2015年02月13日

もし僕らのことばがウィスキーであったなら


このブログを読んでちょっとだけ良いウイスキー、1000円台でちょっとQOL上げるぐらいのそれを整えてもよいかなあ身近でと思ったのでメモって探しに行ってみた。


行きつけのバーにあるウイスキーを全種飲んだ僕が初心者にオススメのスコッチを20本選んでみた。 - 道しかひかない堀江くらはのブログ
http://kuraharu.hatenablog.com/entry/2015/01/29/221827


目当てはグランツとベル




グランツ

常飲その2。これも1000円以下で置いてあることがあるのにおいしいウイスキー。複雑で濃厚なのに飲みやすい。樽っぽい苦みもする。この価格帯のウイスキーで一番人気かも?



ベル

この価格帯にしてはスモーキーなウイスキー。多分だけど後述するアイラモルトをおおくつかっているんじゃないかな?味は結構甘みが強い。





フェイマスグラウスはすでにして常飲していたのでほかのもの。できればもうちょっとアイラ的というか、スモーキーなわかりやすさがあるものが欲しかったのでベルを探しに行ったが近くにはなかった。ちなみにグランツはドンキで1000円ぐらいで売ってる。同じ価格帯のものに比べ雑味がない。ベルはやまやとかにあるんじゃないだろうか。寄ってみてあったらゲットしてこようかと思ってる。

ちなみにフェイマスグラウスは1700円ぐらいで特に雑味なく、スコッチなおいしさが味わえるものなかんじで「ハイボールにちょうどいいですよ」と勧められてたしかにおいしい。ハイボールじゃなくてもショットグラスでそのまま飲むのに耐えられる。ネットでも送料込みで1700円ぐらいで買えると思う。

そのうちアードベッグぐらいは置いといてもいいかと思ってる。あとハイランドパークとなんだったらラフロイグの味見直し。ボウモアとマッカラン。シーバス。特に村上春樹読みとしてはシーバスをもっかい飲んどくのもいいかと思ってる。



もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫) -
もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫) -




このエッセイは読んでなかったし軽い物のような印象だったのでこの機会に読んでみた。

村上さんも最初のほうで言ってるように、内容は特になくアイラ島とアイルランドへの旅行写真にちょっと文章を加えただけ程度のもの。メインに2週間程度のワタクシ的な旅行があって、その記念な写真に企画がついてきたのかな?ぐらい。

なので特に語るものでもなく黙ってその素敵写真を眺め、土地の空気感を想うのが「ただしい」読みなのだろう。ちょうどこのエッセイの序文にあるように。



もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。

しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、すべてのものごとを、何か別の素面のものに置き換えて語り、その限定生の中で生きていくしかない。

でも

例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。


そして僕らは

――少なくとも僕はということだけれど――

いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。


もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。






僕らのことばがウイスキーではないことを残念に思いつつもうすこし言葉を重ねよう。


このエッセイの中で気になったところをちょこちょこと。



あらためて、なんだけどアイラ島の蒸溜所が7つしかなくて、その代表的なものがだいたいの酒店に置かれていることに驚く。というか、蒸溜所の地名がそのまま酒の名前になってることから各蒸溜所名が島に付されてるのを見てお宝島のような感慨を抱く。7つとはすなわち


アードベッグ
ラガブーリン
ラフロイグ
カリラ
ボウモア
ブルイックラディ―
ブナハーブン


ちょっとした蒸留酒を扱う酒店ならアードベッグ、ラフロイグ、ボウモアぐらいは置いてるしなんだったらラガブーリンにも会える。ほかはよほど専門店かウイスキーを主体としたショットバー的なところだったらあるか。


真ん中に行くほど癖がなく最初のほうがピート、土臭く、荒々しい。

基本的なことだけどアイラウイスキーはシングルモルトに属する。つまり麦だけ使って混ぜ物せずに蒸留した酒ということ。これを理解するにはむしろブレンデッドを理解したほうが早いだろう。

日本酒だともう「酒を混ぜずに完成させる」というのがふつーになってしまってるのでとくに意識しないけど、ブレンデッドというのはできあがったウイスキーを混ぜていい感じにしたものということ。「日本酒でもかつては日本酒同志を混ぜあわせていい感じのものをつくっていた」「それが酒屋の役割というところもあったし腕の見せどころだった」「現在でも弱小酒蔵の酒を大手が買い取って大手ブランドでみたいなことはある」みたいなのは「もやしもん」読んでればでてるのでそちらを参考されたい。


つまり、シングルモルトというのは純米酒みたいなもので、アイラというのはまあ言ってみれば吟醸みたいなもの。感覚とか印象としては。


そして、このエッセイでは島全体が酒蔵みたいな夢の島をぼーっとめぐる。

緑と羊と海と石壁。

のんびりとした時間と生活の一部としてのパブ。


某うどん県のように島民のほとんどがウイスキーを飲まない日はないという。すくなくとも村上さんが会った人々は。



蒸溜所も近代化によって個性が異なってきておりそれが味に反映されているところもあるぽい。

アードベッグは昔ながらの人力-職人仕事を旨とし、ラフロイグは近代的な工場管理-合理化をしている。ラフロイグでできた90%のウイスキーはブレンド用に出荷される。

それでも酒の芯にある「アイラぽさ」は変わらない。


ピートの奥にあるかすかな磯臭さ。


海に囲まれたアイラ島の風土をそのまま閉じ込めた生命の水がアイラウイスキーとなる。




「あれこれ言う前に、飲んでくれ。私たちがやろうとしていることは、飲めばわかるから。」

「どっちがいいとは言えない。どちらもうまい。それぞれにテイストの性格が palpable だ(はっきり触知できる)」

「そうなんだ。頭であれこれと考えちゃいけない。能書きもいらない。値段も関係ない。多くの人は年数の多いほどシングル・モルトはうまいと思いがちだ。でもそんなことはない。年月が得るものもあり、年月が失うものもある。エヴァポレーション(蒸発)が加えるものもあり、引くものもある。それはただ個性の違いに過ぎない」





天使の分け前 [DVD] -
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「みんなはアイラ・ウイスキーのとくべつな味について、あれこれと細かい分析をする。大麦の質がどうこう、水の味がどうこう、ピートの匂いがどうこう……。たしかにこの島では上質の大麦がとれる。水も素晴らしい。ピートも潤沢で、よく匂う。それは確かだ。でもそれだけじゃ、ここのウイスキーの味は説明できないよね。その魅力は解明できない。

一番大事なのはね、ムラカミさん、

いちばん最後にくるのは、人間なんだ。

ここに住んで、ここに暮らしている俺たちが、このウイスキーの味を造っているんだよ。人々のパーソナリティーと暮らしぶりがこの味を造り上げている。それがいちばん大事なことなんだ。

だからどうか、日本に帰ってそう書いてくれ。俺たちはこの小さな島でとてもいいウイスキーを造っているって」










最後に村上さんのエッセイとお手頃ウイスキーを紹介してくれた前述エントリに感謝したい。
















そういうことを、秋葉原の孤独なおでん缶を見るたびに、思うといい - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/781399




うつくしい日々: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/409837761.html





静かなる男 [DVD] FRT-190 -
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2015年02月06日

スーザン・ソンタグ、1968、「反解釈」


反解釈 (1971年) (AL選書) -
反解釈 (1971年) (AL選書) -


この本については読みつつnoteでちょこちょこ日記にしていて、そこでだいたい語ってる感もあるのでこっちには簡単にまとめとこうかと思う。


主題は「形式と内容」ということ


形式と内容  アレゴリーとシンボル|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nd8d204d99859


簡単にいえば「作品を先行する偏見で踏み潰し消費するのではなく、その作品自体の構成要素をまずは中立に見つめ、語れ」ということ。

形式と内容という二項対立をしたとき、内容のほうで意識されるのはいわゆる本質論的なもの。「表立って語っていないけれどこの作品にはほんとうはこういう意味がある」といういわゆる深読みとかされるもの。そこで、そのテクストの構成要素を見つめ、味わい、評価した上でそういった付帯情報をつけるなら是いだろうけど、最初からテクストの構成要素度外視で自分の読みを先行し、テクストを蹂躙・消費するやり方をソンタグは嫌う。具体的には当時、だんだんと出来上がってきていたCultural Studiesの萌芽、フロイド的な作品解釈やマルクス主義的な作品解釈。つまり「この作品には男根的志向がー」とか「消費産業の意向に乗っ取られた作品でーテーマにもそれがかいま見えるー」みたいなの。日本にメディアリテラシーが移入された初期にもこういった下品な解釈はあったけどああいうの。あるいはネットだと超映画批評とかわかりやすい。

そういった「ほんとのテーマが―」以前に、作品というのは単にそのモティーフを作家が描いて表現したかったから成立するものもある。「作品全体のある場面、画がまず浮かびそこを描きたかったのでとりあえず描いて特に作品テーマ・ストーリー全体には影響しなかったけど満足」、みたいなのとか、「とりあえずで描いたモティーフが思ったよりも作品全体のテーマになっていった」みたいなのもある。

noteの日記的にはデタイユあたりでうんたらされてるそれがこれにあたる(cf.美は細部に宿る、細部から全体はなる、こともあれば、全体が細部にフラクタルされてる、こともある)。



「作品構成の様式・演出・形式的な部分をもっと味わえ」とソンタグは言う。「その部分は確固たる意味-テーマとして形を成してはいないかもで、テーマ-理知にくらべて感性的なもので、、感性ということだと放恣な印象批評に流れがちなところがあるかもだけど、そこで感受性に身を任せることを言い訳にするのではなく、感受性-様式の規律-ポリシーのようなものを守り救いだしていこう」


それが本書、あるいはその後、のソンタグの基本的な姿勢となる。


「わたしが書いてきたのは、厳密に言えば、批評でもなんでもない。あるひとつの美学、すなわちわたし自身の感受性についてのあるひとつの理論を築くための個人的症例研究にほかならなかったのだ」



それはアリストテレス以来つづいてきた形式<内容を与件とした本質論から彼女たちが寄り添い、たましいの置所とする作品たちを守る防衛戦への準備でありそのための宣言となる。



本エッセイに収録されていた「キャンプについてのノート」は当時のアメリカにおける彼女たちのような趣味人・自由人を表したものであり、彼らのあり方を宣言したもののように思える。


「キャンプの人々」とは、大衆的なベタな作品・通念・観念・価値観から距離をもった趣味人を想わせる。ちょうどベンヤミンがそれに当たるだろうし、あるいはヴェイユ、ヴァレリーほか象徴主義を継いだ「あのへん」、ブレヒトも含めた「あのへん」といえる。


メランコリックな島の住人であるわれわれが彼岸から此岸を眺めるとき、社会生活的には大衆的価値観と視線・ルールをインスールし実践せざるを得ない、けれど、孤独で自由なあの島に還りたくなったとき、島の記憶を伴った作品たちが呼び水となってくれる。


ソンタグによるとそういった趣味人の傾向はヴィクトリアンあるいはポストヴィクトリアンあたりから見え始めたようだけど、これは精確なところは分からない。でも、なんとなく「アノヘンだな」というのはわかる。現代の日本だとゴスロリとかヴィクトリアンとしてファッションにはされてるけど。あるいはSM的なビザールファッションの一部と志向(当然、フーコーやサルトル、バタイユなどを含む)。

あるいは日本の場合それはワビサビとしてなんとなく捉えられているミニマルなところとか、琳派や若冲といった錦蘭なそれもこのへんに当たる。後者はドラァグの先駆けでありゲイやボヘミアンに通じるところなので。


ミニマルな芸術は説明が少ないので一般には理解されにくい。対してドラァグなもの、あるいはその元としての情報が過多なものというのはわからないなりになんとなく受け止められやすい。自分的には前者をマイナスの方法、後者をプラスの方法とよんでいる。


プラスの方法と超越系|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nd77a52755006



ミニマル-マイナスのものはプラスを前提にしてそれを収斂させたものなので、当然のようにプラス的なものを含む。シンボリックに表されてないだけどその背後に膨大な情報・混沌を蓄積する。前提とされてるものを表す指標が少なすぎてわかりにくいという意味でそれらの作品たちはハイコンテクストといえる。





以上が概略として、本エッセイ集の意義はそのような姿勢があるとしてそれを批評として表す場合どのような形が適切か?ということだったろう。その具体例として「神の代理人」について、「マラー/サド/アルトー」、「演劇の死」、「女と男のいる舗道」については自分的に参考になった。

あとがきの訳者解説にもあったけれど、ソンタグは文学や哲学といった文字のテクストの批評よりも映画や演劇の批評のほうがより説得力や面白みがあるように思う。それは映画や演劇が文字テクストに比べて感性の解放と偶有性に重きを置き、彼女が感性をドライブさせた批評を旨とするからだろう。それはソンタグが「ヴェイユでは真面目すぎる」といった態度にも表れているように思う。

とりあえず自分がそのうち演劇を見て論じる時の批評実践として、いずれまたこの本を手元において参考にしたい。


映画については自分的な近場だとゴダール / ロイ・アンダーソン / タルコフスキー / トリアー辺りでこのへんが実践できるかと思う。

蛇足で言えば、ゴダール以降、通常の恋愛劇は成り立たなくなったのだろう。それが当時のふつーの恋愛劇の頂点のひとつといえる「シェルブールの雨傘」と「女と男のいる舗道」が同時期だったこと、それらを受けたロイ・アンダーソンが「純愛日記(スウェーデッシュラブストーリー)」で展開の読める冗長な部分をバッサリとカットしたところからも伺える。そして時代は「恋する惑星」を迎え、それすらも生ぬるくなって「散歩する惑星」に続く。「ヒロシマ・モナムール」なんかもこの文脈に属していたように思うけど、あれも元来こういったハイコンテクストなものなのでアレだけ見せられてもわけがわからないしつまらない(実際そんな感じだった)。タルコフスキーのそれも「女と男のいる舗道」を受けたものに思える。すなわち殉教者/巡礼の道、であり、その心象を描いたもの。なのでトリアーの「アンチクライスト」のクレジットに「タルコフスキーに捧ぐ」と出たのだろう。


われわれが基本的に物語・幻想を日常に生き、それを通してしか現実を見られない(ドラマトゥルギーを生きる)、のにもかかわらずそのドラマからどこか覚めた位置にあり、それにもかかわらず没入せざるを得ないというアイロニーについてはこのへんに記した。


存在の耐えられない軽さのなかで存在する|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n91a7acb49095


そして、そこで日常生活の関係性・政治性が発生し、人というテクストを本質先行で読み解く誤読を通じた失礼とプライドの掛け金をめぐった紛争が生じていく。



noteを見なおしてみると今回の人質をめぐるうんたらというのは3週間ほどにわたったのだな。


その間に自分ももろもろ考えとどめておいたけど


シリア虜囚と善きサマリア人|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n43148c9d9629


戦時の危機感と根をもつこと|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ne3ca6842462f


彼ノ花|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n26c03566f403


種をまく / 木を植える|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ndaf814decfab


地に根付き、枝葉つけろ|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nd6d2afcb299e



彼らは当事者やテクスト無視の印象批評のようなものなのだろうからいくら事実を元にした理を説いても届かないのだろう。つまりナルシスティックに自らの感情に酔い、それを外部になすりつけて消費してるだけなので。その意味では内容-本質論先行の下品な読みともいえる。




そういったものと距離を取りつつ、自分的にはこの方面でもっと読み進めたり実践したりしていこう。




アレゴリーの織物 (講談社文芸文庫) -
アレゴリーの織物 (講談社文芸文庫) -


根をもつこと(上) (岩波文庫) -
根をもつこと(上) (岩波文庫) -

根をもつこと(下) (岩波文庫) -
根をもつこと(下) (岩波文庫) -


ソンタグの日記/エッセイを読み進めるのも良い。








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ダンサー・イン・ザ・ダーク|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/nb9d8ffcd3ce7

タグ:形式と内容
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2015年01月21日

九井諒子、2015、「ダンジョン飯1」


ダンジョン飯 1巻 (ビームコミックス(ハルタ)) -
ダンジョン飯 1巻 (ビームコミックス(ハルタ)) -

九井諒子さんについてはすこし前に書店で見かけて、そのとき買おうか迷ったんだけど古書店で中身ちら見+Amazonでレビュー見たら「なんかいいんじゃないのこれ?」てことで購読してみた。最初に読んだのは「竜の学校は山の上」、次に「竜のかわいい七つの子」。短篇集というのも良かったし。

二つの作品集についていうとちょっといろいろ語りたくなるんだけど、今回はそれがメインでもないので短く留めるとして。

「竜の学校は山の上」は昨今のまおゆうものというか、架空の中世ヨーロッパ的幻想冒険世界をベースに、それを相対化して遊んだ作品のようなノリにおもった。平たく言えば昔懐かしいテーブルトークRPGのリプレイ集であり、原作からのスピンアウト的な声優CD集みたいな。そういったノリを共通理解としつつ九井さん独特の隠喩的な処理が施されてる感じで、各作品たんなる短編で終わらすのが惜しいぐらいの味わいがあった。

それは「竜のかわいい七つの子」にも通じ、それらの元といっても良いような、さらに抽象化とストーリーのショート・デフォルメを高めた作品集が「ひきだしにテラリウム」となる。

同作品集に作者による作品群の改題のような主題があるのだけど、久井さんの作品はショートショートなのだな、ということ。ショートショートというと星新一が思い浮かぶけど、それに連なる発想・視点をSFというところにこだわらず展開しているのが久井ワールドなのだろう。

(蛇足ついでにいうと自分的にはマンガにおいてもっとも星新一的な妙味を表現し、進めていたのは市川春子「虫と歌」「25時のバカンス」におもった)




そんなこんなで「ひきだしにテラリウム」までコッソリと愉しみ、今回も特にうんたら言う気もなかったんだけど、祭りということで「ダンジョン飯」買って読んで楽しかったし



話題に乗り遅れたいなら読まないでいいんじゃないの?九井諒子『ダンジョン飯』 - マンガHONZ
http://honz.jp/articles/-/41115


永田くんもなんか書いてたので勝手にコール・アンド・レスポンスに応えてみる。


だいたいは永田くんがまとめてるとおりで久井さんが絵がうまい(けど画力を誇るわけでもなく地味にデフォルメ・最小限の表現にしてる)のは漫画読みに共通の見解のようだし、該博な知識を基本としつつもそれをひけらかさないというのも同様に思う。


ついったでも言ったけど、この人があたまえらいなあとおもうのはメタファーに通じる抽象処理、物事の構造的な見方がセンスあって、それの自由な組み換えと汎用性みたいなところ。物事に共通する基本的な部分を抽象度を高めて抽出し、それを物質・現実世界では関係してないところに当てはめてみることでうまれる妙味、みたいなのは禅の公案とか哲学のアポリアにも通じる。吉田戦車「伝染るんです。」にもそれはあって、一時期東大の基礎演習本でうんたら紹介されていたけれど、「伝染るんです。」よりももうちょっとこなれててとっつきやすい感じ(ex.「しかくを食べる」@「ひきだしにテラリウム」)。その抽象度をもう少し落として、寓意性のあるストーリーに持ってきているのが「竜」の作品群だったのだとおもう。


さて、ようやく「ダンジョン飯」についてなんだけど


全体的には現実社会における昆虫食と同じゲテモノ食をTRPG的世界で再現という感じのもの。この素材を九井諒子的な該博な知識・発想・抽象操作という調味料で味付けしてある。


テーマ自体は地味でこの系統のものだとありきたりといえばありきたり+絵も地味なので自分は最初スルーしていた。んでも読んでみるとグイグイと引っ張られる面白さがある。それは、自分がこれ以前の短篇集を読み、九井諒子という作家を愛するようになっていたこともあるかもしれないけれど、それだけではなく、この作品全体に「この作家はTRPG世界をものすごくわかっていて楽しんでいる」という愛や楽しさが感じられるから。

ネット上(というかたんぶら)では以下のエルフっ娘の反応がおもしろがられているようだけど





これ自体は昆虫食-ゲテモノに対する若い娘の反応の粋を出ない。


この周辺に描かれているエルフや人間の戦士、ホビット、ドワーフといった亜人たちの性格の掴み方と表現がまさにピンポイントなのだ。

「エルフはもやしで細かいこと気にする神経質、だけどおしゃれさんで」「ホビットははしこく普段は楽天的だけど小手先器用で盗みとか錠開けを得意とするので油断ならない抜け目ない」「ドワーフは異常な長命なので悠久な人生観で細かいことは気にしない鷹揚さが」「人間は( ^ω^)・・・まあ、人間ってかんじで」

特にドワーフ愛の自分としてはドワーフの描かれ方がとても満足行くものだった。






さて、各話に入って行くと無駄に字数がかかるのでそこは読んだ人同志の(*´・ω・)(・ω・`*)ネーに留めるとして、全体として思うこと、についてあとひとつだけ。



「ダンジョン飯」は「竜を食べたいな」というところから始まる。



これ自体はRPGの古典的テーマ「龍を倒す」に連なるとも言えるんだけど、よくいわれるように「では竜とはなんなのか?」ということ。

「竜などは幻想動物であって現実には存在しない」「なにかの隠喩なのである。たとえば現実には人間の悪しき心と不等号され悪魔=竜とされたり」「竜とは人間の悪しき心や欲望の隠喩?」

これらが頭をもたげる。

しかしRPG世界においては竜は実在の生物でそこに隠喩やロマンはない。


ロマンがあるとすれば「まだ竜食って誰もしたことがないはずだけどどんな味するんだろ?」というところ。


ここにおいて「龍を倒す」「魔王(悪の親玉であり中心)を倒す」といったテーマが使い古された後に残された最後の、あるいは、新たなロマンとして「竜を食べる」が設定される。


そこに仙人思想における「霞を食べる」を加えてアナロジーとすれば、いつもながらの寓意性豊かな久井短編ができていたかもだけど、それは妄想に留めるとして目の前のおいしい食事を味わおうではないか




posted by m_um_u at 09:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2015年01月13日


