2007年06月03日

「プロジェクト・フィンランド」だそうです

 伝聞というか私的なお報せです。

 スラドでこんなの見まして


スラッシュドット ジャパン | フィンランド式学習支援サイト「プロジェクト・フィンランド」スタートへ


 んで、早速見に行ってみたんですよ。


プロジェクト・フィンランド


 そしたらきちんとムーのやつがしゃべっててかわいい。。


 でも、ログインしなきゃいけないみたいでそこが面倒ですね(なので登録してないけど)。


 概要はこちらから見れます


プロジェクト・フィンランド/教育現場のみなさまへ



 んで、まぁ、「フィンランド好き」、ということでお2人のことが思い浮かびまして。TBでも送っとこうかなぁ、と。


つきみ学習帖: フィンランド学習帖


ノンノン|萌えぼえ。



 フィンランド以外にもお2人ともクラシック奏者だし、お笑い好きだし、なんか趣味合いそうなんですよね。ほかにもいろいろ。(余計なお世話かもしれないけど)


 
 まぁ、とりあえず



 あと、フィンランド関連では個人的課題としてこの辺関連で


muse-A-muse 2nd: 教育とか教養について


 フィンランドメソッドを掘らなきゃと思ってるんだけど、こちらも放ったらかし鋭意努力中です



 そのほかにフィンランド外交史とかも洗わなきゃいけないんだけどこれも「鋭意努力中」、と。





 そういやフィンランディアウォッカも飲んでないなぁ。。(こちらはすぐにとりかかれそうだがw)



 
 あと、フィンランドのかわいさっていうのはなんとなくクールと繋がる感じがします。そういうわけでこの辺かな、と


かわいいとクール (book review)



 そういや「kawaii」も国際的に通用する日本語になってるみたいですね。


佐藤渡辺通信003号 カワイイは万国共通語になった!(ヘンタイも)


特にフランスとか(萌えとは違うみたい)


カトラー:katolerのマーケティング言論: 美しい国の日本文化礼賛とカワイイ革命


フランス語で「萌え〜」って、どう言えばいいでしょう? *All Aboutガイドからの... - Yahoo!知恵袋




(moenoさんのほうは該当エントリにトラバが受付けがないのでぜんぜん関係ないけどこちらに送っときます)

アボカドで栄養もりもりだぜ☆|萌えぼえ。






--
関連:
世界の最もきれいな都市トップ25 - GIGAZINE

※ヘルシンキは3位とのこと。(ちなみに神戸は25位だそうです。そしてなぜか福井の勝山が9位.....)

第3位:ヘルシンキ
フィンランドの貿易と通信の窓口となっているヘルシンキは、政治やビジネスなどの中心でもある。路面電車や地下鉄による通勤網が発達している。



世界でもっとも幸福な国に住む - [海外移住]All About

※「幸福度をどのような尺度で測るか」といった問題もあるのですが、「国民の幸福度には国家の経済力もある程度関係する」するレスター大の指標による、とフィンランドは幸せ指数第6位とのこと



Suomen kieli − フィンランド語・ フィンランドは親日国か

※「日露戦争での日本の勝利がフィンランド独立によい影響を与えた」という伝説に関して。勇気づけたかもしれないけど影響はびみょー、と。なので東郷ビールも伝説ということだけど芸者チョコなんかはありますよね。スシチョコとか





はてなブックマーク - morutan@はて部 / これはかわいい

※「かわいい」ものクリップ。パンダは殺人的にかわいい



posted by m_um_u at 04:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月01日

iTunesにだまされた。。

 たいしたことないんだけどなんかワナにはまったみたいなので一応皆様にもご報告です。

 iTunesから「アップデートしたよ」通知が来てたのでダウンロードしに行ったんですよ。例のEMIカラミのDRMフリー用のやつかなぁ(ジョブズ偉いなぁ)とか思いつつ。


アップル、iTunes StoreでDRMフリーの“iTunes Plus”を提供

ITmedia アンカーデスク:「EMIは打つ手がなかった」――DRMフリー化と「CCCD」という無駄 そして日本は (1/5)

アップル、教育向けコンテンツを無料配信する“iTunes U”を開始


 で、ダウンロード終了して、インストして使ってて、ちょっとデータ変換したくなったんすね。移動中にはあまり聴かないクラシックはiTunesに移そうかなぁ、と。(なにせウチのiTunes - iPod環境は「iPod中心にしてiTunesの中には音を残さない」というのを基本でやってるもんですから)

 んで、例のごとくpod野郎で吸い出してデータ変換しようと思ったんだけど・・・・・あれ? 「読み取れない」って言ってるよ? ・・・どうしたのかなぁ、今日は調子悪いのかなぁ。。。


 そんなことを思いつつ何回かチャレンジしたんですがダメなんですね。野郎、「認識できません」の一点張りで。


 で、やっぱ新しい環境に慣れてないのね(転校生みたいに)、ということにして次の日やろうかなと思っててきとーにフィードみてたらこれっすよ。


Boing Boing: New iTunes steals your ability to turn Apple music into iPod-friendly MP3s


・・なんだそりゃ?


「あたらしいあいぽどはおまえのあいちゅーんずからMP3へんかんきのうをうばうぜ」


・・・だと?


If you're thinking of downgrading to the new iTunes, stop! The new iTunes breaks the ability to convert the music you've bought -- even "DRM-free" songs sold at a 30 percent premium -- into MP3s that will play on your iPod.




「even "DRM-free" songs」 と来たよ


なんだそりゃ!?

ぜんぜんDRMフリーじゃねぇじゃねぇかよ!?!

DRMフリーの意味が分かってんのかよ!?!!

Digital Rights Managementがフリーってことなんだぞ!!!!

フリーってことは無料ってことじゃなくて「なにやってもいいよ(変換自由だよ)」ってことなんだぞ!!!!!

わかってんのか?  わかってないのか?? わかっててワザとやってるのか???







・・・・・そういうわけでハメられました。




 同様に、「あたらしいiTunesはなんかヤバげだぜ」、的エントリも出てたり


Boing Boing: EFF finds HUGE block of hidden info in new iTunes tracks


Apple's new DRM-free tracks from the iTunes store not only contain your email address and password name in hidden fields, but in at least one case, more than 360k of hidden information. EFF's technologists have found a hidden block of data in the new iTunes tracks:



・・なんだそれ? サブリミナル?




    
  もうやけやかりません。。。




 そういや池田センセのとこにも似たような話題が出てたな



池田信夫 blog 著作権がイノベーションを阻害する


対価を払って買った商品(私有財産)を複製しようが改造しようが自由だというのが近代社会の原則である。買った後も複製を禁止する著作権は、この意味で財産権ではなく、財産権の侵害なのである。



 そういうわけで侵害されました。(そして心害)




 もう怖いよ



 エントリ先では「情報共有に厳しい判決が出ることによってイノベーションが萎縮する」ってことだけど、それ以前に萎縮しまくりですよ


(法のアーキテクチャ以前のテクノロジーのアーキテクチャってやつですね)





 はぁぁぁあぁぁぁ........orz





 あしたまたやってみよう




(そういうわけでこれを見た皆さんはiTunesアップデートは少し考えたほうがよろしいかと思います)


タグ:音楽 著作権
posted by m_um_u at 18:51 | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

平和資料館で「原爆投下=植民地解放」展 ?

 痛いニュースにこんなエントリがあがっていて目を引かれた。


痛いニュース(ノ∀`):【広島】 原爆投下は「日本の植民地支配から解放」とのアジアの声が根強い…原爆資料館展示見直しに中韓などの委員を起用へ

 
 資料館の新しい理事長が中国新聞のインタビューに答えて、「原爆投下を『日本の植民地支配から解放した』と肯定する考えが根強いアジアの声に触れながら議論を深め、多民族が共感、納得できる施設にしたい」」、と述べたんだそうだ。 


 なんだかよく分からなかったので痛いニュースの様子を追っていくと、「原爆投下は必要だった」言説の一環ということで反発を集めているみたいだ。


 たしかにそう言われればそう読める。


 ぼくは最初、「日本に帝国主義的な反感を抱いている中国・韓国の人々にも受け入れられるように配慮して展示を進めるべき」、ということかなぁ、と思ったのだけれど、2ちゃん(何板?)を見ている人々(あるいは痛いニュースを見ている人々)とは温度差があるみたいだ。

 んで、読み進めていくと、どうもこの理事長(スティーブン・リーパー氏)は「原爆は戦争を終えるために必要だった」、と思っていたらしい。


スティーブン・リーパーさん=広島平和文化センター初の外国人理事長−ひと:MSN毎日インタラクティブ


 父の仕事の関係で、子どものころは東京で育った。帰国後、大学時代はフロリダ州で過ごした。当時はベトナム戦争真っ最中。戦場に送られないため、国に認められれば徴兵を回避できる「平和主義者宣言」をした。認められたが、「本当の平和主義者としての宣言ではなかった」と振り返る。「すべての戦争が悪とは考えず、戦場への怖さもあった」と告白する。

 日本語を学ぶため84年に来日。友人を頼って広島市に来て、翻訳・通訳会社を設立した。原爆投下については「戦争を早く終結させてよかった」と思っていたが、核問題の本の翻訳や被爆者の証言の通訳などを通じて被爆の実態を知り、考えが変わっていった。



 これを見ると典型的なヤンキーってわけでもなく、日本に対してある程度の親和性を持っている人でもこういう考えをもってしまうんだなぁ、とか思う。

 経歴を見るとその後、平和系市民団体を結成したり、インドやパキスタンを訪問して平和の尊さを訴えたりしている。そして母国アメリカでも活動を始めていた、と。今度の大統領選での原爆展はこの人からの流れということみたい。それで秋葉さんがこの人を抜擢したということかな。

 略歴を見ると、

論壇 印パと被爆地 ヒロシマの使命 再認識

1947年、米イリノイ州アーバナ生まれ。
1978年、ウェストジョ ージア大臨床心理学修士課程修了。
1948年に宣教師の父とともに来日 以来、通算二十年日本に在住。経営コンサルタントを経て86年から 現職。
1998年、GPAを広島市に創設。


(加えて言うなら、「73年にキリスト教青年会の英語教師として来日」、と 参照


 ということで政治・歴史的な知識は強くないみたい。

 リンク先の記事を追っていてこんな文章が目に留まった。


 平和交流を通じて多くの希望も見いだした。パキスタン人の女学 生のことが今でも忘れられない。彼女は原爆スライドを見、被爆体 験を聞いた後に、こう質問した。「核兵器の恐ろしさは分かるけ ど、核兵器を持たずにどうやって国を守ることができるの?」

 私は女学生に「インドが敵だと考えるのはやめよう」と言った。 「戦争とか、勝ち負けという考え方は時代遅れで、互いに譲り合う ことが必要。国を守る唯一の方法は、友人になることだよ」。けげ んそうに聞き入っていた彼女に、私はさらに言葉を継いだ。「パキ スタンが防衛のために使っているお金と労力の半分を友好のために 使えば、両国の間にすぐにも友情が芽生え、互いに安全になるだろ う」。彼女の表情は和らぎ、ほほ笑みながら「ありがとう」と言っ た。



 おそらく、彼の意識の根底にあるのはこういう認識。「敵も味方もない」、ということなのだろう。これが今回の発言に繋がったのだと思う。

 それ自体は否定しないし、素直にすばらしいなと思う。

 でも、少し気になるのはその後に続く文

 ヒロシマは「生き地獄だった」と被爆者が形容する廃虚の中か ら、やがて「敵」という発想を乗りこえた。ヒロシマは、核兵器、 戦争、ねたみ、憎しみや恐怖こそが本当の敵だということを知って いる。今こそ全人類が一体となって山積した問題を解決し、だれも が安心して暮らせる世界をつくるときなのだ。

 非被爆者ばかりの旅はまた、英語の話せる人や広島の若者 が、被爆者に代わって体験を極めて効果的に伝えることができるこ とを証明したと言えるだろう。ヒロシマは世界の人々、とりわけ紛 争を抱え、敵対し合う人たちの間に立ち、平和のための仲介役を 果たしうるとの確信を私は抱いた。



 これは少し違うのではないか?


 よくある「ヒロシマ」への過度の期待(逆差別)みたいなやつだ。


 「ヒロシマ」は戦争やねたみ、憎しみなどが本当の敵だと知っているのかもしれないが、「被爆者(あるいは被曝者)」にはそういった意識はない。いまだったらそういう人がいるのかもしれないけど、爆弾を落とされた当時、あるいは爆弾が落とされてから何年か経って被曝の後遺症が出始めたときに、そういった思いをもてた人がどれだけいると思う?

 みんななんだかわかんないけど身体がだるくなって、わけも分からず苦しくて、生きてる実感もなくて、ただ痛みだけが続く中で「なんで生きてんだろ」って思って、差別とか家族のこととか心配して、いろいろ不安を抱えながら死んでいったわけだが。

 その中で、「誰も恨みません」だの「敵はいません」だのといった思いを持てた人がどれほどいたと思う?


 そんなのはヒロシマが美化された姿に過ぎない。


 そして、そういったものを信じたいと思って勝手になにかを投影しているのだろう。


(多くの人は千羽鶴のサダコを知っていても、散髪屋の娘の貞子のことは知らない)




 もちろんいろんな感情を廃さなければ伝わらないものがあるということは分かっている。「非被爆者」や「英語を話せる若者」の可能性というのもそういうところにあるのだろう。彼らは、「知らない」ということを武器に「知らない」人々との感覚を共有することができる。「知らない」人々の感覚に立って、なにかを伝えることができるのかもしれない。


 でも、あまりにも無邪気というかお気楽だなぁ、とは思う。


 
 今回の発言はそういった隙から生じたものなのだろう。


 

 以上から考えるとこの人や平和文化センターに抗議を送ったところでそれほど有効ではないように思う。


 たぶん、「敵も味方もないということを伝えるということが大事なんです」、って思っていて「それが信念なんです」、って言うと思う。

 一応、今後は発言に注意するようになる(あるいは周りがそれなりの配慮をするようになる)だろうけど。


 

 その上で資料館の展示内容の変更(更新)、あるいはアメリカ大統領選における原爆パネル展の有効性について少し考えてみよう。


 まずは資料館の展示更新内容について、

広島平和記念資料館更新計画




広島平和記念資料館更新計画(本文)〔PDFファイル〕

より一部抜粋(p9)


 
? 展示構成
常設展示はこれまで部分的に更新してきた結果、全体としての統一
に欠ける面もあり、観覧の動線の見直しと併せて、構成や内容につい
ても全体を通して見直す必要がある。見直しに当たっては、より長い
時間をかけて観覧できるような構成とすることが必要である。また、
戦争体験のない世代にも、原爆被害の全体像が理解され、被爆が今日
も続く問題であることを認識できるようにする必要がある


? 展示手法
資料の展示を通して被爆の惨状をより分かりやすく伝えるとともに、
被爆者や遺族の苦しみや悲しみなどを伝えるため、実物・写真・映像・
原爆の絵、模型などの展示手法を研究して、展示の一層の充実を図る
必要がある。



(※太字強調はblog主によるもの)




広島平和記念資料館更新計画(資料編)
〔PDFファイル〕より「平和記念資料館の展示と建物についての意見聴取等の概要」(※アンケートの概要)

より一部抜粋(p47)



展示分野

展示の分野について、原爆被害の実相について重点を置くという意見と、歴史、加害、時事問題などに広げるという意見があった。

原爆について展示領域を特化すべき。原爆と歴史加害の問題は別であり、ここで歴史について述べても足りない。全国の平和関係の機関で分業体制をとり、各々で強くアピールできることをしていけばよい。
・平和関連全体を盛り込むと、他の戦争博物館と重複する。展示は必要最小限のことにして、興味がある人は調べるコーナーを利用するようにすればよい。
原爆はいけないということではなく、戦争はいけないということを訴えなければならない。それには核の被害のみでなく、加害、在外被爆者等抜きにはできない。
・イラク戦争やパレスチナ問題など現代の問題も紹介して欲しい



(※太字強調はblog主によるもの)




 こんなところか




 つまり、アンケートでは

「歴史問題や当時の国際政治的動向まで配慮すると大変なのでやめといたほうがいい(資料館は原爆の実相を伝えるために特化すべき)」という意見と、

「原爆だけではなくより広範に“平和”運動全体についてアピールすべき。そのためには日本の加害責任や在外被爆者の問題、現代の紛争の様子も伝えるべき」という意見に分かれた、と。


 で、今回の更新では後者の意見を採用したということか。


 ちなみに対象者は来館・意見聴取、国内・外国人・団体など含めて1085人とのこと。面談:200人、アンケート:外国人個人64人、団体100、ホームページ・チラシなどによる意見募集:547人、ほかはスタッフや他の博物館職員などへのアンケート、聞き取りなど。

 面談用のアンケート用紙は選択項目式で、「印象に残った箇所の理由」や「展示要望の具体例」の項目、「その他要望」だけ記述。「今後の展示はどのようにしていくべきか?」という項目について、4割弱(42.5%)が「今のままでよい」、3割近く(28.5%)が「もっと被爆後の悲惨な状況を強調すべき」、1.5割強(17%)が「大人と子ども向けの展示を明確に分離すべき」、としている。

 外国人向けのアンケート結果も同じ感じ・・というか、外国人のほうが現状維持派が多い(48.4%が「今のままでよい」、18.8%が「もっと被爆後の悲惨な状況を強調すべき」、12.5%が「大人と子ども向けの展示を明確に分離すべき」)。

 被爆体験受講団体(被爆のお話を聞いた組)は7割が「今のままでよい」、と。


 有識者(といわれる人々)のほとんどは「現状維持」もしくはそれに近い回答をしている。その中で、元スミソニアン国立航空宇宙博物館長のマーティン・ハーウィット氏だけ「歴史解説も必要ではないか」、という見解を示している。


来館者が犠牲者に対し必然的に抱くような情緒的な部分の展示と、原爆投下に至る経緯等を説明した純粋に史実を紹介する展示とを完全に分離する。情緒的な部分では、もっと、原爆投下によりもたらされた苦しみに焦点をあてるべきである。また、投下によって生じた長期的な政治的議論を紹介すべきである。







 「世界への平和アピール」ということを前面に押し出している秋葉平和行政からすればそういうことになるかと思うけど、びみょーな感じもする。


 ちょっと見ただけだけど、「日本の加害者責任」というけど日本が戦争をせざるを得ない状況に追い込まれたこととか、日本が進出しなければロシア・アメリカの包囲網が迫っていただけとか、そういう歴史認識はないのではないか?

 まぁ、こういうことだが

極東ブログ: 空想過去小説「チーズとバギウム」

 
 
 「加害者責任」に着目してそれ系の展示をするというのならば、こういうこともある程度理解して、理解でいない部分はほのめかす程度で展示すべきだと思うのだけれど、そういうことが平和資料館にできるのだろうか?




 そして、ぼくの場合はその上で原爆投下に反対しているわけだが。



muse-A-muse 2nd: <ヒロシマ>ということ



 理由として一番大きいのはあれがただの爆弾ではないから。多くの人は「戦争をとめるために仕方がなかった」とか「東京や沖縄も襲撃された(広島だけ特別じゃない)」とか言うけど、原爆というのは本質的に違うものだということが分かっていないのではないか?

 エントリ上段でも少し述べたけど、あれは後遺症が出るのだよ?


 そして、その後遺症(毒)は何年にもわたって血の中に染み込んでいて、「完全に安全」って思えることはないのだよ?



 「原爆は仕方なかった」という人はそういうことが分かっていないのではないか?(知識として言葉では分かっていても本当の意味では理解できていない)





 でも、まぁ、そういうのは伝わらない人には伝わらないし、一生理解できないことなのだろうからもうなにも言わないけど。




 次に大統領選におけるパネル展だけど、これは・・・どうなんだろう。


 基本的にヤンキーな人々は「原爆投下仕方なかった(必要だった)」な考えなのだろうし、「ヒロシマ」についてさえ知らない人がけっこういるだろう。

 大統領選に投票に行く人というのは政治的、社会的関心がある程度強い人ということだけど、世界に対する関心はどうだろう?

 こちらでも少し言ったけど、あっちの世界への関心って「FOXニュースでズタズタ」って感じなのだろうし。

 で、選挙に行く層としてはFOX的なガチガチな保守派とそれへの対抗勢力(リベラル?)って感じになるのかなぁ。あと中立派みたいなのがあるか。

 リベラルっていうか民主党系の支持者はけっこう有識な人が多そうな気がするので説明不要って感じがする。FOX系は最初っからムシしてくるかも。ってことは中立派ってことだけど、この辺がどれぐらい選挙に出てくるかだよなぁ。

 今回の選挙についてはきちんと予習してなくて、「オバマ氏かっくいいな」ぐらいな印象しかないけど、オバマ氏支持派とかって中立派になるのかな?(よくくわからんけど)


 で、展示内容としては


中国新聞 地域ニュース:被団協、国際平和行事に意欲

広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長は、母国である米国の計101カ所で、大統領選がある2008年までに原爆展を開き、体験を話す被爆者を送り込む計画を示した。リーパー理事長は「核兵器の問題を大統領選の争点にするため、米国民の意識を高めたい」と狙いを述べた。



 って感じでパネル展ではないのか?(あるいはパネル+語り)


 でもさっきも言ったように、基本的にヤンキーって「原爆は仕方なかった(それで戦争が終わった)」って思ってるのだから被爆の体験を聞かせてもあまり意味がないような気がする。

 「それとこれとは別」っていうか、「心情的には共感するけどやはり仕方なかった」って思うのだろう。


 だったら(少し荒っぽくなるかもしれないけど)こちらでも少し検討したような「仕方なくなかったかもしれない歴史解釈」を提示したほうがよいのではないか?


muse-A-muse 2nd: <ヒロシマ>ということ


 つまり、「日本は戦争降伏をしようとしていたのに、アメリカが核を使ってソ連をけん制するために原爆を落とさざるを得ないような状況を作り上げた」、ということ。


 そして、彼らは長崎ではマリア像の上に爆弾を落としたということ


muse-A-muse 2nd: 被爆のマリア



 そういったことを語るほうがよっぽど効果的なように思うが。





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関連:
muse-A-muse 2nd: ヒロシマに原爆を落とすべきだったか?



muse-A-muse 2nd: road 2 partition

※秋葉行政の背景について。前職の平岡さんが「平和」一辺倒だったため、行政の停滞が生じた。それに対して秋葉さんは地元の財界とか、それと関わりのある政治家とはある程度の距離をとろうとしているみたいだけど、そのドライな姿勢が反感を呼ぶこともある。 っつーか、個人的にはこの人苦手だ。




カトラー:katolerのマーケティング言論: 映画BABELと9.11をつなぐ世界共時視線

※アメリカの人々にとって9.11はヒロシマにも似たトラウマなのだろう。「テロの成功を喜ぶパレスチナの子供達の映像がアメリカ人たちのトラウマ映像になった」というのならば、ヒロシマということの意味がなぜ分からないのか、と思う。あるいはその部分こそ共感の縁か。




辺境で何か問題でも? (内田樹の研究室)

※<「世界の中心」的な驕りが出たときにみょーな感じになっていく>、というエントリ。で、辺境(極東)の一島国として生きたほうがいいじゃん、と。同様に「平和」というのを声高に叫んでも受け入れてもらえないだろう。(粛々と伝えるのみです)

 
 
 




タグ:ヒロシマ
posted by m_um_u at 07:16 | Comment(4) | TrackBack(2) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年05月22日

車を捨ててケモノ道に入ろう!

The denunciation of the young is a necessary part of the hygiene of older people, and greatly assists in the circulation of their blood.
-- Logan Pearsall Smith, Afterthoughts (1931) "Age and Death"



To get back my youth I would do anything in the world, except take exercise, get up early, or be respectable.
-- Oscar Wilde, The Picture of Dorian Gray, 1891


The secret of eternal youth is arrested development.
-- Alice Roosevelt Longworth



I'm very pleased with each advancing year. It stems back to when I was forty. I was a bit upset about reaching that milestone, but an older friend consoled me. 'Don't complain about growing old - many, many people do not have that privilege.'
-- Earl Warren, Chief Justice




You don't stop laughing because you grow old. You grow old because you stop laughing.
-- Michael Pritchard



Man is the only animal that laughs and weeps, for he is the only animal that is struck with the difference between what things are and what they ought to be.
-- William Hazlitt




The dead might as well try to speak to the living as the old to the young.
-- Willa Cather




Everyone thinks of changing the world, but no one thinks of changing himself.
-- Leo Tolstoy




Almost everything ・all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure - these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose. You are already naked. There is no reason not to follow your heart.
-- Steve Jobs






Youth cannot know how age thinks and feels. But old men are guilty if they forget what it was to be young.
-- J. K. Rowling, Harry Potter and the Order of the Phoenix, 2003










 巡回先の話題が絡まったり無理やり絡めようとしてるのかよく分かんないのですが、なんとなく関連したのでまとめてまったりと。



ぶらざーてぃのblog:車社会の転換期なのか〜ガソリン高騰と新車販売不振〜 - livedoor Blog(ブログ)


藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 三十歳までに、死のうと思っていた



 brother-tさんのほうは最近ちょこちょこお話させていただいている社会インフラとしての交通系のお話。本blogの関連エントリとしてはこちらがあります。


muse-A-muse 2nd: 地方の交通問題に関して(+地域活性化について少し)


muse-A-muse 2nd: (地方と)「東京」から考える


 んで流れとしては、「過疎地の高齢者にとって公共交通機関がないのってキツイね」、が軸としてあるわけだけど今回はそれ以外にも、「若者も車持たなくなってきてるよね」、ってのでお話。

 「若者の車離れ」について痛いニュースでもとりあえげられて、車会社の浮世離れ感が反発呼んでました


痛いニュース(ノ∀`):“若者、車離れ” 日本国内で車売れない…トヨタ、本気でアイデア募集


 そういやessaさんとこでもとりあげてたな


アンカテ(Uncategorizable Blog) - この国で政権が取れない左翼政党って何?


 それで、「これだけ不満があるのにこの不満を吸い上げてエネルギーにできない左翼政党って何?」、と。


 まぁ、党首が親指みたいな顔した人だからなぁ。。人格攻撃みたいになっちゃうけど、批判って言うつもりでもなく印象として、なんとなくあの人の顔って親指に見えるんすよね。あと、長州に似てる(そして流れで長州小力を連想させる)。

 国民新党のときも新日本プロレスの立ち上げっていうか、もっと小さい団体に分派したような印象があったし・・。(そういや日本の政党ってプロレス団体に似てますね)



 まぁ、それはさておき



 そんな感じで若者層は車買わなくなってるわけです。その理由として、2ちゃんねるとかそのまとめサイトである痛いニュースに集まっている不満を見渡すと「お金がない」っていうのもあると思うんだけどそれ以外に。持ってても維持費がかさむだけでそれほど意味ないんですよね。特に東京のように公共交通機関が整ってる都会では。渋滞まきこまれたり周りの変な運転にストレスたまったりするだけだし。あといまの世代は環境問題的な意識がけっこう染み付いてるから。

 それから根本的なところとして見栄がなくなってきてるのがあるかなぁ、と。新聞の購読率が減ってきてるのにしてもそうなんだけど、あれって合理的に考えるとそれほど意味ないんですよね。いまはネットほかで情報得られるわけだし。で、新聞のキラーコンテンツの一つであったはずの番組表もネットで見れたり、もしくは朝日は日曜版に一週間の番組表を載せるようになりましたね。なので合理的に考えれば「新聞いらねー」なわけです。「新聞とるんだったらケータイ代ほかに使う」、って感じで。こういうのは若年層だけに限らず中・高齢者にも同じような意識があるみたいです。

 中年層はまだ働いてるわけだから「ご近所の手前」という見栄があって新聞取り続けてるわけだろうけど(あと、会社コミュニティにおけるプロトコルの共通化のため)、高齢者はリソース少なくなってきてるからいらないものは削いでしまわないといけない。なので新聞やめたりとか、「燃費のかかる大型車はやめてバンでも買おう」、って感じになってきてるみたい。

 
 あと、「合理的プロトコルを選択するようになって従来の惰性をやめた」関連ではこんなのもありますね


切込隊長BLOG(ブログ) - 続・「若い社員との接し方が分からない」って悩みはほぼ全員が持ってると思うんだけどね


第19回 素面男子〜なぜ「飲む、打つ、買う」?意味わからないです (U35男子マーケティング図鑑):NBonline(日経ビジネス オンライン)


アルファルファモザイクより「先輩のビールの入ったコップのビールが減ってたら注いでいいの?」



 飲み関連はもうちょっと進んでセクハラならぬ飲みハラみたいな言葉も出てきてるんだっけな?「飲み会の強要禁止」ってやつ。 性関連についてはより合理的に済ますために風俗を活用するって向きもあるみたいですけど、まぁ置きます。



 で、話を戻すと、そんな感じで選択されるプロトコルがより合理的なものへと変化してるみたいなんですね。で、そういう層は見栄を捨ててより自分の欲求に忠実な選択をするってことなんだけど、この辺の層をしてfinalventさんなんかは新中流層って言ったりしてます。


finalventの日記 - 朝日社説 来年度予算―歳出削減を緩めるな

従来中流と思っていた層のなかに定収入の世帯と、負担の多いまたは不定期収入の世帯で分離が起きているのだろうと思う。そしてこの分離が格差のように見えるが、これは単なる階層分化でしかなく、大筋で、下層を切り捨てていく方向に消費活動が進んでいる。
 でだ、もうちょっとあえて言う。公共サービスが民間サービスを覆っている部分によって格差が覆われている感じがする。単純なところでいえば、無料貸本屋である公共図書館だ。つまり、これは下層の保護でもあるし、その保護の対象は、どうも潜在的な左翼市場っぽい。ただ、これは公明党・共産党の市場でもある。このマスが大きくなることで、実はこの勢力が利する傾向にある。どうも、これらの政党指導者は実質的にそれを読んでいるのではないか。


つまり、旧中流が、新中流と下層に分かれるというより、いわゆる昭和的なファミリー世帯の維持をするにはその負担分で公務員でないかぎり、自然的に下層的な消費に押し込まれる。

 これに対して、そういうファミリー志向でない、べたにいうとパラサイト、とか、未来なんかどうでもいいや系の人々の消費、が多分に新中流的に見える、ということかも。



 「勝ち組 / 負け組」の分かりやすい格差ではなく中流内で階層分化って感じ。具体的にはプレジデント系とパラサイト系って感じかな。

 プレジデント系っていうのは雑誌プレジデントに載ってるみたいなライフスタイルを地で行こうとする世帯のことです。つまり、「車もって、持ち家あって、子供は塾に行かせて、将来は留学でもさせて、ついでに別荘なんかあってもいいかも」、な感じかな。

 対してパラサイトというか「未来なんかどうでもいいや」系の人っていうのは年金不払いなんかに代表されるような公共へのコミットの低下組って感じだろうか。っつーか、従来の「理想の家族像」うんぬんなライフスタイルを捨てた組ってことでしょうね。(cf.フリーライド)


 ちなみに所得・貯蓄の開きについてはこんな感じみたいです。


J-CAST ニュース : 勤労世帯の貯蓄、2,2%減


 年収650万ぐらいで平均1200万の貯蓄、と。この層が公務員・プレジデント系ということになるのかな。でもそんなの全体の1/3ぐらいしかいなくて、残りの2/3の中でも最も多いのは貯蓄200万未満だということのようです。



 んで、「下層」っぽいところを公共サービスが補填していくけど、その部分を食い物にする勢力によってボトルネックができる、ってことみたいですね。つまり、日本経済全体のことを考えれば(批判はあるにせよ)ある程度ネオリベ的なリストラも必要なのだけれど、その部分の不満を公共サービス的に補填していったらますます甘やかされるだけで働かねぇんじゃねぇの?、と??。

 で、働かないのでお金が入ってこないし、財が還流しないので市場が活性化しない。そうすると日本経済全体の信頼が危ぶまれることになって安全保障的にも危うい・・。(日本の価値は市場の大きさにあるので、いまのところここが回転しなくなると世界経済全体に影響が出るので守ってもらってるはず、と。)


 後段の、「働かない世帯を保証するとますます働かなくなるだけなんじゃねぇの?」、的視点はびみょーな感じがします。「働きたくとも働けない」、「働いていてステップアップもしたいのにできない」、「ステップアップしようと思って資格なりなんなりをとったのにその努力が認めてもらえない」、といういわゆるワーキングプア層がいるように思うので。

 以前から言ってるけど、この部分への保証をきちんと考えないと社会的信頼に基づいたモチベーション(あるいはモラル)のようなものは失われていくのではないでしょうか?(って、finalventさんも※欄で似たようなこといってるけど)


 それとは別に機会があるのに働かない層っていうのはいて、その層のマインドっていうのはこんな感じかなぁ、と


やっぱり貧乏人は合理的でないのかもしれないよ。


 アフリカの話ということでちょっと文脈違うんだけど、ここで語られているように、「貧乏人は日々の憂さ晴らしのための酒・タバコをやめることはできないし、それに拘泥することで目の前の機会を逸していく」、ってのはあると思います。機会があるのに飛びつかない理由として、山形さんがちょっと言っておられるように、「失敗して痛い目にあったことある(もしくはそういう人を見ている)ので慎重になってる」、ってのもあると思うけどやっぱ負け犬根性が染み付いてるのかなぁ、とか思ったり。


 「勝ち組 / 負け組」なんていう所得ベースの安易な差異化に乗るつもりはないんですが、人生において勝ち負けというのはあるように思います。

 それは、「自分の中の可能性に向き合ってそれを活かしたかどうか」、ということころにかかってくるように思う。本当に自分が望むこと、それをしたいという魂の声に向き合って勇気ある一歩を踏み出せたかどうか、そこで道が分かれてくるように思います。つまりこういうことですね


muse-A-muse 2nd: フランク・ゴーブル(著)、小口忠彦(監訳)、1972、「マズローの心理学」



 「自己実現」とか「ホントノジブン」なんて言葉はあやふやで慎重になったほうがいいのだけれど、ホントノジブンっていうか、自分の可能性は活かすっていうのはあるように思う。それは雑誌やテレビで喧伝されているような「理想のワタシ」像を目指すということではなくて、お金とか見栄とかそういうのとは関係なく自分の欲求に従うということ。その一歩を踏み出すことによって自分自身を信じるという気持ちを取り戻す、あるいは新しい自分を歩き出すということだと思います。


(そういう意味ではルーチンな生活で「勝ち組」気取ってても人生の勝ち組になれるとは限らないでしょう。熟年離婚されたり)


 んで、この辺が金蓮さんの話につながってくるわけですが・・(はい、すみませんね。いつも通り長い前振りで)



 女性の場合はまた特殊でしょうね。なにせいちお男社会なわけだし。そして30歳を目前にして「結婚か仕事か」の二者択一がある。


J-CAST ニュース : ヒロスエ母校「品女」 ユニーク教育でグミ開発 


四年制大学を22歳で卒業して就職すると、仕事ができるようになり始めるのが25歳、責任ある仕事ができるようになるのが28歳ごろ。30歳を目前にして、結婚・出産でキャリアを中断するのか、継続するのか。28歳が社会進出して活躍しようとする女性の転機だ。28歳をマイルストーンとして、さらに高いキャリアで活躍できるようになるために、品川女子学院6か年で必要な力をつける。そんな指導を「28歳マイルストーン進路ビジョン」と呼ぶ。




 さらに言うと、そこまで行く道程でも「女のくせに」問題とかあったり・・・


断片部 - 牛蒡 - あのね,学歴の高い女の子はたいていの場合十代の頃から学歴が高いというだけでふられたり選択肢からはずされたりそういう目にあってるんだよ



 いわゆる「弱者男性による僻み」ってやつで傍から見てると「そんなウザイの相手にしなきゃいいじゃん」とか思うわけだけどなかなかねぇ。。(惚れた弱みというか)


 そういう人はけっこう見てきたのでなんとなく分かります。



 っつーか、学歴逆差別関連って女性特有な問題でもないわけだけど


正直な話、学歴コンプレックスはほんと対処が大変です


 やっぱ女性のほうがきついでしょうね。



 てか、さっきも言ったけど、「強くならなきゃ生きていけない」社会のルールに従って強くなると、「うわ、怖ぇよオマエ(いらない)」、ってなるんすよね。酷いし理不尽だけどそれが生活というもので似たようなことは女性もやってるわけだけどまぁそれはここでは語らず(・・ごにょごにょ)


 で、こういうウザイ男はほっといてガイジンと結婚すればいいじゃんとか思うわけですね。

 ガイジンって大人な人が多いし、レディファーストだし、ガイジンからすると日本女性って若く見られるし、ガイジン男性における日本女性の人気って結構高いし、このままだと日本社会どうなるかわかんないから国外脱出ってのもありかなとか思うし、たとえば仕事を続けていくにしても看護師業みたいなのに代表されるように日本だと労働条件の悪化なんかが気になるところも外国(ってか、オーストラリア)だとけっこうよさげだしけっこう簡単に就労ビザおりそう・・・・・。


 「貞淑な妻」的な王道(?)からすればケモノ道なのかもしれないけど、個人的にはこちらのほうがはるかに魅力的に思える。そんなことを思ってヤギ娘に提案したり、今回のエントリでもこれ系の話をメインで展開しようと思っていたんだけど、前振り話が思いのほか長くなってしまった・・・・・(いつも通り)




 あっちでなんか書くかも


 

 そういうことで再見!






