2007年07月03日

花咲く国、平和成るかな

 再び自分のエントリを見ながら、


muse-A-muse 2nd: モテない系日本 (男女間の非対称性を巡る攻防について)


 そういや「日本=女性」ってアナロジーはよく使われるけどしっくりくるなぁ、と。


 「昔から日本は女性社会」とか言いますよね。代表的な言説は忘れたけど、源氏物語とか枕草子とか引き合いに出してどうとかいう文脈だったっけな?

 んで、「女性社会(母権社会)は平和な国」言説が出てくるわけっすね。



 <男が権力の頂点に立つと潰し合いをするけど、女が長を務める社会は平和・平等になる>、ってやつ。


 この話をする場合、基本テクストしてバッハオーフェンの「母権社会論」が必要になるわけですがまだ読んでません(拝)

 仕方ないので松岡さんの書評でも参考にしようかと思ってたんですが、


松岡正剛の千夜千冊『母権制』ヨハン・ヤコプ・バハオーフェン


 そういやid:kagamiさんもなんか書いてたな、と


ロリコンファル - 夢と自由と行動分析学 −人間の限界−


 んじゃ、ま、id:kagamiさんのほうから。


 「狩猟社会は血生臭い」という通念に対して「いや、農耕によって貯蓄ができるようになって財が発生したから、その財巡って奪い合い(戦争)がおきるようになったんジャン?」という突っ込み。ごもっともだと思います。


 ここで非モテ論に接続するならば、「経済的な富のみがモテの指標か? (いわゆる恋愛資本主義においては貨幣経済的な財以外の、恋愛市場でのみ通用する交換財のことを想定すべきなのではないのか?)」、という課題というか疑問が出てきます。

 マーガレット・ミードが端的に言っているように



Women want mediocre men, and men are working hard to become as mediocre as possible.

-- Margaret Mead





 女性が男性に求めるものはスペシャリティやそれに付随する財というだけではありません。サメのように働けばそれなりの富や名声、満足は得られるかもしれないけど、大部分の女性にとってそれらは互いが共有できる時間や生活とは遠いものなんですよね。

Life is beautiful: 「泳ぎ続けなければ生きていけないサメ」と「波間にただようマンボウ」、あなたはどっち?


WAR IS OVER〜戦争は終わった〜:奥菜さんが一番欲しかったのはお金でもなく豪華なマンション暮らしでもなかったのです。



 なので、ぼくはサメ肌スーツよりもドクトルマンボウを選びます。とはいっても、ゆっくりと回遊するというのもけっこう疲れるものなのですよ。(ナマケモノのカロリー消費量よろしく)


 まぁ、この話を始めると横道的に長くなるので、今回はちょっとパスです。

 
 さて、「母権社会では貯蓄がない。貯蓄がなければ奪い合い(戦争)が生じない」、ということなのですが、この辺りの生産様式と社会システムとの関係・変化の経緯について、もうちょっと詳しく


松岡正剛の千夜千冊『母権制』ヨハン・ヤコプ・バハオーフェン

 さて、問題はこうした母権社会がどのようにして父権社会にとってかえられたのかということだ。事情はかなり複雑多岐にわたっていたと思われる。
 ひとつには家族社会の中に強弱が出てきて、その格差が定着し、さらに他の部族を併呑するようになっていたのだろう。これはやがて都市国家や国家の原形態になっていく。ひとつには、家畜や農産物などがふえて、女性が産み出す生産力とともにこうした別種の「力」に託す社会性が出てきたのであろう。そうなれば男性の管理力や労働力に「力」が移行する。またひとつには、男性間に構想や闘争や、さらには戦争に類する争いがおこり、そこに新たな勝者と敗者を分けるルールが発生したのであろう。しかもひとつには、生産物との関係で太陽信仰が強まったのだ。



 なんかよくわかんないのですが、ぼくなりに解釈すると。狩猟社会においては計画的な生産は望めなかったため、生産性はノードの数に依存していたということですかね?

 つまり、それぞれの人が獲物に遭遇する確率なんか限られてるわけだから「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」式に人の数を増やすということがそのまま生産性につながった、と。んで、「人の数=生産性」ということだからその大元のリソースとなる母体が大事に扱われた、ということかな。

 それに対して、貯蓄系社会では生産は計画的に管理され、人数よりも生産技術や知識、職能が優先される。「使えない人」が多くなっても邪魔になるだけですからね(ムダ飯くらい)。

 「職能関連なら狩猟民でもあるだろう?」って疑念もあるかもしれないけど、どんなに技術を磨いてもひとりのハンターが獲れる(遭遇する)獲物の数は限られています。対して、農耕は世話を怠らなければ確実な生産性が期待でき、なおかつ長期の保存がきく。この「世話を怠らなければ」の部分にそれまでの生産方式に比べれば高度な知識が必要になるわけです。なので、ただ人数が多いというだけだと足手まといになる。



.....こんな感じ...かな?


 生産様式と社会構造ということでマルクス辺りが絡んできそうだけど......今回はやめときます。ってか、某サイトから某サイトへの応援書評にそれ系の話が載ってたけど、この文脈で言うとどうなるんだろう?

 高度情報産業化によってノード(労働者)に主権が戻る(「モモは時間を奪い返したよ!」)ってことだけど....その場合、高度な技術と知識が前提になってるわけで、社会構造というか家庭生活を送る上でのマインドというのはサメ肌ってこと?

 あと、メモ的に。お二人に対して釈迦に説法というか馬の耳に念仏みたいな感じなのかもしれないけど、情報産業化っつっても一部の話ですよね? それを支えているのはじみ〜ぃぃぃ.....な製造業その他だったりするわけで...。情報産業化というのはその部分も含めた議論なのかな?



 閑話休題。



 再び話を生産様式と社会構造、あるいは闘争への意志というところに戻します。
 

 「闘争への意志」関連ではid:hihi01さんがなんか書いておられましたね。


HPO:機密日誌 - 男性学確立の必要性を訴える あるいは 「話を聞かない男、地図が読めない女」


 「日本の女性が強くなっている」というか「女性の権利意識(我)が強くなっている」というのはあると思うのですが、それはまたちょっとびみょーな感じがします。


 というのも上述してきたように女性性というのは本来、闘争とは逆のベクトルとしてとらえられているものですからね。「日本の」ということで言えば、「日本という国の女性性と生産様式の関係」について論じた書(あるいはその論評)を示せると良かったのですが、ちょっと失念してます...。


 ただここで疑問なのは、日本というと「お米の国」って感じで、上述してきた流れに従えば「貯蓄社会=闘争」ってことなので「闘争社会なの?」って感じなんですがその辺どうなんでしょうね?


 なにも参照せずにてきとーに考えると、それとは別に母権社会が乱婚を機軸としつつ平和な状態だったということから、「やっぱ性的なこと考えてるだけの社会ってのは平和なのかなぁ。セックスすると男のタテ思考がアホ状態になるのかな? 平安とかもそんな感じだったみたいだし...文化っつーのは戦争と戦争の中間に栄えるっていうし...そうすると性は文化?」、とか暴論思っちゃうわけですが、まぁ、当たらずとも遠からじかなぁ、と。

 ただ、「平和な状態というのと性とは因果はないのでは? (相関程度で)」って気はします。つまり2つは同時代にあった現象という程度で、両者に因果関係(この場合「セックスばっかしてるから凶暴化しなかった」)はなかったのでは、とは思います。


 でも、やっぱちょっとそういうこと思いますなぁ...。


 あと、id:hihi01さんはリンク先バハオーフェンの書評中の「ディオニュソス的社会」ってところにピクピクっとくるかも。流れとしては、「完全母権社会」→「半母権社会(デメテール、女王蜂型社会)」→ディオニュソス的社会 → アポロン的社会(男性中心社会)って感じです。

 

 あと、狩猟と母権って関係するのかなぁってことでケルトなんかが思い浮かんだんですが....あれってどうだったっけなぁ...。「平等」ぐらいはいってても「母権」って感じではなかったような..。(そこにドルイド的な聖俗ヒエラルキーも絡んでたし)

 まぁ、その辺は置くとして。




 あと、「女」ということについて。



 どうも一部の非モテ言説とかフェミニズム言説とかに出てくる「女」意識には違和感があるので、ぼくなりの「女」意識というか「女」性を感じるときについて記しておこうかな、と思いまして。


 やっぱ「受容」っすね。

 
 端的に言えば(いくら脳内麻薬が分泌されるとはいえ)異物を挿入されるのを許容するというのが分からない...。ってか、すごいなと思います。


 この辺、金蓮さんのそれと似てます。


藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 『美しい痴女の接吻とセックス』   二村ヒトシ監督

愛としか表現のしようがない表情を浮かべながら男を求め、大いなる母性で男を自分の中に招きいれることによって許し受け入れる女性が、菩薩のように見えることがある



 同時に、女というのはカマキリのような残虐性を示すこともありますね(カマキリの雌は交尾後、雄を食べます)


藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 恋塚寺



 その二面性が「女」ってやつなのかなぁ、と。
 
 

 あと、「男はミツバチ、女はハナ」ってのもありますね。


藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 花を恋うる歌


花とみつばち (1)
花とみつばち (1)
posted with amazlet on 07.07.03
安野 モヨコ
講談社 (2000/04)




 
でも、食虫花に当たらないように気をつけないとね(笑)




--
関連:
松岡正剛の千夜千冊『恋愛と贅沢と資本主義』ヴェルナー・ゾンバルト

※「恋愛資本主義」関連で要チェックや!
 
 
posted by m_um_u at 09:49 | Comment(4) | TrackBack(1) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

阿呆相手に中元要らぬ、毒饅頭でも喰わせとけ!

 たいしたことないんですがちょっと気になったもので、忠言というか中元ほしいなというか、こんな中元欲しくないな、と



はてなブックマーク - ブロガーなんてものは道化師か芸人に過ぎない | 住 太○のブログ


 某SEOらーの方が後づけ釣り宣言ということで「みっともねぇ男だなぁ」って感じの恥をさらしつつ負のアテンション獲得って感じで、「...おめぇ、ほんとにSMO知ってんのか?」って疑念が生まれてるわけですが.....まぁ、その辺について忠言しても「ぼくは太陽、北風なんか怖くないよ!」とかなんとか明るく微笑み返されても気持ち悪いだけなのでスルーするとして...


 さて、この太陽さんにやさしく服ならぬ廻しを替えてもらうには如何したものか.....「饅頭怖い」よろしく「誹謗中傷(アクセス)怖い」などとのたまう好青年ですからまぁ、アクセスが欲しいのだろうな、と。

 んじゃ、まぁ、やさしい北風さんはアクセスなんかあげないゾ?、ってことですよね。


 端的に言えば、アクセス厨に内部リンクなんかかけてやる必要ないです。ぶくまも論外。


 わざわざ自分のサイトのアクセス(アテンション)を分けるのさえ汚らわしい。スルーもしくはリンクロンダリングっすね。

 メタブクマつかって直接リンクしないようにするか、当該サイトに言及している人にリンクすることによって直接的言及を避ける。リンク先タイトルも一部改変させてもらってSEO的効果が生ずるのを抑制する。

 要するに儀礼的無関心の応用ですね


儀礼的無関心とは - はてなダイアリー

ARTIFACT ―人工事実― : サイトの読者を減らす努力と「儀礼的無関心」


 「儀礼的無関心」では「アクセスの多いサイトの人がリンクすることによってひっそりとネット生活を送りたい人に過剰なアクセスが生まれてしまい迷惑をかける」ということが主な問題とされ、そういったことをさけるためのネット上の礼儀作法のひとつとして当時のネットワーカー達の心に刻まれたものでした。

 ただ、それはオモテの使い方であって、ウラの使い方として「儀礼的無関心によって相手を苛立たせる」というのもあるわけですね。「儀礼的無関心でリンクしません」と装いつつほのめかしメソッドを使用、相手が「くりりんのことかー!!」と反応してきたところで、「どちら様でしょうか?」と切り返す。

 こういう京都のぶぶ漬けのようなネット作法こそ渋ちんネットワーカーの醍醐味たるものだと思います。


 まぁ、大部分は上記のような嫌味の応酬になるわけですが、今回のような場合、きちんとこの手法を使わないと阿呆をつけ上がらせるだけだろうなぁと思うわけです。


 んで、元ネタの儀礼的無関心の場合は、名前、URLほか当人(該当サイト)を特定できるような情報は極力さけるようにするのが慣例ですが、今回のようなケースに対する処方(リンクロンダリング)の場合は当人や衆人にも分かるようにしてよいと思います。


 でも、リンク(アクセス)はあげない。SEO的に名前が出るようなこともしない。


 ただ「阿呆」の烙印だけを背負わせてあげるだけです。


 「おまへには毒饅頭でじうぶんだ」、と  


(※毒饅頭 = 独饅頭 = リンク(言及)のないスタンドアローン(孤独)な状態)



 んで、便宜的かつ個人的にこういうリンクの仕方を「半儀礼的無関心(半ギレ)」と呼ぶこととします。「阿呆相手なのでそれほど切れることではないし切れてもいないのだけれどなんかムカついたな」、というのとかけて。


 蛇足ですが、廻しからナニが半分出てもアウト(....でしたっけね?)


 
タグ:ネット作法
posted by m_um_u at 08:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月26日

マグロウォーズ (補遺)

 あと、補足的に。

 
 お話として出す場合の順序としては、


muse-A-muse 2nd: まぐろぽりてぃくすのぎゃくしゅう


muse-A-muse 2nd: 島国社会日本の不思議性とマグロ帝国の陰謀 (経済篇)



 って感じになるでしょうね。


 イメージとしては3人の虐げられた若者がいて、それぞれがそれぞれの思いを胸にマグロ帝国に旅立つ、って感じ。


 最初の若者は「やせた国」の住人。

「オレたちがこんなに働いても貧しいままなのはなぜなんだろう?」ってことでマグロ帝国へと旅立ちます。


 次の若者は「サカナの国」の住人。

「オレ達が伝統的な食べ物を捨てて、アホみたいになって、売り上げを吸い取られたり、”守ってやるから”、って無理やりお金をぶんどられたるのはなぜなんだろう?」、ということでマグロ帝国へと旅立ちます。


 最後の若者は「マグロ帝国」の住人。マグロ帝国の中でもnerd(やせっぽち)と呼ばれる種族に属する若者です。

「ぷくぷく族の人たちは"太れ!”というけど太ったらカニ腹コミュニティには入れないしなぁ...。でも、オレ、ジム通いなんかしたくないんだよなぁ...。」、みたいなことで悩むサブカルっ子です。


 んで、物語の流れとしては「バベル」風に、一見関係のないように見える別々のところに暮らす若者の悩みが次第に絡まりあっていく、って感じで展開されていきます。


 第一部としては、「マグロウォーズ」って感じで、「やせた国」の若者がマグロ帝国ぷくぷく部に赴き、そこでかつて父親だった男と見えることになります。(※でも、このときは二人は親子だということに気づいていない)

 んで、この時点で力不足なルーク青年はマグロ米だーに敗れてしまうわけですね。(あと、勢いでマグロ大量捕獲兵器にして消費脳拡大型洗脳兵器であるマグロスターみたいなのを破壊してしまいますがこのあたりはどーでもいいです)


  
 第二部は「マグロ帝国の逆襲」って感じでマグロ帝国ぷくぷく部が中心となって「やせた国」に攻撃をしかけているところから物語が始まっていきます。同時期に「サカナの国」にも攻撃がしかけられていて、ここでサカナの国の若者に焦点が当てられます。

 第一部で出てきたルーク青年もどっかの星でてきとーに修行したりしてますが、今回の主な主人公はサカナくんです。

 んで、この回では「マグロエコノミクスの生態」ということで「マグロエコノミクス」のレイヤーがいくつかに分かれていることが明らかにされていきます。

 象徴的なシーンとして、「やせた国」の住人であるルーク青年からすると「サカナの国」とその住人であるサカナくんも「搾取する側」であり、敵として対峙するわけですが、しばらくして二人は双方とも「マグロ帝国にひどい目にあわされている側」ということに気づき、共闘をはることになります。


 で、再びマグロ帝国に旅立つ二人。ここで第三部に続いてきます。



 第三部ではマグロ帝国に旅立った二人とnerdな彼(ガリガリくん)がぷくぷくコミュニティのセミナーで出会うところから物語が始まります。ご多分に漏れず、当初は二人ともガリガリくんのことを「敵」として勘違いしていますが、ぷくぷくの追っ手から一緒に逃げてるウチに「仲間なのか?」ってことになっててきとーに旅の仲間になっていきます。

(※この辺りのすったもんだ劇としては香港映画のそれを想起してもらうといいです)


 んで、なんだかんだで仲間も増えて、ぷくぷくコミュニティの中心部に攻撃をしかけていくことになるんですが、ぷくコミュとの最後の戦いの辺りでぷくコミュの総統もマグロ帝国のコマのひとつに過ぎなかったことを悟ります。

 ここで上位政体であるマグロポリティクスの存在が明らかにされ打倒が容易ではないこと、世界が持ちつ持たれつの関係にあること、このままマグロ帝国をテロると世界経済が立ち行かなくなることなどが知らされます。(あと、ルーク青年のかつての友が故郷で着服大魔神になってたり...、)



 で、まぁ、三人ともいろいろ悩んで..........



