2014年08月16日

「本当の思い(自分)は軽々に語らない」 → 「プライド-自我-壁」 → 「あたらしい壁以前のぼくを探しに」


関連:
色彩を持たない多崎つくると、孤独について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/403756028.html

没原稿 橋本治『恋愛論』|finalvent|note
https://note.mu/finalvent/n/n1d0522f7b2e1




















世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド -
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羊をめぐる冒険 -
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恋愛論 (ソフトバンク文庫) -
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新装 ぼくを探しに -
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2014年08月15日

色彩を持たない多崎つくると、孤独について


わたしからすべてが離れていったのは、たぶん、お前だけを愛させるためなのだ。

                     J.L.ボルヘス





房に入る前に読んで、なんとなく心がザワついたというか琴線に触れたとかなんとかなって日記したかったのでいまさら


色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 -
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 -


帯の著者インタビューにもあったけどこの小説自体はもともとそれほど大したものに仕上げるつもりでもなく「世間的には凡庸で平均的な男がいる」というモティーフがまずあり、その絵をふくらませていったものだったのだろう。

その男が自殺を考えていて、その理由を肉付けしていった。


なので元々は短編として仕上げられるべくものであり、短編で仕上がっていたとしたら1章と最後の章ぐらいで仕上がっていたかもしれない。あとはわずかな肉付け。

現在の村上春樹の筆力を試すための習作的な性格があったのでは?


帯に「良いニュースと悪いニュースがある。」の部分が抜き出されていることからも編集サイドからもこれは「世間的には凡庸な男が凡庸さを受け入れていく物語」として売り出すことが了解されていて、世間的にはそのように受け止められたのだろう。あのセリフは作品中の自己啓発セミナーで最初に受講者の心をつかむために使われるもので、要約すれば「良いニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」「しかしけっきょくは同様の結果なのだ」(≠「人生は配られたカードで勝負するしかないのさ」)ということなので。



そのように思うわけだけどここで表されていたテーマ、「孤独と死、そこからの再生」というのはぢんわりと響いた。


30代なかばにして「なにもない」「大人になってしまった的に変わっていく」というのは村上春樹のモティーフとしていままでもあって、それをテンプレ的に貼り付けた、とも言える。


テーマとして短縮し書き出してみると村上作品としては月並みな話なのだけど、自分が思いの外「ぢんわり」きたのはなぜなのか考える。

テーマとか論理、理屈的な繋がりというよりは全体の場面情況を通じた説得力のようなものを感じられたから、だろうか。


「同様のテーマを扱っていても別の情況でその設定を進行させ、登場人物なりの納得を得る際に得られる説得力」というのは作品ごとに異なるものだろうし。




30代なかばにして「なにもない」「大人になってしまった的に変わっていく」≠「大切な人との別れがある」というのは「プールサイド」や「国境の南、太陽の西」を想わせた。


国境の南、太陽の西 (講談社文庫) -
国境の南、太陽の西 (講談社文庫) -

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) -
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) -



「プールサイド」では「33歳にして24歳の女が求めるものを過不足なくきちんと与えることができるようになっていた」ということ。

「国境の南、太陽の西」では30代半ばにして社会的に成功し、順風満帆な中で運命の女性があらわれて、不倫を通じて妻との別れを経験する。

というか、女の失踪を通じて「どんなに親密になっても分かり合えない心の奥深くにあるもの」「他人はもとより自分でも制御できないもの」が描かれる。

そして「ぼく」はねじまき鳥を巡って旅に出るのだけれど、最後まで女のその部分の謎は解かれない。


「女の中には自分でも制御できないものがあってどんなに親密になってもそこは制御できないし分かり合えない」という色は「多崎つくる」というキャンバスにも少し付加されていた。


そしてその謎は解かれずに保留のまま。


抽象画においてなんだかわからない色の配置があるように。そしてそれが全体を印象させるものになるように。



村上作品においてこのテーマというのはずっと続き、多角的な情況設定を通じて作者自体が納得していくために綴られるものなのかもしれない。


「ノルウェイの森」もそういうものだったかなあとおもって今回レンタルしてきた。


ノルウェイの森 [DVD] -
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しかし自分はそういった経験やテーマにそれほど関心がない(ひと通りの恋人との別れみたいなのはあるけどそれほど傷になってない)ので、その部分よりは「孤独」→「自殺」、「10代の心身が変化する時季にそれを真剣に考えて結果としてやせ細った」というところに関心を持った。

自分も似た経験はあるので。自分の場合は親友たちから去られた疎外感ではなく単に軽いいじめにあったからだけど。


多崎つくるがそうであったように自分もあのとき変わった。


人との距離やつきあいかた、社会の見方。



そういった痛みの経験もなく生きていれば、凡庸だけど明るく人懐こい「ふつーのひと」だったのかもしれない。(いまも田舎的「人懐こさ」みたいなのはあるけど)





疎外と自殺とそこからの再生について



けっきょく多崎つくるはどうやって孤独→自殺の危機から逃れられたのか?


「自分を変化させた」ということでたぶんここで自分と似たような心理過程があったのだろう。オオカミになる、まではいかないんだけど、基本的な人との付き合いは職務上必要最低限に留め、親密な付き合いにはいる人を厳選し、その付き合いの中で裏切られることを最初から想定し「まあそんなもんだよな」的なドライな諦観に生きる。

自分の場合はその後の人との関わりを通じて標準モードでは人懐こさ回復したけど、多崎つくるの場合はずーっと氷男で、あるときひさびさに踏み込んで付き合おうとした女性から「あなたには最後のところで人と合わせられない距離がある。どんなに親密になっても。それはたぶんあなたの学生時代の別れが未解決のままトラウマとして残っているせいかもしれない」と指摘される。

「その部分が解決するまで、わたしはこれ以上あなたとは深い付き合いは出来ないわ」


そう言われて多崎つくるの巡礼の旅がはじまる。



結果的にその部分について彼が解決したかどうか、人との付き合いにもっと積極的になれたか、ということについてはぼんやりと保留したまま物語は終わる。

そうはいっても最後のほうで積極的なコミットは見られた。現実を考えてもこの部分はそんなに劇的に変わるものでもないので「こんなものだろうな」という感じではあったけど。



色彩のコミュニティから閉めだされた理由を求めて、何年かぶりに仲間を訪ね歩くことを通じその根本的な原因としてシロが「つくるがわたしをレイプした」といったから、までは突き止めたが「では、なぜ彼女はそんなことを言ったのか?」は謎のままに終わったけど。






疎外と自殺、あるいは他殺について直近でこんなのを見た。


「秋葉原事件」加藤智大被告が「黒子のバスケ」脅迫事件に見解表明!(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140814-00038250/


要約すると「われわれにはわれわれ特有の事情があったとはいえ疎外 → 孤独がありそれを埋めるべく犯罪に至ったのです」「それは逃げではなくわれわれなりに社会との接点をもとうとする方法だったのです」ということになるか。

しかしそれが他殺や他人(社会)に迷惑をかける形で発露しなくていいじゃんとふつー考えるので独特な論理展開であり詭弁的にも思えるけど。

「疎外 → 孤独 → 自殺か他殺か」の心理過程を素直に受け取ると(´・ω・`)する。



事件の当初も思ったけど、こういう犯罪を見ると永山則夫的な「貧困、社会構造が悪い」「罪人はその犠牲者的側面がある」というアファーマティブ・アクションみたいな見方をとってしまいがちになり、意識してその回路を反省 → 閉じるようにする。


件の二人も(供述をそのまま信じる場合)当該環境の犠牲者的なところがあり「われわれはもっとなにかしてやれなかったのか?」「加藤智大はどこのネットコミュニティもいる。第二第三の加藤があらわれないように、われわれが社会的に包摂しよう」みたいなのが見られた。


「環境のせいとはいってもそんなこといってたらずーっと育ちの不幸を言い訳にするようになりキリがない」みたいなところはあって、その議論にtuneしたくないのでここで留めるけれど。


「寂しくてカオナシ暴走したんだったらもうちょっと周りがなんとかしてあげられたらよかったのにね。あるいは金はすぐには無理にしてもちょっとした出会いがあったり。恋人とか、あるいはそこまでいかなくても人肌とかあったら違ったのかもしれない」みたいなことを思うんだけど、それとは別に「孤独を受け容れろ」という人達もいる。


それは「配られたカードで勝負するしかないのさ」と同じような意味で「クレクレ/足りない足りないと外部に求めてもキリがないところがあるから現状の足りなさ(miss)をとりあえず是しとしよう。寂しさはあるにしても」ということか、とは思う。


でも、孤独にもいろんなレベルがあって、ふつーの生活のなかで湧いてくる孤独(村上春樹的な孤独/人生の意味の希薄さ)であれば「孤独を受け入れろ」ともいえるだろうけど、いわゆる「ふつー」のレベルを超えて押し寄せてくる孤独-死にたみがある情況ではまた話が違ってくるように思う。


たとえば留置場-刑務所の中とか
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/403665731.html?1408056351

(※はてブあつまってきて「単にマウンティングして目立ちたいだけの連中がちゃんと読まずにガタガタいってるのうぜえ」 + 「それで目立って裁判に影響すると嫌」なので当該エントリは現在非公開中(特にやましいこと書いてないと思うけど『もしも』のこともあり、関係者もいて迷惑かかるといけないってのもあるし。ついでにいっとけば当該エントリをした理由は「刑務所の中」よろしく留置場の中や裁判までの過程、事情(逮捕されるとこんなに大変)について客観的事実を知識共有しとくのも良いかなと思ったから(特にTLで仲良い人たち宛で)。あとは最低最悪な情況でも学びがあるところを示せたかなと思ったけどはてブの読み飛ばし-自分のいいたいことだけ言う-マウンティング連中には通じなかった。。「何をしたか」とか書かなかったのも特定されると面倒そうだったから。釈放が早かったところからその辺は推察できるかと思ったんだけど、脳の容量足らない人たちはそこまで頭がまわらないのだった。書き方もあったかもだがクスリとかな事件ではないし、クスリだったらこんなにはやく釈放されてねーよ。あと、厨が魚拓とったーとか言ってきたけど阿呆なのか。。サービス側に頼んで消してもらうけど
https://twitter.com/m_um_u/status/500110442077749250
http://twitter.com/96neko/status/500107225147248640




なので「ふつー」の環境であれば「孤独や寂しさを受け入れろ」「それを散らすために安易にセックスして結果的に相手も自分も不幸にするな」とかも分かるんだけど、それも情況に依る、ということ。


環境型権力ってわけでもないんだけど実際にぢわぢわと生活に関わるところで幸福が実現されてないのって精神に来る。。


そのとき、人肌で死にたみを回避できるならそれでいいんじゃないかと自分としては思う。


まあ人肌以外にもいろいろあるだろうけど。留置場なんかだと甘味やおいしいものがなにより重要ってのは「刑務所の中」のとおりだったし。あと清潔・まともな睡眠ほかの基本的な環境。





つか、この辺りの話でこういった例外状態を例として持ってくることは飛び道具的ひきょーさ、というかイレギュラーみたいなところはあるか。


ふつーに生きていたら「孤独の受け容れ」の問題というのは生の意味、自分(人生)の了解的なものだろうから、自分も「孤独を受け入れろ(ワビサビとして」派だし。




このへんもそれぞれの作品同様、それぞれの人生-ストーリーを通じた了解のようなものがあるのだろう。論理や理屈以前に音や味、色やあたたかさで納得するようなそれが。ある場面で自分に「そういうことだったんだ」(これでいいのだ)と語りかけてくれるのかもしれない。



その聲を聞き逃さないように保っていたいと思う。

posted by m_um_u at 08:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年07月17日

長い付き合い


ひさびさに今日はこの時間でもわりとよゆーがある+L.C.Lが思い出されたのでヌルいアロマ塩湯を用意して暗闇の中で浸かりつつ、さっきネットで見た記事のことを想っていた。

http://twitter.com/m_um_u/status/489747058346045442

http://twitter.com/m_um_u/status/489747239951032322


鈴木涼美 身体を売ったらサヨウナラ<お乳は生きるための筋肉です〜夜のおねえさんの超恋愛論〜> - 幻冬舎plus
http://www.gentosha.jp/articles/-/2332

鈴木涼美 モテないオトコは麦を食え<お乳は生きるための筋肉です〜夜のおねえさんの超恋愛論〜> - 幻冬舎plus
http://www.gentosha.jp/articles/-/2296


書き手のひとはSFC出身でサブカル文化系わりと姉御男肌なひとぽく「おまえは恋愛対象に見てなかったわぁ」「○○さんてもとっくにそんなの体験してると思った」「へえ。。意外と女ぽい所あるんだ?」みたいなこと言われそうな浅野いにお「ソラニン」に出てくる女子キャラのようなのを思い描いていたのでここで書かれていたのもそういう女性の中に少なからずいる姉御-男肌→男気みたいな話かなあとか思ったんだけど、そういうのとは別に女の女たるズルさみたいなのをおもったり。あるいは、恋人がAVとか風俗とかしてるってことだとショックで吐いてしまう男のあり方に男のほうのズルさのようなものを感じたり。

「AV出てるってわかったら吐きそうになった」とか「萎えた」「冷めた」「汚い女に思えた」みたいなのってけっきょくは目の前の個人と付き合ってるのではなくて社会の評判と付き合ってるってことなのかなあとか。そういうのはけっきょくホモソーシャルな共同体-世間体と付き合ってるってことで、そんなことあるんだったら「一部の女は男をステータスアクセサリーとして所有してる(付き合ってる)」とかいうのと同じだなあとか何とか。

そうは言ってもそういうのは社会倫理とか道徳的に何が正解ってわけでもなく個々人の生理的問題というか、肌感というか、「どうしてもダメ」みたいなところがあるんだから仕方ないところがあるのかなあとも思う。実際そう言うの経験したことないので、そういう状況になったら思ったより自分がショック受けてるのかもだけど。



あと、恋人的付き合いにおける将来と打算みたいなの。



「こいつはわたしを好きになる人、こいつはわたしが好きになる人」みたいなのって女性だけでもなく男性にもあって、それは「恋人としてはいいけど結婚としてはねえ」とか「長い付き合いとしてはねえ」みたいなところに絡むのかなあとか何とか。そんで、後者の場合、「価値観が合うから」「金銭感覚が」ほかのいろいろな理由が合理化されたりするけど、その主要なところにお金問題が来るのかなあとか。まあ「けっきょく金だろ」ていうか、ある程度の金・生活スタイルの共通なところを最低条件としてその他のオプションを見ていく、みたいなの。そんでその後にセックスだの性格だの価値観だのが続いていく。まあ金銭的に心配がない状況だったらそのへんのプライオリティは変わってくるだろうけど。

で、それらのプライオリティたる選択項目の合計値がなんとなく算定され、それをもとに比較され、打算とか計算とか生じるのかなあ。




そういうのをなんとなく考えつつ、自分がこの先また異性と付き合ったり結婚したりみたいなことがあるとして、そうなるとけっきょく長い付き合いになるのはこのへんを総合してズルくない人なのかなあとかおもったり。あるいはこういった部分での自分のずるさや貸し借りな部分にはすくなくとも気づき気づかえるぐらいの人、好意だけではなく厚意みたいなのもわかって実践できる人、、なのかなあ。

このへんの「ズルい女」「女はズルい」「ズルくしたのは自分のせいか?(自分も相手からみたらズルかったか?)」についての経験をいうと愚痴ぽく無駄に長くなるように思うので割愛するとして、「ズルくない」あるいは贈与交換的に「なにかをしてくれ」て、その上で「一緒にいて緊張しない」「疲れない」なひとなのかなあ。。長く付き合うとしたら。


あるいは、そんな条件に合致する人を望んでも偶然に期待するしかないので、てけとーに複数の人と付き合いつつそれぞれの項目をマンゾクさせてくとかなのかなあ。。



「でもそうなると老後が辛いぞ?」と50歳からのハローライフの小林薫が脳内するわけだけど、、






まあそれほど重要な事でもなく、ちょっと時間ができたので感傷自慰みたいなのをしてみたくなったのだった


とりあえず目先は稼がないとなあ(ギムレットには早すぎる)







--
関連:
最後まで残る人とそうじゃない人: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/400937653.html

posted by m_um_u at 22:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年07月06日

夏への扉


最近の厄落としみたいなのも兼ねて茅の輪くぐりにいった。
http://t.co/1vQTKR791M


それで後から前の日記に掛けて「蘇民将来て自分の場合は粗民将来て感じかなあ」とかおもったり


最後まで残る人とそうじゃない人: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/400937653.html


大祓 - Wikipedia
http://bit.ly/1omWNov

蘇民祭 - Wikipedia
http://bit.ly/1omXFcB


「北海より南方に旅をしていた武塔神が人間に化身し、貧しい蘇民将来(そみんしょうらい)と裕福な巨丹(こたん)という2人の兄弟に一夜の宿を求めたところ巨丹はこれを拒み、蘇民将来は快く旅人を泊め粟飯で貧しいながらも精一杯もてなした。それから数年後、妻を娶り子を為した蘇民将来の所に再び武塔の神が現れ、自分の正体が建速須佐之男命であることを明かすと共に茅の茎で作った輪を身に付け『我は蘇民将来の子孫である』と唱えれば無病息災が約束されるであろうと告げた」


粗末な武塔神(スサノオ、牛頭王)を貧しいながらももてなした蘇民将来はその後、幸福を受けた。無縁なマレビト、あるいはエビスなどの流れものを歓待するというアレ。

自分の場合は自分自身が粗民ということで蘇民とスサノオ(マレビト)を兼ねるのかなあとかなんとか。



蘇民将来・巨旦将来というのもよくわからないところがあって蘇民-蘇我氏系だと渡来人の集落とヤマトとの関係を象徴するはなしなのかとも思う。蘇我、物部、秦あたりは未だインストしてないけど、秦は渡来人だし、蘇我もその関係であのへんの日本独立と関係あったのかなあとか何とか。そうかんがえると蘇民祭というのはヤマトによる地方征服を称えるうんたらになりそうで、そんなに無邪気なものでもないのかなあとか思うけど。。スサノオが絡んでるので単に力押しの征服-制定ということでもなく、話し合いを通じた融和みたいなところもあったのかもしれない、よくわからんけど。


なのでヤマタノオロチの話のバリアントではないかと思うんだけど、ヤマタノオロチの話の分布と蘇民将来なあれの分布と関係するのだろうか?


まあこのへんも民俗学的なアレでおいおい見ていくとして…


同じ系でも1月ぐらいにやる蘇民祭の時期をかんがえると夏至と冬至の節句ぽい。


まあ茅の輪くぐりは夏至祭り(夏への扉)と思っておいて良いのだろう。



この時期だと七夕も絡んで、七夕は盂蘭盆会的な期間、つまり夏至を境に日照時間が短くなっていくこと→死者の時間となっていくことと対応してる感。ケルトの夏祭りとか。


七夕も本来はそんな感じで「一年に一回」というのは死者との邂逅なのかなあとかおもったりする。その意味ではアレは黄泉平坂を境としたイザナギ-イザナミも想わせる。「思い人の霊との一年に一度の邂逅」という神話の元型なのだろう。



七夕-スサノオということだと天顕祭が思い出される。


天顕祭 (New COMICS)
天顕祭 (New COMICS)
posted with amazlet at 14.07.05
白井 弓子
サンクチュアリパプリッシング



ここでは茅(かや)ではなく竹だったけど、震災-原発による放射能の不安、そこで別れた2つのものなんかも想わせる。



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2014年07月03日

最後まで残る人とそうじゃない人


3月か4月ぐらいにまたしても絶望して、そこからなんとか希望の兆しを見出して、んでも当面は元手としての銭が足りないということでバイトとかしつつ本業も地味に再開してる。


本業の方は未だそれだけで食ってくレベルまでは達してないけれど、そういう兆しも見えてるし、現段階でも8月ぐらいには最低限それだけで食ってくぐらいにはなれてるぽい。まあでもそれだけだと収入たいしたことないのでバイトと並行するけど。バイトも苦でもない感じのものだし。本業回復してバイトめんどくさい(むしろ本業に時間を当てたほうが効率が良い)ならバイトやめればいいだけだし。異業種の様子・世間的な感覚知るのにもいいかなあって感じ。



今後の展望と絶望を通じての最近のうんたらについて。



以前も思ったけど人は人が底辺まで凹んでると離れていくものだなあと実感したり。

それは単に「お金がないから」というだけでもなく「お金がない」≠「余裕が無い」状態になった人が以前の明るさや雰囲気を失っていって鬱陶しくなる+話しても面白く無いみたいなことになるからかなあと思うし、自分が逆の立場だとそう思うだろうなあとは思うんだけど。

でも同時に「こういうときに最後まで残る人とそうじゃない人の違いは出るのかなあ」ともおもったりする。

残らない人はお金にせよ明るさにせよ、なんらかの功利的目的のために付き合っていて、その部分が薄れていくと離れていくのだなあ、と。

その辺は付き合いとか関係性の濃度なんかにも関連してて、ネットぐらいの付き合いとか評判?のようなものだとあからさまに感じたり。


ついったなんかでもそういうのは感じる。経済状態が変わる前 / 後で言ってることは大して変わらなくてもなんとなく反応は変わってくるものだなあ、って。けっきょくあのへんのひとたちは言葉や論理、内容ではなく概観を食べてるのだから仕方ないといえば仕方ないのだけど。


こういう話をしてると「今に見てろよ」って思ってしまうし、じっさいそういう兆しが見えている。


東京方面に当初移住した収入面での目的、アテもようやくにして現実化しそうだし。まあ当初に比べて資金がなくなってしまった+時間がみょーにかかってしまった(5年も無駄に食ってしまった)+3倍ぐらい収入増える予定だったけど2倍ぐらいかなあ、って感じだけど。


そして、そういう風に余裕を取り戻したらまたお勉強再開してぼそぼそとこのへんにノートしていくのだろう。


その頃にはまたフォロワーなメンツも変わってるのかな(まあこのへんは「知」を功利するひとの面子が変わる程度だから繰り返しなのだろうけど




「こういうときに最後まで残る人とそうじゃない人の違いが出る」とか今後の展望について、もうちょっとぼんやりと。


さっきもちょっと言ったけどこの「最後まで残る」ってあれもびみょーで、ふつーの付き合い程度ならこういう状態になったら疎遠になっていくのは仕方のないものだし、それ以上を求めるのは「それ以上の何かを求めている」「過剰な期待がある」ということなのかなあ。たとえば「薄情」とかな言葉はこういう場面で使われるのだろうけど、自分はそれほどに人に情を期待していたのかなあ、とか。


あるいは「切れた」「愛想を尽かせた」というわけでもなく「(回復するまで)保留」っていう大人対応なだけなのかもだけど。どっちにしてもそのぐらいの付き合いなのだろうなあとか思ったり(特に皮肉でもなく



逆に親なんかは最後まで切れなかったみたいだけど、それは愛情と言うよりは、「愛情」「親族という義務」みたいな印象だった。このへんは詳細語ると愚痴っぽくなるからあまり言わないどこうと思うけど。じいさんが生きてるとき、さんざん持て余して悪口いったりイケズをしていた叔母や母が爺さんの墓参りにはきっちりと行く、そういう義務感。「絆」「愛情」とかすべてがそうだとは言わないけど、他人がそういう言葉でフワフワロマン膨らませるときそういうことをおもったりする。



なので従来の土俗的・義務的・自動化された「愛情」「親族」、その逆としての「薄情」という罵倒に自分は組みしないのだけれど、それとは別に功利的な目的以外でもっと自律的に最後まで残っていく付き合いみたいなのはあるのかなあ、って。


それを「愛」とか「情」とか定義するのも未だ躊躇われるし、そこに功利的ななにかが含まれていないともいえないけれど。






まあ落ち着いたらまたお勉強やら稽古やら再開して、その頃にはまた違った色が周りを彩っているのだろう。



とりあえず年内には目処をたてたいな。寒くなる前に



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2014年03月20日

性的満足におけるココロとカラダについてのぼんやりとした話


しばらくセックスしてないとセックスの仕方忘れてんじゃないかなあと思うこともあるけど案外どうということもなく自転車の乗り方みたいなものだなあとおもったりして、まあそういうのはあの独特のにおいとか空間みたいなのと一緒に思い出されたのだけど、やはり思い返してみると「ほんとにセックスしたのかなあ。。」とかおもったりして現実感が無かったり。

「○○した」「こういうことされた」みたいなイベント的場面にそって画像記憶が再構成されるんだけどなんとなく実感が無い。


そのときその場面では現実感があったと思うんだけど。。あるいはもっと強烈な何かを求めているからそういうものに対する不全感が残ってるのだろうか。


こういう感覚は離人症的な感覚に似てる。あのときはきれいなものを見たときに「これは世間的にはきれいなのだろうけど自分はそれを実感できてないなあ」っていう、「客観的一般的には○○なんだけど実感としては感じられない」という感覚。

あのときはそれが悲しかったけど、セックスの回想についてそういう感傷があるわけではない。



こういうのは心と体の問題みたいなものもあるのだろうか


「体は快楽やオーガズムを感じることはできても心もそれに伴ってないと真の満足・充足は得られない」みたいなの



北原 若いAVの子達ってどうなんです?

