2015年12月30日

fireタブレットとfireTVstickを買った


少しまえにfireタブレットとfireTVstickを買った。自分への(クリスマス)プレゼントとして。クリスマスまでのプライム会員加入煽りセールでfireタブレットはお試し中プライム会員なら4000円キャッシュバック、fireTVstickはそういうの関係なく1000円割引だったので。




Fire タブレット 8GB、ブラック -
Fire タブレット 8GB、ブラック -

Fire TV Stick -
Fire TV Stick -


セール対象としてKindleもかかってたのでkindleにしようかどうしようかちょっと迷ったけどけっきょくfireタブレットにした


Kindle Wi-Fi、ブラック、キャンペーン情報つきモデル、電子書籍リーダー -
Kindle Wi-Fi、ブラック、キャンペーン情報つきモデル、電子書籍リーダー -


もともとこういうのを購入しようと思った動機はhontoなんかでちょこちょこkindle対象にしたセールをやっていて、それがみょーにお得 / 中古本より安い、ということからだった。それでちょっと見てみたらAmazonだとkindle対象の本は毎月一冊無料になるらしいのでそれもいいなと思って。図書館で本を借りるのを常態にしてるのだけど、新しく出た本、特に新書なんかはリクエストをしてもなかなか図書館が入れてくれないので。それだったら買おうかというとこでもあるんだけど、だいたいの新書は購入するほどの価値が有るものでもなく雑誌の特集に毛が生えた程度のものだし。なので「一ヶ月に一冊新書が無料でゲットできるならちょうどいいかなあ。。」というのもあった。結果的に無料対象本はAmazonが決めてる範囲のものに限られていて自分で自由に選択できるわけでもなかったのだけど。まあとりあえず新刊と極安中古の間に「いきなり新中古よりちょっと安い」な選択肢が出来たのは良い。書籍の形をしていても特に書棚に置く必要を感じないようなものもけっこうあるし、そういうのをkindleで購入できるのは棚がかさばらなくて良い。


もうひとつの動機は少しまえに始まったアマゾンプライムの無料対象動画が思ったより充実してきてるというのをついったーのTLでみて気になったから。それでチェックしにいってみたら確かにけっこうな映画が見られるようになっていた。特に邦画が。洋画は吹き替えではなくだいたい字幕なので自分的には見にくい。

自分はTSUTAYAのT-SITEを通じて「よくつかう店舗」登録をしてるので准新作はセールの時なら108円で借りられるのだけどプライムビデオがこんな調子だとだいたいの旧作はわざわざ借りなくてもいいかなあ、とか。まあその中でも無料対象として載ってない奴はTSUTAYAいったほうが早いだろうけど。Gyaoなんかでも無料映画でけっこう出てるのでそれも含めると「気になってた邦画」が無料状態でこういったところに積みコンになってるということになる。感覚的には自分の気になるコンテンツも含めてクラウド化されてる感じ。なので、そういった積みコンを消化するのを優先すればわざわざお金を払ってまで見る必要があるものの優先順位が下がっていく。あるいは「これは無料化もされずDVD化もあやしいので映画館でみとけ」って一回性がそこであらためて効いてきたり。

話は少しそれるけど自分は映画館があまり得意ではなく、特に大きなスクリーンで見る意義も感じないタイプなので、できれば映画なんかも家で見たい。なので、映画館で新作映画を1800円も払って見る意義をあまり感じない / むしろ苦行なので、映画館に行くときはさっきいったような動機、いま見とかないとDVD化 → レンタルもされないかもだしなあ。。が誘因となってる。特にみなさんが話題にしてるからといって興味がそそられるということもないし。。それが一時の流行ではなく、本当に内容を伴った名作なのであれば、時機が違っても見ることによってきちんとした満足感をもたらすはずだろうから特に「いま話題の映画」「いま話題のコンテンツ」を追っかける必要性を感じない。あるいは「いま話題の話題」も。


閑話休題


そういった形でアマゾンプライムほかに無料コンテンツが積まれててまた積みコンが増えて気持ち的に忙しくなってる。まあそんなに急がなくても消えるわけでもないのだけど、Gyaoなんかでは期間限定で無料配信してたりもするのでそういうのはちょっと焦る。


てか、


動画とかよりも実際の生活の中でおおきくQOL変わったと思えるのは音楽で、アマゾンプライムミュージックのプレイリストをfireTVstickを通じてテレビで聴けるようになったのが自分的には地味に大きい。

いままではPCを立ち上げ、Amazonミュージックのアプリを立ち上げ、しばらくして聴く、っていう起動するまでけっこうな時間がかかってたのだけど、TVを通じてなのでわりとすぐにプレイリストを再生できるようになった。うちのテレビはレグザなのでクイックボタンでタイマー機能もあるので寝る時につけっぱでタイマー設定しとけば切れるってのもあるし。あと、うちのボロPC環境だと音楽をかけないぶんメモリに負担がかからずに良い。


タブレットの方は現在おもにお風呂に浸かるときにちょっとアニメ見るのに使ってる。

サムライチャンプルーなんか見てなかったのだけど、プライムビデオに出てるのでおっかけでちょこちょこ見てる。アニメは一回につきだいたい20分ちょっとなのでお風呂に入る時間的にもちょうどよい。それ見ながら今までどおりiPhoneからたんぶらでリブログしたり、SmartNewsチェックしたり。


こういうのも慣れてもうちょっとしたらタブレットのKindleにいろいろコンテンツ入れてくのだと思う。まあたぶんマンガがメインかなと思うけど。


書籍系、あるいは漫画系のKindle無料のものもチェックしたけどだいたいがゴミみたいなので、書籍のほうでつかえるものとしたら著作権切れた古典がメインのようだったのでこれだったら青空文庫ビューアみたいなのつかったほうがいいだろう。

あとは無料になってる雑誌とかにちょっと可能性があるかもだけどこの辺は未だチェックしてない。



けっきょくいまのところfireタブレットよりもfireTVstick購入の方がなにげにQOLに効果してるようなんだけど、まあこれもKindleのライブラリが充実してきたら違ってくるかもしれない。あとはおでかけ時のお供・暇つぶしとしてのタブレットとか。




動画としては無料動画にだいたい慣れたり飽きたり消化した頃合いに月額定額で見放題なサービスに登録してみようかと思ってる。HuluとかNetfixとか。あの手の月額1000円未満で見放題みたいなの。

あれも映画のほかに海外番組的なものが見られるといいなと。ドキュメンタリーとか。アメリカのPBS系番組とか。ナショナルジオグラフィック系番組とか。その辺を調べたり実際に無料お試しで使ったりして見定めて登録していくかも。


そいや月額1000円といえばGooglePlayMusicも月額1000円で、当初はその便利さに1000円払って加入したものだったけど、そこで主に聞いていたプレイリストがアマゾンプライムミュージックのプライム無料対象音楽から構成されることに気づいてそっちがメインになった。こっちのほうが軽いし。


それでちょっとまえにGPMのほうは退会したのだけど、ふとBONNIE PINKさん聞きたくなってAmazonミュージックで検索してみたらプライム無料対象になってなくて反映されなく、、んでもGPMだと余裕であったので(´・ω・`)て。まあこのへんも複数登録したりして使い分けなのかなあ、とか。

音楽のストリーミングみたいなのだとアップルも同じようなサービス(Appleミュージック)やってるみたいだけどこっちはまだ試してないのでそのうち試したい。









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Chromecast 2.0を衝動買いしたけどすごい便利 - 最終防衛ライン3
http://lastline.hatenablog.com/entry/2015/12/15/054348




FIRE TVで4K Netflixと大画面Kindle読書を楽しむ | N-Styles
http://n-styles.com/main/archives/2015/10/30-031900.php



梅が咲いてきた /  J-POPの未来|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nf2691041a9d5






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2015年11月25日

最相葉月、2014、「セラピスト」



セラピスト -
セラピスト -



「読んだ」ぐらいに、この本からリンクした次の読書リストをメモる程度にとどめておいても良かったのだけど、一部が次?のエントリにも繋がる話なのでメモ的に。

「昨今の若者の特徴として、主体-自我が確立しておらず、かつての精神医学の療法では対処できなくなっている」みたいなの。結果的にDSM的基準から操作主義的な対処や認知行動療法(物事の受け取り方や考え方の癖、歪みを自覚し、それによって引き起こされた行動を訓練によって修正していく心理療法)などがとられているようだけど。そして重篤な場合には精神医学的に「お薬を出す」。それは対処療法であって根治ではないのだろうなあという印象がある。平たくいうと「救われない」。まあでも、スピード化が求められる現在の精神医療な現場ではシカタガナイという側面はあるのだろう。それとは別に個人的にはこういうのかかる場合は精神医学なひとではなくセラピストやカウンセラー的なひとに診てもらいたいと思うけど。



前置き長くなったけど該当箇所の引用(一部中略)から


「箱庭療法はやりにくくなっています。絵画療法もそうです。箱庭や絵画のようなイメージの世界に遊ぶ能力が低下しているというのでしょうか。イメージで表現する力は人に備わっているはずなのですが、想像力が貧しくなったのか、イメージが漠然としてはっきりしない。内面を表現する力が確実に落ちているように思います。ストレスがあると緊張が高まって、しんどいということはわかる。だけど、何と何がぶつかっているのか、葛藤が何なのか、わからない。主体的に悩めないのです」

「最近多いのは、もやもやしている、といういい方です。怒りなのか悲しみなのか嫉妬なのか、感情が分化していない。むかつく、もない」

「むかつく、というのは苛立ちや怒りの対象があるということです。でも、最近は対象がはっきりせず、もやもやして、むっとして、そしてこれが一定以上高まるとリストカットや薬物依存、殴る、蹴るの暴発へと行動化、身体化していきます。でも、なぜ手首を切りたくなったのか、その直前の感情がわからない。思い出せない、一、二年ほどカウンセリングを続けて、そろそろわかっているだろうと思っていた人がわかってくれていなかったことがわかる。それぐらい長く続けてもわからないのです。悩むためには言葉やイメージが必要なのに、それがない。身体と未分化というのでしょうか。○○神経症と名付けられるのはごく少数派です」

「私が相談室に入った1980年代は、クライエントにはまだ主体性がありました。抱えている問題を言葉やイメージで伝えることができました。ところが、今は、言葉にならないというだけでなく、イメージでも表現できないのです。箱庭を作りたい、絵を描きたい、夢について語りたいという学生も減りました。かといって、カウンセラーのほうにも箱庭に誘うゆとりがありません」




学生相談員であり河合隼雄の弟子筋であるが学生の特徴について研究した「現代学生のこころの育ちと高等教育に求められるこれからの学生支援」(2009)から、相談にくる学生たちの大きな変化、3つ:


一つは、自分の言葉で悩めない、ということ

二つ目は、「巣立てない」ということ。疾患など特別な背景もないのに引きこもっている学生が増えてきている。あるいは内定鬱からパニック障害になったり。

三つ目は、特別支援を要する発達障害やその傾向をもつ人々が増えている、ということ。ネットジャーゴンだといわゆるコミュ症。



河合隼雄「発達障害への心理療法的アプローチ」との関連から、該当インタビュー


「対人恐怖症は、今はほとんどなくなってきたんです。ものすごい少ないです。ぼくが臨床始めた頃は、対人恐怖症がものすごく多かったんです。いまそれないですよ。対人恐怖にならんと、ただ引っ込んでるのや。人前に出なきゃならない、でも出られない、そういう葛藤があるから対人恐怖症になるんでしょう?今は葛藤なしにポンと引っ込んでしまうんです。赤面恐怖の人もものすごい減ってます。赤面恐怖いうたら、積極的に出てくるか、ポーンと引っ込むか。その間に立って、いちばん困ってる、人間関係の日本的しがらみの中でフラフラになってるのが赤面恐怖だったんですよ。それがなくなってきてる代わりに、途方もない引きこもりになるか、バンと深刻な犯罪になるか」(「論座」2008年1月号)



河合隼雄が見るもう一つとして、1970年代から80年代にかけて大流行した境界例が減少してきている、というのがある。


境界例とはパーソナリティ障害の一型で、もとは神経症と精神病の境界領域にあるという意味で「境界例」と名付けられた。親子関係や恋人関係、治療者との関係など二者関係にこだわり、しがみつく。相手を賞賛し理想化したかと思うと、こき下ろす。すさまじい自己主張をし、相手に配慮することはない、などの特徴がある。

境界例に代わって解離性障害(ex.多重人格)の流行があり、やがてそれも去った頃に発達障害が目立つようになった。



発達障害には授業中や座っているべきときに席を離れてしまう「多動性」や「不注意」、含みのある言葉や嫌味をいわれてもわからず、言葉通りに受けとめてしまうことがあるなどの「対人関係やかだわり等」に特徴がある。

河合俊雄はこれを「主体のなさ」ゆえの障害だと見ている。主体がないから他者が認識されず、言語が生まれてこない。主体が欠如しているから、人と関係が持てず、孤立している。あるいは、相手や状況に合わせてしまう。学生を指導する中でも、クライエントを見ても、父・河合隼雄の時代とは明らかな違いを実感する、と河合はいう。

「世の中は、クライエントもセラピストも、従来の心理療法に向かない人が増えています。実習でロールプレイをやっていても、相手がしゃべっているのを待っていられない。ためることができない。そんな学生が増えてきました」

「今は、全部が表面の世界なんです。たとえば、ツイッターにぽーんと書き込むとみんなが知っている。しかも、RTというかたちで他人の言葉が引用されて広がっていくので、どこからどこまでが自分の言葉かという区別もない。秘密とか、内と外の区別がない世界なので、自分にキープしておくことがなかなかできなくなっているんですね。心理療法というのは主体性があって自分の内面と向き合える人を前提としていますから、内と外の区別のない場合は、相談に来ても、自分を振り返ることが非常にむずかしいんです」




反対に、よく喋るクライエントも「しゃべる」ことで己を守っている・隠しているところがあるようで、ふとした沈黙の次に訪れる言葉のほうが大事だったりするらしい。




<主体がない≠自我がない>という問題についてはこのへんでうんたらした。


あれからぼくたちは / 冬の風のにおいがした|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n00fabbd86e6c


承認欲求という言葉でミスリードされてる虚栄と刺激の構造もこの辺だろうし、「カーニヴァル化する社会」で射程していたネットによく顕れるような現代若者の特徴もこの辺の問題となる。すなわち「短期的な祭りをコンサマトリーするわりには長期的なもの、(ミードいうところの)"I”がない(他人との刺激-関係にもとづいた me だけ)」


カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書) -
わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書) -

鈴木さんのこういった関心や射程はブログ、soul for sale を読んでいても伺えるし、実際に学生指導を通じて感じた実感にもとづいているのだろう。その意味で、教科書的なオベンキョだけの話でもない実体験を通じた試考錯誤なのだろうなあとおもえ、ケーゾク話題としてのこの辺りが気になりつつ積読(録?)となっている。


2015年08月30日Part0(予告編)「ブロック化する社会をどう生きるか (文化系トークラジオ Life)
http://www.tbsradio.jp/life/2015/08/20150830part0.html




なので、このエントリ終わって次の読書ターンにとりかかったときにpodcast聴いたらおっかけ感想したりしなかったりしようかと思ってるんだけど。




「セラピスト」の話題に戻ろう。




全体としての感想や印象としては「精神分析とかカウンセリングについて悪い印象を持っている人は読んだほうがいいかもなあ。。」というものだった。自分もそうだったのだけど、<大した共感力もなく、他人の心がわからない人間がただ「精神科医」という肩書きからマニュアルで人を裁断し、マニュアル通りに薬漬けにする>、みたいなの。精神分析に基づいたシカクシメンなひと的にはそういうところもあるのだろうけど、心理療法士全体がそういうわけでもない。あるいは精神科医も。

本書は日本の代表的な精神科医であり臨床家である河合隼雄と中井久夫を中心とした「日本精神分析血風録」的なところがある。

本の雑誌血風録 (朝日文庫) -
本の雑誌血風録 (朝日文庫) -

黎明期の日本の精神医療において、試行錯誤や葛藤を通じて現在のような方法が採用されてきたこと。その過程での心あるセラピストのあり方のようなものが伺える。


また、本書は河合隼雄に代表される箱庭療法、中井久夫に代表される絵画構成法がどのような背景と目的から実践されていったかをゆるく伺えるインタビュー集にもなっている。河合隼雄は故人なのでインタビューの中心は中井久夫となり、著者である最相葉月は実際にそのセラピーを受けつつ箱庭療法を実践していく。そして、その過程で自身が精神的な病を患っていたことも判明していく。


[書評] セラピスト(最相葉月): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2015/09/post-ef7f.html

 個人的なことを書くことをお許し願いたい。私はずいぶん前から、自分がなんらかの精神的な病を抱えていることを自覚していた。ときどき風景が止まって見える。睡魔が襲う。重いときには、テレビのお笑い番組で笑えず、毎朝毎晩読んでいた新聞を読めなくなる。(中略)物事の判断力が鈍り、わけもなく涙がこぼれる。このままでは死ぬしかないと思い、首をつろうとしたこともあった。



自身の傷に触れるこのカミングアウトは最相葉月の作家としての、あるいは、人としてのポリシーになってるものにも思えた。「一方的に他人を断罪しない」「対象として消費しない」といったような。そして最相が会ってインタビューしてきたセラピストたちにも通じていく。

「セラピストになる内の1/3はふつーのひと、1/3は自身も過去になんらかの精神疾患があって興味を持ち共感力が高い人、1/3は現在病にある人」(大意)という辺りにもそれは表れていた。すなわち、単に腑分けし、オクスリするだけがカウンセラーではないということ。対話を通じて自身の問題にも向き合っていく人たちがいるということ。


「カウンセリングはまずその人の話をじっくりと聴くということです。話をきちんと聴くだけでも違う。きちんと聴き適切に相槌、応答していけばクライエントのほうから自身の矛盾に気づき、問題を明るみにし、修正のきっかけを提示してくれる」

このようなことが書かれていた箇所があったように思うけど、そんな感じではないかとおもった。別件で「風俗のお客の語りでもそういうところがある」「−y( ´Д`)。oO○SMなんかもお客その部分をお察しし、調度良いぐらいの力加減でカタルシスしていくのがポイントなんだよ」とかな会話したなあとか思い出しつつ。


そういうセラピストに出会えれば幸いなのだろうし、医療現場に限らなくてもそういう人はいるのだろう。










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バブ / 団子の日 / 自己愛について / ヒロシマ(パリ、ベイルート、レバノン、フクシマ、、)というとき|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n305840021fbe


嫉妬、羨望、感謝感激雨あられ|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n463bd8044424




熊倉伸宏、2000、「死の欲動  臨床人間学ノート」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/415586919.html





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2015年11月21日

「進撃の巨人」を7から17まで一気読みしてみてうんたらかんたら



大した話題でもなくエントリするほどのものでもないかなあとはおもうんだけど、他人様のこういう系の感想が見てみたいなあと思ってる自分がいたので「まあそれだったら」ぐらいで自分のものをを置いとく。なので、こういう見立てをするならもっとうまく言語化できるひとがいるだろうし、そっちのほうを期待する程度。リベラル / ウヨサヨ的なとこは今回はわりとどうでもいい(むしろ、パリのテロをネタにうんたらするのは現段階では控えたい)。

なので、以下はウヨサヨがどうとかな政治的なうんたらがメインというよりも「最近読んだマンガからなんとなくおもった」ぐらいのこと。

























進撃の巨人 コミック 1-17巻セット (講談社コミックス) -
進撃の巨人 コミック 1-17巻セット (講談社コミックス) -


「進撃の巨人」を最初に見た時の印象は「周りを壁で囲まれた街でのサバイバルタクティクスもの。ギミックとしての立体機動装置とかは中世 → スチームパンク的な技術文明的にあったかもしれない未来(パラレルSF)を思わせる」ぐらいで、「囲まれた街」「タクティクス」「サバイブ」「巨人におっかけられ食われる」「駆逐してやる…駆逐してやるぞ!」な印象だった。特に後者の「巨人に追っかけられている」「駆逐してやる」というところがこの作家の無意識下になぜかある声のようなものをモティーフとして具現化したものなのかなあ、とか。そこに箱庭的な城塞都市空間が絡んで。なので、汚い大人のパターナリズムによる圧迫に神経症的な不安を感じた若者たちによるオヤジ狩りみたいな反動を表したものなのかなあ、とか。精神的にはおやじ狩りとしてカタルシスしつつ、現実世界としては「そうしたオヤジたちにはならない」「居酒屋コミュニケーションとかしない」ぐらいの。

全体の設定とかキャラとしてはラノベとかふつーのスチームパンクファンタジー程度のものなのだけど、巨人の造形のとこだけが独特の嫌な感じで、その嫌な感じが癖になるところなのかなあって感じだった。ヒエロニムスボッスとか石田徹也みたいな嫌な造形の巨人たちが弱っちい人間たちをぷぢゅっと食べるとこに感じる自虐のようなもの。


石田徹也遺作集 -
石田徹也遺作集 -


「なぜかわからない、誰かに設定された擬似環境ー箱庭世界におけるバトルファンタジー」ということだと「CLAYMORE」を想わせたし、バトル要素を抜いた箱庭世界ということだと「マリィの奏でる音楽」を想わせ特に新しいものには感じなかった。

CLAYMORE 全27巻完結セット (ジャンプコミックス) -
CLAYMORE 全27巻完結セット (ジャンプコミックス) -

Marieの奏でる音楽 (上) (バーズコミックスデラックス) -
Marieの奏でる音楽 (上) (バーズコミックスデラックス) -

Marieの奏でる音楽 下    バーズコミックスデラックス -
Marieの奏でる音楽 下  バーズコミックスデラックス -

「進撃の巨人」のモデルになった都市?の周辺話    中世ヨーロッパにおける巨人、city、village: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/379508545.html




そういう印象だったのだけど、しばらくブランクを開けて読んでみたら登場人物の心理、葛藤描写のところがさらに深まってるように思えた。以前は、<自閉からの反動的な攻撃性を妄想したものという雰囲気で、そこに自虐が感じられその自虐が巨人の造形に投影されてるのかな>、って印象だったのだけど。しばらくぶりにみると、登場人物たちがそれぞれに戦う理由やそれぞれの場面での勇気を振り絞って立ち上がる場面を通じて、そのあたりの自虐、陰鬱な雰囲気が少しずつ変わっていってるように印象した。特に15,6巻ぐらいの盛り上がりのところの、主要登場人物以外の、都市の住民たちも勇気を振り絞って革命に参加していく場面。この辺りは単なる自分と(その投影としての)仲間たちのヒロイック・ファンタジーへのナルシシズム的心酔ではなく、「社会全体と協力していく」「絶対不利な情況でもなんとかしていく」という意志のようなものが感じられた。そこではオヤジたちは「汚いもの」としてもはや巨人たちへ投影されるだけのものではなくなっていた。そして、そういった勇気のあり方、「絶対閉塞な環境でサバイブ的に勇気を振り絞って活路を見出していく」「それでもまず一歩を踏み出す」という辺りに真鍋昌平を感じた。