 そんな感じかなぁ、



 待て、続編! (たぶん続かない)

 





posted by m_um_u at 19:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

まぐろぽりてぃくすのぎゃくしゅう

 昨日の妄想エントリ(マグロエコノミクス)を見ながら、当たらずとも遠からじかなぁ、とか思ったり。

 「妄想にしてはけっこうよくできてるかも」とかなんとか自画自賛。


 ポイントは、「消費的なライフスタイルが染み込んじゃってるんだから変更不可能ジャン?」、ってとこだろう。それはマグロ帝国側からの一方的な毒電波ってわけではなく、マグロ帝国の住人も悩んでる問題だったり。

 なので「一方的な搾取」ってことではなく、「みんな見えないシステムに踊らされてる」ってとこがポイントなのだろう。(「ハムスターは資本主義という車輪を回し続ける」)


 物語的な肉付けをするとすれば、たとえば「搾取されている側」である「やせた国」の住人が「ぷくぷく帝国」に乗り込んだらそこの国の人々は太っているということにはなんの価値も見出していなくて、「すごいね。きみ、スマートだねぇ(カニ腹だねぇ)」、と言われて戸惑うシーンなんかが思い浮かぶ。あと、ジムでダイエットに励むぷくぷく帝国の住人を見て、「なぜこの人たちはムダに体を動かしているんだろう?」、と思い悩むやせた国の人の描写とか必要かも。


 それに対して、一部の急進的ぷくぷく党員なんかは自分たちのぷくぷくさを自己肯定するために「世界をぷくぷくに変えてやる」とかなんとか言いつつ「ぷくぷくいずびゅ〜てぃふる!」な指標として「GNP(Gross National PukuPuku)」なるものを打ち出したり。



「太っている人たちは食べることのみを考えていて食べている間は幸せなんだ! 第一、ぽっちゃり系は安心感があるだろ? 世界がそういう人たちでいっぱいになれば戦争なんか起こらない!!」


 とかなんとか都合のいい理屈を打ち出してぷくぷく電波を飛ばそうとするんだけど、「君も太ればいいじゃん?」とか言いつつ自分の食べ物は他人に与えようとしなかったり...。



 じゃあ、最後の敵はその辺か?、っていえばちょっと違って、そういう人たちも一部のカニ腹スマーティーが垂れ流すぷくぷく電波に汚染されているだけなので犠牲者とも言えて、スマーティーはスマーティーで無意味な運動にあくせくしたり、仲間内の体面のために消費を続けなければいけなかったり....。


 んで、「けっきょくほんとの敵は誰なんだよぉぉおぉ」、みたいなことを叫びつつ夕暮れて終わる...のかな?


 あと、夕暮れて故郷に帰ってみたら、親友がぷくぷく党員に加わって住民搾取+援助物資の着服をしていてショック → 問い詰めたら「いままでほかのヤツもやってた。オレは席替え要員に過ぎない」とか言われて愕然、みたいなシークエンスも欲しい。



 とりあえず「誰も悪くない」というか「みんな犠牲者」みたいなのを伝わればいいかな、とか思う。



 ちなみに、マグロエコノミクスの上位政体としてマグロポリティクスがある。


THE MAGRO-POLITICS - 関心空間



 「打倒」ってことならここも考えないといけないけど.....たいへんだなぁ。。。


 


 そんなことを思いつつ某痛快うきうき通りの人の童話(?)を見てみた


うさぎ




[これはひどい]






 痛快うきうき通りとしては自分の垂れ流してきた「ポップ(消費)の勝利!」みたいな毒電波の贖罪のつもりなのかもしれないけど、「プラダの靴が欲しいの」だのなんだの言って浮かれてやがったのは事実だからね!


 だったらそのまま「こんどは子猫ちゃんのために南洋の島がひとつほしいなぁ」とかなんとか言って葉巻の島の首長と仲良くなる歌でも作ればいいのに、そこまでは踏み込まないんだよね。



 まぁ、彼はオルタナティブな王子様だから、常に時代に逆行というか、人の気持ちを逆なでするようなものをpublishしていきたいのだろう。


 そういう意味ではArtistっていえるのかも。



 ただ、思うのは


 この手のぽっぷみゅーじしゃんな人たちが改心して作る歌とか活動ってなんでロハスとか反グローバリゼーション(主に米国)とかそんなんばっかなんだろう?

 そんで、てめぇらのやってることと言えば、売れたら自分を支えてくれた女を捨ててほかの女とケッコンしたり、公然不倫略奪婚を成立させたり、「ながい間事実上の仮面夫婦でした」とかなんとか言ってファンをがっくりさせたり....。


 ってか、「改心して地球に優しいことはじめました」とかではなく、「私生活の悪行から目を背けるためにギゼン的なことはじめました」って感じなのかもしれない。




 っつーか、あれっすかね?サヨクってやつは昔からそっち方面の観念がゆるゆるなんですかね?(フリーセックスっていうか)

 そういや誰かが、「全共闘のやつらは運動が目的っていうかおせっくすが目的で参加してたんだ」、とかみもふたもないこと言ってたな。


 あと、学生運動と音楽の繋がりについてはこんな感じか?


小野和俊のブログ:全共闘世代30人と Web 2.0 を語り合う

学生運動 → 音楽活動でプロを目指す → 挫折してソフトウェア会社または学習塾を創業 というのがこの世代の人々の職業選択の典型的なパターンの一つであるらしい



 現在、主要なサヨク活動をしているぽっぷみゅーじしゃんは全共闘世代ではないわけだけど、その周辺にいる人々がその世代ってことでなんらかの思想汚染を受けてるのかも。




 って、そういう意識を持つことは悪いことじゃないけど、ベタにとまりすぎなんだよね..。
 
 

--
関連:
小沢健二 20,000 字インタビュー


muse-A-muse 2nd: バカサヨク、バカウヨクについて




そういや福耳さんも痛快な文章にはぷりぷりしてたな


福耳コラム - 彼はポルポトになるのだろうか


「ぷりぷり」っていうか、彼の痛快な作品が好きだったみたいなのでアンビバレンツな思いがあるのだろうけど...とりあえず、抽象度低いし、世界認識もゆるくて童話にもなってない感じはしますね。(ポルポトっていうかゲバラになりたいのかも。そのほうが葉巻の国の人には気に入られるし)




ちなみに言うと、ブータンなんかは「Gross National Happiness」を打ち出して、「経済力だけでは割り切れない幸福があるんだよ」みたいな痛快ウキウキ思想の代表例にされそうだけど、しっかり経済的発展は遂げてたりする

内藤センセも言ってたけど、清貧だのなんだの言ったって最低ラインでの経済的幸福ってのは必要だと思う。ただ、このときの内藤センセはちょっとパフォーマティブだったので突っ込みがけっこうあって、ほかのところで「アレはポーズです(笑)」って言ってはったけど。痛快な人もパフォーマティブな演出だったりする...(のかなぁ)




(とかなんとかいいながら先日カラオケで「痛快ウキウキ通り」を歌ったのはヒミツだw)
 


posted by m_um_u at 09:33 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月23日

...そうだ! お米さんに聞いてみよう!!(3):腐化の時期と米食の謎

 ♪ こぉ〜めぇ〜を〜かぁけぇるぅしょうじょぉ〜 こぉ〜めぇ〜はぁ〜たぁ〜べぇ〜るぅ〜もぉ〜のよぉぉおぉ〜.........



 ライシャワー来日....ならぬライスシャワー乱れ飛ぶ梅雨枯れ時、いかがお過ごしでしょうか?

 お察しの通り、今回のテーマ曲は「時をかける少女」(時かけ)の例のアレからinspireされたものですが、「時かけ」アニメは未見なのでそろそろチェックしとかないとな、とか思ってる今日この頃です。(レンタル出てるのかな?)


 さて、


 前回エントリの米欄にて、危険を顧みず業界の内部事情を暴露してくれたokome_chanに世界の諜報機関の魔の手が忍び寄っているようです。


米の人:「なんだかこのエントリにコメントした日から…どこかからともなく視線を感じるというか、食欲が増えたような気がするのですが……」


 
 ぶくまを通じてお答えしましたが、やはりhydeの身長が埋め込まれているのではないでしょうか? ...okome_chanの中で育まれる生命の神秘....


 「オレの中で育て、命! (果たせなかったオマエの身長願望をオレがかなえてやるゼ!!)」


 的な漢気?(あるいは母性?)を見せてもらいたいものです。例の鳥の揚げ物でもパクつきながら!



 あるいは、その身長は生命体として独立するのではなくokome_chanの身長として取り込まれていくのかもしれない..。


 その暁には、すくすく育ったokome_chanと下僕のたらこ達によるライブパフォーマンスを見せてもらいたいものです。(※以下、再び歌)



♪ お米を舐めるなよ〜 お米は主食だぜ〜
  飴じゃないんだ 雨で育つぜ 
 梅雨はまだかいな〜

 たらこを舐めるなよ〜 たらこはおかずだぜ〜
 焼いて にぎって 詰め込んで
 立派な具材だぜ〜



セリフ:

「せんせぇ!お米はおやつに入りますか?」

>「違います。お米は主食ですね」

「じゃあ、ポン菓子は?」

>「ポン菓子は菓子です。名前に菓子ってついてるでしょ?」

「.....えぇ〜〜オトナはずるいなぁ〜」



 ド〜ンと打ち上げパっと散るぅ〜 それがお米(おとこ)のじんせぇいさぁぁぁぁ.........



(※以上、歌)



 イメージとしてはホタテマン風の握り飯着ぐるみ(もちろん炊きたて)に身を包んだokome_chanとたら子たちによるデパートの屋上ライブ、って感じです。

 でも、肝心の「ホタテマン」を知ってる人があまりいないかと思ってyoutubeを探してみたけど、アップされてませんでした(残念)。

 仕方ないので分からない人はこちらの説明を参照ください


ホタテマンとは - はてなダイアリー 


 ホタテマン画像




 以上はokome_chanにささげる歌...というか勝手に頭に浮かんだので吐き出したまでです。

 それで、


米 - ヤター!ネットイナゴたん16さいできたよー!!


 を見ながら。


「お米ちゃん、今日も健やかに腐ってるな」とか思いつつちょっと気になったことがありまして...。

 でも、これ以上お米の人に負荷をかけるのも忍びないのでスルーしていただいてかまわないのですが...と断りつつ、以下妄言です。

 

 ぶくまコメントにも書いたのですが、「稲子16歳」ということでいわゆる腐女子の腐化が始まる時期としてはちょうど良いように思います。それとは別に、そういえば腐化ってなんで高校時分なのかなぁ、というところが気になりまして。


 ごく一般的な腐化履歴というのはこんな感じみたいなのですが


ごく一般的なエリート腐女子の履歴書

 
 やはり、「中学のときの軽い目覚めが受験によって妨げられ、鬱屈した腐化願望が高校入学時に爆発する」、って感じなのでしょうか?

 そう考えると稲子が16で腐化したのもうなづける気がします。


 で、

 ちょっと自我ができた稲子は、「...ワタシもう子供じゃない!ひとりで飛べるもん!!」、とかなんとか言って家を飛び出し、仲間と巷を飛び回る飛蝗少女となるのでしょうけど、仲間とつるんで飛んでる時点で「ひとりで飛べるもん!」ではないわけですよね。

 
 稲子がそれに気づくのは第二就職というか、なんらかの責任を負い始めたときなのだろうけどそれはまだ先の話.....(ってことなのかな)



 んで、稲子と米ってことで.......これはアレ? okome_chan自らをささげようとしている?

 もしくは飛蝗少年少女を体当たりで受け止めようとする青春血みどろハイスクールって感じでしょうか?



......さすがokome_chan

 自虐精神というか、自己犠牲の良心というか...。


 なかなかできることではありませんね。



 そんなokome_chanの自己犠牲精神に圧倒されつつも、「イナゴなどどうせなら食してしまえ」、と思うのはおっさんが浅ましいせいでしょうか?


 その際には以下のサイトを参考にされると宜しいように思います。

(※心臓が弱い人は見ちゃダメだYO!)




昆虫料理を楽しむ






 さて、最後に素朴な疑問なんですが

 お米ちゃんは米以外のものも食すのですかね?それとも主食にこだわることによって余計な油分をとらないですむわくわく健康ライフなんかを送っているのでしょうか?

 でも、それって炭水化物ダイエットとは逆方向ですよね?


 っつか、そんなアンチお米派に対して、こんな論陣をはるのかな?


ごはん抜きの低炭水化物ダイエットに疑問 - [食と健康]All About




 そして、また陰謀論めいたところと絡んでしまうのかもしれませんが....


 米国と「米」ってなんか関係あるのでしょうか?

 でも、彼の国って「牛肉」とか「じゃがいも」って感じはするけど「米」って印象はないんですよね。


 あと、ライス長官とお米の関係とか...


 
......お米ミステリー...?

 
 
 その辺のところをお米探偵(おこめたん)がまたまた華麗に解説してくれることを期待しますが、エントリ冒頭でも言ったように負荷がかかりすぎてこれ以上腐化(→ なにかに孵化)されても困るので華麗に無視されてもかまいません。




 では、良い米週末を!
 
 
posted by m_um_u at 07:57 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月22日

捕鯨問題から対話可能性やらリアリティの断絶やらについて考えてみた

 以下のエントリにTBいただいて、先方のコメント欄にてちょっと対話。それでいろいろ考えたり


muse-A-muse 2nd: 捕鯨問題の知られざる歴史でガイジンにwhale面かかせてやればいいです


駒沢亭日乗: 捕鯨についてのまとめ



 捕鯨問題について。ぼく自身はそれほど関心がなくて、「漁業の問題がなぜ環境問題とか人道的問題みたいな感じになってるんだろう?」、ぐらいの違和感しかないです。

 そういうのに対して、一部の急進的なクジラ愛護団体は「クジラさまは歌うのよ! (卵を生むんじゃなくて哺乳類なの! だからサカナじゃないの!!)」っておっしゃるわけですが、その辺の感覚がよくわかんないのです。


 TBいただいた先のコメント欄でも書いたとおり、ぼく自身は漁業問題の一種としてしか捉えてないので。あと、希少動物保護の問題が絡むかなぁ、と。

 なので、話し合いにおいては希少性と商業的インセンティブの間のところを模索し、そこに妥協点を見出すべきだと思ってるのですが、その手のギロンを見たことないんですね。(不勉強なので)


 
 で、なんとなく思うのは、「やはり反捕鯨派の根っこにあるのはクジラ様は偉大だからとってはイカン!!」、感情なのかなぁ、と。


 論理的に通らない部分なので感情的な議論なのかなぁ、と思うわけです。


 かといって、別に感情論を否定するわけではなく、ぼくとしては「感情を起点としつつ問題により深くコミットしていくことは可能なはず(感情と論理は争わない)。感情は関心の起点であって、論理的整合性とは関係ない。むしろ関心のケイゾクのためには必要な資源では?」、と思っています。

 ですが、やはりよく分からない論理を展開する人というのは感情論に終始する人が多いように感じます。


 んで、まぁ、自分なりに、この問題に関心を払う人の分布図のようなものを想定したわけですが、



「バカ捕鯨反対派 / 論理的捕鯨反対派 / 論理的捕鯨賛成派 / バカ捕鯨賛成派」



 みたいな感じになっているのではないか、と。


 「バカサヨク / バカウヨク」と同じ図式なわけですが...やっぱこんな感じなのかなぁ。


 「バカ捕鯨反対派」というのは上述したように感情論で史料や各種データをゆがめる(恣意的に利用する)人々のことです。「バカ捕鯨賛成派」も同様。


 ただ、バカ捕鯨反対派の感情としては、「大きくて偉大でかわいらしいクジラさまは偉大 (←同語反復)」、的なインプリンティングがあるのでしょうけど、バカ捕鯨賛成派のほうはどうか?

 こちらは、「わしらが小さいときはクジラなんかふつーに食えたんじゃい」、的なご老人衆の戦中派みたいなゴリ押しがあるのではないか、と思います。


 で、両方ともわけわかんない気持ちのみで話すのでギロンが進まないのでしょうね。


 たとえば、バカ捕鯨賛成派の典型的なダメ議論と思われるものに「クジラで食料自給率を上げる」みたいな言説があるようですが、自給率とクジラの問題なんか関係あるわけないじゃないですか...。


 日本の食糧自給にとってむしろ重要なのはお米ちゃんの問題であり、その米でさえ「コストを考えるとムダ(食の安全保障を考えるなら日本の市場経済全体の安定性を保つことに注力すべき)」って考えられてるぐらいですよ?


 クジラで自給って......(ありえねー。養殖でもするのか?)



 そんな感じで両者とも「つかえねー議論(子供の言い訳?)」って感じがします。



 んで、この問題に対するぼくの立場としては「クジラ問題関心ない派」もしくは「論理的捕鯨賛成派」って感じになると思います。後者はあまりにもバカ捕鯨反対派の意見が目立つので。それへの苛立ちのようなものからそういう立場をとるのかなぁ、と思ってます (カウンターイデオロギー)。


 で、それに対してTBいただいた駒沢さんは「論理的捕鯨反対派」(もしくはそれほど興味がない)って感じなんですが、コメント欄最後の「この問題で日本が強硬な立場をとってIWCを脱退することになるのが心配」というところがちょっと気になりました。

 この問題について、あまり知らないので「そもそもIWCという組織がどのような経緯から作られたものなのか」、「組織として期待される機能とは何か」ということについて分からないのですが、てきとーにググってたら「IWCとは元来、持続的に捕鯨をするために鯨の生産量をコントロールする機関である」みたいな言説を見ました。


 その言説自体一定のバイアスを含む感じがするので全面的に信じてるわけではないのですが、「まぁ、そういうのもありかなぁ」、と。

 んで、IWCについてちょっと調べたのですが


国際捕鯨委員会 - Wikipedia

事務局はイギリスのケンブリッジにあり、クジラ資源の保存および利用に関しての規則を採択したり、クジラの研究・調査を行う。科学・技術・財政運営の3つの小委員会を持つ。



 って感じであながち間違いではないみたいですね。


 あと、こちらとか

IWCとは:鯨ポータルサイト


 IWCは1948年に,大規模な母船式捕鯨によって乱獲されたクジラ資源を国際的に管理するための条約“ICRW(国際捕鯨取締条約:1946年に締結)”を執行する機関として結成されました。その目的は“鯨類資源の保存と有効利用,そして商業捕鯨の秩序ある発展”となっています(日本がIWCに加盟したのは1951年です)。




 ポイントはこの機関の執行力や拘束力、影響力だと思うのですが、その辺については触れてませんでした。

 なので、ぼくとしてはこの団体を脱退したからといってどのような不利益が生じるのかよく分からないのですが....「鯨さんが獲れなくなる」ってことなのかなぁ..。でも、拘束力のない機関であるならば無視してとっちゃえばいいと思うけど....「そうすると漁業全体の外交問題みたいになる」?