神田 北原さんはよくご存知だろうと思うけど、女の人って体だけ感じようと思えばどこまでも感じれちゃう生き物なんですよね。最近のAVの現場を見てると、女の子たちは体だけはいっぱいイケちゃってるんだけど、きっと後で揺り戻しがあるんだろうなって感じる。なんて言うのかな…、お金だから我慢してるっていうわけじゃないでしょうけど、みんなに好かれたい、この現場を平和に終らせたいって、そんなことを思って頑張って入り込んでいくうちに体だけがどんどん感じてしまって、トランスに入っちゃうみたいな…。

北原 揺り戻しってどういう感じなんですか?

神田 実際にした行為と、自分が本当にしたいと願望している行為の乖離に、1人になった時にやられちゃう。素敵な男の人と出会って恋愛してセックスしたいっていう願望と、例えば現場でやったスカトロプレイとでは、余りに乖離があるじゃないですか。私生活においては、一緒にゲロ吐いて、お盆に入れて飲もうよ、なんて奴いるわけないですから。「傷付く」って言ったら違うかもしれない。ただ、取り残されていく感じはあるんだと思う。

北原 女っていい人が多いから、周囲を荒立たせずに現場を終らせようって気持ちですごい頑張っちゃう人が多いんですよね。そういう子達がAV女優とかになると、疲れちゃったり、壊れちゃったりすることが少なくない。セックスで仕事をするってことが、現状で女の人にとってどれくらい安全なのかなって考えちゃいますね。

対談 神田つばき × 北原みのり 「女版・快楽主義のすすめ」
http://vobo.jp/tsubaki_minori.html



言語化しにくいけどそういうところは結構な人があるのかもしれない。心のほうもリズムを合わす必要がある、みたいなの。


そして自分はそういうものに対して未だ整ってないのか、あるいは、「そういうものこそホンモノだ」とすることで本質主義的な欠乏を感じているのか…。



うれぴっぷるなんかがちょこちょこ「若い女の子は性的に搾取・消費される」「自分はそういう風に搾取する/される関係が嫌い」「スローセックス・添い寝推進!」みたいなことを言ってて、それは彼女の性被害体験も起因してるのかと思うんだけど、そういうの以前に一般的に若い女性が不幸な性体験して消費されるケースというのは結構あるようにおもう。

特に若くて自我がまだ固まってないと「捨てられる」不安や「セックスしないと怒るから」ということで関係を許容し、相手に対して「ここをこうして」的にコミュニケーションもできないまま相手の良いようにされて、結果的に肉体的なオーガズムを体験したことがない子というのはけっこういるぽい。

まあ「ここをこうして」っていいにくいのは「捨てられるから」ってだけでもなく単に恥ずかしくて言いにくいみたいなのもあるからだろうけど。


そして肉体的にオーガズムを得られるようになったとしてもそれと心の満足とはまた違うものだったり。プロでそういう仕事をしていて肉体的にはオーガズムを感じられるようになっても、あるいはプロでやってるがゆえに肉体的なほうが先行しすぎてその部分が残ってしまうという懸念もあるようだし。





先日どっかのエントリで「夫婦が仲良くするためには最低週一、がんばって週三でしてかないと。日本人平均は」みたいなのがあって「( ^ω^)・・・そういう平均とか『仲良くするために』でやるのか。。大変そうだなあ」とかおもった。まあ実際夫婦関係だとそういう面はあるのだろうけど

性欲のけっこうな部分が繁殖本能にあるのだとしたら子供できちゃったらそういうのが縮んでくのが道理で、特に子育て期のブランクを通じてそうなってくかなあとか思うんだけど、そのあとにコミュニケーション的に復活していくのは意志とか努力とか必要なんだろうなあとか

そんで一般的には男性は年齢とともに性欲が減っていくのに対して、女性は年齢とともに増えていくみたいなところがあるみたい。特に出産後によくなっていくとか。

なので性欲的にはある程度経験と年齢を重ねた女性と若い男性、ある程度経験と年齢を重ねた男性と若い女性がちょうどよくなったりする。


いわゆるカレセンがどうとか「若いうちはがっつくから」とか。



んでも世の中的にはそんなにほいほいとフリーセックスできるような環境ではないので特定の相手とがんばっていく事が必要な現状がある。特に中年超えると性欲とかも逆転するところがあるのだろうし(※個人差があります)



そういうのに対して若い男性の性欲というのは大部分が繁殖本能から脳内物質が生じ、それに耐性があまりない人たちが脳内物質の酩酊状態に抗しきれずに理性を逸脱するものなのだろうから意志とは真逆なように思うんだけど、物理的な性的快楽ということではけっきょく男の性というのは精液が出たら終わり的なところがあり、その快楽的には自慰とそんなに変わらないところがあるようにおもう。

セックスの耐えられないつまらなさ
http://anond.hatelabo.jp/20140320213113


「嫌がってる相手を無理矢理に」とか痴漢したい欲みたいなのも物理的にはそんなに気持ちよくないのだろうから自分的にはよくわかんないし誘因がない。

でもまあそれは酒に酔った酩酊的なものだろうから意志で統制できないのだろうなあとか思うんだけど、本能に従った脳内麻薬の酩酊状態といいつつも現代人だからコンドームほか避妊はちゃんとしてるってとこにイロニーみたいなの感じたり。。

冷静に考えるとこういう面での男性の性的快楽がもっとも生じているときというのは行為の前から最中までの興奮状態の間、脳内麻薬にドライブされている間で、オーガズム自体はたいしたものではないのだろう。

なので脳内麻薬出しっぱなしにして達しないほうが気持ち良いのかなあとかおもったりする。



性欲と意志について、若い内は本能的な性欲を意志で統制するけど、中年過ぎたりして性欲衰えたりマンネリしたりすると敢えて意志でセックスするっていうのも対照的でなんか皮肉というか、おもしろい。



まあ中年でもやり方とか相手変えたりしてマンネリ超えてとか工夫すれば「敢えて意志で」てのでもないってのはあるのだろうけど。あるいはセックスに対する考え方変えてそれにそってやり方も変えたり。

「男の人って最初からそういう性欲強いものじゃないの?」「男だったらこれはゴチソウでしょ?」みたいなのがけっこう散見されるのに対して草食系男子みたいな感じで性欲が薄くなってきてる人たちもいるみたいなんだけど、そういうのは昔と現在のライフスタイルとかも性欲に影響してるのかなあとかチョット思う(だとすると本能だけでも語れないのかなあとか


「性欲は世代・年齢層ではなく個人差、個人の生育環境や経験に依る」みたいなのもあるのかも。


おーざっぱには発達段階の愛情との関係とか。性的コミュニケーションて授乳とそんなに変わらない感じもするし。お互いの悪を引き受けるというか、そこでは悪も善も関係なく互いに抱きしめて融け合うというか…。

イド的な部分と愛情と常識(社会化)、個人の自我形成の関数の結果が性欲として残るみたいな感じだろうか。


上野千鶴子、1989、「スカートの下の劇場」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/388711171.html



「メンヘラは性欲が強い」「性的依存をしがちになる」みたいなのもその辺関連なのかも





だとすると身体的なオーガズムだけではない心理的な満足というのはそういった愛情とか安心みたいなのとの関係があるのかな。


そんでそういう部分でなんとなく心理面を優先するのは女性のほうが先のような感じ


マンネリセックスがいいのです - 仕事は母ちゃん
http://blog.plutan.org/entry/2014/03/20/124116


物語を完成させる - 添い寝原体験 - blog.922
http://bit.ly/KrcKvR




このへんもよくわかんないのでぼけーっとほかのひとの考えも見て行きたいんだけど、やはりこういう「性的満足とQOL」みたいなのは男性より女性のほうが繊細で誠実な印象がある。


私は生まれなおしている---日記とノート 1947-1963
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「アンネの日記」なんかもそういう悩みあるみたいなんだけど、そういう思春期女性のこのへんの悩みみたいなのちょこちょこ見て行きたい(山田詠美とかかなあ。。



まあでも「やっぱココロのほうが大事なんだよ」て話でもなくカラダ面も開発しつつココロもくっついていけるといいのかなあとかおもったりするので、そっち方面が未だで興味がある人は徐々に開発していくのもいいかと思うけど




posted by m_um_u at 23:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

ウクライナと最近読んだ本(石油戦略→帝国以後→リフレ→北からの世界史)

軽く読んだ本メモ的に。


ウクライナ情勢が気になってたのでそれ関連で


世界を動かす石油戦略 (ちくま新書)
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「帝国以後」と日本の選択
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日本経済にいま何が起きているのか
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北からの世界史: 柔らかい黄金と北極海航路
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関連エントリ


「石油戦略」はあとがき的な所に要所まとまってるのでそれをほぼそのままメモ。出版されたのは2003年


・2001年9月の同時多発テロをきっかけに米国が中東湾岸の大産油国をマージナル(周辺)化しようとしている

・産油国の盟主の座をサウジアラビアからロシアが奪取する可能性が出てきて、米露関係が大きく進展しようとしている。

・中国の石油需要が伸びてきており、その対応によって将来米国や近隣アジア諸国との衝突の可能性がある(ex.南沙諸島のシーレーン)

・中東の政治不安 + 北海の減退 + カスピ海や西アフリカの政治不安 → 国際石油市場は不安定な時期に入る可能性が大きい。加えて、原子力や新エネルギーの促進だけでは現実的にかンがえると対応策としてまったく不十分(ちなみに天然ガス、シェールガスは石油(原油)の気体状みたいなものだから似たようなもの)

・日本はこういった不安定化に対処すべくエネルギー源の多様化、石油供給源のポートフォリオをすべき。特に極東ロシアを含む近隣地域に豊富にある天然ガス資源をいかに利用するかがカギ(日本は石油に依存しすぎて天然ガスを利用するインフラ自体が整っていない)


本書で何回も繰り返されていたのは「石油は供給国から直接取り寄せするのではなく一度国際市場に出したものを輸入する。ひとつの国と関係が悪化しても急に石油を輸入できなくなるわけではない。マーケット原理に従って価格は高騰するが。オイルショックは日本が不安になりすぎたために生じたものでこのような事情を知っていれば少し高くなってもやりすごせた」という話。

日本は現在でも中東の石油に依存しすぎなとこはあるけど、それによって有事の際にただちに石油がなくなるということはない。

ただ、ポートフォリオは作っておいたほうがいいのでやはりロシアとの関係は良くなってたほうがいい。

ついでにいうと石油・エネルギー資源の安全保障をめぐった地政学・国際関係論のリアリズム的視点というのは時代遅れの帝国主義的視点で、現在では世界システム的にマーケットを通じて相互依存してることがソフトパワー的なつながりになってるのでナンセンスだ、みたいな言い方は本書でも何回か出ていた。



「帝国以後と日本の選択」は「ミスター円」な榊原英資さんとの対話とか「帝国以後」評がメイン。

「帝国以後」の主要な論旨

・アメリカは特に生産力はなくても基軸通貨国として他国から信用・マネーを集めている。それを需要・消費で回している

・基軸通貨国の信用・覇権を維持するために示威的戦闘を繰り返す必要がある


のうち一点目の基軸通貨の部分について、専門家的にも間違ってないのだなあと確認できた、ぐらい。

「わざと弱い国をダシにして示威的戦闘を繰り返している。イラク戦争もその一つ」については国際関係論的な専門家もいなかったので保留。「石油戦略」と合わせれば「国際石油市場 → マーケットの暴落を防ぐために中東の安定化をはかった」とする見方もあるので。


「基軸通貨で金-需要集めて消費を回す」という考えはリフレの仕組みをなんとなく理解していたのでそれの国際版かなとおもった。

つまり「政府が国債を発行-それを日銀が買う」というマッチポンプによって世間に信用・マネーを先行入力し、それによって消費・設備投資を刺激するってやつ。んで行き過ぎてインフレしてもまずいのでインフレターゲット(インタゲ)をなん%て決めておいてそのぐらいになるようにマイルドインフレを操作的に創りだす、と。

日本政府と日銀は日本の中央政府・銀行だけどアメリカ政府・銀行は世界のその役割を担ってるのかな。

そんで基軸通貨を担える国の条件として世界一強い国=安定してる国というのがある。


なので軍事的示威が必要って話にもなるわけだけど。。まあこのへんは見方の問題か(単にマーケット安定させないと自分もクビが絞まるってだけでやってるのかもだし)


そういった見方をするとウクライナへの介入というのはけっきょくはウクライナとその周辺国、特に石油・天然ガスが絡む中央アジア・中東辺りのマーケットの安定化狙いかなあということで。。そうかんがえるともっとも重要なのは「安定化」「沈静化」ということになる。


なので「帝国主義的拡大」とか地政学がどうとか、「グレートゲームの再来」という見方自体がおかしい感じもするんだけど、まあその可能性もいちおもっておいたほうがいいのだろうな。。




そんで「安定」「沈静化」という観点からするとやはりロシアの介入理由がもっとも説得力があるように思えるんだけど。。


クリミア編入を表明したプーチン大統領の演説 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/644258


アメリカはアメリカで安定化させようとしたのかもだからなんともいえないところがある。。NATOの名残りってのもあるのだろうし




いちおタテマエとしての正当化事由としては「ウクライナがどちらを要請したか」「ウクライナ国民の民主的な意志はどちらにあったのか?」ということだろうけど、ホンネ的なところはこのへんのエネルギー資源市場の安定化ということかなあ。。


あとは「帝国以後」的観点に立てばロシアの興隆の時期なのかなあそろそろってとこだけど。。天然ガス頼りなレントなあれをいつまでもやってるということだと未だその辺も期待できないようで、どうなのかなあこのへんッて感じではある。


ただ、繰り返しになるけど、グレートゲーム→W3か?みたいなのはないのではないかなあ。。やはり。

あれは背景として人口動態的な変化があったという見方はマクニール「戦争の世界史」でもしている。

その内実としては「土地依存経済から近代的なプロフィットに変化できてなかった → マルサスの罠を逃れるための拡大」ということになるだろうけど、現代はだいたいの国がもはやそういう経済系ではないので。。(中東みたいな資源依存国でもない限り)

ロシアはその辺で未だレント依存してるのかなあという不安もあるけど、新生児出生率的には2以下ということで安定してる。


なので綜合的に見てあれを帝国主義的拡大と見るのはオイルショック的ビビリに通じるナンセンスなんだけど。。まあ可能性としてはいちお残しておいたほうがいいのだろうな。




ついでにウクライナにも通じるルーシの歴史補遺として。


以前のエントリでは「ルーシは北からのヴァイキングだった」ということだったけどもうちょっというと毛皮を主に扱う冒険商人だったみたい。

ウクライナの新書のほうでも解説されてたようにルーシは川をうまく利用して、川の間は船を担いで荷を運んだ。


そして当時最大のマーケットだった中東・トルコ圏に向かい、そこで奢侈品としての毛皮を商った。

モスクワは彼らの基地的なものの一つとして発展。

キエフ・ルーシの時代にはモスクワ公国的なものだったけど、タタール(モンゴル)の支配を経てイヴァン3,4世 → ピョートル一世の頃から本格的に「ロシア」として建った。


んでももともと毛皮の国ということでたぶん中央アジアの他の国からもそういう風に見られていた。当人たちも双頭の鷲ならぬ二匹のクロテンを国章にして「毛皮の国」アイデンティファイしてるし。


ロシアの発展は毛皮の発展、柔らかい宝石としての毛皮を追い求めて発展・拡大していった。


奢侈品を中心とした経済の発展はゾンバルト的な「欲望によって駆動した資本主義」を下敷きにしていた。


なので16,17c以降の西欧の興隆、マーケットの中心が「中東依存の地中海」から「大航海時代+新大陸の銀+自らの内需を中心 → 南ドイツ」を経て「アントワープ→アムス」→「ロンドン」へと移行していった時期とロシアのシベリア拡大の時期はリンクしていった。

ヨーロッパは中東からの単なる商品経済ではなくプランテーションやエンクロージャー、自らの工場化を通じて富を自家生産的に増やすことができるようになっていった。そこで奢侈品-消費-内需によって経済は駆動していった。


そのマーケットが整い、膨張していった流れとロシアの拡大はリンクする。


ロシアのシベリア拡大は農業的目的というよりは毛皮猟のためだったようなので。


彼らはクロテン → ビーバー → ラッコという柔らかい宝石を追い求め狩り尽くしていった。



アラスカもその一つで、「アメリカへの北極海航路開拓」の一環としてイギリスなどもそこに参入してきたためそこでラッコは採り尽くされ、毛皮のなくなった土地はアメリカに二束三文で売り渡された。



毛皮開拓の足跡は現代から見ると北のエネルギー資源採掘場ともリンクしてる感じで、そういった視点から見るとカスピ海や黒海の石油・天然ガスをめぐった争いもかつての毛皮争いを彷彿とさせてなんだかみょーな気持ちになってしまう。



posted by m_um_u at 20:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年02月23日

「明るい部屋」とベンヤミン



写真について考えるシリーズとして


スーザン・ソンタグ、1977(1979)、「写真論」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385423814.html



写真の存在論―ロラン・バルト『明るい部屋』の思想
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ほんとは「明るい部屋」読みたかったんだけど図書館になかったので「まあ仕方ないかあ」と借りてみたら予想外に良かった。写真家とか人文なおっさんたちのマロンあふれる衒学文体かと思ってたんだけど。


よく「写真は真実を写してるとおもう人へ、写真というのは現像の段階から構成されているのです」みたいなのがあるし技術的にはそういうことではあるんだけどバルトはそこで「写真が真実を写していると思わせることが大事なのだ」と逆説する。



<写真は過去の存在を存在の意味を媒介することなく直接われわれに経験させる>



ここで言う「意味」は現象学的な事象を認識するためのいくつかのフレームのこと。もともと「客観的」「他人により」付されている意味-物語-ものの見方によってわれわれは事象を認識できる。反対に言うとふだんはその意味のフレームによっていくらかの偏向がかかっている。

たとえばりんごの見え方にしても人と昆虫では異なる。それは器官的な構造上の違い→規定にも依るのだけれど人の生きられた経験-その集積としての文化からリンゴそのものを感じる以前の意味が付されていたり。「分裂病患者の手記」なんかだとそういうのが剥ぎ取られたあからさまな世界が対照化されたりする。


そういう視線のことをベンヤミンなんかだと土星の験のもとのまなざしとしたようだけど(メランコリーな土星人のまなざし)。


なのでベンヤミンが見ていた感覚、あるいはたまに訪れるみょーに覚めたまなざしというのはこの辺りの感覚だったのでわ?とされる。

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アレゴリーの方法というのはそのための多義性の導入。アートの世界でよくやるぼんやりと複数の解釈を残しておくような手法のことだったのだろう。まあなので脱構築がどうとかいうところとも必然として絡む。

フッサールなんかにも興味持ってたようだから当然といえば当然なのだろうけど



ベンヤミンめも (「近代化に対して」「政治/美学」「アウラ」「アレゴリー」あたり): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/387970616.html


ただ、ベンヤミンはそういった関心はあってもそれを表すのには失敗したぽい。それは「複製技術時代の芸術」での描き方にも表れていた。


あそこでアウラという概念を導入したのは、もともとはこういった感覚が先にあり、それをあとづけるために「(こういう感覚をもたらす真のアート的なものには)アウラがあるのだ」という論理展開をしようとしたため。

ただ、そこでいわれてるアウラという概念は曖昧で、その概念からだとベンヤミンの主観的な好みによってどの芸術作品にアウラがある/ないが決められてしまうのでびみょーって話だった。

ショーレムがベンヤミンにツッコミ入れてたのも「写真については褒めてるけど後半で映画について貶してるのどうなの?(この論理展開だとみょーに恣意性とか主観性とかないかい?)」みたいな感じだったように思うけどベンヤミンの答えは「大衆に依る革命が生じればそれも解決するって」って話だった。まあ「映画がもっと限界芸術的なものになって大衆それぞれが作れるようになれば既存の大衆芸術的な形式(マンネリ)は打破される」という意味だったのかもだけど、それだと「複製技術」におけるアウラによる説明ってまったく用をなさなかったり。。



まあなのでベンヤミンというのはその論の内容をそのまま受け取ってもあまり実のないものぽい。


デリダとかフーコーとか?が着目したのはその発想が当時にしてはおもしろかったからということだろう。J-POPとかではっぴいえんどとかの古典聞いて「参考になる」というのと同じ感じ。



まあそのへんはいちお確認していくけど


ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)
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ちなみに「写真の存在論」でも「複製技術時代の芸術」は意識され「明るい部屋」で提出された思考材料をもとに補完されていた。




話しそれたので戻すと


「人の認識→まなざしというのは先験的に一定のフレームがつかざるをえない、先験的な意味のフレームによって事象を認識できる」わけだけど、写真というのはその意味以前に存在を実感させる力がある。


「この力はなんだ?」というのがバルトの発端。


もっともすべての写真にそういう力があるわけではなく特定の写真にまれにそういう力がある、という話なんだけど。


なんとなく気になってしまう写真。


「かつてそれはあった」と否応なしに実感してしまう写真。



そういう写真を「刺のある(プンクトゥム)写真」とバルトは呼んだ。


自らの意味のヴェールに刺を打つ写真。刺から穿たれた穴から土星のまなざしが舞い降りる。


そういった写真は通常一定の商業的形式によって覆われている。バルトはその商業的形式をいくつかに分類しストゥディウムと呼んだ。


ストゥディウムを必要条件としたアート・商業写真のなかでたまにみょーなものが写り込んでいることがある。あるいはみょーなアングル、肖像の中のなんとなく気になる実感。


それがプンクトゥム(刺)となる。



バルトの場合、母の死後に荷物を整理していたときに見つけた5歳の少女の頃の母の写真がそれだった。ほかにも母の写真はあったのだけれど、なぜか少女の頃の母の写真にもっとも「母」を感じられた。


そこから人の本質-存在の実感、写真が照射する有無を言わせぬ実感、意味以前の実感についての考察がはじまり結果的に「明るい部屋」としてまとめられた。



「明るい部屋」は「暗い部屋」-「暗室」-「カメラオプスキュラ」の逆。




「真の写真は、暗い-覆う、のではなく、明るい-さらけ出すのだ」






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関連:

スーザン・ソンタグ、1977(1979)、「写真論」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385423814.html



posted by m_um_u at 21:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

マット・リドレー、2000(1996)、「徳の起源」



読んだのでいちお


徳の起源―他人をおもいやる遺伝子
マット リドレー
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「徳の起源」は「繁栄」よりも前の本だから繁栄の結論も徳の起源を超えるものではない、と気づいてからは読み飛ばし → 途中で辞めたけど。けっきょく「繁栄」のほうが後の出版で「徳の起源」で展開した仮説受けたものだったのでこの部分について本書を見ても参考にならない


問題なのはそれぞれのエピステーメーごとの「交換」「弱者保護」の質-了解の変化を捉えず、ざっくりと交換-協力を持って歴史を見ていること


マット・リドレー、2010、「繁栄」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385685354.html


リドレーの仮説は「交換-協力が分業-取引-経済の基盤になっている」「それは自然淘汰的なもので、協力したり他人を敬うことは結果的に人の得になるからやってきたもの」「それは遺伝子的、あるいは社会遺伝子的に決定されている」みたいな性善説なんだけど、この部分の単純さでどうしても違和感が生じてしまうのだった。

