2016年02月03日

花男







王の死も

乞食の死も

まったく変りがない



どこかの詩人が歌ったが

そんなことがあるものか


問題は

死と死の間のつかのまの

生の在り方じゃないか

その生の大きさで

死の大きさも変ってくる











この地上で

人間だけが奴隷になるとは

どう考えたって不公平だ

支配者も被支配者もひとしなみ奴隷じゃないか

それで

王様がだんだんいなくなった



世界で生きのこってる王様の数をかぞえてごらん



























野球に興味がなくなって久しい。特に球場に通ったこともなく、もっぱらテレビで見る程度だったけど。最後に熱心に見た記憶は高校の頃の休み時間か何かにみた日本シリーズの興奮だっただろうか。いま振り返るとなぜ自分がそういうものに興奮していたのかわからないのだけど。現在は1年に一回野球中継を見るかどうかぐらい。それも最後まで見るということもない。


そのぐらいの関心なので今回の件もそれほど関心もなく、ワイドショー程度の関心なのだけど


清原和博さんと「男らしさ」という呪縛 - いつか電池がきれるまで
http://fujipon.hatenablog.com/entry/2016/02/03/124342



清原和博の引退 - 関内関外日記
http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20081002


ついったでつぶやいたのをそのまま貼るとこの件に関する自分的な関心としては、清原が「使えな」くなっていった原因として故障があるとして、その原因となった対戦はどこだったか?とか、そこからのリハビリとかもっかいおっかけつつ、最近だとコーチとか監督とかの道もあったはずだけどなぜそっちの道がうまいこといかなかった?あるいは、当人がその選択をしなかったか?な背景とか経緯とかが知りたいぐらいかなあ。あとは野球とヤクザ関連?かなんかのドラッグとかつながりとか。まあそもそもあまり興味が無いわりにTLほかで公共的な話題になってるので、ふつーに事実関係をまともにつたえるものを見て、「はあ、そうですか」で済ませたいぐらい。それでも事情をあまり知らない人が一言居士的にてけとーなこと言ってるのを見るとカチンと来たようなのでそれなりに感情移入してるんのかな?自分、とはおもった。


事情を知らない人にあまり言ってもあれだろうけど、人気商売というプロ意識が欠如してる、ということではなくて、もともと清原はゲーノー人とかやる気もなくバット一本で食ってくつもりだったけどそれも故障で壊れたし、なによりメンタルがもともと強くなかった。素質に頼ってるだけで鍛錬、修練を怠り、なんらかの方法を確立してパフォーマンスを確立させるというところを怠った。彼が現役で、とくに西武時代の黄金期はその突出した能力で自信が支えられていたのだろうけど、その季節を過ぎた時、それまでの派手な生活と生き方をさせるものがなかった、のに対してそれまで築いてきた虚栄は続けていかざるをえない弱さがあった。そこにゲーノー界や麻布・六本木界隈のあのへんが入っていった。そういった印象。


そこでちょっと同情的になってる面もあったのだけど上記リンク先のエントリとかをみて「やっぱじっさい身近にいると鬱陶しいだろうなあ」と思いつつ。



そういう事情があるにせよ、TLほかでネタにしてたのしんでヤイヤイゆってる賑やかしとかはどうでもよいゴミみたいなもので、同時代に野球とか清原とかを楽しんで期待してた人たちの思い出とか思い入れのほうがみたいとおもった。家族に連れて行かれた球場の思い出とか。


ぼくらは清原のことを特別に好きではなかったけれど、そのときの楽しかった思い出にケチをツケられた気がしてカチンとくるのだろう。





清原が「使えな」くなった理由として。当該ウィキペディアを見ていたら故障自体は巨人軍に入団してからしばらくのことだったということでなんか意外だった。


西武で故障してつかえなくなって持て余されていたのを巨人が拾った、ぐらいの印象だったので。そこから故障を支えるために肉体改造してある程度の実績を残していった、と。しかし最後までこの故障がたたっていたのだろう。


清原に対して、才能・素質だけでたいした努力もしなかったので開花しなかった、というのは野村克也のこの言の影響もあるのかな?自分、とか。





「きちんとした指導者が居なかったから清原の才能がだめになった」「森が悪い」とのことだけど、ウィキペディアを見ていたらそのへんもびみょーだった。


森は清原の能力と人柄を非常に高く評価しており、西武監督退任時に、「清原は年々、野球への考えがどんどん進歩してきている」と述べている。清原を一年目から一軍レギュラーで使うことにはコーチ陣や野球評論家でもかなり異論があり、当時評論家だった野村克也は「清原は一年目は一軍では使えない」というほどだった。しかし森はそれらの異論をはねつけてあえて清原を使いつづけ成功した。当時西武の一軍打撃コーチだった土井正博は「今だから何でも言えるけれど、清原を二軍スタートさせようと言い張ったのは森さん自身。ところがオーナーのバックアップがあると知ったら、ガラリと態度を変えて、自分が我慢して使ったと言う。毀誉褒貶の激しい人だった」と述べている




まあでも、犯人探しは別としてきちんとした方法の模索、確立ができなかったのだろう。最後まで。メンタルが弱い、自律できないのなら優れた指導者がいればよかったのだろうけど、才能が突出し過ぎるとその辺も難しいというのはあるのだろう。



アスリートとして見た場合、彼の特徴や才能というのはどのへんだったのだろうとyoutubeの動画をしばらく探るに



打たせるための練習球とはいえすごく軽く、当然のようにホームランに持っていってる様子にベンチのスター選手たちも唖然としている。この様子を見ると彼のバッティングは筋肉というよりはバネだったのかなあ、とか。まあ練習のゆるゆる球への対応なので特にそういうバッティングになっていたというのもあるのだろうけど。松井秀喜のそれがマイク・タイソンのピーカブーを想わせるのに対して、この頃の清原のソレはもっとバネっぽかった。

打撃の特徴の説明を見ていると「内角のボールを苦手としていた」とのことで「( ^ω^)相手ピッチャーが変化球を使うだけで怒っていたみたいな話がまとめにも載ってるけど・・・それじゃストレート勝負とか要請してもびみょーじゃん。。」な気分に。まあその後に練習でこの苦手は克服したとはあったけど。ストレート勝負の場合、内角高め(インハイ)が力の勝負のポイントのはずで、ピッチャーにとってはボールの下を振らせることが力でねじ伏せたことの証になるとかマンガ知識。対して、外角低め(アウトロー)はそこから最も遠いポイントなため内角高めを活かすための対角線となる。この2つを有効利用することをしてクロスファイアとかなんとか。ボール球でもいいのでインハイでのけぞらせておいてアウトローで穫る。



その辺の技術論とか見どころみたいなのを含めた江夏の21球的な清原の伝説の打席解説みたいなのも見たい。自分じゃ書けないけど。

スローカーブを、もう一球 (角川文庫) -
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NHK特集 江夏の21球 [DVD] -
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敗れざる者たち (文春文庫) -
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この件に関して見たいものつながりでいうと松本大洋「花男」的な妄想もある。


花男 第1集 (ビッグコミックス) -
花男 第1集 (ビッグコミックス) -

花男(1) (ビッグコミックス) -
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[まとめ買い] 花男 -
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巨人軍を夢見て三十路を超えた男の時代遅れの野球ロマン話。「たかが球コロ遊びに大の男が人生かけるなんてよ」「だからこそ、だからこそなんだよ花男」みたいなセリフがあったんだかなかったんだか。フォームもスタイルもデタラメで、セオリーから外れまくりの主人公がここぞというときには決める「記録ではなく記憶に残る」物語。エースであること、あるいは勝つことや成績が宿命付けられたなかで、大衆の欲望と羨望、期待の重圧にただ「花がいい」といって散っていく男の話。


ZERO―The flower blooms on the ring………alone. (上) (Big spirits comics special) -
ZERO―The flower blooms on the ring………alone. (上) (Big spirits comics special) -

ZERO 下    BIG SPIRITS COMICS SPECIAL -
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すでに神も王も死んだ時代。それでも大衆の未開社会的心性は英雄や王を望み、英雄や偽王、道化は死なねばならない。


王殺し、偽王(モック・キング)の戴冠と死 | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/3862



彼らのために、ワイドショーやついったーで盛大に血祭りに上げられるのが現代の象徴的な王殺しの祭典なのだろう。あるいは魔女狩りであり人身供犠。




それでも



そこに最後に花が咲く



王の死んだ地に花が咲いて、新たな生命、豊穣が約束される。




そんなことを想ったとき、「ピンポン」におけるスマイルの着地点は才能なきもの、あるいは敗れた者たちの終着として当然だったのだなあと想った。



ピンポン 文庫版 コミック 全3巻完結セット (小学館文庫) -
ピンポン 文庫版 コミック 全3巻完結セット (小学館文庫) - ピンポン (1) (Big spirits comics special) -
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ピンポン(5) (ビッグコミックス) -
ピンポン(5) (ビッグコミックス) -



あるいはそれこそが「敗れざる者たち」の物語として。そしてスマイルはどちらかというと桑田で清原は孔文革っぽい。ライバル関係としてはペコだろうけど。素質とかスタイルとか性格とかで。








男気そのものはよくわかない幻想でありつつも、その元としての仁侠や筋道がきちんと通っていれば誰にも迷惑をかけない、あるいは周りの人に叶うものだったのだろうけど。そこにつきまとう虚栄と幻想を最後まで振りきれなかった男の弱さのようなものに、あるいはありえたかもしれない大リーガーや子供野球のコーチとしての終着に。捧げられるのは涙か花か、あるいは酒なのか。
























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2016年01月30日

「カイエ・ソバージュ4」 / 「イカの哲学」





神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 (講談社選書メチエ) -
神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 (講談社選書メチエ) -


イカの哲学 (集英社新書 0430) -
イカの哲学 (集英社新書 0430) -




読んだので頭の整理も兼ねて感想とかメモ的なもの。



イカの哲学のほうはカイエ・ソバージュからのスピンアウトぽく、カイエ・ソバージュのほうは中沢のそれまでの代表的な三部作(「チベットのモーツァルト」「森のバロック」「精霊の王」)を中心とした内容を大学講義用に平易に口語で語ったという感じなので中沢読者的には既出であるし、新規の中沢読者としてもうちょっと濃く・詳しくみたいのであれば三部作を読めばよいのかな、と。

全体としてはそういう印象だったのだけど、中沢の読んでないものを平易に見渡せる、というところでは便利でおもしろかった。


そのぐらいで終わっても良いのだけどせっかくなので今回読んだところのブックマーク的なメモ感想。ちょっとわかりにくかったところもあったのでエントリにかこつけて読みなおしてみた。対称性の自発的破れのところだけど。



カイエ・ソバージュ(野生のメモ ≒ 思考)の今回の主題は「神の発明」。てか一神教的な神の発明について。多神教―アニミズム的な神のほうが先だったのだろうけど、そこからなぜ、どういった経緯で排他的な一神教な神が「発明」されていったか、ということ。


結論から言えばカイエ・ソバージュのここまでの思考に則って「国家ができたので」というところと関連するように中沢は思っている。


多神教的、狩猟社会的、あるいは、国家や所有・定住を旨としない太平洋ベルトのモンゴロイド的な人々は「すべてのものに神が宿り、人もその一部」的な世界観にあった。アイヌとかでイメージすると分かりやすい。そこでは財産を所有しない、国を持たない、戦争において相手を徹底的に虐殺しない。戦争や戦いは相手はコミュニケーションの対等な相手であり、戦いはコミュニケーションのための手段となる。そのためアイヌの狩り、あるいはクマに関する儀礼ではただ「狩る」のではなく、戦いなどを通じて相手を敬い、尊重し、最終的に命をもらう。相手はこの世の仮の姿を渡し、あちらに還っていく。


こういう世界観は「海獣の子供」でもおなじみだったりする(「おまえの槍を受け取ろう」とクジラが自ら漁師の銛を食らう)。



海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX) -
海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX) -


あるいは、狩りにおいては「相手と自分は対等」というところでもうちょっと現実的なものとしてはこちらか


ゴールデンカムイ コミック 1-4巻セット (ヤングジャンプコミックス) -
ゴールデンカムイ コミック 1-4巻セット (ヤングジャンプコミックス) -

アイヌの主に食生活に関わる風習とか。





では、そういった神観 - 世界観からなぜ排他的な一神教が生まれたか?



中沢はそれを物理学における対称性の破れの比喩からそれと同じことが起こったのだと説明する。すなわち球形のような対称性の高い構造体が外部からなんらかの圧力を加えられて崩壊 → 座屈するとき、それまでの対称性の均衡は破れ、外部に全体から偏った点ができる。それが多神と唯一神(あるいは高神)との関係となっていく。


このときどのような圧力が加わったのか?ということについて中沢は多くを語らないのだけど、それまでの語りからだと「人の知性において比喩(直喩や換喩)が生まれていったから」というところと関係してるぽい。すなわち対象を具象的に直接にだけで理解するのではなく、言語を介して一度抽象化して理解した後に、その抽象化に用いた記号のみをもって抽象的思考をふくらませていく、というあれ。この部分で人類が自らの理知をhackしていったため所有や戦争なんかも抽象的な計算として対象化され処理されていったのだろう。それがなぜ可能になったか?具体的にどういった経緯やメルクマールをもって可能になっていったか?ということについてはわからないけど。



今巻の主題としての「神の発明」についてはだいたいこんな感じ。


「イカの哲学」もそれに準ずる話で、「人類はもともと多神教―アニミズム的な世界観で、他者の存在を肌で感じるようにして戦うにしても相手をある程度敬い殺し尽くさないはずだったのになぜ核戦争のような絶滅戦争をするようになったか?」「敵を一網打尽にする戦争はイカに投網を仕掛けて一網打尽とするのにも似ている」「そういった点ではイカのほうがむしろ世界の本源的な感覚に通じているのではないか?」「例えば集合的無意識といわれるような、世界のエロス的なあり方に」、という感じ。


そういうあり方、アイヌとかそういう人々と似たあり方があれば、近代戦争のような「殺し尽くす」戦争にはならないのではないか?というのが本書の主題となるのだけど。たぶんこのへんはちょっとロマン入り過ぎなように思う。核戦争とか第二次大戦的な機械化された戦争以前にも殺し尽くすような戦争はしてたし。モンゴル帝国とかスキタイとか。彼らは農耕定住民でもなかったはずだし。


まあそのへんで中沢的な「平和」に対する考えは疑問視され保留されるわけだけど。



それとは別に本書でもう一つ目を引いたのは「瞑想(メディエーション)をきちんとやれば脳内に光が見えて変な図形とか見え始めるよ」話だった。こういうのはドラッグとか使ってやるものかと思ってたけどメディエーションをきちんとやるとできるらしい。そして、たぶんインドだと結構な人がやってるぽい。。


このへん、自分的にまだまだだなあとかおもった。







posted by m_um_u at 00:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2016年01月22日

『放浪の画家ピロスマニ』を見てきたよ






小さな家とキャンバス 
他にはなにもない

貧しい絵描きが 女優に恋をした
大好きなあの人に バラの花をあげたい


ある日街中の バラを買いました


百万本のバラの花を 
あなたに あなたに あなたにあげる
窓から 窓から 見える広場を
真っ赤なバラで うめつくして・・・・・
















夕暮れが隅々に立ち寄りながら訪れる頃
想い出の幻が私の目の前を通り過ぎて行く


青い鷲、白い水牛、金色の魚よ



それなくて何の地上の命
それなくて何の地上の命



















ついったであまやどりが「これ日本にいたら見に行くのになあ。。いつか見れるのだろうか」といっていたので代わりに見に行ってきた。



『放浪の画家ピロスマニ』 - 上映 | UPLINK
http://www.uplink.co.jp/movie/2015/42112




代わりにっていうか、なんとなく興味を持ったので。あと久々に都心に行きたり映画見たりしたかったし。水曜日はuplink映画1100円の日だし。



結果的に、というか半ば予想してたけど映画はそんなにおもしろいものではなかった。

この映画の価値の主な部分はニコ・ピロスマニというマイナーな作家の作品と生涯をドキュメンタリーしたもので、作品のドラマトゥルギー的な部分はなかった。あるいは意図してそういうのは省かれたのだろうか。

構成としては「作家の生涯を語る」+「それぞれの時期の代表的な絵を見せる」といった感じ。

それが当時のグルジアののっぺりとした、あるいはまだ十分に都市化の進んでいない環境の空気感にあって素朴に現前される。

のっぺりと、遠近法的な透視図とは別の時間軸やリアリティを感じさせるそういった作風。



ストーリーとしては作家の伝記的なものでネタバレということもないのでuplinkの解説をそのまま借りよう。


映画『放浪の画家ピロスマニ』は、グルジア(ジョージア)の独学の天才画家ニコ・ピロスマニ(1862-1918)の半生を描いた作品である。近年、ピロスマニは貧しい絵描きと女優の哀しい恋を歌った「百万本のバラ」のモデルとしても知られている。名匠ギオルギ・シェンゲラヤ監督は、名も知れず清冽に生きたピロスマニの魂を、憧れにも似た情熱で描くとともに、グルジアの風土や民族の心を見事に映像化した。


ピロスマニの本名はニコロズ・ピロスマナシュヴィリ。19世紀末から20世紀初頭にかけて、カフカス(コーカサス)山脈の南にある国グルジアで、パンや酒とひきかえに店に飾る絵や看板を描き続け、貧しく孤独のうちに亡くなった。放浪の画家、孤高の画家と呼ばれ、絵は人物、動物、暮らし、風景などをテーマに、グルジアの風土に育まれた世界を素朴な筆致で描いたもので、その数は1000点から2000点といわれている。   
死後に高く評価され、現在はグルジア人の魂を象徴する存在として人々に愛され、収集された200点余りが国立美術館等で大切に保存、展示されている。世界中で展覧会が開かれているが、日本でも1986年に大々的な展覧会が催され、2008年の「青春のロシア・アヴァンギャルド」展でも展示されて話題になった。



あるいはウィキペディアの説明

ニコ・ピロスマニ(Niko Pirosmani, 本名ニコ・ピロスマナシヴィリ Niko Pirosmanashvili, グルジア語 ნიკო ფიროსმანაშვილი、1862年 - 1918年4月9日)は19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したグルジアの画家。彼はグルジア東部のMirzaani(ミルザーニ)の村で生まれた。後にトビリシに出て、グルジア鉄道で働いたり自分の商店を持ったりしたが、体が弱いうえに人付き合いがうまく行かなかったため長続きしなかった。その後、独学で習得した絵を描くことに専念するようになった。

彼はプリミティヴィズム(原始主義)あるいは素朴派(ナイーブ・アート)の画家に分類されており、彼の絵の多くは荒野にたたずむ動物たちや食卓を囲むグルジアの人々を描いたものである。彼はグルジアを流浪しながら絵を描いてその日暮らしを続けた。一旦はロシア美術界から注目され名が知られるようになったが、そのプリミティヴな画風ゆえに新聞などから幼稚な絵だという非難を浴びてしまった。

失意の彼は1918年、貧困のうちに死去したが、死後グルジアでは国民的画家として愛されるようになったほか、ロシアをはじめとした各国でも有名である。ソ連では1971年と1986年にその生涯が映画化されている。





「放浪の画家」「生涯どこにも属さず孤高を貫き、ただ絵を描いた」というところが人を惹きつける魅力なのだろうし、自分もそのへんに興味を持って映画を見に行ったのだけど、この映画的にはそのへんちょっとびみょーに描かれているように思えた。

「放浪の画家」というと絵の技術だけをもって土地から土地を渡り歩く旅ガラス、吟遊詩人的なものを想わせるのだけど、ピロスマニはグルジアの町にずっととどまっていた。町のなかの居酒屋コミュニティに。そういう意味では放浪というイメージとはちょっと違っていた。どちらかというと下北とかそういうとこで定職につかずずっとサブカルしてる人みたいな感じ。まあ両者に明確な違いがあるのか?といえばそうなんだけど。


あと「孤高の」というか単に偏屈で非コミュ・コミュ障・マイノリティなとこがあったのかなあ。。て印象。最初に義理の姉かなんかに懸想して実家から出ざるを得なくなったみたいなとこにしてもそうだし、友人とはじめた食料品店を辞めた経緯にしても「義兄に結婚詐欺的なもので裏切られ世の中信用できなくなって自棄(やけ)になって、なんだかどうでもよくなったので店のもの全部もってけや(がはは」て感じだったし。んでもこの場面でロシア貴族の使いかなんかには法外な値段ふっかけるところなんかは当時の時代背景を想わせた。



この映画を通じて得られる物語としてはそんな感じで、要約すれば「世の中になじめない、アスペ気味非コミュな男が、画才はもっていたのでそれを二束三文で切り売りして居酒屋渡り歩きで食いつないでいたが、最後に世の中に認められようとしたところで『こいつの絵はちゃんと訓練されてないm9(^Д^)しろーとのものだ』とこき下ろされ一気に評価が下降。居酒屋界隈からも見捨てられ失意の内に生涯を終えた」というもの。


ゲージツフーテン物語としては全体的に鬱ぽい内容なのだけど、そういったナイーブさは切断されてただ淡々と、素朴にその辺が描かれていた。ちょうどピロスマニの画風のように。あるいは当時のグルジアの風土のように。



ナイーブに、あるいはドラマティック・ロマンティックに描くのならば「貧しい画家ががんばって100万本のバラの花を踊り子に送った」のところをフィーチャーするものだろうけど、この映画的にはまったくそういった場面がなかった。まあ史実と異なって、ピロスマニの生涯からインスピした詩人が作ったドラマだから、というのもあるからだろうけど。いちおモデルとなった踊り子が出てくる場面もあったけどちょっと(´・ω`・)あ、踊ってるな、てぐらいで、特にロマンスもなかった。いちお「ピロスマニが好きだったので彼女を絵に残したらしい」みたいなのはあったけど。

ドラマトゥルギー的には、あるいは清貧の部分をもうちょっと押し出してもよかったのかもしれない。んでもこの作品ではそういった部分が排されていた。意図的にかどうかよくわからないけど。


「フィクションを排したのは孤高の画家の生涯に経緯を評したから」というのはあったのかもしれない。彼を題材にした日本語本だとそういうのはフィーチャーされてるみたいだけど。



放浪の聖画家ピロスマニ(集英社新書ヴィジュアル版) -
放浪の聖画家ピロスマニ(集英社新書ヴィジュアル版) -


大きな木の家―わたしのニコ・ピロスマニ -
大きな木の家―わたしのニコ・ピロスマニ -

放浪の画家 ニコ・ピロスマニ -
放浪の画家 ニコ・ピロスマニ -



放浪の画家 ニコ・ピロスマニ - 本と奇妙な煙
http://d.hatena.ne.jp/kingfish/20150828


彼の絵についても映画よりもむしろこっちのほうが分かりやすいのかもしれない。


なので絵についての判断とか印象みたいなのは保留。




そういえばこの映画のビデオやDVDは販売されてるみたい。

ピロスマニ【字幕版】 [VHS] -
ピロスマニ【字幕版】 [VHS] -

ピロスマニ [DVD] -
ピロスマニ [DVD] -



TSUTAYAでもレンタルしてるけど、渋谷店でVHSがかろうじてって感じだからナンダッタラ神保町のjanisとか覗いたら案外あるかもしれない。ちなみにアマゾンではプレミアついてて高い。




あとは映画を見つつなんとなく疑問に思って調べたこととか。



このエントリの冒頭でもちょこっと言ったけど、映画を見てるとちょっと違和感を感じるほどのっぺりと、なにもないところに小屋があるような環境があったりして「(´・ω`・)当時のグルジアってそんなかんじだったの?」て想わせたり。絵面・構図的にはちょっとタルコフスキーの「サクリファイス」とか想わせるのだけど、特にそういう意図もなく自然にそういうこととになってたのかも。当時の田舎のグルジアだとほんとになにもなかったから。



