2007年04月24日

<ヒロシマ>ということ

 まだ少しくすぶっているものがあるようだ。なにか、イライラしたものが頭の中にたまっている。とても微細でなにを対象としているのか明確な言葉で浮かんでこないので、もう一度、吐き出しながら確認してみよう。


 このエントリはここからの続きです


極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ


muse-A-muse 2nd: ヒロシマに原爆を落とすべきだったか?



 そして、コメント返していただいたが、

この問題、パティキュラには以下にかなり思いを込めました(たぶん、伝わった人は少ないでしょうし、しかたありません)。
 
  極東ブログ 空想過去小説「チーズとバギウム」(2004.08.06)
  http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/08/post_5.html
 
仏教との関連、および平和思想という観点で言えば、非常に難しいのだと思います。この問題はダライ・ラマを責める問題ではありませんし、むしろ、日本に仏教があるのか?という問いも内包していると思います。



 なにか釈然としない、こちらのコメント欄にもいちおお返ししておいたが


リンク先確認しました。たぶんこのエントリが出されたときに読んだ記憶があります。ロシアとの関係も存じております。その上で外交的関係や finalventさんの思いのようなものも理解していたつもりです。仰るように極東ブログの今回のエントリにしてもメインは「日本に仏教はあるか?(その中に内包される善性あるいはその逆転としての悪とはいかなるものなのか?)」ということであるということは分かっています。

その上で「あんまりではないか」と思ったのです。

ダライ・ラマの発言がどういった影響力を持つか、どのように利用されるかは考えて然るべきなのではないでしょうか?(部分的に、都合の良いところだけ抜粋されて利用される危険性を)

ぼくはアメリカの一般(もしくは少しマシ)の知識層に対しては偏見を持っていますから、このような発言を彼らが良いように解釈し、利用する場面を思うと腹立ちを禁じえません。「原爆が落ちたことさえ知らない」あるいは「原爆を落としてもそれは仕方のなかったことだ」と真顔で、ヒロシマという場で言える彼らの無神経さを思うと、どうしても腹が立って仕方がないのです。

その言説はヨーロッパ人と話したときにも影響していると感じることが少なからずあります。(ぼくが会ってきた人々が特殊なのかもしれませんが)


影響力を持つ人が発言するときにはそこまで気遣って然るべきなのではないでしょうか?もしくは現在でも苦しんでいる被爆者(あるいは被爆者とさえ認められない人々)のことを思うぐらいの配慮があってもよいのではないか、とぼくは思います。



 それでもなにか釈然としないものがある。


 たぶんこれでも伝わらないのだろうと思う。



 
 finalventさんが過去に紋切り型の共産主義運動の力を借りた平和運動に参加されて、その暴力性に辟易したというのは知っている。だからこそ「平和」という言葉に敏感なのだろう。

 彼らが自分達の「平和」を押し通すためだけに「ヒロシマ」や「ナガサキ」の表象を都合よく利用し、その実、実際に被害にあった人や「オキナワ」や「トーキョー」といった同じように暴力を受けた人々に対しては無関心に近い態度を示していたこと、現在でも国内ではびこる暴力に対しては無関心に近い態度を示すこと、自分達の「平和(エゴ)」を押し通すために国際的なパワーバランスや経済バランスを無視した発言をすること・・・その無神経さというのはぼくも理解しているつもりだ。


muse-A-muse 2nd: バカサヨク、バカウヨクについて


 だからといって、「それは日本固有の善性への偏りであって特殊例だよ」(cf.<正義>という名を借りた暴力性)とか「実際にロシアが迫っていたのだから仕方がなかったのだよ(その中で日本の政府もロシアに助けを求めていたり)」と言えるのか。


 そのセリフを実際に死の床に瀕している被爆者を前にして言えるのか?

(あるいは「被爆者」としても認めてもらえない人々の怒りや不安、失望を前にしてそれを言えるのか?)



 finalventさんはダライ・ラマの言葉を引用しつつ、そこから思考実験をしようとしただけだし、なにか責任のようなものがあるとしたらダライ・ラマのほうにあるのかもしれない。

 しかし、finalventさんは「チーズ」の例を出して「仕方ないじゃないか?」というようなことを言っておられるようだが。



 本当に「仕方ない」ことなのか?



 よしんば「仕方ない」ことだとしても、それをあなたがたに言う権利があるのか?



 冒頭でも少し言ったようにこういうギロンの進め方、<ヒロシマ>という名(言説)を借りたギロンの進め方がある種の非対称性をはらみ、感情論に基づいた世間的共感を伴った一種の暴力性のようなものを持っていることは理解している。そして、そういった言説を用いることを心苦しく思うが話を続ける。


 というより、ぼくがいま感じている感情や行っている言説活動というのは「暴力」と言えるのだろうか?


 「暴力」とは、物理的力なり論理的思考力なりに基づいた一定の力の中での関係の非対称性を前提とすると思う。つまり、「相手が反撃できないような状況でこちら側の要求なりエゴなりを相手に一方的に突きつけること」、が暴力行為に当たる、とぼくは思う。


 翻って、ぼくがいましていることは「暴力行為」と言えるのだろうか・・・?



 「<ヒロシマ>の名(とそれに付随するイメージと共感)を借りている」、から?


 それによって「他者」を一方的にとっちめようとしているから?

 


 冒頭でも言ったように、ぼくはそんなつもりはない。




 ただ、心の中にある「もやもや」を確認したいだけだ。



 その「もやもや」を自分だけが感じるものなのかを。他者とは共有できないものなのかを。

 


 では、続けよう




 finalventさんは沖縄にある程度コミットされてそこでの惨劇や、それに対する沖縄の人々の気持ち、あるいは現時点での沖縄人のアンビバレンツな感情というものに一定の理解を示されているように思う。

 沖縄といえば最近教科書における歴史修正が話題になっているようだ


激高老人のぶろぐ: 教科書検定と幻想の共同体


 自民の「歴史教育を考える会」の影響で沖縄に関する記述が書き換えられるらしい。



 これなんかもfinalventさんから見れば、「そうはいってもうちなーはただ怒るだけではなくてびみょーな感情を持っているよ。ないちゃーが一方的に怒って政治(運動)的に利用しようとしているだけ」、という面もあるのかもしれない。


 しかし、それは「ないちゃー」が言うべきことなのか?

 「言うべき」というか言っていいことなのだろうか?



 そこまでは言わなくて単に「こういう歴史修正はうちなーにとってはキツイよね」ということになるのかもしれない。だとしたら同じことがヒロシマに対しても言えるのではないか?
(そこでの歴史的な事実関係についてはとりあえず置く)





 そして前段の「言ってよい権利」関連について。これは以前にmeruさんが少し考えておられた


Sound and Fury.::メルの本棚。 - 「恵まれた」人間は、社会批判をする資格がないのだろうか


 そういうことではなくて、単に鈍感な人間が言うと当事者の気持ちを逆撫でしたり、事実認識と異なることを言ってそれが余計に当事者の気に障るということなのだと思う。


 ここで書かれているように「恵まれた層」も「恵まれてない層」も共感し、共闘していくことが望ましいのだけれど、それ以前に「鈍感な人を受け入れられるかどうか」という当事者(あるいはある程度問題にコミットしている人)の思いがあるように思う。



 では「しろーとはすっこんでろ!」ってことになるがそういうことではなく、やはり少しは当事者の気持ちに配慮して欲しいということだ。



 
 たぶんこの「当事者の気持ち」というやつはなかなか伝わらないのだろうから、下品でためらわれるが、分かりやすい(共感を呼びやすい)と思われる例を挙げさせてもらう。

(※関係者の方々には申し訳ないが、続けさせてもらう)


強姦:特急内で暴行、容疑の36歳再逮捕 乗客沈黙−事件:MSN毎日インタラクティブ

調べでは、植園容疑者は、昨年8月3日午後9時20分ごろ、福井駅を出発した直後に、6両目の前方から2、3列目にいた女性の隣に座り、「逃げると殺す」「ストーカーして一生付きまとってやる」などと脅し、繰り返し女性の下半身を触るなどしたという。さらに、京都駅出発後の午後10時半ごろから約30分間にわたり、車内のトイレに連れ込み、暴行した疑い。女性は車両前方のトイレに連れて行かれる途中、声を上げられず泣いていたが、付近の乗客は植園容疑者に「何をジロジロ見ているんだ」などと怒鳴られ、車掌に通報もできなかったという。



 例えば、後日、付近にいた乗客が「彼女は自分から犯人に身体を預けて自分から付いていきましたよ」とか「犯人となんか仲良くなっていたみたいです」とか言ったとする。

 傍観者となること(ならざるを得ないこと)はセキュリティの問題であって自分がその場にいたら同じ行動をとるかもしれない。しかし、上記のようなことを傍観者の人が言ったとしたら、それは多分に彼らの臆病さを隠すための言い訳のようなものだろう。

 それが被害者の目や耳に入ったときに被害者はなんと思うか?



 もしくは、「○キチから多くの乗客を助けるためには彼女達が犠牲になる必要があったんです」とか「彼女達もそれを理解していてくれたはずです」とか・・。



 それを傍観者の口から語られたときに、彼女達はなんと思うか?




 「ロシアと秘密裏に通信していた」だの「多くの人を救うためには原爆は落とされる必要があったんです」だのも同じことなのではないか・・?



 はっきり言ってしまえば、こういった言説を使う人々はセカンドレイプと同じことをやっていることになるのだが、そのことには気づいてないのだろうか?



 それは感情論であって事実ではないのかもしれない。「事実は見ている人の立場(あるいは通念)によって異なってくる」、のだろう。では事実関係についてはどうか?


>「その時点ではそういった関係性の中からヒロシマやナガサキが犠牲になる必要があったということは歴史的事実ではないか」


 本当に、自信を持ってそう言えるのか?



 当時の国際関係を見れば蓋然性の高い論理ではあるが、本当に「原爆を落とさなければ戦争を早く終結させることはできなかったし、日本を足がかりとしたロシア(ソ連)の侵攻を食い止めることはできなかった」、といえるのか?


 「歴史に“if”はない」と言われるけど、原爆が落とされていなくても、戦争を終結させる方法はあったのではないか?たとえば戦争終結についていえば天皇の決断が早ければあそこまで事態は悪化しなかっただろう。

「天皇自身が様々な関係性に取り込まれた傀儡的な存在であったのだから仕方のないことだったのだよ」ということになるのかもしれないが、代表者などというのは少なからぬ組織の論理に押し流されるものであって、それを代表し責任をとるからこそ代表者なのではないか?

(別に天皇を責めたいわけではないので置く)






そういったこととは別にfinalventさんはよく、「あたまでっかちな論理よりも大衆性に還れ(大衆の現実に還れ)」、というようなことを言っておられるように思う。


 では、今回のこれも「大衆性」から発せられた思考ということなのだろうか?


 ぼくには論理的思考実験への欲望が優先されて当事者の気持ちは無視しているだけにしか見えないが、それはぼくが未熟なだけなのだろうか?



 あるいはそういった気持ちは単にぼくらの胸にしまいこんで耐えればよいことであって、それによって国際関係や世界経済がうまく回るのなら仕方のないこと、と言えるのかもしれない。ぼくらが怒りや復讐といった気持ちの防波堤のようなものになれば良いのかも。



 マリア様、そういうことなのでしょうか ?




muse-A-muse 2nd: 被爆のマリア



 
 
 
 
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2007年04月23日

ヒロシマに原爆を落とすべきだったか?

 少し腹が立ったのでこんな時間だがblogのほうのエントリを上げとこう。トリガーはこちら


極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ


 要約すれば「多数の便益のために一定の犠牲は止むを得ないか」ということ。社会システム系ではよくでてくる踏み絵。そして、仏教においてはどうなのか?、というエントリ。


 結論を言えば、「それアリなんじゃないの?(状況によって)」、と。


 現時点での仏教魂を代表するダライ・ラマがそんなことを言っていた、ということらしい。(付け加えて言えば、ダライ・ラマの流派は怪しい呪術系じゃないよ、と)


 finalventさんは、「日本人の仏教観すればありえないだろうし」という留保を入れつつ、慎重をギロンを進めておられる。

 実際、このエントリの文意を見ても、finalventさん自身が少なからず衝撃を受けた、ということが伝わってくる。


 その上でこれか(※孫引き)


ロバート・リビングストン 日本への原爆投下のケースはどうなんですか。あの行為をした人たちは、それで一〇〇万人の命が救えるからっていわれてやったんですよ。
ダニエル・ゴールマン あれは菩薩の行為と言えるのですか。
ダライ・ラマ むずかしい判断だが、理論的にはありうる。もしそれが大勢の人の命を救うための行為だったとすればだがね。



ダライ・ラマ(中略)ボブ、あなたの提起した長崎と広島の原爆投下の問題に戻ると、その行為の善し悪しは、歴史上の一時期ではなく、長期的な結果をみて判断すべきでしょうね。今日世界じゅうに核兵器が拡散している事態をみれば、原爆投下は反倫理的な行為だったと断言できるんじゃないかな。そのときにはよい動機があったかもしれないが、それ以来、さまざまな悪い結果が生まれたことはまちがいないし、恐怖も増大しましたから。



ダライ・ラマ 二つのことを天秤にかけて考えるのです。いっぽうには殺人のようなよくない行為、もういっぽうには状況をのせます。つまり、その状況ではどっちが重要なのをつねに考えるということですね。状況によっては、たとえよくない行為でも、その行為をすれば大きな利益が得られ、行為を避ければ害が生じる場合があります。このバランスの原理は、もっとも基本的な仏教の倫理を解いている律蔵にも説かれているし、菩薩の倫理にも貫かれている。一般原理と状況の二つを天秤にかけて、特定の状況を判断するわけです。(後略)




 頬が引きつってしまうが・・冷静に・・。



 ダライ・ラマ自身もいくつかの留保を入れているのは分かる。チベット仏教が単なる妄信的な教えではなく対話ができるというところも示さなければならない(というかダライ・ラマ自身がそういう人)のだろう。そして、やむを得ずそういった決断を下すときにも「慈悲心をもってなさなければならない」とされている。


ダライ・ラマ あなたのみつけた悪い性質や悪徳が、さらにもっと大きな害をもたらす恐れがあるときは、それを抹殺してもいいのです。しかし、ここが重要な点なんですが、それには、大きな害を避けたいという慈悲心が動機になっていなければならないということです。悪徳を消すには暴力に訴えるしかないと悟った場合は、その悪徳をもっている人間の命を奪ってもよいのですが、その人間にたいして慈悲心をもって、その任務を受けることが条件になります。





 が、



 やはりあんまりだろう。



 ヒロシマのことを例に出してそんなことを言うのか? アメリカ人の「ヒロシマによって多くの人が救われた」言説に乗って・・。


 それはやはりあんまりだ



 もっと早くこのエントリを見ていれば、去年講演に来たときに問いただしたのに・・。




 <多数を救うために少数(あるいは明らかに必要と思われる)犠牲は止むを得ないか?>、ということがずっと昔から考えられてきたテーマだということは分かる。


 極東ブログ的にはこの辺りに繋がるか


極東ブログ: 造悪論ノート


極東ブログ: 無門関第十四則南泉斬猫を愚考す



 そして、そういった話が原爆関連だけではなく、たとえば精神異常者による凶悪犯罪に対する抑止をめぐる是非にも絡んでくることなども理解できる。付け加えれば、そういった問題に対しては被疑者に対するケアをもっと強いものにしたほうが良い、と思っている(それに加えて社会システム的に同様の事件が起こらないように対策・統制を強めるべきだ、と)。

 しかし、今回の問題は違う。


 「ヒロシマに原爆を落としてよかったのではないか」などというのはアメリカの政治的正当性を担保するための言説であって、公案とかそういう次元の話じゃない。


 そのテーマ自体が魅力的であっても、その発言がどのような影響を与えるか(どのように利用される可能性があるか)、ダライ・ラマは考慮して然るべきであったように思う。


 はっきり言えば、「ヒロシマに関しては絶対悪です」、といえば良かったのだ。それが同じ仏門に帰依した、藤井日達上人の魂に報いるということではないのか?



(※って、極東ブログの切り抜きしか見てないので、同書の全体の文脈ではどのように言っていたか分からないけど)




 なんか、「チベットとインドだからか?」とか邪推してしまうけど、それは置こう。



 それで、それとは別に「ヒロシマによって多くの命が救われた」言説について。これはアメリカの中高生(あるいは大人?)を始め、けっこう世界的に信じられている考え方みたいで、たまにそういうのをガイジンから聞くとピクピクっときて無意識に頭頂部の血管が浮き上がったりしてるらしいんだけど、ここでもそんなのが見れて腹が立ったので少し反論しとこう。


 以下、 「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」(鳥居 民)より



原爆を投下するまで日本を降伏させるな――トルーマンとバーンズの陰謀
鳥居 民
草思社 (2005/06/01)
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 前置きとして、この本で書かれていたことに対して、まだウラとってない。なので事実なのかどうかびみょーなところがあるけど、個人的な印象としてはそういう線もあったのではないかと思う。というよりも、ヒロシマの犠牲によって多くの人が救われた」みたいな言説と同程度かそれ以上の確度はあるだろうし、なにより、そういう言説を弄する人々の思考よりかはなんぼかマシだな、と思っている。


 後者は価値判断であって事実認識ではないが、歴史も人が編集したものなのだからパフォーマティブなところがあってもおかしくないだろう。


 前置きはこのぐらいにして、以下論点箇条



(1)原爆投下の経緯として<終戦時の首相鈴木貫太郎が「ポツダム宣言」を黙殺したことが原因>と見る向きもあるが、そうではなく、実際には日本政府は原爆を落とされる前に無条件降伏をする準備を進めていた



(2)降伏において、日本政府が気になっていた点は降伏後、天皇陛下を守ることができるかどうかだった。



(3)中・ソ共産勢力の日本への侵攻が気になっていたアメリカは原子爆弾を使うことによって、その侵攻を食い止めたかった。



(4)アメリカと日本との秘密裏の交渉(通信による)において、<降伏時に天皇を守りたければ、無条件降伏の承諾の時期を延ばせ>、というような要求があった。



(5)日本政府は天皇を守るために無条件降伏の時期を伸ばさざるを得ず、結果として2つの原子爆弾が日本に投下された。




 ポイントは、<アメリカが実験(+ソ連への示威)のために原爆を落としたかったので、日本に降伏をさせないようにした(爆弾を落とすまで降伏の時期をずらさせた)>、というところ。

 

 もし、これが本当だとするとけっこうキチクなわけだが・・(欧米人と話すと良く出てくる、「原爆投下によって戦争終結を早められて良かったんじゃないの?」、なんて二度と言えなくしてやれる)

 Amazonのレビューにもあるように確定ではないみたいなので、レビュー先で紹介されている文献も読んでみようと思っている。 (以下、Amazon.co.jpレビューの一部より全文転載)


この本は、中国近現代史に詳しい歴史研究家の鳥居民(とりいたみ)氏が、アメリカが、広島と長崎に原爆を投下するに至るまでの経緯を、一つの読み物として書き下ろした、ユニークな一書である。著者が、中国近現代史に詳しい事を反映して、戦争末期における中国大陸の政治、軍事状況が、アメリカの原爆投下決定のプロセスにいかなる影響を与えたかを考察して居る点は、秀逸であり、私個人は、これまで、他書では読んだ事の無い考察、分析に溢れて居る。--中国大陸の情勢と原爆投下決定のプロセスを関連ずけて考察した本書のこうした点は、重要な問題提起であると考える。具体的には、日本軍が、中国大陸で、1944年4月18日に、南方からの補給路確保を目的に開始した「一号作戦」が、アメリカの戦後の東アジア構想に影響を与え、それが、ひいては、アメリカ政府内部の対日融和派(グルー、スティムソン、等)と、対日強硬派(トルーマン、バーンズ、等)の確執に繋がったとする分析など、非常に興味深い考察である。--ホプキンスのモスクワ訪問についての分析も興味深い。
 しかし、鳥居氏のこうした分析、考察は、鳥居氏の解釈に依る所が多く、はっきり言へば、鳥居氏の想像と言はれても仕方の無い部分が大きい。裏を返せば、この事は、当時のアメリカ政府が、原爆投下を決定するまでの過程を記録した公文書の公開が、不十分である事の反映とも言へそうだが、本書を読む読者は、本書の記述が、何処までが資料によって裏付けられており、何処からが著者(鳥居氏)の解釈であるかを注意深く読み分ける必要が有る。ガー・アルペロヴィッツ(Gar Alperovitz)の大著『原爆投下決断の内幕』(上下/ほるぷ出版・1995年)と併せて読む事をお勧めする。

(西岡昌紀・内科医/広島と長崎に原爆が投下されて60年目の夏に)






 繰り返しになるが、これが歴史認識として妥当かどうかはびみょーだろう。評者の多くも「歴史を踏まえた上でのフィクション」としている。しかし、欧米(特にアメリカ)の若者のヒロシマということに対する鈍感で無思慮な態度とそれに基づいた行動に対して、このぐらいの抗弁は許されるのではないか?

