2016年12月17日

「身体はトラウマを記憶する」



少し前に読んでついったのTL的にもシェアしといたほうがいいかなと思ったので簡単に

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -




簡単にはトラウマからの復帰の方法について。んでもトラウマだけでもなくグリーフケアとか発達障害とかにも適応される感じ。あるいは鬱とか自律神経失調とか。そういうわけで紹介しといたほうがいいかなとおもった。


紹介的な文章になるので特に自力でうんたらする必要性もないだろから他人様の紹介を主に借りよう。巻末の解説が端的にまとまっていたのでそれをまるっと引用から。

ちなみに引用はiPhoneのスキャンアプリCamScannerからのOCRを試しがてらやってみた。便利だけどiPhoneカメラの性質上カメラで捉えられる範囲が限定される/あまりたくさん文字を写すとOCRの誤認識が多くなるのでなるべく短い単元ごとで撮影する → 何回も撮影しなければいけなくなって疲れる、というのはあった。んでもあらためて写経におけるスキャナ→OCR便利だなあとおもったので安価なハンドスキャナとかあとでぼけーっと見て見るかもしれない。

閑話休題

以下、巻末引用から






浜松医科大学児童青年期精神医学講座  杉山登志郎



本書の著者、ヴァン・デア・コークはエピローグの冒頭で、次のように書く。「私たちの社会は今、トラウマを強く意識する時代を迎えようとしている」


本書は・自伝的な要素を有し著者の精神科医としての、そしてトラウマに関する世界的な研究者としての歩みがそのまま記されている。オランダ系移民であるヴァン・デア・コークの父親は、ナチスに対し批判的であったがためにナチスによる投獄を経験し、母親は幼児期のトラウマの経験を持つことが暗示され、家族の中に深いトラウマがあったことが開示される。彼の歩みは、トラウマの再発見から始まる、今日のトラウマ研究の歴史そのものなのだ。一九七八年、駆け出しの精神科医であったヴァン・デア・コークがベトナム戦争の帰還兵が示す凄まじい後遺症に圧倒され、トラウマのもたらす多?にわたる脳ヘの影響に気付くところから本書は始まる。トラウマについて、精神医学が発見と忘却を繰り返してきたことを彼もまた再発見し、一九八○年に出版されたアメリカ精神医学会炸成の「診断・統計マニュアル第三版(通称D S M.皿)」に初めて心的外傷後ストレス障害(PTSD)の概念が登場したことをきっかけに、効果的な治療法を見つけるための体系的な研究を開始する。さらに彼は、慢性のトラウマや強烈なトラウマにさらされた脳が通常とは異なる働きを作り上げて行くことを、最新の脳科学や脳画像法を駆使Lて解明して行く。そうして積み上げられた実証を伴うデータの集積によって、一見脈絡のない不可思議な症状群が、すべてトラウマによって引き起こされた脳の変化に基づくものであることが示され、なぜ従来の治療法が無力であるのかも、脳の働きに遡って明らかになる。また薬物療法の限界も示される。

重度のトラウマ、特に子ども虐待などの慢性のトラウマによって生じる様々な重症な臨床像である、複雑性PTSDと発違性トラウマ障害が、なぜかアメリカの精神医学の主流から無視され続けたこと、さらに抗精神病薬や抗うつ薬の処方のみが膨れ上がって行く状況も克明に語られる。その上で、不可能とも思われたトラウマの後遺症からの回復を可能にする様々な方法が、これも実証を伴った研究によって今日の到達点として描かれる。

本書を通して私は、被虐待児とその親の臨床の中で疑間を感じつつそのままになっていた問題や断片的な理解のままになっていた間題のほぽすべてに、明確な回答を与えられ、視野が何倍に広がったような体験をした。本書は日本でも、トラウマに向き合わざるを得ない人々にとって信頼できるテキストとなるだろう。それはこんな人々である。ドメステイツク.バイオレンスや子ども虐待に向ぎ合わざるを得ない人、少年非行や少年犯罪、薬物中毒、性被害・性加害、社会的擁護、里親・里子、貧困、すべての精神疾患、怠学、不登校に関わる人々。つまり学校数師、ソーシャルワーカー、児童養護施設や児童自立支援施設で働く人、精神科医、臨床心理士、弁護士、裁判官、警察官、検察官そして政治家。まさに私たちの社会は今、トラウマを強く意識しなくては何もできない時代を迎えようとしているのである。


本書の圧巻は、なんといっても第5部「回復ヘのさまざまな道」である。本書の冒頭でヴァン・デア・コークは三つの方法があるとしている。一、自分に起きていることを知り、それを許容しつつトラウマ記憶を処理するトップダウンの方法、二、不適切な警戒反応を抑制し、脳の情報処理を変える方法、三、トラウマに起因する無力感などに立ち向かうボトムアップの方法。どれが有効なのかはやってみなくては分からないし、ーつだけではうまく行かないことが多い、従ってて組み合せが必要であるとしている。


第5部で取り上げられているのは、トラウマからの回復のために工夫、開発されてきた実に広範な様々な治療方法である。最初に、言葉での表現として、自分に手紙を書くという自由筆記法の可能性が取り上げられる。次の章ではEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)が紹介されるが、自分が実施Lていたグループセッションの参加者の中に、併行してEMDRを受けた患者がいて、その回復ぶりに驚嘆したヴァン・デア・コーク自身が早速研修を受けに行き、その効果に驚くというエピソードが紹介されている。これは私自身の経験そのものでもある。次がヨーガである。ヨーガこそボトムアップの強力な方法でありマインドフルネスや呼吸法との組み合わせによって、細心の注意を払いながら治療に織り込んで行く具体的なやり方が示される。ヴァン・デア・コークのすばらしいところは、これらの効果を直ちに最新の脳画像研究を用いて立証して見せることができることだ。EMDRの効果検証のみならず、ヨーガに関しても自己調整の中枢である脳内の島(とう)と呼ばれる部位の活性化が示されている。次に取り上げられるのは多重人格ヘの内的家族ジステム療法の紹介である。我が国では自我状態療法として行われている方法とほぼ同じ治療手技である。次いでPBSP療法が紹介される。

これはグループ精神療法を用いて、失われた愛着を想像の中で取り戻すという大変に興味深い臨床的試みである。我が国の治療者のために補えば、嶺輝子(みねてるこ)が独自に開発したホログラフイートークが類似のアイデアで構成されていて、この手法に精通すれぱ、愛着の修復の効果が同等に得られると考えられる。次に登場するのがニューロフイードバックを用いた脳の反応の正常化である。この部分に関して私は未経験であり、ぜひ学んでみたいと強く思った。最後に紹介されるのが、演劇や声劇によるトラウマヘの治療効果である。こちらも私は未経験であるが、その効果に関してはなるほどと実感ができるものぱかりである。

ヴァン・デア・コークは特定の治療法を勧めてはいない。そのいくつかを組み合わせることが必要で、本人に合った治療法を選び、脳や生体の起こすトラウマ反応に最新の注意を払いつつ実践して行くことによって、薬に頼らず確実な回復を得ることができることを実証しているのである。






上記にもあるようにこの本のハイライトは後半の様々な治療法部分となる。


人はどうやって「トラウマ」を克服するのか | 今週のHONZ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
http://toyokeizai.net/articles/-/141463

本書のハイライトは、間違いなく、それらの治療法について述べた後半部である。そこでは、驚きともいえる治療法と回復事例の数々が、著者の熱い筆致によって語られる。正直な話、おそらくこの部分は、その筋の専門家でなければ、「そんな方法で本当に効くの?」と訝しく思われる箇所もいくつかあるだろう。

ただそれと同時に、治療法の新奇性とともに、「できることなら何でもする」という著者の意気込みがことさらに目を引く部分でもある。健全な疑いを持ちつつ、新しいアプローチと著者の情熱を楽しみながら読んでいきたいところだ。


著者のモットーは、「患者が良くなるのを手助けするために、できることなら何でもする」であり、実際に本書でも、EMDR、ヨガ、内的家族システム療法、ニューロフィードバックなど、じつに多くの治療法をとりあげている。

さて、以上のように整理すると、トラウマの治療として著者が何を目指しているのかも、よりはっきり見えてくるかもしれない。原題や邦題が示しているように、「トラウマは脳と心と体に痕跡を残す」というのが著者の基本的な考えである。ならば、「トラウマはどんな痕跡を残しているのか」「患者は現にどんな状態にあるのか」を見定めたうえで、それぞれの場合に適した治療法を選択し、ひいてはそれらを組み合わせよう、とそういうのである。



「トラウマは脳と心と体に痕跡を残す」という部分については実際に脳の状態をスキャンしてトラウマを負った脳の状態を診ている。トラウマを負った脳は扁桃体への電気信号が過剰になり、そのぶん前頭葉へのそれが持っていかれるみたい。つまり無駄に恐怖・不安反応が高まり自動的にそれが生じ理性的な判断がしにくくなる。

ひとつ具体的な議論を追ってみよう。先に述べたように、トラウマは脳にもその痕跡を残す。典型的には、トラウマを負った人では扁桃体が過敏に反応するようになっているのである。扁桃体といえば、情動反応の処理においてとくに重要な役割を果たしていて、脳における「煙探知機」に喩えられる部位だ。脳画像でも確認されているように、そうした探知機が過敏に反応するからこそ、患者は必要以上に危険を感知し、ストレスホルモンがたびたび強く分泌されてしまうのである。

ただし、トラウマと関係している脳部位は扁桃体だけではない。扁桃体との関係でとりわけ重要なのは、前頭前皮質だ。前頭前皮質はいわゆる実行機能を担っており、とくに内側前頭前皮質は脳の「監視塔」に喩えられる。煙探知機として警報を鳴らすのが扁桃体の役割だとすれば、その警報が妥当なものかどうかを判断するのが内側前頭前皮質の役割である。かりに煙探知機が警報を発したとしても、監視塔がそれを誤報だと判断すれば、ストレス反応はじきに抑制される。だから重要なのは、扁桃体と内側前頭前皮質の均衡関係なのである。その証拠に、そうした関係が崩れてしまうと、現にトラウマを負った人がそうであるように、すぐさま闘争/逃走モードのような状態に陥ってしまうことになる。


この状態をリセットするために様々方法が提示される。ヨガとか演劇を通じたロールプレイとか。あるいはEMDR(眼球運動を利用した方法)を命綱にトラウマダイブして自分で克服する手助けとか、ニューロフィードバックで脳に直接に電気信号を送り障害を調整とか。

もっとも身近にはヨーガとか長距離走なんかが良いように思えた。要するに呼吸。長くて落ち着いた呼吸で自律神経を落ち着かせる。1分間に6回の呼吸。


トラウマ性ストレスにうまく対処するためには、まさに両者の均衡関係を維持・回復することが肝要だと考えられる。そして著者によれば、そうした均衡を維持・回復する手段には、トップダウンの調節方法とボトムアップの調節方法がある。

トップダウンの調節は、監視塔の力を強化するものであり、具体的にはマインドフルネス瞑想やヨガなどがそれに当たる。他方、ボトムアップの調節は、自律神経系の再調整を促すものであり、具体的には呼吸や身体動作、接触などを介して行われる。そして、そうした具体的な調節方法として、先に示したような多種多様な治療法を著者は紹介していくのである。




自分的にヨーガはまだやってないのだけどそのうちやるときように本書でよく紹介されていたこの辺とか読んでみるのも良いかも。



スティーヴン・コープの名著「ヨーガと真の自己の探求」


あとは太極拳とかかなあ。。64式とか。あるいは地味な套路。




「習得への情熱―チェスから武術へ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/442327056.html

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2016年09月28日

「相撲の歴史」




なんでこれ読もうと思ったのか思い出すに「古流相撲の源流の部分に四股やテッポウなどのトレーニングの本来の意味・狙いも見いだせるのではないか?」とおもったからかなあと思うのだけど結果的に当ては外れつつけっこうおもしろかった。


相撲の歴史 (講談社学術文庫) -
相撲の歴史 (講談社学術文庫) -


今思うとこれがアンテナに引っかかったきっかけのエントリでもそういったことは書いてあるな。すくなくとも相撲、あるいは相撲の鍛錬の技術的なことについては触れてない。


新田一郎『相撲の歴史』 - 中国武術雑記帳 by zigzagmax
http://zigzagmax.hatenablog.com/entry/2016/05/23/002304



全体としては明治以降、現在のような近代相撲となる以前の相撲の歴史・源流について歴史学・民族学などの成果を引用・援用しつつ述べたもの。

かんたんにまとめると相撲は最初、平安貴族かなんかの前で奉じる相撲節(会)(すまいのせち)から発展していったぽい。それ以前にも「神に捧げるもの」としての意味合いがあったので貴族が余興として鑑賞するようになったというとこもあるかもだけど。「神前に奉ずる」な流れはその後もずっと神社の前での相撲大会として残っていった。それは現代も残ってて地方のいわゆるアマチュア相撲的なものはそういったものなのだろう。相撲はもともとそういった貴族、あるいは神社で奉ずるものだったのだけど神(社)に奉ずるときは勧進のひとつとして行われていた。勧進自体は日本の企業(カンパニー)的なもののもっとも古い形態ともいえるだろうけど、資本主義的な貨幣経済が発達してなかった時代、「集団でなにかをつくる」←「お金を集める」名目としてもっとも強力だったのが勧進だった。すなわち神社の建築とそのためのお金集め。勧進においては人を集める余興が必要でそのひとつとして相撲が使われていた。その後しばらくして武家なんかがお抱え力士をつくって力士サポートするところもあったようだけど、その時代にも地方での神社前の相撲興行的なものは並行して続いていった。


江戸期は江戸に専門の相撲人・相撲部屋が作られ神社以外の場所でも恒常的な相撲興行が行われるように。そういったプロ力士たちは武家なんかのバックアップも受けていた。江戸期の興行の代表的なものは江戸以外に京都・大阪なんかで、四季の各季節ごとに行われていた。もともとは相撲は地方神社での興行がメインだったけど江戸に専門の部屋ができるようになってその中心は江戸に移っていった。



だいたいの流れはそんな感じで後半は読み飛ばしでいいかなあとおもってたのだけど明治以降の近代化において相撲がどのように生き残っていったかのあたりの叙述がけっこうおもしろかった。相撲の「日本古来の伝統」的なフィクションはこの時代に作られたものらしい。明治政府による「富国強兵にいらない余興は必要ない」に対して。髷なんかも切るように命じられたようだけどこの「伝統」をかかげてなんとか回避したとか。あと天皇への上覧が効いたとかなんとか。そういう形で国に依る「伝統文化」的なバックアップを受けて相撲は生き残っていった。



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2016年08月13日

「男子の貞操」




この辺を見てて読んでみようと思ったのだった。


「風俗」と「射精介助」、どう違うのか?<障害者にとっての<性>と<生>を考える>上野千鶴子/坂爪真吾 - 幻冬舎plus
http://www.gentosha.jp/articles/-/5920

貧困女子の生態を消費するブームに乗っかっている自覚は、おあり?<障害者にとっての<性>と<生>を考える>上野千鶴子/坂爪真吾 - 幻冬舎plus
http://www.gentosha.jp/articles/-/5996



上野さんは元指導教官ということもあり、あるいは彼女の性格とかマッチョ女性的な考え方もあるのでフルボッコ的な言い方をしてるけど。その中でも「男子の貞操」と「性風俗のいびつな現場」はおすすめされてたので。「性風俗のいびつな現場」は次回以降の読書とする。関連で荻上チキさんの「彼女たちの売春」なんかも読んでみても良いかなと文末の関連図書付録を見つつ思った。








「インタビューで興味を持った」以外に、この本を読んでみようと思ったのは男性のセクシャリティみたいなのをきちんと語る、考えるという意味で興味を持ったので。そういうのはこのblogの依然としたテーマの一つであるし。

フェミニズム-女性学みたいなものに対抗して?たてられた男性学みたいな語りがあるのだけどなんかしっくりこない。どうも弱者男性論と接続してみょーにねじれた感じになって。あるいは、フェミニズムを批判しつつもフェミニズムの悪い部分を踏襲したようなポジショントーク的な感じがするので。そういうのに対して、もうちょっとスッキリと自身のセクシャリティとかリアリティを俯瞰できないかなあ、と。「男もつらいよ」的な語りはそれを中立に行った後で良いだろうし。

その意味でこの本は完璧、というわけでもないけど同じような視点とか問題意識にあるのかなあとか。女性なんかが男性のこういうのを知ろうとするときには良いかもしれない。「感じない男」的な男の子の性意識に関する内情語りとして。


森岡正博、2005、「感じない男」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52482268.html





ふたたび「男子の貞操」について。結論からいうとちょっとお利口ちゃんにすぎるかなあという印象だった。自分的には。

大意としては、<男子のセクシャリティ、性に関する欲望なんかはだいたいが現代社会のエロメディアの価値観に汚染されてるので、それをまず相対化し、目の前の『ふつー』の女性との日常行為としてのセックスに戻るべき>、というもの。「エロメディア的な価値観はジャンクフードみたいなもの。ジャンクフードはやめてもっときちんとしたセックスをしよう」「女性との付き合いはその社会、コミュニティにおけるふだんの関係性の結果でありそのボーナスようなものなので焦らなくて良い」とか。後者はたとえばその職場・コミュニティできちんと仕事してて関係ができて尊敬されるようになってくれば付き合いは自然発生する、みたいなの。

まあそりゃそうだよねー、って感じなのだけどジャンクフード食べるのってそんなに悪いことなのかな?ッて感じに。食をめぐる価値観にも通じて、すべてを手作りスローセックス・スローフード的な自然食みたいなのにするのも宗教がかってるというか、まあ手間もかかるし飽きっぽくなる。なのでそういうのも選択の一部として選べればよいかなあって結論。食べ物うんたらと同じく。


阿古真理、2013、「昭和の洋食、平成のカフェ飯」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/424606203.html

遠藤哲夫、2013、「大衆めし 激動の戦後史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425007585.html



んでもまあこういうのも世間一般のエロ、あるいはグラビア的な男性欲望・価値観のステロタイプに汚染されたひとがみるとそういうのが相対化されてよいのかもしれない。


そんなこといいつつ今日もAmazonアンリミテッドでゴミのようなエログラビアザッピングとかするわけだけど?( ・?・)? ?? 。○(まあでもあれもおやすみ前のちょっとした「お楽しみ」があの程度で済むようになって便利っちゃ便利なんだけど(最近は筋トレで疲れさせてさっさと寝ちゃえ、にしつつ
















セックスの哲学 - Wikipedia

セックスの哲学(英: Philosophy of sex)とは、セックスや性愛に関する研究を行う応用哲学の一分野である。売春、レイプ、セクシャルハラスメント、性的アイデンティティー、同意年齢、同性愛のような現象についての倫理学的考察や、「セックスとは何か?」のような問いに対する概念分析が行われている。また、セクシャリティや性的アイデンティティーにまつわる問いや、ジェンダーの存在論的地位についての問題も扱う。現代のセックスの哲学者として代表的な人物には、アラン・ソーブルとジュディス・バトラーがいる。

現代のセックスの哲学は、西洋フェミニズムの影響を受けている場合が多い。フェミニストが問いただしているジェンダー間の差異、性の政治学(ポリティクス)、また性的アイデンティティーの本性といったテーマは、セックスの哲学においても重要な問題となっている。







上野千鶴子、1989、「スカートの下の劇場」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/388711171.html

「恋愛とセックスの経済学」 / 「家父長制と資本制」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/427900360.html

意味―性―愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414101268.html

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2016年08月10日

シン・テッポウ? / 対膝痛トレーニングとしての四股とスクワット


以前にした四股・テッポウエントリの続き的なものとして


四股やら腰割りやらとウォーキングやらランニングやらについて: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/437377800.html


テッポウと膝関連で進捗?あったので経過報告的に。



テッポウについてなんとなく最近わかるような感じになってきた。「わかる」っていうかこれが正しいのかわからないけど効果として実感できる感じ。

ポイントとしては単純でテッポウの開始位置のときの壁に手を当ててるとき、掌をできるだけ壁面から離し、人差し指の付け根辺りだけで体重を支えるようにする、「付け根あたりだけで」っていっても壁面を使った斜め腕立てみたいな体勢になってるから足でも体重を支えてるんだけど、感覚としては「指付け根だけで」って感じ。指の付け根で相手を喉輪してるような。壁面についた指と指の付け根の角度が90度になるように。

ここから「落とす」ように始動することでぜんぜん効果が変わる感じ。全体重が確実にかかってる感じでウッと声が出る。寸勁とかと似た感じの理合いなのだろうか?この荷重を肩甲骨剥がしに利用する。


肩甲骨はがしストレッチ 首、肩、腰の痛み、体の不調が消える! -
肩甲骨はがしストレッチ 首、肩、腰の痛み、体の不調が消える! -

肩甲骨剥がしはよくわかってなかったけど要するに「肩甲骨というのは鎖骨だけでジョイントされてるものだけどほうったらかしにしてると肉に埋まって機能しなくなってる(ので肉から剥がして可動域を広げる)」というもの。

「鎖骨だけでジョイントされてる」というのを解剖図的なので見せられ意識するようになるとテッポウで荷重をかけるときにもどこまでやって良い / やるべきかがイメージされていい感じになった。





膝関連は四股とかスクワットで。




以前のエントリにも書いたかもだけど膝を痛めているので四股に期待してるのは炒めてる膝でもできるような足に負担をかけない筋トレあるいはストレッチということで、じっさい四股を意識してするようになって膝の調子がよくなっていた。でもその理由がよくわからなかったのだけど、今回Amazonアンリミテッド経由などで膝痛に関する本をブラウズしてみて膝痛の原理みたいなのを理解し、四股踏んでるとなぜ膝痛が緩和したのか?も理解できた。



膝、復活: 立つ、座る、歩く、人生の晩年は、膝で決まる (片寄斗史子聞き書きシリーズ―100歳までいきいき生きる国民医のアドバイス) -
膝、復活: 立つ、座る、歩く、人生の晩年は、膝で決まる (片寄斗史子聞き書きシリーズ―100歳までいきいき生きる国民医のアドバイス) -


ひざの激痛を一気に治す自力療法No.1 (軟骨が再生する脅威の運動大判ポスター付き!) -
ひざの激痛を一気に治す自力療法No.1 (軟骨が再生する脅威の運動大判ポスター付き!) -



膝痛にも色いろあるのだけど要するに大腿骨と脛骨が直接にこすれて神経が刺激されるのが膝痛で、大腿骨と脛骨のあいだのクッションがなくなっていくのが原因。高齢化にともなって生じるのはそういうのだけど、自分の場合は故障で生じた。たぶん膝の内側靭帯か半月板が損傷してる。O脚だとこの辺を損傷しやすいらしい(日本人の大部分はO脚)。なので、この部分を再生、あるいはなにかクッションを入れる必要があるのだけど、膝痛系でよくみる「膝を伸ばすようにしなさい」というのはここに潤滑液をためるためなのだそうな。そうすると車なんかにおけるハイドロうんたら現象と同じ感じで潤滑液がクッションになる。あるいは潤滑液自体に軟骨なんかの再生作用があるらしい。スポーツをして膝を傷めた人で「膝に水が貯まる」とかいうのもこれのことらしく、危機察知した身体の過剰反応として潤滑液を出しすぎて「水が貯まる」ということになるらしい。なのでそれ系のひとたちは水抜きとかする必要があるのだろうけど、そこまでいってない場合はふだんから膝抜き / 伸ばしをして潤滑液をためたほうがいいみたい。


名医が図解! 腰痛・膝の痛みは解消できる! (3) 膝の痛みの原因と対策 impress QuickBooks -
名医が図解! 腰痛・膝の痛みは解消できる! (3) 膝の痛みの原因と対策 impress QuickBooks -



やり方としては簡単で、いちばん簡単な座ったままできるものとしては膝振り子運動というのが紹介されていた。まあ座った状態で足をブラブラさせるのを50回ずつ3セットぐらい繰り返すというものだけど。自分的にはこういう構造を理解したうえで四股とヒンズースクワットを日課とすることにした。


膝痛の対策のもう一つのものとして「膝周りを補強するような筋肉を強化する」といわれるのだけど大腿四頭筋が膝の最強の装具なのだそうな。大腿四頭筋、つまり太もものアウターマッスル部分全般。

四股なんかだとインナーマッスル意識だったけど今後はこの辺も意識してやっていく。具体的には振り上げ足のつま先をすね側に縮ませることで大腿四頭筋に効かす。これも膝振り上げ運動の一環として紹介されていた。その際、かかと親指をきちんと意識して使う。O脚なんかの悪いところは脛の構造的に足の外側に体重をかけがちになってしまうことで、歩くときにもきちんとかかとで着地し親指で蹴りだすようにしたほうがよいのだそうな。ここに体重が一直線に乗るように意識して。そいやちょっと一休みの時に足を交差させて立つ楽だったりするけど、あれもO脚だからなのだろう。両足の外側に体重をかけやすいので自然とそういう体勢をとってやすみやすいようにしてる。そういう体制をとってる人がいたらO脚ということなのだろう。




ヒンズースクワットはただしくやるとこういうのに効果するらしくやり終わった後に膝が抜けてる / 伸ばされた感じがする。体重を落とすときに膝に負担がかかり過ぎないか心配だったけど正しくやるときには前に伸ばした腕によってバランスをとるため膝への荷重にはならないぽい。体重を落とすときにはできるだけ後ろに、膝に負担がかからないように意識してかかとに落とす。なんだったらつま先が浮くぐらいでやってる。





全体としては大腿四頭筋に効く。ストレッチ的には膝を伸ばし、筋トレとしては大腿四頭筋に効く。





あとはカーフレイズなんかで鍛えにくい脛・ふくらはぎを。フィニッシュの時にかかとが下がるぐらいの段差があるとこでやるのが良いと見たのでそういう感じでやってるけど足裏に痛いのでマット敷いてやってる。



全体的にストレッチ重視できちんと伸ばしたあとに筋トレ的な感じ





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2016年08月09日

シンゴジラが壊したものはなんだったのだろうか?




