2008年01月27日

終わる(?)日本の占いズム

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)
北田 暁大
日本放送出版協会 (2005/02)
売り上げランキング: 84502
おすすめ度の平均: 3.5
1 前世紀の遺物
5 時代の主人公
5 思想なきアイロニーの暴走




 この本はけっこう言及することが多くなりそうなので自分なりのまとめエントリ書いとくと後々楽だなぁ、とか思いつつなかなか手がつけられなくて放ったらかしだったところこのエントリを見て当初の目的を思い出したり。


江原さんの落日 - 深町秋生の新人日記


ああ、そういや「なんでいまさら細木とか江原みたいなのが受けてるんだろ?」ってことで興味持ったんだよな。本書の主題は「相対的な判断が発達しているはずの2ちゃんねらーが嫌韓みたいなベタなナショナリズムにとらわれるのはなぜなんだぜ?」ってことだったんだけど、世間一般でもベタに物事が受け取られていてそれに違和感があったり。江原、細木ってのはその最たる例。

んで、この辺については社会学者の辻大介さんなんかもちょっと前(あるいは同時期?)にコメントしてはったように思うんだけど該当エントリが見つからないな。。似たようなのはあったけど


「過激」さ ウケる社会(@辻大介研究室)


『過激な物言いがウケる背後には、このようなゲーム的・ドラマ的な感覚があるのではないか』、『私たちの社会には、政治問題をもゲームやドラマのように処理する感覚が浸透しつつあることになる』ってことであらゆる物事が劇場的コンテンツ(ドラマツルギー)として消費される対象になってるのではないか、と。つまり、全てがネタとしてみられてるってことなんだろう。ネタとは作り事であり消費の対象ってこと。

 私見としては、であるがゆえに対象に対する際の上限が設定されてないというか、その場限りの「おもしろさ」を求める消費対象として「刺激」が価値判断における大きな指標になるのかなぁ、とか思う。簡単に言えばジャンクな舌しかもってないたちが味わかんないので(唯一分かる「味」としての)香辛料をやたらふりかけさらに舌をバカにしていく、って感じ。「意味から強度へ」みたいな文脈にも似たようなものを感じる。

 それとは別に辻さんが「大部分の人たちは細木のアレがネタだと分かりつつ消費してるんじゃないの?プロレスみたいに」って書いてはったような気がしたんだけどどっかいったな。。まぁ、ぢょうど似たようなエントリ見かけたので貼っとくけど


『オーラの泉』はコント番組と同じ様式だった - 麻生千晶ブログ


 たしかにアレは最初からネタとして構成されてる面もありそういう風に受け取って一つのショーとしてみている層もいたんだけどそれとは別にベタに受け取って感動してる層もいたように思う。「Always」をベタに受け取って感動してる層と「あんなの作り事だよ」っていいつつも楽しんでた層がいたように。

 細木や江原をベタに受け取っていた層ってのは具体的に言うとウチの親の世代。特にリテラシーや教養、世間知がなくてそれでも「正しいもの」みたいなのを簡単に吸収したい人たち。こういう人たちは「作り事」って認識はありつつも「細木さんがああいってたから」とか半ば本気で言ったりする。そんで細木本買ったりするのね。(実際、細木本の売り上げ伸びたらしいね)

 つか、江原とか細木のアレがテレビショーってのは分かりつつも関連だと津田さんのこのポストのほうが含蓄あったなぁ(以下そのまま引用)
http://twitter.com/tsuda/statuses/642789422
http://twitter.com/tsuda/statuses/642798022


いわゆる「オーラが見える」系の占い師の何人かに話を聞いたことがあるんだけど、彼らの江原啓之への評価というのは結構微妙だった。微妙というのは「あーあの人インチキよね」的な完全否定ではなく「間違いなくオーラ見る能力あるけど、テレビ向けにうまくカスタマイズしてるよね」という感じ。

完全否定したら自分たちの立ち位置も揺らぐからとかそういう理由でもなさそうだったんだよな。ただ、そっち系の業界では占い師としての能力以外の「ビジネス」の部分であんま良くない噂が聞こえてくる的な話も聞いた。オカルト的なものへの態度を決めかねている俺はこの話自体を評価しづらいのだけど。



 そんな感じなんだろう。昨今の江原落とし的な一連のスキャンダル(?)もビジネス的に見たほうがいいのかも。「細木もやめるって言ってるしそろそろ江原もキツクね?」って算段になったのかもしれないね。



 んで、今回のエントリの主題に戻るけどやっぱ深町さんのをきっかけにさせてもらうか


日本の巨大放送局が、27時間テレビという大プロジェクトにおいて、香取慎吾や江原さんといったスターを起用して、それで「ボランティアより自分の店が大事でしょ」というストーリーを構築するというのはなんなのだろう。日テレ24時間テレビへの返答だろうか。



 深町さんにしては意外な感じがしたけど27時間テレビというのはもともと24時間テレビみたいな「真面目テレビ」(感動テレビ)に対するアンチテーゼとしての「おもしろくなければテレビじゃない!」の実践なわけだから当然といえば当然だと思うのだけど。。なので江原を擁護するつもりはないけどこの辺の事情もなんとなくわかる。


江原啓之がフジを痛烈批判 「虚偽の提案でだまされた」(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース


  「テレビ局から虚偽の提案を受けた」「私自身が不覚また迂闊に騙された」



J-CASTは(無駄に)批判的に書いてるけどこの辺はほんとだろう。だって27時間テレビってネタ番組だし、そういうネタの一環としておもしろおかしく脅したんでしょ?(オレはそれを面白いとは思わないけど)

 てか、今回の問題での誤算があるとすれば「ネタがネタとして通用しなかった」ってとこにあるように思う。でも、上記してきたように江原/細木ファンにはネタ層とベタ層がいるのだろうから仕方ないかなぁとか。まぁフジが読みきれてなかったんだろう。


 「ネタがベタになってしまう」関連で本書では2ちゃんねらーが「電車男」に感動したり、クボヅカヨースケが超極右翼的ナショナリズムにはまっていったりするのを具体例としてだしているわけだけどそういったベタを求める理由として「シニシズムの空白に耐え切れなくなってしまったんじゃないか?」って言われてた。

 全てをフィクションとして相対的な視点から眺めるネタ的な楽しみ方というのは60s全共闘(具体的には赤軍)における異常な形式主義に対する反省としてとられてきた「反省としての無反省」という姿勢だったわけだけどいつしか「反省としての」という前提が失われ単なる「無反省」のみが残ってしまった。70sから80sにかけて広告とテレビ業界において作られていった「反省としての無反省」という情報消費の様式においては事象をネタ的に楽しむことで対象との距離を保つ形式主義が実践されていたわけだけど、前提(内容)を失った形式主義の繰り返しはいつしかシニシズムの真空を生みそれに耐え切れなくなった人々が内容(物語=ベタなロマン主義)を求めようになった、と。

 嫌韓厨のようなベタなナショナリズムへのジャンプもそれに当たるのだろう。てか、嫌韓厨にも二種類いて「本気で嫌韓しつつ右翼的ナショナリズムを信奉してるベタ層(ロマン主義的受容層)」と「嫌韓という様式美をおもしろがって踏襲してるだけのネタ層(形式主義的受容層)」に分かれるのかもしれないけど。この辺は細木や江原の受容層が二種類に分かれるのと似ている。どっちにしても少なからず対象(あるいは様式)から影響受けてるってことになるのだろうけど。



 こういった事態に対する解決策というか対処の姿勢のようなものは本書では特に記述されてなくて、巻末でコジェーブなどを引き合いに出した簡単なメモ書きをしていたに留まってるだけだったけど、コジェーブうんぬんよりもナンシー関について語ってるあたりが印象的だった。ナンシー関の位置づけというのは個人的によくわからなかったのだけど彼女がしていたのは形式主義的没入(あるいはそれを当然とさせるもの)に対するアンチテーゼの提示、ということだったらしい。

 テレビがテレビ的なお約束を所与の前提条件としてお約束を展開したり様式美(形式美)を当然のものとして振りまいたりしているところに対するアンチテーゼ。具体的に言えば、「中山秀征のようなバラエティ(?)タレントのなにが『芸』なのかわからない」と言ったりすることや「小倉智昭はどうしていろんなことに詳しいのだろう?特にオーディオに関しては秋葉原の顔らしいが、何故?」と問いつつも小倉による返答を期待しないということ。両者とも本来はフィクションであるはずのものがネタとして当然(所与)化されてしまっているところに亀裂を入れる。ベタになったネタ(スターさん)を再びネタにするために消しゴム版画って手法がちょうど良かったのかもしれない。(ベタっと押せるし)


 あと「純粋テレビ」って概念がおもしろかったな。形式主義的な没入を成り立たせる前提としてテレビの内部でテレビを楽しむってスタイル。ふつーならテレビはメディアとして事物(シニフィアン)を映し出すもの(シニフィエ)であるはずなのにいつの間にか映し出されるべき対象はなくなってテレビがテレビ事態をネタにしてしまっているっていう。たとえばスタジオ観覧型番組でタレントたちが視聴者と一緒にVTRを見るところをコンテンツとして放送するものなんかがそれに当たる。本来ならなんらかの「芸」を映すものがテレビであるはずなのに「芸」は存在せずテレビによる構築物であるタレントのみが残るっていう。なんだか記号の無限連鎖的なシミュラークル(あるいは差延)みたいだけど、これが「当然」とされることによってテレビの力(あるいは存在感)が無前提に許容されていく枠組みができる。そういった力をもっとも体現したものとして「天才テレビの元気が出るテレビ」なんかがあったのだろう。(突然街頭に現れて見ず知らずの人をカメラで追い回すことそのものをネタにする → 内容はなく「テレビの力」的なものを前提としそれに対する反応を笑う → 誰もテレビ的な力から逃げられない)

 ルーマンのメディア論的にいえば「メディア(シニフィエ)<実態(シニフィアン) ではなく メディアと実態は入れ替わるだけ(両者に優劣はない)」ってことなのだろうけど。


 「記号の差延による形式主義の完成 → メディアの完成」って流れ。この辺は東さんの「データベース的消費」ってのにも繋がるのだろう。あるいはニコニコ動画的なそれにも関わるのかも。





 そんなとこかな。細木・江原関連で最後にちょこっと言っとくと、今回のような形での江原への批判はさらにベタなものが求められることになるってことを意味しているのかもしれない。一度は芋っぽいということで否定されたような70s、80s以前のようなベタさ。そっからもう一回繰り返す、ってことになるのかもね。(一部の人は)




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関連:
「ウェブ炎上」と「嗤う日本の『ナショナリズム』」 - No Hedge!

荻上も北田も、2ちゃんねる的コミュニケーションがもはやネタ/ベタの区別の付かない次元にあるという点では一致している。しかし北田は、その困難な状況の中でもそれはアイロニーという「作法」に拠るコミュニケーションであると述べるのに対し、荻上はあくまで行為の連鎖による「力学」に基づいた分析をする。

 
※このエントリにあるように北田さんは2ちゃん的な態度(相対化な姿勢をとりつつもベタに「感動」を欲する)のをアイロニー(≠相対化)という作法の発展の帰結としていたみたいなんだけどその辺はちょっと違和感。オレ的感覚としては情報量多くなりすぎるのに対応できずにあきらめてしまった人々って感じがする。あとチキさんの力学うんぬんは行為者が意図的に形式を実践しつつもその影響を受けてしまう、とか言うことなのかなぁとか思った(該当本読んでないけど


細木数子テレビ番組降板 「真相」は「充電」?(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

※個人的には吉報です



posted by m_um_u at 00:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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