2014年02月27日

ウクライナとはどういう国か?



おお、ドニエプル、栄えある川よ

愛しい人を私のもとに戻しておくれ



そうすれば、わたしは朝早くから夫の元へ海さして涙を送らずに済むものを








ウクライナの暴動がようやく収束して、まあ政治的にはEUとロシア、NATOとワルシャワ条約機構な東西冷戦の名残りかなあってとこもあったんだけど、自分的にいまいち理解できないとこがあったのでこの機会にこレ読んでみた途中まで。



物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書)
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国際政治経済的なウクライナの重要性(なぜEUとロシアが綱引きしてるの?)ってのは昔ながらの「ヨーロッパの穀倉」+「鉄鋼」かなあ。人口4−5000万ぐらいでまだこれからの経済発展も期待されるし、ふたたび経済リバイバルなロシアとしては鉄鋼欲しいだろうし、なによりやっぱ穀倉抱えとくとアンシンだろし。あとは黒海、地中海へのアクセスということでクリミア半島。あったかいのでエカテリーナもお気に入りだった。


それとは別にわかんなかったのはロアシに対向する形でウクライナのナショナリズムとか民族主義高まらせてる人たちが自分たちのエスニックアイデンティティをどの辺に置いてるのか?ということ。軽く調べたらルーシというのはロシアよりもウクライナの方に起源があるようだったのでこのへんかなあと思って。


まあその前に今回の暴動をちょっと振り返ると、日本のメディア的には「革命」だの「自由民主主義連盟の勝利」みたいな見方するところがチラホラされたんだけど(ハフィントン・ポストの長野さんとか)、そういうのでもなく単にEUとロシア間の綱引きッて感じだった。なので親EU側からと親ロシア側からだと視点が違うし。


kobayuさんによるウクライナ親欧派から見たウクライナ情勢 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/633304


hitononaka氏によるロシア保守層から見たウクライナ問題 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/624507


ウクライナ内部でもドニエプル川の西側はEU寄り、東側はロシア寄りになってる。まあ東の地方民からすると「キエフの都市部の民族主義な阿呆どもが勝手に騒ぎやがってどうするつもりだ。。ロシアの支援受けれなくなったら」ってこと。ガスとか割引で使わせてもらってたし。それで鉄鋼の生産量もかせげてたのだろうし、それの主な輸出先は中国とロシアだった。


「都市部の民族主義の阿呆共が勝手に」ってことだとこんなかんじ


読みが難しかったウクライナ争乱: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/02/post-b506.html



「自由民主主義主義」な「革命」うんたらっていうかネオナチ・フーリガンな右派セクターが中心、と。



ウクライナ・ユダヤ関係と「極右」のグラデーション - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/633334


キエフでもなくリヴィウあたりの「1648年に起きたウクライナ人農民とコサックによる大反乱で、ポーランド貴族とユダヤ人10万人以上が虐殺されたと言われている。この反乱を指揮したコサック隊長のボフダン・フメルニツキは、ウクライナの国民的英雄とされているが、ユダヤ人にとってはヒトラーに次ぐ極悪人」の流れではないか、と。


なんでユダヤが絡むかって言うと農耕スキタイの末裔(あるいはスラヴ)がポーランドの支配下で搾取されていた時代、ポグロムからポーランドに逃げてきていたユダヤ人たちは中間官吏として重宝され、それがゆえに農民たちの憎しみの対象となっていったから。

13cぐらいにラテラノ公会議でカトリックの教条化が固まっていきその流れで告解の習慣も出来たのだけど、同時に大宗教なドグマでいろいろと面倒なことも生じていった。ユダヤ人迫害(ポグロム)とか。13−15cに神聖ローマ帝国内で広まっていったポグロムから逃れるためにユダヤ人はポーランドに移住、商人・手工業者などになっていったが金銭感覚に強かったので金貸しや荘園官吏を請け負うように。

ちなみにこのユダヤたちがその後ロシアに渡り芸術方面で活躍していった。


ポーランドはそれまでのんびりとした国で特に大々的に農業経営とかも考えてなかったんだけど16cに大陸から銀が流入→経済繁栄でヨーロッパ全体の農作物需要が高まったところから農業経営にも力を入れ始め、当時弱体化していたキエフールーシの農耕スキタイたちも支配下に置いてこき使うようになった。


コサックの時代はこの後の30年戦争とかが生じてた時代。コサックは感覚的には中国の江湖、武侠、日本のまたたびヤクザ。まあ陸賊であり野盗。もともとの意味は「自由人」てことだけど、
http://roshianow.jp/arts/2013/06/25/43773.html

ドニエプル以西の肥沃ステップ夏季だけ出稼ぎに来ていた北方の農民が帰り道にポーランドかなんかに徴税されるのが嫌で冬季も定住するようになり、タタールなどにさらわれるのに対抗して武装していったのがはじまりみたい。その後は「自由人」として国家には加わらなかったんだけどポーランドに遊撃兵的に都合よく使われるようになったり。

なのでコサックにエスニックアイデンティティ感じつつユダヤ迫害てのもおかしくはないんだけど、もともとはポーランドに良いように使われてたわけだから「大元の敵はちがくね?」とかおもったりする。

ちなみにこの時代にモスクワ公国が力をつけ、イヴァン3−4世でロマノフ朝をつくっていった。そして「ルーシ」正統を名乗るように。。(「ロシア」はルーシのラテン語読み)。コサックの首領フメリニツキーはこの時期、ポーランドに対抗してウクライナの国家的体制を固め、モスクワの保護を呼び込んだ。それがゆえにルーシの称号はロシアに移っていき、ロシアによるウクライナ支配への糸口を作ってしまったともいえるのだけど。




自分的に変な感じなのはルーシの源流はもともとキエフを中心としたキエフ・ルーシで、そこからすると特にロシアに対して民族主義するんだったらそこまで遡ったほうが良いように思うんだけど、、まあ20cの民族主義の記憶でコサックあたりにとどまるみたい。


元はといえばキエフ・ルーシが封建国家的に分権していった時代に分散した公国のひとつがモスクワだった。


その源流はフランク王国の時代、8−11cにスカンディナビアで急激な人口爆発が起こり、南下してきたバイキング(ヴァリャーグ人)たちだった。彼らは戦闘商人として主に生計を立てていった。

この時代の主な勢力は中央アジアの遊牧民たちでヨーロッパのプレゼンスは低かった。7世紀末からのアラブ帝国の勃興で地中海ルートも使えなくなっていた。そのため北方ノヴゴロドからドニエプル川をつかって黒海→ビザンツ帝国へ行くルート(「ヴァリャーグからギリシアへの道」)が栄えた。

ヴァリャーグたちはスラヴたちが作った農作物に頼り、黒てんやリス、その他の毛皮を商いした


ヴァリャーグはルーシを名乗るようになり商いによってギリシアの文明を取り入れ、正教に入ることでビザンツ帝国を後ろ盾とした。

この時代、キエフ・ルーシは東欧の大国的な威信を誇っていたが、相続制度の変更を起因に統制が崩れ、封建諸侯の独立が高まっていった。モスクワ公国もそういう形で独立した一つ。

そのスキを当時交流してきていたモンゴル帝国につかれその軍門に下った。この時代をロシア・ウクライナでは「タタールのくびき」という。タタールは韃靼、タルタル。

しかしモンゴルは直接統治はせず税収が欲しかっただけなので、結果的にモンゴルの軍事的保護のもとに平和がもたらされた時代(パクス・モンゴリカ)とも言える。この時期、従順にモンゴルに取り入ったモスクワ公国が地位を高めていった。

この頃には地中海はヨーロッパに開放され貿易の中心はイタリア人が担うようになっていた。ヴェネツィア、ピサ、ジェノヴァなどがクリミア半島南部に貿易の拠点を築いた。


パクス・モンゴリカのもとでウクライナの最初の国家、ハーリチ・ヴォルイニ公国が出来た。ウクライナというと穀倉のイメージが強いがこの国の主な収入源は貿易で、キエフは当時のヨーロッパで最大級の都市だった。ルーヴルももともとはフルヴニャ銀貨を「半分にわけた」を意味するものだったりする。

14世紀半ばにハーリチ・ヴォルイニ公国が滅亡してコサックが現れるまでウクライナの地にはウクライナを代表する政治権力はなかった。




ちなみにヴァイキング-ルーシ以前にウクライナにいたのはスキタイ。農耕スキタイと王族スキタイに別れたが、尚武の風を喪ったスキタイの地に少しずつサルマタイ人が侵食し、その後、ヴァイキング-ルーシたちが入っていった。



なのでもともとはイングランドと同じく冒険商人の国がウクライナ(ルーシ語で「国」)ということになる。






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関連:
ロシアとウクライナのユダヤ人の悲史
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb200.html



「スキタイと匈奴 遊牧の文明 (興亡の世界史)」林 俊雄 著 | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/4857


ウクライナの20世紀
http://ukrainianhistory.blogspot.jp/

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2014年02月05日

ウイリアム・マクニール、「戦争の世界史」メモ(上)


図書返却の都合で上巻ぐらいまでしか読めてないけど以下とりあえずのセーブポイントとして(図書館で借りたのはハードカバーだったけど文庫もでたようでありがたいことですね)


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ダイアモンドでは「農業ができるようになって貯蓄ができるようになり」うんたら「農業→家畜→疫病が発生で」うんたらあったけど農耕と牧畜な歴史は一直線ではなく双方のおしくらまんじゅう的せめぎあいだった。


リドレーでは「交換-商業によって文明は進んでいった」とあったけど交換以前に略奪があった。ピラミッド型の指令(コマンド)組織が中心となり商取引も其のもとに統制されていた(cf.教会、神社や寺ぐらいしか独立経済圏を持てない)。

ちなみにマクニールがここで使う「指令(コマンド)組織」というのは組織における意志決定の統一性、中央集権はもとよりフランス語のコマンドうんたらに含意される「整った」みたいな意味合いがある。全体的にきちんと組織だてられ指令が行き届く組織。イメージとしてはハイエクのタクシスであり伽藍とバザールの伽藍。



取引は安全と信用が保証されてなければ成立しない。

取引はそれほど行われるものでもなく行われるとしても希少品同士の交換だった。そのような希少品は指令機構の長でなければ持てないもの。
なので取引は長同士の希少品交換だった。



指令機構の安定 → 武器のエポック → 武器の優位性による配下の封建的独立 → 指令機構の安定

は武器の画期シフトごとのサイクルだった


大きな流れとしては

中東(肥沃三角地帯)
中国
ヨーロッパ



青銅武器(冶金)
戦車
鉄製武器
騎馬術



馬は最初、背中に乗るものではなく戦車をくっつけて滑走しつつ弓で射るものだった。
それだけでも歩兵をはるかに凌ぎ、飛び道具が追いつかないスピードは驚異的だったが、馬の背中に乗り武器を持つ技術が普及することによって二人一組だった戦車ユニットがひとりの騎馬兵に独立した。

重装騎兵はイランあたりで大型馬が開発されてから。

大型馬は飼葉の量が尋常ではなかったけどアルファルファの開発によって賄われるようになった。


飼葉の量の関係から封建制が定着してなかったヨーロッパに重装騎兵はなかなか定着しなかったが、後732年カール・マルテル以降導入された。

鐙はランスチャージを可能ならしめた。


戦争は武器や武器術の開発によって変化していったとも言えるがそれ以前に兵站の問題があった。

ペルシアがギリシアに遠征できなかったのも兵站の問題。


古代においては「食うこと」「食べられるものを貯蓄すること」が未だ中心的課題で<戦争の商業化><戦争の産業化>が御しがたい速度で進みだしたのは最近1,2世紀である。




中国のほうがヨーロッパよりも先んじていたが商取引が発展しなかったのはなぜか?

鄭和の遠征はヴァスコ・ダ・ガマの5倍規模でそのままヨーロッパやアメリカ大陸にたどり着いていたら征服できた。それを成さなかったのは航海資源の問題ではなかった(その余裕はあった)。

※cf.地中海を中心として海上貿易に慣れていたヨーロッパ人


11cのコークス高炉の急増もそのまま行けば産業革命を期待できるものだったが成されなかった。


指令の組織、官僚機構の行き届き、それを支える儒教エートスによって商や戦などの手の仕事は「卑しいもの」とされていた。

(そして官僚機構とその内部のエートス、イデオロギーの腐敗によって組織は停滞していった。官僚はしばしば新しい機会を阻害した(ex.鉄鋼や商の普及))

商の余剰資本は指令組織に連なるレント(ex.官僚、地主化、年金)のために投資され、プロフィット的な投資はされなかった。(cf.フランス革命後の名望家のレント(年金)投資)。



11cに地中海でも生じた商業活動の急成長、貨幣区間経済への転向は中東 → 中国を経てヨーロッパに影響した。







13cヨーロッパ戦争の技芸(アート・オブ・ウォー)の時代

騎士中心から傭兵中心へ

力任せのランスチャージからパイク、ランス、クロスボウの戦術的配置と訓練、指揮

北イタリアで防衛戦力を傭兵にアウトソーシングしたことが商業の発達を促した

儒教≠キリスト教聖職者につながる商業嫌悪。<彼らは略奪していく>という不信。≠設計思想

ランス一部隊(6名ユニット)ごとに文民の行政官が契約、働きをチェック → 家族でもないよそ者への不信を払しょくするような「おなじみの付き合い」が生まれていく → 文民統制の先駆け

税金を徴収されるのと略奪されるのとの間でコスパ計算 → 略奪保険としての税金 → 税金から傭兵に給料が支払われる → 給料が都市の商業に支出され商業が再生産されていく







15c火薬の時代

火薬を飛ばす/飛ばされる材料として第二次青銅革命 → 「材料と技術がより現地に近いところが優位」 → イタリアから南ドイツ、ボヘミアへ軍事技術の中心地が移る(銅と銀の鉱山)cf.フッガー家ほかがイタリアの金融センターと張り合うように

イタリアの都市国家の力が相対的に弱まっていく

攻城武器としての大砲 → 対大砲としての斜堤、堀、塁壁

しかし大砲によって戦端が開かれていく


海上戦闘は衝角突き当てからの乗り移り白兵戦が中心だったが大砲を利用した距離を保った戦闘へと移行していく。

動く稜堡としての大砲付き艦

アルマダからオランダ、ポーランドへ

ただし、イングランド艦隊も砲撃だけではスペインを沈められなかった。アルマダに最大の災厄を持たrしたのはイギリス海軍ではなく、内海(地中海)ではない外海(大西洋)の荒波、暴風雨だった



※中央集権と設計思想が完全すぎるところでは商業が発達しなかった(取引や商業はあってもヨーロッパ的な金融にはならなかった? ex.中国、日本


商人(交易)と略取(防衛)はセットだった。なのでヴァイキング国家オランダとイングランドがスペインを圧倒していった。


オランダ独立戦争ではフェリペ2世の破産により「スペイン人の怒り」が生じ将兵たちの破壊によってアントワープが略奪、破壊された。これによって金融センターはアムステルダムへ移った(王権よりブルジョワ統治のほうがよい)。

増大化する軍事支出は王や皇帝たちを苦しめた。

徹底した中央集権、指令(コマンド)原理の国であれば全体主義的に徴発すれば良いところだろうけどヨーロッパではそれが出来なかった。

よしんば徴発や借金の踏み倒しをしたとして、そのようにした中国では「正当な取引・適正価格が通らない」ということで金融事業や通商事業が育たなかった。

また、対象とする軍事リソースとの距離の問題もあった。

大砲製造の街リエージュはスペインから離れ、ネーデルラントには隣接しているが直接統治下ではなかった。リエージュは幾度も軍事占領されたがそのたびにたちまち大砲製造が中断された。大砲を得たいと思うなら軍事占領をとき、市場をふたたび自由にする必要があった。

ヨーロッパの特徴である極端に細分化された政治地理のおかげでリエージュ以外にも何十という企業家のための避難所が地図の上に散在した。





18c、商業と略取というアウトソースによって拡大していったヨーロッパの軍隊は官僚化という形で組織化されていったが試練の時を迎える。



兵士には規律訓練が行き届きそれによって海外遠征でも優秀な殺人機械として性能を発揮し信頼された。

三兵を軸に火砲の圧倒も搭載したヨーロッパ的軍隊は周辺を圧倒、それにより周辺略取が盛んになっていた。ヨーロッパの周辺部(辺境国家)であるイングランドとロシアが地理的な優位を発揮した。ただ、両者には違いがあった。イングランドが強制よりは市場誘引に依る資源動員をしたのに対しロシアが農奴労働頼り、人的労働力集約だった。


大航海時代の頃から軍隊の出動には「物資の限界」の意識が強くなり経営的性格へと変化していった。17cまでには陸軍も海軍ももはやありあわせの戦力の寄せ集めではなくそれぞれが経営的成果の芸術作品となっていた。

しかし軍事技術と経営的性格の発展による軍事組織の発展には4つの限界があることが明らかになった。

1.軍隊は兵員数約5万人以上になるとその運動を統制することが困難になる → 新しい意思伝達方式と精確な地形図が必要(→参謀部ができる) → 師団の発明(歩兵、騎兵、砲兵の三兵種に支援要員(工兵、衛生兵、通信専門家など)を加え参謀が全体の動きを統御する1万2000人単位のユニット)

2.補給の限界 → 後方支援を待つために機動力が削がれた

3.組織人事における縁故的なもの → 派閥抗争

4.非戦闘員的枠組み(税金の関係で国民皆兵できなかった) → ナショナリズム、フランス革命によって払拭


これら4つの限界突破がフランス革命からのフランスの躍進の下地と成っていった。



18c後半から19c中盤、フランス革命からナポレオン的躍進期

この時期のヨーロッパのダイナミズムの下地は人口の急激な増大にあった。ちなみに16c文化革命の下地もそれ(ペスト後の人口増)。ペストは14cにヨーロッパが急激な寒冷化をしネズミが都市に集まったため、ともいわれる。

出生率が下がり識字率が上がると政治的な変化が生じやすい。

工業化、あるいは近代的商業化(プロフィット経済)に移行していない土地依存経済においては人口が増加すると資源が足りなくなり社会的不満 → 混乱が生じる。

フランスはこの問題に外国侵略(皆兵としての雇用)という形で対応し、イギリスは商業強化(産業革命を通じた雇用)という形で対応した。

フランス軍は国民皆兵の優位を活かしとにかく数で圧倒した。高速度の行軍、戦略的集中、戦場での攻撃的戦術がフランス陸軍の18番となった。

フランスの根本的弱点は費用が高くつく陸上輸送に輸送手段を頼っていたことだった。これは特にロシア攻めの時に響いた。ロシアの寒冷期、農村からの徴発もきかず物資は枯渇した。

これと対照にイギリスのポルトガルとスペインへの派遣軍は海上輸送に頼っていた。また国内でも運河建設←投資が流行り輸送速度があがりコストが下がった。

対仏戦争による政府の市場介入はイギリスにおける産業革命を促進し、その進路を助ける効果をした。


ナポレオン戦争後、軍事改革面でフランスは保守的になりプロイセンは躍進した。たとえばフランスでは有望な技術革新であっても保守的な司令官たちからは相手にされずお蔵入りし、軍隊内部では反知性主義が横行し参謀が軽んじられた。プロイセンはその逆を行きモルトケに通じる下地を作った。






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関連:
中世ヨーロッパの戦争と正戦論: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218676600.html



「近代」と軍隊の官僚制: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/219164793.html


学校「世界史」のわかりにくさと「歴史の見方」みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223226126.html


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2014年01月27日

川北稔、2010、「イギリス近代史講義」



前のエントリで「近代資本主義のスタートアップには『内需が増えた』だけでは不完全で、内需をバックアップするための実体的な富の産出が必要だったはず。つまり工業と世界システム的つながり」といったんだけどそれだとなんか「やっぱり工業が産業革命の中心だったんだー」みたいな印象が残るかなあとかもんにょり。



そんで本書を読み終えつつ改めてメモ的に


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<イギリス産業革命の真髄は工業ではなく金融業の発展にあった>

つまりジェントルマン(金融と金利生活)資本主義というやつ


これはモノ作りうんたらとか「資本家による労働者搾取」な視点(マルクス主義?)からの金融業批判的な見方へのカウンターだったように思うんだけど、その文脈を外せばやはり需要と金融の部分を強調しすぎてるきらいはある。



後発してきたドイツやアメリカ、日本に対してイギリスが遅れを取ったのはなぜか?:

産業革命は一度やってしまうと設備投資費がやたらかかるので、次のエポックの産業革命にはなかなかシフトできない(経路依存)




<経済全体において「金融」をどう捉えるか>

車輪のギアのようなものか?あるいはダムのようなもの


貸し借り/金融があることで富のタイムシフト、先行入力ができる。その時点で資本が無いためだけに動きがとれない/使われてないリソースが使えるようになる。


これはヴェネツィア (→フィレンツェ) → アントウェルペン → アムステルダムと継がれてきたものロンドンが受け継いだだけ。

オランダは金融エンジンを介しても取次ぎ貿易に終始していたのでジャンプアップできずイギリスに後塵を拝することになった。


しかしそれは「衰退」「不幸」といえるのか?(パックス・ブリタニカの成長止まりを「衰退」としてナイーブな反応をするのは成長パラノイアといえないか?)


(成長パラノイア的な「衰退」観がサッチャーに利用され新自由主義的なリストラが起こった。結果としてシティ(金融)は元気になったがカンフルするはずだった工業たちは別段元気にならなかった)






とりあえずイギリス近代史-イギリスの産業革命の真髄としては「工業だけではなくオランダから引き継いだ金融業や世界システム的なつながりがより効率的に錬成された結果」だったといえそう。



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2014年01月20日

エドモンド・バーク、佐藤健志・編訳、2011、「新訳 フランス革命の省察」




新訳 フランス革命の省察―「保守主義の父」かく語りき
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最初に書いてあるように本書は原著の全訳ではなく「フランス革命の急進主義的側面への糾弾」を主に再構成したもの。実際バークのこれは往復書簡であり、全体の内容としても論文的なものでもなく「手紙」って感じだったのでこんな感じでクローズアップするのがてきとーだったみたい。

なので全体の感じとしてはフランス革命当時に隣の国からそれを見ていた保守な知識人のおっさんの雑感といった感じ。明治維新とか見てた隣国人がいたらこんな感じだったのかもしれない。


フランス革命がドタバタな流れの中での新興層のクーデター的なものだったというのはもうこの辺で見てきていて


フランス革命の背景とか要因について(暫定) 公共圏論を中心に: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381322488.html

ロイ・ポーター、2001、「啓蒙主義」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382444000.html

ロバート・ダーントン、1984(1990)、「猫の大虐殺」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382911771.html



トッドでとどめ的に「パリ盆地周辺と南部とか地方とかでは価値観違うしなあ(フランス革命とかも平等主義家族観の人たちがわっしょいしただけの無政府主義革命だべ」ってのがわかったので考察的なところとしてはもういいんだけど


E.トッド、「新ヨーロッパ大全(T)」、「世界像革命」読んで、今後のお勉強流れと雑感: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385084577.html
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385418548.html


当時のひとの雑感的にそれが裏付けられてた、という意味では面白かった。当時の人の中でも知識階層な人の雑感。



ポーターの「啓蒙主義」なんかだと未だフランス知識層に対しての希望とか理想みたいなのがあったようにおもうけどバークは最初から「あんなの一部の急進主義のゴロツキ」みたいな扱いだった。なので全体の論としてもそれが繰り返されてる。


そんでポイントとなるのはイデオロギーではなく法と金なんだけど「その両方ともダメダメ」とバークはいう。

金のほうは戦争の負債がまずあり、それを「教会がもってた権益を廃することによってなんとかしよう」というのがおーざっぱなフランス革命の流れでそのあたりは「小説フランス革命」にも描かれていた。

具体的には十分の一税の特権と教会の持ってた土地を二束三文で新政府が奪うということ。この奪った土地の扱いがダメダメだったみたい。

新政府は新たな紙幣を発行するわけだけどその信用を担保するのがこの奪った土地になる。「奪った土地を将来高値で売却するから」ということ。でもけっきょくはそれらを新政府内部の輩が二束三文のローン払いでゲットしていくし、土地や建物の維持費がみょーにかかってしまってあらたな負債になったり。。

まあ全体的に「プロフィットではなくレントで返す」って案出だったようだし、「レントのとこで維持費がー」っていうのはまさにレント・シーキングうんたらの話ぽいのだけど

http://www.nicovideo.jp/watch/sm20901330






そんな感じで金-経済政策もダメダメだし法もなにも全て作り替えてしまうって話だったのでダメダメって評価だった。

このあたりではイギリス的なコモンロー/慣習法の当然、「我々もともと住んでる豪族の権利をまず認めろ(それが自由というものだ)」という話がチラッと出てて、この辺を期待して本書を読み始めたのもあったんだけどチラッてかんじだったほんとに。

たぶんイギリス人にとってはその辺は当然すぎるのでなんかと比較してその歴史を問うみたいな視点がなかったのかもしれない。あるいは手紙であり研究でもなかったので。


そんで名誉革命からの流れも当然みたいな感じで扱ってたんだけどこの辺については同時期に読んでたリドレーのとこにのってたチョイ話のほうがむしろ興味深かった。

マット・リドレー、2010、「繁栄」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385685354.html?1390222315


曰く、「イギリスのテイクオフは消費者階級の拡大に起因するのだろうけど根本的には名誉革命時にオランダの投機資本家に依るなかば敵対的な国全体のマネジメント・バイ・インが進んだから」ということ。つまりオランダに事業買収されてCEOを送り込まれたということ。そしてオランダ資本がいきよいよく流れ込み、オランダに習った国策の原動力としての体外交易へと急速に傾き、権利章典と憲法改革で商人の議会が力を得ることになった。

この辺についてはバークも少し触れていてオラニエ公ウィレムがウィリアム三世となった経緯についてちらっと触れていた。妻のメアリがイギリスの先王ジェームズ2世の娘にあたった。

そしてウィリアム三世によって商人の権利、財産権が認められていった。というか流れ的に入婿みたいなものだから認めざるを得なかったか。


まあこのへんはおいおい見ていくとして、とりあえず本書からは「同時代人のなかにもフランス革命びみょーってあったみたい」「その内容は」って感じだった。

日本のサヨク系のワッショイに不満持って人とかが見たらけっこうカタルシスかもしれない


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2014年01月17日

(補遺) E.トッド、「新ヨーロッパ大全(T)」、「世界像革命」読んで


前回の続きというか補遺として。図書館返す前に付箋とりつつ見てたらメモってなかったとこがあったので箇条書きメモ程度


E.トッド、「新ヨーロッパ大全(T)」、「世界像革命」読んで、今後のお勉強流れと雑感: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385084577.html




・近代化の本質的三要素:

識字化、工業化、避妊(受胎調節)

近代性の度合いは労働力人口中の農業への就労者の割合によって把握される


cf.労働集約型 / 資本集約型、農業中心労働集約型-マルサス → 産業・エネルギー革命 → 人力から工業エネルギーへ(水車と発想は変わらないアルゴリズム的なものを拡張 + 石炭エネルギー) → マルサスの罠(人口密度が土地を超えると貧困に)を土地と時間の限界をエネルギー集約でシフトすることによって回避



