2014年02月15日

上野千鶴子、1989、「スカートの下の劇場」



TLに流れていて「そういや読むのやめてたなあ。。あの頃はスカートの中の秘密の生活ぐらいの軽いエッセイがよかったんだよなあ。。」とかおもってナツカシス+オヌヌメもあったのでほかのよむよむの息抜き程度に読み始めたら案外に面白くて、積年の自分の課題にもつながる所あったのでエントリ


スカートの下の劇場 (河出文庫)
上野 千鶴子
河出書房新社
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ニューアカ時代の雑誌向きの知的センセーショナルて感じで「オマンコシスターズ」とか「カント」とかセックスに赤裸々なフェミぽい引きが散りばめられてて、わかりやすい共通理解・印象に残る箇所としては「女のパンツは隠すために着けているのではない。着けることでむしろエロスを強調しているのだ(細いパンティが出てきたのはストリップのバタフライパンツの影響ではないかと私はおもう)」「子供は下着を通じて母親に性器管理をされている。女性は初潮の段階で自分で下着を洗うようになるが男性は母 → 妻と下着≠性器管理されていく」「シスターフッドは男の貸し借りをするぐらいになる」というところだったように思うけど自分的にはセクシャリティをめぐるアイデンティティやトポス、疎外に対する言及箇所がおもしろかった。

そんなことを思いつつあとでエントリ起こそうかなあと読み進めてたらあとがきにも「スカートの下の劇場というのはヒキなタイトルでおかげさまで本書もたくさん売れた秀逸コピーだったのですが、本書にシリアスなタイトルをつけるとすれば『女性の自己身体意識の構成について 下着の歴史を通してみた』になるように思います」みたいにあった。


なので、本来ならその辺が本書のポイントで、きちんと書くのだったらその部分についてもっと頁さいて解説していく必要があったのだろうけど、「この時期は忙しくて、『スカートの下の劇場』も本来別の企画でポシャっていた14枚ぐらいの原稿だったのですが、それを編集の方がおもしろいと膨らませてくれたのです。でもいそがしかったできちんと書くのは無理だったんだけど『だったら聞き取りで。わたしが上野さんにインタビューしたものを文字起こしする感じで』ってことで」(要約)、てことでできあがったらしい。

真っ昼間のラウンジで、けっこう赤裸々な話を。時期は昭和天皇崩御→御大葬の2月。同年宮崎勤事件もあった。



さて、自分が興味を惹かれた部分について。主に4章「鏡の国のナルシシズム」で展開されていた。

女性の自意識・身体イメージ・セクシャリティを「欲望される(ディザイアブル)客体としての身体」を基点に論じてるんだけど、ここにおける性的疎外とリアリティうんたらて二村フトシ-森岡正博が課題にしてたところのように思えた。つまり「女性のほうが快感が高そう」「男性はどうあっても女性と同じ快感を得られない(ことへのコンプレックス・憧れ)」「ポルノビデオなどを見ている時の感情移入先は男性か女性か?」などなど。



森岡正博、2005、「感じない男」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52482268.html


感じない男 (ちくま新書)
森岡 正博
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二村さんなんかもけっこう女性のほうに感情移入してるみたいだし女性も女性のほうに感情移入するみたいなんだけど、そうすると視線の先の男はどうなるんだろ?とかおもったりする。てか、自分の場合は実際にセックスしてるときなんかもちょっとそういう感覚がある。目の前で乱れてる女の「乱れ」の統制・同調に専心するので「物理的快感部分で昂奮高まって勝手に進める」みたいなことがない。それもあってか相手からは「よくなかったの?(´・ω・`)」みたいな事言われて不安感じさせちゃうんだけど、、そのたびに自分のセクシャリティというかこのへんの感覚を説明する。

でも、そういう場面だと女性の乱れのほうが先にいって、勝手にどんどん昂まっていく女性を冷静に見つめつつ少し取り残された感があるのも事実だけど。でもそれをもって「本当に相性の良い相手に出逢えば本当の快楽で我も忘れられるはずなんだ―」的なオーガズム原理主義な性の探求みたいなのするのもなんかめんどくさいのでコレはコレでいいかなあとか思ってたりする。

こういう取り残された-疎外な感覚というのは「セルフ」にも近いかもしれない。





モテ男というわけでもないけど「男(ペニス)は女の快楽のための道具なんだなあ」みたいなとこが。


「でもそれは男性側が責め-運動を主に担当し、女性が言ってみればサーブされるほうだから快感に専念できるというのもあるのでは?」

では、この部分で男性が主に女性の役割とされる方、セックスにおける受け身を担当したらどうなるか?

「たぶん、だいたいの男性はそれでも女性のような満足は得られないだろう」


身体構造上の規定もあるだろうけど、社会・文化装置的にしつけられた「欲望される身体」「見られる身体」としてのしつけが女性側に染み付いているから。端的には女性のほうが相対的に最初から「エロい」(あるいはエロくなれる条件が整っている)ということ。「男性が能動のほうだったら男性がエロいことをしてるんだから男性がエロいんじゃないの(´・ω・`)?」てのはあるんだけど、それは社会・文化装置的につくられたエロの幻想の踏襲ぽい。対して女性の方はもっと自己発生的にエロ幻想を自分内部で作れる(オートエロティシズム)。

さっきもいったように性的場面における「見る」視線には男性側だけではなく女性側の了解もある。セックスにおいて「女性ならばこういうふうにして当然」というような了解(ex.喘ぎ声のミーム)、と、そういった「女性」の仮構を特定の時場(トポス)で女性自身が囲ってるので。ポルノを見るときはその視線/認識がポルノという場に降りてくるだけなのだろう。

そして女性側に元からある仮構の性的身体と男性がポルノとして構築した女性の性的身体(あるいはそれを作り出す一連の流れ)との間でしばしば齟齬が生じる。ベタには女性は物語・雰囲気を、男性は即物的な性的快感につながる象徴を求める。なので男性的な性表現はしばしば裸を中心とした性的場面にのみクローズアップされがちだし、性的場面の中でも性器部分をクローズアップし、なんだったら性器部分の表象だけで性的スイッチが入るようなフェティシズムとなる。

下着や服装、女性の身体描画などにもそういった違いが象徴的に表れる。女性はわりと身体全体を覆う「かわいい」「きれい」「つけ心地の良さそうな」デザインを下着に求めるけれど男性は「セクシー」なものを求める。性器を包みつつ強調するような。

そしてそういった男女における性-セックスの「当然」が市場を通じて再生産され再帰していく。



「アダルトビデオは幻想で現実とは違う(のでアダルトビデオでやってるようなことを、当人が嫌がるなら、本気でやるのはやめておこう)」みたいな話もこういった文脈と関連する。



その辺の幻想と実際のセックスの場面で修正されていく。あるいは修正されない人でそのままエロ産業的な幻想・昂奮を持ってる人もいるかもだけど。というか、だいぶぶんの男性はそういった幻想にドライブされてるうちに果てるぽいのでそのへんの齟齬について自省する時間もないのだろう。


そういうのを超えた時にいわゆるスローセックス/ポリネシアン・セックス-「コミュニケーションの一つとしてのセックス」 → 「なので無理にインターコースとかオーガズムに拘る必要はない」て感じになってくるし、自分も基本的にはそういう感じなんだけど、、それとは別の部分で「セックス時に取り残される自分」みたいなコンプレックスは依然として少しだけある。そんなに深刻でもなく。
それは「最高に興奮した状態でのオーガズム。女性のそれに匹敵するような。失神するような忘我のものとしての」みたいな話への引け目とあこがれが未だちょっとあるからかなあとも思うけど。


たぶん、その部分には単純な物理的快感だけではなく幻想-精神-心理的な昂奮が大きく関わってるので、その部分を変えていけばなんだったらそういうことも可能なのかもしれない。


まあ端的には「M男の才能」的なアレ。


そういうのとは別にひとりよがりのセックスの果てに受け身な男性もいるようだけし、そういう人たちは物理的快感に終始してる印象がある。オトナなコミュニケーションとして社会的に認知されてるだけでやってることはオトナの授乳ぽい。

「インターコースもめんどいから女性に口技を要求して、されてるうちに寝てしまう」「性的快感の交換もめんどくさいので頭を撫でてもらっておく」

とかはまさにその表れだろう。




自分的にはM男になるのもひとりよがりも嫌なのでとりあえずはこのままでいい。んでもセックスをめぐる身体イメージの位相みたいな話は面白いのでもそっと続けていく。



受け身のセックスの才能-M男の才能というのはそんな感じで物理的な快感だけではなく心理的な開放 → 変化によって可能になるのだろう。そこでの心理上の身体は「欲望される / 性的にいじめられる / 受け身で何かされる」ということを当然とする。

なので、たぶん性的場面 / 表象において男女の役割を単純に逆転させただけだと違和感が生じてミョーなことになる。


「バイク雑誌の表紙で女性がセクシーポーズを取ってるのは何故?」を考えさせてくれる男性グラビア「MotoCorsa」 − えん乗り
http://ennori.jp/news/article/1344


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ヴィジュアル表現の社会学へ(下)
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大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))
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なので「大奥」もその部分では単純に役割を交換しただけのSFといえる。



ただ、「性的に欲望される身体の許容 → 性的場面における<女性>のイメージの共有(それによるリアリティの確認)」というのは文化装置としてのエロ-女性イメージに依存的になるのではないか?いくら「社会・文化装置が男性優位で進んできてその結果なのだから現実は現実としt受け止めるべき」とはいっても「女性とは歴史的にそういうものだ」ていうのはフェミ的に怒られそうだなと思うんだけど真フェミだとそういうこといってるわけだし、、セクシャリティを通じた性的アイデンティファイとトポスが絡む話なので単純な「男女差別」みたいな文脈から批判されても表層的なことになりそう。

そもそもそこでは物理的身体はむしろ邪魔で、それがゆえに「同性の親友が落ち込んでる時、なんだったら男(ペニス)を貸すことができたら楽だろうなあとかおもう」という発想がでてくるのだから。そういった「異性を貸す」「穴兄弟」「風俗に一緒にいく」というのはホモソーシャルな男性コミュニティでもちょこちょこあって批判されるけど、単なるマッチョ/セクシズム的なものでもなく「精神的に繋がれたらなあ(´・ω・`)(肉体なんかたいしたことないのに)」て発想からのひともいるのかもしれない。


SMとかクィアのような世間一般からすると「倒錯」とされるようなところもそういうのが絡む。

ただ、その内容が形式化して、この部分の感覚が忘れられてしまえば形式のほうに進められ新たな疎外が生じるのだろうけど。初対面でいきなり「俺のことをご主人様と呼べ!」「(´・ω・`)」みたいな。





というか、本書では「性的場面における<女性>=エロい」「欲望される身体のイニシアティブを握っているがゆえにオートエロティシズムも可能」ってことになってるけど、「女性全般がエロい」というのは立ち止まったほうが良いような。女性全般というよりも性的なトポスで「欲望される身体」がエロいということなのだろう。

「欲望される身体」あるいはそういった場面でのエロスというのは男女で作り上げ共有されていくものだろうけど、なぜかそういう場面に関わる以前に社会・産業的に基底され女性側に片務されてるので。その幻想との齟齬が生じて当然のような。


ただ、現代の<女性>はそういった歴史の総体として淘汰→作られてきたものなので、結果的に「欲望される身体」を当然として引受け、そのイニシアティブを握っているがゆえにオートエロティシズムも可能、ということになるのだろう。



なので、それまで男女分けられずに育てられてきた女子が女性になる段階でそういった役割とそれに付随するコミュニケーション様式、ステレオタイプイメージ、欲望のまなざしもセットにして受け容れなければならないということに対して違和感やアレルギー的な反応を起こすのではないか?

そして、そういった女性性の受け容れの不時着がこじらせ女子という形、あるいはヘタしたら拒食症などの形で表れる。



健全な性欲 - 雨宮まみの「弟よ!」
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オートエロティシズムにはナルシシズムが関わるようだけど、それには「女性的に理想の身体」という表象イメージが絡んでくる。

それらをうまくクリアできた女性なら「ステロタイプとしての理想の身体=エロイことをしても当然のわたし」にアイデンティファイでき、わりとすんなりと女性性を受け容れられるのかもしれない。








とりあえずセクシャリティとそれによるリアリティ/疎外/アイデンティファイをめぐるこの辺りの話はもっと心理学的なアプローチが必要なようにおもう。


たとえば「女性はオートエロティシズムできるほど生来エロエロ」といっても女性によって出来ない人もいるし、才能のあるM男のような人もいる。

才能のあるM男の場合は一般的な女性と同じく性的場面で受け身の役割を担うわけだけどいじめられることを性的快感につなげるので従来の性規範からは外れる。

ベタなM男性イメージとしては「ふだんはエリート・権威的な役割を社会的に分担させられているが、そこで生じるコミュニケーション的な疎外を埋めるために刺激として過度に被虐的な性的役割を求める」という理解も成り立つ。でもそういった理解から外れるM男もいるだろうし、その場合、どういう心理機構なのか考えてみる過程を通して一般的に受け身な役割を担わされてる女性のその辺りの心理機構もわかってくるかもしれない。(後者はMな役割なはずだけど「倒錯」としてでもなくふつーに暮らしてるわけだし)

そして「いじめる / いじめられる」というところにセックスをめぐる暴力性が関わる。

人の暴力性、「エログロを覗きたくなる」みたいなものはネガティブな欲望として忌避されるけれど、それがどういう心理として措定されるのか、偏見なく探っていくのも良いようにおもう。


また、女性一般 / 男性一般のセクシャリティ-アイデンティティから外れる人たちの内部では男性成分的なところと女性成分的な割合が世間一般と外れているところがあって、それがゆえに一般の性役割には違和感をもつのではないか。

内部の男性 / 女性のグラデーション、ユングのアーキタイプ的なものとの関係。

家族関係が権威的で性的禁忌が厳しいほど、そのわりに早くから男性側からの欲望の視線に覆われてくるほどエロくなる。タブーとインモラルと不全感。セックス時の昂まりで統制が効かないところにはその反動も関連してるのかもしれない。

性的禁忌が厳しい → インモラル / 不全感のとこでは森岡正博さんの悩みも関連するかも。森岡さんはそれを「射精のみ重視すること」「女性のオーガズムに対する引け目 → コンプレックスの裏返し → 女性(性的身体)的なものに対する暴力的願望 → それを自分の内部で受けることで半身が傷つく」みたいにしてたけど。

そういうのを総合してフロイトな関心を再編成してみるのもいいのかもしれない。







そいやこの部分にジンメルの生の哲学が関わるみたい


ゲオルク・ジンメル - Wikipedia http://bit.ly/1mivHCh

彼の哲学は、ニーチェ、ショーペンハウエルと共通点をもつ生の哲学だが、大学の世界で薫陶を受けているため、それをカント以来のドイツ観念論の系譜で一般的な用語法を持って語るという、なかなかユニークなもの。「断章」などにも本人が書いているように、知的遺産の後継者には恵まれなかったが、彼の思想は彼の提唱する形式社会学に結実した。形式社会学に含まれるその考え方はアメリカにわたり、社会学のシカゴ学派、そしてシンボリック相互作用論に大きな影響を与え、定性的研究の源流のひとつとも言われるようになった。

また、近年では、ドゥルーズ、ガタリ以降の生気論再評価の文脈で、社会化以前の生を捉えようとする後期ジンメルの論が新たに注目されている。



形式社会学 - Wikipedia http://bit.ly/1mivKy3

初期ジンメルが形式社会学を提唱することになった背景は、オーギュスト・コント以来の総合社会学が、学問としての独自性を確立することなく、すべての学問を包み込む総合科学としての立場を強調していたことに対して、社会学以外の専門分野からの批判を強く受けていたことが挙げられる。つまり、社会学は他の学問分野をつなぎ合わせただけで実体がないという批判を受けていたのである。

19世紀後半より資本主義社会の複雑化・高度化が進んでいく中で、学問もそれに伴って専門化の傾向が顕著となってきており、そのような状況にあって初期の総合社会学は時代遅れの学問とみなされるようになってきていた。


このような背景にあってジンメルは、他の学問にはない社会学独自の研究対象を模索する中で、人間相互の関係の形式(社会化の形式あるいは心的相互作用)に注目し、これを社会学が扱うべき対象であると考えるようになった。

社会化の形式あるいは心的相互作用とは、人間が目的や意図をもって他者と関わる行為のあり方のことであり、具体的には、愛情による親密な関係、憎悪に基づく敵対関係、社会的地位によって結ばれる上下関係などが挙げられる。これに対して、政治、法律、経済、宗教、芸術などは「内容」から分類された学問分野だとして、「形式」の観点からそれらに横断線を引く学問として社会学を位置づけた。


ジンメルの後期の著作を読み解くと、生の哲学と形式社会学とが緊密なつながりを有していることがわかる。生の哲学者でもあったジンメルにとって、人間存在の唯一究極的な原理である「生」の本質は、一方で生が現前する自分自身を絶えず超えていくという「自己超越性」とともに、他方でその生が自分に対立する「形式」を通してでなければ己を表現することができないという「自己疎外性」に求められる。

そして、創造的な生は、社会制度や芸術作品、科学的認識といった形式を作り出し、一方で生それ自体はその形式を乗り越えていくものの、形式はその母たる生とは自律的な動きをもつ。そして、ここにジンメルの言うところの「文化の悲劇」が生まれる。すなわち、形式が客観的独立性をもち、それが生を囲い込み枠づける生活形式となる。この傾向が頂点に達するのが、貨幣経済の完全な浸透がみられる近代社会である(『貨幣の哲学』)。近代人はもはや客観的な生活形式を内的に消化することができなくなり、生の手段が生の目的となる。そこに、生と形式をめぐる完全な「軸の転回」が出現するとジンメルは診断する(『現代文化の葛藤』)。

当初ジンメルは、特殊科学としての社会学の確立を目的として形式社会学を提唱したが、晩年に著した『社会学の根本問題』(1917)において、一般社会学、特殊社会学(形式社会学)、哲学的社会学という3つ分野から成る、より大きな社会学の体系を構想するようになったのである。しかし、その中心となる分野はあくまで形式社会学であり、彼が残した研究実績は形式社会学の方法論に基づいたものである。



形式と内容の問題(形式を通じた疎外と形式を通じてしかコミュニケーションできない人の矛盾をどうつなぐか?)というのはベンヤミンを通して見ていこうと思ってたけどジンメルもやってたみたい。つか、同時代だから同じような関心が湧いたのかもしれない(近代による疎外)。

シンボリック相互作用論にも通じるようだしなんだったらこっちものぞいてみていいかもしれない。




ジンメル―生の形式 (現代思想の冒険者たち)
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関連:

こころ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/226411328.html


たったひとつの冴えたやりかた: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384420579.html




イリガライとオート・エロティシズム:やおい論をめぐって - FemTumYum
http://d.hatena.ne.jp/tummygirl/20080130/1201682120


永山薫 マチズモの崩壊、この過程がエロ漫画に如実に表れている コイトゥス再考
http://vobo.jp/nagayama02.html


やおい / ショタ(ペド)、ロリも物理的身体を離れた身体イメージ(トポス)における性的身体とエロスイメージの了解、自由編制の表象と言えそう。男性によるロリコンの場合は男性性への期待からの疎外、ボイコット → 安全な漂白されたエロへというところもありそうだけど

なのでやおいの初期のものは現在のBLのようなセックス中心よりも精神的交換が重視される



荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第14回 萩尾望都編 - 電子書籍はeBookJapan
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上野さんおもしろかったのでもそっとよみすすめていこう






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2014年02月10日

ベンヤミンめも (「近代化に対して」「政治/美学」「アウラ」「アレゴリー」あたり)




ベンヤミンちょっとやってみようかなあと思ったのはソンタグで触れてあったからか。



スーザン・ソンタグ、1977(1979)、「写真論」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385423814.html



それで写真のテクニック的なことではなくて写真というメディアを通じて(あるいはそれに代表される)リアリティの変化を改めて考えてみたいと思ったのだった。そもそもアートとしての写真がピンと来ないので、自分的に。


なので、この系列で行くとバルトの「明るい部屋」とかベンヤミンの「写真小史」を読み進めるべきなんだろうけど、まあその前段階として。てか、「明るい部屋」はなぜかそれの解説本(あるいはそれを踏まえたタイトル)は図書館にあったけどバルトのそれはなかったのだった(´・ω・`)。

ついでに「複製技術時代の芸術」もなんかよくわからんかったし、んでもベンヤミンの射程てけっこう自分の関心と関わってくるのかなあ、てことでベンヤミン見直し


ナウシカ再読 ジブリと生政治と新「自由」主義周りの勘違い: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/386902947.html



ヴァルター・ベンヤミン―近代の星座 (講談社現代新書)
高橋 順一
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その程度のモチベでのアンチョコ本当たりなので本来ならこれが一番エントリにする必要ないんだけど、なんか、よくわからんけど今後のために現時点での理解や理解の方向性をメモっとくのもいいかなあと思ったので。まあでも未熟な理解メモということで。


最初に、ベンヤミンの生きた時代というのはビスマルクの鉄血政治の少し後からナチスの時期だった。つまりナポレオン→ウイーン体制の後、プロイセン側からドイツが統合されていった時代。

オーストリア側の経済・政治情況の概観はこんな感じ


シェーネラーとルエーガー〜ヒトラーが範とした二人の反ユダヤ主義者 | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/5913


神聖ローマ帝国の終焉とナチまでの背景として。「十九世紀中盤までのオーストリアの経済成長を支えたのは勤勉なユダヤ系の人々であった」が不況の反動で当時の民族主義につながっていった。

自分的に今ひとつピンと来なかったのは、当時の民衆の精神史的な生活感が表されてなかったからか。カトリックではなくプロテスタント多い中でのエートスとイデオロギーとか、汎○○的民族主義の隆盛とか、ユダヤ金融の強さ。その辺は自分で調べるか


プロイセンはビスマルクを中心として官僚・近代化


『ビスマルク』 by 出口 治明 - HONZ
http://honz.jp/37910


その際にドイツ教養市民層 / 大衆の分断がどのように編制されていったか


野田宣雄、1997、「ドイツ教養市民層の歴史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382529159.html



それがナチの問題でありロマン主義的形而上学と生活の分離、政治の美学化の是非というベンヤミン的課題につながる


ベンヤミンを政治化するさいの注意書 - 試行空間
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040210#p2
http://morutan.tumblr.com/post/76176032073

言うまでもなく、アウラなるものはそれ自体として物象が持ちうるような属性ではなく、「アウラが喪失されつつある」という喪失の認識=観察のなかで、「喪失以前に、かつて−あった」ものとして再構成された理念である。それは、複製技術の登場によって世界の舞台から姿を消しつつある何かではなく、むしろ、複製技術が生み出した漠然とした喪失感を説明する操作変数として新たに−近代によって−作り出された《出来事》なのだ。「意図の伝達」などという人間的なコミュニケーションの論理を強引に変質させてしまう(複製)技術。人間が「意図的」に操作できるよう社会的に馴馳する時間を与えず、まずは直接的に我々の身体を揺さぶりをかけてくるテクノロジー。その耐えがたい不気味さへの人間の不安が、「アウラの喪失」という危機意識として現象する。だから「アウラがあって、それを反アウラ的機能を持つ複製技術が消していった」のではない。複製技術が、そのものとして「アウラ/アウラの喪失」という観察図式を作り出していったのである。
アウラを実体視しその再興を図る解釈学的な「政治の美学化」が、こうしたアウラの歴史的本質を見逃したものであることは言うまでもない。しかし重要なのは、技術を宣称する未来派的な「政治の美学化」にかんしても、同じようなことがいえるということだ。
ベンヤミンは、先のマリネッティの言葉を受けて次のように言う。「戦争がもろもろの破壊によって証明するのは、社会がいまだ技術を自分の器官として使いこなすまでに成熟していなかったこと、そして技術がいまだ社会の根元的な諸力を制御するまでに成長していなかったことなのである」。
未来派の文脈において重要なのは、あくまで人間の論理のなかに技術が上首尾に収まりをつけること、人間-社会に寄与する第一契機として技術を位置づけることにすぎない。技術は社会的に馴馳された「機能(反アウラ的機能)」ゆえに肯定される。一見解釈学的な「美学化」の対極にあるように映る技術主義=未来派にあっても、技術そのものの強要によって変質しつつある人間(社会)−技術の関係性、あるいは、技術そのものが「アウラ/アウラの喪失」という観察図式を生み出したという歴史的事実は、やはり決定的に見逃されているのである。
ベンヤミンは、アウラの喪失を嘆いていたのでも、近代技術の反アウラ的なあり方を無条件に肯定していたわけでもない。アウラ/反アウラという二項対立が生成・実定化されるとともに、二項の同根性・共犯性が不可視化されていく「政治の美学化」に対する危機意識−そうしたものが、彼の複製技術論を貫いている。
だから、「政治の美学化」に対置される「芸術の政治化」とは、この共犯性に亀裂を入れていく作業とならざるをえないだろう。現在と過去の記憶とを想像的に結ぶ《後ろ向きの美学》はもちろんのこと、技術と人間との入り組んだ関係を技術主義的に清算してしまう《前向きの美学》も同時に解体していく契機。それこそが、「物質が人間といかにして共演するかを示すことができる、史上はじめての芸術手段」−すなわち映画であった。人びとの身体性を触覚的・集団的に構成し直し、意味なるものを個人の意図・メッセージという「ブルジョア的」な縛りのなかから解放していく契機=映画。
おそらくは、ベンヤミンのいう「芸術の政治化」とは、政治的芸術を製作するといった作業に還元されえない、美的にも政治的にも貪欲で、志向的存在=人間にとっては困難きわまるプロジェクトだったのである。



形而上学的な空間、アート的なそれはしばしば生活から離れてしまう。生活から離れて抽象化されたものが操作され新たな発見がある場合もあるんだけど、それがあまりにも当然として形式化してしまうとその暴力、権力のようなものが発生する。ハイエクでいうタクシスの暴走、ベンヤミンなら法などの神話的暴力の暴走というところか。

アートは祭祀-<聖なるもの>の系だったのだろうけど、それが近代化-大量消費→スペクタクルの要請にともなってたましいを抜かれて形式化していく。

ベンヤミンが課題とした観念論、あるいはロマン主義における形式化というのもそういう問題意識と射程だったのだろう。


人には理性とは別のところでの思考みたいなものがあるのだけれど、それをすべて理性のもとに合理化していく暴力がこの時代のモダニズムだった。


それへの反動としてロマン主義的な関心は生まれたはずだけど、それ自体がいつしか形式・ルーチン化し、最初の感動のようなものが失われていった。



「理性・知性とは別の所の思考」を仮に感性とか精神とする。感性で受信しいくつかの経験を経て、身体と「なんとなくそう思った」的な実感が積もっていったものが精神。

文学やアートの役割のひとつとしてそういった心の領域を広げ研鑽し措定していくところがあるだろう。それらを通じて内省し精神を育てていく。ルソーの語りが告解の役割を果たしていったように。


ナチスを喚んだドイツの土壌はこういったもののバランスが崩れてしまっていたぽい。


権威主義的な不平等直系家族文化圏で教養はスパルタされるのだけれどそれは家を継ぐ「ため」のもので個々の内省 → 実存的な救済にはならなかったのではないか?

そういった情況のなかでロマン主義的教養はエリートのツールとしては交換されても精神の深みや自省には結びつかず、ビスマルクを象徴とした国家の官僚化が並行して進んでいった。キリスト教に変わるエリートの嗜みとして教養小説、の理知を中心とした「用の学問」。それらは交わらない線で、結果的に人の精神や感性面での留保を考慮しない決断主義で理知-タクシスの暴走を許したのがナチス・ドイツだったのだろう。

そこでは美学や<聖なるもの>、感性や精神が拙速で即物的な功利主義のもとに統合され収奪されていった。



ベンヤミンの射程というのはそういった理知だけでは語りきれないもの、語ろうとすればするほど零れていくもの、をなんとかして言語化する試み、あるいは、語ろうとすればするほど零れていく、ということの立証だったのではないか?柄谷、ヴィト、デリダあたりのあれと同じく。


ベンヤミンはロマン主義文学の批評を専門としてて、そこでは内容と形式的には形式的なもの、レトリックやクリシェの可能性を肯定的にとらえているようで、だとしたらポモ的いい加減さを思ったんだけどどうも違うぽい。


形式化されつつも感性-精神の領域として残っているアレゴリーの部分。

それは中世ヨーロッパの民俗学的想像空間を想わせる

バロック → ロマン主義的ドラマトゥルギーという形で継がれてきた物語の形式。その形式化が極まれば極まるほど失われていくアレゴリー、多義性の問題。そのなかで際立ってくる<聖なるもの><アウラ>の喪失感という物語。それはどうやらコスモス-イマジネール-精神世界の未熟が未熟と理解されないでタクシス-政治空間に統合されていくときに同時に生じるものぽい。(cf.システムによる生活世界の侵犯)

その前段階として認識(エピステーメー)の変化が近代化を通じてぢわぢわと押し寄せてくる。(cf.生権力の生活世界への侵食、「悲劇」の当然化、「感動をありがとう」ほかコンテンツを通じた喜怒哀楽の感情消費/tuneの当然化)



それが近代化の必然なのか?想像空間の自由さを復活し設計していく方法はないのか?というのが「アレゴリー」というキーワードを介したパサージュ論における関心だったのではないか?




