2007年10月24日

初音ミクってなんであんなに人気になったんでしょうね?(メディア論 + 経営学的考察(仮)

 初音ミクについて。ついったーしててもよく話題に出てくるので自分的にはデータ溜まってないしやったことないのでなんともって思ってたのですが、「blogだから人に聞いちゃえばいいや」、って感じでエントリあげてみます。なので以下は論考というよりは「オレの見たい初音ミク論」のための依頼エントリのようなものです。(※いつもながら長いので、各氏への依頼(質問)内容については後ろのほうで要約してありますのでお急ぎの場合はそちらからお読みください)

 んで、依頼に当たって、いちお初音ミクというものがどういうものかということについて簡単に(これも人様のエントリからパクらせていただきます)


「初音ミク」(合成人声ソフト)のルーツを訪ねて - POP2*0(ポップにーてんぜろ)

 「初音ミク」をご存じない方に説明しておくと、テキストを入力してメロディーを指定すると、あらかじめインプットされた人間の発声フォルマントに基づき合成人声が歌を歌う、プラグインというかシーケンスソフトのこと。


 んで、使用というか視聴に当たっての感想(どのようなところが受けているかについて)はnogaminさんのこの辺の説明がわかりやすいなぁ、と。(「おすすめ初音ミク動画リスト」もついてるし)


断片部 - nogaminの断片 - 初音ミクに期待すること

 まず通常の音楽好きが気になるのは、この萌え声なんじゃないだろうか。これが、好みのジャンルや楽曲とは合わない場合、楽しみようがない(例えばjazzとこの声質は合わない気がする)。また、技術が優れているといえ、人間の声に比べれば不完全な部分が目立つ。現在のユーザーで初音ミクを楽しんでいる人は、萌え声はとりあえず受け入れていて、さらにその不完全さ(伸びしろに対する期待)も含めて楽しんでいる人びとだろう。また、未熟なところがなおかわいいという態度もありうる(全体を通して育成というエッセンスがあることだし)。

 そうした、<(完成度を問わず?)コンテンツから自分なりの楽しみを引き出す>という積極的な消費の姿勢が求められることがいくらかの人にとってハードルとなっている可能性はありそうだし、その姿勢が自然に備わっている消費者という条件と、萌え文化というかオタク文脈というのはやはり関連がありそうだと感じる。



 不完全性(欠如)という点では以前に人形考で考察したことにも関係しますね。


muse-A-muse 2nd: 人形考 (欠落と神聖)


 長いので要約すると、人形は人間にはなりきれないもの、あるいは「不完全な人間」という欠落を抱えたメディアなわけですが「欠落」を抱えているからこそ魅力が生じ、それに惹きつけられて人形で遊んでいるうちにそこに不思議な力が宿る、って話です。

 通常の使用においては穢れを吸収する道具として人形は使用されるようです。「穢れ」っていうか無意識的なところに溜まっているストレスといってもいいかも。あるいはシステムからはみでる多様性のようなもの。そういうものを人形に託して身体から外に放り出す。

 もうちょっと進んだ段階としては「欠落×欠落」な段階に入って人形メディアを通じて変換した「穢れ」(多様性)を再吸収するみたいですね。この辺の認知過程についてもうちょっと詳しく調べていくと面白そうなんだけど参照先のテクストの抽象度が高くてよくわかりませんね。(我ながらw)


 さておき、人形というのはこんな感じで「自分の中にある多様性(システムとして統合できないもやもやしたもの)」を吐き出たり、あるいは再変換して吸収するためのメディアのようです。翻って初音ミクはどうなのか、と。

 初音ミクにおける「萌え声」というのはリアル声(完全)からは程遠い未完全なものでしょうね。すなわち「欠如」ということになる。では、初音ミクの一般使用が上述したような「穢れ(多様性)」排出メディアとしての機構をもっているかというと.....なんかびみょーっすね。一般に初音ミク使ってる人たちってそういうつもりで使っているわけでもないでしょうしね。ここにおける欠落の魅力というのは「なんかコケティッシュな魅力」って感じの魅力でしょうね。

 とはいっても、初音ミクにどっぷりハマッた人の中にはそこに何らかの神聖性を見出しているのかもしれませんが。


 ところで、ここで「リアル」って単語が出てきたんですけどそもそも「リアル」ってなんなんでしょうね? これはゲーマーな人なら必ず一度は考えたことがあることだと思うけどゲーム雑誌なんかでちりばめられていた「リアル」って表現。あれってなんだったんでしょうね?

 端的に言えば、あの頃使われていた「リアル」って表現は「高精細度」とイコールだったように思うんですが、では高精細でいろんな色が使えるようになればそれがすなわち対象の本質をあらわしていることになるのか、と。この辺の話は絵画(あるいはゲージツ)の歴史なんかでも出てくる話ですね。「写実であればリアルなのか?」「われわれが見ている本質とはなんなのか?」って話。

 んで、「われわれが見ている(感じている)色や音はもっとこんな感じでこーんな感じなんじゃないかぁ?」ってことで印象派とか抽象画、キュビズムみたいな世界が拓けていったわけですよね。この辺の話はちょっと前の濱野さんのこのエントリにも共通するものと思います。


WIRED VISION / 濱野智史の「情報環境研究ノート」 / 第17回 「マリオカート」と「ニコニコ動画」の共通点

 マリオカートの開発において「よりリアルな感覚(主観的な感覚)を再現するためにあえてドリフト中にスピードが出るようにした」という話から外挿して

「情報環境=アーキテクチャ」の可能性の一つは、こうした「客観的には×××だが、主観的に見れば×××」といった《錯覚》を実現する点に認められます。


 と論を展開しておられる。そしてニコニコ動画の擬似同期性(リアルタイムの書き込みではないのに、書き込みに対して共時性のようなものを感じさせる性質)もその一環なのではないか、と。そして他のソーシャルウェアもこのような「錯覚」のおもしろみを再現することによって発展していくのではないか、と結んでおられる。

 この考察に共感します。というのも上述してきたようにゲームというのはartの一種的なところがあるんですね。interactive artってやつです。そしてネットを始めとする生活者レベルでのUIというのはそういう感覚を取り入れたほうが発展しやすい。この辺の歴史はappleのハイパーカードがうんぬんとかで話が長くなるのでしょうから置くとしてw そんな感じでsocial mediaのUIというかメディア体験においてはこういう感覚の再現が肝要になってくるように思うわけです。

 で、ここで濱野さんに質問なんですが、上記のような視点から見て今回の初音ミク現象というのはどのように見えるかお聞きしたいなと思いまして。できればそれでエントリ書いて欲しいんですけど、特になければスルーでもけっこうです。


 んで、次の疑問として「初音ミクなんでこんなに受けちゃったんだろね?」ってのがあります。こちらは福耳さんに尋いてみたいです。

 というのも、こちらのエントリにもあるように

「初音ミク」(合成人声ソフト)のルーツを訪ねて - POP2*0(ポップにーてんぜろ)

タレントの初音ミクさんが失踪─「キモオタに疲れた」とこぼす : bogusnews


 VOCALOIDの歴史というのはけっこう古いもののようなんですね。でも、初音ミクは最近になって受けた。この辺の理由が知りたいな、と。

 勝手に推察するに、「プロモーション(広告展開)」、「キャラクターや萌え声などデザイン面での特徴」、「操作の簡易性」、などなのかなぁ、と。つっても広告展開とか操作内容については知らないのでなんとも言えないんですけどね(何も調べずに勝手に想像するに操作性は着メロ作るようなものなのかなぁ、とか思ってます)

 ...って、考察素材が少ないので質問にも答えにくいかもしれませんがその場合はできる範囲でお願いできたら幸いです。



 あと、これとは別に初音ミク動画職人のクリエイティビティについてアイマス動画職人のクリエイティビティと絡めて花見川さんに聞いてみたいけどちょっと長くなったのでこの辺で。

 ....つか、言っちゃったついでだからいちおちょこっとだけ書いとくと、一部の人からするとアイマス職人って「職人」ってはやして立てるほどのものか?、って感覚があるみたいなんですね。たぶんそういうのは「アイマス動画で使われている曲製作におけるクリエイティビティに比べれば動画職人のクリエイティビティなんてしょせんアマチュアレベル」ってことなんだろうけど、個人的にはそういうことでもないように思うんです。

 ぼくはアイマス動画の製作過程について知らないのでどういう制限のもとにどういう努力をしたかというのはほんとに部外者の類推の域を出ないんですがいちお推察するに、「アイドルマスター」というゲームの中で動きのパターンは制限されていて、曲かなんか指定しても欲しい動き(角度)が出るかどうかはランダムなんじゃないかと思います。そういう制限の中で、動画職人があらかじめ設定した絵コンテみたいなのにしたがって欲しい画(場面)を採集していきそれをつなぎ合わせていく。その上で自らの職人魂に基づいてさまざまなエフェクトをかけ、より自分の理想に近い形で動画を完成させていく..こういう過程があるのではないかと思うわけです。