・人口統計から見える兆し:

「新生児の死亡率が上がると国家が崩壊する兆し」
「次男率が高まると戦争の徴候」
http://morutan.tumblr.com/post/73243371584


ただし単純に死亡・出生率の増減だけから決定されない(→ 単純に子供を増やしたからといってGDPは上がらない)。あくまで最初の指標




・家族制度はBC6c(エトルリア文明の絶頂期)から1492(レコンキスタ終了)の間のいずれかの時点で安定化した



・家族農場はドイツ帝国の西部では支配的な経済的・社会的類型だった ⇔ マルクス<農場経営の所有と経営が集中してしまう歴史の必然>

「農地制度が時を越えて恒常的」(カウツキー)



・家族農場や個人事業主は信仰心が強いが被雇用者になると弱くなっていく

父親を企業主とする自立的生産ユニットでは父親の権威が強くそれが神の権威に親和していくが、賃金製では父親の権威は遠くなり母親のそれに中継されることになる。



・直系家族のルター派地域では神の消滅は痛みを伴わずには済まない。そこでの不安、アノミーに気づいたのはニーチェ一人にとどまらない。ナチス台頭はルターの神の消滅の直後に起こった現象。




・フランスで早期に革命的爆発が起こった第一の要因は文化的先行にあった。1789年にパリ盆地の男性識字率は50%を超える。第二の要因はパリ盆地などの中央部が平等家族だったのに対して周縁部が権威主義的直系家族だったため。中央と周縁、平等・不平等(権威)の反目と抗争が中央の理想のヒステリックな具体化を招来した。(cf.小説フランス革命、タレーランほか周縁貴族の権威性)


・平等主義-無政府主義の国の革命は混沌となり、最終的に軍隊を要請する。南イタリアのマフィアもそういった背景(平等を基本としつつの暴力(秩序)の要請、cf.中国の「家」「血」のつながりと中国マフィア)


・<民族><階級>の幻想は宗教幻想の崩壊のあとに要請された。ボナパルティズムは革命的民族主義といえる。幻想としての革命的民族主義の内容は「フランス人のみにとどまらずすべての人間の自由・平等」が目指されるがその根っこのところの家族型-主要価値(自由か平等か、権威か非権威か)などでイデオロギーの行く末が変わっていく。





・日本は基本的に直系家族にあたるが琉球・北九州・広島ほか西日本・諏訪(長野)は平等主義大家族形態(速水@「世界像革命」)

西日本(平等)/東日本(直系)、ではなく、もともといた縄文人なんかを直列家族系が京都を中心に北と南に追い散らしていったぽい。

そして、この分布は宮本常一がたどりついていた家族型の違い、建築様式の違いとも対応しそう(舟つくり:家の形が舟型)


舟作りは海人だった名残りをおもわせる







・フランス・ドイツの移民の問題は単純に平等主義を基本とした人道主義からは測れないぽい。家族型の違いでパリ盆地周辺は平等主義になったけどフランスの地方(南部とか)は差異主義だし、ドイツは直系家族なので差異・秩序を当たり前とする。

そして差異を見つめたドイツのほうが結果的にフランスより平等になっていたりもする
http://morutan.tumblr.com/post/73562414500/csu-eu-3
http://morutan.tumblr.com/post/73562470378

トッドは「イデオロギー的に平等主義を頭ごなしにし、その価値観をもとに統合するのは家族型からみてびみょー。マーストリヒト条約にはその観点から懐疑的」といっていた

(cont. → 「移民の運命」)」


移民の運命 〔同化か隔離か〕

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ドイツの記事と同じようにフランスの場合も各地方やアクター、排外的になるひとたちの事情についての詳しい取材・背景が見たいところ

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2014年01月12日

南直人、1998、「ヨーロッパの舌はどう変わったか」


「その国ごとの主食はなに?」「その国の代表的料理はなに?」みたいな話があって日本だとふつー「主食は米で代表食は和食」ということになるのだろうけどじつは主食とか代表食みたいな話はかなり怪しいものだったりする。ヨーロッパだと長い間、大衆のふつーの食事はごった煮的なシチューだったし日本でも似た感じ。ちなみにこのシチューには肉なんかめったに入らなかった。というかごった煮=スープであり「スープの語源はこのごった煮にぱんを浸して食べること」だったそうな。



フランス料理とかイタリア料理とか言われたりしてふつーにイメージするものがあるだろうけどフランス料理なんかももともとは存在しない。それぞれの地方料理があっただけでその国を代表する料理なんかはなかった。ちょうどナショナリズム-natio-パトリオティズム、「国民」と「パリ民」「オック民」などの関係と似てる。人々はそれぞれの都市へのアイデンティファイはもっていても国民という意識はなかった。

だからかわからないけどナショナリズムの高まりとその国の代表食の形成過程は相関していく。単に近代化によって豊かになり、輸送が発達し、いろいろな食材が手に入って料理が洗練されていったからかもしれないけど。とりあえずわれわれがふつーイメージするフランス料理、ヌーベル・キュイジーヌは18c宮廷で供されていたオートキュイジーヌを端緒とし、産業化-近代化を通じてその贅沢が庶民にコモディティしていったものと言える。そのもっとオリジンなところとしては16c前半、「アンリ2世の元にカトリーヌ・ド・メディシスが嫁いだことからフランス料理が洗練されその原型が作られた」、とも言われるようだけどはっきりしないみたい。ハプスブルクとの婚姻関係もあるし、ブルゴーニュの洗練も関係するだろうし。

とりあえず18cぐらいに宮廷料理としてのフランス料理が確立しそれらが19c前半にコモディティしていった。オートクチュールとプレタポルテみたいに。といってもその時点ではけっこう金のある貴族・ブルジョワじゃないとその恩恵に服せなかったようだけど。でも宮廷だけの料理じゃなくなっていった。ヨーロッパのレストランの起源は18c後半とされる

レストラン(フランス語で「回復させる」を意味する動詞 restaurer の現在分詞 restaurant が語源)という言葉は16世紀に現れ「回復する食事」を意味し、特に栄養に富み強く風味付けされたスープであった。この語が最初に食事店に使われたのは1765年頃に創業したパリのスープ販売店、ブーランジェであった。標準となった形態(固定した営業時間中に客が個々のテーブルの一人分の場所に座り、メニューから料理を選ぶ)を持った最初のレストランは「Grand Taverne de Londres」(ロンドンの偉大な居酒屋)であり、1782年にアントワーヌ・ボーヴィリエにより創業された。彼は代表的料理作家、料理学の権威であり[7]、成功した料理店主として名声を得た。また、標準的な料理本となった『料理人の技術』(L'Art du cuisinier、1814年)を著した。

フランス革命により料理ギルドが解体され、素晴らしい料理を作る技能を持つ使用人達を残して貴族が逃れたことでその後のフランスでレストランが普通のものとなった。一方同時に多くの地方人が、料理をしてくれる家族を残してパリに集まった。レストランはこれらの双方を呼び集める手段であった。そして、外食というフランスの伝統が生まれた。

レストラン - Wikipedia http://bit.ly/1eyDoy0

ブーランジェがレストラン(肉入り料理)を販売しようとしてその独占権を主張する仕出しやギルドと衝突し、その裁判に勝ったのがきっかけ。ここから外食産業にかかわるギルド的独占が崩され飲食物を自由に提供できるようになり、1786年、高級な料理屋としてのレストランという語がはじめて法律の上で出現した。

ここで「外食産業が生まれた」というところが一つのポイントとなる。


その後、産業-交通-運輸の発達により金と移動を手に入れた人々は余暇を愉しむようになり「移動」「食」はその一つとなっていった。しかし「食」を愉しむにしてもなにを食べていいかわからない。そこで「ここがおいしい」と紹介するカタログ-評論-グルメ(ガストロノミー)が発達していった。サヴァランの「味覚の生理学」「美味礼賛」、レストランガイドとしての「グルマン年鑑」(1803)。その初期の集大成としてガストロノミーの帝王キュルノンスキーは「美食のフランス」を出版する(1921−1928)。

またこういったグルメを流行らせる土壌として料理人たちの活躍があった。ルネサンス以前の芸術家よろしく、旧来は裏方的な役回りで歴史に名を残すことのなかった料理家はレストラン時代になって自らの才と名を社会に知らしめていった。カレーム、エスコフィエ、タレーランなどはそういった天才料理家となる。


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近代化による食の多様性・近代的な食の洗練の背景としては植民地の恩恵があった。「農業の開始が第一次食物革命とするなら第二次食物革命はコロンブスの交換だったと言える」。新大陸の発見によって新たな食物を発見、ヨーロッパ国内の食べ物や植民地同士で交換・取引することで新たな富と食の多様性が生み出されていった。

大航海時代の水夫の食事を見てその貧相さに驚く人もいるかもしれない。たとえば朝はオートミールだけとか、じゃがいもだけとか。しかし当時のイギリスではそれがふつーだったしヨーロッパでもそんな感じだった。産業革命期のイギリスが特に無産階級都市民の食生活が悲惨だったというのもあるけど。当時のイギリス、無産階級都市民の部屋ではキッチンや火をおこす場もろくになかったのでじゃがいも茹でるだけとかでも十分だったし、労働のカロリーを摂るためにたっぷりの砂糖を入れた紅茶がもてはやされた。浄水設備が整ってなかったヨーロッパにとって飲み物としてはアルコールが当たり前だったのだけどそれだと酔っ払ってしまう。なので茶はそれに代わるものとして歓待され中国から高値で輸入されていた。しかしその法外さを巡ってアヘン戦争、ボストン・ティー・パーティー → アメリカ独立戦争につながっていったのだけど。それとは別にイギリス国内で茶を販売するときには混ぜ物とかふつーにされていた。パン・小麦粉にはミョウバン、茶にはトチノキや楓の葉っぱと有毒着色料、ミルクには水

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「混ぜ物がされている」というのは茶だけの話かと思っていたけどほかの食品にもされていたみたい。このころはまだ政府による食品チェックや販売権みたいなのが確定してなかったので。しかしそういった経緯もあってその辺の管理・規制に政府が関わっていく。


「新大陸を通じて新たな食べ物が入ってきた」といってもそれらの食べ物はすぐに食卓に根付いたわけではなかった。新大陸経由の珍奇な食べ物たちは初期には貴族たちのコレクションとして飾られたり学者たちの研究材料とされていた。学者たちが期待していたのは主に薬効。なのでじゃがいもなんかも薬として使われてたみたい(結核回復、精力増強)。いまだとふつーに食べるけどじゃがいもなんかは大衆食としては特に抵抗があったみたい。なんだかわかんないのでトリュフの一種だと思われてたみたいだし。

じゃがいもはそのカロリー効率(栄養学の優等生)や育てやすさなどからプロイセン王フリードリヒなんかから期待されて政策的に普及されていったようだけどそれ以前、最初に大衆に普及・育てられるようになったのは17cぐらい、スペイン → スペイン領低地地方(ネーデルラント)。18cオランダは他国に比べて穀物消費量がすくないけど、それはじゃがいものおかげだった。

じゃがいもの普及が完了するのは18c末、「痩せた土地でも育つ」というその特性はヨーロッパ人口の過剰増加を促す。直系家族の次男なんかは土地を相続できなかったんだけど痩せた土地からでもじゃがいもは育てられたので。

アイルランドの発展もじゃがいもが支えていった。


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とうもろこしも新大陸からの新たな優等食物だった。

粉食メインだったとうもろこしは当時さまざまな名前で呼ばれていた。「スペイン小麦」「スペイン栗」(南フランス)、「トルコ小麦」「トルコ穀物」(イタリア・ドイツ・オランダ)、「キリスト教徒の小麦」(トルコ)。とうもろこしはあくまで小麦の代用食的なイメージで「貧民の小麦」として受け容れられていった。そして地中海地方を中心に普及していった。地中海の人たちは小麦は輸出し、とうもろこしを食べた。




さて、ここで冒頭の話に戻る。

一般的に「ヨーロッパは肉食、日本は米食」なるイメージが敷衍してるように思う。そしてそれに「狩猟文化(騎馬民族) / 農耕文化」なる通念が加わる。しかしこういった話は歴史をボケーッと見ていくとなんともおーざっぱな話であることがわかるし本書でも否定されている。

「おーざっぱ」な理由としては「稲作しつつも狩りもしてたし逆もあった」「肉食とかいってもヨーロッパの庶民食は長い間なんでもぶち込んだごった煮がメインで、肉は年に一回、家畜数コントロールの謝肉祭のときに塩漬け肉をたらふく食べるといった感じだった」とか。そういった区分けでははっきりと分けられないぐらい交じり合っている。

本書冒頭ではそれに加えて「ヨーロッパの人間は肉食で栄養状態良いので大きいのだと明治なんかでも思われてたみたいだけど、ヨーロッパ民が180cmぐらいになったのはここ最近、18-20cぐらいに食卓事情が改良してから」と年代に沿った身長グラフが示されている。

おーざっぱにいうと30年戦争の頃にはヨーロッパ民も日本人と同じぐらい150cmぐらいの身長だった。それが近代化によって右肩上がりに伸びていったかというとびみょーでイギリス産業革命期、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの変動期のゴタゴタでは栄養状態も劣悪で身長伸び悩んでたんだけど全体としては18ー20cで大きくなっていったみたい。あと産業革命期より中世の秋の頃のほうが栄養状態よかったり(その後ペスト食らうけど)。

