2008年05月29日

夢見るマロンちゃん人形

儀礼的無関心程度な感じにして特にリンクさせて発言する気もなかったんだけどやっぱリンク先記したほうが早いなと思うのでいちお


ケーキ - 福耳コラム


んで、まぁ、よくわかんないけどこれに批判が集中してその批判のまとめのようなのがこれ


トリアージ騒動まとめ - sjs7のブログ


よくわかんないし得るべきものなさそうのでサラっとしかみてないけど

個人的には経営学の授業で経営学的思考を理解できていなかった女学生(社会学系)が感想に書くことなかったんだけど自意識が残ってたので「かわいそう」って言葉使っちゃったんだな、って程度なんだけど。そんでそれ見て福耳さんが落胆したのかなぁぐらいで。

ついったーで誰かも言ってたけど経営学の授業なんだから経営学的メソッドを吸収するのは当たり前なんだよね。倫理的課題ってか「かわいそう」的思考が出てくるような文脈じゃないというか…。倫理的課題って言い方するとまずいか。「経営学は倫理を諦めるべき」みたいないい方しているように聞こえるもんな…。そゆこといってるんじゃなくて単に道具の使い方の説明受けてるときに「かわいそう」もなにもないなって話なんだけど

つか、そもそも「かわいそう」って視線が傲慢だなぁ、と。百貨店の戦略考える場面でおばちゃん市場に最適化な話して

「でもそうやって百貨店がおばちゃんくさくなって売れなくなったら、百貨店がかわいそうじゃないですか。」


って何様なんだろうとか思ったりした。まずもって「おばちゃんくさくなって」というところにある若いじょしっこの傲慢さ。そして「百貨店がかわいそう」って…オマエ何様だよって気がする。これって戦略考えてる現場にいる人に失礼じゃないのかな。少なくとも考えた末にそれを試して失敗したってんだったらそれで本望だし次の戦略考えるだけであって現場にかかわってない他人様から「かわいそう」がられるようなことでもないと思うけど…。

んで、この辺で「かわいそう」って言いたいがためだけのダシとして使ったのかなとか思った。なんでもかんでも「かわいい」とかいうじょしっこがそのもの自体はかわいいとは思ってなくて「"かわいい”って言うわたしってかわいいでしょ?」的に他人様の視線を気にするみたいなの。それと同じように「"かわいそう”っていうわたしってやさしい?」的な。その辺についてついったーでちょろっと言ったら「そういう自意識もあるかもだけどそれって男の子の自尊心とバーターな気がする」ってレスポンスが来てそんなもんかもなぁ、とも思ったり。どっちとも若気の至りっぽいなぁ、と。

んでも今回の場合は福耳さんへの個人的な感想文ということなのでそういった視線を気にしてって感じでもなく単に語彙がなかっただけなのかなぁとか思ったわけだけど。そういうわけでエントリ最初の「内容理解できてなかったんだけど自意識が残ってたので"かわいそう”的な言葉を使ってみたのでは?」に戻る。まぁ悪あがきっていうかイタチの最後っ屁というか…。

そこまで悪意を持ってみるのもアレなのでもそっと真摯に「かわいそう」って言葉の背後にそれなりの複雑性が潜んでいたと仮定してどういう文脈から発せられたのかと推察するに………わからん。まぁ、さっき言ったように傲慢としか思えないけどこの学生のこと知らんからなんとも。それまでの授業態度や感想から伺える理解度の問題とかもあるのだろうけどそういうのも見えんしねぇ。他人がみょーに持ち上げたり反対にみょーにけなしたりする問題でもないだろうな、と。(ちょっとけなしちゃったような書き方になってるところもあるが…



まぁ、その辺はいいとして関連で最近ちょっと気になってたことを思ったり。ある人とお喋りしててPTAの会議におけるグダグダ感を伺っててその様子が今回の件とちょっと似てるなぁ、と。

なんかそれほどタスクをこなしてないママさんとかが会議中に理想論語り始めて時間が長くなっちゃうわりに全然具体案出ずに責任も全部委譲されちゃうことがあるみたい。そゆのはしろーと的な甘さというか「お客様」的な感じなんだろうけど今回の学生もそういう「お客様」感で講義聞いてたのかなぁ、とか思った。「特に経営の場に携わることもないや」的他人事感というか…(ああまたうがってしまった…

そんで、そういうタイプの人がなんか意見求められるとできもしない理想論をグダグダと言い、実行段階は他人任せにすることが多々あるように思うんだけど今回の学生の場合は単に語彙がなかっただけでそこまで考えてたわけでもないのだろうな。


つか、そういう「お客様」感っていうか夢見る理想主義者的なところ、あるいは情緒的なところで思考停止する人たちをどのようにしたら「理」や「行動」に向かわせることができるのだろうか?

個人的に今回の件でなにか考えるとしたらそういうことのほうが重要なように思えた。答え出てないけど


♪ フランス・ギャル / 夢見るシャンソン人形

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関連:
2008-05-27 マネジメント、トリアージとドラッカー - 赤の女王とお茶を

※福耳さんが「トリアージ」という喩えを持ち出した理由についてのsivadさんなりの推論と経営学の本分みたいなの(経営学は社会福祉のマネジメント)についての連想。でもそれはこの授業の課題ではないわなぁ(コメント欄で福耳さんも言ってるけど


分配と経営 - レジデント初期研修用資料

※『行うべきは「トリアージ」なんかではなくて、やはり「経営」なのだと思う』、と。 「足りてない」で思考停止する(あるいは「足りてない」プロセスに入る)のではなく「足りる」ように工夫すべきって話。これも「戦術以前の戦略」ってことではsivadさんに通じるかな



id:fuku33が何を消し去ろうとしたか - NWatch ver.X

※エントリ修正前のログ的なもの。このエントリ書いた人の意見はどうでもいいけど福耳さんのエントリの魚拓程度に

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2008年03月03日

「それはほんとに正しいことなのか」って見極めは難しい

 一個前のエントリ関連で簡単に追記というか覚書きみたいなもの。

muse-A-muse 2nd: 「ギゼン」や「正義」的なものへの警戒によって互助の気持ちを疑うのってどうなんでしょうね?


 過剰な「正しさ」(暴力的正義)とゆるい互助や連帯の違いについてぼけーっと考えてる。後者は親近者への愛を中心とし「正義」によって他者の領域を侵犯したりしないことかなぁ、とか。でも、そういうのが発展して似非慈善団体みたいになってく例もあったりしてびみょー。その辺ぶくまでお米ちゃんとかも心配しとったね

はてなブックマーク - muse-A-muse 2nd: 「ギゼン」や「正義」的なものへの警戒によって互助の気持ちを疑うのってどうなんでしょうね?


okome_chan ここらへんスゲーむつかしいな。複雑で限定的な概念が、共有されていくうちに拡大解釈&単純化&誤解されて別のものになってしまう、ってよくある。



 運動とかなんらかの団体に参加したり運営したり場合、ちょっとした違いに目をつぶんなきゃって思ってるうちにそれが積み重なって流されていったり…法には触れてなくても道義的にどうなんだろ?みたいなこともあったりする。あと、法のギリギリのところ狙ってボランティアで集まった労力やお金を巻き上げるの狙う人たちもいるし…(←オレも前にワンコボラ行ったときひっかかった(グレーゾーンだからまだ係争中かなんかだったけど


kokorosha 実際に行動しているかどうかの問題かなと思う



 この辺はホワイトバンドなんか想起しつつ「そうだよなぁ」と思う反面やっぱ上記した理由でけっこうムズかったり。「実際に行動している」という場合でもその中身の見極めが難しい。


「なにをもって善的なものとするか」「それはほんとに正しいことなのか」って見極めは難しい。「正義なんて時代や環境によって変わるものだし」って一般論もあるしそれは分かってるつもりだったけど実際に関わってみると流されるところが多かったり。「これはヤヴァイ活動だから手を引いたほうがいい」って理性では分かっててもそこで手を引いちゃうと被害にあってる人とか動物とかにコミットできなくなっちゃうし



  正義とか悪とかなくてあるのは近親者への愛(いたわりと友愛)ってことなのかなぁ。「自由・平等・友愛(フラタニティ)」の「友愛」ってことで「正しさとかはなくて自分の近くにいる人々を最小限守ることができ得る精一杯のこと」ってことなのかな。

 そしてそういった愛は社会的には「罪(悪)」とされることや人生の空虚さも洗い流してくれる、と。 その場合、自分と関わりのない人たちに関心を持つことは「悪」といえるのだろうか…

 それは自分が閉じこもっていくこと(世界への関心を失うこと)の言い訳になってないか?



そういう小難しいとこまで考えなくても「あ、あの人自分の正しさに酔って目がぐるぐるしてる」って人はなんとなく分かるようにも思うけど。イメージとしてはねこぢるの描くぐるぐる目みたいなの。


 まぁ、もうちょっとぢもーっと考えていこう


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2008年02月24日

Changing Same (reprise)

「anti agingっつーか歳とっていいんじゃね?」ってこの話


muse-A-muse 2nd: Changing Same


ほんとなら引用の編集のみしてミクシに置いとくつもりだったんだけど思ったより長くなったのとそれなりに滋味が出たのでblogエントリにしてみた。つっても、詰めゆるくしておいたので全体にぼわーっとしたエントリになってるけどまぁ味わいカルピスって言うか全体の色を愉しむというかそういうエントリ (「いい色でましたね」っていうか)

きちんと書く場合は「変わっていく中で変わらないもの」について書いておくべきだっただろうけどそれは恣意的に誘導しないで読む人それぞれに考えて欲しい(ってえらそうだな) つか、まぁ、よくわかんないとこあるのでほのめかしたわけだが(笑)


エントリの主旨としては、「けっこう若い段階でその人のその人たる性向(志向)の根幹は形作られそれが続いていく。歳をとって肉体が変化したり、環境の中でサイショノキモチのようなものは変化するだろうけどそれは表層的な変化に過ぎなくて、根っこの部分が変わらなかったらそういった変化も楽しめるのではないか?あるいはそういうのを成長と呼ぶのかもしれない」、って感じ

この辺はびみょーで、女性のアンチエイジング問題とはまた別個なのかもしれないけど…(オレなんかも運動してるわけだし、「それはそれ」ってのはあるしなぁ)


んでもまぁ、成長とかそゆのがあるとしたらなにかを基準にしてなにかを目指すわけでその際のスタート地点とゴールってのはなにか?、みたいなこと


最終弁当爺がちょこちょこ「中学か二十歳ぐらいの頃から精神なんて変わらんよ。肉体は変わってくけど」みたいなこといってて引用でもこの辺が対応するわけだけど


The great secret that all old people share is that you really haven't changed in 70 or 80 years. Your body changes, but you don't change at all.
-- Doris Lessing, O Magazine, October 2003



「んじゃ変わらないものってなんなんだろね?」、と



エントリ後段にほのめかし的にヘーゲル関連の本配置してるわけだけど、それ系で言うと「精神」ってことになる。でも、「精神の現象学」ってそういう本だったっけ?「関係本質」うんぬんで社会性がどうとかいう話(そして精神が大きくなっていったら国家の問題を志向するようになる)みたいな話だったように思うんだけど


当時なんとなく思ったことをうろ覚え的に言うと、「けっきょく社会性(他者を志向しろ)って話ですか?そんなこといって“自分”はどうなるんですか?」って反発したように思う。この“自分”って感覚ははてな界隈でよくみる「他者承認」とか「同調圧力」とかそういうものへの反発心。「周りに合わせすぎたら自分がなくなって不安になるじゃん?」って感じだった


そういう気持ちが消えていったのはいつごろだったっけな? 周りに人が増えて、そういう中でも焦燥感もなくそれなりに自分の居場所のようなものを築けてからかな?けっきょく「居場所」の問題なのか?

んでも、そういう付き合いに流されることもなく自分たちのやるべきことをやって、それなりに成長していって……成長…したのかな? とりあえず「付き合っていて欲しいから周りに合わせる」みたいなことはなかったしな。


そんで、それなりに食い扶持見つけて、自分のスペックとか方向性なんかに目算つけてから焦りもなくなったような…てか、もうちょっと焦ったほうがいいのか?(いいんじゃないのか?(汗


けっきょくそんな感じで、「精神とかそういうのも環境によって作られるものだ(まずは稼がにゃなぁ)」、ってのが一番学んだことだったように思う

稼ぐだけが全てじゃないけどライフラインとしてそれを確保することがスタート地点で、精神とか倫理とかそういうのはそこからの問題なんだよなぁ。。つっても、そういうのもったからって「哲学いらない」とか言ってる人って精神的に貧しいように思うわけだけど

考えてみれば哲学とか思想なんてのは自分よりもよほど年季入った人たちが晩年になって考えてたものであって、そゆのを字面だけ吸収してても分かんないものがあるように思う。「ことばではわかっても理解してない」っていうかそんな感じ

マルクスでもヘーゲルでもロックでもなんでもいいけど、そのテクストはその時代環境に即して書かれたものなのでその時代や環境における問題意識が如実に反映されているわけで。あとは著者のリアルな生活における問題とか変化。バイオリズムなんかも関係するだろう

そういう意味では年寄りが書いたものはそれなりの年齢になってからじゃないと理解できないところがあるんじゃないか?…っていうか、歳とともに味わいが変わるのかなぁ、とかなんとか。

思想や文学系で特定人物研究やってる人はそういう問題意識もあるのだろうけど



てか、なんの話だったっけ?


ああ、「変わらないものがあるとしてそれが“精神”であると仮定したとき、精神ってのはどういうものか?それは外部環境や肉体などの変化によって変わっていくものではないか?そもそも、精神の問題を学ぶにしてもそれが記してあるテクストそのものへの理解が精神年齢的に追いつかないのではないか?」、って話か


・・どうなんだろうねぇ。。


けっきょく「自分の経験に照らして考えろや!」ってことなのかもしれないけど




なんだろね

よくわかんないけど、歳とってくにつれていろいろ面倒な意識が枯れていってほんとに必要なものだけ残っていくみたいな感覚はある。やること多くなって面倒なこと悩んでる暇がなくなるっていうか、逆に言うと「感受性が鈍る」ってことなのかもしれないけど。

でも、そういう中で残った意識が自分ってことなのかなぁ。「意識」ってのもおーざっぱ過ぎるな。周りから提供される問題ではなく自分自身の問題っていうかそういうの。人生のテーマ?・・っていうほど大げさなものでもないか


しかしやっぱ「ほんとの自分」がどうとか「アイデンティティ」がどうとかいうより目下の問題としてどうやって稼ぐか(あるいは自分の生存ラインを確保するか)だよなぁ

「汚れちまった大人」ってことかもしれないけどやっぱそんな感じでしょ。もろもろの問題意識はそっからだべ



つか、この話もミクシの別の話の枕程度にするつもりだったんだけど長くなったな。。ついでだからこっちに置いとくか



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追記:
このぐらい突き抜けると強力w


Twitter / fim: 姉と「私も今年で28歳なのよね…」「私なんか30歳よー...