 それが例えフィクションであるにせよ、彼らの鈍感さがこれ以上の犠牲を生まないようにするためには。
(※一部ハーヴァードのエリートとかにも「ヒロシマの犠牲は必要だった」というのを何の留保もなく真に受けてる人がいるみたいだし)




 (ダライ・ラマ流に言えば)それが情況を理解するものの配慮というものだろう




タグ: ヒロシマ
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2007年04月15日

大学図書館の利用法とか分野別書誌まとめ

 久々に修道大学の図書館HPを覗きに行ってみたらRSSとかケータイとかに対応してた。ってか、

My Libraryで,借りている本の貸出期間延長手続ができるようになりました


 ってすごいな。

 ぼくは貧乏性なので借りるときにはぐわっと借りてしまって、結果的に貸し出し延長を繰り返すタイプなのでこういうのはありがたい。(いや、その前にこの癖は迷惑なので直すべきだというのはわかって・・・・直します、はい)

 んで、ちょっと思ったんだけど、「こんな感じで大学図書館って一般利用できることを知ってる人ってどれだけいるんだろうか?

 昨今、ちらほらと図書館ブームなエントリを見かけるんだけど、そういうのだったらそれこそ最寄の大学図書館こそ利用すべきだと思う。大学ってのは少なからず税金が投入されてるわけだから一般利用できるはずだし(国立はケチなところが多いけど、公立とか私立だったらできるんじゃないか?)


 んで、利用の方法について。まず最初に一般利用ができるかどうかは各自確かめてもらうとして、「最寄の図書館」というか「目当ての本」がある図書館を探す方法として「webcat」がある。


Nacsis Webcat


 詳しいこと書かないけど、これは日本の大学図書館にある蔵書のメタサーチなので、これ使えば読みたい本がどこの大学図書館にあるか探せる。そこの大学図書館が本をOpac登録してくれてれば。

 んで、最寄の図書館に本がなかった場合、どーしても読みたい場合は近くの図書館を通じて取り寄せ依頼ができる。ここでも諸々条件があって、取り寄せてもらったとしても貸出できるかどうかとかは事前に確かめといたほうがいい。


ってか、この手の話題って前に関心空間に書いたな


学術ポータル (ガクジュツポータル) - 関心空間


 いちお図書館関連の部分だけoutputしとこう



 図書館に関する全体的なフローはこちらが参考になる


実践大学図書館:図書・雑誌探索ページ


 実践女子大の図書館員の人がまとめてくれた情報探索に関するフロー。ここに各種リンクがあるので困ったときにはここを出発地点にするといいと思う。ただし、けっこう古いものなので一部リンク切れしてるところがあるかもしれない。でも、情報探索のディレクトリとしては参考になる。


 あと、おすすめなのは各分野に関する書誌(bibliography)を手に入れること。専門書なんかの巻末についてる参考文献目録みたいなやつ。あれのもうちょっと多めのやつを各分野の研究者が公開してくれてたりするので参考にするといいかも。まずはこちらから


生成する目録


 ARGの人(岡本さん)がまとめてくれた文献目録リンク集。すごく便利。ちなみにARG blogはこちら


 あと、2点ほど


 小田センセのとこでネオリベ関連で出てた書誌


小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:「ネオリベラリズムの文化」文献

 

 國領センセのとこで公開されてる書誌


経営情報システムの文献データベース



 ほかは地道に各分野の研究者のHPから見てくといいかも。各分野の研究者のHPについてはこちらとか


人々の網の目 - Web of People -(@ARG)


 こちらとか参考になる


人力検索はてな - 学術系のブログで、内容が非常に充実している、 もしくは質が高くためになる、とご自身が思われているサイトを、厳選して5つ教えてください。 分野は、問いません。






 ・・なんだかオリエンテーションみたいになった(春っぽいな)




--
関連:
muse-A-muse 2nd: 本の管理とかデータのinput周りの話







タグ:学術 図書館
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2007年04月13日

インセンティブと教育の質について

 巡回先2箇所でテーマが重なったのでちょっと書いてみよう。まずこちらから孫引き(夏目漱石『道楽と職業』)

smallpineの日記 / 腐りかけの果実の自分語り - いつの間にか常識が変わっていたこと 2 (文豪の目線から)


......(前略)...... 多くの学生が大学を出る。最高等の教育の府を出る。もちろん天下の秀才が出るものと仮定しまして、そうしてその秀才が出てから何をしているかというと、何か糊口(ここう)の口がないか何か生活の手蔓(てづる)はないかと朝から晩まで捜して歩いている。天下の秀才を何かないか何かないかと血眼(ちまなこ)にさせて遊ばせておくのは不経済の話で、......(中略)...... 一日も早く職業を与えれば、父兄も安心するし当人も安心する。国家社会もそれだけ利益を受ける。それで四方八方良いことだらけになるのであるけれども、その秀才が夢中に奔走して、汗をダラダラ垂らしながら捜しているにもかかわらず、いわゆる職業というものがあまり無いようです。あまりどころかなかなか無い。今言う通り天下に職業の種類が何百種何千種あるか分らないくらい分布配列されているにかかわらず、どこへでも融通が利(き)くべきはずの秀才が懸命に馳(か)け廻っているにもかかわらず、自分の生命を託すべき職業がなかなか無い。......(中略)...... 国家の経済からいうとずいぶん馬鹿気た話であります。......(中略)...... けれども今言う通り職業の種類が何百通りもあるのだから、理窟(りくつ)から云えばどこかへぶつかってしかるべきはずだと思うのです。ちょうど嫁を貰うようなもので自分の嫁はどこかにあるにきまってるし、また向うでも捜しているのは明らかな話しだが、つい旨(うま)く行かないといつまでも結婚が後れてしまう。それと同じでいくら秀才でも職業にぶつからなければしようがないのでしょう。......(後略)......



 いわゆる「雇用のミスマッチ」現象ってやつかな。

 明治期と現在の違いは「最高学府の質が落ちた」という大学側の責任だけではなくて、「<知>に対する世間的評価が下がった」ということにもあるように思う。ありていに言えば、「企業側が大学側の知識を軽んじるようになった」、ということ。(cf.「しょせんは学生のお勉強なんか役に立たないんだから」)

 これはどっちが先かはよくわかんなくて循環論っぽくなりそうなんだけど、ちょっと思うのは昔は大学行く人ってエリートだったしなぁ、ってこと。なので講義をする側もされる側も大学教育に対する責任意識みたいなものがあったのだろうし、世間的評価も高かったのかなぁ、って。(っつーか、ちゃぶ台返しするとオレはこの時代の大学評価ってよく知らんのだけどね)

 

 まぁ、とりあえず、そんな感じで「企業側による大学教育(あるいはそれ以降の高等教育)に対する評価が低いので学生のインセンティブが弱い(大学教育が盛り上がらない) ⇒ 学生の質が下がる ⇒ 企業が大学教育に失望する(雇用減らす) ⇒ 学生の質が下がる・・・」っていうデフレスパイラルみたいな現状があるように思う。

 こういうのは特に(いわゆる)一流じゃない大学で深刻で、そういう学生は就職活動のときにあまり活発に就職活動しないんだそうだ。最初から脚切りされるの目に見えてるし、それだったらって感じでマイナーな地元企業に就職しようとする。そういう場合、それまでの勉強とかあまり関係ないし(「むしろ邪魔」って思われたりね)。

 なので、教育のモチベーションに対して正のインセンティブを設定する場合はこの辺りをなんとかしないといけない(ってのはこの前福耳さんとこでもお話したな)。

 「なんとかする」ってのは具体的に、もうちょっと条件の良い企業に学生がアクセスできるように就職課などが学生と企業の間に入って積極的に取り持ち(鳥餅)活動をしないといけない。てきとーにデスクでふんぞり返って「フリーターは惨めだぞー」なんて言うだけなのはロボでもできるわな。



 インセンティブと教育の質関連では5号館さんとこにもエントリ出てた


5号館のつぶやき : 科学オリンピック:クローズアップ現代


 やっぱ「学術系はインセンティブないので優秀な人材は銀行とかに行った」んだそうな。もしくは天下り狙って官庁行ったり


池田信夫 blog 天下りの経済学


 
 まぁ、そんなこんなで学術を下支えする「優秀な人材」(?)ってのが流出していった、と(んで、さきほど示したような<知>のデフレスパイラル)。

 個人的には日本の研究環境(特に文系)って坊さんと同じような気がする。研究費少なめでひたすら修行って感じ。それはそれで清貧って感じなんだけど。なので、前にいた研究室のことを心の中で「尼寺」と呼んでいた。(女性比率が高かったもので)



 ところで実際に日本の大学教育(あるいはそれ以降の高等教育)のレベルというのはどういったものなのか?世界的に見て通用するのか?

 ちょうどそういうの関連で論文の引用動向でてた(via.成城トラカレ)


日本の論文の引用動向1996-2006


 なんか日本の大学だけクローズアップしてあって分かりにくいけど、たしかこれ系って中国の大学(北京と・・どこだっけ?)とインド系が躍進してきてるんじゃなかったっけ?(んで「日本には越えられない壁がある」とかなんとか)。とりあえず考察

世界第1位をどう見るか
その一例として、ドイツのマックス・プランク研究所や、中国の中国科学院があげられます。傘下の研究機関をそれぞれ、Max Planck Society、Chinese Academy of Sciencesという名称の元に集めた結果、これらの研究機関はEssential Science Indicators データベースが集計する多くの分野で世界のトップ1パーセントにランクインすることとなりました。今回の4分野のうち、マックス・プランク研究所は化学、物理学の2分野で世界1位、また中国科学院は材料科学分野で世界1位となっています。しかしこれはそれぞれが傘下に擁する研究機関名をひとつに取りまとめた結果であり、2004年まで世界第1位であった東北大学(材料科学)、東京大学(物理学)などの研究パフォーマンスが下がったと見るべきではありません。



 ん゛ーーーー

 中華が「材料科学分野で世界1位」とな(って材料科学ってなんだか知らんけど)


 とりあえずバイオと薬学、臓器系とられなかったらいいと思うんだけどその辺どうなってるんだろうか?


 あと、文系について全然わかんないね



 っつーか、文系の引用率って極端に低かったか・・。


 
 てきとーな遊びみたいなことやってる人が多いからなぁ・・。(「ぽすともだん」で脳みそとろとろだし)





 個人的にはコツコツとやってる職人タイプの学者の研究というのは世界的にも通用すると思うんだけど、そういうのは地味すぎて日本の学会とか論壇でも相手にされんしなぁ・・。

 


 まぁ、それはそれとして




 もしも地味に脳資源が学術系の中に埋もれているとしたら、そしてそういうのが正当に評価されていないとしたら、それこそビジネスチャンスっぽいな。世は「フラット化」って感じだし

「うまいこと女衒すればよい商売になる」っていう言い方は品がないが、紹介するほうされるほうにとっても良い試みになるように思う。




 でもそういうのの人材マーケットとして求められるのって技術であって創造性ではない、と。


 その場合、理系だと技術って感じだろうけど文系だとなにになるんだろう?(翻訳とか?)




 それはそれで寂しいものがある




 もうちょっとなんとかならんのかなぁ








タグ:学術 大学 教育
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2007年04月11日

プロレスとJ-POP

けっこうどーでもいいことなんだけど思いついてしまったもので。

一つ前のエントリに書いたようにJ-POPには「英語だっせー問題」っていうのがあるように思う。

つまり、「なんで日本のPOPなのにいきなり英語出てくんの?(かっこわる)」的問題。

 これに対して一部の歌唄い達は意味のない英語歌詞をやめたり、あるいは、「うっせぇよ。英語でもなんでも面白ければいいじゃん?」、って感じで敢えて地雷を踏んでいく道を選んだりしてるように思う。


んで、この「敢えて」って構造ってプロレスと似てるなぁ、って。


いまさらながらだけど、「プロレスと八百長」っていうのはずーっと言われてることなんだけど、その部分ってのは大分前にどーでも良くなって、ただしいプロレスファンは、「ガチ(真剣勝負)とかそんなんどーでもいい」、ってとこからプロレスを楽しむ。

なので、そういうプロレスファンが例えばK-1の某選手の試合を見たときには、「あぁ、うまいけど下手だねぇ」、って感想を持ったり。


アルジャーノンに逆エビを:大晦日「K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!」雑感


そんでこういう見方(見せ方)って「敢えて」系だなぁ、と。


「英語とかどーとか関係ねぇよ!」っていうのと「八百長とかそんなんどーでもいんだよ!」ってのはなんか似てる

んで、そういう地雷を敢えて踏んでいく(ボンバーマン発熱モードのように踏み潰していく)


そういうのはJ-POPだとサンボマスターの暑苦しさが思い浮かぶ(あるいは真心ブラザーズのジャケなどに既に表われいたか?)


プロレス系でうまく表現してるなと思うのが「アグネス仮面」


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この作品は「プロレススターウォーズ」とか踏まえとくとよりいっそう面白いと思うけど、予備知識がないならないでもいい。



っつーか、そういう視点で見ると一部J-POPERの煽りってレスラーな煽りなわけで、「Rock'in on Japan」と「週刊ゴング」なんかを比べ読みすると意外な相似性が確認されるのかもしれない。
(※一部の人にはすごくイヤな比較だろうがw)



しかし、熱いな、永田


デイリースポーツonline:永田「棚橋は甘やかすな!」


永田は「あわてて対策を練らなきゃならないように、色々と手の内を見せてやる。夏休みの宿題を8月31日にやって、寝ぼけ眼で始業式を迎える小学生のように追い込んでやる」と、早くもてぐすねを引いていた。



すごい表現だ

(プロレスってむしろこういった場外乱闘のほうがメインなのかな)





--
あと、業界構造としては格闘スポーツを扱う業界と水商売を扱う業界の構造が似てるように思う。

両方ともオトコとオンナが最後の資本(カラダ)を元手にする業界だし、搾取の構造も似てる。ヤクザからんでるし


っつーか、ヒットマン秋山ってJ-POP的には誰が当たるんだろうか?
(「ジャニーズの口パク」・・ってのもちょっと違うよなぁ。元米米クラブの人とか?)




posted by m_um_u at 20:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年04月07日

優越ゲームとべジータコンプレックス (あるいは見越入道対処法)

 たいしたネタじゃないけど、たまには小ネタもいいかな、と思ってちょっとこの辺のことに触れてみます。(※小ネタなので文体も口語の「ですます」調にしてみたり)

 よく、はてな界隈で優越ゲームな話題を見るんですね。

 「はてな界隈」っていっても一部のコミュニティ(※敢えて言及しません)の人たちなんだけど、その人たちが「おまえなに上から目線で人のこと観察してんだよー」とか「自分のほうが頭いいと思ってんのかよー」とかそんなことを言い争ってるのを見る。

 言っちゃなんですが「小学生か?」って感じがするんです。


 いや、彼らはそれをネタとして楽しんでて、それはいわゆる「くねくね」というやつなのかもしれないけど、ネタの中でヒートアップしていっている様子を見るとある程度本気っぽいし・・。

 本気だとするとなんでその程度のことで熱くなれるのか分からないんですね。

 って、こういう目線自体が彼らからすると「いけすかねー」ってことなんでしょうけど、いけすかれなくてけっこうなので話を続けます。


 で、

 そんなことが心の片隅にあった某日、友人とお話してたらそれ系の話題が出てきたんです。なんか、「同僚の人がなぜか知らないけど、私に対して敵愾心を燃やしてきて困るんです」、ってやつ。

 詳しく触れるのもアレなのであまり詳細には書きませんが、彼女から聞いた範囲では彼女自身特に思い当たる節はないみたい。

 そういう系の「やっかみ」みたいなのを感じられるパターンとして考えられるのは、


(1)特定コミュニティの中でポジションが被ってる(ex.ワタシが職場のかわいがられキャラよ)

(2)キャラ傾向が似てる(ex.物知りキャラはワタシだけで充分よ)

(3)わたしはこんなにがんばってるのに天然なアンタがなんで評価されるのよ?


