2007年07月18日

運動における協調可能性について (想像力・他者・寛容・弱さの強さ)

 一連のAKAGI襲来について。なんとなく思ったことをボケーっと。結論から言うと運動と他者の共感の問題なわけだけど、なんか栗山さんのところにも関連エントリが上がってたのでいちおクリップ。

葉っぱの「歩行と記憶」 - 自由と生存の分裂

 んで、経由で森岡センセのエントリを見る


G★RDIAS - ウェブに現われる「他者」の具体的検討


 人文系で「他者」って言葉が出たら、そりゃまぁ「自分と異なる意見をもった人との協調(対話)を模索する」みたいな文脈になるわけでその辺のところはぼくも重々承知しているわけだが。

 今回のケースは対話の相手である人が最初から対話の姿勢を見せなかったことに問題があるように思う。ひとつ前のエントリにも書いたように、プライドを気にして勝ち負けに固執し、相手と共通理解を得ようとしない態度を貫いていたのは先方のほうで誠実さのかけらも見えなかったなぁ、と。

 あるいはあれが彼の誠実さの目一杯のところだったのだろうか。。だとすると、そういったものしか身につけられなかった不幸を嘆くべきか..?

 まぁ、どちらにせよ不毛だなぁ、と。

 
 ちょっと前のエントリでは「共通理解をもたない他者との話し合いにおいてはインターフェースを統一するために“礼儀”というプロトコルの統一が必要」と書いたわけだけど、ほかにも必要なものがあるわけだな。対話に臨む姿勢というか、相手に対する想像力というか...。ぼくは彼のプロフィールをある程度知っているのでそれなりの態度をとっていたけど、彼は最初ものすごく礼儀知らずだったな。そして、こちらのレスポンスに応じて(彼なりに)態度を改めていったようだったけど最後まで自分の優位を疑わなかったみたい。その自信がどこから来ているのか不思議だが、コンプレックスの裏返しのようなものなのかもしれない。

 あるいは、彼が曲がりなりにも職業文筆家の末席を汚す位置にいることがプライドに繋がっているのだろうか? 「お金もらって書いてるプロのほうがアマチュアより偉いぜ」、と? だとするとプロフェッショナルジャーナリズムが出来上がるまでの歴史、出来上がった後の問題点やアマチュアジャーナリズムの可能性について武田塾で習わなかったのか?

......まぁ、習っていたとしても「おべんきょー」って感じか....。


 あと「責任」という言葉を軽々しく使っていたけれど、それは責任を負ったことがないからこそ言えるのだろうな.....。5年後の彼に期待だ(もしくは1、2年で片がつくかもしれない)。彼なりの「責任」を見せてくれることだろう。

 もしくはぼくの主張が間違っていて彼が「ほら、見たことか!(バーカバーカ)」と思うことになるのかもしれない。そうなればなったでこちらとしては万々歳なわけだが..。ぼくはくだらないプライドに固執しないタイプなので、彼の主張が通って女性の生活が向上するのならそれに越したことはないと思うし、それによってぼくが恥をかく程度なら万々歳って感じ。


 彼とのやりとりについてはその程度の感想しかないけど、森岡センセの言う「他者」についてちょっと考えたり。 森岡センセもよくわかんない人との対話にならないやりとりはけっこう早い段階でシャットアウトする人だと思うんだけど、リンク先のエントリではその理由についていろいろ考察されてる。要約すれば「私は未だ他者には会っていない」とのこと。森岡センセの認める「他者」のような存在には会っていない、ってことらしい。

 では「森岡センセの認める他者」とはどのような存在として想定されるかというと、どうも「私の予想の範囲を超えない存在は他者ではない」ということみたい。
 
 ここは部分的に賛成しつつもちょっと違和感がある。コメント欄でも人文系っぽい繊細な考察が展開されているけれど、ここもなんか違和感があるのでスルーする。

 ぼくにとって他者は「自分と共通点がありつつも違うもの」なので。自分と並び立つもの(会話が成立するもの)でありつつも、自分の鏡のような存在ではなく、対話を通して世界や自らの可能性を拓いてくれるものこそが「他者」だと思う。

