2015年04月04日

「石田尚志 渦巻く光」展へ行ってきたよ




新たなエレクトロニクスやコンピュータ・グラフィックスの驚くべき展開によって、映像としてもタブローとしても、画家の手を煩わすことなしに、かなりの抽象的な絵画を作ることが可能となって来た。まだまだ不十分ではあるが、エレクトロニクスやコンピュータやロボットの進歩は、それらによって、いまに思った通りの完璧な絵画が作れることを予知して余りある。 

(略)

さて、以上のような場合の画家および絵画は、果たして何を指しているのだろうか。いろいろなことを考えることもできるが、なかでも画家は、描くべき対象なり理念を明確に捉え、そのコンセプトをなんらかのカンパスなりマテリアルに、確実に転写実現する者だということ。そして絵画とは、画家によって確認されたコンセプトが、ストレートに明確な図柄で示された表面である、といった意味合いがなにより大きく浮かび上がってくる。ここでは、表現する前からすでに絵画が出来上がっていて、他の要素の作用する余地のないことが分かる。別な言葉で言えば、表現すべきコンセプトが先に完成されていなければ、絵画は成立しないというわけだろう。美術に限らず、近代の表現のあり方に見られるのは、まさしく自我の前提の許に行われる一方的な理念の遂行であることは、再言するまでもない。

李禹煥 「余白の芸術」





ボードレールにとって万華鏡は、近代そのものと暗合するものだった。「意識を備えた万華鏡」になることが、「普遍的(=万人の)生活を愛する者」の目標だった。彼のテクストのなかでは、万華鏡は、単一的な主観性を解体し、そしてまた―形象=像(イコニシティ)をあらゆる地点で断片化し、安定状態を撹乱することで―新しい、変移していく不安定な配列状態へと、欲望を散乱させるための機械であった。
けれでも、1840年代の時点でのマルクス・エンゲルスの著作においては、万華鏡は全く異なる機能を担っていた。ボードレールをかくも誘惑した万華鏡の複数性は、彼らにとってはニセモノであり、文字通り、鏡を使った詐術の謂であった。万華鏡は、新しいものを生み出すのではなく、ただ単にひとつのイメージを反復するにすぎないのだ。

ジョナサン・クレーリー 「観察者の系譜」













横浜美術館でやっている石田尚志展にいったら思ったよりよかったのでnoteにでも軽く感想して終わろうかなあと思ってたんだけど、「noteとblogと曖昧だねえ(´・ω・`)」+「noteのは日記を主にしてるのでテーマで分けるのではなく編年体で、こっちはテーマを絞った紀伝体だから主に本の内容とかになるよねえ。映画とか展示とか」+「私的/公的てのもあるか。noteのはより私的で、こっちはテーマ絞ると関連して公的というか、、まあ鍵もつけずに表出してる時点で私的とかないんだけど。。」、てことでこっちにエントリを。あと、blogも少ないとなんだなあというのもあるし。

てか、書こうと思っていちおぐぐってたら思ったより資料が多くなったのでやはりこっちでよかったみたい。noteのはいちおそんなに長くなくさらっとしたのって感じでやってるし。



結論から先に言うと良かった。






フーガの技法はバッハトリビュート/インスパイアということでバッハの「フーガの技法」を映像として表したもの。「渦」は自分的には輪廻/生命を仏画的に表したものに思えた。

てか、「渦」は1991年の作品、1972年生まれの石だが19歳の時の作品なのだけど、この時点でこれが描けてしまうところになんかもう完成してたのだなあって改めて思った。


一部動画で見られるので概要として

時を忘れて没入できる石田尚志展「渦巻く光」 - di nobi
http://nobi.dino.vc/wf/news/16805072

自分の印象なので後でこの作品についてのインタビュー読んだらちょっと違ったんだけど、印象としては食う/食われるしつつ続いてく生命の螺旋の道が須弥山的な山を登っていくような。。この食う/食われるの関係は特に残酷がどうとかいうことでもなくただそこにそういうものとして在るて感じで表現されてる。この作品が飾られていた部屋の抽象が植物の営みのそれを想わせたように。

そういうものを19歳の段階で描けた、そういう感性、リアリティをその時点でもっていてそれが芯になっていったのだろうからあとは表現技法とか洗練が後からくっつけばよいだけで、なんか約束されていたのだなあとかおもった。


展示の内容は石田の作品を大きく「渦」「音楽」「身体」というコンセプトで分けている。「渦」は石田の絵画→アニメーション作品に共通するモティーフである渦、植物の生命のからみ合いのようなそれを。「音楽」はバッハのフーガの技法を元にした映像作品である「フーガの技法」を中心に。「身体」はアクションペインティング的に、石田の制作風景も一緒に映像として表されている。



「フーガの技法」については自分が解説するより映像として上がってるのを見てもらったほうが早い / 自分としてもあとで見返すときに眼福ということですこしぐぐってみたけどネットには映像はあがってないみたい。DVDならあるかとおもったけどそれもなかった。「部屋/形態」を所収したDVDはあるみたい


監督:石田尚志/1999年/カラー/7分/2000年レティナフェスティバル準大賞、第31回タンペレ国際短編映画祭正式招待、2002年トロント国際映画祭正式招待、1999年イメージフォーラムフェスティバル特選

●窓からのこもれ日で浮かび上る白い部屋。作家はこの部屋の壁/床を巨大なキャンバスとして縦横無尽に絵を描き、それを一枚ずつ撮影することによってこのアニメーションを完成した。
イメージエフ | DVD | シンキング アンド ドローイング
http://www.imagef.jp/commodity/d_0013.html



なので自分の解釈も入った感想からいうと、生命と時間を表してるんだなと思った。細胞室、ミトコンドリア、原子、光子レベルまでの生命の形成過程に時間と存在、宇宙がなだれこんできて、、そこでは時間、存在が可逆的に何度も繰り返され、その繰り返しの中から形を成し現象していく。バッハのフーガの技法の繰り返しに使われる4つの主題が生命の鍵となる4つの箱-部屋(室)となり、それらが時間・空間・次元を越えて重なりあうことで生命を形成していく。箱 - 部屋と次元が重なり、相転移していくさまは万華鏡を想わせた。そして、そういったものを映像で表せるんだなあ/よくもコンピュータも使わず表したなとかおもった(1万枚描いたそうなこの19分の映像作品に)





まあこのへんも「自分の解釈・印象」ということであとでインタビューみたらちょっと違ったようなんだけど。まあそれは後述するとして、とりあえず来歴から。




東京都出身。慶應義塾高等学校中退後、沖縄県に渡り画家の真喜志勉に師事する。イメージフォーラム付属映像研究所でアニメーションを学び、在学中の1995年に初のアニメーション作品『絵巻』を発表する。1999年、東大駒場寮の一室を1年間借りきって描き上げた『部屋/形態』で注目を集める。

2003年、カナダのイメージーズ・フェスティバルでベスト・インターナショナル・フィルム・アワードを受賞。2007年に第18回五島記念文化賞美術新人賞を受賞し、トロントに留学する。

2006年多摩美術大学講師に着任し、2010年より准教授。
石田尚志 - Wikipedia http://bit.ly/1yKDnyD




線を一コマずつ描いては撮影する「ドローイングアニメーション」という手法を用いています。描き進めるうちに、空間のなかに増殖する線や移動する点といった運動性を介入させ、空間の質をさまざまに変容させるインスタレーションを発表しています。

膨大な画像の編集作業を経多後に、再び映像としての「時間」を獲得した作品は、線画の音楽のよう。ダイレクトに「絵が動く」という、映像メディアが生まれながらにもつ視覚的魅惑が凝縮されています
映像作家・石田尚志の大規模な初個展が行われるよ | roomie(ルーミー)
http://bit.ly/1bVFvPt





特にこのインタビューが情報量多くてわかりやすかった。

金子遊のこの人に聞きたい vol.8
躍動するイメージ。石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流
石田尚志(美術家・映像作家)インタビュー: 映画芸術
http://bit.ly/1bVFF9t

――石田さんは既に14歳のときに「バベルの塔」(’86)という油彩画を描いています。慶応高校を中退して、10代のうちに青山同潤会アパートで個展(1990年)をやっていますね。

 最初に描いたのは、バベルの塔を空から見下ろしている絵で、2枚目に描いたものは、塔の内部へ入ったイメージのものでした。塔の内部に入り、渦を巻きながら昇って行くイメージです。内部へ入るとか、昇っていくという行為は、カメラでいえば「引き」で見られるものではありません。そうすると、何かを潜り抜けていくしかなくて、どんどん遠近法が解体されていく。「そのような経験というのは、映像なのだろう」とその頃から予感していたのでしょう。
 作家として出発する中で、もっとも重要な時期は沖縄での日々でした。僕は東京の出身ですが、10代後半に2年間住んでいて、最初は那覇で、画家・真喜志勉さんの「ペントハウス画塾」へ通いました。真喜志さんという人は復帰後の沖縄美術を代表される方で、アメリカと日本との間で激しく闘争しているような作風の方です。その真喜志勉さんの個展を手伝った時、詩人の矢口哲男さんを紹介してもらい、そして今度は矢口さんがその画廊で企画した詩人吉増剛造さんの写真展も手伝うことになった。そうやって出会えた方々との交流は今も続いていて、特に東京に戻ってからも吉増さんには色々な形で引き立てて頂きました。
 その頃は、ファクシミリ用の50メートルの感熱ロール紙を絵巻物に見立ててドローイングをしたり、国際通りのフェスティバルビルの屋上で個展をしたりしていた。だから「絵を描いてる若いのがふらふらしている」と、面白がってくれたのでしょう。次へ繋がる出会いがあったことが大きいですね。
 その後、東京へ戻ってきてライヴ・ペインティングをしていたのが、20歳から21歳くらいのことですね。


――東京へ戻られてから、絵画作品を作成しながら、新宿のアルタ前でライヴ・ペインティングを試みていたのですね。その後は、イメージフォーラム映像研究所を卒業しています。この経験がコマ撮りによる抽象的なアニメーションの世界へ向かう契機となったのでしょうか。

 映像というよりは、最初は「音楽のスケッチ」をしていたんです。アルタ前ではCDラジカセで大音量のバッハの音楽をかけながら、ひたすらライヴ・ペインティングという形で音楽のスケッチをしていました。夢の島や空き地でもやりました。絵で音楽のスケッチをすると、縦や横への強制的なスクロールになるんです。音楽を聴きながら、音符を書いて行くような感じです。そうやって画布の上に描いていった線が、いつか音に戻れるときが来るかもしれない、そんな欲望を感じながらやっていました。
 ただ、ライヴ・ペインティングのパフォーマンスをすると、僕の場合、ダンスに近づいてしまう。描いているときの自己の身体運動の方に引き寄せられてしまう。そして、観ている人は描かれる線というよりも、僕の身体の方を見てしまう。観客と、伸びて行く線との間に僕の身体が入っている状態になる。そのことに不満を感じていました。何とか僕の身体が消えて、見ている人に線だけが伸びていく様を見せたい、そして自分自身もそれを見てみたいという欲望を覚えていたのです。  
 それが映像の方向へ入っていった理由でしょうね。友人がHi-8のヴィデオカメラを持っていて、それは技術的にはコマ撮りができないカメラでしたが、無理やりに再生ボタンを一瞬だけ押しながら、僕の絵のアニメーションを制作しました。そうしたら、本当に動いたので感動した。でも無理な使い方をしたので、ヘッドが傷んでカメラは壊れてしまった(笑)。それが東京へ戻ってから、最初に作った映像でした。


 余談ですが、アニメのルパン三世の劇場用映画に『ルパン三世 ルパンVS複製人間』というのがありますよね。自ら神と名乗るマモーが登場する話です。あの映画のオープニングの最初のカットが、ルパンが絞首刑にされるために13階段を上るショットなのですが、足音だけが聞こえて、階段の段差が黒と白のバーだけで表現されています。あれが幼少期の、最初のアブストラクト経験なんです。
 それから、子供のときに渋谷のパンテオンで『さよなら銀河鉄道999』を観たのですが、列車が惑星へ突っ込んでいくときの、相原信洋さんの曼陀羅のようなサイケな抽象・アニメーションも印象に残っています。映画でもなく、いわゆるアニメでもなく、まさに絵画が動いている、という印象でした。


――石田さんは、2008年3月の「アフンルパル通信」(書肆吉成)というリトルマガジンに「東京論」というエッセイを寄せています。20代前半の頃、6年ほど続けていた害虫駆除のアルバイトについて書いています。東京という都市の地下に巡らされた排水溝や、皇居の近くにあるバベルの塔を逆さにしたような国の施設で仕事をしていた。この逸話にも、天上界へと上昇していくようなロマン主義的な映像作品に向かうことへの契機がうかがえますね。

 当時は、美大へ行かずに、フリーターのままで作家活動をしていて、ゴキブリやネズミの害虫駆除のバイトをしていた。沖縄にいたときは、ひと夏でしたが、平安座島の石油精製所で働きました。青い海を目の前にして、原油を石油へ精製していく夥しい量のパイプを、「非破壊検査」といって、パイプのなかに入って配管の厚みを測っていくんです。そのとき、森や海も自然ですが、石油を製油するパイプも能動的なエネルギーを持った「自然」の一つだなと思いました。
 現場のプレハブへ行くと、石油管の設計図がバーンと部屋中に張り巡らされており、当時は巻物状の絵を描いていましたが、それが、僕が闘わなくてはならない相手だと思えました。設計図は途方もない毛細血管のようにびっしり描き込まれている。原油に熱を与えながら、石油へと分離していくシステムなのですが、人間が人工的に作りだした「川」のようにも見える。これだけの建物が他にあるだろうかと思いました。デザイン優先の建築物ではなく、配管されたパイプのすべてに意味がある。これと同じくらいの密度の絵画が今描かれているだろうか、と考えたんです。


一般論でいえば、絵画はフレームの向こう側にあるものです。絵画はそれで安定しているのですが、映画には時間というものが導入されるので、もしかしたら映画ではフレームの手前側の世界、あるいはその背後のようなところまで描けるのかもしれない、と思いました。
 それと同時に「絵画の問題」をもっと掘り下げたかった。単純にいうと、それが2次元なのか、3次元なのか、4次元なのかという問題です。平面の作品を額に入れて、壁にかければ「絵画」になるのか。そのような制度的な「絵画」から逃れてしまうもの、はみ出てしまうものは、どこまでが「絵画」であり得るのか、そういうことを考えていました。

 ちょうどその頃、学生が自治的に運営していた東大の駒場寮に人が住まなくなり、アーティストにアトリエとして開放するプロジェクトがあったんです。すごく広い部屋で、ひと月あたり1万円や2万円で貸し出してくれた。寮の廃墟のなかで、映画撮影をしていたり、画廊ができたり、写真のラボができたり、色々な作家が集まっていました。僕は引きこもって、ひたすら絵を描き、それを撮影していました。
 『部屋/形態』という映画は、床とか壁とか、そういういわゆる「絵画」ではない場所に絵が生成してしまう様を描出しています。あの部屋の窓は、ある種の「絵画」のメタファーですが、その窓の外は光っているだけで、絶対に何があるのか見えないようにしてある。また、窓には絶対に絵を描かない。つまり、窓=絵画の手前ですべてが生起するというコンセプトのもとに、線描を描いては16ミリフィルムでコマ撮りの撮影をくり返すという行為を続けました。それは壁に線が這っていくという、無意識的な欲望から発露されたものでもありました。


――『部屋/形態』においては、壁に絵を描いたり、それを塗りつぶしたり、模様が白と黒のイメージの交差によって示されます。それとともに、線描によって出現した抽象的な絵画が、窓から差し込む光や影を擬態したり、偽りのパースペクティブや偽りの矩形を描いたりして、遠近法に対するはぐらかしをします。

 遠近法へのアンチテーゼなのか、服従なのか、どちらかなのでしょう。カメラをどこかへ向ければ、そこに遠近法は生まれるわけです。僕たちがそこから逃れられる方法はほとんどない。『部屋/形態』の部屋でいえば、窓から入ってくる光だけが、壁や床を照らしてあの世界を成立させている源です。あの部屋をカメラの内部のイメージで考えました。そうすると、すべてが反転します。窓を開けて外を見れば、そこに「世界」はあるのですが、僕が試みたことは反対に部屋の内部へ深く入りこんでいき、まぶしい外の世界を不可視なものとしました。
 今回の「躍動するイメージ。」展でも示されているように、20世紀の初頭には絵画から映画へ移行した人たちの系譜があります。抽象絵画から抽象アニメーションへいったダダイストのハンス・リヒターやヴィキング・エッゲリングたちです。僕が多くを受け取ったのは、ドイツの抽象画家のオスカー・フィッシンガーで、彼は音楽と映像の融合を試みた人です。そもそもカンディンスキーであれ、パウル・クレーであれ、抽象絵画の画家たちは目に見えない音楽を描く、ということを自分に課した人たちだったんです。


『フーガの技法』

 このオリジナル映像作品のシリーズは十数回続いている“身体”をテーマとした映像作品の制作事業です。当時、世の中に出ていた僕の作品は『部屋/形態』だけでしたが、愛知芸術文化センターから「企画書を出しませんか」と声がかかり、映画の制作費をもらいました。実は『部屋/形態』の少し前から、絵を描きながらそれをコピー機にかけて、アニメーションの作画にしていくという試みをしていました。そして『部屋/形態』が終わった後に、『フーガの技法』へ取りかかったところだった。それで制作費が出たので、少しまとまった作品ができるかもしれない、と集中して作ることになったのです。
 映画にはお金がかかりますが、僕の場合、フィルム自体にはそれほどコストはかからない。その代わりに籠もって制作する莫大な時間と労力が必要です。エンド・クレジットで色々な方の名前が出ていますが、実質はひとりで作画し、撮影していきました。だから、他のことを一切せず膨大な作画作業に集中することが出来ました。

――最初からJ・S・バッハの「フーガの技法」のなかの「コントラプンクトゥスI」「コントラプンクトゥスXI」「未完のフーガ」の3つパートを映像化しようと決めていたのですか?

 最初は「コントラプンクトゥスXI」をやろうと思っていました。何度聴いても、まったくよく分からない曲ですよね。バッハというのは、一体何を考えていたのだろうと常に驚きを覚えます。それで、20代のうちに「フーガの技法」と格闘しておきたいと思ったんです。
――実際の映画制作の作業工程としては、紙の上にペンと修正液で少しずつ絵を描いていき、少し進んでは、それを一枚一枚コピー機で複写していくんですね。そうやってコピーとして作画したものを、3枚なら3枚、ガラスの上に乗せて重ねて、紙の背後からの透過光を使ってコマ撮りで一枚一枚撮影している、ということでいいでしょうか。

 そうですね。原画用の紙があって、ちょっと描いてはコピーをとる、そしてまた描き足してはコピーをとる、ということのくり返しです。そうすると、ひとつの絵が段々とでき上がっていくプロセスが、コピーされた紙の束となっていきます。この束が何パターンもできる。それらを「フーガの技法」のそれぞれの主題に照らし合わせ、主題の折り重なりに合わせるように原画も重ねていく。噛み砕いていうと、バッハの「フーガの技法」ではAという主題とBという主題が重なったりする。それを絵の方でもやっていきました。
 カメラ内でのオーバーラップは使っていません。カメラの方は単純にコマ撮りで、シャッターを切るだけです。主題が折り重なるのに合わせて、絵が折り重なるのは、3枚なら3枚を実際にガラスの上で折り重ねて撮影しているからです。

――アニメーション制作で見られる絵コンテを作らず、直接バッハの楽譜を読みこんで、作画作業を行っているんですね。これはバッハの音楽を、楽器を用いずに、映像によって演奏する行為だという評言もあります。3パート目の「未完のフーガ」では、十字架のイメージと共に4分割の画面になり、それぞれが別の動きをします。あれは、どのようにやっているのですか?

 あれは一旦作った素材を全部縮小コピーして、貼り直しているんです。全部、紙に落として、その上でやっている作業なんです。


――『フーガの技法』では、極微な線が集積することでイメージが形作られます。抽象的な「ムニュムニュ」と呼ばれる描線は何か生命的で、情念的なフォルムです。抽象アニメーションなのですが、人によってはそこに植物の蔓、ニューロン、欲望など、それぞれの思い描く具象イメージを当てはめるでしょう。これが一体何であるのかと問うことは、やはり馬鹿げていますか?
 
 これが何であるのかは、分からないんです。少し近いなと思うものの一つは、オーケストラの指揮者の手の動き、その手が描く軌跡ですね。


――石田さんが絵を描いたときの手の動きの軌跡が、つまりは身体運動の痕跡が映像に残されるという意味では、『フーガの技法』はドキュメンタリー映画でもあるわけですよね。

 そういうことですね。簡単にいうと、線を描いているときは、極めて簡単なプログラムで手が動いています。たとえば、線を上へと描いていけば、次には何となく下へさがりたくなる。そんな手の欲望が生まれる。線を描いていて或る角度をこえると、渦を巻きたくなってくる。そうやって渦を巻いたら、余白に対して、巻いた渦をもう一度元に戻して、外へ出て行きたいような欲望もわいてくる。線がどちらへ向かうのかは、ちょっとした線の角度の違いによります。時おり、少しだけ先が見えてくることがあります。それが見えたときは、喜んで線を増やしていく。
 『絵巻』に関しても、『フーガの技法』に関してもいえることは、僕の場合、前もって下書きをしないということです。もっというと、テスト撮影もしないということですね(笑)。





引用がながくなってはなはだ不格好なんだけど今読んでるもの/読み終わったものの影響もあっていろいろ考えさせる。

慶応高校を中退して沖縄に、ということで金持ちのボンボンなのでこういうの簡単に出来ていいよなぁ−y( ´Д`)。oO○的なことをおもってしまったけどその後も含めてずーっとフリーターで作品作りをしてきたこと。

遠近法への違和感/超えるという感覚はずーっとあったこと。

真喜志勉さん主催の画塾「ペントハウス」に通うなかで詩人吉増剛造さんほか知己を得て行ったこと。

「渦」は生命の輪廻というよりバベルの塔を描いていた、ということ。あるいは「渦」として展示されていた作品と「バベルの塔」はまた別か。

「フーガの技法」も生命とかのモティーフよりも「動きを映像化した」みたいなかんじ。


これらを読んでいて思ったのは「生命というモティーフというよりは、リアリティとして遠近法や静態的な視角に違和感があって、それを超えるための表現・モティーフとして時間・映像が選ばれていったのだな」ということ。自分的な解釈だけど、作品を作るときに展示されるのは成果物としての作品 - 結果ではあるのだけど制作者は作っている間、刻一刻と変わっていく眼の前の作品 - テクストとの対話そのものにアートを感じている。結果だけではなくそれまでの過程としてのそれ、ライブとしてのそれを表せないか?ということで映像作品を選んでいったのかな、とかはおもった。


また時間や次元を越えたとこへのなんとなくの兆しのようなもの。

燃える椅子/テーブルがある部屋を三つの装置で時間差で投影している作品のなかで、投影された椅子や石田の姿がさながら霊のように見えたけれど、ああいうのも多次元的な感覚なのかなあとか。抽象としての方法としてはジョセフ・コスズの「一つと三つのChair」の引用/オマージュなのかなともおもったけど。


とりあえず自分の印象として、生命-変化 -時間の描き方は束芋のそれを別の形で表したもの、「躍動する生命 - 動きとしての生命は定まった色・形をもたない」ところは高木正勝のそれを、絵巻の色の配置・構成は水墨画を想わせた。



アクションペイント的なものはおまけというか、ちょっとそれそのものだとわかりにくいなあという印象だった(なのでどうしても石田の動きのほうに眼が行ってしまうし)。


石田についてはそのぐらいだったんだけど、


石田が支持した真喜志勉って誰だろ?と平行して調べるに


父、真喜志勉は、アルバム「エメラルド」所収の「絹ずれ〜島言葉〜」で、「方言指導」とクレジットされている
Cocco- Wikipedia http://bit.ly/1yKDp9L




Cocco(本名:真喜志智子)
1977年1月19日生まれ O型
沖縄県那覇市出身
沖縄県立開邦高等学校芸術家芸術コース卒業(7期生)

略歴
1977年 出生
1996年 インディーズデビュー
1997年 メジャーデビュー
1998年
1999年 第一子出産
2000年
2001年 活動中止
2002年 絵本作家デビュー
2003年
2004年 SINGER SONGER結成
2005年 活動再開
2006年
2007年 息子の存在を公表
2008年 拒食症を公表
2009年
2010年
2011年
2012年


Coccoの家族
父(真喜志勉:「絹ずれ」を島言葉に訳す)
母(衣装などを制作)
姉(真喜志佐和子:「KOTOKO」にも出演)
息子(KOTO:PVや「KOTOKO」にも出演)
祖父(真喜志康忠:沖縄芝居役者/2011.12.16没)
祖母(真喜志八重子:那覇桜坂にておでん屋を経営していた)
曾祖母(ユタ)
伯母(Coccoママのお姉さん)

Biography - including you!
http://includingyou.jimdo.com/biography/



プロのバレリーナになることを目指してバレエオーディションを多数受けていた。姉が読んでいた雑誌にビクターの音楽新人オーディションの案内が載っており、「賞金によってバレエオーディション会場への旅費を稼げる」ことと、「東京での音楽オーディション二次審査になれば旅費が支給されるため、ついでにバレエオーディションを受けてこられる」ことから、応募をした。そのオーディションでは入賞はしなかったが、「印象が強かった」とのことでビクタースタッフにより後日スカウトされた。
<生い立ち>Wikiに載ってるCoccoの興味深いエピソードまとめ<絵の才能>|エンタメ情報まとめサイト『minp!』
http://bit.ly/1yKDt9r


インタビューはまず、07年にリリースした前作『きらきら』以降のCoccoの生活から話が始まる。Coccoは『きらきら』のあとイギリスで暮らし始め、大学に通い、写真の勉強をしていた。その間精神疾患の治療のために病院へも行ったが、結局治ることはなかったという。その後日本に帰国するが、その理由を「歌わないといけないことがいっぱいあった」と説明し、さらに以下のように語る。

「どうせ治らないんだったら、治らない病になってるよりは、まあ、歌ったほうがプラスかなあっていう、感じ、だったのかやあ」

日本で音楽活動を再開し、自らにとってライブが如何に大切か、そして新作『エメラルド』についても話がおよぶ。今作ではCocco自身がプロデュースも手がけるなど、制作上の大きな変化もあった。またRYUKYUDISKOにアレンジを頼んだ曲もあり、その時のエピソードも語っている。

「RYUKYUDISKOには、もう歌って踊って言った、『こういうの』みたいな。踊ってみせた、いっぱい」

さらに特集記事には撮りおろし写真も多数掲載。バレリーナのような衣装をまとい、リラックスした表情で踊る姿も見ることができる。
Cocco、創作とは何か、そして生きることとは何かを語る (2010/07/13)| 邦楽 ニュース | RO69(アールオーロック) - ロッキング・オンの音楽情報サイト
http://ro69.jp/news/detail/37228


 もう、波打ち際で歯車が違えてしまったかのように琴子が踊るオープニングからしてこれやばく、ものすごい絶叫と同時に黒背景に『KOTOKO』の文字。そのテンションを維持したままの内容はというと、手首はざくざく切るわ人間をざくざく刺すわまさかの人体破壊描写も多めだわで、マツコ・デラックス、町山智浩、土屋アンナ、KOTOKO(別の歌手の方)、小島秀夫、羽生生純、金原ひとみ、等々、様々な分野からパンフレットに寄稿した人間たちの、気まずさというか、歯切れの悪さというか、腫れ物に触る感じな文章からしても本作の力っていうかCoccoの良く言えば繊細さ、悪く言えばデンジャラスさを持て余しきっておる印象。専業女優、職業女優でもないCoccoのエモーショナル、激しみに負けている専業役者、職業役者の形而上学的な悔しさ、憔悴、負け惜しみを思うと、いやそんなものを思っていては自分までメンタルヘルスの人になってしまいそうなので、ソフィア・コッポラやジェニファー・リンチはCoccoのリスカ痕でも舐めて教えを請いなさい。という悪態をついてガス抜きとしたい。

 気疲れした母親と子供という画ヅラから、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と比較されそうであるというのは容易に推察できる。その主人公、ビョーク演じるセルマは主観的であり、主観にはミュージカル妄想が入り混じり、現実逃避として作用しておった。『KOTOKO』の琴子も主観的であり、というか主観でしか万事を補完することができず、現実逃避……むしろ、「現実拒否」とでも申し上げればよろしいのでしょうか、そしてミュージカルに逃げるようなことをせず、ファンシーな折り鶴や風車を思い(わーい)やカラフルなベッドルームを思い(わーい)や自分の首が落とされる妄想や子供の頭が撃たれて弾ける妄想(わーい!!)でトドメを刺されて虚構と現実の境が曖昧になり、琴子の主観はじわじわと現実を侵蝕し始めるのである。中盤、長回しで琴子が歌い、それを喜ばしく聴く塚本監督自ら演じる小説家・田中、というシーンなんかは、絶叫のようなこの映画が現実を切り裂いた瞬間を捉えたようにも思えるのだ。
『KOTOKO』 Coccoと琴子の狂気は現実を切り裂き侵蝕する - ライブドアニュース http://bit.ly/1y5WSak