シンゴジラについて。もうちょっと評論めいたことを書きたい(思考したい)、あるいはそういったものを読みたいとおもっていたところでこのエントリで刺激されてなんか書きたいと思ったのだった。

希望の時代の中で―『シン・ゴジラ』雑感 ≪ SOUL for SALE
http://blog.szk.cc/2016/08/01/in-the-hope-age/


書き方は異なるけど似たようなことを思ったのだろう。つまり、「ゴジラというものは何の象徴だったか?」そして「それは現代でも通用するものなのか?」


「ゴジラってなに?」というとビキニ環礁の核実験から生まれた怪獣で、文明の負の遺産でありシステムに対する怒りであるってかんじなのだけど、それがリアリティをもったのはそういったシステムが戦後のカタストロフの中から立ち上がり構築されていった時代だったのだろう。

最初に構築されたシステムなのでスマートでもなくさまざまな問題を抱えつつ乱暴で暴力的で、それがゆえに市民の生活の方に問題が溢れていった。公害問題とか。

なので初期のゴジラは具体的には公害の象徴的なものだったともいえる。まあシステムの圧力によって生まれた問題の代表的なものが公害だったのだろうからそれだけがゴジラ的なものに代表・象徴されていたわけではないだろうけど。

この時代の人々がゴジラ的なものにマンゾクした背景にはそういったものがあったのだろう。逆らってはいけないオカミ的なシステムに暴力的にNOをつきつけていく存在。力道山と白人レスラーの関係にも同じ。

ただ、彼らがそういったイデオロギー的な理由から作品を鑑賞し満足していたかというと単に目に映る怪獣の光景が新鮮でおもしろかったからというのもあったかもしれない。プロレスも当時は斬新で刺激的な暴力ショーだったのだろうし。

ゴジラのリアリティの初期というのはそういったものだったのだろう。未だ怪獣のリアリティが通じていた時代。

そういったリアリティ、未だ消費財的なものが新鮮で、コンテンツ的にも新鮮なものがあふれていて、未だ見ぬ未来の発展をいずれ来るものとして信じられていた時代のリアリティ。初期から中期にゴジラ映画を愉しめていた背景にはそういったリアリティがあったように思う。

しかし、そういったリアリティも必要な耐久消費財が整い、物があふれ、あらゆるものが新規性を失い、退屈でシラケたものになっていった。いわゆる後期近代であり不可能性の時代へ。われわれは未来を信じる可能性を失っていった。

ゴジラ的なもの、あるいは怪獣的なものやSF的なものはそんな感じで、予定調和されシラケきった現在-未来の中で一般の人には受けるはずもない不可能性を抱えている。一部のヲタとかなら別だろうけど一般には「ゴジラなんか怪獣映画きょうみなーい」というのがふつーの反応になる。

ただ、今回の「シンゴジラ」が評判をもって受け入れられたのはそういった怪獣映画の系譜を継ぐものではなく、ゴジラを背景にした人間ドラマだったからだろう。われわれがなかなか見ることのない官庁の専門職の人々の様子。そこには未だ優秀で信じられる人間がいるということにリアリティをともなった希望・胸熱を感じ、あるいは311では到達できなかった未来を垣間見せられたことでカタルシスを感じられた。


(怪獣映画という)不可能性のなかで未来への希望を感じられる可能性が生まれた。


それはかつて楽天的なSFのように望まれた<未来>とは異なった、シビアな現実主義の時代を通り抜けた上でのかすかな<希望>ということだろうけど。ただ、その「希望」も過度のロマンティシズムに基づくものといえる面もある。




ついったでは何度か言ってたけどシンゴジラのストーリーラインというのは自分的にはそんなに斬新でもないのだけどなんかみょーに持ち上げられてるの見るとうーんてなっていた。

庵野秀明・樋口真嗣、2016、「シンゴジラ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/440705100.html


好きだし面白いと思うんだけど稀代の傑作みたいな言い方されてるの見ると。。(まあ人の評価とか印象はそれぞれだから良いのだけど一般論じゃないよねソレってかんじ。ヲタ的な怪獣とかウルトラマンとかの特撮の系譜を踏まえた上でのオマージュ-お約束、と、そのうえでの自衛隊他のヲターマニア心くすぐるアレのあたりはわかるし、内閣府あたりの骨太描写もその一つといえばそうなのかなあと思うのだけど。あれってここ最近人気の「日本はまだまだやれる」系の企業ドラマの描写の仕方のように思える。「下町ロケット」とかそういうのと同じような(或いはソレに属する「龍馬伝」的なのと同じような)。それと311を想わせるものをからませたので思ったよりカタルシス(あったらよかった現実)になって一般的なとこに遡及したのかなあとは思うのだけど。「ALWAYS 三丁目の夕日」がハイパーリアリティ的な昭和ロマンティシズムといわれびみょー感持たれるのと同様、一連の企業ドラマってそういうのの系譜なんだとおもう。




「趣都の誕生」を読んでいると都市の建物というのはその時代、その都市の人々の未来観を反映するものだという。

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ -
趣都の誕生 萌える都市アキハバラ -


「未来」でありその時代環境の欲望や理想を体現したのが都市の建物のデザインということになる。

ただ、オフィスビルの外観というのはある時から時間を止めているらしい。ほとんどはレイクショアドライブ・アパートメント様式になってる。看板方式でシュッとした長方形のガラス張りのビル。ルードヴィッヒ・ミース-ファンデルローエのデザインなのだそうな。団地に共通するデザイン(ユニテ・ダビタシオン)の元はル・コルビュジエだとか。




そういったビル、都市計画というのは官の主導であったが、だんだんと民も加わっていった。いわゆる森ビルとか、あるいは渋谷や池袋への西武の出資とデザインとか。都市デザインの官から民への時代。

アキハバラはそういった都市ビルのデザインの進歩を無視し、そんなに魅力のないビルに個々人の趣味としての垂れ幕がテンプレされていった。その意味で都市デザインは官→民の時代を経て「個」の時代になったとか。まあそれはデザインされたものではなくデザインを放棄した場にバラバラの趣味が表出され趣味と趣味がリンクされたという程度なのだろうけど。

シンゴジラの終盤、ゴジラを囲んでいた高層ビルは未だ建てられていない建物なのだそうな。それをCGでつくりだし破壊しゴジラに浴びせかけた。そのゴジラもまたCGでつくられたものだった。

そのことを象徴的に読みとると、われわれはもはや現実へのリアリティを失い、あるいはCGのなかでに期待される先取りされた未来をさえなんだったら破壊して差し支えないほどの決断力を有したといえる。それをモッタイナイと躊躇するのではなく、その期待に思考停止するのではなく。

かつてゴジラやモスラが壊したもの、あるいは壊そうとしたものはその時代のシステムであり未来の象徴だったはずだけれど、シンゴジラでゴジラがが壊したものはなんだったのだろうか?

未来、ではあるけれどけっしてゴジラなどの虚構の存在を通してしか破壊できないようなシステムと直結した構築物としての未来、ではない、なんだったらわれわれの決断によって破壊し修正できる未来。

それは「ゴジラが壊した」、のではなく、「われわれが壊した」のだった。

そして、

だからこそわれわれが建てなおしていける      
                    











                       のかもしれない





















8月6日  /  意味のテンプレ|m_um_u|note
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2016年05月21日

漂白される社会





漂白される社会 -
漂白される社会 -





読み始めたばっかのときに「とりあえず共感するところ / 自分の問題意識的に重なるところがあったのでその引用をメインとしてメモ的にエントリしとこう」と思ってつくっておいた草稿。

もう読み終わったのでなんか付け足してエントリにしても良いのだけど、これはこれでこのままで良いのでメモ的に置いとこう。なんかいいたいときにここからの関連でなんかいったり言わなかったりするかもだし。




社会のいたる所で「周縁的な存在」から何らかの偏りや猥雑さ、すなわち「色」が取り除かれ、「周縁的な存在」にとっても、その外部にとっても「自由」で「平和」な状況ができつつあること。また、それに支えられた「豊かさ」が、ある種の均衡状態を構築し、多くの人々を「幸せ」にしていること。

そして、その「幸せ」こそが、人々を不安、不信、さらには「不幸」へと追い落としもするということを―。


その構造に気づき、これまで見てきた対象を再度振り返った時、それらに共通する社会のあり様をまとめるためには、「漂白」という言葉しかないと考えるようになった。

原発は、かつて30年で潰されるはずであったにもかかわらず、40年を超えてもなお稼働されることになり、多大なリスクを抱えている。また、スカウト行為への規制が強化される歌舞伎町の路上で生き抜くスカウトマンは、悩みを抱えて占い師のもとを訪れる女性客の存在に目を付け、彼女たちを風俗店に斡旋していった。原発や歌舞伎町、そして本書に掲載した様々な対象は、「漂白」された「周縁的な存在」という一つの軸でつながりあっている。


これらは全て、自らがそのリスクにさらされない限り「見て見ぬふり」をできてしまう。「漂白」された「周縁的な存在」が、社会の表面にせり出してくることはないからだ。





「彼ら」は「周縁的な」存在や出来事を「見て見ぬふり」する



「もう終わる、すぐ終わる」「あれはダメだ、それを潰せ」「変わる、変えなければ」と、社会の中で相対的に目立ってしまった「ネガティブな何か」を探し出しては、そこを回転の軸にしながら、社会はいまだかつてないほど大きく、思いの他活発に動いているように感じられる。それは、「ネガティブな何か」が大きければ大きいほどなおさらのこと。

こうして、浅はかな「希望」が生まれては崩れてを繰り返し、それを取り囲んで起こる「祝祭」が非日常を演出する。その時々に選ばれた「敵」の象徴と、それなしには支えられない「友」の象徴が社会を浮遊し、人々の想像は暴走する。そして、非日常への熱狂の後には、退屈な日常が舞い戻り、以前と変わることのない日々は続いていく。


現代が、例えばかつてのように「暴利をむさぼる資本家」「民衆を抑圧する権力者」「克服すべき貧困・差別・暴力」という「絶対的な巨悪」を想定できる時代ではなくなったとするならば、それは、「闇の中の社会」だと言える。なぜならば、「絶対的な巨悪」があってこそ、それを打ち破り、困難を乗り越えた先に、眩いばかりの光の存在を感じることができるからだ。

そして、その光を目指す高揚感のなかで、社会は一つの秩序をもって営まれてもきた。現代とは、その秩序が失われた社会だとも言えよう。




光の存在をどこにも感じることができない、闇の中にある時代がもたらす不安は、人々をある種、宗教的な社会現象へと再編する。単純でわかりやすい言葉・経典(答え)を求めては、「これを信じろ」と社会は凝縮し、価値観の異なる「異教徒」を(でっち上げてでも)探しだしては叩き潰す。そして、「あいつらはおかしい、とんでもない」、あるいは「こちらを信じれば救われる。さもなければ、もはや……」と、「陰謀論」や「終末論」の発生にドライブがかかり、そこに浸ることで、生きる意味と充実感を得る者が現れる。



「彼ら」は「単純でわかりやすい言葉・経典を求めて」は「価値観の異なる異教徒を探しだしては叩き潰」す。水素水やホメオパシーやアベシンゾーや。そして、その場その場のわかりやすい規範に従う。


今、求められているのは、安心できる象徴を闇の中にでっち上げたり、ありもしない光を無理矢理に想像することではない。先行きを見通せない閉塞感のなかで立ち止まった時に、そこに芽生える現実が示す、その恐怖感から逃れてはならない。

目を凝らしながら、闇を闇として見つめ、少しずつでも歩みを進める。手の届く範囲にあるものに軽率に飛びつくことをやめ、複雑なものを短絡的に単純化すべきではない。ろくに手足を使っていないにもかかわらず、わかりやすい答えが見つかりそうになったとしたら、それは先入観や偏見でしかないと拒絶すべきだ。

丹念な作業の末に、闇の中にも目が慣れてくると、巨大に感じていた「見えない化け物」が、たとえ自らの手で扱えるものでなかったとしても、自分と同じような「何か」であることにも気づくはずだ。





それは端的には言えば「快との接続可能性が高度化した社会」であるとともに、「不快との共存が許容されなくなった社会」でもある。

ITの発展のみならず、政治・経済を含めて様々な要因が絡みあいつつも、確実に人もカネもモノも流動化するなかで、これまで存在してきた価値ヒエラルキーは崩壊し、独立的(=閉鎖的)な集団群が形成され、その背景にある歴史的な連続性は断ち切られた。そして、一方で、これまではそれぞれの「ムラの論理」(同一性)の中で生き、「他のムラの論理」(他者)と出合わずにも済んできた人々も、かつてとは違って他者と"出合ってしまう”状況が進み、他方で、これまで「ムラの論理」から逸脱したものを規律・訓練してムラに組み込み直してきたメカニズムが、「別々のムラの論理を持つ者同士」の共生(多様性)を高度化した資本や技術によって管理・統制するメカニズムに代替されつつもある。


その前提のなかで、人々は「葛藤し合わない」形でのみ社会的に包摂され、「葛藤し合う」もの、すなわち「あってはならぬもの」は社会から排除・固定化、もしくは不可視化される。

ここで述べるような包摂(inclusion) / 排除(exclusion)という枠組みは、ジャック・ヤングの議論を踏まえてなされている。あまりにも大雑把なまとめになってしまう(それぞれの概念を精査し、詳細は稿を改めて検討したいと考えている)が、ヤングは、社会から逸脱するものを社会に同化し安定性を求めていく包摂型社会が、後期近代(1960年代後半以降)には、個人主義や多様性を重視する価値観が広まるなかで、社会から逸脱するものを排除する「排除型社会」へと移行していったとする。

そして、排除する側・される側の消費や労働に関する価値観が近づき、その境界線が曖昧化することで(文化的)包摂と(構造的)排除が同時に起こる「過剰包摂(bulimia = 過食症)」(例えば、一部の者が特権を享受しているにもかかわらず、不平等や格差が見過ごされるような状況が起こることなどを示す)が起こっているとも言う。それらは、ここまで見てきた「固定化」や「不可視化」を起こす要因の一つとして踏まえるべきだ。

ここまで述べてきた「あってはならぬもの」とは、「共存が許されなくなった、不快に思われるもの」だった。「あってはならぬもの」がなくなれば、確かに快適で、便利で、安全な生活が訪れるようにも思えるのかもしれない。そして実際に、社会はそうなってきているようにも思える。

しかし、起こっている事態は"それだけ”なのだろうか。








戦後社会において、セーフティネットとは、「教育」や「社会福祉」のような法制度として政治的に用意されるものだったのかもしれない。しかし、現代日本に生まれつつあるのは、市場メカニズムが用意する、セーフティネットとは認識されにくい「グレーなセーフティネット」であり、それが住居や職探し、心の安住につながる人間関係を用意し(第三章)、あるいは、社会的に排除され、いわゆる「包摂策」として提示されているオプションからも排除される者を、戦後育まれてきた行政・制度に接続することも行う(第四章)。終身雇用・年功序列の社会で、幸せな家族でマイホームに住むことは、限られた者にとっての選択肢としてしか存在しない。

無論、社会的排除に対する社会的関心それ自体が失われているわけではない。むしろ、その時々に喧伝される「絶対的な聖域」をめぐって大きな議論がわき起こり、また、政治や行政はある方針を打ち立て、「快適・便利・安全」な社会につながるかのような「正論」の側にポジションをとった者が、その中で優位性を確保することにも似た状況ができる。

しかし、実際はむしろ「叩いていいもの」となった、その「絶対的な聖域」の「理解できない」こと・ものの内実には誰も触れないが故に、本来そこに存在した「あってはならぬもの」が抱える「改善されるべきこと」は、改善されるどころか、むしろ関心の対象として排除・固定化され、より不可視化される(第五章)。

そして、不可視化された「あってはならぬもの」は、二つの方向に進みながら生きながらえる。一つは、以前からあった人間同士のつながりと情報技術が相まった新たな対応システムで、性や規範の網をくぐり抜ける方向だ。対応システムに対する規制要因は常に生まれるが、その規制を常に乗り越える形で新陳代謝が起こる。

もう一つは、あらゆる経済的資源が縮小するなかで、これまで偏って存在していた顧客や利害関係者をより拡げる方向だ。様々な「障壁を下げる方策」によって「普通の人」を取り込みながら、「あってはならぬもの」は維持される(第六章・第七章)。

ただ、それは「ソフトランディング」である。より具体的な形で社会に対抗的に存在してきた「あってはならぬもの」、つまり、より「生々しい暴力性」を示してきたものは、明確かつ短期間のうちに崩壊を迎えているからだ。

「豊かさ」が達成された結果、それは政治・経済・行政・法・メディアなど様々な社会を構成するシステムから排除され、今では消え入りそうになっている。その内部にわずかに残る資源が、そこに生きてきた人々の最低限の生活を維持させる「包摂」機能を持つように見えることもあるが、もはや持続しえないようにも見える。生きながらえるのは、「生々しい暴力性」の牙を抜かれ、器用にも市場で一定のポジションを確保した一部の「強者」のみになる。

しかし、その「強者」とは、「快適・便利・安全」な「正論」のプラットフォームの上でのみ存在する「強者」に過ぎない。不可視化されてきた「あってはならぬもの」は、社会の変動要因となるという意味において無効化されてもきた(第八章・第九章)。

何かに熱狂しては溜飲を下げてを繰り返すなかで、変動しない社会、「快適・便利・安全」な社会は、強者のみで成立する社会でもない。当然、その快適さを下支えするシステムもまた形成される。






「信頼」が揺らぐなかで、「安心・安全を望む気持ち」が社会に存在し、時に増大することは確かだが、現実的にはもはや「客観的な安全」を社会に見出すことは、科学者にとっても、そうではない一般の人々にとっても難しい。「安心・安全を望む気持ち」が満たされないところには「不安」や「不信」が生まれる。両者は本来、「安全」や「信頼」の回復によって満たされ得るが、それもまた困難な状況にある。

そのような状況下において、「安心・安全を望む気持ち」、より正確に言えば「主観的な安心」は宙吊りにされ、絶えず人々の心の中に「不安」や「不信」を生み続ける。しかし、その情念は、回復が困難な状況にある「信頼」や、その前提の一つである「安全」に向かわず、また向かったとしても満たされず、彷徨うことになる。

その結果、ただアディクショナルに「自由のようなもの」や「平和のようなもの」は、その時々で偶発的に選択される。その選択の条件はすでに述べた「多数の人々」にとって選択し得るものであるかどうか、という点だけだ。そして、その原因であると同時にその結果として、時に「リスク」は「周縁的な存在」に分配され、それを排除・固定化・不可視化する。

不安と不信に基づいた無意識的な不快の中で、そこから逃れることを目指す力がアディクショナルに「自由」と「平和」を求め、「自由」で「平和」な社会が用意され……という循環が社会を構築していく。現代社会とはそんな社会であるらしい。







以下はこの本の元となった連載(一番下の方に一覧がある)と

第1回取り残された「売春島」に浮かぶもの 現代社会のリアリティ|開沼博 闇の中の社会学 「あってはならぬもの」が漂白される時代に|ダイヤモンド・オンライン http://diamond.jp/articles/-/19501


スピンアウトの対談


対談 漂白される社会 http://diamond.jp/category/s-hyouhakushakai

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2016年05月06日

石牟礼道子、『苦海浄土』



「苦海浄土」を読んでなんかいろいろうわぁ、、てなったのだけど感想にまとめにくく、じゃあこれはエントリするのでもなく自分の中に留めて流してしまおうと思ったのだけど「引用としてなら留めておいてしばらくしてまた見ても良いのかもしれない」と思い直した。


新装版 苦海浄土 (講談社文庫) -
新装版 苦海浄土 (講談社文庫) -
苦海浄土 わが水俣病 (講談社文庫) -
苦海浄土 わが水俣病 (講談社文庫) -


なので以下はだいたいが本書からの引用となる。それ以前にnoteに感想的な断片は載せていたのでこちらにもいちお載せておく。


「苦海浄土」ひとくぎり / 藤棚の季節の終わる前に|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n330f1adc07e7

早めに帰ったので風呂って読んでいた「苦海浄土」にまたズッポリとやられる。奥歯を噛み締めたくなるような悔しさと、涙が出そうになるような気持ちをぢっと耐えつつ、その静謐な怒りや悲しみ、諦観のような文体に身を任せる。聴いてるプレイリストが Jeremy Summerly のミサ曲なせいもあるのだろうけど。受難とか救いとか。


読み終わったり、あるいはぜんぶ読む前でも一区切りことになんかいいたい気持ちになるのだけど、これを生なかな言葉で感想するのもどうかなとおもったり。あるいは、批評的な視点や言葉で斜めに見るのも違和感がある。

単に味わい、自らのなかに沈殿させていけば良いのかもしれない。貧乏臭くいちいちアウトプットしなくても。特に「伝えなきゃ」でもなくこれほどの本なら知ってるひとは知ってるのだろうし、知らない人・関心がない人はそのままだろう。

全体的にヒロシマの被爆体験の話をみるような懐かしい温度、空気感がある。

外部から見るとフィクションにおもえるような想像を絶する悲惨。そういう言葉でさえ通り一遍等の形式的なもの、上っ面なものに思えてしまうような。そういう重い事実と生と死。

だからなかなか言葉に表しにくい。

フィクションに思えるといえばこの本自体がフィクション、SFにおもえるような構成もしている。「アルジャーノンに花束を」の「けーかほうこく(経過報告)」を想わせるような水俣病に関する医学的な、あるいは裁判資料的な記述。それが各被害者・罹患者のひとりがたり的な語りのルポルタージュの間にモンタージュされる。

ちょうど写真における白黒モノトーンとカラーの使い分けのように。その2つが交じり合い、別々の文体・語り方で表されていることでメリハリとなったリズムを生み出している。彼らの生が生きながらにして神話となっているような。あるいは、もうすでにそこにない生を慈しみ、惜しむかのようなまなざしや感情が全体を覆っている。




そのぶん、明日の昼には晴れるだろう|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n3cf60b636e21

「苦海浄土」についてまとめ的な感想とか批評めいたことは書きたくないなあとおもったのだけど、自分的に印象に残ったことばたちを留めるためにエントリしてもいいかもなあ、とか。引用メインで。
あとがきをみていたら、「あれはじつはルポルタージュではなく石牟礼さんのフィクションなのです。全面フィクションというか、彼女がインタビューした人の様子から紡ぎだした『この人ならこう言うだろう』というもの」、みたいなのを見てやっぱりなあと思う。やっぱりなあ、ていうかルポルタージュとしては受け止めていたのだけど、出来過ぎててフィクションというか、構成的にSFみたいだ、とかおもった部分がこのへんだったのかなあ、とか。

「石牟礼道子はこういったことばたちの巫女なのです。語りえぬ人々の、声にならない声の巫女なのです」

そういうのをみて自分もそういうのあるなあ / 感心されたなあそういや、とか。あと、特に知りもしない人のふところに潜り込んで話し聞くのもけっこう得意だったり。まあそれも合う合わないはあるのだけど、いわゆるとっつきにくく滅菌殺菌された東京都会人みたいな人じゃなければけっこうお話したりする。まあ話し聞いておもしろそうだったらだけど。

「断片的なものの社会学」とかみてても思うのだけど、こういうの自分もできるのかもなあ、とかなんとなく。

まあなにもないところでふだんからそれをやるのはちょっとハードル高いのだけど、ネタとしてみたいなインセンティブがあればそれなりにおもしろいのかもしれない。






以下は「苦海浄土」からの引用




潮の満ち干とともに秋がすぎる、冬がすぎる、春がくる。

そのような春の夜の夢に、菜の花の首にもやえる小舟かな、などという句をものして目がさめると、うつつの海の朝凪が、靄の中から展けてくるのだ。

そして「春一番!」という名の突風が一夜吹き荒れる。船の碇をひきちぎってゆくほどの風である。そのような風が来てしまえば、菜の花の朝凪とこもごもに、東風が吹き起こる。春の漁は不安定だ。だから、春は祭りや嫁取りの時期だ。ひとびとは忙しい。

水俣川川口の八幡様の舟津部落、丸島魚市場、二子島梅戸港、明神ケ鼻、恋路島、まてがた、月ノ浦、湯堂、筏道、磯ぞいの道をつないで歩けば海にむけて、前庭をひらいた家のどこかの縁に腰かけて、男たちが随時な小宴を張っている。理由は何でもいいのだ。雨憩(よけ)、風憩、日中憩、船底を焼いた後の憩、その他片っぱしに思いついただれやみ(疲れなおしの酒)を、二、三杯やれさえすれば、通りかかったものは呼びこまれる。

― おる家(が)の前を素通りする法があるか。挨拶に呑んでゆけ。

男たちは湯呑み茶碗をつきつけ、通行者が外来者で若くて焼酎にむせたりすれば目を細める。けろりと飲み干せばたちまち身内になれるのだ。そのような縁先に女房たちがいて、女客であれば、どっぷりとキザラや白砂糖を入れたシロップ様の番茶の馳走ににあずかるのである。砂糖は家々にホクソに(ふんだんに)使うほどあり余っているわけでもない。子どもたちが砂糖を盗みこぼしたりしているのをみつけると、女たちは大声をあげて追いかけまわす。

不知火海を漁師たちは"わが庭”と呼ぶ。だからここに、天草の石工の村に生まれて天草を出て、腕ききの石工になったものの、"庭”のヘリに家を建て、家の縁側から釣り糸を垂れて、朝夕のだれやみ用の魚を採ることを一生の念願として、念願かなって明神ケ鼻の"庭”のヘリに家を建て、朝夕縁先から釣り糸を垂らしていて、初期発病患者となって死亡した男がいても、庭に有機水銀があるかぎり不思議ではなかった。





ひととき、トラックの列が途絶え、小暗くかげった道の向こうはしに、雌雄判じがたい銀杏の古樹が、やはり根本からその幹にいつからこびりついたともわからぬ泥をべったりかさねて立っていた。

悠々とともってゆくような南国の冬の、暮れかけた空に枝をさし交わし、それなりに銀杏の古樹は美しかった。枝の間の空はあまりに美しく、私はくらくらとしてみていた。

突然、戚(せき)夫人の姿を、あの、古代中国の呂太后の、戚夫人につくした所業の経緯を、私は想い出した。手足を斬りおとし、眼球をくりぬき、耳をそぎとり、オシになる薬を飲ませ、人間豚と名付けて便壺にとじこめ、ついには息の根をとめられた、という戚夫人の姿を。

水俣病の死者たちの大部分が、紀元前三世紀末の漢の、まるで戚夫人が受けたと同じ経緯をたどって、いわれなき非業の死を遂げ、生き残っているではないか。呂太后をもひとつの人格として人間の歴史が記録しているならば、僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえねばならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうか知れぬが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。




わたくしが昭和二十八年末に発生した水俣病事件に悶々たる関心とちいさな使命感を持ち、これを直視し、記録しなければならぬという盲目的な衝動にかられて水俣市立病院水俣病特別病棟を訪れた昭和三十四年五月まで、新日窒水俣肥料株式会社は、このような人びとの病棟をまだ一度も(このあと四十年四月まで)見舞ってなどいなかった。この企業体のもっとも重層的なネガチーブな薄気味悪い部分は"ある種の有機水銀”という形となって、患者たちの"小脳顆粒細胞”や"大脳皮質”の中にはなれがたく密着し、これを"脱落”させたり"消失”させたりして、つまり人びとの死や生まれもつかぬ不具の媒体となっているにしても、それは決して人びとの正面からあらわれたのではなかった。それは人びとのもっとも心を許している日常的な日々の生活の中に、ボラ釣りや、晴れた海のタコ釣りや夜光虫のゆれる夜ぶりのあいまにびっしりと潜んでいて、人びとの食物、聖なる魚たちとともに人びとの体内深く潜り入ってしまったのだった。



安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。

このとき釜鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄この世にとどまり、決して安らかになど往生しきれぬまなざしであったのである。

そのときまでわたくしは水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい一主婦であり、安南、ジャワや唐、天竺をおもう詩を天にむけてつぶやき、同じ天にむけて泡を吹いてあそぶちいさなちいさな蟹たちを相手に、不知火海の干潟を眺め暮らしていれば、いささか気が重いが、この国の女性年齢に従い七、八十年の生涯を終わることができるであろうと考えていた。

この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日からわたくしの中に移り住んだ。




うちのような、こんなふうな痙攣にかかったもんのことを、昔は、オコリどんちいいよったばい。昔のオコリどんさえも、うちのようには、こげんしたふうにゃふるえよらんだったよ。

うちは情なか。箸も握れん、茶碗もかかえられん、口もがくがく震えのくる。付添いさんが食べさしてくれらす、そりゃ大ごとばい、三度三度のことに、せっかく口に入れてもらうても飯粒は飛び出す。汁はこぼす。気の毒で気の毒で、どうせ味もわからんものを、お米さまをこぼして、もったいのうてならん。三度は一度にしてもよかばい。遊んどって食わしてもらうとじゃもね。

いやあ、おかしかなあ、おもえばおかしゅうしてたまらん。うちゃこの前えらい発明ばして。あんた、人間も這うて食わるっとばい。四つん這いで。

あのな、うちゃこの前、おつゆば一人で吸うてみた。うちがあんまりこぼすもんじゃけん、付添いさんのあきらめて出ていかしたから、ひょくっとおもいついて、それからきょろきょろみまわして、やっぱり恥ずかしかもんだけん。それからこうして手ばついて、尻ばほっ立てて、這うて。口ば茶碗にもっていった。手ば使わんで口を持っていって吸えば、ちっとは食べられたばい。おかしゅうもあり、うれしゅうもあり、あさましかなあ。扉閉めてもらうて今から先、這うて食おうか。あっはっはっは。おかしゅうしてのさん。人間の知恵ちゅうもんはおかしなもん。せっぱつまれば、どういうことも考え出す。

うちは大学病院に入れられとる頃は気ちがいになっとったげな。ほんとに気ちがいになっとったかも知れん。あんときのこと、おもえばおかしか。大学病院の庭にふとか防火用水の堀のありよったもんな。うちゃひと晩その中につかっとったことのあるとばい。どげん気色のしよったじゃろ、なんさまかなしゅうして世の中のがたがたこわれてゆくごたるけん、じっとしてしゃがんどった。朝になってうちがきょろっとしてそげんして水の中につかっとるもんやけん、一統づれ(みんな揃って)、たまがって騒動じゃったばい。あげんことはおかしかなあ。どげんふうな気色じゃろ。なんさま今考ゆれば寒か晩じゃった。

うちゃ入院しとるとき、流産させられしたっばい。あんときのこともおかしか。

なんさま外はもう暗うなっとるようじゃった。お膳に、魚の一匹ついてきとったもん。うちゃそんとき流産させなはった後じゃったけん、ひょくっとその魚が、赤子(やや)が死んで還ってきたとおもうた。頭に血の上るちゅうとじゃろ、ほんにああいうときの気持ちというものはおかしかなあ。

うちゃ赤子は見せらっさんじゃった。あたまに障るちゅうて。

うちは三度嫁入りしたが、ムコ殿の運も、子運も悪うて、生んでは死なせ、今度も奇病で親の身が大事ちゅうて、生きてもやもや手足のうごくのを機械でこさぎ出さした。申しわけのうして、恥ずかしゅうしてたまらんじゃった。魚ばぼんやり眺めとるうちに、赤子のごつ見ゆる。

早う始末せんば、赤子しゃんがかわいそう。あげんして皿の上にのせられて、うちの血のついとるもんを、かなしかよ。始末してやらにゃ、女ごの恥ばい。

その皿ばとろうと気張るばってん、気張れば痙攣のきつうなるもね。皿と箸がかちかち音たてる。箸が魚ばつつき落とす。ひとりで大騒動の気色じゃった。うちの赤子がお膳の上から逃げてはってく。

ああこっち来んかい、母しゃんがにきさね来え。

そうおもう間もなく、うちゃ痙攣のひどうなってお膳もろともベッドからひっくり返ってしもうた。うちゃそれでもあきらめん。ベッドの下にペタンと坐って見まわすと、魚がベッドの後脚の壁の隅におる。ありゃ魚じゃがね、といっときおもうとったが、また赤子のことを思い出す。すると頭がパアーとして赤子ばつかまゆ、という気になってくる。つかまえようとするが、こういう痙攣をやりよれば、両の手ちゅうもんはなかなか合わさらんもんばい。それがひょこっと合わさってつかまえられた。

逃ぐるまいぞ、いま食うてくるるけん。

うちゃそんとき両手にゃ十本、指のあるということをおもい出して、その十本指でぎゅうぎゅう握りしめて、もうおろたえて、口にぬすくりつけるごとして食うたばい。あんときの魚は、にちゃにちゃ生臭かった。妙なもん、わが好きな魚ば食うとき、赤子ば食うごたる気色で食いよった。奇病のもんは味はわからんが匂いはする。ああいう気色のときが、頭のおかしうなっとるときやな。かなしかよ。指ばひろげて見ているときは。





あねさん、この杢のやつこそ仏さんでござす。

こやつは家族のもんに、いっぺんも逆らうちゅうこつがなか、口もひとくちもきけん、めしも自分で食やならん。便所もゆきゃならん。それでも目はみえ、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす。一ぺんくらい、わしどもに逆ろうたり、いやちゅうたり、ひねくれたりしてよかそうなもんじゃが、ただただ、家のもんに心配かけんごと気い使うて、仏さんのごて笑うとりますがな。それじゃなからんば、いかにも悲しかよな眸(め)ば青々させて、わしどもにゃみえんところば、ひとりでいつまっでん見入っとる。これの気持ちがなあ、ひとくちも出しならん。何ば思いよるか、わしゃたまらん。

こりゃ杢、爺やんな、ひさしぶりに焼酎呑うで、ちった酔いくろうた。

杢よい。

こっちいざってけえ、ころんころんち、ころがってけえ。





あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。

これより上の映画のどこにゆけばあろうかい。

寒うもなか、まだ灼け焦げるように暑うもなか夏のはじめの朝の、海の上でござすで、水俣の方も島原の方もまだモヤにつつまれて、そのモヤを七色に押しひろげて陽様(ひいさま)の昇らす。ああよんべはえらい働きをしたが、よかあ気色になってきた。


かかさまよい、こうしてみれば空ちゅうもんは、つくづく広かもんじゃある。

空は唐天竺までにも広がっとるげな。この舟も流されるままにゆけば、南洋までも、ルソンまでも、流されてゆくげなが。唐じゃろと天竺じゃろと流れてゆけばよい。

いまは我が舟一艘の上だけが、極楽世界じゃのい。











といったふうに続けられる対話が、まさか現実の対話の記録であるとは誰も思うまい。これは明らかに、彼女が見たわずかの事実から自由に幻想をふくらませたものである。しかし、それならば、坂上ユキ女の、そして江津野老人の独白は、それとはちがって聞きとりノートにもとづいて再構成されたものなのだろうか。つまり文飾は当然あるにせよ、この二人はいずれもこれに近いような独白を実際彼女は語り聞かせたのであろうか。


以前は私はそうだと考えていた。ところがあることから私はおそるべき事実に気づいた。仮にE家としておくが、その家のことを書いた彼女の短文について私はいくつか質問をした。事実を知りたかったからであるが、例によってあいまいきわまる彼女の答えをつきつめて行くと、そのE家の老婆は彼女が書いているような言葉を語ってはいないということが明らかになった。瞬間的にひらめいた疑惑は私をほとんど驚愕させた。「じゃあ、あなたは『苦海浄土』でも……」。すると彼女はいたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった。しかし、すぐこう言った。「だって、あの人が心のなかで言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」。


この言葉に『苦海浄土』の方法的秘密のすべてが語られている。それにしても何という強烈な自信であろう。誤解のないように願いたいが、私は何も『苦海浄土』が事実にもとづかず、頭の中ででっちあげられた空想的な作品であるだなどといっているのではない。それがどのように膨大な事実のデテイルをふまえて書かれた作品であるかは、一読してみれば明らかである。ただ私は、それが一般に考えられているように、患者たちが実際に語ったことをもとにして、それに文飾なりアクセントなりをほどこして文章化するという、いわゆる聞き書の手法で書かれた作品ではないということを、はっきりしておきたいのにすぎない。本書発刊の直後、彼女は「みんな私の本のことを聞き書だと思ってるのね」と笑っていたが、その時私は彼女の言葉の意味がよくわかっていなかったわけである。

患者の言い表していない思いを言葉として書く資格を持っているというのは、実におそるべき自信である。石牟礼道子巫女説などはこういうところから出て来るのかも知れない。




















関連でいまはこれらを読み進めてる。

石牟礼道子 ---魂の言葉、いのちの海 (KAWADE道の手帖) -
石牟礼道子 ---魂の言葉、いのちの海 (KAWADE道の手帖) -


食べごしらえおままごと (中公文庫) -
食べごしらえおままごと (中公文庫) -


「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか -
「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか -

漂白される社会 -
漂白される社会 -





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2016年04月30日

四股やら腰割りやらとウォーキングやらランニングやらについて




四股は以前から踏んでたのだけど最近やってなかった。膝をいためてるので冬場だと四股でもちょっと痛かったので「ムリすまい」とかおもって。んでもちょっと考えなおして再開した。それで筋トレとしてきちんと日課にしてやることになったところでついったのTLでダイエットとかプロポーションとか気にする女子ずがちょこちょこ「スクワットしなきゃ」みたいなこと言ってるのに「四股しろー」botでちょっかい出してるうちに自分もけっこうお勉強になって、四股ほかのやり方も見なおしたのでちょこちょこnoteに書いていた。「お勉強になった」というのは「知らない相手に伝えるにはそれなりにきっちり伝えないとね」ということで一般人がトレーニングとしてやる場合の四股についての本なんかをちょこちょこ読んで、そこから四股のスポーツ生理学?的な効果とかやり方なんかを見なおして自分のやり方も修正したから。それでnoteなんかにはそれについてちょこちょこ書いてたのだけど今回あらためてこちらに再編集してエントリすることにした。まあ腰割りやテッポウなんかは未熟で自分でも修正してる部分はあるので他人様に大発表というのもどうかなと思うのだけど、まあいいかなーってことで。


直近だとこのへんがいちおのきっかけになる


四股とかテッポウの効用(機構)|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nc9ba6597cf12


このnote自体が四股の初歩についてのとぅぎゃったーみたいになってるのでこっちに飛んで見てもらってもいいのだけど画面遷移もめんどうだろうからいちおその中でも特にポイントと思われる箇所を抜粋すると


やり方としてはこんな感じになる

【夏合宿】四股の踏み方講座!!皆さんもやってみて下さい!|現役力士「普天王」どすこい大相撲日記 Powered by アメブロ
http://ameblo.jp/futenou/entry-10003634881.html


まあ間違ってはないのだけどこれだけだと入り口としてはキツイだろうからこのへんの知見も含めてもうちょっと解説すると


1日1分のシコトレで股関節からカラダが整う! -
1日1分のシコトレで股関節からカラダが整う! -

お相撲さんの“テッポウ”トレーニングでみるみる健康になる (じっぴコンパクト新書 81) -
お相撲さんの“テッポウ”トレーニングでみるみる健康になる (じっぴコンパクト新書 81) -

お相撲さんの“腰割り”トレーニングに隠されたすごい秘密 (じっぴコンパクト新書 053) -
お相撲さんの“腰割り”トレーニングに隠されたすごい秘密 (じっぴコンパクト新書 053) -



腰痛・ひざ痛がみるみるなくなる! 腰割り体操 (ヤエスメディアムック455) -
腰痛・ひざ痛がみるみるなくなる! 腰割り体操 (ヤエスメディアムック455) -



まず「片足だけで立つ」というのが最初の段階だとたいへんでよろめくだろうけど近くになんか支えになるものがあったらそれに捕まったりしていいと思う。よろけたりしたら。てか、このときよろけるのは重心のかけ方、腰の落とし方(スタートポイント)が違ってたりするからだろうけど。

四股は腰割りの次の段階だから本来なら腰割りから説明すべきなのだろうけど簡単には「腰割りの姿勢(中腰)のまま片足ずつに重心を移動して上げる」ということになる。

腰割りの姿勢というのはまた後述するかもだけど、肩幅に足を開いてつま先は外側に向けて、上半身をそのまま落とす運動。足をよく開いたハーフスクワット的なものと思っていい。これをできるだけ身体を落として行う。まあできるだけっていうか股関節に効いてるなあって思うぐらいまで。あまり無理しない程度に。このとき足が外側に向いてることで膝に負担がかかるのだけど、これもこれによって膝に負担がかかりすぎる(痛い)ようだったらあまり無理して外側に向けなくて良い。要は股関節に効かす・股関節を柔軟させるというころがポイントなので。ちなみに股関節というのはこの辺


20120212203257a85.jpg


骨盤と大腿骨をジョイントする辺になる。


感覚的には腰割りとか四股とかでここをポコッとポコッとジョイント部から浮かせて拡張する感じ。腰割り、四股のときには前かがみにならないように注意して上半身をそのまま下に落とす。そうすると腸腰筋やらに効いてくる。まあリンパとかヒップアップとかにも効くのだろうけど。

よろける場合は肩甲骨をぎゅっと真ん中に寄せるようにしてバランスを保つ。あるいは足裏の重心の移動、重心をかけられるポイントをイメージする。

足裏の場合、体重というのは足の外側(足刀部分) → かかと → 親指付け根の順番でバランスされるようで、特に腰割り・四股なんかでよろける場合は足の外側をイメージするとけっこうもったりする。四股なんかで片足立ちになったときも、足の外側がエッジになって思いの外もつ。あと後ろに倒れそうだったらかかととかイメージするとか。親指付け根は足(←地面)から発力するときにイメージされるかな。かかともだけど。


戻ると、四股は腰割りの足のポジション・中腰の姿勢ではじめる。このとき、軸足の股関節に体重をのせることをイメージすれば足は勝手に上がりバランスされる。「足をあげる」のではなく「軸足股関節に体重を載せる」ようにする。そうすると振り子の要領で勝手に足は上がる。それで上がった足・体重を利用して、足を開いた姿勢で股関節で体重をキャッチして股関節を広げていく。あるいは肩甲骨もつかってバランスさせる。肩甲骨は真ん中に絞る。上半身の前傾を制御できる。




内容重複するけど最初のnoteの該当箇所もいちお引用

四股とかテッポウの効用(機構)|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nc9ba6597cf12

要するに、四股の効果、あるいは筋トレ・ストレッチ部位というのは股関節と腸腰筋(太もも付け根外側から臀部にかけての筋肉)でそこから連動して腰部につながる。全体的には深層筋(インナーマッスル)が鍛えられるのはいわずもがな。

意識としては、とくになれないうちは「足をあげる」というほうに行きがちなのだけど、リンク先の解説にもあるように、「足をあげるというつもりでもなく、軸足の方に体重をかけると自然とあがる。ちょうどシーソーのように」、みたいなとこはある。ただ、これも股割りとかできていて可動域が上がってれば自然とそうなりがちなのかもだけど、最初の段階ではむずかしいだろうから上げる方の足の腸腰筋を意識するとあがりやすいしより効果がある感じがした。あとは下ろすときに上げた方の太もも裏あたりに力を感じつつ振り下ろす。断頭台とか鎌みたいな感じで。体重+筋肉の力が加わった重みで股関節をストレッチする。

最近はコーヒーを淹れつつ20回ずつで80回とか、あるいはなにかちょっとした湯で / 煮ものをしつつ50回とかがふつーになった。で、日に200回とか。

解説を見てたらやはり古武術的に身体の基礎に通じるみたいなことが書いてあって、まあ続けとくのは地味に良いだろうなあ、とか。



断頭台みたいな鎌みたいにして下ろす、とか書いちゃったけどおろすときはあまり力いれなくてもいいかも。特に最初のころは。ヘンにグキッとなってあぶないかもだし。足裏とかアキレス腱なんかも痛かったり痛めたりするかもだし。できれば下ろす足はつま先からゆっくり下ろすぐらいで。まあ最初はこれもバランスがうまくとれない(軸足股関節にきちんと体重が乗ってない)かもで大変かもだけど。



スクワットの場合は大腿筋とよくてハムストリング(太もも裏の筋肉)が鍛えられる程度なんだけど腰割り・四股の場合は腸腰筋とか尻裏の筋肉とか、単にアウターマッスルじゃないところが鍛えられる。スクワットの場合、筋トレって感じで太もも太くなっちゃって女性的にはびみょーってのもあるのだろうけど、腰割り・四股の場合はストレッチ的なものがメインなのでそういう意味でも気楽だったりするかも。あとスクワットみたいな筋肉痛・痛めたりしない。回数にもよるだろうけど。

自分は膝を痛めてるのでスクワットの場合はどうしても膝に負担が来て却って痛くなってたりしたのだけど四股だとなんかうまいこといく。却ってよくなってきたり。それはヒザ痛の該当箇所に依ったり、最近ヒザ痛に効くというキューピーコンドロイザー飲んでるせいだったりもするかもだけど。まあとりあえずまた走れるまでになった。


かっぱさん、朝に翼(走る)を取り戻しもりもり食べる、の巻|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n09888b1b0f91



このへんからは四股の話とは別になるので四股の方法とかだけ気になる人は読まなくていいんだけど四股から走るなアレについて。

これは四股なんかの見直しで?膝が回復してきたせいもあるのだけど、四股に関しての元・一の矢関と内田樹さんの対談を見てて「昔の飛脚の走りって体幹(コア)ランニングだったのかなあ」とかおもって実践していってるので。



飛脚の走り方と体幹|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/na7de20538277



ナンバ歩きとか言われてた秘密のアレはどうも「左手と左足が同時に出て」ってことでもなく踏み出す足と同じ側の半身を前の方にひねりこむということらしい。体幹をうまく維持して骨盤を回転させることで半身をねじり込む。つまりテッポウ→すり足と同じだし金哲彦さんがいってるのに近いのだけど。あるいはベアフットランニングとかでいわれてるのと。まあこのへんの「飛脚の走り方の実際」については上記noteでそれなりにまとめたので特に引用せず。部分引用しにくかったし。興味あるひとはリンク先飛んで見てみてもらうと良い。


応用で体幹ウォーキング・ランニングについても簡単に


早朝散歩 / 体幹・肩甲骨・股関節|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n1dc7d4b49421

早朝読書で金哲彦さんの体幹ランニング・ウォーキングをザラッと読む。内容としては金さんが以前から言ってる話をもうちょっと細かくというぐらいで、以前に金さんの本を読んで習熟していた自分的にはすぐに読めて理解できた。
ただ、「肩甲骨を動かしてください」「肩甲骨で身体をひっぱりあげるんです」「羽のようなイメージで」、のあたりがより具体的にわかりやすくなってたように思えた。以前にも説明されてたのかもしれないけど。
具体的には肘を引いて肩甲骨をぐっと真ん中に寄せる感じ。走ってるとき、あるいは歩いてる時はこの引っ張る動きを片側ずつする。そうすると反作用で逆側の身体(半身)が前に出る。
これに加えて股関節を内側に寄せるのを意識しておくとおなじように身体が前に出やすい。とくに足の筋肉を意識しなくても。
あとは骨盤を前傾にしとけば身体がちょっと前傾になってるので勝手に前に進んでいく。

以前にこれを本で読んで実践してた時は肩甲骨で上に引っ張り上げる(地面からのダメージを軽減する)のを意識してるだけだったのでこういうローリングするようなのはできてなかったようにおもう。もちろん股関節のも。

そんなことを思いつつ一本歯でのウォーキングで実践したり、あるいは、日常でちょっと走る場面とかで実践したり。膝を痛めてるのでこういうのをやるとすぐに膝に影響があったのだけどそういうのもない。最近のストレッチが効いてるのかもしれないけど。足に直接にダメージがいってない感じはある。




金哲彦のランニング・メソッド -
金哲彦のランニング・メソッド -

「体幹」ランニング (MouRa) -
「体幹」ランニング (MouRa) -

「体幹」ウォーキング -
「体幹」ウォーキング -



いまはこのnoteのときよりもうまくなって地面を滑るようなかんじになってる。


石花 / 影を追う・影に追われる|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n332e673a0f37

体重のかけ方、姿勢なんかは先日来言ってるのと同じく「地面からのダメージは股関節で受け、足を前に踏み出す、のではなく、軸足から体軸を一本に保つようにして軸足を内側にねじり込んだら自然に反対の足は前に出ている」というもの。水泳と同じで体軸(コア)を一本に保つことが大事で、あとは基幹部分をねじる・回転させれば自然と推進力がつく、というもの。重心(骨盤)は低くして斜めにする。てか、尾てい骨を上げる感じにする。そうすると(体軸が一本に保たれていれば)身体は斜傾するので勝手に推進力が着く。感覚的には骨盤を中心に身体がシーソー(テコ)みたいになっていて、上半身の斜め前の地面への重みで足が浮いていく感じ。テコの原理で。昨日までも調子が良くなるとこの感覚が出ていたけど、今回はより各部位を意識して、理論的にこの感覚が実感できた。いままでも調子がよくなるとこういうのはあったのだけど、各部位ごとに理論的に理解・実践・定着していたわけではなかったのでどう調子をあげてよいのかわからなくなってたりしたのだけど今後は最初からこの姿勢をキープするようにすればこのパフォーマンスが出るということ。

下半身、股関節でキャッチして骨盤(尾てい骨)を回し(あげ)、足を内側にねじり込んでストライドを稼ぐと同時に前に足が出ている。下半身と連動して上半身を一本に保つようにしつつ、だんだん胸の辺りを地面に近づけていくイメージ。上半身を斜め前の地面に放り出すような感じで。放り出された身体は地面を這うように、舐めるように滑っていく。



走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫) -
走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫) -




あとは応用でバイクとか自転車とかゴルフとか

バイクと股関節|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n84eaa2e807ae

股関節と自転車 / 搾取される若者の風景|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n627025b4c4e0

疲労・回転・ゴルフ?・木の芽時|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n68913727866a


バイクのはサスペンションとしての股関節周りが柔軟されると地面からのダメージも吸収しやすいのかな?ってこと。あと姿勢もいろいろ取りやすいかな。

自転車も似たとこあるけど、股関節周りの可動域が拡がるので体軸からの体重を乗っけやすくなるとかありそう。

ゴルフはまあモロに体幹な競技なので。。




だいたいそんなかんじ  m(_ _)m  (テッポウについてもまとめなおそうかと思ってたけどまあいいやこっちは未熟だし)






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2016年04月20日

日常に侵入する自己啓発 ― 地震・PC・家事・こじらせ




昨今のついったのTLで震災関連の「これやっちゃいけないのにー」的な優越感ゲームうざいな、とか、女子をこじらせての是非うんたらうぜえなとか思いつつ、こういうのも包括的には今回読んだ本の対象範囲となるのかなあ、とか。



書評:日常に侵入する自己啓発―生き方・手帳術・片づけ [著]牧野智和 - 荻上チキ(「シノドス」編集長・評論家) | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015052400012.html

 果たして自己啓発書に、いかなる社会的機能があるのか。本書は、膨大な自己啓発書を整理しながら、その流行変化が社会の何を映し出しているのかを考察する。人は、手帳術を学ぶことで「時間感覚」を、片づけ術を学ぶことで「空間感覚」を再編する。男女、年代の違いによっても、「自己啓発」に求めるものは異なる。男性向けのものは仕事や趣味における上昇志向を刺激し、女性向けは美の追求を通じて自分磨きを要求する。典型的なイメージながら、人はそれに癒やされる。直接読むと「うへぇ」と投げ出しそうだが、本書のように客観的に分析されると、雑多な書籍たちが星座を形作っているように見えて面白い。
 「片づけ本」を整理した5章は最近でもベストセラー多発の分野だけあってタイムリーだ。主に男性経営者向けには、精神浄化の儀式としての掃除を。主に女性向けには、ありのままの自分を取り戻すための片づけを。現在の自己に不満を抱く人は、何かしらの儀礼を求めている。片づけのように些細(ささい)なことであっても、大層な儀式に変わってしまうものだ。




日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ -
日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ -



新聞の書評らしく短くわかりやすい紹介なのだけどもうちょっというと「自己啓発書にいかなる社会的機能があるのか」というか「○○のための道具のひとつとして現代日本では自己啓発書が用意された。さて、では自己啓発書の類は○○のためにどのように機能しているのか?」という話。前著からの課題・射程の具体ということになるらしい。


自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究 -
自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究 -




「○○のため」の「○○」というのは「自己のテクノロジー化」とか「内面の技術対象化」ということになる。ざっくり言えば、後期近代の現代人・都会人にとって必要な近代的な規律を自ら内面化・自己訓練化していく過程、ということぽい。具体的にはたとえば「優秀なビジネスマン・社会人になるためには○○するべき(しなければならない)」とか「デキた主婦・女性となるには○○であるべき(しなければならない)」とか。そういったものは簡単には自己啓発書の類で「○○のような考え方をスべき」とか示されるわけだけど、そこで一般化のために示される数値、たとえば年収とかスリーサイズとか体重とか、そういうものでデータ還元的に人の実存がスポイルされていく。最終的に。そういうのは近代人にとって指標としてはわかりやすいのだろうけど、それにとらわれ過ぎると却って窮屈になる。趣味のジョギングでみょーに数字にとらわれすぎて、とか、ダイエットでみょーに体重やカロリーにとらわれすぎて、とかそういうの。ダイエットが脅迫神経的になれば拒食症・過食症になるし、それは個人の問題としては心の病といえるのだけど「近代社会による女性への暴力」といえる。


なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学 -
なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学 -



「こじらせ女子」というのは、元の定義があいまいなのであれなんだけど、これも現代日本における理想・モデルとなるように提示された女性像とそこから選択するベキ行動・規律に対する脅迫神経的な態度・容態なのだとおもう。女性誌などではしばしば「理想の女性像」は「ステキな彼」をゲットするために提示され目的のひとつとされるのだろうけど、こじらせ女子たちは意識した異性を前にするとその目的からすると甚だ非合理的な行動や態度をとってしまう。いわゆるツンデレ的な不可解な行動とか態度とか。そしてそのことを後で死ぬほど後悔し自嘲したり涙したりする。あるいは、異性を意識しない、「(ステキな女性らしい)わたしらしさ」の演出のための女性像の獲得のためのアイテム選びなんかでもこの辺の「こじらせ」は顕れる。たとえば「あの服はあたしにはハードルが高すぎてムリ。。(合わない」とかそういうの。

彼女らがしばしば自ら「こじらせてる」と自嘲していうようにその選択が非合理的になり結果として部分を修正するのではなく全体をリセット・拒絶してしまうのはちょうどダイエットに脅迫神経的になった女性が過食・拒食に陥っていく過程と似ている。そして、その意味では彼女たちのゴール・軟着陸とされるべき地点もだいたい共通する。ダイエットのオーバードライブによる過食・拒食に対して「食自体を楽しめるようになるとよい」ように彼女たちも「女であること自体を楽しめるようになると良い」ということになる。まあ拒食症の人たちはそれも最初からわかってるのにこじらせた行動・態度をとってしまうので深夜にきれいなAV女優の姿を見て彼我の差に涙するようなのだけど。加えて言えば、過食・拒食の理由がある程度一般化できるとはいえそれぞれのひとによって異なるように女性が女子をこじらせる理由というのもそれぞれのひとによって異なるだろう。その意味で先行するこじらせ女子が後発のこじらせ女子に対して「あんたのはこじらせじゃない(本質的な悩みではない)」とかいうのも無理があるように思う。特に「こじらせ」の定義が曖昧であるとき。まあ「一般的なこじらせがあるとしてもそれに対してわたし固有のこじらせと似た容態を問題としているのだ(一般論ではなく私個人、あるいはそれと似た背景を持ってる人を想定・対象としているのだ)」というなら別だろうけど。






話が応用編にそれたので戻すと


そういったものが具体例・現象・事例として、本書ではそれにつながる自己の規律訓練化に関する道具としての自己啓発書を分析・考察する。あるいは自己啓発書に類するもの。たとえば女性誌や手帳、掃除術なんかもそれに当たる。男性の場合は仕事・仕事の成果・出世がベタな自己啓発の目的地となるのでそのための簡易な道標として自己啓発書がツール化されている。対して女性の場合はだいたいにしてそういった「出世」とは別の所をその界の目標としているのでいわゆる自己啓発書は分析対象とはならない。その代わり女性に用意されるのは女性誌やそこからスピンアウト的に出版された書籍となる。女性誌では往々にして自分磨きの目的・目標は「わたしらしさ」の演出のためとされる。「わたしらしさ」の反対地点として「おばさん」(所帯じみた)があり、このゲームでは「おばさん」になってしまう / そのように見られると「負け」ということになるらしい。またいわゆる出世街道から降りた / 上がった / 干された男性群なんかもこの「わたしらしさ」をゲームの目標としていったりもする。


mixi → fbなどでよくみられた / まだ見られているキラキラ女子たちの衒示、優越感ゲームというのはこういうのが背景にあったのだなとよく分かる。ついったなんかでもそういうのはみられるけど自分のTLにはそういう人たちはいないように調整されていて、かわりに?彼や彼女たちはPC(ポリティカル・コレクトネス)的なものをしばしば掛け金としているぽい。「被災地に○○をするのはジョーシキ的にいって○○だぁ」とか「○○するやからがいてけしからんので晒(RT)してみなさんに周知・羞恥させとくだぁ」とか。これが衒示だとすると彼らが「良い人」を目指すというところが最終目標で、それに対して「ダメだよm9(^Д^)」て優越感ゲームなのかなと思うのだけど、いい子ブった振る舞いをしてるというわけでもなくその辺の逸脱を見るとどうしてもガマンできなくなって脊髄反応するという人たちもいるぽい。まあそれは彼や彼女たちが育った環境の倫理の規律訓練と、そこからの公正世界観に依るものなのかなとおもうのだけど。そういった「どうしても脊髄してしまう」というのと別にm9(^Д^)て感じでそれ自体が優越感ゲームの道具・ネタとして機能してるひとたちもいるように見受けられる。端的には「まず正義感があってm9(^Д^)プギャーとか■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノする/してしまう、のではなく、たんにm9(^Д^)プギャーとか■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノしたいのでネタとして正義とかPC的なものを弄んでる」みたいな人たち。まあ両方共自分からはそんなに近くないのでそういうひとたちがいる / そういうひとたちのなかでも本気なひとたちと弄んでるぽいひとたちがいる(あるいは両方が混ざってる感じもある)ぽい、というところで留保しとくべきなのだろうけど。





また話がそれたので戻そうかと思うのだけど、本書を詳しく語るという場合は上記したように「社会的成功、あるいは、<わたしらしく>あるために自己啓発書やそれに類する女性誌がどのような言説を提示し、それらがどのように変遷しつつユーザーに選択されていったか?(彼らにどのように影響していったか?)」ということの具体例を上げるということになるのだろうけど、それをしてると冗長になるので割愛。まあめんどくさい。そういうのはこのへんで詳しくやってくれてたようなのでいちおリンク貼るにとどめとく。


自己啓発書とは何なのか、そこから炙り出される社会の側面とは、今年一番の面白さだった!! 牧野智和/日常に進入する自己啓発:生き方・手帳術・片づけ - 学びや思いつきを記録する、超要約ノート
http://digima.hatenablog.jp/entry/2015/05/22/115640


あるいは著者の前著である「自己啓発の時代」の元である博論が早稲田から公開されてるようだから詳しく見たいならそれをぐぐってみれば良い。もちろん本書をみるのもてっとり速いけど。



こんな感じで本書の内容まとめはだいたいリンクとかに頼りつつ、自分的に気になったところだけ感想したり、このエントリ用に置いといた本書のレジュメなんかを最後に貼っつけたりしてこのエントリは済ませとこう。



自己啓発書、あるいはそれに類する女性誌の影響みたいなのは前著からの流れというのもあって本文中にも「前著でも語ったが」とかちょこちょこでてて「あ、前著みたほうがいいなこれは」てかんじだったのだけど、そこからの本書のオリジナルというか白眉みたいなのは本書を紹介してた武田砂鉄さんのcakesの対談でもちょこっとあったようにほぼ日手帳の位置づけだった。

ほぼ日手帳、あるいはほぼ日というのは現代の言論空間だと良いポジションをとってるように見えて、ちょっと見なんの問題もなくそういうのに関心がある人のちょっとした関心・視野を広げていく / 生活を豊かにしていくのに寄与してるように思えるのだけど、ある程度それぞれの分野に詳しくなった人から見るとなんかビミョーな感じがする。自分もほぼ日には期待してて、現代におけるゆるやかなジャーナリズム、あるいは、言論空間というのはああいうのが理想なんじゃないかなあと思ってた時期もあった。んでもいまからするとビミョー。そのビミョーさをなんとなくマッピングできた / できてるように見えたのはおもしろかった。


「ほぼ日」「手帳」における「手帳」のほうは自己啓発→デキるビジネスマンな流れからの時間管理を目的とする自己啓発系ということになる。古くは60年代ぐらいで、近年ここまで普遍化したのは野口悠紀雄さんとかのアレの影響とかなんとか。そしてこれらも時間管理→自己の規律化における「見える化」されたマトリクスということだとわかりやすい。ただ、そういうのもやり過ぎると自らの生活がキツキツになって、、ということへのオルタナとして提示されたのがほぼ日手帳ということだったらしい。「仕事だけにいきる、合目的に生きて「自分」が失われるのはまずい」ということで手帳のなかに意識的に余白が設定される。「この余白はなにをしても良いのだよ―」という感じで。ただ、その余白 / 自由 / 無計画、自体がそのメタレベルでは計画された自由だ、ということがびみょーだったり。「わたし」らしさを担保するために用意される「自由」「余白」がすでにして設定された「自由」であるという不自由さ。W.ギヴスンとかだったら「蓋然性の壁を突破できないんだよあんたらは」というようなそういう感じの。最初から計画され、しつけられた冒険・野生みたいなの。量産化されるヴィレッジヴァンガードとかスタバとかそういうの。あるいは量産化される『前衛』芸術。平坦な戦場。

そういうのは広く後期近代の課題なのだろうけど、ほぼ日にもそういうのが表れてるんだなあとか今回おもった。



あとはそれぞれの界における「らしさ(モデル→規律)」、と、承認欲求の関係についてもうちょっと詳しく考察・腑分けしてもいいかなあと思うのだけど、「まあだいたいこれらは同じ対象領域なのだろうなあ」ぐらいに止めとこう。ベタには、「なんらかの界を選びそこでのモデルと規律があるとして、承認欲求というのはその界において賞賛されるようなふるまいがされたときに喝采が与えられる、喝采が与えらるれることでそこを自分の『居場所』として同定でき安心できるようになる(つまり(自らが是しとする)『居場所 - アイデンティファイ』とそこでの承認を求める欲求が承認欲求ということになる)」 ← そのようなものが生じるのはそもそも近代人のアイデンティティの寄る辺なさが背景としてある、ということになるだろう。

なので、そういった界の承認・正当性に振り回される以前に「自分」、あるいは、その界以外の界が設定されていればそういったところでの承認・優越感ゲームというのはどうでもいい話となる。






あと、テクニカルなあれとして、本書の元ネタ(大きく依った)お話というのはフーコーとかなのかな?とおもってたのだけど、前著を読み始めたらニコラス・ローズとのことだった。あるいは本書的にはイルーズとかか。



まあともあれ自分的にはフーコーをそろそろちゃんと読むための前哨戦としてちょうどよさそう。あと、文化社会学とか理論社会学とかやっぱおもすれーからちょこちょこ読んでこう。







以下レジュメ:






自己のテクノロジー化

内面の技術対象化

・自己啓発メディアが創りだそうとする「自己」  :前著「自己啓発の時代」

・そのような「自己」を自ら演出するときにどのような対峙の形式をとるか




感情的ハビトゥス


男性性  仕事での出世、報酬
女性性  「わたしらしさ」の演出   → 「おばさん」(所帯じみた)ら負け
時間感覚  手帳的時間管理
空間感覚  片付け、掃除的空間管理


仕事の諸局面、人間関係、消費行動、恋愛、家庭生活、美容・健康から、手帳の利用や掃除・片付けといった日常の諸ルーティン

→ 仕事における習熟・卓越や自分らしさの実現という問題に接合し得る

(※アイデンティティゲームの持ち札として)



自己啓発メディアを通じて多様にさしだされる「自己」、とそこからの「自己」の選択
それらをめぐるアイデンティティゲーム≒優越感ゲーム@承認


→ ※承認欲求ゲーム、優越感ゲームのツールとして上記の持ち札が使われる。 fb や mixi などにおけるセレブな生活感の発表と衒示

それらは「見せびらかし」であるだけではなく自らのアイデンティティを確かめるためのコンサマトリーなツールとしても機能している

「自己啓発メディアは純粋な自己反省を促すのではなく基底的な参照項(再帰性の打ち止まり地点)を残したうえでそれを促している」

cf.仕事だけにいきる、合目的に生きて「自分」が失われるのはまずい 
→ 「わたし」らしさを担保するために用意される「自由」「余白」がすでにして設定された「自由」であるという不自由さ

(←再帰的になんらかの構造にとりこまれている、あるいは、みずからがそのような構造の再構築に寄与している


ex.「わたしらしさ」で演出されるジェンダー区分け(女性は「わたしらし」く、男性は仕事バリキャリで














あらたな文化的母型(cultural matrix)≒新興宗教的なものとしての自己啓発

イルーズ(Eva Illouz,2008, Saving the modern Soul: Therapy, Emotions, and the Culture of Self-Help)


読者の選択・解釈を伴った自由度の高い応急処置の「パッチ」を今日提供することのできる稀有な文化的母型







断捨離
自分のほんとにもってよかったと想えるもの・ほんとに好きなものだけで自分の周りを囲む
→ 自分だけのパワースポットをつくる(やましたひでこ)



掃除は精神的浄化、修養に繋がるとする自己啓発的企業姿勢はローヤル(現イエローハット)創業者の鍵山修三郎が行っていた早朝掃除から(1961年)。松下幸之助の便所掃除→人間のあり方、とか。








※こういう自己啓発的なものの具体として雑誌プレジデントがあるだろうけど、そのプレジデント自体で依頼されて連載してたというのがちょっとおもしろかった








--

岡崎京子の時代: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414413825.html



「である」人と「する」人 ≪ SOUL for SALE
http://blog.szk.cc/2016/04/08/a-person-who-is-or-do/



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2016年04月06日

例の日本( ゚Д゚)<氏ね!周りについてのうんたら(セイギのひとたちが構造に取り込まれていく感)




本来こういう話題は当ブログでは扱わないようになってきてるのだけど弁当さんの一連のあれをみてちらっとつぶやいて、「ある程度つぶやくのならブログでステイトメントとして残しておくのが筋なのでは?」、とおもったので。


極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/


待機児童と「保育園落ちた。日本死ね!」なあれ。


最初に、自分的にはこの問題はそんなに関心がない。

関心がないといっても日本社会的に大きな問題で、TL的には同年代の人たちが実際たいへんって話をみてるし、そういうのについてm9(^Д^)でもなく共感する面もあるのでそのぐらいの関心なんだけど。テレビを通じてこの問題がみょーに話題になってこれだけとりあげられていったところにびみょーな感慨を抱いている。まあこの辺に比してということなんだけど


非正規女性が見た「自己責任」で傷つけあう社会 - 一橋を出てニートになりました
http://nyaaat.hatenablog.com/entry/2016/03/16/072339


自分が子無しというせいもあるだろうけど、できるだけそれを差し引いて考えるようにしてもこの問題に関心がある人、あるいは、この問題をネタに神輿を上げる人たちがいうほどにこれが「日本の最重要課題だ」「もっともかわいそうで大変な問題なのだ」って感じでもない。むしろそういうのを見ると(´・ω・`)てなる。あるいはイラッと。まあ彼や彼女たち全員がそういう言い方をしてるわけではないのだけど、たとえばこの問題を次の参院選の得票のためのネタにするために焦点化してうんたらするひとたちの様子に(ヽ´ω`)てなるし、同様のことを「保育園落ちたのはわたしだ!」とデモる人たちにも思う。

自分のリアリティとしては非正規雇用なんかの差別的待遇、あるいは、ブラックな環境で働かされる若者や女性たちにリンクしてるのでそこからするとッて感じではある。まあこういった話は「そこからするとマシ(なんだから我慢しなさいよ)」てことでもなく不当な扱いをされてる人たちはすべて救われるべきだと思うし自分もそういう意味でこの問題の改善を願うのだけど。それでもやはり持ち上げ過ぎだなあという風には思う。特に外野的なイマキタな人たちが。

あるいは彼らは「待機児童問題以外のそういった人たちの不幸も含めての声なのだ!」みたいなことをいうのかもだけど、自分的にはそういうのもなんとも胡散臭いなあとおもってる。とりあえず修辞的に良い子チャンしたいのでそういうことはいうかもだけど、その時点で本気で待機児童について訴えてる人は自身の待機児童問題の優先度が高いのは当たり前だし、その人が非正規雇用ほかの問題に現実的に生活が関係してなければそんなに関心がなくてもアタリマエなので。事実、自分はこういった問題が出るたびに何度もついったで言ってるけど、TL上の待機児童問題うんたらのひとたちはスルーしてる。まあそれは儀礼的無関心というもあるだろうけど。ちなみに自分的にはこの問題は「保育園に関する規制をもっとゆるくすれば良いのでわ?(保育士の数をそんなに揃えなくても、保育園の面積があまりなくても開業できるように、とか)」て感じだし、現状は非認可のとこでも有効だろうから自分もそういうのあったら託すのだろうなあということでだいたい弁当さんと同じなかんじ。昔から寺とかはそういう感じだったしなあ。。(ついでに爺婆があつまって子供の世話したり、世話されたりして揺りかごから墓場までがうまいことすればいいんじゃまいかという希望的観測)。




この問題は待機児童問題として政策的課題のひとつで、その是非や妥当性をめぐっての具体的な試案、それについて市民社会的にどう考え、投票などを通じて政治参加していくかというのが本筋なのだろうけど、外野的な人たちはこの部分を離れてみょーに持ち上げたり焚き付けたりしてるように見られる。あるいはこの話題を道具的に用いてマウンティングしあって優越感ゲームみたいな。まあ「おまえはわかってないんだよ」「これはなぁ−y( ´Д`)。oO○」みたいなマウンティングゲームというのはネットでよく見られる光景なんだけど。特にはてなとか、あるいはついったなんかでもそうだけど。


今回の極東ブログ周辺でもそういうのは見受けられて、「(´・ω・`)ふつーに政策的課題として対応策の試案を考えて、その有効性を議論すればよいのでは?(みょーにウヨサヨとか、それまでのエントリ主にたいする印象とかマウンティングとかにとらわれずに)」、とかおもった。具体的なことはこのエントリの後段で書かれていて、けっきょく今年の予算案には間に合わないのだから『財源は企業が負担する「事業主拠出金」の新年度からの引き上げによる約27億円なので、焼け石に水の状況にある』てことなのだろうけど。構造的、あるいは環境的に現在はそれが限界なのだけど、デモってる人たちの声に応える形で民進党とかがイケイケどんどんな話をすすめ、自民党は自民党で「可及的にすみやかに対応しました」とか言う。実際は焼け石に水的な予算で済まされるのだろうけど。そしてデモった人たちはそれなりに満足して1年後には忘れてる。あるいはなんかわるい印象を抱えたまま参院選を迎える。



こういう予定調和みたいなアレって「構造に取り込まれていく」ってことで「ハマータウンの野郎ども」みたいだなあとおもった。


ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫) -
ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫) -


彼ら(の一部)はこれに正義を託してるみたいだし、それ自体は表面的にはタダシイコトなのだろうけど、それが構造的に取り込まれていく。軽い祭りとアジを飛ばしてそれでカタルシスして終わり、みたいな。

まあまだ一年後にどうなってるかわからないし、一年と言わずこれが五年後、十年後に繋がる契機となる可能性もあるのだけど。

でも、どうしてもこういったセイギをいう人達に薄っぺらなものを感じてしまう。それは自分の偏見なのかもしれないけど。





まあだいたいそんなかんじで、特に世間様に発表するようなことでもなく自分的には「ふつー」の内容なので普段ならエントリするようなものでもないのだけど、たまにはこういうのも良いのかなあとか思いました(一言居士的なぶくま・ついったに留めるのでもなくブログ公論的なものとして)


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2016年02月03日

花男







王の死も

乞食の死も

まったく変りがない



どこかの詩人が歌ったが

そんなことがあるものか


問題は

死と死の間のつかのまの

生の在り方じゃないか

その生の大きさで

死の大きさも変ってくる











この地上で

人間だけが奴隷になるとは

どう考えたって不公平だ

支配者も被支配者もひとしなみ奴隷じゃないか

それで

王様がだんだんいなくなった



世界で生きのこってる王様の数をかぞえてごらん



























野球に興味がなくなって久しい。特に球場に通ったこともなく、もっぱらテレビで見る程度だったけど。最後に熱心に見た記憶は高校の頃の休み時間か何かにみた日本シリーズの興奮だっただろうか。いま振り返るとなぜ自分がそういうものに興奮していたのかわからないのだけど。現在は1年に一回野球中継を見るかどうかぐらい。それも最後まで見るということもない。


そのぐらいの関心なので今回の件もそれほど関心もなく、ワイドショー程度の関心なのだけど


清原和博さんと「男らしさ」という呪縛 - いつか電池がきれるまで
http://fujipon.hatenablog.com/entry/2016/02/03/124342



清原和博の引退 - 関内関外日記
http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20081002


ついったでつぶやいたのをそのまま貼るとこの件に関する自分的な関心としては、清原が「使えな」くなっていった原因として故障があるとして、その原因となった対戦はどこだったか?とか、そこからのリハビリとかもっかいおっかけつつ、最近だとコーチとか監督とかの道もあったはずだけどなぜそっちの道がうまいこといかなかった?あるいは、当人がその選択をしなかったか?な背景とか経緯とかが知りたいぐらいかなあ。あとは野球とヤクザ関連?かなんかのドラッグとかつながりとか。まあそもそもあまり興味が無いわりにTLほかで公共的な話題になってるので、ふつーに事実関係をまともにつたえるものを見て、「はあ、そうですか」で済ませたいぐらい。それでも事情をあまり知らない人が一言居士的にてけとーなこと言ってるのを見るとカチンと来たようなのでそれなりに感情移入してるんのかな?自分、とはおもった。


事情を知らない人にあまり言ってもあれだろうけど、人気商売というプロ意識が欠如してる、ということではなくて、もともと清原はゲーノー人とかやる気もなくバット一本で食ってくつもりだったけどそれも故障で壊れたし、なによりメンタルがもともと強くなかった。素質に頼ってるだけで鍛錬、修練を怠り、なんらかの方法を確立してパフォーマンスを確立させるというところを怠った。彼が現役で、とくに西武時代の黄金期はその突出した能力で自信が支えられていたのだろうけど、その季節を過ぎた時、それまでの派手な生活と生き方をさせるものがなかった、のに対してそれまで築いてきた虚栄は続けていかざるをえない弱さがあった。そこにゲーノー界や麻布・六本木界隈のあのへんが入っていった。そういった印象。


そこでちょっと同情的になってる面もあったのだけど上記リンク先のエントリとかをみて「やっぱじっさい身近にいると鬱陶しいだろうなあ」と思いつつ。



そういう事情があるにせよ、TLほかでネタにしてたのしんでヤイヤイゆってる賑やかしとかはどうでもよいゴミみたいなもので、同時代に野球とか清原とかを楽しんで期待してた人たちの思い出とか思い入れのほうがみたいとおもった。家族に連れて行かれた球場の思い出とか。


ぼくらは清原のことを特別に好きではなかったけれど、そのときの楽しかった思い出にケチをツケられた気がしてカチンとくるのだろう。





清原が「使えな」くなった理由として。当該ウィキペディアを見ていたら故障自体は巨人軍に入団してからしばらくのことだったということでなんか意外だった。


西武で故障してつかえなくなって持て余されていたのを巨人が拾った、ぐらいの印象だったので。そこから故障を支えるために肉体改造してある程度の実績を残していった、と。しかし最後までこの故障がたたっていたのだろう。


清原に対して、才能・素質だけでたいした努力もしなかったので開花しなかった、というのは野村克也のこの言の影響もあるのかな?自分、とか。





「きちんとした指導者が居なかったから清原の才能がだめになった」「森が悪い」とのことだけど、ウィキペディアを見ていたらそのへんもびみょーだった。


森は清原の能力と人柄を非常に高く評価しており、西武監督退任時に、「清原は年々、野球への考えがどんどん進歩してきている」と述べている。清原を一年目から一軍レギュラーで使うことにはコーチ陣や野球評論家でもかなり異論があり、当時評論家だった野村克也は「清原は一年目は一軍では使えない」というほどだった。しかし森はそれらの異論をはねつけてあえて清原を使いつづけ成功した。当時西武の一軍打撃コーチだった土井正博は「今だから何でも言えるけれど、清原を二軍スタートさせようと言い張ったのは森さん自身。ところがオーナーのバックアップがあると知ったら、ガラリと態度を変えて、自分が我慢して使ったと言う。毀誉褒貶の激しい人だった」と述べている




まあでも、犯人探しは別としてきちんとした方法の模索、確立ができなかったのだろう。最後まで。メンタルが弱い、自律できないのなら優れた指導者がいればよかったのだろうけど、才能が突出し過ぎるとその辺も難しいというのはあるのだろう。



アスリートとして見た場合、彼の特徴や才能というのはどのへんだったのだろうとyoutubeの動画をしばらく探るに



打たせるための練習球とはいえすごく軽く、当然のようにホームランに持っていってる様子にベンチのスター選手たちも唖然としている。この様子を見ると彼のバッティングは筋肉というよりはバネだったのかなあ、とか。まあ練習のゆるゆる球への対応なので特にそういうバッティングになっていたというのもあるのだろうけど。松井秀喜のそれがマイク・タイソンのピーカブーを想わせるのに対して、この頃の清原のソレはもっとバネっぽかった。

打撃の特徴の説明を見ていると「内角のボールを苦手としていた」とのことで「( ^ω^)相手ピッチャーが変化球を使うだけで怒っていたみたいな話がまとめにも載ってるけど・・・それじゃストレート勝負とか要請してもびみょーじゃん。。」な気分に。まあその後に練習でこの苦手は克服したとはあったけど。ストレート勝負の場合、内角高め(インハイ)が力の勝負のポイントのはずで、ピッチャーにとってはボールの下を振らせることが力でねじ伏せたことの証になるとかマンガ知識。対して、外角低め(アウトロー)はそこから最も遠いポイントなため内角高めを活かすための対角線となる。この2つを有効利用することをしてクロスファイアとかなんとか。ボール球でもいいのでインハイでのけぞらせておいてアウトローで穫る。



その辺の技術論とか見どころみたいなのを含めた江夏の21球的な清原の伝説の打席解説みたいなのも見たい。自分じゃ書けないけど。

スローカーブを、もう一球 (角川文庫) -
スローカーブを、もう一球 (角川文庫) -

NHK特集 江夏の21球 [DVD] -
NHK特集 江夏の21球 [DVD] -

敗れざる者たち (文春文庫) -
敗れざる者たち (文春文庫) -




この件に関して見たいものつながりでいうと松本大洋「花男」的な妄想もある。


花男 第1集 (ビッグコミックス) -
花男 第1集 (ビッグコミックス) -

花男(1) (ビッグコミックス) -
花男(1) (ビッグコミックス) -

[まとめ買い] 花男 -
[まとめ買い] 花男 -


巨人軍を夢見て三十路を超えた男の時代遅れの野球ロマン話。「たかが球コロ遊びに大の男が人生かけるなんてよ」「だからこそ、だからこそなんだよ花男」みたいなセリフがあったんだかなかったんだか。フォームもスタイルもデタラメで、セオリーから外れまくりの主人公がここぞというときには決める「記録ではなく記憶に残る」物語。エースであること、あるいは勝つことや成績が宿命付けられたなかで、大衆の欲望と羨望、期待の重圧にただ「花がいい」といって散っていく男の話。


ZERO―The flower blooms on the ring………alone. (上) (Big spirits comics special) -
ZERO―The flower blooms on the ring………alone. (上) (Big spirits comics special) -

ZERO 下    BIG SPIRITS COMICS SPECIAL -
ZERO 下  BIG SPIRITS COMICS SPECIAL -


すでに神も王も死んだ時代。それでも大衆の未開社会的心性は英雄や王を望み、英雄や偽王、道化は死なねばならない。


王殺し、偽王(モック・キング)の戴冠と死 | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/3862



彼らのために、ワイドショーやついったーで盛大に血祭りに上げられるのが現代の象徴的な王殺しの祭典なのだろう。あるいは魔女狩りであり人身供犠。




それでも



そこに最後に花が咲く



王の死んだ地に花が咲いて、新たな生命、豊穣が約束される。




そんなことを想ったとき、「ピンポン」におけるスマイルの着地点は才能なきもの、あるいは敗れた者たちの終着として当然だったのだなあと想った。



ピンポン 文庫版 コミック 全3巻完結セット (小学館文庫) -
ピンポン 文庫版 コミック 全3巻完結セット (小学館文庫) - ピンポン (1) (Big spirits comics special) -
ピンポン (1) (Big spirits comics special) -

ピンポン(5) (ビッグコミックス) -
ピンポン(5) (ビッグコミックス) -



あるいはそれこそが「敗れざる者たち」の物語として。そしてスマイルはどちらかというと桑田で清原は孔文革っぽい。ライバル関係としてはペコだろうけど。素質とかスタイルとか性格とかで。








男気そのものはよくわかない幻想でありつつも、その元としての仁侠や筋道がきちんと通っていれば誰にも迷惑をかけない、あるいは周りの人に叶うものだったのだろうけど。そこにつきまとう虚栄と幻想を最後まで振りきれなかった男の弱さのようなものに、あるいはありえたかもしれない大リーガーや子供野球のコーチとしての終着に。捧げられるのは涙か花か、あるいは酒なのか。
























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2016年01月30日

「カイエ・ソバージュ4」 / 「イカの哲学」





神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 (講談社選書メチエ) -
神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 (講談社選書メチエ) -


イカの哲学 (集英社新書 0430) -
イカの哲学 (集英社新書 0430) -




読んだので頭の整理も兼ねて感想とかメモ的なもの。



イカの哲学のほうはカイエ・ソバージュからのスピンアウトぽく、カイエ・ソバージュのほうは中沢のそれまでの代表的な三部作(「チベットのモーツァルト」「森のバロック」「精霊の王」)を中心とした内容を大学講義用に平易に口語で語ったという感じなので中沢読者的には既出であるし、新規の中沢読者としてもうちょっと濃く・詳しくみたいのであれば三部作を読めばよいのかな、と。

全体としてはそういう印象だったのだけど、中沢の読んでないものを平易に見渡せる、というところでは便利でおもしろかった。


そのぐらいで終わっても良いのだけどせっかくなので今回読んだところのブックマーク的なメモ感想。ちょっとわかりにくかったところもあったのでエントリにかこつけて読みなおしてみた。対称性の自発的破れのところだけど。



カイエ・ソバージュ(野生のメモ ≒ 思考)の今回の主題は「神の発明」。てか一神教的な神の発明について。多神教―アニミズム的な神のほうが先だったのだろうけど、そこからなぜ、どういった経緯で排他的な一神教な神が「発明」されていったか、ということ。


結論から言えばカイエ・ソバージュのここまでの思考に則って「国家ができたので」というところと関連するように中沢は思っている。


多神教的、狩猟社会的、あるいは、国家や所有・定住を旨としない太平洋ベルトのモンゴロイド的な人々は「すべてのものに神が宿り、人もその一部」的な世界観にあった。アイヌとかでイメージすると分かりやすい。そこでは財産を所有しない、国を持たない、戦争において相手を徹底的に虐殺しない。戦争や戦いは相手はコミュニケーションの対等な相手であり、戦いはコミュニケーションのための手段となる。そのためアイヌの狩り、あるいはクマに関する儀礼ではただ「狩る」のではなく、戦いなどを通じて相手を敬い、尊重し、最終的に命をもらう。相手はこの世の仮の姿を渡し、あちらに還っていく。


こういう世界観は「海獣の子供」でもおなじみだったりする(「おまえの槍を受け取ろう」とクジラが自ら漁師の銛を食らう)。



海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX) -
海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX) -


あるいは、狩りにおいては「相手と自分は対等」というところでもうちょっと現実的なものとしてはこちらか


ゴールデンカムイ コミック 1-4巻セット (ヤングジャンプコミックス) -
ゴールデンカムイ コミック 1-4巻セット (ヤングジャンプコミックス) -

アイヌの主に食生活に関わる風習とか。





では、そういった神観 - 世界観からなぜ排他的な一神教が生まれたか?



中沢はそれを物理学における対称性の破れの比喩からそれと同じことが起こったのだと説明する。すなわち球形のような対称性の高い構造体が外部からなんらかの圧力を加えられて崩壊 → 座屈するとき、それまでの対称性の均衡は破れ、外部に全体から偏った点ができる。それが多神と唯一神(あるいは高神)との関係となっていく。


このときどのような圧力が加わったのか?ということについて中沢は多くを語らないのだけど、それまでの語りからだと「人の知性において比喩(直喩や換喩)が生まれていったから」というところと関係してるぽい。すなわち対象を具象的に直接にだけで理解するのではなく、言語を介して一度抽象化して理解した後に、その抽象化に用いた記号のみをもって抽象的思考をふくらませていく、というあれ。この部分で人類が自らの理知をhackしていったため所有や戦争なんかも抽象的な計算として対象化され処理されていったのだろう。それがなぜ可能になったか?具体的にどういった経緯やメルクマールをもって可能になっていったか?ということについてはわからないけど。



今巻の主題としての「神の発明」についてはだいたいこんな感じ。


「イカの哲学」もそれに準ずる話で、「人類はもともと多神教―アニミズム的な世界観で、他者の存在を肌で感じるようにして戦うにしても相手をある程度敬い殺し尽くさないはずだったのになぜ核戦争のような絶滅戦争をするようになったか?」「敵を一網打尽にする戦争はイカに投網を仕掛けて一網打尽とするのにも似ている」「そういった点ではイカのほうがむしろ世界の本源的な感覚に通じているのではないか?」「例えば集合的無意識といわれるような、世界のエロス的なあり方に」、という感じ。


そういうあり方、アイヌとかそういう人々と似たあり方があれば、近代戦争のような「殺し尽くす」戦争にはならないのではないか?というのが本書の主題となるのだけど。たぶんこのへんはちょっとロマン入り過ぎなように思う。核戦争とか第二次大戦的な機械化された戦争以前にも殺し尽くすような戦争はしてたし。モンゴル帝国とかスキタイとか。彼らは農耕定住民でもなかったはずだし。


まあそのへんで中沢的な「平和」に対する考えは疑問視され保留されるわけだけど。



それとは別に本書でもう一つ目を引いたのは「瞑想(メディエーション)をきちんとやれば脳内に光が見えて変な図形とか見え始めるよ」話だった。こういうのはドラッグとか使ってやるものかと思ってたけどメディエーションをきちんとやるとできるらしい。そして、たぶんインドだと結構な人がやってるぽい。。


このへん、自分的にまだまだだなあとかおもった。







posted by m_um_u at 00:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2016年01月22日

『放浪の画家ピロスマニ』を見てきたよ






小さな家とキャンバス 
他にはなにもない

貧しい絵描きが 女優に恋をした
大好きなあの人に バラの花をあげたい


ある日街中の バラを買いました


百万本のバラの花を 
あなたに あなたに あなたにあげる
窓から 窓から 見える広場を
真っ赤なバラで うめつくして・・・・・
















夕暮れが隅々に立ち寄りながら訪れる頃
想い出の幻が私の目の前を通り過ぎて行く


青い鷲、白い水牛、金色の魚よ



それなくて何の地上の命
それなくて何の地上の命



















ついったであまやどりが「これ日本にいたら見に行くのになあ。。いつか見れるのだろうか」といっていたので代わりに見に行ってきた。



『放浪の画家ピロスマニ』 - 上映 | UPLINK
http://www.uplink.co.jp/movie/2015/42112




代わりにっていうか、なんとなく興味を持ったので。あと久々に都心に行きたり映画見たりしたかったし。水曜日はuplink映画1100円の日だし。



結果的に、というか半ば予想してたけど映画はそんなにおもしろいものではなかった。

この映画の価値の主な部分はニコ・ピロスマニというマイナーな作家の作品と生涯をドキュメンタリーしたもので、作品のドラマトゥルギー的な部分はなかった。あるいは意図してそういうのは省かれたのだろうか。

構成としては「作家の生涯を語る」+「それぞれの時期の代表的な絵を見せる」といった感じ。

それが当時のグルジアののっぺりとした、あるいはまだ十分に都市化の進んでいない環境の空気感にあって素朴に現前される。

のっぺりと、遠近法的な透視図とは別の時間軸やリアリティを感じさせるそういった作風。



ストーリーとしては作家の伝記的なものでネタバレということもないのでuplinkの解説をそのまま借りよう。


映画『放浪の画家ピロスマニ』は、グルジア(ジョージア)の独学の天才画家ニコ・ピロスマニ(1862-1918)の半生を描いた作品である。近年、ピロスマニは貧しい絵描きと女優の哀しい恋を歌った「百万本のバラ」のモデルとしても知られている。名匠ギオルギ・シェンゲラヤ監督は、名も知れず清冽に生きたピロスマニの魂を、憧れにも似た情熱で描くとともに、グルジアの風土や民族の心を見事に映像化した。


ピロスマニの本名はニコロズ・ピロスマナシュヴィリ。19世紀末から20世紀初頭にかけて、カフカス(コーカサス)山脈の南にある国グルジアで、パンや酒とひきかえに店に飾る絵や看板を描き続け、貧しく孤独のうちに亡くなった。放浪の画家、孤高の画家と呼ばれ、絵は人物、動物、暮らし、風景などをテーマに、グルジアの風土に育まれた世界を素朴な筆致で描いたもので、その数は1000点から2000点といわれている。   
死後に高く評価され、現在はグルジア人の魂を象徴する存在として人々に愛され、収集された200点余りが国立美術館等で大切に保存、展示されている。世界中で展覧会が開かれているが、日本でも1986年に大々的な展覧会が催され、2008年の「青春のロシア・アヴァンギャルド」展でも展示されて話題になった。



あるいはウィキペディアの説明

ニコ・ピロスマニ(Niko Pirosmani, 本名ニコ・ピロスマナシヴィリ Niko Pirosmanashvili, グルジア語 ნიკო ფიროსმანაშვილი、1862年 - 1918年4月9日)は19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したグルジアの画家。彼はグルジア東部のMirzaani(ミルザーニ)の村で生まれた。後にトビリシに出て、グルジア鉄道で働いたり自分の商店を持ったりしたが、体が弱いうえに人付き合いがうまく行かなかったため長続きしなかった。その後、独学で習得した絵を描くことに専念するようになった。

彼はプリミティヴィズム(原始主義)あるいは素朴派(ナイーブ・アート)の画家に分類されており、彼の絵の多くは荒野にたたずむ動物たちや食卓を囲むグルジアの人々を描いたものである。彼はグルジアを流浪しながら絵を描いてその日暮らしを続けた。一旦はロシア美術界から注目され名が知られるようになったが、そのプリミティヴな画風ゆえに新聞などから幼稚な絵だという非難を浴びてしまった。

失意の彼は1918年、貧困のうちに死去したが、死後グルジアでは国民的画家として愛されるようになったほか、ロシアをはじめとした各国でも有名である。ソ連では1971年と1986年にその生涯が映画化されている。





「放浪の画家」「生涯どこにも属さず孤高を貫き、ただ絵を描いた」というところが人を惹きつける魅力なのだろうし、自分もそのへんに興味を持って映画を見に行ったのだけど、この映画的にはそのへんちょっとびみょーに描かれているように思えた。

「放浪の画家」というと絵の技術だけをもって土地から土地を渡り歩く旅ガラス、吟遊詩人的なものを想わせるのだけど、ピロスマニはグルジアの町にずっととどまっていた。町のなかの居酒屋コミュニティに。そういう意味では放浪というイメージとはちょっと違っていた。どちらかというと下北とかそういうとこで定職につかずずっとサブカルしてる人みたいな感じ。まあ両者に明確な違いがあるのか?といえばそうなんだけど。


あと「孤高の」というか単に偏屈で非コミュ・コミュ障・マイノリティなとこがあったのかなあ。。て印象。最初に義理の姉かなんかに懸想して実家から出ざるを得なくなったみたいなとこにしてもそうだし、友人とはじめた食料品店を辞めた経緯にしても「義兄に結婚詐欺的なもので裏切られ世の中信用できなくなって自棄(やけ)になって、なんだかどうでもよくなったので店のもの全部もってけや(がはは」て感じだったし。んでもこの場面でロシア貴族の使いかなんかには法外な値段ふっかけるところなんかは当時の時代背景を想わせた。



この映画を通じて得られる物語としてはそんな感じで、要約すれば「世の中になじめない、アスペ気味非コミュな男が、画才はもっていたのでそれを二束三文で切り売りして居酒屋渡り歩きで食いつないでいたが、最後に世の中に認められようとしたところで『こいつの絵はちゃんと訓練されてないm9(^Д^)しろーとのものだ』とこき下ろされ一気に評価が下降。居酒屋界隈からも見捨てられ失意の内に生涯を終えた」というもの。


ゲージツフーテン物語としては全体的に鬱ぽい内容なのだけど、そういったナイーブさは切断されてただ淡々と、素朴にその辺が描かれていた。ちょうどピロスマニの画風のように。あるいは当時のグルジアの風土のように。



ナイーブに、あるいはドラマティック・ロマンティックに描くのならば「貧しい画家ががんばって100万本のバラの花を踊り子に送った」のところをフィーチャーするものだろうけど、この映画的にはまったくそういった場面がなかった。まあ史実と異なって、ピロスマニの生涯からインスピした詩人が作ったドラマだから、というのもあるからだろうけど。いちおモデルとなった踊り子が出てくる場面もあったけどちょっと(´・ω`・)あ、踊ってるな、てぐらいで、特にロマンスもなかった。いちお「ピロスマニが好きだったので彼女を絵に残したらしい」みたいなのはあったけど。

ドラマトゥルギー的には、あるいは清貧の部分をもうちょっと押し出してもよかったのかもしれない。んでもこの作品ではそういった部分が排されていた。意図的にかどうかよくわからないけど。


「フィクションを排したのは孤高の画家の生涯に経緯を評したから」というのはあったのかもしれない。彼を題材にした日本語本だとそういうのはフィーチャーされてるみたいだけど。



放浪の聖画家ピロスマニ(集英社新書ヴィジュアル版) -
放浪の聖画家ピロスマニ(集英社新書ヴィジュアル版) -


大きな木の家―わたしのニコ・ピロスマニ -
大きな木の家―わたしのニコ・ピロスマニ -

放浪の画家 ニコ・ピロスマニ -
放浪の画家 ニコ・ピロスマニ -



放浪の画家 ニコ・ピロスマニ - 本と奇妙な煙
http://d.hatena.ne.jp/kingfish/20150828


彼の絵についても映画よりもむしろこっちのほうが分かりやすいのかもしれない。


なので絵についての判断とか印象みたいなのは保留。




そういえばこの映画のビデオやDVDは販売されてるみたい。

ピロスマニ【字幕版】 [VHS] -
ピロスマニ【字幕版】 [VHS] -

ピロスマニ [DVD] -
ピロスマニ [DVD] -



TSUTAYAでもレンタルしてるけど、渋谷店でVHSがかろうじてって感じだからナンダッタラ神保町のjanisとか覗いたら案外あるかもしれない。ちなみにアマゾンではプレミアついてて高い。




あとは映画を見つつなんとなく疑問に思って調べたこととか。



このエントリの冒頭でもちょこっと言ったけど、映画を見てるとちょっと違和感を感じるほどのっぺりと、なにもないところに小屋があるような環境があったりして「(´・ω`・)当時のグルジアってそんなかんじだったの?」て想わせたり。絵面・構図的にはちょっとタルコフスキーの「サクリファイス」とか想わせるのだけど、特にそういう意図もなく自然にそういうこととになってたのかも。当時の田舎のグルジアだとほんとになにもなかったから。



当時のグルジアってどういうことだったの?なんか、東ヨーロッパの朴訥質実剛健みたいなのを想わせるし、イスラーム文化圏のそれとロシアの影もあって。。てことでちょっと調べて見るに、「19世紀後半から20世紀初頭」ということで「乙嫁語り」とほぼおなじ時代だったということだろう。



乙嫁語り 1巻<乙嫁語り> (ビームコミックス(ハルタ)) -
乙嫁語り 1巻<乙嫁語り> (ビームコミックス(ハルタ)) -


乙嫁語り コミック 1-8巻セット (ビームコミックス) -
乙嫁語り コミック 1-8巻セット (ビームコミックス) -

[まとめ買い] 乙嫁語り -
[まとめ買い] 乙嫁語り -


なのでこの辺の説明とか分かりやすい


徒然なるままに|「乙嫁語り」の世界
http://www.geocities.jp/msakurakoji/900Note/114.htm


すなわち18世紀後半のフランス革命 → ナポレオンによる帝政+国民国家大躍進によって他の国も一気に国民国家へと傾いていった時代。

ヨーロッパ辺境の田舎貴族+皮剥ぎ商人の末裔だったロシアもそういった時代の流れから王政から帝政へ、そして国民国家へ転じていく。




中東から中央アジアはそういったヨーロッパ列強の植民地とされていく脅威を感じつつ、自分たちの主権というか縄張りを守ろうとしていた。あるいはあたらしい時代に順応していく者たちも。


「乙嫁語り」はカスピ海をはさんで東側、中央アジアの草原の民の物語として描かれ、イギリスが主に領有権を確保している感じだったけど北からのロシアの脅威もびみょーに描かれていた。


グルジアはもっとロシア寄りで、より東方問題的な政治的複雑が絡んでいく地域だった。そしてスターリンの生地でもある。


グルジア問題 - Wikipedia
http://bit.ly/1QpbZ5L


ロシア革命 - Wikipedia
http://bit.ly/1Qpc09L



これらの面倒事が吹き出すのはピロスマニの死後ということであったけど、ちょうど時代の転換点まで生きて、そして死んで行ったのだなという感じ。そういった意味ではピロスマニの画風、あるいはそのテーマなどに当時のグルジアの時代環境や空気感のようなものがびみょーに反映されていたのだろう。ロシアからの脅威と、それに対する故郷の誇りのようなものと。近代化によって変わりゆく風景と変わらないものと。


勝手な思い込みからするとグルジア人が後にピロスマニを故郷の誇りとしたのはそういった背景もあったのかもしれない。

素朴派と分類される朴訥で力強い実線に。透視図法を用いない平面的な空間に。野獣派 → 象徴主義的なヨーロッパ近代に対するオルタナを託して。


アフリカンアートを想わせる力強く独特な色彩とリアリティ



Google画像検索「ピロスマニ」





それが今作で感じた「ピロスマニ」だった







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2016年01月13日

はてブの終わりとBlogosphereの来し方行く末、みたいなの






地上には雨がふっている


都市 あらゆる都市の窓がしまり
愛も偏見もかたくなに口をとざしてしまう


沈黙が暗号にかわり
暗号がシンボルにかわり
シンボルがおびただしい車輪にかわる

戸口という戸口から
巨大な暗緑色の車輪がとめどもなくあらわれる

鉱物質の叫びは
雨のなかへ
雨は路上へ

路上には群衆が
群衆のなかの群衆が

いっせいに黒い蝙蝠傘をひらくだろう
いっせいに黒い蝙蝠傘をひらくだろう




はげしく回転する車輪の軸

その熱性の中心

おお その性的遠心力によって
ふるえるものはすべては秋のなかに

秋の光りのなかに

魂の色のなかに

われら盲いたるものすべては

落下する




















朝にCasa BRUTUSのライフスタイルショップ特集(理想の暮らしが買える店)を眺めていて「北欧暮らしの道具店」て載ってたので「そういや最近はてブでフォローしてる北欧系の公式アカウントが良いよな」とおもって見返してみたらやっぱりそうだった。

http://b.hatena.ne.jp/hokuoh_kurashi/



自分的に最近のはてブの「お気に入り」チェックは公式アカウントが使える感じ。感覚的にははてブ経由の半分の情報量は公式アカウントに頼ってる感がある。ちなみに自分的におすすめというか見てるアカウントはこの辺

http://b.hatena.ne.jp/CINRANET/

http://b.hatena.ne.jp/konomangagasugoi/

http://b.hatena.ne.jp/HONZ/

http://b.hatena.ne.jp/fashion-press/

http://b.hatena.ne.jp/vicejapan/


RSSリーダーを使わなくなって久しい → はてブの「お気に入り」とついったー、SmartNewsなどのニュースアグリゲーションサービスなんかでだいたいの情報は済ませてるのでこういうのは助かる。


「はてなはもう終わりだろうなあ」みたいなエントリを昨日したけど、はてブはこういう形だと使える感じ。自分的に。


ライフスタイルショップというのはイケスカナイおされうんたらみたいなので自分としてもちょっと小馬鹿にしてたところはあるし、はてブとか速水健朗さんとかにケチョンケチョンにけなされがちではあるのだろうなあとか思うんだけど。ブルーボトルとかミニマルとか。

【第61回】ネタ化される「上質な暮らし」と盲信する「サードウェーブ系男子」|すべてのニュースは賞味期限切れである|おぐらりゅうじ/速水健朗|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/9079

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール -
奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール -
カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生 -
カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生 -



そういうのとは別に、実際につかってみて気持ち良いし快適なので「これはこれ」として使ってみようかなあって気になってる。ああいうものはいわゆるファッション的なものにも共通するのだろうし。


ライフスタイル的なもの、あるいは、サブカル的なものを好む傾向の是非についてはまた別でもっとうんたらしたいなあと思いつつはてなの話に戻ろう。


はてな、というか、ユーザーとして使用するはてなのサービスとして。はてなダイアリーやはてなブックマークというのは結構前から「もう終わりだ」みたいなのは自分の関心のある人周りだとちらほらいっていて、自分的にも似た感じだった。

端的には「twitterはじまったんだからもうtwitterでいいじゃん?」てこと。

だいたいのはてなダイアリーはそんなに深い論考を出してるわけでもなくついったーの140文字でまとまるようなエントリばっかだし、ついったーのほうがレスポンスも速い。特にギロンと名うったケンケンガクガクやクネクネがしたいだけのひとたちはレスポンスが速いほうがよいだろうし。そうすると「ブログである必要があるのか?」みたいなのがチラホラ見え出し、そのせいかどうかわかんないけどついったー時代になってブログを書かなくなった人たちがチラホラ。

それは「ついったー的な短文に最適化したアウトプットしてるとそっちのほうが楽になったり慣れたりしてブログの書き方を忘れた」みたいなのもあっただろうけど。そもそもそういう人たちはブログを書くこと、ブログでなにを表現するか?ブログとはなにか?ということに対する考え方が足りなかったようにも思えた。


自分はblog黎明期からblogというものを見てきたし、その参与観察的な形でblogをはじめたので、古いblogの定義に属するものなんだけど。

すなわち、「blogとはweblogの略。アメリカのウェブデザイナー界隈でWebをクロールする際に気になった情報、logを書き留めているうちにそれ自体がjournalとしての性格を持ち回覧されるようになった」、みたいなの。そういう時代のblogというのはジャーナリズムのオルタナであることが志向されていた。ダン・ギルモアとか伊藤穰一界隈。トリビア的にはblogのjournalを「エントリ」というのはこういった背景からのように思う。すなわち、「ジャーナリスティックなドキュメントとしての記事というのとは違うので、とりあえずMovable Typeなどのblogツールを使って書いたものをアウトプットするときのエントリボタンをそのまま動詞 → 一般名詞型な略称にしとこう」、みたいなの。

それに対して、「日本のそれはウェブ日記文化の継承でありジャーナリスティックなものには成り難いのではないか?そもそも日本は日記文化というものがあり…」みたいなのもあった。あとテキストサイト的な様式美がうんたらかんたら。くわえてニュースサイトがどうとかこうとか。



まあそういうのの是非は「あれから僕たちは」な現在、自分で確認できるものだと思うのだけど。


少なくとも自分が「内容がない」というときの見方はそういうのに属する。




そういう見方をもったbloggerやBlogosphereの気概、前提のようなものも遠くなって久しい感じ。


それは徳力さんあたりが進めていった日本のブロゴスフィアの盛り上げ、アルファブログ・ブロガーの選定や方向付けが外れたというのもあるのだろうけど、全体のメディア環境の変化も関係してるのかもしれない。まあ関心チャネルやアウトプットツールが増えた。



そして、「今年の終わりからはじまっていよいよ日本のネット環境にも動画元年が」、とか。
このへんでまたなんか変わるのかなあとかチラッと思うも、そんなに変わらないかもしれない。

でも、まあ地味に雰囲気が変わってきてる、みたいなのはある。

2016年のネットメデイア展望うんたら / 初詣で・初遠足|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nbe15070a7542





このエントリの主題としては「はてブのお気に入り登録できる企業公式アカウントけっこう使えるよ」ぐらいだったのだけどそういったことを思ったのはこの辺をちら見したから。



はてなブックマークというサービスについて思うこと - しっきーのブログ
http://blog.skky.jp/entry/2016/01/12/223756

わりと最近はてなとかはじめた人みたいなので上記のような経緯はもとよりはてなコミュニティ黎明期とかの様子も知らないみたい。はてなというのがその名の通りもともと公開質問してそれを不特定多数が答えていくサービスを軸としていたことも。

自分とかはsivadさんとかが四天王の一人とかリリカさんとか北田暁大さんとかが居た頃を思い出すのだけど。あるいは波状言論がどうとか。


なんどかエントリされたことだろうけどそういう時代のはてなのあのへんはまだアカデミックなものとjournalなものの中間的な性格があったように思う。

いまもそういったものをはてなでされてるダイアリーに偶に見えることもあるのだけど。それはコミュニティというわけでもなくひとりずつの日記て感じなので。



自分的にはてなのコミュニティが面白かった時代はあのあたりで、それ以降はどんどん細くなっていったなあ、て感じ。


特にホッテントリという装置がそのへんに影響したのだろう。まあ簡単には言論空間のワイドショー化だったわけだけど。それであのへんでクネクネ的なものが流行り、それが前景化されるようになった。

いまはそのクネクネや祭り的なものもあまりないようで、それでさえもごちそう感はあるのだろうけど。


たぶんサードブロガーとか言われてた人たちはそういう背景を知らない、あるいは知識としては知っていても、自分たちがしていることが単なる馴れ合いのクネクネであること、そしてそれが「内容がない」ということにはきづけなかったのだろう。


その時点ではてなは終わり、というか、終わった後の形骸になにかが咲いていた。深海の鯨の骨の周りに独特の生態系ができるように。


現在ははてぶ互助会とかぶくまを金で買ってうんたらとかスパムみたいなのがさらに悪どく、前景化しているようだけど。まあそれも死体とか腐肉あさりというか、終わってしまったものの上に魍魎が、てかんじ。特にそこで驚きもない。一般的には共有地の悲劇的な現象なのだろうけど。そもそも共有地としての機能はだいぶ前に終わってたように思えるし。


まあそうはいってもクネクネしたい人、ああいった同人的な慣れ合いを是しとする人達もいるのだろうし、ああいった同人的なものだからこそ表出される表現や景色、心情みたいなのがあったりもする。

そこにコミットした人たちが現在のあのあたり、「村」といっていいかどうかわからないあのあたりにとどまっているのだろう。



僕はブロガーになれない - orangestarの雑記
http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2016/01/08/070954

「俺は2010年代のブロガーになれない」 - シロクマの屑籠
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160108/1452245937


彼らはそういったアマチュアリズムに留まりたいといっているのだろう。「プロになると、金をもらったりして書くようになると書けないものがある」的に。


まあでもわれわれが志向したオルタナジャーナリズムとしてのblog、公共圏としてのBlogosphereはそういったふつーの生活的な心情や実感、リアリティを表すことを志向したはずだけど。既存の権威化したジャーナリズムではあらわせないものを表すオルタナとしてのblog。




弁当さんとかはその辺の意識を共有する感じで、最近の彼の一連はそのへんのびみょーさを感じさせた。


「ブロガーとして」と彼がいう時のそれは明確にオルタナな言論空間としてのそれを志向しているわけだし。そして、それがあるから政治・社会・経済的に公共的な話題に触れようとするのだろう。(ノ・∀・)ノ=●ウンコー!!とかされつつ。そして、それで地味にダメージとか食らいつつ。






この辺りについて、自分はどうか?、といえばもはやこのblogは自分のお勉強の成果の確認の場というか、書いて明確化して確認して一旦セーブして次に繋げる、場になってるのでジャーナリズムて感じでもないのだけど。


まあでもお勉強の成果が貯まって、それが政治経済的な事件にも反映されるようになれば自然と出していくのかもしれない。でももともとの性格とか方向性的にそういうものが合わないのかもで出さないのかもだけど。



そいやぶくまについて「くさすためだけにぶくまするならふつーに好きなもの見て褒めとけばいいじゃん」みたいなのみたのだけど、そういうのは自分的にだいぶ前からやってるので(ヽ´ω`)…て感じでもあった。

褒めるつーか対象となるサイトの情報を文字制限に合わせて精確に要約するに留める、ぐらい。あるいは簡単なメモ。

ソーシャルブックマークというのはもともとそういうものであるはずだけどぶっくまーくなんだから。でもまあ「結果的にミニブログとしての性格も持つようになった」というのもわからんでもない。

ただ、それはtwitterとか以前のことで、ついったーなんかでそういうことできるようになったらあまりあのへんでクネクネする意味なくなったと思うのだけど。それをまだやってる人たちは、機能的にはてブなどのソーシャルブックマークがそれに適してるから、というよりは、あのコミュニティの特定の人たちに向けて、て感じなのだろう。










posted by m_um_u at 17:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2016年01月12日

イケダ屋事変と村の終わり





夜の形のまま
僕の村は暮れる


村長は昔の想ひ出を繰り返へすやうに
彼の窓をひらく

光がその窓から流れる外側に
僕が昔のやうにゐる

村長の手のヒラは人生を思った



「道になら赤い花が咲いてゐる
咲いてゐる道が長いほど
お寺がこの村にもある」

鍋や花が僕の唇を濡らすなら
「僕は黙らねばなるまい」とも思ふ

あの日 僕の語った言葉は
遠い村民の唄にもなってゐた

唄は夜の形ではない

「樹を枯らしてはならん」

こんな形かもしれない


だから村長の手のヒラは人生を思った















基本的に自分のblogはお勉強blog的なもので他人様のあり方をあーだこーだいったりしてクネクネというのは禁じ手にしてるのだけど、まあたまにはいいかいま読んでた本の内容にもリンクするし、ということで。


ついったのTLでシロクマさんがれぽんを確認的に型にはめにいっていて(´・ω`・)すわ、一悶着か?とれぽんのTLをみにいってみるに「このまま不用意になんかゆってもシロクマに型にはめられるだけでめんどくさそう」ということでガンスルーぽかった。


http://b.hatena.ne.jp/repon/20160111#bookmark-276120130

長いです。 ついさっき、イケダハヤトって人について書いた記事を読んでた..
http://anond.hatelabo.jp/20160110131135

某プロブロガーを擁護する。 - Everything you've ever Dreamed
http://delete-all.hatenablog.com/entry/2016/01/11/190319

コンビニ店長、私はあなたとブログ交流を続けたかった。しかし、それは難しいのようですね。 - シロクマの屑籠
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160111/1452503553



イケダハヤトというひとがはてな民(特に村民周辺?)とか、あるいは切込隊長とかのネット民の周りで不評なのはなんとなく垣間見ていて、でも、イケダハヤトというひとについてそんなに詳しく知らない / そんなに掘り下げる気もないので「よくいる情報商材的な人かな?東京の駅前のカフェとかで若者引っ掛けようとする類の」みたいな印象で、自分としては特に積極的に見る気もなく、たまに話題に登ったときにチラ見しにいって、結果的にやっぱりがっかりしたので「まあやっぱそんなもんだよね」ぐらいだったのだけど、界隈の人たちにとっては相変わらずホット?な話題ぽく、わざわざ見に行ったり、あるいは、彼のぶちあげたタイトルだけ見ていらっと来てるらしい。

「いや、嫌なら見なきゃいいじゃんどうせがっかりして腐すだけだろうし特におべんきょーになるとこもないのだろうから」とおもうのだけど、たぶん界隈の人たちは元から腐すための相手を探しているのか、もしくは、なんか彼に気になるところ、彼らのなかで気になるポイントがあるので見に行ってしまうのかもしれない。たとえば彼の「ネットだけで食べていけるよー☆-(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノイエーイ」みたいなのとか。

アフィリエイトとかネットで、あるいはブログで稼ぐとかいうの。自分的には「まあ、それも収入の一つにできれば楽だよねえ(ヽ´ω`)…」ぐらいのスタンスだし、ぶくまで様子見てるとphaなんかもそんな感じかなあ、とか。まあイケダさんに直接興味もってるってわけではなく「生計の一つとしてこういうのが有効ならいいなあ」てぐらいでそれはアフィリエイトへの関心と同じだろうけど。そういやはてな界隈だとphaは好意的に受け取られてるように思うけど、phaがアフィリエイトについて語ったり関心をもっても特にアフィ厨とか、イケダハヤトさんへの嫌悪みたいなのと同様のものはもたれないのだろうか。だとするとその違いはどこなのかなあとかちょっと想ったりしつつ話題がそれたので戻ると。

「ネットだけで」てとこだとたしかに情報商材ぽいし、よしんばイケダハヤトというひとがほんとにそれだけで成功?だかなんだかしてとりあえず食べれてるとしても、それは万人に通じるものでもなく彼固有の基盤や背景があったからなせたことなのだろうから一般論でもないのだろうなあ、ぐらいにおもってる。よくある似非ビジネス本というか、経営者の成功本みたいなあれで。成功した経営者が自身の成功事例を語るのだけど、それが学術的にきちんとした分析になってなくて、基本的な背景部分を語ってないので万人に通じない、たんなるえっしゃえっしゃな自慢話になりがちなのと同じように。ちなみに「えっしゃえっしゃ」というのは田中角栄的な笑い声の表現であってessaさんとかは関係ないです。

よく知らないけどイケダハヤトという人の場合は、彼の路線がうまく回るまえに大企業だかなんだかでうまくコネクションや下地ができていて、それがあったのでうまくいったのかなあ、て印象がある。恋愛工学のひとも似た感じ。あるいはは○ちゅうとかも。

見に行っても自分的には内容がないのだけど、彼らが注目をあつめるのはそういう演出や技術に長けてるからなのかなあ、みたいなのは思う。

彼や彼女たち、あるいは、ITバブルみたいなのでウェイウェイいってる / ネットがあればなんでもできるよ☆みたいな東京キラキラ系のひとたちは世界が違うのだろうなあ、みたいな。


ちょっと言語化しにくいけど。彼や彼女たちがうまいこといったのは文化資本とか社会関係資本とか、そういう言葉でなんとなく仮置きされてる、個人の能力だけでは説明できないような環境的な豊かさが背景にあって、それを彼や彼女たちは偶然掴んだけどほぼ無自覚なのでその背景を度外視して語り勝ちになるのだろうな、ぐらい。まあそういうと彼らは「そういうのをつかめたのもぼくらの努力やもってうまれた才能があったからだ」みたいなこといって「いやいやいや、、」ってなるから堂々巡りなんだけど。




まあ、そこを批判したりやっかみしたりするのでもなく、自分としては「そういうものだ」「世界が違う」ぐらいに落ち着いてるのだけど。そして、特に見ない。得るものがなくイラッと来るだけなので。

まあなので自分もイラッと来るのは来るんだなそういう人たちに。




そういう「彼らは内容や実力はないけど売れる」「うまいことお金をもらえる」「世界が違う」ということについて、コンビニ店長(とはてな界隈で呼ばれる人?)がうまいこと表現してた。

俺が売ってるものは食い物がメインです。食い物は、払った金のぶんだけはなんらかの満足を客に与えなきゃいけない。そうでないと売れない。食い物の第一の機能は「食ったら腹埋まる」ということですが、ほかにも甘くておいしいだとか、レアだとかまあいろいろあります。ごく大雑把にいうと、普及価格の食い物に関しては「おいしい」と「腹埋まる」がメインの機能で、ほかのものは付加価値だと思ってます。
しかし実際に売れる商品ってのは付加価値で売れるんですよな。パッケージがいい、CMが大量投下されてる、見た目より重い、いままでに見たことがない、など。まあリピート以外の要因では、食ったことがない状態から買うんだからあたりまえの話ではありますが。
で、イケダハヤトっていう人は、この付加価値の部分を極大化させた人だと思うのです。あらかじめ言っておきますが、いいとか悪いとかの話はしてないです。そもそも俺はブログってものを「文章をのっけるためのメディア」としか考えてません。俺にとってそうだからそうだ、というだけの話で、この段階で、そうは把握していない人を批判する資格と能力がありません。
ただ、人目に触れるなんらかのメディアである以上、その本分は「おもしろい」か「役に立つ」だと思ってます。おもしろいってのはなんでもいいです。単純に笑えてもいいし、罵倒芸でもいいし、人の生の一断面があらわれてるようなものでもいいし。そして、それ以外の部分はすべて付加価値です。



まあこういった小売で内容-材料-サービスやモノの本質的なとこ以外の「売れる」周辺要素を「付加価値」という言葉で表し通じる現状があるので。

自分的にはそれは付加価値≒演出、というだけではなく、その前段階の「売れるに至るまでの背景」みたいなのがあったからだとおもうけど。




イケダハヤトさん、あるいはそれ系のひとについてはそのぐらいで終わり。


あとはれぽんがルサンチマン吹き出してたのが気になった。
https://twitter.com/repon/status/682558082505768960
https://twitter.com/repon/status/682557619857305604
https://twitter.com/repon/status/682555943037480962
https://twitter.com/repon/status/682529483346214916
https://twitter.com/repon/status/682426232026206208
https://twitter.com/repon/status/682425624502243328
https://twitter.com/repon/status/682169813058240512
https://twitter.com/repon/status/682167469750894592


また「奴隷」とか「他人を食い物」とかドロドロした言葉使ってんなあ、、とか思いつつ。まあ彼の場合は実際にそういう人たちに関わって利用されてた経緯があるし、その傷がなかなか癒えない / 家族との暮らしの現状でもそれが続いてるというのもあるのだろうからその日常のストレスがどす黒くヘドロのように貯まってるのだろうなあとか思うのだけど。あと、そういうので吐いた恨み節が彼がネットで注目された経緯 → 持ち味的になってるというのもあるし。



コンビニ店長とかフミコフミオさんには好意を持ちつつシロクマさんはくさしたのもそういう経緯・背景からだったのかなあとか邪推する。


最近のシロクマさんは特に落ち着いてプチブル()感漂わせてるし、そういうのが「安全圏からなんかいってやがる」的に癇に障ったのかなあ + オレのてんちょーを語るな、的な。


つか、れぽんの言ってたのはちょうど読んでたカイエ・ソバージュ3に繋がるなあとか思った。


愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ) -
愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ) -


「富の奪い合いが人類の類的本質。人間性とは同類への攻撃性」とかれぽんはゆってて、実際彼はそういう闇金ウシジマくん的な世界で生きてきたのだろうし、現在もそういうところにいるのかもだからそういう風におもって当然 / そう思うことでやっていけるというのもあるのかなと思うのだけど。


中沢新一ほか贈与経済に希望を見出した系のひとたちというのは「それは人間の本質というか資本主義型経済が中心になってる現在の不備であり、人類が未完の結果だ」ということになるのかなあ、とか。


れぽん的には「資本主義が現状な現在、けっきょく資本をもってそれを投資サイクルしていったものの勝ちであり、貧乏人がその波にのるためにはどっかの段階でギャンブルせざるを得ない。貴族なやつらは貧乏人のそういう場面での不安と勇気を理解しようとしない」ってカイジ的なマインドにあるのかなてとこなのだけど。「サバイブな現状的にはそういうのもあるよ(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」とか思いつつ、抽象度をあげると「経済とか交換、あるいは贈与というのはなんか神秘的な運動で、そういうところに人類は愛を求める」みたいな中沢のいうこともなんとなくわかるようなわからないような。

ベタには貨幣経済で価値が平均的に裁断 → マトリクスされた交換関係の中で、人の生が物象化されて疎外されていく → なんだか味気なくなる、てあれで、そういうときに「お金だけじゃないもっとあったかいつながりのようなもの」を求める気持ちがあるのもわかる。

まあそういうこというと、あるいはそれだけで語ろうとすると( `д´) ケッ!ブルジョア安楽椅子の貴族主義が平和ボケしやがって、てことにはなるだろうけど。



「愛」という言葉がなんか漠然と範囲が広いのだったら承認欲求という言葉ではてな界隈で広まってるああいうのでもいい。まああれが「愛」ってことでもなく「愛」的なものの一部だろうけど。


ちなみに承認欲求という言葉で通じてるあのへんの定義がいかに曖昧で漠然としたものかは以前についったで愚痴ったのだけどめんどくさいのでここではまとめなおさない。まあ興味あるならこのへんみればいいとおもう。
http://twilog.org/m_um_u/date-151123

あるいは

http://twilog.org/m_um_u

を「承認欲求」で検索

http://bit.ly/1RIGe7s



そういう虚栄と欲望、あるいはそこからの嫉妬の混ざった複雑な気持ちがあのへんなのかなあとか。


けっきょくはてな村というのはかのせさんとかシロクマさんとかが「承認欲求」という言葉を中心につくっていった、あるいはなんとなく界隈していったあのへんで、であるなら、承認欲求という言葉が上記twのような理由で解体されたとき、ほんとに「村」は相対化され解体されたのだろうなとか自分的に思った。


そしてふたたびはてな村奇譚とかを眺めるのだ



はてな村奇譚上 -
はてな村奇譚上 -



そいやはてな村奇譚もアマゾンプライム無料なキンドル本の対象になってたのだけど、それは1月に一冊、クラウド的に読めるというだけのようでこれをダウンロードした後にゲンロンも無料対象になってたので落とそうとしたら「一度に一冊で同時に二冊は出来ません」とか表示されてしまった(´・ω・`)


ゲンロン1 現代日本の批評 -
ゲンロン1 現代日本の批評 -


まあけっきょくこっちに張り替えたのだけど。


このぐらいの感じでこのぐらいの本とか雑誌が読めてくと楽だなあとかおもって現代思想やらそのへんのも対象にならないかなあとか思うのだけど特になかった。こういうの自主的にできるならレトリカとかもさっさとやっとけ(←八つ当たり








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2016年01月03日

「タブーの謎を解く」「食の歴史人類学」





ついったかはてぶ経由でみたブログで紹介されていた本がおもしろそうだったので読んでみたら実際おもしろくて、いちお感想なりなんなりまとめようなあとおもいつつも年末で忙しくてなかなか時間がなく。まあいま同著者の別の本読んでるのでまとめてなんか書いとこう。


もし同性愛を「キモい」と感じるとしたら、最大の理由はおそらく自分自身の中にある同性愛的傾向を嫌悪しているからだと思う - しいたげられたしいたけ
http://watto.hatenablog.com/entry/2015/11/30/003000



タブーの謎を解く―食と性の文化学 (ちくま新書) -
タブーの謎を解く―食と性の文化学 (ちくま新書) -



上記の紹介エントリで書かれていた内容は違和感あったのでちょっとついったーでうんたらゆっといたけど
https://twitter.com/m_um_u/status/671453940194476033

紹介されてた本自体はたしかにおもしろかった


本書の内容を簡単に要約すると、<人類には大きく「性」と「食」をめぐるタブーがあり、タブーが設定されてる領域というのは得てして境界(リーメン)領域であり、2つの価値・規範の混ざり合うところ、混雑(カオス)してわけわかんなくなるところにある。その混乱を識別するためにタブーが設定され夫々の文化ごとに守られるように規範化される>、というもの。

人がなにかをキモいとか思うようになるのはこの文化・規範が刷り込まれてるからであり、刷り込みによって天与の属性、本質的なものと勘違いしがちだけどそれらは文化的な規範であり識別子程度のものだ、という話。


言ってみればホモフォビア的なものも畳の縁を踏むタブー≒キモさと変わらないということ。


ちなみにホモ的なものへの禁忌、あるいはその反対の奨励も、ヘテロにおけるインセストをめぐるタブーやその前提として女性を贈与交換の交換剤として扱うことにしても共同体における経済合理性がその要因となっている、ということらしい。


たとえば非近代的な共同体ではしばしば通過儀礼として未成年男子が成年男子の精液を飲まされるらしい。

性が近代的な消費対象としてステロタイプ化されてない文化圏では性がしばしば神秘的なものとして扱われ、社会の中心的な性別としての男性の性には霊気のようなものが宿るとされる。すでに戦士として成年した大人の男性に宿るそういったものを未成年に受け渡してからヘテロ的な交わりを行っていく段階に移る。

まあ似たような通過儀礼をとる共同体全てで精液を飲ませるわけではなく共同体によってやり方は違うみたいなんだけど。



ここでは性をめぐるコスモロジーが人間中心なセックス的なもの以外にも接続しているのでこういったことがふつーに行われている。



インセストが設定されるのは基本的には、外部の因子を必要とするため≒内部で自家消費してると外に回りにくいので禁じた、ということになる。あるいは近親相姦してると遺伝子的に弱くなっていくから、というもの。


それは俯瞰すれば「生物学的、あるいは社会性物的な合理性に基づく」ということになるのだろうけど、人間はすべての行動をそういった合理性に基づく完全合理性にもとづいて選択しているわけではない。


私は何も生物学的説明はすべて間違いだといっているのではない。そうではなくて、ヒトの近親相姦禁忌は、なんらかの自然的、生物学的あるいは生態学的な基盤の上にのっていて、それとまったく無関係ではないにしても、しかしそれだけでは完全に説明できない。論理的階梯の質的レベルが一段違っている、といいたいだけなのである。



このへんにハビトゥス的なものも絡むのかなと思う。なので著者(山内)も「食」や「性」に惹かれるのかなあ、とか。





おもしろかったので同著者の代表作的なものを見てみたらこんなのがあったので現在図書館で借りて読んでる。



「食」の歴史人類学―比較文化論の地平 -
「食」の歴史人類学―比較文化論の地平 -




現在「日本人と異国料理」「南欧人と異国料理」の2章を読んだところ。


伊達の支倉遣欧使節がヨーロッパにいったときに何を食べたか?、とか、ザビエルら宣教師が日本に来た時に日本が粗食すぎて苦労した話とか書いてあっておもしろいのだけど、そのなかでも両章に渡って目立ったのは支倉使節団ぐらいの時代の頃は食に関する文明的には日本のほうが進んでたのではないか?というところ。

「どっちが進んでるか?」みたいなのは文化相対主義的なところがあるのだけど、食の文明をめぐるこのあたりでは「皿がそれぞれに分けられていたか」「手づかみではなかったか?」みたいなのが一つの基準に成ったりする。


南直人、1998、「ヨーロッパの舌はどう変わったか」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384995687.html



まあ「手で直接食べるから野蛮」とも即断できなくて、手で食べることの豊かさみたいなのもあるわけだけど。


とりあえずこの時代にはまだ西欧における野蛮の名残があったぽい。皿とかはなくテーブルに直接料理をぶちまけ、それを甲冑のままナイフで削り、ともすると大皿やテーブルにおかれたそれを争うときにナイフで手を傷つけられるために篭手などが必要だった。貴族や文化人もテーブルクロスで手づかみのヨゴレを拭い、それが故にテーブルクロスはいつもベトベトで、それに関するマナーもできた。よく調べてないけどフィンガーボール的な文化というのはその名残かもしれない。

ナイフがその先端を丸く削られたのはリシュリュー枢機卿の布令の功績で、フォークなどという食器も未だなかった。スプーンは貝殻状の大きなもので、それは女性器の暗喩的なものともされた。


大航海時代を経て日本などと接触してきた時代でさえそうだったのだから、それらが現在のようなヨーロッパ的なテーブルマナーの洗練に行き着いたのはいつごろからなのかなあと想うに、たんなる推測だけど、中国や日本との直接的接触を経た影響もあったのかもしれない。まあ経済的にも豊かになって「文化」がいろいろ生まれていく余裕もできたのだろうし。


そんなことをぼけーっと想いつつ次の章に移ろう。



ちなみに「タブーの謎を解く」はこの本からのスピンアウトだったぽい。









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石毛直道、2006、「麺の文化史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384598908.html


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2015年12月30日

fireタブレットとfireTVstickを買った


少しまえにfireタブレットとfireTVstickを買った。自分への(クリスマス)プレゼントとして。クリスマスまでのプライム会員加入煽りセールでfireタブレットはお試し中プライム会員なら4000円キャッシュバック、fireTVstickはそういうの関係なく1000円割引だったので。




Fire タブレット 8GB、ブラック -
Fire タブレット 8GB、ブラック -

Fire TV Stick -
Fire TV Stick -


セール対象としてKindleもかかってたのでkindleにしようかどうしようかちょっと迷ったけどけっきょくfireタブレットにした


Kindle Wi-Fi、ブラック、キャンペーン情報つきモデル、電子書籍リーダー -
Kindle Wi-Fi、ブラック、キャンペーン情報つきモデル、電子書籍リーダー -


もともとこういうのを購入しようと思った動機はhontoなんかでちょこちょこkindle対象にしたセールをやっていて、それがみょーにお得 / 中古本より安い、ということからだった。それでちょっと見てみたらAmazonだとkindle対象の本は毎月一冊無料になるらしいのでそれもいいなと思って。図書館で本を借りるのを常態にしてるのだけど、新しく出た本、特に新書なんかはリクエストをしてもなかなか図書館が入れてくれないので。それだったら買おうかというとこでもあるんだけど、だいたいの新書は購入するほどの価値が有るものでもなく雑誌の特集に毛が生えた程度のものだし。なので「一ヶ月に一冊新書が無料でゲットできるならちょうどいいかなあ。。」というのもあった。結果的に無料対象本はAmazonが決めてる範囲のものに限られていて自分で自由に選択できるわけでもなかったのだけど。まあとりあえず新刊と極安中古の間に「いきなり新中古よりちょっと安い」な選択肢が出来たのは良い。書籍の形をしていても特に書棚に置く必要を感じないようなものもけっこうあるし、そういうのをkindleで購入できるのは棚がかさばらなくて良い。


もうひとつの動機は少しまえに始まったアマゾンプライムの無料対象動画が思ったより充実してきてるというのをついったーのTLでみて気になったから。それでチェックしにいってみたら確かにけっこうな映画が見られるようになっていた。特に邦画が。洋画は吹き替えではなくだいたい字幕なので自分的には見にくい。

自分はTSUTAYAのT-SITEを通じて「よくつかう店舗」登録をしてるので准新作はセールの時なら108円で借りられるのだけどプライムビデオがこんな調子だとだいたいの旧作はわざわざ借りなくてもいいかなあ、とか。まあその中でも無料対象として載ってない奴はTSUTAYAいったほうが早いだろうけど。Gyaoなんかでも無料映画でけっこう出てるのでそれも含めると「気になってた邦画」が無料状態でこういったところに積みコンになってるということになる。感覚的には自分の気になるコンテンツも含めてクラウド化されてる感じ。なので、そういった積みコンを消化するのを優先すればわざわざお金を払ってまで見る必要があるものの優先順位が下がっていく。あるいは「これは無料化もされずDVD化もあやしいので映画館でみとけ」って一回性がそこであらためて効いてきたり。

話は少しそれるけど自分は映画館があまり得意ではなく、特に大きなスクリーンで見る意義も感じないタイプなので、できれば映画なんかも家で見たい。なので、映画館で新作映画を1800円も払って見る意義をあまり感じない / むしろ苦行なので、映画館に行くときはさっきいったような動機、いま見とかないとDVD化 → レンタルもされないかもだしなあ。。が誘因となってる。特にみなさんが話題にしてるからといって興味がそそられるということもないし。。それが一時の流行ではなく、本当に内容を伴った名作なのであれば、時機が違っても見ることによってきちんとした満足感をもたらすはずだろうから特に「いま話題の映画」「いま話題のコンテンツ」を追っかける必要性を感じない。あるいは「いま話題の話題」も。


閑話休題


そういった形でアマゾンプライムほかに無料コンテンツが積まれててまた積みコンが増えて気持ち的に忙しくなってる。まあそんなに急がなくても消えるわけでもないのだけど、Gyaoなんかでは期間限定で無料配信してたりもするのでそういうのはちょっと焦る。


てか、


動画とかよりも実際の生活の中でおおきくQOL変わったと思えるのは音楽で、アマゾンプライムミュージックのプレイリストをfireTVstickを通じてテレビで聴けるようになったのが自分的には地味に大きい。

いままではPCを立ち上げ、Amazonミュージックのアプリを立ち上げ、しばらくして聴く、っていう起動するまでけっこうな時間がかかってたのだけど、TVを通じてなのでわりとすぐにプレイリストを再生できるようになった。うちのテレビはレグザなのでクイックボタンでタイマー機能もあるので寝る時につけっぱでタイマー設定しとけば切れるってのもあるし。あと、うちのボロPC環境だと音楽をかけないぶんメモリに負担がかからずに良い。


タブレットの方は現在おもにお風呂に浸かるときにちょっとアニメ見るのに使ってる。

サムライチャンプルーなんか見てなかったのだけど、プライムビデオに出てるのでおっかけでちょこちょこ見てる。アニメは一回につきだいたい20分ちょっとなのでお風呂に入る時間的にもちょうどよい。それ見ながら今までどおりiPhoneからたんぶらでリブログしたり、SmartNewsチェックしたり。


こういうのも慣れてもうちょっとしたらタブレットのKindleにいろいろコンテンツ入れてくのだと思う。まあたぶんマンガがメインかなと思うけど。


書籍系、あるいは漫画系のKindle無料のものもチェックしたけどだいたいがゴミみたいなので、書籍のほうでつかえるものとしたら著作権切れた古典がメインのようだったのでこれだったら青空文庫ビューアみたいなのつかったほうがいいだろう。

あとは無料になってる雑誌とかにちょっと可能性があるかもだけどこの辺は未だチェックしてない。



けっきょくいまのところfireタブレットよりもfireTVstick購入の方がなにげにQOLに効果してるようなんだけど、まあこれもKindleのライブラリが充実してきたら違ってくるかもしれない。あとはおでかけ時のお供・暇つぶしとしてのタブレットとか。




動画としては無料動画にだいたい慣れたり飽きたり消化した頃合いに月額定額で見放題なサービスに登録してみようかと思ってる。HuluとかNetfixとか。あの手の月額1000円未満で見放題みたいなの。

あれも映画のほかに海外番組的なものが見られるといいなと。ドキュメンタリーとか。アメリカのPBS系番組とか。ナショナルジオグラフィック系番組とか。その辺を調べたり実際に無料お試しで使ったりして見定めて登録していくかも。


そいや月額1000円といえばGooglePlayMusicも月額1000円で、当初はその便利さに1000円払って加入したものだったけど、そこで主に聞いていたプレイリストがアマゾンプライムミュージックのプライム無料対象音楽から構成されることに気づいてそっちがメインになった。こっちのほうが軽いし。


それでちょっとまえにGPMのほうは退会したのだけど、ふとBONNIE PINKさん聞きたくなってAmazonミュージックで検索してみたらプライム無料対象になってなくて反映されなく、、んでもGPMだと余裕であったので(´・ω・`)て。まあこのへんも複数登録したりして使い分けなのかなあ、とか。

音楽のストリーミングみたいなのだとアップルも同じようなサービス(Appleミュージック)やってるみたいだけどこっちはまだ試してないのでそのうち試したい。









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Chromecast 2.0を衝動買いしたけどすごい便利 - 最終防衛ライン3
http://lastline.hatenablog.com/entry/2015/12/15/054348




FIRE TVで4K Netflixと大画面Kindle読書を楽しむ | N-Styles
http://n-styles.com/main/archives/2015/10/30-031900.php



梅が咲いてきた /  J-POPの未来|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nf2691041a9d5






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2015年11月25日

最相葉月、2014、「セラピスト」



セラピスト -
セラピスト -



「読んだ」ぐらいに、この本からリンクした次の読書リストをメモる程度にとどめておいても良かったのだけど、一部が次?のエントリにも繋がる話なのでメモ的に。

「昨今の若者の特徴として、主体-自我が確立しておらず、かつての精神医学の療法では対処できなくなっている」みたいなの。結果的にDSM的基準から操作主義的な対処や認知行動療法(物事の受け取り方や考え方の癖、歪みを自覚し、それによって引き起こされた行動を訓練によって修正していく心理療法)などがとられているようだけど。そして重篤な場合には精神医学的に「お薬を出す」。それは対処療法であって根治ではないのだろうなあという印象がある。平たくいうと「救われない」。まあでも、スピード化が求められる現在の精神医療な現場ではシカタガナイという側面はあるのだろう。それとは別に個人的にはこういうのかかる場合は精神医学なひとではなくセラピストやカウンセラー的なひとに診てもらいたいと思うけど。



前置き長くなったけど該当箇所の引用(一部中略)から


「箱庭療法はやりにくくなっています。絵画療法もそうです。箱庭や絵画のようなイメージの世界に遊ぶ能力が低下しているというのでしょうか。イメージで表現する力は人に備わっているはずなのですが、想像力が貧しくなったのか、イメージが漠然としてはっきりしない。内面を表現する力が確実に落ちているように思います。ストレスがあると緊張が高まって、しんどいということはわかる。だけど、何と何がぶつかっているのか、葛藤が何なのか、わからない。主体的に悩めないのです」

「最近多いのは、もやもやしている、といういい方です。怒りなのか悲しみなのか嫉妬なのか、感情が分化していない。むかつく、もない」

「むかつく、というのは苛立ちや怒りの対象があるということです。でも、最近は対象がはっきりせず、もやもやして、むっとして、そしてこれが一定以上高まるとリストカットや薬物依存、殴る、蹴るの暴発へと行動化、身体化していきます。でも、なぜ手首を切りたくなったのか、その直前の感情がわからない。思い出せない、一、二年ほどカウンセリングを続けて、そろそろわかっているだろうと思っていた人がわかってくれていなかったことがわかる。それぐらい長く続けてもわからないのです。悩むためには言葉やイメージが必要なのに、それがない。身体と未分化というのでしょうか。○○神経症と名付けられるのはごく少数派です」

「私が相談室に入った1980年代は、クライエントにはまだ主体性がありました。抱えている問題を言葉やイメージで伝えることができました。ところが、今は、言葉にならないというだけでなく、イメージでも表現できないのです。箱庭を作りたい、絵を描きたい、夢について語りたいという学生も減りました。かといって、カウンセラーのほうにも箱庭に誘うゆとりがありません」




学生相談員であり河合隼雄の弟子筋であるが学生の特徴について研究した「現代学生のこころの育ちと高等教育に求められるこれからの学生支援」(2009)から、相談にくる学生たちの大きな変化、3つ:


一つは、自分の言葉で悩めない、ということ

二つ目は、「巣立てない」ということ。疾患など特別な背景もないのに引きこもっている学生が増えてきている。あるいは内定鬱からパニック障害になったり。

三つ目は、特別支援を要する発達障害やその傾向をもつ人々が増えている、ということ。ネットジャーゴンだといわゆるコミュ症。



河合隼雄「発達障害への心理療法的アプローチ」との関連から、該当インタビュー


「対人恐怖症は、今はほとんどなくなってきたんです。ものすごい少ないです。ぼくが臨床始めた頃は、対人恐怖症がものすごく多かったんです。いまそれないですよ。対人恐怖にならんと、ただ引っ込んでるのや。人前に出なきゃならない、でも出られない、そういう葛藤があるから対人恐怖症になるんでしょう?今は葛藤なしにポンと引っ込んでしまうんです。赤面恐怖の人もものすごい減ってます。赤面恐怖いうたら、積極的に出てくるか、ポーンと引っ込むか。その間に立って、いちばん困ってる、人間関係の日本的しがらみの中でフラフラになってるのが赤面恐怖だったんですよ。それがなくなってきてる代わりに、途方もない引きこもりになるか、バンと深刻な犯罪になるか」(「論座」2008年1月号)



河合隼雄が見るもう一つとして、1970年代から80年代にかけて大流行した境界例が減少してきている、というのがある。


境界例とはパーソナリティ障害の一型で、もとは神経症と精神病の境界領域にあるという意味で「境界例」と名付けられた。親子関係や恋人関係、治療者との関係など二者関係にこだわり、しがみつく。相手を賞賛し理想化したかと思うと、こき下ろす。すさまじい自己主張をし、相手に配慮することはない、などの特徴がある。

境界例に代わって解離性障害(ex.多重人格)の流行があり、やがてそれも去った頃に発達障害が目立つようになった。



発達障害には授業中や座っているべきときに席を離れてしまう「多動性」や「不注意」、含みのある言葉や嫌味をいわれてもわからず、言葉通りに受けとめてしまうことがあるなどの「対人関係やかだわり等」に特徴がある。

河合俊雄はこれを「主体のなさ」ゆえの障害だと見ている。主体がないから他者が認識されず、言語が生まれてこない。主体が欠如しているから、人と関係が持てず、孤立している。あるいは、相手や状況に合わせてしまう。学生を指導する中でも、クライエントを見ても、父・河合隼雄の時代とは明らかな違いを実感する、と河合はいう。

「世の中は、クライエントもセラピストも、従来の心理療法に向かない人が増えています。実習でロールプレイをやっていても、相手がしゃべっているのを待っていられない。ためることができない。そんな学生が増えてきました」

「今は、全部が表面の世界なんです。たとえば、ツイッターにぽーんと書き込むとみんなが知っている。しかも、RTというかたちで他人の言葉が引用されて広がっていくので、どこからどこまでが自分の言葉かという区別もない。秘密とか、内と外の区別がない世界なので、自分にキープしておくことがなかなかできなくなっているんですね。心理療法というのは主体性があって自分の内面と向き合える人を前提としていますから、内と外の区別のない場合は、相談に来ても、自分を振り返ることが非常にむずかしいんです」




反対に、よく喋るクライエントも「しゃべる」ことで己を守っている・隠しているところがあるようで、ふとした沈黙の次に訪れる言葉のほうが大事だったりするらしい。




<主体がない≠自我がない>という問題についてはこのへんでうんたらした。


あれからぼくたちは / 冬の風のにおいがした|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n00fabbd86e6c


承認欲求という言葉でミスリードされてる虚栄と刺激の構造もこの辺だろうし、「カーニヴァル化する社会」で射程していたネットによく顕れるような現代若者の特徴もこの辺の問題となる。すなわち「短期的な祭りをコンサマトリーするわりには長期的なもの、(ミードいうところの)"I”がない(他人との刺激-関係にもとづいた me だけ)」


カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書) -
わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書) -

鈴木さんのこういった関心や射程はブログ、soul for sale を読んでいても伺えるし、実際に学生指導を通じて感じた実感にもとづいているのだろう。その意味で、教科書的なオベンキョだけの話でもない実体験を通じた試考錯誤なのだろうなあとおもえ、ケーゾク話題としてのこの辺りが気になりつつ積読(録?)となっている。


2015年08月30日Part0(予告編)「ブロック化する社会をどう生きるか (文化系トークラジオ Life)
http://www.tbsradio.jp/life/2015/08/20150830part0.html




なので、このエントリ終わって次の読書ターンにとりかかったときにpodcast聴いたらおっかけ感想したりしなかったりしようかと思ってるんだけど。




「セラピスト」の話題に戻ろう。




全体としての感想や印象としては「精神分析とかカウンセリングについて悪い印象を持っている人は読んだほうがいいかもなあ。。」というものだった。自分もそうだったのだけど、<大した共感力もなく、他人の心がわからない人間がただ「精神科医」という肩書きからマニュアルで人を裁断し、マニュアル通りに薬漬けにする>、みたいなの。精神分析に基づいたシカクシメンなひと的にはそういうところもあるのだろうけど、心理療法士全体がそういうわけでもない。あるいは精神科医も。

本書は日本の代表的な精神科医であり臨床家である河合隼雄と中井久夫を中心とした「日本精神分析血風録」的なところがある。

本の雑誌血風録 (朝日文庫) -
本の雑誌血風録 (朝日文庫) -

黎明期の日本の精神医療において、試行錯誤や葛藤を通じて現在のような方法が採用されてきたこと。その過程での心あるセラピストのあり方のようなものが伺える。


また、本書は河合隼雄に代表される箱庭療法、中井久夫に代表される絵画構成法がどのような背景と目的から実践されていったかをゆるく伺えるインタビュー集にもなっている。河合隼雄は故人なのでインタビューの中心は中井久夫となり、著者である最相葉月は実際にそのセラピーを受けつつ箱庭療法を実践していく。そして、その過程で自身が精神的な病を患っていたことも判明していく。


[書評] セラピスト(最相葉月): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2015/09/post-ef7f.html

 個人的なことを書くことをお許し願いたい。私はずいぶん前から、自分がなんらかの精神的な病を抱えていることを自覚していた。ときどき風景が止まって見える。睡魔が襲う。重いときには、テレビのお笑い番組で笑えず、毎朝毎晩読んでいた新聞を読めなくなる。(中略)物事の判断力が鈍り、わけもなく涙がこぼれる。このままでは死ぬしかないと思い、首をつろうとしたこともあった。



自身の傷に触れるこのカミングアウトは最相葉月の作家としての、あるいは、人としてのポリシーになってるものにも思えた。「一方的に他人を断罪しない」「対象として消費しない」といったような。そして最相が会ってインタビューしてきたセラピストたちにも通じていく。

「セラピストになる内の1/3はふつーのひと、1/3は自身も過去になんらかの精神疾患があって興味を持ち共感力が高い人、1/3は現在病にある人」(大意)という辺りにもそれは表れていた。すなわち、単に腑分けし、オクスリするだけがカウンセラーではないということ。対話を通じて自身の問題にも向き合っていく人たちがいるということ。


「カウンセリングはまずその人の話をじっくりと聴くということです。話をきちんと聴くだけでも違う。きちんと聴き適切に相槌、応答していけばクライエントのほうから自身の矛盾に気づき、問題を明るみにし、修正のきっかけを提示してくれる」

このようなことが書かれていた箇所があったように思うけど、そんな感じではないかとおもった。別件で「風俗のお客の語りでもそういうところがある」「−y( ´Д`)。oO○SMなんかもお客その部分をお察しし、調度良いぐらいの力加減でカタルシスしていくのがポイントなんだよ」とかな会話したなあとか思い出しつつ。


そういうセラピストに出会えれば幸いなのだろうし、医療現場に限らなくてもそういう人はいるのだろう。










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バブ / 団子の日 / 自己愛について / ヒロシマ(パリ、ベイルート、レバノン、フクシマ、、)というとき|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n305840021fbe


嫉妬、羨望、感謝感激雨あられ|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n463bd8044424




熊倉伸宏、2000、「死の欲動  臨床人間学ノート」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/415586919.html





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2015年11月21日

「進撃の巨人」を7から17まで一気読みしてみてうんたらかんたら



大した話題でもなくエントリするほどのものでもないかなあとはおもうんだけど、他人様のこういう系の感想が見てみたいなあと思ってる自分がいたので「まあそれだったら」ぐらいで自分のものをを置いとく。なので、こういう見立てをするならもっとうまく言語化できるひとがいるだろうし、そっちのほうを期待する程度。リベラル / ウヨサヨ的なとこは今回はわりとどうでもいい(むしろ、パリのテロをネタにうんたらするのは現段階では控えたい)。

なので、以下はウヨサヨがどうとかな政治的なうんたらがメインというよりも「最近読んだマンガからなんとなくおもった」ぐらいのこと。

























進撃の巨人 コミック 1-17巻セット (講談社コミックス) -
進撃の巨人 コミック 1-17巻セット (講談社コミックス) -


「進撃の巨人」を最初に見た時の印象は「周りを壁で囲まれた街でのサバイバルタクティクスもの。ギミックとしての立体機動装置とかは中世 → スチームパンク的な技術文明的にあったかもしれない未来(パラレルSF)を思わせる」ぐらいで、「囲まれた街」「タクティクス」「サバイブ」「巨人におっかけられ食われる」「駆逐してやる…駆逐してやるぞ!」な印象だった。特に後者の「巨人に追っかけられている」「駆逐してやる」というところがこの作家の無意識下になぜかある声のようなものをモティーフとして具現化したものなのかなあ、とか。そこに箱庭的な城塞都市空間が絡んで。なので、汚い大人のパターナリズムによる圧迫に神経症的な不安を感じた若者たちによるオヤジ狩りみたいな反動を表したものなのかなあ、とか。精神的にはおやじ狩りとしてカタルシスしつつ、現実世界としては「そうしたオヤジたちにはならない」「居酒屋コミュニケーションとかしない」ぐらいの。

全体の設定とかキャラとしてはラノベとかふつーのスチームパンクファンタジー程度のものなのだけど、巨人の造形のとこだけが独特の嫌な感じで、その嫌な感じが癖になるところなのかなあって感じだった。ヒエロニムスボッスとか石田徹也みたいな嫌な造形の巨人たちが弱っちい人間たちをぷぢゅっと食べるとこに感じる自虐のようなもの。


石田徹也遺作集 -
石田徹也遺作集 -


「なぜかわからない、誰かに設定された擬似環境ー箱庭世界におけるバトルファンタジー」ということだと「CLAYMORE」を想わせたし、バトル要素を抜いた箱庭世界ということだと「マリィの奏でる音楽」を想わせ特に新しいものには感じなかった。

CLAYMORE 全27巻完結セット (ジャンプコミックス) -
CLAYMORE 全27巻完結セット (ジャンプコミックス) -

Marieの奏でる音楽 (上) (バーズコミックスデラックス) -
Marieの奏でる音楽 (上) (バーズコミックスデラックス) -

Marieの奏でる音楽 下    バーズコミックスデラックス -
Marieの奏でる音楽 下  バーズコミックスデラックス -

「進撃の巨人」のモデルになった都市?の周辺話    中世ヨーロッパにおける巨人、city、village: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/379508545.html




そういう印象だったのだけど、しばらくブランクを開けて読んでみたら登場人物の心理、葛藤描写のところがさらに深まってるように思えた。以前は、<自閉からの反動的な攻撃性を妄想したものという雰囲気で、そこに自虐が感じられその自虐が巨人の造形に投影されてるのかな>、って印象だったのだけど。しばらくぶりにみると、登場人物たちがそれぞれに戦う理由やそれぞれの場面での勇気を振り絞って立ち上がる場面を通じて、そのあたりの自虐、陰鬱な雰囲気が少しずつ変わっていってるように印象した。特に15,6巻ぐらいの盛り上がりのところの、主要登場人物以外の、都市の住民たちも勇気を振り絞って革命に参加していく場面。この辺りは単なる自分と(その投影としての)仲間たちのヒロイック・ファンタジーへのナルシシズム的心酔ではなく、「社会全体と協力していく」「絶対不利な情況でもなんとかしていく」という意志のようなものが感じられた。そこではオヤジたちは「汚いもの」としてもはや巨人たちへ投影されるだけのものではなくなっていた。そして、そういった勇気のあり方、「絶対閉塞な環境でサバイブ的に勇気を振り絞って活路を見出していく」「それでもまず一歩を踏み出す」という辺りに真鍋昌平を感じた。

新装版 スマグラー (アフタヌーンKC) -
新装版 スマグラー (アフタヌーンKC) -

SMUGGLER (アフタヌーンコミックス) -
SMUGGLER (アフタヌーンコミックス) -

闇金ウシジマくん コミック 1-34巻セット (ビッグコミックス) -
闇金ウシジマくん コミック 1-34巻セット (ビッグコミックス) -

真鍋昌平はウシジマくんの描写から社会の嫌な部分を垣間見せる露悪的なものとして印象されがちだけど、作品のテーマは「そんなところでウジウジしてねえでなんでもいいから最初の一歩を踏み出せよ」ということでそれは初期作「スマグラー」に凝縮されている。逆にいうとどのような環境でもうじうじと凝り固まって小さな集団の論理で酔って依存してる人たちは不幸になっていく / なっているという視点から露悪的な場面が生まれている。そういう意味ではその辺りの描写とメッセージは「東京タラレバ娘」「かくかくしかじか」に通じる。

かくかくしかじか 1 -
かくかくしかじか 1 -
かくかくしかじか 1 (マーガレットコミックスDIGITAL) -
かくかくしかじか 1 (マーガレットコミックスDIGITAL) -

東京タラレバ娘(1) (Kissコミックス) -
東京タラレバ娘(1) (Kissコミックス) -
東京タラレバ娘(1) (KC KISS) -
東京タラレバ娘(1) (KC KISS) -


進撃の巨人世界を日本社会のメタファーであるとすると、周囲を壁で囲まれた世界というのは安全保障と核の傘によって守られつつも囲い込まれている日本という国と社会を思わせる。そこで、戦争反対!軍事力保有反対!みたいなこといいつつ軍事・安全保障はアメリカに任せている矛盾がまずあり、ふつーの神経(あるいはある程度誠実)ならここで自身のポリシー(軍隊もつこと反対)に反する / でも現実的にはもたないといけない、のでダブルバインドする。なので、そのダブルバインドの苦しさから逃げるために「アメリカのポチだからシカタナイ(シカタナク従っているのだ)」みたいな自虐的な論理、論理の挿げ替えによる心の防衛が発生するのだろう。

このようなリアリティに基づく日本社会を生きる人々の中では、ポチ的な従属をすることで得た経済的繁栄をエコノミックアニマルとして自虐しつつも、バブル崩壊によってそうやって得られた経済的繁栄さえも失ってしまいはげしく自信喪失が発生した。そういった特殊環境に涵養された高度成長期の「男は働いておけばいい」「働いてればほめ(終身雇用)てくれる」というモデルが失われて人生のモデル・指針が失われてしまったこと。このあたりの自虐とナルシシズム(ポチとかクズとか自虐してアンシンしてる)のこじらせに竹内洋 ← 丸山真男がいうところの悔恨共同体あるいは罪悪共同体的な自虐史観が癒着していたのだろう。


竹内洋、2011、「革新幻想の戦後史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383640969.html


ポチとかクズとか自虐して現実に向き合って現実的対処を考えないうちはアンシンだし楽だし、そのうえ「国はポチだから」ということで他者に責任を転嫁できる。そのうえで自分たちは日本軍の罪を悔恨し罪に思ってるということをアピールしていけば良い人間であるべき自分たちの心の平衡を保てる。もちろんそういう形で逃げ場としてこういう良心にすがる人ばかりでもなく、きちんとした反省と謝罪は必要だろうけど。


それは個人のパーソナリティとしては自閉的であるがゆえにみょーに責任感が強い / 他人への配慮が強すぎる / その超自我が反動としての攻撃性も含んでいる / こういった超自我の縛りによって環境がブラックなものになっても環境のせいにできず、自分で全部背負って鬱になるタイプの人を思わせる。


ちなみに「日本が軍事力を持って外国へそれを派遣するようになると軍国国家の悪夢が再来する」「それは日本はきちんと謝罪してないとこにも表れている」みたいなこというひとはこのへん読んどくといいんじゃないかなあと思う。


Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2015年 10/13 号 [「模範国家」ドイツの現実] -
Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2015年 10/13 号 [「模範国家」ドイツの現実] -




「進撃の巨人」の近刊であらわれてきた「象徴的な王」「王の挿げ替え」的なモティーフは象徴天皇を想わせた。「一部の巨人が使うことのできる特殊ギミック『ほかの巨人を従わせることができる』」も。昔の、象徴ではない天皇、森の王としての天皇の神秘性なんかを想わせて。


精霊の王 -
精霊の王 -


そうするとこのへんの欺瞞に対して山本「現人神・・」も絡んでくるのかなあと深読みしたりする。

現人神の創作者たち (山本七平ライブラリー) -
現人神の創作者たち (山本七平ライブラリー) -




箱庭的な閉塞環境でなに不自由なく揃ってるけど外には巨人という脅威が広がっていて、「ソモソモなぜその脅威があるか?」「なぜわれわれは壁の中にすまないといけないのか?」「壁の外はどうなってるのか?」ということに対する好奇心や思考がゆるやかに禁じられている世界。外の世界に調査兵団も出せるので許されてはいるけれど、一定のところまで思考が達すると検閲が入ったり、自ら記憶をたどることを封じてしまう。

この辺はモロに自衛隊と軍隊のあり方、あるいは「軍をもつもの(暴力装置として囲い込むもの)がソモソモ国である」という定義を想わせる。日本では「軍をもつこと」についての思考それ自体が半ば禁忌となっていて、一定までは思考実験として遊ばせてくれるけれど、ある一線を越えると「もう無理」的なシャットアウトが生じる。少なくとも一部の人々の間では。そこにはそのレイヤーにおける合理的な思考、コードの遵守がなくだいたいが感情論になる。「彼らが攻め込んできたらどうするんですか?」「酒飲んで話しあえば済みますよー」みたいな。


「一定のところまで思考が達すると検閲が入ったり、自ら記憶をたどることを封じてしまう」

こういったモティーフは最初の頃にはなかった、あるいは、物語の都合上からか主人公周りだけに配置されていて、作品全体の、登場人物全員に共通するテーマという感じでもなかった。「なんだかしらないけど無意識的に配置されてるモティーフ」みたいな感じの。

んでも近刊だとこのモティーフが主人公以外にも配されていて、この作品がそういったことをテーマする作品なのかなあという想像を誘導させた。心理学的な対象としての「なんだか知らないけどそのことについて考えようとすると思考が止まってしまうような」「記憶が改鼠されているような」、そういったもの。防衛機制的な心理過程。

そうするとこの物語というのは「なんだかわからない壁とソトノセカイ」辺りがユングとかのそれ、「敵は外(巨人)ではなく内にいる」「欺瞞的な王政の打倒」あたりがエディプスコンプレックスと関係するのかなとかも思わせる。ただ、そこに母たるものへのリビドーも父たるものの設定も曖昧なのでエディプスコンプレックスなのかなこれ?てかんじではあるけど。その意味で、この物語は従来の日本アニメ・マンガにおけるこの手の話、エディプス・コンプレックスとそこからの離脱というビルドゥングスロマンの型から外れていく。


近代的理性の立ち上がりと国家幻想、そこから疎外されていったものたち、のはなし: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381011164.html


この物語が「なんかへんだなこれ」てかんじだったのはこのへんだったのかなとおもうのだけど。


エディプス・コンプレックスという解釈に収まらないコンプレックス・抑圧の潜在というところで発達段階での母たるもの - 全能なるものからの自立・分離が連想され、「進撃の巨人」の登場人物たちはその経路をたどる。そのへんは自分的にはユング派、クライン派のお勉強を通じて照らし合わせていくとおもしろいのかなあとか思わせる。










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嫉妬、羨望、感謝感激雨あられ|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n463bd8044424



「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html


愛はさだめ、さだめは死?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414133706.html




「進撃の巨人」の作者・諫山創さん単独インタビュー 拒絶され諦めそうに - BBCニュース
http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-34559269









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2015年11月05日

「ナグネ」








あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。









辛よ さようなら

金よ さようなら

君らは雨の降る品川駅から乗車する


李よ さようなら

も一人の李よ さようなら

君らは君らの父母の国にかえる


君らの国の川はさむい冬に凍る

君らの叛逆する心はわかれの一瞬に凍る




ふりしぶく雨のなかに緑のシグナルはあがる

ふりしぶく雨のなかに君らの瞳はとがる


雨は敷石にそそぎ暗い海面におちかかる

雨は君らの熱い頬にきえる


君らのくろい影は改札口によぎる

君らの白いモスソは歩廊の闇にひるがえる


シグナルは色をかえる

君らは乗りこむ


君らは出発する

君らは去る


さようなら 辛

さようなら 金

さようなら 李

さようなら 女の李

行つてあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ

ながく堰かれていた水をしてほとばしらしめよ

日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾

さようなら

報復の歓喜に泣きわらう日まで











今朝この本を読み終えたところでじんわりとした感動というか、なんともやるせない滋味に眉を寄せて心地よい寂しさを感じつつ、ふと、先週ヲクサンたちと行った店が中国朝鮮族の人たちの店だったのではないか?とおもった。


ナグネ――中国朝鮮族の友と日本 (岩波新書) -
ナグネ――中国朝鮮族の友と日本 (岩波新書) -















うメエエエ!羊好きが思わず唸るラム肉の名店8選 | 日刊キャリアトレック
https://www.careertrek.com/daily/hitsuji8/


玲玲家園菜 (カエンサイ) - 内幸町/中華料理 [食べログ]
http://tabelog.com/tokyo/A1301/A130103/13162031/


羊の他にもイノシシとかキジとかジビエが楽しめるということでここにした。最初は羊、イノシシ、キジなどのアラカルトなセット。けっきょくクミンが利いた羊串が一番おいしくてリピートの時には羊串セットで頼んでいた。んでもパクチーときゅうりのナムル?ぽいのとか干し豆腐とかもおいしくて、なによりここは餃子の店なのだとプッシュされた。「うちは大連料理と四川料理なのです」とのこと。大連料理と聞いてもそのときにはピンとこなかったのだけどこの本を読み終わって、黒竜江省の位置や大連の位置を確認したらちょうど朝鮮半島の北東・北東ということで位置的にも近くて、もしかしてと思ってぐぐったらやはり大連も中国朝鮮族が多くいる地域だった。いわゆる満州的な地域にここも入っていたのだろうか。

「もしかして大連も?」とおもった他の理由は大連が日本のアウトソース的なところとしてけっこう有名だから。本書にもあったように、それは朝鮮語と日本語の文法が似ているので、結果的に中国朝鮮族が日本語を戦略的武器として選んだという面があったという理由から。満州時代に一度、半ば民族浄化的に母国語ではなく日本語で話すことを強いられ、第二次大戦後は共産党から日本語を禁止され、ケ小平以降の改革開放に移ってからふたたび日本語を選んだ。そのため彼らの日本語や日本、日本人に対する意識は複雑で、尖閣諸島のゴタゴタの折には日本に対する怒りや憎しみが強かったみたい。それでも、彼らにとって日本語は自分たちの武器となり得る手段なので、それはそれとして割りきっていった。というか、中国朝鮮族はもともと朝鮮の出身でありながら韓国では2等国民的な差別を受けるぽい。オーバーステイの移民として軽く見られ差別されていく。中国では彼らは貧しいままだし。そういう事情もあって「日本も中国政府も同じようなものだよ。そのことは仕方なかったんだ」というおばあさんもいた。


ついったでリンクした朝鮮族についてのサイトで語られている朝鮮族の印象というのはそういうもので、韓国人による偏見もあって「彼らはずるくて傲慢で」て印象が語られる。でも、実際、彼や彼女らが強情でなかなか人と打ち解けないというところもあるのだろう。「ああ、こういう中国人いるよなあ。。」的な。片田舎の中国人。本書を読んでそれは彼らの過去や現在のこういった情況からだったのかなあとか思った。新橋の中国料理の店の人達も、客と店の人という関係でなければそういうところがあったかもしれない。あるいはそもそも大連料理というだけで朝鮮族ということでもなかったのかも。




極東ブログの解説にもあったように、この本は全体的には「中国朝鮮族」という知られざるマイノリティの歴史と現状について学ぶ機会となる本で、そういった意味でも勉強になったのだけど。やはり、全体を通じたなんともいえないようなやるせなさが最大の特徴となる。ちょうど北朝鮮のさらに北に位置する北緯の地の、シンと冷えきった大地の冷気がかえって肌に心地よく感じるときもあるような。そういった心地よさ。


この本を通じてずっと思っていたのはたった一度、駅で2、30分話したことからアルバイトとして雇い、身元引受人となり、お金やその他の世話をしていった著者の良心のようなもの。もちろんアルバイトとして雇ったのは著者にも十二分に得るものがあったのでギブアンドテイクだったとは言っていたけど。見ず知らずの、どちらかといえばとっつきにくいだろう朝鮮族の女性にそこまで親身になっていく、親身になりつつもプライベートは保ち接していくというのはどういうポリシーというか倫理観なのかなあとか。あるいは、好奇心と職業柄なのかなあとか。そして、援助を受けた彼女が感じているだろう呵責に対して「あなたのことを書いたこの本を出したことで、いままでのことは取材ということだったのだからお相子よ」とする感覚。途中までそういうつもりはなくて、「一時は本気で養女にしようかと悩んだ時期もあった」、というほどだったのだからそういう利害や打算は考えてなかっただろうけど。文字通り親身になるほど、義理の親と子といってもいい関係になりつつも束縛するでもなく接していく距離感。著者はその距離感も「わたしは恩恵についてなにも知っていなかった、知ろうとしていなかったのだ」と反省していたけど。


そして、半ば親子のような関係でありながら敢えて「友」と呼び、そう呼びつつもタイトルに「友よ」とは付けない、その流儀のようなもの。





そのことに、通常の親子関係や恋人関係における距離感を省みつつ、それが市民的良心というものなのかなあ、とか、あるいは、利害関係や見栄や打算や野暮なもたれ合いではない深い愛情や友情というのはそういうものなのかなあ、とか。いろいろ名前をつけて納得しようとするもしっくり来ず。そんな名付けで済まされるものでもないのかもなあとか思って、かつての自分の似たような体験に思いを馳せたところでこのエントリを綴じよう。





(良心の呵責、あるいは呵責の投げ愛についての話題とも関連してもうすこしごにょごにょしようかとおもって、以下に関連する素材もまとめたし、ボリュームも多くなるだろうからnoteではなくblogにしたけど、こういうことにくらべてそういうわたしただしい」「わたしいいひと」「わたしリア充」的な見栄や打算のガキっぽさうずまくところの解説はなんかアホらしくなったのでやめとこう。我ながら目汚しだなとおもいつつツイート遡って編集したしせっかくなので程度で貼り付けとくけど)































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甘イ果実ト幼イ微熱|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n775a6de8144c



正月、酒を飲む|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n4fe5accdbedf



ヴィム・ヴェンダース、2014、「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター(The Salt of The Earth)」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/423419290.html




posted by m_um_u at 17:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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