2007年06月16日

...そうだ! お米さんに聞いてみよう!!(2):801とUFOと消えた純一の行方

 再びお米ちゃんのところを見ながら。どーにも気になってしまったもので吐き出しておこうかと思いまして。

 いや、調子に乗ってるようで申し訳ないのですが、どーにも気になってしまったものでお答えいただければ幸い、と。


米 - ゲイのためなら夫も泣かす


を見ながら。

「お米ちゃん、今日も爆走中だな」、とか思ってほのぼのしてたんだけど、このエントリのぶくまを見つついろいろ気になって..


はてなブックマーク - 米 - ゲイのためなら夫も泣かす


id:yosituneさんの提唱する「801」芸ということでコンセンサスを得たみたいでぼくもそれに同意なんだけど、



 801というのは矢追純一と関係あるのだろうか?



矢追純一 - Wikipedia


 もちろん、<「や」まなし「お」ちなし「い」みなし>、の同人三原則を練りこんだものというのは知っているのだけれど、「801」と「矢追」のできすぎた符号がちょっと気になって..。



 というのも、「矢追」=「UFO」=「Unidentified Flying Opinion (未確認飛行物体)」、ということなんだけど、「UFO」って「ウフォっ!」とも読めるわけで....


 ということはこれにつながるのかな、と


※よいこはみちゃだめだよ!


カラフルくそみそてくにっく♪


 そして、変異体としてのこれかな、と


四次元テクニック


 「ペンタゴン」−「ブラックホール」−「UFO(ウホッ!)」−「801」というできすぎた符号....


 そしてそこに「801≠ゲイ」という同語反復的な強調が重なる...




 あまりにできすぎた符号で某X筋の人に登場願うしかないかなと思っていたんだけど、幸いお米ちゃんは邪気眼の所有者であるということで、この謎も軽々解いてくれるかもしれない (「お米は何でも知っている」って児童書があったようななかったような)



 ところでお米ちゃんの掲げる「美」・「知」・「心」が「や」・「お」・「い」に見えてしょうがないです ><






--
蛇足:
そういえば「お米」=「およね」とも呼べますね。
ペンギン村のばぁさんの名前かな?

年とってからも使えるリサイクル名前で地球に優しい感じ。



あと、ウチの電子亀(id:morutan)の提案もそれほど見当はずれでもなかったようで。「801」とあわせて考えるとさしずめokome_chanは「801系自虐私怨屋」ってとこでしょうか?

であるならば

是非とも豪雨の中泣きながら「群青日和」を歌っていただきたい! (下僕のたらこ隊も一緒に)




 
ぜんぜん関係ないけど沖縄のケンタは食べ放題オプションがあるそうです。(それで沖縄人はぷくぷく)


名古屋かなんかのケンタにもあるとかないとか..。
 
 









posted by m_um_u at 05:38 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月15日

なぁ、げぇむをやろうじゃないか!

 ♪もーお いーくつねーるとー.....


 そうです。もういくつも寝るほどでもなくヤツがやってきます。


いただきストリートDS
いただきストリートDS
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 6月21日発売ということで一週間を切りましたね ♪


 いやぁ、ゲームで楽しみになるなんて久々だなぁ...。


 いたストはぼくのゲーム史上でもけっこう上位にランクされているものなのでほんと楽しみ。


 っていっても、スーファミ版の「いたスト2」とPS版のいたストしかやったことないのですが、まぁ、それなりにやりこんだかなぁ、と。

 プレイスタイルとしては、無限ループできるエリアで破産を限界値まで設定して対戦相手全員が3〜4回ぐらい人生送れるぐらい追い込むのが好きです。

 っつか、コンピュータ対戦ではそんな感じだけど、対人戦は少ないので少し自信ないかも..。ぷよぷよの階段連鎖をマスターしたぐらいの腕前なのではないかとひそかに不安を抱えています。(ドキドキ)


 そんなこんなないただきストリート(通称:(相手が)痛スト)についてはこんな感じなのですが、今回はニンとエニクスの共同ということで赤・緑兄弟がキャラで使えるようですね。


 ぼくはスライムと竜王とヨッシー、ワリオ辺りで悩んでいてこの兄弟を使う気はまったくないのですが、この兄弟をかけて勝負するというのも面白いかもしれませんね。

 というのも、この兄弟にはウラストーリーみたいなのがあってどうしてもそれが思い浮かぶので。個人的にはこの辺からの影響が強いのですが



はまり道
はまり道
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吉田 戦車
アスキー (1994/03)



 赤い服を好んで着る変態配管工と兄への強いコンプレックスを持つ緑色のヒョロ長い弟との心温まる兄弟愛を中心としたゲーム4コマです。


 ってか、ここでは赤いヤツは赤い服さえ着てなくて、大体においてブリーフ一丁なんですがね。(変態だから)

 当時は「ドクターマリオ」が発売されて間もないころだったので「毒マリ」ネタを中心にストーリーが組まれています。んで、ピーチ姫は姫ではなく看護婦(ナース)さんとして登場してます。もちろんピンク色のナース服で。

 んで、ピーチナースという良心だけ残して後の登場人物はみんな変態です。

 リンクさんも変態(というかちゅーぼー?)だし、ほかの生物を食べてその能力を取り込むという特性をもった丸くてピンク色な生物も出てきます。

 特に丸いピンク色のやつの本当の姿(その邪悪さ)は実際、本を手にとって確かめていただきたいです。(おもいだしただけでも....あぁ怖い..)


 おそらく名前を言うと呪われます。



 そんで、いたストにはピンク色の丸いヤツも是非ともキャラとして加えて欲しかったのですが、今回は参加してませんね...。

 隠しキャラとかで出ないかなぁ。そしたらぼくぜったいつかっちゃうのになぁ (← ピンク色のやつに思考が同期してきている)



 あ、それで緑色のヤツに話を戻すんですが、こんなネタが出てました


livedoor ニュース - 【トレビアン】ついに判明! マリオの本名はマリオ・○○○!


 「マリオ・マリオ」ということで..。


 ということはですね。緑色のやつの存在はどうなってしまうのか?、ということです。



 緑色のヤツというと、設定的に「兄との間に越えられない壁を感じている脆弱でヒョロ長い弟」ということで、たださえブラコンを抱えているのにですよ? ここで本名が「ルイージ・マリオ」ということになってしまうともう.....






 不遇ですね。苦しいですね。悲しいですね。



 でも、そんな苦難を乗り越えて強く生きてい...(くのかな?)






 とりあえず、ぼくはこの変態兄弟を絶対使いたくないので、ここはひとつこの兄弟の権利というか、「逆争奪杯」みたいな感じで勝負しませんか?

 「まけたやつが赤・緑兄弟なー」、みたいな感じで。



 幸い福耳さんには既に勝負の約束を取り付けてあるので、お手合わせの際にはそんな感じでお願いしたいです。


 
 あと、そんな感じで対戦相手順次募集中です。(まだ買ってないけど)


 アレですよ?


 経営学のせんせーを経営学に近い領域でボコボコにできるチャンスかもしれませんよ?


 今回はピクトチャットである程度会話もできるようですし、負けた福耳さんに対してさまざまなねぎらいの言葉をかけてあげることも可能です

 「今日は調子が悪かったんだよ」とか「経営学とゲームは関係ないよね」とか傷口に塩を塗りこむような感じでw



 もしくは、それこそふろむだすくてぃるどーんさんみたいに


 「けーえーがくってやくにたたないのー?」


 って直球放って神経逆なでするも良し



 あるいは、全員が「ふろむだすくてぃるどーん」と名乗って福耳さんに対戦を挑むことで心理的プレッシャーをかけるとか....(ふろむだすくてぃるどーん祭り!)


 そして、そんな福耳さんがみょーなコンプレックスを抱える緑色のやつをキャラとして使うことで相乗効果が発揮されるわけです。

 

 って、反対に返り討ちされるかもしれませんが...。

(そして、福耳さんとの対戦の誘因にはなっても、ぼくと対戦する理由づけとしては薄いですね.......む゛ー)






 まぁ、とりあえずそんなこんなで

 



 いたスト楽しみだぁ
 
 
 


 あと、同系列で「カタン」をDSに移植してほしいんだけど....なんとかならないですかね?
 






タグ:ゲーム
posted by m_um_u at 19:28 | Comment(6) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

礼儀とセキュリティ

A wise man gets more use from his enemies than a fool from his friends.
-- Baltasar Gracian








 んじゃ予告どおり。セキュリティと礼儀の話について少し。



 礼儀っていうのは元々お上品なものではなくてセキュリティのためのものだということについて、認識できている人が少ないように思う。


「敵と味方を分けるためのもの」


って感じで、外交上のコミュニケーションにおける手形のようなものとして発展したのが礼儀(プロトコル) 
(※戦国時代も同様  cf.「茶道に通じて兵隊を死なせずにすむなら安いものよ」)


プロトコルというのはコンピュータ用語として有名だけど、元々は外交用語で「共通の外交儀礼」って感じのもの。

なので、この儀礼をマスターしていない人たちは外交上の付き合いからはじかれる (参加させてもらえない)



そうやってノイズをはじきつつ、プロトコルが分かる人同士で外交なコミュニケーションをするわけだけど...

外交なので当然そこにはウソも含まれる。

「礼儀の中に隠されたウソ」って感じの。


「表ではこう言いながらもウラでは..」みたいなの


でも、そういう「ウラ」的なものも重要だけど、やはり外交上のプロトコル交換では表のコミュニケーションによって親密さを演出する部分が大きいように思う。

某国の首相がプレゼント交換したり...(うんぬん)とか


んでも、某国の首相と某国の暴れん坊は敬称なしでファーストネームを呼び合ってて、そういうフランクな関係を結べることこそ友好関係の証だって見られがちだよね?

こんな感じで

Ohno blog(2007-05-27):一日一回ファック

「罵倒を許せる間柄こそ(うんぬん)」ってのがある


 これって「礼儀(プロトコル)交換こそ重要」って話からはぶれるんじゃないの?



 いいえ、ぶれません



 たしかに、一部の人はそんな感じで本気で忌憚のないコミュニケーションをしているのだろうけど、そうではない人々もけっこういる。そこでは一見フランクな関係が見せられているけど、それ自体が演出であり、すでにタテマエ的なコミュニケーションの範疇に入っている。


 「アメリカ人はやたらホームパーティに誘いたがる。転勤先でホームパーティに招かれるようになってこそ友好関係が結べた証拠だ」とかなんとかよく言われるけど、あれ自体既にタテマエコミュニケーションの一種らしいし。((C)life)



 そんな感じで、現在においては「一部のフランクな関係」というのもプロトコルの一種なのだ。


 それは外交上のコミュニケーションだけではなく、日常の、たとえば中高生のケータイコミュニケーションなんかにも見られる。


 もともと「ケータイの番号を教えあう」というのは打ち解けた証で、それに伴う「メールなどを通しての頻繁な交流」というのも親密さの表れと思われていたんだけど、現在ではそういった頻繁な交流自体が「仲良さ」を演出するためのプロトコルとして機能している。

 「仲良さの示威的表現」って感じ


 メールや会話の内容のみならず、「返事が返ってこない」とか「レスが遅い」などの微細なところから相手との距離感を測る。


 それ自体がひとつのメッセージ(プロトコル)となるため、「できるだけ早く返信しなきゃ」、って感じのコミュニケーションへの拘束が生まれる。


 これはいわゆる「mixi疲れ」という現象にも見られるもの。

 例の「読み逃げ」だのなんだのなんだのもこういう文脈から出てきたものと思われる。



んで、


 そういった場がうざくなったコたちがプロフとかAbout Me、twitterみたいなコミュニケーションを強制されないチャネルに逃げていく。






 さておき、そんな感じで「コミュニケーションにおける明示的行動 / 非明示的行動には敵・味方を分かつ要素がある」わけだけど、この辺の話についてほかの文脈からもう少し。


 たとえば武道において「礼を重んじる」とかいうのももともとはこんな感じで、闘争の領域においては「礼」自体が敵・味方を判別するツール(レーダー)として機能してきたことに由来するように思う。


 「武」とは相手を叩きのめすための技術ではなく、「矛を止めると書いて"武”」という言葉にも代表されるように防衛のための技術なので、「できるだけ争わないほうがいい」ってのはどの武道にもデフォルトな思想のように思う (※一部例外)。

 なので、武道において「争わないですむ相手を判別する技術」、あるいは「相手と争わないようにするための技術」としての礼儀が重視されるのは当然のことのように思う




 ほかに例の「江戸しぐさ」の話とかあるな


 江戸しぐさについてはまだ読んでないけど、この前著者の方が出演されていたpodcastを聞いて概要はわかった。

 いままでの話と関係する部分について言えば、「さまざまな礼儀の意味というの相手を思いやること (敵と思わせないこと)が一義的なものとされる」、ということ。


 つまり、「セキュリティのための合理的なtips(所作・作法)こそが礼儀」、ということ。



 若者なんかはその辺のことを意識したことがなくて、単にかっこつけのための技術だと思っていた人が多いみたいで驚くのだそうだ。





 先の文脈に絡めれば、そういう驚きというのはやはり平和ボケなのかなぁ、とか思う。


 敬語や礼儀の意味というものが分かっていないし、人との距離感がつかめない(他人の間合いに不用意に入る - こちらの進行方向にまっすぐぶつかってくる)などというのは、明らかに「ゆるい」のだろう。


 やばいところだったらそれだけでアウトだ



..まぁ、こちらがなめられてるというのもあるのだろうけど。
(っつーかそういう人たちって前とか、後ろ見ずに行動するよな)







 あと、距離感に関して言えば「デバイスの進化に身体の時間・距離感覚が追いついていかない」系の話にも関連するように思う。



 っていっても、「テレビとかケータイがアホを量産する」、ってそんな単純な話ではないと思うけど



 アホの下地ができてたところにそれを加速させるツールが入ってきた、ってだけなのだろう。

 あるいは、「アホアホな時代潮流がそういったメディアの登場を望み、それにあわせるように最適なデバイスが開発され、流通していく」、ということ






.....そういうものだ (by. K.ヴォガネット)





とりあえず、

「礼儀は大切にね !」(親しき仲にも礼儀ありだよ)、

って話でした




--
追記:
あと、勘違いしないでほしいのは、

「やっぱり礼儀作法をわきまえない阿呆とはつきあえないわよね(オホホホホホ)」、

な感じの敗訴でえすたぶりっしゅな排除主義というわけではなくて、

「礼儀の前段階として人の気持ちを慮(おもんばか)る思いやりの心というものがあり、そういうのがないひとはちょっとね..」、

ってことです。

(心のない様式美は美ではなく空っぽなハコって感じ)


そして、それはセキュリティ(あるいはビジネス)という合理性にも通じる
 

「空気嫁」だのいうのは本来そういう問題だと思います。

 
 
 
posted by m_um_u at 09:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

ネコの神様 (reprise)

 東良さんの新潮社出向blogが今日で最後とのこと。フィナーレを前にこのエントリが気になった。


奇跡の猫|猫の神様


 前のエントリでも引かせてもらったけど、なんか..じわじわっと来るエントリ。


 「猫の神様を恨んでいたぼくのところに神様の使いが来て....それでぼくは神様(世界)と和解したんだ」


 そんな感じがする



 以下、猫の神様とセレンディピティと最後の瞬間について。



 猫の神様というのは日本だと招き猫なんかが挙げられるけど、世界的に有名な猫神はエジプトのネコ女神バステトだったりする

古代エジプトの猫崇拝


 これはネコがネズミをとってくれる益獣だったことに由来する。特にエジプトのような過酷な土地では「作物は人の命よりも重い」という認識があって、作物を荒らすネズミの害獣は忌み嫌われていた。

 ネズミは伝染病も運んでくるしね。


 ネコはもっとも効率よくネズミを捕ってくれるハンターだし、家畜化することも可能。そういうわけで世界最初のイエネコはエジプト起源であり、そこから「ネコを飼う」という習慣が広がって行ったらしい。


 そういうわけでネズミ対策が発達してないころはネコは人間の暮らし(財産)を守るために本当に必要な動物だったわけで、各地域で大切にされてたんだけど

 「ネコを神様にする」という地域はエジプトぐらいしかない。(というか少なくともぼくは知らない)



 この理由は上述したように「過酷な地域」ということもあったのだろうけど、「獣を神にする」ということにそれほど違和感がなかった土地だったからかなぁ、とかなんとなく思ったり。

 死を司る神(アヌビス)は犬だし、月と太陽と天空を統べる神(ホルス)はフクロウ(ハヤブサ?)だし..。

ChaosPanic-エジプトの神々



 エジプトでは智慧の神はフクロウじゃないのか..。(ちょい「へぇー」)


 そういえば智慧の神ってなんでフクロウなんだろう?

 「ミネルヴァの梟は夜羽ばたく」とかなんとか...


 「夜のほうがお勉強しやすい」とかそんなのだろうか?



 あまり関係ないけど、インドのポスト中流(下層中流から上層中流に上がろうとしている)人々は夕方6時ぐらいから八時間労働して、昼に専門的な教育を受けるのがふつーなんだそうです。

 夜は電話オペレーターみたいな仕事をして外国人(アメリカ人)の相手をしてそれから昼もお勉強、と。


 この人たちの場合、梟は昼に羽ばたくのかなぁ..。






 セレンディピティについて。


以前に書いた日記の通り


「奇跡に遭遇する能力」って感じのもの

 あるいは「おもろいこと」でもいい。



 猫の神様の場合はどうか..?



 上述してきたように、猫の神様というのは元々「倉庫の番人」が転じて「財の守護者」という性格が与えられているように思う。

 なので日本の場合「招き猫」って造形(icon)がされているのだろう。



 東良さんの出会ったのが、ほんとうに猫の神様の使いであったのなら、東良さんにはこれから幸運が訪れるのかもしれない。

(そしてそういった幸運(奇跡)をつかめるかどうかは本人のアンテナ次第、と)



 と、同時に「猫」と「死」、「猫」と「冥界」との関連でちょこちょこと思うことがあったり...。


 ひとつは「銀河鉄道の夜」、もうひとつは「因幡山」。


 「銀河鉄道の夜」はいわずと知れた宮沢賢治の猫鉄道物語なわけだけど、物語的には冥界への旅を意味している。

 そこでは、ジョバンニは親友のカンパネルラと一緒に冥界旅行に旅立つわけだけど途中で追い返されてしまう。


「きみはまだやることがあるだろう..?」


って。



 基本的な構造としてはヨモツヒラサカからのイザナミ奪還物語と同じなわけだけど、こちらの物語にはなにかさわやかさのようなものを感じる。それはなぜか?


 おそらく「銀河鉄道の夜」は死への旅であると同時にジョバンニの内面へと深く降りていく物語でもあったからだろう。


 列車の車窓から見えていた風景はジョバンニの心象であり、ジョバンニの潜在意識を通して見た世界(あるいは生命と死、人生)の投影だったのだろう。


 いじめられっ子のジョバンニ少年(宮沢少年?)が自らの立ち位置を振り返るために見た白昼夢のようなもの。


 それを通じて少年は深い内省を試み、世界と(自らの内に閉じられた)セカイとの接点を見出していく。


 その意味でこの物語は死と再生の物語とも言える。




 東良さんの体験もそれに少し似ているように思う。



 自らの心をギリギリまで追い詰めることを通じて、自分と猫(外界の世界)との関係を再確認し、最終的には世界とセカイを融和させている。


 東良さんはこの本を「私小説の形式をとった」とおっしゃっていたがおそらくは限りなくノンフィクション的な緊張をはらんだつくりになっているのだろう。

 そうしないとみャ太に申し訳ないので。


 それによって主観と客観の間に架け橋がかかる。

 それこそセカイと世界を繋ぐための形式と言ってもいいかもしれない。




 最後に現れた太った猫はその架け橋を通って来たのかも。





 そして因幡山。




たちわかれ いなばの山の峰に生ふる

松とし聞かば 今帰り来む







 因幡山は鳥取にあるそうだ


百人一首ゆかりの地:鳥取県

稲葉山は国府跡から約2kmの位置にある標高249mの山。山麓には130基あまりの古墳がある。

宇部神社の背後に見える。

* 【所在地】鳥取県国府町
* 【アクセス】JR山陰本線「鳥取」駅下車、「中河原・栃本方面」行きバスで15分、「宮ノ下」下車




 歌的には「別れを惜しむ」(「あなたを待つ」)という歌なわけだけど、もうひとつの意味があるらしい




もっけ(勿怪) 3 (3)
もっけ(勿怪) 3 (3)
posted with amazlet on 07.06.15
熊倉 隆敏
講談社 (2004/03/23)




によると、猫は御山に修行や奉公をしに行くことがあるらしい。その奉公を終えると霊性(霊格)が高まり仲間内での位が上がる。

 因幡(稲葉)山もそんな山の一つ、と。



(ネコが時々いなくなるのはこれと関連しているとか何とか)




 と、同時に因幡山は「去なば山」でもあるらしい


 「去(い)ぬ」 =「その場所から去る」=「(どこかへ)行く」


 去ぬるための場が「山」である、と。



 「去ぬる」とはどういうことなのか?