それについては以前の「繁栄」の感想とかこのへんにも書いたかもだけど


共同体における宗教的情操と倫理やら徳やらの原型について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382123924.html


即時に見返りがかえってくる交換とタイムラグが開く交換は異なる。後者については同一性、時間みたいな概念理解が必要で、そういう思考は動物には不可能なはずだから。

よしんば協力はあっても交換というのは動物には見られなくて、そこに<いま>の効用以外のところでの効用・存在・同一性の了解があり、そういった抽象的理解の集積が(存在)-「時間」という概念だったのだろうけど


なので遺伝子がーとか動物がー交換をしているからみたいな話から直接人の取引のところにそれをつなげるのはやはり無理があるようにおもう。アイデアとしては面白いんだけど。



社会の複雑化→人の思考リソースの上昇+エピステーメーの変化に伴って交換に対する認識も変わっていったり、というか、交換-取引の試行錯誤と淘汰(うまくいったもの)がなんとなく美徳として集積していった、はず


ただ、美徳-勝ちパターンというのも一つではなくて社会ごとに異なる。それは風土→生産様式なんかから影響されて出来たものだろうけど。そんであるとき「弱者保護の美徳」と「システム維持的合理性の美徳」が相克する場面が現れた、かなあ


弱者保護の美徳の源流の大きなものはキリスト教で、その源流は砂漠の掟だろうけど、砂漠において弱者を保護することが長期的に共同体→構成員の利益に資する、ということの証明(あるいは反証)かなあ。。




社会学は結局は生物学をたどる、というのはあるだろうけど人という動物種が抽象概念を操作することによって生み出す特殊性→変化みたいなのがあるのでその辺が社会学の醍醐味だし生物学的進化論では測れないところなのだろう。精神史とかそういうの。まあフーコーとかヴェーバーの対象領域だろうけど(ジンメルとかデュルケムとかもかなあ



生物学とか単純な社会学・経済学だと想定されるユニットは平均的なもので変化を伴わない + 制度や下部構造に基底されて合理的に動くものとされるだろうけど、人というユニットのステータスは一定ではなく変化する(限定合理性)


その変化に影響を与える要素を抽出し、各要素が代表的変数に与える影響 → パターンを見出していかないと



まあでも完全合理性≠平均値なユニット(非「主体」)を基本とした集団の歴史シミュレーションとしてはおもろいのかリドレー

posted by m_um_u at 20:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年02月21日

天ぷらサヨクとウツクシイ国



昨今の天ぷら事件とか浅田真央さんに言い過ぎ事件というのはけっきょくは美徳をめぐるうんたらということであわせ鏡なのだろうなあと思ったりする。


安倍総理の「天ぷら」批判の背後にある前時代的観念(古谷経衡) - 個人 - Yahoo!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyatsunehira/20140218-00032774/

「真意と違う」と森氏が強調 浅田選手めぐる発言で - 47NEWS(よんななニュース) http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014022101002864.html

森喜朗 元総理・東京五輪組織委員会会長の発言 書き起し - 荻上チキ・Session-22
http://www.tbsradio.jp/ss954/2014/02/post-259.html



両方とも特に「リベラル」な価値に固定してなければどうでもいいような話題なんだけど自称「リベラル」な人たちからは「イカンだろ!」と言われる。


そういうのは野党的なしょうもない野次つっこみなのかなあとおもってたんだけど、サンデル本読んでて彼らが自称する「リベラル」というのはコミュニタリアニズムなのだなあと気づいた。


マイケル・サンデル、2010、「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/389358750.html


というか論理-自由主義的なところではつなげないので旧来の価値に頼る。


なので彼らのツッコミは「ふさわしくない発言があるだろ」「人としてどうなの?その態度は」「上から目線の態度が」とかいう曖昧なものになる。


まあでも自称「リベラル」な人たちがいつもそういうわけでもなく彼らでもツッコメるような(あるいは彼らの得意領域な)話題だとこういう感情論とか旧来の価値観的なものには依らないんだけど、彼らが不得意なところになるとこのへんの浪花節的な感情とか心情とか美徳な価値にすがる。そしてそれがポピュリズムと接合してる。



古谷さんの考察だと天ぷら批判は「この非常時に贅沢をするとは何事か」というものを急先鋒にしていたということなんだけど自分の観測範囲だと「贅沢するな」て嫉妬と「TPOをわきまえろ」「首相はともかく内閣として非常時の対策をきちんとしたのか?」みたいな話に割れていた。というか、それぞれがエアリプかなんかで反証されるにつれて「天ぷら(贅沢するな)」から「非常時なんだから格好だけでもしっかりしとけ」 → 「非常時の対策をきちんとしていたのか?」と次第に論点がズレていっていたようだった。



まあ批判のための批判なのだかr論点がズレていっても仕方ないのだろうけど、なんとなくの彼らの価値観の軸としては大きな政府と社会主義的な包摂への期待があるのだろう。


そろそろやめませんか?「右翼/左翼」「保守/リベラル」って分類は。 - デマこいてんじゃねえ!
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20140216/1392564877


「リベラル」を自認する彼らからすると個人主義のほうに触れてるつもりなんだけどちょっとしたことがあると今回のように地が出る。理知 → 言表では「個人主義」「自由主義」のほうが良い(進歩的)と思ってても根っこのところの価値観は平等主義と人情主義なので。

上記リンクの4象限モデルから言うと理知ではケインズ主義・北欧型福祉社会を目指しているけれど地のところでは社会と大きな政府を軸とした社会民主主義的なものになる。まあトッドいうところの統合型資本主義だけど。


E.トッド、1998、「経済幻想」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/389369490.html?1392982411


それに対して安倍内閣は財政問題的に小さな政府を目指しつつ旧来の価値観に依ったウツクシイ国というキャッチを使うので上記リンク的にはネオリベな位置になるのだろうけど、、なんかこれもまとめ的に違和感がある。(まあまとめ主がサンデルに依ってるからだろうけど)


旧来型の美徳の価値観を崇めるところだとどっちもそう変わらないので。



軍靴の足音ガーとか普段言ってる人たちが浅田真央さんとかサッカーとかの「国民的関心」に水を指すようなことを言うとみょーに怒る様子というのはなんか怖いなあと思うんだけど、彼らが言うようにそういう凝集性が全体主義につながる契機があるとしたらどのへんなのかなあとかちょっと考える。


あるいは、ポピュリズムに基づいた民主主義という全体主義がファシズム的な総動員に変わりとめられない流れになっていく契機のようなもの


「大正デモクラシー」はどうして戦争を止められなかったのか | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/politics/7102

「ポピュリズムを考える―民主主義への再入門」吉田 徹 著 | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/4266



ファシズムを考えるというのはそういった相同/相違の地味な比較検証作業に依るものだと思ってる。


posted by m_um_u at 22:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年02月15日

上野千鶴子、1989、「スカートの下の劇場」



TLに流れていて「そういや読むのやめてたなあ。。あの頃はスカートの中の秘密の生活ぐらいの軽いエッセイがよかったんだよなあ。。」とかおもってナツカシス+オヌヌメもあったのでほかのよむよむの息抜き程度に読み始めたら案外に面白くて、積年の自分の課題にもつながる所あったのでエントリ


スカートの下の劇場 (河出文庫)
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ニューアカ時代の雑誌向きの知的センセーショナルて感じで「オマンコシスターズ」とか「カント」とかセックスに赤裸々なフェミぽい引きが散りばめられてて、わかりやすい共通理解・印象に残る箇所としては「女のパンツは隠すために着けているのではない。着けることでむしろエロスを強調しているのだ(細いパンティが出てきたのはストリップのバタフライパンツの影響ではないかと私はおもう)」「子供は下着を通じて母親に性器管理をされている。女性は初潮の段階で自分で下着を洗うようになるが男性は母 → 妻と下着≠性器管理されていく」「シスターフッドは男の貸し借りをするぐらいになる」というところだったように思うけど自分的にはセクシャリティをめぐるアイデンティティやトポス、疎外に対する言及箇所がおもしろかった。

そんなことを思いつつあとでエントリ起こそうかなあと読み進めてたらあとがきにも「スカートの下の劇場というのはヒキなタイトルでおかげさまで本書もたくさん売れた秀逸コピーだったのですが、本書にシリアスなタイトルをつけるとすれば『女性の自己身体意識の構成について 下着の歴史を通してみた』になるように思います」みたいにあった。


なので、本来ならその辺が本書のポイントで、きちんと書くのだったらその部分についてもっと頁さいて解説していく必要があったのだろうけど、「この時期は忙しくて、『スカートの下の劇場』も本来別の企画でポシャっていた14枚ぐらいの原稿だったのですが、それを編集の方がおもしろいと膨らませてくれたのです。でもいそがしかったできちんと書くのは無理だったんだけど『だったら聞き取りで。わたしが上野さんにインタビューしたものを文字起こしする感じで』ってことで」(要約)、てことでできあがったらしい。

真っ昼間のラウンジで、けっこう赤裸々な話を。時期は昭和天皇崩御→御大葬の2月。同年宮崎勤事件もあった。



さて、自分が興味を惹かれた部分について。主に4章「鏡の国のナルシシズム」で展開されていた。

女性の自意識・身体イメージ・セクシャリティを「欲望される(ディザイアブル)客体としての身体」を基点に論じてるんだけど、ここにおける性的疎外とリアリティうんたらて二村フトシ-森岡正博が課題にしてたところのように思えた。つまり「女性のほうが快感が高そう」「男性はどうあっても女性と同じ快感を得られない(ことへのコンプレックス・憧れ)」「ポルノビデオなどを見ている時の感情移入先は男性か女性か?」などなど。



森岡正博、2005、「感じない男」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52482268.html


感じない男 (ちくま新書)
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二村さんなんかもけっこう女性のほうに感情移入してるみたいだし女性も女性のほうに感情移入するみたいなんだけど、そうすると視線の先の男はどうなるんだろ?とかおもったりする。てか、自分の場合は実際にセックスしてるときなんかもちょっとそういう感覚がある。目の前で乱れてる女の「乱れ」の統制・同調に専心するので「物理的快感部分で昂奮高まって勝手に進める」みたいなことがない。それもあってか相手からは「よくなかったの?(´・ω・`)」みたいな事言われて不安感じさせちゃうんだけど、、そのたびに自分のセクシャリティというかこのへんの感覚を説明する。

でも、そういう場面だと女性の乱れのほうが先にいって、勝手にどんどん昂まっていく女性を冷静に見つめつつ少し取り残された感があるのも事実だけど。でもそれをもって「本当に相性の良い相手に出逢えば本当の快楽で我も忘れられるはずなんだ―」的なオーガズム原理主義な性の探求みたいなのするのもなんかめんどくさいのでコレはコレでいいかなあとか思ってたりする。

こういう取り残された-疎外な感覚というのは「セルフ」にも近いかもしれない。





モテ男というわけでもないけど「男(ペニス)は女の快楽のための道具なんだなあ」みたいなとこが。


「でもそれは男性側が責め-運動を主に担当し、女性が言ってみればサーブされるほうだから快感に専念できるというのもあるのでは?」

では、この部分で男性が主に女性の役割とされる方、セックスにおける受け身を担当したらどうなるか?

「たぶん、だいたいの男性はそれでも女性のような満足は得られないだろう」


身体構造上の規定もあるだろうけど、社会・文化装置的にしつけられた「欲望される身体」「見られる身体」としてのしつけが女性側に染み付いているから。端的には女性のほうが相対的に最初から「エロい」(あるいはエロくなれる条件が整っている)ということ。「男性が能動のほうだったら男性がエロいことをしてるんだから男性がエロいんじゃないの(´・ω・`)?」てのはあるんだけど、それは社会・文化装置的につくられたエロの幻想の踏襲ぽい。対して女性の方はもっと自己発生的にエロ幻想を自分内部で作れる(オートエロティシズム)。

さっきもいったように性的場面における「見る」視線には男性側だけではなく女性側の了解もある。セックスにおいて「女性ならばこういうふうにして当然」というような了解(ex.喘ぎ声のミーム)、と、そういった「女性」の仮構を特定の時場(トポス)で女性自身が囲ってるので。ポルノを見るときはその視線/認識がポルノという場に降りてくるだけなのだろう。

そして女性側に元からある仮構の性的身体と男性がポルノとして構築した女性の性的身体(あるいはそれを作り出す一連の流れ)との間でしばしば齟齬が生じる。ベタには女性は物語・雰囲気を、男性は即物的な性的快感につながる象徴を求める。なので男性的な性表現はしばしば裸を中心とした性的場面にのみクローズアップされがちだし、性的場面の中でも性器部分をクローズアップし、なんだったら性器部分の表象だけで性的スイッチが入るようなフェティシズムとなる。

下着や服装、女性の身体描画などにもそういった違いが象徴的に表れる。女性はわりと身体全体を覆う「かわいい」「きれい」「つけ心地の良さそうな」デザインを下着に求めるけれど男性は「セクシー」なものを求める。性器を包みつつ強調するような。

そしてそういった男女における性-セックスの「当然」が市場を通じて再生産され再帰していく。



「アダルトビデオは幻想で現実とは違う(のでアダルトビデオでやってるようなことを、当人が嫌がるなら、本気でやるのはやめておこう)」みたいな話もこういった文脈と関連する。



その辺の幻想と実際のセックスの場面で修正されていく。あるいは修正されない人でそのままエロ産業的な幻想・昂奮を持ってる人もいるかもだけど。というか、だいぶぶんの男性はそういった幻想にドライブされてるうちに果てるぽいのでそのへんの齟齬について自省する時間もないのだろう。


そういうのを超えた時にいわゆるスローセックス/ポリネシアン・セックス-「コミュニケーションの一つとしてのセックス」 → 「なので無理にインターコースとかオーガズムに拘る必要はない」て感じになってくるし、自分も基本的にはそういう感じなんだけど、、それとは別の部分で「セックス時に取り残される自分」みたいなコンプレックスは依然として少しだけある。そんなに深刻でもなく。
それは「最高に興奮した状態でのオーガズム。女性のそれに匹敵するような。失神するような忘我のものとしての」みたいな話への引け目とあこがれが未だちょっとあるからかなあとも思うけど。


たぶん、その部分には単純な物理的快感だけではなく幻想-精神-心理的な昂奮が大きく関わってるので、その部分を変えていけばなんだったらそういうことも可能なのかもしれない。


まあ端的には「M男の才能」的なアレ。


そういうのとは別にひとりよがりのセックスの果てに受け身な男性もいるようだけし、そういう人たちは物理的快感に終始してる印象がある。オトナなコミュニケーションとして社会的に認知されてるだけでやってることはオトナの授乳ぽい。

「インターコースもめんどいから女性に口技を要求して、されてるうちに寝てしまう」「性的快感の交換もめんどくさいので頭を撫でてもらっておく」

とかはまさにその表れだろう。




自分的にはM男になるのもひとりよがりも嫌なのでとりあえずはこのままでいい。んでもセックスをめぐる身体イメージの位相みたいな話は面白いのでもそっと続けていく。



受け身のセックスの才能-M男の才能というのはそんな感じで物理的な快感だけではなく心理的な開放 → 変化によって可能になるのだろう。そこでの心理上の身体は「欲望される / 性的にいじめられる / 受け身で何かされる」ということを当然とする。

なので、たぶん性的場面 / 表象において男女の役割を単純に逆転させただけだと違和感が生じてミョーなことになる。


「バイク雑誌の表紙で女性がセクシーポーズを取ってるのは何故?」を考えさせてくれる男性グラビア「MotoCorsa」 − えん乗り
http://ennori.jp/news/article/1344


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ヴィジュアル表現の社会学へ(下)
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大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))
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なので「大奥」もその部分では単純に役割を交換しただけのSFといえる。



ただ、「性的に欲望される身体の許容 → 性的場面における<女性>のイメージの共有(それによるリアリティの確認)」というのは文化装置としてのエロ-女性イメージに依存的になるのではないか?いくら「社会・文化装置が男性優位で進んできてその結果なのだから現実は現実としt受け止めるべき」とはいっても「女性とは歴史的にそういうものだ」ていうのはフェミ的に怒られそうだなと思うんだけど真フェミだとそういうこといってるわけだし、、セクシャリティを通じた性的アイデンティファイとトポスが絡む話なので単純な「男女差別」みたいな文脈から批判されても表層的なことになりそう。

そもそもそこでは物理的身体はむしろ邪魔で、それがゆえに「同性の親友が落ち込んでる時、なんだったら男(ペニス)を貸すことができたら楽だろうなあとかおもう」という発想がでてくるのだから。そういった「異性を貸す」「穴兄弟」「風俗に一緒にいく」というのはホモソーシャルな男性コミュニティでもちょこちょこあって批判されるけど、単なるマッチョ/セクシズム的なものでもなく「精神的に繋がれたらなあ(´・ω・`)(肉体なんかたいしたことないのに)」て発想からのひともいるのかもしれない。


SMとかクィアのような世間一般からすると「倒錯」とされるようなところもそういうのが絡む。

ただ、その内容が形式化して、この部分の感覚が忘れられてしまえば形式のほうに進められ新たな疎外が生じるのだろうけど。初対面でいきなり「俺のことをご主人様と呼べ!」「(´・ω・`)」みたいな。





というか、本書では「性的場面における<女性>=エロい」「欲望される身体のイニシアティブを握っているがゆえにオートエロティシズムも可能」ってことになってるけど、「女性全般がエロい」というのは立ち止まったほうが良いような。女性全般というよりも性的なトポスで「欲望される身体」がエロいということなのだろう。

「欲望される身体」あるいはそういった場面でのエロスというのは男女で作り上げ共有されていくものだろうけど、なぜかそういう場面に関わる以前に社会・産業的に基底され女性側に片務されてるので。その幻想との齟齬が生じて当然のような。


ただ、現代の<女性>はそういった歴史の総体として淘汰→作られてきたものなので、結果的に「欲望される身体」を当然として引受け、そのイニシアティブを握っているがゆえにオートエロティシズムも可能、ということになるのだろう。



なので、それまで男女分けられずに育てられてきた女子が女性になる段階でそういった役割とそれに付随するコミュニケーション様式、ステレオタイプイメージ、欲望のまなざしもセットにして受け容れなければならないということに対して違和感やアレルギー的な反応を起こすのではないか?

そして、そういった女性性の受け容れの不時着がこじらせ女子という形、あるいはヘタしたら拒食症などの形で表れる。



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オートエロティシズムにはナルシシズムが関わるようだけど、それには「女性的に理想の身体」という表象イメージが絡んでくる。

それらをうまくクリアできた女性なら「ステロタイプとしての理想の身体=エロイことをしても当然のわたし」にアイデンティファイでき、わりとすんなりと女性性を受け容れられるのかもしれない。








とりあえずセクシャリティとそれによるリアリティ/疎外/アイデンティファイをめぐるこの辺りの話はもっと心理学的なアプローチが必要なようにおもう。


たとえば「女性はオートエロティシズムできるほど生来エロエロ」といっても女性によって出来ない人もいるし、才能のあるM男のような人もいる。

才能のあるM男の場合は一般的な女性と同じく性的場面で受け身の役割を担うわけだけどいじめられることを性的快感につなげるので従来の性規範からは外れる。

ベタなM男性イメージとしては「ふだんはエリート・権威的な役割を社会的に分担させられているが、そこで生じるコミュニケーション的な疎外を埋めるために刺激として過度に被虐的な性的役割を求める」という理解も成り立つ。でもそういった理解から外れるM男もいるだろうし、その場合、どういう心理機構なのか考えてみる過程を通して一般的に受け身な役割を担わされてる女性のその辺りの心理機構もわかってくるかもしれない。(後者はMな役割なはずだけど「倒錯」としてでもなくふつーに暮らしてるわけだし)

そして「いじめる / いじめられる」というところにセックスをめぐる暴力性が関わる。

人の暴力性、「エログロを覗きたくなる」みたいなものはネガティブな欲望として忌避されるけれど、それがどういう心理として措定されるのか、偏見なく探っていくのも良いようにおもう。


また、女性一般 / 男性一般のセクシャリティ-アイデンティティから外れる人たちの内部では男性成分的なところと女性成分的な割合が世間一般と外れているところがあって、それがゆえに一般の性役割には違和感をもつのではないか。

内部の男性 / 女性のグラデーション、ユングのアーキタイプ的なものとの関係。

家族関係が権威的で性的禁忌が厳しいほど、そのわりに早くから男性側からの欲望の視線に覆われてくるほどエロくなる。タブーとインモラルと不全感。セックス時の昂まりで統制が効かないところにはその反動も関連してるのかもしれない。

性的禁忌が厳しい → インモラル / 不全感のとこでは森岡正博さんの悩みも関連するかも。森岡さんはそれを「射精のみ重視すること」「女性のオーガズムに対する引け目 → コンプレックスの裏返し → 女性(性的身体)的なものに対する暴力的願望 → それを自分の内部で受けることで半身が傷つく」みたいにしてたけど。

そういうのを総合してフロイトな関心を再編成してみるのもいいのかもしれない。







そいやこの部分にジンメルの生の哲学が関わるみたい


ゲオルク・ジンメル - Wikipedia http://bit.ly/1mivHCh

彼の哲学は、ニーチェ、ショーペンハウエルと共通点をもつ生の哲学だが、大学の世界で薫陶を受けているため、それをカント以来のドイツ観念論の系譜で一般的な用語法を持って語るという、なかなかユニークなもの。「断章」などにも本人が書いているように、知的遺産の後継者には恵まれなかったが、彼の思想は彼の提唱する形式社会学に結実した。形式社会学に含まれるその考え方はアメリカにわたり、社会学のシカゴ学派、そしてシンボリック相互作用論に大きな影響を与え、定性的研究の源流のひとつとも言われるようになった。

また、近年では、ドゥルーズ、ガタリ以降の生気論再評価の文脈で、社会化以前の生を捉えようとする後期ジンメルの論が新たに注目されている。



形式社会学 - Wikipedia http://bit.ly/1mivKy3

初期ジンメルが形式社会学を提唱することになった背景は、オーギュスト・コント以来の総合社会学が、学問としての独自性を確立することなく、すべての学問を包み込む総合科学としての立場を強調していたことに対して、社会学以外の専門分野からの批判を強く受けていたことが挙げられる。つまり、社会学は他の学問分野をつなぎ合わせただけで実体がないという批判を受けていたのである。

19世紀後半より資本主義社会の複雑化・高度化が進んでいく中で、学問もそれに伴って専門化の傾向が顕著となってきており、そのような状況にあって初期の総合社会学は時代遅れの学問とみなされるようになってきていた。


このような背景にあってジンメルは、他の学問にはない社会学独自の研究対象を模索する中で、人間相互の関係の形式(社会化の形式あるいは心的相互作用)に注目し、これを社会学が扱うべき対象であると考えるようになった。

社会化の形式あるいは心的相互作用とは、人間が目的や意図をもって他者と関わる行為のあり方のことであり、具体的には、愛情による親密な関係、憎悪に基づく敵対関係、社会的地位によって結ばれる上下関係などが挙げられる。これに対して、政治、法律、経済、宗教、芸術などは「内容」から分類された学問分野だとして、「形式」の観点からそれらに横断線を引く学問として社会学を位置づけた。


ジンメルの後期の著作を読み解くと、生の哲学と形式社会学とが緊密なつながりを有していることがわかる。生の哲学者でもあったジンメルにとって、人間存在の唯一究極的な原理である「生」の本質は、一方で生が現前する自分自身を絶えず超えていくという「自己超越性」とともに、他方でその生が自分に対立する「形式」を通してでなければ己を表現することができないという「自己疎外性」に求められる。

そして、創造的な生は、社会制度や芸術作品、科学的認識といった形式を作り出し、一方で生それ自体はその形式を乗り越えていくものの、形式はその母たる生とは自律的な動きをもつ。そして、ここにジンメルの言うところの「文化の悲劇」が生まれる。すなわち、形式が客観的独立性をもち、それが生を囲い込み枠づける生活形式となる。この傾向が頂点に達するのが、貨幣経済の完全な浸透がみられる近代社会である(『貨幣の哲学』)。近代人はもはや客観的な生活形式を内的に消化することができなくなり、生の手段が生の目的となる。そこに、生と形式をめぐる完全な「軸の転回」が出現するとジンメルは診断する(『現代文化の葛藤』)。

