2007年07月09日

Ask not what the net can do for you. Ask what you can do for the net.

It is better to know some of the questions than all of the answers.

-- James Thurber




Ask not what you can do for your country. Ask what's for lunch.

-- Orson Welles




Ask not what the net can do for you. Ask what you can do for the net.

-- ARG








 ひとつ前のエントリで登場したUMAな若者についてぼけーっと。

 この子自体はどうということもなくて、「どこにでもいるちょっとがんばってみたい子」なのだろうなぁって感じなのだけど、この子が「ハーバーマス」とか「社会学」という単語を使っていたのが気になった。(参照

 ベタに言ってしまうと、「対話的理性を重んじるハーバーマスの名前を出しつつ議論の仕方やコミュニケーション的合理性への理解を深めていないように見えるのはどういうことなの?」、って思うわけだけど、この子にとって学問というのは「おべんきょー」レベルの丸暗記型キーワードのようなもので、テスト前とかレポート提出前にちょこちょこっと考える程度のものなのだろう。つまり、自分の頭では考えていないということになると思う。そして「社会学」という言葉....。

 この子はこの学問に対してどのような印象を持っているのだろうか? 勝手な推測だが、「オレ、オマエよりいろんなこと知ってるんだぜ(へへへ)」的な理由づけのための都合のよい屁理屈こねツールみたいなのを社会学と思っているのだろうか? つまり、自分がケンカで勝つために利用できる思考の枠組みであり、権威づけの道具みたいな感じで。

 一部の腐臭漂う人文マニアに見られる傾向って感じで、ぼくもネット上では一回ぐらい被害にあったことがある。彼らとのギロンというのはギロンではなく、単なる揚げ足とりのケンカ合戦みたいになるので話していてもなにも楽しくないし、得るものがない。彼らは話し合いの中からなにかを得ようともしないし、話し合いを通じてなにかを作り上げようともしない。単に目先の勝ち負けにはこだわるだけなので。(幼稚園児や小学生のケンカに似てる。その意味では竹田さんの例は秀逸だと思う)

 以前に見たそれ系の人というのはやたら「先生」への憧れをもっている感じの人だった。コメント欄に現職の学者が現れるだけで「降臨!」とかなんとかわけの分からないテンションの上げ方をしていて正直寒い感じがしたのだけれど、本人にとっては精一杯の儀礼的表現だったのかもしれない(その感覚はよく分からないが)。 で、そんな感じで権威にはやたらすり寄るのだけれど、「君の言ってることちょっとおかしいんじゃない?」とか「この辺もうちょっと分かりやすく説明して」とかいう一般(?)の人の声に対してはぞんざい...というかずいぶん非礼な態度をとっていた。どうも彼にとっては彼自身の学問世界のようなものがあるみたいで、その教典である書物や人物の言葉を絶対としている感じが見えて....いま思うと宗教に近いものだったのかもしれない。

 そう考えるとアレだな。無碍に否定するのもびみょーな感じになるか。彼らのやっているのは「宗教」であって「学問」ではないのだろう。あるいは、「学問」というたいそうな言葉を使うまでもなくて、「自分で考える」ということができていない(しようとしない)というだけなのかもしれない。 でも、彼らのセマイセカイではその経文を唱えていれば通用するし、その教典に(丸暗記みたいに)精通すればするほど仲間うちの格のようなものが上がるシステムだったのかも。そして、そういった系というのはそれ自体として自生する分には別になんの害もない、というか「信教の自由」って感じなんだろう。あるいは実存の問題。

 彼らにとってはそういった形である一定の言葉に依存し言葉遊びに興じることが実存的に必要なわけで、だったらそれを否定するのはどうか、って気もする。(ただ、否定はしないけど相手にはしないというだけだが)

 しかし、彼らが社会に共通する言葉、たとえば「社会学」などという言葉を使っているのを見るとびみょーな感じはする。「社会学」なんてのはもっとも関係を重視する学問領域のはずなのに、その言葉を出しつつ関係を軽んじているのってどうなんだろう?、と。(まぁ、序盤で考えたことに戻るわけだけど)権威性ってことか。彼らにとっては「社会学」はひとつの権威なのか........ふーむ..........知ってる人は知ってると思うけど社会学なんてのはキメラな学問領域なはずだけど。知の枠組みとしては哲学、政治学、経済学などから借りてきたところが多いし、対象領域も横断的過ぎてなにが専門かよくわからない。だいたい冠に「社会」なんてついてるのがそもそもおかしいのだ。「世の中に社会的じゃない領域なんてあると思うか?」((C)鈴木謙介).....そんな感じなはず。