 端的に言えば「人の前から姿を消す」(= 死んで存在を亡くす)ということだろう



 「ネコは死ぬ姿を人に見せない」とも言われるけど、山というのはそういう場所なのかもしれない。

(民俗学的には山は異界への入り口だったっけ?)




 「もっけ」でもその辺りのことが描かれていて、「山(あるいはネコの集会所)はネコの癒しの場所であると同時に、人間にとっての異界を表す」、と示されていた。


 そこでのネコはいつも見るネコとは違った、自分達の知らないネコなのだろう。


というより、


 自分達の知っているネコとはなんだったか?、ということが改めて問われる。



(東良さんも書かれていたが)ネコがほんとになにを考えているのかなんか分からないので。そういう意味では永遠の他者といってもいいのかもしれない。



(犬よりもネコのほうが「人になつかない」=「なに考えてんだか分からない」=「他者」性が強いように思う)






 そういえば「もっけ」にも東良さんのところででてきたようなやけに大きなネコが出てきた。


 東良さんが見たのはほんとに異界との通信使のような存在だったのかもしれない。





あと蛇足的に


 日本においてネコ神さまと言えばこれがありますね

セブンアンドワイ - 本 - ねこ神さま   1


 ねこぢるさんは残念だったけれど、もしかしたら異界に旅立った(ずれた)だけで、けっこう面白おかしく暮らしているのかもしれない。(@因幡山)



タグ:ネコ
posted by m_um_u at 08:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月14日

もってけ! 化粧廻し( + 猫神 + ギロンの前提条件とは..? の三本立てだよ!)

 たまにはblogらしく他人様の気になるエントリをサラっとご紹介してみようかと...。(できるだけ短く!)

 
 以下、特に時限系エントリで気になっているものを中心にご紹介です。


 まずはこれから

Same Shit Different Day - 『大相撲ダイジェスト』は遠い昔

 某業界では枕投げがはやっていたようですが、こちらでは札束投げというか、札束に釣られてお相撲さんが舞い踊るというか..。(宝生舞?) 

 てか、上手出し投げならぬモロ出しって感じですね。


 具体的にはリンク先で見て(聴いて)いただくとして、

気配が危うくなったら、エントリーごと消す予定。


 とのことですので、「ご利用はお早めに!」



 内容としては「もってけ!セーラー服」ならぬ「もってけ! 化粧廻し」って感じです。


 そういうわけで上記のエントリについてはこちらをテーマ音楽としてお送りします





 てきとーに力士編に脳内変換してお楽しみください (ちょうど4力士いるし)


 
 次に、同じく時限系で


 以前お伝えした東良さんの新潮社blog「猫の神様」が明日で終了とのこと。んで、終了を前にこんなエントリをアップされていて気になりました。


奇跡の猫|猫の神様


 内容としてはみャ太との最後の日々について。そして、その瞬間を迎えたときの心象などを中心にお話されています。

 ネコ人間としては共感するところの多い内容なんですが、中でも気になったのは後段の記述。

 みャ太を看取って呆然としていた東良さんのところにそれまで見たこともないような巨大なネコが現れ、なにげにひざの上に乗った、というところ。

 東良さんはそれまでみャ太をあんなにも苦しめた猫の神様を恨んでいたらしいのですが、この猫が現れひざの上に乗ったときに「これは神様の使いなんじゃないか..?」と思ったのだそうです。

 そして僕は思ったのです。この猫は、猫の神様のもとへと続く、天国への階段の門番なのだ。そして猫の神様の使いなのだと。だから、恨み呪い続けた僕を、猫の神様は赦してくださったのかもしれない──と。



 これはともすると荒唐無稽な過剰なセンチメンタリズムのように受け取られるかもしれませんが、こういう奇跡はありえるのではないかと思います。

...なんというか....人にはそれぞれ奇跡のような瞬間があって...そういものは他人に話しても荒唐無稽だったり、「よくあることよ(あなたの思い込み)」、とか言われるかもしれないんだけど、そういった奇跡を奇跡と感じられるからこそ奇跡が近づいてきてくれるというようなことがあるように思うのです。

 そしてそれは「神のご利益」とかそういった類のものではなく、人それぞれになにかじんわりとした意味をもたらしてくれるというか...

 大げさに言えば、「世界はまだ閉じられていないんだ」、と思わせてくれるような..そんな体験のように思います。

 
 そして、ネコはそれを感じ取れる生き物のように思う。不思議とネコはそういう場面に居合わせてくれるので。




...なんか長くなりそうなので次のエントリに移ります。こちらも時限もの


kikulog: 敵の敵が味方とは限らない


 『「敵味方概念」にとらわれると、冷静な議論ができなくなります』ということでいろいろと思い当たる節が多い人もいるのではないでしょうか?(自分も含めて)


「敵の敵は味方」と思いこむのか、ニセ科学を擁護するために「もっとニセなもの」を仲間にしようとする人がいます。だから「敵味方概念」にとらわれてはだめなんですが、とにかく、それは自分の主張の信憑性を「弱める」効果しかありません。たとえば、菊池を批判しているからといって、あの人のサイトなんかを肯定的に引用するのは戦略的に損だと思います。
二分法ではだめですよね。「敵の敵だけど、自分にとってもやっぱり敵」ということなどいくらでもあるわけです。



 「一緒になって石を投げるな」というか「一緒になって石を投げてるからといって信用するな」というか...

 てか、それ以前に


 「多数派的な動員を得られるからといって違和感を感じる言説に自らを落とし込むのは却って不利だよ」、ってことですよね。


 これは科学的な議論..というか、議論そのものの前提条件のように思います。


 「人格や経歴、集団を問わずにその人のその時点での論理に対して論理を闘わす(応えていく)」ということですね。


 そういえばもうちょっとしたら福耳さんところでもなんか議論が始まりそうですね。


福耳コラム - fromdusktildawnさんとの対論


 中心的な議題としては、「経営学は後付けの学問ではないのか?」、ということで経営学のみならず学問(学術)全体に共通する課題のように思います。

 関連としてこの辺とか


『街場の中国論』を読む。 - カフェ・ヒラカワ店主軽薄 - 楽天ブログ(Blog)


 「専門知があったとしてもすべてを見通せるわけではない。むしろ分かるところと分からないところを判別できるようになるところにこそ専門知の意義がある (その意味では「ない」を知ることが重要)」、という感じのエントリ。ソクラテスっぽいですね




 で、対戦相手のfromdusktildawnさんは今週末あたりのエントリに向けて力をためている、ってことなのかな? (「ふろむだすくてぃるどーんはちからをためている」


 
 どちらにせよ興味深い議論なので見守っていこうか、と。



 その際、前述したように「どちらかの敵・味方」という視点・立場ではなく、議論を冷静に見つめ、その有効性を自分なりに吸収できるように努めたいと思います。

 ってか、なにか興味があったら合いの手入れるかもしれないけど、その際に「どちらかの味方」って形にならないように気をつけたい。



 そんなことを思います。




 んで、ギロンといえば.....はてなの某所でもなにか論争っぽいものが沸きあがってるみたいですね。


 詳しくは触れませんが、関連でyomoyomoさんがこんなエントリあげててちょっと気になりました。


YAMDAS現更新履歴 - ブロガーの行動規範、はやはり無理なのだろうか


 例の「bloggerの行動規範」関連ということですが..

 これらの前段階としてblogosphereとpublic sphereの関係があるように思います。


 以前にも少し触れましたが、blogosphereという考え方は元々はハーバーマスに代表されるpublic sphereの考えからきているものです。

 代表的テキストの場所はちょっといま失念してますが(※必要があれば検索します。ログはとってあるので)

 アメリカの批判理論系の研究者(もしくは院生)がblogの意義を考える際にハーバーマスの概念を援用したんですね。

 「blogは現代の公共圏(public sphere)だからそれに見合ったルールを採用してギロンやコミュニケーションを深めていく必要がある」、って感じで。

 なので「ブロガーの行動規範」として上げられているものもそれに準じているように思います。

 「そんなの学術の話で一般人のblog倫理綱領はそれとは独立に立てられたもの」と思われるかもしれませんが、学術的に通底するパラダイムは知らない間に一般社会にも浸透している、ということがけっこうあるんですね。

 学術というのはArtの一種なわけでArtistというのは社会のアンテナなわけです。そういう意味では学術的な場で社会全体のパラダイムを感じ取って表出するということはけっこうあるわけですね。んで、それが再帰的に社会に還元されていくというか...あるいは「学術」という場を介さずにパラダイム(あるいはそれ以前の時代精神のようなもの)だけが浸透していくというか...そういうことはよくあります。

 んで、今回のblogger倫理綱領ですが、この辺の話は学術的にはだいぶ前に通り過ぎてます。((C)烈海王@バキ)


 
 で、その内容についてですが


 公共圏でのコミュニケーションにおける基本原則は、「独立した市民同士の自由で偏見のない対話」、って感じです。

 「そこでは身分・階層・宗教・人種(...etc)などといった区別はなく、誰でもギロンに参加できる」、というもの。

 
 その際、ハーバーマスが基本としたのは、「コミュニケーション的合理性」、という価値でした。


 コミュニケーション的合理性とは、「誰でもコミュニケーションを通じて分かり合いたいという欲求を持っている。そういう価値に向かって理性を働かせていく志向性がある」、とする考え方です。
 

 
 しかし、現時点でyomoyomoさんやはてなの皆さんが困っているのはそういうことではないですよね?



 「誰でも"分かり合いたい”ということが一義的な価値にくるとは限らないのではないか..?」

 皆さんはそのように思っておられるはずです。



 ぼくも以前そのように思って、ハーバーマスの考え方とは距離をとるようになりました。


 なんというか......コミュニケーション的合理性という考え方は他者を前提としてないんですよね。


 人文系の用語で「他者」とは、「それぞれに違う価値観がある(誰もンが分かり合えているようで最後の最後では分かり合えない)」、とするような考え方です。

 ただし、「分かり合えない」ということを前提とすることで却って他者を尊重するということになります。


 どういうことかというと、「他人も自分と同じ(≠自分の考え・価値を分かれ!)」という考え方はけっきょくは「自分」を「他人」に押し付けて、世界を自分で染めていくという考え方ですよね?


 それに対して「他者」を前提とする場合は、「他人は自分とは違う」ということを前提としているので、どんなに仲良くなろうとも最後の一線のところで「他者性」を意識して不躾な踏み込みはしないのです。


 で、そういった距離感を保ちつつ相手と自分と共通する部分を探しだし、その部分を中心に情報を交換していく。

 これが「他者性」を前提としたコミュニケーションのように思います。



 その際、重要なのが共通のインタフェースということになります。あるいはプロトコルと言ってもいい。そういう共通して交換可能なものがなければコミュニケーション(言語的交換関係)は成り立ちませんよね?


 ぼくの場合はこういったプロトコルのひとつに「礼儀」というものが入るように思います。



 この辺りでリンク先のyomoyomoさんの課題(ブロガーの規範)とギロンが被ってくるわけです。



 ついでに言えば「礼儀」とはお上品なtipsであるだけではなく、セキュリティにも関係してくるように思います。


 この辺りのことは既に別稿でまとめてあるので後でアップ(リンク)します。




 加えて言うなら、「ギロンで発せられた言説はその時点での論理のみによって判断されるべき」という基本原則について、個人的には少し違和感があります。もちろん論理の正当性自体から言説の有効性を測るつもりはあるのですが、やはり無礼な人に対しては「無礼な人なんだな」という目を持ってしまうのは当たり前のことのように思います。
(※他人に対しても自分に対しても無礼な行為・言動をする人は嫌いです)


 論理性自体は尊重するようにしますが、そんな感じで一定の警戒が発生してしまうのは仕方のないことなのではないでしょうか? 簡単に言えば、無礼な行為をする人が自らのハードルを高めに設定している、ということですね。本人が「ハードル高めでいい」といっているのだからハードル高めでよいのではないでしょうか?

 つまり、その人の論理に対してある程度厳しい視線を持ってしまうのは仕方のないことだと思います。



 
 それとは別に個人的課題として、


 そういった他者性を前提としてある程度の距離を保ちつつ、ある一定の関係性を深めていくにはどうしたらよいのか..この辺がぼくの課題のひとつです。

 
 具体的に言えばこの辺ですが


まなざしの快楽 - なぜ「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処されるのか


 この人のエントリ内容は「ある一定の距離感を保つ」という前提があるのは分かるんですが、そこからの踏み込みが感じられません。


 次の次のエントリでは同じ題材を扱った小田センセのエントリと比較しながら、その辺りのこと(他者と関係の間)について考えてみたいと思います。

 
 
 


 











posted by m_um_u at 20:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月13日

お米ちゃんと「米吐き娘」はなんか関係あるんですか?

 以下、たいしたことじゃないんですが、なんかいろいろと気になってしまったもので。


 ちょっと前からはてなのお米ちゃんって人が気になってまして。


米 - みんな私をオカズに使うといいよ!!


米 - 「ごめん、俺、彼女いるんだ」


 見ての通り、けっこうオトコマエ...というか自虐系文化女史って感じの方なんですが、みょーにハイテンションだなぁ、と。


 んでも、いまは息を潜めておられるようなんですが、まぁ、その辺はどーでもよくて。


 思うのはこの人ってやっぱりあの人なのかなぁ、と


あの人



 ここまで行かなくても、やっぱ額の真ん中に「米」と書かかれていたり..もしくは、感情が高ぶると「米」と言う字が表れたりとか..そういう系の人なのかなぁ、と思って。



 で、ちょっとぐぐってみたんだけど..


 これ関連の人なのかなぁ





 profileとしては


米(おこめ)の自己紹介


なまえ:米(おこめ)
たんじょうび:1993年6月30日
おうち:埼玉のさいたまです
ねんれい:12さい
しんちょう:136せんち
たいじゅう:33きろ
けつえきがた:A
しゅみ:おえかき
ぱそこん:G4キューブと自作パソコン
すきなもの:おいしいもの
きらいなもの:えっちなもの
もうてん:たべすぎるとお腹を壊します
かぞく:お兄ちゃんお姉ちゃんがいっぱいいます
じょうびやく:肝油ドロップ
にっか:家事全般



 って感じと。

 件の「お米ちゃん」的にはこんな感じで


快方治療アーカイブ


 ラーメンズとかシティボーイズが好きな方みたいですね (なんだか某女史を連想します)


(あまり関係ないけどラーメンライスは太りやすいらしいですね)



 
 あと、同人ってところも被るんですが、ぐぐ結果によると「お米ちゃん」ってけっこういるんですね


お米ちゃん - Google 検索 (米 約 11,900)


 ファミリーとか

スーパーお米ちゃんファミリー





.....なんでしょう..。ぼくの知らないところでお米振興計画とか持ち上がってたのでしょうか。


 そしてキャラ萌え的に世論誘導というか、「資源浪費が少なく生産効率の良い米を中心に自給自足を!」、みたいな運動なんかが立ち上がっていたのかなぁ、とか。


 んで、これを思い出したわけですが


米吐き娘 1 (1)
米吐き娘 1 (1)
posted with amazlet on 07.06.13
古林 海月
講談社 (2005/01/21)



山田みのりは米吐き娘
1日に3〜4回
年間360kgの精米を吐く

 

 という惹句そのまんまのマンガです。


 最初は「精米を吐くというわけのわからない特殊体質を持つ娘の日常」って路線でしたが、途中から神話系の文脈を取り入れて「豊穣の女神オオゲツヒメの血統を受け継ぐ娘っ子による妖怪トラブル解決物語」って路線に乗り換えたみたいです。


 オオゲツヒメとは


オオゲツヒメ - Wikipedia

オオゲツヒメ(オホゲツヒメ、大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神)は、日本神話に登場する神。

名前の「オオ」は「多」の意味、「ケ」は食物の意で、穀物や食物の神である。

古事記においては、国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の阿波国の名前として初めて表れる。その後の神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれたとの記述がある。阿波国の名前が大宜都比売とされていることについては、阿波を穀物の「粟」に掛けただけの後附けともされるが、逆に穀物神の大宜都比売が祀られていた国であるからアワの国と呼ばれるようになったとする説もある。

高天原を追放されたスサノオは、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求め、オオゲツヒメは様々な食物をスサノオに与えた。それを不審に思ったスサノオが食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗いてみると、オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、オオゲツヒメを斬り殺してしまった。すると、オオゲツヒメの頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。

オオゲツヒメは古事記において五穀や養蚕の起源として書かれているが、日本書紀では同様の話がツクヨミがウケモチを斬り殺す話として出てくる。



 って感じみたいですね。


 この「スサノオに殺された」というところにびみょー感があります。


 おそらく国津神系の原始神の一人で、天津神からすると「妖怪」とされる一派に属するんじゃないでしょうか? ストーリー的にはそのあたりのことを考慮したほうがいいかもしれませんね。


 「わたしも妖怪だったんだ」とか「オノレ、本当の敵は天津神だったのか..!!」的なところに「農協」とか「松岡大臣」とか「農林水産省」とかの文脈を絡ますことができたらたいしたものだと思います。


 あと気になったこととしてウィキペディアの後段にこんな記述がありました

穀物・養蚕の神として信仰されるが、後に同じ穀物の神である稲荷神と混同されるようになり、ウカノミタマの代わりに稲荷社に祀られていることがある。



 例の稲荷との関連ですね


muse-A-muse 2nd: 人形考 (欠落と神聖)



 「なんでも稲荷につながってるのか」って感じはするんですが、考えられるのは天津以前の「神」的な要素を信仰対象とするときに「稲荷」という方便を用いたのではないか、ということです。


 そのままだと「妖怪信仰するな」とか言われますからね


 こういった「方便としての神話」というのは「読み替えられた神話」ということでこのあたりの話にも通じてくるように思います。


Sound and Fury.::メルの本棚。 - 斎藤英喜『読み替えられた日本神話』


神話は各時代にいろいろな読まれ方をしてきた。そして、神話を読み替えたのは、何も近代に限ったことではない。神話を読み、そこから自分たちの手で新たな神話を生みだす。そうした人々の豊饒な想像力に驚かされる。著者は、あとがきのなかで触れているように、中世に生みだされた自由奔放な神話に注目している。しかも、中世の人々は単に荒唐無稽な神話を生みだしていたわけではないことにも注目している。神話の書き換えが、中世ヨーロッパに通じるような「神学」とも呼べる知的営為であったことを指摘しており、思想史的にも非常に興味深い。神話の書き換えは、神とは何かという思考に繋がっていたのである。このような知の場は、近代的なイデオロギーからは見えてこないと著者は言う。まったくその通りであろう。





 はたして「米吐き娘」さんやお米ちゃんはそういったものになり得る...(のか? σ(^^;)




 

--
追記:
あと、どーでもいいことですが「米吐き娘」の中には例の健全な中学生に血飛沫を上げさせるマジカルワード「お米券」も出てきます。

ふつーに、さらっとした文脈で。


(失礼ながら)全体的に作画がアレな感じでゆるゆる感漂うマンガではあるのですが、このあたりにも狙ってんだか狙ってなんだかなんだかよくわかんないゆるさを感じます。



作者にはぜひとも「なに考えてんだかわかんない」路線で突っ走ってほしいものです。(お米ちゃんのように)



もしくはバイオ系マンガ「もやしもん」路線と接続してくれてもいいかも。


てか、二ノ宮 知子(のだめの作者)的ゆるさを感じる。(二ノ宮も農業系マンガ描いてたな)

 
「もやしもん」と「のだめ」は相性いいので、やっぱそっち系路線が良いのかもしれない。(っつーことはポイントはサブキャラだろうな) 
 
 
タグ:農業 腐女子
posted by m_um_u at 21:03 | Comment(2) | TrackBack(2) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月12日

ある喫茶店の経営からSocial Shoppingについてダラダラと考えてみた 

 福耳さんのところ経由で現役の喫茶店主の方のblogとサイトを見る。

福耳コラム - ある喫茶店の戦後史


江川珈琲店の日記


コーヒー豆の通信販売なら エカワ珈琲店のホームページ 


 ホムペのほうは福耳さんの言うようにちょっとさびしい感じがするけど、日記のほうはお人柄がうかがい知れてなんかほのぼの....というわけでもないか。まじめにお店の経営を考えておられる様子が伺える。


 ってか、やっぱこれかな

純喫茶コロナ盛衰記 和歌山の小さな喫茶店の歴史です

 1955年創業から現在に至るまでの珈琲店経営戦記が書いてあって、元珈琲屋の息子としては興味津々。


muse-A-muse 2nd: 珈琲は「もう一杯」?