まあこのへんがなんとなくのベンヤミン理解の投網になるけど、冒頭言ったように「こんな感じかな?」て予想的なものなので未確認。んでも「アレゴリー」は形式化をめぐるキーワードぽいのでぢみに理解していきたい。




最後に最近の物語/スペクタクル消費をめぐったうんたらに関連付けてメモ。



現代の日本的に最もわかりやすいのは「泣ける」映画「感動を有難う」とかで、昨今の偽装クラシックや明日ママがうんたらをめぐる物語消費もその文脈だろうけど。そもそも悲劇や喜劇など人の感動を誘発するように物語が構成・要請されるのが近代消費社会の特殊って感じ(機能合理性からするとそういうものは本来必要がないはずだから)。

「複製技術時代の芸術」というのはホントはそういう文脈、「近代」の合理性と生の物象化-疎外についての是非を背景にしたもので、アウラという特殊用語もその辺りの文脈を踏まえたものになる。複製技術がどうとかというよりは大量消費社会と近代の是非がメイン。「アウラの喪失」は「悲劇」と同じように条件付けられたものなのだろう。

悲喜劇の形式・語りの当然・再帰化によってそういう形式での感動・認識が当然化し回帰していく

物語-ナラティブとドラマトゥルギーはその「民族」の言語・間・時間・死生観と関わってくるだろうから「悲劇の形式」とその変化と言語の変化に相関するところがあるのかもだけどこの辺りはまだよくわからないので保留。

同様な理由で原日本語(日本古語)的な感情・機微のうんたら(cf.本居宣長)というのが現代的に意味あるのか自分的にはよくわからん。まあ保留。



いちお偽装クラシック・明日ママの話にもう一度還ると、「大量消費的スペクタクルの要請によってつくられたコモデティ(複製品)なアングル」「駄菓子のようなもの」だとしても駄菓子自体に特別な思い出を持つ人もいるだろうからそれは受け手次第というのはある。

ただ、全体の構図としてこんな感じだろうから誰かを悪者にして落ち着ける話でもないだろうなあ本来は。偽装とかやり過ぎとか怒ること自体が偽装でない複製品に認識を馴化されてることの証左なのだろうから。

それはたぶんナチやオウムが自分達の理知を「当然」としていった回路と近い。




--
関連:
キットラーにおける読書の変容の概説(歌声喫茶的なみんなで読書 → 母の音読 → 個人的黙読)むーたん
http://morutan.tumblr.com/post/20792167/m-um-u

ここからするとルソー的読書体験は音読期を過ぎて黙読段階に入った時の初期、あるいは移行段階ぐらいにおもえる。



書評空間:UMATフォーラム@書評空間: 『書き込みシステム1800/1900』(未邦訳)フリードリヒ・キットラーFriedrich A. Kittler, 1985=1990
http://bit.ly/pYBQc




神的暴力
http://morutan.tumblr.com/post/75672011502
http://bit.ly/1lA82wF

悲劇(ギリシアの祭礼から)、アレゴリー、ニーチェ
http://bit.ly/1lA8c7m http://bit.ly/1lA8c7o http://bit.ly/1lA8c7q
http://morutan.tumblr.com/post/75672256313/isbn-4121600622
posted by m_um_u at 18:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

経済大陸アフリカ → 歴史人口学 → 料理・パン → 写真

図書返却の前にいちお読んだ本で役に立った箇所まとめて自分のなかで印象付けしとこう、とか思うに。。なんかそれほど気乗りしない。まあみょーに時間かかるというのもあるし。

なのでザラッとメモ的に




経済大陸アフリカ (中公新書)
平野 克己
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写真を“読む”視点 (写真叢書)
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現代写真論
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パンの歴史 (「食」の図書館)
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ヴァルター・ベンヤミン―近代の星座 (講談社現代新書)
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このなかで一番ズッシリ来たのは「経済大陸アフリカ」で本来ならそれについてしっかりまとめとくべきなのだろうけどそれほどやる気がでない。てか、ほかにまとめてくれてるひともいて

平野克己『経済大陸アフリカ』(中公新書) 10点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52022462.html

そこ見たらいいかなあとか思うし。おーざっぱにいうと「中国のアフリカ提携の実態」「それに依る開発・援助の変化」みたいな感じだった。

それまでの「開発・援助・ODAは世界の平和を維持するために先進国から低開発国へ主に『ガバナンスの維持』≠『民主主義』を設定するためになされる」みたいな構図の変化。こういう構図だと民主主義とか人権配慮とかダメだと「経済制裁」つてとりあげられてきたのがODAで、そこでは歴然とした力関係があったわけだけど中国とアフリカの関係は対等な「南々連携」(南北問題の「南」同士が互いに手を取り合って)。なので上から目線なところないしアフリカの政治うんたらにも口をつっこまない。それが結果的にスーダンみたいな事態を引き寄せてもいるんだけど、でも、結果的にそれでアフリカ全体の開発・経済も進み、中国との関係も強くなってきている(フランス語 → 中国語の比率が多くなってたり)。

そして経済が安定すると治安や福利厚生も安定していく。あるいは安定的な経済関係を維持するために諸外国、あるいは企業が開発に入る段階でCSRの一環としてその土地の教育・福祉インフラを整えていく。このへんの話はフェアトレードの真実かなんかでも共通してる。


そういう体制の是非、あるいは、それを受けた国際援助・提携・開発の変化の今後とか思わせる感じだった。


特にまとめる気にならなかったのは「レント-プロフィット」な公共経済学・選択論あたりの記述がそれほど多くなかったから。これは別件でぢみにお勉強していこう。



「歴史人口学の世界」は歴史人口学における基本的な法則がまとめてあるかという期待で。まあとりあえず「識字」「乳児死亡率」辺りは基本。そんでそれを受けて社会が工業化していくといろいろ変化したり。基本的にマルサスの「無駄に貧乏人が増えるとリソースなくなって社会不安に陥る」があって、それがどの時点で乗り越えられていくか?というのが主眼になる。土地と労働集約のレント経済から土地ほかの有限性に縛られないプロフィット経済へ。つまり資本主義-産業革命的な立ち上がり(近代化、ゲゼルシャフト化)。なので開発とそれを受けた社会変動の話と関わってくる。アフリカだけではなくインド、中国、ロシアあたりの変動、あるいは、フランス、イギリス、アメリカ、日本あたりのバックラッシュとかとも。


これも当該分野をぢみに読み進めていこう。



「cooking for geeks」は技術書風の料理解説ていうおもしろい趣向だったのでもそっと時間をかけて読んでみても良かったのかもだけど「技術書風」というのがいまの気分と合わなかった。化学変化からの味覚がうんたらも解説してあるのでその辺はおもろいのだけど。。まあそのうちまた読もう。「パンの歴史」はアマゾンレビューにもあるように簡単にパンの歴史を俯瞰するときに便利。黒パンと白パンの違いなんかがよく分かる。自分的には「麺とパンの違いは後者が発酵食品の一種なんだなあ」てこと。パン種=ビールの酵母。




写真本ふたつはソンタグの関係でもうちょっと写真についてお勉強していこうと思ったので。まあ一般的、教科書的な知識な感じだったので特にまとめず。「写真を読む視点」のほうの巻末リンクはドメイン売られてたりがちらほらなのでやめとこ。。

「現代写真論」で紹介されてた写真家の画像リンク
http://d.hatena.ne.jp/Qutaganation/20100606/1275837733

自分は絵画(タブロー)風写真(@2章)が好きみたい。荒木さんなんかも「ライフを感じさせる写真」のひとつとして紹介されてた。


ソンタグな写真つながりでベンヤミンだけど。。まあこれはエントリ分けるか



posted by m_um_u at 16:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年02月03日

ナウシカ再読 ジブリと生政治と新「自由」主義周りの勘違い



「ナウシカ読み返してみようかなあ」と思ったのはなんでだったっけ?・・設計思想≠社会主義≠全体主義と思ったから、だったかな。

それでハイエクアンチョコ本読み終わったあとにナウシカ読みなおしたり、ナウシカの該当エントリ見返したりしてみた。










ナウシカ解読―ユートピアの臨界
稲葉 振一郎
窓社
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ナウシカ解読と正義の審級 ユートピアとベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/164690250.html



若いエントリなので「なんでベンヤミン?」「たまたまTLで転がってて読んでみたらテーマとマッチしたから」ってことだったけど、読みなおしてみたらたしかにこれはこれで面白かった。なので図書館にベンヤミン予約して「ベンヤミンはじめました」的なことしようとしたり。後述するところにも繋がるけど、マルクスを設計主義としたとき、その違和感をパサージュの生活感から払拭し拾い上げていこうとしたのだとしたらやはり見るところがあるのだろうなあとおもう。(そしてその部分でナウシカとつながったり)


エコ(自然)還りしたアニメ版と違ってナウシカというのは全体的には社会主義的な設計思想についての是非についての話で、なので終盤は何度もその辺りについての是非が内省される。「森≠自然に還る?」「チガウ」「いまより進んだ文明がつくりだした<神>に管理される?」「チガウ」って感じで。

どちらも生活の福利厚生自体は現時点のナウシカの暮らしよりは良くなるんだけどナウシカは拒否する。まあ前者は自分一人だけしか迎えられないという条件もあったからだろうけど。後者は量子コンピュータによる完全管理社会(オーウェル的管理社会)にもつながる設定。MATRIXでもいいけど。


そういうものを拒否し「生命は良いことだけではなくて闇と汚濁を抱え変化、成長していく光だ」としてナウシカは風の谷とともに歩もうとする。

それは社会主義的設計思想に対する宮ア駿からの拒否とか変化であり自由主義的な考えへの着地だったのかなあと「ナウシカ解読」のあとがき的インタビューを見ていて改めて思った。


(194)「宮崎さんの中にはそういった計画的なもの、過去のプログラムによって未来が規定されてしまうことに対する徹底した嫌悪感のように感じたのですが…」

「生きるということはプログラムされてるから生きるとか、結末を知らなければ生きられるという類のものではないんじゃないか。生きるということと、理解するということは違うことなんじゃないか。ナウシカは、理解をしよう、問題をつきつめていこう、見届けようという意志を強く持っていたにしても、彼女を支えているのは、その意志だけではなくて、なにかを感じとる能力だろう。実にささやかなきざしのなかに、生きることの意味を直感する力というのか、その能力を彼女が失わなければ、気が狂わないだろうと思ったんです」


結末ではなくその場その場にある何かを感じ取り、選択していく力(そういった「生きる」「生命力」のテーマはジブリのライトモチーフとして何度も出てくる)


(201) ただ、僕は「正しいこと」はあるんだと思っているんですよ。でも、「正しい人」はいないと思っています。「正しいこと」をやっている瞬間、その人は「正しい人」だけれど、じゃあ、その人がずっと「正しい」かというとなんの保証もない。愚かなことも、間違ったこともする。「正しいこと」をやった人が、そのあとくだらないことをやったからと言って、その「正しいこと」までくだらないというのをやめよう。「正しいこと」は一人の人間のなかに何度も現れたりするし、その人がくだらないことをやったりもするんだと。「正しい国」があったり、「正しい党派」があるとか、「正しい人」がいるというのは言うのはやめよう。



「正しいことをすれば間違ったこともするものとしての人間」



それらをどうやってモデレートしていくかについてはその後、宮ア駿の作品からは伺えなかったけど、おそらく

<仏教的無常感にも通じる悠久の時の流れのなかでの「人」 + そのなかでイデオロギーではなく適時選択し生きていく(「生きる力」のもとに)>

みたいな感じに落ち着いたのだとおもう。宮ア駿が堀田善衛に心酔してたのは鈴木敏夫も言っていたことだし。「最後に『方丈記私記』的なものを作りたいんです」と言っていたのも知れ渡ってることだろし。


方丈記私記 (ちくま文庫)
堀田 善衛
筑摩書房
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社会主義に対する考え

東映動画入社の志望動機書には「米帝ディズニーに対抗しうる国産アニメを作る」と書かれていたと岡田斗司夫が著書[53]で述べている。実際に入社後は激しい組合活動を行った。その後も長らく左翼的思想を保ち続けていたが、中国やソ連などの現実の社会主義国への批判的発言も少なくない。特に1989年の天安門事件および東欧革命に大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に、思想的修正を余儀なくされたとする向きもある[54]。
宮崎の強権的「国家」に対する批判的姿勢は、宮崎が尊敬崇拝する作家の堀田善衛や司馬遼太郎らからの影響から、人間の実相を「もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る」ように凝視する、宮崎が"澄んだニヒリズム"と呼ぶところの姿勢に転換していく。例えば漫画版『風の谷のナウシカ』のラストなどに、その人間観・世界観の変化の影響が見受けられる。
しかし、これに対しては別の見方もある。宮崎はもともと統制的・強権的な社会主義には懐疑的であり、ソ連や中国の社会主義に対する批判は以前から行っている。また近年においてもアメリカ公演で毛沢東語録から言葉を引用したり、「若い人たちがまた独立系の労働組合をつくったりしているようですけど、いろんなところで立ち上がって革命をおこしたほうがいいんです。」[55]と発言するなど、労働運動や革命など左派的な概念に関する肯定的姿勢は変わっていない。またインタビューでマルクス主義について問われた際、「マルクス的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言をしている[56]。


サン=テグジュペリの思想

フランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの愛読者であり、とくに『人間の土地』を何度も読んでいる。後述のNHKのテレビ番組の中でははっきりと「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。サン=テグジュペリが当時危険だった航空郵便の飛行機乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。NHK『世界わが心の旅』(1998年放送分)の企画でサン=テグジュペリの時代の飛行機で航空郵便のパリからトゥールーズ、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡(モロッコ)まで訪れている。その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「夜間飛行」「人間の土地」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。


中尾佐助の思想

宮崎に深く影響を与えた思想に、植物学者中尾佐助による「照葉樹林文化論」がある。ヒマラヤ山脈南麓から中国南部・日本本州南半分までを含む地域が、茶・酒・柑橘類などの特色を持つ共通の農耕文化圏に含まれるとするこの学説に、国家の枠を乗り越える視点を与えられ、「呪縛からの解放」感を味わったという。この影響は特に『もののけ姫』に強く表れており、その後も宮崎はインタビュー・対談など事ある毎に中尾佐助を引き合いに出している。


反原発

スタジオジブリの小冊子『熱風』2011年8号で、宮崎が「NO! 原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙を飾った。表紙の説明には「6月11日、宮崎駿監督は東小金井で小さなデモをした」と書かれてある。6月11日は同年3月に発生した東日本大震災の福島第一原子力発電所事故に関連して全国一斉にデモなどが呼びかけられた「6・11脱原発100万人アクション」の一環として新宿では約2万人が参加した大規模な反原発デモが行われた日であった。この号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」には、宮崎駿、鈴木敏夫、河野太郎、大西健丞、川上量生による特別座談会が掲載され、宮崎は原発をなくすことに賛成と語っている。座談会では他に、1年前の2010年夏ごろ福島原発の施設内(福島県双葉郡富岡町の「エネルギー館」)に知らないうちにトトロなどのキャラクター商品を販売する店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている[61]。また、2011年6月16日からは、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、宮崎の考案で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている

宮ア駿 - Wikipedia http://bit.ly/MpQNy8


基軸のところに社会主義・マルクス主義ほか社会思想的に世間への関心があり、それが生活や社会情勢の変化を介して徐々に変化していき、60年代の後期近代への変化における革新幻想の後退を通じて反悔恨共同体志向としての日本文化論や司馬遼太郎的なものも吸収していったのだろう。網野善彦ほか教養への関心もその一環な感じ。


反原発アピールはエコ脳というよりはの反政府-設計的な文脈なのではないかとおもう。ただデータや生きられた経験的に違うので出てきた結果が違うということ。なのでアニメ版ナウシカイメージからジブリ=エコだからというのもちょっと違うとおもう。あるいは、ジブリはそういうイメージでお子様売りしてもいいかもだけど宮崎の戦車・軍ヲタ的なとことエコの違和感というのはこういう文脈のように思える。




反設計思想と「生きる力」、このテーマはハイエクとフーコーにつながってくる。あるいはロールズ。


真の個人主義は現代的な意味での平等主義ではない。人々に対して一般的な規則を平等に適用すべきだという見地に立ち、特定の人に特権を与えたり、保護したりすることには反対するが、それは、人々の(経済的・社会的)ステータスを同一にすることではない。

cf.社会保障→BIをめぐる話、負の所得税、新自由主義を巡る話、配分的正義(cf.ミル「功利主義」)

部族社会と違って複雑化した「大きな社会」では各人の目的・幸福・貧困が異なるので一義的に「平等な配分」を設定できない

cont.→ アリストテレス「ニコマス倫理学」、ロールズ「正義論」、社会主義-設計思想、福祉国家論、所得再配分

正しい/正しくないは人間の行為においてだけ有意味であって、自然の状態においては意味を成さない。つまり人間の生物的属性に起因する能力の違いのようなことそれ自体については正しい/正しくないは発生しない。


ある行為が正しいか正しくないかは「その行為がもたらした帰結」ではなく「その行為が正しい振る舞いのルールに適合しているか(フェアかどうか)」によって決定される


「大きな社会」にとっての「一般的福祉」は、各人の目的追求の機会を改善するための諸条件の創出、であって、個々人の満足の合計を社会全体の利益として増大させることではない

cf.「帰結を問うのではなくルールの公正さを問う」、「機会平等」(セン)


このときの「正しい振る舞いのルール」≠「正義」は時代・環境・情況によって変化していく。明示的なルールがないところでも人々を「正しい振る舞いのルール」へと誘導する「正義感覚」はある。

この感覚は言語化されざるものに従い言語化する能力「言語感覚」同様、明文化することのできないルールに従う「正義の感覚」とされる。

それは、アプリオリに存在する「正義」を発見し正確に再構成する、ものではなく、進化の過程で人々の現実的な集団的な振る舞いや言語活動と相関しながら徐々に発達する感覚、である。したがって絶対的で不変なものではない。


それは消極的に普遍化可能なものであり絶対的な「社会的正義」ではない。

cf.タクシスーテーシスとしての正義や法、ケルゼン




ハイエクはまずもって手続きと機会平等の公正(フェア)を目指し、その帰結の平等・設計をすべきではないとする。

ロールズの正義論は配分的正義的だけど、よく読んでみるとプロセスの公正性を目指してるようでもあり、そうであれば賛成、との見解。


また、ハイエクが想定するコスモスにおける個人は合理的ではなく愚かで迷いやすい側面もある。それを誘導することも必要でありタクシス的制度、「制度・手続き的正義」(ロールズ)が必要な場合もある。

仲正昌樹、2011、「いまこそハイエクに学べ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/386797337.html


「絶対的な正義」や「絶対的に正しいルール(法)」は存在しない、だろうけど、なんとなく普遍的な正義感覚というものはある。たとえばアングロサクソンの良心と言われるようなアレとか。アングロサクソンじゃなくても日本人でもふつーに「良心」となんとなくいわれるもの。

その感覚は宮崎が「生きる力」という際にセットにしている良心的な部分にも共通するようにおもう。あるいは小田実が「世界人類、みんな異なるけれど普遍的に共通するところもある」といっていたところ。


それはいつでも正しいものではなく間違ったりもするけれど、生活と環境、歴史を通じて淘汰されてきた結果の集積、叡智だったりする。


そういったものに対してタクシス-テーシス的なものはあらかじめ幸福な結果・帰結をぶら下げそのアンシンをエサに人を釣ろうとする。



ミシェル・フーコーとベーシック・インカム / ル・モンド・ディプロマティーク
http://www.diplo.jp/articles13/1305foucault.html

「負の所得税=ベーシックインカム」は間違い : アゴラ - ライブドアブログ
http://agora-web.jp/archives/1461535.html


ここでフーコーが批判していたのはハイエクが言っていた「あらかじめ帰結を設定してフェアを度外視すること」に通じるのだろう。その短期的・具体的問題は『部族社会と違って複雑化した「大きな社会」では各人の目的・幸福・貧困が異なるので一義的に「平等な配分」を設定できない』あたりで、長期的問題としては生政治/生権力が関わってくる。

短期的な方は端的に言えば「生かさず殺さず」的な問題。


フーコーはいわゆる新自由主義を「権力の所在を分散させて隠蔽するイデオロギー装置」として論じるが、結果的にはそれが生政治によって人々を直接コントロールする「内政国家」を否定したことを評価する。その根底にあるのは、ポストモダンにも通じる超越的真理や特権的主体の否定である。

しかし、このように極度に脱中心化された統治形態は、自己否定的な存在である。それは(アロウの不可能性定理に示されるような)非決定性をはらんでいるからだ。したがって逆説的なことだが、自由主義と市場によって合理化された国家は、再中心化としてのナショナリズムや国家理性を必要とする。政府は限りなく合理的な主体として「国家戦略」を立案することを求められる。経済的自由主義をとったサッチャー・レーガン政権が、攻撃的な外交政策をとったことは偶然ではない。

池田信夫 blog : 生政治の誕生
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51294224.html

全体として何いってんだかわかりにくいんだけど、ハイエク的語彙からすればオイコス的なエコノミクス(古典主義的な合理的・設計的な経済設定)によって人の生が疎外されることの危険性ということになるとおもう。


「新自由主義」という言葉はバズワードで、その実態がなんともわかりにくいところがある。


ステレオタイプな見方としては「自由放任を題目にした政府による無責任主義」「貧困なんかかんけーねーから自己責任の名のもとに( ゚Д゚)<氏ね!」というもの


「どん底からでも努力次第で再スタートできる」なんて嘘に決まってる - 長椅子と本棚
http://d.hatena.ne.jp/dergeist/20130602/1370193810


ただ、そういう文脈で語られる「市場原理」というのはおそらくオイコス-タクシス-テーシス的なものであってカタラクシー(交換と自生)のほうではない。アンチ資本主義的文脈で語られるものもたぶん同様。


「フーコーが新自由主義を批判した」ということが記号化してて新自由主義批判の文脈でフーコーが使われることがあるように思うけど、そういうときしばしば上記のような勘違いがあるように思われる。

ついでにいえば負の所得税についても同様のようだし、

つーか、BIだとたぶん現在の福祉政策、福祉関係省庁をそのまま残す前提だろうけど、フリードマンが唱えた負の所得税は健康保険まで含めて一切合切福祉関係に政府が関係するのを辞めて、金と自由市場で解決する。


サッチャーについても誤解があるみたい、

サッチャー自身も誤解を受けた。「社会など存在しない、あるのは男女とその家族だけだ」という発言はあまりにも有名だ。孤立した個人の自己責任を重んじる主張として受けとめられた。『サッチャー回顧録』で、彼女は嘆いている。「私のいいたかったことは、当時は明解であっても、後に見る影もなく歪(ゆが)められてしまった」と。サッチャーは、むしろ人々の相互扶助精神に期待していた。批判の矢を向けたのは、国家を最初の避難所とみなす立場に対してであった。ハイエクのいう「真の個人主義」も同様で、国家よりも「社会的なるもの」を重視する。社会の再興を通じて、豊かな個人が育まれるとみなす新自由主義のこの含意は、これまでほとんど無視されてきた。

サッチャーの遺産 橋本努さんが選ぶ本 - 橋本努(北海道大教授) - ニュースの本棚 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト http://book.asahi.com/reviews/column/2013060200002.html


ハイエクとか自由主義についても同様の文脈で誤解があるのだろう。


未だ調べてないけどサッチャーが目指したもの、フリードマンが目指したものを文脈切除して政府が利用してしまった感がある。そしてそれも全体的に権力の大きな流れであり誰かのはっきりとした意志でもないような。システム-タクシス-理性から象った神の暴走みたいなの。



フーコーと三つのリベラリズム? - インタラクティヴ読書ノート別館の別館
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090612/p1



 国家によって規定され、いわば国家による監視の下で維持された市場の自由を受け入れる代わりに――経済的自由の空間を打ち立てよう、そしてそうした空間を国家によって限定させ監視させよう、というのが、自由主義の最初の定式でした。オルド自由主義者たちが主張するのは、この定式を完全に反転し、市場の自由を、国家をその存在の始まりからその介入の最後の形態に至るまで組織化し規則づけるための原理として手に入れなければならない、ということです。つまり、国家の監視下にある市場よりもむしろ、市場の監視下にある国家を、というわけです。(143頁)


タクシス-オイコスに依る管理

 新自由主義者たちにとって、市場における本質的なものは交換のなかにはありません。(中略)彼らにとって、市場における本質的なものは、競争のなかにあります。(146頁)


カタラクシー(交換と自由競争)ではなくハイパー・メリトクラシー的な設計された競争

 マルクスは、一言で言うなら資本の矛盾した論理のようなものを定義し分析しようとしました。これに対し、マックス・ヴェーバーの問題、そしてマックス・ヴェーバーがドイツの社会学的考察、経済的考察、政治的考察のなかに同時に導入したもの、それは、資本の矛盾した論理の問題よりもむしろ、資本主義社会の非合理的合理性の問題です。(中略)そしておおざっぱに言うなら、フランクフルト学派もフライブルク学派も、ホルクハイマーもオイケンも、この問題をとり上げ直したのだと言うことができます。ただし、二つの異なる向きへ、二つの異なる方向へと向かって。(中略)フランクフルト学派の問題は、経済的非合理性を解消するようなやり方で定義され形成されうるような新たな社会的合理性とはいかなるものでありうるのかを定義することでした。これに対し、資本主義の非合理的合理性の解読という、フライブルク学派にとっての問題でもあったこの問題を、オイケンやレプケのような人々は別のやり方で解決しようと試みることになります。すなわち、社会的合理性の新たな形式を再び見いだし、発明し、定義しようとするのではなく、資本主義の社会的非合理性の解消を可能にするような経済的合理性を定義したり、再定義したり、再発見しようとするということです。(130-1頁)


非合理的合理性(設計され得ないカタラクシー的な自生の中にある益を設計)、新古典的暗黙の設計


 資本主義社会、ブルジョワ社会、功利主義社会、個人主義社会に関してナチスによってなされた分析については、それをゾンバルトに関係づけることができます。(中略)ブルジョワ的かつ資本主義的な経済および国家は、いったい何を産出したのだろうか。それらが産出したのは、一つの社会、即ちそこでは個々人がその自然的共同体から引き離されて大衆といういわば平板で匿名の一つの形態のなかで互いに結合されているような一つの社会である。(中略)ゾンバルトには、実は一九〇〇年代から既に、その分節化と骨格とがどのようなものであるのか定かでないような思考の決まり文句のうちの一つとなってしまった周知の批判が見られます。それはすなわち、大衆社会、一次元的人間の社会、権威主義社会、消費社会、スペクタクルの社会などに対する批判です。(中略)以上はまた、ナチスが自らのためにとり上げ直したことです。(中略)
 しかし、と新自由主義者たちは言います。よく見ると、ナチスは、その組織、その政党、その総統支配によっていったい何をやっているのだろうか。ナチスがやっているのは、実は、あの大衆社会、画一化し規格化するあの消費社会、記号とスペクタクルからなるあの社会を際立たせることに他ならない。(中略)これはなぜだろうか。なぜナチスは、自らが告発しようとしているものを継続することしかしないのだろうか。それはまさしく、それらすべての諸要素が、ゾンバルトそして彼の後にナチスが主張していたのとは異なり、ブルジョワ資本主義によってもたらされた効果ではないからだ。(中略)大衆という現象、画一化という現象、スペクタクルという現象、こうしたすべては、国家主義、反自由主義に結びついているのであり、一つの商業経済に結びついているわけではないのだ、と。(139-40頁)



市場経済-資本主義の「欲望」-「内需」ドライブの社会的反映としての消費・スペクタクル・大衆・画一化という課題。ただ、これは後期近代の社会的課題であって市場の結果であり課題とはいえない感じ



まあいずれも稲葉さんとか池田さんの切り取りだからわかんないとこあるのでそのうち自分で見ていくけど。






ジブリ、あるいは宮ア駿の課題というのはこの部分につながっていて、「生きる」となんとなくキャッチコピーで言っていたのはこういった生政治とその社会的反映の部分。スペクタクルな消費社会的な情況における人の疎外の問題。それは経済(カタラクシー)的レイヤーからすれば「帰結」「結果」であり、いわば老廃物的なものともいえる。

「経済」「社会」というレイヤーは異なるレイヤーなのでコードも異なる。なので本来は2つのレイヤーを一緒くたに扱うべきではない。


ほんとなら反設計思想の次にこの部分を課題として政治経済→社会的な落とし所を見出していくべきだったのだろうけど、それは商業的にも宮崎の体力的にも無理だったのだろう。


仕方ないのでその部分は自分的に脳内補完してジブリの「生きる」の部分での進行に期待したい


(たぶん生政治的なところはなんとなくセカイ系的に飛ばして「日本人の元からの精神はー」みたいなところに着地するだろうけど、それが出来ただけでも御の字といえるのかもしれない)


ハイエクのとこにも書いたけど単に自由というだけでもうまくいかないし、「自己責任」な厳しさだけが正しさでもないだろうからその部分でカタラクシー以外の福祉という制度設計的スパイスが必要になるだろうし、そこがロールズやフリードマン介してお勉強してくところ。

そんで「正義感覚」同様なんとなくの「普遍的な良いもの」としてのモダニティの良い側面なんかも(cf.開発とモダニティ)



--
関連:

ついでにいっとけば「ナウシカ」もそんなに最初から成功が約束されたものではなく、最初は「なんか映画作りましょう」「アニメで」「原作がないのはダメ」「じゃあアニメージュで原作つくろう」になり金の引っ張り方も徳間康快的なエッシャエッシャがあったみたい。(「博打だからおまえも片棒担げよ」「あの絵のごちゃごちゃしたマンガですかぁ」、的なの)

「ナウシカ誕生秘話」
http://bit.ly/1bjmMXc

セカイ系イズムに飛んでないお金周りのリアルが面白い
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2014年02月01日

ソチオリンピックでの同性愛プロパガンダ禁止法周り雑感


ソチオリンピックの国際的反応は「ロシアが同性愛禁止だから開会式ボイコットしよ―ぜ―」て感じになってるけどその辺はまったく日本のメジャーなマスメディアでは触れてない感じ。

まあそれはいつもどおりだからいいんだけどこの同性愛禁止てのはどういうことなのかな?(キリスト教関連としてもどういう教理とかエートスとか政治経済的関係だろ?)と思って軽く芋づるとか検索とかしてみた。


【五輪】ソチ開会式にt.A.T.u.が出演?〜同性愛宣伝禁止法との関係は如何に〜|ロシアぶろぐ(仮)〜目指せ1日1ロシアネタ〜
http://ameblo.jp/lm116416/entry-11761729216.html



<法律の発案者の立場>

法律専門家の評価では、草案は明確な基準と定義を含んでおらず、その解釈はあいまいである。家族・女性・子どもに関する諸問題下院委員会のエレーナ・ミズーリナ議長は法案の立場を次のように定義する:

「私たちの法案は、非伝統的な性的関係の宣伝を禁じるものではなく、そのような宣伝が子どもたちを対象としたり、子どもたちにいずれかの性的指向を形成させる目的を持っているような場合にそれを制限するものです

「文化的または芸術的な価値を持つ作品は、『有害情報から子どもを守ることについての法律』で規制されることはありません」

「非伝統的な志向を持つ人の習慣が示されたとしても、それがプロパガンダではなく、子どもに何らかの植え付けを行うようなものでなければ、それは単なる情報です。ニュースのダイジェストもまた単なる情報であり、プロパガンダではありません。同性の二人の子どもが手をつないで歩いていた場合も、プロパガンダではありません。子ども自身がが自ら情報を探す場合、それが子どもにとって必要であれば、これも何らプロパガンダではありません。なぜならそれは子どもに対する植え付けを行う目的ではないからです」

「禁止は、子どもが参加する見物行事で同性愛に対する関心をあおるようなものに対してのみ適用されます」

「もし法律が採択されれば、ゲイ・パレードの開催は、子どもが参加せず、子どもの目の届かない場所でのみ可能になります」

文書によれば、非伝統的な性的関係を子どもに対して宣伝した場合、ロシア国民は4千〜5千ルーブル、公務員は4万〜5万ルーブル、法人は80万〜100万ルーブルの罰金が課せられる。また、法人が違反した場合、90日以下の営業停止行政処分となる可能性がある。政治学者たちは次のように確信している:この法律はよく考えぬかれた、バランスのとれたアプローチをしている。そして法律で定められている罰則も十分軽いものである。

「法律で問題とされているのは、未成年に対する宣伝の禁止であることを指摘しておくことも重要です。つまり、非伝統的な性的関係そのものを禁じているのではなく、制限についてさえ問題にされていません。ある社会集団の中での宣伝を禁止しているのに過ぎないのです」―このように、地域計画推進研究所のニコライ・ミロノフ所長は本紙に明らかにした。

要するに、同性愛そのものや活動自体を禁じているのではなくて、子どもに悪影響だから目の届くところでやるなってことなのね。しかし、ロシアの国内対応はいつも外国から文句言われるな―。

【悲報】レイキャビクがゲイをめぐってモスクワと断交|ロシアぶろぐ(仮)〜目指せ1日1ロシアネタ〜
http://ameblo.jp/lm116416/entry-11572095882.html


「同性愛禁止」法ではなくて「同性愛プロパガンダ禁止」法。子供とか未だ自我が固まってない層が混乱しないようにあからさまに同性愛とか喧伝するな、てやつ。

まあ自由主義とか民主主義とかが固まった先進国からするとはなはだ後進的とか未開発とか遅れてる野蛮みたいな感じなんだろうけど、印象としてはライシテと同じ。あるいはセクハラ案件のペアレンタルコントロールとか、「コンビニで子供の目に触れるところに置くな」とかそういうのと。


ヘイトクライムと「民主主義」と内政干渉のしきい値、みたいな話 (モダニティの帰結): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/386535100.html


初等教育段階、あるいは精神年齢が初等-中等程度だと共同体の「正しい」価値をそのまま信じることに疑いがないし、それを覆されると不安を覚える。そしてロシアは現在、後期近代化の途上なので伝統的価値とゲゼルシャフト的な価値との間で相克が生じている。
生活的なところではそれまでの「正しい」「ふつー」のライフスタイルを送っても貧困になったり不幸になったりしてるし、それに紐付いていたエートスも疑われたり。そして外来から新興層が入ってきて「自分達の食い扶持がやつらに奪われてる」という疑念も生じたり(コーカサスとか)。

そういったところでは民族的価値や宗教的価値に反動して紛争・事件が生じやすくなる。

このへんはインドの集団強姦とかフランスのスカーフ事件にも通じる。

元々の民族的性格←家族型にも依るのだろうけど、不安や不満を旧来の「正しい」価値観 → それに従わないものが悪いにすり替えて祭りをする

それは野蛮で幼稚なものだけど、現段階だと言っても聞かないのだからとりあえず刺激しないようにわけた方がいい。だから旧来の価値観を刺激するようなこと、不安をもたらすようなことを避けるようにするという処置はふつーにアリだと思う。とりあえずの妥協策として。


なので、この件に関して欧米など先進国から「同性愛禁止かー(野蛮人メー)」て誤解もアレゲだなと思うんだけど、そういったなかで日本は開会式参加というのはけっこういい選択なようにおもったり(エネルギー政策とか対中安保的に)。このへん中国とアフリカのエネルギー政策的な協調を思わせるけど、まあ国際的にもそんな感じに思われてるのかもしれない(北京五輪のときのスーダンうんたらみたいに)。



ちなみにロシアのこのへんの価値観はどういうエートスかと思ってちょっと調べてみたけどよくわからなかった。Synodosあたりにありそうかなと思ったけどコーカサスとかの経済的情況変化→不安・ガバナンス関連ぐらいだったし。

ロシア正教だろなということでWikipedia程度の知識だけど「正教会における聖伝の本質は、教会を形成していく人々の生きた体験の記憶である」とのこと。なのでプロテスタントと違ってバイブル教条的なアレで同性愛禁止てことでもないみたい。アルミニウス主義的てけとーさ(人道主義的おおらかさ)の影響かなあ。まあこのへんもどういう論理建てで同性愛への偏見が払拭されていったのかな?とか思うけど、関連本読んでたらそのうち分かるか。



あと、ロシアは外婚制共同体家族が多い地域ということで北インド、中国と性格を一緒にするみたい。なのでやはり今回の騒動はインドの事件に近いのだろう。


現代インドにおける女性に対する暴力 ―― デリーにおける集団強姦事件の背景を探る | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/3730



それにしてもライシテ的な感じで同性愛的表現は禁止てなったはずなのに諸外国からクレームあがったのを受けてかt.a.t.u起用してたらそれこそ同法の規定に触れるのではないかと思うけど・・あと、t.a.t.uだからまたお騒がせしそう。

そもそもt.a.t.uが売れた背景てどんなかんじだったんだろ?そういう価値の背景があるのだったら当時もけっこうな騒動になったのでは?とかおもうけど。当時と現在では情況が変わったのかな(特に調べず


t.A.T.u. - Wikipedia http://bit.ly/7NO8UM

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2014年01月30日

ヘイトクライムと「民主主義」と内政干渉のしきい値、みたいな話 (モダニティの帰結)



移民の運命 〔同化か隔離か〕

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この本を読むきっかけにフランスの昨今の右傾化/人種差別みたいなのが気になったのがあった。

