muse-A-muse 2nd: モテない系日本 (男女間の非対称性を巡る攻防について)
そういや「日本=女性」ってアナロジーはよく使われるけどしっくりくるなぁ、と。
「昔から日本は女性社会」とか言いますよね。代表的な言説は忘れたけど、源氏物語とか枕草子とか引き合いに出してどうとかいう文脈だったっけな?
んで、「女性社会(母権社会)は平和な国」言説が出てくるわけっすね。
<男が権力の頂点に立つと潰し合いをするけど、女が長を務める社会は平和・平等になる>、ってやつ。
この話をする場合、基本テクストしてバッハオーフェンの「母権社会論」が必要になるわけですがまだ読んでません(拝)
仕方ないので松岡さんの書評でも参考にしようかと思ってたんですが、
松岡正剛の千夜千冊『母権制』ヨハン・ヤコプ・バハオーフェン
そういやid:kagamiさんもなんか書いてたな、と
ロリコンファル - 夢と自由と行動分析学 −人間の限界−
んじゃ、ま、id:kagamiさんのほうから。
「狩猟社会は血生臭い」という通念に対して「いや、農耕によって貯蓄ができるようになって財が発生したから、その財巡って奪い合い(戦争)がおきるようになったんジャン?」という突っ込み。ごもっともだと思います。
ここで非モテ論に接続するならば、「経済的な富のみがモテの指標か? (いわゆる恋愛資本主義においては貨幣経済的な財以外の、恋愛市場でのみ通用する交換財のことを想定すべきなのではないのか?)」、という課題というか疑問が出てきます。
マーガレット・ミードが端的に言っているように
Women want mediocre men, and men are working hard to become as mediocre as possible.
-- Margaret Mead
女性が男性に求めるものはスペシャリティやそれに付随する財というだけではありません。サメのように働けばそれなりの富や名声、満足は得られるかもしれないけど、大部分の女性にとってそれらは互いが共有できる時間や生活とは遠いものなんですよね。
Life is beautiful: 「泳ぎ続けなければ生きていけないサメ」と「波間にただようマンボウ」、あなたはどっち?
WAR IS OVER〜戦争は終わった〜:奥菜さんが一番欲しかったのはお金でもなく豪華なマンション暮らしでもなかったのです。
なので、ぼくはサメ肌スーツよりもドクトルマンボウを選びます。とはいっても、ゆっくりと回遊するというのもけっこう疲れるものなのですよ。(ナマケモノのカロリー消費量よろしく)
まぁ、この話を始めると横道的に長くなるので、今回はちょっとパスです。
さて、「母権社会では貯蓄がない。貯蓄がなければ奪い合い(戦争)が生じない」、ということなのですが、この辺りの生産様式と社会システムとの関係・変化の経緯について、もうちょっと詳しく
松岡正剛の千夜千冊『母権制』ヨハン・ヤコプ・バハオーフェン
さて、問題はこうした母権社会がどのようにして父権社会にとってかえられたのかということだ。事情はかなり複雑多岐にわたっていたと思われる。
ひとつには家族社会の中に強弱が出てきて、その格差が定着し、さらに他の部族を併呑するようになっていたのだろう。これはやがて都市国家や国家の原形態になっていく。ひとつには、家畜や農産物などがふえて、女性が産み出す生産力とともにこうした別種の「力」に託す社会性が出てきたのであろう。そうなれば男性の管理力や労働力に「力」が移行する。またひとつには、男性間に構想や闘争や、さらには戦争に類する争いがおこり、そこに新たな勝者と敗者を分けるルールが発生したのであろう。しかもひとつには、生産物との関係で太陽信仰が強まったのだ。
なんかよくわかんないのですが、ぼくなりに解釈すると。狩猟社会においては計画的な生産は望めなかったため、生産性はノードの数に依存していたということですかね?
つまり、それぞれの人が獲物に遭遇する確率なんか限られてるわけだから「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」式に人の数を増やすということがそのまま生産性につながった、と。んで、「人の数=生産性」ということだからその大元のリソースとなる母体が大事に扱われた、ということかな。
それに対して、貯蓄系社会では生産は計画的に管理され、人数よりも生産技術や知識、職能が優先される。「使えない人」が多くなっても邪魔になるだけですからね(ムダ飯くらい)。
「職能関連なら狩猟民でもあるだろう?」って疑念もあるかもしれないけど、どんなに技術を磨いてもひとりのハンターが獲れる(遭遇する)獲物の数は限られています。対して、農耕は世話を怠らなければ確実な生産性が期待でき、なおかつ長期の保存がきく。この「世話を怠らなければ」の部分にそれまでの生産方式に比べれば高度な知識が必要になるわけです。なので、ただ人数が多いというだけだと足手まといになる。
.....こんな感じ...かな?