 ちなみに話を聞いた彼女とやっかみ彼女の職場での力関係は同じぐらいです。職場における仲間内からの評価も似たようなもの、とのこと(※この辺りは第三者の内心なのでほんとのところは分かりません)。


 そんで、ぶっとばして結論言うと(3)かなぁ、って思ってるんですね。

 いや、「天然」って言っても彼女は仕事はきちんとやるタイプらしんだけど、なんかこう大らかなところがあるコなので、その辺がやっかみの人の性格からすると気に入らないのかなぁ、と。

 ちなみにやっかみの人の性格はきちんきちんと課題をやってきた優等生タイプっぽいです。なんつーか・・この人に似てる気がする(※いや、批判じゃないし今回の文脈に繋げる気もなくただ「似たキャラ」として思い浮かんだだけです)



 んで、その後、場所を移して「ドラゴンボールというマンガはどこで終わりだったか?」について彼女と語らった後しばらくしてこのことが浮かんだんですね。

 「あれ?これってべジータ問題?」って(※画像はクリックで拡大)


G[g.jpg


 知っての通り、べジータというキャラは戦闘民族サイヤ人という戦闘におけるエリート集団の中でもさらにエリートの王族に属する人物です。

 んで、そのエリート様が自信満々で宇宙の辺境の小っぽけな星にやってきて同じサイヤ人ではあるがはるかに格下のカカロット(悟空)と対決する。

 で、結果的に敗れてしまうわけです


 これ自体はいいんだけど、その後、くされ縁でカカロットと行動を共にしていくうちにどんどん彼我の差が開いていく。

「エリートである自分を平民のカカロットが置いてけぼりにしていく」わけです。


 それでべジータの自尊心はズタズタになって、物語最後のほうではそのコンプレックスから敵側に魂を売ったりもするわけです。(これはこれで悪の美学が感じられ、キャラ立ちしてたんだけど話逸れるので置いときます)


 んで、まぁ、「優越ゲーム」というのはこういうことなのかなぁ、と。


 べジータは同じ尺度(肉体的な強さ)の中でカカロットと競うしかなかったので追い詰められていったわけです。

 悟空は天然・真直ぐくんタイプ(努力派)でただ「強くなる」ことだけを目指してそのために自分を追い込んでいくのでべジータのコンプレックスなんか眼中にありません。

 そのときのモチベーション(インセンティブ)は強いて言えば「仲間を救う」とか「地球を救う」とかそういうのだけど、悟空のキャラ的には「強くなりたいから強くなる」ってのが一番大きいように思います。

 んで、こういうのは「努力・友情・勝利」のジャンプ黄金律に則ってるわけだから始めから祝福を受けるのは決定づけられてます(※主人公だしね)


 そういう風に見るとべジータというキャラに同情してしまうところが出てくる。

 だって、マンガじゃなかったらべジータのほうが絶対強いですし、おそらく最初の遭遇のときに絶対に勝っていたはず・・(ナッパさんなんかも指だけで地球を震わすほど強かったわけだし)

 なのに、「マンガだから」悟空に負けたわけです。ってか、「ジャンプシステムに負けた」と言ってもいい。敵がジャンプシステムなわけだがら彼我の差は圧倒的ですね


 んで、まぁ、話を戻すと、そんな感じで優越ゲームにおけるコンプレックスというのは「同じ尺度(同じ土俵)」で争おうとするところから生まれているんじゃないか、と思うわけです。

 具体的に言えば、「ってか、むしろワタシのほうがオマエを楽しむ側なんだよ」、的な感じでしょうか。もうちょっと言うと相手に対してコンプレックスを感じる人というのは内心にその分野において「相手より優位に立ちたい」という意識があるからこそ、対象とする壁が高かった場合その意識がそのまま自分に還ってくる、ということがあるのではないでしょうか?端的に言うと「ひがみ」というやつです。



 これに対して、「そういうことではなく、なんかアイツの見下し視線には悪意を感じる(「正しい」視点を借りて見下しゲームを行っているような偽善性)」、という反論があるかもしれない。

 確かにそれも一理あるとは思うんですが、個人の悪意なんてのはブラックボックス的なものだからよく分かんないように思うんですね。

 どこまで行っても「なんか悪意がありそう」って印象論に終始するし、本人が「オレ悪意持ってるぜ」なんて言うこともないですしね。


 んで、やっぱ不毛だなぁ、と



 そんなことやってるぐらいなら悟空みたいな感じでなんか究めたほうがよいように思うんだけど、究める対象がないのかなぁ・・。


 ってか、こういう不毛もゲームの内ということで、そういうのも全部含めてゲームを楽しんでるのかもしれないけど、やっぱよく分かりません。



 そういや、それ関連でこんな話を思い出しました


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 「もっけ(2)」に出てきた見越入道(見上げ入道)の話。


 見越入道というのは辻でいきなり出会う妖怪で、実体はない影のような存在なんだけど、後ろを振り向いたときに見越入道を見上げてしまうと意識を持って行かれちゃうんですね。

 
「いずれも大入道姿か小坊主姿で現れて
見上げれば見上げるほど大きくなる」

「……でも落ち着いて見下ろせば
上から下へと視線移していけば小さくなって……消えるんだよね
あとは確か『見越した』って呪文……」



 んで、主人公姉妹はこの後、実際に見越入道と対峙して見事に見越すわけだけど、このときの「見越した」っていうのが重要だなぁ、と思って。

 「見上げる」んじゃなくて「見越す」。「下から上へ」じゃなくて「上から足元へ」・・・


 そういうのは優越ゲームだけじゃなくていろんな場面のコンプレックスに対する対処法として有効なように思います(自戒も込めて)



 では、最後にご一同


 「せーの」で唱えようじゃありませんか



せーの!


 (「見越した!」



--
関連(?):
「横一線の教育」について
http://deztec.jp/design/07/04/06_fuku33_2.html

「君たちは、何かを分かっているつもりかもしれないが、全て勘違いだ。俺は賢いという思い上がりも、自分はダメだという劣等感も、みな捨てなさい。この教室では、俺の前で横一線なんだよ」




っつーか、学問の前では皆「僕」なんだと思う




posted by m_um_u at 17:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年04月06日

かなまら祭りに逝って来たよ

 4月吉日、例のバカ祭りへ行って来ました。


かなまら祭りとは - はてなダイアリー

神奈川県川崎市の金山神社で、毎年、4月第1土曜日・日曜日に行われる祭り。

金山神社は鍛冶の神様を祭る神社だが、江戸時代川崎宿の飯盛女達の願掛けに端を発しこの「かなまら祭り」が行われるようになった。

商売繁盛・子孫繁栄(子授け)・安産・縁結び・夫婦和合のご利益があると云われる。また近年、エイズ除けの祭りとして国際的にも有名になった。女装クラブ・エリザベスの「エリザベス御輿」が特に名物。

 
 当日は快晴。天候にも恵まれ、ワクワクした気分で現地へ。(ってか、ほんとは新幹線が遅れて間に合うかどうかドキドキしながらの現地入りでした)


 新幹線で新横浜まで行って、そこから乗り換え、乗り換え電車ではガイジンさんもけっこういて皆さん目的は同じなご様子。ちょっと嬉しくなって、「なんなら一緒に行きますか?」、とガイジンさんグループに話しかけそうになったけどそこはグッと我慢しました。

 んで、まぁ、特に何事もなく現地入り。駅から目標の金山神社までけっこう遠いかと思って覚悟してたけど意外なほど近くでした。んで、ソッコー現場へ。

 現場入りするとそこかしこにソレ系の屋台が・・。「これが噂に聞くちんちん飴か・・」、と一瞥しつつもそれほどたいしたものではなかったのでスルーしつつ、なにやら人溜まりができているところがあるのでそちらのほうへ。あ、これは噂の


IMG_0156.JPG


 ペニスライド


 あまり良い写真が撮れなかったけど、なんか女史の方々が嬉し恥ずかしな感じでソレ(×2)に乗っておられました。安産祈願とかにもなるのかなぁ・・。(エイズ除けってことか?)

 
 そんで、「例のブツはどこかなぁ」、ということでその辺をキョロキョロと。ペニスライドの右後方でおっちゃんが拡声器でなにやら言っておられる。「なんじゃらほい?」と行ってみたけど、どうやら目的のブツではなくバンドがどうとか・・? んでも、「例のブツがそろそろ開チンだよ ♪」みたいな感じなのでそのままブツ散策。そしたら境内近くで発見。


(ほんとはここから「ブツとの初遭遇(1st impact)」などを含めた写真・動画があったんだけど、ちょっとミスって消去してしまった・・)


 で、まぁ、いよいよ御輿です。御輿は3種類あって一番最後に目的の例のヤツが登場してきました。で、そいつの起動シーンから撮影してたんだけど・・・それは誤って消去してしまった。せっかく体を張って撮ったのに・・。(人が押し寄せてきて痛かった)

 そんなわけで2nd impactからお届けします。以下、「♪ でっかいまぁ〜ら」







 過ぎ去っていくピンク色のヤツに諸行無常を感じたり(遠くのほうでかすかに揺れる先端部が物悲しいですね)。

 んで、やることもなくなって、せっかくだからということでご本尊を拝みに


IMG_0148.JPG



 本来かなまら様は鍛冶神ということで、ご本尊はこういう形。「金+魔羅」ということでかなまら。鍛冶の神がなにかを産み出すということと生命の営みの結果、命が産み出されることをかけてるんでしょうな。そんなことを思いながらお参りを済ませて去ろうとして、ふと目をやったところに


IMG_0149.JPG



 少し気を抜いていたところだったので意表をつかれてしまった・・。ってか、なんだろ?「かなまらいたるところにキノコあり」とか言いたいのだろうか?そしてその横にもびみょーにエロげなものが


IMG_0151.JPG


 直接的じゃないだけになんかエロい


 んで、その右後方にはそのものって感じのものが


IMG_0152.JPG


 鍛冶神とブツの融合。こうなるともうオブジェ(アート)って感じですね。ペニスライドにはない迫力を感じます。でも、そんなアートにも嬉々としてまたがる人たちがいたけど。(いや、いいんだけどね)

 なんか鉄とエロってエロいっすよね。


 そんでしばらく進むと「ほだれ祭り」とかいう暖簾に遭遇。あれ?「ほだれ」なの?ふーん、ほだれってそういうの一般の意味なのか・・。なんとなく女性器のほうかと思ってた。

 そういえば会場は男性器ばっかで女性器は見当たらなかったです。・・なんでだろ?鍛冶神ということと関連してるのかなぁ・・。(ホノカグツチって男性神だったっけ?)


 そんなことを思ってるとまたしてもきみょーな者に遭遇

IMG_0155.JPG


 男性器のはっぴを着た男性器そのもののようなおっちゃん

 なんか、ここまで来るとパンクって感じだ。すごいな。狙ってやってたのかな?



 んで、まぁ、会場としては大体見尽くしたので早々に撤退(人が多いの苦手だし)。あとちょっと気になったのはやっぱガイジンさんが多いですね。会場の1/5ぐらいはガイジンさんだったんじゃないかと思う。これっていろいろ考えさせられますね。向こうの番組(CNNだっけ?)で流されてから「日本の奇祭」ってことで人気が出たんだったっけな?


 まぁ、とりあえず、そんな感じで会場を後に


 ちょっと疲れたので離れたところにあるコンビニへ酒を買いに。んで、そこのおばちゃんと立ち話。


「今年は晴れてよかったですね。桜もきれいで」

「毎年、こんな感じで桜が咲くんですか?」

「いえ、祭りは4月の第一週ということで8日ぐらいになることもあるんです。ですから毎年というわけではないのですが、今年は良かったですね」



 うん。確かに良かった。



 んで、のこのこと会場に帰ってると交番が意外なほど近くにあったことに気づく。なるほど、ここまで近くにあったらなにかあったときに安心だ。この祭り用に移転したのかな?

 ってか、信号の向かいに不二家があるな。「閉店」か・・。


 狂騒と現実



 
 んで、会場に戻ろうかなぁ、と思ってたところでまたしても御輿に遭遇。なにやら商店街に入っていくご様子(「♪ でっかいまぁ〜ら(reprise)」)







 一緒に引かれていたトロッコになにやら怪しい絵が・・。それを見て「かわいい」という女史もどうか、と・・。(やはりコイツラ狂ってるw)


 

 かなまら祭りについてはだいたいそんな感じでした。


 4月の始めのバカ騒ぎ、と。





 最後に全然関係ないけど、翌日の早朝に日本橋で撮った写真を


moon 4EQEQ.JPG


 
 早朝3:00に見る夜桜ってのはなんだかとっても綺麗で、これだけでかなまら祭りの狂騒に似た(あるいはそれ以上の)感動を覚えてしまった。


 






♪ スガシカオ / 午後のパレード


--
関連:
ツキノツバサ | かなまら祭りに行ってきました 2007


ちんこ神輿…かなまら祭り2007:エキスパートモード


タイツくん・大人のブログ:「かなまらレポート」田舎侍

〜さざなみ壊変〜川崎市金山神社のちんこ祭りに行ってきた!

タグ:イベント
posted by m_um_u at 13:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年03月27日

春と修羅

心象のはいいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の濕地

いちめんのいちめんの諂曲〔てんごく〕模様

(正午の管楽〔くわんがく〕よりもしげく

 琥珀のかけらがそそぐとき)

いかりのにがさまた青さ

四月の気層のひかりの底を

唾〔つばき〕し はぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

「春と修羅」より引用】


 

 自分の知が一部の人を惹きつけること、それに対する自分の対応というか、その責任のようなことを時々思うことがある。

 ぼくの知なんてのはしょせんは薄っぺらなもので、でもそれなりの広がりを持っているから一部の人は惹きつけられるんだろうか。あるいは同じ感性を持った人が自分の知の先のようなものを見て惹かれるのか。

 同時に、そういった知とか感性のようなものは違うセカイに属する一部の人にはひどく鼻にかかるようでそれなりの迫害を受けてきたけど、そういうのはやっかみのようなものだからということで処理できてきた。(それなりに恨みもしたが)

 でも、同族の親しみというか、なにか特別の好意のようなものを寄せてくれる人に対して、ぼくはいつも少し一線を引いた態度をとってきたような気がする。惹きつけるだけ惹きつけておいて、相手がその線を越えそうになると引いてしまうような・・そういう小ずるさ。

 相手がその線を越えようとしていたのかどうかはっきりと確かめたことはないし、自惚れのようなものかもしれないけど、いま思うとそういうことが何度かあったように思う。

 そのとき引いてしまったのはほかの人を見ていたり、ほかの道のようなものに興味があったからのように思う。ぼくは未だ知力も精神力も経済力も未熟だったし、なによりも早く成長したかった。だから彼や彼女たちの気持ちを知っていて無視していたところがあったのかもしれない。もう一つは三角関係のようなものもあったような気がするけどよくわからない。


 「未熟だから応えられない」というのはいま思うと言い訳に過ぎなくて、そういう言い訳をそろそろやめるべきなのかなぁと思っていたけど、またしてもなんか地雷を踏んでしまったのだろうか・・・。


 ぼくの責任もあるのだろうが、その他いろいろな要因も考えられる。その部分は相手の精神の問題だろう。でも、そのことを薄々感づきながらその辺りの気遣いができなかったのはぼくの責任。


 映画「ゆれる」のことを少し思う。



 同じ地点で同じように雨に濡れればよかったのだろうか?


 ぼくは一緒に濡れるよりは傘を差し出してしまうタイプなのでよく分からないが、そういうのが必要なこともあるのかもしれない。


 もしくは私的な部分を完全に排除すれば良かったか・・?


 
 それもやろうと思えばできるのだけれど、なんか卑怯な気がしてできない。客観性を盾にした超然たる正しさのようなものはなんか偽善のようなものを感じて。でも、そういう偽善の意識というのも所詮は個人的な罪悪感に過ぎないのだから、その部分は個人的に処理して偽善を貫いていくべきなのか・・。



 あるいはそういった非対称的な問題ではなく、同じセカイに住んでいるということが問題なのかもしれない。

 同族嫌悪というかエディプスコンプレックスというか・・・後者の場合、単にぼくが殺されればいいだけのことだけど、そうは言いつついざとなったら怖気づくのだろうか・・(精神的な意味での踏み絵を用意されて)。


 
 同族嫌悪というか、同類は共生できないのかということについて、これを読み返してみた



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 同じ道を行く場合、なんらかのコンプレックスとか相手に対して常に緊張感や不安をもってなくてならなくなり心の休まるときがないのかもしれない。「いずれは別れてしまう」という不安を常に抱えるような。

 
 あるいは共生ということはなくても、距離が近ければ相手に対してなんらかのプレッシャーを感じさせることになるのかもしれない。


 大きな星が自らの重力でその身を潰してしまうように、引力で相手を引き寄せてしまうように、ぼくらは惹かれあい潰しあってしまう。(そしてブラックホールが発生する)




 だからある程度の距離をとったほうがいいのか





 あるいは、そういったところに拘泥せず、一人、けもの道に帰るべきなのか・・?



 通い慣れた道だし、それ自体はどうということはないが、やはり少し寂しい。



 修羅の道に入ることで人並みの幸せを捨てることになるのはあの契約のときに覚悟したことだから、それ自体は仕方ない。少し寂しいけどそういうものだろう。でも、それが誰かに悪影響を与えるのだとしたら・・その辺りのことが少し気掛かり。というか、それ自体が自惚れなのかもしれないが。



 春の陽気につられて少し気が緩んでいたか・・。




 ぼくは徳のようなものを積むべきなのかもしれない。

 それがなにかは未だよく分からないけど、知によって人を傷つけることがないような、人の心を慮って一線を引いたり越えたりできるようなそういうもの。





 ジョギングをしていたら灰色の雲が出ていた。美しくはないけれど落ち着く雲。 わさびらむねをズブロッカで割って飲みながら宮澤賢治のことを少し思った。





posted by m_um_u at 20:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年03月25日

教養について ver.2.0

 教育とか教養について。自分でエントリ起こしたり福耳さんとこにお邪魔してるうちにそれなりにまとめとかなきゃなぁ、というか、投げっぱなしも良くないなぁと思うのでいちお整理しとく。っていっても、本来ならこういう話は教育学部とかそれに準ずるもの(教員免許とか?)に関わる人が発すれば良いと思うし、ぼくはこういうこと言う立場でもないのだろうけど、まぁ「オレ様教育論」ということで。

 上記の理由でエントリには少し消極的だったんだけど、今日lifeの教養の回を聞き終わってなんかふつふつと来るものがあったのでそういうのもやっつけまとめとこうか、と。


 まとめサイトの人がテキスト起こししてくれてたのでとりあえず


「教養」 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


「教養」Part2 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


 特に驚きはない、というかこの人たちとは気が合いそうなので最初から答えがシンクロしてたんだろうけど、大体同意な内容だった。以下、論点箇条



(1)いわゆる「実学」に対する「教養」とはなにか?


(2)Google時代の「教養」の意義


(3)世代間の共通言語としての「教養」の意義


(4)抑圧(権威の象徴)としての「教養」


(5)それでもなお「教養」というものに意義があるとしたら、ほんとの「教養」とは?