姉と「私も今年で28歳なのよね…」「私なんか30歳よー…」としみじみと話していたら、母が「お母さんは今年まだ54歳よ!」と自慢げに話に割り込んできた。数字という絶対的な力にも負けないあの自信がうらやましいです。



タグ:人生
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Changing Same

You don't stop laughing because you grow old. You grow old because you stop laughing.
-- Michael Pritchard



The dead might as well try to speak to the living as the old to the young.
-- Willa Cather



Happiness is an imaginary condition, formerly attributed by the living to the dead, now usually attributed by adults to children, and by children to adults.
-- Thomas Szasz, The Second Sin (1973) "Emotions"




Nothing can be so amusingly arrogant as a young man who has just discovered an old idea and thinks it is his own.
-- Sidney J. Harris



I never dared to be radical when young
For fear it would make me conservative when old.
-- Robert Frost, 'Ten Mills,' A Further Range, 1936





The young have aspirations that never come to pass, the old have reminiscences of what never happened.
-- Saki




Youth cannot know how age thinks and feels. But old men are guilty if they forget what it was to be young.
-- J. K. Rowling, Harry Potter and the Order of the Phoenix, 2003






The great secret that all old people share is that you really haven't changed in 70 or 80 years. Your body changes, but you don't change at all.
-- Doris Lessing, O Magazine, October 2003





A child becomes an adult when he realizes that he has a right not only to be right but also to be wrong.
-- Thomas Szasz, The Second Sin (1973) "Childhood"









「歳をとるのは怖い」みたいな話を見かけたのでなんとなく、以前の「おことば」集の中から歳をとること(若さと成熟みたいなの)をてけとーに編集してみた。いつもどおり呪文みたいなもんだから流し見ていただくとして

個人的には歳をとることについて焦りはない。中学ぐらいの頃から「早くじじぃになれないかな」とか思ってたのでそんなに。焦りがあるとすれば目標に対して達していないからということになるのかな、とか思うけど女性の場合はまた違うのかもしれない。

それは肉体(的衰え)と精神の関係ということで理性的に割り切れるものでもないのだろうけど。個人的にはこの歳になってからのほうが体力とか筋力とかついてるからなぁ。。(年齢はヒミツだよ ><)



生や死と同様、歳をとることは自然の摂理でそれについてもうちょっと語られてもいいものなのかもしれない。消費の中心は若い人向けのものだから畢竟マーケットの言説は若者向けなものに傾くのだろうけど。つか、いまは老人向け市場とかあるのか。でも「老人向け」って感じだとなんか萎えるので。年とって身体は衰えるかもしれないけど精神的には変わんないし

消費市場は「老人向けマーケット」みたいなのも生み出してるのかもしれないけどネットではそういうのはあまり見ない。ネットってかミクシとかついったーなんかの言説の中心は若者って感じ。若者って言うか10代から40代ぐらいまでか。blogでかろうじて歳を重ねた人の言説を見ることもあるけどけっこうな割合でオレオレ中年って感じで萎えることがある。たぶん会社で管理職かなんかでがんばってきて、周りにYesマンばっか集まって世間の実態というものを知らない人たち。大人の子ども

そういう人たちとは違った経験を重ねた人たちの語りを聞いてみたい。しかし、プロトコルが合わないのかもね


「若いうちはそういうこと考えずにブイブイ(死語)いっちゃったほうがいいよ? 若いとき跳ねれない人が晩年に保守的になるんだよ」ってのもあるかもしれないけど…つか、「精神的には変わらない」っていいつつも歳をとると昔の気持ちは忘れてしまうものなのかもしれない


いじめについて。 - kuboke GO HOME(帰りんさい)

むしろ、敵とか問題とか心配とかは

じぶんの心の中にも、ある種潜んでるものと

30歳を超えたあたりから痛感するようになりました。





仕事とか人間関係とか、そういう環境の中で自分の責任でもないものをやむなく背負わなきゃいけないときってのがあって、そういうのを続けていくうちに枯れたり擦り切れていくものもあるのだろう。「それが悪い」っていうわけでもなくかといって居直るわけでもなく「それが人間」っていうか…



「秒速5センチメートル」とかrepon日記を見ながらそんなことを思った



秒速5センチメートル 通常版
コミックス・ウェーブ・フィルム (2007/07/19)
売り上げランキング: 654
おすすめ度の平均: 4.0
4 批判している人へ
5 2話と3話の断絶にある真理
5 話題作





2007-12-07:自己肯定感と成熟 - reponの日記




承認欲求うんぬんについての答えにはならないだろうけどメモ的に。

「親の愛を充分に受けられなかった子供は不幸になる」というのは確かに疑問なんだけど肯定感(他者承認)うんぬんというのもあるかもしれないが愛のトレースってことなんじゃないかと思ってる。後段は「成熟する = 大人になる」の定義に関わるだろうけど「愛」ということについて言外に知っているなら他人への友愛を元としたコミュニケーションをするように思う。「愛」がなにかは分からないけど他者へ親切にしたり、他人の意見に耳を貸してコミュニケーションをはかっていくことを通じてそれが気持ちよい(エロス)ということを実感する。なので、よくわかんないけどとりあえず真似(トレース)する

それは強制的規範とか同調ということとも違う



「大人になる」ということがどういうことなのか、変わっていくものの中で変わらないものというのがどういうものなのかまだよく分かんないけど、そんなことを思った



そういや他者との関係性と「大人」みたいなことだと前にこんなの読んだな



ヘーゲル・大人のなりかた (NHKブックス)
西 研
日本放送出版協会 (1995/01)
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おすすめ度の平均: 4.5
4 好著だが、ここでは不満を・・・
4 個が共同体と関わるとき
5 新しい哲学者の出現




・・内容忘れたが






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関連:
muse-A-muse 2nd: 時の重み、時の薬

※「歳を重ねること」関連で


タグ:人生
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2008年02月22日

自分探し(笑)ってスイーツ(笑)と似てるね

この辺とくにいうこともないというか、主張的には「“自分探し”ってマーケ的に涵養されたんじゃね?(だからほんとの自分なんてないよ)」とか「自分探しは飽食の時代のガキの幻想。おぢさんたちなんてすぐに働かなきゃいけなかったからそんなの探してる暇なんてなかったぞい」って感じの俗流若者論的なひげもじゃ言説でFAって感じなんだけどreponとこの日記で刺激うけてちょっとついったらそれなりに反応(?)あったので朝のメモ的に。


自分探しって言うな! - reponの日記

「自分探し」→「フリーター」→「パラサイト」→「ひきこもり」→「ニート」と繰り広げられた、マスコミの扇動商品なのです



うん、まぁ、たぶんそうなんだけどさ。そんでreponとしては「そんなのリクルートが“フリーター”って言葉作って扇動した(わりには責任とらない)のと一緒だよ!pgr」的なかんじなんだろうけどさ。てか、reponとしてもひげもじゃ言説にはなにか思うところがあったみたいなのでpgrってわけでもないか


「自分探し」と「自分を決めること」は位相の異なる話 - reponの日記


タイトル見ただけでいいたいこと大体わかるように思うのでよまずにてけとーにいっちゃうと、「自分探し」ってのは新語として作られたもので扇動されてった挙句になんにもないみたいな事態があるかもしんないけど「自分を決めること」というか人生の分岐点でなんか悩んだ末に進むべき道を決めるなんてのは昔からあることなんじゃねぇか? そんで、それ自体は批判されるようなもんでもないよね? ってことかな、とか

つか、もそっというとマーケかなんかで扇動されていった感情だとしてもそういうものを無碍に批判したり揶揄したりするのってどうなんだろ?って思う。ハチクロの竹本くんなんか見てても思ったんだけどそういう感情が生まれる情況ってのはあるし、「自分探し」に乗っかった末になにか見つかるかもしれないしね (北の果てにて「ほんとの自分なんかないんだ」みたいなのだったけな?)


そんで思うのは、昔といまでは「自分探し」的なものをする人の数が違うとしたら情況の変化は環境変化と関わっていることなのかなぁ、とか。端的に言うと、昔はすぐに職業決まってたから仕事やら遊び漬けの中で内省する必要もなく空っぽな自分の時間の重みに押しつぶされそうになるようなこともなかったのかもしれないんだけど、いまはすぐに就職できないからその辺で焦りとかあるのかなぁ、とか (cf.竹本くんと冷蔵庫の音@ハチクロ)

そゆのもあるけど、そういう情況を察知して「自分探し」って旗頭で感情を扇動、「よくわかんないけど人生の中で自分探しの旅も必要じゃん?」ってことであいのりやらワーホリやら行かすようになってるのかなぁ、とか。あと、「天職」って言葉つくって転職系刺激したり

もちろんあいのりやらワーホリやらを本気で取り組んでる人もいるのだろうけどそれをモラトリアムにしてる人もいるよね。んで、その部分に対してひげもじゃとかがなんか言ってくるのかなぁとか思うわけさ。


そゆわけでその辺の若者の内在的な志向としてのアイデンティティの確立欲求みたいなのと「自分探し」的なものの違いら辺について、「昔は自分探ししてたの?」的なのが確かめられる本とかないかなと思っててけとーについったーでつぶやいてたらよさげな信号が


やさしさのゆくえ―現代青年論
栗原 彬
筑摩書房 (1994/04)
売り上げランキング: 430377



やさしさの存在証明―若者と制度のインターフェイス
栗原 彬
新曜社 (1996/10)
売り上げランキング: 404028



この辺はあまり関係ないのか?↓


ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書 74)
森 真一
筑摩書房 (2008/01)
売り上げランキング: 5634



“やさしい”から、席を譲れないんです〜『ほんとはこわい「やさしさ社会」』森真一著(評:朝山実) (毎日1冊!日刊新書レビュー):NBonline(日経ビジネス オンライン)



まぁ、時間あって読む気になってれば


自分的には前に読んで手元にある「言葉を失った若者たち」でもチラ見しようかと思ったり

ことばを失った若者たち
桜井 哲夫
講談社 (1985/09)
売り上げランキング: 249829
おすすめ度の平均: 4.0
4 日本社会の問題の原点のひとつがここにあります。
4 今にも通じるテーマ




あと、前に小田センセが書いてはったのをもっかい見直してみようかな、とか

戦略的本質主義を乗り越えるには(?) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

戦略的本質主義を乗り越えるには(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

「本当の自分」と本質主義 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

戦略的本質主義を乗り越えるには(3) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

「真正性の水準」について - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」


スピリチュアル・ブーム(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」


空白からのスピリチュアル志向でこの辺とも絡むのだろうね


muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム


ところでこの辺の話って「スイーツ(笑)」と似てんな。スイーツ(笑)っていう人たちの視線とひげもじゃの視線が似てるんだろうな。そんで本気でスイーツ的なものに悩んでる人やハマってるひと、スイーツ的に成功した人なんかがいる(?)ところなんかも  (まぁ、自覚的に「スイーツ」っていって遊んでる人たちもいるわけだが)

あと、「格差社会」をめぐる言説の型とも似てる (「そんなの昔からあったんだよ(でもおっさんたちはがんばって昨今の若者たちは甘いうんぬん」、「むかしとは違うんだよ」、「違いなんてどうでもよくてとりあえず目の前の苦しんでる人を見ろよ」)



そいや、天職みたいなのつながりでゲド戦記みた。「二度とゴローのようなコを作らないために」(リンク)と言わしめた作品ということでどんなものかなと思ってみたんだけどそれほどひどいということもなく凡庸な作品だなぁという程度だった。最後のほういい感じで眠らされてたし。ちなみに原作は読んでません

そんで「本当の名前」とか「影を奪った」とかいうところが今回の話題に似てるなぁ、と。「千と千尋」なんかにもそういうモチーフあったな


あと、ついでに

Twitter / 空飛ぶ鍋奉行 勇者ニョチュチュ: 自分探しの前にズボン探しをしないと家から出られません[mb]

Twitter / m_um_u: @jt_noSke オマエのジブンはオレが預かった(嫁ともども


もう少し言えばのすけのほんとの名前も没収済みだ ( ̄ー ̄)



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関連:
「やさしさ」から《やさしさ》へ - たいしゅううんどう

なんか栗原さん関連で似非ログにあったので (どーでもいいことかもしれんがオレはこっちの似非原アイコンのが好きだなぁ)



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追記:
そういや前に「自分の中の才能に気づくこと」うんぬんなエントリあげたときに「自分探しですか?ほんとの自分なんてないんです!」みたいにいわれたことあったなぁ。。そゆこと言ってたわけではないんだが…(まぁ、「ほんと」ってのがキケンとか言うのは分かるけど)
posted by m_um_u at 09:15 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年02月09日

「働いていない = 悪」なのか?

ここのぶくま見てたら「ニート」って言葉が出てて直近でメモっときたいことがあったので軽く


「働かざる者食うべからず」 - 忘れ去られるべき日々について

はてなブックマーク - 「働かざる者食うべからず」 - 忘れ去られるべき日々について


以下、ビッグイシューvol84の雨宮×宮本対談から宮本みち子さんの発言 (p16-17) (※太字は引用者によるもの)


(オレ的にまとめると、「NEETという言葉は単に若者の不安定就労をさす言葉だったのに、日本に入ってくる段階でナマケモノ的イメージがつけられてしまった」、という話)


ニートという言葉は01年にイギリスでつくられた用語で、コネクションズという若者支援サービスが対象者を、13歳から19歳の「学校にも雇用にも職業訓練にも従事していない若者」と定め、それを「ニート」と呼んだのですが、その際対象としたのは、「不安定で、自活の困難な、社会から排除される可能性を持っている若者」でした。「失業者、無業者、不安定就労者、障害者、病弱など複雑な問題をかかえていて働くことのできない人」すべてが含まれています。
 ところが04年に日本に入ってきた時には、ニートという言葉が流行するきっかけとなった『ニート − フリーターでもなく、失業者でもなく』という本の題名が表しているように、ニートから失業者と不安定就労者を除いてしまった。そうなると残った人は、「働いていない状態」にある若者となります。ではいったい働いていない若者とはどんな若者なのだろうか?
 それで人々の憶測が広がりました。当時、日本で非常に大きな問題だったひきこもり問題に対して、国がきちんとした対応をしていなかったために、ひきこもりとニートの問題がかなりくっついて論じられるようになりました。「働く意欲のない若者=ニート」というイメージが広く浸透してしまいました。ともかく、日本における「ニート」の流行で一番の罪はなんであったかというと、失業問題とか不安定就労という問題がそらされてしまったことだと思います。




ネットなんかだとたまに罵倒語として「ニート」って使ってる人がいるのを見るけどそういう人たちはこういう文脈に自覚的なのかなぁ、とか思う。単にマッチングの問題であって倫理的な問題ではないのだけど罵倒で使われるときには両方くっつけて論じられることが多いような・・。自覚的なのかねぇ


「働くこととか家を持っていること = 善なのか?」関連で、こんな言葉があったのでメモ (ビッグイシューVol85, p7)

以下、イギリスでビッグイシュー売ってるおっちゃん(グレアム・ウォーカーさん)の話

「私の考えだけど、ホームレスというのは心のありかた。家に住んでいても私よりもずっと苦しい思いをしている人にもたくさん会うよ。ひとりぼっちだったり、精神的な問題をかかえている場合だってある。私が出会うたくさんの人に比べたら、私のほうが心はホームレスじゃないと感じるね」



グレアムさんは現役の販売者なんだそうだけどビッグイシュー売るときにおまけとして作っていた小冊子が評判を呼びそれをまとめた自伝を自費出版したんだそうな(2500ポンドのツケで)。

家庭は貧しく親からはあまりかまわれることなく育てられ12歳で学校を退学、一家離散後に児童施設に入所。結婚して子供をもうけ平凡な暮らしを奥路つ押したが20代半ばまでに23もの職を転々。そうこうしてるうちにだんだんと酒におぼれ公園のベンチで寝るようになった。ビッグイシューを販売するようになってようやく水道や電気などのライフラインを手に入れることができた、と。

すごいなと思ったのはこの状態でホームレス支援団体とホスピスへの寄付金集めをしていること。『募金活動のためにシルクハットと燕尾服で路上に立ち、現金で1500ポンド集め、3000個のプレゼントを贈り、その年のバーンスタプル市民賞に選ばれた』んだそうな。



こういうの見てると家とか仕事とかは部分に過ぎないのかなぁとか思う。仕事によって人生が充実することはあるけどそれはその人の人格の全てではないしね。お金とか社会的ステータスも

そこから仕事と労働の違い、あるいは仕事=「天職とはなにか?」みたいな話もあるけどこの辺は長くなるしちょこちょこでる話題だからいいや。(自分的にも前に書いたし)


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関連:
アリとキリギリス - uumin3の日記

※「働かざるものくうべからず」なアリの倫理の元となった寓話は日本に入ってくる段階で変質してしまったみたい、って話。五常について見たときにも「ここまで苦役礼賛型にしなくていいんじゃない?(マゾですか?)」とか感じたけど儒教というか支配思想の影響みたいなのがあるのかな?(どっちにしても再帰的概念っぽいけど)

muse-A-muse 2nd: 「違った人」との付き合い方

muse-A-muse 2nd: 「かしこさ」よりも「五常」がほしい


 
タグ:仕事
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2007年12月14日

ほほえみの糧

 本来、こういった内容はミクシのほうに書いてくようにしてるのですが先日のエントリにも絡むのでいちおこちらのほうに書いておきます。つっても単なる日記のようなもので主張とかそういうのでもないんですけどね。

 先日のエントリでは承認欲求やらなんならいろいろ細かいこと気にしたり、いろんなことに無関心なことを気にしたり、そういう類の人がいる話が出てきたのですが世の中にはそういうのと縁遠い人もいるもので・・。

 まぁ、要約すれば「リア充」ってやつなんですが。なんでしょうかね。いってみればリア充ってのは「惹かぬ、媚びぬ、省みぬ」なんですよね。誰かの気持ち(承認)を惹くために反省したり媚びたりっていうことがない。いや、多少はあるのですが「誰か」とか対人関係の悩みとかが中心にないので。その辺は放っておいても充実していくものなので特にそういうの考えないんですよね。ってか、考えないないからこそ重たくない。重たくないからこそ人が集まってくるっていうインフレスパイラルみたいなのが発生してるようで。・・まぁ、なんともうらやましい限りなんですが。

 で、本日はそういうリア充(笑)と会って来たわけです。ぶっちゃけミクシのほうではわりとおなじみのヤギ娘のことなんですがね。


 この娘がもう、なにも考えてないというかお気楽だなぁ、っていうか・・具体的には「ホッカイロを素肌にはって寝たので起きたらミミズ腫れみたいになっててお母さんに“アンタ、バカァ?”っていわれながら薬塗ってもらったぁ」って話から始まっていつもどおり「あぁ、コイツなにも考えてねぇ....」ってのを楽しんできたわけです。

 なんつーか、まぁ、いろいろとお気楽極楽に暮らしてる割には生活に窮するわけでもなく、対人関係で悩むこともなく、ほんとに楽〜に生きてるわけですね。流行の「透明感のある(うんぬん)」とかそういう感じでもなく、ほんとに「なにも考えずに生きてたら楽しいこと舞い込んで来てるよ」的な。

 そういうのは彼女の家の環境とか外見といったスペック的なものが絡むのかもしれないけど、とりあえずそうやって形成された性格やら話し方なんかが人とか運を惹き付ける要因になってるのかなぁ、とぼけーっと思ったりしつつもやっぱコイツのこのお気楽さはなんなんだろうなぁ、と。

 だからといって[イケメンに限る]とかそういうわけでもない・・のかなぁ。少なからず外見も絡むかもしれないけどそれを武器にしたりひけらかしたりしてないですからねぇ。。むしろ自分のチビッコさは(いちお)コンプレックスにしてるし。

 つか、いろんな要因があったからコンプレックス感じにすんだのかなぁとか思うわけだけどまぁその辺の話はどうでもいいです。



 問題はコイツのこの生き方は汎用性があるものなのかということなんですね。承認欲求その他うんぬんなことを気にしてる人からするとほんとにもう目の前に置いただけで鼻血噴出しちゃうぐらいの衝撃を与えるんじゃないかと思うんだけど、上述したようにそれは狙ってやってるわけではないんですよね。

 んで、「ぶっちゃけ天然なの?(不思議ちゃん?)」って聞いたら「天然は嫌い」とか返すし...まぁ、確かに「天然」でも「不思議ちゃん」でも「もうきん」でもないわけですが世の非モテ(あるいは非コミュ)女史からすると「それこそがもうきんなのですよ!」ってことになるのでしょうね。いや、やつもそれなりに失恋なりなんなりしてきてるわけだけど(でも、どう考えてもオレの精神的痛みや葛藤に比べたら小学生低学年並にしか考えてない..)