まあユタの家系だからかなあやっぱ(´・ω・`)とかおもいつつ、おとーさんとかおじいさんの情報がネットだとよくわからんかったし、石田尚志とCoccoの関係もよくわからなかった。案外「おとーさんのとこにきてたなんか変なにーちゃんのひとり」ぐらいかなとも思うけど。


とりあえずCoccoちゃんのこのへんは見とこうとあらためておもった。




KOTOKO 【DVD】 -
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KOTOKO [レンタル落ち] -
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大丈夫であるように-Cocco 終らない旅- [DVD] -
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真喜志民子と真喜志勉 - 幻想第一 http://bit.ly/1yKDqe2

真喜志勉|作家紹介|美術館|沖縄県立博物館・美術館 http://bit.ly/1D38xXx

沖縄アートに存在感 真喜志勉さん死去悼む声 | 沖縄タイムス+プラス
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=104055

真喜志康忠氏が死去 88歳、沖縄芝居一時代築く - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-185307-storytopic-8.html


敬愛する真喜志康忠氏の孫【Coccoの快挙!】たまたまNHKの歌番組をみました! - 志情(しなさき)の海へ
http://bit.ly/1D38paq
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2015年03月28日

最近の料理本2つ:「強火をやめると、誰でも料理がうまくなる!」「築地市場のさかなかな?」



けっきょく今回借りた本で身についた/実感マンゾク・ほほぅな知識だったのは料理本のほうだったなあ、、こっちエントリしたほうがいいんじゃないか?まあ両方するかとか思ってたところでちょうどつぶやいちゃったので














強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (講談社+α文庫) -
強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (講談社+α文庫) -

この本自体は軽い文体ですぐ読める/読んじゃったのでもうさらっとエントリしてポイントを自分のなかに定着させて返しちゃっても良いのだけどそのポイントを利用した実践とか応用編のとこ、つまり具体的な料理のとこでもっかい参考したいしポイントのとこも忘れた時に見直すと良さそうなのでやっぱ購入しとこう。たぶん文庫版じゃないほうは安くなってるし。

ポイントはタイトル通り。その理由はついったでちょこっとつぶやいた。

基本として「素材は細胞膜に包まれていてそれによって水分を保っている→水分があることで食感ーハリがある」ということぽい。なのでヘタに細胞膜を破壊して水分出し過ぎるとへなへなになって食べごたえなくなる(非シャキシャキ・ジューシーじゃなくなる)し、食べてるとき、保存してるときに余分な水分が出てきてベチャベチャなっておいしくない。作りおきの野菜炒めなんかがおいしくなかった理由はこれかあ!とおもった。しかし、中華料理なんかだと中華鍋で青菜を一気にな加熱したほうがおいしいのでは?(´・ω・`)てかんじがまだあって眉唾感いなめないのだけど、まあこれもこんどこの方法で試してみて違いを実感してみよう。そのときうまくできてなかったら見返す → 修正する用にこの本は手元においておきたい。


肉類なんかは細胞膜のなかにアミノ酸が含まれていて、それが一定の温度になって旨味に化学変化することでわれわれは「おいしい」と感じるようになる。つまり、「素材の細胞を破壊して無駄に水分を出さない」+「できるだけぢっくりと時間をかけてアミノ酸を旨味成分に変化させる必要がある」ということ。なので40から65度調理が必要ということになる。

スロークッカーした食材がみょーにうまいのは実感していて、その理由をここで説明された感がある。なので、この方法で旨味が出る/食材がよりおいしく調理できるようになるのは納得、なんだけど「この方法できれいな焼き色がつくのか?」て疑問は依然としてある。まあこれも試してみればわかるだろけど。

切り方なんかもきちんと書いてあるので参考になる。個人的には通ってる抜刀術のとこに持ってて「切り方」「包丁の握り方」としてうなうなしたいところ。



 この本の調理コンセプトは、火・塩・切という三点で、火については強火を使わない、塩については0.8%濃度にする、包丁は研がず斜めに切る、といったところ。話に説得力はあるし、火と塩については、この原理からするとかなりのレシピに見直しが必要になる。その意味では革命的と言えないことでもない。
 実際にやってみるとどうか? 意外と難しい。私の印象だと混迷を深める。この本に書いてあるのだが、火加減で強火を使わないということは、フライパンが調理に適切なサイズであるということを含んでいる。だから、調理内容によって、フライパンを使い分けないといけない。それにおそらく料理で一番扱いが難しいのがフライパンだろうと思う。塩については、0.8%というように定量的に書いているが、素材によって塩の浸透が異なるので、素材毎の対応になる。切り方についてはやはり実地の訓練が必要になる。
 それでもこの本読んでから自分がそれまでやってきた調理をだいぶ変えた。一番変えたのは、カポナータというか夏野菜の炒め煮。いままでは火の通り具合を見て野菜を分けて入れていたのだが、最近は最初に全部入れて油を回し、弱火でじっくり加熱するようにしている。インド料理のサブジみたいだなとも思うが、じっくり加熱していくと野菜の甘みがよく出てくる。2分おきくらいに揺すって、あらかた火が入ったらハーブ(オレガノやバジルなど)と塩で調味して火を止め味が馴染むのを待って終わり。野菜の味がシンプルに出ておいしい。ポトフと同じで多めに作ったら、あとでカレールーを少し入れてカレーにしてもいいし、パスタに入れてもトーストに乗せてもいいし、落とし卵と合わせてもおいしい。夏の朝、冷えたカポナータに落とし卵の朝食とか、いいもんですよ。
 料理が好きな人だったら、この本は必読だと思うし、この著者の手法でもう少しビジュアルな本がもう一冊欲しいところ。
[書評]美味しさの常識を疑え! 強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (水島弘史): 極東ブログ http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/08/post-7bbb.html


本書を読めばわかるが、単に「弱火」料理の推奨者ではない。肉のタンパク質が何度で変化するのかを加味して、できるだけ加熱温度との差をなくすよう、科学的な根拠をもった料理法である。本書を読まれて最初に驚くのは、鍋やフライパンで野菜や肉に油を回してから火にかける方法かもしれないし、冷たい油から揚げ物をするとかだったりかもしれない。一般的な料理法は、彼の料理法に全て否定されてしまうから面白い。暫くの間は、本書を見ながら料理することになるかもしれない。が、とても勉強になる。そして、肉や野菜、魚がとても柔らかくて美味しく出来上がる。料理がマンネリ化している中年以上の人には新たな挑戦として楽しめ、これから料理を学ぼうとする人にはうってつけとなると思う。それでもまだ疑わしい方は、こちらの書評をチェックしてみては(参照)?本書を買った時、もう少し料理の実例があるといいと思っていたら、先月、「水島シェフのロジカルクッキング 1ヶ月でプロ級の腕になる31の成功法則(参照)」が出版された。 水島シェフのロジカルクッキング 水島弘史 料理例もさることながら、説明が詳しくなっている点で、ちょっとした疑問などが自分で解決できるようになった。こちらも合わせて読まれるといいと思う。何種類か試している内にコツが分かってくるので、どんどん応用が効くようになり、知らぬ間に、料理時間よりも美味しさ追求へと関心も移ってしまった。実は、長年書き続けてきたここのレシピも全部書き直したいくらいの衝動にかられたが、さすがに3000ページはご勘弁な話。
水島弘史流 里芋と鶏肉の煮物「強火をやめると、誰でも料理がうまくなる」: godmotherの料理レシピ日記 http://godmothers.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-d095.html

kindle版
強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (講談社+α文庫) -
強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (講談社+α文庫) -


美味しさの常識を疑え! 強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (講談社の実用BOOK) -
美味しさの常識を疑え! 強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (講談社の実用BOOK) -


水島シェフのロジカルクッキング――1ヵ月でプロ級の腕になる31の成功法則 -
水島シェフのロジカルクッキング――1ヵ月でプロ級の腕になる31の成功法則 -

水島シェフのロジカルクッキング2 [動画付き]プロ級レシピ徹底マスター -
水島シェフのロジカルクッキング2 [動画付き]プロ級レシピ徹底マスター -


たぶん、料理の基本的な知識として和洋中関係なく参考になると思う。


低温調理というと最近だとこのへんのグッズも気になってる。Amazonで6000円だそうだけどほんとこういうのはもっと高いんだそうな。


ヨーグルトメーカーで肉を煮る - デイリーポータルZ:@nifty
http://portal.nifty.com/kiji/150203192686_1.htm

TANICA 【温度調節機能で市販・カスピ海・ケフィアヨーグルト / 納豆・甘酒に対応】 ヨーグルティア スタートセット ブルー YM-1200-NB -
TANICA 【温度調節機能で市販・カスピ海・ケフィアヨーグルト / 納豆・甘酒に対応】 ヨーグルティア スタートセット ブルー YM-1200-NB -

もも肉のコンフィなんかだとスロークッカーでうまくいって、最近ハマりだしたロティサリーチキン屋にいく必要もなくなったなあとか思ってたんだけど、全部スロークッカーで、てわけにもいかんのやろか?まあ違いがわからんのでスロークッカーでしばらくこういうの試してみようと思うケド。ちなみにスロークッカーは去年の秋に古道具屋で2000円でゲットしたv( ̄Д ̄)v イエイ



あとは魚料理。


近所にあたらしくできたスーパーの魚屋が安くて種類も豊富で魚の質も良いので、「ああ、魚料理の種類増やしたいなあ。旬を味わえるし」、とか思ってたので。体も肉肉てよりも野菜とか魚て感じになってるし。蕎麦にも合うしね。


築地市場のさかなかな? (朝日文庫) -
築地市場のさかなかな? (朝日文庫) -



歳時記的に季節の魚が魚の絵と簡単な文章で紹介してある。

魚河岸に務める旦那の妻ということで魚愛が盛りだくさんで読んでるうちに食欲が喚起される。あとやっぱ歳時記・旬を感じられて良い。季節の魚とその簡単な調理法。

雰囲気としてはapartmentの魚の譜にも似てる(ていうか、魚の譜がこの本を元にしたのだろうか?)


長嶋 祐成:虫の譜・魚の譜 | アパートメント
http://apartment-home.net/author/uonofu37/


この本自体は安かったし手元に置いておくと歳時記的に使えるということで即ゲットした。なので季節ごとに見ていこうかなと思ってる。いまは春告魚であるメバル、さわら、鯛、きす、かつおなんかが楽しみ。


あと、この本読んでて脱水シートはやっぱ買っといたほうが良いのだなと思ったので買っておこうと思う。




 そもそも魚をおいしくないと感じる最大の要因に、生臭みがある。魚は空気に触れる時間が多くなるに比例して、劣化が始まる。ご存じの通りだ。これがうまさの差に出る。
 では脱水シートに包むと、いったいどんな効果があるのか。それはまずなんといっても「魚(や肉)の水っぽさと生臭みを吸収してうま味を凝縮」してくれることにある。この効果は、養殖魚があっという間に天然の味に早変わり。そう言い換えても過言ではない。しかも「凍結時の組織破壊を抑え冷凍焼けを防ぐ」。また「魚は煙少なくきれいに早く焼け、天ぷらは油ハネ少なくカラッと揚がる」。ウソのようだが本当だ。
 このシートの出現は画期的なことだった。良い商品は口コミであっという間に広がる。いまや、一流の味と評される店であればあるほど、この脱水シートは厨房での必需品となった。小売もしているが、もともとはプロ用であった。いくつかの有名レストランの厨房に入らせていただく機会もあった。和洋中華とも置いていない店はなかった。築地の場内外に店を構える道具屋さんで、業務用のこの脱水シートを置いていない店も、またない。



この本の魅力はこういった知識はもとより全体の魚愛的なエッセイの雰囲気にあるのだけど、、まあそれは引用してたらきりがないのでこちらに譲る。

[書評]「築地市場のさかなかな?」平野文: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/06/post_21.html




旬の食材といえば寿司屋と居酒屋だの


妄想居酒屋〜さて、今宵も一杯〜 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/327234


そして日本酒(ぐふ♡
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2015年03月14日

熊倉伸宏、2000、「死の欲動  臨床人間学ノート」




あんたが

もういないってことが

ゆっくりと重なっていく


その重さが  ずっと願わせる


あんたのような人も

その周りの人達も

どうか


やさしい 自分で


いられるように













死の欲動―臨床人間学ノート -
死の欲動―臨床人間学ノート -



死の欲動についてちゃんと読んでみようと想ったのはどういうきっかけだったか。

ついったのTLほかで死にたいという人という人たちを気にして「だいじょうぶだよ」と慰めるためか、現代人一般に共通するテーマとして一度しっかりと理解してみたいと思ったからか、それとも、自分が抱えてきたそれをもう一度俯瞰し相対化するためか。


直近ではリビドーとの関連でタナトスを思い、そのあたりへの心理学的位置づけ、理解をもう少し眺めたく思ったからだった。


愛はさだめ、さだめは死?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414133706.html

性的唯幻論序説メモ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414217494.html


結論から言えばそれは心理学的にきちんと位置づけされてない。

死の欲動というテーマはフロイドの設定であり「人にはもともと死の欲動があるのではないか?」という視角から始めれば説明がしがたいだけで、もっと別の切り口からなら死の欲動も現状で理解されている心理構造全般のひとつとして措定できるということなのかもだけど。



基本的に、フロイドがなぜ死の欲動というテーマ設定を行い、それに関心をもつようになったか。

それはあまたの臨床を通じて快感原則を基本にすると理解しづらい事例が出てきて、それらの多くは近代化による価値観の変化、多くは性行動の様式変化に起因するところがあったようなのでリビドーの問題として片付けられていったのだけれど、そのリビドーの問題でも解けない謎として自殺願望が残っていったから。

あるいは、フロイド自身の問題としてそれが切実に残っていった。

後期フロイドが死の欲動に関心をもったのは、娘の死という遠因もあるかもだが、喉頭がんという病を得たというところが大きかったみたい。1923年に喉頭がんであることが発覚してからモルヒネによる積極的安楽死を選んだ1939年までの闘病生活はフロイドが死の考察をはじめ終えるまでの期間と一致する。病を通じて、自身のリアルな問題として、あるいは人間観や人生観の変化を通じてそのようなテーマが見つめられていったのだろう。


岸田秀によるフロイド理解などでは死の欲動は攻撃衝動(cf.アドラー)と区別がつきにくく、サディステックな破壊衝動の原因は乳幼児期の全能感の喪失 → 不全感からの逃走にあるとする。つまり母との一体における全能感を失う痛みから逃れるために、その痛み・自信喪失を外部を攻撃することによって逸らした。


そのようにしてできあがっていったのがヘテロ男性の群れ的セクシャリティに基づいた男根的権威社会とされるのだけれど。


フロイド - 熊倉の理解では死の欲動は破壊衝動とは直接に結びついていない。

「それは人に元からあるものではないか?」「人には元に戻ろうとする性質があり、無機物としてのそれに戻ろうとしているのではないか?」「普段は我々は生の幻想にドライブされているが、ふとした瞬間こちらが思い出される」

「死は人とともにいつもある」「死を忘れるな」というとなにやら耽美的な甘い誘惑の香りがするのだけれど、そういった人文・雰囲気なはなしでもなく、「死」というはっきりとした概念以前のカオスとしてそういったものがあるのではないか?というのが現時点での、あるいは熊倉を通じた自分の認識としてある。

これは本書の全体の説明としては話が長くなって逸れるので後述しよう。


本書の構成は前半は臨床、中盤は理論・死ぬ権利についての医学的位置づけと処置などのまとめ、後半は臨床に際してのエッセイとなる。


理論的な位置づけが気になって読み始めたのだけれど結果的にエッセイ部分がいちばん読み応えがありエントリとして残しておきたくなった。復習(暗黙知→明示化)的なお勉強にもなるだろし。



そのいちばんの誘因としては「治療者として客観的な立ち位置、他人ごととして振る舞うのではなく自ら患者と同じ位置に立って考えていく(痛みをその都度引き受けて一緒に考えていく)」という姿勢に誠実と真摯を感じたから。よくいる単に理知を振りかざして対象を分析したつもりになってズタズタに切り裂くような安っぽい精神分析医を想うとこういうのには救われる。


精神科医は傷つかない、死に対する耐性が人より優れていると想われがちだがきちんと患者と向き合う場合、その死と生、出会いは個別の一回性をもつものでありその一回一回で精神を消耗していく。


私たちは人間の無限性をみすえ、それを有限な言葉でかたる技術を求められる。衝撃的体験を生きた言葉に結晶化することなしに、治療は進行しない。精神科医は衝撃にたいする感性と耐性、さらに、それを言葉に表現する技術をもたなくてはならない。この不可能に思える要求に、なぜ私以外の精神科医は耐えられるのだろうか。なぜ限られた存在である私たちが、単に精神科医であるという事実だけで、ある時、ある人に対して、その死を語り合えるのだろうか。治療者の何が、自殺念慮をもつ人と話し合うことを可能にするのか、すでに底なしの沼のような人間研究が、はじまっている。




良い臨床家はおおきな理論で上から患者を引き裂き、ピンで止めて観察・収集するために存在するのではなく、患者とともに寄り添い、同じ痛み・問題を共有してすこしでも患者の重みを減らしていくことを旨とする。



治療者は「死の願望」と「生きる意思」の過酷で危険な戦いの、共感的な目撃者となる。そして「生きる意志」の強さを患者が自覚したとき、はじめて退院が積極的な治療的意義をもつに至る。その時、「もし死にたい気持ちを抑えられなくなったら、必ず助けを求めるように」と念を押して退院させることが可能になる。上記の精神療法的なサポートで不十分と思えば、私はさらにケア・マネージャーの役割を負い、保健婦や福祉のワーカーによる援助など、サポート体制の確立に精を出せばよい。「死の願望」への恐怖を治療者一人で支えるのが不安ならば、多数で共有すればよい。






死の欲動 - 自己破壊衝動と攻撃衝動の違いを明確化することの意義について、熊倉は以下のように記している。



「死の欲動」論の業績は、自殺を単に「攻撃性の内向」と理解することに満足せず、人間心理の深部に、底知れぬ破壊性が潜むことを白日の下に暴いたことにあった。しかも、そのような死の欲動は人間一般に根強く存在するとされた。それこそが快楽原則の彼岸に、彼が見いだしたものであった。その結果、自殺を、一時的な死の欲動の反復強迫によって、なす術もなく圧倒された自我から理解することが可能になった。つまりFreudは精神療法において死を主題化し得たのであり、これだけでも貴重な業績であった。



自殺衝動に憑かれたとき、それは自殺の意志というよりも心のなかに反復してくる「死ネバイイノニ」という言葉の強迫で、それをもってだんだんと精神をすり減らせていくところがある。それを自身の本当に望むことと錯覚して。

しかし、この「死ネバイイノニ」という言葉が自分とは別個のナニカが自身の内部から発しているもの、と考えればどうだろうか?


自分 - 自我は理性の産物で人が現代的な日常生活を送るときに必要なものではありコンピュータで言えばOSのようなものだと想う。しかし、OSはひと- コンピュータ全体ではなくあくまで基本ソフトとして駆動されてるだけで、OSとは別の部分がコンピュータの内部にはある。同様に人の深部には自分でも制御できないナニカがある。それをフロイドは「Es(それ)」と名付け保留した。


熊倉はそれを「自然」と呼ぶ。人間理性の内部に残された、人工のなかに残された自然。あるいは混沌とされるもの。


そういうのは普段だとあまり意識されないのだけれど、たとえば夢を見て、普段の自分が思ってもないような行動 - 欲をもって行動しているとき、他人を破壊したり殺害したりすることに積極的な自分をして自分を疑うというようなことがある。あるいは吹っ切れたはずの恋愛、かつての恋人や友人が夢の中に現れることで夢から覚めたあとに「ほんとは自分は彼(女)と復縁したいのではないか?」と煩悶したり。



それらはおそらく理性 - 言葉のシステムと自然 - 身体のシステムの齟齬で生じるもので、夢で映るそれは鏡に映るそれのようにソレソノモノではないのだろう。鏡や光の屈折のようなもの。なので、理性がソレソノモノをそのまま受け取ってしまうとズレてしまう。もちろん理性が誤謬を抱えていることもあるだろうけど。


人は自らのうちなる自然 - 混沌、あるいは自らの外部の混沌に無力さを感じたとき確固たるなにかを求めるようになる。


近代以前はそれは神であったが、神無き時代、あるいは神を求めることが非理性的であると現代的常識から批判される時代、宗教を信仰することはナンセンスとされ迷える人々の安易な救済を妨げる。

熊倉はそこで「なぜ現代人はこのような無力さに平気でいられるのだろうか?」「無力さ、絶望を感じられないほど鈍感なのだろうか?」と説く。それ自体が反語を含んでいるのだろうけど、ひとつには彼らは強烈な祝祭空間の光の中で、自らの闇を見いだせなくなっているのだろう。

銀色シート|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n8cb362101020


「心の闇」という言葉で片付けるとなんだかわかったような気持ちになる簡単さがあるけれど、それは闇というより混沌で、だれでも抱えている自然であり邪悪なのだろう。


銀座ギャラリー巡り|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n00593a950050


生は悪を抱えている。

そこに悪意と悪の様式が紐付けば社会に対する悪となるだけで、人は最初から悪を抱えている。あるいは「悪」と名付けられる以前のナニカ気味の悪いもの(es)を。「邪悪」「悪」とわれわれの狭い倫理で解釈される以前の歪なものが「性」 - 「生」-「生きる」ということなのだ。


「寄生獣」では人間がガイアに対する寄生虫であるというところから出発していたけれど、岩明均の眼は人の深部にあるこの部分を見つめていた(その意味で寄生獣 - ミギーはesの表象だった)。




それを自覚したとき、自暴自棄になって悪の様式に走らないように、人としてうつくしく生きるために内部に夫々の格律、流儀が必要となる。





熊倉 - 土居はそれを信仰といった。光であり信仰と。


私は精神療法を、主に、「甘えの構造」の著書で知られた土居健郎先生から学んだ。彼は何年も前のこと、ある論文に「治療の場を照らしだす光があると信じる」と書いた。それは彼の治療を基底で支える信仰告白のようであった。治療者が「隠れた信仰」を持たなければ、患者の示す真実に立ち向かうことができない、と彼は書いた。若い頃、私はこの言葉に強く反撥した。臨床実践に「光」などという宗教的表現をもちこむことを、ひどく嫌ったのである。医学は、そのようなものから独立した方法と論理を保たなくてはならない、と素朴に思ったのである。それにもかかわらず、彼の問いかけは私の心から離れることはなかった。そして本書は、人と人との出会いを支える未知なもの、私自身すら自覚していない自己、人間を照らし出す「光」への私なりの探求の試みとなった。




そして、熊倉は自らがやっていることを臨床心理学ではなく臨床人間学と呼ぶ。



本書は主に二人の自殺願望を抱えた患者、フユコとヒカリとの対話を通じて編まれていった。一人は旅立ち、一人は遺った。

「先生は残酷です」という言葉に込められた患者の思い、自身の無理解への鈍感と無力さを熊倉は抱え続け、ヒカリとの対話を通じて再生していった。


ハイデガーを専攻した哲学徒であるヒカリとの対話は自身も生の哲学ほか現代思想への知見を持った熊倉のそれも刺激的なものであったはずだけれど、熊倉は自身の言葉を本書に残していない。しかし、ヒカリの「先生は尊敬できる人」という態度から、その内容の濃さと誠実さが想像できる。





見えないもの / 描かれていないものを敢えて想像させるために配置すること。それは熊倉が不確実なものの例として引いた鍋島焼きの皿の図柄そのものだったのかと想える。円形の白磁一杯に満開の桜を配しつつ中心に真空の円を遺すそれは人の生と死のエニグマ、コップの底に溶けずに残った角砂糖の断片のようなものかもしれない。




















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ヤサシイワタシ(1) (アフタヌーンKC) -
ヤサシイワタシ(1) (アフタヌーンKC) -

ヤサシイワタシ(2)<完> (アフタヌーンKC) -
ヤサシイワタシ(2)<完> (アフタヌーンKC) -


説得ゲーム (Next comics) -
説得ゲーム (Next comics) -


不思議な少年(1) (モーニング KC) -
不思議な少年(1) (モーニング KC) -



「甘え」の構造 [増補普及版] -
「甘え」の構造 [増補普及版] -




夜を愛し、余すところなく死んで、三位を統べる: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200174686.html

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2015年03月12日

吉田健一の流儀


吉田健一 ---生誕100年 最後の文士 (KAWADE道の手帖) -
吉田健一 ---生誕100年 最後の文士 (KAWADE道の手帖) -




予約してる長谷川郁夫さんの吉田健一本がなかなか手元に来ないので、「まあこれでも読むかあ」とたいして期待せずに読んだ河出書房の道の手帖シリーズの吉田健一特集が予想以上に面白かったし、ちょっとエントリしておきたくなったので留める。


なかでも特に金井美恵子×丹生谷貴志の対談がわかりやすくおもしろかった。あとは松浦寿輝。


そこでは吉田健一の良さ・評価する人はどういうところで評価するのか?その魅力は?というとこが端的に示されていて( ^ω^)うむうむしつつ、「でも、吉田健一ブームみたいなの来てるけどほとんどの人は読んでないでしょ?特に若い人は」(「だって、若い男の立ちにとって吉田健一の小説はエリック・ロメールの映画と同じくらい退屈なんですよ?(笑)」)。

自分もそんなに読んでないので『吉田健一』というブランド、幻想、吉田健一についての批評を元にした幻想や期待を膨らませてるだけなのかもしれないけど。



吉田健一は小説家というより批評家であり、主な作品としては吉田健一本人が言ってるように「英国の文学」と「英国の近代文学」で止めるのだろう。誰が言っていたかわすれたけど吉田健一というのは当人が何かを作る人/作ったものがおもしろいというタイプというよりはおもしろいものの紹介者として位置づけられる。それは英国や仏国の文学であったり、あるいは、それらに連なる美味いものだったり。そういったものが求められたのは終戦当時の文化・物資枯渇 - 飢餓状態の反動もあったのだろうけど、吉田健一が連なる上流階級の「ふつー」の教養 - 文化が嫌味なくにじみ出た結果のように思う。もっとも、それがゆえに当時の人の中でも吉田健一を嫌う人たちはたくさんいたようだけど(「なんだあの金持ちのぼんぼんめ」)。


屈託や葛藤を主軸とする小説・文学・作品を楽しむ人達にとってその辺りは「おぼっちゃん的な物足りなさ」なのかもしれないけれど、その屈託の無さ、あるいは、屈託や葛藤を敢えて語ろうとしないところが却って吉田健一の魅力となっていった。

葛藤や屈託というのはたとえば教養小説や実存主義的なそれ、プロレタリア文学なんかだと主軸になるし、あるいは純文学とされるあのあたりでも内面の葛藤を主軸に、それをより精緻・繊細に描き拾い上げていくことが目的とされる。

その葛藤は世間一般の型通りの見方や権力に対する個人の違和感の表明であり、小説・文学というのはまずもって世間に対しての個人の違和感を表出していくことだ、とされるわけだけど。


でも、この「葛藤を表していく」ということ自体が型どおりなことであったとしたらどうだろう?

その葛藤-感情自体が、あるいはそれにまつわる表現の様式・文体自体がおざなりな決まり文句(クリシェ)なものだとしたら?

たとえば性的な場面にこそ人の実存的なリアリティが宿る、とされていても、そのセクシャリティや発露の仕方それ自体がすでにして形式に侵されているとしたら?