当時のグルジアってどういうことだったの?なんか、東ヨーロッパの朴訥質実剛健みたいなのを想わせるし、イスラーム文化圏のそれとロシアの影もあって。。てことでちょっと調べて見るに、「19世紀後半から20世紀初頭」ということで「乙嫁語り」とほぼおなじ時代だったということだろう。



乙嫁語り 1巻<乙嫁語り> (ビームコミックス(ハルタ)) -
乙嫁語り 1巻<乙嫁語り> (ビームコミックス(ハルタ)) -


乙嫁語り コミック 1-8巻セット (ビームコミックス) -
乙嫁語り コミック 1-8巻セット (ビームコミックス) -

[まとめ買い] 乙嫁語り -
[まとめ買い] 乙嫁語り -


なのでこの辺の説明とか分かりやすい


徒然なるままに|「乙嫁語り」の世界
http://www.geocities.jp/msakurakoji/900Note/114.htm


すなわち18世紀後半のフランス革命 → ナポレオンによる帝政+国民国家大躍進によって他の国も一気に国民国家へと傾いていった時代。

ヨーロッパ辺境の田舎貴族+皮剥ぎ商人の末裔だったロシアもそういった時代の流れから王政から帝政へ、そして国民国家へ転じていく。




中東から中央アジアはそういったヨーロッパ列強の植民地とされていく脅威を感じつつ、自分たちの主権というか縄張りを守ろうとしていた。あるいはあたらしい時代に順応していく者たちも。


「乙嫁語り」はカスピ海をはさんで東側、中央アジアの草原の民の物語として描かれ、イギリスが主に領有権を確保している感じだったけど北からのロシアの脅威もびみょーに描かれていた。


グルジアはもっとロシア寄りで、より東方問題的な政治的複雑が絡んでいく地域だった。そしてスターリンの生地でもある。


グルジア問題 - Wikipedia
http://bit.ly/1QpbZ5L


ロシア革命 - Wikipedia
http://bit.ly/1Qpc09L



これらの面倒事が吹き出すのはピロスマニの死後ということであったけど、ちょうど時代の転換点まで生きて、そして死んで行ったのだなという感じ。そういった意味ではピロスマニの画風、あるいはそのテーマなどに当時のグルジアの時代環境や空気感のようなものがびみょーに反映されていたのだろう。ロシアからの脅威と、それに対する故郷の誇りのようなものと。近代化によって変わりゆく風景と変わらないものと。


勝手な思い込みからするとグルジア人が後にピロスマニを故郷の誇りとしたのはそういった背景もあったのかもしれない。

素朴派と分類される朴訥で力強い実線に。透視図法を用いない平面的な空間に。野獣派 → 象徴主義的なヨーロッパ近代に対するオルタナを託して。


アフリカンアートを想わせる力強く独特な色彩とリアリティ



Google画像検索「ピロスマニ」





それが今作で感じた「ピロスマニ」だった







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2016年01月13日

はてブの終わりとBlogosphereの来し方行く末、みたいなの






地上には雨がふっている


都市 あらゆる都市の窓がしまり
愛も偏見もかたくなに口をとざしてしまう


沈黙が暗号にかわり
暗号がシンボルにかわり
シンボルがおびただしい車輪にかわる

戸口という戸口から
巨大な暗緑色の車輪がとめどもなくあらわれる

鉱物質の叫びは
雨のなかへ
雨は路上へ

路上には群衆が
群衆のなかの群衆が

いっせいに黒い蝙蝠傘をひらくだろう
いっせいに黒い蝙蝠傘をひらくだろう




はげしく回転する車輪の軸

その熱性の中心

おお その性的遠心力によって
ふるえるものはすべては秋のなかに

秋の光りのなかに

魂の色のなかに

われら盲いたるものすべては

落下する




















朝にCasa BRUTUSのライフスタイルショップ特集(理想の暮らしが買える店)を眺めていて「北欧暮らしの道具店」て載ってたので「そういや最近はてブでフォローしてる北欧系の公式アカウントが良いよな」とおもって見返してみたらやっぱりそうだった。

http://b.hatena.ne.jp/hokuoh_kurashi/



自分的に最近のはてブの「お気に入り」チェックは公式アカウントが使える感じ。感覚的にははてブ経由の半分の情報量は公式アカウントに頼ってる感がある。ちなみに自分的におすすめというか見てるアカウントはこの辺

http://b.hatena.ne.jp/CINRANET/

http://b.hatena.ne.jp/konomangagasugoi/

http://b.hatena.ne.jp/HONZ/

http://b.hatena.ne.jp/fashion-press/

http://b.hatena.ne.jp/vicejapan/


RSSリーダーを使わなくなって久しい → はてブの「お気に入り」とついったー、SmartNewsなどのニュースアグリゲーションサービスなんかでだいたいの情報は済ませてるのでこういうのは助かる。


「はてなはもう終わりだろうなあ」みたいなエントリを昨日したけど、はてブはこういう形だと使える感じ。自分的に。


ライフスタイルショップというのはイケスカナイおされうんたらみたいなので自分としてもちょっと小馬鹿にしてたところはあるし、はてブとか速水健朗さんとかにケチョンケチョンにけなされがちではあるのだろうなあとか思うんだけど。ブルーボトルとかミニマルとか。

【第61回】ネタ化される「上質な暮らし」と盲信する「サードウェーブ系男子」|すべてのニュースは賞味期限切れである|おぐらりゅうじ/速水健朗|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/9079

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール -
奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール -
カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生 -
カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生 -



そういうのとは別に、実際につかってみて気持ち良いし快適なので「これはこれ」として使ってみようかなあって気になってる。ああいうものはいわゆるファッション的なものにも共通するのだろうし。


ライフスタイル的なもの、あるいは、サブカル的なものを好む傾向の是非についてはまた別でもっとうんたらしたいなあと思いつつはてなの話に戻ろう。


はてな、というか、ユーザーとして使用するはてなのサービスとして。はてなダイアリーやはてなブックマークというのは結構前から「もう終わりだ」みたいなのは自分の関心のある人周りだとちらほらいっていて、自分的にも似た感じだった。

端的には「twitterはじまったんだからもうtwitterでいいじゃん?」てこと。

だいたいのはてなダイアリーはそんなに深い論考を出してるわけでもなくついったーの140文字でまとまるようなエントリばっかだし、ついったーのほうがレスポンスも速い。特にギロンと名うったケンケンガクガクやクネクネがしたいだけのひとたちはレスポンスが速いほうがよいだろうし。そうすると「ブログである必要があるのか?」みたいなのがチラホラ見え出し、そのせいかどうかわかんないけどついったー時代になってブログを書かなくなった人たちがチラホラ。

それは「ついったー的な短文に最適化したアウトプットしてるとそっちのほうが楽になったり慣れたりしてブログの書き方を忘れた」みたいなのもあっただろうけど。そもそもそういう人たちはブログを書くこと、ブログでなにを表現するか?ブログとはなにか?ということに対する考え方が足りなかったようにも思えた。


自分はblog黎明期からblogというものを見てきたし、その参与観察的な形でblogをはじめたので、古いblogの定義に属するものなんだけど。

すなわち、「blogとはweblogの略。アメリカのウェブデザイナー界隈でWebをクロールする際に気になった情報、logを書き留めているうちにそれ自体がjournalとしての性格を持ち回覧されるようになった」、みたいなの。そういう時代のblogというのはジャーナリズムのオルタナであることが志向されていた。ダン・ギルモアとか伊藤穰一界隈。トリビア的にはblogのjournalを「エントリ」というのはこういった背景からのように思う。すなわち、「ジャーナリスティックなドキュメントとしての記事というのとは違うので、とりあえずMovable Typeなどのblogツールを使って書いたものをアウトプットするときのエントリボタンをそのまま動詞 → 一般名詞型な略称にしとこう」、みたいなの。

それに対して、「日本のそれはウェブ日記文化の継承でありジャーナリスティックなものには成り難いのではないか?そもそも日本は日記文化というものがあり…」みたいなのもあった。あとテキストサイト的な様式美がうんたらかんたら。くわえてニュースサイトがどうとかこうとか。



まあそういうのの是非は「あれから僕たちは」な現在、自分で確認できるものだと思うのだけど。


少なくとも自分が「内容がない」というときの見方はそういうのに属する。




そういう見方をもったbloggerやBlogosphereの気概、前提のようなものも遠くなって久しい感じ。


それは徳力さんあたりが進めていった日本のブロゴスフィアの盛り上げ、アルファブログ・ブロガーの選定や方向付けが外れたというのもあるのだろうけど、全体のメディア環境の変化も関係してるのかもしれない。まあ関心チャネルやアウトプットツールが増えた。



そして、「今年の終わりからはじまっていよいよ日本のネット環境にも動画元年が」、とか。
このへんでまたなんか変わるのかなあとかチラッと思うも、そんなに変わらないかもしれない。

でも、まあ地味に雰囲気が変わってきてる、みたいなのはある。

2016年のネットメデイア展望うんたら / 初詣で・初遠足|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nbe15070a7542





このエントリの主題としては「はてブのお気に入り登録できる企業公式アカウントけっこう使えるよ」ぐらいだったのだけどそういったことを思ったのはこの辺をちら見したから。



はてなブックマークというサービスについて思うこと - しっきーのブログ
http://blog.skky.jp/entry/2016/01/12/223756

わりと最近はてなとかはじめた人みたいなので上記のような経緯はもとよりはてなコミュニティ黎明期とかの様子も知らないみたい。はてなというのがその名の通りもともと公開質問してそれを不特定多数が答えていくサービスを軸としていたことも。

自分とかはsivadさんとかが四天王の一人とかリリカさんとか北田暁大さんとかが居た頃を思い出すのだけど。あるいは波状言論がどうとか。


なんどかエントリされたことだろうけどそういう時代のはてなのあのへんはまだアカデミックなものとjournalなものの中間的な性格があったように思う。

いまもそういったものをはてなでされてるダイアリーに偶に見えることもあるのだけど。それはコミュニティというわけでもなくひとりずつの日記て感じなので。



自分的にはてなのコミュニティが面白かった時代はあのあたりで、それ以降はどんどん細くなっていったなあ、て感じ。


特にホッテントリという装置がそのへんに影響したのだろう。まあ簡単には言論空間のワイドショー化だったわけだけど。それであのへんでクネクネ的なものが流行り、それが前景化されるようになった。

いまはそのクネクネや祭り的なものもあまりないようで、それでさえもごちそう感はあるのだろうけど。


たぶんサードブロガーとか言われてた人たちはそういう背景を知らない、あるいは知識としては知っていても、自分たちがしていることが単なる馴れ合いのクネクネであること、そしてそれが「内容がない」ということにはきづけなかったのだろう。


その時点ではてなは終わり、というか、終わった後の形骸になにかが咲いていた。深海の鯨の骨の周りに独特の生態系ができるように。


現在ははてぶ互助会とかぶくまを金で買ってうんたらとかスパムみたいなのがさらに悪どく、前景化しているようだけど。まあそれも死体とか腐肉あさりというか、終わってしまったものの上に魍魎が、てかんじ。特にそこで驚きもない。一般的には共有地の悲劇的な現象なのだろうけど。そもそも共有地としての機能はだいぶ前に終わってたように思えるし。


まあそうはいってもクネクネしたい人、ああいった同人的な慣れ合いを是しとする人達もいるのだろうし、ああいった同人的なものだからこそ表出される表現や景色、心情みたいなのがあったりもする。

そこにコミットした人たちが現在のあのあたり、「村」といっていいかどうかわからないあのあたりにとどまっているのだろう。



僕はブロガーになれない - orangestarの雑記
http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2016/01/08/070954

「俺は2010年代のブロガーになれない」 - シロクマの屑籠
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160108/1452245937


彼らはそういったアマチュアリズムに留まりたいといっているのだろう。「プロになると、金をもらったりして書くようになると書けないものがある」的に。


まあでもわれわれが志向したオルタナジャーナリズムとしてのblog、公共圏としてのBlogosphereはそういったふつーの生活的な心情や実感、リアリティを表すことを志向したはずだけど。既存の権威化したジャーナリズムではあらわせないものを表すオルタナとしてのblog。




弁当さんとかはその辺の意識を共有する感じで、最近の彼の一連はそのへんのびみょーさを感じさせた。


「ブロガーとして」と彼がいう時のそれは明確にオルタナな言論空間としてのそれを志向しているわけだし。そして、それがあるから政治・社会・経済的に公共的な話題に触れようとするのだろう。(ノ・∀・)ノ=●ウンコー!!とかされつつ。そして、それで地味にダメージとか食らいつつ。






この辺りについて、自分はどうか?、といえばもはやこのblogは自分のお勉強の成果の確認の場というか、書いて明確化して確認して一旦セーブして次に繋げる、場になってるのでジャーナリズムて感じでもないのだけど。


まあでもお勉強の成果が貯まって、それが政治経済的な事件にも反映されるようになれば自然と出していくのかもしれない。でももともとの性格とか方向性的にそういうものが合わないのかもで出さないのかもだけど。



そいやぶくまについて「くさすためだけにぶくまするならふつーに好きなもの見て褒めとけばいいじゃん」みたいなのみたのだけど、そういうのは自分的にだいぶ前からやってるので(ヽ´ω`)…て感じでもあった。

褒めるつーか対象となるサイトの情報を文字制限に合わせて精確に要約するに留める、ぐらい。あるいは簡単なメモ。

ソーシャルブックマークというのはもともとそういうものであるはずだけどぶっくまーくなんだから。でもまあ「結果的にミニブログとしての性格も持つようになった」というのもわからんでもない。

ただ、それはtwitterとか以前のことで、ついったーなんかでそういうことできるようになったらあまりあのへんでクネクネする意味なくなったと思うのだけど。それをまだやってる人たちは、機能的にはてブなどのソーシャルブックマークがそれに適してるから、というよりは、あのコミュニティの特定の人たちに向けて、て感じなのだろう。










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2016年01月12日

イケダ屋事変と村の終わり





夜の形のまま
僕の村は暮れる


村長は昔の想ひ出を繰り返へすやうに
彼の窓をひらく

光がその窓から流れる外側に
僕が昔のやうにゐる

村長の手のヒラは人生を思った



「道になら赤い花が咲いてゐる
咲いてゐる道が長いほど
お寺がこの村にもある」

鍋や花が僕の唇を濡らすなら
「僕は黙らねばなるまい」とも思ふ

あの日 僕の語った言葉は
遠い村民の唄にもなってゐた

唄は夜の形ではない

「樹を枯らしてはならん」

こんな形かもしれない


だから村長の手のヒラは人生を思った















基本的に自分のblogはお勉強blog的なもので他人様のあり方をあーだこーだいったりしてクネクネというのは禁じ手にしてるのだけど、まあたまにはいいかいま読んでた本の内容にもリンクするし、ということで。


ついったのTLでシロクマさんがれぽんを確認的に型にはめにいっていて(´・ω`・)すわ、一悶着か?とれぽんのTLをみにいってみるに「このまま不用意になんかゆってもシロクマに型にはめられるだけでめんどくさそう」ということでガンスルーぽかった。


http://b.hatena.ne.jp/repon/20160111#bookmark-276120130

長いです。 ついさっき、イケダハヤトって人について書いた記事を読んでた..
http://anond.hatelabo.jp/20160110131135

某プロブロガーを擁護する。 - Everything you've ever Dreamed
http://delete-all.hatenablog.com/entry/2016/01/11/190319

コンビニ店長、私はあなたとブログ交流を続けたかった。しかし、それは難しいのようですね。 - シロクマの屑籠
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160111/1452503553



イケダハヤトというひとがはてな民(特に村民周辺?)とか、あるいは切込隊長とかのネット民の周りで不評なのはなんとなく垣間見ていて、でも、イケダハヤトというひとについてそんなに詳しく知らない / そんなに掘り下げる気もないので「よくいる情報商材的な人かな?東京の駅前のカフェとかで若者引っ掛けようとする類の」みたいな印象で、自分としては特に積極的に見る気もなく、たまに話題に登ったときにチラ見しにいって、結果的にやっぱりがっかりしたので「まあやっぱそんなもんだよね」ぐらいだったのだけど、界隈の人たちにとっては相変わらずホット?な話題ぽく、わざわざ見に行ったり、あるいは、彼のぶちあげたタイトルだけ見ていらっと来てるらしい。

「いや、嫌なら見なきゃいいじゃんどうせがっかりして腐すだけだろうし特におべんきょーになるとこもないのだろうから」とおもうのだけど、たぶん界隈の人たちは元から腐すための相手を探しているのか、もしくは、なんか彼に気になるところ、彼らのなかで気になるポイントがあるので見に行ってしまうのかもしれない。たとえば彼の「ネットだけで食べていけるよー☆-(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノイエーイ」みたいなのとか。

アフィリエイトとかネットで、あるいはブログで稼ぐとかいうの。自分的には「まあ、それも収入の一つにできれば楽だよねえ(ヽ´ω`)…」ぐらいのスタンスだし、ぶくまで様子見てるとphaなんかもそんな感じかなあ、とか。まあイケダさんに直接興味もってるってわけではなく「生計の一つとしてこういうのが有効ならいいなあ」てぐらいでそれはアフィリエイトへの関心と同じだろうけど。そういやはてな界隈だとphaは好意的に受け取られてるように思うけど、phaがアフィリエイトについて語ったり関心をもっても特にアフィ厨とか、イケダハヤトさんへの嫌悪みたいなのと同様のものはもたれないのだろうか。だとするとその違いはどこなのかなあとかちょっと想ったりしつつ話題がそれたので戻ると。

「ネットだけで」てとこだとたしかに情報商材ぽいし、よしんばイケダハヤトというひとがほんとにそれだけで成功?だかなんだかしてとりあえず食べれてるとしても、それは万人に通じるものでもなく彼固有の基盤や背景があったからなせたことなのだろうから一般論でもないのだろうなあ、ぐらいにおもってる。よくある似非ビジネス本というか、経営者の成功本みたいなあれで。成功した経営者が自身の成功事例を語るのだけど、それが学術的にきちんとした分析になってなくて、基本的な背景部分を語ってないので万人に通じない、たんなるえっしゃえっしゃな自慢話になりがちなのと同じように。ちなみに「えっしゃえっしゃ」というのは田中角栄的な笑い声の表現であってessaさんとかは関係ないです。

よく知らないけどイケダハヤトという人の場合は、彼の路線がうまく回るまえに大企業だかなんだかでうまくコネクションや下地ができていて、それがあったのでうまくいったのかなあ、て印象がある。恋愛工学のひとも似た感じ。あるいはは○ちゅうとかも。

見に行っても自分的には内容がないのだけど、彼らが注目をあつめるのはそういう演出や技術に長けてるからなのかなあ、みたいなのは思う。

彼や彼女たち、あるいは、ITバブルみたいなのでウェイウェイいってる / ネットがあればなんでもできるよ☆みたいな東京キラキラ系のひとたちは世界が違うのだろうなあ、みたいな。


ちょっと言語化しにくいけど。彼や彼女たちがうまいこといったのは文化資本とか社会関係資本とか、そういう言葉でなんとなく仮置きされてる、個人の能力だけでは説明できないような環境的な豊かさが背景にあって、それを彼や彼女たちは偶然掴んだけどほぼ無自覚なのでその背景を度外視して語り勝ちになるのだろうな、ぐらい。まあそういうと彼らは「そういうのをつかめたのもぼくらの努力やもってうまれた才能があったからだ」みたいなこといって「いやいやいや、、」ってなるから堂々巡りなんだけど。




まあ、そこを批判したりやっかみしたりするのでもなく、自分としては「そういうものだ」「世界が違う」ぐらいに落ち着いてるのだけど。そして、特に見ない。得るものがなくイラッと来るだけなので。

まあなので自分もイラッと来るのは来るんだなそういう人たちに。




そういう「彼らは内容や実力はないけど売れる」「うまいことお金をもらえる」「世界が違う」ということについて、コンビニ店長(とはてな界隈で呼ばれる人?)がうまいこと表現してた。

俺が売ってるものは食い物がメインです。食い物は、払った金のぶんだけはなんらかの満足を客に与えなきゃいけない。そうでないと売れない。食い物の第一の機能は「食ったら腹埋まる」ということですが、ほかにも甘くておいしいだとか、レアだとかまあいろいろあります。ごく大雑把にいうと、普及価格の食い物に関しては「おいしい」と「腹埋まる」がメインの機能で、ほかのものは付加価値だと思ってます。
しかし実際に売れる商品ってのは付加価値で売れるんですよな。パッケージがいい、CMが大量投下されてる、見た目より重い、いままでに見たことがない、など。まあリピート以外の要因では、食ったことがない状態から買うんだからあたりまえの話ではありますが。
で、イケダハヤトっていう人は、この付加価値の部分を極大化させた人だと思うのです。あらかじめ言っておきますが、いいとか悪いとかの話はしてないです。そもそも俺はブログってものを「文章をのっけるためのメディア」としか考えてません。俺にとってそうだからそうだ、というだけの話で、この段階で、そうは把握していない人を批判する資格と能力がありません。
ただ、人目に触れるなんらかのメディアである以上、その本分は「おもしろい」か「役に立つ」だと思ってます。おもしろいってのはなんでもいいです。単純に笑えてもいいし、罵倒芸でもいいし、人の生の一断面があらわれてるようなものでもいいし。そして、それ以外の部分はすべて付加価値です。



まあこういった小売で内容-材料-サービスやモノの本質的なとこ以外の「売れる」周辺要素を「付加価値」という言葉で表し通じる現状があるので。

自分的にはそれは付加価値≒演出、というだけではなく、その前段階の「売れるに至るまでの背景」みたいなのがあったからだとおもうけど。




イケダハヤトさん、あるいはそれ系のひとについてはそのぐらいで終わり。


あとはれぽんがルサンチマン吹き出してたのが気になった。
https://twitter.com/repon/status/682558082505768960
https://twitter.com/repon/status/682557619857305604
https://twitter.com/repon/status/682555943037480962
https://twitter.com/repon/status/682529483346214916
https://twitter.com/repon/status/682426232026206208
https://twitter.com/repon/status/682425624502243328
https://twitter.com/repon/status/682169813058240512
https://twitter.com/repon/status/682167469750894592


また「奴隷」とか「他人を食い物」とかドロドロした言葉使ってんなあ、、とか思いつつ。まあ彼の場合は実際にそういう人たちに関わって利用されてた経緯があるし、その傷がなかなか癒えない / 家族との暮らしの現状でもそれが続いてるというのもあるのだろうからその日常のストレスがどす黒くヘドロのように貯まってるのだろうなあとか思うのだけど。あと、そういうので吐いた恨み節が彼がネットで注目された経緯 → 持ち味的になってるというのもあるし。



コンビニ店長とかフミコフミオさんには好意を持ちつつシロクマさんはくさしたのもそういう経緯・背景からだったのかなあとか邪推する。


最近のシロクマさんは特に落ち着いてプチブル()感漂わせてるし、そういうのが「安全圏からなんかいってやがる」的に癇に障ったのかなあ + オレのてんちょーを語るな、的な。


つか、れぽんの言ってたのはちょうど読んでたカイエ・ソバージュ3に繋がるなあとか思った。


愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ) -
愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ) -


「富の奪い合いが人類の類的本質。人間性とは同類への攻撃性」とかれぽんはゆってて、実際彼はそういう闇金ウシジマくん的な世界で生きてきたのだろうし、現在もそういうところにいるのかもだからそういう風におもって当然 / そう思うことでやっていけるというのもあるのかなと思うのだけど。


中沢新一ほか贈与経済に希望を見出した系のひとたちというのは「それは人間の本質というか資本主義型経済が中心になってる現在の不備であり、人類が未完の結果だ」ということになるのかなあ、とか。


れぽん的には「資本主義が現状な現在、けっきょく資本をもってそれを投資サイクルしていったものの勝ちであり、貧乏人がその波にのるためにはどっかの段階でギャンブルせざるを得ない。貴族なやつらは貧乏人のそういう場面での不安と勇気を理解しようとしない」ってカイジ的なマインドにあるのかなてとこなのだけど。「サバイブな現状的にはそういうのもあるよ(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」とか思いつつ、抽象度をあげると「経済とか交換、あるいは贈与というのはなんか神秘的な運動で、そういうところに人類は愛を求める」みたいな中沢のいうこともなんとなくわかるようなわからないような。

ベタには貨幣経済で価値が平均的に裁断 → マトリクスされた交換関係の中で、人の生が物象化されて疎外されていく → なんだか味気なくなる、てあれで、そういうときに「お金だけじゃないもっとあったかいつながりのようなもの」を求める気持ちがあるのもわかる。

まあそういうこというと、あるいはそれだけで語ろうとすると( `д´) ケッ!ブルジョア安楽椅子の貴族主義が平和ボケしやがって、てことにはなるだろうけど。



「愛」という言葉がなんか漠然と範囲が広いのだったら承認欲求という言葉ではてな界隈で広まってるああいうのでもいい。まああれが「愛」ってことでもなく「愛」的なものの一部だろうけど。


ちなみに承認欲求という言葉で通じてるあのへんの定義がいかに曖昧で漠然としたものかは以前についったで愚痴ったのだけどめんどくさいのでここではまとめなおさない。まあ興味あるならこのへんみればいいとおもう。
http://twilog.org/m_um_u/date-151123

あるいは

http://twilog.org/m_um_u

を「承認欲求」で検索

http://bit.ly/1RIGe7s



そういう虚栄と欲望、あるいはそこからの嫉妬の混ざった複雑な気持ちがあのへんなのかなあとか。


けっきょくはてな村というのはかのせさんとかシロクマさんとかが「承認欲求」という言葉を中心につくっていった、あるいはなんとなく界隈していったあのへんで、であるなら、承認欲求という言葉が上記twのような理由で解体されたとき、ほんとに「村」は相対化され解体されたのだろうなとか自分的に思った。


そしてふたたびはてな村奇譚とかを眺めるのだ



はてな村奇譚上 -
はてな村奇譚上 -



そいやはてな村奇譚もアマゾンプライム無料なキンドル本の対象になってたのだけど、それは1月に一冊、クラウド的に読めるというだけのようでこれをダウンロードした後にゲンロンも無料対象になってたので落とそうとしたら「一度に一冊で同時に二冊は出来ません」とか表示されてしまった(´・ω・`)


ゲンロン1 現代日本の批評 -
ゲンロン1 現代日本の批評 -


まあけっきょくこっちに張り替えたのだけど。


このぐらいの感じでこのぐらいの本とか雑誌が読めてくと楽だなあとかおもって現代思想やらそのへんのも対象にならないかなあとか思うのだけど特になかった。こういうの自主的にできるならレトリカとかもさっさとやっとけ(←八つ当たり








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2016年01月03日

「タブーの謎を解く」「食の歴史人類学」





ついったかはてぶ経由でみたブログで紹介されていた本がおもしろそうだったので読んでみたら実際おもしろくて、いちお感想なりなんなりまとめようなあとおもいつつも年末で忙しくてなかなか時間がなく。まあいま同著者の別の本読んでるのでまとめてなんか書いとこう。


もし同性愛を「キモい」と感じるとしたら、最大の理由はおそらく自分自身の中にある同性愛的傾向を嫌悪しているからだと思う - しいたげられたしいたけ
http://watto.hatenablog.com/entry/2015/11/30/003000



タブーの謎を解く―食と性の文化学 (ちくま新書) -
タブーの謎を解く―食と性の文化学 (ちくま新書) -



上記の紹介エントリで書かれていた内容は違和感あったのでちょっとついったーでうんたらゆっといたけど
https://twitter.com/m_um_u/status/671453940194476033

紹介されてた本自体はたしかにおもしろかった


本書の内容を簡単に要約すると、<人類には大きく「性」と「食」をめぐるタブーがあり、タブーが設定されてる領域というのは得てして境界(リーメン)領域であり、2つの価値・規範の混ざり合うところ、混雑(カオス)してわけわかんなくなるところにある。その混乱を識別するためにタブーが設定され夫々の文化ごとに守られるように規範化される>、というもの。

人がなにかをキモいとか思うようになるのはこの文化・規範が刷り込まれてるからであり、刷り込みによって天与の属性、本質的なものと勘違いしがちだけどそれらは文化的な規範であり識別子程度のものだ、という話。


言ってみればホモフォビア的なものも畳の縁を踏むタブー≒キモさと変わらないということ。


ちなみにホモ的なものへの禁忌、あるいはその反対の奨励も、ヘテロにおけるインセストをめぐるタブーやその前提として女性を贈与交換の交換剤として扱うことにしても共同体における経済合理性がその要因となっている、ということらしい。


たとえば非近代的な共同体ではしばしば通過儀礼として未成年男子が成年男子の精液を飲まされるらしい。

性が近代的な消費対象としてステロタイプ化されてない文化圏では性がしばしば神秘的なものとして扱われ、社会の中心的な性別としての男性の性には霊気のようなものが宿るとされる。すでに戦士として成年した大人の男性に宿るそういったものを未成年に受け渡してからヘテロ的な交わりを行っていく段階に移る。

まあ似たような通過儀礼をとる共同体全てで精液を飲ませるわけではなく共同体によってやり方は違うみたいなんだけど。



ここでは性をめぐるコスモロジーが人間中心なセックス的なもの以外にも接続しているのでこういったことがふつーに行われている。



インセストが設定されるのは基本的には、外部の因子を必要とするため≒内部で自家消費してると外に回りにくいので禁じた、ということになる。あるいは近親相姦してると遺伝子的に弱くなっていくから、というもの。


それは俯瞰すれば「生物学的、あるいは社会性物的な合理性に基づく」ということになるのだろうけど、人間はすべての行動をそういった合理性に基づく完全合理性にもとづいて選択しているわけではない。


私は何も生物学的説明はすべて間違いだといっているのではない。そうではなくて、ヒトの近親相姦禁忌は、なんらかの自然的、生物学的あるいは生態学的な基盤の上にのっていて、それとまったく無関係ではないにしても、しかしそれだけでは完全に説明できない。論理的階梯の質的レベルが一段違っている、といいたいだけなのである。



このへんにハビトゥス的なものも絡むのかなと思う。なので著者(山内)も「食」や「性」に惹かれるのかなあ、とか。





おもしろかったので同著者の代表作的なものを見てみたらこんなのがあったので現在図書館で借りて読んでる。



「食」の歴史人類学―比較文化論の地平 -
「食」の歴史人類学―比較文化論の地平 -




現在「日本人と異国料理」「南欧人と異国料理」の2章を読んだところ。


伊達の支倉遣欧使節がヨーロッパにいったときに何を食べたか?、とか、ザビエルら宣教師が日本に来た時に日本が粗食すぎて苦労した話とか書いてあっておもしろいのだけど、そのなかでも両章に渡って目立ったのは支倉使節団ぐらいの時代の頃は食に関する文明的には日本のほうが進んでたのではないか?というところ。

「どっちが進んでるか?」みたいなのは文化相対主義的なところがあるのだけど、食の文明をめぐるこのあたりでは「皿がそれぞれに分けられていたか」「手づかみではなかったか?」みたいなのが一つの基準に成ったりする。


南直人、1998、「ヨーロッパの舌はどう変わったか」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384995687.html



まあ「手で直接食べるから野蛮」とも即断できなくて、手で食べることの豊かさみたいなのもあるわけだけど。


とりあえずこの時代にはまだ西欧における野蛮の名残があったぽい。皿とかはなくテーブルに直接料理をぶちまけ、それを甲冑のままナイフで削り、ともすると大皿やテーブルにおかれたそれを争うときにナイフで手を傷つけられるために篭手などが必要だった。貴族や文化人もテーブルクロスで手づかみのヨゴレを拭い、それが故にテーブルクロスはいつもベトベトで、それに関するマナーもできた。よく調べてないけどフィンガーボール的な文化というのはその名残かもしれない。

ナイフがその先端を丸く削られたのはリシュリュー枢機卿の布令の功績で、フォークなどという食器も未だなかった。スプーンは貝殻状の大きなもので、それは女性器の暗喩的なものともされた。


大航海時代を経て日本などと接触してきた時代でさえそうだったのだから、それらが現在のようなヨーロッパ的なテーブルマナーの洗練に行き着いたのはいつごろからなのかなあと想うに、たんなる推測だけど、中国や日本との直接的接触を経た影響もあったのかもしれない。まあ経済的にも豊かになって「文化」がいろいろ生まれていく余裕もできたのだろうし。


そんなことをぼけーっと想いつつ次の章に移ろう。



ちなみに「タブーの謎を解く」はこの本からのスピンアウトだったぽい。









--

石毛直道、2006、「麺の文化史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384598908.html


posted by m_um_u at 20:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2015年12月30日

fireタブレットとfireTVstickを買った


少しまえにfireタブレットとfireTVstickを買った。自分への(クリスマス)プレゼントとして。クリスマスまでのプライム会員加入煽りセールでfireタブレットはお試し中プライム会員なら4000円キャッシュバック、fireTVstickはそういうの関係なく1000円割引だったので。




Fire タブレット 8GB、ブラック -
Fire タブレット 8GB、ブラック -

Fire TV Stick -
Fire TV Stick -


セール対象としてKindleもかかってたのでkindleにしようかどうしようかちょっと迷ったけどけっきょくfireタブレットにした


Kindle Wi-Fi、ブラック、キャンペーン情報つきモデル、電子書籍リーダー -
Kindle Wi-Fi、ブラック、キャンペーン情報つきモデル、電子書籍リーダー -


もともとこういうのを購入しようと思った動機はhontoなんかでちょこちょこkindle対象にしたセールをやっていて、それがみょーにお得 / 中古本より安い、ということからだった。それでちょっと見てみたらAmazonだとkindle対象の本は毎月一冊無料になるらしいのでそれもいいなと思って。図書館で本を借りるのを常態にしてるのだけど、新しく出た本、特に新書なんかはリクエストをしてもなかなか図書館が入れてくれないので。それだったら買おうかというとこでもあるんだけど、だいたいの新書は購入するほどの価値が有るものでもなく雑誌の特集に毛が生えた程度のものだし。なので「一ヶ月に一冊新書が無料でゲットできるならちょうどいいかなあ。。」というのもあった。結果的に無料対象本はAmazonが決めてる範囲のものに限られていて自分で自由に選択できるわけでもなかったのだけど。まあとりあえず新刊と極安中古の間に「いきなり新中古よりちょっと安い」な選択肢が出来たのは良い。書籍の形をしていても特に書棚に置く必要を感じないようなものもけっこうあるし、そういうのをkindleで購入できるのは棚がかさばらなくて良い。


もうひとつの動機は少しまえに始まったアマゾンプライムの無料対象動画が思ったより充実してきてるというのをついったーのTLでみて気になったから。それでチェックしにいってみたら確かにけっこうな映画が見られるようになっていた。特に邦画が。洋画は吹き替えではなくだいたい字幕なので自分的には見にくい。

自分はTSUTAYAのT-SITEを通じて「よくつかう店舗」登録をしてるので准新作はセールの時なら108円で借りられるのだけどプライムビデオがこんな調子だとだいたいの旧作はわざわざ借りなくてもいいかなあ、とか。まあその中でも無料対象として載ってない奴はTSUTAYAいったほうが早いだろうけど。Gyaoなんかでも無料映画でけっこう出てるのでそれも含めると「気になってた邦画」が無料状態でこういったところに積みコンになってるということになる。感覚的には自分の気になるコンテンツも含めてクラウド化されてる感じ。なので、そういった積みコンを消化するのを優先すればわざわざお金を払ってまで見る必要があるものの優先順位が下がっていく。あるいは「これは無料化もされずDVD化もあやしいので映画館でみとけ」って一回性がそこであらためて効いてきたり。

話は少しそれるけど自分は映画館があまり得意ではなく、特に大きなスクリーンで見る意義も感じないタイプなので、できれば映画なんかも家で見たい。なので、映画館で新作映画を1800円も払って見る意義をあまり感じない / むしろ苦行なので、映画館に行くときはさっきいったような動機、いま見とかないとDVD化 → レンタルもされないかもだしなあ。。が誘因となってる。特にみなさんが話題にしてるからといって興味がそそられるということもないし。。それが一時の流行ではなく、本当に内容を伴った名作なのであれば、時機が違っても見ることによってきちんとした満足感をもたらすはずだろうから特に「いま話題の映画」「いま話題のコンテンツ」を追っかける必要性を感じない。あるいは「いま話題の話題」も。


閑話休題


そういった形でアマゾンプライムほかに無料コンテンツが積まれててまた積みコンが増えて気持ち的に忙しくなってる。まあそんなに急がなくても消えるわけでもないのだけど、Gyaoなんかでは期間限定で無料配信してたりもするのでそういうのはちょっと焦る。


てか、


動画とかよりも実際の生活の中でおおきくQOL変わったと思えるのは音楽で、アマゾンプライムミュージックのプレイリストをfireTVstickを通じてテレビで聴けるようになったのが自分的には地味に大きい。

いままではPCを立ち上げ、Amazonミュージックのアプリを立ち上げ、しばらくして聴く、っていう起動するまでけっこうな時間がかかってたのだけど、TVを通じてなのでわりとすぐにプレイリストを再生できるようになった。うちのテレビはレグザなのでクイックボタンでタイマー機能もあるので寝る時につけっぱでタイマー設定しとけば切れるってのもあるし。あと、うちのボロPC環境だと音楽をかけないぶんメモリに負担がかからずに良い。


タブレットの方は現在おもにお風呂に浸かるときにちょっとアニメ見るのに使ってる。

サムライチャンプルーなんか見てなかったのだけど、プライムビデオに出てるのでおっかけでちょこちょこ見てる。アニメは一回につきだいたい20分ちょっとなのでお風呂に入る時間的にもちょうどよい。それ見ながら今までどおりiPhoneからたんぶらでリブログしたり、SmartNewsチェックしたり。


こういうのも慣れてもうちょっとしたらタブレットのKindleにいろいろコンテンツ入れてくのだと思う。まあたぶんマンガがメインかなと思うけど。


書籍系、あるいは漫画系のKindle無料のものもチェックしたけどだいたいがゴミみたいなので、書籍のほうでつかえるものとしたら著作権切れた古典がメインのようだったのでこれだったら青空文庫ビューアみたいなのつかったほうがいいだろう。

あとは無料になってる雑誌とかにちょっと可能性があるかもだけどこの辺は未だチェックしてない。



けっきょくいまのところfireタブレットよりもfireTVstick購入の方がなにげにQOLに効果してるようなんだけど、まあこれもKindleのライブラリが充実してきたら違ってくるかもしれない。あとはおでかけ時のお供・暇つぶしとしてのタブレットとか。




動画としては無料動画にだいたい慣れたり飽きたり消化した頃合いに月額定額で見放題なサービスに登録してみようかと思ってる。HuluとかNetfixとか。あの手の月額1000円未満で見放題みたいなの。

あれも映画のほかに海外番組的なものが見られるといいなと。ドキュメンタリーとか。アメリカのPBS系番組とか。ナショナルジオグラフィック系番組とか。その辺を調べたり実際に無料お試しで使ったりして見定めて登録していくかも。


そいや月額1000円といえばGooglePlayMusicも月額1000円で、当初はその便利さに1000円払って加入したものだったけど、そこで主に聞いていたプレイリストがアマゾンプライムミュージックのプライム無料対象音楽から構成されることに気づいてそっちがメインになった。こっちのほうが軽いし。


それでちょっとまえにGPMのほうは退会したのだけど、ふとBONNIE PINKさん聞きたくなってAmazonミュージックで検索してみたらプライム無料対象になってなくて反映されなく、、んでもGPMだと余裕であったので(´・ω・`)て。まあこのへんも複数登録したりして使い分けなのかなあ、とか。

音楽のストリーミングみたいなのだとアップルも同じようなサービス(Appleミュージック)やってるみたいだけどこっちはまだ試してないのでそのうち試したい。









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Chromecast 2.0を衝動買いしたけどすごい便利 - 最終防衛ライン3
http://lastline.hatenablog.com/entry/2015/12/15/054348




FIRE TVで4K Netflixと大画面Kindle読書を楽しむ | N-Styles
http://n-styles.com/main/archives/2015/10/30-031900.php



梅が咲いてきた /  J-POPの未来|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nf2691041a9d5






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2015年11月25日

最相葉月、2014、「セラピスト」



セラピスト -
セラピスト -



「読んだ」ぐらいに、この本からリンクした次の読書リストをメモる程度にとどめておいても良かったのだけど、一部が次?のエントリにも繋がる話なのでメモ的に。

「昨今の若者の特徴として、主体-自我が確立しておらず、かつての精神医学の療法では対処できなくなっている」みたいなの。結果的にDSM的基準から操作主義的な対処や認知行動療法(物事の受け取り方や考え方の癖、歪みを自覚し、それによって引き起こされた行動を訓練によって修正していく心理療法)などがとられているようだけど。そして重篤な場合には精神医学的に「お薬を出す」。それは対処療法であって根治ではないのだろうなあという印象がある。平たくいうと「救われない」。まあでも、スピード化が求められる現在の精神医療な現場ではシカタガナイという側面はあるのだろう。それとは別に個人的にはこういうのかかる場合は精神医学なひとではなくセラピストやカウンセラー的なひとに診てもらいたいと思うけど。



前置き長くなったけど該当箇所の引用(一部中略)から


「箱庭療法はやりにくくなっています。絵画療法もそうです。箱庭や絵画のようなイメージの世界に遊ぶ能力が低下しているというのでしょうか。イメージで表現する力は人に備わっているはずなのですが、想像力が貧しくなったのか、イメージが漠然としてはっきりしない。内面を表現する力が確実に落ちているように思います。ストレスがあると緊張が高まって、しんどいということはわかる。だけど、何と何がぶつかっているのか、葛藤が何なのか、わからない。主体的に悩めないのです」

「最近多いのは、もやもやしている、といういい方です。怒りなのか悲しみなのか嫉妬なのか、感情が分化していない。むかつく、もない」

「むかつく、というのは苛立ちや怒りの対象があるということです。でも、最近は対象がはっきりせず、もやもやして、むっとして、そしてこれが一定以上高まるとリストカットや薬物依存、殴る、蹴るの暴発へと行動化、身体化していきます。でも、なぜ手首を切りたくなったのか、その直前の感情がわからない。思い出せない、一、二年ほどカウンセリングを続けて、そろそろわかっているだろうと思っていた人がわかってくれていなかったことがわかる。それぐらい長く続けてもわからないのです。悩むためには言葉やイメージが必要なのに、それがない。身体と未分化というのでしょうか。○○神経症と名付けられるのはごく少数派です」

「私が相談室に入った1980年代は、クライエントにはまだ主体性がありました。抱えている問題を言葉やイメージで伝えることができました。ところが、今は、言葉にならないというだけでなく、イメージでも表現できないのです。箱庭を作りたい、絵を描きたい、夢について語りたいという学生も減りました。かといって、カウンセラーのほうにも箱庭に誘うゆとりがありません」




学生相談員であり河合隼雄の弟子筋であるが学生の特徴について研究した「現代学生のこころの育ちと高等教育に求められるこれからの学生支援」(2009)から、相談にくる学生たちの大きな変化、3つ:


一つは、自分の言葉で悩めない、ということ

二つ目は、「巣立てない」ということ。疾患など特別な背景もないのに引きこもっている学生が増えてきている。あるいは内定鬱からパニック障害になったり。

三つ目は、特別支援を要する発達障害やその傾向をもつ人々が増えている、ということ。ネットジャーゴンだといわゆるコミュ症。



河合隼雄「発達障害への心理療法的アプローチ」との関連から、該当インタビュー


「対人恐怖症は、今はほとんどなくなってきたんです。ものすごい少ないです。ぼくが臨床始めた頃は、対人恐怖症がものすごく多かったんです。いまそれないですよ。対人恐怖にならんと、ただ引っ込んでるのや。人前に出なきゃならない、でも出られない、そういう葛藤があるから対人恐怖症になるんでしょう?今は葛藤なしにポンと引っ込んでしまうんです。赤面恐怖の人もものすごい減ってます。赤面恐怖いうたら、積極的に出てくるか、ポーンと引っ込むか。その間に立って、いちばん困ってる、人間関係の日本的しがらみの中でフラフラになってるのが赤面恐怖だったんですよ。それがなくなってきてる代わりに、途方もない引きこもりになるか、バンと深刻な犯罪になるか」(「論座」2008年1月号)



河合隼雄が見るもう一つとして、1970年代から80年代にかけて大流行した境界例が減少してきている、というのがある。


境界例とはパーソナリティ障害の一型で、もとは神経症と精神病の境界領域にあるという意味で「境界例」と名付けられた。親子関係や恋人関係、治療者との関係など二者関係にこだわり、しがみつく。相手を賞賛し理想化したかと思うと、こき下ろす。すさまじい自己主張をし、相手に配慮することはない、などの特徴がある。

境界例に代わって解離性障害(ex.多重人格)の流行があり、やがてそれも去った頃に発達障害が目立つようになった。



発達障害には授業中や座っているべきときに席を離れてしまう「多動性」や「不注意」、含みのある言葉や嫌味をいわれてもわからず、言葉通りに受けとめてしまうことがあるなどの「対人関係やかだわり等」に特徴がある。

河合俊雄はこれを「主体のなさ」ゆえの障害だと見ている。主体がないから他者が認識されず、言語が生まれてこない。主体が欠如しているから、人と関係が持てず、孤立している。あるいは、相手や状況に合わせてしまう。学生を指導する中でも、クライエントを見ても、父・河合隼雄の時代とは明らかな違いを実感する、と河合はいう。

「世の中は、クライエントもセラピストも、従来の心理療法に向かない人が増えています。実習でロールプレイをやっていても、相手がしゃべっているのを待っていられない。ためることができない。そんな学生が増えてきました」

「今は、全部が表面の世界なんです。たとえば、ツイッターにぽーんと書き込むとみんなが知っている。しかも、RTというかたちで他人の言葉が引用されて広がっていくので、どこからどこまでが自分の言葉かという区別もない。秘密とか、内と外の区別がない世界なので、自分にキープしておくことがなかなかできなくなっているんですね。心理療法というのは主体性があって自分の内面と向き合える人を前提としていますから、内と外の区別のない場合は、相談に来ても、自分を振り返ることが非常にむずかしいんです」




反対に、よく喋るクライエントも「しゃべる」ことで己を守っている・隠しているところがあるようで、ふとした沈黙の次に訪れる言葉のほうが大事だったりするらしい。




<主体がない≠自我がない>という問題についてはこのへんでうんたらした。


あれからぼくたちは / 冬の風のにおいがした|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n00fabbd86e6c


承認欲求という言葉でミスリードされてる虚栄と刺激の構造もこの辺だろうし、「カーニヴァル化する社会」で射程していたネットによく顕れるような現代若者の特徴もこの辺の問題となる。すなわち「短期的な祭りをコンサマトリーするわりには長期的なもの、(ミードいうところの)"I”がない(他人との刺激-関係にもとづいた me だけ)」


カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書) -
わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書) -

鈴木さんのこういった関心や射程はブログ、soul for sale を読んでいても伺えるし、実際に学生指導を通じて感じた実感にもとづいているのだろう。その意味で、教科書的なオベンキョだけの話でもない実体験を通じた試考錯誤なのだろうなあとおもえ、ケーゾク話題としてのこの辺りが気になりつつ積読(録?)となっている。


2015年08月30日Part0(予告編)「ブロック化する社会をどう生きるか (文化系トークラジオ Life)
http://www.tbsradio.jp/life/2015/08/20150830part0.html