新装版 スマグラー (アフタヌーンKC) -
新装版 スマグラー (アフタヌーンKC) -

SMUGGLER (アフタヌーンコミックス) -
SMUGGLER (アフタヌーンコミックス) -

闇金ウシジマくん コミック 1-34巻セット (ビッグコミックス) -
闇金ウシジマくん コミック 1-34巻セット (ビッグコミックス) -

真鍋昌平はウシジマくんの描写から社会の嫌な部分を垣間見せる露悪的なものとして印象されがちだけど、作品のテーマは「そんなところでウジウジしてねえでなんでもいいから最初の一歩を踏み出せよ」ということでそれは初期作「スマグラー」に凝縮されている。逆にいうとどのような環境でもうじうじと凝り固まって小さな集団の論理で酔って依存してる人たちは不幸になっていく / なっているという視点から露悪的な場面が生まれている。そういう意味ではその辺りの描写とメッセージは「東京タラレバ娘」「かくかくしかじか」に通じる。

かくかくしかじか 1 -
かくかくしかじか 1 -
かくかくしかじか 1 (マーガレットコミックスDIGITAL) -
かくかくしかじか 1 (マーガレットコミックスDIGITAL) -

東京タラレバ娘(1) (Kissコミックス) -
東京タラレバ娘(1) (Kissコミックス) -
東京タラレバ娘(1) (KC KISS) -
東京タラレバ娘(1) (KC KISS) -


進撃の巨人世界を日本社会のメタファーであるとすると、周囲を壁で囲まれた世界というのは安全保障と核の傘によって守られつつも囲い込まれている日本という国と社会を思わせる。そこで、戦争反対!軍事力保有反対!みたいなこといいつつ軍事・安全保障はアメリカに任せている矛盾がまずあり、ふつーの神経(あるいはある程度誠実)ならここで自身のポリシー(軍隊もつこと反対)に反する / でも現実的にはもたないといけない、のでダブルバインドする。なので、そのダブルバインドの苦しさから逃げるために「アメリカのポチだからシカタナイ(シカタナク従っているのだ)」みたいな自虐的な論理、論理の挿げ替えによる心の防衛が発生するのだろう。

このようなリアリティに基づく日本社会を生きる人々の中では、ポチ的な従属をすることで得た経済的繁栄をエコノミックアニマルとして自虐しつつも、バブル崩壊によってそうやって得られた経済的繁栄さえも失ってしまいはげしく自信喪失が発生した。そういった特殊環境に涵養された高度成長期の「男は働いておけばいい」「働いてればほめ(終身雇用)てくれる」というモデルが失われて人生のモデル・指針が失われてしまったこと。このあたりの自虐とナルシシズム(ポチとかクズとか自虐してアンシンしてる)のこじらせに竹内洋 ← 丸山真男がいうところの悔恨共同体あるいは罪悪共同体的な自虐史観が癒着していたのだろう。


竹内洋、2011、「革新幻想の戦後史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383640969.html


ポチとかクズとか自虐して現実に向き合って現実的対処を考えないうちはアンシンだし楽だし、そのうえ「国はポチだから」ということで他者に責任を転嫁できる。そのうえで自分たちは日本軍の罪を悔恨し罪に思ってるということをアピールしていけば良い人間であるべき自分たちの心の平衡を保てる。もちろんそういう形で逃げ場としてこういう良心にすがる人ばかりでもなく、きちんとした反省と謝罪は必要だろうけど。


それは個人のパーソナリティとしては自閉的であるがゆえにみょーに責任感が強い / 他人への配慮が強すぎる / その超自我が反動としての攻撃性も含んでいる / こういった超自我の縛りによって環境がブラックなものになっても環境のせいにできず、自分で全部背負って鬱になるタイプの人を思わせる。


ちなみに「日本が軍事力を持って外国へそれを派遣するようになると軍国国家の悪夢が再来する」「それは日本はきちんと謝罪してないとこにも表れている」みたいなこというひとはこのへん読んどくといいんじゃないかなあと思う。


Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2015年 10/13 号 [「模範国家」ドイツの現実] -
Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2015年 10/13 号 [「模範国家」ドイツの現実] -




「進撃の巨人」の近刊であらわれてきた「象徴的な王」「王の挿げ替え」的なモティーフは象徴天皇を想わせた。「一部の巨人が使うことのできる特殊ギミック『ほかの巨人を従わせることができる』」も。昔の、象徴ではない天皇、森の王としての天皇の神秘性なんかを想わせて。


精霊の王 -
精霊の王 -


そうするとこのへんの欺瞞に対して山本「現人神・・」も絡んでくるのかなあと深読みしたりする。

現人神の創作者たち (山本七平ライブラリー) -
現人神の創作者たち (山本七平ライブラリー) -




箱庭的な閉塞環境でなに不自由なく揃ってるけど外には巨人という脅威が広がっていて、「ソモソモなぜその脅威があるか?」「なぜわれわれは壁の中にすまないといけないのか?」「壁の外はどうなってるのか?」ということに対する好奇心や思考がゆるやかに禁じられている世界。外の世界に調査兵団も出せるので許されてはいるけれど、一定のところまで思考が達すると検閲が入ったり、自ら記憶をたどることを封じてしまう。

この辺はモロに自衛隊と軍隊のあり方、あるいは「軍をもつもの(暴力装置として囲い込むもの)がソモソモ国である」という定義を想わせる。日本では「軍をもつこと」についての思考それ自体が半ば禁忌となっていて、一定までは思考実験として遊ばせてくれるけれど、ある一線を越えると「もう無理」的なシャットアウトが生じる。少なくとも一部の人々の間では。そこにはそのレイヤーにおける合理的な思考、コードの遵守がなくだいたいが感情論になる。「彼らが攻め込んできたらどうするんですか?」「酒飲んで話しあえば済みますよー」みたいな。


「一定のところまで思考が達すると検閲が入ったり、自ら記憶をたどることを封じてしまう」

こういったモティーフは最初の頃にはなかった、あるいは、物語の都合上からか主人公周りだけに配置されていて、作品全体の、登場人物全員に共通するテーマという感じでもなかった。「なんだかしらないけど無意識的に配置されてるモティーフ」みたいな感じの。

んでも近刊だとこのモティーフが主人公以外にも配されていて、この作品がそういったことをテーマする作品なのかなあという想像を誘導させた。心理学的な対象としての「なんだか知らないけどそのことについて考えようとすると思考が止まってしまうような」「記憶が改鼠されているような」、そういったもの。防衛機制的な心理過程。

そうするとこの物語というのは「なんだかわからない壁とソトノセカイ」辺りがユングとかのそれ、「敵は外(巨人)ではなく内にいる」「欺瞞的な王政の打倒」あたりがエディプスコンプレックスと関係するのかなとかも思わせる。ただ、そこに母たるものへのリビドーも父たるものの設定も曖昧なのでエディプスコンプレックスなのかなこれ?てかんじではあるけど。その意味で、この物語は従来の日本アニメ・マンガにおけるこの手の話、エディプス・コンプレックスとそこからの離脱というビルドゥングスロマンの型から外れていく。


近代的理性の立ち上がりと国家幻想、そこから疎外されていったものたち、のはなし: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381011164.html


この物語が「なんかへんだなこれ」てかんじだったのはこのへんだったのかなとおもうのだけど。


エディプス・コンプレックスという解釈に収まらないコンプレックス・抑圧の潜在というところで発達段階での母たるもの - 全能なるものからの自立・分離が連想され、「進撃の巨人」の登場人物たちはその経路をたどる。そのへんは自分的にはユング派、クライン派のお勉強を通じて照らし合わせていくとおもしろいのかなあとか思わせる。










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嫉妬、羨望、感謝感激雨あられ|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n463bd8044424



「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html


愛はさだめ、さだめは死?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414133706.html




「進撃の巨人」の作者・諫山創さん単独インタビュー 拒絶され諦めそうに - BBCニュース
http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-34559269









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2015年11月05日

「ナグネ」








あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。









辛よ さようなら

金よ さようなら

君らは雨の降る品川駅から乗車する


李よ さようなら

も一人の李よ さようなら

君らは君らの父母の国にかえる


君らの国の川はさむい冬に凍る

君らの叛逆する心はわかれの一瞬に凍る




ふりしぶく雨のなかに緑のシグナルはあがる

ふりしぶく雨のなかに君らの瞳はとがる


雨は敷石にそそぎ暗い海面におちかかる

雨は君らの熱い頬にきえる


君らのくろい影は改札口によぎる

君らの白いモスソは歩廊の闇にひるがえる


シグナルは色をかえる

君らは乗りこむ


君らは出発する

君らは去る


さようなら 辛

さようなら 金

さようなら 李

さようなら 女の李

行つてあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ

ながく堰かれていた水をしてほとばしらしめよ

日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾

さようなら

報復の歓喜に泣きわらう日まで











今朝この本を読み終えたところでじんわりとした感動というか、なんともやるせない滋味に眉を寄せて心地よい寂しさを感じつつ、ふと、先週ヲクサンたちと行った店が中国朝鮮族の人たちの店だったのではないか?とおもった。


ナグネ――中国朝鮮族の友と日本 (岩波新書) -
ナグネ――中国朝鮮族の友と日本 (岩波新書) -















うメエエエ!羊好きが思わず唸るラム肉の名店8選 | 日刊キャリアトレック
https://www.careertrek.com/daily/hitsuji8/


玲玲家園菜 (カエンサイ) - 内幸町/中華料理 [食べログ]
http://tabelog.com/tokyo/A1301/A130103/13162031/


羊の他にもイノシシとかキジとかジビエが楽しめるということでここにした。最初は羊、イノシシ、キジなどのアラカルトなセット。けっきょくクミンが利いた羊串が一番おいしくてリピートの時には羊串セットで頼んでいた。んでもパクチーときゅうりのナムル?ぽいのとか干し豆腐とかもおいしくて、なによりここは餃子の店なのだとプッシュされた。「うちは大連料理と四川料理なのです」とのこと。大連料理と聞いてもそのときにはピンとこなかったのだけどこの本を読み終わって、黒竜江省の位置や大連の位置を確認したらちょうど朝鮮半島の北東・北東ということで位置的にも近くて、もしかしてと思ってぐぐったらやはり大連も中国朝鮮族が多くいる地域だった。いわゆる満州的な地域にここも入っていたのだろうか。

「もしかして大連も?」とおもった他の理由は大連が日本のアウトソース的なところとしてけっこう有名だから。本書にもあったように、それは朝鮮語と日本語の文法が似ているので、結果的に中国朝鮮族が日本語を戦略的武器として選んだという面があったという理由から。満州時代に一度、半ば民族浄化的に母国語ではなく日本語で話すことを強いられ、第二次大戦後は共産党から日本語を禁止され、ケ小平以降の改革開放に移ってからふたたび日本語を選んだ。そのため彼らの日本語や日本、日本人に対する意識は複雑で、尖閣諸島のゴタゴタの折には日本に対する怒りや憎しみが強かったみたい。それでも、彼らにとって日本語は自分たちの武器となり得る手段なので、それはそれとして割りきっていった。というか、中国朝鮮族はもともと朝鮮の出身でありながら韓国では2等国民的な差別を受けるぽい。オーバーステイの移民として軽く見られ差別されていく。中国では彼らは貧しいままだし。そういう事情もあって「日本も中国政府も同じようなものだよ。そのことは仕方なかったんだ」というおばあさんもいた。


ついったでリンクした朝鮮族についてのサイトで語られている朝鮮族の印象というのはそういうもので、韓国人による偏見もあって「彼らはずるくて傲慢で」て印象が語られる。でも、実際、彼や彼女らが強情でなかなか人と打ち解けないというところもあるのだろう。「ああ、こういう中国人いるよなあ。。」的な。片田舎の中国人。本書を読んでそれは彼らの過去や現在のこういった情況からだったのかなあとか思った。新橋の中国料理の店の人達も、客と店の人という関係でなければそういうところがあったかもしれない。あるいはそもそも大連料理というだけで朝鮮族ということでもなかったのかも。




極東ブログの解説にもあったように、この本は全体的には「中国朝鮮族」という知られざるマイノリティの歴史と現状について学ぶ機会となる本で、そういった意味でも勉強になったのだけど。やはり、全体を通じたなんともいえないようなやるせなさが最大の特徴となる。ちょうど北朝鮮のさらに北に位置する北緯の地の、シンと冷えきった大地の冷気がかえって肌に心地よく感じるときもあるような。そういった心地よさ。


この本を通じてずっと思っていたのはたった一度、駅で2、30分話したことからアルバイトとして雇い、身元引受人となり、お金やその他の世話をしていった著者の良心のようなもの。もちろんアルバイトとして雇ったのは著者にも十二分に得るものがあったのでギブアンドテイクだったとは言っていたけど。見ず知らずの、どちらかといえばとっつきにくいだろう朝鮮族の女性にそこまで親身になっていく、親身になりつつもプライベートは保ち接していくというのはどういうポリシーというか倫理観なのかなあとか。あるいは、好奇心と職業柄なのかなあとか。そして、援助を受けた彼女が感じているだろう呵責に対して「あなたのことを書いたこの本を出したことで、いままでのことは取材ということだったのだからお相子よ」とする感覚。途中までそういうつもりはなくて、「一時は本気で養女にしようかと悩んだ時期もあった」、というほどだったのだからそういう利害や打算は考えてなかっただろうけど。文字通り親身になるほど、義理の親と子といってもいい関係になりつつも束縛するでもなく接していく距離感。著者はその距離感も「わたしは恩恵についてなにも知っていなかった、知ろうとしていなかったのだ」と反省していたけど。


そして、半ば親子のような関係でありながら敢えて「友」と呼び、そう呼びつつもタイトルに「友よ」とは付けない、その流儀のようなもの。





そのことに、通常の親子関係や恋人関係における距離感を省みつつ、それが市民的良心というものなのかなあ、とか、あるいは、利害関係や見栄や打算や野暮なもたれ合いではない深い愛情や友情というのはそういうものなのかなあ、とか。いろいろ名前をつけて納得しようとするもしっくり来ず。そんな名付けで済まされるものでもないのかもなあとか思って、かつての自分の似たような体験に思いを馳せたところでこのエントリを綴じよう。





(良心の呵責、あるいは呵責の投げ愛についての話題とも関連してもうすこしごにょごにょしようかとおもって、以下に関連する素材もまとめたし、ボリュームも多くなるだろうからnoteではなくblogにしたけど、こういうことにくらべてそういうわたしただしい」「わたしいいひと」「わたしリア充」的な見栄や打算のガキっぽさうずまくところの解説はなんかアホらしくなったのでやめとこう。我ながら目汚しだなとおもいつつツイート遡って編集したしせっかくなので程度で貼り付けとくけど)































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甘イ果実ト幼イ微熱|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n775a6de8144c



正月、酒を飲む|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n4fe5accdbedf



ヴィム・ヴェンダース、2014、「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター(The Salt of The Earth)」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/423419290.html




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2015年11月04日

「仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか」  男女共働き社会の模索




仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -

仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -



副題にある「日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか」ということを主題とした現時点でのまとめ本的なもの。この分野の論点と現時点での暫定的結論としてコンパクトに纏まってるように思う。


筒井淳也『仕事と家族』(中公新書) 8点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52106679.html


お話的には「働きづらい」というところよりも「産みづらい」ということの原因と解決についてが先に考察されていく。必然女性の就労問題がメインとなっていく。

男女雇用機会が均等になったとはいえ女性の就労形態の大部分はフルタイムではなくパートタイマーで、パートタイマーの雇用条件はフルタイム労働者よりも低くなっている。そのため、全体的に女性の雇用条件は悪い。

ではなぜパートタイマーにならざるをえないかといえば出産と育児がフルタイムのネックとなっていくから。出産の方は未だ出産休暇があるところも増えたけど、特に育児の方が。育児休暇というものがある程度あるところでも育児期間、子供の手が離れるまでの期間はそこで設定される育児休暇なるものを超えているので、結果的に女性の就労の妨げとなっていく。あるいは、この期間は育児をアウトソースするとしてもその費用が給金の大半を占めていくので、「この期間は会社に残るための期間として、差し引きゼロでも仕方ない」と諦めて育児アウトソースする女性が多数となっている。

こういった場合、選択肢としてはおおまかに3つに分かれる。すなわち、「結婚して寿退社して専業主婦になる」「フルタイムで続け育児はアウトソースする」「育児に適した仕事を探しそれを続ける」、というもの。いわゆるヤクルトおばさんが女性たちばかりなのは育児期の女性の環境への配慮がよくされているからというのが主な理由らしい。

本書ではそういった状況・条件を現状における問題点としてとりあえず俯瞰し、それに対する解決策を模索していく。

解決策のひとつは労働形態・雇用条件そのものを抜本的に見直す、というもの。この辺のギロンはけっきょく濱口圭一郎が示した「日本のサラリーマン評価は仕事の内容ではなく、性別役割分業に基づいて『一家を支える男性』に見合った報酬を年代ごとに与えていくという俸給性となっている」「こういった雇用・評価形態からジョブ型雇用への転換する必要がある」とするものに依拠する。



濱口桂一郎、2009、「新しい労働社会」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html


「同一労働同一賃金」的なものとも言える。




そういった解決案が「同一労働同一賃金」的なものだとするとそれはスウェーデン的な福祉政策志向といえる。


本書ではこういった雇用問題の「お手本となる国」として代表的な3つの国と政策が比較検討される。

アメリカ型の自由主義的なもの、北欧型の社会民主主義路線的なもの、ドイツの保守主義的なもの。

ドイツの保守主義的なものというのは労働市場の全体のパイ、椅子を減らすことで就労を待つ若者層に職が行き渡るようにするもの。具体的には老人の就労を減らして若者に配分するというもの。



けっきょく完全な結論らしい結論はでていなかったけど、これが本書のだいたいのアウトラインとなる。

個人的には「制度というよりは構造改革によって女性の働き方は変わっていった」というところが印象的であり反省点だった。以前のエントリで「フェミフェミ言っててもけっきょく現状を変える / 変えたのは制度なのだ」みたいなことをいってたので

「恋愛とセックスの経済学」 / 「家父長制と資本制」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/427900360.html


なので反省も込めてちょっと長めに引用した。




出生力の低下は労働供給(働き手)側の要因であるが、人口高齢化は労働需要(雇用主)側の要因である。旺盛な労働需要が女性の労働力参加を引き起こしたという例は多い。スウェーデンといえば、女性の労働力参加が戦後の早い時期から活発だった国であるが、その最大の要因は、スウェーデンが第二次世界大戦で被害を被らなかったことにある。スウェーデンは他のヨーロッパ諸国の復興需要を引き受けることで経済を急拡大させ、そのなかで極端な労働力不足を経験する。そこに女性の労働力が活用されたのである。しかし1960年代までのスウェーデンでは、女性が働きやすい環境はあまり整備されておらず、そのせいで出生率が急低下し、また「家庭の危機」が1970年まで続く自殺率の上昇(この時期のスウェーデンの自殺率は日本をゆうに上回っていた)を生み出したといわれる。この意味で、スウェーデンについては少子化が女性の労働力参加を引き起こしたという説明はあてはまりにくいかもしれない。

他方で、東南アジアや一部の東アジア諸国では、農業中心の経済から工業、サービス業を中心とした経済に変化するなかで、女性が(欧米や日本ほど)主婦化しなかった。これは、工業化・脱工業化の到来が極めて急速であったために、多くの女性が農業や家業に従事する段階からそれほどあいだを空けずに軽工業(繊維や精密機器製造)やオフィスワークの労働需要に引きこまれたからである。アジア諸国では子育てにおいて親類ネットワークを利用しやすく、また家父長制的な文化の強い地域では女性の賃金が安く抑えられ、それが国の輸出製品の価格を引き下げ、経済成長をもたらした、とする研究もある(Gaddis & Klassen 2014)。

もちろん労働需要があれば必ず女性の労働力参加が増える、というわけではない。アメリカの工業化においては、移民の労働力参加が欠かせなかった。つまり工業化による労働需要の多くを海外からの移民によって満たしていたのである。これに対して日本の高度経済成長期では、戦後のベビーブームによって農村部に男性の余剰労働力(典型的には次男以下)があり、これが当時の高い労働需要を満たしていた。2013年になって、東日本大震災の復興需要や公共投資の増加などの影響で労働力不足が生じ、第2次安倍内閣のときにようやく、女性のみならず移民の労働力を活用するための制度改革が本格的に検討されるようになった。

さて、産業構造の変化(サービス労働化)、人口構造の変化(少子高齢化)、そして労働需要など女性の労働力参加を促してきた要因は、いずれも構造的な要因であり、制度要因ではない。そして構造要因による変化はあくまで「意図せざる結果」である。女性の労働力参加を高めるためにサービス産業を拡大させる国はおそらくないだろうし、ましてや女性の雇用を促すために高齢化を進める国などあるはずがない。先進経済国で女性が勝ち取ってきた様々な両立支援制度や働くことに関する権利・条件の整備は、こういった構造変動と絡み合いながら進んできたと見ることができる。つまり、制度の整備によって女性の労働力参加が促された側面もあるだろうが、それ以上に、構造変動によって女性の労働力参加が進んだ結果、それに対応すべく制度の整備が進められてきた側面が強いのだ。








以下も上記のアウトラインに関連して気になったところの引用に留める。




パートタイマーの人たちが参加する外部労働市場には、家族からすれば子育てなど家庭の事情によって働くのをやめたり始めたりすることが容易であり、経営者からすれば必要なときに労働調整、つまり解雇がしやすいという特性がある。このような外部労働市場が、正規雇用の夫と家計を共有する有配偶者向けに形成されてきたことの帰結は、その後との正規雇用・非正規雇用の賃金格差の問題となって現れてくる。つまり、パートやアルバイトなどの非正規雇用が多くを占める日本の外部労働市場は、新卒・正規雇用向けの労働市場を除けば、「自立して食べていけない」人のための労働市場となってしまった。これが日本の晩婚化、ひいては少子化問題の解決において、深刻な障害となって現れるのである。