 まず、(1)について。これは象徴的な言葉としてこんなのがあった。


 「教養の反対語はホリエモン」


 おっさん達年長者の方々がエスタブリッシュな閥の共通言語として「古典文学」とかその他諸々を身に付け、そういうのに共通していたエートスを身につけていったのに対して、そういうものとは早い段階で縁を切り、合理的な方法でプロパティを獲得していった堀江さん。彼の合理性を如実に表すものとして、最近では以下のエントリが印象深かった。


堀江貴文逮捕による本当の損失


 要約すれば、「新しいことに対する偏見がなく判断スピードが速かった」、ということ。その後の彼の経営の舵取りについては評価が分かれるところだろうけど、ことこの部分については正当な評価を受けて然るべきなのではないか?どうも、「合理主義でIT風吹かしてるヤツなんかは経営に対する思い入れというものがないんだよ。拝金主義ってヤツ。やっぱ必要なのは倫理と教養だよね」、みたいなお年寄りの声が聞こえてくる感じでイヤなのだが、拝金主義と合理性って結びつかないから。たしかに仕事においてお金というのは第一義的に目指すものではなく付いてくるものだとは思うけど、合理性=拝金主義のように捉えて変な教養主義のバックラッシュとか起こったらたまらん。お金と仕事についてはこの辺に詳しい


極東ブログ: [書評]プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー)


 エントリの本筋ではないのでサラッと引用だけさせていただく


カネを儲けることは、世俗内的禁欲の結果であって目的ではないということ。なによりそれが現世ではなく来世に結びつけられていることが重要。
 ではなぜそれが職業を通して現れるかというとその背景に社会構成の原理としての隣人愛の特有なモデルがある。
 いずれにせよ、こうした内面化された行動規範をエートス(倫理)と呼ぶ。エティーク(倫理)とイコールではないというのが難しいのだがそれ以上は踏み込まない。



カネ(資本蓄積)は結果論であり、重要なのは、職業(ベルーフ)を神の呼びかけ=天職としてただ実践するだけ。



よく誤解されるのだが、天職とは、自身に適合した職業とかいう意味ではぜんぜんない。この世に置かれた状況が強いる職業そのままを指す。これは結果としては、多少意外な印象もあるだろうが、共同体(ゲマインデ)の解体をもたらす。
 もう一点、言うまでもないが、こうしたエートスは富裕者と社会的低階層者とを区別しない



 あと、この辺とか、


石黒憲彦氏の「志本主義のススメ」

そして、山本氏は、日本人の職業観、倫理観と、マックス・ウエーバーが指摘するプロテスタンティズムの倫理とのアナロジーを指摘しています。マックス・ウエーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、ベンジャミン・フランクリンに代表される、禁欲的な生活態度を保ちつつ、正当な利潤を使命(すなわち職業として)として組織的かつ合理的に追及するという「資本主義の精神」の起源をプロテスタンティズムに求めました。


プロテスタンティズムは、「目的としての富の追求を邪悪の極地」としながらも、「職業労働の結果としての富の獲得を神の恩恵」と考え、奢侈的な消費を戒める一方、営利を開放することで、禁欲的節約強制による資本形成が進むのです。



山本氏は、戦国時代武士として生き、その後禅僧となった鈴木正三が説いた世俗的な職業倫理としての「万民徳用」という世間法の中に、「世俗的行為は宗教的行為である」というプロテスタンティズムと共通の発想がみられると指摘しています。正三は、「農業則仏行なり」、「何の事業も皆則仏行なり」と説き、「分業は、本覚真如の一仏、百億分身して、世界を利益したもう」ためであり、「武士は秩序維持、農人は食量、職人は必要な品々の提供を、商人は流通をそれぞれ担当するのが宗教的義務になる」(「勤勉の哲学」P73〜74、PHP研究所、 1979年)と説きます。こうして「職業に貴賎なし」、「一意専心」それに従うことが仏行であり、働くことで精神的安定と充足感が得られるとする職業倫理が確立していきました。そうした職業観は「道」という考え方に通じます。さらに、正三は、利潤を目的とせずただ一心不乱に仕事をしていれば結果として収入増となり、利潤が生まれるとも説いているのです。



 こんな感じで合理性そのものは悪ではない。「目的ではない」というだけのこと。ツールみたいなもんだ。福耳さんところで「お金儲け(≠経営)を悪徳と考える人多くね?」的エントリがあったけど同様のことだと思う。(だいたい経営学の目標とする価値は効率化による利潤の最大化なのだから合理性を否定してどうするのだ、と)

 たぶんなんかがまざってるんだと思う(サラッというとマルクス主義の形式知が暗黙知化できてない。つまり自分の言葉にならず単なる呪いとして機能しているのだろう)



 で、実学と教養の話に戻ると、実学的なものの象徴としてMBAが出てきてて、さらに大学の経営レベル(学部改革)の象徴として慶応のSFC(総合政策学部と環境情報学部)が挙げられてた。元から実学というか財界のトップのほうとのルート作るのがメインで創られた学部ということで、創った人たちもそういう方面でのフィクサー的な存在だった、と。んで、「社会に出て役に立つような実学」をメインで教科編成したらしいんだけど、結局なにがメインか分からないヌエみたいな存在になったらしい(cf.東大教養、ICU)。それはそれでよいのかもしれないけど、やっぱそんなもんかなぁ、って感じだ。(ところでSFCをして「ホイチョイ的世界」と称する柳瀬さんの表現は絶妙だと思った。大学堀越!)




 んで、次。(2)Google時代の「教養」の意義、について。

 「検索エンジンあっても調べる言葉がわかんないと意味ないじゃん」、ってやつ。山形さんの新教養主義みたいなのもそういう文脈だったらしい。それに対して、「ほんとの教養を身につければいろいろ調べれるようになるぜ」、と。「ほんとの教養」は後述

 加えて言うなら知識データベースを内部化しておくと検索スピードが向上、思考のリズムが生まれやすくなり創発(アイデアがわく)が起こりやすいというのもあると思うけど、その辺理論化されてないのでいいや。(cf.茂木さんの「アハ体験」でもいいけど、理論っぽくなさそうだしなぁ)



 (3)世代間の共通言語としての「教養」の意義、について。「若い社員との接し方が分からない」問題は切込隊長のところでも出てたな。


切込隊長BLOG(ブログ) - 続・「若い社員との接し方が分からない」って悩みはほぼ全員が持ってると思うんだけどね


 いまの子たちって合理的なので「飲む・打つ・買う」なんかしないし、そういう意味ではプライベート的なところで接点がない(飲みニュケーションがない)。 いわゆる素面男子ってやつだ。

第19回 素面男子〜なぜ「飲む、打つ、買う」?意味わからないです (U35男子マーケティング図鑑):NBonline(日経ビジネス オンライン)

 ってか反応みると強烈に批判されてるのでびみょーな感じがするけど、でも世代間をつなぐ共通言語がなくなってきてるってのはあると思う。昔はそういうのを「教養」というコモンセンスがつないでいたらしい。「代表的な小説」とか「代表的な歌」とかそんなの。んでもそういうのもなくなって久しい、と。

 で、そういう部分を担っていた「代表的な小説(いわゆるブンガクみたいなの)」は昔は帝大の文学部を中心にスタンダード化されていってたみたいなんだけど、その理由として「文学部に通ってた連中は地方出身の田舎者(豪農とか?)が中心だったからです」((C)竹内洋)というのが面白かった。田舎者が見栄を張るために(その時代で)日本の知よりもそふぃすてぃけーとされた西洋文学を身につけて威張る必要があった、と。

 なるほど、そんなものだったのか・・。で、そういったものがエリートの象徴というか、エリートプロトコルとして生き残っていった、と。



(4)抑圧(権威の象徴)としての「教養」、について。

 上記の話にそのまま繋がるんだけど、そういう共通言語(プロトコル)を身につけてないと話通じないよ、って感じがあったのだろう。番組中ではそこまで言ってなかったけど、教養による権威性と優越意識(排他意識)みたいなのには触れてた。学問領域だとゲーガク的なジャーゴン(専門用語)とかそれに当たると思う。

 ジャーゴンは情報圧縮率が高いので専門家同士の話だと必要性があることは認めるけど、それを障壁として使うのはどうかなって思うことがある。(もしくは中身のないギロンの煙幕とか)。本エントリ前段で出てきた(たぶん)よくわからないマルクス主義かぶれの人たちもそういう呪いを受けてたのだろう。



(5)それでもなお「教養」というものに意義があるとしたら、ほんとの「教養」とは?

 煙幕とかゲーガクみたいな教養ではなく真の意味での教養があるとしたらどういったものか?、といった問いかけ。これについては本サイトでは既出なので特に言うことはない(参照参照2)。

 いちお要約すれば、「個々人の人生にとって重要とする価値観に沿って集められた知識」であり、「その知識を吸収・整理・参照していくための思考の枠組み」ということ。後者については「答えよりもむしろ問題設定のほうが重要」って感じ。あとは専門知的なところから出てくる知見とかcritical wordか。Googleで調べる場合そういうのが必要だろう。

 んで、専門知をただカタカナ的に覚えてジャーゴン談義してるだけではほんとの知ではなくて、それを自分の言葉に置き換え生活の中の具体的な事象と連結し、他の分野の言葉(概念)との共通性を探り包括的な理論を作る、って感じ。ってか、最初からどれもこれもってやってたら足場できないだろうけど。そういう意味ではある程度のタコツボも必要だと思う。なんつーか、専門知もある程度に達したら勝手にほかと繋がるように思うので。きちんとした思考回路を持ってたら繋がると思う。(「井の中の蛙大海を知らず、されど空の高さを知る」)


 付け加えるならば「地力」のようなものもあるように思う。福耳さんのところでも少し触れてあったが、ほんものの経営者の人の人生観から出てくる言葉に含まれる経験知というか、人生の重みというか・・。「人格」と言ってもいいかもしれない。そういうのは限界状況で身につけていった「地力」と、限界状況でも手放さなかった矜持(プライド)のようなものから構成されるように思う。そんで、そういったものはやっぱ単に個人の欲得というところから離れたもので構成されるのではないか、と(そういうわけでエントリ前段の仕事のエートスに還る)。「エートス」というよりは「覚悟」と言ったほうが良いかもしれない。


 「そういうところから短期的な儲け(単なる投機目的の株買い)と長期的視野に経った投資との違いが出る」、みたいな話を柳瀬さんがしてた。デイトレみたいな単なる投機はなんつーかパチンコみたいなもんだと(もっとリスク多いかもとも)。長期的に見れば伸びるところが見れない、みたいな話をしてた。

 これは前半の「Google的知」と「根っことしての教養」みたいな話とも繋がる。

 もうちょっと別の言葉で言うとinformationとinsightの違い。前者が単なる形式知的な情報なのに対して、後者は情報を編集・整理する過程で自分の言葉(暗黙知)に置き換え、最終的に確かな知として吸収している。

 テスト前の詰め込み的な単なる形式知ではほんとの知としての応用は利かないし、すぐに忘れる。後者の知というのは血肉となって人生に役立っていく。


 教養については大体そんな感じか。


 ってか、またしても前置きの話が長くなった・・(ほんとは「極(私的)勉強法」とかアップしたかったのに)。




・・長くなったので別の機会で(やんないかも)


タグ:教育
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2007年03月24日

road 2 partition

 休日の平穏を乱す選挙カー。「この地域に安全を!」みたいなことをのたまいながら移動していったけど、お前が一番平安を乱しとるんやっちゅうねん・・。

 もうすぐ選挙だからということで印象づけしてるんだろうけど、あんなので食いつく人いるのかなぁ。。(年寄り狙い?)


 ってか、「安全」だの「命を大事に」だの言いながら、オレ幼稚園のころオマエに裸で乾布摩擦とマラソンみたいなのやらされたぞ?それはいいのか?「子供は風の子」か?・・・すごくイヤで幼稚園休んだ覚えがあるけど・・。(熱中高校みたいだった)


 まぁ、それは幼稚園のころのことだから置いておくとして、この人の事務所の前の歩道の点字ブロックの張替え工事してたんだけど、これって明らかにムダだよな?(こんなの↓サムネイル)


road 2 part.JPG


 全然老朽化してない点字ブロック。「灰色を黄色に変える」ってだけ。そういうのを何メートルやっていってるんだろう・・。(1kmぐらい?)



・・・・何の意味があるの?
・・・・元々目が不自由な人だから点字ブロック使ってるんじゃないの?(色関係あるの?)



 「黄色のほうが見やすいんです!」とかそんなの?・・そうなのかなぁ?


 いまの時期で歩道工事するって言ったら歩行者と自転車を分けるための工夫するとかいうのがふつーだと思うけど。何も考えてないのかなぁ・・。



 どう考えてもどっかのツルが付いてるとしか思えん・・。




 そんなことを思って少しは選挙の予習をしようと思ってたところでこんなblogを見つけた。


大好きです。ひろしま・ヒロシマ・広島
http://d.hatena.ne.jp/artdirect/

 
 書いてる人は現役市長(秋葉さん)のお手伝いもされてる方みたいなので中立というわけではないかもしれないけど、いろいろな記述は説得力のあるものに思えた。以下、大幅引用


前回の市長選(平成10年)で投票率が30%を切ったのを見て、投票所に来ていた市の若い職員がボソッと言いました。「(平岡)市長が変ればかなりの事が出来るのに。」
 まさにそれが私たち市で働く職員の正直な気持なのです。市長がもっと自分のポリシーと決断力を持って市の行政に積極的に関わってくれれば市の行政はもっといろんな事ができるのです。しかし、今までの市長は地元政経済界の傀儡そのもの。地元政経済界が認め後押しをした市長はそれが求める公共事業などを推進しさえすれば後は市政に無関心。財政状況がどんなに悪化しようが、福祉を切り捨てようが一向にお構いなし。私達市職員が直面している諸問題について決断を求めても、「面倒なことは相談するな!」という態度でした。市のトップが全くの無関心・無責任なのだから職員のやる気が起こる訳がありません。市の幹部職員は事なかれ主義のイエスマンばかり。これが仲良しグループを作って人事を固め自分達の保身にのみ奔走し、市の行政について幹部職員は誰も真剣に考えない・・そんな風潮が蔓延しているのです。市長を始め誰も市政に責任を持たない、関心を持たない・・これが現実なのです。責任感と決断力があり、何より市政に関心のある(?)人に市長になってもらいたいというのが市の職員の偽らざる気持ちです。

大好きです。ひろしま・ヒロシマ・広島 - 広島市長選挙を考えるより引用】




 これは前の市長(平岡さん)のときに投稿された記事らしいけど、そういわれると納得な感じ。んで、平岡さんのときは行政部分は地元経済界のロボ化してて、市長は好きな「平和」活動だけをしていたんだそうな。

 平岡さんって個人的に印象良かったからなんかショックだわぁ・・。でも、そんなもんかもしれない。


 さっきも言ったとおり、この人自身ある集団の意見を代表しているのかもしれないから注意が必要だし、そのほかの情報源も当たってる見る必要があるのだろうけど、別の文脈で似たようなことを言っておられる方もいた。


地方の実情を直視しているのであれば、「この政策は、優先順位を低くせざるを得ません」という苦い説明が出てこないとオカシイのです。でも、そんなことを言う人はいない。残念ながら「見せかけの安定」に騙される人は、これからも続出するでしょう。「見せかけの成長」に騙されるのは、元気の良い、前のめりな態度の人が多い。反対に「見せかけの安定」に騙されるのは、元気の衰えつつある真面目な人が多い。どちらが深刻かといえば、私は後者だと思います

Espresso Diary@信州松本:怖いのは、「見せかけの成長」より「見せかけの安定」。より引用】




 この人も長野県知事選に関わった方みたいなのである立場に立った見解ということはできるかもしれないけど、違う文脈から同じ主張が出てきているというのはある程度の信頼性を担保するものだなぁと思ったり。(主張の中身自体が説得力があることは言わずもがな)



 そういやJanJanから「選挙特集始まるよー」メール来てたな。


ザ・選挙(@JanJan)
http://www.senkyo.janjan.jp/


 引用先お二人ぐらいのエントリが読めるならいいけど、そのレベルのものが期待できるのだろうか・・。


(ってか、相変わらずTBつけてないな。ジャンブロなんかしても閉鎖性が高まるだけなのに)




 「口当たりはいいけど将来的に厳しくなるだろう公約」 と 「厳しい現実に直視させられるけど、これ以上悪くならないためには考えなければならないこと」

 なんとなくだけど、冒頭の写真にそういうのが象徴されてるように思えた。(ここが際か)



inspired:

キャプテン翼 ROAD TO VICTORY GOAL.1
エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ (2003/02/19)
売り上げランキング: 73764


タグ:広島
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2007年03月22日

大学教育について(上下分離の必要性など)

ちょっと前からこちらのblogをちょくちょく見させてもらっている。


福耳コラム
http://d.hatena.ne.jp/fuku33


 経営学系の人らしい。んで、同年代、と。そういうこともあってかなんか読んでて楽というか分かりやすい(って、ぼくは経営学プロパーではないが)。特にこの記述で「おまえはオレか?」的既視感を感じた。

まだまだ書こうと思えば書けるのですが、書きながらあれ、と思ったけれど、ずいぶん生産管理論の用語で戦争って語れるもんだなあ、と思いました。これは思い出してみれば、アメリカでOR(オペレーションリサーチ)の研究が始まったのが戦争中の米軍の兵站の研究でだったからかな、と思います。と言ってもこれはわたくし噂で聞いただけで、経営学史をひもといたわけではないですが。でも、経営学で現在自分が使っている資源の最適配分とか、成果の極大化とか、そのまんま軍事に使える概念である気がしてきた。ていうかもとがそこから来たんだからこれは当たり前か。

福耳コラム - 軍事研究の経営学的意味より引用】


 
 そういうことなのだ(って偉そうだが)。昔から経営の専門家(社長)が孫子の兵法なんか呼んでたのは伊達ではなかったのだろう。

 んで、ぼくもちょっと前にクラウゼヴィッツの理論をモデル起こししてそれを基調に軍事戦略・戦術の変化を追い、経営学系の理論と合一させようと思ったのだけれど中途になっている。(伊丹センセの「新・経営戦略論」を基本にいまのところここまで↓)



経営学.JPG


経営学2.JPG


 そんで、こういうのを作りながら思ったんだけど、経営学って体系的理論がないのね。いや、御大級の人が最後の一仕事って感じでつくろうとはしてるんだけど、びみょーというか、クラウゼヴィッツ級の確定したやつがない。そんなことを思ったわけだけどやはりご同輩というか↓

ある文脈の中で戦略という語彙が使われて、つまりどういう意味かと読み込むと、単に「目的」という言葉の代わりに戦略と言っていたり(例:売上増戦略)、「手法・商法」という意味で戦略と言っていたり(例:現金掛け値なし戦略)、なんか巧妙な巧いやり方で敵を楽に倒す「計略・戦術」という意味で戦略と呼んだり、あるいは「戦略とは差別化のことである」という学者がいたり(マイケルポーターお前のことだ)、それはいろいろある戦略からあなたの選んだのがそれであるというだけで、戦略一般の定義とは違うでしょ、と言いたくなったり。

つまり経営学者やコンサルタントたちはみんな好き勝手に戦略と言っているだけで、クラウゼヴィッツの「戦略とは個々の戦闘を戦争の目的に結びつけることである。」という定義がいかに優れているかは、それより百年もあとに生れたはずのおじさんたちがそれに追いつけてさえいないことで明らかではないか。だって個々の活動を目的に結びつけることが戦略なら、経営学の都合で人事戦略だ販売戦略だ生産戦略だってばらばらに考えること自体が戦略的ではないのではないか。戦略論は突き詰めれば全体論になるのじゃないか。

福耳コラム - 「戦略論」の混乱より引用】



 分かるわぁ。平気で戦術と戦略をまぜこぜで使う人とかいるし、マーケの人でも自分の業界のカタカナ言葉をフル稼働で話すんだけど、それって経験則にすぎないんだよね。いや、経験則は経験則で重要かもしれないけど、でもそれ短期的な効果しかないし、なんつーか判例みたいなもんだから。「それじゃ先見えないよ」って感じなんだけど、MBAはMBAで資格取るのも大変らしいのであまり言うまいw


 んで、まぁ、「お仲間かなー」って感じでニコニコ見てた福耳さんのところでちょっと悩みが


福耳コラム - 素質論に逃げまい


 「学生が大根ばかりでもあきらめまい!(それがワシらの仕事や)」、と。若手講師にありがちな悩みというか、責任感強い人ほどこうなるんだろうな・・。非日常さんとこのスーパー講師の人に相談したいようなヤマだ。

大学教員の日常・非日常:昔の日記:ミスター非常勤

大学教員の日常・非日常:さよなら非常勤先生



 もしくは、こういう問題って塾講師とかのほうが割り切っててうまかったりする。ってか、ぼくはこの部分の教育ってもう塾に外注していいんじゃないかと思ってるけど、そうすると若手に仕事が回ってこないか?5号館さんとこにそんな話題出てたか。


5号館のつぶやき : ポスドク1万人計画の次は早期退職教員1万人計画


 5号館さんのところは「ヤル気のない教員辞めさせてポスドク1万人採用したほうが有益」ってスタンスだけど、そのポスドクが塾講経験もあると良いのではないか?ってか、ほとんどのドク(ポスドク)って塾講(ないしそれに準ずるもの)経験あるだろうけど。


 あと、関連で、「専門知識を分かりやすく解説する能力を持った人がいるだろうね」、ということでこのような提案をされている

5号館のつぶやき : 科学技術コミュニケーター利用のすすめ

 これなんかも「教育特化」(もしくは上下分離的に「教育」と「研究」、「経営」を分ける)と考えると分かりやすい。余談だが、桂(スラヴォイ)ジジェク師匠は研究ばっかやってればいいんだそうだ。「年に2、3回講演したらほかの人の半分のきゅーりょー貰えるよ。それでそんなのをいくつか掛け持ちしてる。だから一杯本書けるよ」、と。うらやましい限りだがご本人もありがたがってた。そんな感じで最適化を測って、能力がある人の能力をフルに活用したほうが良いだろう。誰とは言わんが、大学院とか大学の講義とかでもぶーたれてやってる大御所とかいるわけだし・・。ああいうのは学生に悪影響だと思う(その分野に対する好奇心とか魅力がなくなる)。


 んで、福耳さんの件に戻るけど、

 そういやちょっと前に意味不明なTB送って混乱させてしまったかもしれない(ちょっと反省)。

 muse-A-muse 2nd: 教育とか教養について

 
 言いたかったのは上記してきたようなこと。つまり、「基本的なところは塾講師的なフローで良いのではないか?」、ってこと。この部分の知識は本来の意味での大学的知識ではないけど、素養ができていないのだから仕方がない。現在は学級崩壊世代よりもちょっと下か。そういう世代がてきとーに「ゆとり教育」とかで育ってきてるわけだからもうアレだ。ちょっと前の世界史履修漏れ問題のときに、「現在の大学ではそういうことに対して大学教員が大学以前の基礎的知識についてフォローしている」、みたいな話を聞いたけどそんな感じで仕方ないのではないか?だってできないんだもん。できないってことは話が通じない(プロトコル≠インターフェースの統一してない)んだもん。読み書きソロバンができないんだもん。っつーか、それ以前にヤル気ないんだもん。

 そういう部分のリテラシーってのはアレだ。短期集中で詰め込みさせるしかない。その際の「インセンティブ」がポイントなんだけど、これはプロの塾講の人たちはどんな感じで設定してるのかな?