当初ジンメルは、特殊科学としての社会学の確立を目的として形式社会学を提唱したが、晩年に著した『社会学の根本問題』(1917)において、一般社会学、特殊社会学(形式社会学)、哲学的社会学という3つ分野から成る、より大きな社会学の体系を構想するようになったのである。しかし、その中心となる分野はあくまで形式社会学であり、彼が残した研究実績は形式社会学の方法論に基づいたものである。



形式と内容の問題(形式を通じた疎外と形式を通じてしかコミュニケーションできない人の矛盾をどうつなぐか?)というのはベンヤミンを通して見ていこうと思ってたけどジンメルもやってたみたい。つか、同時代だから同じような関心が湧いたのかもしれない(近代による疎外)。

シンボリック相互作用論にも通じるようだしなんだったらこっちものぞいてみていいかもしれない。




ジンメル―生の形式 (現代思想の冒険者たち)
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関連:

こころ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/226411328.html


たったひとつの冴えたやりかた: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384420579.html




イリガライとオート・エロティシズム:やおい論をめぐって - FemTumYum
http://d.hatena.ne.jp/tummygirl/20080130/1201682120


永山薫 マチズモの崩壊、この過程がエロ漫画に如実に表れている コイトゥス再考
http://vobo.jp/nagayama02.html


やおい / ショタ(ペド)、ロリも物理的身体を離れた身体イメージ(トポス)における性的身体とエロスイメージの了解、自由編制の表象と言えそう。男性によるロリコンの場合は男性性への期待からの疎外、ボイコット → 安全な漂白されたエロへというところもありそうだけど

なのでやおいの初期のものは現在のBLのようなセックス中心よりも精神的交換が重視される



荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第14回 萩尾望都編 - 電子書籍はeBookJapan
http://bit.ly/1miyCe8


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上野さんおもしろかったのでもそっとよみすすめていこう






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2014年02月10日

ベンヤミンめも (「近代化に対して」「政治/美学」「アウラ」「アレゴリー」あたり)




ベンヤミンちょっとやってみようかなあと思ったのはソンタグで触れてあったからか。



スーザン・ソンタグ、1977(1979)、「写真論」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385423814.html



それで写真のテクニック的なことではなくて写真というメディアを通じて(あるいはそれに代表される)リアリティの変化を改めて考えてみたいと思ったのだった。そもそもアートとしての写真がピンと来ないので、自分的に。


なので、この系列で行くとバルトの「明るい部屋」とかベンヤミンの「写真小史」を読み進めるべきなんだろうけど、まあその前段階として。てか、「明るい部屋」はなぜかそれの解説本(あるいはそれを踏まえたタイトル)は図書館にあったけどバルトのそれはなかったのだった(´・ω・`)。

ついでに「複製技術時代の芸術」もなんかよくわからんかったし、んでもベンヤミンの射程てけっこう自分の関心と関わってくるのかなあ、てことでベンヤミン見直し


ナウシカ再読 ジブリと生政治と新「自由」主義周りの勘違い: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/386902947.html



ヴァルター・ベンヤミン―近代の星座 (講談社現代新書)
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その程度のモチベでのアンチョコ本当たりなので本来ならこれが一番エントリにする必要ないんだけど、なんか、よくわからんけど今後のために現時点での理解や理解の方向性をメモっとくのもいいかなあと思ったので。まあでも未熟な理解メモということで。


最初に、ベンヤミンの生きた時代というのはビスマルクの鉄血政治の少し後からナチスの時期だった。つまりナポレオン→ウイーン体制の後、プロイセン側からドイツが統合されていった時代。

オーストリア側の経済・政治情況の概観はこんな感じ


シェーネラーとルエーガー〜ヒトラーが範とした二人の反ユダヤ主義者 | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/5913


神聖ローマ帝国の終焉とナチまでの背景として。「十九世紀中盤までのオーストリアの経済成長を支えたのは勤勉なユダヤ系の人々であった」が不況の反動で当時の民族主義につながっていった。

自分的に今ひとつピンと来なかったのは、当時の民衆の精神史的な生活感が表されてなかったからか。カトリックではなくプロテスタント多い中でのエートスとイデオロギーとか、汎○○的民族主義の隆盛とか、ユダヤ金融の強さ。その辺は自分で調べるか


プロイセンはビスマルクを中心として官僚・近代化


『ビスマルク』 by 出口 治明 - HONZ
http://honz.jp/37910


その際にドイツ教養市民層 / 大衆の分断がどのように編制されていったか


野田宣雄、1997、「ドイツ教養市民層の歴史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382529159.html



それがナチの問題でありロマン主義的形而上学と生活の分離、政治の美学化の是非というベンヤミン的課題につながる


ベンヤミンを政治化するさいの注意書 - 試行空間
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040210#p2
http://morutan.tumblr.com/post/76176032073

言うまでもなく、アウラなるものはそれ自体として物象が持ちうるような属性ではなく、「アウラが喪失されつつある」という喪失の認識=観察のなかで、「喪失以前に、かつて−あった」ものとして再構成された理念である。それは、複製技術の登場によって世界の舞台から姿を消しつつある何かではなく、むしろ、複製技術が生み出した漠然とした喪失感を説明する操作変数として新たに−近代によって−作り出された《出来事》なのだ。「意図の伝達」などという人間的なコミュニケーションの論理を強引に変質させてしまう(複製)技術。人間が「意図的」に操作できるよう社会的に馴馳する時間を与えず、まずは直接的に我々の身体を揺さぶりをかけてくるテクノロジー。その耐えがたい不気味さへの人間の不安が、「アウラの喪失」という危機意識として現象する。だから「アウラがあって、それを反アウラ的機能を持つ複製技術が消していった」のではない。複製技術が、そのものとして「アウラ/アウラの喪失」という観察図式を作り出していったのである。
アウラを実体視しその再興を図る解釈学的な「政治の美学化」が、こうしたアウラの歴史的本質を見逃したものであることは言うまでもない。しかし重要なのは、技術を宣称する未来派的な「政治の美学化」にかんしても、同じようなことがいえるということだ。
ベンヤミンは、先のマリネッティの言葉を受けて次のように言う。「戦争がもろもろの破壊によって証明するのは、社会がいまだ技術を自分の器官として使いこなすまでに成熟していなかったこと、そして技術がいまだ社会の根元的な諸力を制御するまでに成長していなかったことなのである」。
未来派の文脈において重要なのは、あくまで人間の論理のなかに技術が上首尾に収まりをつけること、人間-社会に寄与する第一契機として技術を位置づけることにすぎない。技術は社会的に馴馳された「機能(反アウラ的機能)」ゆえに肯定される。一見解釈学的な「美学化」の対極にあるように映る技術主義=未来派にあっても、技術そのものの強要によって変質しつつある人間(社会)−技術の関係性、あるいは、技術そのものが「アウラ/アウラの喪失」という観察図式を生み出したという歴史的事実は、やはり決定的に見逃されているのである。
ベンヤミンは、アウラの喪失を嘆いていたのでも、近代技術の反アウラ的なあり方を無条件に肯定していたわけでもない。アウラ/反アウラという二項対立が生成・実定化されるとともに、二項の同根性・共犯性が不可視化されていく「政治の美学化」に対する危機意識−そうしたものが、彼の複製技術論を貫いている。
だから、「政治の美学化」に対置される「芸術の政治化」とは、この共犯性に亀裂を入れていく作業とならざるをえないだろう。現在と過去の記憶とを想像的に結ぶ《後ろ向きの美学》はもちろんのこと、技術と人間との入り組んだ関係を技術主義的に清算してしまう《前向きの美学》も同時に解体していく契機。それこそが、「物質が人間といかにして共演するかを示すことができる、史上はじめての芸術手段」−すなわち映画であった。人びとの身体性を触覚的・集団的に構成し直し、意味なるものを個人の意図・メッセージという「ブルジョア的」な縛りのなかから解放していく契機=映画。
おそらくは、ベンヤミンのいう「芸術の政治化」とは、政治的芸術を製作するといった作業に還元されえない、美的にも政治的にも貪欲で、志向的存在=人間にとっては困難きわまるプロジェクトだったのである。



形而上学的な空間、アート的なそれはしばしば生活から離れてしまう。生活から離れて抽象化されたものが操作され新たな発見がある場合もあるんだけど、それがあまりにも当然として形式化してしまうとその暴力、権力のようなものが発生する。ハイエクでいうタクシスの暴走、ベンヤミンなら法などの神話的暴力の暴走というところか。

アートは祭祀-<聖なるもの>の系だったのだろうけど、それが近代化-大量消費→スペクタクルの要請にともなってたましいを抜かれて形式化していく。

ベンヤミンが課題とした観念論、あるいはロマン主義における形式化というのもそういう問題意識と射程だったのだろう。


人には理性とは別のところでの思考みたいなものがあるのだけれど、それをすべて理性のもとに合理化していく暴力がこの時代のモダニズムだった。


それへの反動としてロマン主義的な関心は生まれたはずだけど、それ自体がいつしか形式・ルーチン化し、最初の感動のようなものが失われていった。



「理性・知性とは別の所の思考」を仮に感性とか精神とする。感性で受信しいくつかの経験を経て、身体と「なんとなくそう思った」的な実感が積もっていったものが精神。

文学やアートの役割のひとつとしてそういった心の領域を広げ研鑽し措定していくところがあるだろう。それらを通じて内省し精神を育てていく。ルソーの語りが告解の役割を果たしていったように。


ナチスを喚んだドイツの土壌はこういったもののバランスが崩れてしまっていたぽい。


権威主義的な不平等直系家族文化圏で教養はスパルタされるのだけれどそれは家を継ぐ「ため」のもので個々の内省 → 実存的な救済にはならなかったのではないか?

そういった情況のなかでロマン主義的教養はエリートのツールとしては交換されても精神の深みや自省には結びつかず、ビスマルクを象徴とした国家の官僚化が並行して進んでいった。キリスト教に変わるエリートの嗜みとして教養小説、の理知を中心とした「用の学問」。それらは交わらない線で、結果的に人の精神や感性面での留保を考慮しない決断主義で理知-タクシスの暴走を許したのがナチス・ドイツだったのだろう。

そこでは美学や<聖なるもの>、感性や精神が拙速で即物的な功利主義のもとに統合され収奪されていった。



ベンヤミンの射程というのはそういった理知だけでは語りきれないもの、語ろうとすればするほど零れていくもの、をなんとかして言語化する試み、あるいは、語ろうとすればするほど零れていく、ということの立証だったのではないか?柄谷、ヴィト、デリダあたりのあれと同じく。


ベンヤミンはロマン主義文学の批評を専門としてて、そこでは内容と形式的には形式的なもの、レトリックやクリシェの可能性を肯定的にとらえているようで、だとしたらポモ的いい加減さを思ったんだけどどうも違うぽい。


形式化されつつも感性-精神の領域として残っているアレゴリーの部分。

それは中世ヨーロッパの民俗学的想像空間を想わせる

バロック → ロマン主義的ドラマトゥルギーという形で継がれてきた物語の形式。その形式化が極まれば極まるほど失われていくアレゴリー、多義性の問題。そのなかで際立ってくる<聖なるもの><アウラ>の喪失感という物語。それはどうやらコスモス-イマジネール-精神世界の未熟が未熟と理解されないでタクシス-政治空間に統合されていくときに同時に生じるものぽい。(cf.システムによる生活世界の侵犯)

その前段階として認識(エピステーメー)の変化が近代化を通じてぢわぢわと押し寄せてくる。(cf.生権力の生活世界への侵食、「悲劇」の当然化、「感動をありがとう」ほかコンテンツを通じた喜怒哀楽の感情消費/tuneの当然化)



それが近代化の必然なのか?想像空間の自由さを復活し設計していく方法はないのか?というのが「アレゴリー」というキーワードを介したパサージュ論における関心だったのではないか?




まあこのへんがなんとなくのベンヤミン理解の投網になるけど、冒頭言ったように「こんな感じかな?」て予想的なものなので未確認。んでも「アレゴリー」は形式化をめぐるキーワードぽいのでぢみに理解していきたい。




最後に最近の物語/スペクタクル消費をめぐったうんたらに関連付けてメモ。



現代の日本的に最もわかりやすいのは「泣ける」映画「感動を有難う」とかで、昨今の偽装クラシックや明日ママがうんたらをめぐる物語消費もその文脈だろうけど。そもそも悲劇や喜劇など人の感動を誘発するように物語が構成・要請されるのが近代消費社会の特殊って感じ(機能合理性からするとそういうものは本来必要がないはずだから)。

「複製技術時代の芸術」というのはホントはそういう文脈、「近代」の合理性と生の物象化-疎外についての是非を背景にしたもので、アウラという特殊用語もその辺りの文脈を踏まえたものになる。複製技術がどうとかというよりは大量消費社会と近代の是非がメイン。「アウラの喪失」は「悲劇」と同じように条件付けられたものなのだろう。

悲喜劇の形式・語りの当然・再帰化によってそういう形式での感動・認識が当然化し回帰していく

物語-ナラティブとドラマトゥルギーはその「民族」の言語・間・時間・死生観と関わってくるだろうから「悲劇の形式」とその変化と言語の変化に相関するところがあるのかもだけどこの辺りはまだよくわからないので保留。

同様な理由で原日本語(日本古語)的な感情・機微のうんたら(cf.本居宣長)というのが現代的に意味あるのか自分的にはよくわからん。まあ保留。



いちお偽装クラシック・明日ママの話にもう一度還ると、「大量消費的スペクタクルの要請によってつくられたコモデティ(複製品)なアングル」「駄菓子のようなもの」だとしても駄菓子自体に特別な思い出を持つ人もいるだろうからそれは受け手次第というのはある。

ただ、全体の構図としてこんな感じだろうから誰かを悪者にして落ち着ける話でもないだろうなあ本来は。偽装とかやり過ぎとか怒ること自体が偽装でない複製品に認識を馴化されてることの証左なのだろうから。

それはたぶんナチやオウムが自分達の理知を「当然」としていった回路と近い。




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関連:
キットラーにおける読書の変容の概説(歌声喫茶的なみんなで読書 → 母の音読 → 個人的黙読)むーたん
http://morutan.tumblr.com/post/20792167/m-um-u

ここからするとルソー的読書体験は音読期を過ぎて黙読段階に入った時の初期、あるいは移行段階ぐらいにおもえる。



書評空間:UMATフォーラム@書評空間: 『書き込みシステム1800/1900』(未邦訳)フリードリヒ・キットラーFriedrich A. Kittler, 1985=1990
http://bit.ly/pYBQc




神的暴力
http://morutan.tumblr.com/post/75672011502
http://bit.ly/1lA82wF

悲劇(ギリシアの祭礼から)、アレゴリー、ニーチェ
http://bit.ly/1lA8c7m http://bit.ly/1lA8c7o http://bit.ly/1lA8c7q
http://morutan.tumblr.com/post/75672256313/isbn-4121600622
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経済大陸アフリカ → 歴史人口学 → 料理・パン → 写真

図書返却の前にいちお読んだ本で役に立った箇所まとめて自分のなかで印象付けしとこう、とか思うに。。なんかそれほど気乗りしない。まあみょーに時間かかるというのもあるし。

なのでザラッとメモ的に




経済大陸アフリカ (中公新書)
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写真を“読む”視点 (写真叢書)
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現代写真論
現代写真論
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このなかで一番ズッシリ来たのは「経済大陸アフリカ」で本来ならそれについてしっかりまとめとくべきなのだろうけどそれほどやる気がでない。てか、ほかにまとめてくれてるひともいて

平野克己『経済大陸アフリカ』(中公新書) 10点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52022462.html

そこ見たらいいかなあとか思うし。おーざっぱにいうと「中国のアフリカ提携の実態」「それに依る開発・援助の変化」みたいな感じだった。

それまでの「開発・援助・ODAは世界の平和を維持するために先進国から低開発国へ主に『ガバナンスの維持』≠『民主主義』を設定するためになされる」みたいな構図の変化。こういう構図だと民主主義とか人権配慮とかダメだと「経済制裁」つてとりあげられてきたのがODAで、そこでは歴然とした力関係があったわけだけど中国とアフリカの関係は対等な「南々連携」(南北問題の「南」同士が互いに手を取り合って)。なので上から目線なところないしアフリカの政治うんたらにも口をつっこまない。それが結果的にスーダンみたいな事態を引き寄せてもいるんだけど、でも、結果的にそれでアフリカ全体の開発・経済も進み、中国との関係も強くなってきている(フランス語 → 中国語の比率が多くなってたり)。

そして経済が安定すると治安や福利厚生も安定していく。あるいは安定的な経済関係を維持するために諸外国、あるいは企業が開発に入る段階でCSRの一環としてその土地の教育・福祉インフラを整えていく。このへんの話はフェアトレードの真実かなんかでも共通してる。


そういう体制の是非、あるいは、それを受けた国際援助・提携・開発の変化の今後とか思わせる感じだった。


特にまとめる気にならなかったのは「レント-プロフィット」な公共経済学・選択論あたりの記述がそれほど多くなかったから。これは別件でぢみにお勉強していこう。



「歴史人口学の世界」は歴史人口学における基本的な法則がまとめてあるかという期待で。まあとりあえず「識字」「乳児死亡率」辺りは基本。そんでそれを受けて社会が工業化していくといろいろ変化したり。基本的にマルサスの「無駄に貧乏人が増えるとリソースなくなって社会不安に陥る」があって、それがどの時点で乗り越えられていくか?というのが主眼になる。土地と労働集約のレント経済から土地ほかの有限性に縛られないプロフィット経済へ。つまり資本主義-産業革命的な立ち上がり(近代化、ゲゼルシャフト化)。なので開発とそれを受けた社会変動の話と関わってくる。アフリカだけではなくインド、中国、ロシアあたりの変動、あるいは、フランス、イギリス、アメリカ、日本あたりのバックラッシュとかとも。


これも当該分野をぢみに読み進めていこう。



「cooking for geeks」は技術書風の料理解説ていうおもしろい趣向だったのでもそっと時間をかけて読んでみても良かったのかもだけど「技術書風」というのがいまの気分と合わなかった。化学変化からの味覚がうんたらも解説してあるのでその辺はおもろいのだけど。。まあそのうちまた読もう。「パンの歴史」はアマゾンレビューにもあるように簡単にパンの歴史を俯瞰するときに便利。黒パンと白パンの違いなんかがよく分かる。自分的には「麺とパンの違いは後者が発酵食品の一種なんだなあ」てこと。パン種=ビールの酵母。




写真本ふたつはソンタグの関係でもうちょっと写真についてお勉強していこうと思ったので。まあ一般的、教科書的な知識な感じだったので特にまとめず。「写真を読む視点」のほうの巻末リンクはドメイン売られてたりがちらほらなのでやめとこ。。

「現代写真論」で紹介されてた写真家の画像リンク
http://d.hatena.ne.jp/Qutaganation/20100606/1275837733

自分は絵画(タブロー)風写真(@2章)が好きみたい。荒木さんなんかも「ライフを感じさせる写真」のひとつとして紹介されてた。


ソンタグな写真つながりでベンヤミンだけど。。まあこれはエントリ分けるか



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2014年02月03日

ナウシカ再読 ジブリと生政治と新「自由」主義周りの勘違い



「ナウシカ読み返してみようかなあ」と思ったのはなんでだったっけ?・・設計思想≠社会主義≠全体主義と思ったから、だったかな。

それでハイエクアンチョコ本読み終わったあとにナウシカ読みなおしたり、ナウシカの該当エントリ見返したりしてみた。










ナウシカ解読―ユートピアの臨界
稲葉 振一郎
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ナウシカ解読と正義の審級 ユートピアとベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/164690250.html



若いエントリなので「なんでベンヤミン?」「たまたまTLで転がってて読んでみたらテーマとマッチしたから」ってことだったけど、読みなおしてみたらたしかにこれはこれで面白かった。なので図書館にベンヤミン予約して「ベンヤミンはじめました」的なことしようとしたり。後述するところにも繋がるけど、マルクスを設計主義としたとき、その違和感をパサージュの生活感から払拭し拾い上げていこうとしたのだとしたらやはり見るところがあるのだろうなあとおもう。(そしてその部分でナウシカとつながったり)


エコ(自然)還りしたアニメ版と違ってナウシカというのは全体的には社会主義的な設計思想についての是非についての話で、なので終盤は何度もその辺りについての是非が内省される。「森≠自然に還る?」「チガウ」「いまより進んだ文明がつくりだした<神>に管理される?」「チガウ」って感じで。

どちらも生活の福利厚生自体は現時点のナウシカの暮らしよりは良くなるんだけどナウシカは拒否する。まあ前者は自分一人だけしか迎えられないという条件もあったからだろうけど。後者は量子コンピュータによる完全管理社会(オーウェル的管理社会)にもつながる設定。MATRIXでもいいけど。


そういうものを拒否し「生命は良いことだけではなくて闇と汚濁を抱え変化、成長していく光だ」としてナウシカは風の谷とともに歩もうとする。

それは社会主義的設計思想に対する宮ア駿からの拒否とか変化であり自由主義的な考えへの着地だったのかなあと「ナウシカ解読」のあとがき的インタビューを見ていて改めて思った。


(194)「宮崎さんの中にはそういった計画的なもの、過去のプログラムによって未来が規定されてしまうことに対する徹底した嫌悪感のように感じたのですが…」

「生きるということはプログラムされてるから生きるとか、結末を知らなければ生きられるという類のものではないんじゃないか。生きるということと、理解するということは違うことなんじゃないか。ナウシカは、理解をしよう、問題をつきつめていこう、見届けようという意志を強く持っていたにしても、彼女を支えているのは、その意志だけではなくて、なにかを感じとる能力だろう。実にささやかなきざしのなかに、生きることの意味を直感する力というのか、その能力を彼女が失わなければ、気が狂わないだろうと思ったんです」


結末ではなくその場その場にある何かを感じ取り、選択していく力(そういった「生きる」「生命力」のテーマはジブリのライトモチーフとして何度も出てくる)


(201) ただ、僕は「正しいこと」はあるんだと思っているんですよ。でも、「正しい人」はいないと思っています。「正しいこと」をやっている瞬間、その人は「正しい人」だけれど、じゃあ、その人がずっと「正しい」かというとなんの保証もない。愚かなことも、間違ったこともする。「正しいこと」をやった人が、そのあとくだらないことをやったからと言って、その「正しいこと」までくだらないというのをやめよう。「正しいこと」は一人の人間のなかに何度も現れたりするし、その人がくだらないことをやったりもするんだと。「正しい国」があったり、「正しい党派」があるとか、「正しい人」がいるというのは言うのはやめよう。



「正しいことをすれば間違ったこともするものとしての人間」



それらをどうやってモデレートしていくかについてはその後、宮ア駿の作品からは伺えなかったけど、おそらく

<仏教的無常感にも通じる悠久の時の流れのなかでの「人」 + そのなかでイデオロギーではなく適時選択し生きていく(「生きる力」のもとに)>

みたいな感じに落ち着いたのだとおもう。宮ア駿が堀田善衛に心酔してたのは鈴木敏夫も言っていたことだし。「最後に『方丈記私記』的なものを作りたいんです」と言っていたのも知れ渡ってることだろし。


方丈記私記 (ちくま文庫)
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社会主義に対する考え

東映動画入社の志望動機書には「米帝ディズニーに対抗しうる国産アニメを作る」と書かれていたと岡田斗司夫が著書[53]で述べている。実際に入社後は激しい組合活動を行った。その後も長らく左翼的思想を保ち続けていたが、中国やソ連などの現実の社会主義国への批判的発言も少なくない。特に1989年の天安門事件および東欧革命に大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に、思想的修正を余儀なくされたとする向きもある[54]。
宮崎の強権的「国家」に対する批判的姿勢は、宮崎が尊敬崇拝する作家の堀田善衛や司馬遼太郎らからの影響から、人間の実相を「もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る」ように凝視する、宮崎が"澄んだニヒリズム"と呼ぶところの姿勢に転換していく。例えば漫画版『風の谷のナウシカ』のラストなどに、その人間観・世界観の変化の影響が見受けられる。
しかし、これに対しては別の見方もある。宮崎はもともと統制的・強権的な社会主義には懐疑的であり、ソ連や中国の社会主義に対する批判は以前から行っている。また近年においてもアメリカ公演で毛沢東語録から言葉を引用したり、「若い人たちがまた独立系の労働組合をつくったりしているようですけど、いろんなところで立ち上がって革命をおこしたほうがいいんです。」[55]と発言するなど、労働運動や革命など左派的な概念に関する肯定的姿勢は変わっていない。またインタビューでマルクス主義について問われた際、「マルクス的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言をしている[56]。


