2007年08月10日

「いじめは気づけないよね?」、と鈍感な人は言った

 ようやくお盆で大人の夏休みってことでなんか明るくバカバカしいエントリでも書きたいところだったのだけれどその前にちょっと引っかかることがあったので消化しておくこととする。

 どういう話の流れだったか忘れたけど母と話をしている内にいじめの話題になっていて、

「でも、自分の子どもがいじめられていても気づけないよね?」

 って母が言ってきたので、

「お母さんはね」

 って返したらちょっと考え込まれてしまった....。

 
「....わたしが鈍感ってこと?」

 とか言われつつ、あぁめんどくさいなぁ、と。


 この人の質問調の発言というのはいつもそうで、質問に答えが含まれていてそれに沿わない答えが返ってくると憮然とするので。いくらこちらが論理立てて説明しても「屁理屈」とか「頭がいいのをひけらかして」みたいな反応が返ってくるので正直めんどくさい。

 はじめから答えが決まっているのなら質問調にして解答の自由を与えなく「いじめには気づけないよ」とか断定調で言えばよいしこちらも独り言として放っておけるのだけれど質問調でこられるのでこたえざるを得なくなる。「解答の自由を与えている」という余裕をみせることもポーズのひとつになっているのだろう。あるいは、「その答えはあなたが自分で引き出したもの」、というレトリックを使っているわけだけどその辺のところ無自覚なので性質が悪い。。

 つか、そこまで深い話でもなくこの人が乙女時代から身につけてきた甘さっていうか自衛の手段がそのまま出てるってだけなのだろうけど。つまり、いろんなものごとの責任をうまく回避する術みたいなの。

 上記のレトリックの場合、「解答の内容はあなたの自由」という形式がとられつつも内実は選択肢が限られている(つか一つしかない)。「いじめは気づけない」という命題に「よね?」という同意強制型の言い回しをくっ付ける事によって当人の中での蓋然的な事実を社会的な事実として当然視させるテクニック。

 内田センセ流に言えば「遂行的言明を事実的言明にすり替える」ってことになるだろう。(あるいはパフォーマティブとコンスタティブの違い(参照))

 んで、こんな感じで「その解答をしたのはあなたの自由意志によるもの」って感じで発言の責任を相手に投げちゃうわけだ。
 


(......って、なんかいじわるく見てるみたいで心苦しいのだが、母との仲は悪くないです。昨日も夏の忘年会(納涼祭り?)みたいな感じで飲みに行ったし。ただ、問題があるところは問題があるので、その辺をできるだけ客観的に記述しとこうかなぁ、と。できるだけ客観的に記述することによって彼女の行動の原則というものが分かるし、私的な課題でもなくなるので苛立ちもなくなるかなぁ、と思うわけです。 まぁ、そんなこんなで続きを....)


 んで、そんな感じで「責任を自分が負いたくない」ってのは彼女の行動選択の端々に見られる。たとえばなにか簡単なことを決定するのにも決定権をこちらに委譲してきたりするし...。でも、そこでの結論も彼女の意に沿わないものだと却下されたり..。(「じゃあ、最初っから自分で決めればいいじゃん」ってことが何度もある)

 こういうのは彼女だけに限らず(一部の)じょしっこにありがちな優柔不断的な心理ってやつなのだろう。要するに甘いのだ。社会に対しても、自分に対しても。そしてそんな自分に優しいのだ


muse-A-muse 2nd: ひぐちアサ、2001、「ヤサシイワタシ」



 世間的にもそういうじょしっこに甘かったりするもので、じょしっこの提示してきた「空気嫁」的な質問に対して、「うん、そうよね」、って感じのうなづき的なコミュニケーションで返すのが世間一般で言う妥当なコミュニケーション(社会的でオトナなコミュニケーション?)ってやつなのだろうけど、あいにくぼくはそんな感じで世間ずれしていないのでしばしば本音を言う。

 で、一部のじょしマインドをもってる人から嫌われたりするわけだが、その辺はまぁ他人とのコミュニケーションではそれなりに自重.....してるかな? 前になんかで意見求められたときに本音言ったらなんか怒られたな。(国語の選択問題の解答例と解答を選ぶ際の理由を述べよ、みたいな感じだったかな) あれも彼女の中にあらかじめ答えがあって、その答えを裏切る形で回答したのでカチンと来られたのだろう。ぼくとしてはなんの他意もなくきわめて論理的に答えただけだったのだけれど。。(ちなみにその彼女と周辺グループからはしばらくして連絡が来なくなった)



 
 で、コミュニケーションにおけるレトリックの問題についてはこの辺にしておいて、次に彼女が発した命題について考えてみる。「いじめって親は気づけないよね?」、ってことだけど....

 これに対してぼくが、「お母さんはね」、と答えたのは2つの理由がある。1つは彼女が娘(ぼくの姉)がいじめられていたことを後に知って少なからずショックを受けたことを知っていたから。母はいじめがあった当時に打ち明けてもらえなかったということにショックを受け、彼女なりに責任というか罪悪感みたいなのを感じていたのだろう。で、そういう意識を贖罪してくれる対象としてぼくを選んだのだろうけど、ぼくはそんなに甘くはないので。

 甘くなれないのは彼女がぼくに対していままでしてきたこと、その鈍感さからぼくを死ぬほど(ほんとに文字通り死ぬほど)いじめてきたことに彼女が気づいていないから。そういう相手に対して、その当時のことを謝りもせず自分の罪悪感の贖罪を求めてくる図々しさというのはすごいなと思う。 


 もう1つは彼女が「いじめ」という言葉に反応しているだけで、子どもの苦しみに対する良心の呵責というものはびみょーなんじゃないか、ということ。

 ちょっと曖昧な例になるがこの件に関しては小学校の夏休みの記憶がよみがえる。なんの用だったか忘れたが外から帰ってきたぼくは母にとても話したいこと(あるいは相談したいこと)があって話しかけたのだが、「いまちょっとTV見てるから!」、ってことで追い払われた。たしか「おしん」かなんか見てたんだと思う。

 彼女は「おしん」の主人公の悲しい場面に感情移入して、「その悲しみに比べれば目の前のガキがピーピー言ってることなどとるに足らないことだ」、というような反応をしたわけだけだ。もちろんそのTV番組を見終わった後、彼女からその時ぼくが話したかったことについて聞かれることはなかった。


 とてもとるに足らないことだと思う。とても小さなこと.....忘れてもいいようなことなんだと思う。

 でも、この記憶....そのときのさびしい感情はぼくの中に残っていった。(「この人はぼくよりもTV番組のほうが大事なんだな」って)


 そんな感じで子どもの些細な感情の起伏を読み取れない人なのだ。「いじめ」にしても社会的に「いじめはいけない」ということになっているのでキーワード的に反応していて、子どもの感情の変化というのが先にあるわけではない。

 「いじめ」が「悪い」ことなので反応しているのだろう。


 もちろんそういった行動をとる中で彼女なりに子どもの心配をしてきたのだろうけど、その行動選択というか、その行動を選択するに至る意思決定の選択肢は目の前の子どもに合わせて考えられたものではなく社会的に正しいとされるものを選び取っていったって感じなのだろう。

 
(....って、またちょっと苛烈になってるな....。ほんとはこういう文章は書きたくないのだが..)


 そうはいっても子育ての方法を全て自分で考えて行動できる人なんか稀で大部分の人がなんらかのマニュアルに頼ってるってのはあると思う。そしてそれは当然のことだな、とも思う。でも、なんつーか......彼女にとっては「おしん」のほうがぼくよりも大事だった、ということだ。


 いじめかいじめじゃないかなんてのはひどく曖昧で、どんなに「いじめ」定義が固まっていっても当事者によってゆらいで行くものだと思う。その意味では「いじめがあるかどうか」が問題ではなく、「子どもが暗い顔をしている」「前よりも話さなくなった」「笑顔がなくなった」「いつも見てるTV番組を見なくなった」「食事の量が減った」「喜怒哀楽の幅が減ってきた」、などといった些細なことを見分けられるかどうかがポイントだと思うんだけど、「いじめ」マニュアルが固まれば固まるほどそれに頼って自力の洞察が抜け落ちていくジレンマもある(のかな?)

 とりあえず鈍感な人にはムリなのかもしれないなぁ、とか思う。


 あと、もう一つ。

「わたしが鈍感ってこと?」っ質問(あるいは反意語)には「いいえ、あなたは鈍感ではありません。失言でした」って答えが期待されていたり、「それならあなたは敏感ってことなの?」って質問が含まれているわけだけど、この辺もウザイ。

 この辺のところは前に長女ともやりあったが、ぼくは相手に対して「鈍感」と言うことによって自分の優位性(「敏感」)を確認しようとしているのではないのだが..。ぼく自身は自分の感性はふつーレベルだと思っているのでその「ふつー」レベルに対して鈍感なのではないか?、といっているに過ぎない。

 それを彼女たちは敢えて、「ほぅほぅ、オマエ様は敏感とおっしゃるわけだね?」、って感じでつぶそうとしてくるわけだけど...そういうコミュニケーション様式そのものが権力的ということにこの人たちが気づくことはないのだろうな。

 



 っつっても、鈍感というのは彼女たちの特性のようなものなのだから仕方ないかなぁとか思っている。ウサギとかヤギとかそういうのと付き合うようなものだと思えば良いのかもしれない。なにせ彼女たちはふつーに、深い話をせずに付き合っていくぶんには気の良い人々なのだから。(パッパラパーと付き合っていくのが吉なのかもしれない)




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関連:
muse-A-muse 2nd: 信じるということ


藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 私は、あなたを、ころしたい


※「鈍感」という暴力について。あるいは家族における権威性を利用した暴力について。そういえば仏教においては鈍感も煩悩に含まれるのでしたな。(六煩悩¥執着¥鈍感


 
 


posted by m_um_u at 19:10 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
コメントが・・・書けません。
・・・だったら書くなっつーの!なんですが。

自分ちのブログに最近書いたコレ・・・。
http://name-is-x.raindrop.jp/2007/08/post_116.html
”私が最も大事にしていたもの”は、仕事でした。確かに仕事は大好きでした。唯一、自分を支えるものでした。

・・・が、そもそも仕事だけは私を裏切らないと、ある意味、依存症のように仕事をしてきた根源には、親の問題があり・・・。
いろいろと書きたいことはあるのですが、自分ちのブログに書く勇気がずっと出ないところです(つって、人んちのコメントに小出しにしてたりするわけですが)。書いたところで、バレることはないと思うんですがねぇ。

女として生きてはいけない、人を信じてはいけない、楽しんではいけない・・・心理学用語で言う様々な禁止令に縛られて生きてきたのですが、それはいったい誰のせい?と叫びたい気持ちになることがあります。
心の中にカラカラの砂漠を抱えているようで・・・。

藩金蓮さんちのエントリーにある”私は私の様々な傷を、文章を書くことによって治癒してきたつもりで”という表現、とってもよくわかります。私も暗ぁいエントリーや妙に生真面目なエントリーを上げている時は、「書くことによってしか生存の確認と、自分の浄化ができないのよ」と思いながら書いているので。
だけど、まだ書けない・・・ですね。

そういうわけで「女として生きてはいけない」ワタクシですから、正真正銘のおぼこ娘なわけですよ(笑)!。
Posted by 勤労者X at 2007年08月10日 23:43
締めの言葉が男前ですてきですw

ところで赦しについてですが、

おそらく記憶の構造と一緒で忘れたり赦したりっていうのはスイッチを切り替えるように簡単にできるようなものではなくて、積み重なりながらぼんやりと陰影を変えていくようなものだと思います。

その意味では「あなたも親になれば分かる」というのには一理あっても不十分だな、と。親になったら少しは母や父の心境も理解できるようになるかもしれませんが、ぼくが親になることと彼や彼女たちが親になったこと(あるいはそこでしたことするであろうこと)は違うように思うので。

一部の理解は示せてもそれがすべてではないように思います。

というか、その部分の理解を手がかりに融和の可能性をはかるということなのでしょうが....やっぱそれとこれとは別かなぁ、と。なにせ彼女の暴力性が心に刻まれているので「許そうと思っても心を許せない」ってのもあるんですよね、危機意識として。

でも、許したり忘れたりはしないけど仲良くすることはできるのではないかと思いそんな感じで接しています。


あと、うちは厳格な家ではなかったので厳格な親からの心理的圧迫というのはよく分からないのですが、女性にはそういう因習のようなものがあるみたいですね。

そういえば前にyukiさんもそんなことを書いていたように思います。(yukiさんはお母さんが厳格すぎるのに反発して売春婦をはじめたんだそうです)

顔を憎んで鼻を切れば、唇も消える
http://yuki19762.seesaa.net/

勝手な推測ですがそういう風にして彼女の中の親を殺したのかなぁとか思ってます。
Posted by m_um_u at 2007年08月11日 06:09
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