 伝え聞いた話だといわゆるスーパー塾講と呼ばれる人にはそれぞれ得意技というようなものがあるらしい。生徒はそれを見たさに講義に通ってる面もあるのだとか。えーと例えばこんなの↓




pya! この点はでねぇよ!

荻野RAVE




 愛されている



 って、ここまで来る必要はないかもしれないけど、個性は必要かな、と。学生を引き寄せる個性のようなもの。ぼくはそういうの苦手だし講師してないのでアレなんだけど、とりあえずこの辺とか参考になるかもしれない。


塾講師のつぶやき


理科塾講師のつぶやき



 あと、こんな感じで「基礎教育」部分を外部化する場合、平行して経営に特化した人員の採用が必要になると思う。大学長なんかそういうセンスない人ばっかなわけだし、学内政治なんかしてたら少子化に向けてほんとに生き残れないのではないか?経営系の人はそういうのに借り出されてるみたいだけど、それに加えてやっぱ社長とか企業トップの経験のある人がいてくれると心強い。「学校教育への経営的意識の導入の必要性」については(中学校ではあるが)この辺りに詳しい


バックナンバー - 今、学校で何が起きているのか - nikkei BPnet






 ってなんか書きたいことから大幅にずれてしまったな・・。


 ほんとは「教育」の参考として野中センセのSECIモデルをスキーマアレンジしたものをアップするつもりだったんだけど・・。まぁ、あれはあれで教育学系の人から見たら「なんじゃこりゃー」((C)松田優作)とか言われるかもしれないからいいや。んじゃ、とりあえずSECIモデルだけ↓


パターンエンジン

SECIモデル(JPEG 画像, 694x485 px)


知識創造の「SECIモデル」


 knowledgeの効率的な運用に関して。これをそのまま教える必要はないけど、少しは意識したほうがいいように思う。具体的に言えば、「input」 ⇒ 「書き出し(あるいは描画)確認 (ex.ノート)」 ⇒ 「外部知識との連結 (ほかのテクストとの連携)」 ⇒ 「消化吸収 (自分の内部のサブシステムみたいなものを構築。しばらく寝かせて次のサブシステムと繋げる ex.自分なりの言葉に直して認識をhackする)」、という過程になる。


 あと、軽く言うと、教育というと勘違いされているようだが、一方的なコミュニケーションではないので。マスコミュニケーションの効果研究でもこういう勘違いがまかり通ってきたみたいだけど、情報の伝達過程というのは声を出しているほうばかり目立つけど、受容するほうも受容の時点でコミュニケーションを行っている。声を出したりしない暗黙的なもの(Read Only)なので誤解されやすいが、教員なりメディアなどがなげかけてきたコード(スキーマでもいい)に対して、それを受容するコードを設定しないと何を言っているのか認識できないので、受容する側がそのコードを設定した時点で消極的だがコミュニケーションを行っている。この認識に立てばメッセージの受容過程とは単なる一方的なコミュニケーションではなく、受容者のコードをいかに刺激するかということが肝要となってくる。つまり、「いまはこういう話をしているんだよ。これは全体から見るとこの辺に当たる話で、こういう意義を持ってるんだよ。んで、今日はこの辺まで講義するつもりです」、というふうな感じで受容側にコード設定させてあげるのが良いように思う。




 あと、蛇足



 話とあまり関係ないけどこういう話ってなんかいいですよね(ほのぼの)


asahi.com:84歳の修士学位 さいたまの宇都宮さん「次は博士号」 - 暮らし



 ついでにトリビア

 学校教育法では、

小学校に在学するものを児童

中学校に在学するものを生徒

高等学校に在学するものを生徒

大学に在学にするものを学生

と区別する。

大学教員のトホホな日常? - 児童と生徒と学生より引用】




 知らんかった




--
追記:
それとは別にマーケティングのほうちょっときちんと体系化してみよう思ってる。とりあえずこの辺からかな


行動に対するマーケティング: mediologic.com/weblog



それとは別に教養のようなものの必要性(意義)があるわけだけど、これは長くなるのでやめとく。簡単に言うと、自らがもっとも重要とする価値の根幹に関わってくる知識、が教養だと思う(人生をコントロールするための指針のようなもの)。なので個々人によってなにを「教養」とするかは変わってくる。



--
追記(2007.3.23):
なんか誤解されるとアレなんでいちお言っときますが、ぼくは管理教育大嫌い派です。

「プロトコルとかリテラシーをがしがし詰め込めばいんだよ!」とか言ってるとスパルタ型管理教育推奨派のように見えるかもしれないけどそういうことではなくて、語学とかPCのタッチタイプでもそうですが「基本的な覚えもの」ってあると思うんです。その部分は本人にがんばってもらうしかない。この部分について、教員のほうはそのヤル気を高めたり、ちょっとでも覚えやすいように関連付けたり、とかそんな感じのことぐらいしかできないかも。

で、

それ以前の基本的な「知」というか「学」へのスタンスみたいなのがあるように思います。思うのは、「正しい問題設定ができるかどうか?」、ということです。「知識」以前にある関心領域に対して正しい問題設定(あるいはそこから派生する複数の疑問の立て方)を知っていれば、答えは自然に集まってくるように思います。「自然」というか情報検索とか図書館など情報機関の使い方などについても教える必要があるのでしょうが・・。

で、なにをもって「正しい問題設定」とするかですが・・・ムズイですね。自分の頭で考えて、突き詰めていけば出てくるはずだけど・・。


「この問題を解決するにはどのような方法が妥当か?」、「問題の障害になっているのはどのようなことか?」、「障害を取り除くにはどのような方法が考えられるか?」、「そのコストとリターンはどの程度のものか?」、「現在、この問題に取り組んでいる先行事例はあるか?」


などは論文書きにとってはふつーのことだけど・・いきなり論文ってのもムリだよなぁ・・。とりあえず「自分の頭で考えさせる」(問題設定をさせる)ということではないでしょうか?






posted by m_um_u at 18:46 | Comment(4) | TrackBack(1) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年03月21日

猫の事務所と格差社会

 最近podcastづいている。ふつうに読むとたるいものとか、めんどくさいものでもpodcastの場合はムリヤリというかフローで聞けるので良い。文字データよりも音声データのほうが時間当たりの情報圧縮率も高いし(つまり読み取り時間がかからない)。で、主に古典とか詩とか聞いてるわけだが(もうちょっとしたら英語もやろう)。
 
 宮沢賢治の「猫の事務所」を聞いた。


猫の事務所(@青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/464_19941.html


 んで、これって格差社会の話なんだなぁって思った。格差社会っていうか非正規雇用者へのいじめとか職場いじめの話。

 事務所には白猫、虎猫、三毛猫、黒猫、竃猫(かまねこ)の5匹の猫がいる。かま猫は寒がりで暖炉(かま)で寝るので「かま猫」。いつも煤だらけ。

 かま猫だけなんか汚いのでいじめられる。いじめられるっていうか「仕事を回してもらえない」などの地味で陰湿ないじめ。 書記長の黒猫は自分の毛の色が黒いのでかま猫の汚れを気にせず、彼を採用したらしいんだけど、なぜか後段では書記長も彼をいじめる(ってか、無視する)。

 んで、まぁ、最後に獅子に怒られるわけだけど。


 いまの時代、こういうのを思想教育で叩き込んでくれるとありがたい。



 青空文庫といえば「著作権保護期間の延長を行わないよう求める請願署名」の期限が近い。4月末に集約とのこと。詳しくはうにさんのところで


青空文庫の請願署名に賛同します(@壊れる前に)
http://eunheui.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_d959.html



 縁起ものだから動画貼らせて貰おう


















タグ:格差社会
posted by m_um_u at 17:25 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年03月19日

本の管理とかデータのinput周りの話

 はてなのsuVeneさんとこで蔵書管理系の話題が出てたのを見て、なんかこれ系のことまとめたくなったのでこの機会にやっとこう。

 まず、該当エントリはこちら


読書管理・欲しい本管理の為のウェブサービスとか(@suVeneのあれ)
http://zeromemory.sblo.jp/article/3549128.html


 「自分がどの本読んだか。読んだ本の簡単なレビューとかまとめたい」とかいう例のアレについて。suVeneさんはこの分野慣れてないみたいなのでブクログ本棚orgでFAって感じだった。

 たしかにweb系だといまのところそれが一番いい(のかな?)。あと、オフラインで「私本管理 Plus」なんかがいいんじゃないだろうか?バーコードリーダーで登録できるし。

 バーコードリーダーはyomuparaの1万円ぐらいのヤツが人気があったと思う。


バーコードリーダ(¥8820)
http://www.yomupara.com/barcode_reader.php

バーコードリーダのある暮らし
http://www.yomupara.com/columns/bcr_life.php


 あと、上記「私本管理」の人のHPでもおすすめがいろいろ出てるのでここからみてみるのもいいかも
http://homepage1.nifty.com/EKAKIN/


 フリーソフトついでに、キーワード登録しておいたら新刊本を知らせてくれるソフトもある


ブックスケジューラー
http://homepage2.nifty.com/valhell/delphi/booksscheduler.html


 でも、けっこう重いのでweb上でうごくやつのほうがいいかな。Amazon限定だったらいろいろあるけど


あまウォッチ
http://netkids.jp/

※入荷状況通知、価格変動通知、自動注文ツール提供など、Amazon.co.jp(アマゾン)での購入支援サービス


アマゾン・アラート
http://www.aalert.jp/aalert/


アマゾンプライス
http://amapri.com/



 この辺は「安く買おう系ツール」なのでちょっとアレか。RSSも出してなさげだし。新刊って言うか、「新刊のレビュー」ということならこれがある


レビューライン
http://reviewline.jp/


 「新書」「小説」「マンガ」「ラノベ」の各ジャンルごとにRSS出してて便利。でも、人気本って感じなのでパーソナライズドサービスを求める人は満足できないかも。


 あとは図書館系。こちらのGreasemonkeyを利用すると「RSSリーダーで書評を発見→Amazonの書籍ページに飛ぶ→図書館の検索結果に飛ぶ」というフローができる。


 Amazonから図書館Webに自動リンクするGreasemonkeyスクリプトをちょこっとカスタマイズしてみた。
http://kazabana.tea-nifty.com/databackupmemo/2005/06/amazonwebgrease_89df.html


 ってか、ぼくはコード読んだり書けたりしないのでここで挙げられてるような公共図書館への直リンは利用できないんだけど、とりあえず「RSSリーダー ⇒ Amazon ⇒ Webcat」の流れは確保できる。同様のエントリはGoing My Wayにもあがってたな


Amazonの検索結果から小平市立図書館での蔵書を調べるGreasemonkey Userscript
http://kengo.preston-net.com/archives/002031.shtml#002031


 これも上記の理由でぼくは使いこなせないわけだが・・。まぁ、コードいじれる人はカスタマイズしてみるといいか、と。



 本を手に入れる方法としては他に共有系もある。


Social 図書舘2.0
http://give-n-take.net/gat/


 共有関連ということだと(本からは少し離れるが)こんなのもある


CDを物々交換できるコミュニティサイト「diglog」(@internet watch)
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2007/01/16/14468.html

ポイントを介して書籍を物々交換できるサイト「あるかも〜ねBook」(@Internet Watch)
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2006/07/31/12838.html

Web 2.0の挑戦者:ニッチ商品も見つかる?リアルメディアの交換サイトlendmonkey (@CNET Japan)
http://japan.cnet.com/column/ehub/story/0,2000065901,20148687,00.htm



 関連で、プチ私立図書館構想とか


貸し本棚。(@Myrmecoleon in Paradoxical Library. はてな分館)
http://d.hatena.ne.jp/myrmecoleon/20070120/1169281264

渋谷旭屋書店の閉店から「会費制私立図書館」を夢想する(@【海難記】 Wrecked on the Sea)
http://d.hatena.ne.jp/solar/20050913


会員制図書館/蔵書保管庫の試算(@妄想科學日報 )
http://d.hatena.ne.jp/DocSeri/20050914/1126668853



 システム面とか採算性でちょっとムリっぽいけど、面白そう。



 あと、共有系だとscribdとかヤバげ


テキスト版YouTube!? 「Scribd」が公開ベータへ(@IT)
http://www.atmarkit.co.jp/news/200703/08/scribd.html




 レンタルということだと全国的にマンガのレンタルサービスが始まるらしい


書籍レンタル、大手が参入・「TSUTAYA」が4月(@NIKKEI.NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/sangyo/20070125AT1D2408S24012007.html

 
 これも便利げで喜ばしいところ。
 



 で、


 そんな感じで本に関するinputの導線が確保できて、次の段階は管理。上記してきたようなタイトル管理もそうなんだけど、モノが増えてくると置き場所に困る。レンタルボックスとかアパート借りるって手もあるんだろうけど、なんかめんどそう。(コストも)


 そういうわけでスキャナ。

 自動めくり機能付きスキャナが欲しいところだけど、1600万円もするらしいので個人ではちょっとムリ。そういうわけで手動で。BoingBoingでこれが良さげって言ってた。


Scanner for books
http://www.boingboing.net/2007/02/09/scanner_for_books.html

Plustek's new OpticBook 3600


 んで、ぐぐった


OpticBook 3600 (プラステック社製ブックスキャナ)
http://enisuru.jp/6_2.html


 5万円ぐらいらしい。bookscanner記さんとこでも評判良かったような気がする。


 ってかスキャナを選ぶ際の目安について記されていた


自動ブックスキャナの導入は、スキャン作業の省力化が主な目的ではない
http://d.hatena.ne.jp/bookscanner/20060913/p1


 スキャン作業で肝要なのは「均質な画像を保つこと」らしい。自動スキャナの省力性は二義的なもの、と。そういうわけで「均質性」さえ保てたら手動で全然良い、って感じ。



 んで、まぁ、こんな感じで文字データ確保できたらpodcastその他のオーディオデバイスへの導線が引ける。テキストデータの音声化によって。


 まだ試してないけど、音声合成系としては以下のようなものがある

恥ずかしがり屋のためのポッドキャスト入門 ~音声合成機能のススメ〜(PODCAST News)
http://www.podcastnavi.com/p_edit/2006/02/post_5.html

http://www.podcastnavi.com/p_edit/2006/02/post_6.html



テキストを音声化するWEBサービス「聴学ポータルサイト」(@Podcast News)
http://www.podcastnavi.com/p_edit/2006/12/web.html


 


 既に音声化されているデータ(古典など)としては以下のようなものがある


著作権切れ作品を朗読してPodcastする音声版「青空文庫」(@taigablog)
http://taigablog.com/2005/11/podcast_1.html


音声化された青空文庫リンク集(@The Baker Stereet Bakery)
http://www.alz.jp/221b/sound.html


ビジネス書をポッドキャストで「通勤ながら聴き」?(@PodcastNews)
http://www.podcastnavi.com/p_edit/2006/04/post_27.html


耳で読む?「新刊JP」(@PodcastNews)
http://www.podcastnavi.com/p_edit/2006/05/post_35.html


電子かたりべ.COM
http://www.e-kataribe.com/portal/portal/media-type/html/user/anon/page/default

※同サイトのエディタツール



お話Pod
http://www.ohanashipod.jp/

※古典朗読系


PODCASTnavi ポッドキャストナビ カテゴリー|朗読
http://www.podcastnavi.com/category.php?category_id=20






 大体こんな感じ。





--
関連:
新書ブームの終焉とAudio bookの可能性について
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/34656540.html

※「podcastが思ったより便利なので、出版社は本に音声データとテキストデータをつけて欲しいな」、って話





--
追記:
データ管理してる本をクリックしたら一発で参考文献の体裁にしてくれるようなフリーソフトが欲しいけど、見つからないんだなぁ・・・。


参考文献の体裁の例:

著者名、出版年、「本のタイトル」、出版社名
(ex.日本橋ヨヲコ, 2003, 「G戦場ヘヴンズドア」、小学館)




あと、音声加工は常田 富士男の声があると嬉しいけどないだろうな・・。(常田 富士男 朗読「フラット化する世界」とか)




--
追記:
あと、図書館とか無料で利用できるコンテンツの利便性に興味がある方は青空文庫のこの提案についてご一考いただけるとありがたいです(ってぼくは青空の回し者でもなんでもないんですがw)


「著作権保護期間の延長を行わないよう求める請願署名」
http://www.aozora.gr.jp/shomei/

青空文庫では、夏目漱石や、芥川竜之介、太宰治などの作品を、誰でも自由に読むことができます。この「自由」は、作品を保護する期間を作者の死後50年までとし、そこから先は、利用を積極的に促そうと決めている、著作権制度のたまものです。すでにあるものをもとに、新しい作品を仕立てたり、翻訳したりする「自由」、演奏や上演などの「自由」も、著作権が切れた後は、広く認められます。

この保護期間を、死後70年に延長しようとする検討が、一部の権利者団体と、米政府の要求を受けて始まりました。私たちすべてにとっての「自由」を、古い側にもう20年分追いやり、せばめてしまう延長に、青空文庫は反対します。その意志をはっきりと示すために、「著作権保護期間の延長を行わないよう求める請願署名」を進めます。

著作権保護期間の延長を行わないよう求める請願署名より引用】





期日は4月末まで。詳しくはうにさんのところに載ってます


青空文庫の請願署名に賛同します(@壊れる前に)
http://eunheui.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_d959.html





--
追記(2007.4.15):

続き(みたいなもの)

muse-A-muse 2nd: 大学図書館の利用法とか分野別書誌まとめ

posted by m_um_u at 19:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年03月18日

被爆のマリア

 人間には赦されない罪のようなものがあって、そういうものに対して救いを設定しているのがキリスト教(あるいは宗教全般)の意義のひとつとしてあるように思う。ぼくはクリスチャンではないし、聖書の教養もないので分からないのだけれど、原罪の設定と救済とはそういうものではないのか?

