2007年11月11日

「世間」と<世間>と「公共性」の間   (ネットはネガ・エントロピーを超える.....のか?)

 予告どおり、先日の件から日本のネットにおける「公共性」と「世間」について考えてみたいと思う。というか先にかかれちゃった感はあるんだけど、


声を上げ続けること、声を言葉に換えること - 地を這う難破船


 まぁ、これも言いたいことの部分に過ぎないのでいいかなぁ、と。(ぼくの説明が分かりにくい人はリンク先の人のところに飛んで確認してくれるといいです。今回は面倒なのですっ飛ばして抽象度高めて記そうと思うので)

 今回の件で個人的に思ったのは「世間」知と「公共性」的な正しさが相容れない情況があるのかなぁ、ということ。世間知というかこの世間も2つに分かれるように思うわけだけど。とりあえず「公共性」、<世間>、「世間」としておく。公共性は市民社会的な属性とリンク。

 リンク先の文章でとりあえげられていた世間は<世間>とする。つまり<世間>に対する一般的なイメージとしての「空気嫁」的な同調圧力的な世間。んでリンク先の文章では、彼の文章の周辺に「世間」的なものが発生しそれにたいして彼女がプレッシャーを感じたのでは?、ということが主題となっている。で、「<世間>的な圧力ってどうなの?」、って話になってるわけだけど逆に彼女の文章の周辺にも「世間」的なものが発生していてそれが彼女をバックアップしているところもあるだろう。あるいはそういったものが最初のエントリを書いた彼に対するプレッシャーとなったという面も否定できないのではないか?(おおよそは彼女の悲鳴に対して(彼なりに)誠実に対応したということなのだろうけど) ここで言う「世間」は<世間>とは違ってある集団(クラスタ)に暫時的(あるいは継時的)に発生する「空気嫁」感であり、そのルールを中心として形成される連帯関係みたいなのを指す。

 で、そういった「世間」というのはしばしば「社会的な正しさ」とか「公共的なルール」とは違った形でのリアリティというかエゴの表出を志向する。そういうものはリアルな社会においては「空気嫁」的に規制されているので地下にもぐり暗黙知的に共有されているがネットではそれが噴出してくる。この辺が「ネットは凶暴」などといわれる理由なのだろうけどそれ自体は否定されるものではないだろう。むしろ暗黙で見えていなかった「ホンネ」的な部分が表出されことで観察の対象にできるのはぼくとしてはありがたい。ただ、そこで表れた「ホンネ」的な部分が単なるグチの集まりに終始していては意味がないように思うが。それが個々人のリアリティならばそのリアリティ(エゴ)を実現するために知恵を分け合ったほうが健全だと思うし、ただのグチに終わってもどうなの?って気はする。(「それ自体がカタルシス」って見方もあるのだろうけど)

 対して件の彼の文章は(たんぶらにもまとめたように)最初から公共的なものを志向していた。で、公共的なルールになじみがある人には受け入れられていったのだろうけど「タテマエなんかなんのリアリティもないんだよ」っていうホンネマンセーな人たち(おそらく偽善も嫌い)からはイケ好かないものとして見られたのだろう。というより、言葉にならないザワザワとした苛立ちがまずあり、その気持ちがはっきりとつかめなかったので既存の議論の型を採用したのだと思う。もちろんそこでつづられていた心の痛みや経験は本当のことなのだろうけど、それを正当化するための論理に既存の議論の型(正しさの型)を採用しているためにドツボにはまっている。多くの人が言っているように「痛み」は本当のことなのだからそこに終始していればよかったのに。

 どちらが正しいというわけではなく単純にプロトコル(採用されている価値観)の相違の問題だったのだからその辺で納得していればよかったように思うのだが。要するに「住む世界が違う」って話だ。こういう言い方をすると語弊があるか。しかし、リアルな社会生活ではその辺のことを意識して振舞っているところはあるように思う。「住む世界の違い」というのは財産とかそういうものではなく生活環境や生育環境の違いから形成される思考やボキャブラリーの違い、要するにプロトコルの違いってことなんだけど。ネットの場合はそういった雰囲気が伝わりづらいからなぁ・・。

 そんで、そういった「違い」を架橋するために言葉というツール(インターフェース)があるわけだけど、この部分が共有されたとしても非明示的な価値観というか、リズムというかそういう違いがある。というよりそういう違いがあること、「分かり合えないだろうこと(他者性)」を前提としてコミュニケーションに望みある程度言いたいことが伝わるからこそ素晴らしいのだが・・。ネットにおける紛争の多くはその辺を自覚していないということだろうか。(って、自分も含むか)


 翻って、ネガコメ「世間」知は知的リソースがないために自分の意見を補強する「正しさ」に依存する、という部分から少し前のアルファへの依拠的課題が浮かび上がったり。


muse-A-muse 2nd: 「ネットはカスケードを超える」・・のか?


 ここでも「正しさ」への傾斜が危惧されていた。てか、ネットで見かける簡単な正しさ(アルファなもの)の言説の中で自分が理解できる部分を切りとって採用する問題。つまり対象を理解しているわけではなく自分の考えの後ろ盾を得るために切り貼りしているに過ぎないってこと。そして、しばしばアルファな場というのは専門領域とは違った話をしていることがあって、その辺の「正しいんですか、それ?」的な知識が共有されていくっていう問題。専門知ではないため一般の人も理解しやすいのだろうけど、居酒屋談義みたいなものだったりなぁ、と。

 というか、「自分の専門的なフィールドしか語るな」と言いたいわけではないし「専門知を学べ」ってわけでもない。ただ、もうちょっと自分で考えたほうがいいんじゃない?、とは思う。概念とか言葉的に足りない部分は他人から借りてもいいけど、自分の軸となる部分を設定してその部分を補強するために使うとか。そういう感じで。(.....なんかこの辺の記述びみょーだな。まぁ、簡単なコピペ主義には違和感ってことです)

 そんでまぁ、アルファなものに対してぼくも違和感出して


muse-A-muse 2nd: 今年のあるふぁるふぁ大作戦についての雑感


 「アルファブロガーアワードってDan=Rather的な検証能力をもった場としてblog育てるためのものじゃなかったの?」って思ったわけだけどどうやら違ってたようですね。


切込隊長BLOG(ブログ): 私は「アルファブロガー」という考え方は終わっていると思います


 「アルファブロガーっての元々なんでもできる百貨店的なものが想定されていて徳力産な商売くさいものだよ」、と。目標としてはこの辺ですかね。


メディア・パブ: 勢いづくブログ集団のFM,今年は5000万ドルの売上を目指す

メディア・パブ: 米国のブロガーって,かなり稼いでいるそうな


 対して隊長的には、「もう専門的なところに分派してきてるから百貨店目指しても意味ねぇべ?」、と。まぁ、確かに3年前よりはおもろくなった印象があります。その意味でこの辺とか意味わかんない。


『ブログ限界論』GIGAZINEx佐々木俊尚x徳力基彦 2007年11月23日(金)14:00-16:30@UDXカンファレンス


 つか、彼らの目指す「お金ブログ」の限界ってことだと思うけど一番の見所は「どう考えても現行のアルファブロガー基準を満たしている戯画の人 vs. 徳力産」のデスマッチなところですかね。戯画の人が、「FM目指すなら英語っすよ!これからは英語(翻訳)ブログの時代」って発言。対してたぶちくん佐々木さんが「ブログはジャーナリズム的なものとか専門知(あるいは増田的リアリティ)を目指すものだからして......(戯画の人はダメだよ)」的空気読めてない発言をして徳力産がそれに乗っかっていく、と。

 まぁ、ある意味おもしろそうだなぁと思います。


 つか、専門知やジャーナリスティックなblogはいいとしてリアリティが表出されているblogってあるのかなぁ・・。ネガコメな人たちはある意味そうなのかもしれないけど、リアリティ(エゴ)が表出されているだけではジャーナリズム的なものとはいえないので。ジャーナリズム的なものは「世間」知を「公共性」に変換して政治」経済的なシステムに繋ぐものとして想定しています。(あるいはその逆)

 いや、公共っていうと変かな。本エントリ前半で出てきた「タテマエ」的な公共性ではなくて、「世間」的なリアリティを出発点としつつそれを社会全体にも共有できるような言葉に置き換える。あるいは社会との妥協点を模索するもの。そういうものがジャーナリズムだと思っています。

 そういう意味では...........どうなんだろ? (アクセスを指標としたものではない)アルファな人たちが専門知的な知識(あるいは言葉や概念、思考の型)を元に一般社会について触れるのなんかはジャーナリスティックといえるのかもしれませんね。でも、それはしばしば間違っていることもあるのでフィードバックを受け入れて適時修正していってほしいと思うけど。



 そんなことをぼけーっと思いました



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追記:
なんか書き忘れた感があったのでいちお。ここの設定で問題なのは当事者の周りに「世間」的な外野ができ、その人たちが無責任にはやし立てるという問題です。

エントリ中でも触れたようにそういう人たちの中には問題の恣意的誘導に容易に引っかかってしまう人がしばしば居て、その人たちによって問題がデフォルメ、あるいは矮小化されていきます。彼らの消費しやすいようにスポイルされるんですね。結果として既存の物語(あるいは言説の型)が付与される。

当事者の中にはこの設定に乗ってしまう人もいるでしょう。そして本当の自分の問題(訴えたかったこと)を見失っていく。あるいは、そのようにして外野から与えられた武器を使うことによってその場限りの勝ちのようなものを得ることはできるかもしれません。しかし長期的に見てそれが本当に自身にとって利益となることなのか....? (そして、「他人への影響」ということをいうのならばそうやって無責任に他人の人生を斜め読み消費することの道義性はどうなのか?)


そういうことを思うわけです。(コミットしてしまった自分も含めてね)


もっともこの文章も消費されているのでしょうから彼らには届かないでしょうが・・。とりあえずひとつ前のエントリでぼくが怒っているように見えた人がいるとしたらその理由はこういうことであり、対象とされるのはそういった形で無責任に人の人生を消費する外野の人たちです。



posted by m_um_u at 16:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク
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