吉田健一はそういったものに「退屈」として目を背け積極的に描こうとしない。


ドキドキするような性的な場面も、余人なら狂ってしまうようなギリギリの情況も、吉田は端的に、単純に書いて済ます。もっとも人間ドラマとして描く対象になるような自身の出生・家族に関わることも(cf.「江藤淳なら大喜びで書きに書いたでしょうけどね」)。性的場面についても小説的文体になっていないので小説的なエロスが醸されない。しかし、端的に描かれてるがゆえに却って妙に頭にのこっていく表現がある(ex.近代小説ならエロティックな妄想を葛藤をもとにドライブさせるような場面、自分のお母さんが海外でパーティに行くときに「その真紅のビロードの服に眼を奪われた。女といふのが美しいものであることをその時始めて知った」と端的に済ます)。


ではなにも描かない・そんなに語らないかというとみょーなところでダラダラと長い文章を続けたりする。


丹生谷はそれをして「ふつーの小説なら狂ってしまうような人間ドラマの場面、言葉の限界であり狂気の場面こそが吉田さんの場所であり、むしろそこにもっとも健康的な言葉がある」とする。近代文学における狂気の場所が吉田の虎口であり、平常の場所だと。それを虎口に、ふつーの人なら退屈に思えるようなことをダラダラとたのしそうに語りだす。


松浦寿輝的にはそれこそがエロティックであり男根的ではない多形倒錯的エロスだとしていた。丹生谷的には「猫同士がじゃれてるようなもの」。そして、そのような文体が踊り、その踊りそのものにエクリチュールの快楽が宿る。


金井美恵子的にはそこは「敢えて書かない」「エクリチュールの快楽を留めるようにしているのではないか?」と


吉田健一は書こうとしなかった / おおいに書いたは対立するものではなく、「出来合いのものは敢えて描かず、それ以外のところをおもしろがって大いに書いた」。あるいは、出来合いの型に任せて思考停止するのではなく、自分がおもしろいと感じた部分についておおいに思考した。

もっとも文士として食わねばならないので注文仕事的なものは注文仕事的なものとして売文的にこなし、その売文的な仕事のなかで遊んだ。吉田の小説はそういった環境から生まれた化学変化的なおもしろさをもったものだった。

金井によるとそれは「批評よりも小説のほうが原稿料が高かったので、従来の小説の型からすると『これは小説と呼べるのか?』と思われるようなものも小説として提出し、小説の原稿料を得て行った」ということのようだけど。

酒に喩えれば吉田健一という良いものの紹介者 - 酒屋が自らブレンドした酒ということだったのだろう。昔の酒屋が日本酒のブレンドを妙味としたように、そしてその違いがわかる通人たちはブレンドに隠された味わいに元ネタを探る。



吉田の小説はそういったものでありけっきょくは批評-随想的なものを「小説」という大枠で覆ったきみょーなものだったのではないかと思うのだけど、同時にそれはある程度年齢を重ねた表現者の日記的な本音を垣間見せる所もあったのではないかと想う。

ふつーなら売り物にならないような趣味的なもの、酒造りとしては素人の店主が「素人ながら」ということで出すことで、商売っけを起こさず純粋に遊べたところもあったのではないだろうか。


大岡昇平が吉田の小説を「これこそがようやくにしてうまれた本当の小説だ」と評価していたのはそういうところだったのではないかと思う。



そうはいってもそれらは売文で、吉田がほんとに抱えていたことは描かれてなかったのだろうけど。もしも吉田に抱えていたものがあったとしたら。それでも、その文の端々に通常の決まりきった小説 - 酒とは違う独特な風合いをもったそれを想わせるような味わいが滲んでいたのではないか、だからこそ通人が惹き寄せられる処があるのではないか。




吉田健一における「敢えて書かない」という流儀



それは「東京の昔」において示された「人が裸であるときに惨めなのは当り前なのだから、それをことさらに見るべきではない」という言葉に凝縮されている。



吉田健一、「東京の昔」 読書メモ - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/11193




ついでにいえば、この小説はなにかテーマを語るというものではなく東京の昔というモティーフを描こうとしたのだろう。なので、自分的にそこで印象に残ってるのはそれほど人通りのない深夜の東京の夜に豆腐屋のラッパの音がどこからともなく聞こえてくる場面だったりする。川瀬巴水や小林清親の影絵のような世界では青と白の陰影が静かに暮れて音無き音、声なき声を響かせていく。





すこし吉田の小説への期待 - 幻想をふくらませすぎたようにも思うけど、まあこれはこれとして作品の楽しみ方でもあるのでとりあえずこの特集についていた「春の野原」を読み終え、「金沢」、「瓦礫の中」などへ続けよう。小説としては。

その前に「英国の文学」「英国の近代文学」からだろけど。







--
ドストエフスキイの生活|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n4798997db1d8


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2015年02月21日

岡崎京子の時代


四月の霧たちこめた朝に
背嚢を背にして発った、すべての子供たちに
私は記念碑を作りたい

苦悩に満ちた眼差しを下げ
背嚢を背にして泣いた、すべての子供たちに
私は記念碑を作りたい






僕はくたばりたくない

まんまるに見せた月に
尖った面が隠されていないかを
知ることなしには

太陽が冷たいかも

四季が
本当に四つしかないのか







スルースウッドの山裾が
湖に浸るところ
そこに草の茂った小島があって
青鷺が羽ばたいては
眠たげなミズネズミたちを驚かす

そこには俺たち妖精が
イチゴや真っ赤なさくらんぼの
詰まった樽を隠してあるんだ

さあ人間の子どもよ
その水辺に行ってごらん
妖精と手を携えて
この世の中にはお前の知らない嘆きの種が
いっぱいあるんだ










僕らは現場担当者となった
格子を
解読しようとした

相転移して新たな
配置になるために

深い亀裂をパトロールするために

流れをマップするために

落ち葉を見るがいい
涸れた噴水を
めぐること

平坦な戦場で
僕らが生き延びること
















「多摩川下流の川のほとりで全裸の男性の死体が上がった」というニュースを見ながら直近のイベントスケジュールを確認する朝、「そういえば岡崎京子展の期限近づいてるのかな?」と確認するに3月31日まででまだ余裕あった。



岡崎京子というと最近こちらのエントリで気になっていて、すこし語りたくなってるのもある+自分的に読むべきものリストのまとめも兼ねてエントリにしといても良いかもしれない。




「pink」のワニ。「リバーズ・エッジ」の河原の死体。“異常なもの”を外部に設定することで平穏を保ち、それの喪失を契機に破綻する物語が90年代前半の岡崎の王道だとすれば、「ヘルタースケルター」は“異常なもの”を滅び行く自らの身体に持ってしまった悲劇だ。その悲劇の歯車は“正常なもの”の登場で回りだすという普段と逆の構造を持ち、しかも悲劇は最後に急展開し喜劇となる。欲望に翻弄されたヒロインのゆくえ。岡崎は自分の物語の定型を知りながら、いかにそれを乗り越えるかを慎重に考え、大胆に実行した。「ヘルタースケルター」は岡崎の90年代前半の集大成であり、かつ90年代後半のモードへと一歩踏み入れた作品で、だからこそ第3部が描かれなかったことが今でも悔やまれる。作品単体の完成度では「リバーズ・エッジ」に軍配を上げるが、その「リバーズ・エッジ」を読み終えた読者を、「ヘルタースケルター」は次のステージへ導かずにはいられない。

欲望ではなく、欲望するためのシステムにお金を払っている(払わされている)。そのことを最初に漫画にしたのが岡崎だった。誰よりも早く小西康陽がDJでかけていたレコードを探すために、誰よりも早く藤原ヒロシが雑誌で着ていたシャツを探すために、「ゲット」を合言葉に「ストリート」を疾走するカウボーイ達。レコードの枚数が、映画の本数が、シューズの足数が文化への感度に直結し、ポケベルやピッチ(PHS)を持っているか否かで交友関係が決まってしまう。消費の速度が人々の生き方を左右する。そんな風景に対して、一体誰が「みんな何でもどんどん忘れてゆき/ただ欲望だけが変わらずあり/そこを通りすぎる/名前だけが変わっていった」と言えただろう。仲間とカラオケで歌って、友達とプリクラを撮って、ぼくらはいったいどこへ行くのだろう(だろうだろうはもういいだろう!)。村上龍が「今日中に買わないと、明日には必ず、驚きや感動を忘れてしまう」と切迫する女子高生を「ラブ&ポップ」で描いたのは「ヘルタースケルター」の半年ほど後だった。「インターネット」と「ウィンドウズ」の違いさえうまく説明できなかった、あらゆるメディアをインターネットのフラットさが覆いつくす前の最後の時代。岡崎にとって90年代の東京は、たとえばそういう風に見えていたんだと思う。

90年代の岡崎京子を「平坦な戦場」という言葉とセットで語る場面に時折出くわす。もとは「リバーズ・エッジ」に引用された、ウィリアム・ギブソンの詩「THE BELOVED(Voices for three heads)」に出てくる「the flat field」のことだ。この詩において「平坦な戦場で僕らが生き延びること」は「落ち葉を見るがいい/涸れた噴水をめぐること」に呼応している(訳者は黒丸尚)。水のない噴水の中で、へりを超える力もなく、カサカサと行ったり来たりするだけの落ち葉。干上がった噴水の中で落ち葉がどう旋回するか。そんな平坦な戦場で落ち葉がどう生き延びるか(=サバイヴするか)。そういう文脈の言葉である。

この言葉はよく90年代の若者の無気力や諦念を表すものだとされる。でもそれは随分と曲解した読み方だ。鶴見済が『完全自殺マニュアル』や『無気力製造工場』でくり返し、宮台真司が“終わりなき日常”と呼んだムードと、語感だけで一緒にされているように感じる。「リバーズ・エッジ」を素直に読めば、日常とは平坦に見えても常に異常事態が身近に起こる状態(=戦場)であって、それは気付かないような小さなきっかけで惨事を引き起こす。しかしどんな惨事でもまた日常の平坦さで見えなくなっていく。だが惨事は実際に起きたのだ。この時、落ち葉はどう生きようとするのか。そういう物語である。

人生は無意味だからマジになるのをやめようとか、無理なくまったりと生きようとか、そんな諦念を岡崎は描こうとしなかった。それらはごまかすためのポーズでしかないことを知っていた。「リバーズ・エッジ」ではピースが欠けながらそれでも日常を続けていく選択をそのまま描写した。そして岡崎は「ヘルタースケルター」で、へりを飛び越えた落ち葉の旅立ちを描いたのだ。死や喪失の残酷な印象を応用してきた作者が、希望と絶望、悲劇と喜劇をペン先で貫いて発見したある逆転劇。これが感動でなくてなんだろう! 「君の激しさはいつか君を焼きつくすだろう」!「でも今はそのときでもその場所でもない」!「さよならタイガーリリィ」!「またどこかで逢おう」!

もし事故に遭わなければ、今頃どんな作品を描いていただろうかとよく夢想する。
一九九五年の岡崎京子、または岡崎京子の九〇年代 - www.jarchve.org
http://www.jarchive.org/text/ko1995.html




岡崎京子とはなんだったのか?と問うに、少女漫画的な幻想と社会が少女-女にかける幻想の間をポップに駆け抜けていこうとしたあの時代の女性たちの象徴だったのかなと思う。そういう意味では酒井順子 - ユーミン的な連想となるけど、はなしがズレそうなので「あのへん」と記すに留める(わかるひとにはこれで十分伝わるだろうし)。



岡崎京子の時代、80―90年代というのは後期近代-大量消費社会が完成し、特にソレが東京という都市で象徴的に現れたときだった。岡崎の表していた「消費のための消費」とはそういった文脈であるし、それらはハイパーリアルな現実-実存の稀薄を埋めるための駄菓子のような色彩だった。

岡崎京子はボードリヤールとかを特に理解していなかったのだろうけど、時代としてはニューアカの最盛期で、それまでアカデミックな世界に閉じ込められていた言葉が浅田彰や上野千鶴子を通じて雑誌-世間にも表れてきて、なおかつそれに「オシャレ」なスノッブさが性格されていったころで、そういった時代精神?というか東京精神に合わせて彼女なりの感性で解釈し、現実に即すように加工したものをアウトプットさせていった。


諸論はあるだろうけど、彼女の代表作は「pink」「リバーズエッジ」「ヘルタースケルター」のように思える。そしてそれらを集約したものが「うたかたの日々」。

pink -
pink -

リバーズ・エッジ (Wonderland comics) -
リバーズ・エッジ (Wonderland comics) -

ヘルタースケルター (Feelコミックス) -
ヘルタースケルター (Feelコミックス) -

うたかたの日々 -
うたかたの日々 -

でも「うたかたの日々」はボリス・ヴィアンの原作を漫画化したものなので、物語的には岡崎のオリジナルではないけれど。

「pink」では売春婦が主人公で、でも、そこではかつての売春、性に関するイメージはなく自ら主体的に売春を楽しむ女性の姿が表されていた。「楽しむ」というと語弊があるので言い直すと、売春ということに対してかつての「性」をめぐる通念のような忌避がない女性の様子。そしてそこでは消費のための消費、人生をポップに謳歌することが語られていた。

その時点で岡崎の作品の主人公達は旧来のヘテロ男性の性幻想と資本主義の市場原理が結びついた性の牢獄を脱する跳躍力を持っていたのだけれど、その跳躍に要した軽さはそれ自体が屈託の対象として残っていった。あるいは村上春樹の作品になぞらえれば、彼女たちは自らの影を忘れていった。

存在-人生-日々の意味の軽さに対して、彼女たちのどこかに芽生えた「コレデホントニイイノダロウカ?」的な翳りを岡崎は作品の締めにスパイスする。

「pink」がたんなるハッピーエンドで終わらないのはそれが単なるハッピーエンドでは美しくないし、凡庸で大味な綿菓子のようだから。そこでワニがペットにされるのは売春という方法で現実離れした簡単さ-軽さで手に入る現実感のなさに対する重石としてワニが必要だったから。といってもそこに罪悪感やマチガッテルといった感覚はなくて、「結婚が准売春なら売春そのものもおかしくないのでわ?(というかすべての仕事は売春と変わらないのでわ?売春はすこし我慢してカラダを売るだけだけど一日ニコニコとココロを売る感情労働のほうがよっぽどだわ)」というリアリティに基づいていて、そういったリアリティからすると世間のタテマエと欺瞞は鼻で笑ってしまうほどおかしい。実際に鼻で笑う-売春をして楽しく暮らすのは良いけど、やはりそれは地に足のついたそれ、生活のリアリティからするとみょーに軽くて、だからバランスをとるために生と死のむき出しであるワニが必要となった。。むずかしく理由付けするとそういうことカモだけど、実際は単にワニが好きだったからカモしれない。


平坦でのっぺりとした戦場、幸福な退屈の中で押しつぶされてしまわないように、ぼくらには少しの刺激が必要だけれどその刺激が大きくなりすぎて日常を飲み込んでしまってはいけない。カレーの食べ過ぎで味覚がおかしくなってしまったOLのように。ハードボイルドな日常に合わせるために情緒は隠して置かなければならないけれど、あまりにポップだと自分の影や本当の名前からも遠ざかってしまう。



消費的な「少しの刺激」は他人に仮託されテレビや雑誌を通じて食い散らかされていく程度のものだけど、それとは別に自らの個人的な翳のようなもの、生活の翳のようなものは澱のように溜まっていく。それは齢を重ねることで増えていくのか、それとも世間の消費的な刺激、悲惨や死のようなものがすこしずつ蓄積していくのかわからないけれど。

神の死によって資本主義時代の私生児となったわれわれが平坦な戦場を生きのびるために、手にしたお菓子の銃は心象世界のなかでホンモノの銃と弾丸となってハードボイルド・ワンダーランドを構築していった。あるいは、ソコにもともとあった心象の戦場に臨むべく、われわれは銃をとったのかもしれない。


岡崎京子のなかであるいはファッションとして描かれていたはずのモティーフは主題となって遺り、それらを解決する答え、道具が模索されていく。


「岡崎京子は優れたコラージュ作家だった」という見方があるようで、たしかに彼女が作品中で触れた作品群を見るとそういうところはあるみたい。

それは模倣と編集-プロデュースを得意とするタイプのひとに共通する特徴だろう。なのでそれをして「単なるマネッコでコラージュだけでホンモノのアートではない」というのもどうかな?ってことにはなるけど。


これらをみると岡崎が張っていたアンテナの方向性がわかる。そして、それが目指して行きつけなかった地点も。


ドイツロマン主義 + 象徴主義を軸とする世紀末芸術的な幻想耽美に最終的に行きつき、そこから自らに体現された時代精神の答えのようなものを求めていたのかもしれない。それは事故に遭う直前、依頼されたコミックキューの原稿として考えていたものを見てもわかる。



岡崎京子って漫画家がおりまして。
結構わたしすきなんですけれども。
このかた交通事故でいま闘病なさってて、お元気なころに書かれたマンガがもう10年ぐらい前のやつなんですね。
それでも、けっこういろんなところに影響与えた作品をおかきになったかたなんです。
そのかたが、事故の直前に描くかもしれなかった雑誌が「COMIC CUE」(1995、イースト・プレス)というのの3号なんですね。
この雑誌江口寿史さんが責任編集してて。
すごくまじめに編集長してて、それは巻末の編集日記でわかるんですけれど、
そこに岡崎京子さんが出てくるんです。「COMIC CUE vol.3」(1997、イースト・プレス)に。
原稿を江口編集長が依頼しに行くんですね。

  5月14日(火)
   (中略)3時、原宿で岡崎京子とうちあわせ。岡崎さんとは親しい訳じゃないが、この13年程の間に、いろんな機会に顔を合わせている。で、会うたびにこの人、なんつうか凄味を増してるんだ。
 最近の岡崎京子の作品は、もうあれは、漫画じゃないと思う。岡崎京子自身ももう、漫画家というよりも、文学や映画と同じ次元の表現者といった風情だ。会うたびにその印象を強くしている。CUEの読者アンケートでも次に描いて欲しい漫画家の筆頭に、その名が挙がる岡崎京子だ。で、今回のお誘いになった訳だが、「今、エロスには全然興味がない」ので自分の中からは今回の趣旨にあうような作品は出てこないだろうと言い、この本を原作とした形ならばやれるかもしれない、と数冊の詩集を出した。東大の先生でもある詩人の松浦寿輝という人の詩集だった。
 あくまでも松浦氏の承諾が得られれば、という条件つきだが、執筆をOKしてくれた。
   しかし、今日の岡崎京子、ちょっと疲れてたように見えたのは気のせいか?
http://po-m.com/inout/200606oikawa02.htm


松浦寿輝 - Wikipedia http://bit.ly/1zu19iv



松浦寿輝はようやく識ったのだけど、


小説家としては、日本の古井由吉、吉田健一、内田百間、フランスのマルセル・プルーストとロラン・バルトを敬愛する。また中井久夫、川村二郎を知識人として深く尊敬している。最後まで小説を書かなかったバルトへの思いは「名前」(『そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所』)に詳しい。



というところでもうだいたい方向性として分かったし、しばらく自分も付いて行って読んでみようかと思う。


岡崎京子と松浦寿輝が個人的にどのような関係にあったのか?というのはよくわからないけれど、岡崎が最後に表そうとしていた世界、頼ろうとしていた世界のようなものはこの辺りだったのだろう。



つまりヴァレリーやマラルメ、ランボーに代表される象徴主義文学とベンヤミンに代表されるドイツロマン主義的な頽廃と翳りと実存。


それらは完全な理解ではなかっただろうけど、漫画的感性を自在に操るようになっていた岡崎京子という装置からそれらがどのような形で表現されていたか想像される。


ヒントは「うたかたの日々」で、そういった頽廃と翳り、死とエロスに遺る美のようなものをハードボイルドかつポップに描きつつ、死に取り憑かれる甘美を卒業して最後にきちんと天使を入れられるようになっていたのではないか?




それはクレー → ベンヤミンの天使であり、小沢健二の天使でもある。












彼女の事故は傍から見ると彼女の作品の登場人物たちの足跡を彼女自身がたどったような予定調和が感じられる。

しかし、漫画と違って人生は続いていく。


あるいは、事故や傷さえも自らの個性として取り込んで、むしろそこから人生が始まっていく。



螺旋状の滑り台のように、下まで降りてもう一度上がっていく




「かつてエグいいじめをやっていた小山田圭吾の息子がエグくいじめられてるみたいでm9(^Д^)」

「かつてノンポリポップだった小沢健二や坂本龍一がサヨクに染まってm9(^Д^)」

「かつて残酷でポップなマンガを描いていた岡崎京子自身が事故にあってm9(^Д^)」





そういった世間の視線とネズミたちが最後に手に入れる果実の味はなんの関係もないのだろう。



多摩川の、あるいは渋谷川のネズミたちは草いきれ(wwww)を超えてイノチノヒミツに辿り着く。












川の光 -
川の光 -






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真鍋昌平、2004、「ショッピングモール」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/408620472.html


モード・アングレ(長弓戦術)としての「女子力」の運用、その出自と変遷   〜安野モヨコ上級士官の場合: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/225495332.html



「人はより恣意性や感情を排したシステムに近づいていけるのだろうか」とぼんやり: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/225799105.html



意味―性―愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414101268.html


愛はさだめ、さだめは死?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414133706.html



性的唯幻論序説メモ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414217494.html



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2015年02月19日

抽象と感情移入、あるいは「美とはなにか?」について



小林秀雄「近代絵画」のピカソの項を読んでると「美とはなにか?」ということについて簡略かつ的確に表されてる文言があってしばらくしびれた。



それ自体はピカソの絵を理解するため、ピカソがなぜあのような抽象にはしったのか?そもそも絵画にとって抽象の美的価値とはどういったものなのか?ということを論じたり理解するための前振りというところではあるのだけれど。別件で形式と内容、シンボルとアレゴリーについてあまり理解できずにぼんやりしていたところでの美の位置などもあいまって軽くエウレカした感じだった。

ヴォリンゲルを引いて曰く、

美とは、一般に感性的所与の要求するところに応ずる私達の統覚活動の一様態なのだが、この活動が自然で自由で積極的な場合、対象は、この活動に貫かれる。対象は私達に所有される事によって対象となる。感情移入とは、私達の生命力の対象への移入なのである。美的享受とは、客観化された自己享受なのである。


抽象と感情移入―東洋芸術と西洋芸術 (岩波文庫 青 650-1) -
抽象と感情移入―東洋芸術と西洋芸術 (岩波文庫 青 650-1) -

つまり、美の享受、なにをもって美しいと思うか?というのは自分自身の美しい部分 - 美しいと感じる部分(理想とする美しさ)の投影ということになる。


そのため美しさというのは一般価値ではなく個人的、実存的なものであって「美とはなにか?」という命題にだれにでも当てはまる共通の美を想定するのはナンセンスになる。それでもなお、それを一般的な価値として定義しようとするなら、それは正義の問題に近いものになるだろうし、もっと具体的には味覚 - 「おいしさとはなにか?」「究極的に美味しいものとは?」と似たことになるだろう。価値としての真善美とはそういったもののように思える。善、あるいは正しさの問題というのはこの中でも社会的にある程度の最大公約数みたいなものが要請されるところはあるだろうけど。



以前に離人症のようになったことがあって、雪が積もる竹林の様子を美しいと思いつつもソレを実感として感じられないことに寂しくおもった。

「これは世間的には『うつくしい』とされるものであるはずだし以前の自分であればうつくしいと思えるはずなのにいまの自分にはそれを感じられない。。」

そこで自分のココロのようなものが死んでいく/死んでしまったことを悲しみ、世間のそういった感覚からの疎外のようなものを。


ヴォリンゲルのこの一文から、そのときの自分は感性は死んでなくて、それによる所与(センスデータ)もあり、それを言語的に処理する機構もあったのだけれど、感情移入が死んでいたのだなとおもった。感情が死んでいた、あるいは、生命力が薄くなっていたので竹や雪に対して自らの生命力を移入-投影できなかったのだろう。そして、それが復活し、以前よりも多くのことを美しく思えるようになった現在、自分の中の生命力-エロス-意味が広がったのだなと実感する。






ドイツの美術史家ヴィルヘルム・ヴォリンガーの代表的著作。「抽象と感情移入 様式心理学への一つの寄与」というタイトルで1907年に学位論文として申請され、08年に出版された(邦訳=『抽象と感情移入 東洋芸術と西洋芸術』)。この著作でヴォリンガーは、テオドール・リップスの心理学的美学において提唱されていた「感情移入」型の古典主義的歴史観に対し、「抽象」衝動を対置させた。同書は、歴史がこの二つの精神的態度を交換・変遷する過程を、古代エジプトから中世ゴシック、ギリシャ・ローマなどの広範な美術作品に見出し、従来のヨーロッパ中心主義的歴史観の相対化を目指したものである。「感情移入」衝動には主体と客体とのあいだに有機的な生命観が見出され、古典主義などが相当するとされる。逆に「抽象」衝動とは、世界との無限の混沌状態に直面した人間が平静を得るために求める「抽象」的な法則性や幾何学性のことを指す。ヴォリンガーは「抽象」衝動を「古代人」の様式に帰属させ、エジプトのピラミッドなどがそれに対応するとした。また、彼はミュンヘン分離派や青騎士などの表現主義の動向にも関心を持ち、同時代美術の「抽象」性の根源を解明しようとした。P・クレーやF・マルクは、彼らの作品の幾何学的な抽象性を歴史的・理論的に支えるものとしてヴォリンガーの言説に注目していたことで知られる。

『抽象と感情移入』ヴィルヘルム・ヴォリンガー | 現代美術用語辞典ver.2.0



私の理解した限りでこの本の内容をごく簡単に言うと、(ヴォリンゲルはこれを書いた後も思想が幾らか発展変化していったようですが)
彼は、芸術には、芸術意欲には、2つの方向性があると言います。すなわち、「抽象」と「感情移入」の方向です。

まず、彼は、その当時の人々の先入観だというものを語ります。それは、芸術とは、常に、(外的な)自然に向かい、自然を描くものだという観念です。例えば、古代ギリシャの、写実的で活き活きした彫刻のように。

しかし、これは一面的な見方だと言います。なぜなら、「未開民族」の芸術や、原始的な芸術というものは、常に、外的な自然からはかけはなれた、幾何学模様に代表されるような様式の芸術だからです。古代ギリシャの芸術も、その初期においては幾何学模様だったと言います。

そこに、芸術意欲の2つの方向性を見出だします。

1つは、自然的な、有機的な、動的な生命を描いて、それに感情移入するもので、古代ギリシャやローマ、ルネサンス時代の西欧の芸術に代表されるもの。これが「感情移入」の方向です。

もう1つは、抽象的な、無機的な、結晶化された、静止した世界を描くもので、「未開民族」や、イスラム世界の芸術に見られるような、幾何学模様に代表されるもの。
これが「抽象」の方向です。(そして、これが芸術の起源にして終点だと言います)

芸術はこの2つの極の間を揺れ動くものだと言います。
そして、何故このような芸術が生まれてきたのかを考察します。

まず「抽象」の極である幾何学模様について、人と自然との関係から考察します。

つまり、こうした芸術を生む人々は、人間に対して友好的でないような、転変きわまりない、信用ならない、厳しい自然環境の中で生きているので、抽象化され、結晶化され、静止した、合法則的な世界を描き出し、その中にせめてもの安定を見出だそうとする、と言います。

一方、「感情移入」の方では、こうした芸術を生む人々は、自然によってか、人為によってか、人間に対して友好的な自然、自然と人間との、幸福で(そして稀な)調和の中で生きているので、自然に対して感情移入することができる。それで、活き活きとした、自然主義的な、有機的な、動的な芸術を造り出して感情移入すると言います。

さらにこういった方向性を宗教や哲学に関連付けます。すなわち、「抽象」に生きている人々は、現世を超越した、幽玄で、絶対的な思想に傾き、一神教に傾く、
一方、「感情移入」に生きている人々は、現世肯定的で、人間的で、自然主義的な思想に傾き、汎神論、多神教に傾く、と言います。

前述の通り一面的に思える面もありますし、それ以外のことも語っているのですが、それは置くとして、
この理論から言えば私の身近な芸術、例えば日本の芸術はどうだろうかと思います。この理論の正確さはともかく、もし当てはめてみるなら…


多分ヴォリンゲルも含意しているかと思いますが、前述のような、人がその中で生きている自然環境というのは、いわゆる自然のみではなくて、人間的な環境も含むかと思います。

つまり、社会的に不安定で、戦争や紛争の絶えない世界に生きていると、あるいは、何らかの理由で個人的に不安定な状態で生きていると、人は抽象の方に傾くだろうと私は思います。

戦国時代には茶の湯や禅が流行ったとかいう話です。
いつ死ぬかわからない世界の中で、一服して一時の安らぎを得たいというのはよく分かります。茶道には始めから終わりまで動作に決まった形式があって、何か不自由そうな気がして、何のためにそういう形式があるのか、私は不思議に思っていましたが、その理由がわかったような気がしました。
ヴォリンゲルの「抽象と感情移入」を読んだ感想
http://ncode.syosetu.com/n3909bs/



「あとがき」によれば、美学上の感情移入説というのはヴォリンゲル以前からあったらしい。ヴォリンゲルはそれに対するアンチテーゼとして東方芸術(具体的にはエジプトの装飾芸術)を取りあげる。そしてそこに「様式化」の衝動をみとめて、これを「抽象」と名づけた。この着眼点がまず非凡なわけだが、よくよく考えてみれば、「感情移入」に対して「抽象」をもちだすのはちょっと論点がずれているような気がしないでもない。しかし、この「ずれ」が論を展開する上での大きな原動力になっているのも事実だ。波と波とが干渉しあって、より大きなうねりを生み出しているといえばいいだろうか。そして、そのうねりの絶頂にあるのがゴシックの寺院だ。

まったく、ゴシック寺院というのは世界の八番目にして最高の不思議(驚異的建造物)だと思う。もしかしたら、ヴォリンゲルはゴシック建築を眺めていて、そこから抽象と感情移入という対概念を発想し、それを過去に逆照射したのではなかろうか。彼がゴシックに並々ならぬ愛着と関心とを抱いていたことは、この論文を書いたすぐあとに「ゴシックの形式問題」という本を出していることからもうかがえる。ちなみに、これには中野勇の邦訳がある(昭和19年、座右宝刊行会)。
ヴォリンゲル「抽象と感情移入」 - 両世界日誌
http://d.hatena.ne.jp/sbiaco/20060126/p1



ヴォリンガーは芸術の歴史をギリシャ、ローマからルネサンスへと進む西欧の伝統、外界の科学的な観察によって統合される芸術的技能の歴史としてではなく、美的享受を客観化された自己享受であるとする、アロイス・リーグル(Alois Riegl、1858 - 1905)が指摘した芸術意欲の歴史としてとらえ直そうと試みた。これまで未開のものとして退けられてきたアフリカやアジアからの作品が多大な影響を及ぼすようになったその時代において、感情移入(Empathy)と言う主観的方法だけではもはや芸術を説明しきれないのは当然である。20世紀初頭のヨーロッパは不安と不確実性が支配する時代だったが、そうした環境にも影響されながら、当時の芸術家は人間の予期不能な状態から抽象的な対象を探求し、それを絶対的な超越した形態へと変化させるという試みを重ねていた。フランスではフォーヴィスムが、ドイツではブリュッケが生まれ、ヨーロッパの芸術はその拠り所をより野性的で抽象的な未開の芸術に求めるようになるが、ヴォリンガーはこのような同時代の芸術を読み取る契機として、各時代における形態への意欲が、不安や恐怖をかきたてる人間を取り巻く世界にどのように反映するのかを、リーグルの芸術意欲と共に基礎的な心理学にも頼りながら考察した。結果的にヴォリンガーは、芸術を絶えざる不安を克服するための方法であると規定しつつ、恒久的な美学的形態を創造し、矯正することで達成される衝動を、抽象衝動として描き出すことに成功した。そこでヴォリンガーは、感情移入の要求が常に有機的なものへと向かうのとは逆に、芸術は自然からは独立したものであり、それゆえ抽象衝動では無機的な形態へと向かうのだと定義する。

このような抽象衝動を起こさせる心理的な前提は、諸民族が有する世界感情の内部にあり、それは彼らの宇宙に対する心理的な態度によく反映されている。こうした諸民族とは原始民族に始まり、それから多少の進化を遂げた東方民族のことであり、文化的段階にあるとされる民族、つまりギリシャに始まる西洋民族においてはすでに抽象的衝動は克服され、感情移入衝動によって支配されている。感情移入衝動で説明される高次の文化的段階における人間とは、外界の現象と親和関係にあり、汎神論的で親和的な宗教観を持つ状態にある人々だ。一方、抽象衝動で説明される原初的な文化的段階では、人間は未だに外界の現象に脅かされており、それがもとで内的不安が惹起されているような状況にあり、宗教的には超越的な強い観念に支配されている。

抽象衝動が起きるような状態とは、ある種異常な精神的な空間的恐怖にさいなまれた状態なのだが、そこで生まれる不安の感情がその芸術的創造の源泉となる。人間は外界の現象相互間の関係を見つめるとき、そこにある不明瞭性や恣意性、あるいは現象の変化極まりない状態だけを感知する。そして、そのような不明瞭で理解不能なものを取り除き、そこに必然性と合法則性の価値を見つけ出そうとするのだが、それは自然のうちにそのような価値を求めようとする心理が働くからではなく、むしろそれとは反対に、外界の只中に放逐されることで途方に暮れ、精神的な無力に陥るからである。自己の精神的な認識力によって外界の現象と親しくなり、それと親和関係を結ぶような機会が少なければ少ないほど、最高の抽象美を求めようとする力は一層強くなる。

原始的な思考との因果関係によって引き起こされる抽象衝動が生み出す芸術を、最も純粋で合法則的な芸術だとヴォリンガーは規定するが、それは無機的な芸術となる。感情移入の要求は常に有機的な形態へと向かうが、反対に抽象衝動によるそれは無機的な形態へと進行する。純粋な抽象は自然の原型には依存しない。自然を原型とする芸術的再現を強要するのは、模倣への願望である。抽象衝動とは古代の文化民族の芸術意欲の基礎であり、そこでは外界に存在する個々の表象を他の様々な物との結合関係や依存関係から解き放ち、生成の過程から離脱させてそれを絶対化しようとする努力に他ならない。

これら二つの衝動は、享受や自我と言う観点から見ても互いに相反するものである。感情移入衝動を基礎とする美的経験、美的享受とは客観化された自己享受である。感情移入衝動を美的経験の出発点とすると、そこでは自己破棄の衝動が示されることになるので、自我はその美点や芸術作品が放つ幸福感を減殺するものとして、否定的にとらえられる。一方、抽象衝動を基礎とする美的経験においても自己の放棄が求められるが、それは個人的存在を否定するためにではなく、衝動にとっての必然性を満たすために放棄される。その理由は、抽象衝動では対象が確固とした不動なモノになるので、人間存在一般における偶然的なもの、なかでも有機的存在一般に現れる恣意を放棄しようという衝動が強く働くからであり、したがって生命そのものが美的享受の障害であるとする思考が働くからである。ただし、そこでは芸術作品は自己の生命を自我のみから得ることになるので、自我との緊密な結合が図られる。
http://kenichinakatsu.blog.fc2.com/blog-entry-148.html







「象徴は蟻酸」「意味はにおい」|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ne395200a2441


意味がにおいであるとすれば美とは「おいしい」であるから食べた瞬間、味わった瞬間に生じるものでそれは個々人によって異なる。



シンボルとアレゴリーの問題は「シンボルはアレゴリーに先立つ」という価値の前提に対するカウンター的な探求だったようで、だとするとそれはアリストテレス以来の本質論-唯名論的なそれにとどまるのだろう。ヴォリンゲルの感情移入に対する抽象の考察も同様の文脈に属する。

波とアフォリズムとの関係と同じようなもので、千変万化する波の形がアレゴリーに当たって、それはたぶん動態であり生命ということなのだろう。混沌 → 生命 → プラスの方法 / 秩序 → 無機物 → マイナスの方法。

シンボルはそれを抽象化してデフォルメし静態化することで別次元につれていくことで別の生命を宿していくけれど、それは元の動態のそれとは異なる。

形式-演出はアレゴリーであり動態(動物)、内容はシンボルであり静態(植物あるいは鉱物のような生命)。

形相と質料、イデアがどうとかいう話、そこに連なるエロースな話もこの辺だろうけど。あまり言葉で詰めても一般化に向かって却ってズレるようなことだろうから、感覚的に「この辺かな?」としといて言葉に頼らず自分の中の感覚としててけとーしとくのが無難なのかもしれない。

あるいはそのマップとしてはゲーテやシュタイナーなどが参考になるのかもしれない。


















自分にとって世間一般に「ただしいもの」として語られる愛が、あるいは、「愛こそすべて」の消費音楽と恋愛事情のソレが薄っぺらく偽善的なものに感じられるのに対して、最近またぢんわりと変わりだしたこの辺りの感覚、うつくしい - 愛おしいという感覚が滋味と真実に満ちているのは、愛を司る感性が味覚のそれと似たようなものだからなのだろう。あるいは味覚もそういったものの一つといったほうが正しいのだろうけど。


「弱者を保護すべき」というのはたぶんそれぞれの人がバラバラに思っていて、それがたまたま共通した時に奇跡的にうれしいものであって、大上段にそれを「ただしい」「スべキ」とすべきものではない。

「なぜ人を殺してはいけないの?」「人を殺すべきではないの?」も同様でそこに明確で合理的な理由はない。

むしろ、合理的に考えるほどそこに理由はなくなり「社会的にそうだから」としか言えなくなる。


でも、


「弱者を見捨てる」「人を殺す」よりもその逆のほうがおそらく豊かだし、そこから意味が広がっていくから。少なくとも自分はそうなのでそうしているというだけになる。


ちょうど竹林に降る雪を見てうつくしく感じられなくなった / 再び感じられることをうれしく思えた、と同じように。

あるいは、それまで食べたことのないもの、苦手だと思っていたものを食べておいしく思えるようになったときの喜びのように。


たんじゅんにそういう広がりがあるからコロサナイほうがいいし、ミステナイほうがいい。逆にいうとそういう感覚を知らない人たちは味覚音痴とかセンスが鈍感とかその程度なことで貧しい人生というだけなのだろう。そこで味覚に対するソレ、音感に対するそれと同様できない人たちを笑うべきではない。(タダシイを気取ってジャクシャホゴハタダシイ / アパルトヘイトゼッタイハンタイタダシイとかするひとたちはグルメ批評の文言を連呼するグルメマニア気取りと似たような扱いで良いと思う)



そして、そういった機微を感じられることがおそらく愛とエロース(生きる悦び)の徴なのだろう。




それが感情移入的な機構だとすればそれとは別に人はシンボル - 抽象を操り、そこにも美が宿っていく。あるいは美以外のナニかが。


そのことについてはとりあえず保留。また考えていこう。

タグ:美学
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2015年02月17日

性的唯幻論序説メモ



ちゃんと文章にするのもめんどくさいので箇条書き的なメモ。


性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -
性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -


「読みつつ思った」みたいなのはtogetterにもまとめたんだけど。


性欲以前の性欲的なもの、と、人の「知的」好奇心 - リビドーについて - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/780707


こっちのほうはよりレジュメぽく(んじゃ以下はそういうメモ)












胎内回帰願望が生じたとき、女の性欲も男と同じように形成されるがペニスがないこと→逆転して膣にペニスを受け入れる形に変わらなければならないことからある日おとこの性欲を諦めて不承不承、女になることを承認させられる。これがいわゆる「去勢コンプレックス」といわれるものである。


動物は発情してないメスに発情しない。強姦があるのは人間だけである。また、人間は発情を人工的にうながすための性幻想によって始終発情していることになる。

強姦問題において勘違い男(性幻想の病に憑かれた痴漢など)が「あの女が誘った」「スキがあった」などというのはセカンドレイプ的な言いがかりということが往々だが、実際わざとスキを見せて誘う女も居る。なぜそんな周りくどいことをするかというと男性中心の性幻想において女の性が取引される社会、恋愛市場→結婚市場が女の身体という商品を巡った取引市場である社会において「すぐにセックスさせる女」=「安い女」と見られて値が下がるから。

以下は女が「スキ」を見せることのメリット



(1)女から積極的にセックスを求めれば、淫乱女・安っぽい女と見られ、女としての商品価値が下がる

(2)自分から求めたのではなく、男に強いられ「やられてしまった」のであれ、控えめで清らかなつつましい女というイメージを自分に対しても人に対しても維持できる。

(3)とくに女の性欲をいやらしいとする文化のなかで、自分の性欲を自覚しないで済む。

(4)セックスの責任・関係が始まった責任を全面的に男に押し付けることができる。したがって、男との関係を続けるとすれば、そのなかで気楽で無責任でいられる。関係が破綻したとしても、男のせいにしておけばいい。

(5)自分はやりたくなかったのに「やられてしまった」、すなわち、セックスが男の一方的な満足のために行われ、その男のセックスも男だけが満足して自分は嫌なのにがまんさせられているという被害者意識を根拠にして、男に罪悪感を抱かせるとか、男より優位に立てるとか、男に何らかの要求をするとかができる。

(6)「スキ」を見せて男が襲ってくるかどうかを試してみる。襲ってくれば、男に対する自分の性的魅力を確認することができ、自信がもてる。自分に対する男の今後の長続きする関心が期待できる。

(7)女から積極的にセックスを求めて拒否されれば恥をかくことになるが、「スキ」を見せるだけなら、男が引っかかってこなくても、大して恥をかかずに済む。

(8)男と別れたくなったときには、関係が無理や強いられて始まったことを根拠にして容易に別れることができる。男を利用するだけ利用して棄てるつもりのときは、特に好都合である。




このような状況のもとでは男も女も性関係に関してさもしく意地汚くならざるを得なかった。このような男女関係においては少しでもずるいほうが必ず得をし、少しでも誠実な方が必ず損をするのであった。



ちなみに男を釣るための外装を整えるための文脈で使われる「女子力」なる言葉はこのような女の身体を交換財とした市場-戦場を想定しマイルドに表現している。それとはべつに「女になること/あること」「女≠セックスの商品」(cf.准売春としての結婚)であることへの保留、モラトリアム的態度、そういった市場からの自由な態度を示すために「女子」なる言葉を使うこともあるが世間的には両方の意味合いがハイブリッドされてることもある。





自己表現としての売春(特に経済的に困ってなくても、あるいは困窮していてもほかに経済的手段があるとしても自らの愉しみ・満足・自己表現として売春する女がいる。(cf.村上春樹「雨やどり」、東電OL事件(上野千鶴子「発情装置」 →あとくされのないセックスへの欲)、酒井あゆみ「売春論」、「自分の内面を見ないでパーツ(性器)としてあつかってくれるほうが楽」(宮台真司「<性の自己決定>原論」))。自らの魅力の確認(cf.承認欲求)と一瞬にしてあくせく働くより楽な金が入ることに麻薬のような魅力を感じる。


回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) -
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) -

発情装置―エロスのシナリオ -
発情装置―エロスのシナリオ -

売春論 -
売春論 -







レズビアンフェミニストの主張「女にとって男との性交それ自体がすなわち強姦されることであり屈辱であるから断固として拒否すべきである」(ドウォーキン「インターコース」)


インターコース―性的行為の政治学 -
インターコース―性的行為の政治学 -




野坂昭如「エロ事師たち」はポルノの販売を生業にしている男たちの哀歓を描いて絶妙に面白い作品。


エロ事師たち (新潮文庫) -
エロ事師たち (新潮文庫) -

「よう薬屋でホルモンやら精力剤やら売ってるやろ。いうたらわいの商売はそれと同じや、かわった写真、おもろい本読んで、しなびてちんこうなってもたんを、もう一度ニョキッとさしたるんや、人だすけなんやで。いままで何人がわいに礼を言うたか、わいを待ちかねて涙流さんばかりに頼んだ人がおったか、後生のええ商売やで」


「男どもはな……せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてえへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのが、わいらの義務ちゅうもんや……エロを通じて世の中のためになる、この誇りを忘れたらあかん……目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ」




ヘルス日記
http://goldkintama.hatenablog.com/






一部の男が愛と性を切り離し女との情緒-愛の絡まない性交を求めるのは乳幼児段階の母親との関係、情緒的に絡めとられ性的に刺激され愛され保護されていたそれ、から解放されあらたな性を獲得するためである(ディナースタイン「性幻想と不安」)。もうひとつの理由は、一人の女との関係を長く続けると情に流されてとっつかまってしまうのではないかと恐れるからである。




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2015年02月16日

愛はさだめ、さだめは死?

これも不完全な内容なのでnoteにしとこうかと思ったけどこっちの続きものだしこっちに出しとこう

意味―性―愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414101268.html

















タナトスについてまだちゃんと理解してないし、フロイドの時代のそれとはまた違うのだろうけど。まず最初に快感原則があって、それに反する自己破壊衝動というのはどういうことだ?ってことなんだとおもう。

で、

エロスとタナトスが表裏一体というのは、エロスっていうか性交的な欲、リビドーが他者に向かったもの(性欲に向かったもの)というのは他者破壊衝動ぽい。あるいは女性の場合は自己破壊衝動かもだけど。
「フランス語でそれは小さな死という」オルガスムの様子は死を連想させるし、生理的に考えて他者の体に自分の体を入れる、あるいは、他者の体を受け入れるというのはおかしい。性器以外のところで考えればその異常性がわかると思うんだけど、手を他人の身体に入れてるようなものなので。性器の場合は内蔵が外に出たようなものだろうけど。なので、皮を被った内蔵を内蔵に入れてる状態が性交ということになる。

それは理性的に考えれば異常なんだけど人がソレを異常と思わないのは幻想によったり、それ以前に好奇心的なものだったのではないか?後者のソレはビザール的な関心にも近いようにイメージしてるので、性交というのは基本的にビザールであり異常(cf.ベルメール的な関心)。

エロスという言葉は性欲としてイメージされがちだけど性欲-性交に向かう欲としてのエロス、と、意味-好奇心の狩猟としてのエロスがあって、より汎用性がたかいのは後者なのだとおもう。プラトンが想定してたみたいなの。まだ確かめてないけど。

リビドーが外に向かったものが性欲で、内側にこもったものが自己破壊衝動ぽいんだけど。そこでリビドーとして設定されているものは自我とプラトニックなエロスと他者(環境-身体)との関数なのだと思う。

すなわち、人は最初の不能感から自らを守るため、環境という他者に対する鎧として自我を構築しそれを言葉-幻想によってコーティングしていくのだろうけど、性交という事件を介してそのバランスが崩れがちになる。ソレに対するために性幻想を作り上げたけど、今度はその性幻想によって性欲が喚起され、それが正しく発散されてないとみょーなストレスになる。フロイドーライヒなんかによるとそのストレスが戦争を引き起こすということだけど。あるいは戦争の代替としての資本主義的な競争と闘争。

でも、

もともと性交なるものは他者の破壊と自己の破壊-死を予感させるものだから異常なものであって、、、なんか冗長になってきたので飛ばすか。


自己破壊衝動は自我の誤作動なのではないか?

不能-不全-外界-他者に対する鎧として構築されたはずの自我がなんらかの事件にあったとき、その自我とそれに基づいた生活自体が強固になっているためそれを守るために事件-他者を認めようとしない、世界-他者から自らを守ろうとして居るように思える。そこでその事件に自らを合わせるべく再び自我を変革して貼り直せばよいのだろうけど、それがなかなかできないところが強固になってしまった自我の融通の効かないところなのかな?あるいはサンクコスト的なもの。

そして、「死にたい」「壊せ」あるいは自らがそうなっている情況のイメージ、希死念慮的なイメージの反復がそこに暗示をかける。

「壊せ」というのは正常な?自我との関係で言えば外側に向かうものだろうけど、なんらかの理由でそれが外側-他者に向かわずに自らを苛む方向に向かうことで自閉的に「壊せ」が自己の内部で反復、増幅していくのではないか?もちろんそれがいきすぎれば他者を責めすぎる → 戦争ことになって遺憾ではあるけれど。

なので、鬱の人は基本的に真面目で優しい、みたいなことなのかなと思ふ。

あるいは、自我の変革に対する優柔不断もそこにあるのかもだけど。これは当人の環境によってなかなか変革できないものなのかもだからなんとも言い難い。


動物のような状態を想定すれば性交に関するエロスは特に余分な意味付け・幻想(いやらしさ)をもたずにフラットに機能してるだろうし、そこに「死にたい」「生きたい」な思いもないだろう。そう思う以前に単にその瞬間瞬間に「生きてる」。

プラトン的なエロース?を想定した場合でも、エロースは世界との調和・理解を旨とし、破壊・死ではないように思う。

リビドーを中心に語ると性交が中心になりがちだけど、リビドーを「性交という身体を介した他者-世界とのコミュニケーション(意味以前の)をめぐる欲動」と解すると重心は他者-世界との関係ということになる。

平たくいうと「死にたい」のひとは動物のようになればよいし、それができなければ自我を張り替えるか、自我に圧力を与えている情況-環境-他者を変えれば良いのではないか。





死の欲動―臨床人間学ノート -
死の欲動―臨床人間学ノート -


「甘え」の構造 [増補普及版] -
「甘え」の構造 [増補普及版] -


愛はさだめ、さだめは死 (ハヤカワ文庫SF) -
愛はさだめ、さだめは死 (ハヤカワ文庫SF) -

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2015年02月15日

意味―性―愛





昨日エントリしたけどなんかいい忘れた/最初に考えようとしたとことずれたような気がするって残ってたので見直すに

やはりジンメルかあ。。: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414033954.html













<ステロタイプな幻想が相対化され解かれてしまったら男女の性欲はなくなってしまうのだろうか?>


岸田秀によると「ネオテニーとして本能の壊れた動物である人間は性欲も壊れており、それを補填するために性幻想を作り上げそこにドライブされている」ということになる。最初から幻想をインストしてないと性欲が表せられないという立場。母親と一体の全能感への復帰、つまり体内復帰願望を基本としたものが性欲の最初ということになる。動物と同じような性欲の発動を仮定した場合、その段階で人間は幼児段階のため性器もきちんと発達していない。そのため最初の不全感-挫折を味わい、それから実を守るために自我を発達させ、同時にたまった性欲的なものの発散経路として性器を借り、性幻想をもってそれを起動させる。


性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -
性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -


(1)人類の性本能が壊れ、人間の男女は不能になった。

(2)人類の存続のために必要不可欠な膣内射精を遂行するためには、何はともあれ、ペニスが勃起しなければならないので、女のことはさておいて、男の性欲を回復することに重点がおかれた。

(3)そのため、女の性欲はなおざりにされ、もっぱら女は男の性欲を刺激し、男を性的に興奮させる魅力的な性的対象の役割を担うことになった。

(4)女がもっぱら性的対象になった補助的な原因として、極端に無知無能な未熟児に生まれ、長い間、母親の世話にならなければならないという人類特有の条件がある。そのため、母親の身体、つまり女の身体(女体)が安心と満足と快楽の源泉となった。

(5)同じく無知無能な未熟児に生まれるという人類特有の条件のため、人間の幼児はまず初め自閉的世界に住むことになり、この時期に性欲は、対象のない自閉的欲望として成立する。したがって、人間にとって性的対象は、初めは存在せず、そののち、自分の欲望を満足させる手段・道具として出現する。


「ネオテニーで性欲が壊れた動物である人間はその補助として自ら人工の性欲-幻想を作り上げそれによって性欲を性器に喚起するようにしているが、もともと乳幼児段階の全能感の軟着陸がうまくいかず自閉的世界に住んでいる人類にとってセックスは相手の体をつかった自慰の域を出ない」、ということ。

「ペニスを勃起させなければならないので、というところで男だけの話におもわれがちだけど体内復帰願望は男女ともに共通する」とエクスキューズする。ただし女体は異性としての男の性欲-性幻想にとっては有利に働く、が、女はそのあたりでこじらせがある、とする。

乳幼児段階で性欲が目覚めても男は不能であるため心の奥底に女への恐怖が刻印される。後にヘテロ男性の性幻想において女の支配が中心的なテーマとなっていくのはこのためである。性欲を禁忌とすることで男を馬車馬的に働かそうとするヘテロ男性の性幻想を基にした資本主義社会ではこのようなセクシャリティが有利になる。

対して女の場合、乳幼児段階でも同姓である母親は女の赤ん坊を男に対するほどに支配しようとしない。このため、乳幼児段階のトラウマとしての男性恐怖や不能 → 反動としての支配欲はおこらない。

いわゆる性倒錯がもっぱら男に多いこともこの構造に起因する。







自分的にはやはりこの辺りについて女性の性欲についての説明が弱い、というか、なんか矛盾があるように思う。女性ていうか、従来のステロタイプ的なヘテロ男性の性幻想以外の性欲について。

前回エントリでもいったように、岸田によるとそれは基本的にサディズム、加虐性、攻撃性という形をとった防衛機制とか反動形成のようなんだけど、そういうゴワゴワしたもの以外の性欲ってあると思う。性欲っていうか、性欲以前の兆し。それが結果的に性欲にもつながってるかなあ、てもの。

たとえば人と抱き合いたいとか、握手したいとかそういうの。そこでインターコースしなくても特に良いわけだし、添い寝だけで落ち着くってひともいるようだし。

ただ、インターコースを伴わない性的な願望こそが本質、とするのもなんか違う感じがするけど。食欲-食の嗜好同様そこはひとそれぞれだろうし、ステロタイプ的な性的幻想を化学調味料に喩えれば、味の素しっかりかかったジャンクなものとか好きな人もいるだろうし、そういう気分なときもある。





人の性欲とはなんなのだろうか?「性欲」として観念化される以前の性欲的なものの兆しはどのような欲に沿っているのだろうか?


ひとつは岸田がいうように胎内回帰願望なのかもしれない。胎内に還ること、もとに戻ることが主軸というか、、母と一体だった時の全能感を取り戻すこと。

なので「全能感の不全により自閉気味になっているため、けっきょくは性交しても自慰的な満足を出ない」というのであれば全能感の部分をhackすれば良いのだろう。平たく言えば自我-自信を確立すること、あるいは性交に伴って愛の幻想に包まれること。


では愛とはなにか?


自分的には意味を探すこと、世界(対象)に対して純粋な関心をもつことのように思う。対象と自分を同期(感情移入)させて理解すること


性欲以前の性欲的なもの、と、人の「知的」好奇心 - リビドーについて - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/780707


より具体的には相手の立場に立ったやさしさを伴って、慈愛のまなざしで相手(対象)を理解していくこと。

その上でなんだったら相手からも同様のものを受け取ること。


togetterにまとめた感想では「意味≠愛≠知的好奇心?」としたけれど、意味-シンボル(象徴)づけは知的好奇心(愛)の足あとのようなものだとおもう。記号-象徴をうまく用いるヘンタイ生物としての人間は象徴によって自らが関心をもったものを物象化し現世に表す。

そして、一定の象徴←価値をみょーにもちあげてワッショイワッショイと祭る。たとえばなにか事件が起きた時に社会的に流通してるステロタイプな価値観(ポリティカル・コレクトネス)をもって正義のようなものを叫ぶ。これは動物がフェロモンをたどり、ここに餌があるよー、と叫んでる様子に似てる。たぶん構造的には一緒なのだろう。餌が足りてる社会ではその祭りの様式だけ残って辿られてるところもあるようだけど。

彼らの正義の祭りは蟻などの社会性動物が餌をみつけて騒ぐ様子に似ている。あるいは侵入者に対して騒ぐ様子。特に領海を侵されてないのに騒ぐ、自らの正義という趣味のために騒ぐのであれば性欲や食欲などの本能的な兆しがその素となっているのかもしれない。


岸田によると近代以前は愛と性は分離してなくて、たとえば日本社会なんかだとなんとなく関心をもつ、なんとなく好く → なんだったら性交ということもあったぽい。性交がほかのコミュニケーションと同じようなフラットなものだったから。

それが崩れていったのは中世のキリスト教的文化圏の影響とそれへの反動ということになる。

もともと神を愛する文化圏である西欧において人への愛を説くものは商売敵となった。なのでキリスト教内でも神以前の愛を説く宗派は異端とされ迫害されていった。


カタリ派 はプラトニックラブ的なものを説き、性交を伴わない愛を至上のものとした。




オクシタニア -
オクシタニア -


プラトニックラブを宗教的情操に替えるそれは愛のむきだしの場面にも似てる。


そして、むきだしの羊は閑かに暮らす夢を見る: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/408674184.html



13世紀の人口爆発→文化的な繁栄以降、神が段々と死んでいき、それにともなって人々は文化的な刺激、趣味の発露を求めるようになった。

ロマンティック・ラブはこういった背景から生まれ受容されていった。

十字軍に向かった騎士たちの妻を寝とる趣向がその原型かなと思うに、そこで男の所有物としての妻たちには貞操帯が付けられ、その禁忌のハードルをもってさらに禁断の「愛」、ロマンティック・ラブが燃え上がっていった。



こうして「恋愛」なるものが前景化することで「性」が相対的に異質なものとされ、「性」と「愛」が分離され、一部では愛だけが交換・流通されるようになった。もちろんそれは庶民とは遠いところで庶民は「性-愛」一体だったかとおもうけど。

この過程は中世→近代における自/他の分離、および自我の形成過程と同期するように思う。

近代化の個人の実存における特徴の一つは「自我が芽生えた」「内省過程ができた」ということにあるけれど、「愛」あるいは「恋愛」の個人化-対幻想化もこの過程と関わるのだろう。



そして、そのようにして性から分離した愛が吟遊詩人の唄に載せて様式化していき、それらが近代化に伴う合理主義へのバックラッシュとしてのロマン主義的傾向で回顧され、恋愛市場の商品として形式化し流通されるようになった。この辺りはゾンバルトも絡むだろう。


そして、ここでも形式と内容が関係してくる。


スーザン・ソンタグ、1968、「反解釈」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/413601598.html



形式のドライブとはマルクス主義的な観点からすれば物象化→疎外的な課題といえる。

ただ、マルクス主義的観点だとどうしても「形式≠資本主義的商品」→「形式<内容」となりがちなので、そこはもっとフラットにジンメルしていくべきなのだろう。あるいはソンタグでもいいけど。


上野千鶴子、1989、「スカートの下の劇場」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/388711171.html


社会化の形式あるいは心的相互作用とは、人間が目的や意図をもって他者と関わる行為のあり方のことであり、具体的には、愛情による親密な関係、憎悪に基づく敵対関係、社会的地位によって結ばれる上下関係などが挙げられる。これに対して、政治、法律、経済、宗教、芸術などは「内容」から分類された学問分野だとして、「形式」の観点からそれらに横断線を引く学問として社会学を位置づけた。