日本の名随筆 (31) -
日本の名随筆 (31) -



同書を図書館に返す前にメモっておいてあとでエントリ思い出して自分で愉しんだり、同じ関心がある人にシェアする用の引用メインエントリとして。


一番引用したかった大庭みな子さんのエッセイがほかのエッセイに比べてネットでのまるっと引用率が低かったのは(´・ω・`)なんだけど、でも部分的にも上がってるので自分で打ち込むのサボって人様の借りちゃおう。




幸福な結婚とはいつでも離婚できる状態でありながら、離婚したくない状態である


結婚と離婚と再婚が、大変簡単にできる世の中でも一人の男と、あるいは女とずっと結婚していたいと思うような夫婦が幸せ”だからである。“フリーセックスが日常化した状態でも、同棲していたいと思うような男女は幸せなのである
http://t.co/qVrnCYJ181



欲望にまつわる哀しさや歓びを知らない人間は魅力がない。 美食をしたこともなければ、飢えたこともない人間は殺風景なテーブルに肘をついて殺風景な話しかしないものである。 性的なものの中で多くの人格が培われる。 尊敬、愛情、闘争、克服といったものを自然な形で修得する。性的なものに熱中できない人間はあらゆる情念に不感症である場合が多い。
■大庭みな子■「女の男性論」 2006.10.3: 私が大好きなひとたち
http://www.michikoblog.com/daisuki/2014/12/2006103-267b.html


結婚は友情よりも苛酷で、友情よりも肉親化したものである。結婚における友情は必要条件であるが、十分条件ではない。恋人を友人にするのは簡単だが、魅力のある妻や夫にするには時間がかかる。夫の魅力は妻によって育てられ、妻の魅力は夫によって育てられるものである。二十年間結婚していてもつまらない男の妻は、つまらない女である場合が多いし、長い間結婚していて魅力のある男は魅力のある妻を持っているものである。

子供が幸福なのを見て親が幸福なように、親が幸福なのを見て子供は幸福なのである。親があまり不幸すぎると子どもが親を憎むようになる。子供を不幸にしない程度に親は自分の愉しみを積極的に考えた方がよい。

結婚によって妙な安心感を持っている人は、人をいらいらさせないが、いくらか愚かに見えるし、結局はあまり魅力がない。第三者によって魅力のない人間は配偶者にとっても物足りないものである。
天衣無縫 ≫ 幸福な夫婦
http://bluestick.jp/pug/blog/?p=604


「ちなみにこの文章が書かれたのは1970年」、と

引用拝借したブログの中には大庭さんの文章についての項も設けられてる(あとでみよう)。



「いまからだいぶ前にすでにしてこのような考え方があった」ということの驚きについては自分もすでに記したし、

精選女の一生|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/na464ddd42598

それに関して思うところも述べたので今回は割愛。

「このシリーズを追っていこう」、ぐらい。


宇野千代・大庭みな子 (精選女性随筆集) -
宇野千代・大庭みな子 (精選女性随筆集) -  





なので箇条的に素敵だなと思った随筆の引用メモを進めよう。





その晩もおそく、流し場の下手で中腰になってからだを洗っていると、見かけたことのない女性がそっと身を寄せてきて「すみませんけど」という。

手をとめてそちらを向くと「これで私の衿を剃って下さい」と、持っていた軽便カミソリを祈るように差し出した。剃って上げたいが、カミソリという物を使ったことがないと断ると
「いいんです、スッとやってくれれば」
「大丈夫かしら」
「ええ、簡単でいいんです」と言う。

ためらっている私にカミソリを握らせたのは次のひとことだった。
「明日、私はオヨメに行くんです」
私は二度びっくりしてしまった。

知らない人に衿を剃ってくれ、と頼むのが唐突なら、そんな大事を人に言うことにも驚かされた。 でも少しも図々しさを感じさせないしおらしさが細身のからだに精一杯あふれていた。

私は笑って彼女の背にまわると、左手で髪の毛をよけ、慣れない手つきでその衿足にカミソリの刃を当てた。

明日嫁入るという日、美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじにたれている、と思った。
『花嫁』 石垣りん - chuo1976 http://bit.ly/1DCTMLV









『銭湯で』

東京では
公衆浴場が十九円に値上げしたので
番台で二十円払うと
一円おつりがくる。

一円はいらない、
と言えるほど
女たちは暮らしにゆとりがなかつたので
たしかにつりを受け取るものの
一円のやり場に困つて
洗面道具のなかに落としたりする。

おかげで
たつぷりお湯につかり
石鹸のとばつちりなどかぶつて
ごきげんなアルミ貨。

一円は将棋なら歩のような位で
お湯のなかで
今にも浮き上がりそうな値打ちのなさ。

お金に
値打ちのないことのしあわせ。

一円玉は
千円札ほど人に苦労もかけず
一万円札ほど罪深くもなく
はだかで健康な女たちと一緒に
お風呂などにはいつている。







彼の長兄は放蕩者で父親の遺産を蕩尽してしまい、大学を出たての彼は、やむなく老母や幼い弟妹を抱えて一 戸を構え、生計の目当てもつかないうちに、どういう理由かは知りませんが、必要に迫られて結婚したのだそうです。 

小さな料理屋の二階で、わずか十人ばかりが集まって、結婚式と披露宴をしました。 

それが終わって二人で新居に入ったのですが、家具も何もないだだっ広いばかりの寒々とした部屋でした。 そこで彼は、「あんまり寂しい結婚だから、せめて今夜はこのままの姿で寝よう」 と、婚礼衣装のまま、二人で初夜を眠ったのだそうです。

その初夜のことが、何十年も経った後にも、甘美な追憶としていつまでも胸の中に蘇るというようなことを書いておられました。

私はそれを読んでとても微笑ましく、羨ましく思いました。
西条八十「初夜」より http://bit.ly/14vdWrQ

ちなみにこれはイェーツの詩からの着想だったらしい。

「若く貧しい私人がある宵、恋人を迎えるのになんの歓待もできない。そこで自分の空想の夢で金銀の刺繍のある美しいじゅうたんを織って敷きつめ、せめてそれを優しい足で踏んで近づけとうたうのである」



Had I the heavens’ embroider’d cloths,
Enwrought with golden and silver light,
The blue and the dim and the dark cloth
Of night and light and half light,
I would spread the cloths under your feet:
But I,being poor, have only my dreams;
I have spread my dream under your feet;
Tread softly because you tread on my dreams.



金色や銀色の光で刺繍した
天上のクロースをもっていたら
青いのや灰色や黒っぽいクロース
夜、昼、夜明けの色のクロース
それらを君の足元に敷いてあげたい
でも貧乏なぼくがもってるのは夢ばかり
だからそれを君の足元に敷いてあげよう
ぼくの夢なのだからそっと踏んで欲しい


(イェイツの詩集「葦を吹き渡る風」から「天上のクロース」Aedh wishes for the Cloths of Heaven(壺齋散人訳)





あとは宇野千代さんと加賀乙彦さんの随筆が印象的だったけどネットに特にないようなので簡単にまとめたり引用したりしよう。



加賀さんはサルトル/ボーヴォワール的な自由恋愛を受けて、「フランスにおける恋愛・結婚のあり方と日本の違い」みたいなテーマだった(「フランスの夫婦と日本の夫婦」)。

曰く、

「フランスの家庭は日本の家庭とほとんど変わない。夫婦の主導権は基本的に夫がとり妻はそれを支える。しかし、(わたしが見た限りでは)夫の職業を妻が理解し積極的に支えている。ともすれば夫が忙しいときにはその代理を務めるほどに」

「どちらが良いとは文化・風土の違いもあるだろうからにわかには断定できない。ただいえることは、フランス式の家庭は公私を含めての共同体であり、日本式の家庭は夫婦で公私を分けあった結果として妻を中心とした私的世界というニュアンスが強いことだ。つまり、日本の夫婦は夫は職場を中心に、妻は家庭を中心にといった具合に役割を分担していて、それなりにすっきり整理されているが、他方、夫は家庭内の些事に無関心、妻は夫の仕事への無理解ということが生じやすい。とくに子供の養育についての父親の役割がうすく、極端にみれば父親喪失ということが生じやすい」。

この辺りは1970年代当時の日本と現在では違ってきていて、昨今の若い男女の結婚観というのはここでのフランス式のようなものが理想-当然とされてきている、あるいは、もっと性別役割分担が緩くなってきているように思われるので「日本では」というわけかたには違和感がある。でも、当時の感覚・生活としてそれが普通だったということをとりあえず留めておこう(そして、そこに「文化的違いがあるのかもね」という懸念があることも)。



宇野千代さんの話はどちらかというと大庭さんのそれを継ぎつつ、あるいは、大庭さんのそれでFAだったように思われるこの辺りの主題に対して経験からの重みというか味わいのようなものを感じさせるものだった(「私の結婚論」)。

「四度の結婚をしてみて想うのは、危機は相手方にある、のみではない、ことが分かってくる。ショートする場合は同じところだからである。相手が違っていても同じ所でカチンと来るのはこっちにコブがあるからである。危機はいつでもこっち側にある。四度も結婚してそれがわかるというのだから馬鹿な話である」

「想うにそのコブはヤキモチが発生するところだったようだ。ヤキモチでは気持ちがこんがらがって整理がつかない。私が冗談に『愛の交通整理』と名前をつけていることは、お互いに『一方通行』を守ることである。自分もする、または自分もした、または自分もああいう場合にはああしそうだ、と観念して相手の通行を黙認することである」

「手を広げて通せん坊をしたくなるかもしれない。しかし通せん坊は交通整理のキソクに違反する」

「よく聞くことだけれど、『私のほうだけは決して浮気はしないのだから、彼には決して浮気はさせない』、という人がある。私はこういう言葉を聞くたびになんだかワカラナイ悲しい気持ちになる。私はこういう人に対して、ごく自然に感情の動きに耳を傾けてごらんなさい、と言いたい気持ちになる。そしてできることなら、ちょっとだけ、浮気をさせてあげたい」

「浮気をするということは決して好いことではない。しかし、悲しいことに私は浮気を一度もしないと断言する人には、相手の気持が分からない、こういうときにはこういう気持ちになる、ということがわからない。」

「悪いことも出来る人が、人の気持ちがよく分かる。私は決して浮気しない、といばって言う人には、人の気持ちはわからない」



武田泰淳さんの「丈夫な女房はありがたい」というエッセイも武田百合子さんの名エッセイと評価を想うとなんだか微笑ましかった。


富士日記〈上〉 (中公文庫) -
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ことばの食卓 (ちくま文庫) -
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日日雑記 (中公文庫) -
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こういう夫妻の様子をみると理知だけでは解決できないところでの夫婦(あるいは他者と寄り添うこと)の意義を希ましくおもふ。









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離婚序章からの帰還(はてな匿名ダイアリー)
http://t.co/dzovzOFD2S



監督不行届 (Feelコミックス) -
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おいピータン!!(1) -
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長い道 Action comics (アクションコミックス) -
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西荻夫婦 (フィールコミックスGOLD) -
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棒がいっぽん (Mag comics) -
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2015年01月10日

写真とアフォーダンスとaffordを受けるもの


少し前の写真のエントリで見たホンマさんの本にちょっと気になることが書いてあったのでメモ的に。


たのしい写真―よい子のための写真教室 -
たのしい写真―よい子のための写真教室 -


アフォーダンスの紹介で有名な生態心理学者の佐々木正人さんとの対談。アフォーダンスの説明は面倒だから他人様に頼る


アフォーダンスは、動物(有機体)に対する「刺激」という従来の知覚心理学の概念とは異なり、環境に実在する動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味/価値であると定義される。

アフォーダンスの概念の起源はゲシュタルト心理学者クルト・コフカの要求特性(demand character)の概念、あるいは同じゲシュタルト心理学者クルト・レヴィンの誘発特性(invitation character)ないし誘発性(valence)の概念にあるとギブソンは自ら述べている。


ギブソンの提唱した本来の意味でのアフォーダンスとは「動物と物の間に存在する行為についての関係性そのもの」である。例えば引き手のついたタンスについて語るのであれば、「"私"はそのタンスについて引いて開けるという行為が可能である」、この可能性が存在するという関係を「このタンスと私には引いて開けるというアフォーダンスが存在する」あるいは「このタンスが引いて開けるという行為をアフォードする」と表現するのである。要点は行為の可能性そのものであるため、そのタンスが引いて開けられるのだと示すインターフェイスを持つか否か、ひいては"私"自身がそのタンスを引いて開けることが可能だと認識しているか否かは全く関係ない。タンスに取り付けられているのが「引き手に見えない、あるいは引き手として使用できそうもない引き手」であっても、"私"に引いて開ける事が可能ならば、その両者の間にアフォーダンスは存在するのである。
アフォーダンス - Wikipedia http://bit.ly/VXDJjE

ギブソンという認知心理学者は、環境のこのような性質をアフォーダンス*1と呼んだ。彼は、「環境のアフォーダンスとは、環境が動物に提供するもの、良いものであれ悪いものであれ、用意したり備えたりするものである。」と述べている。*2これではよくわからないので、ギブソンの挙げた例で説明しよう。
 「陸地の表面がほぼ水平であり、平坦で、十分な拡がりを持っていて、その材質が固いと判断されたならば、その表面は、我々の体を支えることをアフォードする。」
 我々は、確かにそういう場所を選んで歩いている。行動するときには、無意識であるにしろ、環境がどのような行動に向いているのかという情報を環境の中から得ているのである。*3
 場所・空間・行動をほのめかす場所・空間の特徴(意味)の抽出・行動 
アフォーダンス http://bit.ly/1I7f1VV


おーざっぱな自分的な理解だと認知の際のメタのフレームということかなと思う。

別件でヴェイユによる神の存在証明の話が気になってるんだけど、そこでいわれているような「われわれは対象が精確に正方形であると把握できなくてもなんとなく『正方形だ』ということを措定し認識している」の「なんとなく」の部分に関わるもの。


つまりプラトンにおけるイデア、アリストテレスにおける形相-質料、唯名論あたりに通じる認識・認知・概念あたりのあのあたりの伝統の流れ。


それを写真の領域に転用した場合どうなるか?というと端的にはリアリティということになると思う。




写真というのはフィクションなわけだけど人が、というか現代人が視覚的に認知するものもすでにして遠近法ほかのフィクション(視角でありパースペクティブ)に覆われている。それらを先端の芸術領域は疑い、揺らがし、できるだけ「生の」リアリティを再現しようとする。


なにが生かというのは真かというのは本質論的になってたどり着き難く、それをギロンの対象に置くことはしばしば不毛なのだけど。なんとなくビビッドに、自分が覆われていたヴェールが取り除かれて衝撃を受けるみたいなのはある。それが生かどうかはわからないのだけれど、すくなくとも自分がそれまで見れてなかった、感じられてなかった見方のようなものを感じた時に。


そういうものに到達するための途中の方法としてこういったもの、人の視角-認知のフレームのようなものを考えることは有効なのだろう。

もうちょっとイメージしがたいのならたとえばすこし前まで分裂病患者としてまとめられた人たちが発症したときの認知のズレみたいなのを想像してみると良いのかも。症状が視角領域にあらわれたとき、世間的にふつーとされるフレームが取り払われすべてがフラットに意味を持たないものになる。そこでわれわれは何かをみるときに自然に「自分にとっての意味があるもの」を焦点していたことに気づく。

写真や映像はそういった「自分にとっての意味あるもの」以外のものも写しこむことで自分の認識の偏りを逆照射してくれたりもする。


自分がつまらないと感じる景色にレンズを向けることはない。なぜなら楽しくないからだ。しかし写真を撮ることが楽しいという価値観で写真を撮ることをやめると、結果として面白いと思えるもの、つまらないと思えるもの、良くわからないものが全てカメラに収まることになります。こういう写真が沢山積もっていって、あらためてその一枚一枚を眺めると、この写真は面白いと感じたりします。
写真の面白いところは、意図せずとも写ってしまうものが含まれることです。写真の作画法としては、引き算の発想というのがあって、余計なものを排除して、主題を強調しましょう、というのが、日本の写真文化には綿々と受け継がれている伝統です。そういう美意識の人には邪魔と映る部分を写真の旨味成分だと主張するぼくのような人間もいます。同じものを観ていても、その人の経験というフィルターを通してみると、様々な意見が生まれることが分かります。
今、大きなかけ声のもとに、金ダライのメダカが同じ方向に一斉に泳ぎだすがごとく固定したモノの捉え方がますます肥大化しているように感じているのですが、写真家や表現者たるもの、ぐっと立ち止まって、世の中の様々な現象に違った角度から価値感を提示する。今の世の中見方を変えるとこんな風にも見えるのかと。
物事を見る角度 | アパートメント






アフォーダンスは本来機械的な認知では表しにくい、あるいはプログラムしにくい冗長性の部分、ファジーで「無駄」で全体的な部分に注目して詰めていこうとしてるところかなと推測される。

それを別の言葉でいうと情報、あるいはリアリティにおける冗長性ということになるだろうけど、この話は本題から逸れそうなので今回は詳しく詰めない。

ホンマさんと佐々木さんの今回の対談ではその具体として、街の境(街の範囲)と波のリアリティのようなものについての写真実践が語られていた。


街の境について、写真でその部分を撮るとき、街の範囲を現象学?的、あるいは、バカ日本地図的なワタクシ的脳内マップとして認知する時どこを街の境界とするか自分の内観に問い、その境、レイアウトと思われるところをスナップしていった作品群。

あるいは、波の全体を、ひとつとして同じ瞬間のない波を、どこという瞬間を決めることもなくなんとなく撮っていった作品群。


それはカルティエ・ブレッソン的な決定的瞬間の考え方に対するものだった。つまり、世界をある特定の視角-関心にもとづいて部分的に切り取っていく手法。

それは人の視角や関心を特定の見方に焦点してわかりやすくするものではあるけれど全体のリアリティからは遠ざかったフィクションといえる。




そういった試みは映像-映画でも行われているだろうし、自分的には「プレーンソング」のアキラの試みを思い出させた。



プレーンソング 草の上の朝食 (講談社文庫) -
プレーンソング 草の上の朝食 (講談社文庫) -


なにかを焦点するのではなく、できるだけふだんの自分がみてるように、雑音や雑景色もフラットにカメラを回し続け記録していく。絵的、音的には作品として成立しないかもだけど、そこにはともするとフィクションな作品からは感じられないリアリティの全体が収まっている。



それとは逆にカメラという機体を通して、あるいは特定の認知フレームを採用することで浮かんでくるセカイのようなものがある。


ウェストンの砂漠の稜線-女の身体的なそれもそうだったけど、直近で見たサルガドの写真集における労働現場の様子はそれを想わせた。



人間の大地 労働―セバスティアン・サルガード写真集 -
人間の大地 労働―セバスティアン・サルガード写真集 -



世界システム的に連結し高度に分業化され構造化された消費社会の末端労働の現場を取材していった写真集。部外者から見ればそこには幾何学的とも想える文様が浮かび上がる。尖った刃のようなサトウキビの葉、木綿の渦巻き、自転車の組立部品の矩形の並び、俯瞰すれば蟻の巣のような炭鉱の様子、インスマウス人との対決を想わせるマグロ漁師の現場、恐竜のような自動車や船舶たち、そして、工場の巨大な機械群と労働者たちの対照。

そこでは労働者たちはそれぞれの場に現れる怪物と戦う戦士であり、それぞれの抽象文様に戦いを挑む。怪物や苦難の巨きさは連結した世界の重みを象徴的に顕す。




ヴェイユによると労働は現代社会が当然として滲みこませた認識の遠近法、距離から自らを疎外させ距離を取らせる自己陶冶として必要とされるものとされる。

一度、自己を外部の流れに任せ、そこに生まれた真空にこそ愛-美が湧き上がるものだ、と。



シモーヌ・ヴェイユの詩学 -
シモーヌ・ヴェイユの詩学 -



自分的にそれは未だ汎用的に通用するものかどうか、たとえば、絶望のふちにあるひとに「もっと徹底して絶望し自己を捨て、預けることで却って実存は転調するものだ」とは言い難い。


そして、こういった労働の現場というのはヴェイユが思ったような「修行として必要なもの」というよりはそれぞれがそれぞれのモンスターに立ち向かうので精一杯のように思える。


サルガドは写真を通じてそれを資本主義、あるいは、経済システムという怪物として描こうとしていたのかと思えたのだけれど、それは人それぞれの解釈によるのだろう。しかしそこで表現してみせた幾何学的とも想える労働現場の抽象は「それぞれの場に神が宿る(神は細部に宿る)」というよりはサルガド自身の目が愛におおおわれていたからこそ見いだせた、あるいは作り出せたものだったのかもしれない。


そして、愛が美を感じる受け皿であるのなら、それは余裕(afford)のあるところに咲いたように思った。少なくとも自分には






















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我々の不幸を慰むのは|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n05cd1d79d508


タグ:写真
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2014年12月29日

複製技術時代のゲージツと芸術



「突然余暇時間のできた労働者たちはそれをなにに当ててよいかわからなかった。彼らにとって旅行や買い物は余暇の当てとしてちょうどよいものだった。カメラはしろーとに簡易に芸術的outputのカタルシスを与える気の利いた道具となった」。

一般的にカメラというのはそういう形で世間に根付いていった。

旅行とカメラ、「記念」というのは大衆の余暇活動の当然として、彼らの記憶というフィクションの材料として生活に溶け込んでいった。


時々家族というものを忘れそうになったり、自分たちの記憶、現在を忘れそうになったとき、人は記念写真を見て自分の位置 - 社会的存在位置をアイデンティファイする。




「複製技術時代にあって一回性は死に、ゲージツは死んだ」


そのような解釈 - 文脈でベンヤミンのアウラという言葉は「一回性」と不等号されて使われがちに思うけど、以前にもすこし見たように、カメラや写真が身近なものになっていたらおそらく最もそれを活用し、てきとーに使った蒐集をしていたのはベンヤミンだったのではないかと思う。

ベンヤミンめも (「近代化に対して」「政治/美学」「アウラ」「アレゴリー」あたり): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/387970616.html


「明るい部屋」とベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/389569036.html


彼は内向的でメランコリックな、おぼっちゃん生まれの前衛的趣味を理解した都会人だっただろうから。現在だったらおそらく耽美少女趣味とか、エロとグロの境界とか、まあ自分と似たような趣味に走ってたのではないかと勝手におもったりする。もちろんベンヤミンのほうが進んだ趣味人だっただろうけど。