なので、このエントリ終わって次の読書ターンにとりかかったときにpodcast聴いたらおっかけ感想したりしなかったりしようかと思ってるんだけど。




「セラピスト」の話題に戻ろう。




全体としての感想や印象としては「精神分析とかカウンセリングについて悪い印象を持っている人は読んだほうがいいかもなあ。。」というものだった。自分もそうだったのだけど、<大した共感力もなく、他人の心がわからない人間がただ「精神科医」という肩書きからマニュアルで人を裁断し、マニュアル通りに薬漬けにする>、みたいなの。精神分析に基づいたシカクシメンなひと的にはそういうところもあるのだろうけど、心理療法士全体がそういうわけでもない。あるいは精神科医も。

本書は日本の代表的な精神科医であり臨床家である河合隼雄と中井久夫を中心とした「日本精神分析血風録」的なところがある。

本の雑誌血風録 (朝日文庫) -
本の雑誌血風録 (朝日文庫) -

黎明期の日本の精神医療において、試行錯誤や葛藤を通じて現在のような方法が採用されてきたこと。その過程での心あるセラピストのあり方のようなものが伺える。


また、本書は河合隼雄に代表される箱庭療法、中井久夫に代表される絵画構成法がどのような背景と目的から実践されていったかをゆるく伺えるインタビュー集にもなっている。河合隼雄は故人なのでインタビューの中心は中井久夫となり、著者である最相葉月は実際にそのセラピーを受けつつ箱庭療法を実践していく。そして、その過程で自身が精神的な病を患っていたことも判明していく。


[書評] セラピスト(最相葉月): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2015/09/post-ef7f.html

 個人的なことを書くことをお許し願いたい。私はずいぶん前から、自分がなんらかの精神的な病を抱えていることを自覚していた。ときどき風景が止まって見える。睡魔が襲う。重いときには、テレビのお笑い番組で笑えず、毎朝毎晩読んでいた新聞を読めなくなる。(中略)物事の判断力が鈍り、わけもなく涙がこぼれる。このままでは死ぬしかないと思い、首をつろうとしたこともあった。



自身の傷に触れるこのカミングアウトは最相葉月の作家としての、あるいは、人としてのポリシーになってるものにも思えた。「一方的に他人を断罪しない」「対象として消費しない」といったような。そして最相が会ってインタビューしてきたセラピストたちにも通じていく。

「セラピストになる内の1/3はふつーのひと、1/3は自身も過去になんらかの精神疾患があって興味を持ち共感力が高い人、1/3は現在病にある人」(大意)という辺りにもそれは表れていた。すなわち、単に腑分けし、オクスリするだけがカウンセラーではないということ。対話を通じて自身の問題にも向き合っていく人たちがいるということ。


「カウンセリングはまずその人の話をじっくりと聴くということです。話をきちんと聴くだけでも違う。きちんと聴き適切に相槌、応答していけばクライエントのほうから自身の矛盾に気づき、問題を明るみにし、修正のきっかけを提示してくれる」

このようなことが書かれていた箇所があったように思うけど、そんな感じではないかとおもった。別件で「風俗のお客の語りでもそういうところがある」「−y( ´Д`)。oO○SMなんかもお客その部分をお察しし、調度良いぐらいの力加減でカタルシスしていくのがポイントなんだよ」とかな会話したなあとか思い出しつつ。


そういうセラピストに出会えれば幸いなのだろうし、医療現場に限らなくてもそういう人はいるのだろう。










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バブ / 団子の日 / 自己愛について / ヒロシマ(パリ、ベイルート、レバノン、フクシマ、、)というとき|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n305840021fbe


嫉妬、羨望、感謝感激雨あられ|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n463bd8044424




熊倉伸宏、2000、「死の欲動  臨床人間学ノート」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/415586919.html





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2015年11月21日

「進撃の巨人」を7から17まで一気読みしてみてうんたらかんたら



大した話題でもなくエントリするほどのものでもないかなあとはおもうんだけど、他人様のこういう系の感想が見てみたいなあと思ってる自分がいたので「まあそれだったら」ぐらいで自分のものをを置いとく。なので、こういう見立てをするならもっとうまく言語化できるひとがいるだろうし、そっちのほうを期待する程度。リベラル / ウヨサヨ的なとこは今回はわりとどうでもいい(むしろ、パリのテロをネタにうんたらするのは現段階では控えたい)。

なので、以下はウヨサヨがどうとかな政治的なうんたらがメインというよりも「最近読んだマンガからなんとなくおもった」ぐらいのこと。

























進撃の巨人 コミック 1-17巻セット (講談社コミックス) -
進撃の巨人 コミック 1-17巻セット (講談社コミックス) -


「進撃の巨人」を最初に見た時の印象は「周りを壁で囲まれた街でのサバイバルタクティクスもの。ギミックとしての立体機動装置とかは中世 → スチームパンク的な技術文明的にあったかもしれない未来(パラレルSF)を思わせる」ぐらいで、「囲まれた街」「タクティクス」「サバイブ」「巨人におっかけられ食われる」「駆逐してやる…駆逐してやるぞ!」な印象だった。特に後者の「巨人に追っかけられている」「駆逐してやる」というところがこの作家の無意識下になぜかある声のようなものをモティーフとして具現化したものなのかなあ、とか。そこに箱庭的な城塞都市空間が絡んで。なので、汚い大人のパターナリズムによる圧迫に神経症的な不安を感じた若者たちによるオヤジ狩りみたいな反動を表したものなのかなあ、とか。精神的にはおやじ狩りとしてカタルシスしつつ、現実世界としては「そうしたオヤジたちにはならない」「居酒屋コミュニケーションとかしない」ぐらいの。

全体の設定とかキャラとしてはラノベとかふつーのスチームパンクファンタジー程度のものなのだけど、巨人の造形のとこだけが独特の嫌な感じで、その嫌な感じが癖になるところなのかなあって感じだった。ヒエロニムスボッスとか石田徹也みたいな嫌な造形の巨人たちが弱っちい人間たちをぷぢゅっと食べるとこに感じる自虐のようなもの。


石田徹也遺作集 -
石田徹也遺作集 -


「なぜかわからない、誰かに設定された擬似環境ー箱庭世界におけるバトルファンタジー」ということだと「CLAYMORE」を想わせたし、バトル要素を抜いた箱庭世界ということだと「マリィの奏でる音楽」を想わせ特に新しいものには感じなかった。

CLAYMORE 全27巻完結セット (ジャンプコミックス) -
CLAYMORE 全27巻完結セット (ジャンプコミックス) -

Marieの奏でる音楽 (上) (バーズコミックスデラックス) -
Marieの奏でる音楽 (上) (バーズコミックスデラックス) -

Marieの奏でる音楽 下    バーズコミックスデラックス -
Marieの奏でる音楽 下  バーズコミックスデラックス -

「進撃の巨人」のモデルになった都市?の周辺話    中世ヨーロッパにおける巨人、city、village: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/379508545.html




そういう印象だったのだけど、しばらくブランクを開けて読んでみたら登場人物の心理、葛藤描写のところがさらに深まってるように思えた。以前は、<自閉からの反動的な攻撃性を妄想したものという雰囲気で、そこに自虐が感じられその自虐が巨人の造形に投影されてるのかな>、って印象だったのだけど。しばらくぶりにみると、登場人物たちがそれぞれに戦う理由やそれぞれの場面での勇気を振り絞って立ち上がる場面を通じて、そのあたりの自虐、陰鬱な雰囲気が少しずつ変わっていってるように印象した。特に15,6巻ぐらいの盛り上がりのところの、主要登場人物以外の、都市の住民たちも勇気を振り絞って革命に参加していく場面。この辺りは単なる自分と(その投影としての)仲間たちのヒロイック・ファンタジーへのナルシシズム的心酔ではなく、「社会全体と協力していく」「絶対不利な情況でもなんとかしていく」という意志のようなものが感じられた。そこではオヤジたちは「汚いもの」としてもはや巨人たちへ投影されるだけのものではなくなっていた。そして、そういった勇気のあり方、「絶対閉塞な環境でサバイブ的に勇気を振り絞って活路を見出していく」「それでもまず一歩を踏み出す」という辺りに真鍋昌平を感じた。

新装版 スマグラー (アフタヌーンKC) -
新装版 スマグラー (アフタヌーンKC) -

SMUGGLER (アフタヌーンコミックス) -
SMUGGLER (アフタヌーンコミックス) -

闇金ウシジマくん コミック 1-34巻セット (ビッグコミックス) -
闇金ウシジマくん コミック 1-34巻セット (ビッグコミックス) -

真鍋昌平はウシジマくんの描写から社会の嫌な部分を垣間見せる露悪的なものとして印象されがちだけど、作品のテーマは「そんなところでウジウジしてねえでなんでもいいから最初の一歩を踏み出せよ」ということでそれは初期作「スマグラー」に凝縮されている。逆にいうとどのような環境でもうじうじと凝り固まって小さな集団の論理で酔って依存してる人たちは不幸になっていく / なっているという視点から露悪的な場面が生まれている。そういう意味ではその辺りの描写とメッセージは「東京タラレバ娘」「かくかくしかじか」に通じる。

かくかくしかじか 1 -
かくかくしかじか 1 -
かくかくしかじか 1 (マーガレットコミックスDIGITAL) -
かくかくしかじか 1 (マーガレットコミックスDIGITAL) -

東京タラレバ娘(1) (Kissコミックス) -
東京タラレバ娘(1) (Kissコミックス) -
東京タラレバ娘(1) (KC KISS) -
東京タラレバ娘(1) (KC KISS) -


進撃の巨人世界を日本社会のメタファーであるとすると、周囲を壁で囲まれた世界というのは安全保障と核の傘によって守られつつも囲い込まれている日本という国と社会を思わせる。そこで、戦争反対!軍事力保有反対!みたいなこといいつつ軍事・安全保障はアメリカに任せている矛盾がまずあり、ふつーの神経(あるいはある程度誠実)ならここで自身のポリシー(軍隊もつこと反対)に反する / でも現実的にはもたないといけない、のでダブルバインドする。なので、そのダブルバインドの苦しさから逃げるために「アメリカのポチだからシカタナイ(シカタナク従っているのだ)」みたいな自虐的な論理、論理の挿げ替えによる心の防衛が発生するのだろう。

このようなリアリティに基づく日本社会を生きる人々の中では、ポチ的な従属をすることで得た経済的繁栄をエコノミックアニマルとして自虐しつつも、バブル崩壊によってそうやって得られた経済的繁栄さえも失ってしまいはげしく自信喪失が発生した。そういった特殊環境に涵養された高度成長期の「男は働いておけばいい」「働いてればほめ(終身雇用)てくれる」というモデルが失われて人生のモデル・指針が失われてしまったこと。このあたりの自虐とナルシシズム(ポチとかクズとか自虐してアンシンしてる)のこじらせに竹内洋 ← 丸山真男がいうところの悔恨共同体あるいは罪悪共同体的な自虐史観が癒着していたのだろう。


竹内洋、2011、「革新幻想の戦後史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383640969.html


ポチとかクズとか自虐して現実に向き合って現実的対処を考えないうちはアンシンだし楽だし、そのうえ「国はポチだから」ということで他者に責任を転嫁できる。そのうえで自分たちは日本軍の罪を悔恨し罪に思ってるということをアピールしていけば良い人間であるべき自分たちの心の平衡を保てる。もちろんそういう形で逃げ場としてこういう良心にすがる人ばかりでもなく、きちんとした反省と謝罪は必要だろうけど。


それは個人のパーソナリティとしては自閉的であるがゆえにみょーに責任感が強い / 他人への配慮が強すぎる / その超自我が反動としての攻撃性も含んでいる / こういった超自我の縛りによって環境がブラックなものになっても環境のせいにできず、自分で全部背負って鬱になるタイプの人を思わせる。


ちなみに「日本が軍事力を持って外国へそれを派遣するようになると軍国国家の悪夢が再来する」「それは日本はきちんと謝罪してないとこにも表れている」みたいなこというひとはこのへん読んどくといいんじゃないかなあと思う。


Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2015年 10/13 号 [「模範国家」ドイツの現実] -
Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2015年 10/13 号 [「模範国家」ドイツの現実] -




「進撃の巨人」の近刊であらわれてきた「象徴的な王」「王の挿げ替え」的なモティーフは象徴天皇を想わせた。「一部の巨人が使うことのできる特殊ギミック『ほかの巨人を従わせることができる』」も。昔の、象徴ではない天皇、森の王としての天皇の神秘性なんかを想わせて。


精霊の王 -
精霊の王 -


そうするとこのへんの欺瞞に対して山本「現人神・・」も絡んでくるのかなあと深読みしたりする。

現人神の創作者たち (山本七平ライブラリー) -
現人神の創作者たち (山本七平ライブラリー) -




箱庭的な閉塞環境でなに不自由なく揃ってるけど外には巨人という脅威が広がっていて、「ソモソモなぜその脅威があるか?」「なぜわれわれは壁の中にすまないといけないのか?」「壁の外はどうなってるのか?」ということに対する好奇心や思考がゆるやかに禁じられている世界。外の世界に調査兵団も出せるので許されてはいるけれど、一定のところまで思考が達すると検閲が入ったり、自ら記憶をたどることを封じてしまう。

この辺はモロに自衛隊と軍隊のあり方、あるいは「軍をもつもの(暴力装置として囲い込むもの)がソモソモ国である」という定義を想わせる。日本では「軍をもつこと」についての思考それ自体が半ば禁忌となっていて、一定までは思考実験として遊ばせてくれるけれど、ある一線を越えると「もう無理」的なシャットアウトが生じる。少なくとも一部の人々の間では。そこにはそのレイヤーにおける合理的な思考、コードの遵守がなくだいたいが感情論になる。「彼らが攻め込んできたらどうするんですか?」「酒飲んで話しあえば済みますよー」みたいな。


「一定のところまで思考が達すると検閲が入ったり、自ら記憶をたどることを封じてしまう」

こういったモティーフは最初の頃にはなかった、あるいは、物語の都合上からか主人公周りだけに配置されていて、作品全体の、登場人物全員に共通するテーマという感じでもなかった。「なんだかしらないけど無意識的に配置されてるモティーフ」みたいな感じの。

んでも近刊だとこのモティーフが主人公以外にも配されていて、この作品がそういったことをテーマする作品なのかなあという想像を誘導させた。心理学的な対象としての「なんだか知らないけどそのことについて考えようとすると思考が止まってしまうような」「記憶が改鼠されているような」、そういったもの。防衛機制的な心理過程。

そうするとこの物語というのは「なんだかわからない壁とソトノセカイ」辺りがユングとかのそれ、「敵は外(巨人)ではなく内にいる」「欺瞞的な王政の打倒」あたりがエディプスコンプレックスと関係するのかなとかも思わせる。ただ、そこに母たるものへのリビドーも父たるものの設定も曖昧なのでエディプスコンプレックスなのかなこれ?てかんじではあるけど。その意味で、この物語は従来の日本アニメ・マンガにおけるこの手の話、エディプス・コンプレックスとそこからの離脱というビルドゥングスロマンの型から外れていく。


近代的理性の立ち上がりと国家幻想、そこから疎外されていったものたち、のはなし: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381011164.html


この物語が「なんかへんだなこれ」てかんじだったのはこのへんだったのかなとおもうのだけど。


エディプス・コンプレックスという解釈に収まらないコンプレックス・抑圧の潜在というところで発達段階での母たるもの - 全能なるものからの自立・分離が連想され、「進撃の巨人」の登場人物たちはその経路をたどる。そのへんは自分的にはユング派、クライン派のお勉強を通じて照らし合わせていくとおもしろいのかなあとか思わせる。










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嫉妬、羨望、感謝感激雨あられ|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n463bd8044424



「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html


愛はさだめ、さだめは死?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414133706.html




「進撃の巨人」の作者・諫山創さん単独インタビュー 拒絶され諦めそうに - BBCニュース
http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-34559269









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2015年11月05日

「ナグネ」








あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。









辛よ さようなら

金よ さようなら

君らは雨の降る品川駅から乗車する


李よ さようなら

も一人の李よ さようなら

君らは君らの父母の国にかえる


君らの国の川はさむい冬に凍る

君らの叛逆する心はわかれの一瞬に凍る




ふりしぶく雨のなかに緑のシグナルはあがる

ふりしぶく雨のなかに君らの瞳はとがる


雨は敷石にそそぎ暗い海面におちかかる

雨は君らの熱い頬にきえる


君らのくろい影は改札口によぎる

君らの白いモスソは歩廊の闇にひるがえる


シグナルは色をかえる

君らは乗りこむ


君らは出発する

君らは去る


さようなら 辛

さようなら 金

さようなら 李

さようなら 女の李

行つてあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ

ながく堰かれていた水をしてほとばしらしめよ

日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾

さようなら

報復の歓喜に泣きわらう日まで











今朝この本を読み終えたところでじんわりとした感動というか、なんともやるせない滋味に眉を寄せて心地よい寂しさを感じつつ、ふと、先週ヲクサンたちと行った店が中国朝鮮族の人たちの店だったのではないか?とおもった。


ナグネ――中国朝鮮族の友と日本 (岩波新書) -
ナグネ――中国朝鮮族の友と日本 (岩波新書) -















うメエエエ!羊好きが思わず唸るラム肉の名店8選 | 日刊キャリアトレック
https://www.careertrek.com/daily/hitsuji8/


玲玲家園菜 (カエンサイ) - 内幸町/中華料理 [食べログ]
http://tabelog.com/tokyo/A1301/A130103/13162031/


羊の他にもイノシシとかキジとかジビエが楽しめるということでここにした。最初は羊、イノシシ、キジなどのアラカルトなセット。けっきょくクミンが利いた羊串が一番おいしくてリピートの時には羊串セットで頼んでいた。んでもパクチーときゅうりのナムル?ぽいのとか干し豆腐とかもおいしくて、なによりここは餃子の店なのだとプッシュされた。「うちは大連料理と四川料理なのです」とのこと。大連料理と聞いてもそのときにはピンとこなかったのだけどこの本を読み終わって、黒竜江省の位置や大連の位置を確認したらちょうど朝鮮半島の北東・北東ということで位置的にも近くて、もしかしてと思ってぐぐったらやはり大連も中国朝鮮族が多くいる地域だった。いわゆる満州的な地域にここも入っていたのだろうか。

「もしかして大連も?」とおもった他の理由は大連が日本のアウトソース的なところとしてけっこう有名だから。本書にもあったように、それは朝鮮語と日本語の文法が似ているので、結果的に中国朝鮮族が日本語を戦略的武器として選んだという面があったという理由から。満州時代に一度、半ば民族浄化的に母国語ではなく日本語で話すことを強いられ、第二次大戦後は共産党から日本語を禁止され、ケ小平以降の改革開放に移ってからふたたび日本語を選んだ。そのため彼らの日本語や日本、日本人に対する意識は複雑で、尖閣諸島のゴタゴタの折には日本に対する怒りや憎しみが強かったみたい。それでも、彼らにとって日本語は自分たちの武器となり得る手段なので、それはそれとして割りきっていった。というか、中国朝鮮族はもともと朝鮮の出身でありながら韓国では2等国民的な差別を受けるぽい。オーバーステイの移民として軽く見られ差別されていく。中国では彼らは貧しいままだし。そういう事情もあって「日本も中国政府も同じようなものだよ。そのことは仕方なかったんだ」というおばあさんもいた。


ついったでリンクした朝鮮族についてのサイトで語られている朝鮮族の印象というのはそういうもので、韓国人による偏見もあって「彼らはずるくて傲慢で」て印象が語られる。でも、実際、彼や彼女らが強情でなかなか人と打ち解けないというところもあるのだろう。「ああ、こういう中国人いるよなあ。。」的な。片田舎の中国人。本書を読んでそれは彼らの過去や現在のこういった情況からだったのかなあとか思った。新橋の中国料理の店の人達も、客と店の人という関係でなければそういうところがあったかもしれない。あるいはそもそも大連料理というだけで朝鮮族ということでもなかったのかも。




極東ブログの解説にもあったように、この本は全体的には「中国朝鮮族」という知られざるマイノリティの歴史と現状について学ぶ機会となる本で、そういった意味でも勉強になったのだけど。やはり、全体を通じたなんともいえないようなやるせなさが最大の特徴となる。ちょうど北朝鮮のさらに北に位置する北緯の地の、シンと冷えきった大地の冷気がかえって肌に心地よく感じるときもあるような。そういった心地よさ。


この本を通じてずっと思っていたのはたった一度、駅で2、30分話したことからアルバイトとして雇い、身元引受人となり、お金やその他の世話をしていった著者の良心のようなもの。もちろんアルバイトとして雇ったのは著者にも十二分に得るものがあったのでギブアンドテイクだったとは言っていたけど。見ず知らずの、どちらかといえばとっつきにくいだろう朝鮮族の女性にそこまで親身になっていく、親身になりつつもプライベートは保ち接していくというのはどういうポリシーというか倫理観なのかなあとか。あるいは、好奇心と職業柄なのかなあとか。そして、援助を受けた彼女が感じているだろう呵責に対して「あなたのことを書いたこの本を出したことで、いままでのことは取材ということだったのだからお相子よ」とする感覚。途中までそういうつもりはなくて、「一時は本気で養女にしようかと悩んだ時期もあった」、というほどだったのだからそういう利害や打算は考えてなかっただろうけど。文字通り親身になるほど、義理の親と子といってもいい関係になりつつも束縛するでもなく接していく距離感。著者はその距離感も「わたしは恩恵についてなにも知っていなかった、知ろうとしていなかったのだ」と反省していたけど。


そして、半ば親子のような関係でありながら敢えて「友」と呼び、そう呼びつつもタイトルに「友よ」とは付けない、その流儀のようなもの。





そのことに、通常の親子関係や恋人関係における距離感を省みつつ、それが市民的良心というものなのかなあ、とか、あるいは、利害関係や見栄や打算や野暮なもたれ合いではない深い愛情や友情というのはそういうものなのかなあ、とか。いろいろ名前をつけて納得しようとするもしっくり来ず。そんな名付けで済まされるものでもないのかもなあとか思って、かつての自分の似たような体験に思いを馳せたところでこのエントリを綴じよう。





(良心の呵責、あるいは呵責の投げ愛についての話題とも関連してもうすこしごにょごにょしようかとおもって、以下に関連する素材もまとめたし、ボリュームも多くなるだろうからnoteではなくblogにしたけど、こういうことにくらべてそういうわたしただしい」「わたしいいひと」「わたしリア充」的な見栄や打算のガキっぽさうずまくところの解説はなんかアホらしくなったのでやめとこう。我ながら目汚しだなとおもいつつツイート遡って編集したしせっかくなので程度で貼り付けとくけど)































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甘イ果実ト幼イ微熱|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n775a6de8144c



正月、酒を飲む|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n4fe5accdbedf



ヴィム・ヴェンダース、2014、「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター(The Salt of The Earth)」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/423419290.html




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2015年11月04日

「仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか」  男女共働き社会の模索




仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -

仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -



副題にある「日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか」ということを主題とした現時点でのまとめ本的なもの。この分野の論点と現時点での暫定的結論としてコンパクトに纏まってるように思う。


筒井淳也『仕事と家族』(中公新書) 8点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52106679.html


お話的には「働きづらい」というところよりも「産みづらい」ということの原因と解決についてが先に考察されていく。必然女性の就労問題がメインとなっていく。

男女雇用機会が均等になったとはいえ女性の就労形態の大部分はフルタイムではなくパートタイマーで、パートタイマーの雇用条件はフルタイム労働者よりも低くなっている。そのため、全体的に女性の雇用条件は悪い。

ではなぜパートタイマーにならざるをえないかといえば出産と育児がフルタイムのネックとなっていくから。出産の方は未だ出産休暇があるところも増えたけど、特に育児の方が。育児休暇というものがある程度あるところでも育児期間、子供の手が離れるまでの期間はそこで設定される育児休暇なるものを超えているので、結果的に女性の就労の妨げとなっていく。あるいは、この期間は育児をアウトソースするとしてもその費用が給金の大半を占めていくので、「この期間は会社に残るための期間として、差し引きゼロでも仕方ない」と諦めて育児アウトソースする女性が多数となっている。

こういった場合、選択肢としてはおおまかに3つに分かれる。すなわち、「結婚して寿退社して専業主婦になる」「フルタイムで続け育児はアウトソースする」「育児に適した仕事を探しそれを続ける」、というもの。いわゆるヤクルトおばさんが女性たちばかりなのは育児期の女性の環境への配慮がよくされているからというのが主な理由らしい。

本書ではそういった状況・条件を現状における問題点としてとりあえず俯瞰し、それに対する解決策を模索していく。

解決策のひとつは労働形態・雇用条件そのものを抜本的に見直す、というもの。この辺のギロンはけっきょく濱口圭一郎が示した「日本のサラリーマン評価は仕事の内容ではなく、性別役割分業に基づいて『一家を支える男性』に見合った報酬を年代ごとに与えていくという俸給性となっている」「こういった雇用・評価形態からジョブ型雇用への転換する必要がある」とするものに依拠する。



濱口桂一郎、2009、「新しい労働社会」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html


「同一労働同一賃金」的なものとも言える。




そういった解決案が「同一労働同一賃金」的なものだとするとそれはスウェーデン的な福祉政策志向といえる。


本書ではこういった雇用問題の「お手本となる国」として代表的な3つの国と政策が比較検討される。

アメリカ型の自由主義的なもの、北欧型の社会民主主義路線的なもの、ドイツの保守主義的なもの。

ドイツの保守主義的なものというのは労働市場の全体のパイ、椅子を減らすことで就労を待つ若者層に職が行き渡るようにするもの。具体的には老人の就労を減らして若者に配分するというもの。



けっきょく完全な結論らしい結論はでていなかったけど、これが本書のだいたいのアウトラインとなる。

個人的には「制度というよりは構造改革によって女性の働き方は変わっていった」というところが印象的であり反省点だった。以前のエントリで「フェミフェミ言っててもけっきょく現状を変える / 変えたのは制度なのだ」みたいなことをいってたので

「恋愛とセックスの経済学」 / 「家父長制と資本制」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/427900360.html


なので反省も込めてちょっと長めに引用した。




出生力の低下は労働供給(働き手)側の要因であるが、人口高齢化は労働需要(雇用主)側の要因である。旺盛な労働需要が女性の労働力参加を引き起こしたという例は多い。スウェーデンといえば、女性の労働力参加が戦後の早い時期から活発だった国であるが、その最大の要因は、スウェーデンが第二次世界大戦で被害を被らなかったことにある。スウェーデンは他のヨーロッパ諸国の復興需要を引き受けることで経済を急拡大させ、そのなかで極端な労働力不足を経験する。そこに女性の労働力が活用されたのである。しかし1960年代までのスウェーデンでは、女性が働きやすい環境はあまり整備されておらず、そのせいで出生率が急低下し、また「家庭の危機」が1970年まで続く自殺率の上昇(この時期のスウェーデンの自殺率は日本をゆうに上回っていた)を生み出したといわれる。この意味で、スウェーデンについては少子化が女性の労働力参加を引き起こしたという説明はあてはまりにくいかもしれない。

他方で、東南アジアや一部の東アジア諸国では、農業中心の経済から工業、サービス業を中心とした経済に変化するなかで、女性が(欧米や日本ほど)主婦化しなかった。これは、工業化・脱工業化の到来が極めて急速であったために、多くの女性が農業や家業に従事する段階からそれほどあいだを空けずに軽工業(繊維や精密機器製造)やオフィスワークの労働需要に引きこまれたからである。アジア諸国では子育てにおいて親類ネットワークを利用しやすく、また家父長制的な文化の強い地域では女性の賃金が安く抑えられ、それが国の輸出製品の価格を引き下げ、経済成長をもたらした、とする研究もある(Gaddis & Klassen 2014)。

もちろん労働需要があれば必ず女性の労働力参加が増える、というわけではない。アメリカの工業化においては、移民の労働力参加が欠かせなかった。つまり工業化による労働需要の多くを海外からの移民によって満たしていたのである。これに対して日本の高度経済成長期では、戦後のベビーブームによって農村部に男性の余剰労働力(典型的には次男以下)があり、これが当時の高い労働需要を満たしていた。2013年になって、東日本大震災の復興需要や公共投資の増加などの影響で労働力不足が生じ、第2次安倍内閣のときにようやく、女性のみならず移民の労働力を活用するための制度改革が本格的に検討されるようになった。

さて、産業構造の変化(サービス労働化)、人口構造の変化(少子高齢化)、そして労働需要など女性の労働力参加を促してきた要因は、いずれも構造的な要因であり、制度要因ではない。そして構造要因による変化はあくまで「意図せざる結果」である。女性の労働力参加を高めるためにサービス産業を拡大させる国はおそらくないだろうし、ましてや女性の雇用を促すために高齢化を進める国などあるはずがない。先進経済国で女性が勝ち取ってきた様々な両立支援制度や働くことに関する権利・条件の整備は、こういった構造変動と絡み合いながら進んできたと見ることができる。つまり、制度の整備によって女性の労働力参加が促された側面もあるだろうが、それ以上に、構造変動によって女性の労働力参加が進んだ結果、それに対応すべく制度の整備が進められてきた側面が強いのだ。








以下も上記のアウトラインに関連して気になったところの引用に留める。




パートタイマーの人たちが参加する外部労働市場には、家族からすれば子育てなど家庭の事情によって働くのをやめたり始めたりすることが容易であり、経営者からすれば必要なときに労働調整、つまり解雇がしやすいという特性がある。このような外部労働市場が、正規雇用の夫と家計を共有する有配偶者向けに形成されてきたことの帰結は、その後との正規雇用・非正規雇用の賃金格差の問題となって現れてくる。つまり、パートやアルバイトなどの非正規雇用が多くを占める日本の外部労働市場は、新卒・正規雇用向けの労働市場を除けば、「自立して食べていけない」人のための労働市場となってしまった。これが日本の晩婚化、ひいては少子化問題の解決において、深刻な障害となって現れるのである。









雇用労働に従事する女性が増えるにつれて、どの国でも出生率が下がることになった。しかし女性の労働力参加が出生率へ与える負の影響は、アメリカやスウェーデンといった少子化を克服した国においては、ある時点から中和されるようになった。おそらく、スウェーデンでは、長期的には公的両立支援制度の影響、アメリカでは民間企業主導の柔軟な働き方の影響で、女性が賃労働と子育てを両立しやすくなったからだと思われる。その後、女性の労働力参加と出生率との関係はいよいよ反転し、女性が働くことは出生率に正の効果を持つようになる。これは不況あるいは経済成長の鈍化のなかで若年者の雇用が不安定化し、それへの対応として男女がカップルを形成し、共働きによって生計を維持するというケースが増えたからである。個々の雇用が不安定化しても、二人いれば家族としてやっていける、という考え方だ。こうして共働きが合理的戦略となり、さらに仕事と子育てを両立しやすい環境が整っていれば、女性が働くことは出生率に正の効果を持つ。この転換の背景には、スウェーデンでは女性が公的セクターに大量雇用されたこと、アメリカでは民間セクターで女性がますます活躍するようになったことがある。女性が結婚・出産後も長期に働くことができる素地があれば、経済の不調による男性雇用の不安定化に際して「共働きカップルを形成する」という選択肢が合理的となる。そのことが女性の労働力参加と出生率のプラスの関係を生み出した。

ここで重要なのは、希望と現実のギャップ、あるいは家計維持のために「共働き戦略」が有効であるためには、女性がそれなりに高い賃金で長く続けられる、あるいは労働市場が柔軟で、女性が出産を機に一度仕事を辞めても、ある程度条件の良い仕事に復帰できる、という見込みでなければならない、ということである(前田、2004)。日本では1995年以降、男性正社員の賃金が伸び悩むなかで、男性正社員とパート労働をするその妻という世帯でも満足のいく生活ができないケースが増えている(武信、2013)。現状では、子育て後にパートとして再就労するのでは問題解決にならないことを多くの人が悟っているからこそ、日本では未婚化が進んでいるのだ。

ドイツでは、女性労働力参加の負の影響は1980年代には中和されたが、長引く不況による男性雇用の不安定化と(それにもかかわらず)持続する性別分業体制の影響で、出生率が伸び悩んでいると思われる。また、ここで触れていないがイタリアやスペインといった南欧諸国では、長い失業率を背景に、女性が(出産等で)一度労働市場から退出してしまうと次によい仕事を見つけられる確率が低出生率を招いた、という研究もある(Adsera、2004)。





荻原久美子(2006)が描き出したように、仕事を続けたい女性にとっての最大の困難は育児休業が終わったあとにやってくる。それは長時間労働など、「主婦のいる男性」に適応した働き方である。そうであるかぎり、いくら育児期を乗り越えられたとしても、女性はそれ以上出世し、家計を実質的に支えられるような存在になれない。これでは「共働き社会」はやってこないし、女性の就労がカップル形成を促すような社会にはならない。









女性の非正規労働化の動きは、1986年の男女雇用機会均等法、1992年の育児休業法の施行によって何ら変化はなかった。図3-4は女性の雇用形態別の就業者数の推移を示したものだが、これをみると1990年代に正規雇用された女性の数が増加していることに目が行くかもしれない。これは後述するが、若年層の女性が結婚を先延ばしにして正規雇用としての就業を継続したことの表れである。しかし、より人口のボリュームが大きい年長世代の非正規雇用が増えたことと、不況のせいで学卒後に非正規雇用に就く女性が増加したことで、図3-3のように1990年代ですら、全体としての女性の非正規雇用率が押し上げられたのである。

要するに、採用や昇進において男女の差別をなくし、また出産・育児・介護によって就業が中断することがないような配慮が徐々に整備されてきたにもかかわらず、男性と同じような正規雇用に就く女性が増えてきたわけではないのだ。






男性と女性がともに対等な立場で働ける環境を実現するためには、男女ともに総合職的な働き方を抑制する必要があるのに、均等法の趣旨は男性のみならず女性も総合職的な働き方に引き入れようとするものになっている。したがって現行の均等法ならびにその「差別禁止」の理念が実現した先にあるのは、おそらく従来通りの性別分業社会なのだ。

その理由は極めて簡単である。転勤あり、残業あり、職務内容に限定性がないために負担が大きい、といった特徴を持つ総合職的な働き方を日本人男性が(過労死という重大な犠牲をともないつつも)なんとかこなしてきたのは、私生活をサポートする仕組みがあったからである。それは一人暮らしの独身男性にとってはまかない付きの独身寮やコンビニであり、実家通いの男性にとっては母であり、有配偶の男性にとっては妻である。

では女性が同じような働き方をする際には、誰がサポートするだろうか。男性以上に女声の多くは実家通いなので、母親もフルタイムで働いてないかぎり、頼ることができるだろう。ただ一人暮らしの場合、女性が入居できる独身寮を持つ会社の数は少ない。また実家暮らしでも、祖父母に重い介護の必要が出てきたとき、母でも男性(父や息子)でもなく、孫に当たる独身女性が仕事を減らしたり辞めたりするという例もある。

とはいえ、独身時のサポートについては男女でそれほど大きな差はないだろう。大きな差がでてくるのは結婚してからである。無限定的な働き方をする人が世帯にいる場合、そうではない人(たとえば専業主婦)が同じ世帯にいてサポートするならば私生活のレベルは落ちないし、子どもを産み育てることも可能であろう。しかし無限定社員と無限定社員のカップルだけでは無理である。その結果、女性の側がキャリアを断念することになりやすい。ましてやどちらかに転勤が命じられれば、片方の(たいていは女性の)キャリアプランは破壊される。パートナーのどちらかに転勤の可能性があるというだけで、持ち家を買うかどうかの判断などに必要な、生活の長期的見通しが立たなくなることもあるだろう。








欧米で広く普及している職務単位の働き方は、両立・共働きと相性がよいものだ。労働時間の調整のしやすさ、活発な転職市場が可能にする離職と再雇用、配置転換と転勤がないこと、これらは働き方が職務単位で切りだされていることによって可能になっている。逆に日本の基幹労働力に期待される働き方では、自分や周囲の職務内容が曖昧なため自律的な時間調整が難しく、また配置転換や転勤の可能性もあるために、共働き夫婦にとって非常に厳しい環境となる。

したがって、一つのアイディアとしては、職務単位で限定的な働き方をする労働者を増やす、という方向性がある。もちろん、職能資格制度の世界から職務給の世界にいきなり転換できるわけではない。そもそも実現が困難だろうし、もし実施されたとしても失業率(特に若年者失業率)の飛躍的な上昇を覚悟しなければならない。ジョブ(職務)型雇用の世界とは外部労働市場の世界である。そこでは、不景気で仕事がなくなれば被雇用者を解雇することは普通であり(そのかわり社内での「飼い殺し」は生じない)、また解雇が経験の浅い若年層から先に行われるのもなかば「当たり前」である(濱口、2014)。このことが可能なのは、アメリカのように外部労働市場が活発であるか、あるいはEU諸国のように失業に対する公的な保障がそれなりに充実している、といった条件があるからだ。








日本型福祉社会構想は、当時の自民党が作成したパンフレット(タイトルはそのまま「日本型福祉社会」である)にその趣旨が書かれている。そこではスウェーデンが名指しされ、その福祉のあり方が非効率的で、かつ「家族関係を破壊する」として、はっきりと否定されている。極端な少子高齢化社会に陥ってしまった日本の現状から振り返ってみれば苦笑いしてしまうが、当時はたしかに日本的な福祉のあり方が北欧のそれよりも優れている、と主張しても受け入れられる空気があったのだ。

ドイツやイタリアなどの保守主義的国家においても、日本と同じような家族重視と性別分業の体制は強かった。これが、これらの国が保守主義レジームと名づけられた一つの理由である。しかし違いもある。たとえば「企業による福祉」である。1970年代以降、日本の民間部門は、大企業の世界では内部労働市場を発達させ、中小企業については政府が援助するなどして、企業が雇用を維持し、雇われた男性とその家族の生活を安定させるという戦略をとった。これに対して欧米では職務単位の労働配分が行われ、外部労働市場が発達しているため、生活保障は企業ではなく政府の役割である、という意識が強い。ドイツやフランスなど、主要な大陸ヨーロッパ諸国の社会保障支出は日本よりもずいぶん大きいが、それは日本が「家族と企業」という二つの民間部門に福祉を任せてきたからである。この点にこそ、日本の路線の特徴があったといえるだろう。












本書では論じる余裕がなかったが、筆者は格差以上に深刻なのが社会的分断であると感じる。社会的分断とは、人々のあいだの価値観や態度の対立のことだ。たとえば社会のあるグループ(経済的に恵まれない層)は富の再分配を支持し、別のグループ(富裕層)はそれを否定する、といった意見の違いを指す。ある制度が特定のグループを有利にし、別のグループを不利にすることはしばしば起こりうる。再分配が弱い社会や教育費が高い社会では、経済的に豊かなグループが優位に立つ。急速に高齢化が進む社会では、年金制度の負担は若年層に重くのしかかる。錠時間労働が常態化した社会では、少なくとも仕事の世界は男性優位になりがちだ。制度設計がうまくいかないと、こういった対立、つまり社会的分断が先鋭化するおそれがある。

「働くこと」は、それが社会の富を生む最大の源であるがゆえに、対立の大きな争点となる。たしかに経済先進国は、基本的な合意として、(高齢や障害のために)有償労働をすることが難しい人々については政府がその生活を保障するという制度をつくりあげてきた。しかし働くことができるのに様々な理由からその力を十分に活かすことができていない人々が増えてくると、合意が揺らぐことになる。一方では適切な労働機会を与えられない人々が労働市場や雇用環境の制度に対して異議を提示するようになるし、他方では税や社会保険の負担をする人々が再分配制度に対して異議を唱えるようになる。こういった対立は、事後的な再分配の強化でも無条件の自由競争の導入でもなく、税や社会保険の負担を一定程度担うことができる所得をともなった仕事が、社会の様々なグループに配分されることではじめて緩和される。「働くこと」を基軸とした連帯をつくりあげた国は、分断を乗り越え、安定する。


本書のキーワードである「共働き社会」は、男性と同じく女性に働く機会を保障する社会だ。また、有償労働の担い手を増やすことで、税と社会保険を通じた「助け合い」のための社会的余裕をつくり出す。その意味で、「共働き社会」は日本社会のこれからの社会的連帯の第一歩であると筆者は考える。


posted by m_um_u at 17:55 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

「日本型近代家族」


お勉強的に手にとった二冊。なのでエントリして楽しいような思考をドライブさせるようなところもそんなになくエントリするのに億劫になってったところもあったのだけどお勉強となったとこをさらっとまとめるぐらいにしとこう。後々役に立つかもだし。


日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか -
日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか -

仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -

仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -



「日本型近代家族」のほうはいわゆる家族社会学の基本的な考え方、知見をコンパクトにまとめてる感じ。なのでこの分野をお勉強しはじめるときには便利なように思う。

キーワードとしては「核家族」「ロマンティック・ラブイデオロギー」「母性イデオロギー」「家庭イデオロギー」など。家族の関係や恋愛、あるいは母性幻想に対して窮屈や違和感を持ってる人的には考える際に便利な言葉や思考が散らばってる。


ちょっと端折って間違ってる箇所あるかもだけど全体をとらえやすくするための前フリとしてまとめる。

たとえば日本なんかにおいて「家族」という概念は明治以降に導入され、それは国民国家の誕生と期を同じくする。すなわち国民国家が「家族」なる単位を必要とし設定・普及したということ。それ以前は村落共同体的なところでいちお世帯ごとに別れていつつも「村全体」という意識があった。プライバシーがあまりない反面、たとえば「子どもは村全体で育てる」みたいな感じだったり(cf.なので祭りの乱交時に生まれた子は子種が誰かわからなくても育てるとかふつーにあったのだろう)。現在のような家族観、「他からはプライバシー的に分ける」ことを当然とした近代家族の家族観からだと考えにくいかもだけど、家族、というか共同体というのはまずもって生存のためにあって、そのためいろんなものを分けあっていた。なので生存-食料の確保なんかが一義にありプライバシー、プライベートみたいな感じはあまりなかった。いわゆる近代家族―核家族というのは大家族に対応して語られる言葉で成人男女とその直系血縁の子弟を基本単位としたもの(その前の世代、成人男女の親からは世帯を別にする)だろうけど、大家族的なもの以前に村落共同体的な生活共同システムがあった。

つまり家族、あるいは生活を共にする共同体というのはもともと食料を確保するために生計を一にする目的のものだった。前近代社会のひとびとは「家族」という世帯のなかではなく、共同体規制のなかで生きていた。ラスレットが言うように、家族は子供を産み育てるという、独立した再生産の単位でもなかったし、そのなかで経済が完結するような生産の単位ではなかった。ひとびとの性関係は共同体の規制のなかにあり、身分を越えた自由な結婚などはありえなかった。この辺は花輪和一のマンガなんかに戯画的にエグく描かれている(← 「庄屋様に焼き印をおされてセックスされるのは至上のよろこび!」)。家族という単位は共同体のなかに埋没して見えないものだった。

近代に入って世帯ごとに管理・わけられていき「家族」の意味は変質していった。プライベートな共同体、あるいは「愛」を中心とした共同体、といったものに。おそらく生活が豊かになって食料を一義とするでもなくなって。


ではなぜ国家が家族という単位を必要としたか?というとひとくちには税のためといえるだろう。当時のヨーロッパに倣って国民国家がなんとなく有効だと判断した明治政府は「国民」を創設し把握するための単位として家族、より正確に言えば世帯を導入した。それによって国民国家的には皆兵が可能に。税収もぶらさがっていったのだろう。


近代家族の特徴は、(1)ロマンス革命(2)母子の情緒的絆(3)世帯の自律性、とされる。


旧来の村落共同体に比べ、家族は世帯ごとに切り離され、村落共同体がゆるやかに担っていた福祉の役割は国家が担うようになった。家族は共同体から分離され国家に直接に接続されていった。そこでは「男は仕事に行って(税収を)稼ぎ、社会的再生産に寄与し、女は家庭を守る(産み育てる)」という性別役割分業が当然とされていった。その際に導入されたイデオロギーが恋愛(ロマンティック・ラブ)であったり、「良い母」的な母性イデオロギーだった。これらは国家によって直接宣伝されたとは言いがたいがゆるやかに社会の当然・通念となっていった。


愛情といった感情だけではなく「親しさ、楽しさ、親密性、感情表出、思いやりなど人間関係の『よい』側面」(山田、1994)はすべて家族に放り込まれることになった。感情という場合、ネガティブなものもあればポジティブなものもあるはずだが、「愛」とか「共感」といった特定感情には価値が与えられ、「恥」「罪」といった感情は好ましくないものとして設定される。これらは社会的に感情が規制され規範化されていった結果といえる。


近代家族のゆくえ―家族と愛情のパラドックス -
近代家族のゆくえ―家族と愛情のパラドックス -




ロマンティック・ラブイデオロギーとは、「一生に一度の恋に落ちた男女が結婚し、子供を産み育て添い遂げる」、つまり愛と性と生殖とが結婚を媒介とすることによって一体化されたものである。結婚を媒介としてこの三点が揃っていることが求められたため、愛のない結婚、愛の無いセックス、結婚につながらない性交渉、結婚してない婚外婚の性、婚姻外で生まれる婚外子、愛している相手の子供がいらないと感じること、結婚しているにもかかわらず子供をつくらないことなどが不自然であると考えられ、非難の対象とされてきた。


母性イデオロギーとは、母親は子供を愛するべきだ、また子供にとって母親の愛情にまさるものはないという考え方のことである。「三歳までは母親が子供を育てるべきで、そうしないと子供に取り返しの付かない影響を与える」という「三歳児神話」などはこれに含まれるだろう。


家族イデオロギーとは、家庭を親密な、このうえなく大切なものとする考え方である。どんなに貧しくても、自分たちの家族が一番である、家族はみな仲がよいはずだという、「狭いながらも楽しい我が家」という表現にみられるような、家族の親密性に関わる規範である。



ロマンティック・ラブイデオロギーの項には結婚を当然とすること、また、性愛・恋愛の対象をひとりとすること、彼らと「愛情」というロマンス(恋愛感情)を通じて深く愛しあうことが当然・幸せとする規範が備わっていてそれ自体が問題だなというのはあるのだけど、自分的には特に目新しい話題でもないのでそれほど触れない。


ただ、この本(あるいは近代化俗論のまとめ的な話)を通じて「母性」というのも国家によって作られた幻想だったのだなあと再認識した。


母性という神話 (ちくま学芸文庫) -
母性という神話 (ちくま学芸文庫) -





それらは男性による身勝手な幻想かと思っていたし、母性を批判する人たちはしばしばそういった論を貼るのだけど。母性自体が国家による人口管理と再生産のために設定された規範だったとしたら、こういった話で男女の対立(ラベルの押し付け合い)的な構図をとるのも無意味だろう。





近代に入るまで、子供は現代と違って可愛がりの対象ではなく、「子供」という概念もなかった。たんに労働力として劣った小さい大人(でも5,6歳から働かせる)ぐらい。

ヨーロッパの上流階級の女性は自分で子供を育てること、授乳などという「動物的な」行為をすることを拒絶した。ヨーロッパだけでなく日本でも事情は同様となる。江戸時代に女性に期待されていたのは良い子供を産むことだけであり、育てることは期待されていなかった。むしろ男子のしつけは父親に任されていた。人々は子供に対して無関心で、堕胎や間引きという習慣も必ずしも貧困が原因ではなかった。


良妻賢母という規範 -
良妻賢母という規範 -


〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活 -
〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活 -


子どもと母性をめぐる関係は乳幼児が将来の「国民」の予備軍であることが意識されることによって変化していった。ここで母親による子供の世話も規範化されていく。


この変化に寄与したもののひとつとしてルソーの教育の書、『エミール』がある。



エミール〈上・中・下〉3巻セット (岩波文庫) -
エミール〈上・中・下〉3巻セット (岩波文庫) -


女たちは「母親」であることを熱心に学んでいき、母性は母乳の出る母親だけが持つ「本能」とされていった。


日本における母性イデオロギーは「良妻賢母」規範としてあらわれた。良妻賢母規範というと江戸時代からある儒教規範と思われがちだが、そうではない。「良妻賢母」という言葉も、「恋愛」という言葉と同様に、明治に入ってつくられた。1870年代には賢母良妻といわれ、90年代に良妻賢母という言葉に落ち着く。これは、家庭を守って夫を支え、なによりも次世代の「国民」を育成するという、母に寄る教育が大きな位置を占める規範だった。


この規範が結果的に女子の中等教育の振興・普及に大きな役割を果たしたという(←「将来の国民を育てるために必要」)。


「学校」「教育」は女性だけでなく<子供>の誕生ともときを同じくし、「母性」「子供」「学校」「家族」は同時期に誕生した。



「家庭」という言葉は明治20年代からもてはやされ、雑誌などであるべき規範となる。そして実際に大正期になるとその「家庭」の理想 ―「一家団欒」、「家庭の和楽」を実現することが可能な新中間層が現実に出現してきていた(小山、1999)。「家庭」とは、ある意味で新中間層的な刻印を推された家族のあるべき理想像となった。





実態はどうあれ、理想としての、建前としての「愛と性の一致」という規範は(女性の側には)存在していた。それが崩れ始めたのは1990年代のことである。60年代の性革命によって、70年台には「愛があるなら、結婚前に性交渉をおこなってもよい」という規範が一部ではみられるようになった。1980年代には消費社会を背景として、ドラマ「金曜日の妻たちへ」などのように結婚していても恋愛があり得ること、また未婚者も当時流行した多くのトレンディードラマのように、結婚のまえに恋愛を楽しむことがあり得ることが、示された。


こういった規範。「愛がなくても性交渉をしてもよい」がはっきりと出現し規範化していったのが1990年代だった(ex.セックスフレンド)。



現在「イクメン」という言葉の出現には「性別役割分業にこだわらない子育て(家族を金銭的に養うのは男であるべきという規範からの開放)」「レジャーとしての子育て(子育てのレジャー化)」などの規範の変化が読み取れる。






簡単にメモするつもりだったので「仕事と家族」も同じエントリにしよかと思ってたけど、けっこう長くなった / 疲れたので項を分けよう。









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2015年10月24日

スコット・ペック、1978、「愛と心理療法」



んじゃ一個前のエントリで言ったとおり「愛と心理療法」から気になったところ引用で、


愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -
愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -




今まで、訓練こそ人生の問題を解決するのに必要な基本的手段であると述べてきた。その手段とは、、苦しみを引き受ける技術、つまり、問題を積極的に受けとめてうまく解決し、その過程で苦しみを受けながら学び成長してゆくことである。訓練することを教えるとは、いかに苦しみ成長するかを教えることにほかならない。

これらの手だて、私が訓練と呼ぶ、苦悩するテクニック、建設的に問題の苦しみを経験する手段とは何か。それは次の四つである。楽しみをあとまわしにすること、責任を引き受けること、真実に忠実であること、そしてバランスを取ること。明らかにこれらの手段は、かなりの練習を必要とするようなややこしいものではない。10歳になればほとんどすべての子どもが使いこなせるような、単純な手段である。だが、大統領や一国の王でさえ、この単純な手段を用いるのを忘れて没頭することが多い。問題は手段の複雑さではなく、用いる側の意志にかかわっている。これらは苦しみを避けるのではなく苦しみに向かうための手段なので、もししかるべき苦しみを避けようとすれば、使われないことになる。




一貫した親の愛と保護に恵まれた幸運な子どもは、その結果、自分の価値を信じる深い内的感覚のみならず、深い内的安定感をもっておとなになる。子どもはみんな、見捨てられるのではないかと恐れているが、それも無理からぬことである。この見捨てられる恐れは、ちょうど子どもが親と別個の存在であるとわかりはじめる、生後六ヶ月にめばえる。子どもは、個人として自分が無力な存在で、生存のいかんが親の掌中にあることをわかっているからである。子どもにとって、親に捨てられることは死に等しい。多くの親は、他の面では比較的無知で鈍感であっても、このような子どもの恐れは本能的に感じとって、来る日も来る日も何百回、何千回となく子どもを安心させている。「お母さんもお父さんもおまえをおきざりになんかしやしないよ」、「すぐに連れに戻ってくるからね」、「おまえのことを忘れるなんてありっこないよ」と。その言葉が来る月も来る年も言われた通りであるならば、思春期を迎えるころには、捨てられる恐れは子どもから消え、かわりに、この世は必要なときにはいつでも守ってもらえる安全なところだという、深い内的感覚が育つ。この一貫した内的安全感があるので、子どもはいろんな満足をあとにまわすことができる。家庭や両親と同じように、満足する機会は必要な場合いつでもつかまえられる、と安心しているからである。






私には、才気煥発だが気難しい知人がいる。放っておけばいつまでも雄弁に、社会の圧倒的な力、人種差別、性差別、軍隊、産業組織、彼と仲間の長髪に文句をつける田舎警察などについて、しゃべり続ける。何度も何度も私は、彼がもう子どもではないことを言って聞かせようとした。子どもは、いろんな面で依存しているので、事実上、親が色んな面で支配力をもっている。実際、親は子どもの幸福に大いに責任があり、子どもは親次第である。親が圧倒的 ―そうであることが多いのだが― であっても、子どもはほとんどどうすることもできない。子どもには選択の余地がかぎられているからである。しかしおとなは、身体的に健康な場合、選択の可能性が無限に近い。だからといって、選択に苦痛がないというわけではない。どちらもいやでもましなほうを選択しなければならないことも多いが、それでも、自分の力で選ぶことができる。この世界には圧倒的な力が働いているという知人の意見には、私も同感である。しかし、そのような圧力にどう反応しどう対処するかは、そのつど自由に選ぶことができる。警察が「長髪」を嫌う田舎に住み、髪をのばすのは彼の選択である。彼には都会に引っ越すか髪を切るか、あるいは警察署に対してキャンペーンを行う自由さえある。頭脳明晰であるにもかかわらず、彼はこれらの自由を認めようとしない。おのれの人間としての大きな力を受け入れ享受するかわりに、自らの政治力のなさを嘆くほうを選んでいる。自由に対する愛とそれを阻む圧力について語るが、自分がいかにその犠牲になっているかを語るたびに、実はその自由を手放しているのである。いくつかの選択が苦痛をともなうというだけで人生を恨むようなことを、彼がそのうちやめてくれるよう私は望んでいる。







愛について二番目によくある誤解は、依存症を愛とする考えである。これは、心理治療家が日々ぶつからねばならぬ問題である。配偶者や恋人に拒否されると、自殺を企てたりそうするようなポーズをとったり、またはそれで脅かしたり、何もできないほど落ち込んでしまう人に、劇的なかたちでその影響が見られる。「生きていたくない。主人(妻、恋人)がいなければ生きていけない。それほど彼(彼女)を愛しているんです」と彼らは言う。「あなたはまちがっていますね。あなたは夫(妻、恋人)を愛してなどいやしませんよ」と、私が言葉を返す ―そうすることが多い― と、彼らは怒っていう。「なんですって。彼(彼女)なしでは生きられないって今言ったでしょう」。そこで私は次のように説明する。「あなたが言うのは寄生であって、愛ではないんです。生きるのに他人が必要なら、あなたはその人の寄生虫なんだ。その関係には選択も自由もありませんね。それじゃ愛というよりは必要性の問題だ。愛とは自由に選択することなんですよ。ひとりでも十分やってゆける人が一緒に生きることを選んだ場合にかぎって、ふたりは愛しあっていると言えるんですよ」


依存症とは、誰かが積極的に面倒を見てくれる保証がなければ、不全感に悩んだり十分に働けないこと、と私は定義している。身体的に健康なおとなの依存症は病的である ―それは病気、精神的な病ないし欠陥の現れである。しかしそれと、ふつう、依存欲求とか依存感情と呼ばれるものとは区別しなければならない。われわれにはみんな ―人や自分に対してそうでないふりはしていても― 依存欲求と依存感情がある。赤ん坊扱いされたい、何もせずに世話されたい、本当に自分のためを思ってくれる強い人に保護されたい、と願わない人はいない。どんなに強い人でも、どんなに世話好きで責任感のあるおとなでも、自分の内面をしかとのぞいてみれば、たまには保護されたい、という欲求がみつかるはずである。どんなに年を取り成熟した人であれ、自分の人生に望ましい母親像や父親像を見つけたいと思っている。しかしそのような欲求や感情がその人の生活を支配しているわけではない。それらが生活を支配して生のあり方まで決定し、ただの依存欲求あるいは依存感情以上のものになることが問題なのである。そういう人は、「受動的依存的性格障害」と診断される精神障害にかかっている。これはたぶん、精神障害のなかではもっともふつうのものである。

この障害のある人は、愛されようとするのに忙しすぎて、愛するエネルギーが残っていない。飢えた人が、食べ物のあるところならどこにでもたかってゆき、他人に分け与える食べ物をもっていないのに似ている。彼らの内部には空洞があり、底なしの奈落の満たされるのを切望しているが、完全に満たされることはないらしい。彼らには「いっぱいに満たされた」感じがないし、完全という感じもない。たえず「自分の一部がどこかにいってしまった」と感じている。孤独に耐えるのがたいへん難しい。全体性を欠けるため本当のアイデンティティをもたず、人とのかかわりによってしか自分を規定できない。







受動的な依存症は、愛の欠如に由来している。受動的依存的な人々の抱えている内的な空虚感は、子どものとき、子ども時代を通じて、一貫してそこそこに愛され世話してもらった子どもは、自分を愛すべき価値のある人間で、自分に忠実でさえあれば愛され面倒をみてもらえるという、根強い感覚をもっておとなになる。愛と世話が欠けていたり、気紛れにしか与えられないで育った子どもは、そのような内的安定感をもたずにおとなになる。むしろ内的な不安感があり、「十分ではない」感じと、この世は何が起こるかわからないし何も与えてくれない、それだけ自分が愛すべき価値のある存在かどうか疑わしい、という感覚がある。だから、愛され配慮され関心を払ってもらえるとあらば、われ先に突進し、いったんつかまえると必死にしがみつういて、愛とは無縁の操作的なマキャベリ的行動をとって、せっかくの関係そのものを破壊してしまうのも無理からぬことである。これも第一部で述べたことだが、愛としつけとは関連しているので、愛もなく十分な世話もしない親はしつけにも欠けている。子どもたちに、愛されている感覚を与え損なっているのだが、同時に自制心を養うこともしていない。受動的依存的な人の過度の依存症は、彼らの性格障害を示す主な徴候にすぎない。彼らは自制心の欠如した人たちである。人々にかまってほしい気持ちを我慢しようとしないし、できもしない。人とのつながりを必死に作り上げ保とうとして、誠実さを投げ棄てる。諦めたほうがよい、すりきれてしまった関係にしがみつく。もっとも重大なことは、自分に対する責任感に欠けていることである。自分の幸せおよび充足感の源として、受け身のままに他人、しばしば自分の子どもまであてにしている。だから幸せでなく満たされていないと、基本的に他人のせいと思ってしまう。そしてそのためにとめどなく腹を立てている。他人が彼らの要求をすべて満たし、幸せに「してくれる」ことはありえないから、いつも他人に裏切られてきた感じでいる。



要約すると、依存症が愛と紛らわしいのは、それが人と人を強く結びつけるからである。しかし、それが実際の愛であることはない。正反対である。それは親の愛の欠如からきており、同じことが繰り返される。与えるよりは与えられることを求め、成長よりも幼児性に固執する。解放するよりも罠にはめ、拘束する。窮極的には、人間関係を形成するよりも破壊し、人間を作るよりも崩壊させる。





以上のことが示唆することは、幼児やペット、そして依存的で従順な配偶者に対する「愛」は、「母性本能」、より一般的に言えば「親の本能」とでも言うべき本能的な行動パターンだ、ということである。これを「惚れこみ」という本能的な行動にたとえることができる。惚れこみは比較的努力なしにできるし、意志あるいは選択による行動では決してないのだから、愛の純粋なかたちではない。それは種の存続を促すが、人間の進歩や精神的成長を目指してはいない。他者に手を伸ばし人々を結ぶきずなを作りだし、そこから本当の愛が始まるかもしれないので、愛に近いものである。しかし結婚を健全で創造的なものに高め、健康な精神的に成長する子供を育てて人類の進化に貢献するためには、さらに多くのことが必要である。

要するに、養育はただ単に食物を与える以上のものでありうるし、通常、そうあるべきなのである。また、精神的な成長を培うには、本能によるプロセスよりずっと複雑なものが必要となる。第二部の冒頭で取りあげた。息子をスクールバスに乗せようとしない母親がよい例である。ある意味では息子を慈しんでいるのだが、それは息子の必要としない慈しみで、精神的成長を促すよりも明らかに遅らせている。似たような例はこれにとどまらない。太り過ぎの子どもに食物をおしつける母親。息子には部屋いっぱいのおもちゃを、娘にはたんすいっぱいの服を買ってやる父親。何でも子どもの言う通りにして制限しない親。愛は与えるだけのことではない。分別を働かせて、あるときは与え、あるときは与えない。あるときは褒め、あるときは批判する。喜ばせるだけでなく分別をもって対決し、押したり引いたりする。愛とはリーダーシップなのである。ここで「分別」とは判断の必要なことを意味している。判断には本能以上のものがいる。そのためには思慮深い、しばしば苦しい決断をしなければならない。







恩寵の定義

第W章ではこれまで、次のようなさまざまな特性を共有する現象を論じた。


a.それらは人間の生活と精神的成長を培う ―支え守り高める― のに役立つ。

b.それが働くメカニズムは、現在の科学的思考にもとづく自然の法則によっては、完全に理解できないか(身体の抵抗力や夢のように)、まったくあいまいである(超常現象のように)。

c.それらはひんぱんに日常茶飯事的に生じ、本質的に人間に普遍的なものである。

d.潜在的には意識に影響されるが、その源は意識的な意志の外にあり、意思決定のちからはおよばない。



一般には別々に思われているが、これらの共通点は、それがひとつの現象のさまざまな現れであることを示している、と私は感ずるようになった。意識の外に発する強い力が、人間の精神的成長を培う。何百年、いや何千年ものあいだ。意識の外に発する強い力が、人間の精神的成長を培う。何百年、いや何千年ものあいだ、免疫グロブリン、夢見の状態、無意識などと科学的に概念化される以前から、宗教家はつねにこの力に気づいており、それを恩寵と名づけていた。そしてこれを讃えて「何という恩寵、その甘美な響き……」と歌ったのである。

この、人間の意識の外から来る強い力について、われわれ ―適当に懐疑的で、科学的な心をもっている― は何をなすべきなのだろうか。この力に触れることはできない。測定するしかるべき方法もない。しかしそれは存在する。現実なのである。そこでわれわれは、それが伝統的な科学的概念に容易にあてはまらないからと、無視すべきなのだろうか。それは危険なことと私は思う。恩寵という現象を考えに入れることなしに、宇宙およびそのなかの人間の位置、したがって人類の性質を理解することなど望むべくもない、と考える。






それにしても個人としてかつ種としてのわれわれに、内なる無気力という自然な抵抗に逆らって成長することを促す、この力は何なのか。すでに名はつけてある。それが愛である。愛は「自分自身と他者の精神的成長を養うため、おのれを広げようとする意思」として定義されてきた。われわれが成長するのはそのために努力するからであり、努力するのは自分を愛するからである。われわれが自分を向上させるのは愛によってである。他者が向上するのを助けるのは、他者を愛することを通してである。愛すること、おのれを広げてゆくことこそ、進化の行為である。それはまさに進みつつある進化なのである。あらゆる生命体に存在する進化の力は、人間においては愛として顕れる。人間の本性のなかで、愛はエントロピーの自然な法則にあらがう奇跡の力なのである。









人々の愛する能力、したがって成長への意志は、幼少時の親の愛のみならず、一生を通じての恩寵、神の愛、によっても培われる、と私は信じるようになり、それを示そうと努めてきた。これは彼らの意識外の強い力で、無意識の働きや両親以外の愛のある人の働き、さらにわれわれの理解していない別の方法で作用する。人々が愛のない養育のトラウマを超え、人間進化の尺度でははるかに親のレベルをこえる、愛のある人間になるのは恩寵のゆえである。それではなぜ限られた人が精神的に成長し、養育環境を超えて進化するのか。私は、恩寵はあらゆる人に与えられており、われわれはみんな神の愛に包まれ、誰しもが同じように気高い、と信じている。だから私にできる唯一の答えは、ほとんどの人が恩寵の招きを気にとめようとせず、その助けを拒んでいる、ということである。私は、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのだ」というキリストの言葉を、「われわれのすべては、恩寵によって恩寵へと招かれている、しかもほとんどの人がその招きに耳を傾けようとしない」という意味に解釈したい。

そこで問題は、「なぜ一握りの人しか恩寵の招きに気をとめようとしないのか」である。なぜわれわれのほとんどは実際恩寵に抵抗するのだろう。以前、恩寵が何かしら無意識にわれわれを病から守ることを述べた。では、ほとんどそれと同じようにどうして健康に抵抗するのだろう。この疑問の答えはすでに出ている。それが怠惰、われわれみんなが呪われているエントロピーという原罪である。恩寵に人間進化の階段をわれわれに登らせる窮極の力があるように、その力にあらがって、ぬくぬくと現状に甘んじさらに存在の厳しさを徐々に失わせさえしようとするのが、エントロピーである。





posted by m_um_u at 19:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

「愛と心理療法」-「重力と恩寵」


「愛と心理療法」を読みつつ、そこでのエントロピーの説明のところで「重力と恩寵」と似てるんじゃないかと思ったので「重力と恩寵」を読みなおしてみた。



以前よりもちょっと理解できるようになった感じ。



愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -
愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -


重力と恩寵 (ちくま学芸文庫) -
重力と恩寵 (ちくま学芸文庫) -

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫) -
重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫) -


「愛と心理療法」から「重力と恩寵」を連想したのは「恩寵」や「下降」のイメージがヴェイユの断片的なそれよりも分かりやすかったからで、今回そういうのを軸に読みなおしてみて以前より読みやすく思った。すくなくとも前半は。


カレー / 「愛と心理療法」-ヴェイユ / 銀杏|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nb3c2ea2ce9b2

「人には恩寵に向かう契機が差し向けられてるのに対してほとんどの人はそれに背を向けている」「恩寵-セレンディピティを得られるのは苦しいことに向き合う回路と同じである」「そこには愛の回路がある」「愛とは、人が自分に閉じこもらず、自分の範囲を広げていくことである」「それはしばしば苦しみを伴う」「その苦しみを支えるために人の愛情がある」「親の愛が足りなくても、あとから人の愛に気づけるようになれば、恩寵は自然と訪れる」

「人はしばしばそういった回路から逃れる - 面倒臭がって/自分を守るために回路を開かないのは怠惰のエントロピーがあるからである」というのはヴェイユが言っていた重力と下降のイメージと同じようにおもった。ヴェイユの場合はこういった説明がなかったけど。


(「愛と心理療法」についてのメモ / 抜粋は次のエントリでするかもしれない)



「重力と恩寵」でだいたいは完全な理解とはいえないまでも連想とかイメージできるのだけど特にわからないなとおもったのは「遡創造」のところだった。


創造は愛の行為であり、絶えず繰り返されている。どんな瞬間においてもわれわれの生存は神のわれわれに対する愛である。しかし、神は自分自身しか愛することができない。われわれに対する愛は、われわれをとおして神自身に向けられた愛である。このように、われわれに存在を与える神は、わらわれの心のなかの、存在しないことへの同意を愛する。

われわれの生存は、われわれが存在しないことに同意するのを待つ神の意志によってのみ成り立っている。

神は絶えず繰り返して、われわれに与えたこの生存を物乞いしている。それを物乞いするために与えているのである。



この理路は「愛」の箇所にも通じる、


愛はわれわれの悲惨(ミザール)の一つのしるしである。神は自分自身しか愛することができない。われわれはなにかほかのものしか愛することができない。

神がわれわれを愛しているから神を愛すべきである、ということではない。神がわれわれを愛しているから、われわれは自分自身を愛さなければならないのである。この動機がなければ、どうして自分自身を愛することができよう。このようなまわりみちを経なければ、人間は自分自身を愛することができないのである。


もし私が目かくしをされ、両手を鎖で杖につながれたとしたら、その杖は私を事物からへだてはするが、それを媒介として私は事物をさぐり知ることができる。私は杖しか感じることができない。知覚の対象となるのはまわりの壁だけである。創られたものの愛の能力についても同じことがいえる。超本性的な愛は創られたものにしか触れず、神にしかおもむかない。神は創られたもののみを愛する(われわれにとっても、そのほかに愛すべきものがあるだろうか?)、ただし、それらを仲立ちとして愛するのである。すべての創られたものを、仲立ちとして、平等に愛しており、そのなかには神自身も含まれている。他人を自分自身のように愛するためには、一方では自分自身を他人のように愛することが必要である。




スコット・ペック的な理解では「人の愛は他者を理解するために自分(エゴ)を捨て、他者や世界といった自分にとってわからないものに向け自分を開示・理解・広げていくことである。それは苦しみを伴う。その苦しみを埋めるための初期段階では親などの愛情が必要になる。親の愛情が薄かった人はあとからこの訓練を行うために介助者の愛-理解が必要となる」ということで愛は苦しみに耐えるための資源(であり理解しようとする行為と結果)とされるわけだけど、ヴェイユのここでの記述はその定義・理解では混乱が生じてくる。


たぶん、ヴェイユのこの理路は「神は存在する・神はあまねくすべてのものを愛しているとするならばなぜわれわれの生活は苦しいままなのか?救われないのか?それは愛されてないということ、神は存在していないということなのではないか?」という問いに対する神の存在を前提とした理路なのだろうなあと思うのだけど。神学的な。なので神学の素養があるといいのかなあと思いつつ、「神はわれわれを通して見る」の部分からの連想から、高次元の存在としての神がわれわれの世界を「見る」ということについて、この辺りも関わってくるのかなあとか思った。


「目の見えない人は世界をどう見ているのか」「ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由」|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ned2dda6dbb29


目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書) -
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目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書) -
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暗闇から世界が変わる ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦 (講談社現代新書) -
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暗闇から世界が変わる ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦 (講談社現代新書) -
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ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖 -
ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖 -



全体として、ヴェイユの「他人への期待を捨てること」「真空になること」という在り方は仏教における煩悩を捨てるうんたらと似てるなあとか。愛も煩悩の一つなので。そんなことをおもってたら仏教関連のものも読んでた記述があったけど。



連想ついでに言うとヴェイユのこういう在り方というのは宮沢賢治の「春と修羅」なんかも想ったり、トリアーの描く女性像を想ったり。



ラース・フォン・トリアー、2013、「ニンフォマニアック」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425284729.html


「ニンフォマニアック」補遺: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425456769.html



タルコフスキーなんかも関連でおもうけど、こっちは自分的にはまだはっきりとはフィットしない(トリアーのほうがわかりやすい)。ただ、色や質感、空気感とか温度的にはこの辺なんだろうなあとか思う。


ノスタルジア|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n49dd5dc2aae0


TSUTAYAでタルコフスキー / ホヤ・鯛|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n5ffc929ca6ea





まあでもそのうち経験とか思いがたまれば感じ方も変わるのかなあとか。「重力と恩寵」も同様に。


そういう意味だと棚に置いてても良い本なのかもしれない。



























--

M・スコット・ペック、1983、「平気でうそをつく人たち PEOPLE OF THE LIE」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/427158508.html




今村純子、「シモーヌ・ヴェイユの詩学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/412506991.html

