2008年01月02日

承認や理解を志向しないゆるいコミュニケーション


 ついったーで「承認や理解を志向しないゆるいコミュニケーション」についてつぶやいたらレスがあって意外だったのでもうちょっときちんとまとめておくことにする。


「相互承認」とか「相互理解」を特に志向しないゆるいコミュニケーションをどう名付けようかというのがちと課題。ゆるいネットワークってことだけどゆるすぎると「なんの意味があるんですか?」ってことになりげ

http://favotter.matope.com/status.php?id=542661102


 @marytan × @TERRAZIがコミュニケーションにおける理解可能性について話してるの見つつなんとなく思い出されたわけだけど、この話の元は先日の忘年会での社会学っことの話。

 「最近なにしてんの?」ってことで最近の関心なんかを話しつつ流れで研究話。「機能集団的なグループからは離れたコミュニティにおける承認を中心としたゆるいコミュニケーションについて関心があるんです」、と。機能集団ってのは学校とか会社とかある目的のために集められ統制された集団のこと。そういう集団は合目的的(合理的)な機能をもってるけど個人の実存は疎外されていく問題がある。そんでそういった集団の間に中間共同体的な逃げ場(アジール)が必要になる、と。

 「承認」っていうとはてなやらなんやら的には「承認欲求?」って感じで身構えちゃうな。承認欲求関連だとシロクマさんら辺で盛んだけど


承認欲求って、そんなに悪者なのかなぁ?? - シロクマの屑籠(汎適所属)


 ここでの話は、「過剰に他者承認求めるのはどうかと思うけど軽い承認ってのは誰でも少なからず必要としてるものですよ」って感じなんだろう。

 でも、ここでイメージされていたのはそんなに濃い「承認」ってわけでもなくもっとゆるいコミュニケーションだった印象。なんとなくのイメージとしては「人には自分の居場所的なものを求める志向があって、そのための場所が必要なんだ」って話っぽかった。「場所」っていうとちょっと固いか。暫定的なコミュニケーションっていったほうがいいかも。「理解」も「アイデンティファイ」も、場所としてのルールも特にないゆるくて暫定的なコミュニケーション。




・「コミュニケーションは相互理解を前提とする?」(「〜しなければいけない」コミュニケーション) 

 「コミュニケーションというのは相互理解を前提とする」というのはハーバーマス的な定式だけどそれ自体がコミュニケーションを固くしてる可能性があったり。てか、相互理解的なことを前提としなくても意味があるというか、パッと見意味のないやりとりでも当事者間にとっては意味のあるコミュニケーションってのがある。

 ルーマン的にいえば、「コミュニケーションというのは不合意(理解)や誤解を含むものだし、そういう結果に終わったコミュニケーションもコミュニケーションとしての意味がある」、って感じだろうか。「情報」「伝達」「理解」ってやつ。

 「情報」というのは記号の差異の中でモノを同定する過程っぽい(ex.「コップ」を「円筒形のガラスでできた物体」として認知)。「伝達」ってのはメッセージの裏に隠された他者の意図を読み取ること(ex.「雨だ」というのはただ「雨だ」といってるだけではなく「傘を持っていったほうがいいよ」という含意がある)。記号的差異の文脈と他者の意図という文脈、これら2つの文脈の統合されたものとして「理解」(コミュニケーション)がある。

 でも、この「理解」自体は従来の意味での意図の正確な把握とかそういうことではなく誤解や不合意を含むものとされてる。ぼくの個人的イメージとしてはコミュニケーションの過程というのは情報の交流であり認知の拡張っぽいので。その内容というかベクトル自体には価値はなく、それによって拡がった幅の広さによって価値判断されるべき、ってことなんだと思う。(ベクトルではなく情報量が重要)

 そんな感じでコミュニケーションは相互理解を志向しているわけではないので「相互理解すべき」ってのは価値判断であり恣意性が働く可能性があるのだろう。簡単に言えば「きちんと理解しろ」っていってる人が怒りっぽくなるというか、まぁそんな感じ。(つってもなにしてもいいわけでもないと思うけど、その辺はまた話がめんどくさそうなので置く)




・誤配としてのコミュニケーションの可能性

 そんなこんなでコミュニケーションにおいて「〜〜しなくちゃいけない」的なものはなくてどんどん情報交換というか記号と他者の文脈を読みとりつつ情報量を増やしていけばいいように思うわけだけど、「誤解も意味がある」ってアレだな。「郵便的誤配」とか「話言葉的遊覧」とかそんなのにも繋がるな。そんな感じで「正確な理解」がされてなくても話は進むし、むしろおもしろいものになっていく可能性もあったり。それは近代的な文語(論理)的コミュニケーションからみると甚だ不可解で非理性的なものかもしれないけどもともとのコミュニケーションっていうか、口語的なコミュニケーションってのはそういうものだったわけだし、そんな誤配の中からなんらかの価値が生まれることもあったり。

 twitterなんかも居酒屋談義っぽくいろんな文脈が絡まったり見えなかったりで誤解が生じたりして訳わかんないことになりがちだけど却ってそこに魅力があったりする。つっても完全な誤解や文脈が見えない状況だったらつまんないだろうけど。その部分で妙なバランスがあるんだろうな。


muse-A-muse 2nd: 居酒屋としてのついったー (文芸的公共圏から生活的公共圏へ)


 理解やメッセージ(意図)の真正面からのやりとりってのは漫才でいえば「芯」であり、文脈から逸れること(誤解し拡張させること)は「ボケ」といえるのかもしれない。アポロンとディオニュソスというか・・。’そういや@reponとこでそんな話したばっかだな)


「理系な人」と「文系な人」- reponの日記


 あと、「データベース消費における文脈切除」 → 自由解釈(キャラ依存解釈)としての「萌え」、ってのも絡みそうだけど獺祭すぎるのでメモ程度に。




・「〜しなくてもいい」コミュニケーション

 あと、「〜しなくてもいい」コミュニケーション(コミュニティ)関連だと前に@TsumuRiが言ってた精神系コミュのゆるいコミュニケーションが思い出される・・・けど、当該言及どっかいったな。。ウロ覚え的には「特にルールもなく言いたいこといってたし、去っていく人は去っていく人で勝手って感じだった」って主旨だったと思うのだが・・。まぁ、あとで見っけたらリンクしとこう。

 関連でいうとtwitterのゆるさってのもそんな感じだし、その辺の感じ(ふだんは好き勝手なこと話してるくせになにかの拍子にいっせいに同じこと話出したりする)ってのは精神病棟に似てるね、とかえいごくんがゆっとったね。




・機能集団と中間共同体

 ゆるいコミュニケーションの可能性は大体そんな感じ。いちおもっかい振り返ると、<コミュニケーションにおいては「〜〜しなくてはならない」ってのはないし、むしろ脱線したものからのほうがコミュニケーション的可能性(より多くの情報量)が得られる可能性がある>、って話だったわけだけど、エントリ上段でも出てきたようにそうはいってはなにやってもいいってわけでもないだろうし、「ボケってどのぐらい有効性あんのよ?」って話にもなる。

 たとえば、このエントリの最初のほうで出てきた「機能集団的なグループから離れたコミュニティ」。これはそういった個人の実存というかアイデンティティ回復にとってはある程度有効かもしれないけど社会政策的な視点から見るとどの程度の有効性があるかわかんない、とか。

(※この文脈での中間共同体のイメージは本サイト的にはこんな感じ↓ 「社会的関係資本」ってやつだな)


muse-A-muse 2nd: 関係性と経済合理性の協調可能性について (あるいは中間共同体の可能性)

muse-A-muse 2nd: 「<場>の歴史性」と関係性の代替可能性について


 社会学っこ的には「個人の満足(幸福)」と応えざるを得なかったわけだけど、まぁ、びみょーっていやびみょーだわなぁ。。この辺はムズげだけど本人の課題ということで知らんふりしとこうw




・課題(のようなもの?)

 だいたい以上がついったーでいったことの詳細みたいなもの。んで、これについては反応期待しない独り言のつもりだったんだけど意外と反応あったり・・。たとえば@yzhどんから


時間ないのでキーワード羅列。ゆるいコミュニケーション: 交話的機能(ヤコブソン)、モジュラー性、カーニヴァル的共同体(バウマン)、会話と言説(ハイデガー)。このへんがヒントになるかもしれません



 ヤコブソン、バウマンは見たことないので分かんないけどルーマン絡みでコミュニケーション論として考えてよさそうに思う。ハイデガーのはまったく検討ついてない。いづれにしても課題ということであとでぐぐろう。



 いつもどおりだわーっと拡げただけのメモっぽくなっちゃったけど、とりあえずそんなこんなでした。




posted by m_um_u at 23:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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