように透き通った」声で中性的に歌う

「少年のように」というか女性的ではない、甘えがない感じの


「性別を超えてすっくと立つ」




おそらくlady of shallotという題材がもとからもっていたテーマを敢えて払拭するようなところもあるのかもしれない
(でも、葛生千夏の声は全般的にこんな感じの硬質だけど)




そこでは「不自由な女性への同情や哀れみ」もなく「カゴからすくい出してくれるナイトの到来を待ちわびる乙女心」的情緒もない

また、それらの夢や不幸が一切破れて呪いのもとに死んでしまうことに対しても


それをなかば当然のものとして受入れるような、そういう意志を感じる




「カゴから出てキケンなのは当たり前じゃないの。一瞬だけでも希望を持てたのならそれで死ぬなら本望よ」というような






多くの芸術家たちがlady of shallotにもったイメージはそれとは違って、近代的合理性とは違った形での因襲とロマンスのようなもの、その重みのような世界観の耽美性への憧れのようなものであったように思う

ちょうどピアノ・レッスンのような



ピアノ・レッスン [DVD]
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ピアノ・レッスン - Wikipedia
http://bit.ly/o51FAS


19世紀のニュージーランドを舞台に、ピアノの音色を言葉代わりにする女性と、原住民マオリ族に同化した一人の男性との激しい愛を描いた恋愛映画。


主人公・エイダは娘フローラとピアノを伴い、スコットランドから未開の地・ニュージーランドへ旅立った。現地では彼女の結婚相手・スチュアートが迎えたが、彼は重いピアノを自宅へ運ぶことを拒み、ピアノを浜辺に置き去りにした。

話すことができないエイダにとって、ピアノはかけがえのないものであり、エイダは娘を連れて何度も浜辺にピアノを弾きに訪れた。その姿とピアノに惹きつけられた現地の男・ベインズはピアノをスチュアートから入手し、エイダに「黒鍵の数だけ自分にレッスンをしてくれたら、ピアノを返す」と約束した。二人のレッスンを重ねるにつれ、二人の関係は徐々に変容していった






ここではシャロット姫の機織りはピアノであり、ハーヴェイ・カイテルは半ばランスロットのようにして現れる



ピアノ(機)がないと話せない(自分を表現できない)女と、その姿に寄り添う男の話



ランスロットは気高い姿でシャロット姫を惹きつけただけだったけれど、ベインズはもっと直接的な形でピアノからエイダを解き放っていく


ピアノとそれに象徴される彼女の古いアイデンティティから



ピアノ・レッスン | :映画のあらすじと詳しい解説、批評
http://eiga-kaisetu-hyouron.seesaa.net/article/136881888.html



ピアノとともにエイダが海に沈んでいくシーンはまさにシャロット姫への呪いを想わせた

(そして地獄が千の玉座から立ち上がり敬礼する)


The City in the Sea
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The City in the Sea - Edgar Allan Poe
http://classiclit.about.com/library/bl-etexts/eapoe/bl-eapoe-city.htm





でも、


最終的にエイダはロープをほどき、男の愛を信じることを選ぶ (鍵盤を叩く指は失っていても





「ピアノレッスン」では「牛」は現れない

あるいは「牛」に象徴される文明は現れない


「文明」と「男」の関数としての「戦争」。「戦争」にまつわる現象としての「剣」や「鎧」(武)も現れない



(現れてはいても「ピアノ」と並ぶほどの交換要素ではなく、物語進展のための材料的な位置にとどまる(指の切断 cf.契約(アイデンティティ)と呪い)



シャロット姫ではランスロットは鎧をまとって現れている


しかし、シャロット姫も「鎧」に惹かれたというわけではない


単に「外の世界」の象徴としての「男」、自分を籠の鳥から出してくれる存在としての「男」への期待だったのかもしれない



ポストヴィクトリア朝ではそれは産業革命的な文明に代表され、「ユリシーズの瞳」ではレーニン像であった




「ピアノレッスン」では女を救う存在だったハーヴェイ・カイテルは「ユリシーズの瞳」では幻の女(とフィルム)を追い求める存在として現れ、最終的に女(≠フィルム)によって自らを取り戻し救われた…かと思われた矢先に失う。





織姫と彦星、機織りの乙女と牽牛ではどうであったか?




七夕の節句|日本文化いろは事典
http://iroha-japan.net/iroha/A03_goseku/04_tanabata.html


この時期はお盆(旧7月15日)を迎えるための準備(七夕盆)としての意味をもち、畑作の収穫祭を祝う祭りが人々の間で行われていました。この時、健康を祈り素麺の元となったお菓子「索餅〔さくべい〕」が食べられていました。索餅は熱病を流行らせた霊鬼神が子供時代好きな料理で祟りを沈めるとされていました。やがて、索餅は舌触りのよい素麺へと変化し、七夕に素麺を食べるようになったそうです。

日本では古来より、「棚機つ女」といわれる女性が、機〔はた〕で織った布を神におさめ、病気や災厄が起こらないように願ったという話がありました。7月7日〔しちせき〕を「たなばた」と呼ぶのは、この「棚機つ女」がもとになっています。
そして、中国の文化に強く影響を受けた平安貴族たちは、竹竿に糸をかけて願いを星に祈るとかなえられるという乞巧奠の習わしに従い梶の葉に歌を書き付けて手向ける「星祭り」を行うようになりました。
その後、乞巧奠が大衆の間にも広まり、やがて棚機つ女と結びつき現在のように7月7日の七夕となっていったようです。
江戸時代に入ると、短冊に詩歌を書き、笹竹に軒先に立てる風習が寺子屋の普及とともに浸透していきました。明治になり、各地の商店街などで大規模な七夕祭りが開かれるようになり、さらに一般の人々の風習として広まっていったようです。




