2007年07月20日

♪ 武田裕之 / アイコに捧げるバラード

 けっこうどーでもいい内容なのでスルーしようかと思ったんですがサトーアイコのことが気になってメモっときたいいのでエントリ上げときます。まずはここから


切込隊長BLOG(ブログ): 佐藤藍子「私もジャーナリズムへの過大評価だと思ってました」


 なにやら武田さんの記事にガトーさんが噛み付いている、と。これっすね


「事実主義」こそ、ジャーナリズムの敵だ (タケダジャーナル):NBonline(日経ビジネス オンライン)

ガ島通信 - 武田徹こそ史上最強のジャーナリスト


 んで、まぁ、隊長も「どーでもいいんじゃね?」って感じなぐらいのローテンションで確かにどーでもいい内容な訳なんですがエントリに起こすのでいちおその理由を説明しておきましょう。


 まず最初の武田さんの記事ですが、論旨としては以前の記事からケイゾクして「メディアを疑え!」というか「既存マスメディアを疑え!」って視点ですね。それを一般記事用にわかりやすく(かつ少しセンセーショナルに)まとめている、と。

 っつーか、前回の記事からの続きとして「完璧じゃない報道があってもいいんじゃないか?」って話を展開されてますね。この辺はまぁ、どーでもいいかなぁ、と。「どーでもいい」っていうのはこのギロンはジャーナリズム論的には既出というか、「報道に完全客観はあり得るか?」という命題に接続できるんですね。んで、この手の話をする場合は前提としてその領域におけるそれまでのギロンを参照すべきだけど、その辺は特に言及されてないので。まぁ、「内容薄いな」、って感じですな。

 って、「一般用に分かりやすく」ってことなんだろうから仕方ないのだろうけど(文字数も限られるし)、でも、たいした内容じゃないことは武田さんも自覚されているはずです。

 んで、その「たいした内容じゃない」記事にガトーさんが噛み付いてるんですね。

 「たいした内容じゃない」とは言っても全体のテーマである「未完全な記事はジャーナリズムとして成立するか?」という部分についてギロンを挑んでいくのなら正統なギロンが成り立つのでしょうが、どーも、ガトーさんは枝葉に拘っているみたいで・・なんか、「話にならないな」って感じなんでしょうね。

 とは言っても、「表出された記事から何を読み取るかは解釈の自由」、といえるところもあるんだけど・・・それリテラシー論的にもびみょーですからね。(まぁ、ガトーさんのメディアリテラシー理解ってあんな感じだから仕方ないのだろうけど)

 枝葉というか自分が気になった部分について自説を展開するのも自由だとは思いますが、やはり「テクストのメッセージをなるべく誠実に読み取った上で」というのが前提条件になるのではないでしょうか? その意味でガトーさんの呼びかけは伝わらないだろうな、って思います。


 で、上記は主にコミュニケーション(あるいはギロン)における作法の問題ですが、それとは別に武田さん、ガトーさんが展開されている(あるいはしようとしている)ギロンの内容の部分の問題がありますね。

 「メディアを疑え!」というところではお二人とも共通しているのですが、お二人の中で「blog」と「フリージャーナリスト」の位置づけが違うのだろうな、って感じがします。

 武田さんの場合は、「フリージャーナリスト > 既存マスコミ(メディア企業)によるジャーナリズム > blogなどのアマチュアジャーナリズム」、って感じで捉えておられるように思うのですが、ガトーさんの場合は、「フリージャーナリスト ≧ blogなどのアマチュアジャーナリズム > 既存マスコミ」って感じなんでしょうね。で、「オマエ、blog舐めてんのぉ〜?」って感じの憤りを感じておられる、と。

 まぁ、双方ともびみょーに感じるのですが、その理由についてきちんと示しておきます。

 まず武田さんのほうですが、これでも読んでからギロンされてはいかがでしょうか?


マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心
林 香里
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 既に読んでいる場合は明確な反論理由を示していただきたいです。そうしないと話にならないな、と。(ジャーナリズム論的には)

 そういえば弟子筋(?)の赤木さんもblogのことを見下したようなコメントを入れられてましたね。


どうぞ、何の責任もないブログの海の底で、鈴木謙介のお友達になった夢でも見続けてください。



 まぁ、武田塾の認識はこの程度なんだろうな、と。そう思います。(赤木さんも少し前までいちbloggerにすぎなかったのにね。いまも似たようなもんだし)



 で、次にガトーさんですが。ガトーさんの場合は例の徳力さんラインかなんかのプロジェクト「blogに責任や継続性をもたせよう」計画に関わっているのでその辺で憤りのようなものを感じられたのかもしれません。でも、前にこちらのエントリにもあった通り


finalventの日記 - 私が言うと誤解されるんだろうけど(リライト版)


 びみょーっすよね。(以下、ちょっと長いけど重要なので引用)


日本の言論の構図では常にいくつかの派閥的なジャーナリズムや出版界に事実上従属していた。知識人は、ジャーナリズムの限界やそれを越える知識を持ちながら、ある種のコードを出ない。また、そのコードが事実上、金銭的な知識のマーケットを意味していた。

 これに対して、プリミティブなブログシーンは、しだいにそうした枠組みを自然に超えつつある。マスの動向やマス操作的な情報にも自然に警戒的だし、知性に対しても、それが知的であるとされる既存社会コードから、より身近な問題について真摯に対応しつつある。理由は、彼らが毎日ブログをしているからだ。ブロガーは、コメント欄やトラバ、SBMなどの明示的なコミュニケーション関係よりも、各種の小さな島のような各種のブロガーが発する話題・関心の流れのなかで、常に小さな自己が表出的に問われるように思考している。その結果としての表出は知的ではないかもしえれないが、アクチュアルであるし、この過程から見てもわかるように共同体志向的である(この共同体的性質はおそらくある種のセンスあるいはリテラシーとして結実しつつある)。

 そして、そのようなブログシーンに人が存在する条件は、単純に、毎日と限らなくても、ほぼ毎日ブログしていることである。そうではないマスや知識人は、日々のブログの流れが読めない。だが、ブログの流れが読めない人がブログをマスや知識人市場で語ることが多く、それはブログの内側の感覚からは異和感のようにしか受け取れない。

 ブログのなかで生きている……それはネットの中に生きているというのではない……という感覚が一定数産まれるなかで、それが非知的に見えても、具体的な生活に根ざした思想という点でもっとも本来的な思想活動になりうる。思想とは現実の「私」の生きがたさからしか発しないし、それを発して受け取る人の運動(「私」を具体的に越えていくこと)のなかでしか生き生きと現れえない。



 これの元エントリではしっかり個人名上がってて、「たとえばガトーさんなんかはそういうブログシーンから離れてしまっているのではないか?」、という疑義が呈されていたのですが残念ながら元記事消えちゃいましたね。(....チューチュー言うから)


 んで、「ガトーさんはブログシーンから離れているのではないか?」について、まず同意します。彼はいつの頃からか知らないけど人のTBやコメントに反応しなくなったみたいなので、どうやってもブログシーンとは乖離しているでしょうね。「ブログで起こるさまざまな事件をROM的に見てまとめる人」、って感じになってしまってます。それは有名税的な炎上を避けるためなのだろうけど、そういう彼がブログの可能性について語るのはなにか滑稽な感じがしますね。

 で、彼の想定している「ブログの可能性」ですが、具体的にはアメリカ的なblogを目指してるんでしょうね。でも、前にもちょっと言ったけどアメリカ的なblog利用というか、言論への感覚というのと日本的なそれとはちょっと違うように思います。

 あちらはblogエントリそのものをコンテンツとして昇華させる傾向があるように思うのですが、日本はどうやってもコミュニケーションツールの延長って感じがするので。それはどちらが良いとか悪いとかそういう問題ではなく、そういう傾向の違いがある、というだけのことです。blog登場初期には「日本のblogは日記文化的なものの延長になるだろう」といわれた例のアレですね。で、実際そんな感じになってる。(っつーか、日記以下かも)

 それに対してアメリカのblogっていうのは・・なんつーか、second workって感じなんですね。なので、別にマネタイズされなくてもbloggerの本分は貫くように思います。マネタイズが彼らの責任へのインセンティブになっているわけではないと思うんですよ。

 確かに、結果的にこんな感じでお金とblogは繋がってきてるみたいなんだけど、


あの有名ブロガーはいくら稼いでいるのか? | P O P * P O P


 それはあくまで「結果」であって副次的な効用に過ぎないように思います。(っつーか、徳力さんたちが進めようとしているマネタイズの額と桁が違いますね)


 んで、こういうと赤木くん辺りが「ほぅら見たことかぁ。やっぱり日本のブログは無責任なんだぁ」とか言ってくるかもしれないけど、それとぼくの責任意識とは別ですからね。blogの可能性、ジャーナリズムの矜持について考える側の人間が自分の書くものに責任もたないわけないでしょ。(赤木くんあたりは上記の論理をもって、「ぼくもネット世界ではネットの毒にやられて無責任にならざるを得ないんだぁ」、とか言いそうだけど)



 その他、武田 - ガトー問題についてこの辺で論じました。(主にガトーさんの脇の甘さについて)

muse-A-muse 2nd: ♪ たけだ がとー たかぎー (← 例のCM調で)



 で、


 ようやく本題なわけですが、例のしったか後だしジャンケン女王であるサトーアイコ嬢について


越えられない壁( ゚д゚):【佐藤藍子】 “知ったかキャラ”がネット上でも意外に受けている - livedoor Blog(ブログ)


 リンク先エントリでも指摘されているように、なんかやけにいろんなことを知ったかしてるみたいなんだけど、単に「知ったか」ってわけではなくてほんとに知ってるのかもしれない....。むしろそっちのほうがちょっとアレげな感じもするんだけど。

 なんつーか、女寺門ジモンみたいになってきてるんですかね? で、「アイコ、その路線で大丈夫なの?」とマネージャーみたいな心配をしてしまうわけだけど本人がそれでいいならいいです。

 そういえば以前「ごきげんよう」を見たときにサトーアイコさんがゲストで出てて、サブちゃん(北島三郎氏)から馬をせしめてました。例のしったかしらずか攻撃で「わたし、馬にも興味あるんですぅー。乗馬好きー」と馬主サブちゃんにすり寄り「じゃあ、オレの馬やるよ」と言わしめてました。

 「世渡り」って感じもするけど、なんかキャバ嬢みたいだな、と。そういう意味では現在OA中のドラマ「女王」辺りのオファーがあってもよかったのかもしれないけど、サトーアイコさんというというフェロモン度の面でびみょーなところがあるみたいですね。「じゃあ、壁女辺りどうだ?」って感じなんだけど、これもとられちゃってますしね。

 っつーか、ほんとにサトーアイコさんは現在どういう立ち位置にいるのだろう? 言ってはなんだけど演技的にも別にそんなに(....ごにょごにょ)。歌とかバラドルっていうのとも違うし....はなちゃんとか緒川たまきさんみたいな文科系女子路線とも違うっぽいし....。やっぱ「女寺門ジモン」への道を歩んでいるのかなぁ。。

 どうせなら女グッチ祐三みたいになって趣味と実益って感じになればよいのだろうけど、そこまでの趣味レベルではないのでしょうね。


 「趣味」といえばガトーさんの当該エントリのタグも[趣味のジャーナリズム]ということでサトーアイコ化というのはけっこういろんなところで拡がっているのかもしれません。




♪ 武田哲也 / 母に捧げるバラード 



posted by m_um_u at 09:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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