サン=テグジュペリの思想

フランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの愛読者であり、とくに『人間の土地』を何度も読んでいる。後述のNHKのテレビ番組の中でははっきりと「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。サン=テグジュペリが当時危険だった航空郵便の飛行機乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。NHK『世界わが心の旅』(1998年放送分)の企画でサン=テグジュペリの時代の飛行機で航空郵便のパリからトゥールーズ、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡(モロッコ)まで訪れている。その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「夜間飛行」「人間の土地」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。


中尾佐助の思想

宮崎に深く影響を与えた思想に、植物学者中尾佐助による「照葉樹林文化論」がある。ヒマラヤ山脈南麓から中国南部・日本本州南半分までを含む地域が、茶・酒・柑橘類などの特色を持つ共通の農耕文化圏に含まれるとするこの学説に、国家の枠を乗り越える視点を与えられ、「呪縛からの解放」感を味わったという。この影響は特に『もののけ姫』に強く表れており、その後も宮崎はインタビュー・対談など事ある毎に中尾佐助を引き合いに出している。


反原発

スタジオジブリの小冊子『熱風』2011年8号で、宮崎が「NO! 原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙を飾った。表紙の説明には「6月11日、宮崎駿監督は東小金井で小さなデモをした」と書かれてある。6月11日は同年3月に発生した東日本大震災の福島第一原子力発電所事故に関連して全国一斉にデモなどが呼びかけられた「6・11脱原発100万人アクション」の一環として新宿では約2万人が参加した大規模な反原発デモが行われた日であった。この号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」には、宮崎駿、鈴木敏夫、河野太郎、大西健丞、川上量生による特別座談会が掲載され、宮崎は原発をなくすことに賛成と語っている。座談会では他に、1年前の2010年夏ごろ福島原発の施設内(福島県双葉郡富岡町の「エネルギー館」)に知らないうちにトトロなどのキャラクター商品を販売する店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている[61]。また、2011年6月16日からは、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、宮崎の考案で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている

宮ア駿 - Wikipedia http://bit.ly/MpQNy8


基軸のところに社会主義・マルクス主義ほか社会思想的に世間への関心があり、それが生活や社会情勢の変化を介して徐々に変化していき、60年代の後期近代への変化における革新幻想の後退を通じて反悔恨共同体志向としての日本文化論や司馬遼太郎的なものも吸収していったのだろう。網野善彦ほか教養への関心もその一環な感じ。


反原発アピールはエコ脳というよりはの反政府-設計的な文脈なのではないかとおもう。ただデータや生きられた経験的に違うので出てきた結果が違うということ。なのでアニメ版ナウシカイメージからジブリ=エコだからというのもちょっと違うとおもう。あるいは、ジブリはそういうイメージでお子様売りしてもいいかもだけど宮崎の戦車・軍ヲタ的なとことエコの違和感というのはこういう文脈のように思える。




反設計思想と「生きる力」、このテーマはハイエクとフーコーにつながってくる。あるいはロールズ。


真の個人主義は現代的な意味での平等主義ではない。人々に対して一般的な規則を平等に適用すべきだという見地に立ち、特定の人に特権を与えたり、保護したりすることには反対するが、それは、人々の(経済的・社会的)ステータスを同一にすることではない。

cf.社会保障→BIをめぐる話、負の所得税、新自由主義を巡る話、配分的正義(cf.ミル「功利主義」)

部族社会と違って複雑化した「大きな社会」では各人の目的・幸福・貧困が異なるので一義的に「平等な配分」を設定できない

cont.→ アリストテレス「ニコマス倫理学」、ロールズ「正義論」、社会主義-設計思想、福祉国家論、所得再配分

正しい/正しくないは人間の行為においてだけ有意味であって、自然の状態においては意味を成さない。つまり人間の生物的属性に起因する能力の違いのようなことそれ自体については正しい/正しくないは発生しない。


ある行為が正しいか正しくないかは「その行為がもたらした帰結」ではなく「その行為が正しい振る舞いのルールに適合しているか(フェアかどうか)」によって決定される


「大きな社会」にとっての「一般的福祉」は、各人の目的追求の機会を改善するための諸条件の創出、であって、個々人の満足の合計を社会全体の利益として増大させることではない

cf.「帰結を問うのではなくルールの公正さを問う」、「機会平等」(セン)


このときの「正しい振る舞いのルール」≠「正義」は時代・環境・情況によって変化していく。明示的なルールがないところでも人々を「正しい振る舞いのルール」へと誘導する「正義感覚」はある。

この感覚は言語化されざるものに従い言語化する能力「言語感覚」同様、明文化することのできないルールに従う「正義の感覚」とされる。

それは、アプリオリに存在する「正義」を発見し正確に再構成する、ものではなく、進化の過程で人々の現実的な集団的な振る舞いや言語活動と相関しながら徐々に発達する感覚、である。したがって絶対的で不変なものではない。


それは消極的に普遍化可能なものであり絶対的な「社会的正義」ではない。

cf.タクシスーテーシスとしての正義や法、ケルゼン




ハイエクはまずもって手続きと機会平等の公正(フェア)を目指し、その帰結の平等・設計をすべきではないとする。

ロールズの正義論は配分的正義的だけど、よく読んでみるとプロセスの公正性を目指してるようでもあり、そうであれば賛成、との見解。


また、ハイエクが想定するコスモスにおける個人は合理的ではなく愚かで迷いやすい側面もある。それを誘導することも必要でありタクシス的制度、「制度・手続き的正義」(ロールズ)が必要な場合もある。

仲正昌樹、2011、「いまこそハイエクに学べ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/386797337.html


「絶対的な正義」や「絶対的に正しいルール(法)」は存在しない、だろうけど、なんとなく普遍的な正義感覚というものはある。たとえばアングロサクソンの良心と言われるようなアレとか。アングロサクソンじゃなくても日本人でもふつーに「良心」となんとなくいわれるもの。

その感覚は宮崎が「生きる力」という際にセットにしている良心的な部分にも共通するようにおもう。あるいは小田実が「世界人類、みんな異なるけれど普遍的に共通するところもある」といっていたところ。


それはいつでも正しいものではなく間違ったりもするけれど、生活と環境、歴史を通じて淘汰されてきた結果の集積、叡智だったりする。


そういったものに対してタクシス-テーシス的なものはあらかじめ幸福な結果・帰結をぶら下げそのアンシンをエサに人を釣ろうとする。



ミシェル・フーコーとベーシック・インカム / ル・モンド・ディプロマティーク
http://www.diplo.jp/articles13/1305foucault.html

「負の所得税=ベーシックインカム」は間違い : アゴラ - ライブドアブログ
http://agora-web.jp/archives/1461535.html


ここでフーコーが批判していたのはハイエクが言っていた「あらかじめ帰結を設定してフェアを度外視すること」に通じるのだろう。その短期的・具体的問題は『部族社会と違って複雑化した「大きな社会」では各人の目的・幸福・貧困が異なるので一義的に「平等な配分」を設定できない』あたりで、長期的問題としては生政治/生権力が関わってくる。

短期的な方は端的に言えば「生かさず殺さず」的な問題。


フーコーはいわゆる新自由主義を「権力の所在を分散させて隠蔽するイデオロギー装置」として論じるが、結果的にはそれが生政治によって人々を直接コントロールする「内政国家」を否定したことを評価する。その根底にあるのは、ポストモダンにも通じる超越的真理や特権的主体の否定である。

しかし、このように極度に脱中心化された統治形態は、自己否定的な存在である。それは(アロウの不可能性定理に示されるような)非決定性をはらんでいるからだ。したがって逆説的なことだが、自由主義と市場によって合理化された国家は、再中心化としてのナショナリズムや国家理性を必要とする。政府は限りなく合理的な主体として「国家戦略」を立案することを求められる。経済的自由主義をとったサッチャー・レーガン政権が、攻撃的な外交政策をとったことは偶然ではない。

池田信夫 blog : 生政治の誕生
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51294224.html

全体として何いってんだかわかりにくいんだけど、ハイエク的語彙からすればオイコス的なエコノミクス(古典主義的な合理的・設計的な経済設定)によって人の生が疎外されることの危険性ということになるとおもう。


「新自由主義」という言葉はバズワードで、その実態がなんともわかりにくいところがある。


ステレオタイプな見方としては「自由放任を題目にした政府による無責任主義」「貧困なんかかんけーねーから自己責任の名のもとに( ゚Д゚)<氏ね!」というもの


「どん底からでも努力次第で再スタートできる」なんて嘘に決まってる - 長椅子と本棚
http://d.hatena.ne.jp/dergeist/20130602/1370193810


ただ、そういう文脈で語られる「市場原理」というのはおそらくオイコス-タクシス-テーシス的なものであってカタラクシー(交換と自生)のほうではない。アンチ資本主義的文脈で語られるものもたぶん同様。


「フーコーが新自由主義を批判した」ということが記号化してて新自由主義批判の文脈でフーコーが使われることがあるように思うけど、そういうときしばしば上記のような勘違いがあるように思われる。

ついでにいえば負の所得税についても同様のようだし、

つーか、BIだとたぶん現在の福祉政策、福祉関係省庁をそのまま残す前提だろうけど、フリードマンが唱えた負の所得税は健康保険まで含めて一切合切福祉関係に政府が関係するのを辞めて、金と自由市場で解決する。


サッチャーについても誤解があるみたい、

サッチャー自身も誤解を受けた。「社会など存在しない、あるのは男女とその家族だけだ」という発言はあまりにも有名だ。孤立した個人の自己責任を重んじる主張として受けとめられた。『サッチャー回顧録』で、彼女は嘆いている。「私のいいたかったことは、当時は明解であっても、後に見る影もなく歪(ゆが)められてしまった」と。サッチャーは、むしろ人々の相互扶助精神に期待していた。批判の矢を向けたのは、国家を最初の避難所とみなす立場に対してであった。ハイエクのいう「真の個人主義」も同様で、国家よりも「社会的なるもの」を重視する。社会の再興を通じて、豊かな個人が育まれるとみなす新自由主義のこの含意は、これまでほとんど無視されてきた。

サッチャーの遺産 橋本努さんが選ぶ本 - 橋本努(北海道大教授) - ニュースの本棚 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト http://book.asahi.com/reviews/column/2013060200002.html


ハイエクとか自由主義についても同様の文脈で誤解があるのだろう。


未だ調べてないけどサッチャーが目指したもの、フリードマンが目指したものを文脈切除して政府が利用してしまった感がある。そしてそれも全体的に権力の大きな流れであり誰かのはっきりとした意志でもないような。システム-タクシス-理性から象った神の暴走みたいなの。



フーコーと三つのリベラリズム? - インタラクティヴ読書ノート別館の別館
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090612/p1



 国家によって規定され、いわば国家による監視の下で維持された市場の自由を受け入れる代わりに――経済的自由の空間を打ち立てよう、そしてそうした空間を国家によって限定させ監視させよう、というのが、自由主義の最初の定式でした。オルド自由主義者たちが主張するのは、この定式を完全に反転し、市場の自由を、国家をその存在の始まりからその介入の最後の形態に至るまで組織化し規則づけるための原理として手に入れなければならない、ということです。つまり、国家の監視下にある市場よりもむしろ、市場の監視下にある国家を、というわけです。(143頁)


タクシス-オイコスに依る管理

 新自由主義者たちにとって、市場における本質的なものは交換のなかにはありません。(中略)彼らにとって、市場における本質的なものは、競争のなかにあります。(146頁)


カタラクシー(交換と自由競争)ではなくハイパー・メリトクラシー的な設計された競争

 マルクスは、一言で言うなら資本の矛盾した論理のようなものを定義し分析しようとしました。これに対し、マックス・ヴェーバーの問題、そしてマックス・ヴェーバーがドイツの社会学的考察、経済的考察、政治的考察のなかに同時に導入したもの、それは、資本の矛盾した論理の問題よりもむしろ、資本主義社会の非合理的合理性の問題です。(中略)そしておおざっぱに言うなら、フランクフルト学派もフライブルク学派も、ホルクハイマーもオイケンも、この問題をとり上げ直したのだと言うことができます。ただし、二つの異なる向きへ、二つの異なる方向へと向かって。(中略)フランクフルト学派の問題は、経済的非合理性を解消するようなやり方で定義され形成されうるような新たな社会的合理性とはいかなるものでありうるのかを定義することでした。これに対し、資本主義の非合理的合理性の解読という、フライブルク学派にとっての問題でもあったこの問題を、オイケンやレプケのような人々は別のやり方で解決しようと試みることになります。すなわち、社会的合理性の新たな形式を再び見いだし、発明し、定義しようとするのではなく、資本主義の社会的非合理性の解消を可能にするような経済的合理性を定義したり、再定義したり、再発見しようとするということです。(130-1頁)


非合理的合理性(設計され得ないカタラクシー的な自生の中にある益を設計)、新古典的暗黙の設計


 資本主義社会、ブルジョワ社会、功利主義社会、個人主義社会に関してナチスによってなされた分析については、それをゾンバルトに関係づけることができます。(中略)ブルジョワ的かつ資本主義的な経済および国家は、いったい何を産出したのだろうか。それらが産出したのは、一つの社会、即ちそこでは個々人がその自然的共同体から引き離されて大衆といういわば平板で匿名の一つの形態のなかで互いに結合されているような一つの社会である。(中略)ゾンバルトには、実は一九〇〇年代から既に、その分節化と骨格とがどのようなものであるのか定かでないような思考の決まり文句のうちの一つとなってしまった周知の批判が見られます。それはすなわち、大衆社会、一次元的人間の社会、権威主義社会、消費社会、スペクタクルの社会などに対する批判です。(中略)以上はまた、ナチスが自らのためにとり上げ直したことです。(中略)
 しかし、と新自由主義者たちは言います。よく見ると、ナチスは、その組織、その政党、その総統支配によっていったい何をやっているのだろうか。ナチスがやっているのは、実は、あの大衆社会、画一化し規格化するあの消費社会、記号とスペクタクルからなるあの社会を際立たせることに他ならない。(中略)これはなぜだろうか。なぜナチスは、自らが告発しようとしているものを継続することしかしないのだろうか。それはまさしく、それらすべての諸要素が、ゾンバルトそして彼の後にナチスが主張していたのとは異なり、ブルジョワ資本主義によってもたらされた効果ではないからだ。(中略)大衆という現象、画一化という現象、スペクタクルという現象、こうしたすべては、国家主義、反自由主義に結びついているのであり、一つの商業経済に結びついているわけではないのだ、と。(139-40頁)



市場経済-資本主義の「欲望」-「内需」ドライブの社会的反映としての消費・スペクタクル・大衆・画一化という課題。ただ、これは後期近代の社会的課題であって市場の結果であり課題とはいえない感じ



まあいずれも稲葉さんとか池田さんの切り取りだからわかんないとこあるのでそのうち自分で見ていくけど。






ジブリ、あるいは宮ア駿の課題というのはこの部分につながっていて、「生きる」となんとなくキャッチコピーで言っていたのはこういった生政治とその社会的反映の部分。スペクタクルな消費社会的な情況における人の疎外の問題。それは経済(カタラクシー)的レイヤーからすれば「帰結」「結果」であり、いわば老廃物的なものともいえる。

「経済」「社会」というレイヤーは異なるレイヤーなのでコードも異なる。なので本来は2つのレイヤーを一緒くたに扱うべきではない。


ほんとなら反設計思想の次にこの部分を課題として政治経済→社会的な落とし所を見出していくべきだったのだろうけど、それは商業的にも宮崎の体力的にも無理だったのだろう。


仕方ないのでその部分は自分的に脳内補完してジブリの「生きる」の部分での進行に期待したい


(たぶん生政治的なところはなんとなくセカイ系的に飛ばして「日本人の元からの精神はー」みたいなところに着地するだろうけど、それが出来ただけでも御の字といえるのかもしれない)


ハイエクのとこにも書いたけど単に自由というだけでもうまくいかないし、「自己責任」な厳しさだけが正しさでもないだろうからその部分でカタラクシー以外の福祉という制度設計的スパイスが必要になるだろうし、そこがロールズやフリードマン介してお勉強してくところ。

そんで「正義感覚」同様なんとなくの「普遍的な良いもの」としてのモダニティの良い側面なんかも(cf.開発とモダニティ)



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関連:

ついでにいっとけば「ナウシカ」もそんなに最初から成功が約束されたものではなく、最初は「なんか映画作りましょう」「アニメで」「原作がないのはダメ」「じゃあアニメージュで原作つくろう」になり金の引っ張り方も徳間康快的なエッシャエッシャがあったみたい。(「博打だからおまえも片棒担げよ」「あの絵のごちゃごちゃしたマンガですかぁ」、的なの)

「ナウシカ誕生秘話」
http://bit.ly/1bjmMXc

セカイ系イズムに飛んでないお金周りのリアルが面白い
posted by m_um_u at 18:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年02月01日

ソチオリンピックでの同性愛プロパガンダ禁止法周り雑感


ソチオリンピックの国際的反応は「ロシアが同性愛禁止だから開会式ボイコットしよ―ぜ―」て感じになってるけどその辺はまったく日本のメジャーなマスメディアでは触れてない感じ。

まあそれはいつもどおりだからいいんだけどこの同性愛禁止てのはどういうことなのかな?(キリスト教関連としてもどういう教理とかエートスとか政治経済的関係だろ?)と思って軽く芋づるとか検索とかしてみた。


【五輪】ソチ開会式にt.A.T.u.が出演?〜同性愛宣伝禁止法との関係は如何に〜|ロシアぶろぐ(仮)〜目指せ1日1ロシアネタ〜
http://ameblo.jp/lm116416/entry-11761729216.html



<法律の発案者の立場>

法律専門家の評価では、草案は明確な基準と定義を含んでおらず、その解釈はあいまいである。家族・女性・子どもに関する諸問題下院委員会のエレーナ・ミズーリナ議長は法案の立場を次のように定義する:

「私たちの法案は、非伝統的な性的関係の宣伝を禁じるものではなく、そのような宣伝が子どもたちを対象としたり、子どもたちにいずれかの性的指向を形成させる目的を持っているような場合にそれを制限するものです

「文化的または芸術的な価値を持つ作品は、『有害情報から子どもを守ることについての法律』で規制されることはありません」

「非伝統的な志向を持つ人の習慣が示されたとしても、それがプロパガンダではなく、子どもに何らかの植え付けを行うようなものでなければ、それは単なる情報です。ニュースのダイジェストもまた単なる情報であり、プロパガンダではありません。同性の二人の子どもが手をつないで歩いていた場合も、プロパガンダではありません。子ども自身がが自ら情報を探す場合、それが子どもにとって必要であれば、これも何らプロパガンダではありません。なぜならそれは子どもに対する植え付けを行う目的ではないからです」

「禁止は、子どもが参加する見物行事で同性愛に対する関心をあおるようなものに対してのみ適用されます」

「もし法律が採択されれば、ゲイ・パレードの開催は、子どもが参加せず、子どもの目の届かない場所でのみ可能になります」

文書によれば、非伝統的な性的関係を子どもに対して宣伝した場合、ロシア国民は4千〜5千ルーブル、公務員は4万〜5万ルーブル、法人は80万〜100万ルーブルの罰金が課せられる。また、法人が違反した場合、90日以下の営業停止行政処分となる可能性がある。政治学者たちは次のように確信している:この法律はよく考えぬかれた、バランスのとれたアプローチをしている。そして法律で定められている罰則も十分軽いものである。

「法律で問題とされているのは、未成年に対する宣伝の禁止であることを指摘しておくことも重要です。つまり、非伝統的な性的関係そのものを禁じているのではなく、制限についてさえ問題にされていません。ある社会集団の中での宣伝を禁止しているのに過ぎないのです」―このように、地域計画推進研究所のニコライ・ミロノフ所長は本紙に明らかにした。

要するに、同性愛そのものや活動自体を禁じているのではなくて、子どもに悪影響だから目の届くところでやるなってことなのね。しかし、ロシアの国内対応はいつも外国から文句言われるな―。

【悲報】レイキャビクがゲイをめぐってモスクワと断交|ロシアぶろぐ(仮)〜目指せ1日1ロシアネタ〜
http://ameblo.jp/lm116416/entry-11572095882.html


「同性愛禁止」法ではなくて「同性愛プロパガンダ禁止」法。子供とか未だ自我が固まってない層が混乱しないようにあからさまに同性愛とか喧伝するな、てやつ。

まあ自由主義とか民主主義とかが固まった先進国からするとはなはだ後進的とか未開発とか遅れてる野蛮みたいな感じなんだろうけど、印象としてはライシテと同じ。あるいはセクハラ案件のペアレンタルコントロールとか、「コンビニで子供の目に触れるところに置くな」とかそういうのと。


ヘイトクライムと「民主主義」と内政干渉のしきい値、みたいな話 (モダニティの帰結): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/386535100.html


初等教育段階、あるいは精神年齢が初等-中等程度だと共同体の「正しい」価値をそのまま信じることに疑いがないし、それを覆されると不安を覚える。そしてロシアは現在、後期近代化の途上なので伝統的価値とゲゼルシャフト的な価値との間で相克が生じている。
生活的なところではそれまでの「正しい」「ふつー」のライフスタイルを送っても貧困になったり不幸になったりしてるし、それに紐付いていたエートスも疑われたり。そして外来から新興層が入ってきて「自分達の食い扶持がやつらに奪われてる」という疑念も生じたり(コーカサスとか)。

そういったところでは民族的価値や宗教的価値に反動して紛争・事件が生じやすくなる。

このへんはインドの集団強姦とかフランスのスカーフ事件にも通じる。

元々の民族的性格←家族型にも依るのだろうけど、不安や不満を旧来の「正しい」価値観 → それに従わないものが悪いにすり替えて祭りをする

それは野蛮で幼稚なものだけど、現段階だと言っても聞かないのだからとりあえず刺激しないようにわけた方がいい。だから旧来の価値観を刺激するようなこと、不安をもたらすようなことを避けるようにするという処置はふつーにアリだと思う。とりあえずの妥協策として。


なので、この件に関して欧米など先進国から「同性愛禁止かー(野蛮人メー)」て誤解もアレゲだなと思うんだけど、そういったなかで日本は開会式参加というのはけっこういい選択なようにおもったり(エネルギー政策とか対中安保的に)。このへん中国とアフリカのエネルギー政策的な協調を思わせるけど、まあ国際的にもそんな感じに思われてるのかもしれない(北京五輪のときのスーダンうんたらみたいに)。



ちなみにロシアのこのへんの価値観はどういうエートスかと思ってちょっと調べてみたけどよくわからなかった。Synodosあたりにありそうかなと思ったけどコーカサスとかの経済的情況変化→不安・ガバナンス関連ぐらいだったし。

ロシア正教だろなということでWikipedia程度の知識だけど「正教会における聖伝の本質は、教会を形成していく人々の生きた体験の記憶である」とのこと。なのでプロテスタントと違ってバイブル教条的なアレで同性愛禁止てことでもないみたい。アルミニウス主義的てけとーさ(人道主義的おおらかさ)の影響かなあ。まあこのへんもどういう論理建てで同性愛への偏見が払拭されていったのかな?とか思うけど、関連本読んでたらそのうち分かるか。



あと、ロシアは外婚制共同体家族が多い地域ということで北インド、中国と性格を一緒にするみたい。なのでやはり今回の騒動はインドの事件に近いのだろう。


現代インドにおける女性に対する暴力 ―― デリーにおける集団強姦事件の背景を探る | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/3730



それにしてもライシテ的な感じで同性愛的表現は禁止てなったはずなのに諸外国からクレームあがったのを受けてかt.a.t.u起用してたらそれこそ同法の規定に触れるのではないかと思うけど・・あと、t.a.t.uだからまたお騒がせしそう。