乞巧奠(きこうでん): 源氏物語
http://heian.cocolog-nifty.com/genji/2007/07/post_f16d.html

七夕(たなばた)は、平安時代には「乞巧奠(きこうでん)」とも呼び、宮中や貴族の家庭で広く行われた年中行事です。
牽牛・織女の伝説を基にふたつの星の逢瀬を眺め、女性達は織女にあやかって裁縫の上達を祈願しました。
グレゴリウス暦(新暦)の現代ですと7月7日は沖縄と北海道を除いて梅雨真っ只中ですが、平安時代の七夕は太陰太陽暦(旧暦)の七月七日、立秋も過ぎた後の初秋の行事でした。
(今年の旧暦七月七日は、新暦の8月19日です)

乞巧奠自体は、牽牛・織女の伝説と共に中国から伝わった行事ですが、日本古来の棚機津女(たなばたつめ)信仰や祖霊を迎えるお盆の準備なども絡み合っており、成立の背景は非常に複雑です。
また“平安時代”と一口に言っても、400年の間で行事の内容はかなり変遷しています。



山崎聖天の乞巧奠
http://www007.upp.so-net.ne.jp/ofg/kikouden.htm

 中国の古伝統ではこの日、牽牛、織女の二星は「天の川」に到り、織女は鵲(かささぎ)の羽を並べて作った橋を渡って牽牛に1年1回の会見をします。日本では牽牛を彦星と言い、織女は機織姫と言います。彦星は「耕」機織姫は「織」を象徴し,両星は夫婦関係にあると言います。七夕にこの二星を祭るのは寿福を願い、恋愛、子福を祈り才能を願うためで、特に女子は機織・裁縫の巧みを祈るもので3年の中に願いの叶わぬことはないとされています。




七夕と乞巧奠(きっこうでん)
http://www.pleasuremind.jp/COLUMN/COLUM117B.html


日本には 「棚機つ女」「乙棚機」の伝説がありました。
 昔から神を祭るときには、日常の食生活を示す神饌(しんせん)と衣生活を示す神衣を神にささげるのがならわしでした。そのため、七月七日に、けがれを知らない少女が身を清めて、不浄な地面からずっと離れた高い柱の上のこもり屋にこもって、機(棚機)を織りながら神を迎え、ともに一夜を過ごして神を慰めるのです。そして翌日、帰りがけに神にけがれを持ち去ってもらえるよう、村人たちは禊を行います。
 つまり、七夕は、棚機からきた言葉で、日本ではけがれや災厄をはらう禊の行事としての性格をもってたのです






総合すれば


(1)オリジンをたどれば中国の牽牛・織女伝説+乞巧奠

(2)牽牛・織姫伝説においては彦星は「耕」機織姫は「織」を象徴する

(3)宮中に伝わった際には雅な乞巧奠の雅な形式、「願い事」な部分だけ形式的に踏襲され「(機織りなどの)芸事がうまくなりますように」と願われていた

(4)日本に伝わった際に機織り・乙棚機な民間伝説と混ざる。乙棚機では穢れ無き乙女が衣をおって神と一夜を共にする(おそらくオシラサマな供犠関連)

(5)七夕のもともとの時期は旧暦なので新暦だと8月19日ぐらい。収穫の願いと、そこにお盆の祖霊迎えが重なる


ということであり、そこから類推するにもともとは祖霊≠神に収穫を願う人身供犠的な性格のものが「衣」を依代として代替されていき、最終的に供犠も祖霊の性格も忘れられ「願い」のみが残った、とのだと思われる。



つまりやはり(「農」という文明のための)「犠牲」「供犠」が絡む



「共同体」という「家」の延長のための「犠牲」



交換財としても扱われていた女性はそういう役割を担わされるところが大だったのかもしれない




それが「lady of shallot」や「オデュッセイア」でも「犠牲」というテーマで継がれていったのか


そして「犠牲」への責任は呪いのように女性の自由を縛っていた



しかし「ピアノレッスン」ではその呪いから解かれていった

ピアノを弾くための指を犠牲にすることでからくもそこから足抜けし、あらたな「自分」=「居場所」を手に入れていった。






その先が幸福な未来かどうかは別として





それらも、あるいはユリシーズの瞳の先に見据えられる未来なのかもしれない




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2011年07月03日

白河夜船




心凄きもの

夜道船道旅の空

旅の宿 木闇(こぐら)き山寺の経の声

思ふや仲らひの飽かで退(の)く











あの船は、ぼくのまだいったことのない国へいくのさ - スナフキン



なによ、なんでもしったかぶりしてさ。スノークのおじょうさんなんか、洋服も着てないじゃないの。わたしはきものなしにあるくなら、死んだほうがましよ! - ミーサ



『こまったこまった』 - こまった こまった 夜はつめたい ときは五時 おまえはひとり さまよう つかれたあしを ひきずって けれども家は みつからない



どんなものでも、暗やみの中では、おそろしいものにみえるのよ - ムーミンママ




自分のものにしたくなったとたんに、あらゆるめんどうが、ふりかかってくるものさ。ぼくは、なんであろうと、見るだけにしている。立ち去る時には、全部、この頭にしまっていくんだ。 - スナフキン




スナフキンといっしょにねてはいけないの? - ムーミン



ぼく、ムーミンたちのことだって、煩わしく思うこともある。だけど、彼らとくらしていると、一緒でも、ひとりでいられるんだ。あんなに何年も、長い夏を、ムーミン谷で過ごしていたのに、ぼくは気づきさえしなかったんだ。ムーミンたちは、ぼくのこと、ひとりにしておいてくれたんだ - スナフキン





人はかなしいときに泣くものだろ - ホムサ




かなしいのはちょっとだけよ。だけど、こんなにないてもいい理由があるときには、いちどきにないておくの - ミーサ






まってたのよ。さあ、ここへいらっしゃい - ムーミンママ

















<人は、生物的機制や社会的機制を超えて自らの性―生の自由を謳歌していけるのだろうか? みょーに性に耽溺(フェチ)したり、逆に極度に嫌がったりせずに>




最近読んだマンガから  現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212974583.html?1309622302



ここで少し「人は自由すぎてもしあわせを感じられないのではないか?」という別のテーマに想いが移る


「なにをやってもいい」とされる野放図な無限の広がりの中で、人は「自由」を謳歌できるのだろうか?




タヒチの空の下で、彼は本当に自由だったのだろうか?



月と六ペンス (新潮文庫)
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性に耽溺(オーバードライブ)していただけではなく、ふつーに自らの実存を感じていたのだろうか?



あるいはオーバードライブを通してガチガチに固まった規制を開放していったのだろうか?



それらは小説を読んだり作品を見て確認するとして



<社会的・生物的に設定された欲望としての「性」以外の「性」のあり方があるとしたら、自分はそれに辿りつけるのか?>という課題がある


エゴを超え、汎愛と止揚した「愛」のあり方への理想と同様に



「愛する」ということ  「汎愛」/「他者」/「差別」/ 「聲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/210130222.html



「愛」という言葉もなにかちょっともはや手垢がついたものというか、一つの「こうあるべき」型のようなものとして人を縛ってしまうところがあるのかもしれない


現代だとそれは「自由恋愛」の幻想に代表されるだろうけど、それも近代以降生み出されたり「発見」されていったものだろうし。。


そういうことに対して、他の文化圏、他の時代の愛のあり方は現代の「愛」の当然性に対する相対化の材料となってくれる



最近読んだマンガから  現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212974583.html?1309622302





性と愛の感覚というのは自分の中でまだ整理がついてなくて、おそらく「愛」というのはどこまでいっても幻想であり社会動物である人が創り出した、その時代における幻想(物語)なので、「これが愛の形」というのはその時代・環境に依るのだろう




だからむしろ「性」というものがなんなのか?考えていったり


以前、ぼけーっとつぶやいてたのはその辺





Togetter - 「position 1  「立つこと」「動くこと」「生きること」「性」「動くこと」「思考すること」」
http://togetter.com/li/147666






生命というのは「躍動」であり「動き」ということで、「性」はその一環であるといえる



動物は動くことが表されやすいけど、では「生=動き」としたとき植物は「生きてはいない」のか?


もしくは


直接的な体の動きが外部に見えないとき、人も「生きていない」ということになるのだろうか?



「人間は思考している」ので生きている


しかし植物も考えているかもしれない。あるいは、人のように主に言語系に頼って考えているのではなく、別の形で「思考」と我々がよぶところに準じるようなことをしているのかもしれない



それは人の場合は次の動きへのタメであり、植物もそれと似たものなのかも



「人間は考える葦である」というとき、その辺りの次の行動のためのタメ(観想)を表しているとも言える




あるいは、植物もしているダイナミクスとして「性」がある



人のように動きを伴う激しい生殖行為ではないけれど、彼・彼女たちがホメオスタシスを破ってダイナミクスを生じさせる行為として種子や球根を次代につなげていくという生殖行為が考えられる



性と思考はそういった意味で「動き」であり生命の表れと言えるだろう





より物理的な本質で言えば、人の性や生は水の流れであると言える


水と呼気の流れ


それを心臓ほか内蔵のポンプで循環させているのが「生」命体のあり方



それは人だけではなく地球上の生命一般にほぼ共通することか







Togetter - 「position 2 「女」と「性」についての日記用メモ」
http://togetter.com/li/156643






ここで驚きとともにpostしていたオナホのあり方というのもある意味そういう人のあり方を象徴的に表してるように思った



ピンサロ通い20年のベテランがプロデュースする、究極の「フェラホール」!! - 日刊サイゾー
http://www.cyzo.com/2011/07/post_7765.htm




これは現代的な性の偏り、単なる快感の道具として女性を見ている男性の視点を象徴的に表したものであると一義には言える


(その意味ではシュールレアリズム展でみたエロ認識の表出と似てる)



シュルレアリスム展にいってきたYO!: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200983102.html




その姿はシュールに機能特化しすぎていて、なんだか魚のようにも見えた。特に横から見た図が



ちょうどそのときに別件で「進化のあり方」みたいな画像見ていたからというのもあるのだろうけど



単なるスイッチ的な快感にそこまで機能特化していった男性的な性のあり方というのは、歴史的に見るとなんだか滑稽であり逆に愛おしいというかみょーなペーソスがあるところがある


「空気人形」なんかも全体としては悲しい色合いの話だけど、男が人形相手に腰を振ってるシーンというのはなにやら滑稽だったり(実際、人の生殖活動は「愛」という幻想が伴わないとなにやら滑稽なものだと思う)



是枝裕和, 2009, 「空気人形」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/134634431.html






自分の中でもまだ性はギザギザしたところがあって、完全に融け合ってひとつになるようなことというのは経験的にないわけだけど


そういうギザギザ、暴力性とか滑稽さのようなものがなんとなく落ち着いて受け容れられた瞬間には、水としての生命の聲のようなものに意識が同調できてるんじゃないかって、理想としては思う


大樹に耳を当てるとコポコポって音が聞こえるように


人の性と生のあり方、その聲に耳を澄ませて聴くということが性的なコミュニケーションのあり方なんじゃないだろうか



そうやって互いが互いの音と聲に耳を澄ませてひとつの地点を創り上げていく(空気さなぎをつくるように)



それが性のあり方であり、結果的に次代の生命が創りだされていく



(性は生命への鳥羽口、換び水的なものとして機能し、その過程で2つの事象を創り上げていく)






そういうものではないかなぁと最近はなんとなく思ったりする






それが実感できたとき、自分はもはや「プールサイダー」的寂しさをもっていないのかもしれない



[書評]回転木馬のデッド・ヒート(村上春樹): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2008/04/post_21a5.html



回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)
村上 春樹
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そして躍動を持って生命のプールに飛び込む(互いの水が換び水となる



最後の息子 (文春文庫)
吉田 修一
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あるいは、あてどなく続く漆黒(ぬばたま)の水面に船を滑らせる


白河夜船 (角川文庫)
白河夜船 (角川文庫)
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吉本 ばなな
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Rebecca Horn    性と生の超越: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/133818125.html




http://bit.ly/kA8vT6
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2011年06月27日

屈せざるものたち




【フーコーの生権力論】生権力:ヒトという種における基本的な生物学上の特徴が、ある政治(政治的戦略、ある一般的な権力戦略)の内部に入り込めるようになるにあたって用いられる、様々な権力メカニズムからなる総体。−安全・領土・人口−


精神は、身体の周りで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出される。その権力こそは、罰せられる人々−より一般的には監視され訓練され矯正される人々、狂人・幼児・小学生・被植民者、ある生産装置に縛り付けられて生存中ずっと監督される人々に行使されるものだ。−監視と処罰−


身体は直接政治的領域の中に投げ込まれていて、権力関係は身体に無媒介な影響力を加えており、身体を攻囲し、それに烙印を押し、訓練し、責め苛み、労役を強制し、儀式を押し付け、表徴を要求する。身体のこの政治的攻囲は、複合的で相関的な諸関連に応じて身体の経済的活用と結びつく。−監視と処罰


国家装置と制度が作用させるもの[=身体の政治的技術]は、言ってみれば、権力の微視的物理学に関連してくることであるが、その有効性の場は、言ってみれば、それら装置並びに制度の大仕掛けな作用と、物質性と力とを含む身体自体との間に位置しているといえる。−監視と処罰−


私の考え方だとされたことが多いのだが、「権力、それは悪だ」というサルトルの考え方は、私の考えとはおよそかけ離れている。権力とは戦略的なゲームのことです。権力が悪ではないということは、誰もが解っているはずのことである。−自由の実践としての自己への配慮−



国家装置と制度が作用させるもの[=身体の政治的技術]は、言ってみれば、権力の微視的物理学に関連してくることであるが、その有効性の場は、言ってみれば、それら装置並びに制度の大仕掛けな作用と、物質性と力とを含む身体自体との間に位置しているといえる。−監視と処罰−



私のやっている、哲学[=真理の政治学]における権力メカニズムの分析とは、「我々の社会の中で展開される闘争・対決・闘い」と「その戦争の諸要素である様々な権力戦術」によって生産される様々な知の効果がどのようなものであるかを示すことを役割とする。−安全・領土・人口−


命令形の言説によって貫かれていたり下支えされたりしているだけの理論的言説や分析などは存在しないということ。なすべきことに関する次元は現実の力場の内部にしか現れえない。この力場においては、語る主体が単独で自分の言葉から出発して創造することなどはできはしない。−安全・領土・人口−


「技法 kunst」はその派生語(「凝りすぎる verkünsteln」「ふりをする erkünsteln」「気どった gekünstelt」)とともに、『人間学』に繰り返し現れる用語の一つであり、また最も翻訳しにくい用語の一つである。−カントの人間学−



制度としての政治権力の理論は、普通法的な主体の法律上の概念に基づいているが、それに対して統治性の分析(可逆な諸関係の総体としての権力の分析)は、自己の自己への関係によって規定された主体の倫理に基づかなければならない。−主体の解釈学


プラトンからデカルトを経てフッサールに至る、根源性という方向。2.プラトンから聖アウグスティヌスを経てフロイトに至る経験的拡張の方向での連続的な歴史。このどちらの場合も、明示的にであれ、暗黙の内にであれ、主体の理論が練り上げられずに、背後に残されてしまう。−主体の解釈学−


個々の道徳的行為は、必ず特定の道徳的振る舞いに依拠し、道徳的振る舞いは必ず道徳的主体としての自己自身の編成を要請する。更にまた、この道徳的主体の編成は、〈主体化の様式〉なしに、またそれを支える〈修練〉と〈自己の営為〉なしにはありえない。−快楽の活用−


私が提供しようとしているような型の分析によって、「権力」「統治性」「自己と他者達の統治」「自己の自己への関係」、この四者は連鎖して網目のようにつながっていること、これらの概念を中心にして、政治の問題と倫理の問題を連結することができなければならないということが解る。−主体の解釈学−


「技法 kunst」と派生語が指示するのは、何らかの技芸や技術ではない。何かが与えられる時、必ず人間の企てという危険に曝されるという事実が指示されている。人間の企てが立ち上げられると共に危険が根ざすのだが、この企ては全く同時に危険を避けるために自由意志に訴える。−カントの人間学−















最近クーデルカの写真展にいって



夜が明ける前に ジョセフ・クーデルカ写真展「プラハ1968」
http://soraartistname.blog42.fc2.com/blog-entry-49.html





「なんとなく感じることがあった / ちょっといろいろ思うところがあって観に行って刺激喚起された」のでつらつらと




これを観に行こうと思ったのは「写真というのがなんかわかんないから」がまだあるので


サルガド展でいちおなんとなく「写真も面白いものかもしれない」と思ったんだけど、




サルガド展にいってきたよ  アフリカという神話と複製技術の行く末: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/134989378.html




あれはサルガドがかなり特殊だったってのもあるのだろう(かなり絵画的だった



「わかんない」の内容としては武芸における武器術と体術の違いと同じように、「道具を介して自分のリアルな実感を操作する感覚がわからない」みたいなの


メディア論なんかやってるし字義としてはわかるんだけど、、、


武術なんかの場合だと「とらわれないように」って言い方がある


「身体や道具にとらわれないように」「そこに居つくことになるから」「居つくと動きがわかりやすくなるから」「そこに居ついてる(そこを中心に攻撃してくる)のがバレバレになるから」「結果的に体と武器が離れてさばきやすくなる」


そういう感じで、武器(道具)は身体の一部として使うように思うんだけど、そうでありながら「武器の好きなように動いてもらう」って感じになる


けっきょくのところそれは重心の問題で、武器の重心と身体の重心の止揚というか…

身体の内部でもいくつか重心や力の始動点を分散させて、それらを最終的に一点に統合させて発露させるっていう…まぁ書いてみると複雑なことしてるわけだけど(そんで、それは字義であって、自分的にはまだ実感としてはマスターしてない




そういう「道具は一体でありながら勝手に動いてくれるものであり、それでいて一体だ」っていう感覚


そこから生まれる「日常的な自分の捉え方では捉えられないようなリアリティを捉えられる」…そういう(ベタに言ってみれば)「ハイパーリアル」を実現させるような道具(メディア)の底力のようなもの


それがカメラっていう複製技術時代の嚆矢ともいえるようなメディアの使用術の中で体現されているのなら、それを確かめられたらいいなぁってぼけーっと思ってる


なんだったら「絵画」を超えるようなリアリティの体現




それはサルガドのときにおぼろげに感じたように思った

(白黒という色彩の限定、カメラというリアリティの限定を通して却って「リアル」な陰影 → 光が表現される感覚)



クーデルカにも半ばそれを期待し観に行った



あとはいまの情況に合わせてつらつらと思うことがあったので





展示されていた写真群は1968のソ連によるチェコ侵攻、結果としていわゆる「プラハの春」につながる社会主義国家の市民革命的な気運の萌芽につながっていった歴史的事件を追うものだった



ソ連を中心として社会主義→計画経済が実施されていたがいつまでたっても国が豊かにならない…そのことに焦りをもった諸国の疑念を一気に圧し潰すが如く、またアメリカほか西側諸国への牽制も兼ねてか、ソ連はいきなり軍事力という暴力の牙をむいた



「うわwwまじww   ……冗談だろ」といっても通じないぐらいに留まってくれない津波や地震のように


「なにも悪いことをしていない」人々の希望を踏みにじる不条理として暴力の長靴とキャラピラの音が石畳に響いていった




多くのチェコ市民はそれに反目しつつも圧倒的な暴力の差に諦観をもって臨み、またある者は浮かれて同調し、またあるものは自己の不安を払拭するように無謀な打ち壊しに参加し、ある者は死を覚悟して兵士に向かって直談判した


Invasion 68
http://bit.ly/iZ4ttw



老人の瞳が語る


「何回も繰り返されてきたことだ。何を言っても無駄。悲しいが仕方がない」


いや、「仕方がない」ではなくただ言葉にならない思考のしびれのような低い停滞を抱えてぼんやりと戦車の群れを見送った




その様子に直近の日本での地震災害とそれに伴う原発事故、原発事故を囲む「運動」的なものを思ったり



運動への関わり方も人によって異なるので一概には言えなくて、中には真摯に観想的態度の中から「ここだけは譲れない」というラインを防衛するために声を発していく人々もいたが、中には明らかに思慮もなく祭り的にそれに加わる人々もいた


不安を払拭するために「ただしさ」という神輿を担ぎ、内容いかんに関わらず「正しくないもの」を叩くことで自分たちが「ただしいもの」に繋がっているという安心を獲得していく人々



その景色は1968年のチェコにもあったようだ




「若い思考」がある限りそれは続いていくのだろうけど



ポーランド / 反核的なものが関わるというと吉本隆明の「反核異論」が思い出される



吉本隆明、1982、「<反核>異論」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/108002595.html



そこでいわれていた「現状をみずに」「単に理念的に運動(祭り)したかっただけではないですか?」というのは直近のこれにもつながる



M.ウェーバー、1919、「職業としての政治」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/211827975.html



「ロマンティシズムに走り過ぎることでリアリズムが忘れ去られてしまう」ということだけれど






かといって「リアリズム」だけで土壇場の現状が回るのか?、といえば判断留保されるところだろう





ふたたび1968年のチェコに戻れば、抗議運動などすれば殺されるの当たり前な情況だったのだから本来なら抗議などすべきではなかった


市長がいうように「市民自らが暴力行為を仕掛けず、暴力が行き過ぎるのをまってください」というのが合理的判断としてはただしい





しかし、彼らは抗議する





そうすれば殺されるかもしれないと分かりきってる情況の中で





その延長としてソ連への直接抗議団が使節される




プラハ侵攻を受けたチェコの新聞紙かなんかが、ソ連党本部に抗議をしにいった代表団について書いてた文章が印象的だった



正確な内容は忘れたので自分の印象を中心とした大意を言うと、



「われわれはすでに死んだ人間だ。いつ殺されてもおかしくない被支配者だ。 そして、君たちがわれわれの『代表』としてソ連本部に乗り込むということ、それは党本部で抹殺され、歴史の闇に葬られることを半ば当然とすることだ


 それでもなお、君たちは我々の代表として臆することなく訴えねばならない。まさに死を賭して、あるいはそれさえも生ぬるいような決死の覚悟で、だ。 それができないものはいますぐわれわれを『代表』することをやめたまえ」




というようなものだったように思う




「それでもなお屈せざる意志」 を表すこの一文はそのままウェーバーの「職業としての政治」の最後の檄文に通じる。



政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能ごとを目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。


しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない


いや指導者であるだけでなく、――はなはだ素朴な意味での―― 英雄でなければならない。


そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。


自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―― 自分の立場から見て ―― どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。


どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。



そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。






そして「民族」としての、あるいは「市民」としての屈せざる意志というのは最後の授業のことを思ったり



最後の授業 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%8E%88%E6%A5%AD






そういった「意志」というのは合理性や表面的な利害関係を超えたもっと力強いもので


それは反面、狂気のような危うさを持ちつつも、人を牽引していく強さのようなものを併せ持つ




グスコーブドリのように: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/163308380.html




歴史は、合理性に基づいた「進歩」的なスケールだけではなくて、こういった狂気のような意志が関わって動かしてきたように思う





しかし、それはあくまでも心情(感情)的倫理であり、行動の最初の資源としての情熱に過ぎない


それを元にして、たとえば怒りに任せて<他者>を断じ、交渉を排除しているだけでは事態は進展しないことがしばしばとなる




政治的交渉(外交)は利害関係にあるものたちが立場や思想の異なった<他者>を調停することを本分とする、はず




「われわれは同胞を、家族を殺した彼らを決してゆるさないし忘れないだろう。  

 しかし、利害のテーブルを同じくするわれわれがそれを調停するために交渉に当たることはそれとは別の事柄だ」


という冷静な認識に基づいたタフな交渉


それをもってはじめて自分たちの同胞を困難な情況からより良い事態へと導くことができる




そういった交渉を可能にするのは政治的情熱であるとともに一定の技術・術理(クンスト)なのではないか?





たとえばかつて、明治の公共圏的なものとして「江湖」的なものが日本でもモデルネとされたことがあったようだけど



公共圏の歴史的創造 − 江湖の思想へ
http://bit.ly/krs9tw


江湖 - Wikipedia
http://htn.to/5NGS4d



その元となった中国武侠的な江湖において公共性的な意識が共有され機能していっていたのは、「私心を廃することを前提としてカ完遂するような『おおやけ』を元にした強烈な目的意識を共にしていたから」というのもあるのだろうけど、「彼らが武術というクンストに通じていたからではないか?」と思うところがある。


武術というクンスト、「己れを消し、自らと相手を冷静に観察し、突破点を探る」というトレーニングに慣れていたのが「私心を廃しおおやけに尽くす」ということにも繋がっていったのでは?



同様のことは「職業としての政治」にでてきた官吏にも思った


彼らのマシーンに徹するような術理の徹底

官吏の場合は「政治家から発せられた政のプログラムを行う」という「プログラムの徹底的実施」(知のインデックス化)的なそれだけど


同様に政というプログラム(コード)を書く人々にもプロフェッショナリズムの徹底は必要だろうし


また、


それらを<他者>との交渉に活かす際には交渉術という術理も必要になってくるだろう



そして、そうやって統制され錬成(止揚)された情熱と冷静が不屈の「意志」となり<他者>という岩を穿つ乾坤の一滴となっていく



フーコーがたびたび謎ワード的に「権力に対抗するにはをクンストが必要」みたいなことを言っているけれど、あれはこの辺りに通じるのではないか?(未確認ながら)


けっきょく権力、というかその元の資源による煩悩(性や金その他)を統制するのがクンスト?



(あと、そういった基本線のほかにその場ごとの独特の事情・要素に配慮したエゴの調整の必要性があるし、日本の江湖、あるいは「講」や「結」などといった協働的場面でもそういった場面があったように思う)





そうやって統制された「意志」をもって情熱という狂気(デーモン)を統制し、事を成していく








ふたたびクーデルカを観に行こうと思った理由をぼんやり



クーデルカはアンゲロプロスの「ユリシーズの瞳」のスチール撮影に関わっていたそうな


Sightsong: ジョセフ・クーデルカ『プラハ1968』
http://pub.ne.jp/Sightsong/?entry_id=3727916


夜の約束まで時間があって、4階の図書館を覗いた。目当ては、1997-98年に写真美術館で開かれた『ユリシーズの瞳 テオ・アンゲロプロスとジョセフ・クーデルカ』の図録である。映画もテレビも見ないというクーデルカだが、テオ・アンゲロプロス『ユリシーズの瞳』(1994年)のスチルを担当したのだった。従って、ギリシャ、マケドニア、アルバニア、ルーマニア、旧ユーゴを旅した記録になっている。

寒そうな雪景色のマケドニア、主演のハーヴェイ・カイテルが眉間に皺をよせて、車の中から不安そうに外を眺める瞬間。孤独な犬。図録にはクーデルカの言葉も引用されている。




(ああ、しまった図録がおいてあったか。。)




テオ・アンゲロプロス『ユリシーズの瞳』DVD評 yohnishi's blog (韓国語 映画他)/ウェブリブログ
http://yohnishi.at.webry.info/201105/article_24.html

 ハーヴェイ・カイテル演ずるギリシャ出身の映画監督Aが探す映画が20世紀初頭にギリシャで初めて映画を撮ったマキナス兄弟が撮影したはずのバルカン半島に関する未現像の記録映画。
 もちろん20世紀の初頭に撮った未現像のフィルムが100年近くも経って現像できるはずもない。フィルムが冷凍されていれば、フィルムの未現像の潜像が残っている可能性はあるが、常温で保管していれば化学反応が進行し、潜像は消えてしまっているはず。
 だからマキナス兄弟の撮った未現像のフィルムとはちょうど『薔薇の名前』に出てくるアリストテレスの「失われた」、『詩編 第3部』と同じ役割を果たしている。

 つまりそれは、失われたバルカン半島の平和な人々の暮らしや文化の象徴なのであり、それをふらふらと彷徨しながら探す行為は、バルカン半島の平和を取り戻す難しい道のりのシンボルなのである。だからこそ、Aはサライェボへと向かうのである。

 そしてドナウ川を運び出されるレーニン像にも、そこに象徴的な意味が込められているのは当然。




これは以前に講義で見さされてねてしまったんだけど(cf.「子どもが寝つかないならアンゲロプロスの作品をみせるがいい」)


なんとなく気になっていてもう一回みようと思っていた



クーデルカを観に行ったのは半ばこの作品を消化するため



あるいはこの作品の文脈を自分なりに昇華していくため




アンプゲロプロス単体で言うと、ギリシアというヨーロッパの中で翻弄された地を中心に、ヨーロッパ全体の、あるいは人類全体の戦争の歴史を淡々と振り返っていく作風のように思う(個人的にはその地政学的配置は沖縄を想わせる



テオ・アンゲロプロス - Wikipedia
http://bit.ly/iHzPnm


『シテール島への船出』- 左右対立解消後の虚無感を描くアンゲロプロスの映画 yohnishi's blog (韓国語 映画他)/ウェブリブログ
http://yohnishi.at.webry.info/201106/article_10.html



「淡々と」というか、ロマンティックで安易な楽観を廃して


クロアチアやスロヴァキア、スロヴェニア、あるいはイスラエルといったヴァルカンや地中海周辺の爆弾のような地域に暮らす人たちが現実に疲れないために保ち続けているような瞳の有り様がそのままアンプゲロネスやクーデルカのカメラ眼のテンションにも共通するのだと思う



その瞳はホロコーストをみつめ、ヒロシマをみつめ、ギリシア、ヴァキア、十字軍、あるいはトロイアの戦乱を見つめてきた


そういった瞳からヒロシマ的なものに対して外国人がしばしば持つオリエンタリズムともいえるような幻想を、あるいは日本人内部にもあるような仮託された物語のようなものを見つめ直していきたい



彼らは単純に「いい人」で、それがゆえに良心をもってヒロシマを語ってくれるのかもしれないけれど、それによってヒロシマの人々が実際に生きてきた経験や葛藤が塗り替えられていくこと

前景化された「良いヒロシマ」がドライブされて「生活としてのヒロシマ-広島」の問題がなかなか解決されていかないこと

それを部分的に揶揄するように、一部のワカモノが広島の空を汚し、フクシマに対しても中途半端なコミットをし人々の感情を混乱させたり逆なでしたりしていること


webDICE - 骰子の眼 - 原爆ドームの空に“ピカッ”で『Chim↑Pom─ひろしま展』中止となった問題を考える
http://www.webdice.jp/dice/detail/1103/



そうやっているうちにヒロシマの第一世代は失われて、歴史や記憶が途絶えていってしまうこと


そういう事に対して鈍感だったりする




それを諦観や苛立ちをもって眺めていたけれど、もう少しきちんと見つめ直していけるのではないか



ホロコーストやギリシアの蹂躙、あるいは東西冷戦の境界に立たされた小国に暮らす人々の苦渋や葛藤、不屈の魂のようなものが、ヒロシマとホロコーストという「違っていても共通する」というびみょーなキャズムのようなものを埋めていく思考のきっかけになってくれるのを期待する













おそらくわれわれの間のキャズムは翻訳不能で、



「ヒロシマ、私の恋人」&「二十四時間の情事」 マルグリット・デュラス : FRENCH BLOOM NET-INFO*BASE
http://cyberbloom.seesaa.net/article/50348476.html

「ロスト・イン・トランスレーション」:英語映画レビュー
http://www.eigotown.com/culture/film_review/contents/lost.shtml




ともすればその歴史的重層性の違いや個人的な生きられた経験の重みから軽重の違いがあるのかもしれないけれど




存在の耐えられない軽さ : 賢者の図書館 (Under Construction) : livedoor Blog(ブログ)
http://bookdiary.livedoor.biz/archives/51527698.html





それでもなお、啓蒙や理性といったゴリゴリの圧力とは違った形で、なんとはなしの親和性のようなものが生まれることを、閑かに期待したい







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関連:
ジョン・ダワー、2004(1999)、「敗北を抱きしめて(上)」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/109044299.html


<ヒロシマ>ということ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/39864267.html



東琢磨『ヒロシマ独立論』を読む。:2007-08-29 - 【海難記】 Wrecked on the Sea
http://d.hatena.ne.jp/solar/20070829#p1



哲学するサラリーマン: バタイユのヒロシマ
http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/1376217.html



生きる術はそばにある (ホロコースト-安保-自閉→自殺  / ブランショ-レヴィナス / 「生きていてすまない」)
http://www.cokes.jp/pf/shobun/html/tyosya/index.html



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Sightsong: ミラン・クンデラ『不滅』
http://pub.ne.jp/Sightsong/?entry_id=2499714

タグ:ヒロシマ
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2011年06月16日

「愛する」ということ  「汎愛」/「他者」/「差別」/ 「聲」




I am no bird, and no net ensnares me; I am a free human being with an independent will.


Charlotte Bronte













人の内部には言語以前…人工的につくりだした言語では表せないような複雑性が潜んでいて、それが「ほんとのひと」なのかなぁ、と思ったりする


合理性・論理性では説明がつかないような…

それは社会的には「わがまま」とか「独善的」とか「意味が分からない」とかいうことになるのだろうし、自分も他人がそういう傾向があると付き合い難いものだけど


でも


「社会」方向に自分をスポイルしすぎてる人というのも付き合い難い(というか面白みがない


近代において「公/私」の分化の中で誕生した「私」は、その前提としてどんなにわがままに振舞っているように見えても「公」(社会)の影響をうけるのだろう


<その「わがまま」は「公(社会)」への反動、影に過ぎない>という程度に



そういった中で



言語化以前になんだか知らないけど、自分の中の理屈としても説明できなくてみょーな感じなんだけど、たまに現れる 聲(こえ) がある



それはなにか天啓のようで



人というのはけっこうそれに従って人生を決めていってるように思う



男性なんかの場合はどうしても「社会」をメインにするように染みつけられているから、それを表面的には否定するように振舞うけど


女性のほうがその傾向、 聲 に従う傾向は強いのだろう



「女性は子宮で考える」的なアレ



アレは揶揄ともいえるけど、性を運動≠身体として捉えた場合、それは理にかなってるのかなぁって



Togetter - 「position 1  「立つこと」「動くこと」「生きること」「性」「動くこと」「思考すること」」
http://togetter.com/li/147666



そして、それが人の中の「他者」ということなのだろう



それをある人は「神」とか「天才」とかいうのだろうけど、よくわからない、人によって呼び方が違う


Togetter - 「身体の零度   零じゃなくても語る身体」
http://togetter.com/li/146559







また、あるひとにとってはそれは「鳥」ということらしい



「自分はひとではなく鳥なのかもしれない 鳥の方に近いのかも」



よだかの星でありかもめのジョナサンかなぁってちょっと思うんだけど



I am no bird, and no net ensnares me; I am a free human being with an independent will.



「わたしは鳥ではない  でも、どのような網もわたしを捕られない  
 
       わたしは自由   意志をもった自由な人間であり個人だ」




鳥は自由なように見えて常に羽ばたいてなければならないので疲れそう

風に乗れば良いのだろうけどそこに行くまでは羽ばたきが必要だし、滑空系じゃない鳥もいる



「飛んでるように(自由に)行動するだけだ」
http://morutan.tumblr.com/post/6570737963



そうはいってもこんどは「飛ぶ」ことに囚われたり



空を見上げることは人の原初的な願いなのかもしれないけれど
http://morutan.tumblr.com/post/6570748223/pinto-perfume-kashiyuka







「女の中に他者がいる」あるいは「それこそが女」

それは当人の意志では止められないもの



というのは「愛すべき娘たち」のメッセージであったように思うけど

愛すべき娘たち (Jets comics)
よしなが ふみ
白泉社



同時に女たちは愛を求めていて、「人を愛する」ということは差別だったりする


本来の愛が他者への献身であるのに対して、「誰かを愛する」ということはその道から外れることとなる



その変態を恋愛という




生まれたときには誰も愛していなくて、保護者である母親をなんとなく「好き」って感覚があるだけ


それもしばらくの間は「好き」ではなくて、段階的に「それは 好き ってことなんだよ」ってインプリンティングされていく


それにともなって周りの人の振る舞いから「好き」に付随するコミュニケーションの形、面倒が起こらない(褒められる=ご褒美を与えられる)コミュニケーション様式をインストールしていく



そうやって鏡像的に概念をインストしていく



男の子の場合は一般的に母への愛がまず最初にあるように思う

女の子の場合も同様だけど、「同性」ということで母親からのコンプレックスが入る(男の子の場合も「溺愛」のようなものが入ってしまうことがあるが)



そういった動物的な、環境によって包まれた愛、包袋(えな)にくるまれているような愛?から、ある程度「個人」(≠主体性)が固まってくると離脱していく



あるいは、ほぼ同時期にともだちの間で課題とされていく「○○ちゃんが一番好き」的なもので



だんだんと、ほぼ自然に「愛すること / 差別すること」が当たり前の感覚として備わっていく


あるいは


反照としての「自分だけを愛して欲しい」「甘やかせて欲しい」という感覚



ときにそれが「愛」として勘違いされる






おそらく「愛するということ」はその中間、「汎愛」と「目の前の他者である恋人(あるいは友人)をその瞬間だけ特別とする」の中間にあるものなのだろう


2つはアンビバレンツなんだけど、それをなんとなく同時にやっていく。矛盾しないようにやっていくというのが「愛」の形なのかなぁ、とぼんやり思う



(世間一般で安っぽく言われる「愛だよ愛」「世界は愛で満ちている」という言葉には「差別すること」の痛みと重みが引き受けられてないように思う)







「人類は智慧の実を盗んでしまったがために楽園から追放された」あるいは「人を愛し、智慧を授けようとしたのでアザゼルは追放された」と言われる


Togetter - 「「鋼の錬金術師」と「よんでますよ、アザゼルさん」と白田せんせについてのメモ」
http://togetter.com/li/149140




人が神の愛、汎愛から逸脱し「特定の誰かを差別的に愛する」ことを受け入れたとき、それと同時にして智慧が授けられていった


論理であり合理というのはその辺りなのかな。智慧の実ということ



「差別的な愛」と「智慧」の2つの関係が因果なのかどうかは分からないけれど、少なくとも同時のことだったような





三位一体というのはあるいはその辺りの矛盾を解消するための方便だったのかな、とも少し思う




夜を愛し、余すところなく死んで、三位を統べる: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200174686.html


本覚ドライブ  通過儀礼としての「翁」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/202908554.html




祈りのように稽古を積むことによって、それらの矛盾を自分の中で昇華するような 聲 が、いつか聞こえるのかなぁ、と







稽古\(^o^)/オワタ 今日は自由演舞みたいな感じで主に踏み込み意識して。たぶんきちんと馬歩できるようになったので満足行ける踏み込み+足にダメージなしっぽい


虎拳はモーションでかいから不用かと思ってたんだけど稽古にはいいなぁ( ^ω^)・・・槍の力感出せるような気がする



槍術用の槍。小さいほうで7000円(2m)ぐらい。大きいほうで2万(3.4m、4kgぐらい) 重量だけで言えば4kgアレイでいいかぁ。。(もしくはリストバンド / みんなの鉄山靠  [090] 大杆子@:ご購入の前に http://htn.to/AK5Sv7



稽古 \(^o^)/オワタ 踏み込みのときの基底部位を再確認しつつ八極。準備運動的にバランス各種と四股。あと、各部位を確かめるように舞って、足首と外側からの踏み込みとか再認識。最後にふつーに「立つ」を一本歯下駄でしばらくやる





最近はこんな感じ


基底部位の確認と染みこませ。連動的なの


自分の中で「基本となる身体運用」をきちんと理解してから応用に移りたい



そうはいいつつもやはり「型」を通じて割れていくというところもあるのだろうから「型」もできるだけきちんと抑えつつ


また、


型に準ずるような門派の独特の鍛錬法も踏襲したほうが良いのだろう。昔の人のほうがその辺の合理性はあったりするし。





「槍が欲しい」もそのひとつ




でも、その前に木刀が安かったので買ったけど
http://movapic.com/morutan/pic/3720517



使ってるとたしかにふつーの筋トレよりも良い手応えを感じる



失われていた半身が再生していく感じ(ぢっと手を見る
http://morutan.tumblr.com/post/6531264789/billyjane-profile-and-hands-1932-by-man-ray

hand.jpg







八極という馬を駆り、自分の中の他者を何処かへ導かん
http://morutan.tumblr.com/post/6529980340/blua-unknown



horse.jpg





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グスコーブドリのように: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/163308380.html


ナウシカ解読と正義の審級   ユートピアとベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/164690250.html


サヤカノキモチ  「善意」の内政不干渉について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/192656763.html


幸村誠、2011、「ヴィンランド・サガ」10: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199172708.html
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