 でも、上述してきたように鯨問題なんか食料問題全体からすればほんの一端なことだし、食の安全保障関連でも経済的な影響力(日本という市場の巨大さ・安定性)を保つことが第一に優先されると思うんですね。


 要は「鯨問題以外の部分で友好を保っていれば諸外国も認めるだろうなぁ」って感じです。



 なので「IWC脱退」と言ってもそれほど切迫感はありません。脱退して鯨食べられなくなってもそんなに困らないし。(ぼくが鯨問題に違和感を表明するのはバカ捕鯨反対派の意見があまりにもアレげだからです)


痛いニュース(ノ∀`):【捕鯨】豪州人「調査目的で日本人を2、3人殺していいか?」


 

 以上が鯨問題に対するぼくの個人的な考えです。



 で、


 それとは別にクジラさんやイルカさんは好きなんですね。

 大きくてツルツルしてかわいいし。知能高いのでびみょーにコミュニケーションできそうだし。イルカに乗った少年みたい感じでいっしょに泳ぎたいし、クジラさんにも間近で会ってみたい。

 そういう感情はあります。



 個人的にはそういう感情とネコを思う気持ちというのは自分の中で異なるものなのかなぁ、というところがちょっと疑問だったり。


muse-A-muse 2nd: ネコと生きる


 坂東ネコ問題のときにネコに特別な感情を持っていない人の論理にある種の冷たさや違和感を覚えたのですが、同様の感覚を捕鯨反対派の人たちはぼくに向けるのかなぁ、と。
 
 というより、

 「自分がクジラをネコと同じぐらい好きだった場合どうなのか?」、「ネコとクジラとの違いは何か?」って感じなんですが。

 

 ネコとクジラとの違い........やっぱ身近か身近じゃないか、ってことですかね。大げさに言えば「自由・平等・博愛の博愛があまねく愛ではなく、隣人愛をさしていた」(参照)のと同じように、やはり愛情というのは近くのものへのそれから始まるのではないか、と。

 
 それは「ネコと生きる」で引用した保坂さんの記述にも対応しますね。


人間の思考はもともと「世界」というような抽象ではなくて目の前にある事態に対処するように発達したからで、純粋な思考の力なんてたかが知れていてすぐに限界につきあたる。人間の思考力を推し進めるのは、自分が立ち合っている現実の全体から受け止めた感情の力なのだ。そこに自分が見ていない世界を持ってくるのは、突然の神の視点の導入のような根拠のないもので、それは知識でも知性でもなんでもない、ご都合主義のフィクションでしかない。



 ぼくにとっての「自分が立ち合っている現実」の中にクジラさんは含まれない、ということなのかなぁ...。


 同様のことを格差社会に関する意識の断絶の中にも思ったり...。


 ぼくはそういうのに興味があるけど、興味がない人からすればそういう現実というのは「あちら側」の問題なのでしょうね。(ぼくがクジラ問題に対して思ったのと同じぐらいに)


 でも、格差社会の問題というのは日本経済全体というか..労働意欲にもかかわってくることだと思うのでびみょーだと思うのですが..。(保守派の人たちは「だったら日本経済をまず立て直して、全体を引き上げればいいじゃん?」って言うだろうけど)


 
.....びみょーだ




 あと、「現実としてのクジラ」関連でアイヌとクマのことをちょっと思ったり。


 アイヌとクマの関係は、「カムイの使いとしての偉大なクマ」なのに「それを殺す」というアンビバレンツを含んでいるわけです。


 でも、アイヌの人々からするとそれは生活のために必要なことであり、神聖な儀式のひとつのような感覚もあったのかもしれません。(「神を殺すことで神と同化する - 神を生きる責任を負う」、みたいなの?)


 そう考えると、昔の日本人とクジラの関係にも似たようなものがあったのかもしれないな、とか思うわけだけど、現代ッコ達はそういう感覚は忘れているだろうからその辺引き合いに出しても説得の要素にはならないでしょうね。(第一、相手にその感覚が伝わりにくいだろうし)


 そういやクジラ獲り映画ってないな。「白鯨」とかはあるのだろうけど、日本人による鯨獲りロマンな映画って見たことない。

 ぼくが知らないだけなのかもしれないけど。
 
 





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2007年06月19日

「テイシュクナツマ」から「カワイイワタシ」へ (「女性」意識の構造転換?)

 んじゃ、予告どおり、以前書いてたものを再編集してお届けします。

 このエントリ自体の発端としてはこちらだったのだけれど、



小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 正月に化粧について考える(1)



 論旨としては、


「女性はなぜ化粧をしなければならないか」「女性だけがなぜ化粧をするか」


 から派生して


「<美しさのイデオロギー>によって男性が女性を支配しているから」っていう7〜80年代のフェミギロンに仮着陸。

「貞淑な妻」であるために女性としてのたしなみが、「キレイな妻であるためにキレイな身体が必要なのよ」って感じで化粧を始めたとした身体的抑圧に繋がった、と
(ex.「コルセットでお腹ぎゅうぎゅう」、「纏足で足がひどいことに」)


(※いちお言っとくけど、イデオロギーというのはなんらかの矛盾・葛藤が生じている現状を隠すために為政者・あるいは統制者側がもちいる共同幻想のことを指す。なのでこの用語が使われたときには、「イデオロギーを受け取る側になんらかの葛藤(苦しみ)があるけどそれが隠されている現状がある」、と仮定される。イデオロギーに対するイデオロギー(カウンター・イデオロギー)の場合は、「元となるイデオロギーによって迷惑している現状があった」、ということ)



んでも、


「そんな感じでこういう問いってほとんどデフォルトで答えられるけど、なんでこういうフェミの主張って受け入れられなかったんだろうね?」


と。



 んで、流れから「女性自身が化粧を主体的に受け入れていったんだろう(「化粧したいワタシ」)」


ってのが出てくる。


 このような女性側によるイデオロギーの受け入れ(書き換え)を仮に「キレイ・イデオロギー」とする


 フェミギロンとの関連で考えると、それは男性側によるイデオロギーの押し付けを自分的言い訳で受け入れただけ、ということになる。

 個人的には、テロで誘拐された人がテロリストに親和性を持ってしまうのと似てるのかな、とも思う。



 んでも、たぶんそういうことじゃなくて、もっとライトでポップな感じで女性人はじょしっこライフを楽しんでいる。


 そういうわけで次のエントリではその辺の理由が模索されたり、



 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 正月に化粧について考える(2)



 70年代のフェミのギロンでは、「あなた方は男性によるイデオロギーによってだまされてるだけ。自分たち自身の美しさに目覚めて自己実現しなさい!」、みたいなオルグがされたらしいんだけど、この「自己実現」ってとこが曲者だったみたい。


「“じこじつげん”? なにそれ?」って感じ



 だって、そんなことしなくても彼女たちは充分にじょしっこライフを楽しんでたわけだし、「いまさら化粧やめたり、フェミニンな服着るのやめるのもイヤだしなぁ・・」、と


 んでまぁ、けっきょく、「化粧するもしないもその人の勝手じゃん?(自己選択・自己責任)」、とかになってくわけだけど、それもなんかアレだねぇ・・、と


 もしも抑圧されている現実があるとしたらアレだなぁ、って感じだろうか?


 でも、大部分のじょしっこ達はお化粧ライフを楽しんでるわけだし・・ってか、大部分でないじょしっこ達がそういうので心理的抑圧を受ける、と?


 あとは、キレイ・イデオロギーでキレイ武装していくとお金けっこうかかるよねぇ、って話か?
(「化粧品高けぇよ!服も!!」)



 まぁ、よくわかんないけど




 で、最終的に、「そういう強烈なイデオロギー批判とかよりも日常生活を支障なく送ってんだからいいじゃん?」ってとこに落ち着く、と



 まぁ、そりゃそうだ




 っつーか、小田センセも最後でちょこっと書いてるけど、この部分のびみょーさというか微細さこそがポイントな訳だが


女性たちがラディカル・フェミニズムの批判を拒否しているのはイデオロギーの呼びかける「自己実現のために」という呪文に操られているからだということにはなるのだろうか。女性たちが「キレイ・イデオロギー」による呼びかけに絶えずさらされ、その影響下にあることはたしかだろう。そして、外出するときには化粧をし、化粧品をいろいろ試したりダイエットをしたり補正下着をつけたりするという日常的な行為は「キレイ・イデオロギー」にしたがっているようにみえる。しかし、そのような日常的行為は、その日常性ゆえに、「自己実現のために」という呪文からいやおうなく、ずれていく。たしかにそれは「自分のため」にするのだろうが、日常性ではその「自分」がゆるやかで状況や周囲の他人たちに溶け込んでしまい、「自己実現のために」なんていう「自己」ではなくなっているだろう。そのぐずぐずの状態を肯定してしまうこと、そのようないい加減な態度にこそ、「キレイ・イデオロギー」を崩していく(そこから逃れたり解放されたりするのではなく)可能性があるのではないか。そちらのほうが、日常的な意識の欺瞞性を暴いてそこから自己を解放するといった批判理論の目論見よりも現実的ではないのか。



 四の五の言ったって日常生活で「ぐずぐずっと」お化粧ライフしてるわけだからその部分をもうちょっと積極的に捉えるっていうか、むしろその部分を積極的にhackしていくほうがよっぽど現実的だ、と。


 おそらくこの部分ってフーコー的な微細な権力が絡んでくるように思う


 「権力」っていう言い方をするとビビられてしまうかもしれないが、なんかみょーな指向性のようなもの。そういうのが無意識のプログラム的に組み込まれている。(消費を含んだ生活の場における権力構造として。「性」に対する意識のステレオタイプ化にもそれが絡む)


 その部分をどうhackするかってのがポイントなんだろう。



 あと、>ヘルタースケルター的な欲望の指向性(あるいは再帰、自己充足性)も絡む。



 まぁ、めんどくさい領域なわけだけど、モロにカルスタの領域だな

 フェミ系カルスタ使いの人で誰かやってないのかな?(知らんけど)

 

 ネット見る限りだと大部分がマルクス止まりな感じなんだけど..。
(冒頭の「イデオロギーによる抑圧」「イデオロギーの後ろには男性中心社会が!」的思考形態はマルクスを下地にした批判理論的なもの)


 いや、マルクスも重要なんだと思うけど...。そこ抑えずいきなり生権力とか言っても通用しないと思うし。



 って、これ系ってモロに「プラダを着た悪魔」だな。 (まだ見てないや)





 あと、現代の「女性の化粧」関連は「妻」がどうとかよりも「化粧(身だしなみ)のちゃんとしてない女性はちょっと・・」みたいな女性の労働環境に特有の問題があるように思う。

 批判理論的にはそれも、「男性中心社会による抑圧」なわけだけど・・・お化粧とか女性っぽい服、制服好きな女子もいるしなぁ(いや、それとこれとは別か)



 個人的にはあまりにも化粧っぽい人は苦手です

(鼻がやられそうになるぐらいの香水つけてる人とか)



 っつーか、そんな感じで化粧をする際の意識(必要性)が「テイシュクナツマ」から「カワイイワタシ」のためのものへと変わったように、女性の社会進出(というかある程度の発言権をもったポストへの定着)が常態化するとまたなんか変わるのかもしれない。


 男性と女性の比率が逆転すると男性が化粧させられたりするのかなぁ・・
(局所的にはそういう会社もありそうだけど。ってか、「身だしなみはきちんと!」的な)


 っつーか、もう変わってきてるのか
(「萌え」とか「非モテ」とかそういった男性意識(志向)の変容というのはその影響ということか)


 そういや自然界ってか鳥なんかは♂のほうが着飾りますね


 あれはやっぱ経済関係(力の貯蓄としての金)なんかが関係してくるのだろうか・・


 


--
関連:
livedoor ニュース - 【ファンキー通信 カルチャー編】ブラをつけない女性が急増中のナゾ

※「カワイイワタシ」っていうか、「女子力とか気にしないワタシ」って感じだけど....たれないのかなぁ..。
 
 





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2007年06月18日

ビジン / ワセジョの事情

 smallpineさんとこの「女らしくしたくない女」話を見ながら


smallpineの日記 / 腐りかけの果実の自分語り - 勝ちたい、勝ち方に注文付けて勝ちたい....そんな傲慢さを見つめる試み


smallpineの日記 / 腐りかけの果実の自分語り - ロリータと「女らしくしたくない女」



 なんかいろいろ思った....というか伝言的なものがあるのでエントリあげとこう。



 おーざっぱに要約すると、「女ということを利用してうんぬん」問題に対して過剰に反応する女史の方々の話、って感じ。


 んで、まぁ、ぼくとしてもいろいろ思い当たるフシがあるわけだけど....そのほかにだんご的な事情も思ったり。


 まず、「女ということを利用して・・」なことを過剰に意識する人ってのはなんか...美人が多かったように思う。(個人的経験としては)



 小さいころから「かわいいねぇ」とか「きれいだねぇ」とか言われる反面、「わたしはかわいいからひいきされるんだ」みたいなのを過剰に気にする人々。

 真面目さの裏返しなわけだけど、そういうことでかわいさを封印.....とまではいかないけど、なんかきゅーくつそうな生き方をしてる人というのは見たことがある。


 彼女の場合は「美人」ということだけではなく家がお金持ちだったし、学歴もあったし.....まぁ、いろいろと先天的に他者よりも恵まれていて、そのことに対して引け目を感じていたのかなぁ、と (真面目すぎるコだったので)


 
 それに対して、男は男で「美人」的なものの扱いには困ることが結構あったり...。「美人だからひいきにしてるの?」みたいな例のアレだ。アレがうざったくて「美人だからってひいきしないぞ!」みたいな逆差別的心境が生まれたり。



....まぁ、青臭いというか若気の至りって感じなんだけど。





 smallpineさんのお話は美人限定というわけではないのだろうけど、そんなことをちょっと思った。


 あと、関連エントリとしてはこの辺が絡むかなぁ、と。



*minx* [macska dot org in exile] - セクシュアルハラスメントの動機は性的興味ではない、という話


 要約すると、「(いわゆる)女らしい女史よりも女らしくしていない女史のほうがセクハラ被害にあいやすい」、らしい。

 理由としては仮説的なものがいくつかに分かれるみたいなんだけど、


(1) 女らしくしてない人のほうがセクハラに過敏なので「セクハラ被害が多い」と感じる


(2) セクハラ被害が多い職場は男性比率が多いところが多く、そういうところでは伝統的な考え方があるのでセクハラ被害が強まる


 というもの。


 (ぼくの読み取り不足かもしれないけど)(2)の理由付けだけだと「なぜ女らしくない女史のほうがセクハラ被害が多くなるか」ということがいまいち分からなかったのだけれど、続きの説明でなんとなく分かった。


 この研究が発表されたblogについたコメントによると、「セクハラには対価型と環境型の二種類があるのでは?」、とのこと。


対価型とは昇進や昇給などをエサに(あるいは従わないとクビにするなど脅して)性的関係を迫ることが典型的であり、環境型とは性的関係を迫らないまでも性的な発言などによって職場にいることを辛くすることを指す。



 ぼく流に解釈すると、

対価型: 女っぽい女性に交換条件を出して性的関係を迫るもの

環境型: 女っぽくない女性に嫌がらせ的にセクハラするもの

 って感じ。


 (2)のセクハラはこの嫌がらせ型セクハラに相当するのだと思う。つまり、「お前はオレたちの女観に合わないからもうちょっとちゃんとしやがれ!」、的な。





 以上を綜合すると、女らしくない人はやっとれんな、って感じがする。


 個人的な思い込みかもしれないが、そういう人はいわゆる女大学(「学歴の高い女性」)的コンプレックスも併せ持っていて、そういうのを克服するためにいろんなものをそぎ落としていっているように思うので。

(この辺はまぁ人によるのだろうけど)


 んで、まぁ、この辺につながる、か。


On Off and Beyond: 素敵なお姉さん風高学歴日本女性は婚期が遅れがち


 「高学歴、美人、社交的、お仕事もできるよ ♪」な素敵お姉さんの不良債権化問題。


 男がびびって近寄らない、ってことなのだろうけど。


 んで、それに対して


負け犬女の次世代機は「街金女」 - 好むと好まざるとにかかわらず - 楽天ブログ(Blog)


 美人だと美人維持費がかかるし、美人も増えてきてありがたみがなくなってきてる(コモデティティ化)、そんでそのまま不良債権化する危険性もはらむ。

 だったら最初から高女子力をつけるのではなく、てきとーな隙を出していったほうが良いのではないか? (cf.消費者金融のお姉さんたちに見られるぐらいに毒味がないさわやかさ)



 そんな感じなんだけど、その辺がリアル街金女になる危険性もあったり...。


livedoor ニュース - 【独女通信】独女の借金事情 


 てか、この辺は「周りとの付き合い」とか「見栄」なんかでお金がいる人がなりやすそうなので、猫蛙さんところの街金女とはまた違うか。どっちかっていうと「美人」狙いの人が陥りそうなワナな感じがする。




 ってか、ちょっと違うか





 smallpineさんのところで挙げられているのは女子力高出力型のビジン兵器ではなく、もうちょっとゆるいところでの女子力身につけない人って感じなのかもしれない。



 女子力図的には、


ビジン > ポストビジン > 街金女 > smallpineさんところで出てた「低出力じょしっこ」


 って感じか。


ってか


 「低出力じょしっこ」ってのも呼びにくいので、ワセジョでよいでしょうか?


早辞苑


早稲女【ワセジョ】 早稲田の女子学生のこと。 バンカラな女子大生ということで、あんまりいいイメージを持たれない。こんな諺がある。「世の中には、男と女と、早稲女がいる」
【例文】早稲女も捨てたもんじゃない!



 具体的には男が側にいても自分の荷物は自分で持ったり、会計は割り勘デフォルトだったり....そんな感じで女子力に頼らない系のじょしっこっぽい。

(ちなみに津田大介さんの好みらしい)


 リアルイメージではワタヤリサ、と。

 


 まぁ、そんな感じで分類できるのかなぁとか思うのだけれど、あと、このの記事がちょっと気になった。


【コラム・断 辛酸なめ子】女子校出身者の憂鬱|文化|カルチャー|Sankei WEB


 全体の話は渡辺千賀さんところの話(高出力女史の不良債権化)と似ているのだけれど、「女子高出身者に多いのでは?」という視点でちょっといろいろ思ったり。(そういえば件のビジンさんも女子高出身だった)



 「テイシュクナツマからカワイイワタシ」関連かな、とも思ったのだけれど、カワイイワタシの場合は自分のために女子力をあげていく(smallpineさんのエントリ的にはロリータ)って感じなのでちょっと違うな。


 やはり、「テイシュクナツマ」マインドを持っている人のことなのだろうけど、時代の要請(需要)に対してそれがちょっとずれてきているのかもしれない。



 んで、ちょっと思ったのは......


(以下放言)



 もしかしてこういった感じの女子高出身者が裏返るとサブカル女になっていくのかなぁ、とか...



 いや、たぶんサブカル女はそういう文脈からは出ないな..(反動としてはもっと別方向に行くように思う)




 

 
 

 では、再見!

