2014年11月30日

うつくしい日々





君を夏の一日に喩えようか。

君は更に美しくて、更に優しい。

心ない風は五月の蕾を散らし、
又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。













めんどくさい本の休憩的に読み始めたのだけれど思ってたよりもよかった。


父・吉田健一 -
父・吉田健一 -


全体はフランス翻訳家吉田明子さんの父、吉田健一に関するエッセイを集めたものを主とする。文体・文章としては「ことばの食卓」ぐらい。なので特に疲れることもなく水のように読めていく。

それもあって内容的にそんなに期待してなかったのだけれど、この本の良さはそういうところではなく父吉田健一に対する暁子さんの尊敬と愛情がぢわぢわと伝わってくるところにあるのだなと思い直した。

吉田健一について、その評価はびみょーなところで、世間一般からすると同世代の巨人たちに比してなんとも特徴のないおっさんという感じなのだろう


1910年 白洲正子 白川静 保田與重郎 竹内好
1911年 中村光夫 椎名麟三 花森安治 森有正
1912年 檀一雄 武田泰淳 吉田健一 福田恆存
1913年 杉浦明平 新美南吉
1914年 深沢七郎 丸山眞男
1915年 梅崎春生 野間宏 小島信夫 山本夏彦 戸板康二
1916年 五味川純平 大西巨人
1917年 朝吹登水子 島尾敏雄
1918年 中村真一郎 堀田善衛
1919年 鮎川哲也 水上勉 吉岡実 安東次男 加藤周



そして三島由紀夫や小林秀雄


吉田健一の時代|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nd037e7e8eb62


ここでは「吉田こそ本流・大文学者」のようなことを書いてしまったけれどそこまでのことでもなく、やはり仕事としてはそんなに印象的なものもないのかもしれない。「よおろっぱの文明」はちょっと読んだけど、当時ならいざしらず現在の歴史学的には間違いが多いし。それでも、吉田の良さというのはそういうところにあるのではないのだろう。

「一等賞はくれてやる(自分は取れない)」という状態を特に葛藤もなく受け容れ、その上で自分の中の美学を貫いていく、というような。・・これもちょっと違うか。単純にいうと粋ということだけど。


父、吉田茂という強烈な個性と父性、時代のパターナリズムの象徴的存在ともいえるものをまさに父として持ち、そこで自分を確立していった吉田の在り方を想う。



「日本人は父を失った人々だ」というのは象徴的にあるのだろうけど、外交官→首相と生きる吉田茂-健一家はもっとモーレツに、現実的に父親不在だったのだろう。もっとも吉田の自我、あるいはそれ以前の発達心理的な心理過程は吉田茂の家ではなく牧野の家で育まれたものだったのかもだが。


嫌が応にも意識せざるを得ない「男として生きる」みたいな使命感。それを吉田健一はどのように引き受けていったのか。


主題の反復になるが、吉田はそれを受け流したのだろう。



「(こうしなければいけないと)ただしく生きる」のではなく「うつくしく生きる」方向へ。



論理的、内容的に正しかったり、強かったりお金持ちだったりしてもそれは勝利といえるのだろうか?人生というものさしにおいては。

あるいは、人生において勝ち負けなどもとからないし、あったとしてもそれは自分の中の納得だから。

最後に、死ぬ直前に自分が納得し、何を持っていけるか、ということ。



そこから逆算すればだいたいのものは無意味で、、でも、だからこそ意味を持つものが残されていく。





「持てない」ではなく「持っていない/持たない」への思考のシフトというか、、いろいろな余計なものを削ぎ落した余生として人生があると考えれば、そこで慎ましく生きる人々の在り方もひとつの美学といえるようになるのだろう。


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(無駄に)持っていないことが余白の芸術なのだ。






そして、酒はその余白に澄み切った豊穣を行き渡らせる。





一人静かに盃を傾けていると、たしかに自分と周囲が、過不足なく当り前のまま充実してくる。ただそこにあった湖の面にいつか夕日が、無数の金の灯を踊らせている。最晩年の作『時間』の初めには朝日が「流れて」いるが、一日の移ろいで父が愛したのは夕方だった。



退屈だから時間を潰すために、と誤解されては大変で、日々のいろいろな雑念から離れ、自然に湧いてくる想いに身を委ねられれば、我々の日々の営みとは別に絶えず流れ続ける時間と、意識が一つになるということだ。一人静かに飲んでいると、時が経っていく。生きているという自分が過不足なく、ただそこに在る。

父は私が三十二の時に六十五で逝ってしまったが、それでも二人だけで飲んだ記憶はある。今一人で飲む時と同じように、その時も時間は静かに流れていた。



父が酒について言ったことでもう一つ、これも父だけが言ったわけではないだろうと思うが、飲み続けていると頭が冴えてくるというのがある。雑然とした頭の中が収まって、蛇行する川の流れのように想念が流れ始め、その流れにしっかりと乗っている自分が感じられるようになる。私が、生きている限り酒を飲みたいと思うのは、飲んで人と居る時も、飲んで一人で居る時も、その「居る」ということと自分が全く一つになるからだ。









暁子さんの吉田健一語りを読みつつ、河上徹太郎ほかの交流の様子の豊かさ、あの時代の大人の男たちの落ち着いた交流の様が目に浮かび少し前に読んだ木田元さんの交流の様子や鈴木鎮一さんのそれを想った。

「おもひでぽろぽろ」とか「コクリコ坂から」、「風立ちぬ」の空気感。

過不足ない勤勉さ、慎ましさが静謐な空気を感じさせる。


パターナリスティックに、あるいは言外に圧力される「正しさ」の暴力とは別にそういった形のただしさ、というか、うつくしさのようなものがあるのだろう。



うつくさそれ自体がパターナリスティックな標語になったときナチズム的なファッショを想わせるが、そこに必然はなくたんなる勘違いがあるだけのように思う。


田中智学-宮沢賢治が目指したものはそういったものだったのではないか?(あるいは三島が守ろうとしつつもズレてしまったものたち)



そういうことを思いつつ「ドミトリーともきんす」をめくり、そこに生きる人々の慎ましく勤勉な様に天国を思うのだ。



ドミトリーともきんす -
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父はものを書いて生きた。言葉に惹かれ、言葉の世界を狩猟し、言葉の世界を作ることを始めて、それが生活の質を得る手段ともなったのだ。

言葉はこの世界の現実から生まれるが、直接現実の世界に働きかけることはない。好ましい現実からも好ましくない現実からも言葉は生れ、もう一つの現実、言葉の現実を作る。

言葉に惹かれ言葉に生きた父は、政治にも経済にも志さず、この世の中に対して働きかけようとはしなかった。しかし、どんな世の中であれ人間の世界に本来具わっている「良いもの」を−父にとってそれは言葉であり、酒であり、友人であり……−精一杯味わった。父にとって可能な限り徹底して味わった。

味わうというと何か退廃的な響きを持つことがあるが、父が、言うなれば「この世の富を貪欲に味わった」のは、人間の普通の生活をしながらである。働き、家庭を営みながらである。そして、自分一人が良い物を楽しむのではなく、母と一緒に楽しむことを忘れず、子供二人には母と二人して、良いものを教えそれを楽しむことを教えてくれた。

良いものとは五官を歓ばせるものだけではなく、努力の結果を報いられるとか、他人の役に立つといったことも含むのだが、自分にとっての良いものをすべて徹底して大切にすることは当然易しくない。父が非常に厳しく自分の生活を律したのはこのためだと思う。

父も生きることに疲れ、飽き飽きしたことはあるはずだが、それでも自分の生き方を守り通したのは、精一杯自分にとっての良い生を生きよう、この世に生を享けたからにはその生を納得して生きよう、いや、もっと完全に、自分の生と自分との間に隙間がないようにという、やむにやまれぬものがあったのだと思う。

外に広がり他を呑み込んでしまいそうな迫力ではなく、確固としたものがただ在る迫力、父という人間が周囲に感じさせていた迫力はこの、生と一つになろうという父の確固とした意志なのだ。





そうやって出来得る限り完全に作り上げた生、自分という作品の前に既存の価値観や権威は意味を失いこわいものではなくなる。

それでもなお、悲しいことはある。


こわいものはなくても


かなしいことはある




「(この世の中に)こわいものなんかないけれど、悲しいことというのはあるんだよ」と父は言った。

私は返事ができなかったように記憶している。

生きていく上で悲しい事はあって、親しい人、良い習慣、馴染みの店、思い出の品、あるいは大いなる期待、そういう良いものが失われる時は悲しい。それは良いものが良いものである故に当然だ。



人間も六十を過ぎるとその年月の間に得たもの、失つたもののことを思ふだけでも過去を振り返り、自分の廻りを見廻すのが一つの自然な営みになり、これは記憶も現在の意識も既に否定も反撥も許されなくなつたもので満たされてゐることであつてその中でも大きな場所を占めてゐるのが友達である。







我々はその哀しさを埋めるために


あるいは、


その寂しさをアテに酒を飲むのだ












--
関連:
吉田健一、「東京の昔」 読書メモ - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/11193

























  花間一壺酒  花間 一壺の酒
  独酌無相親  独り酌みて相ひ親しむ無し
  挙杯邀明月  杯を挙げて明月を邀へ
  対影成三人  影に対して三人と成る
  月既不解飲  月既に飲むを解せず
  影徒随我身  影徒らに我が身に随ふ
  暫伴月将影  暫らく月と影とを伴って
  行樂須及春  行樂須らく春に及ぶべし
  我歌月徘徊  我歌へば月徘徊し
  我舞影零乱  我舞へば影零乱す
  醒時同交歓  醒むる時同(とも)に交歓し
  醉后各分散  醉ひて后は各おの分散す
  永結無情遊  永く無情の遊を結び
  相期獏雲漢  相ひ期せん 獏(はる)かなる雲漢に





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2014年11月10日

そして、むきだしの羊は閑かに暮らす夢を見る




私は水底の石に吸盤でぴたりと吸い付いて、尻尾を上にして、ゆらゆらと水に揺れている。まわりの水草と同じように。

あたりは本当に静かで、物音は何ひとつ聞こえない。


それとも
私には耳がついていないのかもしれない。

晴れた日には水面から光が、矢のようにまっすぐ差し込んでくる。

その光はときどきプリズムのようにキラキラと割れる。


色んな色や形の魚たちが頭上をゆっくりと通り過ぎいく。




そして

私は何も考えていない。



というか、やつめうなぎ的な考えしか持っていない。


その考えは曇ってはいるけれど、それでいてとても清潔なの。


透明ではないけれど、それでいて不純なものはひとつも混じっていない。


私は私でありながら、私ではない。




そして

そういう気持ちの中にいるのは、

何かしらとても

素晴らしいことなの。













少し前に「愛のむきだし」を見て


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続けて「冷たい熱帯魚」を見た。


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園子温という監督は世間的には「冷たい熱帯魚」、あるいはそれ以前の「愛のむきだし」で注目され、猟奇的・アレゲな場面を描く監督として受容されていったところがあるように印象していて、「( ^ω^)・・・だったらいまの自分には必要ないな」って感じだったんだけど「ヒミズ」の映画化が思ったよりも良かったという感想を見てなんとなく気になって保留していたので。


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あとは少し前にお話しててやっぱ見たほうがいいなあ、とか、TLで薦める人がチラホラだったので。


ストーリーラインとしてはこのへんで

映画『愛のむきだし』(満島ひかり主演)を町山智浩さん、宇多丸さんがゲキ推ししてたので書き起こしてみた - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2137663971349317601


以下から実話をベースにしつつどの部分を監督が演出、付け加えていったかがわかる。

盗撮物AV関係の男性が新興宗教にハマった妹さんを助けだした部分だけが実話で、2人が同居してるだけの血のつながらない兄妹で2人が愛しあってたり新興宗教団体を潰したあたりはフィクションです 妹さんがハマった新興宗教は明らかにされてませんが、ゼロ教会については複数のカルト団体を基に創作したと監督がインタビューで答えています DVD特典でユウのモデルになった男性がインタビューで答えていますが2人で断食して医者からドクターストップがかかっても止めず、自分の思いをちゃんと伝えて洗脳を溶いたらしいです 本当に宗教は恐ろしいです

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1149002836




最初の印象としては「タランティーノ的な輻輳だなあ」ということ。様々な登場人物たちが各々の目的を混ぜて一点で混沌→スパークする(その間の時系列は同時/それを印象づけるために劇中で何度か時系列を各人の視点から遡る)ってあれはタランティーノを思わせた。最近けっこうこのへんの新しい作風だとふつーにつかわれてる手法のようにおもふ(cf.「鍵泥棒のメソッド」「アフタースクール」)。

主要テーマは「人の生きる目的は?」で、「生≠愛」?、「愛≠生とはナニカ?」、「生≠性」と展開していく。

前半はセックスとそれへの禁忌を中心に。宗教、あるいは社会における禁忌と抑圧は再帰的にその規律をエスタブッシュ、当然化し、それを「当然」として従うものにねじれた快をもたらす。すなわち抑圧に依るストレス、痛みでさえも「アッテハナラナイモノ」とし、痛みの段階がすぎればそれさえも愉悦になるような。

後半は<「生≠愛」?>に立ち戻る。

愛に立ち戻った理由としてはそのほうが物語としてドライブしやすかったからというのもあっただろうけど、「勃起しない/できない主人公がほんとに刺激を感じたのは『真実の』愛だった」というのは「愛」というのが純粋きれいなものでもなく、宗教的情操(@宮沢賢治)と同じぐらいのテンション/強度を持ちつつもアレゲなところがある、人間という動物に残されたヘンタイなところだからだろう。

人のホンネ、たましいの声、激情がむきだしで激突する場面でコリント書を引きつつ「生≠信(仰)」が「生≠愛」にオルタナされる。






 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 
 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
 
 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 
 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
 
 
 その中で最も大いなるものは
 
 
 愛である。


コリントの信徒への手紙一 13章











ここでは愛が宗教的情操に昇華された、と狂信的な人が思っていることから、その一歩前の段階、信仰も愛と同じカテゴリに入るものなのだなということが気付かされる。すなわち理屈うんぬんではなく信じる対象。

そして、理屈云々ではないということが「幻想」ということなのだろう。

人の生は信仰や愛といった幻想によって保たれている。




オウム真理教を想わせる狂信的な信仰をモティーフにそこで展開される混沌と魂の叫び模様が描かれていく。このへんはベースとなった実話に脚色を加えたものだろうけど、山本直樹的世界(ex.「ありがとう」)を想わせる。

「生≠性≠おめこや」「おめこむきだしや」(観音様(T人T) ナムナム)」で展開される人の性のぬくもりと惨めさというのはちょこちょこ言われて来たことで、たとえば宮本輝なんかでも富豪きわめたおっさんがみじめに死ぬ直前に自慰したりする場面を描いていた。そこにドラッグのような信仰的トリップ、そして「そういったもののほうがセックスより上じゃん」ということも絡ませると戸田誠二さんにわかりやすい作品あったな(「LOVE2000」)。




園子温という監督の一連の作品はだいたいのひとにとってはアレゲ混沌エログロ暴力エンタメ@タランティーノて理解で終わるのだろう。でも、自分的には「限界状況で見える人の真実」について少し想わせた。園監督は暫定でその行き着く先を「愛」としてるのだろう。



「冷たい熱帯魚」も「愛のむきだし」と似たような情況、密室的環境における洗脳をモティーフにモラハラ攻勢によってペルソナを剥ぎ取られた主人公がむき出しの生にジャンプする。

そこまでの1時間半ほどはむしろ冗長で、繊細な主人公が熱をかけられすぎてコワレタように暴走するところからがカタルシスにように思えた。それ以前の場面、DQNが独自の理論とモラハラ手法でアレゲ空間を作り出していく、あるいは、そこで生きている人たちの独自な思考や指向、志向で楽しいってのはあるかなとかはこのへんにもぞもぞ書いといた。