雇用労働に従事する女性が増えるにつれて、どの国でも出生率が下がることになった。しかし女性の労働力参加が出生率へ与える負の影響は、アメリカやスウェーデンといった少子化を克服した国においては、ある時点から中和されるようになった。おそらく、スウェーデンでは、長期的には公的両立支援制度の影響、アメリカでは民間企業主導の柔軟な働き方の影響で、女性が賃労働と子育てを両立しやすくなったからだと思われる。その後、女性の労働力参加と出生率との関係はいよいよ反転し、女性が働くことは出生率に正の効果を持つようになる。これは不況あるいは経済成長の鈍化のなかで若年者の雇用が不安定化し、それへの対応として男女がカップルを形成し、共働きによって生計を維持するというケースが増えたからである。個々の雇用が不安定化しても、二人いれば家族としてやっていける、という考え方だ。こうして共働きが合理的戦略となり、さらに仕事と子育てを両立しやすい環境が整っていれば、女性が働くことは出生率に正の効果を持つ。この転換の背景には、スウェーデンでは女性が公的セクターに大量雇用されたこと、アメリカでは民間セクターで女性がますます活躍するようになったことがある。女性が結婚・出産後も長期に働くことができる素地があれば、経済の不調による男性雇用の不安定化に際して「共働きカップルを形成する」という選択肢が合理的となる。そのことが女性の労働力参加と出生率のプラスの関係を生み出した。

ここで重要なのは、希望と現実のギャップ、あるいは家計維持のために「共働き戦略」が有効であるためには、女性がそれなりに高い賃金で長く続けられる、あるいは労働市場が柔軟で、女性が出産を機に一度仕事を辞めても、ある程度条件の良い仕事に復帰できる、という見込みでなければならない、ということである(前田、2004)。日本では1995年以降、男性正社員の賃金が伸び悩むなかで、男性正社員とパート労働をするその妻という世帯でも満足のいく生活ができないケースが増えている(武信、2013)。現状では、子育て後にパートとして再就労するのでは問題解決にならないことを多くの人が悟っているからこそ、日本では未婚化が進んでいるのだ。

ドイツでは、女性労働力参加の負の影響は1980年代には中和されたが、長引く不況による男性雇用の不安定化と(それにもかかわらず)持続する性別分業体制の影響で、出生率が伸び悩んでいると思われる。また、ここで触れていないがイタリアやスペインといった南欧諸国では、長い失業率を背景に、女性が(出産等で)一度労働市場から退出してしまうと次によい仕事を見つけられる確率が低出生率を招いた、という研究もある(Adsera、2004)。





荻原久美子(2006)が描き出したように、仕事を続けたい女性にとっての最大の困難は育児休業が終わったあとにやってくる。それは長時間労働など、「主婦のいる男性」に適応した働き方である。そうであるかぎり、いくら育児期を乗り越えられたとしても、女性はそれ以上出世し、家計を実質的に支えられるような存在になれない。これでは「共働き社会」はやってこないし、女性の就労がカップル形成を促すような社会にはならない。









女性の非正規労働化の動きは、1986年の男女雇用機会均等法、1992年の育児休業法の施行によって何ら変化はなかった。図3-4は女性の雇用形態別の就業者数の推移を示したものだが、これをみると1990年代に正規雇用された女性の数が増加していることに目が行くかもしれない。これは後述するが、若年層の女性が結婚を先延ばしにして正規雇用としての就業を継続したことの表れである。しかし、より人口のボリュームが大きい年長世代の非正規雇用が増えたことと、不況のせいで学卒後に非正規雇用に就く女性が増加したことで、図3-3のように1990年代ですら、全体としての女性の非正規雇用率が押し上げられたのである。

要するに、採用や昇進において男女の差別をなくし、また出産・育児・介護によって就業が中断することがないような配慮が徐々に整備されてきたにもかかわらず、男性と同じような正規雇用に就く女性が増えてきたわけではないのだ。






男性と女性がともに対等な立場で働ける環境を実現するためには、男女ともに総合職的な働き方を抑制する必要があるのに、均等法の趣旨は男性のみならず女性も総合職的な働き方に引き入れようとするものになっている。したがって現行の均等法ならびにその「差別禁止」の理念が実現した先にあるのは、おそらく従来通りの性別分業社会なのだ。

その理由は極めて簡単である。転勤あり、残業あり、職務内容に限定性がないために負担が大きい、といった特徴を持つ総合職的な働き方を日本人男性が(過労死という重大な犠牲をともないつつも)なんとかこなしてきたのは、私生活をサポートする仕組みがあったからである。それは一人暮らしの独身男性にとってはまかない付きの独身寮やコンビニであり、実家通いの男性にとっては母であり、有配偶の男性にとっては妻である。

では女性が同じような働き方をする際には、誰がサポートするだろうか。男性以上に女声の多くは実家通いなので、母親もフルタイムで働いてないかぎり、頼ることができるだろう。ただ一人暮らしの場合、女性が入居できる独身寮を持つ会社の数は少ない。また実家暮らしでも、祖父母に重い介護の必要が出てきたとき、母でも男性(父や息子)でもなく、孫に当たる独身女性が仕事を減らしたり辞めたりするという例もある。

とはいえ、独身時のサポートについては男女でそれほど大きな差はないだろう。大きな差がでてくるのは結婚してからである。無限定的な働き方をする人が世帯にいる場合、そうではない人(たとえば専業主婦)が同じ世帯にいてサポートするならば私生活のレベルは落ちないし、子どもを産み育てることも可能であろう。しかし無限定社員と無限定社員のカップルだけでは無理である。その結果、女性の側がキャリアを断念することになりやすい。ましてやどちらかに転勤が命じられれば、片方の(たいていは女性の)キャリアプランは破壊される。パートナーのどちらかに転勤の可能性があるというだけで、持ち家を買うかどうかの判断などに必要な、生活の長期的見通しが立たなくなることもあるだろう。








欧米で広く普及している職務単位の働き方は、両立・共働きと相性がよいものだ。労働時間の調整のしやすさ、活発な転職市場が可能にする離職と再雇用、配置転換と転勤がないこと、これらは働き方が職務単位で切りだされていることによって可能になっている。逆に日本の基幹労働力に期待される働き方では、自分や周囲の職務内容が曖昧なため自律的な時間調整が難しく、また配置転換や転勤の可能性もあるために、共働き夫婦にとって非常に厳しい環境となる。

したがって、一つのアイディアとしては、職務単位で限定的な働き方をする労働者を増やす、という方向性がある。もちろん、職能資格制度の世界から職務給の世界にいきなり転換できるわけではない。そもそも実現が困難だろうし、もし実施されたとしても失業率(特に若年者失業率)の飛躍的な上昇を覚悟しなければならない。ジョブ(職務)型雇用の世界とは外部労働市場の世界である。そこでは、不景気で仕事がなくなれば被雇用者を解雇することは普通であり(そのかわり社内での「飼い殺し」は生じない)、また解雇が経験の浅い若年層から先に行われるのもなかば「当たり前」である(濱口、2014)。このことが可能なのは、アメリカのように外部労働市場が活発であるか、あるいはEU諸国のように失業に対する公的な保障がそれなりに充実している、といった条件があるからだ。








日本型福祉社会構想は、当時の自民党が作成したパンフレット(タイトルはそのまま「日本型福祉社会」である)にその趣旨が書かれている。そこではスウェーデンが名指しされ、その福祉のあり方が非効率的で、かつ「家族関係を破壊する」として、はっきりと否定されている。極端な少子高齢化社会に陥ってしまった日本の現状から振り返ってみれば苦笑いしてしまうが、当時はたしかに日本的な福祉のあり方が北欧のそれよりも優れている、と主張しても受け入れられる空気があったのだ。

ドイツやイタリアなどの保守主義的国家においても、日本と同じような家族重視と性別分業の体制は強かった。これが、これらの国が保守主義レジームと名づけられた一つの理由である。しかし違いもある。たとえば「企業による福祉」である。1970年代以降、日本の民間部門は、大企業の世界では内部労働市場を発達させ、中小企業については政府が援助するなどして、企業が雇用を維持し、雇われた男性とその家族の生活を安定させるという戦略をとった。これに対して欧米では職務単位の労働配分が行われ、外部労働市場が発達しているため、生活保障は企業ではなく政府の役割である、という意識が強い。ドイツやフランスなど、主要な大陸ヨーロッパ諸国の社会保障支出は日本よりもずいぶん大きいが、それは日本が「家族と企業」という二つの民間部門に福祉を任せてきたからである。この点にこそ、日本の路線の特徴があったといえるだろう。












本書では論じる余裕がなかったが、筆者は格差以上に深刻なのが社会的分断であると感じる。社会的分断とは、人々のあいだの価値観や態度の対立のことだ。たとえば社会のあるグループ(経済的に恵まれない層)は富の再分配を支持し、別のグループ(富裕層)はそれを否定する、といった意見の違いを指す。ある制度が特定のグループを有利にし、別のグループを不利にすることはしばしば起こりうる。再分配が弱い社会や教育費が高い社会では、経済的に豊かなグループが優位に立つ。急速に高齢化が進む社会では、年金制度の負担は若年層に重くのしかかる。錠時間労働が常態化した社会では、少なくとも仕事の世界は男性優位になりがちだ。制度設計がうまくいかないと、こういった対立、つまり社会的分断が先鋭化するおそれがある。

「働くこと」は、それが社会の富を生む最大の源であるがゆえに、対立の大きな争点となる。たしかに経済先進国は、基本的な合意として、(高齢や障害のために)有償労働をすることが難しい人々については政府がその生活を保障するという制度をつくりあげてきた。しかし働くことができるのに様々な理由からその力を十分に活かすことができていない人々が増えてくると、合意が揺らぐことになる。一方では適切な労働機会を与えられない人々が労働市場や雇用環境の制度に対して異議を提示するようになるし、他方では税や社会保険の負担をする人々が再分配制度に対して異議を唱えるようになる。こういった対立は、事後的な再分配の強化でも無条件の自由競争の導入でもなく、税や社会保険の負担を一定程度担うことができる所得をともなった仕事が、社会の様々なグループに配分されることではじめて緩和される。「働くこと」を基軸とした連帯をつくりあげた国は、分断を乗り越え、安定する。


本書のキーワードである「共働き社会」は、男性と同じく女性に働く機会を保障する社会だ。また、有償労働の担い手を増やすことで、税と社会保険を通じた「助け合い」のための社会的余裕をつくり出す。その意味で、「共働き社会」は日本社会のこれからの社会的連帯の第一歩であると筆者は考える。


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「日本型近代家族」


お勉強的に手にとった二冊。なのでエントリして楽しいような思考をドライブさせるようなところもそんなになくエントリするのに億劫になってったところもあったのだけどお勉強となったとこをさらっとまとめるぐらいにしとこう。後々役に立つかもだし。


日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか -
日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか -

仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -

仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -



「日本型近代家族」のほうはいわゆる家族社会学の基本的な考え方、知見をコンパクトにまとめてる感じ。なのでこの分野をお勉強しはじめるときには便利なように思う。

キーワードとしては「核家族」「ロマンティック・ラブイデオロギー」「母性イデオロギー」「家庭イデオロギー」など。家族の関係や恋愛、あるいは母性幻想に対して窮屈や違和感を持ってる人的には考える際に便利な言葉や思考が散らばってる。


ちょっと端折って間違ってる箇所あるかもだけど全体をとらえやすくするための前フリとしてまとめる。

たとえば日本なんかにおいて「家族」という概念は明治以降に導入され、それは国民国家の誕生と期を同じくする。すなわち国民国家が「家族」なる単位を必要とし設定・普及したということ。それ以前は村落共同体的なところでいちお世帯ごとに別れていつつも「村全体」という意識があった。プライバシーがあまりない反面、たとえば「子どもは村全体で育てる」みたいな感じだったり(cf.なので祭りの乱交時に生まれた子は子種が誰かわからなくても育てるとかふつーにあったのだろう)。現在のような家族観、「他からはプライバシー的に分ける」ことを当然とした近代家族の家族観からだと考えにくいかもだけど、家族、というか共同体というのはまずもって生存のためにあって、そのためいろんなものを分けあっていた。なので生存-食料の確保なんかが一義にありプライバシー、プライベートみたいな感じはあまりなかった。いわゆる近代家族―核家族というのは大家族に対応して語られる言葉で成人男女とその直系血縁の子弟を基本単位としたもの(その前の世代、成人男女の親からは世帯を別にする)だろうけど、大家族的なもの以前に村落共同体的な生活共同システムがあった。

つまり家族、あるいは生活を共にする共同体というのはもともと食料を確保するために生計を一にする目的のものだった。前近代社会のひとびとは「家族」という世帯のなかではなく、共同体規制のなかで生きていた。ラスレットが言うように、家族は子供を産み育てるという、独立した再生産の単位でもなかったし、そのなかで経済が完結するような生産の単位ではなかった。ひとびとの性関係は共同体の規制のなかにあり、身分を越えた自由な結婚などはありえなかった。この辺は花輪和一のマンガなんかに戯画的にエグく描かれている(← 「庄屋様に焼き印をおされてセックスされるのは至上のよろこび!」)。家族という単位は共同体のなかに埋没して見えないものだった。

近代に入って世帯ごとに管理・わけられていき「家族」の意味は変質していった。プライベートな共同体、あるいは「愛」を中心とした共同体、といったものに。おそらく生活が豊かになって食料を一義とするでもなくなって。


ではなぜ国家が家族という単位を必要としたか?というとひとくちには税のためといえるだろう。当時のヨーロッパに倣って国民国家がなんとなく有効だと判断した明治政府は「国民」を創設し把握するための単位として家族、より正確に言えば世帯を導入した。それによって国民国家的には皆兵が可能に。税収もぶらさがっていったのだろう。


近代家族の特徴は、(1)ロマンス革命(2)母子の情緒的絆(3)世帯の自律性、とされる。


旧来の村落共同体に比べ、家族は世帯ごとに切り離され、村落共同体がゆるやかに担っていた福祉の役割は国家が担うようになった。家族は共同体から分離され国家に直接に接続されていった。そこでは「男は仕事に行って(税収を)稼ぎ、社会的再生産に寄与し、女は家庭を守る(産み育てる)」という性別役割分業が当然とされていった。その際に導入されたイデオロギーが恋愛(ロマンティック・ラブ)であったり、「良い母」的な母性イデオロギーだった。これらは国家によって直接宣伝されたとは言いがたいがゆるやかに社会の当然・通念となっていった。


愛情といった感情だけではなく「親しさ、楽しさ、親密性、感情表出、思いやりなど人間関係の『よい』側面」(山田、1994)はすべて家族に放り込まれることになった。感情という場合、ネガティブなものもあればポジティブなものもあるはずだが、「愛」とか「共感」といった特定感情には価値が与えられ、「恥」「罪」といった感情は好ましくないものとして設定される。これらは社会的に感情が規制され規範化されていった結果といえる。


近代家族のゆくえ―家族と愛情のパラドックス -
近代家族のゆくえ―家族と愛情のパラドックス -




ロマンティック・ラブイデオロギーとは、「一生に一度の恋に落ちた男女が結婚し、子供を産み育て添い遂げる」、つまり愛と性と生殖とが結婚を媒介とすることによって一体化されたものである。結婚を媒介としてこの三点が揃っていることが求められたため、愛のない結婚、愛の無いセックス、結婚につながらない性交渉、結婚してない婚外婚の性、婚姻外で生まれる婚外子、愛している相手の子供がいらないと感じること、結婚しているにもかかわらず子供をつくらないことなどが不自然であると考えられ、非難の対象とされてきた。


母性イデオロギーとは、母親は子供を愛するべきだ、また子供にとって母親の愛情にまさるものはないという考え方のことである。「三歳までは母親が子供を育てるべきで、そうしないと子供に取り返しの付かない影響を与える」という「三歳児神話」などはこれに含まれるだろう。


家族イデオロギーとは、家庭を親密な、このうえなく大切なものとする考え方である。どんなに貧しくても、自分たちの家族が一番である、家族はみな仲がよいはずだという、「狭いながらも楽しい我が家」という表現にみられるような、家族の親密性に関わる規範である。



ロマンティック・ラブイデオロギーの項には結婚を当然とすること、また、性愛・恋愛の対象をひとりとすること、彼らと「愛情」というロマンス(恋愛感情)を通じて深く愛しあうことが当然・幸せとする規範が備わっていてそれ自体が問題だなというのはあるのだけど、自分的には特に目新しい話題でもないのでそれほど触れない。


ただ、この本(あるいは近代化俗論のまとめ的な話)を通じて「母性」というのも国家によって作られた幻想だったのだなあと再認識した。


母性という神話 (ちくま学芸文庫) -
母性という神話 (ちくま学芸文庫) -





それらは男性による身勝手な幻想かと思っていたし、母性を批判する人たちはしばしばそういった論を貼るのだけど。母性自体が国家による人口管理と再生産のために設定された規範だったとしたら、こういった話で男女の対立(ラベルの押し付け合い)的な構図をとるのも無意味だろう。





近代に入るまで、子供は現代と違って可愛がりの対象ではなく、「子供」という概念もなかった。たんに労働力として劣った小さい大人(でも5,6歳から働かせる)ぐらい。

ヨーロッパの上流階級の女性は自分で子供を育てること、授乳などという「動物的な」行為をすることを拒絶した。ヨーロッパだけでなく日本でも事情は同様となる。江戸時代に女性に期待されていたのは良い子供を産むことだけであり、育てることは期待されていなかった。むしろ男子のしつけは父親に任されていた。人々は子供に対して無関心で、堕胎や間引きという習慣も必ずしも貧困が原因ではなかった。


良妻賢母という規範 -
良妻賢母という規範 -


〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活 -
〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活 -


子どもと母性をめぐる関係は乳幼児が将来の「国民」の予備軍であることが意識されることによって変化していった。ここで母親による子供の世話も規範化されていく。


この変化に寄与したもののひとつとしてルソーの教育の書、『エミール』がある。



エミール〈上・中・下〉3巻セット (岩波文庫) -
エミール〈上・中・下〉3巻セット (岩波文庫) -


女たちは「母親」であることを熱心に学んでいき、母性は母乳の出る母親だけが持つ「本能」とされていった。


日本における母性イデオロギーは「良妻賢母」規範としてあらわれた。良妻賢母規範というと江戸時代からある儒教規範と思われがちだが、そうではない。「良妻賢母」という言葉も、「恋愛」という言葉と同様に、明治に入ってつくられた。1870年代には賢母良妻といわれ、90年代に良妻賢母という言葉に落ち着く。これは、家庭を守って夫を支え、なによりも次世代の「国民」を育成するという、母に寄る教育が大きな位置を占める規範だった。


この規範が結果的に女子の中等教育の振興・普及に大きな役割を果たしたという(←「将来の国民を育てるために必要」)。


「学校」「教育」は女性だけでなく<子供>の誕生ともときを同じくし、「母性」「子供」「学校」「家族」は同時期に誕生した。



「家庭」という言葉は明治20年代からもてはやされ、雑誌などであるべき規範となる。そして実際に大正期になるとその「家庭」の理想 ―「一家団欒」、「家庭の和楽」を実現することが可能な新中間層が現実に出現してきていた(小山、1999)。「家庭」とは、ある意味で新中間層的な刻印を推された家族のあるべき理想像となった。





実態はどうあれ、理想としての、建前としての「愛と性の一致」という規範は(女性の側には)存在していた。それが崩れ始めたのは1990年代のことである。60年代の性革命によって、70年台には「愛があるなら、結婚前に性交渉をおこなってもよい」という規範が一部ではみられるようになった。1980年代には消費社会を背景として、ドラマ「金曜日の妻たちへ」などのように結婚していても恋愛があり得ること、また未婚者も当時流行した多くのトレンディードラマのように、結婚のまえに恋愛を楽しむことがあり得ることが、示された。


こういった規範。「愛がなくても性交渉をしてもよい」がはっきりと出現し規範化していったのが1990年代だった(ex.セックスフレンド)。



現在「イクメン」という言葉の出現には「性別役割分業にこだわらない子育て(家族を金銭的に養うのは男であるべきという規範からの開放)」「レジャーとしての子育て(子育てのレジャー化)」などの規範の変化が読み取れる。






簡単にメモするつもりだったので「仕事と家族」も同じエントリにしよかと思ってたけど、けっこう長くなった / 疲れたので項を分けよう。









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2015年10月24日

スコット・ペック、1978、「愛と心理療法」



んじゃ一個前のエントリで言ったとおり「愛と心理療法」から気になったところ引用で、


愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -
愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -




今まで、訓練こそ人生の問題を解決するのに必要な基本的手段であると述べてきた。その手段とは、、苦しみを引き受ける技術、つまり、問題を積極的に受けとめてうまく解決し、その過程で苦しみを受けながら学び成長してゆくことである。訓練することを教えるとは、いかに苦しみ成長するかを教えることにほかならない。

これらの手だて、私が訓練と呼ぶ、苦悩するテクニック、建設的に問題の苦しみを経験する手段とは何か。それは次の四つである。楽しみをあとまわしにすること、責任を引き受けること、真実に忠実であること、そしてバランスを取ること。明らかにこれらの手段は、かなりの練習を必要とするようなややこしいものではない。10歳になればほとんどすべての子どもが使いこなせるような、単純な手段である。だが、大統領や一国の王でさえ、この単純な手段を用いるのを忘れて没頭することが多い。問題は手段の複雑さではなく、用いる側の意志にかかわっている。これらは苦しみを避けるのではなく苦しみに向かうための手段なので、もししかるべき苦しみを避けようとすれば、使われないことになる。




一貫した親の愛と保護に恵まれた幸運な子どもは、その結果、自分の価値を信じる深い内的感覚のみならず、深い内的安定感をもっておとなになる。子どもはみんな、見捨てられるのではないかと恐れているが、それも無理からぬことである。この見捨てられる恐れは、ちょうど子どもが親と別個の存在であるとわかりはじめる、生後六ヶ月にめばえる。子どもは、個人として自分が無力な存在で、生存のいかんが親の掌中にあることをわかっているからである。子どもにとって、親に捨てられることは死に等しい。多くの親は、他の面では比較的無知で鈍感であっても、このような子どもの恐れは本能的に感じとって、来る日も来る日も何百回、何千回となく子どもを安心させている。「お母さんもお父さんもおまえをおきざりになんかしやしないよ」、「すぐに連れに戻ってくるからね」、「おまえのことを忘れるなんてありっこないよ」と。その言葉が来る月も来る年も言われた通りであるならば、思春期を迎えるころには、捨てられる恐れは子どもから消え、かわりに、この世は必要なときにはいつでも守ってもらえる安全なところだという、深い内的感覚が育つ。この一貫した内的安全感があるので、子どもはいろんな満足をあとにまわすことができる。家庭や両親と同じように、満足する機会は必要な場合いつでもつかまえられる、と安心しているからである。






