2008年03月26日

「テレビ」化するネットの傾向と対策(仮)

 朝の続きとして

 最初にこちらのエントリを見たときは「テレビ的」という言葉のさしているものがなにかよくわからなかったんだけど


テレビっ子をテレビ局が逃がしてしまうのは何故か - アンカテ(Uncategorizable Blog)


 自分なりにまとめて解釈していくうちになんとなく分かったように思う


muse-A-muse 2nd: 「分散は必然」ではなく状況に依るのではないでしょうか?


 つまり、ここでの「テレビ的」というのは「テレビ(マスメディア)的なものに情報の(分配に関する意思決定)権力が集中している」ということを表したかったのかな、と。

 だとするとついったー辺りで当初予定していた「テレビ的」ということからの連想した内容とはちょっとずれるかもしれないけど「essaさんのエントリから勝手に連想した」ということでまぁひとつ。


 んで、予告どおり「テレビ的とはなにか」ってことではこのエントリでとりあげた「純粋テレビ」って概念が関わってくるように思う。


muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム


 「純粋テレビ」というのは北田ギョーダイさんのこの本に出てた概念で、簡単に言うと「テレビ的になっていく」ってこと。「内容はなくてもテレビ的な形式をとっていれば番組が成立する(人気が出る)」って話。

形式主義的な没入を成り立たせる前提としてテレビの内部でテレビを楽しむってスタイル。ふつーならテレビはメディアとして事物(シニフィアン)を映し出すもの(シニフィエ)であるはずなのにいつの間にか映し出されるべき対象はなくなってテレビがテレビ事態をネタにしてしまっているっていう。たとえばスタジオ観覧型番組でタレントたちが視聴者と一緒にVTRを見るところをコンテンツとして放送するものなんかがそれに当たる。本来ならなんらかの「芸」を映すものがテレビであるはずなのに「芸」は存在せずテレビによる構築物であるタレントのみが残るっていう。なんだか記号の無限連鎖的なシミュラークル(あるいは差延)みたいだけど、これが「当然」とされることによってテレビの力(あるいは存在感)が無前提に許容されていく枠組みができる。そういった力をもっとも体現したものとして「天才テレビの元気が出るテレビ」なんかがあったのだろう。(突然街頭に現れて見ず知らずの人をカメラで追い回すことそのものをネタにする → 内容はなく「テレビの力」的なものを前提としそれに対する反応を笑う → 誰もテレビ的な力から逃げられない)


 この視点からすると現在はその極にあるわけだけどそれははてぶのホッテントリにも共通するように思う。

そういう意味で「テレビ(分散)的 / ネット(分散)的」という二項対立ではなく「形式と内容」(形式主義のオーバードライブ)のほうが頭に浮かんだ。


 この手のホッテントリの衆愚(あるいはワイドショー)化話は以前、essaさんに応答いただいたな


一般大衆と理想の落差を感じたらそれをネタにすればいい - アンカテ(Uncategorizable Blog)


 「内容的におもしろいものが埋没してしまうなら自分がネタにするチャンスと思え。(おもしろいネタであれば)趣向をこらせば人は見るもの」、と。まぁ確かになんかのせいにするんだったら自分がコミットしつつ状況を改善していくほうが良いとは思う。



 個人的には「形式(あるいは趣向や演出)を保ちながらそれに堕することなく内容を持続していく方法というのはネット側から出てくるのだろうか?」というところに興味あるけど内輪ネタというのはコンテンツが成熟→飽和していくと必ず出てくることだしな。ついったーなんかでくねくねしてるオレがゆっても説得力ないが

あと、ネットの場合は双方向性問題(フィードバックへの向き合い方)というのがあるか。アクセス数が増えるとシグナルに出会うチャンスも拡がるかもしれないけどノイズも増える。



 そんで「その辺はネット的な儀礼を磨いていくことで解決するしかないのではないか?」ってことになって各blogのプロトコルをできるだけ具体的に表出、交換する。ってのがこの辺のいまのところろの流れだったっけな?ギロンしたいところはギロンモードってのをあらかじめ提示、くねくねなところはくねくね目的ってのをあらかじめ提示する。てか、そゆのは空気嫁的雰囲気もあるけどまぁ置く。

 んでも間に合わないので「アーキテクチャ的にノイズ減らすか」ってのがised辺りで上がってたんだっけな?「でもそれはちょっと狭量かつ拙速ではないか」、って感じだったか?つか、アーキテクチャとしては SNSや半SNSでいちお成立してるのか。ついったーの場合は文脈分散ってのがあるしな(その分ギロンは成立しにくいけど)。あと、blogでも仲良しコミュニティというかよくエントリの応酬をする人たち(クラスタ)ってのは暗黙に築かれてるか。


 テレビ(オールドメディア)の没落関連ではついったーで @akof がこの辺を連想したとか言ってた。


結晶化した趣味の雑誌のナゾ
http://tenjin.coara.or.jp/~tomoyaz/higa0005.html#000501


雑誌が趣味の雑誌からコモデティ化を経て黄昏に向かうって話。これを見ながら仲俣さんとこのこのエントリ思い出した。いまそこにある雑誌危機について

2008-03-04 - 【海難記】 Wrecked on the Sea:雑誌に未来はない?


 出版市場売り上げ5000億円ダウン。雑誌の縮小。リアリティのないライフスタイルの押しつけかメタ視点な雑誌の氾濫状況について


  以上は雑誌の衰退期関連についてだけど雑誌の黎明期関連だとこの辺が思い浮かんだ。同人から成長していったけど内容としては趣味をつらぬいていったロッキンオンのスタイル。その魅力と弊害みたいなの 


ぼくのWeblog : ロッキンオンはいつからだめになったのか


「ネットとテレビ(既存メディア)」との関係で考えると、「趣味」ということでオルタナ性を保っているネットのコンテンツがコモデティ化していくことで内容が変化していくのかもしれない、って筋が思い浮かぶ。

もちろんお金が絡んでないので趣味ってことには変わりないんだけど承認欲求 → アクセス貨幣ってのがある。アクセスを貨幣のような交換メディアの一つのように考える考え方としては以前に @hidekih さんがなんか書いとったな。最近だと @essa さんも似たようなエントリを


HPO:個人的な意見 ココログ版: [書評]貨幣の複雑性 ecology of blogs


無料経済=お金が買える経済 - アンカテ(Uncategorizable Blog)


 ちょっと今回のテーマからははずれるので長く扱えないけどネットにおける「信頼通貨」 - 「評判経済」ということで両エントリの視点は近いように思う。そういうわけでお二人への主なTB理由はこの辺のお報せということで



  んで、ホッテントリという場がアクセス貨幣を媒介(あるいはリソース)とする市場として成立していく。ここにリアル貨幣が入ってく流れがFPN系


muse-A-muse 2nd: ABAをめぐる批評を読んでの雑感


 だからといって、「アクセス厨ほげほげ ><」とか「嫌儲 ><」とかいうのもアレかな、とは思うけど。FPN的な狙いとしてはちょっとでも対価を与えることによってbloggerのモチベーションを維持することにあるし、お金が入ることによってコンテンツに責任が生まれるってのもある。

ただ、そうなるとやはりいまあるオルタナ性(いい意味でのしろーと性のようなゆるさ)は失われるのだろうな。この辺の趣味と儲け関連では個人的には本の雑誌血風録なんか頭に浮かぶ。あの辺はけっきょくどうしたんだっけな?



 そんなこんなでいつもどおり特に結論が出るような話でもないんだけどいちおまとめると、



(1)「形式と内容」→「形式と内容は対立するものではない。パッと見振り向かれないような内容でも趣向を凝らせば人の目に留まる」

(2)「しかし形式主義のオーバードライブにも注意が必要では?」 ← 形式主義のオーバードライブさせる要因としてのお金

(3)モチベーションを喚起するメディアとしてのリアル貨幣(ビジネス)とネット上の信頼通貨の問題 → 「リアル貨幣によって継続性は生まれるかもしれないが速度はあがりいままでネットがもっていたオルタナ性が失われるかもしれない」、「ネット上に新たに創造される信頼通貨 - 評判経済によって既存の貨幣の問題点(富(リソース)のボトルネック的問題)を超えられるかもしれない」

(4)フィードバックにおけるS/N比問題 → 「ネットの慣習を磨いていくことによって対処するか、それともアーキテクチャを整えてノイズを除去するか」



 大体以上の問題が浮かび上がったように思う。いずれも今回のエントリだけでは収まりきらないような課題。そゆわけでとりあえずのマッピングにとどめる。



 あとは極めて個人的関心として、こんな感じでコミュニケーションメディアについて論じるときってどうしても演出とかエンタメを悪としてとらえてしまう面があるなぁ、と自省。それは日本のマスコミュニケーション論的な視座の影響をそのまま受けてるってことなのだろう。言外にだけどあの界隈は「マスコミ論じるときは意味のある情報 - ジャーナリズム論優先な!」ってのがあるので。なのでインターネッツやエンタメを扱う視座が生まれない。利用と満足研究なんかはエンタメ研究にも応用される可能性があったけどおそらく上記の理由で潰えた。

 もしくは効果研究的視点なんかがあるわけだけど、これも元々はメディアの効果的影響力を開発していくために予算投入されたと思われるので研究の視座を変えにくいように思う。

 以前にちょこっと触れたメディアリテラシーうんぬんについても同様


muse-A-muse 2nd: 「<批評>そのものへ」?


 メディアリテラシーの思想(あるいはパースペクティブ)的背景はカルチュラルスタディーズにおけるマルクス主義的なメディア産業批判にある。なのでメディアリテラシー教育をするときには(言外に)「メディアはこんな感じであなた方をだましてます ><」みたいな言い方がされてしまうわけだけど、アメリカ経由で出来上がった方法のみ輸入した人たちはその辺の問題点については気づいていない。本来カルスタのメディア批評というのは単なる悪口的な批判にとどまらずに対象を積極的に評価していく(あるいは作っていく)ことだったのに…。

 そゆわけであの界隈はその限界から脱することができないのだと思う。つか、「メディアリテラシーキット」とやらでとりあえずな形式(専門用語)だけ整えておけばどしろーとな人たちは満足してしまうのだろう。



 自分としてもその辺のくびきから放たれないといけないとは思うんだけど(…いやはやなんとも


 てか、「批判ばっかせずに評価する。あるいは自分で作っていく」ってのは今回の自分の姿勢にも共通するな。・・二重に反省ですな





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関連:
むーたん:はてな村について語るときに僕達の語ること( What We Talk About When We Talk About Hatena Village..)

※はてぶとかはてな村関連についてうじゃうじゃと



muse-A-muse 2nd: 「意味から強度」? (形式と内容について(序))

muse-A-muse 2nd: 論理的思考様式と詩的思考様式 (アナログ的思考の可能性、「魂の座」ら辺)

※形式と内容関連



本当に、ブログを書いているとロクなことがない - 花見川の日記

※そういや花見子も似たような関心もっとったなぁ、ということで。この辺は読んでみようかと思う ↓


ベストセラーの構造 - 花見川の日記


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posted by m_um_u at 21:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク
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