2007年07月05日

「お金じゃない」けど「お金がない」のもねぇ...

Money can't buy happiness, but neither can poverty.

-- Leo Rosten








 主に伝言的TBです。↓エントリをみつつ


福耳コラム - 続小沢健二批判・自己目的化する批判?


 「あぁ、福耳さんの逆説的な愛が伝わってくるな」って感じだったんですが、今回もやはりあのことを気にされてたようで


なんでくどくどこういう問題に僕がこだわるかと言いますと、僕が大学で教えていて、時折学生の一部から「そもそもビジネスはお金儲けを追求する悪ではないのか」という疑問をぶつけられるからです。それへの反論をここで書くとまた膨大になるから今日は書きませんが、少なくとも我々の社会はビジネスの存在によっていまあって、それを続けるにしろ、そこから脱するにしろ、実効性があるのは「現実の問題を考えること」であって、それにつながる道程として「まず概念から整備すること」を考えよう、そう学生にも説明をしようと僕は思っていますが、小沢氏が展開されているような架空の理想論を以て現実の複雑なシステムを部分的に論難することは、それとは違うと思います。でもこのはなしも、「灰色の手下」のたわごとかも知れません。価値観まるごと、フレーム全体を問題にされるならば、後はもう、お互いが宗教だと考えるべきかも知れませんが。




 いやぁ、いるんですね、いまどきそんな天然記念物的な人が。貴重なサンプルなので「どうしてそんな風に思うようになったの?」ってところを詳しく聞きつつ、なんかいろんな悪の道に......いや失礼。この文脈で「悪」っていうと福耳さんが心外な思いをされるかもしれませんね。


 それで、この件に関してなんとなく思うことをぼけ〜っと。

 ぼくもサヨク的傾向があるのでちょっと分かるように思うのですが、彼・彼女達の言いたいのは「必要最低限の儲け(あるいは消費)でいいじゃん」ってことではないでしょうか? なので、「君たちの生活は市場経済システムが支えてるんだよ」と説明してもそれほど意味がないというか、もうちょっとピンとこないかなぁ、と。
 
 そういうシステムの中で全体がムダなく効率的に回るためには大量生産が必要ってことを説く必要があるけど、そうすると「大量生産してるからムダなものが廃棄されたり、採れすぎたキャベツが捨てられたりするんじゃないですか? あと、商品画一的になるし」とか言われるでしょうね。


.......困ったにゃあ.......(なんかめんどくなってきた)


 そういうわけでそれへの対抗的説明は福耳さんに丸投げするとして、以下、お伝えしたいエントリです。


善悪もまたあざなえる縄のごとし。 - カフェ・ヒラカワ店主軽薄 - 楽天ブログ(Blog)


 このエントリの主旨としては、少し前の牛ミンチ肉偽装事件に対して上がったヒステリックな声への疑義を唱えるものです。

 「ヒステリックな声を上げる人々はまるで”正義は我にあり”とでも言っているようだが、そういった構造ができあがるのに加担していたのは君達だからね」、と。

 そして、そういった「加担」というのは日々の小さな選択の中に含まれている。(その意識改革が「小さな革命」ってやつですね)

muse-A-muse 2nd: life「運動」から(2):持続的運動に必要なものと「自由」のための設計図 (国家・市場・情報)(仮)




 以下、ピクピクっときたところを引用させていただきます。


先の爆発エステの社長や、
偽装建築士や、
今回の偽島田洋七に対する
ヒステリックな難詰の声の主たちは、
正義は我にありとでも思っているのだろうか。
しかし、世界は善と悪、平和と戦争、勝者と敗者によって成り立っているような
単純で分かりやすいものではないだろう。
単純で分かりやすい思考の中にだけ、単純で分かりやすい世界があるだけである。
本当は世界は単純でもなければ、必要以上に複雑にもならない。
アダム・スミスが言ったように、
人間は自分がそうしようと思うこととは違うことを実現してしまうということである。
だから善悪はあざなえる縄のごとく映ずる。
そのことの意味が分からなければ、
善は悪に、平和は戦争に、勝者は敗者に容易に入れ替わる。

 

 そういうことっすよね。「灰色」ってのは別のところにいるもやもやしたものではなく「黒」と「白」の中間点としての自分たちなわけです。 この辺りはアニメ版「鉄コン筋クリート」にもちょっとがっかりしたけど....まぁ、あれは原作があるからいいです。(松本大洋もびみょーなところはあるけど)




 まぁ、そんなこんなところを理解してもらったらよいのではないでしょうか?