 
 



--
追記:
「ビジン」って言っても「天然ビジン」と「人工ビジン」がいるな。

「天然」はいわずと知れたもって生まれた美人さん(特にいじらなくてもどうしようもなく美人さん)。対して「人工」は美人画報的な努力で獲得されていく美人さん。

んで、世間的ありがたみとしては当然


天然美人 > 人工美人(※以下、ビジンと略記)


って感じになる。
(女子力や女史間の共感度はまたちがうだろうけど)


猫蛙さんのところで出た「コモデティティ化」という言葉に絡めると、後者のビジンさんはその時代のビジンフォーマットにしたがってビジンを作り上げていくんだけど....それはフォーマットとして世間的に拡がっているものだからそんな感じでビジンが増殖するとビジンのありがたみはなくなっていく。(コモデティティ化するビジン)


あと、関連で「美人投票」なんて言葉もあるな

美人投票とは - はてなダイアリー


「美人とは多数が美人と思うもののことである」っていう例のアレ。んでまぁ、アルファブロガーとか人気エントリーとかできてくわけなんだろうけど...。

 
先日も言ったように、その手の先有傾向的なものも定まった範囲内での効用を得るという意味では合理性を発揮するので、まぁ、それはそれで人の好みかなぁ、と。

企画女優がどうのこうの言う人はこういうビジンにはまりやすいような気がする。(「そういうおまへは汁男優」、と)

 
 






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夜を越えて

Whatever you do will be insignificant, but it is very important that you do it.
-- Mahatma Gandhi



Almost everything is all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure - these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose. You are already naked. There is no reason not to follow your heart.
-- Steve Jobs








 切込隊長のとこ経由で白田センセの檄文をみて心が震えた。



切込隊長BLOG(ブログ): キチガイが政治の中心に来て、その方面を良く知るキチガイに仕事を丸投げしないと駄目だろうな


平成十九年六月十五日白田秀彰演説記録


(※以下、「著作権制度が産業保護奨励政策としての独占にすぎないこと」、関連で)

 
...「制度改正ができるものならやってみろ」ということでしたが...


そんなこと10年前からやってきたんですよ!



私一人でできることは、ずっとやってきたんだ!

それでも、誰もついてきてくれないから...

いまだに、こんな議論を続けなければならないんじゃないですか。




会場から「白田の主張は偏ってるんじゃないか」というご指摘がありましたが...

そんなことは百も承知でやってんですよ!





......熱い!....熱すぎるよ、白田さん!!


 サンボマスターの山口氏を髣髴とさせるような熱さ。ここまで熱い人だったとは...。



 個人的にはこの部分にグッときた


私はその研究に5年かけたんだ。貴重な若い時間を費やしたんだ。



 
 この言葉の重みというか....ただの時間というだけではないということの重みを分かってくれる人がどれだけいるだろうか、と思う。


 貧しさと焦りと、自分の才能に対する自責と苛立ち、懐疑...。鳴り止まない頭痛....。


 そういう情況の中で、ふとした瞬間に、「....オレ、なんのためにこんなことやってんだろ..?」、って思う。


 金の問題じゃないけど、オレのやってることってコストかけ過ぎだよなぁ、って。


 「そのコストって世の中のためなのかなぁ。だったらその世の中ってなんなんだろ 」、とか。





 別件で三浦健太郎の様子を見て同様のことを思ったり。


ベルセルク作者 続・妄想的日常


(※以下、一部抜粋)


ひと月半ぶりに休みがとれて外出したら熱射病にやられた!!(1995年・17号)

都心に出てもやることないので、最近は土手に行く。(2000年・5号)


友達は忙しいし、彼女もいないので一人で行く。(2001年・10号)
長い間、人に会わないと口がうまくまわらなくなる。(2002年・7号)

俺の休みは2か月に半日。もう4年も2日続けて休んでない。そろそろあちこちガタがきてる。
(2004年・23号)


30代もあとわずか。マンガ以外何もないイビツな人生だが、もうとりかえしがつかないので
このままGO!(2006年・2号)






 ぼくらはなんのためにこんなにがんばって....なぜそんなにがんばれたのだろう





みんなが町で暮らしたり

一日あそんでゐるときに

おまへはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏の

それらを噛んで歌ふのだ


(宮澤賢治、1925、「告別」


 

 あるいは、あの透明なパイプオルガンの音を聴くためだったのかもしれないけど.....その音はいまも聴こえているのだろうか?



 



 もしも叶うなら、がんばっている人が聴きたいような音を届けてあげられればいいと思うけど、それがぼくらにできるのだろうか...?



 世間を覆う大きな声の間を縫って ぼくらの声を響かせることは可能なのか?


(隊長は「爆音には爆音で!」って言うけど、ぼくらのアンプはそんなに高性能じゃないしな。ライブも常駐できるわけでもない)



 

 あるいは、都知事選みたいなのを活用するのもありなのかなぁ...。でも、やっぱ一過性的な感じがする。地味に内側から変えていかないと。

(生活の中のちょっとした選択でも変えられることはたくさんある)





 そうやって放った銃声は夜の闇を打ち破るのだろうか...? (一瞬で突き破ることはないにしても)





 あぁ、夜明けだ






♪ スガシカオ / 夜明け前


--
関連:
論文作成に役立つリンク集:白田の情報法研究報告


※白田センセの修論・博論の激闘記



muse-A-muse 2nd: intermission:これからの日本社会

※怠惰さをなくし、勤勉が認められるように最適化することは可能なのかなぁ...。(弱者切捨てって感じではなく)



muse-A-muse 2nd: 資源最適化としての格差社会と社会保障に関して

※切込隊長エントリ関連で。あのエントリ自体は、「偏りを直すためには偏りを!」、って感じなんだけど。そこからもスケールフリーして「市場」というか「界」ごとにリーダー立てて最適化しないと将来的にキツイ、って感じが伺える。 梅田さんのサバイバル意識もそんな感じなんだろう。

 各「界」がある程度見えた人には共通して焦燥感のようなものがあるように思う。目の前で魚が釣られていくわけだし、フラット化だしなぁ...。

 
 
muse-A-muse 2nd: まれびと来たりて笛を吹く (多様性の可能性と限界)

※「運動」..というか、世間的関心を集めその関心を持続するにはどうしたらいいか、関連で。やっぱ「中の人次第」って感じなのかなぁ..。(あと、ハブ・インフルエンサーへのアクセス)
 
 
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2007年06月17日

変換モノの最強モードってなんなんでしょうね?

 昨日のエントリ関連で。「ちょっと言い過ぎたかな..(オレ、反省)」って感じで場の空気を薄めるために池田センセメソッドをプロレス変換したエントリでもあげるべ、と思ってたら隊長に先を越されてしまった。



切込隊長BLOG(ブログ): 池田信夫無双



 bogusgameって感じのエントリなんだけど、そうか....ガンダム無双という手があったか...、。


 システムとしては特に中段の


本件の困惑要素は、従来の池田信夫を概ね理解した上で、キャラクター(池田信夫本人)と発言のレベル(エントリーごとにまちまち)が別々に評価する読み手が不在となっている点。


 「エントリごとに気分が変わる」ってあたりが新しい。あるいはなつかしの「ファジーシステム」って感じで温故知新だ。

 そして、「キ」をためることによって「空気読めない」システムが発動してエンペラータイム(無双モード?)に突入する!


 で、「キ」はこちらの文脈にもつながる...。


 ガンダムシリーズということで「のぶダム」ほか、「のぶキャノン」、「のぶタンク」なんかもキャラ選択できるのだろうけど、「のぶタンク」ってなんかかわいいな。

 「のぶタン」、か....。パイロットとかもふつーに愛称として使ってそう。


 
 
 「ってか、ちょっと萌え..?」とかなんとか思いつつ、そういえば「萌え」と「ゲーム」、「プロレス」変換と変換様式はいろいろあれど、どれが最強(あるいは最凶)なのかな、ってちょっと思った。



 レスオタもけっこう強いし、「萌え」な人たちはあんな感じでなんでも擬人(幼女)化するし....


 ってか、アレだな。「萌え」ってよりも801最凶なのかもな


日刊スレッドガイド : 801板すげぇwwwwwwww


ブログちゃんねる:801板すげぇwwwwwwww



 「萌え」な人たちは宇宙まで擬人化できないもんな。VIPPERやその辺のおっさん達もよゆーで吸収されてるし、おそらく池田センセなんかよゆーで801化される。



 フォーマットとしては同じぐらいのポテンシャルがあるはずなんだけど、やはり対象への踏み込みの問題かなぁ..。


 「萌え」な人たちは「幼女」という脆弱なものに対象を設定することで「管理」(あるいは敵対性のない「癒し」)を前提とした妄想をはぐくんでいるのに対して、「801」な人たちは癒しなセカイじゃないもんな。


 「あらゆるものを801のカオスで染めてやる!」

 
 そんな気概が感じられる。(っつーか、目に付くものを自動的に妄想化してるだけなのだろうけど)



 そして、やはり、なにかを「捨てた」感が強いのかなぁ..。「もう現世には戻れない」、というところで根性が座って踏み込みが強くなるというか..。

 それはヲタでも同じなんだけど、801はさらにケモノ道っぽいしなぁ...。



 ゲーヲタはヲタの一種だけど、ライトユーザー層のおかげで一般認知もあるし。なので、そこまで「捨てた」感なくて良いのだろう。





 そういうわけで801最強ではないだろうか?





 感覚的に、



801 > 萌え > ゲーム > プロレス



 って順列になるのではないかと思う。(どっかに「越えられない壁」とかあるかもしれない)
 



 ってか、フォーマットの問題ではなく、それに属する人の覚悟の差かもしれないけど..。




 そういえばテトリスにはまってるときは世の中がテトリスに見えたり、バーチャにはまってるときには論理的な構成がバーチャ変換できたりしたなぁ..。

 



--
追記:
Economics Lovers Live:炎上俳句

いなごたち 実るいけだに 穂を垂れり   (読み人知らず)


ほだれた稲に は宿るかな  (詠み人知らず)

 
 


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2007年06月16日

...そうだ! お米さんに聞いてみよう!!(2):801とUFOと消えた純一の行方

 再びお米ちゃんのところを見ながら。どーにも気になってしまったもので吐き出しておこうかと思いまして。

 いや、調子に乗ってるようで申し訳ないのですが、どーにも気になってしまったものでお答えいただければ幸い、と。


米 - ゲイのためなら夫も泣かす


を見ながら。

「お米ちゃん、今日も爆走中だな」、とか思ってほのぼのしてたんだけど、このエントリのぶくまを見つついろいろ気になって..


はてなブックマーク - 米 - ゲイのためなら夫も泣かす


id:yosituneさんの提唱する「801」芸ということでコンセンサスを得たみたいでぼくもそれに同意なんだけど、



 801というのは矢追純一と関係あるのだろうか?



矢追純一 - Wikipedia


 もちろん、<「や」まなし「お」ちなし「い」みなし>、の同人三原則を練りこんだものというのは知っているのだけれど、「801」と「矢追」のできすぎた符号がちょっと気になって..。



 というのも、「矢追」=「UFO」=「Unidentified Flying Opinion (未確認飛行物体)」、ということなんだけど、「UFO」って「ウフォっ!」とも読めるわけで....


 ということはこれにつながるのかな、と


※よいこはみちゃだめだよ!


カラフルくそみそてくにっく♪


 そして、変異体としてのこれかな、と


四次元テクニック


 「ペンタゴン」−「ブラックホール」−「UFO(ウホッ!)」−「801」というできすぎた符号....


 そしてそこに「801≠ゲイ」という同語反復的な強調が重なる...




 あまりにできすぎた符号で某X筋の人に登場願うしかないかなと思っていたんだけど、幸いお米ちゃんは邪気眼の所有者であるということで、この謎も軽々解いてくれるかもしれない (「お米は何でも知っている」って児童書があったようななかったような)



 ところでお米ちゃんの掲げる「美」・「知」・「心」が「や」・「お」・「い」に見えてしょうがないです ><






--
蛇足:
そういえば「お米」=「およね」とも呼べますね。
ペンギン村のばぁさんの名前かな?

年とってからも使えるリサイクル名前で地球に優しい感じ。



あと、ウチの電子亀(id:morutan)の提案もそれほど見当はずれでもなかったようで。「801」とあわせて考えるとさしずめokome_chanは「801系自虐私怨屋」ってとこでしょうか?

であるならば

是非とも豪雨の中泣きながら「群青日和」を歌っていただきたい! (下僕のたらこ隊も一緒に)




 
ぜんぜん関係ないけど沖縄のケンタは食べ放題オプションがあるそうです。(それで沖縄人はぷくぷく)


名古屋かなんかのケンタにもあるとかないとか..。
 
 









posted by m_um_u at 05:38 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月15日

なぁ、げぇむをやろうじゃないか!

 ♪もーお いーくつねーるとー.....


 そうです。もういくつも寝るほどでもなくヤツがやってきます。


いただきストリートDS
いただきストリートDS
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 6月21日発売ということで一週間を切りましたね ♪


 いやぁ、ゲームで楽しみになるなんて久々だなぁ...。


 いたストはぼくのゲーム史上でもけっこう上位にランクされているものなのでほんと楽しみ。


 っていっても、スーファミ版の「いたスト2」とPS版のいたストしかやったことないのですが、まぁ、それなりにやりこんだかなぁ、と。

 プレイスタイルとしては、無限ループできるエリアで破産を限界値まで設定して対戦相手全員が3〜4回ぐらい人生送れるぐらい追い込むのが好きです。

 っつか、コンピュータ対戦ではそんな感じだけど、対人戦は少ないので少し自信ないかも..。ぷよぷよの階段連鎖をマスターしたぐらいの腕前なのではないかとひそかに不安を抱えています。(ドキドキ)


 そんなこんなないただきストリート(通称:(相手が)痛スト)についてはこんな感じなのですが、今回はニンとエニクスの共同ということで赤・緑兄弟がキャラで使えるようですね。


 ぼくはスライムと竜王とヨッシー、ワリオ辺りで悩んでいてこの兄弟を使う気はまったくないのですが、この兄弟をかけて勝負するというのも面白いかもしれませんね。

 というのも、この兄弟にはウラストーリーみたいなのがあってどうしてもそれが思い浮かぶので。個人的にはこの辺からの影響が強いのですが



はまり道
はまり道
posted with amazlet on 07.06.15
吉田 戦車
アスキー (1994/03)



 赤い服を好んで着る変態配管工と兄への強いコンプレックスを持つ緑色のヒョロ長い弟との心温まる兄弟愛を中心としたゲーム4コマです。


 ってか、ここでは赤いヤツは赤い服さえ着てなくて、大体においてブリーフ一丁なんですがね。(変態だから)

 当時は「ドクターマリオ」が発売されて間もないころだったので「毒マリ」ネタを中心にストーリーが組まれています。んで、ピーチ姫は姫ではなく看護婦(ナース)さんとして登場してます。もちろんピンク色のナース服で。

 んで、ピーチナースという良心だけ残して後の登場人物はみんな変態です。

 リンクさんも変態(というかちゅーぼー?)だし、ほかの生物を食べてその能力を取り込むという特性をもった丸くてピンク色な生物も出てきます。

 特に丸いピンク色のやつの本当の姿(その邪悪さ)は実際、本を手にとって確かめていただきたいです。(おもいだしただけでも....あぁ怖い..)


 おそらく名前を言うと呪われます。



 そんで、いたストにはピンク色の丸いヤツも是非ともキャラとして加えて欲しかったのですが、今回は参加してませんね...。

 隠しキャラとかで出ないかなぁ。そしたらぼくぜったいつかっちゃうのになぁ (← ピンク色のやつに思考が同期してきている)



 あ、それで緑色のヤツに話を戻すんですが、こんなネタが出てました


livedoor ニュース - 【トレビアン】ついに判明! マリオの本名はマリオ・○○○!


 「マリオ・マリオ」ということで..。


 ということはですね。緑色のやつの存在はどうなってしまうのか?、ということです。



 緑色のヤツというと、設定的に「兄との間に越えられない壁を感じている脆弱でヒョロ長い弟」ということで、たださえブラコンを抱えているのにですよ? ここで本名が「ルイージ・マリオ」ということになってしまうともう.....






 不遇ですね。苦しいですね。悲しいですね。



 でも、そんな苦難を乗り越えて強く生きてい...(くのかな?)






 とりあえず、ぼくはこの変態兄弟を絶対使いたくないので、ここはひとつこの兄弟の権利というか、「逆争奪杯」みたいな感じで勝負しませんか?

 「まけたやつが赤・緑兄弟なー」、みたいな感じで。



 幸い福耳さんには既に勝負の約束を取り付けてあるので、お手合わせの際にはそんな感じでお願いしたいです。


 
 あと、そんな感じで対戦相手順次募集中です。(まだ買ってないけど)


 アレですよ?


 経営学のせんせーを経営学に近い領域でボコボコにできるチャンスかもしれませんよ?


 今回はピクトチャットである程度会話もできるようですし、負けた福耳さんに対してさまざまなねぎらいの言葉をかけてあげることも可能です

 「今日は調子が悪かったんだよ」とか「経営学とゲームは関係ないよね」とか傷口に塩を塗りこむような感じでw



 もしくは、それこそふろむだすくてぃるどーんさんみたいに


 「けーえーがくってやくにたたないのー?」


 って直球放って神経逆なでするも良し



 あるいは、全員が「ふろむだすくてぃるどーん」と名乗って福耳さんに対戦を挑むことで心理的プレッシャーをかけるとか....(ふろむだすくてぃるどーん祭り!)


 そして、そんな福耳さんがみょーなコンプレックスを抱える緑色のやつをキャラとして使うことで相乗効果が発揮されるわけです。

 

 って、反対に返り討ちされるかもしれませんが...。

(そして、福耳さんとの対戦の誘因にはなっても、ぼくと対戦する理由づけとしては薄いですね.......む゛ー)






 まぁ、とりあえずそんなこんなで

 



 いたスト楽しみだぁ
 
 
 


 あと、同系列で「カタン」をDSに移植してほしいんだけど....なんとかならないですかね?
 






タグ:ゲーム
posted by m_um_u at 19:28 | Comment(6) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

礼儀とセキュリティ

A wise man gets more use from his enemies than a fool from his friends.
-- Baltasar Gracian








 んじゃ予告どおり。セキュリティと礼儀の話について少し。



 礼儀っていうのは元々お上品なものではなくてセキュリティのためのものだということについて、認識できている人が少ないように思う。


「敵と味方を分けるためのもの」


って感じで、外交上のコミュニケーションにおける手形のようなものとして発展したのが礼儀(プロトコル) 
(※戦国時代も同様  cf.「茶道に通じて兵隊を死なせずにすむなら安いものよ」)


プロトコルというのはコンピュータ用語として有名だけど、元々は外交用語で「共通の外交儀礼」って感じのもの。

なので、この儀礼をマスターしていない人たちは外交上の付き合いからはじかれる (参加させてもらえない)



そうやってノイズをはじきつつ、プロトコルが分かる人同士で外交なコミュニケーションをするわけだけど...

外交なので当然そこにはウソも含まれる。

「礼儀の中に隠されたウソ」って感じの。


「表ではこう言いながらもウラでは..」みたいなの


でも、そういう「ウラ」的なものも重要だけど、やはり外交上のプロトコル交換では表のコミュニケーションによって親密さを演出する部分が大きいように思う。

某国の首相がプレゼント交換したり...(うんぬん)とか


んでも、某国の首相と某国の暴れん坊は敬称なしでファーストネームを呼び合ってて、そういうフランクな関係を結べることこそ友好関係の証だって見られがちだよね?

こんな感じで

Ohno blog(2007-05-27):一日一回ファック

「罵倒を許せる間柄こそ(うんぬん)」ってのがある


 これって「礼儀(プロトコル)交換こそ重要」って話からはぶれるんじゃないの?



 いいえ、ぶれません



 たしかに、一部の人はそんな感じで本気で忌憚のないコミュニケーションをしているのだろうけど、そうではない人々もけっこういる。そこでは一見フランクな関係が見せられているけど、それ自体が演出であり、すでにタテマエ的なコミュニケーションの範疇に入っている。


 「アメリカ人はやたらホームパーティに誘いたがる。転勤先でホームパーティに招かれるようになってこそ友好関係が結べた証拠だ」とかなんとかよく言われるけど、あれ自体既にタテマエコミュニケーションの一種らしいし。((C)life)



 そんな感じで、現在においては「一部のフランクな関係」というのもプロトコルの一種なのだ。


 それは外交上のコミュニケーションだけではなく、日常の、たとえば中高生のケータイコミュニケーションなんかにも見られる。


 もともと「ケータイの番号を教えあう」というのは打ち解けた証で、それに伴う「メールなどを通しての頻繁な交流」というのも親密さの表れと思われていたんだけど、現在ではそういった頻繁な交流自体が「仲良さ」を演出するためのプロトコルとして機能している。

 「仲良さの示威的表現」って感じ


 メールや会話の内容のみならず、「返事が返ってこない」とか「レスが遅い」などの微細なところから相手との距離感を測る。


 それ自体がひとつのメッセージ(プロトコル)となるため、「できるだけ早く返信しなきゃ」、って感じのコミュニケーションへの拘束が生まれる。


 これはいわゆる「mixi疲れ」という現象にも見られるもの。

 例の「読み逃げ」だのなんだのなんだのもこういう文脈から出てきたものと思われる。



んで、


 そういった場がうざくなったコたちがプロフとかAbout Me、twitterみたいなコミュニケーションを強制されないチャネルに逃げていく。






 さておき、そんな感じで「コミュニケーションにおける明示的行動 / 非明示的行動には敵・味方を分かつ要素がある」わけだけど、この辺の話についてほかの文脈からもう少し。


 たとえば武道において「礼を重んじる」とかいうのももともとはこんな感じで、闘争の領域においては「礼」自体が敵・味方を判別するツール(レーダー)として機能してきたことに由来するように思う。


 「武」とは相手を叩きのめすための技術ではなく、「矛を止めると書いて"武”」という言葉にも代表されるように防衛のための技術なので、「できるだけ争わないほうがいい」ってのはどの武道にもデフォルトな思想のように思う (※一部例外)。

 なので、武道において「争わないですむ相手を判別する技術」、あるいは「相手と争わないようにするための技術」としての礼儀が重視されるのは当然のことのように思う




 ほかに例の「江戸しぐさ」の話とかあるな


 江戸しぐさについてはまだ読んでないけど、この前著者の方が出演されていたpodcastを聞いて概要はわかった。

 いままでの話と関係する部分について言えば、「さまざまな礼儀の意味というの相手を思いやること (敵と思わせないこと)が一義的なものとされる」、ということ。


 つまり、「セキュリティのための合理的なtips(所作・作法)こそが礼儀」、ということ。



 若者なんかはその辺のことを意識したことがなくて、単にかっこつけのための技術だと思っていた人が多いみたいで驚くのだそうだ。





 先の文脈に絡めれば、そういう驚きというのはやはり平和ボケなのかなぁ、とか思う。


 敬語や礼儀の意味というものが分かっていないし、人との距離感がつかめない(他人の間合いに不用意に入る - こちらの進行方向にまっすぐぶつかってくる)などというのは、明らかに「ゆるい」のだろう。


 やばいところだったらそれだけでアウトだ



..まぁ、こちらがなめられてるというのもあるのだろうけど。
(っつーかそういう人たちって前とか、後ろ見ずに行動するよな)







 あと、距離感に関して言えば「デバイスの進化に身体の時間・距離感覚が追いついていかない」系の話にも関連するように思う。



 っていっても、「テレビとかケータイがアホを量産する」、ってそんな単純な話ではないと思うけど



 アホの下地ができてたところにそれを加速させるツールが入ってきた、ってだけなのだろう。

 あるいは、「アホアホな時代潮流がそういったメディアの登場を望み、それにあわせるように最適なデバイスが開発され、流通していく」、ということ






.....そういうものだ (by. K.ヴォガネット)





とりあえず、

「礼儀は大切にね !」(親しき仲にも礼儀ありだよ)、

って話でした




--
追記:
あと、勘違いしないでほしいのは、

「やっぱり礼儀作法をわきまえない阿呆とはつきあえないわよね(オホホホホホ)」、

な感じの敗訴でえすたぶりっしゅな排除主義というわけではなくて、

「礼儀の前段階として人の気持ちを慮(おもんばか)る思いやりの心というものがあり、そういうのがないひとはちょっとね..」、

ってことです。

(心のない様式美は美ではなく空っぽなハコって感じ)


そして、それはセキュリティ(あるいはビジネス)という合理性にも通じる
 

「空気嫁」だのいうのは本来そういう問題だと思います。

 
 
 
posted by m_um_u at 09:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

ネコの神様 (reprise)

 東良さんの新潮社出向blogが今日で最後とのこと。フィナーレを前にこのエントリが気になった。


奇跡の猫|猫の神様


 前のエントリでも引かせてもらったけど、なんか..じわじわっと来るエントリ。


 「猫の神様を恨んでいたぼくのところに神様の使いが来て....それでぼくは神様(世界)と和解したんだ」


 そんな感じがする



 以下、猫の神様とセレンディピティと最後の瞬間について。



 猫の神様というのは日本だと招き猫なんかが挙げられるけど、世界的に有名な猫神はエジプトのネコ女神バステトだったりする

古代エジプトの猫崇拝


 これはネコがネズミをとってくれる益獣だったことに由来する。特にエジプトのような過酷な土地では「作物は人の命よりも重い」という認識があって、作物を荒らすネズミの害獣は忌み嫌われていた。

 ネズミは伝染病も運んでくるしね。


 ネコはもっとも効率よくネズミを捕ってくれるハンターだし、家畜化することも可能。そういうわけで世界最初のイエネコはエジプト起源であり、そこから「ネコを飼う」という習慣が広がって行ったらしい。


 そういうわけでネズミ対策が発達してないころはネコは人間の暮らし(財産)を守るために本当に必要な動物だったわけで、各地域で大切にされてたんだけど

 「ネコを神様にする」という地域はエジプトぐらいしかない。(というか少なくともぼくは知らない)



 この理由は上述したように「過酷な地域」ということもあったのだろうけど、「獣を神にする」ということにそれほど違和感がなかった土地だったからかなぁ、とかなんとなく思ったり。

 死を司る神(アヌビス)は犬だし、月と太陽と天空を統べる神(ホルス)はフクロウ(ハヤブサ?)だし..。

ChaosPanic-エジプトの神々



 エジプトでは智慧の神はフクロウじゃないのか..。(ちょい「へぇー」)


 そういえば智慧の神ってなんでフクロウなんだろう?

 「ミネルヴァの梟は夜羽ばたく」とかなんとか...


 「夜のほうがお勉強しやすい」とかそんなのだろうか?



 あまり関係ないけど、インドのポスト中流(下層中流から上層中流に上がろうとしている)人々は夕方6時ぐらいから八時間労働して、昼に専門的な教育を受けるのがふつーなんだそうです。

 夜は電話オペレーターみたいな仕事をして外国人(アメリカ人)の相手をしてそれから昼もお勉強、と。


 この人たちの場合、梟は昼に羽ばたくのかなぁ..。






 セレンディピティについて。


以前に書いた日記の通り


「奇跡に遭遇する能力」って感じのもの

 あるいは「おもろいこと」でもいい。



 猫の神様の場合はどうか..?



 上述してきたように、猫の神様というのは元々「倉庫の番人」が転じて「財の守護者」という性格が与えられているように思う。

 なので日本の場合「招き猫」って造形(icon)がされているのだろう。



 東良さんの出会ったのが、ほんとうに猫の神様の使いであったのなら、東良さんにはこれから幸運が訪れるのかもしれない。

(そしてそういった幸運(奇跡)をつかめるかどうかは本人のアンテナ次第、と)



 と、同時に「猫」と「死」、「猫」と「冥界」との関連でちょこちょこと思うことがあったり...。


 ひとつは「銀河鉄道の夜」、もうひとつは「因幡山」。


 「銀河鉄道の夜」はいわずと知れた宮沢賢治の猫鉄道物語なわけだけど、物語的には冥界への旅を意味している。

 そこでは、ジョバンニは親友のカンパネルラと一緒に冥界旅行に旅立つわけだけど途中で追い返されてしまう。


「きみはまだやることがあるだろう..?」


って。



 基本的な構造としてはヨモツヒラサカからのイザナミ奪還物語と同じなわけだけど、こちらの物語にはなにかさわやかさのようなものを感じる。それはなぜか?


 おそらく「銀河鉄道の夜」は死への旅であると同時にジョバンニの内面へと深く降りていく物語でもあったからだろう。


 列車の車窓から見えていた風景はジョバンニの心象であり、ジョバンニの潜在意識を通して見た世界(あるいは生命と死、人生)の投影だったのだろう。


 いじめられっ子のジョバンニ少年(宮沢少年?)が自らの立ち位置を振り返るために見た白昼夢のようなもの。


 それを通じて少年は深い内省を試み、世界と(自らの内に閉じられた)セカイとの接点を見出していく。


 その意味でこの物語は死と再生の物語とも言える。




 東良さんの体験もそれに少し似ているように思う。



 自らの心をギリギリまで追い詰めることを通じて、自分と猫(外界の世界)との関係を再確認し、最終的には世界とセカイを融和させている。


 東良さんはこの本を「私小説の形式をとった」とおっしゃっていたがおそらくは限りなくノンフィクション的な緊張をはらんだつくりになっているのだろう。

 そうしないとみャ太に申し訳ないので。


 それによって主観と客観の間に架け橋がかかる。

 それこそセカイと世界を繋ぐための形式と言ってもいいかもしれない。




 最後に現れた太った猫はその架け橋を通って来たのかも。





 そして因幡山。




たちわかれ いなばの山の峰に生ふる

松とし聞かば 今帰り来む







 因幡山は鳥取にあるそうだ


百人一首ゆかりの地:鳥取県

稲葉山は国府跡から約2kmの位置にある標高249mの山。山麓には130基あまりの古墳がある。

宇部神社の背後に見える。

* 【所在地】鳥取県国府町
* 【アクセス】JR山陰本線「鳥取」駅下車、「中河原・栃本方面」行きバスで15分、「宮ノ下」下車




 歌的には「別れを惜しむ」(「あなたを待つ」)という歌なわけだけど、もうひとつの意味があるらしい




もっけ(勿怪) 3 (3)
もっけ(勿怪) 3 (3)
posted with amazlet on 07.06.15
熊倉 隆敏
講談社 (2004/03/23)




によると、猫は御山に修行や奉公をしに行くことがあるらしい。その奉公を終えると霊性(霊格)が高まり仲間内での位が上がる。

 因幡(稲葉)山もそんな山の一つ、と。



(ネコが時々いなくなるのはこれと関連しているとか何とか)




 と、同時に因幡山は「去なば山」でもあるらしい


 「去(い)ぬ」 =「その場所から去る」=「(どこかへ)行く」


 去ぬるための場が「山」である、と。



 「去ぬる」とはどういうことなのか?



 端的に言えば「人の前から姿を消す」(= 死んで存在を亡くす)ということだろう



 「ネコは死ぬ姿を人に見せない」とも言われるけど、山というのはそういう場所なのかもしれない。

(民俗学的には山は異界への入り口だったっけ?)




 「もっけ」でもその辺りのことが描かれていて、「山(あるいはネコの集会所)はネコの癒しの場所であると同時に、人間にとっての異界を表す」、と示されていた。


 そこでのネコはいつも見るネコとは違った、自分達の知らないネコなのだろう。


というより、


 自分達の知っているネコとはなんだったか?、ということが改めて問われる。



(東良さんも書かれていたが)ネコがほんとになにを考えているのかなんか分からないので。そういう意味では永遠の他者といってもいいのかもしれない。



(犬よりもネコのほうが「人になつかない」=「なに考えてんだか分からない」=「他者」性が強いように思う)






 そういえば「もっけ」にも東良さんのところででてきたようなやけに大きなネコが出てきた。


 東良さんが見たのはほんとに異界との通信使のような存在だったのかもしれない。





あと蛇足的に


 日本においてネコ神さまと言えばこれがありますね

セブンアンドワイ - 本 - ねこ神さま   1


 ねこぢるさんは残念だったけれど、もしかしたら異界に旅立った(ずれた)だけで、けっこう面白おかしく暮らしているのかもしれない。(@因幡山)



タグ:ネコ
posted by m_um_u at 08:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月14日

もってけ! 化粧廻し( + 猫神 + ギロンの前提条件とは..? の三本立てだよ!)

 たまにはblogらしく他人様の気になるエントリをサラっとご紹介してみようかと...。(できるだけ短く!)

 
 以下、特に時限系エントリで気になっているものを中心にご紹介です。


 まずはこれから

Same Shit Different Day - 『大相撲ダイジェスト』は遠い昔

 某業界では枕投げがはやっていたようですが、こちらでは札束投げというか、札束に釣られてお相撲さんが舞い踊るというか..。(宝生舞?) 

 てか、上手出し投げならぬモロ出しって感じですね。


 具体的にはリンク先で見て(聴いて)いただくとして、

気配が危うくなったら、エントリーごと消す予定。


 とのことですので、「ご利用はお早めに!」



 内容としては「もってけ!セーラー服」ならぬ「もってけ! 化粧廻し」って感じです。


 そういうわけで上記のエントリについてはこちらをテーマ音楽としてお送りします





 てきとーに力士編に脳内変換してお楽しみください (ちょうど4力士いるし)


 
 次に、同じく時限系で


 以前お伝えした東良さんの新潮社blog「猫の神様」が明日で終了とのこと。んで、終了を前にこんなエントリをアップされていて気になりました。


奇跡の猫|猫の神様


 内容としてはみャ太との最後の日々について。そして、その瞬間を迎えたときの心象などを中心にお話されています。

 ネコ人間としては共感するところの多い内容なんですが、中でも気になったのは後段の記述。

 みャ太を看取って呆然としていた東良さんのところにそれまで見たこともないような巨大なネコが現れ、なにげにひざの上に乗った、というところ。

 東良さんはそれまでみャ太をあんなにも苦しめた猫の神様を恨んでいたらしいのですが、この猫が現れひざの上に乗ったときに「これは神様の使いなんじゃないか..?」と思ったのだそうです。

 そして僕は思ったのです。この猫は、猫の神様のもとへと続く、天国への階段の門番なのだ。そして猫の神様の使いなのだと。だから、恨み呪い続けた僕を、猫の神様は赦してくださったのかもしれない──と。



 これはともすると荒唐無稽な過剰なセンチメンタリズムのように受け取られるかもしれませんが、こういう奇跡はありえるのではないかと思います。

...なんというか....人にはそれぞれ奇跡のような瞬間があって...そういものは他人に話しても荒唐無稽だったり、「よくあることよ(あなたの思い込み)」、とか言われるかもしれないんだけど、そういった奇跡を奇跡と感じられるからこそ奇跡が近づいてきてくれるというようなことがあるように思うのです。

 そしてそれは「神のご利益」とかそういった類のものではなく、人それぞれになにかじんわりとした意味をもたらしてくれるというか...

 大げさに言えば、「世界はまだ閉じられていないんだ」、と思わせてくれるような..そんな体験のように思います。

 
 そして、ネコはそれを感じ取れる生き物のように思う。不思議とネコはそういう場面に居合わせてくれるので。




...なんか長くなりそうなので次のエントリに移ります。こちらも時限もの


kikulog: 敵の敵が味方とは限らない


 『「敵味方概念」にとらわれると、冷静な議論ができなくなります』ということでいろいろと思い当たる節が多い人もいるのではないでしょうか?(自分も含めて)


「敵の敵は味方」と思いこむのか、ニセ科学を擁護するために「もっとニセなもの」を仲間にしようとする人がいます。だから「敵味方概念」にとらわれてはだめなんですが、とにかく、それは自分の主張の信憑性を「弱める」効果しかありません。たとえば、菊池を批判しているからといって、あの人のサイトなんかを肯定的に引用するのは戦略的に損だと思います。
二分法ではだめですよね。「敵の敵だけど、自分にとってもやっぱり敵」ということなどいくらでもあるわけです。



 「一緒になって石を投げるな」というか「一緒になって石を投げてるからといって信用するな」というか...

 てか、それ以前に


 「多数派的な動員を得られるからといって違和感を感じる言説に自らを落とし込むのは却って不利だよ」、ってことですよね。


 これは科学的な議論..というか、議論そのものの前提条件のように思います。


 「人格や経歴、集団を問わずにその人のその時点での論理に対して論理を闘わす(応えていく)」ということですね。


 そういえばもうちょっとしたら福耳さんところでもなんか議論が始まりそうですね。


福耳コラム - fromdusktildawnさんとの対論


 中心的な議題としては、「経営学は後付けの学問ではないのか?」、ということで経営学のみならず学問(学術)全体に共通する課題のように思います。

 関連としてこの辺とか


『街場の中国論』を読む。 - カフェ・ヒラカワ店主軽薄 - 楽天ブログ(Blog)


 「専門知があったとしてもすべてを見通せるわけではない。むしろ分かるところと分からないところを判別できるようになるところにこそ専門知の意義がある (その意味では「ない」を知ることが重要)」、という感じのエントリ。ソクラテスっぽいですね




 で、対戦相手のfromdusktildawnさんは今週末あたりのエントリに向けて力をためている、ってことなのかな? (「ふろむだすくてぃるどーんはちからをためている」


 
 どちらにせよ興味深い議論なので見守っていこうか、と。



 その際、前述したように「どちらかの敵・味方」という視点・立場ではなく、議論を冷静に見つめ、その有効性を自分なりに吸収できるように努めたいと思います。

 ってか、なにか興味があったら合いの手入れるかもしれないけど、その際に「どちらかの味方」って形にならないように気をつけたい。



 そんなことを思います。




 んで、ギロンといえば.....はてなの某所でもなにか論争っぽいものが沸きあがってるみたいですね。


 詳しくは触れませんが、関連でyomoyomoさんがこんなエントリあげててちょっと気になりました。


YAMDAS現更新履歴 - ブロガーの行動規範、はやはり無理なのだろうか


 例の「bloggerの行動規範」関連ということですが..

 これらの前段階としてblogosphereとpublic sphereの関係があるように思います。


 以前にも少し触れましたが、blogosphereという考え方は元々はハーバーマスに代表されるpublic sphereの考えからきているものです。

 代表的テキストの場所はちょっといま失念してますが(※必要があれば検索します。ログはとってあるので)

 アメリカの批判理論系の研究者(もしくは院生)がblogの意義を考える際にハーバーマスの概念を援用したんですね。

 「blogは現代の公共圏(public sphere)だからそれに見合ったルールを採用してギロンやコミュニケーションを深めていく必要がある」、って感じで。

 なので「ブロガーの行動規範」として上げられているものもそれに準じているように思います。

 「そんなの学術の話で一般人のblog倫理綱領はそれとは独立に立てられたもの」と思われるかもしれませんが、学術的に通底するパラダイムは知らない間に一般社会にも浸透している、ということがけっこうあるんですね。

 学術というのはArtの一種なわけでArtistというのは社会のアンテナなわけです。そういう意味では学術的な場で社会全体のパラダイムを感じ取って表出するということはけっこうあるわけですね。んで、それが再帰的に社会に還元されていくというか...あるいは「学術」という場を介さずにパラダイム(あるいはそれ以前の時代精神のようなもの)だけが浸透していくというか...そういうことはよくあります。

 んで、今回のblogger倫理綱領ですが、この辺の話は学術的にはだいぶ前に通り過ぎてます。((C)烈海王@バキ)


 
 で、その内容についてですが


 公共圏でのコミュニケーションにおける基本原則は、「独立した市民同士の自由で偏見のない対話」、って感じです。

 「そこでは身分・階層・宗教・人種(...etc)などといった区別はなく、誰でもギロンに参加できる」、というもの。

 
 その際、ハーバーマスが基本としたのは、「コミュニケーション的合理性」、という価値でした。


 コミュニケーション的合理性とは、「誰でもコミュニケーションを通じて分かり合いたいという欲求を持っている。そういう価値に向かって理性を働かせていく志向性がある」、とする考え方です。
 

 
 しかし、現時点でyomoyomoさんやはてなの皆さんが困っているのはそういうことではないですよね?



 「誰でも"分かり合いたい”ということが一義的な価値にくるとは限らないのではないか..?」

 皆さんはそのように思っておられるはずです。



 ぼくも以前そのように思って、ハーバーマスの考え方とは距離をとるようになりました。


 なんというか......コミュニケーション的合理性という考え方は他者を前提としてないんですよね。


 人文系の用語で「他者」とは、「それぞれに違う価値観がある(誰もンが分かり合えているようで最後の最後では分かり合えない)」、とするような考え方です。

 ただし、「分かり合えない」ということを前提とすることで却って他者を尊重するということになります。


 どういうことかというと、「他人も自分と同じ(≠自分の考え・価値を分かれ!)」という考え方はけっきょくは「自分」を「他人」に押し付けて、世界を自分で染めていくという考え方ですよね?


 それに対して「他者」を前提とする場合は、「他人は自分とは違う」ということを前提としているので、どんなに仲良くなろうとも最後の一線のところで「他者性」を意識して不躾な踏み込みはしないのです。


 で、そういった距離感を保ちつつ相手と自分と共通する部分を探しだし、その部分を中心に情報を交換していく。

 これが「他者性」を前提としたコミュニケーションのように思います。



 その際、重要なのが共通のインタフェースということになります。あるいはプロトコルと言ってもいい。そういう共通して交換可能なものがなければコミュニケーション(言語的交換関係)は成り立ちませんよね?


 ぼくの場合はこういったプロトコルのひとつに「礼儀」というものが入るように思います。



 この辺りでリンク先のyomoyomoさんの課題(ブロガーの規範)とギロンが被ってくるわけです。



 ついでに言えば「礼儀」とはお上品なtipsであるだけではなく、セキュリティにも関係してくるように思います。


 この辺りのことは既に別稿でまとめてあるので後でアップ(リンク)します。




 加えて言うなら、「ギロンで発せられた言説はその時点での論理のみによって判断されるべき」という基本原則について、個人的には少し違和感があります。もちろん論理の正当性自体から言説の有効性を測るつもりはあるのですが、やはり無礼な人に対しては「無礼な人なんだな」という目を持ってしまうのは当たり前のことのように思います。
(※他人に対しても自分に対しても無礼な行為・言動をする人は嫌いです)


 論理性自体は尊重するようにしますが、そんな感じで一定の警戒が発生してしまうのは仕方のないことなのではないでしょうか? 簡単に言えば、無礼な行為をする人が自らのハードルを高めに設定している、ということですね。本人が「ハードル高めでいい」といっているのだからハードル高めでよいのではないでしょうか?

 つまり、その人の論理に対してある程度厳しい視線を持ってしまうのは仕方のないことだと思います。



 
 それとは別に個人的課題として、


 そういった他者性を前提としてある程度の距離を保ちつつ、ある一定の関係性を深めていくにはどうしたらよいのか..この辺がぼくの課題のひとつです。

 
 具体的に言えばこの辺ですが


まなざしの快楽 - なぜ「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処されるのか


 この人のエントリ内容は「ある一定の距離感を保つ」という前提があるのは分かるんですが、そこからの踏み込みが感じられません。


 次の次のエントリでは同じ題材を扱った小田センセのエントリと比較しながら、その辺りのこと(他者と関係の間)について考えてみたいと思います。

 
 
 


 











posted by m_um_u at 20:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月13日

お米ちゃんと「米吐き娘」はなんか関係あるんですか?

 以下、たいしたことじゃないんですが、なんかいろいろと気になってしまったもので。


 ちょっと前からはてなのお米ちゃんって人が気になってまして。


米 - みんな私をオカズに使うといいよ!!


米 - 「ごめん、俺、彼女いるんだ」


 見ての通り、けっこうオトコマエ...というか自虐系文化女史って感じの方なんですが、みょーにハイテンションだなぁ、と。


 んでも、いまは息を潜めておられるようなんですが、まぁ、その辺はどーでもよくて。


 思うのはこの人ってやっぱりあの人なのかなぁ、と


あの人



 ここまで行かなくても、やっぱ額の真ん中に「米」と書かかれていたり..もしくは、感情が高ぶると「米」と言う字が表れたりとか..そういう系の人なのかなぁ、と思って。



 で、ちょっとぐぐってみたんだけど..


 これ関連の人なのかなぁ





 profileとしては


米(おこめ)の自己紹介


なまえ:米(おこめ)
たんじょうび:1993年6月30日
おうち:埼玉のさいたまです
ねんれい:12さい
しんちょう:136せんち
たいじゅう:33きろ
けつえきがた:A
しゅみ:おえかき
ぱそこん:G4キューブと自作パソコン
すきなもの:おいしいもの
きらいなもの:えっちなもの
もうてん:たべすぎるとお腹を壊します
かぞく:お兄ちゃんお姉ちゃんがいっぱいいます
じょうびやく:肝油ドロップ
にっか:家事全般



 って感じと。

 件の「お米ちゃん」的にはこんな感じで


快方治療アーカイブ


 ラーメンズとかシティボーイズが好きな方みたいですね (なんだか某女史を連想します)


(あまり関係ないけどラーメンライスは太りやすいらしいですね)



 
 あと、同人ってところも被るんですが、ぐぐ結果によると「お米ちゃん」ってけっこういるんですね


お米ちゃん - Google 検索 (米 約 11,900)


 ファミリーとか

スーパーお米ちゃんファミリー





.....なんでしょう..。ぼくの知らないところでお米振興計画とか持ち上がってたのでしょうか。


 そしてキャラ萌え的に世論誘導というか、「資源浪費が少なく生産効率の良い米を中心に自給自足を!」、みたいな運動なんかが立ち上がっていたのかなぁ、とか。


 んで、これを思い出したわけですが


米吐き娘 1 (1)
米吐き娘 1 (1)
posted with amazlet on 07.06.13
古林 海月
講談社 (2005/01/21)



山田みのりは米吐き娘
1日に3〜4回
年間360kgの精米を吐く

 

 という惹句そのまんまのマンガです。


 最初は「精米を吐くというわけのわからない特殊体質を持つ娘の日常」って路線でしたが、途中から神話系の文脈を取り入れて「豊穣の女神オオゲツヒメの血統を受け継ぐ娘っ子による妖怪トラブル解決物語」って路線に乗り換えたみたいです。


 オオゲツヒメとは


オオゲツヒメ - Wikipedia

オオゲツヒメ(オホゲツヒメ、大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神)は、日本神話に登場する神。

名前の「オオ」は「多」の意味、「ケ」は食物の意で、穀物や食物の神である。

古事記においては、国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の阿波国の名前として初めて表れる。その後の神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれたとの記述がある。阿波国の名前が大宜都比売とされていることについては、阿波を穀物の「粟」に掛けただけの後附けともされるが、逆に穀物神の大宜都比売が祀られていた国であるからアワの国と呼ばれるようになったとする説もある。

高天原を追放されたスサノオは、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求め、オオゲツヒメは様々な食物をスサノオに与えた。それを不審に思ったスサノオが食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗いてみると、オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、オオゲツヒメを斬り殺してしまった。すると、オオゲツヒメの頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。

オオゲツヒメは古事記において五穀や養蚕の起源として書かれているが、日本書紀では同様の話がツクヨミがウケモチを斬り殺す話として出てくる。



 って感じみたいですね。


 この「スサノオに殺された」というところにびみょー感があります。


 おそらく国津神系の原始神の一人で、天津神からすると「妖怪」とされる一派に属するんじゃないでしょうか? ストーリー的にはそのあたりのことを考慮したほうがいいかもしれませんね。


 「わたしも妖怪だったんだ」とか「オノレ、本当の敵は天津神だったのか..!!」的なところに「農協」とか「松岡大臣」とか「農林水産省」とかの文脈を絡ますことができたらたいしたものだと思います。


 あと気になったこととしてウィキペディアの後段にこんな記述がありました

穀物・養蚕の神として信仰されるが、後に同じ穀物の神である稲荷神と混同されるようになり、ウカノミタマの代わりに稲荷社に祀られていることがある。



 例の稲荷との関連ですね


muse-A-muse 2nd: 人形考 (欠落と神聖)



 「なんでも稲荷につながってるのか」って感じはするんですが、考えられるのは天津以前の「神」的な要素を信仰対象とするときに「稲荷」という方便を用いたのではないか、ということです。


 そのままだと「妖怪信仰するな」とか言われますからね


 こういった「方便としての神話」というのは「読み替えられた神話」ということでこのあたりの話にも通じてくるように思います。


Sound and Fury.::メルの本棚。 - 斎藤英喜『読み替えられた日本神話』


神話は各時代にいろいろな読まれ方をしてきた。そして、神話を読み替えたのは、何も近代に限ったことではない。神話を読み、そこから自分たちの手で新たな神話を生みだす。そうした人々の豊饒な想像力に驚かされる。著者は、あとがきのなかで触れているように、中世に生みだされた自由奔放な神話に注目している。しかも、中世の人々は単に荒唐無稽な神話を生みだしていたわけではないことにも注目している。神話の書き換えが、中世ヨーロッパに通じるような「神学」とも呼べる知的営為であったことを指摘しており、思想史的にも非常に興味深い。神話の書き換えは、神とは何かという思考に繋がっていたのである。このような知の場は、近代的なイデオロギーからは見えてこないと著者は言う。まったくその通りであろう。





 はたして「米吐き娘」さんやお米ちゃんはそういったものになり得る...(のか? σ(^^;)




 

--
追記:
あと、どーでもいいことですが「米吐き娘」の中には例の健全な中学生に血飛沫を上げさせるマジカルワード「お米券」も出てきます。

ふつーに、さらっとした文脈で。


(失礼ながら)全体的に作画がアレな感じでゆるゆる感漂うマンガではあるのですが、このあたりにも狙ってんだか狙ってなんだかなんだかよくわかんないゆるさを感じます。



作者にはぜひとも「なに考えてんだかわかんない」路線で突っ走ってほしいものです。(お米ちゃんのように)



もしくはバイオ系マンガ「もやしもん」路線と接続してくれてもいいかも。


てか、二ノ宮 知子(のだめの作者)的ゆるさを感じる。(二ノ宮も農業系マンガ描いてたな)

 
「もやしもん」と「のだめ」は相性いいので、やっぱそっち系路線が良いのかもしれない。(っつーことはポイントはサブキャラだろうな) 
 
 
タグ:農業 腐女子
posted by m_um_u at 21:03 | Comment(2) | TrackBack(2) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月12日

ある喫茶店の経営からSocial Shoppingについてダラダラと考えてみた 

 福耳さんのところ経由で現役の喫茶店主の方のblogとサイトを見る。

福耳コラム - ある喫茶店の戦後史


江川珈琲店の日記


コーヒー豆の通信販売なら エカワ珈琲店のホームページ 


 ホムペのほうは福耳さんの言うようにちょっとさびしい感じがするけど、日記のほうはお人柄がうかがい知れてなんかほのぼの....というわけでもないか。まじめにお店の経営を考えておられる様子が伺える。


 ってか、やっぱこれかな

純喫茶コロナ盛衰記 和歌山の小さな喫茶店の歴史です

 1955年創業から現在に至るまでの珈琲店経営戦記が書いてあって、元珈琲屋の息子としては興味津々。


muse-A-muse 2nd: 珈琲は「もう一杯」?


 時期的にもウチと被るし「テレビなんかを置いておいて客寄せに使った」ってのもなんかいろいろ思ったり..。ウチは元々、電器屋だったらしいので。でも、珈琲屋には電化製品はあまり置かなかったみたいだけど (ラジオとかレコード、ステレオぐらいかな)。

 じいちゃん、ばあちゃんは当時のことをそれほど語らないのだけれど、「ウェイターとかウェイトレスを雇ってけっこう大きくやっていた」、って聞いたことはあるので江川さんのところと同じような感じでやっていたのかもしれない。

 
 そんで、いろいろノスタルジックな雰囲気に浸りつつぼけーっと眺めてたんだけど、やっぱ現在のこと考えないといけないなぁ、とか。

 で、「やっぱこの前福耳さんところで出てきた会員制の話とかかな」、とか思って見直してみるに


福耳コラム - 独立自営サービス業のマネジメント本としてはベスト「ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する」


 あれ? なんか福耳さん怒ってる..?


わざわざ「ソーシャル・ショッピング」なんて意味不明な(ソーシャルじゃないショッピングってなんなのよ)、新語を作らなくても、人間は誰かとつながりたい、仲良くしたい、そんな当たり前のことを見落としていた人が多すぎるんですよ。特にIT系の人の空疎な人間観・社会観が滲み出た文章を読むと、慄然としますね



..ふむ..やっぱこの前の「ふくみちゃん」が効いたのかな。。(それほど冗談が通じないのかもしれない)


 まぁ、確かに湯川さんとかはノリで新語増設しすぎちゃう嫌いはあるけど、これってsocial mediaの文脈なので...。まぁ、めんどくさいから説明しないけど(怒ってるみたいだし)。


 とか言いつつ、ほかの人も見てるだろうからいちお説明すると、social mediaというのは「一方通行的なmass mediaから、もうちょっと双方向のやり取りや集合知やコミュニティ的なつながりを活性化させるようなメディアに変えていったほうがいいんじゃない?」的な流れのこと。流行(?)の言葉で言えばweb2.0とかそんなのに代表される例の流れの一種と思ってもらってもいい。あと、そこにyoutubeみたいなのとかSecond Lifeみたいなマルチチャネルが加わっていく。

 この辺の説明は長くなるのでまた別項で。いちお誤解のないように言っておくと、わたし「ムヤミな新語濫造には反対」派ですから。


(っつーか、福耳さんは沸点低すぎなんだよね)


 んで、まぁ、なんか誤解があるみたいだけど、ITというのは「IT化しちゃえばなんでもうまく行くぜ!」的なものではなく、「それやるんならこういうやり方もあるよ」っていうツールのひとつだ。

 分かりやすいのがいまぼくらが使ってるblog

 これなんかも最初のころはその新規性を理解してもらえずに困ったものだけれど、いまはみんなそれなりに活用していると思う。

 最初のころの説明(とそれへの返答)をいちお書き出すと、


「html記法知らなくてもメール感覚でかけるから楽なんです」

>「ふーん。そういう新しい言葉ってweb cultureだと次から次へと出てくるよね」


「いや、このメール感覚でwebのlogを気軽に共有できるっていうのが新しいんです。情報表出・発信までで物怖じがないというか...」

>「情報共有ならメルマガでいいじゃん。なんでweblogっていう新しい言葉使うの?」

「いや、メルマガよりも気軽なんです」

>「いや、メルマガも気軽だよ。あれで十分だと思うよ」

「....使ってもらったら分かると思うんですが...」


>「いいよ。どうせまたてきとーな流行の新語でしょう。レポートでまとめてきて」





(以下略。ちなみに2003年ぐらいだったかな)