プラスの方法と超越系|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nd77a52755006



こういうのはもっと一般的で軽いものだとメンヘラ的な異性との共依存的な付き合いにも当たるのだろう(「ノルウェイの森」とか)。


トラン・アン・ユン、2010、「ノルウェイの森」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/404218098.html




そういう意味ではやはり恋愛というのは病であり幻想なのだろう。







「社会常識的なペルソナに甘んじてる人たちが限界でそれを破面し、自らの生に目覚める」「限界情況で剥ける」ということの是非みたいなのを考えたりする。


以前の自分だったら超越系志向ということでどんどん剥けていけばいいとおもっていただろうけど、いまはなんかそういうのもいいかなあとおもったりする。

ふだんの生活や人生がなんか物足りないと思ってる人で、剥けて人生たのしくなるひとは剥ければいいし、そのままコツコツと日々の生活を重ねていくことが楽しい人もいるし、そういうのも人のあり方だし。。(というか、むしろ後者の方に惹かれたりする)。



このへんの話は鬱-理性先行で垣間見える真実ってことかなと思うんだけど


今日、本当に理不尽で、無茶苦茶で、不合理で、納得いかなくて、酷い、本当に酷い出来事があって - orangestarの雑記
http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2014/11/08/090139


そういう意味では「ショッピングモール」ほか真鍋昌平の世界ともリアリティを同じくする。あれもそういう意味で鬱マンガなわけだし。



なので、「あまりこういうの先行させて、鬱鬱ってやってるとそれでドライブしちゃって却ってこれをもとにして鬱なひとたちがより鬱加速させるんじゃないの?」「泥沼好き、露悪好きな甘ちゃんが自分可愛いでこういう汚泥に溜まり、却って精神状態悪くしていくってこともあるんじゃないの?」「人は裸にしたら惨めなもので、惨めさをわざわざ見る必要はないのだ」て吉田爺もいってるし、てイラッときたんだけど


その後このへんで「あまりにつらくてゲロってしまった。。」「鬱でゼロ状態になってなにも感じられなくなってた」「でも、防波堤になってくれたのは嫁や、ふつーにおいしいものを『おいしい』と思える生活だった」て書いてあったのでこの辺はまあいいかなーとか思った。


とっくに死んでいた自分と、防波堤の嫁 - orangestarの雑記
http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2014/11/09/023918


自分が思ってる特にすげー限界の限界までいってなくて、あるいはいっていたとしてもわざわざ鬱鬱なところに依存的に貯まる人たちとは違うようだし、それを刺激しようってことでもないようだし。




けっきょくはコツコツと日々を刻む、整理整頓はきちんとする、きちんと食事・掃除をする、朝日を拝むなんかが大事なのだよなあ、、ご大層な修行とか以前に、それがミニマルな行のようなものなのだろうし、人は言葉-理性だけでできてるのではなく感性(音や温度、味)でもできてる、むしろそっちのほうが大きいのだろうから、とかなんとか。



そういうのとは別に超越系の志向をなんとなくもってるひと、持て余してる人というのは一回ゼロを経験しておくのもいいのかもなあ、ということでこの辺もうむうむしたり。


「車谷長吉の人生相談 人生の救い」車谷 長吉 著 | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/4482


ゼロになったからといってすべての人が殊勝になるわけでもなく、そこから自分なりのアレゲ、好き勝手を展開していくのだろうけど。


すくなくともたかが人間、たかが社会の枠に囚われてそのルールを元に人を差別・優越したり、いぢめたりしてるよりはマシになるようにおもう。



社会のルールからすると禁止されていたことをしても案外なんとかなる-死なないものだしな。










こんなところでエントリを閉じるべきだろうけど、書いていて「けっきょくあのへんの『理性でいったら鬱になる』『どうしようもないクソみたいな日常』『なにか物足りない生活の中で跳びたくなる』『アッチに引っ張られそうになる』あたりの結論を描けるのは古谷実とかなのかなあ」とかおもったり。

「ヒミズ」は古谷実のゼロ地点だろうけど、のちの一連の作品はその不時着地点をそれなりの説得力をもって表すための試作のように思ってる。そして、未だ説得力は生まれていない。


園子温監督の「ヒミズ」にはそのへんに対する監督独自の解釈も期待している。あの作品には2011の震災後、福島以後という意味もあるだろうけど。




あのあたりは感性-「ゆるふわでおいしい生活が一番だよ♪」て結論ならけっこう描けてる人がいるように思うんだけど(ヨコハマ買い出し紀行とか)



理性でつきつめていってもその回答が得られるのか?得られるとしたらどういったものか?とかはおもったりする。




そういうのを考えるのは本来思想の役割で、先人の古典的なものを紐解いて見るのも良いかもだけど、現代っ子は現代っ子なりにこの辺を考えられるのかな(自分も含めて







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関連:
羊でも狼でもなく「ふつーに生きる」ということ (reprise): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/43805201.html



親愛なる人へ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/142089498.html




古東哲明、2005,「現代思想としてのギリシア哲学」: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218962376.html

posted by m_um_u at 17:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年11月09日

真鍋昌平、2004、「ショッピングモール」


このエントリに釣られて古本屋でモーニングをゲットして久々に読んでみた。


「闇金ウシジマくん」作者が「地方都市のショッピングモール」を舞台にした読切漫画をモーニングに描いてる - 見えない道場本舗
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20141105/p3


ショッピングモールというのはたぶん現代日本における大衆-若者(から大人-中年に差し掛かる子育て世代)の場として重要なところで、それに郊外が絡むとさっこん那辺でうんたらしてるニューヤンキー論みたいなアレが絡むから。

横道に少しそれるけどヤンキー論というのは自分的には的外れに思っていて、あれは単に日本的な大衆ってことで、その洗練されてなさが都会な市民から見るとうげげって偏見・差別してるだけの話に思ってる。いわゆるヤンキー的なものや郊外に住む人たちもそればっかりではなく洗練された摂取してるだろうからすっぱりと区切れるものではなくグラデーションだと思うけど。なのであのへんをまじめに考えるなら「大衆」ということ「市民」ということをまじめに考えるべきだと思うけど、、それは本題ではないので留めるとして。

そういう「ショッピングモール」な話を「真鍋昌平」が描いたということで見てみようかと思った。

真鍋昌平というのは「闇金ウシジマくん」で注目されたけど自分的には「スマグラー」のひとで、そこに物語-作家的な発展を加えたのが「THE END」であったとおもうんだけど、このときはまだ力不足だったので打ち切り的な終局となった。

なので、作品-作家としての幅はこの2つの作品で見えてる感じがしてる。あとは短編集とか。

「スマグラー」のテーマというのは別エントリで後述するけど「普段はタテマエなゲンダイジンペルソナしてる人たちが限界でそれを突破し自分の生に目覚める」みたいなとこにある。そんで真鍋昌平というひとはずーっとそれをテーマ、結論として描いているわけだけど、、「ウシジマくん」なんかもそこを結論としつつそのための道具的過程としてアレゲな人たち、最底辺な人達のリアリティを描いてきたように思うわけだけどそこが作品的な見どころになってしまった。

デビュー以来、八方塞がりの人間を主眼に置いた作品を描き続けている。過剰な暴力表現と繊細な心理描写とが同居する特異な作風である。絵柄では吹き出しの中に入れた独特の擬音(「ニギ・・・ニギ・・・」など)により、人物の動作音と周囲の喧噪感を醸し出すことが多い。これに対比させるように陰影を際立たせた静寂な一枚絵によって、人物の絶望感を出す手法を用いている。

真鍋昌平 - Wikipedia http://bit.ly/1uby6RK

特異な作風、というか、むしろ繊細-ナイーヴなほうが先にあるのだけれど、それの発露の仕方がうまくいかない、あるいは、みょーに冷めて真面目で嘘っぱちを見分ける目があるので通り一遍等な繊細表現の形式を借りると嘘っぱちに思えるのでそこを踏めないのではないかとおもふ。。ちょうど真鍋昌平の作品の中に出てくる繊細な登場人物たちのように。気づいてはいるけどうまく跳べない。

そういえば「過剰な暴力表現と繊細な心理描写」、「一枚絵」ということだと北野武の作風を思わせるのでたぶんあのあたりで映画化されるとしっくり来るのではないだろうか。(北野武監督も「暴力的なものは大衆受けがいい-金が入るからやってるだけだよ」ってことだったし、彼の作風は知っての通り一枚の絵として場面を描くことで決まっていく)。



で、今作だけど


東京まで乗り換え一回、1時間弱の郊外-ショッピングモール周辺に生息する賃金15万ぐらいの若者、「(未来が特に見えなくて)暇な時間を浪費するために大切な時間を金に変えてる」って若者たち。


その閉塞感と「低俗」さはイギリスの郊外の若者たちともリンクするのだろう(cf.ケン・ローチ、一連のヒップホップ作品)。ヒップホップということだとアメリカスラム街の黒人たちとかも。


ヒップホップを聞きつつもヒップになれない若者たち。あるいは少しでもヒップになろうとしてそれを聞く若者たち。




「本当はもうこの国おわってるンじゃねーの?」




この作品の一番強いネームはこの部分だろう。



この国←若者に未来が見えないこの国、はもう終わってるンじゃねーの?

少なくとも自分たちのリアリティからはそう思えるしそう思って構わないぐらいに日常はクソみたいで救いがない。救いがなく永遠にダラダラと低空飛行で続いていく。



彼らはけっきょく海に逝くこともなく(いちおう)友人の嫁との金を介した乱交的なセックスで落ち着いて夜を明かす。

国道沿いのラブホで休憩し県内から一歩も出ずに。




すぐそこの「東京」に行く機会は滅多にないし、行く意味もわからない。





それでもなお、タロポンは想像する。

ドトールで人間観察しながら。


「金持ちの人生を妄想して貧乏人の人生に共感する

 ブスに与えられた運命
 バカで運動音痴に与えられた運命

 何処でどう選択肢を選んでも何一つ前向きに生きられない人生
 あの葡萄は酸っぱいと決めつけて何も努力しない狐みてーな人生
 
 一度も試したことがない人生
 
 この景色みたいに平坦で
 何処までも
 何処までも
 何も変わらない
 人生」


「日曜日の夜に出歩く奴はどこに行くのかな?

 日曜日の夜に行く当てがないない俺の魂を救ってくれるのは24時間営業の松屋しかない

 みんな  何処に向かってるのかな?」



それはかつての電車少年たちが鉄道を介して夢見た未来-希望-未だ見えないナニカ、であり、国道沿いの若者たちが国道-車に託したそれであったはずのもの。




しかし彼らはもはや国道にそれを託さない。


車を持っていても


『「東京」に行く機会は滅多にないし、行く意味もわからない』


そこまでして東京に行ってもナニモナイ/ナカッタことを知っているから。



だからタロポンは今日も、ドトールの窓から未だ見ぬ人生を夢見るのだ。









--
関連
映画『国道20号線』について長い文章を書きました - MIYADAI.com Blog
http://bit.ly/13Zkxev


傑作『国道20号線』を送り出した富田克也監督の度肝を抜く最高傑作『サウダーヂ』 - MIYADAI.com Blog
http://bit.ly/17MH9f3


富田克也 - Wikipedia http://bit.ly/13ZkNtX



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2014年11月03日

「闇屋になりそこねた哲学者」を読んでお勉強したくなった


闇屋になりそこねた哲学者 (ちくま文庫) -
闇屋になりそこねた哲学者 (ちくま文庫) -



少し前に木田元さんが亡くなって、「ちゃんとよんでなかったなあ」てことでなんとなくそれぞれの人の紹介読んでたらこれが引っかかったので読んでみた。


「絶望から立ち直るための答えをハイデガーに求めた」


ここに興味をもったので。

その期待はけっきょく叶えられなかったけど、それ以外のところがおもしろかった。


木田さんのご家族(特にお父さんの博覧強記ぶり)と戦争体験(満州、海軍、食い詰め闇屋、やんちゃ学生時代のはなし。

「闇屋で喰ってこう」ぐらいの腹づもりで、学校に入り直したのも当初はヤクザな生活の「休暇」程度の予定だった。でも、ドストエフスキーとの出会いからソッチのほうにハマりだした。




「ドストエフスキーの登場人物はみな絶望している。絶望しているから悪に走る」

そこに共感を覚えた。木田さんだけではなく当時の多くの若者がそういう感覚だったみたい。


ドストにハマってるうちにヘーゲルが、あるいはその軸のキルケゴールの言ってることがわかるようになった。「ドストエフスキーが描いてるあのあたりのことではないか?」

そして、ハイデガーが基軸としているのもそういったものだったみたい。


彼らは時代の変わり目で生活の困窮や人生のあてどなさに投げ出され絶望していた。

絶望的情況のなかでただしく絶望する方法を編み出していった。



そう、「ただしく」「絶望する方法」


たぶん絶望にも様式のようなものがあって「ただしく」絶望できないとなんかカタルシスしないところがあるぽい。


悲惨というのはその物量的なものなもので比較できるところがある、不幸自慢できるようなところがあるのだけれど、、(ex.「あなたは○○ていうけどわたしなんか△△に○○でさらに◎◎で」)

それを悲惨として感じるやり方というのは人によって違って、それによって悲しみの在り方も異なってくる。


泣き方がわからない/わたし、悲しいのに泣けない/泣けなくなっちゃった

わたし、死にたいのに死ねない....


それは怒り/恨みを落ち着かせていくやり方にも似ているのかもしれない。



敗北/悲しみ/怒りを抱きしめて








「存在と時間」を読んだら哲学なんかやめよう(哲学なんかで飯が食えるわけない。いざとなったら闇屋やればいいし


そういうつもりで始めた文学-哲学だったがずっぽりとハマってしまった。

しかしなかなか読み進めない。読まなければならないテクストは目の前に山積しているのに。

そういうときの焦燥感や絶望感を語学が救ってくれた。

一日12時間勉強した。

勉強はまる覚えを基本にして、それをルーチン化したら苦ではなかった。


語学をやってると「着実に力がついてる」という実感のせいか精神的に落ち着いた。






この本を読んでいると自分も勉強したい/本を読みたいという気分がもたげてきた。

特に、pp73-167


6.勉強したくなった
7.東北大学で
8.『存在と時間』をはじめて読んだ頃
9.ハイデガーへの回り道
10.先生たち
11.ハイデガーがわかる
12.現象学とはなにか


やはり手元に置いておいて、たまに読み返したいと思う(いまはアマゾンなんかで絶版だけど





西田幾多郎、小林秀雄、吉田健一あたりのそれにもさっさと還りたいものだ(「暇」を作らんとな

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2014年10月28日

アカシアの道



よくない呪いなら解いたらいいんだよ。真実の愛とかそういうので。そういう冒険譚、たくさんあるじゃない

槙野さやか













結構前にアマゾンで見かけて気になってたんだけど、そのときは時機でもなかったのでウイッシュリストに入れていて忘れていた。けど出会ったのでなんとなく読んでみた。



アカシアの道 -
アカシアの道 -




いつもどおりネタバレ含みつつ言えば、構えていたほどにはキツイ話でもなく中盤以降はむしろスルッと読めた。

それでも全体のモティーフ-テーマとしては<母-娘の女の確執がある情況において「女性」を抑圧され押し付けられてきた娘が母とどう向き合っていくのか?>という話題でありふつーに重い。簡単にいえば母が娘には地味に育つように言っておきながらいわゆる結婚適齢期が来ると「あんた、まだ男もいないの?」と言ったりするような。

「お母さん、わたしが赤いパンツ買ってきた時にはあんなに叱ったのに自分は持ってるし、弟にはやさしいのね」


潜む声 鏡の中の遺書 その他の短編 (アスペクトコミックス) -
潜む声 鏡の中の遺書 その他の短編 (アスペクトコミックス) -

そして母の呪いをそのままに受けて育った子供は抑圧され、ともすれば大人の女性として軟着陸できなくなる。

ハードランディングとしては抑圧をバネとするように逆にセックスに奔放になり、異性との交わりの中で自分を削っていったり。逆に自閉的に「女性」の機会を閉じていったり。

いわゆるアダルトチルドレン的情況。


「アカシアの道」では地味子ACとして育った主人公がそれでも実家から離れ、就職して独立し恋人もできてそれなりに人生の階段を上がっている、、と思われた矢先に生じる事件から人生のレールが踏み外される。そして自らの人生、母−自分-父の関係と来し方を振り返ることとなる。