 時期的にもウチと被るし「テレビなんかを置いておいて客寄せに使った」ってのもなんかいろいろ思ったり..。ウチは元々、電器屋だったらしいので。でも、珈琲屋には電化製品はあまり置かなかったみたいだけど (ラジオとかレコード、ステレオぐらいかな)。

 じいちゃん、ばあちゃんは当時のことをそれほど語らないのだけれど、「ウェイターとかウェイトレスを雇ってけっこう大きくやっていた」、って聞いたことはあるので江川さんのところと同じような感じでやっていたのかもしれない。

 
 そんで、いろいろノスタルジックな雰囲気に浸りつつぼけーっと眺めてたんだけど、やっぱ現在のこと考えないといけないなぁ、とか。

 で、「やっぱこの前福耳さんところで出てきた会員制の話とかかな」、とか思って見直してみるに


福耳コラム - 独立自営サービス業のマネジメント本としてはベスト「ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する」


 あれ? なんか福耳さん怒ってる..?


わざわざ「ソーシャル・ショッピング」なんて意味不明な(ソーシャルじゃないショッピングってなんなのよ)、新語を作らなくても、人間は誰かとつながりたい、仲良くしたい、そんな当たり前のことを見落としていた人が多すぎるんですよ。特にIT系の人の空疎な人間観・社会観が滲み出た文章を読むと、慄然としますね



..ふむ..やっぱこの前の「ふくみちゃん」が効いたのかな。。(それほど冗談が通じないのかもしれない)


 まぁ、確かに湯川さんとかはノリで新語増設しすぎちゃう嫌いはあるけど、これってsocial mediaの文脈なので...。まぁ、めんどくさいから説明しないけど(怒ってるみたいだし)。


 とか言いつつ、ほかの人も見てるだろうからいちお説明すると、social mediaというのは「一方通行的なmass mediaから、もうちょっと双方向のやり取りや集合知やコミュニティ的なつながりを活性化させるようなメディアに変えていったほうがいいんじゃない?」的な流れのこと。流行(?)の言葉で言えばweb2.0とかそんなのに代表される例の流れの一種と思ってもらってもいい。あと、そこにyoutubeみたいなのとかSecond Lifeみたいなマルチチャネルが加わっていく。

 この辺の説明は長くなるのでまた別項で。いちお誤解のないように言っておくと、わたし「ムヤミな新語濫造には反対」派ですから。


(っつーか、福耳さんは沸点低すぎなんだよね)


 んで、まぁ、なんか誤解があるみたいだけど、ITというのは「IT化しちゃえばなんでもうまく行くぜ!」的なものではなく、「それやるんならこういうやり方もあるよ」っていうツールのひとつだ。

 分かりやすいのがいまぼくらが使ってるblog

 これなんかも最初のころはその新規性を理解してもらえずに困ったものだけれど、いまはみんなそれなりに活用していると思う。

 最初のころの説明(とそれへの返答)をいちお書き出すと、


「html記法知らなくてもメール感覚でかけるから楽なんです」

>「ふーん。そういう新しい言葉ってweb cultureだと次から次へと出てくるよね」


「いや、このメール感覚でwebのlogを気軽に共有できるっていうのが新しいんです。情報表出・発信までで物怖じがないというか...」

>「情報共有ならメルマガでいいじゃん。なんでweblogっていう新しい言葉使うの?」

「いや、メルマガよりも気軽なんです」

>「いや、メルマガも気軽だよ。あれで十分だと思うよ」

「....使ってもらったら分かると思うんですが...」


>「いいよ。どうせまたてきとーな流行の新語でしょう。レポートでまとめてきて」





(以下略。ちなみに2003年ぐらいだったかな)








 ...例のよくある風景ってやつですが、こんな感じでIT系のことを毛嫌いする人って同じようなレトリック使うんですよね。


 いや、それほどたいしたものではないってのは開発者とかその周辺スタッフも分かってると思うんですよ。でも、そういった中でなんらかの新しい発見・感覚・便利さみたいなのがあって、やってるうちに面白くなって、人が増えて新しい使い方が生まれていく、ってのがIT系のuserendでの普及動態だと思います。



 とはいいつつも、福耳さんがあごひげを生やした山賊に複雑な感情を持つ気分ってのはなんとなく分かるんですけどね。IT系で上記してきたようなことを認識してる人は少ないでしょうから。っつーか、件のblogの意義がわからなかった人もちょびヒゲ生やしてたけど。




 閑話休題 



 んで、social mediaについてですが、湯川さん的にはこの辺からの流れなんですよね


湯川鶴章のIT潮流 powered by ココログ: 広告専門検索&SNS「Balihoo」


ウェブのパラダイムが検索からソーシャルメディアに移行しようとしているけれど、完全に新しいパラダイムに移行するにはソーシャルメディアのマネタイゼーションが不可欠、ということを最近あちらこちらで話している。要は次の広告テクノロジーが新しい時代を作るということなんです。



 これに関しては、知ってる人は知ってると思うけど、例のGoogle, Yahoo, AOL and MSNによる広告ネットワークの寡占化の流れが背景にあります。


Advertising's death is greatly exaggerated - MarketWatch

 
 具体的に言えば、GoogleのDouble Click買収が決定打だったんですね。これによって業界構造が激変しようとしてます。(地味に)


 鈍い人は気づいてないでしょうが、検索エンジンというのはモロにマスメディアとかち合うメディアです。それは例のEPIC2014 (2015)でも明らかにされていたはずだけど、そのことを現実感をもって認識できている人は日本には少ないように思います。

 それに対して、既存メディアを代表して立ち上がっているのがNYTならぬNewsCorpです。


Murdoch's Role as Proprietor, ., Journalist and Plans for Dow Jones - WSJ.com


 上記リンクはWSJによるマードック爺へのインタビューという直球ストレートみたいな内容のものですが、この中でマードックはGoogleの脅威、Facebook、MySpaceの力(可能性)について語っています。


 70を超えた爺が一番その辺のことを理解して、恐怖を抱き、積極的な行動に出ているのです。


 その意味が.......たぶん分からないでしょうね。


(まぁ、その辺については別項で)



 で、話を元に戻すと、


 ウェブにおける広告ネットワークの変化(マネタイズの導線の一つの変化)に応じて、それの表出形態であるsocial mediaにもなんらかの変化があるのではないか、と湯川さんは見ているようです。

 お金の導線ができるということはそれだけ流れが速くなるということですから、いままでは空疎な計画だったものも実効的なオプションに変わってくることでしょう。

 っつーか、NewsCorpなんかは実際に、MySpaceで得た資金を元手にいろいろポートフォリオ組んでるみたいです。

 Socialなものはいまのところチンチクリンでわけのわかんないものが多いけど、できあがったものではない分コストはかからないんですよね。なので実験的に資金を投入できる。(「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」、ってね)

 当たらなきゃ当たらないで、本業には影響ないですし、「当たれば儲けもの」って感じなんでしょう。



 そんで、件のsocial shopping (福笑)ってのはさっきもいったようにweb2.0的なシンジケーションを重視するみたいですね。


湯川鶴章のIT潮流 powered by ココログ: ソーシャルショッピング


ソーシャルショッピングというのは

タグづけとか、ブックマークとか、マッシュアップとか、web2.0っぽい流行の技術や仕組みを取り入れたもんなんだと思うけど、このブログによると、既に結構多くのサイトがあるみたい。でpapative.jpさんは「ソーシャルショッピング系のサイトは国内外みても、どうも大ブレイクしそうな臭いがしない。なんとなくだが、今、各社が同じように機能を強化したりしているサービス方向では、行き詰まりが来るような気がしてて、まったく違う考え方が必要なんじゃないかと思う。」というように昨年末の時点で結論づけている。




 んで、湯川さんご自身もそのすごさ(wao effect?)についてよくわかってなくて、プレゼンテーターのガートナーもはっきりその辺のことについて言ってないみたいなんですよね。


 この辺は上記してきたように「blogも海のものとも山のものともわかんないものだったように使ってみないとわかんないかも」ってのもあるでしょう。


 でも、ほんとに単なるビッグマウスってこともあるかも。


 そういや別件だけど、socialって言えば踊る新聞屋さんのところでこんな案が出されてました。


踊る新聞屋−。: [SBS]はてブを「Memeorandum化」する


 目利きブックマーカーによるはて部ニュース自動化案って感じです。「質の高いエントリの共有化」関連ということではこのエントリにつながりますね。


muse-A-muse 2nd: blogの可能性とblogセンターの必要性について (reprise)


 ながれでこんなのもできたみたいです


読むべき記事を推薦してくれるRSSリーダー「SocialFeed」、リアルコムがグローバルで公開 - CNET Japan



 んで、こういうのはsocial mediaによるモノとカネの交換にも応用できるように思います。(モノの部分を情報に換えればいいので)


 マスコミュニケーション論的にはオピニオンリーダーによる情報の二段階効果説とか普及学なんかが該当領域ですね。(流行の言葉で言えば、アーリーアダプターとかインフルエンサーとかそんなのです)


 そんな感じでsocialなものは口コミによる自動宣伝効果を生むように思うんだけど、

 本題に返って、こういったものが珈琲店などの実店舗で応用可能なのか?



..........びみょー...かな



 っつか、例のAmazon関連の用語「クリックアンドモルタル」とかの流れだと思うんですが。
(※<「クリック」なネット店舗だけじゃなくて、「モルタル」作りの実店舗ももたないと信用とかその他つかないよね、って話>)


 以前にちょっと考えたのは、Amazonなんかはモルタルもたなくて機能してるんですよね。

 倉庫は必要だけど、実店舗で運営する必要はない。


 そんな感じで、ネット通販メインのところって実店舗持つだけムダなんですよね。余計にコストかかるだけだし。それほどの宣伝効果もないし。


 ただ、よく言われるように、実際の店舗のほうが回遊性とか「ついでに買っちゃう効果」みたいなのは得られやすい。

 実店舗の場合、この「ついでに買っちゃう効果」を得るために店の雰囲気を演出する必要があると思うんです。

 
 付加価値によるロックイン効果というか、みょーなチェーンを作り出すというか...。


 バリューチェーンなんてのはサプライ側の用語だけど、これに似たような感じのチェーンができるんじゃないかな、ってちょっと思ったり。(っつーかこういう現象をあらわす用語はあるんでしょうね)


 顧客間インタラクションの場合は、「コミュニティのユーザー同士が勝手に口コミ(宣伝)してくれる」、ってことでまた違うんだろうけど、


 最初のほうに登場した「会員制サービス」で生まれるであろう効果としてはこの辺が当てはまるように思います。


 まぁ、そんな難しげな用語使わなくても単に「ご近所付き合い」とか「常連付き合い」って言っちゃえばいいんですけどね


 とりあえず会員制サービスの領域というのはコミュニティ運営のノウハウに通じるんじゃないでしょうか?


 ネットコミュニティ運営に関して。以前に少し調べたことがあるけどあれから少しは発展したのかなぁ...。(最近チェックしてないので)

 

 そういうののポイントはやはり、



・ユーザー同士の交流の自由度はなるべく上げておくこと
(「顧客ニーズに合わせる」とか「顧客ニーズを作る」とかではなく、「顧客が遊べるようにサービスを細かく切っておく(自由度をあげておく)」って感じ)


・ホストの役割は、ユーザー同士の交流に装飾して、交流を演出するということ
(アマチュアな交流からプロな交流へ ⇒ その代金としてホストはお金がもらえる)


・ホストの一義的な役割はユーザー間のトラブルを肩代わりすることにある
(探索・取引コストの代替。ユーザー間のトラブルに対してクッションになること。お金の流通の胴元になる。さまざまなアイデアを演出し、具体化する)



 って感じだったと思います。


 これはオープンソース系のネットコミュニティの原則だったけど、リアルコミュニティにも応用可能なんじゃないでしょうか?



 てか、リアル / ヴァーチャルなんて捉え方自体がもはやそれほどの有効性があるとは思えないんですけどね。



 んで、お店の付加価値(雰囲気作り)関連ではこんなのを見ました


PingMag - 東京発 「デザイン&ものづくり」 マガジン » Archive » アフロコーヒー:コーヒー文化革命


 店ごとのオリジナルグッズで「私だけ(わたしたち)の店」感を演出する、って感じなんですが、文中にもあるように

共同経営者は、1人は国際的な広告代理店のネットワークを持っていて、もう1人は世界的なブランドを開拓、所有している人物



 ってことなのでちょっと特殊事例っぽいですね。


 ただ、「店の雰囲気作りの演出」ってのはけっこうお手軽にできるように思います。

 こんな感じで

Tシャツメーカー


....もとい、こんな感じで!


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 っつーか、個人事業者の方ならもっと安いルート見つけたほうがいいかもしれないけど。




 あと、蛇足的に、この辺も参考になるかもしれません。


On Off and Beyond: デジタル時代ミュージシャンの収益構造


 「インディーズミュージシャンの収益経路の開発」ってことで個人のお店とは関係ないように見えるかもしれないけど、ネット経営のことを考えたことがある人ならわかると思いますが、ここであげられている「流通・保管・決済」の一元システムは驚異的です。

 「決済」をリースしているところはよくみるけど発想と保管って..。




 こんなのが日本にもできてくれるといいのに....。(..ドラえもん)




 あと、さらに蛇足的に


social shoppingっていうか、「ウェブでまとめ買い」系って言えばファッション関連ですかね


kakihara.org - blog : 高速消費経済から「文化」は生まれるか - 東京カワイイ★ウォーズ

ITmedia News:「もはや対等」 ファッションで競い合う日本と中国


 例の、「ケータイサイト(TGC?)でまとめ買い」、ってやつ。



 ファッション関連でこういうことが起こるのは「地方にはファッションアイテムがあまりない」ってことにも関連しているように思います。なので、「買えるときに買っときゃなきゃ」ってなる。


 その際、どういったweb designでまとめ買いへ誘導しているかってのがポイントだと思うんだけど、その辺は見たことないです。


 
 
 


posted by m_um_u at 18:54 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月09日

信じるということ

Skepticism, like chastity, should not be relinquished too readily.
-- George Santayana



I don't want to sound Pollyannaish, but I hope that out of a tragedy like this something good will come. I hope we understand we're one family.
-- Madeleine Albright, Making Sense of the Unimaginable, O Magazine



Middle age is when your broad mind and narrow waist begin to change places.
-- E. Joseph Crossman




The best index to a person's character is
(a) how he treats people who can't do him any good, and
(b) how he treats people who can't fight back.
-- Abigail van Buren











「それでもまだ疑いの気持ちを持ってしまうの..?」


と純粋が問う。


「あなたにはもう焦りも劣等も、優越も気負いもなかったのではないの..?」




 

 そういった気持ちとは別に、人の気持ちに対する疑い..というか、人の気持ちを悪いほうに考えてしまう傾向がウザったい。

 以前はその気持ちに流されてしまっていたけれど、いまはそれを対象化して認識できる。...みょーな雑味というか、ベタっとしたもの、どんよりとした黒いものが心に貼りつくのがウザったい。

 

 けっきょくは人との関係なのだろう。そして、おそらくその疑念は半分正しい。

 対して人は、「人を疑うな」、という。でも、「疑い」ではなく「推測」でありその予想は大部分において正しいのだ..。それは単に警戒意識ということではないのか..?「疑うな」という人はぼくに人間の盾にでもなれというのだろうか?

 

 無神経という暴力。鈍感という暴力。そういったものに対して身を曝し、自分をささげるだけなんてことはぼくにはできない。生きるために、生き残るためにぼくは主張する。

 自分にとって違和を感じるもの、不快に感じることをできるだけ正しい言葉で説明し、相手との妥協点を探る。それ以前に、言葉すら通じない相手から身を守るために鎧を着る。(あるいは鎧を着ないという姿勢を見せることによってそれが鎧となる)

 

 でも、その鎧自体がぼくの気持ちを押しつぶしていくというようなことがあるのだろうか...。

 

 というよりも、単に距離をとればよいだけなのだろう...。それが歳を重ねるということなのだ。




muse-A-muse 2nd: ひぐちアサ、2001、「ヤサシイワタシ」




 「信じるということ」について、ひぐちはきわめて真摯に、懐疑的に取り組んでいる様子が伺える..。

 理由もなく、「ともかく人を信じなきゃダメだよ」、というのではなく、人を信じるということ、信じることができるようになるにはどのようなプロセス(きっかけ)が必要か、ということについてひぐちなりにいくつかの試行を繰り返している。


 それはおそらく単純な...とても単純なことなのだろう..



 手をつなぐということ、肌を重ねるということ、

 そういった単純な人の温もりのようなものを通じて、言葉以前のなにかを感じる..


..感じられるのかもしれない





 でも、それらもきっかけの一つに過ぎなくて、情況によっては響いてこないものなのかもしれない。


 たとえばガッコの教室で特に信頼感を寄せていない教師から、「やはりスキンシップが大事だよねー」、などといわれても白けるだけだ





 なので「おおきく振りかぶって」ではひとつひとつのきっかけについても「これが絶対」という形ではなく、試行の一つとして出してきているように思う。


 そして、絶対的な信頼を寄せられる大人の存在がそこにはある





 まだ序盤しか読んでいないので分からないけど、この「絶対的な信頼を吐き出してくれるなんでもボックスのような大人」という設定は後半にかけて崩れていくのだろうか..?

 「大人はなんでも知っている頼れる存在」ではなく「先生も悩みを抱えた一人の人間なんだ」って感じで


 それへの気づきによって信頼の伝播は変わってくるのだろうか





 「絶対的な信頼を寄せられる人」という立ち位置は宗教における神の位置に似ている。


 とすると、人は他者への信頼を保つために神をあがめようとするのかもしれない。


(「マジメにやりたいときにマジメな人が側にいると安心する」)







 でも、「おお振り」のそれは絶対的な正しさというのともまた違って、生徒達も一定の距離感をもって先生の言葉を聞いているみたいだけど。つまり、「この人のこの部分についての言葉は信頼に値する」、みたいな感じで。


 それは「聖職としての教師を神聖化する」というような信頼の過剰という形での依存ではなく、一人の人間として教師に接し、コミュニケーションをしていくという姿勢ともいえる。




 そういった形で、「神」的なものは人間化できるのだろうか




 そして、ぼくにはそういったものが必要なのだろうか..