♪ Double Famous (feat.Miyuki Hatakeyama) / 夜来香  (※中国詞の訳はこちら



--
関連:
muse-A-muse 2nd: 教養について ver.2.0

※「惰性的な人情プロトコルから合理的選択へのシフト」関連で。働き方・生活の仕方が合理的になってきてる根幹に教育というか知識(スキーマ)受容レベルでの意識転換があるのかもしれない。




赤尾晃一の知的排泄物処理場(わかば日記) 限界集落とコンパクト・シティ

※山間部の廃村や準廃村の状態維持のために公的負担をするよりは、住民に中心部に移動したもらったほうがコスト削減できるって話。でも、住民の生活費への補助とかあるのかなぁ。



赤尾晃一の知的排泄物処理場(わかば日記) 年上の女性とその娘

※金蓮さんは、『母性」と「男前」とを兼ね備えた姐御系の女性』を目指すのかなぁ、と。(そういやこのエントリなんかはそんな感じでしたね↓)


藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 優しい恋人



あまり関係ないけど男前豆腐は好きです。(ニューヨーク進出だそうで)

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2007年05月21日

レッスルするアカデミズム? (学問とジャーナリズムの間)

 ハコフグマンさんとかその他の方のエントリを読んでいていろいろと思うところがあったのでちょっと繋げてみよう。最初はハコフグマンさんの書評から


ハコフグマン: フューチャリスト宣言


 本blogの関連エントリはこちら

muse-A-muse 2nd: 例のよもぎ餅について



 んで、一番思ったのは、「やはりきちんと読んでから批判なり批評なりしないとダメだねぇ」、ってこと。当たり前のことだけど、まぁ、いちお。 んで、鶴見俊輔さんの誠実さとか思い浮かべたり。

 鶴見さんは対談するとき、相手の著書を全部読んでこられるのだそうだ。もしくは主要な著書を読んでくる。サラっと書いてしまったけど、これは地味にすごいな、と思う。こんな感じで

 
とみきち読書日記: 『戦争が遺したもの』 鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二



80歳を超えてなお、小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』を1日でざっと読み、さらに3日かけて再読したと言う。その頭脳は衰えることを知らない。さらに驚くのは、40年も年下の、しかも無遠慮な質問を突きつけてくるその若者に対して、愛情を持ってその著作を褒めている。この柔軟な心、懐の深さは尋常ではない。



 ついで


最も感動したのは、鶴見俊輔の人間の大きさ。「今回は、完全に三日間を空けてありますから。もう私も八十歳だから、余命から計算した大した時間ですよ(笑)。聞いていただければ、なんでもお答えします。」と鶴見は開口一番発言している。その言葉どおり、矛盾を突かれても、答えにくい問いかけに対しても、自分の過ちに対しても、逃げることなく、言葉を尽くして対応している、その姿勢に心の底から感銘を受けた。




 そういや田口ランディさんのところにも同様の記述があった


田口ランディ公式ブログ : 対談ということ


対談相手の著書などを、事前にしっかりと読むようになったのは鶴見俊輔さんと対談してからだ。鶴見さんは、対談のために私の著書をほとんど読んでいらっしゃった。しかも本には無数のふせんを貼りつけられていた。私はそれを見て、若輩の自分がなんとナメて対談に臨んでいたのか、ほんとうに恥ずかしくなり反省して、以後、対談を受けるときは相手の著書は最低でも一冊は読み切り、最近どういう発言をしているかなど資料を調べてから臨むようになった。あのときは、ほんとうに猛烈に反省したのだ。

鶴見俊輔さんは「対談のときは相手の本を読みなさい」などとは一言も言わなかった。でも、その態度を見れば誰でも気づくはずだ。そういうことを生き方で示すのが大人というのだろう。





 もう、「ごめんなさい。わたしがわるかったです。こんどからもうしません」、と言うしかないわけだがいちお言い訳すると、前回のエントリはその辺のところ分かっててわざとやったって言うか・・・・・・はい、すみません。わたしがわるかったです。



 んでも、まぁ、言い訳をさせてもらうと、忙しいってのは別にして、あれは読む前の与件みたいなもので。「与件」として自覚しているので「〜ではないか?」ってエントリにしてたわけだし・・。


 対照として読んでも読めてないみたいな人もいるわけだからその辺はアイコかな、と(読めてない人とアイコになっても仕方ないわけだが)。


 「読めてない人」というのは文章の読解力という点もあるのだろうけど、なんか先入観のようなものが先立ってしまってその読みを先行させて読んでいるので、「テクストの主旨を理解する」という目的よりも「自分の意見に合ってるかどうか」ということを確かめることが肝要になるのだろう。そういう読みは速力はでるけど得られるものは少ないように思う。(元からテクストから何かを得るつもりもないのかもしれないけど)


 なんとなくこの辺が頭に浮かんだ。


インタラクティヴ読書ノート別館の別館 - キャラクター小説・ライトノベルの特徴


 「純文学的なテクストや読者が作品の主題(メッセージ)を重視しそれに対してなにか思いを込めたり感じようとしているのに対して、ライノベ作品や読者たちは記号そのものの戯れを楽しむことに終始し、作品の主題とかはどうでもよくなってんじゃねぇの?」、と (※一部意訳)

 稲葉さん同様ぼくもライノベには詳しくない、というか読んだことないのだけれど話を続けさせてもらう。

 こんな感じで内容ではなく周辺からテクストを解釈していこうとする姿勢というのは、文学理論的に言えば詩学に対する解釈学のアプローチに似ているように思う。

 いや、それとも少し違うか。解釈学の場合は間テクスト性という感じでストーリーの連関性にこだわるわけだけど、ここで稲葉さんが提示されているライノベの読み方というのはテクストのギミック(細部)へこだわるって感じなので。ちょっと文脈違うかもしれないけど、こんな感じだろう。


[マスダアニメ]なぜ作画の評価が割れるのか?


 もしくは脚本ではなく演出のみに目を向けるって感じだろうか?




 んで、話を元に戻すと、「読んでるのに読めない人」というのはライノベ読みの人と同じような読み方をしてるのかな、とも思う。彼らにとっては主旨ではなく細部が重要なのだ。


 でも、梅田さんの最近の著作におけるスタイルって元々そういうのじゃないみたいなのであまり意味をなさない。

 「細部をつついて批判するのがバカバカしいような明るい本」であり「現代の共産党宣言」だから。


 要するにパフォーマティブなのだ。言い換えれば政治的といってもいい。そこで問われるのは叙述の正確性や新規性というよりも、演出のされ方(盛り上げ方)なのだろう。


 その辺りについて、唐沢俊一さんによる「ゲーム的リアリズムの誕生」評に関連記述があったのでちょっと引用。(朝日、2007/5/20, 13頁)

(※文脈としては、前回の「動物化するポストモダン」に比べておとなしくまとまってきた(正確性を期してきた)よね、って感じから)


 しかし、後半で、著者がオタク的物語消費の典型例としてのライトノベルを具体的に評論し始めるあたりになってくると、従来の東氏らしさが顔を出す。ライトノベルに比較されたときの自然主義文学への勉強不足(本書での認識はクラシックに過ぎるだろう)を気にもとめずどんどん話を断定的に進めていくあたりの痛快さは、喩えが変かもしれないが、剣豪小説のような、スカッとした読後感を残す。こういう現代思想書もあまりない。代わりのいない個性を持つ学者なのだ。まだまだ老成せずに、若々しい問題提起を続けて欲しいものだ。



 意訳すると、「東、ネコかぶってるかと思ったら後半できっちりバックドロップ打ってきたよ(ルー・テーズばりの)。アレだな、東も捨てたもんじゃねぇな!(いや、若いよ。青春万歳!!)」、って感じだろうか。


 つまりこれらはベタをかぶったネタであり、演出なのだ。小川直也がストロングスタイルだけでは受け入れられないように、学術芸人というのも固くて真面目なことばかり言っていても本は売れないのだろう。

(小川はそれなりに演出しようとしているけど、失敗しているみたい)

小川直也が面白い - おまえらの好きにはさせねえ!



 しかし、小川のいまの立場というのもストロングスタイル(てかセメント)で実力を認めさせたからあるものなのであって、それと同じように学術芸人にもなんらかの実力行使のようなものが必要なのではないか? そういうわけで東っくすの主要著作ぐらいは読んでおこうかなとか思う反面、茂木さんは専門から遠く離れているのでちょっとムリっぽい・・。っつーか、東っくすのほうも一緒に仕事するわけでもないのでめんどくさい(いち消費者としては)


 でも、まぁ、機会があれば。。


 
 っつーか、アレだな。これって伝統的な「学問とジャーナリズムの間」議論だな。「スペシャリストとジェネラリスト」っていうか「タコツボとポリバレント」というか


[R30]: ポリバレント=多能工って言えばいいんじゃね?



5号館のつぶやき : セーフティネットとしての基礎能力 (アスリートと研究者)



 んで、R30さんなんかは、「アカデミズムには昔からジャーナリズムを蔑む視線がある」、とか言っててもっともだとも思うんだけどそこもちょっとびみょーで。アレげなセンセたちがわけもわからず「しょせんじゃーなりずむだからねぇ」とか言うのは放っておくとして、きちんとした研究(学位論文とかなんらかの外部査読が必要な責任あるもの)ではいわゆる「ジャーナリズム」的なフォーマットの製品は出せないように思う。

 
 つまり、いわゆる「ジャーナリズム」的な製品というのは、「5W1H」を基本としつつ力量のあるジャーナリストの場合は各事象の見えざる連関を読み解き「読者に分かりやすく提示する」というところが重要になるように思う。つまり「分かりやすく」というところが中心価値。

 対して学術研究の場合は「正確性」を中心価値とする。「正確性」やそのテーマの研究における「新規性」、そして全体の文脈における「重要性」など。んで、正確性を期すために「反証可能性」や「反復可能性」などを基本とした「科学」的な研究方法が必要になるわけであって、その際の論文の形式としては、「問題提起」「方法説明」「先行研究」「論述(もしくは実験結果の記述)」「考察」「結論」、といった流れが一般的なフローとなるように思う。


 つまり両者は中心価値が違うので比べようがないのだ。(アメリカ型ショービジネスプロレスとストロングスタイルの違いのようなもの)


 その上でR30さん(あるいは茂木さんや梅田さん)のおっしゃりたいことも分かる。そういう本来の研究目的を離れて、どーでもいいトリビアルなものに終始し、「研究のための研究」を続けているガッコのセンセが多いように思われる、と。

 この辺りはトリビアルに見えても基礎研究的には重要な部分かもしれないのでびみょーなところはあるんだけど、確かにどう考えても「それ居酒屋談義ですよね?」みたいなのを学術的な専門用語で塗り固めただけみたいな研究(?)が見受けられたり・・。
 
 あるいは、5号館さんのおっしゃるように専門領域に足を突っ込みすぎて、現世に帰ってこれない人がいたり。(丸山昌男的には「タコツボ化」ってやつですね)


 そんな感じで場が硬直化する危険性を取り除くために「学術ジャーナリスト」のような中間者(ミドルマン)が必要になってくるのだろう。


 茂木さんもこの辺を目指している、と。(そういや姜尚中さんも「元々そういうのになりたかった」ってpodcastで言っておられたな)



 っつーか、こういう政治・経済・生活圏(界)と学術圏(界)の綱渡しというのもジャーナリズムの役割だと思うけど・・・機能してないよな。


 んで、リンク先の田口ランディさんのエントリみたいな事態になる、と


それとは別に対談について少し考えるところがあった。
たとえば対談者が初対面同士の場合は、うまく対談できるように誘導するのが司会の役目だと思うのだ。ところが、多くの対談が、対談ではなくて、対面させただけに終わってしまう。今回もあながちそんな感じで、対談者が司会者に向かって交互にしゃべるだけでちっとも対談になっていなかった。

姜さんも、だいたい自分の思っていることを司会に向かってしゃべり、私もなんとなく司会に向かってしゃべりっている。これってマヌケだなあ……と思いつつも流れを変えられない。でも司会の編集者はそれを少しも変だと思わないらしく、自分が中心に立って得意なようですらあったので、しょうがないと思って諦めた。



 この場面だと、編集者自身も両者の著書を読むとか言説を追うとかして場の仲人をしてもよいものだと思うけど・・。もともと相互理解に満ちた良い対談を得ようとする気はなく、単に紙面埋めとか、編集者自身が望む言葉の羅列を待った対談だったんだろう。そういう意味ではジャーナリズムというもの事態が「界」(貝)として閉鎖しているものかもしれない。




 っつーか、雑誌対談ということでジャーナリズムとは違うけど、でもジャーナリズム全体にも同様のことは言えるように思う。つまり、「結論ありき」なのだろう。


muse-A-muse 2nd: (いまさらながら)OhmyNewsの「あるある」問題検証記事を見たよ



 そのほうが自分で制御できない問題が舞い込んでてんてこ舞いする危険性もないしな。要するに多様性(あるいは偶有性?)に対する閉鎖性というやつ。





 そういったシステムに風穴をあけるのはレスラーなんですかねぇ。。



全然関係ないけど、メガドライブにあった往年の名作「レッスルボール」の続編をナムコは出しやがれ!






--
関連:
スラッシュドット ジャパン | サイエンスライターの育成支援を国が検討


※そういや、この手の話ってどうなってるんだろう。。




5号館のつぶやき : 競争的資金から奨学金 

スラッシュドット ジャパン | 文科省、ハイリスクな研究に補助金検討
 

※んで、まぁ、「分かりやすい」とか「世間に役に立つ」とかいったタテマエ(あるいは短期的な視点)を元に有名大学に予算を集中させたり、基礎研究や人文系から予算を削ろうとする動きがあるわけだけど、それはまた別の話か



松岡正剛の千夜千冊『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー


※「界」の閉鎖性の問題、あるいは「学術プロトコルと市場価値との違い(思想の自由市場)」についてはブルデューがなんか言ってたか





高葦のLogbuch - 大学はなぜポリバレントな人材を評価できないのか


※「研究者の中に多能工というかジェネラリストを嫌う風潮は確かにある」ということで、「ジェネラリストもうちょっと評価されてもいいんじゃね?」ってことで大方同意なんだけど、「評価」の先としてきちんとお金につながってないとどうにもならんな、とか思ったり。この辺かな


福耳コラム - 高等教育の構造的問題を解決するには


もしくはこの辺

muse-A-muse 2nd: 大学教育について(上下分離の必要性など)


muse-A-muse 2nd: インセンティブと教育の質について

 
 
 
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2007年05月20日

珈琲は「もう一杯」?

 巡回先で喫茶店エントリが重なったのでちょっとつれづれてみよう


kakihara.org - blog : かへ


藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 喫茶店で、珈琲を


 金蓮さんのところは古きよき喫茶店でのぜいたくな時間について。対してkakiharaさんのところはオンラインコミック「かへ」の紹介(古くてよいものと新しくてよいものの接合)。


 ウチはもともと喫茶店をやっていたのでこういうのを見るといろいろ思うところがあったり。


 ウチの喫茶店はけっこう古くからやっていて、それなりに細々と続いていたんだけど10年ぐらい前にやめた。いちお広島の中心部でやっていてそれなりに客足もあったんだけど、やはり水商売というのは景気の波を受けやすいので。これから先どうなるか分からないし、相続税とかの問題もあるし・・(うんぬん)。

 詳しくは聞いてないけど、「中心部」ということでその他いろいろな税金もかかってたのかな?土地とビルはウチと親族かなんかの折半なのでテナント料はかからないんだけど、これから先もほそぼそと続けていくには未来が見えなかったというか・・。

 っつーか、ウチの一族ってコーヒー嫌いなんだよな

 だって苦いし。黒いもんな(「黒」は自然界では「食べてはいけない」の印のはず)

 
 最近だとそれなりに飲めるようになったけど、ウチの一族で「コーヒーを飲みに喫茶店その他に入る」などという行動をする人はあまりいないように思う。「ケーキを食べるついでに」とか「訪問先で出されたので仕方なく」とかならあるけど。(っつーか、ぼくは訪問先でも断るわけだがw)


 そんなこんなな一家がなぜ喫茶店などを始めたか?そしてどうして続いたのか?


 「なぜはじめたか?」については定かではないけど、当時(60s)は「それなりに儲かるもの」って感じだったらしい。「喫茶店」ってなんだかオシャレげだったので。

 女給さんとかボーイさんとかも雇ってけっこうでかくやっていたらしい。

 んで、近くに立派な古本屋もあって、そこで買い物したお客がその本を読むために立ち寄ったり、あとはお買い物客がちょっと寛ぐために寄ったり。(けっこう有名だったのかなウチは)


 まぁ、「純喫茶」って感じで落ち着いた造りだったしな。ウッドベースで店内がちょっと薄暗かった。そういうところがよかったのかもしれない。(隠れ家的で)


 んで、「なぜ続いたか」だけど。これは逆説的なんだけど、「コーヒーが嫌いだったから」、ということみたい。「コーヒーが嫌いだったので味をいじらなかった(味が変わらなかった)」ところが良かった、と。

 そういや、かなり濃いコーヒーの匂いしてたもんなぁ(ぼくなんかはそれが苦手だったわけだが)。


 でも、不景気の煽りとか高年齢化で辞めた。あと、喫茶店ということにそれほどの思い入れがなかったから、かな? はっきりと確かめていないけどそういうことかもしれない。店自体には思い入れはあったんだろうけど、喫茶店という形態事態はビジネス目的で始めたものだったし。客商売も元々そんなに好きではない。そういうことで辞めたみたい。


 「それほど儲からない」っていうのもあるけど、これから先続けていくとなると相続税払わないといけなくなるのであんな細いツルじゃムリだしな。そういう訳で老舗はつぶれざるを得ない。

 広島の中心地のアーケードにある老舗がどんどん潰れて、その後にケータイ屋とかコンビニとかが入っていったのはそういう事情。「ケータイ銀座」なんて揶揄されたりもするけど、その辺のことについて個人事業主レベルではどうしようもない。

 つっても、呉服とか太いツルもってるところは続けておられるけど、そのほかの店(ボタン屋とか昔ながらの靴屋)とかはこの一代で終わりだろう。


 老舗を続けさせたいのなら法人適用かなんかして税金免除してくれたらいいのに。そういうことはせずに「美観がぁ〜」とかよくわからないことばかり言う。ほんとによく分からん。

(「法人化」なんてのは言い過ぎにしても、店の継続契約と引き換えの共済なんかはあってもいいように思う)



 んで、いまは「カフェカフェ」できてきてるわけだが、ああいうのを見ると元喫茶店屋の子供としてはけっこう複雑。



 代表格は例のスタバなわけだが。これが広島の地下街にできたとき、溢れるほどの人が並んでいるのを見てすごくびみょーな気持ちになった。(「なぜスタバに並ぶ?」、と)


 まぁ、それが消費者心理というものなのだろうけど。いまはスタバほか似たような店もいっぱいできて落ち着いたけど、やっぱカフェ全盛って感じで喫茶店なんかは見ない。あるとしてもある程度大手のチェーン系のとこばっかだ。個人のところは見ない。

 つーか、中心部では見ないだけで、ちょっと外れたところに行ったらあったりする。・・やっぱ税金の関係なのかなぁ。。



 でも、喫茶店やりたがってる人ってけっこういるみたいなんだよなぁ。母の知り合いの人も定年後にわざわざ銀座で喫茶店やり始めたらしいし・・。まぁ、道楽って感じみたいだけど。そんな感じの道楽でもない限り個人で喫茶店やっても儲からないと思うんだけど。でも、こんな感じでなんかコースみたいなのあるみたいなんだよねぇ


カフェ・喫茶店経営、開店支援の学校<リライブ>オーナー総合コース



 初期費用その他についてはこんな感じか


喫茶店経営 | 職業調べに職業紹介図鑑 | 喫茶店経営になるには?


喫茶店主になるには、食品衛生法の許可は店舗所在地の保健所に申請し、営業届出書は税務署に提出します。 初期投資の資金は500〜1000万円が相場で店の規模、立地、賃借料、備品代 に使われます



 いちお、「教えてgoo」に質問があって回答寄せられてるけど


教えて!goo 喫茶店の経営で50代夫婦が暮らしていくためには?


 ド○○ルとかだと原価率5倍ということでよさそうなんだけど、なかなか回転しない、と。必要回転数なんかについては記載されてないのでよく分からんな。(まぁ、各店舗の固定費・変動費、それに応じた客単価の設定なんかによって違ってくるのだろうけど)。あとはサイドビジネスの必要性について。



 印象として、「個人の趣味」ってことだと儲からない業態だと思う。よくてトントンからちょっと赤字ではないか? それなりに儲けようと思ったらなんか付加価値(差別化)つけないとキツイだろうな。


 Espresso Diary@信州松本の斉藤さんなんかはいろいろな情報収集をして、豆をわざわざ取り寄せ(あるいは現地買い付けだったか?)するぐらい経営努力をされてる方だけど、それでもサイドビジネス的に投資という形でポートフォリオみたいなの組んどかないとやってけないみたいだし・・。


 それが現実だと思うけど、カフェ学校ってなんなんだろう・・?



 やっぱよくある「若者の夢食いつぶし業」みたいなやつだろうか?(偏見)




 ・・こわいなぁ



 
 でも、カフェちょっとやりたいよね(・・って人は一日カフェとかで満足してはどうでしょうか?)



 つーか、古本屋とカフェって一緒にできないのかなぁ (って、ぐぐったらけっこうあるな

 あと貸本免許なんかも取れたらとっとくといいかも。(んで、気に入ってもらったら古本系で販売)


 喫茶店にこだわらずに、それほどかさ張らない創作系のビジネス空間をシェアするとかっておもしろいかもしれない。こんなのと絡めて


muse-A-muse 2nd: ミクシコミュのビジネス利用ってどうなってるんだろう?



 「空間自体をプロデュースする」って感じ。なのでオプションは喫茶店でもなんでもいいのもしれない。



 
 あと、喫茶店とカフェにはそれほど興味ないけど名古屋喫茶にはいってみたい


名古屋の個性派喫茶店ベスト5 - [名古屋]All About


 あとネコとか。つーかネコとか。さらにネコとか



 時代はcafeではなくcatsなのかもしれない(あるいはcafeかつcats)
 

posted by m_um_u at 08:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年05月16日

青くて丸い夢の中で

 前略

 お元気そうでなにより。元気というのとは少し違うのかもしれないけど、とりあえず息災ということでなによりです。

 やはりあなたの文章には抗いがたい魅力を感じてちょこちょこ拝見させてもらっているのですが、あなたが少しずつ透き通っていっているのを見ていると嬉しくもあり、少し切ない気持ちになります。

 青く透き通った透明な瓶の底から見上げる初夏の陽のような・・あなたの文章からはそんな印象を受けます。

 しかし、透き通っているが故にはかないというか、そういった魂の脆さのようなものを感じます。老婆心というか好々爺じみた視点なのかもしれませんが、少し心配。

 もっともあなたのほうが経験も知性ももった大人ということなのかもしれませんが(そしてあなたには魂の高潔さがある)。
 


 雨が降っているからでしょうか、少し感傷的な気分になっているようです。でも、もう少し話を続けてみます。



 瓶の底から覗く世界というのはどのように見えるのでしょうか?


 青くて透き通って、時間の止まったような世界?


 そこには邪念も疑いもなく純粋な理性の美しさを感じられる、そんな世界でしょうか?


 かつて、ぼくも似たようなことを言ったけれどあなたはそのときどのように思ったのでしょう?(責めているわけではないです)


 
 あなたが「疑わないで」というようにぼくも「疑わないで」と思った。
 

 あなたが恐れを持っているようにぼくも恐れを持っていた。



 それだけのことではないでしょうか?



 
 でも、二人ともほんとに相手がそこにいるのかどうか分からない。(そこにいる「あなた」が本当なのか分からない)



 なんだかやはりぼく達は似たもの同士のようですね。青い瓶の底を通して似たもの同士が踊っている姿を見詰め合っている。そんな気がします。(もっともいまさらそんなことを言ってもあなたは心害に感じるかも知れせんが)


 あるいは、ネットという夢を通じて未来と過去の自分を見ているだけなのかもしれない。もしくは夜と昼、月と太陽のようなものなのかも。

 
 青い瓶の底にある幻想の世界で、ぼくたちはまた出会うことができるのでしょうか?



 Shall I be the one for you
 Who pinches you softly but sure
 If frown is shown then
 I will know that you are no dreamer




 あるいはつねられて顔をしかめたのはぼくのほうなのかもしれないけど











♪ Angela Aki / Eyes on me


Cranberries / Dreams
 
 

posted by m_um_u at 21:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

ついったーさんに期待する2、3のことども

昨日のエントリ関連で、J.D.Lasicaのtwitter関連エントリにもマジカルワード「セレンディピティ」が登場していたのでちょっとエントリってみます。

 件のエントリはこちら


Social Media: How businesses can use Twitter


 twitterのビジネスユースに関してちょっとした意見交換があったらしくその紹介です。紹介先はこちら


social media group corporate blogging » Blog Archive » Social Media Today Podcast - The Business of Twitter


 残念ながらpodcastということでlisteningがおそろしく苦手なぼくは断念でしたが、面子としては


Dan Greenfield, Vice President of Communications for Earthlink, Luis Suarez, Knowledge Management Consultant for IBM Global Services and Tom Mandel, a technologist and poet



 って感じでけっこう面白そうでした。


 んで、J.Dによると「セレンディピティ」ってキーワードが出てきた、と


Twitter provides a sense of social context and a sense of serendipity.



 このパラグラフのみと昨日のエントリを接続させて考えるに、「新たな"繋がってる感覚”の創出によってなにか面白いことに遭遇するセンス自体を磨いていく」、みたいな感じですかね。つまり需要以前の欲望感覚を磨くみたいなの。

 podcastのほう確かめてないのでなんとも言えないけど、上記のような感じだとするとビジネス側からのアプローチってどういう風なのを想定してるんだろう? そして、そのアプローチはtwitter使用の独創性を狭めたりはしないのか・・。


 その辺にちょっと興味あるけど、面倒だから特に追いません。(※興味のある方は各自確かめてみてください)


 まぁ、そんなこんなのtwitter。特集もいろいろ組まれていて活況なようですが


続々増えるTwitterライクなサービス − @IT


第4回 厳選40!Twitter用ツール・サービス大特集|gihyo.jp


 その中でITmediaの花とミツバチこと岡田有花さんの記事が目を引きました。


ITmedia News:Twitterって何が面白いの?


 まず、何を書けばいいか分からない。何でもいいからとりあえず書けばいいのかもしれないが、会社で仕事中に更新する訳にもいかないので、書くタイミングは帰宅後。何か面白いことがあればmixi日記に書いてしまうし、Twitterで1コメント当たり入力できる140文字では何を伝えるにもまるで足りない。

 書けることといえば「帰宅した」とか「家で仕事中」とかぐらい。「ご飯食べてる」と書き込んでもいいけれど、そう書くならご飯の写真もアップしたくなってしまうから画像が掲載できないTwitterではつらいし、そもそも、自分が食事しているという事実をリアルタイムで世界に発信するメリットが見えない。



 まったく同感です。正直、なにが楽しいのか分からない。。その辺の感覚については前回のエントリでもまとめました。



muse-A-muse 2nd: モバイルコミュニケーション周辺で気になること諸々 (FONとかtwitterとか)



 で、「けっきょくは短文交換、もしくはそれさえもめんどくさい状況共有なわけだから動画とか音声になっちゃったほうが楽じゃん? (つーかたぶんそうなる)」、ってとこに落ち着いたんですが、その前段階としてtwitterさん(もしくは開発系の人)にやってほしいサービスがあります。



「twitterのチャット表示機能を外部blog化できるといいのに」、とか思うのです。



 twitterの機能で面白いと思うのはGoogle TalkとかSkypeみたいなチャットとかエモーション交換との連携です。



第2回 Twitterこんなときどうする?|gihyo.jp


Going My Way: 今何してる? でつながる Twitter と Skype を連携するスクリプト



 で、チャットの部分はログがそのままtwittできるということなので、その部分を各人がもっているblog(あるいは新たに立ちあげるblog)にインポートできると面白いのになぁ、と思うわけです。


 単独でモノを書いてもらうよりもいじられたほうが楽しさが出てくる人っていうはいるわけで、そういう部分の楽しさを外部表出するってのもありかな、と。


 一部のblogでチャットのログをそのままエントリにするってのもたまに見かけるんだけど、せっかくtwitterにはチャットログをとる機能があるわけなんだからその部分を各blogエントリに楽に外部化できるといいのになぁ。。



 (個人的には、「おっさんとヤギ娘の三十路のケモノ道」、とかやりたい)



 もしくはリア友系の集まりではなくても、こういう感じでweb空間に新たな<場(トポス)>を設定すれば、ネットのみの付き合いの人の距離感もちょっと違ってくるのかもしれない。あと、各グループごとにグループblogみたいなのを作って、グループ対抗でtrackback飛ばすとか。



 そういうのはなんか面白そうです。




 で、「それってblogとかmixiとどう違うの?」、ってことなんだけど、twitterというのはblogやmixiの前段階(未編集)的なものとして使えるっぽいんす。

 もっと気軽に、「短文同士でじゃれる」、「じゃれあいの中からなにかが出てくるかもしれないし出てこないかもしれない」、みたいな使い方が可能なように思います。(ケータイメールのじゃれ合いですね)



 twitterによる動画・音声共有もいいけど、その前段階としてこういうのもありかなぁ、と。



 blogとかも元々はhtmlでwebページ作るのが面倒だった人向けに「それよりも簡単に・気軽にネット表現できるよ」って感じで出来上がっていった表現形式ですし、そこからさらに分節ってのもありだと思うんです。



 

 ところで主題からちょっと逸れるけどmixiの話題が出たのでついでに。veenaから「veenaクリップがtwitterに対応したよ」メールが来てました。


veena! :: ヘルプ


「veena!クリップ」とは

A.

「veena! クリップ」は、veena!に掲載している情報で気になったものをクリップ(ブックマーク)しておくことが出来る機能です。「veena!クリップ」は他のユーザーとの共有することができるので、「そのアーティストに関する何の情報が今いちばんHOTなのか」が一目でわかります。

記事や映像をクリップする際にはコメントを添えることが出来ますので、このコメントを通じて「他のユーザーがどんな感想を持っているのか」など、ちょっとしたコミュニケーションを図ることも出来ます。

また、「veena!クリップ」にはクリップした内容(コメントとURL)をミニブログサービス「Twitter」にも同時に投稿する機能があります。この機能を利用して、気になった記事や映像をお友達に発信することが出来ます。

※クリップできる情報は、「Google News」「関連サイト」「YouTube」「Amazon」「Yahoo!オークション」のみです。


 

 mixiもさっさと対応してくれればいいのに・・。SNS内の日記って公開型SBMでクリップするのってはばかられるので、mixi内にSBM作って欲しいわけです。


 あと、mixiのユーザーがモバゲーとかtwitterに流れていってるわけだけど


アイデアノート モバゲータウンが脅威では無いと言っているmixiに先は無い



 笠原氏はあいかわらずの強気でしたね。


ミクシィ決算発表、売上高は前期比2.8倍--mixiユーザー数は983万人に - CNET Japan



 株価の関連もあるんだろうけど、単なる煙幕なのか現状が見えてないのかどうかちょっと心配です。


 mixiのコミュをプロモーション的に活用している事例もあるのでそれをうまいこと活用すればビジネスユース系に発展すると思うんだけど、まぁ、いろいろ問題もあるわけで(・・つーか長くなるので他所で書こう)



 とりあえずそんな感じで、twitterの発展に期待です。





 ところで、それ以前にtwitter友達がいないっていう問題があって、それこそがtwitterを楽しめていない元凶ではないかという思いもあるわけですが・・まぁ、いいや。

 twitter友達ってなんていうのかなぁ(「つとも」?)





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関連:
tmitter

※ケータイメールからtwitterに投稿できる。twitterはついでに画像対応してくれればいいのに




タグ:twitter
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2007年05月01日

intermission:これからの日本社会

 別件でぼけーっと「怠惰」について考えながら、「結局は悪意っていうよりは怠惰なんだろうなぁ」とか思った。改めて。

 陰謀論とか裏金とかそういうもの以前に「なんかめんど臭い」とか「あまり関わりたくない」とかそんな感じの日和見(事なかれ)主義がまずあって、いろんな不公正・不合理・不採算が見逃されて、それが澱のように溜まってボトルネックを構成していく。

 あるいは、そうやってできた澱の部分で「毒食らわば皿まで」的な気持ちが湧き上がって不公正な方向のワナに染まっていく。

 そんな感じなのかなぁ、って。



 単純に「悪意」ということであるならば、これはエゴを中心とした合理性なわけだから行動予測ができる。でも、「怠惰」とか「情動(ルサンチマン系)」の場合はみょーな変数になって分かりにくい。「嫉妬」とかね。


 「それが人間の性」と言えばそうかもしれないんだけど、やはりムダはムダだ。そんな諦めをもって悔しい気持ちを抱え込むぐらいなら少しでも状況を変えていくために努力したほうがいい。それがたとえ自己満足的なゴミ拾い的行動であっても、なにもしないよりはマシだ。

 ゴミ拾いは環境問題の解決とかには繋がらないかもしれないけど、派生効果みたいな感じでゴミ拾いや壁をきれいにすることによって町がきれいになって犯罪のサインがなくなり、犯罪率が減ったりもするし・・。


 こんなエントリを見た


A Tree at ease : 留学生の素朴な疑問



 留学生の素朴な疑問として、


1. どうしてみんな制限速度を守らないのか

2. 憲法9条というモデルは日本に成功をもたらしたと考えられるが、どういう必要があって変えるのか

3. どうして安倍は明らかに日本の威信を傷つけるとわかりながら、従軍慰安婦などの問題であのようなことを言うのか

4. 日本はどうして死刑を廃止しないのか

5. 何故石原を選ぶのか

6. 何故日本の選挙はここまで投票率が低いのか

7. 日本人はNHKを公正と信じているのか

8. 何故大学生は勉強しないのか



 どこの国の留学生か知らないし、この留学生自身の政治的立場も分からない。そして、エントリ主の再構成の仕方に偏向があるのかもしれない。

 でも、けっこうな留学生(ヨーロッパ系)がこんなこと思ってるんじゃないか?


 ぼくの仲良しのラクダオランダ人(※草食)は極右的なものが好きで(オランダ人の癖に)家族からプレゼントにヒトラーのポスターをもらったりするようなやつだけど、日本社会の曖昧さについては概ねこんな感想を持っていたように思う。

 
 各論の詳細はリンク先で確かめてもらうとして、「なぜ?」の理由として考えられるのは「怠慢」ということなのだろう。もうちょっと言えば「怠慢」―「人任せ」―「事なかれ」って感じ。「お上に任せとけばいいや」ってことなのだろう。


 さっきも言ったようにそれは悪意ではなく単に怠慢というだけ。人が不幸になっても社会が汚れていってもそれを無視し続けられる神経の図太さ(無神経)というだけ。本人達にしてみれば「不可抗力」ってやつだ。「悪意はない」し。

 でも、そういったマインドを元にした無神経が社会をダメにし、回りまわって自分や自分の身の回りの人々にも厄災をもたらす。


 そのときになって騒ぐけど、そんなの自分たちの選択なのに。



 こういうのはすごく不思議だ。


 「それが大衆の群像というものだよ」という意見もあるけど、それは大衆というよりお年寄りの群像(マインド)というものではないのか?
 

 たとえばこのエントリを見れば分かるように、


マツドサイエンティスト・研究日誌: 最近の若い者は・・・


 「最近の若い者はなってない」のではなく「最近の若い者は思ったよりしっかりしている」のだろう。

 ぼくらは確かに飢えたこともお金に困ったこともない。反対にバブルの享楽を味わっていないし、そういったリアリティに付随する「ほんとの豊かさ」のようなものも分かってないのかもしれない。


 でも、親の背中を通してシビアな現実を見てきたし、いまの時代もサバイバルの中にいるという実感がある。リンク先のエントリ主さんが言うように


だが、彼らは逆に、「大人」なのだ。
日本と言う国が、少なくとも経済的・物質的に一人前になってから育った彼らは、次の精神的な価値を追える「大人の国」の住人だ。
年長者の方がむしろ、「日本が子供の時代」に育った「子供の国」の住人に思えてくる。
私は、わずか一年英国に住んだ事があるだけだが、英国人の価値観は、日本の年長者よりも、むしろ最近の若者に近い。少なくとも私には、そう思える。そして、英国はアメリカよりも何処よりも大人の国なのは番人が認めるところであろう。



 ぼくらは本当の意味で理性や善的な感情というものを信じられるし、断絶のように思われていたものが実は単なるまやかしに過ぎなかったことに気づき始めている。そして、過剰性や過不足のない豊かな生活というものを地に足の着いた形で享受できる自信もある。「享受」というよりも「自らが作り上げていくもの」という責任や重圧のようなものを知りつつ、それを担っていくようなそういう態度。



 
 もう該当記事はなくなってしまったけど、前に朝日に載っていたインタビューではてなの近藤さんほか76世代の人たちに共通するマインドとして、『ナナロク世代になると、「勝者独り占め」原則が起きても、無理には争わない』、って記述があった。


asahi.com: 「76世代」の時代が来た ミクシィ東証マザーズ上場


 彼らは仲良く外部性を分け合う(相互接続)。そして、お互いに「成功しよう」ということを臆面もなく言い合う。本気でそれを信じてるのだろう。

 そこにはWin-WinとかSustainableとかいった薄っぺらな言葉ではなくもっと根本的ななにか、前の世代とは質感の違う何かがあるのではないか?



 ぼくらは前の世代の人々がムダ(lost)にしてきたものをかき集めて、繋げて、膨らませて、新しい価値を作れるのかもしれない。


 それが「ロストジェネレーション」とも呼ばれるぼくらの希望というか現実的実感としてあるように思う。

 その意味ではぼくらは彼らの椅子を奪還しようとしているのではなく、彼らがムダにしてきた時間や資源を繋げて膨らまそうとしているだけだ。



 それは青二才的な理性信奉なのかもしれないけど、失敗するまで突っ走るってのが若さってもんだし、やらないよりはやったほうがいいだろう。





 そしてぼくらはこれからの社会に期待する。ぼくらが作り上げていくこの社会に








♪ Ice / Kozmic Blue


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関連:
はてなブックマーク - morutan@はて部 / あたらしい仕事の形



はてなブックマーク - morutan@はて部 / 日本社会




muse-A-muse 2nd: 雇用流動におけるアイデンティティー不安と協調の可能性に関して

 
 
 

タグ:日本社会
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2007年04月30日

モバイルコミュニケーション周辺で気になること諸々 (FONとかtwitterとか)

 前回の海外メディアの動向関連で。マスメディアとは関連しないんだけど、なんかこんな情報入ってきてたのでちょっとアウトプットしとく。(諸々の関連物件含めて)



Time Warner customers get Wi-Fi hotspots - Yahoo! News



 Time Warnerがケーブル部門の外部性をFONに開放したらしい。「いずれもっと安いネットワークができたときにユーザーがそちらに移るのを避けるため」、とのことだけど大胆な決断なように思う。っていうか、合理的かつ大胆といったほうが正確か。


 と、いちおFONについて説明すると(面倒なのでそのまま抜粋)


FONとは - はてなダイアリー

2005年11月にスペインで始まったプロジェクト。

スペインのベンチャー企業Fon(CEO兼ファウンダ Martin Varsavsky氏)が全世界のアクセスポイントを共有することを考えたプロジェクト

その中核になるのがソフトウェア「Fon」とこのFonが搭載されたアクセスポイントLa Fonera。

FONの会員は"Fonera(フォネラ)"とよばれ、Foneraには、自身も使いつつ他のFoneraに対して無料で無線LAN環境をシェアする「Linus」、自分の無線LAN環境を有料で提供する「Bill」そっして、FONの無線LANを有料で使用するのみの「Alian」の3種類がある。

FONが提供するのはアクセスポイントとその中のソフトウェアそして、Foneraという会員組織のみで、インターネットに接続するところは現状のISPのインフラをそのまま使うことになる。

Fonはskype、googleからも出資を受けている。



 簡単に言うと、オープンソースの帯域版みたいなのです。もしくはグリッドコンピューティングの帯域版。(その意味ではP2P的なのかな?)

 オープンソースというか帯域のシェアユースといったほうがいいか。

 PC使ってないときに自分ちの帯域(無線LAN)が遊んでるのってもったいないと思いませんか?

 それに対して、外に出たときにお金払ってまで無線LAN使うのもなんだかなぁ、って
(ホットスポットもほとんど機能してないし)


 そんなお悩み解決が「FON」というシステム。


 これに登録しとくと外に出たときに他人様の無線LAN帯域を使わせていただける、と。



 これはムチャクチャ便利っぽいですな



 FONのルーターの設置方法についてはこちらでまとめてあります



Going My Way: FON ルーター La Fonera を設置して Linus になる


 関連でこんなのとか


九十九電機「WiFi Phone」:FONでSkypeが使える無線LANケータイ : Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン)




 んで、こういうのの利用を促す社会的な動向として以下のようなものがあります



10倍速無線LAN 5月に解禁 こんなのどうでしょう(※以下、朝日の記事の孫引き)


ケーブルを使わずにインターネット接続できる無線LAN(構内情報通信網)の通信速度を10倍以上に高め、光ファイバー通信並みの速度を実現する高速無線LANが、5月に解禁される。


(中略)

夏までには電機メーカーなどから対応商品が発売され、だれでも利用可能になる見通しだ。無線LANの通信速度は現在、毎秒10メガビット程度だが、使える電波の帯域幅を広げ、伝送方式を改善することで毎秒100メガビットの実効速度を実現する。



 でも、これに対してはびみょーな見解が多いみたいで「実速は光ファイバー並みにはならねーだろ」ってのがコンセンサスになってるみたいですな


 それとは別に、「無線関連のネットワークが今年あたり来るんじゃないか」系情報としてこんなのが気になりました。



ケータイ同士が直接相互接続する日 − @IT


 ケータイの端末同士がサーバを介さずにピア・トゥ・ピア(P2P)で接続し、通信を行う



 と・・。


 BlueToothってわけでもなくP2Pで繋がるってことみたいです。んで、サーバを介さないので同期的な情報交換が可能、すわなちタイムラグなし、と。


 これはかなりすごいですね


 なんかBREWアプリで現在はauのみ対応らしいのですが

 これは、ベンチャー企業の“ヨシダカマガサコ”(株式会社吉田鎌ヶ迫)が開発したP2P通信ミドルウェア「Spear」(スピア)のデモンストレーション映像だ。Spearは、携帯端末向けに開発されたソフトウェアで、現在はauの携帯電話端末で採用されているアプリケーション実行環境“BREW”(ブリュー)に対応しており、TCP/IPのソケット通信を用いた端末同士のP2P接続のためのインフラを提供する。



 これがデファクトとってデフォルトになるとかなりすごそう。


 技術的なところ確認してないけどP2Pだけではキツイようなところは無線LANで補うみたいなことも可能なのだろうか?(あるいはその逆的なことも)


 とすると、「いよいよもって広帯域無料高速ネットワークの実現か?」、って感じでかなりワクワクするんだけどどうなんだろう・・?



 spearを介したP2Pコミュニケーションの具体的な利用場面としては以下のようなものが想定されてます。


 例えば、互いに位置情報をリアルタイムで把握しながら画面の地図上を歩く時代が来るだろう。待ち合わせ場所で「どこにいるの?」と声でやり取りする必要がない。あるいは、パーティーの様子をストリーミングで多数の端末に向かって配信する時代も来るかもしれない。タッチパネルを備えた端末であれば、ホワイトボードを共有し、絵や図を描きながらコミュニケーションすることもできる。

 テキストメッセージはもちろんのこと、音声、画像、動画、GPSによる位置情報などをダイレクトに端末同士がやり取りできる世界は、実は技術的にはもう実現してしまっているのだ。




 ここでピンとくるのが近頃流行のtwitterっすね。


twitterとは - はてなダイアリー
 

 140字限定の一言ブログ的な感じのもので、チャットのログもアーカイブできる、と。ポイントは友人間のネットワークを介したコミュニケーションがsnsやblogよりもゆるい感じで展開できるところにあるみたいです。

 つまり、「読み逃げ問題(あるいはメール即レス問題)」とか「相互承認欲求の不安」とか「同調圧力」みたいなものがない、と。


ARTIFACT@ハテナ系 - 独り言を書けるネットのツールの需要


 
 新しもの好きなのでなんとなく参加しつつも特に使う方向性も感じられずもてあましているtwitterなんですが、ここで画像・音声・動画データが貼り付けられると強くなるように思います。


 twitterのコミュニケーションというのは上記した文字限定が原因となっているのか結果となっているのか分からないんだけど、なんかてきとーな短文を介した状態確認ってのが多いみたいなんですね。こんな感じで


僕がtwitterにハマる理由 - F's Garage typeC



 最近流行してきた「エモーション確認」的なものに近いように思うんですが、簡単に言えば「文字打つのめんどい」とか「なに書いていいか分かんない」を解決するメディアコミュニケーションチャネルが求められているように思えます。


 それの社会的意味についてはちょっと思うところもあるけどまぁ置きます。(拙速に「短文無脳」的言説を弄するつもりはないです)



 んで、そんな感じのtwitterあるいはそれに代表されるコミュニケーションモードの変化に対応する形で、メディアを介したコミュニケーションがテキスト型のものから動画・音声的なものに変わったほうが楽になるだろうなぁ、と思うわけです。



 「思うわけです」っつってもそんなの大分前から言われててYouTubeの隆盛なんかその代表なわけだけど、それとは違ってもっと分節化したコミュニケーションモードとして「モバイル(ユビキタス)で気軽な状態交換」というのが求められているように思うんです。

 「さくさくっと動画を交換しあえる」みたいな感じの。



 そういうわけでtwitter型コミュニケーションはそういう方向に向かうと思うんだけど、その前提として回線速度の問題がある。でも、上記してきた感じで、その辺はなんか変化してきているなぁ、と。






 まぁ、そんなこんなです




(そういやtwitterってskypeのチャットログにも対応してるのかなぁ? っつーか、skypeの音声ログとれるようになるとすごいな)

posted by m_um_u at 19:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年04月24日

<ヒロシマ>ということ

 まだ少しくすぶっているものがあるようだ。なにか、イライラしたものが頭の中にたまっている。とても微細でなにを対象としているのか明確な言葉で浮かんでこないので、もう一度、吐き出しながら確認してみよう。


 このエントリはここからの続きです


極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ


muse-A-muse 2nd: ヒロシマに原爆を落とすべきだったか?



 そして、コメント返していただいたが、

この問題、パティキュラには以下にかなり思いを込めました(たぶん、伝わった人は少ないでしょうし、しかたありません)。
 
  極東ブログ 空想過去小説「チーズとバギウム」(2004.08.06)
  http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/08/post_5.html
 
仏教との関連、および平和思想という観点で言えば、非常に難しいのだと思います。この問題はダライ・ラマを責める問題ではありませんし、むしろ、日本に仏教があるのか?という問いも内包していると思います。



 なにか釈然としない、こちらのコメント欄にもいちおお返ししておいたが


リンク先確認しました。たぶんこのエントリが出されたときに読んだ記憶があります。ロシアとの関係も存じております。その上で外交的関係や finalventさんの思いのようなものも理解していたつもりです。仰るように極東ブログの今回のエントリにしてもメインは「日本に仏教はあるか?(その中に内包される善性あるいはその逆転としての悪とはいかなるものなのか?)」ということであるということは分かっています。

その上で「あんまりではないか」と思ったのです。

ダライ・ラマの発言がどういった影響力を持つか、どのように利用されるかは考えて然るべきなのではないでしょうか?(部分的に、都合の良いところだけ抜粋されて利用される危険性を)

ぼくはアメリカの一般(もしくは少しマシ)の知識層に対しては偏見を持っていますから、このような発言を彼らが良いように解釈し、利用する場面を思うと腹立ちを禁じえません。「原爆が落ちたことさえ知らない」あるいは「原爆を落としてもそれは仕方のなかったことだ」と真顔で、ヒロシマという場で言える彼らの無神経さを思うと、どうしても腹が立って仕方がないのです。

その言説はヨーロッパ人と話したときにも影響していると感じることが少なからずあります。(ぼくが会ってきた人々が特殊なのかもしれませんが)


影響力を持つ人が発言するときにはそこまで気遣って然るべきなのではないでしょうか?もしくは現在でも苦しんでいる被爆者(あるいは被爆者とさえ認められない人々)のことを思うぐらいの配慮があってもよいのではないか、とぼくは思います。



 それでもなにか釈然としないものがある。


 たぶんこれでも伝わらないのだろうと思う。



 
 finalventさんが過去に紋切り型の共産主義運動の力を借りた平和運動に参加されて、その暴力性に辟易したというのは知っている。だからこそ「平和」という言葉に敏感なのだろう。

 彼らが自分達の「平和」を押し通すためだけに「ヒロシマ」や「ナガサキ」の表象を都合よく利用し、その実、実際に被害にあった人や「オキナワ」や「トーキョー」といった同じように暴力を受けた人々に対しては無関心に近い態度を示していたこと、現在でも国内ではびこる暴力に対しては無関心に近い態度を示すこと、自分達の「平和(エゴ)」を押し通すために国際的なパワーバランスや経済バランスを無視した発言をすること・・・その無神経さというのはぼくも理解しているつもりだ。


muse-A-muse 2nd: バカサヨク、バカウヨクについて


 だからといって、「それは日本固有の善性への偏りであって特殊例だよ」(cf.<正義>という名を借りた暴力性)とか「実際にロシアが迫っていたのだから仕方がなかったのだよ(その中で日本の政府もロシアに助けを求めていたり)」と言えるのか。


 そのセリフを実際に死の床に瀕している被爆者を前にして言えるのか?

(あるいは「被爆者」としても認めてもらえない人々の怒りや不安、失望を前にしてそれを言えるのか?)



 finalventさんはダライ・ラマの言葉を引用しつつ、そこから思考実験をしようとしただけだし、なにか責任のようなものがあるとしたらダライ・ラマのほうにあるのかもしれない。

 しかし、finalventさんは「チーズ」の例を出して「仕方ないじゃないか?」というようなことを言っておられるようだが。



 本当に「仕方ない」ことなのか?



 よしんば「仕方ない」ことだとしても、それをあなたがたに言う権利があるのか?



 冒頭でも少し言ったようにこういうギロンの進め方、<ヒロシマ>という名(言説)を借りたギロンの進め方がある種の非対称性をはらみ、感情論に基づいた世間的共感を伴った一種の暴力性のようなものを持っていることは理解している。そして、そういった言説を用いることを心苦しく思うが話を続ける。


 というより、ぼくがいま感じている感情や行っている言説活動というのは「暴力」と言えるのだろうか?


 「暴力」とは、物理的力なり論理的思考力なりに基づいた一定の力の中での関係の非対称性を前提とすると思う。つまり、「相手が反撃できないような状況でこちら側の要求なりエゴなりを相手に一方的に突きつけること」、が暴力行為に当たる、とぼくは思う。


 翻って、ぼくがいましていることは「暴力行為」と言えるのだろうか・・・?



 「<ヒロシマ>の名(とそれに付随するイメージと共感)を借りている」、から?


 それによって「他者」を一方的にとっちめようとしているから?

 


 冒頭でも言ったように、ぼくはそんなつもりはない。




 ただ、心の中にある「もやもや」を確認したいだけだ。



 その「もやもや」を自分だけが感じるものなのかを。他者とは共有できないものなのかを。

 


 では、続けよう




 finalventさんは沖縄にある程度コミットされてそこでの惨劇や、それに対する沖縄の人々の気持ち、あるいは現時点での沖縄人のアンビバレンツな感情というものに一定の理解を示されているように思う。

 沖縄といえば最近教科書における歴史修正が話題になっているようだ


激高老人のぶろぐ: 教科書検定と幻想の共同体


 自民の「歴史教育を考える会」の影響で沖縄に関する記述が書き換えられるらしい。



 これなんかもfinalventさんから見れば、「そうはいってもうちなーはただ怒るだけではなくてびみょーな感情を持っているよ。ないちゃーが一方的に怒って政治(運動)的に利用しようとしているだけ」、という面もあるのかもしれない。


 しかし、それは「ないちゃー」が言うべきことなのか?

 「言うべき」というか言っていいことなのだろうか?



 そこまでは言わなくて単に「こういう歴史修正はうちなーにとってはキツイよね」ということになるのかもしれない。だとしたら同じことがヒロシマに対しても言えるのではないか?
(そこでの歴史的な事実関係についてはとりあえず置く)





 そして前段の「言ってよい権利」関連について。これは以前にmeruさんが少し考えておられた


Sound and Fury.::メルの本棚。 - 「恵まれた」人間は、社会批判をする資格がないのだろうか


 そういうことではなくて、単に鈍感な人間が言うと当事者の気持ちを逆撫でしたり、事実認識と異なることを言ってそれが余計に当事者の気に障るということなのだと思う。


 ここで書かれているように「恵まれた層」も「恵まれてない層」も共感し、共闘していくことが望ましいのだけれど、それ以前に「鈍感な人を受け入れられるかどうか」という当事者(あるいはある程度問題にコミットしている人)の思いがあるように思う。



 では「しろーとはすっこんでろ!」ってことになるがそういうことではなく、やはり少しは当事者の気持ちに配慮して欲しいということだ。



 
 たぶんこの「当事者の気持ち」というやつはなかなか伝わらないのだろうから、下品でためらわれるが、分かりやすい(共感を呼びやすい)と思われる例を挙げさせてもらう。

(※関係者の方々には申し訳ないが、続けさせてもらう)


強姦:特急内で暴行、容疑の36歳再逮捕 乗客沈黙−事件:MSN毎日インタラクティブ

調べでは、植園容疑者は、昨年8月3日午後9時20分ごろ、福井駅を出発した直後に、6両目の前方から2、3列目にいた女性の隣に座り、「逃げると殺す」「ストーカーして一生付きまとってやる」などと脅し、繰り返し女性の下半身を触るなどしたという。さらに、京都駅出発後の午後10時半ごろから約30分間にわたり、車内のトイレに連れ込み、暴行した疑い。女性は車両前方のトイレに連れて行かれる途中、声を上げられず泣いていたが、付近の乗客は植園容疑者に「何をジロジロ見ているんだ」などと怒鳴られ、車掌に通報もできなかったという。



 例えば、後日、付近にいた乗客が「彼女は自分から犯人に身体を預けて自分から付いていきましたよ」とか「犯人となんか仲良くなっていたみたいです」とか言ったとする。

 傍観者となること(ならざるを得ないこと)はセキュリティの問題であって自分がその場にいたら同じ行動をとるかもしれない。しかし、上記のようなことを傍観者の人が言ったとしたら、それは多分に彼らの臆病さを隠すための言い訳のようなものだろう。

 それが被害者の目や耳に入ったときに被害者はなんと思うか?



 もしくは、「○キチから多くの乗客を助けるためには彼女達が犠牲になる必要があったんです」とか「彼女達もそれを理解していてくれたはずです」とか・・。



 それを傍観者の口から語られたときに、彼女達はなんと思うか?




 「ロシアと秘密裏に通信していた」だの「多くの人を救うためには原爆は落とされる必要があったんです」だのも同じことなのではないか・・?



 はっきり言ってしまえば、こういった言説を使う人々はセカンドレイプと同じことをやっていることになるのだが、そのことには気づいてないのだろうか?



 それは感情論であって事実ではないのかもしれない。「事実は見ている人の立場(あるいは通念)によって異なってくる」、のだろう。では事実関係についてはどうか?


>「その時点ではそういった関係性の中からヒロシマやナガサキが犠牲になる必要があったということは歴史的事実ではないか」


 本当に、自信を持ってそう言えるのか?



 当時の国際関係を見れば蓋然性の高い論理ではあるが、本当に「原爆を落とさなければ戦争を早く終結させることはできなかったし、日本を足がかりとしたロシア(ソ連)の侵攻を食い止めることはできなかった」、といえるのか?


 「歴史に“if”はない」と言われるけど、原爆が落とされていなくても、戦争を終結させる方法はあったのではないか?たとえば戦争終結についていえば天皇の決断が早ければあそこまで事態は悪化しなかっただろう。

「天皇自身が様々な関係性に取り込まれた傀儡的な存在であったのだから仕方のないことだったのだよ」ということになるのかもしれないが、代表者などというのは少なからぬ組織の論理に押し流されるものであって、それを代表し責任をとるからこそ代表者なのではないか?

(別に天皇を責めたいわけではないので置く)






そういったこととは別にfinalventさんはよく、「あたまでっかちな論理よりも大衆性に還れ(大衆の現実に還れ)」、というようなことを言っておられるように思う。


 では、今回のこれも「大衆性」から発せられた思考ということなのだろうか?


 ぼくには論理的思考実験への欲望が優先されて当事者の気持ちは無視しているだけにしか見えないが、それはぼくが未熟なだけなのだろうか?



 あるいはそういった気持ちは単にぼくらの胸にしまいこんで耐えればよいことであって、それによって国際関係や世界経済がうまく回るのなら仕方のないこと、と言えるのかもしれない。ぼくらが怒りや復讐といった気持ちの防波堤のようなものになれば良いのかも。



 マリア様、そういうことなのでしょうか ?




muse-A-muse 2nd: 被爆のマリア



 
 
 
 
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2007年04月23日

ヒロシマに原爆を落とすべきだったか?

 少し腹が立ったのでこんな時間だがblogのほうのエントリを上げとこう。トリガーはこちら


極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ


 要約すれば「多数の便益のために一定の犠牲は止むを得ないか」ということ。社会システム系ではよくでてくる踏み絵。そして、仏教においてはどうなのか?、というエントリ。


 結論を言えば、「それアリなんじゃないの?(状況によって)」、と。


 現時点での仏教魂を代表するダライ・ラマがそんなことを言っていた、ということらしい。(付け加えて言えば、ダライ・ラマの流派は怪しい呪術系じゃないよ、と)


 finalventさんは、「日本人の仏教観すればありえないだろうし」という留保を入れつつ、慎重をギロンを進めておられる。

 実際、このエントリの文意を見ても、finalventさん自身が少なからず衝撃を受けた、ということが伝わってくる。


 その上でこれか(※孫引き)


ロバート・リビングストン 日本への原爆投下のケースはどうなんですか。あの行為をした人たちは、それで一〇〇万人の命が救えるからっていわれてやったんですよ。
ダニエル・ゴールマン あれは菩薩の行為と言えるのですか。
ダライ・ラマ むずかしい判断だが、理論的にはありうる。もしそれが大勢の人の命を救うための行為だったとすればだがね。



ダライ・ラマ(中略)ボブ、あなたの提起した長崎と広島の原爆投下の問題に戻ると、その行為の善し悪しは、歴史上の一時期ではなく、長期的な結果をみて判断すべきでしょうね。今日世界じゅうに核兵器が拡散している事態をみれば、原爆投下は反倫理的な行為だったと断言できるんじゃないかな。そのときにはよい動機があったかもしれないが、それ以来、さまざまな悪い結果が生まれたことはまちがいないし、恐怖も増大しましたから。



ダライ・ラマ 二つのことを天秤にかけて考えるのです。いっぽうには殺人のようなよくない行為、もういっぽうには状況をのせます。つまり、その状況ではどっちが重要なのをつねに考えるということですね。状況によっては、たとえよくない行為でも、その行為をすれば大きな利益が得られ、行為を避ければ害が生じる場合があります。このバランスの原理は、もっとも基本的な仏教の倫理を解いている律蔵にも説かれているし、菩薩の倫理にも貫かれている。一般原理と状況の二つを天秤にかけて、特定の状況を判断するわけです。(後略)




 頬が引きつってしまうが・・冷静に・・。



 ダライ・ラマ自身もいくつかの留保を入れているのは分かる。チベット仏教が単なる妄信的な教えではなく対話ができるというところも示さなければならない(というかダライ・ラマ自身がそういう人)のだろう。そして、やむを得ずそういった決断を下すときにも「慈悲心をもってなさなければならない」とされている。


ダライ・ラマ あなたのみつけた悪い性質や悪徳が、さらにもっと大きな害をもたらす恐れがあるときは、それを抹殺してもいいのです。しかし、ここが重要な点なんですが、それには、大きな害を避けたいという慈悲心が動機になっていなければならないということです。悪徳を消すには暴力に訴えるしかないと悟った場合は、その悪徳をもっている人間の命を奪ってもよいのですが、その人間にたいして慈悲心をもって、その任務を受けることが条件になります。





 が、



 やはりあんまりだろう。



 ヒロシマのことを例に出してそんなことを言うのか? アメリカ人の「ヒロシマによって多くの人が救われた」言説に乗って・・。


 それはやはりあんまりだ



 もっと早くこのエントリを見ていれば、去年講演に来たときに問いただしたのに・・。




 <多数を救うために少数(あるいは明らかに必要と思われる)犠牲は止むを得ないか?>、ということがずっと昔から考えられてきたテーマだということは分かる。


 極東ブログ的にはこの辺りに繋がるか


極東ブログ: 造悪論ノート


極東ブログ: 無門関第十四則南泉斬猫を愚考す



 そして、そういった話が原爆関連だけではなく、たとえば精神異常者による凶悪犯罪に対する抑止をめぐる是非にも絡んでくることなども理解できる。付け加えれば、そういった問題に対しては被疑者に対するケアをもっと強いものにしたほうが良い、と思っている(それに加えて社会システム的に同様の事件が起こらないように対策・統制を強めるべきだ、と)。

 しかし、今回の問題は違う。


 「ヒロシマに原爆を落としてよかったのではないか」などというのはアメリカの政治的正当性を担保するための言説であって、公案とかそういう次元の話じゃない。


 そのテーマ自体が魅力的であっても、その発言がどのような影響を与えるか(どのように利用される可能性があるか)、ダライ・ラマは考慮して然るべきであったように思う。


 はっきり言えば、「ヒロシマに関しては絶対悪です」、といえば良かったのだ。それが同じ仏門に帰依した、藤井日達上人の魂に報いるということではないのか?



(※って、極東ブログの切り抜きしか見てないので、同書の全体の文脈ではどのように言っていたか分からないけど)




 なんか、「チベットとインドだからか?」とか邪推してしまうけど、それは置こう。



 それで、それとは別に「ヒロシマによって多くの命が救われた」言説について。これはアメリカの中高生(あるいは大人?)を始め、けっこう世界的に信じられている考え方みたいで、たまにそういうのをガイジンから聞くとピクピクっときて無意識に頭頂部の血管が浮き上がったりしてるらしいんだけど、ここでもそんなのが見れて腹が立ったので少し反論しとこう。


 以下、 「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」(鳥居 民)より



原爆を投下するまで日本を降伏させるな――トルーマンとバーンズの陰謀
鳥居 民
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 前置きとして、この本で書かれていたことに対して、まだウラとってない。なので事実なのかどうかびみょーなところがあるけど、個人的な印象としてはそういう線もあったのではないかと思う。というよりも、ヒロシマの犠牲によって多くの人が救われた」みたいな言説と同程度かそれ以上の確度はあるだろうし、なにより、そういう言説を弄する人々の思考よりかはなんぼかマシだな、と思っている。


 後者は価値判断であって事実認識ではないが、歴史も人が編集したものなのだからパフォーマティブなところがあってもおかしくないだろう。


 前置きはこのぐらいにして、以下論点箇条



(1)原爆投下の経緯として<終戦時の首相鈴木貫太郎が「ポツダム宣言」を黙殺したことが原因>と見る向きもあるが、そうではなく、実際には日本政府は原爆を落とされる前に無条件降伏をする準備を進めていた



(2)降伏において、日本政府が気になっていた点は降伏後、天皇陛下を守ることができるかどうかだった。



(3)中・ソ共産勢力の日本への侵攻が気になっていたアメリカは原子爆弾を使うことによって、その侵攻を食い止めたかった。



(4)アメリカと日本との秘密裏の交渉(通信による)において、<降伏時に天皇を守りたければ、無条件降伏の承諾の時期を延ばせ>、というような要求があった。



(5)日本政府は天皇を守るために無条件降伏の時期を伸ばさざるを得ず、結果として2つの原子爆弾が日本に投下された。




 ポイントは、<アメリカが実験(+ソ連への示威)のために原爆を落としたかったので、日本に降伏をさせないようにした(爆弾を落とすまで降伏の時期をずらさせた)>、というところ。

 

 もし、これが本当だとするとけっこうキチクなわけだが・・(欧米人と話すと良く出てくる、「原爆投下によって戦争終結を早められて良かったんじゃないの?」、なんて二度と言えなくしてやれる)

 Amazonのレビューにもあるように確定ではないみたいなので、レビュー先で紹介されている文献も読んでみようと思っている。 (以下、Amazon.co.jpレビューの一部より全文転載)


この本は、中国近現代史に詳しい歴史研究家の鳥居民(とりいたみ)氏が、アメリカが、広島と長崎に原爆を投下するに至るまでの経緯を、一つの読み物として書き下ろした、ユニークな一書である。著者が、中国近現代史に詳しい事を反映して、戦争末期における中国大陸の政治、軍事状況が、アメリカの原爆投下決定のプロセスにいかなる影響を与えたかを考察して居る点は、秀逸であり、私個人は、これまで、他書では読んだ事の無い考察、分析に溢れて居る。--中国大陸の情勢と原爆投下決定のプロセスを関連ずけて考察した本書のこうした点は、重要な問題提起であると考える。具体的には、日本軍が、中国大陸で、1944年4月18日に、南方からの補給路確保を目的に開始した「一号作戦」が、アメリカの戦後の東アジア構想に影響を与え、それが、ひいては、アメリカ政府内部の対日融和派(グルー、スティムソン、等)と、対日強硬派(トルーマン、バーンズ、等)の確執に繋がったとする分析など、非常に興味深い考察である。--ホプキンスのモスクワ訪問についての分析も興味深い。
 しかし、鳥居氏のこうした分析、考察は、鳥居氏の解釈に依る所が多く、はっきり言へば、鳥居氏の想像と言はれても仕方の無い部分が大きい。裏を返せば、この事は、当時のアメリカ政府が、原爆投下を決定するまでの過程を記録した公文書の公開が、不十分である事の反映とも言へそうだが、本書を読む読者は、本書の記述が、何処までが資料によって裏付けられており、何処からが著者(鳥居氏)の解釈であるかを注意深く読み分ける必要が有る。ガー・アルペロヴィッツ(Gar Alperovitz)の大著『原爆投下決断の内幕』(上下/ほるぷ出版・1995年)と併せて読む事をお勧めする。

(西岡昌紀・内科医/広島と長崎に原爆が投下されて60年目の夏に)






 繰り返しになるが、これが歴史認識として妥当かどうかはびみょーだろう。評者の多くも「歴史を踏まえた上でのフィクション」としている。しかし、欧米(特にアメリカ)の若者のヒロシマということに対する鈍感で無思慮な態度とそれに基づいた行動に対して、このぐらいの抗弁は許されるのではないか?

 それが例えフィクションであるにせよ、彼らの鈍感さがこれ以上の犠牲を生まないようにするためには。
(※一部ハーヴァードのエリートとかにも「ヒロシマの犠牲は必要だった」というのを何の留保もなく真に受けてる人がいるみたいだし)




 (ダライ・ラマ流に言えば)それが情況を理解するものの配慮というものだろう




タグ: ヒロシマ
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2007年04月15日

大学図書館の利用法とか分野別書誌まとめ

 久々に修道大学の図書館HPを覗きに行ってみたらRSSとかケータイとかに対応してた。ってか、

My Libraryで,借りている本の貸出期間延長手続ができるようになりました


 ってすごいな。

 ぼくは貧乏性なので借りるときにはぐわっと借りてしまって、結果的に貸し出し延長を繰り返すタイプなのでこういうのはありがたい。(いや、その前にこの癖は迷惑なので直すべきだというのはわかって・・・・直します、はい)

 んで、ちょっと思ったんだけど、「こんな感じで大学図書館って一般利用できることを知ってる人ってどれだけいるんだろうか?

 昨今、ちらほらと図書館ブームなエントリを見かけるんだけど、そういうのだったらそれこそ最寄の大学図書館こそ利用すべきだと思う。大学ってのは少なからず税金が投入されてるわけだから一般利用できるはずだし(国立はケチなところが多いけど、公立とか私立だったらできるんじゃないか?)


 んで、利用の方法について。まず最初に一般利用ができるかどうかは各自確かめてもらうとして、「最寄の図書館」というか「目当ての本」がある図書館を探す方法として「webcat」がある。


Nacsis Webcat


 詳しいこと書かないけど、これは日本の大学図書館にある蔵書のメタサーチなので、これ使えば読みたい本がどこの大学図書館にあるか探せる。そこの大学図書館が本をOpac登録してくれてれば。

 んで、最寄の図書館に本がなかった場合、どーしても読みたい場合は近くの図書館を通じて取り寄せ依頼ができる。ここでも諸々条件があって、取り寄せてもらったとしても貸出できるかどうかとかは事前に確かめといたほうがいい。


ってか、この手の話題って前に関心空間に書いたな


学術ポータル (ガクジュツポータル) - 関心空間


 いちお図書館関連の部分だけoutputしとこう



 図書館に関する全体的なフローはこちらが参考になる


実践大学図書館:図書・雑誌探索ページ


 実践女子大の図書館員の人がまとめてくれた情報探索に関するフロー。ここに各種リンクがあるので困ったときにはここを出発地点にするといいと思う。ただし、けっこう古いものなので一部リンク切れしてるところがあるかもしれない。でも、情報探索のディレクトリとしては参考になる。


 あと、おすすめなのは各分野に関する書誌(bibliography)を手に入れること。専門書なんかの巻末についてる参考文献目録みたいなやつ。あれのもうちょっと多めのやつを各分野の研究者が公開してくれてたりするので参考にするといいかも。まずはこちらから


生成する目録


 ARGの人(岡本さん)がまとめてくれた文献目録リンク集。すごく便利。ちなみにARG blogはこちら


 あと、2点ほど


 小田センセのとこでネオリベ関連で出てた書誌


小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:「ネオリベラリズムの文化」文献

 

 國領センセのとこで公開されてる書誌


経営情報システムの文献データベース



 ほかは地道に各分野の研究者のHPから見てくといいかも。各分野の研究者のHPについてはこちらとか


人々の網の目 - Web of People -(@ARG)


 こちらとか参考になる


人力検索はてな - 学術系のブログで、内容が非常に充実している、 もしくは質が高くためになる、とご自身が思われているサイトを、厳選して5つ教えてください。 分野は、問いません。






 ・・なんだかオリエンテーションみたいになった(春っぽいな)




--
関連:
muse-A-muse 2nd: 本の管理とかデータのinput周りの話







タグ:学術 図書館
posted by m_um_u at 20:59 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年04月13日

インセンティブと教育の質について

 巡回先2箇所でテーマが重なったのでちょっと書いてみよう。まずこちらから孫引き(夏目漱石『道楽と職業』)

smallpineの日記 / 腐りかけの果実の自分語り - いつの間にか常識が変わっていたこと 2 (文豪の目線から)


......(前略)...... 多くの学生が大学を出る。最高等の教育の府を出る。もちろん天下の秀才が出るものと仮定しまして、そうしてその秀才が出てから何をしているかというと、何か糊口(ここう)の口がないか何か生活の手蔓(てづる)はないかと朝から晩まで捜して歩いている。天下の秀才を何かないか何かないかと血眼(ちまなこ)にさせて遊ばせておくのは不経済の話で、......(中略)...... 一日も早く職業を与えれば、父兄も安心するし当人も安心する。国家社会もそれだけ利益を受ける。それで四方八方良いことだらけになるのであるけれども、その秀才が夢中に奔走して、汗をダラダラ垂らしながら捜しているにもかかわらず、いわゆる職業というものがあまり無いようです。あまりどころかなかなか無い。今言う通り天下に職業の種類が何百種何千種あるか分らないくらい分布配列されているにかかわらず、どこへでも融通が利(き)くべきはずの秀才が懸命に馳(か)け廻っているにもかかわらず、自分の生命を託すべき職業がなかなか無い。......(中略)...... 国家の経済からいうとずいぶん馬鹿気た話であります。......(中略)...... けれども今言う通り職業の種類が何百通りもあるのだから、理窟(りくつ)から云えばどこかへぶつかってしかるべきはずだと思うのです。ちょうど嫁を貰うようなもので自分の嫁はどこかにあるにきまってるし、また向うでも捜しているのは明らかな話しだが、つい旨(うま)く行かないといつまでも結婚が後れてしまう。それと同じでいくら秀才でも職業にぶつからなければしようがないのでしょう。......(後略)......



 いわゆる「雇用のミスマッチ」現象ってやつかな。

 明治期と現在の違いは「最高学府の質が落ちた」という大学側の責任だけではなくて、「<知>に対する世間的評価が下がった」ということにもあるように思う。ありていに言えば、「企業側が大学側の知識を軽んじるようになった」、ということ。(cf.「しょせんは学生のお勉強なんか役に立たないんだから」)

 これはどっちが先かはよくわかんなくて循環論っぽくなりそうなんだけど、ちょっと思うのは昔は大学行く人ってエリートだったしなぁ、ってこと。なので講義をする側もされる側も大学教育に対する責任意識みたいなものがあったのだろうし、世間的評価も高かったのかなぁ、って。(っつーか、ちゃぶ台返しするとオレはこの時代の大学評価ってよく知らんのだけどね)

 

 まぁ、とりあえず、そんな感じで「企業側による大学教育(あるいはそれ以降の高等教育)に対する評価が低いので学生のインセンティブが弱い(大学教育が盛り上がらない) ⇒ 学生の質が下がる ⇒ 企業が大学教育に失望する(雇用減らす) ⇒ 学生の質が下がる・・・」っていうデフレスパイラルみたいな現状があるように思う。

 こういうのは特に(いわゆる)一流じゃない大学で深刻で、そういう学生は就職活動のときにあまり活発に就職活動しないんだそうだ。最初から脚切りされるの目に見えてるし、それだったらって感じでマイナーな地元企業に就職しようとする。そういう場合、それまでの勉強とかあまり関係ないし(「むしろ邪魔」って思われたりね)。

 なので、教育のモチベーションに対して正のインセンティブを設定する場合はこの辺りをなんとかしないといけない(ってのはこの前福耳さんとこでもお話したな)。

 「なんとかする」ってのは具体的に、もうちょっと条件の良い企業に学生がアクセスできるように就職課などが学生と企業の間に入って積極的に取り持ち(鳥餅)活動をしないといけない。てきとーにデスクでふんぞり返って「フリーターは惨めだぞー」なんて言うだけなのはロボでもできるわな。



 インセンティブと教育の質関連では5号館さんとこにもエントリ出てた


5号館のつぶやき : 科学オリンピック:クローズアップ現代


 やっぱ「学術系はインセンティブないので優秀な人材は銀行とかに行った」んだそうな。もしくは天下り狙って官庁行ったり


池田信夫 blog 天下りの経済学


 
 まぁ、そんなこんなで学術を下支えする「優秀な人材」(?)ってのが流出していった、と(んで、さきほど示したような<知>のデフレスパイラル)。

 個人的には日本の研究環境(特に文系)って坊さんと同じような気がする。研究費少なめでひたすら修行って感じ。それはそれで清貧って感じなんだけど。なので、前にいた研究室のことを心の中で「尼寺」と呼んでいた。(女性比率が高かったもので)



 ところで実際に日本の大学教育(あるいはそれ以降の高等教育)のレベルというのはどういったものなのか?世界的に見て通用するのか?

 ちょうどそういうの関連で論文の引用動向でてた(via.成城トラカレ)


日本の論文の引用動向1996-2006


 なんか日本の大学だけクローズアップしてあって分かりにくいけど、たしかこれ系って中国の大学(北京と・・どこだっけ?)とインド系が躍進してきてるんじゃなかったっけ?(んで「日本には越えられない壁がある」とかなんとか)。とりあえず考察

世界第1位をどう見るか
その一例として、ドイツのマックス・プランク研究所や、中国の中国科学院があげられます。傘下の研究機関をそれぞれ、Max Planck Society、Chinese Academy of Sciencesという名称の元に集めた結果、これらの研究機関はEssential Science Indicators データベースが集計する多くの分野で世界のトップ1パーセントにランクインすることとなりました。今回の4分野のうち、マックス・プランク研究所は化学、物理学の2分野で世界1位、また中国科学院は材料科学分野で世界1位となっています。しかしこれはそれぞれが傘下に擁する研究機関名をひとつに取りまとめた結果であり、2004年まで世界第1位であった東北大学(材料科学)、東京大学(物理学)などの研究パフォーマンスが下がったと見るべきではありません。



 ん゛ーーーー

 中華が「材料科学分野で世界1位」とな(って材料科学ってなんだか知らんけど)


 とりあえずバイオと薬学、臓器系とられなかったらいいと思うんだけどその辺どうなってるんだろうか?


 あと、文系について全然わかんないね



 っつーか、文系の引用率って極端に低かったか・・。


 
 てきとーな遊びみたいなことやってる人が多いからなぁ・・。(「ぽすともだん」で脳みそとろとろだし)





 個人的にはコツコツとやってる職人タイプの学者の研究というのは世界的にも通用すると思うんだけど、そういうのは地味すぎて日本の学会とか論壇でも相手にされんしなぁ・・。

 


 まぁ、それはそれとして




 もしも地味に脳資源が学術系の中に埋もれているとしたら、そしてそういうのが正当に評価されていないとしたら、それこそビジネスチャンスっぽいな。世は「フラット化」って感じだし

「うまいこと女衒すればよい商売になる」っていう言い方は品がないが、紹介するほうされるほうにとっても良い試みになるように思う。




 でもそういうのの人材マーケットとして求められるのって技術であって創造性ではない、と。


 その場合、理系だと技術って感じだろうけど文系だとなにになるんだろう?(翻訳とか?)




 それはそれで寂しいものがある




 もうちょっとなんとかならんのかなぁ








タグ:学術 大学 教育
posted by m_um_u at 21:55 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年04月11日

プロレスとJ-POP

けっこうどーでもいいことなんだけど思いついてしまったもので。

一つ前のエントリに書いたようにJ-POPには「英語だっせー問題」っていうのがあるように思う。

つまり、「なんで日本のPOPなのにいきなり英語出てくんの?(かっこわる)」的問題。

 これに対して一部の歌唄い達は意味のない英語歌詞をやめたり、あるいは、「うっせぇよ。英語でもなんでも面白ければいいじゃん?」、って感じで敢えて地雷を踏んでいく道を選んだりしてるように思う。


んで、この「敢えて」って構造ってプロレスと似てるなぁ、って。


いまさらながらだけど、「プロレスと八百長」っていうのはずーっと言われてることなんだけど、その部分ってのは大分前にどーでも良くなって、ただしいプロレスファンは、「ガチ(真剣勝負)とかそんなんどーでもいい」、ってとこからプロレスを楽しむ。

なので、そういうプロレスファンが例えばK-1の某選手の試合を見たときには、「あぁ、うまいけど下手だねぇ」、って感想を持ったり。


アルジャーノンに逆エビを:大晦日「K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!」雑感


そんでこういう見方(見せ方)って「敢えて」系だなぁ、と。


「英語とかどーとか関係ねぇよ!」っていうのと「八百長とかそんなんどーでもいんだよ!」ってのはなんか似てる

んで、そういう地雷を敢えて踏んでいく(ボンバーマン発熱モードのように踏み潰していく)


そういうのはJ-POPだとサンボマスターの暑苦しさが思い浮かぶ(あるいは真心ブラザーズのジャケなどに既に表われいたか?)


プロレス系でうまく表現してるなと思うのが「アグネス仮面」


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この作品は「プロレススターウォーズ」とか踏まえとくとよりいっそう面白いと思うけど、予備知識がないならないでもいい。



っつーか、そういう視点で見ると一部J-POPERの煽りってレスラーな煽りなわけで、「Rock'in on Japan」と「週刊ゴング」なんかを比べ読みすると意外な相似性が確認されるのかもしれない。
(※一部の人にはすごくイヤな比較だろうがw)



しかし、熱いな、永田


デイリースポーツonline:永田「棚橋は甘やかすな!」


永田は「あわてて対策を練らなきゃならないように、色々と手の内を見せてやる。夏休みの宿題を8月31日にやって、寝ぼけ眼で始業式を迎える小学生のように追い込んでやる」と、早くもてぐすねを引いていた。



すごい表現だ

(プロレスってむしろこういった場外乱闘のほうがメインなのかな)





--
あと、業界構造としては格闘スポーツを扱う業界と水商売を扱う業界の構造が似てるように思う。

両方ともオトコとオンナが最後の資本(カラダ)を元手にする業界だし、搾取の構造も似てる。ヤクザからんでるし


っつーか、ヒットマン秋山ってJ-POP的には誰が当たるんだろうか?
(「ジャニーズの口パク」・・ってのもちょっと違うよなぁ。元米米クラブの人とか?)




posted by m_um_u at 20:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年04月07日

優越ゲームとべジータコンプレックス (あるいは見越入道対処法)

 たいしたネタじゃないけど、たまには小ネタもいいかな、と思ってちょっとこの辺のことに触れてみます。(※小ネタなので文体も口語の「ですます」調にしてみたり)

 よく、はてな界隈で優越ゲームな話題を見るんですね。

 「はてな界隈」っていっても一部のコミュニティ(※敢えて言及しません)の人たちなんだけど、その人たちが「おまえなに上から目線で人のこと観察してんだよー」とか「自分のほうが頭いいと思ってんのかよー」とかそんなことを言い争ってるのを見る。

 言っちゃなんですが「小学生か?」って感じがするんです。


 いや、彼らはそれをネタとして楽しんでて、それはいわゆる「くねくね」というやつなのかもしれないけど、ネタの中でヒートアップしていっている様子を見るとある程度本気っぽいし・・。

 本気だとするとなんでその程度のことで熱くなれるのか分からないんですね。

 って、こういう目線自体が彼らからすると「いけすかねー」ってことなんでしょうけど、いけすかれなくてけっこうなので話を続けます。


 で、

 そんなことが心の片隅にあった某日、友人とお話してたらそれ系の話題が出てきたんです。なんか、「同僚の人がなぜか知らないけど、私に対して敵愾心を燃やしてきて困るんです」、ってやつ。

 詳しく触れるのもアレなのであまり詳細には書きませんが、彼女から聞いた範囲では彼女自身特に思い当たる節はないみたい。

 そういう系の「やっかみ」みたいなのを感じられるパターンとして考えられるのは、


(1)特定コミュニティの中でポジションが被ってる(ex.ワタシが職場のかわいがられキャラよ)

(2)キャラ傾向が似てる(ex.物知りキャラはワタシだけで充分よ)

(3)わたしはこんなにがんばってるのに天然なアンタがなんで評価されるのよ?


 ちなみに話を聞いた彼女とやっかみ彼女の職場での力関係は同じぐらいです。職場における仲間内からの評価も似たようなもの、とのこと(※この辺りは第三者の内心なのでほんとのところは分かりません)。


 そんで、ぶっとばして結論言うと(3)かなぁ、って思ってるんですね。

 いや、「天然」って言っても彼女は仕事はきちんとやるタイプらしんだけど、なんかこう大らかなところがあるコなので、その辺がやっかみの人の性格からすると気に入らないのかなぁ、と。

 ちなみにやっかみの人の性格はきちんきちんと課題をやってきた優等生タイプっぽいです。なんつーか・・この人に似てる気がする(※いや、批判じゃないし今回の文脈に繋げる気もなくただ「似たキャラ」として思い浮かんだだけです)



 んで、その後、場所を移して「ドラゴンボールというマンガはどこで終わりだったか?」について彼女と語らった後しばらくしてこのことが浮かんだんですね。

 「あれ?これってべジータ問題?」って(※画像はクリックで拡大)


G[g.jpg


 知っての通り、べジータというキャラは戦闘民族サイヤ人という戦闘におけるエリート集団の中でもさらにエリートの王族に属する人物です。

 んで、そのエリート様が自信満々で宇宙の辺境の小っぽけな星にやってきて同じサイヤ人ではあるがはるかに格下のカカロット(悟空)と対決する。

 で、結果的に敗れてしまうわけです


 これ自体はいいんだけど、その後、くされ縁でカカロットと行動を共にしていくうちにどんどん彼我の差が開いていく。

「エリートである自分を平民のカカロットが置いてけぼりにしていく」わけです。


 それでべジータの自尊心はズタズタになって、物語最後のほうではそのコンプレックスから敵側に魂を売ったりもするわけです。(これはこれで悪の美学が感じられ、キャラ立ちしてたんだけど話逸れるので置いときます)


 んで、まぁ、「優越ゲーム」というのはこういうことなのかなぁ、と。


 べジータは同じ尺度(肉体的な強さ)の中でカカロットと競うしかなかったので追い詰められていったわけです。

 悟空は天然・真直ぐくんタイプ(努力派)でただ「強くなる」ことだけを目指してそのために自分を追い込んでいくのでべジータのコンプレックスなんか眼中にありません。

 そのときのモチベーション(インセンティブ)は強いて言えば「仲間を救う」とか「地球を救う」とかそういうのだけど、悟空のキャラ的には「強くなりたいから強くなる」ってのが一番大きいように思います。

 んで、こういうのは「努力・友情・勝利」のジャンプ黄金律に則ってるわけだから始めから祝福を受けるのは決定づけられてます(※主人公だしね)


 そういう風に見るとべジータというキャラに同情してしまうところが出てくる。

 だって、マンガじゃなかったらべジータのほうが絶対強いですし、おそらく最初の遭遇のときに絶対に勝っていたはず・・(ナッパさんなんかも指だけで地球を震わすほど強かったわけだし)

 なのに、「マンガだから」悟空に負けたわけです。ってか、「ジャンプシステムに負けた」と言ってもいい。敵がジャンプシステムなわけだがら彼我の差は圧倒的ですね


 んで、まぁ、話を戻すと、そんな感じで優越ゲームにおけるコンプレックスというのは「同じ尺度(同じ土俵)」で争おうとするところから生まれているんじゃないか、と思うわけです。

 具体的に言えば、「ってか、むしろワタシのほうがオマエを楽しむ側なんだよ」、的な感じでしょうか。もうちょっと言うと相手に対してコンプレックスを感じる人というのは内心にその分野において「相手より優位に立ちたい」という意識があるからこそ、対象とする壁が高かった場合その意識がそのまま自分に還ってくる、ということがあるのではないでしょうか?端的に言うと「ひがみ」というやつです。



 これに対して、「そういうことではなく、なんかアイツの見下し視線には悪意を感じる(「正しい」視点を借りて見下しゲームを行っているような偽善性)」、という反論があるかもしれない。

 確かにそれも一理あるとは思うんですが、個人の悪意なんてのはブラックボックス的なものだからよく分かんないように思うんですね。

 どこまで行っても「なんか悪意がありそう」って印象論に終始するし、本人が「オレ悪意持ってるぜ」なんて言うこともないですしね。


 んで、やっぱ不毛だなぁ、と



 そんなことやってるぐらいなら悟空みたいな感じでなんか究めたほうがよいように思うんだけど、究める対象がないのかなぁ・・。


 ってか、こういう不毛もゲームの内ということで、そういうのも全部含めてゲームを楽しんでるのかもしれないけど、やっぱよく分かりません。



 そういや、それ関連でこんな話を思い出しました


もっけ(勿怪) 2 (2)
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 「もっけ(2)」に出てきた見越入道(見上げ入道)の話。


 見越入道というのは辻でいきなり出会う妖怪で、実体はない影のような存在なんだけど、後ろを振り向いたときに見越入道を見上げてしまうと意識を持って行かれちゃうんですね。

 
「いずれも大入道姿か小坊主姿で現れて
見上げれば見上げるほど大きくなる」

「……でも落ち着いて見下ろせば
上から下へと視線移していけば小さくなって……消えるんだよね
あとは確か『見越した』って呪文……」



 んで、主人公姉妹はこの後、実際に見越入道と対峙して見事に見越すわけだけど、このときの「見越した」っていうのが重要だなぁ、と思って。

 「見上げる」んじゃなくて「見越す」。「下から上へ」じゃなくて「上から足元へ」・・・


 そういうのは優越ゲームだけじゃなくていろんな場面のコンプレックスに対する対処法として有効なように思います(自戒も込めて)



 では、最後にご一同


 「せーの」で唱えようじゃありませんか



せーの!


 (「見越した!」



--
関連(?):
「横一線の教育」について
http://deztec.jp/design/07/04/06_fuku33_2.html

「君たちは、何かを分かっているつもりかもしれないが、全て勘違いだ。俺は賢いという思い上がりも、自分はダメだという劣等感も、みな捨てなさい。この教室では、俺の前で横一線なんだよ」




っつーか、学問の前では皆「僕」なんだと思う




posted by m_um_u at 17:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年04月06日

かなまら祭りに逝って来たよ

 4月吉日、例のバカ祭りへ行って来ました。


かなまら祭りとは - はてなダイアリー

神奈川県川崎市の金山神社で、毎年、4月第1土曜日・日曜日に行われる祭り。

金山神社は鍛冶の神様を祭る神社だが、江戸時代川崎宿の飯盛女達の願掛けに端を発しこの「かなまら祭り」が行われるようになった。

商売繁盛・子孫繁栄(子授け)・安産・縁結び・夫婦和合のご利益があると云われる。また近年、エイズ除けの祭りとして国際的にも有名になった。女装クラブ・エリザベスの「エリザベス御輿」が特に名物。

 
 当日は快晴。天候にも恵まれ、ワクワクした気分で現地へ。(ってか、ほんとは新幹線が遅れて間に合うかどうかドキドキしながらの現地入りでした)


 新幹線で新横浜まで行って、そこから乗り換え、乗り換え電車ではガイジンさんもけっこういて皆さん目的は同じなご様子。ちょっと嬉しくなって、「なんなら一緒に行きますか?」、とガイジンさんグループに話しかけそうになったけどそこはグッと我慢しました。

 んで、まぁ、特に何事もなく現地入り。駅から目標の金山神社までけっこう遠いかと思って覚悟してたけど意外なほど近くでした。んで、ソッコー現場へ。

 現場入りするとそこかしこにソレ系の屋台が・・。「これが噂に聞くちんちん飴か・・」、と一瞥しつつもそれほどたいしたものではなかったのでスルーしつつ、なにやら人溜まりができているところがあるのでそちらのほうへ。あ、これは噂の


IMG_0156.JPG


 ペニスライド


 あまり良い写真が撮れなかったけど、なんか女史の方々が嬉し恥ずかしな感じでソレ(×2)に乗っておられました。安産祈願とかにもなるのかなぁ・・。(エイズ除けってことか?)

 
 そんで、「例のブツはどこかなぁ」、ということでその辺をキョロキョロと。ペニスライドの右後方でおっちゃんが拡声器でなにやら言っておられる。「なんじゃらほい?」と行ってみたけど、どうやら目的のブツではなくバンドがどうとか・・? んでも、「例のブツがそろそろ開チンだよ ♪」みたいな感じなのでそのままブツ散策。そしたら境内近くで発見。


(ほんとはここから「ブツとの初遭遇(1st impact)」などを含めた写真・動画があったんだけど、ちょっとミスって消去してしまった・・)


 で、まぁ、いよいよ御輿です。御輿は3種類あって一番最後に目的の例のヤツが登場してきました。で、そいつの起動シーンから撮影してたんだけど・・・それは誤って消去してしまった。せっかく体を張って撮ったのに・・。(人が押し寄せてきて痛かった)

 そんなわけで2nd impactからお届けします。以下、「♪ でっかいまぁ〜ら」







 過ぎ去っていくピンク色のヤツに諸行無常を感じたり(遠くのほうでかすかに揺れる先端部が物悲しいですね)。

 んで、やることもなくなって、せっかくだからということでご本尊を拝みに


IMG_0148.JPG



 本来かなまら様は鍛冶神ということで、ご本尊はこういう形。「金+魔羅」ということでかなまら。鍛冶の神がなにかを産み出すということと生命の営みの結果、命が産み出されることをかけてるんでしょうな。そんなことを思いながらお参りを済ませて去ろうとして、ふと目をやったところに


IMG_0149.JPG



 少し気を抜いていたところだったので意表をつかれてしまった・・。ってか、なんだろ?「かなまらいたるところにキノコあり」とか言いたいのだろうか?そしてその横にもびみょーにエロげなものが


IMG_0151.JPG


 直接的じゃないだけになんかエロい


 んで、その右後方にはそのものって感じのものが


IMG_0152.JPG


 鍛冶神とブツの融合。こうなるともうオブジェ(アート)って感じですね。ペニスライドにはない迫力を感じます。でも、そんなアートにも嬉々としてまたがる人たちがいたけど。(いや、いいんだけどね)

 なんか鉄とエロってエロいっすよね。


 そんでしばらく進むと「ほだれ祭り」とかいう暖簾に遭遇。あれ?「ほだれ」なの?ふーん、ほだれってそういうの一般の意味なのか・・。なんとなく女性器のほうかと思ってた。

 そういえば会場は男性器ばっかで女性器は見当たらなかったです。・・なんでだろ?鍛冶神ということと関連してるのかなぁ・・。(ホノカグツチって男性神だったっけ?)


 そんなことを思ってるとまたしてもきみょーな者に遭遇

IMG_0155.JPG


 男性器のはっぴを着た男性器そのもののようなおっちゃん

 なんか、ここまで来るとパンクって感じだ。すごいな。狙ってやってたのかな?



 んで、まぁ、会場としては大体見尽くしたので早々に撤退(人が多いの苦手だし)。あとちょっと気になったのはやっぱガイジンさんが多いですね。会場の1/5ぐらいはガイジンさんだったんじゃないかと思う。これっていろいろ考えさせられますね。向こうの番組(CNNだっけ?)で流されてから「日本の奇祭」ってことで人気が出たんだったっけな?


 まぁ、とりあえず、そんな感じで会場を後に


 ちょっと疲れたので離れたところにあるコンビニへ酒を買いに。んで、そこのおばちゃんと立ち話。


「今年は晴れてよかったですね。桜もきれいで」

「毎年、こんな感じで桜が咲くんですか?」

「いえ、祭りは4月の第一週ということで8日ぐらいになることもあるんです。ですから毎年というわけではないのですが、今年は良かったですね」



 うん。確かに良かった。



 んで、のこのこと会場に帰ってると交番が意外なほど近くにあったことに気づく。なるほど、ここまで近くにあったらなにかあったときに安心だ。この祭り用に移転したのかな?

 ってか、信号の向かいに不二家があるな。「閉店」か・・。


 狂騒と現実



 
 んで、会場に戻ろうかなぁ、と思ってたところでまたしても御輿に遭遇。なにやら商店街に入っていくご様子(「♪ でっかいまぁ〜ら(reprise)」)







 一緒に引かれていたトロッコになにやら怪しい絵が・・。それを見て「かわいい」という女史もどうか、と・・。(やはりコイツラ狂ってるw)


 

 かなまら祭りについてはだいたいそんな感じでした。


 4月の始めのバカ騒ぎ、と。





 最後に全然関係ないけど、翌日の早朝に日本橋で撮った写真を


moon 4EQEQ.JPG


 
 早朝3:00に見る夜桜ってのはなんだかとっても綺麗で、これだけでかなまら祭りの狂騒に似た(あるいはそれ以上の)感動を覚えてしまった。


 






♪ スガシカオ / 午後のパレード


--
関連:
ツキノツバサ | かなまら祭りに行ってきました 2007


ちんこ神輿…かなまら祭り2007:エキスパートモード


タイツくん・大人のブログ:「かなまらレポート」田舎侍

〜さざなみ壊変〜川崎市金山神社のちんこ祭りに行ってきた!

タグ:イベント
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2007年03月27日

春と修羅

心象のはいいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の濕地

いちめんのいちめんの諂曲〔てんごく〕模様

(正午の管楽〔くわんがく〕よりもしげく

 琥珀のかけらがそそぐとき)

いかりのにがさまた青さ

四月の気層のひかりの底を

唾〔つばき〕し はぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

「春と修羅」より引用】


 

 自分の知が一部の人を惹きつけること、それに対する自分の対応というか、その責任のようなことを時々思うことがある。

 ぼくの知なんてのはしょせんは薄っぺらなもので、でもそれなりの広がりを持っているから一部の人は惹きつけられるんだろうか。あるいは同じ感性を持った人が自分の知の先のようなものを見て惹かれるのか。

 同時に、そういった知とか感性のようなものは違うセカイに属する一部の人にはひどく鼻にかかるようでそれなりの迫害を受けてきたけど、そういうのはやっかみのようなものだからということで処理できてきた。(それなりに恨みもしたが)

 でも、同族の親しみというか、なにか特別の好意のようなものを寄せてくれる人に対して、ぼくはいつも少し一線を引いた態度をとってきたような気がする。惹きつけるだけ惹きつけておいて、相手がその線を越えそうになると引いてしまうような・・そういう小ずるさ。

 相手がその線を越えようとしていたのかどうかはっきりと確かめたことはないし、自惚れのようなものかもしれないけど、いま思うとそういうことが何度かあったように思う。

 そのとき引いてしまったのはほかの人を見ていたり、ほかの道のようなものに興味があったからのように思う。ぼくは未だ知力も精神力も経済力も未熟だったし、なによりも早く成長したかった。だから彼や彼女たちの気持ちを知っていて無視していたところがあったのかもしれない。もう一つは三角関係のようなものもあったような気がするけどよくわからない。


 「未熟だから応えられない」というのはいま思うと言い訳に過ぎなくて、そういう言い訳をそろそろやめるべきなのかなぁと思っていたけど、またしてもなんか地雷を踏んでしまったのだろうか・・・。


 ぼくの責任もあるのだろうが、その他いろいろな要因も考えられる。その部分は相手の精神の問題だろう。でも、そのことを薄々感づきながらその辺りの気遣いができなかったのはぼくの責任。


 映画「ゆれる」のことを少し思う。



 同じ地点で同じように雨に濡れればよかったのだろうか?


 ぼくは一緒に濡れるよりは傘を差し出してしまうタイプなのでよく分からないが、そういうのが必要なこともあるのかもしれない。


 もしくは私的な部分を完全に排除すれば良かったか・・?


