2007年10月05日

日本的「正しさ」と善的行動の選択基準

 昨日のついったーのログを見ながら気になったことがあったのでてきとーに抜粋してログつくってみた


むーたん:善悪の彼岸(家族編) - 道徳的「正しさ」と生活における正しさ(その典型としての介護をめぐって)


 お話、っつーか登場人物はmedtoolzどんとmarco11どんとTsumuRiどん。例によってついったーの話なのでギロンとかお話ってよりはてきとーに相手の話から連想したことをつぶやいてるって感じ。(※なのでこんな形で関連性を出すとご当人たちにとっては迷惑かもしれないけど、まぁ、てきとーってことで(別にまずい発言してる感じでもないし))


 話の流れとしてはmedtoolzどんとmarco11どんの仕事上の体験を通じて教科書で教えられるような道徳的な「正しさ」の是非についてつぶやいてる感じだった。要するに、「普段、倫理やら道徳やら言ってたって実際に家族のギリギリな現場に直面したらどうなのよ?」、問題。具体的には介護とかそういうの。

 道徳やら倫理、思想な人たちの言説や教科書が「正しく」ても硬直的で生活の場面では機能しないってことはしばしばある。いわゆる「サヨク的正義って役に立つんでつか?」ってやつ。(まぁ、ここでサヨクだのウヨクだのの文脈持ってきても仕方ないのでその辺は置く)

 面倒だから以下そのまま抜粋をコピペ


medtoolz 基本的にはもちろん、患者さんやら、そのご家族やらが望んだことを実行しているのだけれど。問題なのは、その人達が道徳に縛られたから望むと答えたのか、それとも本当に望んでいるのか


marco11 同年代や年下の介助は得意だけど、著しく年上の人の介助は苦手。数件やって向いてないと判断して以来まったく受けてない。彼らの生の向かう先、向かいたい方向をうまく理解できないから。若い鬱と年寄りの欝は根本的に違うしね

medtoolz 認知の違和感。合理的説明の要請。結局これは、医者に騙されたなんて潜在的な思いになって。こんなはずじゃなかったとか。馬鹿高い請求書回されて、3年ぐらい在宅介護がんばって、得られたのはオムツのにおいが染み付いた部屋1つとか

medtoolz 道徳の外しかた。道徳ありの思考と、無しの思考とをそれぞれ考える訓練。道徳の教科書を使うことに反対はしないけれど、それを鵜呑みにするんじゃなくて

medtoolz たとえば足尾銅山の住民被害を、命がけで天皇に直訴した田中正造の話を聞いて。「ぼくもそうなりたいです」なんて阿呆なコメント取るんじゃなくて、田中一人に命張らせた住民の戦術とか、同じアナウンス効果得るのに、もっとスマートなやりかたをみんなで考えるとか

marco11 強烈な道徳のベースがあると、例えばヨーロッパでキリスト教とか、アンチを不道徳、悪、としてすっきりわかった気になって悩まず生きていけたりしそう

medtoolz 道徳の教科書を使って、道徳をまなんで、道徳を笑うことをまなんで、道徳を置換するすべを学ばないと、道徳を学んだことにはならないと思う。少なくとも昔ながらの道徳授業というのは、要するにそれで得する人達を笑わせる以上の約には立っていない

TsumuRi 高齢者の介護は身近になるとへこむね。うちの爺様が身体が元気で頭だけぼけて、家の中で自覚なく暴れていて、父は鬱気味になったし母はノイローゼになった。爺様が薬で落ちついて、老人介護施設に入ってから家の中はやっとの事で平穏になったし、父は明るく爺様を見舞えるようになった。うちは平穏をお金で買った。

TsumuRi かくしゃくとしていた人が意思の疎通も取れぬ、身体の自由が利かぬ状態になったとき、身近でその人を愛して尊敬していた人ほどへこむと思いますよ。変わってしまったその人の中に、その人を感じることがなくなるんです。家族だけじゃ介護ができない最大の理由だと思う。正直見てられない。

TsumuRi 家庭内、あるいは親戚内で老いの残酷さを数件見た後、自分はかくしゃくと生きた後、致死性の高い疾患でぽっくり逝きたいと思うようになった。心臓麻痺とか脳出血とか。倒れてから一ヶ月以内に逝くのが理想。それ以上は周囲の人間の神経が保たない。それが原因で仲違いした人たちを何人も見ました。


marco11 太平洋戦争を冷静に振り返って分析するだけで全ての要素について教訓を得られたのに、 60 年以上放置ですよ

marco11 なんというか国民視点では利益になるかどうか微妙な戦争ってのに、「国家総動員体制のもと全員動員された」って手短にまとめられても納得できない。なんかねえ、そんな従順か人間?って思う

TsumuRi 俺は、理由はどうあれ他人の生は肯定されるべきと思うよ。理由ははっきりとは分からないけど漠然とそう思う。強いて言うなら、生まれてきた命は全て肯定されるべきと思っているから。そうでなかったらこの世のルール、狂うよ。その人の生を否定していいのは本人だけじゃないかなあ

TsumuRi 俺個人でどうこうより社会システムが全肯定して欲しい。今はそれできてないでしょ。やむを得ず生きるのを諦める人がいるでしょ。どこまでを肯定するかという問題があるけど、少なくとも生物として自律的に人間やれる力のある人はまず全員肯定されるべきだ<餓死が気にくわない


 
 後段のmarco11どんの「太平洋戦争の反省ができてなかったから」話は少し飛躍があるけど、日本的道徳観や正しさ、公共性の問題ということだろう。太平洋戦争における現場レベルでの意思決定のうやむやさやそれを取り囲む人々のうやむやな空気感など...。marcoさんが言ってるようにすべての人が右向け左的に従ったわけではないだろうけど、そのときはみょーな空気が発生して抗えなかったってのもあるだろう。んで、そういった曖昧(うやむや)さが日本的な「正しさ」を醸成していく。

 それは「全体主義」ってほどはっきりとしたものではなくてなんとなく「その場の空気」には抗っちゃいけないし抗えないのだろう。「その場における暫定的な正しさ」って感じなので。論理とか合理、情緒っていうのとも少し違うかもしれない。

 んで、そういうのが日本的公共性(日本教)となって意思決定を左右していくわけだけど....その辺は後述。


 それとは別にTsumuRiさんが「理由はどうあれ他人の生は肯定されるべきだと思うよ」というのは同意。その後の「社会システム的に保証されるべき」ってのも。んでもいろいろ限定条件があるように思うけど。

 んで、まぁ、触発されてべらべらとつぶやいたのが長くなったのでこっちもアーカイブしといた


むーたん:「留保なき生の肯定を!」における限定条件としての利害衝突、他者への喜捨基準としての「創発可能性」


 詳しくはリンク先見てもらえばいいんだけど、端的に言えば、「そんなこと言ったってがんばってる人とがんばってない人が同じってされたらがんばってる人はヤル気なくなるしなぁ」、って感じだと思う。そうすると、「けっきょく能力主義にもとづいた排除の思想ですか?」、とか某a氏から言われそうだけど、だってそうだもんなぁ。。別に「排除」ってほどには行かなくてなんとかしたいと思うし、目についた範囲で自分にできる援助はしたいと思うけど、「女性がキャリアアップの面で劣位なのは男性を養わないからです」(反語:おまへらキャリアおんなはおれたちを養って給料アップを目指すべき(義務))、とか言われたらどうよ?って思う。(オレ♂だからあまり関係ないけど)

 ぼくは金とかその他のもの(物理的力とか駐車スペースとか)もリソースの一種に過ぎないと思ってるので、その時点でリソースが必要なところに余っているところのリソースを供出すればいいと思うわけだけどa氏の主張はあんまりにもアレなのでどうかなぁ、と。つまりアレだべ?ミュージシャンとかでよくあるヒモってやつだべ? そういうのは「投資」って感じで、その人の才能に賭けるんだろうけどそういうのもびみょーな場合があるしなぁ...。

 んで、「ヒモに賭ける」ってのは新興ベンチャーにエンジェルが投資するのと同じようなもので、「自分達にはない創発可能性をもっている人が自分達のもっているリソースをもっていなくて動けなくなってる人に対してリソースを一時的に貸し出す(移動する)」、って感覚だと思う(もちろん「儲け」も含むだろうけど、基本的に見返りってほどでもないかなぁ、と)。
 
 たとえば、「わたしたちを養え!」、という人たちにもそういう芽があれば分かるんだけど...なんかびみょーなんだよね。

 
 いや、「それ以前の問題として国家がなんとかしてって話」、ってのも分かるんだけど「国家がなんとかする」ってことは税金が投入されるわけだから間接的には自分達のお金ってことだしね。



 まぁ、とりあえず。ぼくが他人になんらかの援助をする場合はそういったもの(この人は芽がありそうなのにほんのちょっとお金とかモノが足りないだけで困ってるんだ)を基準にして行動選択するようにしてる。そうすれば「空気」とか「正しさ」とかも関係ないかなぁ、って。そうすることの個人的なインセンティブはそうしたほうが世の中おもしろくなりそうだし、そうなったら自分もおもしろいと思うから。そうすれば既存の「正しい」とか「倫理」とかにとらわれることもない。

 そんなこと思ってたらessaさんのとこにも関連なエントリが上がっててシンクロ


アンカテ(Uncategorizable Blog) - 世界観について自己責任でセーフティネットがない国


 西欧的な公共性と個人との関係とは違って日本では社会と個人の間に「世間」がある、と。それが宗教のように機能している。「世間」にはバッファとしての意義もあるが「世間」にとらわれ過ぎる旧弊は払拭すべきではないか、と。

 「世間」ってのは「空気」に似てるように思う。あるいは「空気」というのがその場その場のアドホックな雰囲気(同調圧力)なのに対して、「世間」ってのはそれがもうちょっと堆積したもの(ストック)ともいえるのかもしれない。

 この辺はまだちょっと分かってないので「日本教の構造」(山本七平)でも読もうかなぁ、と。


 そういや、最近のはてな村も怪しい空気が漂ってようですね (換気換気!)






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関連:
muse-A-muse 2nd: 「赤木が来たりて笛を吹」・・いて帰った

muse-A-muse 2nd: 運動における協調可能性について (想像力・他者・寛容・弱さの強さ)

※文中リンク先の「Akagi襲来」の顛末。格差社会関連はこの辺↓

muse-A-muse 2nd: 少し前の格差社会論まとめ



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追記:
以上のような、善的行動の選択基準としての創発可能性とそれによるネットワークの安定、ってのはぼく個人の指針なのでほかの人から見るとへんてこな感じかもしれないけど、言いたかったのは既存の「正しさ」とか「倫理」(道徳)とは別の基準を自分の中に持つべきではないか、ってこと。

「システム」とか「ネットワーク」で考えるのはそれが倫理的な偏向を受けていない中立の概念のように思えたからなんだけど、ほかに楽に考えられる枠組みがあったらそっちを採用したらいいんじゃないかと思います。




posted by m_um_u at 10:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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