2007年08月19日

pre-contents / hyper-contents (コンテンツを越えたメディア体験について)

 最近「コンテンツ」についてぼけーっと考えることがある。「コンテンツ」ってなんなんだろうな?、と。

 字義的な意味では「媒体に乗っける中身」って感じで、「番組」とか「記事」だとマルチメディア・マルチモード時代の状況を正確には表せないので「コンテンツ」という言葉が使われるようになった、と解釈している。つまり、「番組」「記事」「ソフトウェア」などといった情報財の中身の部分が「コンテンツ」ということになると思う。ちょっとウィキペディア見てみよう

コンテンツ - Wikipedia

コンテンツ(contents、単数形content(コンテント))とは、あるものの「内容」(≒情報そのもの)のこと。

特に、メディアによって提供される、ニュースなどの情報や音楽・映画・漫画・アニメ・ゲームなど各種の創作物を指す。書籍、ウェブページにおいても同様である



 ちょっと意外だったのがこの記述。こんなのあったっけ?

コンテンツは、マーシャル・マックルーハンが「メディア論」の中で提唱している、メディアの中のメディアに当たるものである。そのため、コンテンツはメディアでもある。また、マックルーハンはメディアはメッセージであるとしているため、コンテンツ=メディア=メッセージとなる。

 

 まぁ、マクルーハンの本はアレげなので流し読みしたってのもあるのだろうけど「コンテンツ=メディア=メッセージ」ってなんだろ?(批判ではなく)

 ふつーに考えると「メディアはメッセージ」という例の印象深い文言は「ハードはソフトを規定する」ってことでたとえば新聞みたいなハード自体に情報量が少ないメディアはソフト面で情報量を補っていかなければいけないので、コンテンツ(記事)の内容・形式は自然と説明的情報が多くなる、みたいな意味合いを含むものだったと思う。逆に当時の先端メディアであったTVなんかはハード自体がデフォルトで情報量高かったので、ソフトも生み出された段階で情報量が高くて、「説明的な技術を持たなくてもコンテンツを創れる」、みたいな流れがあったような・・。

 要するに「ホットメディア / クールメディア」の話なわけだけど。つまり、メディアには最初から情報量が多い「ホット」なメディアと情報量が少ない「クール」なメディアな違いがある、ってやつ。

 ちょっとぶれるがそういや濱野さんも似たようなエントリ書いてたな。


WIRED VISION / 濱野智史の「情報環境研究ノート」 / 第9回《Twitter/ニコニコ動画編》 まとめと結論


 ここの「非同期 / 同期」の分類は「クール / ホットメディア」を連想するけどちょっと違うか。(非同期メディアは不確実性を前提としているのでそれを縮減しないといけない、同期メディアはその逆って話だったと思うけど)

 んで、とりあえずついったは非同期において多義性が生まれるという弱点を縮減する、と(でも擬似同期)。


 「ついったに置いて生み出されているものは何か」みたいなこの辺のギロンはおもしろいのであとでまた考えてみるとして、「ハードはソフトを規定する」関連で、そういやこんなエントリもあったな。


踊る新聞屋−。: [media]コンテンツは技術に規定される。ではこの先は?


 最初のほう読んでて「また、TVによる一億総白痴化論ですかぁ?」って身構えたけどよくよんでみたらそれとは逆の話だったみたい。エントリ全体の主旨としては、「ハードによってコンテンツの表現形式は規定される面は否めないのだからその辺りを積極的に見つめなおし、hackする必要があるね (「たかがケータイ小説」とか馬鹿にせずに)」って感じ。これは素直に同意。んで、「形式」という言葉から自分的にちょっと思うこととしてはやっぱルーマン系メディア論かなぁ、と。....っつってもまだきちんと編集してないので使いこなせてないけど、まぁ、そのうち。


 で、

 「ハードの変化に応じてコンテンツも変わる」ってことでそれに応じて表現形式なんかも発達していくのだろうけど、でも「根本の表したいもの」みたいなのは変わらないんじゃないかなぁ、とか思う。表現者ってのは自分の中のなんかどろどろしたものを表出・hackすることによって自らの均衡を保つはずなので。ある表現形式、媒体を選ぶのはそれが世間的に認められている優れた媒体だからではなく自分の中のどろどろを表現するのに適している媒体だから、ということだと思う。で、あるならばコンテンツの形式とかメディアの形式によってコンテンツの優劣は決まらないはず。

 前にもちょっと出てきたが、ケータイ小説はケータイ小説というジャンルであって文学ではないのだろう。


muse-A-muse 2nd: ケータイ小説の市場規模やら可能性について (「小説ではなくライブ」ということらしい)

 ここでも出てきた「ライブ的なもの」というのがついったやニコニコ動画のギロンにも当てはまるように思う。濱野さん的には「いま・ここ性」という感じだろうか。


WIRED VISION / 濱野智史の「情報環境研究ノート」 / 第12回 セカンドライフ考察編(7) :「いま・ここ性」の複製技術としてのニコニコ動画

 このエントリと合わせておーざっぱにまとめると

WIRED VISION / 濱野智史の「情報環境研究ノート」 / 第11回 セカンドライフ考察編(6) :ニコニコ動画が「活況を呈している」のはなぜか?


 濱野さんのニコ動考察っていうのは、「ニコニコ動画は素材となる動画(コンテンツ)に独自性というか人をひきつける魅力があるのではなく、動画に入れられたツッコミあるいはツッコミを入れるという体験そのものに魅力があるのではないか?」、って話だと思うんだけどそういうのはやっぱ「コンテンツより○○」って話なのかなぁ、と。


 んで、「コンテンツより○○」っていうか「コンテンツ以前の○○」って話としてはちょっと話がそれるけどこの辺に通じるかなぁ、と。


ある編集者の気になるノート : いま編集者に求められているのは、「ダウンロードできないもの」を作ることなのかもしれない。

 エントリの主旨としては「複製技術時代だからこそ複製できないものが重要なのではないか?」ってこと。で、「複製できないものとしてのLiveを重視せよ」、と。これと同じことをほぼ日でイトイさんが言ってたように思う。(これからはライブが重要) だからこそ、「Beautiful Songs」という発想が出たはず。

 ライブ関連で言えばこの辺のギロンにも通じる。


音楽配信メモ プリンスはなぜ新作CDを「新聞のおまけ」として配布したのか

音楽配信メモ A Nation of Thieves? - 盗人国民?

On Off and Beyond: 著作権保護よりライブで稼ぐ、というビジネスモデル


 「CD(コンテンツ)の売り上げに頼るのはやめてライブで稼ごう」って発想。CDはライブのための宣材としての役割を終えればpayしなくてもいい、と。んで、実際ライブで元取れてるみたい。

 っていっても、こんなのプリンスぐらい知名度がないと無理かなとも思うんだけど、でも中間団体通さなければなんとかなるって話でもあるのかもしれない。



 こういうのを見てると「コンテンツってなんなの?」って思う。表現者にとっては売れることよりも伝わることのほうが重要で、そのためにコンテンツっていうのはより多くの人に声を届けるために表現を冷凍保存したものってことだと思うんだけど、産直ができるようになればそれはいらなくなるのかなぁ..?

 以上が「コンテンツ以前」への志向をもった話だとすると、濱野さんのギロンは「コンテンツ以後」というか「ハイパーコンテンツ」な話なのかな、と思う。

 いづれも「コンテンツより○○」って感じなんだけど、後者の場合はコンテンツを足場にしてそこに創発が生まれていく、と。まぁ、CGMってやつだけど。

 そしてそういう話というのは(けっこう言い尽くされた感もあるけど)「blog時代の記者は記事作成能力ではなくコミュニケーション能力も必要」みたいな話にも通じてくる。「blogはcontentsではなくconversationだ」(Dan.Gilmor?)ってやつ。

 そういう話はニコニコ動画にもついったにも通じるのだろう。


 特に最近ついったにどっぷりつかっているぼくとしては「ついったというのは会話がそのままfeatされたメディアだな」、って印象がある。blogよりも会話とかコミュニケーションがダイレクトで早い感じがする。blogの場合はエントリ立てるまでに時間かかるけどついったにはそれがないし、レスも早いし、mixiと違ってなければないでいい(つかオレのmixiはレスなし基本だがw)。

 なので、最近だとblogやぶくま以前のアモルフ(流動的)な志向をそのまま出しておく場として使っている。つか、ぶくまやblogでとりあげるほどでもないけど見ちゃって頭に浮かんだことがあるのでいちお吐いとくか、みたいなの。

 これはついったのメディア特性というよりは、ぼくがもともとそういうコミュニケーション様式が好きなんだろう。絶えず思考が分散してるからな。(いまもこれ書きながらついったで「ビッグサイトって伝染るんですの斉藤さんみたいだよね」みたいな話してたし)


 
 話を戻そう。ハイパーコンテンツとしてのニコニコ動画とついった、っていうか、ついったやニコニコ動画で現出しているアモルフなものとはなにか?

 こういう話はメディア論ってよりは認識哲学みたいな話になるように思うのだけれど.....どうだったっけな? (ロードデキマセン...アツサデロードデキマセン)


 ....うーん.....保坂和志なんかが季節の記憶って読んでた思考が固まってしまう以前の思考(あるいは志向)だと思うんだけど..。現象学系かな?


 まぁ、とりあえずその効用というかおもしろさというのは「固まってないこと」「ステレオタイプ的じゃないこと」にあるように思う。

 「思考」や「志向」、「嗜好」ってのは語彙獲得と同じ時期にくっついてくるイメージなんかのせいで固定化され、そのために自分の中のリアリティを表出できず、現実というものがたいしておもしろくない(なんの変わりばえもない現実)って感じになる。でも、語彙を増やし、内省を繰り返していくことによってその部分のhackは可能だし、それによって自分の中のリアリティ、それに対応するような「本当に自分がおもしろいと感じるもの」に向き合えるようになってくる。「コンテンツ」って感じで提供されたものではなく。

 そういう視点を持つようになると既存のコンテンツというのはhackの対象でしかないし、没入するということはなくなってくるように思う。少なくともぼくはそうだし。「そうするとコンテンツそのものの楽しみは失われるのではないか」、って感じになるのだろうけどhackの可能性は無限なのでそこからコンテンツの楽しみが出てくるというか、いろんなコンテンツ、文脈と繋げて遊べるようになる。っつーか、本来の意味でのコンテンツ(作品)と向き合う姿勢というのはこういうものだと思うんだけど...まぁ、いいや。

 でも、こういうことを言っているとコンテンツ屋の人から、「そういうシニカルな姿勢を突破し、没入させるものこそ真のコンテンツっすよ!」、って言われるのかもしれない。....っつっても、そんなものもはや皆無だしなぁ....。(自分的には)


 話を戻すと、ニコニコ動画の場合はこんな感じの「コンテンツと向き合いhackする」って楽しみがfeatureされたものなのかなぁ、とか思う。トフラーあたりに言わせるとプロシューマー的態度ってやつか? ついったの場合はどうか?

 ぼくとしてはblogやぶくまのメタ次元としてついったを使っているんだけど、blog的なものってのは言ってみれば二次創作的なものといえるのかもしれない。それへのメタってことだからついったは三次的なものといえる(....のかなぁ?)

 まぁ、使い方は人それぞれなのでよく分かんないけど。とりあえずいまのついったの仕様だとリファラ付きづらいのでこういう風な使い方もアリなんじゃないかと思う。


 んで、そこで現れてくる新しい体験とはなにか(従来のコンテンツ的なものを越える、あるいはalternativeとなるようなものなのか?)ってことだけど........わからんなぁ。そういう体験したことないし。followもfollowerも中途半端ってのもあるんだろうけどまだよくわかんない。


 とりあえず言えるのは、「ニコニコ動画にしてもついったにしても従来のメディアでは拾ってくれなかった部分を拾うべく分節化したメディア(あるいはこのような細かいメディアが出てきたので従来のメディアでは満足できなかった表現ができるようになる可能性がある)」、って感じだろうか。

 ちょっと違うだろうけど、こないだの手書き祭りはちょっと面白かったな。

twitterで手書き文字共有が流行中 - F's Garage typeC

北の大地から送る物欲日記 - 手書きTwitterブーム到来


 ちょっと前のケーカホウコクにも書いたけど、新しいメディアによってアナログ的なものが見直される(埋められる)っていうのは面白いかも。




 そんなこんなでいつもながらまとまりのない話だけどまとまらないなりにまとめると、


○ twitterやニコニコ動画における体験というのはなんなのだろうか?


○ それはコンテンツ消費型体験というよりはコンテンツを越えたところにある体験といえるのではないか?


○ コンテンツを越えたところにあるメディア体験の一つとしてのライブ感  ≠ コンテンツ以前のアモルフなもの / コンテンツ以後のアモルフなもの


○ そういった流れの一つとしてアナログなものへの回帰(あるいはアナログなものをデジタル的に修飾することよって復権)があるのかも



 って感じでした。(未完)

 


posted by m_um_u at 18:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク
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