なんか、ついったーでartな話が出てしまって、柄にもないというかちょっとこっぱずかしいなと思いつつも習字というか修辞というか「思ってること吐き出し練習」ってつもりでのっかっていったわけですがちょっと気になるところがあったのでそれなりにまとめとこうかなぁ、と。とりあえずこの前の「ゲージツ」関連談義のログはこちら
むーたん:おゲージツの話
ヒトサマの発言も混ざるのでなんなんだけど「デジタル化された絵は現実世界の絵とどう違うのか?」という話に始まり「やっぱ2次元じゃ質感は表せないでしょ」的なところに落ち着きそうだったんだけど自分的にそれだと「アウラの優位ですか?」って感じでおもしろくなかったので「デジタルアートのほうが絵のイデアに近づけるかも」的な話に接続した。
ここで意図していたのは「絵画表現における理想(イデア)ってなんなんでしょうね?」ってこと。絵画表現のみならず創作においては先行事例におけるマンネリを超えること(新規性の発見)が必要なわけだけど、そのときに邪魔になってくるのが当該分野で使い古された表現(技法)やテーマ、あるいは思考の形式だったりする。マチエール(質感)というのは描きたいテーマに対して偶発的に表れてくるもの(偶有性)ともいえるわけでその意味では純粋な意味で「自分が描きたい」とイメージしたものとは離れてしまうこともあったり・・。もちろん創作においてはそういった偶発性を統制し奇跡とも言える結果を出すのも創作者の能力であるといえるのだけれど、やはりそれは始めに頭の中で思い描いていた完全とは違うだろう。
そういった「頭の中で思い描いていた描きたいものの理想像(イデア)」とは別に創作物に付されてくるものを「与件」としたとき、デジタル技術を活用することで与件を廃していくことが可能なのではないか、と思ったわけ。ここでの与件は例えば道具の不完全性による思考速度への影響や画材に直接触れることによる思考のブレなど。そういった与件を廃しできるだけ高速にアウトプットをしていけばイデアにたどり着けるのではないか、と。
もちろん創作物の面白みは偶有性を内在させているところにもあるわけでそういった絵が面白みをもっているとは限らない。むしろ面白くない可能性が高いかも。でも、高速の思考がアイデアの連結を生みさらなる創発を引き起こす可能性もある。(つか、それはそれで「最初のイデア」とは違ってくるわけだが)
つか、バイオリズムなんかも与件として関わってくるわけで、そういう意味では身体の機械化なんてのもこの文脈に入ってくる。そうなると、「電極つなげてイメージを直接投影」、とか。・・なんか、そうすると却って面白くなさそうだな。。
で、
その後「なんか難しげなこと考えて固まる人よりも目の前のものをコツコツ地味に作っていってる人のが強いよね(職人サイキョー)」的な話に繋がっていったわけだけどこの辺の流れは民芸運動(柳宗悦)でありArt & Craft (W.モリス)であり、限界芸術論(鶴見俊輔)に繋がってくる。
muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2):批評としてのジャーナリズム
あとは「テーマや技法的な文脈からの開放」とか
2005-04-12 - 赤の女王とお茶を:アートと認知/遺伝子について
んで、そういった「絵画するということ」(行為としての絵画あるいは芸術表現)の文明史的あるいは生物的な意味はどこにあるのかということについてもそもそと考えたり。
システム的に考えれば硬直化しがちなシステムに対して多様性を導入するためなんだろうけどゲージツ家個々人がそういうの意識してそこに寄与してるわけでもないしなぁ。。
というか、自然を理解し解体(→操作)するために道具であり文明というものがあるのであって、昔の絵画なんかは文字が発達していなかった段階で自然をhackするための数少ないモードってことだったのかもしれない。つまり目的合理性のようなものをもっていた、と。でも、文字進化あるいはメディア技術の進歩に伴うモード分岐にしたがって絵画の機能的側面が薄れていったのではないか。
それに伴いゲージツもどんどん記号的に洗練され、反面呪術的(シャーマニックな)側面を失っていった。結果としてゲージツ的なものが接続できていた神聖性のようなもの(アウラのようなもの?)へのチャネルが薄れていったのではないか。
あるいはゲージツ的表現や記号のアウトプットに関する技法や媒体がコモデティ化するにつれてありがたみがなくなり、神聖性が薄まっていった(つか、複製技術の発達によって「一回で記憶しないといけない」って緊張感がなくなっていった)
そんなことをぼへーっと思ったわけです。
反面、モードの進化にしたがってより細かい対象や心情を表現できるようになっていったわけだけど・・この辺の深度はサブディレクトリが入れ子式に拡がっていったのかな、と理解しています。
「職人とゲージツ家の違い」については、後者がパトロンの子飼い→独立という経緯を辿ってテーマの自由性を獲得したにもかかわらず記号や文脈に囚われていった、ということでしょうね。
そんで、ジャコメッティなんか見るとそういう文脈から逃れて自分の見たまま(現象学的な)を表現しようとしたんだろうって思うんだけど、個人的にはあの人の作品はそういう背景しってないと訳わかんないのでやっぱ「文脈の中の逸脱」って感じでギリギリのところを狙ったのかなぁとか思うんだけど・・まぁ、よく分かりません。
あと、「ゲージツとはなにか?」って感じで全体をみた場合、ゲージツ家個々人の意識とは離れたところ
にきてしまった感があってその辺ちょっと違和感ですね。つまり、<システムや技術によって主体のふり幅が決定されているのか>、と。そんなことを思うわけだけど、やはり「決定」ってよりも「規定」程度なんでしょうね。そんで、大部分のゲージツ家はその規定を脱することはできないけどたまに突然変異の撹乱因子のようなものが出てきてそれに引きずられるようにパラダイムシフトが起きていく。
突然変異が発生する過程についてはよくわかんないですが周りの環境(時代精神)と無関係なものではないように思います。複雑系的な感じで情報が集積していってある臨界を越えたときに創発がおきるのではないか、と。(この辺単なる空想だからよくわかんないけど)
個々人の創発発動過程については前に考察した感じではないかと思います
muse-A-muse 2nd: 「クリエイティブ」とはなにか?(「センス」、「想像力」、「創造力」について)
あと、関連で「商業的なものとゲージツ家個人の責任(プロフェッショナリティ)」「ルールと美」みたいな話も前に書きましたね
muse-A-muse 2nd: 芸術的なものへの参加資格について (関係性の再構築 承前)
・・だいたいそんな感じかなぁ。。
なんか冗長になったので見返してみると本エントリの主旨は「アートの方向性として現実の与件を超えるものを表現することは可能なのか?」というところに集約されそうですね。おそらくそれこそがハイパーリアルってことなんだろうけど......まぁ、よくわかんないや(再検討(予定
2007年11月29日
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