ベンヤミンが現在生きていたらカメラのみならずメディア・アート的なものも最先端で駆使して自らのリアリティを投影したり、あるいは、それらが投影された他者の作品に感動し、すばらしい、と批評していただろう。Tumblrなんかもやってたりやってなかったかもしれない。

カメラはそういった趣味人にとってアタリマエのものとして子供の頃からの生活の一部になっていたかも。中学生か高校生ぐらいからの。






タイのセックスワーカーを無断で撮影した写真家うんたらに関するつぶやき(エントリ用の素材) - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/763251






前提として、「アートだったか」「アートだったら許されるのか?」「写真はアートか?」「当人は良い人で悪意はなかった」、とか以前にトラれた当事者が嫌がってたのだったらそれはマズイだろというとこでいちおFA。ハラスメントと同じ案件なので。当該国で法的に立件できなくても、人のフルマイとして良心の呵責みたいなの感じたほうがいいとおもふ。そんで呵責あるなら今回の件とかいままで儲けた金の一部を当該セックスワーカーに寄付なり、関連寄付なりの浄財するよろし、ぐらい。


アートと写真、あるいは、アートとはなにかについては後述。




プロ消費者的に他人様になにか求めてるだけってのもクレーマークレーマーなだけなので、今回の件で自分的にお勉強すべきものとして、改めて振り返ってもいいかなってことでサルガドの写真集を図書館に検索したらあった。


人間の大地 労働―セバスティアン・サルガード写真集 -
人間の大地 労働―セバスティアン・サルガード写真集 -


なので、借りに行ったらホンマタカシさんのこれもあったのでついでに借りて読んでみたらけっこうおもしろくてためになった。



たのしい写真―よい子のための写真教室 -
たのしい写真―よい子のための写真教室 -


今回の件に関する結論からいうと、大橋さんの作品というのは写真史的にはニューカラーとスモールストーリー的なものからのリアリティ表現だったのだろうなあ、ということ。技術的な構成は作品を見てないので分からない。本作の場合はポラロイドかなんかで撮ったようだから露出とかはいじれなかっただろうから自分で調整できたのは構図ぐらいだったかなと思う。



ホンマさんの説明を自分なりにさらに簡易にまとめると、最初、写真は単なる記録的なもので「絵画に劣るもの」とされた。写真は記録的なもの、よくても絵画的な表現(を模倣するもの絵画主義的表現 - ピクトリアリズム)に過ぎなかった。

写真が絵画を超えるもの、あるいは写真独特の表現を打ち出すようになったとされるエポックとしてアンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」がある。人がいまにも水に落ちようとする決定的瞬間をシュート(狙撃/撮影)したもの。以降しばらく写真が絵画を超えるもの、写真としての独自の機能・表現とはこういったものとされ模倣されていった。しかし、その決定的瞬間もつくられたフィクションであったことが後に暴かれたわけだけど。

「決定的瞬間」的な写真は小型カメラ - ライカの登場によってさらに流行していった。カメラはもっと気軽に路上を、「決定的瞬間」をスナップするものとなっていった。そして路上の、日常のリアリティがカメラ的表現として反映されていく。

それらが覆ったのがエグルストンに代表される「ニューカラー」と呼ばれる作品群によって。そこでは「決定的瞬間」ではなく「なんでもない日常」が提示されるようになっていった。表現としては「刻を止め、絵画的に陰影(光)を刻んだ白黒」、から、「なんでもない日常の持続」としてのカラーへと変わっていった。そこでは決定的で絶景的な世界などなく、世界はすべて等価なものとして表現される。


それらは大きな世界から小さな世界への転換であり、大きな物語から小さな物語への転換といえる。そこでは自分や自分の家族を含めた親密圏が等身大の視点で見つめられ語られる。

いわゆる私小説的、あるいは日記的なリアリティの表現といえるそれらにアラーキーこと荒木経惟も属するみたい。

私見では私小説的な作品群が日本で流行ったのはウェブログにおける日記 / ジャーナリズム論争?(ブログは個人発のジャーナリスティックなメディアと言われるが日本では日記的なものとなる)を想わせる。それが日本人の元々の性質だから、というのはびみょーだろう。大きな物語と小さな物語、「大きな物語は死んだ」以降の展開のようなものがあるとして、日本のそれが大きな物語と直接に接続、対抗しない私小説的な語りへ行ったのはもともとキリスト教的な神-大きな物語がなかったからかなとも想える。

「サルガド的な作品が表せない / 出てこない」のはサルガドが大きな物語を前提とし、つつ、それを現代的に敷衍しているからだろう。サルガドの作品には神の物語と陰影、あるいは、その季節を過ぎた後にも期待される慈しみのようなものが表現されているので。


大きな物語に対してはポストモダン的展開が定番で、写真界でもそういった流れが出てきた。

写真そのものを疑い、カメラで撮る、ということさえ放棄したような。あるいはできあがった写真 - プリントを物理的に傷つけて遊び、それを表現とするような。自らが撮影することから自動撮影へと移行、、etc.

テーマやモティーフとしてはポストコロニアル的な弱者やマイノリティへの視点が加味されていった。

そして、近代の再構築ともいえるような手法も。

スタジオで完全に場を再現して撮影するセットアップと呼ばれる手法・表現は近代の再構築的志向に近いように自分的には感じられた。

ちなみにいうと「写真」「真実を写す」というのは日本的造語で、もともとは「photo(光) - graph(画)」程度の意味。つまりカメラ・オブスキュラで光を捉えたもの。そこに真実もフィクションもない。







写真の歴史はおーざっぱにそういったものだろうけど、写真の撮り方 - モチベの大枠として、テーマではなくモティーフで走らせる作品がある、という理解があまり人口に膾炙してないみたい。

モティーフ(motif)という言葉はもともとは音楽用語でそれをセザンヌが用いたことで絵画的主題(sujet)みたいな意味に捉えられるようになったぽいけど音楽のそれと同様、導調であり主題ということではないぽい。
簡単に言うと、画家も音楽家も「確定したひとつの主題-意味を描く」というよりは「ある場面をなんとなく描く」でありその「ある場面」が全体を構成する導調となっていく。

結果的にひとつの作品が出来上がるけれどそれはアーティストの手を離れた意味の多様性を持つ場合が多いし、その意味で導調となる。


すべてのストーリーを表現する作品が最初から最後まで物語を構成して作られたものではなく、最初に描きたい場面、色、音などがシンプルにあって、それをテクストに置いたところから派生する導調に身を任せる、みたいな手法をとる作品というのは結構ある。それによって最初から最後まで構成・統制された作品よりも偶有性を呼び込めるので。

偶有性に期待する理由は「どんなに天才なストーリーテラーでもひとりの人間の能力なんかたかがしれてるし、ストーリーなんかシェイクスピアで語り尽くされている」というのももちろんあるのだろうけど、自分的には「人生とは偶然によって構成されていくものだから」というのもあるかな。

必然と偶然、偶然を伴った運命。


写真や絵画におけるモティーフ、全体の構成の中で単にワンポイントこれを撮りたかった(深い意味はなく、意味はそのモティーフから勝手に展開され見る人によって付与される)、というようなものとして考えられるのは「構図」「フォルム」「光」「陰影」「色彩」「空気感」「被写体が単に魅力的(魅力的という理由はよくわからないけど単に撮りたい)」「目に映ってるもの、というより、自分がナニカを感じた瞬間に目の前にあったもの」などだろうか。

大橋さんのくだんの作品の場合は「空気感」「ナニカを感じた瞬間(リアリティ)」などが考えられる。


そうかんがえると彼に批判的な人の一部が言うように、彼は最初から最後まで計画的に窃盗をした、というわけではなく、単にその場でいままでにないリアリティを感じてそれを撮りたいという衝動を抑えられなかったのかもしれない。


もちろん、そうだとしてもそれをもって彼のやったことが免罪されるわけではないだろうけど。


「ぜったいてきにあくだから / ぜったいてきにあくだった」みたいな形で彼に石を投げるのはすこし違うように思う。


(今回のことで彼が反省していれば、その後の展開もあるかもだし)




ついでに、ここから展開した写真と映画についての妄想、というか自分的理解の現状。


























モティーフ先行の作品ということだと北野武なんかもそれに当たると思う。彼自身が「自分は場面構成は絵に起こすのだけれど、映画を撮るときは良い画が撮れれば良いと思う。ある場面が思い浮かんで、その場面を良い画で再現できるとマンゾクする」みたいなことを言っていたので。



ベルヴィル・ランデブーなんかもそんな感じ。




いわゆるアート的とされる作品群はそういった文脈があるためなんとなくワケワカラン - アートって捉えられるところが一般にあるかと思うんだけど、そういった形で作家当人のリアリティをある場面 - モティーフとして単に再現・記録してるだけなので、ハイコンテクストなわりに説明不足、だけど、似たような?視点のもとに編集された一連の作品群を見て、そこにナニカがあるように感じられ、コンテクストを理解してない一般の人でもそれをアートとして認めるのかもしれない。あるいはたんに「アートを見に来たからこれはアートなんだ」的なアレ。場の雰囲気とか、アートとして飾られ説明されてるからその情報を摂取してアートだと思う。



そういうのと違っていわゆるアートとしての完成度を持っている作品でも2つの傾向があるように思う。

ひとつは「模倣としての作品」、もうひとつは「アート(arts)としての作品」。





「アートとしての作品群」というのはArts、つまり技として一般的な通念から画期したものをきちんと開発・習得し、その律にもとづいて一般的には認識しがたいリアリティやパフォーマンスを打ち出したもの。

たとえば絵画における遠近法 - 透視図法がそれに当たる。

遠近法がフィクションだということは知ってる人は知ってるだろうけど、あれが16世紀に数学的な抽象思考をもとに開発されたものであることはあまり知られてないと思う。


遠近法がふつーの視覚認識の前提になってしまったわれわれからするとにわかには受け入れがたいのだけれど、もともと世界は遠近法的なものではない。だから遠近法以降の欧米絵画に比べ日本の絵画はしばらく平面で奥行きのないものだったし、遠近法以前の欧米絵画もそういったものだった。

「だから遠近法というのはフィクションで」というと「でも、われわれの視覚、目に映るものは奥行きのない平たい平面ではないじゃないですか?」ということになり自分としても納得しがたいところはあるのだけれど、それはもう遠近法をインストールしてしまった現代人の認識なので、そこからの類推は悪魔の証明的なものになってしまわざるをえないのかも。

なので、遠近法以前の視覚認識を想像するに留む。


とりあえずアート(Arts)とはふだんのパース・思考では到達できないようなものを記号と道具を通じた抽象的思考のhackによって生み出した合理性の修練としての技・技法、および、それに基づいて作られた作品群と言える。なので往々にしてその技を験し、試す挑戦や気概の場を衛る実験で前衛的なものとなる。


あるいは

数学的思考に類する抽象的思考に基づいて作られた特定の方法ではなくても、後に模倣がつづいていくようなエポックとなるような表現、切り口、見せ方、方法的なものであればArtsといえるだろう。Artsが表現として表れたものであれば、それを見た者の普段の認識 - リアリティに変化を生じさせ得るものであればArtsと言える。

人の普段のリアルでは到達できないような、現実に対する別の切り口、見え方、感じ方を提供するためのパース

それもArtsといえる。



対して、「模倣としての作品群」というのは先行するアートの切り口を模倣し「なんとなくアートぽい」ものとして提示したもの。つまりアート的な技法に基づいた、あるいは、その技法を知らなくても作品群を真似た習作といえる。

一般的にはそれがエポックとしてのオリジナルか模倣かというのはわからないので模倣的なものでも「なんとなくアートぽい」と印象されればアートとして世間に受け容れられる。


そして、エポックとしてのアートと模倣とでは後者のほうが圧倒的に多い、し、後者は一般に受けやすい演出・洗練を加えられて提示される。




特に写真や絵画のゲージツ家でもない自分としては自分がそれらによってアウトプットするものは模倣で十分かなあと思ってる。


ポラロイドという制約を逆に利用してアート的なものができるのであれば、自分もサルガドのような作品をiPhone4の貧弱なカメラで撮れるかなあ、ぐらい。


そこでは一眼レフ的なものは必要ないし一般的に一眼がどうとか言ってる人たちって大体が模倣の模倣でフワフワ印象を出てないわりになんでそんな高い買い物してんだ?とか思うけど、あれはあれでなんか高精度で撮れる(露出しぼれたり、シャッタースピード変えたりで色々遊べる幅が増える)のだろうから、まあ色鉛筆の色が増えるぐらいのものなのかもしれない。未だよくわからんけど。





とりあえずホンマさんの解説本ではワークショップ的に「こうやって撮って行ってみよう」てやり方も書かれてたし、いろいろ模倣的にやってく中で理解が深まっていくというのも期待されるし、iPhone4の貧弱なカメラで良いのでちょこちょこ撮っていこうかと思う。(習うより慣れろ、だろしね)










--
関連:
clair-obscula|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nf9a2fb5a685a



タグ:写真 art
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2014年12月24日

「痴漢の心理」から  人の性幻想とヘテロセクシャルの形成について



ついったなんかでAセクシャル的にヘテロなセックスを嫌う人、や、そこまでいかなくても男性恐怖的に男性との性的接触を恐れフェミニズムの言葉を借りてその恐れに対抗しようとする人なんかがチラホラ見られる。

それらはほんとに自身の感覚・実感から発しているのか、自らのトラウマを埋めるための他所から借りてきた言葉に「自分はそういうものなのだ」と信じこませるようになったのか他人である自分はもとより当人も判然としないものだろう。

というか、そういう言説を度を越して表象しようとする人たちはそれをして自らのその部分の自信・実感のなさを埋めようとしてるのかもしれない。ちょうど三島由紀夫がそうであったように。






AERA 痴漢の記事について - c71の一日
http://c71.hatenablog.com/entry/2014/12/20/235911


加害者が「なぜ痴漢したのか」問われない現実 〈AERA〉|dot.ドット 朝日新聞出版
http://dot.asahi.com/aera/2014121600098.html


原宿カウンセリングセンターの信田さよ子さんは、加害者の複雑な心理を分析する。

「たとえ性衝動があっても、普通は隣り合わせた女性を触らない。そこを踏み越える加害者は、自分の行為が相手に一生の傷を残す重大なことであると分かっていない。むしろ女を喜ばせているとまで思っている加害者も少なくありません」

 痴漢の加害者である会社員のタナカさん(男性、50)も実際、そう思っていたという。

「相手も一緒に楽しんでいる、くらいの気持ちでした」

 高校生の頃から約30年間、電車内痴漢を続けた。「通勤の移動時間を有効活用する感覚」で日常化していたという。毎朝同じ電車に乗る特定の女性に1年間痴漢行為を続けたこともあった。

 何度も逮捕された。警察の取り調べでは、「被害者はミニスカートだったのか?」「性欲がたまっていたんだろ?」。そう誘導された。「なぜ痴漢をしてしまったのか」と聞かれることは一切なかった。勾留48時間以内に認めるとそれで済んでしまう。立件されても、弁護士を通じて示談金を払うだけだ。

「何百万円も支払い、職や妻も失った。それでも自力ではやめられなかった」(タナカさん)




アエラの記事の様子から以前すこし話題になっていた痴漢する男が痴漢を「せざるを得ない」心境を「膜」という言葉で表していたエントリを思い出してぐぐってみたらこれも田房さんのものだった。


Love Piece Club - どぶろっくと痴漢の関係 / 田房永子
http://bit.ly/1mhyCXg


一体、痴漢が痴漢をなぜするのか分からないまま3年が過ぎた時、私はある本を読んだ。「刑事司法とジェンダー」(牧野雅子著・インパクト出版会)だ。著者の牧野さんが連続強姦加害者(Y)へ長期間に渡り取材をし、刑事司法が性犯罪加害者をどのように扱っているのかジェンダーの視点から迫った、最強の名著である。その中で、Y自身が語った「強姦を犯している時」についての部分で衝撃を受けた。

=========
 Yは強姦をしようと女性を襲った際、狙いを定めて自分が襲いかかったにもかかわらず、被害者の存在に驚いたのだという。また、女性を拉致したり、女性宅に侵入した時、Yが彼女らの生活空間に侵入したにもかかわらず、彼女らがYの世界に入ってきたのだと語るのである (「刑事司法とジェンダー」より引用)
=========

 加害を起こしている側が『被害者のほうから俺の世界に入ってきた』という、普通に考えたら意味不明なYの言葉が、私が今まで見た、全ての「痴漢」の行動の説明として、成立していた。

 私にいやがらせをしてきた痴漢たちが、「捕まること、見つかること」をビクビク恐れているくせに、何の得があるのか分からない加害行為(スカートのひだをソーッとなでるだけ、とか)を自らしてくるあの感じ。犯罪をしているくせに、どこか確信のような自信のようなものを持っている感じ。こっちはあからさまに気味悪がっているのに、紳士を気取って馴れ馴れしいあの感じ。眉間にしわを寄せながらこちらが逃げると「えっ? なんで?」と、意外だ、みたいな反応をする感じ。自分が電車の揺れを利用して私の股間に手を伸ばしてきたくせに、こちらが「痴漢です!」と声を上げたら明らかに怒りを持った眼差しを向けてくるあの感じ。
 彼らにとっては、自分が相手に加害を加えているというよりも、自分の世界、自分の半径1メートルを覆う膜のようなものの中に、女の子が入ってきた、という感覚なんだ。ハタから見ると充血した眼で股間ふくらませて女の子に不自然に近寄ってるだけなのに、彼らの頭の中では女の子のほうが誘ってきてる、くらいの感覚なんだ。私を家まで送って欲しいとか、私に触れて欲しいと俺は頼まれている、くらいの感覚だったんだ。
 Yの心境と、今までの痴漢たちの不可解な言動が、あまりにも合致した。私はずーっとピースが見つからなかったパズルが埋まった充実感と、「ふざけんじゃねえ!」という怒りと、腹の底から沸き上がってくる気持ち悪さで、本を持ったまましばらく動けなくなった。 

 そのあと私は電車内痴漢に関する取材を重ねた。電車内痴漢加害をしている最中の者はやはり「自分の半径1メートルを覆う『膜』のようなもの」を持っていると感じた。自分の『膜』の中に入ってきたのは女のほうであり、なぜかその女のことを何をしてもいい「もの」のような感覚で捉えていて、そこから独自のストーリー(大抵は「女のほうが欲情している」というもの)を展開させ、それに沿って行動している。だから「相手の女性は痴漢行為を受け入れている。喜んでいる」と解釈したり、「電車の中で触られたがっているけど自分からは言い出せない女の子を触ってあげている」と親切心のようなものを持っていたりする。その行動自体は、まったくムチャクチャで一方的で意味不明なのだが、彼らの『膜』の中では矛盾がない。矛盾がないからこそ遂行できるわけだし、むしろこの「『膜』の中のストーリー」が無ければ、いくら発情状態の男でも電車内で見知らぬ女に触るなんてこと、できないはずだ。




これ自体への「なんか違うんじゃないのそれ?」感はおばけがまとめてくれてたこれでだいたい足りるように思う。


「膜」では「なぜ痴漢は痴漢をするのか」を説明できない - 最終防衛ライン3
http://lastline.hatenablog.com/entry/2014/08/21/094116


「すべての妄想は必ず実行されるものではない」「妄想は自由(人の内心は自由)」はヲタにおけるロリ嗜好擁護とか想わせるけど、別の文脈繋がりそうなのでそこは置く。

自分もついったでこのあたりの違和感(特に田房さんがどぶろっくの「もしかしてだけど?俺に気があるんじゃねえの?」的なネタにまで過剰反応していたところ)についてちょろちょろ述べたけど、めんどくさいから掘らない。

たぶん、「痴漢するものが痴漢するのはそのものの主体的意志というよりはなにか強いられているような病気的なもの、中毒的なものであり、その感覚を表現したもののひとつとして『膜』という概念があるかもだけど、それで痴漢者すべての内的感覚 → 痴漢実行理由を説明できるわけではないし、それをもって男性を理解しようとするならさらに危険だ」みたいな話だったと思う。

ちなみに、いちおいっておくと自分は痴漢者を擁護するものではないし、痴漢という行動の合理性というか実際の効用が理解できないので甚だ非合理的なアディクションなんだろなあぐらいにしかおもってない。具体的にいうと電車で女性の尻だの乳房だの撫で回したとしてそれが生理的にどういう気持ちよさがあるのか?エロい気持ちになってその先にいきたくなってもだいたいにおいてセックスまでは持ち込めないだろうから悶々とするだけだろうし、、だとするとおっぱいパブ的なおさわり感の無料ラッキー程度のそれなのかもだけど、おっぱいパブも同様の理由でわからない。。(「行ったことないなら行ってみなよ案外おもしろいよ」とか言われたことあるけど前述の理由を言ったし、まあ「案外」というところで世の男性と別のところで面白みを見出すかも、ぐらいな保留)。

端的には、欲望がフェチ - 物象化し自らの内的エロスの充溢から離れ、「これはお得」「エロいものなんだ」という幻想のために触ってるのだろうな、ぐらいな理解。

グルメ雑誌の言葉に幻想されて、その言葉や値段的に「おいしい」という理知を遂行するけどほんとに実感として美味しいということを経験できているのか怪しいひとたちがいるけれどあれと似た感じ。


痴漢というのは世間で作られたステレオタイプ的な男性的エロに酔って、それが中毒になってオーバードライブしてるのだろうな、ぐらい。



そういう理解だったんだけどたまたまこれ読んでて、背景となるものについてのもうちょっと大きめな構造について説明があったので転載的にお報せしとく。いちおゆっとくけど「お報せ」であって自分はこの理解に全て首肯するものではなく「そういう見方もあるかもなあ。。まあわかりやすいし」ぐらい。なんか気になるんだったら自分で該当図書読んでみると良いと思う。(いちお言っておくと引用のためにタッチタイプするのも時間かかるしけっこう大変なのでそのへんの労力は推して知るべきだと思う)