生産様式と社会構造ということでマルクス辺りが絡んできそうだけど......今回はやめときます。ってか、某サイトから某サイトへの応援書評にそれ系の話が載ってたけど、この文脈で言うとどうなるんだろう?
高度情報産業化によってノード(労働者)に主権が戻る(「モモは時間を奪い返したよ!」)ってことだけど....その場合、高度な技術と知識が前提になってるわけで、社会構造というか家庭生活を送る上でのマインドというのはサメ肌ってこと?
あと、メモ的に。お二人に対して釈迦に説法というか馬の耳に念仏みたいな感じなのかもしれないけど、情報産業化っつっても一部の話ですよね? それを支えているのはじみ〜ぃぃぃ.....な製造業その他だったりするわけで...。情報産業化というのはその部分も含めた議論なのかな?
閑話休題。
再び話を生産様式と社会構造、あるいは闘争への意志というところに戻します。
「闘争への意志」関連ではid:hihi01さんがなんか書いておられましたね。
HPO:機密日誌 - 男性学確立の必要性を訴える あるいは 「話を聞かない男、地図が読めない女」
「日本の女性が強くなっている」というか「女性の権利意識(我)が強くなっている」というのはあると思うのですが、それはまたちょっとびみょーな感じがします。
というのも上述してきたように女性性というのは本来、闘争とは逆のベクトルとしてとらえられているものですからね。「日本の」ということで言えば、「日本という国の女性性と生産様式の関係」について論じた書(あるいはその論評)を示せると良かったのですが、ちょっと失念してます...。
ただここで疑問なのは、日本というと「お米の国」って感じで、上述してきた流れに従えば「貯蓄社会=闘争」ってことなので「闘争社会なの?」って感じなんですがその辺どうなんでしょうね?
なにも参照せずにてきとーに考えると、それとは別に母権社会が乱婚を機軸としつつ平和な状態だったということから、「やっぱ性的なこと考えてるだけの社会ってのは平和なのかなぁ。セックスすると男のタテ思考がアホ状態になるのかな? 平安とかもそんな感じだったみたいだし...文化っつーのは戦争と戦争の中間に栄えるっていうし...そうすると性は文化?」、とか暴論思っちゃうわけですが、まぁ、当たらずとも遠からじかなぁ、と。
ただ、「平和な状態というのと性とは因果はないのでは? (相関程度で)」って気はします。つまり2つは同時代にあった現象という程度で、両者に因果関係(この場合「セックスばっかしてるから凶暴化しなかった」)はなかったのでは、とは思います。
でも、やっぱちょっとそういうこと思いますなぁ...。
あと、id:hihi01さんはリンク先バハオーフェンの書評中の「ディオニュソス的社会」ってところにピクピクっとくるかも。流れとしては、「完全母権社会」→「半母権社会(デメテール、女王蜂型社会)」→ディオニュソス的社会 → アポロン的社会(男性中心社会)って感じです。
あと、狩猟と母権って関係するのかなぁってことでケルトなんかが思い浮かんだんですが....あれってどうだったっけなぁ...。「平等」ぐらいはいってても「母権」って感じではなかったような..。(そこにドルイド的な聖俗ヒエラルキーも絡んでたし)
まぁ、その辺は置くとして。
あと、「女」ということについて。
どうも一部の非モテ言説とかフェミニズム言説とかに出てくる「女」意識には違和感があるので、ぼくなりの「女」意識というか「女」性を感じるときについて記しておこうかな、と思いまして。
やっぱ「受容」っすね。
端的に言えば(いくら脳内麻薬が分泌されるとはいえ)異物を挿入されるのを許容するというのが分からない...。ってか、すごいなと思います。
この辺、金蓮さんのそれと似てます。
藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 『美しい痴女の接吻とセックス』 二村ヒトシ監督
愛としか表現のしようがない表情を浮かべながら男を求め、大いなる母性で男を自分の中に招きいれることによって許し受け入れる女性が、菩薩のように見えることがある
同時に、女というのはカマキリのような残虐性を示すこともありますね(カマキリの雌は交尾後、雄を食べます)
藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 恋塚寺
その二面性が「女」ってやつなのかなぁ、と。
あと、「男はミツバチ、女はハナ」ってのもありますね。
藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 花を恋うる歌
でも、食虫花に当たらないように気をつけないとね(笑)
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関連:
松岡正剛の千夜千冊『恋愛と贅沢と資本主義』ヴェルナー・ゾンバルト
※「恋愛資本主義」関連で要チェックや!
どっちなんかよくわかりません。
自分の性別が。
きゃー
男には永遠の不可解ですな。