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2015年10月15日

「恋愛とセックスの経済学」 / 「家父長制と資本制」



読んでしばらくしてから「なんでこれ読もうと思ったんだっけなあ。。( ^ω^)・・・あ、ジャレド・ダイアモンドのセックス本が思ったより予約集中しててすぐ読めなそうだったからこっちにしたのか」て気づいたのだけど



文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫) -
文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫) -

人間の性はなぜ奇妙に進化したのか -
人間の性はなぜ奇妙に進化したのか -

セックスはなぜ楽しいか (サイエンス・マスターズ) -
セックスはなぜ楽しいか (サイエンス・マスターズ) -



そう思ったのは今回紹介する本がおもったより面白くなかったからで、、まあそういうと紹介される人も読む気が失せるだろうからなんだろけど、単に自分が期待してたものに対して合わなかったからでこういうのを必要としてる時とか、必要とする人には良いのかなあとか。それとは別にダイアモンドの思い出したのでそのうち読むけど。






セックスと恋愛の経済学: 超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業 -
セックスと恋愛の経済学: 超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業 -


セックスと恋愛の経済学―超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業 -
セックスと恋愛の経済学―超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業 -




この本は恋愛とセックスの、というか主にセックスを中心とした男女の付き合いを経済学的に考察したらどうなるか?という視点で描かれたエッセイぽいものになってる。経済学的にていうか、そんなに本格的に経済学してるってほどでもなく、経済学に使われるような統計データとそれに基づいたちょっと経済学的概念を使った考え、みたいなの。まあ「ヤヴァい経済学」系の流れなのかなあ。


なので、ふだん一定の価値観が先行しやすい性愛領域を経済学的な効率性・合理性からスパっと見るときにはわかりやすい。


てか、自分的にこういう考えが基本になってるとこもあるので、人に説明するときに便利だなあとかおもった。


例をあげてくとキリがないので、そのなかで印象に残った箇所を以下抜粋。


これなんかはこの本の考え方をあらわした代表的なものだし、自分も似たようなこといったことある(←ナノデモテナイ)




経済学に基づいた全く新しい結婚の誓い:

新郎:
「私は彼女との契約を結ぶことに同意します。それは私たちの結婚生活にわたって有効です。私は確かに新婦よりはるかに質の高い他の女性たちに出会いましたが、彼女たちは私に飽き足りなかったために、あなたとの結婚に至ったことを受け入れます。あなたは学歴と収入の点で私の希望を欠いていますが、そのぶんは若さと外見的魅力で埋め合わせてあまりあります。そして私は、このトレードオフはあなたを妻として選ぶには充分なものと誓います。わたしは誠実であるおkとを誓います。あなたの魅力は加齢とともに不可避的に低下するものであり、相手を探すことは低コストなのでいずれ新たな妻を求める動機になるにもかかわらずです。私は良い家庭を築くという共同の目標に向かってあなたと家事を分担することを誓います。また私たちの世帯の将来の収入に対するあなたの期待を満たすため、自らの人的資本を投入し続けることを誓います。あまり合理的ではないかもしれませんが、私は子供たちと資産ポートフォリオに投資することを誓います。あたかも、死が私たちを分かつ時まで私たち家族が一緒であることを期待するがごとく」



新婦:
「私は彼との契約を結ぶことに同意します。それは私たちの結婚生活にわたって有効です。私は確かに新郎よりはるかに質の高い他の男性たちに出会いましたが、彼らは私に飽き足りなかったために、あなたとの結婚に至ったことを受け入れます。あなたは身長と容姿の点で私の希望を欠いていますが、その分は学歴と職業選択で埋め合わせてあまりあります。そして私は、このトレードオフはあなたを夫として選ぶには充分なものと誓います。私は私たちの結婚生活で生まれるどの子供についても生物学的にあなたの子供であることを誓います。たとえ、よりすぐれた遺伝的資質を与えてくれる他の男性に短期間目移りすることは確実でもです。また子供たちの人的資源を育むために、自らの人的資本を犠牲にすることを誓います。あなたが家庭の幸福のために必要な資源を十分に持ちよってくれることがわかっているからです。あまり合理的ではないかもしれませんが、私は敢えてリスクを取り、結婚生活と資産ポートフォリオに投資することを誓います。あたかも、死が私たちを分かつ時まで私たち家族が一緒であることを期待するがごとく」





上記のような合理性が共有されてれば特に男女差がどうとかいうこともないようにおもう。ちなみに本書において結婚のメリットというのは「子育てのため」「一緒に暮らすとその分節約されるから」みたいな感じだった。結婚、というか生活というのも規模の経済性みたいなのが働くのかな?(cf.カレーは大量に作ったほうがおいしいし安く済む)。




ついでに気になったちょっと気の利いたものとして「なぜ人は不倫するのか?」みたいなことについての経済学的な説明。

「なぜ不倫するのか?」な疑問というのは世間的には「不倫はイケない」みたいな倫理コードが内包されてるように思うんだけど、そういうのは別に単に期待費用から考えたもの。






不倫の期待費用:

人が伴侶を裏切るのは、そのメリットが期待費用を上回ると思うからです。裏切りの期待費用は次のように考えられます。

露見する確率 × 露見時の費用 = 裏切りの期待費用



田舎の専業主婦の不倫発覚率が30%、夫が離婚に踏み切る確率は50%、離婚に至った場合に彼女が被る経済的損失は10万ドル相当だっとしましょう。


0.30 × 0.50 × 100000 = 15000ドル


不倫のメリットは1万5000ドル以上でなければなりません。


これに対してキャリアウーマンの場合は不倫発覚率は外で仕事をしていて出張などもあるため、不倫発覚率はわずか5%、夫が離婚に踏み切る確率は50%、離婚に至った場合に彼女が被る経済的損失は5万ドル相当だったとしましょう。


0.05 × 0.50 × 50000 = 1250ドル


したがって彼女にとっての不倫のメリットは専業主婦の場合よりもはるかに低く、1250ドル相当のメリットが見いだせるなら良いわけです。





あとは単婚やポリアモリーの合理性についての経済学的考察、あるいはLGBTとして生きることの経済学的考察なんかもあったな(cf.同性愛者は社会保障が効きにくく一般社会に馴染みにくいため専門職につきやすく、貯蓄も(ヘテロの意味での)一般人より多い)。




「特に男女差がどうとかいうこともない」つながりでいうと最近「家父長制と資本制」を読んで似たような結論に至った。


「家父長制と資本制」雑感|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n046419efe247

そういうのを考えると、フェミニズムの問題で女性固有の問題としてうんたら言うよりも労働問題としてやっていったほうが雑味がなくていいのかなあとか思ったりする。フェミニズム-女性固有の問題としてやっていくと自己言及的になってけっきょくは「女性以外の人にはわからないんですよ!」みたいな結論になりがちなので。事態の進展は労働・就労条件の改善によって進んでるわけだし。


そういうわけで自分としてはこの部分の地味なギロンのお勉強としては労働、あるいは、家族に関わる歴史・制度などについて学んでいくことかなあとか思ってる。





日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか -
日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか -




仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
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仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
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筒井淳也『仕事と家族』(中公新書) 8点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52106679.html




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2015年10月03日

M・スコット・ペック、1983、「平気でうそをつく人たち PEOPLE OF THE LIE」




文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫) -
文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫) -


最近の一連のあれでちょっと辟易したから読もうと思ったのか、それとも「あ、そういやこれ読もうと思ってたけど忘れてたな読もう」てことでこっちを先に読んでたのかわすれたけど、最近の一連のあれと読んでいたこれがリンクして、というかネットにおけるみょーに祭りをする人たちの問題とこの辺がリンクして自分的にはけっこう有益な読書体験だった。


「邪悪」に背を向ける|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n4a9c37426e0e



人に対して邪悪であるというのはビミョーな感じで、「そこまで強い言葉を発しなくても良い(切断しなくても良い)」「そういう自分が邪悪かも」というのはあるんだけど、世の中にはある程度見切りを付けないとズルズルと悪い方向にすがってくる人たちというのがいるので。あるいは自分がそういう人たちに関心をもっても時間の無駄なのでさっさと切ったほうが良いみたいなの。


彼らが邪悪なのではなくそう言ってる自分が邪悪なのかもしれないけど。すくなくとも自分はそのように反省ができる。
でも、こういった倫理というか誠実さ?の突き詰めみたいなのは人によってはモラルに対するハラスメントにも感じるのかもしれない。自分は単に他人にそれをむけてるだけではなく自分自身に向けてるものだからふつーのことなんだけど。まあそういうので(∩゚д゚)アーアーききたくなーいてやる人たちはけっこういるだろうなとおもうし、そのぐらいで邪悪というのもどうかなってのもあるけど。人におけるだいたいの悪か正義かみたいなのははっきりと定常的なものではなく、それぞれがそれぞれの情況や問題の中で正 / 悪の位置がちがったり、悪と善の中間 - 連続体にあったりするので。

とりあえず、自分たちの正義とか正しさみたいなのは喧伝しつつ他人を貶めてばかりの人たちの醜さ、あるいは彼らが信じる雑味のある倫理観にはすこしイラッと来る / 無駄に時間をとられるのでみないことにした。
どうせ自分が声を上げても(∩゚д゚)きこえなーいようだし、だったらもうちょっと直接に語りかければどうか?というとモラハラにとられるのかもだし。まあそこまでコミットすることでもないので。






では、そこで挙げられる「邪悪」あるいは「悪にある人たち」の定義や特徴、その定義の範囲の限界とはなんなのか?そういうのが定まってないと無制限に自分の恣意で気に入らなければ「邪悪」て決めつけることになりかねない。


そうおもったので本書で挙げられていた邪悪の定義・特徴に関わると思うところを自分なりに抜書きしてみた。

そういうわけでこのエントリはその定義・引用のメモ的な性格を主とする。あとで自分で見返したりもしたいので。


加えていうと本書の内容は「うそをつくひとたち」というよりは「悪」や「邪悪」というものを精神医学的に定義しようとする試みだった。そういうのは精神医学の対象になりえるのか?(倫理学なんかの対象ではないか?)てとこなんだけど、臨床だとそういうひとたちがちょこちょこ訪れて大変ということもあるようで定義の必要性を感じたらしい。いわゆるサイコパスとかそういうのだろけど、そこまでいかなくてもアレゲなひとたちとか。

そういう人達に対するアプローチは民俗学とか社会学的に「観察」→「とりあえず腑分け / 整理」というのもあるのだろうけど

ネットで他人を血祭りにあげる人々|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ne4255b3d37d8



あと、本書で挙げられているひとたちの事例としていわゆる毒親的な問題や共依存(心理学的には「共生」)としてもあった。そこでは相手を人間・人格的に無脳にして支配しようとする関係があるので。





では、以下は邪悪についての引用をメインに。









悪は殺しと関係があると言ったが、これは肉体的な殺しだけを言っているのではない。悪は精神を殺すものである。生 ――特に人間の生―― には不可欠の特性がいろいろとある。意識、可動性、近く、成長、自律性、意志といったものがそれである。肉体を破壊することなく、こうした特性のひとつを殺す、あるいは殺そうとすることもできる。したがって、われわれは、たてがみ一本傷つけることなく馬を「破壊」することもできれば、髪の毛一本傷つけることなく子供を「破壊」することすらある。エリッヒ・フロムはこの事実を鋭くついている。フロムは「屍姦症」の定義を拡大して、他人を支配したいというある種の人間の欲望―他人を支配可能なものにし、その人間の他社依存性を助長し、自分自身で考える能力を弱め、その人間の独自性および独創性を減じ、その人間を制御可能な状態に抑え込んでおきたい、という欲望をもこれに含めている。フロムは、その著 The Heart of Man: Its Genius and Evil(「悪について」)のなかで、「生を愛する」人間、つまり、生の姿の多様性と個人のユニーク性を尊重しこれを育成する人間と区別して、「屍姦症的性格」というタイプを論証している。この種の性格の人間が求めていることは、他人を従順な自動機械に変えることによって人生の不都合を回避し、他人から人間性を奪うことである。

したがって悪とは、とりあえず、人間の内部または外部に住みついている力であって、生命または生気を殺そうとするものである、ということができる。また、善とはこれと反対のものである。善は、生命と生気を促進するものである。






私が邪悪と呼んでいる人たちの最も特徴的な行動としてあげられるのが、他人をスケープゴートにする、つまり、他人に罪を転嫁することである。自分は非難の対象外だと考えている彼らは、だれであろうと自分に近づいてくる人間を激しく攻撃する。彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである。

スケープゴーティング、つまり罪の転嫁は、精神医学者が「投影」と呼んでいるメカニズムによって生じるものである。邪悪な人間は、自分には欠点がないと深く信じ込んでいるために、世の中の人と衝突したときには、きまって、世の中の人達が間違っているためそうした衝突が起こるのだと考える。自分の悪を否定しなければならないのであるから、他人を悪と見なさざるをえないのである。自分の悪を世の中に投影するのである。

したがって悪とは、他人をスケープゴートにするために最も頻繁に行われるものである。




邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである、定義することができる。簡単に言えば、これは他人をスケープゴートにすることである。われわれが他人をスケープゴートにするときは、その対象となる相手は強い人間ではなく弱い相手である。邪悪な人間が自分の力を乱用するには、まず、乱用すべき力を持っていなければならない。この支配関係として最も一般的に見られるのが、親の子供にたいする関係である。子供というものは弱く、無防備で、しかも親との関係に縛られている。彼らは親に隷属すべく生まれてきたのである。したがって、邪悪性の犠牲になるのは、その大半がボビーやロージャーのような子供だということも、べつに驚くべきことではない。彼ら子供には逃げだすだけの自由もなければ、その力もない。




邪悪性とは罪の意識の欠如から生じるものではなく、罪の意識から逃れようとする気持ちから生じるものである。

「愛と心理療法」のなかえ私は、精神の病の根底には怠惰、つまり「当然の苦しみ」を逃れたいという欲求があると書いたが、ここで問題にしていることもまた、怠惰の回避、苦痛からの逃避である。もっとも、邪悪な人たちというのは、一般的な意味での苦痛からの逃避者、つまり怠惰な人間ではない。それどころか彼らは、ご立派な体面や世間的を獲得し維持するためには人並み以上に努力し、奮闘する傾向もある。地位や威信を得るためであれば、大きな困難にも甘んじ、熱意を持って困難に取り組むことすらある。彼らに耐えることのできない特殊な苦痛はただひとつ、自分自身の良心の苦痛、自分自身の罪の深さや不完全性を認識することの苦痛である。

自省に伴う特有の苦痛を避けるためにはあらゆることをやってのける彼らが、心理療法を受けようとするなど、通常の状況のもとではまず考えられないことである。









自己愛(ナルシシズム)はさまざまなかたちをとるものである。なかには正常なものとされているものもあれば、幼児期には正常とされるが成人の場合には正常でないとされるものもある。また、ほかとくらべて著しく病的なものもある。ナルシシズムの問題は、重要な問題であると同時に、複雑な問題でもある。もっとも、本書は、このナルシシズムの問題のすべてを等しく検討の対象とすることを目的とするものではない。したがって、エリッヒ・フロムが「悪性のナルシシズム」と呼んでいる、ある種の病的ナルシシズムの問題に話を進めたい。

悪性のナルシシズムの特徴としてあげられるのが、屈服することのない意志である。精神的に健全な大人であれば、それが神であれ、真理であれ、愛であれ、あるいはほかのかたちの理想であれ、自分よりも高いものになんらかのかたちで屈服するものである。健全な大人であれば、自分が真実であってほしいと望んでいるものになんらかのかたちで屈服するものである。健全な大人であれば、自分が真実であってほしいと望んでいるものではなく、真実であるものを信じる。自分の愛する者が必要としているものが、自分自身の満足よりも重要だと考える。要するに、精神的に健全な人は、程度の差こそあれ、自分自身の良心の要求するものに従うものである。ところが、邪悪な人たちはそうはしない。自分の罪悪感と自分の意志とが衝突したときには、敗退するのは罪悪感であり、勝ちを占めるのが自分の意志である。

邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである。彼らは、頑として自分の道を歩む強力な意志を持った男であり女である。彼らが他人を支配しようとするそのやり方には、驚くべき力がある。




私自身の見方に従えば、自由意志の問題は、偉大な真理の多くがそうであるように、ひとつのパラドックスである。一方では自由意志というひとつの真実がある。われわれは、陳腐な「教義」や条件付けその他の多くの要因なしに、自由に選択することができる。その一方では、われわれには自由を選ぶことができない。そこにはふたつの状態があるのみである。この服従の拒否こそが、とりもなおさず、人間を悪魔の力に隷属させるものである。結局のところ、われわれは神か悪魔のいずれかに帰依しなければならない。私は、善にも、また完全な利己心にもとらわれることなく、神と悪魔のまさに中間にある状態が真の自由な状態ではないかと考えている。しかし、この自由はばらばらに分断される。これは耐えることのできないことである。われわれは、いずれに隷属するかを選ばなければならないのである。





「いいですか。私が最も驚いたのは、お二人が、ご自身が治療を必要としていることを認めるくらいなら、ご自分の息子さんが不治の病を持っていると信じるほうがましだと考えておられる、つまり、息子さんを抹殺してしまいたいと考えておられるようにみえることです」





邪悪な人たちのナルシシズムは、この共感の能力を全面的に、あるいは部分的に欠いていると思われるほど徹底したものである。アンジェラの母親は、自分の娘が髪をブロンドに染めるのをいやがっているのではないか、といったことを考えてみようともしなかったことは明らかである。ボビーの両親も、兄が自殺に使った凶器をクリスマス・プレゼントとして弟に贈った場合、その弟がどういう気持ちになるか考えてみようともしなかった。同様にヒトラーもガス室に送り込まれるユダヤ人の気持ちなど考えてみようともしなかった、ということが想像できる。

こう考えると、彼らのナルシシズムは、それが他人をスケープゴートにする動機になるというだけでなく、他人にたいする共感や他人を尊重する気持ちからくる抑制力を奪うという意味からも、危険なものである。邪悪な人たちのナルシシズムは、彼らが自分のナルシシズムに捧げるためのいけにえを必要としているという事実に加えて、自分のいけにえになる相手の人間性をも無視させるものとなる。ナルシシズムが彼らの殺人の動機となるだけでなく、殺しという行為にたいする彼らの感覚を鈍らせてしまうのである。ナルシシストの他人にたいする無神経さは、共感の欠如異常のものにすらなりうる。ナルシシストは他人を「見る」ことすらまったくできなくなることがある。




邪悪な人間は、つねに、自分たちの動機をうそで覆うものである。

R夫妻の私とのやりとりを注意深く読んだ読者には、彼らが数多くのうそをついていることがわかるはずである。ここにもまた、驚くべき定常性が見られる。これは、彼らが一つか二つのうそをついていたという問題ではない。ロージャーの両親は、くりかえし、また、常習的にうそをついている。彼らは「虚偽の人々」である。そのうそは、あからさまなものではない。訴えられて裁判にかけられるような種類のうそではない。しかし、そのうそは、いたるところに見られるのである。そもそも、彼ら私に会いにきたことが、ひとつのうそだったのである。

彼らがロージャーのことを本心から心配していなかったのならば、また、私の助言などほんとうは必要としていなかったのならば、なぜ私の診断を求めたのだろうか。その答えは、それが彼らの、うわべをとりつくろうやり方のひとつだったからである。彼らは、ロージャーを救おうとしているかのように見せかけていた。いずれの場合も学校からそうするように言われたものであり、それにたいしてなんらかの対応を見せなければ、いいかげんな親だと見られてしまう。「息子さんを精神科医に診せたんでしょうね」ときかれたときに困るからである。









精神医学は、私が邪悪性と呼ぶものを包含する、これまでとは違った新しいタイプの人格障害を認識すべきときが来ていると私は考えている。自己の責任の放棄はあらゆる人格障害の特徴となっているものであるが、これに加えて、邪悪性はとくに次のような特性によって識別できる。

(a) 定常的な破壊的、責任転嫁行動、ただしこれは、多くの場合、極めて隠微なかたちをとる。

(b) 通常は表面に現れないが、批判その他のかたちで加えられる自己愛の損傷にたいして過剰な拒否反応を示す。

(c) 立派な体面や自己像に強い関心を抱く。これはライフスタイルの安定に貢献しているものであるが、一方ではこれが、憎しみの感性あるいは執念深い報復的動機を隠す見せかけにも貢献している。

(d) 知的な偏屈性。これには、ストレスを受けた時の軽度の精神分裂症的思考の混乱が伴う。








あらゆる人間の悪の根源が怠惰とナルシシズムにある、ということが子供たちに教えられるようになることを私は夢見ている。人間一人ひとりが聖なる重要性を持った存在である、ということを子供たちに教えるべきである。集団のなかの個人は自分の倫理的判断力を指導者に奪われがちになるが、われわれはこうしたことに抵抗しなければならない、ということを子供たちに教えるべきである。自分に怠惰なところはないか、ナルシシズムはないかと絶えず自省し、それによって自己浄化を行うことが人間一人ひとりの責任だということを、子供たちが最終的に学ぶようにするべきである。この個人の浄化は、個々の人間の魂の救済のために必要なだけでなく、世界の救済にも必要なものである。






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そのうち chromecast も買おかなあ。。


GooglePlayMusic(以下めんどいのでGPM)をはじめたのもあってついったのTLでちらっとchromecastの話題をチラッとみたら意識されて「もしかしてchromecastつかうとGPMもテレビで流せるの?」て調べたらやっぱそうだった。






Wi-Fiの帯域に注意だけどたぶんいま使ってるのでおkそう。だとすると5000円ぐらいで少なくともテレビからGPMとラジオが聞けるぽい。うちのラジオは不安定なのでこういうのはちょっと便利。あとDOMMUNEとかも。PCだと遅くてなかなか見れなかったけど購入すると機会高まりそう。

ほかにコンテンツというと無料なデフォだとYouTubeとかニコ動とかになるのだろうけど、そういうのはなんかおもろいのが引っかかってくるチャンネル/アンテナを設定しとけばいいのか。自分的に。

もしくは月額定額1000円ぐらい払って見放題のサービスにひとつ入る感じぽい。huluかNetfix。

映像コンテンツについてはテレビに録画してるもの+たまに借りてくるDVDな現状でも可処分時間がそんなに振り分けられてないのでいまのところそんなに魅力を感じないのだけど、過去の連ドラとかアニメ、海外ドキュメンタリーを見るのには良いのだろう。まあそのうち検討ぐらいで。


てか、自分的にはマンガの低額定額見放題があると良いのだけどそれはいまのところこれといったのがないぽい。


男性女性でも楽しめるおすすめお試し無料漫画と定額プラン料金の比較 | ネットでレンタル生活
http://sikakunowa.com/comic/

【電子書籍】無料/定額制 雑誌・漫画読み放題サービス一覧まとめ - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2135498323030672401


まあこれは近場のマンガが結構そろってるほうのTSUTAYAにちょこちょこ通う程度か。



こういうのって文化資本的なもののユニバーサルサービスということでもはや現代の図書館的な課題になってると思うんだけど図書館はこういうのタッチできないのだよなあ。。てか、CCC-TSUTAYAと図書館な戦争関連だとこのへんがむしろ hack されないかなあとか。案外TSUTAYAもそういう未来を見越してこの辺参入してきてるのかもしれない。たんなる不良在庫のゴミ捨て場として利用ってだけでもなく。



ところで chromecast 、Amazonからは買えなくなってやんのね


アマゾン、「Apple TV」「Google Chromecast」を販売禁止に--「Prime Video」に関連しての措置 - CNET Japan
http://japan.cnet.com/news/service/35071333/

値段的には一本歯下駄と同じなのでこれ買うならそっちを先に買わなきゃだけど(あとコーヒーミルとか)






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「特別」を買い与える(すこし)|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nc55f0e310747








