2007年08月25日

「かえるのこはかえる」 / 「おやこのかえるだよ」

家族のそれから
家族のそれから
posted with amazlet on 07.08.25
ひぐち アサ
講談社 (2001/06)



 このエントリを見ながら「ゆくところ」(@「家族のそれから」)に出てきた「おやこのかえるだよ」という台詞が分ったような気がしたのでメモ。


ある編集者の気になるノート : 他人に不幸をうつす前に、僕はもっと幸せになろう。(ヒトリゴト57)


 このエントリでは西原さんと鴨志田さんのエピソードを引きながら、家族関係から生じる負のスパイラルについて論じられていた。「かえるのこはかえる」っていうか、そういうの。

 その不安はぼく自身も気になっていたことで、そういう不安はいまも少しある。だからこそあの手紙に対してまだ返事ができていないのかもしれない。


muse-A-muse 2nd: 過去と現実


 これ自体は単なる事務的な手続きだからさっさと処理してしまえばよいのだろうけど、それができないのはなにかが清算できてないからだろうか。(単に自堕落なだけなのだろうけど)



 「あんたの寝方はお父さんそっくりになりだしたね」


 そういうことを言われるたびに少しの罪悪感と憤りのようなものを感じてきた。罪悪感はそのころの家族にとっては「悪」の代名詞のような存在だった父と同じような行動をとっていることに対する引け目のようなもの。憤りは「なぜ自分の父親を悪く思わなければならないのか?」という良心の呵責のような気持ち。そして、「オレが選んだわけじゃないのになぜオレの責任にされるの?」みたいなそういう気持ち。

 そういった感情の間でなにか妙な業のようなものを背負わされてきたような気がする。


 どっちにしても「父親のようにならない(なるのか?)」というのは潜在的な恐怖だったし、いまもそういう意識は少し残っているように思う。いちばんキツイときに頭の中に響く言葉。


 
 そういう父に対しても父親として敬いたい気持ちのようなものもどこかに残っていて........それはたぶん捨てたほうがいい感情なのだろうけど。



 「おやこのかえるだよ」という言葉にはそういう気持ちが含まれているのかな、と改めて思った。


 「家族のそれから」という本には表題作「家族のそれから」と「ゆくところ」という短編が含まれている。前者は若くして旅立った結婚相手の子供たちと若い父親(涙もろい)の関係を通じて「家族とはなにか?」ということについて考えていっている作品。読んでいて「血縁ではなく信頼なのだろうな」という言葉が頭に浮かぶ。

 後者は中学生ゲイ(+ ひきこもり気質 + 家族離散)な少年と半身が障害で動かない少年の交流を描いた物語。両者とも世間的にはマイノリティに属するのだろうけど、その辺については湿っぽく語られていない。ゲイ的な性向についてもネタとしてクローズアップするのではなく、ふつーに「そういうもの」として描かれていて好感が持てる。

 で、

 この中で出てきた「おやこのかえるだよ」という台詞。


 これは負の感情の連鎖でひきこもり状態になってしまっているゲイの少年の回想のなかで出てきた言葉。

 極度に説明を省いた文脈の中で出てきた言葉だったのでしばらくなんのことだかわかんなかったけど、今回なんとなく腑に落ちた。


 記憶の中で少年はバケツを片手に、「おやこのかえるだよ ― それぜんぶ ― おやこのかえるだよ」 、と言っている。上目遣いのすこし拗ねたような、それでいて「オレ悪くないもん」っていうなにかを説明させられるときの子供独特の表情で。

 これに対する説明としては以下だけ


 「うちがまだ普通だったころ バケツいっぱいカエルあつめて トラック来たとこまいたのよ 

ところがやつがそれ見てて……やつはも〜〜〜〜ぉおっよわくてさ!! どなってっか泣いてっかだろ あげくに酒に溺れてよ!

......オレらキョーダイにとって やつは

アル中!そいだけだ!」


 少年の奇異な行動を見た父親はストレートにその残虐行為をたしなめたんだろうけどこの行動には2つの解釈ができるように思う。ひとつはアル中の父親に対する示威的行動。もうひとつは少年期特有の思考回路からおこした親和的行動。

 ぼくは後者ではないかと思う。

 5〜6歳ぐらい(?)の少年にとって父親の暴力はイヤだけれどそれでも父親は愛情をもって接するべき存在で、そういった父親に対して示した愛情表現の一種だったのではないか、と。(おそらく少年にとってはたからもののひとつであるカエルを捨てることによって示した)


 でも、よく見てみると違うか。


 カエルは「父親が見ているのを知っていて撒かれた」のではなく「カエルを撒いたところを父親が偶然見た」ということだもんな。では示威的行動ではないな。

 だとすると早い時期にあらわした父親との決別に対する意思表示(自分なりの儀式)だったのかもしれない。そのほうが後の台詞とのつながりも出るしな....。



 でも、ぼくはすこしだけ後者の解釈もあるのではないかと思う。子供ならではの親への愛のようなもの。「親の愛は無償」って言うけどこの時期の子供の愛も無償なのではないだろうか?

 ときどきそれを感じられずに上辺の行動だけで子供を叱りつける親がいるけど......まぁ、鈍感なんだろうから仕方ないか。



 「かえるのこはかえる」.....でもオタマジャクシとカエルはぜんぜん違うんだろうな。

 
 


タグ:家族
posted by m_um_u at 19:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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