 人ではなく、契約としてなら存在するけど

 それがなにか言葉を発してくれるというようなことはない




 でも、最終的に還る場所という気はする..。








 home.....か


 
 


posted by m_um_u at 06:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月04日

ネコと生きる

金蓮さんとBigBangさんの影響で東良さんの「猫の神様」に興味を持って読もうかなって気になってます。


藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 私の好きなあの人は、いい男です。


BigBang: 「猫の神様」----失われていく命と性と「美しい文章」



 で、とりあえず氏のblogをフィード登録してざっと見てこんなエントリが目にとまりました。


『猫の神様』内容紹介|猫の神様


 「内容紹介」ということでそのまま本の内容紹介。十年と八ヶ月一緒に暮らした愛猫ぎじゅ太にささげる本。


猫返し神社へお参りに行ってきました|猫の神様


 飼い猫が迷子になったときにお参りに行くと帰ってくるかもしれない神社について。立川市にあるらしい。



仲の良い二人|猫の神様


 ぎじゅ太とみャ太が仲良く重なって寝てる様子。猫好きからすると意外というかちょっと珍しく感じます。けっこう仲良しになれないネコって多いもので。そういえばウニさんのところのネコもそんな感じだった


 ウニさんのところには恩姫(ウニ)ちゃんという先住ネコがいたのだけれど、そこにもろもろの事情で外ネコを預かることになったんだそうです。でも、ウニちゃんが動揺するのでご友人に託されてたそうなのだけれど、治療の甲斐なく息を引き取ったとのこと。


壊れる前に…: 猫を悼む


 フィードリーダーでチェックして気づいたときにはエントリからしばらく経っていたのでお声をかけられなかったけど....いまさらながらではありますがピッポちゃんの死を悼みます。




 ネコに限らず動物と一緒に暮らしている人はみんなそうだと思うけど、家族の一員なので。



 そして再び東良さんの「猫の神様」を思うとともに、保坂和志の「生きる歓び」のことを思いだしたり。



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生きる歓び
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 「猫の神様」についてはBigBangさんのエントリから引かせてもらいます。


この本を猫好きの孤独な男による単なる述懐や感傷と読むのは、おそらく正しくない。ここに描かれているのは、失われていく命に対峙する私たちの普遍的な心のようなものであり、その喪失を人はどうすることもできないという、やりどころのない不可解な悲しみである。


猫の命が失われていく傍らで、筆者はアダルトビデオを幾本も見て、その評論を書く。失われていく猫の命を見つめながら、片方で男と女の営みを見ながら原稿を書く。その違和感について苦痛をともなって告白している。

「ごめんな。俺が悪かったな」と言い、みャ太をベッドに寝かせ、飼い主はアダルトビデオを観てそのレビュー原稿を書く。正直、こんな時に男と女が絡まりあう画面を見るのはしんどい。でも、それが僕の仕事なのだ。AVを観て原稿を書き、また原稿を書く。こんな時でもしっかりと腹は減る。俺は本当に、バカのように健康だ。この食欲の十分の一でもみャ太にわけてやりたい。

生きていくことと死んでいくこと。その間に挟まった軋みのようなものを感じる。
共通するのは、単に「命」というものであって、それが「誰のものであるか」ということは別の話であるのだろう。人であるとか。猫であるとか。




 「たかがネコ」とか「ネコのことよりも大事なことがある」と思う人もいるかもしれませんが、「生きる歓び」にこんな一節があります。


(15-16)
アフリカでもアジアでも中南米でも飢えて死ぬのを待っている子どもたちがたくさんいる。だから、私がいまここで立ち去ってしまっても、世界全体で起こっている生き死にには何も関係がない、と言って、さっさと立ち去ることもできるし、そんな子猫ごときにかかずらわっているヒマがあったら、世界の難民救済の募金にでも行った方がいい ―― というのは一見正しい理屈のように見えるかもしれないけれど、じつは全然正しくない。
 それは世智にだけ長けて、わかったようなことを若いタレントに向かって頭ごなしにしゃべる、50すぎの関西芸人の理屈にとてもよく似た理屈で全然正しくない。そういうバカな理屈を出す人にかぎって世界の難民や植えた子たちへの募金をするわけではないということではなくて、人間というのは、自分が立ち合って、現実に目で見たことを基盤にして思考するように出来ているからだ。人間の思考はもともと「世界」というような抽象ではなくて目の前にある事態に対処するように発達したからで、純粋な思考の力なんてたかが知れていてすぐに限界につきあたる。人間の思考力を推し進めるのは、自分が立ち合っている現実の全体から受け止めた感情の力なのだ。そこに自分が見ていない世界を持ってくるのは、突然の神の視点の導入のような根拠のないもので、それは知識でも知性でもなんでもない、ご都合主義のフィクションでしかない。



 ぼくはネコを斬ってまで世界を救おうと思いたくありません。(甘いのだろうけど)


 「世界を救う」とかそういうところとは違うのかもしれないけど、でも、目の前の小さなこと(「世界」からすると小さなこと)を放ってまでなにかを救ったり、得ようとは思いません。

 一つ前のエントリでも言ったけど、ぼくにとっての「善」はしょせん自己満足の領域を出ないものでしょう。ぼくにとっては「それをしなければ気持ちが悪いのでする」程度のものです。それは社会のためにがんばっている人々からするとはなはだ志の低いことのように思われるかもしれないし思われても良いのだけれど、

 でも、ぼくにはあいまいな「正しさ」を大上段に掲げてなにかを抑圧するというようなことはできません。



 
 「生きる歓び」の主役である花ちゃんは保坂さんが散歩中に偶然見つけた外猫の赤ちゃんで、放っておいたらカラスの餌になるしかなかったのでやむなく連れ帰って育て始めたコでした。でも、病院に連れて行ったら結膜炎が化膿して左目は既に機能しなくなっていて、右もいちおう視力がある程度にまで弱っていた。


 「欧米だったらこんな時期に全盲ってわかったら始末しちゃんだけどね。でも右はいちおう眼球はある」


 という獣医師の言葉をききつつ、「まぁ、何とかなるというかそれも仕方ないというか」、ということで保坂さんは子猫を引き取ることにしたわけですが、長患いの鼻風邪のせいで嗅覚も弱いみたいだった。

 「生きていくために必要なものが育っていないように見えた」

 そんな状態だったみたいです。


 その中で保坂さんは、「だいたい生きるというのはそんなにいいことなのだろうか」、と思う。「生きる歓びってなんなんだろう」、と。


 生き物の場合は「まず食べ物」ということだろうけど、目の前で眠っている弱弱しい小さな子猫はミルクも飲みたがらないし刺身も食べたがらない。

 
 そんな中、ようやく食べ物をとれるようになって、それに伴い体力を回復させていく子猫の様子を見て、保坂さんはこんなことを思います。

(45)
 「生きている歓び」とか「生きている苦しみ」という言い方があるけれど、「生きることが歓び」なのだ。世界にあるものを「善悪」という尺度で計ることは「人間的」な発想だという考え方があって、軽々しく何でも「善悪」で分けてしまうことは相当うさん臭くて、この世界にあるものやこの世界で起こることを、「世界」の側を主体におくかぎり簡単にいいとも悪いともうれしいとも苦しいとも言えないと思うけれど、そうではなくて、「生命」を主体に置いて考えるなら計ることは可能で、「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。ミルクを飲んで赤身を食べて、ダンボールの中を動き回りはじめた子猫を見て、それを実感した。





 「生きることは歓び」というと過去に苦しい目にあった人や、現在も修羅を生きる人にとっては「なにを分かったようなことを」と思われるかもしれないけど、やはりそうなのではないか...と思います。


 ぼくは以前けっこう瀬戸際まで追い込まれたときに「まだ痛みや悲しいという感覚をもてるんだ」と思ったことがあって、そういうのは「無明の闇に比べれば命の灯火を感じられるだけマシ」という思いからきていたものだと思うのですが、そういうことともちょっと違って、なんというか........いまは「生かされている」という感覚を持つことがあります。


 「よくわかんないけど運良く生かされた」


 そんな感覚です。



 それは「ありがたい」というのとも少し違って、もしかしたら何かの策略でその奴隷のような状態になっているのかもしれないけれど、その感覚を思い出すことによって(あるいはその契約を思い出すことによって)、少しだけ生きる意味のようなものを感じられるのです。


 でも、それ以前のものとして「生命」それ自体の灯火のようなものを再び感じられること、その繰り返しの中で生きる歓びのようなものを実感しているのかな、とも思います。





 保坂さんの本はこの後、草間弥生の話がでてきて「ゲージツ家にとって生きることとは」って感じのテーマが展開されています(少しだけど)。

 興味をもたれた方は読んでみてください。



--
追記:
タキシードを着た宝物|猫の神様


※東良さんのところに関連エントリが出ていたので追記です。ぎじゅ太も障害を持ったネコだったようです。

 
 



タグ:ネコ 生きる
posted by m_um_u at 19:57 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

羊でも狼でもなく「ふつーに生きる」ということ (reprise)

 主題はmixiで書いたもののrepriseなわけだけど、ちょっといろいろ気になるエントリがあったのでそれに絡めて再編集。自分なりに立ち位置のようなものを確認してみようかなぁ、と。

 対象エントリはこちら


赤の女王とお茶を:真実と倫理と責任と


福耳コラム - ハングリーである重荷「白夜行」



 「羊として生きる」というか「羊と狼の境界」というのは古谷実の「グリーンヒル」で出てきた主題だったように思う。



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 あるいは「シガテラ」あたりだったかもしれないけどこの主題自体は古谷作品に通底するテーマになっているのでそのへんはまぁどーでもいい。

 で、どういうことかというと

 「ふつーの人(子羊たち)は自分で考えることができないから法という囲い(線引き)によって行動を規制されると同時に守られてるんだよ。でも、一部の感じること・考えることができる人はそのラインを自分で設定できるので囲いを飛び越えていくことができる」

 ってこと。

 んで、子羊ちゃんが一部の人にあこがれるかというと・・・その辺はびみょーだったりする。

 「一部の人」っていうのは端的に言うと狼さんだ。狼さんっていうのは羊ちゃんを襲ったりするわけで、その意味では福耳さんのところに出てくるウシジマくんなんかは狼さんと言える。もしくは古谷の作品の後半部分でよく出てくる暴力を使う人々なんかがそれにあたるだろう。あの人たちは北野武映画に出てくるような人生における不確実性(不条理)の象徴でもあるんだけど、まぁ、その辺はいい。

 でも、そんな感じで弱者を食い物にしたり、そこまで行かなくても一般社会から隔絶した感じの「強い人」にならなければ生きて行けないのか?


 これが古谷の主題。


 つまり「羊ちゃん的甘さを捨てて狼になるべきか」(自らの良心を殺して不条理に目をつぶるべきか)ってことで、この辺りで赤の女王(sivad)さんのエントリの課題が関わってくる。

 
 sivadさんのエントリは


ホームレスのそばを通り過ぎたとき「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか



 という問いからの流れのようで、端的に言えば道義的責任とか良心の呵責についてのギロンのように見える。つまり「仕事とかある一定のルールに則って”しなければいけない”こと以外の部分でしなければいけないこと」に関すること。それを「しなければいけない」と思うのは良心の疼きがあるからだろう。

 個人的には解決されている問題なのでテーマの発生元周辺のギロンは確認していない。が、そのまま話を続ける。

 ここで道義的責任を考えているということはsivadさんご自身は良心がデフォルトということなのだろう。ただしそれとの距離感に悩んでおられる。というか、その汎用性というか一般化できるかどうか、ということについて。

 まぁ、つまりこういうことだが

世の中には「倫理的な責任」を

* 「感じない人」
* 「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」
* 「どうしても感じてしまう人」

がいて、「どうしても感じてしまう人」に気休めを言っても仕方ない、ということだと理解しました。


 
 で、「感じない人」と同様「どうしても感じてしまう人」も問題になる。対象への過度な共感(同情)による逆差別というか、共依存的状況に陥ってしまうので。もうちょっと言うと、「相手を自分と同等の他者として扱わずに“可哀想”な対象として扱う」、ということ。障害者に対する距離感でよく問題になる例のアレだ。その時点で差別してるわけだな。


 というわけで、ここでも「過剰性」が問題になってくる。差別の問題というのはけっきょく過剰性の問題のように思われるので。


muse-A-muse 2nd: 差別をめぐる審級について (あるいは「人権と国家」)


 蓋然的なある一定のラインに対して過剰に踏み出しているかどうか。善きにせよ悪しきにせよそれが過剰であれば「差別」というか、過剰ということになる(←同語反復)。


 で、

 その辺りのバランスをとるために中庸であり、中庸だけではなく良く生きるために生き方の指標のようなものが必要になってくるわけで、それがこの辺に通じる。


muse-A-muse 2nd: 九鬼周造、1930、「いき」の構造



 「どうしても感じてしまう人」の場合は善への指向が強くなりすぎて良心の呵責を感じるのだろうからこれを抑える方向に向かったほうが良いわけだけど、それとは逆に「なにも感じない人」というのは「過不足」ということでこれはこれで問題になってくるように思う。

 sivadさんも想像力というキータームを用いているけど、そんな感じで、「想像力の枯渇は同じ社会に住む他者に対して過不足や過剰性をもたらしているのに気づかない」、という情況を生み出す。こんな感じで


muse-A-muse 2nd: そして、セカイは世界へ還る


 それ以外に。ぼくの場合は個人的な能力の発現にも関わってくるように思っているけど。つまり「想像力の枯渇」が「認識の幅を狭める」ということ。


muse-A-muse 2nd: 「クリエイティブ」とはなにか?(「センス」、「想像力」、「創造力」について)


muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2.1): Sound and Fury


muse-A-muse 2nd: 芸術的なものへの参加資格について (関係性の再構築 承前)


muse-A-muse 2nd: フランク・ゴーブル(著)、小口忠彦(監訳)、1972、「マズローの心理学」


muse-A-muse 2nd: 格差を巡るデフレスパイラルから抜け出すには・・・



 そういうことがあるように思うけど、この辺は実証されてるわけでもないのでなんともいえない。あと、9.11のように掛け金をケチったことが廻り回って災厄をもたらすということもあるように思う。



 で、


 そんな感じで想像力の枯渇は個人の生活(可能性の発現)、社会生活(安定された将来)の両方にとって不利益をもたらす可能性があるわけだけど、その辺のところについて、ある程度「見えてる」(と思われる)人間からすると「・・迂闊だなぁ」と思われる人がいても「それはその人が満足してる人生なんだからそれでいいじゃないか」と福耳さんはおっしゃる。

 まぁ、確かにギャンブルだけの人生でも、「酒に酔っているときだけがバラ色だー」とかいうのもその人の人生であり、ヤギ男のように「なにも考えずに生きるのが幸せだー」っていうのも幸せの尺度というのは人それぞれなわけだから別に良いと思うけど。さっきも言ったように、それが社会全体の不利益に関わってくるとなると話は別だ。


 われわれは好むと好まざるとに関わらず社会の構成員として繋がっているわけで、民主主義的な投票によって一蓮托生って感じになってるわけだ。なので、誰かの決断やそれ以前の怠惰が自分に関わってくることもあるわけ。

 そういうのは正直かんべんしてくれと思う。

 功利主義的に考えればそんな感じで、それ以外にもっと純粋な良心の問題もあるわけだけど。これはなんかよく分からん。生得的なものか、環境要因による後天的なものかよくわかんないけど、とりあえず自分の中にそういうのを気にする気持ちがあって、それが「なんかしろー」とか「見過ごすのかー」とか言ってウザったいのでなんかやる。それだけのことではないか?

 別に深く考える必要はなく、自転車が倒れてたら直すし、ごみが落ちてたらゴミ箱に捨てるのと同じように、なんか痛い目にあってる人を見たら自分のできる範囲でなんかする、ってことではないか?

 過剰性の話に戻れば、過不足が生じている部分を埋めて元に戻すということだと思う。



 で、それとは別にsivadさんのところの課題、「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」のモチベーション(モラル)をどのように上げて持続させていくか、ということがあるわけだけど・・・。この辺はびみょーなように思う。


 sivadさんが後段で匂わせているように、拙速に「これが善(正しい)」と決めつけるのではなく、「できること」「やるべきこと」「やっといたほうがいいこと」って感じでもろもろのことを峻別して、その時々の状態に合わせてリソースを投下していけばよいのではないだろうか?

 疲れて倒れそうなのにムリに座席を譲る必要はないし、老人を背負って横断歩道を渡る必要もない。


 「できる範囲」とそれをすることによる「良心への効用(便益)」を計算して行動すればよいのではないか?



 
 で、福耳さんのほうに戻るけど



 こういってはなんだがどうも福耳さんは気にし過ぎのように思うんですよね。カサブタを剥ぐように無用のネガティブフィードの自己言及をするというか・・。

 いや、失礼なのは承知で言ってるんですけどね。


 いままでのぼくの考え方を見ると「弱肉強食」的な世界にあわせるための最適化って感じに見えて気持ちが悪いものを感じるかもしれませんが、でも、やっぱそうなのではないでしょうか?

 いまの日本社会なんかは特にsurvive的な情況なわけで、そこで生き残るために自らの行動指針をhackすることの何が悪いのか? とか思います。


 ネガティブにはまらず、功利で動けるところは功利で、あるいは合理で済ませるところは合理で済ます。それは富とか名声とかのジコジツゲンってことではなくて、単にsurviveするための指針です。つまり過剰性によって失われたもの(あるいは失われてしまうかもしれないもの)を取り戻すための地味な闘争です。

 ウシジマくんの場合は狼になって人を食らおうとしているわけだから傍からみると過剰性が生じているように見えるかもしれないけど、こちらでも書いたように、彼自身がそうしなければ生き残れない情況にあった(あるいは継続中)わけです。

 なのでその選択自体はせめられるものではない(「その人生になにか問題はあるのだろうか?」ということです)。

 その上で、そこに他者に対する過剰性が生じる可能性がある。その辺りの落とし前を真鍋自身がどのように描いていくかが見物ではあるけれど。


 で、それとは別に「ウシジマくん」というマンガを見ている視線というのはどういうものか、という問題がある。


この作品を読んでいる平均的な読者は、ウシジマ君たちの世界からどのくらい距離があるのだろう。おそらくは、「いくらなんでも俺はこんなに馬鹿じゃねえよ」と安心してDQNたちを「見下す快感」に酔う「安定した中流」の人たちばかりだとしたら、それもちょっとなんか浅ましい風景であるように思う。



 まぁ、この辺なわけですが


[mixi] 闇金ウシジマくん | 名言集。


[mixi] 闇金ウシジマくんの奴隷くん


 でも、同時にこういう感想を持ってる人たちもいるんですよね

[mixi] 闇金ウシジマくん | この漫画読むと気分が沈みませんか?



 sivadさんの言葉を借りれば「感じない人 / 感じる人 / 感じるけど切断できる人 」 って感じなのかもしれません。



 で、まぁ、そういう人々のことを思ったりもするけど、それもあまり思いすぎるというのもびみょーで、あくまで自分のセキュリティに関わる範囲ってことでよいのではないでしょうか?



 で、この「思いすぎる」って部分。過剰な良心と悪意は似たようなもの(たぶん共依存だから)ってのは上述しましたが、そんな感じでなにかを思いすぎて空回りするってのはあるように思うんですね。


 猫蛙さんに言わせるとこういうことなのだろうけど


ネガティブな人にお勧めの「おぎやはぎエミュレーター」とは何か? - 好むと好まざるとにかかわらず - 楽天ブログ(Blog)


「自分自身の人生を楽しく生きるのは素敵なことだよ。そんなガチネガティブだと辛くなるんじゃないか。好むと好まざるとにかかわらず死ぬまで生きなきゃいけないわけで、だったら楽しく生きたほうがいいじゃん」・・・といわれてもネガティブな人間には無理なのは凄くわかる。



 この「ネガティブな人間には無理なのは凄く分かる」というのはすごく分かります。


 で、猫蛙さん的には「おぎやはぎメソッド」ということで「とりあえず褒めていけばなんかリズムが作っていけるんじゃね?」って感じでそれ「よかった探し」((C)ポリアンナ)ですね。


 でも、まぁ、そんな感じなんじゃないか、と。


 猫蛙さんの言うようにアーリーアダプター2.0な人の指針ってのは元々ネガな人にはちょっとムリな感じがする。(自分も含めて)


 でも、ネガってのはネガってことでそれだけだと写真は現像できないわけです。



 どっかで踏み出さないとね。



 そういや、「ネガ(闇)を見つめ過ぎるな」、関連で吉田健一爺の名作「東京の昔」の解説にこんな一文がありました。


東京の昔
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(211)
その第一は「人が裸になった時」のような「見るに堪えないないのであるよりも見るべきではない」ものを過大に評価して「深淵が覗いていると思ったり」しない態度である。考えてみればこのどちらからも離れた、強がりや残酷趣味やえせミスティシズムは、われわれの周囲にうんざりするほど見つかるのではなるまいか。その種の荒廃を排しているところに、吉田氏のひそかな倫理性があると私には思われる。




 これは物語後半で主人公が昔冬にみたときに「寂れ方があまりにも無残だった」と思った池をもういちど見に行った場面で思ったことを抜き出したもの。

 もういちど見たときは前ほど寂しく感じなかった。それはなぜか?

 前に見たときはいわば池の裸の状態を見てしまったのではないか?

 そういうものは池だけではなくわれわれの周囲に幾らでもあるものだ。


 「そこに深淵が覗いている」と思っていろいろ考えたりする人もいるのだろうが、それ自体がなにかおかしな考えにとりつかれているのだろう。


 誰もが死ぬときが来るときまで死にたくないのと同じように、望んでおかしな考えにとりつかれることもないのだ。





 そんな感じではないでしょうか


 「粋の構造」的に言えばアップ系の過剰性(「上品」や「ハイソ」のようなエスタブリッシュ)や、ステレオタイプや俗的な定型から距離をとることの指針を考える際のヒントのように思います。



 あ、それで「ふつーに生きる」ということの指標として、「粋」であり、江戸モードがあるように思うわけです。まぁ、その辺は後述ということで(たぶん)




 では、再見!