--
関連:

「株式会社という病」を読む (内田樹の研究室)

※「零細企業の工場労働者のエートス」、それを受け入れ「あちら」と「こちら」は違うとする労働者への親和性と「あちら」側にいることの心の疼き。そして、仕事を通じて親和性が消えていく侘しさについて記述した良エントリ。これ系の話だったら「彼女達」も分かってくれるんじゃないでしょうか?




muse-A-muse 2nd: まぐろぽりてぃくすのぎゃくしゅう


※件の人に対するぼくなりの対抗言説(物語)として。以下、続きです(「世界は蝶のはばたきのように繊細なものによって繋がっている」)

 
muse-A-muse 2nd: マグロウォーズ (補遺)
 
 


posted by m_um_u at 19:37 | Comment(5) | TrackBack(0) | 経済このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
「大量生産してるからムダなものが廃棄されたり、採れすぎたキャベツが捨てられたりするんじゃないですか? あと、商品画一的になるし」

これは、単に「供給過剰」ということと、「まとめてつくるからやすくなる」(これが経済用語でいう「大量生産」)を混同していますし、製造技術の発達はデザインの画一性の弊害をかなり克服しつつあります。もちろん、ある程度はコストとのトレードオフですが。

それと工業製品と農業産品はやはり性質が違います。つくりすぎた服はバーゲンでどこかに収まりそうですが、野菜は腐ってしまいます。でもそれは、自家菜園でも同じことは起こりうるのではないですか?
Posted by 福耳 at 2007年07月06日 14:47
大部分は同意、というかちょっと隙のある質問をしてしまいましたね(反省)。

それで気になったのは以下なんですが...

>つくりすぎた服はバーゲンでどこかに収まりそうですが、野菜は腐ってしまいます。

これはちょっとびみょーなんじゃないでしょうか? バーゲンをやっても売れなければ商品はあるでしょうし、なかなか売れなければその商品の旬は失われるように思います。

その意味でもロングテール的なものが通用する商品と通用しない商品があると思っています。

本当の意味で質の高い商品の場合はニッチ的な関心からロングテールしていくと思うんですが、たとえば某じゃ○ーずのような商品というのは明らかに旬というものがあってファーストラン的な時機をすぎると関心や価格は下落していくように思います。

それでも、限界まで価格を下げれば売れないことはないのでしょうけど....ああいう商品はその部分で採算割れしないように価格設定してるのかなぁ...。(あと、広告とかもろもろあるけど)

で、売れ残っても採算のとれるラインを目算して大量生産発注をかけるのではないでしょうか?

正確な数は忘れましたが、CDの場合は一個のロットで5〜6千枚は同時に焼かなければならない(受注されない)のではないでしょうか? つまりあらかじめ余剰が設定されている。その余剰はメーカー側が期待する一定の収益を生み出すために生まれていくわけですよね?

で、あれば、この場合はやはり「安くするため」ではなく「収益のため」に余剰が生まれているということになるのではないでしょうか?

あるいは「CDを売るための広告やらなんやらも全部含めてひとつの商品」と言えるのかもしれませんが、なんか承服しかねます。


自家菜園というのはCDの例で考えるとインディーズということになりますね。インディーズ(※この場合、メジャーレーベルとはまったく関係のないものを想定しています)の場合、個人もしくは余剰を生まないシステムを使ってでCDを焼けばその部分のムダは省かれるはずですよね? メジャーレーベルから出すものみたいには売り上げは出せないかもしれないけど、諸経費や実際にかかる物材や人的コストも抑えられるはず。

あとはアテンションの獲得と流通ですが、これも必要最低限のもので済むはず。

具体的に想定しているのはこの辺りです↓


On Off and Beyond: デジタル時代ミュージシャンの収益構造
http://www.chikawatanabe.com/blog/2007/05/post_4.html



あとニッチとマスの違いですが、やはり大量生産ということがかかわってくるように思います。いや、ちょっと違うか。

「生産方式が商品の質(あるいは内容)を規定する」ということではなくて、「大量のアテンションを獲得して薄利多売をするためには広告その他の"商品の質(内容)そのものとは違う価値”(付加価値)が必要で、そういった形式で商品が生み出されるシステムというのは余剰を前提としているのでは?」、ということです。

対してニッチの場合は供給過剰がそれほど生じないので、材料そのもののムダはないわけですよね?


ただ、この例の場合は情報材ということで特殊ケースのような気がします。

ほかの物財の場合はニッチのほうが材料的に余ってしまってムダになるところが多いのに対して、マスプロダクトにしたほうが資源を有効に使える、ということがあるでしょうね。


でも、やっぱ大量生産-大量消費というのは余剰を前提にしてるように思います。
Posted by m_um_u at 2007年07月06日 15:55
うーん。「それは経営学者がそういう用語用法をしているだけでしょう」と言われないようにできるだけ努力して書こうと思いますが、まず生産した衣服が誰にも着られなければそれは確かに環境資源の浪費でしょうが、それを出来るだけ少なくすることは製造企業にとっても利益につながることですので、企業はその時代の技術水準なりにそれを推進することが合理的であり、現在の大量生産技術はかなりの廃棄を前提にするほど硬直的ではないと思います。これはいつか、それこそ論文にでも書こうと思っていますが、たとえ値引きして原価割れになっても廃棄するよりは資本の回転率を改善させるのがたいていの場合ではないでしょうか。場末の商店街の洋品店やバッタ屋さんにそういう商品が行っているのを目にしますが、それも出来るだけ減らすために、縫製工場なんかは生産の小回りのためにかなり苦労しています。それと、「消費者から見て旬を過ぎると商品の価値が下がる」というのは、また別の話ですね。旬を過ぎたのでその時点で環境資源がやっとはじめて浪費されるということではないのでは。

商品を量産することが単に規模の経済で単位あたりコストを下げるだけでなく、「商品の存在そのものが購買機会を増やすための広告媒体も兼ねる」ためになされるというのは、特にCDや書籍雑誌の場合はあると思います。これは衣服と比較して相対的にこれらの商品がそれぞれ代替性が低い情報財であるからですよね。(衣服も情報財になっている、というのがファッション商品論ではありますが相対的には、ということで。)こっちではやはりより問題はありそうですね。

昔のアナログレコードとCD生産技術の比較、あるいは印刷技術の発達を思い浮かべて頂ければと思いますが、これらは生産システムの「小回り」をよくし、供給過剰を圧縮することに貢献していると思います。しかしそれは、「大量生産」が「大量生産」でなくなった、ということなのでしょうか。経済・経営学用語としての「大量生産」というのは、「ある一定の生産設備が稼動することで多くの製品を生産でき、そのことで製品製造コストの中の固定比率が下がること」なので、技術発達でそれが「大量生産」でなくなったわけではありません。しかし製造機械の情報制御技術の発達は、「ある一定の生産設備で製造できる製品の多様性を増した」ので、それが量産原理を維持しつつも、いわゆる「多品種変量生産」が可能になったということなので、「大量生産」という行為がそれ自体で余剰を前提にしているとは言えないし、近年ますます言えなくなって来ていると思います。

それとニッチ市場かマス市場かというのは、生産様式の区別ではなくて、市場セグメント間の相対的な比較の上での分類ですので、ニッチでも供給過剰は生じ得ますし、マスだからといって供給過剰が生じるとは限りません。それはあくまで、需要見込みの精度によると考えます。むしろ市場として未成熟で不確実性が高いと思われるニッチ市場のほうが、需要見込みが外れることの可能性が高いのではないでしょうか。もちろんそれが供給不足・欠品・機会損失に転がる場合もあるわけですが、それはマスの生産様式でも同じ図式が有り得ます。

考えるに、要は、「安く供給できるようになったことで消費者が気軽に買って気軽に使い捨てる」というライフスタイル、つまり消費様式が、それを可能にする生産様式と悪いコンビネーションを実現してしまったときの弊害が焦点にあって、それを生産と消費に分けて考えるのはあまり適切ではないように思いますね。僕も書いていて段々あたまが整理されてきましたが。

整理不足ですが、ひとまずこのへんですみません。これらについてはまた考えていきたいですが、「心情エコロジスト」の方でたまに、生産技術の発達と消費様式の変化が必然的につながっているようにおっしゃるのは、いささか短絡的だと思うのですね。それだと、消費者が「安ければいくらでも飛びつく」実験マウスみたいなモデルを想定しているように見えます。

付記 「いまどきそんな天然記念物な人がいるんですね」というのは、なるほどそう言われるでしょうが、そういう人の問いを無下にあしらうと、「大人になって汚い現実に妥協しただけ」みたいな解釈をされ、そしてその本人がやがて「自分も汚い大人になったけどそれはしようがないんだ生きるためには」と思うと普通の人よりかえってやけのやんぱちで享楽的に資源浪費に無頓着になったりするかも、と危惧しております。だから、やっぱりある程度は丁寧にともに考えたいんですね。
Posted by 福耳 at 2007年07月06日 23:49
つけくわえます。m_um_uさんが「"商品の質(内容)そのものとは違う価値”(付加価値)」とおっしゃるのはなんとなくはわかるのですが、経営学的には「自分が原料に手を加えてかたちが変わって発揮されるようになった有用性」はみんな「付加」価値なのですね。つまり商品本体の質(内容)だって、繊維を撚って糸にすること、糸を織って布にすること、布を縫って服にすること、服本体をもとのファイバーから実体化する全ての行為が(もとはバラバラの繊維を加工するのですから)「価値」の「付加」なんです。

しかもm_um_uさんには釈迦の説法でしょうが、商品を情報のメディアと考える見方からは、本体もその周辺の意味づけも、「消費者が商品から受信する情報を制御する」という意味では全く変わりがない、というところを強調したい自分なのですね。
Posted by 福耳 at 2007年07月07日 01:33
なんか思ったよりきちんとコメントいただけて恐縮...っつーか、儲かった感がします(「福耳コラムゲットだぜ、チャリーン!」と頭の中で音が 笑)。とりあえずありがとうございます。

さて、各論ですが


>「大量生産は余剰を前提としていない」(生産技術の発達によって小回りが利くようになってきているので環境資源の浪費は減ってきている)

この辺ひとまず納得です。ぼく的に解釈すれば、「悪を織り込んでいたのではなく技術的研鑽が足らなかっただけ」、ということでしょうか? なんか中国とか頭に浮かびました。

(そう書きつつなんか違和感があるので見直してまたなんか書くかもしれません。でも、この違和感自体がやっかみ的な粘着なのかもしれないところがちょっと心配)


それで、ぼく的に頭に浮かぶのはマスコミの報道(あるいはコンテンツ)の画一化問題なんですよね。ニュース内容の画一化の問題(横並び記事の列挙)の問題はジャーナリズム研究においてけっこう重要な問題なのですが、以前にこれについて考えたときに「やはり大量生産方式が問題なのかなぁ」と頭に浮かんだわけです。「企業型の大型ジャーナリズムへの変化によるジャーナリズムの変質の問題かな」、と。

でも、ここで伺ったお話をヒントに考えると、生産技術の変化によってその辺りの問題には対応できそうですね。ただ、企業ジャーナリズムの場合、生産材が人的資源に大幅に依拠しているのでこの辺りの改善というのはなかなか困難なのかもしれませんが。(インドなどではスキルのない記者なら現地採用という形式はあるようですが、やはりそれとは別にスキルを積んだ記者が要るようですし)

あと、日本的な企業ジャーナリズムの閉塞性(変化のなさ)という問題もある。

ぼくとしてはそういった閉塞性をシステム面を再構築することによって改善する糸口を見つけたいのですが...なかなか。

ちょっと話がずれてきたのでこの辺は別件エントリかなんかで考えます。


>ニッチとマスは需要サイドの問題

あ、まったくその通りで...。やっぱ混同してしまってますね。(こっぱずかしい)


>需要者(消費者側)のライフスタイルの問題もあるのではないか?

そうですね。そう考えると技術(あるいは周辺のビジネス的な知識)というのは「悪」というわけではないということになりますね。

この辺のギロンというのはメディア論でもけっこうあったのでなんとなく分かります(「テレビはポンチ絵しか写さない」というメディア(ハードによるコンテンツの質の)決定論みたいなのがあったもので)


ただちょっと思うのは、その際、ライフスタイル(あるいは商品の使用の具体例)へ影響をもたらしているのは「広告」といことになるのではないでしょうか?

とは言っても、それをして「広告全体が悪」という性悪説みたいなのをとるのもおかしなギロンかもしれませんが、広告による弊害というのもあるように思います。受け手側のリテラシーの問題もあるだろうけど。

この辺りについては広告の変化(量から質へ)みたいなところに期待しています。


あと、付加価値についてですが、「"商品の質(内容)そのものとは違う価値”(付加価値)」の部分で主に想定していたのは広告についてです。(まぎらわしい書き方をしてすみません)


経営学的には「付加価値」とは言わないのかもしれないけど、消費者というのは広告的な部分も含めて商品を購入しているのかなぁ、と。なかには広告で展開されているイメージのほうが内容よりも優れているものもあるように思います。(『本体もその周辺の意味づけも、「消費者が商品から受信する情報を制御する」という意味では全く変わりがない、』ってやつですかね?)

この辺は文化と幻想ってことで福耳さんの関心領域かな。

Posted by m_um_u at 2007年07月07日 11:11
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