2005-12-02 - レイプされた女子の日記。
「レイプは加害者が全面的に悪いか、被害者にも少しは落ち度があるか」みたいな話。
ぼくの立場としては、「レイプするほうが全面的に悪いということはあるんだけど、扇情的な服装や仕草が被害を招くということはあるだろうな」、という感じです。勘違いしないで欲しいのは、「扇情的な服装や仕草が被害を招くことはあるだろうな」とは思っても「だからそんな格好をしていて被害にあった人が悪い」とは言っていない点。でも、いちぶの人はそういう意見をみただけで許せないみたいなんですね。それは当該エントリのコメント欄にしてもそうだし、このエントリのぶくまコメントなんかもそんな感じ
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たしかにセカンドレイプ的なものに配慮する必要はあると思うんですが、それと原因について考えることは別なので。原因を考えることで予防対策にも繋がるのでそれは当然の思考過程だと思うんですね。でも一部の人はそれも許せない、と.....。
こういう心情というのはなんとなく分かります。たとえばヒロシマについて欧米人(ほか)が、「あれは日本に責任があったんだ」「あれによって戦争が早く終わって多くの命が救われたんだ」「広島は軍港が近く似合ったので仕方なかったんだ」、とか言われたら腹が立つので。そういう経緯があった可能性もあるんですが、その言い方とか言っていい場(あるいは立場)というものがあるように思います。
同様のことはいじめの被害や格差社会労働者をめぐる言説にも言えるでしょうね。いじめ被害についてはたとえば、「いじめにあうほうにもいぢめに合うだけの理由があるんだ」、って言説があってそれは一理あるんだけどそれをもって被害者を糾弾するのは間違っている。改善していく点として考慮の対象にはなるでしょうが糾弾の材料にしてはいけない。
格差社会論の場合でも、「あれは努力しなかったからだ(自業自得、自己責任だ!)」、言説があるけどこれもびみょーですね。努力しても不可抗力的なところがあるわけだから、それをもって当事者を糾弾するのは間違っている。でも、逆に格差社会論を唱える人が「自己責任論反対!」という言説に囚われて自分の意見に疑問を唱える人は誰でも「自己責任論ですか?」と糾弾する傾向があるようにも思えます。要するに言説の型にとらわれて対話の相手を見ていないんですね。
まとめると、それぞれの問題について「心情的側面」と「経緯検証的側面」のようなものがあるのかな、と。で、最初のエントリの場合は、「レイプされた女子の日記」、ということなので経緯や今後の安全策について一般的な議論をするべき場ではなく、被害者の心情に配慮して共感しつつその後のケアを考えることが優先されるところだったのだろうなぁ、と思ったわけです。
そんな感じで議論においてはレイヤみたいなのを分けないと錯綜してよくわかんなくことがあるでしょうね。(注意しよう