「過剰な善性への警戒」ってのは具体的に言うとこの辺だけど
「正義商品」としての「障害」 - 福耳コラム
「「正義商品」としての「障害」」への反応まとめ - 福耳コラム
一青 窈さんのPVがすごすぎる件について - 深町秋生の新人日記
先日の大反響について - 深町秋生の新人日記
この辺の反応も分からんでもないっつーか、これ系でいうと福耳さんなんかは小沢健二の灰色物語なんか想起されるのだろうけど、さっきもいったようにちょっとびみょーな感じがしてる。理由はさっきもいったように「過剰にドライブかかってんのはびみょーそうだけどそれによって元からある気持ちまで揶揄の対象にされるのはどうなんだろうね?」ってこと。この辺、「スイーツ(笑)」の話とも被る。
(よくわかんないけどてけとーにいうと)もともと甘味好きな人たちが普通にスイーツ(っていってたかどうかしらないけど)を楽しんでいたところにどっかの雑誌が「オシャレ女子はスイーツを食べるものです(スイーツ=オシャレ)」みたいな感じでスイーツをオシャレ目的の「スイーツ」化して、それを端からみた人たちが「スイーツでオサレって(笑)」的な感じでわらうようになったんだろうけど、その流れでもともとふつーに甘味楽しんでた人までバカにされてもなぁ、とか思う。
それ以前の問題として「スイーツ女子」(なるものが実在するのかどうか知らん)が「スイーツでオサレになるんだぁ」って思った心性をバカにするのもどうかってのもあるのだろうけど。ライフハックとかそんなんも似た様なもんじゃんね、と。
この辺は「自分探しが止まらない」にもあったな
自分探しが止まらない (ソフトバンク新書 64)
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速水 健朗
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おすすめ度の平均: 

「自分探し」を否定しきれない人に
タイトルの印象よりはまともな本です。
「自分探しがとまらない」若者達のデータを集めた部分は秀逸福耳さん的な問題意識、「“障害者の作ったものだから善”みたいな物語利用ってどうなの?」ってのもこの辺なのかなぁ、とか(深町さんも似たようなこといってはりましたね)。
「自分探しが止まらない」的には3章の「自分探しホイホイ」の事例がそういうのに当たるように思う。「良きことをして世界とつながりたい」って気持ちを利用したビジネスってやつ。具体例としては、「沖縄の豊かな自然の中でゴミ拾いしながら自分を取り戻す」みたいな環境系とかホワイトバンドとか路上詩人とか。高橋歩の「沖縄のきれいな環境で自分を取り戻すんだー!」的な若者の気持ちを利用して無料働きさせたりとかそういうやつ。無料働きの若者雇って自分探しの若者を客として迎え入れてたからやたら儲かったらしい。
そういう気持ちが沸き起こってくる背景として本書では、「エリートを作るための個性重視教育や個性重視にシフトした就職面接なんかが“やりがい”とか“自分(個性)探し”に過剰にドライブかけて価値観変化させちゃったんだけどその受け皿がなくて、やりがいがあふれちゃったんじゃないか」的なことが書かれてた。昔はまっさらでヤル気だけあるみたいな社員が求められてたんだけどいまは個性重視で面接時に「○○な仕事をしたいです!」みたいな具体的目標言わなきゃいけないんだけどいざ会社に入ってみたら貸家の歯車的ルーティンワークでゲンナリ → やりがいを求めてどっか行ったり自己啓発で自分をだましだましがんばったり、とか。
「良きことをして世界とつながりたい」とかいうのもそういった具体的なやりがい(人と触れ合って直接感謝の気持ちを感じたい。良いことをしたって実感を持ちたい)みたいなものを求める志向性の一部なんだろう。それが過剰になるとびみょーな感じもするけどそういう傾向があるならそれ自体は悪いことではないのだろうし、うまいことバックアックしてホイホイにつかまらないようにできないかなぁ、とか思う。そゆことはみっちゃんも書いてたな
「仕事を通じて、ダイレクトに社会貢献したい」は甘いか? - はてブついでに覚書。
寺子も似たような感じか?「見せ方が下手(過剰)過ぎるだけなんじゃね?そのキモチ自体はわらうことでもないのでは?」、と?
深町氏の言う「絶対善の押しつけ」はそんなに悪いことなのか? - 女教師ブログ
他方で、この辺の問題は思想とか価値観とかいろいろ絡んできてめんどそうなので「もう市場経済的価値判断一本でいいじゃん」って感覚があるのも分かるんだけどその辺もまたびみょーに感じている。
最初に書いたようにそういう気持ち(情緒)にドライブかかって「ワタシは正しいことやってるのに(キー!)」的な情況が生まれるのは好ましくないなぁとは思うんだけど人にはもともと誰かをいたわったり、助け合ったりしたい気持ちがあるはずでそういうのを胡散臭くならないように育てていけないのかなぁ、とか。
こういう気持ちはスピリチュアルとかそういうのじゃないものとしての宗教を求める気持ちと似たところにあったんだろうけど日本ではそういうのも根づいてなかったり分離してたりね。つか、宗教的なものも農業共同体的なものから生まれてたってことで互酬的なものの延長みたいなんだけど(柄谷、2006 → 後述)、そゆのが胡散臭くなんないようにうまいこと拡げていけないものかねぇ
ところでヒトトヨウというと、ヒトトヨウ - コバヤシタケシ - サクライカズトシ - サカモトリューイチ、ってラインが引けていろいろ思うけどびみょーだからやめとこ
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関連:
muse-A-muse 2nd: 自分探し(笑)ってスイーツ(笑)と似てるね
コラム≫IT戦略/ソリューション-【速水健朗氏インタビュー】拡散する自己啓発と自分探しムーブメントを読む:ソフトバンク ビジネス+IT



ごく表面的な把握でパターンとしてひとくくりに言及されても困ります。
福耳さんについては単純に「正義商品として障害を扱おうとしている若者は自分探しホイホイと関連しているのでは?」ということをお伝えしたかったのですが…やはり短めに書くと誤解が生まれますね。(かといって長めに書くとウザがられるしなぁ。。
僕はそもそも「過剰な善性」なんて語義矛盾だと思います。過剰であればそれはやはり善でなく悪なんです。善意は適度でなければ相手をスポイルし、蝕むと思います。
しかも、まして、はなっから偽善は善ではありません。自己満足のために相手に勝手にイメージを押しつけるのは偽善じゃないですか?
ところで「過剰であればそれはやはり善ではなく悪なんです。善意は適度でなければ」と断じておられますが、これは「善意というものは量的に決まる」ということでしょうか?そうだとしたらこの辺の感覚はよく分からないのですが…
たとえばその善意と設定されているものが他者に剥いているものではなく「社会的に善い人におもわれたい」という自分の欲求に基づいているというものである場合まずいとは思うのですが
あと、ギゼンについて
これも言葉足らずでしたね。想定しているのは「しない善よりやる偽善」的なアレだったのですが・・つまり「偽善」ということをあらかじめ明示的にしていることによって自らの中の偽善的な欲求(よいこに見られたい欲求)を対象化し相対化するのと同時にボランタリーな活動に参加するという形式を通じて善性を喚起していく(模倣的に善性を喚起していく)というようなことです。
もちろん「その際に参加する活動が善的なものでなければその行為自体善的なものといえるのか?」という問題はあるのですがそれはここで想定している「ギゼン」的なものの内容とは関係ないのでこの辺にしておきます。
(「なにをもって善的なものとするか」ということについては次のエントリに挙げています。考えるための材料程度ですが)
m_um_uさんは、それと単に歌手のPVがちょっと情緒的であるということへの批判とをひとくくりにされてしまう。でもこのふたつは全然違うものだし、それへの批判だってもちろん違うものじゃないですか。僕は「障害者を障害者だからという理由で聖化する感情」を批判しているつもりですが、歌手のPVはちょっと独りよがりな演出だというだけのことでしょう。所詮架空の怪物をネタにしているフィクションでしょう。障害者をどう社会的に処遇するかという問題とはまるで次元が違うことですよ。
それを一緒にして、「善への意志も否定するものなんじゃないかとちょっと危惧、っつーか嫌な気持ち」って、ちょっと粗雑な「整理」ではないでしょうか。
先日の大反響について - 深町秋生の新人日記
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080227
(中段の、『しかし実際障害者と接してみればわかるが、別に健常者と変わらない』辺りをお読みください)
このエントリの前のエントリやいままでの深町さんのスタイルから「自分の善性に酔って対象を正しく見れていない人ってどうなの?」という主旨が伝わってきていたので福耳さんのエントリと同じ関心をもつものとして扱ったのですが説明不足だったようです。
上記したことと実際に一青窈さんがどういった思いであのPVに関わったかは別だとは思うのですが、「思いが先行して粗雑な仕上げをすれば誤解を生む」ということではぼくがやったことも同じなのでしょうね