そもそもt.a.t.uが売れた背景てどんなかんじだったんだろ?そういう価値の背景があるのだったら当時もけっこうな騒動になったのでは?とかおもうけど。当時と現在では情況が変わったのかな(特に調べず


t.A.T.u. - Wikipedia http://bit.ly/7NO8UM

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2014年01月30日

ヘイトクライムと「民主主義」と内政干渉のしきい値、みたいな話 (モダニティの帰結)



移民の運命 〔同化か隔離か〕

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この本を読むきっかけにフランスの昨今の右傾化/人種差別みたいなのが気になったのがあった。

「新ヨーロッパ大全」と「世界像革命」、そしてこれを読んだ現在、それもパリ盆地中心の普遍・平等的価値観に対する地方(特にオック地方辺り)の差異主義の流入ではないか?だとしたらそれは現地の経済的不安とセットのリアリティを持つのでは?とか思ってたんだけどそれもちょっと違うみたい。

すくなくともトッドはそういうこといってなくて、「とりあえず1965ー1990ぐらいになんか変わってきたねえ」「そのぐらいから文壇エリートたちがアメリカにならって差異主義とりいれだしたんだけど、パリの現状とあわないだろうから慎重になったほうがいいよねえ」、て話だった。


1965というのは1945+20、つまり戦後世代が成人してからということ

第二次世界大戦後生まれ世代の特徴として


高等教育のテイクオフ
脱工業化
経済の第三次化
出生率の急落
カトリシズムの崩壊
イデオロギーの解体


初等教育はとりあえず読み書きできるようになることを基本とするんだけど、そこでは未だ書かれたものが無自覚に信じられている。そこに反省、相対化(いわゆる批判的読み)が生まれるのは中等教育以降。

1965以降あらゆる統計指標が変化し始め、社会構造全体が急変する。

ついでにいうとドイツが初期工業化失敗したのはの失敗したのは「直系家族の土地と家系を重んずる性格が都市への移動を妨害したから」ということだった。


脱工業化 → 経済の第三次化(後期近代)な流れはこないだ説明した感じ



日本だと「社会が豊かになったのでマルクス主義のリアリティがなくなった」といわれてたあたり。日本だけの話でもなかったのだなあ、て。


そんでフランスの問題だけど、具体的には以前にあったスカーフの問題や最近の黒人女性大臣への差別


ヘイトスピーチ規制論争の構図――規制の「効果」と「範囲」をめぐって | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/society/6706

フランスの共和主義とイスラームの軋轢から「市民性教育」について考える | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/education/6632

黒人女性大臣への差別発言が示すフランスの人権感覚 - Global Press - 朝日新聞社(WEBRONZA)
http://webronza.asahi.com/global/2013121300004.html


プラド・夏樹さんのほうは「リベラルな国のはずのフランスが嘆かわしい」て論調でふつーな感じなんだけどシノドスの鈴木さんのほう(市民性教育とライシテの)がわかりやすかった。


欧米ではこの辺りがもうアンタッチャブル的なアレになってるのだろうから法制度化して規制してるようで、なのでちょっとしたジョークにも敏感になる面があるのかもしれない。昨今のANAの付けっ鼻(゚⊇゚)ガイジソーのアレでもそうだけど。まあアレは背後に「日本ではいつまでたっても(゚⊇゚)ガイジソー―扱いなんだ。。」てのがあったかなとも思うんだけど。



結論から言うとこの辺りの問題は価値観/主観/その土地ごとの生きられた経験に基づく生きやすさ・ガバナンスの違いが関わるので当該コミュニティに対して国家的に法制度化する、正しさを規定すると言うのはそれ自体が規律権力的な側面があるように思う。つまり環境管理型権力とかアーキテクチャがどうとかいう議論の法制度版。つかこっちのほうが元々だろうけど。

差別というのはその土地のそれまでの歴史・文化を背景にした経験的な智恵なところがあり、たとえば「人が定住し家畜を飼っていると感染症が生まれる。カーストというのは感染を防ぐための側面もあった」(マクニール)とか。そして偏見/差別に関して突き詰めていけばわれわれは日常の細かいところで、とても洗練された形でそういうことはしている。誰かと誰かを区別したり/差別したり。暴力として糾弾されないように証拠が残らないように暴力的なことをしたり。

あるいはそこまでいかなくても家族型の違いで地域ごとに価値観が違ったりするのでそういうところに一概にアングロサクソンの自由・民主主義を押し付けるのも違う感じ。

「そういった些細な区別と個人の性質では乗り越えられないような力となってあからさまに過剰な暴力として振りかかるのとは違う」

まあたしかにそれはそうで自分もそういうのは問題だと思う。んでも「正しい」と思ってることでも権力関係してるのは意識しといたほうがいいような。


そんでそこにライシテをめぐる自由とか曖昧な部分、あるいは日本国憲法をめぐる曖昧さが関わるように思う。


リンク先にもあるようにライシテはもともとは「カトリックの教義の影響を無理やり受けないような自由を担保するバッファ」的なものとして設定されたようだけど、それが現在では「ライシテ≠政教分離なんだからスカーフを巻いてきてはいけない」という自由を阻害するための記号みたいになってしまった。

こういうのはポリティカルコレクトをめぐる冗談にも共通している。


ポリティカリー・コレクト(政治的に公正)という言葉は1980年代からアメリカ合衆国で使われるようになった言葉である。もともとは左翼の人々が「マルクス主義者の僕が4つ星レストランで食事するのはポリティカリー・コレクトではない」、「私はフェミニストだから、あまりポリティカリー・コレクトではないけど、今日はマニキュアを塗ろう」というように、自分たちのドグマ的態度を自嘲するために使っていた言葉だった。

 その後は、女性、黒人、スペイン系、ホモセクシャルなどのマイノリティーを擁護する左派の多文化主義をもさすようになったが、保守派はそれを逆手にとって、左派の人々のマイノリティー擁護が度を越すことを「ポリティカリー・コレクト」と言って批判するようになった。フランスでは、1990年代から米国と同じ意味合いで使われるようになり、前出のエリック・ゼムール氏がショック発言をするときの決まり文句は、「ポリティカリー・コレクトなことばかり言っていると論議が発展しない」というものである。

黒人女性大臣への差別発言が示すフランスの人権感覚 - Global Press - 朝日新聞社(WEBRONZA)
http://webronza.asahi.com/global/2013121300004.html


ポリティカルコレクトのそれは冗談にしても一旦正しさが教条化して記号化すると一気に人を責めるための道具になる。赤狩りの道具ぽく。


なので、このへんの話で大事なのは「正しさを最初から設計するのではなく、その場のそれぞれの人が快適(自由)を感じられるようにする」ということなのだろう。それも「とりあえず」な感じで。完全を設計するなんてできるわけないのだから問題が生じるたびにすぐに修正できる体制のほうが大事なので。


中国やインドの例もそんな感じ。


習近平政権が恐れているものは何か。 - 梶ピエールの備忘録。
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20140128/p1

現代インドにおける女性に対する暴力 ―― デリーにおける集団強姦事件の背景を探る | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/3730

インドは「世界最大の民主主義国家」か?――競合的多党制のもとでの政党政治 | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/6345



「アジア三国志」の雄二つなんだけど、諸外国が気にするのはガバナンスで、アメリカを中心とした民主主義国はそれを「民主主義が定着すれば落ち着くはず」としてアフリカをはじめとした低開発国への支援方針としてそれを掲げてた。しかし、けっきょくそれは民主主義という正しさの押し付けで、経済的なパートナーとして最初から目していた中国が結果的にアフリカの生活を底上げし強いパートナーシップを結ぶこととなった。


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この辺りの話はDV、児童虐待家庭への内政干渉に似ていて「押し付け的な『正義』はダメ、とはわかっていてもあるしきい値を超えたら放っておけない」というのはある。スーダンのジェノサイドみたいに。

なので「その場のそれぞれの人が快適(自由)を感じられるように」というのは意識しつつも普遍的な指標、しきい値のようなものはあるようにおもう。

あと、「与えるばかりが援助ではなく自助的に努力できるように寄り添う」的なあれも。


開発援助の場合はモダニティに通じるとりあえずの経済発展を目指すこと、貧困・虐待・共依存的な家庭・カップルの場合は当人たちが健康で文化的な満足を感じられるような基礎的な経済基盤への橋渡しをすること。


そういうとき、ただ与えるよりも「当人たちにとってなにが本当の満足≠自由につながるのか?」という見極めをするほうがコストがかかる。時間を始めとした、じっくり付き合っていくコスト。それぞれの性格の見極めとか。情勢の変化の見極めとか。



インドの場合、北部が外婚制共同体家族で南部が非対称共同体家族になる。


父系権威なので直系家族の異型に思えがちだけど平等家族とのハイブリッドと考えたほうがいいのかもしれない。北部は男性権威共産主義、南部は母系共産主義。。かなあ。

インドと言う場合、思い浮かべられるのは北インドが主で、ムンバイなんかもギリギリ北インドに属する。

おーざっぱにはインドはもともと住んでいたドラヴィダ人をアーリア人が侵略、ドラヴィダ人が南に移り、その際の支配の階級を固定するためにカーストが発案されたぽい。それにヒンドゥーが紐づく。

なので南インドの人にとってはヒンドゥーとかびみょーだろうけど右派のbjpなんかは「ヒンドゥーの元にインドを統一!」な感じらしい。まあケルト≠ドラヴィダとしたらイングランドにおけるローマ・カトリックがヒンドゥーなのだろう。そんでイスラームはヴァイキングというかプロテスタントというか。

そんで最終的にオランダ・イングランドというアングロサクソンに統合されたのでコモンウェルス的性格も有する。実際イングランド移民の30%はインド人だそうだし、英語領になった影響が大きい。

この「英語圏」が「アジア三国志」でも中国に比べて評価されてたんだけど、それと民主主義あるいは自由主義というのは直接には関係しない。

家族系から言えば北インド、中国は共産主義的な地域で、中央集権で設計思想して行くのが適したところなのだろう。

ただ、インドの場合、南インドは母系の巨大共同体ぽく、そのあたりの価値観が将来的にどう絡み、内部で止揚されていくのかなあとかおもうけど(ライシテみたいなのできるのかな)。内部で価値観の対立があるにせよとりあえずはモダニティが価値観とガバナンスの平均的な落とし所となるのだろう。

トッドが指摘してるのはたぶんそういうこと



モダニティというのはアングロサクソンが作り上げた自由主義的価値観とヴァイキング・商人的プラグマティズムに基づく楽観的集約なので。商人の利益集約的な価値観というのは一昔前のマルクス主義な頃なら個人主義(ミーイズム)としてなじられた。


ただ、このへんも言語化がめんどい部分で、モダニティの真髄は単なる個人主義というか自由主義なところにあるように思うので。自由主義に基づいた創発民主制。つまりハイエクが指摘してたあたり



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そういう「設計できないような自由をどのように設計するか」みたいなのは必要になるのだろう。


中国の文脈も同様でアメリカほか「自由主義国」が外部から民主主義を押し付けてくるのにはイデオロギー闘争的な警戒をし、国民もそれに同意してるようなのではねつけやすい。そういうなかで内部でも海外とつながらずに内部から人権拡張をする流れが出てきていて、当局としてはこういう流れだと一概に否定出来ないのでこっちのほうが怖いみたい。



なんか散漫になったのでいちお要点もっかいゆっとくと「『正しさ』みたいなのは現地の人の事情によってそれぞれだから外部から決めつけできないし情況によるんだけど、それでも普遍的・最低のしきい値みたいなのはあって、それを可能にするような制度設計はできるだろうし、制度というのはそういうバッファを意識して設定したほうがいい」みたいな話。


人権とか「最低限の自由」に関わるそれも現地のもともとの価値観(エートスや家族型、それらに付随したハビトゥス)などのほうが優先される場合もあるだろうけど、それでもなお平常状態で人類普遍に最低限共通するものはありそう。「暴力で痛めつけられるの嫌」とか

インドの集団暴行なんかは猫の大虐殺と同じ前近代的な幼稚・低能さを想わせる。教育というモダニティの導入によって内省→精神的成長が期待される。






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関連:
たったひとつの冴えたやりかた: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384420579.html


posted by m_um_u at 19:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年01月27日

アルミニウス主義 → イルカ → 「明日、ママがいない」

「ヨーロッパ大全」の上巻で気になってたところ「親子関係も兄弟間も不平等な直系家族が形而下では自由を形而上では不平等に納得してプロテスタントに行くのはわかったけどイングランドはどうなるの?」について。下巻で確認したところ「イングランドはアルミニウス主義に行ったから」ということだった。


アルミニウス主義はpdfにもあるようにエラスムス vs. ルターの流れから出てきたもので、エラスムス的なギリシア人文的な自由に連なる。あとここでたぶん人道関連絡んでくる



絶対核家族であるアングロサクソンは自由主義的傾向が強い。なので形而下の世界で教会に支配されるのはまっぴらだし形而上でも自由でいたい。カトリックでは前者がきついしルター派プロテスタントでは後者がきつい。結果としてオランダ → イングランドではアルミニウス主義が受け容れられた。


ヴェーバーはアングロサクソンの宗派を一口にプロテスタントといったようだけどドイツとイングランドのプロテスタントは違うし、名誉革命以後のイングランドの中枢はオランダの流れだからオランダの影響ぽい。そんでアルミニウス主義の影響が出てくる。

(※プロ倫のこの部分はこのエントリ用に確認しとこうかと思ったけど今日はつかれたのでメモ程度で >マックス・ヴェーバーは論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、カルヴァン派の予定説が資本主義を発達させた、という論理)


プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
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予定説だと努力無駄になっちゃうし形而上でも縛られちゃうので自由主義な絶対核家族圏では合わなそう。なのでアルミニウス主義。


 私がグッドウィンに目をつけたのは、彼の考え方に特異なものがあったからです。それはアルミニウス主義です。アルミニウス主義については、日本はもとより、海外でもひじょうに研究がすくなく、おまけに、その内容がじゅうぶんに理解されることなくことなく、現代のインターネット上ですら、アルミニウス主義をヒステリックに非難する論文を見ることができる始末です。
 この原因は二つ考えられます。一つは、アルミニウス主義がカルヴィニズムとまっこうから対立したことです。イギリス革命の推進者としてピューリタンの存在が強調され、彼らの正統的教義がカルヴィニズムでした。カルヴィニズムは、ふつう宗教改革者ジャン・カルヴァンの教えとされ、十七世紀初頭のヨーロッパでは、カルヴィニズムこそプロテスタントの正統的教義だという風潮がひろまっていました。アルミニウス主義は異端的教説として弾圧され、イギリス革命研究においては、長いあいだ、反革命のイデオロギーとしてかたづけられてきました。
 もう一つは、マックス・ヴェーバーの影響です。彼の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫)によれば、カルヴィニズムは近代資本主義の精神である禁欲的生活態度や合理性を支えてきたものであり、一方、アルミニウス主義はそんな精神とは何のかかわりもない、むしろ反動的な教えでした。戦後日本の社会科学におよぼしたヴェーバーの影響はとても大きく、歴史研究の分野でも、ヴェーバーの見解にひきつけた研究やカルヴィニズムに関連した研究が多く出ました。アルミニウス主義など見向きもされなかったのです。



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近代イングランドの心性史関連でこの本できれば読みたいんだけど、、専門書過ぎて近くの図書館にない。。



そんで、アルミニウス主義を受けたのがメソジストバプテスト、つまりアメリカの二大宗派はこの流れぽい


アナバプテスト - Wikipedia http://bit.ly/1lgfU6q

メソジスト談義2 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/592527


自分的にはアメリカのアングロサクソン的な自由主義的な価値観のところで平等主義に連なる人道主義が出てくるというのは不思議感があって「フランスからの影響か?」と思ってたけど、アルミニウス → バプテスト/メソジストが最初から人道主義をインストしてたというのなら納得感ある。(まあそれを幼いうちからどれだけインストさせてるのかはわからんけど

あと、疑問としては人道主義的なエートスが最初からインストされてるのであれば南部の差別というのはどう処理していったんだろ?ってことだけど(´・ω・`)そのへんはまた別の話だったのかな



そういや最近キャロライン・ケネディ女史のイルカ漁非人道発言が軽く話題になってたけど、あれもこの文脈のように思う。


捕鯨問題、あるいはイルカ問題というのは欧米人(アングロサクソン)にとっては人道問題と不等号で、それはその人種 / 民族に固有の属性の違いから生じる問題というかたぶんエートスの問題に連なる。宗教的価値観として幼いうちから血肉になってるものなので。

あと、この問題を「食をめぐる文化の違い」として対抗言説張るのも間違い。彼女たちにとっては正しく人道的問題なので。


昔から「文明とは何か?」を問うときに「文字を読めること」「同じ言葉をしゃべること」で判断するところがあってそれができなければ「野蛮人(バルバロッサ)」あるいは「人非人」として扱われてきた。南部、あるいはプランテーション農場における黒人の扱いなんかはそんな感じだったのだろう。


それは現在からすると「非人道的」ということにはなるんだけど根本的な価値観とかエピステーメーが違ったのだろうから仕方ないところもある。そういう価値を幼いころから血肉にしていたらそれが当然になるだろうから。


なので南部の人間たちにとっては北部の価値観でいきなり自分達が「人非人」「非人道的」扱いされたのは憤懣やるかたない所があったのではないか?


もちろんそれと奴隷へのひどい仕打ちとは別だけど。


話がそれたけど「言葉をしゃべる」というのが「自分達と同じ仲間」「人道的に守るべき」ということの指標になるところがあるようで、イルカやくじらは「言葉をしゃべる」ぽいので人間の仲間なのだそうな。豚は喋らないようだし家鴨も喋らない。なのでブータンノワールやフォアグラは別。


といってもフォアグラの「残酷」な作り方は問題にされてるみたいで、残酷でない作り方みたいなのが工夫されてるようだけど。ここも文化帝国主義的な文化をめぐるヘゲモニー的な問題が関わってきたり、あるいはその背後にオトナの事情的な経済的なホンネが隠されてたりする。フォアグラの場合は単にワインをめぐる代理戦争になってる面もあるようだし。(「フォアグラを馬鹿にするならアメリカワインは輸入しないぞ」←カリフォルニアワインに負けた腹いせぽい



とりあえず「言葉をしゃべる仲間」に加えて「残酷」な漁の様子を恣意的に切り取った映画を見せられて憤った、ということ。

人道的に怒ってるところに「これは伝統的な漁だから」といっても「人を大量に狩るのが文化なの?」的な反応になるだけ。




まあそういうめんどくさい話以前に「残酷なシーンを見せられた」ということによる心理的動揺がメインだったのだろうけど。さいしょに動揺・憤りがあって「人道的」という言葉は後付けしただけな感じ。そしてそれに対する「文化だから」も同様。クジラ漁が禁止されて1970年代から再開したものの何が伝統なんだろって感じだし。



露悪的表現をめぐるうんたらについては最近話題になっていた「明日、ママがいない」うんたらでも少し考えた。

いちお2話だけ見てみたけどいつもどおりの野島伸司節で自分的にはこの枠でやっていた「家政婦のミタ」のあざとさ・わざとらしいつくりと同じエグミを感じた。あるいは「家なき子」でも「聖者の行進」でもいいけど。つまり「ベタなフィクションだなあ」てこと。

そのベタさをファンタジーとして流せるか否かというところがちょっとした争点になってるぽい。


擁護派は「表現の自由だから」「ファンタジーだから」とするんだけど否定派は「やり過ぎ」「現実はあんな感じではない」「誤解される」「実際に『ポスト』といっていじめられた施設の子がいる」とか。


1話を見た段階での抗議はこの『ポスト』というあだ名のエグさに関するものが多かったみたい。

まあこれもあざとい演出なところで実際にそんなアダ名付けられる子がいるのかな?とか思うけど、、あざとさといえば施設長が子どもたちを「お前たちは犬だ。ご主人様に気に入ってもらえるように可愛くほえろ」みたいなことを散々言ってるのもなんかわざとらしい。

創作関連のとぅぎゃったまとめみると「そのわざとらしさがしきい値超えるぐらいに設定されるのでファンタジーとして観客を納得させられるはずだ」ってことだったんだけど、それで「ファンタジー」として納得できずに抗議なストレスが残った人たちがけっこういた、と。

このへんは「おおかみこども」をめぐるアレでもあったように、それぞれの生きられた経験やアイデンティティに基づく主観的な感覚の違い / コードの受け取り方の違いがあるのでなんとも言いがたいんだけど、、実際に「耐えがたく不快に思った」とか「いじめに発展した」という事態が生じてるのならそれには真摯に対応すべきなように思う。

だいたい放送前から養護施設の代表的な団体にマスターテープかなんか送ってフィードバックもらって、そこでも抗議受けてたのに構わず修正せずに放送したっていうのだから確信犯といえば確信犯だったんだけど。。



まあこのドラマの制作スタッフはそういう落ち度があったとしてここでも出てきた「あざとさ」「演出」「敢えて露悪的に表現する」「見せちゃいけない部分を見せる」ということについて。


他者の苦痛へのまなざし
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「これはアートだから」「アートというのは人を不快にさせるギリギリの境界を取り出してみせるものだから」みたいなのを免罪符に人の神経を逆なで釣りしてる表現というのもけっこうあってそういうものは好かないんだけど、人はそういうエログロ露悪的な部分に惹かれるところがあるみたい。

バタイユはそういう人間の陰の部分を否定するのではなく寄り添おうとして百刻みになった中国人の写真をデスクに飾っていたらしい。そこから感情移入を通じて引き起こされる苦痛が一定を超えると変容し得られる高揚を期待して。


エロスの涙 (ちくま学芸文庫)
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このへんはバタイユの変態的なところ、SM的なアレも絡んで最初から「苦痛」って感じでもなかったのではないかと思うんだけど真面目なソンタグとしては「敢えて他人の苦痛を見ることの意義」として考えていた。

この本は全体的にそんな調子で「写真論」におけるエッセイのいちテーマを引き伸ばしたような長さとゆるさだった。

結論的には「他者の苦痛でさえスペクタクルの素材となるのだ」ということになり、そこから出ていけなかった感だけど


スペクタクルの社会 (ちくま学芸文庫)
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「スペクタクル」という言葉は現代のネット、ついったなんかだと「人をコンテンツとして愉しむ」といったほうがしっくりくるのかもしれない。あるいはネット時代になってスペクタクル感が自分達の課題として降りてきて実感できるようになった。



他人を楽しみつつも自分もそのマトリックスに含まれてるわけだからそのマトリックスの審級の是非を問い、そこから自由になることを考えたほうがいいように思うんだけど、そういう視点もなくマトリックスに没入していく人たちはけっこういる。承認欲求がどうとか言うのもそんな感じだし。




そういう問題というのはけっきょくは自分の立ち位置と「他者を他者として認めること」「認めた上でコミットすること」「コミットとはどういうことか?」というのを考え真摯に対応していくということで済む話のはずだけど。

他人を「他者」として認められない部分が消費されたりてけとーにつきあったりってことで流されていく。


その消費の現実にナイーブになるなら速度をゆるめて対応していけばいいと思うけど、そこでのナイーブさというのは人によって異なるから「どれが正しい」とか本来は言えないことのようにおもう。

われわれは日々ネットやテレビで他人をコンテンツとして消費するし他の生物を食べて生きているので。本来それ自体が残酷でグロテスクなものだし。


そういう本質的なところがあるにせよ細かい違和感というのは残るのか。だったらイルカを殺すうんたらが気になるならその残虐な現場を見なければいいしフォアグラが残酷だと思うならそれを食べなければいい。「明日、ママがいない」というドラマがリアリティがないと感じるなら見なければいい。


それだけのことだと思うけど「不可抗力的に見てしまった」「摂取してしまった」みたいなこともあるのだろう。あるいは「たまご生産の現場で数量調整のために長靴でヒヨコを踏み潰してるなんて知らなかった / 知りたくなかった」みたいなの。そこで自分達のすばらしく理性的/文化的な生活の化けの皮がはがされるわけだから。

彼らが憤るのは本当はそういう部分、外部からいきなり自分の化けの皮が剥がされそれに自分が気づいてしまうことに対してなのだろう。その不安と動揺、あるいは羞恥の回収。

こういう問題はプライバシー権をめぐるあれと似てる。「自分が装いたい自分を演じられる権利を他人が無思慮に剥がすべきではない」というアレ。同様に自分達が本来残酷なものであること、あるいは世界に悲惨があふれていることをことさらにつきつけられたくはない、ということ。スカートめくりにも似てる。