ものぐさ精神分析―二番煎じ (岸田秀コレクション) -
ものぐさ精神分析―二番煎じ (岸田秀コレクション) -



人間においては、性欲は、何よりもまず、失われた自己を取り戻そうとする企てとして現れる。フロイドが人間の性欲の最初の段階を自己色情的と定義したのは、そのような意味においてであったと考えられる。すなわち、はじめから異性を求める衝動として現れる動物の性欲とは異なり、人間の性欲は、自己の世界閉じこもって最初の満足を知る。そして、この時期の自己とは、まだ対象と区別されていない自己であり、したがって、対象によって限定されず、すべてを含んでいた。個人の人格発達の過程、自己形成の過程とは、主観的観点から言えば、すべてであった自己、無限であった自己が、徐々にあるいは急激におのれの領域を失い、狭められてゆく過程であり、現在の自己の背後には、あるいは自己の一部となったかもしれない無数の挫折した可能性の死屍が累々と横たわっている。そして、かつて無限であった自己の世界のなかで最初の満足を知った人間の性欲は、これらの失われた自己を取り戻し、かつての全体的自己を再現するかぎりにおいてしか、ふたたび満足を見出だせない。



男または女になるということは、男または女としての自己を形成するということである。男性器をもった者に男としての自己が、女性器をもった者に女としての自己が自動的に形成されるわけではない。肉体的には男に生まれながら、自分は女であると確信し、その確信に合わせて肉体の方を女につくり変えようとして手術を受ける者がいることからも、それは明らかであろう。われわれは、人格発達の過程において、自分が男または女であると信じさせられてゆくのである。


われわれが、自分を男または女と信じるようになるためには、まず、周囲の人びと(主として両親)がわれわれを男または女と認め、男または女として扱い、そして、男とはいかなるものであるかについては父親(またはその代理)が、女とはいかなるものであるかについては母親(またはその代理)が、そのモデルとならなければならない。われわれは父(母)親と同一視して、父(母)親像をわれわれの自己の基盤とし、かくして男(女)としての自己を形成し、父(母)親のリビドー対象たる母(父)親をわれわれ自身のリビドー対象とする。これがいわゆるエディプス・コンプレックスである。



引用めんどくさいので省くとこもあるがこれに関わる仮説については以下で端的に箇条しつつ、それらがいくつかの仮説の連結であることに注意したい。

<人間は本能-性欲が壊れている>

<全的な自己が壊れた人間は喪われた半身(自己)を性行為に求める。個人に寄ってその手段が異なっているに過ぎない>

<全的な自己が壊れた人間の性欲の最初の段階は自己色情的、つまり本来自慰的なものである>

<その段階では女性も男性もなく、女性・男性などといった性別は自動的に形成されるものではない>

<そのため最初から幻想を持ってしか異性に対して性欲を抱けないし、幻想を元にして性行為に至る>

<それらの幻想と馴化を通じて人は男性・女性となっていく>


「本能が壊れた」人間にとって異性愛はヘンタイ的な特殊行為であり、一定の幻想を持ってしか成し得ない、ということ。

この「本能が壊れた」「本能」というものの定義自体が現在だと曖昧なのでそもそもこれらの仮説の根本が揺らぐところはあるし、それがゆえにか、それに連なる説に沿ったとしても現実的にはびみょーな不整合、違和感が現れることがあるのだけれど、それでも仮説として強力な説得力-説明範囲を持つように思う。


<エディプス・コンプレックスは男の子の初期のリビドー形成なパターンであり、リビドー対象が後に母親から他の女達に移し替えられていく>


これについては旧来のパターナリスティックで父権の強い家庭であればそういうこともあるかと思う。そういった環境では内向的で自慰的なセクシャリティの延長として母親があるのかもしれない。つまり幼児期に母親が自分の身体の拡張として錯覚されている(他と自の区別がつかない)ことの派生として、自慰的性欲対象の延長として母親がある、ということ。

そこでは母親への性欲は自慰の延長ということになる。

そして、自慰的異性愛の延長として他の女達を求めるようになる、、、ということなのだけれど。


これを女性に置き換えると論として破綻するように思う。

父親へのあこがれ、ファザコン的なものがあるとしても、それが幼児期の自慰的性欲の延長かというと「?」となる。幼児期に給餌をしている-乳房を与えているのは往々にして母親だから。


まあそんなかんじで軽い突っ込みどころはいろんなところであるわけだけれど論を進めよう。

(加えていうとこの段階での個人的興味としては以前から自分のなかにあった「喪われた半身を取り戻す」というイメージ-テーマ、「同性愛者の一般的な家庭事情として、父親がいないか離れていて息子に対して無関心で性格的に男らしくなく母親と息子との結びつきが極端に緊密(ヘテロなパターナリズムとその反発としてのヘテロ志向が発動しにくい)」、女性にとって男性器への執着-フェラティオは乳房の給餌的な面があるのではないか?的なことがこのあたりで関わってくるように思うけど置く)



人間の性欲は、失われた自己を取り戻し、全体的自己を回復した閉じられた世界のなかでしか満足を見出だせない。いわゆる正常な異性愛も、同性愛も、その他の性倒錯も、全体的自己を回復するための手段であり、個人によってその手段が異なっているに過ぎない。性対象とは失われた自己である。性対象は、われわれの失われた自己を、秘部として隠し持っている。われわれは性対象を誘惑し、彼が隠し持っている秘部をわがものとすることによって全体的自己を回復し、そのようにして築かれた幻想のエロス的場面のなかではじめて性的に興奮する。性交の際のさまざまの愛戯は、性感帯に生理的刺激を与えるためというより、性対象のもつ秘部をわがものにし、場面をエロス化しようとする試みである。いわゆる正常な異性愛の場合であれば、男が性的に興奮した男を演じ、女が性的に興奮した女を演じ、合体して一つの全体的自己を演出し、共同の閉じられたエロス的場面を幻想的に現出させなければならない。そのように演技しているうちに、実際の性的興奮が訪れてくるのである。



この辺りについて、自分はそういった興奮や演技から遠いのでたぶん彼女たちは(´・ω・`)というかキョトンとしたところがあったのだろうなあとかおもふ(そして後述するマゾヒズムにおける全的興奮との関連につながる)。





現代人の性が商品化された性欲にドライブされた惨めなものである理由、エロメディアに載ったわいせつで低俗で幼稚で薄っぺらでラグジュアリーとは程遠い惨めな性のシンボルに男性が群がり、またその男性的性欲に阿るように女性も惨めな性のシンボルを演出していく貧しさ、セクキャバでヌキが一本いくらとか、パチンコ屋の便所でどうとかな闇金ウシジマくんでいうニギニギニギニギ的な情況を男女ともに生きてしまう理由として。


人類が進化のいたずらによって自然な状態では生存できなくなったとき、それまでは必要でなかった労働が必要になった。人類の赤ちゃんはその養育にきわめて長い期間を要するようになったため、母親は、それに多大の労力を注ぐことを余儀なくされ、みずから生きてゆく能力を失った。
 したがって、種族保存をはかるためには、父親が子どもとその母親を養わねばならなくなった。男のなかに、このような労働へと駆り立てる本能などあろうはずもない。何をもって、男をしてそのような過重な労働をみずから進んで引受けさせ得るか。ここで、この目的のために、男の性欲が利用されたのだと思う。

(略)

男をして、本来はやらずにすんだ過重な労働を引き受けさせるために、男の性欲を遮断し、その対象である女の肉体を商品化し、商品価値をもった女の肉体を得るためには、それに見合う価値を生む労働をせざるを得なくしたのである。かくして、性行為は、両性の対等な欲望の発露ではなくなり、男にとっては、苦しい労働によって得たものを支払って獲得する快楽となり、女にとっては、男に養ってもらうために男に提供するサービスとなった。理論的には、逆に男の肉体を商品化し、商品としての男の肉体を得るために女が労働するという場合も考えられるが、人類の大勢はその方向に向かわなかった。妊娠と出産と授乳は、どう転んでも女がやらねばならないこと、女のほうが体力的に劣っていること、身体構造上、性行為は男が欲しさえすれば女が欲していなくても可能なこと、などが、男の肉体ではなく、女の肉体が商品化された理由であろう。
 人類の最初の集団である家族の成立、それを支える家族制度(婚姻制度を含めての)そのものが、女の肉体の商品化を基盤としていた。婚姻制度とは、男に、妻とそのうち生まれるであろう子供を養う義務を引き受けさせる代償に、妻の肉体を自由に性的に使用する権利を与える制度であり、いわば特定一者を対象とする売春である(もちろん、婚姻制度にはそれ以外の面もあるが)。当然のことながら、不特定多数を対象とする売春も婚姻制度の成立と同時に発生した。婚姻と売春とは、女の肉体の商品化という共通の前提に立っており、婚姻外で、すなわち容姿を養う義務を引き受けずに女の肉体を得ようとする男に何らかの代償を払わせなければ、婚姻制度そのものが崩壊する。




いわゆる原始段階からの性的役割分担の措定、売春って婚姻制度と同時だったか?ということでびみょー感あるけど、まあおーざっぱには理解しやすい。

端的には「男に働かせるために男の性欲-女の性が餌とされた」であり馬車馬の前に吊り下げられたニンジンということ。

現在でも「ふつー」の家庭における結婚と労働の関係とか見ると上記のようなことを想う。(ex.あいつはそろそろ身を固めさせよう - 結婚してると社会的信用が高まる)


一般的な男はこういった性のご褒美を目指して働く-出世する。

そして、そのご褒美を商品として消費する。

逆に、このご褒美が得られる - 憧れの女との性交が己が出世したり金や地位を得られることによって達せられるとそれに慣れ飽きてしまう → 女を消費し、離婚を繰り返し、高い慰謝料を払ってでも自分の出世欲-労働意欲をかきたて保持しようとする、ということもある。そしてそのような男たちが世間的には「有能」とされる。




人間の性活動の最初の形態は、男においても女においても、自己しか存在しない世界のなかでのいわゆる自己色情、マスターベーションであり、他者を発見してのちも、一個の主体的存在としての他者を求めるというのではなく、自己の一部としての、自己に従属するものとしての、言ってみれば、マスターベーションのための道具としての他者を求めるに過ぎない。自己というものをもつ男は、たとえ女と性交しても、膣を使ってマスターベーションをしているに過ぎない。人間の性活動の基本は、あくまでマスターベーションにある。
 人間の性的欲望が失われた全体的自己を回復しようとする企てであるかぎりにおいて、この全体的自己のなかに二つの主体はいらないのである。邪魔なのである。動物の雄と雌との場合のような、自然な関係のなかでの自然な性活動は、人間においてはもはや失われてしまっている。自己というものを確立し、自己という幻想に執着する人間の場合は、性対象をおのれの欲望の対象としてとらえることしかできない。対象とは、ものであり、おのれの快楽のための道具であって、主体ではない。



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それでは、性対象として他者を求めず、自分一人でマスターベーションをすれば、他者に私を物化さえる危険もなく、性的満足が得られるかというと、そうはゆかない。限定された自己が一人でするマスターベーションは、全世界が自己であったときのマスターベーションとは異なるからである。他者は自己に従属せず、男のところに厳として存在しており、自己は、他者に拒絶された貧困な、孤独な、限られた自己でしかなく、そのようなマスターベーションでは、生理的快感はあるかもしれないが、全体的自己の回復によるナルチシズムの高揚にもとづく深い情緒的満足は得られない。人間の性的満足にとって、生理的快感は本質的なものではない。
 したがって、性的満足を得るためには、私は、主体としての他者を必要とし、その結果起こる他者の主体との衝突を解消するため、いずれかの主体を消し去らねばならない。他者の主体を消し去ろうとするのがサディズムであり、私の主体を消し去ろうとするのがマゾヒズムである。いずれの主体を消し去っても、その目指すところは同じであり、とにかく、他者と私とがいる場面のなかで一つの主体のもとでの全体的自己の回復が演じられればよいわけである。サディズムとマゾヒズムとは、一見正反対のようであるが、全体的自己の主体を自分の側にとどめておくか、相手に付与するかの違いしかなく、マゾヒストが相手に付与した主体は、あくまでマゾヒスト自身の主体であって、相手その人の主体ではない。マゾヒストが相手を一個の主体的人間として尊重しているのでないことは言うまでもない。マゾヒストは、自分が書いた筋書きにない仕方で相手に侮辱されれば、本気になって怒り出すであろう。




個人的にいくつかの場面が想い出される。

「マスターベーションのほうが生理的快感としては上なんですけどね」といったときの彼女たちの「(´・ω・`)」とした表情。

マゾヒストの彼女の満足というのは彼女自身も説明しにくいものだったようだけどこういったものだったのだろうし、自分はそういった幻想、性的場面における全的なものへの指向が彼女が求めるものとは異なっていたのでうまくリンクできなかったのだと想う。

そして、たぶんそのような幻想は男性のステロタイプ的な性的指向、加虐性がオーバードライブした性向の女性版ということになる。女性版というか、受動的役割を担うほうの幻想。

前述もしたけれど自分は性的場面においてもそんなに興奮に身を任せることがないので。むしろ冷めてしまうし、そこに悲しみと慈しみのような感情が生まれる - 「なんで、そんなにやさしい顔でみるの?」







そういう感じ。


最初にあった痴漢における「膜」というリアリティはこういった自己の主体とは別に強いられている指向性であり、それらは人類の労働-性欲の構造から設定された性欲の指向・幻想がオーバードライブしたものといえる。その界では女性は商品として加虐的に苛むことがコード的に是とされるので彼らはそれに従ってるだけなのだろう。なので、その場面における彼ら自身の生理的快感は貧困なものである、のに対して、幻想的快感はみょーに高まっているのでそういった状態に至っていない他者からするとキョトンとするような、説明しにくい情況が発生する。


痴漢までオーバードライブしなくても一般的な世の男性の性欲と性指向は商品化された性指向のリストにしたがって加虐性を内包する。

男性のステロタイプ的な性指向 - 嗜好を恐れる女性たちはそこに含まれる加虐性を感じ取り、ステロタイプ的な女性(被虐を甘んじて受けるのが女性のあり方)という幻想に自己を押しつぶされないために対抗言説をもってその加虐性に抗おうとしてるのだろう。あるいはそういった幻想をもった男性たちに依る直接的な性暴力への抵抗。

それ自体は強いられてるもの / 押し付けられてるものに対する自衛ともいえるけれど、そこには対抗的加虐性が含まれるので行き過ぎてしまうとなんか変な感じになる。

ステロタイプエロ男性 - 「変な人」 に抵抗しようとしてるうちに自分たちも別の意味での「変な人」になっていく。ステロタイプ男性に対する言説、抵抗としては有効なのだろうけど、特に多孔的にいろいろな文脈から糞リプがつくSNS時代、そういった文脈を読まずにみょーな反論がついてめんどくさいことになったり…。あるいは彼女たちが公共の場という意識なく限定された男性理解を一般的な男性理解として流してしまうからかもしれないけれど。


繰り返しになるけれど、彼女たちの男性やセクシャリティ理解というのはそういう形で最初から偏っていて、それは偏った性指向に対抗しようと作られた歪な器、凸と凹なのだろうから仕方ないというところがある。



当事者研究においてサバイバーの特殊なリアリティ、セカイ認識を許容し、頭から否定しない態度がおそらくは基本となるようだけど



最終回 症状 ― それはすでに一つの解決である■大澤真幸|かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
http://t.co/7kwijxu4v3


そういった認識はやはり世間一般 - 公共の理解(コード)とは別のもので、そういった認識にそって世間一般を語るのは間違ってるように思う。

ただ、彼や彼女たちが生きていくための限られたセカイの認識と言葉、幻想としては有効だろうけど。


岸田秀あたりだとそういったものが過剰になってしまったひとたちをして「神経症的ですね。分裂病ではないけれど」と即断するだろう。



自分的にもそういった傾向はあるせいか、そこで「ビョーキ」とラベルされ割り切られ差別されるのはちょっと嫌だなと思うんだけど。


それらは蟲師における蟲が見える人たちと似てる。


案外と、彼らの見るセカイのほうが真実のそれで、でも、それはやはり妄想かもしれなくて…

そんなことはどうでもよくて、「見えて」も「見えなく」ても、そういったモノたちをあからさまに否定したり肯定したりもせず、ゆったりと共存していけたら


蟲師 (3)  (アフタヌーンKC) -
蟲師 (3) (アフタヌーンKC) -

蟲師(9) (アフタヌーンKC) -
蟲師(9) (アフタヌーンKC) -





(ギンコの左目の残照を想いつつ)


























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関連:
女も男も怖かった - c71の一日
http://c71.hatenablog.com/entry/2014/12/20/000144

posted by m_um_u at 23:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年12月14日

君ノオト、僕ノオト




雷神(なるかみ)の

少し響(とよ)みて

さし曇り


雨も降らぬか

君を留めむ








雷神の

少し響みて

降らずとも


我は留らむ

妹し留めば












Je ne viens pas ce soir vaincre ton corps, o bete
En qui vont les peches d’un peuple, ni creuser
Dans tes cheveux impurs une triste tempete
Sous l’incurable ennui que verse mon baiser

私が来たのはおまえの肉体を打ちのめすためではない、
けもののおまえよ、おまえは一人の罪を継いできたのだ。
私はまた、みだらな髪の中に悲痛な思いをかき乱しもしない、
私のキスを支払う救いがたい憂鬱の下では。












「言の葉の庭」を見た。新宿御苑にいった関連で


劇場アニメーション『言の葉の庭』 DVD -
劇場アニメーション『言の葉の庭』 DVD -



感想としては「音楽のPV的な作りだなあ」ぐらい。自分的にはそれほどクるものはなかった(きれいだけど

PV的つくりなのでテーマソングになっていた「Rain」からつくったのかとおもったけどインタビュー読むと違ってた。

最初に「雨宿りする歳の離れた男女」というモティーフがあって、それに物語をつけていったみたい。

なので、その場面がメインであとは新海誠さん的な演出になる(男女の脳内モノローグがダイアローグとなって共振し、最後にほんとの聲として合わさる、みたいなのとか)


それらはツルッときれいで、「One more time,One more chance」なんかは自分も歌いこんだなあとか思ったけど、やはりほんとの恋愛の生々しさ、リアリティはそこにはない。少なくとも自分にとっては

生々しさというとむしろテーマ曲としてカヴァーされていた「Rain」の歌詞のほうにあった






メロディとしては90年代シティポップ的なさわやかさがあるのだけれど歌詞の内容は「忙しさのストレスの代償をセックスにもとめて相手と話してなかったら逃げられた」って話。まあだめんずである。でも、「体だけ求めてきたから嫌になった」てのも子供ぽい言い訳で、そういう欲は男女ともにあるのが性愛だから、それをして「一方的にヤラれた」「だめんず」扱いする女というのも欺瞞だなとおもうわけだけど。

一方、この映画用に書き下ろされたぽい歌詞と曲はどこまでも爽やかで





中高生の恋愛を想わせる。恋愛ていうか恋ていうか。罪や汚れを背負わない爽やかなそれ。翡翠色の、初夏の透明な雨。



でも、自分たちが普段眺めてる雨はこんな感じ




http://www.uta-net.com/movie/67197/


室内から眺める雨は波の音を想わせる。


雨は涙であり精液で、あるいは両者は同じものなのかもしれない。
(人という海から漏れ出た波のようなもの)

人が性を通じて交わるときに悲しみが生じるというのは自分に特異なことかと思っていたけど一定の感性をもった人には共通するようで

その痛みや傷、死と生と肉を互いに分かつことで互いの罪と悲しみ、過去と現実に触れていく。











うれしいのか苦しいのかわからない

ただ

儀式のようだと思った




これで死ぬかもしれない

でも

それでもいいと



泣けるのはこんな自分がうれしいからです



私はこのときはじめて私なりに

小さな死を理解しました





生きるススメ -
生きるススメ -


しあわせ -
しあわせ -


あるいは

罪と罰を救済として、その果実を積極的に食んで行く



純化する魂と巨大な矛盾・森有正『遙かなノートル・ダム』
https://cakes.mu/posts/7477
https://cakes.mu/posts/7559
https://cakes.mu/posts/7606
https://cakes.mu/posts/7660
https://cakes.mu/posts/7730


[書評]森有正先生のこと(栃折久美子): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/05/post_2e30.html




遥かなノートル・ダム (角川文庫 (5412)) -
遥かなノートル・ダム (角川文庫 (5412)) -



絶望や悲しみを基点とつつ、それらをひとつずつ消化し、自分という植物を育てる糧としていく。


我々はそのための果実を探す。







流れ着いた果実を食むと、音楽が溢れ

互いのカラダに流れる音楽を通じ、言外の理解-肯定を得ていく。





自分が性交や恋愛的付き合いをするたびにすこし傷つく、というか、がっかりする、がっかりしている自分に気づくのはまだ世の中になにかを期待してたからなのかなあ、絶望が足りなかったのかなあとかすこし思う。


でも、ネットなんか見てるとそういう感覚、精神の深度、温度な人もチラホラ見えて、まだ期待してもいいのかな?ともおもふ。

ただ、そういう出会いというのは稀有で、そういう相手としか付き合えないというのだとハードル高そうだけど


なのでてけとーに割り切って、それはそれとして処理していくのが無難なのかなあとかちょっとおもったりする。











ぼくらは

罪や貸しを背負わず

「オトナだから仕方のないこと」とせず

相手を請うことが

相手を思うことが

できるのだろうか?



(なにか理由がなくても君に寄り添えるのだろうか)




君ノオト
僕ノオト






--
関連:
人は海、性器はその残照: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/410389426.html

「闇屋になりそこねた哲学者」を読んでお勉強したくなった: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/408259456.html





少年少女 4巻 (ビームコミックス(ハルタ)) -
少年少女 4巻 (ビームコミックス(ハルタ)) -

posted by m_um_u at 11:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年12月10日

人は海、性器はその残照


なんか書き残しな感じがあるのでもうちょっと。

この辺りの話って最初は「女性の身体てそんなに『きれい』な対象なのだろうか?」て思ってたところからだった。


イノセンス: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/410368952.html


特に性器。




性器について、すこし冷静になって理性的に考えれば男性器も女性器も清潔ではなく、なにか野蛮で動物的で、霊長類の長みたいに自負してる人類が身につけているものとしてはふさわしくない。

みょーな突起でみょーな陥没。不格好

なので自由に身体が選べる-デザインできるのだったら性器はいらないと自分は思っていた。

また人間の男女の性交についても同様で、自分はメディアを通じて人間の性交渉の具体(男性器を女性器に挿入して摩擦運動で快感を催し射精し受精する)を識るまで、セックスというのはおしべとおしべが軽く接触し必要な物を交換する程度のものだと思っていた。

それが後に人間があんな野蛮なことをする、、とくに女性器というのは穴なのだと識ってしばらくショックだった。

ちなみにこのときのショックは小林まことさんのおっさん向け漫画に印象するに思う。男性器をまつたけかなんかで表していた。

こういう感性、人のセックスというのはおしべとおしべが、的なものというのはヘンリー・ダーガーにも共通していて、彼もショックを受けたらしいというのは最近知った。



男性器も女性器も不格好で不器用で滑稽で不潔。

特に女性器は男性器に比して内性器がそのままむき出しになったようなもので不潔。

この「不潔」というのは自分の印象だけの問題ではなく、実際に性器周りの衛生問題としてあると思う。

男性器のほうが出っ張りなだけまだ洗いやすい(粘膜と海綿体なのでごしごしとは洗いにくいけど)。

性器を洗うということについては教育的にもデリケートな面があるみたい。あるいは愛情的にも。

男性器-おちんちんのほうはそれでも母親がそれなりに教えて上げるところが多いみたいだけど、女性器は意外とゾンザイにされてるみたいで、そこの母娘という特殊関係が介在するからかなとかちょっと思うけど、愛情みたいなのもここに絡んできてすこしこじれてくる。

なので「自分のまんここわい」「不潔」というヴァギナフォビア的な問題がそのまま愛情の欠損-渇望にも関わり、こじらせ女史的問題の文脈に関連してくる。そしてセックスに依存とか自己肯定感の回復とか自信がどうとか関わってくる。そういうのは女性器-女性だけではなく男性にもある問題だけど、女性のほうがそういう面は強いのかな。




フェミ系のひとたちがここでみょーに性器を表象するのはそういった文脈で、「(自分の)まんここわい」≠「自分に自信がもてない」 → 「まんこをもっと肯定しよう!」≠「自分をもっと肯定しよう!」となってるから。

なので彼女たち的には女性の正統な自己肯定感の回復運動て感じなのだろうけど、俯瞰すればたぶんこじらせ女史問題の系譜なのだと思う。



乳房-おっぱいも准性器ではあるけれどヴァギナと違って不潔がたまりやすいところでもなく、消費市場とメディアを介して「乳房は女性の象徴」-「美しい」という通念が浸透したように想われ、実際自分もその影響を受けてるので特にこういった問題が生じるとは思ってなかったのだけれど、ついったほかでうれぴっぷるの様子見てるとそういうことでもないみたい。おっぱいコンプレックス。

うれぴっぷるの場合は過去の事件の影響とか、彼女の育ってきた環境の影響とかがあるのかなと思うんだけど、女性一般にもおっぱいコンプレックスというのはあるのだろう。「きれいなおっぱい-きたない(不格好)なおっぱい」な問題。


メディアを通して見られるおっぱいのほとんどは理想的なおっぱいの形で、おわん形を基調としつつきちんと整って張りがあって、見栄え的には巨乳だったり、ボリュームはなくても美乳だったりする。そしてきちんとシンメトリー。

でも一般の女性の乳房はそんなに理想どおりでもなく、だいたいの女性の乳房はなんかみょーな凹みがあったり不揃いだったり、みょーに乳首が大きかったり黒かったり、乳房も垂れてたりする。

乳房というのは脂肪を主としてるのだから垂れてるのは当り前なのだけど、メディアを通じて刷り込まれた「理想の張りのあるおっぱい」の形が男性のみならず女性にも思いのほか影響しているのだろう。





そんな感じで女性器も准性器である乳房も元来はそんなに美の対象でもないのだろう。それが消費市場とメディアを通じて当然なものとして通念化してる。


それに対して、女性ということの生得的なうつくしさ、女性ならではのうつくしさみたいなのってあるのだろうか?-あるだろう。


自分的にはそれは独特の曲線で、ウェストンが砂漠やキャベツを通じて表現してみせたものに近い。




あるいは、中世あるいは古典絵画に見られる女性美の感覚。ふくよかさと豊満さ、やさしさと包容力の象徴的な。


そういうものが元来の女性のうつくしさではないかと思う。

それ自体も同時代の文化的背景があって作られた価値観ともいえるかもだけど。




唇と外性器、特に女性の口紅とそれは象徴的に思う。


小陰唇、大陰唇という名前にもあるように女性器の構造は唇のそれと近いのだろう。


それがそのまま素の状態であるときは(口の)唇も性器の唇も似たようなみすぼらしさ、さびしさ、素朴さのようなものを感じさせる。

なので性的な愛撫の内容も両者に共通するものとなる。



唇がそのままの状態であれば体内へ逃げ遅れた内臓の残照程度の滑稽さを感じさせるものだけれど、ある時期から女性はそれを紅く塗る。紅、あるいは彼女たちの好む色で飾る。

それは現代社会の常識的な美の外装-常識としてのおしゃれの一貫ということで彼女たちの大部分に特に深い意図や感慨はないのかもだけど、象徴的には「顔にある性器を紅く塗る」-「わたしはもう性交ができる器が整いましたよ」ということなのだろう。特に調べてないけど古来、紅を塗るとはそういうものだったように思う。


(なのでそこでも下着問題同様、母親による管理と母娘の闘争、確執が生じる ex.「あら、あんたこんな派手な色の、、」「まあ、この子もう口紅してるわ。いやらしい、、」)



人類学的に考えれば上半身の唇に色を塗るのと同じように下半身の唇にも色を塗る文化があってしかるべくように思うけど、そういうものは自分の知る限りではない。

ヴァギナ周りの毛を整えたり無毛にしたり、あるいはヴァギナの色素を抜くなどはあるようだけれど、ヴァギナそのものに紅をさす、とかはないみたい。

あるいは刺青的文化圏ならそれに近いことは行うのかもだけど、刺青の場合は身体全体の装飾の一環として性器にも色や文様を入れるのだろうから「唇だけ強調」というのともすこし違う。

余談だが小児段階での性器周りの手術というのは、機能的には「衛生のため」としつつも象徴的には刺青的なイニシエーションの意味合いを持つように思う。色や文様を彫らない刺青。そこでは性-成熟が管理-統制され、その証として文様が呪される。




女性のフォルムは生得的に美しいのか?という話の続きとして、自分的には女性というのは花のように想える。

花と同様に花弁という外装を飾り、上の唇と下の唇に誘う。

またその佇まいや全体のフォルムも花っぽい。

そういう意味で生花(いけばな)というのはエロティックだなあと思うのだけれど未だ初めておらず、ちょこちょこと道端の花をパパラッチしてたりする。


女性が花なのに対して男性は樹のような感じ。

男性的美というのは筋肉、アウターマッスル的な大きな筋肉のように想われるけど、それは草ではなく樹木の外観-美しさに似てるような。


そうすると人間的なうつくしさというのは男性的-樹木的なうつくしさ + 女性的-草木的うつくしさを兼ね備えたものなのだろうか?



美学文芸誌「エステティーク」Vol.1 特集:美 -
美学文芸誌「エステティーク」Vol.1 特集:美 -

フランスの作家ペラダンは、「女性のことを美人などと言うけれども、美と性の間に確かな関係は何もない」と指摘する。美は性から解放されている。美しさは、男女を超越したところ、男女の性差を解消する性的総合においてしか認められない、というのである。

つまり、この系譜では、美が男性性と女性性の両原理が互いに混ざりあい調和している存在、すなわちアンドロギュヌスとして描かれている。そして、このじつに魅惑的な両性具有者は、突き詰めれば、始原の天上的な全体性の寓意と読み解くことができるだろう。

もう一つ特異なのは、性の完全な調和にまで至らずに、美が女らしい容姿の美青年として表現された点である。ここで、その逆でないことに注目したい。つまり、男らしい容姿の美女ではけっしてなかったのだ。現代フランスの作家モネイロンに従えば、おおむね次のようにまとめることができる。

ある青年のうちに見受けられるすこぶる女性的な顔立ちや物腰は、予想に反して青年の男らしさをまったく否定するものではない。彼を究極の理想のほぼ完璧な例証たらしめる男性的特徴にそっくり付加される。

それにたいして、ヒゲの生えた女性のように、男らしさが顕著な女性の場合はまったく事情が異なる。というのも、今度は男性的な容姿が女性の本質につけ加わらず、その反対に女性の本質を否定してしまうからである。こうして女性の本質はあたかもすっかり失われてしまうかのようである。しかもこの喪失は取り返しがつかず、修復できそうにない。

(田中雅志、「アンドロギュヌスの美の系譜」)





ヒゲのOL薮内笹子 (Bamboo comics) -
ヒゲのOL薮内笹子 (Bamboo comics) -


アラステア

アンドレイ・ペジック



自分的には理性−合理的な美しさの究極は無性であること、性別の突起や陥没がないことに思えるけど、それと反対だと女性的フォルムを基調に男性的機能をもつことがうつくしさとされるぽい。

それは悪魔的だなとなんとなく思うけど、悪魔を欲望-欲求の集成としたとき、性器のでっぱりはその証であり誇りなのだろう。人であること、あるいはその欲望をとことん肯定するということ。(なのでたぶんほむら最終版には男性器がついてる









あるいは性器は貝にも似てる。

個体発生は系統発生を孕み、人は身体に海を持つ。

そのことを示す徴として、そのことをわすれないためのよすがとして、性器という凹凸が遺されたのかもしれない。


posted by m_um_u at 05:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年12月09日

イノセンス




孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく。林の中の象のように。



生死の去来するは棚頭の傀儡たり一線断ゆる時落落磊磊



寝ぬるに尸せず。居るに容づくらず。
未だ生を知らず。焉んぞ死を知らんや。
理非無きときは鼓を鳴らし攻めて可なり



人は概ね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ。



個体が創りあげたものもまた、その個体同様に遺伝子の表現型。




人体は自らゼンマイを巻く機械であり、永久運動の生きた見本である



いかに泰子、今こそは しづかに一緒に、をりませう。





バトーは生きた人形である
腕も脚も
その身体のすべてが造り物
残されているのはわずかな脳と
ひとりの女性の記憶だけ







「2501」…それいつか再会するときの合言葉にしましょう






























ついったでなんとなく女性的義体の話をする。

前段階として自分のセクシャリティや感性が世間一般的な男性のエロ(メディアで作られるそれ)と違ってきていて、というところがあったのだけどそこは今回語りたいことでもないので省きつつ。

理性的、合理的に考えれば性別、セックスというのは邪魔で不合理なもので、それを自分でhack出来るようになれば性別のない身体を選ぶのが合理的だろう。そこから考えれば現状、男体も女体も不合理なもので、それぞれがそれぞれに無駄な突起を持っている。性的に不格好な突起。

人の文化はその不格好さを却ってセクシーなものとして加工してきた。

女性器にそれは顕著で、准女性器ともいえる乳房をめぐる表現というのはそういう感じ。ここでわざわざ西欧社会における乳房の強調文化が生まれた過程、そこから順に「グラマラス」「セクシー」「トランジスタグラマー」なる性的表象が生まれていった過程は省くけど。

男性器にもそういう傾向は在ったけどアフリカあたりでとどまり西欧社会→現代社会に拡がらなかったのは男性中心の消費社会と消費の対象としての性-女性の関係かなと思う。これも今回の主題とは違うので省く。














自分は自由に身体、義体を選べるのであれば合理的には無性別の身体を選ぶだろう、けれどそれだとおもしろくない-遊びがない、ので遊びのために性別を残すかな、とも思う。

攻殻機動隊の主人公草薙素子がわざわざ女性のフォルムを残した、そして漫画版では女性的性感を残したのは、漫画的なご都合、あるいは作者が単にそういうプチエロを描きたかっただけという事情を除いて「そこに素子の主体的で合理的な意志と選択があったから」と仮定したとき「素子にも似たような感覚が在ったからかな」と想わせる。すなわち「無駄と余白として性を残した」ということ。

元からサイボーグである素子の感覚、人生観とは少し違うのかもだけど、完全な身体、性や痛み、快楽といった「無駄」をなくした身体と言うのソリッドステートならぬ有機体の脳では発狂するところがあるのかもしれない。このあたりの理屈はよくわかってないけれど、幻肢のときの感覚-機構とも関係するのかなと身体論とか思いつつ。

有機体としての無駄-多様性のよすがとして素子は性-セックスを残した。

感情もそれに準ずるものなのかなと思う。そして恋愛感情も。

バトーが素子に寄せるそれは世間一般の恋愛感情という括りからするとそんなに単純なものではないのかもしれない。

「イノセンス」はバトーを介した「ゴドーを待ちながら」であり、ネットにつながり完全体になってしまった/なってしまう手前の素子を通じて「ひと-ひとのたましい(ゴースト)-こころとはなにか?」を問うことが大きな主題となっている。

だからバトーが待っているのは一人の恋愛対象としての人格としての素子という女性というだけではなく、神-完全-永遠の象徴とも言える。

しかし、この映画が切ないのは、その永遠をバトーが望んでいないところにある。

素子が神、あるいは神に準ずるものとしてネットに完全に融けること、バトー自身もそこに融けることは合理的には救済といえる。しかし、バトーはそれを選択しない。

一人の女として、あるいは「女」という性は関係なく素子そのものに留まって欲しいから。しかし同時に素子が求めるところに行かせたい/行かせるべきという自律もある。

そういった感情面でのアンビバレンツのみならず身体も肉の体とキカイノカラダの中間という両義性、中途半端さを抱えているのがバトーという存在で、その不格好さ、不器用さに男性的な無骨な愛情を感じて切なくなる。

神の定めた完全の依代-人形-傀儡として生きる、のではなく、不格好でも自立して歩くということ。

そして、おそらくその愛も恋愛感情として報われるものでもなく、そのことをバトー自身が是しとしているのだ。


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スピカ 〜羽海野チカ初期短編集〜 -
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小林/秀雄 (講談社文芸文庫) -
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これは、ある意味では、彼が「他者」を求めようとしたことからの、当然の帰結であったかも知れない。かぎりなく自由であるべき「純潔」な「個人」となったとき、不毛な喪失感に噛まれつづけねばならなかったことを彼はすでに識っている。

しかし、

彼の周囲には「秘密」の重みを識った「他者」はいず、彼の言葉は対話に構成されることがない。このようなとき、人はその孤独の代償として、架空の有機的な体系を求めねばならなくなるのである。
日本の「近代」が「伝統」に接合する事情がここにかくされている。

あるいは、

そこで個人主義者が政治的に保守派に傾かねばならぬ事情がここにある。




中也の奔放で呵責のない純潔-自然に対して小林秀雄がランボオを経てたどり着いた純潔と自然。

そこではまず神は死に、それに準ずる他者は居ず、対話の縁を喪った彼の言葉は真空に投げ出された。

その孤独の代償として、小林秀雄は日本的伝統の保守へと回帰していった。


バトーと素子、あるいは我々、デジタルエイジが見る夢は、そういった伝統も故郷の宛として喪ってしまったのかもしれない







それでもなお

そこにはまだわれわれなりの純潔があって

そこからなにかが

はじまるのかもしれない

















--
関連:
是枝裕和, 2009, 「空気人形」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/134634431.html


posted by m_um_u at 20:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年11月30日

うつくしい日々





君を夏の一日に喩えようか。

君は更に美しくて、更に優しい。

心ない風は五月の蕾を散らし、
又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。













めんどくさい本の休憩的に読み始めたのだけれど思ってたよりもよかった。


父・吉田健一 -
父・吉田健一 -


全体はフランス翻訳家吉田明子さんの父、吉田健一に関するエッセイを集めたものを主とする。文体・文章としては「ことばの食卓」ぐらい。なので特に疲れることもなく水のように読めていく。

それもあって内容的にそんなに期待してなかったのだけれど、この本の良さはそういうところではなく父吉田健一に対する暁子さんの尊敬と愛情がぢわぢわと伝わってくるところにあるのだなと思い直した。

吉田健一について、その評価はびみょーなところで、世間一般からすると同世代の巨人たちに比してなんとも特徴のないおっさんという感じなのだろう


1910年 白洲正子 白川静 保田與重郎 竹内好
1911年 中村光夫 椎名麟三 花森安治 森有正
1912年 檀一雄 武田泰淳 吉田健一 福田恆存
1913年 杉浦明平 新美南吉
1914年 深沢七郎 丸山眞男
1915年 梅崎春生 野間宏 小島信夫 山本夏彦 戸板康二
1916年 五味川純平 大西巨人
1917年 朝吹登水子 島尾敏雄
1918年 中村真一郎 堀田善衛
1919年 鮎川哲也 水上勉 吉岡実 安東次男 加藤周



そして三島由紀夫や小林秀雄


吉田健一の時代|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nd037e7e8eb62


ここでは「吉田こそ本流・大文学者」のようなことを書いてしまったけれどそこまでのことでもなく、やはり仕事としてはそんなに印象的なものもないのかもしれない。「よおろっぱの文明」はちょっと読んだけど、当時ならいざしらず現在の歴史学的には間違いが多いし。それでも、吉田の良さというのはそういうところにあるのではないのだろう。

「一等賞はくれてやる(自分は取れない)」という状態を特に葛藤もなく受け容れ、その上で自分の中の美学を貫いていく、というような。・・これもちょっと違うか。単純にいうと粋ということだけど。


父、吉田茂という強烈な個性と父性、時代のパターナリズムの象徴的存在ともいえるものをまさに父として持ち、そこで自分を確立していった吉田の在り方を想う。



「日本人は父を失った人々だ」というのは象徴的にあるのだろうけど、外交官→首相と生きる吉田茂-健一家はもっとモーレツに、現実的に父親不在だったのだろう。もっとも吉田の自我、あるいはそれ以前の発達心理的な心理過程は吉田茂の家ではなく牧野の家で育まれたものだったのかもだが。


嫌が応にも意識せざるを得ない「男として生きる」みたいな使命感。それを吉田健一はどのように引き受けていったのか。


主題の反復になるが、吉田はそれを受け流したのだろう。



「(こうしなければいけないと)ただしく生きる」のではなく「うつくしく生きる」方向へ。



論理的、内容的に正しかったり、強かったりお金持ちだったりしてもそれは勝利といえるのだろうか?人生というものさしにおいては。

あるいは、人生において勝ち負けなどもとからないし、あったとしてもそれは自分の中の納得だから。

最後に、死ぬ直前に自分が納得し、何を持っていけるか、ということ。



そこから逆算すればだいたいのものは無意味で、、でも、だからこそ意味を持つものが残されていく。





「持てない」ではなく「持っていない/持たない」への思考のシフトというか、、いろいろな余計なものを削ぎ落した余生として人生があると考えれば、そこで慎ましく生きる人々の在り方もひとつの美学といえるようになるのだろう。


棒がいっぽん (Mag comics) -
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(無駄に)持っていないことが余白の芸術なのだ。






そして、酒はその余白に澄み切った豊穣を行き渡らせる。





一人静かに盃を傾けていると、たしかに自分と周囲が、過不足なく当り前のまま充実してくる。ただそこにあった湖の面にいつか夕日が、無数の金の灯を踊らせている。最晩年の作『時間』の初めには朝日が「流れて」いるが、一日の移ろいで父が愛したのは夕方だった。



退屈だから時間を潰すために、と誤解されては大変で、日々のいろいろな雑念から離れ、自然に湧いてくる想いに身を委ねられれば、我々の日々の営みとは別に絶えず流れ続ける時間と、意識が一つになるということだ。一人静かに飲んでいると、時が経っていく。生きているという自分が過不足なく、ただそこに在る。

父は私が三十二の時に六十五で逝ってしまったが、それでも二人だけで飲んだ記憶はある。今一人で飲む時と同じように、その時も時間は静かに流れていた。



父が酒について言ったことでもう一つ、これも父だけが言ったわけではないだろうと思うが、飲み続けていると頭が冴えてくるというのがある。雑然とした頭の中が収まって、蛇行する川の流れのように想念が流れ始め、その流れにしっかりと乗っている自分が感じられるようになる。私が、生きている限り酒を飲みたいと思うのは、飲んで人と居る時も、飲んで一人で居る時も、その「居る」ということと自分が全く一つになるからだ。









暁子さんの吉田健一語りを読みつつ、河上徹太郎ほかの交流の様子の豊かさ、あの時代の大人の男たちの落ち着いた交流の様が目に浮かび少し前に読んだ木田元さんの交流の様子や鈴木鎮一さんのそれを想った。

「おもひでぽろぽろ」とか「コクリコ坂から」、「風立ちぬ」の空気感。

過不足ない勤勉さ、慎ましさが静謐な空気を感じさせる。


パターナリスティックに、あるいは言外に圧力される「正しさ」の暴力とは別にそういった形のただしさ、というか、うつくしさのようなものがあるのだろう。



うつくさそれ自体がパターナリスティックな標語になったときナチズム的なファッショを想わせるが、そこに必然はなくたんなる勘違いがあるだけのように思う。


田中智学-宮沢賢治が目指したものはそういったものだったのではないか?(あるいは三島が守ろうとしつつもズレてしまったものたち)



そういうことを思いつつ「ドミトリーともきんす」をめくり、そこに生きる人々の慎ましく勤勉な様に天国を思うのだ。



ドミトリーともきんす -
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ワンダフルライフ [DVD] -
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父はものを書いて生きた。言葉に惹かれ、言葉の世界を狩猟し、言葉の世界を作ることを始めて、それが生活の質を得る手段ともなったのだ。

言葉はこの世界の現実から生まれるが、直接現実の世界に働きかけることはない。好ましい現実からも好ましくない現実からも言葉は生れ、もう一つの現実、言葉の現実を作る。

言葉に惹かれ言葉に生きた父は、政治にも経済にも志さず、この世の中に対して働きかけようとはしなかった。しかし、どんな世の中であれ人間の世界に本来具わっている「良いもの」を−父にとってそれは言葉であり、酒であり、友人であり……−精一杯味わった。父にとって可能な限り徹底して味わった。

味わうというと何か退廃的な響きを持つことがあるが、父が、言うなれば「この世の富を貪欲に味わった」のは、人間の普通の生活をしながらである。働き、家庭を営みながらである。そして、自分一人が良い物を楽しむのではなく、母と一緒に楽しむことを忘れず、子供二人には母と二人して、良いものを教えそれを楽しむことを教えてくれた。

良いものとは五官を歓ばせるものだけではなく、努力の結果を報いられるとか、他人の役に立つといったことも含むのだが、自分にとっての良いものをすべて徹底して大切にすることは当然易しくない。父が非常に厳しく自分の生活を律したのはこのためだと思う。

父も生きることに疲れ、飽き飽きしたことはあるはずだが、それでも自分の生き方を守り通したのは、精一杯自分にとっての良い生を生きよう、この世に生を享けたからにはその生を納得して生きよう、いや、もっと完全に、自分の生と自分との間に隙間がないようにという、やむにやまれぬものがあったのだと思う。

外に広がり他を呑み込んでしまいそうな迫力ではなく、確固としたものがただ在る迫力、父という人間が周囲に感じさせていた迫力はこの、生と一つになろうという父の確固とした意志なのだ。





そうやって出来得る限り完全に作り上げた生、自分という作品の前に既存の価値観や権威は意味を失いこわいものではなくなる。

それでもなお、悲しいことはある。


こわいものはなくても


かなしいことはある




「(この世の中に)こわいものなんかないけれど、悲しいことというのはあるんだよ」と父は言った。

私は返事ができなかったように記憶している。

生きていく上で悲しい事はあって、親しい人、良い習慣、馴染みの店、思い出の品、あるいは大いなる期待、そういう良いものが失われる時は悲しい。それは良いものが良いものである故に当然だ。



人間も六十を過ぎるとその年月の間に得たもの、失つたもののことを思ふだけでも過去を振り返り、自分の廻りを見廻すのが一つの自然な営みになり、これは記憶も現在の意識も既に否定も反撥も許されなくなつたもので満たされてゐることであつてその中でも大きな場所を占めてゐるのが友達である。







我々はその哀しさを埋めるために


あるいは、


その寂しさをアテに酒を飲むのだ












--
関連:
吉田健一、「東京の昔」 読書メモ - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/11193

























  花間一壺酒  花間 一壺の酒
  独酌無相親  独り酌みて相ひ親しむ無し
  挙杯邀明月  杯を挙げて明月を邀へ
  対影成三人  影に対して三人と成る
  月既不解飲  月既に飲むを解せず
  影徒随我身  影徒らに我が身に随ふ
  暫伴月将影  暫らく月と影とを伴って
  行樂須及春  行樂須らく春に及ぶべし
  我歌月徘徊  我歌へば月徘徊し
  我舞影零乱  我舞へば影零乱す
  醒時同交歓  醒むる時同(とも)に交歓し
  醉后各分散  醉ひて后は各おの分散す
  永結無情遊  永く無情の遊を結び
  相期獏雲漢  相ひ期せん 獏(はる)かなる雲漢に





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2014年11月10日

そして、むきだしの羊は閑かに暮らす夢を見る




私は水底の石に吸盤でぴたりと吸い付いて、尻尾を上にして、ゆらゆらと水に揺れている。まわりの水草と同じように。

あたりは本当に静かで、物音は何ひとつ聞こえない。


それとも
私には耳がついていないのかもしれない。

晴れた日には水面から光が、矢のようにまっすぐ差し込んでくる。

その光はときどきプリズムのようにキラキラと割れる。


色んな色や形の魚たちが頭上をゆっくりと通り過ぎいく。




そして

私は何も考えていない。



というか、やつめうなぎ的な考えしか持っていない。


その考えは曇ってはいるけれど、それでいてとても清潔なの。


透明ではないけれど、それでいて不純なものはひとつも混じっていない。


私は私でありながら、私ではない。




そして

そういう気持ちの中にいるのは、

何かしらとても

素晴らしいことなの。













少し前に「愛のむきだし」を見て


愛のむきだし [DVD] -
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続けて「冷たい熱帯魚」を見た。


冷たい熱帯魚 [DVD] -
冷たい熱帯魚 [DVD] -



園子温という監督は世間的には「冷たい熱帯魚」、あるいはそれ以前の「愛のむきだし」で注目され、猟奇的・アレゲな場面を描く監督として受容されていったところがあるように印象していて、「( ^ω^)・・・だったらいまの自分には必要ないな」って感じだったんだけど「ヒミズ」の映画化が思ったよりも良かったという感想を見てなんとなく気になって保留していたので。


ヒミズ コレクターズ・エディション [DVD] -
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ヒミズ コミック 全4巻 完結セット (ヤンマガKC ) -
ヒミズ コミック 全4巻 完結セット (ヤンマガKC ) -



あとは少し前にお話しててやっぱ見たほうがいいなあ、とか、TLで薦める人がチラホラだったので。


ストーリーラインとしてはこのへんで

映画『愛のむきだし』(満島ひかり主演)を町山智浩さん、宇多丸さんがゲキ推ししてたので書き起こしてみた - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2137663971349317601


以下から実話をベースにしつつどの部分を監督が演出、付け加えていったかがわかる。

盗撮物AV関係の男性が新興宗教にハマった妹さんを助けだした部分だけが実話で、2人が同居してるだけの血のつながらない兄妹で2人が愛しあってたり新興宗教団体を潰したあたりはフィクションです 妹さんがハマった新興宗教は明らかにされてませんが、ゼロ教会については複数のカルト団体を基に創作したと監督がインタビューで答えています DVD特典でユウのモデルになった男性がインタビューで答えていますが2人で断食して医者からドクターストップがかかっても止めず、自分の思いをちゃんと伝えて洗脳を溶いたらしいです 本当に宗教は恐ろしいです

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1149002836




最初の印象としては「タランティーノ的な輻輳だなあ」ということ。様々な登場人物たちが各々の目的を混ぜて一点で混沌→スパークする(その間の時系列は同時/それを印象づけるために劇中で何度か時系列を各人の視点から遡る)ってあれはタランティーノを思わせた。最近けっこうこのへんの新しい作風だとふつーにつかわれてる手法のようにおもふ(cf.「鍵泥棒のメソッド」「アフタースクール」)。

主要テーマは「人の生きる目的は?」で、「生≠愛」?、「愛≠生とはナニカ?」、「生≠性」と展開していく。

前半はセックスとそれへの禁忌を中心に。宗教、あるいは社会における禁忌と抑圧は再帰的にその規律をエスタブッシュ、当然化し、それを「当然」として従うものにねじれた快をもたらす。すなわち抑圧に依るストレス、痛みでさえも「アッテハナラナイモノ」とし、痛みの段階がすぎればそれさえも愉悦になるような。

後半は<「生≠愛」?>に立ち戻る。

愛に立ち戻った理由としてはそのほうが物語としてドライブしやすかったからというのもあっただろうけど、「勃起しない/できない主人公がほんとに刺激を感じたのは『真実の』愛だった」というのは「愛」というのが純粋きれいなものでもなく、宗教的情操(@宮沢賢治)と同じぐらいのテンション/強度を持ちつつもアレゲなところがある、人間という動物に残されたヘンタイなところだからだろう。

人のホンネ、たましいの声、激情がむきだしで激突する場面でコリント書を引きつつ「生≠信(仰)」が「生≠愛」にオルタナされる。






 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 
 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
 
 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 
 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
 
 
 その中で最も大いなるものは
 
 
 愛である。


コリントの信徒への手紙一 13章











ここでは愛が宗教的情操に昇華された、と狂信的な人が思っていることから、その一歩前の段階、信仰も愛と同じカテゴリに入るものなのだなということが気付かされる。すなわち理屈うんぬんではなく信じる対象。

そして、理屈云々ではないということが「幻想」ということなのだろう。

人の生は信仰や愛といった幻想によって保たれている。




オウム真理教を想わせる狂信的な信仰をモティーフにそこで展開される混沌と魂の叫び模様が描かれていく。このへんはベースとなった実話に脚色を加えたものだろうけど、山本直樹的世界(ex.「ありがとう」)を想わせる。

「生≠性≠おめこや」「おめこむきだしや」(観音様(T人T) ナムナム)」で展開される人の性のぬくもりと惨めさというのはちょこちょこ言われて来たことで、たとえば宮本輝なんかでも富豪きわめたおっさんがみじめに死ぬ直前に自慰したりする場面を描いていた。そこにドラッグのような信仰的トリップ、そして「そういったもののほうがセックスより上じゃん」ということも絡ませると戸田誠二さんにわかりやすい作品あったな(「LOVE2000」)。




園子温という監督の一連の作品はだいたいのひとにとってはアレゲ混沌エログロ暴力エンタメ@タランティーノて理解で終わるのだろう。でも、自分的には「限界状況で見える人の真実」について少し想わせた。園監督は暫定でその行き着く先を「愛」としてるのだろう。



「冷たい熱帯魚」も「愛のむきだし」と似たような情況、密室的環境における洗脳をモティーフにモラハラ攻勢によってペルソナを剥ぎ取られた主人公がむき出しの生にジャンプする。

そこまでの1時間半ほどはむしろ冗長で、繊細な主人公が熱をかけられすぎてコワレタように暴走するところからがカタルシスにように思えた。それ以前の場面、DQNが独自の理論とモラハラ手法でアレゲ空間を作り出していく、あるいは、そこで生きている人たちの独自な思考や指向、志向で楽しいってのはあるかなとかはこのへんにもぞもぞ書いといた。


プラスの方法と超越系|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nd77a52755006



こういうのはもっと一般的で軽いものだとメンヘラ的な異性との共依存的な付き合いにも当たるのだろう(「ノルウェイの森」とか)。


トラン・アン・ユン、2010、「ノルウェイの森」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/404218098.html




そういう意味ではやはり恋愛というのは病であり幻想なのだろう。







「社会常識的なペルソナに甘んじてる人たちが限界でそれを破面し、自らの生に目覚める」「限界情況で剥ける」ということの是非みたいなのを考えたりする。


以前の自分だったら超越系志向ということでどんどん剥けていけばいいとおもっていただろうけど、いまはなんかそういうのもいいかなあとおもったりする。

ふだんの生活や人生がなんか物足りないと思ってる人で、剥けて人生たのしくなるひとは剥ければいいし、そのままコツコツと日々の生活を重ねていくことが楽しい人もいるし、そういうのも人のあり方だし。。(というか、むしろ後者の方に惹かれたりする)。



このへんの話は鬱-理性先行で垣間見える真実ってことかなと思うんだけど


今日、本当に理不尽で、無茶苦茶で、不合理で、納得いかなくて、酷い、本当に酷い出来事があって - orangestarの雑記
http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2014/11/08/090139


そういう意味では「ショッピングモール」ほか真鍋昌平の世界ともリアリティを同じくする。あれもそういう意味で鬱マンガなわけだし。



なので、「あまりこういうの先行させて、鬱鬱ってやってるとそれでドライブしちゃって却ってこれをもとにして鬱なひとたちがより鬱加速させるんじゃないの?」「泥沼好き、露悪好きな甘ちゃんが自分可愛いでこういう汚泥に溜まり、却って精神状態悪くしていくってこともあるんじゃないの?」「人は裸にしたら惨めなもので、惨めさをわざわざ見る必要はないのだ」て吉田爺もいってるし、てイラッときたんだけど


その後このへんで「あまりにつらくてゲロってしまった。。」「鬱でゼロ状態になってなにも感じられなくなってた」「でも、防波堤になってくれたのは嫁や、ふつーにおいしいものを『おいしい』と思える生活だった」て書いてあったのでこの辺はまあいいかなーとか思った。


とっくに死んでいた自分と、防波堤の嫁 - orangestarの雑記
http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2014/11/09/023918


自分が思ってる特にすげー限界の限界までいってなくて、あるいはいっていたとしてもわざわざ鬱鬱なところに依存的に貯まる人たちとは違うようだし、それを刺激しようってことでもないようだし。




けっきょくはコツコツと日々を刻む、整理整頓はきちんとする、きちんと食事・掃除をする、朝日を拝むなんかが大事なのだよなあ、、ご大層な修行とか以前に、それがミニマルな行のようなものなのだろうし、人は言葉-理性だけでできてるのではなく感性(音や温度、味)でもできてる、むしろそっちのほうが大きいのだろうから、とかなんとか。



そういうのとは別に超越系の志向をなんとなくもってるひと、持て余してる人というのは一回ゼロを経験しておくのもいいのかもなあ、ということでこの辺もうむうむしたり。


「車谷長吉の人生相談 人生の救い」車谷 長吉 著 | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/4482


ゼロになったからといってすべての人が殊勝になるわけでもなく、そこから自分なりのアレゲ、好き勝手を展開していくのだろうけど。


すくなくともたかが人間、たかが社会の枠に囚われてそのルールを元に人を差別・優越したり、いぢめたりしてるよりはマシになるようにおもう。



社会のルールからすると禁止されていたことをしても案外なんとかなる-死なないものだしな。










こんなところでエントリを閉じるべきだろうけど、書いていて「けっきょくあのへんの『理性でいったら鬱になる』『どうしようもないクソみたいな日常』『なにか物足りない生活の中で跳びたくなる』『アッチに引っ張られそうになる』あたりの結論を描けるのは古谷実とかなのかなあ」とかおもったり。

「ヒミズ」は古谷実のゼロ地点だろうけど、のちの一連の作品はその不時着地点をそれなりの説得力をもって表すための試作のように思ってる。そして、未だ説得力は生まれていない。


園子温監督の「ヒミズ」にはそのへんに対する監督独自の解釈も期待している。あの作品には2011の震災後、福島以後という意味もあるだろうけど。




あのあたりは感性-「ゆるふわでおいしい生活が一番だよ♪」て結論ならけっこう描けてる人がいるように思うんだけど(ヨコハマ買い出し紀行とか)



理性でつきつめていってもその回答が得られるのか?得られるとしたらどういったものか?とかはおもったりする。




そういうのを考えるのは本来思想の役割で、先人の古典的なものを紐解いて見るのも良いかもだけど、現代っ子は現代っ子なりにこの辺を考えられるのかな(自分も含めて







--
関連:
羊でも狼でもなく「ふつーに生きる」ということ (reprise): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/43805201.html



親愛なる人へ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/142089498.html




古東哲明、2005,「現代思想としてのギリシア哲学」: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218962376.html

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2014年11月09日

真鍋昌平、2004、「ショッピングモール」


このエントリに釣られて古本屋でモーニングをゲットして久々に読んでみた。


「闇金ウシジマくん」作者が「地方都市のショッピングモール」を舞台にした読切漫画をモーニングに描いてる - 見えない道場本舗
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20141105/p3


ショッピングモールというのはたぶん現代日本における大衆-若者(から大人-中年に差し掛かる子育て世代)の場として重要なところで、それに郊外が絡むとさっこん那辺でうんたらしてるニューヤンキー論みたいなアレが絡むから。

横道に少しそれるけどヤンキー論というのは自分的には的外れに思っていて、あれは単に日本的な大衆ってことで、その洗練されてなさが都会な市民から見るとうげげって偏見・差別してるだけの話に思ってる。いわゆるヤンキー的なものや郊外に住む人たちもそればっかりではなく洗練された摂取してるだろうからすっぱりと区切れるものではなくグラデーションだと思うけど。なのであのへんをまじめに考えるなら「大衆」ということ「市民」ということをまじめに考えるべきだと思うけど、、それは本題ではないので留めるとして。

そういう「ショッピングモール」な話を「真鍋昌平」が描いたということで見てみようかと思った。

真鍋昌平というのは「闇金ウシジマくん」で注目されたけど自分的には「スマグラー」のひとで、そこに物語-作家的な発展を加えたのが「THE END」であったとおもうんだけど、このときはまだ力不足だったので打ち切り的な終局となった。

なので、作品-作家としての幅はこの2つの作品で見えてる感じがしてる。あとは短編集とか。

「スマグラー」のテーマというのは別エントリで後述するけど「普段はタテマエなゲンダイジンペルソナしてる人たちが限界でそれを突破し自分の生に目覚める」みたいなとこにある。そんで真鍋昌平というひとはずーっとそれをテーマ、結論として描いているわけだけど、、「ウシジマくん」なんかもそこを結論としつつそのための道具的過程としてアレゲな人たち、最底辺な人達のリアリティを描いてきたように思うわけだけどそこが作品的な見どころになってしまった。

デビュー以来、八方塞がりの人間を主眼に置いた作品を描き続けている。過剰な暴力表現と繊細な心理描写とが同居する特異な作風である。絵柄では吹き出しの中に入れた独特の擬音(「ニギ・・・ニギ・・・」など)により、人物の動作音と周囲の喧噪感を醸し出すことが多い。これに対比させるように陰影を際立たせた静寂な一枚絵によって、人物の絶望感を出す手法を用いている。

真鍋昌平 - Wikipedia http://bit.ly/1uby6RK

特異な作風、というか、むしろ繊細-ナイーヴなほうが先にあるのだけれど、それの発露の仕方がうまくいかない、あるいは、みょーに冷めて真面目で嘘っぱちを見分ける目があるので通り一遍等な繊細表現の形式を借りると嘘っぱちに思えるのでそこを踏めないのではないかとおもふ。。ちょうど真鍋昌平の作品の中に出てくる繊細な登場人物たちのように。気づいてはいるけどうまく跳べない。

そういえば「過剰な暴力表現と繊細な心理描写」、「一枚絵」ということだと北野武の作風を思わせるのでたぶんあのあたりで映画化されるとしっくり来るのではないだろうか。(北野武監督も「暴力的なものは大衆受けがいい-金が入るからやってるだけだよ」ってことだったし、彼の作風は知っての通り一枚の絵として場面を描くことで決まっていく)。



で、今作だけど


東京まで乗り換え一回、1時間弱の郊外-ショッピングモール周辺に生息する賃金15万ぐらいの若者、「(未来が特に見えなくて)暇な時間を浪費するために大切な時間を金に変えてる」って若者たち。


その閉塞感と「低俗」さはイギリスの郊外の若者たちともリンクするのだろう(cf.ケン・ローチ、一連のヒップホップ作品)。ヒップホップということだとアメリカスラム街の黒人たちとかも。


ヒップホップを聞きつつもヒップになれない若者たち。あるいは少しでもヒップになろうとしてそれを聞く若者たち。




「本当はもうこの国おわってるンじゃねーの?」




この作品の一番強いネームはこの部分だろう。



この国←若者に未来が見えないこの国、はもう終わってるンじゃねーの?

少なくとも自分たちのリアリティからはそう思えるしそう思って構わないぐらいに日常はクソみたいで救いがない。救いがなく永遠にダラダラと低空飛行で続いていく。



彼らはけっきょく海に逝くこともなく(いちおう)友人の嫁との金を介した乱交的なセックスで落ち着いて夜を明かす。

国道沿いのラブホで休憩し県内から一歩も出ずに。




すぐそこの「東京」に行く機会は滅多にないし、行く意味もわからない。





それでもなお、タロポンは想像する。

ドトールで人間観察しながら。


「金持ちの人生を妄想して貧乏人の人生に共感する

 ブスに与えられた運命
 バカで運動音痴に与えられた運命

 何処でどう選択肢を選んでも何一つ前向きに生きられない人生
 あの葡萄は酸っぱいと決めつけて何も努力しない狐みてーな人生
 
 一度も試したことがない人生
 
 この景色みたいに平坦で
 何処までも
 何処までも
 何も変わらない
 人生」


「日曜日の夜に出歩く奴はどこに行くのかな?

 日曜日の夜に行く当てがないない俺の魂を救ってくれるのは24時間営業の松屋しかない

 みんな  何処に向かってるのかな?」



それはかつての電車少年たちが鉄道を介して夢見た未来-希望-未だ見えないナニカ、であり、国道沿いの若者たちが国道-車に託したそれであったはずのもの。




しかし彼らはもはや国道にそれを託さない。


車を持っていても


『「東京」に行く機会は滅多にないし、行く意味もわからない』


そこまでして東京に行ってもナニモナイ/ナカッタことを知っているから。



だからタロポンは今日も、ドトールの窓から未だ見ぬ人生を夢見るのだ。









--
関連
映画『国道20号線』について長い文章を書きました - MIYADAI.com Blog
http://bit.ly/13Zkxev


傑作『国道20号線』を送り出した富田克也監督の度肝を抜く最高傑作『サウダーヂ』 - MIYADAI.com Blog
http://bit.ly/17MH9f3


富田克也 - Wikipedia http://bit.ly/13ZkNtX



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2014年11月03日

「闇屋になりそこねた哲学者」を読んでお勉強したくなった


闇屋になりそこねた哲学者 (ちくま文庫) -
闇屋になりそこねた哲学者 (ちくま文庫) -



少し前に木田元さんが亡くなって、「ちゃんとよんでなかったなあ」てことでなんとなくそれぞれの人の紹介読んでたらこれが引っかかったので読んでみた。


「絶望から立ち直るための答えをハイデガーに求めた」


ここに興味をもったので。

その期待はけっきょく叶えられなかったけど、それ以外のところがおもしろかった。


木田さんのご家族(特にお父さんの博覧強記ぶり)と戦争体験(満州、海軍、食い詰め闇屋、やんちゃ学生時代のはなし。

「闇屋で喰ってこう」ぐらいの腹づもりで、学校に入り直したのも当初はヤクザな生活の「休暇」程度の予定だった。でも、ドストエフスキーとの出会いからソッチのほうにハマりだした。




「ドストエフスキーの登場人物はみな絶望している。絶望しているから悪に走る」

そこに共感を覚えた。木田さんだけではなく当時の多くの若者がそういう感覚だったみたい。


ドストにハマってるうちにヘーゲルが、あるいはその軸のキルケゴールの言ってることがわかるようになった。「ドストエフスキーが描いてるあのあたりのことではないか?」

そして、ハイデガーが基軸としているのもそういったものだったみたい。


彼らは時代の変わり目で生活の困窮や人生のあてどなさに投げ出され絶望していた。

絶望的情況のなかでただしく絶望する方法を編み出していった。



そう、「ただしく」「絶望する方法」


たぶん絶望にも様式のようなものがあって「ただしく」絶望できないとなんかカタルシスしないところがあるぽい。


悲惨というのはその物量的なものなもので比較できるところがある、不幸自慢できるようなところがあるのだけれど、、(ex.「あなたは○○ていうけどわたしなんか△△に○○でさらに◎◎で」)

それを悲惨として感じるやり方というのは人によって違って、それによって悲しみの在り方も異なってくる。


泣き方がわからない/わたし、悲しいのに泣けない/泣けなくなっちゃった

わたし、死にたいのに死ねない....


それは怒り/恨みを落ち着かせていくやり方にも似ているのかもしれない。



敗北/悲しみ/怒りを抱きしめて








「存在と時間」を読んだら哲学なんかやめよう(哲学なんかで飯が食えるわけない。いざとなったら闇屋やればいいし


そういうつもりで始めた文学-哲学だったがずっぽりとハマってしまった。

しかしなかなか読み進めない。読まなければならないテクストは目の前に山積しているのに。

そういうときの焦燥感や絶望感を語学が救ってくれた。

一日12時間勉強した。

勉強はまる覚えを基本にして、それをルーチン化したら苦ではなかった。


語学をやってると「着実に力がついてる」という実感のせいか精神的に落ち着いた。






この本を読んでいると自分も勉強したい/本を読みたいという気分がもたげてきた。

特に、pp73-167


6.勉強したくなった
7.東北大学で
8.『存在と時間』をはじめて読んだ頃
9.ハイデガーへの回り道
10.先生たち
11.ハイデガーがわかる
12.現象学とはなにか


やはり手元に置いておいて、たまに読み返したいと思う(いまはアマゾンなんかで絶版だけど





西田幾多郎、小林秀雄、吉田健一あたりのそれにもさっさと還りたいものだ(「暇」を作らんとな

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2014年10月28日

アカシアの道



よくない呪いなら解いたらいいんだよ。真実の愛とかそういうので。そういう冒険譚、たくさんあるじゃない

槙野さやか













結構前にアマゾンで見かけて気になってたんだけど、そのときは時機でもなかったのでウイッシュリストに入れていて忘れていた。けど出会ったのでなんとなく読んでみた。



アカシアの道 -
アカシアの道 -




いつもどおりネタバレ含みつつ言えば、構えていたほどにはキツイ話でもなく中盤以降はむしろスルッと読めた。

それでも全体のモティーフ-テーマとしては<母-娘の女の確執がある情況において「女性」を抑圧され押し付けられてきた娘が母とどう向き合っていくのか?>という話題でありふつーに重い。簡単にいえば母が娘には地味に育つように言っておきながらいわゆる結婚適齢期が来ると「あんた、まだ男もいないの?」と言ったりするような。

「お母さん、わたしが赤いパンツ買ってきた時にはあんなに叱ったのに自分は持ってるし、弟にはやさしいのね」


潜む声 鏡の中の遺書 その他の短編 (アスペクトコミックス) -
潜む声 鏡の中の遺書 その他の短編 (アスペクトコミックス) -

そして母の呪いをそのままに受けて育った子供は抑圧され、ともすれば大人の女性として軟着陸できなくなる。

ハードランディングとしては抑圧をバネとするように逆にセックスに奔放になり、異性との交わりの中で自分を削っていったり。逆に自閉的に「女性」の機会を閉じていったり。

いわゆるアダルトチルドレン的情況。


「アカシアの道」では地味子ACとして育った主人公がそれでも実家から離れ、就職して独立し恋人もできてそれなりに人生の階段を上がっている、、と思われた矢先に生じる事件から人生のレールが踏み外される。そして自らの人生、母−自分-父の関係と来し方を振り返ることとなる。



『並みのホラーよりもホラーだ』と巻末に書かれていた「事件」とは母親の痴呆-アルツハイマー。それによって主人公に依る介護が要請される。毒親からやっと離れられたACにとってこれ以上リアルに背筋を寒くさせるホラーはない。


呆けた母親を診るためには仕事をそのまま続けるわけには行かず、いままで就いていた仕事はパートタイム状態になる。

そして母と向き合う中でかつての厳しい母の面影と現在が重なり、過去に押し付けられてきた矛盾がフラッシュバックされていく。今度は叱る役を自分が引き受けつつ。

子供化した母親の世話をする中でイライラから毒親的な叱責をしてしまい自分に幻滅する主人公。


「ACの子はAC。その連鎖は継がれていく」

そんな言葉も頭をかすめる。(このまま子供を生んでいたらそうなっていたのかもしれない



中盤で主人公は母親の介護のなかで精神と体力を削られ男に救いを求める。

ひとつは「結婚」として、もうひとつは過去の「男」、母が離婚した父親と何年かぶりに会うことで。


しかしどちらも男たちの薄情と臆病、卑怯に裏切られる。


恋人は臆病で父親はヤサシイ卑怯者だった。



父親と別れる直前の場面で主人公が「この人は卑怯者」と幻滅した心理。これは最初わからなかったけれどしばらくして分かった。母親や娘の近況を尋ねつつ、娘の嘘を突き破って踏み込んでくる義のようなものが父親にはない、あるいはあってもそこを巧妙に避けている(自分が避けていることさえ気づかないほど自然に避けている)。だから「卑怯者」なのだ。

「娘の嘘が巧妙で見抜けなかった」としても幼い頃に離婚して以来会ってなかった娘が突然尋ねてきたのだから「なにかあったか?」と思わないほうが変なわけだし、それができないのは元からその程度のヤサシさだったということなのだろう。

ただ、そこでも主人公は、父親を一方的に断罪するのではなく、「わたしは嘘つき」としている。



「わたしは嘘つき、、このひとは卑怯者」


その感情の直接の背景はこのときの父親の踏み込みの甘さ、というよりは父と母の離婚の真相にある。

父と母の離婚の原因はもっぱら母の代理(契約)結婚的不満にあり、そのイライラと違和に父の居所がなかった → 他所に女を作ったことにあった。

母はかつて父とは別に愛する人がいて結婚まで考えていたのに「働き続ける女は無理だ」ということで結婚はなくなった。

理由としてはほかにもあったかもしれないけれど母は破断の理由をもっぱら「働く女」というところに求め、自分の性格や生き方を変えようとしなかった。

そして「仕事は続ける」ことを条件に父と結婚した。


おそらく気持ちとしては未だ前の婚約者の元にあって、その愛憎が仕事、教育者の自分というプライドにすり替えられ、いびつに自我を形成していった。

「先生」としてほかのコに接する母親はやさしく理想的な教育者であったが裏に回って娘と二人だけになると度を越して厳しく、暴力的に自分の理想を押し付け、グズな娘に現在の結婚相手である父親を投影した。




代替し投影し歪んだ…



この話には直接関係ないけれどいくつかの場面が頭をよぎる。



かつて本当に結婚したかった相手との結婚が叶えられず自暴自棄的に結婚し、結婚相手の愚鈍さを呪う人とか。

「寝ている姿が父親のようだ」「あんたはそのままじゃお父さんみたいになるよ」「あの人と関わるんじゃない」と父親に関する呪いの言葉だけを聞かされ続けて育った子供とか。

自分の叶えられなかった夢を娘に投影してスパルタ教育、あげくに「あんたには才能がない」と切り捨てていく母親とか。



アダルトチルドレンの呪いの連鎖


「親子のかえるだよ」と差し出された手


家族のそれから (アフタヌーンKC) -
家族のそれから (アフタヌーンKC) -



父(母)親を愛そうとしても愛せなかった子供。子供を愛そうとしても愛せない母親

かえるの子はかえる、ACの子はAC…





家族というのは、、特に血縁家族なんてのはくだらない因襲に過ぎないように思っているけれど、同じ空間、同じ時間を一緒に暮らしたということ、その歳月はそれだけの重みを持つ。



その重みは時として呪いのように重なっていって、その呪縛から自分も逃れられないように想ったり…。



でも、



その呪いを解けるのも「家族」だったりする。






例えば恋人であったり結婚相手と成るようなパートナーだったり。

あるいは恋人や結婚相手とならなくても良いかもだけど、ひとに語ってもなかなかわかってもらえなかったことを共有できるような、あるいは理解してもらえなくても共に抱えていけるような‥。

そういう人との出会い、長い付き合いを通じて新たな「家族」が生まれる。




そこでわれわれは新たな物語-呪いを作り、それを元に「家族」を再構築していく。




「アカシアの道」の終わり方もそんな感じだった。



もちろん恋人的な人や、そういった「語れる相手」が見つからない人もいるかもしれない。

でも、悪い呪いを抱えて頑なになる前に、こういったことに少しでも気づければと思う。







「世の中に元から悪い人なんかいない。ただ、みんなちょっとズレて頑なになってるだけなんだ」

「言葉がそれを形作り、プライドがそれを塗り固める。ただ悲しんでるだけなのにいつの間にか怒ってたり。そういう人たちの色を見て、わたしはなんだか変だなーって思うの」


かつてあの人が言っていたように、人はもっと単純な、あるいは単純でありながら複雑なもので、それは言葉だけでは測れない様々な色や味、音を持ってるのかもしれない。





この話を読み終えたとき、ちょうどこの歌が聞こえた。







Oh Shenandoah, I long to see you,
ああ、シェナンドー あなたをもう一度この目で見たい

Away you rolling river.
うねり流れる川よ

Oh Shenandoah, I long to see you
ああ、シェナンドー あなたに会いたい

Away, I’m bound away ‘cross the wide Missouri.
私は広大なミズーリ川を渡って 行かなくちゃいけないんだ

故郷の川への想いを歌った名フォークソング 『Shenandoah(シェナンドー)』 を聴き比べてみる
http://nerino.net/blog/2013/06/14/shenandoah/





「アカシアの道」、というか母娘(親子)の愛憎というテーマでは最後に母や父を赦せるかどうか、赦しとはどういったものか?(どこでそれぞれに納得できる赦しが訪れるか?)ということについて説得力を積み重ねていくことが「仕事」のように思うけれど、とりあえず本作では決壊寸前だった母娘のダムに水、別の道が入り川となって流れていった。

それははっきりとした答えではなく、またこれもひとつの偶然的場面や選択にすぎないのだろうけど、、でも、こういうのもアリかなとおもった。




あと、たまには川を見てぼんやりしよう





















--
AC関連:


ストーリー -
ストーリー -
タグ:家族
posted by m_um_u at 23:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年10月18日

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語


善への愛にうながされるまま、苦しみの待ち受ける道にふみ入り、一定の期間がすぎたあと、自分の力の限度に達し、身をもちくずす人々の悲劇。










最近ようやく「叛逆」見た。



劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語(通常版) [DVD] -
劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語(通常版) [DVD] -



アニメ単体としてはオープニングから力が入っていて「プリンスアンドプリンセス」的な影絵のリリシズム−女の子の夢のお伽話的な舞台装置自体がかわいらしくきれいで、それそのものとして気持ちよかった。

プリンス & プリンセス [DVD] -
プリンス & プリンセス [DVD] -


なので特にいらない感想も必要ないかなと思うんだけど、別件でリンクしたのでちょっとついでに(お出かけ前の時間つぶし的工作活動として。



全体がそういう構成になっていたのは「血だまりスケッチ」とも通称されるまどマギシリーズに対する救い的な意味合いもあったのではないかと思う。ユーザーへの刺激を弱めるという以外にも。

作品に対する救済、あるいは、ほむらちゃんの救済、それがこの作品の目的だったのだろうし多くのファンもそれを望んでいたかなあ、と。



ストーリー自体の説明はめんどうなので他人様に借りるとして


※解説

http://t.co/8HukizSigV



「けっきょくまどか☆マギカという話は徹頭徹尾ほむらちゃんの話だったのだなあ」ということ。

あるいは「魔法少女とはなにか?」ということに還る。


ほかでもギロンされてるのだろうけど、魔法少女というのはいわゆる女の子向けアニメの中で「戦わない主人公」という設定の中で作られていった存在のように思われる。なので初期の魔法少女ものだと戦うということについての直接的、間接的リンクがあまり貼られてないのではないか?あるいは「悪い敵とたたかう」といういちおうの設定にはなっていても「魔法」がクッションになることで少女たちは敵を斃さなくて済む。魔法がそれを間接-解決してくれるから。

「戦っているのに戦ってない存在」

そういった矛盾を抱えた存在が魔法少女だった、ように思える。


それはそのまま女の子の女性性をめぐるジェンダーロールの引受け的な象徴へとつながる。


現実の女の子たちにとって「たたかう」が意味することは多岐に渡るように思われるけど、例えば、「会社、男社会的なステレオタイプ」「母親からのステレオタイプ」「自身の肉体の変化」などといった自身の意志とは離れているの自身に干渉してくるものたちと彼女たちはたたか(抵抗)しなければならない。

たたかう-抵抗-あるいはそれを受け流したり、ゆるく引き受けて「女性」と成って行く。



魔法はそういった少女たちを戦いの直接性-現実から遠ざけてくれていた。



それがより「たたかい」的な要素を絡めてきたのはセーラームーンあたりからなのかなと思うのだけれど。。(そしてプリキュアへと系譜する)




魔法少女という存在はアイドルにも近い。


アイドルも女性性を巡った闘争のはざまにあるもので、いわゆるミスコン的な観点からするとナンセンスな商業論理による女性の性や主体性の搾取であり打倒スベキ存在ということになるのだけれど、平成を通じてアイドルたちは自らをアイドルであることに投企するようになったように思える。オトナたちの金とセックスと欲望を受け容れつつ、それに堕することもなくキラキラを提供する、というような。

ゲイの人たちの中にベタベタのアイドルを好む人たちがしばしばいるのはこういったところ、女性であることを投企的に愉しみつつそれをショーとして成立させている、というところに性別や性指向をめぐる闘争を超越した痛快さを感じるからではないかと思うのだけれど、、まあそのへんは未だ確かめてないから保留するとして。。(また話が逸れたし



アイドルも魔法少女もそういった性をめぐる闘争から女の子を夢のキラキラへと誘ってくれる側面があった。



翻って「まどか☆マギカ」はどうだったか?




そこでは本来、闘争から遊離させるためのギミックだったはずの「魔法」が少女たちの血や涙、直接的な悲惨へとつながる装置として機能してしまっていた。


「それは全部キュウべえ≠エログロ観測出歯亀オトナのせいだよ」てのもあり、作者であるところの虚淵玄もそこに含まれるという自虐・自認があるのかもしれない。



なので本作ではキュウべえは最後でコテンパンにのされ、死すらも生ぬるい飼い殺しを与えられていた。


また、オープニング周辺のポップでお菓子くリリカルな表現というのは魔法少女的な夢への回帰を予感させた。



作品が進むに連れけっきょくはそれも血にまみれていったわけだけれど、でも、いままでのシリーズほどに悪趣味な露悪と観測を目的としたものではなく、どこまでも全体を少女の夢でコーティングしていたように思えた。あるいはそれはじっさいの少女たちの感覚とは異なった「少女の夢」という幻想にすぎないのかもしれないけど。





まどか☆マギカにおいて、少女たちが戦っていたものは魔女=女性性の昇華に失敗して妖怪化した女性たちだったし、それは少女たちの未来を予感させるものだった。魔女の返り血と断末魔は呪いとなり、彼女たちとのたたかいの中で磨かれた矛や剣は少女たち自身を貫いた。

現実世界ではそれらは言葉の刃となって彼女たちを貫いていったのだろう。


家族やともだち、ときには自分自身を。



ほむらちゃんの魔法能力、時間停止はそういった少女たちの武器の中でも象徴的であったように思われる。


その能力が永遠に発動している限りは彼女たちは少女のままでいられるのだから。




「叛逆」においてほむらちゃんが自らの繭にとどまることを選ぼうとしたのはその意味でも象徴的に感じられた。


それは「まどかに障らせないため」「まどかに障るぐらいなら、あたしは永遠にここで呪いの言葉を吐き続ける」という愛と潔癖の結果だったとも言えるのだけれど、その愛は少女らしい潔癖-正義に支えられたものだったということをほむらの最後の選択が示す。



「正義や世界の安定よりもあたしはまどかと一緒にいたいの(たとえ神や真理に背き、世界が滅びても)」




陶然と謳う悪魔の目には永遠を微笑み続ける愛人の姿が映っていた。









それは物語的に美しく、「ほむらの救済」という面では十二分にカタルシスを得られるものだったけれど、おそらく現実のほむら≠同性愛や叶わぬ恋の日常を生きる人たちは悪魔化もできず繭の中でとどまり続けるのだろう。


「まどか☆マギカにおける男性の不在」「フェミニズム的正義ほか正義の言説とそこから溢れる人たちの問題」など関連して語れることもあるけど、その現実を思えばすべてが冗長に思える。



彼や彼女たちの孤独と哀切を想ってこのエントリを閉じよう。








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関連:



誰かを被害者・弱者として単純化して語る語り口というのは、共感を呼びやすい。つまり、「AV女優は被害者だ」ということを強調する物語、論旨はウケやすく広がりやすいですよね。私も『漂白される社会』(ダイヤモンド社)で社会的弱者が集まる場所を取材したり、被災地の問題などに関わるなかで、しばしば「弱者への配慮」の言葉に出合いますが、その弊害を感じることも多かったです。端的に言えば、見えない第三者を持ち出してきて「この人は被害者・弱者である」と指摘する行為が、それを主張する人が自ら権力を獲得することと表裏一体であるのに、それを多くの人が意識しないという問題です。

つまり「誰かを被害者・弱者として単純化して語る」ことで、それを語る人間は、自らが正しい側にいると優位な側にたったかのように錯覚し、その周りは黙らざるを得なくなる。そこには、本来、単純な被害者・弱者と語るだけでは足りない複雑な第三者である「誰か」がいて、その「誰か」について語られるべきことを語れなくする構造が生まれます。その結果、全員「思考停止」になってしまうわけですね。思考停止になった結果、現場不在の議論が、あたかも現場を代弁する正しい議論であるかのように流通してしまう。これは、さまざまな被災地に起こっている問題、差別問題やケアの問題などの根底にたたずむ大きな問題です。



自ら語ることで女の子は「AV女優」に変わる 彼女たちはなぜ、AVの世界を選んだのか【社会学者・鈴木涼美×社会学者・開沼博】|対談 漂白される社会|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/60436


漂白される社会 -
漂白される社会 -










モノラルセカイ - スガシカオ - 歌詞・動画 : 歌ネット
http://www.uta-net.com/movie/172242/

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2014年10月10日

はっぴーたんぶらいふを ( ´∀`)b










書き忘れたけどtumblousのtuneは右上の四角をタップしたら解ける。

iPhoneからだとほかにTumblertailなんかもおぬぬめ(一覧性がある)。あるいはtextだけに特化したいならtmbrtextとか。


自分のたんぶらの使い方は現状だと「エレベーターとか信号待ち、あるいは歯磨きなどの拘束-暇時間にりぶろぐする」をメインとしてるのでdsbdをふつーに開いてそのときフォローしてる人たちが流してきたなかでおもろいものをリブログし、あとでPCからmegaeditorやらtumblerviewerやらで見てニマニマしたり、LINEのスタンプのごとくいたづら代わりに使ったりするような感じなんだけどそういうのは主に消費-テレビ・雑誌視聴のような遊び方で、自分発のコンテンツぐらいかな、「自分」てかんじなのは(つても引用だけど。。


以前にもかいたけど、こういうたんぶらの引用というのはめんどくさくかんがえるとカメラで現実を切り取るのと似てるのかなと思う。逆にたんぶら的な感覚にずっぽりしてくると「ああ、いまのこの現実、りぶろぐできねえかな( ^ω^)」とおもってきたり(cf.テトリスにハマると街のビルがテトリスブロックに見えるように。。


まあ、そのへんはいいんだけど、こもこさんに紹介ついでに私的な「お気に入り」にしてるひと(ちゃんねる)リストを以下に。


あくまで「自分的な観測範囲でのもの」程度の








































































ざらっとlikeの目についた範囲でご紹介しただけで、だんだんしんどくなってきたのでやめたぐらいにまだあるんだけど、とりあえず普段よくtuneしてるちゃんねるということで。




▽かわいい+きれい系女子+サブカル

神楽坂 UNDERGROUND AND RESISTANCE
を中心に、それと似たような感じの「おにゃのこ」+「サブカル」な構成で

baltan.AVとかgkojaxとか。九龍hajime.jppedalfarchoccotoyoumeiwonderthinkanswer…。

このへんはまあ腐るほどあるので上を中心に芋づるで増やしてたら勝手に増えると思う。

んで上のなかでもさらに女子に特化、しつつ自分好みしたように思うのがko-no-koとか、aurorae、deadgirlとか(※最後はこんかいリンク忘れたけどまあやってたら芋づるされるとおもふ。神楽坂のひととかのりぶろぐ先にも多いし


あとは外国人女性-モデルさんを中心とした写真とかあるけど。。なんか逐一リンク貼るのも疲れ出したし上記でリンクしつつ軽く説明入れてるので興味があったらそれで。(つかたぶんこもこさんそんなにこのへんは興味ないだろし(んでもストームトルーパーファッションとか、exercicedestyle、スチームパンクとかはけっこういいかな。ビザールなのは自分の趣味だけど。パペットとかも


ふつーにたんぶらのおもしろ+かわいい・セクシー女史ぐらいだとイエローさんとことかいいかもしれない。このへんも似た感じ(つかこっちは神楽坂のひとに似てるのか






▽ほのぼのかわいい系

holespolesを筆頭に、tomato-s
bprchomieepretyhorsesmarr-tbcampiss

などなど


この辺わりともっこもこかもしれない





(※つかれてきたので埋め込みリンクじゃなくて野ざらしリンクにしよう。。カットアンドペーストするなら最初からこうすればよかった。。)




▽イラスト


http://fuckyeahpixivranking.tumblr.com

pixiv絵をチェックするのに便利


http://pixiv-artists.tumblr.com

pixivアート


http://snnns.tumblr.com

pixivで有名なたえさんのイラスト




▽今日の話題


http://kyo-no.tumblr.com

今日のたんぶらの人気の


http://classics.tumblr.com
http://classics2.tumblr.com

過去の鉄板、的な?






▽アート


http://fleurdulys.tumblr.com

http://darksilenceinsuburbia.tumblr.com

現代アートぽいの



http://rokuroku.tumblr.com

アート系とサブカル、ほのぼのかわいい系







だいたいこんなかんじ。


ほんとはアート系をもっと増やしたいんだけど、いまいちなのが多くて。。古典だと印象派とかルネサンスとか中心になって自分的には合わないので(サブカルじゃない本気現代アートとか見たいんだけど。あるいはそれに準ずるような「有名ではないけどdivinArtとかで人気になった」とかな。


まあそういうのは仕方ないというか、、地味に芋づるで増やしてく感じだろうか。



現状ではちょっとした拘束-隙間時間に使うのがふつーになってるってのもあるし、そういうときにいちいちアートアートでは疲れるしの(「かわいい」「きれい」な女子の外装はそれだけでアートだし


「女子の外装はそれだけでアート」てか花に似てるのか。。まあ花を摘む-クリップして並べてるってところもあるのかもしれない。



たんぶらーは特に検索性が弱いので、そういうのを蒐集しても流れていくってのはあるけど、ふと見返した時に「ああ、この頃はこんな花-色味だったのだなあ」とか感じるのだろうか








とかグダグダ自分語り思考に入ってしまったけど、ともあれハッピーたんぶらいふを( ´∀`)b




--
関連:
トること / トられること  「承認欲求」以前のお話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384572249.html


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2014年10月03日

Parlez-moi d'amour




なんとなく積ん読の消化にもネットの話題にも、たんぶらーでリブログするのにも飽きてしまってボーっとする。

「なにかおいしいものを食べたり飲んだりしよう」とおもっても酒はいまはもう面倒だし、なんとなく甘じょっぱいものが飲みたい気もするけど冷蔵庫にガラナぐらいしかなかった。炭酸飲料はいまそれほど欲しくない。かといって買いに行くのも億劫。


ライチ紅茶を煎じるにもためらわれる。今日は日中暑かったので。


けっきょく買ってきたりんごを剥いて食べてみた。ひさびさに食べると美味いものだな。ふつーのりんごも。


そしてけっきょく凍頂烏龍茶を淹れる。



凍頂烏龍茶がちょうどよいぐらいに冷めるまでのあいだ、日記でも書いてみよう。


たぶん、自分が欲していたのは他人のドラマを読むことではなく自分を再構成することだったから。

自慰と似てる、けどそこまでのことをしたいわけでもなく…。性欲はやはりアルコール欲に似てる。そして茶や果物はその中間。




とくに理由もなくふといやになって連絡もなしに消えていく権利をあなたに付与しよう - 傘をひらいて、空を
http://d.hatena.ne.jp/kasawo/20140930/p1



朝に読んだこれがおもったより心に刺さった。


彼や彼女たちとの関係を思って。




彼女たちもそういった関係を前提にしていたのだろうか。




とくに断りもなく、とくに理由もなく、ふと、いやになって、連絡もなしに、消えていく。





「いやになって」てほどでもなく単にブランクが空いてるだけで、そのブランクが思ったよりカサブタのようになってるから連絡を取る機会がないってだけなのかもしれないけど。



そういえば彼女とのわりと気楽な連絡経路だったLINEも8月に乗っ取られて消えてしまった。

ちょうど留置場から出て、なんとなくダメ元で彼女に連絡してみようと思ってた矢先に。



まあそれでもメールだの何だので彼女たちに連絡しようと思えばできるんだけど。



なんとなくそういう気も生じない。




炭水化物をいま欲してないように。


いま欲していたのは果物だったように。







たぶん、時機がくればそういうのは自然に拓けるのだろう。



連絡を取る方向、にだけではなく、もう一生連絡を取らない方向になのかもしれないけれど。



それも、そのときになってみなければわからない。








そんな気分を抱えつつなんとなくこれを読む。



愛がなくても喰ってゆけます。 -
愛がなくても喰ってゆけます。 -



表題は「結婚とかしなくても目の前のものが美味しいってだけでたのしく暮らせていけます(気の合う相手とは同居したりしなかったりぐらいで)」ということだろう。


全体は「きのう何食べた?」と同じくおいしいものの口福を描いたもの。

「きのう何食べた?」では同性愛男性カップルの日常生活という関係性が添えられていたけれど、こちらはヘテロ同棲結婚未満て感じ。それをなにセクシャルというのか知らないけれど。まあ両方きぞんの関係性に縛られず「自由」を前提にしてる。

そして、そこでは別れる自由も前提に。






ぢくぢくと内面をいぢるようなことをすれば、別れということについてセンチメンタルに沈んでいくこともできるし、そういった日記を過去に書いてきたように思うけど、「とりあえず目の前の口福というノリに身体を委ねよう」というメッセージに乗っかってみる。リンゴ美味い。



このアルバムの7曲目がなんとなくいまの気分に合ったのだけれどyoutubeにはなかった。


パッサカイユ - 中島ノブユキ
パッサカイユ - 中島ノブユキ


というか、このアルバムと曲にはいろんな場面で助けられてきた気もする。



「まあ仕方ないかなあ」「こんなもんだよなあ」「ああ、なるほどなあ」って。



それが自分の恋愛感情との距離感なのかもしれない。







「ほら…烏龍茶がさめてしまったじゃないか」
















Parlez-moi d’amour,
愛について話して
  
Redites-moi des choses tendres.
私に繰り返して やさしいあのことを
  
Votre beau discours,
あなたの美しい話し方で
  
Mon coeur n’est pas las de l’entendre.
私の心は、それを聞いて疲れることはない
  
Pourvu que toujours
いつだって(いつ聞いていても)

Vous répétiez ces mots suprêmes:
あなたはこの最高の言葉を繰り返した

Je vous aime.
「愛してる」
Vous savez bien
あなたは良く知っている
  
Que dans le fond je n’en crois rien
私はそれを信じないということを
  
Mais cependant je veux encore
でも、それでも私はまだ
  
Écouter ce mot que j’adore.
その大好きな言葉を聞きたい

Votre voix aux sons caressants
愛情のこもった響きのするあなたの声
  
Qui le murmure en frémissant
震える、つぶやき
  
Me berce de sa belle histoire
その美しい物語で惑わせて
  
Et malgré moi je veux y croire.
たとえ私でも、それを信じられるように


PARLEZ-MOI D'AMOUR 聞かせてよ愛の言葉を 直訳
http://maash.jp/archives/2090











--

『きのう何食べた?』の感想みたいな - wHite_caKe
http://d.hatena.ne.jp/white_cake/20140620/1403264866

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2014年09月14日

スコットランド独立と「天使の分け前」


“Sometimes life is sad. You can cry in your booze, if you want. I think that’s called a Whiskey Sour.”

― Jarod Kintz


“The light music of whisky falling into glasses made an agreeable interlude.”

― James Joyce


“Too much of anything is bad, but too much good whiskey is barely enough.”

― Mark Twain


“Some of us look for the Way in opium and some in God, some of us in whiskey and some in love. It is all the same Way and it leads nowhither.”

― W. Somerset Maugham


“There is no bad whiskey. There are only some whiskeys that aren't as good as others.”

― Raymond Chandler


“Whiskey, like a beautiful woman, demands appreciation. You gaze first, then it's time to drink.”

― Haruki Murakami










ついったなんかを見てるとリベラル()なひとが「スコットランド独立は国民国家に対する独立でー民主主義がー民族自決でーグローバル市場主義な新自由主義に対する地域の独立がー」みたいなこといってるみたいでシノドスでそれに対するカウンターあげてたので「(´・ω`・)世間的にもそんな見方なのかな?」ってのもあってエントリにしよかなとおもったんだけど、NHK(ニュースなんかみてるとシノドスぐらいのことは短くまとめて言ってたので急速にヤル気を失いつつ。。(エントリしようと思って時間経ったのもあるけど)「まあ主に見た映画の感想ほかだからいいかあ」ぐらいで。


スコットランドで何が起こっているのか――民族とアイデンティティを超えた独立運動 / 久保山尚 / スコットランド史 | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/10615

まとめると「エスニシティメインではなく経済 → 福祉メインの話」ということ。

財政のとこで「スコットランドはイギリスから独立しても十分やっていける(イギリス全体の中でスコットランドが払ってる率の高さよ」+北海油田があるじゃないか、て感じみたいだけど。筆者の人も言ってるようにどんぶり勘定なんだろなこの辺。


印象としては日本に例えた場合、茨城国とか福島国、あるいは豊田国が日本独立するぞーみたいな話。なので「国民国家から民族自決のナショナリズムでー」つか県や市町村レベルの行政-自治な話でtuneしたほうが良いように思う。自分的にはこの辺とか

まあ茨城とか福島とかも昔は国だったと考えればナショナリズムとかnatioとかはあるだろし、「国がきちんと予算くれんのんだったらわしらだけでやってけんか考えちゃるんじゃけんの」ってのは有意義ではあるだろうけど。

ヒロシマ独立論 -
ヒロシマ独立論 -

その場合、独立した後の地域の経済(税収と経営など)・通貨などのもろもろの仕組みをどうするか?ってのが現実的に考えるところになり地域通貨がどうとか、「けっきょく明治維新つても江戸の枠組みをコピーしただけだったじゃないか」みたいな話が想起される。


そういうわけで今回のこれも国に対して「もっと予算くれやー」なプレッシャーをかけた+自分たちで独立して運営していく場合の必要な物を考えそこから「国」を借りてることの有効性を逆に考えられた、という意味で有意義だった、ぐらいに落ち着くのかなあという印象。

「んでもちょっと禍根残すかも。。」って見方もあるみたいだけど


スコットランド住民投票の意外な意味 | コリン・ジョイス | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
http://www.newsweekjapan.jp/joyce/2014/09/post-83.php


曰く、「スコットランドは独立しないにしてもスコットランドへの権限移譲は進む。リヴァプールやマンチェスターもコレに続くかもしれない。スコットランド内部の問題は事実上独立したも同然の権限をもつようになるだろう。一方、スコットランド議員はイギリス議会に席を置き、イギリスの問題にも口出しできるようになるのだ」



あとは今回の件と関連したことで連想したことをつらつらと



スコットランド住民投票が煽るカタルーニャ独立 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News
http://www.afpbb.com/articles/-/3025592

スコットランドの歴史 - Wikipedia
http://bit.ly/Zipmgy

バスク国 (歴史的な領域) - Wikipedia
http://bit.ly/ZipqNj

カタルーニャ州 - Wikipedia
http://bit.ly/Ziprku

カレドニア讃歌:スコットランド独立と欧州の政治:JBpress(日本ビジネスプレス)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40037




カナダのケベックなんかも今回の件を受けて独立な刺激がちょっとあるみたいだけど、とりあえずスコットランド←イングランドとの関係でカタルーニャが刺激受けたというのはわりと近くではフランコ政権統治下で無理やり統合されたスペインの歴史を想わせる。すなわち「みつばちのささやき」でありナイチンゲールの活躍とか。


ミツバチのささやき [DVD] -
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「ミツバチのささやき的な見方もサヨク的びみょーさがある」てのはあるのだろうけどとりあえずそこは置いておいて、「地域のアイデンティティは別にしてもっとつよい政治勢力によって無理やり統合されていった不満」というのはスペイン一帯、あるいは、スコットランドを含めたブリテン島一帯にもあるみたい。まあ端的にはもともとケルト-ガリアな血筋な地域をローマや神聖ローマ、あるいはフランス・イングランドなどが統合していった(ケーキを分けて行った)ってあれだけど。

ガリア戦記とかヴィンランド・サガを思い浮かべればおーざっぱにケルトほかの原住民が被侵略 → だんだんと追いやられていったというのはわかるし、「双頭の鷲」読んでるとスペインが未だナバラ王国とかカスティーリャとかアラゴンとかで分かれてた頃、フランスvs.イングランドっていう従兄弟争いみたいなところで分けられるケーキの一部(あるいはちょっとした飛び道具的なもの)としてこの辺りがとらえられていたのがわかる。ブルターニュや南フランスなんかもそうだけど。

ガリア戦記 (岩波文庫) -
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カエサルを撃て (中公文庫) -
カエサルを撃て (中公文庫) -
ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンKC) -
ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンKC) -
双頭の鷲〈上〉 (新潮文庫) -
双頭の鷲〈上〉 (新潮文庫) -
双頭の鷲〈下〉 (新潮文庫) -
双頭の鷲〈下〉 (新潮文庫) -

ついでにいうと佐藤賢一によるとダルタニアンなんかもバスク←ガスコーニュ出身の鷲鼻-九州男児みたいな感じだったみたい。

二人のガスコン〈上〉 (講談社文庫) -
二人のガスコン〈上〉 (講談社文庫) -
二人のガスコン〈中〉 (講談社文庫) -
二人のガスコン〈中〉 (講談社文庫) -
二人のガスコン〈下〉 (講談社文庫) -
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んで国民国家的な統合な時期を前にイングランド→スコットランドではスコットランド側に不満な統合があった、と(名誉革命)。

権利章典うんたらも兼ねてこのへんはまだちゃんと掘ってないのでなんだけどちょっと意外な印象だった。イングランド側からみてれば権利章典なあれはカントリージェントルマンによる独裁君主への対抗ということで地方自立な文脈に属するように思っていたので。その陰で別の地方が潰されていた、のかなあ。。


カスティーリャなんかもざらっとWikipediaみると似たようなことはあったようで、まあけっきょくは経済的独立ができるかできないかというところで、そういうのができたときには独立機運が高まるんだけどそれらがもっと上位の政治権力によって潰されていった。潰される、っていうか経済的ハブ-ポートとして発展する近代国家の中であらたな役割と誇りを担わされていった。

産業革命期のリヴァプールの役割なんかもそんな感じだったようだし。。そしてそういった地域の労働者向けのパンとしてサッカーが興隆し、そこに「われらの失われたエスニシティの誇りを」が載せられていった、のかな(バルセロナ、バイエルン・ミュンヘンなんかもそんな感じだろし)


なのでそういう地域の誇り-エスニシティというのはそれ単体ではなく労働者の誇り/腐れ労働に対する嫌厭→鬱憤 + 酒 + 享楽 + 「われわれ」のよすが、みたいないろんな感情やアイデンティティが混ざっているのではないかと想う。

日本とヨーロッパのクラブチーム(サポーターの熱)の違いを考えるときの材料としてそういうものも使えるかなああとちょっと思うけど、それるのでそこは保留にしておこう。




スコットランドの場合、そういった歴史に醸された一杯としてウイスキーがあるのかもしれない。

単純に「うまい」ものでもなくむしろ最初は「なんだこれっ( ゚д゚)、ペッ」て吐いてしまうような、でも、だんだんと慣れてその不味さの中の様々な風味を味わうことが癖になっていくような(人生がそうであるように)。


天使の分け前 [DVD] -
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(いつもどおりネタバレ含むが)お話アウトラインとしてはイギリス地方の若者としてありがちな三代前ぐらいから下層労働階級で就職もままならないような文化資本・社会資本からも断絶してる若者が酔ったいきおいで傷害事件で捕まり、執行猶予的代償みたいなかんじで社会奉仕活動に参加した折にウイスキーをはじめて知り、自らのどん底から脱するべく仲間と「天使の分け前」を計画する。

「天使の分け前」というのはウイスキーの蒸留過程で蒸発していくアルコール分。「どうしても無くなって行く酒分 → これは天使への分け前だ」ということ。

主人公には子供が出来て、でもゴロツキからストーキングされてる+金も職もないので遠くにも行けない。そこでオークションに出されるウイスキーが法外な金になるということを知る。「しかもこれはけっこうチョロく盗めそう・さばけそう」ということで起死回生の賭けに出る。


といっても盗みにメインを置いた作品でもないのでそのへんの実行の様子はロードムービー的なゆるさで描かれていた。自分的には少し前に見た「スターウォーズマニアたちが癌になった友人と最後のスターウォーズ巡礼(ヲタグッズの盗み旅)に行く」っていうロードムービーを思い浮かべた。



「盗みをメインとする作品でもない」ということで自分的には最後に主人公は酒を返上するのではないかと思っていたけど、そのへんはわりと予定調和的に終わっていた。特に「ミッション・インポッシブルv( ̄Д ̄)v イエイ大成功」て感じでもなかったけど。



主人公が主人公なりの「天使の分け前」にありついたことについて、スコットランド独立なニュース的にはなにか隠喩的な予感のようなものが含まれた映画だったのかなあとも妄想された。


「スコットランドはけっきょく独立しなかった。しかし今回の独立騒ぎを通じて彼らにも『天使の分け前』が供された(彼らに供された分前とはなんだったか?)」



たまたま自分が見た時機とリンクしただけだろうけど。




あとはムショぐらし・底辺の生活からの脱出、なところが現状の自分とリンクして思ったより感情移入・印象に残った映画となった。


ケン・ローチの作品はこういったイギリスの底辺若者の現状、あるいはふつーの人の現状を扱ったもののようで、ダルデンヌ兄弟ともどもぼけーっと掘っていきたい。


ケン・ローチ - Wikipedia
http://bit.ly/rQCoPW



あと、秋用にちょっとしたスコッチほしいな

ザ フェイマス グラウス ファイネスト 700ML 1本 【並行品】 -
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アードベッグ 10年 1000ml [並行輸入品] -
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2014年09月06日

「聲の形」

聲の形(1) (講談社コミックス) -
聲の形(1) (講談社コミックス) -
聲の形(2) (講談社コミックス) -
聲の形(2) (講談社コミックス) -
聲の形(3) (講談社コミックス) -

聲の形(3) (講談社コミックス) -
聲の形(4) -
聲の形(4) -

読んでちょっと心に残ったので簡単にとどめておきたい。


アウトラインとしてはこのマンガへの興味のきっかけとなった他人様の説明を借りよう。

「差別」と「いじめ」が重なるマンガだった - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130220/1361383183

少年誌のマンガでこの文学性 - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20140118/1390065423

お父さんの[そらまめ式]自閉症療育: 障害者いじめの一つの「形」ー「聲の形」から(番外編)
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/390409491.html

【ネタバレあり】障害者を“記号化”する健常者の「レイプ・ファンタジー」〜大今良時『聲の形』 - 百錬ノ鐵 hyaku ren no tetsu
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20130224/p1

















ついったでもちょっとつぶやいたとおりこの作品のテーマというか真骨頂のようなものは「障害者だからといって特別扱いすることは却って差別していることになるのでは?」「きちんと向き合ってコミュニケーションするというのはどういうことか?」ということなのだとおもう。

そこからこのテーマをさらに深めて「きちんと向かい合う(お互いの声を聞く)とは?」というのをコミュニケーション全般に広げ、「障害者へのいじめ」からいじめ一般、この年代、あるいは、社会全体の空々しいコミュニケーション全般を考えるようにしてる。



作品の醍醐味はおためごかしではない本音のコミュニケーションというところにあるので、この先登場人物たちは何度かの事件、修羅場を通しての本気のぶつかり合いで心をひらいていくのだろう。


自分的に気になったのは主人公がかわいすぎる-ちょっと理想化があるのか?というところだったけど、その辺はこのへんでも懸念され

 たぶん「障害児」関係者が読むと、より厳しい現実もたくさん知っているだけに、いろいろと言いたいことは出てくるだろう。西宮が終盤までいかにも「健気な良い子」として描かれているのも気にかかる(「こんなにいい子なのに」いじめるのはひどい、という感想を招きかねないので。「障害者」へのいじめや差別を批判するとき、マジョリティにとって受け入れられやすい障害者像を描くことには危うさが伴う)。

「差別」と「いじめ」が重なるマンガだった - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130220/1361383183

このへんでは少し拡大解釈されてるように思った。

また主人公は健常者の身でありながら手話を覚えた努力をひけらかすが、その努力は障害者の側とて、それも当然のものとして経験している。その程度のことをもって健常者が障害者と同じ目線に立ったつもりでいるなら、そうした思い上がりこそが“特権”である。主人公にとってはただの自己満足にすぎないが、聾唖者にとっては補聴器やノートと同様に、生きていく上で不可欠の技能だから習得せざるをえないのである。

『聲の形』において障害者の存在は、ただひたすら健常者に迷惑をかけ、健常者が必要としない努力を課され、その上でなおもそうした「原罪」を責め立てられることによって、はじめて健常者に“受け入れてもらう”ことを許される。

何かによく似た図式だと思ったら、レイプ被害者の女性が加害者の男性に転移し、あげくのはてに結婚までしてしまうというポルノの「レイプ・ファンタジー」そのままだ。少女が抵抗しなかったことを理由にイジメを正当化する主人公の姿は、被害者が抵抗しなかったことを理由に「和姦」を主張するレイプ犯と何も変わらない。

そんな主人公の言葉に反して、仮に少女が主人公に憎しみの言葉をぶつけ、そして最後に主人公との和解を拒絶するという選択を取ったなら、この作品は成立しない。物語を健常者の読者にとって気持ちの良いオチで締め括るためには、そのじつ障害者に健常者を憎むことはいっさい許されないのである。

【ネタバレあり】障害者を“記号化”する健常者の「レイプ・ファンタジー」〜大今良時『聲の形』 - 百錬ノ鐵 hyaku ren no tetsu
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20130224/p1



とまれ、ほかの社会問題でもそうだけど、この辺りで大切なのは単なる上からの押し付けとしての「正しいこと」 → 結果として問題を異化/聖化して隔離することではなく、良きにせよ悪きにせよ当人たちが本音でぶつかりあって相互理解を深めていき、結果的に意識を改革していくことなのだろう。

「罰則があるので表面上は『正しい』振る舞いをしつつも心のなかではどう思ってるかわからない」って面従腹背ではなく。

「差別」はカテゴライズが伴われる点に特徴があるので、一般的な「いじめ」とは区別されやすいが、全体主義的な圧力に屈しないことに対する報復という意味では同じ構造をもつ場面がある。だから「障害児」を包摂できる環境を作るために必要なのは「特別支援教育」という配慮や工夫ではなく「教育そのもの」の変容でなければならないのだ。言い換えれば「いじめを無くす努力」は「インクルーシブな教育」とも深く結びつくものである。当然と言えば当然だが「障害児にとってやさしい学校」だけを目標にしても成功しない。

「差別」と「いじめ」が重なるマンガだった - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130220/1361383183

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