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関連:
偽装部 - コアラ・ミーツ・パンダ - 以前から古谷実に対して考えていたことを書いてみるテスツ

※「人生最大にして最強の敵は“めんどくさい”だ」





タグ: 運動
posted by m_um_u at 07:21 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月03日

「プロジェクト・フィンランド」だそうです

 伝聞というか私的なお報せです。

 スラドでこんなの見まして


スラッシュドット ジャパン | フィンランド式学習支援サイト「プロジェクト・フィンランド」スタートへ


 んで、早速見に行ってみたんですよ。


プロジェクト・フィンランド


 そしたらきちんとムーのやつがしゃべっててかわいい。。


 でも、ログインしなきゃいけないみたいでそこが面倒ですね(なので登録してないけど)。


 概要はこちらから見れます


プロジェクト・フィンランド/教育現場のみなさまへ



 んで、まぁ、「フィンランド好き」、ということでお2人のことが思い浮かびまして。TBでも送っとこうかなぁ、と。


つきみ学習帖: フィンランド学習帖


ノンノン|萌えぼえ。



 フィンランド以外にもお2人ともクラシック奏者だし、お笑い好きだし、なんか趣味合いそうなんですよね。ほかにもいろいろ。(余計なお世話かもしれないけど)


 
 まぁ、とりあえず



 あと、フィンランド関連では個人的課題としてこの辺関連で


muse-A-muse 2nd: 教育とか教養について


 フィンランドメソッドを掘らなきゃと思ってるんだけど、こちらも放ったらかし鋭意努力中です



 そのほかにフィンランド外交史とかも洗わなきゃいけないんだけどこれも「鋭意努力中」、と。





 そういやフィンランディアウォッカも飲んでないなぁ。。(こちらはすぐにとりかかれそうだがw)



 
 あと、フィンランドのかわいさっていうのはなんとなくクールと繋がる感じがします。そういうわけでこの辺かな、と


かわいいとクール (book review)



 そういや「kawaii」も国際的に通用する日本語になってるみたいですね。


佐藤渡辺通信003号 カワイイは万国共通語になった!(ヘンタイも)


特にフランスとか(萌えとは違うみたい)


カトラー:katolerのマーケティング言論: 美しい国の日本文化礼賛とカワイイ革命


フランス語で「萌え〜」って、どう言えばいいでしょう? *All Aboutガイドからの... - Yahoo!知恵袋




(moenoさんのほうは該当エントリにトラバが受付けがないのでぜんぜん関係ないけどこちらに送っときます)

アボカドで栄養もりもりだぜ☆|萌えぼえ。






--
関連:
世界の最もきれいな都市トップ25 - GIGAZINE

※ヘルシンキは3位とのこと。(ちなみに神戸は25位だそうです。そしてなぜか福井の勝山が9位.....)

第3位:ヘルシンキ
フィンランドの貿易と通信の窓口となっているヘルシンキは、政治やビジネスなどの中心でもある。路面電車や地下鉄による通勤網が発達している。



世界でもっとも幸福な国に住む - [海外移住]All About

※「幸福度をどのような尺度で測るか」といった問題もあるのですが、「国民の幸福度には国家の経済力もある程度関係する」するレスター大の指標による、とフィンランドは幸せ指数第6位とのこと



Suomen kieli − フィンランド語・ フィンランドは親日国か

※「日露戦争での日本の勝利がフィンランド独立によい影響を与えた」という伝説に関して。勇気づけたかもしれないけど影響はびみょー、と。なので東郷ビールも伝説ということだけど芸者チョコなんかはありますよね。スシチョコとか





はてなブックマーク - morutan@はて部 / これはかわいい

※「かわいい」ものクリップ。パンダは殺人的にかわいい



posted by m_um_u at 04:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年06月01日

iTunesにだまされた。。

 たいしたことないんだけどなんかワナにはまったみたいなので一応皆様にもご報告です。

 iTunesから「アップデートしたよ」通知が来てたのでダウンロードしに行ったんですよ。例のEMIカラミのDRMフリー用のやつかなぁ(ジョブズ偉いなぁ)とか思いつつ。


アップル、iTunes StoreでDRMフリーの“iTunes Plus”を提供

ITmedia アンカーデスク:「EMIは打つ手がなかった」――DRMフリー化と「CCCD」という無駄 そして日本は (1/5)

アップル、教育向けコンテンツを無料配信する“iTunes U”を開始


 で、ダウンロード終了して、インストして使ってて、ちょっとデータ変換したくなったんすね。移動中にはあまり聴かないクラシックはiTunesに移そうかなぁ、と。(なにせウチのiTunes - iPod環境は「iPod中心にしてiTunesの中には音を残さない」というのを基本でやってるもんですから)

 んで、例のごとくpod野郎で吸い出してデータ変換しようと思ったんだけど・・・・・あれ? 「読み取れない」って言ってるよ? ・・・どうしたのかなぁ、今日は調子悪いのかなぁ。。。


 そんなことを思いつつ何回かチャレンジしたんですがダメなんですね。野郎、「認識できません」の一点張りで。


 で、やっぱ新しい環境に慣れてないのね(転校生みたいに)、ということにして次の日やろうかなと思っててきとーにフィードみてたらこれっすよ。


Boing Boing: New iTunes steals your ability to turn Apple music into iPod-friendly MP3s


・・なんだそりゃ?


「あたらしいあいぽどはおまえのあいちゅーんずからMP3へんかんきのうをうばうぜ」


・・・だと?


If you're thinking of downgrading to the new iTunes, stop! The new iTunes breaks the ability to convert the music you've bought -- even "DRM-free" songs sold at a 30 percent premium -- into MP3s that will play on your iPod.




「even "DRM-free" songs」 と来たよ


なんだそりゃ!?

ぜんぜんDRMフリーじゃねぇじゃねぇかよ!?!

DRMフリーの意味が分かってんのかよ!?!!

Digital Rights Managementがフリーってことなんだぞ!!!!

フリーってことは無料ってことじゃなくて「なにやってもいいよ(変換自由だよ)」ってことなんだぞ!!!!!

わかってんのか?  わかってないのか?? わかっててワザとやってるのか???







・・・・・そういうわけでハメられました。




 同様に、「あたらしいiTunesはなんかヤバげだぜ」、的エントリも出てたり


Boing Boing: EFF finds HUGE block of hidden info in new iTunes tracks


Apple's new DRM-free tracks from the iTunes store not only contain your email address and password name in hidden fields, but in at least one case, more than 360k of hidden information. EFF's technologists have found a hidden block of data in the new iTunes tracks:



・・なんだそれ? サブリミナル?




    
  もうやけやかりません。。。




 そういや池田センセのとこにも似たような話題が出てたな



池田信夫 blog 著作権がイノベーションを阻害する


対価を払って買った商品(私有財産)を複製しようが改造しようが自由だというのが近代社会の原則である。買った後も複製を禁止する著作権は、この意味で財産権ではなく、財産権の侵害なのである。



 そういうわけで侵害されました。(そして心害)




 もう怖いよ



 エントリ先では「情報共有に厳しい判決が出ることによってイノベーションが萎縮する」ってことだけど、それ以前に萎縮しまくりですよ


(法のアーキテクチャ以前のテクノロジーのアーキテクチャってやつですね)





 はぁぁぁあぁぁぁ........orz





 あしたまたやってみよう




(そういうわけでこれを見た皆さんはiTunesアップデートは少し考えたほうがよろしいかと思います)


タグ:音楽 著作権
posted by m_um_u at 18:51 | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

平和資料館で「原爆投下=植民地解放」展 ?

 痛いニュースにこんなエントリがあがっていて目を引かれた。


痛いニュース(ノ∀`):【広島】 原爆投下は「日本の植民地支配から解放」とのアジアの声が根強い…原爆資料館展示見直しに中韓などの委員を起用へ

 
 資料館の新しい理事長が中国新聞のインタビューに答えて、「原爆投下を『日本の植民地支配から解放した』と肯定する考えが根強いアジアの声に触れながら議論を深め、多民族が共感、納得できる施設にしたい」」、と述べたんだそうだ。 


 なんだかよく分からなかったので痛いニュースの様子を追っていくと、「原爆投下は必要だった」言説の一環ということで反発を集めているみたいだ。


 たしかにそう言われればそう読める。


 ぼくは最初、「日本に帝国主義的な反感を抱いている中国・韓国の人々にも受け入れられるように配慮して展示を進めるべき」、ということかなぁ、と思ったのだけれど、2ちゃん(何板?)を見ている人々(あるいは痛いニュースを見ている人々)とは温度差があるみたいだ。

 んで、読み進めていくと、どうもこの理事長(スティーブン・リーパー氏)は「原爆は戦争を終えるために必要だった」、と思っていたらしい。


スティーブン・リーパーさん=広島平和文化センター初の外国人理事長−ひと:MSN毎日インタラクティブ


 父の仕事の関係で、子どものころは東京で育った。帰国後、大学時代はフロリダ州で過ごした。当時はベトナム戦争真っ最中。戦場に送られないため、国に認められれば徴兵を回避できる「平和主義者宣言」をした。認められたが、「本当の平和主義者としての宣言ではなかった」と振り返る。「すべての戦争が悪とは考えず、戦場への怖さもあった」と告白する。

 日本語を学ぶため84年に来日。友人を頼って広島市に来て、翻訳・通訳会社を設立した。原爆投下については「戦争を早く終結させてよかった」と思っていたが、核問題の本の翻訳や被爆者の証言の通訳などを通じて被爆の実態を知り、考えが変わっていった。



 これを見ると典型的なヤンキーってわけでもなく、日本に対してある程度の親和性を持っている人でもこういう考えをもってしまうんだなぁ、とか思う。

 経歴を見るとその後、平和系市民団体を結成したり、インドやパキスタンを訪問して平和の尊さを訴えたりしている。そして母国アメリカでも活動を始めていた、と。今度の大統領選での原爆展はこの人からの流れということみたい。それで秋葉さんがこの人を抜擢したということかな。

 略歴を見ると、

論壇 印パと被爆地 ヒロシマの使命 再認識

1947年、米イリノイ州アーバナ生まれ。
1978年、ウェストジョ ージア大臨床心理学修士課程修了。
1948年に宣教師の父とともに来日 以来、通算二十年日本に在住。経営コンサルタントを経て86年から 現職。
1998年、GPAを広島市に創設。


(加えて言うなら、「73年にキリスト教青年会の英語教師として来日」、と 参照


 ということで政治・歴史的な知識は強くないみたい。

 リンク先の記事を追っていてこんな文章が目に留まった。


 平和交流を通じて多くの希望も見いだした。パキスタン人の女学 生のことが今でも忘れられない。彼女は原爆スライドを見、被爆体 験を聞いた後に、こう質問した。「核兵器の恐ろしさは分かるけ ど、核兵器を持たずにどうやって国を守ることができるの?」

 私は女学生に「インドが敵だと考えるのはやめよう」と言った。 「戦争とか、勝ち負けという考え方は時代遅れで、互いに譲り合う ことが必要。国を守る唯一の方法は、友人になることだよ」。けげ んそうに聞き入っていた彼女に、私はさらに言葉を継いだ。「パキ スタンが防衛のために使っているお金と労力の半分を友好のために 使えば、両国の間にすぐにも友情が芽生え、互いに安全になるだろ う」。彼女の表情は和らぎ、ほほ笑みながら「ありがとう」と言っ た。



 おそらく、彼の意識の根底にあるのはこういう認識。「敵も味方もない」、ということなのだろう。これが今回の発言に繋がったのだと思う。

 それ自体は否定しないし、素直にすばらしいなと思う。

 でも、少し気になるのはその後に続く文

 ヒロシマは「生き地獄だった」と被爆者が形容する廃虚の中か ら、やがて「敵」という発想を乗りこえた。ヒロシマは、核兵器、 戦争、ねたみ、憎しみや恐怖こそが本当の敵だということを知って いる。今こそ全人類が一体となって山積した問題を解決し、だれも が安心して暮らせる世界をつくるときなのだ。

 非被爆者ばかりの旅はまた、英語の話せる人や広島の若者 が、被爆者に代わって体験を極めて効果的に伝えることができるこ とを証明したと言えるだろう。ヒロシマは世界の人々、とりわけ紛 争を抱え、敵対し合う人たちの間に立ち、平和のための仲介役を 果たしうるとの確信を私は抱いた。



 これは少し違うのではないか?


 よくある「ヒロシマ」への過度の期待(逆差別)みたいなやつだ。


 「ヒロシマ」は戦争やねたみ、憎しみなどが本当の敵だと知っているのかもしれないが、「被爆者(あるいは被曝者)」にはそういった意識はない。いまだったらそういう人がいるのかもしれないけど、爆弾を落とされた当時、あるいは爆弾が落とされてから何年か経って被曝の後遺症が出始めたときに、そういった思いをもてた人がどれだけいると思う?

 みんななんだかわかんないけど身体がだるくなって、わけも分からず苦しくて、生きてる実感もなくて、ただ痛みだけが続く中で「なんで生きてんだろ」って思って、差別とか家族のこととか心配して、いろいろ不安を抱えながら死んでいったわけだが。

 その中で、「誰も恨みません」だの「敵はいません」だのといった思いを持てた人がどれほどいたと思う?


 そんなのはヒロシマが美化された姿に過ぎない。


 そして、そういったものを信じたいと思って勝手になにかを投影しているのだろう。


(多くの人は千羽鶴のサダコを知っていても、散髪屋の娘の貞子のことは知らない)




 もちろんいろんな感情を廃さなければ伝わらないものがあるということは分かっている。「非被爆者」や「英語を話せる若者」の可能性というのもそういうところにあるのだろう。彼らは、「知らない」ということを武器に「知らない」人々との感覚を共有することができる。「知らない」人々の感覚に立って、なにかを伝えることができるのかもしれない。


 でも、あまりにも無邪気というかお気楽だなぁ、とは思う。


 
 今回の発言はそういった隙から生じたものなのだろう。


 

 以上から考えるとこの人や平和文化センターに抗議を送ったところでそれほど有効ではないように思う。


 たぶん、「敵も味方もないということを伝えるということが大事なんです」、って思っていて「それが信念なんです」、って言うと思う。

 一応、今後は発言に注意するようになる(あるいは周りがそれなりの配慮をするようになる)だろうけど。


 

 その上で資料館の展示内容の変更(更新)、あるいはアメリカ大統領選における原爆パネル展の有効性について少し考えてみよう。


 まずは資料館の展示更新内容について、

広島平和記念資料館更新計画




広島平和記念資料館更新計画(本文)〔PDFファイル〕

より一部抜粋(p9)


 
? 展示構成
常設展示はこれまで部分的に更新してきた結果、全体としての統一
に欠ける面もあり、観覧の動線の見直しと併せて、構成や内容につい
ても全体を通して見直す必要がある。見直しに当たっては、より長い
時間をかけて観覧できるような構成とすることが必要である。また、
戦争体験のない世代にも、原爆被害の全体像が理解され、被爆が今日
も続く問題であることを認識できるようにする必要がある


? 展示手法
資料の展示を通して被爆の惨状をより分かりやすく伝えるとともに、
被爆者や遺族の苦しみや悲しみなどを伝えるため、実物・写真・映像・
原爆の絵、模型などの展示手法を研究して、展示の一層の充実を図る
必要がある。



(※太字強調はblog主によるもの)




広島平和記念資料館更新計画(資料編)
〔PDFファイル〕より「平和記念資料館の展示と建物についての意見聴取等の概要」(※アンケートの概要)

より一部抜粋(p47)



展示分野

展示の分野について、原爆被害の実相について重点を置くという意見と、歴史、加害、時事問題などに広げるという意見があった。

原爆について展示領域を特化すべき。原爆と歴史加害の問題は別であり、ここで歴史について述べても足りない。全国の平和関係の機関で分業体制をとり、各々で強くアピールできることをしていけばよい。
・平和関連全体を盛り込むと、他の戦争博物館と重複する。展示は必要最小限のことにして、興味がある人は調べるコーナーを利用するようにすればよい。
原爆はいけないということではなく、戦争はいけないということを訴えなければならない。それには核の被害のみでなく、加害、在外被爆者等抜きにはできない。
・イラク戦争やパレスチナ問題など現代の問題も紹介して欲しい



(※太字強調はblog主によるもの)




 こんなところか




 つまり、アンケートでは

「歴史問題や当時の国際政治的動向まで配慮すると大変なのでやめといたほうがいい(資料館は原爆の実相を伝えるために特化すべき)」という意見と、

「原爆だけではなくより広範に“平和”運動全体についてアピールすべき。そのためには日本の加害責任や在外被爆者の問題、現代の紛争の様子も伝えるべき」という意見に分かれた、と。


 で、今回の更新では後者の意見を採用したということか。


 ちなみに対象者は来館・意見聴取、国内・外国人・団体など含めて1085人とのこと。面談:200人、アンケート:外国人個人64人、団体100、ホームページ・チラシなどによる意見募集:547人、ほかはスタッフや他の博物館職員などへのアンケート、聞き取りなど。

 面談用のアンケート用紙は選択項目式で、「印象に残った箇所の理由」や「展示要望の具体例」の項目、「その他要望」だけ記述。「今後の展示はどのようにしていくべきか?」という項目について、4割弱(42.5%)が「今のままでよい」、3割近く(28.5%)が「もっと被爆後の悲惨な状況を強調すべき」、1.5割強(17%)が「大人と子ども向けの展示を明確に分離すべき」、としている。

 外国人向けのアンケート結果も同じ感じ・・というか、外国人のほうが現状維持派が多い(48.4%が「今のままでよい」、18.8%が「もっと被爆後の悲惨な状況を強調すべき」、12.5%が「大人と子ども向けの展示を明確に分離すべき」)。

 被爆体験受講団体(被爆のお話を聞いた組)は7割が「今のままでよい」、と。


 有識者(といわれる人々)のほとんどは「現状維持」もしくはそれに近い回答をしている。その中で、元スミソニアン国立航空宇宙博物館長のマーティン・ハーウィット氏だけ「歴史解説も必要ではないか」、という見解を示している。


来館者が犠牲者に対し必然的に抱くような情緒的な部分の展示と、原爆投下に至る経緯等を説明した純粋に史実を紹介する展示とを完全に分離する。情緒的な部分では、もっと、原爆投下によりもたらされた苦しみに焦点をあてるべきである。また、投下によって生じた長期的な政治的議論を紹介すべきである。







 「世界への平和アピール」ということを前面に押し出している秋葉平和行政からすればそういうことになるかと思うけど、びみょーな感じもする。


 ちょっと見ただけだけど、「日本の加害者責任」というけど日本が戦争をせざるを得ない状況に追い込まれたこととか、日本が進出しなければロシア・アメリカの包囲網が迫っていただけとか、そういう歴史認識はないのではないか?

 まぁ、こういうことだが

極東ブログ: 空想過去小説「チーズとバギウム」

 
 
 「加害者責任」に着目してそれ系の展示をするというのならば、こういうこともある程度理解して、理解でいない部分はほのめかす程度で展示すべきだと思うのだけれど、そういうことが平和資料館にできるのだろうか?




 そして、ぼくの場合はその上で原爆投下に反対しているわけだが。



muse-A-muse 2nd: <ヒロシマ>ということ



 理由として一番大きいのはあれがただの爆弾ではないから。多くの人は「戦争をとめるために仕方がなかった」とか「東京や沖縄も襲撃された(広島だけ特別じゃない)」とか言うけど、原爆というのは本質的に違うものだということが分かっていないのではないか?

 エントリ上段でも少し述べたけど、あれは後遺症が出るのだよ?


 そして、その後遺症(毒)は何年にもわたって血の中に染み込んでいて、「完全に安全」って思えることはないのだよ?



 「原爆は仕方なかった」という人はそういうことが分かっていないのではないか?(知識として言葉では分かっていても本当の意味では理解できていない)





 でも、まぁ、そういうのは伝わらない人には伝わらないし、一生理解できないことなのだろうからもうなにも言わないけど。




 次に大統領選におけるパネル展だけど、これは・・・どうなんだろう。


 基本的にヤンキーな人々は「原爆投下仕方なかった(必要だった)」な考えなのだろうし、「ヒロシマ」についてさえ知らない人がけっこういるだろう。

 大統領選に投票に行く人というのは政治的、社会的関心がある程度強い人ということだけど、世界に対する関心はどうだろう?