 つまり、一部の人からすると「ゲームに曲入力して動画キャプってチョロっとエフェクトかけてアップしてるだけじゃね?」って認識があるかもしれないけど実際のところは切り絵みたいな感じで動画を仕上げていっているのがアイマス動画ってジャンルではないかと思うんですが......どうなんでしょうね? (そういうわけで花見川さんにもTB送っとこう)

最近の初音ミク批判について思うこと - 花見川の日記



 では、そんなこんなで (関係諸氏、よろしくお願いします m(_ _)m)



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関連:
元気系からバラードまで初音ミクオリジナル新作6曲 :にゅーあきばどっとこむ

初音ミクオリジナル曲「あなたの歌姫」が大人気! :にゅーあきばどっとこむ

※初音ミクのサンプル曲として



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追記:
花見川さんから反応いただいたので追記です。

初音ミクが流行った理由などあれこれ - 花見川の日記

全体の論旨としては、この辺に尽きるかなぁ、と

いきなり結論付けてしまうと、初音ミク以前の歌を歌うツール、例えば”くまうた”とか"PC-6601"とかはあくまで”ツール”であってそれ以上のモノではない。「じゃあ初音ミクは何なのか?」と問われると、一代前のVOCALOIDであるMEIKOが「シンガー(歌い手)」とすれば、VOCALOID2である初音ミクは「アイドル」とか「アーティスト」と言える存在なんですよ。”専門的”というよりも”総合的”な存在なんです。*1

一連の初音ミク論を見ていると、「初音ミクは音楽ツールとして有効であるかどうか?」という部分ばかりが焦点になっていて、それだと一昔前に「アイドル」や「アーティスト」が「歌い手(シンガー)としてはどうなのか?」という部分にのみ焦点が当てられて批判されてたのとあまり変わらなくて、アイドルの個々のファンが持つ「異性としての理想(≒偶像)」としての意味合いとか、アーティストが行うパフォーマンスやファッションなどの「歌」以外の部分の意味合いが注目されていない所がある。


「歌手ではなくアイドル」という喩えは分かりやすいですね。速水さんところにあった「中島美嘉はアーティストではなくアイドル」なエントリを思い出しました。

【A面】犬にかぶらせろ!: ZARDこと坂井泉水こと蒲池幸子さんのこと


あと、「欠落」関連でこの辺とか

【A面】犬にかぶらせろ!: 浜崎あゆみとレタッチされるアイドルの時代

いまどき、顔がきれいで歌がうまいなんていう単純なキャラ付けではCDは売れないのだろう。どちらもデジタル補正で作れてしまうということが証明されたから(前者はあゆが、後者は誰が代表だろう?)。一方、アンバランス歌やファニーな顔こそ真のオリジナリティになり得る。その辺が、倖田來未、大塚あい、木村カエラといった正直顔は$#fいr*hふぁ%ぃpな歌い手が受ける土壌になっている気がする。



そういえば花見川さんの言う「専門性よりも総合性」というのはいろんなところでみられる現象(需要)のように思います。たとえばぼくはラーメンズのよさがいまだによくわかんないんですが、あの人たちの受け入れられ方もちょっと似たところがあるのかもしれない。(「メディアミックス的な売り方ができる(いろんな角度から楽しめるところに初音ミクの魅力がある)」ということとは少し違うだろうけど)

ぼんやりと「速度」ってことなのかなぁとか思ってます。(あるいは文脈の違い)


あと個人的に、やはりアイドル論と共通するところがあるのかなぁということでこの辺を読まねば..

女性アイドル論で、文化的、社会的、歴史的にするどく考察してあるページもしくは、論文、書籍を探しています。基本的には、書籍でいいのを探していますので、できるだけ書.. - 人力検索はてな



posted by m_um_u at 23:43 | Comment(6) | TrackBack(1) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
どうもいつも広範な課題設定で、コメントも容易ではないんですけれども。なぜ「初音ミク」が競合する他の「人工音声アプリケーション商品」と比較して成功したか、ということについては、咄嗟にいくつか考えるのは、
・「アプリケーション」ではなく、「キャラクター」として意味づけて市場に提供することで、消費者に思い入れ・好感を抱かれやすくした、マーケティングの工夫。僕は実際に「初音ミク」の操作入力画面を見ているわけではないですが、パッケージ画像などから想像すると、いかにも少女と対話しているかのような(相対的にですが)フレンドリーな環境になっているのではないでしょうか。それはシンセサイザーの入力画面(むかしのヤマハのシーケンサーのインターフェースはとっつきにくかった!)よりは、やっていてまだ楽しいんじゃないかと思います。
・Youtubeやニコニコ動画のような、消費者が「ミクに歌わせてみた『作品』の発表の場」が社会的に整備されていて、お稽古ごとの発表会のように作品作成者の励みになるような動機づけの環境が消費エコシステムとして整っていたこと。これがもしなかったら、「よっしゃ俺も傑作を作ってみんなに見せてやる!」という気になれないし、買う気になりにくいであろうことはおそらくそうでしょうね。
・フォルマントを提供した「藤田咲」という声優さんが、ミクとの関係性を微妙に保っていること。僕はこの藤田さんという人を全然知りませんが(ていうか声優というご職業の人についてなにも知らないのですが)、でも実在の妙齢のアーティストがミクとの関係を特に隠しもしないことはミクの人格の生々しさを増しますし、またかと言って藤田さんが前面に出過ぎると「声の着せ替え人形」的なミクの「お気に召すまま歌わせて感」がちょっと冷めてしまうのではないでしょうか。その点、「実はこの声はもとは藤田咲なんだけど本人ではない」という微妙な距離感が、心理的な使いやすさにつながっているのでは?

こういう感じで、morutanさんが「人形」として初音ミクを分析されているのは面白いと思うのですが、商品開発論的に考えると、「これまでは人形としてみなしにくかったのを思い入れやすい人形として意味づけた」点をまず評価したくなりますね。

個人的には、僕は自分が合唱をやっていたこともあって、もし「うたうたわせ」が出来るのなら、いろんな男声有名歌手のフォルマントをサンプル化してひとつの曲データでいろんな声質の人に歌わせてみたり、メリスマを設計してみてそれぞれの癖を顕在化させてみたりできたら面白いし、買うかもしれません。
Posted by 福耳 at 2007年10月26日 15:15
コメントありがとうございます。にゃるほろ。やはり「萌えの物語共有」というところが大きいみたいですね。

理解のために自分なりにまとめさせてもらうと、

(1)キャラクターとしての意味づけ → 物語の創出(キャラづけ)

(2)youtubeやニコ動のような消費者同士のコミュニケーションの場の役割

(3)「初音ミク」というキャラのイメージ(物語)を壊さないような声優の距離感の保ち方

という感じでしょうか。ぼくのエントリでは「人形」的性質に注目しすぎて「物語」的なものへの配慮が薄かったようですね。その辺は花見川さんのエントリを見たときにも思いました。

「初音ミクという物語の共有」ということに関して言うとユーザー側にそれを受け入れるバックグラウンドのようなものがあったように思います。「歌うことしかできないvocaloidの悲しみ」への同調のようなもの。

うがった見方をすると非コミュ的な位置にいる人が自分の不器用さをミクに重ねているのかなぁ、と。(自分もそういうところあったので)

関連としてはこの辺のエントリがおもしろかったです

ロボットとの恋愛感情って、本当にありうるの?「時計じかけのシズク」 - たまごまごごはん
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20071025/1193250099
Posted by m_um_u at 2007年10月26日 22:15
面白いなと思うのは、morutanさんが人格性を前提にされて「歌うことしかできない哀しみ」という「欠落」について着目されることです。僕ははなから技術的「達成」として考えたもので、なかなかそっちには目が向きませんでした。
Posted by 福耳 at 2007年10月27日 18:33
ぼくは踏み込みが甘くて人格性の部分までは考えが及びませんでしたが、技術的「達成」以外で考えたのがおもしろいといわれればそうかもしれませんね。

やっぱ異分野な人と意見交換すると考え方が違って面白いですね
Posted by m_um_u at 2007年10月27日 21:57
うたってみたで叩かれて しかたないから初音ミクって 
ながれがあるようなきもするんですが
Posted by get1fit at 2007年12月03日 18:25
>get1fitさん

コメントが短すぎておっしゃりたいことがよく分からないのですがこれは、「ニコニコ動画の“うたってみた”フォーマットでたたかれた人たちが仕方ないので初音ミクに移行したのではないか?」、ということでよろしいでしょうか?
Posted by m_um_u at 2007年12月04日 08:46
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第19回「初音ミク」をはじめとするニコニコ動画上のコンテンツ協働制作に関する考察
Excerpt: ニコニコ動画上でのコラボレーションは、確かに活発で多様な作品を生み出しているけれども、それが可能になっているのは、コンテンツの評価基準が《客観的》と呼べるほど明確に存在しているからではないか。
Weblog: 濱野智史の「情報環境研究ノート」
Tracked: 2007-11-01 15:05
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