私には、才気煥発だが気難しい知人がいる。放っておけばいつまでも雄弁に、社会の圧倒的な力、人種差別、性差別、軍隊、産業組織、彼と仲間の長髪に文句をつける田舎警察などについて、しゃべり続ける。何度も何度も私は、彼がもう子どもではないことを言って聞かせようとした。子どもは、いろんな面で依存しているので、事実上、親が色んな面で支配力をもっている。実際、親は子どもの幸福に大いに責任があり、子どもは親次第である。親が圧倒的 ―そうであることが多いのだが― であっても、子どもはほとんどどうすることもできない。子どもには選択の余地がかぎられているからである。しかしおとなは、身体的に健康な場合、選択の可能性が無限に近い。だからといって、選択に苦痛がないというわけではない。どちらもいやでもましなほうを選択しなければならないことも多いが、それでも、自分の力で選ぶことができる。この世界には圧倒的な力が働いているという知人の意見には、私も同感である。しかし、そのような圧力にどう反応しどう対処するかは、そのつど自由に選ぶことができる。警察が「長髪」を嫌う田舎に住み、髪をのばすのは彼の選択である。彼には都会に引っ越すか髪を切るか、あるいは警察署に対してキャンペーンを行う自由さえある。頭脳明晰であるにもかかわらず、彼はこれらの自由を認めようとしない。おのれの人間としての大きな力を受け入れ享受するかわりに、自らの政治力のなさを嘆くほうを選んでいる。自由に対する愛とそれを阻む圧力について語るが、自分がいかにその犠牲になっているかを語るたびに、実はその自由を手放しているのである。いくつかの選択が苦痛をともなうというだけで人生を恨むようなことを、彼がそのうちやめてくれるよう私は望んでいる。







愛について二番目によくある誤解は、依存症を愛とする考えである。これは、心理治療家が日々ぶつからねばならぬ問題である。配偶者や恋人に拒否されると、自殺を企てたりそうするようなポーズをとったり、またはそれで脅かしたり、何もできないほど落ち込んでしまう人に、劇的なかたちでその影響が見られる。「生きていたくない。主人(妻、恋人)がいなければ生きていけない。それほど彼(彼女)を愛しているんです」と彼らは言う。「あなたはまちがっていますね。あなたは夫(妻、恋人)を愛してなどいやしませんよ」と、私が言葉を返す ―そうすることが多い― と、彼らは怒っていう。「なんですって。彼(彼女)なしでは生きられないって今言ったでしょう」。そこで私は次のように説明する。「あなたが言うのは寄生であって、愛ではないんです。生きるのに他人が必要なら、あなたはその人の寄生虫なんだ。その関係には選択も自由もありませんね。それじゃ愛というよりは必要性の問題だ。愛とは自由に選択することなんですよ。ひとりでも十分やってゆける人が一緒に生きることを選んだ場合にかぎって、ふたりは愛しあっていると言えるんですよ」


依存症とは、誰かが積極的に面倒を見てくれる保証がなければ、不全感に悩んだり十分に働けないこと、と私は定義している。身体的に健康なおとなの依存症は病的である ―それは病気、精神的な病ないし欠陥の現れである。しかしそれと、ふつう、依存欲求とか依存感情と呼ばれるものとは区別しなければならない。われわれにはみんな ―人や自分に対してそうでないふりはしていても― 依存欲求と依存感情がある。赤ん坊扱いされたい、何もせずに世話されたい、本当に自分のためを思ってくれる強い人に保護されたい、と願わない人はいない。どんなに強い人でも、どんなに世話好きで責任感のあるおとなでも、自分の内面をしかとのぞいてみれば、たまには保護されたい、という欲求がみつかるはずである。どんなに年を取り成熟した人であれ、自分の人生に望ましい母親像や父親像を見つけたいと思っている。しかしそのような欲求や感情がその人の生活を支配しているわけではない。それらが生活を支配して生のあり方まで決定し、ただの依存欲求あるいは依存感情以上のものになることが問題なのである。そういう人は、「受動的依存的性格障害」と診断される精神障害にかかっている。これはたぶん、精神障害のなかではもっともふつうのものである。

この障害のある人は、愛されようとするのに忙しすぎて、愛するエネルギーが残っていない。飢えた人が、食べ物のあるところならどこにでもたかってゆき、他人に分け与える食べ物をもっていないのに似ている。彼らの内部には空洞があり、底なしの奈落の満たされるのを切望しているが、完全に満たされることはないらしい。彼らには「いっぱいに満たされた」感じがないし、完全という感じもない。たえず「自分の一部がどこかにいってしまった」と感じている。孤独に耐えるのがたいへん難しい。全体性を欠けるため本当のアイデンティティをもたず、人とのかかわりによってしか自分を規定できない。







受動的な依存症は、愛の欠如に由来している。受動的依存的な人々の抱えている内的な空虚感は、子どものとき、子ども時代を通じて、一貫してそこそこに愛され世話してもらった子どもは、自分を愛すべき価値のある人間で、自分に忠実でさえあれば愛され面倒をみてもらえるという、根強い感覚をもっておとなになる。愛と世話が欠けていたり、気紛れにしか与えられないで育った子どもは、そのような内的安定感をもたずにおとなになる。むしろ内的な不安感があり、「十分ではない」感じと、この世は何が起こるかわからないし何も与えてくれない、それだけ自分が愛すべき価値のある存在かどうか疑わしい、という感覚がある。だから、愛され配慮され関心を払ってもらえるとあらば、われ先に突進し、いったんつかまえると必死にしがみつういて、愛とは無縁の操作的なマキャベリ的行動をとって、せっかくの関係そのものを破壊してしまうのも無理からぬことである。これも第一部で述べたことだが、愛としつけとは関連しているので、愛もなく十分な世話もしない親はしつけにも欠けている。子どもたちに、愛されている感覚を与え損なっているのだが、同時に自制心を養うこともしていない。受動的依存的な人の過度の依存症は、彼らの性格障害を示す主な徴候にすぎない。彼らは自制心の欠如した人たちである。人々にかまってほしい気持ちを我慢しようとしないし、できもしない。人とのつながりを必死に作り上げ保とうとして、誠実さを投げ棄てる。諦めたほうがよい、すりきれてしまった関係にしがみつく。もっとも重大なことは、自分に対する責任感に欠けていることである。自分の幸せおよび充足感の源として、受け身のままに他人、しばしば自分の子どもまであてにしている。だから幸せでなく満たされていないと、基本的に他人のせいと思ってしまう。そしてそのためにとめどなく腹を立てている。他人が彼らの要求をすべて満たし、幸せに「してくれる」ことはありえないから、いつも他人に裏切られてきた感じでいる。



要約すると、依存症が愛と紛らわしいのは、それが人と人を強く結びつけるからである。しかし、それが実際の愛であることはない。正反対である。それは親の愛の欠如からきており、同じことが繰り返される。与えるよりは与えられることを求め、成長よりも幼児性に固執する。解放するよりも罠にはめ、拘束する。窮極的には、人間関係を形成するよりも破壊し、人間を作るよりも崩壊させる。





以上のことが示唆することは、幼児やペット、そして依存的で従順な配偶者に対する「愛」は、「母性本能」、より一般的に言えば「親の本能」とでも言うべき本能的な行動パターンだ、ということである。これを「惚れこみ」という本能的な行動にたとえることができる。惚れこみは比較的努力なしにできるし、意志あるいは選択による行動では決してないのだから、愛の純粋なかたちではない。それは種の存続を促すが、人間の進歩や精神的成長を目指してはいない。他者に手を伸ばし人々を結ぶきずなを作りだし、そこから本当の愛が始まるかもしれないので、愛に近いものである。しかし結婚を健全で創造的なものに高め、健康な精神的に成長する子供を育てて人類の進化に貢献するためには、さらに多くのことが必要である。

要するに、養育はただ単に食物を与える以上のものでありうるし、通常、そうあるべきなのである。また、精神的な成長を培うには、本能によるプロセスよりずっと複雑なものが必要となる。第二部の冒頭で取りあげた。息子をスクールバスに乗せようとしない母親がよい例である。ある意味では息子を慈しんでいるのだが、それは息子の必要としない慈しみで、精神的成長を促すよりも明らかに遅らせている。似たような例はこれにとどまらない。太り過ぎの子どもに食物をおしつける母親。息子には部屋いっぱいのおもちゃを、娘にはたんすいっぱいの服を買ってやる父親。何でも子どもの言う通りにして制限しない親。愛は与えるだけのことではない。分別を働かせて、あるときは与え、あるときは与えない。あるときは褒め、あるときは批判する。喜ばせるだけでなく分別をもって対決し、押したり引いたりする。愛とはリーダーシップなのである。ここで「分別」とは判断の必要なことを意味している。判断には本能以上のものがいる。そのためには思慮深い、しばしば苦しい決断をしなければならない。







恩寵の定義

第W章ではこれまで、次のようなさまざまな特性を共有する現象を論じた。


a.それらは人間の生活と精神的成長を培う ―支え守り高める― のに役立つ。

b.それが働くメカニズムは、現在の科学的思考にもとづく自然の法則によっては、完全に理解できないか(身体の抵抗力や夢のように)、まったくあいまいである(超常現象のように)。

c.それらはひんぱんに日常茶飯事的に生じ、本質的に人間に普遍的なものである。

d.潜在的には意識に影響されるが、その源は意識的な意志の外にあり、意思決定のちからはおよばない。



一般には別々に思われているが、これらの共通点は、それがひとつの現象のさまざまな現れであることを示している、と私は感ずるようになった。意識の外に発する強い力が、人間の精神的成長を培う。何百年、いや何千年ものあいだ。意識の外に発する強い力が、人間の精神的成長を培う。何百年、いや何千年ものあいだ、免疫グロブリン、夢見の状態、無意識などと科学的に概念化される以前から、宗教家はつねにこの力に気づいており、それを恩寵と名づけていた。そしてこれを讃えて「何という恩寵、その甘美な響き……」と歌ったのである。

この、人間の意識の外から来る強い力について、われわれ ―適当に懐疑的で、科学的な心をもっている― は何をなすべきなのだろうか。この力に触れることはできない。測定するしかるべき方法もない。しかしそれは存在する。現実なのである。そこでわれわれは、それが伝統的な科学的概念に容易にあてはまらないからと、無視すべきなのだろうか。それは危険なことと私は思う。恩寵という現象を考えに入れることなしに、宇宙およびそのなかの人間の位置、したがって人類の性質を理解することなど望むべくもない、と考える。






それにしても個人としてかつ種としてのわれわれに、内なる無気力という自然な抵抗に逆らって成長することを促す、この力は何なのか。すでに名はつけてある。それが愛である。愛は「自分自身と他者の精神的成長を養うため、おのれを広げようとする意思」として定義されてきた。われわれが成長するのはそのために努力するからであり、努力するのは自分を愛するからである。われわれが自分を向上させるのは愛によってである。他者が向上するのを助けるのは、他者を愛することを通してである。愛すること、おのれを広げてゆくことこそ、進化の行為である。それはまさに進みつつある進化なのである。あらゆる生命体に存在する進化の力は、人間においては愛として顕れる。人間の本性のなかで、愛はエントロピーの自然な法則にあらがう奇跡の力なのである。









人々の愛する能力、したがって成長への意志は、幼少時の親の愛のみならず、一生を通じての恩寵、神の愛、によっても培われる、と私は信じるようになり、それを示そうと努めてきた。これは彼らの意識外の強い力で、無意識の働きや両親以外の愛のある人の働き、さらにわれわれの理解していない別の方法で作用する。人々が愛のない養育のトラウマを超え、人間進化の尺度でははるかに親のレベルをこえる、愛のある人間になるのは恩寵のゆえである。それではなぜ限られた人が精神的に成長し、養育環境を超えて進化するのか。私は、恩寵はあらゆる人に与えられており、われわれはみんな神の愛に包まれ、誰しもが同じように気高い、と信じている。だから私にできる唯一の答えは、ほとんどの人が恩寵の招きを気にとめようとせず、その助けを拒んでいる、ということである。私は、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのだ」というキリストの言葉を、「われわれのすべては、恩寵によって恩寵へと招かれている、しかもほとんどの人がその招きに耳を傾けようとしない」という意味に解釈したい。

そこで問題は、「なぜ一握りの人しか恩寵の招きに気をとめようとしないのか」である。なぜわれわれのほとんどは実際恩寵に抵抗するのだろう。以前、恩寵が何かしら無意識にわれわれを病から守ることを述べた。では、ほとんどそれと同じようにどうして健康に抵抗するのだろう。この疑問の答えはすでに出ている。それが怠惰、われわれみんなが呪われているエントロピーという原罪である。恩寵に人間進化の階段をわれわれに登らせる窮極の力があるように、その力にあらがって、ぬくぬくと現状に甘んじさらに存在の厳しさを徐々に失わせさえしようとするのが、エントロピーである。





posted by m_um_u at 19:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

「愛と心理療法」-「重力と恩寵」


「愛と心理療法」を読みつつ、そこでのエントロピーの説明のところで「重力と恩寵」と似てるんじゃないかと思ったので「重力と恩寵」を読みなおしてみた。



以前よりもちょっと理解できるようになった感じ。



愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -
愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -


重力と恩寵 (ちくま学芸文庫) -
重力と恩寵 (ちくま学芸文庫) -

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫) -
重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫) -


「愛と心理療法」から「重力と恩寵」を連想したのは「恩寵」や「下降」のイメージがヴェイユの断片的なそれよりも分かりやすかったからで、今回そういうのを軸に読みなおしてみて以前より読みやすく思った。すくなくとも前半は。


カレー / 「愛と心理療法」-ヴェイユ / 銀杏|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nb3c2ea2ce9b2

「人には恩寵に向かう契機が差し向けられてるのに対してほとんどの人はそれに背を向けている」「恩寵-セレンディピティを得られるのは苦しいことに向き合う回路と同じである」「そこには愛の回路がある」「愛とは、人が自分に閉じこもらず、自分の範囲を広げていくことである」「それはしばしば苦しみを伴う」「その苦しみを支えるために人の愛情がある」「親の愛が足りなくても、あとから人の愛に気づけるようになれば、恩寵は自然と訪れる」

「人はしばしばそういった回路から逃れる - 面倒臭がって/自分を守るために回路を開かないのは怠惰のエントロピーがあるからである」というのはヴェイユが言っていた重力と下降のイメージと同じようにおもった。ヴェイユの場合はこういった説明がなかったけど。


(「愛と心理療法」についてのメモ / 抜粋は次のエントリでするかもしれない)



「重力と恩寵」でだいたいは完全な理解とはいえないまでも連想とかイメージできるのだけど特にわからないなとおもったのは「遡創造」のところだった。


創造は愛の行為であり、絶えず繰り返されている。どんな瞬間においてもわれわれの生存は神のわれわれに対する愛である。しかし、神は自分自身しか愛することができない。われわれに対する愛は、われわれをとおして神自身に向けられた愛である。このように、われわれに存在を与える神は、わらわれの心のなかの、存在しないことへの同意を愛する。

われわれの生存は、われわれが存在しないことに同意するのを待つ神の意志によってのみ成り立っている。

神は絶えず繰り返して、われわれに与えたこの生存を物乞いしている。それを物乞いするために与えているのである。



この理路は「愛」の箇所にも通じる、


愛はわれわれの悲惨(ミザール)の一つのしるしである。神は自分自身しか愛することができない。われわれはなにかほかのものしか愛することができない。

神がわれわれを愛しているから神を愛すべきである、ということではない。神がわれわれを愛しているから、われわれは自分自身を愛さなければならないのである。この動機がなければ、どうして自分自身を愛することができよう。このようなまわりみちを経なければ、人間は自分自身を愛することができないのである。


もし私が目かくしをされ、両手を鎖で杖につながれたとしたら、その杖は私を事物からへだてはするが、それを媒介として私は事物をさぐり知ることができる。私は杖しか感じることができない。知覚の対象となるのはまわりの壁だけである。創られたものの愛の能力についても同じことがいえる。超本性的な愛は創られたものにしか触れず、神にしかおもむかない。神は創られたもののみを愛する(われわれにとっても、そのほかに愛すべきものがあるだろうか?)、ただし、それらを仲立ちとして愛するのである。すべての創られたものを、仲立ちとして、平等に愛しており、そのなかには神自身も含まれている。他人を自分自身のように愛するためには、一方では自分自身を他人のように愛することが必要である。




スコット・ペック的な理解では「人の愛は他者を理解するために自分(エゴ)を捨て、他者や世界といった自分にとってわからないものに向け自分を開示・理解・広げていくことである。それは苦しみを伴う。その苦しみを埋めるための初期段階では親などの愛情が必要になる。親の愛情が薄かった人はあとからこの訓練を行うために介助者の愛-理解が必要となる」ということで愛は苦しみに耐えるための資源(であり理解しようとする行為と結果)とされるわけだけど、ヴェイユのここでの記述はその定義・理解では混乱が生じてくる。


たぶん、ヴェイユのこの理路は「神は存在する・神はあまねくすべてのものを愛しているとするならばなぜわれわれの生活は苦しいままなのか?救われないのか?それは愛されてないということ、神は存在していないということなのではないか?」という問いに対する神の存在を前提とした理路なのだろうなあと思うのだけど。神学的な。なので神学の素養があるといいのかなあと思いつつ、「神はわれわれを通して見る」の部分からの連想から、高次元の存在としての神がわれわれの世界を「見る」ということについて、この辺りも関わってくるのかなあとか思った。


「目の見えない人は世界をどう見ているのか」「ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由」|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ned2dda6dbb29


目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書) -
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目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書) -
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暗闇から世界が変わる ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦 (講談社現代新書) -
暗闇から世界が変わる ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦 (講談社現代新書) -

暗闇から世界が変わる ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦 (講談社現代新書) -
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ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖 -
ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖 -



全体として、ヴェイユの「他人への期待を捨てること」「真空になること」という在り方は仏教における煩悩を捨てるうんたらと似てるなあとか。愛も煩悩の一つなので。そんなことをおもってたら仏教関連のものも読んでた記述があったけど。



連想ついでに言うとヴェイユのこういう在り方というのは宮沢賢治の「春と修羅」なんかも想ったり、トリアーの描く女性像を想ったり。



ラース・フォン・トリアー、2013、「ニンフォマニアック」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425284729.html


「ニンフォマニアック」補遺: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425456769.html



タルコフスキーなんかも関連でおもうけど、こっちは自分的にはまだはっきりとはフィットしない(トリアーのほうがわかりやすい)。ただ、色や質感、空気感とか温度的にはこの辺なんだろうなあとか思う。


ノスタルジア|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n49dd5dc2aae0


TSUTAYAでタルコフスキー / ホヤ・鯛|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n5ffc929ca6ea





まあでもそのうち経験とか思いがたまれば感じ方も変わるのかなあとか。「重力と恩寵」も同様に。


そういう意味だと棚に置いてても良い本なのかもしれない。



























--

M・スコット・ペック、1983、「平気でうそをつく人たち PEOPLE OF THE LIE」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/427158508.html




今村純子、「シモーヌ・ヴェイユの詩学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/412506991.html

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2015年10月15日

「恋愛とセックスの経済学」 / 「家父長制と資本制」



読んでしばらくしてから「なんでこれ読もうと思ったんだっけなあ。。( ^ω^)・・・あ、ジャレド・ダイアモンドのセックス本が思ったより予約集中しててすぐ読めなそうだったからこっちにしたのか」て気づいたのだけど



文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫) -
文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫) -

人間の性はなぜ奇妙に進化したのか -
人間の性はなぜ奇妙に進化したのか -

セックスはなぜ楽しいか (サイエンス・マスターズ) -
セックスはなぜ楽しいか (サイエンス・マスターズ) -



そう思ったのは今回紹介する本がおもったより面白くなかったからで、、まあそういうと紹介される人も読む気が失せるだろうからなんだろけど、単に自分が期待してたものに対して合わなかったからでこういうのを必要としてる時とか、必要とする人には良いのかなあとか。それとは別にダイアモンドの思い出したのでそのうち読むけど。






セックスと恋愛の経済学: 超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業 -
セックスと恋愛の経済学: 超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業 -


セックスと恋愛の経済学―超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業 -
セックスと恋愛の経済学―超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業 -




この本は恋愛とセックスの、というか主にセックスを中心とした男女の付き合いを経済学的に考察したらどうなるか?という視点で描かれたエッセイぽいものになってる。経済学的にていうか、そんなに本格的に経済学してるってほどでもなく、経済学に使われるような統計データとそれに基づいたちょっと経済学的概念を使った考え、みたいなの。まあ「ヤヴァい経済学」系の流れなのかなあ。


なので、ふだん一定の価値観が先行しやすい性愛領域を経済学的な効率性・合理性からスパっと見るときにはわかりやすい。


てか、自分的にこういう考えが基本になってるとこもあるので、人に説明するときに便利だなあとかおもった。


例をあげてくとキリがないので、そのなかで印象に残った箇所を以下抜粋。


これなんかはこの本の考え方をあらわした代表的なものだし、自分も似たようなこといったことある(←ナノデモテナイ)




経済学に基づいた全く新しい結婚の誓い:

新郎:
「私は彼女との契約を結ぶことに同意します。それは私たちの結婚生活にわたって有効です。私は確かに新婦よりはるかに質の高い他の女性たちに出会いましたが、彼女たちは私に飽き足りなかったために、あなたとの結婚に至ったことを受け入れます。あなたは学歴と収入の点で私の希望を欠いていますが、そのぶんは若さと外見的魅力で埋め合わせてあまりあります。そして私は、このトレードオフはあなたを妻として選ぶには充分なものと誓います。わたしは誠実であるおkとを誓います。あなたの魅力は加齢とともに不可避的に低下するものであり、相手を探すことは低コストなのでいずれ新たな妻を求める動機になるにもかかわらずです。私は良い家庭を築くという共同の目標に向かってあなたと家事を分担することを誓います。また私たちの世帯の将来の収入に対するあなたの期待を満たすため、自らの人的資本を投入し続けることを誓います。あまり合理的ではないかもしれませんが、私は子供たちと資産ポートフォリオに投資することを誓います。あたかも、死が私たちを分かつ時まで私たち家族が一緒であることを期待するがごとく」