原罪(げんざい ラテン語:peccatum originale)とは、キリスト教の多くの宗派において共有される思想で、アダムとイブがエデンの園で犯した罪が人間の本性を損ね、あるいは変えてしまったため、以来人間は神の助けなしには克服し得ない罪への傾きを持つことになったという思想。キリスト教の中でも教派によって原罪の理解には大きな差があるだけでなく、中には原罪という概念を持たないグループもある。

原罪 とは げんざいより引用】



 無知を晒して恥ずかしいし、一部の人にとっては不快な解釈かもしれないけど話を続けさせてもらう。

 「人は生まれながらに罪を背負っている」とする原罪の設定に対して、処女懐胎の聖母は超然として原罪の穢れを越えていく。

無原罪の御宿り(むげんざいのおんやどり)はカトリックの教義。1854年決定。聖母受胎とも。 処女マリアは原罪の穢れなしにイエスを孕んだとする考えで、イエスを孕んだときに原罪が潔められた、という意味ではない。

無原罪の御宿り とは 「無原罪懐胎, 聖母の無原罪の御宿り」より引用】



 聖母とその御子は「聖」の象徴であり、信仰の対象として一切の穢れもあってはならない存在なのだろう。実際、そういった清らかさが人々を勇気づけ導いてきたのかもしれない。


 しかし、中にはこの清らかさがまぶしすぎる人々もいる。


 穢れを廃して超然と立つマリア像の姿。そこから発せられる「正しさ」になにか拒絶されているように感じる人が。

 今思うと、「被爆のマリア」とはそういう小説だったのだろう。


被爆のマリア
被爆のマリア
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 こちらの要約にもあるようにこの小説自体は失敗作だ。それは著者も認めている(参照)。「失敗作」というよりは「実験作品」と言ったほうが適切かもしれない。

 タイトルとなっている作品では、被爆とは全く関係のない情況の中で被爆のマリアに救いを求める女性の姿が描かれている。歴史や世間的に負わされてる意味とは関係なく、ただ自分の情況と直感のみによって被爆のマリア像に結びついた女性の話。

 虚栄、依存、無神経、裏切り・・・様々な葛藤が入り乱れる現代社会の中で疲れ果てた彼女はペットの亀と被爆のマリアにのみ安らぎを求める。信仰的な理由ではなく「ただ、なんとなく安らぐから」というような理由で。
 

 長崎の浦上天主堂に安置されている被爆のマリア像
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/5hibakuseibo.htm

 
 マリア像の身体は原爆の力で破壊され、汚れたままだ。そして、その顔には虚無のような空洞が穿たれている。「愚かな我々の代わりに人類の一切の穢れを負ってくださったのだ」、そういった解釈が一般的なように思う。

 先月、ハウステンボスに行ったついでに「被爆のマリア」を見てきた。

 実際に見るマリア像は思ったより小さく、遠くに祀られていた。それを見て、自分の中になにかが湧き上がってくることを期待しているのだろうなと思いながら現地に行ったのだけれど、もう一つの予想通りなにも感じなかった。


 「ただの石だ」


 その言葉が頭に浮かんだ。それを悲しく思うセンチメンタリズムとか、そこから出発してさまざまな歴史や人の思いを想像するということも考えたのだけれど、なんか嫌になってその回路は意識的に遮断した



 そのときはそう感じたんだけど、最近になってなんとなく彼女のことが気になる。彼女というよりもその目、深い虚無のような双眸が頭の中に残ってなにかを吸い取ってくれているような、そんな安心感を覚えることがある。

 それ自体がなにかを期待した物語の上乗せのような気もするのだけれど、なんとなくそんな感じがある。


 

 ぼくの中にある2つの罪。1つはおそらく一生消えないものとして諦めていたが何か少し楽になった気がする。それでもそのことを忘れたわけではないし、それに対する自分なりの責任は全うしていくつもりだ。それでもなお「楽になった」と思ったのは、自分の中になにかそういう気持ち、「赦しを求めるような気持ち」があったからなのかもしれない。だからこそ長崎に向かったのか。


 もう一つの罪はぼくの責任ではない。でも、たぶん一生残っていくし、その不安は拭えないだろう。ヒロシマの人間にとってそれは一生残っていくものなのだ。(生き残ってしまった罪


 そのことに対して、ぼくはもう何かを言う気力はないし、ただゆっくりと時間が流れていけばいいと思っている。じっちゃんやばっちゃんたちの悔しさや、その記憶は途絶えてしまうのかもしれないけど、それはそれで仕方がないのかな、とも。


 意外に感じる人も多いかもしれないが、ヒロシマは一度捨てられた土地だから、また裏切られてもその覚悟はできているのかもしれない。一部の人はがんばって声を上げているけど、ただ安らかに時間が過ぎていくのを望んでいる人も多いのではないか?

 声を上げても共産党などの運動に利用され、一時の加熱が過ぎればまた単調な生活が始まるだけで・・・あるいは加熱の反動で寂しさを感じることもあったのかもしれない。

 願うのは保障が何とかならないかということだけど、そういうのも進展ないだろう。国というのはそういうものだし、それはもう何度も経験してきたことじゃないか?だったら「運動」とか言ってる人たちが少しでもなにかをしてくれたらいい、形になる何かを残してくれたらいいと思うけど、それもたぶん無理だろう。

 
 そうやって様々な思惑に巻き込まれ、表面上は裏切りとはされない裏切りにあうくらいなら、もうなにも期待しないほうがいい。


 ただ、安らかに日々を送っていけばいい。



 
 差別やいじめの廃絶を唱える人が「絶対的な悪」と認定する人たちに対しては線引きをすること、そして断罪が見過ごされること。そのことに対して少し心が揺れるけど、下手に飛び込んで行っても邪魔なだけなのかもしれない。





 でもやっぱり気にかかる






タグ:ヒロシマ
posted by m_um_u at 19:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年03月17日

フーゾクという職業と差別意識について

 ひじょーにデリケートな問題だし途中から見た部外者なのでよく分かってないのだろうし、野次馬的になんか言うのは下品だなって感じの問題なのでびみょーなんだけど、自分なりにふつふつと思うところがあったのでエントリを起こしてみる。上からの主張とか意見とかそういうのではなく、なんとなく思うこと。(こういう前置き自体が「逃げ」の確保なのだろうが・・まぁ、逃げるw)

 発端はこの辺


わたしもたいがい育ちが悪いがそれに輪をかけておまえはほんとうに育ちが悪い反吐が出る(@顔を憎んで鼻を切れば、唇も消える)
http://yuki19762.seesaa.net/article/35621477.html


 現在はこの辺


黒人や障害者、被差別部落と売春婦蔑視を一緒にするな、という発想。まさにそれこそが差別。差別とはそもそも「差異を理由に」生じるもの。
http://yuki19762.seesaa.net/article/36170622.html


 んで、対象とされてるのはこの辺


Pat Metheny Group (1995) / いませんよ。(@Je vous en prie(※元エントリがなくなってるコメント欄指摘により修正))
http://d.hatena.ne.jp/arisia/20070309


差別との戦い、差異を求める戦い
http://d.hatena.ne.jp/arisia/20070316/1174010990



 どうも、「元売春婦ということに対して見下し(差別)的意識があったかなかったか」、「売春という職業に対する差別はどうか?」、などが問題になってるみたいなんだけど、個人間のネット作法(コミュニケーション)の問題と、売春(?)の是非の問題、差別の問題の3つの層がごちゃごちゃにまぜて語られているので分かりにくい。それぞれのレイヤーは違うものだと思うのだけど・・。

 まず、前提として、

 ぼく自身はいわゆる風俗産業に関わる人を蔑視する意識はない。心の底にあるのかもしれないし、もしくは逆差別的な憧れのようなもの(cf.「歌舞伎町の女王」)はあるのかもしれないが、それはちょっと置く。少なくとも表面的コミュニケーションの部分では蔑視する気はない。

 理由として、風俗のサービスに従事する人はそのサービスにおける労働契約において責任を全うしていると思うから。

 一部の人は風俗産業というのを軽々しいものとしてみているのかもしれないが、風俗の仕事というのは日本でももっとも気を使わなければ成立しないサービス業だと思う。面倒な客の機嫌を損ねないように、かといって相手に変な劣等感とか与えないように満足させないといけない。相手と話を合わせねければいけない。そして、ヘルスとかの場合は健康面での自己管理も行き届いてなければ勤まらない。「フーゾクのサービスって大変なんだねー」についてはこの辺に詳しい↓



オトコとオンナの深い穴
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 これに加えてセキュリティの問題がある。直接交渉系のサービスでは客に病気を移されないように気を使わなければいけないし、そういうのを気にして「ゴムつけてください」とか言うと怒る客もいるのでその辺配慮しながら客の機嫌を損ねないように誘導しないといけない。

 そんな感じで「客の機嫌を損ねないように満足させる」わけだけど、こういうのは高度なコミュニケーションスキルを要していないと成り立たない。
 
 風俗というと肉体接触が最初に思い浮かぶかもしれないが、コミュニケーションサービスをメインで来ている客も多いみたい(お話だけして帰る)。


 そんな感じで、「高度なコミュニケーションスキルに基づいたサービス」と「性病(あるいは客からのストーキングなどへの配慮)などへのセキュリティ不安」を基本条件として労働契約が組まれ、店主とサービス従事者、あるいはサービス従事者と客との間で契約関係が成立している。


 で、

 こんな感じで労働契約は成立しているので、それに対して外から「インバイ」だの「フーゾクってどうなの?」だの言われてる筋合いはないと思うのだが。(繰り返しになるが)フーゾクに関わる人がある程度の高給を貰うのはサービスとセキュリティ不安への代価であってそれは正当な労働契約として成立している。労働契約が結ばれ、サービスが実行され、代価が支払われた時点で法的な責任は果たされているわけだから、それに対して外野がガタガタ言うのはどうなんだろうと思う。


 んで、件のエントリの場合、これとは違って「売春」という言葉が使われているわけだけど、これはどうなんだろう?現行法的にはいちお「売春」(いわゆる本番行為)というのは規制されているわけだが(参照)、そうするといままで述べてきたような「正当な労働契約が果たされているだけなので法的責任は全うしている」という主張が通らなくなる。まぁ、だとしても少し歴史に詳しい人なら「売春」というものがそれほど「正しくない」行為ではなかったということぐらい知っているわけだが。

 「人類最初のサービス業は売春」なんてのはよく聞くし、日本でもちょっと前(明治以前ぐらいかな)は性風俗は多様だったわけだし、言ってみれば売春なんてのよりもエグイことも日常的にあった。女が一人で旅に出ると犯されるのが当たり前だし、そういう時には「むしろ命があっただけでもめっけもの」なんて思われてたらしい(cf.網野本かな)。そういうと「不当に女性の性を貶めている(男性優位社会を創りたいだけだろ?)」とかフェミの人から言われるのかもしれないけどそういうことではなくて、単にそういう事実があったといいたいだけ。そこでは「性」はいまほどに重要な問題ではなかった(というと語弊があるか、まぁいい)し、なんというか「コミュニケーションの一部」的な意識が強かったのだと思う。

 で、こういう例を出してくると「だから昔と同じように大らかになればいいんだよ」って言う感じになるんだけど、そういうことでもなくて、価値観なんてのは時代時代で多様なものだと言いたいだけ。

 でも、現代では「性」的なものはある程度重要視され「慎まなければならない」と近代教育されてるわけだから、それに従うのはふつーの社会生活を送る上では重要なことなのだろう。(ってか、ぼくもふつーモードではいちおそんな感じだ)


 でも、ちょっと気になるのは「売春禁止法があるから売春は社会的に悪」みたいな言説があること。これはちょっと違うくて、売春禁止法というのはむしろ風俗サービス従事者のセキュリティを守るために設定されたものなのではなかったかな?いわゆるウラ営業的なものをはびこらせておくとあぶないので管理基準を高めた、みたいな感じだったと思うけど。そう考えると「売春が悪」だから取り締まったではなくセキュリティ面とかビジネス面での統制を加えるために現行法が設定されたのであって、それも現時点での線引きのひとつに過ぎない。実際、フーゾクに関わる法律はけっこうゆるく設定されててあいまいな解釈によってその時点時点で統制バランスが変えられるように設定されている。

 まぁ、とりあえず「売春が悪だから法律ができた」のではなく「セキュリティとビジネス面で管理しやすいように法律ができた」ということ。以上が売春の是非の問題の前提。この背景を知っているとフーゾク(あるいは売春)という職業に対する差別意識も少しはやわらぐのではないか?

(※もちろんフーゾクと売春は違う。売春はフーゾクの中でもリスクが高いものだなので、そのぶん対価が大きなものになる)



 んで、次はなんだっけな?「元売春婦ということに対して見下し(差別)的意識があったかなかったか」、か。


 この辺りは継続的に見ていないのでよく分からないけど、yukiさんが言いたいのは「スカしてんじゃねぇよ」ってことなんだろう。「きれいな言葉で飾ってもお前らの裏にある偽善的な心性はお見通しだぜ」、と。そういわれるとぼくなんか真っ先にそういう対象になるのだろう。(それでも別に良いのだが)

 (こちらの推測から出発した設定ではあるが)ここで言う偽善とはなにか?yukiさんが問題としている点を見てみると、この辺か。

これを、ビジネスとして売春の経験が無い女が、自ら、まるで売春みたいって言うのと、不特定多数を相手にする元売春婦がいけしゃしゃーと言うのとでは違う。それを、元売春婦であるというポジションをわきまえずに、世の中の女性を自分と同じポジションに引き込むような発言には反発を覚えます

顔を憎んで鼻を切れば、唇も消える: わたしもたいがい育ちが悪いがそれに輪をかけておまえはほんとうに育ちが悪い反吐が出るより引用】



 この『元売春婦であるというポジションをわきまえずに』というのはちょっとアレだな、と思う。arisiaさんもyukiさんの煽り口調に釣られてって発言だったのだろうけど、yukiさんから見ると「本心出しやがったな」って感じだったのだろうか。

 ならばその時点で言いすぎを謝罪すればよいのだと思うのだけれど、その辺は見ていない。あるいはyukiさんがさらに突っ込んだかな?


 よくわからないのでなんとなくで判断すると、arisiaさんのブログを見ても別にそんなに変な人という感じもしない。ご近所さんでいてもふつーにご近所付き合いできそうなタイプだと思う。ご近所付き合い関連だとむしろyukiさんのほうが難しそう。エキセントリックな感じなので。でも仲が良くなったらすごく仲良くなるタイプなんだろうけど(ツンデレ?)

 って、この辺単に印象論なのでギロン全体には関係しないんだけど、2人ともなんでそんなにカッカッ来てるのかなぁと思って。yukiさんの煽り口調かな? アレは確かに直接喰らうとダメージが大きそうで、端から見てるぼくもちょっと引くけど、煽り口調が問題ならその部分だけを抗議すればよかったのであって、それを職業と絡める必要はなかったんじゃないかな?

 「主婦という職業を冒涜された」ということかな?それは「冒涜」として受け取ってしまう時点で職業に対する階層意識が存在していたわけで、その部分が問題だったのでは?

 表立っては「わたしは職業差別はしません」(どんな職業も平等に意義あるものと思います)というスタンダードをまといつつ、実はある職業(あるいは生業)に対しては特別な意識を持っている。そういうところにyukiさんは偽善の匂いを感じたのではないか?


(って全て推測だけど)


 ここまで言うとなんか一方的にarisiaさんを罵倒してるみたいだけどそういうことでもなくて、なんというか・・・むずかしいな。


 とりあえず主婦という職業の売春性というか、その辺りの葛藤、<世の中全ての主婦が「主婦という職業は売春なんかとは違う」と思っているわけではないのでは?>、ということについてはこの辺に詳しかったと思うので興味があれば読んでみてください。


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 文庫でもあります。


 

 で、最後に差別の問題。



 これはyukiさんのエントリに対して誰か言ってたけど、<個人の葛藤の問題に「民族・人種差別」といった公の問題を持ってくるのはどうか?>、という視点はあるのではないかと思う。最近の問題としては、「小倉さんや池田センセがアクセス集中でひどい目にあったからってなんでわれわれまでID登録しなくちゃいけないの?」、的な問題。なんというか、「個人間の葛藤を公共的な話題にすり替えるのはどうなの?」ということだろう。

 個人間の問題の連続が公共的な問題なわけだからそういう設定もどうだろうとは思うけど、その言わんとするところもなんとなく分かる。(ちょっと違うが、子供のケンカに親を出す、みたいな感じだろうか)

 あと、逆差別の問題。差別(攻撃)されている人に対する過剰な思い入れ(特定のロマンティシズムの上乗せ)みたいな感じ。「かわいそうって思いたいんでしょ?」的なやつ。そういうのはぼくが一番引っかかりやすそうなのでいちお注意してるんだけど、めんどうなのであまり気にしてなったりもする。そういうこといってるとなにもできなくなるので。(所詮、自意識だし)


 んで、「娼婦という職業に対する差別」ということについて。どうも差別の定義がはっきりしていないようだけど、ここでいう「差別」というのはある「過剰性」を前提としているのだと思う。(その意味で差別と区別は違う)

 「不当な蔑視」とかそんな感じ。娼婦(あるいはフーゾク産業のサービス従事者)ということに限って言えば、上記してきたように労働契約とサービスの実行、対価の受け取りによってその責任は果たしているわけだから、それに対して外野からなんかいうのは「過剰」ということに当たるのだと思う。




 あとはなんだろ? あぁ、「娼婦という職業に対する引け目」みたいな話か。


 これもなんか勘違いした言葉を見かけたんだけど、上段でも説明したように、「世間から差別されるのも含めて娼婦は高い金を貰っている」のではなく「(娼婦が高い金を貰っているとして)高給はサービスとセキュリティの正当な代価」、なので。サービスが果たされ代価が支払われた時点で労働契約は成立している。その契約の中に「娼婦は引け目を感じるべき」などという条項は含まれていないと思う。(特殊なサービスとかにならあるのかもしれんが・・マニア?)

 んで、それとは別に個々人の実存の問題がある。いわゆる着脱可能アイデンティティの問題


戦略的本質主義が「本質的アイデンティティ」を必要なものとしているのは、カテゴリーによって差別されたり周縁化されたりしている弱者が、差別している側である支配的マジョリティに押し付けられたカテゴリーの「本質」をいったん引き受けることで、そのカテゴリーに属する他の人々とともに異議申し立てをすることが可能になるからであり、また、そのマイナスの価値を刻印された「本質」を肯定的なものへと逆転させること(アフリカ系アメリカ人の運動での「ブラック・イズ・ビューティフル」という標語が好例です)によって、マイナスの刻印を押されていた自己を肯定できるようになるからです。

小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 戦略的本質主義を乗り越えるには(2)より引用】




 
 差別抵抗運動などで弱者は素のままだと異議申し立てするほどの力がないので、マジョリティから押し付けれた「本質」(アイデンティティラベル)を一度着ることによって異議申し立てのノリを獲得する。でも、一回受け入れた弱者カテゴリーは思っているほど着脱可能なものではない。

 それと同じように「娼婦のアイデンティティ」もその仕事をしなくなったからといってすぐに着脱できるかというと難しいという問題があるのかもしれない(ぼくはやったことないので分からないけど)。中にはそういうことを気にしない人もいるだろうけど、そういう人はやはり強い人というか、あらかじめ契約関係というのを意識して(プロ意識を持って)職に携わっていた人のように思う。

 
 で、


 そういうアイデンティティを脱げるかどうかなんていうのは個人の問題であって世間がとやかくいうことではないのではないか?脱げれば強い人というだけだし。






 ・・なんか長くなったな。てか、個人的にはこの話は前置きで、「偽善と善」「聖と俗」がバラバラなものではないということについて被爆のマリアの体験から語っていくのがメインなんだけど・・・。

 長くなったので分けよう(ってか書くかどうか分からん)




--
追記(2007.3.18):
着脱可能アイデンティティ(「娼婦であること/あったことに対する良心の呵責」のようなもの)について。そういうものを捨象するためになんらかのイデオロギー(本質主義など)を着ることの問題点として↓


それに対する批判は、たいてい次の2点になります。一つは、自分は(脱)構築主義に立つのに、周縁化されている他者に対して本質主義を認めるという態度には、「そのような段階も君たちには必要だよ、けれども、その段階を過ぎれば、その本質主義的言説を卒業するんだよ(自分たちはとっくに卒業したけど)」といった、シニカルないやらしさがあるというものです(フランツ・ファノンのサルトル批判はそのいやらしさを批判したものでした)。そして、批判のもう一つは、押し付けられたカテゴリーを(価値を逆転させて)引き受けるとき、そのカテゴリー内部の多様性や異質性を抑圧してしまうというものです。たとえば、同性愛者というカテゴリーを、「同性愛は生まれつきのもので変えられないものだ」という本質主義的言説によってゲイ解放運動をしたとき、異性愛者から同じくそのカテゴリーを押し付けられたバイセクシュアルな者や異性装者や、男女のような異性愛カップルを模倣したゲイ・カップルは、肯定的な価値へと逆転させた「本来的なゲイ」という「本質」に違和感をもったり、あるいは「本来的なゲイではない」として抑圧されたりするということです(ゲイ解放運動の場合、「同性愛は生まれつきのもので変えられない」という本質主義的言説が、ゲイを自然に反するものとか、治療=矯正の対象とする支配的イデオロギーに対する有効な戦略だったということも考慮しなければなりませんが)。

小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 戦略的本質主義を乗り越えるには(2)より引用】




ひとつは上から目線のシニシズムの問題。

もうひとつは具体的に言えば、なんらかの主義・運動を用いるということはそこで語られている別の文脈も引き受けなければならない(あるいは「引き受けているもの」と他者から見られる)という問題。

特に後者は運動(もしくは募金などの活動でもいい)の内実を見たことがある人にとっては思い当たるところが多いだろう。そんなに「聖なるもの」でもないし(cf.特定被差別民による過剰要求など)


運動に関わらなくてもなんらかの言説を着るということはそういう危険性を持つということを自覚しておいたほうがいいと思う。


タグ:偽善 差別
posted by m_um_u at 22:41 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年03月14日

まん延する「匿名ネットこわいね」論について

 さて、小倉センセさんからお返事いただいたのを読みました。


 で、感想ですが・・・・・・・・びみょーだな、と


 
 ちょっとの違いだったらそのまま放置しておいても良かったのですが、どうも根本的になんかアレな感じで、このまま同属扱い受けるのもイヤだな、と思うのでいちお書き記しておきます。(めんどうなので今回はTB送りません。これ以上のinformationもinsightも期待できそうにないし)


 あまりないとは思いますが、このエントリだけバラで出回ってもイヤなので、この前提となるエントリも貼っておきます。(今回のエントリは以下からの続きです)


市民社会と制度について(ジャーナリズム論承前)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/35911907.html



 んじゃ、思考モードに入るので文体変えます(たぶん)


--
 まず前提として、ぼくがした質問を箇条しておく。それに対する小倉さんの返答はどうだったかという形で見ていこう。主要な論点としては、「ネット上の発言のトレーサビリティ(追跡可能性)を確保できるかどうか」、ということ。


(1)固定ハンドル(以下、コテハンと略記)で何年か個人サイトを運営している人はそれ自体が財産となり、手放し難いのでそこから追跡可能性を担保できるのではないか?

(2)実名という権威を借りて虚偽発言があるように思うがそれについてはどう思うか?

(3)匿名であればこそ内部告発ができるのではないか?


 んで、以下はそれぞれの質問に対する答えとかいろいろ


(1)固定ハンドル(以下、コテハンと略記)で何年か個人サイトを運営している人はそれ自体が財産となり、手放し難いのでそこから追跡可能性を担保できるのではないか?


オグ:<コテハンと言ってもハンドルなんかいくつも作れるから責任がバラける>

(「固定ハンドル」はいつでも、いくつでも作ることができるので多重人格を演じやすいし、その固定ハンドルを利用して社会生活を送っていない以上、その固定ハンドルが如何に悪名をとどろかせることになろうとも自分の社会生活に何らの悪影響も受けない)



・・これってどうでしょうね?


 そういうのはぼくが想定したコテハンとは少し違うんですが・・。たとえばfinalventさんなんかは動かないし・・。

 反論としては「誰でもそのコテハンを騙れる」、のほうが妥当だったのではないでしょうか?(それでも反論にはならないんだけど)


 ってか、ギロンの前提として、前のエントリでも言ったように、 「言説の通時的な妥当性によって信頼性を測る」ということなんですが・・?

 つまり、社会的ステータスがはっきりしなければしないほど言説そのものの説得力からその妥当性を測れると思うんです。背後の権威とかいうものとかは捨象して。んで、そういったコテハンの言説をずっと見ていれば、その人の文体(思考様式)というものが分かるようになるし、第一スキーマが違うので分かると思うんですね((C)finalvent)。その人と違う人がコテハンを騙ってもばれちゃう。って言っても、読み手のリテラシーに依るのでしょうけど。


 んで、まぁ、finalventさんとかの場合はココログの有料会員なのでクレジット情報からトレーサビリティは担保できるんですね。つまり、半匿名という状態なんです。これはケータイからSNSに登録させることで追跡可能性を担保するということとも通じると思います。

 そういうわけで技術とお金的に半匿名におけるトレーサビリティは担保できるようになってきてるんですね。


 この辺について具体例を挙げなかったのはルール違反っぽいですが、小倉さんなら知ってるかと思って・・。
(ご存知なかったのかな。こちらの書き方が悪かったのだろうか・・・リテラシーとかもあるかもしれないけど)



 あと、もうひとつ、『特定の人や集団を罵ることしかしていない固定ハンドルなんて』、と仰ってますが、これはやはり音羽さんのことが頭に浮かびますね。(参照

 例えばこの辺りに詳しいですが、


オーマイニュース編集部に行ってきました。(上)(@Parsleyの「添え物は添え物らしく」)
http://yaplog.jp/parsleymood/archive/481

オーマイニュース編集部に行ってきました。(下)(@Parsleyの「添え物は添え物らしく」)
http://yaplog.jp/parsleymood/archive/482


 彼は実名をオーマイニュースで公表してはいるが、gerlingというコテハンで人のことを罵ってますね?小倉さん流に言わせれば、「コテハン(≠匿名)の魔力がそうさせたのだよ」、ということかもしれませんが、では、「実名をさらしているからおーまいにうすではねこかぶってる丁寧な口調で話している」、ということなのでしょうか?「単に編集が入るので、相手をあしざまに言えない」、というだけではありませんか?つまり、音羽氏の内部規律によるものではない。

 ここで勘違いして欲しくないのですが、例の募金の問題とこれは別問題ですから。例の募金自体は別のレイヤーで検証してもらうとして(心情的には募金があったほうがよいように思います)、「匿名 / 実名」ということについて言えば、音羽氏はどこかに実名のトレーサビリティを預けているからといって内部規律が高まっているわけではない、と思うのです。

 反対に、たとえばおーまいにうすが半匿名の形(つまり、実名登録が必要だけど、記事の署名表記的にはハンドルが許される)とした場合でも彼はねこかぶった丁寧な文体の記事を書くように思います。編集で切られるのは嫌でしょうから。


 っていうか、「音羽」という名前がペンネームなのかもしれませんが、やはり同じことです。(その場合、半匿名でもトレーサビリティは担保できる、ということになります)


 ただ、小倉さんが想定しているのは「1対多」的な状況(サイバーカスケード)における匿名の暴力ということなのかもしれません。


 その場合でも同様で、システム的に半匿名状態は可能だと思うのですが・・?(現在は実装されていないにしても、簡単にできるはずです)


 IPからトレーサビリティを確保できると思うし、実際2chはそんな感じで警察に協力してますね?(それにし対しては、「ネットカフェからアクセスすることによってIPバラバラ」というのもありますね。それだったら実名を偽るということもあるしなぁ・・。)


 ってか、こういう問題って「技術+市場」的なものなので解決できる点が多いように思うんです。なので、焦って「実名」ってしなくてもいいと思うんだけど・・。



 で、次



(2)実名という権威を借りて虚偽発言があるように思うがそれについてはどう思うか?


 ここはスルーされました。具体例があがってながったのが問題なのかもしれませんが、例えば昨今のニセ科学的問題とか、直近だと「世界一受けたい授業」の問題があります。

 後者はすぐに効果が現れるものではないし、これ自体では「ウソ」とは言い切れない(反証可能性に乏しい)と思うんですが、やっぱ間違ってると思うんです。(「思う」っていうか間違ってますね)

 んで、怖いのは、すぐに効果を検証できるものではないので、視聴者の根っこの部分に染み込んでいく危険性がある、ということです。なんとなく「あ、格差ってないんだぁ〜(へぇぇ)」、って感じになってその後、特に検証もせず過ごして行く・・。特に子供への影響が心配ですね。将来のことを考えるとこういうのは社会的に重要な問題だと思います。その意味ではTV局の道義的責任は重大。

 また、なにか問題が生じて検証を始めるにしてもそのときには思想面での影響がしみこんでいる危険性がある。検証には時間がかかるので、視聴者はその結果まで興味を持続しない。で、「格差ってないよねぇ?(だって、らくしてごひゃくまんえんかせいでるもん!)」、とかいった脳みそ使ってないのか的よくわからない印象が残っていく。

 繰り返しになりますが、その責任は重大だと思います。


 んで、そういうのに「専門家の権威(=名前)」が都合よく編集されて使われていく。編集された時点で専門家の意見ではなく、その番組(記事)を作った編集者の意見なのですが視聴者はそのことに気づきません。そして、上記したように、印象のみが残っていく。




 「実名」ってほんとにいいですね(すはらしい)




(3)匿名であればこそ内部告発ができるのではないか?

 これについては「真摯な内部告発」というお答えが返ってきました。

 なにを持って「真摯」とするのかよくわからないのですが、文脈的には「経営上重要な」ということでしょうか?とりあえずそう解釈して話を進めますと、経営上重要なことに関わると思われるような事態に対する内部告発では『情報源が限られるので、匿名でなされても企業として情報源をある程度特定できる場合が少なくないので、その場合は秘密裡に報復をすることが可能になってしまいます』、と。

 これはいちお納得です。


 でも、ちょっと疑問なのは、たとえばジャーナリズムの現場では情報源の秘匿というのは通例ですし、ウォーターゲート事件のディープスロートを見ても分かるように匿名でも重要な情報は出せますよね?で、その後、ネタ元の安全は確保される・・。こういうのは例外なんでしょうか?


 そして、「どれが真摯な内部告発か分からないで調べるのが大変」、とのことなんですが、これにしてもジャーナリズムでは複数の証言からウラをとるというのは普通にやっていることだと思いますし、そういう意味では匿名であっても情報の真偽は確かめられるはずです。ただ、小倉さんが言いたいのは、「そういうことをやっている時間(人員)が足りない」、ということなのかもしれませんが、やはり堂々めぐりでジャーナリズムの現場ではそういう風にやっているわけですし、やってやれないということはないはず。人員が問題ということなら増やせばいいはずですし、ジャーナリズム機関のようにアウトプットする手間を省いて情報の検証のみに特化した機関を作れば、作業処理時間は短くて済むはずです。(金銭的問題は置きますが)


 そういうわけでやっぱりよくわかりません





 ってか、小倉さんは現行の制度での援用を話しているのであって、「できてない機構(実現可能な機構)」、については想定していないのかもしれない。

 でも、技術的に可能なところまできてるのになぁ・・。


 こういうのはやはり「理念と制度」っていうか「技術・お金(市場)と制度」ということで池田センセも絡むと思うんだけど、 いつも「制度によって規制するのではなく市場と技術を優先させるべき」といっておられる池田センセがこの問題に関しては制度による封じ込めを主張されているように思われるのはやはり不思議。


 そういえば小倉さんも知財関連だとリベラルな発言されてるのに(参照)。



 なんでかな?問題の緊急性が違うとかかな?



 リベラル固定とかそういう問題ではない、ということかな?





 てか、やっぱお2人とも2chとかでさらされた挙句、アクセス集中したりいろいろ書かれたりしてひどい目に合わされたことがトラウマになってるのかな・・?



 それはそれでご愁傷様というか大変だなぁという感じだけど、その怨念が「実名 / 匿名」問題に絡んでるのだとしたらやめてほしいと思います。






 あ、あと「制度と自由」関連で。毎日新聞でネット社会に対してみょうなキャンペーン張ってるみたいだけど(参照)、これってどうなんだろうと思う。


 というのも、言ってきたように、ジャーナリズムというのは権威ではなく言説の妥当性によって評価されるべきだと思うんだけど、そうであるべきジャーナリズム(?)からただ「匿名」というだけでネット社会を貶めるような言説が出てきているというのはどういうことなのかな、と思って。


 この人たちは言説の妥当性(あるいは情報の信頼性)についてどのような考えを持っているのだろうか?



 そして、そういった大手マスコミとかそれに連なる人々はなにか問題が起こると「言論の自由が弾圧されるー!」とか騒ぐんだけど、それってあなたがたの既得権益が弾圧されるだけであって、たとえばフリーランスのジャーナリストたちがひどい目にあってても無視してる現状ってよくあるよね?





 ・・なんかよくわからん




--
関連:
情報社会の倫理と設計についての学際的研究(@GLOCOM)
http://www.glocom.jp/ised/

※もう一回見てみようかなぁ・・。



情報ネットワーク法学会
http://in-law.jp/

※最近見てないなぁ・・。



ってか、ニフティサーブだかなんだかのコテハン論でも見たほうがよほど有益なのかもしれない




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追記(2007/3/15):

isedの小倉さんの講演を読んでみました。


表現の匿名性を完全に保障することの問題点
http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/12021210


やはり、匿名性のトレーサビリティ関連でIPの話題が出てて、「それプロキシかませばごまかせるよ?」、的なところからIP却下。「ユーザーにIDを割り当てればいい」というすごい飛躍が・・。


率直に言って、なぜ小倉さんがひどい目にあったからといって我々までID登録しないといけないのか・・?(それってOpen SNSじゃん。vox?)

まぁ、「匿名サイバーカスケードによる暴力」ということで公共的なギロンにしてるんだろうけど、どうしてもびみょー。

ってか、ふつーに考えてディフェンス面を強化すればいいのであって、それだったらシステム・スルー力のほうがいいかな、と。(参照参照2)。

ってか、これもOpen SNSっぽくてなんかイヤなんですが、アクセス持ってる人とか名前の売れてる人は仕方ないのか、とも思います。


でも、これってモロに「代表的具現の公共性」(ハーバーマス)なんですよねぇ・・・・。(ためいき)


ってか、小倉さんの場合はもうちょっとレスポンスゆるくしたほうがいいように思います。怒るからいじりたくなるんじゃないでしょうか?(短気なぼくが言うのもなんですが)あと、「権威をひっぺがして、同等になりたい(フラッグをとりたい)」、というのはあるでしょうね。だったらとらせてやるのも大人、かと・・。








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2007年03月13日

「匿名 / 実名」の二元論トラップ

 池田センセ小倉さんが「匿名 / 顕名」という古臭くてどーでもいいギロンをしてる間に、上祐さんがmixiを始めた。もちろん実名で。

 両センセの主張に従えば上祐さんを信じるべきなのだろう。信じるまでいかなくても匿名よりは胡散臭くない、と。


 池田センセと小倉さんにはそういう方向でがんばっていただくとして、われわれとしてはどう対処すべきか・・。


 <「匿名 / 顕名(実名)」ではなく、言説の信頼性に重きを置く>、というのがテキストを主体としたネットワークの作法としてあるように思う。で、あるならば、上祐さんも「言説」のみによって判断すべきか?しかし、上祐さんというと例の過去が思い出される。そして「私はうそつきだ」と言い切る自己言及トラップもある。

 「匿名 / 実名」、「ある / ない」のデジタルな二元論で判断する人たちはこの辺りでショートしてしまうのだろう(ネットワークに対してフランケンシュタインコンプレックスを持つ人々が一番デジタル的発想をしてしまっているというのは皮肉だが置く)。あるいは上祐さん側としたらショートさせた後にハックするというのが目的なのかもしれない。

 
 「その時、一回だけの発言ではなくて通時的な発言(発言の履歴)によって信頼性を測る」、というのは、「特定ネットーワーカーのネットワーク上での発言の履歴(歴史)からその人の信頼性を測る」、という考え方と同じように思う。「ネットはリアルワールドの写し絵」なわけだから当然といえば当然だが・・。


 それとは別に、「匿名による暴力」、という問題の蓋然性というのもけっこう高いように思う。ただ、これは「匿名だから」という単純な理由ではなく、リアルにおいて、「落書きが多いところ(放置してあるところ)は犯罪率があがる」、というのと同じことなんだろう。匿名というのもその一部なのかもしれない。こういうのはセキュリティの問題ということでこの辺でも読んどいたほうがよっぽど示唆に富みそう。


犯罪不安社会 誰もが「不審者」?
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 それにしても、なんで池田センセとか小倉さんみたいに頭動かすことができそうな人がこういうトラップに落ち込むのか・・。「情報量が増大して簡単に判断しないといけなくなったんだよ」とか頭に浮かぶが、小田センセ的にはオリエンタリズムの罠(二元論の罠)ということなのかもしれない。


「共同体」のイメージ(@小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」)
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070306#1173156967


 「なんで二元論というステレオタイプが流行ったか」「(有効性があるとすれば)その有効性とはなんだったか」とかについては書かれてないけど、この辺はサイードでも読めばいいのか。(ってか、オリエンタリズム批判で終わってるかもしれないけど)