 こちらでも少し言ったけど、あっちの世界への関心って「FOXニュースでズタズタ」って感じなのだろうし。

 で、選挙に行く層としてはFOX的なガチガチな保守派とそれへの対抗勢力(リベラル?)って感じになるのかなぁ。あと中立派みたいなのがあるか。

 リベラルっていうか民主党系の支持者はけっこう有識な人が多そうな気がするので説明不要って感じがする。FOX系は最初っからムシしてくるかも。ってことは中立派ってことだけど、この辺がどれぐらい選挙に出てくるかだよなぁ。

 今回の選挙についてはきちんと予習してなくて、「オバマ氏かっくいいな」ぐらいな印象しかないけど、オバマ氏支持派とかって中立派になるのかな?(よくくわからんけど)


 で、展示内容としては


中国新聞 地域ニュース:被団協、国際平和行事に意欲

広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長は、母国である米国の計101カ所で、大統領選がある2008年までに原爆展を開き、体験を話す被爆者を送り込む計画を示した。リーパー理事長は「核兵器の問題を大統領選の争点にするため、米国民の意識を高めたい」と狙いを述べた。



 って感じでパネル展ではないのか?(あるいはパネル+語り)


 でもさっきも言ったように、基本的にヤンキーって「原爆は仕方なかった(それで戦争が終わった)」って思ってるのだから被爆の体験を聞かせてもあまり意味がないような気がする。

 「それとこれとは別」っていうか、「心情的には共感するけどやはり仕方なかった」って思うのだろう。


 だったら(少し荒っぽくなるかもしれないけど)こちらでも少し検討したような「仕方なくなかったかもしれない歴史解釈」を提示したほうがよいのではないか?


muse-A-muse 2nd: <ヒロシマ>ということ


 つまり、「日本は戦争降伏をしようとしていたのに、アメリカが核を使ってソ連をけん制するために原爆を落とさざるを得ないような状況を作り上げた」、ということ。


 そして、彼らは長崎ではマリア像の上に爆弾を落としたということ


muse-A-muse 2nd: 被爆のマリア



 そういったことを語るほうがよっぽど効果的なように思うが。





--
関連:
muse-A-muse 2nd: ヒロシマに原爆を落とすべきだったか?



muse-A-muse 2nd: road 2 partition

※秋葉行政の背景について。前職の平岡さんが「平和」一辺倒だったため、行政の停滞が生じた。それに対して秋葉さんは地元の財界とか、それと関わりのある政治家とはある程度の距離をとろうとしているみたいだけど、そのドライな姿勢が反感を呼ぶこともある。 っつーか、個人的にはこの人苦手だ。




カトラー:katolerのマーケティング言論: 映画BABELと9.11をつなぐ世界共時視線

※アメリカの人々にとって9.11はヒロシマにも似たトラウマなのだろう。「テロの成功を喜ぶパレスチナの子供達の映像がアメリカ人たちのトラウマ映像になった」というのならば、ヒロシマということの意味がなぜ分からないのか、と思う。あるいはその部分こそ共感の縁か。




辺境で何か問題でも? (内田樹の研究室)

※<「世界の中心」的な驕りが出たときにみょーな感じになっていく>、というエントリ。で、辺境(極東)の一島国として生きたほうがいいじゃん、と。同様に「平和」というのを声高に叫んでも受け入れてもらえないだろう。(粛々と伝えるのみです)

 
 
 




タグ:ヒロシマ
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2007年05月22日

車を捨ててケモノ道に入ろう!

The denunciation of the young is a necessary part of the hygiene of older people, and greatly assists in the circulation of their blood.
-- Logan Pearsall Smith, Afterthoughts (1931) "Age and Death"



To get back my youth I would do anything in the world, except take exercise, get up early, or be respectable.
-- Oscar Wilde, The Picture of Dorian Gray, 1891


The secret of eternal youth is arrested development.
-- Alice Roosevelt Longworth



I'm very pleased with each advancing year. It stems back to when I was forty. I was a bit upset about reaching that milestone, but an older friend consoled me. 'Don't complain about growing old - many, many people do not have that privilege.'
-- Earl Warren, Chief Justice




You don't stop laughing because you grow old. You grow old because you stop laughing.
-- Michael Pritchard



Man is the only animal that laughs and weeps, for he is the only animal that is struck with the difference between what things are and what they ought to be.
-- William Hazlitt




The dead might as well try to speak to the living as the old to the young.
-- Willa Cather




Everyone thinks of changing the world, but no one thinks of changing himself.
-- Leo Tolstoy




Almost everything ・all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure - these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose. You are already naked. There is no reason not to follow your heart.
-- Steve Jobs






Youth cannot know how age thinks and feels. But old men are guilty if they forget what it was to be young.
-- J. K. Rowling, Harry Potter and the Order of the Phoenix, 2003










 巡回先の話題が絡まったり無理やり絡めようとしてるのかよく分かんないのですが、なんとなく関連したのでまとめてまったりと。



ぶらざーてぃのblog:車社会の転換期なのか〜ガソリン高騰と新車販売不振〜 - livedoor Blog(ブログ)


藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 三十歳までに、死のうと思っていた



 brother-tさんのほうは最近ちょこちょこお話させていただいている社会インフラとしての交通系のお話。本blogの関連エントリとしてはこちらがあります。


muse-A-muse 2nd: 地方の交通問題に関して(+地域活性化について少し)


muse-A-muse 2nd: (地方と)「東京」から考える


 んで流れとしては、「過疎地の高齢者にとって公共交通機関がないのってキツイね」、が軸としてあるわけだけど今回はそれ以外にも、「若者も車持たなくなってきてるよね」、ってのでお話。

 「若者の車離れ」について痛いニュースでもとりあえげられて、車会社の浮世離れ感が反発呼んでました


痛いニュース(ノ∀`):“若者、車離れ” 日本国内で車売れない…トヨタ、本気でアイデア募集


 そういやessaさんとこでもとりあげてたな


アンカテ(Uncategorizable Blog) - この国で政権が取れない左翼政党って何?


 それで、「これだけ不満があるのにこの不満を吸い上げてエネルギーにできない左翼政党って何?」、と。


 まぁ、党首が親指みたいな顔した人だからなぁ。。人格攻撃みたいになっちゃうけど、批判って言うつもりでもなく印象として、なんとなくあの人の顔って親指に見えるんすよね。あと、長州に似てる(そして流れで長州小力を連想させる)。

 国民新党のときも新日本プロレスの立ち上げっていうか、もっと小さい団体に分派したような印象があったし・・。(そういや日本の政党ってプロレス団体に似てますね)



 まぁ、それはさておき



 そんな感じで若者層は車買わなくなってるわけです。その理由として、2ちゃんねるとかそのまとめサイトである痛いニュースに集まっている不満を見渡すと「お金がない」っていうのもあると思うんだけどそれ以外に。持ってても維持費がかさむだけでそれほど意味ないんですよね。特に東京のように公共交通機関が整ってる都会では。渋滞まきこまれたり周りの変な運転にストレスたまったりするだけだし。あといまの世代は環境問題的な意識がけっこう染み付いてるから。

 それから根本的なところとして見栄がなくなってきてるのがあるかなぁ、と。新聞の購読率が減ってきてるのにしてもそうなんだけど、あれって合理的に考えるとそれほど意味ないんですよね。いまはネットほかで情報得られるわけだし。で、新聞のキラーコンテンツの一つであったはずの番組表もネットで見れたり、もしくは朝日は日曜版に一週間の番組表を載せるようになりましたね。なので合理的に考えれば「新聞いらねー」なわけです。「新聞とるんだったらケータイ代ほかに使う」、って感じで。こういうのは若年層だけに限らず中・高齢者にも同じような意識があるみたいです。

 中年層はまだ働いてるわけだから「ご近所の手前」という見栄があって新聞取り続けてるわけだろうけど(あと、会社コミュニティにおけるプロトコルの共通化のため)、高齢者はリソース少なくなってきてるからいらないものは削いでしまわないといけない。なので新聞やめたりとか、「燃費のかかる大型車はやめてバンでも買おう」、って感じになってきてるみたい。

 
 あと、「合理的プロトコルを選択するようになって従来の惰性をやめた」関連ではこんなのもありますね


切込隊長BLOG(ブログ) - 続・「若い社員との接し方が分からない」って悩みはほぼ全員が持ってると思うんだけどね


第19回 素面男子〜なぜ「飲む、打つ、買う」?意味わからないです (U35男子マーケティング図鑑):NBonline(日経ビジネス オンライン)


アルファルファモザイクより「先輩のビールの入ったコップのビールが減ってたら注いでいいの?」



 飲み関連はもうちょっと進んでセクハラならぬ飲みハラみたいな言葉も出てきてるんだっけな?「飲み会の強要禁止」ってやつ。 性関連についてはより合理的に済ますために風俗を活用するって向きもあるみたいですけど、まぁ置きます。



 で、話を戻すと、そんな感じで選択されるプロトコルがより合理的なものへと変化してるみたいなんですね。で、そういう層は見栄を捨ててより自分の欲求に忠実な選択をするってことなんだけど、この辺の層をしてfinalventさんなんかは新中流層って言ったりしてます。


finalventの日記 - 朝日社説 来年度予算―歳出削減を緩めるな

従来中流と思っていた層のなかに定収入の世帯と、負担の多いまたは不定期収入の世帯で分離が起きているのだろうと思う。そしてこの分離が格差のように見えるが、これは単なる階層分化でしかなく、大筋で、下層を切り捨てていく方向に消費活動が進んでいる。
 でだ、もうちょっとあえて言う。公共サービスが民間サービスを覆っている部分によって格差が覆われている感じがする。単純なところでいえば、無料貸本屋である公共図書館だ。つまり、これは下層の保護でもあるし、その保護の対象は、どうも潜在的な左翼市場っぽい。ただ、これは公明党・共産党の市場でもある。このマスが大きくなることで、実はこの勢力が利する傾向にある。どうも、これらの政党指導者は実質的にそれを読んでいるのではないか。


つまり、旧中流が、新中流と下層に分かれるというより、いわゆる昭和的なファミリー世帯の維持をするにはその負担分で公務員でないかぎり、自然的に下層的な消費に押し込まれる。

 これに対して、そういうファミリー志向でない、べたにいうとパラサイト、とか、未来なんかどうでもいいや系の人々の消費、が多分に新中流的に見える、ということかも。



 「勝ち組 / 負け組」の分かりやすい格差ではなく中流内で階層分化って感じ。具体的にはプレジデント系とパラサイト系って感じかな。

 プレジデント系っていうのは雑誌プレジデントに載ってるみたいなライフスタイルを地で行こうとする世帯のことです。つまり、「車もって、持ち家あって、子供は塾に行かせて、将来は留学でもさせて、ついでに別荘なんかあってもいいかも」、な感じかな。

 対してパラサイトというか「未来なんかどうでもいいや」系の人っていうのは年金不払いなんかに代表されるような公共へのコミットの低下組って感じだろうか。っつーか、従来の「理想の家族像」うんぬんなライフスタイルを捨てた組ってことでしょうね。(cf.フリーライド)


 ちなみに所得・貯蓄の開きについてはこんな感じみたいです。


J-CAST ニュース : 勤労世帯の貯蓄、2,2%減


 年収650万ぐらいで平均1200万の貯蓄、と。この層が公務員・プレジデント系ということになるのかな。でもそんなの全体の1/3ぐらいしかいなくて、残りの2/3の中でも最も多いのは貯蓄200万未満だということのようです。



 んで、「下層」っぽいところを公共サービスが補填していくけど、その部分を食い物にする勢力によってボトルネックができる、ってことみたいですね。つまり、日本経済全体のことを考えれば(批判はあるにせよ)ある程度ネオリベ的なリストラも必要なのだけれど、その部分の不満を公共サービス的に補填していったらますます甘やかされるだけで働かねぇんじゃねぇの?、と??。

 で、働かないのでお金が入ってこないし、財が還流しないので市場が活性化しない。そうすると日本経済全体の信頼が危ぶまれることになって安全保障的にも危うい・・。(日本の価値は市場の大きさにあるので、いまのところここが回転しなくなると世界経済全体に影響が出るので守ってもらってるはず、と。)


 後段の、「働かない世帯を保証するとますます働かなくなるだけなんじゃねぇの?」、的視点はびみょーな感じがします。「働きたくとも働けない」、「働いていてステップアップもしたいのにできない」、「ステップアップしようと思って資格なりなんなりをとったのにその努力が認めてもらえない」、といういわゆるワーキングプア層がいるように思うので。

 以前から言ってるけど、この部分への保証をきちんと考えないと社会的信頼に基づいたモチベーション(あるいはモラル)のようなものは失われていくのではないでしょうか?(って、finalventさんも※欄で似たようなこといってるけど)


 それとは別に機会があるのに働かない層っていうのはいて、その層のマインドっていうのはこんな感じかなぁ、と


やっぱり貧乏人は合理的でないのかもしれないよ。


 アフリカの話ということでちょっと文脈違うんだけど、ここで語られているように、「貧乏人は日々の憂さ晴らしのための酒・タバコをやめることはできないし、それに拘泥することで目の前の機会を逸していく」、ってのはあると思います。機会があるのに飛びつかない理由として、山形さんがちょっと言っておられるように、「失敗して痛い目にあったことある(もしくはそういう人を見ている)ので慎重になってる」、ってのもあると思うけどやっぱ負け犬根性が染み付いてるのかなぁ、とか思ったり。


 「勝ち組 / 負け組」なんていう所得ベースの安易な差異化に乗るつもりはないんですが、人生において勝ち負けというのはあるように思います。

 それは、「自分の中の可能性に向き合ってそれを活かしたかどうか」、ということころにかかってくるように思う。本当に自分が望むこと、それをしたいという魂の声に向き合って勇気ある一歩を踏み出せたかどうか、そこで道が分かれてくるように思います。つまりこういうことですね


muse-A-muse 2nd: フランク・ゴーブル(著)、小口忠彦(監訳)、1972、「マズローの心理学」



 「自己実現」とか「ホントノジブン」なんて言葉はあやふやで慎重になったほうがいいのだけれど、ホントノジブンっていうか、自分の可能性は活かすっていうのはあるように思う。それは雑誌やテレビで喧伝されているような「理想のワタシ」像を目指すということではなくて、お金とか見栄とかそういうのとは関係なく自分の欲求に従うということ。その一歩を踏み出すことによって自分自身を信じるという気持ちを取り戻す、あるいは新しい自分を歩き出すということだと思います。


(そういう意味ではルーチンな生活で「勝ち組」気取ってても人生の勝ち組になれるとは限らないでしょう。熟年離婚されたり)


 んで、この辺が金蓮さんの話につながってくるわけですが・・(はい、すみませんね。いつも通り長い前振りで)



 女性の場合はまた特殊でしょうね。なにせいちお男社会なわけだし。そして30歳を目前にして「結婚か仕事か」の二者択一がある。


J-CAST ニュース : ヒロスエ母校「品女」 ユニーク教育でグミ開発 


四年制大学を22歳で卒業して就職すると、仕事ができるようになり始めるのが25歳、責任ある仕事ができるようになるのが28歳ごろ。30歳を目前にして、結婚・出産でキャリアを中断するのか、継続するのか。28歳が社会進出して活躍しようとする女性の転機だ。28歳をマイルストーンとして、さらに高いキャリアで活躍できるようになるために、品川女子学院6か年で必要な力をつける。そんな指導を「28歳マイルストーン進路ビジョン」と呼ぶ。




 さらに言うと、そこまで行く道程でも「女のくせに」問題とかあったり・・・


断片部 - 牛蒡 - あのね,学歴の高い女の子はたいていの場合十代の頃から学歴が高いというだけでふられたり選択肢からはずされたりそういう目にあってるんだよ



 いわゆる「弱者男性による僻み」ってやつで傍から見てると「そんなウザイの相手にしなきゃいいじゃん」とか思うわけだけどなかなかねぇ。。(惚れた弱みというか)


 そういう人はけっこう見てきたのでなんとなく分かります。



 っつーか、学歴逆差別関連って女性特有な問題でもないわけだけど


正直な話、学歴コンプレックスはほんと対処が大変です


 やっぱ女性のほうがきついでしょうね。



 てか、さっきも言ったけど、「強くならなきゃ生きていけない」社会のルールに従って強くなると、「うわ、怖ぇよオマエ(いらない)」、ってなるんすよね。酷いし理不尽だけどそれが生活というもので似たようなことは女性もやってるわけだけどまぁそれはここでは語らず(・・ごにょごにょ)


 で、こういうウザイ男はほっといてガイジンと結婚すればいいじゃんとか思うわけですね。

 ガイジンって大人な人が多いし、レディファーストだし、ガイジンからすると日本女性って若く見られるし、ガイジン男性における日本女性の人気って結構高いし、このままだと日本社会どうなるかわかんないから国外脱出ってのもありかなとか思うし、たとえば仕事を続けていくにしても看護師業みたいなのに代表されるように日本だと労働条件の悪化なんかが気になるところも外国(ってか、オーストラリア)だとけっこうよさげだしけっこう簡単に就労ビザおりそう・・・・・。


 「貞淑な妻」的な王道(?)からすればケモノ道なのかもしれないけど、個人的にはこちらのほうがはるかに魅力的に思える。そんなことを思ってヤギ娘に提案したり、今回のエントリでもこれ系の話をメインで展開しようと思っていたんだけど、前振り話が思いのほか長くなってしまった・・・・・(いつも通り)




 あっちでなんか書くかも


 

 そういうことで再見!






♪ Double Famous (feat.Miyuki Hatakeyama) / 夜来香  (※中国詞の訳はこちら



--
関連:
muse-A-muse 2nd: 教養について ver.2.0

※「惰性的な人情プロトコルから合理的選択へのシフト」関連で。働き方・生活の仕方が合理的になってきてる根幹に教育というか知識(スキーマ)受容レベルでの意識転換があるのかもしれない。




赤尾晃一の知的排泄物処理場(わかば日記) 限界集落とコンパクト・シティ

※山間部の廃村や準廃村の状態維持のために公的負担をするよりは、住民に中心部に移動したもらったほうがコスト削減できるって話。でも、住民の生活費への補助とかあるのかなぁ。



赤尾晃一の知的排泄物処理場(わかば日記) 年上の女性とその娘

※金蓮さんは、『母性」と「男前」とを兼ね備えた姐御系の女性』を目指すのかなぁ、と。(そういやこのエントリなんかはそんな感じでしたね↓)


藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 優しい恋人



あまり関係ないけど男前豆腐は好きです。(ニューヨーク進出だそうで)

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2007年05月21日

レッスルするアカデミズム? (学問とジャーナリズムの間)

 ハコフグマンさんとかその他の方のエントリを読んでいていろいろと思うところがあったのでちょっと繋げてみよう。最初はハコフグマンさんの書評から


ハコフグマン: フューチャリスト宣言


 本blogの関連エントリはこちら

muse-A-muse 2nd: 例のよもぎ餅について



 んで、一番思ったのは、「やはりきちんと読んでから批判なり批評なりしないとダメだねぇ」、ってこと。当たり前のことだけど、まぁ、いちお。 んで、鶴見俊輔さんの誠実さとか思い浮かべたり。

 鶴見さんは対談するとき、相手の著書を全部読んでこられるのだそうだ。もしくは主要な著書を読んでくる。サラっと書いてしまったけど、これは地味にすごいな、と思う。こんな感じで

 
とみきち読書日記: 『戦争が遺したもの』 鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二



80歳を超えてなお、小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』を1日でざっと読み、さらに3日かけて再読したと言う。その頭脳は衰えることを知らない。さらに驚くのは、40年も年下の、しかも無遠慮な質問を突きつけてくるその若者に対して、愛情を持ってその著作を褒めている。この柔軟な心、懐の深さは尋常ではない。



 ついで


最も感動したのは、鶴見俊輔の人間の大きさ。「今回は、完全に三日間を空けてありますから。もう私も八十歳だから、余命から計算した大した時間ですよ(笑)。聞いていただければ、なんでもお答えします。」と鶴見は開口一番発言している。その言葉どおり、矛盾を突かれても、答えにくい問いかけに対しても、自分の過ちに対しても、逃げることなく、言葉を尽くして対応している、その姿勢に心の底から感銘を受けた。




 そういや田口ランディさんのところにも同様の記述があった


田口ランディ公式ブログ : 対談ということ


対談相手の著書などを、事前にしっかりと読むようになったのは鶴見俊輔さんと対談してからだ。鶴見さんは、対談のために私の著書をほとんど読んでいらっしゃった。しかも本には無数のふせんを貼りつけられていた。私はそれを見て、若輩の自分がなんとナメて対談に臨んでいたのか、ほんとうに恥ずかしくなり反省して、以後、対談を受けるときは相手の著書は最低でも一冊は読み切り、最近どういう発言をしているかなど資料を調べてから臨むようになった。あのときは、ほんとうに猛烈に反省したのだ。

鶴見俊輔さんは「対談のときは相手の本を読みなさい」などとは一言も言わなかった。でも、その態度を見れば誰でも気づくはずだ。そういうことを生き方で示すのが大人というのだろう。





 もう、「ごめんなさい。わたしがわるかったです。こんどからもうしません」、と言うしかないわけだがいちお言い訳すると、前回のエントリはその辺のところ分かっててわざとやったって言うか・・・・・・はい、すみません。わたしがわるかったです。



 んでも、まぁ、言い訳をさせてもらうと、忙しいってのは別にして、あれは読む前の与件みたいなもので。「与件」として自覚しているので「〜ではないか?」ってエントリにしてたわけだし・・。


 対照として読んでも読めてないみたいな人もいるわけだからその辺はアイコかな、と(読めてない人とアイコになっても仕方ないわけだが)。


 「読めてない人」というのは文章の読解力という点もあるのだろうけど、なんか先入観のようなものが先立ってしまってその読みを先行させて読んでいるので、「テクストの主旨を理解する」という目的よりも「自分の意見に合ってるかどうか」ということを確かめることが肝要になるのだろう。そういう読みは速力はでるけど得られるものは少ないように思う。(元からテクストから何かを得るつもりもないのかもしれないけど)


 なんとなくこの辺が頭に浮かんだ。


インタラクティヴ読書ノート別館の別館 - キャラクター小説・ライトノベルの特徴


 「純文学的なテクストや読者が作品の主題(メッセージ)を重視しそれに対してなにか思いを込めたり感じようとしているのに対して、ライノベ作品や読者たちは記号そのものの戯れを楽しむことに終始し、作品の主題とかはどうでもよくなってんじゃねぇの?」、と (※一部意訳)

 稲葉さん同様ぼくもライノベには詳しくない、というか読んだことないのだけれど話を続けさせてもらう。

 こんな感じで内容ではなく周辺からテクストを解釈していこうとする姿勢というのは、文学理論的に言えば詩学に対する解釈学のアプローチに似ているように思う。

 いや、それとも少し違うか。解釈学の場合は間テクスト性という感じでストーリーの連関性にこだわるわけだけど、ここで稲葉さんが提示されているライノベの読み方というのはテクストのギミック(細部)へこだわるって感じなので。ちょっと文脈違うかもしれないけど、こんな感じだろう。


[マスダアニメ]なぜ作画の評価が割れるのか?