 なので「社会学徒」なんて言ってる人はなんとはなしにその辺の恥ずかしさというか問題意識を持っているものなはずなんだけど.......件の彼らにとって「社会学」とはできあがった学問領域でしかないのだろうなぁ..。教科書みたいな感じなのかなぁ..。あるいは手軽なアンチョコ本というか。


 そんなもの覚えたって生活の場で使えなければ意味がないし、4・5年経って覚えているかっていえばびみょーなもので、そのくらい経って(あるいは死ぬ間際まで)覚えていられる知識こそホンモノなはずだけど..。大部分の本なんか3〜4割程度しか「役に立つ」というか響いてくるものがはいはずで、その部分をどのように自分の思考に結び付けていくのかということがポイントなはずだけど...。彼らはそういったことは考えたことがないのだろうか? 

 あるいはものすごく記憶力が良くて、「教科書に書いてあることは一言一句覚えてるよ ♪」、って感じの人たちなのかもしれない。......すごいなぁ。そうだとすると正直うらやましい。嫌味ではなくて、そういうタイプの人にあったことがあるけれど、あの人の知識量というか思考の深みというのは相当のものだったしな...。

(※話それるけどいちお言っておくと、Google時代とは言え暗記的な知識の必要性というのは変わらないように思う。思考というのはスピードに依るところが大きいので、暗記によって「調べる」という過程をショートカットできれば、それだけ遠くて深い思考が作り上げられる可能性がある。もっとも、なんでもかんでも暗記すればよいというものではないだろうけど)


 それにしても、なんで彼らはああも小さな勝ち負けに拘るのかな? 自分の属している小さなセカイで名声を得るため? そして「社会」からは閉じる、か..。

 あるいはゆとり教育の影響ってやつかな? 「ゆとり教育」なんていうと安易な世代論に終始する危険性があるか。当人たちは「どうせゆとりっ子ですよ」ってそっぽ向くかもしれないし..。だいいち「ゆとり教育」って彼らの責任ではないもんな。かといって、「ゆとりっ子だから仕方ないんだぁ」ってことにはならないと思うけど。その辺りは社会的に鍛えられていく....のだろうか? (ぼくが被害にあったアレ系の人はいちお社会人って言ってたけど......ここでも「社会」という言葉に疑念がわくよ)


 ってか、もっと好意的にとるならば彼らは単に背伸びをしたいだけなのかもしれない。人間、背伸びして成長するってことはあると思うし、それはそれで微笑ましいことなのかも。


 でも、「社会学」って言葉がなぁ......。


 あまり関係ないかもしれないけど日高六郎先生が著作の中で、「最近の若者はいろんなことを忘れていく。いろんな歴史が消えていく」と嘆いておられたのを思い出した。


戦後思想を考える
戦後思想を考える
posted with amazlet on 07.07.09
日高 六郎
岩波書店 (1980/01)
売り上げランキング: 208989



私の平和論―戦前から戦後へ (岩波新書)
日高 六郎
岩波書店 (1995/10)
売り上げランキング: 241966



 権威性を重んじる彼らからすればこんな本はなんの魅力も感じないものなのかもしれないけど、ぼくはこの本から「学問的魂」というか「学士的魂」のようなものを感じた。(※「士」は「さむらい」のほう。あるいは学者的魂といったほうが適切か)


 「社会学者的魂」ということで言えば見田宗介先生の近著なんかもあるか


社会学入門―人間と社会の未来
見田 宗介
岩波書店 (2006/04)
売り上げランキング: 7992


(※以下、一部抜粋)


(7-8) 社会学は<越境する知> Einbrunchslehre とよばれてきたように、その学の初心において、社会現象のこういうさまざまな側面を、横断的に踏破し統合する学問として成立しました。マックス・ウェーバー、デュルケーム、マルクスのような「古典的」な社会学者をはじめ、フロム、リースマン、パーソンズ、アドルノ、バタイユ、サルトル、レヴィ=ストロース、フーコーといった、現在の社会学の若い研究者や学生たちが魅力を感じて読んでいる主要な著者たちは、すべて複数の ― 経済学、法学、政治学、哲学、文学、心理学、人類学、歴史学、等々の ― 領域を横断する知性たちです。
 けれども重要なことは、「領域横断的」であるということではないのです。「越境する知」ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかというと、自分にとってほんとうに大切な問題に、どこまでも誠実である、という態度の結果なのです。あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルであると思われる問題について、手放すことなく追求しつづける、という覚悟の結果なのです。近代の知のシステムは、専門分化主義ですから、あちこちに「立入禁止」の札が立っています。「それは○○学のテーマではないよ。そういうことをやりたいのなら、他に行きなさい。」「××学の専門家でもない人間が余計な口出しをするな。」等々。学問の立入禁止の立て札が至る所に立てられている。しかし、この立入禁止の立て札の前で止まってしまうと、現代社会の大切な問題たちは、解けないのです。そのために、ほんとうに大切な問題、自分にとって、あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルな問題をどこまでも追及しようとする人間は、やむにやまれず境界を突破するのです。



(9-10) 自分自身のことを話すと、わたしにとっての「ほんとうに切実な問題」は、子どものころから、「人間はどう生きたらいいか」、ほんとうに楽しく充実した生涯をすごすにはどうしたらいいか、とういう単純な問題でした。この問題は二つに分かれて、第一に、人間は必ず死ぬ。人類の全体もまた、いつか死滅する。その人類がかつて存在したということを記憶する存在さえ残らない。すべては結局は「虚しい」のではないかという感覚でした。第二に、その生きている間、すべての個体はそれぞれの「自分」をもって、世界の中心のように感じて、他の「自分」と争ったりまた愛したりする。この「自分」と他の「自分」たちとの関係が、友情や恋愛や家族の問題から、経済や政治や国際関係の問題に至る、実にさまざまの現実的な問題の根底にあり核心にあると把握される、ということです。単純な言い方ですが、<死とニヒリズムの問題系>と、<愛とエゴイズムの問題系>と名づけていました。こういう問題を追及する人は、多くのばあい、「哲学」や「倫理学」、あるいは「宗教」という方面に進むのですが、わたしはこの二つの問題を、あくまでも論理実証という方法で、いわば「経験科学的」な方法で追求してゆきたかったのです。



 この後の余談がキュートなのだけれど省略。(ちょっとだけ言うと、「ジャズの聴こえてくる研究室は社会学のところだけだった」、らしいw)



 あとはウェブだとソキウス(野村一夫先生)なんかが参考になるかも。


Socius_ソキウス(トップページ)

Socius_ソシオリウム【総合案内】



 っつーか、こういったことを言っても「概論的なことなんか聞き飽きた」とかいうのかもしれないけど...。それは結局聞いただけで理解はしてないってことなんだろうな。そんな知識になんの意味があるのだろう、と思うけど....堂々巡りになるからやめとこう。



 あと、言わずもがなだけど、エゴだしてるだけでは他人は相手してくれないと思うよ。ネットも然り。


 


 とかなんとかいいつつボエーっと鳴いてみるテストw (TB
 





♪ クレイジーケンバンド / タイガー&ドラゴン









posted by m_um_u at 07:31 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
「やむにやまれず境界を突破する」というの、いいですね。

ただ議論に勝ちたいためにがむしゃら、というのなら可愛いものですが、目立ちたがりが鼻についてあざといし、自分の論理構築がはちゃはちゃなのを改めないのが不誠実で、僕は滅多に他人にこういうことはいいませんが、可哀想ですね。こういう若い人は「でも頭はいいんだろうけど」とかよく言われたりしますが、本当に頭がいい人はもっとまともです。口数は多いけれども自分の論議の穴を埋められないで足掻く、学生としても一番伸びないタイプですよ。自分でもうすうす分かっているでしょうし、だからこそ「かまって光線」を出して認められたがるんでしょうが、伸びる人は議論を地道に積み重ねようとするものです。そういうハウツーを身につけないと、誰と議論をしようとしても我流のレトリックになって、もし大学のゼミなら「君、わかってないね」と言われてしまう。ブログでは誰も言ってくれないので、自分の拙さに気づく機会がない。ブログの悪い側面ですね。同情してしまいます。
Posted by 福耳 at 2007年07月09日 15:36
>本当に頭がいい人はもっとまとも

同意です。学部時代にもこういうタイプは見たけれど、ゼミになって「なにか書いてみろ」って段階になるとなにも書けないか、大風呂敷だけど内容がないものを書いてくるんですよね。そういうタイプは社会に出てからひどいめにあうのでおっしゃるように「可哀想」といえるかもしれません。

あるいは運良くつつがなく人生をおくれるかもしれないけど、個人的にはそんな人生に何の意味があるのかなぁ、と思います。(「自分で勝ち取ったもの」という感じではないですよね。感謝もないでしょうし)

まぁ、もう少ししたら誰かがきちんとお灸をすえてくれるのかもしれません。ネットは優しくて残酷ですからね


蛇足ですが、体調崩されたようで。きちんと寝て食べたほうがいいですよ。(と、お母さんのようにベタなことを言ってみる 笑)
Posted by m_um_u at 2007年07月09日 17:23
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。