ジンメルの後期の著作を読み解くと、生の哲学と形式社会学とが緊密なつながりを有していることがわかる。生の哲学者でもあったジンメルにとって、人間存在の唯一究極的な原理である「生」の本質は、一方で生が現前する自分自身を絶えず超えていくという「自己超越性」とともに、他方でその生が自分に対立する「形式」を通してでなければ己を表現することができないという「自己疎外性」に求められる。

そして、創造的な生は、社会制度や芸術作品、科学的認識といった形式を作り出し、一方で生それ自体はその形式を乗り越えていくものの、形式はその母たる生とは自律的な動きをもつ。そして、ここにジンメルの言うところの「文化の悲劇」が生まれる。すなわち、形式が客観的独立性をもち、それが生を囲い込み枠づける生活形式となる。この傾向が頂点に達するのが、貨幣経済の完全な浸透がみられる近代社会である(『貨幣の哲学』)。近代人はもはや客観的な生活形式を内的に消化することができなくなり、生の手段が生の目的となる。そこに、生と形式をめぐる完全な「軸の転回」が出現するとジンメルは診断する(『現代文化の葛藤』)。

当初ジンメルは、特殊科学としての社会学の確立を目的として形式社会学を提唱したが、晩年に著した『社会学の根本問題』(1917)において、一般社会学、特殊社会学(形式社会学)、哲学的社会学という3つ分野から成る、より大きな社会学の体系を構想するようになったのである。しかし、その中心となる分野はあくまで形式社会学であり、彼が残した研究実績は形式社会学の方法論に基づいたものである。





形式のドライブ
愛-意味のドライブ

愛-幻想-意味 は他者を介さなくてもドライブできる。それは自慰と変わらない。


そのため愛の幻想に憑かれていてもそれは相互の思い込みが交換されているだけであって、本質的には両者の愛-性のマンゾクは合致しない。そして両者のオルガスムは基本的に同期しない。ズレて訪れる。「一緒にイク」ことに意味を見出しマンゾクする人たちもいるけれど、基本的に男女の構造が違う/個人によって性幻想や物理的刺激によってオルガスムに達する過程/はやさは違うわけだからあまり意味がない自己満足的なものに思える。

岸田的にはそこで「−y( ´Д`)。oO○男女のソレは生理的な構造としてズレてるわけだからもうズレてるものとして互いが互いを満足させるように気遣えばよいのでわ?時間差で互いの満足があればいいだけだし。あるいは、性器が勃起するかしないかとか濡れるか濡れないかとかもあまり気にしないで良いと思う」というところでとりあえずのまとめとなる。

(少しバイアグラについて触れていて「バイアグラみたいなのがあると男性が女性蔑視な幻想をつかわなくても物理的に勃起するわけだから女性的にも男性的にも楽になるよね」みたいなこといってたけどバイアグラのなかのひとから「いや、薬摂取しても刺激がないと勃ちません」「(´・ω・`)」てなってた)



自分的には前述してきたように「他人への関心」が「愛」-「意味」となってあらたな性的な欲や様式につながっていくのかなとか思う。あるいは自分のなかにあるそういったものがとりあえずそれらの言葉-概念で保留できたかと。そこで単に他人への好奇心的な興味で終わらないところに肉体を介した人の性行動の冗長性が絡むのかもしれない。体内の海が人を喚ぶ

抱きあうだけ、握手するだけ、なんとなくコミュニケーションするだけ、みたいなのもそんな感じだろう。

それと別に猟奇的あるいは攻撃的関心とされる意味-関心の積極的な意味付けを進めていきたい。(結果的にそれがネガティブな構造だと解明したらそれでいいけど。そこで修正していくし)










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「痴漢の心理」から  人の性幻想とヘテロセクシャルの形成について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/411213903.html


おんなになる-性の自立- | アパートメント
http://bit.ly/1BexqQl
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2015年02月14日

やはりジンメルかあ。。

他人様のエントリも含むし軽く済ませるつもりだったのでnote程度にしとこうかと思ったけど、あとで検索するときに楽だし、思ったより長くなったのでブログにエントリしとこう。


所用で渋谷経由して、おみやげ的にやまやにウイスキー見に行ったら棚にタラモア・デューがあって、そういえばと思い出したので

もし僕らのことばがウィスキーであったなら: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/413977664.html

そのパブで老人は黙ってウイスキーを注文して、チェイサーもなしに飲みつつなにごとかを考えていた。それは抽象的、哲学的ななにかというよりはもっとプラクティカルで現実的な問題を考えているように見えた。

老人が考えていたことはなんなのかはわからないしはっきりさせる気もないのだろうけど、その光景がパブとタラモア・デューの香り、味となって刻まれたのだろう。

村上春樹がここでとりあえずおすすめしていたのは

食前に向くのはきりっとしたジェイムソン、タラモア・デュー、ブッシュミルズ

食後に向くのはまったりとしたパディー、パワーズ、ブッシュミルズモルト


メモっておいてそのうちやまやで見てみよう。渋谷にはかつて山城屋?があってけっこうたのしかったのだけどあそこもなくなってしまって、でもやまやがおもったより使えるので。そこで慣れて物足りなくなったら八重洲の長谷川酒店にいけばいい。あるいははせがわ酒店を「ただしく」楽しむための練習というか。

タラモアデューの老人がウイスキーを舐めながらなにかを考えていたように、自分もフェイマスグラウスを舐めながらぼんやりと考える。

あるいは考えていたことの断片を合わせて言語化していく。



引き続き岸田秀の「性的唯幻論序説」を読みつつ


性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -
性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -


ここで出てきたマゾヒズムについての考察と「いやらしさは客体としての女性に宿る」な辺りで去年の課題としハヤニエしていたところを思い出す。

性欲以前の性欲的なもの、と、人の「知的」好奇心 - リビドーについて - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/780707

上野千鶴子、1989、「スカートの下の劇場」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/388711171.html

性的満足におけるココロとカラダについてのぼんやりとした話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/392098324.html

以前のエントリでは「セックスにおいて自分のなかにある不全感-マンゾクは女性のそれに劣るのだろうか(´・ω・`)女性一般でもなく客体としての<女性>であり女性のほうがそれをインストしやすいのだとしたらそういうのをインストした女性に」とすこしコンプレックスが残っていた。岸田を読んでそれが少しスッキリしたように思えたのはその元となってる構造と思われるものについてフロイドー岸田なりに説明してくれたからだろう。仮説であり一つの見方ということではあるが(岸田自身は自信満々だし強力な見方ではあるとおもうけど)。

すなわち、

「本能の壊れた動物である人間の性欲は幻想によってドライブされる」「近代、資本主義社会はそのような幻想を資源として成り立ってきた(フロイド、ヴェーバーの見ていたところはこの辺りとなる」

「ゲマインシャフトでは性的におおらかなところがだいたいだが、ゲゼルシャフトになって性欲が禁忌されるのは禁忌とすることによってたまった不満を労働、あるいは、戦争に対する資源とするためである。すなわち性衝動の抑圧からの反動」

「近代→現代消費産業によってそのような幻想は商品化されさらに拍車をかけられる」

「現代男性の偏った性欲、たとえば強姦への志向、あるいは、婚姻関係であってもパートナーが嫌がっていても性交を求めるようなそれ(嫌がってることや屈辱をあたえることをむしろよろこぶそれ)はこのような背景からの抑圧→サディズム(デストルドー)といえる」

「乳幼児段階の母親との一体の全能感から現世に堕ちることで味わった不全感、器官と性欲の発達の不一致からの不全感に対抗するために人は自我を構築していく。その際、不全を自己のものとして引き受けるか、自他のものとして引き受けるかで違いが出る。後者は破壊衝動-加虐性(デストルドー)と結びつく」

「デストルドーを志向した人々はサディスト的な性向、反対に不全を自らで抱えることを志向した人々はマゾヒスト的な性向を持つ」

「マゾヒズムとは屈辱的状態に囚われた時、屈辱を受動的に受け入れ耐え忍ぶ、のではなく、屈辱から離れた所に自我を置き、自我から屈辱を捉え返し操作する企てである。この屈辱により屈辱を克服することはできないけれど、屈辱から距離をおき、屈辱を免れたような気になることはできる」

「女性は嫌がっていても男性の性欲を受け入れるのが当然という資本主義的価値観において一般的な性幻想-様式を踏襲した場合、男性はサディスト的傾向、女性はマゾヒスト的傾向となる」

「性欲を促進させる刺激として恥ずかしさ・罪深さがある。すなわち禁忌を設定することでそれを乗り越えるインモラルをして自我を強化することに興奮する。キリスト教的価値観を元とする西欧は概して罪の文化圏、日本は恥の文化圏となる」

「罪の文化圏では神との関係において罪が設定されるため目の前の他者との関係よりも『神に対して罪かどうか?』ということが重視される。そのため人前でキスをしても平気ということになる。恥の文化圏では世間体が重視されるため『周りに対して恥ずかしく無いか?』ということが重視される。明治以前、縁側で行水をしたり男女混浴であってもわりと平気だったのはこの辺りの価値観に基づく」


だいたいこんなところが直近の課題に対応する「性的唯幻論」から抜き出した前提になる。

この前提からすると「女性のオーガズムに劣るのでは?(´・ω・`)」的なものは「そういったマンゾクを感じる場合、彼/彼女らがソフトとしている幻想に満足しているだけであって自分はそれらを相対化してしまっているからそれに熱狂できる彼らをして(´・ω・`)してしまうぐらいなのだろう」ということになるだろう。そしてマゾヒズム的なものへの考察も含めて(たぶん某女史の場合は罪と贖罪(罰であり赦し)という幻想にtuneしてたんだとおもう。

自分の場合はたぶんゲマインシャフト的な感覚、あるいは、動物的な感覚に近いのでそういうのはなんとも、、って感じになる。幻想にtuneしてるひとたちからすると恥とか感じてないようだからつまんなく思えるようだけど(cf.相手が興奮してる様子を見て興奮する)。いちおゆっとくとこのときの「動物」というのはキリスト教的性規範からの「ケモノのような」という偏見に属するものではなく、本能の壊れた動物としての人間以前の気高いケモノとしてのソレに当たる。なので一部のジェンダーフリー気取ってる人々が「セクシストめ」だの言ってるのみるとアホかと思える(あの人たちのほうがよほどキリスト教的価値観に染まった差別主義者でありオリエンタリストなので)。

加えていうと「気高いケモノ」にちょっと現代的な性幻想が加味されたぐらいか。料理にちょっと化学調味料を入れるとおいしいぐらいに。


このあたりの課題の出口はけっきょくは生の哲学でありジンメルあたりから見てみようと思っていたようで、別件でこのへんをみてぼんやりと思っていたことともなんとなくリンクした。


第三の新人が日本の実存主義だった: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/09/post-ab27.html

曽野綾子さんのはなしがかしましいけど、もともと第三の新人が実存主義的なものだったらそんなに問題でもないのだろう。彼女の感じてる日常的な価値観をそのままいってるだけで、それに比べたら虚飾にまみれた世間的価値をオラショするほうがよほど下品だし暴力的なので。まあたしかに、一部問題はあるのでそこは修正してけばいいと思うけど。ふつーに会って対話でもしてれば「あ、そこはいいすぎましたね。でもね、、」て済むような揚げ足取り的な箇所だと思う。

まあ、そういう「世間、馬鹿だなー」というのは良いとして、、

実存主義⇔生の哲学であるから当然このへんはマッチするとして、「神なき時代の幻想の一つ、人工の神として人々は恋愛をもとめ恋愛至上主義的に称揚していった。そこでの恋愛をめぐる価値観・様式は消費産業的にデフォルメされ収奪されている」というあたりに性愛も絡んでくるのだろう。性と愛が分離され文字通りフェティッシュに増殖され、前景化されたそれによって人々の性-愛の生活的実感は疎外されていく。まさにジンメルの対象領域かなとかおもう(あるいはルカーチ)。

小説・文学・詩・歌詞・歌なんかでもそういうのはわかりやすく展開されていて、いわゆるベストセラー的な価値観はそういったものなのだろう。

自分的な課題としては遠藤周作や小島信夫をいちお読んでいこうかなあ、ぐらい。あとは曽根綾子が以前のエントリで触れた女の一生的なエッセイとか価値観に関わるならその辺も。

あとはやはりジンメルだな。









--
近代的理性の立ち上がりと国家幻想、そこから疎外されていったものたち、のはなし: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381011164.html




ファシズムの大衆心理 (上) -
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ファシズムの大衆心理 下 -
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タグ:実存
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2015年02月13日

もし僕らのことばがウィスキーであったなら


このブログを読んでちょっとだけ良いウイスキー、1000円台でちょっとQOL上げるぐらいのそれを整えてもよいかなあ身近でと思ったのでメモって探しに行ってみた。


行きつけのバーにあるウイスキーを全種飲んだ僕が初心者にオススメのスコッチを20本選んでみた。 - 道しかひかない堀江くらはのブログ
http://kuraharu.hatenablog.com/entry/2015/01/29/221827


目当てはグランツとベル




グランツ

常飲その2。これも1000円以下で置いてあることがあるのにおいしいウイスキー。複雑で濃厚なのに飲みやすい。樽っぽい苦みもする。この価格帯のウイスキーで一番人気かも?



ベル

この価格帯にしてはスモーキーなウイスキー。多分だけど後述するアイラモルトをおおくつかっているんじゃないかな?味は結構甘みが強い。





フェイマスグラウスはすでにして常飲していたのでほかのもの。できればもうちょっとアイラ的というか、スモーキーなわかりやすさがあるものが欲しかったのでベルを探しに行ったが近くにはなかった。ちなみにグランツはドンキで1000円ぐらいで売ってる。同じ価格帯のものに比べ雑味がない。ベルはやまやとかにあるんじゃないだろうか。寄ってみてあったらゲットしてこようかと思ってる。

ちなみにフェイマスグラウスは1700円ぐらいで特に雑味なく、スコッチなおいしさが味わえるものなかんじで「ハイボールにちょうどいいですよ」と勧められてたしかにおいしい。ハイボールじゃなくてもショットグラスでそのまま飲むのに耐えられる。ネットでも送料込みで1700円ぐらいで買えると思う。

そのうちアードベッグぐらいは置いといてもいいかと思ってる。あとハイランドパークとなんだったらラフロイグの味見直し。ボウモアとマッカラン。シーバス。特に村上春樹読みとしてはシーバスをもっかい飲んどくのもいいかと思ってる。



もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫) -
もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫) -




このエッセイは読んでなかったし軽い物のような印象だったのでこの機会に読んでみた。

村上さんも最初のほうで言ってるように、内容は特になくアイラ島とアイルランドへの旅行写真にちょっと文章を加えただけ程度のもの。メインに2週間程度のワタクシ的な旅行があって、その記念な写真に企画がついてきたのかな?ぐらい。

なので特に語るものでもなく黙ってその素敵写真を眺め、土地の空気感を想うのが「ただしい」読みなのだろう。ちょうどこのエッセイの序文にあるように。



もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。

しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、すべてのものごとを、何か別の素面のものに置き換えて語り、その限定生の中で生きていくしかない。

でも

例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。


そして僕らは

――少なくとも僕はということだけれど――

いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。


もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。






僕らのことばがウイスキーではないことを残念に思いつつもうすこし言葉を重ねよう。


このエッセイの中で気になったところをちょこちょこと。



あらためて、なんだけどアイラ島の蒸溜所が7つしかなくて、その代表的なものがだいたいの酒店に置かれていることに驚く。というか、蒸溜所の地名がそのまま酒の名前になってることから各蒸溜所名が島に付されてるのを見てお宝島のような感慨を抱く。7つとはすなわち


アードベッグ
ラガブーリン
ラフロイグ
カリラ
ボウモア
ブルイックラディ―
ブナハーブン


ちょっとした蒸留酒を扱う酒店ならアードベッグ、ラフロイグ、ボウモアぐらいは置いてるしなんだったらラガブーリンにも会える。ほかはよほど専門店かウイスキーを主体としたショットバー的なところだったらあるか。


真ん中に行くほど癖がなく最初のほうがピート、土臭く、荒々しい。

基本的なことだけどアイラウイスキーはシングルモルトに属する。つまり麦だけ使って混ぜ物せずに蒸留した酒ということ。これを理解するにはむしろブレンデッドを理解したほうが早いだろう。

日本酒だともう「酒を混ぜずに完成させる」というのがふつーになってしまってるのでとくに意識しないけど、ブレンデッドというのはできあがったウイスキーを混ぜていい感じにしたものということ。「日本酒でもかつては日本酒同志を混ぜあわせていい感じのものをつくっていた」「それが酒屋の役割というところもあったし腕の見せどころだった」「現在でも弱小酒蔵の酒を大手が買い取って大手ブランドでみたいなことはある」みたいなのは「もやしもん」読んでればでてるのでそちらを参考されたい。


つまり、シングルモルトというのは純米酒みたいなもので、アイラというのはまあ言ってみれば吟醸みたいなもの。感覚とか印象としては。


そして、このエッセイでは島全体が酒蔵みたいな夢の島をぼーっとめぐる。

緑と羊と海と石壁。

のんびりとした時間と生活の一部としてのパブ。


某うどん県のように島民のほとんどがウイスキーを飲まない日はないという。すくなくとも村上さんが会った人々は。



蒸溜所も近代化によって個性が異なってきておりそれが味に反映されているところもあるぽい。

アードベッグは昔ながらの人力-職人仕事を旨とし、ラフロイグは近代的な工場管理-合理化をしている。ラフロイグでできた90%のウイスキーはブレンド用に出荷される。

それでも酒の芯にある「アイラぽさ」は変わらない。


ピートの奥にあるかすかな磯臭さ。


海に囲まれたアイラ島の風土をそのまま閉じ込めた生命の水がアイラウイスキーとなる。




「あれこれ言う前に、飲んでくれ。私たちがやろうとしていることは、飲めばわかるから。」

「どっちがいいとは言えない。どちらもうまい。それぞれにテイストの性格が palpable だ(はっきり触知できる)」

「そうなんだ。頭であれこれと考えちゃいけない。能書きもいらない。値段も関係ない。多くの人は年数の多いほどシングル・モルトはうまいと思いがちだ。でもそんなことはない。年月が得るものもあり、年月が失うものもある。エヴァポレーション(蒸発)が加えるものもあり、引くものもある。それはただ個性の違いに過ぎない」





天使の分け前 [DVD] -
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「みんなはアイラ・ウイスキーのとくべつな味について、あれこれと細かい分析をする。大麦の質がどうこう、水の味がどうこう、ピートの匂いがどうこう……。たしかにこの島では上質の大麦がとれる。水も素晴らしい。ピートも潤沢で、よく匂う。それは確かだ。でもそれだけじゃ、ここのウイスキーの味は説明できないよね。その魅力は解明できない。

一番大事なのはね、ムラカミさん、

いちばん最後にくるのは、人間なんだ。

ここに住んで、ここに暮らしている俺たちが、このウイスキーの味を造っているんだよ。人々のパーソナリティーと暮らしぶりがこの味を造り上げている。それがいちばん大事なことなんだ。

だからどうか、日本に帰ってそう書いてくれ。俺たちはこの小さな島でとてもいいウイスキーを造っているって」










最後に村上さんのエッセイとお手頃ウイスキーを紹介してくれた前述エントリに感謝したい。
















そういうことを、秋葉原の孤独なおでん缶を見るたびに、思うといい - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/781399




うつくしい日々: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/409837761.html





静かなる男 [DVD] FRT-190 -
静かなる男 [DVD] FRT-190 -

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2015年02月06日

スーザン・ソンタグ、1968、「反解釈」


反解釈 (1971年) (AL選書) -
反解釈 (1971年) (AL選書) -


この本については読みつつnoteでちょこちょこ日記にしていて、そこでだいたい語ってる感もあるのでこっちには簡単にまとめとこうかと思う。


主題は「形式と内容」ということ


形式と内容  アレゴリーとシンボル|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nd8d204d99859


簡単にいえば「作品を先行する偏見で踏み潰し消費するのではなく、その作品自体の構成要素をまずは中立に見つめ、語れ」ということ。

形式と内容という二項対立をしたとき、内容のほうで意識されるのはいわゆる本質論的なもの。「表立って語っていないけれどこの作品にはほんとうはこういう意味がある」といういわゆる深読みとかされるもの。そこで、そのテクストの構成要素を見つめ、味わい、評価した上でそういった付帯情報をつけるなら是いだろうけど、最初からテクストの構成要素度外視で自分の読みを先行し、テクストを蹂躙・消費するやり方をソンタグは嫌う。具体的には当時、だんだんと出来上がってきていたCultural Studiesの萌芽、フロイド的な作品解釈やマルクス主義的な作品解釈。つまり「この作品には男根的志向がー」とか「消費産業の意向に乗っ取られた作品でーテーマにもそれがかいま見えるー」みたいなの。日本にメディアリテラシーが移入された初期にもこういった下品な解釈はあったけどああいうの。あるいはネットだと超映画批評とかわかりやすい。

そういった「ほんとのテーマが―」以前に、作品というのは単にそのモティーフを作家が描いて表現したかったから成立するものもある。「作品全体のある場面、画がまず浮かびそこを描きたかったのでとりあえず描いて特に作品テーマ・ストーリー全体には影響しなかったけど満足」、みたいなのとか、「とりあえずで描いたモティーフが思ったよりも作品全体のテーマになっていった」みたいなのもある。

noteの日記的にはデタイユあたりでうんたらされてるそれがこれにあたる(cf.美は細部に宿る、細部から全体はなる、こともあれば、全体が細部にフラクタルされてる、こともある)。



「作品構成の様式・演出・形式的な部分をもっと味わえ」とソンタグは言う。「その部分は確固たる意味-テーマとして形を成してはいないかもで、テーマ-理知にくらべて感性的なもので、、感性ということだと放恣な印象批評に流れがちなところがあるかもだけど、そこで感受性に身を任せることを言い訳にするのではなく、感受性-様式の規律-ポリシーのようなものを守り救いだしていこう」


それが本書、あるいはその後、のソンタグの基本的な姿勢となる。


「わたしが書いてきたのは、厳密に言えば、批評でもなんでもない。あるひとつの美学、すなわちわたし自身の感受性についてのあるひとつの理論を築くための個人的症例研究にほかならなかったのだ」



それはアリストテレス以来つづいてきた形式<内容を与件とした本質論から彼女たちが寄り添い、たましいの置所とする作品たちを守る防衛戦への準備でありそのための宣言となる。



本エッセイに収録されていた「キャンプについてのノート」は当時のアメリカにおける彼女たちのような趣味人・自由人を表したものであり、彼らのあり方を宣言したもののように思える。


「キャンプの人々」とは、大衆的なベタな作品・通念・観念・価値観から距離をもった趣味人を想わせる。ちょうどベンヤミンがそれに当たるだろうし、あるいはヴェイユ、ヴァレリーほか象徴主義を継いだ「あのへん」、ブレヒトも含めた「あのへん」といえる。


メランコリックな島の住人であるわれわれが彼岸から此岸を眺めるとき、社会生活的には大衆的価値観と視線・ルールをインスールし実践せざるを得ない、けれど、孤独で自由なあの島に還りたくなったとき、島の記憶を伴った作品たちが呼び水となってくれる。


ソンタグによるとそういった趣味人の傾向はヴィクトリアンあるいはポストヴィクトリアンあたりから見え始めたようだけど、これは精確なところは分からない。でも、なんとなく「アノヘンだな」というのはわかる。現代の日本だとゴスロリとかヴィクトリアンとしてファッションにはされてるけど。あるいはSM的なビザールファッションの一部と志向(当然、フーコーやサルトル、バタイユなどを含む)。

あるいは日本の場合それはワビサビとしてなんとなく捉えられているミニマルなところとか、琳派や若冲といった錦蘭なそれもこのへんに当たる。後者はドラァグの先駆けでありゲイやボヘミアンに通じるところなので。


ミニマルな芸術は説明が少ないので一般には理解されにくい。対してドラァグなもの、あるいはその元としての情報が過多なものというのはわからないなりになんとなく受け止められやすい。自分的には前者をマイナスの方法、後者をプラスの方法とよんでいる。


プラスの方法と超越系|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nd77a52755006



ミニマル-マイナスのものはプラスを前提にしてそれを収斂させたものなので、当然のようにプラス的なものを含む。シンボリックに表されてないだけどその背後に膨大な情報・混沌を蓄積する。前提とされてるものを表す指標が少なすぎてわかりにくいという意味でそれらの作品たちはハイコンテクストといえる。





以上が概略として、本エッセイ集の意義はそのような姿勢があるとしてそれを批評として表す場合どのような形が適切か?ということだったろう。その具体例として「神の代理人」について、「マラー/サド/アルトー」、「演劇の死」、「女と男のいる舗道」については自分的に参考になった。

あとがきの訳者解説にもあったけれど、ソンタグは文学や哲学といった文字のテクストの批評よりも映画や演劇の批評のほうがより説得力や面白みがあるように思う。それは映画や演劇が文字テクストに比べて感性の解放と偶有性に重きを置き、彼女が感性をドライブさせた批評を旨とするからだろう。それはソンタグが「ヴェイユでは真面目すぎる」といった態度にも表れているように思う。

とりあえず自分がそのうち演劇を見て論じる時の批評実践として、いずれまたこの本を手元において参考にしたい。


映画については自分的な近場だとゴダール / ロイ・アンダーソン / タルコフスキー / トリアー辺りでこのへんが実践できるかと思う。

蛇足で言えば、ゴダール以降、通常の恋愛劇は成り立たなくなったのだろう。それが当時のふつーの恋愛劇の頂点のひとつといえる「シェルブールの雨傘」と「女と男のいる舗道」が同時期だったこと、それらを受けたロイ・アンダーソンが「純愛日記(スウェーデッシュラブストーリー)」で展開の読める冗長な部分をバッサリとカットしたところからも伺える。そして時代は「恋する惑星」を迎え、それすらも生ぬるくなって「散歩する惑星」に続く。「ヒロシマ・モナムール」なんかもこの文脈に属していたように思うけど、あれも元来こういったハイコンテクストなものなのでアレだけ見せられてもわけがわからないしつまらない(実際そんな感じだった)。タルコフスキーのそれも「女と男のいる舗道」を受けたものに思える。すなわち殉教者/巡礼の道、であり、その心象を描いたもの。なのでトリアーの「アンチクライスト」のクレジットに「タルコフスキーに捧ぐ」と出たのだろう。


われわれが基本的に物語・幻想を日常に生き、それを通してしか現実を見られない(ドラマトゥルギーを生きる)、のにもかかわらずそのドラマからどこか覚めた位置にあり、それにもかかわらず没入せざるを得ないというアイロニーについてはこのへんに記した。


存在の耐えられない軽さのなかで存在する|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n91a7acb49095


そして、そこで日常生活の関係性・政治性が発生し、人というテクストを本質先行で読み解く誤読を通じた失礼とプライドの掛け金をめぐった紛争が生じていく。



noteを見なおしてみると今回の人質をめぐるうんたらというのは3週間ほどにわたったのだな。


その間に自分ももろもろ考えとどめておいたけど


シリア虜囚と善きサマリア人|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n43148c9d9629


戦時の危機感と根をもつこと|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ne3ca6842462f


彼ノ花|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n26c03566f403


種をまく / 木を植える|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ndaf814decfab


地に根付き、枝葉つけろ|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nd6d2afcb299e



彼らは当事者やテクスト無視の印象批評のようなものなのだろうからいくら事実を元にした理を説いても届かないのだろう。つまりナルシスティックに自らの感情に酔い、それを外部になすりつけて消費してるだけなので。その意味では内容-本質論先行の下品な読みともいえる。




そういったものと距離を取りつつ、自分的にはこの方面でもっと読み進めたり実践したりしていこう。




アレゴリーの織物 (講談社文芸文庫) -
アレゴリーの織物 (講談社文芸文庫) -


根をもつこと(上) (岩波文庫) -
根をもつこと(上) (岩波文庫) -

根をもつこと(下) (岩波文庫) -
根をもつこと(下) (岩波文庫) -


ソンタグの日記/エッセイを読み進めるのも良い。








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ダンサー・イン・ザ・ダーク|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/nb9d8ffcd3ce7

タグ:形式と内容
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2015年01月21日

九井諒子、2015、「ダンジョン飯1」


ダンジョン飯 1巻 (ビームコミックス(ハルタ)) -
ダンジョン飯 1巻 (ビームコミックス(ハルタ)) -

九井諒子さんについてはすこし前に書店で見かけて、そのとき買おうか迷ったんだけど古書店で中身ちら見+Amazonでレビュー見たら「なんかいいんじゃないのこれ?」てことで購読してみた。最初に読んだのは「竜の学校は山の上」、次に「竜のかわいい七つの子」。短篇集というのも良かったし。

二つの作品集についていうとちょっといろいろ語りたくなるんだけど、今回はそれがメインでもないので短く留めるとして。

「竜の学校は山の上」は昨今のまおゆうものというか、架空の中世ヨーロッパ的幻想冒険世界をベースに、それを相対化して遊んだ作品のようなノリにおもった。平たく言えば昔懐かしいテーブルトークRPGのリプレイ集であり、原作からのスピンアウト的な声優CD集みたいな。そういったノリを共通理解としつつ九井さん独特の隠喩的な処理が施されてる感じで、各作品たんなる短編で終わらすのが惜しいぐらいの味わいがあった。