『並みのホラーよりもホラーだ』と巻末に書かれていた「事件」とは母親の痴呆-アルツハイマー。それによって主人公に依る介護が要請される。毒親からやっと離れられたACにとってこれ以上リアルに背筋を寒くさせるホラーはない。


呆けた母親を診るためには仕事をそのまま続けるわけには行かず、いままで就いていた仕事はパートタイム状態になる。

そして母と向き合う中でかつての厳しい母の面影と現在が重なり、過去に押し付けられてきた矛盾がフラッシュバックされていく。今度は叱る役を自分が引き受けつつ。

子供化した母親の世話をする中でイライラから毒親的な叱責をしてしまい自分に幻滅する主人公。


「ACの子はAC。その連鎖は継がれていく」

そんな言葉も頭をかすめる。(このまま子供を生んでいたらそうなっていたのかもしれない



中盤で主人公は母親の介護のなかで精神と体力を削られ男に救いを求める。

ひとつは「結婚」として、もうひとつは過去の「男」、母が離婚した父親と何年かぶりに会うことで。


しかしどちらも男たちの薄情と臆病、卑怯に裏切られる。


恋人は臆病で父親はヤサシイ卑怯者だった。



父親と別れる直前の場面で主人公が「この人は卑怯者」と幻滅した心理。これは最初わからなかったけれどしばらくして分かった。母親や娘の近況を尋ねつつ、娘の嘘を突き破って踏み込んでくる義のようなものが父親にはない、あるいはあってもそこを巧妙に避けている(自分が避けていることさえ気づかないほど自然に避けている)。だから「卑怯者」なのだ。

「娘の嘘が巧妙で見抜けなかった」としても幼い頃に離婚して以来会ってなかった娘が突然尋ねてきたのだから「なにかあったか?」と思わないほうが変なわけだし、それができないのは元からその程度のヤサシさだったということなのだろう。

ただ、そこでも主人公は、父親を一方的に断罪するのではなく、「わたしは嘘つき」としている。



「わたしは嘘つき、、このひとは卑怯者」


その感情の直接の背景はこのときの父親の踏み込みの甘さ、というよりは父と母の離婚の真相にある。

父と母の離婚の原因はもっぱら母の代理(契約)結婚的不満にあり、そのイライラと違和に父の居所がなかった → 他所に女を作ったことにあった。

母はかつて父とは別に愛する人がいて結婚まで考えていたのに「働き続ける女は無理だ」ということで結婚はなくなった。

理由としてはほかにもあったかもしれないけれど母は破断の理由をもっぱら「働く女」というところに求め、自分の性格や生き方を変えようとしなかった。

そして「仕事は続ける」ことを条件に父と結婚した。


おそらく気持ちとしては未だ前の婚約者の元にあって、その愛憎が仕事、教育者の自分というプライドにすり替えられ、いびつに自我を形成していった。

「先生」としてほかのコに接する母親はやさしく理想的な教育者であったが裏に回って娘と二人だけになると度を越して厳しく、暴力的に自分の理想を押し付け、グズな娘に現在の結婚相手である父親を投影した。




代替し投影し歪んだ…



この話には直接関係ないけれどいくつかの場面が頭をよぎる。



かつて本当に結婚したかった相手との結婚が叶えられず自暴自棄的に結婚し、結婚相手の愚鈍さを呪う人とか。

「寝ている姿が父親のようだ」「あんたはそのままじゃお父さんみたいになるよ」「あの人と関わるんじゃない」と父親に関する呪いの言葉だけを聞かされ続けて育った子供とか。

自分の叶えられなかった夢を娘に投影してスパルタ教育、あげくに「あんたには才能がない」と切り捨てていく母親とか。



アダルトチルドレンの呪いの連鎖


「親子のかえるだよ」と差し出された手


家族のそれから (アフタヌーンKC) -
家族のそれから (アフタヌーンKC) -



父(母)親を愛そうとしても愛せなかった子供。子供を愛そうとしても愛せない母親

かえるの子はかえる、ACの子はAC…





家族というのは、、特に血縁家族なんてのはくだらない因襲に過ぎないように思っているけれど、同じ空間、同じ時間を一緒に暮らしたということ、その歳月はそれだけの重みを持つ。



その重みは時として呪いのように重なっていって、その呪縛から自分も逃れられないように想ったり…。



でも、



その呪いを解けるのも「家族」だったりする。






例えば恋人であったり結婚相手と成るようなパートナーだったり。

あるいは恋人や結婚相手とならなくても良いかもだけど、ひとに語ってもなかなかわかってもらえなかったことを共有できるような、あるいは理解してもらえなくても共に抱えていけるような‥。

そういう人との出会い、長い付き合いを通じて新たな「家族」が生まれる。




そこでわれわれは新たな物語-呪いを作り、それを元に「家族」を再構築していく。




「アカシアの道」の終わり方もそんな感じだった。



もちろん恋人的な人や、そういった「語れる相手」が見つからない人もいるかもしれない。

でも、悪い呪いを抱えて頑なになる前に、こういったことに少しでも気づければと思う。







「世の中に元から悪い人なんかいない。ただ、みんなちょっとズレて頑なになってるだけなんだ」

「言葉がそれを形作り、プライドがそれを塗り固める。ただ悲しんでるだけなのにいつの間にか怒ってたり。そういう人たちの色を見て、わたしはなんだか変だなーって思うの」


かつてあの人が言っていたように、人はもっと単純な、あるいは単純でありながら複雑なもので、それは言葉だけでは測れない様々な色や味、音を持ってるのかもしれない。





この話を読み終えたとき、ちょうどこの歌が聞こえた。







Oh Shenandoah, I long to see you,
ああ、シェナンドー あなたをもう一度この目で見たい

Away you rolling river.
うねり流れる川よ

Oh Shenandoah, I long to see you
ああ、シェナンドー あなたに会いたい

Away, I’m bound away ‘cross the wide Missouri.
私は広大なミズーリ川を渡って 行かなくちゃいけないんだ

故郷の川への想いを歌った名フォークソング 『Shenandoah(シェナンドー)』 を聴き比べてみる
http://nerino.net/blog/2013/06/14/shenandoah/





「アカシアの道」、というか母娘(親子)の愛憎というテーマでは最後に母や父を赦せるかどうか、赦しとはどういったものか?(どこでそれぞれに納得できる赦しが訪れるか?)ということについて説得力を積み重ねていくことが「仕事」のように思うけれど、とりあえず本作では決壊寸前だった母娘のダムに水、別の道が入り川となって流れていった。

それははっきりとした答えではなく、またこれもひとつの偶然的場面や選択にすぎないのだろうけど、、でも、こういうのもアリかなとおもった。




あと、たまには川を見てぼんやりしよう





















--
AC関連:


ストーリー -
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タグ:家族
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2014年10月18日

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語


善への愛にうながされるまま、苦しみの待ち受ける道にふみ入り、一定の期間がすぎたあと、自分の力の限度に達し、身をもちくずす人々の悲劇。










最近ようやく「叛逆」見た。



劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語(通常版) [DVD] -
劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語(通常版) [DVD] -



アニメ単体としてはオープニングから力が入っていて「プリンスアンドプリンセス」的な影絵のリリシズム−女の子の夢のお伽話的な舞台装置自体がかわいらしくきれいで、それそのものとして気持ちよかった。

プリンス & プリンセス [DVD] -
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なので特にいらない感想も必要ないかなと思うんだけど、別件でリンクしたのでちょっとついでに(お出かけ前の時間つぶし的工作活動として。



全体がそういう構成になっていたのは「血だまりスケッチ」とも通称されるまどマギシリーズに対する救い的な意味合いもあったのではないかと思う。ユーザーへの刺激を弱めるという以外にも。

作品に対する救済、あるいは、ほむらちゃんの救済、それがこの作品の目的だったのだろうし多くのファンもそれを望んでいたかなあ、と。



ストーリー自体の説明はめんどうなので他人様に借りるとして


※解説

http://t.co/8HukizSigV



「けっきょくまどか☆マギカという話は徹頭徹尾ほむらちゃんの話だったのだなあ」ということ。

あるいは「魔法少女とはなにか?」ということに還る。


ほかでもギロンされてるのだろうけど、魔法少女というのはいわゆる女の子向けアニメの中で「戦わない主人公」という設定の中で作られていった存在のように思われる。なので初期の魔法少女ものだと戦うということについての直接的、間接的リンクがあまり貼られてないのではないか?あるいは「悪い敵とたたかう」といういちおうの設定にはなっていても「魔法」がクッションになることで少女たちは敵を斃さなくて済む。魔法がそれを間接-解決してくれるから。

「戦っているのに戦ってない存在」

そういった矛盾を抱えた存在が魔法少女だった、ように思える。


それはそのまま女の子の女性性をめぐるジェンダーロールの引受け的な象徴へとつながる。


現実の女の子たちにとって「たたかう」が意味することは多岐に渡るように思われるけど、例えば、「会社、男社会的なステレオタイプ」「母親からのステレオタイプ」「自身の肉体の変化」などといった自身の意志とは離れているの自身に干渉してくるものたちと彼女たちはたたか(抵抗)しなければならない。

たたかう-抵抗-あるいはそれを受け流したり、ゆるく引き受けて「女性」と成って行く。



魔法はそういった少女たちを戦いの直接性-現実から遠ざけてくれていた。



それがより「たたかい」的な要素を絡めてきたのはセーラームーンあたりからなのかなと思うのだけれど。。(そしてプリキュアへと系譜する)




魔法少女という存在はアイドルにも近い。


アイドルも女性性を巡った闘争のはざまにあるもので、いわゆるミスコン的な観点からするとナンセンスな商業論理による女性の性や主体性の搾取であり打倒スベキ存在ということになるのだけれど、平成を通じてアイドルたちは自らをアイドルであることに投企するようになったように思える。オトナたちの金とセックスと欲望を受け容れつつ、それに堕することもなくキラキラを提供する、というような。

ゲイの人たちの中にベタベタのアイドルを好む人たちがしばしばいるのはこういったところ、女性であることを投企的に愉しみつつそれをショーとして成立させている、というところに性別や性指向をめぐる闘争を超越した痛快さを感じるからではないかと思うのだけれど、、まあそのへんは未だ確かめてないから保留するとして。。(また話が逸れたし



アイドルも魔法少女もそういった性をめぐる闘争から女の子を夢のキラキラへと誘ってくれる側面があった。



翻って「まどか☆マギカ」はどうだったか?




そこでは本来、闘争から遊離させるためのギミックだったはずの「魔法」が少女たちの血や涙、直接的な悲惨へとつながる装置として機能してしまっていた。


「それは全部キュウべえ≠エログロ観測出歯亀オトナのせいだよ」てのもあり、作者であるところの虚淵玄もそこに含まれるという自虐・自認があるのかもしれない。



なので本作ではキュウべえは最後でコテンパンにのされ、死すらも生ぬるい飼い殺しを与えられていた。


また、オープニング周辺のポップでお菓子くリリカルな表現というのは魔法少女的な夢への回帰を予感させた。



作品が進むに連れけっきょくはそれも血にまみれていったわけだけれど、でも、いままでのシリーズほどに悪趣味な露悪と観測を目的としたものではなく、どこまでも全体を少女の夢でコーティングしていたように思えた。あるいはそれはじっさいの少女たちの感覚とは異なった「少女の夢」という幻想にすぎないのかもしれないけど。





まどか☆マギカにおいて、少女たちが戦っていたものは魔女=女性性の昇華に失敗して妖怪化した女性たちだったし、それは少女たちの未来を予感させるものだった。魔女の返り血と断末魔は呪いとなり、彼女たちとのたたかいの中で磨かれた矛や剣は少女たち自身を貫いた。

現実世界ではそれらは言葉の刃となって彼女たちを貫いていったのだろう。


家族やともだち、ときには自分自身を。



ほむらちゃんの魔法能力、時間停止はそういった少女たちの武器の中でも象徴的であったように思われる。


その能力が永遠に発動している限りは彼女たちは少女のままでいられるのだから。




「叛逆」においてほむらちゃんが自らの繭にとどまることを選ぼうとしたのはその意味でも象徴的に感じられた。


それは「まどかに障らせないため」「まどかに障るぐらいなら、あたしは永遠にここで呪いの言葉を吐き続ける」という愛と潔癖の結果だったとも言えるのだけれど、その愛は少女らしい潔癖-正義に支えられたものだったということをほむらの最後の選択が示す。



「正義や世界の安定よりもあたしはまどかと一緒にいたいの(たとえ神や真理に背き、世界が滅びても)」




陶然と謳う悪魔の目には永遠を微笑み続ける愛人の姿が映っていた。









それは物語的に美しく、「ほむらの救済」という面では十二分にカタルシスを得られるものだったけれど、おそらく現実のほむら≠同性愛や叶わぬ恋の日常を生きる人たちは悪魔化もできず繭の中でとどまり続けるのだろう。


「まどか☆マギカにおける男性の不在」「フェミニズム的正義ほか正義の言説とそこから溢れる人たちの問題」など関連して語れることもあるけど、その現実を思えばすべてが冗長に思える。



彼や彼女たちの孤独と哀切を想ってこのエントリを閉じよう。








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関連:



誰かを被害者・弱者として単純化して語る語り口というのは、共感を呼びやすい。つまり、「AV女優は被害者だ」ということを強調する物語、論旨はウケやすく広がりやすいですよね。私も『漂白される社会』(ダイヤモンド社)で社会的弱者が集まる場所を取材したり、被災地の問題などに関わるなかで、しばしば「弱者への配慮」の言葉に出合いますが、その弊害を感じることも多かったです。端的に言えば、見えない第三者を持ち出してきて「この人は被害者・弱者である」と指摘する行為が、それを主張する人が自ら権力を獲得することと表裏一体であるのに、それを多くの人が意識しないという問題です。

つまり「誰かを被害者・弱者として単純化して語る」ことで、それを語る人間は、自らが正しい側にいると優位な側にたったかのように錯覚し、その周りは黙らざるを得なくなる。そこには、本来、単純な被害者・弱者と語るだけでは足りない複雑な第三者である「誰か」がいて、その「誰か」について語られるべきことを語れなくする構造が生まれます。その結果、全員「思考停止」になってしまうわけですね。思考停止になった結果、現場不在の議論が、あたかも現場を代弁する正しい議論であるかのように流通してしまう。これは、さまざまな被災地に起こっている問題、差別問題やケアの問題などの根底にたたずむ大きな問題です。



自ら語ることで女の子は「AV女優」に変わる 彼女たちはなぜ、AVの世界を選んだのか【社会学者・鈴木涼美×社会学者・開沼博】|対談 漂白される社会|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/60436


漂白される社会 -
漂白される社会 -










モノラルセカイ - スガシカオ - 歌詞・動画 : 歌ネット
http://www.uta-net.com/movie/172242/

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2014年10月10日

はっぴーたんぶらいふを ( ´∀`)b










書き忘れたけどtumblousのtuneは右上の四角をタップしたら解ける。

iPhoneからだとほかにTumblertailなんかもおぬぬめ(一覧性がある)。あるいはtextだけに特化したいならtmbrtextとか。


自分のたんぶらの使い方は現状だと「エレベーターとか信号待ち、あるいは歯磨きなどの拘束-暇時間にりぶろぐする」をメインとしてるのでdsbdをふつーに開いてそのときフォローしてる人たちが流してきたなかでおもろいものをリブログし、あとでPCからmegaeditorやらtumblerviewerやらで見てニマニマしたり、LINEのスタンプのごとくいたづら代わりに使ったりするような感じなんだけどそういうのは主に消費-テレビ・雑誌視聴のような遊び方で、自分発のコンテンツぐらいかな、「自分」てかんじなのは(つても引用だけど。。