 んで、まぁ、思ったのが



「天然」 → 「不思議ちゃん」 → 「もうきん」 → 「アルパカ」



 なのかなぁってことです。


 (偽装系)「天然」の進化(あるいは派生)形態として「不思議ちゃん」があり、それらからさらに計算性を取り除いた(あるいは身体的に染み込ませて外には見えない形にした)ものとして「もうきん」があるわけですが彼女の場合は「もうきん」にも当てはまらないように思うんですね。

 「もうきん」(@「江古田ちゃん」)というのは普段は「ふわゆる☆愛されガール」な癒し系雰囲気をまといつつも肝心の場面がきたら隠していた爪をむき出しにして獲物に襲い掛かる(このとき殺気は感じさせない)というものだと思うのですが彼女の場合はそういう計算性がない。 まぁ、なにも考えてないわけです。なので失敗することもあるのですがそれについて特にくよくよしないっていうか引きずらないのですね。まぁ、この辺は「女は男よりも立ち直り早いから」ってのもあるだろうけどそういうのでもなく・・・ぶっちゃけて言えばセクシャリティがないんすね。

 この辺の話はびみょーで一回ケンカになりかけたんだけど、ぼくからすると彼女は小学生みたいな精神性と恋愛観を基本にしているがゆえか大人的なセクシャリティを感じることがない・・。で、その辺のところを言ったところ、「女のしての魅力とかそんなの好きな人にしか見せないようにしてるもん!」とのことだったんだけどやっぱぼくからすると疑わしいですね。まぁ、外見ちびっこってのもあるだろうけど、どう考えてもあの精神性から(ぼくが思うところの)セクシャリティが発生してくるとは思えない・・。

 んで、セクシャリティとか色気とかそういうのは「もうきん」で言うところの爪に当たると思うんだけど、そういうのがないのにどうやって獲物を捕らえるんだろうなぁというのが不思議なところで。まぁ、なににセクシャリティを感じるかは人それぞれってことだと思うんだけど。あるいは「人はセクシャリティのみによって付き合うにあらず」とかそういうことですかね。


 それはまぁいいとして、まぁ、とりあえずそんな感じで彼女には「もうきん」的な爪がないように思うわけです。つまり「もうきん」ではない。んで、思ったのがアルパカなのかなぁ、ということで。

 なにも考えてない。爪がない。できればお気楽になにも考えず暮らして生きたい。揉め事とか悩みとか無縁なところでぼけーっと暮らしていきたい。

 こういった一連の特徴がアルパカさんというにピッタリなのではと思って言ってみたところ彼女もけっこう納得してました。



 そんなこんなですかね。

 彼女を見てるとこういうのはあまり考えても仕方なくててけとーでいいんじゃないかと改めて思えたわけです。人生なんて深く考えてもあまり考えなくても残されるものなんてないのだから、だったら大笑いして暮らしたほうがなんぼか楽なんだろうなぁ、と。さしづめ「馬鹿になれ」(「好きを貫け」)ならぬ「パカになれ」ですかね。

 つか、会う度にそのパカっぷりに大笑いさせられるわけで。だったらその様子をblog通信しろといっているわけだけど本人狙ってパカやってるわけでもないしどの部分がおもしろいかわかんないということなのでムリ、と。・・ひじょーに残念だけど。


 「ぼくだけのアルパカブロガーになってよ」ってlovecallも届かずじまいってことで 







♪ Bonnie Pink / ほほえみの糧

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2007年12月13日

愛はさだめ、さだめは…

昨日の夜ぐらいについったーで「自分らしさをもちながら人との関係性を保つこと」うんぬんな話をしていて今朝方なんとなく気になったのでメモ的に。

 「社会という場ではほかの人のことも気にしないといけないよ」ってのは分かるけどほかの人のことを気にしすぎてアイデンティティが承認欲求を元にするようになるとしんどいだろうなぁ、とか。「人が迷惑するから」とか「あの人はぼくのことを気遣ってくれて」とかいうのも大切だし、それをどのくらい気にするかというのもその人の歩んできた人生とか現在いる環境によって違うものだと思うけどやっぱそればっか気にしすぎていると気疲れしてしまうんじゃないかと思う。

 というより、(いぢわるな言い方をすれば)「ほかの人のことを気にしてこういう行動をしたんだ」的な言い訳になるというか.......



 で、傷ついたり傷つけたりな泥は避けるのね。



 それは優しさともいえるのかもしれないけど少し逃げ過ぎではないかなぁ、とも思う。


 どんなことやってても嫌って来る人はいるし、その理由はこちら側にあるのではなくあちら側にある場合もあるのでその辺気にして固まって動けなくなるのもどうなのかなぁ、と。(田中芳樹の小説で「敵よりも臆病な味方のほうがやっかいだ」とかいう話があったな)

 どっちにしても敵ができたり疎まれたりするんだったらやりたいことやったほうがいいように思うんだけどな。まぁ、できるだけ嫌われないようにしたほうがいいだろうけど「嫌われる」のを言い訳にしてなにもしないというのもどうかと思う。あるいはなにもしない免罪符としてそれを用いるのか



 「なにもしない」「なにもない」というのはほとんどの人にデフォルトなことで、きちんとした人生の目標というか「死ぬまでに最低でもこれがしたい」とかいったようなことは大部分の人はもっていないように思う。「お金」とか「ステータス」というのもけっきょくは手段であり通過点に過ぎない。なので「死」を思い、それを実感して目標を立てることが必要なように思うけど、そういうのは重いしほとんどの人は身につけていないもののように思う。(たとえば「死を実感する」ということ一つをとってもほとんどの人はほんとの意味でそれを実感したことはないだろう。知識として理解していても)


 だからといってほとんどの人の人生が満ちたりないものかといえばそういうことでもない。むしろ上記のようなことを考えないで済む人のほうが満ち足りた人生を送れているのかもしれない。

 その人たちを包んでいるのは家族のぬくもりや抱擁、無前提の許容。ありていに言えば「愛」ということなのだろう。


Twitter / Say0: なんかほわわんとしたふんいきのひといいなうらやましいなぼくもそうなりたい



 (ややこっぱずかしいが)「愛」は言葉や論理ではなく身体的なぬくもりというか実感のようなものだと思うので。そういう意味では挨拶の無意味さ(内容としては無意味でありながらも形式としては意味がある)感じにも似てるかもしれない


Twitter / 雨野迷狗屋(絶望機会): 前にも言ったかもしれないけど、言葉として「お帰り」の言葉はなんか、何かの温かみを感じる。 @m_um_u さんの書き込みを見て、再び想う。

Twitter / 雨野迷狗屋(絶望機会): @m_um_u なにか、自分の存在しても良い場所の捕獲というか、間接的に”生きててもいいよ”と言って貰ってるみたいで、私は好きな言葉です


 他人を愛するとか恋愛とかいう領域もけっきょくは個人間の対幻想的な領域なので一般化しにくいだろう。(cf.セックスは人それぞれ違う)

 なのでこの部分について頭でっかちに考えていても仕方なくて、とりあえず目前のものにぶち当たっていけば良いように思うわけだけど。相手に対する誠実さというのはその関係を通じて発揮されるものであって関係以前にいろいろ悩んでいても仕方ないのではないだろうか。(相手が自分の「誠実さ」にたいして不真面目すぎる場合もあるし・・それでも相手と一緒にいるということが愛なのかもしれないけど)


 それ以前に出会いの問題があるか。これもよくわからない。始めから「理想のタイプ」とか「理想の恋愛」みたいなの決めててもそういうのとはぜんぜん違う相手を好きになったり付き合ったりね。まぁ、事故みたいなものなんじゃないかと思う。そんでその中でどのように相手と向き合うかってことではないだろうか。




 ほとんどのひとはそういう「愛」のあたたかみで満足するしぼくもそれで充分だと思うけど、中にはそれだけでは満足できない人もいてそういう人が自分なりの生き方のようなものを模索するのだろう。そして「自分なりの」ということは少なからず他人と異なっているわけで、その部分で他人と衝突したり、譲らなかったりで孤独が生じていく。たぶん家族や恋人であっても理解されない領域があって、そういうことに対して寂しさのようなものを感じるけど仕方ないかなと思ったり。

 それは「理解されない」という諦めとは少し違って、理解されないということ(人はそれぞれ「他者」なのだということ)を前提にしているからこそ誠意をもってコミュニケートしようとするのだろうし、通じたときには喜びが生まれるのではないだろうか。


 そして、他者からの承認を待たない「自信」というものもそういう風にして形成されるものだと思うけど、この部分はまた少し違うのかもしれない。(自分を見つめる以前に「お金」や「ステータス」などによって足りる人もいるのだろうし)



 個人的には愛っていうか他者からの承認だけに頼ったり、反対に愛がないので「金」や「ステータス」(あるいは「知識」)などに逃げるってのもどっちともいびつなように思うけど。この辺はバランスだろうなぁ





 とりあえず、もうちょっとゆるく自分を信じて生きてみるのもいいのではないだろうか?(もういい歳なんだからちょっとのことじゃ折れやしねぇよ)


id:hebomegane彼女募集の件について - ヘボメガネ一進一退



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関連:
アドバイスをするときに多分大切なこと - finalventの日記

人の心のテンプレというか - finalventの日記




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追記:
余談ですがhebomeganeのひとはほとんどのエントリをケータイから仕上げているようです。げに恐ろしきはへぼめがね....

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2007年11月29日

「違った人」との付き合い方

 特に主張とか結論がある話になりそうでもないんだけどついったー経由で見た話題でちょっと違和感ってか、自分なりのメモ。

 自分より弱い立場の人に対して過剰に思い入れをしてしまって対等に扱えなくなってしまう問題について。接触してもうまくコミュニケートできなかったり、あるいはそれとなく接触そのものをしなかったりとか。

 差別に対する逆差別って感じで必要以上の持ち上げ(過剰性)が発生しているのだろう。それで自分と対等の人として扱えなくなるというか、コミュニケーションがなんかギクシャクしたりとか・・。そういうのは頭では分かっていてもなかなかうまく振舞えなかったりする。

 (非対称性を利用して差別するってのは論外として)「対等」ってことで殴ったりdisり愛みたいなことをすればいいのかなとか思うわけだけどそれにも限度というか、なにか線引きのようなものがあるような気がする。なんというか....まぁ、びみょーなんだけど.....なんとなく頭に浮かぶのがこの辺とか

 当人たち同士の了解があるので良いのだろうけど、なにか特殊な感じがする(これがファイトクラブってヤツなのだろうか)。それがネットによってドライブされた人格なのか、もともとセケンにはそういう感覚で生きている人たちがいるってことなのか分からないけど。なにか好事家的な雰囲気があって下品だなぁ、と。(まぁ、当人たちはそういうの自覚的に楽しんでるのだろうけど)

 ついったーで自分がつぶやいた言葉、「本当に対等な個人(大人)として扱うなら失敗の選択も本人の自由」、ということを反芻しつつ傍観するしかないのかなぁとか思う。って、成功するかもしれないけどよくわかんない。あと気持ちがザワザワするのであまり見ないかもしれないけど。こういう話は比較の問題ではないと思うけど、でも、不幸な人は彼女だけではないし、それを意識しすぎるのってなんか変な感じがする。(「関わってしまった」というのもあるのかもしれないけど)

 つか、「対等な個人」としてみた場合、正直ぼくは彼女に特に興味ないしなぁ。。(友達になりたいとも思わない)

 
 だから関心としては「可哀想がりたいんでしょ?」的なものが考えられるんだけど、そゆのとはまた違ってたまたま痛んでる様子な人がいたので気にかけただけだったんだけど、最近の彼女の様子を見ていると特に心配するほどでもないかなぁとか思ってしまう。(詳しく書くと批判的になるのでいわないけど)


 

 んで本題に戻ると、こういうときの距離感ってどういうのが適切なのかなぁ、と。「ふつーに個性の一部として受け入れればいい」とか「個人同士の人間的付き合いがまずあって、その中の条件の一つとしてそれがあるだけなんだよ」ってことなんだろうけど.......なんかびみょーだ

 たぶん、ほかの部分の魅力がそういうマイナス評価になり勝ちな部分を補ってあり余るほどだったら問題ないのだろう。


 そういやこの問題ってマイノリティ系だけでもなく「美人かどうか」とかにも適用されるな。「相手の顔で判断するのってどうなの?」的なものって「ブ顔ブ性格でも優遇すべき!(いや、むしろそうであるからこそ優遇すべき!)」的逆差別な感じだもんな。

 その辺の事情も分かるけどやっぱオレきれいなもの好きだし、それは仕方ないかなとか思う。まぁ、「きれい」の基準は差があるのだろうけど「面食い」とかいわれたことあるな(ちょっとdis気味に)

 つか、この辺もフェティシズムの一種のような気がするけど。顔だけよくて性格とか態度がアレな人ってのは流石に冷めてくるし。



 なんかグダグダと書いてきたけどよくわからんな。(課題)



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追記:
五常的には「仁」に当たるような気がするのでこれでも貼っておこう。(古い徳目なので修正加えて見る必要はあるだろうけど)


仁とは次のようなことである。殿様に対して私心なしに年貢や夫役などの義務を果たし、奉行衆へ従順につかえ、武士であれば、どのような人であってもこれをうやまい、自分より年下の者を軽くあつかうことなく、貧しい老女や婦人を憐れんで情けをかけ、村中に災難が起これば何をおいても救いの手をさしのべ、両親に日夜孝行をし、兄をうやまい、弟をわが子のように愛し、妻子とは仲良くして両親、兄弟によくつかえるように教え、子には幼いころから素直であるようにいいきかせ、身分に応じて手習いやそろばんの稽古をさせ、耕作にはげませることである。さらにまた、村の若い者が家業を放りだして遊んで世を渡るのは、高札の趣旨にすむく悪事だから、これを見逃すのは心得ちがいで、仁愛の薄い者というべきである。したがって、よくいいきかせて善人に引きもどさなければならない。一族に対して仲よく何事もわが身のようにし、親切にあつかい、奉公人であっても身内の者のようにかわいがり、衣食ともに気を配って、寒さ暑さの苦労がないように情けをほどこす。見ず知らずの他国の人でも、自分の村のあたりに来て病気にかかるか、路上で嘆き悲しんでいる姿を見かけたら助ける。このように、利己的なふるまいやいじわるなことをせずに、他人に思いやりや愛情をかける人を仁ある者という。仁なき者というのは、殿様に対する役務をしっかり務めず、御奉行所のお役人たちになにかとさからい、眼力のにぶい幕府のお役人が村に来ればあなどり、庄屋や五人組との中もしっくりゆかず、親兄弟に孝行をつくさず、一族とは不和で、妻子ともむつまじくせず、荒子や家の子たち(「「荒子」「家の子」ともに、江戸時代の農村下人の具体的形態、前者は主人と同居している労働力で血縁関係のない者。後者は血縁関係はあるが分家しないで主人と同居している労働力)の待遇をいいかげんにして、ひどくこき使う百姓をいう。そういう者は必ず家督を失い、先祖代々の住みなれたところを去らねばならなくなり、乞食、否、非人となって、飢えて死ぬことは間違いない。

(阿部謹也、2001、「学問と『世間』」より「百姓伝記」の孫引き)
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2007年11月10日

「偽善」を疑う人たちはどれだけご立派な方たちなんでしょうね?