それは「竜のかわいい七つの子」にも通じ、それらの元といっても良いような、さらに抽象化とストーリーのショート・デフォルメを高めた作品集が「ひきだしにテラリウム」となる。

同作品集に作者による作品群の改題のような主題があるのだけど、久井さんの作品はショートショートなのだな、ということ。ショートショートというと星新一が思い浮かぶけど、それに連なる発想・視点をSFというところにこだわらず展開しているのが久井ワールドなのだろう。

(蛇足ついでにいうと自分的にはマンガにおいてもっとも星新一的な妙味を表現し、進めていたのは市川春子「虫と歌」「25時のバカンス」におもった)




そんなこんなで「ひきだしにテラリウム」までコッソリと愉しみ、今回も特にうんたら言う気もなかったんだけど、祭りということで「ダンジョン飯」買って読んで楽しかったし



話題に乗り遅れたいなら読まないでいいんじゃないの?九井諒子『ダンジョン飯』 - マンガHONZ
http://honz.jp/articles/-/41115


永田くんもなんか書いてたので勝手にコール・アンド・レスポンスに応えてみる。


だいたいは永田くんがまとめてるとおりで久井さんが絵がうまい(けど画力を誇るわけでもなく地味にデフォルメ・最小限の表現にしてる)のは漫画読みに共通の見解のようだし、該博な知識を基本としつつもそれをひけらかさないというのも同様に思う。


ついったでも言ったけど、この人があたまえらいなあとおもうのはメタファーに通じる抽象処理、物事の構造的な見方がセンスあって、それの自由な組み換えと汎用性みたいなところ。物事に共通する基本的な部分を抽象度を高めて抽出し、それを物質・現実世界では関係してないところに当てはめてみることでうまれる妙味、みたいなのは禅の公案とか哲学のアポリアにも通じる。吉田戦車「伝染るんです。」にもそれはあって、一時期東大の基礎演習本でうんたら紹介されていたけれど、「伝染るんです。」よりももうちょっとこなれててとっつきやすい感じ(ex.「しかくを食べる」@「ひきだしにテラリウム」)。その抽象度をもう少し落として、寓意性のあるストーリーに持ってきているのが「竜」の作品群だったのだとおもう。


さて、ようやく「ダンジョン飯」についてなんだけど


全体的には現実社会における昆虫食と同じゲテモノ食をTRPG的世界で再現という感じのもの。この素材を九井諒子的な該博な知識・発想・抽象操作という調味料で味付けしてある。


テーマ自体は地味でこの系統のものだとありきたりといえばありきたり+絵も地味なので自分は最初スルーしていた。んでも読んでみるとグイグイと引っ張られる面白さがある。それは、自分がこれ以前の短篇集を読み、九井諒子という作家を愛するようになっていたこともあるかもしれないけれど、それだけではなく、この作品全体に「この作家はTRPG世界をものすごくわかっていて楽しんでいる」という愛や楽しさが感じられるから。

ネット上(というかたんぶら)では以下のエルフっ娘の反応がおもしろがられているようだけど





これ自体は昆虫食-ゲテモノに対する若い娘の反応の粋を出ない。


この周辺に描かれているエルフや人間の戦士、ホビット、ドワーフといった亜人たちの性格の掴み方と表現がまさにピンポイントなのだ。

「エルフはもやしで細かいこと気にする神経質、だけどおしゃれさんで」「ホビットははしこく普段は楽天的だけど小手先器用で盗みとか錠開けを得意とするので油断ならない抜け目ない」「ドワーフは異常な長命なので悠久な人生観で細かいことは気にしない鷹揚さが」「人間は( ^ω^)・・・まあ、人間ってかんじで」

特にドワーフ愛の自分としてはドワーフの描かれ方がとても満足行くものだった。






さて、各話に入って行くと無駄に字数がかかるのでそこは読んだ人同志の(*´・ω・)(・ω・`*)ネーに留めるとして、全体として思うこと、についてあとひとつだけ。



「ダンジョン飯」は「竜を食べたいな」というところから始まる。



これ自体はRPGの古典的テーマ「龍を倒す」に連なるとも言えるんだけど、よくいわれるように「では竜とはなんなのか?」ということ。

「竜などは幻想動物であって現実には存在しない」「なにかの隠喩なのである。たとえば現実には人間の悪しき心と不等号され悪魔=竜とされたり」「竜とは人間の悪しき心や欲望の隠喩?」

これらが頭をもたげる。

しかしRPG世界においては竜は実在の生物でそこに隠喩やロマンはない。


ロマンがあるとすれば「まだ竜食って誰もしたことがないはずだけどどんな味するんだろ?」というところ。


ここにおいて「龍を倒す」「魔王(悪の親玉であり中心)を倒す」といったテーマが使い古された後に残された最後の、あるいは、新たなロマンとして「竜を食べる」が設定される。


そこに仙人思想における「霞を食べる」を加えてアナロジーとすれば、いつもながらの寓意性豊かな久井短編ができていたかもだけど、それは妄想に留めるとして目の前のおいしい食事を味わおうではないか




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2015年01月13日


日本の名随筆 (31) -
日本の名随筆 (31) -



同書を図書館に返す前にメモっておいてあとでエントリ思い出して自分で愉しんだり、同じ関心がある人にシェアする用の引用メインエントリとして。


一番引用したかった大庭みな子さんのエッセイがほかのエッセイに比べてネットでのまるっと引用率が低かったのは(´・ω・`)なんだけど、でも部分的にも上がってるので自分で打ち込むのサボって人様の借りちゃおう。




幸福な結婚とはいつでも離婚できる状態でありながら、離婚したくない状態である


結婚と離婚と再婚が、大変簡単にできる世の中でも一人の男と、あるいは女とずっと結婚していたいと思うような夫婦が幸せ”だからである。“フリーセックスが日常化した状態でも、同棲していたいと思うような男女は幸せなのである
http://t.co/qVrnCYJ181



欲望にまつわる哀しさや歓びを知らない人間は魅力がない。 美食をしたこともなければ、飢えたこともない人間は殺風景なテーブルに肘をついて殺風景な話しかしないものである。 性的なものの中で多くの人格が培われる。 尊敬、愛情、闘争、克服といったものを自然な形で修得する。性的なものに熱中できない人間はあらゆる情念に不感症である場合が多い。
■大庭みな子■「女の男性論」 2006.10.3: 私が大好きなひとたち
http://www.michikoblog.com/daisuki/2014/12/2006103-267b.html


結婚は友情よりも苛酷で、友情よりも肉親化したものである。結婚における友情は必要条件であるが、十分条件ではない。恋人を友人にするのは簡単だが、魅力のある妻や夫にするには時間がかかる。夫の魅力は妻によって育てられ、妻の魅力は夫によって育てられるものである。二十年間結婚していてもつまらない男の妻は、つまらない女である場合が多いし、長い間結婚していて魅力のある男は魅力のある妻を持っているものである。

子供が幸福なのを見て親が幸福なように、親が幸福なのを見て子供は幸福なのである。親があまり不幸すぎると子どもが親を憎むようになる。子供を不幸にしない程度に親は自分の愉しみを積極的に考えた方がよい。

結婚によって妙な安心感を持っている人は、人をいらいらさせないが、いくらか愚かに見えるし、結局はあまり魅力がない。第三者によって魅力のない人間は配偶者にとっても物足りないものである。
天衣無縫 ≫ 幸福な夫婦
http://bluestick.jp/pug/blog/?p=604


「ちなみにこの文章が書かれたのは1970年」、と

引用拝借したブログの中には大庭さんの文章についての項も設けられてる(あとでみよう)。



「いまからだいぶ前にすでにしてこのような考え方があった」ということの驚きについては自分もすでに記したし、

精選女の一生|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/na464ddd42598

それに関して思うところも述べたので今回は割愛。

「このシリーズを追っていこう」、ぐらい。


宇野千代・大庭みな子 (精選女性随筆集) -
宇野千代・大庭みな子 (精選女性随筆集) -  





なので箇条的に素敵だなと思った随筆の引用メモを進めよう。





その晩もおそく、流し場の下手で中腰になってからだを洗っていると、見かけたことのない女性がそっと身を寄せてきて「すみませんけど」という。

手をとめてそちらを向くと「これで私の衿を剃って下さい」と、持っていた軽便カミソリを祈るように差し出した。剃って上げたいが、カミソリという物を使ったことがないと断ると
「いいんです、スッとやってくれれば」
「大丈夫かしら」
「ええ、簡単でいいんです」と言う。

ためらっている私にカミソリを握らせたのは次のひとことだった。
「明日、私はオヨメに行くんです」
私は二度びっくりしてしまった。

知らない人に衿を剃ってくれ、と頼むのが唐突なら、そんな大事を人に言うことにも驚かされた。 でも少しも図々しさを感じさせないしおらしさが細身のからだに精一杯あふれていた。

私は笑って彼女の背にまわると、左手で髪の毛をよけ、慣れない手つきでその衿足にカミソリの刃を当てた。

明日嫁入るという日、美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじにたれている、と思った。
『花嫁』 石垣りん - chuo1976 http://bit.ly/1DCTMLV









『銭湯で』

東京では
公衆浴場が十九円に値上げしたので
番台で二十円払うと
一円おつりがくる。

一円はいらない、
と言えるほど
女たちは暮らしにゆとりがなかつたので
たしかにつりを受け取るものの
一円のやり場に困つて
洗面道具のなかに落としたりする。

おかげで
たつぷりお湯につかり
石鹸のとばつちりなどかぶつて
ごきげんなアルミ貨。

一円は将棋なら歩のような位で
お湯のなかで
今にも浮き上がりそうな値打ちのなさ。

お金に
値打ちのないことのしあわせ。

一円玉は
千円札ほど人に苦労もかけず
一万円札ほど罪深くもなく
はだかで健康な女たちと一緒に
お風呂などにはいつている。







彼の長兄は放蕩者で父親の遺産を蕩尽してしまい、大学を出たての彼は、やむなく老母や幼い弟妹を抱えて一 戸を構え、生計の目当てもつかないうちに、どういう理由かは知りませんが、必要に迫られて結婚したのだそうです。 

小さな料理屋の二階で、わずか十人ばかりが集まって、結婚式と披露宴をしました。 

それが終わって二人で新居に入ったのですが、家具も何もないだだっ広いばかりの寒々とした部屋でした。 そこで彼は、「あんまり寂しい結婚だから、せめて今夜はこのままの姿で寝よう」 と、婚礼衣装のまま、二人で初夜を眠ったのだそうです。

その初夜のことが、何十年も経った後にも、甘美な追憶としていつまでも胸の中に蘇るというようなことを書いておられました。

私はそれを読んでとても微笑ましく、羨ましく思いました。
西条八十「初夜」より http://bit.ly/14vdWrQ

ちなみにこれはイェーツの詩からの着想だったらしい。

「若く貧しい私人がある宵、恋人を迎えるのになんの歓待もできない。そこで自分の空想の夢で金銀の刺繍のある美しいじゅうたんを織って敷きつめ、せめてそれを優しい足で踏んで近づけとうたうのである」



Had I the heavens’ embroider’d cloths,
Enwrought with golden and silver light,
The blue and the dim and the dark cloth
Of night and light and half light,
I would spread the cloths under your feet:
But I,being poor, have only my dreams;
I have spread my dream under your feet;
Tread softly because you tread on my dreams.



金色や銀色の光で刺繍した
天上のクロースをもっていたら
青いのや灰色や黒っぽいクロース
夜、昼、夜明けの色のクロース
それらを君の足元に敷いてあげたい
でも貧乏なぼくがもってるのは夢ばかり
だからそれを君の足元に敷いてあげよう
ぼくの夢なのだからそっと踏んで欲しい


(イェイツの詩集「葦を吹き渡る風」から「天上のクロース」Aedh wishes for the Cloths of Heaven(壺齋散人訳)





あとは宇野千代さんと加賀乙彦さんの随筆が印象的だったけどネットに特にないようなので簡単にまとめたり引用したりしよう。



加賀さんはサルトル/ボーヴォワール的な自由恋愛を受けて、「フランスにおける恋愛・結婚のあり方と日本の違い」みたいなテーマだった(「フランスの夫婦と日本の夫婦」)。

曰く、

「フランスの家庭は日本の家庭とほとんど変わない。夫婦の主導権は基本的に夫がとり妻はそれを支える。しかし、(わたしが見た限りでは)夫の職業を妻が理解し積極的に支えている。ともすれば夫が忙しいときにはその代理を務めるほどに」

「どちらが良いとは文化・風土の違いもあるだろうからにわかには断定できない。ただいえることは、フランス式の家庭は公私を含めての共同体であり、日本式の家庭は夫婦で公私を分けあった結果として妻を中心とした私的世界というニュアンスが強いことだ。つまり、日本の夫婦は夫は職場を中心に、妻は家庭を中心にといった具合に役割を分担していて、それなりにすっきり整理されているが、他方、夫は家庭内の些事に無関心、妻は夫の仕事への無理解ということが生じやすい。とくに子供の養育についての父親の役割がうすく、極端にみれば父親喪失ということが生じやすい」。

この辺りは1970年代当時の日本と現在では違ってきていて、昨今の若い男女の結婚観というのはここでのフランス式のようなものが理想-当然とされてきている、あるいは、もっと性別役割分担が緩くなってきているように思われるので「日本では」というわけかたには違和感がある。でも、当時の感覚・生活としてそれが普通だったということをとりあえず留めておこう(そして、そこに「文化的違いがあるのかもね」という懸念があることも)。



宇野千代さんの話はどちらかというと大庭さんのそれを継ぎつつ、あるいは、大庭さんのそれでFAだったように思われるこの辺りの主題に対して経験からの重みというか味わいのようなものを感じさせるものだった(「私の結婚論」)。

「四度の結婚をしてみて想うのは、危機は相手方にある、のみではない、ことが分かってくる。ショートする場合は同じところだからである。相手が違っていても同じ所でカチンと来るのはこっちにコブがあるからである。危機はいつでもこっち側にある。四度も結婚してそれがわかるというのだから馬鹿な話である」

「想うにそのコブはヤキモチが発生するところだったようだ。ヤキモチでは気持ちがこんがらがって整理がつかない。私が冗談に『愛の交通整理』と名前をつけていることは、お互いに『一方通行』を守ることである。自分もする、または自分もした、または自分もああいう場合にはああしそうだ、と観念して相手の通行を黙認することである」

「手を広げて通せん坊をしたくなるかもしれない。しかし通せん坊は交通整理のキソクに違反する」

「よく聞くことだけれど、『私のほうだけは決して浮気はしないのだから、彼には決して浮気はさせない』、という人がある。私はこういう言葉を聞くたびになんだかワカラナイ悲しい気持ちになる。私はこういう人に対して、ごく自然に感情の動きに耳を傾けてごらんなさい、と言いたい気持ちになる。そしてできることなら、ちょっとだけ、浮気をさせてあげたい」

「浮気をするということは決して好いことではない。しかし、悲しいことに私は浮気を一度もしないと断言する人には、相手の気持が分からない、こういうときにはこういう気持ちになる、ということがわからない。」

「悪いことも出来る人が、人の気持ちがよく分かる。私は決して浮気しない、といばって言う人には、人の気持ちはわからない」



武田泰淳さんの「丈夫な女房はありがたい」というエッセイも武田百合子さんの名エッセイと評価を想うとなんだか微笑ましかった。


富士日記〈上〉 (中公文庫) -
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ことばの食卓 (ちくま文庫) -
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日日雑記 (中公文庫) -
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こういう夫妻の様子をみると理知だけでは解決できないところでの夫婦(あるいは他者と寄り添うこと)の意義を希ましくおもふ。









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離婚序章からの帰還(はてな匿名ダイアリー)
http://t.co/dzovzOFD2S



監督不行届 (Feelコミックス) -
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おいピータン!!(1) -
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長い道 Action comics (アクションコミックス) -
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西荻夫婦 (フィールコミックスGOLD) -
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棒がいっぽん (Mag comics) -
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2015年01月10日

写真とアフォーダンスとaffordを受けるもの


少し前の写真のエントリで見たホンマさんの本にちょっと気になることが書いてあったのでメモ的に。


たのしい写真―よい子のための写真教室 -
たのしい写真―よい子のための写真教室 -


アフォーダンスの紹介で有名な生態心理学者の佐々木正人さんとの対談。アフォーダンスの説明は面倒だから他人様に頼る


アフォーダンスは、動物(有機体)に対する「刺激」という従来の知覚心理学の概念とは異なり、環境に実在する動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味/価値であると定義される。

アフォーダンスの概念の起源はゲシュタルト心理学者クルト・コフカの要求特性(demand character)の概念、あるいは同じゲシュタルト心理学者クルト・レヴィンの誘発特性(invitation character)ないし誘発性(valence)の概念にあるとギブソンは自ら述べている。


ギブソンの提唱した本来の意味でのアフォーダンスとは「動物と物の間に存在する行為についての関係性そのもの」である。例えば引き手のついたタンスについて語るのであれば、「"私"はそのタンスについて引いて開けるという行為が可能である」、この可能性が存在するという関係を「このタンスと私には引いて開けるというアフォーダンスが存在する」あるいは「このタンスが引いて開けるという行為をアフォードする」と表現するのである。要点は行為の可能性そのものであるため、そのタンスが引いて開けられるのだと示すインターフェイスを持つか否か、ひいては"私"自身がそのタンスを引いて開けることが可能だと認識しているか否かは全く関係ない。タンスに取り付けられているのが「引き手に見えない、あるいは引き手として使用できそうもない引き手」であっても、"私"に引いて開ける事が可能ならば、その両者の間にアフォーダンスは存在するのである。
アフォーダンス - Wikipedia http://bit.ly/VXDJjE

ギブソンという認知心理学者は、環境のこのような性質をアフォーダンス*1と呼んだ。彼は、「環境のアフォーダンスとは、環境が動物に提供するもの、良いものであれ悪いものであれ、用意したり備えたりするものである。」と述べている。*2これではよくわからないので、ギブソンの挙げた例で説明しよう。
 「陸地の表面がほぼ水平であり、平坦で、十分な拡がりを持っていて、その材質が固いと判断されたならば、その表面は、我々の体を支えることをアフォードする。」
 我々は、確かにそういう場所を選んで歩いている。行動するときには、無意識であるにしろ、環境がどのような行動に向いているのかという情報を環境の中から得ているのである。*3
 場所・空間・行動をほのめかす場所・空間の特徴(意味)の抽出・行動 
アフォーダンス http://bit.ly/1I7f1VV


おーざっぱな自分的な理解だと認知の際のメタのフレームということかなと思う。

別件でヴェイユによる神の存在証明の話が気になってるんだけど、そこでいわれているような「われわれは対象が精確に正方形であると把握できなくてもなんとなく『正方形だ』ということを措定し認識している」の「なんとなく」の部分に関わるもの。


つまりプラトンにおけるイデア、アリストテレスにおける形相-質料、唯名論あたりに通じる認識・認知・概念あたりのあのあたりの伝統の流れ。


それを写真の領域に転用した場合どうなるか?というと端的にはリアリティということになると思う。




写真というのはフィクションなわけだけど人が、というか現代人が視覚的に認知するものもすでにして遠近法ほかのフィクション(視角でありパースペクティブ)に覆われている。それらを先端の芸術領域は疑い、揺らがし、できるだけ「生の」リアリティを再現しようとする。


なにが生かというのは真かというのは本質論的になってたどり着き難く、それをギロンの対象に置くことはしばしば不毛なのだけど。なんとなくビビッドに、自分が覆われていたヴェールが取り除かれて衝撃を受けるみたいなのはある。それが生かどうかはわからないのだけれど、すくなくとも自分がそれまで見れてなかった、感じられてなかった見方のようなものを感じた時に。


そういうものに到達するための途中の方法としてこういったもの、人の視角-認知のフレームのようなものを考えることは有効なのだろう。

もうちょっとイメージしがたいのならたとえばすこし前まで分裂病患者としてまとめられた人たちが発症したときの認知のズレみたいなのを想像してみると良いのかも。症状が視角領域にあらわれたとき、世間的にふつーとされるフレームが取り払われすべてがフラットに意味を持たないものになる。そこでわれわれは何かをみるときに自然に「自分にとっての意味があるもの」を焦点していたことに気づく。

写真や映像はそういった「自分にとっての意味あるもの」以外のものも写しこむことで自分の認識の偏りを逆照射してくれたりもする。


自分がつまらないと感じる景色にレンズを向けることはない。なぜなら楽しくないからだ。しかし写真を撮ることが楽しいという価値観で写真を撮ることをやめると、結果として面白いと思えるもの、つまらないと思えるもの、良くわからないものが全てカメラに収まることになります。こういう写真が沢山積もっていって、あらためてその一枚一枚を眺めると、この写真は面白いと感じたりします。
写真の面白いところは、意図せずとも写ってしまうものが含まれることです。写真の作画法としては、引き算の発想というのがあって、余計なものを排除して、主題を強調しましょう、というのが、日本の写真文化には綿々と受け継がれている伝統です。そういう美意識の人には邪魔と映る部分を写真の旨味成分だと主張するぼくのような人間もいます。同じものを観ていても、その人の経験というフィルターを通してみると、様々な意見が生まれることが分かります。
今、大きなかけ声のもとに、金ダライのメダカが同じ方向に一斉に泳ぎだすがごとく固定したモノの捉え方がますます肥大化しているように感じているのですが、写真家や表現者たるもの、ぐっと立ち止まって、世の中の様々な現象に違った角度から価値感を提示する。今の世の中見方を変えるとこんな風にも見えるのかと。
物事を見る角度 | アパートメント






アフォーダンスは本来機械的な認知では表しにくい、あるいはプログラムしにくい冗長性の部分、ファジーで「無駄」で全体的な部分に注目して詰めていこうとしてるところかなと推測される。

それを別の言葉でいうと情報、あるいはリアリティにおける冗長性ということになるだろうけど、この話は本題から逸れそうなので今回は詳しく詰めない。

ホンマさんと佐々木さんの今回の対談ではその具体として、街の境(街の範囲)と波のリアリティのようなものについての写真実践が語られていた。


街の境について、写真でその部分を撮るとき、街の範囲を現象学?的、あるいは、バカ日本地図的なワタクシ的脳内マップとして認知する時どこを街の境界とするか自分の内観に問い、その境、レイアウトと思われるところをスナップしていった作品群。

あるいは、波の全体を、ひとつとして同じ瞬間のない波を、どこという瞬間を決めることもなくなんとなく撮っていった作品群。


それはカルティエ・ブレッソン的な決定的瞬間の考え方に対するものだった。つまり、世界をある特定の視角-関心にもとづいて部分的に切り取っていく手法。

それは人の視角や関心を特定の見方に焦点してわかりやすくするものではあるけれど全体のリアリティからは遠ざかったフィクションといえる。




そういった試みは映像-映画でも行われているだろうし、自分的には「プレーンソング」のアキラの試みを思い出させた。



プレーンソング 草の上の朝食 (講談社文庫) -
プレーンソング 草の上の朝食 (講談社文庫) -


なにかを焦点するのではなく、できるだけふだんの自分がみてるように、雑音や雑景色もフラットにカメラを回し続け記録していく。絵的、音的には作品として成立しないかもだけど、そこにはともするとフィクションな作品からは感じられないリアリティの全体が収まっている。



それとは逆にカメラという機体を通して、あるいは特定の認知フレームを採用することで浮かんでくるセカイのようなものがある。


ウェストンの砂漠の稜線-女の身体的なそれもそうだったけど、直近で見たサルガドの写真集における労働現場の様子はそれを想わせた。



人間の大地 労働―セバスティアン・サルガード写真集 -
人間の大地 労働―セバスティアン・サルガード写真集 -



世界システム的に連結し高度に分業化され構造化された消費社会の末端労働の現場を取材していった写真集。部外者から見ればそこには幾何学的とも想える文様が浮かび上がる。尖った刃のようなサトウキビの葉、木綿の渦巻き、自転車の組立部品の矩形の並び、俯瞰すれば蟻の巣のような炭鉱の様子、インスマウス人との対決を想わせるマグロ漁師の現場、恐竜のような自動車や船舶たち、そして、工場の巨大な機械群と労働者たちの対照。

そこでは労働者たちはそれぞれの場に現れる怪物と戦う戦士であり、それぞれの抽象文様に戦いを挑む。怪物や苦難の巨きさは連結した世界の重みを象徴的に顕す。




ヴェイユによると労働は現代社会が当然として滲みこませた認識の遠近法、距離から自らを疎外させ距離を取らせる自己陶冶として必要とされるものとされる。

一度、自己を外部の流れに任せ、そこに生まれた真空にこそ愛-美が湧き上がるものだ、と。



シモーヌ・ヴェイユの詩学 -
シモーヌ・ヴェイユの詩学 -



自分的にそれは未だ汎用的に通用するものかどうか、たとえば、絶望のふちにあるひとに「もっと徹底して絶望し自己を捨て、預けることで却って実存は転調するものだ」とは言い難い。


そして、こういった労働の現場というのはヴェイユが思ったような「修行として必要なもの」というよりはそれぞれがそれぞれのモンスターに立ち向かうので精一杯のように思える。


サルガドは写真を通じてそれを資本主義、あるいは、経済システムという怪物として描こうとしていたのかと思えたのだけれど、それは人それぞれの解釈によるのだろう。しかしそこで表現してみせた幾何学的とも想える労働現場の抽象は「それぞれの場に神が宿る(神は細部に宿る)」というよりはサルガド自身の目が愛におおおわれていたからこそ見いだせた、あるいは作り出せたものだったのかもしれない。


そして、愛が美を感じる受け皿であるのなら、それは余裕(afford)のあるところに咲いたように思った。少なくとも自分には






















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我々の不幸を慰むのは|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n05cd1d79d508


タグ:写真
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2014年12月29日

複製技術時代のゲージツと芸術



「突然余暇時間のできた労働者たちはそれをなにに当ててよいかわからなかった。彼らにとって旅行や買い物は余暇の当てとしてちょうどよいものだった。カメラはしろーとに簡易に芸術的outputのカタルシスを与える気の利いた道具となった」。

一般的にカメラというのはそういう形で世間に根付いていった。

旅行とカメラ、「記念」というのは大衆の余暇活動の当然として、彼らの記憶というフィクションの材料として生活に溶け込んでいった。


時々家族というものを忘れそうになったり、自分たちの記憶、現在を忘れそうになったとき、人は記念写真を見て自分の位置 - 社会的存在位置をアイデンティファイする。




「複製技術時代にあって一回性は死に、ゲージツは死んだ」


そのような解釈 - 文脈でベンヤミンのアウラという言葉は「一回性」と不等号されて使われがちに思うけど、以前にもすこし見たように、カメラや写真が身近なものになっていたらおそらく最もそれを活用し、てきとーに使った蒐集をしていたのはベンヤミンだったのではないかと思う。

ベンヤミンめも (「近代化に対して」「政治/美学」「アウラ」「アレゴリー」あたり): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/387970616.html


「明るい部屋」とベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/389569036.html


彼は内向的でメランコリックな、おぼっちゃん生まれの前衛的趣味を理解した都会人だっただろうから。現在だったらおそらく耽美少女趣味とか、エロとグロの境界とか、まあ自分と似たような趣味に走ってたのではないかと勝手におもったりする。もちろんベンヤミンのほうが進んだ趣味人だっただろうけど。


ベンヤミンが現在生きていたらカメラのみならずメディア・アート的なものも最先端で駆使して自らのリアリティを投影したり、あるいは、それらが投影された他者の作品に感動し、すばらしい、と批評していただろう。Tumblrなんかもやってたりやってなかったかもしれない。

カメラはそういった趣味人にとってアタリマエのものとして子供の頃からの生活の一部になっていたかも。中学生か高校生ぐらいからの。






タイのセックスワーカーを無断で撮影した写真家うんたらに関するつぶやき(エントリ用の素材) - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/763251






前提として、「アートだったか」「アートだったら許されるのか?」「写真はアートか?」「当人は良い人で悪意はなかった」、とか以前にトラれた当事者が嫌がってたのだったらそれはマズイだろというとこでいちおFA。ハラスメントと同じ案件なので。当該国で法的に立件できなくても、人のフルマイとして良心の呵責みたいなの感じたほうがいいとおもふ。そんで呵責あるなら今回の件とかいままで儲けた金の一部を当該セックスワーカーに寄付なり、関連寄付なりの浄財するよろし、ぐらい。


アートと写真、あるいは、アートとはなにかについては後述。




プロ消費者的に他人様になにか求めてるだけってのもクレーマークレーマーなだけなので、今回の件で自分的にお勉強すべきものとして、改めて振り返ってもいいかなってことでサルガドの写真集を図書館に検索したらあった。


人間の大地 労働―セバスティアン・サルガード写真集 -
人間の大地 労働―セバスティアン・サルガード写真集 -


なので、借りに行ったらホンマタカシさんのこれもあったのでついでに借りて読んでみたらけっこうおもしろくてためになった。



たのしい写真―よい子のための写真教室 -
たのしい写真―よい子のための写真教室 -


今回の件に関する結論からいうと、大橋さんの作品というのは写真史的にはニューカラーとスモールストーリー的なものからのリアリティ表現だったのだろうなあ、ということ。技術的な構成は作品を見てないので分からない。本作の場合はポラロイドかなんかで撮ったようだから露出とかはいじれなかっただろうから自分で調整できたのは構図ぐらいだったかなと思う。



ホンマさんの説明を自分なりにさらに簡易にまとめると、最初、写真は単なる記録的なもので「絵画に劣るもの」とされた。写真は記録的なもの、よくても絵画的な表現(を模倣するもの絵画主義的表現 - ピクトリアリズム)に過ぎなかった。

写真が絵画を超えるもの、あるいは写真独特の表現を打ち出すようになったとされるエポックとしてアンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」がある。人がいまにも水に落ちようとする決定的瞬間をシュート(狙撃/撮影)したもの。以降しばらく写真が絵画を超えるもの、写真としての独自の機能・表現とはこういったものとされ模倣されていった。しかし、その決定的瞬間もつくられたフィクションであったことが後に暴かれたわけだけど。

「決定的瞬間」的な写真は小型カメラ - ライカの登場によってさらに流行していった。カメラはもっと気軽に路上を、「決定的瞬間」をスナップするものとなっていった。そして路上の、日常のリアリティがカメラ的表現として反映されていく。

それらが覆ったのがエグルストンに代表される「ニューカラー」と呼ばれる作品群によって。そこでは「決定的瞬間」ではなく「なんでもない日常」が提示されるようになっていった。表現としては「刻を止め、絵画的に陰影(光)を刻んだ白黒」、から、「なんでもない日常の持続」としてのカラーへと変わっていった。そこでは決定的で絶景的な世界などなく、世界はすべて等価なものとして表現される。


それらは大きな世界から小さな世界への転換であり、大きな物語から小さな物語への転換といえる。そこでは自分や自分の家族を含めた親密圏が等身大の視点で見つめられ語られる。

いわゆる私小説的、あるいは日記的なリアリティの表現といえるそれらにアラーキーこと荒木経惟も属するみたい。

私見では私小説的な作品群が日本で流行ったのはウェブログにおける日記 / ジャーナリズム論争?(ブログは個人発のジャーナリスティックなメディアと言われるが日本では日記的なものとなる)を想わせる。それが日本人の元々の性質だから、というのはびみょーだろう。大きな物語と小さな物語、「大きな物語は死んだ」以降の展開のようなものがあるとして、日本のそれが大きな物語と直接に接続、対抗しない私小説的な語りへ行ったのはもともとキリスト教的な神-大きな物語がなかったからかなとも想える。

「サルガド的な作品が表せない / 出てこない」のはサルガドが大きな物語を前提とし、つつ、それを現代的に敷衍しているからだろう。サルガドの作品には神の物語と陰影、あるいは、その季節を過ぎた後にも期待される慈しみのようなものが表現されているので。


大きな物語に対してはポストモダン的展開が定番で、写真界でもそういった流れが出てきた。

写真そのものを疑い、カメラで撮る、ということさえ放棄したような。あるいはできあがった写真 - プリントを物理的に傷つけて遊び、それを表現とするような。自らが撮影することから自動撮影へと移行、、etc.