「新ヨーロッパ大全」と「世界像革命」、そしてこれを読んだ現在、それもパリ盆地中心の普遍・平等的価値観に対する地方(特にオック地方辺り)の差異主義の流入ではないか?だとしたらそれは現地の経済的不安とセットのリアリティを持つのでは?とか思ってたんだけどそれもちょっと違うみたい。

すくなくともトッドはそういうこといってなくて、「とりあえず1965ー1990ぐらいになんか変わってきたねえ」「そのぐらいから文壇エリートたちがアメリカにならって差異主義とりいれだしたんだけど、パリの現状とあわないだろうから慎重になったほうがいいよねえ」、て話だった。


1965というのは1945+20、つまり戦後世代が成人してからということ

第二次世界大戦後生まれ世代の特徴として


高等教育のテイクオフ
脱工業化
経済の第三次化
出生率の急落
カトリシズムの崩壊
イデオロギーの解体


初等教育はとりあえず読み書きできるようになることを基本とするんだけど、そこでは未だ書かれたものが無自覚に信じられている。そこに反省、相対化(いわゆる批判的読み)が生まれるのは中等教育以降。

1965以降あらゆる統計指標が変化し始め、社会構造全体が急変する。

ついでにいうとドイツが初期工業化失敗したのはの失敗したのは「直系家族の土地と家系を重んずる性格が都市への移動を妨害したから」ということだった。


脱工業化 → 経済の第三次化(後期近代)な流れはこないだ説明した感じ



日本だと「社会が豊かになったのでマルクス主義のリアリティがなくなった」といわれてたあたり。日本だけの話でもなかったのだなあ、て。


そんでフランスの問題だけど、具体的には以前にあったスカーフの問題や最近の黒人女性大臣への差別


ヘイトスピーチ規制論争の構図――規制の「効果」と「範囲」をめぐって | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/society/6706

フランスの共和主義とイスラームの軋轢から「市民性教育」について考える | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/education/6632

黒人女性大臣への差別発言が示すフランスの人権感覚 - Global Press - 朝日新聞社(WEBRONZA)
http://webronza.asahi.com/global/2013121300004.html


プラド・夏樹さんのほうは「リベラルな国のはずのフランスが嘆かわしい」て論調でふつーな感じなんだけどシノドスの鈴木さんのほう(市民性教育とライシテの)がわかりやすかった。


欧米ではこの辺りがもうアンタッチャブル的なアレになってるのだろうから法制度化して規制してるようで、なのでちょっとしたジョークにも敏感になる面があるのかもしれない。昨今のANAの付けっ鼻(゚⊇゚)ガイジソーのアレでもそうだけど。まあアレは背後に「日本ではいつまでたっても(゚⊇゚)ガイジソー―扱いなんだ。。」てのがあったかなとも思うんだけど。



結論から言うとこの辺りの問題は価値観/主観/その土地ごとの生きられた経験に基づく生きやすさ・ガバナンスの違いが関わるので当該コミュニティに対して国家的に法制度化する、正しさを規定すると言うのはそれ自体が規律権力的な側面があるように思う。つまり環境管理型権力とかアーキテクチャがどうとかいう議論の法制度版。つかこっちのほうが元々だろうけど。

差別というのはその土地のそれまでの歴史・文化を背景にした経験的な智恵なところがあり、たとえば「人が定住し家畜を飼っていると感染症が生まれる。カーストというのは感染を防ぐための側面もあった」(マクニール)とか。そして偏見/差別に関して突き詰めていけばわれわれは日常の細かいところで、とても洗練された形でそういうことはしている。誰かと誰かを区別したり/差別したり。暴力として糾弾されないように証拠が残らないように暴力的なことをしたり。

あるいはそこまでいかなくても家族型の違いで地域ごとに価値観が違ったりするのでそういうところに一概にアングロサクソンの自由・民主主義を押し付けるのも違う感じ。

「そういった些細な区別と個人の性質では乗り越えられないような力となってあからさまに過剰な暴力として振りかかるのとは違う」

まあたしかにそれはそうで自分もそういうのは問題だと思う。んでも「正しい」と思ってることでも権力関係してるのは意識しといたほうがいいような。


そんでそこにライシテをめぐる自由とか曖昧な部分、あるいは日本国憲法をめぐる曖昧さが関わるように思う。


リンク先にもあるようにライシテはもともとは「カトリックの教義の影響を無理やり受けないような自由を担保するバッファ」的なものとして設定されたようだけど、それが現在では「ライシテ≠政教分離なんだからスカーフを巻いてきてはいけない」という自由を阻害するための記号みたいになってしまった。

こういうのはポリティカルコレクトをめぐる冗談にも共通している。


ポリティカリー・コレクト(政治的に公正)という言葉は1980年代からアメリカ合衆国で使われるようになった言葉である。もともとは左翼の人々が「マルクス主義者の僕が4つ星レストランで食事するのはポリティカリー・コレクトではない」、「私はフェミニストだから、あまりポリティカリー・コレクトではないけど、今日はマニキュアを塗ろう」というように、自分たちのドグマ的態度を自嘲するために使っていた言葉だった。

 その後は、女性、黒人、スペイン系、ホモセクシャルなどのマイノリティーを擁護する左派の多文化主義をもさすようになったが、保守派はそれを逆手にとって、左派の人々のマイノリティー擁護が度を越すことを「ポリティカリー・コレクト」と言って批判するようになった。フランスでは、1990年代から米国と同じ意味合いで使われるようになり、前出のエリック・ゼムール氏がショック発言をするときの決まり文句は、「ポリティカリー・コレクトなことばかり言っていると論議が発展しない」というものである。

黒人女性大臣への差別発言が示すフランスの人権感覚 - Global Press - 朝日新聞社(WEBRONZA)
http://webronza.asahi.com/global/2013121300004.html


ポリティカルコレクトのそれは冗談にしても一旦正しさが教条化して記号化すると一気に人を責めるための道具になる。赤狩りの道具ぽく。


なので、このへんの話で大事なのは「正しさを最初から設計するのではなく、その場のそれぞれの人が快適(自由)を感じられるようにする」ということなのだろう。それも「とりあえず」な感じで。完全を設計するなんてできるわけないのだから問題が生じるたびにすぐに修正できる体制のほうが大事なので。


中国やインドの例もそんな感じ。


習近平政権が恐れているものは何か。 - 梶ピエールの備忘録。
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20140128/p1

現代インドにおける女性に対する暴力 ―― デリーにおける集団強姦事件の背景を探る | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/3730

インドは「世界最大の民主主義国家」か?――競合的多党制のもとでの政党政治 | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/6345



「アジア三国志」の雄二つなんだけど、諸外国が気にするのはガバナンスで、アメリカを中心とした民主主義国はそれを「民主主義が定着すれば落ち着くはず」としてアフリカをはじめとした低開発国への支援方針としてそれを掲げてた。しかし、けっきょくそれは民主主義という正しさの押し付けで、経済的なパートナーとして最初から目していた中国が結果的にアフリカの生活を底上げし強いパートナーシップを結ぶこととなった。


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この辺りの話はDV、児童虐待家庭への内政干渉に似ていて「押し付け的な『正義』はダメ、とはわかっていてもあるしきい値を超えたら放っておけない」というのはある。スーダンのジェノサイドみたいに。

なので「その場のそれぞれの人が快適(自由)を感じられるように」というのは意識しつつも普遍的な指標、しきい値のようなものはあるようにおもう。

あと、「与えるばかりが援助ではなく自助的に努力できるように寄り添う」的なあれも。


開発援助の場合はモダニティに通じるとりあえずの経済発展を目指すこと、貧困・虐待・共依存的な家庭・カップルの場合は当人たちが健康で文化的な満足を感じられるような基礎的な経済基盤への橋渡しをすること。


そういうとき、ただ与えるよりも「当人たちにとってなにが本当の満足≠自由につながるのか?」という見極めをするほうがコストがかかる。時間を始めとした、じっくり付き合っていくコスト。それぞれの性格の見極めとか。情勢の変化の見極めとか。



インドの場合、北部が外婚制共同体家族で南部が非対称共同体家族になる。


父系権威なので直系家族の異型に思えがちだけど平等家族とのハイブリッドと考えたほうがいいのかもしれない。北部は男性権威共産主義、南部は母系共産主義。。かなあ。

インドと言う場合、思い浮かべられるのは北インドが主で、ムンバイなんかもギリギリ北インドに属する。

おーざっぱにはインドはもともと住んでいたドラヴィダ人をアーリア人が侵略、ドラヴィダ人が南に移り、その際の支配の階級を固定するためにカーストが発案されたぽい。それにヒンドゥーが紐づく。

なので南インドの人にとってはヒンドゥーとかびみょーだろうけど右派のbjpなんかは「ヒンドゥーの元にインドを統一!」な感じらしい。まあケルト≠ドラヴィダとしたらイングランドにおけるローマ・カトリックがヒンドゥーなのだろう。そんでイスラームはヴァイキングというかプロテスタントというか。

そんで最終的にオランダ・イングランドというアングロサクソンに統合されたのでコモンウェルス的性格も有する。実際イングランド移民の30%はインド人だそうだし、英語領になった影響が大きい。

この「英語圏」が「アジア三国志」でも中国に比べて評価されてたんだけど、それと民主主義あるいは自由主義というのは直接には関係しない。

家族系から言えば北インド、中国は共産主義的な地域で、中央集権で設計思想して行くのが適したところなのだろう。

ただ、インドの場合、南インドは母系の巨大共同体ぽく、そのあたりの価値観が将来的にどう絡み、内部で止揚されていくのかなあとかおもうけど(ライシテみたいなのできるのかな)。内部で価値観の対立があるにせよとりあえずはモダニティが価値観とガバナンスの平均的な落とし所となるのだろう。

トッドが指摘してるのはたぶんそういうこと



モダニティというのはアングロサクソンが作り上げた自由主義的価値観とヴァイキング・商人的プラグマティズムに基づく楽観的集約なので。商人の利益集約的な価値観というのは一昔前のマルクス主義な頃なら個人主義(ミーイズム)としてなじられた。


ただ、このへんも言語化がめんどい部分で、モダニティの真髄は単なる個人主義というか自由主義なところにあるように思うので。自由主義に基づいた創発民主制。つまりハイエクが指摘してたあたり



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そういう「設計できないような自由をどのように設計するか」みたいなのは必要になるのだろう。


中国の文脈も同様でアメリカほか「自由主義国」が外部から民主主義を押し付けてくるのにはイデオロギー闘争的な警戒をし、国民もそれに同意してるようなのではねつけやすい。そういうなかで内部でも海外とつながらずに内部から人権拡張をする流れが出てきていて、当局としてはこういう流れだと一概に否定出来ないのでこっちのほうが怖いみたい。



なんか散漫になったのでいちお要点もっかいゆっとくと「『正しさ』みたいなのは現地の人の事情によってそれぞれだから外部から決めつけできないし情況によるんだけど、それでも普遍的・最低のしきい値みたいなのはあって、それを可能にするような制度設計はできるだろうし、制度というのはそういうバッファを意識して設定したほうがいい」みたいな話。


人権とか「最低限の自由」に関わるそれも現地のもともとの価値観(エートスや家族型、それらに付随したハビトゥス)などのほうが優先される場合もあるだろうけど、それでもなお平常状態で人類普遍に最低限共通するものはありそう。「暴力で痛めつけられるの嫌」とか

インドの集団暴行なんかは猫の大虐殺と同じ前近代的な幼稚・低能さを想わせる。教育というモダニティの導入によって内省→精神的成長が期待される。






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関連:
たったひとつの冴えたやりかた: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384420579.html


posted by m_um_u at 19:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年01月27日

アルミニウス主義 → イルカ → 「明日、ママがいない」

「ヨーロッパ大全」の上巻で気になってたところ「親子関係も兄弟間も不平等な直系家族が形而下では自由を形而上では不平等に納得してプロテスタントに行くのはわかったけどイングランドはどうなるの?」について。下巻で確認したところ「イングランドはアルミニウス主義に行ったから」ということだった。


アルミニウス主義はpdfにもあるようにエラスムス vs. ルターの流れから出てきたもので、エラスムス的なギリシア人文的な自由に連なる。あとここでたぶん人道関連絡んでくる



絶対核家族であるアングロサクソンは自由主義的傾向が強い。なので形而下の世界で教会に支配されるのはまっぴらだし形而上でも自由でいたい。カトリックでは前者がきついしルター派プロテスタントでは後者がきつい。結果としてオランダ → イングランドではアルミニウス主義が受け容れられた。


ヴェーバーはアングロサクソンの宗派を一口にプロテスタントといったようだけどドイツとイングランドのプロテスタントは違うし、名誉革命以後のイングランドの中枢はオランダの流れだからオランダの影響ぽい。そんでアルミニウス主義の影響が出てくる。

(※プロ倫のこの部分はこのエントリ用に確認しとこうかと思ったけど今日はつかれたのでメモ程度で >マックス・ヴェーバーは論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、カルヴァン派の予定説が資本主義を発達させた、という論理)


プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
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予定説だと努力無駄になっちゃうし形而上でも縛られちゃうので自由主義な絶対核家族圏では合わなそう。なのでアルミニウス主義。


 私がグッドウィンに目をつけたのは、彼の考え方に特異なものがあったからです。それはアルミニウス主義です。アルミニウス主義については、日本はもとより、海外でもひじょうに研究がすくなく、おまけに、その内容がじゅうぶんに理解されることなくことなく、現代のインターネット上ですら、アルミニウス主義をヒステリックに非難する論文を見ることができる始末です。
 この原因は二つ考えられます。一つは、アルミニウス主義がカルヴィニズムとまっこうから対立したことです。イギリス革命の推進者としてピューリタンの存在が強調され、彼らの正統的教義がカルヴィニズムでした。カルヴィニズムは、ふつう宗教改革者ジャン・カルヴァンの教えとされ、十七世紀初頭のヨーロッパでは、カルヴィニズムこそプロテスタントの正統的教義だという風潮がひろまっていました。アルミニウス主義は異端的教説として弾圧され、イギリス革命研究においては、長いあいだ、反革命のイデオロギーとしてかたづけられてきました。
 もう一つは、マックス・ヴェーバーの影響です。彼の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫)によれば、カルヴィニズムは近代資本主義の精神である禁欲的生活態度や合理性を支えてきたものであり、一方、アルミニウス主義はそんな精神とは何のかかわりもない、むしろ反動的な教えでした。戦後日本の社会科学におよぼしたヴェーバーの影響はとても大きく、歴史研究の分野でも、ヴェーバーの見解にひきつけた研究やカルヴィニズムに関連した研究が多く出ました。アルミニウス主義など見向きもされなかったのです。



イギリス革命の宗教思想―ジョン・グッドウィン研究
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近代イングランドの心性史関連でこの本できれば読みたいんだけど、、専門書過ぎて近くの図書館にない。。



そんで、アルミニウス主義を受けたのがメソジストバプテスト、つまりアメリカの二大宗派はこの流れぽい


アナバプテスト - Wikipedia http://bit.ly/1lgfU6q

メソジスト談義2 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/592527


自分的にはアメリカのアングロサクソン的な自由主義的な価値観のところで平等主義に連なる人道主義が出てくるというのは不思議感があって「フランスからの影響か?」と思ってたけど、アルミニウス → バプテスト/メソジストが最初から人道主義をインストしてたというのなら納得感ある。(まあそれを幼いうちからどれだけインストさせてるのかはわからんけど

あと、疑問としては人道主義的なエートスが最初からインストされてるのであれば南部の差別というのはどう処理していったんだろ?ってことだけど(´・ω・`)そのへんはまた別の話だったのかな



そういや最近キャロライン・ケネディ女史のイルカ漁非人道発言が軽く話題になってたけど、あれもこの文脈のように思う。


捕鯨問題、あるいはイルカ問題というのは欧米人(アングロサクソン)にとっては人道問題と不等号で、それはその人種 / 民族に固有の属性の違いから生じる問題というかたぶんエートスの問題に連なる。宗教的価値観として幼いうちから血肉になってるものなので。

あと、この問題を「食をめぐる文化の違い」として対抗言説張るのも間違い。彼女たちにとっては正しく人道的問題なので。


昔から「文明とは何か?」を問うときに「文字を読めること」「同じ言葉をしゃべること」で判断するところがあってそれができなければ「野蛮人(バルバロッサ)」あるいは「人非人」として扱われてきた。南部、あるいはプランテーション農場における黒人の扱いなんかはそんな感じだったのだろう。


それは現在からすると「非人道的」ということにはなるんだけど根本的な価値観とかエピステーメーが違ったのだろうから仕方ないところもある。そういう価値を幼いころから血肉にしていたらそれが当然になるだろうから。


なので南部の人間たちにとっては北部の価値観でいきなり自分達が「人非人」「非人道的」扱いされたのは憤懣やるかたない所があったのではないか?


もちろんそれと奴隷へのひどい仕打ちとは別だけど。


話がそれたけど「言葉をしゃべる」というのが「自分達と同じ仲間」「人道的に守るべき」ということの指標になるところがあるようで、イルカやくじらは「言葉をしゃべる」ぽいので人間の仲間なのだそうな。豚は喋らないようだし家鴨も喋らない。なのでブータンノワールやフォアグラは別。


といってもフォアグラの「残酷」な作り方は問題にされてるみたいで、残酷でない作り方みたいなのが工夫されてるようだけど。ここも文化帝国主義的な文化をめぐるヘゲモニー的な問題が関わってきたり、あるいはその背後にオトナの事情的な経済的なホンネが隠されてたりする。フォアグラの場合は単にワインをめぐる代理戦争になってる面もあるようだし。(「フォアグラを馬鹿にするならアメリカワインは輸入しないぞ」←カリフォルニアワインに負けた腹いせぽい



とりあえず「言葉をしゃべる仲間」に加えて「残酷」な漁の様子を恣意的に切り取った映画を見せられて憤った、ということ。

人道的に怒ってるところに「これは伝統的な漁だから」といっても「人を大量に狩るのが文化なの?」的な反応になるだけ。




まあそういうめんどくさい話以前に「残酷なシーンを見せられた」ということによる心理的動揺がメインだったのだろうけど。さいしょに動揺・憤りがあって「人道的」という言葉は後付けしただけな感じ。そしてそれに対する「文化だから」も同様。クジラ漁が禁止されて1970年代から再開したものの何が伝統なんだろって感じだし。



露悪的表現をめぐるうんたらについては最近話題になっていた「明日、ママがいない」うんたらでも少し考えた。

いちお2話だけ見てみたけどいつもどおりの野島伸司節で自分的にはこの枠でやっていた「家政婦のミタ」のあざとさ・わざとらしいつくりと同じエグミを感じた。あるいは「家なき子」でも「聖者の行進」でもいいけど。つまり「ベタなフィクションだなあ」てこと。

そのベタさをファンタジーとして流せるか否かというところがちょっとした争点になってるぽい。


擁護派は「表現の自由だから」「ファンタジーだから」とするんだけど否定派は「やり過ぎ」「現実はあんな感じではない」「誤解される」「実際に『ポスト』といっていじめられた施設の子がいる」とか。


1話を見た段階での抗議はこの『ポスト』というあだ名のエグさに関するものが多かったみたい。

まあこれもあざとい演出なところで実際にそんなアダ名付けられる子がいるのかな?とか思うけど、、あざとさといえば施設長が子どもたちを「お前たちは犬だ。ご主人様に気に入ってもらえるように可愛くほえろ」みたいなことを散々言ってるのもなんかわざとらしい。

創作関連のとぅぎゃったまとめみると「そのわざとらしさがしきい値超えるぐらいに設定されるのでファンタジーとして観客を納得させられるはずだ」ってことだったんだけど、それで「ファンタジー」として納得できずに抗議なストレスが残った人たちがけっこういた、と。

このへんは「おおかみこども」をめぐるアレでもあったように、それぞれの生きられた経験やアイデンティティに基づく主観的な感覚の違い / コードの受け取り方の違いがあるのでなんとも言いがたいんだけど、、実際に「耐えがたく不快に思った」とか「いじめに発展した」という事態が生じてるのならそれには真摯に対応すべきなように思う。

だいたい放送前から養護施設の代表的な団体にマスターテープかなんか送ってフィードバックもらって、そこでも抗議受けてたのに構わず修正せずに放送したっていうのだから確信犯といえば確信犯だったんだけど。。



まあこのドラマの制作スタッフはそういう落ち度があったとしてここでも出てきた「あざとさ」「演出」「敢えて露悪的に表現する」「見せちゃいけない部分を見せる」ということについて。


他者の苦痛へのまなざし
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「これはアートだから」「アートというのは人を不快にさせるギリギリの境界を取り出してみせるものだから」みたいなのを免罪符に人の神経を逆なで釣りしてる表現というのもけっこうあってそういうものは好かないんだけど、人はそういうエログロ露悪的な部分に惹かれるところがあるみたい。

バタイユはそういう人間の陰の部分を否定するのではなく寄り添おうとして百刻みになった中国人の写真をデスクに飾っていたらしい。そこから感情移入を通じて引き起こされる苦痛が一定を超えると変容し得られる高揚を期待して。


エロスの涙 (ちくま学芸文庫)
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このへんはバタイユの変態的なところ、SM的なアレも絡んで最初から「苦痛」って感じでもなかったのではないかと思うんだけど真面目なソンタグとしては「敢えて他人の苦痛を見ることの意義」として考えていた。

この本は全体的にそんな調子で「写真論」におけるエッセイのいちテーマを引き伸ばしたような長さとゆるさだった。

結論的には「他者の苦痛でさえスペクタクルの素材となるのだ」ということになり、そこから出ていけなかった感だけど


スペクタクルの社会 (ちくま学芸文庫)
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「スペクタクル」という言葉は現代のネット、ついったなんかだと「人をコンテンツとして愉しむ」といったほうがしっくりくるのかもしれない。あるいはネット時代になってスペクタクル感が自分達の課題として降りてきて実感できるようになった。



他人を楽しみつつも自分もそのマトリックスに含まれてるわけだからそのマトリックスの審級の是非を問い、そこから自由になることを考えたほうがいいように思うんだけど、そういう視点もなくマトリックスに没入していく人たちはけっこういる。承認欲求がどうとか言うのもそんな感じだし。




そういう問題というのはけっきょくは自分の立ち位置と「他者を他者として認めること」「認めた上でコミットすること」「コミットとはどういうことか?」というのを考え真摯に対応していくということで済む話のはずだけど。

他人を「他者」として認められない部分が消費されたりてけとーにつきあったりってことで流されていく。


その消費の現実にナイーブになるなら速度をゆるめて対応していけばいいと思うけど、そこでのナイーブさというのは人によって異なるから「どれが正しい」とか本来は言えないことのようにおもう。

われわれは日々ネットやテレビで他人をコンテンツとして消費するし他の生物を食べて生きているので。本来それ自体が残酷でグロテスクなものだし。


そういう本質的なところがあるにせよ細かい違和感というのは残るのか。だったらイルカを殺すうんたらが気になるならその残虐な現場を見なければいいしフォアグラが残酷だと思うならそれを食べなければいい。「明日、ママがいない」というドラマがリアリティがないと感じるなら見なければいい。


それだけのことだと思うけど「不可抗力的に見てしまった」「摂取してしまった」みたいなこともあるのだろう。あるいは「たまご生産の現場で数量調整のために長靴でヒヨコを踏み潰してるなんて知らなかった / 知りたくなかった」みたいなの。そこで自分達のすばらしく理性的/文化的な生活の化けの皮がはがされるわけだから。

彼らが憤るのは本当はそういう部分、外部からいきなり自分の化けの皮が剥がされそれに自分が気づいてしまうことに対してなのだろう。その不安と動揺、あるいは羞恥の回収。

こういう問題はプライバシー権をめぐるあれと似てる。「自分が装いたい自分を演じられる権利を他人が無思慮に剥がすべきではない」というアレ。同様に自分達が本来残酷なものであること、あるいは世界に悲惨があふれていることをことさらにつきつけられたくはない、ということ。スカートめくりにも似てる。

ただ、そういった穿った見方とは別に単純に他者の苦痛に対して同情する気持ち、やさしさみたいなのがあってそれを否定すべきではないと思うけど。


「知らなかったこと」と純粋な善意みたいなものからの衝撃と憤りというのはだれでもあることだから鈍感になってしまった立場からバカにするのはそれ自体がハラスメントでありセカンドレイプ的なものに思えるけど、まあたしかに、「馴れろ」とは思う。他人に修正を求めてもキリがない問題なので。

そういう場合、自分だと日記とか書いたり、立場的に自分と対等な相手とフェアな話し合いをするなかで自分の中の感情のざわめきを見つめ、収めていくように思うけど。そういうことが出来ない場合、「よりまっとうな料理で口直し」みたいなのが妥当だろうか。


わざとらしくことさらに露悪的な、人工甘味料のようなベタつきを忘れられるような


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イルカの人道話関連でフランスにおける差異主義の流入とヘイトスピーチ/クライム、規制についてうんたらもしようかと思ってたけど、さすがに長くなったしネコも「寝よーよー」て感じなので今回はこの辺で





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関連:

松本大洋 インタビュー - Time Out Tokyo (タイムアウト東京)
http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/7599



Mangaka Interview & More by Misaki C. Kido | 松本大洋インタビュー(日本語版):Mangaka Interview by mckido
http://mckido.com/post/53883268138/mangaka-interview-by-mckido


マウイの Whalers Villege ショッピング・センターには、捕鯨博物館があり、そこには捕鯨の歴史が淡々と綴られている。鯨油や鯨蝋(げいろう)が石油の代わりを果たし、鯨ひげがプラスチックの代わりを果たした時代に、その商業的価値のために、大量の鯨を虐殺して来たこと、ラハイナの待ちが捕鯨で発展して来たことなどを、歴史の一コマとして描いている。

捕鯨博物館の出口には小さな映画館があり、鯨がダイナミックに泳いだりジャンプしたりするさまを映し、鯨の生体や、ハワイの観光産業にとっての価値を説明している。

そこにあるのは、捕鯨という「過去」と、観光資源・人類の宝としての鯨の「現在」の対比だ。

つまり、米国人にとっては、捕鯨は「奴隷」「人身売買」「ネーティブ・アメリカン(=インディアン)の虐殺」「女性差別」などと同じく、すでに過去のもの、人類が野蛮だった時代に犯した過ち(もしくは必要悪)の一つでしかないのだ。

それは人身売買と同じく、現代では許されない「野蛮な行為」なのだ。

米国では、今でもごく一部だけネーティブ・アメリカンによる捕鯨が認められているが、これは米国政府が彼らから土地を取り上げた際の契約に基づくものであり、決して「ネーティブ・アメリカンの文化を守る」ためのものではない。

Life is beautiful: 米国人にとっての捕鯨・イルカ漁
http://satoshi.blogs.com/life/2014/01/japan.html

イルカはあなたが思うほど賢くない - WSJ.com http://on.wsj.com/1fjonyn
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2014年01月22日

¥地理(農業→病原菌)¥交換(経済)¥生産様式¥家族¥エートス¥制度



バークの「省察」は自由主義の基本というか、自由主義的なものをインストしてる人のふつーの感じって本だったんだけど
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385688514.html


その中でやたら権利章典やら民衆に依る自由の基本的なところ(野放図な自由以前にルールがあるがそれは国家ではなくわれわれが慣習としてつくってきたものだ)という話の裏付け的なものを見たくてこれを読み始めたんだけど外れだった。。



イギリス近代史講義 (講談社現代新書)
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期待していたのは個人・自由主義の真髄・歴史、アングロサクソンの精神史。大衆レベルから「自由」とその背景としての慣習法がどのようにつくられていったのか?そしてどのようにそれを尊重し価値として精神に刻まれてるのか?という歴史語り。


そしてそれがどのように平等と自由の価値を宥和させ「人権」を介して近代的な民主主義の形に成っていったのか?


アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)
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イギリスが産業革命でテイクオフした理由の基盤のところにレントからプロフィット(つまり近代資本主義)に変化したからってのはあるのだろうし、その経済系・制度変化のところで価値観・エートス関わったのだろうけど、そのあたりの説明。


トッドもいってたように「イギリスというのはむしろ遅れた国で、フランスのほうがシステムとしては先行してたけどその遅れ、単純さがゆえに工業・産業化にうまくハマってテイクオフ出来た」+「オラニエ公ウィレムをオランダから迎えてプラグマティックになっていった」があるみたいなので


E.トッド、「新ヨーロッパ大全(T)」、「世界像革命」読んで、今後のお勉強流れと雑感: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385084577.html?1389614798
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385418548.html


その辺の「むしろ遅れていて、大衆一人ひとりがあたま空っぽだったほうが工業化→産業化には都合が良かった」あたり。ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの変化というか。。


川北さんの新書はそういう近代的変化を「都市化」「消費のドライブ」「ジェントルマン資本主義」という切り口から説明してるぽい(いま読んでるとこだけど

「消費の側から見れば、成長を推進してきたのは、都市化そのものなのです」(82頁)。

「「経済成長」という概念は、ヨーロッパを中核として成立する近代世界システムの基本イデオロギーだというのが、私の見方ですが、したがって、時系列数表もまた、ヨーロッパに誕生します」(110頁)。
「需要の問題、つまり綿織物はなぜ好まれたのかということを見ていくと、必然的に生活文化の問題になってきます」(159頁)。

「しかし、そういう考え方にしたがえば、イギリス人が勤勉に働いて、禁欲的にして、できたものは誰が買ったのかという問題が残ってしまいます。消費需要の拡大が説明できないのです」(197頁)。

「この人も、「衰退はない」という議論ですが、「衰退感」はあるというのがその主張の特徴でした。サップルが問題にしたのは、人間の欲望はどんどん拡大していく。右肩上がりに上がっていかなくてはならないという、先に申しました「成長パラノイア」です。生活レヴェルは上がっていかなければならない、という欲望はあるのだけれども、それに対応した経済成長ができていない。そこがイギリス人の「衰退感」の原因であるというのがサップル教授の見解です」(248頁)。

本書を通じ、ジェントルマンの定義(=貴族及び平民たるジェントリから成り、有閑階級として独特の教養と生活様式を維持することが求められ、一部はやがてシティと一体化していった当時の大地主たち)や経済合理主義だけで産業革命が発生した訳ではないこと(177〜185頁、例えば社会的間接資本の担い手の問題)など、非常に多くを学ぶことができた

Amazon.co.jp: イギリス近代史講義 (講談社現代新書): 川北 稔 http://amzn.to/1bZ9YJ3





・・精神史ということだとアナール学派系に期待したほうがいいのかなあ。。しかし二宮宏之さんフランス史だし。。


二宮宏之 - Wikipedia http://bit.ly/1bZelnq




関連でぐぐってたらなんかこんなの見つけて、そういや「読むもの」メモに入ってたなあ、と


国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源
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レビューをいくつか見るとダイアモンドの地理的な決定論を受けつつ「( ゚Д゚)<いや、制度で決まっていったんだし!」といってる話みたい。収奪的制度と包括的制度という言葉がキーになるみたいだけど、レントからプロフィットってことだし組織的には伽藍からバザールへて話ぽい
本書は、様々な歴史的事例をレビューし、持続的な経済成長の必要条件は「包括的制度」であると説きます。裏を返せば、持続的な経済成長に失敗した国家は、既得権層から富を奪う可能性のある技術革新を阻害する「収奪的制度」が選択されていたり、「包括的制度」の持続を担保する中央集権化に(ソマリアのように)失敗しているということになります。また、「包括的」「収奪的」いずれの制度が選択されるのかという点については、名誉革命・明治維新・フランス革命のような歴史的偶然(経路依存性)に左右されるとされます。
経済成長の条件を考える上で、本書が指摘する視点は一定の有益性を持つと思います。この種の議論でクローズアップされがちな政治的指導者の資質論・地理的決定論・文化的決定論を排し、最近の経済学の重要な一角を占める制度の経済学のフレームワークで一貫した論旨は分かり易いと思います。

ただし、本書の立論は前近代まで含めた歴史の議論としては、やや一般化の度合いがきつめであるように見受けました。「包括的」「収奪的」制度の峻別はかなり曖昧(江戸時代の日本やオスマン帝国は「収奪的」なのか?)です。また、持続的経済成長の失敗を全て収奪的制度(包括的制度の欠如)に帰する議論は、歴史的な見方であるとは言いにくいと思います。イギリスの持続的経済成長が1688年の名誉革命から現在まで継続しているとしても、325年の歴史です。著者が「収奪的制度であった」とするローマ帝国、オスマン帝国、宋・元・明・清、戦国〜江戸期の日本などでも、それ以上の期間に渡って(近代経済成長の様ではないにしろ)経済成長があった可能性は否定できないでしょう。歴史解釈という点においても、本書の視点(ex.ローマ帝国衰退の原因が共和制から所謂帝政への移行にあった)には疑問符が付く箇所が散見されます。

本書の分析は、“創造的破壊”が決定的な重要性を持つようになった近代経済成長以降の時代に適用範囲を絞るべきであったのではないでしょうか。この種の「大きな」歴史の話をするには、エイミー・チュア『最強国の条件』が提示したような緩い枠組(各時代の最強国家は、その時代で相対的に最も「寛容」であった)にしておいた方が良いのかも知れません。
上述の通り、無益な書ではないと思いますが、各界から「絶賛」される程の評価には少し違和感を覚えました。
http://morutan.tumblr.com/post/74155336373

「銃・病原菌・鉄」が産業革命以前の人類の発展の歴史を描いているとすれば、本書では産業革命以降の発展の要因を描き出している。

産業革命のような技術的・資本的発展を行うためには、権力が法に基づいて公平に執行され、事業家が投資や技術革新を行うことによる利益が得られる体制が必須であると喝破した。

著者は、政治体制と経済体制の二つについて、包括的(公平な法に基づく統治)と収奪型(一部の特権層が利益を独占する)の二種類に分類して、包括的な政治・経済体制を持つ経済だけが長期に発展できると定義する。

中国のように、政治体制が収奪的であっても、経済体制が包括的であれば、資本の蓄積による一定の発展を遂げることができるが、技術的革新(全要素生産性の向上)が起こらないので、余剰労働力がなくなった時点で経済成長は止まるとしている。

本書の主張には一定の説得力がある。少なくとも北朝鮮のように極端に収奪的な経済体制のもとでは、経済は全く発展できないことは論を待たないであろう。

しかし中国やシンガポールのように収奪的政治体制と包括的経済体制を持つ国の全要素生産性の伸びが、日本や欧米のように包括的政治体制を持つ国よりも劣るのか、という点について、私は100%確信を抱くには至らなかった。

本書の難しいところは、単に民主主義にして選挙を実施するだけでは、包括的な体制は作れないとしていることである。選挙の不正があるかもしれないし、選挙を経ても一部のエリート層の権力は温存されるかもしれないからである。

そのため、何を持って「包括的」「収奪的」と判断するのかの定義が曖昧であると思われる。少なくとも本書の中では、その定義は十分ではない。

また、包括的制度に移行するためには、偶然や幸運によるしかないと述べており、それが正しいのであれば、アフリカ・中東・ラテンアメリカなどの発展は極めて難しいと言わざるを得ない。

国際社会は「援助」などという生ぬるいことをやめて、強制的にでも包括的制度へ移行させるための道筋をつけるような手段が必要なのであろうか? どうやって?