 もしくは脚本ではなく演出のみに目を向けるって感じだろうか?




 んで、話を元に戻すと、「読んでるのに読めない人」というのはライノベ読みの人と同じような読み方をしてるのかな、とも思う。彼らにとっては主旨ではなく細部が重要なのだ。


 でも、梅田さんの最近の著作におけるスタイルって元々そういうのじゃないみたいなのであまり意味をなさない。

 「細部をつついて批判するのがバカバカしいような明るい本」であり「現代の共産党宣言」だから。


 要するにパフォーマティブなのだ。言い換えれば政治的といってもいい。そこで問われるのは叙述の正確性や新規性というよりも、演出のされ方(盛り上げ方)なのだろう。


 その辺りについて、唐沢俊一さんによる「ゲーム的リアリズムの誕生」評に関連記述があったのでちょっと引用。(朝日、2007/5/20, 13頁)

(※文脈としては、前回の「動物化するポストモダン」に比べておとなしくまとまってきた(正確性を期してきた)よね、って感じから)


 しかし、後半で、著者がオタク的物語消費の典型例としてのライトノベルを具体的に評論し始めるあたりになってくると、従来の東氏らしさが顔を出す。ライトノベルに比較されたときの自然主義文学への勉強不足(本書での認識はクラシックに過ぎるだろう)を気にもとめずどんどん話を断定的に進めていくあたりの痛快さは、喩えが変かもしれないが、剣豪小説のような、スカッとした読後感を残す。こういう現代思想書もあまりない。代わりのいない個性を持つ学者なのだ。まだまだ老成せずに、若々しい問題提起を続けて欲しいものだ。



 意訳すると、「東、ネコかぶってるかと思ったら後半できっちりバックドロップ打ってきたよ(ルー・テーズばりの)。アレだな、東も捨てたもんじゃねぇな!(いや、若いよ。青春万歳!!)」、って感じだろうか。


 つまりこれらはベタをかぶったネタであり、演出なのだ。小川直也がストロングスタイルだけでは受け入れられないように、学術芸人というのも固くて真面目なことばかり言っていても本は売れないのだろう。

(小川はそれなりに演出しようとしているけど、失敗しているみたい)

小川直也が面白い - おまえらの好きにはさせねえ!



 しかし、小川のいまの立場というのもストロングスタイル(てかセメント)で実力を認めさせたからあるものなのであって、それと同じように学術芸人にもなんらかの実力行使のようなものが必要なのではないか? そういうわけで東っくすの主要著作ぐらいは読んでおこうかなとか思う反面、茂木さんは専門から遠く離れているのでちょっとムリっぽい・・。っつーか、東っくすのほうも一緒に仕事するわけでもないのでめんどくさい(いち消費者としては)


 でも、まぁ、機会があれば。。


 
 っつーか、アレだな。これって伝統的な「学問とジャーナリズムの間」議論だな。「スペシャリストとジェネラリスト」っていうか「タコツボとポリバレント」というか


[R30]: ポリバレント=多能工って言えばいいんじゃね?



5号館のつぶやき : セーフティネットとしての基礎能力 (アスリートと研究者)



 んで、R30さんなんかは、「アカデミズムには昔からジャーナリズムを蔑む視線がある」、とか言っててもっともだとも思うんだけどそこもちょっとびみょーで。アレげなセンセたちがわけもわからず「しょせんじゃーなりずむだからねぇ」とか言うのは放っておくとして、きちんとした研究(学位論文とかなんらかの外部査読が必要な責任あるもの)ではいわゆる「ジャーナリズム」的なフォーマットの製品は出せないように思う。

 
 つまり、いわゆる「ジャーナリズム」的な製品というのは、「5W1H」を基本としつつ力量のあるジャーナリストの場合は各事象の見えざる連関を読み解き「読者に分かりやすく提示する」というところが重要になるように思う。つまり「分かりやすく」というところが中心価値。

 対して学術研究の場合は「正確性」を中心価値とする。「正確性」やそのテーマの研究における「新規性」、そして全体の文脈における「重要性」など。んで、正確性を期すために「反証可能性」や「反復可能性」などを基本とした「科学」的な研究方法が必要になるわけであって、その際の論文の形式としては、「問題提起」「方法説明」「先行研究」「論述(もしくは実験結果の記述)」「考察」「結論」、といった流れが一般的なフローとなるように思う。


 つまり両者は中心価値が違うので比べようがないのだ。(アメリカ型ショービジネスプロレスとストロングスタイルの違いのようなもの)


 その上でR30さん(あるいは茂木さんや梅田さん)のおっしゃりたいことも分かる。そういう本来の研究目的を離れて、どーでもいいトリビアルなものに終始し、「研究のための研究」を続けているガッコのセンセが多いように思われる、と。

 この辺りはトリビアルに見えても基礎研究的には重要な部分かもしれないのでびみょーなところはあるんだけど、確かにどう考えても「それ居酒屋談義ですよね?」みたいなのを学術的な専門用語で塗り固めただけみたいな研究(?)が見受けられたり・・。
 
 あるいは、5号館さんのおっしゃるように専門領域に足を突っ込みすぎて、現世に帰ってこれない人がいたり。(丸山昌男的には「タコツボ化」ってやつですね)


 そんな感じで場が硬直化する危険性を取り除くために「学術ジャーナリスト」のような中間者(ミドルマン)が必要になってくるのだろう。


 茂木さんもこの辺を目指している、と。(そういや姜尚中さんも「元々そういうのになりたかった」ってpodcastで言っておられたな)



 っつーか、こういう政治・経済・生活圏(界)と学術圏(界)の綱渡しというのもジャーナリズムの役割だと思うけど・・・機能してないよな。


 んで、リンク先の田口ランディさんのエントリみたいな事態になる、と


それとは別に対談について少し考えるところがあった。
たとえば対談者が初対面同士の場合は、うまく対談できるように誘導するのが司会の役目だと思うのだ。ところが、多くの対談が、対談ではなくて、対面させただけに終わってしまう。今回もあながちそんな感じで、対談者が司会者に向かって交互にしゃべるだけでちっとも対談になっていなかった。

姜さんも、だいたい自分の思っていることを司会に向かってしゃべり、私もなんとなく司会に向かってしゃべりっている。これってマヌケだなあ……と思いつつも流れを変えられない。でも司会の編集者はそれを少しも変だと思わないらしく、自分が中心に立って得意なようですらあったので、しょうがないと思って諦めた。



 この場面だと、編集者自身も両者の著書を読むとか言説を追うとかして場の仲人をしてもよいものだと思うけど・・。もともと相互理解に満ちた良い対談を得ようとする気はなく、単に紙面埋めとか、編集者自身が望む言葉の羅列を待った対談だったんだろう。そういう意味ではジャーナリズムというもの事態が「界」(貝)として閉鎖しているものかもしれない。




 っつーか、雑誌対談ということでジャーナリズムとは違うけど、でもジャーナリズム全体にも同様のことは言えるように思う。つまり、「結論ありき」なのだろう。


muse-A-muse 2nd: (いまさらながら)OhmyNewsの「あるある」問題検証記事を見たよ



 そのほうが自分で制御できない問題が舞い込んでてんてこ舞いする危険性もないしな。要するに多様性(あるいは偶有性?)に対する閉鎖性というやつ。





 そういったシステムに風穴をあけるのはレスラーなんですかねぇ。。



全然関係ないけど、メガドライブにあった往年の名作「レッスルボール」の続編をナムコは出しやがれ!






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関連:
スラッシュドット ジャパン | サイエンスライターの育成支援を国が検討


※そういや、この手の話ってどうなってるんだろう。。




5号館のつぶやき : 競争的資金から奨学金 

スラッシュドット ジャパン | 文科省、ハイリスクな研究に補助金検討
 

※んで、まぁ、「分かりやすい」とか「世間に役に立つ」とかいったタテマエ(あるいは短期的な視点)を元に有名大学に予算を集中させたり、基礎研究や人文系から予算を削ろうとする動きがあるわけだけど、それはまた別の話か



松岡正剛の千夜千冊『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー


※「界」の閉鎖性の問題、あるいは「学術プロトコルと市場価値との違い(思想の自由市場)」についてはブルデューがなんか言ってたか





高葦のLogbuch - 大学はなぜポリバレントな人材を評価できないのか


※「研究者の中に多能工というかジェネラリストを嫌う風潮は確かにある」ということで、「ジェネラリストもうちょっと評価されてもいいんじゃね?」ってことで大方同意なんだけど、「評価」の先としてきちんとお金につながってないとどうにもならんな、とか思ったり。この辺かな


福耳コラム - 高等教育の構造的問題を解決するには


もしくはこの辺

muse-A-muse 2nd: 大学教育について(上下分離の必要性など)


muse-A-muse 2nd: インセンティブと教育の質について

 
 
 
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2007年05月20日

珈琲は「もう一杯」?

 巡回先で喫茶店エントリが重なったのでちょっとつれづれてみよう


kakihara.org - blog : かへ


藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 喫茶店で、珈琲を


 金蓮さんのところは古きよき喫茶店でのぜいたくな時間について。対してkakiharaさんのところはオンラインコミック「かへ」の紹介(古くてよいものと新しくてよいものの接合)。


 ウチはもともと喫茶店をやっていたのでこういうのを見るといろいろ思うところがあったり。


 ウチの喫茶店はけっこう古くからやっていて、それなりに細々と続いていたんだけど10年ぐらい前にやめた。いちお広島の中心部でやっていてそれなりに客足もあったんだけど、やはり水商売というのは景気の波を受けやすいので。これから先どうなるか分からないし、相続税とかの問題もあるし・・(うんぬん)。

 詳しくは聞いてないけど、「中心部」ということでその他いろいろな税金もかかってたのかな?土地とビルはウチと親族かなんかの折半なのでテナント料はかからないんだけど、これから先もほそぼそと続けていくには未来が見えなかったというか・・。

 っつーか、ウチの一族ってコーヒー嫌いなんだよな

 だって苦いし。黒いもんな(「黒」は自然界では「食べてはいけない」の印のはず)

 
 最近だとそれなりに飲めるようになったけど、ウチの一族で「コーヒーを飲みに喫茶店その他に入る」などという行動をする人はあまりいないように思う。「ケーキを食べるついでに」とか「訪問先で出されたので仕方なく」とかならあるけど。(っつーか、ぼくは訪問先でも断るわけだがw)


 そんなこんなな一家がなぜ喫茶店などを始めたか?そしてどうして続いたのか?


 「なぜはじめたか?」については定かではないけど、当時(60s)は「それなりに儲かるもの」って感じだったらしい。「喫茶店」ってなんだかオシャレげだったので。

 女給さんとかボーイさんとかも雇ってけっこうでかくやっていたらしい。

 んで、近くに立派な古本屋もあって、そこで買い物したお客がその本を読むために立ち寄ったり、あとはお買い物客がちょっと寛ぐために寄ったり。(けっこう有名だったのかなウチは)


 まぁ、「純喫茶」って感じで落ち着いた造りだったしな。ウッドベースで店内がちょっと薄暗かった。そういうところがよかったのかもしれない。(隠れ家的で)


 んで、「なぜ続いたか」だけど。これは逆説的なんだけど、「コーヒーが嫌いだったから」、ということみたい。「コーヒーが嫌いだったので味をいじらなかった(味が変わらなかった)」ところが良かった、と。

 そういや、かなり濃いコーヒーの匂いしてたもんなぁ(ぼくなんかはそれが苦手だったわけだが)。


 でも、不景気の煽りとか高年齢化で辞めた。あと、喫茶店ということにそれほどの思い入れがなかったから、かな? はっきりと確かめていないけどそういうことかもしれない。店自体には思い入れはあったんだろうけど、喫茶店という形態事態はビジネス目的で始めたものだったし。客商売も元々そんなに好きではない。そういうことで辞めたみたい。


 「それほど儲からない」っていうのもあるけど、これから先続けていくとなると相続税払わないといけなくなるのであんな細いツルじゃムリだしな。そういう訳で老舗はつぶれざるを得ない。

 広島の中心地のアーケードにある老舗がどんどん潰れて、その後にケータイ屋とかコンビニとかが入っていったのはそういう事情。「ケータイ銀座」なんて揶揄されたりもするけど、その辺のことについて個人事業主レベルではどうしようもない。

 つっても、呉服とか太いツルもってるところは続けておられるけど、そのほかの店(ボタン屋とか昔ながらの靴屋)とかはこの一代で終わりだろう。


 老舗を続けさせたいのなら法人適用かなんかして税金免除してくれたらいいのに。そういうことはせずに「美観がぁ〜」とかよくわからないことばかり言う。ほんとによく分からん。

(「法人化」なんてのは言い過ぎにしても、店の継続契約と引き換えの共済なんかはあってもいいように思う)



 んで、いまは「カフェカフェ」できてきてるわけだが、ああいうのを見ると元喫茶店屋の子供としてはけっこう複雑。



 代表格は例のスタバなわけだが。これが広島の地下街にできたとき、溢れるほどの人が並んでいるのを見てすごくびみょーな気持ちになった。(「なぜスタバに並ぶ?」、と)


 まぁ、それが消費者心理というものなのだろうけど。いまはスタバほか似たような店もいっぱいできて落ち着いたけど、やっぱカフェ全盛って感じで喫茶店なんかは見ない。あるとしてもある程度大手のチェーン系のとこばっかだ。個人のところは見ない。

 つーか、中心部では見ないだけで、ちょっと外れたところに行ったらあったりする。・・やっぱ税金の関係なのかなぁ。。



 でも、喫茶店やりたがってる人ってけっこういるみたいなんだよなぁ。母の知り合いの人も定年後にわざわざ銀座で喫茶店やり始めたらしいし・・。まぁ、道楽って感じみたいだけど。そんな感じの道楽でもない限り個人で喫茶店やっても儲からないと思うんだけど。でも、こんな感じでなんかコースみたいなのあるみたいなんだよねぇ


カフェ・喫茶店経営、開店支援の学校<リライブ>オーナー総合コース



 初期費用その他についてはこんな感じか


喫茶店経営 | 職業調べに職業紹介図鑑 | 喫茶店経営になるには?


喫茶店主になるには、食品衛生法の許可は店舗所在地の保健所に申請し、営業届出書は税務署に提出します。 初期投資の資金は500〜1000万円が相場で店の規模、立地、賃借料、備品代 に使われます



 いちお、「教えてgoo」に質問があって回答寄せられてるけど


教えて!goo 喫茶店の経営で50代夫婦が暮らしていくためには?


 ド○○ルとかだと原価率5倍ということでよさそうなんだけど、なかなか回転しない、と。必要回転数なんかについては記載されてないのでよく分からんな。(まぁ、各店舗の固定費・変動費、それに応じた客単価の設定なんかによって違ってくるのだろうけど)。あとはサイドビジネスの必要性について。



 印象として、「個人の趣味」ってことだと儲からない業態だと思う。よくてトントンからちょっと赤字ではないか? それなりに儲けようと思ったらなんか付加価値(差別化)つけないとキツイだろうな。


 Espresso Diary@信州松本の斉藤さんなんかはいろいろな情報収集をして、豆をわざわざ取り寄せ(あるいは現地買い付けだったか?)するぐらい経営努力をされてる方だけど、それでもサイドビジネス的に投資という形でポートフォリオみたいなの組んどかないとやってけないみたいだし・・。


 それが現実だと思うけど、カフェ学校ってなんなんだろう・・?



 やっぱよくある「若者の夢食いつぶし業」みたいなやつだろうか?(偏見)




 ・・こわいなぁ



 
 でも、カフェちょっとやりたいよね(・・って人は一日カフェとかで満足してはどうでしょうか?)



 つーか、古本屋とカフェって一緒にできないのかなぁ (って、ぐぐったらけっこうあるな

 あと貸本免許なんかも取れたらとっとくといいかも。(んで、気に入ってもらったら古本系で販売)


 喫茶店にこだわらずに、それほどかさ張らない創作系のビジネス空間をシェアするとかっておもしろいかもしれない。こんなのと絡めて


muse-A-muse 2nd: ミクシコミュのビジネス利用ってどうなってるんだろう?



 「空間自体をプロデュースする」って感じ。なのでオプションは喫茶店でもなんでもいいのもしれない。



 
 あと、喫茶店とカフェにはそれほど興味ないけど名古屋喫茶にはいってみたい


名古屋の個性派喫茶店ベスト5 - [名古屋]All About


 あとネコとか。つーかネコとか。さらにネコとか



 時代はcafeではなくcatsなのかもしれない(あるいはcafeかつcats)
 

posted by m_um_u at 08:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年05月16日

青くて丸い夢の中で

 前略

 お元気そうでなにより。元気というのとは少し違うのかもしれないけど、とりあえず息災ということでなによりです。

 やはりあなたの文章には抗いがたい魅力を感じてちょこちょこ拝見させてもらっているのですが、あなたが少しずつ透き通っていっているのを見ていると嬉しくもあり、少し切ない気持ちになります。

 青く透き通った透明な瓶の底から見上げる初夏の陽のような・・あなたの文章からはそんな印象を受けます。

 しかし、透き通っているが故にはかないというか、そういった魂の脆さのようなものを感じます。老婆心というか好々爺じみた視点なのかもしれませんが、少し心配。

 もっともあなたのほうが経験も知性ももった大人ということなのかもしれませんが(そしてあなたには魂の高潔さがある)。
 


 雨が降っているからでしょうか、少し感傷的な気分になっているようです。でも、もう少し話を続けてみます。



 瓶の底から覗く世界というのはどのように見えるのでしょうか?


 青くて透き通って、時間の止まったような世界?


 そこには邪念も疑いもなく純粋な理性の美しさを感じられる、そんな世界でしょうか?


 かつて、ぼくも似たようなことを言ったけれどあなたはそのときどのように思ったのでしょう?(責めているわけではないです)


 
 あなたが「疑わないで」というようにぼくも「疑わないで」と思った。
 

 あなたが恐れを持っているようにぼくも恐れを持っていた。



 それだけのことではないでしょうか?



 
 でも、二人ともほんとに相手がそこにいるのかどうか分からない。(そこにいる「あなた」が本当なのか分からない)



 なんだかやはりぼく達は似たもの同士のようですね。青い瓶の底を通して似たもの同士が踊っている姿を見詰め合っている。そんな気がします。(もっともいまさらそんなことを言ってもあなたは心害に感じるかも知れせんが)


 あるいは、ネットという夢を通じて未来と過去の自分を見ているだけなのかもしれない。もしくは夜と昼、月と太陽のようなものなのかも。

 
 青い瓶の底にある幻想の世界で、ぼくたちはまた出会うことができるのでしょうか?



 Shall I be the one for you
 Who pinches you softly but sure
 If frown is shown then
 I will know that you are no dreamer




 あるいはつねられて顔をしかめたのはぼくのほうなのかもしれないけど











♪ Angela Aki / Eyes on me


Cranberries / Dreams
 
 

posted by m_um_u at 21:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

ついったーさんに期待する2、3のことども

昨日のエントリ関連で、J.D.Lasicaのtwitter関連エントリにもマジカルワード「セレンディピティ」が登場していたのでちょっとエントリってみます。

 件のエントリはこちら


Social Media: How businesses can use Twitter


 twitterのビジネスユースに関してちょっとした意見交換があったらしくその紹介です。紹介先はこちら


social media group corporate blogging » Blog Archive » Social Media Today Podcast - The Business of Twitter


 残念ながらpodcastということでlisteningがおそろしく苦手なぼくは断念でしたが、面子としては


Dan Greenfield, Vice President of Communications for Earthlink, Luis Suarez, Knowledge Management Consultant for IBM Global Services and Tom Mandel, a technologist and poet



 って感じでけっこう面白そうでした。


 んで、J.Dによると「セレンディピティ」ってキーワードが出てきた、と


Twitter provides a sense of social context and a sense of serendipity.



