2008年03月11日

資本主義ってのは「自己責任」なんかじゃ済まされないシステムなんだけどね

 蜂っこからの質問(?)のようなものに応えてなかったなぁということでいちお。つっても、前のエントリでもいったようにワタシこの辺ど素人ですから、単なる自分的な思い込み+論証に過ぎませんよ?それでもよろしければ以下をご覧くらはい

(※追記:長くて読みにくいのでいちお言外の前提とか本文の主旨とか要約しとくと、「(自己責任論を唱える人は自分の行動の責任を自分がとれるということを前提に他者にもそれを要求しているように思うが)現代の日本の社会システムにおいては知らない間に国家に依存したり市場に依存したりして誰もがもちつもたれつ的になってるので自己責任なんてのはできないんだよ」、って話です)


sivad 資本主義ってのは責任分散のシステムなんだけどね。

sivad つかまあ責任という概念自体がシステム上のモノか。

sivad そもそも株式ってのは起業家から株主への責任分散システム。「自己責任」どころじゃない。

_8 株に関しては責任分散になっているがそれは株の特殊事情であって資本主義一般にまで一般化できるかというと疑問である。

_8 役割分担をした時点で共産主義だろうと責任は生まれる。

sivad @_8 そうですね。というか共同体がなければ責任という概念自体存在しませんし

sivad ただ「資本主義」主義な方々が「自己責任」を強弁するのってすげえ矛盾だよな、と

sivad まあ「責任」を皆にバラまいてるので本人にとっては資本主義的か。

_8 資本主義だと責任という抽象的な物を乗っける具体的媒体として貨幣を使いうるということですか。

sivad とりあえず「自己責任」って言葉はBUZZワードなんで、使わないがチキ。いや吉。


m_um_u いまオフだし調べずにてけとー言うと、資本主義というのは商品交換の特殊形態のはず。ふつーの商品交換が即時的に交換財同士の効用を確かめる必要があるのに対して資本主義の場合「資本」っていうメディアが入る。表象としては貨幣、その実態は信用

m_um_u 信用を担保に即時的な等価交換は行われずタイムラグが生じる。自己責任のギロンは即時性を前提にしてるけど資本主義の大部分にはタイムラグがある。ローンとかもデフォだしね

m_um_u なので結局は目に見えない「信用」が崩れたときどうなるかって話なんだけど、いま市場で語られる信用の中心はいままでに累積した皮算用的な儲け(=マネー)なので一人一人の労働者には目がいかないだろうね




 「資本主義だと責任という抽象的な物を乗っける具体的媒体として貨幣を使いうるということですか」なる質問(?)が残ってたのでいちお

 上記の説明通り、ふつう、責任というのは交換という双務関係において財の交換がなされた時点で全うされているものなんだけどここに貨幣というメディアが入ると具体的効用をもった財との交換までにタイムラグが生じる。んでもフィクションとしては貨幣となんらかの直接的効用をもった財を交換した時点で双務関係は終了したことになる。そのフィクションを成り立たせているのが(それまでにもタイムラグがある取引でも大丈夫だったという)信頼。ってか、その信頼は国家やら市場やらといった貨幣を取り囲むシステムがしっかりしていることによって成り立っているわけだけどちょっと割愛。

 なので貨幣を通じて交換されるのはなんらかの効用をもったもの(X)。その時点では得体が知れないけどなんらかの効用をもったもの(X)が後に価値をもつものと交換できるということを信じるためには信頼がいる。それを保障するのが国家や市場といった外部システム。貨幣を通じた商品交換における責任の回収にはタイムラグが生じるので信頼を担保にした段階でその交換における責任は信頼を担保するもの(国家や市場)に委譲される。市場っていうかこの場合は国家か。国家が「その紙切れは価値があるものですよ」ってしてくれてないと金なんて単なる紙切れとか金属だもんな。


 そんなこんなで資本主義における責任にはタイムラグが生じ「自己責任」的なギロンがよくいう即時決済的なものは当てはまらないことになる。んでこれをこの辺の長期負債、即時決済って概念に絡めると


2007-01-28 消費としての労働 - 【海難記】 Wrecked on the Sea

人が生きるということは、長期負債とともに生きるということで、そのような長期負債を許さず、即時決済でつねに人は借金を完済していなければならない、という理屈が「自己責任論」の本質だと私は思う。1980年代後半以後に失われたのはたぶん、人間には「心(心理)」のほかに「魂」や「精神」というものがある、という考え方で、それは内田樹がいうような「宗教」的感覚とはちがうと私は思う。魂の生き残りの種火を絶やさないことが、たぶん、これからの時代を生きていくうえで、いちばん大事なことなんじゃないか。



 先の論述的には資本主義の貨幣を通じた商品交換において人は長期的な貸し出しを許していることになる。それを通じて架空の財(価値)を保持しているという幻想が共有されているわけだけど、その幻想に基づいて財の価値のみが雪だるま式に大きくなっていくのが証券取引ってやつだろう。そこでは財(価値)がモノやサービスとのバインドを解かれるため急激な速度で膨らんでいく。そうやって膨らんでいった累積的な価値、皮算用的な価値が「マネー」ってやつだけど。ローンとかそういうのがデフォになってるのもこんな感じで皮算用的な価値がデフォになってるから(なのかな?)


 それとは別個の部分で、マネーが価値をもつためには市場の信頼性が必要でそれを保障するのが国家的なバリアってことになるんだけど、国家的なバリアっていうのは具体的には物理的暴力を根拠とした他国との境界、あるいは国内の安定性を保つために必要な暴力(具体的には警察力)ってことになる。

 逆に言うとこの部分を壊してしまえば当国の貨幣への信頼も崩れ、暴力による略取が財を取得するのリソースとなるのだろうけど、まぁふつー無理だわなぁ。
 てか、実体経済としての市場は労働者がなんらかの生産性をあげること(価値を持った財を生み出すこと)によって成り立っているはずなんだけど、あまり労働者をいじめると労働者が仕事から逃げ出すことによって生産性がなくなってしまう、ということは起こらないのだろうか? いちお毎年行なわれる春闘なんかはタテマエとしてはそういうサボタージュを前提としているのだろうけど。


 まぁ、この辺は実体経済だけの問題でもないのだろうしびみょーなのかもしれない



 ただ、仲俣さんも言ってるように、そういう金銭的な交換以前に人が生きるってことは借りの連続なわけで…例えば生んでくれた借りなんてのは金銭では変えようがないものだしな(命の価値ってやつだけど) そういうの考えると自己責任って言葉は安易に使えないと思うんだけど。。成人しだ段階でもなんらかの生産性をあげれる環境にいられるのは国家という前提があるわけだしそれは自分だけの功績ってわけでもないからなぁ


 まぁ、そういうの認識できないマッチョマンは一度国籍捨てて日本離れてみればよいのではないのでしょうか? 東京力(笑)を発揮したらどうとでもなるのかもしれないけど



posted by m_um_u at 22:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 経済このエントリーを含むはてなブックマーク
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