2007年11月17日

空気を読むこと / 読まないこと

 池田センセのところで「空気嫁ってどーよ?(んで、結果としてのはてな界隈ってよ?)」的エントリが上がっててなんかびみょー感を覚えつつそういや空気嫁関連エントリあげるの忘れてたな、ってことでちょっと書いてみる。とりあえず発端はこの辺


池田信夫 blog 空気読め



 山本七平の「空気の研究」を短く要約されて援用されてる部分は良いのだけれど、途中でご自分の私怨に摩り替わってるのがいつもの池田節だなぁ、と。なんつーか、この辺の物語を完成させるために嘘とホントを混ぜるときの配分は映画版ドラえもんみたいだなぁとか個人的に思ったり・・。(その辺話すとわき道が長くなるのでやめとくとして)、「空気の研究」に要約部分については大体合意なんだけど自分用アーカイブも兼ねてほかの人の書評も参考にしとこう。


圏外からのひとこと(2005-04-06):「空気」の研究

HPO:個人的な意見 ココログ版: [書評]「空気の研究」 Japan as Network-One


 んで、当該文献はこちら


「空気」の研究 (山本七平ライブラリー)
山本 七平
文藝春秋 (1997/04)
売り上げランキング: 99880
おすすめ度の平均: 5.0
5 それって当たり前のことなんですか。ほんとうに



 本書のポイントとしては各氏がまとめておられるように「太平洋戦争時に日本軍はあんなムチャな命令をしたのか?(なぜそれが通ったのか?)」というところに集約されるように思う。で、「当時の”空気”って場の流れを支配していたのではないか?」ってことになってくる。んで、「この"空気”は日本的特徴として現代まで受け継がれているものではないか?」、って話になってくるわけだけどそもそもここでいう”空気”とはいかなるものだったか?


(10-11)
 大変に面白いと思ったのは、そのときその編集員が再三口にした「空気」という言葉であった。彼は、何やらわからぬ「空気」に、自らの意思決定を拘束されている。いわば彼を支配しているのは、今までの議論の結果出てきた結論ではなく、その「空気」なるものであって、人が空気から逃れられない如く、彼はそれから自由になれない。従って、彼が結論を採用する場合も、それは論理的結果としてではなく、「空気」に適合しているからである。採否は「空気」がきめる。従って「空気だ」と言われて拒否された場合、こちらにはもう反論の方法はない。人は、空気を相手に議論するわけにはいかないからである。「空気」これは確かに、ある状態を示すまことに的確な表現である。人は確かに、無色透明でその存在を意識的に確認できにくい空気に拘束されている。従って、何かわけのわからぬ絶対的拘束は「精神的な空気」であろう。


(16)
 一体、以上に記した「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗するものを異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力を持つ超能力であることは明らかである。以上の諸例は、われわれが「空気」に順応して判断し決断しているのであって、綜合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのでないことを示している。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。



 以上のように「ほぼ絶対的な支配力を持つ非論理的な判断基準」が"空気”ということになるみたい。そして日本人はしばしば論理的思考ではなくこの"空気”によって物事を判断していく、と。では、このような空気はいかにして作られていくのか?

(17)
 では一体この「空気」は、どのようにして醸成され、どのように作用し、作用が終わればどのようにして跡形もなく消えてしまうのであろう。これを探求する一つの手掛かりは、だれかが、何らかの意図のもとに、ある種の「空気」を意識的に醸成した場合である。言いかえれば、議論が、議論そのものよりも、明らかに、議論によるある種の「空気」の醸成を狙っている場合である。通常「空気」は、このような人工的操作によって作られるものではなく、言葉の交換によって、無意識のうちに、不作為に、いわば自然発生的に醸成されるから「空気」なのだが、それは、ある種の意図を秘めた作為的な「人工空気」の情勢が不可能だということではない。従って、この「人工空気醸成法」を調べていけば、「自然発生的空気」の成立過程も少しはわかるであろうと思われる。


 以上のように通常“空気”なるものは作為的に作られるものではなく自然発生的に現れてくるものとされるがここで著者は「作為的にも空気を作ることはできる」と述べている。では作為的に空気を作る場合に重要となるポイントとはいかなるものか?ポイントとしては2つ挙げられていたように思う。

 一つは「事物の後ろに存在しているなんだか知らない影響力を利用すること」、もう一つは「そうやって醸成されてきた空気を相互干渉させ容易には解きがたい複雑な糸を編むこと」にある、と。前者を把握する感応力をして著者は「臨在感的把握」という特殊な言い回しを用いている。


(24-25)
 物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態。この状態の指摘とそれへの抵抗は、『福爺自伝』にもでてくる。しかし彼は、否彼のみならず明示の啓蒙家たちは、「石ころは物質にすぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのため啓蒙的科学的教育をすべきだ、そしてそれで十分だ」と考えても、「日本人が、なぜ、物質の背後に何かが臨在すると考えるのか、またなぜ何か臨在すると感じて身体的影響を受けるほど強くその影響を受けるのか。まずそれを解明すべきだ」とは考えなかった。


(27)
「......カドミウムの金属棒は、握ろうとナメようと、もちろん何でもございませんよ。私はナメて見せましたよ。無知と言いますか、何といいますか……」
「アハハ……そりゃ面白い、だがそれは無知じゃない。典型的な臨在感的把握だ、それが空気だな」



 池田センセのエントリ的には「おそらく科学的解明も歯が立たない”何か”」の辺りに対応するか。そしてこの何らかのご威光を元に作られた判断基準が複雑に絡まりあって訳分かんなくなっていく。


(33)
 いままでのべた例は、簡単にいえば「空気の一方向支配」の例、言いかえれば、臨在感的把握が絶対化される対象を、仮に一つとし、しかも相互の感情移入による相互の臨在感的把握が起こりえない、最も単純化された場合である。だがわれわれの現実世界はそのように単純ではなく、人骨・カドミウム金属・棒・ヒヨコ・保育器の内部・車等々は、あらゆる方向に、臨在感的把握を絶対化する対象があり、従って各人はそれらの物神によりあらゆる方向から逆に支配され、その支配の網の目の中で、金縛り状態になっているといってよい。



 こういった事態を防ぐ(あるいは解決する)ためにはどうすれば良いのか?


(38)
 さて、ここで問題克服の要点は二つに要約されたと思われる。すなわち一つは、臨在感を歴史観的に把握しなおすこと、もう一つは、対立概念による対象把握の二つである。



 一つは空気を作りあげる判断基準の元になるような何かが作られてきた歴史的過程を見直すこと、もう一つは対立概念を用意すること。すなわち相対化することである、と。逆に言えば「空気を醸成するためには対立概念を受け入れなければ良い」ということになる。


(37)
 さてここで、空気支配のもう一つの原則が明らかになったはずである。それは「対立概念で対象を把握すること」を排除することである。対立概念で対象を把握すれば、たとえそれが臨在感的把握であっても、絶対化し得ないから、対象に支配されることはありえない。それを排除しなければ、空気で人びとを支配することは不可能だからである。



 注意して欲しいのはここで言われているのが「空気を廃して論理的になればよい」ということではないということ。「日本は西洋と違って論理的じゃないからやぁねぇ」という話ではないのだ。その辺についてはessa(圏外からのひとこと)さんもまとめておられた。


ただ、共通しているのは入口だけであって、山本氏の考察は深く、「日本=『空気』、西洋=『論理』(あるいは『個人』)」という割り切りで終わることない。西洋にも「空気」に相当するものはあるが、それが「神」として対象化されていて、それ以外のものは全て相対化するのが一神教の世界観である、というふうに、その根本を探り、本質的な構図を明かにしていく。

つまり、「『空気』をやめて『論理』に一本化せよ」という対策は、人間には不可能なのだ。過去の全否定はその方向に行きがちで、だから、「大和」と「みずほ」で我々は同じことを繰り返している。どうしても否定できない「空気」というものを、自分たちの中に見つけて行く為に、この「『空気』の研究」は読まれるべきだと思う。



 大切なのは目の前にある空気的決断の実態から眼をそむけたり、無理やりに排除しようとするのではなくそのメカニズムを観察・分析(あるいは全体として把握)しうまく付き合っていく、ということなのだろう。再び「空気の研究」に戻れば以下の箇所が該当する


(43)
 一方明治的啓蒙主義は、「霊の支配」があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとして、それを「ないこと」にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは、否定し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。ところが、「ないこと」にしても、「ある」ものは「ある」のだから、「ないこと」にすれば逆にあらゆる歯どめがなくなり、そのため傍若無人に猛威を振い出し、「茎の支配」を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで追い込んでしまった。戦艦大和の出撃などは“空気”決定のほんの一例にすぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて“空気”決定なのである。だが公害問題への対処、日中国交回復時の現象などを見ていくと、“空気”決定は、これからもわれわれを拘束しつづけ、全く同じ運命にわれわれを追い込むかもしれぬ。



 繰り返しになるが空気的な傾向が固定される原因は相対的な判断をしない、というところにある。言い換えればその界隈に対するフィードバックの排除ということ。そして大人はそんな判断はしないよね、と。


(47)
大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこうならない人間のことであり、ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことであろう。



 「空気読め」的圧力に対してスルー力(あるいは鈍感力)的なものが推奨されることがあるように思うが、以上の文脈を辿ればそれは少しびみょーな判断であることが分かるだろう。外部からのフィードバックを無視して自分の殻(あるいは自分を含むグループ(小さな世間))に固まるのではなく耳を傾け反省することが肝要なのだろう。もちろんすべてのフィードバックが有益なものとは限らないが、だからといって外部からの意見をすべて廃していたのでは固定した流れに囚われるだけだ。

 そういったフィードバックの中に「世間」的な判断(と思われるもの)も含まれるかもしれないが、ひとつ前のエントリでも言ったように、「世間」などというものは自己を中心とした相対的なものであり、そこから眼を背けて自分の信じる「正しさ」のみ主張していても詮無きことなのではないだろうか?


 とはいっても相対化のみ意識しては基準を失うだけなのだろうが。(そこで西洋では一神教の元で絶対的価値基準を定律、それ以外の価値は相対的に判断していた)



 まぁ、とりあえず言えるのは「ネットイナゴ」ってのも池田センセ的な視点(世間)からみた幻想だし、「KYイカン」ってよりは「フィードバック受け付けないほうがまずいんじゃないですか?」、ってことですよ。



--
おまけ:
socioarc | 空気読み力テスト αver.




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追記:
ついでに言うと、山本の著書には「メディアがKYを増幅させた」ではなく「相対的な概念を採用しないことがまずい」って書かれてましたね。この辺のご意見は池田センセ独自のものでしょうが、山本的な文脈からこの文を綴られたと言うおつもりならそれこそ「アサヒる」的な捏造っぽいですね


posted by m_um_u at 19:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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