2008年01月30日

オタク世代論と文化消費の変容 (「動物化するポストモダン」)

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
東 浩紀
講談社 (2001/11)
売り上げランキング: 18897
おすすめ度の平均: 3.5
5 L'Arc~en~Ciel is the best japanese band in the world.
4 「面白い見方」をしていると思う
3 あまり心を打つものがないというか、、、



 「せっかく読んだしちょこちょこ言及することもあるかもしんないからいい加減これをまとめとかないとなぁ」とか思いつつうにうにしていたところたけくまさんのところに関連エントリが上がってたので端緒にしてしまおう。


たけくまメモ : オタクはいつから差別されていたのか?


 たけくまさんとこの話は「オタクって言葉ができる以前にオタク的な趣味を持つ人々は差別されていたか?(「オタク」って言葉が差別を助長したように思うけど)」みたいな内容。つか引用しとこう

俺がもともと考えていた仮説としては、

「おたく(オタク)という言葉は、1983年に中森明夫によって“差別用語”として作られた経緯があるが、当初それを使っていたのはもっぱらオタクたち自身であり、長らく“自嘲語”として使われていた。これは現在の“腐女子”という語の流通過程に似ている。世間一般は、オタクという言葉を長らく知らず、従って“こいつはオタクだ”という理由で差別されることはなかった。

事情が変わったのは89年に逮捕された宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件からである。事件そのものと数千本のビデオに囲まれた犯人の自室の異様さを、どう形容すべきか困っていたマスコミが“オタク”という言葉を発見し、これを差別用語の意味合いでさかんに使い始めた。ここから、本当のオタク・バッシングが始まった」

というものでした。つまり、「性格が暗い」とか「運動が苦手」といった性格がもとでいじめられることはあったのかもしれないが、少なくとも「オタク」というカテゴリーのもとで差別されることは90年代以降(宮崎事件以降)の現象だろう、と考えていたのです。


 この辺オレも似たような印象だったので納得。そんで結論としては「オタクって言葉以前はそういう趣味持っててもそれほど迫害されてなかったみたいよ」って感じだった


たけくまメモ : オタク第一世代の証言から


 この辺はfinalventさんなんかもびみょーに反応してはったな(同意っぽい(「わたしはオタクではない」ってゆうてはるが)


オタクとか - finalventの日記



 オタク世代論みたいのが出てたので本書で得た知識をまとめとくとオタクには大きく分けて三つの世代があるそうな。すなわち

(1)60年代前後生まれを中心。「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」を10代で見たオタク第一世代

(2)70年代前後生まれ中心。先行世代が作り上げた爛熟し細分化したオタク系文化を10代で享受した第二世代

(3)80年代前後生まれ中心。「エヴァンゲリオン」ブームのときに中高生だった第三世代

 この分類に従うとたけくまさんが想定してるのは「オタク以前」ってことになるのだろうな。つっても「オタクって言葉以前にオタク的趣味をもっていた人に対する差別・蔑視的なものがあったかどうか」ってのが主旨なわけでたけくまさんのエントリに対してはこの辺の分類はあまり意味がないとも言えるけど読書メモってことで。

 関連でちょっと思うのはアメリカのgeekとかnerdとか。オレはよく知らないけどポール・グレアムって人ががちょこちょこなんか書いてはるね。


オタクが人気者になれない理由 by Paul Graham

 あっちは昔からマッチョが好まれるみたいでヒョロっとした青ひょうたんタイプはそれだけで疎まれる、みたいな印象があるけど最近だとそこに日本のオタクカルチャーが融合してなんかなってたりするのかな?「nerd」から「otaku」へと指標が変化してるっていうか・・だからといって視線の内容が変化してなければ意味はないわけだけど。。
 
 この辺は日本とアメリカ、諸外国の違い・・っていうか、「いじめ」や「疎外」「差別」をめぐる違いにも関わってきそうなのでびみょーかな。友人のらくだオランダ人はモロにオタだけどそれ関連でいじめの話って聞いたことない。(つか、いじめ自体がない、みたいな話だったけど)


むーたん:いじめの国際比較的お話 (日本とオランダ)



 たけくまさんのエントリと関連して思うことはだいたいそのぐらい。ほかに「オタクの世代論」関連だとついったーで「オタクというのは新しいもの好きを意味するものになっているのかな」みたいなつぶやきがあったのが気になった。

 オレの認識だとオタクというのはある文化領域に対してムダともいえるぐらい偏執的な理解をもっていることが前提なはずで単なる「新しいもの好き」ということにはならないはずなんだけど。もしこの「新しいもの好き」というのが過去の文脈(それぞれの作品をつなぐ文脈・歴史)を捨象した「新しいもの好き」ということだとそれはオタクなのかなぁ、とか。そういう話は本書の課題でもあったな。(ウロ覚えだが)「第二世代までは第一世代の遺産を引き継いでいたけど第三世代(あるいは第四世代)からは過去の歴史の相続とか無視して自分達の好きなように作品を解釈・消費してる」みたいな話。そんでこの「文脈を無視して好きなように消費」してるって話が本書の中心概念である「データベース消費」って話に繋がってくる。

 簡単に言うと「(製作者の想定した)作品メッセージを無視した自由解釈(消費)」ってことなんだけどその際の消費の基準(指標)となっている部分がパッケージ(物語)ではなくモジュール分化しているって話。

 その前に「大きな物語」的消費の例として本書にも出てきた大塚英志さんの「物語消費」って話から説明する。だいたい以下のようなのが「物語消費」

 コミックにしろ玩具にしろそれ自体が消費されるのではなく、それらの商品をその部分として持つ<大きな物語>あるいは秩序が商品の背後に存在することで、個別の商品は初めて価値を持ち消費される。このような消費行動をくり返すことで初めて自分たちは<大きな物語>の全体像に近づけるのだ、と消費者に信じ込ませること


 んでビックリマンシールのような商品のコンプリートが目指されるらしい。そんでコンプリートして<大きな物語>(プログラム全体)を手に入れちゃうとそれに即して各自が<小さな物語>を作り出せるようになる、と。ビックリマンで言えばコンプリートは772枚だけどその先の773枚目を作ったりドラえもんの最終話を作ったりとかもそんなんか。

 こんな感じで物語の「設定」とか「世界観」を消費する消費形態が「物語消費」って呼ばれているものみたいなんだけどこういった消費形態では説明できないような消費形態が出てきた。「萌え」とかそんなん。この辺が「データベース消費」って話に繋がってくる。

 80年代のオタクが作品の内容やその背景である「大きな物語」を重視したのに対して、90年代のオタクは作品の内容や設定などは重視されない。その代わり「猫耳」とか「尻尾」、「メイド服」「巫女服」などといった「萌え」の対象となるようなパーツが重視する。極論すればそういったパーツの総合としてのキャラクターが提示されていれば作品の内容などどうでもよくて自分達で妄想するので「萌え」パーツをセンスよく組み合わせたキャラを提示してくれ、ってことになるみたい。そんでそういった「萌え」の対象となるパーツがデータベース的に記号化・網羅されそういったデータベースの中から自由に組み合わせてキャラを妄想していくところからこのような消費形態は「データベース消費」といわれる、と。


 ポイントは「文脈・内容(メッセージ)ではなく萌え(自由解釈)」ってとこ。批評理論からすると作品(テクスト)をめぐる審級が製作者側からユーザーに移ったということで真によろしいことではないか、って気もするけど先行エントリの「意味から強度ですか?」って話とも絡めるとびみょーな感じがする。

 作品の内容についてもなんとなくの了解がある上で萌え的解釈をしているんだったら豊かな消費ということで真によろしいですねとか思うんだけど、内容がわかんないからてけとーに萌えてるってだけだともったいないなぁ、というか記号空間(文化)が貧困になるだろうなぁ、とか。自由解釈といいつつそれってhackっていえるのかなぁとかなんとか思ってしまう。(まぁ、どっちにしても消費は消費なわけではあるが)


 本書の結論的なものとしてはコジェーブなんか引きつつ、「所与の環境(自然)を否定・開発できないのは人間ではなくて動物だね」みたいな話になってた。意味よりも欲求を重視しその欲求に留まるというところで動物だね、と。(cf.世界の中心でアイを叫んだケモノ)


 でも、そこまで人間の実存的にヤバイって問題でもなくて単に記号空間、文化が貧困になってくことが不安だったり。あと、反省しないしね。反省せずぼけーっとそれを消費するに留まる。そういうことを危惧するのは東的な視点と同じか。


 あと、この手のキャラ萌え、「物語ではなく配役ほか部分的なところを重視する」みたいなのって人気俳優やアイドルが出るドラマや曲、あるいはアダルトコンテンツへの嗜好なんかでも同じですね。後者は「エロの敵において問題視されてたけど。(「DVD化によってシーンごとの飛ばし視聴ができるようになって作品全体の内容(物語)よりもそれぞれのシーンごとの見せ場が重視されるようになり、それがためにコンテンツの過激化が進んでいる →」 タレントの体が心配)


 関連で、前についったーで「(データベース消費では物語は関係ないっていうけど)初音ミクで暗黙に共有されている物語ってなんなんでしょうね?(どっから来たんでしょうね?)」って話したけど、振り返って考えるに初音ミクはツインテールとかネギとかな萌えパーツ(小さな物語)の組み合わせでできたキャラであり、キャラ(大きな非物語)先行で設定(大きな物語)が駆動して行ってる訳だから典型的なデータベース消費の落とし子だよな。。この辺はまだ本書をきちんと読んでなかったので仕方ないか。
 
 あとは本書後半を読んでいたときのつぶやき(つか愚痴)

 ちょっと荒いのでアレだけど、「データベース消費的な組み合わせ的な独自な物語解釈の仕方はデータベース消費という言葉が現れる以前にほかの場でもあったのでは?(そしてそれはモジュール論と接合できる)」というのはいまでも問題意識としてあるし、本書における「シミュラークル」という用語の曖昧さへの苛立ち、全体をラング / パロールなんかも含めた記号体系とし表したほうが分かりやすかったんじゃ?って意識は変わってない。

 この辺は「文化の発展によって分節化が進んでいくんだよ」ってことであり「システムが飽和することによってサブシステムが生まれていく」ってことだからルーマン辺りと接合できるように思うけどちょっといっぱいいっぱいなので今回はこの辺で。



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追記:
有村さんがついったーのつぶやきからエントリ起こしてたみたいだからTB送っとこう

アップトゥデートなものを追い求めるばかりがオタクではない - HINAGIKU 『らめぇ』

主旨としてはほとんど同感。ただタイトル「アップトゥデートなものを追い求めるばかりがオタクではない」ってところにちょっと違和感。繰り返しになるけどむしろ文脈(や歴史)重視こそオタクというものだと思うので



posted by m_um_u at 23:19 | Comment(0) | TrackBack(1) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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「文化を消費する」という考えそのものが間違いでんがな。
Excerpt: muse-A-muse 2nd: オタク世代論と文化消費の変容 (「動物化するポストモダン」)んでビックリマンシールのような商品のコンプリートが目指されるらしい。そんでコンプリートして<大きな物語>(..
Weblog: ゲームセンターに明日はあるの?
Tracked: 2008-02-02 11:06
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