新婦:
「私は彼との契約を結ぶことに同意します。それは私たちの結婚生活にわたって有効です。私は確かに新郎よりはるかに質の高い他の男性たちに出会いましたが、彼らは私に飽き足りなかったために、あなたとの結婚に至ったことを受け入れます。あなたは身長と容姿の点で私の希望を欠いていますが、その分は学歴と職業選択で埋め合わせてあまりあります。そして私は、このトレードオフはあなたを夫として選ぶには充分なものと誓います。私は私たちの結婚生活で生まれるどの子供についても生物学的にあなたの子供であることを誓います。たとえ、よりすぐれた遺伝的資質を与えてくれる他の男性に短期間目移りすることは確実でもです。また子供たちの人的資源を育むために、自らの人的資本を犠牲にすることを誓います。あなたが家庭の幸福のために必要な資源を十分に持ちよってくれることがわかっているからです。あまり合理的ではないかもしれませんが、私は敢えてリスクを取り、結婚生活と資産ポートフォリオに投資することを誓います。あたかも、死が私たちを分かつ時まで私たち家族が一緒であることを期待するがごとく」





上記のような合理性が共有されてれば特に男女差がどうとかいうこともないようにおもう。ちなみに本書において結婚のメリットというのは「子育てのため」「一緒に暮らすとその分節約されるから」みたいな感じだった。結婚、というか生活というのも規模の経済性みたいなのが働くのかな?(cf.カレーは大量に作ったほうがおいしいし安く済む)。




ついでに気になったちょっと気の利いたものとして「なぜ人は不倫するのか?」みたいなことについての経済学的な説明。

「なぜ不倫するのか?」な疑問というのは世間的には「不倫はイケない」みたいな倫理コードが内包されてるように思うんだけど、そういうのは別に単に期待費用から考えたもの。






不倫の期待費用:

人が伴侶を裏切るのは、そのメリットが期待費用を上回ると思うからです。裏切りの期待費用は次のように考えられます。

露見する確率 × 露見時の費用 = 裏切りの期待費用



田舎の専業主婦の不倫発覚率が30%、夫が離婚に踏み切る確率は50%、離婚に至った場合に彼女が被る経済的損失は10万ドル相当だっとしましょう。


0.30 × 0.50 × 100000 = 15000ドル


不倫のメリットは1万5000ドル以上でなければなりません。


これに対してキャリアウーマンの場合は不倫発覚率は外で仕事をしていて出張などもあるため、不倫発覚率はわずか5%、夫が離婚に踏み切る確率は50%、離婚に至った場合に彼女が被る経済的損失は5万ドル相当だったとしましょう。


0.05 × 0.50 × 50000 = 1250ドル


したがって彼女にとっての不倫のメリットは専業主婦の場合よりもはるかに低く、1250ドル相当のメリットが見いだせるなら良いわけです。





あとは単婚やポリアモリーの合理性についての経済学的考察、あるいはLGBTとして生きることの経済学的考察なんかもあったな(cf.同性愛者は社会保障が効きにくく一般社会に馴染みにくいため専門職につきやすく、貯蓄も(ヘテロの意味での)一般人より多い)。




「特に男女差がどうとかいうこともない」つながりでいうと最近「家父長制と資本制」を読んで似たような結論に至った。


「家父長制と資本制」雑感|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n046419efe247

そういうのを考えると、フェミニズムの問題で女性固有の問題としてうんたら言うよりも労働問題としてやっていったほうが雑味がなくていいのかなあとか思ったりする。フェミニズム-女性固有の問題としてやっていくと自己言及的になってけっきょくは「女性以外の人にはわからないんですよ!」みたいな結論になりがちなので。事態の進展は労働・就労条件の改善によって進んでるわけだし。


そういうわけで自分としてはこの部分の地味なギロンのお勉強としては労働、あるいは、家族に関わる歴史・制度などについて学んでいくことかなあとか思ってる。





日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか -
日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか -




仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -


仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -

筒井淳也『仕事と家族』(中公新書) 8点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52106679.html




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2015年10月03日

M・スコット・ペック、1983、「平気でうそをつく人たち PEOPLE OF THE LIE」




文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫) -
文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫) -


最近の一連のあれでちょっと辟易したから読もうと思ったのか、それとも「あ、そういやこれ読もうと思ってたけど忘れてたな読もう」てことでこっちを先に読んでたのかわすれたけど、最近の一連のあれと読んでいたこれがリンクして、というかネットにおけるみょーに祭りをする人たちの問題とこの辺がリンクして自分的にはけっこう有益な読書体験だった。


「邪悪」に背を向ける|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n4a9c37426e0e



人に対して邪悪であるというのはビミョーな感じで、「そこまで強い言葉を発しなくても良い(切断しなくても良い)」「そういう自分が邪悪かも」というのはあるんだけど、世の中にはある程度見切りを付けないとズルズルと悪い方向にすがってくる人たちというのがいるので。あるいは自分がそういう人たちに関心をもっても時間の無駄なのでさっさと切ったほうが良いみたいなの。


彼らが邪悪なのではなくそう言ってる自分が邪悪なのかもしれないけど。すくなくとも自分はそのように反省ができる。
でも、こういった倫理というか誠実さ?の突き詰めみたいなのは人によってはモラルに対するハラスメントにも感じるのかもしれない。自分は単に他人にそれをむけてるだけではなく自分自身に向けてるものだからふつーのことなんだけど。まあそういうので(∩゚д゚)アーアーききたくなーいてやる人たちはけっこういるだろうなとおもうし、そのぐらいで邪悪というのもどうかなってのもあるけど。人におけるだいたいの悪か正義かみたいなのははっきりと定常的なものではなく、それぞれがそれぞれの情況や問題の中で正 / 悪の位置がちがったり、悪と善の中間 - 連続体にあったりするので。

とりあえず、自分たちの正義とか正しさみたいなのは喧伝しつつ他人を貶めてばかりの人たちの醜さ、あるいは彼らが信じる雑味のある倫理観にはすこしイラッと来る / 無駄に時間をとられるのでみないことにした。
どうせ自分が声を上げても(∩゚д゚)きこえなーいようだし、だったらもうちょっと直接に語りかければどうか?というとモラハラにとられるのかもだし。まあそこまでコミットすることでもないので。






では、そこで挙げられる「邪悪」あるいは「悪にある人たち」の定義や特徴、その定義の範囲の限界とはなんなのか?そういうのが定まってないと無制限に自分の恣意で気に入らなければ「邪悪」て決めつけることになりかねない。


そうおもったので本書で挙げられていた邪悪の定義・特徴に関わると思うところを自分なりに抜書きしてみた。

そういうわけでこのエントリはその定義・引用のメモ的な性格を主とする。あとで自分で見返したりもしたいので。


加えていうと本書の内容は「うそをつくひとたち」というよりは「悪」や「邪悪」というものを精神医学的に定義しようとする試みだった。そういうのは精神医学の対象になりえるのか?(倫理学なんかの対象ではないか?)てとこなんだけど、臨床だとそういうひとたちがちょこちょこ訪れて大変ということもあるようで定義の必要性を感じたらしい。いわゆるサイコパスとかそういうのだろけど、そこまでいかなくてもアレゲなひとたちとか。

そういう人達に対するアプローチは民俗学とか社会学的に「観察」→「とりあえず腑分け / 整理」というのもあるのだろうけど

ネットで他人を血祭りにあげる人々|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ne4255b3d37d8



あと、本書で挙げられているひとたちの事例としていわゆる毒親的な問題や共依存(心理学的には「共生」)としてもあった。そこでは相手を人間・人格的に無脳にして支配しようとする関係があるので。





では、以下は邪悪についての引用をメインに。









悪は殺しと関係があると言ったが、これは肉体的な殺しだけを言っているのではない。悪は精神を殺すものである。生 ――特に人間の生―― には不可欠の特性がいろいろとある。意識、可動性、近く、成長、自律性、意志といったものがそれである。肉体を破壊することなく、こうした特性のひとつを殺す、あるいは殺そうとすることもできる。したがって、われわれは、たてがみ一本傷つけることなく馬を「破壊」することもできれば、髪の毛一本傷つけることなく子供を「破壊」することすらある。エリッヒ・フロムはこの事実を鋭くついている。フロムは「屍姦症」の定義を拡大して、他人を支配したいというある種の人間の欲望―他人を支配可能なものにし、その人間の他社依存性を助長し、自分自身で考える能力を弱め、その人間の独自性および独創性を減じ、その人間を制御可能な状態に抑え込んでおきたい、という欲望をもこれに含めている。フロムは、その著 The Heart of Man: Its Genius and Evil(「悪について」)のなかで、「生を愛する」人間、つまり、生の姿の多様性と個人のユニーク性を尊重しこれを育成する人間と区別して、「屍姦症的性格」というタイプを論証している。この種の性格の人間が求めていることは、他人を従順な自動機械に変えることによって人生の不都合を回避し、他人から人間性を奪うことである。

したがって悪とは、とりあえず、人間の内部または外部に住みついている力であって、生命または生気を殺そうとするものである、ということができる。また、善とはこれと反対のものである。善は、生命と生気を促進するものである。






私が邪悪と呼んでいる人たちの最も特徴的な行動としてあげられるのが、他人をスケープゴートにする、つまり、他人に罪を転嫁することである。自分は非難の対象外だと考えている彼らは、だれであろうと自分に近づいてくる人間を激しく攻撃する。彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである。

スケープゴーティング、つまり罪の転嫁は、精神医学者が「投影」と呼んでいるメカニズムによって生じるものである。邪悪な人間は、自分には欠点がないと深く信じ込んでいるために、世の中の人と衝突したときには、きまって、世の中の人達が間違っているためそうした衝突が起こるのだと考える。自分の悪を否定しなければならないのであるから、他人を悪と見なさざるをえないのである。自分の悪を世の中に投影するのである。

したがって悪とは、他人をスケープゴートにするために最も頻繁に行われるものである。




邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである、定義することができる。簡単に言えば、これは他人をスケープゴートにすることである。われわれが他人をスケープゴートにするときは、その対象となる相手は強い人間ではなく弱い相手である。邪悪な人間が自分の力を乱用するには、まず、乱用すべき力を持っていなければならない。この支配関係として最も一般的に見られるのが、親の子供にたいする関係である。子供というものは弱く、無防備で、しかも親との関係に縛られている。彼らは親に隷属すべく生まれてきたのである。したがって、邪悪性の犠牲になるのは、その大半がボビーやロージャーのような子供だということも、べつに驚くべきことではない。彼ら子供には逃げだすだけの自由もなければ、その力もない。




邪悪性とは罪の意識の欠如から生じるものではなく、罪の意識から逃れようとする気持ちから生じるものである。

「愛と心理療法」のなかえ私は、精神の病の根底には怠惰、つまり「当然の苦しみ」を逃れたいという欲求があると書いたが、ここで問題にしていることもまた、怠惰の回避、苦痛からの逃避である。もっとも、邪悪な人たちというのは、一般的な意味での苦痛からの逃避者、つまり怠惰な人間ではない。それどころか彼らは、ご立派な体面や世間的を獲得し維持するためには人並み以上に努力し、奮闘する傾向もある。地位や威信を得るためであれば、大きな困難にも甘んじ、熱意を持って困難に取り組むことすらある。彼らに耐えることのできない特殊な苦痛はただひとつ、自分自身の良心の苦痛、自分自身の罪の深さや不完全性を認識することの苦痛である。

自省に伴う特有の苦痛を避けるためにはあらゆることをやってのける彼らが、心理療法を受けようとするなど、通常の状況のもとではまず考えられないことである。









自己愛(ナルシシズム)はさまざまなかたちをとるものである。なかには正常なものとされているものもあれば、幼児期には正常とされるが成人の場合には正常でないとされるものもある。また、ほかとくらべて著しく病的なものもある。ナルシシズムの問題は、重要な問題であると同時に、複雑な問題でもある。もっとも、本書は、このナルシシズムの問題のすべてを等しく検討の対象とすることを目的とするものではない。したがって、エリッヒ・フロムが「悪性のナルシシズム」と呼んでいる、ある種の病的ナルシシズムの問題に話を進めたい。

悪性のナルシシズムの特徴としてあげられるのが、屈服することのない意志である。精神的に健全な大人であれば、それが神であれ、真理であれ、愛であれ、あるいはほかのかたちの理想であれ、自分よりも高いものになんらかのかたちで屈服するものである。健全な大人であれば、自分が真実であってほしいと望んでいるものになんらかのかたちで屈服するものである。健全な大人であれば、自分が真実であってほしいと望んでいるものではなく、真実であるものを信じる。自分の愛する者が必要としているものが、自分自身の満足よりも重要だと考える。要するに、精神的に健全な人は、程度の差こそあれ、自分自身の良心の要求するものに従うものである。ところが、邪悪な人たちはそうはしない。自分の罪悪感と自分の意志とが衝突したときには、敗退するのは罪悪感であり、勝ちを占めるのが自分の意志である。

邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである。彼らは、頑として自分の道を歩む強力な意志を持った男であり女である。彼らが他人を支配しようとするそのやり方には、驚くべき力がある。




私自身の見方に従えば、自由意志の問題は、偉大な真理の多くがそうであるように、ひとつのパラドックスである。一方では自由意志というひとつの真実がある。われわれは、陳腐な「教義」や条件付けその他の多くの要因なしに、自由に選択することができる。その一方では、われわれには自由を選ぶことができない。そこにはふたつの状態があるのみである。この服従の拒否こそが、とりもなおさず、人間を悪魔の力に隷属させるものである。結局のところ、われわれは神か悪魔のいずれかに帰依しなければならない。私は、善にも、また完全な利己心にもとらわれることなく、神と悪魔のまさに中間にある状態が真の自由な状態ではないかと考えている。しかし、この自由はばらばらに分断される。これは耐えることのできないことである。われわれは、いずれに隷属するかを選ばなければならないのである。





「いいですか。私が最も驚いたのは、お二人が、ご自身が治療を必要としていることを認めるくらいなら、ご自分の息子さんが不治の病を持っていると信じるほうがましだと考えておられる、つまり、息子さんを抹殺してしまいたいと考えておられるようにみえることです」





邪悪な人たちのナルシシズムは、この共感の能力を全面的に、あるいは部分的に欠いていると思われるほど徹底したものである。アンジェラの母親は、自分の娘が髪をブロンドに染めるのをいやがっているのではないか、といったことを考えてみようともしなかったことは明らかである。ボビーの両親も、兄が自殺に使った凶器をクリスマス・プレゼントとして弟に贈った場合、その弟がどういう気持ちになるか考えてみようともしなかった。同様にヒトラーもガス室に送り込まれるユダヤ人の気持ちなど考えてみようともしなかった、ということが想像できる。

こう考えると、彼らのナルシシズムは、それが他人をスケープゴートにする動機になるというだけでなく、他人にたいする共感や他人を尊重する気持ちからくる抑制力を奪うという意味からも、危険なものである。邪悪な人たちのナルシシズムは、彼らが自分のナルシシズムに捧げるためのいけにえを必要としているという事実に加えて、自分のいけにえになる相手の人間性をも無視させるものとなる。ナルシシズムが彼らの殺人の動機となるだけでなく、殺しという行為にたいする彼らの感覚を鈍らせてしまうのである。ナルシシストの他人にたいする無神経さは、共感の欠如異常のものにすらなりうる。ナルシシストは他人を「見る」ことすらまったくできなくなることがある。




邪悪な人間は、つねに、自分たちの動機をうそで覆うものである。

R夫妻の私とのやりとりを注意深く読んだ読者には、彼らが数多くのうそをついていることがわかるはずである。ここにもまた、驚くべき定常性が見られる。これは、彼らが一つか二つのうそをついていたという問題ではない。ロージャーの両親は、くりかえし、また、常習的にうそをついている。彼らは「虚偽の人々」である。そのうそは、あからさまなものではない。訴えられて裁判にかけられるような種類のうそではない。しかし、そのうそは、いたるところに見られるのである。そもそも、彼ら私に会いにきたことが、ひとつのうそだったのである。

彼らがロージャーのことを本心から心配していなかったのならば、また、私の助言などほんとうは必要としていなかったのならば、なぜ私の診断を求めたのだろうか。その答えは、それが彼らの、うわべをとりつくろうやり方のひとつだったからである。彼らは、ロージャーを救おうとしているかのように見せかけていた。いずれの場合も学校からそうするように言われたものであり、それにたいしてなんらかの対応を見せなければ、いいかげんな親だと見られてしまう。「息子さんを精神科医に診せたんでしょうね」ときかれたときに困るからである。









精神医学は、私が邪悪性と呼ぶものを包含する、これまでとは違った新しいタイプの人格障害を認識すべきときが来ていると私は考えている。自己の責任の放棄はあらゆる人格障害の特徴となっているものであるが、これに加えて、邪悪性はとくに次のような特性によって識別できる。

(a) 定常的な破壊的、責任転嫁行動、ただしこれは、多くの場合、極めて隠微なかたちをとる。

(b) 通常は表面に現れないが、批判その他のかたちで加えられる自己愛の損傷にたいして過剰な拒否反応を示す。

(c) 立派な体面や自己像に強い関心を抱く。これはライフスタイルの安定に貢献しているものであるが、一方ではこれが、憎しみの感性あるいは執念深い報復的動機を隠す見せかけにも貢献している。

(d) 知的な偏屈性。これには、ストレスを受けた時の軽度の精神分裂症的思考の混乱が伴う。








あらゆる人間の悪の根源が怠惰とナルシシズムにある、ということが子供たちに教えられるようになることを私は夢見ている。人間一人ひとりが聖なる重要性を持った存在である、ということを子供たちに教えるべきである。集団のなかの個人は自分の倫理的判断力を指導者に奪われがちになるが、われわれはこうしたことに抵抗しなければならない、ということを子供たちに教えるべきである。自分に怠惰なところはないか、ナルシシズムはないかと絶えず自省し、それによって自己浄化を行うことが人間一人ひとりの責任だということを、子供たちが最終的に学ぶようにするべきである。この個人の浄化は、個々の人間の魂の救済のために必要なだけでなく、世界の救済にも必要なものである。






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そのうち chromecast も買おかなあ。。


GooglePlayMusic(以下めんどいのでGPM)をはじめたのもあってついったのTLでちらっとchromecastの話題をチラッとみたら意識されて「もしかしてchromecastつかうとGPMもテレビで流せるの?」て調べたらやっぱそうだった。






Wi-Fiの帯域に注意だけどたぶんいま使ってるのでおkそう。だとすると5000円ぐらいで少なくともテレビからGPMとラジオが聞けるぽい。うちのラジオは不安定なのでこういうのはちょっと便利。あとDOMMUNEとかも。PCだと遅くてなかなか見れなかったけど購入すると機会高まりそう。

ほかにコンテンツというと無料なデフォだとYouTubeとかニコ動とかになるのだろうけど、そういうのはなんかおもろいのが引っかかってくるチャンネル/アンテナを設定しとけばいいのか。自分的に。

もしくは月額定額1000円ぐらい払って見放題のサービスにひとつ入る感じぽい。huluかNetfix。

映像コンテンツについてはテレビに録画してるもの+たまに借りてくるDVDな現状でも可処分時間がそんなに振り分けられてないのでいまのところそんなに魅力を感じないのだけど、過去の連ドラとかアニメ、海外ドキュメンタリーを見るのには良いのだろう。まあそのうち検討ぐらいで。


てか、自分的にはマンガの低額定額見放題があると良いのだけどそれはいまのところこれといったのがないぽい。


男性女性でも楽しめるおすすめお試し無料漫画と定額プラン料金の比較 | ネットでレンタル生活
http://sikakunowa.com/comic/

【電子書籍】無料/定額制 雑誌・漫画読み放題サービス一覧まとめ - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2135498323030672401


まあこれは近場のマンガが結構そろってるほうのTSUTAYAにちょこちょこ通う程度か。



こういうのって文化資本的なもののユニバーサルサービスということでもはや現代の図書館的な課題になってると思うんだけど図書館はこういうのタッチできないのだよなあ。。てか、CCC-TSUTAYAと図書館な戦争関連だとこのへんがむしろ hack されないかなあとか。案外TSUTAYAもそういう未来を見越してこの辺参入してきてるのかもしれない。たんなる不良在庫のゴミ捨て場として利用ってだけでもなく。



ところで chromecast 、Amazonからは買えなくなってやんのね


アマゾン、「Apple TV」「Google Chromecast」を販売禁止に--「Prime Video」に関連しての措置 - CNET Japan
http://japan.cnet.com/news/service/35071333/

値段的には一本歯下駄と同じなのでこれ買うならそっちを先に買わなきゃだけど(あとコーヒーミルとか)






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「特別」を買い与える(すこし)|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nc55f0e310747








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2015年09月18日

ガッチャマンクラウズInsight




安保改正法案可決うんたらをめぐって賛成/反対なあれでけっこうかしましい世の中の情況で、それ自体についてついったなんかだと愚痴的に言ってるんだけどブログするのは野暮な感じで、んでもそれと並行するように今季のガッチャマンクラウズがテーマとしてリンクしてるなあとか思って見てる。










「ガッチャマンクラウズInsight」は前作の「ガッチャマンクラウズ」の続編で、簡単に言うと「ガッチャマン」て冠はしてるけどガッチャマンそのものとはあまり関係なく、いちおガッチャマンてことでヒーロー的な能力をもったヒーローが主題な話になってる。

前作では、前半部は主に昨今のヒーローもののテーマ - 描き方を踏襲したヒーローであることの葛藤や内面を描くというものだった。つまり「ヒーローズ」(未見)とか「タイガー・アンド・バニー」的な2000年代ヒーローの描写。そこから出てきた「ヒーローであることはみんな(クラウド)で受け持つ」といったテーマが後半部で、その詳細が今作に継がれている。


ガッチャマンクラウズにはいくつかの歴代ヒーローのステレオタイプ的なものがキャラクターされていて、それぞれのヒーローがそれぞれの時代と世界を守ってきたのだけど、一人のヒーローの力では世界を、あるいは社会を支えきれなくなったところで新時代のヒーロー(ヒロイン)が要請される。それが主人公である一ノ瀬はじめなわけだけど。ほかのヒーローたち(特に清音くんとか)が熱血正義ヒーローしてたのに対してはじめちゃんはそういうものが最初からない。なので「ヒーローの資格がないのではないか?」と疑われていたけど…。


フロム的愛の体現者としの一ノ瀬はじめ ――ガッチャマンクラウズ感想 - メモ帳
http://espresson.hatenablog.com/entry/2015/07/10/204830



ベルクカッツェというのはモロに2ちゃんねる的な悪意の体現で、そういった悪意もはじめちゃんは自分の内部に受容していく。ちなみにベルク・カッツェというのは「ガッチャマンクラウズ」において最初は謎の勢力とされた爾乃美家累(にのみやるい)とX(エックス)の対立軸として設定されたものだった。あるいはその逆にカッツェ的な悪に対抗するための新たなヒーローとしてガッチャマンたちとは独立に組織されたのがにのみやるいとクラウズだった。メタファー的なことをいうと、従来型のヒーロー像というのがひとりの、あるいは少数のカリスマに頼った寡頭政治だとすると、にのみやるいが目指したものはより民主的なガバナンスだった。でも、そこにおける正義をにのみやるい(とエックスというスーパーマシン)が決めるというところで矛盾をはらんでいたわけだけど。ベルク・カッツェというのはそういったヒーローたちが立ち向かうべき課題のメタファーだった。そして「倒すべき敵」≠「根絶すべき敵」とされてきたそれを最終的に新時代のヒロインである一ノ瀬はじめは受容し、自らの内部にとどめていった。そこで倒す/根絶することによって新たな敵が生まれるだけなので。



前作はそういうところでちょっと常人離れしたはじめちゃんに頼りすぎてる感があった。いくら「クラウドで」といっても最終的にははじめちゃんという超人的包容力をもった個性の登場 / 誕生に依らなければならないのでは?、それが前作の課題として残ってたのだと想う。



前作についても今作についても詳しく語ろうとするとメンドクサイので端折るけど


ガッチャマンクラウズ カテゴリーの記事一覧 - メモ帳




前作は最後に「ヒーローであること」「社会を守ること」がICTを通じて「みんなで守る」に接続され、スマホを通じた直接民主制の実験が展開されていた。首相も直ぐにスマホ選挙で選べ、ヒーローへの賛成/反対も同様にスマホ民意で反映される。民意がすぐに社会に反映されていく。ただ、それも非常時だったからというのもあり継続してそのような体制で社会が回るのか?という課題が残った。



今作はそういった課題をもうちょっと詳しくほり込んでいったもののように想う。



クラウド民主主義を全体の課題としつつ、前半部ではにのみやるいとエックスの体制の影の部分のオルタナとしてリズムくんと赤いクラウズの集団が結成(ネットワーク)される。彼らがやってるのは暴力でもって意志を通すやり方で、ここでるいくんのやっていたことが社会主義あるいは共産主義的な夢だったのだなあと逆に気付かされる。リズムくんのほうはその中でもよりラディカル?な暴力を中心とした無政府主義。リズムくんは「人類は暴力を中心としたサルである」と説き、るいくんのような「みんなの善意で」的なやり方を否定する。暴力と一人のカリスマに依る社会の牽引と統制。りずむくんとの対話は、途中でツバサちゃんやサドラの救け(横槍)が入ったものの、それが入らなければけっきょくるいくんの敗北で終わる。そしてリズムくん的な思想はとりあえず保留され、ガバナンスの次のモデルにバトンが受け継がれていく。



サドラとツバサの体制はクラウド型民主主義を宇宙人的特殊能力でより直接的に反映したものとなっていく。そこでは「みんなの思いは良い方向に向かう」「ひとつになれば良い方向に向かう」が基本となるのだけど、結果的にそこでも矛盾が生じることが描かれていく。


ガッチャマンクラウズ インサイト 第10話 「意志を持たず流されるままに暴走する『畜群』に立ち向かう、『貴族』のガッチャマン」 - メモ帳
http://espresson.hatenablog.com/entry/2015/09/13/193945



人間はアリとは違う知能や個性をもった社会性動物なので、「一つになる」「みんな同じでみんないい」というのはマイノリティ的な違った考えを持ってる人たちへの抑圧を生み出していく。いわゆる「空気」的なものとして。あるいは権力。


同じ宇宙人でより凶悪に思えたベルク・カッツェがサドラのことを恐れていたのはそういった善意に装った空気の胡散臭さと力を恐れていたということになる。新興宗教的洗脳のような。


10話ではそういった空気の正体が明かされ、ようやくにして今作のヒロイン?として設定されたツバサちゃんがガッチャマンの力に目覚める。


それまでみんなの善意を信じサドラと行動をともにしていたツバサちゃんが自分とサドラが良かれと思って生み出していたのが「空気」というバケモノだったことに気づき凹んでいた時、いつものようにゆる爺はゆる体操をすすめる。「もっとゆるくなれ  もっと中の物を吐き出せ」というゆる体操の真髄は、特定の言葉や思想、イデオロギーを先行に考えるのではなく、もっとゆるく自由に風を感じてはばたけというメッセージだったのかなあと想わせる。ツバサという名前も、彼女のガッチャマンとしてのギミックもそれを暗示させる。リラックスしてゆるくなってなければ良い風は感じられない。



結果的に「善意」な「空気」に基づいた「みんな」の統治はリセットされ、凍結されていたリズムくん(暴力を中心とした無政府主義、あるいは原始共産主義)な課題がふたたび登場する。




こうやって言語化してキャラの性格と意味付けを再検討していくと、今作でツバサちゃんというキャラをあらたに設定したのはこういった課題に対してどのように作用するのか?いろいろ想像出来て良い。


いまのところは「はじめちゃんというあまりにも一般人離れした菩薩的なキャラよりももう少し等身大の女の子を設定した」「このコも従来のヒーロー / ヒロイン的なものに比べて「自由」な気風がある」というところだけど。





今作を見つつ日本の現状のリアル政治-社会関係を想い、「民主主義におけるマイノリティ的なものはどちらなのか?」「民主主義とは何か?」「その落とし所はどの辺りなのか?」「自分は特定の思想に凝り固まってないか?」とか反省してみるのも良いかも。





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2015年08月29日

遠藤哲夫、2013、「大衆めし 激動の戦後史」


前回のエントリに続き「日本の食事の変化」みたいな関心から、「家庭の食事の変化っていったらそういやこれ読もうと思ってたなあ」ということで読んでみた。


大衆めし 激動の戦後史: 「いいモノ」食ってりゃ幸せか? (ちくま新書) -
大衆めし 激動の戦後史: 「いいモノ」食ってりゃ幸せか? (ちくま新書) -



『大衆めし 激動の戦後史』にいただいた、お声、その4。南陀楼綾繁と木村衣有子の評: ザ大衆食つまみぐい
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2013/12/4-2086.html

南陀楼さんは、本書に述べられている、70年代にどう工業社会型の食生活が訪れたか、その揺り返しのように21世紀に入ると叫ばれた「食育」や「スローフード」などの安全志向を、例によって的確に要約したのち、こう述べる。

「しかし著者は「便利な食」と「安全な食」のどちらが正しいと決めつけることはしない。それよりも、生活の中の料理とは何かを考え、「ありふれたものをおいしく食べる」という食の基本に立ち返ることを提唱する」

ここは、どちらが正しいか結論めいたことを書かないように、おれが最も気を使ったことなのだ。いやあ、さすが、南陀楼さんは大事なポイントをはずさないと思った。

「食の混乱」がいわれるが、「混乱」というより「多様化」であり、多様化の中では、二者択一ではなく、それぞれが自分の生活の現実から考える。そういうそれぞれをお互いに尊重しあう。「うまい、まずい」をこえて、「自分の美味」を持つこと。それが本書の「立場」なのだ。




前回の阿古真理さんのそれがスローフードとかカフェ飯的なものによりがちな結論だったのに対して遠藤さんの場合はあくまで「大衆食堂」「飯」にこだわってそういうシャレオツを退けてた感があった。まあでも否定するわけでもなく「けっきょくはTPO的にそのときうまいとおもえるものをうまく食べれれば良い」みたいな感じだったけど。

歴史的知識としては70年代以降に大衆食が変わり始めた経緯、あるいはそれ以降の代表的な大衆食の登場・変化などの文脈や当時の印象などが語られていておもしろい。

たとえば「なぜ70年代から変わったか?」といえば60年代に高速道路網が張り巡らされコールドチェーン(低温流通体系)が完成、これとモータリゼーションによって産地から遠いところでも新鮮な食物が味わえるようになった。これと同時にいわゆる「旬」は失われていくことになる。これは日本料理の意味、家庭料理との関係との変化にも関連していくのだろうけど後述。


コールドチェーンに加えて家庭用冷蔵庫も大きくなり、冷凍食品なども普及、キッチン環境も変化。これに加えて文化的憧れや政治経済的な貿易関係から家庭料理の洋食化が進んでいった。


こういった大衆食の変化の歴史語りと並行して「家庭料理の変化」ということを考える中で暗黙の前提とされていた「日本食=和食=家庭料理」についての考察が進められる。「日本食=和食=家庭料理」というか「日本食>和食>家庭料理」のような「家庭料理や大衆食堂の飯のようなものは料理としては下賤で、それと日本料理は違う。ほんとうの料理=日本料理ってのはなぁ」みたいな価値観に対して。料理人だった江原恵の唱える料理哲学を遠藤が受ける形で日本料理や和食、日本の家庭料理について語られていく。


庖丁文化論―日本料理の伝統と未来 (1974年) -
庖丁文化論―日本料理の伝統と未来 (1974年) -

食通以前 (1977年) -
食通以前 (1977年) -

まな板文化論―生活から見た料理 (1975年) -
まな板文化論―生活から見た料理 (1975年) -


それによると日本料理というのは「素材の味をできるだけそのまま活かすために加工をそれほど施さない料理」ということになる。それのポリシーは日本料理の代名詞的な「割烹」という言葉に集約される。「割烹」とは「割る」と「烹ずる」を表す。すなわち「包丁で切る」と「煮る」。ただ、「割烹」の中には「割主烹従」という言葉が前提とされるようで、「割 > 烹」すなわち包丁で切る技術が煮ることよりも重視される。日本食における料理の技術とは刺し身に代表されるように素材をできるだけ傷つけず、素材の味を活かし、その自然な風味を客に供す、ということになる。その際、「煮る」も素材がスープ状に煮崩れするまで煮るのではなく素材の風味を汁気に出しつつ、素材の食感や風味を残すに留める。割烹というのはもともとそういう意味らしいのだけど、ちなみにいうと割烹と料亭の違いというのは後者が芸者を招いて遊べるところ、前者は料理のみ楽しむところということらしい。日本料理というのはもともとそういう酒の席の食事ということでいわゆる「おかず」とは異なるものとされた。なので、たぶんこれに関連するおせち料理も酒の供ということを前提につくられおかずという感じでもない。

「素材の味をそのままに伝える」「必要最小限の味付けで」「切ることが最重要となる」ということで日本料理における切る技術、包丁の価値は高まった。

知らなかったのだけど包丁式というものがあるらしく、見ていると日本の古武術、抜刀術のそれを模してる感じだった。そこにおける文化とか伝統とかをなんかよくわからない価値観と因襲で固めたり守ったりしてる様子も。ちなみに神田川俊郎さんは包丁式四条流の免許皆伝な方なのだそうな。



小説 料理の鉄人〈4〉「道場六三郎対神田川一門」 (扶桑社文庫) -
小説 料理の鉄人〈4〉「道場六三郎対神田川一門」 (扶桑社文庫) -

日本料理法大全 (1965年) -
日本料理法大全 (1965年) -

日本料理法大全 -
日本料理法大全 -



日本料理が「素材の味を出来るだけそのままに」というような思想でつくられていったのは一説では「日本が外国に比べ旬の食材をすぐに味わえる環境にあったから(海、山が近く四季がある)」とされる。特に魚なんかはそんな感じだったのだろう。

しかし、であるがゆえに冷凍保存・輸送技術が発達していっていわゆる「旬」がそれほど意味をなさなくなっていくと「旬ってなんだっけ?」的な感じになっていった。いちお日本料理的価値観からそれは来ていたのだろうけど、元々どういう条件や文脈からそういった価値観が奉じられるようになったのか定かではなかったのでその価値だけが浮き、なんとなく「やっぱ旬のものは良いねえ」ぐらいで残っていった。日本料理についても。

まあもちろん冷凍技術・輸送技術が進んでも産地でとれたての旬のものの味にはかなわないところはあるのだけどとりあえず置く。





こういった「和食の頂点に立つちゃんとしたもの」とされつつも一部の人のみ愉しむ料理として家庭料理とは隔絶したところにあった日本料理に対して、70年代以降家庭料理は変化していった。70年代にはファミレス一号店が軒並みオープンしていって外食のあり方、家族の食事のあり方や内容も変化していった。





短くまとめるとこんな感じだけど、関連で読みたい本とかリンクがついてたのでメモ的に貼っておく。



男子厨房学(メンズ・クッキング)入門 (中公文庫) -
男子厨房学(メンズ・クッキング)入門 (中公文庫) -

男子厨房学(メンズクツキング)入門 (文春文庫 (322‐2)) -
男子厨房学(メンズクツキング)入門 (文春文庫 (322‐2)) -

料理の四面体 (中公文庫) -
料理の四面体 (中公文庫) -

「料理の四面体」について

この本の特徴は、簡単にいえば、「料理とはこういうものだ」という本質と原理を、構造的に、わかりやすく三角錐の四面体にまとめて見せたことだ。日本料理だろうが、西洋料理だろうが、中国料理、アフリカ料理、なんでもござれ、あらゆる料理に共通する料理の構造を解いて、きわめて理論的なのだが、それが三角錐の四面体なのでわかりやすい。

これがわかれば、レシピなどに頼らず、いろいろな料理がドンドンできる、料理が楽しくなる。ひとつひとの料理のコツをか覚えなくても、自分がつくりたい料理のコツがわかってしまう、魔法の四面体。


三角錐の四面体の角はそれぞれ「火」「油」「水」「空気」が設定されている。




料理というのは化学変化でありその知識の実践なわけだけど、基本的に料理の素材というのは人が味わう時に加熱すると旨味が増す。なので「火」によって焼いたりするわけだけどそこでの加減や方法によって焼き方も「グリル」「ロースト」「燻製」などに分かれていく。これに「水」を加える事で「茹でる」「煮る」などが可能となる。さらに「油」を加える事で「炒める」「揚げる」などの料理法が出てくる。

料理というのは基本的にこの4要素で成り立っており、料理法としてもその応用としての「焼く」「茹でる・煮る」「炒める・揚げる」ぐらいとなる。あとは味付け方法の違い。


「料理の四面体」ではそのへんを構造的、理論的に説いたようなのだけど「男子厨房学入門」ではそれをもうちょっと実践的にわかりやすくした実践書とのこと。


みんなの大衆めし (実用単行本) -
みんなの大衆めし (実用単行本) -

日本の大衆めし=代表的日本食をわかりやすくまとめたもので台湾で中国語に訳され販売もされてる、と。


あとはシノドスのこの特集とか読んどこ

リスクを決めるのは科学ではなく、社会だ / シンポジウム「みんなで決める安心のカタチ 〜 ポスト311の地産地消を目指して」 | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/fukkou/764

みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年 -
みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年 -



あと、日本食=和食≠家庭料理?関連でこのへんも


「和食」って何? (ちくまプリマー新書) -
「和食」って何? (ちくまプリマー新書) -





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2015年08月01日

ヴィム・ヴェンダース、2014、「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター(The Salt of The Earth)」




サルガド×ヴェンダースだし映画の日に休みもあったしということでBunkamuraに見に行った。


セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター | ル・シネマ | Bunkamura http://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/15_loveletter.html


といってもほとんど寝てた(きょうは二時半頃起きた)のでエントリは控えようかなあと思ったのだけど、ふと原題のThe Salt of The Earthが気になってぐぐって出てきた言葉が気になったので。





「地の塩」とは、「地の塩、世の光」と対になっていることも多いのですが、他の回答者様がお答えのとおり、キリスト教の新約聖書、マタイによる福音書に出てくるイエスキリストの言葉です。

マタイによる福音書5〜7章の山上の説教(または垂訓)では

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなればその塩は何によって塩味がらつけられよう。もはや、何の役にもたたず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

上記のように述べられています。

いろいろな解釈がなされているのでしょうが、ごく一般的な解釈を記します。

塩は食物の腐敗を防ぎ、光は暗闇を照らし出します。塩のように世の中の腐敗を防ぎ、光のように悪の浄化する存在になるよう、イエスキリストが山上で信徒に語りかけたとされています。




「地の塩」という原題は映画のはじめのほうに示され、とくに解説もされずにすすんでいく。「地球へのラブレター」とかいう少し気恥ずかしいタイトルには違和感があったので原題にしっくりきつつ、「このタイトルの意味を解題することがこの映画の理解につながるのだろうなあ」とか思って映画を見ていたのだけどけっきょく最後まではっきりとタイトルの意味について説明されている箇所はなかったようにおもう。まあ後半分ぐらい寝ながら見るという不真面目鑑賞ではあったのだけど。

んでも上記引用の説明と映画の前半部で表されていたことでなんとなくわかったようにおもった。

映画はサルガドのキャリア、生い立ちに沿って語られていく。ブラジルの片田舎から大学院にいって留学し、ロンドンの国際コーヒー機関にエコノミストとして職を得たサルガドは建築家の妻が仕事の必要から購入したカメラに惹かれていく。そして夫婦にとって大きな決断をする。安定したエコノミストという職を捨てて職業カメラマンとしてやっていくことを。


原題「地の塩」には以下の経験が深く関係しているように想われた。


今週末見るべき映画「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」 (3/4)
Excite ism(エキサイトイズム) http://ism.excite.co.jp/art/rid_E1438156218129/pid_3.html


1973年、ニジェール。1974年から1984年に撮影、初の写真集が「アザー・アメリカ」だ。エクアドル、ペルー、ボリビア、メキシコを撮る。サルガドは謙虚である。「写真を撮ると、被写体を少し理解出来る」、「目は大いに語り、表情が訴えかける」、「ポートレートは私ひとりで撮るのではなく相手から貰うのだ」。



職業カメラマンとしてのキャリアの最初の大型プロジェクト「アザー・アメリカ」で南米の奥地に取材旅行をしていくなかで、サルガドは現地部族のひとりから「おまえは天から遣わされて俺たちを録り(見)に来たのだろう?」といわれる。

「彼らの時間はひどくゆったりとしていて、そういうことを本当に信じているようだった」

ここでは「彼らはそれを本当に信じているようだった(そして彼らの生活もそういった信仰を日常に生きていた」というような言い方だったようにおもうけど、サルガド自身もこういったことに深く影響されて実際にその役割を生きようとすることになったのだとおもう。話の流れとは直接関係しないけどここでのサルガドの様子は文化人類学者のようだった。「一方的に撮影(シュート)して終わり」というのではなく「まず現地の人と親交を深めて、それから生の表情を見せてもらう」的なの。マグナムと袂を分かったことやポートレートに対する考え方(「ポートレートは相手から与えてもらうんだ」)もこういうことと関係してるのかもしれない。


いくつか解釈はあるのだろうけど「あなたたちは地の塩、世の光」というとき、それは天命というか天職(beruf)のようなものを表しているのだろう。単にお金とか日々の糧を得るためのそれというか、ただしく生きることを通じて得られる光や塩味のような。

塩が塩としての塩味をもち、光が光としての輝きを保つとき、それ自体が自分自身はおろか周りも引っ張っていく。


photo-grapherとしてのサルガドにとって、人々の営みは地の塩(塩の花)であり、彼のこの世における役割が世の光を写しとるもの、ということなのかもしれない。


「金ではなく天職のようなものを」という考え方、あるいは人々の苦しみや日々の営みに寄り添い、それらを慈しむような視点に行き着いたのはどういった経緯からなのかと思うけれど、それについてもはっきりとは語られてなかったので断片的に語られた彼の来歴から類推するに留める。

フランス系報道ジャーナリスト出身かと思っていたので自分的には意外だったのだけど、サルガドはブラジルの片田舎の農場で生まれて大学に行くために上京するまでお金の使い方も知らないような生活を送っていた。大学生活を通じて、あるいは生涯の伴侶となるレリアとの出会いを通じた影響からか学生運動にも身を投ずる。このときの経験が彼の写真のマルキスト的な視点にも表れているのかなあとか思えた。というか経済学を学んだことがそういった視点につながった、て映画ではいっていたけど。

結婚後しばらくして生まれた次男はダウン症だと分かる。このときサルガド夫妻はひどく落ち込んだようだけど、しばらくして次男には次男なりの、通常の言語コミュニケーションは不得手だけどそれ以外の感情の通わせ方があることを知り、サルガド家族はそれを学んでいく。それは世間的に見れば不幸だけれど、それを手放さず、日常として生きていくこと。一般的に不幸と想われるようなことが日常に当てられた時、人生の意味や運命について考える時間が増えるようにおもう。それらを通じて、いわゆる弱者への視点にも深みが増したのではないか?単に被写体としてそれがあるのではなく自らも不幸を日常とした弱者のひとりとして。



「なぜそこまで金にならないような、あるいはギリギリの危険が伴うような仕事(構図)にこだわるのか?」



そういうことを映画を見終わってしばらくしてから思ったのだけど、見ているときは半分寝ていたのもあってかその答えのようなものはわからなかった。なのでそのうちもっかいみたいなあと思うし、天命とか天職のようなものについて元気づけられたいときに見られると良いのかなあ。


蛇足だけどヴェンダースにもそういう傾向(光とか天使 - 静謐)があり、そういうとこもあって今回の映画でマッチしたのかなあとか。もっともヴェンダース色みたいなのはそんなに出してなかった?ようで、もっぱらサルガドのドキュメンタリー / モノローグ的な構成だったけど(白黒画面でサルガドアップの訥々としたモノローグが眠りを誘う)。互いに「撮るもの」のプロとして余計な編集を加えないことがサルガドに対する敬意の表れだったのかもしれない。



パリの断章 --- Mémentos à Paris: 映画 "Le Sel de la Terre" を観る
http://paul-ailleurs.blogspot.jp/2015/02/le-sel-de-la-terre.html












セバスチャン・サルガド写真展「Genesis」in ロンドン | 甘くて辛くてほろにがいイギリス
http://bit.ly/1KGpFXT




サルガド展にいってきたよ  アフリカという神話と複製技術の行く末: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/134989378.html




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2015年07月17日

三潴末雄、2014、「アートにとって価値とは何か」




アートにとって価値とは何か -
アートにとって価値とは何か -

アートにとって価値とは何か -
アートにとって価値とは何か -




このへんでうなうな見てきた現代アート関連の案内本として。三潴さんも小山さんたちと同年代(あるいは少し上)ということで同時代の話の別角度からの説明としてわかりやすかった。



「現代アート経済学」から簡単にメモ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/420137119.html

小山登美夫、2008、「現代アートビジネス」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/420849770.html

「芸術起業論」「芸術闘争論」「日本列島現代アートを旅する」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/421381762.html



章立てとしては

「日本の現代アートの評価」
「ギャラリストへの道程」
「ミヅマギャラリー奮戦記」
「世界を変えている注目アーティスト」
「日本の現代アートはグローバル土人の楽園をひらく」

ということで最初の章で日本の現代アートの位置について概括的に説明、それを踏まえて続く二つの章で三潴さんの歩みに重ねる形で90−00年代の日本の現代アートの興隆が語られている。たぶんもともとは一章の概括と「簡単な90ー00年代の日本の現代アートギャラリー語り」「日本の現代アートの注目アーティスト紹介」「総括」という形だったのではないかと思うのだけど、それらによりボリュームというか立体的な実感を付け加えたのが三潴さんの歩んできた道の語りだったのかな。


三潴さんの経歴が「学生時代に学生運動に傾倒した」とか「マルクス読んでうんたらした」というところはその後のアートに対する価値観にも関わっていて、なので「米帝の文化帝国主義的価値観は打倒しないといかんのですよ!(ダンッ」てかんじになるのかなあとかおもったのだけど、同時にアメリカを中心とした抽象表現主義的な現代アート以外のアートの価値を探るときに日本のオリジンとそれを結びつけて考えるというやり方は日本のマルクス主義の季節が過ぎた後、天皇制や日本の起源について再検討みたいな流れがあったことともリンクしてたのかなあとか。サヨク的価値観と歴史観を基本としつつ、ステーション'70というPR系のカルチャーサロンのマネージメントをしていたというのはバブル全盛へと向かう当時の東京の文化人的なところの中心に触れていたことを伺わせる。三島由紀夫さんとは実際に会ったことがあるとのことだし。印象としては松岡正剛さん的なあれ(「遊」とか)だったのだろう。

こういう人とルカーチの物象化と美学からアートの価値についてうんたら話すとどうなるんだろ?とかちょっとおもいつつ、そういった背景があるのでこういうアート観になるのだなあとか想った。否定とかでもなく、面白く読んだし。会田誠さんや山口晃さんをプロデュースした姿勢はわかりやすく面白かったのだけど(んでもこういう価値観かあChim↑Pomを認めるのは、とは)。


タイトルにもある「アートにとって価値とはなにか?」というのは現代アートにとっての価値とはなにか?ということ。すなわちニューヨークを中心とした抽象表現主義全盛の現代アート業界にたいして、あらたな価値を提示する場合、その価値とはどういったものか?(どういったものならば見る者にとって「価値あるもの」として受け入れられるのか?)という問題意識。そこで打ち出される価値の代表的なものは日本の伝統的な視角としての遠近法以前のフラットな視点とリアリティだったり、あるいは、抽象表現主義に分類されないけれど「ナンカオモシロイ」作品だったりする。そういった価値に基づいた作品はアメリカの抽象表現主義に基づいた文化帝国主義からすれば土人のそれと思われるかもだけど、土人-野生の思考だからこそやれることもあるんだぜ?的な。

村上隆さんの場合は「けっきょく現代アート市場は一定のゲームのルールがあって、そのルールを知らなければ評価されない(勝てない)。なので作品自体の価値がどうとかより、そのルールを知り、そのゲームに勝つということがまずもって大事なんだ」てスタンスで、なかばシニカル・ニヒリスティックともいえる現実主義で作品を工房していくけど、三潴さんの場合はそれを踏まえつつ「それでもアートの価値を見出したい」ということで、前者がポストモダン的相対主義とシニシズムだとすると後者はモダニズムの復権的なアレなのかなあとかなんとか。なので位相としてもマルクス主義系のフランクフルト学派(ハーバーマス)とかを想わせわかりやすいといえばわかりやすかった。





ひとそれぞれ好みとか価値観-リアリティの違いがあるだろうからこういうのが好き-ガッチリハマるひともいるのだろうけど、自分的には秋元雅史さんあたりがフィットするかなあ。三潴さんの心意気とかやってきたこと自体は良いなあとおもうけど。

んでもこの本を読んで会田誠さんや山口晃さん、鴻池朋子さん、池田学さん、宮永愛子さんあたりは見てみたくおもった。てよりミヅマアートギャラリーに一回寄ってみたく。



一般的には、90年代から00年代、あるいはそれ以前の80年代あたりの日本の現代アート界隈の様子が綴られているのがおもしろいかなあとかおもう。あとは会田誠さんとか山口晃さんとかが売れない当時の様子とか。





タグ:art
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2015年06月27日

「芸術起業論」「芸術闘争論」「日本列島現代アートを旅する」


このへんからの続きて引き続き現代アートについてお勉強していたのでヲクサンずへのお知らせも兼ねて


小山登美夫、2008、「現代アートビジネス」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/420849770.html


いちお村上隆さんの本も読んでみた


芸術起業論 -
芸術起業論 -

芸術闘争論 -
芸術闘争論 -


結論としては「まあたしかに、、それが第一線の現代アートプレーヤーの感覚ってことなんだろうけど、、それってなんかビジネスとかプロスポーツとか、入試≠クイズみたいだよね?」てことで自分的にはあまり



「柑橘類と文明」、「芸術起業論」を読み終わって|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nf50ec2b5d394




このあと続編の芸術闘争論のほうも読んでみて、起業論よりはアクの薄い、講義的な文体(口語的な)と内容になっていていて一部タメになるところもあった。たとえば現代アート(特にニューヨークを中心とした海外のマーケット)の文脈に沿ったテーマ、画面構成・視線の誘導の計算についてとか、ギャラリーの種類や選び方とか。それらは「実際にプロの現代アーティストとしてデビューする場合なにが必要か?」という視点からまとめられたものでこの本もそういうのを目指す学生たち向けにまとめられた予備校テキスト的なものとしてはわかりやすくおもしかった。

ただ、やはり「これはアートなの?」てかんじというか、すくなくとも自分が求めるものではないなあとおもった。

それらはたしかにアメリカやヨーロッパで成功した富豪のリアリティや嗜好には沿うものなのだろうけど、すくなくとも自分はそういうものは要らないし好まないし、そして自分の嗜好に合った現代アートはいくらでもあるので。テクストとしては李禹煥のそれとか。

なので、それらはアメリカとか世界的な富豪マーケットにおける「現代アート」であって自分が求めるものとは違うのだろう。それらは厳然と別れるものでもなくゲルハルト・リヒターなんかはそういうのにも含まれるようだけど。

この本自体の印象、あるいは村上さんの印象としては「プロヲタクになりきれなかったヲタクがアートの分野で宮台節を繰り広げた」みたいな感じだった。実際、「影響受けた」みたいなことはこの本の中にも書かれてたし。



なので、アートにそれ以上のものを求めるものとしては特に見るところもないのだろう。作品としては。

ただ、プロモーションとか若手養成のための仕組みみたいなところでは参考になるのかなあとか。



あと、現代アート方面で昨今「日本の現代アートはMANGAとかANIMEだ」みたいな風潮があって、ジャパニメーションがどうとか攻殻機動隊がどうとかもそういうのに含まれてるのだろうけど、そのへんの言語化とかプレゼンスの先駆けが村上さんのこのへんだったのかなあとか。本書の中でしっかり「日本の現代アートはマンガ・アニメです」ていってるし。そんでMOTでちょこちょこやる宮ア駿展とか、上野の進撃の巨人展とか、あるいは新国立で最近やってるやつとか。

新国立でやってるらしい日本のマンガ・アニメ展、マンガ・アニメの系譜としては体系的に不十分らしくてけっきょくは「マンガも現代アートの一部(日本ではむしろ現代アートはマンガ・アニメなんだよ」というところに甘えて「現代アートとしてあつかってやる」て展示なのかなと思うんだけど、そういうのをやるのは集客の理由もあるんだろうけどさいきん日本の現代アート界隈だとそういうのがチラホラで、自分て気にはそういうの見てもマンゾクないだろうなと思う。現代アートとマンガ・アニメ的なものは越境している、みたいなのは自分が現代アート的なものを見だした以前から思っていたことだからイマサラてかんじだし、その土台としては「現代アートとは何か?→(現代)アートなんか自由でいいじゃん解体していいじゃん」て60から70年台に隆盛を迎えたニューヨークを中心とした抽象表現主義に依る脱構築な文脈があるのだろうけど、脱構築だけだったら現代思想やってる人間的には新しいものでもない。

そんで(現代)思想≠(現代)アート的には「脱構築以後の思想・アートとはなにか?」ということになるんだとおもうんだけど、そうすると現代アート的には惰性で構築されたものをある程度解体しつつもその内部、あるいはローカルな圏域で意味と文脈(あるいは強度)をもったものを出さないとわざわざアートとして表す意味がないように思える。

アートとして表す意味というのは「言語では表し難いものを表す」ということで、そこに現代思想における「言語(の恣意性)以前」というテーマが絡んでくるわけで、きちんとした現代アートの人たちはそのへんを体現してるからおもしろいのだけど、村上さんは多分そういうのがわかってなくて、先達の成功者たちのガラをなんとなくなぞってるうちに成功したぽい。なのでバーネット・ニューマンに対する解釈も浅薄なものに思えた。






そういったところからするとつづけて読んでるこの辺で紹介されてるものはそういうのを表してくれてぽくおもしろい。



日本列島「現代アート」を旅する (小学館新書) -
日本列島「現代アート」を旅する (小学館新書) -



著者は直島のアートプロジェクトや家プロジェクトに携わった人で、直島のチーフキュレーター、地中美術館館長、金沢21世紀美術館館長を歴任されて芸大美術館館長・教授も務めてる、とのこと。


なので直島周りとか金沢21世紀美術館周りの紹介が多くなってるというところもあるんだけど、でもそこでの説明をみると自分的には見とくべきなのだなあと思うし見たいな、と。


紹介・解説されてるのは

イサム・ノグチ『エナジー・ヴォイド』、マーク・ロスコ『シーグラム壁画』、アントニー・ゴームリー『ANOTHER TIME XX』、三島喜美代『Newspaper08』、ロン・ミュエク『スタンディング・ウーマン』、レアンドロ・エルリッヒ『スイミング・プール』、安田侃『アルテピアッツァ美唄』、ジェームズ・タレル『ブルー・プラネット・スカイ』、内藤礼『母型』、ウォルター・デ・マリア『タイム/タイムレス/ノー・タイム』

なんかでいずれもその場の環境と一体となってアートしてる作品な感じ。


秋元さんはほかにも直島美術館についての本とかデ・マリアについての本とか出されてるようなのでこれらもぼちぼち読んでいきたい。





現代アートに関するテクストを読んでると「けっきょくはこのへんてなんとなくの雰囲気で売ってきたところだからはっきりとした定義とか方向性とか型が決まってなくて、その部分はテキストにするとよくわかるのだな」とおもう。まあ日本における人文≠現代思想と同じだけど。


なので、その部分で海外で売れるという実績を残し、はっきりと「(雰囲気うんたらでイイネーイイネーしとってもガラパゴスで)売れるための現代アートはこうや!」ってまとめたのは村上さんの功績だったかなあとかおもうけど、さっき言った理由でそれは反面教師的なものだったのかなあとか。


まあこのへんは民俗学的な現地の人の証言収集という感じで「彼らはこのように現代アートを認識し語っている」てかんじでみていくとおもしろいだろうからそういう方向で続けていこうとおもう。



あと、ワタリウムで現代アートを振り返るなやつやってるようでこれも気になるので8月か9月ぐらいに落ち着いたらいこうかなあ。。(村上さんの本で気付かされたけどワタリウムのこういうのの歴史はけっこう長いらしく村上さんのデビューもワタリウム主宰の現代アート大学からだったそうな




現代アートをおさらいする好機! ワタリウムの展覧会。|NEWS(ニュース)|HOUYHNHNM(フイナム)
http://www.houyhnhnm.jp/news/012993.html



西洋絵画のひみつ -
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中野京子と読み解く 名画の謎 対決篇 -
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名画で読み解く ハプスブルク家12の物語 (光文社新書 366) -
名画で読み解く ハプスブルク家12の物語 (光文社新書 366) -

怖い絵  (角川文庫) -
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2015年06月17日

小山登美夫、2008、「現代アートビジネス」





現代アートビジネス (アスキー新書 61) -
現代アートビジネス (アスキー新書 61) -




noteで済ませても良かったしなんだったら文章にせずにメモなとこだけぶくましようかぐらいな感じだったけど「なんでこれをエントリする気になったんだっけ?」とよみかえしてるうちにヲクサンずに日本の現代アートの配置についてお伝えしとこうとおもったのを思い出した。あるいはこの本自体の主眼としては「(日本の現代アートでトップをはしるとおもわれる)村上隆や奈良美智ってどうなの?なぜ評価されるの?」的なの。そういった意味だとむしろこないだnoteにアウトプットした日記でもう要点書いてるかもしれない。


「現代アート」って斜に構えるのではなく|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ne13c13c1df6a


いちお巻末の2010年当時の日本の現代アートギャラリーリストのメモ写真も載ってるし。


てか、「現代アートを買おう!」「現代アート経済学」のシリーズは小山さんのこの本の内容を受けてそれをビジネスマン的な客観性から伝わりやすく表したものだったのかな。そういう意味だと内容的には重複してくる。


繰り返しな内容になるので楽してこないだnoteにした内容から抜粋引用


この本を読むまでは正直「村上隆とかー現代アートとかなんぼのもんじゃいー」て感じもあったようにおもう。「知や感性を競う」というか。門外漢が足元をすくってやろうというか。

でも、宮津さんの語りから垣間見える「現代アートというのはそんなスカしたものではなく、単にぼくらがあの時代に『なにか新しくて格好いいもの、おもしろいもの、感性をくすぐるもの』を求め、それに捧げていった結果、現在のような形になっただけで」というような話を見てるとそういうのも阿呆らしいというか、少し恥ずかしく思った。

MOTも未だ建ってなかった時代、現代アートも日本に根付いてなかった90年代初頭に少しずつ挑戦と努力を重ねて自分たちの好きなものの場を作っていった。そして、単体の作品の価値というよりも、それを囲む人と人とのつながり、文脈、歴史のようなもののほうがむしろ大事で、現代アート的な作品はそれらのその時点での記念碑的なものだということ。

そんなことが感じられた。

小山さんの本を読んだら村上隆さんの本を読むつもりだけど、たぶん宮津さんの本を読んでなかったら「なんぼのもんじゃい」的な姿勢の読み方に傾いて貧しい読書体験に終始してたんじゃないかとおもう。




MOTも未だ建ってなかった時代、80年代後半から90年代初頭にかけて「日本にも現代アートの殿堂を」という動きがあった。白石正美さんなんかが中心となった東高現代美術館はそのさきがけ


東高現代美術館:現代美術用語辞典|美術館・アート情報 artscape
http://artscape.jp/dictionary/modern/1198701_1637.html



小山さんもこの時期に白石さんのもとではたらくなかで村上隆さんとも縁をもつようになったみたい。

当時の村上さんはまだ芸大の日本画博士課程で、でもそのころから自らの作品をどう売っていくか?ということに積極的で小山さんにも「こんどプレスを紹介してくださいよ」て接触していったみたい。


その後、小山さんが独立して自らのギャラリーをもって、村上さんや奈良さんを海外のアートフェア周りの市場から売っていくことに契機を見出していったながれが描かれている。「あの頃がいちばんおもしろかったね」とたまに会った奈良さんとはよくいうとのことで、なんとなく椎名誠の本の雑誌血風録的な青春時代を想わせた。



あとはギャラリーとオークション・アートフェアが中心となって現代アート的な価値はつくられていくという過程について。このへんは宮津さんの本にももうちょっと詳しく解説してあったようにおもうけどこちらがさきにザラッと説明された感じだったのだろう。長谷川祐子さんのはなしでもあったけど、現代アートにおける市場とのつながりは作品の国際的な紹介・流通という意味ではかなり重要になる。そこにうまく入り込めていけないとこの部分で国際的な関係性から外れてしまい「現代」アートでもなくなってしまう。あるいはあたらしい作家の発掘とか。

市場とつながることはアートに投機的な価値・意味合いが生まれ、単なる投機的な対象として扱われることでアートの価値がかえって損なわれる(バブル的な投機対象になってしまって現代アートが単なる「現在」アートになってしまう)という危険性はあるし、実際に好景気に賑わう中国のアート市場・作品評価にはそういうところがあるみたいなんだけど、だからといって現代アートのすべての作品が「本来意味のないガラクタに箔をつけただけのもの」みたいなものでもない。

宮津さんのことばだったか小山さんの言葉だったか忘れたけど、現代アートが現代アート足りえるのはそれが現代の問題・リアリティを作品としてきちんと表わし関係性を持っているから、ということ。


「なので村上さんの作品も奈良さんの作品もそういった文脈からきちんと現在のリアリティにコミットし、それまでのアート的な技法・表現の仕方も踏襲しつつ計算したものであるがゆえに海外コレクターの間で受けている」とのこと。


自分もそうだったけど村上さんの作品はヲタ的なアイデアを劣化コピーでシミュラークルしてるアイデア窃盗なだけじゃんて見方があるけど、あそこで村上さんがあらわしてるのは造形や表現方法ではなく、ヲタフィギュア的なものに先鋭される現代(日本)の(男性の?)欲望なのだそうな。なのでみょーに乳袋の強調でミニスカートな女の子(例のカフェ制服ぽい)がニコニコわらい、マイ・ロンサム・カウボーイはありえない量の精液を性器から放出し、それが龍を象る。



そうはいわれても自分的にもまだ「村上さんの作品てそんなに良いのかなあ?(実物みるとちがうの?アウラとかが?)」て半信半疑なんだけど、そういう説明ならコンセプトとしては理解できる。何十年かしてこういう文化が廃れていたとして、でもアート作品は残ってて、そこでこういうものを見た人が「こういうのでこんな欲望もってたんだねえ。。(それでこんな表現に」ておもうのかなあ、ってかんじ。


あとは小山さん世代の以前からの現代アートの主要画廊なとことか(西村画廊、佐谷画廊、かんらん舎、ギャルリーところ)、白石さんのスカイ・ザ・バスハウスとか。

村上さん主宰のGEISAIとかトーキョーワンダイーサイト、アートアワードトーキョーなんかもいってみないとなあ、とか。


アートフリーペーパーの「フェイヴァリット」とか。






そんなかんじかなあ




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2015年06月04日

「現代アート経済学」から簡単にメモ



現代アート経済学 (光文社新書) -
現代アート経済学 (光文社新書) -
現代アート経済学 (光文社新書) -
現代アート経済学 (光文社新書) -





サラリーマンのコレクター:宮津大輔はハーバート・ヴォーゲルの日本人版? | BLOUIN ARTINFO
http://jp.blouinartinfo.com/news/story/882107/sararimannokorekutagong-jin-da-fu-hahabatovuogerunori-ben-ren


『現代アート経済学』 宮津大輔著 評・開沼博(社会学者・福島大特任研究員) : 本よみうり堂 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20140825-OYT8T50112.html



著者は「一般企業に勤めながら有名なコレクター」「昼食を削りつつコレクションした」てひとなので従来の批評然なアート紹介(ちょっと衒学スノビズム)とは違った視点からコレクション、キュレーション、ギャラリーの関係が説明されていてわかりやすくおもしろかった。ビエンナーレの経済効果とか予算とかも。「ギャラリスト・キュレーター・コレクターの三位一体でアートは価値付けされている」というこの部分は以前のエントリの長谷川祐子さんの問題意識とリンクしてわかりやすい。

https://twitter.com/m_um_u/status/606063756137754624/photo/1

美術手帖3月号から「現代アートの文脈」「現代アートは流通である」あたり: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/417862119.html




世界のギャラリー、プロデューサー、オークション、パワーコレクターなどの関係の基本としてソレ系の人には参考になるだろうから手元に置いといて重宝しそう。有名ドコロについての脚注がそれぞれあるし。


全体として面白いしわかりやすい本なので長文できちんと説明してもよいのだけど「ほかにも読むもの溜まってるし、まあ自分的なメモがメインでなんだったら人様と共有程度だしなあ。。」ということでメモ中心で。

















アーティスト別年間落札の図からも伺えるように国際的に中国のアーティストのプレゼンスが高まっている。わりには自分的にもあまりしらないのでメモ的に写メっといた。あとでpinterestあたりから検索してほぅほぅとか思おう。ちなみに、近場だと横浜美術館での展覧会が気になってる。





世界的に有名なアートフェアとしてのヴェネツィア・ビエンナーレの紹介。アートのオリンピックとして2年に一回開かれる。ヴェニスがたまにニュースに移って華やぐのはこういうの。自家用ジェットで富豪がかけつける。個人用コレクションにもなるし転がして資産にもなるので。ヴェネツィアで見てバーゼルで買う。

ヴェネツィア・ビエンナーレと双璧をなすのがドイツのドクメンタ。5年毎に開かれる。もともとはナチスドイツの芸術焚書への反省から。ひとりのアートディレクターに依るディレクションという方式をとりだしたのはドクメンタからとのこと。ドクメンタでは毎回ディレクターが強いメッセージを発し、それに沿ったディレクションが展開される。ナチスの芸術焚書から逃げるためにアメリカに芸術・研究的才能が集まってMoMA(ニューヨーク近代美術館)のプレゼンスが増した。パリからニューヨークへ。



日本だと横浜ビエンナーレ、あいちトリエンナーレ、越後妻有アートトリエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭など。

瀬戸内国際芸術祭は春(3月20から1ヶ月)、夏(7月20から9月1日)、秋(10月5から1ヶ月)の3期に分けて開かれる。


日本のアートフェアとしては以下がある。主に春先。


東京アートウィーク

G-tokyo
現代アートギャラリー15軒 春先

アートフェア東京
古美術から現代アート  春先


TOKYO FRONT LINE
千代田
3331

六本木アートナイト




オークション - アートフェアのプレゼンス的には中国、シンガポール(東南アジア)が大きくなってきている。経済成長→中流層の増加を背景に。アートとオークションをいちから根付かせるのは難しく特に中国なんかはそんな感じだったけど中国の方は中国人ディレクターがコツコツと、シンガポールの方はアートバーゼル出身の豪腕ディレクター(ロレンツォ・ルドルフ)がシンガポール政府と協力してつくりあげていった。


あと有名ドコロなディレクターとしてはハロルド・ゼーマンとか‥まあこのへん





カタールとか増してきてて中東の興隆とか想わせる。






日本の現代アート系有名ギャラリーとて


小山登美夫ギャラリー、ギャラリー小柳、タカ・イシイギャラリー、シュウゴアーツ、アラタニウラノ、山本現代、イムラアートギャラリー、TAKE NINAGAWA、ミサシンギャラリー




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2015年06月03日

長谷川郁夫、2014、「吉田健一」



600ページほどの本だったので2週間ほどかけて読み終わった。


吉田健一 -
吉田健一 -

感想としてはちょこちょこnoteに書いていたし


そこに彼らがいた|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/na38a84799925


(長谷川郁夫「吉田健一」から)日本の「近代」文学界隈とその時代|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n1f95a8aafc22


「吉田健一」を読み終えたお通夜として|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nae76a0baa2dc


記憶術、ユリイカ、blackbird|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n9dc2ee2b77dd




noteにも記したように本書は批評的な内容でもないのでまとめるのも難しく特にエントリせずに終わってもいいかなあと思ったんだけど、あとで振り返るときのためにメモ的に引用して残しておきたいところもあるのでいちお。



吉田健一についての批評的な箇所は中村光夫に依る吉田健一評のところぐらいで、それは以前に読んだ河出書房のムックの内容も想わせた。「吉田健一には嫉妬やルサンチマンのようなものが感じられない」「飄々とした魅力とそこはかとない色気がある」みたいなの。


吉田健一の流儀: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/415497312.html

「吉田健一」を読み終えたお通夜として|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nae76a0baa2dc


昭和32年「文藝」1月号での中村光夫による吉田健一論から




 一.「あなたの言葉には自分自身のすることに気づいてない人の魅力があります。酒の呑みかたからものの考へかたまで、あなたのやり方はまことに個性あざやかで、独特なものですが、この独自性にあなたがまったく気づいてゐないところに、あなたの随筆の面白みがあります。あへて可笑味といつてもいいでせう」、「あなたがそれに自分で気づいてゐないから、そこに生れる滑稽はさらに倍加されます」

 一.「この間の交際を通じて、僕が一番あなたに敬服したのは、あなたの自信です。自信といつてもありふれた己惚れや野心とはまつたく違ふ、なにか天与といひたいやうな精神の内部平衡です。あなたくらゐ或る意味で謙遜な、人を素直に尊敬することを知つてゐる人はない、自分で自分を虐めつけるといふ裏返しにされた青年の傲慢を、あなたほど徹底的にやつた人はない、(中略)しかしそれでゐて、あなたくらゐ自然に自分を信じられた人はないのです」

 一.「僕はあなたの強靭な精神の平衡を、真の意味の教養の賜と思つてゐます。美に対する感受性と熱情にめぐまれた者が、たまたまそれを源泉から汲む幸運にめぐりあひ、そこから生活にたへ、進んでそれを楽しむ糧を得てゐる人に独特の強みです」

 一.「あなたが批評家としてなぜもつと早く世にでなかつたかは、僕等がみな不思議に思つたことです。しかし今から思ふとあなたには、他の条件はすべて備はつてゐたが、ただ批評家にもつとも大切な資格が欠けてゐたのです。それは文学への観念的陶酔と表裏する或る餓渇、あるひはさもしさといつたもので、それにかりたてられて、彼は自己の文学映像を他人に納得させるために努力するのです」、「僕自身さういふ青年であつたから、それはよく知つてゐます」、「あなたには、さういふ餓ゑがまつたくなかつた。しがつて野心も。文学とはあなたには何かもつと血肉化した、人生を快適にするものであり、この自適のなかかから外にむかつて発現する衝動は生れなかつたのです」



それを変えたのが戦争と戦後の生活だった。

「吉田健一にとって文学は、野心とかさもしさとかといったものではなく、もっと血肉化した人生を快適にするものだった」という指摘は吉田の批評、あるいは文学の味わい方が詩を中心とし、全体の意味や内容というよりも謡としての詩を重視していたことにも通じるように思う。音楽であり時間。それは吉田晩年の時間論にも通じ、日本の、あるいは日本語の古典的な感覚、歌としての会話にも通じるのかもしれない。吉田の文章に句読点がなく読みづらいことに対して「古文は句読点はないでしょ?」と答えたというけど、そう思うと吉田の文章はそういったもので、ひとつひとつの意味というよりは全体のイメージや流れを味わうものなのかもしれない。





付箋を貼ったところを見なおしていると三島との喧嘩、三島が割腹自殺したことについての吉田のコメントもとどめておきたく思ったので軽く引用しておく。


三島との喧嘩の経緯についてはこちらに記した。

「吉田健一」を読み終えたお通夜として|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nae76a0baa2dc


「新潮」46年2月号「三島由紀夫追悼特集」より

「その死は事故による」、「例へば交通事故で死んだものがあつた時にそれで改めてその思想とか生前の行状とかを云々するのは無意味であり、さうした死んだといふことが先に立つての詮索は週刊誌風の好奇心の仕業にすぎない」、「人間は死ぬ時に死ぬのであり、誰でもその時が来るまでは生きてゐる」、「もしここに豊かな天分に恵まれてゐて別にさうした騒ぎが仕事の邪魔にならず、逆に騒ぎによつて世相を掴む術に長け、その騒ぎの快感を仕事の刺戟に用ゐることも出来る人間がゐたらばどうだらうか」、「或はその仕事の世界での自由は仕事と騒ぎと全く切り離すに至るかも知れなくて、その点に達するならば騒ぎは騒ぎで自分から自分の楽みに、或はこれも或る形での生き方と心得て焚き付ける方向に進むといふこともあり得る。もしそのまま文学の仕事が続けられるならばその人間が文士であることに変りはなくて、ただ一流の仕事をする文士で情事が道楽であるのが媚薬の量を間違へるといふことがあつても別に驚くではない。或は蝶気違いの文士が崖に蝶を追つて墜落死することもある。先に大で示した通り、以上は三島さんのことでもある」


三島の文士としての才能は買っていたけれどその性格から名士としてちやほやされるという快感を追い続けコントロールしきれなかった。それは蝶を追って崖から落ちたような事故であり、当人の仕事を貶めるものではない、と。












あとは当時の銀座や文壇界隈の様子が伝わってきてよかった。東京の昔でありトキワ荘的なもの。その頃の銀座や東京の様子をもうちょっと省りみたくなった。


そこに彼らがいた|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/na38a84799925

銀座に川があった頃 - 新・読前読後
http://t.co/EscWpCE9dv


あるいはこういった教科書からは伝わらない日本文学 / 文壇の様子について記したものとか。江藤淳「小林秀雄」もよかったけどああいうもの。とりあえずこの辺を読んでいこうかと思っている。



江藤淳と大江健三郎: 戦後日本の政治と文学 (単行本) -
江藤淳と大江健三郎: 戦後日本の政治と文学 (単行本) -
日本文学史早わかり (講談社文芸文庫) -
日本文学史早わかり (講談社文芸文庫) -









「時間」からいくつか



時間が経っていくことを知るのが現在なのである


言葉が働きかける時にそこに常に現在がある


近代の倦怠を意識の上で堰き止められた時間の流れの圧力と見ることも出来る


一冊の本もそれそのものが時間であり、或いはそのうちにも時間があってその本も刻々と経つことが解る


もし時間がなければ一篇の詩もない



時間の存在を認めなければ喜びも悲しみもない




時間が人間を老いさせるのではなくて、その老いる人間も老いた人間も時間なのである





時間の流れがあって空間が生き、それで我々の暮らしもそれが世界で取る形も、或いは、我々の暮らしに即して世界が取っていく形もそのあるべきもの、我々が現に知っているものになるのだということは繰り返して言っておくのに値する





その夜会もサロンも舞踏会の音楽もあって、その虚しさは人生の空しさであり、それは従って一転して充実であった


刻々にたって行く時間の現在にあってそれを悲しむというのは充実の極みとも考えられる














われとともに老いよ


最上のものは、これから先にある



それは生命の最後である




生命の最初はそのために作られたのだ









金沢・酒宴 (講談社文芸文庫) -
金沢・酒宴 (講談社文芸文庫) -
時間 (講談社文芸文庫) -
時間 (講談社文芸文庫) -
英語と英国と英国人 (講談社文芸文庫) -
英語と英国と英国人 (講談社文芸文庫) -
英国の近代文学 (岩波文庫) -
英国の近代文学 (岩波文庫) -
ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫) -
ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫) -
訳詩集 葡萄酒の色 (岩波文庫) -
訳詩集 葡萄酒の色 (岩波文庫) -
英国の文学 (岩波文庫) -
英国の文学 (岩波文庫) -
交遊録 (講談社文芸文庫) -
交遊録 (講談社文芸文庫) -
三文紳士 (講談社文芸文庫) -
三文紳士 (講談社文芸文庫) -
吉田健一 -
吉田健一 -
乞食王子 (講談社文芸文庫) -
乞食王子 (講談社文芸文庫) -





ドナルド・キーン、三島由紀夫、中村光夫、河上徹太郎あたりも読んでいこう







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東京の「おいしい」の昔から|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nb6fd1ccec764



うつくしい日々: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/409837761.html



三浦雅士「文学史とは何か」(丸谷才一全集 第7巻解説) - 日々平安録
http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20150516/1431788111

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2015年05月20日

最近読んだ本から  解釈と隠喩をめぐって





図書館の本の返却期限が迫ってて、もう読んだのでそのまま返しても良いのだけど記憶に印象付けるためにエントリするのもいいかなということでエントリしよかなと思いつつそれほどの内容でもないのでnoteにでもしとこうかなとおもったんだけどまあいいかあってことでまとめてエントリすることに。




ラッセンとは何だったのか? ─消費とアートを越えた「先」 -
ラッセンとは何だったのか? ─消費とアートを越えた「先」 -


いちお読んでみたけどそんなにとどめておくこともないもののように思った。

もともとが大野さんのブログエントリ「ラッセンとは何の恥部だったか」で提示された内容、「ラッセンが日本人に異常に受けたのは日本人のヤンキー心に訴えたからではないか?」に端を発したもので、それにいくらかのブラッシュアップ+肉付けをしたぐらいな内容に感じた。つまり問題提起としてはおもしろいかもだけど論文とか本としては読み応えがない感じの。

「ラッセンが受けたのはヤンキー心にヒットしたからではないか?」というところから発せられる問題提起をすこしすすめれば「そもそもラッセンを認めない『アート的なものの基準』とはなにか?」ということに落ち着き、内容ではなく文脈などから語られたり評価されたりするアートの評価基準の曖昧さがうんたらされるわけだけど、それ自体は(自分的には)既出な話でありそんなに鮮烈でもなかった。まあ一般受けはするかなあぐらいの。あとはそういう問題提起に当時流行だったヤンキー論という曖昧なものを接続して全体が構成されていた。

ヤンキー論について自分が不快に思うのは、あれが日本の現代的な大衆文化論にすぎないのにそこに接続せずにスノッブな立場から慇懃無礼にヤンキーを論じてるところにあるのだけれど、このラッセン本で散見された評論の体をしているものもそんな感じで不快だった。最初からヤンキーとかラッセンを小馬鹿にしてるのに、「敢えて( ー`дー´)学術的、評論的な客観性をもって論じるならば(それでもヤンキーはヤンキーでラッセンはラッセンで便所の壁紙みたいなものだけどねー」みたいなの。なぜこんな落書きみたいな意識の高さを覆い隠した欺瞞と慇懃な無駄話に付き合わないといけないのかと途中から読み飛ばしてたけど。

前述したけど、それがヤンキーに通じているという蓋然性を持つのなら、ヤンキー的なものを社会学あるいは人類学や民俗学的に措定すべきだしそれを提出しないと話にならない。また、アート的なものに惹かれつつそれらがぼんやりとした評価によってもてはやされていくさまを同様の方法や視角で見たほうが建設的なように思ったけれど、そういうことをしないのはこの人たちが論じている場自体がそういった曖昧な評価基準によって評価される場だからだろうか?同様な「スノビズムって言いつつおまへがスノビズムじゃん」はサードウェーブうんたらくさしにも感じたけど。

この本で唯一おもしろかったのは最後の生物学的な視角からこういった現象を見ている話で、それは自分の視角に近いように思った。




隠喩としての病い エイズとその隠喩 (始まりの本) -
隠喩としての病い エイズとその隠喩 (始まりの本) -



ヤンキー的なるものを語る視角が隠喩に満ちてるとしたらソンタグなんかも似たような批判をしたのかもしれない。つまり、「あなたがたの視点、論説は中立・客観的な方法を用いた分析以前に印象に基づいた答えがでていて、それに基づいた印象批評にすぎない」というもの。ソンタグはそのような「批評」を先験的な「解釈」として批判し嫌った(「反<解釈>」)。


この本-小論を書いた経緯はソンタグ自身が癌を患ったこともあったのだろうけどそういった先験的な解釈、印象がある力をもって人の流れを変えてしまうことにペンの力で抗したかったのかもしれない。


ただ、いつものソンタグな感じでそんなに方法論としてはきちんとしてなくて、印象批評ていってるソンタグの論じ方自体が確たる方法にもとづいてないというのはあるのだけれど、ソンタグのやってるのは論文ではなくて批評やエッセイだったのだろうし、そういった書き方で見えてくるものもあるようにおもう。

この本から自分的に得られたのは「癌や結核に対して、なんらかのロマンティシズムに基づいた隠喩が付され、物語化されることがある」「結核なんかはそれにもとづいて『高尚な病』とされた時代があった」「隠喩化された病は医学的に中立な理解、客観性を越えて人々に印象され、それによって病にかかった人々が不当な差別をされたりする」って感じだった。

特にこの本で強調したいのは最後の部分だったのだろうし、それ自体は重要な問題提起であるように思ったのだけれど、自分的には「だったらなぜ人々がそのような物語化を行わざるをえないのか?」「それは共同体の要請ではないか?」「そういった隠喩や物語化はデメリットもあればメリットもあるのではないか?」などを明らかにしてほしく物足りなさがあった。構造人類学的方法というか。まあ生物学でも何でも良いのだけど。

あと、これらの隠喩の大元になってるのはガレノス的な考えだったのかなあとか。


ガレノス - Wikipedia http://bit.ly/1LkTCK8


四体液説とか脾臓がどうとかの。こういうのは近代医学以前の医術的な時代に共通した宇宙 / 自然 / 人体なイメージだったようにおもう(道教とか易経とかもそんなのだし)。そういや朝にもコレ関連でうんたらつぶやいたな。
















胆汁がどうとかメランコリーがどうとかだと「土星の徴」をもつベンヤミンにも話が通じるのだろうから、そこでソンタグがどんなこと言ってるのかとかちょっと気になるけど(ベンヤミン的には土星の徴てシーニュを受け入れてロマンティックに論を進めていたわけだろうし)。



土星の徴しの下に -
土星の徴しの下に -



「宇宙 / 自然 / 人体」ということだと今回読んでたこの辺もつながってくる。


胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691)) -
胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691)) -


全体的に講演用のよもやま話てかんじの曖昧な本だったけど、終章の「生物、いのちには大きく2つの波がある」という話はおもしろかった。

鮭とかヤツメウナギもそうだけど、生物はおおきくその生を2つの季節に分ける。個体維持のための季節と種の維持のための季節。鮭は受精-産卵を迎えると飲まず食わずで産卵場まで還って来てそこで精を発っして命を使い切る。かまきりの雄も性行為が終わるとメスに食べられるし、鮟鱇の雄は体ごと雌の身体に取り込まれ融合する。ヤツメウナギは性の時期をむかるまでの食の時期は植物のように岩に縦にくっついて波に揺られつつプランクトンなんかを食べてるだけなのだけど、性の時期を迎えると水底を這いずって受精の場に赴く。泳ぐ機能はないのでがんばって水底をはいずり、てきとーな岩ごとに口の吸盤でくっついて休憩しながら。


食の時期のヤツメウナギは「植物の体に動物の皮をかぶせただけのもの」といえる。

「植物は、太陽を心臓にして、天空と大地を結ぶ循環路の、ちょうど毛細管に相当する」とかいう。

植物の体は動物の体から腸管を引っこ抜いて皮をひっくり返したようなものだとか。


ただ個体を維持するというだけだったらこういうので良いのかもしれない。



それがなぜ「動く」「腸(消化系)以外の身体を持つ」「手足を持つ」に至ったのか。その辺りについて考えだすと隠喩/物語が必要になるのかなとおもう。



三木さんの着想に共通、あるいは元となったゲーテの形態学的発想もそういったところに接続し、それらは中世の想像空間といえるのではないか。そして、そういった物語を解くためには先験的なひとつの解釈 / 視角だけではなく多様な意味、多角的な視点を対象となる共同体の生活の場からできるだけ客観的・中立的にもってくる必要がある。その物語、意味を分析者自身が理解して。



森のバロック (講談社学術文庫) -
森のバロック (講談社学術文庫) -


燕の季節ということで燕石考の章を読み直したくなってなんとなく読み直しつつ、「三木さん - ゲーテ的な発想の曼荼羅を外挿すれば熊楠がやりたかったことに通じるのかなあ」とかおもった。あるいは中沢さんがやりたかったこと。


熊楠は特に生物学とか人類学とかがわかれていなかった当時、自身の興味・関心を表す方法として生物学や人類学、民俗学に興味を持ち接触していったのだけれど、当時の人類学は「未開」に対する先験的解釈が横行していて、そういった人類学の現状に対して、民俗学、あるいは構造人類学的な中立かつ多角的な意味 - 隠喩の詳説を目的として著されたのが「燕石考」ということだったらしい。それは熊楠のやりたかったことの端緒的なもので、それが全て-完成ではなかったようだけど。



  納屋の中、垂木の上の、雛鳥がひしめいている燕の巣まで
  何回もよじ登っては、熱心に探したものだった。燕たちが
  雛の盲を治すため、海辺から運んでくる不思議な石を。
  燕の巣でこの石を見つけた者は、果報者とされているのだ。




ロングフェローのこの詩では、燕が雛の盲を治療する目的で海辺から不思議な石を運んでくること、その石を見つけた人間は果報者になれること、という二つのことが述べられている。質問者はこの二つのことが、どのようないきさつから語り伝えられるようになったか、その起源を訪ねたわけであるが、それについて熊楠自身が自分なりの回答を試みた、というのがこの小論の成り立ちなのである。

熊楠はまず、燕石についての伝承を世界中から拾い出してくる。ロングフェローの詩の内容と最も似ているものはブルターニュ地方の伝承であり、そこでは、燕は失明を回復する力のある石を浜辺で見つける知識を持つと信じられている。

これほど典型的ではないが、燕を連想させるような物質に、医療的効用ないしは吉兆を認める伝承はあちこちにある、と熊楠は続ける。そのうち燕石とよばれるものについて、癲癇に大きな薬効をもったり、頑固な頭痛を鎮めたり、四日熱を治したり、肝臓病を治したりする効用があるとしている例を紹介している。

日本の竹取物語の中でも、燕を連想させる逸話として「燕の持たる子安の貝」をめぐる話がある。この話の中で、子安貝は幸運をもたらすものとして描かれている。この物語の起源が「陀羅尼経」などの仏典にあることは疑いえないことのようであるが、子安貝と言うものは、その特殊な形態(女陰を連想させる)からして、大昔から様々な民族によって、珍重されてきた。たとえば、ギリシャ人はアフロディテへの捧げものとし、トルコ人やアラブ人たちは邪視に対するお守りとし、日本人や中国人は安産のお守りとし、ヨーロッパ人は子宮潰瘍の治療薬に用いた、といった具合である。

燕石と呼ばれるものをよく見ると、二枚貝の蔕のような形をしている。これは石のように非常に硬く、かつ、燕の巣のなかから出てくるので、燕石と呼ばれるようになった。これを瞼の下に挟んでおくと、目に入った小さなゴミを取り除く効用があることから、燕石には広く眼病を治す効果があると信ぜられ、ただ単に目の中に入れるのみばかりか、それを粉末にして服用するような習慣も生まれた。だが、それによる効用が実際にあるのかどうかについては疑問が多い。

燕石を逆さまにした石燕というものがある。これはある種の腕足類の化石が燕の形に似ているところから、そう名付けられたものらしい。中国人などは、この化石は燕が変身したものだと信じているが、それは形の共通性からアナロジーが働いたのだろう。ただ単に似ているというだけではなく、一方が別の方に変身したに違いないと信じるようになったのである。そういう考え方を俗信といってさげすんではならない。たしかに誤謬に基づく推理には違いないが、そこには人間の認識にかかわる深い事情が働いているのだ。日本人もかつては、かいつぶりという水鳥が変身して鳥貝になると信じていたし、またスコットランド人は藤壺が雁に変身すると信じていたのだ。

この石燕を酸性溶液につけると伸びたり縮んだりして、あたかも運動しているようにみえる。石燕には雌雄ふたつのタイプがあるが、これらを同時に酸性溶液につけると、互いにまとわりついて、あたかも性的結合をしているように見える。実際には酸性溶液に触れることで炭酸ガスが発生し、その圧力で石燕が動くのであるが、それが古代の人々の目には、生き物の動きのように映った。その動きがセックスの動きを思わせると言うので、この石燕には豊かな繁殖のイメージが結びついたのである。

燕石は、石のように固い物質をめぐる連想の例だが、この連想が植物と結びつくこともある。そういう場合には、燕草のような伝承が生まれる。

西洋の伝説では、燕草は燕が子燕の視力を回復させるのに用いたという。中国では草の王とよばれる植物に、視力を回復し、様々な眼病を治す効力を認めているが、この草と燕との結びつきはないことから、燕草の伝承は西洋で独自に発展したのだろうと熊楠は推測している。

燕石と言い燕草と言い、燕に薬効や吉兆が結びつくのはどういうわけからだろうか。そこのところが気になるのは自然なことだ。熊楠はそれを、古代の人々がとらえた燕の習性と結びつけた。燕は渡り鳥の一種で、春に北の地方から飛来して、秋には戻っていくのであるが、古代の人は、燕は冬眠するのだと考え、春冬眠から覚めた燕は秋になると眠りにつくのだと誤解していた。そのように考えた人々にとっては、燕の登場は眠りからの覚醒であり、したがって生命の息吹の現れであり非常にめでたい出来事として映った。そのめでたさの感情が、燕を生命の豊かさのシンボルと考えさせ、燕をめぐる上述のような伝承を生み出したのではないか。そう熊楠は考えたのである。
燕石考:南方熊楠の世界 http://bit.ly/1AePA5a




燕がその家に果報をもたらすということ、同時に冬のあいだ水の底にもぐって魚や貝になってる燕が凶兆を持ってくることもあること。

このあたりは蟲師の鳥貝の話や鳥風の話を想わせた。



蟲師 (6) (アフタヌーンKC) -
蟲師 (6) (アフタヌーンKC) -
蟲師(9) (アフタヌーンKC) -
蟲師(9) (アフタヌーンKC) -


そして、そういった凶兆や(妊娠時に赤子をあんぜんに、目のなかに入った汚れを安全に)「とりはずす」という燕の意味を緩和させるために鷲石(≠太陽)が用意されていたのかもしれない。





















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(Bertha Lum、Land of the Bluebird)






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山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html

posted by m_um_u at 22:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク