2011年09月11日

モード・アングレ(長弓戦術)としての「女子力」の運用、その出自と変遷   〜安野モヨコ上級士官の場合

komokoさんが女子力関連でなんかかいてはるなぁ、とか


No Border : これから求められるのはこんな女子!
http://blog.livedoor.jp/noborder12/archives/5808218.html

第6回お題:「女子力」
http://blog.livedoor.jp/noborder12/archives/cat_189357.html


うぅぅんのひとがついったでなんかゆってたなぁ、ということで




「女子力」とはなにか?(仮(雑) - Togetter
http://togetter.com/li/186665





上記でも雑駁にまとめたとおり、「女子力」という言葉は安野モヨコの「美人画報」初出らしい



美人画報 (講談社文庫)
安野 モヨコ
講談社
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女子力とは - はてなキーワード
http://t.co/ueoc2Cx


概要が意外だった


女性の、メイク、ファッション、センスに対するモチベーション、レベルなどを指す言葉。

主にJJ、cancamなどを購読する層がよく使う。【要出典】

2005年-2011年までの雑誌・書籍に於ける「女子力」の掲載状況を独自に調査した結果*1からはJJ、Can-camより購読想定年齢層が上とされるWithやMOREなどに掲載されているように見受けられるが、Scawaii やminaなど、若年層をターゲットとした雑誌や「日経WOMAN」などにも取り上げられるなど、明確な年齢層があるように見えてそうでもないようにも思われる。

amazon.co.jpで検索可能な範囲で調査の結果からはJJ、cancamでは2006-2011年の間「女子力」に関する記事を表紙および書誌データ上で確認する事は出来なかった。

Anecan2011年6月号で「女子力って何だ」という特集が組まれたのみである。




安野モヨコの初出定義から各雑誌に伝播していく流れの中で意味が変化していってると思ってたけど


とりあえず蓋然的な意味としては「女の子が(男に)甘えるために身につけておくべき作法および服装ほかの形式」ということになると思う。もともとの意味としては「女」になることに対するモラトリアム的な感じだったようなのでそこからするとズレがあるか


で、現時点ではcancamやananなんかを購読しているゆるふわ女子が普段にしている外装および行動様式全般まで広い意味では含むものになってるような(あくまでイメージとしては)。そこでは「甘えるため」もしくは「男を釣るため(モテるため)」みたいなのに強調が入ってるように思う


それに対して安野モヨコの最初の「女子力」の使用では既存の型にはまった女性の生き方、セックス、恋愛→結婚→育児まで含めた因習ともいえるステレオタイプに対するオルタナでありモラトリアムというところに強調があったような。。まぁ、美人画報自体は「女子」的服装や化粧への執着を半ば自虐的にパロっていた作品だったように思うので、その部分での自虐が「女」に「子」をつける流れになったのかなぁと思うんだけど。少なくともあの作品の中の「女子」には少し自嘲のようなものがあったように思う。それと同時に「女子」であることの権利のようなものの主張が




安野モヨコと吉澤夏子 - 続・自我闘病日記
http://d.hatena.ne.jp/miyata1/20080822/1221007490

漫画家安野モヨコは「女子力」評論家として名高いらしい。書籍のゴミ箱「ブック・オフ」に積まれていた彼女の『美人画報 ハイパー』(2001年)で知った。ちなみに、安野を一応、復習すると、現在好んで使われる「女子」「男子」は彼女の言語センスより生まれた。(参考資料:『アエラ』02/06/02号)

もとをたどれば、「男子」「女子」は学校でしか使われていなかった言葉。それを校外に持ち出してみたら見事に成功したのが安野である。見た目は男や女であっても、建前上、個人として教育するのが学校であり、その教育方針を示すのが、そして個人として扱われているという(疑心暗鬼でも)気持ちを表現するのが、社会では使われない「男子」「女子」であった。(スポーツ界でも使われているが、使用方法はほぼ同じと私は見る。)

そういう意味があるものだから、社会で使われている「男」「女」、「男性」「女性」というセットが持ち込む、さまざまなニュアンスを回避できる。「女性」と言えば、なにか「女性」を意識しているようで、その意識している「女性」は片意地張っているようなイメージを与えるかも。もしかして、その「男性」を性の対象として意識しているというメッセージが伝わっている可能性も。「女」と言えば、男女平等が達成されてないのにそうであるかのように装っている違和感がせりだすような気も。なにやかやと悩みがつきないところに、ピタッ、とはまる言葉があった、というようなことだと思う。



「女子」を使う理由はそれだけではない。実はもうひとつ「利点」がある。「女子」と呼ばれていた小・中・高校時代は、(建前上)個人として尊重されていたので、洋服も好きなのを比較的自由に着られていた。でも、社会でひらひらフリルは、どちらかと言えば、社会人としての自覚に「欠ける」。ところが、「女子」で個人主義を強調すれば、ひらひらフリルも可能となる。男女という見た目が違うなら見る目も違うし、そうだったら、私は私で好きな洋服を着たい、「女子」のままでいることを認めて、という気持ちがあるのだろう、と私は推測する。



「男子」「女子」という言葉は、多くを語らせるほどの可能性を今のところ保持している。その発信者、安野モヨコ兼「女子力」評論家に戻ると、「女子力」とは、男子にいかに気に入られるか、サポートしてもらえるかを基準として自己演出できる力を意味するそうだ。その「女子力」獲得のためには、外(=見かけ)も内(=心)も「キレイになりたい」と彼女は力説する。さらに続けて「他人のキレイを許せない限りは、ブスのままである」、とまで言っている。スゴイことになっているが、「私は美人になりたい」という個人の意志は当然尊重されるべきもの、という理路ができあがっているのが分かる。そして「美は個人的なもの」を学術にまで押し上げたのが、日本女子大学教員のフェミニスト吉澤夏子(京都大学教員大澤真幸の妻)である。フェミニズムは「個人的なものは政治的である」をモットーにしているが、美は個人的なものとして留めておいた方がよい、と主張し、就職まで得た女である。ついでに言っておけば、この主張のためだけにある(と私は思っている)『フェミニズムの困難』(1993年)は、おおいに「オヤジ」ウケし、フェミニズム本を取り上げるのにいささか乗り気でない新聞からも好意的に迎えられた。私の周りの女性研究者たちは、おおいに憤慨していた。




いわば既存の価値の型にとらわれないためのネタであり半ば洒落として「女子」という言葉を使い始めたはずなのに、それが一部でベタになり「女子がうつくしくあるためにはサポートしてくれて当然」のところが前景化してしまったので、それに対して「女子力って( ^ω^)・・・」とか「30歳(40歳)女子って( ^ω^)・・・」ってアレゲ感がでてるのかなぁ、と


そこでは「女子のファッションは男の気を引くためのものではなく、ファッションそれ自体を楽しむことを自己目的化すること」を防御柵として展開しつつ、不用意に突っ込んできた騎馬(男)のハートを柵の内側や丘の上から長弓で狙い撃ちする。その部分の二枚舌ぶりがともすれば「ズルイ」印象を与えるのだろう。イングランドのモードアングレ(長弓戦術)に対して猪突猛進するフランス軍の謂のようだが


佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html






そういった「女子力」だが、本来は既存の型からの自由(オルタナ)を目指した防御柵や回避行動であったはずなのに、いつの間にか「モテ」や「恋愛しなきゃいけない。。」「きれいにならなければいけない。。」という攻撃のための型に注目があつまり「女子力」という言葉自体がともすれば不自由を強制する枷となって舞い戻ってきている(バックラッシュ)、ということ



それはこちらでも少し触れたわけだけど


最近読んだマンガから  現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212974583.html




「きれいじゃなければきれいなセックスはできないんだ」「かわいくなきゃ人前でわらっちゃいけないんだ」的な圧迫


健全な性欲 - 雨宮まみの「弟よ!」
http://d.hatena.ne.jp/mamiamamiya/20110907



安野モヨコの師匠ともいえる岡崎京子の作品の主人公たちは、それを相対化するように、性のにおいのしない無臭の身体を身につけ、ときに自らに刻印された女性性を嘔吐していった


自らの肉体を悪魔に捧げることで頂点まで登り詰め、登り切った階段を滑り落ちていくこと、それさえ絵になるキュートでポップな女の子たち





「Helter Skelter」(対訳)
http://beatlesbeatles.blog39.fc2.com/blog-entry-152.html



そういった「女の子」たちが半ば自覚的に「にく」の臭いを排除し、お人形さんのような無機質さをまとっていったのに対して、安野モヨコの描く女性像はズルさとえぐさをともなった性の臭いのするものだった。若い女性特有の傲慢なエゴと自信、愚かさも伴った歪な身体





そして、歪な身体もまとえなかった「女子」は周囲の「女子力」の圧力に対するコンプレックスから潰れて行きそうになっていた




最終的にはそのコンプレックス(脂肪)そのものを「ワタシ」として立ち上がっていき



働きマン(1) (モーニングKC (999))
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「仕事」を通じてエゴを陶冶することで人として成長していった




そして、自分たちの足りないものを埋め合うように結婚に至った


「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html





一連の流れを振り返れば、すくなくとも一部で思われてるような甘えを含んだ「女子」の概念に依存し、あるいは振り回されてしまうところから対極に安野モヨコはいるように思う



なので「女子力」って言葉に振り回されるよりは安野モヨコの生き方を見たほうがいいと思うけど、「産み落とした『女子力』の面倒は最後まで見ろ」って窯爺的なこというならそれもアリかも( ^ω^)






--
「女性は結婚し育児に務めるべきだ」というところから女性の生き方の自由、実存を縛るような考えと、少女漫画におけるその表れ、そこからの逃走としての「女の子」をめぐる表現の展開、「腐女子的なものへの着地」、「こんどは腐女子的な形式そのものが不自由な型になっていってる傾向がある」というような話はこちらに載っていておもしろいんだけど

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり
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今回は割愛



タグ:女性
posted by m_um_u at 20:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年09月10日

「テレビがバカなのか、大衆がバカなのか」 〜「インターネッツ時代になっても本質的な所が変わらなければ歴史は繰り返す」、みたいな話


昨今のテレビ、というかテレビの芸能をめぐる事柄で、ちょっと気になってぶくましてたことで共通するキーワードはやはり「バカ」なのかなぁ




なぜいまどきの大学生はバカなのか - bluelines
http://d.hatena.ne.jp/gorotaku/20110906/1315295815



これ自体はタイトルが釣りで、内容としては「いや、自分はそうは思ってないんだけどね ^ ^」から展開する「バカっていうやつがバカ」「んじゃ、その『バカ』の認識地図はどうやってつくられていったか?」 → 「テレビの影響かなー」って程度のなんとなくの印象な話


もともとブログだし、日記ってことで「ちょっと思った」程度の雑記だと思うんだけど、どっかで釣られた人たちの動線に火をつけたようで、「( ^ω^)・・・(いや、そういう態度とりつつもあなたの内心に学生を馬鹿にする気持ちが見え隠れするんですよ)」的な攻防がコメント欄で繰り広げられてた。これ自体はまぁ難癖程度だからどうでもいいんだけど(叩かれたのも「釣り」の結果だから自業自得だし


「学生たちが元気がない」「小さくまとまってるのはテレビの影響かもねー」ってのはちょっとあるかもなーと思ったので


「学生」とか「小さくまとまってる」に限定されずに一部のテレビ番組の影響で「常識」的なものが狭められて小さくまとまっていってるようなことが一部の視聴者層であるようなぼーっとした印象



そういった流れがあるとすればそれはテレビ側からだけのoutputの結果というよりも、視聴者層がもっている世間的認識を受け取って、そういうひとたちがみてくれるように増幅させて還流させたものだと思うんだけど。




「フジテレビ文化」の「終焉」? - Living, Loving, Thinking
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110906/1315336631


「純粋テレビ的にマッチポンプしてきたテレビ的面白さと幻想が薄れてきているのでは?」というような話


純粋テレビについては以前に少し記した


終わる(?)日本の占いズム: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/80796779.html



日本のテレビの芸能の内容が、なにか芸を持ったものではなく、テレビであること自体をおもしろがるようになっていく現象の総体


「ため」のテレビだし自己言及的ということ


具体的にいえば「元気が出るテレビ」なんかで出演者がテレビをみて笑ってること自体をコンテンツにしていたような。そこで映されていた内容はしろうとドッキリ的なものだった



そうやってテレビの「お笑い」や芸能はある時点からマッチポンプ的に幻想をつくってきた


それはサイマル放送としてのテレビの本質である広告の原理が「ユーザーの欲望は創りだすものだ。『必要だから買う』のではなくわれわれが欲望を創りだすのだ」というところに由来するか。欲望のシミュラークル


ただ昨今、「そうやって作られた80年代的な消費幻想に生活者は飽きてきたのではないか?不景気ということもあるけど、ピクニックなどのアウトドアを楽しみ車を買わない層、モノに魅力をみいださない層が増えてきているのはそういう認識の変化の表れではないか?」、ということも言われる



「おもしろくなければテレビじゃない」を標榜し、ジャーナリズム的な公共性を後景としたフジテレビなんかはそういった幻想の中心だったのだろうけど



上記エントリに従えばネット的な勢いを持ったフジテレビデモはそのメルクマールであったかも、といえる



ただ、「株式比率をきちんと調べてない」「銀行も介した株の持ち合いの現状についても理解していない」「集中排除原則もおそらく理解してない」「突っ込んだ取材をしていない」という内容の素朴さはテレビの幼稚な転写にも思えるが







「純粋テレビ」や<テレビ番組の影響で常識的なものが狭められていった>ということに効果論的に名前をつけるのであれば培養効果説と議題設定効果説辺りの中間だろうか


意思決定における「Yes / No」の最後の選択部分については各人の裁量に任せられるので当人たちは自分の思考は自由だと思いがちだけれど、それ以前に「Yes / No」の命題を選択してしまっていること自体が影響を受けているということ、というような


具体的に言えば「韓流うんぬん」の是非は置いておいて、その話題にとらわれている事自体がすでに影響を受けているということ


認識のマトリックスが小さなマトリックスの中に狭められていってるような感じ



就職試験との絡みでいえば「まなざし / まなざされるものとして他者や自分も含めて当然とする」というような



「森と芸術」展から  『コレクション』 〜 モノとまなざしと光の記憶: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/207856393.html




そこではよくわからない人事や自称「事情通」たちの就職ノウハウネットワークの中で再帰し増幅された幻想が「当然」のものとなっていく。本来、雇用・評価は職能制であって然るべきなのに、それがメンバーシップ制になってることから生じる曖昧さが歪みとなっているのだろう。そこに曖昧な就職ノウハウ的幻想がつけ入る



濱口桂一郎、2009、「新しい労働社会」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html




そういう形でなんとなくの小さな枠組みに実存や「自分で考えること」が回収されていってしまっている





島田紳助が作り出していた世界もそういった印象だった



「ヘキサゴン」や「行列のできる法律相談所」などに代表される彼を首領とした小さな世界での常識、それを元にして「バカをバカにする」という構図。彼が時代を代表するテレビ人であったというのであれば、彼が展開していたエンターテインメントはテレビ的芸能の背景としてある価値観を縮図としたものだったとも言える。基本的にあそこで問われている内容など瑣末なことで、ちょっとしたクイズ的知識→お座敷芸的な余興程度の有効性しかもたないものだったのだが








「テレビはバカと貧乏人のもの」「バカに見つかる」と誰かが言った。あるいは「テレビ番組はもっともバカな視聴者層を想定し、そういった人達にも分かるように構成する」というような話



もともとは映画や寄席などといった既存エンタメのオルタナティブとして、原理的にはそれらをなんでも詰め込める魔法の箱として「テレビ」は誕生した。しかし、初期はまだ新興メディアとしてわいざつな「おポンチ絵」としてバカにされていた。「映画に比べたらあんなものは遊びだ」というように。それで五社協定なんかも組まれて、結果的にこれは映画業界に不利に働いたわけだけど(アメリカのフィンシンルールの経緯と違って


少なくとも初期にはまだそういったほかの演芸から芸をもった人たちが自分の芸をきちんと表現するような場であった。テレビ人自身も生放送という緊張感の中でテレビ独特の芸を磨いていったり(cf.永六輔、黒柳徹子



そういったテレビの中にあったはずの芸や芸人はどこにいってしまったのか?なぜ失われたのか?




上岡龍太郎 第5回 芸人論 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=xJx5tnRgXBo&playnext=1&list=PL75C35CE8EAD45240







1960(上岡龍太郎デビューの頃)。寄席(劇場)だけでは食べられないのがふつーの時代、寄席の楽屋でじっとしてる(寄席だけで食える)大師匠は権威があった。それがテレビの出現によって変わった。


テレビ局からテレビ局に移動する芸人のほうが人気や稼ぎも上になっていった


そしてテレビ番組の内容も変わっていった


寄席のコピーであったテレビから独自の「芸」が生まれていく


寄席の空気、空気の一体感を動かす芸よりもしろーと芸のほうがおもしろいことを世間も芸人も気づいてしまった。



寄席の話術がテレビの前では無力である、ということ



「しろーとのほうがおもしろいならしろーと芸をやろう」


しろーと芸の代表:明石家さんま、鶴瓶

しろーと芸を逆手にとったのが:萩本欽一、タモリ




「話術で簡潔に流れるように話すとテレビ的リアリティがない」


しかし


「鶴瓶がしゃべるとたどたどしいがリアルでインパクトがある」



持続力のある芸よりも、下品だけどインパクトがあるものが残っていく


懇切丁寧な説明ではなく、話術的には拙くてもインパクトで伝わる



「テレビの芸はつくりものではなくドキュメントが一番面白い」







パペポTVでの鶴瓶との絡みを懐かしく思い出しつつ、ところどころで漫才ブーム以降の一発ギャグなどの隆盛と泡のような忘却を思う(cf.エンタの神様)


「テレビ独自の芸」として「テレビの前でしろーとなところを見せる」という話から「ひな壇芸人」みたいな話を思った。あるいは「すべらない話」のような元来は居酒屋話のようなものの公開、ダウンタウンが出てきた初期には「おまえらのは漫才やない。チンピラのダベリじゃ」といわれたことなど


「ひな壇芸人」「リアクション芸人」などというのはコンパにおける役割分担なんかに相当するように思う。コンパというのはああいったテレビ的笑い(バラエティ番組)の空間を自然とコピーしたものなのだろう。逆にいえば、現在の「お笑い」番組の内容というのは酒の席でのダベリや一発芸のようなもので古い時代の「芸」ではないのだな。あるいは教室における「キャラ」属性の悪しき展開としてのいじめの問題なんかも




「テレビはしろーとを要請する」という背景はテレビの情報量が詳しい説明をショートカットできるからといえるか。マクルーハンいうところの「クールメディアとしてのテレビ」というやつ。もうひとつはテレビというメディアがその特性としてかどうかはよくわからないが親近性(インティマシー)を要求する、ということ。「有名性の文化装置」(未読)という言葉で表されたりもしたけれど、有名性はマッチポンプ的に作られ、なぜか「視聴者にとなりのおにーちゃん/おねーちゃん」的な親近感を与える。あるいは親近感をあたえるために芸を捨て、番組内で子供のような馴れ合いやいじめの一歩手前?とも見えるような悪乗りを見せる。それは物理的にハードとしてのテレビがある程度のリアリティを体現しつつユーザーとの距離が近いということを日常とすることから生じる錯覚のようなものか。都市に住む近代人は、ともすれば物理的距離が近い隣人よりもテレビの中の人に親近感を抱く。そして、場合によってはそれぞれのアイデンティティ形成のための幻想の材料としていく







ただ、こういった属性は「ハードや流通システムとしてのテレビの基底的なものであり宿痾である」というよりは「大衆的なもの」といったほうが近いだろう


その証拠にインターネットを介したデモ、それ以前のブログの内容や新規ネットコンテンツの方向性にも「テレビ的なもの」の影は見え隠れする



そこで問題になってるのは「テレビ」というよりも「一部の番組に代表される大衆的なもの」といったほうがいいかもしれない


そして、テレビ局はそういったものに応えているだけ (悪乗りもあるだろうけど)。島田紳助もそういった権力に要請されたハブのひとつに過ぎなかった。




その構図は太平洋戦争における民意と新聞、軍部との関係とそんなに変わらない





ただ、「大衆的なもの」を蔑視する視点というのはアドルノ・ベンヤミンなんかに代表される批判理論1stの解釈、あるいは一億総白痴論的なものからの伝統的なものと言えてびみょーなところがあるように思うけど(鶴見俊輔なんかにみられる「大衆的なものの別の側面の可能性」などを想起)





そのあたりの評価基準も結局はきっちりとした経験主義、芸や根拠ということになるかなとなんとなく思う


あるいは「情緒に訴えかける瞬間的なもの」が映像や音の特性であるとする時、それは非文字文化的なメディア特性ともいえるかもしれない。その意味では「文字の文化と声の文化」と漠然と言われていたものの表れでもあるのだろう。

「文字か非文字か」というところが問題ではなく、「分析(モジュール)し反省し再構成するためのツールが用意されているか?」「それを使いこなす知の技法(リテラシー)が編まれているか?」ということ



そういう文脈で言えば、大衆を中心としたテレビにおいて何回も同じ主題が繰り返されるのは口承文化圏において同じ物語(サーガ)が繰り返し語られる様を思わせる。そこでは、時間は無反省に過ぎ去り、またくり返して円環的に循環していく。




上岡龍太郎 第6回 忠臣蔵 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=PjsNiMbhYbg





「忠臣蔵の魅力は見るものに分かりやすく登場人物の行動選択を考える回路を用意していること」


「テレビは視聴者(しろーと)参加を要請する」


自分達であーだこーだ言える回路がある  → しろーと評論家の出番




そういえば「忠臣蔵」の話なんかもきちんとたどれば単に逆恨みの集団テロみたいなことなんだけど、今回のインターネッツ時代のデモもフジテレビというお年寄りを悪者に仕立て上げようとして失敗した所があるか。


上岡龍太郎の話に乗れば「もうちょっと討ち入りまでに時間かければよかったんですよ」ということなのかもだが、「インターネッツ時代になっても本質的な所が変わらなければ歴史は繰り返す」ということなのかなあ、とぼんやりと思う






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フジテレビデモ・島田紳助氏の黒い噂に関して 〜 二十年近く前に上岡龍太郎氏が言っていたことが面白い - じゃがめブログ
http://d.hatena.ne.jp/Asmodeus-DB/20110903/p1





PAPEPO 1995-01-27 阪神・淡路大震災
http://video.google.com/videoplay?docid=-1485836654772041014



posted by m_um_u at 18:30 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年09月05日

「男ってなんで浮気するんでしょうね?」というところから、一緒にやっていく際の根拠のような話


最近、姉が浮気されて離婚するとかいうのでぼんやりと「結婚とかパートナーシップにおける根拠」のようなものについて考えてる




「男はけっきょく『飲む、打つ、買う』っていうでしょ?あそこから抜けられないのよ」と母は言って、自分としてはそういうのとも違う人も知っているので「そうでもないよ」って答えた



「大部分の男はそういうところはあるかもだけどそれは子どもっぽいからで、そういうものよりもなにか大きな、単純な目標持ってる人というのはそんなところでは躓かないよ」と言いつつ



それは自分が尊敬してる人たちに重ねた「こうありたい」という姿なのだろうけど




そういうのは理性的規範といえる









「キスとか体に触るのはいいけど挿れるのはダメなの。おくさんに悪いから」というのは西荻夫婦だったか








このマンガだけでもなくちょこちょこ聞くような話だけど




実際にそういった状況になったときそこで引き返せるのは至難の業で。それができるのは「これはダメ」って倫理的なものではなく、なんとなくチラッとパートナーの姿が思い浮かぶからか



「据え膳食わぬは男の恥」ってことでもないけど、目の前に肉の欲求が触ってきていて、「そのままなし崩し的に」というところで留まれるのは意志の力や理性的なそれではないのではなのだろうか、とふと思う



実際に自分がそういう状況で断れるかどうか自信はないし、そういう勢いとか欲求の志向というのは酒の酔いのようなものとも似てるのだろう






「パートナーの姿が浮かんでくるから」ということで断れるのは倫理以前に萎えるからではないだろうか



体のほうは反応してるかもしれないけどそれをやっても虚しいなぁ、って感じになるというか



自慰から遠のくときの感覚に似てるか






自慰行為というのは性欲と結び付けられて納得されるけどけっこうな場面で「さびしさ」というか「手持ち無沙汰」的空虚のようなところから来る志向のように思う



しばらく人との談笑から遠のいていたり、たのしいことから遠のいているときのちょっとした埋め合わせのような





翻って、セックスに至る理由というのもしばしばそういうものだったり(特に女の子の場合)





別にセックスしたいというわけではなくて「やさしくしてもらい」たかったり、なんとなく心が通じる相手が欲しいだけで、その結果としてセックスがあるだけ、みたいなの

だから女の子のほうのセックスの理由は男の子のほうのやさしさへの報酬みたいな所があったり(話とかにつき合ってくれてありがとう的な




以前に誰かが「わたしはヤレそうな女の子わかるよ」と言っていたのもそういうことなのかなぁ。「自分と同じようなさびしそうな顔の子を探せばいい」、ということだったのだろう








そういうとき「セックス」というのは結果的なものであり、目的ということではないのだろうけどそこでしばしば非対称が起きる


男のほうがどうしてもセックスの刺激の肉体的快感のほうを目的にしてしまう、ということ


あるいは、それ以前になんかざわざわする流れみたいなのの埋め合わせとしてそれを目的とする




それはまぁ「性」という本能的なものにプログラミングされたものだから仕方ないのかなぁとは思うけど、女からするとしばしば「シンジラレナイ」ってなるのはこの辺なのかなぁ




「シンジラレナイ」理由は目の前の自分ではなく欲求がメインであって、相手は自分じゃなくてもいいのではないか?と思ってしまうから。自分とのセックスもそういうものだったのかなぁ、って




でも、それだったら女が「寂しい」って理由で「誰か」を求めるとき、それは目の前の人でなくてもいいかもとも言えるわけだからお互い様とも言えるだろうけど





まぁ一概に「女はセックスに対して非消極的で男は積極的(「やれればいい」的になにも考えず猪突猛進)」とも言えないか


そういった欲求のはけ口的な代償行為的理由とは別に、排卵前後なんかは女のほうで性欲がもたげてたりするし、冒頭で示したように男のほうが「なんか悪い…」って据え膳くわないこともあるだろうから





ナンパ師とか毒婦みたいなのはその辺の「一概に言えない」びみょーなところのロジカルエラーみたいなのにつけ込むのだろう


言葉で「しない理由」を少しずつ壊していきつつ、肉体的には接触の度合いを少しずつ高めつつ


正面から否定せずに、相手の信じるものを述べさせそれに対していくつか例外を出して談笑のうちに相手自身に信じるものを懐疑させる。ソクラテスのエレンコス的なやり方

http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218962376.html



そうやって「なんかよくわかんない」ってぼけーっとなったところで目の前に体の温度があるわけだからそちらに「もうちょっと」「ここまで来たら同じ」って誘導していく





言葉とか理性というのはそれだけに依存していたらそういう形で揺るがされる






逆に、「結婚」とか「恋人関係」みたいなのを形式化して契約-当然の拠り所にしていても、実際が伴わなければそれに裏切られてしまうのだろう








姉は「あなたのため」とか「誰かのため」とかいいつつ「自分のため」を隠すような人で、ともすればそれが却って相手のプレッシャーになる所があったのかなぁと少し思う。

もちろん相手の浮気性的なところや、そういった人格ができる背景のようなものがあるだろうけど。男の場合そういうのはだいたいにおいて慢心とか驕りのようなものか



そういうのとは別に姉の都合の良い「( ノ゚Д゚)<女性だからといって差別するな!」「( ノ゚Д゚)<か弱い女のわたしには手を上げれまい」「( ノ゚Д゚)<わたしは女だから守れ!」「( ノ゚Д゚)<わたしは女性ですから!(そのゴキブリとって)」「( ノ゚Д゚)<わたしは女だから修羅場はごめん」みたいな使い分けは辟易だった




姉の場合、そういった頭ごなしの固定的な考えというのは母の転写のようなものがあったかなぁと少し思う



ギャンブル好きの父がどうしようもない人だったので居を分かつまで、姉なんかも矢面だったのだろうし


母の呪いともいうような父へのネガティブイメージが根付いたのかなぁ




「ふつう」の「仲のよい」家庭だと女の子にとって「父」は理想の男像となって、そこから相手を吟味できる基準となるのかもだけど


そういう「基準としての男」の像のようなものがなかったのかなぁ、と







恋愛とか異性間のパートナーシップにおいて無意識的に相手に喪われた父性の代替を頼む所があるのではないか?





だから「自分を守らなければならない」や「結婚したのだから○○であらなければならない」といった規範が先に来て相手のことは見ない面があるのかなぁ、とか





彼女は過去、「つまらない女だな」といって別れられたことがあるといっていたようだけど、それもなんとなく分かる気がする







翻って自分も喪われた父性がなんらかの形で考え方や行動選択に影響しているところがあるのだろうけど









そういった事情もあってか、あるいはそれ以前の母への家庭環境の影響からか


うちの家はけっこう性的情報に対する禁忌があるほうだった




テレビ見ているときに性的なシーンになるとびみょーな空気が流れたり、ふだんからオレに対して「○○はこんなのに興味ないよね?」と念を押すような


タマラ・ド・レンピッカが娘キゼットの無垢に救いを求めた心情と似ていたのかもしれない






吉本隆明的にいえばそういった家庭内の性的話題の禁忌は「社会へと性の関心を向けて行かないということで不健全。近親相姦を内在する」ということになるのだろう
http://morutan.tumblr.com/post/7661771880


吉本隆明、性を語る。 −コイトゥス再考−
http://vobo.jp/takaaki_yoshimoto.html



話を社会全体に広げれば、「そういった形で性の問題を相対化できてないことが社会全体の内向き性(近親相姦のような既得権益への内向性)につながっているのではないか?」ということになるか


「性的禁忌」「家族」「国家」「文明」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/215314247.html




それもまぁものぐさ精神分析的な話としておもしろいけど、ここでは少し置いておくとして






遺伝子的には「異なったもの」「異なっていつつも、生き残っていくのにより適したものを選んでいくのが合理的」ということだと、父親的なものとは違うもの(それに「勝てる」もの)を選んでいくのが合理的ということになるか



そういった「本能」における優秀さの選考は「におい」のようななんとなくの生理的な合う合わないで決められていくのかもしれない




それに対してだいたいのひとがパートナーを選ぶときには「価値観が合う」「趣味や嗜好が合う」「経済観念が似ている」などといったところを基本とする


それは本能的選考に対して文化的選考といえるだろうけど、それも選ぶ際のきっかけのようなもので、最終的には「なんか落ち着く」というところや「この先に一緒にいてどのような未来が描けるのか」というところから相手を決めていくのだろう



後者は対話的理性の結果であり、それを遵守していくのは意志だろう



「恋」とか「恋愛」というのが「価値が合う」「趣味が合う」「なんかいい感じ」「キラキラした幻想(かっこいい・かわいい・きれい)」的なもの、好み的なワクワク感の最初の段階を資源にするのに対して、後者は持続的なパートナーシップとしての契約であり意志なのかなぁ、と




ではそういった契約関係が「(恋ではなく)愛」なのだろうか?





「愛する」ということ  「汎愛」/「他者」/「差別」/ 「聲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/210130222.html




「愛とは見返りを求めない献身である」とするとき、「愛」と名付けられるような関係性の中で排他的に相手を独占するというのはどういうことだろうか



「結婚やそれに準ずるパートナーシップは恋愛関係に比べてより高次の愛の関係なのだよ」といいつつも排他的独占をしているとき、愛というものが自分を捨てて相手を思いやることであればそれは本当に相手のことを思っていると言えるのだろうか?




あるいは「相手にはそれを求めている」ということか?(「自分が差し出すもの」ではなく)




「双方が双方を思いやる」という関係が本当に質量共に同等に返されるのならば、愛情の等価交換は成立するだろうけど



それがしばしば成立しないのは「相手に期待している愛情の質や量」と「自分がしていると思っている愛情の質や量」の間に認識のズレがあるからだろう




紛争が生じるのは「自分のほうが多く出してるのに」というときだろうけど






そういった条件付きの愛情交換に対して、父性や母性といったものは「無尽蔵に相手のことを思いやるもの」ということが期待される



佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html



聖人が神の奴隷となるように、親は子の愛情の奴隷となる




そういったことを思えば父性や母性というのは一概に称揚されるべくものでもないのだろう









では父性や母性は利用されるだけのものなのか?




「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html





産む性としての母性はそれを是しとする、かもしれない



そして、それを是とするのは端的には遺伝子のプログラムなのだろう


赤ん坊の笑顔には逆らえないし、「育てる」ということにおいて母性の満足があるように心理的誘導があるか




父性の場合はそういったものから距離をおいてきた



「妊娠」→「出産」という身体的な経験と実感というところからもそうだし


社会的に「労働」と「家庭」を分離させてきたので、「育児」というところから遠ざかっていた



なによりも働き盛りの男というのは「ふつー」子供との接触時間が少ないものだし



「一緒に過ごす時間」の関係で子供への思い入れも違ってくるのだろう




父親が父親として家庭の中で存在感を発揮してくるのは子供が社会のことを考えだした頃だろうし









性をめぐる感覚にも似たような非対称、ズレのようなものがあるように思う






一般的に、「女性は性に対して男性に比べて消極的なのに対して、男性は性に対して積極的」とされる



それは女性が受ける性であるのに対して男性が発する性だからかなぁ




理性的に考えれば、避妊のリスクさえしっかりとセーブできれば女性も性に対して積極的であってもいいはずなのにそれを許さないのはそれまでに構築されてきた社会規範的なことがあるか




ただ、そういった世間体や世間的規範のようなものを相対化してなお、女性のほうが男性に対して性についてなんらかの規範をもっているということがあるように思う




その理由は性的場面において女性が受ける性であるから、リスク的なものがあって心理的に消極的になるかなぁ、と



それはオツムで考えた場合だけど、


パートナーがほかの異性と性的関係を持つことに対して、なんだかわからないけどどうしてもイライラしてしまうから、というのが本当のところか





そういった感情は男性のほうにもあるもので、ではなぜ一般的に男性のほうが浮気なんかに走りやすいかというと性的機会へのアクセス率が女性よりも高いからか(専業主婦モデルで考えた場合)





では、互いに同じように外で働いていて、異性と接する機会や条件が同じであったとき、男性は女性よりも積極的、女性は男性よりも消極的であるといえるだろうか? あるいは排他的独占な感情の表れ方は同じだろうか?





一般論ですべて語れることでもなく「生育環境から育まれた価値観に依る」という条件の違いはありつつも、相手のほうをけまらしく思わない限り、相手が不特定多数と付き合うのは認められて然るべき、というのが理性的なあり方ではないかと思う




理性だけで考えれば






ただ、だいたいにおいて相手との長い付き合いの中で「情け」のような感情的な経路依存が発生していて



それが「愛」-「情」という独占的感情の理由となるのだろう




友-情なんかと同じくそれは無前提の契約のようなもので、言外の信頼というところにつながる





そういった「愛」「情」の色や質感のようなものを思い出したとき、浮気的場面で萎えるのかもしれない







<「性」と「生殖」は本来は異なるもの>だという





「性 は個体が生き残るためのシステム」なので生殖とは違う(分けて考えられる)、が多細胞生物や人では性と生殖がセットに成ってしまっている
http://morutan.tumblr.com/post/9399799213


真木悠介とドゥルーズ、性と生殖の差異|Philosophy Sells...But Who's Buying?
http://ameblo.jp/philosophysells/entry-10622671281.html





人になぞらえれば、「性」は「生殖」(妊娠-出産)とセットになってしまっている



そしてその先には「結婚」「家庭」がある






しかし「生殖」(妊娠)以外のところでも、「性」が「愛」や「情」とセットになっていることが多々ある。


「恋」と「愛」が違うように、「情」も「性」も違うものなのに。一方にとってはバンドリングされてるという認識のものが一方にとってはモジュールとして分岐したものと認識されているので齟齬が起きる





そして相手にハマっ(惚れ)てしまったほうからするとそれはしばしば当然のセットだと思われるのだけれど、一方がその部分で相手よりも「情け」のコミットが少ない時、性を中心にした無前提の暗黙が覆されてしまう







木尾士目の「五年生」の場面を思い出す









*うわのそらブログ* 陽炎日記、四年生、五年生(木尾士目)…読んだ-_-川
http://chibilog.blog16.fc2.com/blog-entry-109.html



「五年生」を読み解く - 農大現代視覚文化研究会
http://blog.goo.ne.jp/moyasiken/e/5a77697071357f4d28fdb0b5e9ccb62e





佳乃が先に心を揺るがせてしまって、そこに距離や生活環境の違いといったものが重なってだんだんとすれ違っていくわけだけど


そういった直接的な場面以前にぢみーなズレのようなものがあって、そこが佳乃の心の揺れとなって表れたのだろうか



主導権的には佳乃のほうが握ってたわけだし



それでアキオは一度別れたあとに吉村さんと関係をもつわけだけど、吉村さんは好意からその関係をもったのではなく単純に鞘当て的にセックスを利用した、というだけだった



で、なんとなく「お互い様」になったところで振り出しに戻ったわけだけど



吉村さんが発していたエレンコス的な問いかけ



「島くんはなに信じてる?  言葉?  体?  ドラマ?」


というのは「理性」「本能」「感情(に通じるような運命的出会いや場面の思い出)」ということに言い換えられると思う



けっきょくこの場面ではアキオはその全てに不十分で「わからない(特別コミットするものがない)」ということを納得させられた上でじりじりと身体的距離を詰められていったわけだけど





そういった問いに対して、佳乃が別の場面で発した言葉がこの作品の暫定的答えとなっていく







「本能に委ねるのも理性に頼るのも違うんじゃないのかなあ   


 わたしたちはそれを両方やんなきゃいけないんだよ

 


 運命の出会いなんてものはなくいつの間にか知りあって何気なくつき合ってて あっけなく別れたりする



 だから自分達をよく見て 周りをよく見て  じっくり考えたり直感で感じたりしてさ


 少しずつやってかないと


 私たちはダメなんじゃないかなあ」








その際「この先ずっと一緒にやっていける」指標のようなものとはなにか?




なんとなくだけど「同じような器で」「いたら落ち着く」というところに戻るか





同じぐらいの器同士で



目指すものが一緒の共同戦線で




どちらかが過剰にハンドリングして主導権を取り過ぎずに 


理性や知性に偏らずに

かといって本能や感情的なものに依存して居つかずに


それらのバランスを保ちつつ自分達の「自由」を模索する




その場のその場の自由を積み重ねていく中で互いに成長していくように



暗黙の「好意」の「出し過ぎ」が紛争につながらないように



じっくりと相手を思いやる気持ち、「厚意」を相手の喜ぶこととして明示化しお互いの気持ちの痕跡を積み重ねていく


欝の心理療法にしてもそうだけど、人はどんなに理性的にしていてもけっこう単純な刺激や反応でできてる動物なので。好意もただ思ってるだけで暗黙にしておくだけではなく、形にして表して行かないとリズムが上がらないのだろうし、そういった行為の流れそのものが「家族」とか「家庭」という状態なのだろう


社会的に定められた規範、「こうあるべき」静態として定まった形式ではなく、動態の結果としてそれぞれの「家庭」や「家族」の形がある



「一緒にやっていく根拠」なんてものは絶えずおぼろげなものだから、だからこそ一緒に作って行かなきゃいけないものなのだろう




確定的な答えはないけどそういう形で常に「とりあえず」な感じで、「とりあえず」をなんとか重ねて人生をサバイブしていくというつもりならばやっていけるのかも、と一旦思っておく









--
黒田清輝「智・感・情」
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/k_work/oil/oil065.html

http://www.flickr.com/photos/22081105@N03/2827721730/




【ことばをめぐる】(32)智に働けば,夏目漱石,草枕
http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/ktb032.htm


タグ: 恋愛 倫理
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2011年08月30日

「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話


エヴァの「破」をいまごろみて、関連で最近読んだものとかでうにうに言いたくなったので





ハード面の設定なんかはこの辺でだいたい解説されていて


新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧 - Wikipedia
http://tinyurl.com/krlxrm


新劇場版で期待されるのはそこからのトリビアルな違いぐらいなのかなぁと思ったりするんだけど、個人的には直近のエントリもあって男の愛情とか女の愛情みたいなものの行方、それを受けた人間ドラマ→成長をどのように表していっているのかなぁというところをぼんやり想ったりした



それらの原型は「式日」に集約されると思っていて


式日 [DVD]
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エヴァ同様、「式日」も結論が出されていなかった



それは同作品がメンヘラな少女との関係を題材としたものであり、そういったコミュニケーションというのはなにかひとつの正しい答えがあるというものではなく、単に寄り添い、あるいは一緒に破滅の道を歩んでいくのもひとつの答えであることがままあるから

Amazon.co.jp: 式日 [DVD]: 庵野秀明, 岩井俊二, 藤谷文子, 大竹しのぶ, 村上淳, 松尾スズキ, 林原めぐみ, 徳間康快: DVD
「新世紀エヴァンゲリオン」で有名な庵野監督の実写映画です。庵野監督の故郷である山口県宇部市でロケを行っており、「さびれた工業都市」という雰囲気がこの映画のどこか虚無的なところに非常にマッチしています。原作は藤谷文子さんの「逃避夢」という小説ですが、その原作者自らがヒロインの「彼女」役を演じており、また、ヒロインの相手役の映画監督の「カントク」役も実際の映画監督である岩井俊二氏が演じているなど、かなり現実とオーバーラップしたようなキャスティングをしているところも特徴的です。



物語は、一言で言ってしまえば「現実逃避を続ける少女の再生の物語」で、庵野監督が「エヴァ」や「彼氏彼女の事情」などで追求してきたテーマを実写版でよりディープに真正面から捉えた作品といった感じでしょうか。「エヴァ」のような複雑なストーリーも複線もない、わりとシンプルな物語なのですが、そこはさすがに庵野監督ですので、赤を基調としたその幻想的な映像の美しさや、心に響く台詞やシーンの数々、そして「彼女」から伝わってくる心の「痛み」が、この映画を素晴らしい作品へと昇華させています。かなり重い作品ではありますが、最後のシーンの「彼女」の台詞と笑顔、そしてエンディングのCoccoの歌を聴きながら、私は涙があふれるのを止められませんでした。



この映画は、ヒロインの「彼女」と同じように、孤独や心の痛みを抱えた人、人生を「生きづらい」と感じている人、現在を生きることができず過去に縛られている人、家族の愛情を十分受けられなかった人、そういった人たちには非常に「痛い」作品で、同時に、大きな癒しを与えてくれる作品でもあると思います。しかし、そうでない人にはさっぱり意味不明の映画かも知れません(苦笑)。



フィクションではあったけど庵野の心象を表していたように想えた作品



ここで傷ついた少女は「エヴァ」のアスカであったか(紅の色もそれを想起させた)




エヴァのオモテ面、ハードな設定としては「使徒」と呼ばれる人類以前の生命体と人類(リリン)が地球の覇権を掛けて争う物語

同時に、それらの戦いを通じて生じる未知との遭遇的な出会い(インパクト)によって人類が肉体を超えた高位の存在へと昇華するための計画をかけた争い、ということになっている


勢力としては父なる「アダム」と「使徒」、それらに対する「人類」(リリン)とその中枢組織としての秘密結社「ゼーレ」と日本における実行機関としての「ネルフ」


「人類補完計画」は人類を高位の存在に「進化」させるための計画とされる


しかし「ゼーレ」と「ネルフ」とでは思惑が異なり、ゼーレは単に現行の人類をより情報的なものとしての高位の存在に高めようと画策するだけだが、ネルフを指揮する碇ゲンドウと冬月コウゾウは最愛の人、碇ユイの再生を計画の重点とする


そのための計画のすれ違いと確執が最終話近くでの「ゼーレ vs. ネルフ」の形で表れた、という設定



こういった基軸にいくつかの作品へのオマージュが散りばめられる



新世紀エヴァンゲリオン - Wikipedia
監督の庵野は学生時代に『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』のアニメブームを体験している。『宇宙戦艦ヤマト』に関しては庵野作品全般に、オマージュととれるシーンが存在する。『機動戦士ガンダム』に関しては庵野自身『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のメカニックデザインを担当していた。また、『逆襲のシャア』に関してはスタッフにインタビューした同人誌を出版している。1993年放送の『機動戦士Vガンダム』を庵野は高く評価しており、VガンダムのDVDブックレットに、この作品にハマらなかったら僕は「新世紀エヴァンゲリオン」を作る前にアニメを辞めてたかもしれない、あるいは「エヴァ」みたいなものを作る気にはならなかったと思うと語っている。実際にこの2作品の主人公の名前が嘘と真実をもじったウッソとシンジであったり、父との確執や人類を強制睡眠状態にして滅亡させる計画、一部キャラクターデザインや設定の類似など、いくつかの影響もみられる。本作の第1話は『機動戦士ガンダム』の第1話を強く意識しており、庵野はガンダムの1話を全て時系列またはチャートにまとめ、それをホワイトボードに書き出し、「これには敵わない、完璧だ」と発言している。第1話で主人公が巨大ロボットに乗り込むことや、主人公の父が科学者であることなど『マジンガーZ』から続くロボットアニメのお約束も意識している。



庵野は学生時代に設立したダイコンフィルム時代に、自主制作作品の中で『ウルトラマン』を演じたり、愛国戦隊大日本のメカニックデザインを担当するなど、特撮マニアであり、エヴァには特撮作品からの影響もみられる。特に影響が大きいのは『ウルトラマン』からであり、EVAの活動限界設定や身長設定などに影響がみられる。また、EVAのデザインに関しても「ウルトラマンが鎧着たやつ」という発言を企画当初よりしていた。



庵野は一時期同人誌を集めるほどに『美少女戦士セーラームーン』にハマっていた。そのため『美少女戦士セーラームーン』の登場人物・月野うさぎの声優を務めた三石琴乃を葛城ミサトの声優に起用したり、綾波レイの名前が火野レイより採られている。また、緒方恵美が『美少女戦士セーラームーン』の劇場版第1作目に地場衛の少年時代の役で出演しており、その演技を見て、本作の主人公・碇シンジ役に決定したと語っている。その他、プライベートでも親交のある『美少女戦士セーラームーン』の主要スタッフの一人である幾原邦彦を渚カヲルのモデルとしている。



また、庵野は永井豪作品からの影響も認めている[103]。劇場版制作の際に「エヴァのラストはデビルマンになるしかないんです」と発言している。また、EVAの本来の力が拘束具で抑えられているという設定は、『バイオレンスジャック』のスラムキングを意識してのものである[104]。



ネルフとゼーレの設定は『謎の円盤UFO』の地球防衛組織SHADOと宇宙局委員会から来ている[105]。この他にも海外SF作品からTVシリーズ各話のタイトルがとられた。



また、庵野は本作の制作前に村上龍の作品を読んでいたようで、トウジやケンスケの名前は村上龍の小説『愛と幻想のファシズム』の登場人物からとられている。後に庵野はエヴァ後の監督第1作目として、村上龍の小説『ラブ&ポップ』を監督した。



あるいはナウシカの巨神兵とナウシカ全体のテーマなどの影響も



そういった作品なんだけど、個人的にはハード面よりもソフト面が気になっていたし、それがこの作品の主軸だと思っていたので



基本ラインとしてはガンダムを軸にした父子の葛藤で、それはそのまま高度成長期の父親と子供の関係を隠喩しているように思う


あるいは、


「父はいるが母はいない」というのは「母はいるが父はいない」ということの鏡像的な隠喩というか、ロボットアニメの「お約束」を踏襲、いい感じにコラージュしているうちに「結果的に」そうなったということだろう



Togetter - 「家族制度、母親、専業主婦…と、放射線」
http://togetter.com/li/180955



高度成長期の「亭主元気で留守がイイ」は子育てを一身に任された母親たちの自虐ともいうべきコピーで、「24時間戦えますか?」と合わせ鏡だったように思うんだけど


「男は仕事のことだけ思っておけばいい」「女は仕事に口出しするな」という高度成長期の暗黙は戦場の話にも通じていたか




佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html



「オトコタチの華やかで格好いい戦場」


しかし、そういった戦場-オトコタチを支えていったのは家庭であり、生活をもとにした生育環境だったわけで




SF的にはハードSFからソフトSFへの反省みたいな話(外宇宙から内宇宙へ)



「ハードな設定だけではなく人の心理面を見ていくことこそがこれからのSFにとっては豊かになるのではないか?」といわれた70年代の反省




ガンダムにおいてもそういった問題は回収されてなくて、父子の関係(父の実質的不在)に基づいた青年の未成熟(モラトリアム)の問題は日本の子供向けメジャー作品においてずっと回収されていないテーマだった




とりあえず目の前の「敵」を倒せば大団円できるわけだし(敵を倒すための必殺技や兵器を作ればおもちゃも売れる)


そして、そういった隠喩の元となった現実においても男は既存のサラリーマン的レールに則って家庭生活的葛藤は丸投げしておけば「父」という役は演じられる。その辺りの事情を背景とした女子向き作品と男子向き作品の違いはこちらの対談集でも語られていた

(「男は就職して結婚してってところでなにも悩まず一直線でいいけれど、女は就職してから『結婚するかしないか』、『子供を産むか産まないか』、『産んだあと仕事を続けるか否か』、『子育ての際には義母や実家を頼るか』、などいくつも分岐点がある」)


よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり
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そういった背景に基づいた父子の葛藤・対決をはっきりと主要テーマとして前景化した作品が「エヴァンゲリオン」だったといえる



しかし、そのテーマはけっきょく回収されなかったし、今回の新装版においても直接的には回収されないのだろうけど




少年は「父との葛藤」、「母親の不在」というところから生まれた「自信のなさ」-「居場所のなさ」という問題をボーイ・ミーツ・ガールの形式に則って自助努力的に回復していく


同じように「居場所のない」少女との出会いを通じて


あるいは、


エヴァとレイという母親の代替との交流を通じて(その意味で初号機やレイとの交流は近親姦的な意味合いが多少含まれる)




そのままシンジがレイを父親から奪い取る、ということになればエディプス・コンプレックスということになるのだろうけど、シンジはアスカを選んでいく




もしくは、失われた母との関係の代替を通じて成長した青年が、その成長過程を通ることによってはじめて自分と似たような傷を少女の中に発見し、支えられるようなり、互いが互いの「居場所」となっていったか



そういう形で本作は少年少女が手をとりあってエヴァという子宮の隠喩-モラトリアムから旅立っていく話として構成されているわけで、それがそのまま説得力のある形で終着点を迎えられたらハッピーエンドだと言える





それがハード面とソフト面における本作品の筋であるし、少年が青年へと成長していく物語が説得力をもって描けているかどうかが本作の主眼だと思われるわけだけど


それとは別のところで、今回ゲンドウの愛のようなものが気になってる自分を発見した




シンジ―アスカの新世代の子供たちの問題は、あるいは間にレイ-ユイの魂が介在することで超えられていくのだろうけど、そのときゲンドウの愛はどうなるのかなぁ、と




ゲンドウの愛というのは人類の未来や子供を省みない身勝手で、ある意味子どもっぽい「博士の狂気」的なものといえるけれど、そういった「世間の規範は関係なくただこの女のことを一途に愛する」という姿勢というのは愛される側の冥利に尽きるところだろうなぁとも思えて




それでもユイは母性をもって、あるいは我が身を顧みずシンジを後押しするのだろうけど




「彼女(ユイ)の思い出」に一生を捧げたゲンドウの姿や心理、最愛の人の似姿としてのレイとの依存的な日々の色合いは鈍色の味わいを持っていたように思った



エヴァの世界の終わらない夏休みの、夕暮れ時のヒグラシの声のような






「式日」の色合いと空気感にも似て、「父性の問題」「親子の問題」というのは父になりきれなかった男たちに残された「終わらない宿題」のようなものなのかもしれない










最後に「エヴァンゲリオン」にも通じると思われる夫婦マンガあとがきから引用してこのエントリを閉めることにしよう


監督不行届 (Feelコミックス)
安野 モヨコ
祥伝社




登場人物のカントクくんはオタクですね。まあモデルの僕がオタクなので、そりゃ必然なんですけど。

いわゆるオタクの内包的特徴を挙げると、内向的でコミュニケーション不全、つまり他者との距離感が適切につかめないとか、自己の情報量や知識量がアイデンティティを支えてるとか、執着心がすごいとか、独善的で自己保全のため排他的だとか、会話が一方的で自分の話しかできないとか、自意識過剰で自分の尺度でしか物事をはかれないとか、ナルシスト好きだとか、肥大化した自己からなりきり好きであこがれの対象と同一化したがるとか、攻撃されると脆い等々、とかくネガティブイメージの羅列になってしまうのですが、そこらを有りのままに描いているのがいいですね。幻想としてのオタク像ではなく、真実の姿を分相応に描いて世間に示しているとこが好きです。

今の日本はオタクの増長や跳梁を許せる程、経済的に飽和状態だし、情報過多で物質文明は溢れみちみちている反面、精神は貧しく、想像力は乏しく、社会基盤はぜい弱化していると思います。そんな世相だからこそ、嫁さんのマンガは必要だと感じますね。いや、身内びいきではなく。



嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの避難場所にしていないとこなんですよ。今のマンガは、読者を現実から逃避させて、そこで満足させちゃう装置でしかないものが大半なんです。マニアな人ほど、そっちに入り込みすぎて一体化してしまい、それ以外のものを認めなくなってしまう。嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いて出て来るマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。嫁さん本人がそういう生き方をしてるから描けるんでしょうね。『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃的でした。


流行りのものをすぐに取り入れる安直なマンガが多い中で、自分のスタイルやオリジナルにこだわって、一人頑張って描き続けている。そんな奥さんはすごいと思います。自分よりも才能があると思うし、物書きとしても尊敬できるからこうして一緒にいられるんだと思います。


『エヴァ』以降の一時期、脱オタクを意識したことがあります。アニメマンガファンや業界のあまりの閉塞感に嫌気が差していた時です。当時はものすごい自己嫌悪にも包まれましたね。自暴自棄的でした。

結婚してもそんな自分は変わらないだろうと思っていました。けど、最近は少し変化していると感じます。脱オタクとしてそのコアな部分が薄れていくのではなく、非オタク的な要素がプラスされていった感じです。オタクであってオタクではない。今までの自分にはなかった新たな感覚ですね。いや、面白い世界です。これはもう、全て嫁さんのおかげですね。ありがたいです。




嫁さんは巷ではすごく気丈な女性というイメージが大きいと思いますが、本当のウチの嫁さんは、ものすごく繊細で脆く弱い女性なんですよ。つらい過去の呪縛と常に向き合わなきゃいけないし、家族を養わなきゃいけない現実から逃げ出すことも出来なかった。ゆえに「強さ」という鎧を心の表層にまとわなければならなかっただけなんです。心の中心では、孤独感や疎外感と戦いながら、毎日ギリギリのところで精神のバランスを取ってると感じます。だからこそ、自分の持てる仕事以外の時間は全て嫁さんに費やしたい。そのために結婚もしたし、全力で守りたいですね、この先もずっとです。





タグ:オタク 家族
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2011年08月21日

「赦す」のでもなく「忘れる」のでもなく「そういうもの」として流れていく、ということ   〜 あまやどり盆踊りにいってきたよ





死が決まっていることは不思議だった あと何時間かでこの燃えているものがどういう風にかストップする、その兆しから逃げながら探している 

死は大きな空洞みたいにただいろんなものをひっぱりこんでどんどん落としていった 悪意はなくてただそういう性質のものだった












お台場ガンダム見に行こうかと思いつつ、「ガンダムだけのためにお台場いくのめんどくせーなー」、ということでなかなか腰が持ち上がらなくなってたところにあまやどり音頭の話





「お経×スライド×ダンス」は21日中山駅南口集合です | アマヤドリ
http://chloe.petit.cc/banana/20110820193022.html




いつもは降りない(かもしれない)駅に降りて、商店街を歩いて、ありがたいお経をに身をつつみ、自分の町ではない(かもしれない)町の写真を見て、夕方の光のなかわけのわからん踊りを見る。

ちょっと夏のお祭りの名残のような時間。



に釣られて行ってみた



あと、今年の夏の終わりの蝉の声というのを自分の中でもうちょっとぢみに印象づけたかったので




少し前まで広島の実家に帰省していて、そこで印象にのこったものは空間の広さと蝉の声だった



道路でもパーソナルスペースでも、東京方面よりもちょっとだけ空間が広くて

そのせいか音や時間も余裕をもってるような感じ




それは単に自分や母や周辺の人々がお気楽に暮らしてるから、ともいえるけど(あくせくキツキツしてたら時間や音の感じ方も違うだろうし)



けっきょくは「それを感じ取れる心の余裕」ってところになるのだろう


それは東京とか広島とかの場の影響っていうか、場の影響もあるかもあるかもだけど「人の余裕」-「生き方」みたいなもののような





そういう環境の中で聞く蝉の声はいつもよりもなんか染みる感じで、夕暮れと聞こえてくるヒグラシの声を原風景として胸に刻んで行きたかったんだけど、風呂ってるときに聞こえてくる隣の家のテレビの音が大きすぎてうまくいかなかった。。


「彼らにとっては日常のつまらない音で、それよりはテレビのちょっとした刺激のほうが良いのだ」というのは田舎のばあさまが「やっぱ味の素だなっす、ほれ、もっと入れろ」みたいなこといって都会人間が閉口するのと似てるのだろう



んでも「当たり前」と思ってる風景の当たり前じゃなさに気づいた時に、それこそがその場の本質として記憶の中に残っていくものなのかなぁって想ったり




今回のイベントでの写真の展示でもそんなことを思った



「横浜の未来」


「開発され変わっていく横浜」


「過去から現在にかけて既にして『未来』を内包していた横浜」


「そういった中で紡がれてきた自分たちの中のヨコハマの本質というか原風景のようなもの」


「『ヨコハマ』といわれて走馬灯のように頭の中に蘇るもの」





それは、寺という場にも通じるもので



通い慣れている地元の人からすると一見「地味でどうということのない空間」と思われてるのかもしれないけど


今回のイベントも合わせて外国人はおもしろがるだろうなぁ、と思った



(お焼香とか(意味を理解してないけど)読経に神妙になる、という形式はオラトリオ → ラップみたいなものか)




そういった流れで見るとあまやどりの踊りというのはごく自然な流れだったかなぁ、といまさら思ったり



最初は「( ゚Д゚)<お天気大丈夫だったら浴衣で迎えに行きます!」っていってて、ほんとに浴衣でお迎えきてたので盆踊りみたいなのやるのかな?と思ってたんだけど、、、箱を開けてみたらいつものあまやどり踊りだった




Terminal Arts of Sein und Zeit: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199659522.html





以前の時ほどはげしくなかったけど動きとか、上半身の浴衣はだけて背中でちゃってるのとか見てドキッとしつつ、「写真スライドのこの流れでかぁ( ^ω^)・・・」、ってちょっと思ったり








今回は前回の時よりも自分も体うごかすようになってるので重心がどの辺なのかなぁってのを主に見てた




そんで、「あ、そこからそれ釣り上げたままそう動けるのね」、みたいなのを自分の中で感情移入(トレース)しつつ


内容としてはよくわかんなかったんだけど、彼女がたまについったでつぶやいてる夢のなかの風景に似てるな、となんとなく



はっきりと聞こえなくて声が出なくて



でも、遠くから(祝福のような)鈴の音がずっと聞こえてて



それを頼りに空間を泳ぎながら身体言語を刻み、言葉以前の感情の起こりからその空間と自分との関係を確かめていく、みたいな感じ




なので、腰を中心に糸に操られたマリオネットみたいな感じで、あまやどりの中の人が腕や足といった枝葉を十全に使って空間(世界)をつかもう(認識しよう→伝えよう)ともがいているように見えた




ろうそくの灯りは和尚の話もあって震災周辺の人々の魂のようにも想えたけど、もうちょっと別の意味があったのかもしれない





あとは、蝉の声がよく聞こえたな、と





開け放たれた社殿の正面扉から夕方の光と木々の緑、蝉の声が入ってきて



そういった開放感もあってか重苦しい雰囲気や緊張もなく、蝉の声に重なるようにこどもの声が「和やかな空間」「生活の中の一場面」を演出していた





そういった「生活のなかにふつーにある」「地域の人々に馴染んだ」という感じは「不思議な少年」で出てきた「田舎の無名ではあるが素晴らしく周りの環境に溶け込んだ神社」みたいなのを想わせたり






あるいは







「震災」と「たましい」ということを絡めると、彼女の体を通じて還ってきたたましいが再び出ていく過程のようなものを勝手に想ったりした。最後の退場の仕草なんかで特に







そうするとやはり一人盆踊りのようなものだったのかなぁ。。







広島で祖母にあってきた




祖母はもう原爆の記憶も、その後の細腕繁盛記のような人生も、じいさんが死んだこともはっきりと覚えてなくて


かといって認知機能が落ちてるわけではなく、単に「余計な記憶」と想われるものを身体がリセットして、目の前のものに必要なだけのメモリを用意した最適最小の認知環境にいるのだろうけど


そういう環境の中ではおそらく「いま」しかなくて



そして、それはたぶんただしい




古東哲明、2005,「現代思想としてのギリシア哲学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218962376.html






では、それは本当に達観のようなものなのか?と思って「死ぬのは怖くないの?」と訊いてみた




祖母は否定するでもなく肯定するでもないように「そうねぇ……」っていってるだけだったけど





たぶん、痛くなかったり煩わしくなかったらそれでいい、ということなのだろう





心残りも特にないようだったし


(なんだったらそれを継ぐつもりで今回会いにいったんだけど)








「ゆるせばいいのに」というのは余人にいわれるととても簡単な言葉のように聞こえて



当人は赦そうとしてもスティグマやトラウマがそれをゆるさない、というのはあるだろう




その気持ちを救うのは....: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/49747050.html






「それもまた『自分』とは離れた部分の善悪という観念であり、その呵責だ」といえばそうだろうけど



では、人は観念を離れて人たり得るのか?、ということになる



プラトンがいうような「観念動物としての人」という文脈で






ただ、



「それは人が人の作った言葉の檻の中から創りだしたもので、ピュシスとは違うもの」ということではあるか




では「自然とともにある」というのは祖母のような状態のことを言うのだろうか?











わからないけど、母によると祖母は「よく笑うようになった」のだそうな


少し前は腰を痛めて悲観的になっていたのもあっただろうけど



叔母にいじめられることもなく、祖父に煩わされることもない





「はぁ、ここが自分の部屋になってしもうたよ」



介護施設の部屋で、嫌味でもなんでもなくそう言う彼女は来るべき死を「そういうもの」として受け容れているようだった













--
屈せざるものたち: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212059486.html



中世ヨーロッパの戦争と正戦論: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218676600.html



<ヒロシマ>ということ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/39864267.html


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2011年07月17日

「性的禁忌」「家族」「国家」「文明」




Women want mediocre men, and men are working hard to become as mediocre as possible.

-- Margaret Mead




Illusions mistaken for truth are the pavement under our feet. They are what we call civilization.

Barbara Kingsolver, The Poisonwood Bible







性的行動とその決定因、またそこから発生する効果・作用の分析が生物学と経済学の臨界で生まれる。と同時に、道徳的・宗教的勧告や徴税といった伝統的手段を超えて、夫婦の性的行動を、経済的かつ政治的に協議された一つの行為に仕立てようとする組織的な作戦が現れる。

−知への意志−






個々の道徳的行為は、必ず特定の道徳的振る舞いに依拠し、道徳的振る舞いは必ず道徳的主体としての自己自身の編成を要請する。更にまた、この道徳的主体の編成は、〈主体化の様式〉なしに、またそれを支える〈修練〉と〈自己の営為〉なしにはありえない。

−快楽の活用−






19・20世紀の人種差別は、そこにいくつかの手がかりを見出すだろう。国家は、市民の性と市民の性の用い方の現状を知らねばならないが、市民の方も各人が、性の用い方を自分でコントロールできなければならない。国家と個人の間で、性は一つの賭金=目的になった。

−知への意志−




















コレ読んでなんかまたいろいろ繋がった、というかぼんやりとしたデッサン程度にマッピングできそうなので


吉本隆明、性を語る。 −コイトゥス再考−
http://htn.to/2Bjpk8




「性的禁忌は親密圏と社会との関連性で現れる」って話


吉本の共同幻想論をもうちょっとゆるく解説した感じだろうか(あれは正直わけわからんかったけど


日本の場合、「家族」の禁忌が強すぎてお茶の間では性的な話題がタブーになることが多々あるように思う


「それは近親相姦的な志向に依る(あるいはつながる)」という話

http://morutan.tumblr.com/post/7661771880


まぁいわれてみれば「なぜ日本ではフリーセックス(セックスについておおっぴらに語ること)がいけないの? 隠すほうが却っていやらしくなるじゃない?」という疑問はずっとある



「それはおまえを食べちゃうためさ」ってことで母や父の潜在的な近親姦への欲望が内包されている、ともいえるか

いわゆるマザコンやファザコン


それは母や父からの一方的な関係ではなく、息子や娘から照射されていくこともあるわけだけど







「性的禁忌と家族」という問題はたとえば売春と社会的禁忌の関係にも反映される。



買売春や自慰行為は社会的に「悪いこと」とされるけど、なぜ「悪い」のか突き詰めていくとわからない
http://morutan.tumblr.com/post/7661465906/1

そして、

「悪い」って認識の中でも自慰や買売春の志向があるということは、その欲望の指向性において「自由」を求めた結果が自慰や買売春であった、ということになる



それが「善い / 悪い」「異端」とか決めるのはその時代の価値観なので



それ以前に、既存の欲望のカタログに依らないなんらかの本源的志向性があった場合、そしてそれが特に他人を傷つけるものでもない場合、誰がそれを「変態」となじれようか?(cf.フーコーであり、トランスジェンダーであり、セクシャルマイノリティな話)






「自慰はわるいことなのだろうか?」的な潜在的恐れ。その短期的な欲求に屈してしまうことにより積み重なっていく敗北と自分への嫌悪感のようなもの


特に男性の場合それは多くの人にあって、ともすればそこから自らの性のあり方を「異常」と烙印し精神的不能の刻印をふしてしまうこともある


abuseではあるだろうけど「善悪」の価値観から「悪い」というものではないだろうに



森岡正博、2005、「感じない男」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52482268.html



あるいは、既存のエロスの形式(いわゆるオカズ)の幻想にドライブされて、自らの本源的志向と形式にドライブされた過激な性のあり方との断層がなんとも収まりがつかなくなり、自らの性を「攻撃的なもの」として呪い怖れる、というようなこと


それはわりとナイーヴな男性ならば経験のあることかと思う



対して吉本は、「むしろ自慰を通じて社会的性を取り込んでいって、家族的な性から解放されていったように思う」、という
http://morutan.tumblr.com/post/7661328912


赤ん坊が性器をいぢったときに感じる「なんとなく気持よかったな」って意識、価値観のない意識を元にして



「社会と家族の性は違う」


http://morutan.tumblr.com/post/7661771880


恋愛と結婚(家庭)は違うが如くに





西洋では全開で語られる性(ex.バタイユ)が日本ではなぜかとじたものになってしまうということ
http://morutan.tumblr.com/post/7661613695

自分的にはそれは医療と刑罰の関係にも通じるのではないかと思うんだけど(cf.フーコー)


吉本としては「家族制の縛りのせいで性の話を外に出しにくくなっているのではないか?」という





「家族」から脱し「社会化」していくときに関わる「性」の問題


あるいは


「近代化」と「性」の問題といえるだろうか



「文明」と「性」といってもいいだろうけど




生産関係と性の語られ方の関係



母権論はいってみれば「( ゚Д゚)<女はセックスしか頭ないから戦争とかもせずに平和やでー」みたいな話だったように思うんだけど



結果的に「性の家庭内部での統御」≠「母権制」ということになってくるのだろうか。(そして、その対照として「文明」のオーバードライブとしての戦争への志向がくる)



花咲く国、平和成るかな: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/46507959.html


(↑は若い論だけど)生産様式に着目してそれと母権制のニックス、と


「狩猟 / 農耕」という区分けをしていたけれど現時点だと「狩猟」(フロー) / 「文明」(ストック)と言ってもいいように思う



狩猟社会というのは「ストックができないので生産に計画性がない」というところがポイント


農耕社会は「ストック → (短期サイクルでの)計画経済が可能」ということ



そして「ストックが生まれるので略取も生まれていく」ともいえるわけだけど、フロー段階でも獲得物をめぐっての小規模な争いはあっただろうから「争い」のオプション自体は狩猟でも農耕でも変わらずあるものなのだと思う



ただ、ストックできるようになると規模が違ってくるので


広い意味で「文明」も「ストック」に加えたのはそういうこと



文に明るくなることで反省し次に繋げる。経験のストックができていく。技術というのはそれをもって格段に進歩していく


だから「書く技術 / それを伝達する方法」(メディア)がそのまま文明の発達段階と相関する


そして、


そもそも狩猟社会にせよ農耕社会にせよ、どちらの社会でも「経済/流通/交易」はあったし、それが文明をドライブさせていったのだろう


モンゴル帝国なんか定住型農耕社会ではなかったけど当時の世界帝国だった理由は交易と戦闘に関わるシステムがシンプルに優れていたからだし


(なので生産関係つか、交易・流通とその手段としてのメディアの発展段階で文明度を測るほうが分かりやすいように思う)


civilization ということについていえば「都市化」であり「文明化」ということだと「教会化」ということで、かつてのヨーロッパでは教会を中心に知が編まれ、戸籍ほかの生権力も統御され、同時に法でもあった。

モンゴルでは戦闘と交易、家庭もシンプルな法とシステムで統御されていたのだろうけど、ヨーロッパでは国内的な秩序は教会にアウトソースされていた。




母権社会というのはゲマインシャフトと同じぐらいの曖昧さだと思うけど、ゲマインシャフトが文明(cf.ゲゼル)と対照であるのと同じように、文明と対置される位置づけにあるようには思う。


ただ、それをもって「女がトップにいる社会は下等」というわけではないんだけど…


文明化されてない社会で母権的なものはその段階にとどまり循環しやすいかなぁ、という印象


文明化された社会での母権、あるいは性による政治のドライブということだと本居宣長なんかがからむのだろうか(源氏物語とか





古本夜話115 バハオーフェンと白揚社版『母権論』 - 出版・読書メモランダム
http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/20110715/1310655690


古本夜話114 ローゼンベルク『二十世紀の神話』と高田里惠子『文学部をめぐる病い』 - 出版・読書メモランダム
http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/20110713/1310482877



ナチスの勘違いはこういった歴史を完全に捨象してゲルマン民族優位をプロパガンダしたことだろう


ただ、ナチスがもし男性的ホモソーシャルな性のあり方、性に似た志向性が戦争や革命への志向であると直感した上でそれを作為的にドライブさせていたのだったら話は少し変わってくるだろうけど


また高田はサブタイトルに示された「教養主義・ナチス・旧制学校」をめぐる共通するイメージ、さらにそれらと協調して「文学」と「仕事」を支える構造の中に、近代日本の教養主義に表出している男性性とその間の関係、特権的男性たちの高等教育の場としての学校を検証する意図をこめ、それらの総体を「男性同盟(メナーブメント)的な美しい結末」と見ようとしている。

この高田の指摘を受け、本連載のひとつのテーマでもある、近代におけるホモソーシャルにしてホモセクシャルな世界の形成、男女間ジェンダー闘争の台頭、ナショナリズムとナチズムの関係、ユダヤ人と女性を同一視する倒錯やミソジニーなどが逆照射されるような感慨を抱かされた。






La mort du jeune Barra: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2011/06/la-mort-du-jeun.html


 習作のほうがダヴィッドが意図的に描きだしたという点で本来のダヴィッドの意思を表したものであろうし、この対比からバラの死が読み取れるとするなら、バラの死の映像こそ、ダヴィッドが見た共和国の精神性というものだろう。
 そこまで言っていいものだろうかと長く迷っていたが、「[書評]絶頂美術館(西岡文彦): 極東ブログ」(参照)の同書にも同じ理路で解説されていて、我が意を得たりというところだった。が、詰めの解釈は異なる。西岡氏はこう言う。


 人としてもっとも大きな幸福のひとつである「性」の歓びを享受することなく、若くして革命に殉じたバラへの、これ以上に悲痛な哀悼の意の表明はないかもしれない。



 「絶たれた生」への抗議として描かれたはずのこの作品が、強烈な同性愛的な官能性をただよわせ、むしろ見る者の「いまだ絶たざる性」を物語ってしまうのは、そのためであるのかも知れない。


 逆であろう。
 ダヴィッドの描出こそが共和制への愛を貫徹した至福の姿なのである。
 鳩山由紀夫元首相が語る友愛(参照)、すなわちフラタニティ(fraternity)というものの、「強烈な同性愛的な官能性」とは、このような形象を有するものであり、むしろ武士道の至高に近い。
 三島由紀夫ならそんなことは自明ことであったに違いないが、奇妙なのは彼にとっては、本来は共和制のエロスであるものが戦後日本の文脈では王制のエロスに偽装されていたことだ。
 むしろ共和国・共和制と限らず国家への愛を誘う政治的イデオロギーには、その表層の差違や論争的な対立の背後に、すべてこの情念の起源を隠し持っているのではないだろうか。






確定ではないけど、どうも戦争や革命への狂ったような志向性にはホモソーシャルな興奮が内包されているみたい


Togetter - 「淫グロリアス・バスターズ」
http://togetter.com/li/127006




近代の歴史、理性の冒険を考えるとき、結局は性というか家庭と社会との関係に落ち着くのだと思う



テオ・アンゲロプロス、1995、「ユリシーズの瞳」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/213903209.html



加納明弘、加納建太、2010,「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/215103969.html




近代化によってそれまではくっついていた家庭と労働(社会)は「分業」という形で分離されていった(家内制手工業な親方職人制から近代的分業制への移行)


それに伴い、「公 / 私」という意識も敷衍していったのだろうけど、根本のところで性の問題や家庭の問題は統御されていないのだろう。


なので、特にゆるい国(日本のようなところ)ではゲゼルシャフトであるはずの政治に家庭的なゆるさがでてしまう




「性」というのは一般化、抽象化していえば「生命のダイナミクスの表れのひとつ」といえるだろうけど


白河夜船: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/213045538.html



女性のあり方と男性のあり方とでは違う


それは「女性」の基底的な要因に依るものもあるのだろうけど、どちらかというと社会的にふされた役割分担から生じた性の志向性のように思う





たとえば男性の性が闘争性と結びつき称揚されていた時代

それと対照するように、おそらく古典的な「女」の性のあり方というのはなにか食虫花のようなドM性があったような


むーたん - 食われて幸せ
http://morutan.tumblr.com/post/31176547


「受けといて食っちまう」みたいなの。上品に言うと、「家庭内部では男性を優位に立てつつ実際面ではコントロールしてる」、というような




そのような因襲のような感覚、封建制のにおいをともなった「食われて(犠牲になって / 受け容れて)しあわせ」な感覚がここにも表れていたか



The Lady of Shallot 〜 ピアノレッスン  (七夕と供犠と女の「自由」の話): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/214043580.html






とりあえず「性」「家庭」「文明」「社会」関連

家族からみた歴史→政治・経済。公共性の構造転換の下部構造としての家族、の可能性ということだと、やはりトッドを読むべきなのだろうな



エマニュエル・トッド - Wikipedia
http://bit.ly/m9xO9a




Togetter - 「E.トッド読む読むφ(..)メモ : 「家庭と親密圏 → 公共圏 → 政治経済空間」の構造変化 (仮)」
http://togetter.com/li/130095





--
Togetter - 「| ゜Θ゜)<ニーチャン、えっちだなー ワーイヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノワーイ」
http://togetter.com/li/134480


「家族の性」にバインドされスポイルされているおにーちゃんたちの性の在り方について


タグ: 家族 文明
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2011年07月09日

The Lady of Shallot 〜 ピアノレッスン  (七夕と供犠と女の「自由」の話)




テオ・アンゲロプロス、1995、「ユリシーズの瞳」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/213903209.html

の牛の話の続きで



そういえば牛の話を書いて気づいたけど、「牛は文明の象徴」であり具体的にはトラクターだったのだよねアレ。なので彦星(牽牛)と織姫の話もおそらくそういったもの。 まあ、気が向いたらあとで書くか

そこにlady of shalottが絡む。あれがポストヴィクトリア朝でなんとなく耽美とされて、各芸術家の想像力を喚起させるものだったのはたぶんそういった背景。「(産業革命を始めとした理性ー文明のゴリゴリとした縦線の流れに対して)昔の人々のあり方に想いを寄せる」みたいなの

それは近代主義に対するローマ回顧(ロマンティシズム)だったり、いまだったら「エマ」とか「乙嫁語り」にも共通するのだろうけど。後者なんかは特に機織り―絨毯織りが絡む。 女性の代表的内職だったからの。つまり「家」の象徴でもあるしほかにも象徴性がある感じ

だからフェミニズムの一部を切り取った単純な視線からlady of shallotを非難できないんだよ。。そこに「( ゚Д゚)<閉じ込められた女性の自由を!」を仮託するのはいいけど「自由」も近代の概念だし、、なによりフェミの重層はジェンダーとなって「性」の克服につながる(おそらく

なのでフェミを単なる女性学とみて信奉する方も、非難する方も間違ってるように思うんだけど。。目立って見えてくるのがそれだし、じっさいにそういうひといるのだから仕方ないなぁとかおもうますよ(田嶋陽子のテレビでの展開に対する賛否両論いろいろを思いつつ

で、もしも七夕のグランドテーマに「性」「家」が絡むとすれば、それはやはり大きく回って「お盆」-「祖霊」ということにも通じるのかなぁとぼんやり思う




the Visit; THE LADY OF SHALOTTthe Visit;
http://www.mitene.or.jp/~t-square/kaleidoscope/McKennitt/McK_3.htm

lady.jpg


シャーロット姫(シャーロットの乙女)
http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/Subjects/shallot/shalott.htm

lady2.jpg



エマの話というのはココの


最近読んだマンガから  現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212974583.html?130962230


( ゚Д゚)<それぞれの時代環境によって「自由」は違うんやから近代的理性から女性開放(自由)押し付けんなや( ゚Д゚)ヴォケ!!


みたいな話




シャロット姫の話はフェミで有名みたいなんだけど自分としてはなんとなくそれ以前に葛生千夏のアルバムで親しんでた


THE LADY OF SHALOTT
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葛生千夏
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THE LADY OF SHALOTT/葛生千夏 (クズウチナツ) - 関心空間
http://www.kanshin.com/keyword/370724


紹介先にもあるように「少年のように透き通った」声で中性的に歌う

「少年のように」というか女性的ではない、甘えがない感じの


「性別を超えてすっくと立つ」




おそらくlady of shallotという題材がもとからもっていたテーマを敢えて払拭するようなところもあるのかもしれない
(でも、葛生千夏の声は全般的にこんな感じの硬質だけど)




そこでは「不自由な女性への同情や哀れみ」もなく「カゴからすくい出してくれるナイトの到来を待ちわびる乙女心」的情緒もない

また、それらの夢や不幸が一切破れて呪いのもとに死んでしまうことに対しても


それをなかば当然のものとして受入れるような、そういう意志を感じる




「カゴから出てキケンなのは当たり前じゃないの。一瞬だけでも希望を持てたのならそれで死ぬなら本望よ」というような






多くの芸術家たちがlady of shallotにもったイメージはそれとは違って、近代的合理性とは違った形での因襲とロマンスのようなもの、その重みのような世界観の耽美性への憧れのようなものであったように思う

ちょうどピアノ・レッスンのような



ピアノ・レッスン [DVD]
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ピアノ・レッスン - Wikipedia
http://bit.ly/o51FAS


19世紀のニュージーランドを舞台に、ピアノの音色を言葉代わりにする女性と、原住民マオリ族に同化した一人の男性との激しい愛を描いた恋愛映画。


主人公・エイダは娘フローラとピアノを伴い、スコットランドから未開の地・ニュージーランドへ旅立った。現地では彼女の結婚相手・スチュアートが迎えたが、彼は重いピアノを自宅へ運ぶことを拒み、ピアノを浜辺に置き去りにした。

話すことができないエイダにとって、ピアノはかけがえのないものであり、エイダは娘を連れて何度も浜辺にピアノを弾きに訪れた。その姿とピアノに惹きつけられた現地の男・ベインズはピアノをスチュアートから入手し、エイダに「黒鍵の数だけ自分にレッスンをしてくれたら、ピアノを返す」と約束した。二人のレッスンを重ねるにつれ、二人の関係は徐々に変容していった






ここではシャロット姫の機織りはピアノであり、ハーヴェイ・カイテルは半ばランスロットのようにして現れる



ピアノ(機)がないと話せない(自分を表現できない)女と、その姿に寄り添う男の話



ランスロットは気高い姿でシャロット姫を惹きつけただけだったけれど、ベインズはもっと直接的な形でピアノからエイダを解き放っていく


ピアノとそれに象徴される彼女の古いアイデンティティから



ピアノ・レッスン | :映画のあらすじと詳しい解説、批評
http://eiga-kaisetu-hyouron.seesaa.net/article/136881888.html



ピアノとともにエイダが海に沈んでいくシーンはまさにシャロット姫への呪いを想わせた

(そして地獄が千の玉座から立ち上がり敬礼する)


The City in the Sea
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The City in the Sea - Edgar Allan Poe
http://classiclit.about.com/library/bl-etexts/eapoe/bl-eapoe-city.htm





でも、


最終的にエイダはロープをほどき、男の愛を信じることを選ぶ (鍵盤を叩く指は失っていても





「ピアノレッスン」では「牛」は現れない

あるいは「牛」に象徴される文明は現れない


「文明」と「男」の関数としての「戦争」。「戦争」にまつわる現象としての「剣」や「鎧」(武)も現れない



(現れてはいても「ピアノ」と並ぶほどの交換要素ではなく、物語進展のための材料的な位置にとどまる(指の切断 cf.契約(アイデンティティ)と呪い)



シャロット姫ではランスロットは鎧をまとって現れている


しかし、シャロット姫も「鎧」に惹かれたというわけではない


単に「外の世界」の象徴としての「男」、自分を籠の鳥から出してくれる存在としての「男」への期待だったのかもしれない



ポストヴィクトリア朝ではそれは産業革命的な文明に代表され、「ユリシーズの瞳」ではレーニン像であった




「ピアノレッスン」では女を救う存在だったハーヴェイ・カイテルは「ユリシーズの瞳」では幻の女(とフィルム)を追い求める存在として現れ、最終的に女(≠フィルム)によって自らを取り戻し救われた…かと思われた矢先に失う。





織姫と彦星、機織りの乙女と牽牛ではどうであったか?




七夕の節句|日本文化いろは事典
http://iroha-japan.net/iroha/A03_goseku/04_tanabata.html


この時期はお盆(旧7月15日)を迎えるための準備(七夕盆)としての意味をもち、畑作の収穫祭を祝う祭りが人々の間で行われていました。この時、健康を祈り素麺の元となったお菓子「索餅〔さくべい〕」が食べられていました。索餅は熱病を流行らせた霊鬼神が子供時代好きな料理で祟りを沈めるとされていました。やがて、索餅は舌触りのよい素麺へと変化し、七夕に素麺を食べるようになったそうです。

日本では古来より、「棚機つ女」といわれる女性が、機〔はた〕で織った布を神におさめ、病気や災厄が起こらないように願ったという話がありました。7月7日〔しちせき〕を「たなばた」と呼ぶのは、この「棚機つ女」がもとになっています。
そして、中国の文化に強く影響を受けた平安貴族たちは、竹竿に糸をかけて願いを星に祈るとかなえられるという乞巧奠の習わしに従い梶の葉に歌を書き付けて手向ける「星祭り」を行うようになりました。
その後、乞巧奠が大衆の間にも広まり、やがて棚機つ女と結びつき現在のように7月7日の七夕となっていったようです。
江戸時代に入ると、短冊に詩歌を書き、笹竹に軒先に立てる風習が寺子屋の普及とともに浸透していきました。明治になり、各地の商店街などで大規模な七夕祭りが開かれるようになり、さらに一般の人々の風習として広まっていったようです。




乞巧奠(きこうでん): 源氏物語
http://heian.cocolog-nifty.com/genji/2007/07/post_f16d.html

七夕(たなばた)は、平安時代には「乞巧奠(きこうでん)」とも呼び、宮中や貴族の家庭で広く行われた年中行事です。
牽牛・織女の伝説を基にふたつの星の逢瀬を眺め、女性達は織女にあやかって裁縫の上達を祈願しました。
グレゴリウス暦(新暦)の現代ですと7月7日は沖縄と北海道を除いて梅雨真っ只中ですが、平安時代の七夕は太陰太陽暦(旧暦)の七月七日、立秋も過ぎた後の初秋の行事でした。
(今年の旧暦七月七日は、新暦の8月19日です)

乞巧奠自体は、牽牛・織女の伝説と共に中国から伝わった行事ですが、日本古来の棚機津女(たなばたつめ)信仰や祖霊を迎えるお盆の準備なども絡み合っており、成立の背景は非常に複雑です。
また“平安時代”と一口に言っても、400年の間で行事の内容はかなり変遷しています。



山崎聖天の乞巧奠
http://www007.upp.so-net.ne.jp/ofg/kikouden.htm

 中国の古伝統ではこの日、牽牛、織女の二星は「天の川」に到り、織女は鵲(かささぎ)の羽を並べて作った橋を渡って牽牛に1年1回の会見をします。日本では牽牛を彦星と言い、織女は機織姫と言います。彦星は「耕」機織姫は「織」を象徴し,両星は夫婦関係にあると言います。七夕にこの二星を祭るのは寿福を願い、恋愛、子福を祈り才能を願うためで、特に女子は機織・裁縫の巧みを祈るもので3年の中に願いの叶わぬことはないとされています。




七夕と乞巧奠(きっこうでん)
http://www.pleasuremind.jp/COLUMN/COLUM117B.html


日本には 「棚機つ女」「乙棚機」の伝説がありました。
 昔から神を祭るときには、日常の食生活を示す神饌(しんせん)と衣生活を示す神衣を神にささげるのがならわしでした。そのため、七月七日に、けがれを知らない少女が身を清めて、不浄な地面からずっと離れた高い柱の上のこもり屋にこもって、機(棚機)を織りながら神を迎え、ともに一夜を過ごして神を慰めるのです。そして翌日、帰りがけに神にけがれを持ち去ってもらえるよう、村人たちは禊を行います。
 つまり、七夕は、棚機からきた言葉で、日本ではけがれや災厄をはらう禊の行事としての性格をもってたのです






総合すれば


(1)オリジンをたどれば中国の牽牛・織女伝説+乞巧奠

(2)牽牛・織姫伝説においては彦星は「耕」機織姫は「織」を象徴する

(3)宮中に伝わった際には雅な乞巧奠の雅な形式、「願い事」な部分だけ形式的に踏襲され「(機織りなどの)芸事がうまくなりますように」と願われていた

(4)日本に伝わった際に機織り・乙棚機な民間伝説と混ざる。乙棚機では穢れ無き乙女が衣をおって神と一夜を共にする(おそらくオシラサマな供犠関連)

(5)七夕のもともとの時期は旧暦なので新暦だと8月19日ぐらい。収穫の願いと、そこにお盆の祖霊迎えが重なる


ということであり、そこから類推するにもともとは祖霊≠神に収穫を願う人身供犠的な性格のものが「衣」を依代として代替されていき、最終的に供犠も祖霊の性格も忘れられ「願い」のみが残った、とのだと思われる。



つまりやはり(「農」という文明のための)「犠牲」「供犠」が絡む



「共同体」という「家」の延長のための「犠牲」



交換財としても扱われていた女性はそういう役割を担わされるところが大だったのかもしれない




それが「lady of shallot」や「オデュッセイア」でも「犠牲」というテーマで継がれていったのか


そして「犠牲」への責任は呪いのように女性の自由を縛っていた



しかし「ピアノレッスン」ではその呪いから解かれていった

ピアノを弾くための指を犠牲にすることでからくもそこから足抜けし、あらたな「自分」=「居場所」を手に入れていった。






その先が幸福な未来かどうかは別として





それらも、あるいはユリシーズの瞳の先に見据えられる未来なのかもしれない




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2011年07月03日

白河夜船




心凄きもの

夜道船道旅の空

旅の宿 木闇(こぐら)き山寺の経の声

思ふや仲らひの飽かで退(の)く











あの船は、ぼくのまだいったことのない国へいくのさ - スナフキン



なによ、なんでもしったかぶりしてさ。スノークのおじょうさんなんか、洋服も着てないじゃないの。わたしはきものなしにあるくなら、死んだほうがましよ! - ミーサ



『こまったこまった』 - こまった こまった 夜はつめたい ときは五時 おまえはひとり さまよう つかれたあしを ひきずって けれども家は みつからない



どんなものでも、暗やみの中では、おそろしいものにみえるのよ - ムーミンママ




自分のものにしたくなったとたんに、あらゆるめんどうが、ふりかかってくるものさ。ぼくは、なんであろうと、見るだけにしている。立ち去る時には、全部、この頭にしまっていくんだ。 - スナフキン




スナフキンといっしょにねてはいけないの? - ムーミン



ぼく、ムーミンたちのことだって、煩わしく思うこともある。だけど、彼らとくらしていると、一緒でも、ひとりでいられるんだ。あんなに何年も、長い夏を、ムーミン谷で過ごしていたのに、ぼくは気づきさえしなかったんだ。ムーミンたちは、ぼくのこと、ひとりにしておいてくれたんだ - スナフキン





人はかなしいときに泣くものだろ - ホムサ




かなしいのはちょっとだけよ。だけど、こんなにないてもいい理由があるときには、いちどきにないておくの - ミーサ






まってたのよ。さあ、ここへいらっしゃい - ムーミンママ

















<人は、生物的機制や社会的機制を超えて自らの性―生の自由を謳歌していけるのだろうか? みょーに性に耽溺(フェチ)したり、逆に極度に嫌がったりせずに>




最近読んだマンガから  現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212974583.html?1309622302



ここで少し「人は自由すぎてもしあわせを感じられないのではないか?」という別のテーマに想いが移る


「なにをやってもいい」とされる野放図な無限の広がりの中で、人は「自由」を謳歌できるのだろうか?




タヒチの空の下で、彼は本当に自由だったのだろうか?



月と六ペンス (新潮文庫)
サマセット・モーム
新潮社
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性に耽溺(オーバードライブ)していただけではなく、ふつーに自らの実存を感じていたのだろうか?



あるいはオーバードライブを通してガチガチに固まった規制を開放していったのだろうか?



それらは小説を読んだり作品を見て確認するとして



<社会的・生物的に設定された欲望としての「性」以外の「性」のあり方があるとしたら、自分はそれに辿りつけるのか?>という課題がある


エゴを超え、汎愛と止揚した「愛」のあり方への理想と同様に



「愛する」ということ  「汎愛」/「他者」/「差別」/ 「聲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/210130222.html



「愛」という言葉もなにかちょっともはや手垢がついたものというか、一つの「こうあるべき」型のようなものとして人を縛ってしまうところがあるのかもしれない


現代だとそれは「自由恋愛」の幻想に代表されるだろうけど、それも近代以降生み出されたり「発見」されていったものだろうし。。


そういうことに対して、他の文化圏、他の時代の愛のあり方は現代の「愛」の当然性に対する相対化の材料となってくれる



最近読んだマンガから  現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212974583.html?1309622302





性と愛の感覚というのは自分の中でまだ整理がついてなくて、おそらく「愛」というのはどこまでいっても幻想であり社会動物である人が創り出した、その時代における幻想(物語)なので、「これが愛の形」というのはその時代・環境に依るのだろう




だからむしろ「性」というものがなんなのか?考えていったり


以前、ぼけーっとつぶやいてたのはその辺





Togetter - 「position 1  「立つこと」「動くこと」「生きること」「性」「動くこと」「思考すること」」
http://togetter.com/li/147666






生命というのは「躍動」であり「動き」ということで、「性」はその一環であるといえる



動物は動くことが表されやすいけど、では「生=動き」としたとき植物は「生きてはいない」のか?


もしくは


直接的な体の動きが外部に見えないとき、人も「生きていない」ということになるのだろうか?



「人間は思考している」ので生きている


しかし植物も考えているかもしれない。あるいは、人のように主に言語系に頼って考えているのではなく、別の形で「思考」と我々がよぶところに準じるようなことをしているのかもしれない



それは人の場合は次の動きへのタメであり、植物もそれと似たものなのかも



「人間は考える葦である」というとき、その辺りの次の行動のためのタメ(観想)を表しているとも言える




あるいは、植物もしているダイナミクスとして「性」がある



人のように動きを伴う激しい生殖行為ではないけれど、彼・彼女たちがホメオスタシスを破ってダイナミクスを生じさせる行為として種子や球根を次代につなげていくという生殖行為が考えられる



性と思考はそういった意味で「動き」であり生命の表れと言えるだろう





より物理的な本質で言えば、人の性や生は水の流れであると言える


水と呼気の流れ


それを心臓ほか内蔵のポンプで循環させているのが「生」命体のあり方



それは人だけではなく地球上の生命一般にほぼ共通することか







Togetter - 「position 2 「女」と「性」についての日記用メモ」
http://togetter.com/li/156643






ここで驚きとともにpostしていたオナホのあり方というのもある意味そういう人のあり方を象徴的に表してるように思った



ピンサロ通い20年のベテランがプロデュースする、究極の「フェラホール」!! - 日刊サイゾー
http://www.cyzo.com/2011/07/post_7765.htm




これは現代的な性の偏り、単なる快感の道具として女性を見ている男性の視点を象徴的に表したものであると一義には言える


(その意味ではシュールレアリズム展でみたエロ認識の表出と似てる)



シュルレアリスム展にいってきたYO!: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200983102.html




その姿はシュールに機能特化しすぎていて、なんだか魚のようにも見えた。特に横から見た図が



ちょうどそのときに別件で「進化のあり方」みたいな画像見ていたからというのもあるのだろうけど



単なるスイッチ的な快感にそこまで機能特化していった男性的な性のあり方というのは、歴史的に見るとなんだか滑稽であり逆に愛おしいというかみょーなペーソスがあるところがある


「空気人形」なんかも全体としては悲しい色合いの話だけど、男が人形相手に腰を振ってるシーンというのはなにやら滑稽だったり(実際、人の生殖活動は「愛」という幻想が伴わないとなにやら滑稽なものだと思う)



是枝裕和, 2009, 「空気人形」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/134634431.html






自分の中でもまだ性はギザギザしたところがあって、完全に融け合ってひとつになるようなことというのは経験的にないわけだけど


そういうギザギザ、暴力性とか滑稽さのようなものがなんとなく落ち着いて受け容れられた瞬間には、水としての生命の聲のようなものに意識が同調できてるんじゃないかって、理想としては思う


大樹に耳を当てるとコポコポって音が聞こえるように


人の性と生のあり方、その聲に耳を澄ませて聴くということが性的なコミュニケーションのあり方なんじゃないだろうか



そうやって互いが互いの音と聲に耳を澄ませてひとつの地点を創り上げていく(空気さなぎをつくるように)



それが性のあり方であり、結果的に次代の生命が創りだされていく



(性は生命への鳥羽口、換び水的なものとして機能し、その過程で2つの事象を創り上げていく)






そういうものではないかなぁと最近はなんとなく思ったりする






それが実感できたとき、自分はもはや「プールサイダー」的寂しさをもっていないのかもしれない



[書評]回転木馬のデッド・ヒート(村上春樹): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2008/04/post_21a5.html



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そして躍動を持って生命のプールに飛び込む(互いの水が換び水となる



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あるいは、あてどなく続く漆黒(ぬばたま)の水面に船を滑らせる


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Rebecca Horn    性と生の超越: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/133818125.html




http://bit.ly/kA8vT6
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2011年06月27日

屈せざるものたち




【フーコーの生権力論】生権力:ヒトという種における基本的な生物学上の特徴が、ある政治(政治的戦略、ある一般的な権力戦略)の内部に入り込めるようになるにあたって用いられる、様々な権力メカニズムからなる総体。−安全・領土・人口−


精神は、身体の周りで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出される。その権力こそは、罰せられる人々−より一般的には監視され訓練され矯正される人々、狂人・幼児・小学生・被植民者、ある生産装置に縛り付けられて生存中ずっと監督される人々に行使されるものだ。−監視と処罰−


身体は直接政治的領域の中に投げ込まれていて、権力関係は身体に無媒介な影響力を加えており、身体を攻囲し、それに烙印を押し、訓練し、責め苛み、労役を強制し、儀式を押し付け、表徴を要求する。身体のこの政治的攻囲は、複合的で相関的な諸関連に応じて身体の経済的活用と結びつく。−監視と処罰


国家装置と制度が作用させるもの[=身体の政治的技術]は、言ってみれば、権力の微視的物理学に関連してくることであるが、その有効性の場は、言ってみれば、それら装置並びに制度の大仕掛けな作用と、物質性と力とを含む身体自体との間に位置しているといえる。−監視と処罰−


私の考え方だとされたことが多いのだが、「権力、それは悪だ」というサルトルの考え方は、私の考えとはおよそかけ離れている。権力とは戦略的なゲームのことです。権力が悪ではないということは、誰もが解っているはずのことである。−自由の実践としての自己への配慮−



国家装置と制度が作用させるもの[=身体の政治的技術]は、言ってみれば、権力の微視的物理学に関連してくることであるが、その有効性の場は、言ってみれば、それら装置並びに制度の大仕掛けな作用と、物質性と力とを含む身体自体との間に位置しているといえる。−監視と処罰−



私のやっている、哲学[=真理の政治学]における権力メカニズムの分析とは、「我々の社会の中で展開される闘争・対決・闘い」と「その戦争の諸要素である様々な権力戦術」によって生産される様々な知の効果がどのようなものであるかを示すことを役割とする。−安全・領土・人口−


命令形の言説によって貫かれていたり下支えされたりしているだけの理論的言説や分析などは存在しないということ。なすべきことに関する次元は現実の力場の内部にしか現れえない。この力場においては、語る主体が単独で自分の言葉から出発して創造することなどはできはしない。−安全・領土・人口−


「技法 kunst」はその派生語(「凝りすぎる verkünsteln」「ふりをする erkünsteln」「気どった gekünstelt」)とともに、『人間学』に繰り返し現れる用語の一つであり、また最も翻訳しにくい用語の一つである。−カントの人間学−



制度としての政治権力の理論は、普通法的な主体の法律上の概念に基づいているが、それに対して統治性の分析(可逆な諸関係の総体としての権力の分析)は、自己の自己への関係によって規定された主体の倫理に基づかなければならない。−主体の解釈学


プラトンからデカルトを経てフッサールに至る、根源性という方向。2.プラトンから聖アウグスティヌスを経てフロイトに至る経験的拡張の方向での連続的な歴史。このどちらの場合も、明示的にであれ、暗黙の内にであれ、主体の理論が練り上げられずに、背後に残されてしまう。−主体の解釈学−


個々の道徳的行為は、必ず特定の道徳的振る舞いに依拠し、道徳的振る舞いは必ず道徳的主体としての自己自身の編成を要請する。更にまた、この道徳的主体の編成は、〈主体化の様式〉なしに、またそれを支える〈修練〉と〈自己の営為〉なしにはありえない。−快楽の活用−


私が提供しようとしているような型の分析によって、「権力」「統治性」「自己と他者達の統治」「自己の自己への関係」、この四者は連鎖して網目のようにつながっていること、これらの概念を中心にして、政治の問題と倫理の問題を連結することができなければならないということが解る。−主体の解釈学−


「技法 kunst」と派生語が指示するのは、何らかの技芸や技術ではない。何かが与えられる時、必ず人間の企てという危険に曝されるという事実が指示されている。人間の企てが立ち上げられると共に危険が根ざすのだが、この企ては全く同時に危険を避けるために自由意志に訴える。−カントの人間学−















最近クーデルカの写真展にいって



夜が明ける前に ジョセフ・クーデルカ写真展「プラハ1968」
http://soraartistname.blog42.fc2.com/blog-entry-49.html





「なんとなく感じることがあった / ちょっといろいろ思うところがあって観に行って刺激喚起された」のでつらつらと




これを観に行こうと思ったのは「写真というのがなんかわかんないから」がまだあるので


サルガド展でいちおなんとなく「写真も面白いものかもしれない」と思ったんだけど、




サルガド展にいってきたよ  アフリカという神話と複製技術の行く末: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/134989378.html




あれはサルガドがかなり特殊だったってのもあるのだろう(かなり絵画的だった



「わかんない」の内容としては武芸における武器術と体術の違いと同じように、「道具を介して自分のリアルな実感を操作する感覚がわからない」みたいなの


メディア論なんかやってるし字義としてはわかるんだけど、、、


武術なんかの場合だと「とらわれないように」って言い方がある


「身体や道具にとらわれないように」「そこに居つくことになるから」「居つくと動きがわかりやすくなるから」「そこに居ついてる(そこを中心に攻撃してくる)のがバレバレになるから」「結果的に体と武器が離れてさばきやすくなる」


そういう感じで、武器(道具)は身体の一部として使うように思うんだけど、そうでありながら「武器の好きなように動いてもらう」って感じになる


けっきょくのところそれは重心の問題で、武器の重心と身体の重心の止揚というか…

身体の内部でもいくつか重心や力の始動点を分散させて、それらを最終的に一点に統合させて発露させるっていう…まぁ書いてみると複雑なことしてるわけだけど(そんで、それは字義であって、自分的にはまだ実感としてはマスターしてない




そういう「道具は一体でありながら勝手に動いてくれるものであり、それでいて一体だ」っていう感覚


そこから生まれる「日常的な自分の捉え方では捉えられないようなリアリティを捉えられる」…そういう(ベタに言ってみれば)「ハイパーリアル」を実現させるような道具(メディア)の底力のようなもの


それがカメラっていう複製技術時代の嚆矢ともいえるようなメディアの使用術の中で体現されているのなら、それを確かめられたらいいなぁってぼけーっと思ってる


なんだったら「絵画」を超えるようなリアリティの体現




それはサルガドのときにおぼろげに感じたように思った

(白黒という色彩の限定、カメラというリアリティの限定を通して却って「リアル」な陰影 → 光が表現される感覚)



クーデルカにも半ばそれを期待し観に行った



あとはいまの情況に合わせてつらつらと思うことがあったので





展示されていた写真群は1968のソ連によるチェコ侵攻、結果としていわゆる「プラハの春」につながる社会主義国家の市民革命的な気運の萌芽につながっていった歴史的事件を追うものだった



ソ連を中心として社会主義→計画経済が実施されていたがいつまでたっても国が豊かにならない…そのことに焦りをもった諸国の疑念を一気に圧し潰すが如く、またアメリカほか西側諸国への牽制も兼ねてか、ソ連はいきなり軍事力という暴力の牙をむいた



「うわwwまじww   ……冗談だろ」といっても通じないぐらいに留まってくれない津波や地震のように


「なにも悪いことをしていない」人々の希望を踏みにじる不条理として暴力の長靴とキャラピラの音が石畳に響いていった




多くのチェコ市民はそれに反目しつつも圧倒的な暴力の差に諦観をもって臨み、またある者は浮かれて同調し、またあるものは自己の不安を払拭するように無謀な打ち壊しに参加し、ある者は死を覚悟して兵士に向かって直談判した


Invasion 68
http://bit.ly/iZ4ttw



老人の瞳が語る


「何回も繰り返されてきたことだ。何を言っても無駄。悲しいが仕方がない」


いや、「仕方がない」ではなくただ言葉にならない思考のしびれのような低い停滞を抱えてぼんやりと戦車の群れを見送った




その様子に直近の日本での地震災害とそれに伴う原発事故、原発事故を囲む「運動」的なものを思ったり



運動への関わり方も人によって異なるので一概には言えなくて、中には真摯に観想的態度の中から「ここだけは譲れない」というラインを防衛するために声を発していく人々もいたが、中には明らかに思慮もなく祭り的にそれに加わる人々もいた


不安を払拭するために「ただしさ」という神輿を担ぎ、内容いかんに関わらず「正しくないもの」を叩くことで自分たちが「ただしいもの」に繋がっているという安心を獲得していく人々



その景色は1968年のチェコにもあったようだ




「若い思考」がある限りそれは続いていくのだろうけど



ポーランド / 反核的なものが関わるというと吉本隆明の「反核異論」が思い出される



吉本隆明、1982、「<反核>異論」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/108002595.html



そこでいわれていた「現状をみずに」「単に理念的に運動(祭り)したかっただけではないですか?」というのは直近のこれにもつながる



M.ウェーバー、1919、「職業としての政治」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/211827975.html



「ロマンティシズムに走り過ぎることでリアリズムが忘れ去られてしまう」ということだけれど






かといって「リアリズム」だけで土壇場の現状が回るのか?、といえば判断留保されるところだろう





ふたたび1968年のチェコに戻れば、抗議運動などすれば殺されるの当たり前な情況だったのだから本来なら抗議などすべきではなかった


市長がいうように「市民自らが暴力行為を仕掛けず、暴力が行き過ぎるのをまってください」というのが合理的判断としてはただしい





しかし、彼らは抗議する





そうすれば殺されるかもしれないと分かりきってる情況の中で





その延長としてソ連への直接抗議団が使節される




プラハ侵攻を受けたチェコの新聞紙かなんかが、ソ連党本部に抗議をしにいった代表団について書いてた文章が印象的だった



正確な内容は忘れたので自分の印象を中心とした大意を言うと、



「われわれはすでに死んだ人間だ。いつ殺されてもおかしくない被支配者だ。 そして、君たちがわれわれの『代表』としてソ連本部に乗り込むということ、それは党本部で抹殺され、歴史の闇に葬られることを半ば当然とすることだ


 それでもなお、君たちは我々の代表として臆することなく訴えねばならない。まさに死を賭して、あるいはそれさえも生ぬるいような決死の覚悟で、だ。 それができないものはいますぐわれわれを『代表』することをやめたまえ」




というようなものだったように思う




「それでもなお屈せざる意志」 を表すこの一文はそのままウェーバーの「職業としての政治」の最後の檄文に通じる。



政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能ごとを目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。


しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない


いや指導者であるだけでなく、――はなはだ素朴な意味での―― 英雄でなければならない。


そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。


自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―― 自分の立場から見て ―― どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。


どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。



そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。






そして「民族」としての、あるいは「市民」としての屈せざる意志というのは最後の授業のことを思ったり



最後の授業 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%8E%88%E6%A5%AD






そういった「意志」というのは合理性や表面的な利害関係を超えたもっと力強いもので


それは反面、狂気のような危うさを持ちつつも、人を牽引していく強さのようなものを併せ持つ




グスコーブドリのように: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/163308380.html




歴史は、合理性に基づいた「進歩」的なスケールだけではなくて、こういった狂気のような意志が関わって動かしてきたように思う





しかし、それはあくまでも心情(感情)的倫理であり、行動の最初の資源としての情熱に過ぎない


それを元にして、たとえば怒りに任せて<他者>を断じ、交渉を排除しているだけでは事態は進展しないことがしばしばとなる




政治的交渉(外交)は利害関係にあるものたちが立場や思想の異なった<他者>を調停することを本分とする、はず




「われわれは同胞を、家族を殺した彼らを決してゆるさないし忘れないだろう。  

 しかし、利害のテーブルを同じくするわれわれがそれを調停するために交渉に当たることはそれとは別の事柄だ」


という冷静な認識に基づいたタフな交渉


それをもってはじめて自分たちの同胞を困難な情況からより良い事態へと導くことができる




そういった交渉を可能にするのは政治的情熱であるとともに一定の技術・術理(クンスト)なのではないか?





たとえばかつて、明治の公共圏的なものとして「江湖」的なものが日本でもモデルネとされたことがあったようだけど



公共圏の歴史的創造 − 江湖の思想へ
http://bit.ly/krs9tw


江湖 - Wikipedia
http://htn.to/5NGS4d



その元となった中国武侠的な江湖において公共性的な意識が共有され機能していっていたのは、「私心を廃することを前提としてカ完遂するような『おおやけ』を元にした強烈な目的意識を共にしていたから」というのもあるのだろうけど、「彼らが武術というクンストに通じていたからではないか?」と思うところがある。


武術というクンスト、「己れを消し、自らと相手を冷静に観察し、突破点を探る」というトレーニングに慣れていたのが「私心を廃しおおやけに尽くす」ということにも繋がっていったのでは?



同様のことは「職業としての政治」にでてきた官吏にも思った


彼らのマシーンに徹するような術理の徹底

官吏の場合は「政治家から発せられた政のプログラムを行う」という「プログラムの徹底的実施」(知のインデックス化)的なそれだけど


同様に政というプログラム(コード)を書く人々にもプロフェッショナリズムの徹底は必要だろうし


また、


それらを<他者>との交渉に活かす際には交渉術という術理も必要になってくるだろう



そして、そうやって統制され錬成(止揚)された情熱と冷静が不屈の「意志」となり<他者>という岩を穿つ乾坤の一滴となっていく



フーコーがたびたび謎ワード的に「権力に対抗するにはをクンストが必要」みたいなことを言っているけれど、あれはこの辺りに通じるのではないか?(未確認ながら)


けっきょく権力、というかその元の資源による煩悩(性や金その他)を統制するのがクンスト?



(あと、そういった基本線のほかにその場ごとの独特の事情・要素に配慮したエゴの調整の必要性があるし、日本の江湖、あるいは「講」や「結」などといった協働的場面でもそういった場面があったように思う)





そうやって統制された「意志」をもって情熱という狂気(デーモン)を統制し、事を成していく








ふたたびクーデルカを観に行こうと思った理由をぼんやり



クーデルカはアンゲロプロスの「ユリシーズの瞳」のスチール撮影に関わっていたそうな


Sightsong: ジョセフ・クーデルカ『プラハ1968』
http://pub.ne.jp/Sightsong/?entry_id=3727916


夜の約束まで時間があって、4階の図書館を覗いた。目当ては、1997-98年に写真美術館で開かれた『ユリシーズの瞳 テオ・アンゲロプロスとジョセフ・クーデルカ』の図録である。映画もテレビも見ないというクーデルカだが、テオ・アンゲロプロス『ユリシーズの瞳』(1994年)のスチルを担当したのだった。従って、ギリシャ、マケドニア、アルバニア、ルーマニア、旧ユーゴを旅した記録になっている。

寒そうな雪景色のマケドニア、主演のハーヴェイ・カイテルが眉間に皺をよせて、車の中から不安そうに外を眺める瞬間。孤独な犬。図録にはクーデルカの言葉も引用されている。




(ああ、しまった図録がおいてあったか。。)




テオ・アンゲロプロス『ユリシーズの瞳』DVD評 yohnishi's blog (韓国語 映画他)/ウェブリブログ
http://yohnishi.at.webry.info/201105/article_24.html

 ハーヴェイ・カイテル演ずるギリシャ出身の映画監督Aが探す映画が20世紀初頭にギリシャで初めて映画を撮ったマキナス兄弟が撮影したはずのバルカン半島に関する未現像の記録映画。
 もちろん20世紀の初頭に撮った未現像のフィルムが100年近くも経って現像できるはずもない。フィルムが冷凍されていれば、フィルムの未現像の潜像が残っている可能性はあるが、常温で保管していれば化学反応が進行し、潜像は消えてしまっているはず。
 だからマキナス兄弟の撮った未現像のフィルムとはちょうど『薔薇の名前』に出てくるアリストテレスの「失われた」、『詩編 第3部』と同じ役割を果たしている。

 つまりそれは、失われたバルカン半島の平和な人々の暮らしや文化の象徴なのであり、それをふらふらと彷徨しながら探す行為は、バルカン半島の平和を取り戻す難しい道のりのシンボルなのである。だからこそ、Aはサライェボへと向かうのである。

 そしてドナウ川を運び出されるレーニン像にも、そこに象徴的な意味が込められているのは当然。




これは以前に講義で見さされてねてしまったんだけど(cf.「子どもが寝つかないならアンゲロプロスの作品をみせるがいい」)


なんとなく気になっていてもう一回みようと思っていた



クーデルカを観に行ったのは半ばこの作品を消化するため



あるいはこの作品の文脈を自分なりに昇華していくため




アンプゲロプロス単体で言うと、ギリシアというヨーロッパの中で翻弄された地を中心に、ヨーロッパ全体の、あるいは人類全体の戦争の歴史を淡々と振り返っていく作風のように思う(個人的にはその地政学的配置は沖縄を想わせる



テオ・アンゲロプロス - Wikipedia
http://bit.ly/iHzPnm


『シテール島への船出』- 左右対立解消後の虚無感を描くアンゲロプロスの映画 yohnishi's blog (韓国語 映画他)/ウェブリブログ
http://yohnishi.at.webry.info/201106/article_10.html



「淡々と」というか、ロマンティックで安易な楽観を廃して


クロアチアやスロヴァキア、スロヴェニア、あるいはイスラエルといったヴァルカンや地中海周辺の爆弾のような地域に暮らす人たちが現実に疲れないために保ち続けているような瞳の有り様がそのままアンプゲロネスやクーデルカのカメラ眼のテンションにも共通するのだと思う



その瞳はホロコーストをみつめ、ヒロシマをみつめ、ギリシア、ヴァキア、十字軍、あるいはトロイアの戦乱を見つめてきた


そういった瞳からヒロシマ的なものに対して外国人がしばしば持つオリエンタリズムともいえるような幻想を、あるいは日本人内部にもあるような仮託された物語のようなものを見つめ直していきたい



彼らは単純に「いい人」で、それがゆえに良心をもってヒロシマを語ってくれるのかもしれないけれど、それによってヒロシマの人々が実際に生きてきた経験や葛藤が塗り替えられていくこと

前景化された「良いヒロシマ」がドライブされて「生活としてのヒロシマ-広島」の問題がなかなか解決されていかないこと

それを部分的に揶揄するように、一部のワカモノが広島の空を汚し、フクシマに対しても中途半端なコミットをし人々の感情を混乱させたり逆なでしたりしていること


webDICE - 骰子の眼 - 原爆ドームの空に“ピカッ”で『Chim↑Pom─ひろしま展』中止となった問題を考える
http://www.webdice.jp/dice/detail/1103/



そうやっているうちにヒロシマの第一世代は失われて、歴史や記憶が途絶えていってしまうこと


そういう事に対して鈍感だったりする




それを諦観や苛立ちをもって眺めていたけれど、もう少しきちんと見つめ直していけるのではないか



ホロコーストやギリシアの蹂躙、あるいは東西冷戦の境界に立たされた小国に暮らす人々の苦渋や葛藤、不屈の魂のようなものが、ヒロシマとホロコーストという「違っていても共通する」というびみょーなキャズムのようなものを埋めていく思考のきっかけになってくれるのを期待する













おそらくわれわれの間のキャズムは翻訳不能で、



「ヒロシマ、私の恋人」&「二十四時間の情事」 マルグリット・デュラス : FRENCH BLOOM NET-INFO*BASE
http://cyberbloom.seesaa.net/article/50348476.html

「ロスト・イン・トランスレーション」:英語映画レビュー
http://www.eigotown.com/culture/film_review/contents/lost.shtml




ともすればその歴史的重層性の違いや個人的な生きられた経験の重みから軽重の違いがあるのかもしれないけれど




存在の耐えられない軽さ : 賢者の図書館 (Under Construction) : livedoor Blog(ブログ)
http://bookdiary.livedoor.biz/archives/51527698.html





それでもなお、啓蒙や理性といったゴリゴリの圧力とは違った形で、なんとはなしの親和性のようなものが生まれることを、閑かに期待したい







--
関連:
ジョン・ダワー、2004(1999)、「敗北を抱きしめて(上)」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/109044299.html


<ヒロシマ>ということ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/39864267.html



東琢磨『ヒロシマ独立論』を読む。:2007-08-29 - 【海難記】 Wrecked on the Sea
http://d.hatena.ne.jp/solar/20070829#p1



哲学するサラリーマン: バタイユのヒロシマ
http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/1376217.html



生きる術はそばにある (ホロコースト-安保-自閉→自殺  / ブランショ-レヴィナス / 「生きていてすまない」)
http://www.cokes.jp/pf/shobun/html/tyosya/index.html



夕凪の街桜の国
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Sightsong: ミラン・クンデラ『不滅』
http://pub.ne.jp/Sightsong/?entry_id=2499714

タグ:ヒロシマ
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2011年06月16日

「愛する」ということ  「汎愛」/「他者」/「差別」/ 「聲」




I am no bird, and no net ensnares me; I am a free human being with an independent will.


Charlotte Bronte













人の内部には言語以前…人工的につくりだした言語では表せないような複雑性が潜んでいて、それが「ほんとのひと」なのかなぁ、と思ったりする


合理性・論理性では説明がつかないような…

それは社会的には「わがまま」とか「独善的」とか「意味が分からない」とかいうことになるのだろうし、自分も他人がそういう傾向があると付き合い難いものだけど


でも


「社会」方向に自分をスポイルしすぎてる人というのも付き合い難い(というか面白みがない


近代において「公/私」の分化の中で誕生した「私」は、その前提としてどんなにわがままに振舞っているように見えても「公」(社会)の影響をうけるのだろう


<その「わがまま」は「公(社会)」への反動、影に過ぎない>という程度に



そういった中で



言語化以前になんだか知らないけど、自分の中の理屈としても説明できなくてみょーな感じなんだけど、たまに現れる 聲(こえ) がある



それはなにか天啓のようで



人というのはけっこうそれに従って人生を決めていってるように思う



男性なんかの場合はどうしても「社会」をメインにするように染みつけられているから、それを表面的には否定するように振舞うけど


女性のほうがその傾向、 聲 に従う傾向は強いのだろう



「女性は子宮で考える」的なアレ



アレは揶揄ともいえるけど、性を運動≠身体として捉えた場合、それは理にかなってるのかなぁって



Togetter - 「position 1  「立つこと」「動くこと」「生きること」「性」「動くこと」「思考すること」」
http://togetter.com/li/147666



そして、それが人の中の「他者」ということなのだろう



それをある人は「神」とか「天才」とかいうのだろうけど、よくわからない、人によって呼び方が違う


Togetter - 「身体の零度   零じゃなくても語る身体」
http://togetter.com/li/146559







また、あるひとにとってはそれは「鳥」ということらしい



「自分はひとではなく鳥なのかもしれない 鳥の方に近いのかも」



よだかの星でありかもめのジョナサンかなぁってちょっと思うんだけど



I am no bird, and no net ensnares me; I am a free human being with an independent will.



「わたしは鳥ではない  でも、どのような網もわたしを捕られない  
 
       わたしは自由   意志をもった自由な人間であり個人だ」




鳥は自由なように見えて常に羽ばたいてなければならないので疲れそう

風に乗れば良いのだろうけどそこに行くまでは羽ばたきが必要だし、滑空系じゃない鳥もいる



「飛んでるように(自由に)行動するだけだ」
http://morutan.tumblr.com/post/6570737963



そうはいってもこんどは「飛ぶ」ことに囚われたり



空を見上げることは人の原初的な願いなのかもしれないけれど
http://morutan.tumblr.com/post/6570748223/pinto-perfume-kashiyuka







「女の中に他者がいる」あるいは「それこそが女」

それは当人の意志では止められないもの



というのは「愛すべき娘たち」のメッセージであったように思うけど

愛すべき娘たち (Jets comics)
よしなが ふみ
白泉社



同時に女たちは愛を求めていて、「人を愛する」ということは差別だったりする


本来の愛が他者への献身であるのに対して、「誰かを愛する」ということはその道から外れることとなる



その変態を恋愛という




生まれたときには誰も愛していなくて、保護者である母親をなんとなく「好き」って感覚があるだけ


それもしばらくの間は「好き」ではなくて、段階的に「それは 好き ってことなんだよ」ってインプリンティングされていく


それにともなって周りの人の振る舞いから「好き」に付随するコミュニケーションの形、面倒が起こらない(褒められる=ご褒美を与えられる)コミュニケーション様式をインストールしていく



そうやって鏡像的に概念をインストしていく



男の子の場合は一般的に母への愛がまず最初にあるように思う

女の子の場合も同様だけど、「同性」ということで母親からのコンプレックスが入る(男の子の場合も「溺愛」のようなものが入ってしまうことがあるが)



そういった動物的な、環境によって包まれた愛、包袋(えな)にくるまれているような愛?から、ある程度「個人」(≠主体性)が固まってくると離脱していく



あるいは、ほぼ同時期にともだちの間で課題とされていく「○○ちゃんが一番好き」的なもので



だんだんと、ほぼ自然に「愛すること / 差別すること」が当たり前の感覚として備わっていく


あるいは


反照としての「自分だけを愛して欲しい」「甘やかせて欲しい」という感覚



ときにそれが「愛」として勘違いされる






おそらく「愛するということ」はその中間、「汎愛」と「目の前の他者である恋人(あるいは友人)をその瞬間だけ特別とする」の中間にあるものなのだろう


2つはアンビバレンツなんだけど、それをなんとなく同時にやっていく。矛盾しないようにやっていくというのが「愛」の形なのかなぁ、とぼんやり思う



(世間一般で安っぽく言われる「愛だよ愛」「世界は愛で満ちている」という言葉には「差別すること」の痛みと重みが引き受けられてないように思う)







「人類は智慧の実を盗んでしまったがために楽園から追放された」あるいは「人を愛し、智慧を授けようとしたのでアザゼルは追放された」と言われる


Togetter - 「「鋼の錬金術師」と「よんでますよ、アザゼルさん」と白田せんせについてのメモ」
http://togetter.com/li/149140




人が神の愛、汎愛から逸脱し「特定の誰かを差別的に愛する」ことを受け入れたとき、それと同時にして智慧が授けられていった


論理であり合理というのはその辺りなのかな。智慧の実ということ



「差別的な愛」と「智慧」の2つの関係が因果なのかどうかは分からないけれど、少なくとも同時のことだったような





三位一体というのはあるいはその辺りの矛盾を解消するための方便だったのかな、とも少し思う




夜を愛し、余すところなく死んで、三位を統べる: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200174686.html


本覚ドライブ  通過儀礼としての「翁」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/202908554.html




祈りのように稽古を積むことによって、それらの矛盾を自分の中で昇華するような 聲 が、いつか聞こえるのかなぁ、と







稽古\(^o^)/オワタ 今日は自由演舞みたいな感じで主に踏み込み意識して。たぶんきちんと馬歩できるようになったので満足行ける踏み込み+足にダメージなしっぽい


虎拳はモーションでかいから不用かと思ってたんだけど稽古にはいいなぁ( ^ω^)・・・槍の力感出せるような気がする



槍術用の槍。小さいほうで7000円(2m)ぐらい。大きいほうで2万(3.4m、4kgぐらい) 重量だけで言えば4kgアレイでいいかぁ。。(もしくはリストバンド / みんなの鉄山靠  [090] 大杆子@:ご購入の前に http://htn.to/AK5Sv7



稽古 \(^o^)/オワタ 踏み込みのときの基底部位を再確認しつつ八極。準備運動的にバランス各種と四股。あと、各部位を確かめるように舞って、足首と外側からの踏み込みとか再認識。最後にふつーに「立つ」を一本歯下駄でしばらくやる





最近はこんな感じ


基底部位の確認と染みこませ。連動的なの


自分の中で「基本となる身体運用」をきちんと理解してから応用に移りたい



そうはいいつつもやはり「型」を通じて割れていくというところもあるのだろうから「型」もできるだけきちんと抑えつつ


また、


型に準ずるような門派の独特の鍛錬法も踏襲したほうが良いのだろう。昔の人のほうがその辺の合理性はあったりするし。





「槍が欲しい」もそのひとつ




でも、その前に木刀が安かったので買ったけど
http://movapic.com/morutan/pic/3720517



使ってるとたしかにふつーの筋トレよりも良い手応えを感じる



失われていた半身が再生していく感じ(ぢっと手を見る
http://morutan.tumblr.com/post/6531264789/billyjane-profile-and-hands-1932-by-man-ray

hand.jpg







八極という馬を駆り、自分の中の他者を何処かへ導かん
http://morutan.tumblr.com/post/6529980340/blua-unknown



horse.jpg





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グスコーブドリのように: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/163308380.html


ナウシカ解読と正義の審級   ユートピアとベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/164690250.html


サヤカノキモチ  「善意」の内政不干渉について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/192656763.html


幸村誠、2011、「ヴィンランド・サガ」10: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199172708.html
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2011年06月02日

古刀と八極と「( ゚Д゚)<サムライさいきょーーー!」について





この刀から呼び覚ます


鉄(くろがね)の中に眠る純白を  紺碧を
 


真夏の蒼穹よりも黒々とした青を―――




刀を万象と見立て天地と見立てた……


それ自体は悪くない  美しいものはみんなそう




ただね…




どこまで行っても刀は刀  人を斬る為にだけに在る刃物


刃物として与えられた命を全うしてこそ美しいのですな  そこを忘れるとおかしなことになる



刀に囲まれていたからこそ刀が見えなくなったのか 美という言葉にとらわれたか  研いでも研いでも満足できなくなってしまった 



おかしなものです ふふ



私はね武蔵殿

……刀を究極に美しくあらしめるためには――




刀であってはならないような気がした












表面に美しい模様が出ているだろう

これはダマスカス鋼といって硬度の異なる数種類の金属を混ぜて鍛えたものだ


このブレードの材料はスクラップの部品だって話だ

全宇宙を通じてこのクズ鉄町でしか作りえない究極のダマスカス鋼なんだそうだ



不純物が鋼に生命を宿し しなやかで粘りがあり 強靭なダマスカス・ブレードになったのだ











  ただ一条の鋼(スティール)       レザーエッジになりたい










昨日、刀剣博物館でやっていた古刀・新刀展にいってきたので関連でもそもそと



ご案内 ― 財団法人 日本美術刀剣保存協会
http://www.touken.or.jp/museum/


出品されていた刀はこんな感じ

http://www.touken.or.jp/museum/images/list_001.pdf



古刀は鎌倉初期から室町末期まで


新刀は江戸前・中・後期とバラバラだったようで、新々刀も混ざってたかもしれない


ていっても、明確にコーナーわけされてて、新刀は「( ノ゚Д゚)<(刀身ではなく)主に拵えをみてくださーい」とか「( ノ゚Д゚)<刃紋をみてくださーい 美術品として『パレットとしての刃』って感じの時期もあったから美しい刃紋出てるでしょー?」、って展示のされ方だった


なので古刀メインでみていった。もともとの目当てもそうだったし



てか、本題に入る前にいちお前提知識を出しておくとこんな感じ


★  「古刀」・・・文禄末年・慶長初年(1596年)以前に製作された刀剣類
     
★  「新刀」・・・慶長初年(1596年)以降に製作された刀剣類
     
★  「新々刀」・・「新刀」のうち、特に明和年間(1764〜1772年)以降に製作された刀剣類
     
★  「幕末刀」・・「新々刀」のうち、特に幕末に製作された長寸豪壮な実践用刀剣類
     
★  「軍刀」・・・明治時代から第二次世界大戦中までに軍隊で用いるために製作された刀剣類
     
★  「昭和刀」・・第二次世界大戦中に製作された「軍刀」のうち、
                   日本古来の伝統的な鍛錬法によらず製作された刀剣類
     
★  「現代刀」・・第二次世界大戦後、昭和29年(1954年)より文化庁の製作承認を受け、
                   日本古来の伝統的な鍛錬法により製作された刀剣類

http://morutan.tumblr.com/post/6098757596/1596


もそっと詳しいのだとこの辺とか



Togetter - 「初心者向け日本刀な話(簡易版)」
http://togetter.com/li/14821





Togetter - 「日本刀鑑賞の基礎知識」
http://togetter.com/li/120948





Togetter - 「現代日本刀あれこれ」
http://togetter.com/li/96448





ざらっとアウトラインを言えば、「鎌倉の蒙古襲来のとき、それまでチンタラとした名乗り合い - 一騎打ちな国内戦闘をやっていた鎌倉武士たちが元の集団戦闘術にビビって戦闘法やその礎となる武器の形そのものも見直し、あたらしい戦闘法・武器の形を編み出していった」、ということ。


元はこの時代、おそらく最強の戦闘集団だったはずで、「船で輸送」、って形でもなければ本来なら日本なんか簡単に凋落できてた。馬が使えれば、その機動力を元にした自由な戦隊の編成法によって戦略-戦術面で他の国を圧倒的に凌駕していたので。簡単にいえば常に3対1ぐらいの局面で相手を圧倒できたし、機動力を活かして補給のところから相手を封殺できた。戦略と戦術の間みたいな機略が使えた。なので、当時の元に叶うところなんかなかった(ソレが元でゲルマン民族の大移動も起こったようだし)


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だから、本来なら日本なんかけちょんけちょんにされてたはずだったんだけど「海を隔てた遠征」ということで補給路が伸びたこと + 「元本来の持ち味である集団的騎馬戦術の妙味が発揮できなかった」ことが日本に幸いした。 あと、あったんだかどうだかしらないけど「神風」とかそんなの



そこで片手落ち的なモンゴルから九死に一生を得た日本武士たちは反省して「使える刀」を開発していった


「反りの入った日本の刀(太刀)」は馬上からの攻撃に適するように開発されていったものだし、直刀でも切っ先にかけてやや反りがあるのは単なる直刀よりも「引き」の理合を使えるからではないか?と推測される。このあたりの「理合に即した武器の開発を」と「武器に即して理合が生まれていった」というのは循環論的な鶏と卵だけど、まぁ置く



とりあえずそうやって開発され収斂されていった「日本刀」を用いた刀術は中国だと明代、日本だと豊臣秀吉の朝鮮出兵の折には極まってきていたみたい。個人的には当時の世界においても白兵戦において最強だったのではないかと思う(理由は後述)


朝鮮出兵において、「日本のサムライが朝鮮を圧倒し、恐れられた」みたいな記述は「へうげもの」や「一夢庵風流記」なんかにも見られた





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そもそも秀吉の朝鮮出兵は朝鮮との戦いと言うよりは日明戦争でした。明軍単独の戦闘は八度だけらしいですが、主な戦いのほとんどは明軍が指揮を行っていたし、兵力の過半数は明軍でした。倭寇の時代から、中国人は日本の剣術の威力に驚き、日本刀を真似て「苗刀」を作り、日本の剣術を真似た「倭刀術」を生み出しました。^^

また、日本の剣術は海を渡って明にまで伝わり、「武備志」には日本の新陰流についての記述があります


http://tumblr.com/xau2scmuez


 欧米人が見たサムライの戦闘能力


ロバート・フォーチュン 「幕末日本探訪記」の記述

 「その辺りの平地の所で、サムライが始終教練を行っているらしい。囲いの高い柵や潅木の茂みで視界がひどく妨げられたが、時々兵隊の旗や、槍が見えた。大名達は彼らの藩兵に、戦争の技術を絶えず訓練させていたのである。そのころ江戸の大名屋敷の傍らを通ると、剣術をやっているような、喧(かまびす)しい物音が聞こえた。私が江戸に滞在している間に、同じような音響をしばしば耳にした。
 もし、不幸にして、ヨーロッパ諸国が日本と戦うようなことが起こったら、日本人はシナ人よりも非常に優勢なことが判るだろう。同時に我々は、刀だけで戦うのではないから、勝負の結果については自信がある。しかし、そのような、日本人と戦うようなことは、遠い将来のことにさせたいものだ。少なくとも我々は、日本人が血を流さずに開国したことに、満足すべきかも知れない。」  

ラザフォード・オールコック 「大君の都」の記述

 「彼ら(サムライ)は、相当に熟達した刀の使い手である。小さい方の刀を使うときは、二度突く必要は無い。たったの一突きで相手に致命傷を与える。大きいほうの刀を使うと、ただの一振りで相手の四肢を切り捨ててしまう」


http://tumblr.com/xau2sco0t5




なぜ、白兵戦においてそれほどつよくなれたか?


それは先程も言ったように理合と関係する。



COMPLEX CAT : 剣術と近代剣道
http://complexcat.exblog.jp/10139034/


倭寇,華やかかりし頃,中国の刀術が全く刃が立たず,その圧倒的な強さから大陸の馬家(通備門の本家,大陸一の高手との誉れ高き馬賢達老師を生んだ名門)がその戦闘ノウハウを導入,研究して体系化したものが苗刀で,反りの少ない古式の長刀術ですが,これは,当時の苗刀がカモとして屠ってきたのはリーチや切れ味や速度に劣る中国刀,双剣,あるいは,リーチはそれなりに稼げても,軌道が単純で,寧ろ裁断的な機能は劣る中国の長剣ですので,日本刀から発達した剣道は,苗刀においても簡単な相手ではないのではと思いました。
 この場合も剣道との試合形式としてルールの中で,対長刀(なぎなた)の試合と同様「脛」を入れるようにモディファイされています。



通備門は八極にも伝えられてその威力を珍重された、とのこと(中間距離の攻防に革新、だったっけな?(発勁のより有効なやり方だったかもしれん。。


そんで八極というとこの辺とか


通備門系の通備,八極,翻子拳においては,この苗刀の動きと全く矛盾のない同じ勁道と理合を使っており,戦闘が無手であろうが,他の兵器術によるものであろうが組み込まれているものは全てが不可分であるということを意味しています。
 私は苗刀を習ったことはありませんが,次の練習風景を見ていて,びっくりしましたというか,当たり前なのですが,全く自分の習ったものが無手であるにもかかわらず理合がそのまま理解できたからです。







たしかにこの下半身とか、それと身体全体の連動の仕方は八極拳っぽい。背中の筋肉の意識なんかも…。もそっと詳細に見ないとわかんない(トレースしてみないとわかんない)かもだけど


個人的に、八極は槍術ベースであるがゆえに中間距離の刀術的なものでの形意ごっこというのはあまりしっくりこなくて…それもあってか刀術ってのは苦手だったんだけど、下半身をああいう風につかっていいのなら、もしくはあんな感じでちゃんばらっぽく刀を使っていいのなら自分的にも動けるかなぁ、って感じがしてきた。


その際、大事なのは刀の長さっぽい


今回の博物館詣ででもその辺を念頭に置きつつ、最初は美術品としての刀の価値基準を自分で見いだせるか試していたのだけれど、次の課題として「この刀で舞うとしたら…?」ってのを自然とやっていた


二尺二寸、二尺四寸、二尺六寸……


ショーケースの中におさまったそれぞれの刀の前で、実際に自分がそれを手にとって動画で見たような八極風?な刀術が舞えるかどうか、かるく体を振ってみた



一番しっくりきたのは二尺二寸、いわゆる戦国太刀とよばれる室町後期周辺の刀や太刀たち


太刀は通常長さを基準とするのだろうけど、自分的には幅広な、いかにも頑丈で通常のものよりも重みもあるようなそれらがは長さ関係なくまとめて「太刀」って感じがした。

刀幅は感覚的に通常の刀の1.5倍ぐらい。重量もそれに準ずるだろう。そうすると、それを無理なく振るに足る刀術が必要になってくる。通常の日本刀とは違った刀術


「足(下半身)を使う」というのはその一つの解のように思えた


「下半身を使う」というのは武道、とくに刀術なんかにはすべからく共通するだろうけど(cf.「腰を入れろ」)


もっと震脚っぽく、両足揃えではなく、局面を片足の踏み込みで打開・転換できるような脚の使い方



刀は短槍のように使うイメージ



そう思うと二尺もなくて良いようにも思って、ふたたび備前長船兼光の脇差し(一尺七寸)の前に戻って(架空ではあるが)手にとってみたらしっくりきた




「……あれで舞えたら気持ちいいだろうなぁ」、と



もしくは二尺三寸、小笠原秘宝の「正垣」。あるいは二尺二寸、青江「真垣」など。 いずれも幅広でジョーズなごとくな威容でござった( ^ω^)・・・あと、摂津の「長幸」なんかも人斬り包丁ぽくよかった


特に「正垣」は刃こぼれもいくつかみられて、わかりやすく「実用」な感じだった



ほんとは刃こぼれなしでも「実用」とか、「たましい」を吸ったり、込められてきた刀の威容(アウラ)のようなものを肌で感じられるようになるといいんだけど……残念ながらまだそこまでは


代わりに、なんとなくだけど刃紋よりも地金のように目がいっていたのが結果的に正解だったのだな、とこのとぅぎゃったーで確かめられた



Togetter - 「日本刀鑑賞の基礎知識」
http://togetter.com/li/120948






「鉄(くろがね)の中に眠る 真夏の蒼穹よりも黒々とした青」






それはなんとなく新刀のそれとは異なっていて…新刀のそれはなんだかおもちゃのように感じられた


「気のせい」ってところもあるのだろうけど、4〜6回ぐらい新刀と古刀の地金部分を見比べてなんとなく思ったり…




「玉鋼が入ってるかどうかの違いかなぁ( ^ω^)・・・?」とそのときは思ったのだけれど、帰ってから調べたら違うみたいだった


鉄鉱石を原料に溶鉱炉で溶かして抽出した現代の鋼(はがね)と異なり、江戸時代までは砂鉄を踏鞴(たたら)で溶かして《玉はがね》を抽出し、それを材料に刀剣を鍛造していた。  鉄に炭素を加え、高温で熱しながら鍛錬し、急激に水で冷やす(焼き入れ)ことで、刃物は硬度を上げ、その特性を生み出す。  刀剣や包丁など刃物の切れ味を上げるためには硬くしなければならない。  しかし、金属も含め物質は硬くすればするほど衝撃に弱く、脆(もろ)くなる性質がある。  このジレンマを昔の日本人は知恵を出して見事にクリアした。  すなわち刀剣は、比較的軟質で粘り気のある《心鉄(しんがね)》を、炭素量が多く硬質な《皮鉄(かわがね)》と《刃鉄(はがね)》で包み込んだサンドイッチ構造で「折れず曲がらずよく切れる」を実現した。  和包丁は刀剣の逆で、炭素量が多く硬質の鋼(はがね)を、軟質の鉄で挟んだサンドイッチ構造である。  従って、和包丁は日本刀と同じく《世界一切れる包丁》として世界中(特に欧米)が認めている。  その事実を知らないのは皮肉にも日本人だけである。
 

日本刀が世界中の刀剣類と異なり「折れず曲がらずよく切れる」構造上の理由を説明したが、この構造を編み出し日本刀の歴史を変えたのは鎌倉時代末期、相州(相模国・現在の鎌倉)の刀匠・五郎入道(ごろうにゅうどう)正宗(まさむね)だった。   それまでは《無垢鍛え(むくぎたえ)》といって、心鉄と皮鉄の複合構造ではなく同一素材の一体構造で造り上げていたので、切れはするが折れやすかった。  どんなに腕が上でも、勝負の途中で刀が折れたらひとたまりもない。  正宗が編み出し完成させた技術革新ともいえる鍛法は、瞬く間に全国の刀工に伝え広がった。  特に、名工や刀工業集団を輩出した五つの主生産地、つまり【五箇伝(ごかでん)】といわれる、大和(奈良)、山城(京都)、相州(鎌倉)、備前(広島・岡山)、美濃(関)の刀剣造りに革命が起きることとなった。


仏国弓道家団と日本刀 | 猪原金物店・コラム
http://blog.inohara.jp/?eid=850910



単純に「硬い」だけを追求しただけでは折れやすくなる


なので、芯のところは軟質な「心鉄(しんがね)」を、それを硬い素材(「皮鉄」と「刃鉄」)で覆っていく


「正宗は画期的(エポックメイキング)」とされるのはそのあたりだったのだろう



これはそのまま軍刀にも引き継がれていった


満鉄刀

心鉄、皮鉄の張り合せ(モナカ構造)を科学的に造刀した近代刀。
百歩譲り、張り合わせのモナカ構造なら満鉄刀のように科学的に造刀しないと心鉄が乱れて駄目な刀になる。


http://morutan.tumblr.com/post/6098788778



古刀のそれはちょっと違って、ダマスカスブレードっぽい

古刀

一枚鍛えの古刀は粘り強く実用性に優れ、美術性でも自然に地金の美しさが現れている。

一枚鍛えの近代刀の先祖といえる優れている日本刀


http://morutan.tumblr.com/post/6098809953


古刀は研ぎの感覚も「やわらかい」らしい


日本刀の材料となる鉄は、 たたら製鉄で得られる玉鋼で、 日本刀製作に適した質の良い鋼とされている。 玉鋼がなければ、 全国の刀匠が作刀の材料に困窮する。 現代の刀匠のほとんどが、 玉鋼を使っている。
 
 だが、 「 玉鋼は万能ではない 」 と、 少数の刀匠が考えている。 古刀の再現を目指す刀匠にとっては、 古刀の味わいある地肌や刃文などの働きなどと比べるなら、 玉鋼では限界があり、 物足りないものらしい。 古刀の味わいを求める刀匠は、 自らが材料となる鉄や作刀方法を探している。 「 近世たたら 」 による玉鋼の供給がなかった古刀時代における製鉄の有り様を再現しようとし、 また、 それに適合する作刀方法を見出そうと努めている。

  新刀時代の作刀法については、 江戸時代の文献により判明しており、 現代の刀匠もそれに習っている。 ところが、 古刀時代の作刀方法については、 未だに判っていない。 作刀法と同様に、 古刀時代の製鉄方法も、 よく判ってはいない。
 ある研師が言う、 「 古刀は研いだときの感触がやわらかい 」 と。 そして、 ある古刀の真偽が議論を呼んでいたときに、 過去にその古刀を研いだ研師には、 その経験から得られる研師独特の判断があるという。
 次に具体的な例をあげておく。

 「 研いだ感じ 」 を 「 砥 ( と ) 当たり 」 と表現する。 『 砥当たりの中には硬軟ばかりでなく、 粘りとか砥石の乗りなども入って 』 いる。
 『 新刀以降では地鉄が硬いと砥石が反発しやすく、 軟らかいとベタベタした感じがする刀が多い 』 。 『 新刀初期と戦国時代の刀とはかなり近い砥当たり 』 だが、 『 南北朝時代以前とは全く違います 』 。  鎌倉時代においては、 『 地鉄の質も最高の水準 』 にあり、 『 相州上位は最も軟らかく、 備前物は刃文の焼幅が広いだけに比較的硬い 』 。 『 新刀で大磨上げ ( おおすりあげ ) 無銘にされ、 相州上位や備前物などに見せかけたものは、 研ぐことによっても馬脚を現してしまいます。 』 
 ( 永山光幹 「 日本刀を研ぐ 研師の技 ・ 目 ・ 心 」 より )

 日本刀に惹かれたからには、 作刀の神髄に触れてみたい。  簡単ではないが、 とりあえず、 玉鋼や作刀への理解を深めようと思う。
 それには、 鉄そのものの特性を、 勉強する必要がある。 鉄という金属は、 他の物質と混ざり合うことやその温度による変化など、 他の金属にない多様性がある。 
 これから、 鉄について、 ちょっとまとめてみよう。 退屈な内容で申し訳ないが、 自分のために整理しておく。 おつきあいいただきたい。


http://morutan.tumblr.com/post/6099133340


そして、さまざまな素材によって構成されていく
http://club.pep.ne.jp/~sugidama/C13_28.htm


まるで日本画の画材のように、各刀匠たちが表したい「色」に応じて用いられる金属の配分が変わってくる



それが古刀



そういったブリコラージュのような作刀とは違って


たとえば正宗のようなサンドイッチ構造で規定したり、あるいは単一金属の一枚すりを何回も鍛えて、文字通り鍛錬させて創り上げた美もある


素延べ合金軍刀

一枚鍛え古刀の粘り強さを科学的に再現し造刀した近代刀。
精錬された鋼は折り返し鍛錬をした鋼と同じなので鍛錬の必要はない。
(科学的に鍛えた=精錬)

最も優れている日本刀

※研磨を重ねても基本的に問題ない


http://morutan.tumblr.com/post/6098802311





「人を斬る」という仕事(ザッへ)に特化し、そこから己本来の姿を呼び覚まし(ポイエーシス)していった美



それはもはや木片から彫り出された仏像のように、そのもの本来の魂が削り出されたかのような「当然」としてそこに「在る」ものとなる


「自ずからそこに在るもの」に





そういった迫力を、背景知識以前に感じとれたら本望かなぁ、と今回の博物館詣でに臨んだのだけれど、、、どうやら未だ未だ熟してはないようで




「キミはまだまだ未熟なんだよ ( ゚Д゚)y─┛~~」


なる聲が、またしてもこだましたかのような心持ちでありましたとさ 












 ただ一条の鋼(スティール)       レザーエッジになりたい





--

話が逸れたけど「なぜ?日本は朝鮮出征当時、白兵戦最強だったのか?」という問いに対してはこの辺とか

 また,ここのドイツの伝統実戦剣術の模擬試合の動画がありますが,驚くべきことに柳生真影流に似た相手の腕を封じて首を突き刺すような,一種の収斂現象みたいな技も入っています。これを見て思ったこととは,兵器自体が強力であるために,実戦的な運用において,剣道技では考えられないような技が沢山あるのではということです。TAKESANさんも書いておられましたが甲冑を着けているかいないかで,使える技のパターンは制約を受けたり受けなかったりします。何が実戦での強さを決める前提として相応しいのかという問題は何処にあっても必ずついて回ります。
 ドイツ剣術の動画は,youtubeには他にもかなりあるのですが,非常にこの問題を考えるのに役に立つと思いました。それは,合気道や中国武術だけを見ていても技の実戦性や運用においては謎であった部分が,システマを見て氷解したのと似ています。とりあえず,この段階においては練習体系において見せているものが実戦的で,秘匿していないのです





簡単にいうと化勁っぽいことして受け流して、その上で発勁(化勁で使ったのと違う勁)しちゃってるのだ。おそらく新陰流も。


なので「当時最強」って感じ




あと、会員になってもうたので6月11日から鑑賞会でれるみたい。・・まぁもそっと勉強して臨もう。せっかくだし


--
関連:
COMPLEX CAT : 内功と外功
http://complexcat.exblog.jp/8952200/

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2011年05月30日

「さあ、ちからのかぎり、そらいっぱいの、光でできた、パイプオルガンをひくがいい」




Nothing in life is to be feared, it is only to be understood. Now is the time to understand more, so that we may fear less.
Marie Curie (1867 - 1934)




After silence, that which comes nearest to expressing the inexpressible is music.
Aldous Huxley (1894 - 1963), "Music at Night", 1931




My personal hobbies are reading, listening to music, and silence.
Edith Sitwell (1887 - 1964)




The whole problem can be stated quite simply by asking, 'Is there a meaning to music?' My answer would be, 'Yes.' And 'Can you state in so many words what the meaning is?' My answer to that would be, 'No.'
Aaron Copland (1900 - 1990)




I think I should have no other mortal wants, if I could always have plenty of music. It seems to infuse strength into my limbs and ideas into my brain. Life seems to go on without effort, when I am filled with music.
George Eliot (1819 - 1880)








もしもおまえが

よくきいてくれ

ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき

おまえに無数の影と光の像があらわれる

おまえはそれを音にするのだ

みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに

おまえはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまえは音をつくるのだ


多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌うのだ



もしも楽器がなかったら

いいかおまえはおれの弟子なのだ


ちからのかぎり


そらいっぱいの


光でできたパイプオルガンを弾くがいい

               (宮沢賢治 / 「告別」













m_um_u / むーむー
@borujiaya というわけでなんだかありがたく m(_ _)m QT インスタレーションとしてのパイプオルガンを包む環境と、本来はその環境に合わせた一点物としてのパイプオルガンの在り方と歴史。自分が求めていたものは古楽なのかな http://htn.to/ykY2wy at 05/30 04:54
m_um_u / むーむー
インスタレーションとしてのパイプオルガンを包む環境と、本来はその環境に合わせた一点物としてのパイプオルガンの在り方と歴史。カザルスホールは本当に惜しいし羨ましい。自分が求めていたものは古楽なのかな / 極私的脳戸/日々の与太 ≫ カザル… http://htn.to/ykY2wy at 05/30 04:49



http://twitter.com/#!/borujiaya/status/74789746165035008

辺りから



極私的脳戸/日々の与太 ≫ カザルスホール、アーレント・オルガンの響きを絶やすな
http://www.g-note.org/note/?itemid=4412



パイプオルガンは本来はその環境に合わせた一点物で、環境とパイプオルガンが有機的に交わりインスタレーションのように機能してきた、ということ。

そのようにして住民に愛され育まれてきたパイプオルガンの在り方と歴史。
http://morutan.tumblr.com/post/5974949824


そういった音は、本来は仰々しく場を圧するような「大きな音」ではなく、その場に集う人々の祈りと思いに応えるような繊細なものだった
http://morutan.tumblr.com/post/5974958956


分業と工場生産 → 大量生産・大量消費を基本とした近代型の工場的な音色、コルビジェの角張った「未来」と「進歩」を思わせるような建築デザインのそれにも似たような「生活」を圧倒しつつ機能的合理性を追求するようなそういったプレス機の音。そこでは労働に従事する人々、そこからの派生としての生活圏での思いも画一化されていく
http://tumblr.com/xau2qtcc63


もちろん、画一化し、「天職」-「仕事」としてのそれに没頭することによる美しさもあるだろうが(工場萌えとか)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/204824809.html



とりあえず置く


そういったインスタレーション的な施設、作品とそれを包む環境が有機的に融合し、全体としての美を顕しているような施設というのは日本では少なくて


絵画関連で東京だと目黒庭園美術館とか原美術館なんかが想起されるけれど、音楽についてはぜんぜんしらなかった



というか、やはりそういった施設はすくないらしい



そういう意味で言うとカザルスホールは本当に惜しいし、失われる前にそれを体験できたということは羨ましい
http://tumblr.com/xau2qtcozz


カザルスホールにアーレントのオルガンが設置されたことは、こうした20世紀の古楽再興運動との関連で言えば、まぎれもなく日本の音楽史上の事件であった。この3月23日にカザルスホールで記念公演を行う鈴木雅明氏率いるバッハ・コレギウム・ジャパンの活動に代表される通り、いまや日本の古楽演奏は一定の水準に達している。こうした現代日本の古楽運動の隆盛を支えてきた重要な支柱の一つがカザルスホールであり、このホールのアーレント・オルガンだった。




というか、自分が求めていたものは古楽なのかな、と気づかされた




なんとなくだけど、ちょっと前からArvo Pärtの音が好きで、「スターバト・マーテル」なんかが特にしっくりくるんだけど、それ系の音楽について追おうにもジャンルとかカテゴリーが分からないので困っていた



アルヴォ・ペルト - Wikipedia
http://bit.ly/ilZNi0

http://morutan.tumblr.com/post/5976499410





でも、たぶん古楽だったんだなぁ、って


実際、ペルトは古楽を志向していたようだし(wikipediaにも記載されていたが)
http://morutan.tumblr.com/post/5975902233/3



そういった過程というのはなんだかちょっと不安になっていた自分のペルト志向を和らげてくれた



TASZ や ノヴァーリスのところでもあげたように



Terminal Arts of Sein und Zeit: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199659522.html



夜を愛し、余すところなく死んで、三位を統べる: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200174686.html




これらの音やその他の芸術作品というのは、イドの方向に向けての限界的な強度を持っているんだけど、それがゆえか独特の暗さをまとっていて、ともするとそれに耽溺してしまいがちなところがある


その不安がいまだにチラついていてなんだか「( ^ω^)・・・呪われた音楽なのかなぁ…」みたいな感じもあったのだけれど(あるいはスピリチュアルとかオカルトとか



ペルトの志向が「古楽」ということではっきりしたのでその辺の不安も氷解した



古楽であればケルトも含むし、近代的に編成される以前の町の生活の中での音楽も含む



後者は鶴見俊輔的な意味での限界芸術、民芸的なものに属するものだろうし、前者も大文字のキリスト教に蹂躙される以前の非都市部での野生の思考ということになる



それは、音楽がまだ一部の権力者に囲い込まれる以前の、「オラが町」の音楽、あるいは酒場での吟遊詩人の語りのメロディだった時代を思わせる


ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)
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中世の窓から (朝日選書)
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朝日新聞
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近代のようなクラシックの楽団が編成される以前、「のだめカンタービレ」などで表されたように、いまでもヨーロッパの地方に残っている「オラが町」の音楽の風習は古くは都市のパレード的なものに遡る


都市のパレードは、かつてのケルト的な風習、カーニヴァルを「野蛮」として封じた代替的な儀礼として発展していったのだけれど、いつしかそこで行進の先頭に陣取るのは「ステータス」とされるようになっていった


都市の金持ちたちは争ってその権利を買い取り、いつしかパレードの先頭で歌舞くことが権威の衒示的なものとなっていったり


そこで吹かれた行進ラッパ、あるいは賑やかしとしての楽団は本来は都市民が他の都市への略奪行為を行った凱旋を祝う楽団として編成されたものだっただろう


そこは未確認だけれど、すくなくとももともとの都市の楽団はそういった用途、ほかの都市との戦いにおける戦気の鼓舞や、戦勝の祝いのために編まれていったものだった。実際、そのためにまずもって編成されたのは音のよく通る管楽器隊で、弦楽器は軽視されていた。



古楽の記述のなかに「古楽的な楽器、たとえばリュートなどは廃れていった」というものがあったように思うが、それはこういう文脈にもよるものと思われる
http://tumblr.com/xau2qth5mu

かつての吟遊詩人たち(あるいは笛吹たち)の姿と共に





話を戻そう





古楽的なものはそのようにして近代に編成され消えていったわけだけど、その少し前、ケルト的なものも古楽の一部としてあった

ケルト的なものが大文字のキリスト教(ローマ=カトリック)を中心として偏見されて「( ゚Д゚)<このオカルト(魔術)がぁ!!」されていった結果、なんだかおどろおどろしいものとされ、バタイユされていったのだろうけど


それらはなにも「暗さに耽溺して酔う」ためのものではなく、われわれが、都市と近代の大量消費的志向に編成される以前の当然のものであったのだと、「古楽」の名が教えてくれた



そういった不安


「この暗い欲動はもっていても大丈夫なのかしら?」的なそれは先のエントリにも共通する



「ただ、そこに在る」という本質  ポイエーシス-エロース / イデア: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/204824809.html



それは「暗い」とラベリングされるものではなく、人の多様性、感情の機微の在り方として「当然」のものなんだ


誰も傷つけてないし、単にそれがそこにあるのを感じてるだけなのだから



そして、「古楽」という名を通じてそれらは生活の中に回帰していく経路を持った(自分の中で)




それらはいずれ、自らの内なる「天」に向かわせるチャント(謳歌)となってわれらを後押ししてくれるのかもしれない


「天上の弦」のような繊細で抑揚に富んだ和声を伴って







「東洋のストラディヴァリウス」と称される陳昌鉉の苦労と努力、諦めずにチャレンジしてきた歴史は宮沢賢治の「告別」におけるパイプオルガンのくだりを想起させる


多くの人から馬鹿にされ、東洋人には不可能と思われたストラディヴァリウスの音色を、多くの貧困や悔恨、故国の母との惜別に耐えつつ編んでいった陳昌鉉の歴史


文字通り、血と汗と涙を伴ったその労苦の歴史が天井の音への階梯を引き寄せていった



あるいは「ひとりのやさしい娘」との出会いがそれを後押ししてくれた、とも言えるだろう



フォルテピアノ - Wikipedia
http://bit.ly/jLIcqX

http://morutan.tumblr.com/post/5975472958

http://morutan.tumblr.com/post/5975472958


そういった一つの楽器の音色に賭ける苦労と歓びの歴史は、そのまま古楽器職人のそれを思わせる


特徴として、革で覆われたハンマーをもち、チェンバロに近い、細い弦を張っている。音の響きはモダンピアノよりも柔らかく、持続が短い。また一般的に音域ごとに音色が異なる



彼らは、祈りにも似た努力の積み重ね、シーシュポスのような試行錯誤の繰り返しの中から、不可能とも思えるような音の幼生を紡ぎ出していく


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http://zoome.jp/norityan/diary/211


人の祈りが、そのまま神(あるいは仏)として現前していく



人々の期待を伴って






ペルトが「フラトレス」という楽曲をつくってくれたのは、そういう意味で言うと象徴的であり、自分的にはとても嬉しかった


1977年にエストニアの古楽団体ホルトゥス・ムジクスからの委嘱によって作曲された作品で、「ティンティナブリ様式」による書法で生み出された、ペルトの作品の中で最も演奏頻度が高く且つ有名な作品である。なおタイトルの「フラトレス」は「親族、兄弟、同士」といった意味を指す。


http://tumblr.com/xau2qtt6vp









それは岡本太郎が「誇り」のモニュメントを両親に捧げたのにも似て


二子神社(岡本かの子文学碑)
http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/dokuhon/t0410.htm


第7景 岡本かの子 文学碑「誇り」 | 川崎36景 | 川崎市宮前区の情報満載!官民協働の地域ポータルサイト『宮前ぽーたろう』
http://www.miyamae-portal.net/mp/kyosho/?sid=186


この塔は、生田緑地内にある岡本太郎美術館のシンボル「母の塔」と向かい合うように設計されているそうです。








--
YouTube - ‪古楽‬‏
http://www.youtube.com/results?search_query=%E5%8F%A4%E6%A5%BD&aq=f


キーワードで動画検索 古楽 ‐ ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/search/%E5%8F%A4%E6%A5%BD?track=videowatch_search_keyword



タグで動画検索 ペルト ‐ ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%88



近藤喜文 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%96%9C%E6%96%87

1970年代半ば以降の宮崎駿と高畑勲の作品を作画面で支えた。

高畑が『火垂るの墓』、宮崎が『となりのトトロ』と、長編映画を同時に制作した時期は2人の間で近藤の争奪戦が起こった。高畑は「他は何もいらないから近ちゃんだけ欲しい」、宮崎は「近ちゃんが入ってくれないなら僕も降板する」と言ったという逸話が残っている(結局、仲裁に入った鈴木敏夫の、宮崎は自分で絵が描けるからという助言で、近藤は『火垂るの墓』の制作にたずさわった)。米をよそう際、手首に付着した米粒を舐め食べる動作、など高畑アニメが追求する実にリアルな描写の実現は、近藤の強く鋭い感受性あって初めて可能なものだった。

スタジオジブリでは『耳をすませば』の監督を任される(それ以前から近藤が演出をするという宮崎との約束があった為、宮崎が企画を持ってきた)など、宮崎駿・高畑勲の後継者として将来を期待されていたが、1997年の暮れに解離性大動脈瘤で倒れ、1998年1月21日に47歳の若さで死去した。尚、耳をすませばの作成中に宮崎駿と近藤の間では何度も衝突があり、時には宮崎が演出の変更を求めたり脅す様なこともあったという。この事について宮崎は「自分が終わりを渡してしまったようなもの」と語っている。葬儀の出棺の際に『耳をすませば』の主題歌である「カントリーロード」が流された。妻は色彩指定をしていた山浦浩子、息子が一人いる。

ほかに、金曜ロードショーの新オープニングの作画・演出を担当した。好きな漫画家に高野文子、画家にはノーマン・ロックウェルなどを挙げている。




ふとふり返ると―近藤喜文画文集
近藤 喜文
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タグ:限界芸術 art
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2011年05月15日

スパイス漫談: 「オレンジな満月」


「たまには子供の頃に戻って 馬鹿みたいにはしゃいでもいいじゃない」


「それがキミの失われた過去に対する手向け、だろう?」


「ほんとの『大人』ってのは、バカやれるときはとことんバカやって、それをもって自分の位置を正せるひとたちのことさぁ」





そんなことを「予感」が言っているような気がして参加したんだけど、結果的にそのとおりに運べて、なんか非常に満足した



昨夜の個人的ハイライトは、奇跡のオレンジTシャツ&ジーンズトリオが誕生・アヤさんが1軒目出たあと失踪・しげるさんが予想外にでかい・大人のひとたちの飲み会で脱ぐ人ひさしぶりに見た・ぱーらんさんわたしに説教されてクニャクニャになる あたりですね!つまりそうとう楽しかったですね!




やはり今回の集まりを結果的に楽しめたのは、個人的には @parlan さんが会の前に下北沢についてしっかりと案内してくださったからだなぁ、といま日記を書き始めて改めて思いました。(会全体のセッティングだけにとどまらないコーディネートにしてもそうですが) 感謝 m(_ _)m




そういった流れを背景に、自分的にまとめると

オレンジ三兄弟を煮込むとスパイシーななにかができるし、逆もまた然り(なにかの妄想が着火しそうになってます) QT @m_um_u: なんとなく、昨日の parlan のイメージ(あるいはオレンジ三兄弟) http://bit.ly/lHmeXf




長年のスペインさんの圧政どっせいに苦しんだ低地ドイツの小作人たちは


「( ゚Д゚)<オラ こんな村 嫌だァ」


と反旗というか革命というか一揆というかなんか吹き上がる



八十年戦争 - Wikipedia
http://bit.ly/mNBAHr



それは「農民の」「農民による」「農民のための」「革命」というのとはまたちょっと違って、なんかいろいろ担がれたり、そこに「敢えて」乗ったり、などっかで現在もみられるような光景が伺えるわけだけど



Togetter - 「ミツバチのささやき (あるいは、ハナとミツバチ)」
http://togetter.com/li/134917



とりあえずオランダ(ネーデルラント)はオレンジ公を中心としてスペインから独立を勝ち取っていく


スペインというとレコンキスタ、イスラーム勢力からの神土奪還な土地ということではあるんだけど


同時に、バルバロイとされた外地からの優れた技術・知識が流入したことで文化・文明的洗練がされていった土地でもあった(cf.「チェーザレ」)


そういった中にインドを含めた中東辺りからのスパイシーな食材な影響もあったのではないか?と妄想する



胡椒なんかはモロだけど(まあ、あれはシルクロードうんたらもあるだろけど)



「そういった影響をスペイン経由でオランダもうけていたのではないかなぁ( ^ω^)・・・」などと突飛な妄想着火

オランダ的、というかプロテスタント的な合理主義と執着のなさみたいなのはそういうのの影響もあるのかも、とかとか(あと、オランダはいまでもイスラーム率がけっこう高い)


スパイスなものにそれが表れていると面白いだろうなぁ、などなど








オレンジ三兄弟はオレンジ公のもとにいた三兄弟、あるいは三つの同盟のようなもの(があったとしたら)の象徴表現



「商人・教会・政治」的な協力とかなんとかな話


宗教改革のドライブは教会の方からの意向のドライブというよりは、むしろ商業的な知識編成の変化が基盤にあった、ともいえそうだし


Togetter - 「西洋の資本主義は「勤勉」ではなく「商の自由度の変化」によって駆動したのではないか?」
http://togetter.com/li/49115





( ^ω^)・・・オレンジ公 → ホーランド公国 → 干拓 → オランダの光 → オレンジぶつけ祭り → ( ゚Д゚)<はだかは やめろ! ここは 「おれんち」じゃ ねーんだぞ!(゚Д゚




ところがところが、時代がくだると「オレンジな意志」もどこへやら、改革の英雄はだんだんと権力の波に流され「民意に応える」という為政者の本分を忘れていく

そういった為政者へのイヤミとしてだか単に目の前のオレンジがあまってて「固そうだからぶつけたれ(゚Д゚)ゴルァ!!」ということだったのかしらないけど「オレンジを」「為政者にぶつけて」「ストレス発散」な習慣が象徴的に祭りとして残っていく



オレンジ投げまくり!イタリアのオレンジ合戦祭り - 地球はすごい!明日の地球 自然 動物 風景の動画や写真
http://www.tomorrowearth.com/2009/08/carnival-of-ivrea.html



これはイタリアのヴァレンシア地方のそれが元でありオランダとは直接関係ないだろうけど、まぁ似たような構造のものはどこにでもある(cf.エイプリルフール)、ということで。その象徴性の一部を借りる、として。




それとは別に「( ゚Д゚)<もっと平たい土地を  オラたちが牛(べこ)を育てるための平たい土地を!」ということで湾に面したびしょびしょな低地だったオランダの国家的干拓事業が進んでいく


結果として湾の鏡面反射を含んだ陽光の豊かさは失われ、「かつてオランダが誇っていたどこよりも輝ける太陽とその空気感は失われてしまったのではないか?( ^ω^)・・・(だからこそ16世紀オランダの光の画家はみょーにスポットを当てられたが、それ以降はたいして見向きもされなくなったのではないか?)な妄想がドライブする



映画「オランダの光」
http://www.icnet.ne.jp/~take/vermeerhollandslight.html




ふたたび宴の現実に象徴性を合わせると、でてきた料理をことごとく干上がらせ、それだけでは飽きたらず目の前の人型コンテンツをいぢり裸踊りに興ずる → 結果としてコップを割るなどの乱痴気ぶりにご亭主もとうとう堪忍袋のカニン具アウトよ! 

「( ゚Д゚)<おまへら  ここは  『おれんち』じゃねーんだぞ?!(#゚Д゚)ゴルァ!!」



店をたたき出されたチンピラどもは当て所なく寄る辺なき悠久の旅に身を寄せる、かと思いきや意外と早くに仮の宿を見つけたり( ^ω^)・・・



そして「深夜のアレゲ話」という麻薬の如くなお話は続いていく。


麻薬であり神々の酒(ルバイヤート)
http://bit.ly/lfoH4G


そこでは敵も味方も、男も女も、歳もジェンダーも一切関係ない


ただ、神々の酒の前に平等に酔い、笑うのみ


Togetter - 「今夜、全てのバーで」
http://togetter.com/li/126079




ふたたび歴史的重層性からの妄想に話を戻すと


干拓の完成と相関するようにオトナな国家として成熟していったオランダは主権を認められていく(cf.ウェストファリア条約)


ヴェストファーレン条約 - Wikipedia
http://bit.ly/jsJ7rS



「( ゚Д゚)<よぉし!ようやく教会(ママ)のお守りもとれた! これでもう 太郎も オトナの仲間入りだァーーー」


そんな感じで勢いづいてヤサグレとかしたオレンジ三兄弟はイケイケドンドンで南洋に進出、先行するオトナたちの後塵を廃しつつもバタヴィアの地にじゃがたら帝国などを築いていく



先行するオトナ圧力、東インド会社のそれを意識しつつなことだったのだろうけど



謝罪の等価交換と哀悼の贈与交換
http://bit.ly/keAsF2



そういったぐるぐる連関は最終的にチーズとバギウムとして当地に現れていった


スパイスガーデンたるインドもお茶の楽園たる中国もそういった流れの中でときには「サクシュ」され、逆にときには「サクシュ」をしてきた



そういった「歴史の定式のような流れ」の中で唯一信頼できるものといったらその場その場に生きる人々の対話と信頼しかないのではないか?



そんなことをバタヴィア国主監、ハセ提督がべろべろに酔っ払ったオレンジ兄弟の一人に説く



「( ゚Д゚)<おまへらの大言壮語な理想はもっともだが 現地の  現実的事情も  かんがえろ!  (あと、オレの意向もだっ!)」




まっこと「たおやめ」なる女史のますらおぶりなることよ( ^ω^)・・・などと(・∀・)ニヤニヤとそれに同調しつつ、振り返って全体の基層もそういうものだったかなぁ、と



「大きな理想を追うことで 目の前の自分から逃げない」



「自分勝手な『やさしさ』を他人に押しつけない」「やさしさを押し付けることで他人を自分の一部にしてしまわない」



「目の前のちっぽけな自分を是しとし  どんなにちっぽけでもそれに『自信』をもち  それを責として受け入れていく」



「それを次代にすこしでも伝えていく」





そしてそういった「自信」というかそれなりの「自分の在り処」に依るところを是しとした大人同士の暗黙の了解に基づいたパジャマパーティーみたいなものは続いていった








「まっすぐな道でさみしい?」


と再び聲がする



まっすぐな道



まっすぐで機能的で目的のはっきりした道



Togetter - 「淫グロリアス・バスターズ」
http://togetter.com/li/127006




それは「自分じゃない」と純粋が応える




まっすぐな道で寂しい・・?
http://bit.ly/kCcoVG




あの雲のように頼りなく、同時に雄大で晴れやかな心持ち




それは同時に「バカ騒ぎさえも基底的な背徳感のなかで十分に愉しめなかった」「バカの反対の自信がないがために十分に馬鹿に成り切れなかった」『あの夜』への手向けとも言えるのかもしれない



被爆のマリア: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/36290326.html




あるいは



「不安」とその反動としての理想のみの吹き上がりの若い自分への手向け


夜を越えて: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/45164883.html









オトナに流されていくのは少し考えたほうがいいかもだけど


Togetter - 「| ゜Θ゜)<ニーチャン、えっちだなー ワーイヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノワーイ」
http://togetter.com/li/134480


Togetter - 「カノジョたちの選択」
http://togetter.com/li/132562 



こういった形で大人になることができるのならば、あとに続く者たちにも自信をもっていえるかもしれない







「大人は楽しい」、と   ☆-(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノイエーイ








--
aiko - オレンジな満月
http://v.youku.com/v_show/id_XMjA2NjgzNDc2.html


ジャズ、この1曲 : akiko - skindo-le-le
http://daeyahye.exblog.jp/10465404/






似たスケールの世界史漫談としてはこの辺
 
黒船 (Cue comics)
黒船 (Cue comics)
posted with amazlet at 11.05.15
黒田 硫黄
イースト・プレス




posted by m_um_u at 19:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年03月26日

サヤカノキモチ  「善意」の内政不干渉について

さいきんまた「善意と偽善の線引き」的なことがテーマが地震をめぐって少なからぬ人たちの間に立ち上ってきてるような


というか、「自分の中で」といったほうがいいか



「よかれとおもって」「だれかに」「なにかを」「してあげる」こと


「よかれとおもって」とはいっても他人の心は最後までわからない。あるいは、抱えている事情というのも千差万別で、自分の予想や把握してる範囲を超えることがある。なので、「よかれ」はけっきょくは自分の想像の域をでないことがしばしばある


なので、「だれかに」「してあげる」ではなく「実は自分の為にしているのではないか?」ということ


実際、良心というのはあいまいなものだから自分はそういうふうに捉えて良心の等価交換をしているけど。「良心の満足」 ← きちんと不幸を回復できるような機関や方法の設定 ← 相手の個別な不幸の回復、という形で。それを詳説しだすとちょっと長くなるのでそれはさておき


「してあげてる」という言葉にも「その行為を通じて自分が『かわいそうな他人』よりも上位にある心理的満足を得るためにしているの?」って疑念が浮かぶ



なので、その辺を気にしつつな一方的な献身というものがこういった良心の完成形のように思われるところがあるかと思うけど


『魔法少女まどか☆マギカ』#8で、2人組のホストの会話と、美樹さやかの主張について :Syu's quiz blog
http://www.syu-ta.com/blog/2011/02/26/123232.shtml

さやかの主張はな。

 自分のために力を使わない
 他人の為だけに使う
 決して見返りを求めない
 感謝されることさえ求めない
 そうだろ?

 これを文字通り受け取ってくれてる生き方じゃねーか、ホスト。
 女の稼ぎを全部貰って、責任も一切とらんと言い切ってる

 見返りを求めず、ただ相手の幸せを祈って、自分を捧げる。
 それって、あのホストの言う女のような存在なんだ、ってことじゃない?


これは神々の娼婦としての聖女のあり方とも言える


マザー・テレサやジャンヌ・ダルクのそれ。神への狂

あるいは、

もっと美樹さやかそのものに近い比喩を用いれば「セックスボランティアとして貢ぐ女」ということ。「一生治らない腕を治す」という利他的願いを叶えるために自己を献身するが、グリーフシードの意味や戦うことの意味に「気づいた」場面の感情の揺れはボランティアと聞かされていたものが性的な介助を含んでいたものだったことに気づいたときのそれを想わせる。

戦うこと = 自分が徐々にケガレていくこと = というか、わたしのカラダはすでに(純)心から離れている、ということ

社会的効用の象徴としての金銭 = グリーフシード (cf.援助交際)



「これはセックス(性行為)ではない

…挿入してないからわたしはまだセックスはしていない

…わたしはまだきちんとキスして体を触られて相手をいたわってって過程を踏んでない

…わたしは……わたしは……もう…好きな人と初めてのキスもできないんだ…」



そういったセリフがグリーフシードの正体に気づいた時点でのさやかの動揺に託される。

7話では開き直って積極的に行為に臨む少女の痛々しさが描かれている(ようにも見える)


そして、8話ではヨゴレタジブンを自らと同定し開き直ることで頽落(魔女)に至る



われわれの日常生活においてはしばばしば金や性が交換材となる

一般的な男女の関係はおーざっぱに金と性というリソースをめぐったゲームとなる。(親愛などもあるがここでは少し省く)


セックスボランティアの場合は「良心の満足」と「金」が交換材として得られる対価、「性」が掛けられるものとなる


もちろんプロとして、「お仕事」としてセックスボランティアしている人々は「良心」への甘え的回路を絶っているだろうけど(cf.ほむら)


さやかのように最初の段階で、「誰かのため」がメインとなって献身してきた場合、対価の2つの形「金」と「良心の満足」のうち良心の満足度への比重が高くなる。

それで良心が満足されない場合、精神的に追い詰められる。


「相手がまったく自分に感謝してくれてない」
「感謝はしてくれてなくていいけど不幸が回復していることを聞きたいのに…」
「ひとは自分を利用していることを自覚している?(悪意を持って利用している?)」


それがあの場面でのさやかの動揺。まごころを裏切られた気持ち。前二者をあきらめ、最後のよすがだった「世界の平和を救うため」もホストの会話によって絶たれる(自らの不安に向き合わされる)





では、どういう形でコミットすればいいのか?

それが欺瞞(偽善)であったり自己満足に過ぎないときというのはどういうときか?

そもそもコミットしないほうがいいのか?


欺瞞というのは自分の実存に対してブレた行動、世間に対して「いい人」に見られたい、その「いい人」を内面化したい、といった場面で出てくるものと思われる。


自分の実存 = ほんとの自分 = ほんとの願い


さやかの場合は「上条くんの腕を治したい」というのが心の底からの思いだったか?ということ


本当の願いは「腕の治った上条くんとデートしたい(付き合いたい)」ということではなかったか?

後者は自分のための願い、前者は利他を装った自分の気持ちからの逃避といえる(きつい言い方をすれば)


その他の欺瞞も似たようなところがあるように思う


「自分が」「その選択によって」「どういった感情の満足を得ようとしているのか?」、ということへの向き合い。


それと、その善意を受ける人が、本当にその善意によって救われていくのかどうか?ということに対する観想的態度


「やらない善よりやる偽善」とはいうけれど、そういった判断留保→思考の過程がこういったものには必要なように思う



なぜ必要か?


たとえばコミットしたあとで事態が自分のもっている知識とはことなる場合があるから

ボランティアでいうと自分の寄付金が事態の回復のためにきちんと活用されず流用されたりとか、もっと直接的なコミットの場合、現場でコミットした後でその団体の活動が自分の思惑とはずれてあらぬ方向に流されていくことがある。


もうちょっとミクロに、対他関係における同情の是非でも同様だろう


相手の気持なんかは自分の予想の範疇をでないので


「かわいそう」と思って情けをかけたあとで、自分にとっても相手にとってもあまり好ましくない事態が展開することがある。


それは「愛」とは違うのだ



「内政不干渉」という政治用語のアナロジーを用いれば、帝国的支配 ≠ 強大な善意による相手のスキーマハックともいえる。


「こうしたほうがいい」「こうしないとこの先、危うい」と(自分の中では客観的に)予測されても、それが当人の主体的行動を奪っていってしまう場合、それはほんとに「他人のため」といえるだろうか?


また、できるだけ客観的に「それは間違ってる」と思われたことでも干渉したあとで事態が最初の情報と異なっていることに気づいたり…


「わたしがここで野垂れ死にするのもわたしの人生の選択であり、わたしの勝手なことだ……放っておいてくれ」という話があるが、そういった「他者」性への配慮といえる。



「それでもなおコミットすべきだ」、という話はあるだろう


それは個々人のコモンセンス、あるいは生きられた経験次第といえる。(もしくは良心へのコスパ)





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関連:
グスコーブドリのように: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/163308380.html


「神の愛−真理ー利他−宗教的情操」に生きる男と「善でも悪でもいいからただわたしをみつめていて」という女の物語

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2011年03月15日

象徴交換と死(東京の王と山間の弱者の話)

石原発言うんぬんについては最初は自分も釣られて「なにいってんだこいつ?」って感じだったんだけど、ちょっと立ち止まって意図を推察するに特に大した問題でもなく

というか

「まだ被災者を救援してる段階でなに呑気なこといってんだ?けっきょく安全な場所からストレスを魔女狩りみたいにぶつけたいだけじゃん」、って気持ちがあり、昨日書いた文章はミクシにのっけてスルーしようと思ってたんだけど、いちいちついったのTLに乗っかってきてモニョってなんかいってしまうのでもうこの辺に釣られて出すことにする。


石原"不謹"慎太郎の「津波は天罰」という妄言を批判する[絵文録ことのは]2011/03/15
http://www.kotono8.com/2011/03/15tenbatsu.html


よみがえる「天譴論」〜石原天罰発言の超克 | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2569


これで自分も「安全な場所からうだうだどうでもいいこと言ってる人」の仲間入りだと思いつつ





(以下、だいたい昨日の日記のコピペ)


---


けっきょく今日は輪番(計画)停電でなんか心せわしい日だったなぁ。。と思いつつ

輪番停電うんぬんについてはあさにもちょっとつぶやいた。


災害フェイズが都会と災害直下地だとわかれてきたみたいで、前者は中・長期戦略的視点で原発・停電・電車などの情報が気になり、後者は短期戦術的視点での「救援」なんかが気になって
http://plaza.umin.ac.jp/~HPHB/mitani/3-1-8-1-C.htm

後者の代表例として岩手・宮城などの様子が気にされてて、都会の安全地帯なんかでは(救援にほんとに必要な情報ではなく)地震直下のショッキングな映像が何度も無駄に重複して流されてるわけだけど

その間の地点である茨城北部、長野(一部)、新潟(一部)も直下的被災地な「救援」フェイズなのに大手メディアからは見落とされてる問題。。

そんで、そこに輪番停電くらわせるってなんだそれ。。
http://twitter.com/#!/zasetu2/status/47089796920774656

http://twitter.com/#!/search?q=%23save_ibaraki

http://saveibaraki.at-ninja.jp/saveibaraki.html




というか茨城北部が気になってたんだけど、なんか食糧とかは間に合ってガソリンが足りないぐらいな現状ということでまぁちょっと安心したり


茨城北部の避難中の方から情報。「電気は来ているが、水はまだこない。食糧と水はまだ備蓄が(なんとか)確保できてはいる」(14日夕段階)。昨日聞いた限りでは、ガソリンを補給したいが目処が立っていないとのことだった。

http://twitter.com/#!/tricken/status/47229561112498177


そして茨城の輪番停電も回避された


電力リソースを大幅に使ってる都会の電車

それと山間の被災地の弱者の命のトレードオフ


けっきょく電車を削って命が救われた(のだろうか)





そんなこと思ってたらなんか石原さんが不謹慎発言がどうとかTLに登ってきて

副長官番A)節電の要請に訪れた蓮舫・節電啓発担当相と会談した石原都知事。会談後に「震災への日本国民の対応をどう評価するか」と質問したところ、石原さんは「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べました

http://mobile.twitter.com/asahi_kantei/status/47220894023692288


最初は「天罰つっても神(自然)の行うこと(神的暴力)に人の意志との因果関係なんかないのに、ずいぶんセンチメンタルというか前近代的なこというなぁ。。」

とか

「まぁ公(public)としてはきちんと職務まっとうしてるのだろうから、その分私の部分のエゴがでやすいのかなぁ。。昔のローマ政治みたいだ(公空間でやることと私空間でやることのそれは判然と区別され、私空間でどんなに暴力的でも公できちんと勤め上げればその是非は公では問われない)」

とか

「もしかしたら鼻から地方は眼中に無いので、東京都民の現状だけ見て、みたいな話なのかな? >税金払わないから天罰」

とか

(どっかの部分的記事みつつ)「いまのみると東京都だけのことではなくてたちあがれ日本的マインド載せてるから天下国家のことか。バラマキ政治的なものに対する苛立ちのようなものと彼なりの「公」-「大義」観が混ざってるのかなと思うにだいたい松永さんが言った感じに近いのだろうな http://bit.ly/hRk0Cc

とか思ってたんだけど


まぁなんとなく軽く日記にでも書くかぁ、ってことでいちおニコ動みたらどうも…なんか違うなぁって感じだったのでその後けっこう真面目に会見みてしまった。。(軽く流すつもりだったのに)



Togetter - 「石原慎太郎東京都知事の「洪水は天罰」発言の私的要約」




要約すると「民主党は災害が来てからアタフタと対処療法的な夜間コンビニ禁止案とかだしてるけどそれ出すにしても政令できちんとだせばいいし、それ以前にスーパー堤防を事業仕分けでなくしといてなに考えてんだ。。全体的に大局みえてないんじゃないか?」であり

「そういう大局が見えてない政府や名古屋みたいなところの目先の人気取り減税におどらされてる国民も国民だ」みたいな話

なので「天罰」は「民主党の底の浅さ」と「底の浅い民主党ほか人気取り政策を支持する国民」にかかる、ということになる


もうちょっと表現の仕方がうまかったらなぁ。。というところ。被災にあったふつーのじいさんばあさん(弱者)にはむしろ同情的なんじゃないだろうか



もそっとわかりやすく強調すれば「天罰」は「洪水」にかかり、その洪水はスーパー堤防の話に絡む。

(擁護的に解釈すれば)「(地震・津波などの被害全般ではなく) スーパー堤防などの準備に対する大局的視点を廃するような思考へのしっぺ返しだ」ぐらいの意味っぽい

逆に「地震と津波はおまへたちソドムとゴモラに対する天罰だ」っていう庶民的感性も少なからず混ざっちゃったのだろうけど



あと、擁護的に解釈するとしても、「救援・避難フェイズ(被災地)の話と中・長期的(東京)な視点まぜるよーな話するんじゃねー まだ救援フェイズのところもあるんだぞ?」って苛立ちはあるし、「スーパー堤防つってもそれで今回のような地震があったときに津波の侵入防げるっていうのか?」って批判もある

中・長期的な視点としても「政令」ほか緊急対策における政策の個別な是非(妥当性)というのはあるがそれはまた別の話


「天罰」という語彙に対する脊髄反射

あるいは石原慎太郎さんに対するネガティブなイメージとは別な話、ということになる




まぁそれはともかく



「天罰」という語彙が気になって「意外と庶民的な信心深さのようなものがあるのかな?」と生い立ちをみるに


石原慎太郎 - Wikipedia
http://bit.ly/h95ffP

佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』32-33頁によれば、「慎太郎、裕次郎兄弟は十代から湘南の海でヨットを乗り回した。そのブルジョワ的イメージから、そもそもからして資産家階級の出身だと思われがちである。父親も大学出のエリートサラリーマンだったと思うのが一般的な見方だろう。だが実際の潔は中学もまともに卒業せず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの船会社にもぐりこんだとはいえ“痰壺洗い”という最末端の仕事から這いあがっていかざるをえない男だった。肉体労働者階級出身でありながら、そんなことはおくびにも出さずリッチな生活はあたかも天与のものだったかのごときにふるまう。イメージと現実のこのあまりにも大きすぎる落差のなかに、慎太郎という男の謎を解く一つのカギがかくされている。」という。



つまりもともと「ブルジョア」でも「作家様」でもなくひどく泥臭い生い立ちの「庶民」ということなのだろうな


なので庶民的感覚、叩き上げの父に泥臭く仕込まれた現実感や語彙、そこを起点とした価値観が抜けきらない(cf.三国人)


このエピソードは「チェーザレ」でいうところのジュリアーノ・ローヴェレを彷彿とさせる

チェーザレ 破壊の創造者 - Wikipedia
http://bit.ly/hz8cSH


平民出身、末端の貧しい漁夫という身分から枢機卿まで上り詰めたジュリアーノ・ローヴェレ

それはライバルのロドリーゴ・ボルジアの息子チェーザレ・ボルジアが抱える「私生児」というコンプレックスにも対照的なように思える。

ただ、ロドリーゴは金で買い叩いて枢機卿の地位まで上り詰め、ジュリアーノはかたくなな信仰によってその地位を築いていった。


両者とも「叩き上げ」というところはかわりないのだけれど、手段-信念に対する矜持のようなものの違い


ロドリーゴは現実−財(金)を信じ、ジュリアーノは信仰(神)を信じた。



その言動のみょーなかたくなさを見ていると石原慎太郎の中にもそういった信念のようなものがあるように思う


それは叩き上げの泥臭い現実から鍛えあげられていった信念のようなものではないか?



そういう泥臭さとリアリズムの混ざったところからすると洗練された当代の若者の「不謹慎なこと言うな!」的繊細さにはあわないのかも知れない。


最もブルジョア市民ぽく気どりたいはずの石原さんが都会的感性に合わない、という皮肉。


あるいは


その「洗練」は国際標準で見ると「現実感のない過敏な繊細さ」という風に映るのかも、だけど
http://twitter.com/m_um_u/status/47280590990491648



生い立ちから伺える泥臭い感性や価値観、人情的風景にも通じてそうな「天罰」という語彙からするとこういったことはむしろ当たり前に思える


100億円以上を被災地支援に=都民に節電要請―石原知事
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110314-00000087-jij-pol




それでもやはり会見における「見せ方」「聞かれ方」を意識してないと首長としては務まりにくいかな、ってところはあって


「天罰」という言葉を借りるなら、首を切られて然るべき、となるのは石原さんなのだろうなぁ、と思った。




原始共同体の王が災害や作物の不作の責を負い吊るされたように



「民主主義」と「科学」を標榜する近代的都市民の洗練された感性によって、「王」は感情的に吊るし上げられ、災害の責をとらされるのだ




(そして被災地に花が咲く)











--
関連:
「王の死と再生」の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/162950516.html




posted by m_um_u at 19:55 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年02月28日

「実存主義」とか「実存転調」辺についての個人的雑感

前のエントリ絡みで西田が「善の研究」にどういう思いを込めていたか、共通感覚としての善(快)を通して純粋経験が社会へ向かう流れ全体を『善』とみようとしていたのか、そういった見地から「善の研究」本編を再読してみてもよかったんだけどちょっとしんどいしたちまち見つからなかったのでとりあえず上田閑照がまとめていた随筆集「西田幾多郎随筆集」と西田名義の論文集「思索と体験」辺りを見たり。

それで上田閑照がまとめたほうみてたらケーベル先生の話とか朋友の鈴木大拙の話とかチラチラでてきてたんだけど、


ラファエル・フォン・ケーベル - Wikipedia
http://tinyurl.com/27dxzw


あらためてみるチャイコフスキーに師事したけど内気だったので演奏家にならずに哲学方面に行った、っつのはなんかすげーな。。まあ明治政府的にはおいしい買い物って感じだったのだろうけどとかなんとか思いつつ

そういえばちょっと前の「歴史の話」のケーベル先生絡みのところでドイツ留学して表面的なところだけ丸暗記して「もうドイツには学ぶところはありません!」つってケーベルに頭かかえさせたって九鬼周造かなとか思ったり


それで九鬼周造の「実存」理解にちょっと疑いもったりした。

九鬼はハイデガーに師事してドイツをあとにしてフランスいったときにはフランス語の教師としてサルトルとも交流したってことで、当時の実存主義最前線に接しているわけだけど、どうもその後の日本での「実存」って語感の曖昧さを考えると、最初に九鬼が訳した「実存」って語感の中に「der sein」的実感はなかったんじゃないか?って感じた

九鬼は「existenz」を「実存」と訳したみたいで、その後の著作を見るとイデア論との関係も公式的には理解してたようなんだけど実感としてどうだったんだろう?って感じ

http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/guidance/philosophers/kuki_guidance.html



簡単に言うと、まずはじめに「der sein」(ただ「存ること」)の実感というのが実存だと思う。それは先のエントリの「純粋経験」、「自在」とも似て「さまざまな機制や文脈からとき放たれ『ただ存ること』の実感を味わう」って感覚。

それで当時の「さまざまな機制」「構築されたもの」の代表的なものとしてキリスト教にとりこまれた新プラトン主義の文脈におけるイデア論があったのだと思う。神の実在を裏付ける理論組としてプラトン主義が援用されたのだろう。「実存は本質に先立つ」っていうよく聞くアレは神のイデアとしての本質ということ。ベンヤミンの話なんか思い出すけど


ナウシカ解読と正義の審級   ユートピアとベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/164690250.html


最終的にベンヤミンは人から超越した理念としての本質というよりもパサージュの中にそれを見出そうとしてたみたいだけど




「実存」というのはそんな感じで先の文脈でいう「(いろいろな機制から解き放たれた)自由」の感覚と同じように思う。とりあえず現時点では


なので「実存主義」と現代の日本の文脈で言う場合は本能的な機制のほかさまざまな世間的規範や価値観から解き放たれた自由な自分のあり方、野放図になりすぎて自分を却ってパフォーマンスが減ってしまわないように社会との接点として共通感覚を内面化して社会的コミットの回路も残しておくことだと思うんだけど

そういえば以前に自分の中で「実存転調」的な言葉があったなぁ、と思い出した


あれは人生の中で何回か価値観がデフォルトして自分なりの指針ができていくステップのようなものだったのだな、とあらためて思う。

その度にとらわれていた機制から自由になっていっていたのかなぁ。。拘束がキツイほどその反動として解き放たれた感動があったんだろうなぁ。。


なのでいま思うとちょっと小っ恥ずかしいような言動もあったような。。


いわゆる「サトリ」的状態だったのかな。瓢箪鯰というか




『捉えどころないモノで捉えどころないモノを抑える――常識もそんなモンだろ  そういうモンだと常に気を付けてりゃ何かと円満にいくという事だ』

おじいちゃんのこの言葉はそのまま共通感覚と観想のバランスのように思える。




そんで本質主義と実存主義の流れとしてはそろそろこの辺かのぅ。プラトン主義とプラトンの違いという感じで


現代思想としてのギリシア哲学 (ちくま学芸文庫)
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その前に決断主義関連で「投企」みときたいのでこれもちょっと見るけど


ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)
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関連:
「すべてはひとつであってひとつではない」ということ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/131485858.html?1256785776



九鬼周造、1930、「いき」の構造: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/40630844.html




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(追記)

しかし「九鬼周造は実存理解してなかったんじゃないか?」っていうのもいいすぎ・早計だなぁと思いもそっとぐぐるに


こちらのお勉強ノート的には
http://note.masm.jp/%BC%C2%C2%B8%BC%E7%B5%C1/

1930年代、ドイツのハイデガーやカール・ヤスパースなどが哲学に持ち込んだ実存*1が、第二次大戦後、フランスに輸入され、サルトルらによって、通俗化、イデオロギー化して広まった思想。ハイデガー、ヤスパースらの実存の哲学を主義、主張に変容させたもので、ハイデガーらは、自分たちと実存主義者とを区別した。


実存主義とは、機械文明の発展によって信仰を失い、神の絶対的価値が失われたことに端を発する。「もし絶対的価値基準がないなら、人間的な本質などないのではないか、ならば我々は神が望むような形ではなく、我々が自由に望むように選択(創造)できる。」という思想。


ということだとなんかゲゼルシャフト→合理化キチキチの流れの中でのロマン主義的人間復興(cf.ベンヤミン)とも似てるなとか思ったりする。


実存主義 - Wikipedia
http://bit.ly/hzMTZr

キルケゴールのときなんかはキリスト教の中の本質主義へのオルタナティブ的解釈として「個人の自由」的文脈から出てきたのだろうし、その対照としてヘーゲルの「理念と現実との不可分性」があげられてるけどこれも「ほんとの自由とはなにか?」ってアーレントの文脈思い出すと「単に野放図なだけでは自由ではない。共通感覚と接続してないと」ってことになるのかなぁとぼけーっと思う。そんで共通感覚として当時の倫理規範の代表的なものだったキリスト教が対象となっていたのかなぁ、とか。


そういう系譜の中で「人間の自由」を考える流れが「実存」系の話かと思うに、ハイデガーは時間とつなげちゃったのかな。単に推測だけど時間という束縛、それを受けた人の変化(機制)についてということなのかな。

そんな感じで「社会や世界(時間)とのかかわりの中での自由」を考える流れが実存系だったのかもだけど、サルトルの辺りで「個人の自由」に先祖かえりしちゃったのかな


ジャン=ポール・サルトル - Wikipedia
http://bit.ly/4OUQw4


ザラッとまとめてあるのみる限りだとアンガージュマンがコミットメントということでなんとなくな社会参画の意識は説いていたみたいだけど、「なんでそれが必要なのか?」という論理が薄かったのかの(対象もマルクス主義的な運動だったようだし)


そんで、それ以降は文学ほかを通じてなんとなく実存「主義」化しちゃって「社会や世間といった自分を取り囲む状況からの個人の自由」をまず謳い上げるような流れになっていったのかも知れない。



そんでいまの日本におけるなんとなくの「実存」な語用につながる、と


特にお勉強せずに、自分が接した範囲での日本のマスメディアほかでの語用からの印象では「実存」というのは「固有の生」「固有の考え方とか信念を曲げない独特の」みたいなニュアンスをふくんでいるように思っていた(ex.「外山恒一さんは実存の強い人だから」)

あと、サルトルの、「実存は本質に先立つ」ってアジはいまだったら宮台真司なんかの「終わりなき日常を生きろ」みたいなのに通じるのかな。そんで決断主義がどうとかな話になるのだろう




とりあえずもっかいまとめると


・おそらくもともとの「実存」は「自由」との関連で「個人の自由とはなにか?」を考えることばの系に属する

・そのとき「ほんとの自由とはなにか?」と考えれば社会や世界との関係が浮かんでくる
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/188110008.html

・それとは別に日本の俗(カジュアル)な「実存」の語用としては「固有の生」みたいな語感が含まれる


・けっきょく九鬼がハイデガーに連なる重層的な問題意識を理解していたのか、サルトルとの話で影響受けたのか(あるいは与えたのか)はわからない


ってとこか





posted by m_um_u at 23:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年02月20日

「天道≠天皇」で「天道」の部分だけなんとなく大衆信仰されていっていたのではないか



網野善彦・鶴見俊輔、1994、「歴史の話」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/186739555.html


「道徳的に正しいとか、そういう話ではないんです。俗界における善悪の判断をこえた存在の脈動があって、それを感じて、これが善だ、これはいい、という感覚なんです。」


あたりの話と「戦国期は天道思想が信奉されていてそれがそのままキリスト教を受け入れていく土台となっていった」辺りから


「天道」VSキリスト教: 千種通信
http://triceratops.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-94e1.html



もしくは「翻訳成立事情」に出てきた「Free」の翻訳語として「自由」や「自在」が検討されていった経緯をみつつ




「バガボンド」で出ていた天の思想というのはキリスト教由来かと思ってたけど天道思想だったかな、と


「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121774176.html


いま見直すと井上雄彦が甲野善紀の「運命は決まっている。それがゆえに自由だ」って言葉に影響されて入れていったようだけど、資料なんかから天道思想とリンクさせていったのか?(わかんないけど)



剣の道を極めたとき、あるいはある程度ようやく満足持って動かせるようになったときに「我が剣は自在を得たり」って言うけどこのときの「自在」が「運命は決まっている。それがゆえに自由だ」という感覚。自然の理(ことわり)に繋がって、その意味では型の限界はあるんだけどその数の膨大さがゆえにつながってないときに比べて無限とも思える可能性が拓けるみたいな…もっと単純に言うと純粋にパフォーマンスの向上を感じて自分が自分と意識できないぐらいに行為の中に没入するようなあの感覚。。

そういった感覚の中だと「善悪の判断を超えた存在の脈動」が感じられた。



そういった純粋経験な感覚と武道(あるいはなんらかの道(技芸))における自在の感覚が通じていたとして、それがそのまま天道として普遍化していったとは思いにくい。


でも、「運命はきまっている。(天に預けている)それがゆえに自由だ」というのはそのまま神の愛を前提としたカトリック信者の感覚にも似てるのかなぁと思ったり。



そういった大衆信仰的な感覚としての天道というのは「お天道様が見ている(につつまれている)」的な感覚だったのかなぁ



それと天皇制との関係はどうだったか?



もともとは中国の天道思想(「天」の正統を継ぐものによる革命思想)からの影響で「天皇=天の代わり(ほかの大王とは別格)」という形で導入されていった思想から「天の名代としての天皇」という神聖王的な面と、森林や田畑の所有者という現世王的な面が分離していったのかなとなんとなく


自勉ブログ 第2章 神国思想と天道思想
http://houdai.blog61.fc2.com/blog-entry-380.html


前者の神聖王な部分は「お天道様」な太陽信仰となんとなく習合し、「天皇」はこの世に人の形を持って存在するという認識ではなく「かみさま」的な感覚で信奉されてたのかな、大部分の庶民にとっては



それであとから「あの天とは実は天皇(みかど)のことだったのだ」っていわれて国家神道的になっていったのではないか




まぁ、たしかめてないからヨタ。これから見てくガイドライン的なメモとして

posted by m_um_u at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年02月06日

「許す」というか「忘れる」、「消化する」ということかな

朝ぐらいにこれをみて



人を許すってどういうことですか?
http://anond.hatelabo.jp/20110203223019




なんかいろいろつぶやいていたんだけど、そうしてるうちにあれとかこれとかいろいろ思ったのでまとめて。



かつて自分をいじめていた相手が数年ぶりに「会いたい」っていってきて、会ったら相手が謝罪してきて…ってところで怒りが自然にわいてしまった、みたいな話。


「最初から会わなきゃいいじゃん」「謝ってるんだから許せばいいじゃん」ってのは一般論としてあるだろうけど、会いたくないとことわったが知人がしつこく勧めてきた + 「私自身も成長したから、会っても大丈夫かなという気持ちもありました」ということだったのかな、と。




自分も似たような経験があるのでなんかいろいろ思ってしまった。「なんであのとき自分は会いに行ったのか」「相手もなんで会いたいと言ってきたのか」「どういう言い方がよかったんだろ(のぞんでたんだろ)?」


自分の場合は会ったときはそれほどでもなかったんだけどあとで不快が込み上げてくるのを抑えられなかった。それに対して「なぜ許せなかったのか?」みたいな自責もちょっとあって、その辺の相反する気持ちが精算できないまま堆積していた。 氷みたいに




相手がまたいじめてくるなら最低の糞ヤローとして異化できる、自分の中の記憶として消化 → 忘れてしまえるだろうけど、

相手の謝罪というか認識が自分が思っているよりも軽かった場合、自分の中の記憶や事件の重みさえ書き換えられるような気持ちになるのではないか?


「(口では「謝って済むことではないと思うけど」といっても「許して」という言葉が出てしまうのは)あなたの中のどこかにこの場で謝って済ませられることだという認識があるからではないか?」という疑念


あるいは、

どこまでいっても自分の中の事件の重みと相手側の事件の重みは交わることはないだろうに、それを無理やり相手側の現実で塗り替えられてしまいそうな腹立たしさ



たしかにいまの自分はいじめられていないけど、過去の自分はそれによって殺されてしまう





「過去にこだわって憎しみ続けるのは不毛なこと」「それ自体が一種の依存であり憎しみに依って自分自身が存立していくことになる(ミイラ取りがミイラになる)」というのは一般論としてはわかる。

しかし、そんなに簡単に「許す」ことができるだろうか?



このことは以前も思った



その気持ちを救うのは....: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/49747050.html



傷が大きなときは憎んでいなければその後も立ち続けていられないこともあるだろう



それを通じて

時が経てば自分の中での「そのこと」に対する意味や認識が変わってくるような


「許すことはできない」けど「憎み続けることはない」ぐらいに

「許す」のではなくて「共通の痛みや配慮をもった別の人との付き合いを新しく始める」というような






自分があのとき「会ってみよう」と思ったのは「許して / 別の人との付き合いとして新しくはじめてみるのもいいかもしれない」「自分は深刻に思いすぎてるが相手の中では重みが違っていて、もしかしたらその認識を通じて自分の中の経験を相対化−消化できるかもしれない」という期待があったのかも


後付けになるけど



ただ、相手の認識があまりにも浅かったり軽かったりして気分が悪くなったのかも






(ほんとは↑から思い出して本の感想文書くつもりだったけどこのまま続けるとダラダラ長くなりそうだから別件にしよう)


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2011年01月30日

「仏もまた塵であり神は細部に宿る」な話

「金や銅の像の中に神はいないですよ」

「わかってます。しかし塵を払って仏を見る心持ちはどうでしょう?」

「(…塵を払って十字架を見上げる気持ちかな?)」

「仏もまた塵です」




「日本人とユダヤ人」読んでて出てきた言葉

文脈としては「日本人は契約や言葉のように明示なものとして宗教を入れるのではなく、そのウラにある言外にあるものを読み取ろうとする。そして時には以上のような禅問答になったり…」みたいなの。偶像崇拝の是非的な文脈から宣教師が問い、老人が応える。


これ自体はまぁそういうものかなぁと思ったんだけど先日からちょっと頭に残っててなんかいろいろとリンクしたのでボケーッと



自分的には上の問答の解釈は偶像崇拝うんぬん以上に「塵を払って仏や十字架を見上げるとき、凛と張り詰めた空気の中一条の光に照らされる像を見上げるとき、その空気自体がなにか荘厳なものを作り上げているのではないか? 神や仏といったものももともとはいないのだから、むしろそこに至る過程→それに裏付けられた気持ちこそが仏や神を心のなかに実在させるのではないか? 仏像に祈るのはたしかに誤りであろうが、祈るという行為を通じてその場に神が具現しているのだ。それは塵を払うことによって神聖化を演出するのにも同じ」みたいなことなのかなぁと思ったり



元に「一切は無」という無常感があって、仏像はそこに色付けされた暫時的な目標のようなもの。それへの信心が大きければ色は全体を覆うほどのリアリティをもつだろうが、もともとは塵に同じものなので対象としては常に移り変わる。


「色即是空、空即是色」

「地と図」

というのはそういうものかなぁと(フラクタルみたいな




そんなことをなんとなく思っていたせいか次のことも似たように思えてひっかかったり



「美は細部に宿る」という言葉


これ自体は建築系の名言みたいなので19C後期にミース・ファンデルローエって人がいったとされるんだけどもともとは「神は細部に宿る」なんだろう。

そんで「神は細部に宿る」は同時に「悪魔は細部に宿る」的意味も持つ、と。



ラテン語かギリシア語辺りにもともとの由来-出典ないかなと思ってぐぐるに特に見つからず。




自分的にはベンヤミンのところで出てきた新プラトン主義系の「神は世界のあらゆるところに痕跡を残している」みたいな話かとも思ったり


ナウシカ解読と正義の審級   ユートピアとベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/164690250.html


「神はその実在的本質のすべてを被造物のなかに流し込んでいる。(それを発見できないのは人の怠慢)」ってやつ




「細部に宿る」の意味的には、「全体の設計理念は細部のデザインからも明らかになる。逆に言えばすぐれたデザインとはそういったものだ」、的な話かと思うんだけどそういった理念が普遍的とも言える合理性(ことわり)を持っているとき「それは神の残したあしあとである」と言えるのではないか。

オーパーツのようにあらかじめそこにあったかのように浮かび上がる理。それが逆説的に神?の存在証明となる


「美しい」というのはそういうことかなと思ったり。




地の中に図が、図の中に地がフラクタルに連なっていく感覚



そういえば「バガボンド」の天の理と「うつくしい」あたりの話もこんなのだったかな






--
「神は細部に宿る」の出典しらべてたらこれにたどり着いた


図像解釈と図像学--prof.Fの西洋建築史講義--pallanoia.org
http://www.pallanoia.org/lecture/?chapter=1§ion=6&term=3



形式(演出)と内容(メッセージ)があるとして、「作品の内容を正確に掘り出さねばならぬ」とするならばその方法は厳密であるべき、とする → 図像学、と




「形式と内容」について、ぼくは形式とか演出、レトリック先行な内容のないものをうざく感じるほうだけど、今回の日記を見返すに人の世の「ほんと」というのは存外「形式」によってつくられているものかなぁ。。

ていうか、「形式」であれ「内容」であれしょせんは人の理解-解釈によって意味を持つモードであるのだから、最後に信じるに値すると思える判断基準というのはその背後にある本気度(祈り)の積層への直感のようなものなのかなぁと思ったりした。


祈りって言うか、形式化によってベタなテンプレにはめこまれる前のシニフィエの混沌、流動性と多義性


「形式か内容かどっちか」、って話でもなく

タグ:形式と内容
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2010年09月28日

観念と愛、システムと生活の弁証法の話

グスコーブドリと以前にあった良識の話の続き



グスコーブドリのように: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/163308380.html


「常識」と「良識」の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161638661.html




グスコーブドリの話は寓話的なもので、そこで言われる「人にはもともと正義に向かう志向がある」というのは理想論的なところがあるわけだけど「人はパンのみに生きるにあらず」というのはなんとなくわかる。

しかし、「正義」というのは時代や環境、属するコミュニティによって異なる価値観。ともすれば生活の現実から遊離して観念的理想論として実際のひとびとの生活を苦しめるという問題がある。「壁と卵」の問題。



人が集まると権力(政治)ができて、それが「場」をつくっていくわけだけど、場の暗黙のルールが合理的でない方向に行くのを防ぐために制度がいることになる。

制度というかそれ以前の公正なルール。しかし、その制度もエスタブリッシュ化するとモノのような存在感で人を疎外していく。


それはいちお「近代的」で「合理的」な制度なんだけど。ここで個々人がふたたび脳みそ使ってその制度の状況における妥当性を考えていく必要が出てくる。


その際のエンジンが「良識」ということになるのだと思う。



もう少し具体的に言うとモノのような存在感で人を疎外していくシステム、制度的なキツさに対して生活圏や親密圏における「ふつー」の感覚



「会社とか学校と家庭」「システムと生活世界」「壁と卵」「聖と俗」との間ぐらいの話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161255211.html


あるいは生活よりもう少し労働環境に近いボランタリーでアジール的な場における「ふつー」の感覚と蓋然的に共有されているルールのようなもの


ただ、ここで注意しておくべきなのはそれがただちに<「壁」(システム)の正しさに抗じるための力となる>というわけではなく、その細々とした営みが実際のところはシステムの協働の資源となっている、ということ。


つまり、システム(壁)と生活(卵)は単に対立するものではなく、お互いに必要とする回路があるということ


システムのほうはフレキシブルな運用のためには初期設定の制度・取り決め以外の部分での現場でのボランタリーな情報共有が必要とされるわけだし、生活圏や親密圏が野放図なのんべんだらりとした環境にならないためには一定の規律と制度が要る。



要は「システムが悪」という一方向的な話ではなく両者のバランスが必要、ということだろう。




成文法と近代合理性、慣習法と生活圏のルール


蛇足だがその辺の関係はヴィンランド・サガのテーマを想わせる



「ヴィンランド・サガ」の背景メモ (アングロサクソンの良心、キリスト教とゲルマンとか): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161667855.html



クヌートの瞳は近代的合理性(神や王の名によるわがままではなく、統治のための合理的判断=マキアヴェリズム)を表現してるわけだけど、トルフィンの場合は個々の実存から出てくる良識がどこまで制度と対峙できるか、ということにつながるな。クヌートが捨てた「愛」をトルフィンは別の形で掬い上げる




あるいは、成文法-法律的なものは時代・環境に依ってぶれがちなおーざっぱな倫理や価値観(真善美)が当代のシステムの大義となって人々の生活に襲いかかることを食い止めるための仕掛けとも言えるだろうが。





システムから見ればシステムの論理が正義で、生活圏からすれば生活圏の論理が正義となる。

あるいは、他国にとっては他国のシステム+生活自体が正義とはならず、自国のそれが正義となる。


そのように正義が多元的であるとき他者の正義への寛容は一見すると正しい。

しかしそれは単なる相対主義的なお行儀の良さともいえる。


「わたしもあなたのこと分からないけどわたしもあなたのことわからないでいいじゃないですか」


という不干渉主義。



それで済まさないようにもう一歩コミットする為には、絶対的な真理・正義があるとら仮定し、そのピースを自分も他者も握ってはいるが全体にはたどり着けてない(ので情報交換が必要)と信じることが必要となる。


これによって対話可能性への真摯さが生まれる。



その際、他者に対しては「自分とは絶対的に違う価値観を持っているもの」という認識が必要となる。

自分と他者との間の絶対的な相違を安易に自らの価値観に基づいて同調(スポイル)解釈するものではなく、あくまで他者の絶対的違いを自らには足りないものとして信じる心構え。





「制度(観念)と生活(愛)の間にもそういった心構えが必要ではないかと思うわけだけど、実際には制度側からの不寛容なプレッシャーが強い現状があるな


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posted by m_um_u at 23:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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