テーマやモティーフとしてはポストコロニアル的な弱者やマイノリティへの視点が加味されていった。

そして、近代の再構築ともいえるような手法も。

スタジオで完全に場を再現して撮影するセットアップと呼ばれる手法・表現は近代の再構築的志向に近いように自分的には感じられた。

ちなみにいうと「写真」「真実を写す」というのは日本的造語で、もともとは「photo(光) - graph(画)」程度の意味。つまりカメラ・オブスキュラで光を捉えたもの。そこに真実もフィクションもない。







写真の歴史はおーざっぱにそういったものだろうけど、写真の撮り方 - モチベの大枠として、テーマではなくモティーフで走らせる作品がある、という理解があまり人口に膾炙してないみたい。

モティーフ(motif)という言葉はもともとは音楽用語でそれをセザンヌが用いたことで絵画的主題(sujet)みたいな意味に捉えられるようになったぽいけど音楽のそれと同様、導調であり主題ということではないぽい。
簡単に言うと、画家も音楽家も「確定したひとつの主題-意味を描く」というよりは「ある場面をなんとなく描く」でありその「ある場面」が全体を構成する導調となっていく。

結果的にひとつの作品が出来上がるけれどそれはアーティストの手を離れた意味の多様性を持つ場合が多いし、その意味で導調となる。


すべてのストーリーを表現する作品が最初から最後まで物語を構成して作られたものではなく、最初に描きたい場面、色、音などがシンプルにあって、それをテクストに置いたところから派生する導調に身を任せる、みたいな手法をとる作品というのは結構ある。それによって最初から最後まで構成・統制された作品よりも偶有性を呼び込めるので。

偶有性に期待する理由は「どんなに天才なストーリーテラーでもひとりの人間の能力なんかたかがしれてるし、ストーリーなんかシェイクスピアで語り尽くされている」というのももちろんあるのだろうけど、自分的には「人生とは偶然によって構成されていくものだから」というのもあるかな。

必然と偶然、偶然を伴った運命。


写真や絵画におけるモティーフ、全体の構成の中で単にワンポイントこれを撮りたかった(深い意味はなく、意味はそのモティーフから勝手に展開され見る人によって付与される)、というようなものとして考えられるのは「構図」「フォルム」「光」「陰影」「色彩」「空気感」「被写体が単に魅力的(魅力的という理由はよくわからないけど単に撮りたい)」「目に映ってるもの、というより、自分がナニカを感じた瞬間に目の前にあったもの」などだろうか。

大橋さんのくだんの作品の場合は「空気感」「ナニカを感じた瞬間(リアリティ)」などが考えられる。


そうかんがえると彼に批判的な人の一部が言うように、彼は最初から最後まで計画的に窃盗をした、というわけではなく、単にその場でいままでにないリアリティを感じてそれを撮りたいという衝動を抑えられなかったのかもしれない。


もちろん、そうだとしてもそれをもって彼のやったことが免罪されるわけではないだろうけど。


「ぜったいてきにあくだから / ぜったいてきにあくだった」みたいな形で彼に石を投げるのはすこし違うように思う。


(今回のことで彼が反省していれば、その後の展開もあるかもだし)




ついでに、ここから展開した写真と映画についての妄想、というか自分的理解の現状。


























モティーフ先行の作品ということだと北野武なんかもそれに当たると思う。彼自身が「自分は場面構成は絵に起こすのだけれど、映画を撮るときは良い画が撮れれば良いと思う。ある場面が思い浮かんで、その場面を良い画で再現できるとマンゾクする」みたいなことを言っていたので。



ベルヴィル・ランデブーなんかもそんな感じ。




いわゆるアート的とされる作品群はそういった文脈があるためなんとなくワケワカラン - アートって捉えられるところが一般にあるかと思うんだけど、そういった形で作家当人のリアリティをある場面 - モティーフとして単に再現・記録してるだけなので、ハイコンテクストなわりに説明不足、だけど、似たような?視点のもとに編集された一連の作品群を見て、そこにナニカがあるように感じられ、コンテクストを理解してない一般の人でもそれをアートとして認めるのかもしれない。あるいはたんに「アートを見に来たからこれはアートなんだ」的なアレ。場の雰囲気とか、アートとして飾られ説明されてるからその情報を摂取してアートだと思う。



そういうのと違っていわゆるアートとしての完成度を持っている作品でも2つの傾向があるように思う。

ひとつは「模倣としての作品」、もうひとつは「アート(arts)としての作品」。





「アートとしての作品群」というのはArts、つまり技として一般的な通念から画期したものをきちんと開発・習得し、その律にもとづいて一般的には認識しがたいリアリティやパフォーマンスを打ち出したもの。

たとえば絵画における遠近法 - 透視図法がそれに当たる。

遠近法がフィクションだということは知ってる人は知ってるだろうけど、あれが16世紀に数学的な抽象思考をもとに開発されたものであることはあまり知られてないと思う。


遠近法がふつーの視覚認識の前提になってしまったわれわれからするとにわかには受け入れがたいのだけれど、もともと世界は遠近法的なものではない。だから遠近法以降の欧米絵画に比べ日本の絵画はしばらく平面で奥行きのないものだったし、遠近法以前の欧米絵画もそういったものだった。

「だから遠近法というのはフィクションで」というと「でも、われわれの視覚、目に映るものは奥行きのない平たい平面ではないじゃないですか?」ということになり自分としても納得しがたいところはあるのだけれど、それはもう遠近法をインストールしてしまった現代人の認識なので、そこからの類推は悪魔の証明的なものになってしまわざるをえないのかも。

なので、遠近法以前の視覚認識を想像するに留む。


とりあえずアート(Arts)とはふだんのパース・思考では到達できないようなものを記号と道具を通じた抽象的思考のhackによって生み出した合理性の修練としての技・技法、および、それに基づいて作られた作品群と言える。なので往々にしてその技を験し、試す挑戦や気概の場を衛る実験で前衛的なものとなる。


あるいは

数学的思考に類する抽象的思考に基づいて作られた特定の方法ではなくても、後に模倣がつづいていくようなエポックとなるような表現、切り口、見せ方、方法的なものであればArtsといえるだろう。Artsが表現として表れたものであれば、それを見た者の普段の認識 - リアリティに変化を生じさせ得るものであればArtsと言える。

人の普段のリアルでは到達できないような、現実に対する別の切り口、見え方、感じ方を提供するためのパース

それもArtsといえる。



対して、「模倣としての作品群」というのは先行するアートの切り口を模倣し「なんとなくアートぽい」ものとして提示したもの。つまりアート的な技法に基づいた、あるいは、その技法を知らなくても作品群を真似た習作といえる。

一般的にはそれがエポックとしてのオリジナルか模倣かというのはわからないので模倣的なものでも「なんとなくアートぽい」と印象されればアートとして世間に受け容れられる。


そして、エポックとしてのアートと模倣とでは後者のほうが圧倒的に多い、し、後者は一般に受けやすい演出・洗練を加えられて提示される。




特に写真や絵画のゲージツ家でもない自分としては自分がそれらによってアウトプットするものは模倣で十分かなあと思ってる。


ポラロイドという制約を逆に利用してアート的なものができるのであれば、自分もサルガドのような作品をiPhone4の貧弱なカメラで撮れるかなあ、ぐらい。


そこでは一眼レフ的なものは必要ないし一般的に一眼がどうとか言ってる人たちって大体が模倣の模倣でフワフワ印象を出てないわりになんでそんな高い買い物してんだ?とか思うけど、あれはあれでなんか高精度で撮れる(露出しぼれたり、シャッタースピード変えたりで色々遊べる幅が増える)のだろうから、まあ色鉛筆の色が増えるぐらいのものなのかもしれない。未だよくわからんけど。





とりあえずホンマさんの解説本ではワークショップ的に「こうやって撮って行ってみよう」てやり方も書かれてたし、いろいろ模倣的にやってく中で理解が深まっていくというのも期待されるし、iPhone4の貧弱なカメラで良いのでちょこちょこ撮っていこうかと思う。(習うより慣れろ、だろしね)










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関連:
clair-obscula|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nf9a2fb5a685a



タグ:写真 art
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2014年12月24日

「痴漢の心理」から  人の性幻想とヘテロセクシャルの形成について



ついったなんかでAセクシャル的にヘテロなセックスを嫌う人、や、そこまでいかなくても男性恐怖的に男性との性的接触を恐れフェミニズムの言葉を借りてその恐れに対抗しようとする人なんかがチラホラ見られる。

それらはほんとに自身の感覚・実感から発しているのか、自らのトラウマを埋めるための他所から借りてきた言葉に「自分はそういうものなのだ」と信じこませるようになったのか他人である自分はもとより当人も判然としないものだろう。

というか、そういう言説を度を越して表象しようとする人たちはそれをして自らのその部分の自信・実感のなさを埋めようとしてるのかもしれない。ちょうど三島由紀夫がそうであったように。






AERA 痴漢の記事について - c71の一日
http://c71.hatenablog.com/entry/2014/12/20/235911


加害者が「なぜ痴漢したのか」問われない現実 〈AERA〉|dot.ドット 朝日新聞出版
http://dot.asahi.com/aera/2014121600098.html


原宿カウンセリングセンターの信田さよ子さんは、加害者の複雑な心理を分析する。

「たとえ性衝動があっても、普通は隣り合わせた女性を触らない。そこを踏み越える加害者は、自分の行為が相手に一生の傷を残す重大なことであると分かっていない。むしろ女を喜ばせているとまで思っている加害者も少なくありません」

 痴漢の加害者である会社員のタナカさん(男性、50)も実際、そう思っていたという。

「相手も一緒に楽しんでいる、くらいの気持ちでした」

 高校生の頃から約30年間、電車内痴漢を続けた。「通勤の移動時間を有効活用する感覚」で日常化していたという。毎朝同じ電車に乗る特定の女性に1年間痴漢行為を続けたこともあった。

 何度も逮捕された。警察の取り調べでは、「被害者はミニスカートだったのか?」「性欲がたまっていたんだろ?」。そう誘導された。「なぜ痴漢をしてしまったのか」と聞かれることは一切なかった。勾留48時間以内に認めるとそれで済んでしまう。立件されても、弁護士を通じて示談金を払うだけだ。

「何百万円も支払い、職や妻も失った。それでも自力ではやめられなかった」(タナカさん)




アエラの記事の様子から以前すこし話題になっていた痴漢する男が痴漢を「せざるを得ない」心境を「膜」という言葉で表していたエントリを思い出してぐぐってみたらこれも田房さんのものだった。


Love Piece Club - どぶろっくと痴漢の関係 / 田房永子
http://bit.ly/1mhyCXg


一体、痴漢が痴漢をなぜするのか分からないまま3年が過ぎた時、私はある本を読んだ。「刑事司法とジェンダー」(牧野雅子著・インパクト出版会)だ。著者の牧野さんが連続強姦加害者(Y)へ長期間に渡り取材をし、刑事司法が性犯罪加害者をどのように扱っているのかジェンダーの視点から迫った、最強の名著である。その中で、Y自身が語った「強姦を犯している時」についての部分で衝撃を受けた。

=========
 Yは強姦をしようと女性を襲った際、狙いを定めて自分が襲いかかったにもかかわらず、被害者の存在に驚いたのだという。また、女性を拉致したり、女性宅に侵入した時、Yが彼女らの生活空間に侵入したにもかかわらず、彼女らがYの世界に入ってきたのだと語るのである (「刑事司法とジェンダー」より引用)
=========

 加害を起こしている側が『被害者のほうから俺の世界に入ってきた』という、普通に考えたら意味不明なYの言葉が、私が今まで見た、全ての「痴漢」の行動の説明として、成立していた。

 私にいやがらせをしてきた痴漢たちが、「捕まること、見つかること」をビクビク恐れているくせに、何の得があるのか分からない加害行為(スカートのひだをソーッとなでるだけ、とか)を自らしてくるあの感じ。犯罪をしているくせに、どこか確信のような自信のようなものを持っている感じ。こっちはあからさまに気味悪がっているのに、紳士を気取って馴れ馴れしいあの感じ。眉間にしわを寄せながらこちらが逃げると「えっ? なんで?」と、意外だ、みたいな反応をする感じ。自分が電車の揺れを利用して私の股間に手を伸ばしてきたくせに、こちらが「痴漢です!」と声を上げたら明らかに怒りを持った眼差しを向けてくるあの感じ。
 彼らにとっては、自分が相手に加害を加えているというよりも、自分の世界、自分の半径1メートルを覆う膜のようなものの中に、女の子が入ってきた、という感覚なんだ。ハタから見ると充血した眼で股間ふくらませて女の子に不自然に近寄ってるだけなのに、彼らの頭の中では女の子のほうが誘ってきてる、くらいの感覚なんだ。私を家まで送って欲しいとか、私に触れて欲しいと俺は頼まれている、くらいの感覚だったんだ。
 Yの心境と、今までの痴漢たちの不可解な言動が、あまりにも合致した。私はずーっとピースが見つからなかったパズルが埋まった充実感と、「ふざけんじゃねえ!」という怒りと、腹の底から沸き上がってくる気持ち悪さで、本を持ったまましばらく動けなくなった。 

 そのあと私は電車内痴漢に関する取材を重ねた。電車内痴漢加害をしている最中の者はやはり「自分の半径1メートルを覆う『膜』のようなもの」を持っていると感じた。自分の『膜』の中に入ってきたのは女のほうであり、なぜかその女のことを何をしてもいい「もの」のような感覚で捉えていて、そこから独自のストーリー(大抵は「女のほうが欲情している」というもの)を展開させ、それに沿って行動している。だから「相手の女性は痴漢行為を受け入れている。喜んでいる」と解釈したり、「電車の中で触られたがっているけど自分からは言い出せない女の子を触ってあげている」と親切心のようなものを持っていたりする。その行動自体は、まったくムチャクチャで一方的で意味不明なのだが、彼らの『膜』の中では矛盾がない。矛盾がないからこそ遂行できるわけだし、むしろこの「『膜』の中のストーリー」が無ければ、いくら発情状態の男でも電車内で見知らぬ女に触るなんてこと、できないはずだ。




これ自体への「なんか違うんじゃないのそれ?」感はおばけがまとめてくれてたこれでだいたい足りるように思う。


「膜」では「なぜ痴漢は痴漢をするのか」を説明できない - 最終防衛ライン3
http://lastline.hatenablog.com/entry/2014/08/21/094116


「すべての妄想は必ず実行されるものではない」「妄想は自由(人の内心は自由)」はヲタにおけるロリ嗜好擁護とか想わせるけど、別の文脈繋がりそうなのでそこは置く。

自分もついったでこのあたりの違和感(特に田房さんがどぶろっくの「もしかしてだけど?俺に気があるんじゃねえの?」的なネタにまで過剰反応していたところ)についてちょろちょろ述べたけど、めんどくさいから掘らない。

たぶん、「痴漢するものが痴漢するのはそのものの主体的意志というよりはなにか強いられているような病気的なもの、中毒的なものであり、その感覚を表現したもののひとつとして『膜』という概念があるかもだけど、それで痴漢者すべての内的感覚 → 痴漢実行理由を説明できるわけではないし、それをもって男性を理解しようとするならさらに危険だ」みたいな話だったと思う。

ちなみに、いちおいっておくと自分は痴漢者を擁護するものではないし、痴漢という行動の合理性というか実際の効用が理解できないので甚だ非合理的なアディクションなんだろなあぐらいにしかおもってない。具体的にいうと電車で女性の尻だの乳房だの撫で回したとしてそれが生理的にどういう気持ちよさがあるのか?エロい気持ちになってその先にいきたくなってもだいたいにおいてセックスまでは持ち込めないだろうから悶々とするだけだろうし、、だとするとおっぱいパブ的なおさわり感の無料ラッキー程度のそれなのかもだけど、おっぱいパブも同様の理由でわからない。。(「行ったことないなら行ってみなよ案外おもしろいよ」とか言われたことあるけど前述の理由を言ったし、まあ「案外」というところで世の男性と別のところで面白みを見出すかも、ぐらいな保留)。

端的には、欲望がフェチ - 物象化し自らの内的エロスの充溢から離れ、「これはお得」「エロいものなんだ」という幻想のために触ってるのだろうな、ぐらいな理解。

グルメ雑誌の言葉に幻想されて、その言葉や値段的に「おいしい」という理知を遂行するけどほんとに実感として美味しいということを経験できているのか怪しいひとたちがいるけれどあれと似た感じ。


痴漢というのは世間で作られたステレオタイプ的な男性的エロに酔って、それが中毒になってオーバードライブしてるのだろうな、ぐらい。



そういう理解だったんだけどたまたまこれ読んでて、背景となるものについてのもうちょっと大きめな構造について説明があったので転載的にお報せしとく。いちおゆっとくけど「お報せ」であって自分はこの理解に全て首肯するものではなく「そういう見方もあるかもなあ。。まあわかりやすいし」ぐらい。なんか気になるんだったら自分で該当図書読んでみると良いと思う。(いちお言っておくと引用のためにタッチタイプするのも時間かかるしけっこう大変なのでそのへんの労力は推して知るべきだと思う)



ものぐさ精神分析―二番煎じ (岸田秀コレクション) -
ものぐさ精神分析―二番煎じ (岸田秀コレクション) -



人間においては、性欲は、何よりもまず、失われた自己を取り戻そうとする企てとして現れる。フロイドが人間の性欲の最初の段階を自己色情的と定義したのは、そのような意味においてであったと考えられる。すなわち、はじめから異性を求める衝動として現れる動物の性欲とは異なり、人間の性欲は、自己の世界閉じこもって最初の満足を知る。そして、この時期の自己とは、まだ対象と区別されていない自己であり、したがって、対象によって限定されず、すべてを含んでいた。個人の人格発達の過程、自己形成の過程とは、主観的観点から言えば、すべてであった自己、無限であった自己が、徐々にあるいは急激におのれの領域を失い、狭められてゆく過程であり、現在の自己の背後には、あるいは自己の一部となったかもしれない無数の挫折した可能性の死屍が累々と横たわっている。そして、かつて無限であった自己の世界のなかで最初の満足を知った人間の性欲は、これらの失われた自己を取り戻し、かつての全体的自己を再現するかぎりにおいてしか、ふたたび満足を見出だせない。



男または女になるということは、男または女としての自己を形成するということである。男性器をもった者に男としての自己が、女性器をもった者に女としての自己が自動的に形成されるわけではない。肉体的には男に生まれながら、自分は女であると確信し、その確信に合わせて肉体の方を女につくり変えようとして手術を受ける者がいることからも、それは明らかであろう。われわれは、人格発達の過程において、自分が男または女であると信じさせられてゆくのである。


われわれが、自分を男または女と信じるようになるためには、まず、周囲の人びと(主として両親)がわれわれを男または女と認め、男または女として扱い、そして、男とはいかなるものであるかについては父親(またはその代理)が、女とはいかなるものであるかについては母親(またはその代理)が、そのモデルとならなければならない。われわれは父(母)親と同一視して、父(母)親像をわれわれの自己の基盤とし、かくして男(女)としての自己を形成し、父(母)親のリビドー対象たる母(父)親をわれわれ自身のリビドー対象とする。これがいわゆるエディプス・コンプレックスである。



引用めんどくさいので省くとこもあるがこれに関わる仮説については以下で端的に箇条しつつ、それらがいくつかの仮説の連結であることに注意したい。

<人間は本能-性欲が壊れている>

<全的な自己が壊れた人間は喪われた半身(自己)を性行為に求める。個人に寄ってその手段が異なっているに過ぎない>

<全的な自己が壊れた人間の性欲の最初の段階は自己色情的、つまり本来自慰的なものである>

<その段階では女性も男性もなく、女性・男性などといった性別は自動的に形成されるものではない>

<そのため最初から幻想を持ってしか異性に対して性欲を抱けないし、幻想を元にして性行為に至る>

<それらの幻想と馴化を通じて人は男性・女性となっていく>


「本能が壊れた」人間にとって異性愛はヘンタイ的な特殊行為であり、一定の幻想を持ってしか成し得ない、ということ。

この「本能が壊れた」「本能」というものの定義自体が現在だと曖昧なのでそもそもこれらの仮説の根本が揺らぐところはあるし、それがゆえにか、それに連なる説に沿ったとしても現実的にはびみょーな不整合、違和感が現れることがあるのだけれど、それでも仮説として強力な説得力-説明範囲を持つように思う。


<エディプス・コンプレックスは男の子の初期のリビドー形成なパターンであり、リビドー対象が後に母親から他の女達に移し替えられていく>


これについては旧来のパターナリスティックで父権の強い家庭であればそういうこともあるかと思う。そういった環境では内向的で自慰的なセクシャリティの延長として母親があるのかもしれない。つまり幼児期に母親が自分の身体の拡張として錯覚されている(他と自の区別がつかない)ことの派生として、自慰的性欲対象の延長として母親がある、ということ。

そこでは母親への性欲は自慰の延長ということになる。

そして、自慰的異性愛の延長として他の女達を求めるようになる、、、ということなのだけれど。


これを女性に置き換えると論として破綻するように思う。

父親へのあこがれ、ファザコン的なものがあるとしても、それが幼児期の自慰的性欲の延長かというと「?」となる。幼児期に給餌をしている-乳房を与えているのは往々にして母親だから。


まあそんなかんじで軽い突っ込みどころはいろんなところであるわけだけれど論を進めよう。

(加えていうとこの段階での個人的興味としては以前から自分のなかにあった「喪われた半身を取り戻す」というイメージ-テーマ、「同性愛者の一般的な家庭事情として、父親がいないか離れていて息子に対して無関心で性格的に男らしくなく母親と息子との結びつきが極端に緊密(ヘテロなパターナリズムとその反発としてのヘテロ志向が発動しにくい)」、女性にとって男性器への執着-フェラティオは乳房の給餌的な面があるのではないか?的なことがこのあたりで関わってくるように思うけど置く)



人間の性欲は、失われた自己を取り戻し、全体的自己を回復した閉じられた世界のなかでしか満足を見出だせない。いわゆる正常な異性愛も、同性愛も、その他の性倒錯も、全体的自己を回復するための手段であり、個人によってその手段が異なっているに過ぎない。性対象とは失われた自己である。性対象は、われわれの失われた自己を、秘部として隠し持っている。われわれは性対象を誘惑し、彼が隠し持っている秘部をわがものとすることによって全体的自己を回復し、そのようにして築かれた幻想のエロス的場面のなかではじめて性的に興奮する。性交の際のさまざまの愛戯は、性感帯に生理的刺激を与えるためというより、性対象のもつ秘部をわがものにし、場面をエロス化しようとする試みである。いわゆる正常な異性愛の場合であれば、男が性的に興奮した男を演じ、女が性的に興奮した女を演じ、合体して一つの全体的自己を演出し、共同の閉じられたエロス的場面を幻想的に現出させなければならない。そのように演技しているうちに、実際の性的興奮が訪れてくるのである。



この辺りについて、自分はそういった興奮や演技から遠いのでたぶん彼女たちは(´・ω・`)というかキョトンとしたところがあったのだろうなあとかおもふ(そして後述するマゾヒズムにおける全的興奮との関連につながる)。





現代人の性が商品化された性欲にドライブされた惨めなものである理由、エロメディアに載ったわいせつで低俗で幼稚で薄っぺらでラグジュアリーとは程遠い惨めな性のシンボルに男性が群がり、またその男性的性欲に阿るように女性も惨めな性のシンボルを演出していく貧しさ、セクキャバでヌキが一本いくらとか、パチンコ屋の便所でどうとかな闇金ウシジマくんでいうニギニギニギニギ的な情況を男女ともに生きてしまう理由として。


人類が進化のいたずらによって自然な状態では生存できなくなったとき、それまでは必要でなかった労働が必要になった。人類の赤ちゃんはその養育にきわめて長い期間を要するようになったため、母親は、それに多大の労力を注ぐことを余儀なくされ、みずから生きてゆく能力を失った。
 したがって、種族保存をはかるためには、父親が子どもとその母親を養わねばならなくなった。男のなかに、このような労働へと駆り立てる本能などあろうはずもない。何をもって、男をしてそのような過重な労働をみずから進んで引受けさせ得るか。ここで、この目的のために、男の性欲が利用されたのだと思う。

(略)

男をして、本来はやらずにすんだ過重な労働を引き受けさせるために、男の性欲を遮断し、その対象である女の肉体を商品化し、商品価値をもった女の肉体を得るためには、それに見合う価値を生む労働をせざるを得なくしたのである。かくして、性行為は、両性の対等な欲望の発露ではなくなり、男にとっては、苦しい労働によって得たものを支払って獲得する快楽となり、女にとっては、男に養ってもらうために男に提供するサービスとなった。理論的には、逆に男の肉体を商品化し、商品としての男の肉体を得るために女が労働するという場合も考えられるが、人類の大勢はその方向に向かわなかった。妊娠と出産と授乳は、どう転んでも女がやらねばならないこと、女のほうが体力的に劣っていること、身体構造上、性行為は男が欲しさえすれば女が欲していなくても可能なこと、などが、男の肉体ではなく、女の肉体が商品化された理由であろう。
 人類の最初の集団である家族の成立、それを支える家族制度(婚姻制度を含めての)そのものが、女の肉体の商品化を基盤としていた。婚姻制度とは、男に、妻とそのうち生まれるであろう子供を養う義務を引き受けさせる代償に、妻の肉体を自由に性的に使用する権利を与える制度であり、いわば特定一者を対象とする売春である(もちろん、婚姻制度にはそれ以外の面もあるが)。当然のことながら、不特定多数を対象とする売春も婚姻制度の成立と同時に発生した。婚姻と売春とは、女の肉体の商品化という共通の前提に立っており、婚姻外で、すなわち容姿を養う義務を引き受けずに女の肉体を得ようとする男に何らかの代償を払わせなければ、婚姻制度そのものが崩壊する。