読書の楽しみという面から見ると、本書は繰り返しが多すぎて冗長な本であると思うので、総合点としては星4つとした。一般向け書籍と考えるなら半分の量で良かったのではないだろうか。専門書として考えれば、数表などがもっと欲しいところであるし。

訳は読みやすく、稲葉振一郎による解説も大変良い。首を長くして日本語版を待っていた甲斐があったというものである。


国家の繁栄と衰退は、その国家が採用している政治・経済の制度にかかっていると論じている本です。

その政治・経済の制度は、包括的なものと収奪的なものの2つに分けることができるとしています。
包括的とは、権力や富が幅広く分散し、中央集権による法の秩序の元で公平性が担保されていること、
収奪的とは、権力や富が一部のエリートに集中し、独裁者の裁量若しくは法の秩序の欠落により公平性が歪められていること、と定義しています。

また、包括的な制度を採用し、その正のフィードバックにより更に包括的になることで、より繁栄し、
収奪的な制度を採用し、その負のフィードバックにより更に収奪的になることで、より衰退するとしています。

更に、包括的・収奪的のいずれが採用されるかは、
その国の制度、権力の構造、岐路での決断、歴史的偶然などによって決まってくるとし、
それがいかに小さなものでも後々に大きく影響を及ぼすとしています。

そして、包括的制度は、国民のモチベーションと産業のイノベーションによる創造的破壊を上手く取り入れることによって国家を繁栄させ、
収奪的制度は、これらを排除・弾圧することによって国家を衰退させる、としています。

そのうえ、国家として採用される制度のデフォルトは収奪的なものであり、
よほど意識的な決断がない限り包括的な制度を採用・維持し続けることはできない、とされています。

以上が、本書の要約ですが、包括的・収奪的な政治・経済制度というシンプルな枠組みで、
国家の繁栄と衰退の理由をかなり説明できているという点に本書の価値があると思います。
社会科学の分野ですから、本書の枠組みの例外は当然あると思いますが(本書では提示されていませんが)、
本書で採用されている豊富な事例を踏まえると、かなり強力な理論なのだと思われます。

本書でも触れられていますが、開発経済が上手くいかない理由も本書を読めば納得できると思います。
収奪的な制度を採用している国に、いくら経済援助をしても一部のエリートに富が集中するだけですし、
民主主義のルールを形だけ採用させても、一部のエリートがそれを都合のいいように利用するだけです。
最悪の場合には善意による経済開発援助が収奪的な制度をより強固にしてしまう場合もあるようです。

デフォルトが収奪的制度であるが故に包括的制度に移行させるのは容易ではないことですけれど、
制度は人が変えられるものですから、衰退し貧困から脱却できない国(民)が一筋の光明を得られるのは良いことだと思います。

なお、本書が対象としている国家の繁栄と衰退については、
類書として著名な、ジャレド・ダイアモンド氏の『銃・病原菌・鉄 上下巻セット』があります。

本書では、『銃・病原菌・鉄』では説明できない繁栄と衰退の実態があるとして、この理論を否定しています。
確かに『銃・病原菌・鉄』は地理的特性によって繁栄と衰退が決まるとしていますので、
本書で挙げられた同一地域での繁栄と貧困の格差の理由は説明できませんから、否定する理由もわかります。
但し、『銃・病原菌・鉄』が、地理的特性だけ繁栄と衰退のかなりの部分が説明可能であると証明した本だと位置づければ、本書と相互補完関係にあるのではないかと思われます。


なぜ繁栄する国家がある一方で貧しいままの国家もあるのか。
地理的要因や文化的要因を挙げる本がいろいろある中で、本書はそうした論を退け「制度」こそが重要であると論じる。
丹念な議論をしており、事例も豊富に取り上げられていて、読んでいて面白いのは事実である。

しかし、「繁栄と衰退を分けるのは制度だ」という説明には、疑問も強い。

まず、筆者は「収奪的/包括的経済制度」「収奪的/包括的政治制度」という概念を導入し、両者はセット(両方収奪的か、両方包括的か)で実現しやすく、収奪的の側は一時的に繁栄しても最終的には衰退し、包括的の側は成功するとしている。
しかし、肝心の「収奪的/包括的」の定義がきちんとなされていないので、失敗した制度を「収奪だった」と呼んでいるだけではないかという気もする。
また、経済制度は搾取でも自由経済でもないようなものもいろいろ存在し(介入的な経済政策等)、この二つのどちらかに属するようなものだとも思えない。

また、仮説を守るために、都合の悪い事例はいろいろと無視されている気もする。
例えば「収奪的政治制度下での経済発展はいつか破綻する」という主張については、独裁ながら経済発展を続けるシンガポールはどうなのかと聞いてみたくもなる。
また、江戸時代は身分制による絶対的支配体制ながら、農業技術、工業技術(特に職人の技)は発達し、生産量の増大、寺子屋による教育の普及等も実現しており、かなり発展を遂げているというのが一般の見方であろう。
だが、そうした事実は都合が悪いからだろうか、筆者らは江戸時代の経済を「貧困であった」(下巻p78)と書いている。これはさすがに事実に反していると言っていいだろう。

そして、一般論として「制度が重要」というのは、ほとんど当たり前のようにも聞こえる。
「収奪されている状況では経済成長できない」などというのは言われなくても知っているような話である。

逆に「非民主的な状況では経済成長できない」というのは有意味な主張だが、これは因果が逆の可能性も高い。
貧困状況下では人々は成熟した政治など目指せず腐敗してしまう、結果として民主的な政治状況が崩壊する、というのは十分にありうる。

事例は豊富だが、結論への持っていき方が強引かつ曖昧さが多いので、いささか期待を外した印象。



Amazon.co.jp: カスタマーレビュー: 国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源



ある国家が、なぜ豊かで、平和で、暮らしやすく、別の国はそうではないのか? という古典的な問に対して、「それは制度の違いだ」という本書の結論は、理解もしやすく、スバラシイものに思われる。

例えば、北朝鮮と韓国は全く同じ国民が、制度の違いによって、最貧国と先進国の違いにつながっているのだ。このことからは、制度が重要であることは、古典的な自由主義が発展につながることを意味しており、ボクも完全に納得している。

しかし、本当にそれだけか?

ボクの目から見ると、何が経済発展、経済成長の原動力なのか?については、Lynn & Vanhanenの方が、圧倒的に正しいことを指摘している。つまり、大きな目で見ると、「制度」それ自体が内生変数なのであり、それは知能の関数なのだ。集団の平均知能が高いほど、民主主義を採用し、汚職は少なく、経済は繁栄して、神は否定されている。

でも、知能もまた内生変数なんじゃないの? 金持ちは、教育に多くを投資できるから、余計に知能が上がって金持ちになるんじゃないの?  というマトモな意見がある。

しかし、この答えは、ほとんどの常識的な家庭環境では、見るべき知能の差は発生しない、というものだ。双子研究、さらにtrans racial adoption study を見るなら、家庭環境が知能に与える影響は、ほとんど全くない。もっと正確に言うと、思春期までは親の与える影響はあるが、思春期以降は全く消えてなくなってしまうのだ。

なぜ国家は失敗するのか? - kurakenyaの日記
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20130628




なのでダイアモンドとリドレーインストしといてよかったなあて感じ。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385685354.html

あるいはエッセイとしてはおもろいけど「曖昧」てレビューでも言われてて、それを詳細にやってるのがハイエクとかなのかなあ




なのでいままで出てきた近代化の要因ディレクトリとしては



¥地理(農業→病原菌)¥交換(経済)¥生産様式¥家族¥エートス¥制度


て感じになりそう

交換(経済)以前に宗教幻想的なものが来る向きもあるかもだけど




とりあえずイギリスの近代テイクオフにつながる心性史についてはこのへんに期待、かなあ。。(あるいはその辺ダメそうだったら置いといてブローデル→ウォーラステインな地理→制度なはなし優先するか



イギリス近代史―宗教改革から現代まで
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2014年01月13日

E.トッド、「新ヨーロッパ大全(T)」、「世界像革命」読んで、今後のお勉強流れと雑感


ほんとはちゃんとエントリしたほうがいいのかなと思うもなんか読むもの溜まってるし予約本どんどん入ってきてるのでできるだけ時間かけない形でメモメモ。


フーコーへの下準備みたいな感じで少し前からトッド読みだした。

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世界像革命 〔家族人類学の挑戦〕
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「新ヨーロッパ大全」から読みだしたんだけどポストマルクスな感じのけっこう硬い本で思ったより脳筋使わされた。大全読み終わった後に「世界像革命」読みだしたんだけどこっちが概説書だったし新書並みに読みやすかったのでこっち先に読んどけばよかった。。

まあ、でも概説書は攻略本みたいなものだし、その解説にしたがって読むことで与件ついちゃうから、ってのはあるけど。。いや、でも今回の場合は結果的にやっぱ概説が言ってることで納得だったし、Wikipediaの解説でも十分な感じだった。実際このWikipediaは参考文献もきっちりついてていい感じに仕上がってる。「Wikipediaに書いてあることはクソ」みたいなのはあるけどこんな感じで参考文献きちんと上げられてるのは結構使える(あと芸能人の経歴とかそういうの)。

トッドの家族人類学的な見方というのは簡単に言うとポストマルクス、対マルクスをイメージしてその下部構造的な部分をさらに細く4つの家族モデルで区切ったもの。すなわち権威主義的直系家族、絶対核家族、平等主義的核家族、外婚制共同体家族。これらが血液型みたいな規定性(けっこう影響あるかもー)を及ぼす。

マルクスは<上部構造(イデオロギー)は下部構造(生産関係-生産様式)で決定される>って言って<ハード面での近代化がもっと進めば資本主義は共産主義になる>って仮説を立ててたんだけどけっきょくはそうならなかったのは歴史が証明したし、それ以前にハード面での近代化の読み方というのもマルクスが言っていたのに比べて現実ではばらつきがあった。

たとえば<都市化-産業化-近代化によって農民が土地を失い都会で無産階級被雇用者になってしまうことで奴隷化する → なのでそれぞれが資産(土地)を取り戻すべき(平等に)>ってのがベタなマルクス主義だけど、無産階級な大規模経営というのは都市化-近代化以前のカロリング朝イギリスでもすでにあった。エンクロージャーな大規模農園経営として。そしてそういった経営形式でもうまくやれてきていた。その理由としてトッドは「イングランドが絶対核家族だったから」とする。絶対核家族だと親子間の権威的従属はないけど兄弟間では不平等なので(「兄弟間の関係が地主との関係のモデルに使われる」)。親元からは平等に巣立って行くけどその後に共同を実質的に雇用したり。


直系家族の特質は日本の関東圏の「家」制度を思い浮かべるとわかりやすい。長子相続で次男は冷や飯食い。父→長子→孫男子と家族がつづいていくので教育の受け皿ができ識字率が高くなる。ドイツや南フランス、スペイン北部なんかもこんな感じ。

平等主義家族はフランスパリ盆地周辺。親子間も兄弟間も緩く平等。まあパリっ子思い浮かべれば分かる。このへんの大衆心性がフランス革命(「平等!」)につながった感じ。あと南イタリアも(なのでパリ(ケルト)≠ラテンな気質がなぜかつながる)。そしてこれを思えばフランス革命というのが実質的な無政府主義革命だったことが分かる。

共同体家族は結婚しても子供が家族の中にとどまっていく。兄弟も含めて。なので大家族になる。ただ親子関係は権威的。これが共産主義の原型(レセプター)になる。ロシア、中国、北インドなど。



家族型  基本的価値   イデオロギー
              社会主義     民族主義     反動的宗教
平等家族  自由と平等   無政府主義   自由軍国主義 キリスト教共和主義
直系家族  権威と不平等  社会民主主義  自民族中心主義 キリスト教民主主義
共同体家族 権威と平等   共産主義   狭義のファシズム    -
絶対核家族 自由   労働党社会主義 自由孤立主義     -

エマニュエル・トッド - Wikipedia http://bit.ly/1agn2Zo



最初に親子関係が権威的従属関係かどうかが問われ、次に兄弟間の平等性が問われる。ヨーロッパの場合はその「権威への従属」の部分がまずキリスト教への従属/信仰、宗教改革への影響という形で表れていった。

古き良き秩序・権威に従属しやすい直系家族が基本のドイツ・イングランドではプロテスタントが生まれ根付いていった。ヴェーバー的にはそれは「プロテスタントのエートスの影響だ」ってことだろうけどそのエートスが染み付く土台として家族構造-直系家族の性格があった。宗教改革にもめげずに新たに改心したカトリックを信奉していったのは主に平等家族な地域(パリ盆地と南イタリア)を中心としていた。

「権威性や秩序重んじるんだったら保守な感じでこっちのほうが古い規範-カトリックをそのままにしたがるんじゃね?」ってのはあるんだけど、ここでトッドは2つの宗派の違いとして「形而上的成分 / 地上的成分」 という視角を提出する。

おーざっぱにいうとプロテスタントは神の下(≠あの世)では不平等(権威主義)で人間界では平等、カトリックはその逆に神の下では平等で人間界では不平等。不平等が当たり前で権威・秩序に属することを要請する直系家族にはこれがヒットしたみたい。なのでドイツ-イングランドではプロテスタントが広まっていった。直系家族なので識字率も高いし、プロテスタント必須の「それぞれがお家で寝る前に本(bible)を読みなさい」を実践できる。平等家族なパリ・南イタリア辺りでは形而上・イデオロギーの部分では平等求めたのでカトリックの平等主義を受け入れていった(というか特に宗教改革後に平等主義の世間にローマがおもねっていったのかもだけど)。


あ、つかイングランドは絶対核家族だから違うな。。

まあ上巻はフランス、スペイン、イタリアをあつかってドイツ、イングランドは下巻ってことだからこのへんは下巻で見てくか。



そんでこのへんの話が<なぜヨーロッパ近代においてイングランドが先行し、フランス、特にドイツが遅れをとったのか?>という世界史、政治思想史みたいなののアポリアのヒントになってくる。

政治のひとなんかは「ドイツは神聖ローマの元、封建制ではあったけどそれぞれの都市の独立性がつよかったので30年戦争→ウェストファリアで神聖ローマの威信が崩壊してから一気に分裂した。そのため遅れを取った(戦地になった傷跡も痛かったし」なんて説明になるんだけど「近代化」の汎用性が日本にもたらした影響を考えるとそれだけだと説明できない感じがあった。あんなに遅れを取ってた日本でもソッコー近代化出来たわけだし。

この辺で各地域の基本家族型 → そこからのエートスへの影響というのが関わってくるみたい。まあ家族モデルごとの性格だけど。

まあつっても血液型みたいなものだからそれで決定てわけでもないし実際ドイツは遅れたけどそれと同じ直系家族が主な日本はけっこうなスピードで「近代」をインストしたわけだし。


なので「マルクスのテーゼをさらに細かい要素で説明したもの」と解釈したほうがいいのかも。


農業も経営体のひとつとして捉え、マルクスが分けてなかった「所有 / 経営」の性格も分けてたりするし。所有のところで相続が関わるのでそれが家族型と関係してくる(血縁長子しか相続できない直系だとうんたらとか)。




そこからすると「もっとも進んだ家族型は平等主義核家族だ」ということになるぽい。


まあ資本主義や共産主義といったイデオロギーの優劣競争に対して「| ゜Θ゜)<違うよ。地域ごとに家族型の多様性があって、それに基づいてるだけだから進んでるも劣ってるもないよ」みたいなこと言ってきたトッドが「進んだ家族型」っていい方もおかしいんだけど、んでもこのへんはまあおーざっぱな感じで。


つか「世界像革命」の方にあったけど、言語学者のサガールからヒント得て言語学の知見を利用して一緒にやった仕事からするとそんな感じになるぽい。


トッドの家族世界地図を見てサガールが「あ、これ言語学だとよくある周縁部は保守が残るってやつじゃん」と見立てた。

家族世界地図(「第三惑星」から)ではロシア・中国・北インドのほかにヨーロッパと東南アジア以外のユーラシア大陸、アフリカの地中海沿岸部が共同体家族の地域とされている。

そんでこれらを中心と考えたとき、残った地域が周縁となるので。なんか言語族的な重なりにも共通してくるらしい。


「中心」「世界史のはじまり」ということだと文明的なものは中東の肥沃三角地帯を中心に生まれていったと考えて良いのだろうからやはりそんな感じなのだろう。



まあ、とりあえずこんな感じでトッドの区分けにはけっこう影響受けたしこれからもぢみに使っていきそう。特に「国ごと」ではなく「家族モデルの地域分布」として世界地図を見ていくのは良さそう。


そしてそれは「自由・平等・博愛」ていう基本心性のとこに関わってくるのだろう。


ここまで見てきたように「平等」と「自由」という価値観は家族型によって生み出されてきたのが分かる。


トッドははっきりとは言ってないのだけど環境が生産方法し、それぞれの環境に合わせて狩猟・採集 / 農業などが選ばれたりハイブリッドされたりしてきたのだろうけど、それらを運営・経営するための最小ユニットが家族だったわけで、、なので<それぞれの地域の家族型と生産様式は因果関係にある>といえるぽい。そんでそれを現代風にすれば<家族型と経済幻想はニックス関係にある(ex.平等主義家族では共産主義やりやすい)>になるわけで。

まあといってもそれぞれの地域に家族型が分布していった理由をトッドは「偶然だろう」って言ってたけど。「決定論だ!」って散々言われたので慎重になってるのかなあ。。



決定論といったらジャレド・ダイアモンドとかリドレーなんかはまさに決定論で、彼らからすると<環境と遺伝な自然淘汰が人のあり方を決定している>て感じなのだろうけど、あのあたりの説明でなんか単純さとか物足りなさを感じてしまうのでこっちの説明読んでるんだろうな。。


「赤の女王」もいちお読んだんだけど、


赤の女王―性とヒトの進化 (翔泳選書)
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途中でそういう単純さが気に食わなくなって飛ばし読みしてしまった。まあ巻末に「本書に記した考えの半分は誤りだろう」って自ら書いてあったし、途中でそれ見て飛ばし読みに切り替えたってのもあるけど。なんか、「赤の女王」のテーマに則って最初から全体を「相対的なものさ」て諦観してる感じがした(「赤の女王」は「人が進歩しても対象とするものも進歩するんだから結局相対的だ」って寓話。アリス・イン・ワンダーランドになぞらえた)。



けっきょくリドレーの見方だと人のマインドなところは解けたとしても精神のところは解けないのだろう。あるいは心の部分。


「自由・平等・博愛」のうち「自由」と「平等」はそういった形、機能的合理性モデルで解けるのかもで、だからこそトッドの話しも決定論的といわれるのかもだけど、「博愛」-「fraternity」の不思議が残る。具体的には「人はなぜ弱者におもねるのか」「なぜ助け合うのか」「愛とはなにか」という部分。


歴史学からアナール学派が出て来たのもそういった部分、人の多様性の部分をもっと細かい統計から拾っていこうってことだったのかと思ったり。


E.トッド、「新ヨーロッパ大全(T)」、「世界像革命」読んで、今後のお勉強流れと雑感 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/615587


ここだとフーコーも心性史のひとつとされている。


まあ歴史哲学=思想ということで、その中でも「制度や政経の下部構造から秩序の当然を強化する」のではなく「人の自由、愛ほかの変態の部分」を見つめていこうとしたのがフーコーだったのかなあ。


とりあえずアナール学派、ブローデル、マクニール、ウォーラステイン、トッド、フーコー、マルクス、ヴェーバー読んでかないと。。ブルデュー、デュルケームとか、ルソー・読書関係でフェーブル『書物の出現』シャルチエ『読書と読者』『『読書の文化史』 マンドルー『民衆本の世界』あたりも



「心性史がどうとか」て話だと丸山真男のこともすこし思ったり。



丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム (中公新書)
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途中で「教養主義の没落のスピンアウト程度だなあ」と思ったのでてけとーに読み飛ばした。全体としては蓑田胸喜 vs. 丸山真男って話
http://morutan.tumblr.com/post/73192646988
http://morutan.tumblr.com/post/73192723968/1922-11-4-10
http://morutan.tumblr.com/post/73192731537
http://morutan.tumblr.com/post/73192796036


未だ丸山の著作自体を読んでないんだけど、んでもここまでの該枠から見ていくと丸山真男の研究というのはけっきょくは制度史から出られなかった印象。それは当時の歴史・民俗学がそれほど進んでいなかったことにも依るのだろうけど、根本のところでは丸山のスノビズムが影響したのだろう。

丸山真男は一高 → 帝大法学部 → 学者のエリートコースだったわけだけど出生としては鶴見俊輔に劣ることを自ら漏らしてた。吉本隆明ほかの文壇を罵った際に鶴見に諌められたのに対して「わたしはあなたのようなおぼっちゃまとは違うので」みたいなこと言ってたようだから自覚はあったのだろうけど。東京外出身 → 上昇志向というのが基本にあって、それを学内でも戦争でも田舎者に妨害されてきたことが同族嫌悪的なものを生んだのかも。

戦争では農民兵の野蛮さといじめみたいなのにあったというのはけっこう有名だろうけど、「丸山真男の時代」では蓑田への意識みたいなのが記されていた。

蓑田は学者というよりは国粋ウヨクで、それ以外の思想を実力排除するような輩だった。

そのことを憎々しく思っていた丸山は蓑田がやっているような日本思想を蔑んでいたわけだけど、指導教官の南原繁から日本思想をやるように言われた。そのとき丸山は「あんなのいやです」って言ったようだけど、「国粋の輩から『あんたらのやってるのはヨーロッパのことで日本のことはわからんじゃろ』って言われないためにもこれからは日本思想を掘ることが必要なんだよ」って説得されて渋々って感じだったみたい。


んでもその研究方法はヘーゲルほか西欧の視角をそのまま日本に当てはめるものだった。


なので丸山の日本思想研究というのは「日本固有の心性史を見てきた」というよりは「ヨーロッパ的視角で見た」というものになるぽい。


あるいは思想や制度のまとめとしては有効かもだけど「大衆の心性の総合としての心性史-日本人」というのは最後までわからなかったみたい。その点で吉本にも糾弾されてたようだし。


なので丸山で有効なのは「偉い人がどう思っていたか」「それらを総合してどうか」っていう部分。そして「ヨーロッパ的視角」というところで福沢諭吉は相性がよかったのだろう。「田舎者がなにもない身から勉学で立身出世」感も



丸山が最後まで日本思想とびみょーな距離をとっていたのは蓑田のトラウマがあったからかもしれない。あるいは農民兵のそれ。それがけっきょくはスノビズム・ディレッタンティズムというダサい研究成果として反映されてしまったのはモダン=おしゃれを目指した丸山にとってはアイロニカルなことだったのかも。



…まあまだ読んでもないのにこんなこというのも不遜だろうし、自分もディレッタントなのだろうなあとか思うけど









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関連:
共同体における宗教的情操と倫理やら徳やらの原型について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382123924.html


たったひとつの冴えたやりかた: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384420579.html


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2014年01月07日

トること / トられること  「承認欲求」以前のお話



最近たんぶらーをチューンナップしたこともあってかなりたんぶられるようになった


高速Tumblrライフを快適に送る(2012年Google Chrome版) - UDONCHAN
http://d.hatena.ne.jp/UDONCHAN/20120102/1325467088



firefox時代にもできてなかったのにいまごろになってできたので嬉しくなってやったり。


「dsbdをLDRize+minibufferで高速化、てきとーにpでピン留め、jで進みkで戻る。そしてピン止めしたpostをリブログする。その体験はこれまでのTumblrとは異質なものだ」

そういう話は前からあってなんとなく理解してはいたんだけど試してみて実感した。

高速化する前のたんぶらーが雑誌なら高速化後のTumblr(ダッシュボード)は雑誌とテレビの中間のような感じ。jとkで手動で足(手)漕ぎするテレビ。pとピン解放で双方向的に情報の流れに参加できる。


その体験はpushメディアとしての受動性を主にしているのに対して、自分でオリジナルポストをしたりどこかから引用したりするのはPull性が少し強い。ただ「引用で済む」ということでtwitterよりも敷居が低いけど。あんなてけとーなことをpostしてるついったでもたんぶらーよりも敷居が高い。


「それでコピってメモったものはどうするの?」ってのはあって、megaediterややTumblrビューアーを使えば個別のたんぶらページよりは一覧性が高いのだけど、それでも検索性は低い。「あとで見る」のだったらタグなりgoogleなりをページに埋め込んでおけばいいのだろうけどそこまでするのもめんどくさい。なので自分としてはなんとなく気になったもの、「後で使うかも」なものははてぶでぶくましてるけど。自分としてはとりあえずは「一日分のメモ」であり「一日ノート」って感じ。



「だれでも簡単にoutputできて表現できるようなもの。簡易に表現者になれるようなものがウケる」ってアレなのかなあとも思うし、dsbdみててもそんなことをたんぶらーの利点としてリブログ回覧してるひとがいるけど自分としてはたんぶらーは「表現」って感じでもない。単純にクリップしていく愉しみがあるというだけ。


そういうのは「後で使うかも」とか「誰かに見てもらってリブログを集める」とかの機能性、「○○のため」という話からするとコンサマトリーな、行為それ自体が目的みたいな感じなのかな。



んでも最近たんぶらのアクティビティに気づいて、そこで自分が1stリブログされたものが広がっていくことの快感を感じてしまったけど。それで「やっぱキャッチーな画像強いよなあ。。自分も栗山千明とかの画像を1stリブログしてリブログ数稼ごうかなあ。。どっかから流れてきたやつをロンダリングして」とかさもしいこと思って試してみたら元ページはすでに消えていた(´・ω・`)画像は特にそういうのあるみたい。

「1st引用 / postロンダリング」みたいな話は最近twitterでもちょこちょこみるんだけどTumblrでもふつーにされている。



まあ自分の場合は「もうちょっとアパートメントの記事読まれないかなあ。。」ってアレで、「キャッチーなポストでフォロワー増えれば普及力高まるかな?」とか思っただけだけど。そういうのもなんかめんどいのでてけとーにやっていくことにした。




そういうアクセス数とかRT数、リブログ数がうんたらいう話とは別に「たんぶらー的な体験というのはどういうことなんだろう?」って思ったりする。


大きく分けて「リブログという形での回覧」と「オリジナル引用という形での切り取り」みたいなのがある。しょせん引用なので「オリジナル」っていう言い方もなんか変な感じだがまあそこは置いておいて。


回覧のほうはさっき言った感じで未だちょっとわからない。自分みたいにウェブメインでやってる人はmegaediterとか利用して一覧表示すればまだ「一日ノート」って感じはあるだろうけど、それ以外の人の場合は「一日」ってスパンでもなく「とりあえずのfav」みたいな感じだろうか?twitterで言うなら。あるいは、「リブログしたものを見直す」ということさえせずに「リブログそのものが快感」みたいになってるひともいるのかも。


「昔のエロ雑誌とかだと考えられないほど裸画像が簡易に流れてくるので気に入ったものをどんどんリブログしてるとアドレナリンがドバドバ出てくる」みたいなことを安田理央(@rioysd)さんか誰かが言ってたように思うんだけど、そこでの感覚は「新聞・エロ・グラビア雑誌の切り抜きみたいなのが簡単にできる」ってことなのだろう。キノコ狩りとかいちご狩りに行ってアドレナリンドバドバというのと同じ感じの。「そんなに採ってどうすんの?」って言われても「わっ!ここにも あそこにも!」って感じで、「採ること」「狩ること」そのものが目的になっていく。


「オリジナル引用という形での切り取り」もそういう点では同じところがあるような…。

「引用の範囲のセンス」みたいなのにこだわるとかそういうの。「そのエントリの本質部分を端的に見出す」「そのエントリのおもしろ部分を引用/切り取り方で自分が演出する」みたいなの。


そこでも対象(ソース)となる文章そのものの内容よりも「狩る」こと、「引用の角度」みたいなもののほうが大事になってきたり。運動会で子供の写真を撮るお父さんが「いい写真を撮る」「記念にする」ということそのものが目的になっていってしまって子供の楽しみがなおざりになる、みたいなの。「スマホで写真を撮る前に料理とソースを愉しんでください」



smartphone.jpg


cookmen.jpg





「目的と手段が逆転する」っていうそれはインターネッツで承認欲求を集めるときにも生じる。



最初に日記を始めた時には単に「日記にする」「日記になるようなネタを探すような視角が日常に取り入れられる」「日常にそういう視角・刺激が入ってきてたのしくなってくる」というだけだったものが段々と「ネタになるようなことを探さなきゃ」「もっとアクセス数稼ぐような書き方しなきゃ」みたいになってきて窮屈になっていく。あるいは、気づかない間に物言いがセンセーショナリズムを帯びて下品になっていったり、自分や家族の実存をコンテンツとしてバラ売りするようになる。
http://t.co/dzaeyGvOCL

そこまで行かなくてもネットの当該コミュニティ独特の常識みたいなのに自分が染まり、その界(世間)における倫理の型にハマっていく。そして自分ではそれが正しいと思って気づけなくなったり…。


「こないだはてなで人気のひとたちとオフで会ったんだけど彼らはオフでもホッテントリがどうとかな話をふつーにしてて、なんかキモかったよ…。ある程度そういう話してもまあそれはネットも日常の一部になってるから当たり前かと思うんだけど、ほんとにそのことしか話さないのね。『○○さんのこないだのエントリは▲▲で…』『あれは裏では○○で』とか。こっちはそんなの知らねーっつーの。なんか、、病んでる感じだった。はてなーってオレにとってそういうイメージ」

某人から聞いたそういうのは論壇とか芸能人みたいなのがネットを介してコモディティ化したということなのだろう。そして彼らは自分でワイドショーの記者も兼ねる。



アクセス数への意識と「それに見合うような記事・ネタ」という視角、ホッテントリというマトリックスを内面化することで自らを生から疎外してるのだろう。フーコーなら「まなざし(監視)の内面化」と言うだろうアレのこと


たったひとつの冴えたやりかた: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384420579.html


「自由になるため」のはずの知識が却って枷となって自らの自由を拘束していく。

ストーリーよりもディテールにフォーカスしてしまう。

料理を愉しむことよりも写真を撮ることを優先してしまう。



せせこましい倫理・教条化でネット内での徳・自分の正しさみたいなのを喧伝していった人たちはレバレッジがどんどん高まって、あるときそれを回収されて萎んでいった。あるいはそういった視角にドライブされている自分の日常の虚しさに気づいて


こもこ(@komoko)さんなんかも少し前に「日記でなに書いていいかわからなくなってきました(´・ω・`)」みたいなこと言ってたけど、彼女はけっきょくそういうのに囚われない方向を選んだ。



どこかで「他人の承認欲求を笑う人は、自分もアウトプットすることができなくなる。笑われるのが怖くなるからだ」みたいな話が湧いてるみたいなんだけど、これも「承認欲求・アクセス数目当てでセンセーショナルな飛ばしやる糞ブログ」批判の予防線に過ぎない感じ。


「アウトプットするのが怖くなる」「日記をつける気がしなくなる」みたいなのはブログやってるとやってくるけどそれは単に承認欲求絡みなだけの話でもないし、「他人の承認欲求を笑う」にしても承認欲求への依存度によって話が変わる。