 このパラグラフのみと昨日のエントリを接続させて考えるに、「新たな"繋がってる感覚”の創出によってなにか面白いことに遭遇するセンス自体を磨いていく」、みたいな感じですかね。つまり需要以前の欲望感覚を磨くみたいなの。

 podcastのほう確かめてないのでなんとも言えないけど、上記のような感じだとするとビジネス側からのアプローチってどういう風なのを想定してるんだろう? そして、そのアプローチはtwitter使用の独創性を狭めたりはしないのか・・。


 その辺にちょっと興味あるけど、面倒だから特に追いません。(※興味のある方は各自確かめてみてください)


 まぁ、そんなこんなのtwitter。特集もいろいろ組まれていて活況なようですが


続々増えるTwitterライクなサービス − @IT


第4回 厳選40!Twitter用ツール・サービス大特集|gihyo.jp


 その中でITmediaの花とミツバチこと岡田有花さんの記事が目を引きました。


ITmedia News:Twitterって何が面白いの?


 まず、何を書けばいいか分からない。何でもいいからとりあえず書けばいいのかもしれないが、会社で仕事中に更新する訳にもいかないので、書くタイミングは帰宅後。何か面白いことがあればmixi日記に書いてしまうし、Twitterで1コメント当たり入力できる140文字では何を伝えるにもまるで足りない。

 書けることといえば「帰宅した」とか「家で仕事中」とかぐらい。「ご飯食べてる」と書き込んでもいいけれど、そう書くならご飯の写真もアップしたくなってしまうから画像が掲載できないTwitterではつらいし、そもそも、自分が食事しているという事実をリアルタイムで世界に発信するメリットが見えない。



 まったく同感です。正直、なにが楽しいのか分からない。。その辺の感覚については前回のエントリでもまとめました。



muse-A-muse 2nd: モバイルコミュニケーション周辺で気になること諸々 (FONとかtwitterとか)



 で、「けっきょくは短文交換、もしくはそれさえもめんどくさい状況共有なわけだから動画とか音声になっちゃったほうが楽じゃん? (つーかたぶんそうなる)」、ってとこに落ち着いたんですが、その前段階としてtwitterさん(もしくは開発系の人)にやってほしいサービスがあります。



「twitterのチャット表示機能を外部blog化できるといいのに」、とか思うのです。



 twitterの機能で面白いと思うのはGoogle TalkとかSkypeみたいなチャットとかエモーション交換との連携です。



第2回 Twitterこんなときどうする?|gihyo.jp


Going My Way: 今何してる? でつながる Twitter と Skype を連携するスクリプト



 で、チャットの部分はログがそのままtwittできるということなので、その部分を各人がもっているblog(あるいは新たに立ちあげるblog)にインポートできると面白いのになぁ、と思うわけです。


 単独でモノを書いてもらうよりもいじられたほうが楽しさが出てくる人っていうはいるわけで、そういう部分の楽しさを外部表出するってのもありかな、と。


 一部のblogでチャットのログをそのままエントリにするってのもたまに見かけるんだけど、せっかくtwitterにはチャットログをとる機能があるわけなんだからその部分を各blogエントリに楽に外部化できるといいのになぁ。。



 (個人的には、「おっさんとヤギ娘の三十路のケモノ道」、とかやりたい)



 もしくはリア友系の集まりではなくても、こういう感じでweb空間に新たな<場(トポス)>を設定すれば、ネットのみの付き合いの人の距離感もちょっと違ってくるのかもしれない。あと、各グループごとにグループblogみたいなのを作って、グループ対抗でtrackback飛ばすとか。



 そういうのはなんか面白そうです。




 で、「それってblogとかmixiとどう違うの?」、ってことなんだけど、twitterというのはblogやmixiの前段階(未編集)的なものとして使えるっぽいんす。

 もっと気軽に、「短文同士でじゃれる」、「じゃれあいの中からなにかが出てくるかもしれないし出てこないかもしれない」、みたいな使い方が可能なように思います。(ケータイメールのじゃれ合いですね)



 twitterによる動画・音声共有もいいけど、その前段階としてこういうのもありかなぁ、と。



 blogとかも元々はhtmlでwebページ作るのが面倒だった人向けに「それよりも簡単に・気軽にネット表現できるよ」って感じで出来上がっていった表現形式ですし、そこからさらに分節ってのもありだと思うんです。



 

 ところで主題からちょっと逸れるけどmixiの話題が出たのでついでに。veenaから「veenaクリップがtwitterに対応したよ」メールが来てました。


veena! :: ヘルプ


「veena!クリップ」とは

A.

「veena! クリップ」は、veena!に掲載している情報で気になったものをクリップ(ブックマーク)しておくことが出来る機能です。「veena!クリップ」は他のユーザーとの共有することができるので、「そのアーティストに関する何の情報が今いちばんHOTなのか」が一目でわかります。

記事や映像をクリップする際にはコメントを添えることが出来ますので、このコメントを通じて「他のユーザーがどんな感想を持っているのか」など、ちょっとしたコミュニケーションを図ることも出来ます。

また、「veena!クリップ」にはクリップした内容(コメントとURL)をミニブログサービス「Twitter」にも同時に投稿する機能があります。この機能を利用して、気になった記事や映像をお友達に発信することが出来ます。

※クリップできる情報は、「Google News」「関連サイト」「YouTube」「Amazon」「Yahoo!オークション」のみです。


 

 mixiもさっさと対応してくれればいいのに・・。SNS内の日記って公開型SBMでクリップするのってはばかられるので、mixi内にSBM作って欲しいわけです。


 あと、mixiのユーザーがモバゲーとかtwitterに流れていってるわけだけど


アイデアノート モバゲータウンが脅威では無いと言っているmixiに先は無い



 笠原氏はあいかわらずの強気でしたね。


ミクシィ決算発表、売上高は前期比2.8倍--mixiユーザー数は983万人に - CNET Japan



 株価の関連もあるんだろうけど、単なる煙幕なのか現状が見えてないのかどうかちょっと心配です。


 mixiのコミュをプロモーション的に活用している事例もあるのでそれをうまいこと活用すればビジネスユース系に発展すると思うんだけど、まぁ、いろいろ問題もあるわけで(・・つーか長くなるので他所で書こう)



 とりあえずそんな感じで、twitterの発展に期待です。





 ところで、それ以前にtwitter友達がいないっていう問題があって、それこそがtwitterを楽しめていない元凶ではないかという思いもあるわけですが・・まぁ、いいや。

 twitter友達ってなんていうのかなぁ(「つとも」?)





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関連:
tmitter

※ケータイメールからtwitterに投稿できる。twitterはついでに画像対応してくれればいいのに




タグ:twitter
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2007年05月01日

intermission:これからの日本社会

 別件でぼけーっと「怠惰」について考えながら、「結局は悪意っていうよりは怠惰なんだろうなぁ」とか思った。改めて。

 陰謀論とか裏金とかそういうもの以前に「なんかめんど臭い」とか「あまり関わりたくない」とかそんな感じの日和見(事なかれ)主義がまずあって、いろんな不公正・不合理・不採算が見逃されて、それが澱のように溜まってボトルネックを構成していく。

 あるいは、そうやってできた澱の部分で「毒食らわば皿まで」的な気持ちが湧き上がって不公正な方向のワナに染まっていく。

 そんな感じなのかなぁ、って。



 単純に「悪意」ということであるならば、これはエゴを中心とした合理性なわけだから行動予測ができる。でも、「怠惰」とか「情動(ルサンチマン系)」の場合はみょーな変数になって分かりにくい。「嫉妬」とかね。


 「それが人間の性」と言えばそうかもしれないんだけど、やはりムダはムダだ。そんな諦めをもって悔しい気持ちを抱え込むぐらいなら少しでも状況を変えていくために努力したほうがいい。それがたとえ自己満足的なゴミ拾い的行動であっても、なにもしないよりはマシだ。

 ゴミ拾いは環境問題の解決とかには繋がらないかもしれないけど、派生効果みたいな感じでゴミ拾いや壁をきれいにすることによって町がきれいになって犯罪のサインがなくなり、犯罪率が減ったりもするし・・。


 こんなエントリを見た


A Tree at ease : 留学生の素朴な疑問



 留学生の素朴な疑問として、


1. どうしてみんな制限速度を守らないのか

2. 憲法9条というモデルは日本に成功をもたらしたと考えられるが、どういう必要があって変えるのか

3. どうして安倍は明らかに日本の威信を傷つけるとわかりながら、従軍慰安婦などの問題であのようなことを言うのか

4. 日本はどうして死刑を廃止しないのか

5. 何故石原を選ぶのか

6. 何故日本の選挙はここまで投票率が低いのか

7. 日本人はNHKを公正と信じているのか

8. 何故大学生は勉強しないのか



 どこの国の留学生か知らないし、この留学生自身の政治的立場も分からない。そして、エントリ主の再構成の仕方に偏向があるのかもしれない。

 でも、けっこうな留学生(ヨーロッパ系)がこんなこと思ってるんじゃないか?


 ぼくの仲良しのラクダオランダ人(※草食)は極右的なものが好きで(オランダ人の癖に)家族からプレゼントにヒトラーのポスターをもらったりするようなやつだけど、日本社会の曖昧さについては概ねこんな感想を持っていたように思う。

 
 各論の詳細はリンク先で確かめてもらうとして、「なぜ?」の理由として考えられるのは「怠慢」ということなのだろう。もうちょっと言えば「怠慢」―「人任せ」―「事なかれ」って感じ。「お上に任せとけばいいや」ってことなのだろう。


 さっきも言ったようにそれは悪意ではなく単に怠慢というだけ。人が不幸になっても社会が汚れていってもそれを無視し続けられる神経の図太さ(無神経)というだけ。本人達にしてみれば「不可抗力」ってやつだ。「悪意はない」し。

 でも、そういったマインドを元にした無神経が社会をダメにし、回りまわって自分や自分の身の回りの人々にも厄災をもたらす。


 そのときになって騒ぐけど、そんなの自分たちの選択なのに。



 こういうのはすごく不思議だ。


 「それが大衆の群像というものだよ」という意見もあるけど、それは大衆というよりお年寄りの群像(マインド)というものではないのか?
 

 たとえばこのエントリを見れば分かるように、


マツドサイエンティスト・研究日誌: 最近の若い者は・・・


 「最近の若い者はなってない」のではなく「最近の若い者は思ったよりしっかりしている」のだろう。

 ぼくらは確かに飢えたこともお金に困ったこともない。反対にバブルの享楽を味わっていないし、そういったリアリティに付随する「ほんとの豊かさ」のようなものも分かってないのかもしれない。


 でも、親の背中を通してシビアな現実を見てきたし、いまの時代もサバイバルの中にいるという実感がある。リンク先のエントリ主さんが言うように


だが、彼らは逆に、「大人」なのだ。
日本と言う国が、少なくとも経済的・物質的に一人前になってから育った彼らは、次の精神的な価値を追える「大人の国」の住人だ。
年長者の方がむしろ、「日本が子供の時代」に育った「子供の国」の住人に思えてくる。
私は、わずか一年英国に住んだ事があるだけだが、英国人の価値観は、日本の年長者よりも、むしろ最近の若者に近い。少なくとも私には、そう思える。そして、英国はアメリカよりも何処よりも大人の国なのは番人が認めるところであろう。



 ぼくらは本当の意味で理性や善的な感情というものを信じられるし、断絶のように思われていたものが実は単なるまやかしに過ぎなかったことに気づき始めている。そして、過剰性や過不足のない豊かな生活というものを地に足の着いた形で享受できる自信もある。「享受」というよりも「自らが作り上げていくもの」という責任や重圧のようなものを知りつつ、それを担っていくようなそういう態度。



 
 もう該当記事はなくなってしまったけど、前に朝日に載っていたインタビューではてなの近藤さんほか76世代の人たちに共通するマインドとして、『ナナロク世代になると、「勝者独り占め」原則が起きても、無理には争わない』、って記述があった。


asahi.com: 「76世代」の時代が来た ミクシィ東証マザーズ上場


 彼らは仲良く外部性を分け合う(相互接続)。そして、お互いに「成功しよう」ということを臆面もなく言い合う。本気でそれを信じてるのだろう。

 そこにはWin-WinとかSustainableとかいった薄っぺらな言葉ではなくもっと根本的ななにか、前の世代とは質感の違う何かがあるのではないか?



 ぼくらは前の世代の人々がムダ(lost)にしてきたものをかき集めて、繋げて、膨らませて、新しい価値を作れるのかもしれない。


 それが「ロストジェネレーション」とも呼ばれるぼくらの希望というか現実的実感としてあるように思う。

 その意味ではぼくらは彼らの椅子を奪還しようとしているのではなく、彼らがムダにしてきた時間や資源を繋げて膨らまそうとしているだけだ。



 それは青二才的な理性信奉なのかもしれないけど、失敗するまで突っ走るってのが若さってもんだし、やらないよりはやったほうがいいだろう。





 そしてぼくらはこれからの社会に期待する。ぼくらが作り上げていくこの社会に








♪ Ice / Kozmic Blue


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関連:
はてなブックマーク - morutan@はて部 / あたらしい仕事の形



はてなブックマーク - morutan@はて部 / 日本社会




muse-A-muse 2nd: 雇用流動におけるアイデンティティー不安と協調の可能性に関して

 
 
 

タグ:日本社会
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2007年04月30日

モバイルコミュニケーション周辺で気になること諸々 (FONとかtwitterとか)

 前回の海外メディアの動向関連で。マスメディアとは関連しないんだけど、なんかこんな情報入ってきてたのでちょっとアウトプットしとく。(諸々の関連物件含めて)



Time Warner customers get Wi-Fi hotspots - Yahoo! News



 Time Warnerがケーブル部門の外部性をFONに開放したらしい。「いずれもっと安いネットワークができたときにユーザーがそちらに移るのを避けるため」、とのことだけど大胆な決断なように思う。っていうか、合理的かつ大胆といったほうが正確か。


 と、いちおFONについて説明すると(面倒なのでそのまま抜粋)


FONとは - はてなダイアリー

2005年11月にスペインで始まったプロジェクト。

スペインのベンチャー企業Fon(CEO兼ファウンダ Martin Varsavsky氏)が全世界のアクセスポイントを共有することを考えたプロジェクト

その中核になるのがソフトウェア「Fon」とこのFonが搭載されたアクセスポイントLa Fonera。

FONの会員は"Fonera(フォネラ)"とよばれ、Foneraには、自身も使いつつ他のFoneraに対して無料で無線LAN環境をシェアする「Linus」、自分の無線LAN環境を有料で提供する「Bill」そっして、FONの無線LANを有料で使用するのみの「Alian」の3種類がある。

FONが提供するのはアクセスポイントとその中のソフトウェアそして、Foneraという会員組織のみで、インターネットに接続するところは現状のISPのインフラをそのまま使うことになる。

Fonはskype、googleからも出資を受けている。



 簡単に言うと、オープンソースの帯域版みたいなのです。もしくはグリッドコンピューティングの帯域版。(その意味ではP2P的なのかな?)

 オープンソースというか帯域のシェアユースといったほうがいいか。

 PC使ってないときに自分ちの帯域(無線LAN)が遊んでるのってもったいないと思いませんか?

 それに対して、外に出たときにお金払ってまで無線LAN使うのもなんだかなぁ、って
(ホットスポットもほとんど機能してないし)


 そんなお悩み解決が「FON」というシステム。


 これに登録しとくと外に出たときに他人様の無線LAN帯域を使わせていただける、と。



 これはムチャクチャ便利っぽいですな



 FONのルーターの設置方法についてはこちらでまとめてあります



Going My Way: FON ルーター La Fonera を設置して Linus になる


 関連でこんなのとか


九十九電機「WiFi Phone」:FONでSkypeが使える無線LANケータイ : Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン)




 んで、こういうのの利用を促す社会的な動向として以下のようなものがあります



10倍速無線LAN 5月に解禁 こんなのどうでしょう(※以下、朝日の記事の孫引き)


ケーブルを使わずにインターネット接続できる無線LAN(構内情報通信網)の通信速度を10倍以上に高め、光ファイバー通信並みの速度を実現する高速無線LANが、5月に解禁される。


(中略)

夏までには電機メーカーなどから対応商品が発売され、だれでも利用可能になる見通しだ。無線LANの通信速度は現在、毎秒10メガビット程度だが、使える電波の帯域幅を広げ、伝送方式を改善することで毎秒100メガビットの実効速度を実現する。



 でも、これに対してはびみょーな見解が多いみたいで「実速は光ファイバー並みにはならねーだろ」ってのがコンセンサスになってるみたいですな


 それとは別に、「無線関連のネットワークが今年あたり来るんじゃないか」系情報としてこんなのが気になりました。



ケータイ同士が直接相互接続する日 − @IT


 ケータイの端末同士がサーバを介さずにピア・トゥ・ピア(P2P)で接続し、通信を行う



 と・・。


 BlueToothってわけでもなくP2Pで繋がるってことみたいです。んで、サーバを介さないので同期的な情報交換が可能、すわなちタイムラグなし、と。


 これはかなりすごいですね


 なんかBREWアプリで現在はauのみ対応らしいのですが

 これは、ベンチャー企業の“ヨシダカマガサコ”(株式会社吉田鎌ヶ迫)が開発したP2P通信ミドルウェア「Spear」(スピア)のデモンストレーション映像だ。Spearは、携帯端末向けに開発されたソフトウェアで、現在はauの携帯電話端末で採用されているアプリケーション実行環境“BREW”(ブリュー)に対応しており、TCP/IPのソケット通信を用いた端末同士のP2P接続のためのインフラを提供する。



 これがデファクトとってデフォルトになるとかなりすごそう。


 技術的なところ確認してないけどP2Pだけではキツイようなところは無線LANで補うみたいなことも可能なのだろうか?(あるいはその逆的なことも)


 とすると、「いよいよもって広帯域無料高速ネットワークの実現か?」、って感じでかなりワクワクするんだけどどうなんだろう・・?



 spearを介したP2Pコミュニケーションの具体的な利用場面としては以下のようなものが想定されてます。


 例えば、互いに位置情報をリアルタイムで把握しながら画面の地図上を歩く時代が来るだろう。待ち合わせ場所で「どこにいるの?」と声でやり取りする必要がない。あるいは、パーティーの様子をストリーミングで多数の端末に向かって配信する時代も来るかもしれない。タッチパネルを備えた端末であれば、ホワイトボードを共有し、絵や図を描きながらコミュニケーションすることもできる。

 テキストメッセージはもちろんのこと、音声、画像、動画、GPSによる位置情報などをダイレクトに端末同士がやり取りできる世界は、実は技術的にはもう実現してしまっているのだ。




 ここでピンとくるのが近頃流行のtwitterっすね。


twitterとは - はてなダイアリー
 

 140字限定の一言ブログ的な感じのもので、チャットのログもアーカイブできる、と。ポイントは友人間のネットワークを介したコミュニケーションがsnsやblogよりもゆるい感じで展開できるところにあるみたいです。

 つまり、「読み逃げ問題(あるいはメール即レス問題)」とか「相互承認欲求の不安」とか「同調圧力」みたいなものがない、と。


ARTIFACT@ハテナ系 - 独り言を書けるネットのツールの需要


 
 新しもの好きなのでなんとなく参加しつつも特に使う方向性も感じられずもてあましているtwitterなんですが、ここで画像・音声・動画データが貼り付けられると強くなるように思います。


 twitterのコミュニケーションというのは上記した文字限定が原因となっているのか結果となっているのか分からないんだけど、なんかてきとーな短文を介した状態確認ってのが多いみたいなんですね。こんな感じで


僕がtwitterにハマる理由 - F's Garage typeC



 最近流行してきた「エモーション確認」的なものに近いように思うんですが、簡単に言えば「文字打つのめんどい」とか「なに書いていいか分かんない」を解決するメディアコミュニケーションチャネルが求められているように思えます。


 それの社会的意味についてはちょっと思うところもあるけどまぁ置きます。(拙速に「短文無脳」的言説を弄するつもりはないです)



 んで、そんな感じのtwitterあるいはそれに代表されるコミュニケーションモードの変化に対応する形で、メディアを介したコミュニケーションがテキスト型のものから動画・音声的なものに変わったほうが楽になるだろうなぁ、と思うわけです。



 「思うわけです」っつってもそんなの大分前から言われててYouTubeの隆盛なんかその代表なわけだけど、それとは違ってもっと分節化したコミュニケーションモードとして「モバイル(ユビキタス)で気軽な状態交換」というのが求められているように思うんです。

 「さくさくっと動画を交換しあえる」みたいな感じの。



 そういうわけでtwitter型コミュニケーションはそういう方向に向かうと思うんだけど、その前提として回線速度の問題がある。でも、上記してきた感じで、その辺はなんか変化してきているなぁ、と。






 まぁ、そんなこんなです




(そういやtwitterってskypeのチャットログにも対応してるのかなぁ? っつーか、skypeの音声ログとれるようになるとすごいな)

posted by m_um_u at 19:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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