2007年12月09日

見えるもの / 見えないもの (内容ではなく人物をインストールすること)

 さっきのエントリの「中の人」繋がりで思ったんだけど「中の人のことを慮る」っていうのはいろんなことに通じるのかなぁ、って。

 たとえばバイトや仕事なんかを通じてその業界の苦労を学んで「悪意でやってるんじゃないんだ」とか反対に「あの部分が手抜きだな」とか思ったりできるようになるとか。そういうのを通じて機構(システム)の中にも人がいることを実感していくのが大人になることの過程の一つのように思うわけだけどネット上での振舞いでも同様のことがいえるかな、と。

 この辺の「モニターの向こうに人がいることを実感する」関連は以前にべにぢょさんもなんか書いてはったな。


あなたは私の妄想じゃない - べにぢょのらぶこーる


 現在のネットでは誤解が生じて過剰なつぶしあいが生じることがしばしばあるように思うのだけれど、こういう事態もモニターの向こうに人がいること、もうちょっと言えば、ネットでの言表がその人の全てではなく氷山の一角に過ぎないことを察することによって対応が変わってくるのではないかと思う。

 これ関連のことはlife外伝(@「暴走するインターネット2.0」)で鈴木謙介さんも言ってはった。ネットではエントリの内容が部分的に解釈されて自分の意図しない文脈に繋げられることがあって、そういうことを気にしてたら気疲れが生じた。それがblogをやめた理由のひとつ、と。

 注目が多い人はそういうのが多いだろうな、と思う。なんかよくわかんないけどダラダラと絡まれたりな。

 で、そういった揉め事に対して、「ネットではケンカしてるけど一回一緒に酒飲めば分かりあえると思うのよ」、っていってはった。まぁ、そんな感じだろうなぁ。ネットっつーか、文章ではどうしても出せない部分(そぎ落とされてる部分)が分かるだろうしなぁ・・。暗黙知っていうか。

 んで、「いまはネットで祭りやってる連中もいずれ卒業するのかもしれない(暴走族が「卒業」していくように)。10年後、20年後・・自分の子供がネットをやるようになったら諭す立場になってたりするのかも(そうなったときこそネットが生活に溶け込んだといえるのかもね)」、と。

 この辺、分かるのだけどちょっとびみょーかなぁ。自分的には現段階でも可能なように思う。つまり時間の問題っていうかリテラシーの問題なのかなぁ、と(まぁ、「リテラシーが育つためには時間が必要」ってのもあるけど続けると)

 冒頭にちょこっと言ったように、「モニターに表示されている内容だけで判断するのではなくモニターの向こうの人物を想像する」ということは可能なのではないかと思う。たとえばある人物のblogを継続的にみることを通じてその人物の関心の幅、思考の深度(あるいはパターン)を理解、それを通じて文章ではなくその人物そのものをインストールするということ。そういうことが可能ではないか、と。

 もちろんネットにあげられているデータなんかごく一部(形式知的なもの)なのだろうからそれをもって「その人物の全てを理解した」とするのは傲慢ではないかと思うけど、でも「個別エントリだけからではなく全体から判断すること」ってのは可能なのではないかと思う。あるいは、いまだったらついったーなんかはblogの舞台裏って感じでいままでだったら暗黙知的だった部分が見て取れるようになってると思うし・・。(ライフログ的なものって暗黙知的 ex.「あの人は最近忙しそうだったのであんなエントリしちゃったんだろうなぁ」)

 
 つか、この辺はネットリテラシーとかではなく洞察力の問題なのかなぁ・・。オレはそういうのわりと得意なほうに思うけど不得手は人もいるだろうしね。(そういや以前にお師匠のとこに入門するときに「吸収させてもらいます」っていったらビビってはったなw)


 まぁとりあえず、「エントリ個別ではなくもうちょっと全体(書いてる人)を意識してはどうか?」、って話でした。




posted by m_um_u at 12:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク
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