 個々人についてのエントリは(不完全ながら)先にあげたものでおしまいにしようと思っていたのですがまだきちんと伝わっていなかったようなので補足します。


はてなブックマーク - muse-A-muse 2nd: 「さらに弱いもの」がやさぐれ「弱いもの」を叩き「正しさ」の荒野が量産されていく


 これを見ると感受性が高く繊細でいろんなものごとに配慮し他人を傷つけないように生活できている人がチラホラいらっしゃるようで立派なことですねと思うわけですが、この人たちは文脈というものが読めているのだろうか?、と。

 まずid:kaeru-no-tsuraさんですが、「「…とは嫁さんの俺評。」…うーん、こういうのをスルッと書けちゃうところがねぇ。無意識が悪いとは言えないけど、とため息をついてしまう」、とのこと。これはどういう意味なのか説明していただきたいですね。「スルッと書けちゃう」もなにもtwitterでのつぶやきですからスルッと書いて当たり前だと思うのですが・・。特に彼のついったーはそれほど多くの人に見られることを想定していないわけですしね(followerも少ない)。それをぼくが勝手に編集して表に出しただけのことであってもし「その言葉によってまた傷つく人がいるじゃないか!」という言説で責められるべき人がいるとしたらぼくだと思うんですがその辺はどのようにお考えでしょうか? それともそういう問題ではなく私生活においても常にさまざまな環境の人を配慮した物言いをしていなければいけない、ということでしょうか? そして、おそらくid:kaeru-no-tsuraさんはそれができる人だ、ということでしょうか?

 次にid:rAdioさん。「id:idiotapeの人はまさに天然の「素晴らしい人」だということか。「いいの、悪いのはワタシなの…」という "か弱きヒロイン" を素で出来るんだから恐れ入る。だが、身内に害が及べばそうも言えまい。それがテロリズムだ」、とのことのなのですがぼくのエントリのどの部分から「id:idiotapeさんはすばらしい人」という主旨を読み取ったのか説明いただけるとありがたいです。ぼくのエントリの主旨は(何度も書いたように)、<誰も悪くないが誤解が生じたため不幸な結果になったのでは?>、というものなので。それともあなたの素晴らしい感受性ではそれは感知されなかった、ということでしょうか?(読解力の問題ということもあるかもしれませんが)


 なんというかため息をついてしまうのですが、何度もいうように単なるすれ違いだと思うのですが?その辺りについてもう少し詳しく書いておいたほうがいいかもしれませんね。(ついったーには記したのですが再編集しておきます)


 まず始めに、繰り返しのようになりますが一番最初の該当エントリに「けまらしさ」のようなものが発生したのはわかります。ハレの場以外のところでの過剰の祝祭感(場違いの演出過剰)ということですね。その部分に疎外を感じる人が出た、と。ではどうすればいいかといえば「もう少し配慮せよ」ということなのですが、その辺については誰も具体的に語ってないんですよね。結果としてblog閉鎖ということになったのですが、それは望まれていたことなんですかね?

 「当人が悲劇のヒーローぶりたくてやったんじゃねぇの?」とのことですが以前のエントリやついったーでのつぶやき、今回の再度閉鎖に至るまでの態度を見る限りそれはないように思います。悲劇のヒーローになってアクセスなどをとりたいんだったらblogをそのまま続けていればいいわけですよね? 「偽善者の仮面がバレそうになったから再度閉鎖したんじゃねぇの?」という穿った見方もあるかと思うんですが、それでもけっこう多くの人は彼のことを好く思っているわけだからblogを再開したら付いていくはずです。でも、彼はそれをしなかった。この時点で「アクセスが欲しい」とか「人気者になりたい」とかそういう視点は無意味ということにならないでしょうか?

 そもそも、最初の閉鎖にしても彼は閉鎖する責任も義務もなかったわけですよね? でも閉鎖した。素直に解釈すれば(彼のメッセージ通り)hashigotanのことを慮ってのことだと思いますが、結果的に判官贔屓のようなものが発生してしまった。そしてその結果を以って、「最初から狙ってたんだろ?」、といわれるわけですが、ついったーの書き込みを見ても分かるように彼にそこまでの戦略性があるとは思えません。heiminさんやfinalventさん、kanoseさんのようなバランスが身につけられない不器用な人、というだけです。というか、この三者を並べているのもびみょーなんですがそれが彼がバランスを身につけられない証左なのかなぁ、と思います。

 というより、「ついったーに書いてることも演出だよ(バカだな)」、という人も出てくるのかもしれませんね。つか、ついったーの場合はリアルな知人っぽい人との会話も入ってるのでそれはないと思うんですけどね。(その部分まで演出っててもねぇ) って、「この人の場合はリアルそのものが演出なんだよ」、といわれるのかもしれませんがそれほど器用な人だったら最初からこのようなやり方はしません。

 だいたいぶくまのサブアカなんかもフル活用するでしょうしね。



 そういうわけで陰謀論的な穿った見方しても意味がないと思うんですね。というか、「偽善」というフィルターで判断するのがよほど好きな人たちなのでしょうけど。なんか中二病っぽいですね。



 で、次に「幸福な者は不幸なものに配慮して幸福を制限する必要がある」という言説について。この辺はたとえば黒柳徹子さんなんか思い浮かびます。あの人もある方面から見れば「偽善者」と見られるのかもしれませんが、とりあえず彼女が貧しい国の人々のことを気にかけながらも美味しいものを食べたりきれいな服を着たり、感動的な芝居や芸術に触れる理由としてこんなことを語っていました。「彼らにはそういうものを経験することはできないかもしれないけれど、わたしがそういうものを経験したことの素晴らしさを彼らに語ることによって眼を輝かせてくれる子供たちがいる。だから私は素晴らしい経験をたくさんしようと思うしそれを語ることを怖れない」。

 ここで彼女が「おまえには味わえないだろう?」というもったいつけた語り方をしていれば問題でしょうが、彼女の語りというのはそういうものではないですよね。そこには一定の慎みがあるように思います。もちろんすべての子供がその話によって眼を輝かせるわけではないでしょうが、それと同時に絶望的な環境の中で希望を見出す子供たちもいる。だから経験することや語ることをやめないのだ、と。


 「慎み」という言葉が出てきたのでheiminさんの話に移らさせてもらうと、彼の文章なんかもよく [名文] などのタグが付き多くのぶっくまーくを集めているように思うのですが、彼の場合はこのようなけまらしさは生じていないですね。それはどうしてなのか?

 思うに彼の文章というのは、「世間的には正しいことではない(あるいは声を大にして言うほどのことではない)かもしれないけれど個人的には胸の痛みとして残ったので書き記しておく」、というスタンスのように思います。「小っぽけなぼくの心の中に生じたリアル」という感じですね。で、そういうものは誰に対して主張しているというものでもないのでけまらしさも発生せずすんなり受け入れられているのか、と思います。

 ただ、演出というか「狙ってやってるのか?」という話になると平民さんのものだって「狙ってやってない」とは言い切れないわけですよね。だって、そういうエントリを書く、と決めてエントリ起こしてるわけだからそこには何らかの作為があるわけです。(ホッテントリは付加的なものなのだろうけど) でもここには「演出過剰」だとか「悲劇のヒーローぶりたいのか?」だのといったネガコメが発生しない。この辺は不思議に思います。

 まぁ、「声を大にした主張ではない」、ということなのでしょうがそれをいうならid:idiotopeさんのエントリも誰に対して正当性を発しているというわけでもなく単なる身内の日記の延長なんですよね。そして彼自身「演出過剰」ということは認めているわけですから半ば恥ずかしい日記なわけです。その恥ずかしい日記を不妊治療でつらい思いをした妻への労いの気持ちを込めてウェブ上で公開しているという羞恥プレイ(あるいはネタ的な檄文)なわけなんですが、その辺は理解されなかったのでしょうか?


 というより、もはや感情的な問題になっていて論理的に説明しても聞き入れてもらえないのだろうと思うのでこの辺でやめにしておきましょうか。個人の痛みの問題なので小利口に上から目線で言っても聞き入れてもらえないだろう、ということは体験的に知っています。(というよりぼくが聞きたくなかったほうなので)


 最後に感情が交錯していることについて。これは価値観の相違が元にあるように思います。簡単に言えば両者のプロトコル設定が違ったためディスコミュニケーションが起こったのだろうなぁ、と。その価値観(コード)は生活圏やそれまでの人生の経験に依存するように思いますが、その辺りの超克ができないのか?、ということが次のエントリの課題です。

 もう少し大きく設定すれば、id:idiotopeさんは「公共性」を気にした情報発信を行なっていたのに対して、おそらくはそれが「公共的」過ぎたがためにディスコミュニケーションが生じたのだろうなぁ、ということです。「世間」的なプロトコルからは受け入れられなかったのかなぁ、と。


 この辺は長くなるので次のエントリで


タグ: 偽善
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「さらに弱いもの」がやさぐれ「弱いもの」を叩き「正しさ」の荒野が量産されていく

 この件にはあまり関わる気はなくて、てきとーについったーでつぶやくに留めてたんですが、hashigotanの様子も大丈夫そうだし、なんか違和感が残ってるのでエントリにまとめようかと思います。

 まず最初にぼくの立ち位置なんですがどちらの味方というわけでもないです。かと言って「敵」というわけでもない。単なる傍観者なんですが、加えて言うなら「もうちょっと幸せな結末はなかったもんかなぁ」と思ってます。当事者についてはそんな感じなんですが外野については少し思うところがあります。ただ、これも批判とかバカにするとかそういうことではなく単純に、「もうちょっとうまくやれたんじゃないか?」、と思う程度です。「誰も悪くないのなぁ」と「もうちょっとうまくやれたんじゃないか?」っていうそういう気持ち。「誰が正しい」とか「偽善者」とかそういう優越感ゲームに加わるつもりはありません。

 で、件のエントリなんですが、ちょうどまとめが上がっていたのでこちらを使わせてもらいます。


玄倉川の岸辺 あるブログの終焉


 再度断っておきますとぼくはこの方の意見に賛成というわけでも反対というわけでもありません。ただ違和感がある。

 おっしゃるように最初のエントリは修飾華美なところがあってぼくも見ながら「あぁ、文に酔ってるな」って感じたのでスルーしてました。その後、ぶくまに「名文!」とか「感動した!」などが付いていくのにも違和感を感じていたのですがスルー。単に、「[感動]として消費されてるんだな」と思うに留めていた。その点では同意なんですがその後の箇所

hashigotanの悲鳴(批判と呼ぶには悲痛すぎる)を聞かされた後のidiotape氏の対処は立派だった。あるいはたいへん醜悪だった。
どちらの見方をとるかはその人の考え方による。私は言うまでもなく後者である。
小沢一郎じゃあるまいし、「消します」「みなさんが惜しんでくれたから戻しました」「でも本当は悩んでます」そして結局はブログ削除というのはどうなのか。ブログを書くのも消すのも本人の勝手だが、正直言って呆れた。どれだけ自意識過剰なのか、「誠実で傷つきやすい自分」を演じるのが好きなのか。私はこういう人を信用しない。

文章がとんでもなく上手で、「誠実」な「いい人」の俗物がネットから消えて私はせいせいしている。


 この部分は釣りでしょうか?ぼくはこの玄倉川さんのサイトを初めて見るのでこの方が普段どういう考えをされているのか知らない。なのでこの記述の真意が判りかねるのですが、もし釣りだとするとどういう意図で釣りエントリを書かれたんでしょうね? 推測するに、「もう少し議論を長引かせ皆で考える材料にしていこう」、ということだったのでしょうか? (「文章がとんでもなく上手」とかいう部分はidiotopeさんに対する拗ねた愛情表現にも感じられますしね)


 あるいは釣りではなく「俗物が消えてせいせいした」がそのままの意味だとするとやはり違和感があります。ぶくまコメントにも書いたのですが、どうもidiotopeさんの真意が伝わってないのではないかと思って。彼はよそ行き用の「カッコつけ」な文章を書いてしまう癖があるのでどうもその辺の真意が伝わらないようなのですが、ついったーでのつぶやきが彼の心情をよくあらわしているように思ったので勝手にたんぶらせてもらいました


むーたん:ある個人史の裏側


 文章が修飾華美だった点については「公共空間を意識して」ということのようですね。つまり「いろんな方面に配慮した結果としてみょーにごてごてした表現になってしまった」ということのようです。「ほんまはめちゃくちゃええ加減です」、と。勝手に推測するに「ええ加減」だからこそきちんとした文章を書こうと思ったのでしょうね。

 そして一度blogを閉鎖したのもhashigotanの悲鳴に真摯に耳を傾けたからだし、一時的にではありますがblogを復活させたのもhashigotanへの批判を慮ってのことだったはず。


idiotape @marco11 なんていうか、読んで不快にならなかったのね。それが主たる理由かな。すげえ真剣だったから。真剣なものに適当にお茶濁すのってアカンやろと思って。 … 2007年11月8日(木)23時21分21秒



 ログ全体の流れを読んでもらえば判ると思うんですが人気取りや「味方を増やす」などといった政治性のために行動するような人物とは思えません。単純に人を思う気持ちが裏返しに出てしまう不器用な人なんでしょう。ここら辺にもそれが表れてますね。


idiotape いや、それはないって。狭量さに時にうんざりするもん。神経質なくせに無神経とは嫁さんの俺評。きついねー。 … 2007年11月8日(木)23時25分1秒



 そういう人なわけです。といっても彼のことをケーゾク的に見てきたわけではないし実際にあったこともないので勝手に読み取るマンしてるだけなのかもしれないですけどね。



 で、これだけだと彼の擁護に終始してしまうでここからが本題のですが、最初にも言ったようにこの騒動というのは「誰が悪い」というわけではなくすれ違いや勘違いのようなものだと思うんです。hashigotanがなにか違和感というか憤りのようなものを感じたのは事実だと思うんだけど方向性を間違えていたのではないか、と。方向性というか筋道ですね。

 最初にも言ったようにぼくも件のエントリのアゲアゲ状況(過剰性)には違和感を覚えたのでその気持ちは分かるんですが、そこで攻撃対象とすべき(あるいは違和を唱えるべき)相手はエントリを書いた本人ではなくエントリをアゲアゲ的にした周囲の人々ではないかと思うんですね。「彼のエントリがそれを誘発したのだから悪いのは彼じゃないか!」というのも分かるんですが、最初のエントリをよく読んでもらえば分かるように彼のエントリは「不妊というマイナスの環境から始まってプラス的な幸福が訪れた」という内容なので全体としては±0的なものなるはずなんです。ただ周囲がやたらはやし立てたのでプラス的側面ばかり浮き彫りになってしまってhashigotanの心がザワついたのかもしれないけど・・。

 それでhashigotanは「そういうエントリが幸福になれない人の心にどういう影響を与えるか考えろ!」と言っていた訳ですが、この辺についてはDanさんがまとめていたように思うので深く言及しません。


404 Blog Not Found:「ほげ」「ふが」...がどんだけの男女を無気力にさせているのか少し考えてみた


 自意識の問題ということですね。影響力についてはよくわかりませんがそれを言い出すと「おまえの息はくさくてかいだだけで無気力になるから息するな」というところまで言えちゃいますね。というよりも、(これはあまり言うべきではないかもしれないけど)hashigotanはご自分の影響力で他の人のblogを閉鎖させたこととか、いろんな人に心配をかけたこととか、そういうことについて考えたことはありますか?