 栗原さんとこにも似たような懸念が出てた。わりと冷静っぽい


ネットの匿名性を議論する際のフレームワークについて(@栗原潔のテクノロジー時評Ver2)
http://blogs.itmedia.co.jp/kurikiyo/2007/03/post_be7d.html?ref=rss



--
追記:
ひろゆきが2ちゃんがサツバツとした空間になった理由について語ったみたい


2ちゃんねるを殺伐としたサイトにしたほんとの理由(@歌田明弘の『地球村の事件簿』)
http://blog.a-utada.com/chikyu/2007/03/post_921a.html


『殺伐としたサイトにしたのは簡潔なやりとりが交わされるようにするため、ということらしい』、ということだけどこれって軍隊(実戦)規律じゃん?(※「実戦では敬語のようなあいまいな表現を使ってると対処が遅くなるので使わない」、ってやつ)。単純化による効用ということでは今回の二元論の話とも絡むな。


「サバイバル化する社会(デジタル化する社会)」とか頭に浮かぶけど、短い言葉によるコミュニケーション問題ということでは以下が関連する


blogジレンマとゆるい繋がりの可能性
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/35452876.html




--
追記(2007.3.15):
続き↓

市民社会と制度について(ジャーナリズム論承前)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/35911907.html

まん延する「匿名ネットこわいね」論について
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/35955798.html








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2007年03月12日

教育とか教養について

 先日のスキーマの話繋がりで、NHKの「ハゲタカ」を見ながら思ったこと。

 「ハゲタカ」=「日本経済の停滞による外資に乗っ取り」ってことで、村上ファンド(?)みたいな人とか松下幸之助みたいな人とか出てきてるわけだけど、そういえば昔、哲学のセンセが、「外資になっちゃえばいいんですよ。別にこだわることはない」、みたいなことを言っていたのを思い出した。

・・9年前か

 格差社会とかファンドとかそんな話もなかったころだな。でも山一證券とかはあったのか。いま思うとそれを含んでのことだったのかもしれないけど、なんとなくいまの状況まで予期していたのかな、とか思って・・。

 その人はハイデガーを専門とする人で、経済とかそういうのの知識はなさそうだったんだけど、なんか飄々として不思議な人だった。つかみどころがないというか底が知れないというか。とりあえず、なにを言ってもレスポンスが返ってくる。(専門じゃないところについては曖昧に答えるけど)

 ちょっと前にはてぶで文系教授の奥深さの話がでてた

たとえばドイツ哲学者の誰かを研究するとしても、

日本人にはない下敷き−キリスト教とかギリシャ悲劇とか−をさらわないと

まず問いの設定からして理解できなかったりするところから始まり、

原語で著書を全部読破するのは当たり前として、

(翻訳はその時点で翻訳者の”思想”が入り込んでいるので1次文献にはならない)

大体その哲学者自身があの世にもめんどくさいラテン語やギリシャ語の文献を

参考にしていた日にはそれらの原書にもあたり、

その哲学者に心酔したフランス人哲学者に興味を持てばその人の原著にもあたり、

もちろん各国の先行論文にも目を通し分析し・・

・・・って何ヶ国語修めりゃいいんじゃおりゃあ!(怒)

みたいなことになる。

(しかも”研究”はそこから始まる)

はてブついでに覚書。 - 文系教授の恐ろしさより引用】


 まぁ、そんな感じでアホみたいに知識詰め込んでるのは元より、スキーマのでかさが半端ないので、その人が知らない領域の話でも「だいたいこんな感じだな〜」ってすぐに検討つけてきちゃうんですよ。もしくはめんどくさかったら質問によってこちらの答えを誘導して、全体の概要を把握する。んで、これをやられてるほうとしてはなんか頭の中hackされてるみたいなんすね。こう、「なんか頭よくなった気がする」、みたいな。

で、

 そういうのは一時的なスキーマの拡張であって、自らの知識ではないわけだからそれに気づいてその感覚(スキーマをどこまでどういう組み立てで延ばせばいいかということ)を覚えていればよいのだけれど、若いうちは知識(明示的情報)のほうに目が行ってしまうって言う・・。そういうのはもったいないな、と。

 おそらく、これからしばらくの間続く文科省によるテコ入れも「ギョーセキ」だの「分かりやすいジュギョー」だのを評価基準にして進んでいくんだろう。そんなの本物の「学」からしたら表面的なものに過ぎないのに・・。



・・理解されないんだろうな(職人技みたいなものだからな)



 「教育とは何か?」みたいな話があるけど、「教育の効果」というか「学ぶほうが何を受け取るか」ということに限って言えば、結局はこういう部分が重要なはず。知識なんて後からいくらでも必要になって追いつかないんだから、それをうまいこと編集・整理・蓄積・参照するためのOSが必要。んで、そういうのは往々にして非明示的知識(暗黙知)なわけだけど、いわゆる「勘のいい子(感性のある子)」、というのは勝手に気づくように思う。


 思考の組み立て方とか思考の幅とかそういうことになんとなく気がついている子ならば、放っておいても後から追いつく。「追いつく」っていうか、ある時期が来たらすごい勢いで知識を吸収(食事)する。そのためには「好奇心」という才能も必要なのかもしれないけど、そういった「好奇心」や「感性(センス)」といったものをつぶさないようにするのが学校教育に求める最低限のことです。


(※ぼくはこの部分に関してはリアリストなので、学校教育・マスメディアの第一義的意義はプロトコルやディシプリンの統一ということだと思ってます。すなわち工場や軍隊で命令が行き届くためには統一されたプロトコルが必要なわけで、そのために用意されたのが教育機関でありマスメディアってことです(cf.想像の共同体)。つまり文化装置ということ)



 教育においては教養っていうかそういうスキーマのディレクトリを拡張することがまず必要なんだと思う。



>感性(センス)ない子はどうすんだよ



・・フィンランドメソッドかな(とりあえず)↓



--
関連:
国立大学交付金、競争型に 規模より研究重視(asahi.com)
http://www.asahi.com/life/update/0227/005.html?2007


フィンランドメソッドについて
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=103100

※マインドマップってスキーマお絵かきっぽい



子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」→ 勉強することの具体的で直接的で切実なメリットを説明(@分裂勘違い君劇場)
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070121/1169414343


教養について(@極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/01/post_42.html


中学受験社会の副読本(!)(@インタラクティヴ読書ノート別館の別館)
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070307/p1




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2007年03月09日

ハラスとタニシは嫁に食わすな

 巡回先のある人のところでびみょーな話題が出てて、びみょーな話題なのでコメント欄に書こうかと思ったんだけど、長くなりそうなのでやっぱこちらに書かせていただく。

 デリケートな話題だし、ご当人も「あとで消すかも」って言ってるので本来ならこういう感じで取り上げるべきではないと思うのだが・・上記した理由ということでご容赦

 
 当該エントリはこちら



 引用はしないけどいちお要約だけさせていただくと、

・職場でセクハラまがいのことをされて困っている同僚がいる

・セクハラまでいかないので立件しにくい(現時点では決定的ではない)

・具体的に言うと度を越した距離感

・巧妙にボディタッチ(立件というレベルではない=オレ的解釈:「日常的なスキンシップの範囲ですよ」と言い逃れされる恐れあり)

・パワハラではない(モラハラ程度)

・居直って、「誰がお前にセクハラするかよ」、とか言いそう



 ぼくはこの方面詳しくないんでアレなんだけど、今日ちょうど内藤朝雄さんが出演されてるパワハラネット聞いちゃったもんで、いちお伝聞しとこうかと思いまして。

 
パワハラネット
http://www.pawahara.net/index.html

パワハラネットラジオ
http://www.pawahara.net/net_radio/


 これの第一回放送分(第1回「恫喝上司と放置会社〜サービス残業まで」)

 結論から言うとそれってパワハラっぽいですよ?

 パワハラじゃなくても、ハラスメントで関係者がなんらかの圧迫を感じた結果、精神的負担から身体に異常をきたした場合は暴力行為として認定できるそうです。つまり法的処置が取れるということ。

 
 んで、内藤さんは、
「そういうハラスメントは“ハラスメントしたら処罰されるよ”っていう制度を作らないとなくならないですよ。反対に制度ができるとそういうタイプは驚くほどすぐにハラスメントをやめる。会社辞めさせられるの怖いですからね。なので法的整備を進めるべきです。あと、“ハラスメントはいけないよ(ハラスメントやらない/させない)”みたいなのが美徳となるような物語を社会的に共有するようになるといいです」、
って感じのことを提言されていた。つまり飴と鞭ということだろう。



 でも、アレですよね?


 実際問題として、法的に訴えるのってキツイですよね?



 手続きが面倒っていうのもあるんだけど、そういうタイプって逆恨みしそうじゃないですか?そういうのが一番面倒だし、人生の浪費になるし・・。

 なので、ぼくはそういうのはあまりおすすめしない。というか、そこに心理的負担がないなら別にいいんだけど、もうちょっと別の方法ないかなって思います(ヘタレなので)。


 で、思うのは

(1)職場全体で注意する

(2)職場全体で遮る(注意を逸らす)

(3)職場全体で無視する

 などではないか、と。


 (1)と(2)はほとんど同じで、一回その人以外の人で集まって、腹を割って話し合って被害状況を確認し、連帯感を高めて事に当たる、というもの。具体的には、誰かが標的にされてるようだったら、ハラスの人に用事を頼むとか何か質問して注意を逸らすとか。そういう感じでそれとなく助け合う。もしくはさりげに嫌味をいうというのもアリかな。でも、ハラスな人は気づくと逆恨み粘着して来そうだから気づかさないほうが良いのかもしれない。


 んで、(3)。これも基本的に皆で話合うところまでは同じで、あとは無視するっていうか逆にいじめるって感じです。それとなくいじめる(会話からはじく。情報を通さないなどですね)。ただし、これはやってると自分も黒く染まっちゃうので良心の呵責を感じるタイプにはお勧めできません。(たぶん女童貞なsmallpineさんにはできませんね?)

 なので、(1)+(2)って感じかな。

 ポイントは皆で話し合って連帯意識を高めるってことなんですが、ここで問題なのが職場における信頼度の問題だと思います。相手と自分(もしくは話合いの場の首座的位置にいる人)の職場全体における信頼度を比べて、相手のほうが勝っていた場合、連帯して作戦は通用しないでしょうし、下手をすれば逆に自分がひどい目に合わされます。なのでその辺の見極めが肝要か、と。

 あと、話し合いの席に敵の間者(ハラスな人と仲が良さげな人)がいないようにしないとやばいでしょうね。



 以上、僭越ながら。



(※あとは、冒頭で挙げたパワハラネットを覗いたり、相談してみるといいかも。できるだけいろんな状況のサンプルが欲しいとのことなので匿名でも相談に応じてくれるんじゃないかと思います)


posted by m_um_u at 21:50 | Comment(4) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年03月07日

blogジレンマとゆるい繋がりの可能性

 ちょっと寝る時間が遅くなってきてるので簡単に済ませたいのだけど、また長くなるかもしれない・・。できるだけ短く。

 縮景園を散歩しつつ、「これってビオトープ?」、とか思った。ビオトープとは、

ビオトープ(Biotop、独語)は、バイオトープ(biotope、英語)とも表記し、生物の生息環境を意味する生物学の用語であり、また生物・環境教育の文脈では人工的に作られた生態系を指す言葉である。言葉はラテン語とギリシア語からの造語で、「bio(いのち)+topos(場所)」である。 また人工的に生物群の棲息場所となるよう環境を整備した場所のことを正しくはビオトープ・ガーデンと言うが、この呼称は日本ではあまり浸透していない。

ビオトープ とは 「英biotope 独Biotop」 (biotope) びおとーぷより引用】



 要するに「小さな生態系」とかいうやつだ。この言葉自体に「ロハス」的ななんかイイ感じ臭があるので少し注意しながら使う必要があるのだろうけど、めんどーだしチューボーなので論を進める。

 で、メディア者としては例の「メディアビオトープ」が思い出されるわけだが、


メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする
水越 伸
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 上記した通り、「なんだか胡散臭いなぁ」、って感じだったので読んでない。っつーか、いままでの水越さんの話をあたらし言葉でコーティングした感じだろうなぁと思ってたので。んで、読んだ人の感想ぐぐったらやっぱそんな感じだったみたい。(ミニコミメディア(alternative media)が云々)

 実際に本を読んでないので批判はしないけど、今回のネタとしては使わせてもらおうかなぁ、と(読まずに

 生態系(eco-system)といえばよいところをわざわざ「ビオトープ」というあたらし言葉を用いているのはなぜか?好意的に解釈するならば、そういう言葉でしか表現できないような新しい事態というか、見過ごされていた事象があるからではないか?どうもこの言葉で表したいのは、「大きな生態系によって小さな生態系が潰されている」、ということらしい。生態系は一繋ぎの仲良しさんではなく、小さなノードとか大きなノード(ハブ)がバラバラに点在しつつネットしている、と。

 ビオトープは人の生活空間の一部に、自然を組み込んでいく場だ。また、小さなビオトープ一ヶ所だけでは成立しない、複数のビオトープがネットワーク化されることが必要とされてもいる。同じように、人工的・歴史的に作られたマスメディアでガチガチに固められた社会の中に、作り手と受け手が分離するのではなく、相互にコミュニケーションしながら、コミュニティを形成していく、小さなメディアのビオトープのネットワークを作っていこう。一つ一つは小さなメディアであり、そのメディアに支えられた小さなコミュニティであっても、それがいくつか集まってネットワークを形成していけば、簡単に消えていくことはない。

読書日記: メディア・ビオトープより引用】


 んで、「バラバラのものの連帯を強めていけばいいんじゃん?」、みたいな感じなんだけど・・・・・・びみょーですよね?(と、ネットワーカーの皆さんに低姿勢に聞いてみる)

 まぁ、こういうことなわけだけど、

ブログ世界はフラットではない---「アルファブロガー」の孤独なセクトが生まれるわけ。(@BigBang)
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2007/02/post_9385.html

 フラットっていうと「フラット化する社会」を想起して、あれはグローバリゼーション(一部のハブの独占)からハブとハブの林立にモデルチェンジした様相を描いている本っぽいのでちょっと「フラット」って言葉を使うのはびみょーな感じだと思うんだけど、まぁ、文脈からして「ノード間が対等の関係にあることという前提」を指していると解釈すると、BigBangさんが指摘されているようにアルファな人とベータな人は住む世界というかスキーマが違うので話が合わないよなぁ・・。

 リアル世界だとそういうこと察して生活してるもんだけど、ネットは顔が見えないし、blogなんかSBMのホッテントリとかニュースサイトとか「2chで見て飛んできますた!」なので文脈なんか断絶されてて、それまでのblog主の主張とか人となりなんかお構いなしだもんなぁ・・(個別エントリは見てもトップページとか過去ログ見る人少ないよね?)

 
ちょうどishさんのところに関連エントリが出てた


なぜコメントの敷居を高くするのか
http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/03/post_315.html

交流、直流、コミュニケーション
http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/03/post_316.html


 簡略化された言葉が齟齬と誤解を生むということ。そして公開の場でミスリードやディスコミュニケーションの部分だけクローズアップされ伝わっていくということ。その危険性はよくわかる。そういうわけでアルファな人は話に乗ってこない。相手がアクセス数持ってて、相手の言説によって自分のプロパティ(ネットでの評判)が脅かされるなら別だろうけど。「日本のblogは低レベル」で「わたしはアクセス数(アルファかどうか)など気にしていない」とか言いつつもアクセス数は気になるわけだ。(まぁ、仕方がない)

 現在のテキスト主体のネットコミュニケーションというのは「顔が見えないコミュニケーション」ということで情報量が少なく誤解が生まれやすいんだけど、誤解を減らそうと思って言葉を尽くすと長文ということで嫌われる・・。


ネットから長文が消える理由?(@スラッシュドット)
http://slashdot.jp/it/article.pl?sid=07/02/06/1040227


 んで、「分かりやすくまとめる」わけだけど


「わかりやすくまとめる」ブロガーがブログ界隈をテレビ番組化していく(@シナトラ千代子)
http://d.hatena.ne.jp/wetfootdog/20070206/p1


 そうすると「情報量が少なく誤解が生まれる」ということで堂々巡り。


 スパムとかディスコミュニケーションとかで※欄を開放しないのは分かる。ishさんの場合、マイノリティ的事情もあるし。

 webによるスピード感の加速は場の圧縮をもたらして、タイムラグなどの緩衝材がなくなりコミュニケーションの齟齬が生じやすくなるということ。文脈違うけど「場の圧縮」関連でP.ヴィリリオを想起する。 もしくは「距離近すぎ」ということでこの辺か


コミュニケーション不全症候群
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 要は、「短文でも誤解を受けないようなプロモーション技術(コミュニケーション技術)を自然と身に着けているか」(あるいは空気嫁)、ということで、そういうのは百式の田口さんなんかうまそうだけど、あの人たちって広告とかマーケとかそういう人たちだもんなぁ・・。そりゃうまいわなぁ・・

 めんどくさいのでぼくは自分言葉でおーざっぱにまとめていくことにしてるけど。



 で、


 冒頭のビオトープの話に戻ると、そんな感じでネットってリアルワールドの写し絵なのでそんなに簡単に「みんな仲良し〜♪」とかできないんじゃないか?でも、ソーゴリカイというか、他人が何を思ってそういう行動をしたのか、想像する余裕ぐらいは持っておいたほうがよいと思うけど。それは「仲良し」的必要性だけじゃなくて、セキュリティにも関わるし(行動パターンを読む)。っつっても、そんなに簡単にパターン読めるわけでもないだろうけど。

 ビオトープ的な考えがそういう感じで島宇宙のゆるい繋がり(繋がったり繋がらなかったり)を許容するのならありかな、と思ったり。

 「ムリに仲良くならなくてもいい。でも理解はするべき」みたいな距離感としてはこの辺が妥当ではないかと思った






 現在のネットのeco-systemとしては下記リンクの辺りがモデルケースとして考えられているみたい。


The Emergence and rise of mass social media
http://www.socialmedia.biz/2007/01/social_media_go.html

 
 織田さんの解説をパクらせていただこう

1.コミュニケーションは対話であり、一方的な言葉ではない。

2.ソーシャルメディアの参加者は人であり、組織ではない。

3.正直さと情報公開が中心となる価値観である。

4.プッシュではなく、プル。

5.集中ではなく、配信。

Ad Innovator: 今日の解説:マスソーシャルメディアの台頭より引用】




 あとはIBMによる4象限モデルとか
http://www.socialmedia.biz/2007/02/the_coming_medi.html


 前に見たEmergent Media Eco-Systemの焼き直しっぽいし、あくまでモデルなのでそのまま行くかどうかは分からないんだけど、まぁ、いちお記憶にとどめておこう。


--
関連:
上川あやさんの本(@heuristic ways)
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20070307

※中村中さんの話の続き


「共同体」のイメージ(@小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」)
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070306#1173156967

※小田センセからお返事いただいた。「田舎のほうがキチキチした監視があるっていうのは偏見じゃないの?」、と。こういうのは農民蔑視の偏見解除にも役立つな。あと、後段の「共同体の脱構築/再構築」も面白そう



posted by m_um_u at 23:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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