なので「肉食の思想」なんかで示されていた<肉食は単位面積辺りのカロリー効率が悪い → より多くの牧草地が必要 → ヨーロッパ民は牧草地を拡げるために十字軍して拡大していった>という話は魅力的だったけど間違い。


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「和食」や「国民食」なるものは「共通語」同様、食の多様性を捨象するイデオロギーにすぎないわけだけど、こういったものが生まれてきた背景とフードファディズムが関わってくる。


「パンがなければうどんを、ワインがダメならジュースをつくろう」とマリーは言った: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384107952.html

フードファディズム - Wikipedia http://bit.ly/hsliio

加工食品をめぐる不信というのは近代→後期近代の消費・産業社会に住む市民たちにずっとあって、まあ「素性も知らない人に髭を剃られる不安」ていう身近な他人的なものなのだろうけど、昔は騙し食品とかふつーだったみたい。

「昔の紅茶は中国輸入で高かったのでイギリスでは混ぜ物をした」という話は「もやしもん」でも知ってたけどその他の食品、パンとか肉とかでもけっこうふつーにやってたみたい。

そういうのがなくなってきたのは間に政府の監査機構が入ることでチェック体制ができていったからだろうけど、これによって「食の自由」みたいなのが段々統治されるようになっていった。

たとえば屋台販売とか行商的小売とか、元々はそういうものと青空市場的なものがふつーだったけど近代化に際して政府が間に入ることで「より問題のない食品を」「確実に市民に届ける」ために食は小売りから量販(チェーン)へ変わっていった。もちろんその際、事業者自身の儲け目当ての誘因があっただろうけど、「大量の市民・国民に滞り無く安全な職を届ける」ために市の中央にあった青空市では交通が滞った。なのでそのあたりの出店に関しても政府が関わったり。潜りの行商とかへの規制が厳しくなっていったり。こういうのは現代の東京の弁当売り規制、博多の屋台規制なんかにも通じる。


国がそこに介入したのは「栄養 → 強い兵を作るため」という目的からだった。栄養学なんかもイギリスの輸入封鎖されたドイツで発展していったし。微生物学 → 保存 → 缶詰なんかも軍事目的で作られていった。


国のそういった意向、規制に対して食品産業界は反発し、その中間に食品栄養学なんかの専門家(評論家)が入ることとなった。


国 / 産 / 評 / 民


栄養と「正しい食事」(健康)についてのイデオロギーはこういったアクターを中心としてやりとりされていった。


「一日に必要な総カロリー」とか「三大栄養素」みたいな考え方もここからつくられたもの。それはいちおコモンセンスにはなっているんだけど、「元々がそういったもの」というのは知っておいたほうがいいとおもう。


なので、権力地図とかイデオロギーな力学的には「この食品を食べるのはダメ」とか「この食品は良いからどんどん食べよう」」「この栄養素は」「化学調味料は」「有機野菜で」みたいなアレは自ら国の官製イデオロギーに生きる力を明け渡してるようなところがあるように感じられる。あるいは有機野菜をめぐるフードサヨクなところはみょーに反体制ということで逆に依存してる。


化学調味料や醸造酒の話と同じで「少し(あるいは量を調節されて)入ってたほうがおいしい」のだしそれは有機野菜うんたらにも通じる。あるいは食事全体にも。


新大陸で発見されたトマトやじゃがいもが初期は貴族の鑑賞用の奇妙な生き物だったり、研究者によって薬効を期待されて伝わっていたように、飲食物というのは薬にも通じるところがある。医食同源なアレで。


なので「摂り過ぎればなんでも悪いし、反対に少なすぎても悪い」っていう単純な話なのだろう。


そのために各栄養素を知っておくのは良いだろうけど、その栄養素イデオロギーに縛られて生の自由を減らすのもつまらない。


「所得によって生活のレベルが変わる」みたいなことがありその表れの一つとして飲食があるところもあるだろうけど、そういったステータスに過剰に縛られて食事するのもつまらないようにおもう。社会資本や文化資本、正しい知識、「本場の、本当の」っていうオーセンティシティ、有名人やみんなのレビュー、ステータスやイデオロギー、承認、そういったものを食べるわけでもないのだから自らカーストに囚われることもない。



「すばらしい和食」みたいな幻想とは別に庶民の食事としての国民食みたいなものは蓋然的にあったりする。カレーとかラーメンとか、あるいは缶詰とか。そういう「統計的によく食べられてる食事」みたいなの。

「和食」とか「フランス料理」みたいなのはそれとは別の高級食-洗練食といっていいだろう。なので文化的にはハイカルチャーに当たる。庶民食は大衆文化。鶴見俊輔の限界芸術論にならえばB級グルメなんかは限界芸術的なハイカルチャーとポピュラーカルチャーをhackしていく境界領域とみなされるのかも。まあその場合「hack」ってことで自分で料理していったほうが良いようにも思うけど。


なので現代の食文化としては大きく「高級食・洗練食」「大衆食」「限界食(B級グルメや家庭料理)」がある感じ。

高級食や大衆食は主に外食でイメージされるけど、家庭料理としての脱領域性を持つ限界食はそれらも横断する。おうちできちんとした和食を作るマダムもいらっしゃるだろうから。


歴史的には大衆食は日本もヨーロッパもごった煮鍋だった。

それらが近代化による輸送革命の影響で脱領域性を帯び、保存革命-工業化を受けて時間や空間をさらに横断するようになっていった。


新大陸からの新しい食物が研究材料として薬効を期待されていたのと同じく、食糧保存の分野も化学的な領域としてパスツールの貢献が大きかった。缶詰の父は直接にはニコラ・アペールだけど

ニコラ・アペール - Wikipedia http://bit.ly/1aSW07e



そしてナポレオンの躍進に役立っていった。


栄養学も似たような思想、国家としての人口・健康を確保するためにこの分野に投入されていった。

ヨーロッパの代表的な飲み物がアルコールから茶や珈琲に変わっていったとき、それらの謳い文句は「酔わない文化(倫理)的な飲み物」というものだった。アルコール分解酵素を多く持つゲルマン民族といえども酒ばっか飲んでたら酔うので。事実、この時代の労働者は朝から酒飲んでほろ酔いで仕事してた。

酒と酩酊には前近代的、反理性な悪いイメージが付き、特に比較的安く酔える蒸留酒にそれが継がれていった。禁酒法をめぐるイデオロギーはそういった流れに属する。それは「良い飲食物 / 悪い飲食物」「文化的 / 野蛮」、階級をめぐるイデオロギーの表象でありフードファディズムの一環といえる。高度成長期の日本でも焼酎はロウブロウな飲み物とされていた(竹内洋「教養主義の没落」)。


食というハビトゥスに階級が表れる、あるいは階級を衒示ために相応の食、洗練された高級食を摂る。そしてそれをピアレビューサイトやおともだちおくさま間でひけらかす。

こういったことは少なくとも高度成長期以前からやられていたのだろうけど、それらをめぐる要素をもう少しメモっとこう。




洗練食-高級食が現れたのは上述したように近代化の影響であり、その内容としては国際的には大航海時代-世界の一体化による「脱地域化」、国内的にはナショナリズムと並行した「料理の画一性の強化」、近代化による「都市的性格の強化」が挙げられる。

「都市的性格の強化」に関係するのが「外食化」であり、分業を介したそれでより多様な料理・食事に人々が接することができるようになった。


高級食のキーワードとしての「洗練」には食事作法というハビトゥスと「文明化」「理性化」が関わる。


ヨーロッパの食卓は当初貴族でさえも最低のマナーで、ナイフで歯をせせったり手についた脂を服で拭ったり鼻糞ほじったりというようなことを平気でやっていた。

そういった行為は現在からすると野蛮で非文明/文化的と思えるものなんだけど、当時の人達はそれがふつーで比較の対象がなければそれが「野蛮だ」とはわからなかったのではないか?ではどうやって非野蛮を意識し洗練されていったのか?

その辺りについては本書では触れてなかったけど、とりあえず「洗練」の内容としては「食卓から直接性を廃していくこと」と「個人化」が目指された。

大皿で一斉にがっついたり、ナイフのような攻撃にもつかえるようなものをできるだけ食卓から遠ざけていくこと。それらはモジュールとして戦場などに分離し、食卓はそれとは別の「文化」「洗練」「作法」の場とすること。

そういったことが目指され実践されていった。


以前のエントリにも書いたように「個人化」「洗練」を食の文明化するならば中国はヨーロッパに先行していた。


石毛直道、2006、「麺の文化史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384598908.html


その歴史的表象として箸があり麺があった。

中国ではかなり早い段階から個食、個別配膳ができあがっていたみたい。孔子の「君子厨房に近寄らず」(君子遠庖廚)の格言に基いて、とのこと。これは「料理など男性のするものではない」という意味ではなく「君子はわざわざ凄惨な場に近寄るべきではない」 → 「血に関連する道具を近づけるべきではない」ということ。なのでナイフ的なものが食卓から遠ざけられ、箸で食べられるサイズに予め切り揃えられて配膳されるようになった。

ちなみにいうとヨーロッパでは同時期、貴族でもナイフで肉を刺し、歯をせせるなどがふつうだった。大衆食は長い間ごった煮的なシチュー(煮込み)だったし、それ以外の食べ物もテーブル上に直接ぶちまけられるなどしていた。それを共同で食べる。


なので、「共同食 / 個食」や「ナイフや豚の丸焼きなどといった直接性を食卓から遠ざける → 洗練」ということも食文化の近代化の指標として関わってくる。脱自然としての文明化であり理性化。


麺食が「碗と箸との関連性が強い」食文化であったなら麺食があるというだけで食文化、あるいは、文明・文化的な近代化・洗練が伺える


「和食」を洗練・文化財とするならば旨味がどうとかいう以外にその辺りの要素での検討も必要なように思う。



それとは別にとんこつラーメンはより身近な日本の大衆食としてアジア圏だけではなく欧米圏にも広まってきている。


加えて言うと親子丼、焼き鳥なんかも外国人人気は高い。










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関連:
パリの胃袋を担う<ランジス中央市場>探訪記 1 - 晴れのち曇り、時々パリ
http://bit.ly/KdcTTi

近代化の過程で交通整理のためにどかされていったパリの中央市場はいまは郊外にあるらしい


「あ、育ちがいいんだな」って思う瞬間:哲学ニュースnwk
http://bit.ly/Kdd1Cf

魚の食べ方とか箸の持ち方とかのハビトゥスを気にするところがけっこうあるみたい



アメリカ人は何を食べてきたか - YouTube http://bit.ly/KdcS1J

アメリカの食の歴史は工業化した近代の大衆食の歴史とも言えそう。


『大衆めし 激動の戦後史』にいただいた、お声、その4。南陀楼綾繁と木村衣有子の評: ザ大衆食つまみぐい
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2013/12/4-2086.html


知らぬは客ばかりなり 外食産業実はこんなふうに作ってます 一覧表付き 生姜焼きから、ネギトロ、クリスマスケーキまで | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37893





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2014年01月07日

石毛直道、2006、「麺の文化史」





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少し前にうどんの話を書いたんだけどあの元ネタの本


「パンがなければうどんを、ワインがダメならジュースをつくろう」とマリーは言った: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384107952.html



全体的には世界の麺類について紹介されてておもしろかった。

朝鮮の冷麺(ネンミョン)のミョーなコシは一部の地方だけのもので小麦粉の他にリョクトウを加えるので生まれることとか、「新疆-のウイグル-タシケントのコルマ・ラグマン、トマトソースでうまそう」とか。


んでも全体的に「麺のルーツはどうやら中国らしい」ということで中国周辺、アジア圏のほうが発達してるぽい。東南アジアも含めて。

東南アジアだと「ミー」が「麺」に当たる。「ミー」は「小麦」の意味もあるみたいだけど「麺の発音がなまったものだろう」というのが石毛さんの考えだった。「小麦粉を練ったもの」=「麺」


小麦粉食自体は中国オリジンというわけでもなく中東肥沃三角地帯あたりからの伝播みたい。んでも「練って麺にしたものをいろいろして食べる」というのは中国で生まれ派生していった。

われわれがイメージする細長い麺は「麺条」と言われる。めんどくさいのでこのエントリでは以下「麺条=麺」で話進めるけど。


ヨーロッパの麺というとパスタが思い浮かぶんだけどパスタはイタリアのオリジナルではない。

「マルコポーロがマカロニを伝えた」「それらがしばらくして食べやすい形のスパゲティに変化していった」というのが俗説なんだけど、どうもはっきりしないみたい。


石毛さん曰く、「食文化というのは紙のように簡単に伝わるものではない」とのこと。製紙技術の場合は少数の技術者を移入して工房で集中的に作らせれば良いのだけど、食文化の場合はその土地の大衆の食文化にじんわりと馴染んでいく必要がある。なのでマルコポーロが麺を持ち帰ったにせよそれが普及したかというとびみょーって話になるとか。

「普及のためには中国→ヨーロッパで直っていうか中東あたりに麺食の文化があってそれがクッションになったのではないか?」

そんなことを石毛さんはいうのだけどはっきりとした証拠は見つかってないみたい。まあ麺条ではなくそばがき的なものはトルコでも食べるみたいだけど。



というか、そもそもこういったオリジンを探る場合、「麺のオリジンはどこか?」として文献を探ってもその記述の正しさを保証するものがなくそれ自体はトートロジー的になる。紙の古さを科学的に特定し、「それが実際にその時代に書かれたもの」と証明し、「その時代に麺を表す言葉があった → 麺があった」となったとしても「それが大衆の食文化として普及したか?」というと別の話になる。

うどんの話でもそうだったように食文化の歴史には大きく分けて「オリジンとしての変な創作料理段階」「中世・近世的普及」「近代的大量普及 → 国民食」みたいな段階があるみたい。

近代的普及には工場が絡みそれが大量生産大量消費 → 普及に結びついていく。イタリアのスパゲティなんかはそんな感じ。

うどんも近代に製麺機ができてから普及した。

近世、江戸の段階では手延べそうめんのほうが形が整いやすかったのでそちらが主に食べられていたみたい。そば切り → 蕎麦のばあいはまた別だろうけど。うどんが国民食の一つになったのは製麺機ができて以降ぽい。


つまり食文化の歴史を探る場合、それに関わる舞台装置・道具立てといった状況証拠を追っていくほうが地味な論拠になっていく感がある。「どこがオリジンか?」という話よりも近代化における指標・足あととしても参考になるし。


話を麺に戻すと、麺の近代化の指標は大きく分けて、


「手延べ麺」「押出し麺」「切り麺」の違いがある。


切り麺はつくるのにもっとも道具立てが必要となる。平たい台と麺棒。それは台所・炊事場の発展過程、あるいは住居やライフスタイルの変化の外縁的な痕跡となっていく。


次に箸と個人用のお碗。


中国では麺はスープに浸し温麺として食べるのが主流。なのでお碗が必要になる。

自分的にはラーメンなんかは鍋から発達したものではないか?と思っていたのでこのへんは未だちょっと「(´・ω`・)そうかなあ?って感じなんだけど、「古くは湯餅が『スープ料理にした小麦粉食品』というところからも分かるように」「麺を共用の鍋から食べると食べづらいことこの上ない。わたしの知る限りそのようにして麺を食べる習慣はアジア圏にはない」ってことらしい。(( ^ω^)・・・鍋したあとに麺入れて皆で食べるけどな。取り分けて)

んでも箸のウィキペディアにもあるように

箸 - Wikipedia http://bit.ly/Kv1HSs

中国ではかなり早い段階から個食、個別配膳ができあがっていたみたい。孔子の「君子厨房に近寄らず」(君子遠庖廚)の格言に基いて、とのこと。これは「料理など男性のするものではない」という意味ではなく「君子はわざわざ凄惨な場に近寄るべきではない」 → 「血に関連する道具を近づけるべきではない」ということ。なのでナイフ的なものが食卓から遠ざけられ、箸で食べられるサイズに予め切り揃えられて配膳されるようになった。


ちなみにいうとヨーロッパでは同時期、貴族でもナイフで肉を刺し、歯をせせるなどがふつうだった。大衆食は長い間ごった煮的なシチュー(煮込み)だったし、それ以外の食べ物もテーブル上に直接ぶちまけられるなどしていた。それを共同で食べる。


なので、「共同食 / 個食」や「ナイフなどといった直接性を食卓から遠ざける → 洗練」ということも食文化の近代化の指標として関わってくる。


麺食が「碗と箸との関連性が強い」食文化であったなら麺食があるというだけで食文化、あるいは、文明・文化的な近代化・洗練が伺える


それと対応するように麺食の広範囲性をして小松左京さんなんかが「示準料理」と呼んだみたい。地質学における示準化石のように、麺料理は広範囲で見つかるのでそれを目印に異なる食文化を比較するのに適している。


スパゲティなんかも近代に工場が作られ乾麺としてのスパゲティが食べられるようになってから普及したようだけど、「ナポリ王が庶民の食事だったスパゲティをエレガントに食べるために4本フォークが開発された」というのは1770年になる。

フォーク (食器) - Wikipedia http://bit.ly/Kv4qLC

それまではスパゲティは手づかみで食べられてたし、「刺す」という機能においてもナイフが主流だったヨーロッパの食卓ではフォークはなかなか普及しなかった。


この辺りは中国の孔子の話と比べるとだいぶ差があるように思われる。



そんな麺を巡るあれこれだけど現在はラーメンがけっこうグローバルに展開していってるみたい。とんこつが特に人気なのは欧米でも中国、東南アジアでも同じ。

それはもはや中国の拉麺でははく日本のラーメンなのだろう。オリジンとしての拉麺ではなく近代拉麺としてのラーメン。


その姿や具材の多さからすると自分的には個人用鍋のような印象なんだけど( ^ω^)



ともあれこんなかんじで麺の文化史-文化麺類学というのは楽しい。

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2013年12月17日

ロバート・ダーントン、1984(1990)、「猫の大虐殺」




猫の大虐殺 (岩波現代文庫)
ロバート ダーントン
岩波書店
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全体的に予想してたよりおもしろかった。

「フランス革命時、あるいはその周辺におけるフランスの大衆の実際」みたいなのが知りたくて本書を読んだわけだけど、それ以外に「民話から読み取れる当時の大衆の実際」みたいなのとか「ルソーの革命時の大衆への影響」みたいなのが勉強になった。


「民話から読み取れる」のほうは例えば赤ずきんの話。フロムほかの心理学の大家なんかは赤ずきんの話のメジャーなものを引き合いに出して「これは処女性を深層心理が隠された話だ!」とかいったみたいだけど、そのメジャーになったものは赤ずきんの原型とは異なる → 当時の大衆心理をそこからは読み解けない(心理学者はけっこういい加減なこと言う)とか。

当時の大衆は残虐で野卑で、その野蛮さが民話には表れていた。



民話「赤ずきん」の進化を系統樹で解明、英研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
http://www.afpbb.com/articles/-/3003359



ルソーのほうは、フランス革命当時、啓蒙・教養知識人たちが大衆に対して差別的立場をとっていたのに対して、当時卑俗で大衆的なものとされた小説を知識人であるルソーが著し、その内容を通して大衆と対話し内面を豊かにしていった、というような話。小説の中で小説の読み方を著すことでルソーの読まれたいように小説の読み方を誘導し、その真摯な読み方を通じて大衆と対話していった。

その読み方は本が貴重品だった時代の聖書の読み方(何回も繰り返し読む、一家団欒や夜の集いで皆と朗読しあう)と大量印刷され一回だけ読んで次の本に移るようになりだした時代の読み方の中間に属するものだった。映画スターが演じる役柄と現実の境界がわからなくなる人がいたように読者はルソーが描く小説の主人公、小説世界、あるいは著者であるルソー自身に心酔しファンレターを送った。ルソーはファンレターに対して小説で返したり、実際に社交界などで言葉を交わすことで読者と対話していった。

その様子からはルソーの小説を通じてかつて教会で行われていた告解が1:1から1:nの形でナローキャストされるようになったように見えた。あるいはSNSに慣れてなくて有名な人との距離の近さに新鮮なワクワク感を覚える人たち。


ついでだから表題となる「猫の大虐殺」についても簡単に。


民話の真の姿からも伺えるように当時の大衆は残虐で野蛮だった。その例の一つとして猫の大虐殺の話が挙がる。


猫の大虐殺はフランスの片田舎の親方-徒弟制の住み込み出版工かなんかで起こった事件。労働待遇の悪さに鬱憤を積もらせていた労働者たちが親方夫婦が大事にしていた猫を虐殺することでストレスを解消したという話。

親方の寝床の外で毎夜猫の鳴き声を真似、「あれは猫に憑かれてるからですぜ」と騙すことで猫を殺す許可を得た。


当時、猫は「性的なもの」「女」の象徴だった。なぜそうなったのかは定かではないけど発情期の猫の声が情事の女のそれを想わせたのかも。それもあってネコは魔女裁判的に5月柱にくくられて火をつけられたりもしていた。大衆たちはそれを娯楽として嘲笑いながら見ていた。山羊の鳴き真似なんかしつつ。「その狂騒はカーニヴァルのそれと似ていた」ってことだった。




んじゃ以下詳細





フロムが「処女性」やら「青年期の性」「脇道にそれてはいけないという戒めが込められてる」と解釈した「赤ずきん」の物語ははっきりとした出典は書いてないがどうやらグリム童話のそれに基づいているらしい。

グリム童話の「赤ずきん」はもともとフランスから出奔したユグノーがドイツに伝えたものでそれがフランスに還流したもの。またユグノーがドイツに伝える段階でもサロンで話されるために元のテクストからは修正されていた。

フロムたちはグリム版「赤ずきん」が自分たちの解釈に都合の良い内容だったのに修正された可能性を気にもとめなかった。




セブラン地方の印刷工場の親方は25匹の猫を飼っていてその中でも灰色のメス猫がお気に入りだった。親方は使用人といっしょに食事するのを拒んだだけではなくいっしょに働くことさえしなかった。しかし猫たちには焼いた鶏肉を与え、かわいがっていた。

猫達が一晩中あげる唸り声は労働者の睡眠を妨げた。

ある晩、印刷工の一人がこの不公平を正そうと親方の寝室近くの屋根の上まで這っていき夜中にゃにゃ鳴き声や唸り声をあげた。親方と細君は一睡もできなかった。数夜にわたってこの鳴き声に悩まされた親方夫婦は自分たちが魔法にかけられたのだと思い込み徒弟たちに猫を一掃するように命じた。ただしお気に入りの灰色猫だけは絶対に脅かしてはならないと命じた。

印刷工たちはその命令に面従腹背して灰色猫をまず叩き殺した。その後、即席の模擬裁判を作り猫達を絞首台に吊るした。印刷工たちはその間、爆笑をしていた。

騒ぎはこのときだけに収まらず、印刷工たちは以後数日の間この場面の物真似を繰り返して愉しんだ。

物真似はふだんはcopiesと呼ばれ印刷工場の誰かを辱めるために行われる娯楽だった。

猫の虐殺に折に辱められたのは親方の細君だった。


劣悪な環境にいた労働者たちは親方たちを憎んでいた。「親方の悪口をいうこと」は尊敬されることだった。それが印刷工たちが猫を虐殺した経緯の一つとなる。


謝肉祭のカーニヴァルの折、伝統的な規範に違反している人々に嫌がらせをして嘲笑する風習があった。違反している人々とはたとえば寝取られ男、女房に殴られている亭主、遥か年下の男と結婚した花嫁などである。

ブルゴーニュ地方では猫の拷問がこの嫌がらせの儀式(シャリヴァリ)の一環を成していた。寝取られ男やそのほかの犠牲者を嘲笑いながら、青年たちがネコを取り囲み、毛をむしって唸り声をあげさせるのである。これをかれらはfaire le chat と称していた。ドイツ人はこの種の嫌がらせの儀式を猫の音楽(カッツェ・ムジーク)と呼んでいた。

謝肉祭以外でも6月の聖ヨハネの祝祭、あるいは5月祭りにおいてもネコは火の中に投げ込まれたり柱にくくられ火をつけられたりして殺された。(5月祭りのネコ虐殺についてはブルゴーニュやロレーヌ地方)


ネコにはつかみ所のない神秘性やなんだかわからない魅力がありエジプト以来人間を魅了してきた。猫は概念上人間と動物の双方にまたがっているものとされた。ある文化圏では猫のみならず犬、豚、ヒクイドリといった動物も禁忌に関連した魔力を秘めたものとされた。ユダヤ人が豚を食べないのも、イギリス人が「雌犬の子!(son of a bitch!)」と罵るのもこれが由来とかなんとか。

この辺りは「異界に通じる動物」の話を思い起こさせる。


フィリップ・ヴァルテール、2007、「中世の祝祭」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/379285806.html


猫は魔力に通じセックスに通じる動物とされた。中世の建築物の壁から猫の骸骨が掘り出されることがあるのは猫をいきたまま壁に閉じ込めその魔力を新築の家を守るために利用しようとしたからである。


pussy catという言葉はもともと単に仔猫の意味だったが猫がセックスを含意する動物ということで隠語となった。「猫を可愛がる男は美しい妻を得る」。発情期のオス猫の唸り声は寝取られ男を連想させた。



猫はこのように「魔力」「規範からのはみ出しもの」「セックス」を連想させるものだった。なので印刷工たちは親方のお気に入りの灰色猫の背骨を砕くことで親方の細君をあばずれ女だと象徴的に宣告し、それと同時に親方をねとられ男に仕立てあげた。

ブルジョワにとって動物辱めが無縁だったように民衆にとっては動物を愛玩する慣習はなかった。








ルソーは読書をテクストの中に案内し、レトリックを用いて誘導し、一定の役割を演じさせた。ルソーは読者に対していかに読むかを教えようとさえし、読書を介して読者の内的生活に触れようと試みた。


ルソーは読者に文学と社会の支配的価値観を拒むように、心のなかで田舎者、脱俗の人、外国人、子供になることを要求した。


読者たちは手紙などを通じて、いかに自分たちがルソーの作中人物と同化し、いかに自分もまた愛し、罪を犯し、苦しんだか、そして邪悪でムリかいな世界の中で再び徳をもとうと決意したかをルソーに語ろうとした。


読者は抽象的な正しさではなく、現実の生活に密着した徳行を、過程生活をまともに考えなおす決意をした。



「私たちは読むもの全てをおのれの<自我>に結びつけ、全てを自分自身の立場で考えなければいけない。そして勉強によって私たちはより自由で自立した存在となり、おのれの心や精神を表現する手段をみつける手がかりが得られる、ということを決して忘れてはいけない」



ルソー自身の読書には身についたカルヴァン主義の強烈で個性的な宗教性の影響が認められた。読者たちはおそらく、宗教書を読む古いスタイルを、ルソーの小説に適用したのであろう。







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関連:
フランス革命の背景とか要因について(暫定) 公共圏論を中心に: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381322488.html




キットラーにおける読書の変容の概説(歌声喫茶的なみんなで読書 → 母の音読 → 個人的黙読)むーたん
http://morutan.tumblr.com/post/20792167/m-um-u

ここからするとルソー的読書体験は音読期を過ぎて黙読段階に入った時の初期、あるいは移行段階ぐらいにおもえる。



書評空間:UMATフォーラム@書評空間: 『書き込みシステム1800/1900』(未邦訳)フリードリヒ・キットラーFriedrich A. Kittler, 1985=1990
http://bit.ly/pYBQc

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2013年12月12日

野田宣雄、1997、「ドイツ教養市民層の歴史」


啓蒙主義時代のドイツ教養市民層の歴史として



ドイツ教養市民層の歴史 (講談社学術文庫)
野田 宣雄
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はじめに


<教養市民層が大きな比重を占めるドイツの宗教社会学的構造がナチズムという現象を生み出したのではないか?>


という大きな仮説が立てられる。


具体的には「宗教倫理なき教養を中心とした教養主義の構造がナチズムを生み出した」ということ。


ここで「宗教」としているものの内容はヒューマニズム的なものでも代替できるように思った。


ヒューマニズムなき知識によって鎖国的に作り上げられたエリート空間から紡がれる機械的な決定。それは昨今「凡庸な悪」というタームで切り取られて一部で話題となっているアイヒマン問題(アレント)の具体となる。


彼らがどのような文脈で「凡庸な悪」にどのような意味をもたせているのか確認していないけど、ナチスにおける知識空間の構造的問題としてのそれは民衆と一部のエリート層の教養やハビトゥスが断絶していることを前提とした。それを想うと「凡庸な悪」なるテクニカルタームを「アレントが言っていたから(正しい)」というように切り取って使い、その内実が一般社会と乖離してるかもってのはなんだか戯画のように思われる。


まあ確認してないのでどういう内容で使われてるのかしらないけど。閑話休題



フランス革命でもそうだったけどドイツの教養的な知識はフランスよりももっと民衆から隔絶したものだった。

それも仕方ないところはあって当時の民衆というのは下品でガサツで野蛮だった。娯楽としては年に一度のカーニヴァルで乱痴気することだったし、そこでの狂騒はキリスト教的な倫理とハビトゥスを身につけた上流階級は眉をひそめるものだった。

当時の民衆の野蛮さが分かる例として猫の大虐殺の話がある。



猫の大虐殺 (岩波現代文庫)
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この本も面白いので別項でうんたらするかもだけど、猫の部分をいうと当時のフランスの民衆が娯楽的に猫を殺していたということ。カーニヴァル的な乱痴気ムードで。猫は「性・女」を象徴するものでありキリスト教な性禁忌のせいか「わるいもの」だった。なのでしばしば魔女狩り的にネコが駆られ日頃の鬱憤晴らしの代償とされた。

木にくくられ火炙りにされ鳴き叫ぶ猫の様子を民衆はゲラゲラと嘲笑いながら見ていた。彼らの娯楽だったので。


それはフランスの例だけどエルベ川以東の農奴たちはもっと野卑だったらしい。そういった当時の民衆の野蛮さや残酷さは民話の真の姿として残っていたりする。



なので、フランスのブルジョワやドイツの知識層が民衆をバカにし差別するのも当たり前のようには思うんだけど、フランスにはルソーがいた。彼を中心に、民衆に寄り添う形で倫理を問うていったことはフランスとドイツの知識空間が異なった要因の一つに思われる。

もちろんそれ以外に識字率の違いなどのハード面での構造的な違いもあったけど。




<一部の教養特権層に囲い込まれたヒューマニズムなき教養>という問題。


「仁愛は民衆の間から期待されるのか?」「そうだとしてもどのように接合し涵養していくのか?」については項を改めよう。



んじゃ、以下詳細。







「教養」あるいは「教養市民層」とはなにか?



18世紀末ないし19世紀初頭、当時も「教養理念と何か」はっきりしなかった。しかしドイツ知識人の間でにわかに「Bildung」なる言葉がもてはやされるようになった。


それは

敢えて短い文句に要約すれば、「各個人がそれぞれのかけがえのない個性を真善美の各面にわたって多面的かつ調和的に発展させ、自己完成の域に到達することをめざすところに人生の意義がある」



とするもの。


(17-18)
「教養」の語源にあたる Bildung やその動詞形であるbilden あるいは sich bilden が人間の精神的領域にかかわる概念としてもちいられるようになったのは18世紀末がはじめてではない。その源をたどれば中世の神秘主義にゆきつくし、時代をくだって経験主義の著作家たちもこれらの語を神の人間にたいする働きかけを表現するために使用した。そして、18世紀半ばころになると、こえっらの一連の言葉は神との関係をはなれて世俗的な意味でももちいられることが多くなり、折からの啓蒙主義的思潮の高まりのなかで、Bildung は人間の知的実際的能力の指す言葉として「教育」Erziehung とほとんど同義的に使用された。

 だが、18世紀も最後の2,30年になるとBildungなる概念の自立化がすすみ、それは「啓蒙」Aufklrungや「教育」Erziehungとは区別される、より高次の次元を獲得していった。



こういった宗教的情操に基づく自己完成のあり方が本来の教養理念の目標とするものであったが、そこから宗教な部分が抜け、そのハビトゥスやエートスとしての「自己完成」部分だけが「教養」として伝わっていった。

「自己を完成させること」を漠然とした願望としたものの例としては「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」などが挙げられる。

(「ここにあるがままのわたし自身をまったくそのままに完成させてゆくことが、わたしの若いころからの漠然とした願望であり、意図でもあったのです」)


いわゆる教養小説(ビルドゥングス・ロマン)はこういったものとして受け継がれていった。




では「教養市民層」とはなにか?



「大学教育を受けている」ことを条件とし職業で言えば、

大学教授・ギムナジウム教師・裁判官・高級行政官僚・プロテスタント聖職者をふくむ広義の高級官僚

医師・弁護士・著述家・芸術家・ジャーナリスト・編集者などの自由職業

などがそれに当たる。


教養市民層の後継世代は彼ら自身の子弟から再生産されていく(とりわけ官僚周りが著しい)

ドイツ教養市民層と非教養市民層との隔壁は動かしがたいものになっていった。


19世紀初頭ベルリン大学やボン大学が設立されていく。そこでは功利主義的で実用主義的な学問を排斥した。つまり「学問は何らかの実際的な目的に奉仕すべきではなく、純粋に学問のための学問として研究さるべき」とするもの。


この辺りの「教養 > 実学」的な構図は「ギリシア的頭の学問 > 手の学問」の観念を思い出させる。

山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html



19世紀のドイツ官僚たちはこういった教養と専門的能力を身につけていった。そのため国民の間に倫理的な意味でも信頼性を勝ち得た。



1880年頃から「文化」Kulturなる言葉がもてはやされるようになる。この背景には教養知識層の危機感があった。


工業化による大衆社会の出現、中央党(カトリック中心)・社会民主党(社会主義労働者)の台頭、自然科学・技術の発達に依る既存教養主義の優位への脅威、学問の細分化・専門化(精神的凝集としての教養理念の崩壊)…


そういった背景の中で旧来の知識層の威信、「教養」Bildung への信頼は崩れつつあった。こういった状況に対して新たな言葉として「文化」Kultur が用意された。それによって教養知識層を中心とした「一つのドイツ」を目指された。が、それもうまくいかず分裂はますま進んだ。第一次世界大戦は「このような分裂を統合するためのもの」として教養市民層から熱狂的に受け入れられた。


余談だけど、こういった歴史があったのにそれを反省材料にするわけでもなく日本も戦後に似たようなことをやっている不思議(cf.文化鍋、文化住宅)。真似をしたわけでもなく偶然に旧来の「教養」という言葉の失墜を補うべく「文化」という言葉にあいまいに知性のハビトゥス周辺の希望を込めている。あるいは「伝播するわけでもなくそういった流れになったところにこそこの辺りの知識の構造における必然的な法則性があるのだろう」といえるのかもだけど





教養市民層の教養と文化はヒューマニズムや宗教的情操、生活に対する実践性といった内実を欠いたスノッブなシンボルとなっていった。これにより教養市民層に属する官僚の内面・倫理・道義性・主体性も空虚なものになっていった(cf.アイヒマン的な「凡庸な悪」)。


ヴェーバーはこういった空虚な官僚に対抗し統制するような強烈なカリスマによる指導者民主主義を期待した(カエサル主義)。


イギリスの腐敗した官僚制に対してドイツのそれは「倫理上非の打ち所のない機械体系」をなしていたが、それがゆえに官僚制化にともなう社会の硬直化の危険性がちらついていた。


イギリスのジェントリ支配は腐敗した官僚制に対するように、あるいは補完するように機能していた。ジェントリは地方の有力者として十分な収入を得、金銭に絡む腐敗から自由な名望家たちだった。


イギリスジェントリにおける貴族的なハビトゥスやエートス(ジェントルマンシップ)はノブリス・オブリージュ的なものを伴って民衆の範となっていた。逆にドイツの成り上がり的な教養主義は民衆を優越し隔絶するためのツールだった。


イギリスの知識空間の土台はピューリタニズムにあり、それは農民たちの間にさえ深く浸透し上流知識人と大衆をつなぐユーティリティコードとしての教養として機能していた(ヴェーバー、「宗教社会学」@「経済と社会」)。

このあたりはドイツの上流知識人が本質的に宗教に無関心だったこと対照となる。


イギリスでは王室派と議会派(ジェントリ側)の抗争がそれぞれの側に弁護士を発達され、国家的な規模でも弁護士のギルドが形成されていった。対して、ドイツではイギリスのような弁護士のギルドが存在せず、くわえて司法と国家行政が官僚制化されていたため、ローマ法の進出する道がひらかれた。


結果としてイギリスでは裁判官も弁護士出身者から輩されるようになり、「判例を厳守する」という仕方で「計算可能な」依法的支配をうちたてていった。対して、ドイツではローマ法に基づいた合理的な法律体系が整備され、そのもとで裁判官はあたかも「法律条項の自動販売機」のごとき機能をはたし、国家行政もまた官僚たちによって「純技術的に」処理されることになった。


ヴェーバーは近代の政治家の供給源として弁護士の方が官僚よりもはるかに好ましいとみなしていた。そしてイギリスの政治の強みは名望家としてのジェントリのほかに、弁護士が政治家の重要な供給源をなしてきた点にあると考えた。具体的なモデルとしてはグラッドストン内閣。



硬直化した官僚と庶民の知識の断絶、官僚やエリート知識層の界を固め再生産していくためのツールと化した教養の姿をヴェーバーは中国に重ねた。エリート知識層における道具的知識としての儒教と科挙、またその空間内部で近親相姦的に再生産されていく閉鎖的で排他的な知のあり方。




ヴェーバーの当時、すなわちナチス台頭以前のドイツは3すくみの構造にあった。すなわち、カトリックを中心とした中央党、社会主義労働者を中心とした社会民主党、そしてブルジョワ諸政党。

ナチズムはこの部分、つまり政党がプロテスタント名望家たちのギルドと化し精神的にも教養市民層の影響が多く残っていた領域、においてもっとも顕著な成功をおさめた。


それは硬直化した知の残骸とプライド、他国や自国内の優越感ゲームから生じるコンプレックス、その裏返しによる傲慢と怨嗟が煮詰まった混沌のスープだった。


戦争-国家幻想はそういった空隙に一体感と愛を用意し宗教幻想の代替となった。


ヴェーバーでさえ戦争における一体感と高揚感に熱狂し積極的に戦争に参加していった。そこでは人々は失われた愛の一体感を国家幻想に見ていた。





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関連:
「カラス事件」歴史を変えた18世紀フランスのある老人の冤罪死 | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=3045


「ヒトラーを支持したドイツ国民」ロバート・ジェラテリー 著 | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2985


近代的理性の立ち上がりと国家幻想、そこから疎外されていったものたち、のはなし: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381011164.html



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2013年12月11日

ロイ・ポーター、2001、「啓蒙主義」


読んだのでまとめ的に


啓蒙主義 (ヨーロッパ史入門)
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要点としては以下のような感じだった



・啓蒙主義とはなにか?:

百科全書に代表される「宗教的な知識から中立な知によって蒙を啓いていこう」という意識で共通した知識人たちを中心とした思潮。
本来は数学をはじめとした論理的思考による合理性とその試行(実験)→反省という実証主義的な部分がその中心になるがその部分は啓蒙主義的な運動全体のなかで後景化し、「人権」「ヒューマニズム」的なイデオロギーが前景化した。それは旧来キリスト教が担っていた人間愛や互助に関するエートスやハビトゥスを理性を中心とした理神教が代替しただけだった。


・英仏独の啓蒙主義の違いとして:

イギリスのそれは王立協会を中心とした数学的な実学であったがフランスのそれは「人権」「ヒューマニズム」的なイデオロギーが前景化した。ドイツのそれに至っては実証的合理性は一部の知識エリートのみに伝わるものとなり、啓蒙-教養的知識はドイツ観念論・ロマン主義的なそれが前景化し、それも知識エリートに囲い込まれた。ドイツにおけるこの辺りの啓蒙-教養の拡がりとその背景については別エントリする。


・フランスの啓蒙主義者たちは空想的社会主義者ぽく、現代におけるゼロ年代界隈の批評家、あるいはサヨク的批評家たち、それらの文芸圏に影響を受けたしろーと批評家たちの集まりのようなものだった。




では以下ダラっと概説



フランス啓蒙主義者たちは自らを「哲学者」(philosophers)と自称した。フランス語ではphilosophes(フィロゾーフ)と綴られる。フィロゾーフたちは17世紀後半、オランダやイギリスで生まれた。そして絶対王政への対抗原理としてフランスに根付いていった。


ニュートン力学の輝かしい勝利を受けて経験や実験が知識に至る鍵だとされた。

この辺りの数学的知識からの科学の立ち上がり → イギリスの経験知の先行については「16世紀文化革命」に詳しい
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/02/002201.html


あと、本書ではライプニッツは偏狭な合理主義者として経験主義者に打倒されていったと誤解されてたっぽい。ウィキペディアにもあるけどライプニッツはむしろデカルトの合理性+神性の担保をスピノザとともに受け、それを数学的に論証していこうとしていたように見受けられるのでその部分は誤解だと思うんだけど、まあヨーロッパの人でもそういう誤解はあるみたい。

デカルト
http://bit.ly/1kygXcb

スピノザ
http://bit.ly/1kygYgt

ライプニッツ
http://bit.ly/1kygWFf


ちなみにデカルトは同時代の「行動する哲学(思考)者」の代表的な人ぽく30年戦争にも参加してる。そういったところからの実践的な思考がデカルトの原点ぽい。なので無駄に思弁的ではない。




啓蒙主義者たちのモデルとしては当時進んでいたイギリスの体制が参考された。すなわち王権を議会の両院で縛り、その分、承認や製造業者たちが経済的にも文化的にも地力で成長することが促される制度。

しかし、そのような制度が汎ヨーロッパで通じるにはそれぞれの地域の識字率が違いすぎた。

フランスは未だ一枚岩的な組織があったからよかったが、ドイツ圏では大学を基点として既存の勢力(教会-神学など)を取り込んでいく必要があった。

フランスと違ってドイツでは啓蒙主義が既存の体制を攻撃するのではなく、既存の体制内部で発酵する形で展開していった。

啓蒙主義の中でイギリスはいくぶん保守的に、啓蒙主義者たちが国益と一体となっていった。ドイツも大学を通じて既存の体制を啓蒙主義側に取り込んでいった。

特異だったのはフランスで読み書きも普及し、豊かで、有力なインテリゲンチャも有していたが、彼らは王権による庇護から自立し、相対的に自立していた。

彼らは権力によって圧殺されるとは思っていなかったが、にもかかわらず、不満を抱き、不満分子に語りかける能力を持つインテリゲンチャたちだった。





啓蒙主義は一部の巨人が引っ張ったものだったのか?それともそういった巨人を支える幅広い読者層があったのか?


本書でも「フランス啓蒙主義でもビッグネームの他に知られざる同志たちが多数いた」とされている。遅塚さんの「フランス革命」でも「名のない民衆や農民も同じ叫び、人間性(ユマニテ)のもとに!、という叫びをあげていた」とされてる


フランス革命―歴史における劇薬 (岩波ジュニア新書)
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自分的にはこの「ユマニテ」がどのような背景から、あるいはどのような理路で構成されていったかが気になるけどそれは別に掘ることにする。

「30年戦争の影響でルネサンスから続く素朴な人間中心的な楽観主義への懐疑が生まれた」とされるのでその辺りと関係するのかもしれない。実証主義が受け入れられていった土壌なんかも。



フィロゾーフたちの言動はしばしばナイーヴで非現実的だったとしてエドモンド・バークたちから批判された。

ルソーの「社会契約論」もモデルを古代ギリシアや共和制初期のローマに依せているが18世紀中葉のヨーロッパにはせいぜい間接的に通用する程度だった。



「フィロゾーフはカフェでダベって社会批評してるだけの農民・民衆差別的ヲタで実際には知識も行動力もなかったのではないか?」

この辺りは「ニッポンの思想」のレビューにあった「ブログとかで専門用語使ってクダを巻いていい気になっているような、イタい人」という表現を思わせる。
http://t.co/c5bNe0fatQ

佐藤賢一のフランス革命解説でも似たような表現があったような…。





啓蒙主義者たちは古代ローマ的な社会をモデルとし「「市民」的な宗教を持つことに成る」と予想。愛国心や連帯精神や徳性などを育む宗教の必要性を感じた。ここから2つの宗教を造ろうとした。



エリート用の簡素で純粋で合理的な宗教(理神教)



一般民衆の精神や心を統御する絢爛豪華な信仰


この背景を見ると理神教は現代のサイエントロジーやニューエイジ的思想に近いものであったようにおもわれる。あるいは逆にサイエントロジーやニューエイジ的なものがそういったものの末裔とも言えるかも。


(55)「自然を介して、自然の神にたどりつく」

というその思考は「自らを神とする」グノーシスなそれを想わせる。まあそれだけ旧代の宗教思考に対抗・依存的な思考があったということなのだろうけど。




フィロゾーフたちが富裕な聖職者を憎んだ背景は「彼らが聖職者などに検閲などを受けていたこと」、「聖職者はのうのうと富裕財産を築いてるのに自分たちにはなにもないこと」などが挙げられる。つまり「ユマニテのもとに!共闘を!」とかいいつつも実質は彼らの上にひっかかっている既得権益が憎かっただけ、ということ。実際かれらは「ユマニテ」とかいいつつ自分たち教養階級・ブルジョワ階級以外の民衆のことを差別してたし。農民一揆の動乱になってそれをとりこむために「ユマニテ」な題目に農民や都市無産階級も含めることにしたのだろうけど。

この辺りの構造は日本における学生運動のそれと似ている。これも別項。



フィロゾーフたちはそうやって既得権益層を憎んでいたけど百科全書を購入したのは主にその聖職者たちを含んだ階層だった(法律家、行政官、官職保有者、高位聖職者、地主貴族、地方の名士)。


そしてフランス革命という祭りを通じて構造に取り込まれていった(ハマータウンの野郎たちのごとく)。


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関連:
R・ポーター「啓蒙主義」 - 日々平安録
http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20090506/1241540772

近代的理性の立ち上がりと国家幻想、そこから疎外されていったものたち、のはなし: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381011164.html

フランス革命の背景とか要因について(暫定) 公共圏論を中心に: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381322488.html


理神論 - Wikipedia
http://bit.ly/1kykVBO

吉田健一の関心もここに帰着する >ヒューム
http://bit.ly/1kyl9bX

ヴォルテールたちによるそれはお笑い
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381807240.html


マリアンヌとコロンビア、国家の擬人化、理性教というカルト: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/08/post-0b70.html

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2013年11月27日

フランス革命の背景とか要因について(暫定)   公共圏論を中心に





第三身分とは何か

―――すべてである


今日までのその政治的地位はいかなるものであったか

―――  無



それは何を求めたか

―――そこで相当なものになること







                  エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス













<民衆というのは社会の不満が高まると集まって革命を起こし民主的に社会を変革する>

<民衆を主体とした暴力革命は社会を良い方向に変える>

<フランス革命然り明治維新然り、現在の日本でそれが起こらないのは民衆がスポイルされてるからである>


そんなことを思っていた時期が自分にもあったし、そういうのは少なからずハーバーマスなんかの公共圏論にも影響を与えていたのかなあと思うんだけど、少し前のエントリでも振り返ったようにどうも、、政治的公共圏のあたりの話てなんかびみょーにロマンチックな妄想期待が入っていたように感じる。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380332335.html

過去を振り返っても<民衆を主体とした>って話でもないみたい
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380636011.html



最近はフランス革命のそれに興味持って、教科書的な制度的まとめではなく、もっと当事者の精神史みたいな肌感から入りたいなあと思ったのでこのシリーズ読んでる。


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できればフランス革命に至るまでにどのようにコーヒーハウスの住人たち、あるいは、フランス革命で鍵になったブルジョワたちの精神が作られていったか?啓蒙思想家たちの形成過程あたりからみていきたかったんだけど、その辺の記述はなくて物語の始まりは「王政の財政難」「貴族と王権の対立」「そこにつけ込もうとする第三身分」「王権もそれを利用しようとする」「第三身分代表のミラボーとロベスピエール」辺りの描写からはじまる。食料暴動で民衆が暴動起こしてヴェルサイユに詰め寄る前ぐらい。

「度重なる戦費出費からのフランスの財政不安」 → 「歳収 → 税」をめぐるやりとりで王と議会は対立していた。その駆け引きとして第三身分議員は王側に要請され、第三身分も逆に王を利用しようとした。立憲は啓蒙主義で崩れた王の大義を法的に根拠するものだった。

王をヴェルサイユから連れだしたのは大衆の力だった。arms的な威力には欠けたが、大衆の行進と数の圧倒がバスティーユを開き、ヴェルサイユに引きこもっていた王にプレッシャーをかけた。そのころパリは未だ下水整備もしてない臭い街だったので森深きヴェルサイユが好まれた。「arms的な力がない」「有効な武器の数や使い手、実質的な軍事力がない」ということは常に大衆や第三身分側の不安となっていた。王の軍隊をいつ出動されるかわからないので。実際、王はいつでもそれを行うという構えをとっていた。バスティーユが落ちたのは単にこのときの警察的役割の治安部隊側にパリジャンが多かっただけ、ということになっている(小説的には)。王の軍隊はスイスやドイツなどの外人部隊が中心なのでそういった情けはない。この不安が後の大暴動の背景となる(「やられる前にやれ」)。

それまでの新聞は政府広報紙的なものだったりたんたんと事実を伝えるだけのものだったが、フランス革命期にはミラボーやシェイエスなど各筆者が自前の意見を論じるような論説紙となっていた(10数紙→200数紙の百花繚乱)。



フランス革命からは少しそれるけど




フランス財政不安の理由として「戦費出費」ということはいったけど具体的にはルイ14世のころからの水陸両方の常備軍への出費。オーストリア、プロイセン、イギリスあたりとの戦費を指す。特にオーストリア継承戦争や7年戦争、そこでイギリスに受けた傷のしっぺ返し的にアメリカ独立戦争に出費したのが痛かった。「勝って領地がもらえる」的な戦でもなく戦い損だったので。ここに巻き込まれていく流れはポンパドール夫人の小説に詳しい


かの名はポンパドール
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「小説フランス革命」よりも「かの名はポンパドール」のほうがおもしろく感じた。女信長、というか一代絵巻なので。寵姫ってことだけど低体温で体の弱かったポンパドール夫人ことジャンヌ・アントワネットは特に中期から後期はその教養で王を魅了していった。もともと王侯貴族のサロンのアイドルとしてデビューしていったし。この辺りの印象は当時の芸能界みたいな感じだった。あるいは日本の花魁。あふれる教養で啓蒙の守護者(パトロン)といわれた。そして最終的にマリア・テレジアと直接に交渉を進めた(3枚のペチコート作戦)。マリア・テレジア側からの視点としては「ハプスブルクの宝剣」なんかがおもしろい


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(モデルはカウニッツかな?)
http://www.onyx.dti.ne.jp/sissi/episode-33.htm


当時のハプスブルク-オーストリアの様子、そこでのユダヤの扱い、ハンガリーからの夷狄の侵入、プロイセンフリードリヒ2世なんかの様子がわかりやすくドラマチックに描かれてる。竜騎兵が投入された当時の戦場のダイナミクスは自分的には「アンダルシアの夏」のそれっぽく脳内再生されジブリ辺りに映画化して欲しいぐらい。


脱線ついでに革命に至るまでの文芸的公共圏、当時のコーヒーハウスの情況について。イギリスの例だけど今回はこちらを参考にした


コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)
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16世紀後半から18世紀にかけて、ロンドンを中心に栄えたコーヒーハウスは新聞文化発祥の源、といわれるけれどそれが即ち「コーヒーハウス的なものが市民→政治的公共性を喚起する」ということにはならないぽい。

この時代のコーヒーハウスで市民 → 政治的公共性が喚起されたのは清教徒革命などの市民革命からの流れで中産階級における政治的関心が目覚めていっていたから。なので、その部分に影響があった経済・社会的な構造変化をまず調べるほうが有効ぽい。

それとは別に16世紀後半ロンドン初期のコーヒーハウスでは階層が「るつぼ」的に交わり、職工やアッパーミドルたちとも交流があった。この時代、まだ公園などといった設備も整備されておらず「気軽に話が出来る場」としてコーヒーハウスは親しまれた。

パブではカネがかかるし商売の話しながらだと酔ってしまってまともにできなくなるし、、また酒のとりすぎで肥満なども気になるし、ということで「二日酔いに効く」と宣伝されたコーヒー → コーヒーハウスが流行りだした。

コーヒーハウスで彼らがした話題の中心は投機だった。大航海時代の名残りでイギリスでは船舶→貿易の投機が盛んになっていたので。ある程度貯蓄にゆとりを持てるようになった中産階級あるいは職工たちは賭け事や投機にのめり込んだ。保険もその一環。

保険のロイズは現在にもつづく保険業の大手だけど、もともとはロイズコーヒーハウスにおける個人保険が原型。この時代、まだ保険は個人が受け持っていた。そして「ロイズニュース」は保険という投機に関るリスクを減らすために生み出された店からのサービスだった。

新聞というのはこういう形でもともとは船舶貿易における投機に関してコーヒーハウスで行われていた世間話を紙にまとめたものだった。なのでその中心は金に関わる情報であり精確性が求められた。政治的な話もその周辺情報としてよもやまされていった。

当時のコーヒーハウスではロイズニュースのほかにもこういった新聞が複数流行るようになった。この辺りの流行についてはフランス革命周辺の新聞の流行も思わせるけれどそれとの関係(両者の性格の違いや似た点、影響)については特に記述なかった。

「もともとは階級のるつぼ」として投機を中心として様々な世間話が交わされたクラブ(女性お断り文化)だったコーヒーハウスも18世紀を迎える頃にはそれぞれの店ごとに階層分化が進み当初の勢いをなくし、その座をティーハウスなどにゆずっていった。

この「クラブ」性については同時代のドイツ圏における読書・音楽協会との関係を思わせるけどそことの関係の記述もなかった。またフランスにおける同様の性格のコミュニティについての記述もない。

またコーヒーハウスで流行っていた新聞の内容についてもそれほど詳しくなかった。フランス革命の小説を読んでいるとそこでの新聞は文学性→政治性の高いオルグっぽいもののようだったようだけど、ロンドンのそれは投機がもとになってたんじゃないかなあ。

またまだ郵便制度が発達していなかったロンドンではコーヒーハウスは郵便物の留め所としても機能した。投機の世間話も含めて当時の情報の中心的な機能をしていたみたい。なのでそれぞれの機能が分化し整っていくに連れて流行が廃れていった。

ついでにいうと当時のロンドンで賭けは大いに流行っていたようで、「その日もらってきた給金をすべて賭けでつかってしまう」旦那を女房がぼやくみたいなのがザラだったみたい。投機や保険への関心もそういった流れから生まれていった。


なので、政治的機運がどうとかな政治的公共性というよりは投機とか賭け事を中心とした猥雑な空間、当時のこの辺りの所得層の金とそれにまつわる話を中心とした空間がコーヒーハウスだった。政治的な意志がまずあってそれが公共性を誘発した、のではなく、まず金の話があり、そこから派生するように政治的関心 → 新聞なんかができあがっていった。

ここで強調しておきたいのはそういった「金の話」というのは俗に感じられるかもだけど「生活の関心」ってことでイデオロギー主体のロマン主義ではなく実践知だったということ。そこは記憶にとどめておきたい。






フランス革命の話に戻ろう。


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フランス革命への背景というのは、簡単に言うとまず「ヨーロッパの海洋貿易のトレンドが地中海から大西洋に移り、政治的重心が地中海沿岸からヨーロッパ西北部に移った」+「戦費などによるフランス財政の圧迫があった」がある。

宗教改革+宗教戦争によってヨーロッパ全体の価値基盤が揺らいだのと同時に、それは戦費という形でフランスの財政を圧迫した。

価値基盤の揺らぎに加えて医療技術などの改良などで人口が増え、そこに「新しい形の貿易 → 商売」が導入されることで金という力をもった新興ブルジョワ層が増え、それまでの社会構成が実質的に変化してしまった。

王権を中心とした三身分制度、王権を特殊とした緩やかな中央集権体制(封建制度)は100年戦争のような単純な略取型の経済に依ったピラミッド型の社会構造のときにはうまく機能していた。その鋳型を維持するためのこじつけとしてローマ・カトリックの価値観と行政+倫理+ゆるい法制度も効果を発揮していた。

しかし、人口と経済と技術の変化によって社会構造が変化し、実質的な階層が制度的な階層と合わなくなってきてしまった。そこにボトルネックが生じストレスゾーンとなっていた

加えて言うと圧倒的なマスとしての非ブルジョワ層(農民を大部分とした手工業者ほかの無産階級)には戦費による財政圧迫 → 不況が「パンがない」という形で具体的な現実となり不満の温床となっていった。工業化による都市化なんかも肌に合わなかっただろうし。うまく都市民になれないと頭のいいブルジョワに騙されて土地を奪われ無産手工業者や無産農民になってしまった人たちもいただろう。

王権は王権で「カネがない」ということで税をたかろうとするも議会(第一、第二身分)が言うこと聞かないので仕方なく三部会に頼るようになっていったんだけど、そうすると貴族や坊主に不満がたまるし、上記の理由で第三身分の中でもブルジョワ代表の勢力がだんだん増していくし、ってのがあった。

なので新興ブルジョワ、民衆、王権、貴族・坊主、それぞれに不満があった、ということ。その中でも特に新興ブルジョワと民衆に不満が溜まっていた。


フランス革命は<民衆主体>とか<ブルジョワ主体>とかの「どれかひとつが主体」って話ではなく4つのアクターと三極構造が乱れあった雪崩的結果だった。

繰り返すけどその大きな背景としては経済を中心とした人口・技術などの変動に依る社会構造の変化があった。その変化に対応するように為政者がリソースをうまく配分できていなかった、という話。


なので、ブルジョワ革命は必然≠<民衆を主体とした暴力革命は社会を良い方向に変える>なんてのは歴史に習うなら嘘っぱちになる。「市民革命」としておーざっぱにまとめ認識されてる一連の神話も。なんらかの運動へのモチベとしては無意識的にこういう通念があるように思うけどそれは間違い。あるいは「そういうこともあるかもだけど必然ではない」ということ。
http://bit.ly/1b49s7n

フランス革命においてブルジョワはすごく重要な遊撃手的なつなぎ役にはなった。そういう意味でほかのアクターたちとは重要度は違うけど「ブルジョワだけで革命が起こった」とか「ブルジョワが主体的に革命をおこした」という見方なら間違いということになる。ブルジョワは暴動の機運に乗っかって、結果的にそこで遊撃手的なつなぎの役割をしただけ、なので


まあでも4つのアクターのなかでも革命における比重が大きかったことは否めないけど。

以下「革命の発生の仕方」について。ジョルジュ・ルフェーヴルの複合革命論を柴田さんが要約したものの引用から。

フランス革命は一つの革命ではなく、アリストクラート(貴族とそれに準ずるブルジョワ)、ブルジョワ、都市民衆、農民の四つの「革命」からなり、結局、「ブルジョワの革命」が最大の成果をおさめたという意味でフランス革命は「ブルジョワ革命」なのだ、という。ここで重要なことは、フランス革命の苛烈な性格を、封建貴族対ブルジョワの対立という面だけでなく、都市・農村の民衆を加えた三者の関係からとらえること、また、三つの革命はそれぞれ固有な性格をもつ自律的な運動であり、しかもそれらが同時発生によって結合連関を構成する、ということである。言いかえると、貴族の王権に対する反抗、ブルジョワの貴族にたいする反感、都市民衆の食糧暴動、農村の土地騒擾(そうじょう)は、単独では決定的な危機要因ではないが、同時発生によって結合連関を構成するとき革命となる、というのである。

これらの要因は絶対王政期を通じて体制それ自体に内在している。しかし、近代世界体制の第二期への転換期には、貴族への課税、ブルジョワの「ストレス・ゾーン」、そして民衆の伝統的世界への外部エリートの自由主義的介入のため、それぞれの緊張度が増す。

ここでルフェーヴルがアリストクラート、ブルジョワ、民衆という社会階層の名で表現するものを、革命の発生を構成する動態的な要因で言いかえると、統合力の解体、変革主体の形成、民衆反乱の三つとなる。



この中でも第二要因の「変革主体の形成」がバラバラに存在していた革命の要因・不満を結合連関させていく。すなわちブルジョワが革命の遊撃手的役割を担う。


なので「民衆が民主主義に則って運動を起こせばうまいこといく」とは思えないけど「そういった暴動などが生じた時にブルジョワ的な位置にいるプチエリート(教養層)がうまくそれぞれの場の民衆を先導していけるかも」というのはあるように思う。そういった意味でこれからもこの年代の新教養市民層(マージナルエリート)がどのように形成されていったかは見ていくけど。

柴田的には「変革主体としてのブルジョワは体制内に存在していてその刻をジーっと待っていた、ということではなく、状況によって短期間に形成されたものである」ということ。まあこのへんの動乱、「なんだかわからないけどバタバタしてるうちに革命の主体になってしまっていた」というのは「小説フランス革命」におけるロベスピエールやデムーランなんかの描写に詳しい(教科書的通念としてはロベスピエールは悪魔のように喧伝されたりするのかもだけど、佐藤賢一によると「ロベスピエールは単なる童貞臭い真面目っ子であり、その真面目さが災いしただけ」、ぽい)


「では革命は起こらないほうが良かったのか?フランス革命もけっきょくはブルジョワが名望家などの新保守層に変わっただけだったし(佐藤賢一にいわせるとあまり目立たないけど一番の曲者はタレイラン・ペリゴールだったぽいし)」というとびみょーなところでバークのお話というのは未だウィキペディア程度でしか見てないけど

新訳 フランス革命の省察―「保守主義の父」かく語りき
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エドマンド・バーク - Wikipedia
http://bit.ly/1bmtMGW

http://morutan.tumblr.com/post/68196178318

「けっきょくは古き良き体制を壊さなければ良い」ということではなく「昔からあるものにも合理性があるのでそれをただ『あたらしい』というだけですべて顧みずに壊していく、という姿勢は遺憾だな」ということ。古くてよく解明されてなくて「非合理」「魔術的」とされてもそこに独自の合理性があったのかも、という留保をもって、その利用できそうなところを新しい価値と統合させていけばよい。コモンローなんかは慣習法であり言ってみればゲマインシャフト的なものがうまいこと法秩序になってたものだったのだろうし、それは良い形でのカーニヴァル的なものの都市の論理への制度化だったのではないかとおもう。


フランスの場合は革命以前にギルドや社団があって、それが王権や貴族に対しては抵抗のよすがになってはいたのだけど、同時に新しい合理性に対しては障害として立ちはだかっていた、ということが問題だったのだろう。

いってみれば古い形の公共圏(社団)がエスタブリッシュ化しすぎて固定化し機能しなくなりコーヒーハウスなどが新しい形の公共圏として発明された、ってこと。以下はコーヒーハウス公共圏についての説明

それらは多かれ少なかれ国家の機構からは自立した民間の社会的結合関係であり、前に述べた宮廷などの公的な社会的結合関係とは異なった性格をもっている。そして、この結合関係を一種の公共圏とみなし、ここでの議論をさして「公共意見」、つまり「公論」と呼ぶようになった。そこで、もしこの公共圏の構成員が新興ブルジョワジーだとすれば、フランス革命の説明はきわめて簡単となる。ブルジョワが反「社団」的な公共圏を形成しはじめ、市民社会を志向した、となるからである。しかし、これらの社会的結合の場には、大貴族、金融業者、高名な文筆家などが集まる上流サロンから、弁護士、手工業親方、小商店主の小さな読書サークルまで、さまざまな社会的レベルがあり、その性格も一様ではない。

アメリカの歴史家キース・ベイカーによれば、18世紀中葉まで「意見」(オピニオン)という用語は、フランスでは非理性的で不動的な雑音を意味した。だが世紀中葉になると、理性に基づく公正な判断という意味をもち、以後、「公共意見」という言葉は、政治的主張に正当性を付与する根拠となった。しかし、ベイカーによれば「公共意見」や「公論」とは実体ではない。つまり、貴族あるいはブルジョワ層の理念や利害と一致する公共圏が形成され、その階級的世論が生まれた、ということではない。それは、もはや絶対主義的な政治秩序の用語や伝統的制度の回路では主張の正当性が保証できなくなったため、それにかわるものとして「発明」された概念であり、既存の権力を超越する「理性的な審判者」という抽象的概念であった。そのため対立しあう政治陣営がこの観念に訴えて、自己の正当性を主張する。言いかえると、社団を編成原理とする国家秩序が有効性を失って「異議申し立て」にさらされ、それにかわる新しい公共圏が、伝統的政治空間の外部に生まれはじめた、ということである。


なのでただ、公共圏を設定すれば良い、という話でもない。現代なんかは特に立場や場が分離していて公共圏も複数あるし。フランス革命前だって社団もいちお伝統的政治空間内部では公共圏だったわけだし。

社会構造の変化、「なんか不自由だなあ」って感じ、公共圏などあたらしいギミックの必要性、それを使いこなすための(あたらしい)教養を身につけた新興層…

まあ、その辺りのギロンは別件で追っていこう



ちなみにいえば社団に対向するように発明された新しい正当な公共圏としての「あの辺」、国家機構の外にある社会的結合関係(アソシエーション)としてコーヒーハウスや新聞などを具体的な場としていた「あの辺」がシェイエスがアジった「第三身分」に当たり、ここに「国民」の観念が誕生した。



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関連:

革命発生の3つの条件〜フランス革命の背景まとめ | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2598

「革命的群衆」ジョルジュ・ルフェーブル 著 | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=3026


16時ぐらいに「フランス革命の肖像」
http://twilog.org/m_um_u/date-131124

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おまけ:
(「フランス史10講」から)

以上、革命の発生過程をややくわしく述べたのは、そこに見られる三要因が、ヨーロッパ地域世界に共通の特徴と同時に、フランス独自の特徴を示しているからである。特権的中間団体の王権への抵抗、経済発展を背景にもつブルジョワ層の上昇、民衆騒擾(そうじょう)、これらは18世紀後半の「大西洋革命」を経験する西ヨーロッパ各国に多かれ少なかれ共通にみられる。

しかし、フランスに固有なことは、典型的な絶対王政の構造に由来することだが、この三要因が強い緊張をはらむ三極構造を構成することである。すなわち、特権貴族の抵抗が王政を機能麻痺させるまでに頑強なため、袋小路に入った政局を打開すべく理論的に先鋭化した変換主体が出現する。彼らは徒手空拳の議員たちであり、急遽民兵(国民衛兵)を組織するが、その権力の行使は、民衆運動の介入によってはじめて可能である。だが、民衆運動は変革主体を援護する別働隊では決してなく、むしろ変革主体の所有秩序を脅かす自律的存在だ。変革主体はこの民衆運動の沸騰に支えられて、かろうじて中央・地方レベルの制度的な権力交替にたどりついたのだが、民衆運動にたいする制御能力をほとんど欠如している。他方、王政に抵抗した旧体制の支配層の大多数は、予想もしない情勢の急展開を前にして、いまや国外勢力と連携をはかる反革命派に変容しはじめる。

これが89年暮れの情勢である。制度的にみると、まだ西欧世界のリベラル改革派や王政が受容しうる「改革」の範囲内である。だが、その情勢の政治力学は、この地域世界にとって未曾有の経験としての「革命」になる可能性を内包している。



この時期のフランスの民衆の素朴宗教観をはじめとしたイマジネールの現れとして


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タグ:公共性
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