ただ、そういった穿った見方とは別に単純に他者の苦痛に対して同情する気持ち、やさしさみたいなのがあってそれを否定すべきではないと思うけど。


「知らなかったこと」と純粋な善意みたいなものからの衝撃と憤りというのはだれでもあることだから鈍感になってしまった立場からバカにするのはそれ自体がハラスメントでありセカンドレイプ的なものに思えるけど、まあたしかに、「馴れろ」とは思う。他人に修正を求めてもキリがない問題なので。

そういう場合、自分だと日記とか書いたり、立場的に自分と対等な相手とフェアな話し合いをするなかで自分の中の感情のざわめきを見つめ、収めていくように思うけど。そういうことが出来ない場合、「よりまっとうな料理で口直し」みたいなのが妥当だろうか。


わざとらしくことさらに露悪的な、人工甘味料のようなベタつきを忘れられるような


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イルカの人道話関連でフランスにおける差異主義の流入とヘイトスピーチ/クライム、規制についてうんたらもしようかと思ってたけど、さすがに長くなったしネコも「寝よーよー」て感じなので今回はこの辺で





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関連:

松本大洋 インタビュー - Time Out Tokyo (タイムアウト東京)
http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/7599



Mangaka Interview & More by Misaki C. Kido | 松本大洋インタビュー(日本語版):Mangaka Interview by mckido
http://mckido.com/post/53883268138/mangaka-interview-by-mckido


マウイの Whalers Villege ショッピング・センターには、捕鯨博物館があり、そこには捕鯨の歴史が淡々と綴られている。鯨油や鯨蝋(げいろう)が石油の代わりを果たし、鯨ひげがプラスチックの代わりを果たした時代に、その商業的価値のために、大量の鯨を虐殺して来たこと、ラハイナの待ちが捕鯨で発展して来たことなどを、歴史の一コマとして描いている。

捕鯨博物館の出口には小さな映画館があり、鯨がダイナミックに泳いだりジャンプしたりするさまを映し、鯨の生体や、ハワイの観光産業にとっての価値を説明している。

そこにあるのは、捕鯨という「過去」と、観光資源・人類の宝としての鯨の「現在」の対比だ。

つまり、米国人にとっては、捕鯨は「奴隷」「人身売買」「ネーティブ・アメリカン(=インディアン)の虐殺」「女性差別」などと同じく、すでに過去のもの、人類が野蛮だった時代に犯した過ち(もしくは必要悪)の一つでしかないのだ。

それは人身売買と同じく、現代では許されない「野蛮な行為」なのだ。

米国では、今でもごく一部だけネーティブ・アメリカンによる捕鯨が認められているが、これは米国政府が彼らから土地を取り上げた際の契約に基づくものであり、決して「ネーティブ・アメリカンの文化を守る」ためのものではない。

Life is beautiful: 米国人にとっての捕鯨・イルカ漁
http://satoshi.blogs.com/life/2014/01/japan.html

イルカはあなたが思うほど賢くない - WSJ.com http://on.wsj.com/1fjonyn
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2014年01月22日

¥地理(農業→病原菌)¥交換(経済)¥生産様式¥家族¥エートス¥制度



バークの「省察」は自由主義の基本というか、自由主義的なものをインストしてる人のふつーの感じって本だったんだけど
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385688514.html


その中でやたら権利章典やら民衆に依る自由の基本的なところ(野放図な自由以前にルールがあるがそれは国家ではなくわれわれが慣習としてつくってきたものだ)という話の裏付け的なものを見たくてこれを読み始めたんだけど外れだった。。



イギリス近代史講義 (講談社現代新書)
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期待していたのは個人・自由主義の真髄・歴史、アングロサクソンの精神史。大衆レベルから「自由」とその背景としての慣習法がどのようにつくられていったのか?そしてどのようにそれを尊重し価値として精神に刻まれてるのか?という歴史語り。


そしてそれがどのように平等と自由の価値を宥和させ「人権」を介して近代的な民主主義の形に成っていったのか?


アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)
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イギリスが産業革命でテイクオフした理由の基盤のところにレントからプロフィット(つまり近代資本主義)に変化したからってのはあるのだろうし、その経済系・制度変化のところで価値観・エートス関わったのだろうけど、そのあたりの説明。


トッドもいってたように「イギリスというのはむしろ遅れた国で、フランスのほうがシステムとしては先行してたけどその遅れ、単純さがゆえに工業・産業化にうまくハマってテイクオフ出来た」+「オラニエ公ウィレムをオランダから迎えてプラグマティックになっていった」があるみたいなので


E.トッド、「新ヨーロッパ大全(T)」、「世界像革命」読んで、今後のお勉強流れと雑感: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385084577.html?1389614798
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385418548.html


その辺の「むしろ遅れていて、大衆一人ひとりがあたま空っぽだったほうが工業化→産業化には都合が良かった」あたり。ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの変化というか。。


川北さんの新書はそういう近代的変化を「都市化」「消費のドライブ」「ジェントルマン資本主義」という切り口から説明してるぽい(いま読んでるとこだけど

「消費の側から見れば、成長を推進してきたのは、都市化そのものなのです」(82頁)。

「「経済成長」という概念は、ヨーロッパを中核として成立する近代世界システムの基本イデオロギーだというのが、私の見方ですが、したがって、時系列数表もまた、ヨーロッパに誕生します」(110頁)。
「需要の問題、つまり綿織物はなぜ好まれたのかということを見ていくと、必然的に生活文化の問題になってきます」(159頁)。

「しかし、そういう考え方にしたがえば、イギリス人が勤勉に働いて、禁欲的にして、できたものは誰が買ったのかという問題が残ってしまいます。消費需要の拡大が説明できないのです」(197頁)。

「この人も、「衰退はない」という議論ですが、「衰退感」はあるというのがその主張の特徴でした。サップルが問題にしたのは、人間の欲望はどんどん拡大していく。右肩上がりに上がっていかなくてはならないという、先に申しました「成長パラノイア」です。生活レヴェルは上がっていかなければならない、という欲望はあるのだけれども、それに対応した経済成長ができていない。そこがイギリス人の「衰退感」の原因であるというのがサップル教授の見解です」(248頁)。

本書を通じ、ジェントルマンの定義(=貴族及び平民たるジェントリから成り、有閑階級として独特の教養と生活様式を維持することが求められ、一部はやがてシティと一体化していった当時の大地主たち)や経済合理主義だけで産業革命が発生した訳ではないこと(177〜185頁、例えば社会的間接資本の担い手の問題)など、非常に多くを学ぶことができた

Amazon.co.jp: イギリス近代史講義 (講談社現代新書): 川北 稔 http://amzn.to/1bZ9YJ3





・・精神史ということだとアナール学派系に期待したほうがいいのかなあ。。しかし二宮宏之さんフランス史だし。。


二宮宏之 - Wikipedia http://bit.ly/1bZelnq




関連でぐぐってたらなんかこんなの見つけて、そういや「読むもの」メモに入ってたなあ、と


国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源
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レビューをいくつか見るとダイアモンドの地理的な決定論を受けつつ「( ゚Д゚)<いや、制度で決まっていったんだし!」といってる話みたい。収奪的制度と包括的制度という言葉がキーになるみたいだけど、レントからプロフィットってことだし組織的には伽藍からバザールへて話ぽい
本書は、様々な歴史的事例をレビューし、持続的な経済成長の必要条件は「包括的制度」であると説きます。裏を返せば、持続的な経済成長に失敗した国家は、既得権層から富を奪う可能性のある技術革新を阻害する「収奪的制度」が選択されていたり、「包括的制度」の持続を担保する中央集権化に(ソマリアのように)失敗しているということになります。また、「包括的」「収奪的」いずれの制度が選択されるのかという点については、名誉革命・明治維新・フランス革命のような歴史的偶然(経路依存性)に左右されるとされます。
経済成長の条件を考える上で、本書が指摘する視点は一定の有益性を持つと思います。この種の議論でクローズアップされがちな政治的指導者の資質論・地理的決定論・文化的決定論を排し、最近の経済学の重要な一角を占める制度の経済学のフレームワークで一貫した論旨は分かり易いと思います。

ただし、本書の立論は前近代まで含めた歴史の議論としては、やや一般化の度合いがきつめであるように見受けました。「包括的」「収奪的」制度の峻別はかなり曖昧(江戸時代の日本やオスマン帝国は「収奪的」なのか?)です。また、持続的経済成長の失敗を全て収奪的制度(包括的制度の欠如)に帰する議論は、歴史的な見方であるとは言いにくいと思います。イギリスの持続的経済成長が1688年の名誉革命から現在まで継続しているとしても、325年の歴史です。著者が「収奪的制度であった」とするローマ帝国、オスマン帝国、宋・元・明・清、戦国〜江戸期の日本などでも、それ以上の期間に渡って(近代経済成長の様ではないにしろ)経済成長があった可能性は否定できないでしょう。歴史解釈という点においても、本書の視点(ex.ローマ帝国衰退の原因が共和制から所謂帝政への移行にあった)には疑問符が付く箇所が散見されます。

本書の分析は、“創造的破壊”が決定的な重要性を持つようになった近代経済成長以降の時代に適用範囲を絞るべきであったのではないでしょうか。この種の「大きな」歴史の話をするには、エイミー・チュア『最強国の条件』が提示したような緩い枠組(各時代の最強国家は、その時代で相対的に最も「寛容」であった)にしておいた方が良いのかも知れません。
上述の通り、無益な書ではないと思いますが、各界から「絶賛」される程の評価には少し違和感を覚えました。
http://morutan.tumblr.com/post/74155336373

「銃・病原菌・鉄」が産業革命以前の人類の発展の歴史を描いているとすれば、本書では産業革命以降の発展の要因を描き出している。

産業革命のような技術的・資本的発展を行うためには、権力が法に基づいて公平に執行され、事業家が投資や技術革新を行うことによる利益が得られる体制が必須であると喝破した。

著者は、政治体制と経済体制の二つについて、包括的(公平な法に基づく統治)と収奪型(一部の特権層が利益を独占する)の二種類に分類して、包括的な政治・経済体制を持つ経済だけが長期に発展できると定義する。

中国のように、政治体制が収奪的であっても、経済体制が包括的であれば、資本の蓄積による一定の発展を遂げることができるが、技術的革新(全要素生産性の向上)が起こらないので、余剰労働力がなくなった時点で経済成長は止まるとしている。

本書の主張には一定の説得力がある。少なくとも北朝鮮のように極端に収奪的な経済体制のもとでは、経済は全く発展できないことは論を待たないであろう。

しかし中国やシンガポールのように収奪的政治体制と包括的経済体制を持つ国の全要素生産性の伸びが、日本や欧米のように包括的政治体制を持つ国よりも劣るのか、という点について、私は100%確信を抱くには至らなかった。

本書の難しいところは、単に民主主義にして選挙を実施するだけでは、包括的な体制は作れないとしていることである。選挙の不正があるかもしれないし、選挙を経ても一部のエリート層の権力は温存されるかもしれないからである。

そのため、何を持って「包括的」「収奪的」と判断するのかの定義が曖昧であると思われる。少なくとも本書の中では、その定義は十分ではない。

また、包括的制度に移行するためには、偶然や幸運によるしかないと述べており、それが正しいのであれば、アフリカ・中東・ラテンアメリカなどの発展は極めて難しいと言わざるを得ない。

国際社会は「援助」などという生ぬるいことをやめて、強制的にでも包括的制度へ移行させるための道筋をつけるような手段が必要なのであろうか? どうやって?

読書の楽しみという面から見ると、本書は繰り返しが多すぎて冗長な本であると思うので、総合点としては星4つとした。一般向け書籍と考えるなら半分の量で良かったのではないだろうか。専門書として考えれば、数表などがもっと欲しいところであるし。

訳は読みやすく、稲葉振一郎による解説も大変良い。首を長くして日本語版を待っていた甲斐があったというものである。


国家の繁栄と衰退は、その国家が採用している政治・経済の制度にかかっていると論じている本です。

その政治・経済の制度は、包括的なものと収奪的なものの2つに分けることができるとしています。
包括的とは、権力や富が幅広く分散し、中央集権による法の秩序の元で公平性が担保されていること、
収奪的とは、権力や富が一部のエリートに集中し、独裁者の裁量若しくは法の秩序の欠落により公平性が歪められていること、と定義しています。

また、包括的な制度を採用し、その正のフィードバックにより更に包括的になることで、より繁栄し、
収奪的な制度を採用し、その負のフィードバックにより更に収奪的になることで、より衰退するとしています。

更に、包括的・収奪的のいずれが採用されるかは、
その国の制度、権力の構造、岐路での決断、歴史的偶然などによって決まってくるとし、
それがいかに小さなものでも後々に大きく影響を及ぼすとしています。

そして、包括的制度は、国民のモチベーションと産業のイノベーションによる創造的破壊を上手く取り入れることによって国家を繁栄させ、
収奪的制度は、これらを排除・弾圧することによって国家を衰退させる、としています。

そのうえ、国家として採用される制度のデフォルトは収奪的なものであり、
よほど意識的な決断がない限り包括的な制度を採用・維持し続けることはできない、とされています。

以上が、本書の要約ですが、包括的・収奪的な政治・経済制度というシンプルな枠組みで、
国家の繁栄と衰退の理由をかなり説明できているという点に本書の価値があると思います。
社会科学の分野ですから、本書の枠組みの例外は当然あると思いますが(本書では提示されていませんが)、
本書で採用されている豊富な事例を踏まえると、かなり強力な理論なのだと思われます。

本書でも触れられていますが、開発経済が上手くいかない理由も本書を読めば納得できると思います。
収奪的な制度を採用している国に、いくら経済援助をしても一部のエリートに富が集中するだけですし、
民主主義のルールを形だけ採用させても、一部のエリートがそれを都合のいいように利用するだけです。
最悪の場合には善意による経済開発援助が収奪的な制度をより強固にしてしまう場合もあるようです。

デフォルトが収奪的制度であるが故に包括的制度に移行させるのは容易ではないことですけれど、
制度は人が変えられるものですから、衰退し貧困から脱却できない国(民)が一筋の光明を得られるのは良いことだと思います。

なお、本書が対象としている国家の繁栄と衰退については、
類書として著名な、ジャレド・ダイアモンド氏の『銃・病原菌・鉄 上下巻セット』があります。

本書では、『銃・病原菌・鉄』では説明できない繁栄と衰退の実態があるとして、この理論を否定しています。
確かに『銃・病原菌・鉄』は地理的特性によって繁栄と衰退が決まるとしていますので、
本書で挙げられた同一地域での繁栄と貧困の格差の理由は説明できませんから、否定する理由もわかります。
但し、『銃・病原菌・鉄』が、地理的特性だけ繁栄と衰退のかなりの部分が説明可能であると証明した本だと位置づければ、本書と相互補完関係にあるのではないかと思われます。


なぜ繁栄する国家がある一方で貧しいままの国家もあるのか。
地理的要因や文化的要因を挙げる本がいろいろある中で、本書はそうした論を退け「制度」こそが重要であると論じる。
丹念な議論をしており、事例も豊富に取り上げられていて、読んでいて面白いのは事実である。

しかし、「繁栄と衰退を分けるのは制度だ」という説明には、疑問も強い。

まず、筆者は「収奪的/包括的経済制度」「収奪的/包括的政治制度」という概念を導入し、両者はセット(両方収奪的か、両方包括的か)で実現しやすく、収奪的の側は一時的に繁栄しても最終的には衰退し、包括的の側は成功するとしている。
しかし、肝心の「収奪的/包括的」の定義がきちんとなされていないので、失敗した制度を「収奪だった」と呼んでいるだけではないかという気もする。
また、経済制度は搾取でも自由経済でもないようなものもいろいろ存在し(介入的な経済政策等)、この二つのどちらかに属するようなものだとも思えない。

また、仮説を守るために、都合の悪い事例はいろいろと無視されている気もする。
例えば「収奪的政治制度下での経済発展はいつか破綻する」という主張については、独裁ながら経済発展を続けるシンガポールはどうなのかと聞いてみたくもなる。
また、江戸時代は身分制による絶対的支配体制ながら、農業技術、工業技術(特に職人の技)は発達し、生産量の増大、寺子屋による教育の普及等も実現しており、かなり発展を遂げているというのが一般の見方であろう。
だが、そうした事実は都合が悪いからだろうか、筆者らは江戸時代の経済を「貧困であった」(下巻p78)と書いている。これはさすがに事実に反していると言っていいだろう。

そして、一般論として「制度が重要」というのは、ほとんど当たり前のようにも聞こえる。
「収奪されている状況では経済成長できない」などというのは言われなくても知っているような話である。

逆に「非民主的な状況では経済成長できない」というのは有意味な主張だが、これは因果が逆の可能性も高い。
貧困状況下では人々は成熟した政治など目指せず腐敗してしまう、結果として民主的な政治状況が崩壊する、というのは十分にありうる。

事例は豊富だが、結論への持っていき方が強引かつ曖昧さが多いので、いささか期待を外した印象。



Amazon.co.jp: カスタマーレビュー: 国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源



ある国家が、なぜ豊かで、平和で、暮らしやすく、別の国はそうではないのか? という古典的な問に対して、「それは制度の違いだ」という本書の結論は、理解もしやすく、スバラシイものに思われる。

例えば、北朝鮮と韓国は全く同じ国民が、制度の違いによって、最貧国と先進国の違いにつながっているのだ。このことからは、制度が重要であることは、古典的な自由主義が発展につながることを意味しており、ボクも完全に納得している。

しかし、本当にそれだけか?

ボクの目から見ると、何が経済発展、経済成長の原動力なのか?については、Lynn & Vanhanenの方が、圧倒的に正しいことを指摘している。つまり、大きな目で見ると、「制度」それ自体が内生変数なのであり、それは知能の関数なのだ。集団の平均知能が高いほど、民主主義を採用し、汚職は少なく、経済は繁栄して、神は否定されている。

でも、知能もまた内生変数なんじゃないの? 金持ちは、教育に多くを投資できるから、余計に知能が上がって金持ちになるんじゃないの?  というマトモな意見がある。

しかし、この答えは、ほとんどの常識的な家庭環境では、見るべき知能の差は発生しない、というものだ。双子研究、さらにtrans racial adoption study を見るなら、家庭環境が知能に与える影響は、ほとんど全くない。もっと正確に言うと、思春期までは親の与える影響はあるが、思春期以降は全く消えてなくなってしまうのだ。

なぜ国家は失敗するのか? - kurakenyaの日記
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20130628




なのでダイアモンドとリドレーインストしといてよかったなあて感じ。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385685354.html

あるいはエッセイとしてはおもろいけど「曖昧」てレビューでも言われてて、それを詳細にやってるのがハイエクとかなのかなあ




なのでいままで出てきた近代化の要因ディレクトリとしては



¥地理(農業→病原菌)¥交換(経済)¥生産様式¥家族¥エートス¥制度


て感じになりそう

交換(経済)以前に宗教幻想的なものが来る向きもあるかもだけど




とりあえずイギリスの近代テイクオフにつながる心性史についてはこのへんに期待、かなあ。。(あるいはその辺ダメそうだったら置いといてブローデル→ウォーラステインな地理→制度なはなし優先するか



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2014年01月13日

E.トッド、「新ヨーロッパ大全(T)」、「世界像革命」読んで、今後のお勉強流れと雑感


ほんとはちゃんとエントリしたほうがいいのかなと思うもなんか読むもの溜まってるし予約本どんどん入ってきてるのでできるだけ時間かけない形でメモメモ。


フーコーへの下準備みたいな感じで少し前からトッド読みだした。

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世界像革命 〔家族人類学の挑戦〕
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「新ヨーロッパ大全」から読みだしたんだけどポストマルクスな感じのけっこう硬い本で思ったより脳筋使わされた。大全読み終わった後に「世界像革命」読みだしたんだけどこっちが概説書だったし新書並みに読みやすかったのでこっち先に読んどけばよかった。。

まあ、でも概説書は攻略本みたいなものだし、その解説にしたがって読むことで与件ついちゃうから、ってのはあるけど。。いや、でも今回の場合は結果的にやっぱ概説が言ってることで納得だったし、Wikipediaの解説でも十分な感じだった。実際このWikipediaは参考文献もきっちりついてていい感じに仕上がってる。「Wikipediaに書いてあることはクソ」みたいなのはあるけどこんな感じで参考文献きちんと上げられてるのは結構使える(あと芸能人の経歴とかそういうの)。

トッドの家族人類学的な見方というのは簡単に言うとポストマルクス、対マルクスをイメージしてその下部構造的な部分をさらに細く4つの家族モデルで区切ったもの。すなわち権威主義的直系家族、絶対核家族、平等主義的核家族、外婚制共同体家族。これらが血液型みたいな規定性(けっこう影響あるかもー)を及ぼす。

マルクスは<上部構造(イデオロギー)は下部構造(生産関係-生産様式)で決定される>って言って<ハード面での近代化がもっと進めば資本主義は共産主義になる>って仮説を立ててたんだけどけっきょくはそうならなかったのは歴史が証明したし、それ以前にハード面での近代化の読み方というのもマルクスが言っていたのに比べて現実ではばらつきがあった。

たとえば<都市化-産業化-近代化によって農民が土地を失い都会で無産階級被雇用者になってしまうことで奴隷化する → なのでそれぞれが資産(土地)を取り戻すべき(平等に)>ってのがベタなマルクス主義だけど、無産階級な大規模経営というのは都市化-近代化以前のカロリング朝イギリスでもすでにあった。エンクロージャーな大規模農園経営として。そしてそういった経営形式でもうまくやれてきていた。その理由としてトッドは「イングランドが絶対核家族だったから」とする。絶対核家族だと親子間の権威的従属はないけど兄弟間では不平等なので(「兄弟間の関係が地主との関係のモデルに使われる」)。親元からは平等に巣立って行くけどその後に共同を実質的に雇用したり。


直系家族の特質は日本の関東圏の「家」制度を思い浮かべるとわかりやすい。長子相続で次男は冷や飯食い。父→長子→孫男子と家族がつづいていくので教育の受け皿ができ識字率が高くなる。ドイツや南フランス、スペイン北部なんかもこんな感じ。

平等主義家族はフランスパリ盆地周辺。親子間も兄弟間も緩く平等。まあパリっ子思い浮かべれば分かる。このへんの大衆心性がフランス革命(「平等!」)につながった感じ。あと南イタリアも(なのでパリ(ケルト)≠ラテンな気質がなぜかつながる)。そしてこれを思えばフランス革命というのが実質的な無政府主義革命だったことが分かる。

共同体家族は結婚しても子供が家族の中にとどまっていく。兄弟も含めて。なので大家族になる。ただ親子関係は権威的。これが共産主義の原型(レセプター)になる。ロシア、中国、北インドなど。



家族型  基本的価値   イデオロギー
              社会主義     民族主義     反動的宗教
平等家族  自由と平等   無政府主義   自由軍国主義 キリスト教共和主義
直系家族  権威と不平等  社会民主主義  自民族中心主義 キリスト教民主主義
共同体家族 権威と平等   共産主義   狭義のファシズム    -
絶対核家族 自由   労働党社会主義 自由孤立主義     -

エマニュエル・トッド - Wikipedia http://bit.ly/1agn2Zo



最初に親子関係が権威的従属関係かどうかが問われ、次に兄弟間の平等性が問われる。ヨーロッパの場合はその「権威への従属」の部分がまずキリスト教への従属/信仰、宗教改革への影響という形で表れていった。

古き良き秩序・権威に従属しやすい直系家族が基本のドイツ・イングランドではプロテスタントが生まれ根付いていった。ヴェーバー的にはそれは「プロテスタントのエートスの影響だ」ってことだろうけどそのエートスが染み付く土台として家族構造-直系家族の性格があった。宗教改革にもめげずに新たに改心したカトリックを信奉していったのは主に平等家族な地域(パリ盆地と南イタリア)を中心としていた。

「権威性や秩序重んじるんだったら保守な感じでこっちのほうが古い規範-カトリックをそのままにしたがるんじゃね?」ってのはあるんだけど、ここでトッドは2つの宗派の違いとして「形而上的成分 / 地上的成分」 という視角を提出する。

おーざっぱにいうとプロテスタントは神の下(≠あの世)では不平等(権威主義)で人間界では平等、カトリックはその逆に神の下では平等で人間界では不平等。不平等が当たり前で権威・秩序に属することを要請する直系家族にはこれがヒットしたみたい。なのでドイツ-イングランドではプロテスタントが広まっていった。直系家族なので識字率も高いし、プロテスタント必須の「それぞれがお家で寝る前に本(bible)を読みなさい」を実践できる。平等家族なパリ・南イタリア辺りでは形而上・イデオロギーの部分では平等求めたのでカトリックの平等主義を受け入れていった(というか特に宗教改革後に平等主義の世間にローマがおもねっていったのかもだけど)。


あ、つかイングランドは絶対核家族だから違うな。。

まあ上巻はフランス、スペイン、イタリアをあつかってドイツ、イングランドは下巻ってことだからこのへんは下巻で見てくか。



そんでこのへんの話が<なぜヨーロッパ近代においてイングランドが先行し、フランス、特にドイツが遅れをとったのか?>という世界史、政治思想史みたいなののアポリアのヒントになってくる。

政治のひとなんかは「ドイツは神聖ローマの元、封建制ではあったけどそれぞれの都市の独立性がつよかったので30年戦争→ウェストファリアで神聖ローマの威信が崩壊してから一気に分裂した。そのため遅れを取った(戦地になった傷跡も痛かったし」なんて説明になるんだけど「近代化」の汎用性が日本にもたらした影響を考えるとそれだけだと説明できない感じがあった。あんなに遅れを取ってた日本でもソッコー近代化出来たわけだし。

この辺で各地域の基本家族型 → そこからのエートスへの影響というのが関わってくるみたい。まあ家族モデルごとの性格だけど。

まあつっても血液型みたいなものだからそれで決定てわけでもないし実際ドイツは遅れたけどそれと同じ直系家族が主な日本はけっこうなスピードで「近代」をインストしたわけだし。


なので「マルクスのテーゼをさらに細かい要素で説明したもの」と解釈したほうがいいのかも。


農業も経営体のひとつとして捉え、マルクスが分けてなかった「所有 / 経営」の性格も分けてたりするし。所有のところで相続が関わるのでそれが家族型と関係してくる(血縁長子しか相続できない直系だとうんたらとか)。




そこからすると「もっとも進んだ家族型は平等主義核家族だ」ということになるぽい。


まあ資本主義や共産主義といったイデオロギーの優劣競争に対して「| ゜Θ゜)<違うよ。地域ごとに家族型の多様性があって、それに基づいてるだけだから進んでるも劣ってるもないよ」みたいなこと言ってきたトッドが「進んだ家族型」っていい方もおかしいんだけど、んでもこのへんはまあおーざっぱな感じで。


つか「世界像革命」の方にあったけど、言語学者のサガールからヒント得て言語学の知見を利用して一緒にやった仕事からするとそんな感じになるぽい。


トッドの家族世界地図を見てサガールが「あ、これ言語学だとよくある周縁部は保守が残るってやつじゃん」と見立てた。

家族世界地図(「第三惑星」から)ではロシア・中国・北インドのほかにヨーロッパと東南アジア以外のユーラシア大陸、アフリカの地中海沿岸部が共同体家族の地域とされている。

そんでこれらを中心と考えたとき、残った地域が周縁となるので。なんか言語族的な重なりにも共通してくるらしい。


「中心」「世界史のはじまり」ということだと文明的なものは中東の肥沃三角地帯を中心に生まれていったと考えて良いのだろうからやはりそんな感じなのだろう。



まあ、とりあえずこんな感じでトッドの区分けにはけっこう影響受けたしこれからもぢみに使っていきそう。特に「国ごと」ではなく「家族モデルの地域分布」として世界地図を見ていくのは良さそう。


そしてそれは「自由・平等・博愛」ていう基本心性のとこに関わってくるのだろう。


ここまで見てきたように「平等」と「自由」という価値観は家族型によって生み出されてきたのが分かる。


トッドははっきりとは言ってないのだけど環境が生産方法し、それぞれの環境に合わせて狩猟・採集 / 農業などが選ばれたりハイブリッドされたりしてきたのだろうけど、それらを運営・経営するための最小ユニットが家族だったわけで、、なので<それぞれの地域の家族型と生産様式は因果関係にある>といえるぽい。そんでそれを現代風にすれば<家族型と経済幻想はニックス関係にある(ex.平等主義家族では共産主義やりやすい)>になるわけで。

まあといってもそれぞれの地域に家族型が分布していった理由をトッドは「偶然だろう」って言ってたけど。「決定論だ!」って散々言われたので慎重になってるのかなあ。。



決定論といったらジャレド・ダイアモンドとかリドレーなんかはまさに決定論で、彼らからすると<環境と遺伝な自然淘汰が人のあり方を決定している>て感じなのだろうけど、あのあたりの説明でなんか単純さとか物足りなさを感じてしまうのでこっちの説明読んでるんだろうな。。


「赤の女王」もいちお読んだんだけど、


赤の女王―性とヒトの進化 (翔泳選書)
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途中でそういう単純さが気に食わなくなって飛ばし読みしてしまった。まあ巻末に「本書に記した考えの半分は誤りだろう」って自ら書いてあったし、途中でそれ見て飛ばし読みに切り替えたってのもあるけど。なんか、「赤の女王」のテーマに則って最初から全体を「相対的なものさ」て諦観してる感じがした(「赤の女王」は「人が進歩しても対象とするものも進歩するんだから結局相対的だ」って寓話。アリス・イン・ワンダーランドになぞらえた)。



けっきょくリドレーの見方だと人のマインドなところは解けたとしても精神のところは解けないのだろう。あるいは心の部分。


「自由・平等・博愛」のうち「自由」と「平等」はそういった形、機能的合理性モデルで解けるのかもで、だからこそトッドの話しも決定論的といわれるのかもだけど、「博愛」-「fraternity」の不思議が残る。具体的には「人はなぜ弱者におもねるのか」「なぜ助け合うのか」「愛とはなにか」という部分。


歴史学からアナール学派が出て来たのもそういった部分、人の多様性の部分をもっと細かい統計から拾っていこうってことだったのかと思ったり。


E.トッド、「新ヨーロッパ大全(T)」、「世界像革命」読んで、今後のお勉強流れと雑感 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/615587


ここだとフーコーも心性史のひとつとされている。


まあ歴史哲学=思想ということで、その中でも「制度や政経の下部構造から秩序の当然を強化する」のではなく「人の自由、愛ほかの変態の部分」を見つめていこうとしたのがフーコーだったのかなあ。


とりあえずアナール学派、ブローデル、マクニール、ウォーラステイン、トッド、フーコー、マルクス、ヴェーバー読んでかないと。。ブルデュー、デュルケームとか、ルソー・読書関係でフェーブル『書物の出現』シャルチエ『読書と読者』『『読書の文化史』 マンドルー『民衆本の世界』あたりも



「心性史がどうとか」て話だと丸山真男のこともすこし思ったり。



丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム (中公新書)
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途中で「教養主義の没落のスピンアウト程度だなあ」と思ったのでてけとーに読み飛ばした。全体としては蓑田胸喜 vs. 丸山真男って話
http://morutan.tumblr.com/post/73192646988
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未だ丸山の著作自体を読んでないんだけど、んでもここまでの該枠から見ていくと丸山真男の研究というのはけっきょくは制度史から出られなかった印象。それは当時の歴史・民俗学がそれほど進んでいなかったことにも依るのだろうけど、根本のところでは丸山のスノビズムが影響したのだろう。

丸山真男は一高 → 帝大法学部 → 学者のエリートコースだったわけだけど出生としては鶴見俊輔に劣ることを自ら漏らしてた。吉本隆明ほかの文壇を罵った際に鶴見に諌められたのに対して「わたしはあなたのようなおぼっちゃまとは違うので」みたいなこと言ってたようだから自覚はあったのだろうけど。東京外出身 → 上昇志向というのが基本にあって、それを学内でも戦争でも田舎者に妨害されてきたことが同族嫌悪的なものを生んだのかも。

戦争では農民兵の野蛮さといじめみたいなのにあったというのはけっこう有名だろうけど、「丸山真男の時代」では蓑田への意識みたいなのが記されていた。

蓑田は学者というよりは国粋ウヨクで、それ以外の思想を実力排除するような輩だった。

そのことを憎々しく思っていた丸山は蓑田がやっているような日本思想を蔑んでいたわけだけど、指導教官の南原繁から日本思想をやるように言われた。そのとき丸山は「あんなのいやです」って言ったようだけど、「国粋の輩から『あんたらのやってるのはヨーロッパのことで日本のことはわからんじゃろ』って言われないためにもこれからは日本思想を掘ることが必要なんだよ」って説得されて渋々って感じだったみたい。


んでもその研究方法はヘーゲルほか西欧の視角をそのまま日本に当てはめるものだった。


なので丸山の日本思想研究というのは「日本固有の心性史を見てきた」というよりは「ヨーロッパ的視角で見た」というものになるぽい。


あるいは思想や制度のまとめとしては有効かもだけど「大衆の心性の総合としての心性史-日本人」というのは最後までわからなかったみたい。その点で吉本にも糾弾されてたようだし。


なので丸山で有効なのは「偉い人がどう思っていたか」「それらを総合してどうか」っていう部分。そして「ヨーロッパ的視角」というところで福沢諭吉は相性がよかったのだろう。「田舎者がなにもない身から勉学で立身出世」感も



丸山が最後まで日本思想とびみょーな距離をとっていたのは蓑田のトラウマがあったからかもしれない。あるいは農民兵のそれ。それがけっきょくはスノビズム・ディレッタンティズムというダサい研究成果として反映されてしまったのはモダン=おしゃれを目指した丸山にとってはアイロニカルなことだったのかも。



…まあまだ読んでもないのにこんなこというのも不遜だろうし、自分もディレッタントなのだろうなあとか思うけど









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関連:
共同体における宗教的情操と倫理やら徳やらの原型について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382123924.html


たったひとつの冴えたやりかた: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384420579.html


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2014年01月07日

トること / トられること  「承認欲求」以前のお話



最近たんぶらーをチューンナップしたこともあってかなりたんぶられるようになった


高速Tumblrライフを快適に送る(2012年Google Chrome版) - UDONCHAN
http://d.hatena.ne.jp/UDONCHAN/20120102/1325467088



firefox時代にもできてなかったのにいまごろになってできたので嬉しくなってやったり。


「dsbdをLDRize+minibufferで高速化、てきとーにpでピン留め、jで進みkで戻る。そしてピン止めしたpostをリブログする。その体験はこれまでのTumblrとは異質なものだ」

そういう話は前からあってなんとなく理解してはいたんだけど試してみて実感した。

高速化する前のたんぶらーが雑誌なら高速化後のTumblr(ダッシュボード)は雑誌とテレビの中間のような感じ。jとkで手動で足(手)漕ぎするテレビ。pとピン解放で双方向的に情報の流れに参加できる。


その体験はpushメディアとしての受動性を主にしているのに対して、自分でオリジナルポストをしたりどこかから引用したりするのはPull性が少し強い。ただ「引用で済む」ということでtwitterよりも敷居が低いけど。あんなてけとーなことをpostしてるついったでもたんぶらーよりも敷居が高い。


「それでコピってメモったものはどうするの?」ってのはあって、megaediterややTumblrビューアーを使えば個別のたんぶらページよりは一覧性が高いのだけど、それでも検索性は低い。「あとで見る」のだったらタグなりgoogleなりをページに埋め込んでおけばいいのだろうけどそこまでするのもめんどくさい。なので自分としてはなんとなく気になったもの、「後で使うかも」なものははてぶでぶくましてるけど。自分としてはとりあえずは「一日分のメモ」であり「一日ノート」って感じ。



「だれでも簡単にoutputできて表現できるようなもの。簡易に表現者になれるようなものがウケる」ってアレなのかなあとも思うし、dsbdみててもそんなことをたんぶらーの利点としてリブログ回覧してるひとがいるけど自分としてはたんぶらーは「表現」って感じでもない。単純にクリップしていく愉しみがあるというだけ。


そういうのは「後で使うかも」とか「誰かに見てもらってリブログを集める」とかの機能性、「○○のため」という話からするとコンサマトリーな、行為それ自体が目的みたいな感じなのかな。



んでも最近たんぶらのアクティビティに気づいて、そこで自分が1stリブログされたものが広がっていくことの快感を感じてしまったけど。それで「やっぱキャッチーな画像強いよなあ。。自分も栗山千明とかの画像を1stリブログしてリブログ数稼ごうかなあ。。どっかから流れてきたやつをロンダリングして」とかさもしいこと思って試してみたら元ページはすでに消えていた(´・ω・`)画像は特にそういうのあるみたい。

「1st引用 / postロンダリング」みたいな話は最近twitterでもちょこちょこみるんだけどTumblrでもふつーにされている。



まあ自分の場合は「もうちょっとアパートメントの記事読まれないかなあ。。」ってアレで、「キャッチーなポストでフォロワー増えれば普及力高まるかな?」とか思っただけだけど。そういうのもなんかめんどいのでてけとーにやっていくことにした。




そういうアクセス数とかRT数、リブログ数がうんたらいう話とは別に「たんぶらー的な体験というのはどういうことなんだろう?」って思ったりする。


大きく分けて「リブログという形での回覧」と「オリジナル引用という形での切り取り」みたいなのがある。しょせん引用なので「オリジナル」っていう言い方もなんか変な感じだがまあそこは置いておいて。


回覧のほうはさっき言った感じで未だちょっとわからない。自分みたいにウェブメインでやってる人はmegaediterとか利用して一覧表示すればまだ「一日ノート」って感じはあるだろうけど、それ以外の人の場合は「一日」ってスパンでもなく「とりあえずのfav」みたいな感じだろうか?twitterで言うなら。あるいは、「リブログしたものを見直す」ということさえせずに「リブログそのものが快感」みたいになってるひともいるのかも。


「昔のエロ雑誌とかだと考えられないほど裸画像が簡易に流れてくるので気に入ったものをどんどんリブログしてるとアドレナリンがドバドバ出てくる」みたいなことを安田理央(@rioysd)さんか誰かが言ってたように思うんだけど、そこでの感覚は「新聞・エロ・グラビア雑誌の切り抜きみたいなのが簡単にできる」ってことなのだろう。キノコ狩りとかいちご狩りに行ってアドレナリンドバドバというのと同じ感じの。「そんなに採ってどうすんの?」って言われても「わっ!ここにも あそこにも!」って感じで、「採ること」「狩ること」そのものが目的になっていく。


「オリジナル引用という形での切り取り」もそういう点では同じところがあるような…。

「引用の範囲のセンス」みたいなのにこだわるとかそういうの。「そのエントリの本質部分を端的に見出す」「そのエントリのおもしろ部分を引用/切り取り方で自分が演出する」みたいなの。


そこでも対象(ソース)となる文章そのものの内容よりも「狩る」こと、「引用の角度」みたいなもののほうが大事になってきたり。運動会で子供の写真を撮るお父さんが「いい写真を撮る」「記念にする」ということそのものが目的になっていってしまって子供の楽しみがなおざりになる、みたいなの。「スマホで写真を撮る前に料理とソースを愉しんでください」



smartphone.jpg


cookmen.jpg





「目的と手段が逆転する」っていうそれはインターネッツで承認欲求を集めるときにも生じる。



最初に日記を始めた時には単に「日記にする」「日記になるようなネタを探すような視角が日常に取り入れられる」「日常にそういう視角・刺激が入ってきてたのしくなってくる」というだけだったものが段々と「ネタになるようなことを探さなきゃ」「もっとアクセス数稼ぐような書き方しなきゃ」みたいになってきて窮屈になっていく。あるいは、気づかない間に物言いがセンセーショナリズムを帯びて下品になっていったり、自分や家族の実存をコンテンツとしてバラ売りするようになる。
http://t.co/dzaeyGvOCL

そこまで行かなくてもネットの当該コミュニティ独特の常識みたいなのに自分が染まり、その界(世間)における倫理の型にハマっていく。そして自分ではそれが正しいと思って気づけなくなったり…。


「こないだはてなで人気のひとたちとオフで会ったんだけど彼らはオフでもホッテントリがどうとかな話をふつーにしてて、なんかキモかったよ…。ある程度そういう話してもまあそれはネットも日常の一部になってるから当たり前かと思うんだけど、ほんとにそのことしか話さないのね。『○○さんのこないだのエントリは▲▲で…』『あれは裏では○○で』とか。こっちはそんなの知らねーっつーの。なんか、、病んでる感じだった。はてなーってオレにとってそういうイメージ」

某人から聞いたそういうのは論壇とか芸能人みたいなのがネットを介してコモディティ化したということなのだろう。そして彼らは自分でワイドショーの記者も兼ねる。



アクセス数への意識と「それに見合うような記事・ネタ」という視角、ホッテントリというマトリックスを内面化することで自らを生から疎外してるのだろう。フーコーなら「まなざし(監視)の内面化」と言うだろうアレのこと


たったひとつの冴えたやりかた: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384420579.html


「自由になるため」のはずの知識が却って枷となって自らの自由を拘束していく。

ストーリーよりもディテールにフォーカスしてしまう。

料理を愉しむことよりも写真を撮ることを優先してしまう。



せせこましい倫理・教条化でネット内での徳・自分の正しさみたいなのを喧伝していった人たちはレバレッジがどんどん高まって、あるときそれを回収されて萎んでいった。あるいはそういった視角にドライブされている自分の日常の虚しさに気づいて


こもこ(@komoko)さんなんかも少し前に「日記でなに書いていいかわからなくなってきました(´・ω・`)」みたいなこと言ってたけど、彼女はけっきょくそういうのに囚われない方向を選んだ。



どこかで「他人の承認欲求を笑う人は、自分もアウトプットすることができなくなる。笑われるのが怖くなるからだ」みたいな話が湧いてるみたいなんだけど、これも「承認欲求・アクセス数目当てでセンセーショナルな飛ばしやる糞ブログ」批判の予防線に過ぎない感じ。


「アウトプットするのが怖くなる」「日記をつける気がしなくなる」みたいなのはブログやってるとやってくるけどそれは単に承認欲求絡みなだけの話でもないし、「他人の承認欲求を笑う」にしても承認欲求への依存度によって話が変わる。

「アウトプットするのが怖くなる」のは誰かを傷つけたり、よくわからないはてなのモヒカンとかメディアスクラム的な罵詈雑言に襲われ辟易するからだし、同調圧力同様、承認欲求それ自体は悪いことではない。マズローの5段階欲求なアレでも「金とか地位とかいろいろ集めて最終的に欲しくなるのは名声」みたいな話もあるし(つってもマズローの話もそんなに正確なものではなく心理学方面だとエッセイ程度の扱いみたいなんだけど)。


「誰かの目を気にして誰かに良く思われたい」というのは独善的に振る舞うよりは自分を開く良い契機になるのだろう。んでもそれを気にし過ぎるとそれに囚われることになるけど。


承認欲求、他者による評価を気にすることというのは自己実現のための要素のひとつにすぎないのでそれに囚われすぎることもない、程度の話。酒とかドラッグと同じで、依存になると良くない。日本人だと世間的な承認、「アンシン」に傾くところもあるのだろうけど、自分で地図を作成していく能力も持ったほうがいいように思う。



山岸俊男、1999、「安心社会から信頼社会へ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380874839.html


鈴木謙介、2013、「ウェブ社会のゆくえ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381455793.html



ついでにちらっと言っておけば「他人に認められたい」「正しく認められる」「それによって自信につながり困難な問題に立ち向かう心の糧となっていく」という話は「全能感人間」なんかに書いてある。


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これも心理学的には証明された話でもないのだろうけど、「他人の承認欲求を嘲笑うな」とか尻切れトンボしているよりは有益だろう。

「承認によって全能感を正しく誘導される」「自信をもつ」という過程は大事だけど、それは「困難な問題に立ち向かうため」であってその全能感に酔いしれるためではない。承認欲求が叶えられたことによってネット上でみょーに調子に乗って行く人というのはちょこちょこ見るんだけど、たぶんそれは目的なく承認-自信が膨らんだ結果なのだと思う。カオナシみたいに

あるいは、それだけ愛情や承認に飢えていた/慣れていない、ということなのかもしれないけど。



こういう問題、「他人からの注目をあつめるためにセンセーショナリズムに寄る」「その界でキャッチーな言葉(言表)で組み立て形式的修辞に寄ることで内容がなくなる」「結果として対象を傷つけていく」「精確性を欠いていく」という問題はイエロージャーナリズム的なものとしてジャーナリズム界隈で昔から問題になっていた。

それでジャーナリストとしての倫理観と誠実性に自覚がある人たちはそういうものに対して距離をとり、「しっかりと調べて書く」という調査報道の基本を意識したり、「取材対象を単なるネタ元として扱わない」「対象とコミットメントをもつ」ということを意識しているように思う。そうやってまともなジャーナリズムは作られていく。「コミットする」というのは例えば「一方的に撮る / 盗る」ということではなく参加し共同し一緒にやっていくということ。「他人ごと」としててけとーに消費しないこと。

「承認欲求・アクセス数を目指すのがダメならなにを目指したらいいんですか?」「はてぶほかで多孔化されてアクセス集まって嫌になった」というのはその前段階、イエロージャーナリズム的な問題を自分の問題として実感してきた段階なのだろう。「マスコミがする悪さ」ではなく「自分もそういうことをする / される立場にある」ということを通じて。

芸能人やワイドショー(芸能人批評)だけではなくジャーナリズム(社会批評)的なものもコモディティ化したのがネットなのだろうからそういう帰結になるのは当然だろうけど、「表現の自由と他者への配慮」「自分がマーケットにドライブされること(市場の審級(まなざし)に囚われ流されること)」がマスコミだけの問題ではなく自分達の問題として実感されてきたのかもしれない。

そういう意味では承認欲求ゲームの虚しさに気づいてそのゲームから降りていく人のほうが誠実な印象がある。




こういった「対象を切り取りネタにすることに対する倫理性」あるいは「他人を一方的に見つめるまなざしの暴力性(そういったものを内面化していることの是非)」ということはソンタグが論じてきたことだった。


ソンタグの感性・写真論(まとめ) - 雑記置き場
http://d.hatena.ne.jp/nowherezen/20121205



彼女の最初のエッセイ「反解釈」では「形式に傾いて内容がなくなる」と問題を逆に「形式の意義」の面から省みていたようだけど、「内容と形式」というのは自分もずっと関心ごとだった。


そして「写真によって他者を切り取ること」や「どこか遠くの国で戦争が始まりぼくらはそれをテレビやネットを通じて消費していく」ということの是非。


現在も南スーダンの内乱の状況がたんぶらーでちょこちょこ回覧されてきたり、自分もまとめの断片を流しつつ「こういった関わり方は『消費』ということなのかな?」と少し思ったりする。



未だ読んでないけど、彼女の問題意識やスタンス(固定観念にとらわれないこと・『まなざし』を意識すること)というのはフーコーのそれをエッセイ的にした感じなのかもしれない。


たんぶらーで「切り取ること」の感覚と「写真で切り取ること」の感覚の類似に期待して読み進めてみよう






cameraeye.jpg









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関連:


ソンタグ、

「すぐれた映画は必ずわれわれを、解釈の欲求から完全に解放してくれるところの直接性をもっている」。映画には「内容以外に、手がかりになるものがつねにそこにある」。それは「たとえばカメラワークとか、編集[モンタージュ]とか、画面の取り方など」、いわば「外形の語彙」とでも言うべき手がかりである。
 『反解釈』においてこのように述べられている「芸術作品」を写真に置き換えてみれば、DHが「イメージをその形式的な個別性において認識」(「黒い塊」の重要視)して、それをトリミングしてしまうことを批判している点にも通じているだろう。意味=理性に依らない感性と認識の前景化、という点ではDHが参照したアーレントによるカント解釈とも類比的にみえる。しかしソンタグは写真を論ずる場合、ある種の葛藤を抱えながら「映像のエコロジー」を主張するようになる。


に寄せて。映画と公共性関連で


フランス革命の背景とか要因について(暫定) 公共圏論を中心に: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381322488.html




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