 ...例のよくある風景ってやつですが、こんな感じでIT系のことを毛嫌いする人って同じようなレトリック使うんですよね。


 いや、それほどたいしたものではないってのは開発者とかその周辺スタッフも分かってると思うんですよ。でも、そういった中でなんらかの新しい発見・感覚・便利さみたいなのがあって、やってるうちに面白くなって、人が増えて新しい使い方が生まれていく、ってのがIT系のuserendでの普及動態だと思います。



 とはいいつつも、福耳さんがあごひげを生やした山賊に複雑な感情を持つ気分ってのはなんとなく分かるんですけどね。IT系で上記してきたようなことを認識してる人は少ないでしょうから。っつーか、件のblogの意義がわからなかった人もちょびヒゲ生やしてたけど。




 閑話休題 



 んで、social mediaについてですが、湯川さん的にはこの辺からの流れなんですよね


湯川鶴章のIT潮流 powered by ココログ: 広告専門検索&SNS「Balihoo」


ウェブのパラダイムが検索からソーシャルメディアに移行しようとしているけれど、完全に新しいパラダイムに移行するにはソーシャルメディアのマネタイゼーションが不可欠、ということを最近あちらこちらで話している。要は次の広告テクノロジーが新しい時代を作るということなんです。



 これに関しては、知ってる人は知ってると思うけど、例のGoogle, Yahoo, AOL and MSNによる広告ネットワークの寡占化の流れが背景にあります。


Advertising's death is greatly exaggerated - MarketWatch

 
 具体的に言えば、GoogleのDouble Click買収が決定打だったんですね。これによって業界構造が激変しようとしてます。(地味に)


 鈍い人は気づいてないでしょうが、検索エンジンというのはモロにマスメディアとかち合うメディアです。それは例のEPIC2014 (2015)でも明らかにされていたはずだけど、そのことを現実感をもって認識できている人は日本には少ないように思います。

 それに対して、既存メディアを代表して立ち上がっているのがNYTならぬNewsCorpです。


Murdoch's Role as Proprietor, ., Journalist and Plans for Dow Jones - WSJ.com


 上記リンクはWSJによるマードック爺へのインタビューという直球ストレートみたいな内容のものですが、この中でマードックはGoogleの脅威、Facebook、MySpaceの力(可能性)について語っています。


 70を超えた爺が一番その辺のことを理解して、恐怖を抱き、積極的な行動に出ているのです。


 その意味が.......たぶん分からないでしょうね。


(まぁ、その辺については別項で)



 で、話を元に戻すと、


 ウェブにおける広告ネットワークの変化(マネタイズの導線の一つの変化)に応じて、それの表出形態であるsocial mediaにもなんらかの変化があるのではないか、と湯川さんは見ているようです。

 お金の導線ができるということはそれだけ流れが速くなるということですから、いままでは空疎な計画だったものも実効的なオプションに変わってくることでしょう。

 っつーか、NewsCorpなんかは実際に、MySpaceで得た資金を元手にいろいろポートフォリオ組んでるみたいです。

 Socialなものはいまのところチンチクリンでわけのわかんないものが多いけど、できあがったものではない分コストはかからないんですよね。なので実験的に資金を投入できる。(「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」、ってね)

 当たらなきゃ当たらないで、本業には影響ないですし、「当たれば儲けもの」って感じなんでしょう。



 そんで、件のsocial shopping (福笑)ってのはさっきもいったようにweb2.0的なシンジケーションを重視するみたいですね。


湯川鶴章のIT潮流 powered by ココログ: ソーシャルショッピング


ソーシャルショッピングというのは

タグづけとか、ブックマークとか、マッシュアップとか、web2.0っぽい流行の技術や仕組みを取り入れたもんなんだと思うけど、このブログによると、既に結構多くのサイトがあるみたい。でpapative.jpさんは「ソーシャルショッピング系のサイトは国内外みても、どうも大ブレイクしそうな臭いがしない。なんとなくだが、今、各社が同じように機能を強化したりしているサービス方向では、行き詰まりが来るような気がしてて、まったく違う考え方が必要なんじゃないかと思う。」というように昨年末の時点で結論づけている。




 んで、湯川さんご自身もそのすごさ(wao effect?)についてよくわかってなくて、プレゼンテーターのガートナーもはっきりその辺のことについて言ってないみたいなんですよね。


 この辺は上記してきたように「blogも海のものとも山のものともわかんないものだったように使ってみないとわかんないかも」ってのもあるでしょう。


 でも、ほんとに単なるビッグマウスってこともあるかも。


 そういや別件だけど、socialって言えば踊る新聞屋さんのところでこんな案が出されてました。


踊る新聞屋−。: [SBS]はてブを「Memeorandum化」する


 目利きブックマーカーによるはて部ニュース自動化案って感じです。「質の高いエントリの共有化」関連ということではこのエントリにつながりますね。


muse-A-muse 2nd: blogの可能性とblogセンターの必要性について (reprise)


 ながれでこんなのもできたみたいです


読むべき記事を推薦してくれるRSSリーダー「SocialFeed」、リアルコムがグローバルで公開 - CNET Japan



 んで、こういうのはsocial mediaによるモノとカネの交換にも応用できるように思います。(モノの部分を情報に換えればいいので)


 マスコミュニケーション論的にはオピニオンリーダーによる情報の二段階効果説とか普及学なんかが該当領域ですね。(流行の言葉で言えば、アーリーアダプターとかインフルエンサーとかそんなのです)


 そんな感じでsocialなものは口コミによる自動宣伝効果を生むように思うんだけど、

 本題に返って、こういったものが珈琲店などの実店舗で応用可能なのか?



..........びみょー...かな



 っつか、例のAmazon関連の用語「クリックアンドモルタル」とかの流れだと思うんですが。
(※<「クリック」なネット店舗だけじゃなくて、「モルタル」作りの実店舗ももたないと信用とかその他つかないよね、って話>)


 以前にちょっと考えたのは、Amazonなんかはモルタルもたなくて機能してるんですよね。

 倉庫は必要だけど、実店舗で運営する必要はない。


 そんな感じで、ネット通販メインのところって実店舗持つだけムダなんですよね。余計にコストかかるだけだし。それほどの宣伝効果もないし。


 ただ、よく言われるように、実際の店舗のほうが回遊性とか「ついでに買っちゃう効果」みたいなのは得られやすい。

 実店舗の場合、この「ついでに買っちゃう効果」を得るために店の雰囲気を演出する必要があると思うんです。

 
 付加価値によるロックイン効果というか、みょーなチェーンを作り出すというか...。


 バリューチェーンなんてのはサプライ側の用語だけど、これに似たような感じのチェーンができるんじゃないかな、ってちょっと思ったり。(っつーかこういう現象をあらわす用語はあるんでしょうね)


 顧客間インタラクションの場合は、「コミュニティのユーザー同士が勝手に口コミ(宣伝)してくれる」、ってことでまた違うんだろうけど、


 最初のほうに登場した「会員制サービス」で生まれるであろう効果としてはこの辺が当てはまるように思います。


 まぁ、そんな難しげな用語使わなくても単に「ご近所付き合い」とか「常連付き合い」って言っちゃえばいいんですけどね


 とりあえず会員制サービスの領域というのはコミュニティ運営のノウハウに通じるんじゃないでしょうか?


 ネットコミュニティ運営に関して。以前に少し調べたことがあるけどあれから少しは発展したのかなぁ...。(最近チェックしてないので)

 

 そういうののポイントはやはり、



・ユーザー同士の交流の自由度はなるべく上げておくこと
(「顧客ニーズに合わせる」とか「顧客ニーズを作る」とかではなく、「顧客が遊べるようにサービスを細かく切っておく(自由度をあげておく)」って感じ)


・ホストの役割は、ユーザー同士の交流に装飾して、交流を演出するということ
(アマチュアな交流からプロな交流へ ⇒ その代金としてホストはお金がもらえる)


・ホストの一義的な役割はユーザー間のトラブルを肩代わりすることにある
(探索・取引コストの代替。ユーザー間のトラブルに対してクッションになること。お金の流通の胴元になる。さまざまなアイデアを演出し、具体化する)



 って感じだったと思います。


 これはオープンソース系のネットコミュニティの原則だったけど、リアルコミュニティにも応用可能なんじゃないでしょうか?



 てか、リアル / ヴァーチャルなんて捉え方自体がもはやそれほどの有効性があるとは思えないんですけどね。



 んで、お店の付加価値(雰囲気作り)関連ではこんなのを見ました


PingMag - 東京発 「デザイン&ものづくり」 マガジン » Archive » アフロコーヒー:コーヒー文化革命


 店ごとのオリジナルグッズで「私だけ(わたしたち)の店」感を演出する、って感じなんですが、文中にもあるように

共同経営者は、1人は国際的な広告代理店のネットワークを持っていて、もう1人は世界的なブランドを開拓、所有している人物



 ってことなのでちょっと特殊事例っぽいですね。


 ただ、「店の雰囲気作りの演出」ってのはけっこうお手軽にできるように思います。

 こんな感じで

Tシャツメーカー


....もとい、こんな感じで!


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 っつーか、個人事業者の方ならもっと安いルート見つけたほうがいいかもしれないけど。




 あと、蛇足的に、この辺も参考になるかもしれません。


On Off and Beyond: デジタル時代ミュージシャンの収益構造


 「インディーズミュージシャンの収益経路の開発」ってことで個人のお店とは関係ないように見えるかもしれないけど、ネット経営のことを考えたことがある人ならわかると思いますが、ここであげられている「流通・保管・決済」の一元システムは驚異的です。

 「決済」をリースしているところはよくみるけど発想と保管って..。




 こんなのが日本にもできてくれるといいのに....。(..ドラえもん)




 あと、さらに蛇足的に


social shoppingっていうか、「ウェブでまとめ買い」系って言えばファッション関連ですかね


kakihara.org - blog : 高速消費経済から「文化」は生まれるか - 東京カワイイ★ウォーズ

ITmedia News:「もはや対等」 ファッションで競い合う日本と中国


 例の、「ケータイサイト(TGC?)でまとめ買い」、ってやつ。



 ファッション関連でこういうことが起こるのは「地方にはファッションアイテムがあまりない」ってことにも関連しているように思います。なので、「買えるときに買っときゃなきゃ」ってなる。


 その際、どういったweb designでまとめ買いへ誘導しているかってのがポイントだと思うんだけど、その辺は見たことないです。


 
 
 


posted by m_um_u at 18:54 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月09日

信じるということ

Skepticism, like chastity, should not be relinquished too readily.
-- George Santayana



I don't want to sound Pollyannaish, but I hope that out of a tragedy like this something good will come. I hope we understand we're one family.
-- Madeleine Albright, Making Sense of the Unimaginable, O Magazine



Middle age is when your broad mind and narrow waist begin to change places.
-- E. Joseph Crossman




The best index to a person's character is
(a) how he treats people who can't do him any good, and
(b) how he treats people who can't fight back.
-- Abigail van Buren











「それでもまだ疑いの気持ちを持ってしまうの..?」


と純粋が問う。


「あなたにはもう焦りも劣等も、優越も気負いもなかったのではないの..?」




 

 そういった気持ちとは別に、人の気持ちに対する疑い..というか、人の気持ちを悪いほうに考えてしまう傾向がウザったい。

 以前はその気持ちに流されてしまっていたけれど、いまはそれを対象化して認識できる。...みょーな雑味というか、ベタっとしたもの、どんよりとした黒いものが心に貼りつくのがウザったい。

 

 けっきょくは人との関係なのだろう。そして、おそらくその疑念は半分正しい。

 対して人は、「人を疑うな」、という。でも、「疑い」ではなく「推測」でありその予想は大部分において正しいのだ..。それは単に警戒意識ということではないのか..?「疑うな」という人はぼくに人間の盾にでもなれというのだろうか?

 

 無神経という暴力。鈍感という暴力。そういったものに対して身を曝し、自分をささげるだけなんてことはぼくにはできない。生きるために、生き残るためにぼくは主張する。

 自分にとって違和を感じるもの、不快に感じることをできるだけ正しい言葉で説明し、相手との妥協点を探る。それ以前に、言葉すら通じない相手から身を守るために鎧を着る。(あるいは鎧を着ないという姿勢を見せることによってそれが鎧となる)

 

 でも、その鎧自体がぼくの気持ちを押しつぶしていくというようなことがあるのだろうか...。

 

 というよりも、単に距離をとればよいだけなのだろう...。それが歳を重ねるということなのだ。




muse-A-muse 2nd: ひぐちアサ、2001、「ヤサシイワタシ」




 「信じるということ」について、ひぐちはきわめて真摯に、懐疑的に取り組んでいる様子が伺える..。

 理由もなく、「ともかく人を信じなきゃダメだよ」、というのではなく、人を信じるということ、信じることができるようになるにはどのようなプロセス(きっかけ)が必要か、ということについてひぐちなりにいくつかの試行を繰り返している。


 それはおそらく単純な...とても単純なことなのだろう..



 手をつなぐということ、肌を重ねるということ、

 そういった単純な人の温もりのようなものを通じて、言葉以前のなにかを感じる..


..感じられるのかもしれない





 でも、それらもきっかけの一つに過ぎなくて、情況によっては響いてこないものなのかもしれない。


 たとえばガッコの教室で特に信頼感を寄せていない教師から、「やはりスキンシップが大事だよねー」、などといわれても白けるだけだ





 なので「おおきく振りかぶって」ではひとつひとつのきっかけについても「これが絶対」という形ではなく、試行の一つとして出してきているように思う。


 そして、絶対的な信頼を寄せられる大人の存在がそこにはある





 まだ序盤しか読んでいないので分からないけど、この「絶対的な信頼を吐き出してくれるなんでもボックスのような大人」という設定は後半にかけて崩れていくのだろうか..?

 「大人はなんでも知っている頼れる存在」ではなく「先生も悩みを抱えた一人の人間なんだ」って感じで


 それへの気づきによって信頼の伝播は変わってくるのだろうか





 「絶対的な信頼を寄せられる人」という立ち位置は宗教における神の位置に似ている。


 とすると、人は他者への信頼を保つために神をあがめようとするのかもしれない。


(「マジメにやりたいときにマジメな人が側にいると安心する」)







 でも、「おお振り」のそれは絶対的な正しさというのともまた違って、生徒達も一定の距離感をもって先生の言葉を聞いているみたいだけど。つまり、「この人のこの部分についての言葉は信頼に値する」、みたいな感じで。


 それは「聖職としての教師を神聖化する」というような信頼の過剰という形での依存ではなく、一人の人間として教師に接し、コミュニケーションをしていくという姿勢ともいえる。




 そういった形で、「神」的なものは人間化できるのだろうか




 そして、ぼくにはそういったものが必要なのだろうか..








 人ではなく、契約としてなら存在するけど

 それがなにか言葉を発してくれるというようなことはない




 でも、最終的に還る場所という気はする..。








 home.....か


 
 


posted by m_um_u at 06:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月04日

ネコと生きる

金蓮さんとBigBangさんの影響で東良さんの「猫の神様」に興味を持って読もうかなって気になってます。


藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 私の好きなあの人は、いい男です。


BigBang: 「猫の神様」----失われていく命と性と「美しい文章」



 で、とりあえず氏のblogをフィード登録してざっと見てこんなエントリが目にとまりました。


『猫の神様』内容紹介|猫の神様


 「内容紹介」ということでそのまま本の内容紹介。十年と八ヶ月一緒に暮らした愛猫ぎじゅ太にささげる本。


猫返し神社へお参りに行ってきました|猫の神様


 飼い猫が迷子になったときにお参りに行くと帰ってくるかもしれない神社について。立川市にあるらしい。



仲の良い二人|猫の神様


 ぎじゅ太とみャ太が仲良く重なって寝てる様子。猫好きからすると意外というかちょっと珍しく感じます。けっこう仲良しになれないネコって多いもので。そういえばウニさんのところのネコもそんな感じだった


 ウニさんのところには恩姫(ウニ)ちゃんという先住ネコがいたのだけれど、そこにもろもろの事情で外ネコを預かることになったんだそうです。でも、ウニちゃんが動揺するのでご友人に託されてたそうなのだけれど、治療の甲斐なく息を引き取ったとのこと。


壊れる前に…: 猫を悼む


 フィードリーダーでチェックして気づいたときにはエントリからしばらく経っていたのでお声をかけられなかったけど....いまさらながらではありますがピッポちゃんの死を悼みます。




 ネコに限らず動物と一緒に暮らしている人はみんなそうだと思うけど、家族の一員なので。



 そして再び東良さんの「猫の神様」を思うとともに、保坂和志の「生きる歓び」のことを思いだしたり。



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 「猫の神様」についてはBigBangさんのエントリから引かせてもらいます。


この本を猫好きの孤独な男による単なる述懐や感傷と読むのは、おそらく正しくない。ここに描かれているのは、失われていく命に対峙する私たちの普遍的な心のようなものであり、その喪失を人はどうすることもできないという、やりどころのない不可解な悲しみである。


猫の命が失われていく傍らで、筆者はアダルトビデオを幾本も見て、その評論を書く。失われていく猫の命を見つめながら、片方で男と女の営みを見ながら原稿を書く。その違和感について苦痛をともなって告白している。

「ごめんな。俺が悪かったな」と言い、みャ太をベッドに寝かせ、飼い主はアダルトビデオを観てそのレビュー原稿を書く。正直、こんな時に男と女が絡まりあう画面を見るのはしんどい。でも、それが僕の仕事なのだ。AVを観て原稿を書き、また原稿を書く。こんな時でもしっかりと腹は減る。俺は本当に、バカのように健康だ。この食欲の十分の一でもみャ太にわけてやりたい。

生きていくことと死んでいくこと。その間に挟まった軋みのようなものを感じる。
共通するのは、単に「命」というものであって、それが「誰のものであるか」ということは別の話であるのだろう。人であるとか。猫であるとか。




 「たかがネコ」とか「ネコのことよりも大事なことがある」と思う人もいるかもしれませんが、「生きる歓び」にこんな一節があります。


(15-16)
アフリカでもアジアでも中南米でも飢えて死ぬのを待っている子どもたちがたくさんいる。だから、私がいまここで立ち去ってしまっても、世界全体で起こっている生き死にには何も関係がない、と言って、さっさと立ち去ることもできるし、そんな子猫ごときにかかずらわっているヒマがあったら、世界の難民救済の募金にでも行った方がいい ―― というのは一見正しい理屈のように見えるかもしれないけれど、じつは全然正しくない。
 それは世智にだけ長けて、わかったようなことを若いタレントに向かって頭ごなしにしゃべる、50すぎの関西芸人の理屈にとてもよく似た理屈で全然正しくない。そういうバカな理屈を出す人にかぎって世界の難民や植えた子たちへの募金をするわけではないということではなくて、人間というのは、自分が立ち合って、現実に目で見たことを基盤にして思考するように出来ているからだ。人間の思考はもともと「世界」というような抽象ではなくて目の前にある事態に対処するように発達したからで、純粋な思考の力なんてたかが知れていてすぐに限界につきあたる。人間の思考力を推し進めるのは、自分が立ち合っている現実の全体から受け止めた感情の力なのだ。そこに自分が見ていない世界を持ってくるのは、突然の神の視点の導入のような根拠のないもので、それは知識でも知性でもなんでもない、ご都合主義のフィクションでしかない。