いわゆる原始段階からの性的役割分担の措定、売春って婚姻制度と同時だったか?ということでびみょー感あるけど、まあおーざっぱには理解しやすい。

端的には「男に働かせるために男の性欲-女の性が餌とされた」であり馬車馬の前に吊り下げられたニンジンということ。

現在でも「ふつー」の家庭における結婚と労働の関係とか見ると上記のようなことを想う。(ex.あいつはそろそろ身を固めさせよう - 結婚してると社会的信用が高まる)


一般的な男はこういった性のご褒美を目指して働く-出世する。

そして、そのご褒美を商品として消費する。

逆に、このご褒美が得られる - 憧れの女との性交が己が出世したり金や地位を得られることによって達せられるとそれに慣れ飽きてしまう → 女を消費し、離婚を繰り返し、高い慰謝料を払ってでも自分の出世欲-労働意欲をかきたて保持しようとする、ということもある。そしてそのような男たちが世間的には「有能」とされる。




人間の性活動の最初の形態は、男においても女においても、自己しか存在しない世界のなかでのいわゆる自己色情、マスターベーションであり、他者を発見してのちも、一個の主体的存在としての他者を求めるというのではなく、自己の一部としての、自己に従属するものとしての、言ってみれば、マスターベーションのための道具としての他者を求めるに過ぎない。自己というものをもつ男は、たとえ女と性交しても、膣を使ってマスターベーションをしているに過ぎない。人間の性活動の基本は、あくまでマスターベーションにある。
 人間の性的欲望が失われた全体的自己を回復しようとする企てであるかぎりにおいて、この全体的自己のなかに二つの主体はいらないのである。邪魔なのである。動物の雄と雌との場合のような、自然な関係のなかでの自然な性活動は、人間においてはもはや失われてしまっている。自己というものを確立し、自己という幻想に執着する人間の場合は、性対象をおのれの欲望の対象としてとらえることしかできない。対象とは、ものであり、おのれの快楽のための道具であって、主体ではない。



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それでは、性対象として他者を求めず、自分一人でマスターベーションをすれば、他者に私を物化さえる危険もなく、性的満足が得られるかというと、そうはゆかない。限定された自己が一人でするマスターベーションは、全世界が自己であったときのマスターベーションとは異なるからである。他者は自己に従属せず、男のところに厳として存在しており、自己は、他者に拒絶された貧困な、孤独な、限られた自己でしかなく、そのようなマスターベーションでは、生理的快感はあるかもしれないが、全体的自己の回復によるナルチシズムの高揚にもとづく深い情緒的満足は得られない。人間の性的満足にとって、生理的快感は本質的なものではない。
 したがって、性的満足を得るためには、私は、主体としての他者を必要とし、その結果起こる他者の主体との衝突を解消するため、いずれかの主体を消し去らねばならない。他者の主体を消し去ろうとするのがサディズムであり、私の主体を消し去ろうとするのがマゾヒズムである。いずれの主体を消し去っても、その目指すところは同じであり、とにかく、他者と私とがいる場面のなかで一つの主体のもとでの全体的自己の回復が演じられればよいわけである。サディズムとマゾヒズムとは、一見正反対のようであるが、全体的自己の主体を自分の側にとどめておくか、相手に付与するかの違いしかなく、マゾヒストが相手に付与した主体は、あくまでマゾヒスト自身の主体であって、相手その人の主体ではない。マゾヒストが相手を一個の主体的人間として尊重しているのでないことは言うまでもない。マゾヒストは、自分が書いた筋書きにない仕方で相手に侮辱されれば、本気になって怒り出すであろう。




個人的にいくつかの場面が想い出される。

「マスターベーションのほうが生理的快感としては上なんですけどね」といったときの彼女たちの「(´・ω・`)」とした表情。

マゾヒストの彼女の満足というのは彼女自身も説明しにくいものだったようだけどこういったものだったのだろうし、自分はそういった幻想、性的場面における全的なものへの指向が彼女が求めるものとは異なっていたのでうまくリンクできなかったのだと想う。

そして、たぶんそのような幻想は男性のステロタイプ的な性的指向、加虐性がオーバードライブした性向の女性版ということになる。女性版というか、受動的役割を担うほうの幻想。

前述もしたけれど自分は性的場面においてもそんなに興奮に身を任せることがないので。むしろ冷めてしまうし、そこに悲しみと慈しみのような感情が生まれる - 「なんで、そんなにやさしい顔でみるの?」







そういう感じ。


最初にあった痴漢における「膜」というリアリティはこういった自己の主体とは別に強いられている指向性であり、それらは人類の労働-性欲の構造から設定された性欲の指向・幻想がオーバードライブしたものといえる。その界では女性は商品として加虐的に苛むことがコード的に是とされるので彼らはそれに従ってるだけなのだろう。なので、その場面における彼ら自身の生理的快感は貧困なものである、のに対して、幻想的快感はみょーに高まっているのでそういった状態に至っていない他者からするとキョトンとするような、説明しにくい情況が発生する。


痴漢までオーバードライブしなくても一般的な世の男性の性欲と性指向は商品化された性指向のリストにしたがって加虐性を内包する。

男性のステロタイプ的な性指向 - 嗜好を恐れる女性たちはそこに含まれる加虐性を感じ取り、ステロタイプ的な女性(被虐を甘んじて受けるのが女性のあり方)という幻想に自己を押しつぶされないために対抗言説をもってその加虐性に抗おうとしてるのだろう。あるいはそういった幻想をもった男性たちに依る直接的な性暴力への抵抗。

それ自体は強いられてるもの / 押し付けられてるものに対する自衛ともいえるけれど、そこには対抗的加虐性が含まれるので行き過ぎてしまうとなんか変な感じになる。

ステロタイプエロ男性 - 「変な人」 に抵抗しようとしてるうちに自分たちも別の意味での「変な人」になっていく。ステロタイプ男性に対する言説、抵抗としては有効なのだろうけど、特に多孔的にいろいろな文脈から糞リプがつくSNS時代、そういった文脈を読まずにみょーな反論がついてめんどくさいことになったり…。あるいは彼女たちが公共の場という意識なく限定された男性理解を一般的な男性理解として流してしまうからかもしれないけれど。


繰り返しになるけれど、彼女たちの男性やセクシャリティ理解というのはそういう形で最初から偏っていて、それは偏った性指向に対抗しようと作られた歪な器、凸と凹なのだろうから仕方ないというところがある。



当事者研究においてサバイバーの特殊なリアリティ、セカイ認識を許容し、頭から否定しない態度がおそらくは基本となるようだけど



最終回 症状 ― それはすでに一つの解決である■大澤真幸|かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
http://t.co/7kwijxu4v3


そういった認識はやはり世間一般 - 公共の理解(コード)とは別のもので、そういった認識にそって世間一般を語るのは間違ってるように思う。

ただ、彼や彼女たちが生きていくための限られたセカイの認識と言葉、幻想としては有効だろうけど。


岸田秀あたりだとそういったものが過剰になってしまったひとたちをして「神経症的ですね。分裂病ではないけれど」と即断するだろう。



自分的にもそういった傾向はあるせいか、そこで「ビョーキ」とラベルされ割り切られ差別されるのはちょっと嫌だなと思うんだけど。


それらは蟲師における蟲が見える人たちと似てる。


案外と、彼らの見るセカイのほうが真実のそれで、でも、それはやはり妄想かもしれなくて…

そんなことはどうでもよくて、「見えて」も「見えなく」ても、そういったモノたちをあからさまに否定したり肯定したりもせず、ゆったりと共存していけたら


蟲師 (3)  (アフタヌーンKC) -
蟲師 (3) (アフタヌーンKC) -

蟲師(9) (アフタヌーンKC) -
蟲師(9) (アフタヌーンKC) -





(ギンコの左目の残照を想いつつ)


























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関連:
女も男も怖かった - c71の一日
http://c71.hatenablog.com/entry/2014/12/20/000144

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2014年12月14日

君ノオト、僕ノオト




雷神(なるかみ)の

少し響(とよ)みて

さし曇り


雨も降らぬか

君を留めむ








雷神の

少し響みて

降らずとも


我は留らむ

妹し留めば












Je ne viens pas ce soir vaincre ton corps, o bete
En qui vont les peches d’un peuple, ni creuser
Dans tes cheveux impurs une triste tempete
Sous l’incurable ennui que verse mon baiser

私が来たのはおまえの肉体を打ちのめすためではない、
けもののおまえよ、おまえは一人の罪を継いできたのだ。
私はまた、みだらな髪の中に悲痛な思いをかき乱しもしない、
私のキスを支払う救いがたい憂鬱の下では。












「言の葉の庭」を見た。新宿御苑にいった関連で


劇場アニメーション『言の葉の庭』 DVD -
劇場アニメーション『言の葉の庭』 DVD -



感想としては「音楽のPV的な作りだなあ」ぐらい。自分的にはそれほどクるものはなかった(きれいだけど

PV的つくりなのでテーマソングになっていた「Rain」からつくったのかとおもったけどインタビュー読むと違ってた。

最初に「雨宿りする歳の離れた男女」というモティーフがあって、それに物語をつけていったみたい。

なので、その場面がメインであとは新海誠さん的な演出になる(男女の脳内モノローグがダイアローグとなって共振し、最後にほんとの聲として合わさる、みたいなのとか)


それらはツルッときれいで、「One more time,One more chance」なんかは自分も歌いこんだなあとか思ったけど、やはりほんとの恋愛の生々しさ、リアリティはそこにはない。少なくとも自分にとっては

生々しさというとむしろテーマ曲としてカヴァーされていた「Rain」の歌詞のほうにあった






メロディとしては90年代シティポップ的なさわやかさがあるのだけれど歌詞の内容は「忙しさのストレスの代償をセックスにもとめて相手と話してなかったら逃げられた」って話。まあだめんずである。でも、「体だけ求めてきたから嫌になった」てのも子供ぽい言い訳で、そういう欲は男女ともにあるのが性愛だから、それをして「一方的にヤラれた」「だめんず」扱いする女というのも欺瞞だなとおもうわけだけど。

一方、この映画用に書き下ろされたぽい歌詞と曲はどこまでも爽やかで





中高生の恋愛を想わせる。恋愛ていうか恋ていうか。罪や汚れを背負わない爽やかなそれ。翡翠色の、初夏の透明な雨。



でも、自分たちが普段眺めてる雨はこんな感じ




http://www.uta-net.com/movie/67197/


室内から眺める雨は波の音を想わせる。


雨は涙であり精液で、あるいは両者は同じものなのかもしれない。
(人という海から漏れ出た波のようなもの)

人が性を通じて交わるときに悲しみが生じるというのは自分に特異なことかと思っていたけど一定の感性をもった人には共通するようで

その痛みや傷、死と生と肉を互いに分かつことで互いの罪と悲しみ、過去と現実に触れていく。











うれしいのか苦しいのかわからない

ただ

儀式のようだと思った




これで死ぬかもしれない

でも

それでもいいと



泣けるのはこんな自分がうれしいからです



私はこのときはじめて私なりに

小さな死を理解しました





生きるススメ -
生きるススメ -


しあわせ -
しあわせ -


あるいは

罪と罰を救済として、その果実を積極的に食んで行く



純化する魂と巨大な矛盾・森有正『遙かなノートル・ダム』
https://cakes.mu/posts/7477
https://cakes.mu/posts/7559
https://cakes.mu/posts/7606
https://cakes.mu/posts/7660
https://cakes.mu/posts/7730


[書評]森有正先生のこと(栃折久美子): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/05/post_2e30.html




遥かなノートル・ダム (角川文庫 (5412)) -
遥かなノートル・ダム (角川文庫 (5412)) -



絶望や悲しみを基点とつつ、それらをひとつずつ消化し、自分という植物を育てる糧としていく。


我々はそのための果実を探す。







流れ着いた果実を食むと、音楽が溢れ

互いのカラダに流れる音楽を通じ、言外の理解-肯定を得ていく。





自分が性交や恋愛的付き合いをするたびにすこし傷つく、というか、がっかりする、がっかりしている自分に気づくのはまだ世の中になにかを期待してたからなのかなあ、絶望が足りなかったのかなあとかすこし思う。


でも、ネットなんか見てるとそういう感覚、精神の深度、温度な人もチラホラ見えて、まだ期待してもいいのかな?ともおもふ。

ただ、そういう出会いというのは稀有で、そういう相手としか付き合えないというのだとハードル高そうだけど


なのでてけとーに割り切って、それはそれとして処理していくのが無難なのかなあとかちょっとおもったりする。











ぼくらは

罪や貸しを背負わず

「オトナだから仕方のないこと」とせず

相手を請うことが

相手を思うことが

できるのだろうか?



(なにか理由がなくても君に寄り添えるのだろうか)




君ノオト
僕ノオト






--
関連:
人は海、性器はその残照: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/410389426.html

「闇屋になりそこねた哲学者」を読んでお勉強したくなった: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/408259456.html





少年少女 4巻 (ビームコミックス(ハルタ)) -
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2014年12月10日

人は海、性器はその残照


なんか書き残しな感じがあるのでもうちょっと。

この辺りの話って最初は「女性の身体てそんなに『きれい』な対象なのだろうか?」て思ってたところからだった。


イノセンス: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/410368952.html


特に性器。




性器について、すこし冷静になって理性的に考えれば男性器も女性器も清潔ではなく、なにか野蛮で動物的で、霊長類の長みたいに自負してる人類が身につけているものとしてはふさわしくない。

みょーな突起でみょーな陥没。不格好

なので自由に身体が選べる-デザインできるのだったら性器はいらないと自分は思っていた。

また人間の男女の性交についても同様で、自分はメディアを通じて人間の性交渉の具体(男性器を女性器に挿入して摩擦運動で快感を催し射精し受精する)を識るまで、セックスというのはおしべとおしべが軽く接触し必要な物を交換する程度のものだと思っていた。

それが後に人間があんな野蛮なことをする、、とくに女性器というのは穴なのだと識ってしばらくショックだった。

ちなみにこのときのショックは小林まことさんのおっさん向け漫画に印象するに思う。男性器をまつたけかなんかで表していた。

こういう感性、人のセックスというのはおしべとおしべが、的なものというのはヘンリー・ダーガーにも共通していて、彼もショックを受けたらしいというのは最近知った。



男性器も女性器も不格好で不器用で滑稽で不潔。

特に女性器は男性器に比して内性器がそのままむき出しになったようなもので不潔。

この「不潔」というのは自分の印象だけの問題ではなく、実際に性器周りの衛生問題としてあると思う。

男性器のほうが出っ張りなだけまだ洗いやすい(粘膜と海綿体なのでごしごしとは洗いにくいけど)。

性器を洗うということについては教育的にもデリケートな面があるみたい。あるいは愛情的にも。

男性器-おちんちんのほうはそれでも母親がそれなりに教えて上げるところが多いみたいだけど、女性器は意外とゾンザイにされてるみたいで、そこの母娘という特殊関係が介在するからかなとかちょっと思うけど、愛情みたいなのもここに絡んできてすこしこじれてくる。

なので「自分のまんここわい」「不潔」というヴァギナフォビア的な問題がそのまま愛情の欠損-渇望にも関わり、こじらせ女史的問題の文脈に関連してくる。そしてセックスに依存とか自己肯定感の回復とか自信がどうとか関わってくる。そういうのは女性器-女性だけではなく男性にもある問題だけど、女性のほうがそういう面は強いのかな。




フェミ系のひとたちがここでみょーに性器を表象するのはそういった文脈で、「(自分の)まんここわい」≠「自分に自信がもてない」 → 「まんこをもっと肯定しよう!」≠「自分をもっと肯定しよう!」となってるから。

なので彼女たち的には女性の正統な自己肯定感の回復運動て感じなのだろうけど、俯瞰すればたぶんこじらせ女史問題の系譜なのだと思う。



乳房-おっぱいも准性器ではあるけれどヴァギナと違って不潔がたまりやすいところでもなく、消費市場とメディアを介して「乳房は女性の象徴」-「美しい」という通念が浸透したように想われ、実際自分もその影響を受けてるので特にこういった問題が生じるとは思ってなかったのだけれど、ついったほかでうれぴっぷるの様子見てるとそういうことでもないみたい。おっぱいコンプレックス。

うれぴっぷるの場合は過去の事件の影響とか、彼女の育ってきた環境の影響とかがあるのかなと思うんだけど、女性一般にもおっぱいコンプレックスというのはあるのだろう。「きれいなおっぱい-きたない(不格好)なおっぱい」な問題。


メディアを通して見られるおっぱいのほとんどは理想的なおっぱいの形で、おわん形を基調としつつきちんと整って張りがあって、見栄え的には巨乳だったり、ボリュームはなくても美乳だったりする。そしてきちんとシンメトリー。

でも一般の女性の乳房はそんなに理想どおりでもなく、だいたいの女性の乳房はなんかみょーな凹みがあったり不揃いだったり、みょーに乳首が大きかったり黒かったり、乳房も垂れてたりする。

乳房というのは脂肪を主としてるのだから垂れてるのは当り前なのだけど、メディアを通じて刷り込まれた「理想の張りのあるおっぱい」の形が男性のみならず女性にも思いのほか影響しているのだろう。





そんな感じで女性器も准性器である乳房も元来はそんなに美の対象でもないのだろう。それが消費市場とメディアを通じて当然なものとして通念化してる。


それに対して、女性ということの生得的なうつくしさ、女性ならではのうつくしさみたいなのってあるのだろうか?-あるだろう。


自分的にはそれは独特の曲線で、ウェストンが砂漠やキャベツを通じて表現してみせたものに近い。




あるいは、中世あるいは古典絵画に見られる女性美の感覚。ふくよかさと豊満さ、やさしさと包容力の象徴的な。


そういうものが元来の女性のうつくしさではないかと思う。

それ自体も同時代の文化的背景があって作られた価値観ともいえるかもだけど。




唇と外性器、特に女性の口紅とそれは象徴的に思う。


小陰唇、大陰唇という名前にもあるように女性器の構造は唇のそれと近いのだろう。


それがそのまま素の状態であるときは(口の)唇も性器の唇も似たようなみすぼらしさ、さびしさ、素朴さのようなものを感じさせる。

なので性的な愛撫の内容も両者に共通するものとなる。



唇がそのままの状態であれば体内へ逃げ遅れた内臓の残照程度の滑稽さを感じさせるものだけれど、ある時期から女性はそれを紅く塗る。紅、あるいは彼女たちの好む色で飾る。

それは現代社会の常識的な美の外装-常識としてのおしゃれの一貫ということで彼女たちの大部分に特に深い意図や感慨はないのかもだけど、象徴的には「顔にある性器を紅く塗る」-「わたしはもう性交ができる器が整いましたよ」ということなのだろう。特に調べてないけど古来、紅を塗るとはそういうものだったように思う。


(なのでそこでも下着問題同様、母親による管理と母娘の闘争、確執が生じる ex.「あら、あんたこんな派手な色の、、」「まあ、この子もう口紅してるわ。いやらしい、、」)



人類学的に考えれば上半身の唇に色を塗るのと同じように下半身の唇にも色を塗る文化があってしかるべくように思うけど、そういうものは自分の知る限りではない。

ヴァギナ周りの毛を整えたり無毛にしたり、あるいはヴァギナの色素を抜くなどはあるようだけれど、ヴァギナそのものに紅をさす、とかはないみたい。

あるいは刺青的文化圏ならそれに近いことは行うのかもだけど、刺青の場合は身体全体の装飾の一環として性器にも色や文様を入れるのだろうから「唇だけ強調」というのともすこし違う。

余談だが小児段階での性器周りの手術というのは、機能的には「衛生のため」としつつも象徴的には刺青的なイニシエーションの意味合いを持つように思う。色や文様を彫らない刺青。そこでは性-成熟が管理-統制され、その証として文様が呪される。




女性のフォルムは生得的に美しいのか?という話の続きとして、自分的には女性というのは花のように想える。

花と同様に花弁という外装を飾り、上の唇と下の唇に誘う。

またその佇まいや全体のフォルムも花っぽい。

そういう意味で生花(いけばな)というのはエロティックだなあと思うのだけれど未だ初めておらず、ちょこちょこと道端の花をパパラッチしてたりする。


女性が花なのに対して男性は樹のような感じ。

男性的美というのは筋肉、アウターマッスル的な大きな筋肉のように想われるけど、それは草ではなく樹木の外観-美しさに似てるような。


そうすると人間的なうつくしさというのは男性的-樹木的なうつくしさ + 女性的-草木的うつくしさを兼ね備えたものなのだろうか?



美学文芸誌「エステティーク」Vol.1 特集:美 -
美学文芸誌「エステティーク」Vol.1 特集:美 -

フランスの作家ペラダンは、「女性のことを美人などと言うけれども、美と性の間に確かな関係は何もない」と指摘する。美は性から解放されている。美しさは、男女を超越したところ、男女の性差を解消する性的総合においてしか認められない、というのである。

つまり、この系譜では、美が男性性と女性性の両原理が互いに混ざりあい調和している存在、すなわちアンドロギュヌスとして描かれている。そして、このじつに魅惑的な両性具有者は、突き詰めれば、始原の天上的な全体性の寓意と読み解くことができるだろう。

もう一つ特異なのは、性の完全な調和にまで至らずに、美が女らしい容姿の美青年として表現された点である。ここで、その逆でないことに注目したい。つまり、男らしい容姿の美女ではけっしてなかったのだ。現代フランスの作家モネイロンに従えば、おおむね次のようにまとめることができる。

ある青年のうちに見受けられるすこぶる女性的な顔立ちや物腰は、予想に反して青年の男らしさをまったく否定するものではない。彼を究極の理想のほぼ完璧な例証たらしめる男性的特徴にそっくり付加される。

それにたいして、ヒゲの生えた女性のように、男らしさが顕著な女性の場合はまったく事情が異なる。というのも、今度は男性的な容姿が女性の本質につけ加わらず、その反対に女性の本質を否定してしまうからである。こうして女性の本質はあたかもすっかり失われてしまうかのようである。しかもこの喪失は取り返しがつかず、修復できそうにない。

(田中雅志、「アンドロギュヌスの美の系譜」)





ヒゲのOL薮内笹子 (Bamboo comics) -
ヒゲのOL薮内笹子 (Bamboo comics) -


アラステア

アンドレイ・ペジック



自分的には理性−合理的な美しさの究極は無性であること、性別の突起や陥没がないことに思えるけど、それと反対だと女性的フォルムを基調に男性的機能をもつことがうつくしさとされるぽい。

それは悪魔的だなとなんとなく思うけど、悪魔を欲望-欲求の集成としたとき、性器のでっぱりはその証であり誇りなのだろう。人であること、あるいはその欲望をとことん肯定するということ。(なのでたぶんほむら最終版には男性器がついてる









あるいは性器は貝にも似てる。

個体発生は系統発生を孕み、人は身体に海を持つ。

そのことを示す徴として、そのことをわすれないためのよすがとして、性器という凹凸が遺されたのかもしれない。


posted by m_um_u at 05:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2014年12月09日

イノセンス




孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく。林の中の象のように。



生死の去来するは棚頭の傀儡たり一線断ゆる時落落磊磊



寝ぬるに尸せず。居るに容づくらず。
未だ生を知らず。焉んぞ死を知らんや。
理非無きときは鼓を鳴らし攻めて可なり



人は概ね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ。



個体が創りあげたものもまた、その個体同様に遺伝子の表現型。




人体は自らゼンマイを巻く機械であり、永久運動の生きた見本である



いかに泰子、今こそは しづかに一緒に、をりませう。





バトーは生きた人形である
腕も脚も
その身体のすべてが造り物
残されているのはわずかな脳と
ひとりの女性の記憶だけ







「2501」…それいつか再会するときの合言葉にしましょう






























ついったでなんとなく女性的義体の話をする。

前段階として自分のセクシャリティや感性が世間一般的な男性のエロ(メディアで作られるそれ)と違ってきていて、というところがあったのだけどそこは今回語りたいことでもないので省きつつ。

理性的、合理的に考えれば性別、セックスというのは邪魔で不合理なもので、それを自分でhack出来るようになれば性別のない身体を選ぶのが合理的だろう。そこから考えれば現状、男体も女体も不合理なもので、それぞれがそれぞれに無駄な突起を持っている。性的に不格好な突起。

人の文化はその不格好さを却ってセクシーなものとして加工してきた。

女性器にそれは顕著で、准女性器ともいえる乳房をめぐる表現というのはそういう感じ。ここでわざわざ西欧社会における乳房の強調文化が生まれた過程、そこから順に「グラマラス」「セクシー」「トランジスタグラマー」なる性的表象が生まれていった過程は省くけど。

男性器にもそういう傾向は在ったけどアフリカあたりでとどまり西欧社会→現代社会に拡がらなかったのは男性中心の消費社会と消費の対象としての性-女性の関係かなと思う。これも今回の主題とは違うので省く。














自分は自由に身体、義体を選べるのであれば合理的には無性別の身体を選ぶだろう、けれどそれだとおもしろくない-遊びがない、ので遊びのために性別を残すかな、とも思う。

攻殻機動隊の主人公草薙素子がわざわざ女性のフォルムを残した、そして漫画版では女性的性感を残したのは、漫画的なご都合、あるいは作者が単にそういうプチエロを描きたかっただけという事情を除いて「そこに素子の主体的で合理的な意志と選択があったから」と仮定したとき「素子にも似たような感覚が在ったからかな」と想わせる。すなわち「無駄と余白として性を残した」ということ。

元からサイボーグである素子の感覚、人生観とは少し違うのかもだけど、完全な身体、性や痛み、快楽といった「無駄」をなくした身体と言うのソリッドステートならぬ有機体の脳では発狂するところがあるのかもしれない。このあたりの理屈はよくわかってないけれど、幻肢のときの感覚-機構とも関係するのかなと身体論とか思いつつ。

有機体としての無駄-多様性のよすがとして素子は性-セックスを残した。

感情もそれに準ずるものなのかなと思う。そして恋愛感情も。

バトーが素子に寄せるそれは世間一般の恋愛感情という括りからするとそんなに単純なものではないのかもしれない。

「イノセンス」はバトーを介した「ゴドーを待ちながら」であり、ネットにつながり完全体になってしまった/なってしまう手前の素子を通じて「ひと-ひとのたましい(ゴースト)-こころとはなにか?」を問うことが大きな主題となっている。

だからバトーが待っているのは一人の恋愛対象としての人格としての素子という女性というだけではなく、神-完全-永遠の象徴とも言える。

しかし、この映画が切ないのは、その永遠をバトーが望んでいないところにある。

素子が神、あるいは神に準ずるものとしてネットに完全に融けること、バトー自身もそこに融けることは合理的には救済といえる。しかし、バトーはそれを選択しない。

一人の女として、あるいは「女」という性は関係なく素子そのものに留まって欲しいから。しかし同時に素子が求めるところに行かせたい/行かせるべきという自律もある。

そういった感情面でのアンビバレンツのみならず身体も肉の体とキカイノカラダの中間という両義性、中途半端さを抱えているのがバトーという存在で、その不格好さ、不器用さに男性的な無骨な愛情を感じて切なくなる。

神の定めた完全の依代-人形-傀儡として生きる、のではなく、不格好でも自立して歩くということ。

そして、おそらくその愛も恋愛感情として報われるものでもなく、そのことをバトー自身が是しとしているのだ。


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スピカ 〜羽海野チカ初期短編集〜 -
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小林/秀雄 (講談社文芸文庫) -
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これは、ある意味では、彼が「他者」を求めようとしたことからの、当然の帰結であったかも知れない。かぎりなく自由であるべき「純潔」な「個人」となったとき、不毛な喪失感に噛まれつづけねばならなかったことを彼はすでに識っている。

しかし、

彼の周囲には「秘密」の重みを識った「他者」はいず、彼の言葉は対話に構成されることがない。このようなとき、人はその孤独の代償として、架空の有機的な体系を求めねばならなくなるのである。
日本の「近代」が「伝統」に接合する事情がここにかくされている。

あるいは、

そこで個人主義者が政治的に保守派に傾かねばならぬ事情がここにある。




中也の奔放で呵責のない純潔-自然に対して小林秀雄がランボオを経てたどり着いた純潔と自然。

そこではまず神は死に、それに準ずる他者は居ず、対話の縁を喪った彼の言葉は真空に投げ出された。

その孤独の代償として、小林秀雄は日本的伝統の保守へと回帰していった。


バトーと素子、あるいは我々、デジタルエイジが見る夢は、そういった伝統も故郷の宛として喪ってしまったのかもしれない







それでもなお

そこにはまだわれわれなりの純潔があって

そこからなにかが

はじまるのかもしれない

















--
関連:
是枝裕和, 2009, 「空気人形」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/134634431.html


posted by m_um_u at 20:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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