2007年11月07日

時の重み、時の薬

 少し前についったーで@medtoolzさんがつぶやいていた内容が気になっていて、それ関連でオレがつぶやいたこととか関連で気になったpostなんかを勝手にたんぶったんだけど


むーたん:Twitter:年をとった人は植物になっていく → 植物になれなかった人はどうなるの? → 植物(仙人)みたいになりたい


 medtoolzさんはmedtoolzさんでエントリに仕上げてて


レジデント初期研修用資料: 時を止める人


 「どうしよっかなー」と思ってたんだけどやっぱちょっと書き記しておきたいので書いておく。


 medtoolzさんとこの話は歳をとってから新陳代謝が衰えて生存に最適化していく人の話。「時をとめる」という言葉からは「メトセライズ」を想起させられる。


メトシェラ - Wikipedia

メトシェラは、キリスト教やユダヤ教文化においては、長命な者の喩えに使われる。ロバート・A・ハインラインは長命種族を扱った小説に『メトセラの子ら』というタイトルをつけている。



 SF用語としては「長命化(あるいは永命化)」を意味していたように思う。そんでしばしば「永遠に生きるということは人類の夢のひとつではあるが、それは果たして幸福といえるのか?」みたいなテーマがくっついてくる。答えは決まっていて「永遠に生きられたとしてもその時の重みに人の精神は耐えられない」みたいな感じになるわけだけど。


 そういう時の重みに耐えられるのは人間のような動物的な器官ではなく植物的な静的器官なのではないかなぁ、とかぼんやりと思う。たんぶらったついったーのログにもその辺のことは書いたわけだけど、


m_um_u そういや今週のハンタ×2でも会長のオーラは植物みたいって喩えがあったな。かぶがよく「枯れたい」って言ってるけどあんな感じだろう。かれるのではなく低燃費に最適化する。精神的にも肉体的にも

m_um_u 閾が上がってスルー力が高まる、と。今日の「もがりの森」にもその辺りのことを期待しながら見ることとする

m_um_u 河瀬直美はドキドキするようなテーマを扱っていて手法にも納得できるところが多いのだけれど、いかんせん単調なのが困る(気絶させられた

m_um_u 「老人はやがて植物のような境地に達する」って言ったってそうなれない人もけっこういるし…というか大部分の人はそこに納得なんかない。ある種の諦観というか、そのことから目をそらしつつそのときを迎える

m_um_u 大切なのは意味とかそういうことではなくて…自分を包みこんでいる環境。個人の中に意味があるのではなく繋がりの中に意味のようなものがある

m_um_u でも、そういう繋がりや達観、諦観のようなものに到達できなかった人はどうなるのか?若いときに答えや環境を整えられなくてそのときを迎える人々は?

m_um_u 肉体は衰えても精神は若い(幼い)ままの人々…そういうのは「ハウル」のテーマでもあったな

m_um_u 河瀬の今回の作品はそういった問いに言葉や論理ではなく環境を通して答えのようなものを提示しようとしているように思えた。すなわち音や光、肌の温もりといった「生」を構成する環境。

m_um_u その手法やそこで提示されものが正しいものなのかどうかは分からないけど、答えの一つであるように感じた。少なくともある環境における答えのひとつなのだろう      って途中で気絶させられたんだけどね...orz



 ↑は「もがりの森」を見に行ったときにケータイから打ち込んだ簡単な感想


 殯の森(もがりのもり)公式ホームページ <河瀬直美監督最新作> mogarinomori top page by Naomi KAWASE


 上記したように「人生の意味」について河瀬監督なりに表現してみたのだろうな、という感じの作品だった。

 「人生の意味」という言葉は重いけれど、おそらく「意味」や「意義」なんてものは存在しなくて、なんとなくな関係の中で実感のようなものをつかんでいる。あるいは「人生の意味」などというものを問うてしまうとすれば、そのような段階にいたっていること自体が幸せとはいえない情況を表しているのだろう。われわれは本来そういった意味を考えなくても良いぐらいに関係の幸福の中に埋没して生きてきた。

 あるいはそういった関係とは違った形で人生に意味や意義を求め、涅槃のような魂の安定にたどり着く幸福というものもあるのかもしれない。その平衡は無駄がなくすっきりとしたもので植物のそれを思わせるものなのだろう。

 しかしそういった関係や意味を求められない人々はどうなるのか? それが本作における河瀬のテーマであったように思う。

 取り残された人々、人生の宿題を遣り残してきた人々はそのときを前にして焦りや苛立ちを禁じえなくなる。そういった人々に対して外部からの「正しい」説得はなんの意味もないものだろう。彼らや彼女たちは「大人」として分別のある行動をとることが求められるが宿題を済ませてこなかった人々の精神は子供のまま肉体のみが年老いたようなものなのでそういった言葉を聞き分ける余裕もない。

 では、最後に彼らが択るべき行動は......?


 ほとんどの人たちはその重み(「こんなに時間があったのになにをしていたの?」という時の重み)に耐え切れない。だから感覚を鈍らせ身体や思考の働きを閉じていく。これがスルー力や老人力と呼ばれるやつだろう。

 しかし、そんな形で「閉じる」こともできなかった人々は時の重みのプレッシャーを感じて精神を磨耗させていく。そして苛立ちや焦りから周りや自分を傷つけていく。

 そういった人々にとって最後に残された選択肢のひとつを河瀬は示してくれていたように思う。



 その答えは各人の環境によって異なるのだろう。どれが「正しい」ということもない。ただ、願わくばぼくはそのときが来るまでに答えのようなものを見つけたいなと思った。答えというか、既に答えは出ているようなものだから、それを実現するための環境を整えなければならないのだろうな。それが成されなければ杭のようなものが残るのだろうと思う。

 そういう決意を新たにした。



 「時の重み」関連で。時間というのは重しになるだけではなく癒しにもなってくれるのかなぁ、とこのログを見ながら思った


むーたん:Twitter:時間の薬


 「時間」というよりも経験の積み重ねのようなものか。ただ、闇雲に経験を積めばいいというわけではないのだろうが(薬も摂りすぎると毒にもなるというので)


 反省と成長ということなのだろう。そして目標、かな

 


タグ:実存
posted by m_um_u at 00:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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