2007年07月06日

広島の牡蠣養殖の歴史は400年

 らっちさんとこのエントリ見ておもしろそうだったので広島郷土資料館の展示を見に行ってきました。


広島の街と音楽と… - 「市民球場の50年」at広島市郷土資料館


 んで、らっちさん同様、企画展よりも常設展のほうが楽しく感じたりw

 覚えてる範囲での歴史をてきとーに言うと、広島ってのは江戸の藩分けぐらいまでは村って感じだったみたいですね。城なんかもはっきりないような田舎って感じ。それが毛利とか浅野とかの殿様が来るようになってある程度メジャーになっていった、と。

 ってか、この人たちもこんなとこ来るの嫌だったでしょうね。おもいっきり僻地って感じのところだったので。特に福島藩から異動させられた人(※名前失念)はモロに左遷っていうか都落ちっていうか...。

 まぁ、そんな感じの「田舎」で「何もない山だらけのところ」が広島だったわけですが、それでもそこに生きてる人たちはなんらかの形で生計を立てなければならないんすよね。で、下駄やらかつらやら筆やら作ってくわけだけど、中でも牡蠣養殖をかなり昔からやっていたことを知って驚きました。1600年代初頭には試験的に養殖技法が開発されてたみたいです。

 初期の養殖技法は竹を干潟にさして、そこにくっついた牡蠣をたたき落として集め、別のところで育てていく、というものだったようです (「ひび建養殖法」)。んで、現在の牡蠣筏が生まれたのは1940年代だったみたい。新しい方法が開発されるまで300年もかかったんですね。で、牡蠣筏に代表される沖合い養殖法が開発されたことによって一気に生産量が増えたみたいで、大阪とかにも商売に行けるようになったみたいです。「はるばる牡蠣船で大阪まで行ってた」っていうんだからすごいですね。網野善彦先生の本で、「日本は川や海の道使用のほうがむしろ盛んだった」、って記述があったと思うのですが、そんな感じだったのかなぁ。陸上交通機関は発達していなかったので、うまく潮を利用したら海上輸送のほうが早かったのかもしれませんね。


 それで「竹にくっつける方法」から「牡蠣筏ほか沖合いでやる方法」に変わってからなぜ牡蠣の生産量が多くなったか、ということですが..。この辺り、資料館では詳しく書いてなかったので以下、資料館の説明を踏まえつつ勝手な推測です。(※こちらの説明も参照↓)


広島かきの歴史(@小中学生を対象とした学習支援のページ)


 竹を干潟にさしてそこに牡蠣がくっつくのを待つ方法(ひび建養殖法)では牡蠣がくっついた後、たたき落として別の場所で育てなければならなかったんですね。それはなぜか、と推測するにおそらく牡蠣は牡蠣同士がくっつき、ほかの牡蠣をとりこんで大きくなっていく性質があるため、そのまま竹にくっつけていると何個も牡蠣をとることができなくなってしまう、という問題があったからではないでしょうか? (実際、牡蠣養殖の説明パネルの開始地点あたりには中型犬ほどに成長した牡蠣の殻が展示されてました)

 以上を裏付けるのが「ひび建養殖法」に変わって登場した「杭打式垂下養殖法」の特徴を表している以下の記述です。


これは,干潟に高さ1.3〜1.8mの棚を作り,2mぐらいの針金に貝殻と竹の管を交互に通した連をぶらさげ,かきを付着(採苗)させ,成育を待って収穫する方法がとられました。これが杭打式簡易垂下養殖法です。


  
 こうやって「貝殻と竹の管を交互に通」すことによって貝同士がくっつくのを防いだのだと思います。それで生育途中で牡蠣をたたき落とす手間がなくなり、「そういった手間がかからないのなら浅瀬でなくてもできるぞ」、ということになったのかな、と思います。 で、この方法がそのまま筏法にも応用されて沖合いで養殖できるようになり、漁場面積が拡大したことで生産量がアップ、他県に売りにいけるほどの商売になった、と。



.....いやぁ、文明ってすごいですね。


 そのほか、八木用水などやせた土地を開墾するために要した苦労を見たり、原爆投下後の復興の様子を見ているとなんか目頭にじわっとくるものがありました。「あたらしいものを一から作り上げるということにかけた情熱」みたいなのを感じたのかなぁ..。

 一個前のエントリで福耳さんとちょっとお話してますが、そう考えると大量生産というかそういう方法を作り上げていった人々にも同じような努力とか情熱の歴史があったのでしょうね(プロジェクトXっていうか..)。この辺のギロンというのはアートとデザインの関係にも似ているように思います(cf.ウィリアム・モリス、「Arts & Craft」)。なので、その辺も絡めてエントリアップするかもしれません。(ちょうど白田さんもその手のお話してるし)

 あと、メモ的に。「広告(≠付加価値)なしでも」ってところはkakiharaさんのエントリも絡むかな。



 って、話がそれたので戻ると。肝心の市民球場の展示はいまいち、というか個人的にそれほど感じるものはありませんでした。ただ、初優勝のときの写真に江夏がいたは感慨深かったです。あと、ブラウン監督の投げたベースが飾ってあったのはいい味だしてたなぁ...。(吉田戦車の「ぷりぷり県」みたいだった)

 
 



タグ:広島 歴史
posted by m_um_u at 17:45 | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
こちらでは初めまして、ですね。
私は、宇品の干拓の話が面白かったですね。
当時の県知事が、必要性を感じて造ったのは良いが、予算を大幅にオーバーしてしまったため、県知事はその後左遷させられた。
でも、日清戦争が始まると、ここが軍事拠点として重宝され、広島は一気に軍事拠点として発展していき、臨時首都にまでなった、という話。
歴史を知るって、面白いなぁ、と思います。
「ヒロシマ」だけが「広島の歴史」じゃないんだぞ、と…。
Posted by らっち at 2007年07月07日 09:25
ぼくも宇品の干拓おもしろいと思いました。なんかの本で見たけど干拓というのは人類の土木というか公共政策の中でもっとも大きな事業の一つみたいなので。(江戸もそんな感じで作られたみたいですね)

郷土資料館の地図だとちょっと分かりにくかったのですが、プリンスホテルのある島の直前辺りまでが埋め立てられた、ってことだったんですかね? よくわかんないけど、まぁ、とりあえずそういうことにしときます。

んで、らっちさんのおっしゃるように先見の明というか、正しい政治的決断というのはけっこう見過ごされてしまうものなのだなぁ、というのはなんか感慨深いですね。

そういや幟町のエントリもおもしろかったです。あれを見た後、早速行ってみたのですがけっきょく目当てのトマトラーメンのところが見つからなかった(笑)

関連でこんなエントリを見ました。
http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2007/06/post_e4e2.html

「文化人の入植によって地域が栄えた(あるいは人工的に繁栄を計画することが可能かも)」という話です。

いまだったら横川なんかもそんな感じがします
Posted by m_um_u at 2007年07月07日 11:23
レスありがとう。詳細はこれです(*´ω`)$ http://www.e29.mobi/
Posted by age at 2011年12月21日 08:43
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