2007年12月13日

愛はさだめ、さだめは…

昨日の夜ぐらいについったーで「自分らしさをもちながら人との関係性を保つこと」うんぬんな話をしていて今朝方なんとなく気になったのでメモ的に。

 「社会という場ではほかの人のことも気にしないといけないよ」ってのは分かるけどほかの人のことを気にしすぎてアイデンティティが承認欲求を元にするようになるとしんどいだろうなぁ、とか。「人が迷惑するから」とか「あの人はぼくのことを気遣ってくれて」とかいうのも大切だし、それをどのくらい気にするかというのもその人の歩んできた人生とか現在いる環境によって違うものだと思うけどやっぱそればっか気にしすぎていると気疲れしてしまうんじゃないかと思う。

 というより、(いぢわるな言い方をすれば)「ほかの人のことを気にしてこういう行動をしたんだ」的な言い訳になるというか.......



 で、傷ついたり傷つけたりな泥は避けるのね。



 それは優しさともいえるのかもしれないけど少し逃げ過ぎではないかなぁ、とも思う。


 どんなことやってても嫌って来る人はいるし、その理由はこちら側にあるのではなくあちら側にある場合もあるのでその辺気にして固まって動けなくなるのもどうなのかなぁ、と。(田中芳樹の小説で「敵よりも臆病な味方のほうがやっかいだ」とかいう話があったな)

 どっちにしても敵ができたり疎まれたりするんだったらやりたいことやったほうがいいように思うんだけどな。まぁ、できるだけ嫌われないようにしたほうがいいだろうけど「嫌われる」のを言い訳にしてなにもしないというのもどうかと思う。あるいはなにもしない免罪符としてそれを用いるのか



 「なにもしない」「なにもない」というのはほとんどの人にデフォルトなことで、きちんとした人生の目標というか「死ぬまでに最低でもこれがしたい」とかいったようなことは大部分の人はもっていないように思う。「お金」とか「ステータス」というのもけっきょくは手段であり通過点に過ぎない。なので「死」を思い、それを実感して目標を立てることが必要なように思うけど、そういうのは重いしほとんどの人は身につけていないもののように思う。(たとえば「死を実感する」ということ一つをとってもほとんどの人はほんとの意味でそれを実感したことはないだろう。知識として理解していても)


 だからといってほとんどの人の人生が満ちたりないものかといえばそういうことでもない。むしろ上記のようなことを考えないで済む人のほうが満ち足りた人生を送れているのかもしれない。

 その人たちを包んでいるのは家族のぬくもりや抱擁、無前提の許容。ありていに言えば「愛」ということなのだろう。


Twitter / Say0: なんかほわわんとしたふんいきのひといいなうらやましいなぼくもそうなりたい



 (ややこっぱずかしいが)「愛」は言葉や論理ではなく身体的なぬくもりというか実感のようなものだと思うので。そういう意味では挨拶の無意味さ(内容としては無意味でありながらも形式としては意味がある)感じにも似てるかもしれない


Twitter / 雨野迷狗屋(絶望機会): 前にも言ったかもしれないけど、言葉として「お帰り」の言葉はなんか、何かの温かみを感じる。 @m_um_u さんの書き込みを見て、再び想う。

Twitter / 雨野迷狗屋(絶望機会): @m_um_u なにか、自分の存在しても良い場所の捕獲というか、間接的に”生きててもいいよ”と言って貰ってるみたいで、私は好きな言葉です


 他人を愛するとか恋愛とかいう領域もけっきょくは個人間の対幻想的な領域なので一般化しにくいだろう。(cf.セックスは人それぞれ違う)

 なのでこの部分について頭でっかちに考えていても仕方なくて、とりあえず目前のものにぶち当たっていけば良いように思うわけだけど。相手に対する誠実さというのはその関係を通じて発揮されるものであって関係以前にいろいろ悩んでいても仕方ないのではないだろうか。(相手が自分の「誠実さ」にたいして不真面目すぎる場合もあるし・・それでも相手と一緒にいるということが愛なのかもしれないけど)


 それ以前に出会いの問題があるか。これもよくわからない。始めから「理想のタイプ」とか「理想の恋愛」みたいなの決めててもそういうのとはぜんぜん違う相手を好きになったり付き合ったりね。まぁ、事故みたいなものなんじゃないかと思う。そんでその中でどのように相手と向き合うかってことではないだろうか。




 ほとんどのひとはそういう「愛」のあたたかみで満足するしぼくもそれで充分だと思うけど、中にはそれだけでは満足できない人もいてそういう人が自分なりの生き方のようなものを模索するのだろう。そして「自分なりの」ということは少なからず他人と異なっているわけで、その部分で他人と衝突したり、譲らなかったりで孤独が生じていく。たぶん家族や恋人であっても理解されない領域があって、そういうことに対して寂しさのようなものを感じるけど仕方ないかなと思ったり。

 それは「理解されない」という諦めとは少し違って、理解されないということ(人はそれぞれ「他者」なのだということ)を前提にしているからこそ誠意をもってコミュニケートしようとするのだろうし、通じたときには喜びが生まれるのではないだろうか。


 そして、他者からの承認を待たない「自信」というものもそういう風にして形成されるものだと思うけど、この部分はまた少し違うのかもしれない。(自分を見つめる以前に「お金」や「ステータス」などによって足りる人もいるのだろうし)



 個人的には愛っていうか他者からの承認だけに頼ったり、反対に愛がないので「金」や「ステータス」(あるいは「知識」)などに逃げるってのもどっちともいびつなように思うけど。この辺はバランスだろうなぁ





 とりあえず、もうちょっとゆるく自分を信じて生きてみるのもいいのではないだろうか?(もういい歳なんだからちょっとのことじゃ折れやしねぇよ)


id:hebomegane彼女募集の件について - ヘボメガネ一進一退



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関連:
アドバイスをするときに多分大切なこと - finalventの日記

人の心のテンプレというか - finalventの日記




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追記:
余談ですがhebomeganeのひとはほとんどのエントリをケータイから仕上げているようです。げに恐ろしきはへぼめがね....



posted by m_um_u at 10:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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