 
 それもやろうと思えばできるのだけれど、なんか卑怯な気がしてできない。客観性を盾にした超然たる正しさのようなものはなんか偽善のようなものを感じて。でも、そういう偽善の意識というのも所詮は個人的な罪悪感に過ぎないのだから、その部分は個人的に処理して偽善を貫いていくべきなのか・・。



 あるいはそういった非対称的な問題ではなく、同じセカイに住んでいるということが問題なのかもしれない。

 同族嫌悪というかエディプスコンプレックスというか・・・後者の場合、単にぼくが殺されればいいだけのことだけど、そうは言いつついざとなったら怖気づくのだろうか・・(精神的な意味での踏み絵を用意されて)。


 
 同族嫌悪というか、同類は共生できないのかということについて、これを読み返してみた



しあわせ
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 同じ道を行く場合、なんらかのコンプレックスとか相手に対して常に緊張感や不安をもってなくてならなくなり心の休まるときがないのかもしれない。「いずれは別れてしまう」という不安を常に抱えるような。

 
 あるいは共生ということはなくても、距離が近ければ相手に対してなんらかのプレッシャーを感じさせることになるのかもしれない。


 大きな星が自らの重力でその身を潰してしまうように、引力で相手を引き寄せてしまうように、ぼくらは惹かれあい潰しあってしまう。(そしてブラックホールが発生する)




 だからある程度の距離をとったほうがいいのか





 あるいは、そういったところに拘泥せず、一人、けもの道に帰るべきなのか・・?



 通い慣れた道だし、それ自体はどうということはないが、やはり少し寂しい。



 修羅の道に入ることで人並みの幸せを捨てることになるのはあの契約のときに覚悟したことだから、それ自体は仕方ない。少し寂しいけどそういうものだろう。でも、それが誰かに悪影響を与えるのだとしたら・・その辺りのことが少し気掛かり。というか、それ自体が自惚れなのかもしれないが。



 春の陽気につられて少し気が緩んでいたか・・。




 ぼくは徳のようなものを積むべきなのかもしれない。

 それがなにかは未だよく分からないけど、知によって人を傷つけることがないような、人の心を慮って一線を引いたり越えたりできるようなそういうもの。





 ジョギングをしていたら灰色の雲が出ていた。美しくはないけれど落ち着く雲。 わさびらむねをズブロッカで割って飲みながら宮澤賢治のことを少し思った。





posted by m_um_u at 20:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年03月25日

教養について ver.2.0

 教育とか教養について。自分でエントリ起こしたり福耳さんとこにお邪魔してるうちにそれなりにまとめとかなきゃなぁ、というか、投げっぱなしも良くないなぁと思うのでいちお整理しとく。っていっても、本来ならこういう話は教育学部とかそれに準ずるもの(教員免許とか?)に関わる人が発すれば良いと思うし、ぼくはこういうこと言う立場でもないのだろうけど、まぁ「オレ様教育論」ということで。

 上記の理由でエントリには少し消極的だったんだけど、今日lifeの教養の回を聞き終わってなんかふつふつと来るものがあったのでそういうのもやっつけまとめとこうか、と。


 まとめサイトの人がテキスト起こししてくれてたのでとりあえず


「教養」 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


「教養」Part2 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


 特に驚きはない、というかこの人たちとは気が合いそうなので最初から答えがシンクロしてたんだろうけど、大体同意な内容だった。以下、論点箇条



(1)いわゆる「実学」に対する「教養」とはなにか?


(2)Google時代の「教養」の意義


(3)世代間の共通言語としての「教養」の意義


(4)抑圧(権威の象徴)としての「教養」


(5)それでもなお「教養」というものに意義があるとしたら、ほんとの「教養」とは?



 まず、(1)について。これは象徴的な言葉としてこんなのがあった。


 「教養の反対語はホリエモン」


 おっさん達年長者の方々がエスタブリッシュな閥の共通言語として「古典文学」とかその他諸々を身に付け、そういうのに共通していたエートスを身につけていったのに対して、そういうものとは早い段階で縁を切り、合理的な方法でプロパティを獲得していった堀江さん。彼の合理性を如実に表すものとして、最近では以下のエントリが印象深かった。


堀江貴文逮捕による本当の損失


 要約すれば、「新しいことに対する偏見がなく判断スピードが速かった」、ということ。その後の彼の経営の舵取りについては評価が分かれるところだろうけど、ことこの部分については正当な評価を受けて然るべきなのではないか?どうも、「合理主義でIT風吹かしてるヤツなんかは経営に対する思い入れというものがないんだよ。拝金主義ってヤツ。やっぱ必要なのは倫理と教養だよね」、みたいなお年寄りの声が聞こえてくる感じでイヤなのだが、拝金主義と合理性って結びつかないから。たしかに仕事においてお金というのは第一義的に目指すものではなく付いてくるものだとは思うけど、合理性=拝金主義のように捉えて変な教養主義のバックラッシュとか起こったらたまらん。お金と仕事についてはこの辺に詳しい


極東ブログ: [書評]プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー)


 エントリの本筋ではないのでサラッと引用だけさせていただく


カネを儲けることは、世俗内的禁欲の結果であって目的ではないということ。なによりそれが現世ではなく来世に結びつけられていることが重要。
 ではなぜそれが職業を通して現れるかというとその背景に社会構成の原理としての隣人愛の特有なモデルがある。
 いずれにせよ、こうした内面化された行動規範をエートス(倫理)と呼ぶ。エティーク(倫理)とイコールではないというのが難しいのだがそれ以上は踏み込まない。



カネ(資本蓄積)は結果論であり、重要なのは、職業(ベルーフ)を神の呼びかけ=天職としてただ実践するだけ。



よく誤解されるのだが、天職とは、自身に適合した職業とかいう意味ではぜんぜんない。この世に置かれた状況が強いる職業そのままを指す。これは結果としては、多少意外な印象もあるだろうが、共同体(ゲマインデ)の解体をもたらす。
 もう一点、言うまでもないが、こうしたエートスは富裕者と社会的低階層者とを区別しない



 あと、この辺とか、


石黒憲彦氏の「志本主義のススメ」

そして、山本氏は、日本人の職業観、倫理観と、マックス・ウエーバーが指摘するプロテスタンティズムの倫理とのアナロジーを指摘しています。マックス・ウエーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、ベンジャミン・フランクリンに代表される、禁欲的な生活態度を保ちつつ、正当な利潤を使命(すなわち職業として)として組織的かつ合理的に追及するという「資本主義の精神」の起源をプロテスタンティズムに求めました。


プロテスタンティズムは、「目的としての富の追求を邪悪の極地」としながらも、「職業労働の結果としての富の獲得を神の恩恵」と考え、奢侈的な消費を戒める一方、営利を開放することで、禁欲的節約強制による資本形成が進むのです。



山本氏は、戦国時代武士として生き、その後禅僧となった鈴木正三が説いた世俗的な職業倫理としての「万民徳用」という世間法の中に、「世俗的行為は宗教的行為である」というプロテスタンティズムと共通の発想がみられると指摘しています。正三は、「農業則仏行なり」、「何の事業も皆則仏行なり」と説き、「分業は、本覚真如の一仏、百億分身して、世界を利益したもう」ためであり、「武士は秩序維持、農人は食量、職人は必要な品々の提供を、商人は流通をそれぞれ担当するのが宗教的義務になる」(「勤勉の哲学」P73〜74、PHP研究所、 1979年)と説きます。こうして「職業に貴賎なし」、「一意専心」それに従うことが仏行であり、働くことで精神的安定と充足感が得られるとする職業倫理が確立していきました。そうした職業観は「道」という考え方に通じます。さらに、正三は、利潤を目的とせずただ一心不乱に仕事をしていれば結果として収入増となり、利潤が生まれるとも説いているのです。



 こんな感じで合理性そのものは悪ではない。「目的ではない」というだけのこと。ツールみたいなもんだ。福耳さんところで「お金儲け(≠経営)を悪徳と考える人多くね?」的エントリがあったけど同様のことだと思う。(だいたい経営学の目標とする価値は効率化による利潤の最大化なのだから合理性を否定してどうするのだ、と)

 たぶんなんかがまざってるんだと思う(サラッというとマルクス主義の形式知が暗黙知化できてない。つまり自分の言葉にならず単なる呪いとして機能しているのだろう)



 で、実学と教養の話に戻ると、実学的なものの象徴としてMBAが出てきてて、さらに大学の経営レベル(学部改革)の象徴として慶応のSFC(総合政策学部と環境情報学部)が挙げられてた。元から実学というか財界のトップのほうとのルート作るのがメインで創られた学部ということで、創った人たちもそういう方面でのフィクサー的な存在だった、と。んで、「社会に出て役に立つような実学」をメインで教科編成したらしいんだけど、結局なにがメインか分からないヌエみたいな存在になったらしい(cf.東大教養、ICU)。それはそれでよいのかもしれないけど、やっぱそんなもんかなぁ、って感じだ。(ところでSFCをして「ホイチョイ的世界」と称する柳瀬さんの表現は絶妙だと思った。大学堀越!)




 んで、次。(2)Google時代の「教養」の意義、について。

 「検索エンジンあっても調べる言葉がわかんないと意味ないじゃん」、ってやつ。山形さんの新教養主義みたいなのもそういう文脈だったらしい。それに対して、「ほんとの教養を身につければいろいろ調べれるようになるぜ」、と。「ほんとの教養」は後述

 加えて言うなら知識データベースを内部化しておくと検索スピードが向上、思考のリズムが生まれやすくなり創発(アイデアがわく)が起こりやすいというのもあると思うけど、その辺理論化されてないのでいいや。(cf.茂木さんの「アハ体験」でもいいけど、理論っぽくなさそうだしなぁ)



 (3)世代間の共通言語としての「教養」の意義、について。「若い社員との接し方が分からない」問題は切込隊長のところでも出てたな。


切込隊長BLOG(ブログ) - 続・「若い社員との接し方が分からない」って悩みはほぼ全員が持ってると思うんだけどね


 いまの子たちって合理的なので「飲む・打つ・買う」なんかしないし、そういう意味ではプライベート的なところで接点がない(飲みニュケーションがない)。 いわゆる素面男子ってやつだ。

第19回 素面男子〜なぜ「飲む、打つ、買う」?意味わからないです (U35男子マーケティング図鑑):NBonline(日経ビジネス オンライン)

 ってか反応みると強烈に批判されてるのでびみょーな感じがするけど、でも世代間をつなぐ共通言語がなくなってきてるってのはあると思う。昔はそういうのを「教養」というコモンセンスがつないでいたらしい。「代表的な小説」とか「代表的な歌」とかそんなの。んでもそういうのもなくなって久しい、と。

 で、そういう部分を担っていた「代表的な小説(いわゆるブンガクみたいなの)」は昔は帝大の文学部を中心にスタンダード化されていってたみたいなんだけど、その理由として「文学部に通ってた連中は地方出身の田舎者(豪農とか?)が中心だったからです」((C)竹内洋)というのが面白かった。田舎者が見栄を張るために(その時代で)日本の知よりもそふぃすてぃけーとされた西洋文学を身につけて威張る必要があった、と。

 なるほど、そんなものだったのか・・。で、そういったものがエリートの象徴というか、エリートプロトコルとして生き残っていった、と。



(4)抑圧(権威の象徴)としての「教養」、について。

 上記の話にそのまま繋がるんだけど、そういう共通言語(プロトコル)を身につけてないと話通じないよ、って感じがあったのだろう。番組中ではそこまで言ってなかったけど、教養による権威性と優越意識(排他意識)みたいなのには触れてた。学問領域だとゲーガク的なジャーゴン(専門用語)とかそれに当たると思う。

 ジャーゴンは情報圧縮率が高いので専門家同士の話だと必要性があることは認めるけど、それを障壁として使うのはどうかなって思うことがある。(もしくは中身のないギロンの煙幕とか)。本エントリ前段で出てきた(たぶん)よくわからないマルクス主義かぶれの人たちもそういう呪いを受けてたのだろう。



(5)それでもなお「教養」というものに意義があるとしたら、ほんとの「教養」とは?

 煙幕とかゲーガクみたいな教養ではなく真の意味での教養があるとしたらどういったものか?、といった問いかけ。これについては本サイトでは既出なので特に言うことはない(参照参照2)。

 いちお要約すれば、「個々人の人生にとって重要とする価値観に沿って集められた知識」であり、「その知識を吸収・整理・参照していくための思考の枠組み」ということ。後者については「答えよりもむしろ問題設定のほうが重要」って感じ。あとは専門知的なところから出てくる知見とかcritical wordか。Googleで調べる場合そういうのが必要だろう。

 んで、専門知をただカタカナ的に覚えてジャーゴン談義してるだけではほんとの知ではなくて、それを自分の言葉に置き換え生活の中の具体的な事象と連結し、他の分野の言葉(概念)との共通性を探り包括的な理論を作る、って感じ。ってか、最初からどれもこれもってやってたら足場できないだろうけど。そういう意味ではある程度のタコツボも必要だと思う。なんつーか、専門知もある程度に達したら勝手にほかと繋がるように思うので。きちんとした思考回路を持ってたら繋がると思う。(「井の中の蛙大海を知らず、されど空の高さを知る」)


 付け加えるならば「地力」のようなものもあるように思う。福耳さんのところでも少し触れてあったが、ほんものの経営者の人の人生観から出てくる言葉に含まれる経験知というか、人生の重みというか・・。「人格」と言ってもいいかもしれない。そういうのは限界状況で身につけていった「地力」と、限界状況でも手放さなかった矜持(プライド)のようなものから構成されるように思う。そんで、そういったものはやっぱ単に個人の欲得というところから離れたもので構成されるのではないか、と(そういうわけでエントリ前段の仕事のエートスに還る)。「エートス」というよりは「覚悟」と言ったほうが良いかもしれない。


 「そういうところから短期的な儲け(単なる投機目的の株買い)と長期的視野に経った投資との違いが出る」、みたいな話を柳瀬さんがしてた。デイトレみたいな単なる投機はなんつーかパチンコみたいなもんだと(もっとリスク多いかもとも)。長期的に見れば伸びるところが見れない、みたいな話をしてた。

 これは前半の「Google的知」と「根っことしての教養」みたいな話とも繋がる。

 もうちょっと別の言葉で言うとinformationとinsightの違い。前者が単なる形式知的な情報なのに対して、後者は情報を編集・整理する過程で自分の言葉(暗黙知)に置き換え、最終的に確かな知として吸収している。

 テスト前の詰め込み的な単なる形式知ではほんとの知としての応用は利かないし、すぐに忘れる。後者の知というのは血肉となって人生に役立っていく。


 教養については大体そんな感じか。


 ってか、またしても前置きの話が長くなった・・(ほんとは「極(私的)勉強法」とかアップしたかったのに)。




・・長くなったので別の機会で(やんないかも)


タグ:教育
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2007年03月24日

road 2 partition

 休日の平穏を乱す選挙カー。「この地域に安全を!」みたいなことをのたまいながら移動していったけど、お前が一番平安を乱しとるんやっちゅうねん・・。

 もうすぐ選挙だからということで印象づけしてるんだろうけど、あんなので食いつく人いるのかなぁ。。(年寄り狙い?)


 ってか、「安全」だの「命を大事に」だの言いながら、オレ幼稚園のころオマエに裸で乾布摩擦とマラソンみたいなのやらされたぞ?それはいいのか?「子供は風の子」か?・・・すごくイヤで幼稚園休んだ覚えがあるけど・・。(熱中高校みたいだった)


 まぁ、それは幼稚園のころのことだから置いておくとして、この人の事務所の前の歩道の点字ブロックの張替え工事してたんだけど、これって明らかにムダだよな?(こんなの↓サムネイル)


road 2 part.JPG


 全然老朽化してない点字ブロック。「灰色を黄色に変える」ってだけ。そういうのを何メートルやっていってるんだろう・・。(1kmぐらい?)



・・・・何の意味があるの?
・・・・元々目が不自由な人だから点字ブロック使ってるんじゃないの?(色関係あるの?)



 「黄色のほうが見やすいんです!」とかそんなの?・・そうなのかなぁ?


 いまの時期で歩道工事するって言ったら歩行者と自転車を分けるための工夫するとかいうのがふつーだと思うけど。何も考えてないのかなぁ・・。



 どう考えてもどっかのツルが付いてるとしか思えん・・。




 そんなことを思って少しは選挙の予習をしようと思ってたところでこんなblogを見つけた。


大好きです。ひろしま・ヒロシマ・広島
http://d.hatena.ne.jp/artdirect/

 
 書いてる人は現役市長(秋葉さん)のお手伝いもされてる方みたいなので中立というわけではないかもしれないけど、いろいろな記述は説得力のあるものに思えた。以下、大幅引用


前回の市長選(平成10年)で投票率が30%を切ったのを見て、投票所に来ていた市の若い職員がボソッと言いました。「(平岡)市長が変ればかなりの事が出来るのに。」
 まさにそれが私たち市で働く職員の正直な気持なのです。市長がもっと自分のポリシーと決断力を持って市の行政に積極的に関わってくれれば市の行政はもっといろんな事ができるのです。しかし、今までの市長は地元政経済界の傀儡そのもの。地元政経済界が認め後押しをした市長はそれが求める公共事業などを推進しさえすれば後は市政に無関心。財政状況がどんなに悪化しようが、福祉を切り捨てようが一向にお構いなし。私達市職員が直面している諸問題について決断を求めても、「面倒なことは相談するな!」という態度でした。市のトップが全くの無関心・無責任なのだから職員のやる気が起こる訳がありません。市の幹部職員は事なかれ主義のイエスマンばかり。これが仲良しグループを作って人事を固め自分達の保身にのみ奔走し、市の行政について幹部職員は誰も真剣に考えない・・そんな風潮が蔓延しているのです。市長を始め誰も市政に責任を持たない、関心を持たない・・これが現実なのです。責任感と決断力があり、何より市政に関心のある(?)人に市長になってもらいたいというのが市の職員の偽らざる気持ちです。

大好きです。ひろしま・ヒロシマ・広島 - 広島市長選挙を考えるより引用】




 これは前の市長(平岡さん)のときに投稿された記事らしいけど、そういわれると納得な感じ。んで、平岡さんのときは行政部分は地元経済界のロボ化してて、市長は好きな「平和」活動だけをしていたんだそうな。

 平岡さんって個人的に印象良かったからなんかショックだわぁ・・。でも、そんなもんかもしれない。


 さっきも言ったとおり、この人自身ある集団の意見を代表しているのかもしれないから注意が必要だし、そのほかの情報源も当たってる見る必要があるのだろうけど、別の文脈で似たようなことを言っておられる方もいた。


地方の実情を直視しているのであれば、「この政策は、優先順位を低くせざるを得ません」という苦い説明が出てこないとオカシイのです。でも、そんなことを言う人はいない。残念ながら「見せかけの安定」に騙される人は、これからも続出するでしょう。「見せかけの成長」に騙されるのは、元気の良い、前のめりな態度の人が多い。反対に「見せかけの安定」に騙されるのは、元気の衰えつつある真面目な人が多い。どちらが深刻かといえば、私は後者だと思います

Espresso Diary@信州松本:怖いのは、「見せかけの成長」より「見せかけの安定」。より引用】




 この人も長野県知事選に関わった方みたいなのである立場に立った見解ということはできるかもしれないけど、違う文脈から同じ主張が出てきているというのはある程度の信頼性を担保するものだなぁと思ったり。(主張の中身自体が説得力があることは言わずもがな)



 そういやJanJanから「選挙特集始まるよー」メール来てたな。


ザ・選挙(@JanJan)
http://www.senkyo.janjan.jp/


 引用先お二人ぐらいのエントリが読めるならいいけど、そのレベルのものが期待できるのだろうか・・。


(ってか、相変わらずTBつけてないな。ジャンブロなんかしても閉鎖性が高まるだけなのに)




 「口当たりはいいけど将来的に厳しくなるだろう公約」 と 「厳しい現実に直視させられるけど、これ以上悪くならないためには考えなければならないこと」

 なんとなくだけど、冒頭の写真にそういうのが象徴されてるように思えた。(ここが際か)



inspired:

キャプテン翼 ROAD TO VICTORY GOAL.1
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タグ:広島
posted by m_um_u at 13:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク