2007年07月24日

細田守、2006、「時をかける少女」

時をかける少女 通常版
角川エンタテインメント (2007/04/20)
売り上げランキング: 4




 いまさらながら初見したので軽く感想を。その前に概要とかその他もろもろは以下に任せるとして

時をかける少女 (アニメ映画) - Wikipedia

東京の下町にある高校に通う女子高生・紺野真琴は、ある日踏切事故にあったのをきっかけに、時間を過去に遡ってやり直せるタイムリープ(時間跳躍)能力に目覚めてしまう。

最初は戸惑いつつも、遅刻を回避したり、テスト問題を事前に知って満点を取ったりと、奔放に自分の能力を使う真琴。そんなある日、仲の良い2人の男友達との関係に、微妙な変化が訪れ……



 感じたことだけごく簡単に記しておこうと思う。(※もちろんネタばれありだよ!

 まず最初に、冒頭の「電車に轢かれてタイムリープに目覚める」というところでこの物語というのは死者の回想というか、夢落ち的な話なのかな?、と思った。例の、「あの話は全部のび太くんの夢で、ほんとののび太くんは植物人間で夢から覚めない状態にあるんだ」、ってやつ。物語序盤では実際そういうことを思わせるぐらい楽天的にストーリーが展開していくのだけれど、中盤の転回部で少しスピードが変わる。

 「あなたが気楽にタイムリープしていることで不幸になっている人がいるかもね」、っていうおばさんの一言で。で、この言葉通り能力の責任を自覚させるように物語が展開していったわけだけど・・そういったテーマ(「責任の自覚」的なもの)以外に「時をかける少女」という物語に伝統的に受け継がれているテーマが重要なように感じた。

 「時をかける少女」というのは前作からジュブナイルという形式を踏襲しているわけで、であるからこそ物語の中ではこの年代独特の甘さや脆さ、青春の甘酸っぱさのようなものが描かれている。「甘い」「甘酸っぱい」というのはおそらくこの年代特有のアモルフな状態への滞留というか、もうちょっとキツくいえばモラトリアムのままでいることの甘さみたいなもの。そういったものからの成長の様子が暴力的にではなく、説得力のある形であがかれているように思った。以下、もうちょっと詳しく。

 まず「モラトリアム」ということについて。たとえば主人公は二人の友人(♂)から好意をもたれつつもその状態を保留していたり。主人公自身は気づいてなかったのかもしれないけど、二人の友人はそのことに薄っすらと気づいていて決断を保留していたりする(「付き合おう」っていうと友人でもいられなくなる可能性があるので)。っていうか、三人が三人ともそういうことに薄っすらと気づいていて、その中で曖昧な状態を保つことを選択していた。つまり「恋愛モラトリアム」ってこと。

 こういうのは酸いも甘いも噛み分けたおっさん・おねぇさんからすると「ケッ」と唾でも吐きたくなるような甘さかもしれないけど、まぁ、こういうのも青春の一ページってことで。(っつーか、「青春」って言葉自体が甘酸っぱい)
 
 同じようにこの時期に初めて本格的に将来について悩まなくちゃいけなくなったり。「理系か文系か」の進路選択ってのはこの年代の子ども達にとってけっこう重要かつ切実な悩みだったりする。中学、高校受験の段階でもそういうのはあったかもしれないけど、やはり多くの人たちが主体的に将来について悩み選択したのは「文理どっち?」な進路選択だったのではないか?


 そんな感じで時間は待ってはくれないけど、もう少しこの心地よい時間に留まっていたい気持ちがあったり..。それは「モラトリアム」ってキーワードからすればそれは「大人になれない(なろうとしない)」として断罪されることなのかもしれないけど、それともちょっと違うように感じた。


 これと並行するように「なかったことにする」という子ども特有な心性が作品の重要なテーマになっているように思った。主人公はタイムリープという特殊能力を身に着けたことでちょっとした失敗や挫折を「なかったことにする」ために細々とタイムリープを刻んで自分の思い通りに完璧な世界を作り上げていく。それは子どもの頃なら誰もが夢見たことのあるような時間旅行のベタな使い方といえるだろう。でも、それってどうなの?、って感じがある。

 「完璧」とか「主体的に全てを決定する」なんてのは人間にとってそんなに重要なことなのか? というよりも、人生の中でそんなに完全に自分の進む道をコントロールできたことなんてあったのだろうか? むしろ外部からの影響に応えることによって「自分」というものが鍛え上げられていったのではないか?

 ある程度年季の入った人ならばそんなことを思うかもしれない。「自分が流れを作る」のではなく「流れの中に飛び込む」ということが大事なのだろう。(そしてその流れを泳ぎきること)

 そのことを諭すように物語後半ではタイムリープという便利能力は失われていく。というよりも、「やり直せること」の大切さを気づかせるように物語が構成されていく。(cf.「若さってのは何度でもやり直せるってことなんだ」)

 そして一気にエンディングに収束していくわけだけど....最終的に、前段であげた「モラトリアム」というテーマと「なかったことにする(あるいはお子様的完璧主義)」というテーマはどのように結ばれたのだろうか?

 なんとなくだけど、エンディングでは主人公は時間の流れ(成長)を受け入れ、それに対する責任を決意したように思えた。「ワタシ、やること決まったんだ」という言葉にそれが表れていたように思う。

 それは「流れに身を任せてモラトリアムを諦める」(オトナになる)ということではなく、流れの中で自分ができることに積極的に向き合って、「できること」の範囲を増やすために努力していく(大人になる)ことの決意の表れのように思えた。その意味で流れの中で恋愛モラトリアムを終わらせるのとも違うし、すべてを諦めてモラトリアムに閉じこもっていく(セカイ系)というのとも違う。

 物語序盤で主人公が恋愛モラトリアムの終焉を嫌がっていたのは自分の意志が決まらないうちに外部から「こういう形であるべきよー」ってものを押しつけられるのがイヤだったのだろう。でも、後半で誰かを選択した(選択し責任を引き受ける意志をもった)というのは主人公の成長の表れであるように思った。


 そういうわけで優れたジュブナイルだなぁ、と思ったわけでした。



 んで、以下は個人的な感想。

 「子どもと完璧性」ということでは「王様とボク」(やまだないと)とか「ピンポン」(松本大洋)なんかを連想した。後者は「ヒーロー見参!」(恋愛を超えた信頼)ということで少し違うかもしれないけど、ジュブナイルということでは共通するし、松本大洋ということであれば「鉄コン筋クリート」のテーマのひとつ(「こどもの城」という合理性装置)も絡んでくる。

 あと、恋愛における純粋さ関連だと「少年少女」(福島聡)なんかが絡むか。でも、あれはジュブナイルではなく「恋愛や人を思うということにおいて一番純粋かつ強力なのは子どもの思いかもね!」ってことなのでちょっと違うか。
 

 あとchkiさんの感想を見ながらぼんやりと

荻上式BLOG - 輝く未来の必要性について―『時をかける少女』を再度観て。

 『クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲』の話は「20世紀少年」(浦沢直樹)みたいっすね。そういうわけでリアルではオウム事件に接続できるか。あと、「アカルイミライ」関連では徳力さんのこのエントリが思い浮かんだり


Did you know 2.0 私たちは子供達の未来の為に何ができるのか? : tokuriki.com


....とりあえず選挙行かないとね



 んで、そういうのとはまったく別に「昔、オレは王様だったんだゼ!」って言葉が頭に浮かんだ。小学3年生まで「自分は死なない」って思ってて、それが打ち砕かれたときに受けた衝撃とか失望感のようなもの。タイムリープってのはまたちょっと違うか。でも、あそこで描かれていたモラトリアムな世界(空気感)というのは懐かしいものだったな。

 特に千昭の、「還らなきゃいけないのについ長居しちまった。おまえらといるのが楽しすぎてさぁ」、って台詞にはなんかいろいろ込み上げて来るものがあって危なかったです。






♪ スガシカオ / タイムマシーン

posted by m_um_u at 10:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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