「アウトプットするのが怖くなる」のは誰かを傷つけたり、よくわからないはてなのモヒカンとかメディアスクラム的な罵詈雑言に襲われ辟易するからだし、同調圧力同様、承認欲求それ自体は悪いことではない。マズローの5段階欲求なアレでも「金とか地位とかいろいろ集めて最終的に欲しくなるのは名声」みたいな話もあるし(つってもマズローの話もそんなに正確なものではなく心理学方面だとエッセイ程度の扱いみたいなんだけど)。


「誰かの目を気にして誰かに良く思われたい」というのは独善的に振る舞うよりは自分を開く良い契機になるのだろう。んでもそれを気にし過ぎるとそれに囚われることになるけど。


承認欲求、他者による評価を気にすることというのは自己実現のための要素のひとつにすぎないのでそれに囚われすぎることもない、程度の話。酒とかドラッグと同じで、依存になると良くない。日本人だと世間的な承認、「アンシン」に傾くところもあるのだろうけど、自分で地図を作成していく能力も持ったほうがいいように思う。



山岸俊男、1999、「安心社会から信頼社会へ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380874839.html


鈴木謙介、2013、「ウェブ社会のゆくえ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381455793.html



ついでにちらっと言っておけば「他人に認められたい」「正しく認められる」「それによって自信につながり困難な問題に立ち向かう心の糧となっていく」という話は「全能感人間」なんかに書いてある。


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これも心理学的には証明された話でもないのだろうけど、「他人の承認欲求を嘲笑うな」とか尻切れトンボしているよりは有益だろう。

「承認によって全能感を正しく誘導される」「自信をもつ」という過程は大事だけど、それは「困難な問題に立ち向かうため」であってその全能感に酔いしれるためではない。承認欲求が叶えられたことによってネット上でみょーに調子に乗って行く人というのはちょこちょこ見るんだけど、たぶんそれは目的なく承認-自信が膨らんだ結果なのだと思う。カオナシみたいに

あるいは、それだけ愛情や承認に飢えていた/慣れていない、ということなのかもしれないけど。



こういう問題、「他人からの注目をあつめるためにセンセーショナリズムに寄る」「その界でキャッチーな言葉(言表)で組み立て形式的修辞に寄ることで内容がなくなる」「結果として対象を傷つけていく」「精確性を欠いていく」という問題はイエロージャーナリズム的なものとしてジャーナリズム界隈で昔から問題になっていた。

それでジャーナリストとしての倫理観と誠実性に自覚がある人たちはそういうものに対して距離をとり、「しっかりと調べて書く」という調査報道の基本を意識したり、「取材対象を単なるネタ元として扱わない」「対象とコミットメントをもつ」ということを意識しているように思う。そうやってまともなジャーナリズムは作られていく。「コミットする」というのは例えば「一方的に撮る / 盗る」ということではなく参加し共同し一緒にやっていくということ。「他人ごと」としててけとーに消費しないこと。

「承認欲求・アクセス数を目指すのがダメならなにを目指したらいいんですか?」「はてぶほかで多孔化されてアクセス集まって嫌になった」というのはその前段階、イエロージャーナリズム的な問題を自分の問題として実感してきた段階なのだろう。「マスコミがする悪さ」ではなく「自分もそういうことをする / される立場にある」ということを通じて。

芸能人やワイドショー(芸能人批評)だけではなくジャーナリズム(社会批評)的なものもコモディティ化したのがネットなのだろうからそういう帰結になるのは当然だろうけど、「表現の自由と他者への配慮」「自分がマーケットにドライブされること(市場の審級(まなざし)に囚われ流されること)」がマスコミだけの問題ではなく自分達の問題として実感されてきたのかもしれない。

そういう意味では承認欲求ゲームの虚しさに気づいてそのゲームから降りていく人のほうが誠実な印象がある。




こういった「対象を切り取りネタにすることに対する倫理性」あるいは「他人を一方的に見つめるまなざしの暴力性(そういったものを内面化していることの是非)」ということはソンタグが論じてきたことだった。


ソンタグの感性・写真論(まとめ) - 雑記置き場
http://d.hatena.ne.jp/nowherezen/20121205



彼女の最初のエッセイ「反解釈」では「形式に傾いて内容がなくなる」と問題を逆に「形式の意義」の面から省みていたようだけど、「内容と形式」というのは自分もずっと関心ごとだった。


そして「写真によって他者を切り取ること」や「どこか遠くの国で戦争が始まりぼくらはそれをテレビやネットを通じて消費していく」ということの是非。


現在も南スーダンの内乱の状況がたんぶらーでちょこちょこ回覧されてきたり、自分もまとめの断片を流しつつ「こういった関わり方は『消費』ということなのかな?」と少し思ったりする。



未だ読んでないけど、彼女の問題意識やスタンス(固定観念にとらわれないこと・『まなざし』を意識すること)というのはフーコーのそれをエッセイ的にした感じなのかもしれない。


たんぶらーで「切り取ること」の感覚と「写真で切り取ること」の感覚の類似に期待して読み進めてみよう






cameraeye.jpg









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関連:


ソンタグ、

「すぐれた映画は必ずわれわれを、解釈の欲求から完全に解放してくれるところの直接性をもっている」。映画には「内容以外に、手がかりになるものがつねにそこにある」。それは「たとえばカメラワークとか、編集[モンタージュ]とか、画面の取り方など」、いわば「外形の語彙」とでも言うべき手がかりである。
 『反解釈』においてこのように述べられている「芸術作品」を写真に置き換えてみれば、DHが「イメージをその形式的な個別性において認識」(「黒い塊」の重要視)して、それをトリミングしてしまうことを批判している点にも通じているだろう。意味=理性に依らない感性と認識の前景化、という点ではDHが参照したアーレントによるカント解釈とも類比的にみえる。しかしソンタグは写真を論ずる場合、ある種の葛藤を抱えながら「映像のエコロジー」を主張するようになる。


に寄せて。映画と公共性関連で


フランス革命の背景とか要因について(暫定) 公共圏論を中心に: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381322488.html




反解釈 (ちくま学芸文庫)
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写真論
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2014年01月05日

たったひとつの冴えたやりかた


「読んだ本4冊さらっとまとめたいなあ詳細ではなく(´・ω・`)時間かけずに」と思いつつまた時間かかるのかなあと思うんだけど、まあ二冊ぐらいは今日見たエントリと関連するところがあったのでそれにかこつけてさらっと日記にしちゃおうかなあ


はじめて読むフーコー (新書y)
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性暴力加害者の心理 - キリンが逆立ちしたピアス
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20140104/1388817931


女性の立場からすると真剣にキモいしセキュリティな問題なので加害者側に反省し修正して欲しいのだろうけど、たぶんこのレベルは病気だから病気・中毒・依存としての対応が必要だと思ったんだけどコメント欄見るといつもながらのfont-daさん節でたいへんそうだなあ、とか

こういう話は生物学的に男性という形質をとっている自分からするとどうしても「カッパはセクハラ問題に鈍すぎる」みたいなこと言われるんだろうけど、自分も人文系の嗜みなアレでもともとはフェミなところがあったりする。名誉女性というか。

そういうのはもともとサヨクだけどいまはわりと保守っていうのとも似てるんだけど


前文の【自分の悲劇をわかってくれる人などいないことは明白で、ほんとうのことを語ろうものなら、非難され、さげすまれる】という一節では、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユ(彼女は34歳の時、戦争の残酷さに抗議するハンガーストライキで餓死する)を思い出す。

この本は子ども時代に性暴力を受けた女性22名の独白である。近親相姦、知人から、見知らぬ者から…ぎょっとするような体験が並ぶんだけど、すべて現実なのである。

『心の傷を癒すとは出会っていくことです。闇をかかえた他者と出会うこと、自分の中のもう一人の自分を出会うこと、自分の中の自然に出会うこと、生きたいと欲する自分の激しい生命力に出会うこと。

誰もの内にある混沌とした豊かな“自然”にいのちを吹き込んでいくことだと思うのです。何者かに【成ろう】と懸命に励んで知識や技術という服を幾重にも着込んでいくのではなく、逆に着ぶくれしている服を一枚一枚脱いでいき、自分の生命力の源に触れることです。裸足で地面をしっかり踏みしめ、大地の生命力を吸い上げることです。 』

と、森田ゆり氏は述べる。泣きながら、読んだ。

…いつの間にか、性暴力事件のおっさんではなく、高校生のとき関係を悪くしてしまった人を思い出した。今まで、自分が何に傷ついてきたのか、自分が誰を傷つけてきたのか、すこし振り返る時間ができたのだ。去年の秋、その人と二年ぶりにきちんと顔を合わせ、謝罪した。自分の弱さを受け入れ、自分に正直に生きてみようと行動してみると、自分の性別や他者接触に対する恐怖が少しずつやわらいできた。他人に触れさせまいとして分厚い膜で必死に心を覆うのをやめた。防衛のためでなく、ただしく、人に触れることができるようになってきた。そうすると、事件のとき、抱きしめてくれた恋人のそれがどんなに、やさしく、あたたかいものだったことがわかった。

だれも私を助けられないという希望のようなもの - blog.922
http://bit.ly/KrcZak



少し前についったで仲良くなった人とオフで会ってお話したらけっこう壮絶な家族な過去があって、それとは別に会社でセクハラ受けて辞めた話を聞いた。「壮絶な家族の過去」のほうが重いのもあってかセクハラのほうはわりとふつーにさらっと語ってくれたけど、たぶん感情移入すると泣いてしまうというのもあったからかもしれない。あとは重いのでこちらにあまり負担にならないように気を使ってくれてたいうか。そんで自分も指導教官のセクハラ事件に巻き込まれて人生の転機みたいなのがあった話をしたり。あれはけっきょくどっちがどうだったかはっきりしないんだけど、そのとき大学の自由というのは学生を守るためではなく彼ら教職員のためにあるのだなあと実感した。あと普段は倫理がどうとか思想や正義がどうとか言ってる人もこういうときは日和るのだなあ、と。自分が単純な正義、教条的で世間的な正義に対して懐疑的なのはそういうことも関係しているのかもしれない。子供の頃からそういった建前的なものに対して自分のホントのところは外にやっとくみたいなところはあったけど。


言説や思想というのは武器だから、それは社会的な暴力に対していく時には強力なツールとなるけど、それを単に自分を有利にするためだけに使ってるとなんかズレるのだろう。


「サベツ」って言葉は本当に使いづらいな。 - blog.922
http://bit.ly/KrcNYp


なので自分は人や社会を裁くためだけに言説の型を使用する人には懐疑的になる。同時に自省の回路を持ってる人でないと


「たとえそれが自分に不利になるようなことであっても真実を語る」ということ。フーコーはそれを「パレーシア」と言い主体確立のために必要なものとした。

「パレーシアがどのように主体確立と結びついたか」「フランス革命と教会やルソーを通じた告解 → 内面の成長がどのように関係したか」「それと愛やfraternityとの関係は?」

概説本なのでそこまでは突っ込んでないけどその辺りが自分がこれからフーコーを読んでいく際のポイントなのかなあと思ってる。


共同体における宗教的情操と倫理やら徳やらの原型について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382123924.html




「ディスクールのドライブやディスタンクシオンの優越ゲームに巻き込まれず、パレーシア(フォース)の導きに従う」

ソフトスターリニズムにも似た世間的な似非正義とは関係のないところで己の実存に基づいた言葉を紡ぐ」

「彼らに言葉や感情を盗まれたり消費されたりしない」


そういうつもりでホッテントリ的なもの、単に丁々発止したいだけの優越ゲームにはなるべく関わらないようにしてる。それで自分が成長したり自分の生活が変化したりするわけでもないし、学ぶことややることが多すぎて手を広げすぎても時間が足りない。

自分にとってウェブ以前から続けてきた日記的なものというのは自分との対話であるし自分を削るための作業だった。日記の初期では格好をつけようと大仰な文体を真似したりもしたけど、それが段々馬鹿馬鹿しくなってきて、そういうものをなるべく削ることを心がけるようになった。いま思うとそれは自分なりの告解のようなものだったのだろう。

ウェブにうつってから、目立ちたい欲・承認欲求的なものを反省してからは誰かへの手紙のつもりでいる。なので万人に理解されなくてもいいしアクセスとかあってもめんどくさいこともある。


誰でもない誰かに向かって誠実には書くけど理解できない人には理解できなくていい。



Marginal Soldier: まとめサイトに私たちのこころはまとめられない
http://bit.ly/Krex47


物語を完成させる - 添い寝原体験 - blog.922
http://bit.ly/KrcKvR


「フランシス子へ」を読んだ - blog.922
http://bit.ly/1axkoez



「なにかを裁いて自分が偉くなった気になる」「そのためにいろいろなポリティカルコレクトをまとってどんどんレバレッジを上げて窮屈になっていく」「ウェブではそれがわかりやすくアクセス数で可視化され承認欲求が満たされて錯覚する」

そういった過程を馬鹿馬鹿しく思うことはフーコーも同意してくれるかもしれない。


もともと臨床心理に就いていたフーコーは目の前でロボトミーされた患者を見て心理学や学問全体に懐疑的になった。


想像するに「性的マイノリティである自分もいついきなり頭をドリルで繰り抜かれロボトミーされるかわかったものじゃない」という不安を実感したのかもしれない。


なのでフーコーが目指したのはそういった社会的常識の解体だった。その具体的対象としてローマ・カトリックを中心とした教条主義があった。あるいはそれをベースとして作られてきた法制度・行政。



「エピステーメー」というのは知や思考の型のようなもので、たとえばイマジネールと教会の教えを中心とした時代は類似と啓示がエピステーメーの中心だった。


「その事象の名前があるということは存在の証であり、存在とは神そのものである」


哲学なんかでも言われる本質論の元のところ、唯名論・普遍論争として伝わるこの辺りは神学的命題としてずっと語られてきた。


けっきょく中世ヨーロッパのエピステーメー(思考様式)は「己が独創性を発揮しようとするな。神は完璧なのであってその神の啓示を探すように心がければ良いのだ」というものだったけど。なので思考や誰かを裁くときの根拠もまず「神の定め」がありそれを読み解くような過程をとった。重石を抱えて浮かび上がってこなかったら「神の恩寵がなかった」「魔女だ」とし、「笑いはダメ」と定められれば「なぜ笑ってはダメなのか?」と問うのではなく「ダメな笑いとはどのようなものか?」「笑いがダメなのは○○な理由だ」とする思考をした。根源や本質を目指して「なぜ?」を問うのではなく、教会が言ったことをまず是とし、それを証拠立てる枝葉を足して行くのが知の在り方とされていた。そういった思考様式は近代化の初期でも分類学として続いていった。

リンネ的植物学の時代、「一定の様式にしたがって分類すること」が一義としてあり、その分類が済んでしまえば知としては完結したものとされていた。それに対して生物・動物の本質を探るために「なぜ?」を突き詰め、要素をさらに分解し、分類から機能へと移っていったのが動物・生物学だった。つまり南方熊楠の時代。


社会学をちょっとかじった人、あるいは社会学にかぎらず経済学でも心理学でもなんでもいいけど、学問を少しかじった人はそんな感じで定まったフォーマットに沿って分類し、裁いてくだけで満足しその本質を問うことには無反省なように思う。便利で汎用的な理論や名言を道具的に使ってなにかを分かった気になったり裁いた気になったりする。そして誰かに優越するためのツールとする。そしてけっきょくは言説に自らが囚われていく(あるいはアジェンダのようなものに)
http://twitter.com/m_um_u/status/419664956829614082
http://twitter.com/m_um_u/status/419665230612803584
http://twitter.com/m_um_u/status/419667756888248320


このへんなどはそもそもフェミ/ヲタという二項対立するのが阿呆らしい話しだし、

そしてオタクたちは、また迫害されていく - 狐の王国
http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20131231/1388453783


そもそも「少子化だから子供増やさないと」て議題設定自体が権威主義的というか「生権力への疑いとかまるでないのかなあ」って感じなのだが、、


少子化問題の本質は、魅力的な男性がいないから - 狐の王国
http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20140101/1388543317


(まあこのひとは宗教についても曖昧だったし、めんどくさそうだからあまり関わらないほうがいいのだろうけど)


個人の自由の拡張的な話以外でもいちおいっておけば近代化の指標は識字率と避妊率が関わる
http://twitter.com/m_um_u/status/419652574099173376
http://twitter.com/m_um_u/status/419652728160141312
http://twitter.com/m_um_u/status/419653376410800129


「人口が増えること」がそのまま殖産につながるわけでもないので



「うそくさいなこのひと」ついででいっておけばこのひともなんかあれだった


細田守、2012、「おおかみこどもの雨と雪」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383370375.html

弱者の矛と同調圧力  冬に深淵を見つめるもの: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383480126.html


10万年の人類史に「取引」の真髄を学ぶ/マット・リドレー『繁栄』感想 - デマこいてんじゃねえ!
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120613/1339601274

https://twitter.com/m_um_u/status/417944773052620800



んでも結果的にリドレー読む機会に恵まれたのは俺得だったけど。



リドレーは経済学系の人かと思ってたら動物学プロパーでエコノミスト勤務経験な人だった。感触としてはジャレド・ダイアモンド的なペーパーバック感。まあそれは「繁栄」のほうが動物・生物学よりも経済学的な語りになってたせいもあるのだろうけど。


「なぜ性別があるのか?」ということについては自分的にも関心があったのでジャレド・ダイアモンドのそれ系の本を図書館に予約してるけどこちらはみょーに人気があってなかなか届かない。代わりにリドレーの「赤の女王」読んでる。



赤の女王―性とヒトの進化 (翔泳選書)
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「多様性を導入することによってシステムの停滞へのカンフルとしているのではないか?」というのが自分の考えだったけど、二章まで読み進めて雑駁にはそういうことぽいけどなかなかそこに落ち着き難い印象。「二重らせん構造があるのは保険のため」ってところもあるみたいだけど、それがそのまま「男女の性別があること」「異性性交の必要性」というところにつながらない。あと「種として生き残ってきた合理性の集積(群淘汰) / 個が生き残るために取ってきた戦略の合理性の集積(個体淘汰)」、どっちが正しいのか決着ついてないみたい。

「多様性を導入するため」としても性交にはリスクやコストがある。「相手を探さなければいけない」「相手の了承を得なければならない(人間の場合特に)」という探索・コミュニケーションコストがあるし、性交時のキケンもある。性交 → 妊娠までの確率の問題もあるし、妊娠 → 出産まで活動性が落ちたりする。「多様性の導入」といっても必ず良い方の多様性が導入されるとは限らない。そういった意味では単為生殖のほうが簡単だし「100%自分の遺伝子を相続できる」「単純に数が二倍になっていく」ということでは合理的だったりする。少なくとも種の利益(群淘汰)的には。


なのでおそらく性別・セックスがあるということは進歩ではなく変異(イレギュラー)なのだろう。


「イレギュラーだったけど当時の周りの環境と偶然マッチして結果的にうまくいった」


リドレーが「この論争は遺伝学的にというよりも生態学的にみたいほうがいいかも」と締めていたのもそういうニュアンスだったのかもしれない。




人の愛というのもおそらく似たようなもので、人の社会を中心とした人間中心主義としては「万物の霊長たる象徴だ」みたいに語られがちのように思うけどたぶん変異であり結果なのだろう。近代的な愛、あるいはヒューマニズム的なものというのもここ最近のものであるわけだし、家族のあり方や子育てに対する考え方ひとつとっても地域によって異なるし前期近代と後期近代とでは違う。


それをもって「全部嘘っぱちだから意味ないじゃーん」ていうのも拙速で、その逆に擬制であるからこそ大事にしていく面もあるかなあということでその辺の成り立ちを自分なりに掘っていくつもりだけど。おそらくその程度のものなのだ。「正しい愛」も「正しい家族」も、あるいは、「正しいセクシャリティ」みたいなのも。



フーコーが思ってたのもそういう感じだったのかなあと思いつつ、プラトンが3つの性(男男・女女・男女)を想像してたのもそんな感じだったのかなあ、とか。



独占しない関係について - blog.922
http://bit.ly/1axknHv



自分はわりとポリに近いところがあるように思うんだけど、それは理知がそうさせてるのかなあと思うところもあって、実際に付き合ってみると嫉妬も生まれたり。あと乱交とかスワッピングには抵抗あるのでたぶんポリというよりはオープンリレーションシップに近いのかなあと思うんだけど、これも相手がそうだった経験もないのでよくわからない(そういう契約みたいなのを説明して付き合いだしたことはあったけどけっきょく怒られたことあるし)。


けっきょくは「嫉妬」が問題で、それは「自分は持ってないのに相手(もしくは誰か)は持ってること」に起因すると思うんだけど、「だったら両方とも付き合ってる相手とは別の人とセックスするなりちょっと付き合うなりの機会があれば『片方だけ』ってこともなく嫉妬心生まれないんじゃないの?」って提案したら「そういうことじゃないんだ」って返された。「理性ではわかるけど感情としてダメ」ってことみたい。


まあそういうのは家庭環境とかにも依るのだろうから一概に何が正しいとも言えないのだろうし、自分も相手に依ってはそういう考えが違ってくるのかもだから一概に言えないんだろうけど、ついったなんかでもポリ宣言して実践してる人いるし、オフでもオープンリレーションシップな感じで生活してる人とおともだちだったりする。なのでわりとふつーというか、そういう人が増えてるのかなあッて思ったり。




まあけっきょくは「制度で決まってるから正しい」ってことでもなく「自由なのがおしゃれじゃん☆」って行き過ぎることもなく相手の気持ちに依るかなあとかおもうけど。



「なにが正しい」とかもそんな感じで目の前の相手と真摯に向き合うことがまずあって、その「相手」をどんどん拡張していくことなのかなあ。大上段にポリティカルコレクトするんじゃなくて、自分と相手との真摯な付き合い、選択の集積、結果であり淘汰として。







sentaku.jpg






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関連:
髪の毛付きフーコー
http://morutan.tumblr.com/post/71187284093/qoohm




Can You Tell the Difference between the Peoples? : 蜜蜂を弄ぶ
http://liyehuku.exblog.jp/2131248/




ロボトミー手術を受けた兵士の戦後 - WSJ.com
http://on.wsj.com/1llX0c1




社会全体での恋愛・結婚・出産・子育ての最適な形について - lestructure's blog
http://lestructure.hatenablog.com/entry/2014/01/01/224418




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2014年01月01日

「パンがなければうどんを、ワインがダメならジュースをつくろう」とマリーは言った


麺の文化史 (講談社学術文庫)
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「麺の文化史」を読んでるのもあってこの記事を見て(´・ω`・)ピクッとしてしまった。


うどんのルーツに新説−四国新聞社
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/457/




要約すると「うどんは中国起源て言われてるけど日本起源だ」「空海が伝えたとかじゃなくて日本で出来たんだ」って話。


空海がどうとかはいいんだけど「青木正児説への反証として」って話はなんか雑に思った。



 新説を発表したのは、テレビの料理番組でもおなじみの伝承料理研究家の奥村彪生さん。美作大大学院(岡山県津山市)に在籍し、「日本のめん類の歴史と文化」と題した博士論文の中で、うどんのルーツに迫った。
  「ワンタンがうどんの起源?まず形が似ても似つかない」。中国のワンタンがうどんの起源とする説に、奥村さんは料理人の立場からそんな疑問を抱いていたという。
  この説は、昭和初期の中国文学者青木正児京都大教授(故人)が発表。今ではうどんの起源として最も有力な説となっている。
  青木説は、中国でワンタンを指す「※1飩[こんとん]」にうどんの語源を求める。※1飩は「※2飩」と書くことがあり、「うんとん」とも読む。これが同じ読みの「温飩[うんとん]」となり、「饂飩[うどん]」に変わった―というものだ。
  「この説は文字に頼りすぎている。中国に詳しい青木先生は、※1飩がどんな食べ物だったかよく知っていたはずなのに…」。奥村さんは青木説をこう評する。


 奥村さんはうどんの起源を探ろうと、三十年かけて中国各地で麺を食べ歩き、日本国内の古文書を読みあさった。結果、中国には、湯で温めた麺をつけ汁につけるうどん本来の食べ方がなく、饂飩の「饂」の字もないことが分かった。
 奥村さんが着目したのは、うどんが切り麺ということ。青木説が手のひらで生地を平たく延ばす古代のワンタンを起源とするのと最大の相違点がここで、奥村さんは切り麺の歴史をさかのぼった。
 切り麺が中国から伝わったのは鎌倉時代。中国の切り麺の歴史をひもとくと、唐代に「不※3[ぷとう]」と呼ばれる切り麺がある。これが発展したのが「切麺[ちぇめん]」で、宋代に盛んに作られるようになる。
 そして、この切麺が一二〇〇年代前半、留学僧によって伝えられ、日本で「切麦[きりむぎ]」と呼ばれた。切麦は中細麺で、今の冷麦のことだ。奥村さんは「この切麦こそがうどんの祖先」とする。
 それでは、切麦がどのようにうどんに変化したのか。
 江戸時代の記録などによると、うどんは、ゆでた麺を水で洗った後、熱湯につけ、つけ汁につけて食べていた。今でいう「湯だめ」だ。中細の麺を湯につけたのでは、どうしても麺が伸びてしまう。そこで、湯につけても伸びないよう発明された専用の太切り麺こそが、うどんというのだ。



中国古典文芸が専門だった青木さんだけど中国の食に関する論文(「華国風味」)も有名なようで業界だと麺の歴史語るときによく引用されるみたい(「饂飩の歴史」)。

青木さんの説を批判する奥村さんの言い分だと「青木説は餛飩-饂飩-雲呑を直接にうどんの祖とするようだがうどんはそもそも雲呑のような伸ばし麺な食べ物として開発されたのではない」とのこと。んでも青木説はそういうのでもなかったように思う。

まず最初に「現在の形のようなうどんが生まれたのははっきりしない」があり「ではうどんの祖といえるような食べ物はどのようなものか?それはどのように伝わったか?」「そこからうどんはどのように変化したか?」という話。


うどんとかパスタでもそうだけどああいう細長く麺状態にしたもののほうが麺文化の中だと異常、というか、一つ加工した段階で、もともとは蕎麦なんかもそば粉を溶いて練ったものをすいとんみたいにしてだし汁に浮かべて食べたりする。蕎麦がきなんかは日本でもあるけど、トルコなんかにもそば粉でつくった似たような食べ物ある。(マスターキートンに出てたかなこのへんは)

そういうもの全体を中国ではもともと「麺」という。パスタとスパゲティの関係を思い浮かべてもいいけどもっと広く、小麦粉で作った食品全体を「麺」という。なのでお好み焼きも麺(ピザもかな)。

「麺」のディレクトリの下に「餅」がくる。これは日本のように「もち米を蒸して作った食品」のことではなくさっき言った「小麦粉で作った食品である麺を利用した料理」全体を「餅」という。

そんで、日本人がイメージする細長い「麺」というのは「麺条」と記す。

もっともいまでは中国でも麺といえば麺条な麺のことを指したりもするようだけど。


そんでこの麺条でも作り方に違いがあって大きく分けて「手で伸ばして麺状にするもの」と「麺を切って麺状にして茹でるもの」とがある。前者のほうは拉(ひっぱる)したりすればいいので機材的には楽で、後者は平たい台と伸ばす様の麺棒、包丁が要る。なので麺文化としては切り麺のほうが延ばし麺としては近代化した料理といえる。

麦を粉にするには石臼がいるんだけど日本は長いあいだ石臼もなく粒食してたみたい。



石毛さんによると青木さんは「饂飩は混沌に通じる不規則な形をした食べ物で日本のすいとんのような食品であったと推定した」(p35)みたい。


奥村さん的には「切り麺段階で伝わったのだから延ばし麺からの起源で語るのはおかしい」って話だろうけどそもそも麺のルーツが延ばし麺だったり、あるいはそういう麺条にしたものじゃなくても「小麦粉ほか食べられる粉を伸ばして煮るか茹でるかして食べるもの」って感じだったのだから大本の起源としては間違ってない感じ。


ちなみにいうと石毛さんの説明だと麺の文化はまず延ばし麺であるそうめんから伝わり、それが蒸し麺(ザルで供したり)温麺(つけ汁につけたり)いろいろな食べられ方をしていた(まあこのあたりの説明に奥村さんも出てくるから知ってるんだろうけど)。そして江戸時代に入ってもそうめんのほうがメインだった。まだ切り麺技術が発達してなかったのでそうめんのほうが細く仕上げられたので。


切り麺としてのうどんは「鎌倉とかにつくられたのかもだけどはっきりしない。文献的にはウトムってのが室町に表れてるけどねえ」という話。


  うどんが初めて文書に登場するのは南北朝時代の一三五一年。法隆寺の古文書に出てくる「ウトム」がそれ。うどんの記述はその後、京都の禅寺や公家の記録に頻出する。留学僧によって切麦が伝えられたのが一二〇〇年代前半。当時、中国へ渡る留学僧は禅宗の僧が中心だった。
  こうした経緯から、奥村さんは「うどんは、一二〇〇年終わりごろ、京都の禅寺で生まれた」と結論づけた。初めて記録に登場するのは奈良だが、その後の記録の多くが京都に集中していることから「発祥の地は京都とみるのが妥当」と言う。
  麺をつけ汁につける食べ方について、奥村さんは「食べ方に美しさを求め、素材そのものの味を味わう禅宗の考え方につながる。中国にはない食べ方だ」と解説する。
  起源を探るもう一つの手がかりが饂飩の文字だ。うどんが禅寺で生まれた―との前提で奥村さんが続ける。
  中国で不※3と呼ばれていた切り麺。これを湯につけるから「温※3[うんとん]」。食べ物なので、「温」のさんずいを食偏に改めて「饂」と作字し、中国の※1飩の「飩」を参考に「饂飩」と書いた―とみる。「禅宗の言葉は濁点が多い。饅頭[まんとう]を『まんじゅう』、点心[てんしん]を『てんじん』と読むように、饂飩も『うどん』と読んだのではないか」と推測する。
  「ここからは少々想像力をたくましくしてほしい」と奥村さん。「寒い冬、禅寺で切麦を打つ時、ある坊さんが試しに太切りにしてみんなで出来たてを食べ比べ、『これはうまい』となったに違いない。『この太切り麺の名前はどうするか』とも議論したはず。一休さんを生んだ禅宗。頓知のきく坊さんがいたんですよ」。





ここまで振り返ってわかったけど要するに焼き肉の話と似てるのだ。「焼き肉は韓国ルーツか日本ルーツか」というあの話。


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「肉を焼いて食う」って習慣自体は日本にはなかったのでその点では朝鮮オリジンといえるんだけど、「換気扇フードを付けて室内で女性でもふつーに肉を焼いて食べられるようになった」という近代的に洗練された焼き肉は日本で開発されたといえる。


奥村さんの話は「近代焼き肉こそ焼き肉だ」って話。でもそれもなんかちょっと違う感じ。というか、けっきょく解釈の問題だろそれ。。だいいち奥村さんの話で言われてるうどんもオリジンなうどんな話で近代うどんとはまた違うだろうし。。江戸期でもけっきょくはうどんよりそうめんだったみたいだしね。


なので大切なのは、あるいは自分的にこういう話で関心があるのは、「切り麺としてのうどんの起源(古うどんの起源)」ていう曖昧なところではなく、「それを作れる料理設備ができていたか?」であり「洗練された近代うどんが普及するような経済段階になっていたか?その内容は?」みたいなとこ。「現在のようなうどんの形に整えられてそれがある程度ふつーに食べられるようになったのはいつか?」「そのために必要な料理環境とは?」

あと、「饂飩は広東だと雲呑と表記し、日本に来た中国移民は広東人 → 広東料理が中心だったので雲呑という名前で広まった」という話も。「では、なぜ広東人たちが移民してきたのか?」とか興味ある。






「( ^ω^)・・・そういう各個の表層の状況・要素より大事な話があるんだけどなあ。パロールじゃなくてラングみたいなの」ってのはフードサヨクがどうとかいうのにも思った。


まず、フード左翼とフード右翼を簡単に定義すると?

速水:「フード左翼」はこの本の中で作った言葉で、紙幅も割いて書いてありますので一言では説明しづらいんですが、食に関しての“理想主義者”といえます。例えば、イタリアで生まれた「スローフード」という地元の食材を伝統的な手法で調理して食べる運動が、マクドナルドへの反対運動を通して「反グローバリズム」という左派運動として広がっていきました。「スローフード」は地域主義という保守運動でありながらも、現代の左派運動の代表的なものなんですね。なので、地域主義、地産地消、自然派食品などにこだわる人々を左に置いて「フード左翼」と定義しました。対して「フード右翼」は現実主義者に相当します。第一義には、グローバルな食の流通や、産業化された食のユーザーということになります。

有機野菜好きは「サヨク」なんですか?:日経ビジネスオンライン



なんとなくの感覚としてはわかるしブログのエントリとか雑誌のそれみたいなキャッチーな言葉としては良いのだろうけど「( ^ω^)・・・それ、けっきょくきちんと定義してないから曖昧に範囲広げられるし、けっきょくそれでなにがいえるの?」的なことを思った。まあ「本嫁、書いてあるから」とかいうことかもだけどそんなに食指が動かない。


こういう問題よりは日本の食と健康を覆うイデオロギーとしてはフードファディズムのほうが深刻なように思う


食べものや栄養が健康と病気に与える影響を過大に信じること、科学が立証した事実に関係なく何らかの食べものや栄養が与える影響を過大評価すること

フードファディズム - Wikipedia http://bit.ly/hsliio

フードファディズム―メディアに惑わされない食生活 (シリーズCura)
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フードファディズム なるほど!食卓の安全学 コープネット
http://www.coopnet.jp/products/anzengaku/201109.php



要するにみのもんたなんかのテレビ番組でみょーに健康についての意識を喚起して、特に体系的知識もないままみょーにマニアックな栄養素について意識するようになったり、納豆が紹介されたら加熱的に納豆だけ買ったりっていうアレ。その栄養素に関する体系的知識はないしもとうともしないのに評論家ほかオピニオンリーダーが「良い」といったものを盲信する姿勢。それは食と健康だけのことではなくいまの日本、あるいは世界的にも大衆なとこの心性として根本的な問題があるのかもしれないけど。中流層のおばちゃんがそんな感じでオピニオンリーダーの話にコロッと乗せられてってのはよくある感じ。

フードサヨク / フードウヨクの場合はたとえば恵比寿なんかに住むロハス層と下流デフレ飯な層との分断なんかを思う。「俺たちはもう浮き上がれる気もしないので遺伝子組み換えとか中国産とかどーでもいい」的なの。

なので、そういったライフスタイルの中でも生活レベルがモロに表われる「食」というところを通じて所得に依る階級格差みたいなのを見ていくのはアリと思う。そんでサヨク/ウヨクの分断、意識の違い、みたいなのもそこが絡む感じ。

みのもんたほかテレビや雑誌のフードファディズムに乗っかるのは中流のおばちゃん層で、そういうのとメディア接触や所得、世代が違う層が恵比寿ロハスフードサヨク的になり、その辺の文化資本的なところからあぶれた、あるいは、知識はあっても所得的に仕方なくって層がデフレ飯って感じにおーざっぱに分類されるのだろう。ラーメンとかカレーなどのB級グルメにみょーにイズム絡ませるのもその辺の下・中流のサタデーナイトフィーバー的な逆張りみたいな感じ。まあ要するにハビトゥスとそれによる差異(ディスタンクシオン)のゲームでありカースト。



ただ、通念としてのネトウヨは下流ってのもちょっと違うみたいだけど


「ネトウヨは低学歴でニート」は大嘘 その正体は30〜40代の中流層だ 『ネット右翼の逆襲』著者・古谷経衡さんに聞く : J-CASTニュース
http://bit.ly/1cWWWgO




あるいはもっと大枠としては食と栄養、健康という場において表れる官・産・民の生権力の綱引きとも言えそう。なので栄養-健康-厚生-福祉も関わる。ホメオパシーなんかも



・反体制的な態度

食習慣の価値観は、栄養団体、健康管理団体、食品加工団体等の価値観と矛盾していることがある。加工・包装食品を忌避し有機栽培の食品を選択する人々の信条は、多様なライフスタイルや表現が可能であると感じられた文化的変化の中で発展してきた。彼らの信条は体制側から間違ったものとされるが、同じ価値観の人々同士の連帯は一層強まる。


・感性的充足のニーズ

健康食品は象徴的なもので、健康であるかどうかより心の平和や欲求に従っているという見方もある。ファディズムは一見奇怪だが、実は心理的なニーズに従っているというものである。流行食は自己イメージを作るもの、自己実現の一つであり、現在持っている信条に合わない栄養情報は拒否される(認知的不協和)。

フードファディズムの基本形は変わらない。『食と栄養の文化人類学』 - 火薬と鋼
http://d.hatena.ne.jp/machida77/20100501/p1






加工食品をめぐる不信というのは近代→後期近代の消費・産業社会に住む市民たちにずっとあって、まあ「素性も知らない人に髭を剃られる不安」ていう身近な他人的なものなのだろうけど、昔は騙し食品とかふつーだったみたい。

「昔の紅茶は中国輸入で高かったのでイギリスでは混ぜ物をした」という話は「もやしもん」でも知ってたけどその他の食品、パンとか肉とかでもけっこうふつーにやってたみたい。

そういうのがなくなってきたのは間に政府の監査機構が入ることでチェック体制ができていったからだろうけど、これによって「食の自由」みたいなのが段々統治されるようになっていった。

たとえば屋台販売とか行商的小売とか、元々はそういうものと青空市場的なものがふつーだったけど近代化に際して政府が間に入ることで「より問題のない食品を」「確実に市民に届ける」ために食は小売りから量販(チェーン)へ変わっていった。もちろんその際、事業者自身の儲け目当ての誘因があっただろうけど、「大量の市民・国民に滞り無く安全な職を届ける」ために市の中央にあった青空市では交通が滞った。なのでそのあたりの出店に関しても政府が関わったり。潜りの行商とかへの規制が厳しくなっていったり。こういうのは現代の東京の弁当売り規制、博多の屋台規制なんかにも通じる。


国がそこに介入したのは「栄養 → 強い兵を作るため」という目的からだった。栄養学なんかもイギリスの輸入封鎖されたドイツで発展していったし。微生物学 → 保存 → 缶詰なんかも軍事目的で作られていった。


国のそういった意向、規制に対して食品産業界は反発し、その中間に食品栄養学なんかの専門家(評論家)が入ることとなった。


国 / 産 / 評 / 民


栄養と「正しい食事」(健康)についてのイデオロギーはこういったアクターを中心としてやりとりされていった。


「一日に必要な総カロリー」とか「三大栄養素」みたいな考え方もここからつくられたもの。それはいちおコモンセンスにはなっているんだけど、「元々がそういったもの」というのは知っておいたほうがいいとおもう。


なので、権力地図とかイデオロギーな力学的には「この食品を食べるのはダメ」とか「この食品は良いからどんどん食べよう」」「この栄養素は」「化学調味料は」「有機野菜で」みたいなアレは自ら国の官製イデオロギーに生きる力を明け渡してるようなところがあるように感じられる。あるいは有機野菜をめぐるフードサヨクなところはみょーに反体制ということで逆に依存してる。


化学調味料や醸造酒の話と同じで「少し(あるいは量を調節されて)入ってたほうがおいしい」のだしそれは有機野菜うんたらにも通じる。あるいは食事全体にも。


新大陸で発見されたトマトやじゃがいもが初期は貴族の鑑賞用の奇妙な生き物だったり、研究者によって薬効を期待されて伝わっていたように、飲食物というのは薬にも通じるところがある。医食同源なアレで。


なので「摂り過ぎればなんでも悪いし、反対に少なすぎても悪い」っていう単純な話なのだろう。


そのために各栄養素を知っておくのは良いだろうけど、その栄養素イデオロギーに縛られて生の自由を減らすのもつまらない。


「所得によって生活のレベルが変わる」みたいなことがありその表れの一つとして飲食があるところもあるだろうけど、そういったステータスに過剰に縛られて食事するのもつまらないようにおもう。社会資本や文化資本、正しい知識、「本場の、本当の」っていうオーセンティシティ、有名人やみんなのレビュー、ステータスやイデオロギー、承認、そういったものを食べるわけでもないのだから自らカーストに囚われることもない。






もやしもん(9) (イブニングKC)
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関連:
トマトとジャガイモがイタリアで食べられるようになったのはいつ? - 火薬と鋼
http://d.hatena.ne.jp/machida77/20120625/p1


【第50回】『食は広州に在り』(邱永漢)前編|新しい「古典」を読む
https://cakes.mu/posts/4101
https://cakes.mu/posts/4151



山岸俊男、1999、「安心社会から信頼社会へ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380874839.html




古市アントワネットと津田16世の対談がダメすぎる件 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/607449

全然発言の主旨が分かってないで「福祉」と「デフレ飯すきや」にくいついてるのがルサンチマンむき出しだった。

くだんの発言の前段階で「インターネッツで経済が変わりますか?」「変わるかもって例もあるけど一概には」 → 「リーマンとかの労働形態も変わるかも?」「変わるかもだし変わろうとするには意志が必要で」「わたすたちみたいに独立して」 → 「食い詰めたらどうすんの?」「まあすき家あるし」

全体的にその程度のPresident読んでる層向けの発言なんだけど、このまとめみたいな反応も含めて「所得に依る階層と食と福祉、それを巡るハビトゥス地図」のサンプルとしては面白いのかもしれない。(あとアントワネットの発言もアントワネット本人が言ったのではなくルソーがてけとーに作ったのが印象論したみたいなのをアイロニカル踏襲してる、という意味では)



農政について (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2013/12/30_1249.php

すごくいい加減なことを言ってることについてはもう論じたんだけど(たとえば農業の方が経済より先、とか、経済・経営として農業が見れてないこととか)
http://twitter.com/m_um_u/status/418262760225394688

『食文化が多様であるのは、グルメ雑誌のライターたちが信じているように「世界中の美食」に対する欲望を駆動するためではない。まったく逆である。他集団の人からは「よくあんなものが食える(気持ち悪くてゲロ吐きそう)」と思われるようなものを食べる』ことでうんたらについては「ヨーロッパの舌はどう変わったか」読んでっても出てる。(農民がじゃがいも食ったのは元々薬種だった気持ち悪いじゃがいもが研究され政府から支給され育てるように奨励されて仕方なくだった(cf.プロイセン)。あと料理の種類と多様性、洗練も経済発展・近代化を背景に進んだ
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2013年12月29日

ゼロ年代批評 ≠ ガチンコファイトクラブぽい



読んでて段々と徒労感たまってきて最終的にはつらくなってすっとばして読んだんだけど読後の不快感というか「・・かけた時間返してくれ」的な怨嗟が生じてるので愚痴。あと、自分の読みも間違ってるかもなのでその晒し用に。



ニッポンの思想 (講談社現代新書)
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まえがきのほうに「本書は各思想を詳細に追うものではない。むしろ各アクターのパフォーマンスを追うものだ」的なことが書いてあるのでプロレスのアングル構造解説みたいな感じで昨今につながる批評界隈のアレを解説してくれてるものと期待したんだけど期待外れだった。そういう期待を勝手に持ったのが悪いってのもあるんだろうけど。。

「各思想を詳細に追うものではない」というのはたしかにそうなんだけどなぜか中途半端にガワをコラージュして物語を生成してるのでその部分の曖昧さで読みにくかった。なんというか…渋谷陽一的なアオリ分を収集し再編成して各思想解説してるような感じ。場外乱闘的なアングルな文脈の解説もあったんだけど思ったよりアオリの解説が多かったのでその部分がバグなかんじだった。


もそっというとアオリ部分というのはたとえばプロレスの技の実際の有効性ではなくアナウンサーが抽象化してつくりあげたプロレスの技のイデアについて語ってるような感じ。プロレス技の実際の有効性だとたとえば身体構造と各エネルギー量などといった客観的な「外部」の指標を持ってそれを測れるだろうしそれが開かれた解説ということだと思うけど、アナウンサーがつくりあげたイデアな技だとアナウンサーの表現の多様さが技のダメージのように思えてしまうので。実際の料理の味うんぬんアートの内容うんぬんではなくどっかのレビューや批評家の言や現代思想(アート)的雰囲気で判断するのとも近い。あと「キン肉マン」世界の技のリアリティというか。。

「客観的かどうか」ってのは曖昧か。。そこに通底してるコードやコンテクストがとても内向きでわかりにくいといっったほうが精確なのだろうな。


まあ「それが概説書の宿命さー(言及されてるそれぞれのテクストを自分であたってくしかないサー」といえばそうなんだろうけど、少し前に読んでた仲正さんの現代思想概説書はまだ満足感あったし、同時に読んでた中山元さんのフーコー本はわかりやすく満足感あったので。



結論から言えば佐々木さん自身が最初から東さんのガワの話を真に受けすぎてそこに振り回されてた感がある。パフォーマティブ/コンスタティブでいえばパフォーマティブのほう。


それはまえがきの「東浩紀の一人がちだった」という話からも伺える。そのまえがきは全体のプロットが定まったか、全体書き上げてから書いたのかもしれないけど。


脱構築うんたらという話やポストモダンを巡る捉え方・意義もその辺りの言動をまともに受けたものだったのだろうから「80年代で大きな物語が死んでポストモダン化して言葉に意味がなくなって」って話をぼんやりと前提にしてしまってる感があった。その辺りの話というのは下部構造的な現実とは直接関係のないガワの話であり、あまりにそこだけで話しすぎてると観念論的なアナロジーなところは抜け出せなくなってしまうんだけど。。

もちろん下部構造が全てを決定するッて感じではないけど経済・ライフスタイル・政治などといった現実に見えるものの変化とその変化の経緯についてシステム論やら脱構築がうんたらいった観念的なアナロジーだけではなくきちんと政治経済的関係性の中で、それぞれの各論で因果関係を説明してくれないとどうしても抽象的で「なにいってもいい」って感じになる。「これはえらくて最新の理論だ―」って権威が付されてれば。




なので全体の話もそういうガワのところの説明見てると頭痛くなってきたのでなんとなくの流れとして受け止めてぼんやりとした印象で把握しておくにとどめた。



印象としては仲正さんの解説もあったけど柄谷行人は本気でやってたんだけど家庭環境からマルクスな呪縛が解けなかったんだなあ、と。


やってることは文学/文法論を論理的に突き詰めていってその突き詰めたところだと「どうしても論理的誤謬ができてしまう」ってことで不完全合理性 → ヴィトとつないで「人の理性だけだと限界がある(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」て感じに、そこで<他者>への契機を見出すということで存在論への窓口開いてたのだろうけどマルクスにこだわってジャンプできず、と。(このへんは廣松渉が現象学的だったのにマルクスにこだわったのと似てる印象だった)


浅田彰はとても有能なコンピュータ的秀才で「なんでもわかるよ」っていう量子コンピュータみたいな感じだったみたい。そんで「なんでもわかるよ」な翻訳機能が重宝されて80年代からの思想アンチョコ概説本の需要がここから出来た、と。


浅田さん自身が売れたのはまったく偶然で、朝日新聞の書評で「構造と力」が紹介されたときに版元の勁草書房の「勁」の字に誤植があったことからそのお詫びとして「(時代を引っ張る)わかもの」的なコーナーに顔写真入りで紹介されたことからブレイクしたらしい。

そのあとどっかの誰かが浅田さんやら中沢新一やらを「ニューアカ」としてまとめていった。小林秀雄とか福田恆存とかが属してた文壇とかに対してもっとポップなニューアカって感じ。


んでも「構造と力」にしても「逃走論」にしてもなんとなくのキャッチコピー的なところだけが当時の若者に受け容れられてその内容はちゃんと理解されてなかったみたい。


「ぼくは当時から構造の外部に逃げるのではなく構造の中に逃げる契機をつくっていけって話をしていたのになにも理解されてなかった」

後に浅田はそんな感じで世間の無理解とニューアカとしてまとめられたことへの不満を述べていたみたい。



「構造の外に逃げた」「平坦な日常を見つめることから逃げた」と見られたのがオウム真理教事件だった。


この事件について大塚英志なんかは「オタク的なキッチュさがそのまま反映された」みたいに問題視し、自らのオタクアイデンティティからそれを反省しようとしたようだけど宮台真司とかは「そもそもオタク事件じゃなくて一部の平坦な日常を見つめられなくなったバカが起こしたものだし」と見たみたい。


そんで中沢新一なんかが「宗教学者としてこの若者たちに影響を与えいたとされるみたいだからその責任をとる」とかいったときに浅田も「あれは一部のバカが構造から逃げるためにやったことだからそんな責任の取り方することない」と擁護したみたい。



自分的な印象だとクイズ的なお勉強知識がデータベース教養されてくのに反して実存・内面的希薄が生じていたのでその部分でのアンバランスな暴走だったように思うけど、当時の宮台さんにしてみると「実存とか目指すのでもなく永遠に平坦に生きろ」ということだったみたい。まあ全共闘の失敗、教養主義的なものへの反省の記憶や空気感が未だあった頃だろうし、実存がうんたら言ってもその内容が明らかでなければ二の鐵を踏むッて感じだったのかもだけど。



とりあえずそんな感じで、日本的ポストモダン・ニューアカからの蓋然的共通認識としては「大きな物語は死んだ」「日本は歴史的連続性がない」「無である」みたいなのがあったみたい。その問題にどう向き合うかは別にして。



佐々木さんの解説によると東さんはその課題を「構造と力」で描かれてたテーマを受ける感じで進めていったようだけど途中で急に「このゲームを降りる」とした、と。


自分的にはそれはたぶんそのままつづけていくと実存的、存在論的課題に向き合うことなるのを感覚的に察知したからだと思うけど、抽象的な説明のコラージュだったのでそのへんはよくわからなかった。



そんで、そんな感じで哲学的な領域からは足を洗いつつ哲学的用語で社会批評したり、あるいはもっとベアナックルでオタク界隈のストリートファイト → トーナメント制を選んだのがゼロ年代批評(ゼロアカ)ということだったように印象するんだけど。


学界がプロレスや空手のような大会で、それに対してジャーナリズムや論壇がストリートファイトだとすると、ストリートファイト形式、あるいは総合格闘技形式にしつつも哲学プロパーな知識があったほうがやはり強いということで最初からそういうののアドバンテージがあったり、あるいは、「単に勝てばいい」みたいな感じになってしまってるのがあのあたりなのかなあ、って印象した。




まあ「近代格闘技の欺瞞から総合いったけど古流はもともと総合だからねえ」ってのと同じ感じで古流に帰ろうとしてるのかねえあの辺も。





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関連:
ゼロ年代批評とJ-POP  ロックはどこへ逝った?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382169743.html

東京ハ夜ノ七時: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383000042.html



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2013年12月24日

弱者の矛と同調圧力  冬に深淵を見つめるもの


昨日けっこう長いエントリをしてしまって


細田守、2012、「おおかみこどもの雨と雪」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383370375.html


ほんとはそんなにおおかみこどもヽ(´ー`)ノマンセーてわけでもなく単に「田舎に引っ越してきた時の子供のはしゃぎ具合とおおかみ化したときの雪原なんかでの疾走感やら湖の様子やらきれいだったなあ」ってぐらいの映画だったんだけどおおかみこども批判な人たちに対してきちんと説明しとこうと思ったら長くなってしまった。まあ年寄りくさい話の長さというか


昨日のエントリでもちょっと言ったけど集約すればあの人たちはオタク臭いのだろう。ここなんかでも「リア充はふつーに愉しむかスルーするけどヲタはなんか文句言う」ってあったし


VIPPERな俺 : 【ネタバレ注意】おおかみこどもの雨と雪 ←これ結局どういう評価だったの?
http://bit.ly/19cQKOo


はてなのみょーに溜まってるひとたちも含めてあのへんはタメの議論て感じで、文句をいうことそれ自体が楽しみになってるようだからまともな議論とか対話とか内容検証ではなくたんになんとなく消費するだけなのだろうし、自分たちもその祭りの躍動感のなかで消費されてくのを是しとしてるのだろう。


あと自分たちでつくった檻に自ら囚われてる感じ。それはあの作品の中にありもしない母性の前景を見、その幻影を批判してたひとなんかに顕著だったけど。ほかにもみょーなマイノリティの影をうつし、自らのアイデンティティの檻をチラつかせるためにギャーギャーと吠え立てる感じの…。


サブカル、ヲタ、あるいはLGBTがどうとかな空間でもいいけど、ああいうところで「自由」を叫びなんらかのプロテストを表明すると「あなたがたが求めるものはなんなんですか?」ってなりそれに対する「正しい○○(サブカル、ヲタ、LGBTなんでもいい)」のリストを提示すると却ってそれがそのクラスタの規範となって硬直化し新規参入者を阻害して行ったり。イデオロギー先行になってごく一般の価値観や生活感から遊離していって「繊細チンピラ」みたいなフックをかけて一般人を怯えさせたり、過度に反感を買ってしまうことになったり。 なので、ああいう領域での公共性というか、空間における規範と自由のバランスを保つためには、求めるものを規範-制度として固めることが大事、なのではなく、なんとなくの漠然とした自由な感覚を覚えておくことが大事なようにおもう。 そうしないとエスタブリッシュへのカウンターカルチャーとして立ち上げたものがいつの間にかエスタブリッシュとして壁になって立ちはだかることになる。自分たちの味方になりそうなひとに対しても、自分たち自身の生き方にも。

http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380740959.html

あのへんのアレルギーの言説の大きなものは「母性をあまりに過大評価するな」とか「あんな完璧な母親像押し付けんな(リアルな子育てわかってんのか?)」って感じのものだったようだけど、それはたぶんこの映画の主題ではない。 母性を強調してると感じたのはたぶん見てる人の中にその辺に対するコンプレックスがあるからで、そういうのを問題にしてない人からすると「なんでそんなに怒ってるのん?(´・ω・`)」てかんじになる。あるいは「普通に家庭を営んでることへの攻撃だ」とか言うのもたぶんその人やその人を巡る環境の中にそういった問題があるから、かなあ。 あるいは「シングルマザー」や「子育て」といったキーワード、マイノリティの隠喩とも思えるようなキャラクター設定からそれらにサバルタン的にアイデンティファイしてる人たちが「わたしたちの縄張りを犯すな!入ってくるなら話のツマにするのではなくもっと慎重に詳しく描け!」とでもいうことだろうか。「わたしたちと同じスティグマを持たない人はそういう領域を描いてはいけない」「作品の周辺を彩る舞台装置として使ってはいけない」とでも?(マイノリティとして「ふつー」に扱ってほしいと言ってる人たちが自分たちの「ふつー」(規範、同調圧)によって別の「ふつー」を遠ざける問題)。そういうのは作品が特に悪質な偏見の助長でもしてない限り不毛な縄張り意識にすぎないと思うけど。彼らがマイノリティ的な差別を嫌がるのなら、特にタブー意識を持たずにそういった問題を扱う事こそが彼らの望みであるはずだし、この物語がマイノリティ的な情況全体を背負うことで彼らの困難が楽観視され後景化されるといったこともないように思うが。却って彼ら自身が強烈なアイデンティファイで自身の言説強度や繊細センサーを上げ、エスタブリッシュとして規範化し狭量な排他性を生んでるわけだし。

http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383370375.html

そしてそういった心理機構というのはどういったものかといえばルサンチマンなのだろう

つまり「アファーマティブ・アクションに通じるような弱者の矛をもって強者のスキを狙う」的な心理。在日特権の話題でもそうだけど「迫害されてるマイノリティだから」ということで与えられた権利あるいは配慮を盾にその影に隠れてやたらと人を攻撃したり要求したりするような心性。そして相手はそれが弱者の正論、聖域的な正論なので否定しづらくなる。

そういった状態の不公正さ、フェアじゃない感じというのはある程度大人になれば分かるものだと思うけど、多分あの辺りの人たちにはそれがわからない。


たしかに実際にマイノリティとして、サバルタンとして迫害を受けている人もいる。そしてそういったひとたちの現実の困難をマジョリティの言説が覆い隠し、結果として彼らの困難が「ないこと」にされていく言説空間のヘゲモニーという事態も考えれるだろう。


しかし、それが今回のおおかみこどもみたいな作品にあったか?ということ。


そういった弱者の鉾の暴走は今回だけのことではなくあのあたりの人たちの悪い癖としてちらほら見られる。LGBTパレードにおける「ただしいゲイ」の定義によるゆるいゲイの排除とか、ありもしない「産婦人科女医が怒った事例」への反論とか

http://t.co/AZoRcVUipM
http://t.co/Cgg5O8nkcO
http://t.co/YM58VUka4M
http://t.co/AROFxzeRTW

あげく「(将来の)注意喚起のためにやった」的な言で終わる(目の前の実際ではそんなこと起こってもないのに)。



こういうのはサヨクの悪い癖の伝統で福田恆存が「屠蘇の杯問題」と呼んだものだった。

屠蘇の杯は小さな杯は順次により大きな杯の上に乗っかっている。平和問題論者は基地における教育問題を、日本の植民地化に、さらに安保条約に、そして、資本主義対共産主義という根本問題にまでさかのぼらせる。小さな杯を問題にするためにはどんどん大きな杯を問題にしなければおさまらなくなる。


そうやって目の前の各論への現実的対処はなおざりにどんどん抽象的に問題を大きくしていって理想論を振りかざし収集がつかなくなる。


gottya.jpg



おおかみこどもの話に戻れば「母親としての現実を語るのは現実的対処ではないの?」という疑問も出るかもだけど当該感想エントリでも言ったようにあの物語はそもそもそういう話ではない。


「子育て」というモティーフを通じて「子離れ/親離れ」を描いたものだし、子育ての内容として「どんな『ふつー』もないんだよ?」と伝えるためのもの。マイノリティということさえも。


なので、そういった「ふつーはないんだよ?」というメッセージの作品に対して各界の「ふつー」の規範をもって同調圧的に批判を繰り返してること自体がお笑い草なのだ。

それでもまだ信じられないならいちおこのへんの紀要でも見ればいいとおもう(PDF)
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DO/0034/DO00340L079.pdf

83ページ辺りから「子供をいつまでもかわいがる」という母性や「ただしい子育て」といったものが性別役割分業による近代の変異であることがわかるだろうから。(そして「おおかみこども」という作品がそのオルタナとしての農村や自然を描いていたことも)




…そういうことがまるで通じないのがゲンナリする(作品云々より)


いちお言っておくけど「同調圧力」や「世間」といったものは複数あるものだから自分たちが「世間」と思うものからの同調圧力だけ批判するのはナンセンスになる。自分たちも一定の規範にしたがって「ふつー」という同調圧を発しているのだから。


鈴木謙介、2013、「ウェブ社会のゆくえ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381455793.html
http://diamond.jp/articles/-/43992





彼らのサヨク的教養による繊細チンピラな同調圧が却って彼らの檻を茨で囲み娑婆の人間を遠ざける。そういうのはフェミニズム界隈の一部の先鋭的な人たちの様子で特に顕著だったけど、それがほかのサヨク的教養領域でも見られだしたか。あるいはそういうところとマジョリティな「世間」「大衆」的ふつーの感覚との差や乖離が結構見え出したのか。

そして、そうすると昔ながらの教養主義を受け継いだサヨクたちは「( ゚Д゚)<勉強が足りないんですよ!問題意識が!」とかいうのだろうけど、そんなの現実に生じてないものをみょーに屠蘇の杯してるのだからトートロジーだったり。。



「言説を巡るへゲモニックな争いに対する戦略的対峙」「マジョリティの規範を脱構築するのです!」とかいうのであってもそもそもアイデンティティの設定位置が間違ってたり、みょーなところで意固地になると自爆するということを知らなそう。
http://bit.ly/KPJcoC


あの界隈の人は「脱構築」という言葉を「戦略」的方法として使うけど、そもそも脱構築のつもりが檻を強固にし構築してるわけだから何の意味もない。


何か勘違いしてるのかもだけど、もともと「脱構築」-「解体」-「Destruktion」は存在あるいは現象の神秘を現象学的還元かなんかでより透明に感じるために自分の檻を解体するものだから、、わざわざ檻を強固にしてどうするんだろう?とか思う。まあ単に言語行為論の衣装をまとっただけでその本質的なところはマルクス主義と何も変わらないのだろうけど(デリダ自身はどうか知らんけどねマルクスも



なのでやりたいことや結果としてやってることは「既成の何かを破壊したい」ということでマルクス主義を受けた全共闘のノリと何も変わらない。あるいは全共闘のときと同じように単に文句言いたいがまずあってそのツールとして「正しそうなこと」を借りてるだけ。


自分のスティグマや生まれ持って譲れないアイデンティティも関わってる人もいるかもだけど、それもみょーにいらない部分で強固し強度を高めすぎ。その証拠に娑婆の関係ないところに繊細チンピラしかける…。(今回のおおかみこどもでもLGBT界隈でみょーな批判みた)


かれらは「平等」の名のもとに破壊し、あらたな権威となるだけなのだろう。


フランス革命や明治維新、全共闘のときと同じように


自由主義の歴史が無い社会の陥穽に関するトクヴィルの論メモ | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2994




そうなりたくないのだったら自分たちを守るための最小限の行動だけを、現実的に、各論でやっていけばいいように思う。あるいは「自由とはなにか?」ということをイメージし続ける。




最後に、ついでにいえばこのエントリの冒頭エピグラフの意味は「冬にたち枯れた池の悲惨な様を見て殊更にそこに深淵を追求しないようにする倫理(けじめ)」ということ。


細田守、2012、「おおかみこどもの雨と雪」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383370375.html


つまり、自分たちのいいたいことを中心にみょーに作品をねじ曲げありもしない深淵を見つめようとする人たちへの嫌味だよ。



(まあサヨクだけでもなくネトウヨ界隈もヲタにもにもルサンチマンタメてる人達はいるだろうけど)










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関連:
うそつきサヨクの杞憂曲: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381957375.html


東京ハ夜ノ七時: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383000042.html
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2013年12月20日

赤い狐とこぐまのマーチ


「民主と愛国」をまたダラーッといちお見直してたら吉本隆明を論じたところがあまりにひどかったので愚痴。。


〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性
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端的には小熊は吉本を実体験のない戦争ロマンチストとして捉えてるみたいなんだけどそれはどうなのかなあと思った。


 『〈民主〉と〈愛国〉』が60年安保闘争の全学連主流派を好意的に描いているように見えるとするならば、それは私が意図して好意的に描いたというより、当時の多くの人々から彼らが好意的に見られていたからだと思いますね。私は当時の資料を集めて並べ、当時のメンタリティを再現しようとしただけです。

 ただし西部邁さんが自治会の不正選挙のことなどを回想しているように、当時の活動家たちが「純粋さ」だけでやっていたわけではないと思う。ここでいうのは、主流派のデモに参加した一般学生たちを含めた、総体に対する当時の評価の話です。

 それに対して、上野千鶴子さんと対談した時などは、全共闘と吉本隆明に冷たいと言われた。しかしそれも、当時の雰囲気のなかで、戦争体験世代の「大人たち」からは全共闘がそのように見られていたという事実を書いたつもりです。

 吉本隆明についていうと、彼の著作を集中的に読んだのは、今回が初めてです。理解しようとできる限り努力したつもりですが、正直なところ好きにはなれなかったですね。もしかしたら、20歳前後で読めば、もうちょっと違ったかもしれない。でも30代後半になって初めて読んだのでは、50年代から60年代の吉本さんが使う「反逆の息子」とか「壊滅的な徹底闘争」とかいうフレーズには、共鳴できないと感じた。

 ピエール・ブルデューは、フーコーを批評して「青少年向きの哲学者」と言っています。フーコーはそれだけの存在だったとは思いませんが、60年代の吉本さんの影響のあり方については、ちょっとそういう印象を感じますね。ああいう戦闘的ロマンティシズムというか、「壊滅的な徹底闘争」で「擬制」を倒せみたいな思想として吉本さんの著作が若者にうけてしまったというのは、全共闘や新左翼を政治的な観点から評価すれば――文化的な観点から評価すれば別の基準があるでしょうし、「政治」と「文化」がそうはっきり分けられるのかという疑問もあるでしょうが――幸せなことではなかったと思う。

 私が『〈民主〉と〈愛国〉』で述べた見方では、吉本隆明の思想が残したおもな政治的効果は、党派や社会運動、あるいは「公」の解体を促進したということだった。彼の力で解体したわけではないけれども、解体を促進する触媒としての機能を果たしたと思います。

 ただ吉本さんの文章は、おそらく当時から相当に誤読もされていただろうとも思います。だから吉本さんの思想が社会運動を解体したというと、反論する人もいるでしょう。あるいは『〈民主〉と〈愛国〉』で、吉本さんがじつは戦中に兵役を免れたことに罪責感をもっていて、その罪責感から「死ぬまで闘う皇国青年」みたいなイメージを作っていたことを書いたことで、自分の吉本イメージとちがって驚いたという人もいると思います。

 そういう人に幾人かお会いしましたが、そのときはこういう言い方をしています。吉本という人は、要するに思想家というより詩人なんだと。吉本さんの文章は、私が書いたようにその内容をダイジェストして、要するにこういうことを言っていますみたいな形にしてしまうと、特有の魅力が発揮されなくなってしまう。詩のあらすじを書いてしまうようなものですから。だから、「確かにあらすじはそうかもしれないけれど、私のあの感動した心はどうしてくれる」みたいなことをいう人の気持は、否定しません。

 だけどそれは、あくまで文学的な次元の話です。もし吉本さんや、あるいは江藤淳さんもそうですが、ずっと詩や文芸評論だけを書いていたら、私はこういう研究で彼らをとりあげる必要はなかったでしょうし、批判をすることもなかったでしょう。しかし彼らが政治評論を書いて、そういう方面で影響を与えてしまった以上は、当人も批判の俎上に乗せられることを覚悟するべきだと思います。


 それからあの本を書いて思ったのは、妙に勇ましいというか、大言壮語をする人は信用できない、ということでした。吉本隆明は、本当は日和見なのに、「壊滅的な徹底闘争」とか言う。吉本と同世代でも、鶴見俊輔は戦争中に慰安所の係員みたいなことまでやらされて、ひどい目にあって自分の小ささを思い知らされた結果、他人にもあまり過酷な厳しさを要求しない。だけど60年安保のときに、本当に死ぬ覚悟があったのは鶴見のほうだった。

 ヤクザだって、修羅場をくぐったことのないチンピラのほうが、できもしないような勇ましいことを言いがちでしょう。もちろん鶴見さんも欠点はあるでしょうが、この点に関しては吉本さんより鶴見さんの方が偉いなという感じがしました。


小熊英二さん『<民主>と<愛国>』を語る(下)
http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/book/Democracy_vol2


未だ吉本のテクスト当たってなくて概説を読んでるだけなのでびみょーってのはあるんだけど(同時代に吉本のテクストに関わる文脈を理解してたわけでもないしね)、このへんはちょっとびみょーなんじゃないか、と。


・吉本というと死ぬまで戦う皇国少年なイメージがあるけど実際は「戦争に行けなかった」「生き残ってしまった」負い目の反動として戦争ロマンチシズムになっていた。

・吉本が国家やキリスト教に反発したのは自分の罪責感を掻き立てる権威を徹底的に嫌ったからだ。


こういったスコープで新聞の切り抜き的に周辺事実が切り取られ編集されていたんだけど、戦争が終わった時「生き残ってしまった」「降伏を肯んじえない」「徹底抗戦」と思った心性というのは単にロマンチシズムや罪からの逃避とは言い切れないように思う。それはこうの史代さんの一連の作品に表されている。











こうの史代『この世界の片隅に』下巻
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/konosekaino-katasumini2.html

『この世界の片隅に 下』の感想と、清志郎の死について少し - ぼうふら漂遊日記
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20090507/p1



「生き残ってしまった」罪悪感 / 喪失感、あるいは悔恨ややりきれなさというのはこうのさんのヒロシマをめぐる話の主要テーマになっていたわけだけど、「夕凪の街 / 桜の国」から継いだそれは「この世界の片隅に」の下巻でより詳細に表されていた。


絵を描くための右腕と姪を同時に失った戦争、自分の大事な人達を奪っていった戦争、そういったものに対して選択の余地もなく人生を投げ出されていた人たちにとって国が正義を全うしている=自分たちは正しいことをしているということは最後の拠り所だった。「最後の一人まで(自分の命をかけても)戦う」ということは贖罪にして救いだった。


「いまここへ まだ五人も居るのに!
まだ左手も両足も残っとるのに!!
うちはこんなん納得出来ん!!!」

「飛び去ってゆく
この国から正義が飛び去ってゆく」

「…ああ
暴力で従えとったいう事か
じゃけえ暴力に屈するいう事かね
それがこの国の正体かね
うちも知らんまま死にたかったなあ…」



父親から戦争の大部分は惨めな病死や轢死であることを聞かされていた吉本にとって戦争は単なる憧れではなくなっていただろう。単に当時の大衆的な思いとして「ただしいこと」のよすがだったのではないか?


しかし戦争ー国家を指揮していた連中は最後でそれをとどまった。臆病風に吹かれて。

けっきょくそういった連中は表面的な「正しさ」を確認し増幅しあうためのツールとして言表を交換しあってるだけでそれを信じきってるわけではないのだ。

だから吉本は国家やキリスト教、規制アカデミズムの表面的な「正しさ」を憎みそれらを引剥がそうとした。


たぶんそんな感じだったのではないかと思う。



そういう欺瞞に対する嗅覚とそれらを解体しようとする意志はフーコーを想わせる。


たぶん吉本というのは早過ぎるポストモダンみたいなものだったのだろう。ただその方法がエキセントリックだっただけで。


日本のポストモダンはなんか勘違いされてて「脱構築」(解体)を部分的、道具的に使い既成の枠組みを解体することが主目的になってるようだけど、そういう傾向なら吉本のそれも受け入れられたのかもしれない。うまく「らしさ」の言表をまとえば。



んでもフーコーのそれも吉本のそれももともとはマルクス主義というか、そのなかの教条的な権力の流れを対抗とするものだったのだろうからその意味では両者とも似たようなものだったのかなあと思いつつ当時の対談の様子を振り返るに…(人様の説明で)。






蓮實重彦コーディネートということでうまくいかなかったらしい。蓮實重彦自体がわけのわからんポエムみたいな言葉でテクストを彩りするだけで元のテクストを理解してるのかどうか分かんないところがある + フーコーが吉本の著作を読んでなかったらしい(吉本は「言葉と物」の邦訳を読んでいた)。


コーディネート役がきちんと調整してればおもしろい対談になったのではないかと思うけど、対談時もその後も両者とも相手のことがよくわかってなかったみたい。というかフーコーは吉本のことをバカだと思った。

この対談終了後、フーコーが吉本隆明に「往復書簡をしたい」と語った。社交辞令とは知っていたが、編集者としては敢えて真に受け、早速、吉本隆明に長文の手紙を頼み、出来上がった原稿を対談通訳者でもある蓮実重彦に翻訳してもらい、フーコーに送った。内容は忘たが、道元とヘーゲルを巡っての、五十枚ほどの原稿だった。原稿を渡す時、吉本隆明は「ぼくの書いた内容なんて、フーコーさんなら当然知っていることばかりだけどね」と言い、また仏訳した原稿をベルギー出身の訳者の夫人に見せると、「この人、頭、悪いんじゃない」と言われた話など、いまでは懐かしい思い出だ。
夫人がなぜそんな言葉を口にしたのか。欧米人らの論文は、まず結論を先に述べ、それを論証する形で話を進めるのに対し、日本人、中でも吉本隆明のそれは、紆余曲折しながら何となく結論に向かう書き方ゆえ、原文に忠実に翻訳すればするほど、外国人には「頭が悪い」との印象を与えるようだ。国民性の差というやつだ。
件の手紙を出してから一年ほど経ったころだろうか、日本在住のフーコーの友人を通してようやく返事がきた。しかし危惧した通り吉本隆明の論考は意味不明、従って「返事は不能」とのことだった。またフーコーは、「吉本さんはヘーゲルをドイツ語できちんと読んでいるのか?」とも問うたようだ。口先だけで国際化を論じるのは簡単だが、こうした一例を取っても、道はまだまだ遠いのだ。


吉本隆明とフーコー
http://anond.hatelabo.jp/20090103034023


吉本はフーコーのことを単に「対マルクス主義的なサヨク思想の新しいやつ」と思ったようだしフーコーは最後まで吉本のことを理解できてなかった。



未だ当該テクストも読んでない私見バリバリだけど、たぶん、吉本はフーコーのいうエピステーメー(知の枠組み)的に前近代的なものを本当に体現して生きていたのだろう。なので吉本の思想と考え方、あるいはその表出というのは宗教そのものでありシャーマンであり託宣みたいなもの。詩や散文の形式にしてるけどそんな感じだったのだろう。「共同幻想論」なんかは前に読んでよくわからんかったし、いま読んでもそれそのものだとナンセンスに思えるだろうけど。たぶんそんな感じで前時代のエピステーメーなのでわけがわからない。

そういうのは中山元さん的にはドン・キホーテのそれに当たりそう。


はじめて読むフーコー (新書y)
中山 元
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「この世界においてあらゆるものに<類似>を見る」。そのあり方は宿屋のおやじから狂人扱いされるわけだけど「詩人」ということであれば受けいれられる。

<類似> → <神の徴> ← <人には自由な理性はなくすべては『神』によって決定されており人はその徴を読み解くだけ>という思考様式は中世の想像空間(イマジネール)であり認知なのだと思うけど、もしそうだとしたら、それを理解できたとしてもほんとにそれ自体を生きたというのはすごいなあ。。


エピステーメーはその時代環境に染み付いたものだからそれをhackするなんてのはふつーできないだろうから。



類推が正しければ吉本はそういう前時代のエピステーメー(大衆的なそれ)を生きることで西洋式の「現代」のエピステーメーと教条的な知識空間(丸山真男を中心とした岩波-日教組サヨク、その温厚なヴァリアントとしてのベ平連、マルクス主義的なバリバリサヨク)を脱構築していた。その方法については詳しく説明せずに。


対してフーコーはキリスト教の教条部分の現代版としてのマルクス主義的なそれを脱構築するために「大きな物語」的な汎用視点を捨て、歴史・民俗学的に個別に考古学し、その史料を元に独自哲学するようにした。そしてそこでの文体も半ば詩のような類推があったため歴史的中立性からはびみょーなところがある。



こうしてみるとマルクス主義を中心として吉本は過去のエピステーメーを、フーコーは未来のエピステーメーを実践しようとしていたのかもしれない。


なので、フーコーのほうが吉本を理解していればたぶんおもしろいことになっていたのだろう(あるいは神谷美恵子とかハイデガー関連の誰か、まともな宗教者が間に入ってれば)。




しかし歴史は吉本にドン・キホーテの役割を与えた。



キリスト教ドグマ-マルクス主義的唯物史観を否定し日本の大衆に残っていた宗教幻想を実際に生きようとした(かもしれない)吉本が前時代的なマルクス主義に依った全共闘学生に担がれたのも戯画なら、前時代的マルクス主義を批判し近代の確立を謳っていた丸山真男が学生たちに吊るしあげられたのも戯画であったし、フーコー-デリダのラインがみょーな形でポストモダン()されてハイデガーも何だがみょーな形で祭り上げられてる日本の現在そのものがお笑いなのだろう。



そして今日も明治→大正→昭和→平成とつづいていてきたサヨク的教養主義のエピゴーネンたちが「主体だ主体だ」「民主主義だ民主主義だ」「全体主義だ全体主義だ」「戦争だ戦争だ」とみこしを担ぐのだ。












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関連:
吉本隆明の後半生の戦いはソフト・スターリニズムとの戦いであった - finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060613/1150163560
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20071201/1196468891


近代的理性の立ち上がりと国家幻想、そこから疎外されていったものたち、のはなし: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381011164.html



「生き残ってしまった罪悪感」と全共闘関連で、内田樹さんが天声人語ジェネレーターみたいになってしまって自分のほんとの問題に向き合わないのも日本的論壇特有のお笑いぽい
http://www.tatsuru.com/guests/randy.html




ゼロ年代批評とJ-POP  ロックはどこへ逝った?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382169743.html

東京ハ夜ノ七時: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383000042.html

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2013年12月18日

東京ハ夜ノ七時



仲正さんの現代思想あんちょこ本のまとめがなかなかにおーざっぱでなんかちがうんじゃねーのそれ?ってひどさなのでちょっと愚痴言っとこうと思っていちお調べるに。。


仲正昌樹 - Wikipedia
http://bit.ly/1flUNcf


「いまこそアーレント」とか良かったけどなあ。。おかしいなあ。。あと「<情況>」のひとかあということでなんか納得しつつ、んじゃ廣松渉の思想解説はまた改めて読みなおしてみようかと


情況出版 - Wikipedia
http://bit.ly/1flVken



[書評] 集中講義! 日本の現代思想 / 仲正昌樹(2006) | digi-log
http://bit.ly/1flV52G

まず、マルクス主義の話から始まり、それが日本の現状とズレてるのに、ゴリゴリやって空回りという前提話をやって、そこに消費文化の成熟で「なんとなくクリスタル」な時代となると、理性批判なフランス現代思想がやって来て、ジャーナリズムや広告などの影響下に「日本版現代思想」となりニューアカになると。んで、それが90年代には終焉に向かい、思想の「スター化」ガ「カンタン系デフレ・スパイラル」し「水戸黄門化」したとのこと。

と、上の説明で分かる人には分かるだろうし、分からない人は本書を読めばよい。著者はニューアカに拾うべきものがあると考え、拾っていてそれは「大きな物語を無くしたポストモダン」「今は大きな物語生成過程」という話になるだろうか。ついでに君が高校生ならば丸山真男『日本の思想』でも押さえておくとよいと思う。






アマゾンのレビューにもあるようになんかこの本はどうも変な感じがした。あるいはあのレビュー読んでたから読み飛ばしってとこもあったのかもだし、これはこれで通史な概説としてそれなりのクオリティあるのだろうし、拾ってけるところ拾ってけばいいのだろうけど。

少し前まで「革新幻想の戦後史」読んでたので「(´・ω`・)その日本マルクス主義の受容の捉え方おかしくない?」ってところがチラチラ目についてなんか「うそくせー」ってかんじに。。


革新幻想の戦後史
革新幻想の戦後史
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竹内 洋
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この本はおもろかったのでそのうち別項でエントリするかもだけど、全体としていえば「<民主>と<愛国>」を受けて「教養主義の没落」をもっと厚く伸ばした、というか、居酒屋かなんかで「いやあ、あれはちがうよ。ほんとはねえ」って感じで当時の話をしてたのを編集者のひとかなんかが「あ!それおもしろいからそれでいきましょう!先生」つて雑誌連載するようになって当時を振り返った回顧話って感じになってる。


竹内洋、2003、「教養主義の没落」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382681253.html



「革新」は非東大系教育社会学アカデミックおもひでぽろぽろな感じではあるんだけど「戦前から続く教条的な教養主義」 ⇔ 「それへの対抗としてのマルクス主義」 それらの間に入る形での市民的知識人(岩波アカデミズム→日教組)、ベ平連辺りの位置づけが同時代を生きたおっさん語りとして面白い。

けっきょくはマルクス主義-サヨクを中心に駆動してきたのが戦後日本の知識・教養空間で、そこからすると丸山真男を中心とした岩波アカデミズムはリベラルなつもりだったんだろうけどそれは日本の特殊なリベラルで、ロック-ハイエクなリバタリアンラインみてもなんか特殊ッて感じなのだろう。なので日本で「リベラルってなに?」ってはなしすると歪んだり、国際的には自由主義な話してても「( ゚Д゚)<保守!ウヨク!」とかいわれる。それはマルクス主義全盛の1950-60年代に竹内さんが「吉本隆明もいいけど福田恆存はもっといいぞ」っていったら女学生に「このひと保守よ。ウヨクよ」って以後紹介されるようになってハートブレイクした話を思い出させる。

そんなこといったら丸山真男だって福澤とヴェーバー研究を通じてだかなんだかでイギリス保守の流れを目標にしてたぽいんだけど、丸山の場合は当時のマルクス主義的な豪風に対してうまく日和るというか、風よけな修辞として「主体確立」という言葉を全面に出してたぽい。あと天皇制打倒(あるいは「天皇制を考える」)。

天皇制は言ってみれば日本のエートスに関わる部分でそれがプロテスタンティズム(カルヴァン-ピューリタン)のエートスと機能的等価物として目測されていたのだろうけど、まあそういうのっていうか言語とか風習とか暦とか歌とかそういうところのハビトゥスがけっきょくは日本人のエートスに関わってくるんだろなって予感はある。


まあ竹内さんにしても仲正さんにしても丸山真男あんちょこ出してるみたいだからそのうち読むけど(あと丸山真男自身のテクストもそんな感じでガーッと読もうかな


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話少しそれたので戻すと、竹内さんの「革新」的なまとめだとけっきょくはあの時代の思想ってのは内容の論理性ではなくそれを信奉してた人たちがまとっていたハビトゥスによって決まったみたいだった。


たとえばマルクス主義系の女子や男子たちが都会的な服裝や礼儀、洒落た感じを醸していたってこと。それがなによりも未だ農民層が圧倒的に多かった日本人にとって魅力的に見えたっぽい。


現在だと革マルゲバ棒みたいなイメージでなんかダセエマルクス主義界隈なんだけど、そんなふうにシャレオツな時代があった





「黄色い本」の風景ではそういう思想的なうそくささからは離れつつも当時の都会的なもの・近代的な友愛精神に憧れをもった一人の女の子の様子がうまく切り取られてたけど。


あるいは「コクリコ坂から」でのコーラスのシーンや学生協議的な雰囲気、「風立ちぬ」全体を覆う雰囲気とか


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思想の内容うんたら以前にそういう雰囲気へのあこがれや「正しいことをしていくこと」に対する公共心の共有みたいな意識があった。コミュニタリアニズムといってもいいかもしれないけど、もっと日本的なエートスに根ざしたものだったのかもしれない。



なので、思想界隈でのテクニカルな修辞というのはあまり意味が無いものに思うし、そういうところを説明しようとしつつもそれぞれがわけわからん論理になってる、けど、そのわけわからんさをはっきり「わけわからん」って指摘するわけにもいかん(同業者として)というところでのびみょーな踏み込みの浅さが仲正さんのあんちょこ本のびみょーな空気を醸しているのだろう。あと、日本の主体性論を基軸にフーコーも主体性論をカウンターするために構造的視点とった、みたいなこと仲正さん言ってたけど、フーコーはパレーシア辺りのお話で個人の内面の強化の必要性みたいなのは説いてるようだしなあ。。それはたぶん「猫の大虐殺」におけるルソーを通じた大衆の内面強化の話と通じる。


ロバート・ダーントン、1984(1990)、「猫の大虐殺」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382911771.html



まあ仲正さんのウィキペディアからもポスモダン界隈は得意じゃなさそうだからそこは期待せずにドイツ思想と廣松渉界隈に期待すると良いのだろうなあ。(疎外論なんかも内容ではなく貧乏農村国が都会な消費社会に移ってきた時勢を読んで生まれたぽいけど)





あと、別件でこのへんの話見つつ


賢者は歴史に学ぼうとして偏った歴史の類推に執着する | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=3068


「政策決定者は歴史から学ぼうとしてもしばしば偏った範囲の歴史を恣意的に選びそれに囚われる」「現代日本も太平洋戦争期の全体主義アナロジーするが、ほかの時代や環境も参考にしてはどうか?」って感じの話なんだけど


竹内さんあたりの話にもあったようにおもったけど日本の現在、あるいは、全共闘に突入した時のそれは第一次大戦後のイギリスの感覚に近いところがあるぽい。つまり、未だドイツの全体主義に対して協調外交の路線をとってて本格的な打倒な体制になってなかった。

本格的に対独を進めたのはチャーチルからで、その姿勢と意識を受けて他国も戦争に参加していったのだろうけど、日本の安全保障や軍備-国家という領域に対する意識のなさというのは一次大戦が終わってもまだ空想的宥和意識が残っていたイギリスを彷彿とさせる。軍備とか対外意識(特に対中と対露、その焦点としての北朝鮮や台湾)の意識が抜けてるのはそういった情報をメディアが流さないせいもあるのだろうけど、「視聴者がそこまで望まないからだ」ってことになってトートロジーになったり。。

別に戦争を志向するわけでもないんだけど、ふつーにどういった軍備がどういった場面でどのように効力を発揮するか?たとえばイージス艦の意義とその総量の対外比較、独力での日本の軍備の位置、アメリカほかと協調したときの日本の位置づけの妥当性ぐらいは簡単に共有されててもいいだろうし、そういう情報を基本として流すべきだと思うんだけど。。(あとその辺への税金の使われ方の詳細とか)



まあそれはともかく


そんな感じで全共闘時代から政治や行政に関するリアリズムというか、コモンセンスみたいなものの時計が止まってしまってるのが日本なのだろう。


全共闘の群れの心性はフランス革命の大衆性でそれがそのまま昨今の脱原発と秘密保護うんたらにおけるライトサヨクなあれにあたるだろうけど、知を覆う全体の環境は19世紀後半のドイツにおけるエリート/大衆寸断を基本に下部構造だけ後期近代しちゃって、その「消費な浮かれた感じに合う」ってことだけでポストモダンのおされなガワだけが移入された。


フーコーなんかもポストモダンとかいわれるけど学生運動に関わったときは現実的な感覚持ってただろうし法律や政治に対してもふつーのコモンセンスとバランス感覚持ってたように思うんだけど。。まあこのへんはこれから見ていくか。



そんな感じで現実感覚失ってみょーなシュプレヒコールだけ前景化してると却って地味な部分が後景化してしまってうだうだ進んでくことになる。軍備にしてもアイロニカルに進む可能性だってあるわけだし、法制度だってそんな感じ


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「かれらは各論ではなくより大きな問題へ物事を抽象化しすぎるきらいがある」みたいなことをいったのは福田恆存と丸山真男だったようだけど、その癖は未だ治ってないのだろう。(ベ平連なんかはマルクス主義的打倒とは手を切ってシングルイシューで打ち上げてくようになったようだけど


そんで政治経済の大きな部分のコモンセンスが浮いた分、あるいは、「思想とか社会とか政治とかに思考容量つかっても無駄」ってシニシズムでビジネス特化していったせいか知らないけど社会について考えることとか、実存について考えることとかも全てそういうところにガワだけ回収され分断されてしまった。たとえば自己啓発書やスピリチュアルやラーメン愛国みたいに。



司馬遼太郎の小説群が受け入れられるようになった過程は当時の後期近代の立ち上がり → 会社圏に新たな指針が必要ってとこでビジネス・リアリズム的思考体系が必要になったところにマッチしたからだったみたいなんだけど、昨今の大河ドラマ界隈のネオ時代劇の風潮、つまり「ハゲタカなどのビジネスドラマとカメラの演出や作品思想も似てる」というのはそういう流れを無意識に受けてる感じがある(「坂の上の雲」もそうだったし)


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ビジネス小説やリアリズム的思考が求められるようになった知政学的背景は「マルクス主義 → 岩波サヨク」の空想的アイデアリズムが現状に対してピンぼけになり、これに代わる実務主義(「これからは経営学とか経済学だ―リアリズムだ―」cf.ロストウ-衞藤瀋吉、村上泰亮)な流れ求められたからみたい。

ロストウの「経済成長の諸段階」はマルクス経済学のようなイデオロギーがついた史観に対するもそっと中立なところからの近代化論として注目された。


んでもそこでも旧来の教養主義的エートスはhackされないまま無意識されてたので、ビジネス書の棚に自己啓発本が残っていったのだろう。つまり、あれは明治以来の教養主義におけるビルドゥングスロマンの名残り。あるいはビルドゥングスロマンのロマンの部分を抜いたhow toの抽出が自己啓発本。まあなので実存主義系やキリスト教エートスのガワだけって感じになる。


それらはかつてマルクス主義を中心とし、そのカウンターやヴァリアントとして出てきた主体性論(近代化論)や実存主義の課題を日本の思想界隈が教養教条主義的な雰囲気で衒学するだけで消化できなかったために80年代にはシラケの対象になってしまった領域といえる。


しかし、そういった志向はもともと宗教的情操というか、その元となる人と世界、存在に関する了解部分であるためずーっと残ってるものなのだけど、それが「全共闘の失敗 → 現実的に後期近代の繁栄がある」という現状を通じてシラケの対象となることで前景化するとミョーな感じになるので脳みそ容量多そうな界隈では流行遅れとされ語る対象から外されていったのだろう。



んでもそういったものは元々人が志向するものだからラーメン愛国オヤジとかウヨサヨとか、スピリチュアル、自分探し島ぐらしとかでみょーな形で分断されて表象されてる。


そういったものを奇行種としてピンセットで留めて収集 → 分類するのではなくきちんと向き合い昇華していくのが知識人の務めのように思うけど、そういった人たちはもういないのだろう。(まあこのへんはリンネ的な分類学へのエピステーメーのバックラッシュみたいなものなのかもしれない)



ネオ時代劇がサツバツビジネスドラマと同じ思考とエートスでつくられつつもそのロマン-わざとらしいヒューマニズムについては無自覚過ぎるというところは、、まあそんな感じで「ビジネス本とかリアリズム出自だから」ってことになるんかねえ。。「3丁目の夕日」とかの歴史修正ハイパーリアルも。

バックラッシュはウヨク的思考にだけ注意喚起されるように思うけど、こんな感じでサヨク、というか、中立に想われるビジネス界隈とか、それを求める大衆のエートスの部分全体が右左問わずバックラッシュしてる印象はある。だって、ああいうリアリズムと拙速なウヨクジャンプみたいなの、あるいはサヨク的拙速ってモロに全共闘の少し後ぐらいの感じだから。なので「半沢直樹は時代劇と同じじゃん」て感じになる(逆に言うとネオ時代劇が単にあのへんのビジネスドラマのコスプレだから


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AKBを国際フォーラム的なセレモニーで使うことについて「オリエンタリズムの内面化うんたらがあるんじゃねーの?」みたいな意見見たけど、オリエンタリズムの内面化ってことだといまいってきたような時代劇界隈 - 会社公共圏界隈のほうが深刻な感じがする。ウツクシイニホンに関わるエートスを内面化し表象し再帰し強化する。


なのであのへんの政治家のひとたちみょーに明治維新とかロマンするわけだし >偽歴史ロマンとハイパーニホン感にもとづいた「ウツクシイニホン」 → クールジャパン



ビジネスドラマとか小説が悪いってわけじゃなく昨今のそれ系ドラマで後ろに隠されて「当然」とされてるコモンセンスの歪みみたいなのがなんか気持ち悪い。。ビジネスなところを前景としてるのでその部分は後景になって無前提で当然化されてしまうって感じで。


そういうのは小説版にはないけど映像化するときに生じるものだったりで、特にNHKドラマやNスペ界隈はそういうのなんとなく感じる。。無縁社会論にしても。まあそれは意思決定に関わる責任層がそんな感じだからだろう。岩波「世界」系からのビジネスあたまへの転向組。そこにはなんの内面的hackもなかった。






あ、もうすっかり「夜になったねえ」













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関連:
ゼロ年代批評とJ-POP  ロックはどこへ逝った?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382169743.html


「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ」→「<民主>と<愛国>」→「革新幻想の戦後史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382686567.html



【第48回】『不毛地帯』(山崎豊子)前編 |新しい「古典」を読む
https://cakes.mu/posts/4029

https://cakes.mu/posts/4060

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2013年12月08日

ゼロ年代批評とJ-POP  ロックはどこへ逝った?


この辺絡みで


ゼロ年代の「永遠」と終わりなき旅: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381638941.html

天使たちの輪舞(cont. おとなになること): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381807240.html




ゼロ年代の想像力、つか、ああいうヲタとニューアカ批評がくっついたあの辺以外、思想うんたら以外でも日本の公共性とか思考の軸みたいなのが枯れてしまったのだろうなあ(代表的とされる知識人の風景とか)って感じでぼんやりしつつ、「公共性」「fraternity」「徳」関連で「教養」とか知識空間掘ってる。



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いずれまた別項でまとめるかもだけどここから伺えるのは「昔の日本は明治の似非ドイツ観念論な教養の伝統を軸にマルクス主義とかポストマルクス主義と化していってたんだなあ」ってこと


つまり人格の発展を人類全体の発展的な史観となぞらえていた。そこでは悪とか善みたいな目標がはっきりしてた。あるいは、はっきりしないながらも人格とか徳とかそういう型や雰囲気の全体を先人から看盗っていた。そこで目指される「教養」や「人格」もはっきりとした内容のない空体的なものだったのに、なんとなくそれを目指すように人格的・品格的な文学が読み継がれその中で「主体性を持つように」と目標とされてきた。なにがどう主体的なのかもおぼろげなままそこから「逃げちゃダメだ」と走り続けてきた。


それらの価値や内容はおぼろげでもその受け皿としての就職口が安定していたのでそういったおぼろげな教養がユーティリティコードとして機能していたのだろう。



反面、ゼロ年代的なものとしては日常系とか空気系があげられてそこでは倒すべき目標とかそういう単線的な思考がない。それらを諦めた上での日常への停滞とループ的なものとか、そういった定形をいくつか重ねつつ「善も悪もない」的に敵味方入り乱れてバトルロイヤルする。



そういうのは時代精神というか、パラダイムのようなもの全体として日本を覆ってきてたのかなあって感じがする。日本は思想とかの言葉になると格好よく偽装してボカして分かったふりするのでわけわかんないとこあるんだけど、アニメとか小説とかの文学的なモノのほうがはっきりとそういう精神史が表れるような。


オタクの系譜としてはヤマトとかガンダムなんかが一期にあって現代は四期ぐらいにあたるのだろうけど、一期の富野が進撃の巨人をダメダメって言ってた
http://www.j-cast.com/2013/12/04190834.html

対称として進撃の巨人の作者のインタビューなんかを見つつ
http://white-screen.jp/?p=32621


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「ARMSとかに影響受けて」「一番は「マヴラブ」の影響」ってとこでなんか富野が「( ゚Д゚)<あんなエログロダメですよ!」って言っていた違和感になんか納得したり。


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エロゲな想像力ということで虚淵のそれにも通じるのだろう。そして「人間って何をするかわからない自然現象のようなものだと思うんです」って感覚。


このへんの感覚はポストモダン的な「なにも信じられない」なアレをデフォとしつつ旧来の品格とか徳とかなあれをデフォルトしたものなのだろう。


その上でサツバツの中から性や死についてあらためて考えていく感覚。


エロゲのエロは単なる釣りでありおまけ菓子のおまけ的なもので、その性描写は記号的に消化されたりスルーされるのがふつーになってるようで、

逆にそういうのに担保されてシナリオの部分で死や実存を巡る問いや暫定的な答えが深化していったのだろう。特にコミュニケーション面でのそれが。


あのあたりの文化系現代っ子の特性としてコミュ症と自嘲・自虐されるような自意識の持て余しとコミュニケーションの下手さやナイーヴさがあるわけだけど、その辺りの問題に焦点していったのがエヴァンゲリオンなんかだった。



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エヴァはロボ合戦的なストーリー的には大したことなくて、もともとはそのアニメーション的な動きやキャラデザインを魅せるためにストーリーはそれまでのアニメ・特撮のお約束と箔付けの心理学・グノーシス用語からコラージュされたものだったのだろうけど、その中で主人公たちの実存的悩み、コミュニケーションを巡るそれだけはホンモノだった。それは庵野の投影だったから。庵野の投影であり同時代の文化系の子たちに共通の悩みだった。言ってみれば現代版「若きウェルテルの悩み」。ただし、中間(社会)はなくコミュニケーション的問題だけに焦点される。コミュニケーション中心のビルドゥングス・ロマン。


TV版の最後のほう、ロボット大戦的なところは捨象してシンジくんがほかの登場人物たちと心のなかで語り合っている部分が真実で、エヴァはシンジくんのコミュニケーションに対する葛藤を巡った心象風景の具現ということになる。まどか☆マギカなんかもそういった意味合いでエヴァの系譜にあげられる。



あのあたりのゼロ年代アニメというのはだいたいにおいてこういった普段のコミュニケーション的な悩みを基本にしつつ、それを心象風景における戦闘状態の隠喩にすることでかわしたり(ブラック★ロックシューター)、敢えて触れない(日常系)ようにしてるわけだけど、「進撃の巨人」が変なのはエロゲの系譜からそういう背景もインストしつつもその部分にあまりナイーヴになってないことなのだろう。かといってガンダムタイプの古い形のビルドゥング・ロマンでもない。主要人物たちの葛藤や精神的な変化を見てるとビルドゥング・ロマンなことには変わりないんだけど、「人間は何をするかわからない自然現象」的な諦念とリアリズム、社会性動物としての人間の権力志向のえぐさみたいなのも見えてる感じ。あと、若い世代からは「男女ををふつーに同列にあつかってるから」ってのがある。まあそのへんはエロゲな性の記号性によるのか、あるいは作者世代のユニセックスな感覚によるのかわからないけど。絵はヘタウマだしコミュニケーション的な場面でなんか変な間がある。



そういった意味で「進撃の巨人」はゼロ年代的なあのあたりからすると「変」だけど、わりとふつーのビルドゥングス・ロマンの系譜に属するのだろう。



その辺りから「ゼロ年代の終焉」みたいなことを想う。

未だ読んでないけど「ニッポンの思想」で言ってるようにゼロ年代的なあの辺の特殊はこの期間に特殊なものになっている印象。竹内洋さんからすればヲタクってことだろうけど


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ここ10年ぐらいで終わるのかもしれない

タイトルの「ニッポン」というカタカナ表記がまず目につく。具体的には、「ニューアカデミズム」発生以降、「ゼロ年代」というコピーがはびこる現在までが扱われているのだが、この前後において「日本の思想」の歴史には「切断」が存在していると考えられており、その「切断」で切り取られる期間が「ニッポン」と呼ばれている。
 言い換えると、ニューアカ以降ゼロ年代までの「思想」は、ある種、異例な状態にあったが、その状態はそろそろ終わる(「切断」される)という主張が、「ニッポン」というカタカナにはこめられているのである。  表面的にはそれなりの「変遷」がありつつも、「ニッポン」で表象される「思想」を貫通していることとして、著者の佐々木敦は4つのキーワードを導入する。  「パフォーマンス」「シーソー」「プレイヤー」「思想市場」の4つだ。
 「ニッポンの思想」は、「思想」の「内容(何を語るか)」よりも「パフォーマンス(いかに語るか)」によって成り立ってきたものであり、「シーソー」のようにギッコンバッタン極端から極端に振れているだけである。そこで重要なのは、その「パフォーマンス」を演じている「プレイヤー」であり、優劣を決めるのは「市場」すなわち売れたかどうかである。
 要約すればそのような「変遷」がキーワードのもとに語られていく。俗に「論壇プロレス」といわれる見方にちかいが、佐々木は「舞台」「ゲームボード」と呼んでいる。  「ニッポンの思想」を「80年代」「90年代」「ゼロ年代」の三つに分けて、それぞれのディケイドでメインの「パフォーマンス」を張った「プレイヤー」数名を拾い上げていくというのが具体的な構成で、取り上げられるのは8人。

 80年代=浅田彰・中沢新一・蓮実重彦・柄谷行人
 90年代=福田和也・大塚英志・宮台真司
 ゼロ年代=東浩紀

 「ゼロ年代」の「プレイヤー」が東浩紀ひとりであることに注意されたい。つまり「ニッポンの思想」とは、浅田彰に始まり東浩紀に終わるギッコンバッタンだったということである。
 それさえおさえてしまえば、「プレイヤー」個々の「思想」の「内容」にはそれほどこだわらなくてもよい。

http://bit.ly/1bruvVL


ニューアカというのは言ってみればJ-POPのようなもので、80-90ぐらいにでてきたそれまでの歌謡曲的古典の捨象と洋楽的憧れとテンプレによるものなのだろう。なので洋楽的普遍性がない。

まず、マルクス主義の話から始まり、それが日本の現状とズレてるのに、ゴリゴリやって空回りという前提話をやって、そこに消費文化の成熟で「なんとなくクリスタル」な時代となると、理性批判なフランス現代思想がやって来て、ジャーナリズムや広告などの影響下に「日本版現代思想」となりニューアカになると。んで、それが90年代には終焉に向かい、思想の「スター化」ガ「カンタン系デフレ・スパイラル」し「水戸黄門化」したとのこと。

http://bit.ly/1brukd5


ドイツ観念論・ロマン主義を軸とした教養は本来、キリスト教規範的な精神の修練の方向を目指していたが、明治に移入されたそれは宗教的情操と倫理という軸を理解せずに教養の上辺の部分だけを吸収してしまった。そしてそれは田舎の郷士や農家出身の「成り上がり」たちが格好をつけるためのツールとなっていった。そこに彼らのハビトゥスとしての品格やら作法のようなものが加わっていった。


それはそういったシステムがうまく機能していた時代には良かったのだろうけど、大戦や就職難などといったシステム崩壊によってそれらの範は単なる抑圧の装置となっていった。


「太陽の季節」に代表される戦後のアンチ教養主義の動きは音楽におけるロックな心性と同期するのだろう。どちらもアメリカ文化を範とするということで。


ドイツ観念論的教養に対向する形で経験と実践・運動の志向としてマルクス主義が取り入れられたのだけれど、それもいつの間にかエスタブリッシュとして若者たちを圧する教養となっていった。マルクスの思考に日本の教養的なエートスを加えて独自のものになっていたので。

丸山真男-大塚久雄-小林秀雄-福田恆存-吉田健一あたりの思考空間ではそれらを踏まえ、「より中立で学術的な知を」ということでポストマルクス的な思考としてヴェーバーが参考にされたり、ヴェーバーがモデルにしていたイギリス保守思想がなんとなくニックスされていたのだろうけど、そういった先進性を解しない学生たちは依然として当時の教養だったマルクス主義的なもの、あるいはドイツ観念論哲学や文学などの教養を積み、その上辺の窮屈を打破すべく運動へと突入していった。


音楽のアナロジーで言えばヴェーバーを基調としたそれは「UKロック発見」て感じだったのだろう。太陽族を始めとした大衆の感覚もアメリカン・ロックへと傾いていた。

しかし知識層に属する学生たちはフォークを選んだ。

フォークの歴史は未だ詳しくないけど、アメリカの運動系の学生たちが好んだ、ということからの真似っこだったぽい
http://bit.ly/1brxIEZ

いちお「民謡から『民衆のための』音楽が彼らの中で作られていった」ということになってるけど、その「民衆」というのは運動をする彼ら学生の範囲に限定されたものだったのだろう、fraternityのごとく。すくなくとも日本では。


ロックもフォークも若者がカウンターカルチャーするフェスとしては同じように集められていったけど、日本の学生運動の風景はフォークだったように印象する。それは機材の問題もあるだろうけど。


丸山からのUKロックな流れは丸山→小室→宮台で一応継がれていった。


鶴見俊輔ら思想の科学系がどの辺りに入るのかなあとぼけーっと思うに、あれはJ-POPにおけるはっぴいえんどからハナレグミぐらいに伝わってるオルタナなあのへん、、なのかなあ。そうすると丸山からのそれは歌謡曲かあ。日本的なロックな歌謡曲(アルフィーとかB'zとかそういう)。


マルクス主義が演歌→フォークで、観念論的教養が浪曲・民謡あたり。


小熊さんとかはそういうので感覚的に鶴見-はっぴいえんどな立ち位置かと思うんだけど(まあ小熊さんの音楽聞いたことないからしらんけど)、ライトサヨな人たちは鶴見ラインて感じでもなく・・ミスチルとか坂本龍一ぽい。ロックというかニューミュージックというか、、ポップミュージックな感じ。

なので坂本龍一+ミスチル - ライトサヨなところが浅田さんとかの歴史遮断ニューアカな80-90年台J-POPて感じなのだろう。渋谷系はその派生だし。まあロキノン界隈というか…

東さんはそういうのをまたポストモ断したゼロ年代的なアニメ歌って感じ。内田じゅはマルクス主義の現代版なだけで昭和歌謡リバイバルぽい


あのへんのダサさとかわけわかんないとこはだいたいこんな感じでマッピングされると思う。


集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか (NHKブックス)
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問題は丸山-大塚-小林-吉本-鶴見辺りであったあのあたりの思想空間とのつながりがどのように消えていったか、ということ。


仲正さんの本は未読だけどレビューからだとあのあたりを射程としつつその内実については自らが業界からハネられたことの怨嗟に基づく類推になってる印象がある。


たぶん、そういうのよりはもっと産業的な問題が絡むのだろう。J-POPにおけるそれと同じように。学生運動の失敗でマルクス主義ともどもロックな思考も総スカンされてしまった影響。



Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)
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著者によるとこれは音楽業界が作った言葉。「J」なんていう文字がここに使われた背景には、日本人が深層心理で抱いている国際志向ファンタジーが、ついに具現されたヽ(*'∀`)ノというニュアンスが含まれているのだそうです。ここでまず深く納得。しかし著者の検証はそれだけでは終わらなかった。次はハード面からのアプローチです。CDという記録メディアが誕生してそれまで記録媒体ごと(レコードorテープ)に分断されていた音楽分野・リスナーが統合された。この、あらたに統合された音楽に、なんと呼び名をつけよう? ここで用意されたブランド名が、ほかでもないJポップという言葉だった、というのです。このたたみかけるような論拠……。この結論づけ方はあざやかというほかないと思います(44ページあたり)。 Jポップにハード面の進化が与えた影響、テレビとのタイアップで発展した90年代、カラオケと自己表現、音楽産業として見た場合の日本の特殊性などなど、いろんなところにあらゆるソースから数字を引いてきつつ説明してあるので、容易にJポップの変遷をおうことができる本。

http://amzn.to/IxLR8Z





自分的には福沢諭吉が先見していたイギリス的な保守のあり方がどのように潰えていったか、あるいは、どのように継がれているのか興味ある。


ヴェーバーのイギリスへの志向に基いて丸山真男の関心はそのあたりであったようだし、ヴェーバーを軸に大塚久雄も絡んだ。

小林秀雄も白洲次郎つながりでその辺りだろうし、吉田健一も絡む。


「ポストマルクス主義」ということで吉本隆明なんかも絡んだのだろうし、鶴見俊輔も同様だったのだろう。



それらのなんとなくの年代史は「民主と愛国」から見られるけど、



〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性
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自分の興味に近づくためには各論から掘っていったほうがいいのだろうな。いちお再読してみよう


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2013年12月07日

共同体における宗教的情操と倫理やら徳やらの原型について


「銃・病原菌・鉄」の下巻をいちおまだ読んでいるんだけど、

文庫 銃・病原菌・鉄 (下) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
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やはり上巻に比べてインパクトはない感じ。まあ本書全体の内容は上巻でほぼ言い尽くされていて、その仮説を裏付けるためのよもやま話的なものが後半なので知的興奮は特になくダラダラと話が進んでいる。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381807240.html


そんで全体としては「西欧の発展は偶然、地理的・環境的偶然(あるいは生物の植生的な)」の繰り返しになってる。まあ主に生物学+歴史な視点。


なので「人」の特殊性に関わる部分の記述は薄いように感じた。つまり文化人類学なんかでいわれる「機能主義的説明では説明しきれない部分」なあれ。人は機能的合理性で「この国の文化はこの国のものに対して○○になった」だけでは説明できない形で文化を選択していっている。たとえば「地べたに座ること」なんかがあるけど、機能的に考えれば地べたに座ることはどうということもないはずなんだけど世界的に見て地べたに直接座ることはなぜか嫌がられてる。胡座とか正座なんかも特殊だし。そういうのは文化的志向(嗜好)ということになる。機能的に考えれば「わけわからん」部分。


おそらく交換の形が贈与経済的なものから市場経済的なものに切り替わっていった際にもこれが関わっている。マーケットの話、あるいは銭をめぐる呪術性については赤坂憲雄さんあたりの民俗学的な話でもうんたらされてて「銭を使った交換は特殊なものなので都市の外で行う。司祭が間に入ることで」みたいな話があったと思うんだけどああいうの。「金銭というメディアがまだなんの信頼も持たなかったときにその信頼を共同体のビッグマン的な人が代替した」ともいえるんだけどそのときに選ばれるビッグマンは宗教的属性を帯びていた。

というか、それ以前、文化的なものが作られる以前に人は宗教的なものをもっていたみたい
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/03/gbekli-tepe-c82.html


「最初に歌があった」というのは「不思議な少年」だったけど






歌にせよ音にせよそういった機能的ではな価値は宗教も含めて「文化」なカテゴリに入るのだろう。システムや文明に対する文化。




贈与経済ヽ(´ー`)ノマンセーな人たちは「原始共同体の最初には贈与があった」みたいな話になりがちだけど、人以外の動物、たとえばサルなんかは人に近い組織をつくるけど単純な交換や互助は見受けられない。
http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20131204/1386181351


「互助≠友愛≠fraternity≠贈与交換的な志向の名残」として贈与経済からfraternityや弱者救済の習慣への可能性はあるかもだけど、それは動物に汎用・起源なものではなく、人が動物として特殊・異常なものになってからできあがっていった文化ぽい。


「なぜ人は特殊なのか?」といえば「人は死を知る」から。


人は自我かなんかの関係で自分が永遠でないこと、あるいは世界の中の自分というものを自覚するようになり、そうやって自分の死や限界を悟るようになる。


宗教というのはまずもってその部分への恐れを払しょくするために生まれたのだろう。個体としては死を乗り越えるため、共同体全体としては共同体に振りかかる死(災厄)を祓うため。


道徳というのはそういった宗教的情操、というか死を「みんな」で分かつ文化の中で出来上がっていった特殊な価値なのではないか?


物々交換、というか「誰かに与える」「(タイムラグがあって)そのお返しがある」という交換の約束もまず「与える」というのがあるのであって、そのとき「そのお返しがある」というのは期待されていたのかな?とおもう。


たとえば動物でも母子であれば子供には食物を与える。この部分は利己的な遺伝子のプログラムだろう。しかし通常その範囲は母子以上には広がらない。動物の場合、父子であればそういった関係はないのが当たり前だし、利己的なプログラムによって遺伝子強者によるハーレム的な状態がふつーな動物界においては自分の子以外は殺すのが当たり前なので。
http://gitanez.seesaa.net/article/21068553.html


セックスはなぜ楽しいか (サイエンス・マスターズ)
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文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)
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(この本はまだ読んでないけど)「排卵を隠すのは乱交上等にすることで誰の子かわからなくし、子供に害を与えないようにするためだった」というのは民俗学方面の「日本でも乱交上等→誰の子かわからないけど共同体全体で育てる文化があった」あたりが思い浮かぶ。

利己的な遺伝子のプログラムに従ってるだけの動物だとハーレム状態が当たり前で、つまり交換財としてのセックスが1頭に独占された状態が当たり前かつ合理的になる。

では財としてのセックスの機会がほかの雄にも振り分けられるようになったのはなぜか?

遺伝子の優生学的プログラムに基づけば「どの雄も同じスペックを持つようになったから」ということかと思うんだけど、そういった生物学的視点だけではなくこの部分に文化が関わるのだろう。


ここでもダイアモンドが叙述していたように「猿人の女たちは、排卵を隠すことによって多くの男たちに性的恩恵を分け与えることができるようになった」ということ。「女たち」がそれを選んだ。


ダイアモンドはその説明を生物学的な合理性にもとめるのだろうけど、ふつーの動物ではそういった子殺しを嫌がったとしても止められないし、たとえば我が子を殺されたとしても人のような情緒的な痛みを長期的にひきづるとは想像しにくい。

ここでふつーの動物よりもシンボル-思考において進化した人間が動物よりもより長期的な展望を臨める思考エンジンを発達させ、それと同時に死を知り、情緒のようなものを発生させた可能性がある。



「人は死を知った。しかし、その恐怖と不安を払しょくすることを情緒的に我が子に仮託する」


その拡がりがfraternityぽい。



それが宗教的な価値の原型、あるいはそういった価値や志向がなんとなくあったものにかんがみて宗教的な規範に容れられていった。


キリスト教の原型、ユダヤのそれでは弱者救済的志向や規範があったのかびみょーなんだけど、11cヨーロッパでキリスト教に告解などの要素が表れ、宗教的価値体型や規範もさらに分岐し以前よりも大宗教化していった頃、行政のアウトソースとしての弱者救済の役割を引き受けるようになった跡がある。

ローマカトリックが普及していった時期、貧者の救済などの動機として。法人的免除特権の代わりに貧者救済。ローマは社会保障と司法権の一部を教会に分担させた。
http://bit.ly/bRfiOJ




なのでこの部分の宗教的規範、弱者救済に関わる宗教的価値や規範というのはもともと「死を共同体で分化させるため」のものだったと思われる。つまり死をフォーカスしたもの。

そういうところで実存哲学とか文学における存在と死に対する関心、あるいは実存哲学が帯びる「教養を積んで人格を形成する」という暗黙が関わってくる。

教養-Bildung とはもともとキリスト教的なお勉強知識を指し、それを研鑽することだった。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381900726.html


教養小説(ビルドゥング・ロマン)のもっとも代表的なものとして「若きウェルテルの悩み」なんかが挙げられるけど、ゲーテの位置であるロマン主義的なものというのは死と生に関わる耽美として形成されていった。あるはトマス・マンなんかにしても。


それはもともとのキリスト教的な教養体系から生と死の思考をより自らの生活に即して考えるために分岐したものだった。



なので、日本における徳の役割というのもおそらくその辺りなのだろう
http://bit.ly/1dWqxbo


日本の徳が儒教的道徳との関わりで広まっていった、それがそれぞれの共同体の富者の教養として身に付けるべきものとされ、また共同体に対して効果があった背景はそういったものと思われる。


日本のその辺りの感覚、あるいは近江商人的なそれがしばしばプロテスタンティズムの倫理と比較されその相似を謳われるのはこういった背景だろう。


なので正確に言えば「プロテスタンティズム的なまじめさが資本主義を駆動した」というよりは「(死への不安を背景とした)宗教的な互助の価値(教養)への志向がまずあり、互助の精神に基づいた規範を共同体のビッグマンたちが体現していたことが再帰的に共同体の統治・取引における信用の担保として役立った」ということ。


当時のボロボロなドイツの情況からヴェーバーが憧れ理想としていたイングランド産業機構と統治の内実というのはこの辺りになるのだろう。


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国家を官僚という機械が操るようになったように、産業を商人たちが統べるようになった。

その巨大な2つのエンジンによって19-20cの資本主義的な政治経済体制は駆動していた。


官僚というエンジンの手綱を握るためにチャーチルのようなマキアヴェッリ的、あるいはカエサル的なカリスマ政治家が要請され、さらに権力がそれらに集中しないようにカントリージェントルマンたちが政治的公共性を担っていった。




それらを日本的に移入しようとしたのが福沢諭吉であったし、丸山真男だったぽい。(吉田健一とかも



タグ: 公共性 贈与
posted by m_um_u at 18:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2013年12月05日

うそつきサヨクの杞憂曲



世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。


                               福沢諭吉



















今日もTL的な風景から連想した印象的な日記





猪瀬っていうかその背後の石原なとこまで利権のつながりの一端がアリアリとわかってしまったようで
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2013/12/post-35c5.html
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37655?page=2

まあそれ自体は以前からなんとなく予感されてたことなので予定調和的ではあるんだけど、それ系で初めて徳洲会と会長の姿を見て「(´・ω`・)あ、Z氏だ」って思ってた
http://twitter.com/m_um_u/status/408423949874114563






それ以来あのあたりのドタバタは黒田硫黄画で脳内変換されてるわけだけど、昨今の放射脳つながりの秘密保護法案デモも似た感じのドタバタだなあって


彼らは石原-猪瀬も「保守」として嫌ってるので、このへんの話とかも好物なんだろうなあとおもいつつ、「都庁にZ氏するのは猪瀬なのか石原なのか( ^ω^)・・・はたまたサヨク向けに別の偶像がいるのかなあ」ってとこでハリボテ綾瀬はるかのことをおもったり。そんでその偶像に向けての巡礼が今回のデモなのかなあ、ってボケーッと。



大日本天狗党絵詞ではかつての栄光を追われ野良と化した天狗(鴉)たちが自分たちの威信を復活させるために天狗力でクーデターを起こして日本を乗っ取る話なんだけど、乗っ取ったところで「天狗は群れて政党なんかつくるものなのか?」ってアイデンティティの崩壊を起こす。物語的にはそこで「天狗とは?」の問い直しのためのギミックが用意されるわけだけど、そうやって運動のための運動とかした運動の中で自分を失ってく姿がなんかサヨクっぽいなあ、とか。


サヨクの黄昏というか優しいサヨクの嬉遊曲というか。



今回のドタバタもイデオロギーの関係ないコモンセンスのところではこのへんが挙げられて
http://twitter.com/m_um_u/status/408430999115014145
http://twitter.com/m_um_u/status/408431324676898816
http://d.hatena.ne.jp/aliliput/20131205


その辺を検討すれば「( ^ω^)・・・手続き的には強引だしちょっと疑義あるけど、まあ仕方ないかねえ。6:4か7:3ぐらいかなあ」ってのがリスク/ベネフィットな計算だと思うんだけど、視野狭窄な子供的潔癖なサヨクな人たちはそういう話をしても「やだ!やだ!いまお菓子がほしい ><」って駄々をこねる子供のようなので。まあそれはそれで仕方ないのかなあってとこなんだけど(大勢に影響なさそうだし)



国会で実務当たってる人とか、沖縄-普天間な問題と中国の防空識別圏の問題の線引で安保調整なうんたらしてるひとからすると「( ^ω^)・・・なんですかこのお気楽感は」ッて思うのは当たり前というか。。まあ「( ^ω^)・・・なにもわかってねえなこの厨どもは」ッて思うのは当たり前のようにおもう
http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-18a0.html


けっきょくあのへんのサヨクのひとたちはなんとなくのイメージで「わたしたちに隠れていろいろ進められる」「わたしたちがいつの間にか監視される」って陰謀論と不安の塊だから。。そして、考える脳を駆動させない分、自分たちの周りの「世間」の知に頼るのだろう。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380874839.html

つまり彼らの言ってるのは一見論理のように見えて単に「周りがこう言ってるから」にすぎない。なので彼らの周り以外の言葉は通じない。たとえその話題に関するコモンセンスを差し出しても。



「それが大衆の群像」ということかと思うんだけど、彼ら自身は自分たちを教養市民層かなんかと勘違いしてる。。


それはおそらく戦後岩波アカデミズムを中心に築きあげた反動的なサヨク主義であり、その一番の原理は「反戦」だから。民主主義とかヒューマニズムとかの言葉を彼らも用いるけどそれ以前に漠然とした不安がこの「反戦」教義に結びついている。それを表面的な科学/理性信仰がコーティングして彼らのサヨク教が完成してる。それはマスメディアを中心に大学・小中高と「当然」とされている。


「彼らがヒューマニズムをタテマエなものとしている」という理由は、彼らがそういった目先の、特に実害のなさそうな、秘密保護法以前から実質的に秘密にされ、記者クラブが当局と癒着ベタベタの広報機関と成り果て特定機密の掘り出しなど滅多に起こることもなさそうな、そういった秘密保護法案に「知る権利」なる言葉を代表するかのように切り込むとき、それが前景化すればするほど現時点で生じている沖縄の問題を後景化していることについてなんとも思っていないようだから。

防空識別圏絡み、あるいはそれ以前の中国の台湾・沖縄侵略が現実味を帯びてきた現在、沖縄の基地負担はますます確定的になるだろうし、彼らが実際に生活する中で受けている騒音や不安は秘密保護法で懸念されるいくつものifの重なりの何倍もリアルな現実なのだが、その部分について彼らは無視をする。その欺瞞と偽善、エゴについては反省など皆無で。単なる潔癖だけではなく論理的にきちんと考えれば対中脅威の現状がある中で外交プロトコルとしての秘密保護法施行は必要あることだとわかるだろうし、その部分にNOというのだったら代替案はなに?という話になる。その場合、日本が独力で防衛しろということだろうか?そうなると彼らが嫌うだろう軍備拡張にさらにつながることになるのだが…。

もしくは単純に「自分たちの周りにはそういった不安や瑕疵は寄せ付けたくない」というだけか?それは言ってみれば「本土にはアメリカ協調はいらない(沖縄が全部背負えばいい」ということなのだが…。その無情な想像力の無さには彼らは鈍感なのだろう。

彼らの言う「民主制に対する冒涜だ!」ひとつとってもこういった自分たちが「採決の日に議員を国会に容れなければいい」とか議会制民主主義を舐めてるので説得力皆無だし
http://morutan.tumblr.com/post/69000387318
http://togetter.com/li/598723


原発-放射能汚染への過度の不安のときでもそうだったけど、かれらは単に自分たちが不安なだけで、そのエゴで不安を表明していた。そうであるならば単に「わたしはこわいです」って言っておけばいいのだ。みょーに一般論を振るって移動する自由も持たないひとたちに格差を感じさせるよりは。



なのであのあたりはサヨク教という宗教としてマッタリ見ていこうと思ってる。あるいはこの方がいみじくも言っているように「サブカル」と同じ。サークル活動なのだろう
http://synodos.jp/international/6364

彼らはサヨクという保守なのだ。なんだかきみょーな転倒があるけど。どっかの右翼の有名な人が言っていたように「現在は右翼だと思ってたところがサヨクになってたり、サヨクだと思ってたところが右翼みたいになってたりです」っていうあれ。あるいは「民主と愛国」で少し照射されたような「戦後は民主という言葉が右翼的に使われていたのにしばらくしたら転倒しまった」的なもの。あのあたりは結局は言表的な変数に過ぎないのだろう。パロール的なものというか、、表面的な記号的なもので、なので表面としてはころころ変わる。その内面としては戦時中の群衆と同じような、あるいはフランス革命の暴徒と本質的には変わらないのだろう。彼らがサヨクという看板を背負っていてもウヨクという看板を背負っていても、本質は同じなのだ。


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そういったサヨクが保守として築かれていった歴史についてぼんやりと想う。


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同時に、日本で「教養」としてイメージされていたものの変化も。戦時中は教育勅語的に戦争と天皇を信奉してきた連中が戦後には反戦/民主主義に表面的にそれをすり替えた様を






ドイツロマン主義的実務と内面の断絶を
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381011164.html


(以下、まだウィキペディア程度の知識だけど)


近代日本の教養は本来のBildungの伝統を捨象して「エリートの嗜み」として移入されてきた。その背景には伊藤博文らプロイセン派と福沢諭吉ら英米派との対立があった。

伊藤らは自らの官憲的掌握と自らの出自のごまかしのために教養-教育を彼らニューエリートの箔付けとして利用していこうとした。福沢は蘭英米の経験主義にもとづき実学としての学問とその周辺の精神性を日本に当てようとした。


結果的に伊藤を主軸として東京帝大はプロイセン型の学問の府として建てられていった。


福澤が目指したのはエドモンド・バーク → トクヴィルに通じるような経験知に基づいた啓蒙主義とカントリージェントルマン的な矜持や倫理、コモンセンスのあり方だったのだろう。


しかし結果的に日本は伊藤ら官憲派のエゴのための教養が栄えていった。



そういった教養の出自が日本の知識空間をみょーなエリート主義に歪めていったのかなあ。。


エゴイスティックでナイーヴで、その癖、その過剰なナイーヴさで結果的に他人に迷惑をかけていくようなそういった正義()のあり方。戦後サヨクや現在のサヨクにも通じるような、エゴイズムと偏見に基づいた薄っぺらいヒューマニズム。それらはいつも自分たちは直接的に手を汚さない形で潜在的他者を殺してきた。


そこからすればたとえあからさまなどぶ板で、エゴイスティックな袖の下に見えようとも「自分たちのため」に離島の医療を普及させていった徳洲会のあり方というのは評価できるように思う
http://togetter.com/li/598973



あるいは福澤的な質実剛健なマッチョイズム。彼らからすると決断主義(m9(^Д^)プギャー)ってされるのかもだけど
http://riekonaito.blogspot.jp/2012/08/201111.html





まあ彼らのアレはそういう宗教なのだろうしサークル活動なのだろうからあまり直接に言って気分を害するのもよくないのだろうし、言ったところでもどうなるものでもないのだろうからボケーッと見ていこう。


「きったねーな」って内心で思いつつ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381807240.html







(あと、サヨクデモ巡礼の連中にコンドームとか巡礼まんじゅうとか売れないかなあ、とか (/ω・\) モン・サン・ミシェル詣での巡礼客にデュ・ゲクラン人形売ったように。あるいは迷惑料として天狗代みかじめたらいいんじゃないかな)
http://ch.nicovideo.jp/yamasitataihei/blomaga/ar404613








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2013年12月04日

教養と常識と良識



朝にこのあたりのヤンキー論を見て
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37682

「嗚呼…またイヤなもの見たなあ」とおもっていちお詳しく批判しつつ
http://bit.ly/1bet8Jc

結局はあのあたりは公共性のねじれとかそのあたりなのかなあとぼんやり思ってたらアレントの映画の感想が流れてきて
http://air.ap.teacup.com/lafcadio/1439.html

「それってモティーフとしては『愛を読む人』に継がれてて人間ドラマとしてはそっちのほうが重いよ」と思ってたらその感想も書かれてた。
http://air.ap.teacup.com/lafcadio/1098.html

主人公の名前もハンナつながりで


ナチスでユダヤ人収容所の刑務官にあたった女性の話なんだけど冒頭はそういうの関係なく年上女性と10代の青年の性愛の話として進んでいく。「彼女はなぜか情事の前後に本を読んで欲しがった」という奇妙な話として


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ネタバレしてしまうとこの女性は字が読めなくてそのことをずっと恥じていた。ただ、それを言い出せなくていろいろな年下の主人公との別れもそれがきっかけになったり、裁判のときにも不利な証言をすることとなる。証拠として挙げられた文書に意味もわからず署名していたので。


表題の「愛を読む人」というのは彼女が寝物語に本を読むことを主人公にねだっていたことと、刑に服した彼女のために主人公が本を朗読しテープに録音し届けていったことをかけている。

自分が理由なく捨てられたことに青春の傷を抱えていた彼は裁判の過程で初めて彼女が文盲だったことを知る。そしてそれを恥じていたことを。そのことに気付き、それを法廷で証言すれば彼女が不利な立場から救われることを知りつつ主人公は葛藤する。

「刑に服するより公衆の前で文盲だと明かされることを彼女は恥じるのではないか?」「しかし、それを黙っていることは自分が過去に無碍に捨てられたことの復讐なのではないのか?」


けっきょく彼は黙し、彼女は刑に服することになる。



主人公はそこに呵責を残し、それがあらたに「愛を読む」ことにつながっていく。



最後の場面、彼女と出所後の話になったとき「いい身元引き受け人を紹介する」と主人公は言う。彼女はその親切に表面的には感謝しつつ、翌日自殺してしまう。


「愛を読む」ことを通じて彼の愛が自分に還って来ていることを期待していたから。あるいは「身元引受人を紹介する」ということで現実社会における自分の位置、前科者という惨めを一気に背負うことになり、彼との間の距離に自らの自尊心が堪えられなくなった、から…。


その答えは明らかにはされなかったのだけれど、彼女が文盲がゆえにコンプレックスとプライドを、誇り高く生きていたことが印象的だった。そして彼との遠出で立ち寄った教会の賛美歌に涙する姿も。



自分の過去の恋愛に重なるところがあるからなのか、あるいは永山則夫的なモチーフ(文化資本が足りないがゆえの構造的な悪を生まれながらに背負うこと)になにか感じるところがあるからなのか、なんとなく印象に残った映画だった。




別件で「差別やいじめはダメです!具体的にはこういうの」って教条的に教えていく教育の無意味さみたいなのを見つつ
http://kabux.hatenablog.com/entry/2013/12/03/090345


知性主義、といってもけっきょくはこういった型の踏襲で自分の頭で考えないと意味は無いだろうなあ、と。

自分が知らなくても(あたまがよくなくても)踏みとどまれるか。自分で考えた末の選択ができるのか?というようなことをおもう


そこには自分で築き上げていった倫理のようなものが関わり、それをつくりあげていくのがけじめのようなものなのかなあ、って。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381807240.html


ふつーに、ただしい形での常識というかコモンセンスみたいなの。良識とか品格っていうかそういうの。それらが教養としてパッケージされていた時代もあったのだろうけど、現在はそういう言葉はなんだか浮いてしまった。



教養というのはビルドゥング(Bildung)に当てられた造語かなんかで、教養理念とは「各個人が真善美の多方面に渡って個性を発揮し調和することで自己完成を目指す」ものであった。bilden などの元々の語源は神秘主義であり、神の人間に対する働きかけを表すために使われる言葉みたい。


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ざっくりいってしまうと教養とは宗教改革後の新しい経典のようなものだった。あるいは聖書の物語をより身近な人生訓にしつつ、その主題を考えていくためのもの。なので、Bildungの目指す先というのはそういったものと自分の生死や存在との関わりを考えることを通じての成長ということになる。

宗教改革+大学がつぎつぎと出来ていっていた状況の中でそういった知の拠り所のようなものが必要となっていったのだろう。単なる知識ではない人生の対話のアテのようなものとして。



教養とはそもそもそういった背景にあったものだった。けど、明治期の移入段階でそのあたりの背景が理解されず単に「エリートの嗜み」程度で理解されることになったみたい。そして旧帝大の文学部は農家出身のものが多く、彼らはこういった教養を身につけることで西洋近代に追いつこうとしていった。簡単に言うと田舎者が簡単に箔をつけ成り上がるための道具として教養は使われていった。


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日本ではそういった形で教養が理解されていったためその価値も見出されず、単なるブランド的な虚飾として捨てられていったのだろう。



リベラルアーツを基本とする人文知というのはそういったものを基礎とするけど、そのあたりの背景も知られてないようだし。


なので「明治政府は教養のあるひとを大量に作り上げたけど働かせる場所を考えてなかったようです」って背景もそういうのが関係する
http://ch.nicovideo.jp/yamasitataihei/blomaga/ar404613


あるいは福沢爺や柳田爺が日本の土俗の宗教にミョーに差別的であったのも
http://ch.nicovideo.jp/yamasitataihei/blomaga/ar395718



西欧の近代化の過程で啓蒙主義という一連の教養主義的な気運が生じたけどそれは英仏独それぞれに内容の異なるものだったしロックやヒューム、ルソーやヴォルテールなど各人ともその内容が異なったりする。


一番大事なのは科学的合理性に基づいてアンシャン・レジーム的な旧弊、その価値原理であるローマ・カトリック的な腐敗な因襲を打倒することだったんだけど、その一番の内実は数学的合理性と実践性にあった。そしてそれを用いた経験主義的な合理性。つまり仮説→実験→修正→証明。それを数学、あるいは数学的論理性にもとづいてやっていくようになったことが啓蒙主義の一番の内実。蒙を啓いた内実はそういったものだった。


フランス革命におけるヴォルテールを中心とした啓蒙主義者はそのことを忘れスローガンとしての理性と啓蒙が暴走していった。それが理神的な暴走であり、そういった経験的な内実を忘れた教養と啓蒙はドイツにも受け継がれていった。つまり神や存在、人生に対する敬虔さを忘れた表面的な理性の暴走。それは実務面とロマン主義的な感性の二つに分かれそれぞれに独立した理を築いていった。


啓蒙の弁証法的な理性の暴走、ナチズムの暴走というのはそういうことなのだろうけど。



そういった経験の影響をいくらか受けたためか日本の戦後でも教養の価値は衰えていった。


それでもまだ昭和の周辺にはそういった教養やそれに連なる品格、人格を携えたひとたちがいたのだろうけど、それも現在はなかなか遠くなってしまった。



いわゆるヤンキー化やゼロ年代的な停滞というのもそのあたりへのアクセスがなくなってしまったことによるアノミー的な面もあるのだろう。


彼らは最初からそういったものを知らなかった世代だから喪失ってしまった衝撃と混乱のようなものではないのかもだけど、最初から失われた子どもたち的な混乱のようなもの。それが教養の割れ子のひとつ、実務-経済的な約束が失われて一気に吹き出した。


それまで「よくわからないけどがんばれば終身雇用が約束されてる」「よくわからないけど学校のお勉強(教養)を暗記していけばいい暮らしができる」が不安定になってしまったので。


そして、経済ボリュームの変化で実質的に使えるお金の量も減り、所得格差によって居住区域も異なり、郊外や地方にはそういった文化商品しかないという現状のなかで「ヤンキー > オタク > サブカル」の順で選択されている。





竹内好さんのこの本はまだ読んでないけど、「教養ってなんですか?」と聞かれたとき「けっきょくは教師や友人なんかを見ながら培われるものだよ」って答えたのはそういった辺りの話だろうし、竹内さんの良心のように思った。
http://bit.ly/1ayKzAB



(あと、ことりこ復帰おめでたう)











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関連:
Did you know that?−コモンセンスと常識の違いは?
http://bit.ly/1ayHrEP



posted by m_um_u at 22:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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