 すこし詰問っぽい言い方になってしまったかもしれないけど、「それが悪い」、ということではなく同じようなことをしているけれどhashitotanは許されるのですか?、ということです。ぼくはよく知らないけれどhashigotanの人生が困難なことはなんとなく分かります。でも、他人を呪ったり、無茶なことをいったからといってあなたの人生が好転するわけではないですよね? そのことについてはhashigotanが一番よくわかっているのではないですか? そしてそういう感情を発露すればどういう結果が待っているか...それは何度も繰り返して身に染みているのではないですか? だったら自分で自分を傷つけるようなことはやめたほうがいい。

 というか、これも勝手に読み取るマンしてるだけなのでhashigotanの真意は分からないし「ぜんぜん的外れ」ということになるのかもしれません。ただ、言いたいのは「なにが正しい」とか「誰が悪い」とかそういうことではなくhashigotanやidiotapeさんのことを心配している人がたくさんいるということです。

 以下、勝手ながらtwitterで見かけたつぶやきをまとめさせてもらいました。


むーたん:idiotope × hashigotan雑感


 「どちらを擁護」というわけでもないのでhashigotanが見たら嫌な気持ちになってしまうことも書かれているかもしれません。でもけっこうたくさんの人がhashigotanのことを気にかけていたし.....とりあえず言いたいのは、「これだけの人が心にかけていた」、ということです。



 あと、本エントリについてはもう少し思うことがあるのですが長くなるのでいったんこの辺で打ち切らせてもらいます。



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追記:
再度言っておきますが、「正しい人の代表」として振舞えば同じことになると思いますよ?

heartbreaking. 恋愛とか子供作るとかって、障害より一歩外側にある問題だと思うんですよ


たしかにそういう人もいるかもしれないけどそういう環境にいる障害者の人が全員hashigotanと同じ意見とは限らないですよね?(ケンカを売っているわけではないです。立ち止まって考えてみてください)


 
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2007年11月07日

時の重み、時の薬

 少し前についったーで@medtoolzさんがつぶやいていた内容が気になっていて、それ関連でオレがつぶやいたこととか関連で気になったpostなんかを勝手にたんぶったんだけど


むーたん:Twitter:年をとった人は植物になっていく → 植物になれなかった人はどうなるの? → 植物(仙人)みたいになりたい


 medtoolzさんはmedtoolzさんでエントリに仕上げてて


レジデント初期研修用資料: 時を止める人


 「どうしよっかなー」と思ってたんだけどやっぱちょっと書き記しておきたいので書いておく。


 medtoolzさんとこの話は歳をとってから新陳代謝が衰えて生存に最適化していく人の話。「時をとめる」という言葉からは「メトセライズ」を想起させられる。


メトシェラ - Wikipedia

メトシェラは、キリスト教やユダヤ教文化においては、長命な者の喩えに使われる。ロバート・A・ハインラインは長命種族を扱った小説に『メトセラの子ら』というタイトルをつけている。



 SF用語としては「長命化(あるいは永命化)」を意味していたように思う。そんでしばしば「永遠に生きるということは人類の夢のひとつではあるが、それは果たして幸福といえるのか?」みたいなテーマがくっついてくる。答えは決まっていて「永遠に生きられたとしてもその時の重みに人の精神は耐えられない」みたいな感じになるわけだけど。


 そういう時の重みに耐えられるのは人間のような動物的な器官ではなく植物的な静的器官なのではないかなぁ、とかぼんやりと思う。たんぶらったついったーのログにもその辺のことは書いたわけだけど、


m_um_u そういや今週のハンタ×2でも会長のオーラは植物みたいって喩えがあったな。かぶがよく「枯れたい」って言ってるけどあんな感じだろう。かれるのではなく低燃費に最適化する。精神的にも肉体的にも

m_um_u 閾が上がってスルー力が高まる、と。今日の「もがりの森」にもその辺りのことを期待しながら見ることとする

m_um_u 河瀬直美はドキドキするようなテーマを扱っていて手法にも納得できるところが多いのだけれど、いかんせん単調なのが困る(気絶させられた

m_um_u 「老人はやがて植物のような境地に達する」って言ったってそうなれない人もけっこういるし…というか大部分の人はそこに納得なんかない。ある種の諦観というか、そのことから目をそらしつつそのときを迎える

m_um_u 大切なのは意味とかそういうことではなくて…自分を包みこんでいる環境。個人の中に意味があるのではなく繋がりの中に意味のようなものがある

m_um_u でも、そういう繋がりや達観、諦観のようなものに到達できなかった人はどうなるのか?若いときに答えや環境を整えられなくてそのときを迎える人々は?

m_um_u 肉体は衰えても精神は若い(幼い)ままの人々…そういうのは「ハウル」のテーマでもあったな

m_um_u 河瀬の今回の作品はそういった問いに言葉や論理ではなく環境を通して答えのようなものを提示しようとしているように思えた。すなわち音や光、肌の温もりといった「生」を構成する環境。

m_um_u その手法やそこで提示されものが正しいものなのかどうかは分からないけど、答えの一つであるように感じた。少なくともある環境における答えのひとつなのだろう      って途中で気絶させられたんだけどね...orz



 ↑は「もがりの森」を見に行ったときにケータイから打ち込んだ簡単な感想


 殯の森(もがりのもり)公式ホームページ <河瀬直美監督最新作> mogarinomori top page by Naomi KAWASE


 上記したように「人生の意味」について河瀬監督なりに表現してみたのだろうな、という感じの作品だった。

 「人生の意味」という言葉は重いけれど、おそらく「意味」や「意義」なんてものは存在しなくて、なんとなくな関係の中で実感のようなものをつかんでいる。あるいは「人生の意味」などというものを問うてしまうとすれば、そのような段階にいたっていること自体が幸せとはいえない情況を表しているのだろう。われわれは本来そういった意味を考えなくても良いぐらいに関係の幸福の中に埋没して生きてきた。

 あるいはそういった関係とは違った形で人生に意味や意義を求め、涅槃のような魂の安定にたどり着く幸福というものもあるのかもしれない。その平衡は無駄がなくすっきりとしたもので植物のそれを思わせるものなのだろう。

 しかしそういった関係や意味を求められない人々はどうなるのか? それが本作における河瀬のテーマであったように思う。

 取り残された人々、人生の宿題を遣り残してきた人々はそのときを前にして焦りや苛立ちを禁じえなくなる。そういった人々に対して外部からの「正しい」説得はなんの意味もないものだろう。彼らや彼女たちは「大人」として分別のある行動をとることが求められるが宿題を済ませてこなかった人々の精神は子供のまま肉体のみが年老いたようなものなのでそういった言葉を聞き分ける余裕もない。

 では、最後に彼らが択るべき行動は......?


 ほとんどの人たちはその重み(「こんなに時間があったのになにをしていたの?」という時の重み)に耐え切れない。だから感覚を鈍らせ身体や思考の働きを閉じていく。これがスルー力や老人力と呼ばれるやつだろう。

 しかし、そんな形で「閉じる」こともできなかった人々は時の重みのプレッシャーを感じて精神を磨耗させていく。そして苛立ちや焦りから周りや自分を傷つけていく。

 そういった人々にとって最後に残された選択肢のひとつを河瀬は示してくれていたように思う。



 その答えは各人の環境によって異なるのだろう。どれが「正しい」ということもない。ただ、願わくばぼくはそのときが来るまでに答えのようなものを見つけたいなと思った。答えというか、既に答えは出ているようなものだから、それを実現するための環境を整えなければならないのだろうな。それが成されなければ杭のようなものが残るのだろうと思う。

 そういう決意を新たにした。



 「時の重み」関連で。時間というのは重しになるだけではなく癒しにもなってくれるのかなぁ、とこのログを見ながら思った


むーたん:Twitter:時間の薬


 「時間」というよりも経験の積み重ねのようなものか。ただ、闇雲に経験を積めばいいというわけではないのだろうが(薬も摂りすぎると毒にもなるというので)


 反省と成長ということなのだろう。そして目標、かな

 
タグ:実存
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2007年11月04日

今年のあるふぁるふぁ大作戦についての雑感

 びみょーなのであんまり触れるつもりもなかったんだけどついったーでちょろっとつぶやいてしまってどうしよっかなと思ってたところにヒトサマのエントリみて、「あぁ、たぶんオレこれ経由で誤解されるんだろうな(いいけど)」、って気持ちもあったので補足的に・・。

 アルファブロガーな季節がやってきましたね

 そんでまぁ今年はこんな感じで


ノミネートブロガーリスト|Alpha Bloggers


 あぁ、びみょーだな、と。一番注目を集めるのはこの辺ですよね


アルファブロガーアワード雑感 - 煩悩是道場

今年の注目はなんといっても佐々木俊尚さんが、はてな匿名ダイアリーを選定した事だろう。

最終的に匿名ダイアリーがアルファブロガーに名を連ねるかどうかは分からないのだけれども候補の一つとして上がったというのは衝撃的であり、同時にアルファブロガーとは何であるのかというよりウエブロガーとは何であるのかという疑問が私の脳の中で駆けめぐってどうする事も出来ないでいる。


 んで、ululunさんとしては「んだったらついったーでいいじゃん?」って言ってはるけどついったーとはまた別だと思うんですよね。増田の真骨頂は「匿名だからこそすげーびみょーな話題書ける」ってとこだと思うので。

 で、佐々木さんとしては、「インパクトをもった言説(生活の場からの生の声、criticalな声)の代表」、として増田を紹介したかったんだろうけどまぁ、これもいろいろとびみょーな問題が・・。

 形式としては2ちゃんへの過度な期待と同じですよね。んで、その辺についてはこの辺で「どーなの?」って言われてるので深く突っ込みません。

今日の増田のための増田議論 - finalventの日記

 「そもそもアルファブロガー選出の場がアレげになってることへのアンチテーゼだったんだろう」ってのも同意です。内田センセとかの身内推薦もそんな感じだったのかもしれませんね。(つか、内田センセはblogとかネット見てないと思うのでさらにびみょーなんだけど)

 個人的にはこの手の話の場合は増田と2ちゃんの違いについて議論してもらったほうがおもしろいように思います。(「カオスが生じていない」とか「生じていないならなぜ生じていないのか」とか)


 そのほかぼけーっと思うのはアルファブロガー選出基準と佐々木さんの立ち位置っすね。ここで「アルファブロガー」として想定されている基準についてのおさらい

アルファブロガー・アワードについて|このサイトについて|Alpha Bloggers

「米国では、影響力のある多くの読者に読まれているブロガーを「アルファブロガー」と読んでいるらしい、では、日本にはそういった影響力のあるブロガーってどれぐらいいるのだろうか?」
 
そんな疑問から始まったのがアルファブロガー投票企画です。


 つまり想定されているのは米国の人気blogなわけですね。具体的な名前は示されていないけどBoingBoingなんかが含まれる人気blogネットワークに参加しているblogなんかが想定されてるのかな?(※boingboingは米国blogじゃないけど)

 そんでよくわかんないのがここで言う「影響力」の基準なんですが、これは「アクセス数=影響力」ということなのかな?それとも当該blogで展開されている言論の質(説得力)および動員力ということなのだろうか?(ここでの「動員力」は「実際に人々の行動に影響を与える力」ぐらいの意味で)

 後者だとするとDan=Rather事件なんかが想起されますがそういう言及も見られないですね。というか、よくわかんないので単純にノミネートリストから理想とされるblogの性格(および「影響力」と想定されているもの)を推測してみましょう

ノミネートブロガーリスト|Alpha Bloggers


 ざっと見た印象ではIT系の人が分かりやすいblogが選ばれたんだろうなぁって感じです。つか、徳力さんラインで「アルファブロガー」ってのが想定されているんだろうから当然といえば当然なのだろうけど。

 んで、blogシーンに実際にいる人たちとしては「こんなの知らない」とか「なんでこのblogがいまさら?」みたいな違和感が出てくる。でも、アルファブロガーアワードで対象としているお客さんはそういう人たちではなく、blogの知識があまりない一般の人、あるいはIT業界なんかに勤めていてblog見る時間があまりなくて、「でもけっこうおもろいblogを見たい」、みたいな人なんじゃないないかと思います。つか、端的に言えば、徳力さんたちのセンスで選んだ「なんかいい感じblog」のシミュラークルって感じですね。

 つまり、自分たちのauthorityを再確認するための場、っていう意味合いもあるのかなぁ、と。(NYかなんかのIT成金が自分たちの文化の権威づえけのために村上隆が売り込むオタク商品を高値で買い取るのと同じ構造かな)


 そんな感じがします。


 それに対して、いちおアワードとしての体裁も整えなきゃいけないのでそゆとことは違う視点の人も推薦人として入れてるわけだけどこれが機能してない・・。もとより「影響力」という指標がびみょーだし、「理想とされるアルファブロガー」の像もびみょーなので選びようがないっていうか、それぞれの理想像がずれてるんでしょうけどね。

 んで、佐々木さんに話は戻るんですが、佐々木さんというと以前にC-NETの記事で「既存ジャーナリズムのAlternativeとなるような専門性の高い記事が上がる場がネットには必要」みたいなこと言っててそっち方面かなぁって思ってたんだけど、Alternative Journalismのもうひとつの方向性として「既存ジャーナリズムが拾っていない生活の場の生の声(声にならない声)の反映」ってのがあってそっちのほうを重視しようとしたのかなぁ、とか思ったわけです。

 finalventさん的にはその辺疑わしく思っておられるようだけど・・・まぁ、佐々木さんご本人がどういう意図で増田選んだのかはっきり書いてないのでよくわかりませんね。


 つか、まぁ、「Alternative Jounalismとしてのblog」、って感じでアルファブロガー選出していくんだったら「政治・経済・文化・社会」みたいなきちんとしたカテゴリ分けが必要で、それぞれのカテゴリの中で既存ジャーナリズムとは違った視点(言論)を継続的に続けているblogを選定する必要があると思うんだけど・・そゆのもきちんと設定されてないんでしょうね。

 んで、各人バラバラな選定基準になってるわけだけど・・。個別に言っていくと批判みたいになるのでやめときます。気になったのは切込隊長の基準ぐらいですかね。隊長の場合は専門性を重視したっぽいですね。R30さんもAlternative Journalism的には問題ないかなぁと思います。(ぼくの基準を中心に「問題ない」っていうのもアレだけど)

 
 あぁ、つか、いま気づいたけど旧アルファブロガーアワードなサイトでカテゴリ分けがされてますね。

アルファブロガー-2006年 トップ40を公開しました。


 「論壇系ブロガー」「アンテナ系ブロガー」「テクノロジー系ブロガー」「人気サイト」っすか.......................(なにもいうまい)


 まぁ、いいです。IT系のひとのための面白ブログリンク集ぐらいで捉えてるので。


 あと、disってばっかではアレなので個人的に面白いなと思ったblogを紹介しておきます(つか、皆さんご存知でしょうが、「アルファ」って基準でぼくが選ぶとしたら、ってことで)



政治:
カワセミの世界情勢ブログ

雪斎の随想録

地政学を英国で学ぶ

※この辺はあえて言いません。各人とも研究系(あるいは学術知識+実務)なスペシャリストな方々


経済・経営:
Economics Lovers Live

bewaad institute@kasumigaseki

福耳コラム


※この辺も研究系専門家+実務(官僚)って感じで少し偏りがあるけど、まぁ、個人的なリスト程度で。つか、もしかしてbewaadさんとかはもう選出されてるのかな?


文化:
小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

G★RDIAS

ニセモノの良心

空中キャンプ

萌え理論Blog


※これも小田センセは現役文化人類学者ってことでこれも本職。G★RDIASは森岡センセ関わってるので共同blogってことなのでちょっと本職って感じだけど人文的な視点からの社会的話題ってことで。ニセモノの良心の人はテレビ局関係者な立場からの視点(ハコフグさんがありなら、ということで)。空中キャンプは人文系な視点をPOPな文体でお届けってことで読みやすいかと思います。萌え理論blogは一見オタ系話題って感じがしますが人文系の概念・知識をベースにサブカルを現象を解説するblogととらえると分かりやすいんじゃないかと思います。つか、人文系知識を分かりやすく伝える姿勢やあえてまとめサイト的な形式をとっている労力に頭が下がるな、と。



社会:
レジデント初期研修用資料

天漢日乗

踊る新聞屋−。

深町秋生の新人日記

5号館のつぶやき

※レジデントさんと天漢さんは医療問題ということで。つか、レジデントさんは医療の現場からの視点って感じなので少し違うか。あと、天漢さんは中国思想の専門家なんだけどその辺の言及はないですね。 踊る新聞屋さんはびみょーなんだけどこれも「ハコフグマンさんがありなら」ということで。深町さんも「犬にかぶらせろ!」のオルタナ。五号館さんは生物学系の研究者の方だと思うんだけど最近では大学院ワーキングプア問題のハブ的サイトになっているように思います。




 だいたいそんな感じですかね。



 まぁ、IT関係が全然ないわけだけど、その辺は個人の選出者の限界ということで。


 あと気になるのはGIGAZINE問題ですね。今回の選出基準からすると「GIGAZINEはなぜ推薦されないの?」って話題が再浮上してくるように思います。(別に戯画人さんを応援するわけではないですが)


真のアルファブロガーになるには何をすればいいのか? - GIGAZINE

ネット世論・ネットのトレンドを生み出すアルファブロガー [絵文録ことのは.]2004/12/23

要するに、全世界的にはもともと「無名のものをメジャーにするネット世論への影響力を保持しており、個人によって書かれているブログ」を書いているブロガーがアルファブロガーということのようです。日本のようにたとえそれが投票ベースであったとしても、イベントなどで選ばれるようなものではないらしい。自発的かつ自然に読者が集まり、「あいつはアルファブロガーだ」と認められていくというような感じです。



とするなら戯画人にはその資格があるのではないか?、と

 これについてはこの辺かな


切込隊長BLOG(ブログ): GIGAZINEさんは商売としてアクセスを集める文章を起草しているわけで…


 「blogger的強度が商売(ビジネス)的な偏向を受けるのではないか?」ってことですかね。んでも、それ言っちゃうと今回の選出でも......