以前にもかいたけど、こういうたんぶらの引用というのはめんどくさくかんがえるとカメラで現実を切り取るのと似てるのかなと思う。逆にたんぶら的な感覚にずっぽりしてくると「ああ、いまのこの現実、りぶろぐできねえかな( ^ω^)」とおもってきたり(cf.テトリスにハマると街のビルがテトリスブロックに見えるように。。


まあ、そのへんはいいんだけど、こもこさんに紹介ついでに私的な「お気に入り」にしてるひと(ちゃんねる)リストを以下に。


あくまで「自分的な観測範囲でのもの」程度の








































































ざらっとlikeの目についた範囲でご紹介しただけで、だんだんしんどくなってきたのでやめたぐらいにまだあるんだけど、とりあえず普段よくtuneしてるちゃんねるということで。




▽かわいい+きれい系女子+サブカル

神楽坂 UNDERGROUND AND RESISTANCE
を中心に、それと似たような感じの「おにゃのこ」+「サブカル」な構成で

baltan.AVとかgkojaxとか。九龍hajime.jppedalfarchoccotoyoumeiwonderthinkanswer…。

このへんはまあ腐るほどあるので上を中心に芋づるで増やしてたら勝手に増えると思う。

んで上のなかでもさらに女子に特化、しつつ自分好みしたように思うのがko-no-koとか、aurorae、deadgirlとか(※最後はこんかいリンク忘れたけどまあやってたら芋づるされるとおもふ。神楽坂のひととかのりぶろぐ先にも多いし


あとは外国人女性-モデルさんを中心とした写真とかあるけど。。なんか逐一リンク貼るのも疲れ出したし上記でリンクしつつ軽く説明入れてるので興味があったらそれで。(つかたぶんこもこさんそんなにこのへんは興味ないだろし(んでもストームトルーパーファッションとか、exercicedestyle、スチームパンクとかはけっこういいかな。ビザールなのは自分の趣味だけど。パペットとかも


ふつーにたんぶらのおもしろ+かわいい・セクシー女史ぐらいだとイエローさんとことかいいかもしれない。このへんも似た感じ(つかこっちは神楽坂のひとに似てるのか






▽ほのぼのかわいい系

holespolesを筆頭に、tomato-s
bprchomieepretyhorsesmarr-tbcampiss

などなど


この辺わりともっこもこかもしれない





(※つかれてきたので埋め込みリンクじゃなくて野ざらしリンクにしよう。。カットアンドペーストするなら最初からこうすればよかった。。)




▽イラスト


http://fuckyeahpixivranking.tumblr.com

pixiv絵をチェックするのに便利


http://pixiv-artists.tumblr.com

pixivアート


http://snnns.tumblr.com

pixivで有名なたえさんのイラスト




▽今日の話題


http://kyo-no.tumblr.com

今日のたんぶらの人気の


http://classics.tumblr.com
http://classics2.tumblr.com

過去の鉄板、的な?






▽アート


http://fleurdulys.tumblr.com

http://darksilenceinsuburbia.tumblr.com

現代アートぽいの



http://rokuroku.tumblr.com

アート系とサブカル、ほのぼのかわいい系







だいたいこんなかんじ。


ほんとはアート系をもっと増やしたいんだけど、いまいちなのが多くて。。古典だと印象派とかルネサンスとか中心になって自分的には合わないので(サブカルじゃない本気現代アートとか見たいんだけど。あるいはそれに準ずるような「有名ではないけどdivinArtとかで人気になった」とかな。


まあそういうのは仕方ないというか、、地味に芋づるで増やしてく感じだろうか。



現状ではちょっとした拘束-隙間時間に使うのがふつーになってるってのもあるし、そういうときにいちいちアートアートでは疲れるしの(「かわいい」「きれい」な女子の外装はそれだけでアートだし


「女子の外装はそれだけでアート」てか花に似てるのか。。まあ花を摘む-クリップして並べてるってところもあるのかもしれない。



たんぶらーは特に検索性が弱いので、そういうのを蒐集しても流れていくってのはあるけど、ふと見返した時に「ああ、この頃はこんな花-色味だったのだなあ」とか感じるのだろうか








とかグダグダ自分語り思考に入ってしまったけど、ともあれハッピーたんぶらいふを( ´∀`)b




--
関連:
トること / トられること  「承認欲求」以前のお話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384572249.html


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2014年10月03日

Parlez-moi d'amour




なんとなく積ん読の消化にもネットの話題にも、たんぶらーでリブログするのにも飽きてしまってボーっとする。

「なにかおいしいものを食べたり飲んだりしよう」とおもっても酒はいまはもう面倒だし、なんとなく甘じょっぱいものが飲みたい気もするけど冷蔵庫にガラナぐらいしかなかった。炭酸飲料はいまそれほど欲しくない。かといって買いに行くのも億劫。


ライチ紅茶を煎じるにもためらわれる。今日は日中暑かったので。


けっきょく買ってきたりんごを剥いて食べてみた。ひさびさに食べると美味いものだな。ふつーのりんごも。


そしてけっきょく凍頂烏龍茶を淹れる。



凍頂烏龍茶がちょうどよいぐらいに冷めるまでのあいだ、日記でも書いてみよう。


たぶん、自分が欲していたのは他人のドラマを読むことではなく自分を再構成することだったから。

自慰と似てる、けどそこまでのことをしたいわけでもなく…。性欲はやはりアルコール欲に似てる。そして茶や果物はその中間。




とくに理由もなくふといやになって連絡もなしに消えていく権利をあなたに付与しよう - 傘をひらいて、空を
http://d.hatena.ne.jp/kasawo/20140930/p1



朝に読んだこれがおもったより心に刺さった。


彼や彼女たちとの関係を思って。




彼女たちもそういった関係を前提にしていたのだろうか。




とくに断りもなく、とくに理由もなく、ふと、いやになって、連絡もなしに、消えていく。





「いやになって」てほどでもなく単にブランクが空いてるだけで、そのブランクが思ったよりカサブタのようになってるから連絡を取る機会がないってだけなのかもしれないけど。



そういえば彼女とのわりと気楽な連絡経路だったLINEも8月に乗っ取られて消えてしまった。

ちょうど留置場から出て、なんとなくダメ元で彼女に連絡してみようと思ってた矢先に。



まあそれでもメールだの何だので彼女たちに連絡しようと思えばできるんだけど。



なんとなくそういう気も生じない。




炭水化物をいま欲してないように。


いま欲していたのは果物だったように。







たぶん、時機がくればそういうのは自然に拓けるのだろう。



連絡を取る方向、にだけではなく、もう一生連絡を取らない方向になのかもしれないけれど。



それも、そのときになってみなければわからない。








そんな気分を抱えつつなんとなくこれを読む。



愛がなくても喰ってゆけます。 -
愛がなくても喰ってゆけます。 -



表題は「結婚とかしなくても目の前のものが美味しいってだけでたのしく暮らせていけます(気の合う相手とは同居したりしなかったりぐらいで)」ということだろう。


全体は「きのう何食べた?」と同じくおいしいものの口福を描いたもの。

「きのう何食べた?」では同性愛男性カップルの日常生活という関係性が添えられていたけれど、こちらはヘテロ同棲結婚未満て感じ。それをなにセクシャルというのか知らないけれど。まあ両方きぞんの関係性に縛られず「自由」を前提にしてる。

そして、そこでは別れる自由も前提に。






ぢくぢくと内面をいぢるようなことをすれば、別れということについてセンチメンタルに沈んでいくこともできるし、そういった日記を過去に書いてきたように思うけど、「とりあえず目の前の口福というノリに身体を委ねよう」というメッセージに乗っかってみる。リンゴ美味い。



このアルバムの7曲目がなんとなくいまの気分に合ったのだけれどyoutubeにはなかった。


パッサカイユ - 中島ノブユキ
パッサカイユ - 中島ノブユキ


というか、このアルバムと曲にはいろんな場面で助けられてきた気もする。



「まあ仕方ないかなあ」「こんなもんだよなあ」「ああ、なるほどなあ」って。



それが自分の恋愛感情との距離感なのかもしれない。







「ほら…烏龍茶がさめてしまったじゃないか」
















Parlez-moi d’amour,
愛について話して
  
Redites-moi des choses tendres.
私に繰り返して やさしいあのことを
  
Votre beau discours,
あなたの美しい話し方で
  
Mon coeur n’est pas las de l’entendre.
私の心は、それを聞いて疲れることはない
  
Pourvu que toujours
いつだって(いつ聞いていても)

Vous répétiez ces mots suprêmes:
あなたはこの最高の言葉を繰り返した

Je vous aime.
「愛してる」
Vous savez bien
あなたは良く知っている
  
Que dans le fond je n’en crois rien
私はそれを信じないということを
  
Mais cependant je veux encore
でも、それでも私はまだ
  
Écouter ce mot que j’adore.
その大好きな言葉を聞きたい

Votre voix aux sons caressants
愛情のこもった響きのするあなたの声
  
Qui le murmure en frémissant
震える、つぶやき
  
Me berce de sa belle histoire
その美しい物語で惑わせて
  
Et malgré moi je veux y croire.
たとえ私でも、それを信じられるように


PARLEZ-MOI D'AMOUR 聞かせてよ愛の言葉を 直訳
http://maash.jp/archives/2090











--

『きのう何食べた?』の感想みたいな - wHite_caKe
http://d.hatena.ne.jp/white_cake/20140620/1403264866

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2014年09月14日

スコットランド独立と「天使の分け前」


“Sometimes life is sad. You can cry in your booze, if you want. I think that’s called a Whiskey Sour.”

― Jarod Kintz


“The light music of whisky falling into glasses made an agreeable interlude.”

― James Joyce


“Too much of anything is bad, but too much good whiskey is barely enough.”

― Mark Twain


“Some of us look for the Way in opium and some in God, some of us in whiskey and some in love. It is all the same Way and it leads nowhither.”

― W. Somerset Maugham


“There is no bad whiskey. There are only some whiskeys that aren't as good as others.”

― Raymond Chandler


“Whiskey, like a beautiful woman, demands appreciation. You gaze first, then it's time to drink.”

― Haruki Murakami










ついったなんかを見てるとリベラル()なひとが「スコットランド独立は国民国家に対する独立でー民主主義がー民族自決でーグローバル市場主義な新自由主義に対する地域の独立がー」みたいなこといってるみたいでシノドスでそれに対するカウンターあげてたので「(´・ω`・)世間的にもそんな見方なのかな?」ってのもあってエントリにしよかなとおもったんだけど、NHK(ニュースなんかみてるとシノドスぐらいのことは短くまとめて言ってたので急速にヤル気を失いつつ。。(エントリしようと思って時間経ったのもあるけど)「まあ主に見た映画の感想ほかだからいいかあ」ぐらいで。


スコットランドで何が起こっているのか――民族とアイデンティティを超えた独立運動 / 久保山尚 / スコットランド史 | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/10615

まとめると「エスニシティメインではなく経済 → 福祉メインの話」ということ。

財政のとこで「スコットランドはイギリスから独立しても十分やっていける(イギリス全体の中でスコットランドが払ってる率の高さよ」+北海油田があるじゃないか、て感じみたいだけど。筆者の人も言ってるようにどんぶり勘定なんだろなこの辺。


印象としては日本に例えた場合、茨城国とか福島国、あるいは豊田国が日本独立するぞーみたいな話。なので「国民国家から民族自決のナショナリズムでー」つか県や市町村レベルの行政-自治な話でtuneしたほうが良いように思う。自分的にはこの辺とか

まあ茨城とか福島とかも昔は国だったと考えればナショナリズムとかnatioとかはあるだろし、「国がきちんと予算くれんのんだったらわしらだけでやってけんか考えちゃるんじゃけんの」ってのは有意義ではあるだろうけど。

ヒロシマ独立論 -
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その場合、独立した後の地域の経済(税収と経営など)・通貨などのもろもろの仕組みをどうするか?ってのが現実的に考えるところになり地域通貨がどうとか、「けっきょく明治維新つても江戸の枠組みをコピーしただけだったじゃないか」みたいな話が想起される。


そういうわけで今回のこれも国に対して「もっと予算くれやー」なプレッシャーをかけた+自分たちで独立して運営していく場合の必要な物を考えそこから「国」を借りてることの有効性を逆に考えられた、という意味で有意義だった、ぐらいに落ち着くのかなあという印象。

「んでもちょっと禍根残すかも。。」って見方もあるみたいだけど


スコットランド住民投票の意外な意味 | コリン・ジョイス | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
http://www.newsweekjapan.jp/joyce/2014/09/post-83.php


曰く、「スコットランドは独立しないにしてもスコットランドへの権限移譲は進む。リヴァプールやマンチェスターもコレに続くかもしれない。スコットランド内部の問題は事実上独立したも同然の権限をもつようになるだろう。一方、スコットランド議員はイギリス議会に席を置き、イギリスの問題にも口出しできるようになるのだ」



あとは今回の件と関連したことで連想したことをつらつらと



スコットランド住民投票が煽るカタルーニャ独立 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News
http://www.afpbb.com/articles/-/3025592

スコットランドの歴史 - Wikipedia
http://bit.ly/Zipmgy

バスク国 (歴史的な領域) - Wikipedia
http://bit.ly/ZipqNj

カタルーニャ州 - Wikipedia
http://bit.ly/Ziprku

カレドニア讃歌:スコットランド独立と欧州の政治:JBpress(日本ビジネスプレス)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40037




カナダのケベックなんかも今回の件を受けて独立な刺激がちょっとあるみたいだけど、とりあえずスコットランド←イングランドとの関係でカタルーニャが刺激受けたというのはわりと近くではフランコ政権統治下で無理やり統合されたスペインの歴史を想わせる。すなわち「みつばちのささやき」でありナイチンゲールの活躍とか。


ミツバチのささやき [DVD] -
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「ミツバチのささやき的な見方もサヨク的びみょーさがある」てのはあるのだろうけどとりあえずそこは置いておいて、「地域のアイデンティティは別にしてもっとつよい政治勢力によって無理やり統合されていった不満」というのはスペイン一帯、あるいは、スコットランドを含めたブリテン島一帯にもあるみたい。まあ端的にはもともとケルト-ガリアな血筋な地域をローマや神聖ローマ、あるいはフランス・イングランドなどが統合していった(ケーキを分けて行った)ってあれだけど。

ガリア戦記とかヴィンランド・サガを思い浮かべればおーざっぱにケルトほかの原住民が被侵略 → だんだんと追いやられていったというのはわかるし、「双頭の鷲」読んでるとスペインが未だナバラ王国とかカスティーリャとかアラゴンとかで分かれてた頃、フランスvs.イングランドっていう従兄弟争いみたいなところで分けられるケーキの一部(あるいはちょっとした飛び道具的なもの)としてこの辺りがとらえられていたのがわかる。ブルターニュや南フランスなんかもそうだけど。

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双頭の鷲〈下〉 (新潮文庫) -
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ついでにいうと佐藤賢一によるとダルタニアンなんかもバスク←ガスコーニュ出身の鷲鼻-九州男児みたいな感じだったみたい。

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二人のガスコン〈中〉 (講談社文庫) -
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んで国民国家的な統合な時期を前にイングランド→スコットランドではスコットランド側に不満な統合があった、と(名誉革命)。

権利章典うんたらも兼ねてこのへんはまだちゃんと掘ってないのでなんだけどちょっと意外な印象だった。イングランド側からみてれば権利章典なあれはカントリージェントルマンによる独裁君主への対抗ということで地方自立な文脈に属するように思っていたので。その陰で別の地方が潰されていた、のかなあ。。


カスティーリャなんかもざらっとWikipediaみると似たようなことはあったようで、まあけっきょくは経済的独立ができるかできないかというところで、そういうのができたときには独立機運が高まるんだけどそれらがもっと上位の政治権力によって潰されていった。潰される、っていうか経済的ハブ-ポートとして発展する近代国家の中であらたな役割と誇りを担わされていった。

産業革命期のリヴァプールの役割なんかもそんな感じだったようだし。。そしてそういった地域の労働者向けのパンとしてサッカーが興隆し、そこに「われらの失われたエスニシティの誇りを」が載せられていった、のかな(バルセロナ、バイエルン・ミュンヘンなんかもそんな感じだろし)


なのでそういう地域の誇り-エスニシティというのはそれ単体ではなく労働者の誇り/腐れ労働に対する嫌厭→鬱憤 + 酒 + 享楽 + 「われわれ」のよすが、みたいないろんな感情やアイデンティティが混ざっているのではないかと想う。

日本とヨーロッパのクラブチーム(サポーターの熱)の違いを考えるときの材料としてそういうものも使えるかなああとちょっと思うけど、それるのでそこは保留にしておこう。




スコットランドの場合、そういった歴史に醸された一杯としてウイスキーがあるのかもしれない。

単純に「うまい」ものでもなくむしろ最初は「なんだこれっ( ゚д゚)、ペッ」て吐いてしまうような、でも、だんだんと慣れてその不味さの中の様々な風味を味わうことが癖になっていくような(人生がそうであるように)。


天使の分け前 [DVD] -
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(いつもどおりネタバレ含むが)お話アウトラインとしてはイギリス地方の若者としてありがちな三代前ぐらいから下層労働階級で就職もままならないような文化資本・社会資本からも断絶してる若者が酔ったいきおいで傷害事件で捕まり、執行猶予的代償みたいなかんじで社会奉仕活動に参加した折にウイスキーをはじめて知り、自らのどん底から脱するべく仲間と「天使の分け前」を計画する。

「天使の分け前」というのはウイスキーの蒸留過程で蒸発していくアルコール分。「どうしても無くなって行く酒分 → これは天使への分け前だ」ということ。

主人公には子供が出来て、でもゴロツキからストーキングされてる+金も職もないので遠くにも行けない。そこでオークションに出されるウイスキーが法外な金になるということを知る。「しかもこれはけっこうチョロく盗めそう・さばけそう」ということで起死回生の賭けに出る。


といっても盗みにメインを置いた作品でもないのでそのへんの実行の様子はロードムービー的なゆるさで描かれていた。自分的には少し前に見た「スターウォーズマニアたちが癌になった友人と最後のスターウォーズ巡礼(ヲタグッズの盗み旅)に行く」っていうロードムービーを思い浮かべた。



「盗みをメインとする作品でもない」ということで自分的には最後に主人公は酒を返上するのではないかと思っていたけど、そのへんはわりと予定調和的に終わっていた。特に「ミッション・インポッシブルv( ̄Д ̄)v イエイ大成功」て感じでもなかったけど。



主人公が主人公なりの「天使の分け前」にありついたことについて、スコットランド独立なニュース的にはなにか隠喩的な予感のようなものが含まれた映画だったのかなあとも妄想された。


「スコットランドはけっきょく独立しなかった。しかし今回の独立騒ぎを通じて彼らにも『天使の分け前』が供された(彼らに供された分前とはなんだったか?)」



たまたま自分が見た時機とリンクしただけだろうけど。




あとはムショぐらし・底辺の生活からの脱出、なところが現状の自分とリンクして思ったより感情移入・印象に残った映画となった。


ケン・ローチの作品はこういったイギリスの底辺若者の現状、あるいはふつーの人の現状を扱ったもののようで、ダルデンヌ兄弟ともどもぼけーっと掘っていきたい。


ケン・ローチ - Wikipedia
http://bit.ly/rQCoPW



あと、秋用にちょっとしたスコッチほしいな

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2014年09月06日

「聲の形」

聲の形(1) (講談社コミックス) -
聲の形(1) (講談社コミックス) -
聲の形(2) (講談社コミックス) -
聲の形(2) (講談社コミックス) -
聲の形(3) (講談社コミックス) -

聲の形(3) (講談社コミックス) -
聲の形(4) -
聲の形(4) -

読んでちょっと心に残ったので簡単にとどめておきたい。


アウトラインとしてはこのマンガへの興味のきっかけとなった他人様の説明を借りよう。

「差別」と「いじめ」が重なるマンガだった - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130220/1361383183

少年誌のマンガでこの文学性 - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20140118/1390065423

お父さんの[そらまめ式]自閉症療育: 障害者いじめの一つの「形」ー「聲の形」から(番外編)
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/390409491.html

【ネタバレあり】障害者を“記号化”する健常者の「レイプ・ファンタジー」〜大今良時『聲の形』 - 百錬ノ鐵 hyaku ren no tetsu
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20130224/p1

















ついったでもちょっとつぶやいたとおりこの作品のテーマというか真骨頂のようなものは「障害者だからといって特別扱いすることは却って差別していることになるのでは?」「きちんと向き合ってコミュニケーションするというのはどういうことか?」ということなのだとおもう。

そこからこのテーマをさらに深めて「きちんと向かい合う(お互いの声を聞く)とは?」というのをコミュニケーション全般に広げ、「障害者へのいじめ」からいじめ一般、この年代、あるいは、社会全体の空々しいコミュニケーション全般を考えるようにしてる。



作品の醍醐味はおためごかしではない本音のコミュニケーションというところにあるので、この先登場人物たちは何度かの事件、修羅場を通しての本気のぶつかり合いで心をひらいていくのだろう。


自分的に気になったのは主人公がかわいすぎる-ちょっと理想化があるのか?というところだったけど、その辺はこのへんでも懸念され

 たぶん「障害児」関係者が読むと、より厳しい現実もたくさん知っているだけに、いろいろと言いたいことは出てくるだろう。西宮が終盤までいかにも「健気な良い子」として描かれているのも気にかかる(「こんなにいい子なのに」いじめるのはひどい、という感想を招きかねないので。「障害者」へのいじめや差別を批判するとき、マジョリティにとって受け入れられやすい障害者像を描くことには危うさが伴う)。

「差別」と「いじめ」が重なるマンガだった - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130220/1361383183

このへんでは少し拡大解釈されてるように思った。

また主人公は健常者の身でありながら手話を覚えた努力をひけらかすが、その努力は障害者の側とて、それも当然のものとして経験している。その程度のことをもって健常者が障害者と同じ目線に立ったつもりでいるなら、そうした思い上がりこそが“特権”である。主人公にとってはただの自己満足にすぎないが、聾唖者にとっては補聴器やノートと同様に、生きていく上で不可欠の技能だから習得せざるをえないのである。

『聲の形』において障害者の存在は、ただひたすら健常者に迷惑をかけ、健常者が必要としない努力を課され、その上でなおもそうした「原罪」を責め立てられることによって、はじめて健常者に“受け入れてもらう”ことを許される。

何かによく似た図式だと思ったら、レイプ被害者の女性が加害者の男性に転移し、あげくのはてに結婚までしてしまうというポルノの「レイプ・ファンタジー」そのままだ。少女が抵抗しなかったことを理由にイジメを正当化する主人公の姿は、被害者が抵抗しなかったことを理由に「和姦」を主張するレイプ犯と何も変わらない。

そんな主人公の言葉に反して、仮に少女が主人公に憎しみの言葉をぶつけ、そして最後に主人公との和解を拒絶するという選択を取ったなら、この作品は成立しない。物語を健常者の読者にとって気持ちの良いオチで締め括るためには、そのじつ障害者に健常者を憎むことはいっさい許されないのである。

【ネタバレあり】障害者を“記号化”する健常者の「レイプ・ファンタジー」〜大今良時『聲の形』 - 百錬ノ鐵 hyaku ren no tetsu
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20130224/p1



とまれ、ほかの社会問題でもそうだけど、この辺りで大切なのは単なる上からの押し付けとしての「正しいこと」 → 結果として問題を異化/聖化して隔離することではなく、良きにせよ悪きにせよ当人たちが本音でぶつかりあって相互理解を深めていき、結果的に意識を改革していくことなのだろう。

「罰則があるので表面上は『正しい』振る舞いをしつつも心のなかではどう思ってるかわからない」って面従腹背ではなく。

「差別」はカテゴライズが伴われる点に特徴があるので、一般的な「いじめ」とは区別されやすいが、全体主義的な圧力に屈しないことに対する報復という意味では同じ構造をもつ場面がある。だから「障害児」を包摂できる環境を作るために必要なのは「特別支援教育」という配慮や工夫ではなく「教育そのもの」の変容でなければならないのだ。言い換えれば「いじめを無くす努力」は「インクルーシブな教育」とも深く結びつくものである。当然と言えば当然だが「障害児にとってやさしい学校」だけを目標にしても成功しない。

「差別」と「いじめ」が重なるマンガだった - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130220/1361383183

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2014年08月16日

「本当の思い(自分)は軽々に語らない」 → 「プライド-自我-壁」 → 「あたらしい壁以前のぼくを探しに」


関連:
色彩を持たない多崎つくると、孤独について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/403756028.html

没原稿 橋本治『恋愛論』|finalvent|note
https://note.mu/finalvent/n/n1d0522f7b2e1




















世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド -
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド -

羊をめぐる冒険 -
羊をめぐる冒険 -
恋愛論 (ソフトバンク文庫) -
恋愛論 (ソフトバンク文庫) -
新装 ぼくを探しに -
新装 ぼくを探しに -
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2014年08月15日

色彩を持たない多崎つくると、孤独について


わたしからすべてが離れていったのは、たぶん、お前だけを愛させるためなのだ。

                     J.L.ボルヘス





房に入る前に読んで、なんとなく心がザワついたというか琴線に触れたとかなんとかなって日記したかったのでいまさら


色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 -
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 -


帯の著者インタビューにもあったけどこの小説自体はもともとそれほど大したものに仕上げるつもりでもなく「世間的には凡庸で平均的な男がいる」というモティーフがまずあり、その絵をふくらませていったものだったのだろう。

その男が自殺を考えていて、その理由を肉付けしていった。


なので元々は短編として仕上げられるべくものであり、短編で仕上がっていたとしたら1章と最後の章ぐらいで仕上がっていたかもしれない。あとはわずかな肉付け。

現在の村上春樹の筆力を試すための習作的な性格があったのでは?


帯に「良いニュースと悪いニュースがある。」の部分が抜き出されていることからも編集サイドからもこれは「世間的には凡庸な男が凡庸さを受け入れていく物語」として売り出すことが了解されていて、世間的にはそのように受け止められたのだろう。あのセリフは作品中の自己啓発セミナーで最初に受講者の心をつかむために使われるもので、要約すれば「良いニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」「しかしけっきょくは同様の結果なのだ」(≠「人生は配られたカードで勝負するしかないのさ」)ということなので。



そのように思うわけだけどここで表されていたテーマ、「孤独と死、そこからの再生」というのはぢんわりと響いた。


30代なかばにして「なにもない」「大人になってしまった的に変わっていく」というのは村上春樹のモティーフとしていままでもあって、それをテンプレ的に貼り付けた、とも言える。


テーマとして短縮し書き出してみると村上作品としては月並みな話なのだけど、自分が思いの外「ぢんわり」きたのはなぜなのか考える。

テーマとか論理、理屈的な繋がりというよりは全体の場面情況を通じた説得力のようなものを感じられたから、だろうか。


「同様のテーマを扱っていても別の情況でその設定を進行させ、登場人物なりの納得を得る際に得られる説得力」というのは作品ごとに異なるものだろうし。




30代なかばにして「なにもない」「大人になってしまった的に変わっていく」≠「大切な人との別れがある」というのは「プールサイド」や「国境の南、太陽の西」を想わせた。


国境の南、太陽の西 (講談社文庫) -
国境の南、太陽の西 (講談社文庫) -

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) -
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) -



「プールサイド」では「33歳にして24歳の女が求めるものを過不足なくきちんと与えることができるようになっていた」ということ。

「国境の南、太陽の西」では30代半ばにして社会的に成功し、順風満帆な中で運命の女性があらわれて、不倫を通じて妻との別れを経験する。

というか、女の失踪を通じて「どんなに親密になっても分かり合えない心の奥深くにあるもの」「他人はもとより自分でも制御できないもの」が描かれる。

そして「ぼく」はねじまき鳥を巡って旅に出るのだけれど、最後まで女のその部分の謎は解かれない。


「女の中には自分でも制御できないものがあってどんなに親密になってもそこは制御できないし分かり合えない」という色は「多崎つくる」というキャンバスにも少し付加されていた。


そしてその謎は解かれずに保留のまま。


抽象画においてなんだかわからない色の配置があるように。そしてそれが全体を印象させるものになるように。



村上作品においてこのテーマというのはずっと続き、多角的な情況設定を通じて作者自体が納得していくために綴られるものなのかもしれない。


「ノルウェイの森」もそういうものだったかなあとおもって今回レンタルしてきた。


ノルウェイの森 [DVD] -
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しかし自分はそういった経験やテーマにそれほど関心がない(ひと通りの恋人との別れみたいなのはあるけどそれほど傷になってない)ので、その部分よりは「孤独」→「自殺」、「10代の心身が変化する時季にそれを真剣に考えて結果としてやせ細った」というところに関心を持った。

自分も似た経験はあるので。自分の場合は親友たちから去られた疎外感ではなく単に軽いいじめにあったからだけど。


多崎つくるがそうであったように自分もあのとき変わった。


人との距離やつきあいかた、社会の見方。



そういった痛みの経験もなく生きていれば、凡庸だけど明るく人懐こい「ふつーのひと」だったのかもしれない。(いまも田舎的「人懐こさ」みたいなのはあるけど)





疎外と自殺とそこからの再生について



けっきょく多崎つくるはどうやって孤独→自殺の危機から逃れられたのか?


「自分を変化させた」ということでたぶんここで自分と似たような心理過程があったのだろう。オオカミになる、まではいかないんだけど、基本的な人との付き合いは職務上必要最低限に留め、親密な付き合いにはいる人を厳選し、その付き合いの中で裏切られることを最初から想定し「まあそんなもんだよな」的なドライな諦観に生きる。

自分の場合はその後の人との関わりを通じて標準モードでは人懐こさ回復したけど、多崎つくるの場合はずーっと氷男で、あるときひさびさに踏み込んで付き合おうとした女性から「あなたには最後のところで人と合わせられない距離がある。どんなに親密になっても。それはたぶんあなたの学生時代の別れが未解決のままトラウマとして残っているせいかもしれない」と指摘される。

「その部分が解決するまで、わたしはこれ以上あなたとは深い付き合いは出来ないわ」


そう言われて多崎つくるの巡礼の旅がはじまる。



結果的にその部分について彼が解決したかどうか、人との付き合いにもっと積極的になれたか、ということについてはぼんやりと保留したまま物語は終わる。

そうはいっても最後のほうで積極的なコミットは見られた。現実を考えてもこの部分はそんなに劇的に変わるものでもないので「こんなものだろうな」という感じではあったけど。



色彩のコミュニティから閉めだされた理由を求めて、何年かぶりに仲間を訪ね歩くことを通じその根本的な原因としてシロが「つくるがわたしをレイプした」といったから、までは突き止めたが「では、なぜ彼女はそんなことを言ったのか?」は謎のままに終わったけど。






疎外と自殺、あるいは他殺について直近でこんなのを見た。


「秋葉原事件」加藤智大被告が「黒子のバスケ」脅迫事件に見解表明!(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140814-00038250/


要約すると「われわれにはわれわれ特有の事情があったとはいえ疎外 → 孤独がありそれを埋めるべく犯罪に至ったのです」「それは逃げではなくわれわれなりに社会との接点をもとうとする方法だったのです」ということになるか。

しかしそれが他殺や他人(社会)に迷惑をかける形で発露しなくていいじゃんとふつー考えるので独特な論理展開であり詭弁的にも思えるけど。

「疎外 → 孤独 → 自殺か他殺か」の心理過程を素直に受け取ると(´・ω・`)する。



事件の当初も思ったけど、こういう犯罪を見ると永山則夫的な「貧困、社会構造が悪い」「罪人はその犠牲者的側面がある」というアファーマティブ・アクションみたいな見方をとってしまいがちになり、意識してその回路を反省 → 閉じるようにする。


件の二人も(供述をそのまま信じる場合)当該環境の犠牲者的なところがあり「われわれはもっとなにかしてやれなかったのか?」「加藤智大はどこのネットコミュニティもいる。第二第三の加藤があらわれないように、われわれが社会的に包摂しよう」みたいなのが見られた。


「環境のせいとはいってもそんなこといってたらずーっと育ちの不幸を言い訳にするようになりキリがない」みたいなところはあって、その議論にtuneしたくないのでここで留めるけれど。


「寂しくてカオナシ暴走したんだったらもうちょっと周りがなんとかしてあげられたらよかったのにね。あるいは金はすぐには無理にしてもちょっとした出会いがあったり。恋人とか、あるいはそこまでいかなくても人肌とかあったら違ったのかもしれない」みたいなことを思うんだけど、それとは別に「孤独を受け容れろ」という人達もいる。


それは「配られたカードで勝負するしかないのさ」と同じような意味で「クレクレ/足りない足りないと外部に求めてもキリがないところがあるから現状の足りなさ(miss)をとりあえず是しとしよう。寂しさはあるにしても」ということか、とは思う。


でも、孤独にもいろんなレベルがあって、ふつーの生活のなかで湧いてくる孤独(村上春樹的な孤独/人生の意味の希薄さ)であれば「孤独を受け入れろ」ともいえるだろうけど、いわゆる「ふつー」のレベルを超えて押し寄せてくる孤独-死にたみがある情況ではまた話が違ってくるように思う。


たとえば留置場-刑務所の中とか
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/403665731.html?1408056351

(※はてブあつまってきて「単にマウンティングして目立ちたいだけの連中がちゃんと読まずにガタガタいってるのうぜえ」 + 「それで目立って裁判に影響すると嫌」なので当該エントリは現在非公開中(特にやましいこと書いてないと思うけど『もしも』のこともあり、関係者もいて迷惑かかるといけないってのもあるし。ついでにいっとけば当該エントリをした理由は「刑務所の中」よろしく留置場の中や裁判までの過程、事情(逮捕されるとこんなに大変)について客観的事実を知識共有しとくのも良いかなと思ったから(特にTLで仲良い人たち宛で)。あとは最低最悪な情況でも学びがあるところを示せたかなと思ったけどはてブの読み飛ばし-自分のいいたいことだけ言う-マウンティング連中には通じなかった。。「何をしたか」とか書かなかったのも特定されると面倒そうだったから。釈放が早かったところからその辺は推察できるかと思ったんだけど、脳の容量足らない人たちはそこまで頭がまわらないのだった。書き方もあったかもだがクスリとかな事件ではないし、クスリだったらこんなにはやく釈放されてねーよ。あと、厨が魚拓とったーとか言ってきたけど阿呆なのか。。サービス側に頼んで消してもらうけど
https://twitter.com/m_um_u/status/500110442077749250
http://twitter.com/96neko/status/500107225147248640




なので「ふつー」の環境であれば「孤独や寂しさを受け入れろ」「それを散らすために安易にセックスして結果的に相手も自分も不幸にするな」とかも分かるんだけど、それも情況に依る、ということ。


環境型権力ってわけでもないんだけど実際にぢわぢわと生活に関わるところで幸福が実現されてないのって精神に来る。。


そのとき、人肌で死にたみを回避できるならそれでいいんじゃないかと自分としては思う。


まあ人肌以外にもいろいろあるだろうけど。留置場なんかだと甘味やおいしいものがなにより重要ってのは「刑務所の中」のとおりだったし。あと清潔・まともな睡眠ほかの基本的な環境。





つか、この辺りの話でこういった例外状態を例として持ってくることは飛び道具的ひきょーさ、というかイレギュラーみたいなところはあるか。


ふつーに生きていたら「孤独の受け容れ」の問題というのは生の意味、自分(人生)の了解的なものだろうから、自分も「孤独を受け入れろ(ワビサビとして」派だし。




このへんもそれぞれの作品同様、それぞれの人生-ストーリーを通じた了解のようなものがあるのだろう。論理や理屈以前に音や味、色やあたたかさで納得するようなそれが。ある場面で自分に「そういうことだったんだ」(これでいいのだ)と語りかけてくれるのかもしれない。



その聲を聞き逃さないように保っていたいと思う。

posted by m_um_u at 08:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年07月17日

長い付き合い


ひさびさに今日はこの時間でもわりとよゆーがある+L.C.Lが思い出されたのでヌルいアロマ塩湯を用意して暗闇の中で浸かりつつ、さっきネットで見た記事のことを想っていた。

http://twitter.com/m_um_u/status/489747058346045442

http://twitter.com/m_um_u/status/489747239951032322


鈴木涼美 身体を売ったらサヨウナラ<お乳は生きるための筋肉です〜夜のおねえさんの超恋愛論〜> - 幻冬舎plus
http://www.gentosha.jp/articles/-/2332

鈴木涼美 モテないオトコは麦を食え<お乳は生きるための筋肉です〜夜のおねえさんの超恋愛論〜> - 幻冬舎plus
http://www.gentosha.jp/articles/-/2296


書き手のひとはSFC出身でサブカル文化系わりと姉御男肌なひとぽく「おまえは恋愛対象に見てなかったわぁ」「○○さんてもとっくにそんなの体験してると思った」「へえ。。意外と女ぽい所あるんだ?」みたいなこと言われそうな浅野いにお「ソラニン」に出てくる女子キャラのようなのを思い描いていたのでここで書かれていたのもそういう女性の中に少なからずいる姉御-男肌→男気みたいな話かなあとか思ったんだけど、そういうのとは別に女の女たるズルさみたいなのをおもったり。あるいは、恋人がAVとか風俗とかしてるってことだとショックで吐いてしまう男のあり方に男のほうのズルさのようなものを感じたり。

「AV出てるってわかったら吐きそうになった」とか「萎えた」「冷めた」「汚い女に思えた」みたいなのってけっきょくは目の前の個人と付き合ってるのではなくて社会の評判と付き合ってるってことなのかなあとか。そういうのはけっきょくホモソーシャルな共同体-世間体と付き合ってるってことで、そんなことあるんだったら「一部の女は男をステータスアクセサリーとして所有してる(付き合ってる)」とかいうのと同じだなあとか何とか。

そうは言ってもそういうのは社会倫理とか道徳的に何が正解ってわけでもなく個々人の生理的問題というか、肌感というか、「どうしてもダメ」みたいなところがあるんだから仕方ないところがあるのかなあとも思う。実際そう言うの経験したことないので、そういう状況になったら思ったより自分がショック受けてるのかもだけど。



あと、恋人的付き合いにおける将来と打算みたいなの。



「こいつはわたしを好きになる人、こいつはわたしが好きになる人」みたいなのって女性だけでもなく男性にもあって、それは「恋人としてはいいけど結婚としてはねえ」とか「長い付き合いとしてはねえ」みたいなところに絡むのかなあとか何とか。そんで、後者の場合、「価値観が合うから」「金銭感覚が」ほかのいろいろな理由が合理化されたりするけど、その主要なところにお金問題が来るのかなあとか。まあ「けっきょく金だろ」ていうか、ある程度の金・生活スタイルの共通なところを最低条件としてその他のオプションを見ていく、みたいなの。そんでその後にセックスだの性格だの価値観だのが続いていく。まあ金銭的に心配がない状況だったらそのへんのプライオリティは変わってくるだろうけど。

で、それらのプライオリティたる選択項目の合計値がなんとなく算定され、それをもとに比較され、打算とか計算とか生じるのかなあ。




そういうのをなんとなく考えつつ、自分がこの先また異性と付き合ったり結婚したりみたいなことがあるとして、そうなるとけっきょく長い付き合いになるのはこのへんを総合してズルくない人なのかなあとかおもったり。あるいはこういった部分での自分のずるさや貸し借りな部分にはすくなくとも気づき気づかえるぐらいの人、好意だけではなく厚意みたいなのもわかって実践できる人、、なのかなあ。

このへんの「ズルい女」「女はズルい」「ズルくしたのは自分のせいか?(自分も相手からみたらズルかったか?)」についての経験をいうと愚痴ぽく無駄に長くなるように思うので割愛するとして、「ズルくない」あるいは贈与交換的に「なにかをしてくれ」て、その上で「一緒にいて緊張しない」「疲れない」なひとなのかなあ。。長く付き合うとしたら。


あるいは、そんな条件に合致する人を望んでも偶然に期待するしかないので、てけとーに複数の人と付き合いつつそれぞれの項目をマンゾクさせてくとかなのかなあ。。



「でもそうなると老後が辛いぞ?」と50歳からのハローライフの小林薫が脳内するわけだけど、、






まあそれほど重要な事でもなく、ちょっと時間ができたので感傷自慰みたいなのをしてみたくなったのだった


とりあえず目先は稼がないとなあ(ギムレットには早すぎる)







--
関連:
最後まで残る人とそうじゃない人: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/400937653.html

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2014年07月06日

夏への扉


最近の厄落としみたいなのも兼ねて茅の輪くぐりにいった。
http://t.co/1vQTKR791M


それで後から前の日記に掛けて「蘇民将来て自分の場合は粗民将来て感じかなあ」とかおもったり


最後まで残る人とそうじゃない人: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/400937653.html


大祓 - Wikipedia
http://bit.ly/1omWNov

蘇民祭 - Wikipedia
http://bit.ly/1omXFcB


「北海より南方に旅をしていた武塔神が人間に化身し、貧しい蘇民将来(そみんしょうらい)と裕福な巨丹(こたん)という2人の兄弟に一夜の宿を求めたところ巨丹はこれを拒み、蘇民将来は快く旅人を泊め粟飯で貧しいながらも精一杯もてなした。それから数年後、妻を娶り子を為した蘇民将来の所に再び武塔の神が現れ、自分の正体が建速須佐之男命であることを明かすと共に茅の茎で作った輪を身に付け『我は蘇民将来の子孫である』と唱えれば無病息災が約束されるであろうと告げた」


粗末な武塔神(スサノオ、牛頭王)を貧しいながらももてなした蘇民将来はその後、幸福を受けた。無縁なマレビト、あるいはエビスなどの流れものを歓待するというアレ。

自分の場合は自分自身が粗民ということで蘇民とスサノオ(マレビト)を兼ねるのかなあとかなんとか。



蘇民将来・巨旦将来というのもよくわからないところがあって蘇民-蘇我氏系だと渡来人の集落とヤマトとの関係を象徴するはなしなのかとも思う。蘇我、物部、秦あたりは未だインストしてないけど、秦は渡来人だし、蘇我もその関係であのへんの日本独立と関係あったのかなあとか何とか。そうかんがえると蘇民祭というのはヤマトによる地方征服を称えるうんたらになりそうで、そんなに無邪気なものでもないのかなあとか思うけど。。スサノオが絡んでるので単に力押しの征服-制定ということでもなく、話し合いを通じた融和みたいなところもあったのかもしれない、よくわからんけど。


なのでヤマタノオロチの話のバリアントではないかと思うんだけど、ヤマタノオロチの話の分布と蘇民将来なあれの分布と関係するのだろうか?


まあこのへんも民俗学的なアレでおいおい見ていくとして…


同じ系でも1月ぐらいにやる蘇民祭の時期をかんがえると夏至と冬至の節句ぽい。


まあ茅の輪くぐりは夏至祭り(夏への扉)と思っておいて良いのだろう。



この時期だと七夕も絡んで、七夕は盂蘭盆会的な期間、つまり夏至を境に日照時間が短くなっていくこと→死者の時間となっていくことと対応してる感。ケルトの夏祭りとか。


七夕も本来はそんな感じで「一年に一回」というのは死者との邂逅なのかなあとかおもったりする。その意味ではアレは黄泉平坂を境としたイザナギ-イザナミも想わせる。「思い人の霊との一年に一度の邂逅」という神話の元型なのだろう。



七夕-スサノオということだと天顕祭が思い出される。


天顕祭 (New COMICS)
天顕祭 (New COMICS)
posted with amazlet at 14.07.05
白井 弓子
サンクチュアリパプリッシング



ここでは茅(かや)ではなく竹だったけど、震災-原発による放射能の不安、そこで別れた2つのものなんかも想わせる。



posted by m_um_u at 06:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年07月03日

最後まで残る人とそうじゃない人


3月か4月ぐらいにまたしても絶望して、そこからなんとか希望の兆しを見出して、んでも当面は元手としての銭が足りないということでバイトとかしつつ本業も地味に再開してる。


本業の方は未だそれだけで食ってくレベルまでは達してないけれど、そういう兆しも見えてるし、現段階でも8月ぐらいには最低限それだけで食ってくぐらいにはなれてるぽい。まあでもそれだけだと収入たいしたことないのでバイトと並行するけど。バイトも苦でもない感じのものだし。本業回復してバイトめんどくさい(むしろ本業に時間を当てたほうが効率が良い)ならバイトやめればいいだけだし。異業種の様子・世間的な感覚知るのにもいいかなあって感じ。



今後の展望と絶望を通じての最近のうんたらについて。



以前も思ったけど人は人が底辺まで凹んでると離れていくものだなあと実感したり。

それは単に「お金がないから」というだけでもなく「お金がない」≠「余裕が無い」状態になった人が以前の明るさや雰囲気を失っていって鬱陶しくなる+話しても面白く無いみたいなことになるからかなあと思うし、自分が逆の立場だとそう思うだろうなあとは思うんだけど。

でも同時に「こういうときに最後まで残る人とそうじゃない人の違いは出るのかなあ」ともおもったりする。

残らない人はお金にせよ明るさにせよ、なんらかの功利的目的のために付き合っていて、その部分が薄れていくと離れていくのだなあ、と。

その辺は付き合いとか関係性の濃度なんかにも関連してて、ネットぐらいの付き合いとか評判?のようなものだとあからさまに感じたり。


ついったなんかでもそういうのは感じる。経済状態が変わる前 / 後で言ってることは大して変わらなくてもなんとなく反応は変わってくるものだなあ、って。けっきょくあのへんのひとたちは言葉や論理、内容ではなく概観を食べてるのだから仕方ないといえば仕方ないのだけど。


こういう話をしてると「今に見てろよ」って思ってしまうし、じっさいそういう兆しが見えている。


東京方面に当初移住した収入面での目的、アテもようやくにして現実化しそうだし。まあ当初に比べて資金がなくなってしまった+時間がみょーにかかってしまった(5年も無駄に食ってしまった)+3倍ぐらい収入増える予定だったけど2倍ぐらいかなあ、って感じだけど。


そして、そういう風に余裕を取り戻したらまたお勉強再開してぼそぼそとこのへんにノートしていくのだろう。


その頃にはまたフォロワーなメンツも変わってるのかな(まあこのへんは「知」を功利するひとの面子が変わる程度だから繰り返しなのだろうけど




「こういうときに最後まで残る人とそうじゃない人の違いが出る」とか今後の展望について、もうちょっとぼんやりと。


さっきもちょっと言ったけどこの「最後まで残る」ってあれもびみょーで、ふつーの付き合い程度ならこういう状態になったら疎遠になっていくのは仕方のないものだし、それ以上を求めるのは「それ以上の何かを求めている」「過剰な期待がある」ということなのかなあ。たとえば「薄情」とかな言葉はこういう場面で使われるのだろうけど、自分はそれほどに人に情を期待していたのかなあ、とか。


あるいは「切れた」「愛想を尽かせた」というわけでもなく「(回復するまで)保留」っていう大人対応なだけなのかもだけど。どっちにしてもそのぐらいの付き合いなのだろうなあとか思ったり(特に皮肉でもなく



逆に親なんかは最後まで切れなかったみたいだけど、それは愛情と言うよりは、「愛情」「親族という義務」みたいな印象だった。このへんは詳細語ると愚痴っぽくなるからあまり言わないどこうと思うけど。じいさんが生きてるとき、さんざん持て余して悪口いったりイケズをしていた叔母や母が爺さんの墓参りにはきっちりと行く、そういう義務感。「絆」「愛情」とかすべてがそうだとは言わないけど、他人がそういう言葉でフワフワロマン膨らませるときそういうことをおもったりする。



なので従来の土俗的・義務的・自動化された「愛情」「親族」、その逆としての「薄情」という罵倒に自分は組みしないのだけれど、それとは別に功利的な目的以外でもっと自律的に最後まで残っていく付き合いみたいなのはあるのかなあ、って。


それを「愛」とか「情」とか定義するのも未だ躊躇われるし、そこに功利的ななにかが含まれていないともいえないけれど。






まあ落ち着いたらまたお勉強やら稽古やら再開して、その頃にはまた違った色が周りを彩っているのだろう。



とりあえず年内には目処をたてたいな。寒くなる前に



posted by m_um_u at 18:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年03月20日

性的満足におけるココロとカラダについてのぼんやりとした話


しばらくセックスしてないとセックスの仕方忘れてんじゃないかなあと思うこともあるけど案外どうということもなく自転車の乗り方みたいなものだなあとおもったりして、まあそういうのはあの独特のにおいとか空間みたいなのと一緒に思い出されたのだけど、やはり思い返してみると「ほんとにセックスしたのかなあ。。」とかおもったりして現実感が無かったり。

「○○した」「こういうことされた」みたいなイベント的場面にそって画像記憶が再構成されるんだけどなんとなく実感が無い。


そのときその場面では現実感があったと思うんだけど。。あるいはもっと強烈な何かを求めているからそういうものに対する不全感が残ってるのだろうか。


こういう感覚は離人症的な感覚に似てる。あのときはきれいなものを見たときに「これは世間的にはきれいなのだろうけど自分はそれを実感できてないなあ」っていう、「客観的一般的には○○なんだけど実感としては感じられない」という感覚。

あのときはそれが悲しかったけど、セックスの回想についてそういう感傷があるわけではない。



こういうのは心と体の問題みたいなものもあるのだろうか


「体は快楽やオーガズムを感じることはできても心もそれに伴ってないと真の満足・充足は得られない」みたいなの



北原 若いAVの子達ってどうなんです?

神田 北原さんはよくご存知だろうと思うけど、女の人って体だけ感じようと思えばどこまでも感じれちゃう生き物なんですよね。最近のAVの現場を見てると、女の子たちは体だけはいっぱいイケちゃってるんだけど、きっと後で揺り戻しがあるんだろうなって感じる。なんて言うのかな…、お金だから我慢してるっていうわけじゃないでしょうけど、みんなに好かれたい、この現場を平和に終らせたいって、そんなことを思って頑張って入り込んでいくうちに体だけがどんどん感じてしまって、トランスに入っちゃうみたいな…。

北原 揺り戻しってどういう感じなんですか?

神田 実際にした行為と、自分が本当にしたいと願望している行為の乖離に、1人になった時にやられちゃう。素敵な男の人と出会って恋愛してセックスしたいっていう願望と、例えば現場でやったスカトロプレイとでは、余りに乖離があるじゃないですか。私生活においては、一緒にゲロ吐いて、お盆に入れて飲もうよ、なんて奴いるわけないですから。「傷付く」って言ったら違うかもしれない。ただ、取り残されていく感じはあるんだと思う。

北原 女っていい人が多いから、周囲を荒立たせずに現場を終らせようって気持ちですごい頑張っちゃう人が多いんですよね。そういう子達がAV女優とかになると、疲れちゃったり、壊れちゃったりすることが少なくない。セックスで仕事をするってことが、現状で女の人にとってどれくらい安全なのかなって考えちゃいますね。

対談 神田つばき × 北原みのり 「女版・快楽主義のすすめ」
http://vobo.jp/tsubaki_minori.html



言語化しにくいけどそういうところは結構な人があるのかもしれない。心のほうもリズムを合わす必要がある、みたいなの。


そして自分はそういうものに対して未だ整ってないのか、あるいは、「そういうものこそホンモノだ」とすることで本質主義的な欠乏を感じているのか…。



うれぴっぷるなんかがちょこちょこ「若い女の子は性的に搾取・消費される」「自分はそういう風に搾取する/される関係が嫌い」「スローセックス・添い寝推進!」みたいなことを言ってて、それは彼女の性被害体験も起因してるのかと思うんだけど、そういうの以前に一般的に若い女性が不幸な性体験して消費されるケースというのは結構あるようにおもう。

特に若くて自我がまだ固まってないと「捨てられる」不安や「セックスしないと怒るから」ということで関係を許容し、相手に対して「ここをこうして」的にコミュニケーションもできないまま相手の良いようにされて、結果的に肉体的なオーガズムを体験したことがない子というのはけっこういるぽい。

まあ「ここをこうして」っていいにくいのは「捨てられるから」ってだけでもなく単に恥ずかしくて言いにくいみたいなのもあるからだろうけど。


そして肉体的にオーガズムを得られるようになったとしてもそれと心の満足とはまた違うものだったり。プロでそういう仕事をしていて肉体的にはオーガズムを感じられるようになっても、あるいはプロでやってるがゆえに肉体的なほうが先行しすぎてその部分が残ってしまうという懸念もあるようだし。





先日どっかのエントリで「夫婦が仲良くするためには最低週一、がんばって週三でしてかないと。日本人平均は」みたいなのがあって「( ^ω^)・・・そういう平均とか『仲良くするために』でやるのか。。大変そうだなあ」とかおもった。まあ実際夫婦関係だとそういう面はあるのだろうけど

性欲のけっこうな部分が繁殖本能にあるのだとしたら子供できちゃったらそういうのが縮んでくのが道理で、特に子育て期のブランクを通じてそうなってくかなあとか思うんだけど、そのあとにコミュニケーション的に復活していくのは意志とか努力とか必要なんだろうなあとか

そんで一般的には男性は年齢とともに性欲が減っていくのに対して、女性は年齢とともに増えていくみたいなところがあるみたい。特に出産後によくなっていくとか。

なので性欲的にはある程度経験と年齢を重ねた女性と若い男性、ある程度経験と年齢を重ねた男性と若い女性がちょうどよくなったりする。


いわゆるカレセンがどうとか「若いうちはがっつくから」とか。



んでも世の中的にはそんなにほいほいとフリーセックスできるような環境ではないので特定の相手とがんばっていく事が必要な現状がある。特に中年超えると性欲とかも逆転するところがあるのだろうし(※個人差があります)



そういうのに対して若い男性の性欲というのは大部分が繁殖本能から脳内物質が生じ、それに耐性があまりない人たちが脳内物質の酩酊状態に抗しきれずに理性を逸脱するものなのだろうから意志とは真逆なように思うんだけど、物理的な性的快楽ということではけっきょく男の性というのは精液が出たら終わり的なところがあり、その快楽的には自慰とそんなに変わらないところがあるようにおもう。

セックスの耐えられないつまらなさ
http://anond.hatelabo.jp/20140320213113


「嫌がってる相手を無理矢理に」とか痴漢したい欲みたいなのも物理的にはそんなに気持ちよくないのだろうから自分的にはよくわかんないし誘因がない。

でもまあそれは酒に酔った酩酊的なものだろうから意志で統制できないのだろうなあとか思うんだけど、本能に従った脳内麻薬の酩酊状態といいつつも現代人だからコンドームほか避妊はちゃんとしてるってとこにイロニーみたいなの感じたり。。

冷静に考えるとこういう面での男性の性的快楽がもっとも生じているときというのは行為の前から最中までの興奮状態の間、脳内麻薬にドライブされている間で、オーガズム自体はたいしたものではないのだろう。

なので脳内麻薬出しっぱなしにして達しないほうが気持ち良いのかなあとかおもったりする。



性欲と意志について、若い内は本能的な性欲を意志で統制するけど、中年過ぎたりして性欲衰えたりマンネリしたりすると敢えて意志でセックスするっていうのも対照的でなんか皮肉というか、おもしろい。



まあ中年でもやり方とか相手変えたりしてマンネリ超えてとか工夫すれば「敢えて意志で」てのでもないってのはあるのだろうけど。あるいはセックスに対する考え方変えてそれにそってやり方も変えたり。

「男の人って最初からそういう性欲強いものじゃないの?」「男だったらこれはゴチソウでしょ?」みたいなのがけっこう散見されるのに対して草食系男子みたいな感じで性欲が薄くなってきてる人たちもいるみたいなんだけど、そういうのは昔と現在のライフスタイルとかも性欲に影響してるのかなあとかチョット思う(だとすると本能だけでも語れないのかなあとか


「性欲は世代・年齢層ではなく個人差、個人の生育環境や経験に依る」みたいなのもあるのかも。


おーざっぱには発達段階の愛情との関係とか。性的コミュニケーションて授乳とそんなに変わらない感じもするし。お互いの悪を引き受けるというか、そこでは悪も善も関係なく互いに抱きしめて融け合うというか…。

イド的な部分と愛情と常識(社会化)、個人の自我形成の関数の結果が性欲として残るみたいな感じだろうか。


上野千鶴子、1989、「スカートの下の劇場」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/388711171.html



「メンヘラは性欲が強い」「性的依存をしがちになる」みたいなのもその辺関連なのかも





だとすると身体的なオーガズムだけではない心理的な満足というのはそういった愛情とか安心みたいなのとの関係があるのかな。


そんでそういう部分でなんとなく心理面を優先するのは女性のほうが先のような感じ


マンネリセックスがいいのです - 仕事は母ちゃん
http://blog.plutan.org/entry/2014/03/20/124116


物語を完成させる - 添い寝原体験 - blog.922
http://bit.ly/KrcKvR




このへんもよくわかんないのでぼけーっとほかのひとの考えも見て行きたいんだけど、やはりこういう「性的満足とQOL」みたいなのは男性より女性のほうが繊細で誠実な印象がある。


私は生まれなおしている---日記とノート 1947-1963
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「アンネの日記」なんかもそういう悩みあるみたいなんだけど、そういう思春期女性のこのへんの悩みみたいなのちょこちょこ見て行きたい(山田詠美とかかなあ。。



まあでも「やっぱココロのほうが大事なんだよ」て話でもなくカラダ面も開発しつつココロもくっついていけるといいのかなあとかおもったりするので、そっち方面が未だで興味がある人は徐々に開発していくのもいいかと思うけど




posted by m_um_u at 23:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

ウクライナと最近読んだ本(石油戦略→帝国以後→リフレ→北からの世界史)

軽く読んだ本メモ的に。


ウクライナ情勢が気になってたのでそれ関連で


世界を動かす石油戦略 (ちくま新書)
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「帝国以後」と日本の選択
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日本経済にいま何が起きているのか
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北からの世界史: 柔らかい黄金と北極海航路
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関連エントリ


「石油戦略」はあとがき的な所に要所まとまってるのでそれをほぼそのままメモ。出版されたのは2003年


・2001年9月の同時多発テロをきっかけに米国が中東湾岸の大産油国をマージナル(周辺)化しようとしている

・産油国の盟主の座をサウジアラビアからロシアが奪取する可能性が出てきて、米露関係が大きく進展しようとしている。

・中国の石油需要が伸びてきており、その対応によって将来米国や近隣アジア諸国との衝突の可能性がある(ex.南沙諸島のシーレーン)

・中東の政治不安 + 北海の減退 + カスピ海や西アフリカの政治不安 → 国際石油市場は不安定な時期に入る可能性が大きい。加えて、原子力や新エネルギーの促進だけでは現実的にかンがえると対応策としてまったく不十分(ちなみに天然ガス、シェールガスは石油(原油)の気体状みたいなものだから似たようなもの)

・日本はこういった不安定化に対処すべくエネルギー源の多様化、石油供給源のポートフォリオをすべき。特に極東ロシアを含む近隣地域に豊富にある天然ガス資源をいかに利用するかがカギ(日本は石油に依存しすぎて天然ガスを利用するインフラ自体が整っていない)


本書で何回も繰り返されていたのは「石油は供給国から直接取り寄せするのではなく一度国際市場に出したものを輸入する。ひとつの国と関係が悪化しても急に石油を輸入できなくなるわけではない。マーケット原理に従って価格は高騰するが。オイルショックは日本が不安になりすぎたために生じたものでこのような事情を知っていれば少し高くなってもやりすごせた」という話。

日本は現在でも中東の石油に依存しすぎなとこはあるけど、それによって有事の際にただちに石油がなくなるということはない。

ただ、ポートフォリオは作っておいたほうがいいのでやはりロシアとの関係は良くなってたほうがいい。

ついでにいうと石油・エネルギー資源の安全保障をめぐった地政学・国際関係論のリアリズム的視点というのは時代遅れの帝国主義的視点で、現在では世界システム的にマーケットを通じて相互依存してることがソフトパワー的なつながりになってるのでナンセンスだ、みたいな言い方は本書でも何回か出ていた。



「帝国以後と日本の選択」は「ミスター円」な榊原英資さんとの対話とか「帝国以後」評がメイン。

「帝国以後」の主要な論旨

・アメリカは特に生産力はなくても基軸通貨国として他国から信用・マネーを集めている。それを需要・消費で回している

・基軸通貨国の信用・覇権を維持するために示威的戦闘を繰り返す必要がある


のうち一点目の基軸通貨の部分について、専門家的にも間違ってないのだなあと確認できた、ぐらい。

「わざと弱い国をダシにして示威的戦闘を繰り返している。イラク戦争もその一つ」については国際関係論的な専門家もいなかったので保留。「石油戦略」と合わせれば「国際石油市場 → マーケットの暴落を防ぐために中東の安定化をはかった」とする見方もあるので。


「基軸通貨で金-需要集めて消費を回す」という考えはリフレの仕組みをなんとなく理解していたのでそれの国際版かなとおもった。

つまり「政府が国債を発行-それを日銀が買う」というマッチポンプによって世間に信用・マネーを先行入力し、それによって消費・設備投資を刺激するってやつ。んで行き過ぎてインフレしてもまずいのでインフレターゲット(インタゲ)をなん%て決めておいてそのぐらいになるようにマイルドインフレを操作的に創りだす、と。

日本政府と日銀は日本の中央政府・銀行だけどアメリカ政府・銀行は世界のその役割を担ってるのかな。

そんで基軸通貨を担える国の条件として世界一強い国=安定してる国というのがある。


なので軍事的示威が必要って話にもなるわけだけど。。まあこのへんは見方の問題か(単にマーケット安定させないと自分もクビが絞まるってだけでやってるのかもだし)


そういった見方をするとウクライナへの介入というのはけっきょくはウクライナとその周辺国、特に石油・天然ガスが絡む中央アジア・中東辺りのマーケットの安定化狙いかなあということで。。そうかんがえるともっとも重要なのは「安定化」「沈静化」ということになる。


なので「帝国主義的拡大」とか地政学がどうとか、「グレートゲームの再来」という見方自体がおかしい感じもするんだけど、まあその可能性もいちおもっておいたほうがいいのだろうな。。




そんで「安定」「沈静化」という観点からするとやはりロシアの介入理由がもっとも説得力があるように思えるんだけど。。


クリミア編入を表明したプーチン大統領の演説 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/644258


アメリカはアメリカで安定化させようとしたのかもだからなんともいえないところがある。。NATOの名残りってのもあるのだろうし




いちおタテマエとしての正当化事由としては「ウクライナがどちらを要請したか」「ウクライナ国民の民主的な意志はどちらにあったのか?」ということだろうけど、ホンネ的なところはこのへんのエネルギー資源市場の安定化ということかなあ。。


あとは「帝国以後」的観点に立てばロシアの興隆の時期なのかなあそろそろってとこだけど。。天然ガス頼りなレントなあれをいつまでもやってるということだと未だその辺も期待できないようで、どうなのかなあこのへんッて感じではある。


ただ、繰り返しになるけど、グレートゲーム→W3か?みたいなのはないのではないかなあ。。やはり。

あれは背景として人口動態的な変化があったという見方はマクニール「戦争の世界史」でもしている。

その内実としては「土地依存経済から近代的なプロフィットに変化できてなかった → マルサスの罠を逃れるための拡大」ということになるだろうけど、現代はだいたいの国がもはやそういう経済系ではないので。。(中東みたいな資源依存国でもない限り)

ロシアはその辺で未だレント依存してるのかなあという不安もあるけど、新生児出生率的には2以下ということで安定してる。


なので綜合的に見てあれを帝国主義的拡大と見るのはオイルショック的ビビリに通じるナンセンスなんだけど。。まあ可能性としてはいちお残しておいたほうがいいのだろうな。




ついでにウクライナにも通じるルーシの歴史補遺として。


以前のエントリでは「ルーシは北からのヴァイキングだった」ということだったけどもうちょっというと毛皮を主に扱う冒険商人だったみたい。

ウクライナの新書のほうでも解説されてたようにルーシは川をうまく利用して、川の間は船を担いで荷を運んだ。


そして当時最大のマーケットだった中東・トルコ圏に向かい、そこで奢侈品としての毛皮を商った。

モスクワは彼らの基地的なものの一つとして発展。

キエフ・ルーシの時代にはモスクワ公国的なものだったけど、タタール(モンゴル)の支配を経てイヴァン3,4世 → ピョートル一世の頃から本格的に「ロシア」として建った。


んでももともと毛皮の国ということでたぶん中央アジアの他の国からもそういう風に見られていた。当人たちも双頭の鷲ならぬ二匹のクロテンを国章にして「毛皮の国」アイデンティファイしてるし。


ロシアの発展は毛皮の発展、柔らかい宝石としての毛皮を追い求めて発展・拡大していった。


奢侈品を中心とした経済の発展はゾンバルト的な「欲望によって駆動した資本主義」を下敷きにしていた。


なので16,17c以降の西欧の興隆、マーケットの中心が「中東依存の地中海」から「大航海時代+新大陸の銀+自らの内需を中心 → 南ドイツ」を経て「アントワープ→アムス」→「ロンドン」へと移行していった時期とロシアのシベリア拡大の時期はリンクしていった。

ヨーロッパは中東からの単なる商品経済ではなくプランテーションやエンクロージャー、自らの工場化を通じて富を自家生産的に増やすことができるようになっていった。そこで奢侈品-消費-内需によって経済は駆動していった。


そのマーケットが整い、膨張していった流れとロシアの拡大はリンクする。


ロシアのシベリア拡大は農業的目的というよりは毛皮猟のためだったようなので。


彼らはクロテン → ビーバー → ラッコという柔らかい宝石を追い求め狩り尽くしていった。



アラスカもその一つで、「アメリカへの北極海航路開拓」の一環としてイギリスなどもそこに参入してきたためそこでラッコは採り尽くされ、毛皮のなくなった土地はアメリカに二束三文で売り渡された。



毛皮開拓の足跡は現代から見ると北のエネルギー資源採掘場ともリンクしてる感じで、そういった視点から見るとカスピ海や黒海の石油・天然ガスをめぐった争いもかつての毛皮争いを彷彿とさせてなんだかみょーな気持ちになってしまう。



posted by m_um_u at 20:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年02月23日

「明るい部屋」とベンヤミン



写真について考えるシリーズとして


スーザン・ソンタグ、1977(1979)、「写真論」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385423814.html



写真の存在論―ロラン・バルト『明るい部屋』の思想
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ほんとは「明るい部屋」読みたかったんだけど図書館になかったので「まあ仕方ないかあ」と借りてみたら予想外に良かった。写真家とか人文なおっさんたちのマロンあふれる衒学文体かと思ってたんだけど。


よく「写真は真実を写してるとおもう人へ、写真というのは現像の段階から構成されているのです」みたいなのがあるし技術的にはそういうことではあるんだけどバルトはそこで「写真が真実を写していると思わせることが大事なのだ」と逆説する。



<写真は過去の存在を存在の意味を媒介することなく直接われわれに経験させる>



ここで言う「意味」は現象学的な事象を認識するためのいくつかのフレームのこと。もともと「客観的」「他人により」付されている意味-物語-ものの見方によってわれわれは事象を認識できる。反対に言うとふだんはその意味のフレームによっていくらかの偏向がかかっている。

たとえばりんごの見え方にしても人と昆虫では異なる。それは器官的な構造上の違い→規定にも依るのだけれど人の生きられた経験-その集積としての文化からリンゴそのものを感じる以前の意味が付されていたり。「分裂病患者の手記」なんかだとそういうのが剥ぎ取られたあからさまな世界が対照化されたりする。


そういう視線のことをベンヤミンなんかだと土星の験のもとのまなざしとしたようだけど(メランコリーな土星人のまなざし)。


なのでベンヤミンが見ていた感覚、あるいはたまに訪れるみょーに覚めたまなざしというのはこの辺りの感覚だったのでわ?とされる。

ベンヤミン解読
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アレゴリーの方法というのはそのための多義性の導入。アートの世界でよくやるぼんやりと複数の解釈を残しておくような手法のことだったのだろう。まあなので脱構築がどうとかいうところとも必然として絡む。

フッサールなんかにも興味持ってたようだから当然といえば当然なのだろうけど



ベンヤミンめも (「近代化に対して」「政治/美学」「アウラ」「アレゴリー」あたり): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/387970616.html


ただ、ベンヤミンはそういった関心はあってもそれを表すのには失敗したぽい。それは「複製技術時代の芸術」での描き方にも表れていた。


あそこでアウラという概念を導入したのは、もともとはこういった感覚が先にあり、それをあとづけるために「(こういう感覚をもたらす真のアート的なものには)アウラがあるのだ」という論理展開をしようとしたため。

ただ、そこでいわれてるアウラという概念は曖昧で、その概念からだとベンヤミンの主観的な好みによってどの芸術作品にアウラがある/ないが決められてしまうのでびみょーって話だった。

ショーレムがベンヤミンにツッコミ入れてたのも「写真については褒めてるけど後半で映画について貶してるのどうなの?(この論理展開だとみょーに恣意性とか主観性とかないかい?)」みたいな感じだったように思うけどベンヤミンの答えは「大衆に依る革命が生じればそれも解決するって」って話だった。まあ「映画がもっと限界芸術的なものになって大衆それぞれが作れるようになれば既存の大衆芸術的な形式(マンネリ)は打破される」という意味だったのかもだけど、それだと「複製技術」におけるアウラによる説明ってまったく用をなさなかったり。。



まあなのでベンヤミンというのはその論の内容をそのまま受け取ってもあまり実のないものぽい。


デリダとかフーコーとか?が着目したのはその発想が当時にしてはおもしろかったからということだろう。J-POPとかではっぴいえんどとかの古典聞いて「参考になる」というのと同じ感じ。



まあそのへんはいちお確認していくけど


ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)
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ちなみに「写真の存在論」でも「複製技術時代の芸術」は意識され「明るい部屋」で提出された思考材料をもとに補完されていた。




話しそれたので戻すと


「人の認識→まなざしというのは先験的に一定のフレームがつかざるをえない、先験的な意味のフレームによって事象を認識できる」わけだけど、写真というのはその意味以前に存在を実感させる力がある。


「この力はなんだ?」というのがバルトの発端。


もっともすべての写真にそういう力があるわけではなく特定の写真にまれにそういう力がある、という話なんだけど。


なんとなく気になってしまう写真。


「かつてそれはあった」と否応なしに実感してしまう写真。



そういう写真を「刺のある(プンクトゥム)写真」とバルトは呼んだ。


自らの意味のヴェールに刺を打つ写真。刺から穿たれた穴から土星のまなざしが舞い降りる。


そういった写真は通常一定の商業的形式によって覆われている。バルトはその商業的形式をいくつかに分類しストゥディウムと呼んだ。


ストゥディウムを必要条件としたアート・商業写真のなかでたまにみょーなものが写り込んでいることがある。あるいはみょーなアングル、肖像の中のなんとなく気になる実感。


それがプンクトゥム(刺)となる。



バルトの場合、母の死後に荷物を整理していたときに見つけた5歳の少女の頃の母の写真がそれだった。ほかにも母の写真はあったのだけれど、なぜか少女の頃の母の写真にもっとも「母」を感じられた。


そこから人の本質-存在の実感、写真が照射する有無を言わせぬ実感、意味以前の実感についての考察がはじまり結果的に「明るい部屋」としてまとめられた。



「明るい部屋」は「暗い部屋」-「暗室」-「カメラオプスキュラ」の逆。




「真の写真は、暗い-覆う、のではなく、明るい-さらけ出すのだ」






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関連:

スーザン・ソンタグ、1977(1979)、「写真論」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385423814.html



posted by m_um_u at 21:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

マット・リドレー、2000(1996)、「徳の起源」



読んだのでいちお


徳の起源―他人をおもいやる遺伝子
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「徳の起源」は「繁栄」よりも前の本だから繁栄の結論も徳の起源を超えるものではない、と気づいてからは読み飛ばし → 途中で辞めたけど。けっきょく「繁栄」のほうが後の出版で「徳の起源」で展開した仮説受けたものだったのでこの部分について本書を見ても参考にならない


問題なのはそれぞれのエピステーメーごとの「交換」「弱者保護」の質-了解の変化を捉えず、ざっくりと交換-協力を持って歴史を見ていること


マット・リドレー、2010、「繁栄」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385685354.html


リドレーの仮説は「交換-協力が分業-取引-経済の基盤になっている」「それは自然淘汰的なもので、協力したり他人を敬うことは結果的に人の得になるからやってきたもの」「それは遺伝子的、あるいは社会遺伝子的に決定されている」みたいな性善説なんだけど、この部分の単純さでどうしても違和感が生じてしまうのだった。

それについては以前の「繁栄」の感想とかこのへんにも書いたかもだけど


共同体における宗教的情操と倫理やら徳やらの原型について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382123924.html


即時に見返りがかえってくる交換とタイムラグが開く交換は異なる。後者については同一性、時間みたいな概念理解が必要で、そういう思考は動物には不可能なはずだから。

よしんば協力はあっても交換というのは動物には見られなくて、そこに<いま>の効用以外のところでの効用・存在・同一性の了解があり、そういった抽象的理解の集積が(存在)-「時間」という概念だったのだろうけど


なので遺伝子がーとか動物がー交換をしているからみたいな話から直接人の取引のところにそれをつなげるのはやはり無理があるようにおもう。アイデアとしては面白いんだけど。



社会の複雑化→人の思考リソースの上昇+エピステーメーの変化に伴って交換に対する認識も変わっていったり、というか、交換-取引の試行錯誤と淘汰(うまくいったもの)がなんとなく美徳として集積していった、はず


ただ、美徳-勝ちパターンというのも一つではなくて社会ごとに異なる。それは風土→生産様式なんかから影響されて出来たものだろうけど。そんであるとき「弱者保護の美徳」と「システム維持的合理性の美徳」が相克する場面が現れた、かなあ


弱者保護の美徳の源流の大きなものはキリスト教で、その源流は砂漠の掟だろうけど、砂漠において弱者を保護することが長期的に共同体→構成員の利益に資する、ということの証明(あるいは反証)かなあ。。




社会学は結局は生物学をたどる、というのはあるだろうけど人という動物種が抽象概念を操作することによって生み出す特殊性→変化みたいなのがあるのでその辺が社会学の醍醐味だし生物学的進化論では測れないところなのだろう。精神史とかそういうの。まあフーコーとかヴェーバーの対象領域だろうけど(ジンメルとかデュルケムとかもかなあ



生物学とか単純な社会学・経済学だと想定されるユニットは平均的なもので変化を伴わない + 制度や下部構造に基底されて合理的に動くものとされるだろうけど、人というユニットのステータスは一定ではなく変化する(限定合理性)


その変化に影響を与える要素を抽出し、各要素が代表的変数に与える影響 → パターンを見出していかないと



まあでも完全合理性≠平均値なユニット(非「主体」)を基本とした集団の歴史シミュレーションとしてはおもろいのかリドレー

posted by m_um_u at 20:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年02月21日

天ぷらサヨクとウツクシイ国



昨今の天ぷら事件とか浅田真央さんに言い過ぎ事件というのはけっきょくは美徳をめぐるうんたらということであわせ鏡なのだろうなあと思ったりする。


安倍総理の「天ぷら」批判の背後にある前時代的観念(古谷経衡) - 個人 - Yahoo!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyatsunehira/20140218-00032774/

「真意と違う」と森氏が強調 浅田選手めぐる発言で - 47NEWS(よんななニュース) http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014022101002864.html

森喜朗 元総理・東京五輪組織委員会会長の発言 書き起し - 荻上チキ・Session-22
http://www.tbsradio.jp/ss954/2014/02/post-259.html



両方とも特に「リベラル」な価値に固定してなければどうでもいいような話題なんだけど自称「リベラル」な人たちからは「イカンだろ!」と言われる。


そういうのは野党的なしょうもない野次つっこみなのかなあとおもってたんだけど、サンデル本読んでて彼らが自称する「リベラル」というのはコミュニタリアニズムなのだなあと気づいた。


マイケル・サンデル、2010、「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/389358750.html


というか論理-自由主義的なところではつなげないので旧来の価値に頼る。


なので彼らのツッコミは「ふさわしくない発言があるだろ」「人としてどうなの?その態度は」「上から目線の態度が」とかいう曖昧なものになる。


まあでも自称「リベラル」な人たちがいつもそういうわけでもなく彼らでもツッコメるような(あるいは彼らの得意領域な)話題だとこういう感情論とか旧来の価値観的なものには依らないんだけど、彼らが不得意なところになるとこのへんの浪花節的な感情とか心情とか美徳な価値にすがる。そしてそれがポピュリズムと接合してる。



古谷さんの考察だと天ぷら批判は「この非常時に贅沢をするとは何事か」というものを急先鋒にしていたということなんだけど自分の観測範囲だと「贅沢するな」て嫉妬と「TPOをわきまえろ」「首相はともかく内閣として非常時の対策をきちんとしたのか?」みたいな話に割れていた。というか、それぞれがエアリプかなんかで反証されるにつれて「天ぷら(贅沢するな)」から「非常時なんだから格好だけでもしっかりしとけ」 → 「非常時の対策をきちんとしていたのか?」と次第に論点がズレていっていたようだった。



まあ批判のための批判なのだかr論点がズレていっても仕方ないのだろうけど、なんとなくの彼らの価値観の軸としては大きな政府と社会主義的な包摂への期待があるのだろう。


そろそろやめませんか?「右翼/左翼」「保守/リベラル」って分類は。 - デマこいてんじゃねえ!
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20140216/1392564877


「リベラル」を自認する彼らからすると個人主義のほうに触れてるつもりなんだけどちょっとしたことがあると今回のように地が出る。理知 → 言表では「個人主義」「自由主義」のほうが良い(進歩的)と思ってても根っこのところの価値観は平等主義と人情主義なので。

上記リンクの4象限モデルから言うと理知ではケインズ主義・北欧型福祉社会を目指しているけれど地のところでは社会と大きな政府を軸とした社会民主主義的なものになる。まあトッドいうところの統合型資本主義だけど。


E.トッド、1998、「経済幻想」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/389369490.html?1392982411


それに対して安倍内閣は財政問題的に小さな政府を目指しつつ旧来の価値観に依ったウツクシイ国というキャッチを使うので上記リンク的にはネオリベな位置になるのだろうけど、、なんかこれもまとめ的に違和感がある。(まあまとめ主がサンデルに依ってるからだろうけど)


旧来型の美徳の価値観を崇めるところだとどっちもそう変わらないので。



軍靴の足音ガーとか普段言ってる人たちが浅田真央さんとかサッカーとかの「国民的関心」に水を指すようなことを言うとみょーに怒る様子というのはなんか怖いなあと思うんだけど、彼らが言うようにそういう凝集性が全体主義につながる契機があるとしたらどのへんなのかなあとかちょっと考える。


あるいは、ポピュリズムに基づいた民主主義という全体主義がファシズム的な総動員に変わりとめられない流れになっていく契機のようなもの


「大正デモクラシー」はどうして戦争を止められなかったのか | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/politics/7102

「ポピュリズムを考える―民主主義への再入門」吉田 徹 著 | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/4266



ファシズムを考えるというのはそういった相同/相違の地味な比較検証作業に依るものだと思ってる。


posted by m_um_u at 22:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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