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2015年09月18日

ガッチャマンクラウズInsight




安保改正法案可決うんたらをめぐって賛成/反対なあれでけっこうかしましい世の中の情況で、それ自体についてついったなんかだと愚痴的に言ってるんだけどブログするのは野暮な感じで、んでもそれと並行するように今季のガッチャマンクラウズがテーマとしてリンクしてるなあとか思って見てる。










「ガッチャマンクラウズInsight」は前作の「ガッチャマンクラウズ」の続編で、簡単に言うと「ガッチャマン」て冠はしてるけどガッチャマンそのものとはあまり関係なく、いちおガッチャマンてことでヒーロー的な能力をもったヒーローが主題な話になってる。

前作では、前半部は主に昨今のヒーローもののテーマ - 描き方を踏襲したヒーローであることの葛藤や内面を描くというものだった。つまり「ヒーローズ」(未見)とか「タイガー・アンド・バニー」的な2000年代ヒーローの描写。そこから出てきた「ヒーローであることはみんな(クラウド)で受け持つ」といったテーマが後半部で、その詳細が今作に継がれている。


ガッチャマンクラウズにはいくつかの歴代ヒーローのステレオタイプ的なものがキャラクターされていて、それぞれのヒーローがそれぞれの時代と世界を守ってきたのだけど、一人のヒーローの力では世界を、あるいは社会を支えきれなくなったところで新時代のヒーロー(ヒロイン)が要請される。それが主人公である一ノ瀬はじめなわけだけど。ほかのヒーローたち(特に清音くんとか)が熱血正義ヒーローしてたのに対してはじめちゃんはそういうものが最初からない。なので「ヒーローの資格がないのではないか?」と疑われていたけど…。


フロム的愛の体現者としの一ノ瀬はじめ ――ガッチャマンクラウズ感想 - メモ帳
http://espresson.hatenablog.com/entry/2015/07/10/204830



ベルクカッツェというのはモロに2ちゃんねる的な悪意の体現で、そういった悪意もはじめちゃんは自分の内部に受容していく。ちなみにベルク・カッツェというのは「ガッチャマンクラウズ」において最初は謎の勢力とされた爾乃美家累(にのみやるい)とX(エックス)の対立軸として設定されたものだった。あるいはその逆にカッツェ的な悪に対抗するための新たなヒーローとしてガッチャマンたちとは独立に組織されたのがにのみやるいとクラウズだった。メタファー的なことをいうと、従来型のヒーロー像というのがひとりの、あるいは少数のカリスマに頼った寡頭政治だとすると、にのみやるいが目指したものはより民主的なガバナンスだった。でも、そこにおける正義をにのみやるい(とエックスというスーパーマシン)が決めるというところで矛盾をはらんでいたわけだけど。ベルク・カッツェというのはそういったヒーローたちが立ち向かうべき課題のメタファーだった。そして「倒すべき敵」≠「根絶すべき敵」とされてきたそれを最終的に新時代のヒロインである一ノ瀬はじめは受容し、自らの内部にとどめていった。そこで倒す/根絶することによって新たな敵が生まれるだけなので。



前作はそういうところでちょっと常人離れしたはじめちゃんに頼りすぎてる感があった。いくら「クラウドで」といっても最終的にははじめちゃんという超人的包容力をもった個性の登場 / 誕生に依らなければならないのでは?、それが前作の課題として残ってたのだと想う。



前作についても今作についても詳しく語ろうとするとメンドクサイので端折るけど


ガッチャマンクラウズ カテゴリーの記事一覧 - メモ帳




前作は最後に「ヒーローであること」「社会を守ること」がICTを通じて「みんなで守る」に接続され、スマホを通じた直接民主制の実験が展開されていた。首相も直ぐにスマホ選挙で選べ、ヒーローへの賛成/反対も同様にスマホ民意で反映される。民意がすぐに社会に反映されていく。ただ、それも非常時だったからというのもあり継続してそのような体制で社会が回るのか?という課題が残った。



今作はそういった課題をもうちょっと詳しくほり込んでいったもののように想う。



クラウド民主主義を全体の課題としつつ、前半部ではにのみやるいとエックスの体制の影の部分のオルタナとしてリズムくんと赤いクラウズの集団が結成(ネットワーク)される。彼らがやってるのは暴力でもって意志を通すやり方で、ここでるいくんのやっていたことが社会主義あるいは共産主義的な夢だったのだなあと逆に気付かされる。リズムくんのほうはその中でもよりラディカル?な暴力を中心とした無政府主義。リズムくんは「人類は暴力を中心としたサルである」と説き、るいくんのような「みんなの善意で」的なやり方を否定する。暴力と一人のカリスマに依る社会の牽引と統制。りずむくんとの対話は、途中でツバサちゃんやサドラの救け(横槍)が入ったものの、それが入らなければけっきょくるいくんの敗北で終わる。そしてリズムくん的な思想はとりあえず保留され、ガバナンスの次のモデルにバトンが受け継がれていく。



サドラとツバサの体制はクラウド型民主主義を宇宙人的特殊能力でより直接的に反映したものとなっていく。そこでは「みんなの思いは良い方向に向かう」「ひとつになれば良い方向に向かう」が基本となるのだけど、結果的にそこでも矛盾が生じることが描かれていく。


ガッチャマンクラウズ インサイト 第10話 「意志を持たず流されるままに暴走する『畜群』に立ち向かう、『貴族』のガッチャマン」 - メモ帳
http://espresson.hatenablog.com/entry/2015/09/13/193945



人間はアリとは違う知能や個性をもった社会性動物なので、「一つになる」「みんな同じでみんないい」というのはマイノリティ的な違った考えを持ってる人たちへの抑圧を生み出していく。いわゆる「空気」的なものとして。あるいは権力。


同じ宇宙人でより凶悪に思えたベルク・カッツェがサドラのことを恐れていたのはそういった善意に装った空気の胡散臭さと力を恐れていたということになる。新興宗教的洗脳のような。


10話ではそういった空気の正体が明かされ、ようやくにして今作のヒロイン?として設定されたツバサちゃんがガッチャマンの力に目覚める。


それまでみんなの善意を信じサドラと行動をともにしていたツバサちゃんが自分とサドラが良かれと思って生み出していたのが「空気」というバケモノだったことに気づき凹んでいた時、いつものようにゆる爺はゆる体操をすすめる。「もっとゆるくなれ  もっと中の物を吐き出せ」というゆる体操の真髄は、特定の言葉や思想、イデオロギーを先行に考えるのではなく、もっとゆるく自由に風を感じてはばたけというメッセージだったのかなあと想わせる。ツバサという名前も、彼女のガッチャマンとしてのギミックもそれを暗示させる。リラックスしてゆるくなってなければ良い風は感じられない。



結果的に「善意」な「空気」に基づいた「みんな」の統治はリセットされ、凍結されていたリズムくん(暴力を中心とした無政府主義、あるいは原始共産主義)な課題がふたたび登場する。




こうやって言語化してキャラの性格と意味付けを再検討していくと、今作でツバサちゃんというキャラをあらたに設定したのはこういった課題に対してどのように作用するのか?いろいろ想像出来て良い。


いまのところは「はじめちゃんというあまりにも一般人離れした菩薩的なキャラよりももう少し等身大の女の子を設定した」「このコも従来のヒーロー / ヒロイン的なものに比べて「自由」な気風がある」というところだけど。





今作を見つつ日本の現状のリアル政治-社会関係を想い、「民主主義におけるマイノリティ的なものはどちらなのか?」「民主主義とは何か?」「その落とし所はどの辺りなのか?」「自分は特定の思想に凝り固まってないか?」とか反省してみるのも良いかも。





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2015年08月29日

遠藤哲夫、2013、「大衆めし 激動の戦後史」


前回のエントリに続き「日本の食事の変化」みたいな関心から、「家庭の食事の変化っていったらそういやこれ読もうと思ってたなあ」ということで読んでみた。


大衆めし 激動の戦後史: 「いいモノ」食ってりゃ幸せか? (ちくま新書) -
大衆めし 激動の戦後史: 「いいモノ」食ってりゃ幸せか? (ちくま新書) -



『大衆めし 激動の戦後史』にいただいた、お声、その4。南陀楼綾繁と木村衣有子の評: ザ大衆食つまみぐい
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2013/12/4-2086.html

南陀楼さんは、本書に述べられている、70年代にどう工業社会型の食生活が訪れたか、その揺り返しのように21世紀に入ると叫ばれた「食育」や「スローフード」などの安全志向を、例によって的確に要約したのち、こう述べる。

「しかし著者は「便利な食」と「安全な食」のどちらが正しいと決めつけることはしない。それよりも、生活の中の料理とは何かを考え、「ありふれたものをおいしく食べる」という食の基本に立ち返ることを提唱する」

ここは、どちらが正しいか結論めいたことを書かないように、おれが最も気を使ったことなのだ。いやあ、さすが、南陀楼さんは大事なポイントをはずさないと思った。

「食の混乱」がいわれるが、「混乱」というより「多様化」であり、多様化の中では、二者択一ではなく、それぞれが自分の生活の現実から考える。そういうそれぞれをお互いに尊重しあう。「うまい、まずい」をこえて、「自分の美味」を持つこと。それが本書の「立場」なのだ。




前回の阿古真理さんのそれがスローフードとかカフェ飯的なものによりがちな結論だったのに対して遠藤さんの場合はあくまで「大衆食堂」「飯」にこだわってそういうシャレオツを退けてた感があった。まあでも否定するわけでもなく「けっきょくはTPO的にそのときうまいとおもえるものをうまく食べれれば良い」みたいな感じだったけど。

歴史的知識としては70年代以降に大衆食が変わり始めた経緯、あるいはそれ以降の代表的な大衆食の登場・変化などの文脈や当時の印象などが語られていておもしろい。

たとえば「なぜ70年代から変わったか?」といえば60年代に高速道路網が張り巡らされコールドチェーン(低温流通体系)が完成、これとモータリゼーションによって産地から遠いところでも新鮮な食物が味わえるようになった。これと同時にいわゆる「旬」は失われていくことになる。これは日本料理の意味、家庭料理との関係との変化にも関連していくのだろうけど後述。


コールドチェーンに加えて家庭用冷蔵庫も大きくなり、冷凍食品なども普及、キッチン環境も変化。これに加えて文化的憧れや政治経済的な貿易関係から家庭料理の洋食化が進んでいった。


こういった大衆食の変化の歴史語りと並行して「家庭料理の変化」ということを考える中で暗黙の前提とされていた「日本食=和食=家庭料理」についての考察が進められる。「日本食=和食=家庭料理」というか「日本食>和食>家庭料理」のような「家庭料理や大衆食堂の飯のようなものは料理としては下賤で、それと日本料理は違う。ほんとうの料理=日本料理ってのはなぁ」みたいな価値観に対して。料理人だった江原恵の唱える料理哲学を遠藤が受ける形で日本料理や和食、日本の家庭料理について語られていく。


庖丁文化論―日本料理の伝統と未来 (1974年) -
庖丁文化論―日本料理の伝統と未来 (1974年) -

食通以前 (1977年) -
食通以前 (1977年) -

まな板文化論―生活から見た料理 (1975年) -
まな板文化論―生活から見た料理 (1975年) -


それによると日本料理というのは「素材の味をできるだけそのまま活かすために加工をそれほど施さない料理」ということになる。それのポリシーは日本料理の代名詞的な「割烹」という言葉に集約される。「割烹」とは「割る」と「烹ずる」を表す。すなわち「包丁で切る」と「煮る」。ただ、「割烹」の中には「割主烹従」という言葉が前提とされるようで、「割 > 烹」すなわち包丁で切る技術が煮ることよりも重視される。日本食における料理の技術とは刺し身に代表されるように素材をできるだけ傷つけず、素材の味を活かし、その自然な風味を客に供す、ということになる。その際、「煮る」も素材がスープ状に煮崩れするまで煮るのではなく素材の風味を汁気に出しつつ、素材の食感や風味を残すに留める。割烹というのはもともとそういう意味らしいのだけど、ちなみにいうと割烹と料亭の違いというのは後者が芸者を招いて遊べるところ、前者は料理のみ楽しむところということらしい。日本料理というのはもともとそういう酒の席の食事ということでいわゆる「おかず」とは異なるものとされた。なので、たぶんこれに関連するおせち料理も酒の供ということを前提につくられおかずという感じでもない。

「素材の味をそのままに伝える」「必要最小限の味付けで」「切ることが最重要となる」ということで日本料理における切る技術、包丁の価値は高まった。

知らなかったのだけど包丁式というものがあるらしく、見ていると日本の古武術、抜刀術のそれを模してる感じだった。そこにおける文化とか伝統とかをなんかよくわからない価値観と因襲で固めたり守ったりしてる様子も。ちなみに神田川俊郎さんは包丁式四条流の免許皆伝な方なのだそうな。



小説 料理の鉄人〈4〉「道場六三郎対神田川一門」 (扶桑社文庫) -
小説 料理の鉄人〈4〉「道場六三郎対神田川一門」 (扶桑社文庫) -

日本料理法大全 (1965年) -
日本料理法大全 (1965年) -

日本料理法大全 -
日本料理法大全 -



日本料理が「素材の味を出来るだけそのままに」というような思想でつくられていったのは一説では「日本が外国に比べ旬の食材をすぐに味わえる環境にあったから(海、山が近く四季がある)」とされる。特に魚なんかはそんな感じだったのだろう。

しかし、であるがゆえに冷凍保存・輸送技術が発達していっていわゆる「旬」がそれほど意味をなさなくなっていくと「旬ってなんだっけ?」的な感じになっていった。いちお日本料理的価値観からそれは来ていたのだろうけど、元々どういう条件や文脈からそういった価値観が奉じられるようになったのか定かではなかったのでその価値だけが浮き、なんとなく「やっぱ旬のものは良いねえ」ぐらいで残っていった。日本料理についても。

まあもちろん冷凍技術・輸送技術が進んでも産地でとれたての旬のものの味にはかなわないところはあるのだけどとりあえず置く。





こういった「和食の頂点に立つちゃんとしたもの」とされつつも一部の人のみ愉しむ料理として家庭料理とは隔絶したところにあった日本料理に対して、70年代以降家庭料理は変化していった。70年代にはファミレス一号店が軒並みオープンしていって外食のあり方、家族の食事のあり方や内容も変化していった。





短くまとめるとこんな感じだけど、関連で読みたい本とかリンクがついてたのでメモ的に貼っておく。



男子厨房学(メンズ・クッキング)入門 (中公文庫) -
男子厨房学(メンズ・クッキング)入門 (中公文庫) -

男子厨房学(メンズクツキング)入門 (文春文庫 (322‐2)) -
男子厨房学(メンズクツキング)入門 (文春文庫 (322‐2)) -

料理の四面体 (中公文庫) -
料理の四面体 (中公文庫) -

「料理の四面体」について

この本の特徴は、簡単にいえば、「料理とはこういうものだ」という本質と原理を、構造的に、わかりやすく三角錐の四面体にまとめて見せたことだ。日本料理だろうが、西洋料理だろうが、中国料理、アフリカ料理、なんでもござれ、あらゆる料理に共通する料理の構造を解いて、きわめて理論的なのだが、それが三角錐の四面体なのでわかりやすい。

これがわかれば、レシピなどに頼らず、いろいろな料理がドンドンできる、料理が楽しくなる。ひとつひとの料理のコツをか覚えなくても、自分がつくりたい料理のコツがわかってしまう、魔法の四面体。


三角錐の四面体の角はそれぞれ「火」「油」「水」「空気」が設定されている。




料理というのは化学変化でありその知識の実践なわけだけど、基本的に料理の素材というのは人が味わう時に加熱すると旨味が増す。なので「火」によって焼いたりするわけだけどそこでの加減や方法によって焼き方も「グリル」「ロースト」「燻製」などに分かれていく。これに「水」を加える事で「茹でる」「煮る」などが可能となる。さらに「油」を加える事で「炒める」「揚げる」などの料理法が出てくる。

料理というのは基本的にこの4要素で成り立っており、料理法としてもその応用としての「焼く」「茹でる・煮る」「炒める・揚げる」ぐらいとなる。あとは味付け方法の違い。


「料理の四面体」ではそのへんを構造的、理論的に説いたようなのだけど「男子厨房学入門」ではそれをもうちょっと実践的にわかりやすくした実践書とのこと。


みんなの大衆めし (実用単行本) -
みんなの大衆めし (実用単行本) -

日本の大衆めし=代表的日本食をわかりやすくまとめたもので台湾で中国語に訳され販売もされてる、と。


あとはシノドスのこの特集とか読んどこ

リスクを決めるのは科学ではなく、社会だ / シンポジウム「みんなで決める安心のカタチ 〜 ポスト311の地産地消を目指して」 | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/fukkou/764

みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年 -
みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年 -



あと、日本食=和食≠家庭料理?関連でこのへんも


「和食」って何? (ちくまプリマー新書) -
「和食」って何? (ちくまプリマー新書) -





posted by m_um_u at 22:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2015年08月01日

ヴィム・ヴェンダース、2014、「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター(The Salt of The Earth)」




サルガド×ヴェンダースだし映画の日に休みもあったしということでBunkamuraに見に行った。


セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター | ル・シネマ | Bunkamura http://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/15_loveletter.html


といってもほとんど寝てた(きょうは二時半頃起きた)のでエントリは控えようかなあと思ったのだけど、ふと原題のThe Salt of The Earthが気になってぐぐって出てきた言葉が気になったので。





「地の塩」とは、「地の塩、世の光」と対になっていることも多いのですが、他の回答者様がお答えのとおり、キリスト教の新約聖書、マタイによる福音書に出てくるイエスキリストの言葉です。

マタイによる福音書5〜7章の山上の説教(または垂訓)では

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなればその塩は何によって塩味がらつけられよう。もはや、何の役にもたたず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

上記のように述べられています。

いろいろな解釈がなされているのでしょうが、ごく一般的な解釈を記します。

塩は食物の腐敗を防ぎ、光は暗闇を照らし出します。塩のように世の中の腐敗を防ぎ、光のように悪の浄化する存在になるよう、イエスキリストが山上で信徒に語りかけたとされています。




「地の塩」という原題は映画のはじめのほうに示され、とくに解説もされずにすすんでいく。「地球へのラブレター」とかいう少し気恥ずかしいタイトルには違和感があったので原題にしっくりきつつ、「このタイトルの意味を解題することがこの映画の理解につながるのだろうなあ」とか思って映画を見ていたのだけどけっきょく最後まではっきりとタイトルの意味について説明されている箇所はなかったようにおもう。まあ後半分ぐらい寝ながら見るという不真面目鑑賞ではあったのだけど。

んでも上記引用の説明と映画の前半部で表されていたことでなんとなくわかったようにおもった。

映画はサルガドのキャリア、生い立ちに沿って語られていく。ブラジルの片田舎から大学院にいって留学し、ロンドンの国際コーヒー機関にエコノミストとして職を得たサルガドは建築家の妻が仕事の必要から購入したカメラに惹かれていく。そして夫婦にとって大きな決断をする。安定したエコノミストという職を捨てて職業カメラマンとしてやっていくことを。


原題「地の塩」には以下の経験が深く関係しているように想われた。


今週末見るべき映画「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」 (3/4)
Excite ism(エキサイトイズム) http://ism.excite.co.jp/art/rid_E1438156218129/pid_3.html


1973年、ニジェール。1974年から1984年に撮影、初の写真集が「アザー・アメリカ」だ。エクアドル、ペルー、ボリビア、メキシコを撮る。サルガドは謙虚である。「写真を撮ると、被写体を少し理解出来る」、「目は大いに語り、表情が訴えかける」、「ポートレートは私ひとりで撮るのではなく相手から貰うのだ」。



職業カメラマンとしてのキャリアの最初の大型プロジェクト「アザー・アメリカ」で南米の奥地に取材旅行をしていくなかで、サルガドは現地部族のひとりから「おまえは天から遣わされて俺たちを録り(見)に来たのだろう?」といわれる。

「彼らの時間はひどくゆったりとしていて、そういうことを本当に信じているようだった」

ここでは「彼らはそれを本当に信じているようだった(そして彼らの生活もそういった信仰を日常に生きていた」というような言い方だったようにおもうけど、サルガド自身もこういったことに深く影響されて実際にその役割を生きようとすることになったのだとおもう。話の流れとは直接関係しないけどここでのサルガドの様子は文化人類学者のようだった。「一方的に撮影(シュート)して終わり」というのではなく「まず現地の人と親交を深めて、それから生の表情を見せてもらう」的なの。マグナムと袂を分かったことやポートレートに対する考え方(「ポートレートは相手から与えてもらうんだ」)もこういうことと関係してるのかもしれない。


いくつか解釈はあるのだろうけど「あなたたちは地の塩、世の光」というとき、それは天命というか天職(beruf)のようなものを表しているのだろう。単にお金とか日々の糧を得るためのそれというか、ただしく生きることを通じて得られる光や塩味のような。

塩が塩としての塩味をもち、光が光としての輝きを保つとき、それ自体が自分自身はおろか周りも引っ張っていく。


photo-grapherとしてのサルガドにとって、人々の営みは地の塩(塩の花)であり、彼のこの世における役割が世の光を写しとるもの、ということなのかもしれない。


「金ではなく天職のようなものを」という考え方、あるいは人々の苦しみや日々の営みに寄り添い、それらを慈しむような視点に行き着いたのはどういった経緯からなのかと思うけれど、それについてもはっきりとは語られてなかったので断片的に語られた彼の来歴から類推するに留める。

フランス系報道ジャーナリスト出身かと思っていたので自分的には意外だったのだけど、サルガドはブラジルの片田舎の農場で生まれて大学に行くために上京するまでお金の使い方も知らないような生活を送っていた。大学生活を通じて、あるいは生涯の伴侶となるレリアとの出会いを通じた影響からか学生運動にも身を投ずる。このときの経験が彼の写真のマルキスト的な視点にも表れているのかなあとか思えた。というか経済学を学んだことがそういった視点につながった、て映画ではいっていたけど。

結婚後しばらくして生まれた次男はダウン症だと分かる。このときサルガド夫妻はひどく落ち込んだようだけど、しばらくして次男には次男なりの、通常の言語コミュニケーションは不得手だけどそれ以外の感情の通わせ方があることを知り、サルガド家族はそれを学んでいく。それは世間的に見れば不幸だけれど、それを手放さず、日常として生きていくこと。一般的に不幸と想われるようなことが日常に当てられた時、人生の意味や運命について考える時間が増えるようにおもう。それらを通じて、いわゆる弱者への視点にも深みが増したのではないか?単に被写体としてそれがあるのではなく自らも不幸を日常とした弱者のひとりとして。



「なぜそこまで金にならないような、あるいはギリギリの危険が伴うような仕事(構図)にこだわるのか?」



そういうことを映画を見終わってしばらくしてから思ったのだけど、見ているときは半分寝ていたのもあってかその答えのようなものはわからなかった。なのでそのうちもっかいみたいなあと思うし、天命とか天職のようなものについて元気づけられたいときに見られると良いのかなあ。


蛇足だけどヴェンダースにもそういう傾向(光とか天使 - 静謐)があり、そういうとこもあって今回の映画でマッチしたのかなあとか。もっともヴェンダース色みたいなのはそんなに出してなかった?ようで、もっぱらサルガドのドキュメンタリー / モノローグ的な構成だったけど(白黒画面でサルガドアップの訥々としたモノローグが眠りを誘う)。互いに「撮るもの」のプロとして余計な編集を加えないことがサルガドに対する敬意の表れだったのかもしれない。



パリの断章 --- Mémentos à Paris: 映画 "Le Sel de la Terre" を観る
http://paul-ailleurs.blogspot.jp/2015/02/le-sel-de-la-terre.html












セバスチャン・サルガド写真展「Genesis」in ロンドン | 甘くて辛くてほろにがいイギリス
http://bit.ly/1KGpFXT




サルガド展にいってきたよ  アフリカという神話と複製技術の行く末: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/134989378.html




posted by m_um_u at 22:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク