2017年07月20日

朝に「自由論」を読みつつ「彼らの思考というのは演繹的なのかなあ」とか思ったのだった


朝に「自由論」を読みつつ「彼らの思考というのは演繹的なのかなあ」とか思ったのだった。帰納ではなく



自由論 (光文社古典新訳文庫) -
自由論 (光文社古典新訳文庫) -

引用箇所の要、文脈としては「言論の自由とはなにか?」→「反対意見に対して開かれていることである」「それらはしばしば少数意見である」「少数意見がたいせつなのは、少数意見だから、とか、大勢が間違ってる中で少数意見は正しいことを伝えようとしているから、とかではなく、大勢の意見にしても少数の意見にしてもその時代・環境において特殊なもので後世から見れば正されるものである可能性があるからである。それらは後世、あるいは暫時的に修正されるためにその時点でできるだけ開かれたギロンの可能性を遺しておかなければならない」というもの。繰り返しになるけど、それらの考えが「正しい」からではなく「間違ってるかもしれない」ので多様な意見の可能性を残しておく必要があり言論・表現の自由は担保される。
そういった考えが暫時的な、あるいは不断の修正を要するものであるのに対して、数学のようなものはそれまでにできあがった一定の公理にもとづいて思考を組み立てていくところがある。すなわち演繹的。演繹と帰納の違い。



帰納的、すなわち一定の事象を根拠にいちから思考をつむぎそのうえで一定の(自分なりの、あるいは蓋然的な)公理に達する、のではなく、帰納的につくられた公理を所与の前提として思考やギロンを組み合わせていく、みたいなの。彼らのやり方を見てるとどうも彼らの主張の根拠とするもの(多くはPC(ポリティカル・コレクトネス)とされる倫理的な典範)の交換を通じて正当性を競っていく・ギロンして行くというの彼らなりのギロンのあり方だと思っているようで、その典範そのものの正当性を疑ったりギロンしたりする気もないみたい。まあなので中世あたりの盲目的なカトリックに近い印象がある。その辺を指してE.トッドなんかはゾンビカトリシズムとかな用語をつくったのかなというところだけどこれはまた別の話。

まあとりあえず「彼らと話してると宗教の人と話してるみたいにギロンの埒が明かない」「あれは一種の宗教なのだ」というのはこういうところから来るのかなと改めて思ったのだけど。そういうのはいわゆる「りべらる」のひとだけの特徴でもなくいわゆるフェミというか、急進的・本質的、あるいは初学的なフェミのひとにもある感じ。まあそれは彼女らがそういったりべらりずむの初学的なものだけをかじってるからかなと思うのだけど。根本から疑い再構築しようとするのではなく。

そういうのに加えて、最近改めて思ったのはこういった人たちはちょっとの言葉尻や表現でみょーに発火するのだなあ、ということ。自分の感覚が一般的なのかというとびみょーなところはあるだろうけど、一般的に見て看過できそうな表現や発言を一部だけ切り取ってみょーに「いかんだろ!」するやり口が見られる。そして「いかんだろ!」してるうちに自分たちがその「いかんだろ!」なオラショにとりこまれてどんどんヒートアップしていくマッチポンプ。少しまえにとりあげた漫画雑誌のチョイエロ表現にしてもそうだけど、ああいうのもふつーに雑誌を見てる限りは「パンチララッキー程度の読者サービスカットなのだなあ(巻頭カラーだし)」ぐらいで済ませるものだと思うのだけどみょーに取り沙汰す。あるいは、その表現自体はたいしたことない、というのを前提にしてる体はしつつも「その背後に無意識の構造がー」とか言い出す。なんだその亜フロイト流文学批評みたいなの?という感じの。60年代ぐらいにスーザンに「アホか」忖度されてたものだったのだけどそういうのは。。

反解釈 (ちくま学芸文庫) -
反解釈 (ちくま学芸文庫) -


話は戻って「一部だけ切り取ってみょーに発火する」な人々について。そういう「一部を切り取って」というやり方は特にネット的なやり方なのかなあという印象はある。あるいはTwitter的といってもいい。Twitterなんかは各発言にパーマリンクがあることがこういった場合には却って災いしてひとつの発言だけ文脈切除されて揚げ足とりされたりする。下の方でリンク貼っておくけど直近だと為末さんとか今井絵理子さんのなんかが印象的だった。あるいは上西小百合とかいう議員のひとの発言とか。

上西小百合議員の発言にサッカーファンが激怒「政界引退」も検討か - ライブドアニュース
http://news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/13354264/

自分はこの人のことよく知らないでそれまでどのような発言や行動をし、どういった印象がついてきた人なのかよくわからないのでそういった先有傾向からの印象はないのだけど、やり玉に挙げられた問題発言というのは「サッカーの応援してるだけのくせに、なんかヤった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」というものだった。それ以前に浦和レッズの試合を観戦しててそのあまりの不甲斐なさを嘆いていたら浦和ファンとTwitter上で衝突してたみたいだけど。自分的には該当発言を見ていちお文脈確認すべく上西議員のTwitterホームに飛んで問題となったtwの周辺を見てみた。そのときの印象としてはサッカー選手とやり取りをしていてこれから先なにか具体的な仕組みをつくっていってサッカー振興に役立てていくみたいなことをいっていた。「サッカーの応援してるだけのくせに」というのはこの辺を受けてのものだったのかなあという印象で、単に負けの不甲斐なさをなじるだけとか負けても傷のなめ合いみたいなキレイゴトばっかいうだけで進展のない様子にやきもきしたのかなあみたいな感じ。あと、Twitter独特の煽り合いみたいなのでイライラしてたのもあったのだろうけど。そのへんはまあ性格的に「煽り耐性がない」とかいうことになるのかとか思ったりもする(某首相の街頭演説への辛辣な評価も含めて)。


今井絵理子議員のものなんかRTとかで飛んできたので問題発言なの?ってみにいったときには確かに該当の一連twは曖昧で嗚呼…ってかんじだったのだけど別件で為末さんのところみにいったら彼女の息子さんが難聴の障碍抱えてて、それもあって障碍支援的なところでやっていこうとおもってるんだって記事がリンクしてあった。「そういう立ち位置から多様性がどうとかな発言になるのかなあ」「まあいきなり障害者用に具体的なお金の算段とか施設の算段とか引き出し難く、とりあえず『世間的なやさしさ』みたいなのに乗っけてく言葉で囲い込んでく必要があるもんなあ。。『多様性』とか『社会的包摂』とかなPC用語というか」とかは思ったのだけど、ソレとは別に蓮舫さんの二重国籍にそれを絡めるのは我田引水すぎるだろうしピンぼけだなあとはやはり思うのだけど。「違った人、マイノリティにもやさしい社会を」以前にふつーに国籍法の不備をいぢればいいだけなのだろうし。


為末さんもなんか問題発言したらしく為末さんのTwitterホームを見に行ったら該当発言周辺でデキていた文脈を切除して炎上元となった発言だけをPC的に問題ダーしてる人ばっかな感じだった。該当発言は一見すると障害者排除的なネオリベ発想?みたいに見られるのだけど文脈的には「理想としては弱者保護→それを支える保険があって良いと思うけど、現実的にそればっかだとお金たりないので働ける人は働いた方が良い」系の話をしてると思えた。理想と現実に生きていく(資本主義競争社会の中で「やっていく」)ということは違い、彼の「認識」「気持ち」としては後者のスタンスの方が良いと思ってる、というのは競技者としてやってきた彼らしい考えだなと言う感じ。

今井さんにしても為末さんにしても、理想論は知っていつつ現実的に何らかの問題に取り組むと理想だけではうまくいかないので苦言とかエクスキューズをすると理想論教条主義者たちから文脈切除されて■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノとされる構図、だし、彼らは該当発言の文脈そのものも拾おうとしない(該当発言がどういう経緯からなされたのかを発言者のTwitterホームに見に行く程度の労力も払わない)のは確かなのだった。そういった意味でリテラシー的にどうなの?というのは初歩的なこととして思うのだけど、まあ彼らにしてみれば単にそれをマキにして騒ぎたいだけなのかもしれないから発言元の正確な理解とかはどうでもいいのかもしれない。ネットでよくあるテレビなんかの発言を都合よくコラージュして並べて立てるだけのあれにも似てる。


そういうサンプルとしてついですると、少しまえに騒がれてまだチロチロと狐火してるジャンプのラッキースケベ表現についても、当事者とされる発端の二人としてはわりと終わった問題になってるようだった。当該弁護士さんがRTされていた「例の表現はジャンプ以外のほかの雑誌で見るとなんともないんだよねー」みたいなtwはまさにソレで、「(ヽ´ω`)…ジャンプ以外だと問題にならないってことはその表現自体の是非をうんたらしてる薄フェミ界隈のギロンそのものがそもそも無効ってことじゃん」とか思わせるわけで。。ここでも「まあ彼女たちとしては元の発言の真意とかはどうでもよくて、たんにそれをネタ・マキにしてキャンプファイアーしたいだけなのだろうなあ」とか思わされたのであった。



冒頭の演繹の話に戻って概観すると、彼らは既存のPC典範を公理とし、自身の倫理や良心を掛け金とすることで公理カードの交換ゲームをしていくわけだけど、そのゲームの中で定められた型から出ないゲーム的なやり取り・モラルハラスメント合戦であるため根本的な倫理の問題や、問題自体の解決ということには思考があまり向かない、ということ。なので彼らの話題と関心は自分たちの都合の良いように視野狭窄的に編集されて伝聞されていくし、一つの話題を燃やし消化してしまうと(その問題は解決していないのに)次の話題に移りまたキャンプファイアーを愉しむ。根本的に思考するということがなくモラルをかけたゲームとしてソレを楽しんでるに過ぎないということ。あるいは自身がゲームのつもりでやってなくてもそういう態度で望んでるうちにそういったゲームに巻き込まれているということなのだろう。


こういったやり方は特にPCを介するようになって顕著になったのかなあ / 日本でPCがうんたらされだしたのはグローバリゼーションの影響が本格化した後期近代以降、すなわちプラザ合意を端緒とし、それがグローバリゼーション → ネオ・リベラル的な社会保障度外視でキツキツの企業倫理とノルマを説いていくのがふつーになった00年代以降あたりからなのかなあと想ったりもするのだけど、単にネットでのやりとりというのがその程度のモラル揚げ足取り的な型になりやすいと言うだけなのかなとも思ったりもする。特に後者の場合、PCとかりべらるとか関係なくネトウヨとかも似たようなことヤってて馬鹿って話なのだけど。


スピンアウト的に、元来、絶対核家族のエートスであった自由主義の典範であるとおもわれるPCがみょーに布教されたのは、トッドがいうようにアングロサクソン系がグローバルスタンダードになってしまったことからの片手落ちともいえるのだろうけど、初期には異なった家族系、異なった民族・人種間で無益な衝突が起きないようにライシテ的に設定されていたのではないかPCというのは?ソレがいつの間にかネタがベタ的に「PCを守らなければならない!」ってそれ自体が権力になっていって辟易されてるのでは?と思ったりもしたのだけど、このへんはまた別の課題として(誰か調べてるのかもしれないけどよくわからない)。



(ラブドールを家庭に連れ込んだ男性についてももうちょっと詳細に書いとこうかと思ったけどだいたいtwったからいいやもう。。構図としては同じだし)































































posted by m_um_u at 22:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2017年07月14日

あれは彼女たちにとってはアレルギー反応のようなものなのかもなあ。。


朝に「バッドフェミニスト」を読み進めてなんとなく「昨日の対フェミ(ぽい人ら)嫌味みたいなのは言い過ぎたかなあ。。」とかおもって反省。ロクサーヌ・ゲイなんかがいってることだとそれなりに立ち止まって考えてみようと思うのに彼女らが言うことだとどうも言い過ぎに思えて言い過ぎで答えてしまうのはなんでなのかなと内省してみた。コインランドリー待ち時間をドラッグストアの買い物でつぶしつつ。

直感的に「彼女たちの訴えはアレルギー反応みたいなものなのかかなあ」と。一つ前のエントリで彼らのPCは宗教的なものなのかもしれないという話をしたけどアナロジーとしてはアレルギー反応のほうが近いのかもしれない。それだとライシテよりもわかりやすく一般社会からも線引しやすそうだし。食品などの成分表示よろしくコンテンツに「この作品には女性差別、恋愛、異民族が含まれてません」みたいなのを表示する。まあそういうのはなかなか分け難くさらに物議をかもしそうだけど恋愛とか異民族みたいなところだとなんとなく分かるようにはなってるか。その作品を見る前から。「女性差別は含まれてません」とかいっても作った当人はそのつもりはなくてもナチュラルに差別してるかもだからこの辺はわかりにくい。もっと中立的な成分要素があれば良いのかなとかは思う。たとえばピンク色、とか?いわゆるダサピンク的なあれ。まああれも過剰反応な向きがあるように思ってるのだけど。ネットの話題と関心的に。


ともあれ、彼女たちが女性の権利を侵害してる― セクハラだ―って一定の表現についていうとき、その表現に対して特になんとも思ってない / ちょっとはまずいかなーとおもいつつもスルーしてる人たちというのは食品において人工甘味料やらアレルギー物質に対してだいじょうぶなのと同じなのかなーと。まあ自分のことなのだけど。ちなみに人工甘味料は苦手。なのでアルコール9%系チューハイはどれも口に合わない。ざんねんなことに。
対して、一定の表現に過剰反応してしまう人たちはその表現に対してなにか過去になにかがあったりとか、あるいは最近の世間や女性同権的な教育の影響やらがトリガーになって敏感に反応するようになってるのかなーとか思う。後者の方はちょっとマッチポンプにも思えるのだけど、前者の方は自身の経験やら体質に基づくのだろうからどうしようもなさはあるのだろう。体質っていうか心の質っていうか、まあ性的トラウマやら発達段階での経験の記憶が元になったり?

「バッドフェミニスト」の叙述はまさにそれで、ゲイがまだティーンの頃に集団レイプされたことが語られていた。いわゆるデートレイプ的な。彼に「嫌われたくない」ためにそんなに好きでもない性行為をしているうちに彼の仲間にもそれをしてくれと要請され、断ったけど密室空間だったのでなし崩しに、というような。しばらくして学校に行くとそれは自分の「アバズレ」のせいだと吹聴されていた。自分から求めてやったものだ、と。

そういう過去がある人の場合どうしても過敏に反応するようになるだろうしその戦いを続けることで自身を保っていけるところもあるのだと思う。



ゲイのそういう過去と語りを聞いていると彼女の敏感にも耳を傾ける気になる。自分はその部分について特にそこまで思わないけど?とおもってもそういうのでアレルギー反応が出てしまう人がいるなら気を使っていこうという気に。なので、そういうので(彼女たちからすると)鈍感な人たちがわからないような性的侵犯な表現をしている―と叫ぶ時、たんに「世間的にただしいこと」の立ち位置からではなく、彼女たち自身の本当の痛み、そういうものをみたときにどうして痛いのか、嫌なのか?についての語りのようなものが聞けると違うのかなと思う。世間的に正しいからーというだけで頭ごなしにPC叫んでるだけだと単にそういうのをタテマエとして他者にマウントしたいだけの人たちなのかな?とも想えるので。

でも、そういう辛さや経験みたいなのもごく個人的なものだからいちいちカチンと来た表現などがあるたびに彼女たちにそういうものを告白せよというのも酷なものだなあと反省。そういった個人(プライバシー)の部分に触れずに済むように一般的なルールのようなものがあるのだよなーと。

んでもそういった「正しさ」を教条的・抽象的にやりとりしてるだけだと運用によっては「正しさ」だけにとらわれた暴力になるのだろうなーと二重国籍の件とファブリーズの件をみつつ想う。蓮舫氏の二重国籍の件だと仮想敵としてるネトウヨの言説に乗っかりそれへの反証を示すという態度を取ろうとしたのだけどその時点で仮想敵とするひとたらと同レベルの低俗に堕ちてしまった。ファブリーズの件も同様で、彼女たちが仮想敵?とする側の男性?側からの主張、「ファブリーズのCMでひどい扱いをうけてる男性の様子は看過されてるけどこれはセクハラにはならないんですか―?」に乗っかって彼女たちが自身に対してしているのと同じようなCM自体の内容分析から応えてみようとした。そのようにすれば、どうとりつくろっても、そのCM単体ではセクシャルハラスメントを含むものになるだろうけど。


ふたつとも教条的、セイギセイギにならずにきちんと人や経験、実際の痛みなんかをみつめ主張したほうがよいのではないかなーと改めて思ったのだった。










































バッド・フェミニスト -
バッド・フェミニスト -

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2017年07月12日

宗教、あるいは権威主義としてのりべらりずむ(あるいはネトウヨ)とライシテ


このブログ用にTwitterでの関連twを貼り付けたあとに蓮舫さん関連の話が多くなってしまいあとで編集しようかと思ったけどめんどくさくなったので割愛。端的には少しまえにあった東京都議選での民主党の大敗を受けて「誰かが責任を取らなきゃならない」「この機会に党首の二重国籍疑惑を払拭させよう」ということなのだけど。

民進党の迷走続く…蓮舫代表の資質を問う声はなお強く - ライブドアニュース
http://news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/13325040/

まあ選挙の惨敗と党首の二重国籍は因果関係ないだろうから問題のすり替えのように思うのだけど。つまり政策で勝てない / 戦えなくなった民進党はもはや搦め手から求心していくしかなくなったのだけど、その際の「人気」という曖昧な要素に関わる部分に党首への疑惑があるとかなんとかしてるわけだけど本来なら政策で戦えばいいだけだから本末転倒感がある。よしんば搦め手(政局でありスキャンダルなどを介したポピュリズム)で戦うとしても、それを決断したのは党全体の意志だっただろうし直接の敗因は民進党の選挙対策委員会にあるはずだからそのあたりが責任を取れば良い話のはずだけど選挙対策委員長自らが党首の責任に話をすり替えてるみたい。まあこういうのの結果、党首が辞めるというのはよくあることだけど、そこに「党首が外人疑惑があるからだ―」て付け足したのは自分への責任追及逃れるためだったのかな―、と。民進党の内情をよくしらないのでわからないのだけど。形としては昔の学生運動のときのソーカツ的な内ゲバを思わせ正しくサヨク的ではあるのかなとか思ったりもする。単に皮肉だけど。

「こういうのも民進党内のまともな政策打てるグループが逃げ出したからかなあ」「蓮舫さんて見た目的には社民党とか女性党みたいなののほうが似合いそうだけど現在の民進党ってそういう系が強いんだったっけ?」「旧小沢グループとかどこいったんだろ?」「うわ…民進党になる際に維新の会とくっついたのか。。(お察し)」、みたいなことを思ったのだけど民進党の内情/構成について詳しくないので本質的なところがわかってない感はある。ちょっとそういうの知りたいなと思うも書籍では出てなさそう。自民党のは最近に中公新書から出ててそのうち読もうかと思ってるけど。

二重国籍疑惑、というか「民進党は売国奴だ―」みたいなネトウヨを中心とした?陰謀論みたいなのはけっこう前からあって、それに応ずる形でのソーカツだったのかなと想わせるも実際にそれをヤってしまうと認めたことになるんじゃないの?あるいは人身御供的に生け贄の乙女みたいなの捧げて手打ちみたいな。まあ乙女っていうのも変だけど。

そもそも外国人ガー国政に絡ンデーとかいっても未だ首相とか大臣にもなってないわけだから国政には絡んでないわけだし、よしんばそうなったとしても一個人としてここまで帰化してるわけだからスパイとかいうのも信じがたい。まあそれでもスパイ疑惑の反証とはならないのでそういった陰謀論疑惑が潰えないないひとには潰えないのだろうけど「どこまでやったらスパイって疑惑消えるんですかねえ?」みたいなことは思ったりする。

それとは逆に、こういったスパイ疑惑を否定する人たちがアメリカのロシアゲート疑惑を肯定的に捉えてトランプバーカバーカしてるのみるとダブスタぶりに(ヽ´ω`)てなる。まあ彼らからすると「国家に対するスパイ疑惑」「国家に対する外国からの組織的アタック」みたいなところが問題なのだけではなく「外国人として『差別』されてる」という人道主義的な見地?が焦点なのだろうけど。そもそもその外国人疑惑・批判的視線が国会議員≒内政に携わる → それが外国人だと内政干渉の可能性ガーてとこから生じてるのでわ?ていっても彼らには声は届かない。そして「日本人は帰化しても外国人は外人―てしていつまでも差別するんダー」てよくあるお題目みたいなのを唱え続けるのだ。ヒステリックに。その様子はちょうどこの季節だと夏の法事の集団読経のようにも想えるのだけど、よくある言い方からすると精神病棟のヒステリックな反応にも似てる。「Twitterは精神病棟に似てる」みたいなアレ。そして精神病棟の人たちのようにちょっとした不安が生じるとその不安を公正(穴埋め)するような題目を集団で唱え同調圧を強めていく。そこで理性的な意見(「それはちょっと違うのでわ?」)を唱えてもそもそもヒステリックな集団読経なので相手してもらえない。下手すると怒りに触れてクソリプを投げつけられまくる。集団読経してる人たちに茶々を入れるとこっぴどく叱られるように。


そういうのは彼らが平等主義・自由主義として掲げるりべらりずむ的な倫理題目が関わるところにはすべからく存在する。フェミニズム(女性平等運動)やら言論・表現の自由やら。そういった倫理は条件が整えば素晴らしいものだと思うし自分も大事/叶えていきたいとは思うのだけど、彼らはそれが一定の条件のもとに成立していることを考慮しない。あるいは「その条件が崩れているため整えるために声を発している」というのかもしれないけれど往々にして教条的にその倫理をお題目して唱えるのみの人たちはそのための条件の構築ということには無頓着だったりする。たとえば自分とは違った価値観や立場の人達との対話や交渉の余地がなかったり。それがなければ一定の条件のための下地も構築できないだろうけど。

そして彼らの一方通行の倫理の押し付けは暴力的に機能していく。セイギの暴力として。

あらためていうけど倫理とかのお題目の話以前に現実的でプラグマティックな環境の構築をきちんと考えてくれと言いたい。。あるいは以前じゃなくてもいいのですくなくとも並行して。そうしないと宗教倫理的なものの教条的な押し付けに過ぎない。


条件の話に戻ろう。

彼らからすると自由主義や平等主義というのは人類普遍のものに思っている / 思われているフシがあるのだけれどそういうこともない。「それが行き渡ってないのは遅れているからだよ」みたいな昔の西洋中心主義的な自由主義進歩史観に彼らは立ってるぽいところもあるけど。E.トッドなんかによると自由・平等主義というのは一定の家族系の共同体に相性のよいイデオロギーで、たとえば核家族的で個人主義的な絶対核家族たるアングロサクソン系の価値観として作られてきた。大家族的な価値観だと老人とかの教えを理性ではなく権威的(パターナリスティック)に踏襲していく傾向があるだろうけど絶対核家族の場合そういう必要もなかったので自由主義や個人主義が根付いていったのかもしれない。ちなみに家族系としては大家族系のほうが比較的新しい家族系のようだけど。

そういった家族系が下部構造となった上部構造が自由主義なわけだけどそれがアングロサクソンの覇権によってグローバルスタンダードのように錯覚されていった、みたいなことをトッドはいってたような気がする(うろ覚え)。

もちろん、そういった価値観は現在では尊いし、自分としても権威主義的に「口答えすんな!」って老人の価値や教えを詰め込まれていくのは嫌なのだけど。家族系をはじめ、アングロサクソンの共同体と条件が違う共同体ではその価値観を受け入れるためにまず下地となる条件を整えていかなければならない。たとえば絶対核家族では「父・母・子ら」という家族形態が基本ユニットとして暗黙に前提されている。いわゆる専業主婦モデル。「それがゆえに独身族を想定していなくてその部分へのケアがゆるくなるのだ」とトッドはいう。「そういったものは(大家族的な共同体なら全体で支え合うシステムがあっただろうけどそういうものがなければ)国家が代替して保証していかなければならない」と。デンマークやスウェーデン、フランスのPACSみたいなああいうもの。それによって独身者だけではない社会的マイノリティも包摂していく。社会で独立して暮らせるように。財源としては税金頼りみたいだから税金がその分高くなるけど。


平等主義や自由主義を求める時、倫理や「(彼らが家父長制と暗黙かつ雑にイコールしてるぽい)専業主婦モデル打倒!」といった根性論以前にまずそういった現実的で構造的な条件の改正を考えるべきだと思う。あるいは倫理とともにそういった具体的なものを勝ち取っていこうとする。対立する相手が合理的配慮が示せる程度の対話の余地を残して。そういうことが必要なように。

家父長制の話ついでにいうとあれは字義的には「一家の家長が父であること」「そこから発せられていた権威主義」ということだろうけど家長が父(男性)であることと権威主義的であることはそのままイコールではない。たとえば母が家長でも権威主義的な家族はある。うちみたいな母子家庭とか。そして大家族でも権威主義は踏襲されていただろうけどそんなに問題なものでもなく平和に共同体が運営されていたりもした。もちろんそうでもなく不満が溜まっていたところもあるだろうけど。まあとりあえず家父長(すなわち一家の長が男性)であることがそのまま権威主義になるわけではないし、権威主義だったらそのまま悪いということにもならない。家父長制≒男性中心主義としても男性中心主義というのは人類の一定の期間、一定の場所において最適とされたモデルだったのだろうし、男性が中心になったから社会的に変なになっていったというわけでもない。急進する近代の速度が個人にも同様の速度を要請し、結果的に黒いイナゴと化した男性たちが家長としてその権威をトリクルダウンしていっただけともいえる。つまり国家→社会→(男性を家長とした)家族への影響。ゆえに「家父長制と資本主義」の見立てが出てくるわけだしあの見立てではまだ未完成だったりするのだ。


権威主義ばっか敵にするのもどうなの?という話ついでにいうと彼ら「りべらりずむ」を自認する人々のやり方も権威主義といえるだろう。上記してきたように、彼らのりべらりずむの価値規範である自由・平等について、彼らは往々にしてそれを思想的、本源的に思考することはなくお題目的にそれを唱える。それがゆえに彼らのセイギはともすると教条化してオーバードライブして他者を傷つける。公正性や公平性は「平等」の価値にも関わるものに思われるけれど彼らは目の前の「平等」を説くあまりに公平や公正の原則をしばしば忘れ度外視する。結果として、最悪の場合彼らの倫理題目と相対する人々に暴言を浴びせたり暴力行為を行ったりする。あるいは言論の「自由」をかかげつつ仮想敵の言論の機会そのものを潰したり。そういうものの何が「自由」なのか…。

それらは本質的な意味での平等主義・自由主義、あるいは人道主義とは違って単なる題目なのだろう。彼らが教科書的に教えられた題目を権威主義的に踏襲しその権威をもって(自分とは違った考え方を持つ)他者を圧しようとしているだけなのだ。

それが「わたしはシャルリ」運動(イスラム系住民やマグレブの排除)であり、Twitterで異論を唱えた子供芸能人へのクソリプ暴力であり、(中道左派≒リベラリズムを掲げるはずの)民進党による人権侵害的なマッチポンプへの鈍感の正体だった。




なのであらためて思う。そういう人々は宗教なのだ、と。りべらりずむ(あるいはその反対のネトウヨ的なお題目への教条的な盲信なのだ、と。そしてそれは日本という直系家族系からすると正しく権威主義なのだろう。

まあ「宗教の人」というのも揶揄的に思われるかもなのでエクスキューズしとけば本来宗教が機能してていた/現在も求められているような空白にああいう教条主義的な「良いこと」価値観が求められ帰属されていくのだろう。たとえばフランスのシャルリ運動の担い手がパリ中心部の人々ではなくその外縁部の直系家族系の人々で、彼らは元々カトリシズムを信奉していたがその空白に共産主義を報じるようになり現在はりべらりずむを奉るように。そういう人々には良心の拠り所としてそういうものが要るのだ。そういうひとたちって異化するだけではなくたぶん自分たちにも。


んでもそういう宗教の人たちと接すると言葉も通じなくて疲弊してしまうことがママあるのだろうからある程度の線引がデキたら良いなと思う。たとえばライシテのような。Twitterなんかはブロックとかミュートとかフィルター機能である程度アーキテクチャ的に排除できそうだけど、社会的にももうちょっとなんとかならないかなあって。まあ実際社会的にそういうものを設置するとなると暴力的な切断処理も生じるだろうから自分たちの心の境目的なものとしてなんとかデキないかなあみたいなのは思う。そういうわけでライシテについてちょっと調べてみよう。

















































































問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論 (文春新書) -
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シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 ((文春新書)) -
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家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫) -
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フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史 (文庫クセジュ) -
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世界のなかのライシテ; 宗教と政治の関係史 (文庫クセジュ) -
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2017年07月09日

「こうしてわたしたちは負ける」?


さいきんTLを賑わせていた性表現についてのPC系の話題。2つ同時になっていて両方とも「自粛しろ!」と当該表現元にうんたらかんたら。自分的には最初そんなに乗り気でもなく両方共そんなに取り立てるほどの話かなあという感じで見ていた。んでもなかなか鎮火しないのでまあこういうのはこの問題自体がほんとに問題というか、こういうのは皆さんのなにか語りたい欲を刺激しやすい話題なのだろうなあ、とか。いわゆる学校・教育問題だとみょーに皆さん口を出していく、みたいな。「それはしろーとでも強い立場で物が言える / 関心をもてる問題だから」みたいなことを誰かが言ってたけど、そいえばこれも子供の教育的な問題に属するのか。「自分のため」というより「子供のため」となると燃料が着火しやすいのかなあ。。あと自分ドリヴンでもないので落とし所が見つかりにくく際限ないというか…。漠然とした不安を感じてヒステリックにギャーギャー言ってくだけなのでいつまでたってもギロンが終わらない。落とし所を見出そうとしない。

その辺の心理、クレーマー的なものや「何かを損させられてるんだ」的な被害者と弱者意識?からのドリヴンみたいなのはまた別件で見ていこうかと思うのだけど(彼らはなぜあんなのに着火していくのだろう?)、「落とし所がない」という言葉が出たのでついでにいうとこの話自体の落とし所は両方とも「ゾーニング」と「レイティング」ということだと思う。コミケや薄い本系のギロンの蓄積から借りると「性的表現で不快になる人がいるとしてもそれは個人(間)の趣味的なものでたのしむぶんにはよいはずで、その部分で留め不快に思う人には見せないようにする」みたいなの。「不快に思う人」あるいは子供のように合理的判断能力がまだ備わってない(と思われる)人のことを配慮して該当表現を愉しむ場所を囲い込み、そういった人たちの目に届かないようにする。コンビニのエロ本とか、あるいは電車のエロ中吊り広告とか。あるいはお笑い番組的なノリにもそういうものは見られる。直接には言及しなくても同業界のそのへんの倫理意識の低さは垣間見える。まあ倫理が低いっていうか世間並みなのだろうけど。それらはゾーニングとしては未だ甘くて、特に中吊り広告なんかは確信犯的ダダ漏れと言ってもよいのだろうからそういうのが「当然」としてまかり通ってるような社会においては今回話題になったCMなんかも「ちょっとした冗談じゃん?」ぐらいで済むようなものなのだろうけど。

そういったことを考えると今回の件程度のことよりもより構造的な、社会全体の意識変換が必要に思われるのだけどそういうことをいうと「まず見えたものを一個一個叩いていくこと、その場でプロテストしていくことこそがたいせつなんですよ!」とかいうひともいてまあそうかあとかも思ったりする。んでもその語り方が特に落とし所もなくヒステリックに怒ってるだけのように見えたら周りは引いていくだけのように思うのだけど。彼らが仮想敵とする人はもとより、特に関心のない第三者的な人もますます聞く耳をもたなくなるというか…。

ではここでいう「落とし所」とはなにか?というと、利益相反する二者が存在し紛争となったとき、相互の利益を尊重しつつ妥協できるような地点(を模索する)ということになるように思う。そういう紛争・衝突の場合、得てして双方が最初に求めた要求が完全に通ることはない、ので相互の妥協点を探る。双方が合理的に納得できる線を探って。

今回の件の場合、きちんとやるとしたらジャンプとか当該CM担当者との交渉ということになるのだろうけど、まあだいたいもう済んだことみたいな感じにはなってる。当たり前だけど。ジャンプとしては「今後の意見として参考に致します(ペコリ」程度だし、サントリーのCM担当としてはさっさと当該CMを取り下げたみたい。まあ後者は最初から炎上でバズるのが目的だったようだから目的は十分に達せられたのだろう。そもそも両方ともいち消費者としては「買わなければ良い」で個人的なゾーニングはほぼ達せられるはずだし。

「だったら買わなければ良い / 見なければ良いとかいったって目に飛び込んでくるんですよ?!公共的なものなんだから!」つってもジャンプのようないち週刊マンガ雑誌がどれほど「公共的」なのか。。あるいは当該ウェブCM。まあ後者はTLとかでボーッとしてて流れてきたら不快というのはあるだろうけど電車のエロ中吊り広告と同じく。んでもたとえばTwitter公式アプリなんかだと「この広告には興味がない」で見ないようにできるしなあ。。そもそもふつーに過ごしていてそういうものに遭遇したとしてもそんなに意識するようなものなのかなあとかは思ったりする。特に後者のCMについては。端緒となった「エロ表現だ!」という騒ぎ立てで既存の見立て(PC的にまずいとされるようなポイント)で焦点化されていった意識からすると「エロくてけしからん!」ということにはなるかもしれないけどふつーにみる分にはどうということのないCMのような。。「あれはあきらかにオーラルセックスをメタファーしてる!」つってもまあそういうのもあるんかもねぐらいでそのときそういうことを思った自分の心根を恥じたりするんだけど自分の場合は(「いやらしい!」というひとのほうがいやらしい)。前者のジャンプのエロ表現みたいなのの場合は奇形ともいえるおっぱいのほうが気になってその奇形さへの違和感からドリヴンしたのかなあ。。みたいなのはある。発端となった人もそういった自分の違和感と不安を既存の別のタテマエですり替え合理化したようなところがあるのではないか?直接聞いたわけではないから知らんし、そのように問えばすり替えと合理化が完成した人は「違いますよ!」というだけなのだろうけど。そして自分的にもあのマンガ表現の最初の違和感は持っていたわけだけど。「おっぱいがみょーに大きい」「画面に肌色が多い ≒ 安いエロ漫画みたいな表現だ天下の週刊ジャンプ様にしては」。

そういえば別件で燃えてる?北原みのりさんの件にも似たようなところがあるように思われる。最初の個人的な違和感、と、公共的な関心・ポリティカル・コレクトネスな倫理のすり替え、みたいなの。表現・言論の自由ガーという人たちではおうおうにしてそういうことが生じてるように思う。あるいは民主主義ガーとかいう人たち。自分たちに都合の良い時だけ「言論の自由ガー危機デー」とかいうけど対立する人の言論の自由は考慮せず、ときとして言論の機会をつぶしたりもする。それが彼らの「民主主義」なのか?とか思ったりもする。


まあそのへんは皮肉的な視点だからここまでにしておくとして、こういった問題ではやはり個人、あるいは少数の不快をどのようにほかの人々に訴えていくか?というのを考えさせられる。「バッドフェミニスト」でロクサーヌ・ゲイがいうように、問題を軽く扱いすぎて特に関心のない人たちから軽んじられたりしないように、かといって重く訴えすぎて聞く耳を持たないようにされるのも好ましくない。その中間を目指して。



「こうして私たちは負け」ないように



























































































バッド・フェミニスト -
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2017年06月30日

障害者、あるいは、リベラリズムをめぐるオリエンタリズムとモラハラ帝国主義あたりの話


前回に引き続きバニラエア這いずり搭乗事件について。てか、自分的にはこの事案、および、これを出汁に行われてる左/右?のアレゲ点にいるひとたち同士のモラハラ合戦みたいなのは興味もなく、この件についてももともと一般的なニュース程度にしか興味ないので該当ケースの事実関係だけインストールしたら撤退したい感じ。いちお言及してコミットしたのでそのぶんおべんきょーはするけど、ぐらい。今回日記的に思考/試行をとどめたいのはその件を受けた喧々諤々合戦というのがなぜああもつづいてるのか?ということについて。彼らは「障害者のため」みたいなことをいいつつ自分たちの正義を通すために障害者を出汁にしてる印象がある。実際の障害者の便益、ぢみな迷惑は度外視して。そういうのは好かないのだけど自分もこの件を端緒に「なぜ喧々諤々が生じるのか?(もうちょっと冷静に、事実ベースのみの情報交換と対話で終わらんのか?事実ベースだけじゃなくてももうちょっと冷静に。。」について思考を進めようとしてて、まあそれもこの件を出汁にして語ってると言えばそうなのだけど。


いちお今回のメインは当事者の出演したsession22のインタビューだったのでそれを中心に。あとは倉橋弘さんという専門家のかたによるCiiNii論文とか。

前回の日記での疑問として残っていた「(車椅子仕様などの障害者が公共交通機関を使う場合、職員の介助やスペースの確保が必要なので)事前連絡が必要と会社側から要求されてるけれど、なぜ事前連絡をしなかったのか?」「ゲリラ的に乗り込みが許されたとしても、窓口で職員と半ば約束となっていたはずの『身体を抱きかかえられて搭乗するならおk』を反故にしたのはなぜか?」辺りが自分的な関心のメインで。

前者については「事前連絡すると予約を断られるケースが過去に他の会社であったから」「急な用件で事前連絡もできないような場合もあるし」「そもそも介助を要求するほどのものでもなくひとりで搭乗できるので(会社側にはなにも用意される必要はない)」あたりが回答として上がっていた。このなかでも「介助を要求するほどでもないと思っていたので」あたりが「事前連絡をしない」という行動選択をした一番の理由と思われる。

後者について。「なぜ身体を抱きかかえられる、のではなく、車椅子ごと抱きかかえられようとしたか?」。回答としては「そういうやり方でほかの航空会社ではだいじょうぶだったので」とのこと。そのあと身体を抱きかかえられるのではなく這いずって搭乗したのは当人の意志と選択によるもので、「海外の他の航空会社だとそれがふつーだし、いままでもそうしてきたし、それを屈辱とかと思うこともなくふつーだと思ってたので」との回答だった。それでもダメって止められたらしいのだけど。まあでもそこではそんなに喧嘩になったり、クレーマー的にふるまうこともなく、該当職員の方と手打ち的におわった、みたいな話を木島さんはされていた。

んでも大阪に戻ってから「そもそも最初の段階で搭乗拒否ってどうなの?自分で勝手に搭乗できるのに?」あたりでムカムカして国交省に連絡したらしい。メールやら電話やらで。まあたしかに、「介助とか必要ないなら最初から断るのどうなの?」とはなるだろし。つっても最初から断ってたかどうかはけっきょくはブラックボックスで、航空会社側のタテマエ的回答としても「そういう件で『一律に』乗車拒否はしておりません」ということだったけど。なので乗車拒否のケースも有り、その選択には航空会社側の恣意性があるということだけど。まあそこは営利企業だし、該当の法律的にも「努力義務」規定されてるので法律的には問題ない。いちお。ただやっぱこの件でガーッと言ってこられると嗚呼…ってなって国交省側が対応したらしい。5日後ぐらいに。そうするとしばらくして航空会社側からも連絡あって、謝罪とともに「今後は、簡易な車椅子昇降機付けますから」ということで手打ちになった、と。まあなので当人間では終わった話だったらしい。

いちおここでちょっと止まると、木島さん側もクレーム入れた理由として「(独力で乗り降りできるのに)最初から断るってどうなの?」を上げてたけどこれってあとづけで、本来なら(ゲリラ的にせよ)搭乗は(しぶしぶ)ゆるされていたので復路で問題がなければ木島さんとしても訴えることはなかったのだろう。ならば本当の理由は復路の応対にカチンと来たからということなのだけど、まあテクニカルにはこっちのほうが訴えにしやすいからなあ、というところ。いわゆる「当該交通機関の合理的配慮が必要ないのに乗車拒否されるのってどうなの?」ということ。「合理的配慮」というタームはこの分野を語る上でキータームになってるようで、それを巡ってのやりとりが係争上ではポイントになっていくみたい。合理的、すなわち、「航空会社側にもそれでペイされるか?やらコスパやらいろいろな事情はあるだろうからいちいちめんどくさい客にかまってられないだろうけど営利企業だし、んでも、そういった事情があるにせよ『このぐらいだったらペイできるよ』って教会はあるはずで、その範囲内で配慮すべきでは?」みたいなの。乙武さんも木島さんもそのへんを問題にしてたわけだけど。まあ本来ならバニラエア側も合理的配慮の範囲内で配慮してたのだろうし、復路まではいちお問題なかったのだろうけど復路で該当職員が強行にダメっていったってのが問題化した、のかなあ。。まあその強行にダメって言ったのにも現在のところ語られてないなんらかの理由があったりするのかなとおもうけど。あと、この件に関わった下っ端職員かわいそうだねえこの先も含めて、みたいなの。


まあこの件はここまでとして、これからの連想として。

けっきょくこれって当人間では手打ちで終わってたのにしばらくして朝日新聞の該当記者が掘り起こして記事にしたらしいのだけど、その際のやり方、焦点化の仕方が煽りっぽかったのだろうなあ。。「障害者に階段を這いずってあがらせて!」みたいなの。まあ自分も最初に見たときは(´・ω`・)エッ?逆蒲田行進曲か?とかおもったのだけど。そこでいろいろ切り落とされて、なんかみょーに「障害者にやさしくない社会」「障害者に優しくしろ」みたいなのが規範的にくっつけられて、「(障害者に優しくないのは安倍政権の弱者排除政策がー)」みたいなのが暗に含まれる感じでモラハラ合戦に燃料を注いでる、のではないか?まあとりあえず「障害者にもやさしくしろ」「バリアフリーを目指せ」というのは望ましいことだと思うのだけど現状不況で福祉政策的にもびみょーなかんじになってるわけだし、そのせいで福祉予算削られて補助金でないので営利企業としてもカツカツなのかなと思うのだけど特にこういう格安航空会社は。「そういう大々的な補助金でなくてもストレッチャー程度でよかったんですよ!」っていうのは後付な話で、こんな形で大騒ぎになったらけっきょくはご立派な昇降機を購入しなければならなくなり「それはペイできるのか?」といすみ鉄道の社長がいってたようなことが気にされるのだった。まあお上の査察が入って下手したら潰されることを思えば、ってことではあるのだろうけど。下っ端職員の命運が…(再)


で、

そういった流れがあったと仮定した場合、それが暗黙の下地になってモラハラ合戦続いてるのかな―、と。そんでその際の全体の差別と逆差別の構図、あるいはその構図を元にした権力の流れみたいなのをボケーッと思ったりした。読んでた本に絡めて。「読んでた本にからめて」な話なので以下はぼんやりとした話になるのだろうけどまあそれが思考であり試行であるのでm(_ _)m自分の試行的な思考なのでヒトサマに強いるものではないです。単に「思った」だけ。思うのは自由なので。

朝日新聞とか毎日新聞とかにそういった流れ、安倍政権打倒でー、みたいな流れがあるとした場合、それは菅さんのときに大コケしてマニフェストで勝負できなくなった民主党が「安倍政権はファシズムだ―」一本で戦うことにしたからかなーと思うのだけど、その選挙戦術?みたいな民主党戦術にマスコミも乗っかってステロタイプ的な言説が固定化してしまってるのかなーという印象がある。まあそれはひとつのやり方としてあっても良いのかなと思うのだけど、こういうのにもそういう影響があるとするとちょっとステルス的になっててイデオロギーぽいのでやめてほしい。。気づくまで遅くなってムダにモラハラ喧々諤々するので。逆に最初から「これはPRです」みたいになってれば「ああPRなんだねー」ぐらいで済ませれるし、わかっててそれを選択するのも自由だろうし。

サイード「オリエンタリズム」的にはこういうやり方もオリエンタリズムというか、一種の異化からの言説の膨らましなのだろうなあという印象。すなわち、かつて西洋(オクシデント)列強が東洋(オリエント)にエキゾチズムとともにみょーな偏見と期待をもったように、「リベラル」を聖化←異化するひとたちは最初からそれをみょーに聖化して一切の妥協をゆるさなくなる。そして、その反照としてそういった「リベラル」の規範に従わないものは野蛮で無知な下等民として扱うようになる。いわゆる「反知性主義だー」とか「もっと謙虚になりなさい」とか彼らがいう(わりには漠然としてよくわからん)あのへんの心性というのはそういう背景から出来てるのかなと思われる。で、特に生活的実態や実感とつながらない彼らの言説だけがみょーに暴走していき、それがゆえに内容がなく対話の取っ掛かりがなくなっていく。その流れに無自覚に関わった人たち、知識のない良心の人たちは彼らのモラハラをもって「自分はそういうのにやさしさをもてない『悪い』ひとなんだ…」と己を苛み反省する。彼らが言うように「謙虚に」なろうとする。結果として、四角四面の教条主義だけでは矛盾が生じても、あるいはちょっとした生活的違和感が生じてもそれは捨象されていく。そういった違和感をもつことは「悪い」ことなので。良心の人たちの「界隈」から弾かれたくないので。

なるほど、それが「権力」というものかなーとなんとなく思う。そしてその偏見にもとづいた文化領域への侵略こそ(ハードパワーに対する)ソフトパワー的な寝食なのだ。文化領域、というか、一定の規範とそれに基づいたモラルを人質としたモラル領域への侵食。文化領域へはその派生的な流れとしても侵食するのだろう。いわゆるりべらるな読み物として。そういう(対話不可能な価値)を中心とした文化領域(上部構造でありイデオロギー)を中心とした帝国主義的侵略というのはアメリカがある意味宗教国家といわれるのにも似てる。彼ら「りべらる」を自認するひとたちの規範とは宗教的な典範のようなものなのだろう。まあなので彼らのやってるのは宗教なのだ。岩波-朝日的なサヨク的なりべらる文化帝国主義。

まあもともと文化人類学とかも帝国的な軍による植民地支配のための研究領域のスピンアウトだしな―。予算としても軍のこういう研究が一番付くわけだし現在のアメリカでも。そのアナロジーからだとたとえば「リベラル」な文化帝国主義におけるわれわれ下等平民の位置というのはポストコロニアル的な抵抗ということになるのかなーとブレンジンスキーの古典を読みつつ改めて思ったりしたのだった。いやあ帝国主義帝国主義


































































































オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -
オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -

ブレジンスキーの世界はこう動く―21世紀の地政戦略ゲーム -
ブレジンスキーの世界はこう動く―21世紀の地政戦略ゲーム -



「鉄血のオルフェンズ」の終幕とガンダムサーガについて | m_um_u | note
https://note.mu/m_um_u/n/n2cf69d06e9d7


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2017年06月29日

バッド・リベラリスト


TL的にまだバニラエアを巡った話題がちらついててうぜえなと思いつつ、「なんでこの話題こんなに続くのかな?(みんないっちょ噛みしたがる琴線に触れるのかな?)」「それを『うぜえ』と自分が想ってしまうというのはどういうことなのかな?(そして思いつつも言及してしまうというのは?)」、というのをなるべく心根を中立にして問おうとしたときやっぱなんらかの権力がはたらいてるからなのかなーとおもった。まあそれはかなり抽象的に俯瞰したレベルからの話だろうけど、もうちょっと卑近に、最初にいっちょ噛みしたくなるのはそれをもって簡易にマウンティングなりなんなりしてうまいこといえるからだろうし、その「自己表現」をもって注目を集められるからだろう。あるいは、それ以前の先有傾向的にその話題に属することになんらかの文化・社会的アイデンティファイをしていて。その「縄張りを侵食された!」と判断して防衛機制が働く、とか。

そうやって俯瞰すると「強いられてるんだ!」系の話題なので特に言及しない / 言及するにしても事実レベル、あるいは、ニュースのファーストインプレッション程度にとどめ、そこに自身のなんらかの掛け金を乗せない、というのが賢いやり方なのだろうけどネット世界において。


たとえば自分がひとりでニュースを見ていた場合、あるいはネットとかかわらない一般世界でこういったニュースに触れた場合、たぶんそんなに引っ張らずにファーストインプレッション的な話題で済ます / 済まされるのだと思う。「ああ、そんな這いずるなんてことあったんだねぇ」「なんかすげぇな。。航空会社側が要求したものだとしたら」「そういうの起こらない方がいいよねぇ」ぐらいの。終局としても「航空会社がストレッチャー用意したんだね―」「まあそれなりに対応したんだからよかったよ(*´・ω・)(・ω・`*)ネー(中の人(特に下っ端)たいへんだっただろうけど」、ぐらいで終わる話。障害者に冷たいんじゃないの?みたいなこと言ってもそれが世の中のふつーだし、一般的にはニュースで伝えられる話題はそのように消化されてるし、不幸や差別はこういったこと以外にも日常的に転がっている。こういったことでことさらに話題にならない限り、あるいは自らのなんらかの掛け金をかけてプライド争い的な事にならない限りは特に気にすることもないし気にされることもない。自身が属するマイノリティ的な話題も。あるいはなんらかの不幸や実存的な課題が関わる話題も。「そういったもの」として流すし流されている。それがみょーに話題になり、マウンティングの仕合いで掛け金が上がっていくのは「ニュース」や「sns内のニュース」といった世論という権力に動かされているからだろう。まあそれが権力かどうかははっきりせず権力以外のなにかでも良いのだけどとりあえずそういった空間から離れた自分を想定した場合こういった事態はふつーではない。

まあそういった動態(があるとすれば)は別の機会に考えるからいいとして、今回の件で「掛け金が上がっていく」「カチンと来てなんか言及したくなる」ことの要因の一つとしてみょーな皮肉合戦があるように思う。それは一つ前のエントリでも触れたのだけど。本来なら、あるいは、特に関心もなく一般的な関心程度の話題であれば、事実を中心とした情報の交換程度で「へー」で終わる程度で良いはずのものにみょーに倫理と規範を乗せてくる。(一般人のふつーの態度として特に自己の実存をかけていない一般的な話題であっても)事実をベースとした対話によって対象事案についての正確な認識に近づき、ナンダッタラ問題が解決するといい(*´・ω・)(・ω・`*)ネーで済ますぐらいがふつーのはずだけど、最初からミョーに「○○しなければダメだ!」「○○が足りない!」とふっかけてくる。事実ベースではなく倫理ベースで。事実ベースではなく倫理ベースなので問題の構造的解決(の糸口)には繋がらず、いつまでたっても根性論的な精神論で終わる。結果的に玉砕して果てろというがごとくに。まさに一昔前の革命的な思考であり志向!やりがいの搾取というかモラルを搾取し人質にしているのだろう彼らは。そして彼らは下々には「もっと謙虚になれ」「謙虚にオレ(たち)のシソーを敬え」「ただしいシソーのもとに革命を行え」と説くのだ。結果として暴力革命以外のものが見えないような道筋で。対話ではなく暴力。それは今回もそういった傾向のひとたちが説く「正しい行動」のあり方を見てると伺える。「(空港側に対話を求めても最初からキャンセルされるのがわかっていたので)対話をすっ飛ばしてゲリラ的作戦で実効支配したのだ。それは正しい」。けっきょくそんなものなのだろう。


「対話には相手が応じないだろうなのは明らかなのでそれはすっ飛ばした」。そういった事情もあるだろうなあとは思いつつ、結果的に、そういった通常の手続き過程を踏んでいなかったということですよね?という疑問は残る。加えていうと、そういうゲリラ的な戦術でいきなり空港に現れて予約をねじ込んだとき、空港側から妥協策として提案されていた「(身体をお連れの方が)抱きかかえて降りるんですよね?」な約束も反故にされた。現地で降りる際に車椅子神輿でワッショイしたのを警戒したのか、帰路でそれはダメだと禁止したところでなぜ身体を抱きかかえて登らなかったのか?「身体を抱きかかえることも空港職員が禁止し帰りの便に乗ることを拒否されたからだ」ということかもしれないけれど空港職員側からそれを禁止したという話はでていただろうか?よしんば空港職員が身体を抱きかかえて登ることさえも禁止したとして、その禁止の頑なを招いたのは最初の約束を反故にされた警戒心からだったのではないか?まあ結果的に、このようなパフォーマティブなアクションをされ、それを大々的にニュースにされてけっこうなイメージダウンをされたわけだけど。客対応における「クレーマーが騒ぎ出すまえに菓子折りを出したほうがその後のイメージダウン損害を考えると安く済む」的なの。お客様は神様です上等な日本だとこういうのがふつーとされている。ドイツのふつー本とか読んでるとありえないだろうこういうのは。まあそのまえにPC的な配慮で障害者用の設備も整えておくのだろうけど。通常の、格安でない航空会社なら。



まあこの事案自体についてはそんなに詳細に触れるつもりもなくてここから思ったこと程度のことがメインに考えたいことなのだった。前回も少し触れたけど「なんでもうちょっと冷静に対話できないのか(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」というのと「もうちょっと『正しいこと』以外の自分のホンネを出してもいきなりガーっとやり込められることもない空気にならないのか(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」ということ。そういった正しいことの「理想」と自分たちの生活的現実的ホンネとの止揚にこそ生活にもとづいた思想性と民主主義があるように思うのだけど。

「なぜそれができないのか?」ということについては「日本人はそういった冷静なディベートの訓練が積まれてないから」というのはよく言われるのだけどあまりそういった「海外ではー」という出羽守的なことをしたくないなとおもいつつ、まあたしかに、自分の経験的にもらくだオランダ人なんかとそういう話してるときは本格的に対立することもなかった。彼はオランダ人のくせにファシズム好きで、軍国主義時代の日本好きで、首チョンパ的なアレゲがすきでファイナルファンタジーほか日本のヲタ文化好きなアレげであり自分からは違和感をちょこちょこ表出してたのだけど。基本的にオレ、リベラルだし。特に喧嘩にもならず「そうですかー そういう考えもあるですねー」と意見交換しつつ笑いあっていた。まあそれは自分が先輩、彼が後輩的な立ち位置というのもあっただろうけど。あまりそういうの関係ないよな欧米人は。



とりあえずもうちょっとモラハラ的な皮肉合戦以前に事実ベースでの対話であっさり終わらせられないのかな―とか思ったりする。あっさりでなくてもどっぷりでもよいのだけど。そして、事実の交換だけではなく「そのように世間は言っても自分は違和感ある」的なホンネ開陳でもよいのだろうけど。それが誤っているなら対話を通じて修正していけばよいのだろうし。事実ベースで。なぜ最初から喧嘩腰に、あるいは嫌味や皮肉気味に牽制して煽るのか…。まあそんなこといいつつ自分も結構そういう嫌味はしてる(むしろしてる)のだろうから人のこと言えないだろうし反省するのだけど。




そんなことを思っていたらこういうのって少しまえに読んだ「バッドフェミニスト」の紹介記事でいってたことなのかなーとおもった。まあ紹介記事だから同書で書かれてることそのままでもなく紹介者の我田引水的なところもあるのだろうなとは思うのだけど。あの記事やアマゾンレビューから伺える「バッドフェミニスト」のエッセンスなところとしては「『正しい』のはわかるけどホンネで語っちゃダメなの?」ってことだったように思う。ホンネで語るっていってもいきなり過去の『ただしさ』あるいはポリティカル・コレクトネスに形成されていった規範を前面撤回するということではなく、その範に則った上で「でも、実際の生活ではね…」って修正していくこと。「こういうことも思ったりするよね(世間的には『悪い』っていわれるのはわかってるけど」ぐらいの。

そういうことを通じて、過去の世代が築いてきた規範や慣習を現代的に修正していくことが大事なんじゃないかと思うんだけど。そしてそういう形で両極に落ちず?に踏みとどまるほうがけっこう辛いように思う。一方に触れればかなり楽だろうけど。


まあとりあえず同書は読もうと図書館に予約した(明日には用意されてるはず)。「ブリジットジョーンズの日記」の続編も見よう。なんとなく。(鈴木涼美さんは保留)

















































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posted by m_um_u at 23:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2017年06月28日

バニラエアのうんたらでノマノマv( ̄Д ̄)v イエイ


朝に昨今のクソリプやめろ的な空気と今井絵理子さんの「批判なき」うんたらについて日記でもしとこうかなと思ってたら別件で昼ぐらいにクソリプついて(#´ω`)…てなったので記念的に。増田に「アレは通常の『批判』て意味ではなく若者言葉でのdisを意味するのだ」みたいなのあったけど、実際のところどうなのかわからん。

元SPEED・今井絵理子議員の「批判なき政治」発言にネットで非難集中 | 独女 [DOKUJO]
http://www.dokujo.com/entertainment/62444.html

はてなの中高年は今井絵理子の発言を理解できない
https://anond.hatelabo.jp/20170624022831

あいつらは「批判」をすっごい悪いことって意味で使ってるの。
「批判」は和を乱すとか喧嘩を売るって意味でしかない。ケチをつける。因縁をつける。人の気分を悪くする。
これはもちろんおそるべき低知性・低学歴の表出と取っていいと思うけど
ディベートやディスカッションの訓練をしない日本の公教育カリキュラムの悪影響も合流してると思う。
意見をぶつけ合うことは異常事態であって悪いこと。



(あまり時間かけてブログするのもなんだからこういうリンクとか引用もなるべくやめようとおもったのだけど日記風にまとめてるだけだとしばらくたって読み直すと当時に当然と思ってた話題の詳細がわからんくなるのでアーカイブ的に)

今井絵理子さんの言ってることは昨今のついったーなどでの「クソリプやめろ」とか「年上男性による説教はマンスプレイニングにすぎないのでやめろ」みたいなのと同じことだと思うのだけど。単なるマウンティング的なクソリプがうぜえってのはたしかにあるけどFF(ふぉろーふぉろわれ関係)外からのリプのだいたいをクソリプとしてるようなひとたちもいてそれってどうなの?みたいな狭量さを思ったりもする。こういうのが昨今のfbなどでの閉じた世界とフェイクニュース的な「うちら」真実のエコー・チェンバー的な涵養の土壌になってるのだろうしなあ、とか。まあそのへんについてはもそっと現代若者論とか社会学とかからの詳細をもって相対化していく必要があるかと留保を入れるのだけど。それとはべつに「正しい批判と単なるdisの違い」みたいな話がある。

ただしい批判というのは研究界隈ではよくある「テーマそのものに対する疑義をもって対立意見を出し、対立した意見をもったものと一定の論拠を通じてテーマとなる事象自体の真実に近づいていこうとする」もの。「批判的(critical)に検証する」なんていうときの「批判」はそうだし批判理論なんかはまさにそういうのが前提じゃないと成り立たない名称だったんじゃないかと思うけど詳細忘れた。まあウィキペディア見れば載ってるのだろう(本件でそんなに重要な事ではないのでぐぐらないしりんくはらないけど)。

で、

そういった立ち位置をあらためて反省的に思い出したのでよぉ〜し、オレもff外からのクソリプとか喧嘩腰外交とかでもテーマに沿って対話につとめるぞーとかおもってたのだけど…。まあ下にまとめた該当ついーとのアーカイブをみても分かるように結果的にみょーに喧嘩腰に来られて、テーマ(の修正を通じた理解とか)は深まらず、なんだこのひと?みたいな不毛さと不快さのみをのこしてりぷらいの応酬は終了したのだった。まあついったーらんどではいつもの光景なのだけど。「野間さんにたいして、おれも偏見あったかもだからちゃんと話してみるかー」とか思った結果がこれだよ。。とか思ってアレだ。。まあいいんだけどテーマになった事案である障害者の生活とかバリアフリーの実際、その不利益とかに比べると大した話でもないし。

んでも、こういうご大層な?テーマを扱うときにそのひとがその大層さに酔って、目の前の、自分自身の暴力は看過するというのはどうにかならないものかなあとかおもったりする。まあ暴力というほどでもなくて失礼でありハラスメントなんだけど。じっさいに嫌な思いしたし。この件に関して、対象となった事案や障害者のひとにはとくになにも影響はせずたんにオレの嫌な気持ちが残ったというだけは現実であり事実なんだけど。


それにしてもなんで野間さんいきなりリプしてきたかな―。エゴサーチしてるんか―やっぱ、とかは思うのだけどエゴサーチはまあいいとして(自分はしないけど)、朝に小山エミさん関連の野間さん話をしてたのが一番ポイントだったのかな―とあらためて思った。『野間さんが影響受けたという小山さんによる差別の構造的問題な説明。「付け焼き刃な親切は却って構造的矛盾を助長するとこがある」というのは首肯できる面があるところもあるけどドブ板な現場レベルではマンパワーに期待されているのでまあ理想論だなと』あたり。「障害者排除などの構造(アーキテクチャ)的な矛盾が目の前にある場合は、ヘタに周りの人が親切してその溝を埋めてるといつまでたっても問題は解決しないので構造的欠陥は放置しておいて矛盾を訴えるべし」ということかとおもうけど、そんなこといっても実際にはたらいてる現場とか生活の現場でも上のレベルがアホで馬鹿だから進まない構造的欠陥があった場合現場レベルで対処していく(とりあえず)というのがふつーだからなあ。。そして、それとはべつに構造的欠陥をなおすように上に訴えるわけだけど、内部での訴えだけけだと潰されるので労基とか頼ったりってのはありつつ(労基に匿名で訴えてもびみょーだから退職時に最後ッペ的にやるかどうかはその人の良心次第みたいなのもあるけど)。


まあなので、野間さん自身はこのへんがカチンと来て彼のやり方の本質的なアレさを批判されたのかということでふっかけてきたのかと思うに、彼が「油断あり」と踏んだ箇所がそんなに鉄板で弱い箇所でもなかったので、って感じだったのだろうか。できれば彼の「目的のためには手段を選ばない(暴力には暴力(あるいは場外乱闘的手段)で対処する」なやり方の是非を聞きたかったけど。人となりはあらためてわかったのでこれ以上、話すこともないのだろうな。スパム報告したし。


そういったやり方が有効、あるいは必要とされてきたのは差別がふつーな昔、あるいは現在でも差別がふつーな環境では理性的な対話や要求そのものが通用しないという現状があるからかもだけど、んでも、だからといって最初から対話を飛ばして暴力的なやり方に訴えていたら単なる暴力な人になるだけのように思える。彼の場合は特に、大義名分をもとに己の暴力性を発散したいだけにもみえるし(あるいはそれはたんに偏見で、彼の中の『ただしい』『ただしくありたい』な公正世界的な規範がつよすぎて人を寄せ付けないだけなのかもしれないけど。


蛇足的にいうとさっきえねーちけーのニュース見てたら当該のバニラエア航空の件をやっていて、「(そもそも規定で乗せられないことになってるけど例外的に乗せたのは)タラップの乗り降りの際に付き添いのひとたちが『(身体を)抱きかかえて』乗せるという話だったかと思っていたのだけど、現地についてみると車椅子ごと抱きかかえて危ないと判断したので止めたところ…」みたいな話だったバニラエア側からとしては。帰りの搭乗でも車椅子ごと抱えて上がろうとしたらしい。まあたしかに車椅子に乗せたまま抱きかかえてたら不安定だろし、ふつーに搭乗だけが目的なら周りのお仲間に身体を抱きかかえられて登ったほうが穏便に済むはずだからなあ。。バリアフリー運動のひとつってことだったのだろうけど。これをもって「プロ市民m9(^Д^)」とか「障害者めいわくかけんなm9(^Д^)」とかいうのも違うだろうしそういうのに与したくはないのでモニョーンとしたりはするのだった。

できればふつーに要望と対話をつうじてそういったものが改善されていく社会が良いのだけど。まあデフレで不況ってのもあるからなあ。。それで格安航空だから予算なかったってのもあるし。






































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2017年06月23日

「現代ニッポンの論壇事情」とやらを読みました


話題になってるので気になりつつ座談会的な本なので読み散らかしてスルーしよかな雑誌的に、ぐらいで読み進めたのだけどおもったよりモニョンとしたものが残ったのでなんとなく日記で吐き出し。

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -
現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -


モニョーンの理由は本書雑談の品の悪さというか、居酒屋なんかで話しつつ界隈を貶す様子のスノッブさとウチワな感じに既視感を覚えたので。ああいうときのスノッブな知性・知識をカサにきた陰口悪口連帯というのは打ち解ければおもしろく気持ちのよいものなのだろうけどそこから疎外されるとなんともゲヒンに映る。彼らはそのゲヒンさを認識できないのだろうけど、それは彼らが悪口をいう連中に自分が親和性を持ってるから、ということでもなく単にゲヒンなのだ。

んでも本対談というのはそういうのを前提にしてるからこそおもしろいというのもあるのだろうけど。実際、安全圏からのぞく彼らの界隈語りというのはおもしろく「ああ、あの人(たち)って業界でだいたいそういう位置にあったのかあ。。」などと学びがある。まあ彼らのスコープからというのもあるだろうけど「だいたい」なところで。

そういう学びはあるにせよ本としての知識的充足は感じられない。その意味で実がないのが本書で、「本」と書くのもためらわれるのでところどころ「対談」とか「雑談」とかしてるのだけど「最初からそういうつもりでまとめたものだ」といえばまあそうかあ…ということではあるという繰り返し。

実の部分として期待される、あるいは前提となっていたのは安倍政権に代表されるマクロ経済政策(その中でもリフレ政策と俗に呼ばれる財政・金融政策)の知識であり、それらを前提とした福祉・再配分政策であった。あるいはそれが実際に実行されそうになってる?イギリスの現状、そこに至る世間の空気感とか現状について、とか。要するにこの2つの本が前提となってる。

この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -
この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -


ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -
ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -


実の部分としてはこの2つを読んでおけば特にこの対談本は読まなくて良いかなという感じ。松尾さんの本でリフレ政策の機構を簡単に学習し、それが福祉や所得再分配と矛盾しない(むしろ量的緩和などで国債買い上げでゼロから作ったマネーをそこに投資するという公共政策ができる)というのが学べる。ブレイディさんの本ではそれが実際にイギリスで実行されそうになってる?というのが伺える。労働党コービンの躍進によって。あるいはそういったサヨク・リベラル周りの空気とかサヨク的なものとナショナリズムが矛盾しないとか諸々。(サッチャー→ブレア、シュレーダー→とくに期待がもてないような内容で終わっていた。ヲタク臭いというか‥(まあ最後の腐女子うんたらについての論文はそれはそれで熱いものがあったのだけど)。メルケル的な)緊縮財政によって生まれる貧困家庭の様子とか。

まあそれとは別にこの対談の実というのは現在の日本の論壇周りの俯瞰、一定の観点からのマッピングというところではあるのだろう。あるいは(論壇の中でも)どうしようもない経済音痴・アレルギーな老害たちによる空想的リベラリズム批判。要するに内田樹を筆頭とした「9条を守る会」とか「反知性主義打倒」な連中。あるいは上野千鶴子とか宮台とか。現在の日本の論壇の中心が岩波・朝日的な流れからなのかそういった連中を中心に視野狭窄したものになっていることの批判。特に彼らはなぜか経済政策に言及しないね?ということについて。つまり現政権を批判しても対案を出さない。その心性、根拠とはどういったものか?ということについて。そのあたりの結論としては「彼らは既に金持ちなお年寄りで、現在は金持ってるから貧困層の苦しみとか考えなくて良いし、自分たちの若いときの記憶といえば日本が豊かだった世代のそれに当たる。そして、それが雇用売り手市場の若者とマッチするのでSHIELDS連中をもてはやす」というもの。「−y( ´Д`)。oO○いまのロスジェネ世代は日本最弱で皮肉ばっかうまくて使い物にならん(大意)」とか発言してしまった内田樹周りについてはまあそうなのかもなーと思いつつも上野千鶴子その他についてはびみょーなんじゃないかなーとも思った。北田さんは上野もそういった連中の一人として「彼ら豊かな世代が経済政策についてはきちんと対案出さずに、とりあえずアンチだけ言ってれば良いと思うのは『経済なんか放っておけば回復する』とおもってるからなんですよ。ようするにレッセフェールです」ってことでそれこそが緊縮財政的発想の源泉としての新自由主義的なものにつながるのにって結論づけてたけど、単に思想的にそこまで突き詰めてないだけなんじゃまいかとかおもったりした。つまり「経済政策的に対案を出すことは自分たちの役目ではない」「対案を出さずともNOはいっても良い」ぐらいの。あるいは上野さんの場合はギデンズとかトッド、バウマンとか読んでそうな雰囲気もあるので、ギデンズの政策的な部分、あるいはトッドのそういったものとかに影響受けてるんじゃまいかと最近の発言でもおもえた(移民がどうとか、人口トレンド的に日本がどうとか)。そうだとするとギデンズのEU本的なもので展開されていたあれを念頭するに、そこでもリフレ政策とかははっきり言っておらず、全体的にいろいろリストラクションしてお金を生み出すみたいな発想だったように思えるのでそのへんなのかなーぐらいな印象。まあそういうのも買いかぶりなのかもだけど。
揺れる大欧州――未来への変革の時 -
揺れる大欧州――未来への変革の時 -


あと、この対談(というか主に北田さん)の前提として松尾匡-リフレヽ(´ー`)ノマンセーな前提にしすぎな雰囲気が感じられたのだけど、リフレ政策もそんなに万能でもなくひとつの考え・チャレンジの一つ程度なんじゃないかなーという印象。たとえば現在だとそれが有効なように思えるけど、バブルが終わってマイルドデフレになってきたころすぐにこれをやらなかったのはふつーにインフレこわいねってのがあったからだろうし、ほかにもなんか指標・経済政策的なオルタナがあるんじゃないかなーという印象。まあ学習進んでなくて印象程度なんだけど、自分的にはこのへんもそっと学習していきたい。

学習ついでにいうと労働(雇用)研究周りと経済政策をつなげて考えたりとか、筒井淳也さん周りを読み進めたりとか。後者はギデンズ関連からの家族社会学、アイデンティティの変容とか考えるうえでも課題図書になってたけど。


ふたたび本対談に戻ると、(自分の見方もあるのだろうけど)けっきょく北田さんを中心とした集まりで、そうすると北田総括ということになるかなとおもったのだけどそのあたりは甘い感じがした。要するにしばき隊的な反ヘイト運動へのコミットとかどういうつもりだったの?あとそこからのサヨク(てか日本的りべらる)的なぬるさはどうなの?というのを後藤くんあたりがもうちょっとうんたらかんたらするのかと思ったのだけどそこは案外スルーだった。まあそれはしばき隊的な流れが安倍政権打倒に流れ、SEALDsと合流する中で違和感して離れていった / 最初はヘイトと直接的暴力はダメだろ―ってとこだけで部分的に賛同してただけ、とかいうことなのかもだけど。たとえば「彼らの運動は具体的な政治的影響力に通じていかない、たとえば経済政策→福祉政策への理解の無脳ぶりに辟易した」みたいな。そういうのはかつての民主党への政策提言集まりのときにも出されてそのときの提言はリフレ的なものと再分配的なものが加わったアベノミクス的なものにも近かったともいえたらしいのだけど(けっきょくは実行されなかった)。

そういう意味では十把一からげに「サヨク」とか「りべらる」とかでm9(^Д^)されがちなひとたちもちゃんと考えてる層とそうじゃない層(経済政策とか対案とかまったく受け付けない層)がいるということの再確認やら俯瞰やらはできるね、という対談本でもある。本書では後者が「経済政策を受け付けないのは彼らが既に豊かであり、豊かであることを前提にしたレッセフェールだからだ」としてるけど自分的にはもそっと変な理由があるんかもなーとか思ってる


本書の伏線とか、あるいは伏線としての本書があるとして旧論壇打倒・現在のアカデミズム正統でフルボッコ検証してやる宮台・東的な具体としてはこの本があったように思うのだけど

社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -
社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -


自分的には「計量もできるようになったよ―(∩´∀`)∩」的な感じにしか見えなかった。統計分析な具体な章の結論がどうしても地味だったので。テーマ的には宮台・東的なものがどうしても主にあり、それを批判的に検証というだけだとどうしてもそっちの視角がメインになってるように思えた。それは自分がブルデュー的なものにもそっとアイデンティティの変容について考える材料をもとめていたというのもあったからだろうけど。ついったなどにも見られるような後期近代的なアイデンティティのゆらぎと再帰性によるクラスタ(界隈)の自己言及的な固定化。最近だとエコーチェンバーとかフェイクニュースがどうとかいう現象がそういったものの一部に当たるのだろうけど。

そういったマイルドに階層?分化し、エアリプ嫌味とばすぐらいで、ディスコミュニケーションが広がっていく社会に対して。あるいはそういった社会を基層としたとき、ロスジェネを含んだ貧困や社会的な不安や困難の声 - 改革を求める意志がどの程度、社会全体にとどくのか?ということについて。とくに期待がもてないような内容で終わっていた。ヲタク臭いというか‥(まあ最後の腐女子うんたらについての論文はそれはそれで熱いものがあったのだけど)。「貧困層ほかの声が届くようなアクチュアルな期待もリアリティもない」ということだと本対談も同じで、たとえば北田さんほかはサヨク的な言説を唱える旧世代論壇のグループ性を「彼らはネームバリュー/数字持ってるからね―−y( ´Д`)。oO○内容なくても」的に批判してるわけだけど、それいうんだったら自分たちも似たようなもので、その「数字」をもとに出版資本主義/編集者に選別され、その地位から「ネット論壇程度のものはねーw」みたいなこといってるわけで…まあ入れ子構造の似たようなものだな(人気者の席に誰がすわるかが変わるだけで)という白けた印象しか残らないのであった。

それとは別に貧困層や社会で問題を抱える層の声が届くかどうか?という問題。粛々と日々の労働・生活を送る人々(サイレントマジョリティ)の声が政治的に還元されるかという問題に対して。特にきちんとした理論建てじゃなくてもブルデューがアルジェ → フランスから見ていた問題意識のようなものをそのまま日本の貧困層 → 金持ちブルジョア層としてポスコロしてもいいのかなーとか。

「声」のアーキテクチャ的にはシェア的な流通プラットフォームの整えとハンドリングってとこなのだろうけど、それはだいぶまえからいわれていて相変わらずうまくいってない。まあ従来の出版資本主義の人気者的なひとが「降臨」し、数字ーネットワーク外部性を引っ張ってくる、とかなのかなともおもうけど。そういうところだと従来出版資本主義がきちんとそういうひとたちを囲い込み(ロックイン)して「(ヽ´ω`)…りべらるとかいってるけどやってることはエグいよね。。」みたいなのみせつけるのだろうけど。まあ「食える」レベルの報酬は別にして、まともな言論が流通する場の継続的な維持ということだとやはりビジネス的なものが関わるのだろう。


そういう意味では自分で掘って見てくしかないかな―(あまり期待しない程度に)とか思うのだけど、とりあえず知識人 - 反知性主義辺りのアレとしてこのへんからかなー。


オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -
オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -

知識人とは何か (平凡社ライブラリー) -
知識人とは何か (平凡社ライブラリー) -



[書評] 現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智): 極東ブログ http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2017/06/30-1ebb.html

池内恵の「反知性主義」依頼原稿への不快からの論壇disと解説
https://m.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10203927148938140



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2017年06月18日

取らぬ狸の管さん用


昨日の朝にジョギングしつつなんとなく思ってたこと、「安倍政権憎しってやってる人たちに伝える言葉 / 対話のトバ口とかないのかなあ。。たとえば松尾さんの『この経済政策が民主主義を救う』なんかは『安倍政権に勝てる方法』て副題もついててわかりやすいだろうに」「んでもそもそも彼らはそういう対案的なものは考えてなくて、オイルショックや3.11原発事故→被爆の不安のときのようにフォビアになってるだけで、集団ヒステリーとか神経症みたいなものなのだろうしなあ。。そういうのも誹謗中傷的な見方といえば見方なのかもだけど。んでも一種の不安神経症みたいな感じで『戦争内閣絶対反対!』て耳に残りやすいアレがこだましてるんかもなあ。。だとすると心理学と社会心理学的な観測が必要なのかむしろ」、とかをもそっとちゃんと書き残しときたいなあと思って該当twアーカイブしよかと思ったけどSeesaa blog からでは既に届かず。。200件先までしか追えないのか。

まあとりあえず、昨今TL的にチラチラ出てくる「サヨクのみなさんも経済政策をまなんで」とかいうのもあまり意味がなくて、彼らにとっては最初から「戦争ぜったいダメ><」だけがあたまにあってそれ以外のものは詭弁てスタンスなのだろうから対案とか優先順位とかトレードオフみたいなのは通用しないのだろうなあとかなんとか。

たとえば安倍政権に対してはわれわれ周りの人たちのスタンスだと「タカ派で阿呆みたいなところあるけど量的緩和を持続的にやるというのは確かだからその辺だけは期待するしかない」という「タカ派アホ < リフレ政策の持続」というトレードオフをもとにした消極的賛成が発生してるわけだけどそういうのも彼らにはないみたい。繰り返しになるけど経済的な思考-政策というのはすでに「詭弁」とでもとらえられてるのかもしれない。たとえば「新自由主義で切断していく内閣だー」みたいな見方もちょっとまえにあったし。まあそれいうなら量的緩和に踏み切る前の内閣である旧民主党政権のほうがアレゲだったんじゃないかと想うのだけど、管さんがビビって量的緩和ストップするまではマニフェストとやらにのっとって福祉政策とかもいろいろやろうという構えだったのかもしれしれない。まあよく覚えてないのだけど。ちなみに福祉政策切断新自由主義としては小泉構造内閣のほうがひどかった。管政権以降は財源なくてそういう政策もできなかったようだし。

マニフェストと言えば管さんのとき以来、民主党から「マニフェスト」というアピールが消えたように想う。そういうことは長嶋さんも言ってたのだけど、「かつての民主党は政策でたたかおうとしてたけどいまは『戦争内閣絶対反対!』みたいな印象操作だけだし、森・加計問題みたいな政策ではなく政局(SCANDAL)みたいなとこでみょーにがんばろうとしてるし。。正直見るに堪えない」、みたいなの。まあでも直近の内閣支持率も落ちたようだからある程度効果はあったのだろうけど。そのヨコで「次期政権はいよいよ麻生内閣か?」みたいなのも出動してたり。まあ正直、いろいろ問題あり印象も悪くなった安倍内閣よりは麻生内閣のほうが良いよなあ。。経済政策的にも麻生さんのほうが主導だったんじゃないかと想うし。

「あれ以来、野党がみょーに『戦争内閣!』て煽るようになった」ついででいうと、それがマスコミにも影響し、そういうのがTwitterほかにも影響したのかなあとかおもったりもする。Twitterて最近までここまでウヨサヨ的な政治的な話題というか、分断、敵か味方かみたいな殺伐ってなかったように想うのだけどさいきんみょーにこういうのでギスギスしてるし。まあこういうのも実際に統計なりなんなりとってみたら意外と違ってたりするのかもだけど。

んでもやっぱ安倍政権ニクシ、というか、戦争内閣不安みたいなのでフォビアだかなんだかドリヴンしてる人たちってみょーに意識高いというかセンシティブになってるとこがあるように思えて、たとえば昨今の共謀罪なあれでも詩織さんなあれでも。共謀罪なアレは国際的なテロの不安とその協調のための関係として設定されたものだとしたら安倍政権ではなくても成立していただろうし、そもそも実行においては警察・公安機構がやるのだろうから政府とは直接関係はないのだよねえ。。まあそれは彼らからすると「タテマエであり、実際になると政府から権力が発動し、『なにか上からの命令だ』ってことで超法規的なアレがナニするのだ!戦時中の特高警察みたいに!」とかいうのだろうけどそんなこといってたら信号が青でも「車が来るかもしれないだろ!」とかいって渡れないのだしねえ。。まあでも政府と直接に権力的な癒着があるとしてもないにしても現在の日本の警察機構の問題というのはあってたとえば取り調べにおける密室性と市民の基本的人権いきなり剥奪的な横暴とか、一回警察が目をつけるとメンツにかけて叩き潰すために圧迫尋問みたいなことして無理やりイエスを引き出すような手法とか。そういうのは詩織さんのケースでも問題になってたようだけど(まあ彼女の場合は容疑者としてではなく被害者として告発してもひどい調査内容だったということだけど)。そういうの考えると問題は日本の警察のそういう部分ということで、それは政権変わっても共通するところなんだからそこから改善叫んだほうがよいのでは?と思うのだけど。

あと、「戦前・戦中と同じだ―」「ヒトラーみたいだー」とかいってもドイツにせよ日本にせよそもそも開戦を決断せざるを得なかったのは不況かつ国際的な経済協調からハブられたからであり、不況が問題だったのだから経済政策とか気にして不況にならないようにしたほうが良いように想うのだけどそういうのが通じないのだった。

まあでも、そういう警察の問題にしても、安倍総理や一部の自民党の政治家の阿呆な側面にしても、政党変わっても普遍的問題ならばそういうのを彼らがウォッチドッグしてくれてるのはそれなりに役に立つのかな―とか意識を変えるといいのかなあとも思ったりした。






現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -
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この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案 -
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安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書) -
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世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫) -
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リスク化する日本社会――ウルリッヒ・ベックとの対話 -
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2017年06月16日

「しかくいにかくが『まあるく』おさめます」


ジョギング行ってきたので汗が引くのを待つのがてら昨日のtwをメモ的に。

一つ前のエントリにもかぶる内容なのだけどけっきょくネット上の、あるいはついったになってからその速度がより上がった感じの丁々発止というのは知識を資本としたマウント(オレ(たち)のほうがえらい / おまえ(たち)はバカ)合戦みたいなとこがあって事実にもとづいた意見交換・理解促進というわけではない。「ネット(Twitter)はギロンに向かない」とかいうけどネットとかのツールが問題なのではなくて最初からそういう姿勢なのでギロンとか対話にならないんじゃないかと思う。ネットあるいはTwitterというアーキテクチャ、場にそういうのを促すなんらかの要素があるのかもしれないけど。でも、いつの間にかそういう「事実交換以前に馬鹿にする」みたいなスタイルがふつーになってしまった。たとえばたかが政治・経済の話でそれがその人の全人格的要素、魅力につながるものでもないものでもそれで少しでも知識的に劣ると一気にm9(^Д^)とする風潮。ちょっとそういったことでふつーの疑問を投げかけただけで○○警察みたいなのが来てモヒカン的に刈り取っていこうとする殺伐。そういうのは幼稚でもったいないことだなあと。

まあそう思ったのもこないだsession22でそういう話してたのの影響受けたのかなあとも思うのだけど。「昔のぼくのブログみると文末に草生やしてて恥ずかしくなる。聴衆を意識してそういう振る舞いをすることで『自分のほうが優位に立ってるんだぞ』と見せるような印象操作。いま、過去の自分に言えるとしたら『そういうのはやめたほうがいいぞ?』と言うと思う」みたいなの。あと「ネットでの発言の変化・同一性ってどこまで許されるんでしょうね?人は変化するものだと思うのだけど公人でもない私人の過去のブログ発言を見つけてきて現在の違いを矛盾としてあげつらうようなの。政治家などの公人でもない私人にはそういうのに付き合う義務も責任も本来はないわけだけど」みたいな。まぁ、チキさんは一気に成功しちゃったので昔とも環境が変わりそれに伴い変化するものもあったのだろうし、「金持ち争わない」的な余裕のもとにそういうこと言ってる側面もあるかなあ(ヽ´ω`)…成城トラカレも遠くに来たもんだ、と遠い目したものだけど。


話を元に戻すと知識資本と嘲り合い(マウント合戦)みたいな話。

自分的には<それによって彼らがなんらかのアイデンティティ-縄張りを確認しあってる ← なんらかのアイデンティティをそうやって確立する必要が無意識のうちに生じてる?>みたいな視角がある。その大きな背景としてはギデンズがいったような後期近代化による変化の影響というのがあるのかなと思うけど、なにがどうなってそういう風になるのかはまだよくわかってない。のでこれからおべんきょーしていく予定。ブルデュー、マルクスなんかも交えつつ。あるいはアイデンティティゲームというところで発達心理的なものと幼稚性みたいなのも見てくかも。


優越感ゲームというのはネット全体の現象というか、ついったとかでも政治経済(というかウヨ/サヨレッテル貼り合い)系以外の話題でも生じてるのだけどフェミ/ヲタ(ミソジニー男性)とか。直近だとウヨ/サヨがわかりやすかったのでそういう例として。

そして、誰かが図示して言ってたけど、「こういうのって双方の属性の一番上のところにえらいひと・知識がある人がいて最下層に知識がないひとがいるのだけど、知識がないひとが阿呆な発言をしたのを片方のえらいひと・知識がある人が拾い上げ相手方陣営全体を『バカm9(^Д^)』てラベリングすることで不毛なディスコミュニケーション・煽り合いしてる」、って感じ。まあバカサヨク / バカウヨクみたいなのが双方にいてどうしようもないなと。そんでそもそも知識がある程度あればそういう属性をかぶってバカに足を引っ張られてく不毛みたいなのもわかってるはずなんだけど。いわゆる「運動」なんかでもそういった連中のせいでぐだぐだになってくわけだし。まあ「オレはウヨクとか保守とかになったつもりはないよ?周りが勝手にそう見て攻撃してくるだけだよ?」ってのもあるかもだけど(二項対立でしかものが見れない連中)。




















ついったーも「丸くなった」ようなのでこういう人たちもそろそろもうちょっと丸くならないかな



ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -
ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -


スコットランド狂想曲:経済とスピリットはどちらが重いのか(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース



スコットランド狂想曲2:市民的ナショナリズムと民族的ナショナリズム(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース



この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -
この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -


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2016年12月17日

「身体はトラウマを記憶する」



少し前に読んでついったのTL的にもシェアしといたほうがいいかなと思ったので簡単に

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -




簡単にはトラウマからの復帰の方法について。んでもトラウマだけでもなくグリーフケアとか発達障害とかにも適応される感じ。あるいは鬱とか自律神経失調とか。そういうわけで紹介しといたほうがいいかなとおもった。


紹介的な文章になるので特に自力でうんたらする必要性もないだろから他人様の紹介を主に借りよう。巻末の解説が端的にまとまっていたのでそれをまるっと引用から。

ちなみに引用はiPhoneのスキャンアプリCamScannerからのOCRを試しがてらやってみた。便利だけどiPhoneカメラの性質上カメラで捉えられる範囲が限定される/あまりたくさん文字を写すとOCRの誤認識が多くなるのでなるべく短い単元ごとで撮影する → 何回も撮影しなければいけなくなって疲れる、というのはあった。んでもあらためて写経におけるスキャナ→OCR便利だなあとおもったので安価なハンドスキャナとかあとでぼけーっと見て見るかもしれない。

閑話休題

以下、巻末引用から






浜松医科大学児童青年期精神医学講座  杉山登志郎



本書の著者、ヴァン・デア・コークはエピローグの冒頭で、次のように書く。「私たちの社会は今、トラウマを強く意識する時代を迎えようとしている」


本書は・自伝的な要素を有し著者の精神科医としての、そしてトラウマに関する世界的な研究者としての歩みがそのまま記されている。オランダ系移民であるヴァン・デア・コークの父親は、ナチスに対し批判的であったがためにナチスによる投獄を経験し、母親は幼児期のトラウマの経験を持つことが暗示され、家族の中に深いトラウマがあったことが開示される。彼の歩みは、トラウマの再発見から始まる、今日のトラウマ研究の歴史そのものなのだ。一九七八年、駆け出しの精神科医であったヴァン・デア・コークがベトナム戦争の帰還兵が示す凄まじい後遺症に圧倒され、トラウマのもたらす多?にわたる脳ヘの影響に気付くところから本書は始まる。トラウマについて、精神医学が発見と忘却を繰り返してきたことを彼もまた再発見し、一九八○年に出版されたアメリカ精神医学会炸成の「診断・統計マニュアル第三版(通称D S M.皿)」に初めて心的外傷後ストレス障害(PTSD)の概念が登場したことをきっかけに、効果的な治療法を見つけるための体系的な研究を開始する。さらに彼は、慢性のトラウマや強烈なトラウマにさらされた脳が通常とは異なる働きを作り上げて行くことを、最新の脳科学や脳画像法を駆使Lて解明して行く。そうして積み上げられた実証を伴うデータの集積によって、一見脈絡のない不可思議な症状群が、すべてトラウマによって引き起こされた脳の変化に基づくものであることが示され、なぜ従来の治療法が無力であるのかも、脳の働きに遡って明らかになる。また薬物療法の限界も示される。

重度のトラウマ、特に子ども虐待などの慢性のトラウマによって生じる様々な重症な臨床像である、複雑性PTSDと発違性トラウマ障害が、なぜかアメリカの精神医学の主流から無視され続けたこと、さらに抗精神病薬や抗うつ薬の処方のみが膨れ上がって行く状況も克明に語られる。その上で、不可能とも思われたトラウマの後遺症からの回復を可能にする様々な方法が、これも実証を伴った研究によって今日の到達点として描かれる。

本書を通して私は、被虐待児とその親の臨床の中で疑間を感じつつそのままになっていた問題や断片的な理解のままになっていた間題のほぽすべてに、明確な回答を与えられ、視野が何倍に広がったような体験をした。本書は日本でも、トラウマに向き合わざるを得ない人々にとって信頼できるテキストとなるだろう。それはこんな人々である。ドメステイツク.バイオレンスや子ども虐待に向ぎ合わざるを得ない人、少年非行や少年犯罪、薬物中毒、性被害・性加害、社会的擁護、里親・里子、貧困、すべての精神疾患、怠学、不登校に関わる人々。つまり学校数師、ソーシャルワーカー、児童養護施設や児童自立支援施設で働く人、精神科医、臨床心理士、弁護士、裁判官、警察官、検察官そして政治家。まさに私たちの社会は今、トラウマを強く意識しなくては何もできない時代を迎えようとしているのである。


本書の圧巻は、なんといっても第5部「回復ヘのさまざまな道」である。本書の冒頭でヴァン・デア・コークは三つの方法があるとしている。一、自分に起きていることを知り、それを許容しつつトラウマ記憶を処理するトップダウンの方法、二、不適切な警戒反応を抑制し、脳の情報処理を変える方法、三、トラウマに起因する無力感などに立ち向かうボトムアップの方法。どれが有効なのかはやってみなくては分からないし、ーつだけではうまく行かないことが多い、従ってて組み合せが必要であるとしている。


第5部で取り上げられているのは、トラウマからの回復のために工夫、開発されてきた実に広範な様々な治療方法である。最初に、言葉での表現として、自分に手紙を書くという自由筆記法の可能性が取り上げられる。次の章ではEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)が紹介されるが、自分が実施Lていたグループセッションの参加者の中に、併行してEMDRを受けた患者がいて、その回復ぶりに驚嘆したヴァン・デア・コーク自身が早速研修を受けに行き、その効果に驚くというエピソードが紹介されている。これは私自身の経験そのものでもある。次がヨーガである。ヨーガこそボトムアップの強力な方法でありマインドフルネスや呼吸法との組み合わせによって、細心の注意を払いながら治療に織り込んで行く具体的なやり方が示される。ヴァン・デア・コークのすばらしいところは、これらの効果を直ちに最新の脳画像研究を用いて立証して見せることができることだ。EMDRの効果検証のみならず、ヨーガに関しても自己調整の中枢である脳内の島(とう)と呼ばれる部位の活性化が示されている。次に取り上げられるのは多重人格ヘの内的家族ジステム療法の紹介である。我が国では自我状態療法として行われている方法とほぼ同じ治療手技である。次いでPBSP療法が紹介される。

これはグループ精神療法を用いて、失われた愛着を想像の中で取り戻すという大変に興味深い臨床的試みである。我が国の治療者のために補えば、嶺輝子(みねてるこ)が独自に開発したホログラフイートークが類似のアイデアで構成されていて、この手法に精通すれぱ、愛着の修復の効果が同等に得られると考えられる。次に登場するのがニューロフイードバックを用いた脳の反応の正常化である。この部分に関して私は未経験であり、ぜひ学んでみたいと強く思った。最後に紹介されるのが、演劇や声劇によるトラウマヘの治療効果である。こちらも私は未経験であるが、その効果に関してはなるほどと実感ができるものぱかりである。

ヴァン・デア・コークは特定の治療法を勧めてはいない。そのいくつかを組み合わせることが必要で、本人に合った治療法を選び、脳や生体の起こすトラウマ反応に最新の注意を払いつつ実践して行くことによって、薬に頼らず確実な回復を得ることができることを実証しているのである。






上記にもあるようにこの本のハイライトは後半の様々な治療法部分となる。


人はどうやって「トラウマ」を克服するのか | 今週のHONZ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
http://toyokeizai.net/articles/-/141463

本書のハイライトは、間違いなく、それらの治療法について述べた後半部である。そこでは、驚きともいえる治療法と回復事例の数々が、著者の熱い筆致によって語られる。正直な話、おそらくこの部分は、その筋の専門家でなければ、「そんな方法で本当に効くの?」と訝しく思われる箇所もいくつかあるだろう。

ただそれと同時に、治療法の新奇性とともに、「できることなら何でもする」という著者の意気込みがことさらに目を引く部分でもある。健全な疑いを持ちつつ、新しいアプローチと著者の情熱を楽しみながら読んでいきたいところだ。


著者のモットーは、「患者が良くなるのを手助けするために、できることなら何でもする」であり、実際に本書でも、EMDR、ヨガ、内的家族システム療法、ニューロフィードバックなど、じつに多くの治療法をとりあげている。

さて、以上のように整理すると、トラウマの治療として著者が何を目指しているのかも、よりはっきり見えてくるかもしれない。原題や邦題が示しているように、「トラウマは脳と心と体に痕跡を残す」というのが著者の基本的な考えである。ならば、「トラウマはどんな痕跡を残しているのか」「患者は現にどんな状態にあるのか」を見定めたうえで、それぞれの場合に適した治療法を選択し、ひいてはそれらを組み合わせよう、とそういうのである。



「トラウマは脳と心と体に痕跡を残す」という部分については実際に脳の状態をスキャンしてトラウマを負った脳の状態を診ている。トラウマを負った脳は扁桃体への電気信号が過剰になり、そのぶん前頭葉へのそれが持っていかれるみたい。つまり無駄に恐怖・不安反応が高まり自動的にそれが生じ理性的な判断がしにくくなる。

ひとつ具体的な議論を追ってみよう。先に述べたように、トラウマは脳にもその痕跡を残す。典型的には、トラウマを負った人では扁桃体が過敏に反応するようになっているのである。扁桃体といえば、情動反応の処理においてとくに重要な役割を果たしていて、脳における「煙探知機」に喩えられる部位だ。脳画像でも確認されているように、そうした探知機が過敏に反応するからこそ、患者は必要以上に危険を感知し、ストレスホルモンがたびたび強く分泌されてしまうのである。

ただし、トラウマと関係している脳部位は扁桃体だけではない。扁桃体との関係でとりわけ重要なのは、前頭前皮質だ。前頭前皮質はいわゆる実行機能を担っており、とくに内側前頭前皮質は脳の「監視塔」に喩えられる。煙探知機として警報を鳴らすのが扁桃体の役割だとすれば、その警報が妥当なものかどうかを判断するのが内側前頭前皮質の役割である。かりに煙探知機が警報を発したとしても、監視塔がそれを誤報だと判断すれば、ストレス反応はじきに抑制される。だから重要なのは、扁桃体と内側前頭前皮質の均衡関係なのである。その証拠に、そうした関係が崩れてしまうと、現にトラウマを負った人がそうであるように、すぐさま闘争/逃走モードのような状態に陥ってしまうことになる。


この状態をリセットするために様々方法が提示される。ヨガとか演劇を通じたロールプレイとか。あるいはEMDR(眼球運動を利用した方法)を命綱にトラウマダイブして自分で克服する手助けとか、ニューロフィードバックで脳に直接に電気信号を送り障害を調整とか。

もっとも身近にはヨーガとか長距離走なんかが良いように思えた。要するに呼吸。長くて落ち着いた呼吸で自律神経を落ち着かせる。1分間に6回の呼吸。


トラウマ性ストレスにうまく対処するためには、まさに両者の均衡関係を維持・回復することが肝要だと考えられる。そして著者によれば、そうした均衡を維持・回復する手段には、トップダウンの調節方法とボトムアップの調節方法がある。

トップダウンの調節は、監視塔の力を強化するものであり、具体的にはマインドフルネス瞑想やヨガなどがそれに当たる。他方、ボトムアップの調節は、自律神経系の再調整を促すものであり、具体的には呼吸や身体動作、接触などを介して行われる。そして、そうした具体的な調節方法として、先に示したような多種多様な治療法を著者は紹介していくのである。




自分的にヨーガはまだやってないのだけどそのうちやるときように本書でよく紹介されていたこの辺とか読んでみるのも良いかも。



スティーヴン・コープの名著「ヨーガと真の自己の探求」


あとは太極拳とかかなあ。。64式とか。あるいは地味な套路。




「習得への情熱―チェスから武術へ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/442327056.html

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2016年09月28日

「相撲の歴史」




なんでこれ読もうと思ったのか思い出すに「古流相撲の源流の部分に四股やテッポウなどのトレーニングの本来の意味・狙いも見いだせるのではないか?」とおもったからかなあと思うのだけど結果的に当ては外れつつけっこうおもしろかった。


相撲の歴史 (講談社学術文庫) -
相撲の歴史 (講談社学術文庫) -


今思うとこれがアンテナに引っかかったきっかけのエントリでもそういったことは書いてあるな。すくなくとも相撲、あるいは相撲の鍛錬の技術的なことについては触れてない。


新田一郎『相撲の歴史』 - 中国武術雑記帳 by zigzagmax
http://zigzagmax.hatenablog.com/entry/2016/05/23/002304



全体としては明治以降、現在のような近代相撲となる以前の相撲の歴史・源流について歴史学・民族学などの成果を引用・援用しつつ述べたもの。

かんたんにまとめると相撲は最初、平安貴族かなんかの前で奉じる相撲節(会)(すまいのせち)から発展していったぽい。それ以前にも「神に捧げるもの」としての意味合いがあったので貴族が余興として鑑賞するようになったというとこもあるかもだけど。「神前に奉ずる」な流れはその後もずっと神社の前での相撲大会として残っていった。それは現代も残ってて地方のいわゆるアマチュア相撲的なものはそういったものなのだろう。相撲はもともとそういった貴族、あるいは神社で奉ずるものだったのだけど神(社)に奉ずるときは勧進のひとつとして行われていた。勧進自体は日本の企業(カンパニー)的なもののもっとも古い形態ともいえるだろうけど、資本主義的な貨幣経済が発達してなかった時代、「集団でなにかをつくる」←「お金を集める」名目としてもっとも強力だったのが勧進だった。すなわち神社の建築とそのためのお金集め。勧進においては人を集める余興が必要でそのひとつとして相撲が使われていた。その後しばらくして武家なんかがお抱え力士をつくって力士サポートするところもあったようだけど、その時代にも地方での神社前の相撲興行的なものは並行して続いていった。


江戸期は江戸に専門の相撲人・相撲部屋が作られ神社以外の場所でも恒常的な相撲興行が行われるように。そういったプロ力士たちは武家なんかのバックアップも受けていた。江戸期の興行の代表的なものは江戸以外に京都・大阪なんかで、四季の各季節ごとに行われていた。もともとは相撲は地方神社での興行がメインだったけど江戸に専門の部屋ができるようになってその中心は江戸に移っていった。



だいたいの流れはそんな感じで後半は読み飛ばしでいいかなあとおもってたのだけど明治以降の近代化において相撲がどのように生き残っていったかのあたりの叙述がけっこうおもしろかった。相撲の「日本古来の伝統」的なフィクションはこの時代に作られたものらしい。明治政府による「富国強兵にいらない余興は必要ない」に対して。髷なんかも切るように命じられたようだけどこの「伝統」をかかげてなんとか回避したとか。あと天皇への上覧が効いたとかなんとか。そういう形で国に依る「伝統文化」的なバックアップを受けて相撲は生き残っていった。



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2016年08月13日

「男子の貞操」




この辺を見てて読んでみようと思ったのだった。


「風俗」と「射精介助」、どう違うのか?<障害者にとっての<性>と<生>を考える>上野千鶴子/坂爪真吾 - 幻冬舎plus
http://www.gentosha.jp/articles/-/5920

貧困女子の生態を消費するブームに乗っかっている自覚は、おあり?<障害者にとっての<性>と<生>を考える>上野千鶴子/坂爪真吾 - 幻冬舎plus
http://www.gentosha.jp/articles/-/5996



上野さんは元指導教官ということもあり、あるいは彼女の性格とかマッチョ女性的な考え方もあるのでフルボッコ的な言い方をしてるけど。その中でも「男子の貞操」と「性風俗のいびつな現場」はおすすめされてたので。「性風俗のいびつな現場」は次回以降の読書とする。関連で荻上チキさんの「彼女たちの売春」なんかも読んでみても良いかなと文末の関連図書付録を見つつ思った。








「インタビューで興味を持った」以外に、この本を読んでみようと思ったのは男性のセクシャリティみたいなのをきちんと語る、考えるという意味で興味を持ったので。そういうのはこのblogの依然としたテーマの一つであるし。

フェミニズム-女性学みたいなものに対抗して?たてられた男性学みたいな語りがあるのだけどなんかしっくりこない。どうも弱者男性論と接続してみょーにねじれた感じになって。あるいは、フェミニズムを批判しつつもフェミニズムの悪い部分を踏襲したようなポジショントーク的な感じがするので。そういうのに対して、もうちょっとスッキリと自身のセクシャリティとかリアリティを俯瞰できないかなあ、と。「男もつらいよ」的な語りはそれを中立に行った後で良いだろうし。

その意味でこの本は完璧、というわけでもないけど同じような視点とか問題意識にあるのかなあとか。女性なんかが男性のこういうのを知ろうとするときには良いかもしれない。「感じない男」的な男の子の性意識に関する内情語りとして。


森岡正博、2005、「感じない男」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52482268.html





ふたたび「男子の貞操」について。結論からいうとちょっとお利口ちゃんにすぎるかなあという印象だった。自分的には。

大意としては、<男子のセクシャリティ、性に関する欲望なんかはだいたいが現代社会のエロメディアの価値観に汚染されてるので、それをまず相対化し、目の前の『ふつー』の女性との日常行為としてのセックスに戻るべき>、というもの。「エロメディア的な価値観はジャンクフードみたいなもの。ジャンクフードはやめてもっときちんとしたセックスをしよう」「女性との付き合いはその社会、コミュニティにおけるふだんの関係性の結果でありそのボーナスようなものなので焦らなくて良い」とか。後者はたとえばその職場・コミュニティできちんと仕事してて関係ができて尊敬されるようになってくれば付き合いは自然発生する、みたいなの。

まあそりゃそうだよねー、って感じなのだけどジャンクフード食べるのってそんなに悪いことなのかな?ッて感じに。食をめぐる価値観にも通じて、すべてを手作りスローセックス・スローフード的な自然食みたいなのにするのも宗教がかってるというか、まあ手間もかかるし飽きっぽくなる。なのでそういうのも選択の一部として選べればよいかなあって結論。食べ物うんたらと同じく。


阿古真理、2013、「昭和の洋食、平成のカフェ飯」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/424606203.html

遠藤哲夫、2013、「大衆めし 激動の戦後史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425007585.html



んでもまあこういうのも世間一般のエロ、あるいはグラビア的な男性欲望・価値観のステロタイプに汚染されたひとがみるとそういうのが相対化されてよいのかもしれない。


そんなこといいつつ今日もAmazonアンリミテッドでゴミのようなエログラビアザッピングとかするわけだけど?( ・?・)? ?? 。○(まあでもあれもおやすみ前のちょっとした「お楽しみ」があの程度で済むようになって便利っちゃ便利なんだけど(最近は筋トレで疲れさせてさっさと寝ちゃえ、にしつつ
















セックスの哲学 - Wikipedia

セックスの哲学(英: Philosophy of sex)とは、セックスや性愛に関する研究を行う応用哲学の一分野である。売春、レイプ、セクシャルハラスメント、性的アイデンティティー、同意年齢、同性愛のような現象についての倫理学的考察や、「セックスとは何か?」のような問いに対する概念分析が行われている。また、セクシャリティや性的アイデンティティーにまつわる問いや、ジェンダーの存在論的地位についての問題も扱う。現代のセックスの哲学者として代表的な人物には、アラン・ソーブルとジュディス・バトラーがいる。

現代のセックスの哲学は、西洋フェミニズムの影響を受けている場合が多い。フェミニストが問いただしているジェンダー間の差異、性の政治学(ポリティクス)、また性的アイデンティティーの本性といったテーマは、セックスの哲学においても重要な問題となっている。







上野千鶴子、1989、「スカートの下の劇場」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/388711171.html

「恋愛とセックスの経済学」 / 「家父長制と資本制」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/427900360.html

意味―性―愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414101268.html

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2016年08月10日

シン・テッポウ? / 対膝痛トレーニングとしての四股とスクワット


以前にした四股・テッポウエントリの続き的なものとして


四股やら腰割りやらとウォーキングやらランニングやらについて: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/437377800.html


テッポウと膝関連で進捗?あったので経過報告的に。



テッポウについてなんとなく最近わかるような感じになってきた。「わかる」っていうかこれが正しいのかわからないけど効果として実感できる感じ。

ポイントとしては単純でテッポウの開始位置のときの壁に手を当ててるとき、掌をできるだけ壁面から離し、人差し指の付け根辺りだけで体重を支えるようにする、「付け根あたりだけで」っていっても壁面を使った斜め腕立てみたいな体勢になってるから足でも体重を支えてるんだけど、感覚としては「指付け根だけで」って感じ。指の付け根で相手を喉輪してるような。壁面についた指と指の付け根の角度が90度になるように。

ここから「落とす」ように始動することでぜんぜん効果が変わる感じ。全体重が確実にかかってる感じでウッと声が出る。寸勁とかと似た感じの理合いなのだろうか?この荷重を肩甲骨剥がしに利用する。


肩甲骨はがしストレッチ 首、肩、腰の痛み、体の不調が消える! -
肩甲骨はがしストレッチ 首、肩、腰の痛み、体の不調が消える! -

肩甲骨剥がしはよくわかってなかったけど要するに「肩甲骨というのは鎖骨だけでジョイントされてるものだけどほうったらかしにしてると肉に埋まって機能しなくなってる(ので肉から剥がして可動域を広げる)」というもの。

「鎖骨だけでジョイントされてる」というのを解剖図的なので見せられ意識するようになるとテッポウで荷重をかけるときにもどこまでやって良い / やるべきかがイメージされていい感じになった。





膝関連は四股とかスクワットで。




以前のエントリにも書いたかもだけど膝を痛めているので四股に期待してるのは炒めてる膝でもできるような足に負担をかけない筋トレあるいはストレッチということで、じっさい四股を意識してするようになって膝の調子がよくなっていた。でもその理由がよくわからなかったのだけど、今回Amazonアンリミテッド経由などで膝痛に関する本をブラウズしてみて膝痛の原理みたいなのを理解し、四股踏んでるとなぜ膝痛が緩和したのか?も理解できた。



膝、復活: 立つ、座る、歩く、人生の晩年は、膝で決まる (片寄斗史子聞き書きシリーズ―100歳までいきいき生きる国民医のアドバイス) -
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ひざの激痛を一気に治す自力療法No.1 (軟骨が再生する脅威の運動大判ポスター付き!) -
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膝痛にも色いろあるのだけど要するに大腿骨と脛骨が直接にこすれて神経が刺激されるのが膝痛で、大腿骨と脛骨のあいだのクッションがなくなっていくのが原因。高齢化にともなって生じるのはそういうのだけど、自分の場合は故障で生じた。たぶん膝の内側靭帯か半月板が損傷してる。O脚だとこの辺を損傷しやすいらしい(日本人の大部分はO脚)。なので、この部分を再生、あるいはなにかクッションを入れる必要があるのだけど、膝痛系でよくみる「膝を伸ばすようにしなさい」というのはここに潤滑液をためるためなのだそうな。そうすると車なんかにおけるハイドロうんたら現象と同じ感じで潤滑液がクッションになる。あるいは潤滑液自体に軟骨なんかの再生作用があるらしい。スポーツをして膝を傷めた人で「膝に水が貯まる」とかいうのもこれのことらしく、危機察知した身体の過剰反応として潤滑液を出しすぎて「水が貯まる」ということになるらしい。なのでそれ系のひとたちは水抜きとかする必要があるのだろうけど、そこまでいってない場合はふだんから膝抜き / 伸ばしをして潤滑液をためたほうがいいみたい。


名医が図解! 腰痛・膝の痛みは解消できる! (3) 膝の痛みの原因と対策 impress QuickBooks -
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やり方としては簡単で、いちばん簡単な座ったままできるものとしては膝振り子運動というのが紹介されていた。まあ座った状態で足をブラブラさせるのを50回ずつ3セットぐらい繰り返すというものだけど。自分的にはこういう構造を理解したうえで四股とヒンズースクワットを日課とすることにした。


膝痛の対策のもう一つのものとして「膝周りを補強するような筋肉を強化する」といわれるのだけど大腿四頭筋が膝の最強の装具なのだそうな。大腿四頭筋、つまり太もものアウターマッスル部分全般。

四股なんかだとインナーマッスル意識だったけど今後はこの辺も意識してやっていく。具体的には振り上げ足のつま先をすね側に縮ませることで大腿四頭筋に効かす。これも膝振り上げ運動の一環として紹介されていた。その際、かかと親指をきちんと意識して使う。O脚なんかの悪いところは脛の構造的に足の外側に体重をかけがちになってしまうことで、歩くときにもきちんとかかとで着地し親指で蹴りだすようにしたほうがよいのだそうな。ここに体重が一直線に乗るように意識して。そいやちょっと一休みの時に足を交差させて立つ楽だったりするけど、あれもO脚だからなのだろう。両足の外側に体重をかけやすいので自然とそういう体勢をとってやすみやすいようにしてる。そういう体制をとってる人がいたらO脚ということなのだろう。




ヒンズースクワットはただしくやるとこういうのに効果するらしくやり終わった後に膝が抜けてる / 伸ばされた感じがする。体重を落とすときに膝に負担がかかり過ぎないか心配だったけど正しくやるときには前に伸ばした腕によってバランスをとるため膝への荷重にはならないぽい。体重を落とすときにはできるだけ後ろに、膝に負担がかからないように意識してかかとに落とす。なんだったらつま先が浮くぐらいでやってる。





全体としては大腿四頭筋に効く。ストレッチ的には膝を伸ばし、筋トレとしては大腿四頭筋に効く。





あとはカーフレイズなんかで鍛えにくい脛・ふくらはぎを。フィニッシュの時にかかとが下がるぐらいの段差があるとこでやるのが良いと見たのでそういう感じでやってるけど足裏に痛いのでマット敷いてやってる。



全体的にストレッチ重視できちんと伸ばしたあとに筋トレ的な感じ





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2016年08月09日

シンゴジラが壊したものはなんだったのだろうか?




シンゴジラについて。もうちょっと評論めいたことを書きたい(思考したい)、あるいはそういったものを読みたいとおもっていたところでこのエントリで刺激されてなんか書きたいと思ったのだった。

希望の時代の中で―『シン・ゴジラ』雑感 ≪ SOUL for SALE
http://blog.szk.cc/2016/08/01/in-the-hope-age/


書き方は異なるけど似たようなことを思ったのだろう。つまり、「ゴジラというものは何の象徴だったか?」そして「それは現代でも通用するものなのか?」


「ゴジラってなに?」というとビキニ環礁の核実験から生まれた怪獣で、文明の負の遺産でありシステムに対する怒りであるってかんじなのだけど、それがリアリティをもったのはそういったシステムが戦後のカタストロフの中から立ち上がり構築されていった時代だったのだろう。

最初に構築されたシステムなのでスマートでもなくさまざまな問題を抱えつつ乱暴で暴力的で、それがゆえに市民の生活の方に問題が溢れていった。公害問題とか。

なので初期のゴジラは具体的には公害の象徴的なものだったともいえる。まあシステムの圧力によって生まれた問題の代表的なものが公害だったのだろうからそれだけがゴジラ的なものに代表・象徴されていたわけではないだろうけど。

この時代の人々がゴジラ的なものにマンゾクした背景にはそういったものがあったのだろう。逆らってはいけないオカミ的なシステムに暴力的にNOをつきつけていく存在。力道山と白人レスラーの関係にも同じ。

ただ、彼らがそういったイデオロギー的な理由から作品を鑑賞し満足していたかというと単に目に映る怪獣の光景が新鮮でおもしろかったからというのもあったかもしれない。プロレスも当時は斬新で刺激的な暴力ショーだったのだろうし。

ゴジラのリアリティの初期というのはそういったものだったのだろう。未だ怪獣のリアリティが通じていた時代。

そういったリアリティ、未だ消費財的なものが新鮮で、コンテンツ的にも新鮮なものがあふれていて、未だ見ぬ未来の発展をいずれ来るものとして信じられていた時代のリアリティ。初期から中期にゴジラ映画を愉しめていた背景にはそういったリアリティがあったように思う。

しかし、そういったリアリティも必要な耐久消費財が整い、物があふれ、あらゆるものが新規性を失い、退屈でシラケたものになっていった。いわゆる後期近代であり不可能性の時代へ。われわれは未来を信じる可能性を失っていった。

ゴジラ的なもの、あるいは怪獣的なものやSF的なものはそんな感じで、予定調和されシラケきった現在-未来の中で一般の人には受けるはずもない不可能性を抱えている。一部のヲタとかなら別だろうけど一般には「ゴジラなんか怪獣映画きょうみなーい」というのがふつーの反応になる。

ただ、今回の「シンゴジラ」が評判をもって受け入れられたのはそういった怪獣映画の系譜を継ぐものではなく、ゴジラを背景にした人間ドラマだったからだろう。われわれがなかなか見ることのない官庁の専門職の人々の様子。そこには未だ優秀で信じられる人間がいるということにリアリティをともなった希望・胸熱を感じ、あるいは311では到達できなかった未来を垣間見せられたことでカタルシスを感じられた。


(怪獣映画という)不可能性のなかで未来への希望を感じられる可能性が生まれた。


それはかつて楽天的なSFのように望まれた<未来>とは異なった、シビアな現実主義の時代を通り抜けた上でのかすかな<希望>ということだろうけど。ただ、その「希望」も過度のロマンティシズムに基づくものといえる面もある。




ついったでは何度か言ってたけどシンゴジラのストーリーラインというのは自分的にはそんなに斬新でもないのだけどなんかみょーに持ち上げられてるの見るとうーんてなっていた。

庵野秀明・樋口真嗣、2016、「シンゴジラ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/440705100.html


好きだし面白いと思うんだけど稀代の傑作みたいな言い方されてるの見ると。。(まあ人の評価とか印象はそれぞれだから良いのだけど一般論じゃないよねソレってかんじ。ヲタ的な怪獣とかウルトラマンとかの特撮の系譜を踏まえた上でのオマージュ-お約束、と、そのうえでの自衛隊他のヲターマニア心くすぐるアレのあたりはわかるし、内閣府あたりの骨太描写もその一つといえばそうなのかなあと思うのだけど。あれってここ最近人気の「日本はまだまだやれる」系の企業ドラマの描写の仕方のように思える。「下町ロケット」とかそういうのと同じような(或いはソレに属する「龍馬伝」的なのと同じような)。それと311を想わせるものをからませたので思ったよりカタルシス(あったらよかった現実)になって一般的なとこに遡及したのかなあとは思うのだけど。「ALWAYS 三丁目の夕日」がハイパーリアリティ的な昭和ロマンティシズムといわれびみょー感持たれるのと同様、一連の企業ドラマってそういうのの系譜なんだとおもう。




「趣都の誕生」を読んでいると都市の建物というのはその時代、その都市の人々の未来観を反映するものだという。

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ -
趣都の誕生 萌える都市アキハバラ -


「未来」でありその時代環境の欲望や理想を体現したのが都市の建物のデザインということになる。

ただ、オフィスビルの外観というのはある時から時間を止めているらしい。ほとんどはレイクショアドライブ・アパートメント様式になってる。看板方式でシュッとした長方形のガラス張りのビル。ルードヴィッヒ・ミース-ファンデルローエのデザインなのだそうな。団地に共通するデザイン(ユニテ・ダビタシオン)の元はル・コルビュジエだとか。




そういったビル、都市計画というのは官の主導であったが、だんだんと民も加わっていった。いわゆる森ビルとか、あるいは渋谷や池袋への西武の出資とデザインとか。都市デザインの官から民への時代。

アキハバラはそういった都市ビルのデザインの進歩を無視し、そんなに魅力のないビルに個々人の趣味としての垂れ幕がテンプレされていった。その意味で都市デザインは官→民の時代を経て「個」の時代になったとか。まあそれはデザインされたものではなくデザインを放棄した場にバラバラの趣味が表出され趣味と趣味がリンクされたという程度なのだろうけど。

シンゴジラの終盤、ゴジラを囲んでいた高層ビルは未だ建てられていない建物なのだそうな。それをCGでつくりだし破壊しゴジラに浴びせかけた。そのゴジラもまたCGでつくられたものだった。

そのことを象徴的に読みとると、われわれはもはや現実へのリアリティを失い、あるいはCGのなかでに期待される先取りされた未来をさえなんだったら破壊して差し支えないほどの決断力を有したといえる。それをモッタイナイと躊躇するのではなく、その期待に思考停止するのではなく。

かつてゴジラやモスラが壊したもの、あるいは壊そうとしたものはその時代のシステムであり未来の象徴だったはずだけれど、シンゴジラでゴジラがが壊したものはなんだったのだろうか?

未来、ではあるけれどけっしてゴジラなどの虚構の存在を通してしか破壊できないようなシステムと直結した構築物としての未来、ではない、なんだったらわれわれの決断によって破壊し修正できる未来。

それは「ゴジラが壊した」、のではなく、「われわれが壊した」のだった。

そして、

だからこそわれわれが建てなおしていける      
                    











                       のかもしれない





















8月6日  /  意味のテンプレ|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n8c315a1d618d

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2016年05月21日

漂白される社会





漂白される社会 -
漂白される社会 -





読み始めたばっかのときに「とりあえず共感するところ / 自分の問題意識的に重なるところがあったのでその引用をメインとしてメモ的にエントリしとこう」と思ってつくっておいた草稿。

もう読み終わったのでなんか付け足してエントリにしても良いのだけど、これはこれでこのままで良いのでメモ的に置いとこう。なんかいいたいときにここからの関連でなんかいったり言わなかったりするかもだし。




社会のいたる所で「周縁的な存在」から何らかの偏りや猥雑さ、すなわち「色」が取り除かれ、「周縁的な存在」にとっても、その外部にとっても「自由」で「平和」な状況ができつつあること。また、それに支えられた「豊かさ」が、ある種の均衡状態を構築し、多くの人々を「幸せ」にしていること。

そして、その「幸せ」こそが、人々を不安、不信、さらには「不幸」へと追い落としもするということを―。


その構造に気づき、これまで見てきた対象を再度振り返った時、それらに共通する社会のあり様をまとめるためには、「漂白」という言葉しかないと考えるようになった。

原発は、かつて30年で潰されるはずであったにもかかわらず、40年を超えてもなお稼働されることになり、多大なリスクを抱えている。また、スカウト行為への規制が強化される歌舞伎町の路上で生き抜くスカウトマンは、悩みを抱えて占い師のもとを訪れる女性客の存在に目を付け、彼女たちを風俗店に斡旋していった。原発や歌舞伎町、そして本書に掲載した様々な対象は、「漂白」された「周縁的な存在」という一つの軸でつながりあっている。


これらは全て、自らがそのリスクにさらされない限り「見て見ぬふり」をできてしまう。「漂白」された「周縁的な存在」が、社会の表面にせり出してくることはないからだ。





「彼ら」は「周縁的な」存在や出来事を「見て見ぬふり」する



「もう終わる、すぐ終わる」「あれはダメだ、それを潰せ」「変わる、変えなければ」と、社会の中で相対的に目立ってしまった「ネガティブな何か」を探し出しては、そこを回転の軸にしながら、社会はいまだかつてないほど大きく、思いの他活発に動いているように感じられる。それは、「ネガティブな何か」が大きければ大きいほどなおさらのこと。

こうして、浅はかな「希望」が生まれては崩れてを繰り返し、それを取り囲んで起こる「祝祭」が非日常を演出する。その時々に選ばれた「敵」の象徴と、それなしには支えられない「友」の象徴が社会を浮遊し、人々の想像は暴走する。そして、非日常への熱狂の後には、退屈な日常が舞い戻り、以前と変わることのない日々は続いていく。


現代が、例えばかつてのように「暴利をむさぼる資本家」「民衆を抑圧する権力者」「克服すべき貧困・差別・暴力」という「絶対的な巨悪」を想定できる時代ではなくなったとするならば、それは、「闇の中の社会」だと言える。なぜならば、「絶対的な巨悪」があってこそ、それを打ち破り、困難を乗り越えた先に、眩いばかりの光の存在を感じることができるからだ。

そして、その光を目指す高揚感のなかで、社会は一つの秩序をもって営まれてもきた。現代とは、その秩序が失われた社会だとも言えよう。




光の存在をどこにも感じることができない、闇の中にある時代がもたらす不安は、人々をある種、宗教的な社会現象へと再編する。単純でわかりやすい言葉・経典(答え)を求めては、「これを信じろ」と社会は凝縮し、価値観の異なる「異教徒」を(でっち上げてでも)探しだしては叩き潰す。そして、「あいつらはおかしい、とんでもない」、あるいは「こちらを信じれば救われる。さもなければ、もはや……」と、「陰謀論」や「終末論」の発生にドライブがかかり、そこに浸ることで、生きる意味と充実感を得る者が現れる。



「彼ら」は「単純でわかりやすい言葉・経典を求めて」は「価値観の異なる異教徒を探しだしては叩き潰」す。水素水やホメオパシーやアベシンゾーや。そして、その場その場のわかりやすい規範に従う。


今、求められているのは、安心できる象徴を闇の中にでっち上げたり、ありもしない光を無理矢理に想像することではない。先行きを見通せない閉塞感のなかで立ち止まった時に、そこに芽生える現実が示す、その恐怖感から逃れてはならない。

目を凝らしながら、闇を闇として見つめ、少しずつでも歩みを進める。手の届く範囲にあるものに軽率に飛びつくことをやめ、複雑なものを短絡的に単純化すべきではない。ろくに手足を使っていないにもかかわらず、わかりやすい答えが見つかりそうになったとしたら、それは先入観や偏見でしかないと拒絶すべきだ。

丹念な作業の末に、闇の中にも目が慣れてくると、巨大に感じていた「見えない化け物」が、たとえ自らの手で扱えるものでなかったとしても、自分と同じような「何か」であることにも気づくはずだ。





それは端的には言えば「快との接続可能性が高度化した社会」であるとともに、「不快との共存が許容されなくなった社会」でもある。

ITの発展のみならず、政治・経済を含めて様々な要因が絡みあいつつも、確実に人もカネもモノも流動化するなかで、これまで存在してきた価値ヒエラルキーは崩壊し、独立的(=閉鎖的)な集団群が形成され、その背景にある歴史的な連続性は断ち切られた。そして、一方で、これまではそれぞれの「ムラの論理」(同一性)の中で生き、「他のムラの論理」(他者)と出合わずにも済んできた人々も、かつてとは違って他者と"出合ってしまう”状況が進み、他方で、これまで「ムラの論理」から逸脱したものを規律・訓練してムラに組み込み直してきたメカニズムが、「別々のムラの論理を持つ者同士」の共生(多様性)を高度化した資本や技術によって管理・統制するメカニズムに代替されつつもある。


その前提のなかで、人々は「葛藤し合わない」形でのみ社会的に包摂され、「葛藤し合う」もの、すなわち「あってはならぬもの」は社会から排除・固定化、もしくは不可視化される。

ここで述べるような包摂(inclusion) / 排除(exclusion)という枠組みは、ジャック・ヤングの議論を踏まえてなされている。あまりにも大雑把なまとめになってしまう(それぞれの概念を精査し、詳細は稿を改めて検討したいと考えている)が、ヤングは、社会から逸脱するものを社会に同化し安定性を求めていく包摂型社会が、後期近代(1960年代後半以降)には、個人主義や多様性を重視する価値観が広まるなかで、社会から逸脱するものを排除する「排除型社会」へと移行していったとする。

そして、排除する側・される側の消費や労働に関する価値観が近づき、その境界線が曖昧化することで(文化的)包摂と(構造的)排除が同時に起こる「過剰包摂(bulimia = 過食症)」(例えば、一部の者が特権を享受しているにもかかわらず、不平等や格差が見過ごされるような状況が起こることなどを示す)が起こっているとも言う。それらは、ここまで見てきた「固定化」や「不可視化」を起こす要因の一つとして踏まえるべきだ。

ここまで述べてきた「あってはならぬもの」とは、「共存が許されなくなった、不快に思われるもの」だった。「あってはならぬもの」がなくなれば、確かに快適で、便利で、安全な生活が訪れるようにも思えるのかもしれない。そして実際に、社会はそうなってきているようにも思える。

しかし、起こっている事態は"それだけ”なのだろうか。








戦後社会において、セーフティネットとは、「教育」や「社会福祉」のような法制度として政治的に用意されるものだったのかもしれない。しかし、現代日本に生まれつつあるのは、市場メカニズムが用意する、セーフティネットとは認識されにくい「グレーなセーフティネット」であり、それが住居や職探し、心の安住につながる人間関係を用意し(第三章)、あるいは、社会的に排除され、いわゆる「包摂策」として提示されているオプションからも排除される者を、戦後育まれてきた行政・制度に接続することも行う(第四章)。終身雇用・年功序列の社会で、幸せな家族でマイホームに住むことは、限られた者にとっての選択肢としてしか存在しない。

無論、社会的排除に対する社会的関心それ自体が失われているわけではない。むしろ、その時々に喧伝される「絶対的な聖域」をめぐって大きな議論がわき起こり、また、政治や行政はある方針を打ち立て、「快適・便利・安全」な社会につながるかのような「正論」の側にポジションをとった者が、その中で優位性を確保することにも似た状況ができる。

しかし、実際はむしろ「叩いていいもの」となった、その「絶対的な聖域」の「理解できない」こと・ものの内実には誰も触れないが故に、本来そこに存在した「あってはならぬもの」が抱える「改善されるべきこと」は、改善されるどころか、むしろ関心の対象として排除・固定化され、より不可視化される(第五章)。

そして、不可視化された「あってはならぬもの」は、二つの方向に進みながら生きながらえる。一つは、以前からあった人間同士のつながりと情報技術が相まった新たな対応システムで、性や規範の網をくぐり抜ける方向だ。対応システムに対する規制要因は常に生まれるが、その規制を常に乗り越える形で新陳代謝が起こる。

もう一つは、あらゆる経済的資源が縮小するなかで、これまで偏って存在していた顧客や利害関係者をより拡げる方向だ。様々な「障壁を下げる方策」によって「普通の人」を取り込みながら、「あってはならぬもの」は維持される(第六章・第七章)。

ただ、それは「ソフトランディング」である。より具体的な形で社会に対抗的に存在してきた「あってはならぬもの」、つまり、より「生々しい暴力性」を示してきたものは、明確かつ短期間のうちに崩壊を迎えているからだ。

「豊かさ」が達成された結果、それは政治・経済・行政・法・メディアなど様々な社会を構成するシステムから排除され、今では消え入りそうになっている。その内部にわずかに残る資源が、そこに生きてきた人々の最低限の生活を維持させる「包摂」機能を持つように見えることもあるが、もはや持続しえないようにも見える。生きながらえるのは、「生々しい暴力性」の牙を抜かれ、器用にも市場で一定のポジションを確保した一部の「強者」のみになる。

しかし、その「強者」とは、「快適・便利・安全」な「正論」のプラットフォームの上でのみ存在する「強者」に過ぎない。不可視化されてきた「あってはならぬもの」は、社会の変動要因となるという意味において無効化されてもきた(第八章・第九章)。

何かに熱狂しては溜飲を下げてを繰り返すなかで、変動しない社会、「快適・便利・安全」な社会は、強者のみで成立する社会でもない。当然、その快適さを下支えするシステムもまた形成される。






「信頼」が揺らぐなかで、「安心・安全を望む気持ち」が社会に存在し、時に増大することは確かだが、現実的にはもはや「客観的な安全」を社会に見出すことは、科学者にとっても、そうではない一般の人々にとっても難しい。「安心・安全を望む気持ち」が満たされないところには「不安」や「不信」が生まれる。両者は本来、「安全」や「信頼」の回復によって満たされ得るが、それもまた困難な状況にある。

そのような状況下において、「安心・安全を望む気持ち」、より正確に言えば「主観的な安心」は宙吊りにされ、絶えず人々の心の中に「不安」や「不信」を生み続ける。しかし、その情念は、回復が困難な状況にある「信頼」や、その前提の一つである「安全」に向かわず、また向かったとしても満たされず、彷徨うことになる。

その結果、ただアディクショナルに「自由のようなもの」や「平和のようなもの」は、その時々で偶発的に選択される。その選択の条件はすでに述べた「多数の人々」にとって選択し得るものであるかどうか、という点だけだ。そして、その原因であると同時にその結果として、時に「リスク」は「周縁的な存在」に分配され、それを排除・固定化・不可視化する。

不安と不信に基づいた無意識的な不快の中で、そこから逃れることを目指す力がアディクショナルに「自由」と「平和」を求め、「自由」で「平和」な社会が用意され……という循環が社会を構築していく。現代社会とはそんな社会であるらしい。







以下はこの本の元となった連載(一番下の方に一覧がある)と

第1回取り残された「売春島」に浮かぶもの 現代社会のリアリティ|開沼博 闇の中の社会学 「あってはならぬもの」が漂白される時代に|ダイヤモンド・オンライン http://diamond.jp/articles/-/19501


スピンアウトの対談


対談 漂白される社会 http://diamond.jp/category/s-hyouhakushakai

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2016年05月06日

石牟礼道子、『苦海浄土』



「苦海浄土」を読んでなんかいろいろうわぁ、、てなったのだけど感想にまとめにくく、じゃあこれはエントリするのでもなく自分の中に留めて流してしまおうと思ったのだけど「引用としてなら留めておいてしばらくしてまた見ても良いのかもしれない」と思い直した。


新装版 苦海浄土 (講談社文庫) -
新装版 苦海浄土 (講談社文庫) -
苦海浄土 わが水俣病 (講談社文庫) -
苦海浄土 わが水俣病 (講談社文庫) -


なので以下はだいたいが本書からの引用となる。それ以前にnoteに感想的な断片は載せていたのでこちらにもいちお載せておく。


「苦海浄土」ひとくぎり / 藤棚の季節の終わる前に|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n330f1adc07e7

早めに帰ったので風呂って読んでいた「苦海浄土」にまたズッポリとやられる。奥歯を噛み締めたくなるような悔しさと、涙が出そうになるような気持ちをぢっと耐えつつ、その静謐な怒りや悲しみ、諦観のような文体に身を任せる。聴いてるプレイリストが Jeremy Summerly のミサ曲なせいもあるのだろうけど。受難とか救いとか。


読み終わったり、あるいはぜんぶ読む前でも一区切りことになんかいいたい気持ちになるのだけど、これを生なかな言葉で感想するのもどうかなとおもったり。あるいは、批評的な視点や言葉で斜めに見るのも違和感がある。

単に味わい、自らのなかに沈殿させていけば良いのかもしれない。貧乏臭くいちいちアウトプットしなくても。特に「伝えなきゃ」でもなくこれほどの本なら知ってるひとは知ってるのだろうし、知らない人・関心がない人はそのままだろう。

全体的にヒロシマの被爆体験の話をみるような懐かしい温度、空気感がある。

外部から見るとフィクションにおもえるような想像を絶する悲惨。そういう言葉でさえ通り一遍等の形式的なもの、上っ面なものに思えてしまうような。そういう重い事実と生と死。

だからなかなか言葉に表しにくい。

フィクションに思えるといえばこの本自体がフィクション、SFにおもえるような構成もしている。「アルジャーノンに花束を」の「けーかほうこく(経過報告)」を想わせるような水俣病に関する医学的な、あるいは裁判資料的な記述。それが各被害者・罹患者のひとりがたり的な語りのルポルタージュの間にモンタージュされる。

ちょうど写真における白黒モノトーンとカラーの使い分けのように。その2つが交じり合い、別々の文体・語り方で表されていることでメリハリとなったリズムを生み出している。彼らの生が生きながらにして神話となっているような。あるいは、もうすでにそこにない生を慈しみ、惜しむかのようなまなざしや感情が全体を覆っている。




そのぶん、明日の昼には晴れるだろう|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n3cf60b636e21

「苦海浄土」についてまとめ的な感想とか批評めいたことは書きたくないなあとおもったのだけど、自分的に印象に残ったことばたちを留めるためにエントリしてもいいかもなあ、とか。引用メインで。
あとがきをみていたら、「あれはじつはルポルタージュではなく石牟礼さんのフィクションなのです。全面フィクションというか、彼女がインタビューした人の様子から紡ぎだした『この人ならこう言うだろう』というもの」、みたいなのを見てやっぱりなあと思う。やっぱりなあ、ていうかルポルタージュとしては受け止めていたのだけど、出来過ぎててフィクションというか、構成的にSFみたいだ、とかおもった部分がこのへんだったのかなあ、とか。

「石牟礼道子はこういったことばたちの巫女なのです。語りえぬ人々の、声にならない声の巫女なのです」

そういうのをみて自分もそういうのあるなあ / 感心されたなあそういや、とか。あと、特に知りもしない人のふところに潜り込んで話し聞くのもけっこう得意だったり。まあそれも合う合わないはあるのだけど、いわゆるとっつきにくく滅菌殺菌された東京都会人みたいな人じゃなければけっこうお話したりする。まあ話し聞いておもしろそうだったらだけど。

「断片的なものの社会学」とかみてても思うのだけど、こういうの自分もできるのかもなあ、とかなんとなく。

まあなにもないところでふだんからそれをやるのはちょっとハードル高いのだけど、ネタとしてみたいなインセンティブがあればそれなりにおもしろいのかもしれない。






以下は「苦海浄土」からの引用




潮の満ち干とともに秋がすぎる、冬がすぎる、春がくる。

そのような春の夜の夢に、菜の花の首にもやえる小舟かな、などという句をものして目がさめると、うつつの海の朝凪が、靄の中から展けてくるのだ。

そして「春一番!」という名の突風が一夜吹き荒れる。船の碇をひきちぎってゆくほどの風である。そのような風が来てしまえば、菜の花の朝凪とこもごもに、東風が吹き起こる。春の漁は不安定だ。だから、春は祭りや嫁取りの時期だ。ひとびとは忙しい。

水俣川川口の八幡様の舟津部落、丸島魚市場、二子島梅戸港、明神ケ鼻、恋路島、まてがた、月ノ浦、湯堂、筏道、磯ぞいの道をつないで歩けば海にむけて、前庭をひらいた家のどこかの縁に腰かけて、男たちが随時な小宴を張っている。理由は何でもいいのだ。雨憩(よけ)、風憩、日中憩、船底を焼いた後の憩、その他片っぱしに思いついただれやみ(疲れなおしの酒)を、二、三杯やれさえすれば、通りかかったものは呼びこまれる。

― おる家(が)の前を素通りする法があるか。挨拶に呑んでゆけ。

男たちは湯呑み茶碗をつきつけ、通行者が外来者で若くて焼酎にむせたりすれば目を細める。けろりと飲み干せばたちまち身内になれるのだ。そのような縁先に女房たちがいて、女客であれば、どっぷりとキザラや白砂糖を入れたシロップ様の番茶の馳走ににあずかるのである。砂糖は家々にホクソに(ふんだんに)使うほどあり余っているわけでもない。子どもたちが砂糖を盗みこぼしたりしているのをみつけると、女たちは大声をあげて追いかけまわす。

不知火海を漁師たちは"わが庭”と呼ぶ。だからここに、天草の石工の村に生まれて天草を出て、腕ききの石工になったものの、"庭”のヘリに家を建て、家の縁側から釣り糸を垂れて、朝夕のだれやみ用の魚を採ることを一生の念願として、念願かなって明神ケ鼻の"庭”のヘリに家を建て、朝夕縁先から釣り糸を垂らしていて、初期発病患者となって死亡した男がいても、庭に有機水銀があるかぎり不思議ではなかった。





ひととき、トラックの列が途絶え、小暗くかげった道の向こうはしに、雌雄判じがたい銀杏の古樹が、やはり根本からその幹にいつからこびりついたともわからぬ泥をべったりかさねて立っていた。

悠々とともってゆくような南国の冬の、暮れかけた空に枝をさし交わし、それなりに銀杏の古樹は美しかった。枝の間の空はあまりに美しく、私はくらくらとしてみていた。

突然、戚(せき)夫人の姿を、あの、古代中国の呂太后の、戚夫人につくした所業の経緯を、私は想い出した。手足を斬りおとし、眼球をくりぬき、耳をそぎとり、オシになる薬を飲ませ、人間豚と名付けて便壺にとじこめ、ついには息の根をとめられた、という戚夫人の姿を。

水俣病の死者たちの大部分が、紀元前三世紀末の漢の、まるで戚夫人が受けたと同じ経緯をたどって、いわれなき非業の死を遂げ、生き残っているではないか。呂太后をもひとつの人格として人間の歴史が記録しているならば、僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえねばならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうか知れぬが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。




わたくしが昭和二十八年末に発生した水俣病事件に悶々たる関心とちいさな使命感を持ち、これを直視し、記録しなければならぬという盲目的な衝動にかられて水俣市立病院水俣病特別病棟を訪れた昭和三十四年五月まで、新日窒水俣肥料株式会社は、このような人びとの病棟をまだ一度も(このあと四十年四月まで)見舞ってなどいなかった。この企業体のもっとも重層的なネガチーブな薄気味悪い部分は"ある種の有機水銀”という形となって、患者たちの"小脳顆粒細胞”や"大脳皮質”の中にはなれがたく密着し、これを"脱落”させたり"消失”させたりして、つまり人びとの死や生まれもつかぬ不具の媒体となっているにしても、それは決して人びとの正面からあらわれたのではなかった。それは人びとのもっとも心を許している日常的な日々の生活の中に、ボラ釣りや、晴れた海のタコ釣りや夜光虫のゆれる夜ぶりのあいまにびっしりと潜んでいて、人びとの食物、聖なる魚たちとともに人びとの体内深く潜り入ってしまったのだった。



安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。

このとき釜鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄この世にとどまり、決して安らかになど往生しきれぬまなざしであったのである。

そのときまでわたくしは水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい一主婦であり、安南、ジャワや唐、天竺をおもう詩を天にむけてつぶやき、同じ天にむけて泡を吹いてあそぶちいさなちいさな蟹たちを相手に、不知火海の干潟を眺め暮らしていれば、いささか気が重いが、この国の女性年齢に従い七、八十年の生涯を終わることができるであろうと考えていた。

この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日からわたくしの中に移り住んだ。




うちのような、こんなふうな痙攣にかかったもんのことを、昔は、オコリどんちいいよったばい。昔のオコリどんさえも、うちのようには、こげんしたふうにゃふるえよらんだったよ。

うちは情なか。箸も握れん、茶碗もかかえられん、口もがくがく震えのくる。付添いさんが食べさしてくれらす、そりゃ大ごとばい、三度三度のことに、せっかく口に入れてもらうても飯粒は飛び出す。汁はこぼす。気の毒で気の毒で、どうせ味もわからんものを、お米さまをこぼして、もったいのうてならん。三度は一度にしてもよかばい。遊んどって食わしてもらうとじゃもね。

いやあ、おかしかなあ、おもえばおかしゅうしてたまらん。うちゃこの前えらい発明ばして。あんた、人間も這うて食わるっとばい。四つん這いで。

あのな、うちゃこの前、おつゆば一人で吸うてみた。うちがあんまりこぼすもんじゃけん、付添いさんのあきらめて出ていかしたから、ひょくっとおもいついて、それからきょろきょろみまわして、やっぱり恥ずかしかもんだけん。それからこうして手ばついて、尻ばほっ立てて、這うて。口ば茶碗にもっていった。手ば使わんで口を持っていって吸えば、ちっとは食べられたばい。おかしゅうもあり、うれしゅうもあり、あさましかなあ。扉閉めてもらうて今から先、這うて食おうか。あっはっはっは。おかしゅうしてのさん。人間の知恵ちゅうもんはおかしなもん。せっぱつまれば、どういうことも考え出す。

うちは大学病院に入れられとる頃は気ちがいになっとったげな。ほんとに気ちがいになっとったかも知れん。あんときのこと、おもえばおかしか。大学病院の庭にふとか防火用水の堀のありよったもんな。うちゃひと晩その中につかっとったことのあるとばい。どげん気色のしよったじゃろ、なんさまかなしゅうして世の中のがたがたこわれてゆくごたるけん、じっとしてしゃがんどった。朝になってうちがきょろっとしてそげんして水の中につかっとるもんやけん、一統づれ(みんな揃って)、たまがって騒動じゃったばい。あげんことはおかしかなあ。どげんふうな気色じゃろ。なんさま今考ゆれば寒か晩じゃった。

うちゃ入院しとるとき、流産させられしたっばい。あんときのこともおかしか。

なんさま外はもう暗うなっとるようじゃった。お膳に、魚の一匹ついてきとったもん。うちゃそんとき流産させなはった後じゃったけん、ひょくっとその魚が、赤子(やや)が死んで還ってきたとおもうた。頭に血の上るちゅうとじゃろ、ほんにああいうときの気持ちというものはおかしかなあ。

うちゃ赤子は見せらっさんじゃった。あたまに障るちゅうて。

うちは三度嫁入りしたが、ムコ殿の運も、子運も悪うて、生んでは死なせ、今度も奇病で親の身が大事ちゅうて、生きてもやもや手足のうごくのを機械でこさぎ出さした。申しわけのうして、恥ずかしゅうしてたまらんじゃった。魚ばぼんやり眺めとるうちに、赤子のごつ見ゆる。

早う始末せんば、赤子しゃんがかわいそう。あげんして皿の上にのせられて、うちの血のついとるもんを、かなしかよ。始末してやらにゃ、女ごの恥ばい。

その皿ばとろうと気張るばってん、気張れば痙攣のきつうなるもね。皿と箸がかちかち音たてる。箸が魚ばつつき落とす。ひとりで大騒動の気色じゃった。うちの赤子がお膳の上から逃げてはってく。

ああこっち来んかい、母しゃんがにきさね来え。

そうおもう間もなく、うちゃ痙攣のひどうなってお膳もろともベッドからひっくり返ってしもうた。うちゃそれでもあきらめん。ベッドの下にペタンと坐って見まわすと、魚がベッドの後脚の壁の隅におる。ありゃ魚じゃがね、といっときおもうとったが、また赤子のことを思い出す。すると頭がパアーとして赤子ばつかまゆ、という気になってくる。つかまえようとするが、こういう痙攣をやりよれば、両の手ちゅうもんはなかなか合わさらんもんばい。それがひょこっと合わさってつかまえられた。

逃ぐるまいぞ、いま食うてくるるけん。

うちゃそんとき両手にゃ十本、指のあるということをおもい出して、その十本指でぎゅうぎゅう握りしめて、もうおろたえて、口にぬすくりつけるごとして食うたばい。あんときの魚は、にちゃにちゃ生臭かった。妙なもん、わが好きな魚ば食うとき、赤子ば食うごたる気色で食いよった。奇病のもんは味はわからんが匂いはする。ああいう気色のときが、頭のおかしうなっとるときやな。かなしかよ。指ばひろげて見ているときは。





あねさん、この杢のやつこそ仏さんでござす。

こやつは家族のもんに、いっぺんも逆らうちゅうこつがなか、口もひとくちもきけん、めしも自分で食やならん。便所もゆきゃならん。それでも目はみえ、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす。一ぺんくらい、わしどもに逆ろうたり、いやちゅうたり、ひねくれたりしてよかそうなもんじゃが、ただただ、家のもんに心配かけんごと気い使うて、仏さんのごて笑うとりますがな。それじゃなからんば、いかにも悲しかよな眸(め)ば青々させて、わしどもにゃみえんところば、ひとりでいつまっでん見入っとる。これの気持ちがなあ、ひとくちも出しならん。何ば思いよるか、わしゃたまらん。

こりゃ杢、爺やんな、ひさしぶりに焼酎呑うで、ちった酔いくろうた。

杢よい。

こっちいざってけえ、ころんころんち、ころがってけえ。





あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。

これより上の映画のどこにゆけばあろうかい。

寒うもなか、まだ灼け焦げるように暑うもなか夏のはじめの朝の、海の上でござすで、水俣の方も島原の方もまだモヤにつつまれて、そのモヤを七色に押しひろげて陽様(ひいさま)の昇らす。ああよんべはえらい働きをしたが、よかあ気色になってきた。


かかさまよい、こうしてみれば空ちゅうもんは、つくづく広かもんじゃある。

空は唐天竺までにも広がっとるげな。この舟も流されるままにゆけば、南洋までも、ルソンまでも、流されてゆくげなが。唐じゃろと天竺じゃろと流れてゆけばよい。

いまは我が舟一艘の上だけが、極楽世界じゃのい。











といったふうに続けられる対話が、まさか現実の対話の記録であるとは誰も思うまい。これは明らかに、彼女が見たわずかの事実から自由に幻想をふくらませたものである。しかし、それならば、坂上ユキ女の、そして江津野老人の独白は、それとはちがって聞きとりノートにもとづいて再構成されたものなのだろうか。つまり文飾は当然あるにせよ、この二人はいずれもこれに近いような独白を実際彼女は語り聞かせたのであろうか。


以前は私はそうだと考えていた。ところがあることから私はおそるべき事実に気づいた。仮にE家としておくが、その家のことを書いた彼女の短文について私はいくつか質問をした。事実を知りたかったからであるが、例によってあいまいきわまる彼女の答えをつきつめて行くと、そのE家の老婆は彼女が書いているような言葉を語ってはいないということが明らかになった。瞬間的にひらめいた疑惑は私をほとんど驚愕させた。「じゃあ、あなたは『苦海浄土』でも……」。すると彼女はいたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった。しかし、すぐこう言った。「だって、あの人が心のなかで言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」。


この言葉に『苦海浄土』の方法的秘密のすべてが語られている。それにしても何という強烈な自信であろう。誤解のないように願いたいが、私は何も『苦海浄土』が事実にもとづかず、頭の中ででっちあげられた空想的な作品であるだなどといっているのではない。それがどのように膨大な事実のデテイルをふまえて書かれた作品であるかは、一読してみれば明らかである。ただ私は、それが一般に考えられているように、患者たちが実際に語ったことをもとにして、それに文飾なりアクセントなりをほどこして文章化するという、いわゆる聞き書の手法で書かれた作品ではないということを、はっきりしておきたいのにすぎない。本書発刊の直後、彼女は「みんな私の本のことを聞き書だと思ってるのね」と笑っていたが、その時私は彼女の言葉の意味がよくわかっていなかったわけである。

患者の言い表していない思いを言葉として書く資格を持っているというのは、実におそるべき自信である。石牟礼道子巫女説などはこういうところから出て来るのかも知れない。




















関連でいまはこれらを読み進めてる。

石牟礼道子 ---魂の言葉、いのちの海 (KAWADE道の手帖) -
石牟礼道子 ---魂の言葉、いのちの海 (KAWADE道の手帖) -


食べごしらえおままごと (中公文庫) -
食べごしらえおままごと (中公文庫) -


「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか -
「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか -

漂白される社会 -
漂白される社会 -





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2016年04月30日

四股やら腰割りやらとウォーキングやらランニングやらについて




四股は以前から踏んでたのだけど最近やってなかった。膝をいためてるので冬場だと四股でもちょっと痛かったので「ムリすまい」とかおもって。んでもちょっと考えなおして再開した。それで筋トレとしてきちんと日課にしてやることになったところでついったのTLでダイエットとかプロポーションとか気にする女子ずがちょこちょこ「スクワットしなきゃ」みたいなこと言ってるのに「四股しろー」botでちょっかい出してるうちに自分もけっこうお勉強になって、四股ほかのやり方も見なおしたのでちょこちょこnoteに書いていた。「お勉強になった」というのは「知らない相手に伝えるにはそれなりにきっちり伝えないとね」ということで一般人がトレーニングとしてやる場合の四股についての本なんかをちょこちょこ読んで、そこから四股のスポーツ生理学?的な効果とかやり方なんかを見なおして自分のやり方も修正したから。それでnoteなんかにはそれについてちょこちょこ書いてたのだけど今回あらためてこちらに再編集してエントリすることにした。まあ腰割りやテッポウなんかは未熟で自分でも修正してる部分はあるので他人様に大発表というのもどうかなと思うのだけど、まあいいかなーってことで。


直近だとこのへんがいちおのきっかけになる


四股とかテッポウの効用(機構)|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nc9ba6597cf12


このnote自体が四股の初歩についてのとぅぎゃったーみたいになってるのでこっちに飛んで見てもらってもいいのだけど画面遷移もめんどうだろうからいちおその中でも特にポイントと思われる箇所を抜粋すると


やり方としてはこんな感じになる

【夏合宿】四股の踏み方講座!!皆さんもやってみて下さい!|現役力士「普天王」どすこい大相撲日記 Powered by アメブロ
http://ameblo.jp/futenou/entry-10003634881.html


まあ間違ってはないのだけどこれだけだと入り口としてはキツイだろうからこのへんの知見も含めてもうちょっと解説すると


1日1分のシコトレで股関節からカラダが整う! -
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お相撲さんの“テッポウ”トレーニングでみるみる健康になる (じっぴコンパクト新書 81) -
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お相撲さんの“腰割り”トレーニングに隠されたすごい秘密 (じっぴコンパクト新書 053) -
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腰痛・ひざ痛がみるみるなくなる! 腰割り体操 (ヤエスメディアムック455) -
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まず「片足だけで立つ」というのが最初の段階だとたいへんでよろめくだろうけど近くになんか支えになるものがあったらそれに捕まったりしていいと思う。よろけたりしたら。てか、このときよろけるのは重心のかけ方、腰の落とし方(スタートポイント)が違ってたりするからだろうけど。

四股は腰割りの次の段階だから本来なら腰割りから説明すべきなのだろうけど簡単には「腰割りの姿勢(中腰)のまま片足ずつに重心を移動して上げる」ということになる。

腰割りの姿勢というのはまた後述するかもだけど、肩幅に足を開いてつま先は外側に向けて、上半身をそのまま落とす運動。足をよく開いたハーフスクワット的なものと思っていい。これをできるだけ身体を落として行う。まあできるだけっていうか股関節に効いてるなあって思うぐらいまで。あまり無理しない程度に。このとき足が外側に向いてることで膝に負担がかかるのだけど、これもこれによって膝に負担がかかりすぎる(痛い)ようだったらあまり無理して外側に向けなくて良い。要は股関節に効かす・股関節を柔軟させるというころがポイントなので。ちなみに股関節というのはこの辺


20120212203257a85.jpg


骨盤と大腿骨をジョイントする辺になる。


感覚的には腰割りとか四股とかでここをポコッとポコッとジョイント部から浮かせて拡張する感じ。腰割り、四股のときには前かがみにならないように注意して上半身をそのまま下に落とす。そうすると腸腰筋やらに効いてくる。まあリンパとかヒップアップとかにも効くのだろうけど。

よろける場合は肩甲骨をぎゅっと真ん中に寄せるようにしてバランスを保つ。あるいは足裏の重心の移動、重心をかけられるポイントをイメージする。

足裏の場合、体重というのは足の外側(足刀部分) → かかと → 親指付け根の順番でバランスされるようで、特に腰割り・四股なんかでよろける場合は足の外側をイメージするとけっこうもったりする。四股なんかで片足立ちになったときも、足の外側がエッジになって思いの外もつ。あと後ろに倒れそうだったらかかととかイメージするとか。親指付け根は足(←地面)から発力するときにイメージされるかな。かかともだけど。


戻ると、四股は腰割りの足のポジション・中腰の姿勢ではじめる。このとき、軸足の股関節に体重をのせることをイメージすれば足は勝手に上がりバランスされる。「足をあげる」のではなく「軸足股関節に体重を載せる」ようにする。そうすると振り子の要領で勝手に足は上がる。それで上がった足・体重を利用して、足を開いた姿勢で股関節で体重をキャッチして股関節を広げていく。あるいは肩甲骨もつかってバランスさせる。肩甲骨は真ん中に絞る。上半身の前傾を制御できる。




内容重複するけど最初のnoteの該当箇所もいちお引用

四股とかテッポウの効用(機構)|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nc9ba6597cf12

要するに、四股の効果、あるいは筋トレ・ストレッチ部位というのは股関節と腸腰筋(太もも付け根外側から臀部にかけての筋肉)でそこから連動して腰部につながる。全体的には深層筋(インナーマッスル)が鍛えられるのはいわずもがな。

意識としては、とくになれないうちは「足をあげる」というほうに行きがちなのだけど、リンク先の解説にもあるように、「足をあげるというつもりでもなく、軸足の方に体重をかけると自然とあがる。ちょうどシーソーのように」、みたいなとこはある。ただ、これも股割りとかできていて可動域が上がってれば自然とそうなりがちなのかもだけど、最初の段階ではむずかしいだろうから上げる方の足の腸腰筋を意識するとあがりやすいしより効果がある感じがした。あとは下ろすときに上げた方の太もも裏あたりに力を感じつつ振り下ろす。断頭台とか鎌みたいな感じで。体重+筋肉の力が加わった重みで股関節をストレッチする。

最近はコーヒーを淹れつつ20回ずつで80回とか、あるいはなにかちょっとした湯で / 煮ものをしつつ50回とかがふつーになった。で、日に200回とか。

解説を見てたらやはり古武術的に身体の基礎に通じるみたいなことが書いてあって、まあ続けとくのは地味に良いだろうなあ、とか。



断頭台みたいな鎌みたいにして下ろす、とか書いちゃったけどおろすときはあまり力いれなくてもいいかも。特に最初のころは。ヘンにグキッとなってあぶないかもだし。足裏とかアキレス腱なんかも痛かったり痛めたりするかもだし。できれば下ろす足はつま先からゆっくり下ろすぐらいで。まあ最初はこれもバランスがうまくとれない(軸足股関節にきちんと体重が乗ってない)かもで大変かもだけど。



スクワットの場合は大腿筋とよくてハムストリング(太もも裏の筋肉)が鍛えられる程度なんだけど腰割り・四股の場合は腸腰筋とか尻裏の筋肉とか、単にアウターマッスルじゃないところが鍛えられる。スクワットの場合、筋トレって感じで太もも太くなっちゃって女性的にはびみょーってのもあるのだろうけど、腰割り・四股の場合はストレッチ的なものがメインなのでそういう意味でも気楽だったりするかも。あとスクワットみたいな筋肉痛・痛めたりしない。回数にもよるだろうけど。

自分は膝を痛めてるのでスクワットの場合はどうしても膝に負担が来て却って痛くなってたりしたのだけど四股だとなんかうまいこといく。却ってよくなってきたり。それはヒザ痛の該当箇所に依ったり、最近ヒザ痛に効くというキューピーコンドロイザー飲んでるせいだったりもするかもだけど。まあとりあえずまた走れるまでになった。


かっぱさん、朝に翼(走る)を取り戻しもりもり食べる、の巻|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n09888b1b0f91



このへんからは四股の話とは別になるので四股の方法とかだけ気になる人は読まなくていいんだけど四股から走るなアレについて。

これは四股なんかの見直しで?膝が回復してきたせいもあるのだけど、四股に関しての元・一の矢関と内田樹さんの対談を見てて「昔の飛脚の走りって体幹(コア)ランニングだったのかなあ」とかおもって実践していってるので。



飛脚の走り方と体幹|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/na7de20538277



ナンバ歩きとか言われてた秘密のアレはどうも「左手と左足が同時に出て」ってことでもなく踏み出す足と同じ側の半身を前の方にひねりこむということらしい。体幹をうまく維持して骨盤を回転させることで半身をねじり込む。つまりテッポウ→すり足と同じだし金哲彦さんがいってるのに近いのだけど。あるいはベアフットランニングとかでいわれてるのと。まあこのへんの「飛脚の走り方の実際」については上記noteでそれなりにまとめたので特に引用せず。部分引用しにくかったし。興味あるひとはリンク先飛んで見てみてもらうと良い。


応用で体幹ウォーキング・ランニングについても簡単に


早朝散歩 / 体幹・肩甲骨・股関節|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n1dc7d4b49421

早朝読書で金哲彦さんの体幹ランニング・ウォーキングをザラッと読む。内容としては金さんが以前から言ってる話をもうちょっと細かくというぐらいで、以前に金さんの本を読んで習熟していた自分的にはすぐに読めて理解できた。
ただ、「肩甲骨を動かしてください」「肩甲骨で身体をひっぱりあげるんです」「羽のようなイメージで」、のあたりがより具体的にわかりやすくなってたように思えた。以前にも説明されてたのかもしれないけど。
具体的には肘を引いて肩甲骨をぐっと真ん中に寄せる感じ。走ってるとき、あるいは歩いてる時はこの引っ張る動きを片側ずつする。そうすると反作用で逆側の身体(半身)が前に出る。
これに加えて股関節を内側に寄せるのを意識しておくとおなじように身体が前に出やすい。とくに足の筋肉を意識しなくても。
あとは骨盤を前傾にしとけば身体がちょっと前傾になってるので勝手に前に進んでいく。

以前にこれを本で読んで実践してた時は肩甲骨で上に引っ張り上げる(地面からのダメージを軽減する)のを意識してるだけだったのでこういうローリングするようなのはできてなかったようにおもう。もちろん股関節のも。

そんなことを思いつつ一本歯でのウォーキングで実践したり、あるいは、日常でちょっと走る場面とかで実践したり。膝を痛めてるのでこういうのをやるとすぐに膝に影響があったのだけどそういうのもない。最近のストレッチが効いてるのかもしれないけど。足に直接にダメージがいってない感じはある。




金哲彦のランニング・メソッド -
金哲彦のランニング・メソッド -

「体幹」ランニング (MouRa) -
「体幹」ランニング (MouRa) -

「体幹」ウォーキング -
「体幹」ウォーキング -



いまはこのnoteのときよりもうまくなって地面を滑るようなかんじになってる。


石花 / 影を追う・影に追われる|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n332e673a0f37

体重のかけ方、姿勢なんかは先日来言ってるのと同じく「地面からのダメージは股関節で受け、足を前に踏み出す、のではなく、軸足から体軸を一本に保つようにして軸足を内側にねじり込んだら自然に反対の足は前に出ている」というもの。水泳と同じで体軸(コア)を一本に保つことが大事で、あとは基幹部分をねじる・回転させれば自然と推進力がつく、というもの。重心(骨盤)は低くして斜めにする。てか、尾てい骨を上げる感じにする。そうすると(体軸が一本に保たれていれば)身体は斜傾するので勝手に推進力が着く。感覚的には骨盤を中心に身体がシーソー(テコ)みたいになっていて、上半身の斜め前の地面への重みで足が浮いていく感じ。テコの原理で。昨日までも調子が良くなるとこの感覚が出ていたけど、今回はより各部位を意識して、理論的にこの感覚が実感できた。いままでも調子がよくなるとこういうのはあったのだけど、各部位ごとに理論的に理解・実践・定着していたわけではなかったのでどう調子をあげてよいのかわからなくなってたりしたのだけど今後は最初からこの姿勢をキープするようにすればこのパフォーマンスが出るということ。

下半身、股関節でキャッチして骨盤(尾てい骨)を回し(あげ)、足を内側にねじり込んでストライドを稼ぐと同時に前に足が出ている。下半身と連動して上半身を一本に保つようにしつつ、だんだん胸の辺りを地面に近づけていくイメージ。上半身を斜め前の地面に放り出すような感じで。放り出された身体は地面を這うように、舐めるように滑っていく。



走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫) -
走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫) -




あとは応用でバイクとか自転車とかゴルフとか

バイクと股関節|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n84eaa2e807ae

股関節と自転車 / 搾取される若者の風景|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n627025b4c4e0

疲労・回転・ゴルフ?・木の芽時|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n68913727866a


バイクのはサスペンションとしての股関節周りが柔軟されると地面からのダメージも吸収しやすいのかな?ってこと。あと姿勢もいろいろ取りやすいかな。

自転車も似たとこあるけど、股関節周りの可動域が拡がるので体軸からの体重を乗っけやすくなるとかありそう。

ゴルフはまあモロに体幹な競技なので。。




だいたいそんなかんじ  m(_ _)m  (テッポウについてもまとめなおそうかと思ってたけどまあいいやこっちは未熟だし)






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2016年04月20日

日常に侵入する自己啓発 ― 地震・PC・家事・こじらせ




昨今のついったのTLで震災関連の「これやっちゃいけないのにー」的な優越感ゲームうざいな、とか、女子をこじらせての是非うんたらうぜえなとか思いつつ、こういうのも包括的には今回読んだ本の対象範囲となるのかなあ、とか。



書評:日常に侵入する自己啓発―生き方・手帳術・片づけ [著]牧野智和 - 荻上チキ(「シノドス」編集長・評論家) | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015052400012.html

 果たして自己啓発書に、いかなる社会的機能があるのか。本書は、膨大な自己啓発書を整理しながら、その流行変化が社会の何を映し出しているのかを考察する。人は、手帳術を学ぶことで「時間感覚」を、片づけ術を学ぶことで「空間感覚」を再編する。男女、年代の違いによっても、「自己啓発」に求めるものは異なる。男性向けのものは仕事や趣味における上昇志向を刺激し、女性向けは美の追求を通じて自分磨きを要求する。典型的なイメージながら、人はそれに癒やされる。直接読むと「うへぇ」と投げ出しそうだが、本書のように客観的に分析されると、雑多な書籍たちが星座を形作っているように見えて面白い。
 「片づけ本」を整理した5章は最近でもベストセラー多発の分野だけあってタイムリーだ。主に男性経営者向けには、精神浄化の儀式としての掃除を。主に女性向けには、ありのままの自分を取り戻すための片づけを。現在の自己に不満を抱く人は、何かしらの儀礼を求めている。片づけのように些細(ささい)なことであっても、大層な儀式に変わってしまうものだ。




日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ -
日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ -



新聞の書評らしく短くわかりやすい紹介なのだけどもうちょっというと「自己啓発書にいかなる社会的機能があるのか」というか「○○のための道具のひとつとして現代日本では自己啓発書が用意された。さて、では自己啓発書の類は○○のためにどのように機能しているのか?」という話。前著からの課題・射程の具体ということになるらしい。


自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究 -
自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究 -




「○○のため」の「○○」というのは「自己のテクノロジー化」とか「内面の技術対象化」ということになる。ざっくり言えば、後期近代の現代人・都会人にとって必要な近代的な規律を自ら内面化・自己訓練化していく過程、ということぽい。具体的にはたとえば「優秀なビジネスマン・社会人になるためには○○するべき(しなければならない)」とか「デキた主婦・女性となるには○○であるべき(しなければならない)」とか。そういったものは簡単には自己啓発書の類で「○○のような考え方をスべき」とか示されるわけだけど、そこで一般化のために示される数値、たとえば年収とかスリーサイズとか体重とか、そういうものでデータ還元的に人の実存がスポイルされていく。最終的に。そういうのは近代人にとって指標としてはわかりやすいのだろうけど、それにとらわれ過ぎると却って窮屈になる。趣味のジョギングでみょーに数字にとらわれすぎて、とか、ダイエットでみょーに体重やカロリーにとらわれすぎて、とかそういうの。ダイエットが脅迫神経的になれば拒食症・過食症になるし、それは個人の問題としては心の病といえるのだけど「近代社会による女性への暴力」といえる。


なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学 -
なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学 -



「こじらせ女子」というのは、元の定義があいまいなのであれなんだけど、これも現代日本における理想・モデルとなるように提示された女性像とそこから選択するベキ行動・規律に対する脅迫神経的な態度・容態なのだとおもう。女性誌などではしばしば「理想の女性像」は「ステキな彼」をゲットするために提示され目的のひとつとされるのだろうけど、こじらせ女子たちは意識した異性を前にするとその目的からすると甚だ非合理的な行動や態度をとってしまう。いわゆるツンデレ的な不可解な行動とか態度とか。そしてそのことを後で死ぬほど後悔し自嘲したり涙したりする。あるいは、異性を意識しない、「(ステキな女性らしい)わたしらしさ」の演出のための女性像の獲得のためのアイテム選びなんかでもこの辺の「こじらせ」は顕れる。たとえば「あの服はあたしにはハードルが高すぎてムリ。。(合わない」とかそういうの。

彼女らがしばしば自ら「こじらせてる」と自嘲していうようにその選択が非合理的になり結果として部分を修正するのではなく全体をリセット・拒絶してしまうのはちょうどダイエットに脅迫神経的になった女性が過食・拒食に陥っていく過程と似ている。そして、その意味では彼女たちのゴール・軟着陸とされるべき地点もだいたい共通する。ダイエットのオーバードライブによる過食・拒食に対して「食自体を楽しめるようになるとよい」ように彼女たちも「女であること自体を楽しめるようになると良い」ということになる。まあ拒食症の人たちはそれも最初からわかってるのにこじらせた行動・態度をとってしまうので深夜にきれいなAV女優の姿を見て彼我の差に涙するようなのだけど。加えて言えば、過食・拒食の理由がある程度一般化できるとはいえそれぞれのひとによって異なるように女性が女子をこじらせる理由というのもそれぞれのひとによって異なるだろう。その意味で先行するこじらせ女子が後発のこじらせ女子に対して「あんたのはこじらせじゃない(本質的な悩みではない)」とかいうのも無理があるように思う。特に「こじらせ」の定義が曖昧であるとき。まあ「一般的なこじらせがあるとしてもそれに対してわたし固有のこじらせと似た容態を問題としているのだ(一般論ではなく私個人、あるいはそれと似た背景を持ってる人を想定・対象としているのだ)」というなら別だろうけど。






話が応用編にそれたので戻すと


そういったものが具体例・現象・事例として、本書ではそれにつながる自己の規律訓練化に関する道具としての自己啓発書を分析・考察する。あるいは自己啓発書に類するもの。たとえば女性誌や手帳、掃除術なんかもそれに当たる。男性の場合は仕事・仕事の成果・出世がベタな自己啓発の目的地となるのでそのための簡易な道標として自己啓発書がツール化されている。対して女性の場合はだいたいにしてそういった「出世」とは別の所をその界の目標としているのでいわゆる自己啓発書は分析対象とはならない。その代わり女性に用意されるのは女性誌やそこからスピンアウト的に出版された書籍となる。女性誌では往々にして自分磨きの目的・目標は「わたしらしさ」の演出のためとされる。「わたしらしさ」の反対地点として「おばさん」(所帯じみた)があり、このゲームでは「おばさん」になってしまう / そのように見られると「負け」ということになるらしい。またいわゆる出世街道から降りた / 上がった / 干された男性群なんかもこの「わたしらしさ」をゲームの目標としていったりもする。


mixi → fbなどでよくみられた / まだ見られているキラキラ女子たちの衒示、優越感ゲームというのはこういうのが背景にあったのだなとよく分かる。ついったなんかでもそういうのはみられるけど自分のTLにはそういう人たちはいないように調整されていて、かわりに?彼や彼女たちはPC(ポリティカル・コレクトネス)的なものをしばしば掛け金としているぽい。「被災地に○○をするのはジョーシキ的にいって○○だぁ」とか「○○するやからがいてけしからんので晒(RT)してみなさんに周知・羞恥させとくだぁ」とか。これが衒示だとすると彼らが「良い人」を目指すというところが最終目標で、それに対して「ダメだよm9(^Д^)」て優越感ゲームなのかなと思うのだけど、いい子ブった振る舞いをしてるというわけでもなくその辺の逸脱を見るとどうしてもガマンできなくなって脊髄反応するという人たちもいるぽい。まあそれは彼や彼女たちが育った環境の倫理の規律訓練と、そこからの公正世界観に依るものなのかなとおもうのだけど。そういった「どうしても脊髄してしまう」というのと別にm9(^Д^)て感じでそれ自体が優越感ゲームの道具・ネタとして機能してるひとたちもいるように見受けられる。端的には「まず正義感があってm9(^Д^)プギャーとか■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノする/してしまう、のではなく、たんにm9(^Д^)プギャーとか■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノしたいのでネタとして正義とかPC的なものを弄んでる」みたいな人たち。まあ両方共自分からはそんなに近くないのでそういうひとたちがいる / そういうひとたちのなかでも本気なひとたちと弄んでるぽいひとたちがいる(あるいは両方が混ざってる感じもある)ぽい、というところで留保しとくべきなのだろうけど。





また話がそれたので戻そうかと思うのだけど、本書を詳しく語るという場合は上記したように「社会的成功、あるいは、<わたしらしく>あるために自己啓発書やそれに類する女性誌がどのような言説を提示し、それらがどのように変遷しつつユーザーに選択されていったか?(彼らにどのように影響していったか?)」ということの具体例を上げるということになるのだろうけど、それをしてると冗長になるので割愛。まあめんどくさい。そういうのはこのへんで詳しくやってくれてたようなのでいちおリンク貼るにとどめとく。


自己啓発書とは何なのか、そこから炙り出される社会の側面とは、今年一番の面白さだった!! 牧野智和/日常に進入する自己啓発:生き方・手帳術・片づけ - 学びや思いつきを記録する、超要約ノート
http://digima.hatenablog.jp/entry/2015/05/22/115640


あるいは著者の前著である「自己啓発の時代」の元である博論が早稲田から公開されてるようだから詳しく見たいならそれをぐぐってみれば良い。もちろん本書をみるのもてっとり速いけど。



こんな感じで本書の内容まとめはだいたいリンクとかに頼りつつ、自分的に気になったところだけ感想したり、このエントリ用に置いといた本書のレジュメなんかを最後に貼っつけたりしてこのエントリは済ませとこう。



自己啓発書、あるいはそれに類する女性誌の影響みたいなのは前著からの流れというのもあって本文中にも「前著でも語ったが」とかちょこちょこでてて「あ、前著みたほうがいいなこれは」てかんじだったのだけど、そこからの本書のオリジナルというか白眉みたいなのは本書を紹介してた武田砂鉄さんのcakesの対談でもちょこっとあったようにほぼ日手帳の位置づけだった。

ほぼ日手帳、あるいはほぼ日というのは現代の言論空間だと良いポジションをとってるように見えて、ちょっと見なんの問題もなくそういうのに関心がある人のちょっとした関心・視野を広げていく / 生活を豊かにしていくのに寄与してるように思えるのだけど、ある程度それぞれの分野に詳しくなった人から見るとなんかビミョーな感じがする。自分もほぼ日には期待してて、現代におけるゆるやかなジャーナリズム、あるいは、言論空間というのはああいうのが理想なんじゃないかなあと思ってた時期もあった。んでもいまからするとビミョー。そのビミョーさをなんとなくマッピングできた / できてるように見えたのはおもしろかった。


「ほぼ日」「手帳」における「手帳」のほうは自己啓発→デキるビジネスマンな流れからの時間管理を目的とする自己啓発系ということになる。古くは60年代ぐらいで、近年ここまで普遍化したのは野口悠紀雄さんとかのアレの影響とかなんとか。そしてこれらも時間管理→自己の規律化における「見える化」されたマトリクスということだとわかりやすい。ただ、そういうのもやり過ぎると自らの生活がキツキツになって、、ということへのオルタナとして提示されたのがほぼ日手帳ということだったらしい。「仕事だけにいきる、合目的に生きて「自分」が失われるのはまずい」ということで手帳のなかに意識的に余白が設定される。「この余白はなにをしても良いのだよ―」という感じで。ただ、その余白 / 自由 / 無計画、自体がそのメタレベルでは計画された自由だ、ということがびみょーだったり。「わたし」らしさを担保するために用意される「自由」「余白」がすでにして設定された「自由」であるという不自由さ。W.ギヴスンとかだったら「蓋然性の壁を突破できないんだよあんたらは」というようなそういう感じの。最初から計画され、しつけられた冒険・野生みたいなの。量産化されるヴィレッジヴァンガードとかスタバとかそういうの。あるいは量産化される『前衛』芸術。平坦な戦場。

そういうのは広く後期近代の課題なのだろうけど、ほぼ日にもそういうのが表れてるんだなあとか今回おもった。



あとはそれぞれの界における「らしさ(モデル→規律)」、と、承認欲求の関係についてもうちょっと詳しく考察・腑分けしてもいいかなあと思うのだけど、「まあだいたいこれらは同じ対象領域なのだろうなあ」ぐらいに止めとこう。ベタには、「なんらかの界を選びそこでのモデルと規律があるとして、承認欲求というのはその界において賞賛されるようなふるまいがされたときに喝采が与えられる、喝采が与えらるれることでそこを自分の『居場所』として同定でき安心できるようになる(つまり(自らが是しとする)『居場所 - アイデンティファイ』とそこでの承認を求める欲求が承認欲求ということになる)」 ← そのようなものが生じるのはそもそも近代人のアイデンティティの寄る辺なさが背景としてある、ということになるだろう。

なので、そういった界の承認・正当性に振り回される以前に「自分」、あるいは、その界以外の界が設定されていればそういったところでの承認・優越感ゲームというのはどうでもいい話となる。






あと、テクニカルなあれとして、本書の元ネタ(大きく依った)お話というのはフーコーとかなのかな?とおもってたのだけど、前著を読み始めたらニコラス・ローズとのことだった。あるいは本書的にはイルーズとかか。



まあともあれ自分的にはフーコーをそろそろちゃんと読むための前哨戦としてちょうどよさそう。あと、文化社会学とか理論社会学とかやっぱおもすれーからちょこちょこ読んでこう。







以下レジュメ:






自己のテクノロジー化

内面の技術対象化

・自己啓発メディアが創りだそうとする「自己」  :前著「自己啓発の時代」

・そのような「自己」を自ら演出するときにどのような対峙の形式をとるか




感情的ハビトゥス


男性性  仕事での出世、報酬
女性性  「わたしらしさ」の演出   → 「おばさん」(所帯じみた)ら負け
時間感覚  手帳的時間管理
空間感覚  片付け、掃除的空間管理


仕事の諸局面、人間関係、消費行動、恋愛、家庭生活、美容・健康から、手帳の利用や掃除・片付けといった日常の諸ルーティン

→ 仕事における習熟・卓越や自分らしさの実現という問題に接合し得る

(※アイデンティティゲームの持ち札として)



自己啓発メディアを通じて多様にさしだされる「自己」、とそこからの「自己」の選択
それらをめぐるアイデンティティゲーム≒優越感ゲーム@承認


→ ※承認欲求ゲーム、優越感ゲームのツールとして上記の持ち札が使われる。 fb や mixi などにおけるセレブな生活感の発表と衒示

それらは「見せびらかし」であるだけではなく自らのアイデンティティを確かめるためのコンサマトリーなツールとしても機能している

「自己啓発メディアは純粋な自己反省を促すのではなく基底的な参照項(再帰性の打ち止まり地点)を残したうえでそれを促している」

cf.仕事だけにいきる、合目的に生きて「自分」が失われるのはまずい 
→ 「わたし」らしさを担保するために用意される「自由」「余白」がすでにして設定された「自由」であるという不自由さ

(←再帰的になんらかの構造にとりこまれている、あるいは、みずからがそのような構造の再構築に寄与している


ex.「わたしらしさ」で演出されるジェンダー区分け(女性は「わたしらし」く、男性は仕事バリキャリで














あらたな文化的母型(cultural matrix)≒新興宗教的なものとしての自己啓発

イルーズ(Eva Illouz,2008, Saving the modern Soul: Therapy, Emotions, and the Culture of Self-Help)


読者の選択・解釈を伴った自由度の高い応急処置の「パッチ」を今日提供することのできる稀有な文化的母型







断捨離
自分のほんとにもってよかったと想えるもの・ほんとに好きなものだけで自分の周りを囲む
→ 自分だけのパワースポットをつくる(やましたひでこ)



掃除は精神的浄化、修養に繋がるとする自己啓発的企業姿勢はローヤル(現イエローハット)創業者の鍵山修三郎が行っていた早朝掃除から(1961年)。松下幸之助の便所掃除→人間のあり方、とか。








※こういう自己啓発的なものの具体として雑誌プレジデントがあるだろうけど、そのプレジデント自体で依頼されて連載してたというのがちょっとおもしろかった








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岡崎京子の時代: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414413825.html



「である」人と「する」人 ≪ SOUL for SALE
http://blog.szk.cc/2016/04/08/a-person-who-is-or-do/



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2016年04月06日

例の日本( ゚Д゚)<氏ね!周りについてのうんたら(セイギのひとたちが構造に取り込まれていく感)




本来こういう話題は当ブログでは扱わないようになってきてるのだけど弁当さんの一連のあれをみてちらっとつぶやいて、「ある程度つぶやくのならブログでステイトメントとして残しておくのが筋なのでは?」、とおもったので。


極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/


待機児童と「保育園落ちた。日本死ね!」なあれ。


最初に、自分的にはこの問題はそんなに関心がない。

関心がないといっても日本社会的に大きな問題で、TL的には同年代の人たちが実際たいへんって話をみてるし、そういうのについてm9(^Д^)でもなく共感する面もあるのでそのぐらいの関心なんだけど。テレビを通じてこの問題がみょーに話題になってこれだけとりあげられていったところにびみょーな感慨を抱いている。まあこの辺に比してということなんだけど


非正規女性が見た「自己責任」で傷つけあう社会 - 一橋を出てニートになりました
http://nyaaat.hatenablog.com/entry/2016/03/16/072339


自分が子無しというせいもあるだろうけど、できるだけそれを差し引いて考えるようにしてもこの問題に関心がある人、あるいは、この問題をネタに神輿を上げる人たちがいうほどにこれが「日本の最重要課題だ」「もっともかわいそうで大変な問題なのだ」って感じでもない。むしろそういうのを見ると(´・ω・`)てなる。あるいはイラッと。まあ彼や彼女たち全員がそういう言い方をしてるわけではないのだけど、たとえばこの問題を次の参院選の得票のためのネタにするために焦点化してうんたらするひとたちの様子に(ヽ´ω`)てなるし、同様のことを「保育園落ちたのはわたしだ!」とデモる人たちにも思う。

自分のリアリティとしては非正規雇用なんかの差別的待遇、あるいは、ブラックな環境で働かされる若者や女性たちにリンクしてるのでそこからするとッて感じではある。まあこういった話は「そこからするとマシ(なんだから我慢しなさいよ)」てことでもなく不当な扱いをされてる人たちはすべて救われるべきだと思うし自分もそういう意味でこの問題の改善を願うのだけど。それでもやはり持ち上げ過ぎだなあという風には思う。特に外野的なイマキタな人たちが。

あるいは彼らは「待機児童問題以外のそういった人たちの不幸も含めての声なのだ!」みたいなことをいうのかもだけど、自分的にはそういうのもなんとも胡散臭いなあとおもってる。とりあえず修辞的に良い子チャンしたいのでそういうことはいうかもだけど、その時点で本気で待機児童について訴えてる人は自身の待機児童問題の優先度が高いのは当たり前だし、その人が非正規雇用ほかの問題に現実的に生活が関係してなければそんなに関心がなくてもアタリマエなので。事実、自分はこういった問題が出るたびに何度もついったで言ってるけど、TL上の待機児童問題うんたらのひとたちはスルーしてる。まあそれは儀礼的無関心というもあるだろうけど。ちなみに自分的にはこの問題は「保育園に関する規制をもっとゆるくすれば良いのでわ?(保育士の数をそんなに揃えなくても、保育園の面積があまりなくても開業できるように、とか)」て感じだし、現状は非認可のとこでも有効だろうから自分もそういうのあったら託すのだろうなあということでだいたい弁当さんと同じなかんじ。昔から寺とかはそういう感じだったしなあ。。(ついでに爺婆があつまって子供の世話したり、世話されたりして揺りかごから墓場までがうまいことすればいいんじゃまいかという希望的観測)。




この問題は待機児童問題として政策的課題のひとつで、その是非や妥当性をめぐっての具体的な試案、それについて市民社会的にどう考え、投票などを通じて政治参加していくかというのが本筋なのだろうけど、外野的な人たちはこの部分を離れてみょーに持ち上げたり焚き付けたりしてるように見られる。あるいはこの話題を道具的に用いてマウンティングしあって優越感ゲームみたいな。まあ「おまえはわかってないんだよ」「これはなぁ−y( ´Д`)。oO○」みたいなマウンティングゲームというのはネットでよく見られる光景なんだけど。特にはてなとか、あるいはついったなんかでもそうだけど。


今回の極東ブログ周辺でもそういうのは見受けられて、「(´・ω・`)ふつーに政策的課題として対応策の試案を考えて、その有効性を議論すればよいのでは?(みょーにウヨサヨとか、それまでのエントリ主にたいする印象とかマウンティングとかにとらわれずに)」、とかおもった。具体的なことはこのエントリの後段で書かれていて、けっきょく今年の予算案には間に合わないのだから『財源は企業が負担する「事業主拠出金」の新年度からの引き上げによる約27億円なので、焼け石に水の状況にある』てことなのだろうけど。構造的、あるいは環境的に現在はそれが限界なのだけど、デモってる人たちの声に応える形で民進党とかがイケイケどんどんな話をすすめ、自民党は自民党で「可及的にすみやかに対応しました」とか言う。実際は焼け石に水的な予算で済まされるのだろうけど。そしてデモった人たちはそれなりに満足して1年後には忘れてる。あるいはなんかわるい印象を抱えたまま参院選を迎える。



こういう予定調和みたいなアレって「構造に取り込まれていく」ってことで「ハマータウンの野郎ども」みたいだなあとおもった。


ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫) -
ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫) -


彼ら(の一部)はこれに正義を託してるみたいだし、それ自体は表面的にはタダシイコトなのだろうけど、それが構造的に取り込まれていく。軽い祭りとアジを飛ばしてそれでカタルシスして終わり、みたいな。

まあまだ一年後にどうなってるかわからないし、一年と言わずこれが五年後、十年後に繋がる契機となる可能性もあるのだけど。

でも、どうしてもこういったセイギをいう人達に薄っぺらなものを感じてしまう。それは自分の偏見なのかもしれないけど。





まあだいたいそんなかんじで、特に世間様に発表するようなことでもなく自分的には「ふつー」の内容なので普段ならエントリするようなものでもないのだけど、たまにはこういうのも良いのかなあとか思いました(一言居士的なぶくま・ついったに留めるのでもなくブログ公論的なものとして)


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