 ほかはRPGの中に登場してくる同じ台詞を繰り返す人々と似たような存在に過ぎない。(それはそれで「ご近所づきあい」って感じでほのぼのだが)

 では「他者」が「他者」として表れるための条件とはなにか? ぼくはやはり「自己の確立」が関わるように思う。それは雑誌などで喧伝されている安っぽい自己確立(ホントノジブン探し)ではなく、自分の内奥に向き合いその可能性を開花させることで自信を持つ、ということと深く関わっているように思う。この辺については以前少し考えた


 赤木さんについて言えばその辺りで自信がついてなくてコンプレックスが払拭できていなかったのかなぁ、と少し思う。



 で、本題に入ると、「運動においては自分たちの主張に関心のない<他者>を引き入れることが必要だと思うのだけれど、その際、必要な要件およびその限界とはなにか?」、ということ。

 結論から言えば「他者」のエゴ(利益)に対する想像力であり、それを想定した上での自らのエゴとのすり合わせということが必要なことだと思う。そういう形でなくただ自らのエゴをわめき散らすだけでは関心を持っていない「その他大勢」を引き入れることはできないだろう。運動に関わる人の中には「それでもいい。当事者である自分たちさえわかっていればいい」という人もいるのかもしれないが、それではなんのための運動なのかよくわからない。自己満足かなんかなのだろうか?

 あるいは現在は虐げられてきた彼らが尊厳を回復するために敢えてパフォーマティブな宣言をしているだけかと思っていたけれどそれもちょっと違うっぽい。どうも赤木さんに限って言えば本気で「オレ様を救うのは貴様らの義務!」ということを信じているみたいなので...。そこまで自らの心を操作しなければ尊厳を回復できないほどに自信を失っていた情況があっただろうことを想像すると同情を禁じえないが、それを現状認識にしているとやはり危険だろう。そして、その現状認識をもって自分の主張を構成し、その主張と合わない人々を「当事者性がない」ということで排除していく...。それってどうなんだろう?

 もちろん「当事者性」ということは運動を継続するためのモチベーションの面で重要だと思うけどそれをもって「部外者は出て行け」というのは違うだろうな、と。自分の考えと少しでも違う意見を言われると「しょせんあなた方にはわからないのですよ!当事者性のないあなた方には他人事なんです」ってヒステリックに叫ぶ人がいるけれど、それってどうなの?、と思う。では、当事者でなければそれについて考えたり発言する資格はないのか?、と。まぁ、この辺が関わってくるわけだけど


Sound and Fury.::メルの本棚。 - 「恵まれた」人間は、社会批判をする資格がないのだろうか



 「ブルジョアに対する批判があるけれど、それじゃブルってる人は貧困なんかについて考えちゃいけないの?」ってエントリ。で、「ことさらに対立を煽るのはどうなの?」、と。

 これは端的に「想像力」の問題だと思う。「ブルジョア」が悪いのではなく「想像力がない人が無神経にセンシティブな問題に踏み込んでくるのが悪い」ということなのだろう。


 「フリーターとブルジョア(っていうか知識層?)との対立」ということではこの辺のエントリなんかがモロに絡む。


フリーターが語る渡り奉公人事情 勉強よりも生存

フリーターが語る渡り奉公人事情 大学TV局からの取材お断り

フリーターが語る渡り奉公人事情 正社員にも話をきけば……


 妙な大学関係者に関わってしまったために大学や研究関連職に不審を抱くようになり、彼らからの言葉は全て敵の言葉とみなすようになった、という悲しいエントリ。そして「わたしはわたしなりのやり方でこの問題を調べていく」、と。

 揶揄でも皮肉でもなく悲しいことだな、と思う。それは学に関わっているものの中でも一部の人の話だし、彼女自身がしている「調べる」という行為自体が「研究」なわけだけど......。彼女からすればその辺はまたちょっと違うのかもしれない。(「研究のための研究の材料にされるのはイヤ」ってことか?)

 あるいはここでも「当事者性」ということが絡んでくるのだろう。


 では、その「当事者性」とは一体如何ほどのものなのか? それをもって他者を排除することによって得られる効用とはなんなのだろうか? っていうか、それ言っちゃうとヒロシマのことなんか誰も語れなくなると思うんだけど.....この言葉はけっこういろんな文脈で使われるし、ヒロシマの人々はそれを許容しているように思う。「ある程度は」という限定はつくけれど。で、このエントリが絡む。


Karpos. - ヒロシマ−相対化


 ヒロシマの歴史は「他者」を受け入れていく歴史で、最大の敵(「他者」)であるアメリカを受け入れつつ復興を遂げてきたものだった、と。

 そうは言ってもそれは経済面でのことであり、一部の急進的(?)なヒロシマ運動家たちは「アメリカ絶対許すまじ!」な姿勢を崩さず、かたくなな態度を貫いていたように思うけど。(でも、その実、運動内部では2つぐらいに団体が割れて協調もなにもあったもんじゃなかった)

 この前のエントリの長崎の平和団体の例でもそういった急進的な人々が行動を起こしたのかもしれない。

 このような行動は徒に対立を煽るもののように思うし、できれば協調すべきところは強調すべきだと思うのでいただけないものだけれど、彼らの行いは心情的には分かるところがあるし、それをもってヒバクシャや平和活動全体を否定すべきものではないだろう。


 「ヒバクシャは他者に対してもうちょっと寛容であるべき」といえるかもしれないけど、それを押し付ける権利は誰にもない。そういった想像力を部外者(他者)である人々は持つべきだと思う。

 反対に当事者である人々も部外者への想像力(寛容の心)を通じて得るものがあるのではないか? 何回も言っているように、「その声は誰に対して発しているのか?」、ということだし、「その声を届かせるためには他者(の利害)への想像力が必要」ということなのだろう。



 その中で「ではヒバクシャ(当事者)はどこまで譲歩すればいいの?」って問題もあるだろう。譲歩し寛容になるとはいっても限界がある。不用意に逆鱗に触れられれば怒りが生じるだろう。その限界はどこにあるのか..?

 これはケースバイケースだろうけど、少なくともヒバクシャということを盾にとって強硬な姿勢に出過ぎるのはいただけない。あるいは「被差別者は尊重されるべき弱者です」という立場を政治・経済的利用していくこと。それを通じて政治・経済的な強者に上り詰めること。これはまずいだろう。


 数々の運動の欺瞞が暴かれていった現在、そういったものが一番嫌われるわけだけど、「弱さ」を盾にとる人々はそういった視線に気づいているのだろうか?

 あるいは自らの中にある「弱さ」を利用した力への意志の存在に気づけるのだろうか?



 これからの運動の基本線はその辺りにあるように思う。
  
  

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追記:
また読解力のない人から「よくわからん」とか言われてもアレなのでいちお補足。全体の主旨(結論)としては、<「当事者 / 非当事者」「被差別者 / 差別者」の双方に「やり過ぎ」が生じる危険性があるので、双方ともその過剰性を意識し統制する必要があるだろうな>、ということ。んで、「過剰か過剰でないか」の線引きをどの辺りにするかがポイントだと思うけど、それは当該運動それぞれの場においてケースバイケースだろうからよくわからない。

あと、蛇足的に

赤木さん個人の性質と彼が属している「弱者男性」運動(?)とは分けるべきなんだと思う。彼の主張がアレげなのは彼の固有の性質によるものだ、と。それをもって弱者男性問題全体をアレな視線でみるのも拙速なのだろう。(ほかの弱者男性も迷惑だろうし)

その上で、それとは別に赤木さん個人とかそれに類する性質を持つ人々に対する視線の問題がある。「ヤサシイワタシを許容する」ってことだけど・・・この辺は実際やってみるとむずかしいものだな。。(少なくとも彼らは「他者」ではないし)。......子どもでもできればまた違うのだろうか..

 
 











posted by m_um_u at 22:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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