 まぁ、びみょーってことで


 








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2007年11月03日

ちゃんとすること / しないこと

 ついったーでぼけーっとログ見てたら@sivadさんが気になる発言をしていてそこから妄想が拡がっていったのでちょっとまとめ的に。まず最初にこのpostがあったわけです

Twitter - sivad- 目が覚めた。日本犬儒派の夢を見た。また寝よう。.png


 んで、犬儒派ってなんぞ?、って思って調べてたらこんな感じ、と

ディオゲネス (犬儒学派) - Wikipedia

知識や教養を無用のものとし、音楽・天文学・論理学をさげすんだ。プラトンのイデア論に反対し、「僕には『机そのもの』というのは見えないね」と言った。プラトンは「それは君に見る目がないからだ」と言い返した。プラトンは、ディオゲネスはどういう人かと聞かれて「狂ったソクラテスだ」と評した。運動の不可能(おそらくゼノンのパラドックス)を論じている哲学者の前で、歩き回ってその論のおかしいことを示した。

唯一の正しい政府は世界政府であるといい、「自分はコスモポリタンだ」と言い、史上初めてコスモポリタニズムという語を作った。また女性や子供の共有を主張した。


ディオゲネスは現在、その思想よりも逸話によって知られる。

* 彼は外見にまったく無頓着だった。住むところも気にせず、神殿や倉庫で寝て「アテナイ人は自分のために住処を作ってくれる」と言った。あるときは酒樽(大甕)に住んだ。
* 広場で物を食べているところを人が見て「まるで犬だ」と罵られたので、「人が物を食っているときに集まってくるお前たちこそ犬じゃないか」と言い返した。食べるのがおかしなことでなければ、どこで食べてもおかしなことではないと主張した。
* 同様に、道ばたで公然と自慰をした。「擦るだけで満足できて、しかも金もかからない。こんなに良いことは他にない。」 「食欲もこんなふうに簡単に満たされたらよいのに」と言った。



 「衒学的(ペダンティック)な知に対する反発」って感じかなぁ、と。つか、特に後段の説明のほうで@wtbwさんのサイト経由で見てたこのニュースが頭に浮かんだのです。

Sleepy chineses (33 pics) (//STATiC)

 道路でも〜


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 トラックの下でも〜


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 図書館でも寝てるわけです


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 んでこの「どこでも寝る」ってのがディオゲネスの「広場で物を食べているところを人が見て"まるで犬”と罵った」って話にリンクしたわけです。

 で、「どこでも寝る人 = 犬儒派ですか?」なる妄想が芽生えたわけです。「おまえ、そんなとこで寝てちゃダメじゃないか!」って言われたときに「われわれは21世紀の犬儒派である(これこそ無為自然だよ)」とか答えてるとおもしろいなぁ、と。

 そんなことを思っていたところで別件から似たような話があがっていてちょっと興味持ったり(※長いので以下要約気味に)


kotoriko ちゃんとしろ係みたいな仕事があればいいのになー、日本全国回って、いろんな職場を見回る。ちゃんとしてない人に、ちゃんとしろって注意して、国家公務員みたいな感じ。

kotoriko みんな! ちゃんとしないは俺が引き受けるから、ちゃんとするんだ!



marytan @todesking @send_と@kotorikoへの伝言ですね。おい、ちゃんとしろよって@todeskingが言ってるぞ。


@kotorikoさんが「ちゃんとしろ」がツボにはまったらしくいろんな人に「ちゃんとしろ!」って声かけ運動をしていたわけですね。ついったーには特にちゃんとしてないひとが多いですからね(てか、生活リズムもろバレなのでちゃんとしてなさが分かりやすい)。そんで@marytanが言ってるら辺が「ちゃんとしてないひと」の代表例ですね。

 でも、考えてみると「ちゃんとしろ」っていうときの「ちゃん」ってなんだかよくわかんないんですよね。それで語感的なおかしさもあるんですがこの「ちゃんとしてないこと」(いちおの定義としては「ジョーシキ的な規律に従っていない人」って感じ)っていうのが前述のディオゲネスの話とリンクしたのです。

 ディオゲネスの姿勢というのはペダンティックな知識やジョーシキに対するアンチテーゼって感じだったので。@kotorikoのそれは「ちゃんとしろ!」といいつつ「ちゃんとする」ということをからかってる様子が伺えてディオゲネスのそれと重なったわけです。(つか、@kotorikoのほうが遊びっぽくてなんかいいですね)

 

 関連で昔のコメディアンってのはふざけてるようで芯があったなぁ、と。なんらかの教養とか矜持のようなものを持った人じゃないと芸に深みがなかったよな、とかぼんやり思ったり。たとえば植木等さんとかいかりや長介さんの話なんか頭に浮かびます。

BigBang: スーダラ節の時代がようやくわかったように思った。---植木等の苦悩

植木等という人が、寺の息子で真面目一徹で、あの「スーダラ節」だの「無責任男」だのを苦痛を伴って演じ続けていたということは聞いていたけれど、実際ホンマかいなと思っていた。しかし番組では生前の植木のインタビューを3日間・6時間にわたって行い、そこに日本の戦後芸能史を重ねていくという作りだったのだけれど、驚きました。本当に悩んでいたんですねえ。あのイメージと自分の精神の乖離で。


きっと反対されるだろうと思いながら、父親に相談に言ったら、この父親が言うことには

「それは親鸞聖人の生き方だ。素晴らしい仕事だ。ぜひやれ」



 植木等さんのお父さんは真宗系のお坊さんで水平社運動にも関わった方だったようですね

植木等死す - Living, Loving, Thinking


 それで植木さんには「あんないい加減なことやってて良いのだろうか?」って苦悩があったようです。(結果的に多くの人に笑いを与えてくれたわけだけど)


 芸人の仕事への意識関連ではこちらのエントリなんかもおすすめです

てれびのスキマ:萩本欽一といかりや長介


 んで、思うのは「芯」と「笑い」ってことですね。以前に上岡龍太郎さんもこんなことを言ってました。「芸人というのはバカなことをやって笑わせながらも話の端々に”ほほぅ”と思わせるようなところがないといけない。それでお客さんを話に引き込むんだ」。この「ほほぅ」と思わせる部分、おーざっぱに言うと教養に当たるであろう部分が「芯」だと思います。あるいは「ジョーシキ」といってもいいかもしれない。

 笑いというのは「ジョーシキ」の緊張をくすぐるところ(あるいは裏返すところ)から生じるものなので「芯」にあたる部分がしっかりしてないとどうしてもダラダラしたものになっちゃうんですね。単なる一発芸というかなんというか・・。

 で、この辺の話が最初のほうで出てきたディオゲネスの話にも繋がるものがあるなぁ、と。

 ディオゲネスの場合は「ジョーシキ」とか「衒学」みたいなのを嫌ってありのままの生を体現しようとしたのだろうけど、道端で自慰とかってのはさすがにどうかと思いますね。「それでは動物とどうちがうんだい?」といわれても反論できないというか・・まぁ、ディオゲネスは反論するつもりもなかったんだろうけど。

 言ってみれば「ジョーシキってなんなのさ!」と言って盗んだバイクで走り出す中二病に近いものがあるように思います。

 対して芸道としての笑いというのはジョーシキの裏側でありながらそこには一定のルールがあるわけですね。


 「笑い」や「漫画」的なものをさげすむ人は一定の「ジョーシキ」の上に立ってそういうことを言うのでしょうけど、笑いってのは元来こんな感じでびみょーな緊張の上に成り立っている高度な芸なわけです。その辺について理解できてない人は「笑い」とか「漫画」(あるいはアニメやゲーム)といったものに対して保守的な姿勢を示すように思います。



 ルールといえば元来「犬」というものに対するイメージとしては組織への忠誠、ルールの遵守といった硬いイメージがあるように思うのですが「犬儒派」に対しては蔑称として「犬」という呼称が使われたのがおもしろかったです。ビートルズの歌にも「It's been a hard day's night, and I been working like a dog」って感じで犬がでてきますね。

 そういった意味では「犬」として組織のルールを遵守することとそこから降りて自由な時間を謳歌することとどちらが豊かな人生なのだろう?、とか思ったりしますがその辺も「どっちかひとつ」ってことではなく両方の間(あるいは裏側)が大切、ってことなのかもしれませんね。笑いとジョーシキの関係のように


 そんなことを思いました




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関連:
ちゃんと とは

※weblioで探したらありました。「きちんとした」などの副詞系の方言みたいです


2chコピペ【負け組上等!私のサイレント・テロ活動】 - こころ世代のテンノーゲーム

※@sivadさんの指摘で「ディオゲネスってサイレントテロのさきがけだったのかなぁ」とか思いつつ、これはこれで興味深かかったです。(いま「ワセダ三畳青春記」も読んでるのでそれが頭に浮かびました)


ディオゲネス入門

※これも@sivadさんから。単に「降りた」というわけではなく教養があったのだ、と。ついでだから犬の着ぐるみとか着てくれてるとおもしろかったかもしれませんね。あと、相談役においしいとこさらわれた気がするw

タグ:教養 笑い
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2007年10月27日

ついったーをめぐる諸々 (連投 / 長文 / 速読 / remove /「removeしづらい」文化 / follow数と話題の関係 / 「おもろいついったーって?」などなど)

 もうついったーのほうにも感想書いたんだけどいちお


Twitterでremoveしたくなる時 - ARTIFACT@ハテナ系


 「長文連投が多い人はremoveしたくなることがあるよね」なエントリ。

 これ自体はtwitterカルチャーの記録的なエントリという意味合いだろうから別にどうということもない。チラホラ言われている「follow人数の違いによる連投系ついったーとそうじゃないついったーの温度差の違い」みたいな話にも共通するように思う。つまり、「follow数が多い人はtimelineの流れが速いのでそれにつられてついったーpostが多くなるけど、follow数少なめ(post少なめ)なついったー環境にいる人はそういうついったージャンキーの連投を見てゲンナリしてしまう」、って話。

 この辺の話は以前@TKRさんとも話したので個人的には解決済み。仮にそんな感じの連続postや長文postをする筆力のようなものを「ついったー力(笑)」とすると、ついったー力が弱い人はついったー力の強い人に飲まれていくって問題はあるだろうけど、それならそれでremoveすればいいし・・。つか、「remove上等」がついったーカルチャーだったように認識している。

 つか、個人的におもしろいのは「remove上等」なはずのついったーにおいて「なんとなく悪い気がするのでremoveがしづらい」って言ってる人たちの存在。そんで、follow増やしたもののremoveするのも気が引けて別IDとってお引越ししたりするのね。


UK's Tumblelog:Twitterのアカウントを取り直した理由


 こういうのは面白いなぁと思う。別件でもそんな感じで「ネットには政治性を持ち込まない」って人たちがいるのを感じた。みょーな遺恨や確執が残るのを嫌うってことなんだろうけど、そんなんふつーに生活してりゃ避けられようもないことだしなぁ。。(まぁ、長くなるからやめとこう)

 

 関連でいまは例のエントリの影響で「速読」欲なfollowブームがおきてるようだけど、上記のような理由でそういう人たちがIDお引越しをする時期がくるんだろうなぁ、って。「removeをいちいちするのがめんどくさいのでお引越ししたほうがいいや」、ってなるのかな?

 でも、そんな感じのグループわけってtwitでできるしな

ヒビノアワ: Twitter用Windowsクライアント「Twit」できました

 「お気に入りID機能を追加」ってやつを活用すればできるよ。

 つか、「出先で見るときに不便だからID二つとっとく」、ってことなのかなぁ。(よくわからんが)

ほか海外で「twitter group」っていうグループ分けのプロジェクトができてるのみかけたけど詳細追ってません。また今度見かけたらお報せ(するかもしれないかも)


 「ついったーはfollow人数によって景色が違う」って話関連で面白いなと思ったのはこの辺


Twitter / めいぼうじん:ついったーの楽しさはFollowersが100人を超えてからだよー、と思う。

Twitter / otsune:twitterにはfollowersが0-30人ぐらいの頃が一番面白さが分からない「キャズム」が有る気がした

 follow30人ぐらいまでが初期ついったーで100人超えてから一人前、と。follow数と面白さ(トピックの上がり方)関連だとこの辺


Twitterの面白さを痛感した日 - 北の大地から送る物欲日記


 「follow500人ぐらいで3つの話題が見れた」、と。これが常態なのかどうか分かりかねるし、followしてるついったーの性質やクラスタの違いなんかもあるだろうけど、おーざっぱに言って「follow数100人ぐらいからやっと1つのトピック(postの連なり=会話の連なり)が見えるようになる」ということだろうか。


 トピックの質の問題もあるけどその辺はなかなか判定しづらいな。なにを面白いと思うかは個人差があるだろうし。

 でも、アメリカのついったーの一部は「ついったーの教育への有効利用を考える」って形でついったーの質について検討してるみたい。


Drape's Takes: My TwitterSchool


twitter-casts » edubloggers


 この辺まだ追ってる最中なのでこちらも読み終わったらまとめてお報せ(するかもしないかも)



 海外ついったー状況関連でいうと、日本で言うところのアルファブロガーとアルファついったーみたいなのがイコールじゃなさげなのがけっこうめんどい。たぶん、「この程度しか書くとこないんだったらblogで書くよ」、ってことなんだろうけど。それとは別についったーで脚光を浴びるようになった人みたいなのが分かると面白いんだけどこれもなかなか探りにくかったり・・。

 あと「海外でほんとに流行ってるのかどうか」問題とか。これもびみょーなところで@calorineに聞いたところ、「blog追い越すぐらいの人気よー」、って言ってたけど彼女の界隈の個人的な感想なのかどうかが見分けが付きづらかったり。このインタビューによると


YouTube - Twitter founder evan williams exclusive interview


 5月の時点で、「アメリカ人は全体の33%、日本人は32%を占める」、ってことだったんだけどそうすると人口比率的には日本のほうがついったー人気が高いってことになるわけで、それに比べてアメリカはあまり人気がないのか?ってことになる。これから半年近くたったいまは日本人率さらに高くなってるだろうしね。


 まぁ、この辺もぼちぼち見ていきます。(じゃ、そんなこんなで)




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関連:
304 Not Modified: Twitter雑感

※「twitterは過去ログというよりもログインした時間周辺のログを見る(+ replies)」とのこと。あと「ついったーの連続ポストによって相手画面が埋まることを気にして@発言を多用するようになった」とか。

@kanoseさん的には「ログが10ページしか追えなくなったのでremoveの必要を感じるようになった」(参照)ってことだったけどまなめさん的にはその辺あきらめてるのがおもろいな、と。(lastlineさんもそんな感じでしたね)

つか、ログは10ページ以降も読めたような・・。autopagerizeには対応してないだけで、11ページ以降のログも「http://twitter.com/home?page=11」みたいな感じで入力してやると読めますよ(遅延かなんかで一部のステータス消えてるけど)



How to Change the World: Ten Questions with Chris Brogan

@chrisbroganどんと@guykawasakiどんのtwitter一問一答。chrisどんおすすめついったーリストが載ってる。けっきょくおもろい人をtimelineに入れないとおもろくならないよ、と(関連 ↓)

Cool Cat Teacher Blog: Chris Brogan about Twitter



--
追記:
つか、このエントリ書こうと思った一番の理由を忘れていたw


テレビとブログとツイッターとニコニコ動画の同時性 - 最終防衛ライン2


ここで上がってる「同期 / 非同期」の分け方はぶくまコメントでもkanoseさんが指摘してたんだけどこの辺にあった

WIRED VISION / 濱野智史の「情報環境研究ノート」 / 第3回「Twitter」と「ニコニコ動画」の共通点(2):ニコニコ動画編


んで、思うのは最初のエントリでkanoseさんにキャプられてるオレの発言って@medotoozさんのblogエントリを起点にしてるんだよなぁ、ってこと。

lastlineさんとこのエントリだと「ついったーは非同期が埋まらないよね」って感じだったけどblog使うと補完できるんだよね(実際、medtoolzさんのエントリってついったー発言を再構成したものだし)

そう考えるとついったーとblogの関係ってライブ放送と録画みたいなものになってるなぁ、と。

ほかにもついったーでけっこう発言する人で「ついったーでの発言をきっかけとしてそれをblogエントリに再構成する」ってけっこういるので。

そういうのはblog書きとかからすると「ネタバレしてもったいなくね?」って感じだろうけど、週刊連載と単行本の関係というか、「blogでpostしたものを単著にまとめても売れるものは売れる」っていうか、そんな感じでだいじょぶなんだと思う。

そもそもついったーの発言って修正しづらいからblogみたいなんで補完できないときついしね。


そんなことを思いました

タグ:twitter
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2007年10月22日

対話におけるすれ違いについて (心情的側面と経緯検証的側面の違い)

 びみょーな話題なので立ち入らないほうがいいかなぁと思いつつちょっとだけ言及しちゃって気になったのでいちお。

2005-12-02 - レイプされた女子の日記。

 「レイプは加害者が全面的に悪いか、被害者にも少しは落ち度があるか」みたいな話。

 ぼくの立場としては、「レイプするほうが全面的に悪いということはあるんだけど、扇情的な服装や仕草が被害を招くということはあるだろうな」、という感じです。勘違いしないで欲しいのは、「扇情的な服装や仕草が被害を招くことはあるだろうな」とは思っても「だからそんな格好をしていて被害にあった人が悪い」とは言っていない点。でも、いちぶの人はそういう意見をみただけで許せないみたいなんですね。それは当該エントリのコメント欄にしてもそうだし、このエントリのぶくまコメントなんかもそんな感じ


はてなブックマーク - レイプされた女子の日記。


 たしかにセカンドレイプ的なものに配慮する必要はあると思うんですが、それと原因について考えることは別なので。原因を考えることで予防対策にも繋がるのでそれは当然の思考過程だと思うんですね。でも一部の人はそれも許せない、と.....。


 こういう心情というのはなんとなく分かります。たとえばヒロシマについて欧米人(ほか)が、「あれは日本に責任があったんだ」「あれによって戦争が早く終わって多くの命が救われたんだ」「広島は軍港が近く似合ったので仕方なかったんだ」、とか言われたら腹が立つので。そういう経緯があった可能性もあるんですが、その言い方とか言っていい場(あるいは立場)というものがあるように思います。

 同様のことはいじめの被害や格差社会労働者をめぐる言説にも言えるでしょうね。いじめ被害についてはたとえば、「いじめにあうほうにもいぢめに合うだけの理由があるんだ」、って言説があってそれは一理あるんだけどそれをもって被害者を糾弾するのは間違っている。改善していく点として考慮の対象にはなるでしょうが糾弾の材料にしてはいけない。

 格差社会論の場合でも、「あれは努力しなかったからだ(自業自得、自己責任だ!)」、言説があるけどこれもびみょーですね。努力しても不可抗力的なところがあるわけだから、それをもって当事者を糾弾するのは間違っている。でも、逆に格差社会論を唱える人が「自己責任論反対!」という言説に囚われて自分の意見に疑問を唱える人は誰でも「自己責任論ですか?」と糾弾する傾向があるようにも思えます。要するに言説の型にとらわれて対話の相手を見ていないんですね。


 まとめると、それぞれの問題について「心情的側面」と「経緯検証的側面」のようなものがあるのかな、と。で、最初のエントリの場合は、「レイプされた女子の日記」、ということなので経緯や今後の安全策について一般的な議論をするべき場ではなく、被害者の心情に配慮して共感しつつその後のケアを考えることが優先されるところだったのだろうなぁ、と思ったわけです。

 そんな感じで議論においてはレイヤみたいなのを分けないと錯綜してよくわかんなくことがあるでしょうね。(注意しよう

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2007年10月14日

「正しさ」と「敢えて指摘しないこと」

 ishさんから言及いただいた内容が非常に示唆に富むものだったのでこの感覚を忘れないうちに軽くメモって感じでエントリあげとこうかと思う。元エント
リはこちら


ish☆サイボーグだから電気羊を数えます:任侠プロトコル


 ぼくんとこの一個前のエントリを取り上げて解説をいただいた。まだよくわかってないかもしれないんだけど簡単にまとめると、<仁と義の間にあるプロトコルを従順するだけでは盲目的信仰になる。オトナはあえて指摘しない>、って感じだろうか?

 通常、仁(人情)と義(けじめ、筋道)はプロトコルによって結ばれ一貫性をもったものとなっているがその一貫性を信じているだけだと狂信者のような妄信性(盲目的信仰)がでてきてヤヴァげ、と。んで、そういった筋道におさまらない余剰というかノリシロというか、オトナな事情(政治的事情)のようなものを勘案するのも重要だよ、と。

 そうだとするとこの辺は別件で考えていたテーマと重なって非常に面白かった。「正しさの妄信とそれによる暴力」ってやつ。この辺の話はtwitterでmedtoolzさんがよくぼやいてることだし、エントリにも上げてはった。


レジデント初期研修用資料: アイコンとしての道徳のこと

レジデント初期研修用資料: 良心なんて最初から無かった


 おーざっぱに言うと、「良心とか道徳を隠れ蓑にみんなけっこうエグイことやってるよね?」、って話。んでmedtoolzさんとしては、「そんな道徳だったら個別でhackしちゃえばいいのに((たぶん)情報公開時代でリテラシーアップしてるんだから)」、ってことなんだけどそれもまたびみょーかな、とも思う。個別hackが可能な人は限られるだろうし、旧来の道徳的なものにも良い点があったかもしれないから。その「良い部分」を受け継いでいかないともったいないなぁ、ってのはある。その辺の話はちょっと前のエントリで書いた。


muse-A-muse 2nd: 日本的「正しさ」と善的行動の選択基準


 個人的には医療従事者、ユーザーの道徳hackというよりも医療従事者のストレスの問題であって、それを減らすためには医療システムの見直しが必要って問題ではないかと思うんだけどその辺は横道っぽいし、まだよくわかってないので置く。いちお関連メモとしてはこの辺:(参照参照2



 んで、ぼくとしては今回のishさんのエントリを参照しつつ、この「敢えて指摘しない」ってところが諸々重要げだなぁ、と思った。(なんとなくだが)社会生活を送る上でDQNなことに遭遇することなんかは多々あって、それにいちいち突っかかってては身が持たないっていうか場が持たない。かといって、「その場の空気に同調する」ってのもちょっと違うように思う。同調ではないけど流れを断ち切らず、空気をコントロールしていく(あるいは一緒に作り上げていく)ようなそんな感じ。そして、その中から細かな気づきを拾い上げていく.....そういうことができるのではないか(すべきなんだろうなぁ)、って。

 個人的な課題としてはそんな感じだけど相手が暴力的な正しさを個人に向けてきている場合はまた話が別か(ex.medtoolzさんとこの絡むことで 「雄」を誇示する人みたいなの)

 そゆのもいなせるような技術を身につけるべきなのかもしれないけど、それは徳っていうか粋とかかなぁ。。(あと、お水系のおねーちゃんとかのtipsだろうな)



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関連(?):
muse-A-muse 2nd: 九鬼周造、1930、「いき」の構造

muse-A-muse 2nd: 羊でも狼でもなく「ふつーに生きる」ということ (reprise)



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追記:
エントリ中でもすこし触れたけどシステム的な問題と個人の生き方の規範みたいなのはまた違うかな、と思う。個人的にはmedtoolzさんの課題は医療システムの見直し系の話のように思うので。医療システムの最近の変化についてはウロ覚えだけど、制度改革で病床減らす系、社会保障カット系な流れになって医療従事者、受給者ともに負担が増していたはず。それでストレスがたまってるところにネットなんかで情報仕入れた<賢いユーザー>の問題もあるかな、と。(「賢い」ユーザーはクレームが長くなる問題 → 結果、医療従事者の負担が増える cf.情報の非対称性の解消による中央集権体制(closed architecture)の崩壊問題)

つか、medtoolzさんとこで出てきた例ってDQNって感じなのでネットなんかで情報武装した「賢い」ユーザーってのとはまた違うんだろうけど、でも道徳の問題だけだと下手すると旧安倍政権の「うつくしいくに」型道徳教育になりかねないかなぁ、と。(道徳なんてどっちに転ぶのが正しいってないわけだし)


そんなことを思ったわけです


あと、末筆ですが前回エントリで「義」について特に触れなかったのはそれほど意図はありません。「義」=「けじめ(筋道)」として了解していて自分的にはその辺を一番重視するように思ったので取り上げませんでした。(つか、たまに敢えて破りますがねw)


posted by m_um_u at 17:49 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年10月04日

善悪の彼岸 (飽き味?)

Morality is the herd-instinct in the individual.

−Friedrich Nietzsche



What is good? All that heightens the feeling of power in man, the will to power, power itself. What is bad? All that is born of weakness. What is happiness? The feeling that power is growing, that resistance is overcome.

−Friedrich Nietzsche, The Antichrist, section 2



I cannot believe in a God who wants to be praised all the time.

−Friedrich Nietzsche







 前回のエントリはなんかごちゃごちゃして詰め込みすぎてたなぁっていうとのちょっと書き足らなかったなぁってとこがあったので補足的に。

 まず最初にishさんのエントリを誤解してるように受け取られてるんだろうなぁと思うのでちょっと補足。ishさんのこれまでの流れ(考え)をおってきた人なら分かると思うけど、ishさんのアレは「宗教に依存」って感じではなく「敢えて踏み込む」って感じでの宗教回帰(あるいは利用)って事なんだと思う。
 
 それは以前に外山恒一さんとの対話を通じたエントリでもそうだし、大統領選候補のマイク・グラベルを扱ったエントリでも示されていた。なんつーか、「全力で釣られる」って感じなんだと思う。そういやそれ系のエントリをsuVeneさんも書いてたな。


suVeneのあれ: 「釣り」について


 ぼく流に解釈すれば、「釣りかどうかが重要なのではなく、その話題をきっかけとしていろいろ考えた時間が大切なんだ」、ってこと。この辺は同意する(以前他所でも同じ内容のこと書いたし)。その意味では先日ついったーで有村さんのモスバーガーエントリに疑義を呈したのはらしくなかったなぁと反省してるけど、まぁこの辺は私事なので置いておくとして....

 つまり、「結果よりも過程」ってことなんだろう。「神様を信じたからってなにかしてくれるの?」っていう人がいるけどこういう人は「結果(見返り)」を求めていることになるんだと思う。そうではなくて信じることで得られる心理的安定や、それを通じて得られるコミュニティとの繋がりが大切なのだ。そしてそういったことを通じて「善く生きていく」ということ。


Spherical-moss.net ? 神について


 その意味ではTsumuRiさんの感覚もよく分かるし共感する。よくわかんないけど個人的には善く生きた方が楽だしなんかキレイで気持ちがいい。そういう感じ。勘違いされてるかもしれないがぼくは宗教的なもの(考え方や装飾、音楽など)にはみょーな関心があるほうだしその突っ込み具合を自分としてはちょっとキケンだなぁって思ってるぐらいなので。友人に牧師の息子がいてそいつの生きかたを見てても宗教とともに生きるというのはいいなぁって思ったりする。でも自分としては特定の宗教にコミットするつもりはない。
 
 一つの価値観(正しさ)に染まり固まることの危険性を思うので。「正しさ」の押しつけ的な偽善(鈍感)というのはぼくのもっとも嫌いなものだし。一つのものに染まることはそういうことの危険性を持っているように思う。(つっても牧師の息子の見てると押しつけも染まりもないんだけどね)

 
 とりあえずそんな感じで、すべてを信じると同時にすべてを疑ってるのがいまの自分の状態だと思う。それはひどくおさまりがつかなくて不安定で常にどっかに流される危険性をもったものなのかもしれないけど、その分考えて、場面場面で自分なりの指針を設定していくっていうのが人としての在り方なんじゃないかなぁ、って。「人として」っつーか個人的にはって言ったほうがいいか。とりあえずそんなことを思う。

 虚無でもダダでもなく、相対化の中で立ち位置を見失うこともなく、みょーなスノッブを着ることもなく...ただなんとなく周りと自分の心地良い関係を築き、その中で自分なりの居場所(生きかた)を模索していく。そんな感じだ。


 そういうとなんかいかにも頼りなくてけっきょくどっちつかずで「自分さえ良ければどうでもいい」って感じでなんかあったときに逃げ出すんじゃないかって思われるだろうけどそういうのともまたちょっと違うような...。よくわかんないが自分なりの誓約があってそれによって制約を受けているので。それを裏切ることはできないので簡単にケツをまくるってこともないかなぁ、と。(まぁ、それとは関係のないところだとめんどくさいのでさっさと逃げちゃうかもしれないけどw)

 ぼくは飽きっぽい性格なのでその誓いがどんだけのものなのかってのは自分でも疑ってるんだけど、少なくともまだあのときのマリアはぼくの中にいる。そしてほかのさまざまな奇跡の記憶とともに「生かされている」という気持ちは残っている。


 だからたぶんしばらくは大丈夫なんだと思う。


 あと、いわずもがなだけど「善く生きる」ってのは信心とかポリシー以前に経済的よゆーだろうなぁ、と。まぁいわずもがなんだろうけど (って、全体的にいわずもがな感もあるな)



 とりあえず、そんなこんなで

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2007年10月02日

善悪の彼岸 (秋味)

God is dead.

−Friedrich Nietzsche, The Gay Science, section 108



There are two ways to slide easily through life; to believe everything or to doubt everything. Both ways save us from thinking.   

− Alfred Korzybski



No price is too high to pay for the privilege of owning yourself.

−Friedrich Nietzsche



We are always in our own company.

−Friedrich Nietzsche, The Gay Science, section 166



What is done out of love always takes place beyond good and evil.

−Friedrich Nietzsche, Beyond Good and Evil, Aphorism 153








 ついったーのほうのログみてたら人間の行動指針(≠ 倫理とか善悪)と宗教の話が出ていたので自分なりに思うところをまとめておこうと思う。(彼岸も過ぎたし) つっても、以前に書いたことと重複するかもしれないけどその辺はご容赦。


 ログの流れ的には、「価値基準(自我)の定まっていない人の指針として宗教が必要なんじゃないか」、って話だったと思う。以下、流れからてきとーに一部抜粋。



TsumuRi 隣に神様がいていつも見守って助けてくれている感を、心理学の人は自己肯定感とか呼ぶんだと思う。師匠が「精神医学は突き詰めたらやっぱり宗教なの?」とか俺に聞いたが俺はしらんw

TsumuRi 神様が隣にいるのを感じるように育てるのもある意味洗脳だわなー。ただ善く生きるための洗脳なら多少はいいんじゃね?

marco11 あのねえ、これは内緒っていうか俺はよくわからないけど、己を救済する感覚の受け皿として利用したっていいんだからね既存宗教を。そういう人はいる

TsumuRi 生まれたら、ある程度母の思想に染めるけどね。自我がはっきりしてきたらなんに染まるかは自分で選択したらいい。まぁそこの選択も最初の洗脳の結果である可能性はけっこうあったりするんだけどね。

marco11 洗脳なんて早くしてやったほうが絶対そいつのためだと思うけどね。ガチってのはそういうことだろうと思うんだけど、ヤオの宗教もそれはそれでいいのかもね

TsumuRi どういう概念でも、それとそれの反対のものの二項対立的というか、両極の概念として語られることが多かったりするけど、男と女とか、生と死とか、大人と子どもとか、本当は多分両極なんて存在しなくて、同時に在るもののような気がする。




 すんげー恣意的に抜粋したので抜けがあったらご容赦。

 んで、このログを朝見てなんとなくぼけーっと思うことをつぶやいてみたわけだけど、なんか粗かったのでそれなりにまとめとこうかな、と。


 その前にぼく個人の立ち位置として。引用したお二人の考えに近いように思う。白紙状態のなんも考えてない人が拠り所もなく路頭に迷ってモラルハザードするよりは、最初はなんらかの指針を用意しておいてそれにすがって歩行の練習をさせた後に自分なりの思考に旅立つ、なんてやり方の方が良いように思う。

 んでその後の方針としては人それぞれなんだろうけど、個人的には自分の生存を第一に考える。「他者への慈悲」や「善き行いへの志向」というのもあるだろうけど、そゆのも含めて自分の生存のために価値やそれに基づいた行動指針を最適化していく。

 「善」についていえば「他者に善いことをする」ということがデフォルトで善なる行為の理由づけが「(かわいそうな)あなたのために〜してあげる」ってなってると却って下品だろうな、と。それは所詮偽善であって、生物であればどのようなものも自分の生を第一に行動をしていくべきなので。それが生命(生きること)に対して敬意を払うということだ。

 その上で自分の「〜〜してやった感」を満足させるためになにかするのならそれはそれでいいんじゃないか、と思う。ただ、「せっかくあなたのためを思って〜〜してあげたのに(私の気持ちを裏切るの?)」、なんてことはありえないだろうな、と。

 そういうのはたとえば、「良かれと思ってしたことだから...」、といった言い訳や、「こんなにお祈りしてるのにご利益の一つもないなんて!」、とかいう勘違いにも共通する。そのあたりの行為というのは贈与であって見返りを求めるべきではない。なにかしらが返ってきたら「ラッキー ♪」って思うぐらいだろう。


 で、


 それとは別に人間には善性というか正しい行いを志向する普遍的な心性があるのではないか、という命題もある。この辺とか


404 Blog Not Found:「正しい」には二つある、あるいは二つしかない

 福耳さんも気にしてたな

はてなブックマーク - 福耳ブクマ / d:id:fuku33

「自分がなしていることが善だと思いたがる」となると、主観でない善悪というのはどこにあるのか?



弾さんのほうの話は、「物質界に顕現しているだけで是なのである。ほかの正しさの基準は時代ごとに変わる」、って感じで。「まぁ、そりゃそうだー」っつのもあるけどやっぱ踏み込みが浅いなぁ、と。

 ほかの人のTBにもあったように重要なのはその先だよな。つか、そもそも「正しさ」にとらわれているのがよくわからん。

 「正しさ」というのは時代や環境ごとに変わるものだし、「思想」なんてもののために争うのは愚の骨頂だねっつーのは歴史の知恵だわなぁ。「正しさ」のためではなく自分を囲む構成員のためになにかをするのであってその結果として「正しさ」がついてくるだけだべ。

 「んじゃ、てめぇらさえ良ければなにやっても良いのか?」、ってとこでびみょーになってくるわけだけど。基本はそんな感じで自分の周りのものへの友愛が第一で、それを通じてコミュニティからの承認を得、自分の場所を獲得し、アイデンティティってやつを確立していくんだよな。

 近代はその辺のコミュニティがなくなっちゃった(バラバラになっちゃった)からアイデンティティ(自分の居場所)や価値なんてのもあいまいなものになってるんだろうけど。


 ちょっとこんがらがってきたのでまとめると、「コミュニティがない時代にアイデンティティの拠り所はあるのか?」って問題と「コミュニティを志向する行動は別のコミュニティにとって善といえるのか?」みたいな問題が出てきた。

 前者について言えば、昔みたいなでっかいコミュニティはなくても家族とか友人とかそういう細かい単位での自分の場所みたいなのはある。その中での友愛を通じて自分の居場所を確認していくっていうのあると思う。

 次の命題について。なんつーか、宗教戦争みたいな感じで「正しさ」を全面に打ち立ててほかのコミュニティを食いつぶしていくっていうのでない限り、それぞれのコミュニティと個人の関係においては他のコミュニティを侵食するなんてことはないように思う。むしろ外からの圧力に対して当該コミュニティを守るために力を結束するということならあるだろうけど。

 で、

 そういった必要最小限のコミュニティの友愛の範囲が広がっていくことで他者への志向が広がっていくのではないか、と。「他者」とされる外国人とか自分と違う性別の人、弱者や虐げられている人、そういった人々への関心世界に対する知識が増していくことで友愛の範囲が広がっていくはず。「じゃあ、やっぱ人には善への志向がデフォルトであるんじゃん?」ってことだけどこれはまたちょっとびみょー。生育環境におけるすり込みによって異なってくるように思う。

 その辺は「ザ・ワールド・イズ・マイン」でも表されてたけど、生育環境が異なれば善の基準も異なるので。そういう環境においても絶対的に「正」と思えることは「生きること(その個体を維持すること)」への志向のように思う。

 そういった基本属性の上に生育時の刷り込みや、任意の時点での環境条件などが合わさって善への志向が形成されていく。後者の任意の時点での環境条件ってのは具体的に言えばその時点で他者へ善行をするだけの余裕があるかどうかってこと。金銭(物質)的にもそうだし、それに基づいた心理的余裕って面でもそう。(ほかにも「沈没しかけた船で○○」とかそんな感じの環境要因の違い)


 それが基本方針となる。


 その上でなお「刷り込み」時に受けた行動指針に基づく「善」への意思があり、それを避けた場合には心理的負担が生じるようになる。ぼくはこれを「業」と呼んでるけど、「善」を考える場合はむしろこっちの負のフィードバックのほうが厄介なように思う。「善」の志向があるからいろんなものへのチャネルが拓けていろんな経験ができる機会も生まれるんだろうけど、それができないことによって負のフィードバックを背負いすぎるとその重みでぺしゃんこになるからなぁ・・。


 まぁ、とりあえずそんなこんなで、「正しさではなく友愛に基づいて行動し、友愛の範囲を広げていくこと」 「その際、択るべき行動は他者への“正しさ”の押しつけではなく、他者の便益を第一とした行動であるべきこと」、って感じかなぁ。


 そういや西田も善の研究やってたけど


[mixi] 「ぜんのけんきゅう」のけんきゅう(けいかほうこく)

[mixi] 「ぜんのけんきゅう」のけんきゅう(けいかほうこく2:とういつ)

[mixi] 「ぜんのけんきゅう」のけんきゅう(けいかほうこく3:ぜんのけんきゅう)


 これも「人間は善への志向を持っている」ってのがデフォルトでびみょーだったんだよなぁ。


 「善」っていうか、もうちょっと細かい単位で区切れそうに思うんだけど、それがなんだかは未だよくわかんない。ケーゾクということで



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関連:
人に感謝しない者は、神にも感謝しない

※ちょうどishさんのところにも、「生きかたと信仰」みたいな話が出てたのでいちお。) 「垂直軸としての信仰があってこそ横軸としての人間への信頼が保てる」、と。

 ぶくま的には従来の「神様」的イメージでエントリみてるようなのでびみょーなんだけど、「個人の内なる神」ってことでもあるんだけどね。(そして内なる誓約のようなもの)

 その意味ではぶくまコメントのululunさんとぼくの感覚は近いように思う。(ぼくは自分のことを生体システムとしてとらえてるからね)

 上記してきたエントリ的には、生体システムが能く動くための燃料系(モチベーション)のの一つとして「善」ガあるって感じ。(ishさんの感覚とはまた違うのだろうけど)

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posted by m_um_u at 23:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2007年09月13日

...そうだ! お米さんに聞いてみよう!!(5):エロ妄想も消えてそろそろ食欲の秋ですか?

 「そういえばしばらくblog放ったらかしだったな」とか思いつつ、軽いリハビリも兼ねて久々にお米ちゃんに電波を飛ばしてみたいと思います。「リハビリを兼ねて」ってところに我ながらおっさんらしい嫌らしさを感じますが見逃してやってくれっていうか見逃せないならなにか言ってくれていただければ幸いです。

 さて、今回の案件ですが、いちお「きいてみよう!」としつつも現段階ではうまいことお米ちゃんに質問する内容になるのかどうか少し不安です。しかし持ち前の難癖つけ能力をフルに発揮してムリからお米ちゃん案件に落とし込むよう努力する所存であります。


 で、本題ですが、



 まず始めにこちらのエントリ


米 - 脱稿してもなお脂肪フラグ


 「やぁ、お米ちゃん、今回もかわいらしい萌え絵を描いてござるね (ほのぼの)」といった風情ではあるのですが2つ気になることが...。


 1つ目:「エロくないよ!」を強調してござること

 2つ目:「エロくないよ!」を強調しているエントリであるのにも関わらず「バスト90腐女子喜屋武ちあき、グラビア界も狙い撃ち」なるタイトルのTBがくっついていること


 まず1点目について。これはお米ちゃんの属性やネット活動全体についてではなく、今回出版される本についての注意書きなわけだからこれ自体は問題ないのですが、「エロくないよ!」、を強調しているところにおっさんとしては少し疑問を持ったのでその辺について後で詳しく聞いてみたいと思います。

 2点目。これは読んだそのままというか、「なぜ“エロくないよ”エントリにエロっぽいTBが?」ってことなんですが、なんでなんでしょうね? クローラーかなんかが「エロ」とか「パンチラ」とか言う言葉に反応したんですかね?

(※どーでもいいことですが別件で。おっさんとしては、英語の「オチ」をあらわす熟語「punch line」なる言葉から派生した「パンチラ・イン」の「イン」の部分に何が入ってるのかが気になってる次第です)

 

 さて、そんな感じで「エロくないよ!」宣言をされているお米ちゃんなわけですが、お米ちゃんストーカーのおっさんとしてはどうもその辺が腑に落ちないんですよね。と申しますのも、おっさんのほかにも目撃した人がいることと思いますが、この夏のお米ちゃんのピンクハリケーンぶりはどうだったんだろうな?、と。

 quiznosさんほか、乙女心(笑)をもったお米ちゃんストーカーの方々(※おっさん含む)は顔を赤らめ、俯き、所在のない思いをされていたのではないでしょうか?

 たとえばこの辺ですね (※以下、タグは面倒なので消去)

はてなブックマーク - やっぱりオナ禁は効果あったよ

okome_chan 精子を飲むと肌の調子が良くなるってよく言われてるけどそれと一緒なのかな。コラーゲンが豊富らしいけどね。ただ我慢は精神的に良くないから、オナ禁するよりサプリや飲み物でコラ−ゲンを摂取する方がいいよ



 ぶくまを通じて陳情いたしましたが、あいどるはそんなこといっちゃだめです ><

 
 しかし、その後もお米ちゃんの暴走は続きます


はてなブックマーク - ネコプロトコル - メガロオナニア - オナニーの三要素とその要素を破壊したあとに残るもの。


okome_chan  ドンマーイ!ドンマイナイスオナニー!/↑夏なんで男子中学生的なエロカッコワルさを演出してみました!嘘ですただの素です!ごめんなさい><




はてなブックマーク - pal-9999の日記 - オナ禁は肌に良いのかって話を真面目に実証的に考えてみるテスト

okome_chan  口淫好きな女性は男性にとってはありがたい存在なのでは?「死ねばいいのに」なんてとんでもない!むしろ手厚く保護するべきだと主張したい。




 しかしそんなピンクお米旋風(※以下「ピン米」)もこの辺でいちおブレーキがかかりそうに....


はてなブックマーク - はてなブックマーク - pal-9999の日記 - オナ禁は肌に良いのかって話を真面目に実証的に考えてみるテスト


okome_chan ↓ああちなみに私のことではないのですヨ?!なんかプチ本気で恥ずかしくて素に戻ってしまった今!修行が足らなくてすいません!後先考えずセクハラ発言を振りまいてすいませんでした。夏も終わるし自重します><!




 ちょっとストーカーするのがめんどくさくなってきたのでこの辺にそちきますが、そんなこんなで自重したかに見えたお米ちゃんなんですが、この後の軽く暴走は続いていたように思います。(そしてquiznosさんに、「お米ちゃん、いつもとちがうよ?」みたいな心配をされてましたね)


 つか、ぶっちゃけその辺のとこはどーでもいいんですけどね。どうもお米ちゃんの脳って女子ってよりは男子っぽいし。つか、乙女脳ってよりは男子っぽいって言ったほうが。別件で見てる腐女子もそんな感じですけど、もしかしたら腐女子の方々にはそういう傾向があるのかもしれませんね。


 で、気になるのは「お米ちゃんの属性がエロイかエロくないか」ということではなく、「お米ちゃんの書いてるものがエロイかエロくないか」ということです。この辺はもう既に答えは出ていると思うんですが、「創作物はエロくない」とすると、なぜ一見エロ脳をしているお米ちゃんからエロくないものが生み出されているのか、という辺りが疑問なんですね。


 まあx、この辺は「好み」としか言うしかないのかもしれないけど、ちょっと気になります。


 そして、もう一個気になることが......(っつーかここからがメインなんですが)

 ちょっと前のシナ千代さんとこの「砲撃/迫撃風呂がー?」へお米ちゃんのぶくまコメント関連で


はてなブックマーク - シナトラ千代子 - あなたは砲撃型ブロガーか狙撃型ブロガーか

okome_chan  そのどちらでもない平和主義ブロガーです。みんなにお花を配って歩くの…!(つうか最近夜忙しくて更新自体してないの…☆ミ)銃より花を!花より菜っ葉を!ナッパよけろーーーーーっ!!



 これを受けてquiznosさん曰く、


quiznos id:okome_chanはお花もいいけどおにぎり配るのもいいと思うな…! 米だけに。[ぼくの顔を][おたべよ]



 返しでめたぶくってお米ちゃん曰く、

はてなブックマーク - はてなブックマーク - quiznosはもぐもぐしている / 2007年09月07日

okome_chan id:quiznosさん>たしかに!米だけに!!……ようし!!!貧しい人々におにぎりを配るぞ!!米の中にびっしりと小石を詰め込んでこの自慢の肩で投げつけます!![これでも][喰らえよ]



 ここでおっさんのキチガイスイッチ発動ですよ。uuminさんとこで上がってた別件のエントリと絡んでね


uumin3の日記 - 2007-09-11:アンパンマンというヒーロー像


 もうちょっとスタンダードなまとめとしてはこの辺ですかね


煩悩是道場 - 「アンパンマン」は精神的支配による巨大帝国主義政策の物語


 いわゆる「アンパンマンのマッチポンプ」という話題ですね。「アンパンのヤツはいつまでたってもバイキンにとどめをささずにいる。これはどういうことか?思うに、やつが正義のヒーローの役を続けておくためには悪役が必要なためバイキンを生かさず殺さずしているのではないか?」、というやつ。これは誰でも一度は妄想し、話のネタにするものだと思います。つか、1年ぐらい前にも軽く話題になってますね

アンパンマンの謎に理科の先生が答える本 | エキサイトニュース

finalventの日記 - アンパンマンはたしかすごいよな

Yasushi の 「くつログ」: 歌に心あり - アンパンマンのマーチ


 こっちは最近の雑感だけど

finalventの日記 - アンパンマンって

 

 んで、リンク先の一つでとりあげられているようにアンパンの歌ってけっこう濃いいんですよね。立ち止まって聴いてみると意外に濃くて、友人の彼氏さんは「アンパンマンの歌はすごく好きです!(座右級)」みたいなこと言ってました。

 この濃さが生まれた理由ってのはやはりやなせの戦争体験があるのではないかと思うんですよ。


アンパンマン - Wikipedia

やなせたかしがアンパンマンを生み出した背景には、戦中・戦後の深刻な食糧事情があった。この当時彼は、空腹を抱えながら「食べ物が向こうからやって来たらいいのに」と思っていたという。この自らの飢えの体験から「困っている人に食べ物を届けるヒーロー」という着想が生まれた。だがそれだけならば、アンパンマンというキャラクターの創造には繋がらなかったであろう。その思いが実際「食べ物のヒーローが空を飛んでくる」形で提示されるようになった背景には、彼の哲学があった。『ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです』第1作『あんぱんまん』のあとがきよりと、自身が絵本のあとがきで語っているように、アンパンマンは文字通り自らの身を削ってよれよれになり、傷つき倒れながらも困っている人のために尽くす。空腹の人に顔の一部を与えることで悪者と戦う力が落ちると分かっていても、目の前の人を見捨てることはしない(ただし、アンパンマンの背後にはジャムおじさんという強力な兵站が常に存在しており、こうした行為は戦闘力の回復を前提としてのものである)。かつそれでありながら、たとえどんな敵が相手でも、戦いも放棄しない。この『正義』がアンパンマンを稀代のヒーローたらしめており、また世代を超えて愛される理由のひとつとなっている。

2007年7月27日放送のなるトモ!(読売テレビ制作)にやなせ本人がインタビューに答え、「究極の正義とはひもじいものに食べ物を与えることである」と述べている。また、主人公をあんパンにした理由を「外の皮はパン=西洋、内側はあんこ=純日本。見た目は西洋でも心は日本人である。」と解説している。




 単純に言うと、「戦争体験を通じて飢えこそがなによりも悪だ」ということが身に染みてわかったのでそれをテーマにした作品を作ったのかな、ってことではないかと思います。ほかの部分は枝葉でしょうね。だからいろんなところでボロのようなものが出てきて疑問をもたれるのだろうけど、根本のメッセージ(飢え = 悪)は強いので作品テーマは崩れていないのではないでしょうか?


 「そういった飢えを救うためならぼくは自分の身体を捧げても構わない。何度でも再生(転生)して、また同じように人々の飢えを満たすよ」、ということではないか、と。そして、そのたびにバイキンの人たちもよみがえるわけです。作品中では軽くやっつけているように描かれていますが、おそらくは血で血を洗う戦い(あるいは命を賭した戦い)の果てにバイキンのひともアンパンのひとも一時は力尽き、どちらかの勝利によってその時代は終わりを告げるのでしょうが、しばらくしてどちらかが蘇ってくる。

 「百億の昼と千億の夜」級に続く善悪の戦いを描いたのがアンパンマンという作品なのだと思います。(個人的にね)

 んで、そういった戦いを通じて通念的な意味での「善」だの「悪」だのはわかんなくなって行くんですね。そういった大義名分的なものは時代状況によって変わっていくものだけど「はらへった」っていう原初的な感覚は残る。「その部分への救いはガチだぜ」ってことでやなせの考える膳とは「空腹の救済」ってことになったのではないか、と思うわけです。

 んで、まぁ、そんな千年坊主みたいな生活してるヒーロー(?)なわけだから人並みの生活なんか送れるわけもなく主題歌みたいなことになるわけですね。(その意味ではアレは坊主の覚悟の歌ってわけです)


 まぁ、確かに「マッチポンプ」って視点も魅力的だし、作品設定からストレートに解釈するとしたらそれもありだと思うんですがね。でも、インタビューから垣間見える作者の思いを組むとその部分ってのは「設定の拙さ」ということで解釈可能なのではないでしょうか?


 つか単純に、こっちのほうが幸福な話なのでぼくとしては気に入ってるんですがね。(「幸福」ともいえないのかもしれないけど)



 さて、そんなこんなな捨身成仏的アンパンマンの話に対して冒頭のお米ちゃんなわけですが、やはりぶくま界のアンパンマンともいえるのではないかと思うわけです。(平和主義的な面もあるし)

 おっさんとしては晴れてぶくま天使(※自己申告含む)に輝いたお米ちゃんの入った俵がWASSHOI WASSHOIと担ぎ上げられ、たまにその中身をぶちまけるという形で幸せ分配してくれてるのかなぁ、とか思います。じっさい、お米ちゃんはぶくまコメントには気をつけてけっこう書き直ししてるみたいですしね(※お米ストーカーだから知ってるんだよ!)

 
 米粒の中にたまに小石も混ざってるみたいですが、その辺はまぁご愛嬌、と。


 
 とりあえず、アルファブックマーカーおめでとーでした。




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※「平和を作り出すアクターはマッチポンプ的に外敵を必要とするのではないか?」関連で。「テロがなければアメリカは違う敵を生み出していたことだろう」って感じなんだけど、これって「アメリカの軍事産業は公共政策だから、ときどき戦争を必要とする」みたいな話にも似てるな。


空中キャンプ - 2005-06-17:ビンラディンが俺の部屋にいる

※オリジン弁当原理主義者のラディンくんの話。「食は剣よりも強い」関連で。そーいや「 セブンイレブンの「かに飯」おにぎりが抜群にうまい」らしいよ。CC界のトップランナーのひとがゆってた。


 
タグ:平和
posted by m_um_u at 22:25 | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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