 ぼくはネコを斬ってまで世界を救おうと思いたくありません。(甘いのだろうけど)


 「世界を救う」とかそういうところとは違うのかもしれないけど、でも、目の前の小さなこと(「世界」からすると小さなこと)を放ってまでなにかを救ったり、得ようとは思いません。

 一つ前のエントリでも言ったけど、ぼくにとっての「善」はしょせん自己満足の領域を出ないものでしょう。ぼくにとっては「それをしなければ気持ちが悪いのでする」程度のものです。それは社会のためにがんばっている人々からするとはなはだ志の低いことのように思われるかもしれないし思われても良いのだけれど、

 でも、ぼくにはあいまいな「正しさ」を大上段に掲げてなにかを抑圧するというようなことはできません。



 
 「生きる歓び」の主役である花ちゃんは保坂さんが散歩中に偶然見つけた外猫の赤ちゃんで、放っておいたらカラスの餌になるしかなかったのでやむなく連れ帰って育て始めたコでした。でも、病院に連れて行ったら結膜炎が化膿して左目は既に機能しなくなっていて、右もいちおう視力がある程度にまで弱っていた。


 「欧米だったらこんな時期に全盲ってわかったら始末しちゃんだけどね。でも右はいちおう眼球はある」


 という獣医師の言葉をききつつ、「まぁ、何とかなるというかそれも仕方ないというか」、ということで保坂さんは子猫を引き取ることにしたわけですが、長患いの鼻風邪のせいで嗅覚も弱いみたいだった。

 「生きていくために必要なものが育っていないように見えた」

 そんな状態だったみたいです。


 その中で保坂さんは、「だいたい生きるというのはそんなにいいことなのだろうか」、と思う。「生きる歓びってなんなんだろう」、と。


 生き物の場合は「まず食べ物」ということだろうけど、目の前で眠っている弱弱しい小さな子猫はミルクも飲みたがらないし刺身も食べたがらない。

 
 そんな中、ようやく食べ物をとれるようになって、それに伴い体力を回復させていく子猫の様子を見て、保坂さんはこんなことを思います。

(45)
 「生きている歓び」とか「生きている苦しみ」という言い方があるけれど、「生きることが歓び」なのだ。世界にあるものを「善悪」という尺度で計ることは「人間的」な発想だという考え方があって、軽々しく何でも「善悪」で分けてしまうことは相当うさん臭くて、この世界にあるものやこの世界で起こることを、「世界」の側を主体におくかぎり簡単にいいとも悪いともうれしいとも苦しいとも言えないと思うけれど、そうではなくて、「生命」を主体に置いて考えるなら計ることは可能で、「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。ミルクを飲んで赤身を食べて、ダンボールの中を動き回りはじめた子猫を見て、それを実感した。





 「生きることは歓び」というと過去に苦しい目にあった人や、現在も修羅を生きる人にとっては「なにを分かったようなことを」と思われるかもしれないけど、やはりそうなのではないか...と思います。


 ぼくは以前けっこう瀬戸際まで追い込まれたときに「まだ痛みや悲しいという感覚をもてるんだ」と思ったことがあって、そういうのは「無明の闇に比べれば命の灯火を感じられるだけマシ」という思いからきていたものだと思うのですが、そういうことともちょっと違って、なんというか........いまは「生かされている」という感覚を持つことがあります。


 「よくわかんないけど運良く生かされた」


 そんな感覚です。



 それは「ありがたい」というのとも少し違って、もしかしたら何かの策略でその奴隷のような状態になっているのかもしれないけれど、その感覚を思い出すことによって(あるいはその契約を思い出すことによって)、少しだけ生きる意味のようなものを感じられるのです。


 でも、それ以前のものとして「生命」それ自体の灯火のようなものを再び感じられること、その繰り返しの中で生きる歓びのようなものを実感しているのかな、とも思います。





 保坂さんの本はこの後、草間弥生の話がでてきて「ゲージツ家にとって生きることとは」って感じのテーマが展開されています(少しだけど)。

 興味をもたれた方は読んでみてください。



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追記:
タキシードを着た宝物|猫の神様


※東良さんのところに関連エントリが出ていたので追記です。ぎじゅ太も障害を持ったネコだったようです。

 
 



タグ:ネコ 生きる
posted by m_um_u at 19:57 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

羊でも狼でもなく「ふつーに生きる」ということ (reprise)

 主題はmixiで書いたもののrepriseなわけだけど、ちょっといろいろ気になるエントリがあったのでそれに絡めて再編集。自分なりに立ち位置のようなものを確認してみようかなぁ、と。

 対象エントリはこちら


赤の女王とお茶を:真実と倫理と責任と


福耳コラム - ハングリーである重荷「白夜行」



 「羊として生きる」というか「羊と狼の境界」というのは古谷実の「グリーンヒル」で出てきた主題だったように思う。



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 あるいは「シガテラ」あたりだったかもしれないけどこの主題自体は古谷作品に通底するテーマになっているのでそのへんはまぁどーでもいい。

 で、どういうことかというと

 「ふつーの人(子羊たち)は自分で考えることができないから法という囲い(線引き)によって行動を規制されると同時に守られてるんだよ。でも、一部の感じること・考えることができる人はそのラインを自分で設定できるので囲いを飛び越えていくことができる」

 ってこと。

 んで、子羊ちゃんが一部の人にあこがれるかというと・・・その辺はびみょーだったりする。

 「一部の人」っていうのは端的に言うと狼さんだ。狼さんっていうのは羊ちゃんを襲ったりするわけで、その意味では福耳さんのところに出てくるウシジマくんなんかは狼さんと言える。もしくは古谷の作品の後半部分でよく出てくる暴力を使う人々なんかがそれにあたるだろう。あの人たちは北野武映画に出てくるような人生における不確実性(不条理)の象徴でもあるんだけど、まぁ、その辺はいい。

 でも、そんな感じで弱者を食い物にしたり、そこまで行かなくても一般社会から隔絶した感じの「強い人」にならなければ生きて行けないのか?


 これが古谷の主題。


 つまり「羊ちゃん的甘さを捨てて狼になるべきか」(自らの良心を殺して不条理に目をつぶるべきか)ってことで、この辺りで赤の女王(sivad)さんのエントリの課題が関わってくる。

 
 sivadさんのエントリは


ホームレスのそばを通り過ぎたとき「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか



 という問いからの流れのようで、端的に言えば道義的責任とか良心の呵責についてのギロンのように見える。つまり「仕事とかある一定のルールに則って”しなければいけない”こと以外の部分でしなければいけないこと」に関すること。それを「しなければいけない」と思うのは良心の疼きがあるからだろう。

 個人的には解決されている問題なのでテーマの発生元周辺のギロンは確認していない。が、そのまま話を続ける。

 ここで道義的責任を考えているということはsivadさんご自身は良心がデフォルトということなのだろう。ただしそれとの距離感に悩んでおられる。というか、その汎用性というか一般化できるかどうか、ということについて。

 まぁ、つまりこういうことだが

世の中には「倫理的な責任」を

* 「感じない人」
* 「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」
* 「どうしても感じてしまう人」

がいて、「どうしても感じてしまう人」に気休めを言っても仕方ない、ということだと理解しました。


 
 で、「感じない人」と同様「どうしても感じてしまう人」も問題になる。対象への過度な共感(同情)による逆差別というか、共依存的状況に陥ってしまうので。もうちょっと言うと、「相手を自分と同等の他者として扱わずに“可哀想”な対象として扱う」、ということ。障害者に対する距離感でよく問題になる例のアレだ。その時点で差別してるわけだな。


 というわけで、ここでも「過剰性」が問題になってくる。差別の問題というのはけっきょく過剰性の問題のように思われるので。


muse-A-muse 2nd: 差別をめぐる審級について (あるいは「人権と国家」)


 蓋然的なある一定のラインに対して過剰に踏み出しているかどうか。善きにせよ悪しきにせよそれが過剰であれば「差別」というか、過剰ということになる(←同語反復)。


 で、

 その辺りのバランスをとるために中庸であり、中庸だけではなく良く生きるために生き方の指標のようなものが必要になってくるわけで、それがこの辺に通じる。


muse-A-muse 2nd: 九鬼周造、1930、「いき」の構造



 「どうしても感じてしまう人」の場合は善への指向が強くなりすぎて良心の呵責を感じるのだろうからこれを抑える方向に向かったほうが良いわけだけど、それとは逆に「なにも感じない人」というのは「過不足」ということでこれはこれで問題になってくるように思う。

 sivadさんも想像力というキータームを用いているけど、そんな感じで、「想像力の枯渇は同じ社会に住む他者に対して過不足や過剰性をもたらしているのに気づかない」、という情況を生み出す。こんな感じで


muse-A-muse 2nd: そして、セカイは世界へ還る


 それ以外に。ぼくの場合は個人的な能力の発現にも関わってくるように思っているけど。つまり「想像力の枯渇」が「認識の幅を狭める」ということ。


muse-A-muse 2nd: 「クリエイティブ」とはなにか?(「センス」、「想像力」、「創造力」について)


muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2.1): Sound and Fury


muse-A-muse 2nd: 芸術的なものへの参加資格について (関係性の再構築 承前)


muse-A-muse 2nd: フランク・ゴーブル(著)、小口忠彦(監訳)、1972、「マズローの心理学」


muse-A-muse 2nd: 格差を巡るデフレスパイラルから抜け出すには・・・



 そういうことがあるように思うけど、この辺は実証されてるわけでもないのでなんともいえない。あと、9.11のように掛け金をケチったことが廻り回って災厄をもたらすということもあるように思う。



 で、


 そんな感じで想像力の枯渇は個人の生活(可能性の発現)、社会生活(安定された将来)の両方にとって不利益をもたらす可能性があるわけだけど、その辺のところについて、ある程度「見えてる」(と思われる)人間からすると「・・迂闊だなぁ」と思われる人がいても「それはその人が満足してる人生なんだからそれでいいじゃないか」と福耳さんはおっしゃる。

 まぁ、確かにギャンブルだけの人生でも、「酒に酔っているときだけがバラ色だー」とかいうのもその人の人生であり、ヤギ男のように「なにも考えずに生きるのが幸せだー」っていうのも幸せの尺度というのは人それぞれなわけだから別に良いと思うけど。さっきも言ったように、それが社会全体の不利益に関わってくるとなると話は別だ。


 われわれは好むと好まざるとに関わらず社会の構成員として繋がっているわけで、民主主義的な投票によって一蓮托生って感じになってるわけだ。なので、誰かの決断やそれ以前の怠惰が自分に関わってくることもあるわけ。

 そういうのは正直かんべんしてくれと思う。

 功利主義的に考えればそんな感じで、それ以外にもっと純粋な良心の問題もあるわけだけど。これはなんかよく分からん。生得的なものか、環境要因による後天的なものかよくわかんないけど、とりあえず自分の中にそういうのを気にする気持ちがあって、それが「なんかしろー」とか「見過ごすのかー」とか言ってウザったいのでなんかやる。それだけのことではないか?

 別に深く考える必要はなく、自転車が倒れてたら直すし、ごみが落ちてたらゴミ箱に捨てるのと同じように、なんか痛い目にあってる人を見たら自分のできる範囲でなんかする、ってことではないか?

 過剰性の話に戻れば、過不足が生じている部分を埋めて元に戻すということだと思う。



 で、それとは別にsivadさんのところの課題、「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」のモチベーション(モラル)をどのように上げて持続させていくか、ということがあるわけだけど・・・。この辺はびみょーなように思う。


 sivadさんが後段で匂わせているように、拙速に「これが善(正しい)」と決めつけるのではなく、「できること」「やるべきこと」「やっといたほうがいいこと」って感じでもろもろのことを峻別して、その時々の状態に合わせてリソースを投下していけばよいのではないだろうか?

 疲れて倒れそうなのにムリに座席を譲る必要はないし、老人を背負って横断歩道を渡る必要もない。


 「できる範囲」とそれをすることによる「良心への効用(便益)」を計算して行動すればよいのではないか?



 
 で、福耳さんのほうに戻るけど



 こういってはなんだがどうも福耳さんは気にし過ぎのように思うんですよね。カサブタを剥ぐように無用のネガティブフィードの自己言及をするというか・・。

 いや、失礼なのは承知で言ってるんですけどね。


 いままでのぼくの考え方を見ると「弱肉強食」的な世界にあわせるための最適化って感じに見えて気持ちが悪いものを感じるかもしれませんが、でも、やっぱそうなのではないでしょうか?

 いまの日本社会なんかは特にsurvive的な情況なわけで、そこで生き残るために自らの行動指針をhackすることの何が悪いのか? とか思います。


 ネガティブにはまらず、功利で動けるところは功利で、あるいは合理で済ませるところは合理で済ます。それは富とか名声とかのジコジツゲンってことではなくて、単にsurviveするための指針です。つまり過剰性によって失われたもの(あるいは失われてしまうかもしれないもの)を取り戻すための地味な闘争です。

 ウシジマくんの場合は狼になって人を食らおうとしているわけだから傍からみると過剰性が生じているように見えるかもしれないけど、こちらでも書いたように、彼自身がそうしなければ生き残れない情況にあった(あるいは継続中)わけです。

 なのでその選択自体はせめられるものではない(「その人生になにか問題はあるのだろうか?」ということです)。

 その上で、そこに他者に対する過剰性が生じる可能性がある。その辺りの落とし前を真鍋自身がどのように描いていくかが見物ではあるけれど。


 で、それとは別に「ウシジマくん」というマンガを見ている視線というのはどういうものか、という問題がある。


この作品を読んでいる平均的な読者は、ウシジマ君たちの世界からどのくらい距離があるのだろう。おそらくは、「いくらなんでも俺はこんなに馬鹿じゃねえよ」と安心してDQNたちを「見下す快感」に酔う「安定した中流」の人たちばかりだとしたら、それもちょっとなんか浅ましい風景であるように思う。



 まぁ、この辺なわけですが


[mixi] 闇金ウシジマくん | 名言集。


[mixi] 闇金ウシジマくんの奴隷くん


 でも、同時にこういう感想を持ってる人たちもいるんですよね

[mixi] 闇金ウシジマくん | この漫画読むと気分が沈みませんか?



 sivadさんの言葉を借りれば「感じない人 / 感じる人 / 感じるけど切断できる人 」 って感じなのかもしれません。



 で、まぁ、そういう人々のことを思ったりもするけど、それもあまり思いすぎるというのもびみょーで、あくまで自分のセキュリティに関わる範囲ってことでよいのではないでしょうか?



 で、この「思いすぎる」って部分。過剰な良心と悪意は似たようなもの(たぶん共依存だから)ってのは上述しましたが、そんな感じでなにかを思いすぎて空回りするってのはあるように思うんですね。


 猫蛙さんに言わせるとこういうことなのだろうけど


ネガティブな人にお勧めの「おぎやはぎエミュレーター」とは何か? - 好むと好まざるとにかかわらず - 楽天ブログ(Blog)


「自分自身の人生を楽しく生きるのは素敵なことだよ。そんなガチネガティブだと辛くなるんじゃないか。好むと好まざるとにかかわらず死ぬまで生きなきゃいけないわけで、だったら楽しく生きたほうがいいじゃん」・・・といわれてもネガティブな人間には無理なのは凄くわかる。



 この「ネガティブな人間には無理なのは凄く分かる」というのはすごく分かります。


 で、猫蛙さん的には「おぎやはぎメソッド」ということで「とりあえず褒めていけばなんかリズムが作っていけるんじゃね?」って感じでそれ「よかった探し」((C)ポリアンナ)ですね。


 でも、まぁ、そんな感じなんじゃないか、と。


 猫蛙さんの言うようにアーリーアダプター2.0な人の指針ってのは元々ネガな人にはちょっとムリな感じがする。(自分も含めて)


 でも、ネガってのはネガってことでそれだけだと写真は現像できないわけです。



 どっかで踏み出さないとね。



 そういや、「ネガ(闇)を見つめ過ぎるな」、関連で吉田健一爺の名作「東京の昔」の解説にこんな一文がありました。


東京の昔
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(211)
その第一は「人が裸になった時」のような「見るに堪えないないのであるよりも見るべきではない」ものを過大に評価して「深淵が覗いていると思ったり」しない態度である。考えてみればこのどちらからも離れた、強がりや残酷趣味やえせミスティシズムは、われわれの周囲にうんざりするほど見つかるのではなるまいか。その種の荒廃を排しているところに、吉田氏のひそかな倫理性があると私には思われる。




 これは物語後半で主人公が昔冬にみたときに「寂れ方があまりにも無残だった」と思った池をもういちど見に行った場面で思ったことを抜き出したもの。

 もういちど見たときは前ほど寂しく感じなかった。それはなぜか?

 前に見たときはいわば池の裸の状態を見てしまったのではないか?

 そういうものは池だけではなくわれわれの周囲に幾らでもあるものだ。


 「そこに深淵が覗いている」と思っていろいろ考えたりする人もいるのだろうが、それ自体がなにかおかしな考えにとりつかれているのだろう。


 誰もが死ぬときが来るときまで死にたくないのと同じように、望んでおかしな考えにとりつかれることもないのだ。





 そんな感じではないでしょうか


 「粋の構造」的に言えばアップ系の過剰性(「上品」や「ハイソ」のようなエスタブリッシュ)や、ステレオタイプや俗的な定型から距離をとることの指針を考える際のヒントのように思います。



 あ、それで「ふつーに生きる」ということの指標として、「粋」であり、江戸モードがあるように思うわけです。まぁ、その辺は後述ということで(たぶん)




 では、再見!





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関連:
偽装部 - コアラ・ミーツ・パンダ - 以前から古谷実に対して考えていたことを書いてみるテスツ

※「人生最大にして最強の敵は“めんどくさい”だ」





タグ: 運動
posted by m_um_u at 07:21 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク